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勝海舟はいっている。 「政治家の秘訣は正心誠意」だと! 政治家の秘訣はほかにはないのだよ。ただ正心誠意の四字しかないよ。道に依って起ち、道に依って坐すれば、草莽の野民でも、これに服従しないものはない筈だよ。 ところで見なさい、伊藤(博文)さんの政治はどうだい。僅か四千万や、五千万足らずの人心を収攬することの出来ないとは、なんと歯痒いではないか。つまり伊藤さんは、この政治家の秘訣を知らないのだよ。よく知って居ても行わないのだから、やはり知らないのも同じことだよ。 と氷川清談に載せている。 そして、徳川氏の政治が、なぜ約300年もの間、太平の世を築いたかを述べている。そして、人心を掌握する秘訣は、政治家の正心誠意であると結論づけているのである。 逆に、法律万能主義は最も悪しきものであるといっている。その理由は、法律では、人心を慰安することができないからであるという。 人間は心で動いているのである。人間の心を掴まなければ、人間を掌握することなどできはしない。法律は、人体を拘束する1つの手段でしかないだろう。法律が機能するのは、あくまで短期的で、それこそ異常な状態のものである。 人心は常に動いている。動いているものを、一箇所にとどめておくことはできないし、動いているものは、ただその方向をかえてやることしかできないのである。 科学的解析というのがこの動的物体を、静的に分類することに近いだろうが、それは法律をつくって、人体を拘束する手段にすぎないのである。 だから、勝は、学者はダメだ!と言ってもいる。実際、勝は、学者を使ってみたが、全くダメだったという。その理由は、自分の机上の意見を押し付けるだけで、自分をあわせようとしないからであるようだ。 「世間は生きている。理屈は死んでいる。」ともいっている。 虎穴に入らずして、虎子をとることはできない。 だから、真の統治者はそんな愚を起さない。動いているものを止めることなど現実的に不可能であろう。現実をそのままみているからといって、現実であるとは限らないのである。無常をそのまま捉えれば無常でしかない。動くものをとどめることはできない。だからこそ、逆にこちらから、動くものに歩調をあわせるのである。人民の心のなかに、自らの心を置く事を考え、その心を正しいものにし、誠意でもって、感化させるのである。 それを正心誠意というのだろう。 そして、勝海舟は、徳川氏が、日頃から、いかに人心の掴みを大切にしたかの出来事を述べている。 家康は、家督将軍職を秀忠に譲り、隠居の身になっても、表向きには囲碁会と称して、自ら世間の人心を探ったという。世間と常に親しんでおけば、世間の人心も探れるし、庶民も政権への親密度が増し、双方の親しみが増す一石二鳥の効果といえるだろう。 庶民にとっては、あの将軍の父が、庶民の身近にいるのだから、なお、将軍に対して、親心や親しみが沸くであろう。真事に、人心掌握に秀でているといえる。 私は、実は水戸光圀ではなく、大権現様の家康こそが、水戸黄門のモデルだと思っている。隠居の身というのは、実は、家康のことで、家康は、恐らく、この勝の話から、庶民を市中、見て回ったように思われる。水戸黄門は、それをいわば、マル秘化(神話化)したようなフィクションとしてできたものだろう。 あの副将軍が、天下の家康、将軍の父なのであるから、あの紋所の意義が一層深いのである(徳川家創業の家康である証)。将軍すら、頭が上がらないはずである。勿論、大名すら頭があがらないだろう。下手するとお家取り潰しにも関わる一大事だ。お供の格さん助さんも、水戸光圀の秘書ではなくて、家康のお供だったと思われる。それを文字って水戸黄門(日光東照宮)としたのであろう。その理由は、朝廷への配慮であろう。将軍といっても、朝廷よりは格下であり、水戸は代々、将軍家よりも、尊皇派であり、皇室よりの将軍家の分派なのである。将軍が庶民にあまりに目立っては朝廷をないがしろにしかねない噂が飛ぶ。だから、尊皇派の副将軍(朝廷の将軍(天皇)の副将軍(征夷大将軍)つまり家康)ということで、庶民には公然として親しまれるのである。 だから、水戸黄門のモデルは、実は家康なのだ! 恐らく、徳川家でも、代々将軍に、水戸黄門のようなお話を聞かせ、先代がいかに人心を掌握することに気を配ったかを、幼少期からお話として聞かせ、一種の英雄伝説を説いて聞かせたのだろう。代々将軍は、家康を神格化し、自分もその目標に習おうと励むだろうし、そうでなければ、徳川家の安泰がないと思うのだろう。そして、その言われの本体は日光東照宮として代々、現存し敬称させるわけである。このような配慮は、恐らく、天海という僧が成したものだろう。 家光のときの話も、この勝の話に載っている。当時の江戸の庶民は、非常に元気で、逞しく。将軍だからというそれのみの理由で、頭など下げなかったという。将軍が鷹狩りをしているから、邪魔だといっても、たかが、鷹狩がなんだいという感じだったという。 だからこそ、家康が人心を掌握するのにいかに配慮し、苦労し、洗練したものに仕立て上げたのかがわかるだろう。 水戸黄門をみると、徳川家康の苦労がよくわかるだろう。 黄門さまは、家康で、風車の屋七は、恐らく、服部半蔵か、柳生但馬守で、格さん、助さんは、お供の若者だろう。うっかりハチベエのモデルは気になるが、天下のご意見番の大久保彦左衛門であるなら、非常に面白いだろう。大久保彦左は、家康であろうと、自分の説を意見したからである。 こう考えてみると、徳川幕府が非常に庶民的なのがいまでも伺えるだろう。現代でも、人心掌握術が巧みといわざるをえない。 家康は、人生とは、重い荷を背負って、長い道を歩くようなものだと言っている。 ♪人生楽ありゃ苦もあるさ~の唄は、家康の人生そのものをなぞっているように思えてくる。 そして、正心誠意を物語っているような気がする。 ダビンチコードならぬ、水戸黄門コードといえるだろう。 水戸光圀に顎髭がないのに、水戸黄門に顎髭がある意味、それこそ水戸黄門コードのシルシ(紋)といえるだろう。 そして、水戸黄門を水戸黄門足らしめたものは、江戸の庶民の家康への心であるといえるだろう。江戸の庶民には、水戸黄門として、約300年の太平記を家康は生きていたのである。 正心誠意の力、恐るべし!
2006年05月30日
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現代の日本の至上最悪の本末転倒とは、愛国心教育のことだと思われる。愛国心は確かに大切だが、一体、それを教えられる教師が存在するのか、このことが考慮されていない点が、政治家の全くの平和ボケ、無能さ、頭の悪さを露呈している。 政治家がしっかりしていれば、愛国心は自然と身につくように思われる。親がしっかりしていれば、子どもはその親を真似て育つ。親が悪いから子が悪い。これは日本の昔の常識だった。国民を子どもとしたなら、親は政治家だろう。政治家が自分に甘く、他者に厳しいのが一番の元凶だと思われる。まずは、政治家が愛国心の模範となり、国のために、滅私奉公する姿勢こそ第一に問われるものであろう。 そこでだが、まず、改善すべき第一の点は、国会議員の礼儀がなっていないところ。 国会運営があまりにも、堕落腐敗している点が挙げられる。言葉使いもさることながら、意味不明の発言や、信頼感に乏しい表現。昨今、商業主義が蔓延り、真事に軽薄さが滲みでている。愛国の基本である母国語、日本語の勉強が最も疎かになっているのが、いまの政治家の国会答弁であろう。 何も聖人君子のような討論をやるべきとはいわないが、官僚作文を読んだり、自分の言葉で話すことが、小学生の学級会レベルであっては、まさしく国民を愚弄している行為と捉えられても仕方なかろう。漫談は、真剣な議論の息抜きにあるのであり、真剣な議論のない漫談なぞは、政治家ではなくて、自らが漫談家だと宣誓しているようなものだ。直ちに政治家を辞職すべきである。あれでは、国民の間に不信が蔓延り、血税を払う気にすらならないだろう。 例えば、国会答弁に、国語学者を参加させ、曖昧な表現や、意味の伝わらない言葉は改めて言いなおしてもらうことが肝要であるとも考えられる。まずは国会答弁をしっかりとわかりやすい国語表現で行うことが、愛国心教育の第一歩だと思われる。 礼儀に関しては、選挙のときを常に思い出して、いちいち頭を下げる。これが政治家の基本姿勢だろう。実れば垂れる稲穂の実といえるだろう。 そうして、政治家はまずは、しっかりした日本語を話し、できれば現代に即して、プレゼンテーションを学び、能力を向上させるべきである。それも、日本の伝統の礼儀作法を取り入れながら、国民に対して失礼のない態度を心掛けるべきである。できれば、国会をはじめる前に、宣誓し、国旗に向かって起立し、国民(天皇ではない;天皇だと戦前回帰になるからである)に対して、はっきりとわかるようにお辞儀をする。国民の血税を国家のために使わせていただくのであるから、丁重に挨拶すべきものである。 「我々政治家は、日本国民の代表として、国家の責務を全うし、日本国憲法の精神を重んじ、主権である日本国民のために奉仕することを、ここに誓います」というような宣言を、国民の愛国心教育のいかんを問う前に、是非、すべきであろうと思う。いまの政治家は、あまりに奢りたかぶっているので、日本人の礼節の美徳である謙譲、謙虚さが必要だと思うからである。社会人であれば、これは、当たり前の礼儀であろう。それをしない政治家の方が、人間の品格としてどうかしていると思われる。これができてこそ、愛国心教育の準備、土台ができるといえよう。 これが馬鹿馬鹿しい事だと思われるのならば、愛国心教育なぞは百害あって一利なしだと思われる。親が子の面倒をみることから、愛は育まれるのであり、国家の責任者が、国民に礼儀を尽くすことが、愛国心に必須のものとなるだろう。この理念は、古来からのものであり、他国、いや人類普遍の原則でありえる。 キリストが弟子たちの足を洗ったように、上のものが、下のものを思い愛情を注ぐことから、その愛情は普遍的なものに広がりえるだろう。しかし、愛情を、甘やかしとしてはならない。独立心を植えつけるための愛情でなくてはならない。 キリストが「わたしが行ったように、あなたがたも、行いなさい」と言ったように、師から、足の洗い方を学び、自ら足を洗うものにならなければならない。親火から火種を貰い、消えないように、自ら灯す必要が生じるのである。 また、よく間違えられるのは、礼儀というのは、決して形式ばったものではなく、本来、無駄を省くものである。親しきなかにも礼儀ありというのは、親子問題が、生じないように、日頃からの心使いであり、コミュニケーションのことである。だから、礼儀形式、作法がどうとかよりも、相手が不快になるような表現こそ、最も忌むべきものなのである。相手が、不快だと感じる行為を慎む。その謙譲、謙遜心から生じるのであり、人間のなかの低次元な利己心を、自らの相手を思いやる高次元の働きにより抑えること、すなわち自制心を育成することに主眼がある。いかに形式ばって礼儀論に叶おうとも、心がなければ意味がない。慇懃無礼というのは、この意味である。 礼儀すなわち自制心が人間間に広くいきわたったならば、もはや犯罪はなくなるであろう。忍耐力こそ問われるからである。つまり、礼儀とは、忍耐力を養い、自制心を身に着けさせ、人格を向上するものである。人格を向上させる至上目的には、独立自立した精神を養わなければならない。 現代の国民のなかには、あまりに他に依存的で、寄生的な精神が宿っているといえよう。それを促進させたものは、カネや権力である。人間のなかにある利己心を増長させるのは、カネや権力に阿る低次の弱い心が問題なのである。 まとめると、礼儀とは、謙虚、謙譲の精神を尊び、低次の利己心を抑え、高次の自制心を生じさせ、独立心を養うための初歩であるということを肝に銘じてほしいように思われる。孔夫子が、尊ばれた意義がよくわかる。 日本社会では、このような自制心を求める社会を、私(心)に対して、公としてきた。武士がよく、私心があるといって嫌味嫌うのは、このことである。死に際して、一瞬でも、私心があるならば、臆病、恐怖がもたげ、敵にやられるであろう。だから武士は、私心を厳しく制限したのであるだろう。実はこのことは、ソクラテスの哲学にもみられることなのである。 ソクラテスは死を在り来たりのごく普通のこととして捉えた。無常の死を超えて、永遠の命を見い出すには、魂にとっては、死をごく普通の無常のこととして望むことが必要だとしたのである。だから、ソクラテスは毒杯を飲んで死ぬ前日でも、ごく普通に振る舞ったし、とくに死に臨んで、特別な気持ちも起さなかったという。 死を死とも思わない。これがソクラテスの哲学なのである。 日本の現代の文化については、これは見解が分かれるところだと思われるが、靖国参拝について意見する。神社参りに行くことは、確かに日本の文化だが、その日本の文化が、他国に不愉快な感情を生じさせるものであるのなら、慎むべきであろうと思う。日本人は、なによりも、謙遜、謙譲の精神、そこから派生する文化を尊ぶのだから、日本人のなかに、忍耐力、他国の意見の寛容こそ求められるべきものであろう。 他国に認められない文化に、人間の高貴な精神としての普遍性は見い出せないであろう。 そしてまた、いかなる理由であっても、他国の軍隊が長期にわたり、自国の領土に駐屯することは、独立国家としての威厳が保てないことであり、日本の国家の精神が、独立していない証拠であるものと思われる。もし、日米安保という同盟関係があるとするなら、米国の領土にも、日本の軍隊が駐留する有効性も検討されねばならないだろうし、米国の領空も、日本の軍隊が使用する権利もあるだろう。それが対等条約である。 現日米安保は、明らかに不平等条約といわねばならないし、日本人の独立精神、日本国家の独立性を阻むものであるだろう。この不平等がある限り、日本人が、国家に愛国心を生じることはまず考えられないであろう。米国人に日本人を侮る隙を与えるものでもあろう。 彼らは本心では、「自分のことも自分でできないやつが偉そうな顔するな」と思っているはずであり、だから、命を守ってやってんだから、金ぐらい出せ!というような横暴な意見をいわれるがままにして、何もできないのである。日本人は、米国人に依存心をもちながら、同時に劣等感を抱いているのである。これは健全な人間の精神に反するものであるといわざるをえないだろう。 自国を守ろうとする独立精神があるのなら、いかに功利的に良い条件であったとしても、他国に依存するような考えは捨てるべきである。他国に従属し、足元をみられる愚である。いま日本は、身包み剥がされ追剥にあって殺される運命にあるように思われる。昨今の上辺だけの愛国心を装い、私物化し、堕落した政治家を選んできておいて、愛国心言々を問うとは、何を今更という感がなきにしもあらずだが…。 日本人が今大切なことは、自分のことは自分で行うという責任感であろう。 礼儀とは、自分がいまどのようなことを行ったのかを、相手を通して、実感することなのである。自分で蒔いた種は自らが刈り取る。これが礼儀の意味であろう。 相手に嫌な思いをさせたら、それが相手の態度で返ってくるのである。それを反省し、自らの行為を自制し、向上させ、相手に嫌な思いをさせない。それが美学につながっていくものと信じたい。
2006年05月30日
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オシリス-イシス神話が、巷で話題のダビンチコードの法螺話に類似していることを、前回書いた。イエス=キリストや仏陀のような救世主の伝説を、研究してみると、確かに具体的な部分で相違がみられるところもあるが、このように、ストーリー面での類似点の多くが見い出されることに気がつくという。イエス=キリストや仏陀等の救世主伝説が類似しているのには、訳があるという。 それでも、相違点を指摘したい者は、仏陀が天寿を全うし、イエスは、ゴルゴダの刑で死んで、霊的に復活した点が異なるといわれるだろう。それらの相違点を超えて、救世主伝説が一致しているのには、実は深い意味がある。それこそ、イエス=キリストが、ゴルゴダで刑にかかる意味でもあるという。太古の神殿で行われていた研究がある。その研究は、人類の進化論であり、救世主を生み出す理論体系だったのであるという。有体にいえば、神々から離れ、独立した人類が、再び神々のように、進化するには、いかに生きたらいいのか?という深い問いだったのであるという。ギリシア時代では、もはや、霊的に直接神々をみることができず、代わりに、神々は、人間のなかにある、永遠の命という形を取るものになり、人類のなかに、永遠の命を見い出し、いかに永遠の命を、輪廻転生を通して、育成していくかということが、課題になったという。 ギリシア神殿では、永遠の命の理論体系が吟味されるようになっていったという。現代哲学は、いかに善く生きるか?という問いが基本にあるが、それはギリシア時代の、いかに永遠の命(魂)を見い出し、向上させていくか?が基になっていることがわかるだろう。ギリシア時代以前の古代の、例えば、エジプトやバビロニアでは、自然のなかに、いかに神々を見い出し、それを形象により表すかという問いが基本になったという。エジプト以前のカルディアでは、神々に敵対する悪魔がいるが、我々はいかに、神々に組し、悪魔を排除し、神々を見い出すのか?という問いが基本にあり、カルディア以前の、インドでは、この世は、マーヤ(幻想)であり、マーヤにとらわれずに、いかに天の神々を信仰するべきか?という問いが基本にあったようだ。古代インドから現代まで、神殿で行われた探求課題を追っていくと、以下のようになる。古代インド-幻想を脱却し、神々への信仰を見い出す。→古代カルディア-神々への信仰のなかの虚偽(悪魔)を排除し、神々と共に生きる→古代エジプト-自然のなかに神々は隠されていて、それを見つけ、法則として表現する。→古代ギリシア-自らのなかに、永遠の命を見つけ、育成していく。このような基本課題の移り変わりをみていくと、神殿の祭祀のなかから、救世主の理論体系が、構築されるのが容易に想像されるだろう。なんらかの神殿から分派した秘密結社というのは、そのような実践団体ともいえよう。神殿で研究されたものが、伝播されるにつれて、なんらかの具体性をおび、救世主の原型である普遍的理論が、隠され、消えていくのである。それらの多くが、神話として語りつがれ、わずかながらのその形態を残しているのがわかる。神殿の賢者たちは、すでに、この普遍的救世主理論のなか、実際の救世主を、イメージだが理論的に、みていたといえる。このようにギリシア時代に、神殿において、救世主理論が、全盛を迎えたとき、実際に、救世主イエス=キリストが、この世に現れ、神殿の賢者たちが称えた救世主理論を、現代の言葉で言うならば、実験ともいえるようなもの、つまり、実践を行っていったのです。神殿の賢者たちが、救世主理論では、必然として想定され、預言されたことであるが、一般庶民には、まるで奇跡かのような、出来事を、そのひとりの男が、実際に、行っていったから、神殿の賢者たちは、驚愕したのでもある。賢者のなかで、イエスを、真の救世主だとするものと、救世主ではないとし、あくまでも秘密を守ろうとするものに分かれるわけである。そのどちらの立場であっても、一旦、死んで、復活するということは、必然であり、救世主として一致するところであるという。キリストの敵対者は、救世主とは認めずに、それを行うキリストを抹殺しなければならない。キリストの従者は、キリストが、救世主理論にあるように、一旦、死んで復活する存在でなければならない。共に、キリストに現世での死を与えるのである。これが、イエス=キリストが、十字架刑にかけられた理由のひとつであるという。そして、救世主理論では、仏陀の死が第一の死であり、成仏は、神の入口、天国の扉であり、キリストの死が、第2の死であり、霊的復活を遂げる、天国そのものを想定していたという。
2006年05月29日
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ゲーテは、人間が神々を認識するには、人間が神々と同等の存在になる必要があるということを、以下のように語っている。 目が太陽的でなかったら、どうして私たちは、光を見ることができようか。 私たちのなかに、神自身の力が生きていなければ、どうして、私たちは神的なものに熱狂するだろうか。 正確にいえば、今日の我々は、昨日の我々ではない。肉体は新陳代謝に伴い、その成分は、時間と共に入れ代わっている。なのに、我々は、昨日の自分を、今日の自分のように、語り、認識できている。 今日の自分のなかに、昨日の自分が残っているからである。今日の自分のなかに、昨日の自分がある。それを我々は、記憶と呼ぶことで代表している。 今日の自分と昨日の自分を融合するもの。今日のなかに、昨日の自分を存在せしめるもの。それが自我であることに気がつく。 自我は、時間を通して、自分のなかに自分を同一視する作業を行い。時間を超えて、自分を存続させているといえる。 我々は、常に自我を考えずにはいられない。なぜなら、自我の存在こそが、我々をこの世に存在せしめる永遠の命であるからであるだろう。 この自我がどこからきたのか? 冒頭に書いたゲーテが語ったことは、エンペドクレスというギリシアの哲学者の認識を、言葉にしたにすぎないという。 エンペドクレスの見解は、次のようなものである。 世界の事物とは、様々に混ざり合った元素である。原初の一なるものが、4つの存在に引き裂かれることにより、事物は発生できた。この原初の一なるものが、世界の元素のなかに注ぎ込んだ。私たちが目にする事物は、流出した神性の一部を分有している。しかし、この神性は、事物のなかに隠れている。事物が発生するために、神性はまず死ななければならなかった。これらの事物とは何か。神の諸要素の混合であり、その構造は愛と憎しみを通して生じた。 世界のなかで魔法にかけられ、愛と憎しみのなかで絡み合った、神的な原初の一なるものを、再び、賢者は見い出すだろう。 これがエンペドクレスの結論である。 人間の自我は、神の一なるものであった。「われはあるものなり」というのが神の自我である。 それが、4つに分かれたという。神秘学では、鷲、獅子、雄牛、野人のイメージとして象徴されている。これは太古の民族霊(集合自我)のことを表す。 太古の民族は、集合自我のみが、記憶であり、時間を超えて、永遠の命として存在するものであった。民族が、周囲の事物(土地)に溶け込むようになり、分派(分家)していくにつれ、自我も、個々に分かれ、事物(肉体)のなかに隠されるようになっていった。 神話的にいうならば、一である神アポロンが、神の子デュオニュソスとなり、八つ裂きにされ、事物に隠されたのである。これが、神が死ななければいけなかった理由である。事物を生じさせるために、一なる神は死ななければいけなかった。 ニーチェが言った、神は死んだとはこのことである。 神は、愛と憎しみのために死ななければならなかった。 神が愛と憎しみのために死んで、事物が生じ、人間が誕生した。 エンペドクレスによると、人間のなかから賢者が現れ、八つ裂きにされた、事物のなかに隠された、自我を集め、再び、一なるものにするとき、神が現れるという。 このことを、エジプトの司祭は、オシリスとイシスの神話を通して語ったという。 オシリスは太陽神の息子で、彼の弟はテュフォン=セト、妹はイシスである。オシリスは妹イシスと結婚した。オシリスはイシスと共に、エジプトを統治した。悪い弟テュフォンは、オシリスを殺そうと、考えをめぐらせ、オシリスの身長に等しい箱をつくった。ある宴会で、その箱がぴったり合うものに贈られることになった。オシリス以外の者には合わなかった。オシリスは、その箱のなかに横たわった。そのとき、テュフォンとその仲間たちは、オシリスに飛び掛り、箱を閉じて、流れのなかに投げた。イシスはその恐ろしい出来事を聞き知って、夫の死体を探すために、至るところを絶望的に探し回った。イシスが死体をみつけると、テュフォンはまた死体を奪った。テュフォンは、死体を十四の部分に引き裂き、それらの部分は、様々な地域にばら撒かれた。様々なオシリスの墓が、エジプトにはある。あちらこちら、多くの場所に、神の一部が葬られたのである。しかし、オシリス自体は、冥界から出てきて、テュフォンに打ち勝った。そして、オシリスの光線が、イシスを照らし、それによって、イシスは息子ハルポクラテスすなわち、ホルスを生んだ。 この神話は心魂のなかの体験を秘密糧に暗示しているのである。 さて、この話だが、気がついた方もいるだろう。そう、ダビンチコードの法螺話を彷彿とさせるのである。 オシリス=イエスキリスト、弟のテュフォン=ユダ、妹のイシス=マグタラのマリアとしてみれば、よくわかるだろう。 イエスとマリアは結婚した。ユダは、イエスを売り、ユダヤ祭祀と十字架にかける取引をした。最後の晩餐に、イエスが裏切りものユダを名指して、取引きを成就させた。ローマ人たちがやってきて、イエスは時代の流れのなかに投げ込まれ、十字架にかけられた。マリアは、イエスの死を知って、死体を探し回る。マグダラのマリアの象徴がドクロなのが頷けるだろう。ドクロはゴルゴダ(しゃれこうべ)を意味し、聖ゴルゴダ=サングラール(聖杯)でもある。聖杯はキリストの死体である。聖杯は、マリアには隠される。聖杯は、各地に散らばり、イエスの墓は各地に十字架として葬られている。十字架の刑にかかったイエスの血は大地に染み渡り、雨として、様々な地域に降り注ぎ、多くの場所に葬られる。しかし、イエスキリストは、ユダの裏切りに打ち勝ち、霊的に復活する。イエスキリストの霊的光が、マリアを照らし、キリスト教のマリア信仰を生み、ホルス(人間の魂のなかに光を宿す)を生むことになる。 イエスとマリアが夫婦だというのは、霊的に、イエスのなかにアダム、マリアのなかにエヴァが見い出されるためである。アヴェマリアのアヴェを逆から読めば、エヴァになる。霊界は、現界とは逆なので、アヴェとしたのだという。アヴェマリアとは、マリアに、原罪前のエヴァに戻れという意味なのであるという。 マリアが、売春婦だったというのは、この原罪を犯したという意味であろう。聖書では聖母マリアが、原罪前の処女性を表し、このマグタラのマリアを、原罪後の悔い改めるべきマリアとして表現しているにすぎないのだろう。 聖書は唯物的に解釈するのではなく、霊的イメージで解釈しなくてはならない。そうすると、聖書には、人類の霊的歴史が詰まっているのである、太古にそれはアカシャ年代史から、秘儀参入者が写し取ったものなのであるという。
2006年05月24日
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ギルガメッシュ叙事詩に関連する、ギルガメッシュとエンキドゥ(エアバニ)の前世の関係の、次の転生の話を、随分と、先延ばししているが、今回もまだ、書かないでおこうと思う。あまりに、先延ばししているのも、気がひけるので、前触れのようなことを書こう。 ギルガメッシュとエンキドゥ(エアバニ)は、紀元前3000年頃に、カルディアのウルクに住んでいたが、次の転生は、エペソスであったという。エンキドゥの魂は、ヘラクレイトスの弟子であり、プラトンの師であったとするアテネ人クラテュロスとして転生し、ギルガメッシュの魂は、クラテュロスの女弟子ミューザーとして転生し、エペソスの密議神殿で活躍したという。 ギルガメッシュのときの、ノアに学んだ秘儀参入法が、転生し、ミューザーとして、エペソスの密議神殿で活躍するための才能として開花したわけである。そしてギルガメッシュのエンキドゥへの愛情は、ミューザーの師クラテュロスへの師弟愛へと転化するわけでもある。 エンキドゥは、ギルガメッシュに神的霊性(霊能力)を教えたが、プラトンの師として、ミューザーにも、再び神的霊性を教えるのである。エンキドゥは常に霊性(神々の叡智)の魂(担い手)だったといえよう。 これを見れば、魂は転生するにつれ神的な才能を、昇華し、開花させるといえるだろう。 更に次の転生をみると、より深い神的配慮に気がつかされるだろう。 ギルガメッシュとエンキドゥの、次の次の輪廻転生は、ギリシアに現れるのである。 それは、アレキサンダーとアリストテレスなのである。 アリストテレスの師は、プラトンであるが、プラトンの師は、クラテュロスであったわけである。クラテュロスの次の転生がアリストテレスなので、クラテュロスは、プラトンを通して、自らの教えが、時代のなかで、いかに開花し発展していったかをみたことになる。つまり、クラテュロスは、地上のなかで、霊的(神々の叡智)な教えがいかに伝播されたかを、魂を通して体験したことにもなるだろう。 ちなみに、プラトンの魂は、ゼウスとセメレとの間に生まれたデュオニュソスの霊を担っていたという。このプラトンの魂のなかで、師クラテュロスから受け継いだ地上的霊性体験と、魂そのものの霊性である、天上からの神的霊性体験が、融合し、イデア思想となったことがよくわかるだろう。 そして、そのプラトンの霊性は、再び、アリストテレスとして転生したクラテュロスの魂に、蘇り新生されるのである。神々の配慮がいかに深遠で優れているかがわかるだろう。 一方、クラテュロスに学んだミューザーが、霊性の源泉である神殿を、地上に発展させたように、アリストテレスに学んだアレキサンダーが、地上にアレキサンドリアという大学都市を発展させたことが、魂の転生とその秘密を知れば、容易に理解できるであろう。 これらの転生の秘密は、次回に譲りたい。 このように神話を研究すると、神話に隠された古代の叡智が蘇るのがわかるだろう。 神話ではないが、古代インドの話に以下のようなものがある。 生に執着して、感覚の快楽を求め、どうしても死にたくない男が、4匹のヘビに追いかけられている。ある声が聞こえてきて、「4匹のヘビに時々エサをやり、水浴びをさせればよいではないか」と命じる。 男は悪いヘビが怖くて、逃げる。再び声が聞こえる。「お前の背後からやってくる5人の刺客に注意しろ」と。今度も男は逃げる。 今度も声がして、「剣を抜いて首を切り落とそうとする6人目の刺客がいるぞ」と注意する。男はまた逃げる。 すると、男は無人の村にたどり着く。まもなく、泥棒が村を荒らしにくるという声が聞こえる。男は更に逃げる。 更に逃げると、大洪水に出くわす。男は此岸は安全でないと感じて、麦わらと木材と葉でかごをつくり、それに乗って、彼岸に至る。そして、男は安全になった。 男は婆羅門となった。 この話の意味は以下である。これを秘密ともいう。 4匹のヘビは、4大元素の地水火風を表す。5人の刺客は、五感のことである。無人の村は、感覚から逃れながらも、自分独りでは確かではない心魂のことである。自分のなかに低次の本性しか把握しないと、その心魂は破滅してしまうだろう。これが洪水である。人間は、心魂のなかに、艀をつくり、感覚的本性の岸から、永遠の神的な岸へと、無常の洪水を渡らねばならない。 人間は、自らの魂のなかに永遠の命をつくらなければならない。 無常のなかで、永遠の自分(自我)を構築しなくてはならない。 「転がる石にはコケがつかない」という西洋の諺があるが、それはこのような意であろう。 永遠の強固な意志を持つものは決して揺らいだりはしない。無常に囚われない心魂は、永遠に生きることができるという意味であろう。だから仏教では執着心を嫌い。無常を説くのである。無常を説くのは、無常のなかに永遠という自分(自我)をみつけろという意味であろう。 無我というのは、自分(自我)のなかの永遠の命のことである。 だから、魂は、何度も転生し、無常ななかに、少しずつ永遠の命(自我)をみつけていくのである。 運命とは、その永遠の命を表す。 無常な人生のなかに、永遠の命(運命)をみつけろ! 無常な人生に囚われてはいけない。無常な宿命を、変えられない宿命と捉えてはいけない。それでは、無常のなかに埋没し、大洪水に流されてしまうだけなのである。 洪水とは、無常な価値観、多様な遺伝性のもの、物質主義に他ならない。 洪水のなかに、自らの船をつくれ。 かって、地球の大洪水のなかで、ノアが箱舟をつくったように、落下する物質的重力のなかに、自ら浮上する霊的な船をつくれ! ノアは現代人に肉体(物質的身体)を残した。重力を担う肉体のその制御を通して、魂を浮上させろ! 浮上させる魂こそ、水星の魂なのである。 自らのなかに、永遠の命を見い出すのだ! 科学は無常のなかに埋没する悪魔のエサにすぎない。科学は無常である。だから、(唯物論的)科学は、やればやるほど、埋没し、わかればわかるほど、わからなくなるのだ。これこそ、無常の迷宮なり。 科学はパンドラの箱だという。科学には、分離、分解、分析力が働いている。これはかって、1であった神を引き裂き、八つ裂きに切り裂くものである。破壊よりも、愛情が求められている。戦いよりも和解が求められる。全ては1から出て、1に帰す。 大洪水の時期は近いという。我々は原点に帰る為に、再び包括的、1にかえるべきときにきているといえるだろう。 八つ裂きにされた神の子デュオニュソスを集めて、神アポロンを復活させるときがきている。 無常の人生のなかから、永遠の命である真実をみつけ、魂の浮上の糧とし、死すべき錯誤を拭い落とし、落下する重力を振り払え。 人生の目的は、無常の錯誤のなかから、永遠なる真実を取り出し、魂をその真実から、神(霊)につくりあげることなのである。 錯誤がなくなったとき、人の魂は、重力に抗して浮上し、神の霊をみるだろう。
2006年05月23日
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ダビンチコードがあまりにも巷で話題らしいので、見る気はないが、社会現象化しているので、つい関連のTV番組をみてしまった。想像できた展開だったので、一種のブームに終わるものと思い、ある意味、安堵した。ダビンチよりも、どうせなら、ラフェエロコードの方を解くほうが、より驚愕の展開になったもんと思われるが、ダビンチよりも、ラフェエロの方がより神秘的度合いが高いので、唯物論者には、もっと難解で、解けない永遠の謎だろう。それこそ、秘儀参入法を必要とする。 ダビンチコードの錯誤は明快である。神なぞ存在せず、キリストは人間だとし、その子孫がいて、ダビンチの絵がそのいわば、宝探しの絵であるというもんである。恐らくその映画は、グーニーズのような宝探しを、大人の鑑賞にたえうるものに味付けしたもんであろう。 ダビンチコードは無意味そのものである。なぜなら、キリストが神でなければ、キリストの子孫の価値が無と化し、宝探しでもなんでもないものになることに気がついていない。キリストが人間であるなら、その子も人間だし、人間を信仰している人間は、無意味で、聖杯は宝でもなんでもなく、単なるありふれた杯(灰)と同じである。そして、キリスト教信者は人間を崇拝することになるから、キリスト教信者は、怒るわけであり、鑑賞ポイコットが始まるわけである。 まるで、科学的立場だかわからないが、信仰者に、偉そうに、あなたたちは間違っているというようなもんだ! そもそも、キリストが人間だという主張は、その主張をまるごと無意味なものにしていることを意味している。キリストは人間だ!だから結婚し、子どももいる。聖書やキリスト教は、人間を信仰させる教則本である。で、だからなんなの?ということになる。これでは、聖書のなかにある、聖杯たる価値を見出す論理にもなっていないし、キリスト教を信仰している信者は、人間に、なんの価値を見い出して信仰しているのか、の問いかけにもなっていないし、聖書の意味がまるでわかっていないと捉えられても不思議ではないだろう。 いかに物的証拠を集めても、証明することの意味をなさない。 物的証拠を集めて連想するよりも、本人に聞いた方が早いだろう。唯物論者は、死んだものには、聞くことができないと説くだろうが、果てさて、本当にそうだろうか? では、物的証拠のない哲学や数学は、それこそ存在しないのではないだろうか? キリストが偉大な人間という権威だけのみ残しておいて、その子の秘密として、その権威を私物化するような、キリスト教の価値観を、掠め取ろうとするやり方だろう。 そもそも、西洋的な神信仰の基で、神でないキリストの子が、なんの信仰の対象になりえるのだというのだろうか? 例えば、仏教は、どうだろうか?お釈迦さまは、神よりも、人間により近い仏である。そういう意味では、はじめから、人間である。神ではないが、仏教徒は、お釈迦様が説いた八正道に、人生の価値を見い出しているから信仰しているわけでもあろう。仏教では、はじめから、ダビンチコードのようなものが、書かれることはないだろう。禅は、たとえ、お釈迦さまであっても、特別な立場を否定することからはじまるのである。「釈迦に出会えば釈迦を殺せ」という風に。 それを知っていたから、お釈迦さまは、現代を末法の世といって、錯誤に満ち溢れた時代と言い残していったのでもある。 猫に小判という諺があるが、聖書は、まさに、この小判であるだろう。聖書がなぜ書かれたかを知るものにこそ、聖書は真実を説くのである。真実は、口を通して語るものではなくて、真実を知るものの心に、確信を響かせるものである。まるで、音響のように!だから、言葉では真実を表現することなどできない。 神が存在するかどうかではなくて、この類のものは、神を信じる人間が、この世に存在するということに気がついていない。そして、何世紀にもわたって、そのような神の信者や仏の信者が、人間として生活してきたという事実に、向かい合おうとせずに、ただ、現代の科学信仰や、合理主義を、教条として、権威化して、自由の名のもとに、攻撃するだけである。かって、教会主義が、これと同じようなことを行ったため、科学が生まれたということに気がついていない。 実は、科学は、宗教の負の遺産で食っているともいえる。 聖書が唯物化し、教条主義化して、人間を弾圧し、科学が生まれた。ある意味、我々は、その復讐劇をみせられているようなものだろう。 実は、民衆信仰のなかにある神々の真実を説くことは、下手すると、人類に大きな災いをもたらすものであるので、そのような神々の秘密は、永遠に謎として隠されたのであるし、これからも隠されるだろう。 人類は、何度と無く、天体の配置(神々の叡智)において、滅ぼされてきたという。それらが、神話化し伝承され、信仰の対象となった。秘儀参入者が神々の秘密を守るのは、人類が滅ばないための配慮なのであるという。 聖杯は、人類が神々の叡智を知るにたる資質を身に着けるまでに、永遠に隠されるのである。それが、ダビンチの最後の晩餐の聖杯のない意味なのであろう。キリストの復活をみたものだけが、聖杯をみることができるのである。 そして、ダビンチの最後の晩餐の意味は、マグダラのマリアではなくて、裏切りもののユダと共に、キリスト=イエスが、食したということに、重要な意味があるという。だから、聖書には、裏切りのユダのことのみに触れているのである。重要でないことには、あまり触れないのは、どの文書も同じことである。弟子たちの足元に香油を塗るのは、霊的な結婚を意味するものである。それはマリアだけに限らない。神の子が、香油を塗るというのは、その霊的復活を、みることを可能にする行為なのである。マリアではなく、裏切りのユダにも塗られたということが重要なのである。 油を塗るということは、古代ペルシャ人では、族長(王)になった意味をもち、民族霊と交信できる霊的発達(復活)を遂げた意味なのである。とくに、ユダヤ人に限らない古代風習であるだろう。
2006年05月22日
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ギルガメッシュ叙事詩の前世の続きの前に、輪廻転生の法則について、少し書きまとめたい。何故に輪廻転生があるのかということである。 人は、天才を称して、才能が突然現れたものと錯覚に陥るが、突然、机や物が出来上がったり、事物が一瞬にして現れることがないように、精神も突然に現れることはないという。 例えば、今日、努力して学んだ技術が、一晩寝て起きると、身についてできるようになることと同じように、つまりは、天才は、前世の努力が、今世に実を結んだ結果であるという。 前世において努力した結果が、今世において実を結ぶことになる。または、今世の課題を果たすために、前世において、準備されたものが、才能であるともいえるのである。 今世で輝く才能ばかりを見る者は、この才能あるものの、前世での過酷な試練を通して準備された努力を知らない者である。光があるのは暗闇が存在するからなのである。 輪廻転生説の素の万物流転の法則を唱えた、ヘラクレイトスは、暗闇の人と呼ばれたという。なぜ、暗闇の人と呼ばれたかというと、光をもった人しか、ヘラクレイトスの言ったことを理解することができないからだという。 光をもった人とは、秘儀参入者のことを意味する。つまりは、秘儀参入者しか、ヘラクレイトスの言ったことを理解することはできないという意味である。一般人は、光を持たないので、暗闇を手探りするしかない。だから、ヘラクレイトスのことは理解できないのである。 余談だが、米国の1ドル紙幣にあるピラミッドに眼のある絵は、よくオカルト通に、フリーメーソンのシンボルと言われているが、あれは賢者の目であり、秘儀参入者のことを意味する。秘儀参入者は、ヘビで象徴される。エジプト時代、秘儀参入者は、ヘビと、目で象徴されたという。 ダビンチも秘儀参入者であろう。ダビンチの有名な人体図は、人間のなかの4つの人体である肉体、エーテル体、アストラル体、自我の表現ととることができる。エーテル体は、星型で、五ぼう星で表され、人体では手と足を広げた形のこと。アストラル体は、六ぼう星で表され、ダビンチ図では、手を広げない人体と手足を広げた人体図を合わせた象徴形のことだろう。そして、自我は、円で表される。しかし、円で表される、本来の自我は霊我(マナス)のことであり、それは永遠の命のことを表す。 そして、古代の秘儀参入法は、ダビンチの人体図のような十字架にかかった姿勢で、死んだように眠らされ、参入したという。 さて、ヘラクレイトスの万物流転の法則だが、なぜ、万物流転、つまりは、全ては無常であることを説いたのかというと、それは、そこに永遠の命を見い出すためであるという。 無常に囚われていると、全ては儚く消え去り、何事も変わらないものはない思いに囚われ、死を怨み、生に価値をおきたくなるだろうが、真の意味は、その無常にあるのではなく、統一、調和を得んがために、無常はあるのであるとする意味なのだという。 争いのなかに調和や平和が見い出される。それを統合し、調整していくのが人間の創造の役目であるとするのである。死も生も、統一や調和のなかの部分でしかなく、一面でしかないのである。 ヘラクレイトスは、これを永遠の命とするのである。無常のなかの調和統合、変わらないものが永遠の命であるというのである。 だから、万物流転は永遠の命のためにあるのだという。 ここから、輪廻転生は、永遠の命を見い出すためのものであるのだということになるであろう。 事象全ては二元論に帰される。光と闇、熱さと冷たさ、苦や楽。それらは無常である。しかし無常は、人間のなかで、一元論になり、永遠の命をもつだろう。光と闇を通して、人間は知性を得、熱さと冷たさを通して感覚を得、苦や楽を通して、体験を学ぶだろう。 人間は無常を通して、神という永遠の命を体得する途上にあるというのが、ヘラクレイトスが、言いたかったことなのであるという。 人間は、無常のなかで、眠らされている。 私たちは、日々の暮らしのなかで、存在しているというべきだろうか? 無常の中の変わらないもの。自らのなかに永遠の命を見い出す賢者は、このような問いに以下のように答えるだろう。 永遠の命の下に、私たちは存在し、また存在していないのである。 だから、永遠の命が存在するか?いないか?を問うのではなく、永遠の命の本質は何であり、それをいかに育てていくかが、課題とされるのである。 無常から、永遠を生み出すこと、それが人間の真の命なのである。 多様のなかから統一性を、対立のなかから調和を見い出すことが、本質なのである。 才能を遺伝として捉え、錯覚している人間が多いが、それは無常に囚われて、生に重い価値をおいている価値観からくるものである。人生において、人間は時間と共に、その成長段階で段階として死んでいるのである。子供が死んで、青年となり、青年が死んで、成人になり、成人が死んで、老人となるのである。 段階で死んではいるが、自分という認識できる自我があるように、無常のなかに変わらない統合している存在があるのである。 遺伝があるのではなく、それを課題として乗り越えていく永遠の魂があるのである。 魂は、その能力を発展させるために、人生のなかに無常という運命を見い出すのである。 運命を超えて、自ら創造能力を身につけるために、魂は、転生するという。 人間は、運命を超えて、立命しなければならない。 今日の努力が、明日の自分の才能を開かせるのである。 人間ヤコブは一歩一歩階段を上って神の世界へと行かねばならない。
2006年05月18日
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前回は、ギルガメッシュ叙事詩の前世のことを書いた。続けて書く前に、古代からの秘儀参入法について、少し書きたい。というのは、最近、巷の話題のダビンチコードのせいでもある。 古代、秘儀参入者が、その秘密を漏らすと死罪と、財産を没収されたという。詩人アイスキュロスが、その密議の一部を舞台に載せたということが訴えられたが、デュオニソスの祭壇にて、自分は秘儀参入者ではないとして、裁判により証明したので、死を免れたという。 レオナルドダビンチが秘儀参入者であることは、当時、一般的には、知られてはいけないことだろう。知られてしまえば、死と財産を没収されたからである。彼が、秘儀参入により知りえたその密議を、勿論、巧妙に絵画に表現させたことは、秘儀参入者であれば、わかることなのであるが、それをバラせば、その証明をせねばならずに、その人が死罪と財産没収を免れえない。 秘儀参入者ということは固く閉ざされて隠されることなのである。なので、オカルト(隠される)という意味で、オカルティストと、秘儀参入者は呼ばれるのである。 オカルト、つまり秘儀参入で得られた叡智(密議)は、秘儀参入できない者、つまり一般人には、何の価値もないものである。何の価値にもならないものを、一般人にもたらすことは、全く何の意味ももたらさないからこそ、タブー死された。それは、秘儀参入できない者、つまり、一般人のためというよりは、秘儀参入者の為という意味が強い。 一般人に何の意味も与えないのならば、よいではないかと思うだろうが、実は、秘儀参入者のためによくないというのが、どうやら事の真相のようである。 秘儀参入には、至上の恐怖に立ち向かい、自分の存在自体を根底から無に帰さなければならないので、温室隔離が必要とされるのである。端的にいえば、通常の感覚世界を絶つ必要があるという。通常の一般人であることができないのである。 古代人は、現代人のように、概念、理念をもたなかったので、周囲にみる感覚世界を、概念で捉えていなかったために、周囲を現実とは感じなかったという。我々のように明確に立体像をつくらず、事物を固定したものとして、捉えていなかったという。そのために、秘儀参入者となる素養は、現代人よりは、有していたといえるが、それでも、秘儀参入でみられたその叡智(密議)が、漏れ、一般人により、曲解され、伝承され、概念化され、無意味化されることを恐れたのである。 秘儀参入については全くもって言葉は無力、無意味であるばかりか、秘儀参入できない一般人には、空でしかないという。 お釈迦さまが、覚ったときに、この悟りは、言葉で説くことができないと一旦は伝承をあきらめた意味が、ここに見い出せる。それでも、神々に諭され、仏滅3千年に末法の世になるとはいえ、説いてきかせたわけである。 有体にいえば、お釈迦様は、(仏教を)生むべきか、生まぬべきか、それが問題であると思ったわけである。その問題は、後世の人類に任せようという慈悲心なのであろう。 一般人には、仏教を教えたとしても、ほとんど理解されえない無のものであろう。仏教を教えるには、仏教を理解する準備が必要だからである。だから、まずはその種を植えようというわけであろう。ほとんど無だろうが、いずれ全てを掴むものも出てくるというわけだろう。泥に華を咲かせるもののために、蒔こうというわけだろう。 このように、神々の挨拶は、人間に対して、全く無であるか?、全て、であるか?どちらかなのであるという。全てか?無か?を決めるのは、その人間自身なのであるという。 これが、幸運の女神には後ろ髪がないという諺の意味でもあろう。 神々は、無か、全てであるか、どちらかであるという。人間側に、神々を準備し、迎える意志があれば、全てとなる。しかし、もっぱら、それは全く無であり、人間には関係ないことである。 神々はいうだろう。「我々自身は、君には関係ないことである。それが、君をいまのままの君にしておくか?、それとも、君から、新しい人間を生み出すのか?、それはもっぱら君しだいなのだ」と。 だから、神々は、「汝自身を知れ」という言葉で、挨拶するという。 新しい人間を生み出す自分を見つけたものは、神々と関係し、だから、「あなた(神々)は存在する」と、返礼するだろう。 人間は、神々と出会うと、新しい自分に目覚めるのである。 変わらない人間は、神々とは無関係である。 人間は、子供から大人になる。これは日々変わっているからである。人間は、神々と挨拶しているのである。概念、理念の為に、その関係が曇らされているといえるだろう。 この世のものは全て移り変わるのである。色即是空、空即是色。無常である。 無常なものは、日々移り変わっているのである。これは神々の力である。神々と関係したから、神々の創造の力をうけて、変わっているのである。 秘儀参入の意味はここにある。一般人にはけっしてわからないものがある。だからこそ隠されるのである。 隠されるからこそ、わかるものがある。こころにみえるものがある。神々は心眼にうつるというのは、こういうことなのだろう。 かわるべきか?、かわらないべきか?、それはあなた次第なのである。 勇気をもって恐怖に打ち勝つのは、あなた次第なのである。 誰にも頼らずに、ただ、独り犀の角のように歩むのは、あなた次第なのである。 全ては、あなた次第なのである。
2006年05月16日
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この間、日本人が好む偉人ベスト100を、TVでやっていた。1位は信長、2位は坂本竜馬、3位はエジソンであった。ここから、日本人が、発想が新しもの好きという傾向がわかる。日本人と、好対照なのが、恐らく、中国人であろう。中国人は、古いもの、伝統に憧れる傾向が、あるようだが、昨今はそうでもないらしい。まぁ、中国人といっても、日本人のように、統一的な意味で単民族ではないから、中国人という捉え方は的確ではないだろう。 中国と日本の関係はさておいて、西郷さんは、ベスト10位には、ランクしていたようだが、意外にもあまり、上位ではなかった。玄人好みのするタイプなのではなかろうか?歴史に「もし」はありえないが、中国の思想家で、西郷が、もし生きていたら、アジア大連立国家が生まれていたのではないかと言った人がいると聞いたことがある。西郷さんは、ひょっとしたら、日本よりも、中国の方で評価される人物なのではないかとも思う。 西郷さんのその器の大きさの逸話は暇がない。西郷さんの死後のあるとき、薩摩武士のなかで、一番器の大きい人物は誰かというのが、宴会の話題にのぼったという。西郷さんの弟の従道とか、色々挙がったが、結局、大山巌ということにおさまった。後で、その話を大山にしたところ、西郷さんは、私の比ではなく大人物だったと述懐したという話である。 西郷さんの大きなところは、後輩たちに、「思いきりやりなさい。あとの責任は私が全てとる。」という言葉に溢れているように思える。この言葉は、実際、西南の役で、死んでしまったことで証明されている。 西郷さんのなかに、理想の上司像が思い浮かぶ。いまの人間は、小人物ばかりなので、部下に任せることをしないで、たとえ、任せても、危なくてみていられないと言うのが関の山だろう。 しかし、上司の本来の仕事とは、責任を取ることなのである。小さな失敗から大きな失敗まで、ありとあらゆる失敗の責任を取ることで、人の上に立つ器が身につくのである。ここらへんを勘違いしているのが、現代社会の組織像なのである。 あの人の下ならば、信頼して思い切って仕事が出来るくらい、部下にとって頼もしく、安心して、現状の仕事に専念できるというものだろう。 部下ほど、上司をみているものはいないのである。 そして、とどのつまり、人間に対する信頼こそが、即、人生の学びなのである。 仕事は、人間の信頼をつくりあげるものでなくてはならない。そうでなければ、人間社会に、安心と平和がもたらされることなど、絵に描いた餅であろう。 昨今は、有能な管理職不足だとよくいわれるが、それは当たり前で、責任を他に押し付け、お仕着せ、失敗から逃げているからである。それでは、いつまでたっても、せっかくの失敗が台無しで、失敗から学び、組織を柔軟な懐の器の広いものにしていくことなど、できるはずがないだろう。昨今の倒産事情がそれを表現している。失敗から逃げてたら、会社はどんどん小さくなっていくだけの話である。 セクハラなんかで、辞めさせられるなぞは、あまりにアホらしいというか、自己鍛錬が疎かになっている証拠である。社会人としての自覚、モラル以前の問題である。日々、時代は動いているのである。右肩上がりの殿様商売の時代ではない。職場を男女関係とみている表れだろう。おのぼせさんもいい加減にしてほしい。 利益が日本一だろうが、このような人格者が社長をやることなぞ、どうかしていると思う。 大西郷と呼んだ、勝海舟が言っている。「昔の人は他人の失敗でも、自分がその責任を引き受けた。いまじゃ、あべこべだね。そんなことじゃ、世界に冠たるに相応しい独立国家など、つくれるわけがない。小さい、小さい、まるで蟻のようだ」というようなことを、さんざん嘆いたという。 国民の面倒をみるどころが、国民に面倒をみてもらうような幼児な奴ばかりだろう。 信頼というのは1日で築かれるものではないだろう。失敗や苦労を共に乗り越えたときに、愛情から湧き出るものだろう。 敬天愛人 西郷さんの座右の銘である。西郷さんの器の大きさが伺える。 では、信頼とはどういうことなのだろうか? 信頼とは、盲信であってはならない。愛と同じものであろう。信じないことができるくらい、信じあう。呼吸が合う、正に一心同体のことだろう。 信じるという行為は、相手側にあるのではなく、自分の中にあるものだ! 晩年、勝は、大西郷を評して、その大人物がわかるところは、「幕末の混乱が一段落したら、西郷がきて、江戸のことは全て、勝先生にお任せしますから、後のことはよろしく御願いします。」と言って、帰っていったことだという。あれには、大分参ったと、勝が愚痴っている。 人間は信じられると、逃げ場を失い、自尊心が生じるのである。 明治維新がなったのは、西郷が全て責任をとったからでもある。 信じることは救われることである。 キリストが弟子を連れて歩いていたとき、道端に犬の死体がおちていた。思わず、弟子たちは、顔をそむけたが、キリストは、まざまざと見て、「この犬の歯はなんと美しいことだろう」と言ったという。 醜悪なものにこそ、美が見い出される。 どんなものにも長所と短所がある。それは、こころの捉え方なのである。 例えば、職人は、堅気気質で、人格的には偏屈が多い。だが、偏屈だからこそ、人格を犠牲にして、美しい技術を創造させるのである。だから、職人は、人格をみるのではなく、その技術をみなければ、理解できないだろうし、信頼は生まれないだろう。 日本人ベスト1の「信長」という人格ではなくて、名前だけとれば、まんざらでもないだろう。信長に欠けていた資質は、長く人を信頼することなのである。日本人の命名法の意味が、よくわかる。戦国時代の武将は、とにかく、「信」とか、「親」とかついている名前が多いことでよくわかるだろう。 現代に欠ける言葉を1つ挙げるとするなら、「信」ということだろう。
2006年05月12日
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神秘学によると、カルマは有能な霊能者であっても、理解するのにほとんど困難だという。それはなぜかと、端的にいえば、人間の上位に属する神々たち、通称、神秘学では天使と呼ばれるが、位階(ヒエラルキー)でいえば、3階あり、3階のなかにそれぞれ3種の、3×3の計9種の、いわば位というべき宇宙の進化段階があるからで、それぞれの位階の天使たちが、地上の人間に力を及ぼしているからであるという。 つまり、理論物理学的にいえば、3体問題以上の9体問題を解くべき、解析方程式をつくり、代数的かつ幾何学的に厳密に解かなければいけないからなのである。そこには、特異点などという複素解析に用いる無限大の及ばない、具体的かつ一意的な更なる構造を探求せねばならないからである。 しかしながら、3体問題に厳密な解は存在しないことが、すでに数学的に明白であり、そこにすでに論理の矛盾点、数学の抽象化、唯物化がみられるのであり、だからゆえに、タブー視され、統計というようなどうしても線形近似でしか、記述表現できない限界上に、人類の頭脳(主に左脳)は直面せざるをえないのである(3体問題の研究は天体運動から言及されたのは意味深い、天体の動きは、古代から、神々(天使)の動きであるとされたからである)。 神はサイコロを振り給わず とアインシュタインが言ったのはそのとおりなのである。神は予測などしない。科学が厳密であるとするのなら、予測する時点で、虚偽が混じっている。予測とは、間違う可能性をも認めているからである。 神は予測などせずに、結果を善に導くだけである。 つまり、9種の善に導くための神の意志がある。 それらの、9つの神々(天使)の意志が、力として人間を、間接的に動かしているといえるのだという。人間は、その9つの方程式そのものであるといえるだろう。その方程式が書かれるところは、天使から逸脱(堕落)した堕天使(悪魔)であるという。 つまり、極言すれば、人間は、悪魔の掌中にあるのだ! 悪魔は、人間の遺伝を司る部分である。それゆえ、人間にはエゴ(利己心)が生じるという。 マニアックな話はここまでにして、では、歴史のなかのカルマの例えで、それを解説したい。 神秘学でいうと、ギルガメッシュ叙事詩の背景は、神々の存在を考えないと、その真意が掴めないという。 ギルガメッシュ叙事詩は、宮崎アニメのもののけ姫の由来を感じさせる神話である。ギルガメッシュという半神半人の主人公は、アシタカの由来である。ギルガメッシュは、何故半神半人なのかというと、ギルガメッシュの背後に、神々の導きが、あったからなのである。つまり、神々が、ギルガメッシュという個体を通して、人類の進化に間接的に作用したということを意味しているのである。 ギルガメッシュのような半神半人の存在を、ギリシア人は、ケンタウロスという下半身が馬で、上半身が、人間である像で表したという。だから、アシタカは、カモシカのような動物に乗っているのである。 これに対して、サン(もののけ姫)は、ギルガメッシュ叙事詩のエンキドゥ(エアバニ)に相当する。エンキドゥは、毛をはやした霊能力者として表現されている。ギリシア人は、毛を生やした象徴を、若い魂(輪廻転生の回数の少ない魂のこと)と示し、(物質)文明人ではなくて、霊能力者として象徴させたのである。 なぜなら、人間は地球に飼いならされると、毛がなくなってくるからである。毛深い人に、霊感というか直観が多いのは、その名残り、象徴ともいえるだろう。対して、毛が無い人はどちらかというと、論理的で、物質主義的である。 光に溢れる魂が、人体に毛を発生させるからである。人間は母胎のなかの初期では毛が生えているという、だんだんなくなってくるという。 なので、サン(もののけ姫)は、狼(毛=霊能)の娘として描かれているのである。 さて、神秘学では、ギルガメッシュ(アシタカ)は、輪廻転生の多い年老いた魂だという。何度も神々の導きにより、輪廻転生を指導されてきた存在だという。なんども転生したので、地球になじみ、霊能が失われてきたという。対して、エンキドゥ(サン)は、若い魂で、霊能力に溢れていたという。 つまり、神々は、一方で、地球で輪廻転生を続けさせてきて、いわば文明の王になったギルガメッシュ(アシタカ)のちょうどよい時期に、他方で、神々は、エンキドゥ(サン)を、地上に送りこむのである。 そして、神々は、地上王ギルガメッシュ(アシタカ)に、地上でない霊能(永遠の命)を、エンキドゥ(サン)という存在を通して、語りかけるのである。 「お前は、地上の王というが、それは死にゆく存在の王でしかない。ここに、天の子をおくる。その子の生なる(真の)命をみよ!」 もののけ姫では、森の神様(カモシカの形したやつ)の頭が、(文明による怨みや利己主義の)人間たちにより奪われたが、ギルガメッシュ叙事詩では、イシュタルという女神である。イシュとかア、ウという母音の表現は、古代では、神そのものの存在を表したという。だから、母音でよばれる名称に神々の名が多いのであるという。 ちなみに、古代シュメール人は、このような太古の言語そのもの話したという。太古の言語は、言語そのものが、一意的な存在そのものを示し、いかなる思想や多義的な意味をもたない。言葉そのものが存在そのものであったという。ここから言霊の意味が由来したらしい。 つまり、古代シュメール人は、言霊を話したのだという。そこから人間は次第に文明化され、多義的な意味をもつ言語が生まれていったため、民族により言葉が分かれ、その意味が一意的でなく、多義的で、他民族間同士で通じなくなってきたという。これが聖書にかかれたバベルの塔の意味だという。バベルの塔とは言語のことだという。 母音から、人間により子音が組み合わされて、この世を表現する言葉が生まれたのである。その代わり子音により、共通認識言語(バベル)の塔は倒され、破壊されたのである。 これが女神イシュタル(森の守り神の頭)が奪われた真相だという。 人間がお互い他民族になり共通言語を話さなくなったので、理解できずに争いが生まれた。戦争が生じ、殺人が行われるようになった。 それゆえに、エンキドゥ(サン)は、戦争の中、死んでしまうのである。 ギルガメッシュ(アシタカ)は悔やみ、エンキドゥ(サン)にあわせてくれと願う。もののけ姫では、若干順序が異なっていて、アシタカが負傷し死に目に合いそうになり、森の神様に助けられる場面があるが、これは、次に述べる、ギルガメッシュの秘儀参入法とでもいうべき、霊界をみる見霊を意味している。つまり、もののけ姫の森は、(天の)霊界のことなのである。 ギルガメッシュの場合は、永遠の命をもつという人物ウトナピシュウムに、会いにいくのである。神秘学では、この永遠の命をもつ人物とは、ノアの箱舟のノアのことであるという。別名マニとも呼ばれる。なぜなら、彼がマナス(霊我)の使い手であり、マナスこそが永遠の命の意味であるからだという。マナスの使い手なので、マニと呼ばれ、マニ教の創始者だともいう。 ギルガメッシュは、マニに合い、死んだエンキドゥに会うために秘儀参入法の教えを乞う。 マニは秘儀参入法、それは6日と7夜、寝てはいけないというものだったが、それを教えるが、ギルガメッシュはその教えを全うすることができずに、ついに、寝てしまう。しかし、ギルガメッシュは、エンキドゥに会うことをあきらめることができずに、懇願するので、代わりに、マニの妻が、7つの神秘的なパンを焼いて、それを食させることで、なんとか、エンキドゥに会うことができたという。 この秘儀参入法の意味、6日7夜寝ないでいられるとは、夜も昼と同じ意識状態でいられるということを意味する。昼の覚醒した意識で、夜も、内観できることをいう。端的にいえば、夜、霊界にいっている自分を意識をもってみることができることである。6日7夜というのは、地球の進化段階全てを表す。神秘学では、土星紀、太陽(日)紀、月紀、地球紀(前半火星紀、後半水星紀)、木星紀、金星紀のことと、その間のブララヤと呼ばれるいわば中間期を表している。最初紀と最後紀を含み7夜となる。 ギルガメッシュは、すぐに寝入ってしまって、その地球紀を超えて、霊的に上昇することができなかったわけである。かわりに、7つの神秘的なパンを食したというのは、人間のなかにある7つのチャクラ(蓮華)を開発したということである。つまり、進化を転生により見透かすことができずに、預言者になれずに、代わりにチャクラを開発し、どうにか見霊ができるようにはなったという。 ちなみに、神秘学ではこの7つのチャクラを、肉体、エーテル体、アストラル体、自我、マナス(霊我)、ブッディ(生命霊)、アートマ(霊人間)と分類している。キリスト=イエスが、ヨハネの黙示録で、7つの星と7つの霊をもつ人物と呼ばれるのも、このことを表している。キリストは全神人であるという意味なのである。 話がそれたが、ギルガメッシュはどうにか、見霊(不死の薬)を獲得し、エンキドゥに会いに、故郷にかえるが、途中で、蛇(悪魔)に会い、その見霊(不死の薬)が盗まれてしまう。だが、うつろながら、ギルガメッシュは、わずかの見霊から、愛の力を発揮して、エンキドゥに憧れ、エンキドゥも、ギルガメッシュの前に、その愛の力の間だけ、姿を見せることになったという。 ここから、七夕伝説の彦星と織姫の物語りも由来しているような気がしてならない。どこか、もののけ姫が七夕を思わせるような気がしなくもないだろう。 長くなったので、ギルガメッシュとエンキドゥの次の転生の話は次回に譲りたい。
2006年05月10日
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ヨハネの黙示録の解説から随分たって、挫折気味になっているが、そのうち、気が向いたらまたはじめたいと思う。つい最近は、他の「こころ」カテのブログの訪問に夢中で、かつ自分のブログの精進が疎かになっていることは確かであり、世間への愚痴というべき御託を並べてしまうのも、困りものである。 というわけで、最近は独学の勉強も、途絶えている変わりに、他のブログ訪問から、想起される問題を、自分なりに吟味し、わずかな時間から、書き下してみたいという気持ちにとらわれていたりもするので、そのような御託も、世間(とくに政事)への愚痴より、幾分マトモだろう。何を言っても無駄なものに、無駄を重ねる位より愚は無い。 で、あるブログで目にした「人間は万物の尺度である」というギリシアの哲人プロタゴラスが言った言葉に目がいった。 この神秘的な意味は、人間が現在みている物質世界の単位は、人間から出ているということなのである。例えば、フィート(足の大きさ)、マイル(人間が2時間で歩ける距離) 等など、人間は、人体を基準にして、世界を計ってきたという意味なのである。 元々、それは人間の生活を元に、その体験から割り出してきたものなのである。 太古のままに、有体にいえば、これは、人間が、周囲を霊化してきた結果ともいう。 それが、いつの間にか、天体観測の基準尺度の12進数から、10進数に変わったという。人間が日々の体験から離れ、数値の単位が抽象化されるにつれ、唯物論が台頭してきたという。10というと、人間の指の数と思われがちだが、どうも、そうではないらしい。確かに、人間の指は、10だが、なぜ10本で、10以上の数を数えることの意味が見い出せない。指を持ち出すのなら、左右片手片足が共に5本で、5惑星(水、金、火、木、土)からきているとした方が、遺伝という意味からも意義深いだろう。 このプロタゴラスが言ったことは、古代バビロニア人が、天空(神々)から、尺度を地にもたらし、古代エジプト人が、それを人間の身体へと模した尺度とした、人類文化の流れを、総括し、端的に表現したものだといえるだろう。 古代バビロニア人や古代エジプト人は、見霊により、神々を見ることができたので、天空から、尺度をもってきたという。そののち、それが困難になった時点、更には、古ギリシア人の時代では、わずかな秘儀参入者(見霊者)しかいなかったので、天空の代わりに、それを模した人体(第2の天空)を尺度としていったという。それが、神々の神殿の像から、個人の自我を表現するギリシア人の個人の像になっていったという。 実際、神殿は天空(神々)の尺度を基準としてつくられたという。なので、巨大な遺跡にならざるをえなかったわけでもあろう。ギリシア時代に見霊できなくなるにつれ、大宇宙の投影像が、小宇宙の人体になったように、それは個人のものへと、いわばミニチュア化していったのである。それはまるで、神話の神アポロン、ゼウスといった自我の集合魂ともいえるような、大きな霊的自我が、ディオニソス神のように個的な自我へと、分裂し、引き裂かれていくようなプロセスのイメージを表しているようにもみえる。 ギリシア時代とは、霊的神々の尺度を、地の人間的尺度として、像をつくり、個的に定着させる時代だともいわれる。つまり、神秘学では、ギリシア-ラテン時代になってはじめて、人間は集団から独立し、個人となり、自らの肉体を制御できる存在となったという。その自我が肉体へと取り込まれ、ローマへとつながり、物質化し、ローマ法という物質的な都市国家の個人を完成させたのだという。だが、同時に、個的自我の悪の面の利己主義というエゴの悪の面も生み出したという(スターウォーズ風にいえば、自我(フォース)のダークサイドというべきもの)。 法は人間の利己主義面から作り出されたともいえるだろう。その裏にその法をふるう権威がある。人間の尺度が、個的に絶対化された悪しき面でもある。それゆえ、ローマは、魂が物質下に最も下降した時代だといわれる。そのときに、キリストが現れ、キリスト教が布教されたのは充分に意味があることだという。そしてキリスト教は、真の未来の準備のための布教を行ったのであって、当時の布教は悪しきものに塗れていたという。 もともと、キリストやキリスト教という名でなくてもよいのだという。常に新鮮な愛の教えであれば、よいのだという(ここらへんがわからないところでもあるが…、ともかく、誰もわからないからこそ、常に新しくなり、形骸化しないとはいえる。まぁ、所詮、人間が考えることなど、神の考えには程遠いということだろう。だからキリスト教を語りえる人間などいない)。 神秘学では、われわれのポストアトランティス時代の中心文化は、第4文化期であるギリシア-ラテン文化期であるという。この後の我々の現在である第5文化期において、人類が、この自我の善き面と悪しき面に分かれる兆しがみられるという。物質主義に埋没したなら、そのまま、快楽主義の虜になり、物質世界から離れることはできず、依存し寄生し、永遠と現世に執着する悪しき存在になるという。 もし、我々の現代の第5文化期から、かってあった見霊意識を、エジプト-バビロニアの遺跡から、かってあった第3文明期を取り戻しえて、再び見霊に目覚めたならば、次の友愛の第6文化期において、その人たちは、友愛のネットワークを世界につくりあげるという。 まぁ、後半がまた、一見すれば、わけのわからない話になってしまうのだろうが、エジプトの遺跡をみて、どこまでその想像力を沸かすことができるか?ということだけは確かだろう。エジプトの遺跡には、秘密が隠されているというのは、以上を含めこれまで述べた霊性への回帰、神々への感謝や宇宙の進化への貢献とでもいえるべきものなのだろう。SFではあれこれ唯物的に解釈するものが、巷に五萬と胡散臭く流れているが、ガセだからこそ、流す方は生きながらえているのである。 どうも、真実を語る者は、命により汲み取られる(短くなる)というのは本当らしい。どんな発言でも、人間が語ることには、何割かのウソがあるから、生きながらえているともいえるだろう。ましてや占い師が、現世で贅沢な身分でいられるのは、ウソばかりである証拠でもあるだろう。真実を語ってしまえば、神様は、その存在をほおってはおかず、たちまちに天界に連れ戻すに違いないからである。
2006年05月08日
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いまの日米関係を、端的に表すとしたら、ドラえもんのいないドラえもんの世界といえるだろう。ジャイアンが米国で、のび太が日本である。スネオは、アメリカかぶれの功利主義な日本人。静香ちゃんはちょっと想像できないが、韓流ブーム等から、立場的に、韓国あたりだろうか? ドラえもんの世界は、ジャイアンの非道な弱いものいじめを、ドラえもんが、魔法ともいえる、裏技的な未来の科学技術で、どうにか解決してしまう漫画である。のび太は、ドラえもんがいる限り、甘えてしまい、独り立ちできないでいるが、最後、ドラえもんが去るにあたって、決心する結末を迎える。 日本を、のび太に例えると、いつまでたっても、大人になれない子供、これはジャイアンもそうだが、いつまでも子供でいるような世界のことを意味するだろう。 要するに、大人の関係ではない。幼稚なその場限りのお互いの馴れ合いの利己的な関係でしかない。どちらも、国家の洗濯が必要なときに、洗濯するといいながら、汚し荒らしまくった、幼稚でお馬鹿な指導者が、トップに就いたからでもあるだろう。 遊んだ後の不始末は、自分で処理し、整理整頓するのが、大人の関係であろう。 お互いが相手の立場を理解し、思いやるというのが、大人の学びであるはずだろう。 大体、自国の軍隊を、手前らの兵站(予算)で動かせない軍隊などは、独立国家ではなく、単なるチンピラの非道なヤクザと同じだろう。ヤクザはショバ代を取るのが目的であり、タカリである。軍隊とは、それを動かす能力こそが、国家の力量の表明であるはずだからだ。イラクに秩序をもたらすどころか、自分たちの方が無秩序になり、国内での犯罪激化を生んでいるのに、気がついていない。益々、治安は悪くなり、愛国心は廃れる。米軍が堕落してしまえば、早い話、自衛隊の方が待遇がよいから、自衛隊に編入してしまえば、いいだろう。どうせ、自国には、セレブをいいことに、自分たちは兵役を回避し、なんだかんだ言って保護され、贅沢している成金貴族の類のクセに、他にはその微塵もない愛国心をひけらかし、先導するだけなのである。中世でならまだしも、現代での貴族ごっこもいい加減にしてほしい。 独立心のない腰抜けたちの言うことを聞いているのは、待遇が補償されているからだろうが、そのお金も、日本から分捕って、出ているのだから、どっちが直接的か、時が解決してくれるだろう。システムというのは老朽化すると、直接的になっていくのである。 アメリカという国はどこかどうやらマフィアに牛耳られてしまった感がある。マフィアはいなくても、そのような荒んだ金と名誉の堕落した精神が宿っているようだ。 私は、80年代のアメリカは好きだったが、いまのジャイアンのような弱いものいじめに堕落したアメリカは、みていて吐き気がする。 現実が全てと金や名誉獲得に齷齪している国家が、キリスト=イエスを信じているなぞ、人を馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。アーメンであるキリスト=イエスは言うだろう。熱くもなく、冷たくもない、なまぬるい、金と名誉の亡者には、永遠の死こそ相応しいと! ラオディキアの教区にいるアメリカ人たち、耳あるものは聞くがよいだろう。 現在に富と名声を求めるものは、永遠の死を受けるのに値するだろう。
2006年05月08日
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一昔前に、血液型性格分類法というのが流行った。血液型分類法であれこれ性格をあげつらえると、決まって科学的ではないという批判が飛ぶ。 確かに科学では実証されていない。だからといって、私は、科学的なことを進んで書こうとは思っていない。むしろ、科学的でないから、自由に自分が思ったことを書いていきたい。 第一、科学的であろうとするのなら、実証したものから制限を受けて、極わかっている当たり前のことしか語ることしかできないからであるし、官僚の眠くなるような討論そのもので、科学的に書きたいのなら、学会に行って、発表すればいいだけの話である。そもそも、ブログに書く意味さえないだろう。 だから、科学的でないといっている奴こそ、あんたは場の空気、自由な討論を楽しむというものを理解しない専門馬鹿ですね?と言い返したいのである。そういう奴に限って、全く科学的でない思い込みだけの嗜好生活を営んでいて、科学的というよりは、権力志向で、権威主義、他者の忠実なアドバイスを聞くよりも、なにより自分の利己主義からくる自己主張を貫き通す単なる我儘人間であることが多い。全てが全てではないが、少なくとも、6、7割の科学主義という者に、私の経験上、多いことは確かである。 まあ、それも私の観点でしかないが、 どこぞの某大学名誉教授は、大学院入試のときに、ズルをして入学したということも聞いたことがある。この人物は何かと科学的と発言する名物教授であった。まぁ、科学者だって人の子なのだから、それもわかるが、それなら、少なくとも人の子の意見として述べてほしいものである。他者の意見を否定するまえに…。自ら改めるべきだろう。 私には、現代の「科学的」という言葉を持ち出す人間は、きっと、中世では「教会的」という言葉を持ち出す、人種差別者に類似していたように感じられる。 だから、私は、もし、「科学的でない」と主張する肥満の人や喫煙者であれば、「あなたの体型や趣向生活の存在そのものの方が、科学的でないことを物語っていますな」と言うだろうし、既婚者ならば、「科学的でないという前に、相手を、しっかり科学的に選んだ結果ですか?それとも、計算ミスでも犯したのでしょうか?」と問うだろう。そして、「結婚前と後でその効果を科学的に立証してみなさい。それでも充分に科学的という論拠を見い出せるのですか?」という下らない命題を出すだろう。 米国人がもし「科学的でない」という発言を持ち出したなら、「あなたは科学的でないという理由だけで、神を信じていないのですか?」と問うだろう。そして、「もし、科学的でないという理由だけで、宇宙が存在しないとするのなら、あなたの存在はどこからくるのですか?」と問うだろう。宇宙の存在が科学的というのなら、サルにでもわかるように説明して貰えばいいだろう。そして、ダメ押しに、「どうもわからないですね。あなたの科学者に足る説明能力が足りないからじゃないの?本当に学生に教えているのですか?」と疑いの眼差しで一言付け加えればいい。科学的と称する連中には、科学的な難題を浴びせれば、少なくとも少しの間、黙らせることはできるだろう。それでもダメなら、卵が先か鶏が先かを問えばいい。 前置きが長くなったが、本題に移りたい。 私の血液型はAB型であるのだが、つい最近、AB型人間を傍からみていて、非常に勉強になった。AB型は、よく他から理解されにくい意見や行動をとるために、変人、二重人格と呼ばれることが多いように思われる。 自分のなかではよくわからなかったのだが、私の周囲のAB型人間を通して、最近わかったことがある。どうやら、AB型人間は、自分のなかで独り善がりなルールをつくっている傾向があるように思われたのである。 AB型人間のなかでは、何か自分だけのルールが存在しているようだ。それを、決して他者に語ろうとしないので、なお更、周囲には理解できないものとなるようだ。 一番わかりやすいのは、文章である。良く言えば、独創的な表現、悪くいえば、独り善がりの解釈の言語を使うのがAB型人間の特徴のようだ。だから、私の書く文章は、よく訳がわからないといわれる。他者から訳がわからないといわれると、自分のなかでは、暗黙のルールとなっているので、どこがどうわからないのかが、わからないような、わからないのトラップに入ってしまうのである。つまり、それこそ自分独りで成り立っているルールだからである。 その自分独りのなかで成り立っているルールを、他者からわからないといわれると、AB型は全部が全部否定されたような被害妄想になり、どうやら、他者からみれば、どうでもいいような事に拘り、抵抗してしまうようだ! そしてまた、その自分のなかで暗黙糧に成立しているルールが、非常に(良くいえば)独創的であるために、他者に理解しがたいものとうつるのある。だから、それを説明する為の言葉が少ないと、益々、理解されがたいものとなるようだ。 だからして、AB型は、コミュニケーション能力を身につける必要があると思われる。説明してもわからない独創的な独り善がりなルールであっても、何とか説明すれば、その説明のなかで、例え誤解であっても、他者に理解される余地も生まれるように思われる。 また、AB型は、他者に説明をするのが苦手な人が多い。AB型は稀有な存在にもかかわらず、誰でもその考えは基本で、わかっているかのような前提で話を始めるようである。稀有な存在であるからこそ、益々説明すべきものなのに、まるで、A型のように、話をはじめるのである。これに対して、B型は自分のことの関心しか説明しないので、かえってわかりやすい。聞く耳を持たずに会話に耳を傾ければいいだけだからである。ただ頷いていればいいし、会話のレベルは、さして差し障りのない、在り来たりのものが多いだろう。このような演技はO型人間が得意である。だから、B型とO型は空気で会話しているようなもんだろう。後で何をしゃべっていたかと聞けば、「なんだっけかな?」という言葉が返ってくるだろう。 そこいくと、割とA型人間は標準的で、繊細で記憶力もよい。A型といっても、その強弱で2種に分かれる感じはある。一番驚くのは、A型人間が集まるとA型人間の集合のなかで共通のルールが出来上がるようなところがある。 A型人間は意見を合わせるのが巧みであるようだ。日本人が組織主義なのは、もしやA型が多いからなのではないか?と思うことがある。 日本人気質にどれくらいA型が寄与しているのか、調べてみたいものでもある。 以上をある程度まとめてみると、A型は、関心は自分よりも他者や外に向いていて、B型は、関心が、他者よりも、自分や内に向いている傾向にあるようにみえる。A型は、集団になると、その他者への関心がある程度一致し、ルールができる。B型は、自分の関心のみが鼻からルールであり、自己主張が強い。AB型は、そのA型とB型の部分が合わさって、それが自己完結したような感じである。そして、O型は、よくいえばバランス型で、悪くいえば個性がなく、八方美人で、その場の印象で決める日和見主義といえる。 A型とO型のカップルは、うまくいっているのが多いようだ。A型は、外向きに関心をもち、相手の意向を取り入れてルールを作るのが巧みで、O型もあまり自己主張もなく、バランス型なので、相手に任せてしまうようである。 勿論、これは多いという傾向をいっているのであって、例外はある。それはどんな統計や確率であっても、100%ではない。まして人間の性格は。4つに分けるように単純にはできていない、ただ大まかにみている粗い近似なのである。 なにより、人生でわかることなど氷山の一角なのである。氷山の多くが海中にあるように、海上に出た部分で全体を判断することこそ、愚の骨頂はないだろう。しかし、全体ではないが、表に出ている部分だけはみることができる。 人生の全てを判断することはできないが、ほんの僅かやひととき、些細な人間関係の改善点など、あるいは、忍耐を学ぶのには有効であるように思える。 あの人はAB型なんだから仕方がないんだよねぇ?と思えば、その人を批判し否定するよりも、ちょっとした愛情も沸くでしょう? そしてその人に興味をもつこともできるだろうしねぇ? これもAB型の独り善がりな解釈かもしれませんが…。
2006年05月02日
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歴史上の人物を真似るものは、歴史を理解できないし、その人物をも理解できるものではない。もし、信長を気取ろうものならば、信長に笑われるだろう。 信長を真似るものは所詮道化にすぎない。単なる信長ごっこをしている、そっくりそのままのうつけであろう。つまり、信長の本心などわかろうはずがないだろう。信長は生涯うつけと呼ばれた。そして、うつけを演じ続けた。だから生涯四方八方に敵をつくった。つまり片時も休む暇などなかったのである。実際、最後は腹心の明智光秀に寝首をかかれて最後を遂げたのである。 信長を演じるどこかの総理は、年収4千万も貰っているという。合理的にいえば、年収500万のサラリーマンの8倍は働かなければ、辻褄が合わないだろう。勿論、休む暇や遊んでいる時間などはない。年収500万のサラリーマンが、1日3時間働けば、寝る暇もなく丸1日働かなければならない。それが合理主義というものなのである。 実際、戦国時代の武将などは、休む暇や寝る暇などなかっただろう。それこそ、配下に疎まれるだろう。皆、戦国時代の武将なのである。現代のような平和ボケの軟弱モノではない。 もし、遊んで贅沢呆けていたら、誰がアホらしくて戦場などに向かうだろうか、明智光秀でなくても、誰でも喜んで主君を裏切っただろう。実際、戦国時代は、気に入らなければ、主君を裏切り自由に変えたのである。 戦国時代は、このように、人の上に立つにはやはり実力が第一だったのである。人間は平等である。人の上に立つには、上に立つだけのものがなくてはならない。 現代は、どうやら平和ボケか、旧来の縁故主義が災いし、二世、三世といった、表向きだけしかない中身空っぽの阿呆が、のさばるような堕落惰弱した組織が幅をきかせ、どこもごっこをして騙しているような体たらくで、指導者はボンクラばかりで、国民が奴隷の如く搾取されているというアベコベの関係が成立しているといえるだろう。 上にいけばいくほど馬鹿になる。 これは勝海舟が、アメリカから帰ってきて、日本の徳川幕府を語ったものである。日露戦争のとき、児玉大将も、部下に煙草の火をつけさすようなことをさせるから、陸軍は軟弱になるのだと愚痴ったという。 日本の門閥主義が、国家体制を堕落させるのである。徳川幕府しかり、日本陸軍しかりであろう。 憲法というのは、指導者を戒めるためにあるのである。指導者はともすれば国家を私物化し、利己主義を抑制できずに権力を濫用する立場になる。もし、そんなことをしようならば、国家などいくつあっても足らないだろう。これまで日本をつくってきた指導者に申し訳が立たないだろう。そのために憲法がある。 たしかに形上は、敵国アメリカに、敗戦国として与えられたものであろうが、それは日本という国家の指導者が、自ら蒔いた種なのである。だから負けたのである。 形はどうあれ、指導者が制御力を失って、権力を濫用しないための、監視機構となったのである。戦後はアメリカであった。それぐらい、他国に監視されなければならないくらい、日本の当時の指導者が、堕落していた証拠でもある。 その監視側のアメリカも、あのような二世のボンボン大統領が出てきて、実力主義のアメリカがどっかに消えて、堕落した二世三世の門閥主義社会になり、堕落してきた。 その落第大統領が大学生ですでに落第していたというのに、大統領になって、国家が世界から落第点をつけられたのが昨今の現状だろう。 日本の総理なぞ、皆買収されてしまい、点をつける正統な評価基準さえ存在しない。 真の指導者であるなら、誰が評価しようと高得点でなければ、人類の普遍的代表とはいえないであろう。そのような理想がないものが指導者になることなど、それこそ100年早いだろう。そうでなければ、国家というものをあまりに軽く見すぎているだろう。 神国日本なぞ、馬鹿馬鹿しくて、お笑いの対象でしかなくなるだろう。 指導者というのは、誰がみていなくても、聖人君子でなければならないのである。もし指導者が、サボろうならば、その部下に何倍もの害が及ぶだろう。下っ端がちょっとサボるのと訳が違うのである。サボリたいなら、断じて指導者になるべきではない。 それが、日本人の真の恥の文化だと思う。 昨今の有名人をみていると道化師ばかりで、真のセレブというのなら、休んだり遊んだり、ましてやプライベートなどあってはならないのである。 勘違いセレブのなんと多きことだろうか? 自分にこそ厳しくあれ、国民に優しくあれ。 古今東西、指導者とはそういう立場の責任者であるべきだ! もし、信長がいたなら、信長気取りの人物に言うだろう! 「サル、お前はサル(秀吉)にしても、草履取りもできない出来損ないの猿真似でしかないな。それなら、人前で芸でもしていろ」と!
2006年05月02日
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