全21件 (21件中 1-21件目)
1
最近なんだか、仲間由起恵が大ブレークしているようだ! 「ごくせん」だか、「げきせん」だかのドラマは、結局みなかったのだが、「トリック」というなんだか、一風変わった題名そのもののトリッキーな喜劇ドラマと、山内一豊という戦国時代では、派手の代名詞の信長旗下のなかでも、極めて周りの引き立て役といった方がよいような、地味な存在の女房役で、これまた大河ドラマに相応しくない、「功名が辻」とかいう司馬の著作のなかでも、極めて俗的な題名で、なんとか成功しているから不思議でもある。 「トリック」は、阿部寛演じる何処かトボけた大学教授との、ボケ絡みが面白いのと、ストーリー性はともかく度外視して、軽妙な脚本、セリフが面白い。一種ホラーを思わせるが全くホラーではない肩透かしで、異様な映像と、視聴者にボケを噛ましまくる乙な展開がよいと思う。 「功名が辻」は、舘ひろしの信長がハマっていたし、坂東の光秀、柄本の秀吉がなかなかよく、主演の上川がまた風采の上がらない地味な存在というとこも、なんだか、史実を彷彿とさせて面白い。三谷の義昭は、結構笑えた! こちらは脚本というより、配役がよいと思う。ストーリーを無理に一豊絡みにせずに、一豊は、あくまで他の引き立て役というのを地で行った方が良い感じでもある。 自分独りで盛り上っていても馬鹿丸出しなので、そこで、仲間由起恵の女優としての印象ぶりを、極安易な市場調査というか、近くの女性に聞いてみたところ、大根ぶりが妙にハマっているとの感想を得るに至ったのだった。 うぅ、確かにそういわれてみると、何処かわざとらしさ丸出しの大根役者ぶりのような気もする。やはり女性の見方は細かいな~と思いつつも、その大根が、妙に、キャラにハマっているようにみえるのだから不思議でもある。あのちょっと浮いた感じが、ドラマの斬新さに直結しているのだと睨んだ! そのことはともかく、「トリック」をみていて、これは是非と思い浮かんだことがあるので、このブログに思わず書き込んでしまう。それは、来年(中居はもはや賞味期限切れの感じで今年でもいい)のJRAキャンペーンのタレントに抜擢するべきだと思ったからである。 仲間と阿部のなんとなく夫婦漫才のような感じで、馬券予想家の予想トリックをダメ出ししてほしいと思うのであるぞよ! 「お前の予想はきっかりてっかりがっぽりぼったくれ、お見通しだ!」と例えば、井崎脩五郎にダメだししてもらいたい。 「うっけけけっ、バレたか~っ!」とか言って逆襲されそうな感じがほどよくよいぞ! 水上学や亀谷なんかと、阿部が血統予想合戦を行うのも面白そうだ! 「うまっち」とかいうフジのいまだ垢抜けない競馬番組のアンタチャブルに殴りこんでもいいだろう。しかし「トリック」はテレ朝他局なので恐らく無理だろう。 春の珍事か、環境破壊のせいか、東スポの清水成駿の予想が調子がいい、ここらへんで、「お見通しだ!」を咬ましてくれてもいい。 競馬と全く関係ないけど、嘘吐き占い師に、「お前の占いは全てお見通しだ!」といってもいい。 とにかく、トリックで、1回位は、JRAの宣伝をやってみてほしいな! ついでに、私は馬券で全てお見通し予想をしてみたい! そして最後は「JRAよ、お前のやることは全てお見通しだ!」 決まったぁああ!(これじゃ全てパクりじゃないか?)
2006年06月29日
コメント(0)
日銀総裁の資産が公開された! 全く庶民感覚を麻痺させる数字の羅列であった! そのなかで、唯一、庶民感覚らしきものは、「年金」という文字だったのだが、日銀総裁足る高額所得者が、どうして年金受給者なのか、全く理解困難だった!! 全くアホらしいというか、庶民を馬鹿にするにも、いい加減にしてほしい!!! 年金受給者のイメージといったら、定職は無く、細々と倹約しながら、決して目立つことなく、わずかな余生を、人生をふりかえりながら、わが人生に悔いなし、あるいは悔いることなく、淡々として生きる彫像のような老人を思い浮かべてしまうのだが…。 そんなイメージ何処吹く風かといわんばかりの、老いてもなお強欲な、人生哲学よりも、傲慢で、エゴイストな実像であることに、高齢化ニッポンの危うさを感じさせられた! おいおい、墓場にまで、カネをもっていくつもりなのか? それとも、親の脛かじりで、アホで馬鹿な独立心もないボンクラ息子や娘に、遺産でも分け与えて、ますます、堕落した精神の持ち主にして、これからを背負うニッポンの若者の軟弱化を手伝うつもりなのか? 何も貧乏になってまで生活しろとはいわないが、60年も生きてきたら、自分が最低どれぐらいのおカネが必要なのか、わかるはずだろう。必要のないおカネは、社会に還元するか、寄付でもするのが、大人足りえるモラルだろう。生活から何を学んできたんだ! 節度を知れよ! 全く理解不能である。 この馬鹿総理にして、この日銀総裁ありといわざるをえない。 こんな幼稚な役目しか行えないから、世界から馬鹿にされるのだろう。 日本サッカーが、蓋を開けたら、子供騙しのサッカーしかできなかったのと同じであった! こんな日銀総裁なら、誰がやってもできるだろう。好き放題のインサイド情報で、金儲けしてればいんだから! このボンクラがほざいた言葉が更に、極め付きだった。 「私は素人なのでわからない」 日銀総裁足るもの、国家経済の金庫番、舵取り、いわば船頭さんが、「素人だから」、なんていわれちゃ、乗客員はどうしたらいいんだ! 開いた口が塞がらず、たちまち救命ボートに殺到するしかないのか? 正に常軌を逸した発言だった! 「馬鹿」と言われる方が、まだマシだと思われた。 素人なら、間違ってもいいのか? おいコラ、しっかりとした精神をもてよ! それ以前、素人が手を出したらいけないだろ? 日銀総裁は、金融資産で儲けてはいけないと法律に明記する必要があるくらい、わざわざ幼稚で馬鹿な判断基準を明記しなければいけないくらい堕落したのか? こういう専門馬鹿がでてくる社会は深刻であるといわざるをえない。モラルに向かい近づこうとする向上する精神すら感じられない。 こんな外見だけ大人なのが、国家の模範だから、たまったもんじゃない。もっとしっかりしろよ! 人間関係の馴れ合いゴマ擦りばかりで出世するんじゃない! もはや絶望しかない。絶望と虚無感しかない。全く他人事である。お前は一体なんの責務を負っているのか? 聞きたい! 一体、どういう人生観を持っているのか? これまで、どんな苦労や、苦難を克服してきたのか? 聞きたい! この人たちは、大体、人間として最も大切な資質、品格を失っているのだ! この5年は、本当に無駄だった! 日本の破滅を更に加速させたといえる。少子化は進み、高齢化は深刻だ!! もはや遅きに失した。 国家は崩壊し、類似した精神からなる新たなる共同体が再生されていくであろう。 民族が、民族の精神を失ったときからそれははじまっていたことである。民族精神が形骸化し、国家となり、国家は土地、資産にこだわり、境界線が明瞭になると、対立が生まれ、国家は武装し、闘争に明け暮れるようになる。 闘争で束の間の勝利を得た扇動者は、モノのように、使われ捨てられていく。精神を失った人間は、もはや人間ではない。闘争の道具にすぎない。共産主義、資本主義とは正にそのような闘争の道具なのである。そしていまや本来の意味を離れた民主主義が、大手を振って世界を我が者顔で闊歩している。 民主主義を、数の論理だと思っているボンクラな頭の持ち主は、お互いに戦うことしかできないであろう。いかに洗練したゲームで色づけしようとしても、所詮、それは闘争でしかない。 ただただ、わかることは、我々は今破滅に向かって、闘争のなかで、絶望の真っ只中にいるということだけだろう。 この国の病状は益々深刻になっていくだけのようだ!
2006年06月28日
コメント(0)
神秘学によると、ドッペルゲンガー、境域守護者は、魂の進化を見守る役目をしているという。魂が充分に進化していないと、魂のなかに、かって肉体を有したときの、地の重力的感覚が残ってしまっているために、死に際し、重力に依存した肉体を失ったときの、無重力感、精神的には、虚無感や虚脱感、途方もない孤独と恐怖感が一気に襲ってきてしまい、魂が魂自体の存在の根拠を失ってしまうのを、阻む役割をするという。 ドッペルゲンガーの存在がないと、魂は底なし沼に陥って消えていくような精神的感覚を味わうという。ドッペルゲンガーは、光を失ったときの瞬間の暗黒、虚脱感に、前もって、あらかじめ黒幕をみて、目を慣らして、一気の暗黒、虚脱感に、備え、緩め、調和させる下準備の役割ともいえるだろう。 神秘学では、魂の働き、認識の領域を、精神(ガイスト)の意識領域、精神下(ロゴス)の無意識な領域、そして、そのどちらでもない認識を超える領域として、主に3つの領域で表しているという。そして、それぞれを、聖霊の領域、子の領域、父の領域としているという。 これを大海で例えると、大海の表面の波が、精神の意識流域で、聖霊の流域、その表面を波立たせる大海の底からでてくる力を、精神下の無意識な流域で、子の流域とするようなものだという。 精神の意識的な部分では、意識できるので、他者と同調や協調が行える。自他共に分かり合え、理解されうるもので、公的に体系づけられるものだという。だから聖霊の領域では、人は協調し、共同生活を行えるのであるという。それは魂の意識領域だからだという。恐らく、ここから西洋のパブリック、公教的な意味が派生したのであろう。 これら、魂の聖霊領域とは異なって、子の領域になると、精神下の無意識な領域なので、個人的になってしまい、個に委ねられ、個が各々で責任を負うことになるという。それはあくまで個的な意志の問題であり、あくまで個別なのであるという。だからそれは他者が触れられない、あくまで触れてはいけない無意識な独自の聖域のことであるという。恐らく、ここから西洋のプライベートという私的な意味が派生したのであろう。 この私的な部分、魂の子の領域、これは魂の意志の問題であるので、精神的には感じられない、無意識な領域なのである。本人は、精神的において意識的に自覚できない代物なのである。 この点から考えれば、プライベートなことを、意識的に行えるはずはないのである。 例えば、プライベートなことは、好き嫌いの問題であり、何故好きで何故嫌いかと意識的に問うことはできない種のものであろう。だから、意識的に行った行為は、全てパブリックで公的なこととみなさないといけないだろう。それこそが、魂の聖霊の領域なのだから。 ある首相の、神社参拝などは、全て意識的なのであるから、プライベート、つまり私的な部分は存在しないといえるだろう。神社参拝を意識的に行うという行為こそが、なかば自己に対する強制であり、聖霊領域から、子の領域に土足で踏み込む行為なのである。 参拝したいときに参拝するような無意識な魂の営みが健全であり、魂の子の領域から、聖霊の領域への自然の成り行きなのであり、それは何も本来神社で行う必要のないものである。神社にいかないと、参拝した気にならないのであれば、もはや自発的な意志ではなしに、なかば意識的に魂を強制していることであり、参拝する意味もないだろう。 他に知られない善意こそ真の善意であり、他に知られるように意図されたものは偽善であり本来悪なのである。積善するならば、人知れず天に積みなさいと、キリストは言う。それこそが、魂の子の領域から、魂の聖霊の領域への健全な魂の進化の道のりなのである。 いやはや、現代人はこのような歪んだ魂の状態にあるために、魂からくる気がつかない病に苦しめられることになるだろう。そのとき、痛みや苦痛として現われればよいが、歪みが痛みと苦痛にならない場合は、とんでもない自体、もはや境域の守護者も保護し得ない、魂自らが魂を束縛するような錯誤の迷路に陥り、なかば魂の向上、進化を諦めざるをえない停滞の暗黒の世界へと深く埋没していかざるをえないだろう。 現世において、王となるものは注意すべきである。キリストが言ったように、キリストがこの世の王でないように、人間も、本来この世の世界の住人ではないのである。だから、キリストは自ら進んで、この世で最も位の低い十字架刑に架かったのである。 この世の王は、悪魔のことであることを肝に銘じておくがよかろう。だからこそ、あの仏陀が王として生まれ、その位を捨てたのでもある。悪魔の誘惑に打ち勝つものこそ、真の勝者なのだ!
2006年06月27日
コメント(0)
ドッペルゲンガーとは、神秘学で、境域守護者と呼ばれる、いわば魂の守護者のことをいう。現代人は、肉体に深く個的に依存した生活を送るようになり、あまりに物質に深く結びついているので、太古のように、精神世界をみることが、もはや不可能になったために、物質世界の感覚無しでは、魂が深刻な虚無感と虚脱感に襲われかねなく、魂がショックをうけて、自ら砕けてバラバラにならないために、境域の守護者が、厚いベールで、精神世界を直接みないように、保護し見守っているという。 現代人は、あまりに物質的思考が身についてしまっているのである。この物質的思考は、鉱物世界で創造活動を行うのには都合がよく、現に唯物的科学を打ち立て、物質的に快適な生活を手に入れた。その代わりに、人間の魂が、深く物質的肉体と結合するようになり、神秘学でいうエーテル体と肉体の結びつきが堅くなってしまったので、周囲を精神的に見通す力が弱くなったという。そのために、人間は、周囲を機械的にみるようになったといえるだろう。 そしてもはや、生命体をも、機械的な物質体として捉えるようになってしまっているといえるだろう。 神秘学では、生命体は、物質的観点からは捉えることが不可能なものであると定義されている。 生命体は、鉱物のように、死んだものではないからである。 生命体は生命体自身で、その存在を意味づけるものなのである。生命体を、言葉で表わすことは困難だが、目にはみえない精神のような働きとイメージするしかない。生命はそれ自身で1つの存在であり、その働きをなすものであり、そこから分かれ、排除されたものが、死であると捉えることができるだろう。 だから、生命と死を、精神の活動としての意味で、言葉で表すとしたなら、例えば、自分の尊敬し、好きな人に好んで自らを捧げたが、相手に受け取られずに、拒否され、その拒まれた自らの犠牲が、自分に再び戻ってきたために、それが変質し、相手への憧れや想いとなり、少しでも相手に近づこうとする運動に変わったものが、生命であるだろう。生命は憧れに少しでも間接的に近づこうとする精神の営みで表されるだろう。そして、死は、その拒まれた自らの犠牲を、自らのなかから排除しようとするものであるだろう。 だから、生命は、憧れに少しでも近づこうとする間接的な運動であり、死は、自らのなかから拒否された犠牲を、排除しようとすることだろう。 ここに、現代人があまりに、唯物的な思考をするために、精神を度外視して、生命を死と捉えてしまい。自らの拒否された犠牲を、あまりに強烈に排除しようするために、憧れの対象に徐々にゆっくりと時間をかけて間接的に近づくのではなく、直接的に排除しようとしてしまうのである。 つまり、現代人は、死をもって生命を否定しようとする傾向に帯びているのである。 これは現代人の魂があまりに肉体に堅く結びついてしまったために、肉体の死が全てで、もはや肉体の現実を受け入れることができずに、あまりに恐怖をもって、死を捉えてしまう傾向にあるといえるだろう。 肉体とは、正に死の現実なのである。なぜなら、肉体は、生きているときに、自らを犠牲として、憧れの魂に捧げたが、死と共に、魂に拒否され、その骸となり、それゆえ、魂がいなくなると、死の現実として、粉々に砕けて地にかえって行く存在なのであるからである。何より肉体は、魂なしでは生きられない存在なのである。古代ギリシアでは、それは当たり前の原則であったという。
2006年06月27日
コメント(0)
神秘学では、魂で、世界をみることが大切だといわれている。現代人は、あまりに、感覚から世界をみているので、表面にある物質世界しか捉えていないという。魂で、世界をみることができると、物質世界のなかに、精神世界が横たわっていることがわかるという。 この世は、物質世界の奥に潜む精神世界よりつくられるという。太古の人々は、その精神世界をみれたので、神々の世界と呼んでいたという。勿論、いまでも、魂を、太古のように、神々を感じるように、純化すれば、みれるという。魂の純化は、かって、お釈迦さまが、説いた八正道で可能である。勿論、この教えは現代でも、仏教のような修行を通して可能だが、しかしながら、太古とは、現代人はあまりに身体が異なり、より肉体に魂が囚われ、あまりに遺伝に依存しているために、それは非常に困難であるという。 まずは、考え方から改めなければならないという。何らかの分析的で、唯物的な分類思考や、学者的な知識獲得法では、物質世界を彷徨うばかりで、その奥の真実に達することできないという。このような表面上の知識ではなく、自らの魂のなかの体験や経験から、生じる官能や感情、意志をもって、自ら創造する活動を通して、何者にも依存しない、自ら生み出す思考法を身につけないといけないという。 だから、我々の魂のなかに神々を感じることができなければ、神々をみることはできないという。表面的な知識や論理的武装は、悪魔の成せる業だという。知識よりも、イメージが大切だという。瞑想はそのような神々のイメージを形象するように行われてきたという。 そうすれば、物質世界が表面であり、その奥に潜む、神々の働き、精神的な世界がみえてくるという。 例えば、その構図を、宇宙の膨張のイメージで捉えるならば、風船の表面に銀河を描き、風船が膨らんでいくことで、宇宙の膨張を表すことができるように、風船の表面が物質世界であり、風船のなかの空気やその膨張力が、精神世界であると捉えることができるようだ。
2006年06月26日
コメント(0)
案の定、ブラジルにこっぴどくやられた! しかも、ブラジルの1.5軍といわれるメンバーにである。しかも、涙がでるほど無様な負け方だった! 中田英の涙がそれを表していたといえる。今大会、中田英は、思ったようなプレーが全く出来ていなかったといえる。老いたのを隠そうと踏ん張ってはいたといえる。 結果があまりに無様だから、悲観的にならざるをえないが、前半は、それでも、なんとか試合にはなった。まぁ、それもブラジルは前半は相手の様子をみるのに使われ、ほとんど無理な攻めはしないのが伝統のようなものなので、ほんの気休め、慰めでしかないが…。 あれこれいってもしょうがないが、日本は人気先行の実力不足といわざるをえないだろう。それは選手が一番実感しているところだと思う。こういう実力差は、実際、強豪国と当たって経験してみなければわからないことなのである。痛さを、口で言って、頭で考えても理解できないように、この痛さは、実感してみないとわからないからである。 ブラジルに当たらずに、騙し騙しでいくより、ブラジルに当たって真の痛さを味わい、現在の足りない部分を知るべきだとのことなのだろう。 ワールド杯は、どこかの御馬鹿が言った、プロのなかのプロの大会なので、どうしても、結果が全てといわざるを得ない面がある。 だから、結果を出すための準備は、ここ2、3年の問題ではない。最低10年単位で、選手はユースの時代から、トップを目指して取り組む姿勢が何より大切だと思われる。 10年といえば、ワールド杯は4年ごとなので、大体3大会にあたり、ユースから育成したら、同じチームで、同等の成績をそのまま保持できるという利点もあるだろう。そして、一流選手は、大体、3大会出て引退する。だから、付け焼刃に火では、ワールド杯では、好成績を残すことは困難なのである。長い目で選手を育て、その選手は、10年間、国宝級の働きを期待できるのである。 で、いまの日本代表を考えてみると、はっきりいって、現メンバーではいかにやろうが、限界がみえてくる。いまからやるとしたなら、現小学生の頃から、才能ある選手を発掘して、英才教育を施すしかないだろうし、その選手が代表になるには、10年待つ必要があるわけだ! 日本の代表選手も、英才教育から育った選手がいないわけではない。それでも、このような開きがあるのだから、問題は、選手にあるのではなくて、育成方法にあるといわざるをえないだろう。 稲本、小野、高原等の、これら日本のユースからの目立った育成選手をみていると、総じて、完成するのが早すぎる気がする。早熟型の天才肌という感じが否めない。あまりに早く完成してしまうために、綺麗すぎて泥臭さを知らない選手が多い気がする。 これは選手の責任ではなくて、教育者の責任にあると思われる。日本のサッカーをみていて思うのは、リフティングのような小手先の技術はあるのだが、試合(現場)のなかでの技術、戦術に乏しい点にある。苦労知らずというか、共に補完し連携し補い合うプレーに乏しい。これはユース時代から、世界の舞台で、馴れるしかないと思う。これはユースのときにやるべきことであり、きっちり基本を身につけていないと、後々になっても決して身につかないものだと思う。 日本の選手は、代表でもクラブでも似たようなプレーをするが、ワールドクラスの選手は、クラブでのプレーとは異なり、代表でのプレーをする。これは練習で覚えることではなくて、試合経験から、失敗を克服し、身につけるものだと思える。つまり状況判断を優先し、それに合わせたプレーをしているようにみえる。これらは練習では身につかないものだろう。 なぜなら、練習で体で覚えることではなく、試合から体が覚えるものだからである。試合のなかでは、選手は気持ちしかないと思う。試合のなかでいかに精神だけに集中できるかにあり、試合中に技術をいっていても修正はきかないし、そもそも、試合は生き物なのである。 日本の教育者は教えすぎるような気がする。選手は道具ではない。自分で何かを感じ、何かを掴まなければいけない。自分でモノにできないものは大舞台では全く役に立たないだろう。モノマネじゃダメなのである。日本人は、モノマネをしすぎるし、監督の言うことを鵜呑みにし過ぎる感がある。 なんだかんだいっても、ただあまりの悔しさだけが残った!
2006年06月23日
コメント(0)
90%勝ち目がないと勝手に思い込んでいるブラジル戦だが、お馬鹿マスコミ、サッカー解説者は、相変わらず精神論や根性論を振りかざしてばかりで、その精神論、根性論も、単なる期待論、思い込みでしかなく、どうしょもないので、自分なりに、ありきたりの知恵を振り絞って考えてみた。 なにしろ強豪国に勝つには、古来から戦術論、戦略論が必須で、しかも予想もつかない奇襲が一番手っ取り早い。信長の桶狭間の戦いや、真珠湾攻撃のように、相手がある程度、予想はできたが、しかし、侮っていたためにやられたような状況をつくらなくてはいけないと思われる。いざ戦いというのはやってみないとわからないという面をフル活用するのである。 戦略面でいえば、突拍子もないものを選ばなくてはならない。結論からいうと、3トップ3ボランチ3バック1ゲームメーカーというようなものを考案してみた! 図にすると以下のようである。 大黒(高原) 巻 中田英 中村 福西 小野 稲本 坪井 中澤 加地(茂庭) 川口 中田英がFWとMFを兼用するような形で、中田英-中村、中村-小野と、ポジションを入れ替わってもある程度同様な仕事ができるように配してある。勿論、FW同士、MF同士、DF同士の入れ替えはもっとスムーズになるだろうし、なにより攻撃と守備の役割が明確化されると思う。 守備は、ボランチ-デフェンダーの6人で守り、攻撃はボランチの押し上げからFWゲームメーカーの7人で攻められて、相手が5人(FW2人とMF3人)のオフェンスでも、6人で守れ、相手デフェンス6人(DF4人とボランチ2人)でも、7人で攻められ、いずれも1人分余り、最も効率よく機能するだろう。いまのDFがFWのポジションまで上がる必要がなければ、FWがDFラインまで下がる必要もない。だから中盤のボランチの3人の運動量にかかっているといえるが、3人もいるので、充分だろう。 ブラジルのような最強チームには、このような奇策が面白いように思われるのである。 さて、戦術であるが、これまた結論からいえば、日本のスピードを生かすべく、オフサイドライン囮作戦がいいと思われる。名付けてカウンターオフサイドトラップと呼びたい! オフサイドトラップの裏をかくには2列目からの飛び出しが有効だとされるが、日本の場合は、FWがデフェンスまでするので、2,3列目まで下がってしまい、MFは、更にもっとさがってしまうのがダメな難点だ! 攻撃側も守備に専念してしまい、ボール支配率は高いが、有効なパスが出せないマンネリ状態に陥ることがよくある。 そこで、いつもサイドDFが上がらざるを得なくなり、その裏を相手チームにつかれ、攻撃され、更にFWがまた下がるという悪循環になり、時間と共に、FWからDFまで全体的に下がっていくのである。だから相手はオフサイドラインを上げることができて、相手の思う壺なのだ! これを打開するには、オフサイドトラップの裏をつく動きなのである。 強豪チームには高さのあるとか速さがあるとか、必ず怖いFWがいるので、オフサイドラインも上げることができないのが普通だが、日本の場合はそれが皆無! 更に強豪国には、そのFWが不調でも、強烈なミドルシュートがあり、また、二列目に速さのあるMFがいるので、相手がオフサイドラインを上げることができないのが普通である。 ここにも日本の欠点があり、サイドDFが上がってこないと、相手DFに恐怖を与えることができない。だからセットプレーに頼るしかなかったのが、従来の日本なのである。 だから、トップに3人置いて、二列目の飛び出しという意味で、スピードが衰えたが、シュート力のある中田英を1.5列において、両方の役割を兼ねさせてやるのが面白いだろう。 大黒は、忍者風の身のこなしなので、わざとオフサイドをとられるような位置にいて、パスを受けとらなければ、オフサイドにならないし、その間に、中田英が、ドリブルで、切れこんでもいいし、ミドルシュートを打ってもいい、大黒はオフサイドトラップの囮になればいいだろう。そして、高さでは、巻に期待したい。巻にはポストプレーの役割を担ってもらう。そうすれば、中田英が相手のオフサイドラインを下げさせる最前線のFW司令官的な役目を果たすことになるだろう。 中田英が最前線で攻撃の統合役になれば、中村も中盤で充分なスペースが使え、ゲームメークできるし、3人のそれぞれ個性的なボランチも縦横無尽に動けるスペースができるだろう。 日本の利点は、ボランチの選手が豊富にいて、どのようなポジションもこなせるところである。 稲本、小野、福西、あるいは遠藤、中田浩にしても、攻撃もできるし、実際、重要な大会で点も入れている。だから、状況に応じて、もしFWが中盤までさがったら、代りに、稲本、小野、福西がFWになればいいだろう。 最後なのだから、この突拍子もない作戦をやって貰いたいぞ!
2006年06月22日
コメント(0)
日本対クロアチア戦は、最低の試合だった! ここまで、オーストラリア戦前の私の予想は見事的中してしまっているといえるだろう。はっきりいえば、日本サッカーはアジア地域なので、W杯に出れるチームで、W杯においては、98年となんら変わり栄えのないチームだといえるだろう。 では、日本対クロアチア戦の反省点を挙げるが、その前に、ドイツの最も暑い真っ昼間の時間帯に、行うことになったのは、どうやら日本のマスコミのせいであるらしい。 日本のマスコミは、日本の選手が暑さでへばり、坪井が足を釣り、サントスが足を釣ろうとも、そして、日本代表が暑さで無様なプレーを世界中に曝しても、視聴率さえ稼げればいいらしい。 視聴率の為に、選手たちに過酷な日程や環境を強い、挙句の果てには、世界最強のブラジルに勝てとまで言う! 正に鬼としかいいようがないだろう。 相手も同じ条件なので、全てを暑さ、コンディションで片付けられないが、暑さやけが人の多いコンディションが、日本人のよい面であるスピードや、少しはマシな判断力を鈍らせたことは、疑いようのないところであろう。 それは、クロアチア戦の柳沢の後半6分の、デフェンダーのクリアかと思われるFW失格のシュートに集約されているだろう。一体、どうやったら、あんなシュートが打てるのか不思議である。暑さやコンディションのせいでなければ、プロ失格といわざるをえないプレーである。あんなシュートを打ってるようじゃ、シュートなんて未来永劫入らないだろうし、相手も、全く怖くはないだろう。 クロアチア戦は、川口のセーブ以外、いいところは皆無で、悪いところばかしが目立った! 玉田の審判ぶつかりドリブルとか、サントスのザルのような守備、宮本のPK与えるファール、最後の方は中田英も、ミスパスが目立った! クロアチアがヘバってなければ、3対0ぐらいで負けていただろう。 クロアチアがヘバっていた以上に、日本もヘバっていたといえる。 あまりあげつらっても仕方ないが…。もはや2次リーグ進出はほとんど無理となった! ブラジルが手を抜くのを期待する以外、進出は無理である。 しかし、ブラジルに手を抜くのを願うなんぞ、恥さらしもいいとこだろう。 八割方負けは確実なので、この際4年後を見据えた選手起用だけが望まれるだろう。そういう意味では、若手を起用すべきである。もともと選手選考や、オーストラリア戦の選手起用からよくなかったといえる。ジーコが監督には向かないということがただ1つはっきりしたことだといえるだろう。 選手選考からやり直したいところだが、どうせ負けるブラジル戦なので、思い切った布陣ということで以下のようにしたい。 巻 高原 中村 中田英 小野 福西(遠藤)稲本 坪井(茂庭)中澤 加地 川口 というとこだろう。
2006年06月19日
コメント(0)
新撰組は、幕末ニッポンの堕落した幕府の威信を正すために、結成された、会津藩監督下の臨時の当時の首都京都の治安維持機関であった。その多くが、浪人や農民出身であったことはドラマ等で御馴染みであろう。 太平の世も300年も続けば、やはり精神が堕落してくることは、仕方のないことかもしれない。幕末の武士の多くは、金銭で買った武士の株で、武士となっている、成り上がり者が多かったらしい。新撰組は、大部分がそのような者の集団だったといえる。 新撰組のなかには、武士に対するコンプレックスがあっただろうし、そのようなコンプレックスを持ったであろう者が、実際、新撰組の核となって世に広めていくのである。新撰組の短い歴史をみると、古き良き滅び行く武士の精神のようなものを思わせる。 新撰組が、幕府に認められるには、芹沢鴨のような生まれたときから武士である、名目が必要だった。幕末になってくると、幕府も形骸化し、肩書きや金銭のある者を優遇するようになっていったといえるだろう。まさに政権の末期的症状といわざるをえない。 恐らく、農民は、このような幕府に不満爆発だったのだろう。大塩中斎平八郎の乱はそのようなものの代表的なものだろう。大塩平八郎は、いまでいう警視総監のようなものだったという。その大塩が先頭になって反乱を起すのだから、民衆のなかには、かなりの反幕府空気があったのだろう。 勝海舟が、米国訪問から帰って、上司に、米国はどうだったと聞かれ、別段、日本と変わりはないが、米国の方は、地位が上にいくほど、賢いが、いまの幕府は逆だと言って、叱られたことを述べている。 この発言からわかるように、当時の国の中枢は、かなり堕落腐敗をしていたことがわかるだろう。そのような当時の堕落腐敗幕府の民衆の怒りが、新撰組をつくりあげたといえるのだろう。 堕落腐敗の幕府を倒幕し、かわりに民(多くは農民)のための政府を開こうとするのが、長州、薩摩であり、成り上がって、中から、改革しようとするのが、新撰組のような理想溢れる若者の集団だったのだろう。 だから、新撰組には、局中御法度という厳しい武士の規律を求める法制度が整備されたのである。芹沢鴨は、近藤勇により惨殺され、近藤は、代わりの伊藤をつれてくるが、これまた、袂を分かち、惨殺してしまう。新撰組は、武士でありながら、武士の本分を真っ当していない、堕落した武士の暗殺隊となったといえるだろう。 そして、新撰組は、堕落した幕府でも、重要なポジションについていく。幕府の重鎮たちは、新撰組を利用したともいえるが、かえって、反幕派を統合させる要因となったといえる。反幕派の中心の長州、薩摩の中心は、本来の武士(上士)というより郷士(下士)が、主体になっていき、もはや武士の体を無くしていったのである。反幕の多くが鉄砲の装備であり、刀を使わない農民隊であったわけである。反幕派は、とうに武士道を捨てていたといえる。 新撰組はあくまで、武士にこだわり、武士道を貫こうとした。幕府の中枢が、堕落し、腐敗しようとも、武士として死ぬことに拘った連中といえるだろう。 新撰組はなかば解散とした形となり、個人々で、武士として死んで行く形となる。新撰組は、最後の武士だったといえるだろう。新撰組はなくなり、武士はいなくなった。 この国にもはや武士道の入り込む隙も余地がないのが嘆かわしい! 桜の下で酔って騒ぎ、花を愛でる気もない精神の持ち主たちが、国の中枢で権力を振るっている。日本の自然、国土が失われていくのは当たり前だろう。
2006年06月18日
コメント(0)
悪人というのは、自分が悪いことをしていると思っていないから始末に負えないし、悪いことと知っていながら、開き直って、やるやつはもっと始末におえない。 昨日、TVで、尼僧の生き様をみた。仏門に入って恋愛をし、戒律を破ったために、半身不随になりながら、そこから自分の人生をつくりあげた、過酷な人生を体験した尼僧の話であった。 私には、親鸞の悪人正機説を、そこに見るような気がした。 親鸞の教えは、言葉にすると曲解されやすい。だから、親鸞は、話し合いの機会をなるべくもって、自ら説き聞かせ、伝承したのだろう。 仏教論をするつもりは毛頭ないが、親鸞の悪人正機説には、上座部仏教(小乗)と大乗仏教をつなぐ思想が生きているように思われてならない。親鸞は恐らく、仏陀の教えが経典となり、文字化され、あまりに形骸化しているのを嘆いたのであろう。 悪人を救えなくて何の教えがあるのだろうか? 不幸で満ち溢れているこの世の地獄を救わなくて、自分だけ仏でいられようか? そのような悪を救える阿弥陀仏の生き様を本願としたのであろう。 仏陀もまた、形骸化したバラモンの教えを、救いの思想にかえた人生だったのである。当時のバラモンも、仏教でいう上座部のようなものだったようだ。当時のバラモンも、上座部仏教も、正しい修行を行い、自ら善人になろうとすること自体は、確かに正しい行為である。 しかし、そこには、なぜ善人になるのか?という目的がない。善人であればいいというのでは、単なる自己満足の域を出ないし、不必要な自負心につながる。下手すると、自分は正しいことを行っているから偉いのだと、独善的な錯覚を生んでしまうだろう。 仏陀が、覚りを開いて、伝承しはじめた意味がそこにある。仏陀は菩提樹の木の下で、覚りを開いたとき、ブラフマンに、その覚りを広めよと諭された。当初、仏陀は、私の覚りは、とても言葉では言い表せないもので、不可能だと拒んだのだが、ブラフマンは、何度も説得し、ついに、仏陀が、この世に生まれた意義を説いたのだろう。 それが、悪人正機説なのであろう。 悪を救うために、善はあり、善人になるのは、悪人を救う為になるのだ!ということなのだろう。 「あなたが覚られたのは、あなたのなかに悩みの悪があったからである。あなたは、いま覚られたのだから、悪に報いるべきではないのだろうか?」というようなことをいったのだろう。 だから、大乗のために上座部があり、上座部のために大乗があることになるだろう。これはつまり、善人は一旦、悪から離れ、善人になって、善人として、悪人を救うということである。これが真の選ばれし者という意味であり、エリートの意味なのである。 悪人を救う為に、善人になる。だから悪人を救えない善人は、善人ではなく偽善者なのである。これはどのようなことにもあてはまる。例えば、病人を救う為に医者になるのであって、社会的身分や金銭で贅沢な生活をするために医者になるのではないだろう。人々を善人に導く生活のために、政治家になるのであって、威張ったり、特権意識をもつためになるのではないだろう。ここから、他力本願が生まれてくる。他力というのは、他の人の力となるために、他の人への善の導き、阿弥陀仏の慈悲のことをいうのだろう。 現代人は大きな過ちを犯している。この世に現れるものの全てにおいて、目的がある。それは神の意志、教えともいえるだろう。地球は、人間のためにあり、水や空気は、生きるためにあり、花や自然は、感情を育てるためにある。神々の行為は、全て無償で人間に向けられているものである。この神々の無償の愛を、仏という。万物には仏が宿る。 我々は穢れているから、この世に生まれてくる。この世の人間に向けられた愛を知るために生きる。人間のなかに愛を育てるために、周囲は一見して、悪で満ち満ちている。いかに快適便利に暮らそうとも、一方では恵まれない、不幸な人々がいて、救いの手も伸びないのだから、トータルでこの世は地獄なのだ! 穢れたなかに、穢れを拭わないものは、ますます、穢れていき、やがて、霊性を失った獣のようになるだろう。悪を善に変えないものは、益々この世での快楽に依存し、肉体を失ったとき、全てを失い、途方にくれ、その欲だけが残される。目的の叶えられない、手段に埋没するだろう。いくら金を稼いでも満足することなく。いくら食べようとも、満腹することなく。いくら威張ろうと、赦すことなく。自分で自分を破滅に追い込んでいくだろう。 人間は、肉体をうしなったとき、肉体の上に依存していた荷物が、自らに襲い掛かるのである。他者に不快を与えたら、それはそっくりそのまま自分に返ってくる。 だから、悪の上に君臨するのは善ではなく、悪の下に、身を犠牲にするのが善なのである。悪があるから、善があるのである。善は自らのなかから悪を分離し、悪を善に成さしめ、統合する。自分のなかの進む力を、止まる力から分離し、進む力をもって、止まる力を克服する。これは人間の意志であり、これが無重力のなかでの歩みかたであり、これが、親鸞の悪人正機説なのであろう。 そして、仏教の戒律は、悪人こそが、善くなっていかなければならないものなのである。坊主の説法を受けて、悪に染まるようでは、頭を丸めた意味がないだろう。人間は一歩一歩でもよいから、神様に向かって、前に進むべきなのである。
2006年06月17日
コメント(0)
W杯をここまでみてきて、全出場国をみてきたが、正直いって、日本と、米国が最も弱い感じがした! 日米といえば、経済第1、2位(いまはもっと低いだろう)の国だが、今回のW杯サッカーでは、最も精彩を欠いたプレーが目立っている! もし、W杯サッカーが戦争に匹敵する戦いであり、それを支えるのが精神力であるとするなら、経済が、精神を堕落させているのではないか?とも思わせる。実際、イラク戦争で、米国軍は、確かに、世界一の最新鋭兵器を有しているにも関わらず、イラクの治安がいまだ回復するのには程遠い泥沼状態になっているのは、米国軍の精神が堕落しているせいなのではないだろうか。そして、それはW杯サッカーから、米国軍の精神が堕落していることが窺えるのではないだろうか? とも思わせる。 戦争はともかくも、W杯を、精神力という観点から、日本の次の試合、対クロアチア戦を考えてみる。 勿論、精神力というのは、当日になってみないとはっきりいってわからないので、モチベーションを探るという観点から、考えてみたい。 日本のこれまでのモチベーションの悪さは、ジーコの選手起用法にあるのではないか?と思われる。はっきりいえば、えこひいきである。いかなる仕事場であっても、えこひいきされた同僚がいると、仕事場のモチベーションはかなり下がるといわざるをえないだろう。えこひいきとは、明らかに仕事ができない奴が、なぜだか重要なポジションについてしまうという事情のことである。仕事ができるかできないかは、一緒にやってみれば、一目瞭然だろう。 指導者に求められる、最も大切な基準は、公正であるということだろう。ジーコはその点で、かってのチームメイトの鹿島の選手や、元ブラジル人のサントスに、偏りすぎている気がしてならない。確かに、選手を選ぶ権限は監督にあるだろうが、それも実力を発揮できて結果を残せている場合に限り、正当化されると思う。 選手のモチベーションは、特に必要以上に敏感だろう。監督はなんで、あんな重要なポジションに、あの選手をおくのだ!と、内心絶対に思っているが、表だってそういうことを言えば、監督批判になるから、自然、技術論や、戦術論の批判にならざるをえない。だが、ホンネは、あいつがお荷物になっていると、誰もが思っているところだろう。 そういった場合、とことん、ケンカし議論したほうが、かえってガス抜きになってよいだろうとも思う。そういう意味では、現在の日本には、とにかくガス抜きが必要であることは確かである。傍からみていても、ジーコの起用法には偏りがみられるからである。この偏りは、トルシエのときにもあり、中村を代表から外したのは、誰もが納得いかなかった点である。岡田のときも、カズを外したのが、センセーショナルだった! はっきりいって、日本は戦う前から、チーム状態がよくないといえるだろう。代表選考は、最も自然に、納得いく形でなければ、1つに結束できないからである。選手間でも、当然と思われていた選手が、なぜ選ばれなかったのか?疑心暗鬼になるし、誰が誰と合わないとかの相性問題になり、派閥みたいなものができたら、もはや敵と戦う前に、内部闘争で崩壊してしまうからである。 派閥は破滅への第一歩なのである。モチベーションは下がり、協調して戦う姿勢など皆無だ! 聞くところによると、ジーコはすでに帰りの切符を予約しているという。もうこの時点で、日本サッカー協会は、甘くみられているといわざるをえないだろう。 あと1日で、日本のガス抜きをしなければ、日本のモチベーションはかなり悪いようにみえる! 一方、クロアチアはどうか?というと、クロアチアにも、同様なえこひいき問題がある。監督の息子が代表レベルでないのに、選出されているという点である。日本のプロ野球でもあった、長島、野村の親馬鹿起用である。これをやられると、選手はシラケるものである。偉大な選手や監督の二世は、よっぽどの実力でないと、認められない傾向にあるといえる。 そういう意味で、今回のクロアチアのモチベーションもかなり低いと思われる。少なくとも、監督の息子が、先発に出てくると、選手間のまとまりは半減するだろう。 だから、日本もクロアチアも、どっちも似たものでモチベーション、オーストラリアよりは、低いだろう。あとは技術がどこまでカバーするかと、W杯で実績あるクロアチアのプライドにかかっているといえる。 このような意外な選手間の連携が、勝負事を左右するといってよいだろう。こういう例が典型的なのがオランダで、技術、実力ともに世界一クラスなのだが、なぜかW杯では、いつも選手間内部のゴタゴタで、予選落ちや、決勝まで進出できないでいる。あとは、パッサーが、特定のフォワードにわざと、パスを出さない等々が、アルゼンチン、とくに南米チームにはよくある。当然、フォワードが文句を言って、更に険悪になるというパターンもあるだろう。 かってのブラジルにも、サンパウロ出身か、リオデジャネイロ出身かで、そういうのがあったようだが、最近は、国外ヨーロッパクラブの選手が、代表を多数占めることで、次第になくなったようでもある。 逆に、最も選手間でまとまりがいいのが、かっての西ドイツであり、ドイツであるだろう! ドイツは、W杯前は、いつも技術や戦術でイマイチのチームといわれ、スター選手も目立っていないのにも関わらず、W杯では決勝まで必ずといってよく残るのである。ドイツはまとまり上手だといえる。どうもドイツは代表選考からして、選手間のまとまりを重視しているようではある感じだ! 今年の代表で一番印象的だったのが、フランスである。それはほとんどが黒人選手だったからで、これじゃ、アフリカの代表チームといった方がいいんじゃないのか?と思った。ジダンもフランスの英雄とはいえ、アフリカのナイジェリアかどこかのハーフであったと思う。まるで、フランス外人部隊と同じじゃないかとも思った! モチベーションの意味からも、ドイツが最も優勝候補に近いと思われる。
2006年06月16日
コメント(0)
戦国時代、軍略家は、時間があれば、市街中巡りをしたという。それにならって、自称軍略家ならぬ密教霊略家は、思想の市街中ブログ巡りをしていると、ときどき、面白いブログをみつけるのは幸せのひとときであると思う。是非、以下のブログをお薦めしたい。http://blog.livedoor.jp/mediaterrace/archives/2006-06.html#20060615
2006年06月16日
コメント(0)
日銀総裁という地位のものが、ファンド会社を犬にし、国家の金融システムを使って、資産稼ぎを行っていたという。公私混同も甚だしいとはこのことだろう。全くあきれた話で、日本国家のご先祖さんも、大いに嘆いていることだろうし、このような国に愛国心など、誰がもちえるだろうか? もう、愛想が尽きて、日本国家なんぞくたばってしまえばいいと思うくらいだ! このような身勝手な社会的混乱により、今年の夏は大きな災いとなって日本列島を襲うだろう。 此処5年の日本の気象異常は、日本国民への意識改革を迫るものでもあろう。このような政権を見て見ぬ振りをしている日本国民への警笛、警告でもあるだろう。 我々が鉄槌を下さずとも、もはや日本の神々様が、こやつらをほおっておくはずはないだろう。もうすでに、これらの悪人の地獄行きは決まったもので、死んでもなお、欲界をひたすら彷徨うことになるだろう。そのときになって後悔しても、もはや誰も助けはしないだろう。憐れな人たちである。この悪人たちの裏には、現代の悪魔の巣窟である銀行屋があることはいうまでもないだろう。悪魔は決して表に出ないが、手下の魂を食い尽くしていく。 古代エジプトからの伝承に、スフィンクスの謎々というものがある。これはギリシア神話になったもので、以下の問いのことである。 「朝に4本足で立ち、昼に2本足、そして夜に3本足で歩くものは何か?」 この答えは、「人間」というもので、その理由は、人間は、赤ちゃんのとき、4本足で、成長し立ち上がると2本足、そして老いると、杖を持って、3本足で歩くからだというのが、一般的な説明である。 しかし、これでは納得できない部分がある。この謎々の原典を探ると、この謎々は、以下のようであるという。 「一つの声をもちながら、朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くものは何か。 その生き物は全ての生き物の中で最も姿を変える」 この問いの最後の「その生き物は全ての生き物の中で最も姿を変える」というのは、「人間」には少し当てはまらないのではないか?と感じさせるだろう。人間は確かに服を着たり、ファッションをするが、昆虫や植物のような変態を行うわけではないからである。 しかし、この謎々を出す怪物スフィンクスは、答えられない者を食べ、最後は、「人間」と正解を答えられて、河に身を投げて死ぬのである。 だから、確かに「人間」という答えは正解ではあるが、現代でいう「人間」ではなく、ギリシア時代の「人間」という意味でなければいけないのである。 ギリシア神話を神秘学で解釈すると、ギリシア時代の「人間」という意味は、「霊的(精神的)人間」、つまり人間の魂のことだということが、明らかになるだろう。 「1つの声をもち」とは、人間が、声を発するものであることを表す。この声は、動物の鳴き声ではない。「1つの」というのは、「1である神」の意味で、古代、1とは、全なる神のことである。ギリシア時代は多神教だという唯物的な誤った解釈があるが、人間に対しては、必ず神は1つの意味である。人間のなかの多々ある人種をいえば、多人種であるように、人間を1つとしたとき、神々も1つの意なのである。だから、1とは神なのである。 だから、「神の声をもつ」とは、言葉を話すものでなければならない。神秘学では、言葉を話すものは、自我をもつもののことであり、自我とは、「わたしあるもの」という存在。自分を「わたし」と呼ぶ、独立した意識をもつ存在を指す。だから、生物のなかで、「わたし」と言える存在、それは、人間の自我のことである。 次の「朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くもの」の真の意は、足ではない。足であるとしたら、杖なき老人は、二本足のままであろう。だから、これは、人間のなかの真の人体を表すものと考えられる。 人間の人体は、4つからなる。肉体、エーテル体、アストラル体、自我である。人間が、地を歩みはじめるとき、つまりこれは朝起きたとき、肉体のなかに、エーテル体、アストラル体、自我が共にある。 昼になると、二本足というのは、昼とは、昼の覚醒意識のことで、昼、活動するときは、肉体と、エーテル体(気)しか、地では、感じることができないという意であろう。アストラル体や自我は、不可視のものであるからだ! 肉体(物質体)、エーテル体は、太陽(日)光の陽の部分からつくられるが、アストラル体、自我は、太陽光とは若干異なる陰の部分(霊光)からつくられるという。 肉体、エーテル体は、増殖や形成を司り、アストラル体、自我は、破壊や分化を司るという。だから、エーテル体は、人体に腺をつくり、アストラル体は神経をつくり、自我は血液の熱をつくるといわれる。ちなみに、人間が風邪をひくのは、自我が血液(内的)の熱を、つくることができないせいであるという。 自我は、外界と常に熱的に平衡状態を保っていなければならないが、外界が急激に寒くなると、外界からの熱を吸収して、内的に熱をつくれなくなり、自らの内的熱でなく、外界の熱に曝され、平衡感覚を失うためだという。外界の熱により、人体器官の何処かが障害すると、脳は、それに対応するために、患部に内的熱を送ろうとして、頭部に熱が出るというわけである。ウイルス感染は、風邪のその結果であって、要因ではないという。 ウイルスは、汚物に集る蠅のようなものであり、あくまで人体内の汚物(堕落)が原因なのであるという。ここでも、現代感染科学は、間違いを犯していると神秘学は説く。 そして、夜の三つ足というのは、夜を死とすると、肉体は捨てられ、残りのエーテル体、アストラル体、自我の存在になるという意であろう。人間は、この三つの足で、輪廻転生を歩み、「その生き物は全ての生き物の中で最も姿を変える」ことができるわけである。 だから、「最も姿を変える」とは、魂として、いろんな体験を積み、進化する(歩む)という意であろう。 また、この「朝、4つ足、昼、2つ足、夜、3つ足」というのは、人間の進化過程を表すものでもある。 神秘学では、人間の自我は、太古の遥か昔、4つの集合魂から生まれたという。4つの集合魂の象徴は、鷲、獅子、雄牛、人間の原型で表される。このとき、人間は自我をもたず、集合魂、つまり民族魂が自我であり、個々の人間は、その手足だったという。各国の国旗や民族の象徴に、鷲や獅子、雄牛、人間の原型が描かれるのは、その名残りであるという。だから、朝の4つ足とは、この4つの集合魂のことである。 人間の進化のはじめは、4つの集合魂だったというのである。 つぎの、昼の2つ足とは、人類のなかの、善人種と悪人種のことだろう。このことは、ヨハネの黙示録に書かれていることであり、人間は、地球紀の中間に、この2つの人種に分かれるといわれている。善人種が、777という文字で表され、悪人種が666という文字で表されるのである。777、666も、人類の進化形態の数を表す。777は最終形態であり、666は、それより前の、777に至らなかった前の段階で進化をとどまる、脱落する意味を表す。 そして、最後の夜の3つ足とは、三位一体のことであろう。神々の創造の法則は、三位一体であるといわれる。つまり、人間が、777というラッキーセブンの3つの7の状態に至ると、それはもはや、人間ではなく、神々と同じ進化形態に属することになるという意味であろう。 夜というのは、もはや、地において活動する必要はなく、夜、人間が眠っているように、霊(天)界において、活動する精神的存在となるという意味であろう。 この人間の進化の秘密が解かれたので、怪物スフィンクスは、もはや、自分は必要とされず、河に身を投げたのである。怪物スフィンクスは、進化を志さない人間の魂を食べて生きている怪物というわけなのである。 さながら、現代のモラルなきこの国の犯罪者ならびに自己保身のために、悪に手を貸す利己主義者は、スフィンクスに食われた連中なのである。
2006年06月15日
コメント(0)
相も変わらず、馬鹿でいい加減なマスゴミ連中は、夢想家のごとく、あと2勝すればいいと連呼し、祈っている。こいつらは、オーストラリア戦の前も、似たような希望的観測で、新興宗教の教祖のような夢物語を描き、ただ視聴がとれて、売れればいい商業主義的な態度を貫いていた。 選手にとっては、いい迷惑で、売り道具、飛び道具にされてはかなわないというのが本音だろう。勝手に期待しておいて、煽り、失望しているアホと同じだ! 選手たちは、相手チームを冷静に分析していたし、FIFAランキングが下だからといって、決して簡単に勝てる相手ではないと言っていたはずだろう。とくに、オーストラリア戦の前に、日本が絶対勝つなどと、ほざいていた評論家たちは、少しはその発言の責任をとったらどうなのだ! 頭を丸めるぐらいはすべきだろう。 オーストラリア戦前から、相も変わらず、いまでも絶対勝つといっている評論家の連中は、いい加減にしてほしい! まずは、オーストラリア戦を完勝するといった評論家連中は、国民の前に土下座し懺悔しなさい。そして、気持ちを改め、もっと冷静に、次のクロアチア戦を分析すべきであろう。 さてさて、馬鹿なスポーツマスコミはおいておいて、ここからが、日本の正念場だと思われる。 勝つか負けるかという占い師のような予言、そして勝ち負けの一喜一憂は、低レベルの人格の持ち主がやることで、真の予言者、いわば預言者は、そのような低俗なこととは無関係で相手にしないものだ! まして商業主義的なことは、それ自体が穢れるので絶対忌むべきである。 真の予言、つまり預言は、いかに現状を受け止め、克服するかのアドバイスをすることをいうのである。現代でいえば、カウンセラーに近いだろう。有体にいえば、物事の捉え方、考え方のアドバイスをするのである。神の警告、教訓として受け止める態度を身につけさせるものである。 勿論、太古では、物事は全て神々が司っていると意識されていたので、預言者、つまりカウンセラーは、神々の言葉(物事)を解釈し、その意の引き継ぎが出来る者と捉えられたわけである。 過ぎてしまった敗戦のことをいかにあげつらおうと、完敗してしまった事実は変わりがないだろう。完敗そのものを取り消すことなぞ、土台人間に出来ない話だ! 神々であってはじめてでき、神々だからこそ、敗戦をもたらしえる存在なのであり、預言者はこのような悲劇であればあるほど、それは神々の大切な改めるべき、戒めのお告げであると捉えるのである。 したがって、いまの日本代表に進歩や発展が必要だからこそ、サッカーの神様は完敗させたのである。 と捉えるのが預言者的態度だといえる。それこそ、神様のお告げなのである。完敗の惨めさ、終盤での後一歩の踏ん張り、一体、何が足りないのか、皆で考えろ!というのが神様の一般的な解釈でいう、お告げであるだろう。 初戦オーストラリア完敗という、2次リーグ突破への最も困難で切実な選択肢を、自ら選んだにすぎない。自ら選んだのだから、文句をいってもはじまらないし、そのような余裕もないだろう。文句を言いたければ自分にいうべきだろう。自分が至らなかった点に思い巡らせるべきであろう。 そうして、皆で話し合って考える。一人一人が自らにその作業を課す事こそが、完敗という衝撃的な神のお告げであるといえるだろう。 考えてみれば、今年、はじめにスポーツで、似たような出来事があった! そう、それは記憶に新しい、WBCの日韓戦の同じく一次リーグでのことだった! 韓国に負けて、日本は一度、死んだ! そこから、メキシコに助けられて、甦ったといえる。そこには劇的なボブの誤審があったことも見逃せない出来事である。オーストラリア戦の日本のゴールも誤審であった! ここに誤審で勝ってもそれは真の勝者ではないというお告げであるだろう。オーストラリア戦で、学んだ教訓といえば、この誤審で勝っても勝ちといえない不様さということだろう。これはあのファンド会社とそれを操った日本の社会そのものへの鉄槌ともいえるだろう!! だからこそ、このサッカーの神の完敗のお告げを無にしてはならないといえる。 日本ではジーコはサッカーの神様と信仰されていた。しかし、ジーコは監督になって、神様ではないことが、このオーストラリア戦ではっきりした! 日本人は、単なる一ブラジル人を神と崇め奉って、4年間やってきたのだ! サッカーの神様と信じられていたそのアイドルの神様が身をもって体験し、そして神のお告げの完敗で打ちのめさせられた。 神は死んだ!のだ!! そう、サッカーの神は完敗のお告げと共に日本代表と共に死んだ! だから、後は、サッカー人として、サッカーの魂を持って、這い上がるのみであろう。 WBC日本野球が、イチローを中心に結束したように、日本のサッカー人として1つになるべきときなのだ! イチローは中田英だろう。中田英を中心に結束すべきときだと思う。中田英は、日本人から脱皮した、はじめてのサッカー人だといえる。 色々敗戦の文句はあるだろうが、ここはひたすら我慢して1つになるべきだろう。敵は味方にあるのではなく、敵は対戦相手なのだから。 どんなに立派で一流の戦術であっても、賛同者がゼロであれば、絵に書いた餅だ! 逆にどんなにつまらないちっぽけな戦術であっても、全員が結束すれば、どんな敵にも五分で渡りあえると信じる。 とにかく、いまの日本が、どんなサッカーができて、何が足らないのかを議論し、結束し1つになるべきだろう。2次リーグ突破なんか、所詮、優勝でなければ、本来、どうでもいいのだ! 更にいえば、一丸になって、世界と真剣に戦い合った仲間との結束の方が、体験として貴重だろう。 真の勝者は、真の敗者を克服した者に与えられるだろう。
2006年06月13日
コメント(0)
W杯の怖さを知った1戦だったと思う。しかし、こんなに完敗したけど、あと2戦残っているのだから、後は、日本のサッカーの持ち味を出して、180分間、選手全員で戦う気持ちに切り替えるしかないだろう。 しかし、敗戦から学ばなければ意味がない。 今日の敗戦のポイントは、攻撃面と守備面の大きく2つある。 攻撃面は、柳沢と高原の連携があっていなかった。あとは暑さやボール運びの悪い芝に悩まされていた点だ! 守備面は、川口があまりに目立ちすぎていた。キーパーが目立つのはあまりよくない。しかも、最後に失点をくらってしまっては、目立った意味がないだろう。 同点につながる失敗は、川口の飛び出しにある。相手キーパーが無闇な飛び出しで失点したのを、川口は気がついていなかったのだろうか? 確かに好セーブを連発してたかのように放送していたが、あれは一流キーパーならば止めて当たり前だし、弾くのではなくキャッチしなければいけないものも、何個かあり、弾いても、外に出さなければダメだろう。 酷だろうが、今日の敗因のポイントは、川口の飛び出しにあるといえるだろう。 良い点を次につなげるために以下のような面が挙げられると思う。 川口は、安定感に欠けるので、次回は楢崎に変えた方がいいだろう、キーパーからのキックもあまりよくなかったのも攻撃性に欠ける点だろう! 柳沢は、FWに必要な闘争心に欠けているプレーが目立ったので、次はかえるべきであろう。 これは日本代表の致命的な点だが、サントスは攻撃面で使うべきで、守備では中途半端になる。サントスは、無駄なパスを出そうとするより、シュートを打つべき! 中田英、中村、とくに高原は切れていたので、この3人を中心に攻撃を組み立てるべきだろう。 右サイドは小野にすべき。 本来なら守備的ボランチ、戸田辺りを入れたいが、いないので、ほとんど2次リーグ進出の目はなくなったので、せめて、日本版黄金のカルテット、小野(右サイド)、稲本、中田英、中村(左サイド)を、最後にやってほしい! そして、守備はほどんど忘れて、どれだけ点を取れるかをやってほしい! もう捨てるものはないので、好きなことをやって、日本のサッカーを表現できればいいだろうと思う。 こうなったら、相手が何処かも忘れ、勝敗をも忘れて、自分たちのサッカーをやるだけだから、その分、気持ちが楽になったと思う。
2006年06月12日
コメント(1)
本日、待望の日本対オーストラリア戦である! その前に、日本の解説者がいかにお粗末なのかを語ってみたい。日本代表が勝つ戦略なぞ書いても、目にも触れないことは明らかなので、せめて、日本サッカー評論家を、一サッカー愛好家として、ぶった切ってみたい。 名指しはなるべく避けたいが、どうも一ファンになってしまっているテレ朝とTBSの女性ウケしている自称解説者は論外であると思う。女性にウケるのは、女性のほとんどが、サッカーそのものよりも、サッカー選手の汗やルックスに惹かれていて、サッカー通の解説者を求めるのではなくて、女性に、やさしく、サッカー選手を紹介し、サポートしてくれる、サッカーのお兄さん的なイメージを求めているからなのであり、だからこそサッカー評論家ではなくて、サッカーコラムニストとして自覚すべきなのである。だから、サッカー通野郎の私としては、このようなコラム的お兄さんは、評論家ではなくて、それなら、ジャニーズを出したら、一発決まりだろ!と思ってしまうのである。 キムタクをサッカー解説者にすれば、間違いなく、彼らは失業だろう。ただし、カネが大量にかかるが…。 さて、まだマシな、戦術の概要を述べる、日本のサッカー評論家の陥っている点を述べることにすると。彼らは、ただあくまで理想や目的を述べるだけで、その克服法を述べていない点である。単なる、これでは岡目八目の似非評論家そのままである。某ファンド会社の犯罪者が、理想や正論を得々と述べながら、その裏では、まるっきし反対のことをやっている詐欺師であるのと、同じである。サッカーの検察が必要だと思ってしまう私でもある。 とどのつまり、ツッコミどころ満載なのである。 「おいおい、それができないから、日本代表じゃないか? ブラジルやドイツじゃないんだよ!」といいたいわけである。「それなら、いっそロナウジーニョのような一流選手を、日本に帰化させる方法でも探した方がいいんじゃないか?」と思うような、意見が普通に述べられる。だから、練習して海外で揉まれて、一流になるだという出世物語になってしまう、そして、どうしても最後は根性論になってしまうのである。 最後は根性、確かに当たり前である。だったら、その根性を育むために何をしたらいいのかを、経験に基づいてアドバイスすればいいのではなかろうか? 阪神の金本のように、真言宗の行をするとか?もその1つだろう。只闇雲に、相手は高いから、へばりつけばいい等の意見、一体、どうやってヘバりつくんだ? 練習しかないじゃん、それでは何もいってないのと同じじゃないか? 練習法をいうのならまだマシだが、日本代表なんだから、そんなことは知っているに決まっているだろ…。知っていてもできないから、問題なんであるよ! 言うが易し行なうは難しだ! そういう面からいえば、プロ野球の方が、まだ一日の長があるような気がする。高いボールに弱ければ、王シフトのように、例えば、ヴィドカシフトを考えたらどうだろか? マンツーマンで、つけてもいいだろう。何も、ブラジルのように、ゾーンで守る必要はないのである。日本サッカーの弱点は、一流を真似ているが、実力は一流に達していないところなのである。日本には、日本のやり方を編み出す必要があるだろう。それが、日本サッカーの評論家が言わないダメな点で、日本代表がダメな点だと思う。 例えば、イチローは本場のメジャーの野球のスタイルを変えた選手だ! 日本には、スピードがある。組織的なスピードがある。バント野球といわれる犠打は、日本のお家芸であろう。マンツーマンデフェンスの方が日本にあっている気がするし、野球からスピードを生む戦術を学んでほしいように思える。相手が打つであろうシュートをあらかじめ予測して、そのコースを体を張って止めることなどは日本の得意とするところだろう。実はこれが、ゾーンディフェンスそのものなのだが…、日本は得意なはずのそれができていないのはなぜか? マンツーマンの方があっているような気がするのはなぜか? うぅ、わからなくなってしまった! とにかく、W杯出場の先輩として、今日こそは勝ってほしい、後は負けても実績通りなのだから、ただそれだけなのだ! ただ、負けるとしても、ただ負けるのだけはやめてくれ! 相手に、日本に勝つには只事ではないぞと思わせるぐらいの試合をみせて負けてほしい。 しかし、いかに名将ヒディングだろうが、オージくらいは叩きのめして欲しい!! オーストラリアに負けることは、日本代表のプロ野球チームが、野村監督率いる社会人野球チームに負けるようなものなのだから…。そういえば、4年前、オリンピックで、オージに負けた馬鹿監督のプロ野球軍団の悪夢が浮かぶ。それも、今年世界一になって雪辱してくれたが!! 勝つと思うな、思えば負けよ♪ 90分間、何が起こるかわからない。ただ、勝てると思った瞬間が負けなのだ!だから、けっして勝つと思ってプレーしてはならない。とくに解説者よ、「お前らは勝てる、勝てる五月蝿いんじゃ~っ!」こっちまで勝った気になってしまうじゃないか? 勝った気になったそのあとに、点入れられた責任をどうどるんじゃ! 日本の解説者は五月蝿過ぎる。黙ってみてろ!。ただそれを言いたかっただけだ! 少しは競馬実況解説を見習ったらどうだ! 結局、根性論になってしまったぞ!!
2006年06月12日
コメント(0)
世界のスポーツの祭典、ワールドカップサッカーがはじまった! ワールドカップは、スペイン82年大会から、見始めた。そう、ジーコ、ソクラテス、ファルカン、セレーゾのブラジルの黄金のカルテットと、そのブラジルが、イタリアの堅い守りとロッシ一人にハットトリックで敗れ!、あのマラドーナが、ユースから、W杯初デビューしたてのときで、ブラジル戦で、いきなし、ブラジルのバチスタ選手に腹蹴り食らわして、一発レッドカードで退場した、何もかもが衝撃の大会だった。 だから、ブラジルの黄金カルテットとジーコのフリーキックに魅せられた世代といっていいだろう。当時の日本のサッカーなんか、まるで見る気も起こらなかった。周囲も、日本のサッカーには眼中なく、クライフやベッケンバウアー、ペレといった選手が、プレー目標だったといえる。周囲のサッカー通では、78年のアルゼンチン大会のケンペス、クライフが話題だった! それでも、日本のサッカー選手で強いて挙げれば、釜本、杉山のメキシコオリンピックまで、遡らなければいけないという感じだった! 現役選手では、当時ブレーメンで、サイドバックをやっていた奥寺を、12chのダイヤモンドサッカーでみるぐらいだった。 そんな世界サッカーレベルが、Jリーグもできて、だんだんと、身近になったことは、進歩だと思う。日本サッカーも随分と、世界レベルに近づいてきたといえるだろう。だが、世界はまだ甘くはないと思う。まして、ワールドカップは、サッカー選手ならば、サッカー命を賭けて戦ってくるので、技術以上の闘争心が要求される舞台だといえるだろう。 そんなこんなで、恒例のごとく、勝手に、日本サッカーの予想をしてみたい。松木のようなサッカー評論家というよりは、にわか日本代表ファンのような予想は、素人日本人ならば、誰もがやるところなので、辛口冷静にやってみたい。勿論、日本代表が、2次リーグに行くことを願わないわけにはいかないが、厳しい冷静な予想を覆してこそ、真の実力だと思うので、ここは、競馬予想のように、しっかりきっかり、やりたいわけでもある。 予想するためのデータは、親善試合は全く参考にならないし、FIFAランキングもほとんどが親善試合のものなので、これも当てにならないと思われる。だから、日本代表の、W杯の実績から、ある程度予想するしかないだろう。 フランス大会は、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカに完敗だった。戦前では、アルゼンチンには、負けても、クロアチアには悪くて引き分け、ジャマイカには完勝といった予想が標準だったように思える、しかし、3敗だったのである。しかも、中山の一点しか取れなかった! 守備はまあまあ平均的だったが、攻撃力が全く機能せず、屈辱的な完敗に終わった。 そして、日韓大会で、これはホスト国で、相手メンバーに恵まれた大会だった。ベルギー、ロシア、チュニジアといったチームは、いつもW杯に、出れるか出れないかのレベルで、勿論、2次リーグに進出したことはないだろう。戦前の予想は、ベルギーには、苦戦するが、負けはしないだろうから、3戦全勝が標準だったが、ベルギーとは引き分けて、ロシアには辛くも勝ち、2勝1分けで、なんとか2次リーグに進出し、ホスト国のメンツは保ったが、トルコという大穴ダークホース国にやられてしまった! 疑惑の判定があったとはいえ、同じホスト国の韓国は4位まで進んだのに、あきらかにW杯や国際舞台での実績不足の感が否めない。 だから、フランス大会、日韓大会の実績からいうと、オーストラリアには引き分け、クロアチアには善戦するも敗戦、ブラジルにも敗戦で、1分け2敗が順当な予想、よくいけば、W杯実績不足なオーストラリアに勝てて、1勝2敗だろうが、大穴予想としては、ブラジルが、日本戦までに、2勝して、進出を決めていたら、主力組を温存して、控え組を出し、モチベーションも下がっているので、勝てる可能性もあるかもしれない。だから、いずれにしても、よくて1勝1敗1分けだろう。 日本が2次リーグに進むには、ブラジルが2勝1敗で、オーストラリア、クロアチア、日本が、1勝1敗1分けで並び、得失点差で、2位になる線が濃厚だろう。 そのためには、逃げ切りよりも、とにかく、積極的に攻撃的に点を取ることで、FW力が決め手となるだろう。日本の守備も攻撃も欠点が多く、守備は高いヘディングに弱く、サイドスペースがガラ空きで、容易く突破される。攻撃は、単調なパスが多く、ミドルレンジからの厳しいシュートがない等。ワールドクラスにはまだまだなので、とにかく、守備は下がらないで、オフサイド狙いで、前線から守備をして、相手のフィールドでボールをまわすことが重要だろう。ドイツとの親善試合の前半のような戦い方。とにかく90分間攻め続けるスタミナが課題だと思う。できれば、固定したメンバーではなくて、対戦相手によって選手を代えて、アフリカチームのように、相手に選手名を覚えさせない攻撃ができるかだと思う。 攻撃力がよいチームの条件は、FWに好調な選手が多いということに尽きる。少なくとも、FWが故障明けであったり、どこか不安を抱えているチームは、点が取れないと、FW依存になってしまい、悪い方向に進み、かえって自滅するのである。故障の選手は、二流以下になってしまうのである。ここがネームバリューとの兼ね合いの難しいところであろう。日本代表では、皆、直前で故障してしまったのが痛い。少なくとも絶好調とはいえない状態なので、残っているFWでは国際経験の少ないのが難点で、巻、玉田あたりに期待するしかないというのが、いかにも駒不足。私なら、故障の有名選手よりも、松井、平山あたりを、収集してFWにしていたところだが…。有名な選手に頼るチームは、結局、実力が発揮できないチームなのである。親善試合と違い、真の試合は戦う前の準備に決まっているといえる。 今大会で、絶好調なのがベッカムだろう。ブラジルのロナウジーニョ、ポルトガルのクリスチャンロナウド、ドイツはクローゼ、ウクライナのシェフチェンコ、オランダのファンニステルロイあたりが、活躍の予感だろう。 優勝予想は、優勝ブラジルが多いなか、やはりホスト国のドイツだと思う。攻撃力があるチームが、いつも優勝しているので、確かにブラジルのアドリアーノは凄いが、ロナウドは若干衰えているのと、ブラジルはあまりに気が緩みすぎている感が拭えない。穴としては、イングランドだろうか? 1位ドイツ、2位ブラジル、3位イングランドあたりか?
2006年06月11日
コメント(0)
昨今、自然環境がどこかおかしいと思うことが多い。また、動物による略奪事件が多いのに気がつかされるだろう。勿論、自然破壊により動物の生態系が変わることも大きな原因だが、神秘学によれば、動物は、人間の心(魂)をみているといわれているので、人心の荒みが、動物に何かを与えているその要因と考えることができる。 よく家畜が、飼い主に似てくるといわれるが、これは、飼い主の心を、動物が読み取ることを、意味している諺だと思う。動物には、人間の言葉による嘘をつくことができないのである。動物は、人間の魂を読み取るからである。 前回、蜂がつくる蜜のなかに、クリスタルの六角形の結晶化を起こす力があることを書いたが、蜂は、実際、人間の魂を、この六角形の結晶化の力を通して読み取ることができるという。蜂は血液のなかの六角形を結晶化する力を感じるという。 だから、人間が、ストレスや怒りを、溜め込んでいると、それが血液を熱くし、皮膚表面に近くさせ、蜂は、人間が血液から、(蜂が持つ)六角形の結晶化の力を、蜂から奪い取ろうとしていると解釈し、蜂はその防衛反応から、刺すという。 だから、人間がストレスや怒りを溜め込んでいる状況で、蜂に出会うと、蜂は人間を刺す傾向にあるといえる。 このように、蜂が、自らの六角形の結晶化を起こす力で、人間を認識しているように、一般的に、動物は自らもつ、その習性に応じて、対象と捉えているといえるだろう。これは、人間にもいえ、人間は言葉を話し、論理思考を構築するので、論理的に人間を認識することができるといえる。人間は、言葉という抽象的認識ツールを開発したので、実際に体験を得ずに、物事を捉えることができるが、その分、実際のものを直接認識しているのではなしに、言語が複雑多岐になるにつれ、虚構の世界を構築している度合が高くなっていっているといえるだろう。 言葉とは、聖書でいうバベルの塔なのである。共通体験が、論理認識の基に、個々特有の体験へと崩壊していっているといえる。 人間が、従来の自然からの直接の体験から、人間独自の言語認識環境に置き換わっていくにつれて、人間の認識世界のなかに、生活するようになっていくといえる。この人工的な論理世界に生活するにつれて、人間は、自然から閉じた、間接的な社会体系に閉鎖して、人工的社会の奴隷のようになっていくだろう。それが、現代に現れている格差社会なのである。一部の都市社会だけに、都合のよい快適で閉鎖的な社会。そこでは、数字や統計からなるデータだけ信仰の対象とされ、人間がつくりあげた科学が信頼され、その信頼の基に、快適に論理的に支配され、手段が目的化し、手段だけをより洗練化し、お互いが閉鎖的に闘争競争社会をつくりあげていく。慢性的ストレス社会の誕生といえるだろう。 人間は、自らつくりあげた認識の基に、その認識のみを信仰することから支配されるのである。これを偶像崇拝といい。人間の獣化という。 これは、この世になぜ、動物という存在がいるかを考えてみるとわかるだろう。人間は動物という存在を学び、動物は、人間の魂をみて、人間を学んでいるのである。組織の上に立つものの心掛けが悪いと、下にもその悪しき心掛けが伝わるように、人間の行いが悪いと、動物にもそれは伝わるのである。 人間は万物霊長類なのであるから、動物たちの霊(魂)の模範となるべきなのである。
2006年06月07日
コメント(0)
某ファンド会社の何某をみて、「日本人もついにここまで堕落したか」というのが正直な感想である。正直いって、「気持ち悪い」というのが素直な気持ちだ!現代風にいうならば、キモイというべきだろう。 完全にモラルが欠落している人間とはああいう輩だと思われる。ホリエモンはまだ若いので、やり直しがきくが、あの輩はすでに40を超えているというから、一体、いままで、何を学んできたのだろうか、不思議でもある。 恐らく、空理空論を振り回して、虚業に現をぬかし、他者を貶め、地獄の闘争でもしてきたのだろう。 餓鬼道一直線といったとこなのだろう。憐れである。 彼は、金儲けが悪いことか?と盛んに言っていたが、インサイダー取り引きまでして、金を儲けるのがいけないことだという論点をはぐらかし、法律を犯しておいて、法律スレスレならば、なんでもやっていいと開き直っている、惰弱した精神を、見させられては、気持ち悪さしか感じさせないことにも気がつかない。 自分が一体なんであるのかの自覚に乏しいといわざるをえない。 挙句の果てには、自分が金持ちだから嫌われているなどという自虐的錯覚を得意気にしゃべるあたりは、この人は全く他者に好意をもたれようというちょっとした意識も欠落しているなと思った。 このような人間が果たして、真の高邁な精神をもつに足りえる人間なのだろうか? 残念ながら、私には妖怪にしかみえない。
2006年06月06日
コメント(0)
このあいだ、TVで、古代文明をやっていて、クリスタル(石英、水晶)の頭蓋骨が、マヤ文明の遺跡から発見されているようなことをいっていた。では、このクリスタルの頭蓋骨を、神秘学で、紐解いてみよう。 神秘学では、地球には、結晶形成力があるといわれている。地球で水晶(石英)は、六角形の結晶として形成される。このような地球の物質化の力は、月光の力だと、神秘学では暗示されている。地球の子であり、月の子でもある人間にもその力が、地球を通して、宿っているという。ただし、太陽の子でもある人間が、日光に浴びずにいると、人間のなかに、このような力で、水晶(結晶)が形成されてしまい、至る所で、神経を圧し、痛みを感じてしまうので、結晶化する寸前で、その状態を押しとどめているという。これが太陽の力の源泉と呼ばれるものである。 月の結晶(物質)化力(重力)と、太陽の柔軟(非物質)化力(光、霊力)のつりあいのもとで、人類は、地球で、人間として、過度に柔軟(腫瘍)的でなく、過度に硬化的でなく、適度な(魂の)中庸の進化を遂げることができるように準備されている。科学でいう人間原理のことである。 このことを、仏陀は、弦の喩えを用いて、仏教の中庸で説いている。とどのつまり、宇宙は人間が良く進化できるように、構成されているということなのである。その恩恵に報いれば、善人になれるだろうし、その恩恵を知らん振りして、わが身わがままにいけば、悪人にとどまる。それは人間の自由だというわけなのである。 さて、その地球の中の、クリスタル形成力は、人間のなかにもあり、実は、頭蓋からその力が、人体に流れているという。古代マヤ人は、その力の源が、人体のなかで、頭蓋から流れていることを知っていたのだと思われる。結晶形成力は、プラトンが、宇宙(神々)の力を、幾何学として、表現したものであり、宇宙から地球にくるあらゆる方向の力が幾何学的に、結晶を構成するという風に、考えたものだという。 人間のなかのこのクリスタルの形成力は、人体内で、クリスタル(石英、水晶)が未結晶な溶解状態で、頭蓋骨から、人体内を巡り、結晶化の一歩手前で、日光によりとどまり、とどまったその力を利用して人体を構築しているという。人間はこのクリスタル形成力を、頭蓋から人体内を循環させることで、月光と日光の釣り合いのもとに、人体を構築しているといえるのだという。 日光は上方で、人体に浮力を生み、月光は下方で、人体に重みを生じる。 これは、ダビンチの人体図の神秘的な意味でもある。かってこのことは秘教学院で教えられてきた格言なのでもある。 実は、人体のなかの形成力となる結晶化力は、自然界では、ミツバチが作り出す蜜と、哺乳類の母乳のなかにあるのだという。蜂蜜と母乳のなかには、化学物質のみでは、解明できない成分が秘められているというのが、神秘学の唱えるところであるという。人体が、年齢によって段階的に、その人体の形成を構成していくように、この形成力は、段階に応じて、異なるという。 母乳と蜂蜜とでは、その力が異なる。更に石英や珪酸を砕いたものは、その形成力において、大いに異なるという。 これが哺乳類のおっぱいから蜜が出ずに、母乳が出る意味だという。自然の力では、おっぱいから蜂蜜のような蜜を出すことは容易いことなのであるが、母乳が出るのは、赤子にとって、蜂蜜では、人体に過渡に形成力を生んでしまうからなのであり、母乳こそが適度で、丁度よいのだという。だからおっぱいから乳が出るのだという。 とどのつまり、人間の幼児が、母乳で育つのは、母乳には適切な形成力を供給する能力があるからだという。ただし、昨今の母乳は母親がなんらかの化学物質で汚染されているので、本来の母乳とは異なるという。例えば、母乳の代替のミルクで育った幼児は、60歳を超える年齢になると、組織の硬化が目立つようになるという。対して、健康的な母親の母乳で育った幼児は、60歳を超えても、なお健康的であるという。 これは適度な人体内の形成力が保たれているおかげだといえるという。大人には、過度の形成力である蜂蜜がよいといわれるのである。 しかし、蜂蜜は甘いので、あまりに蜂蜜をとりすぎると、糖分をとりすぎ、胃は糖分をとりすぎると、酸を必要とし、酸の働きが狂うという。蜂蜜をとりすぎると胃の調子が狂い、腸がやられる。このために、珪酸や石英を希釈してあたえる薬は、大人には、形成力を養うには、有効だという。ミルクもまた、酸敗しやすく、酸化したミルクには、もはや形成力は残されていないという。 この蜂蜜の形成力は、地球がクリスタルを六角形に結晶としてつくるように、ミツバチがつくる六角形の巣に現れているという。 クリスタルの頭蓋骨の意味は、人類のなかでの蜜蜂の巣のことであり、人類が次の進化を遂げると、人類は蜜蜂の巣のような霊魂の巣の力を形成するという伝説が、神秘学には残されているのである。それは愛の巣とよばれ、新たなるエルサレムという愛の都市のことを意味する。 ちなみにTVでいっていた、マヤ文明には、このクリスタルの頭蓋骨を13個集めると、宇宙の全てがわかるという伝説が残されているというが、これは、キリストと12人の師弟を表し、球体は、周囲を12個の球体で埋め尽くすことができるという意味でもあり、これは宇宙の構造を表していて、キリスト(太陽と月の7柱の神々)と黄道十二宮の関係のことを象徴的に語ったものであろう。 古代マヤ文明の遺跡は、秘儀参入場であり、エジプトのピラミッドと同じ神殿なのであろう。
2006年06月05日
コメント(0)
最近、とっていわくさまの、弘法大師空海の密教ブログで、性の問題が取り沙汰されたので、神秘学から少し書いてみたい。 性の神秘は、神秘学でも、神秘の中の神秘とされている部類なので、密教者にはタブーとされている。 私は、密教者ではなくて、密教研究家なので、とくにタブー視はしていないが、ぼんやりとその秘密の自分なりの意見をまとめるくらいしかできないだろう。で、私が、その秘密をどこから探るかというと、実はキリストから探るしかないだろうと思う。 神秘学では、密教の開放者がキリストとされている。キリストは、人類に身をもって秘儀参入法を示したからである。密教を知るには、秘儀参入法しかなく、その高度の秘儀に属するのが、性の神秘なのである。 では、性の神秘について、キリストが語る言葉は、どのようなものだったのだろうか?とあるキリシタンのブログで、そのようなものにお目にかかった。それはサドカイ派の人々が、イエスにぶつけた質問の、以下の答えである。サドカイ派は、ニコライ派と似て、神秘を信じない、神への信仰をなくした、権威主義者たちと、ヨハネの黙示録でいわれている。 モーセが説いた戒律(契約)を偶像崇拝するサドカイ派に対して、キリストは以下のように答えた。 「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(マルコによる福音書12.24-25) サドカイ派の質問は、結婚についての質問だったのである。 では、このキリストの言葉の考察をはじめたい。 性というと、一般的に男女のことだと思っているが、聖書に書いてある性とは、そのような表面に現れた物質的なものではない。物質的なものであったとするのなら、聖書の説く、復活など、あろうはずがないだろう。死者が生き返るはずがなかろう。これは科学だって証明しているところのものである。死者が、死んで、肉体をもって生き返ることなどありえないのである。ただし、ここでいっている死とは、仮死状態のことではない。完全な死のことであり、神秘学的にいえば、肉体から、エーテル体(気)が離れたことに該当する。肉体からエーテル体が離れると、肉体は崩壊する。エーテル体をみれなければ、完全に死んだかどうかはわからないのである(ただし、肉体全部が崩壊しているのなら、エーテル体をみれなくても、予測はつくだろう)。 キリストが言う、死者が復活するというのは、以上のような、肉体の復活ではない。あくまでも霊的な復活のことをいうのである。霊体に、性差はない。性差は、肉体をもってして、形態的(遺伝的)に生じるものだからである。だから、そもそも、サドカイ派は、結婚の意味を知らないばかりでなく、聖書も神も知らないというわけなのである。 サドカイ派は、ニコライ派同様に、邪教といわざるをえないだろう。 近頃の霊能力者も、ようやく結婚とは、愛の学びであると説いているが、結婚自体に意味があるのではなく、勿論、子どもを生むこと自体や、血を継承すること自体にも、意味があるわけではない。それこそ物質的思考であり、偶像崇拝なのである。キリストがたびたび、言う「主たる神を信じよ」というのは、偶像(物質)崇拝をやめて、感覚では捉えられない、みえない霊を信じよということなのである。これは仏陀も説いているところである。感覚を信じるな。感覚から自由になれ!ということなのである。つまり、結婚、子、血そのものよりも、結婚や子ども、血の継承という出来事を通して、いかに魂が学ぶかの方が重要なのである。それは愛を育てるための機会にすぎないのである。 性の秘儀を知るには、まずは、性そのものの知識を超える必要があるということである。 だから、魂や霊において、性の区別はなく、人間が肉体の死(無常)に囚われることなく、霊的に復活(生きる)、仏教でいえば成仏、すれば、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるわけである。 性の秘儀とは、秘儀が秘儀でなくなることをいうのである。最高の秘儀とは、もはや秘儀ではないものであり、顕れることなのである。顕れるのは、神の存在であり、神を認識できるということなのである。最高の叡智である神を認識できるから、神々といわば、交信(交わる)するわけである。それは最高のエクスタシーであり、仏教でいうニルヴァーナなのであるから、堕落した俗世で捉えると、性交渉のことと錯誤してしまうわけである。 低俗で捉えるとどこまでも低俗になってしまうので、性交渉のような考えを、とくに密教者には、幻惑や誘惑を生じる元となるので、厳禁としているのであろう。 性自体、結婚自体、血自体が問題なのではなく、それをいかに克服していくかが、問題なのである。遺伝や形態を超えて、性差を超えて、愛を結ぶこと。それが最高の秘儀であるということであろう。 ソクラテス風にいうのならば、性を性と考えないことが本来の性なのである。 性に何かを求めるところが、性を克服できていない証であり、偶像崇拝を意味する。主たる神を信じよとはそれを超えろということなのである。性を超えて神を信じよということなのである。 ソクラテスはこう言うだろう「あなたが男だから、女を求めるのか?、それならその愛は性からくるものであって、性を生む愛のものではないだろう。」「愛があって、それがたまたま男と女の形であったとするなら、それは性を超えた愛であろう。」 愛ははじめであり、終わりであり、その真ん中に位置するものである。 愛はアルファであり、オメガであり、そして永遠にあるものである。
2006年06月02日
コメント(0)
全21件 (21件中 1-21件目)
1