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**************************************************山海美事.2ここ両三年の越後と甲斐とは、依然、宿命的な敵対国として双方、国境を堅持しながらも、その活動は、各々別な方へ向けられていた。元亀三年から翌天正元年にかけての信玄は、東海を目標に、三方ヶ原に出て、徳川家康の軍を粉砕し、その本城浜松にまで迫っていた。同じ年、謙信は、その八月から越中平定に出征して、天正元年の正月を陣中に迎え、三月富山付近の攻略を終わり、四月、春日山の城へ帰ってくると、まもなく、「甲斐の晴信入道信玄には、この三月中に、卒去されたそうです」という寝耳に水のような報告を受けた。謙信はちょうど昼の食事中であったという。早打ちの知らせを、側近の臣から聞いて、「なに。甲斐の入道は亡くなられたとか。.....ああ、多年の好敵手とも、再び相見える日はもうないか」箸の手を膝に落として、潸然(さんぜん)と涙の下る瞳をとじていたが、またこう呟いて、諸臣の士気を戒たということである。「.....敵なき国は滅ぶという。あるいは帰ってこのために、越後の弓矢も弛(ゆる)むかも知れぬ。とはいえ、信玄ほどな大才を敵として、それに敗られまじ、それに打ち勝たんと不断に己を磨く目標は今やこの世になくなった。惜しい。寔(まこと)にさびしい」家中の武将のうちには、この訃(ふ)を伝え聞いて、「絶好のときだ。甲府の一門宿将は、おそらく暗夜に燈火を失うたような滅失の底に沈んでいるにちがいない。今大挙して征けば、彼の全領土を一朝に覆すは易々(いい)たるもの」と各々寄って、策を謙信に説くものもあった。謙信は笑った。「止めよ、止めよ。天下の蔑(さげす)みを求めるだけだ。死後一朝にして覆るような甲州であったら、その柱であった信玄の死も惜しむには足らん。しかし、三年間はむしろ前にも増して甲府は金城鉄壁であろう。三年先のことは、誰にも分からぬ」その後、謙信は、海津の城のまで重臣を遣って、篤く信玄の死を弔(とむら)わしめた。その弔問の使者の帰ってくるころ、信玄の死の実相もつぶさに知れてきた。果たせるかな、さすがに彼の死は彼らしく、死後あらゆる方策をその帷幕の者と一門にいいのこして、甲山の旗幟が為に急衰(きゅうすい)を呈すようなことはなかった。信玄の死は、浜松城を包囲して、いよいよ、三河にまで働きかけていた軍旅のうちに起こったものである。その死が急だったし、折も折だったので、いろいろ異説を生じ、諸国から懐疑されたが、野田城の囲みを解いて、急遽甲府へ帰って来る途中、いよいよ重態に堕ちて、躑躅ヶ崎の甲館へもどったときは、もう遺骸であったというのが真相らしい。死に望んでは、嫡孫信勝、勝頼以下の一族諸将を枕頭に呼んで、「我が亡き後は、構えて、みだりに兵を動かすな。特に隣国の謙信には、信をもって汝らの寄託(きたく)を受けて、裏切るような謙信ではない」そう遺言して、また、筆を乞うて、 大抵他ノ肌骨ニ還ル 紅粉ヲ塗ラズ自ラ風流と、最後の一偈(いちげ)を震える手に書き終るとともに息をひきとったという。病についてから死ぬまでのあいだに、料紙八百枚に自分の花押を書いておいて、死後もなお、信玄死なずと、世に思わせておくように、用意を遺しておいたという一事を見ても、いかに彼が、後々の備えに万端心をもちいていたかが窺われる。英雄の心事は英雄のみが知る。謙信の想像は外れていなかった。また彼の言ったとおり、信玄の死後も両三年のあいだは依然、甲斐源氏武田家は四隣に重きをなして何の破綻(はたん)もあらわさなかった。だが、ひとたび長篠へ出て、織田、徳川両軍の迎撃(げいげき)に惨敗を喫してからは、衰退頓(とみ)に甲山の旗幟に濃く、さしもの士馬精鋭もその面影を失いつつあった。こうした情勢のあいだに、人生の不測は、謙信にもめぐって来た。信玄死後五年目、謙信もまた忽然(こつぜん)と世を去った。両雄ともに世を去ることの急だったのも一奇であり、何となく宿命的なものを想わせる。日頃の謙信は実に強壮快健であったが、ただ酒を好んだ。彼が愛用したという馬上杯など、後々まで遺族や家臣の涙をそそった。今に上杉神社に残っている日常の酒盃なども恐ろしく大杯である。肴などに好みはなく時としては梅干ひとつで、斗酒を傾けたとあるからその快飲ぶりは想像に難くない。 むかしよりさだめし 四方にたち返り 治めさかふる 千代のしら雪これは彼の旧作だ。若年上洛した折、将軍義輝と一夜雪見を催しながら詠み出でた一首という。雪一色の美に寄せて、そのときもう胸に抱いていた復古の精神を吐いている。また雪よりも純な国体観を洩らしている。義輝はこのときまだ若干十九歳の将軍だった。果たして彼の理想を汲み得たろうか否かわからない。しかし謙信は、その義輝が非業(ひごう)の死をとげ、次代の義昭将軍となっても、なお情誼(じょうぎ)を変えなかった。倒れんとする室町幕府を隠然たすけるに多いな力をかしていた。為に、彼は信長と対立した。信長は彼とはまったく反対な倒壊者(とうかいしゃ)である。当然な衝突は、外交に軍事に、熾烈を戦わされた。**************************************************山海美事.3参考 吉川英治・上杉謙信/山海美事・山海美事・塩祭りよりおわり吉川英治的お部屋へ戻る*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2007年06月30日
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水曜日に続いて木曜日も吉備中を予定していたのですが夕方5時ごろ、ただでさえあまり着信のない私の携帯がめずらしく鳴っていまして「木曜日のこの時間に携帯がなるとしたら山田さんか?」と、着信を見ると案の定、ジェニオの山田さん「あー。西野君、悪いね。今日は中止ということで」ナンテコッタイ フォース以外でも全力でぶつけられるところなのに...楽しみにしてたのに...しゃーないけど。神様が休んどけって言ってんのかなぁと思いつつそーいやオーちゃんが木曜日、庄小学校でやってたな!と、思い出しアポなしで行くことを決意。(神様ごめん)いってみると###ナンテコッタイ### 誰もきとらんとです...ヒロシです。(ヒロシフウ) ということでやっぱり神様の言うとおりにお休みにしました。今日は雨が降るらしいど、天気予報は当たらないと信じて今晩も庄小学校で総社クンペルと庄中学生の相手でもしますか。 セイセイ
2007年06月29日
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昨日はお休みだったので水曜日の夜のこと。相変わらずフォースの”厚い濃い練習”行ってきました。まったく、あれだけの狭いスペースしかないのになんて内容のある練習をするのでしょう...感心を通り越して心服しますね。ここの練習は。僕も今、いろんなとこの練習行ってますけど鳥かごひとつとっても、あの濃さはどこにもないですね。その日はちょうど、じんさん的に”ワンタッチ目”をテーマにしていたのでかなり勉強になりました。 ちょうど店を閉めて練習に行く前、フォースのブログで監督がコメント欄に書いていただいていた(見てから行きました)前線での優先順位。1.ダイレクトタッチでシュート。2.ツータッチでシュート。3.ダイレクトタッチでシュートできるパス。4.ツータッチでシュートできるパス。5.ポストで落とす。 でしたかね?それを心に刻んで練習に望みました。ナカナカ覚えたからって簡単に出来ないですがそれを考えずに流れるようにやるのが監督が言われている常に広い視野を保つ意識ってのですかね。未熟なりにそうとらえました。となるとさらに大事なのは”ワンタッチ目の受け方”なんですよね。う~~~む。後はまた土曜日実践しながら覚えよう。 こんなでいいですかね。 ^^;
2007年06月28日
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先週の土曜日から蹴っていないから、4日ぶりっす。先週、先々週と3日4日連ちゃんで蹴るってのが続いていたのでいいお休みになりました。今日はグラウンドの端っこで、ちっちゃいコートのミニゲ狭いんだけどスピードと展開が激しいからかなり楽しいです。(その分疲れますが^^;)今日のテーマは”ワンタッチ目のボールポジション”これでいこう! ちょーっとつめられるとナカナカコントロールできないワンタッチ目。これを今晩はちょっと意識しような。ずばりゴールを狙うためのファーストタッチで。
2007年06月27日
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**************************************************山海美事.1国境を越えて、限りなく塩が入って来たという。甲州の百姓は生色をとり返した。町々はどよめいた。商賈(しょうこ)は眼の色を変えて塩を分け歩いた。塩を見たものはその白いものを一握り握ってみて、「ありがたい」と、涙した。塩を拝んだ。郷社の神前にも、塩が上げられた。煌々(こうこう)と神灯(みあかし)がついた。.....こういう状況をつぶさに聞いては、躑躅ヶ崎の館(つつじがさきのたち)にあった信玄も、眼を熱うせずにはいられなかった。が、彼は、「.....そうか」とのみで一言もまだそれに就いての是非、感激をも、また批判をも口から吐かないのであった。「.....?」むしろ彼は初めのほど、苦痛に似た顔つきをあらわしていた。次に懐疑的に見えた。ちょうど、過ぐる永禄四年の大戦に、謙信が捨て身の戦法に出て、その不可解なる妻女山の陣をながめたときのように、信玄は心の霧につつまれていた。そこへ、一書が到着した。春日山の謙信からである。なお信玄は多分な疑惑をもちながら、その書簡を披(ひら)いた。書は簡単であった。文意には、春秋幾星霜、君と我とは、兵馬を以って呼び、兵馬を以って応(こた)う。争う具は、弓箭にして、戦う心は、すなわち所存の相違にあり。君の理想にあらず、君の望むところ、我の望みに非ず、すなわち対峙連年、天下の野を借りて、戦陣を布く。さりと雖(いえど)も、兵家の戦に、何ぞ米塩を用いんや。米塩ひとり君が舐(な)むるにあらず。百姓の生資たるもの、百姓は是、国の大みたから、また功伐にかかわりなし。駿相二氏の下策、賤陋の心事、たれか憎まざるものやある。昨今、わが領の商賈(しょうこ)を通じ、貴国に塩を給すの意、ほかあるなし。希(ねが)う安んじてこれを取れ。なお君の麾下をしてさらに士馬精鋭たらしめよ。戦陣ふたたび相まみえん。「........」信玄は再読三読した。眉の霧は晴れている。しかし疑いもなく彼は謙信に対して心服を抱いた。彼のうるわしい心事に照らされて信玄の心も美化されていた。何か潔(いさぎよ)い清らかな呼吸を感じるだけだった。勝敗の念も超えていた。丁寧に書簡をたたんで、押し頂いて傍らの手箱へ納めたが、このときも信玄は、一言の感動も洩らさなかった。言うべき言葉もなかったと思われる。**************************************************山海美事.2参考 吉川英治・上杉謙信/山海美事・山海美事よりつづく吉川英治的お部屋へ戻る*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2007年06月27日
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**************************************************山海美事戦場こそ、年々に変わって行くが、戦は川中島以後も、絶えることなく続いた。永禄五年には、信玄が上野に乱入したので、謙信も上州沼田へ出馬した。六年には、佐野城を救うため、関東へ出征し、また翌七年には、再び川中島へ陣した。このとき、信玄が、今度は飛騨へ軍を向け出したからである。.....八年七月にも、その信玄を牽制するため、越軍も信濃へ入った。「甲州の足長どの(信玄のこと)には、老来いよいよお足が伸びてゆくふうだな」と、謙信もあるとき戯れて言ったほど、信玄の八面六臂(はちめんろっぴ)な行動は、連年予測をゆるさないものがあった。そのうちに、この足長どのも、遂に、その長い足を敵に咬まれて、生涯一度の悲鳴をあげたことがある。永禄十一年から元亀元年にわたるあいだ、この長い年月、甲州には塩のない生活が始まっていた。国中、塩攻めになったのである。足長な信玄が、駿河へ出馬したことから、敵方の苦策によって、反噬(はんぜい)を受けたのだった。今川、北条の二家が相提携して、「信玄の勢力下へは、一合の塩も入れるな」と、甲信二国と、上州の一部にかけて、厳重な輸送停止を実行し、もし眼をかすめて一握りの塩でも敵に売った者があれば、斬罪に処すると発令した。半年や一年は貯蔵でしのげた。また山中や河川で小量な闇取引も行われた。けれど足かけ三年にもなると、さすがの信玄も困惑した。三十年来まだかつて戦に弱音をふいたことのない彼も、「いかにせん乎(か)」と、日々屈託顔に見えた。由来、甲信上毛は、塩ばかりではなく海産物はすべて、北条、今川家の領に依存していたので、この苦痛は徹底的にこたえた。領民の皮膚は目に見えて青味を帯び、病人は急に増えだした。わけても、味噌、漬物が食えないことは、百姓の生活を致命的におびやかした。従って、農産も減退するし士気は振るわず、さしもの甲府も自滅のほかなかった。「今ではありませんか。一挙、甲府を撃砕するのは」うわさは富に高い。越後表でも謙信にたいしてしきりにすすめる武将もあった。が、謙信はその期間、あえて、甲信に兵馬を動かさなかった。のみならず今川家から、この塩止め政策の同盟を求めてきた使者に対しても、「当家においては、疾(と)くに当家として、策も立ておれば、御喙容(ごかいよう)には及ばぬ」と、追い返してしまった。しかし、三河の徳川家康とは、この年、対甲同盟を結び、いよいよ信玄に対しては、間隙(かんげき)を許さなかった。苦しまぎれか、信玄は以前、諸州へ兵を出した。専ら塩を獲(え)ようとしたのであろう。上州の上杉領へも突出して来た。捨ておけじと、謙信は直ちに三国山脈を越えてこれを撃退し、彼が、甲府へ退くと、自分も越後へ帰国した。帰るとまもなく、謙信は、糧倉奉行の蔵田五郎左衛門を呼び、「このたびの出征に、甲信地方の領民の生活を聞き及ぶに、うわさ以上の塩切れに、百姓共の苦悩は言語に絶しているらしい。.....早々、わが北海の塩を、水陸より甲信地方へ転漕(てんそう)してつかわせ」と、命じた。五郎左衛門は耳を疑って、「敵国へですか?」と、怪しみながら念を押した。.....そうだ、と謙信は大きく頷いて見せ、且つ、注意を加えた。「もとより城中の塩倉を開けるわけにはゆかぬ。城下の商賈(しょうこ)に令を出して、甲信側の塩商人へどしどし塩を売ってやれ、と奨(すす)めればよいのだ。ただし先の欠乏につけこんで、暴利をむさぼる惧れがある。価格はすべて越後値段に限ることを厳命し、平価をこえることなきよう致せ」**************************************************山海美事.1参考 吉川英治・上杉謙信/山海美事よりつづく吉川英治的お部屋へ戻る*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2007年06月26日
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う~~~ん ネタ切れ。 今晩はサッカーもないし。作りたいガンプラもないし。明日は勉強会だし。 あーー。ボール触りたい。
2007年06月25日
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さっき拓志君の所属している三菱自動車水島FCのホームページみたらこの間送っていただいたポスターを店頭に貼った写真ちゃんと乗っけていただいてます。涙しかもエルガルディ原尾島店さんの店名までちゃんと乗っけていただいているではないですか!!!ありがとうございます。岡山に在住の皆さん。三菱自動車水島FCを応援しましょう。センデンセンデン それでは。また来週のまな板の上で。トン!トン!トン!
2007年06月24日
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先ほど超スーパーデラックスお得意様のM様シャツ・スーツの納品をいたしまして「シャツの残布は要らないから」と4枚分のシャツ生地残布が手に入り捨てるのももったいないなぁ...と、ちょっと接客の合間にお裁縫(全然たいしたことないけど)やってみました。 シャツをオーダーすると襟やカフスが傷んだ時用にいくらかの残布が入れてあるのですがこんな感じで。(これはちょっと多いですけどね)これをはじっこ切りそろえてつなげて一枚ものにしようと思いやってみました。せっかくだから色柄のまったく違うものを2枚抱き合わせてホッチキスで仮止めし写真のように波縫い~~~♪ ミシンがあればわけないんでしょうが練習ということで5ミリピッチくらいで縫ってみました。ストライプ柄だったので非常に縫いやすかったです。あと、最初、針は百均で買ってきた針を使ってたのですが何ゆえか針が通りにくかったのでこの間、本縫いの職人さんに分けてもらったテーラー大元さん仕様、ボタン付け針を使ったらすいすい縫えました。何が違うんだろう(?_?)なんとなく、針先は鋭くて布に入りやすくもち手の部分がふっくら膨らんでいて持ちやすかったような気がします。んでもって1時間ほどで約80センチを波縫い完了♪この縫い目にプレスを当てるとキレイになるのですが...ガ~~~~~ン!!!ナンテコッタイ表地と裏地を間違えて縫ってしまいました...開いたほうが鮮やかな柄の表地にならないといけないのに裏と裏を抱き合わせて縫っちゃうと開いて縫い目を隠すと裏地が表になりますよね... 実はこの布、僕のアイロン台の当て布にしようかと思っていました。今使っているアイロン台が汚くなってきたので。まあ、柄自体がシャレているからいいことにしておきましょう。 チャンチャン♪
2007年06月24日
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**************************************************大乗小乗.5「それまでの御心事とは、こよい初めて伺いました。志の小、身の至らなさにひき較べ、義清はただ恥じ入るのほかございませぬ。.....要らざる小人の煩い事をお耳に入れ、折角の静夜をおさまたげ仕りました。どうぞおゆるし惜きを」彼は心から詫びた。また、蒙(もう)を啓(ひら)かれて、謙信のなして来た戦が、何を意義しているものかを、初めてはっきり覚り得た。そう分かると、連年、甲州との合戦が、一村上義清のために起こっていたものと考えていた事は、義清自身、恥ずかしくなって、消えも入りたいここちだった。謙信は言葉を和(やわ)らげて、「いやいや、わしこそ、思わず今宵はちと激語を吐いた。実申せば、このたびの川中島の対戦に、年来子飼いの家の子郎党など、可愛ゆき者を三千余名失うて、この謙信も人知れず、愁心癒しがたいものがある。いや、心に受くるその傷みにおいては、御許(おもと)よりも、誰よりも、謙信こそはその重責と傷心に深く自らを鞭打つものだ。ましてや今宵の如く、戦の後、いとど寂やかに時雨るる夜などは」と短檠(たんけい)の灯にじっと、眸(ひとみ)をこらして、なおいおうとしたが、義清の惨心に思いを遣り、またあまりにいい過ぎては味もないとするように。「....察しられい。此方の心中も」「よく分かりました。お察しいたしまする」「されば、たとえこの後、いよいよ戦場に屍(しかばね)を積み、この越後一国、夫なき妻と、父なき子らに満とうとも、なんぞ、それは一個御身のせいではない。身ひとりのためかように気を小さく萎(な)められるな。それよりは、其許(そこもと)のいのち一つも、謙信が命一つも、息あるうち、いかに大きく捧げ奉らんかを、朝暮に都の方へ向かって念ぜられよ」その夜の話はそれだけであった。けれど村上義清は、わが邸にもどってからも、終夜(よもすがら)謙信の言葉を思い、その心事を玩味してみた。そして何かしらここ十年来は忘れていたような快い安らかな眠りにひきこまれた。この日までは、戦といえば、ただ参たるもの、激しいもの、苦痛なもの、犠牲を出すものとのみしか考えられていなかったのが、にわかに、大きな意義に行き当たって、いまや幣悪(へいあく)の脱穀、次への建設など、戦によらねば成し遂げられない日本国全土の改耕(かいこう)こそ、戦であって、それに流す血も、それに埋める白骨も、すべてただその忠業に帰一してゆくものなることを彼も覚(さと)ったのである。以来、義清は、眠るにも、安らかな鼾(いびき)をかき、醒(さ)めても快活になり、また戦う日には、なおさら大らかに先頭へ立ち、年五十過ぎてからいよいよ勇敢であったという。**************************************************大乗小乗.6参考 吉川英治・上杉謙信/静夜・歌心・窮鳥・苦衷の義清・大乗小乗・昨夜風雨窓前を打つよりおわり吉川英治的お部屋へ戻る*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2007年06月23日
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**************************************************大乗小乗.4「はっ。.....はいっ」義清は思わずおののいた。日常の謙信公はまるで女性のようだとたれもいう。その人から畳の上でこれほど怖い眼を向けられたことは、九年のあいだでも初めてであった。謙信は決して猛(たけ)らない。吼えない。けれどいかに静かな声のうちにも、怒りは含むものである。たしかに、彼は怒っていた。「何をいうか。何を言わるるのだ。黙って聞いておれば、あなたは戦というものを、さながら人間の物好きか、退屈人の気散じの如く心得ておられるらしい」「め、滅相もない。不肖、村上義清ほど戦の艱苦を、つぶさに嘗めてきたものはございませぬ。戦の惨禍は、骨隋にまで、知り尽くしている身なればこそ」「やかましい」「は.....」「よいお年をしながら、愚かないたずらに舌を動かされな。戦とは、一個の村上義清が、わずか国を追われたぐらいで、知り尽くしたなどといえるほど、簡単なものではなし、そのような意義の小さいものではない。あなたの口吻(こうふん)からすれば察すればあなたは戦の中をただ通って来たに過ぎないようだ。真の戦とは、何か、まだ御存知ないらしい」「.....左、左様でしょうか」「混沌たるお顔色だな。かくいわれて初めて、真の戦とは何か、ご不審を抱かれたであろう。嗤(わら)うべし。あなたは、この謙信が、九年にわたる信玄との血戦を、ただ其許(そこもと)に頼まれたための義心一片と思いこんでいられたか。.....何で。何で」謙信は声を放たず肩で笑った。そしてなお荘重な語をつづけていう。「考えてもごらんなさい。応仁以後、宇内の暗黒は、各地に割拠する豪族たちから、遅々、自覚されて、東海に徳川、織田の起つあり、西海に、毛利、大内の起こるあり、甲山に信玄、ここに謙信、相模に北条、そして駿府遠の境に、今川氏の一朝に瓦滅するなどあって、いまや日本の動きは、急潮に変わり、急激に大革新を示そうとしている。かかる時代のうしおの中に、いかに信濃の名族たろうと、一個の村上義清が滅ぼうと興ろうと、死のうと生きようと、何の問題でもない。この日本の動きにとっては、大海にただよう藁一本の存在でしかない」特に、語尾をつよめた。義清は真っ蒼になっている。聞き澄ますその薄い耳たぶにも血の色はなかった。「.....さるにこの謙信が、何故信玄と長年戦って来たかと申せば、元来、謙信には謙信の信条があってのことです。自分、年二十三にして、初めて、国内平定の業一まず備わり、微薫天聴(びくんてんちょう)に達するところとなり、畏(かしこ)くも、叙位任官の優寵を賜う。.....微賤、遠くに坐(いなが)ら、またひとたびの朝勤もせず、さきに優渥なる天恩に接す。勿体なきことの極みと、すなわち翌年、万難を排し、上洛して、けっ下に臥し、親しく咫尺(しせき)を拝し、また天盃(てんぱい)を降しおかる。.....実に謙信が弓矢とる身に生まれた歓びを知ったのはこのときにであった。戦わん、戦わん、この土に受けた生命のあらん限りわと、戦う事の尊さ、戦う事の大なる意義、それらのことどもも、同時に、肝に銘じ、心魂(しんこん)に徹し、わが生涯は御橋(みはし)の一門を守りて捨てん。悔いはあらじと、深く深く心に誓うて退京いたした」「.........」「爾来、謙信の弓矢は、それ以外に、つがえたことはない。こえて永禄二年初夏。ふたたびの上洛にも、その前の折にも、畏くも、綸旨(りんじ)を降しおかれ、燐境の乱あらば討つべし、皇土を乱し、民を苦しめるの暴国あらば赴いて平定せよ、不才謙信に身に余る御状であった。およそ臣子の分として、この叡慮(えいりょ)にお答え申し奉らざるものやあろう。遠く、この北国の辺隅にあっても、一日とて、そのありがたい優諚(ゆうじょう)をわすれたことはない。いわんや、兵を動かすの日においては.....」夜は時雨となったらしい。雨樋(あまどい)をあふれる雨だれ音が激しく軒下を打つ。禅家にも似た道者羽織、鶯茶の頭巾、室に妻もない謙信であったが、烈々、こういう問題に真情を吐き出してくると、そのひとみは実に若い。ともすれば義清とともに涙を沸(たぎ)らせてしまいそうであった。しかし義清の眼はあくまで小乗小愛の悩みに溺れ、彼の眼は大乗の海にも似て、満々たる涙をたたえながらも、なお仰ぐ人をして、何か洋々たる未来と、暖か味を抱かしめる。**************************************************大乗小乗.5参考 吉川英治・上杉謙信/静夜・歌心・窮鳥・苦衷の義清・大乗小乗よりつづく吉川英治的お部屋へ戻る*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2007年06月22日
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さすがにフォースを2日行った後3日目練ちゃん木曜日の吉備中はしんどかった。なにもできんかったなぁ...右足ももの裏に肉離れの予感がしそうな違和感。あんど、右足の付け根あたりがやたらと痛いこれは明かに準備運動不足ですね。もうちょっと丹念に伸ばしてからやらなきゃいけないかな?特に右ももの裏は一昨年の冬にやって以来くせになりそうな感じの古傷だったから う~~~ん雨も降っているし、今晩はゆっくり休んで愛ちゃんと和志君にマッサージしてもらうかな。 時々やってくれるんですよ。^^僕がお布団で「疲れたぁぁ」ってうつ伏せで寝てたらふたりして「父さん、足トントンしてあげらぁ!」って。愛ちゃんの足裏マッサージ(ただ踏みつけるだけ)体重がちょうどいい感じなんですよね。軽すぎず重すぎず。 今晩は休んでまた明日(土曜日)もガンバロ。
2007年06月21日
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って少しどころじゃないっす。ここんとこ雨が降るまでに出来る限り蹴っておこうと無理してて明日も微妙な天気なので今晩(二日連チャン)もフォースに行ってこーかと思ってます。今日のはミニミニゲームなのであまりサボれないけど結構楽しいし勉強になるから楽しみ♪ 明日はお休みなので更新できないけどあでぃおす。
2007年06月20日
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**************************************************大乗小乗.3今日の大法要に、義清も、もちろん参列していた。眼(ま)のあたりに、彼は、川中島で討ち死にした人々のたくさんな遺家族を見た。老いたる父母、今からは親のない幼き者たち、乳飲みを抱いている白き面の妻、その甥、その叔父、その姪など、無数の縁者を、きょうの法莚(ほうえん)に見た。一山の高徳天室、宗謙、その他の衆僧が、曹洞最大な法華(ほっけ)をささげて、英魂の冥福を祈るあいだも、義清は、ひとみをあげて、それの壇を仰ぐことができなかった。また、眼をそらして、伽藍の廊上階下に満ちている多くの遺家族たちを正視できなかった。(これもみな帰するところ、自分が越後に逃れて来たために生じたこと)と、ひとり問い、ひとり責め、居ても立ってもいられないような心持になっていた。ひとたびそういう自責を抱いてからは、耳元に鳴る鐘も、戦没三千余魂が声をあげて、自分を責めるかと思われ、義清は生きている空もない心地だった。実のところ、彼はすでに、林泉寺にいるうちに決意していた。剃髪(ていはつ)して仏門に入ろう。そして闘争興亡の圏内から遁れ去ろう。同時にかつての栄門に還る夢望みを捨て、一切の執着を洗い、上杉家の長い恩顧を謝して、飄呼高野の塵外(じんがい)へかくれよう。そうすれば、再びこの大きな犠牲はなくなる。今までの償(つぐない)いには、ひたすら故人の冥福を祈って生涯する。沙門に入ってそれを詫びる。「.....かように思い決めたのでござりまする。今日まで、殆ど、この流寓(りゅうぐう)の孤客を、身内同様に思し召され、連年、多大の軍費と将士の尊い血を以って、義清を御庇護下された大恩は死しても忘れはいたしませぬ。が、これ以上、おびただしい人命を捨てさせ、残るご家中の人々に嘆きをかけては、いかにお詫びしてよいやら分かりませぬ。また、ふたたび祖先の地へ還り得るとしても、独りの喜びとすることは出来ません。一切、言葉には尽くせぬが、御憫察(ごびんさつ)あって、私の身勝手、どうかお許し賜わりまするように」縷々(るる)として、義清は、衷心(ちゅうしん)のものを吐いた。謙信は、ややしばし、うす眼をとじて、聞いていたが、彼が、その苦衷を長々と延べ終わると、初めて、刮(くわっ)と、瞼(まぶた)をひらいた。「だまれ。.....義清どの。だまんなさい」声はひくい。しかし、実に、磐石をもって、そっと頭から圧するような声調だった。**************************************************大乗小乗.4参考 吉川英治・上杉謙信/静夜・歌心・窮鳥・苦衷の義清よりつづく吉川英治的お部屋へ戻る*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2007年06月20日
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今日は雨のはずだったんですがね。晴れました。ヤッタ週間天気予報いよいよ当てにならないけど岡山県南は向こう1週間雨ってぃんぐっすね。外で蹴るのは今晩でとうぶんお預けかな?何はともあれきょうも元気に球蹴り三昧だ!!!
2007年06月19日
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**************************************************大乗小乗.2義清はうなだれた。落涙している。「.........」燭は白々と主客の沈黙を照らし、庭のしじまをゆく泉の音がせんかんとその灯を湿らせてくる。時折、時雨かと思うばかり木の葉が大殿の廂(ひさし)を打った。「思い極めて参りました。義清の願い、甚だ身勝手にござりまするが、お聞き届け賜りまするように」平伏していう。そしてなお落涙しているらしい。謙信には思い当たることもないようであった。小首を傾(かし)げて聞いていたが、一体、その願いとは何かと、再び義清に訊ねた。義清は、流涕(りゅうてい)をぬぐって、漸く、容を正し、謹んで今日までの恩遇に謝してから、こういった。「どうか、九年前に、私から御当家に対して、お縋り申したお頼みの一条は、取消して頂きとう存じまする。.....つまり今日限り、村上家に対する御任侠はおやめねがいたいのです。それがし自身も、直ちに、お暇を乞うて、高野の山奥へでも、遁世仕る所存にござりますれば」非常な勇気をもって、義清は一息に言った。生来、善人で遠慮がちなこの人が、これほどの事を言うには、よほどな決意と勇気とを胸に誓ってであろうと、正直にその心持は受け取れるのである。「ほう」謙信はその大きな眼を殊さら大きくみはった。「.....では、何と岩ルル。あなたは、祖先以来の地、旧領信濃に帰って、再び以前の領民にまみえる望みを断念したと仰せらるるのか」「そうです。.....折門、今日まで九ヵ年のあいだ、お館を初め越後衆全体の御援助をこうむりましたが」ここまでいうと、義清はまた胸を崩して、ぺたりと、畳に両手を落とし、その上に面を伏せてしまった。髪の毛がふるえている。その髪にももはや白い霜が見える。いまこそ、他家の客分となって、かく謙信の前にも卑下しているが、この人の血液には正しく高貴の流れさえある。清和源氏の末流、信濃の名族だ。気の毒な境遇よと、謙信はその老いを見るにつけすぐ思う。そしてその一半の罪は自分にあるような責任すら覚えるのだった。今から十余年前までの村上氏というものは、北信濃一円を威令して、坂城(さかき)の府、葛尾(くずのお)の城を中心に、祖先鎮守府将軍源頼義の一族が末裔として、誰も仰ぎ敬う位置に栄えていたものである。それが、天文年間の半ばごろから、年々、甲斐の武田氏に蚕食(さんしょく)され、上田原の戦を最後として、本城は落去、一族は離散、婦人は千曲川に身を投じて果てるなどという、世が静かならあり得ない参たる滅亡を告げてしまった。天文二十二年の八月。義清は、ほとんど身一つで、敗軍の中から遁れ、この越後へ来て、(救ってください)と、謙信にすがった。時に、謙信年まだ二十有余。この名族の果てが、膝を屈して、義に訴える姿を、何で、すげなく見ていられよう。そのとき彼が義清に与えた言葉は、(よろしい。御安心なさい)明瞭な、然諾(ぜんだく)の一語だった。小国辺隅、しかも士馬少なく、産業もふるわない北国から起って、謙信が、甲州の強大武田家と、以来、殆ど年々といってよいほど、戦雲を曳いて対峙することになったのは、実に、この一羽の窮鳥が、越後へ入国したのがそもそもの端緒である。機っかけである。謙信対信玄の相克はここに起因を孕んだものである。.....とは、世上一般も、越後の人々も、甲州方でも、あまねく信じているところだった。かくて、一片の義気から発した戦は、きょうまで、九年の長いあいだに及んでいる。しかも敵国は強い。士馬精鋭に鳴る甲山の猛将勇卒だ、また宇内(うだい)幾人のうちに数えられる名将武田信玄だ。義清の願いはまだ達しられない。義清の旧領には、以前、武田の侵略がそのまま暴威を誇っている。.....この状態はついにこのまま永遠のものではないかと、近年は義清も、祖先の地へ再び還ろうとする夢を、自ら儚い望みに過ぎないものと諦めかけていたふうであった。そこへ、きょう。義清の胸を、痛切に打ちなやましたことがある。林泉寺の大法要であった。**************************************************大乗小乗.3参考 吉川英治・上杉謙信/静夜・歌心・窮鳥よりつづく吉川英治的お部屋へ戻る*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2007年06月19日
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しかも3-1!1点目長友君が決めたと言うことはミドルレンジからのシュートか?!さすが監督! しかも土曜の練習で監督に話を聞いてたけど人数がギリだったらしい...控えメンバーナシっすか?って聞いたらおれ一人って....それで今まで勝ち星のない相手に3-1で勝つなんて...マイッタッス いかに理にかなった戦術で戦ってるかってことですよね。 監督に「僕のブログに、たまにはコメント入れてくださいよ」って言ったら監督曰く「敗軍の将は多く兵を語らず...だよ。勝つまで待て」(訂正しておきました^^;)って。やっぱ、そーゆーところも達人っすね。 ということで監督ぅぅ。フォースのブログかこっちかで、(メールじゃだめっすよ^^)待ってまーす♪ このあとフォースのブログで勝敗表と順位表、更新するのが楽しみで~す。
2007年06月18日
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こりずに毎日蹴ってま~~す。昨晩も行ってきました。明日が新日本石油戦とのことで昨日は何かテーマをもってやってんだろうなーと楽しみに駆けつけたのですがヤッパリやってました♪ テーマは”ミドルレンジのシュート”まあ...僕の大好きな永遠のテーマではないですか!!って、途中から参加したのですがどうもフォースの練習では裏に走りたがる僕としてはペナ外の辺りでそーゆー場面に出くわす事があまりなくってたぶん2列目からのミドルって感じだったんでしょうね。結局40分ほどやってシュート本数6本の1本ゴールくらいなもんでした。でも、みんな最後の方はいい感じのタイミングでミドルからフィニッシュできていたのであんがい今日は相手をヒヤヒヤさせるのではないかな? 基本的にフォースの監督はミドル重視型(てか認めてくれる)なのですごく僕は、やりやすいです。 僕みたいに早いタイミングでフィニッシュに入るタイプはナカナカ周りに理解してもらえなくって木曜日の吉備中なんかだと入ったばっかの頃は元浜のM氏に「一人でやりょんじゃないけぇ、パスだそーや!」なんて時々言われていました。(無視してやってますが)その点監督は僕のタイミングをよく誉めてくれるからすごく居心地がいいですもんね。 たしかに崩す以外にミドルで攻撃できると相手のディフェンスに選択肢が1つ増える分絶対にプレッシャーになると思います。 特に僕は昔(中学生の頃)キーパーやってて意外なところから打ってくるのが一番ヤでしたからね。それがあってペナ外からでも隙があったら狙うようにしてますもん。実際、蹴鞠団の試合ではそれで何度も決めてますから。 で、昨日はまた監督が勉強になることを仰ってました。 ミドルってのは基本的に移動したままの状態でシュートする事が多くてスピードに乗っているときにフルスイングで足を振ると100キロ出している電車から石を投げようとしているのと同じで仮に石を投げたスピードが90キロとしたら190キロの石を投げる事と同じ。スピード乗った状態でフルスイングで足を振ったら上手くミートできるわけがない。と。またまたなるほど!最近、蹴鞠団なんかでシュー練しててなんで上手くミート出来ないんだろうと思って悩んでいたのですが 解決です。そーいや、綺麗にシュートが入った時はまずイメージが先行してボールを足に当てにいくって感じで蹴ってますもん。 今日も夜から蹴鞠団の練習ですが少しその辺をイメージしてやってみよう。 てなことで昨日の練習は新たにひとつ勉強しましたが今日は新日本石油戦。何とかがんばって勝ち点増やして優勝して欲しいもんです。
2007年06月17日
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以前は僕のブログブログの題名や”じんさん”では#絶対に#検索できなくて、エルガルディさんのホームページからしか探す事ができなかったのに最近、フォースのブログ製作してたら”フォース”では検索できない事に気づいてなんでだろう?ナンデジャ?と自分のブログも検索できなかった事を思い出し久しぶり(1年ぶり)に”じんさんのお部屋”で検索してみたら出てきたよ!も一回試しに”じんさん”で検索したらこれも一発で出てきたよ!!前は確か全国のじんさんブログ(世の中同じような名前の人が多いから)しか出てこなかったのに... ヒット件数や更新件数が関係してんのかな??? 思い起こせば一昨年の11月から始めて、ずーっとつづけてますからね。 石の上にも3年鶴は千年亀は万年ヨクワカランナ。こんどから知り合いにおれのブログ”じんさん”で検索したら見れっから!っていえるぞ。涙
2007年06月16日
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**************************************************大乗小乗.1「せっかく、御学問中を」「いやいや、徒然(つれづれ)のまま、ほんの慰みの書を手にしたまで」「和歌のお書物のようですが」「近衛前嗣卿から贈られた古今(こきん)です。みずから和歌を詠もうなどとは思わぬが、兵馬倥偬のあいだにも、歌心はありたく思う」「歌心と仰せられますと」「さて、どういうてよいか。.....大和心と申さばややそれに似かよう気もする。もっと小さくいうならば、剛に対する柔、殺に対する愛、刹那に対する悠久、動に対する静」「少し分かりかけました」「年々の戦、日々も戦い。自然心は一途(いちず)となる。しかしこの戦国の果てなき末を思うと、たとえば長途を行くが如く、高き山へ登るが如く、呼吸の調べが大事と思う。吐く息、吸う息、そして長きを保ち、乱れを知らぬ呼吸。つくづく思う。その大事をな」「きのうは、単騎、信玄の中軍へ馳せ入られ、きょうは、静夜に、そのようなお考えを抱かれますか」「たとえば、琴(こと)の絃(いと)も、懸(か)けたままにしておいては、音がゆるむ。弓は、射るときのほかは、弦(つる)から外しておくものぞ」「外せば、外したまま懸けるを忘れ、懸ければ外すことをつい忘れ。なかなかその心機を転じることが、われらには難しゅうござりまする」「されば、凡夫われらには、暁(あ)けては、兵馬を見、燈(とも)しては書に親しみ、血腥(ちなまぐさ)い中にあるほど、歌心も、欲しいとするのじゃ。平易に申せば、身ひとつに文武ふたつをあわせ持つこと。至極やさしい。しかし難しい。.....いうことだけは謙信にもいえるが、さて、行うとなるとだな。.....ははは」おおらかに一笑すると、短檠(たんけい)の灯までが華やいだ。折ふし近習がそれへ供えた麦菓子をひとつ摂って、茶をふくみ、寛いだ客あしらいを見せて、やがて彼のほうから訊いた。「ときに、折入って、こよいは何事のお越しかの。承ろう。義清どの、ちと、お顔色もすぐれぬようだが、何とせられたか」**************************************************大乗小乗.2参考 吉川英治・上杉謙信/静夜・歌心よりつづく吉川英治的お部屋へ戻る*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2007年06月15日
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クリ君連れてフォースの水曜日練習行ってきました。 週間天気予報では水曜日は雨に、なっていたのですがその時間が近づけば近づくほど雨の時間が昼から夕方に夕方から夜になっていき火曜日が勉強会で蹴れなかった分水曜日にける事ができヨカッタヨカッタ。 その練習が終わった後うかつな私は、あてにならないその週間天気予報の情報を監督にマコトシヤカニ「日曜日、雨がドッカンドッカンフルらしいっすよ」....言ってしまいました....。 今朝天気予報見ていると今週末まで天気はもつらしい。ヨッシャ金曜土曜日曜と蹴れまくるぞと思ったのもつかの間 しまった...監督にオオウソこいてしまった.... この時期の週間天気予報は気をつけましょうね。トホホノホ この場を借りてお詫び申しあげ奉り御座候。切腹ぅぅ~~~~ッ!!トドメオカマシ;;(≧ω≦;)ヤマトダマシイィィィ でも晴れるのはうれしいっす。
2007年06月14日
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ふと、戦国浪漫さんを見ていたら今日は半兵衛重治さんが平井山で亡くなった命日ではないですか! さようなら、竹中さんそして、ありがとう。昔楠、今孔明。 じんさんの戦国武将大好きランキング1位.徳川家康(山岡荘八)2位.伊達政宗(山岡荘八)3位.竹中半兵衛(吉川英治) でしたッッッ!!!
2007年06月13日
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**************************************************大乗小乗たれ様の御次男も、さすがによい死に方をなされたそうな。あの家のご主人も、比類ない働きして、見事な戦死をお遂げなされたとか。残るお家族の人々も、さだめし肩身がお広かろう。日頃のおたしなみのほども窺われる。次の戦にはあやかりたいものよ。川中島の戦も果てたあと。春日山の城下は一しきり人と人とが寄り合えば、そうした噂にもちきっていた。そして毎日のように、戦死者の野辺の送りや、遺族の家の弔問に、たれも彼も、我が家も打ち捨てて歩いていた。広からぬ越後一国から、一時に三千余の戦死者を出したのである。こういう戦後の現象は春日山城下だけではない。村へ行っても、山間の部落へ行っても、香煙がにおっていた。毎日のように、寺々の鐘が鳴っていた。上杉謙信は、日を卜(ぼく)して、城下の林泉寺で、大供養を執り行った。もちろんこの日は、春日山の二十四将以下、家中悉(ことごと)く参列し、また身分の低い足軽の遺家族といえ、誉れある家々の老幼はすべて法筵に列して、親しく、謙信から言葉をかけられた。夕刻、謙信は、帰城した。晩秋の庭に対して、いつもの如く、寂として坐っていた。燭が来る。その燭をすえる位置まで、日常、畳の目ひとつ違っていない。そういう風に、規律正しく、躾(しつ)けられている近習であった。彼には、妻がない。夜食も禅僧のように質素である。済むとまたすぐ居室に帰る。居室をそのまま、宴楽の席とするようなことはない。ここに戻ってくれば、いつも本来の自分に立ち還っている。黙想か、読書か、稀に、硯(すずり)を寄せて、何か書き物などしている。「.....誰だ」うしろを見た。袖部屋のふすまが静かに開いたからである。中へ入って、後ろ向きに、ふすまを元のように閉めている者がある。謙信はすぐ思い出した。.....義清か。と。夕方、近習が燭を運んできたとき、、今夜、村上義清が折り入ってお目にかかりたいと申されていますが、と内意を尋ねていた。いつでも参るようにと、答えてあったのを、謙信はそのまま忘れていたのである。「お邪(さまた)げになりませぬか」義清は、遠くに平伏して、そっと燭の方を窺った。謙信が一人居室に静坐しているときは、たいがい禅に潜心しているのだということを常々聞いているので、こよいもと、畏る畏る、憚(はばか)ったのであった。.....が、謙信のかたわらには、めずらしく、古今集か何かの和歌の書が読みさして伏せてあった。「いや、かまわぬ。おはいりなさい」謙信は、近習を呼んで、しとねをすすめた。村上義清は、久しく上杉家の帷幕に加わっているが、臣下ではない。客である。いわゆる客将であった。**************************************************大乗小乗.1参考 吉川英治・上杉謙信/静夜よりつづく吉川英治的お部屋へ戻る*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2007年06月13日
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下半身の装甲をつけました。ヤッパリものこっく系ですね。(僕の嫌いな)もっと以前に撮った写真なのですがモチベーションがさがってしまい、アップするのが遅くなってしまいました。^^;後姿です。足回りのバーニアはシャア専用だけあってカックイイですね。頭の先っちょまで装甲をつけました。胸周りの装甲をつけるのに腕を外さないといけないので、外して撮影してます。後姿。このシャアザクさん、墨入れの箇所が案外少なくて少し物足りない気がします。もうちょっとモールと掘り込んでおいてくれればよかったのに...両腕の装甲と肩のショルダーアーマーを完成させました。このイボイボのショルダーアーマー、合わせ目がまったくないつくりになっているのがサスガですね。これですべて完成です。後はシール・デカール張りのみです。また次のお休みにコツコツやろうと思っております。ガンプラルームへ戻る
2007年06月12日
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ぷひィィィィィィッ!!!疲れた。やっとこさでけました。FC.FORCEのおひしゃるなお部屋が。これでお引越し完了。また今後今井さんと相談しつつ展開していかないといけません。またみんなもチェックして意見ちょーだいね。 よろしく♪しげさん♪
2007年06月11日
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**************************************************死中生アリ生中生ナシ.1謙信はふたたび馬腹に鞭を加えて奔(はし)っていた。今宵の霧はすべて血か。名月の面にも墨を吹いたような凄気()せいきが漂っている。「佐馬介。ここはどこか」「三牧(みまき)の畑の瀬かと思います」「さても、遠く退いたのう」憮然として、鞍上(あんじょう)から月を仰いだ。そしてしきりと、謙信は、片眼をしばたたいた。額から頬へかけて浴びている血潮が睫毛(まつげ)に乾きかけて眼を塞いでしまうらしかった。「そち一名か。続いて来たものは」「左様に覚えます」佐馬介も、暗然とした。.....が、謙信は何かおかしくなったように突然肩をゆすぶって笑った。「川を渡れば、高梨山のふもと。中野筋へ出るの。さらば渡ろう。佐馬介、瀬を見よ」「はいっ」この辺は、さして深いとも思われない。佐馬介は、静々、口輪を曳いて馬を川へ導いた。水は氷のように冷たい。そして、白い波が、鞍を洗ってゆく。謙信は、つぶやいた。詩を吟じるように。「死中、生アリ。生中、生ナシ。.....嗚呼(ああ)、珍重珍重。秋水冷ややかなるを覚ゆ。謙信なお死なずとみゆる」死中、生アリ。生中、生ナシ。この語は何かにつけて謙信のいう日常語だった。これについては、彼の家臣はこういう一話を聞いている。まだ謙信が二十四、五のころ、春日山の城下で、一人の老僧に会った。(和尚、どこへゆく)謙信が馬上から訊ねた。僧は林泉寺の宗謙であったが、振り仰いで、(城主は、どちらへ)と、反問した。(されば、戦場へ打ち立つ門出)と、謙信がいうと、(あら、心もとなや)和尚は一拝したのみで、沿道の群衆の中へ立ち去りかけた。謙信は、急に馬を降りて、近侍の本庄清七郎を呼びたてた。(いまの和尚を追いかけてゆき、謙信に代わって驕慢(きょうまん)の罪を詫びてまいれ。そして、一言、謙信のために教えを垂れよと申せ)(お詫びをして来るのですか)出陣の矢先である、清七郎は忌々(いまいま)しく思ったが、宗謙の姿を追って、その旨を伝えた。宗謙は、(恐縮な)と、戻って来て、(教えなど、何も持たぬ。野衲(やのう)に答え得ることなら、何なりと答えよう)と、衣の袖を交手して佇(たたず)んだ。謙信は、馬を下ったまま、慇懃に師礼を執(と)ってたずねた。(兵を進めるには、神速を規矩(きく)となす、とか申します。.....法をお弘めになるには、何を以って規矩としますか)(兵を進めるには、死を先とする。法を弘むにも、死を先にす。ただ今日在る姿をみな、生を知って死を知らぬのみ。.....何でもないなあ、後と先のとりちがえだけじゃ)(もう一問、仰ぎます)(む、む)(弱きを見て退き、強きに向かって進む。.....逆ですか。順ですか)(死を恐れざるものは安く、生を楽しむものは危うし。強弱進退、死生の迷悟、みなこの中の事のみ。お館は如何に)一転、反問を呈されて、謙信はしばらく唇をつぐんでいたが、やがてこう答えた。(死中、生あり。生中、生なし)すると宗謙和尚はからからと笑って、(よし、よし。.....では、行っておいでなさい)拝をして、出陣を送った。後、彼は、凱旋すると、微服(びふく)して、林泉寺に入り、親しく宗謙禅師に参見し、以来、学ぶ事深かったという。謙信の「謙」は、師の一字を乞うて名乗ったものともいわれている。彼の祐筆が記した若年ごろの日誌を見ても、御本丸ニ御座成サルモ、常ニ御座之間ニハ一人モ罷リ在ラズ。御次ニノミミナ控ヘラレタリ。禅学遊バサルルニ御障リニヤと、ある。いかに彼が禅に心を容れていたかが窺(うかが)われるし、その禅師は林泉寺七世の宗謙だったのである。とはいえ彼は、ただ禅にのみ傾倒したわけではなく、心、儒、仏いずれへも心を深く寄せていた。天地を畏(かしこ)み人間の凡愚を弁(わきま)えていた。仏教にしても、浄土、法華宗、天台宗、真宗派別なく参究して、その真髄を汲んでみな自己の心の甕(かめ)にたたえていた。**************************************************死中生アリ生中生ナシ.2参考 吉川英治・上杉謙信/傷軍の将は母心に似る・死中生ありよりおわり吉川英治的お部屋へ戻る*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2007年06月10日
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昨日は結局、西中グラウンドにはじぇんじぇん水溜りがなくいつものように、お外で半コートのゲームでした。フォースのディフェンスチームとオフェンス&その他大勢のチームとに分かれてやったのですが昨日の私は最悪でした。グレートサイヤマンっす↓前線に立っているのにシュート本数3本うち1ゴール。こんなんじゃいけない。う~~んいつもいいパスを供給してくれるメンバー(監督や拓志君)とは違うからどうもイメージしているパスコースが違うちがうパスコースならあらかじめ誰がどのようなボールでどんなコースに出すタイプなのか把握していないといけないなあ。どうも単純な僕はいつもいいボールがくると思ってそのコースに動き出しているからかみ合わない。昨晩は特にそんな感じがした。まだまだ漠然とサッカーしてんでしょうね、僕自身が。 今日の日記のテーマの”膝をくの字”これは、ずいぶん前に今井さんが誰かに言っていたのを横で聞いていて、なるほどと思いず~~っといままで自分の中でテーマにしてました。 かかとを上げて膝をくの字に曲げるそれによって膝のバネをつかう。単純なようでこれが出来ない。思った時は出来てもナカナカ続かない。疲れるから。でも、この1年くらいかなりそれができてくるようになりました。スパイクが爪先のポイントの減り方が激しい。爪先のマメの出来る頻度もかなり激しい。多分それがフォースでも自分のスピードがある程度通用する根底になっていると思う。 よーく考えてみると一瞬の動きがすごい早いヤツ。拓志君やニキニキの能登君(金曜日時々一緒にやってる)その能登君なんか僕より背が高くゴッチー男なのに瞬発系の動きをする時は僕の視線の高さより低い位置に頭があるって~ことは腰の位置がかなり低い。よ~~~く膝が曲がってるんでしょうね。僕なんか技術がないからこーいったところをドシドシ真似していかなきゃいけませんね。 昨日の練習では監督がワンタッチ目のボールを落ち着かせるのが甘いといってました。自分なりに考えたんですがマダマダ膝が伸びきった状態でタッチしているからいいボールコントロールが出来ないんじゃないかなぁ...って昨日からず~~っと考えてました。 ということで今晩は蹴鞠団いかずに休もうと思っていましたがちょっとその辺を見直したいから行ってこようと思います。ヘタクソな人間(僕の事)は他人よりがんばんないとね♪今日のテーマは膝っす!!!
2007年06月10日
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**************************************************死中生アリ生中生ナシ犀川(さいかわ)の岸まで謙信は一気に馬を跳ばして来た。つい一刻まえには、単身、甲軍の本営を、その馬蹄に駆けちらし、信玄の頭上に、一閃光(せんこう)を下した彼が、今は身を退くに、何の歯がみもためらいもしていない。淡々たるすがたである。「待て待て、千坂」内膳がすぐ彼の駒を流れに曳き入れて、河を渡ろうとするのを拒んで謙信はふたたびそこに駒を立てていた。「おう、そこにおいでですか」先に、諸方の味方へ、総引き揚げを伝令しに行った大国平馬や市川主膳など、前後して、彼の側へ戻ってきた。なお佇(たたず)んでいるうち、高坂隊の先手を防いで、ようやく血路をひらいた鬼小島、永井、竹俣(たけのまた)など数名も、朱にまみれたすがたをもって、ここに寄り集まった。住人、二十人と、ぼつぼつ他の味方も寄って来る。しかしその兵種も所属も雑多だった。それを見ても、いかに味方の主力も各隊も寸断され、各々いたるところに苦戦して、全面、混乱に陥っているかが察しられるのだった。水淙々(そうそう)、風蕭々(しょうしょう)、夕闇とともにひどく冷気も迫って、謙信の胸は、なお帰らぬ麾下(きか)の将士の上に、悼(いた)み哀しまずにはいられなかった。「新発田尾張守、新津丹後。また本庄越前、北条安芸などはいかがいたしたか。柿崎は首尾よく退き口を取ったであろうか。直江は.....」鬼をも拉(ひし)ぐ戦神と見えたその人が、薄暮の野を見まわして、われともなくそう呟いているすがたは、まるで帰らぬ子を門辺に出て待っている母のように他念なかった。「だいじょうぶです。お案じには及びませぬ」大国平馬が力づけていう。「妻女山より加勢の敵は、何分大兵、それに新手、一概には支えかねおりますが、お見方こぞって、徐々と、この犀川、丹波島の此方へさして引き揚げておりまする。.....すでに、お館のなおこの辺に踏みとどまって負わすとは知らず、犀川を越えて、遠く後ろに退きとっている部隊もあるかと存ぜられまする」平馬の言葉に従いて、人々も口をそろえて謙信に言った。「無数をもって、ここにおいであそばす事は、かえって、味方の集合に、惑いを生じさせているやも知れません」「すこしも早く、犀川をお渡り合って、無事の地へ、お退き遊ばされますように」「ここにおわしては、いつふたたび御危険が迫らぬとも限りませぬ」謙信は諌めを容れた。さらばと、河を渡るべく、河原へ駒を向け直した。ここ丹波島と呼ぶ洲の上流には、駒の足も立ち、人間が渡渉しても、首の根ぐらいまで水に浸れば渡れるところもあったが、ここから下流の方は、断然深い。千曲は流れもゆるく、瀬も浅いが、犀川はそれに較(くら)べると遥かに奔激(ほんげき)していた。この川筋の水量が、最も浅く枯れるのは、真夏の七月が頂上である。九月、十月となれば、山岳地方の雨季となって、たちまち四、五尺ほどの水量は増してくるのが例年の実状であり、殊に丹波島から下流の方では、人間の渡渉できる程度の浅瀬は一ヶ所もない。謙信の憂えていたのも、退き口退き口と頼りにつぶやいたのも、その点に気がかりがあったにちがいない。もっとも、味方の諸武将とて、みなこの川筋の深浅は心得ている。が同時に、それくらいな常識は武田方の諸将にもある。従って、いまや優勢な位置に立った敵側としては、極力、その鋭鋒と包囲形を、犀川の下流へと向けているものと思われる。謙信とその旗本以下、およそ百余人は、まず、謙信を後に残して、先に十名ほどの下士が槍を杖にしてざぶざぶ河へ入って行った。浅瀬を探って主君の道を導くためである。ところが、それらの水先案内が、突然、川の中ほどでしぶきをあげて倒れた。鉄砲ではない。近くで、弦(つる)なりが響いた。.....と思うまに、武田太郎義信を主将とした甲軍の精鋭が、「つつめ」「先を取れ」疾風のように急襲して来た。それはまえに襲撃を受けた高坂隊の一組などとは比較にならないほど血腥(ちなまぐさ)い突風を持っていた。いや狂気に近い怒りをすら帯びていた。一部は、はや一人の猛敵と、斬りむすび、斬り伏せ、すぐ次の敵と組み、もんどり打って、水際までころがってゆく。「ちいッ」血の中から立ち上って、また直ちに、むらがる甲兵のうちへ駆け込んだ。鎧の草摺(くさず)りは片袖がもがれ、兜も失い、髪はさっと風に立っている。本田右近允(うこんのじょう)は、謙信の目の前で、誰やら屈強な甲軍の将と戦っている。まるで鷲と鷲とが相打っているすがたである。和田兵部、宇野佐馬介のふたり連れは、絶えず二本の槍をそろえて、次々の敵を迎えている。槍一突(そういっとつ)。これも、小さい戦法といえようか。そのほか、謙信をめぐる近侍は、一人として鮮血にまみれないものはなかった。百余名は、またたく間に、四、五十名に討ち減らされた。敵もおびただしい死骸を積んだ。しかも容易に、退かない、怯(ひる)まない。それもそのはず、これは父信玄を傷つけられ、自分の隊もひとたびは壊滅に瀕した太郎義信が新手を得て再編成してきた一隊である。「序戦の恥を雪(そそ)がねば、生きて甲州の人々にまみえる面(つら)はない」という健気なる意気を持つ指導者とその精鋭なのだ。ただ恨むらくは、この際の太郎義信も、時すでに水面も暗い黄昏であったといえ、みすみす眼前にあった謙信を、上杉謙信とも知らずついに逸した事である。**************************************************死中生アリ生中生ナシ1参考 吉川英治・上杉謙信/傷軍の将は母心に似るよりつづく吉川英治的お部屋へ戻る*この書き込みは営利目的としておりません。個人的かつ純粋に一人でも多くの方に購読していただきたく参考・ご紹介させていただきました。m(__)mペコリ
2007年06月09日
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まずい最悪でした。いつも弁当は朝起きたら自分で製作しているのですが冷蔵庫の中を見たらからつぽ何も入れるものがなかったから私が大嫌いな惣菜のかぼちゃコロッケ昨日たくさん作っておいたピーマンの味噌炒め。いつも昼食は2時30分頃から取っているのですが今日はその時間に接客をしていたのでやっとこさ、さっき食べました。 まずかった。グレートサイヤマン!! 基本的にかぼちゃがキライなのね。この際だから我慢すっかと突っ込んできたのが失敗でした。 カップラーメンでも喰っときゃよかったな。 今日の日記、ほんとは吉川英治の謙信公を書こうと思っていたのですけどこれから型紙書いたり色々しなきゃいけないから(さっきオーダーして頂いたS様分の)無理だな。明日のネタにしよ♪ じゃまた。
2007年06月08日
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昨日は朝6時起床。がくさんではないですけどお休みの日の方がお仕事の日よりも早起きです。なんだか時間がもったいない気がして。しかもその早起きをしてやっている事がプレステ♪時間の有効活用です。 で8時15分からは日課ポッカの”どんど晴れ”こいつを見なきゃ一日が始まりませんから。その後はもくもくとシャアザクの生活いやいや製作なかなかマニアな午前中です。午後は少しお昼寝をして3時ごろから晩飯の仕込み。木曜日は嫁さんが晩お仕事なので夜ご飯は僕のお仕事。昨日は鶏肉のさっぱり系ハンバーグにピーマンを砂糖と味噌で炒めた物。我が家の和志に愛ちゃん、ピーマン嫌いだから僕も子供の頃大嫌いで私の母さんに、そのピーマンの味噌炒め作ってもらい克服しました。もっとも、僕が子供の頃は好きでも嫌いでも出されたものは黙って喰う。 これが鉄則でしたから。で、そのピーマン炒め和志に愛ちゃん喜んで食べてくれました。ヨカッタヨカッタ夜は吉備中で練習。以前も書いたけど吉備中は備前1部のランダム・元浜・ジェニオ・ランベルゼ(クリ君とその仲間たち)etc...備前1部ではあるけど、技術的には県リーグでも通用しそうな連中ぞろい上手い連中のほとんどが東岡工出身。確か僕の年代の頃から東岡工強かったもんなぁ...昨日はラッシュのがくさんがオヒッサーで参加しかも若人輩をつれてきてくれてました。最後の得点、ナイボーでした、がくさん。 20分を3本... いつも思うんですが実質1時間チョイしか蹴れないのにナンデ3本に区切っちゃうんだろう?みんな現役でやってて、え~っと、地区リーグだと確か35分ハーフだから練習から35分の2本にすればもっと練習になると思うのにな... ま、いいけど。 最近、よくフォースの練習にお世話になってて40分か45分、休憩なしにぶっ続けでゲームやってると「あ~。現実の試合を想定してんのかな」思いますもんね。 私には45分1本でお腹がいっぱいですけどね。笑 まあ、僕が引っ張ってる練習じゃないからえらそうな事はいえないんですけどね♪でも昨晩は楽しかった。9-8くらいで僕のチームの勝。アタリマエデスうち、僕が3点は取ったかな?まだまだ今井さんに言われている”ウェーブで入る”これが出来ていない!時々は出来ているけど完全ではない!!マダマダ修行が足りないな。 今日8日は一日休んで明日、またフォースに参加させて頂きます。土曜日の練習は雨が降っても体育館で出来るのが魅力的っすぅぅぅぅウフフ明日も楽しみしています。
2007年06月07日
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まことに球蹴り三昧なじんさんです。昨日はフォースで西中人数は18人ぐらいいたのかな?半コートだとあのくらいが多すぎず少なすぎずですね。フォースは一昨日の敗戦後ということでディフェンスから中盤としっかり見直しをしていました。で、フォースチームとその他大勢チームに分かれて僕はその他大勢チーム。昨日はなんだか見たことのない子が4人くらいいてまあ、真ん中に拓志君がいたからどうにでもなるやと。相変わらず芸のない僕は前線で前に前に動いてました。拓志君がいると来るんですよね、ディフェンスの裏へのグッボーが♪ボールが良くてもイマジネーションの良くない私はなかなかタイミングが合わなかったけど何点かいい形で取る事ができすっきりすっきり♪ 今週はあと 今日は体を休めて明日の木曜日に吉備中へ行って、金曜も休んで土曜日フォース。日曜日の蹴鞠団は...う~~んどうしよう。来週の天気次第か。
2007年06月06日
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ここのところ天気がいいなあ。先週、天気予報でぼちぼち梅雨入りするとか言ってたのに...その気配ナッシング♪ サッカーが中止にならないのはいいけど何年か前みたいにからっ梅雨で水不足ってのはゴメンですね。 毎朝通勤で岡山城側の旭川をわたっててなんだか水の量が減ってきてるのよね。この時期は田植えで水がたくさん必要なのに。まあ、世間様のためにも程よく降ってくださいな。 どんど晴れ♪オヤ?チガウカツカイカタガ?
2007年06月05日
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NTN戦...負けちゃったっすね。相手は去年の覇者だから強いっちゃ強いけど。勝敗は兵家の常でありんす。次はみんながんばってね!!! また明日練習いくよ! あと、昨日のJFLでは三菱自動車水島(拓志君とこ)とアローズ北陸(今井さん御曹司、大悟君とこ)自工勝ったけど今井さん、びみょ~~っすね。
2007年06月04日
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どうなったんだろう?学さんに聞いてみようか?いやいや、まてよ、負けてたらヤだしなぁ...NTNは4戦目で1つ負けてるからモチベーションは高いだろうなう~~~ん。 神に祈るとしますか。南無諏訪法性上下大明神...
2007年06月03日
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太ももまで製作しました。このシャアザク、ぶっといフレームのわりにシンプルな部品構成になっていますから、簡単に組み上げる事ができます。前回はMGダブルさんを製作したからかな、スムーズに組み上げられます。あと、フレームの素材が最近はABS樹脂製になっているので接着剤は、ご法度っすね。つぎはWAISTのフレーム...と思ったのですが、説明書を見ていたらハシゴ車を発見したので先にコイツから組んじゃいました♪なんだか製造工場みたいでモチベーションが上がります。ってか、こーゆー物を最後に作ると最後が大変気だるくなって来るんですね。キライな物は先に喰う!!これが我が家の家訓ですから。で、つぎはWAISTのフレームです。可動範囲を広げるためにサイドアーマーが複雑に動くように考えられています。今まで作ったMGシリーズでは、フレームの時点でサイド・リアアーマーのフレームを組めるように出来ているのは初体験ですね。いつもこの時点では、腰周りはスッカンスッカン状態なのに。ついでにLearview。バズーカをマウントできるようなフレームがついています。形状はF91のときのものに近いですね。足をくっ付けました。フレームの状態がえらいゴツイですね。この頃の設定ではムーバブルフレームがまだなかった時代だからですかね?人間で言う腹筋部分を作りました。この部分に核エネルギー炉があるらしくそこらへんも再現されています。こんなところは組み上げたら隠れちゃうんですが、"見えないところにこだわる"う~~~ん。男の美学ですね。あずなぼーさんを塗ってみました...ヘタッピーです。涙でも、5メートルくらい離れてみたらそれらしく見えるのです。号泣....立ち姿は塗りません。ツカレハタテッスコクピット周りを製作しました。ザクってコクピットが真ん中についてなく、左右に移動できるようになっているんですね。なんでだろう?このシャアザクさん、肩のスイング機構が従来のものよりよ~く出来てます。従来は、ポリキャップ1個で前後にスイング程度のものが、3つのパーツをからめてスライド式に前後動作するようになっています。写真じや上手く表現できなかったんですが、油圧シリンダーで前後します!って感じになっています。組み上げてみました。隣にハシゴ車があると、ここはもう、サイド3のジオニック社工場内って感じです。(そんな事ないかな...)頭のフレームを作りました。モノアイが透明のクリアパーツのみになっていたので付け根の部分をガンダムマーカーメタレッドで塗ってみました。いい感じです。いままでは、こんなアップの写真を撮るとピンボケしてたのに、最新の携帯だとこんなきれいに撮影できます。大して綺麗でもないですが私的には良く出来ました♪胴体に乗っけました。う~~ん。どう見てもゼータガンダムに登場した"ボリノークサマーン"ですね。ここでちょっと、今回のシャアザクVer.2.0の売りである立ち膝ポーズをとってみました。今まで作ってきたMGのフレームは角々していたのに、こいつは丸っこいフレーム出てきているため、なんとなくポージングしやすいし違和感がありません。全体に動力パイプを取り付けました。このシャアザク、動力パイプの製作もスムーズに出来るってのも売りだったらしいですが、結局1個1個ゲート処理しなきゃいけないからメンドイかったです。まあ、僕みたいな男はこのメンドイ所をシコシコ作るのが楽しいのではアリンスけどね^^後姿です。ピンクの部品が増えれば増えるほどシャア専用に近づいている気がして嬉しいですね。次は、バックパックを作りました。ヤッパのこれがないと宇宙用のモビルスーツではないっす。腕のフレームです。両肩ともに、ショルダーアーマーを取り付けるジョイント部分がついているので通常のものより少し手間がかかります。少し以前のMGでは、腕の部分はフレームを再現されていなかったので、ヤッパリここまであると満足ですね。マニュピレーターの指を1本ずつ切り離せるようになっていますが、今回は切り離すのを止めておきました。親指以外が第2関節まで動かせるようになっているので、それだけでも迫力抜群!関節がプラプラになるのが嫌なので今回はそのままにしておきます。これで本体のフレーム部分が両手両足そろいました。かがみポーズをとってみました。スゲー!!コイツは良く動きます。もう限りなく人間の動きですね。後姿です。全体の装甲をつける前、モチベーションのあるうちに武器を製作しました。説明書通り作るとこれが最後になってとてもだるく感じるのですが、この時点なら意欲的に墨入れも出来ます。肩膝立ちでバズーカとザクマシンガンもって見ました。う~~ん...基本的に主役機が好きな僕はイマイチ、ビビッときませんね。こんなもんかな?ガンプラルームへ戻る
2007年06月03日
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まじっすか!!??送って頂けたのですね!! 実は数日前、三菱自動車水島FCのホームページ みてて"ポスター掲載してるとこ求む!"ってな感じの読んでいたらセブンイレブン庄店にもポスターが貼られているということを知りおいおい、うちの近所のセブンでも張ってんならウットコモも張りたいとわけのわからない欲望にかられてしまいどきどきしながらお問い合わせアドレスにメール送ったんです。そしたら返事が来たんですね。ぜひお願いしますって。でも、その文章にはポスターを送りますとも取りに来てくださいとも書いてなく最後のところに” 7/1 桃スタでゲームがあります・是非ともお立ち寄り下さい。 以上”と、書いてあったのであー。ゲームを見に行った時にくれるのかな?と思ってて、僕は土日祭日はお仕事だから応援に行けないんですね。(かなり見に行きたい)だから、こんど火曜日にでも拓志君に事情を説明して持ってきてもらおうかなぁと思っていた矢先宿敵の佐川急便さんから届きました!!先ほど 最初、なななな...なにが来たの?と思ったんですね。で、送り状見たら自工の事務局って!!!ヤッター(><)/送ってくれたのですね!! さっそく、中を開いてみると おおおおっ!カッコイイ。ってか拓志君(一番右下の選手)実物の方がいい男だぞ!! で店頭に張ってみました。ジャン!欲張ってお店の方をよく見えるように撮影してしまいました。商売人のサガですね。^^;ポリポリ ここで一句 じんさんはファジアーノより三菱です。 ちなみに乗っている車も三菱です。 だって拓志君がいるもんね♪がんばれ。
2007年06月02日
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昨日1日金曜日は5/末で決算だったので27期報告と予算だし及び年間の反則販促企画立案で、全店舗(って3店舗しかないけど)店休にして決算会議でした。ナカナカ厳しい1年でしたが何とか生き残る事ができました。笑今期はまた楽しい1年になりそうな予感がする決算会議になりました。また今期も0から始まりだ!ケッパルゾー! で会議は3時ごろには終わったのでそのまま帰宅し夜は地元の庄小学校のナイター練習にお久で顔を出しました。なんでも来週から梅雨入りしそうとか行っていたので行ける時に無理して行っておこうと。 ほとんど中学生対女の子チームとのミニゲームに叔父さんが3~4人混じってやる、ささやかなゲーム僕にはかなりフラストレーションがたまりましたね。バカデス手を抜くと言うことを知りませんから!!!女の子でもそれなりに練習している子達なので結構上手。あんまり手を抜いていると気合の入っていない中学生チームだとボコボコにされますから。 今晩はフォースで練習。明日は昨季の覇者NTN戦と言ってました。今晩の練習は多分、人数も多く気合が入ってんだろうな...おじさんも一チョもんでもらおっと。
2007年06月01日
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