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3月の地震。私のところは関東でも震源から離れていたので、本棚に収まっていない本が倒れたくらいでした。でも、ニュースや記事から受けた強い衝撃といたたまれなさは、ことばにできないほどで。原発関連の映像にひたすら恐怖を覚え、2週間くらいは夜中に携帯でニュースを眠くなるまで見ました。どうしてこんなにびびっているんだろう。その気持をじっと観察してみると、「先がわからないことの怖さ」と「どういうことなのかわからない怖さ」大まかにいうと二つあることに気付きました。そういうのって、あんまり感じたくないものだから、あえて観ないようにしているだけで、本当はそういうことに囲まれて生きている。リスクは考えると際限がなく、命にかかわるからといって車に乗らない、なんていう訳にもいかなかったりする。砂をじゃりじゃりとかむような思いでいろんな報道を見ながら、人の命も世の中もいろんな可能性の中にあるのだと思いました。そのときどき、それぞれの人にできることをする。それに尽きるのではないかなぁ、って思います。それから、すごく不安になったり動揺するときには、それを人に話すのもいいけど、こころにあることをノートに書くのもいいと思いました。3月4月くらいは、ノートに不安や恐怖が文字と化しておどっていましたが、今は大分落ち着きを取り戻してきました。音楽も全然聞く気分になれない時間が多かったけれど、今はこれを聞いてます。今も行方がわからない方が、一人でも多く、家族のもとに帰れますように。失くしたなにかがある方が、落ち着いて生活できる日が、一日でも早く訪れますように。震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
May 15, 2011

ごぶさたしておりました(あぁ本当にブログはほったらかしでしたが、おおむね元気にしております。昨年はちょっと学校に通ったりなどしてましたが、頭つかうって本当パワー使うんだな、と。それから、そこで知りあった方と一緒に人生について考えたり遊びほうけたりして過ごしてました。今日は近況報告もあるけれど、お花をかざりたいなぁ、と思って。 @浜離宮寒いのはかなり苦手なので、春の兆しがただただうれしい今日この頃です。
February 28, 2011
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この世に生まれて○○年。思えば幼いころから、人のこころというものに興味を抱きつづけてきました。始まりは私をとりかこむ家族のこころ。そして学校の友達。会社の人たち…。年齢を重ね、たくさんの人々と関わりあって生きてきました。けれど、理解したいのにどうしてもわかりあえないことに悩み続けてきました。そこで私は思いついたのです。今こそ、そう今こそ、修行の旅に出るときなのだ、と。一番に出向くのはフランス。モン・サン=ミシェルというところです。友達から初めて聞いたとき「坊さんミシェル?」と聞き返して爆笑されました。修道士はいてもお坊さんはおられないようですが、その昔は命がけで行く聖地だったそうです。修行の旅の一発目として最善の選択なのではないかと、なんとなく考えました。次にいくのはインドにあるラクシュミーナラヤン寺院。十年以上前にNHKの番組で取り上げられていたのですが、そこでとりおこなわれていたダンスと音楽がずーっと気になっていて、なんとか見聞きする機会がないものかとウェブ上を探したりなんだりしてました。でも、一度でいいから実物を見て体験したい、という気持を抑えられない…。この際なので、現地に行って土地の方といっしょに踊りまくることを決意しました。バブルの頃、ジュリアナ東京でぶいぶい言わせていた荒木師匠をも凌ぐことでしょう。その次は、鳥取にある三仏寺というところに行きます。天台宗のお寺さんなのですが、投入堂という断崖絶壁の上の建物に長年憧れてました。建立されて千年近く経つらしいんですけど、どうやって作ったか未だわかっていないのだとか。参拝は非常に過酷なのだそうですが、覚悟していくつもりです。出発まではバーベルを振り上げて、ひたすら体力増強に努めます。 やるならとことん!的な。厳しい修行の旅なので、まずは形から。週末、頭を坊主にします。最近、ICONIQさんという歌手の方が坊主頭になさったというニュースをみたとき、心底うらやましく思っていました。「私も頭をツルツルにしたいの!!」と。そして、旅立ちを前に恐れおののく心を景気づけるため、ハンドル(ネーム)を「くまこにっく♪」に変更します! ∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴という訳で。4月1日にちなみ、ありそうでない話を必死に考えました(爆ディテールはほぼホントですが、大枠はウソです。ひとのこころを理解するのは難しいと、ちびっこの頃から思い続けております。が、修行の旅には…今んところ出られません。三つ挙げた寺院。どれも行ってみたいです。「坊さんミシェル」の話は確か5、6年前の友人との会話の一部。私の脳の言語中枢は時々不思議なパフォーマンスをくりひろげてくれます。ラクシュミーナラヤン寺院の踊りと音楽。は、本気で観たいと思って、CDショップで探したけどありませんでした。その番組自体のサントラは、細野晴臣さんが出していらっしゃるんですけどね。三仏寺。投入堂にたどり着きたいんですが、一人で行くのはNGらしい。本当に危ないので、企画を実現できるかはかなり微妙かも。友達と一緒に行って何かあったら、私には責任持てないですし。坊主頭の話は美容院で「ボウズにしてみたい願望」話をしたことがあって、「そんな話をされたのは初めてです。」って美容師さんに返されました。ツルッツルの頭で会社組織に挑むチャレンジャー女子。なんてネタとしては面白そうですが、そんな自由人にはなれそうもないです。ハンドルの「くまこにっく♪」は悪くないと思うけど、ちょっち長たらしいので。どなたか使いたい方はご自由にどうぞ。結論。「とくべつきかく」=「特別すぎて今日のところはボツの企画」でした。おしまい。
April 1, 2010
お財布の中にある十円玉を取り出して見る。「10」という数字のある側を見ても、平等院鳳凰堂の下にある「十円」という文字を見ても、おんなじ十円玉。字の大きさからみるなら、「十円玉であること」のアピール度は、平等院側よりも「10」と書いてある方が高いと思う。でも、価値自体はどちら側でも変わらない。このブログをはじめる前に働いていた会社で、針の筵(むしろ)大会を開いてもらったことがあった。非難の針のさす先は私にむいていて、主催者は十円玉の「10」の側みたいな人。思ったことは何でも口にする。そんな感じの方だった。数人のひとから一度にワーワー言い立てられてる、なんてそれまで生きてきた中であまりなかったから、反論できないまま「10」さんとその仲間の剣幕に頭が真っ白になりながら、宴は終わったのだった。宴のあと「10」さんに、伝えたかったことはわかったか、と聞かれてなんて返したのか今では全く思い出せない。けど実のところ、私の仕事に不満があるのはわかったけれど、それを話すことで何を果たしたいのか、という真意はさっぱりわからなかった。ずっと、「わかんない…。」と思い続けていたのだけど、先日十円玉を目にして、ふと「あ、そうか」と気付いた。「10」さんは会社の中の自分を認めてほしかったんだ、と。そして、一方の私も表現の仕方は違っても、思っていたことは同じだった。けど、「10」さんも私もわかっていなかったのは、誰かに認められることより何より大切なのは、自分で自分を認めることで、そのままの自分に「YES!!」と言えるなら、誰にどんなふうに扱われるかは二の次になる、ということ。(○○ハラスメントとか、虐待、DVなど暴力行為はまったく別として。)…結局、「認めてほしい」の闘いは、どれだけ遠慮したいと思っても、果たし状をなげられたら受けて立つより仕方ないのだ。なぜなら、中途半端な対応は、闘いたいひとの燃料になるだけだから。「10」さんも私も同じ十円玉で、どこか幼稚なのはお互いさまだった、と思ったら、妙にすっきりした気分になった。このところ、「私はこういうひと」っていうのを言葉にすることが課題になっているんだけど、苦手にしてきた時間が長いものだから、うんうん唸って挙句散歩に飛び出したりしている。でも。苦手であまり手をつけてないことに時間がかかるのは当たり前で、やってないけど得意、なんて大抵ありえない。得意なことは試行錯誤がその前にあってのこと、というのがすっかり抜けていた。そうした試行錯誤がどんな花や実をつけるかはわからない。けど、根気よくつづけることはきっと、十円玉を磨くことにつながる。「10」と大声で叫ぶのは私の趣味ではないけれど、平等院の下で「十円」と言葉にする方なら、練習すればできるようになるだろう。そんな予感のなかに日々を過ごしています。三月は卒業式の季節。学校によって式で歌ううたはそれぞれだと思いますが、どんなうたを歌いましたか。私の行ってた学校では小学校では「仰げば尊し」で、中・高は「巣立ちの歌」。大学は…何だったかな。大学の歌をうたったことしか覚えてないや。「仰げば尊し」もいいうたなんですけど、「巣立ちの歌」の方が好き。サビの歌詞はこんなです。♪いざさらば~ さらば先生 いざさらば~ さらば友よ♪そろそろ、針の筵大会のことは踏ん切りがつきそうだから、♪いざさらば~ さらば10円 いざさらば~ さらば傷よ♪って歌ってもいい気がしている。卒業めざして論文書いて、指導教授にみせちゃうかな。読んでもらって、D判定(不可)だったらどうしましょ。でも、結果がどうであれ、締めはこんなふうに歌うのだ。♪美しい~ 明日の日のため~♪ ってね。よだん。春の気配を音で楽しむのに、こちらはいかが。・SOUR '日々の音色 (Hibi no neiro)'音の作りも画像も楽しいのですが、冬を通り越したイメージの歌詞が素的です。お時間が許すならぜひご覧くださいませ。
March 6, 2010
先日というには大分日がたってる話なのだけれど、手持ちのサンダルの一部がいたんでいたので、修理屋さんに出した。夏以外に履くと見た目に涼しすぎる物で、出したのは秋だったから、「(混んでいるので)時間がかかりますが。」というお店の人に、「なんでしたら、来年の夏でも構いませんから(笑)。」、とお願いしたのだった。仕上がりに二、三ヶ月(だったかな)とか言っていたはずなんだけど、できたという連絡は待てどくらせどやって来ず。ちょっと忘れそうになっていた五ヶ月後くらいにお店に電話。でも、お店の人は出てくれない。。。某デパート内の店なので、基本は代表電話からつなぐという形なんだけど、代表のおねえさんも、「出ませんねぇ…。」と。仕方がないので、直接かかる番号を教えてもらいかけなおしても、出ない。あぁ、参った。弱ったなぁ。と思いながら、日を改めて電話すること五回ほど。やっと出ていただけて、どうなっているか調べてもらったんだけど、「…まだ、できあがっておりませんで。」と。「えぇっ?…。‥‥‥。」とさすがに絶句。ひたすらガッカリしながら、ともかくやっとくれ、と頼み、それを家族に話すと「何なのそれ。あまりにも酷すぎる!!」と怒りだす。「うん、確かにひどいね。今度引き取りにいくとき、『あんまりです』って伝える。」というものの、当事者の私は怒るよりも凹むのが先に来ていて、周りの方が怒っているのだった。何か問題なり、アクシデントがあったときに、「ばかもーん!」といって怒りまくる人もいれば、私のように落ち込む人もいる。感情や感覚の、怒りのスイッチが入りやすい人と、悲しみのスイッチが入りやすいタイプの人がいるとするなら、フィギュアの浅田真央さんは後者のように感じる。あるとき浅田さんのコーチが彼女に「もっと怒りなさい。」と言っていた、というのを聞いた。もしかしたら、コーチさんは怒りのスイッチが入りやすい人なんじゃないか、と。怒りのスイッチが入りやすい人には理解しにくいのかもしれないけど、あまり怒れない人に怒れと言われても困る、というのもあるんじゃないか、と印象に残ったのだった。『生きるとは、自分の物語をつくること』という河合隼雄さんと、小川洋子さんの対談本の中にこんな一節がある。河合さん キリスト教は「原罪」が基本であるけれど、 日本の宗教は「悲しみ」が根本になるのが多いです。小川さん 情緒的というか感情的なんですね。河合さん だから僕は、「原罪」に対して、「原悲」があるという言い方をしています。 日本のカルチャーは原罪じゃなくて、原悲から出発してるから、と言っているんです。「こうしなくちゃいけない」とか「これをしてはいけない」という原罪的な意識のひとはさまざまな技術の向上に貢献することができる。でも、原悲的な意識のひとは「したければするし、したくなければそれでもいい」なので、原罪的な意識のひとの考えを受け入れすぎてしまうきらいがあるように思う。(感覚的に受け入れられれば、客観的にどうであってもOK、といった感じだろうか)だから、(まだ確定ではないようだけど)浅田さんの現コーチさんが総監督になり、日本で指導する人を探すというプランはとてもいいアイディアだと思う。側で精神面でも支える指導者としては、高橋大輔さんのコーチみたいなタイプの方が合っている気がするので。どこまでも推測の域を出るものではないけれども、浅田さんの涙は、意地で金メダルを取りにいく、とがんばったのに、という悲しみだったのではないかと思う。彼女のことばを聞いていると、行動の原動力が「楽しい」「うれしい」という感情にあって、そんな彼女の邪気のなさを、自身の意地で括ってしまったのかなぁ、と。この先どうなるかは、彼女だけでなくみんなわからないものだけど、できるなら「悲」が「美」になる日がくるといいなと思う。もちろん、スケート靴をはいてジャンプしたら怪我しちゃうような人には、銀メダルは十二分にまばゆく美しい。オリンピックでスケートにも目線を送っていたのですが、思いがけないくらい面白かったのはカーリング。見るつもりじゃなかったのに、ついつい最終エンドまで見てしまった、なんてこともありました。対英国戦はもうお年寄りみたくTVに向かって拍手してました。たったひとつのショットで、ガラッと局面が変わることも変えることもできる、というのが、目を奪われることの一つの理由じゃないかと思いました。選手たちの姿は、市井の人には遠いものではあるけれど、ひとりの人間として教わることがたくさんあると思います。「感動をありがとう」なんてこっぱずかしくて言えませんが、それぞれのスポーツの醍醐味をおすそわけしていただける機会はありがたいものですね。これからの4年の歩みがどんな形で結実するか、楽しみにしていようと思います。そんな話をはさんで、ふつーの人のふつーな話に戻りますが。半年くらいかかったサンダルの修理は綺麗に仕上げてもらいました。で、私なりに意見は伝えました。「以前もお願いして、これからもまた何かあればお願いしたいのに、商いの姿勢としていかがなものでしょう。」って。(実際はもう少し長かったけど省略)ひとさまに手厳しい言葉をどんなふうに伝えるか、考えるチャンスをいただけてラッキーだったと思います。でも、何度も電話をするのは面倒でぐったりするので、それよりも、いい状態で靴をキープすることに努めようと思うのでした。
February 28, 2010

あけましておめでとうございます新年にあたっての目標を掲げるのはいつぶりなのか思い出せないのですが、ふと思い立ったので、いくつか書いてみることにします。☆時間の管理の仕方について研究する。→思えば、ちびっこの頃から苦手分野としてきました。どうも、時間の枠を「こうだ」と決めると、その選択肢のなさに過剰なプレッシャーを感じるようです。でも、時間の管理がぐだぐだになると、力を尽くしても台無しになることが多いので、本を読んだり周りの人に聞いたりしながら、いろいろと工夫してみたいです。☆手をつけているものは、腑に落ちるまでやってみる。→「手をつけているもの」は、読みかけの本しかり、おべんきょ然りなのですが、優先順位を1・実学系、2・語学系、3・その他、とつけて、昨年に続きやってみようと思います。「鳴かぬなら 鳴くまで根気で ほととぎす」って感じで。☆他者の森をかけ抜けて、自己になる(的な)。→これを言いかえるなら、人とのかかわりが自分をつくる、とでも言いますか。先日友達と話していて、人を家に例えるとき、家族との関わりが基礎の部分となり、友達や仕事上の人とのつながりが建物部分になるのではないか、と思いました。基礎工事も建物もどっちも大切だけど、昨年はどちらかというと基礎の補修に軸足を置いていたので、今年は建物の方を重点に取り組もう、と考えています。文末の「(的な)」は、ある本のサブタイトルからお借りした言葉なので、つけてみました。こういう表現、好きですね。☆さっさと怒り、さっさと悲しみ、さっさと寝る。→世の中には、電光石火で怒りを表現できる方もおられるようなんですが、どうもそういうタイプではないようで。怒りも悲しみもためないほうがいいんだけど、特に怒りは不眠やうつの原因になるのだとか。だから、そのときどき感情にメリハリをつけて、怒った!(終)、悲しい(了)、としたいな、って。現状では、通信簿で2くらいな気がしますが、参考になりそうな本を読んで目ぼしいものがあれば、話題にしてみたいと思ってます。☆子ども愛されキャラを目指す。→昨年、友達のお子さんと遊んだのですが、ちっちゃい子には大人とちがう楽しさがありますね。その子は車が好きで、おもちゃの車に「サカイ引越センター」のトラックがありました。で、次に会うときは「アート引越センター」のミニカーを貢いでさしあげたいなぁ、と。それと、兄弟のところに最近子どもが生まれたのですが、写真を見るだにかわいらしい。そんな訳で、愛され対策があれば、ご教授いただけるとうれしいです。(例)子供には「アート(art)」はわからないかもしれないから「アリさんマーク」の方がいいとか。他にも目指したいところはあるけど、ひとまずこんな感じで。目標の骨組みにあるのは、向上心とバランスを大事にね、ってことかな。どこかの首相さんではありませんが、ぶれたり、ゆれたり、が得意なので、(って自慢にならないけど)自分の立ち位置を確かめることも忘れないようにと思っています。年末、お正月は普段よりTVの前にいる時間が長くなるのですが、ひたすら笑ったのは「笑ってはいけないホテルマン」。家族とお腹をかかえて見てました。ジャーナリストの大谷昭宏さんとジャーナリストに扮したジミーちゃん(ジミー大西さん)の対談(?)で、ジミーちゃんが「八ッ場ダム」を「やっぱダム」と言ったときは、もうツボにはまってしまって。ほんとにそう読むんだったら、永遠に建設中止できないですね。だって、やめようとしても「やっぱダム」ってなっちゃうんですもん。あとは、どちらかというと、かたい系のものを見る時間が多かったんですが、こんなことばが印象に残りました。>日本人というのは、自分の体にあった洋服を作るのは実に下手だ。>ところが、押しつけられた洋服に体をあわすのは実に上手い。 (宮沢喜一さんの言葉)「自分の体にあった洋服」の選択肢が三つくらいだったらいいんだけど、選択肢≒無限大と言われた日には、何を選べばいいかわからなくなる。「何でもご自由に」というのは、「何を選んだらいいかわからない」というのに限りなく近いのではないかと思います。しばらくは着ていられるはずだった服が、瞬く間に過去の遺物になる厳しい時代だと思うけど、感覚をするどくし、柔軟さをもって渡り歩いていければいいですね。こんな調子で今年も書いていこうと思いますので、よろしくお願いいたしますm(__)m 元旦の空模様。
January 7, 2010
アンパンマンがポカッとばいきんまんを殴っても、翌週にはばいきんまんは普通の顔で復活する。けど、アンパンマンが私を殴ったら、復活できるかわかんない。というか、本当になぐった勢いで遠くまで吹き飛ばされたら、命がないことは確実だろう。アンパンマン流の「正義」は、アンパンマンの世界の中では成り立つけど、アンパンマンの世界から飛び出すと危ういものとなる。誰かにとっての「正義」は別の誰かを傷つけ、立ち上がることもできなくするかもしれないこと。これまであまり意識したことはなかったけど、そうなんだなぁ、と。先日、赤十字シンポジウム2009という番組を見た。コーディネーターは池上彰さん、パネリストは姜尚中さん、土井香苗さん、大沢あかねさん、井上忠男さん。赤十字思想誕生150周年を記念して開かれたものだったそうだけど、お話自体も興味深く、「あ、それは知らなかった」という発見もあった。興味がわいたのは、グローバリゼーションでおとしめられている人、という部分では、イラクやアフガンの自爆テロと秋葉原の無差別殺傷事件は心理的類似性がある、という話。自分が不当に扱われている、ということを、その事と関わりのないひとを殺めることで表現したら、結局表現した当人よりもっと酷い扱いを被害者に強要するってことになる。どんなふうにあらわしたらいいかわからないかもしれないけど、しどろもどろでもいいから、あらん限りの声量で「不当だ」と言い続けることなんだろうと思う。誰かに思いが伝わったと感じられれば、不当な扱いそのものがなかなか変わらなくても、変わる可能性を信じることはできる。発見の部分は、赤十字の基本原則、というものに関することなんだけど、以下、池上彰さんと、姜尚中さんのやりとりを抜粋。姜さん:赤十字の中には、ジャスティスというか正義というのはないんじゃないでしょうか。池上さん:ん?!赤十字には正義はない???姜さん:いやいや、(中略)正義というのは法的な概念ですから、 やっぱりそこにはジャッジメントがあるわけですね、これはいいか悪いかという。池上さん:あっ、そうか。いわゆる国連組織でいえば、それなりのジャスティスを求めて、 いいか悪いかというところを判断する… ジャスティスがないというと、なにかすごいマイナスのイメージに聞こえましたけど、 そういうわけではないということですね。赤十字の基本原則は「人道・公平・中立・独立・奉仕・単一・世界性」の七つなのだそうだけど、「正義」というのはあえて入れてないのだという。赤十字が人道支援をする戦闘地域に、たとえばA陣とB陣があるとき、AとB、それぞれの側の正義があるから、正義を原則に掲げると埒があかなくなる。正義なのか、不義なのかという二項対立の分類は、その判断がしづらい人たち(戦闘地域の民間人)に、支援の手を差しのべるときの妨げになる。「良さげな人は助けるけど、なんとなく悪そうな人は無視。」となりかねない。正義のもとに裁く、といった概念は、今生きるか死ぬかの瀬戸際に立っている人にとっては、相容れないというか、「そんなのはいいから助けておくれ」という、そんなものなのだ。赤十字の役割は、人道や博愛を、具体的な技術(医療面での支援など)とネットワークの力で体現することであって、正義の裁きは他(国連とか)に委ねるというのが、基本姿勢なのだそうだ。私にとっての赤十字は、献血と名前のついた病院があるくらいのイメージで、心理的には遠い気がしていたけど、ちょっと親近感をもった。世の中には立派なひとがたくさんいて、社会の中で正義を担ってくれる人がいてくれるおかげで、それなりに平穏な日々が過ごせている。とてもありがたいと思う。けれども、うちでウトウトうたた寝をしたらタイホされたり、友達に「なんだ、ばかやろー」と言ったそばから侮辱罪で訴えられたら、ノイローゼになっちゃう。やっぱり、立派なのはほどほどがいい。ある詩のなかに、こんな一節がある。>立派すぎることは>長持ちしないことだと気付いているほうがいい>完璧をめざさないほうがいい>完璧なんて不自然なことだと>うそぶいているほうがいい誰かに立派であってほしいとか、完璧であってほしいとか望むことには、どこかに裁きのニュアンスが漂う。(Aさんは立派である、または、立派じゃない、みたいな。)裁きは法を司るひとたちにおまかせすればいいのに、ときどき周りの人を自分の正義のもとに心情的にきってしまうことがあるなぁ、と最近少し反省した。私のサバキは食べるお魚にすりゃあいいことだ、って。それから、「自分は立派でありたい」と思い過ぎるところがあるわ、というのも思った。必要以上にそう思えばおもうほど、自分で自分が嫌になる。嫌になっちゃうくらいなら、余計な「立派でありたい」気持はごみ箱に放り込んだほうがいい。そんな意味で、「正義」も「立派」も「完璧」も、状況によって使い分けができないと、誰かを生き辛くさせるデンジャラスなものなんじゃないかと思うのだ。赤十字でやっている献血。毎日やろうと思えば、できるひともいるかもしれないけど、現実としては厳しいところがあると思うし、募金だってできる範囲には限りがある。番組の最後で、姜尚中さんが、ご自身の考える「思いやり」とは何ですか?と問われて、「働く中でぎりぎりのところでする、情動的な働きかけの余地」と仰っていた。私もぎりぎりで、ギリギリ言っちゃいながら、ご立派すぎない働きかけがしたいと思う。で、さっき友達に電話して、働きかけってゆーのを楽しんで、やる気をおすそわけしてもらった。人とのつながりを大事にして、時々は募金するくらいが今んところの精々だけど、ひとまず続けるようにつとめようと思うのでした。余談ですが、姜さんはアンパンマンがお好きなのだそうです。私も「アンパーンチ☆」は困るけど、アンパンマンはかわいいと思います。それから、ばいきんまんもいじめないでほしいです。http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/091116/crm0911161831027-n1.htm↑こういうのね。
December 27, 2009

私たちが受ける愛は、与える愛の中にある。 ベニシア・スタンリー・スミスさんIt is in the giving of love that we receive. Venetia Stanley-Smithベニシアさんは、京都で綺麗なお庭を造っていらっしゃる方。この言葉をあたまに浮かべていると、彼女のおおらかな雰囲気を思い出してほっとする。女の人の与える愛は、カップに注いだ飲み物みたいなもので、ひとにより、ホットのレモンティだったり、コーヒーだったりと個性がある。でも中には、「辛口一献」みたいな方も、タバスコ入りオレンジジュースな方もいて、味わう前に逃走の手立てを考える、場合もある。男の人のそれは…よくわからないけど、飲み物の類ではなく、焼いてない切り餅みたいなやつを想像している。ちゃんと焼いて出してくれる方もいるけど、焼かないまま放ったらかしてヒビ入ったり、とか。もしくは、いいお餅を作るのにこだわり過ぎて、面倒になっちゃったり、って感じがする。去年今年と、「あなたはひとに与え過ぎ」って助言をいただいた。だから人付合いで消耗しまくるし、関わる人を少なくしないとぐったりするから減らす。みたいな形で、お付合いが少ないスパイラルに陥りがちなんじゃないか、と考えていた。なので目下、与えるのはどのくらいまでか、と、厳しさの混ぜ方について研究中。どれくらいあたえるか、は計量できないので、感覚で学ぶしかないんだと思う。そして、ひとに気を遣うばかりでなく、厳しくあること。なんだけど、お手本になる人が不思議と少ない。上手く説明できないけど、感情にまかせて怒るっていうのは、厳しさとは違くて。そんな考え事をしてると、遊びに出かけた親から電話。「イツミヒロシさんのスペシャル番組が、かわいそーで面白いから見なさいよ。」って用件。…イツミヒロシさんって、どこのどちらさま?と聞き直したら、大泉洋さんのことだった。彼はヒロシじゃない…。話を終えて、早速見ようとTVのある部屋に移動したら、番組終わってた。しょぼん。親の与え方はやたらと勢いがよく、カップに注ぐときにポットを使わないで、ひしゃくでバシャーンと投げる感じだ。与え方の要領を得てないのは、遺伝もあるんだろうな。ともかく、受けたいなら与えよ、は本当だと思う。ただ、与えすぎと与えなさ過ぎは、結果人付合いが少なくなりがちになる。けれども、与えすぎには時にご褒美が突然舞い降りてきて、報われることもあったりする。報われないことも、それなりにあるけど。今年はえらく地味で、これから先の土台を作るための地ならしで、大方使い果たしました。地面をひたすら掘る作業は、修行僧気分になれるものでした。でも、今年のしんどい出来事から見直すことは、ホントに沢山ありました。最後にもう一つベニシアさんの言葉。この地上での人生は、全てひとりの人間として、成長することを学ぶためにある。Life on earth is all about learning to grow as a person. まだまだ知識として学ぶことも、経験して感覚を学ぶことも山のようにあるようです。来年はどんな出来事があって、どんなことを得るのか、楽しみにしていようと思います。 多分、尾長鴨さんたち。
December 3, 2009
彼はあることを繰り返しやっていると、ある日とつぜん訪れる。とてもシャイな性格なのか、姿かたちを観察しようとするとひょいと隠れてしまう。だからどんな風体なのかはよくわからない。かんどころ君は訪れるのが突然なら、去っていくのは忽然。おもてなしをしていないと、挨拶もなしにいなくなる。先日の試験で、「おーい、かんどころ君」って呼んだんだけど、肝心なときに来てくれない。後で「あのときどうして来てくれなかったの」と聞くと、「だって君、ちゃんともてなしてくれなかっただろ。そしたら僕は知らないもん。」と言われたとか、言われなかったとか。あぁなんて気まぐれなの、と怒ってみても仕方ない。彼はそういうひとなのだから。でも試験のとき、ずっとお留守だった訳ではなかった。「その問題はこうすりゃいいよね」と言ってくれる場面もあった。彼は呼んで来てくれるものではなく、気付くと側にいる、そんな性質の子なみたい。結果がどうなのか、後で自己採点できるようメモする余裕がなかったので今のところわからないのですが、次の目標に向けて来年も勉学に励んでいそうな予感です。おべんきょに限らず、どんなことでも、一番に難しいのは続けること。その難しさはいいかげんよくわかっているので、ともかく一つだけ気をつけるようにしてました。それは楽しむための工夫をすること。わからなかったことが理解できたら、「よっしゃー!」とか言ってガッツポーズをとってみたり。うちのなかでスキップしてみたり。←なんて訳ない。さすがにそこまでやらない。それから、どうしても、どうしても、気が乗らないときは「やーめた♪」。と、テキストをほっぽり出すときもありました。ただ、その責任を自分で取れば済むこと。おべんきょするにあたり、いろんな言葉を動力源にしてましたが、私にとって効果てきめんだったのはこれ。>私は演奏するとき、一生懸命にならないように努力しています。>演奏するときはただ、オープンな気持ちになりたいと思うだけです。>そうすれば、何が起きてもオープンに受け入れられ>進んでその瞬間に起きていることの自然な流れの一部になりたいと思うようになります。ピアニストのハービー・ハンコックさんの言葉だそうです。一生懸命になるっていうのは良さそうっちゃよさそうなんだけど、前のめりで必死になると、我欲にとらわれて息苦しくなりがち。学生の頃ドラムをやっていて、あのときが最高だったという瞬間は「うまく演りたい」とか考えないで自然に手が動いてました。そのときの感覚を思い出しながら、机に向かうようにしていたし、実際の試験のときも最初は緊張したけど、あとの方は楽しむことができました。かんどころ つぼのすけ君はなかなかユニークで面白い子なので、また会えたらうれしいな、と願いつつ、もうしばらくおべんきょを続けてみようと思ってます。ちなみに、かんどころ=勘所、のこと。かんどころ君へのおもてなし=復習すること、でした。
November 22, 2009
犬を連れた人がすぐ側にいるとき、人ひとりと犬一匹がいるなぁ、と私たちは認識する。でも、認識する人が上空何百メートルか上に移動して犬を連れた人を見るとき、たぶん何か動いてる二つの動体がある、くらいになるんじゃないかと思う。犬を連れた人は、うちに帰ってご飯を食べる。そして、その姿を家の屋根を取っ払って見られるとして。人がご飯を食べてる姿と犬がご飯を食べてる姿はそーんなに目に見えて違うものではないの、かもしれない。人というのはこういうもので、犬というのはこういうもの。そういう概念を俯瞰するとき、人が思い込みというものに左右されがちなことを思う。矢野顕子さんの歌の歌詞を読むたび、概念を俯瞰して、そっと概念を構成するパーツをはずすののが上手だなと感じる。放送は9月だったので大分時間が経っているのだけど、佐野元春さんのザ・ソングライターズという番組に矢野さんが出ていらっしゃいました。番組は歌詞=音楽における言葉、について考えてみよう、という趣向でした。佐野さんはかっこいいし、矢野さんもとってもすてき。うきうきしながらTV画面を見つめていたんですけど、番組が始まってしばらくしてびっくりした。佐野さんが気に入っている矢野さんの歌詞は、私も好きなものだったから。なんちゃら権を考慮しつつ、一部だけ抜粋。>「I AM A DOG」>>今 この時 この場所 この匂いが好きだな>夜は人々を置いてけぼりにして笑ってる>身体を低くして地球と同じ高さになる>世界中のかなしみがつまってるゴミ袋>食いちぎり 嗅ぎわけ 明日を選び出す>>かなたに見えるは橋 夢見てるその向こう>あの子の泣き声がかすかにきこえる 橋向こう>いつも思う いつの日にか 知恵と力に満ちて>小さくても大きくても白くても赤くても>家があってもなくても やさしくされてもされなくても>>きょうは犬だから犬について描写している矢野さんは犬そのものとの境界線上を歩きながら、終には犬と人との概念の境目を越え、犬のいる場所に座る。というか、犬だって人だっておんなじ生き物でしょ、という矢野さんのささやきが聞こえるような気さえする。番組の中で佐野さんがこの詞を朗読されて、矢野さんは「かっこいい」と自賛されていたのですが、あぁほんとにそうだ、と一緒にうなずいちゃいました。やわらかで冴えた知性、内面に秘めた人として矜持を、犬という対象をひっぱりだしながら感じさせるのがすごい。佐野さんはこの詞について具体的にどうこう言われていなかったんだけど、きっと、矢野さんの意気地に共感されたんじゃないかなぁ、と。矢野さんのおっしゃっていた言葉の中で一番印象に残ったのはこれ。>世の中には二種類の人間がいると思っていて>それは一つは本当のことが知りたいと思う人>そして知るまでさがしつづける人>もうひとつは(中略)本当のことっていうのに関心がない人言うまでなく、矢野さんは前者で。それでもって、真実や現実の重みにふるえながら、えいやっと乗り越えていこうとする、そんな方な感じがします。私の友人たちを「うーん、どっちだろう」と想像してみると、「本当のことが知りたいと思う人」が多数派なように思います。それにしても、「本当のことっていうのに関心がない人」の存在をそもそも意識したことがなかったので、つくづく感心しました。そっかー、そうだね。そういう人もいるんだね、って。そういう見方で身の回りの人を見直してみるのも面白そうですね。そうそう。矢野さんの愛とパワーのつまったお歌をいくつか。http://www.youtube.com/watch?v=3jRxtedzmOY・きよしちゃんきよしちゃん=忌野清志郎さんについて歌っていらっしゃいます。忌野さんと矢野さんの友情は性別も生き死にも超えてる気がして、ほんのりうらやましい。お疲れモードのときは「Everything is gonna be alright!」と一緒に歌うと元気が出ます。http://www.youtube.com/watch?v=vvtes2kdO1s・夜の海を走って月を見た寝付けない夜にこの歌を聴くと静かな気持になれます。矢野さんとギターのトニーニョ・オルタさんとドラムのはてなさん(お名前がわからない…)の演奏の掛け合いがなんともかんともawesome。http://www.youtube.com/watch?v=fgz24t7fPgU・清水ミチコさん ~ aiaigasaお笑いに飢えている方には、矢野さんのものまねをされている清水さんを。矢野さんのピアノはスウィングしてるけど、清水さんは人柄なのかちょっと忙しいピアノです。でもいいんです、そんなの。何度見ても吹いちゃう絶品だと思います。音楽の世界の人のお話を見聞きするのはとても面白いと思うんですが、ちゃんとしたインタビューの形で見る機会があまりなくて残念です。某N○Kだけじゃなくて、他局もも少しがんばってほしいものだなぁ。うん。
November 21, 2009
このところ、あいにくまともなお話が書けないです。あたためてるのはあるんだけど、それはまた今度。時間がないのは、試験の前だから。で、机に向かっておべんきょしてたんですが。ねむーい。まじで眠い。座って5分とかで、甘い煩悩の誘いがはじまる。と思って、最近机に座るのやめてみました。どーするのかというと、立っておべんきょするんですね。そしたら、びっくりするくらい眠くならなくて、もっか最近のマイブーム。もちろん、モノによってとか、疲れたときには座るんだけど、それも気分転換になっていい感じ。ちなみに、空気椅子みたくやるのは無理なので(エアあやや、ならぬエア勉強はできない~)、たんすの上を片付けて机代わりにしてます。もし、たんすがお話できたら「話が違う」って言われちゃうかも(笑)テキストを読むときは、なんちゃってバレリーナ風に足を上げてみたりもしてます。↑これも眠気防止策。そんな姿はヘンテコ過ぎて、誰にも見せられないこと請け合いですが。さて。さすがにそんなんばかりだと折れちゃいそうなので、息抜きをしながらにしています。いちばん楽しいのはyoutubeで音楽鑑賞すること。以下、少しURLを引っ張ってみます。http://www.youtube.com/watch?v=6-fUnVjIu20・Eliane Elias ~ Here's Something for Youイリアーヌさんの声はちょっとほろにがく、でも暖かくて素的。ベーシストのマーク・ジョンソンさんとの息がぴったりです。←だんなさんだそうです。ふとしたときにずきずきする心にそっと寄り添ってくれるような、いい曲だと思います。http://www.youtube.com/watch?v=qCyRPCojb2Q・David T Walker & Bernard Purdie ~ What's going onデヴィッドTさんのギターは音が丸くて、とても和みます。「What's going on」の原曲もいいけど、デヴィッドTさんもぐいぐい聴かせてくれます。http://www.youtube.com/watch?v=-xzXidM1wDw・Yuji Ohno & Lupintic Sixteen ~ Lupin The Third '80ルパン三世のコンサートの映像のようですが、まぁ格好ええのです。個人的には日本のジャズの最高峰は、大野雄二さんのルパンシリーズかなぁ、と思ってます。一体何度聞いているんだかわからないくらいだけど、飽きなくて不思議。ブックマークがいっぱいあり過ぎて悩んだけど、なんとか3つにしぼりました。youtubeは一度見始めると際限がないのですが、音楽好きにはたまらない場所ですね。ちなみに立って勉強するの話は元ねたがあります。1日5分 頭がよくなる習慣数学者の先生で、書斎の壁一面がホワイトボードになっている方がいらっしゃるそう。で、立ってボードに数式を書いて考えるんですって。人によって目新しいものはないみたいですけど、私には役に立ってくれてます。そうだ。うっかりしてましたが、ここ、やっとこ2万アクセス超えました。できる限り続けることを目標に、これからものんびりやっていこうと思ってます。来てくださっている方、ありがとうございます!空気がひんやりしてきたので、お体に気をつけてお過ごしくださいね。
October 31, 2009
まぁ生きてるとその時々、いろんな出来事があって、心底楽しいときもありゃ、うきうきして近くの海まで走っていってダイブしたくなるときもあるし、ぐっさり傷つくときも、どーんと悲しいときもある。長いけど引用。「伝道の書 第3章 1~12」より。天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。働く者はその労することにより、なんの益を得るか。わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらされる仕事を見た。神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。私はクリスチャンではなく、何でもあり教徒(仏教もキリスト教もヒンズー教も何でもありでいいと思うよ、って感じ)なんだけど、この一節はとても好き。どうも友達とか周りの人から、私は強い子の系統に見られがちなんだけど、実のところは過去の幻にとらわれることの方が多く。すごく傷ついたこととか、悲しかったこととか、つらかったことからなかなか立ち直れないままで。立ち直るための力をつける環境、という意味で微妙なところもままあった。妙なところでいい人で、傷ついたら傷つけたヤツが悪い、と思い切るのが下手で、卑屈になってた時間がちょっともったいなかったと思う。けど、昨日の苦しみの中に生きる時間が無駄だったとは思わない。ただ苦しいばっかりでいると、本当のことが見えなくなっちゃう。いじけて暗い顔でいたらつまんない。だから、そういうのはやめた。>人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。って書いてあるし、自分らしく少しでも気楽にいられるあり方を模索したいなぁ、と思って、今年はいろいろリニューアルしてます。リニューアル作業で手一杯なぶん、人付き合いがおざなりで、ごめんなさい、な方がちらほら。このぶきっちょな性質、自分でも困ってたりして。ともかく、今できることをやってる。そんな今日この頃です。
September 28, 2009
ケーキ屋さんをやってる先輩が「夏は売上がさがる」と言ってらしたのを思い出す。いつ食べてもケーキは美味しい、と言いたいところだけど、濃厚な甘味はとろけるような暑さの元では魅力も溶けちゃうんだろうなぁ、と思う。だから件のお店では、夏場はゼリーを作ったりして営業努力をされている。食べ物は生命維持の重要なファクターだからなのか受けつけない食物というのは、理性や知性ではどうにもならないようだ。牡蠣であたった人が「味は美味しいと思うんだけど、どうしても口にできない」っていうのを、友達二人から聞いたことがある。どうも一度こみあげちゃうと、脳のどっかにそれがプログラムされて、受け付け不能になってしまうらしい。私は牡蠣は平気だけど、あるお魚が苦手。十代のころ、涙目になりながら無理矢理食べたことが忘れられなくて。以前の友人がそのお魚が大好きで、あぁ参った、と思ったことがあった。結局、その友人とは疎遠になった。その人の好きなものが私の苦手であるだけでなく、私の好きがその人の苦手でもあったから、どうがんばっても、というか努力ではどうにもならなかったのだと思う。という話を持ち出したのは、食の好みの違いで参りました第二弾、があって、「NOだといったらNO。」と宣言したから。自分の好きを認めてほしいという願いと、自分の好みを大事にしたいという思いのはざまは、なんだかちょっと切ない。 …………………………………………………………………最近、目に留まったこんな言葉がある。"The Serenity Prayer"God,give us serenity to accept what cannot be changed,courage to change what should be changed,and wisdom to distinguish the one from the other.Reinhold Niebuhr「ニーバーの祈り」主よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。ラインホールド・ニーバー「いや」とか「NO」をひとに伝えるのは苦手なんだけど、避けて通れないときもある。「ニーバーの祈り」はそんなこだわりを解き、行動を起こす勇気をあたえてくれる言葉だなぁと思いました。
August 2, 2009
朝起きてしばらくうだうだしてたら、家を出ている兄弟が帰ってきた。あれま、帰ってきたのかぁ、なんて思ってたら、兄弟の相方さんも来ていた。来るって思ってなかったから、緊張感ゼロの格好で、あわてて部屋に戻って、緊張感イチくらいにテンションあげてみた。ゆるゆると雑談することしばらく。おだやかな雰囲気を漂わせながら、彼らは帰っていった。お部屋に戻って、犬のなんちゃって仏壇(簡素なものなので…)に話しかける。今日はにぎやかでよかったね。きみのすきなおにいちゃんも来てくれたし、相方さんもとってもいいひとよ。少し外出して戻ってきたら、お外にうちの犬と仲良くしてくれた、Kちゃんとおとうさんが通りかかる。Kちゃんは家の外に犬が通りかかるとワンワンワンワン警戒するわんこなんだけど、うちの犬が通るときは不思議に静かだった。Kちゃんが外にいるときにいる場所は高台で道路からそこそこ離れてて、どんな犬が通りがかっているかわからなくてもおかしくない。なんでだろう。よくわからないまま、Kちゃんのおとうさんにその話をしてみたら、「え?本当?!」と訝しげだった。Kちゃんのこころの中に何があったのか、いくら考えても想像の域を出ないだろう。けど。それでもあえて言ってしまいたい。犬にだって友愛の心が、いたわりの気持があるんじゃないか、と。私が外にいたとき彼らが通りかかったのは偶然かもしれない。でも、Kちゃんのおとうさんとおさんぽのときにお話ししてうれしかったことを思い出して、自室でしばらくじーんとしてました。亡き存在を思うことは、どこか、かなわぬこいに似ている。でも、私があの世に行けばかなう予定なのだし、たましいの世界ではずっとつながってる。かなしいことがあっても、神様や仏様はそれとなく、ちいさなプレゼントをまたくれるんだな、と思ったわんこの二度目の命日とおたんじょうびでした。
July 11, 2009
今年はどうやら人間関係がテーマの年ならしい。どうも、一つやらかしたっぽい事があって、テンションも食欲もペースダウン。「やらかしました!(断定)」ではないんだけど、変化球を投げたら、デッドボールになっちゃった、的な。胃や腸もぴきぴき、ぐるぐるしながら「今はそういうときなんだよー」と語っている。あぁそういえば、この手の出来事って大体5年周期で起こっているみたいだな、と以前のことを振り返りながら思う。そう、5年前のあれは、衝撃度が大きいやら激しいやらで、禿げてしまいそうだった。そのまた5年前は、先輩から大きな雷を落とされて、人間やめたくなった。それからまた遡って5年前は…、みたいな感じで。5年、10年、、15年、、、。根っこの部分は早々変わらないんだろうと思う。でも、今回はその出来事の向こうに何があるのかを静かに分析していたりする。自分の中のこんなところ、あんな部分に事の一端があるんだろうな、と。ともかく、やらかしたの相手にもそうだけど、それ以外の人にもできるだけ、謙虚な気持で、虚心で向き合うことを意識しよう。たとえ、ほんのちょっとずつでも、人として成長していけるように。 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥そういやMichael。この世から去ってしまったって…。なにかの冗談、と言われる方が本当っぽく感じる。80年代のスリラーとかの頃はちびっこだったのでよく覚えてないんだけど、Black or Whiteは10代のころ聞いてた音楽を選べって言われたら、確実に手に取っちゃう。YouTubeにビデオ・クリップを見に行ったんだけど、今聞いてもまぁ本当かっこいい。http://www.youtube.com/watch?v=6O74YbFsnSA&NR=1何をどうして、Michael。。。まばゆいばかりにスポットライトがあたりすぎて、道を見失っちゃったのかな…。彼のおかげで、彼のファンの子とお友達になれたりした。その子は「Michael!Michael!」とキャーキャー言い、私はその横で「Janet!Janet!」って言うてました。音楽は人と人の間をつないでくれるものでもある。あの世ならもう、BlackもWhiteもあるまいさ。どうかMichael、やすらかに…。
June 28, 2009
ここのところ何をどうして、試験勉強中だったりする。なんというか…実用的な分野のものなんだけど、こんな仕組みを考えた人ってすごいね!と感心し面白がりながら、勉学に励んでいる模様。でも。ときどき「うはっ、わからーん」と詰まることもある。本を上から読んでも下から読んでもわからないことがあると、頭をかかえてしまう。切羽詰まると、この手の苦しさはお腹に来ることもある。そういうのって恋の悩みに似てるかもしれない。だれそれさんの気持がわからない、みたいな。そうそう。メールを送って、返事が聞きたい話なのになかなか返信が来ないときの感じも、わからないの苦痛、に近いものがあるのかも。と言ってる自分の返信は早いのかというと微妙なところが、人間の不条理。いや、単にテキトーなだけ、と思うけど。勉強だったら、手の打ちようはある。噛みくだいて、噛みくだいて、図式にしてみる、とか。本やネットで調べてみるとか。けれど、だれそれさんの気持は…噛めない。食べらんない。返事が来ないのはなぜなのかは、ネットも本も教えちゃくれない。だから、おべんきょするのは人間関係よりは難しくないっちゃそうなのかなぁ、と思う。ひとのこころがわからない、ひとの都合がわからない、のときは…きっと、多分、しつこすぎない程度につっこんでみて、それでも謎だったら、 わからんなぁ あぁ不思議だよ 謎だねぇと妙ちきりんな一句でも詠みながら、ひとのこころの侘びさびに思いをはせ、そして布団を被って寝てしまえばいいと思う。わからないものは、わからないのだ。自分の気持ですら、私はときどきわからない。まぁでも、気持を理解したい人がいるってことは、悩ましくもうれしいことだなぁと思う。メールの返事が来ないよー、とどぎまぎするのも悪くない。だってそれはすべて、今生きているからこそ。と自分に言い聞かせながら、ノートを書き書きしている今日この頃です。そろそろ梅雨も近いですね。空気はウェットでも気持はカラッと過ごしたいものだなぁ。
May 28, 2009
仕事で銀行の窓口に行ったとき、毎度のように必要な用紙がなかった。「○○のときに使うヤツをいただきたいのですが…。」と窓口のおねえさんに言うと彼女の目がいたずらな光を放ちながら、「○○のヤツですね」と言い、件の用紙をくださった。ヤツってコトバ。以前はちょっと好きじゃないかなと思っていたけど、ここしばらくは少し好きになりかけている。何だかそっけなく、ゾンザイ。だけど、ほんのり親しげ。「○○のモノ」でも駄目じゃないんだけど、モノだといささか厳つくて味も素っ気もないかなぁ、と。ときたま、物に対して「子」という言い方をするのを見かけるんだけど、なんていうのだろう、ちょっとヘンテコリンな感じがする。「○○のときに使うヤツをいただきたいのですが…。」を「○○のときに使うコをいただきたいのですが…。」と直してみると、私の感じるヘンテコリン感に少し迫れるだろうか。ヤツもコも本当は人間。なんだけど、物に使うときにはゆるく擬人化をさせているのだと思う。たぶん、無意識のうちに。物にコを使うのは個人的にはベッタリ感が強すぎるのかもしれない。親密に過ぎ、感情に酔っているような。言葉遣いって何気ないようで、案外人それぞれの感覚を映しだしているんじゃないかと思う。物にベッタリしちゃうのは世間との関わりの不均衡さの表現、なのかも。まぁでも。バランスのいい生活がいつも最善とは思わないし、そうした平衡感覚を保てないときだってある。物と密着するなら、とことん突き抜けちゃうくらいの方が時にはかわいらしい気がする。そういう人たちのある人を、鉄ちゃん、と言ってみたりするんだろうね。先日、2歳の鉄ちゃんと遊んできました。山手線、横須賀線、新幹線のおもちゃが気に入ってるんですって。でも、お気に入りの割りには、電車のおもちゃをぼこぼこ投げるし、私のカバンもポイっと投げられました。もうね、笑うしかなくって^^あぁ、2歳なんだもんね。正真正銘の子は憎めないよぅ、と思ったのでした。
February 28, 2009
あぁ2月ですね。明けましておめでとうなんて言った日には、頭がオメデタイ人アピールになりそうです。ここ最近、いいこととそうでないことが、ないまぜな感じです。ひと付き合いが楽しい、とか。猫が遠いとおいところに長旅に出てしまった、とか。へこんでいる状態とうれしい状態を、振り子のようにゆらゆらしております。まぁそんな訳で(?)、ネットに出没している時間は相変わらず少ない状態です。ウェブ上に漂っているより、読書していたいのですわ、というのもあるけど。近況以外にブログねた、あったっけ?と考えてたら、思い出したものがありました。時間をあらためて、たまには書こうと思ってます。ひきつづき、お暇なときによろしくお願いいたします。
February 19, 2009
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ここ最近いそがしくしてて、文章を書く力がありませんでした。今って11月中旬ですけど、10月じゃなかった?、みたいな。時間の感覚がおかしい(^^ゞ9月、10月はへろへろ過ぎて胃や腸がとち狂い、その気もないのにダイエットしちゃってました。休みの日は、文字通り休養。というか、起きてご飯を食べると猛烈な眠気に襲われて寝てしまい、夕方までの時間が超早で、ちょちょっと洗濯と掃除をすると、時間が余らない。でも。今日はなぜかほんのり元気です。そんな訳で更新。日々いろいろやらかして、やらかし過ぎて逃げ出したくなるときもあるんですが、その「逃げ出したい気持」を静かにただ感じるようにしてます。すったもんだの状況にいても、それに呑まれないでいる。こころは凪、で一日一日が過ぎているような気がします。まぁ、こころはそんなでも体がついていかない部分がありまして、こんなの買ってみました。(購入自体は楽天外で)お茶のつもりで飲むと、なんか違くね?って思います。緑茶とか番茶を飲む気分で口にしたもんで、最初はいささか違和感がありましたが、「スープ」な感じで飲むと美味いです。即効性はなさそうだけど、夜飲むと朝が少し楽です。ほかにも文章にしたいことはあるのですが、今は他のことの方が優先順位が上なので、また折をみて更新しようと思います。さすがに空気が冷え冷えしてきたので、読んでくださってる皆さま、風邪など引きませんように☆
November 12, 2008

(蝉が苦手な方はスルーでお願いします。)朝、家の外回りの掃除をしてたら、羽化したばっかりの蝉を見つけました。記憶は定かじゃないんですが、そういう姿の実物を見たのは初めてかも。うわー、(羽が)きれいな緑だなぁ…としばらく眺めいっちゃいました。で、掃除の続きを始めたら、すぐそばに蝉の亡骸。今にも空に飛び立とうとする蝉の横で、もう既に命のない蝉。世の中は本当はそんなふうにできてるんだけど、気付いてないだけなんだろうね、なんて思いながら、今年初めての蝉のお弔いをしました。羽化したばかりの蝉、どうしても写真に収めたくて撮っちゃいました。 夏休みの自由研究風で。蝉って夏のイメージなんですけど、春(四月上旬~六月下旬)に見られるハルゼミという蝉もいるんだそうです。うーん、知らなかった。うちの近所ではアブラゼミ、ミンミンゼミ、ニイニイゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシあたりの鳴き声が響いております。ちなみに、ツクツクボウシの鳴き声が私には「もういい!もういい!もういいよ!もういいよ!」みたく聞こえます。当人(というか虫)としてはどう鳴いてるつもりなんでしょうね。「もういい!」といえば、このところの暑さはたまらんですね。夜の寝苦しさに耐えかねて、アイスノンを購入して使ってみたらおかげ様でぐっすり眠れるようになりました。もっと早く買ってみればよかったなぁ。ご覧の方々、くれぐれも熱中症等にお気をつけくださいね。
August 6, 2008
7月は刺激的な時間が多ございました。刺激がたくさんで、文章書く時間があんましなかったです。仕事でお客さんから怒鳴られシャワーを浴びてみたり、とか。久しぶりに美術館に出かけてみたり、とか。うっわー、だまされてたのか私…と思う瞬間があったり、とか。いろんな意味でドキドキ感を味わいました^^周りの人にはどんなときでも平静に見えるみたいだけど、実際のところは何かアクシデントがおこると心臓はバクバクです。でも。緊張しまくってるなぁ、と感じるときには私の部屋のカレンダーに書いてある言葉を思い出すようにしてました。 大丈夫。最初から強い人なんていないんだからさ。そうそう、最初から強い人なんていないし、想定外のことがあるとき、びっくりするのは当然。と思うと、落ち着きを取り戻すまでの時間がちょっぴり早くなるように感じました。まぁ、刺激的、が悲劇的、じゃなくてよかったです。ヒデキ的でもなかったです。(←なんのこっちゃ)8月、ネタはあれこれあるんで、元気があれば更新しようと思います。
July 31, 2008
一年前の11日はワンの命日だった。もう一年、と言えばそうでもあり、まだ一周忌、というのも然りだったりする。今際のときを思い出すと、胸がしめつけられる感じがするのは変わらないけど、共に過ごした楽しい時間をおだやかに思うこともできるようになった。公園を走って遊んだこと、とか、うぉぉぉーんと言いながら出迎えてくれたこと、とか、いたずら盛りのちび犬のときのこと、とか、具合が思わしくなくなってから夜中に様子を見に行ったときのこと、などなど…。どんな人でも生き物でも、あの世に行ってしまうと、共に現在進行形の今を過ごすことはできないのだけれども…それはそれ以上のことではないんじゃないのかなぁ、と思う。変わるのは、手を伸ばしやすい記憶か否か、くらいで、いっしょの時間自体は損なわれることはない。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・今の気分はたぶん、こんな感じ。 「湖のふもとでまだ猫と暮らしている」 (矢野顕子さん『Love Is Here』より) 近くに見えてる山には あたたかな愛が住んでる 教えられたとおりつくる 魚のくんせいができる かわらぬ思い かわらない愛 窓辺で猫は夢見てる 湖に映る山から 木の葉の手紙が一枚 まだ見ぬむこうの山へと 旅するあなたの知らせ かわらぬ思い かわらない愛 風の中に犬のにおい なつかしい声で この時を越えてゆきなさいと この愛を越えてゆきなさいと この愛を 遠くに見えてる山から 舞いおりてくる季節たち 一人で生きていけるように 私を愛してください かわらぬ思い かわらない愛 抱きしめて 夜はもう明ける なつかしい声で この時を越えてゆきなさいと この愛を越えてゆきなさいと この愛を月イチか隔月ペースで、ワンは夢の中に登場する。夢にだれかが登場するのは見る当人の思い入れの強さに因るらしいんだけど、単純に出てきてくれるとうれしかったりする。でも、もしかして、あの世を旅する犬からの知らせ?、なんて思ってみたりして。楽しい気持、うれしい気持、ほかの思いもみんな手のひらにぺたんと合わせて、お花をそえて、おやつも供えて、静かに冥福を祈りました。あの世の仕事がひまだったら、また会いに来てね、と願いつつ。
July 11, 2008

ひとと話しているときや、文章を読むとき、日本語であってもどこかピンとこないことばに出会すことがある。前回の日記で使った「はんなり」ということばもそういう語の一つだったんだけど、こんな文章を見つけて、へへぇ~と思いながら使ってみたのだった。 私はしばしば人から問われた。「はんなりということばの感じはどんなものでしょうか」と。 これは京都のある面の代表的なオノマトペのように思われている。 私もそうであって差し支えないと思うが、ただし、この語は根っからのオノマトペではない。 二次オノマトペとでも言いたいことばである。 オノマトペはいろいろな型をもっているが、二音節目に「ん」四音節目に「り」をもつ オノマトペは大変多い。 ちんまり、ぼんやり、ぐんなりというたぐいのことばである。 この型を利用して、次々と二次オノマトペができてきた。 こんがり、やんわり、まったりなどで、それぞれ、こげる、やわらかい、まったしなどの ことばと関係していることはすぐにわかるであろう。 さて「はんなり」は、「はな」が中心である。私は聞かれたらいつもこう答える。 「あの『花』なんです。それを状態的に言ったんです。つまり花なんです」と わかったようなわからないようなことをいう。 するとありがたいことに、大ていの人はわかってくれる。「ああ『花』ですか」というふうに。 そうだ、「花伝書」にいうその花。はんなりした色。 それはそうけばけばしくもはではでしくもないけれども、 何となく花やいで、そこにぽっと灯がついたようだ。 たとえば、やや地味な小紋の着物の八掛に、すこし赤みがかった紫系統の縮緬が ついていて、何とも言えないおっとりした明るさがあるようなとき。 ぱーっとした明るさではない。 どこかつつましやかでほんの少し抑えてある。そして決してもっさりもじじむさくもない艶。 そう、まさしく「花」である。かわいらしい花。 同じ花でも、「花々し」や「花やか」とは一味違うその感じ。 どんなに京の女たちは、「はんなり」ということばの中に生きてきたであろうか。 きらきら輝くような絢爛たる美しさではないが、愛らしく、ほんに可憐な、 そんな感じのことばである。 (寿岳章子さん「暮らしの京ことば」の引用。川崎洋さんの「心に届く話し方」から孫引き。)ちなみに「オノマトペ」とは、「擬声語」や「擬態語」のこと。「はんなり」ということばは、辞書をひけば「(関西地方で)上品で、明るくはなやかなさま。(大辞泉より)」と載っているんだけど、具体的なイメージでは伝わって来ず。勝手な想像で、祇園の舞妓さん的なイメージなのかね、なんて思っていたんだけど、寿岳さんの説明からすると、舞妓さんは「はんなり」と重なる部分もあれば、はみだしてる部分もあるのかなぁ、と思いました。 ←こんな感じ(?)言葉の意味は、辞書に載っているものがすべてではないし、それぞれの人がそれぞれの思いや経験に即して付加しているものもあるだろうから、寿岳さんの説明をもって正解とは言い切れないとは思うけど、「はんなり」へのモヤモヤ感はだいぶ薄れました。人が綺麗に装おうとするとき、化粧でも、装飾品でも、あれを足してこれを足して、みたいな方向に行ったりするけれども、野の花も花屋さんの花も、そうして足そうとはしない。おなじ生き物であっても、人間と草木では同じようにはいかないところもあるんだけど、草花を眺めていると、自分が持っている要素そのものを綺麗にすることの方が足す綺麗よりも優先順位としては先なんだろう、と思います。飾るの美とどんなふうにつきあうか考えるとき、はんなりの美意識には学ぶところが結構あるなぁと思う今日この頃なのでした。
June 30, 2008

紫陽花の写真をかしゃかしゃ撮ってみました。かなりがんばって咲いてるので、へっぽこな写真の腕を補ってくれているように思います。 以下、お気に入りの二枚。 紫陽花って、花はこんもり大きいけど、どこか落ち着いた趣きで、なんていうか…こういうのを「はんなり」っていうのかなぁ、と思います。載せている紫陽花はとある知人からの頂き物なのですが、その方は紫陽花にはまって庭中あじさいだらけ状態。ウェブで検索すると、紫陽花の園芸種がたくさん出てくるんですけど、どうもそれを集めはじめたら、とまらなくなったのだとか。ちょっとお年をめしたおっちゃんなんですが、あじさい話のときの瞳はきらきらしていらっしゃいました。「育てるのがたのしくてたのしくてしょーがねーんだ、おれっち」って感じで。私もそんなふうに生きていたいもんです。紫陽花の花言葉を調べると、「移り気」だの「冷淡」だのって、随分な言い草なものもあるんですが、「忍耐強い愛」っていうのもあるみたい。「移り気」と「忍耐強い愛」って対極に位置しているような気がするんですが、見る人の目線の違いで思い描くイメージがそうも違うというのは興味深いことだと思いました。
June 20, 2008
ちょっと暑いくらいだったのが、いきなり気温がさがった。だからなのかわかんないけど、お腹をこわししかもそれが烈しいものだったので、けっこう焦った。お腹の具合がよくないときは、「ちょっとよくない」と、「かなり強烈」と、「激烈!」と大体レベルが三段階あるみたいなんだけど、今回は「かなり強烈」くらい。立つのもやっとなら、座っているのもしんどくて、残る選択肢は「横になる」しかない。いつも不思議なのは、気持わるくなるだけにとどまらず、耳鳴りがキーンと鳴りっぱなしになり、冷たい汗がとめどなくふきだすこと。幸か不幸か、そうした症状は数時間程度で終わってしまうので、耳鳴りや発汗の訳を医者にきくチャンスにはめぐまれていない。お友達にお医者さんがいれば、「なんでそーなるの?」って聞けるんだけどなぁ。そんなことを友人宛のメールに書いたら、その友達も最近お腹をこわしたと返事にあった。お腹をこわすことを友達は「お腹がお祭り騒ぎ」とか書いていて、面白い表現だなぁ、と妙なところで感心した。もちろん、気持わるい最中に「お祭り~♪」なんて面白がる余裕はなさそうだけど(^^ゞ今回を「腹痛祭り2008」とするなら、次は来年、と言わず2012年とかだったらうれしいなぁと思う。←オリンピックに習ってくだんの友人があるネットショップの実店舗(食品系)のすぐ近くに勤めているので、そのお店のものの味はどんなもんか、メールのついでに聞いてみた。そしたら…「べつにふつう」って。某ネットショップは感想を読むと評判がいい方だったし、文字で期待する部分がかなりあったので、目が覚めるような感じがした。ひとさまの意見っていうのは、それがさしむかいで聞くものであれ、文章であれ、どこかバイアスがかかっているものなのかもしれないな、と思う。でも、意見を言う当事者であるとき、思い入れや思い込みを抜きにするのって服のしみ抜き並にむずかしかったりする。漂白剤を使えばいい、ってもんじゃないし。食べ物の類いだと人それぞれ味覚の違いが多分にある、ってことを差し引いても、「そう期待しない程度でいい」と冷静になれたので、聞いてみてよかったです。まぁ何の話だかわかんなくなりつつあるんですが、気温の変化がはげしいので、体調管理にはくれぐれもお気をつけくださいませm(__)m
May 31, 2008
都内の某地下鉄の電車に乗り、駅で降りると「電車に荷物置いてきちゃった…。」と気付いた。高校の歴史の先生がたまたまいらして、「じゃあ、一緒に駅長室に行きましょう」ということになり、捜す手配をしてもらった。しばらくして、忘れ物が見つかったという連絡が来て、「よかったー!」と大喜び。私と共に見つかるのを待ってくれた先生も喜んでくださり、おまけに、いつのまにか現れた先生のご家族も一緒に喜んでくれた。…なんで先生の家族までいるんだろう?、と思いながら、目が覚めた。という訳で、以上は先日見た夢の話。夢に登場した歴史の先生は同性なんだけど、憧れの先生だった。お会いしないで久しいけれど、形容するなら「あっさり。さっぱり。すっきり。」という印象の方。でも、何かのときにはスッと援助の手を差しのべてくださる、すてきな先生なのだった。普段そう思い出すことはないのだけれども、本当に自分が行きたいと思う場所には一人ででも行くようになったのは、その先生の影響が大きい。でも、卒業式のときのある出来事が喉元にささったお魚の骨のようにひっかかって、歴史のノートを開くことはほとんどなかった。高校のノートよりもいい歴史の本は手元にあるし、ちょっと見るだに気恥ずかしい。(昔の写真を見て、「うわぁ、こんなだったんだ」と写真を放り出したくなるような気持と同じようなものだと思う。)それで思いきって、「えいっ!」と、歴史のノートを処分してみたのだった。おそらくは、歴史の先生が夢に登場したのはそういう理由からだと思う。卒業式のときの出来事は、今から思えば本当に些細なことで、何をどうしてそんなに気にしていたのか、正直よくわからなかったりする。「ばかねぇ。」と言って、その当時の自分にデコピンしたいくらい。まぁ、思い入れが大きすぎて現実とのギャップが受け入れがたかった、という事だと思うけど。小さな出来事は、その人の持っている本質本体を揺るがすものではないのにね。不思議なもので、その夢を見たあと、ひっかかっていた気持がすーっと飛んでいったような気がしました。物を処分することで、もやもやした思いも片が付く、なんてこともあるんだなぁ…。その先生の着ていらした服をなんとなく覚えているのだけど、いいものをゆっくりじっくり着込んでいる、という印象を受けたのを思い出しました。そうだ、私はそういう服の扱い方が好きなんだわ、ということ、ちょっと忘れかけてました。そういうのって素的、と思う気持は大事に取っておこうと思うのでした。
May 4, 2008

朝ふとんの中で眠りから覚めると、目の前にどーんとでっかい桜が植わっていたら、滅茶苦茶びっくりするに違いない。というのは、もちろん仮定の話。桜の花が綺麗、とか、好きとおっしゃる方は多いけれども、自分んちの庭にある、とか、鉢植えで育てているというのはあまり聞かない話だったりする。うちの近所には家の前の舗道に桜が植わっているお宅が複数あって、開花の時期にはせっせと路上の花びらを掃除する方の姿を見かける。だから、桜は私も好きだけど、年に何度も咲いてくれなくていいと思う。二度も三度も、いや、年中咲いたら、掃除するのがますます大変。そして多分、桜の花に感じるありがたみだって薄れるんじゃないだろうか。もう家の近くの桜の花はほとんど散ってしまったけど、今年も素的でした。 木に咲いている姿もいいけど、風に舞う花をみると得した気分になります。散ってからも、青々とした新緑がすごく綺麗。住宅街を歩くとき、見るともなしに建物や庭を眺めたりするんだけど、桜を植えている家だけはちょっと見た憶えがない。よくわからないけれども、木が大きくなったら手入れが大変とか、花びらが近隣に飛ぶと揉め事の種になる、とかそういうことなのかしら。いずれにしても、桜にはたぶん相応の場所ってものがあるんだろうと思う。大きい樹木だと物理的な問題で、考え無しには手に入れにくいんだけど、ちいさい花木だと、大きさの点でも値段の面でも増やすのはけっこう簡単。でも買うときに、後の世話も込みで買っているって事や、置く場所全体のバランスをまるで考えていない人がわが家には約一名…。このところ片付けをしながら、花や木だけでなく、生き物でないモノもやっぱりほっぽりぱなしだと枯れるんだ、と思うようになった。服や本はカラカラの枯葉にならない代りに、変色したり虫ついたり。読む気がしない、使う気がしない、というのも、その物の持っている力みたいなものが失われている、という意味では花が枯れるのと同じようなものなんだろう、と。買う対象として物を見るとき、「これは桜みたいな物かなぁ?いや、ツツジ?まてまて、チューリップかぁ?」みたいな感じで、近頃は見るようにしております。「うーん、やっぱ夾竹桃かな。あぁ、こっちだと極楽鳥花か?」なんて延々と続けていると、本当に必要なのか謎になり、あほらしくなり。そんな訳で以前より、無駄遣いが大分減りました。ちょっとは大人になったのかな、私。
April 22, 2008

真実とか事実とかいうものを受けとめ理解するには、受けとめる側の力が必要になる、みたいなことを以前どこかで読んだことがある。「嘘つきは泥棒のはじまり」と言われる一方で「嘘も方便」という言葉が存在するのは、たぶん真実を誰かに投げかけることがいつも最善の策とは限らないからなんだろうなぁ、と思う。ちょっと前のことになるけれども、あるお医者さんと話していて「知らない方がいいこともあるでしょう?」と言われたことがあった。病気に罹ったとき、加療すれば治る病気ならいいけれどそうでないときは「○○病」という事実の重みを受けとめるのが難しいこともある。うそはできるだけつかない方がいい。けど、嘘をついてはいけない、と法律で定められていないのは、ひとの心がそれだけ繊細なものであることの証でもあるような気がする。なんて話を思いついたのは、四月一日がエイプリルフールだったからなのだった。一日の日にラクテンさんが私のハンドルネームからイメージする顔を作ってくれた。せっかくなので、記念にペタっ↓。 …なんか波平さんテイストですよね、これ(^_^メ)実は私、前々からこういうヘアスタイルに憧れてたんですよ。というのは真っ赤な嘘。さすがにこの頭を美容院でオーダー、しませんから~§^。^§真っ赤な嘘があるならば、黄色いウソはどんなイメージだろか、と考えると、個人的には使っていいかハッキリしないウソって感じがする。相手のためを思って言うウソが、実際相手のためになるのかどうかはわからない。本当のことを言ってくれる方がよかった、って場合もありうるウソが黄色、かな。白いうそは…どんなだろうねぇ。と頭に浮かんだのはこんなこと。今年の頭くらいにすごく久しぶりに学生時代の恩師と電話で話した。年賀状から伝わってくる様子がどうにも心配な感じで、「気になってお電話差し上げたんですけど、いかがお過ごしですか」と尋ねると「元気ですよ」と返ってきた。でもよくよく話を聞いてみると、近々手術で入院する予定と仰っていて、どう考えても「元気」な訳ないじゃん、と後々思ったのだった。そのときの「元気ですよ」という先生の言葉。無用の心配はさせまいとする気遣いから出たものだとすると、赤でも黄色でもなく、白って感じがするかしらって。ただ言う相手をおとしめるだけの嘘は嫌だけど、優しい嘘つきさんは好きだなぁと思うのでした。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・このところ春だから、なのかわからないけど、日中も夜も頭がぼんやりしてしかたないです。(そして文章がまとまらない)しばらく更新は普段以上にぼちぼち、かもしれません(-_-)ゞ゛
April 8, 2008
いつのものだったか忘れてしまったのだけど、印象に残る本の広告だったので切り抜いておいたものを覚書。 女性はついつい他人と自分を比較してしまう生き物です。 そしてそれは、自分の不幸を数えることにつながってしまいます。 でも、それは「自分が選ばなかったこと」と考えて納得して生きていかなければ、 幸せはやってこないのではないでしょうか。 (唯川恵さん「青春と読書」2007年10月号より抜粋)どうもこれは唯川さんの「愛に似たもの」という短編集の広告だったようです。http://seidoku.shueisha.co.jp/yuikawa3.html昔むかし、唯川さんがコバルト文庫で書いたものは何冊か読んでました。ここ最近は小説を手にとる気分には全然ならないんだけど、本屋さんで見かけたら読んでみようかなぁ。家にいるとき何気なくおとなりさんちのお庭が目に入るのだけど、おとなりさんのお庭はうちのように植木満載じゃなくって、かなりすっきりしている。うちはにぎやかというか、むしろ賑やか過ぎという感じで(-_-メ)。週に一日二日、おとなりさんのご家族をお借りしたいと思うときもあるけれど、それは無理なので、うちはうちなりに数や配置を調整するしかない。おとなりさんの芝生を眺めて「いいな」と思うなら、自分に合った形でそのスタイルを取り入れればいい。みたいなことを最近友達とメールでお話しました。周囲に羨望の眼差しを向けるよりも、自分とその周りの良さに目を向けよう、って。そういうことを話せる友達がいるのはありがたいものだなぁと思います。今週はPC周りを掃除して配置換えしました。前よりスペースを少々広く取ったので、雑誌や本を見ながらのPC操作がしやすくなりました。今日はPCを置いていた床を掃除して、冬物の洗濯もちょびちょびやるつもり。えいえいおー
March 22, 2008
やることが山積しているとき、わが家の慣習としてあっちもこっちも中途半端な状態で放っておく、というしょーもないものがある。それで何とかなることもない訳ではないのだけれど、中途半端だらけだと先に進めないって場合もあるので、今はできるだけ一つのことに集中するようにしている。端的に言うと、身辺整理中、ってところだ。いろんな資料を見ている中で、こんな文章を見つけた。 天使たちは、今もこうささやいている。 「絶えず努力する人々を、幸福の彼方に運ばなければならない。」 ~ゲーテ「ファウスト」より身辺整理っていうのは気が乗っているときは楽しいんだけど、面倒くさくなって「もう嫌ですわ」と思っちゃうときもある。でも、上の文章を見たとき、「あぁそんなふうに思っている場合じゃないな」って思った。絶え間ない努力をしようとするとき、身辺がとっ散らかっていると目の前のことに集中するのは、やっぱり難しいと思う。私にはゲーテの言うところの天使は見えないけれど、もしいるのであれば、そのささやきに答えたいものだ、と。そうして答えるための前段階として今がある、と思うと時々気持の中に立ちのぼってくるもやもやも少し晴れる。片付けばっかりはつまんないんだけど、でも、ゲーテの言葉を見つけたのはいい収穫だと思いました。
March 6, 2008

雪が降った後の毎年の恒例行事は、家の前の階段でコケることだったりします…orz今年も朝方おもいっきり行っときました。この家で高校や大学の受験をせずにすんでよかった、かも。ずるっといったとき近所の方がいらしたんだけど、多分気付かないふり。かなり恥ずかしいんで、逆にありがたかった(-_-)ゞ゛次に雪で路面が凍るときに備えて、自分用覚書。階段を下りるときは手すりにつかまって、一歩ずつ降りること。今のところは手のすり傷程度で洒落になってるけど、腰を強打したら危ないから。やっぱり雪って怖いもんで、とある知人がバスに乗ってたら、他の車がスリップしてきてバスにぶつかり、事故現場で降ろされたのだとか。文字では臨場感に乏しいけれども、車が自分んとこのバスの方に飛んでくるって…。すぐには雪は解けないでしょうから、どうぞお車の運転時にはご注意を。冬場はあちこちで雪の結晶モチーフの物をよく見かけるんですが、そういうのを見つけると脳内でなにかがもえるようです。別の意味で危険。これは手袋とヘアゴムですがセーター、マフラー、くつした、マグカップ、ピアス、ネックレス…etc.一体どんだけ降らせりゃ気が済むんだか、自分でもわかりません。どうも雪の結晶の中でも樹枝状とかいうもののようですがこの形のバランスが好ましいみたいで、今後も増殖の予定。あぁでも、雪用の靴を探すのを先にした方がいいのかも。と、しょうもないことで悩む冬の夜なのでした。
February 4, 2008
先日物置部屋に放置されてたアルバム類の入っている箱を開け中身を見たら、小っさいときに写真館で撮ったものが出てきた。それは自分も親も気に入っていたものだった。なつかしい、で終わればよかったんだけど・・・・・・しみというのか、妙な模様が入ってて、めりめりと凹んだ。と言っても十年以上前のものだし、あってもなくても構わないんだけど、そういう問題、ではなく。親に見せると「直せるかどうか聞いてみようか~?」と。…そんなのんきな言い草しか返ってこないんだったら見せる前に処分しちゃえばよかったわ。気分転換に外の空気を吸ってこよう、と近所まで買物に。そういやお茶菓子の類いがあんましないな、とカゴに入れ、レジを済ませて店の外に出る。すると、その近くに住んでる猫が「にゃー!」といって前方から走ってきて、足元ですりすり、ごろごろ。やぁ元気にやってるかい、ちょっと雨降ってて難儀だねぇ、とか思いながらなでなでしてると、店のひさしを立てる柱が目に入る。そこは親が入院中、犬といっしょに買物に行ったときワンを待たせていた柱で、私が戻ると尻尾をぱたぱた振っていたのだった。よみがえりかさなる出来事、なのかしら?、と猫にきいても答えなし。まぁよくわかんないけど、妙に気が和んで。「車に気をつけるんだよ」と声をかけてうちに帰った。これって…こんな気分なんだろうか、と浮かんだ詩。 知命 茨木のり子 他のひとがやってきて この小包の紐 どうしたら ほどけるかしらと言う 他のひとがやってきては こんがらかった糸の束 なんとかしてよ と言う 鋏で切れいと進言するが 肯じない 仕方なく手伝う もそもそと 生きているよしみに こういうのが生きてるってことの おおよそか それにしてもあんまりな まきこまれ ふりまわされ くたびれはてて ある日 卒然と悟らされる もしかしたら たぶんそう 沢山のやさしい手が添えられたのだ 一人で処理してきたと思っている わたくしの幾つかの結節点にも 今日までそれと気づかせぬほどのさりげなさで「添えられた手」には、肉球があったり、なかったり、して。
January 29, 2008
この時期になると思い出す、今から○年前の冬の話。私のいた大学の学科では卒業論文が必修となっていて、1月の○日が提出期限だった。卒論を出さなければ…そう、永遠に卒業することはかなわない。ちょっとした小論文なら書くことは苦ではなく、むしろ、気の乗るネタなら楽しいのだけど、卒論はそんなノリでできるものではなかった。けれども、私は全くもって甘く見ていて、ネタ選びがハチャメチャだった。(あまりにマイナーなものに手を出したばかりに、ドツボにはまったという感じかなぁ。)そして出す前になって、その駄目っぷりに「これじゃ到底無理」と思い、提出をやめることにしたのだった。それは提出期限の一週間くらい前の話。が、しかし。ある友人に「そんなことをしたら、君とは今後一切関わらない」と脅されて提出をやめるのを、やめることにした。「やるだけのことはやれ。結果がわかる前にあきらめるな!」と。あれには本当に参った。その話をしたとき、既に担当教授に「出すのやめます」と言いに行ったあとだったし。でも、「今後一切関わらない、は絶対に嫌」と思って、ともかく仕上げた。そんな調子だったから、ファイルして一応の形になったときは提出期限日のお昼をとっくに回っていた。自宅から遠い方の大学だったから、「…この時間では提出が間に合わないかも」と思いながら電車に乗った。電車の乗り換えのときはただひたすら、頭がガンガンするほど走った。多分あのときの走りが人生最速だろう。(タイム取れるなら取っておきたかった(笑)車中で友達から電話。「今どこにいるの」と尋ねる友に、小声で「○○…」と私。「えええええっ、何やってるの?!」…みたいな会話を交わして電話を切った。その時、残り15分前くらいだったろうか。最寄駅に着いたのは5分前。電車から飛び出し、改札まで走る。改札を抜けて、数歩踏み出したところで「乗って!!!」電話をくれた友達が、自転車に乗ってそこにいた。迎えに来てとか、そういうのはお願いしてなかった。そんな知恵を巡らす余裕もゼロ。何が何だかわからないまま、しばらく二人乗りしたんだけどそれでは速度が出ないことに気付き、私一人で心臓止まるくらいペダルをこいだ。そして…卒論を提出する部屋にダッシュで駆け入り、私の背後で部屋の扉は閉まった。提出時間が終わると、その部屋に入ることはできなくなるのだ。「・・・・・・・・・・・・間に合った」。サインか何かを書いて提出した後、朦朧としながら友のいるはずの部室に向かう。自転車を返さないと…。とそのとき、ふと思った。「あれ?○○ちゃん、自転車なんて持ってたっけか???」その友達は私との電話のとき学校にいたんだけど、電話のあと大慌てで自転車を探し、後輩の物を半ば強奪して駅まで来てくれたのだった。あのときの何と表現したらいいのか困るような思い。死ぬまで忘れないし、あの世に行っても忘れまい。私自身もシャイな方だと思うけど、その友達はおそらく私以上にシャイでお話するのはもっぱらメールばかりだったりするのだけど、付き合いが続いていてうれしい友達の一人だ。日々暮らしているとき、そんな華々しいことは早々ある訳ではないけれど、それでも何とかやっていこうという気持の向こうに、友の姿がちらちらよぎる。あの友、その友、なぞの友。数は沢山とは言えないが、それぞれに美点のある友であることにかけては、やたらめったら自信がある。言葉には早々出さないけど、自分を信じて、それぞれにがんばってほしいと願っている。この話。話に出すか迷ったんだけど、二つ三つ訳あって書いてみました。あぁそうだ。提出後はどうなったかというと、侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論の末、ある一人の先生の強い後押しのおかげで通していただけたのだとか。その先生は担当教授でもなく、教わったこともないのだけど大学に入る前から唯一お名前を存じている方でした。以前教わった現代文の先生が「○○大学にいる見た目がオバケみたいな人」と言われてて、実際の御仁を拝見したときは「…納得」、と。文字に表すと数文字にしかならないことの中に、沢山の見えざる文脈がある。みたいなことを考えるのが、最近の専らの楽しみだったりします。後手に回ろうとした私の背中を押した友人達と、オバケみたいな先生方と、後輩くんから強奪された自転車の力が、今の原動力になっているのやもしれないなぁ、なんて思いながら。
January 24, 2008
12月のある日の朝のこと。猫がトイレとトイレの外を行き来しながら、ニャーニャーと鳴いていた。普段は一度行ったら大体は暖房に近いところで過ごしているし、「こっちおいでよ」と暖房の近くに持っていっても、またトイレの方に戻ってしまう。おまけにトイレに入っても出るはずのものも出てない模様…。「なんかおかしいよね」と親に言うと、「こんなの初めてよ」と。どうにも気になって様子を見ていたんだけど、トイレに入っては出て、出てはニャーを繰り返していて「こりゃ、病院に連れてった方がいいね」という結論に。獣医さんの診断は、膀胱炎。御歳6才だし食生活も贅沢はさせてないにしても多少の気は使っているので、おそらくは重病ではないだろう、とは思ったけれども。腎臓や結石等々の問題もない、ということでひとまずホッとしたのだった。残念ながら猫は「どうもトイレに行きたいと思って入るんだけど、出ないんですわ」と人間語にして表現することができない。だから挙動で、表したいところの何かを表すほかない。当然といえば当然の話なのかもしれないけど、今いる三匹の猫たち以前に猫を飼った経験がないので、「あぁそうなのか」と実地で教えてもらったように思ったのだった。そう、犬だってそういうことがあるし、人間だって言葉ではなく、動作で思いを表現することってあるものね。私もどうやら結構鈍い性質のようだけど、親も親で他者のふるまいに鈍感だったりするので気をつけようと思う。言葉に耳をすますように、動作に目をすますこと。膀胱炎というのは結構再発すると厄介なみたいなので、二週間程薬を飲ませた。ほとぼりが冷めかけたころ、「うちは人間も膀胱炎やったし、犬も猫もやったからぼーこーえん一族なのかもね」と言ったら「何なのよそれー!」と。「あぁ、すまんすまん。膀胱炎もばかにはできないけどさ、腎臓とか結石じゃなくてよかったじゃん。みんな仲間だ。なぁ、ねこ?」と話を猫に振ると返事があったとか、なかったとか。あー、こりゃこりゃ。ヽ(。・∀・)ノ
January 14, 2008
先日出かけたとき某所でこんな一句を見かけた。笑顔こそ 何にも勝る アクセサリーある意味笑顔は安上がりかもしれないけれど、お金で買えるものでもない。何となく衝動買いムードなときに頭の片隅に置いておくとよさそう。てな訳で覚書ついでに書いてみました。ついでのついでだけど、最近メールアドレスを変えたもんで友人知人にその旨メールを打ったら、結構皆さん返事書いてくださるものなんだ、と。そういや後輩が変更したってメールくれたとき、返信忘れたときもあったような。反省…orz確実に要返信、とまでは思えないけど、受取る側になるとやっぱある方がうれしいのね、と一つ学習いたしました。ちなみに返事をくれなかった親に「返信ないじゃん」と言ったら「一緒に住んでるのにそんなの要らないでしょ」とちょっと怒ってた。あらら、茶化しただけなのに冗談通じなくて困るよぅ、と笑ってしまった。なかなかに洒落にならないこともひょこひょこあるんだけれども、プライスレスなアクセサリー、有効に活用したいもんだなぁ、と思う。まぁ某ファーストフード店ではスマイル¥0だけど、それは例外ってことで(^_^;)
January 12, 2008

あけましておめでとうございます。ってちょっと遅いかな(^^ゞお正月。ここ何年かは初詣に行ってなかったんですが、久々に行ってみました。地味に近所の神社でしたけど、結構一人でいらっしゃる方もいるんだなぁ、と思いました。もちろん家族連れの方もいらっしゃったけど。「そういやしばらく、くまで買ってなかったわ」ということで、熊手をいただいてきました。大きくて派手派手しいのは高いし趣味じゃないのでいつも買うのは小っさいのだけど、神社によって微妙に形が違ったりしてなかなか面白いです。見るといい一年が過ごせそうな気がしてきます。ふだんあまり猫の写真を撮ってないなぁと思って、ちょっと撮ってみました。 いただきものの箱に猫が入ってます。なんか、一人で満員電車の図って感じですが。あの「ねこ鍋」のぱくりっぽいけど、猫って小さめの空間に収まっているのが好きなみたい。写真の猫よりもう少しでかい猫は入らないけど、もう少し小さい猫も勝手に箱に入ったりします。箱に入っているとき、「こちらはおいくらですか?」と親に聞いたら、「うーん、ただでしょ」(まぁ、もともと外にいたから)というんで、「いやいやプライスレスじゃない」と返しておきました。親ばか発言だと思いますが、かわいらしさに値札はつけられません(^_^メ)よかったらご贈答品にいかがですか?(←こらこら)今年も引続きこんな調子でのったり書いていこうと思いますので、よろしくお願いいたします。猫からもご挨拶! 目つきが悪い感じですが、このコは結構ドSで大きい猫にかみついて親にときどき怒られてます。でも甘え上手なんで、そういうところは見習った方がいいかも、と思うのでした(笑)
January 4, 2008
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先日テレビで乾燥肌対策について取り上げたものがあった。乾燥肌がどうこうというのは本で読んだりしているので、たぶんこんな内容だろうな、とは思っていたんだけど、・入浴時、石けんを使うのは週一回で充分ていうのは、ちょっと「少なくないすか?」とつっこみたくはなった。そう思うのは多分…それじゃくさくなるんじゃないかって思い込みがあるんだと思う。以前から週一まではいかないけど、冬になると石けんは数日おきに使うようにしていた。お風呂は大好きなので毎日のように入るけど、その度にがっつり洗うと肌が乾きまくる。もう十年近く前だけど、寒いとき体を洗うのにボディシャンプーを毎日使ってたら、肌が乾燥してめちゃくちゃかゆくなりクリーム、ローション、何をつけても駄目ということがあって以来、ボディシャンプーは使わなくなり、垢落しもつかわなくなった。そしたら、クリームも不要になった。ローションは入浴後使うけど、ふつーの化粧水で問題ない。でも、私の洗い方は清潔感にこだわりのある方には受け入れ難いようで、垢落しは使わないというと、「えぇっ、それじゃ気持悪くない?」と言われたこともある。まぁ気持悪いか否かは本人の感覚次第だよ、と返答したんだけど、それは今も変わってない。誰もがそう思うかはわからないけど、今のところその件で他の人に何か言われたことはないし、第三者からすると私は無臭って感じならしい。まぁそれじゃいろけもへったくりもないかなぁ、っていうのが若干気になるところだけど。パッケージにはもちっと華がほしいところだけど…使ってる石けんはこれ↓。 清潔感にこだわる友人のことを考えていたら、ある別の方を思い出した。その方は椅子に座るときに丁寧に椅子のホコリを払いテーブルも手で払わないと座れないという方だった。こちらが「そんなふうにしなくても大丈夫じゃないかなぁ」と言っても、本人はその儀式をしないと気がすまないらしく、見ていて気の毒に思ったのだった。あぁ、そうか。綺麗にひたすらこだわるのは、どこかに自分が流されないようにくいを必死で握るようなことなのかもしれないね、と今さらながらに思う。当人は激しい流れの中にいると感じているのだけれど、その流れは私には見えない。くいを握りしめたいときは握りしめてもいいと思う。けれど、だからといってあの杭この杭と沢山埋めこむと、流れをすべてせきとめて杭は壊れる。そして、自分も流されてしまいかねない。何事も「程ほどに」というのの「程ほど」。どのあたりまで、どれ位までが程ほどなのか、わかっているようで意外とわかってないものなのかもしれない。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・親が片付けしてたら、私が以前着ていた服が出てきたんだけど、「あぁ、それは使い勝手がいまいちだったから捨てる」というと「じゃあ私が使う!」と親は言ってどこかにしまいこもうとした。「おぃおぃ、それはずっと使ってなかったんだから要らないでしょ」と結局処分したのだけど、親は綺麗にしがみつくのではなく、物にしがみつきたいようで困ったものだと思う。物にしがみつきたい気持は察するけれど、物であふれた家じゃ、ひと呼べないんだってばー。というのは、たぶん根幹の部分で上の話と共通するものがあると思う。「そんなふうにしなくても大丈夫」っていつになれば納得してもらえるのかしら。ちょいと苦笑。(^^;
December 20, 2007
電車に乗るといつも、何の気なしに頭上にかかっている中吊り広告をながめる。「そんな話もあるんだ」「なるほどねー」てな感じで、ちょっとした情報収集になる。昨日も例のごとく広告を見ると、雑誌の妙な見出しが目に飛び込んできた。 『まくどなるど』を■■■■いけない! (まくどなるどは平仮名にしてあるけど、マックのこと。)正確には■の部分を黒で長方形に塗りつぶし。おそらく大人の事情でそうしたんだろうと思うけど、それにしても。伏字にされると、余計気になるじゃん。鉄道会社としては配慮の一環だとしても、むしろ逆効果なんじゃないかと私は思う。「あの伏字は●●●●か▲▲▲▲かな」って想像すればするほど、その言葉が記憶に刷り込みされて、ますます伏字部分を確かめようと思わせるのでは?そんなことを考えてて、「あ。そうだ」とひらめいた。ブログの記事のタイトルに使うと思わせぶりで面白いかも(^m^)って。では、●●●と▲▲▲と■■■を次の日記からローテーションで。と一瞬思ったけど、あいにく記憶力に乏しいのであとから見直したとき「この●●●は何だ?」とかなるのがオチだろう。一身上の都合により却下(;´▽`A``そうそう。雑誌の見出しの「■■■■」。電車を降りたあと本屋でチェックしたら、「食べては」でした。学生の頃マックでバイトしてたんだけど、私のいた店ではカウンターの後ろで調理をしている方々も、休憩時間に作ったものを食べてたような…。雑誌の記事の真偽はともあれ、外で食べるものは気にし出したらどれも食べらんないんじゃないかと。もちろん期限切れ等々を是認するつもりはないですが。本屋に行ったあと、どえらくお腹がすいたので、マックでご飯を食べたとさ。逆宣伝効果もあった、かも(^^ゞ
December 11, 2007
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気が付けば12月。まぁぼちぼちでんな、って感じで過ごしてます。書きたいネタはいろいろだけど、何にしよう…と考えて最初に浮かんだのがこの本↓について。 夏ごろに買ったのけど、何とも魅力的で折にふれて引っぱりだして読んでます。ドラえもんの中から印象的なせりふをピックアップしたものなんだけど、ぐらぐらした気分に補強材をそえてくれるようなことばがいっぱいで。いいなぁ、と思うものをちょっと抜粋。>いちばんいけないのは>じぶんなんかだめだと思いこむことだよ。>なにかしようと思ったら、>そのことだけに夢中にならなくちゃだめだ。>道をえらぶということは、かならずしも>歩きやすい安全な道をえらぶってことじゃないんだぞ。>むりしないで、じぶんの力でできることをやっていこうよ。本についてどんなことを書こうかなとお風呂で考えていたときふとサザエさんのことが思い浮かんだ。ドラえもんの世界もサザエさんの世界もどちらも好きだしいいと思うけど、親近感を覚えるのはどっち?と聞かれると前者だったりする。なんていうのか…サザエさんの描く日常は少々きれいすぎるかなぁ、と。冷静に考えると、未来から猫型ロボットが来る、という設定そのものは現状ではありえないお話なのだけど、のび太くんは宿題をなかなか片付けないし、ジャイアンはへたっぴな歌をひとに聞かせて悦に入ったりして、そういうのは困るんだよね、という人が普通に登場する。ぐうたらな人もいれば、はた迷惑な人もいるドラえもんの世界は、今いる場所の延長線上にあるような真実味を感じさせるのだと思う。そして、ぐうたらだったり、はた迷惑だったりする人達にただただ途方にくれつづけるのではなく、それでもあきらめちゃいかん、とドラえもんや他の登場人物たちの姿を借りて藤子不二雄さんはわたしたちに語りかける。そのことばは手厳しくもやわらかであたたかだ。自分なんか駄目だという思いこみを、物事を投げやりにする言い訳にしてないだろうか。易きに流れていい加減なばかりに過ごしてないかな。いま可能な限りを尽くしているかしら。そんな疑念がわいてゆれるとき開きたい本だと思う。少し立ち読みしてそのままレジに持ってっちゃったけど、これは本当いいお買物でした。ちょっと長くなるけど、最後に藤子・F・不二雄さんの語録から抜粋。>クルクル回っている床屋の看板があるでしょ。僕はばくぜんとだけども、>あんな看板みたいに漫画を描いていこうかな、と考えているんです。>あれって、間断なく回り続けているでしょ。上へ上へと上昇している。>でもよく見ると、実際は全然進歩していないのね。>あれは人間の姿だと思うの。子どものころには夢をもっていてどんどん上昇していくけど、>そのうちに限界というものを知らされて平凡になっていく。>それでもたまに素晴らしい小説や映画に出会って、自分もこういう生き方をしなくちゃ、>とか思う。でもその気持ちだって3日もすれば終わっちゃう。>しまいには、その「上昇の夢」さえ忘れてしまう。そうじゃなくて、>挫折しても明るく夢を見続ける「自分を見捨てない人」に共感してほしい。自分を見捨てない人。うん、私もそうありたいと思う。絵本なんかもそうだけど、ドラえもんも子供のためだけのものにしとくのはもったいない。と、思う方は結構いらっしゃるみたい↓。・大人のためのドラえもん特集2 やふーで見かけてブックマークしてました。お時間がゆるすようでしたら、本もウェブもぜひご一読を。
December 8, 2007
先日出かけたついでに眼鏡屋さんに出向いた。何年か使っている手持ちのめがねにガタがきたので、それを直してもらおうと。修理が終わると「今回は直ったけど、次に修理するとフレームが割れるかも…」と店員さんに言われてしまった。いやぁ、私も新しいのがほしいんだけど、「これ」っつーのに出会えないんです、と言ってちょっと相談にのってもらった。私自身は眼鏡をかけてる状態もそれなりに好きなんだけど、傍目で「怖そう」に見えたり「いろけない」と言われたりするので、そんな印象を強調しないものをと探すのだけど、しっくりくるものがない次第。お店のおねえさん曰く、そもそも「目と眉毛の間があいてると柔和な感じがするし、近いと強そうな印象を与える」んだそうな。そっかー、じゃあ目の位置は動かせないから眉毛を全部剃っておでこに描くか~、なんて嫌なんですが・・・・・・。ともあれ、目と眉の配置も関係している、というのはなるほど、と思った。で、フレームは細身で丸みを帯びたもの、そして眼鏡の真ん中辺りから端にかけて上に上がってないものの方がいいと思いますよ、と。メタルフレームの方が形の面ではセルフレームよりバリエーションが多いのだけど、逆にセルでそういうのを探そうとすると数が少なく、あっても希望の色がなかったり。買い替えできないぢゃんorzでも、「月二回ほど新作出してますから」という話なので、あはは、そしたらまた見にきます♪と言ってお店を後にしたのだった文章を書いててハタと思ったのは、眼鏡って仮面みたいな趣きがあるのかな、ということ。「メタルは知的美人な感じ」とか、「濃い色の太めのセルフレームは教育ママって印象」とか。(By.お店のおねえさん)そういう見た目の印象はかけている本人の中身とイコールとは限らない。まぁ仮面というか、隈取(くまどり=歌舞伎の化粧)と仮面の中間みたいなもんなのかなぁ、という気もするけど。美人かどうかはともかく、「知的美人」じゃ、実際をともなってなくて困る。知的というより、痴的とか稚的の方がぴったりだし。「教育ママ」はママだったらいいかもしれないけど、ママじゃないし…。結局のところ、眼鏡をかけないのが一番なんだけど、コンタクトはどうしても苦手。この際、怖くてもいろけなくても結構ですわ、と開き直ればいい気もしてきた。そして、眼鏡探しの旅はつづく。あぁいつまでつづくのだろう。覚書:眼鏡を長持ちさせるには…・はずすときには耳にかかる部分を浮かせるようにする事・寝るときはとにかくはずす事(ゆがみの原因になる)だそうです。疲れてると、はずすの忘れて寝ちゃうこともあるんで気をつけよう('◇')ゞ
November 24, 2007
ちょっと買物に、と近所まで出かけたら、お連れさま(飼い主)のいない一匹の犬が車道の真ん中をひょこひょこ歩いてるよ…(・o・)…ワンちゃんも交通ルールは守ろうねなんて通じないよな、と思いつつ側に行ってみたんけど、年は(とってそうだけど)わからないし、目は見えてなさそうだったけど、手出しするとどんな反応がかえってくるかもわからないので、鞄で犬をバックオーライさせた。後から考えると、だっこしても平気だったろうと思ったけど、そのときは「ど、どうすりゃいいんだ???」というので頭がいっぱいで。ともかく車道に出ないように、通せんぼうをしてたら飼い主さんキタ――゚+.ヽ(≧▽≦)ノ.+゚―― あぁよかった(ρ_;)少し話をしたらうちのワンと同年代なようだった。すみません、と平謝りでいらしたけど、迷子犬歴はいろいろなので…ひとのことを言えた筋でもなく。妙にホッとしながら、スーパーに足を運んだのだった。家に帰って犬の写真を見ながら、うちのワンが迷子のとき保護してくださった方や「お宅のワンちゃんが○○通りを歩いてましたよ」と声をかけてくださった方に直接ではないけど、ほんの少し恩返しできたかなぁ、と思った。それにしても、何ていうのだろう、動物病院で会った高齢のワンちゃんといい、件のコといいそういう出来事に呼ばれる、みたいなことってあるのかも、と不思議の感にとらわれたのでした。生きてることって不思議に出会うことなのかもしれませんね。
November 22, 2007

私の親は小さい頃から動物が好きで、犬・猫・鳥・亀・蛇・魚・虫…一体どれだけ飼ったのですか、というくらいあれこれ飼ったことがあるらしい。友達で亀を十年以上飼っている方がいるのだけど、彼いわく「亀は名前を付けるって感じじゃない」ということで呼び名は「カメ」、と前に聞いた。それで親に「飼っていた亀にどんな名前つけてたの?」と尋ねてみた。すると…「あぁ、ミドリガメだったから『ミドリちゃん』。」「えーっ?!うーん、もうちょっと考えなよ。」「・・・小学生だったから、そんなこと言われても無理。」なんて話をしていた。人にしても動物にしても、名前、というか、どのように呼ぶかというのはそこにその対象との距離感が表れてる感じがして、面白いもんだなぁと思う。うちには金魚が何匹か外飼いでいるのだけど、金魚には名前がない。愛着はあるけれども、一匹一匹名付ける程ではないようだ。そして多分、名付けたところでどれがどの子かわからなくなるに違いない。そういや以前、日本のどこかの研究施設で、施設の猿一匹一匹に名前が付いているのを外国の研究者が見て驚いた、という話を聞いた覚えがある。その外国の研究施設では、猿を「1」「2」「3」とか、番号で呼んでいたとか。(今は結構名付けているところが多いらしいけれども)具体的に名前をつけるか、番号にするか、自分の問題として考えるときどっちがいいのか判断に迷うところだけれども、番号を使うのもわからないでもない。名前をつける方が、いざというときに辛さや悲しみが増す気がするから。外の金魚はたまに、天寿をまっとうしたのかわからないが気付くとご臨終、ということもあったりする。亡くなれば悲しくない訳ではないけれど、家の中の動物達と同様の心情とは言えない。おそらく愛着の度合とか距離感が異なるのだと思う。以前の書類を整理してたら、某市動物愛護協会の会報が出てきて読み直すとこんな話が載っていた。獣医さん対象のアンケートで「病院に連れてこられて困った動物は何ですか」という問い。答え.「金魚、トンビ、(中略)、コウモリ」きっと、金魚に対してわが家と比べ物にならない位の愛着を持ってたんだろうな。それにしても、お魚は水槽に入れる薬はあるけど、それ以上は・・・。獣医さんも金魚を前にして、途方に暮れたに違いない。野生動物は野鳥も含めて、人の手にゆだねられた後どうするかがやはり大きいのだと思う。私は烏を飼った友人しか知らないけど、世話の大変さは想像を絶するものだったから。手元にある仏教の本に、私たちの苦しみの中には求不得苦(ぐふとっく…ほしいものが得られない苦しみ)とか愛別離苦(あいべつりく…愛する者とも別れなければならない苦しみ)などいろいろあると書いてある。なるほど、そうだなぁ、と思う。その時々の状況によって、できること、できないことがある。トンビやコウモリに限らず、具合が悪そうな動物の姿を見つけたら、「何とかできないものか」と思いたくなるだろう。けれど、手をさしのべることが善とも限らない。結論、愛着もほどほどに。なんて言えた筋じゃないかもなぁ。 外にいる金魚。呼び名は一応「キンちゃん」。どの子もこの子も皆キンちゃんだけど、欽ちゃんじゃないので走らない。たぶん。
October 27, 2007
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ボクシングの世界タイトル戦関連の報道を見てて思ったこと。挑戦者の選手が対戦前、タイトル王者をゴキブリ呼ばわりしていたそうで、それについて某スポーツジャーナリストさんが「失礼だ」とか言われてたんだけど、では、人を例えるのに使っても失礼にあたらないのはどんな虫だろうか。(そもそも、人を虫に例えるというのは「小さくて取るに足らない(虫けら)」とかいやしげなニュアンスがあって、そう気分のいいことではないかな、というのを前置きして。)カブトムシとかクワガタはあくどい感じを漂わせずに屈強さを表せそう。蝶は美しさの例えにいいだろう。蝶のように優雅な振る舞い、とか。少々ずれるようだが、アクセサリーを見ているとテントウムシとかカタツムリのモチーフものをちょうちょの次くらいに見かける。この二つは「かわいい」の範疇かな。でも、人を虫で例えるときには使いにくそう。誰かに「テントウムシみたく可愛い」と言われても、どうリアクションすりゃいいか謎だ。カタツムリも見た目はかわいいけど、人にからめて使おうとするとのろさのイメージの方が前に出てきそうだし。もし私が例の選手なら、相手をどう例えるだろう。失礼ながらも、「アリんコみてぇなもんだ」とか言うと思う。そしたら、相手から「ボクシング界には偉大なアリがいる(=モハメド・アリ)」って返ってきて、笑点で座布団一枚くらいはもらえるかな、と。この程度じゃ歌丸さんに「座布団持ってって」と言われちゃうか。単純に世界王者さんのお顔を拝見している限りは、「気のいいカマキリって感じなんだけど」と親に言うと、「あはは」と笑いが取れた。この例えも…本人が聞こえるところではちょっとまずいかしら。私は格闘技を見ると、あぁ痛そう、といたたまれなくなるので普段見ることはないし、全くもって門外漢。だけど、反則だらけでも許容されたらスポーツは成り立たないのだから、糾弾されるのは仕方がないと思う。例えば、野球の試合でバッターボックスにテニスラケットを持って打者が登場したら、当然のように審判は駄目出しするだろうし、「これが俺流」なんて通用しない。あらゆる競技にはそれぞれの枠があって、その枠内で技能を磨き知恵を尽くす姿が見る人々の驚嘆の念を呼び、時に大きく心を動かすものになるんだと思う。実際目の前でスポーツを観戦する機会はほとんどないのだけど、以前現役時代の陣内貴美子さん(バドミントン)の試合を見たとき、一つ一つの動きの美しさや鮮やかさに圧倒されたのを思い出す。プロになると綺麗事では済まされないこともいろいろあるんだろうけど、闘う姿にいい意味でハッとさせられる選手が見たいなぁと思う。リングやグランドやコートの外での言動は一応、二の次にして。付けると蝶のような振る舞いができるかな(?)
October 18, 2007
ある日のこと、母のクローゼットを開けると、さっぱり意味のわからない物が出てきた。ワンピースの中にワンピースがあり、そのワンピースの中にワンピース。って書いてるだけで頭がこんがらがってくる。要するに、一つのハンガーに三枚ワンピースをかけて仕舞っていたという次第。・・・こんなかけ方したら、中に何があるんだかわからなくなっちゃうじゃん。と思って、「何なのよコレ?!」と文句を言うと、「えーっ?だって、一枚一枚別々にかけたら、場所取っちゃうでしょう」との返答。もう奥さん、真面目に勘弁してください、だ。その上、一番下にかかっていたワンピースは、このセンスは一体どういう訳?というような柄で、おまけにタグまでついている。そしておそらく形からして、うん十年は経っているだろう、というような代物。そんな物であっても、作ってくれた方はきっと、素敵に着てほしいと願って作ってくれたんじゃなかろうか、と思うと、呆れるというより悲しいやら切ないやら。ともかくこういう収納の仕方はやめてくれ、とお願いして終わったと思っていた。思っていたけど、終わっていなかった。今日見つけたのはバッグ・バージョン。バッグの中にバッグというやつだ。おまけに中にしまってたバッグは中に型崩れ防止用の紙まで入っている。最高だよママン。。。「あなたの服や鞄はロシアのマトリョーシカ人形ですか?」と後で聞いてみよう。ここまで来ると、もはや異文化コミュニケーションの世界のような気がしてくる。N○VAでもロバでも誰でもいいから、ママンに収納と片付けの教育をお願いしたい。ついでに天袋に私や兄の子供の頃の服を見つけたんだけど、これは要らないだろう、と思うのもあったので「一部処分するよ」と言うと、母の顔が変わった。「(現住所に)引越した時よく選んで持ってきたし、兄に子供ができたらあげるんだ」と。うーん。にいちゃんの物はともかく、私の服はお嫁ちゃんからすると小姑の服でっせ。あのときの母の目には「うらみます」と書いてあるように、私には見えた。そんな目をするにしては保存状態が微妙なのは何故なんだろう。同じDNAが仕込まれてるはずなのに、全く不思議で仕方がない。DNAの二重らせん構造を発表したというワトソンさんでもクリックさんでもどっちでもいいから、どうしてこうなるんだか教えてほしい。それにしても、子供の頃の服っていうのは、法的には誰のものになるんだろうか。子供の所有物?それとも、親の物?まぁ、どっちでもいいんだけど、なんともショボい話で失礼しました
October 3, 2007

私の部屋にはベランダがあって重宝しているのだけど、ひとつだけ困ることがある。夏場、蝉が知らずにやってきてそのまま亡骸となり、弔いせざるをえないことだ。それは家の誰かにお願いできない、というか誰だって嫌に違いなく。そんな訳で、蝉の弔いは夏の恒例行事の一つになっている。が、なぜか今年はそれをせずに済んだ。夏の初めに一匹見つけたんだけど、遠目には動いているように見えずまいったなぁ…と見に行ったら、足がちょろちょろ動いてた。あぁ生きてるよ、やったー!と思いながら拾い上げ、庭木に戻した。どうがんばっても、お弔いばっかりは「おもしろーい」とは思えないので、ちっちゃいことだけど、本当にうれしかった。それにしても、窓の外に羽の動いてない蝉を見ると、こときれてるだろう、と思ってたんだけど、いつもいつもそうではないみたい。実際を確かめないまま、勝手に勘違いしないようにしようと思う。もう9月も終わり。蝉の声は聞かなくなった。いきなり気温が下がったもんで、あわてて長袖の服を引っ張り出してきた。人間のように服を持たない我が家の猫達は、互いにくっついてグーグー寝ている。夏は適度に距離をあけて寝るのに、君たちはゲンキンだねぇ、なんて思うけどでもそうするのは、あのコたちなりの知恵だ。だって、洋服代が不要なうえ暖房代もかからない、究極のエコロジーなんだもの。 これは不要、じゃなく、芙蓉。この花もぼちぼち終わりですね。
September 30, 2007
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テレビ番組も数あれど、結構好きなのはクイズ番組の類いだったりする。先日、みのさん司会の某番組を見たら、テレの番組司会の田原さんが回答者で登場した。田原さんが以前、映画監督をしていたという話が出てきたんだけど、全然聞いたことがなかったので、いやぁ人って本当わからんものなんだな、と思った。そんな経歴もびっくりだったけど、それ以上に驚いたのは、彼の持っている番組が番組だからか、家にガイセン車が十台以上来訪したり「ころす」って手紙をもらったりしているそうで、それに対して彼が「あぁ面白いってなもんですよ」とかおっしゃってたことだった。…いや、それは面白がってる場合じゃないでしょ、とTVにつっこみそうになった。でも、本気でびびって番組を辞めちゃったら、それこそ車を運転して足を運んでくれる親切すぎな方や、手紙を書いてくださる方の思う壺。二十年もの間、ああいう番組を続けておられるだけあるなぁ、と腹の据わり具合に脱帽した。ちなみにガイセン車は、うちみたいな住宅街にはお越しにならないけど、学校が皇居にわりと近いところだったときは、結構授業中に通られることが多かった。主義主張を伝えること自体はともかく、音量が音量なので、学校の近くを走るときはボリューム下げてーな、とよく思ったもんだった。といっても、ものすごくつまんない授業のときは寝ちゃうときもあったから、そのタイミングで来てくだされば、刺激になってよかったかもしれない。話は変わるけど、数日前に留守電にこんなのが入っていた。「○○のご注文を頂いた件で折り返しご連絡お願いします」。その○○の注文。残念ながら、私には全く身に覚えがない。九分九厘は○○を頼んだ人が連絡先を誤ったんだろうと思うんだけど。だけど。その着信のあった電話番号を調べたら、以前関わってしまった心無しな人ん家の近くだったりして。。。もしかして、いやがらせ?電話をくださったお店には気の毒だけど、頼んでないものは頼んでないので、一応様子見をしている。ただの間違いで決着がついててほしいもんだ。仮に悪戯だったならば、こんなふうになったらおかしいなぁ、と思う。例えば、注文の○○が「りんご」として、次は「ごま」、その次は「まめ」とか。←しりとりでも「まめ」の次が「めだま」だったら、どうしよう。さすがにそれは、びびっちゃうぞ。 開き直って三つ目を目指すか。
September 25, 2007
先日、きりきりと胃が痛むアクシデントが発生した。きっと血管数本は切れたに違いない。何故にこう事件がおきるんだか…。もう痛すぎて笑うしかない、というか、笑って誤魔化したい、ということでこれ↓見てました。http://wiki.livedoor.jp/livedoormiura1/d/「みうらじゅんの正しい自由研究」というページです。好き嫌いは分かれそうだけど、なかなかに正しい(?)自由研究で面白いです。私が好きな研究は「どんな祭りだ?」というお題のもの。世の中には大小様々なお祭りがあるもんだ、と感心しつつ、お腹抱えて涙しました。お題のネーミングが一番絶妙だと思うのは「地獄表」っていうもの。個人的には家の辺りが「天国」のように思えてくる、大変素晴らしい研究です。うちは父=胃を半分以上切除済、母=胃に数回ポリープを作製、とストレスのツボが無駄に一極集中している家系。だから「食べる前に飲む」じゃなく「切らないように笑う」ようにはしている。けど、心がけだけじゃ限界はあるわな、と思うときもある。思えば、生きてることって限界に挑戦するってことなのかもしれない。遺伝子の限界とか、時間の限界とか、ストレスの限界とか。なんて話が横道にそれちゃった。腰を据えて物事に向き合うことっていうのは、本当の本当はものすごく面倒で、この際、グリーンランドかアイスランドに逃避行したくなったりもする。でも結局、何か問題につきあたったときは限界を感じながらもどうにかして解決するしかない、というか、逃げても永遠に追っかけてくるだけで。だから、できる限り解決に力をそそいで、その余力で笑いや楽しいことを味わいたい。と言っても、楽しいことを満喫する方が往々にして、上に来ちゃったりするんだけど。なんてことを書いて何の意味があるんだかわからないけど、とりあえず、みうらさんのページはおすすめです。お暇なら、ぜひごらんください。
September 18, 2007
すごくどうでもいい話だけど、犬猫を飼ってて思ったこと。犬をワンちゃんと言うのはよく聞くけど、イヌちゃんと言うのはちょっと聞いた記憶がない。でも、猫の場合はネコちゃんとは言っても、ニャンちゃんと言うのは聞き覚えがない。なんでだろう~?これが正解ってものはないと思うんだけど、私は勝手にこんなふうに考えている。イヌちゃんよりワンちゃんの方が言いやすく、ニャンちゃんよりネコちゃんの方が言いやすいから。口から言葉を発する時、あまり意識してないけど、口を動かすエネルギーを消費している。目の前に三百段の階段とエスカレーターがあるとき、エスカレーターを使う方が疲れないように、言いにくい言葉を使うよりも言いやすい言葉の方が楽なのだ。「言いやすいから」で思いあたる言葉に、こんなのもある。お店やさんで使われる「○○円になります」という言葉。「○○円でございます」の方が正しい。と言われると、そうだよな、と思う。それでも「なります」が使われるのは「ございます」より言いやすいからじゃないか、って。以前お店やさんの店員をしていたとき、「ございます」って一応言ってたけど、忙しいと「『ございます』って面倒」と思うときもあった。加えて思う理由。お客さんが商品をレジに持ってきたからといって、すぐに商品は渡せない。レジのところにお客さんが商品を置いても「やっぱり買うのをやめます」って言い出す時もある。だから、「○○円になります」って言い方は何となく発生したんじゃなくて、その向こうには「お客さんがレジに持ってきた商品を本当に買うなら、結果その代金は○○円に生る」っていう微妙な意味合いがあるんでないかなぁ、と。「○○円でございます」、「○○円になります」以外の言い方で、丁寧さと言い易さが共存してて、誰も「間違ってる」と思わない言葉があれば一番いい。私には思い当たらなくて残念だけど、何かないもんかしら~。まぁ適当な推測なんで、自信があるのかというと微妙だし、言葉遣いは誰にでもわかりやすく、しっくりくるものであるに越したことはないだろう。でも一方で、人は易きに流れるし、命に関わるくらい重大なことでなければその流れを止めるのは難しいんじゃないか、とも思う。やっぱ物を買うときは定価より3割引きの方がうれしいもの。ってそりゃ「安きに流れる」だ。ちゃんちゃん。
September 14, 2007
「人間は地球の寄生虫である」という言葉を先日目にした。地球あっての人間、宿主あっての寄生虫、片っ方だけでは存在しえないという意味で共通するものがあると思う。地球以外にも星はあまたにあるけれど、地球以外の星に移住するのは東京から大阪に引っ越す、みたいにはいかないし、ましてや地球にいる何十億人もの人間がドカッと移って生きるというのは今のところ現実的な話とは到底思えない。寄生虫というものにはどうもいいイメージを抱きにくい。そんなことを考えていたら、ちょうどTVで芸能人の何とかさん(名前不明)が「寄生虫好きなんですよー」と話して「えぇぇっ」とか言われている姿が流れていた。虫は虫でも人間や動物の栄養を奪うし、ものによっては命まで奪うものもある。泥棒に対して抱くような嫌悪感や恐怖感、不安感を覚えるのは自明のことなんだと思う。そして、見た目の問題。いくつかは見たことがあるけれど、個人的には「かわいい~(はぁと)」とか「きれい」とか思えない。うちの猫たちの中に、来た当初いわゆる内部寄生虫がついてたコがいて実物を目にする経験をさせてもらった。白い毛糸みたいなのがウネウネしてる姿を見たとき「う、うわぁ」と言ってのけぞったもんだった。虫の好き嫌い程度なら、何とかその感覚の違いを乗り越えられそうだけど、感覚や価値観の違いによって辛い言葉を他人に投げつけたり、命を奪うような事態までも引き起こすのを見るのはつらい。寄生虫は生きる手段として宿主から養分を奪う。奪わなければ命はない。けれど価値観が誰かと違ったところで、命が失われる訳ではない。違いを超える、というか、違っていてもそれに上や下はないと皆が思えたら、NYの9.11も起こらなかったのかしら…。「人間は地球の…」は○年前に小論文の授業で書いた文章の中に自分でどっかから引用して使ったものだ。(引用元は失念)環境問題をテーマに書くものだったんだけど、地球の資源を奪いっぱなし、傷つけっぱなしでは地球っていう命も失われちゃう、みたいなことを私は書いていた。でも、一番に肝心なのは「それではどうするか」という部分。奪い方を考える、奪わないようにする、傷つけたあとにどうフォローするか、ということ。そういうのを日々考える気持、ちょっと忘れてた。過去の方ばかり向いてても進歩はないと思うけど、文字情報の中で省みることで今の自分を問うこともできるんだ、なんて思ったのでした。
September 11, 2007

先日、ワンがお世話になった動物病院に猫と一緒に行った。ちょっと猫に心配なことがあったから、それを尋ねにいくのと、犬がお世話になったお礼を兼ねて。猫はとりあえず心配ないという診断だった。ひとまずホッとした。ワンのことについて、どんなことを話したのか今は書かない。診察を待っているときに隣に他の患者犬さんが(というより、患犬さん、と言うべきなのかな)やってきた。その子を少し見ただけで、問答無用で胸が痛んだ。違っていてほしいのだけど、良い状態からとても遠く見えて。おまけに、私の亡くした子にお顔が本当にそっくり。涙腺がゆるい系なもんだから目はうるんでしまった。その場にその子以外に誰もいなかったら、泣いてしまったかもしれない。でも、その子のお母さんもいて、病院の方だっている。そして、私は小さい子供でもないし、本当につらいのはその子とお母さん。「かわいいですね」と声をかけたら、お母さんは小さく頷いてくださった。声を出したら泣きそうなくらい、お辛い気持だったのかもしれない。ワンちゃんの歳を聞いたら、うちの子と近い歳。「すごい、がんばりやさんなんですね」って返した。もちろん、若い動物たちだって、みんながんばって生きてる。そのときちょうど「くまでさーん」と呼ばれてお話は終わった。終わってくれてよかった。私にはそれ以上、言葉をかけていいのかわからなかったから。苦しいときにがんばると、もっとつらくなることだってある。「がんばれ」がいいのかそうでないか、本当わかんない。「またね」も。何も言わないで少し笑いかけるくらいの方がよかったのかもしれない。似たような経験をしていても、わからないことってあるんだな。相手の気持に添うように話すのは、本当に難しい。人それぞれ、見方、感じ方、考え方が違うし。何だか、学校のテストで百点取る方が簡単な気さえする。と言っても、やっぱり得意不得意あるから、学校のテストの方が難しいものもあると思うけど。そんなことを考えることができるのはうちのワンのおかげでも名前も知らないワンちゃんのおかげでも友達のおかげでもこの世界の誰かのおかげでもあると思う。ともあれ、見知らぬワンちゃんの精一杯。つらいけど、素晴らしい、って思った。だから、泣かなかった。----------------------------------------------------------そんな一方で、心ないオッチャンと遠く離れるために夜、連絡取ったりなんだりしたら、あいたた、腹痛し。男はつらいよ、じゃない、大人はつらいよ、だ。でも、私の知ってる「素的」を思うと、ものすごく小さい!と思おう。私の亡き祖父の故郷です。
August 2, 2007
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