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手前味噌で悪いが、いまにしては遥か昔の修論のテーマは、素粒子に質量を与える機構を、プレオン(プリオンではない)モデルから、考察するものであった。素粒子とは、万物を構築するものと想定されている最小単位の粒子のことで、現在では、クォークと電子及びニュートリノの仲間と、4つの相互作用を担うであろう4つの仮想粒子のことを指す。これらは現在では、粒子加速器の実験から、標準模型として確立している。 しかし、この標準模型には、欠陥が多く、その最たるものが、素粒子に与える質量の根本的構造問題の未解決にあり、その機構としては、ヒッグス機構と呼ばれるものが挙がっていて、これは相転移の現象から質量が素粒子に自然に付与されるものが考えられ、その例として、電磁波の仮想粒子の光子から分かれて相転移を起こし、ウィークボソンという弱い力(核分裂の核力)の仮想粒子が質量をもつことで、実証され、電磁力と弱い力をあわせて電弱力として一応、統一されたが、4つの力のうちの残りの2つの強い力と呼ばれる核融合力と重力そのものの質量構造がいまだ不明なのである。 この2つの力の仮想粒子を統一するヒッグス機構的な解決法は、いまのところ、超弦理論が有望だが、この理論は、あまりに難解な数学で記述されるので、その実証のための実験方法が見い出せず、抽象論すぎて、唯物論にそぐわず、いまでは、一種の哲学論とさえいわれている。 ヒッグス機構の考え方は、気体から液体への相転移そのものといってよいもので、この超弦では、これを弦の振動の密度に置き換えているのである。ヒッグス機構も、超弦も、いわば、空間を位相的に閉じ込めた構造から、質量を生み出していることにかわりはない。 私の修論では、素粒子の階層を一段下に下げた場合を考察したのである。つまりは、空間を1つ下に分離し、現在の素粒子の下に、更に素粒子(プレオン)を置いたわけなのである。ロシアの有名な入れ子人形と同じである。発表では、そもそも電子より小さい粒子などみたことがないし、実験的に不可能だろうという想定内の突っ込みをうけたが、4つの力を統一するエネルギーレベルが、ビッグバンより想定されるものよりも、対称性をかえることで充分低い可能性が指摘できるということで誤魔化した。このプレオンモデルのウリは、左巻きしか存在しないニュートリノに質量を与え、左右両対称性から、左しか出てこないように調整できる点である。 10年前の当時でさえ、どうやらニュートリノには質量があるということがわかっていたために、このプレオン模型はある程度脚光を浴びたが、その後、音沙汰ないので、一種の線香花火のようであったのだろう。 実は、いまその話を蒸し返そうと思うわけなのだ。確かに、プレオン模型は、イマイチ感が拭えないが、それは素粒子をより低い階層に求めた入れ子構造にあるのではないかと思う。唯物論では、現象をより小さい物に還元する傾向があるが、そもそもその発想がおかしいように思うからである。我々は、素粒子の表面しかみていないのである。表面をみて、唯物的に考えるから、その内部に構造があるように思えるが、実は、我々が、内部に入っているかもしれないのである。 つまり、素粒子の原点を内部に求めるのではなく、我々の外に求めるのである。 質量は、我々の外側、あるいは、我々が外に出すことからくると考えるのである。プレオンは内部にあるのではなくて、宇宙の至る所、つまり太陽系の構造にあるというわけなのだ。 ここで、神秘学の叡智が登場する。太陽系は、右巻き螺旋構造で、宇宙を運動しているという。これは太陽の光により表現される。 光が重力により曲がることを、私は重力の引力の方に曲がると誤解していたのだが、実は、その反対だというのである。つまり、光は、重力に対して上昇するわけなのである。つまり、これは、太陽系が、右巻き螺旋構造で運動するならば、光は、それに伴い上昇し、重力はその反対に、左巻き螺旋構造で、下降するのではないだろうか? だから、太陽(からくる)ニュートリノは、左巻きしか地球にこないと考えられるわけである。太陽を中心にして、右巻き運動をしている太陽系は、質量としては、その反対の左巻きを後に残していくと考えられるからである。つまりは、重力は、左利きなのではないかと思う。 生命的なものは右巻きなのである。これは生命が太陽の光に起因するので、神秘学では、自明のことなのである。DNAも右巻きらせん構造で有名であるし、毒性のある物質は左巻きが多い。寺の記号の卍は右巻きに旋回したものであるし、この逆は、ナチスのマークで有名である。 つまり、右巻きは、光の上昇方向で、左巻きは、重力の下降方向という意味にとれるわけなのである。
2006年10月31日
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現代人の特有の病といえば、動脈硬化及び心筋梗塞と腫瘍、俗にいう癌であろう。神秘学で、心筋梗塞は、現代人が、かつてのような農耕牧畜生活を離れ、人体の体内温度調節を超えるような速さで、土地を移動するような乗り物を使うせいで、その調和と調節をなす心臓に、過度な負担をかけることから生じると説いている。その例えがエコノミー症候群でもある。 神秘学では、狂牛病も予想され、説かれており、その原因は、牛のような草食性の動物に、肉食させることがタンパク質の平衡状態を狂わせるものとしている。異常プリオンタンパク質は、その2次的な副産物にすぎないという。つまり、草食性の動物に、肉食をさせると、自然のプロセスに逆らうことになり、なんらかの異常なプロセス、破壊的プロセスが生じるというのである。これは、その2次的な結果として、異常プリオンの正常プリオンとの鏡像対象性に見い出されるところだろう。 これと同じように、人体のなかでも、植物タンパク質と動物タンパク質並びに人間タンパク質が、平衡状態にあるという。つまり、以下のような方程式が成り立つという。 体内タンパク質形成力=植物性タンパク質-動物性タンパク質、 動物性タンパク質=体内タンパク質利用量 動物性タンパク質を摂取すると、体内は、必要なタンパク質形成力を自ら生産せずに、動物タンパク質をそのまま利用しようとするという。そのため、体内が堕落するという。そして、その分、余った形成力が、主に他の破壊力にまわされるという。つまり、過剰な動物性タンパク質を摂取すると、-(マイナス)の体内タンパク質形成力になってしまい、他の器官の破壊力へと転換してしまうというわけなのである。 このような体内タンパク質形成力は、膀胱、腎臓、肝臓、肺、心臓により担われるという。 つまり、タンパク質は、これらの主に膀胱、腎臓組織、肝臓組織、肺組織の4器官により生産されるという。これらの4器官は、それぞれが、一部ではなく、人間全体になろうとしているという。つまり、これらの器官は、タンパク質形成において、増大しようとする傾向になるといえる。それに対しての、この増大傾向を押し止めようとする、外からの形成力が、人間の内面、つまり人体のなかで、対抗しているという。それは元々は、惑星の形成力だが、その力は、金属のなかに潜伏しているのである。 このタンパク質形成力に対抗するのは、鉄の形成(放射)力だという。人間の血液は、鉄を必要とするが、鉄は、タンパク質形成力を、適切なものにするために働いているという。鉄の意識という霊的な意識、瞑想により仏教でいうチャクラを開発すると、このことがビジュアル化でき、イメージとして捉えることができるという。つまり、鉄の分散力が人体に広がり、タンパク質形成力に当たって球面のように跳ね返ってくるというイメージだという。心臓は、この鉄の形成力を基に、人体を制御しているという。これらは全て、エーテル体の作用としてプロセスを考えると、理解できる。 人体の外の惑星の力である、火星の鉄、木星の錫、土星の鉛、太陽の金、月の銀、金星の銅、水星の水銀は、その力を、いわば分散力として、金属に残しているという。なので、これらの金属は人体内には、鉄を除いて、普通、器官を形成するものとして存在しないという。これら金属の分散力は、それを克服する体内の中心的なタンパク質形成力の源となるという。心臓において、外力の金属の分散力と、体内のタンパク質形成力の調和と秩序が保たれているという。それは以下の式で表すことができるだろう。 惑星の外力=体内タンパク質形成力、つまり、人間の周囲の外力=人間の中心の内力 ここで、動物性タンパク質過多になると、体内タンパク質形成力はマイナスになり、人間の周囲の外力もマイナスになる。ホメオパシーの波動の原理でいえば、マイナスは、それとは対極にあるものを増加させることになり、人体内での惑星の外力の強化につながり、硬化症がもたらされることになる。つまり、これらの外力が強すぎると、タンパク質形成力に硬化がもたらされるわけである。更に硬化が強すぎると、今度は、その反対の腫瘍形成に至るというわけでもある。 では、腫瘍形成について、述べていきたいと思う。その前に、聖書の生命の樹と知恵の樹について述べておきたい。 生命の樹と知恵の樹は、聖書の創世記に記述されているものだが、生命の樹は、人間の内面を、知恵の樹は、人間の外、つまり周囲の自然を表しているのである。だからして、生命の樹とは、人体内のプロセスで、知恵の樹とは人体外のプロセスという意味でもある。樹とは、エーテル体を意味するので、つまり、人体内のエーテルプロセスと、人体外のエーテルプロセスといってよいだろう。 ここに、神様が、生命の樹からは、どんな実もとって食べてもよいといったが、知恵の実からは食べてはいけないといった意味がある。つまり、人体内のエーテルのプロセスから、存分な活動を行ってもいいが、人体外のエーテルのプロセスから、摂取すると、毒となり、死ぬというのである。つまりは、肉食をし、温度変化を伴う急激な移動を行うと、人体に硬化や癌をもたらすといっているのでもある。端的にいえば、自然に反する生活をすると、たちまち死んでしまうというのである。 では、実際、人体内での炎症と腫瘍形成を、このような視点から考えてみる。エーテル体を考えると、健常な場合は、エーテル体が、人体内であらゆる方向に展開していなければならない状態であり、これは言葉で表せば、生命の樹から万遍なく食するということに他ならない。では炎症はどうかというと、炎症はエーテル体が特定の方向に不活発化していることを意味し、生命の樹から偏った実だけを食していることになる。 対して、腫瘍形成は、この生命の樹に、知恵の樹が絡んでくるのである。腫瘍形成も、炎症も、エーテル体が特定の方向に不活発化することにかわりがないが、つまり、生命の樹から偏った実ばかり食しているが、炎症の場合は、まだ、知恵の実を食してしない段階であり、腫瘍形成の場合は、知恵の実を食べてしまったことを意味しているのである。 このことを、ヒポクラテスやパラケルススのように、4つの体で説明すると、炎症は、自我が弱められ、アストラル体は偏り、エーテル体が不活発で、肉体の破壊がそのままの状態になっていることを意味し、腫瘍形成は、自我からエーテル体まで、炎症と同じだが、肉体が、過度に形成されてしまうために、なんらかの物質的形成物が生じる点で異なるのである。 端的にいえば、炎症は、主に自我の弱さからくるエーテルの不活発化による肉体破壊で、腫瘍形成は、肉体の物質的過多による障害物の形成が、エーテル体に不活発化を生じさせたものといえる。つまり、腫瘍の場合、物質形成による障害物を取り除き、エーテル体を以前のように活発化させることで治癒に導けるわけである。 さて、このような、エーテル体の不活発化に対する処方、つまりは、エーテル体の活性化に導くようなものは何かといえば、これを例えば、聖書の記述でいえば、生命の樹を満遍なく食するものは何かということになるが、それは、ヤドリギなのであるという。 これがヤドリギが、生命の樹といわれる由縁のものなのである。ヤドリギが生命の樹といわれるのはその特殊な寄生の性質にあるのではなく、他の植物とは、その成長がずれている点にあるというのである。だから、ヤドリギでなくても、特定の時期だけに成長が終了するような、例えば、冬季植物のヘレボルス・ニゲール、クリスマスローズにも、あてはまる原則であるという。 これらの成長のずれを生み出す植物は、そのエーテル体に、宇宙の全般的で、直線的ないわゆる線形の組織形成力に対して、特異的な相乗的な、いわゆる非線形の曲線的な成長をもたらし、エーテル体に特殊な作用をもたらしえることができるのである。ただし、このときも、ホメオパシーの希釈法により、用いる場合のみである。 つまり、ヤドリギ、冬季植物は生命の樹の偏りを元に戻すことができるわけなのである。 この現象は、例えば、ヤドリギを用いて、胎盤を引き留めることができることで確認できるという。胎盤の脱落は、直線的な組織形成力によるものだが、ヤドリギを希釈的に作用させると、これとは逆の胎盤の引き留めが起こるという。 このように、ヤドリギは、生命の樹の強化を図るので、エーテル体が活発化促進され、物質体を正しく掴めていないエーテル体を、強化してしまうと、その反作用が生じ、物質体を強く掴みすぎてしまうと、痙攣の発作が生じ、或いは、物質体を掴めないままだと、遺精を促進させることもあるという。
2006年10月30日
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以前にも書いたが、スフィンクスの謎々というものがある。「朝に4本、昼に2本、夜に3本の生命は何か?」というものだが、その謎々の答えは「人間」である。 これには深い意味があって、人間は、足からダメになるという教訓がある。足が立たなくなると、腰がダメになり、ついには寝たきりということになる。寝たきりになると、生きる気力も萎え、ついには死を迎えてしまう。だから、昔の人は、とにかく口癖のように、足腰を鍛えよといったものである。 これには、また別の意味もあり、人間の足は頭の脳を支えている。脳は、足がなければ生きることができず、脳は足に養って貰っているという教訓でもある。脳は足の御蔭で生きているにも関わらず、足を使っている存在でもある。昨今の科学でも、人間が4つ足から立ち上がり2本足になり、余分な2つの足が手になって、自由になり、脳が発達したと説いてもいる。 脳は、足に足を向けて寝られないはずである。 ここにスフィンクスの謎々が説く矛盾がある。脳が足に養ってもらっているにも関わらず、足に指令しているのはどういうわけか?という矛盾である。 この矛盾は、一体、人間が人間を教育することなんてできるのだろうか?という問いまでに発展するのである。 神秘学によると、人間の脳は、かつての足だったという。つまり、今世の脳は前世の足の行動から形成されるというのである。だから、前世においてよく足を動かした者は、今世においてよく脳を動かすことができる者となるという。しかし、今世においては、来世の脳を形作る足が主役なのである。 過去の脳から未来の脳へ知性を運ぶものは、実は足なのである。 ここに神々の叡智が宿る。過去の知性と、未来の知性の伝達が、足で出会い運ばれる。過去の古い知性は、足において改められなければならない。つまり、知性は足で検証される運命にある。そして、魂は体験において能力を開発し育成していく。 つまり、人間を教育するのは、自らの足(体験)にあるといえる。自らが止まることなく、足を運べ、足を動かすことが、未来の知性をつくるのであり、人間の未来の教育をなすものである。自ら歩め! 「足るを知る」という格言の意味が大きく胸に響く! そして、お釈迦さまが、「犀の角のようにただ独り歩め」といった意味がわかるだろう。 犀の角というのは、円錐状になっているが、これは我が身から出た光が我が身に返ってくる構造になっているのである。つまり、体内のものが外に出ずに内に返ってくることを意味する。自分の行いは自分に返ってくる。脳が発した命令は足を通して、自らに返るということ。端的にいえば、日々の体験を下に、我が身の反省生活を継続しなさいということである。 人間の教育は自己教育から成り立つ。他に教育を求めるのではなく、自ら教育しろ!他者をみて、自ら学べ! 人の振り見て我が身を正せ!! つまりは、人間の脳は足に学んでいるのである。脳の師匠は足なのである。 宇宙の法則は、上の者が下になり、下の者が上になることで上手く秩序と調和をもって、循環しているのである。キリストが、弟子たちの足を洗った意味がここにもある。 近視眼的な視野しか育たないから、学問が試験勉強になり、試験科目だけが、勉強になるという、軽薄な知性の持ち主になる。就職の為に学校に行くなら、なんらかの会社に入ったら、はいお終い!である。大学の五月病と同じだろう。人生の目的が大学に入ることであるならば、その人生は前半で早くも終わりを迎えてしまうだろう。若者の発想が近視眼的であまりに貧弱で、こんなに堕落しているから、世の中が一向によくならず、病気もちの老人ばかりになる。 人生は長い目で見た者が最後に笑うのである。若いうちから老人のときを見通せるのが、真の知性である。人生は短いようで、その実、奥深い。青年老い易く学成り難きというのは、人生が短いという意味ではない。人間は少し学を成すと途端に好い気になり有頂天になることを戒めたものである。常に飽くなき自己教育の道を探れ!という意味なのであろう。 実は自己教育の教材は人生の周囲に配されているのである。それが日々生活の体験である。 病気というのは天からの授かりものであり、自己教育の足りなさの警告でもある。自分の健康すらも守れないものは、人間としての自己教育に甘えがある証拠でもある。若いときに苦労を怠るから、基礎土台ができずに、中年になって早くも病気がちになる。 病気に罹らないのもよくないが、病気に罹るのはもっと悪いといえるだろう。ヒポクラテス、パラケルススが、説いたように、人間は4つの体のバランスと調和からなっているのである。病に罹る人は、このバランスと調和に対して、注意と配慮が足らない証拠だといえる。そして、なにより、他に原因を求めすぎる精神にあるといえるだろう。まずは根本に返り、我が身を反省すべきことにはじまる。自己反省する瞑想こそ第一の特効薬だといえるだろう。 少々強く非難めいたことを書く昨今だが、どうも世の中、地獄社会のように、他に責任を求めすぎる悪しき傾向が蔓延しているといえるだろう。 はっきりいっておく、いままでに、些細な罪をなにも犯したことがなく、いかなる病気にも罹ったことのない者だけが、他者の責任をはじめて追求することができる。そうでなければ、赦し合いなさい。 とキリストは言うだろう。
2006年10月25日
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前回は、三位一体の男性的な陽と女性的な陰の作用を簡単に記述し、人体のなかに、太陽系があり、地球と気象的関係があり、天と地として二極的な働きをして、細胞の我儘な生の傾向を、水星等の作用により鎮め、器官等を組織的に構築していることを端的に説明した。これらは全て、エーテル体と呼ばれる、生命プロセスの解析によりわかることだという。 これらを錬金術的に表現すれば、植物と動物と、人間の関係が、宇宙的なプロセスから解き明かされ、男性的な陽の作用は、炭酸石灰の作用と呼ばれ、エーテル体のプロセスを鉱物化していき、重力の下に物質を発生させ、霊体(ファントム)を死滅し分解させようとする。対して、女性的な陰の作用は、珪素の作用と呼ばれ、エーテル体のプロセスを霊化していき、光の下にアストラル体に向かわせ、霊体(ファントム)を構築しようとするものとなる。 植物は、陽の炭酸石灰の作用を根に塩プロセスとしてもち、陰の珪素の作用を、実や花に燐(硫黄)プロセスとしてもち、葉や茎に、水銀プロセスをもつ、多年生植物の、幹は、一年生植物の土台である土の部分が盛り上がったものと捉えるとよいという。これを応用して土を盛り上げたところに植物を植えると成長がよいという。 人間は、この植物と逆の180度の関係にあり、心臓より上部が根、心臓より下部が花や実となる。だから、人間は心臓より上の頭部が陰の珪素作用、心臓より下部が陽の炭酸石灰作用で、心臓は水銀プロセスとして、人体の均衡と調和を保っているという。ちなみに、人間は動物とは直角の90度の関係にある。 エーテル体のこれらの陽の炭酸石灰作用と、陰の珪酸(素)作用は、ホメオパシーの原理により、それぞれの炭酸石灰と珪酸を人体内で希釈していくことにより、その作用を補完し、促進させることができるという。 ホメオパシーの原理とは、宇宙の創造の原理である三位一体の光球の原理を用いたもので、端的にいえば、ある物質をある作用の下に希釈していくことで、その作用の濃度がゼロとなるような、決して表には現れないゼロ点を超えて、その反作用を生み出すことをいう。この宇宙のもの(作用)は、その性質がゼロとして現れることはなく、本来の性質が、ゼロを超えると逆に反射して返ってくるような波動のリズムの特質をもつという。 このことは、例えば、財産を素に金を使い切っていくと、財産のゼロ点を超えてもなお、借金をして、使っていくことと同じであるという。ゼロ点を超えた時点で、質的状況が変わり、今度は負債者となるのと同じだという。宇宙はこのようなリズムの原則からなるという。 だから、ある作用の素に、その作用素を希釈するプロセスを行っていき、ゼロ点を超えると、その反対の作用が現れ、今度は、その反対の作用に対して、更に希釈を行っていくと、その反作用の内的な第2のゼロ点ともいえるゼロ点に至るという。そのゼロ点を超えると今度は、はじめの作用と90度変換した高次の作用が現れてくるというのである。 つまり、天と地の両極性において、地(物質的特性)の作用からゼロ点を超えると、その地の反対の作用が現れるが、今度は、(地の物質的特性の)その反作用の(第2の)ゼロ点に向かい、それを超えると、天(霊的特性)の作用が現れてくるというのである。 これは図的イメージで表すならば、3次元の鞍状のグラフを用いればよいだろう。鞍状のグラフのゼロ点は、進入する方向で、極小値になったり、極大値になるのである。鞍状のグラフの上側からの進入(馬の鞍を考えれば、前後の進行方向)は、極小値になり、極小値になったときに、90度回転させる(馬の鞍に脚を乗せる方向)と、極大値に変わるのである。このグラフは、相転移と呼ばれる物理現象が、質的に変わるときに用いられるもので、対称性の自発的破れと理論的に名づけられたものでもある。現代科学的にいえば、ホメオパシーの原理とは、相転移の原理、つまり、対称性の自発的破れを用いた方法といえる。 さて、人間のなかには、宇宙的な天体の働きがあり、地球とのその関係から、気象的な器官を人体内に形成していることを、前回、簡単に記述した。 人体のなかにこのような気象的な器官があるのも、自然のなかにその性質があるからに他ならないという。実は地球の周りには、熱の層があり、その熱の層が、その熱層の外と内に同じような効果をもたらす作用を創出しているという。その作用とは、空間から熱により空気を締め出して、光を作り出すことだという。熱層から光が創出されるという。 つまり、熱層の外側の空気が熱により締め出され光となり、地上に降り注ぐという。熱層の内側には、勿論のこと、空気の層がある。そして、この熱から光を作り出すことが、人体内でも行われているという。恐らく霊光と呼ばれるものであろう。人間と動物の違いは、体内の創り出される光の違いにあるという。動物は、充分な光を自らつくりだせないという。 そして、地上の空気層の下に水の層、いわゆる液体の層がある。これは大気圏外の熱層の外の光を生む層の外に、化学力を創出する層があり、その化学力の層と対極的に作用しているという。この化学力の層も、勿論、人体内にあり、それが肝臓だという。ここに、肝臓がその土地の水の組成に依存している意味が見い出せるだろう。 更に、液体の層の下に硬化した土形成の層がある。これは地球の外では、化学力の層の更に外に、生命力の層があり、これと対極を成しているという。この層の人体内にある器官は、肺であるという。だから、肺はその土地の組成に依存するという。 土の形成力は、生命力が死ぬことで生まれるという。地球は、実際水星の影響がなければ、腫瘍のように絶え間ない生命形成力の旺盛の基に膨張してしまうという、水星の水銀プロセスの力により、絶えず前段階に止まり、土を形成しているという。例えば、牡蛎の殻も、牡蛎が土形成に至らないように、海水という液体層にいるために、腫瘍の前段階の炭酸カルシウムの共存形成に止まっているという。ミミズは、殻をもっていないために、このような前段階に止まることができず、土形成の担い手だという。ミミズがいないと、土のなかに生命形成力が行き渡らないという。 炭酸カルシウムの影響の下に発生する病像を人間の場合に観察すれば、肺の現象全てと、非常に強く関連することがわかり、肺の退化も、牡蛎の殻の形成プロセス、或いは同類の巻き貝類の殻の形成プロセスなどと共に、理解できるものとなるという。 人体内で、外の空気活動に対応するものが腎臓の活動で、水の活動に対応するものが肝臓の活動で、固体である土の活動に対応するものが肺の活動であることがわかる。 太古人は、これらの現象を、火(熱)、風、水、土の4大元素霊で説明した。火は地球の熱層であり、風は、空気の層、水は、液体の層、そして、土は土形成の層であり、それらは、太古人が神と呼んだ天体の力、つまり、天と地の対極性により生じ、火と風から光が生まれ、水は、化学力と対、土は、生命力と対であることが、理解できるだろう。 そして、これらは、人体内にも、子であるものを持ち、天が父なら、子が人体となることを意味するだろう。人体内の熱が、血液の体温、風が腎臓、水が肝臓、土が肺というようなものである。現代人は、これらを誤解し馬鹿にするだろうが、どちらが真に愚かなのかは、その年代間の経験差からもわかることだろう。何しろ、科学が誕生して200年しか経っていないのである。地球の歴史からいっても、人類の歴史からいっても、ほんの2世紀足らずである。その間に行ったことは、ほとんど闘争と戦争と殺し合いで、高尚な知的分野の科学と呼ばれる学問でも、知的な闘争や競走を続ける愚かさは、19世紀とその精神の質において全く変わっていないのである。 自分だけ幸せで、目立てばよいという利己主義は19世紀から全く変わらないばかりか、かえって堕落しているとさえいえるだろう。 そのような科学者がやることといえば、上述したような地球外からくる生命力の作用を、物質的なものに還元して、別の天体から生命の萌芽がこの地球にもたらされるという仮説を生み、生命の萌芽は、物質的な方法で別の天体からもたらされ、この地球に発生するという理論になり、その際の生命の萌芽が地球にやってくるための乗り物は隕石であるという科学者さえいる顛末になったのである。 古代人と現代人とどちらが愚かなのだろうか? 現代においては、唯物主義的な理論により説明されたことにしようとする権威的な状況が実現されてしまい、肉眼で見えるもの、観察される全てのものを、微視的なもの、あるいは超微視的なものまで引き戻して見て、これらの説明がついたと思いこむように、生命も、それがどこか唯物的な別の場所に移されれば、説明がついたと思いこむわけなのである。 一体どこまで、真の責任を他に帰すれば気が済むのだろうか? 学者の多くが自ら行動せずに、他に命令することしかできないのは堕落の証拠である。自らのことは、自らで責任をもってやるべきなのである。知性は自らの存在を売る道具ではない。自らの行為を鼓舞するものであろう。他に求めるのではなく、自らで行え! 我々には霊性がある。現代こそ、霊性を回復すべきときなのである。
2006年10月24日
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神秘学では、人間を4つの体である自我、アストラル体、エーテル体、肉(物質)体からなるものとして捉え、ヒポクラテス、パラケルススは、この4つの体を基に、その関係と結合状態、いわば相互作用により、デイスクラーシスの病と、クラーシスの健常とを判別した。 パラケルススは、とくに、エーテル体の作用に注目し、人間のエーテル体の作用が、天体に由来し、人間のなかに、太陽系が隠されていることを説いたのである。このエーテル体の作用を、プロセスとして、いわば波動(関数)の経路として捉え、数学的にはファインマンの経路積分を用いれば、その個別的経路からなるなんらかの生命体は、一種のシュレディンガー方程式となり、そのエネルギーは、天体の作用から現すことができるだろう。そのときのプランク定数は、生命体が自己組織化する個別プロセス群の定数となるだろう。 このようなエーテル体作用保存の法則とでもいうべき概念から、太古の占星術から、錬金術へと経て、医術、とくに治療という意味で、19世紀までに、学問が変化してきた流れを、数学的に総括できるようになるだろう。そして、この学問が神により人間に授けられたものであることもわかるだろう。 イエスという言葉は、「神を通して治癒するもの」を意味しているが、正しくエーテル体作用により治癒することに通じる意味となる。漠然とこのような概略が見通せても、個別的な実践となると、やはり非常な困難が生じるのはいうまでもない。とりあえずは、パラケルススが言ったように、人体と自然のプロセス的関係を個別的に探っていく道しかないのは明らかである。 宇宙の進化とともに、自然は、人間のなかから外に出されたものであるから、人間は自然と親和性をもち、自然から感覚やプロセスを通じて学びえるのである。つまり、自然とは、人間が失なったものでもある。だから、理論的には時間を遡れば、自然から失ったものを取り戻せるわけだが、時間の矢は、物質世界では未来にしか流れないので、物質世界では無理だが、エーテル体の作用として、しかも、自然のなかの親和性から抽出することはできるのである。ここに、人間が自然から食物を得て、呼吸し、思考し、生きる意味が見い出されるだろう。 端的にいうならば、病の治療は、このことを実践するものなのである。エーテル体の作用を変えるということに帰するといえる。トカゲの尻尾や下等生物の再生は、実際、この最たる例なのである。人間の場合は、この再生は、思考に移り変わっていることを以前に書いたが、だから、人間は思考により、エーテル体の作用を復元できうる存在なのである。 このようにエーテル体を考えると、人間のなかには、天体の力があり、地球の周囲が天体との気象から生じるように、人体にも、このような気象の要素があるという。例えば、気象学的な器官は、肝臓であり、肝臓は、住居する土地の水に依存するという。石灰を含む硬水か石灰をあまり含まない軟水かで肝臓の構造は変わるという。石灰をできるだけ含まない水が肝臓によいという。次に、膀胱であり、膀胱は人体内の一種の空洞化のようであるという。正しく内的な運動をする機会があまりなかったり、つまり、噛まずに飲み込んだり、食べることに正しく注意を払わず、消化の間、休息と運動の節度を守らないで消化プロセス全体を妨げたりする場合、膀胱が調子悪くなるという。消化不良から膀胱の調子が悪い人は、酸素の多い空気の環境に連れて行くと、呼吸が慎重になって改善の傾向を示すという。 次に気象的な器官は、心臓で、心臓は、前回書いたように、いわば周囲の熱と、人体内の熱の平衡を司る器官で、心臓に何か不規則性を感じたら、活気ある運動で、内的な活動を起し、熱を生じさせることが重要だという。肺も気象的な器官で、肺は住居する土地の組成に依存するという。肺の構造はその土地の地質的なものに依存するという。 人体のなかには、天体の力があり、更に地球の周囲の気象の力があり、これがいわば、両極性をなし、天のものと、地のものが均衡をとって、人体内の器官を形成しているという。天体の力は、占星術的には惑星の力で表され、錬金術的には、金属で表される。例えば、土星が、骨化や硬化症を形成する力で、金属では鉛であり、木星と錫が、頭部全般の形成で、火星と鉄が肺の形成であるという。土星、木星、火星が、人間の上部器官を形成し、月と銀、金星と銅、水星と水銀が、下部器官を形成し、中心の太陽を心臓とする金の調和と秩序機能により、人体内で平衡、恒常性が保たれているという。 心臓には、天体の力と、地球の力が集約しているという。天体から、包括的な調和の力、空間的にバランスのとれた球体や円の作用を受け、地球から、斬新的な秩序の力、時間的な矢のような変容を行う作用を受けているという。心臓をみると、天体の力が心臓でせき止められる面に到達する前に、心臓自らがその力を蓄えるように膨張し、地球の力から、人体内全てで分泌されるものが膨張し、血液となって心臓に流れ込むことで、女と男の性の営みがイメージできる。 心臓の鼓動は、男性の性器と女性の性器が融合したものなのである。 そして、そこには、人間として、個性的であろうとする男性の地の力と、人間として、組織的であろうとする女性の天の力が融合されているという。女性的な天の力が、人間の形態を形成し、男性的な地の力が、人間の器官の特色的形態を形成していくという。女性は、末端(土台)的な形成力であり、男性は、中心的な形成力であるという。これは女性的なエーテル体が天に近い作用を示し、男性的なエーテル体が地に近い作用を示すことでわかるだろう。 三位一体の光球で表せば、球の表面を形作る子の領域が、女性の力であり、球の中心の父の領域が、男性の力であるといえるだろう。端的にいえば、男性が父で、時間の矢、女性が子で、空間の包容(盾)といえるイメージで表されるのだろう。昔から言われるように、男性は陽、女性は陰というのは、正しいのである。また、ちなみに、「自分」とは、「自」然(プロセス)から分離した(プロセス)「分」の短縮形だと、私は思っている。日本語の表現は、非常に理に叶ったものであることがわかる。
2006年10月21日
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前世を信じるか信じないかはその人の自由であり、認識の問題だと私は理解している。前世の話が巷を賑わせているが、ヨハネの黙示録で預言されているところでは、前世がみえる人はこれからも益々増加していくといわれている。なぜならば、地球の進化期において、水星紀に入るからだという。早い話、地球が変わるのである。地球が変われば、人類も自ずと変わらずを得ない。黙示録の記述では、キリストの復活をみれる人が増えていくというものであり、キリストはエーテル体でいまも地球のなかに実存しているからなのである。 地球のなかでは、益々物質化したい勢力と、益々霊化したい勢力が闘い、その均衡を保つ役割がキリストなのであるという。これは昨今の核武装勢力と非核武装勢力(自ら所有しながら他国には核保有を認めない既得権益国家)の闘いに反映されているといってもよいだろう。どちらも相手を憎しみ屈服、服従させる論理に変わりはない。地球は、これらの均衡の上に、姿かたちを変えていくのである。 では、なぜ前世をみれる人が増えていくのかというと、地球が変化している(我々と同じに生きている)という認識と、前世を知ることで今世の魂の課題と目的を認識できるからだろう。それと、人類があまりに目にみえるものばかりを信仰し、唯物的になってしまったので、あまりにも堕落して、破滅しないように、いわば天からの歯止めというべきものなのだろう。例えばいわゆる不良を改心させるための、アドバイスというべきものだろう。 では前世の記憶がどこからくるのかというと、前世の記憶を、7歳以前の幼児期に覚えている人が多いのは、魂が肉体を構築するプロセスに由来するといえる。人間は死を迎えると、肉体からエーテル体が離れ、エーテル体は、人生の記憶を逆に辿りながら、植物の種のように縮退していき、エキスとなって、欲界に向かうといわれる。欲界では、アストラル体を脱ぎ捨て(縮退させ)るという。今世に誕生するためには、この死と逆のことを行う必要があるので、エーテル体のエキスから肉体を展開させるときに、エキスにある前世の記憶が蘇ってくるわけであろう。それは、前世において、非常に無念な想い(殺される出来事等)の場合、とくに強化されて現れるので、その記憶が強く残ると思われる。これは前世の無念を自己の力で回避(克服)しようとする積極性につながるようである。前世療法はこれを応用したものと思われる。
2006年10月20日
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エーテル体により、宇宙と人体が密接に結びついていることを、神秘学により書いてきた。宇宙の進化を大きな自然のプロセスとして、あらゆるプロセスが、その一部を形成しているように考えると、太陽系の関係は、エーテル体の3つの作用である、内から外の塩プロセス、外から内の燐(硫黄)プロセス、そしてこれらの均衡と調和からなる水銀プロセスの三位一体の原則で理解されうるものとなる。このことは、人間の感覚器官のプロセスを考えてみると、具体的にみえてくる。 エーテル体を感覚プロセスでイメージすることにより、人体内部に太陽系が存在していることが洞察される。太陽系内の惑星の配置により、地球に金属が生まれる。これと同じように、人間の魂は、前世の教訓から、魂の能力を身につけるための今世での人生計画を決め、それと親和性をもつ惑星配置のときに、地球において誕生する。魂は、天体の配置の探索とともに、自らの願望に叶う肉体を提供してくれる両親を探す。 母胎内の胎児は、主に太陽系の惑星の力により、自らの魂から頭部を形成する。前回は、土星の骨化、硬化症の作用と鉛の関係を、簡単に述べたが、鉛を生成するプロセスのなかに、土星の地球に作用する、いわゆる硬化プロセスが隠されているのである。錬金術師は、これを鉛のプロセスと呼んでいたという。エーテル体でいえば、塩プロセスにあたるだろう。ちなみに、人体内で腫瘍ができると、そのまわりが石灰化してくる(これはレントゲン写真でわかる)が、これはこの鉛(塩)プロセスをイメージさせるものであろう。 エーテル体は年齢や部位により構造やその働きは異なるので一概にいえないが、腫瘍と硬化症は、人体内においては両極性を呈し、一方が過渡に進むと、反作用として、他方が形成されるのだろう。例えば、これをニュートンの作用反作用の法則を使って以下のように大まかに記述できるだろう。ニュートンの万有引力の法則は、天体から来ているから至極最もなことで上述のごとくである。 腫瘍形成力=骨化形成力(硬化症) 天体の力を用いて魂が、肉体を構築するプロセスを理解すると、そこから遺伝病といわれている疾患の原因がわかってくるという。胎児は、天体の力により、母胎内のプロセスから形成され、殆どが頭部なので、母親が、結核や動脈硬化に苦しんでいると、その循環障害が、子供には(現在呼ばれている)精神病として伝達されることもあるという。また、親が性病だと子供は眼疾患に影響するという。 ここで、注意したいのは、精神的なものは、親からは遺伝されず、魂として前世から携えてくるものであり、だから、例えば、天才の子が天才から生まれることはほとんどないという。遺伝されるのは、肉体であり、実際は、それも遺伝ではなくて、魂の選択なのだが、だから精神病と考えられている疾患は、実は肉体の疾患であり、器官形成やエーテル的な機能障害が、親から伝達され、それが精神病のようにみえるだけなのであるという。だから、しばしば、このような病に対し、現代科学は原因不明の遺伝疾患というようなレッテルを貼るという。 魂から考えれば、遺伝というものはありえず、魂が、自らの能力を開発するために、前世で生じた課題を解決するのに、相応しい肉体を得るために、両親を選択し、両親から肉体(血液の熱分布というべき肉体形成の素)を得て、その肉体(エネルギー供給分布図のようなもの)を見本として、いわゆる自らの魂の方針に沿って、歯が生え変わる約七歳までに自らの力で肉体を作り変えるという。なので、7歳までは、一応遺伝といってもよい(それも本当は魂の選択なのだが)が、7歳以後は、環境の問題を除けば、自らの魂の能力で克服可能なものばかりであり、ただ、魂の自立性がないために、外見的に遺伝にみえるような問題のせいにしているだけである。だから、自立性が高い魂は、両親とは全く異なってくるという。「鳶が鷹を生む」というような諺の意味はここにあるのだろう。 歯が生え変わる、つまり乳歯から永久歯になったときが、自らの魂により制御可能な自分の肉体構築が完了したことを意味する。後に永久歯が余計なところに生えてくることを、「親知らず」と呼ぶが、これは親の肉体をそのまま写し取っていないという意味だとすれば、昔の日本人が幼児の成長を霊的に捉えていたことがわかる。恐らく、「数え年」も霊的、魂的な意味からきたのだろう。この人間誕生の霊的なプロセスをみると、地球と人間がいままでにいかに進化してきたかがわかる。 さて、話を戻し、人間の感覚のプロセスから、宇宙とのつながりをみてみる。エーテル体を考慮すると、人体内の感覚プロセスである、視聴覚、味覚、臭覚は、宇宙の進化プロセスのいわば部分的継続であるといえる。つまり、人間は、自然をみたり、自然のものを食したり、自然を嗅いだりして、宇宙の進化を、人体内で継続し、そのプロセスを真似て、変容し自ら克服している存在と考えられるのである。 つまり、太陽系が、人間に、これが太陽系の進化モデルの彫刻だよと与えたものを、人間は見本にし、真似て、自らの魂を土台にして、進化モデルの作品をつくりあげるいわば芸術家みたいなものといえる。これを端的にいえば、父から子への聖霊のやり取りと捉えられるし、父と子のキャッチボールともいえる。だから、人間の感覚プロセスは、いわばキャッチボールのやり方ともいえるだろう。 人間の感覚プロセスを、臭覚と味覚の比較から考えると、植物を対象にした場合、植物は、花、実において、燐(硫黄)プロセスといわれる天体のアストラル体に向かうエーテル体の作用と、根において、塩プロセスといわれる地球の中心へと(重力により)硬化するエーテル体の作用があるが、臭覚は、燐(硫黄)プロセスを人体内で継続することにより、知覚し、対して味覚は、塩プロセスを人体内で継続することにより、今度は消化プロセスに進んでいる。 消化プロセスは、腎臓による排泄プロセスと腸による排泄プロセスへと更に分けられるが、味覚プロセスは、消化プロセスに人体内で下へと進むのと、対極的に上に進む視聴覚プロセスが挙げられる。つまり視聴覚プロセスは、味覚プロセスの変容だという。 味覚プロセスは更に上の思考プロセスへと進む。味覚プロセスから思考プロセスへと進む中間に呼吸プロセスがあり、この対極に、血液-リンパ形成プロセスがある。人体内には、このように、外界と接する感覚器官から、更に人体内へと進んでいくにつれ、個別化し特殊化したプロセスが現れてくる。 これを包括的にみると、人間と外界の接点に感覚プロセスがあり、ここで、エーテル体は、アストラル体に向かい、外にはいわば分散し、内には、物質体に向かい、いわばそれを統合するように働いている。その統合の中心に心臓があり、より人間の中心にむかっていくにつれ、個々のプロセスがあり、人間特有の、消化と思考を行うプロセスを発生させている。これらのプロセスは、太陽系の惑星の力を利用し形成されたもので、これらのプロセスの主だった人体内の器官は、天体の運行に依存する地球の気象と類似した形成力からなるという。 だから、人体内の器官は、気象に影響を受けるという。例えば、心臓は、外界の熱と、人体内の熱の平衡状態を司るいわば気象学的器官であり、人体内の運動による熱の発生と、外界の熱との温度差があまりに大きいと、心臓の障害として表れるという。例えば、自動車や電車或いは飛行機などの移動時に、移動した土地分の外界の熱と同等な人体内での熱の発生が成されないと、心臓疾患が生じるという。つまり、これはエコノミー症候群を意味しているものと思われる。人体内の外界に対する適当な運動がないと、血液内の熱の移動が不全となり、いわば血栓となって、血管が詰まる現象が起こるものと解されるのである。太古人がエコノミー症候群を既に見通していたとは驚くことでもある。
2006年10月19日
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キリスト教の説く三位一体とは、父と子と聖霊からなる創造の原則のことであるが、顕教では、このことを理解できないばかりか、触らぬ神に祟りなしとばかりに超法規的原則、絶対的原則とみなし、権威主義でさえある。しかし、秘教では、たちまちこのことはイメージとして理解されうるものになる。宇宙の存在の全てのものは、内から外への分裂と、外から内への融合と、そしてその間の均衡によりなるというのである。 これを光の球を用いて簡便にイメージできる。内から外へ向かう光の光源を中心とし、これを父と呼ぶ、光球の表面で光が折り返され、外から内に向かう光の球の表面を、子と呼び、そして、光球の内部の光が伝播する空間を、聖霊と呼ぶのである。そうすると、宇宙は存在全ては、この光球のなかの3つの光の作用プロセスから説明できるのである。錬金術師は、この3つのプロセスを夫々鉱物名で表現したのである、内から外の父の働きを、塩プロセスと呼び、外から内への子の働きを、燐(硫黄)プロセス、そして、聖霊の働きを、水銀プロセスと呼んだようである。 つまりは、宇宙の存在全てはこの3つのプロセスの、父である塩プロセス、子である燐(硫黄)プロセス、そしてその均衡の聖霊の水銀プロセスの三位一体の原則からなるという。これらは、前回述べたように、人体のなかでは、心臓より上位の神経-感覚器官の塩プロセス、心臓より下位の新陳代謝器官の燐(硫黄)プロセス、そして心臓の律動器官の水銀プロセスの働きを意味し、植物のなかでは、根のなかに、塩プロセス、花や実のなかに、燐(硫黄)プロセス、そして、その間の葉や茎のなかに、水銀プロセスの働きを意味する。そして、これら塩プロセス、燐(硫黄)プロセス、水銀プロセスから、天体の配置が生まれ、その際、地球とその他の惑星の調停者は、水銀を生じる水星で、その反作用として、地球のなかにあらゆる鉱物の金属が形成されるという。これら天体に調和と秩序を与える太陽は、これら3つのプロセスを精巧に構成させ、物質としての金を生じ、霊と物質の調停者であるという。 余談だが、この3つのプロセスを現代科学論で説くならば、内から外の塩プロセスの働きは、マクロ宇宙論では、ホワイトホールとして、外から内の燐(硫黄)プロセスの働きは、ブラックホールとしてもみなすことができるだろうし、またミクロ宇宙論では、塩プロセスを核分裂、燐(硫黄)プロセスを核融合としてもみなすことができるだろう。それらの均衡のなか、いわば水銀プロセスと呼ばれるなかに、物質現象が見い出されるのである。 この3つのプロセスの三位一体の創造原理は、太陽系の天体構造のなかに見い出されるものだが、この太陽の天体構造は、人体のなかにその影響力をそのまま持ち込むという。人体には心臓を太陽とした太陽系があり、太陽の上位の火星、木星、土星の惑星群のなかに、人間の上部があり、太陽の下位の月、水星、金星の惑星群のなかに、人間の下部があるという。ちなみに、天王星と海王星は、太陽系に外宇宙からお客としてきた惑星なので、元々は太陽系の惑星ではないという。冥王星は、最近惑星とはみなされないものとなったが、神秘学では、以前から記述されていないようである。 このような太陽系の空間構造は、人体内では時間構造に移りかわるという。人間の人生における前半期は、主に、太陽上位の火星、木星、土星の作用の影響をうけ、後半期は、太陽下位の月、水星、金星の作用の影響をうけるという。 これと同様に、人生の成長を4つの体である、自我、アストラル体、エーテル体、肉体から考えると意味深いものとなり、誕生から歯の生え変わる約7歳までが、主に前世のエーテル体のエキスから物質体を展開させる時期で、現在、科学でいわれている遺伝的素養は、神秘学では、誕生前の天体の配列、主に、太陽上位の火星、木星、土星の作用の影響から生じ、その惑星群の、受胎前に人間に作用する分散と散乱プロセスの反作用から生じるものだという。 7歳までが、主に肉体の形成で、このときの幼児の、エーテル体とアストラル体は、母親と共有したもので、依存しているという。だから、幼児は、母親の存在を的確に知覚できるという。7歳から14歳までに、徐々に母親から自らのエーテル体が独立し、肉体を制御するようになっていくという。このときに、肉体とエーテル体が共にかみ合わないような不具合が生じると、身体に不均衡が生じ、アストラル体が、これを調整する必要が生じるが、その際、アストラル体がその充分な力を有していないと、しばしば舞踏病のような物質的放出現象が生じるという。このような物質的放出現象は至る器官にみられ、とくに心的障害を示すものとなるという。 舞踏病に類するものが妊婦にも現れるのは、妊娠によって、物質とエーテル体の調和が乱されるからだという。このときも、同様に、アストラル体の強化が望まれるという。 14歳から20歳頃までは、アストラル体が、肉体とエーテル体に対して正しい関係に位置づけられるのが望まれることで、それがうまくいかないと、後に多発性関節炎等の炎症性の病気の素因となりうるという。 このような人生の前半期の成長は、太陽上位の惑星群の作用を元に展開され、例えば、幼児期の骨化や硬化症のようなものは、上述のように、上位惑星群の地球に対する反作用から形成されるという。この惑星群の反作用は、いわば中心点に向かう波動のようなもので、いわゆる脱塩プロセスとしていわれるもので、土星が鉛を地中に形成するように、鉛のプロセスとも呼ばれ、鉛は、この脱塩プロセスを強化させるという。なので、鉛は、動脈硬化等、骨化、硬化症を引き起こす要素となるという。ちなみに、近年に、アルツハイマー病が、鉛毒からくるという論文もあるが、太古では、充分認知されていたことなのである。 幼児期のこのような骨化、硬化症が適度な進行を超え、あまりに波動の中心点に過度な傾向をもたらすと、今度はこれを補正しようとして、正常な骨化へと止められるべき反作用が生まれ、後に、別の側面として、器官に様々な癌腫形成要因をもたらすという。 つまり、過度な硬化形成作用は、逆に腫瘍形成作用へと転化されるのである。 また、これと同じように、幼年期に必須として現れる脳水腫、水頭症のような症状は、脳と神経組織の正常な形成には必須のもので、この症状と共に、その反対の脳内の水が減少する症状も必須として生じるという。このような表面的には病気様の必須の症状が、充分にその期間に人体に展開されないと、後々に別様の疾患として発症するという。例えば、水頭症の症状があまりに早く取り除かれてしまうと、後に梅毒等の感染症に抵抗力のない罹り易い人体になるという。 このような幼児必須の症状と同様に、少年少女期にも、必須の肺炎、胸膜炎に類似した症状が現れるという。これは幼児期に水頭症のようなプロセスが進んだ御蔭で、人体に自ら水のような液体を生み出させ、生体組織全体を液体的なものに下降させたせいで、逆に、肺炎、胸膜炎的症状を生み出させる素質を生じたせいであるという。 これも水頭症の早めの除去と同じように、このときの肺炎、胸膜炎に類似した症状をあまりに早く除去してしまうと、後に、急性を含めた心内膜炎等の心臓疾患並びに、多発性関節炎等に罹り易い体質を生じてしまうという。 だから、人体に対して、外見的に健常、病気を問わずに、適度な内的展開を加味しないと、そのとき、人体を外見的物質的に正常な状態に矯正したとしても、後に災いをもたらす要因のものとなるというから、医師は充分な観察経過、とくに直観力が問われるという。 硬化症と腫瘍形成の均衡と同じような両極性は、人間としての自我の担い手である1つの組織体の形成プロセスと、その個々の細胞プロセスにみられるという。人間を形成する形成力は、太陽系のなかの天体の配置にあるもので、それが人間にそのまま反映したもので、細胞は、これを破壊しようとする我儘で独自な存在だという。人間の全体のなかに人間としての存在の形成力があるのであって、細胞自体はあくまで利己的で独自に生命を展開しようとする我儘な存在で、人間は、これらの我儘な細胞と、生体組織のなかで、闘っているのだという。つまりは、人間形成力は、細胞生命力を克服した上に成り立つものなのである。 だから、人間の形成プロセスと細胞プロセスにおいて、2つの対立する力の複合体が現れて、諸器官は、この中間に位置し、どちらが優勢であるかによって、肝臓や、心臓になったりして、均衡をとっているという。 宇宙の形成プロセスが、人間にうつり、細胞プロセスを克服することで、人間という存在を形成しているという。細胞は生命的に我儘に自らを展開しようとするので、水星の調停作用である水銀の作用により、細胞が展開する過度な生命力を奪いとり、そのせいで、細胞は、水銀のような液体存在となるという。こういう水銀、水星の作用が人体に働かないと、器官は中間状態を逸脱し、増長する傾向にあるという。 三位一体の原則を考えると、このように、天体の配置が人体の機能に影響を及ぼしていることがわかるだろう。
2006年10月17日
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毎度毎度、堅苦しい読み物ばかし書いているのも、気がひけるので、今回は、神秘学の原理を用いたちょっとばかしの秘訣をお教えしたい。 それは、願い事の叶え方である。 例えば、自分が美形になりたいとするならば、その理想の美形に近い人物を瞑想すればよいのである。そんな馬鹿らしいとお思いのことだろうが、キリストは聖書で次のように言ったという。 目において姦淫する者は罪人なり つまり、想像で異性を姦淫したものは行為に及ばなくても、既に行為を行い現実化したのと同じであるという意味である。キリストが嘘をつくはずはないだろうし、この発言がもし間違っているとするなら、解釈の違いにあるだろう。 勿論、姦淫のようなことは、道徳に反し、相手から強制的に自由を奪うことなので、相手の不幸の上に自らの欲望を放縦することで、害悪であって、神様が叶えるはずもなく、ここでは、戒めの為に用いられているものである。ここでこの言を持ち出したのは、キリストがあえて、そのような戒めを説いたところに重要な意味がある。 道徳に沿わないことは、自らの行動と責任に帰することであるが、道徳に叶うものならば、想像したイメージはいずれ現実となるのである。その想像が、神様の世界を幸福にする意向に沿う、全体に福をもたらす良きものならば、すぐにでも、自然に現実化するだろう。 世界平和を願うものならば、きっと、神様は助力してくれるだろう。道徳に沿う範囲内で、神様はきっとお手伝いしてくれるはずなのである。そうでなければ、自分の力と行動で自由の精神の下に人為的に叶えるしかないだろう。 要するに、物質的に強制力で、想像した望みを叶えるか、精神的にイメージ力で、想像した望みを叶えるかのどちらが、本当の幸福なのかという命題に帰するだろう。 前者の場合、一時的にその願いが叶ったとしても、ツケが生じるだろう。強制力が働いたという点で人為的であり、そもそも物質的に補完するというのが、自然でなく、途端にその反作用が生まれてしまう。宇宙全体の自然な道徳的発展に、人為的に出る杭であり、不自然なもので、周囲からの反動を生じるだろう。日本に古くからある出る杭は打たれるという諺の象徴でもある。 後者の場合は、確かに一朝一夕に叶うものではないが、毎日、毎日、絶え間なくイメージトレーニングすることで、他者の良き願い事と共に、着々とその理想に歩んでいくものであり、果報は寝て待てという諺があるように、待つことに耐えさえすれば、周囲も歩みが遅いので、あまりその差異に気がつかずに自然とその現在の存在を認めうるものになるだろう。しかも、後者の場合は、過去の悪い自分を忘れてしまう効果ももたらすのである。 このような話は、ウサギとカメの競走や、北風と太陽のイソップ物語等のありとあらゆる昔話に伝承されているものである。 人生の達人は気がつくと、人知れず重要なポジションについているのである。それは天の配剤といってもよいだろう。 人知れず、誰にもわからずに、瞑想のなかで、自分のことだけでなく他者の為でもある願い事を祈ればよいだろう。自分が誰にでも祝福されるような好人物になれるのならば、その願いはきっと成就されるだろう。勿論のこと、瞑想によるイメージ力も大切だろうが、願う動機が不純かどうかなのである。是、嘘のような本当のことなのである。 もし、あなたに恋人がいたとしたら、世界全体の人に祝福されるようなイメージをトレーニングしておくことを最後にお勧めしたい。
2006年10月17日
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いじめが深刻化している。全てを学校の責任に帰することができないのは勿論のこと、家庭にもその責任の一旦はあり、更に社会や、その指導者たる政治家には最も責任を問うべき存在といえるだろう。いじめが多発する社会をつくったのは現在の政治家の責任なのである。 勝海舟はその著で、改革というのは、注意しないと単なる弱い者いじめになると述べているが、現代の改革ほど格差が広がり、教育現場に弱い者いじめをもたらしている素因といえよう。大体が自分たちの失政のツケを国民に払わせるその姿勢こそ問われるべきなのである。 政治家は、社会的な権威者であり、強者なのであるから、国民の批判によく耐え、その意に沿うように指導していかなければいけない。だから、政治家になろうという気概のあるものは、よっぽどの人に奉仕する精神を元々その土壌にもつ人格者でなければ、おかしいのである。現代のように、大臣という大事なポストを猟官するような不届き者は、国家の屋台骨を揺るがす大悪人の行為、盗人そのものといえるだろう。勘違いも甚だしき現代社会といえる。 現代は、物質的に豊かな面、精神的に貧弱なので、このような大罪が許されてしまうのである。昔ならば、たちまち大飢饉となり、農民一揆の多発を生んだであろう。 これは、北朝鮮の核問題にも当てはまる。核兵器をもつというのは、精神的に貧弱そのものを表す行為といえる。とどのつまりは、核兵器をもたないと恐怖感がたちまち襲ってきてしまい、自らを制御できない未熟さを露呈するものだからである。このような精神的薄弱者に、核兵器を何個もたせたとしても、その足元すら覚つかないものになるだろう。北の問題は、このような政権を打倒しようとするような元気が、国民にないことに起因する。北は国というより、牢獄と呼んだ方が最適だろう。金正日は、牢獄の監守の親玉である。国を挙げて悪事に手を染めているのだから、当然かもしれない。民主主義の度合いはその国民が元気なのかどうかで評価される。 北をこのような体制にしたのも、弱い者いじめの元凶となる共産主義の唯物史観と、経済資本主義が蔓延したせいであるだろう。共産主義も、資本主義も、指導者の我儘や横暴を正当化する悪魔的な理論にすぎないものである。精神性を尊ぶ思想がないから、唯物的に権威化し、偶像崇拝を信仰するのである。挙句の果てには最新唯物的科学論で作製した核兵器を信仰することにいきつくのである。核信仰の新興宗教国家なのである。 これらは、皆、強いものには従い、弱い者は虐げるという人間のなかの我儘な利己的で悪魔的精神にある。彼らは精神そのものを認めようとしないから、そんなものは存在しないし、悪魔なんて馬鹿らしい、現代のような科学主義の時代にそれこそ頭がおかしいと他者を罵り、開き直り、否定するだけなのである。 これらの唯物信仰、科学兵器を偶像崇拝のように信仰するものにはっきりいっておく、他者の悲しみや不幸の上に、自らの豊かさを誇り、幸せを築く者は、宇宙の大犯罪者である。 なぜなら、宇宙の姿こそ、全てを幸福の下に統治しようとしている神の御意志なのであり、その一部の者が、自らを正当化し、他者とのつながりを忘れ、自らの幸福に執着するのは、神の御意志に反することだからである。 物質主義や、地位や名誉に欲望を駆り立てることないように、弱き者をいじめようとするその精神を自らに問うべきである。弱きものは励まし、元気にし、育成してあげるのが健全な精神なのである。かつての日本人は物質的には貧しくともこのように心優しき人格者の宝庫だった。金持ちで、我儘な連中は、日本では汚らわしいものとされ、馬鹿にされた。弱者をいじめるなどは、日本人足る資格なしといわれた。だから、学級ごとに、学級委員が、守り役とされ、統制をとっていて、悪いことがあると、連帯責任とされた。そのような日本の精神的な伝統美が失われた。 確かに、米国には物質的に負けた。原爆も落とされたが、日本人には、負けても猶、このような伝統美があったから、秩序と調和を保ちながら、復興できたのである。イラクや中東をみればわかる。平和憲法がないために、憎しみを忘れることを知らないために、いまなお、闘争し、生死の淵を彷徨い歩いている。 戦争で負けること、物質的に失うことは、確かに苦難を生むものだが、精神を失うものではない。精神を失ったとき、人は獣となるだろう。物質的に恵まれても家畜生活と変わらない人間がいかに多いことだろうか?不幸な人を省みずわが身の可愛さだけが先行する人間が人間といえるだろうか?人類はいま岐路に立っている。物質的に生きようとも、それが真の生に相応しいものなのかどうか? これは現代の臓器移植問題にも警笛を鳴らすものである。他者の死の上に、自らの生を築こうとする者にはっきりいっておく、自らの生を自らで養う道理を忘れた者が、他者の生に救いを求めても、魂を汚すだけである。それよりも、自らのなかに生を失った道理こそ、みつけるものである。自らの不養生こそ、反省すべきことといわざるをえない。 これら全ては生に執着することから発している。生に執着することこそ自らに問え。そのことはお釈迦さんが、何千年も前から、人類に与えた金言なのである。
2006年10月17日
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植物の形成にも、鉱物と同様に、天体の配置が作用しており、それは葉の螺旋状の茎へのつきかたに現われていて、植物の場合は、その生物的なエーテル体を考えると、地球の重力を下に、自然の塩プロセスを根にもち、地球外の太陽系の力である光により、自然の燐(硫黄)プロセスを花や実にもっているという。そして、植物の根には、月、水星、金星の作用が現れ、塩プロセスを継承し、植物の花や実には、火星、木星、土星の作用が現れ、燐(硫黄)プロセスを継承しているとされ、例えば、植物を燃やしたときに、根が炭化し、マンガン、鉄、珪石を残すのは、重力に囚われ、塩化しているせいで、その組成は月、水星、金星の銀、水銀、銅という金属に依存しているという、その逆の花がほとんど炭化しないのは、光を担っている燐(硫黄)化にあり、その組成は鉄、錫、鉛に依存するという。このように天の配置より、金属が形成され、それが植物の形成される理由でもあるという。 植物のなかには、太陽と惑星の螺旋状の軌道の反映(太陽のみの影響だと螺旋にならない)があり、それは茎に対する葉の螺旋のつき方に最も顕著に現れるが、花や実において植物が、塩プロセスを行うことにより、この螺旋形成力は抑えられているという。植物は花や実を作ることで、天に向かうものを地に返して戻しているのだという。このような季節的(空間)な生命形成力により、天体の動きを反映した円環という循環が完成させられるという。人間においては、この働きは180度反対になり、頭部が、植物の根で、腹部(生殖器)が、植物の花や実にあたり、植物の季節的(空間)な生物の円環、つまりサイクルが、時間的な生物の円環の形成に変わるという。 地中のなかの金属は、天体の配置により生まれ、例えば、土星が他の妨害を受けない配置では、地球に鉛を形成し、木星は錫、火星は鉄、月は銀、金星は銅、そして水星は水銀を形成し、これら惑星の配置の組み合わせにより、その他の金属が、形成されるという。この金属のなかで、水銀を生じる水星が、地球と他惑星の配置の調停を行うという。余談だが、仏陀が水星人といわれるのは、均衡を保つ人格者という水銀の意味でもある。神秘学では、仏陀はキリストにより、均衡を保つために、水星に送られた人物ともいわれる。勿論、キリストは太陽霊の象徴である。これら金属も、塩プロセス、燐(硫黄)プロセス、水銀プロセスの3つのプロセスから形成されるといわれる。 人間は、自然から、塩プロセス、燐(硫黄)プロセス、水銀プロセスを、思考や行為により取り出し、自然から切り離しているのだが、自然は逆に、人間のその分泌物を、結合させ、組織化している存在と考えられる。人間は、これら3つのプロセス、いわば重力に従う塩形成、光の担い手になる燐(硫黄)形成、そしてそれらの均衡を担う水銀形成を取り出すが、自然はこれらのプロセスを結びつけ、組み合わせ、精巧な組織構造を形成するという。この自然が、太陽の下に、精巧な組織構造を形成するものの最たるものが、金であるという。金は、3つのプロセスが、最も精巧に結びついた金属だという。だから、金は金属のなかで、最も3つのプロセスに分離困難な金属だという。 水星は、地球と他惑星の調停者だったが、光と重力の調停者が太陽であるという。太陽は、霊と物質の調停を為すと同時に、惑星系を宇宙体とすると、その秩序と調和を担っている天体でもあるという。太古人が、金を珍重したのは、金のなかに霊と物質の調停者であることを知っていたからであるという。金をみると、よく心が休まるのは、心臓に均衡をもたらす金の霊的作用ともいわれている。秀吉は、金の茶室をつくったのは、単なる成金趣味といわれるが、意外と無意識的に、この意図に薄々気がついていたのかもしれない。 人間の心臓は、上部の脱塩作用と下部の脱燐(硫黄)作用を調停する水銀プロセスとも呼ばれるが、それは次の呼吸の計算により明らかにされるという。人間が1分間に約18回呼吸するとすると、1日では、24時間なので25920回になる。つまり、人間は1日に25920回呼吸する。例えば、人間の平均寿命が71歳だとすると、1日の寿命を単位にして、1年は365日なので、71歳だと、25915日生きることになる。更に、太陽の黄道点は、プラトン年と呼ばれ、これは25920年になる。以上を、5日違いを閏年の違いとし、25920について以下のようにまとめると、 人間の1日の呼吸数=人間の寿命日数=太陽のプラトン年というリズムの相似が現れるという。つまり太陽の進行のリズムのなかに、人間の寿命日数(約71歳)が刻まれ、その寿命の営みのなかに、呼吸数、つまり心臓の鼓動が刻まれているのである。この1日の呼吸数は、太古人が、ブラフマンの作用と呼んだ宇宙の人間の心臓に対するリズムの共鳴作用のことである。そのときの寿命71歳は、民族長の寿命とされたのである。つまり、宇宙のマクロ的現象は、人間の心臓に作用しているというのである。心臓のなかに太陽の作用が見い出され、それは金の秩序と調和の作用のなかに見い出されるものである。 ここに人体の錬金術の極意がある。心臓は進化すると、四肢と同じように自由自在に意志により制御できる随意筋となるという、だから、平滑筋ではなく、骨格筋と同じ横紋筋なのだという。現在は、他器官と同じく、意志が未成熟なので、不随筋に止まっているという。
2006年10月16日
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パラケルススは、人体内の4つの体である、自我、アストラル体、エーテル体、肉体のつながり、とくにエーテル体をみることによって、病を、人体のエーテル的プロセスで、錬金術的に説明しようとしたことを、長々と簡潔に書いてきた。 「医師は自然から試行しなければならない。」という言葉から、全宇宙は、いわばエーテル的プロセスで捉えれば、人間と宇宙(自然)は、エーテル体でつながっており、自然のプロセスを、人体内で克服しながら、人間は生きており、自然のプロセスは、人間のプロセスと、エーテル的プロセスを通して、いわば逆の関係になっていることがわかる。 例えば、このエーテル的プロセスを一種の波動とみなし、ファインマンの経路積分で、波動関数の行列を用いて、数学的に記述することもできるだろう。 (全宇宙プロセス)=(自然プロセス)-(人体内プロセス) ファインマンの経路積分は、最小作用の原理を基にして記述されるが、地球と天体の位置の最小作用の原理を適用し、天体の地球に及ぼす有効な配置を見い出したら、地球への金属の存在率を、錬金術的に割り出せるだろう。ファインマンの経路積分は、そのとき、占星術から錬金術の橋渡しの方程式となるだろう。 人体内のラクランジアン、あるいはエネルギー保存則のハミルトニアンから、シュレディンガーの波動方程式がでるだろう。恐らく、そのときプランク定数は、繰り込み定数の目安となるだろう。量子化というのは、単なる階層構造のゲージの目安となるだろう。つまり、波動の大きさを、算術可能な閉じた空間を表す基本単位となるのだろう。 さて、数学的な話は置いておいて、数学論になると、あまりに抽象的になりすぎ、本質を失う恐れがあるからで、例えば、地球を含む惑星は、太陽の周りを楕円体を描きまわるとされているが、これは、静止系で捉えた概念で、実際、惑星や太陽は運動をしており、時間も止まったものではなく、動的に捉えなければならず、だから楕円体ではなく、螺旋軌道を描いて運動しているのである。 DNAが右巻き螺旋軌道を描くのは、太陽系の天体の運動をそのまま模写しているためであり、太陽系のあらゆる作用が、そこに働いていることを意味するのである。だから、惑星が太陽の周りを楕円体でまわるとしたなら、DNAも、静止したもの、単なる楕円体にならなければおかしいのである。動的なものを静止的に捉えた単純ミスといえよう。螺旋構造を、ある平面で切れば楕円体になる。これはカオス工学を加味すれば、容易に理解できることである。 現代科学の多くでみられる盲点は、現象を線形近似で理解していることを、近似を省いて、線形で実体視してしまうところであり、確率統計のような学問は、あくまで大雑把に見積もっているだけで、非常に錯誤を生みやすい理論だといえる。「神はサイコロを振り給わず」とアインシュタインは言ったが、まさしくその通りであるといえよう。必然こそ、宇宙の真理なのである。 ということで、全てを数学で抽象的に記述するのは、危うい面が多々あることに注意しなければならない。 で、話を元に戻し、パラケルススの話を続けて述べると、自然のなかでのエーテル的作用は、植物から鉱物へと下降する進化の流れである、塩プロセスと呼ばれるものがあり、また、植物から動物へと上昇する進化の流れである、燐(硫黄)プロセスがあるが、人体のなかのいわゆるエーテル体と呼ばれる、エーテル的な作用は、自然のエーテル体を絶えず克服する流れがあり、それは心臓を中心にして、上側と、下側で、百八十度異なり、上側では、植物から鉱物へと下降し進むエーテル的な作用の流れがあり、これを自然の塩プロセスを克服しているので、脱塩プロセスと呼び、下側では、植物から動物へと上昇し進むエーテル的な作用の流れがあり、これを自然の燐(硫黄)プロセスを克服するので、脱燐(硫黄)プロセスと呼ぶという。 人体内のエーテル体が、肉体と密接に結合し、霊-魂が強く結合している人物が、塩っけがあるものを好むのは、人体内の塩プロセスを克服し、脱塩プロセスを促そうとする意志の現われだという。もともと、塩の結晶化は、下等生物の牡蠣の殻に見られるような、炭酸石灰に現れており、これは過剰な塩プロセスのエーテル作用を克服するために、脱塩化している証であるという。脱塩化するプロセスにより、そこから、霊的なものがとられ、後に残るのが、炭酸石灰であるという。逆に、過剰な燐(硫黄)プロセスのエーテル作用を克服するためには、脱燐(硫黄)化する必要があるが、太古からそれは燐(硫黄)を用いることを意味し、その物質をズルファー、フォスファーと呼び、光(霊)の担い手と呼んだのは、その認識を有していた証であるという。 人間のなかには、上部に向かうにつれて、脱塩プロセスがあり、下部に向かうにつれて、脱燐(硫黄)プロセスがあるといわれ、それらを心臓において、調和し秩序をもたらしているとされ、そのことを水銀プロセスと呼ぶという。このように、人体は頭部と腹部或いは四肢において、エーテル体の両極(対極)性を示しているので、例えば、クル病と頭蓋ろうのような疾患の治療の場合は、症状は共に骨形成異常であるが、エーテル体の作用が異なるので、主に四肢等のクル病を燐療法の類により治癒できたとしても、頭蓋ろうの場合は、燐では全く効果がないことがわかり、それとは逆の炭酸石灰での治療が期待されるという。 このように、人体の上部と下部では全くエーテル体のその代謝作用が異なるので、上部で有効であった治療が、下部では全く効果がなく、また、その逆もあり、相反するアロパシー的薬療法が、共に有効、或いは無効な作用を示すのは、適用部位を考慮に入れていないせいであるといえるだろう。つまりは、肉体そのものを全てとみなし、エーテル体や魂、霊を加味していないことからくるものと思われるのである。また、アロパシー的な作用は自然にはなく、全てホメオパシーであって、投与量を希釈していけばいくほど、今度は逆向きに、その反作用としてかえってくる自然の波動的なリズム効果の原理を用いるべきだと、神秘学は提唱している。 自然の波動的なリズム効果は、三位一体の創造の原則と呼ばれ、父と呼ばれる中心、子と呼ばれる表面、そして、聖霊と呼ばれるその半径間の光球の原理、いわば太陽そのもののイメージで捉えられる。その光球のイメージでは、中心を父の光源として光が発せられ、聖霊がその光を担い、子の球の表面でそれが返されるというもので、光の見かけの電磁波としての伝播がその表れと捉えられる。そこでは、アロパシー的なものはなく、光が無限遠方に消えていくのではなくて、反射してかえってくることがわかる。このことは、相対論的量子力学を数学的に記述したディラックが、ディラックの海を説明するときに、例えば海から、二匹の魚を取った場合、海にはマイナス二匹の魚がいるというような類の説明をしたように、自然はそのような作用を及ぼすという意味になる。 電子を記述するのに適した相対論的量子力学に限らず、このような現象は、波動的効果に特有のもので、QED(量子電磁力学)の電荷の繰り込みや、QCD(量子色力学)の漸近的自由性という、無限大の作用を打ち消す作用を与えるときに、現れる。これらの現象は、素粒子を点ではなく、紐のような有限の作用素を用いて、数学的項を入れて、誤魔化せるが、問題とする作用が無限遠に消えるのではなく、上記のように、その効果が反対の、次第に反作用としてのマイナスとして現れてくることを意味するものに解釈されるのである。超弦理論のTデュアリティもそのような類であると予測される。 超伝導現象や、粒子が質量をもつヒッグス粒子機構でいわれている自発的対称性の破れいう原理は、鞍状のグラフを用いて、極小値が、位相を90度回転させることで、極大値になることで説明されるが、これは、極小値まで行くと、今度は極大値になって戻ってくる上記の原理を示しているといえる。鞍は進行方向断面でみると、極小値を取るが、脚を乗せる進行とは垂直方向では、極大値になる。カオス理論でも、この鞍の極小値かつ極大値の中心点を、特別視して考える。四次元的な空間というのは、極小値にいくと、今度は逆の極大値になって戻ってくる時空間のことを意味するので、この鞍状の性質をもつ光球をイメージするとよいのだろう。三角関数の正弦と余弦は位相を90度ずらすと一致し、あらゆる関数はフーリエ級数で表現できる。 さて話を元に戻すと、自然の鉱物のエーテル的作用には、このように、内から外への塩化(結晶)作用と、外から内への燐(硫黄)化作用、そして、その均衡を、水銀作用として表した。太古においては、このような自然の作用を、塩プロセスを、龍神の作用に、燐(硫黄)作用を、雷神の作用と呼んだようである。そして、水銀作用を、これは確信がないのだが、どうも人間の存在、七夕の作用と呼んだようでもある。そして、気象が人体に影響を及ぼすことを熟知していたようである。挨拶が天気のことからはじまるのは、この名残のようでもある。 ちなみに、注意して欲しいのだが、水銀というのは、決して文字通りの水銀を表すものではなく、金属の液体状になった様態のことを指すようである。神秘学では、金属は、天体の配置が地球に反映したものと考えられるので、天体の配置が、地球のなかに現れると考えるのである。それらは以下のように植物の関係を通しても明らかとなる。
2006年10月16日
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前世に関する、とくに前世療法と呼ばれる太古の秘儀参入法の一種について、TV番組でやっていたので、神秘学から改めて簡潔に前世について書いてみたい。 これまで何度も、輪廻転生のことについて述べてきたように、神秘学では、前世の存在自体を問うこと自体が、人間の存在自体、並びに神の存在自体を問うことと同様に無意味であることとしている。 端的にいえば、前世の存在を信じるか信じないかは、認識の問題だからである。私は、信仰自体が認識の問題にすぎないように思う。信仰の問題は、むしろ、自らの認識を唯一絶対的なものとみなし、他者の認識を阻害し、全てが画一的であらねばならないと強いる態度にこそ、問いを発しなければならないように思える。 簡単にいえば、信じる信じないはその人の勝手であり、自由なのである。自分とその人とは認識が異なるのであり、どちらが相手の認識を理解しえるかの問題に帰するだろう。問題は、全て、理解できるかどうかなのである。だから真の問題は、理解するに足る知識をもつかどうかの態度にある。 では、前世とはどのように理解されうるのか? 人体的には、何度も書いてように、人間は4つの身体である、肉体、エーテル体、アストラル体、自我をもっているとされている。俗に魂と呼ばれているのは、アストラル体のことで、霊と呼ばれているのは、自我のことで、魂の中心に解される。 人間の本体は、霊の自我なのであり、この霊である自我を開発することが、人間の進化の目標だとされている。これを端的にいえば、自我を他者の為に奉仕する愛の源、愛の発信(中心)源にすることが、人間存在の目的であり、神的な霊になることであるという。 宇宙は、あらゆる魂の交信から成り立ち、魂間の交信のなかの自らの中心点を見い出すことは、すなわち、魂のなかに秩序と調和をもたらす行為であり、それこそが、宇宙の全存在から求められる霊の役割なのである。だから、絶え間ない魂の交信からなる宇宙のそれぞれのなかに点が見い出され、その点を中心として霊があるというイメージなのだろう。 秩序や調和、バランスをとる手法をなくした点(霊)は、宇宙においては、制御を失い乱れたものとなるので、修行を必要とするものとなる。だから修行のために、物質体に結合することで、重力の下に再度バランス感覚を身につけるために、霊体は、魂のもとに、物質体の糊的な役割であるエーテル体に結合して、地球において、いわば修行を行っているともいえるだろう。 宇宙は全体として進化しており、いわば宇宙を大河と捉えると、そのなかの流れをつくる一点一点の水滴が、我々の存在でもあり、我々の存在が、そのバランスを失い、大きな流れから逸脱すると、次第に、統制がとれなくなっていき、混沌としたものになり、流れが澱んで滞り、腐敗し、主流から外れ、ついにはなくなってしまうことがわかるだろう。 そのようなことがないように、河の水は、地上のみならず、水蒸気として、気体となり、循環するわけである。このような水の循環と似たように、魂も循環しながら、神霊に近い霊体に近づいていくわけである。 輪廻転生とは、この水の循環に似たものであると解されるのである。 輪廻転生の目的は、よくいわれるように、いわば魂を磨くことであり、魂を磨いていくことにより、3つの進化段階に達するといわれている。1つ目は、霊我(マナス)といわれる段階、これは魂(アストラル体)を自我の完全な制御下においたことをいう。魂の純化ともいう。キリスト教では、処女ソフィア(聖母マリア)を表す。 2つ目は、生命霊(アートマ)といわれる段階で、エーテル体の完全制御を表す。エーテル体の完全制御を獲得すると、もはや病に苦しむことはない。病はエーテル体の制御不能から生じるからである。3つ目は、生命人間(ブッディ)といわれる段階で、肉体の完全制御を表すが、この肉体はいまの物質的肉体ではなく、ファントムと呼ばれる霊的肉体のことである。現代の肉体は、悪魔ルシフェルの影響により、より物質性を帯びたものになり、霊的に崩壊させられているという。これを聖書は原罪で示している。 輪廻転生の思想は、一般的にキリスト教にはないとされているが、それは秘教を知らないせいであり、現代のキリスト教の典型的な間違いである。輪廻転生がなければ、キリストが、地球に下りてきた意味が見い出せないばかりか、キリストの存在自体を理解していない証拠といえるだろう。キリストを無知なままに信仰することは最も避けるべきことである。偶像崇拝といってよいだろう。現代のキリスト教はあまりに唯物化されているので、権威主義が甚だしいものになっている。はっきりいうならば、調和と秩序の愛についての理解さえあれば、キリストの名自体はどうでもよいものである。キリストが自らのことをキリストと呼べとは言ってはいないのだから。自らのなかに愛を見つけよと言っている。 輪廻転生の思想はバラモン教からきたといわれているが、輪廻転生の伝承の最後のものがバラモン教であり、仏陀は、バラモン教から、輪廻転生を仏教に取り入れたのではない。輪廻転生の思想は複雑で、誤解されやすい、特に、悪いことをすると、動物に生まれ変わったり、あるいは、植物から生まれ変わったりなどという、最も悪しき唯物的思想を生み出しやすいので、おおっぴらに語ることは厳禁とされたのである。これは性の神秘も同様に誤って欲望の虜となりやすいので厳禁とされたのである。だから、過度に強調され、権威化され、誤解されて伝承されている面が大きい。 人間と動物、植物の魂の相違も理解できないものに、輪廻転生を語る資格すらないといわざるをえないだろう。ある番組で、輪廻転生を面白がって、前世はゴキブリだと他者を罵っていた、如何わしい宗教者がいたが、バラエティ、お笑い番組ならある程度わかるが、少なくとも真剣な態度で語っていたようにみえたので、無知蒙昧も甚だしく、とんでもないことである。このような人物はどの世界にも存在するが、ともかく面白半分で、知識をひけらかす人物には注意すべきであろう。 いかに、真理に近い教えだとしても、他者を愚弄したり、攻撃したり、嫌な思いをさせたりするものならば、それ自体こそ、神のものではなく、悪魔のものといわざるをえないだろう。共に、精神が向上したと思える教えならば、心が自ずと反応するはずである。
2006年10月13日
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前々回から、身体の機能の調整が、エーテル体の役割であると、端的に述べることができる。エーテル体の働きは、分泌腺に顕れることは何度となく述べてきたことだが、それは個人個人で異なるので、とくに霊能者でなければ、医術においては直観的に把握する技術が必要とされるという。 人体のエーテル体の特徴は、まず年齢に顕れる。だから医術においては、患者の年齢をまず知らないといけないという。逆に、治療がかなりの程度、患者の年齢に左右されるのは、エーテル体の構造が異なるからであるともいえる。そして、患者の体格、背が低くてズングリしているのか、それとも背が高くて、ヒョロっとしているのかということを、常に正確に見定めておく必要があり、更には、若いときにゆっくり成長したか、速く成長したか、すなわち、長い間小さいままだったか、比較的幼い時期にもう背丈が伸びてしまってその後は成長が遅れたかどうかということが必要になるという。 更に重要なことは、エーテル体よりも高次な身体である、魂-霊活動の母体である、アストラル体-自我との、エーテル体-肉体の関係であるという。この関係は、例えば、ある患者が夢をよく見るのなら、アストラル体-自我が、それ自身の活動を展開する傾向を持っていることで、つまり、物質体である、肉体には、それほど入り込まず、それほど密接に関わっていないことを示し、そのため本来の人間的-魂的な形成力が人間の器官組織のなかに流れ込んでいないことを明示するという。 或いはまた当の人物が活動的で勤勉なのか、それとも怠惰な傾向があるのかということも、エーテル体の活動を示し、怠惰な傾向のある人は、アストラル体-自我において、非常に内的な活動性を有し、この活動性は意識されず、無意識のものであり、この活動性が無意識なために、当の人物は、意識においては、どうしても勤勉でなく、大体において怠惰な傾向を示すという。ここでいう怠惰の反対の意味は、その人の高次の人間をもって低次の人間に介入していくことのできる有機的能力のことであり、つまり、その人のアストラル体-自我が、物質体-エーテル体へと、活動力を実際に展開し導いていく能力のことをいう。怠惰な人の場合、この能力が非常に少ないのであり、神秘学では、眠っている人と捉えられるという。 また、当の患者が近視であるか遠視であるかということも重要で、近視の人は、その自我-アストラル体が物質体に対してある種抑制され、その人の霊的-魂的なものが、肉体的-物質的なものに介入しようとしていないことの、最も重要な徴候だという。 このようなエーテル体の特徴をより実用的に知るには、歯科医が治療処置のたびに、患者のいわば一種のカルテのような概略図をつくり、その知識を活用できれば良いという。その概略図には、歯の成長に関する全ての活動をどう診断したか、早い時期に齲(う)歯(齲触症、齲歯、虫歯)への傾向があるかどうか、比較的高年齢まで歯が良く維持されているかどうかといったことを記録すると、エーテル体の特徴の1つの基準となるという。 更には、患者の身体的な共感と反感に関するもの。とりわけ重要なのは、塩分をむやみに欲するか、或いは塩分以外の他のものを欲しがるかどうかを、確認しておくことも重要だという。どのような食品を特に欲するか、その人が塩っけのあるもの全般を欲するならば、自我-アストラル体が、物質体-エーテル体と強く結びついていて、いわば霊的-魂的なものと物質的-肉体的なものとが究めて強い親和性を示していることがわかるという。同様に、このような強い親和性を裏書きするものは、例えば体を急速に回転させたときに、眩暈の発作が起こるかどうか、つまりその人が、体を機械的に運動させるときに眩暈の発作を起こしやすいかどうかを確認するのがよいという。 そして更に調べておくべきことは、分泌の障害、すなわち人間の腺の活動全体についてで、分泌障害があるところには常に、自我-アストラル体と、エーテル体-物質体との結合にも障害があるという。
2006年10月12日
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前々回からのパラケルススの医術からも、洞察されるとおり、太古の医術は、主に、人体内や自然のエーテル体の相互作用をみていたことがわかるだろう。ヒポクラテスが、ヒポクラテスの樹と呼ばれる木の下で、講義を行った意味が、ここからわかるだろう。それは植物と人間の共通の生命力の源であるエーテル体について語ったのである。古代の哲学者は、現代のような抽象論に陥ることはなく、実際に体験し、学ぶことを基本としたのである。アリストテレスは、水を語るときは、弟子達を、実際に、水のなかに頭を突っ込まさせて、体験させ、学ばせたという。自らの体験を糧として、そこから自ら学ぶことを経験づけたのである。 これと同じように、ヒポクラテスも、植物そのものになることはできないので、自分のなかに、人体における植物的なものの体験を導いたのだろう。「百聞は一見にしかず」というべきだろう。だから、植物の樹が生命の講義として必要だったのである。現代医学では、これが物的な死体になってしまい。唯物的原子論的な解剖学からはじまる。現代人は、しばしば不要になったと思われる部分を分類し、取り除くことで、医学が成り立っているという錯覚に陥っているが、それでは、ただ、死を待つのみであり、死からの再生など絵に描いた餅といわざるをえないだろう。現代科学が、非物質的で、理解不能なものを否定する傾向にあるのは、この性質故のことなのである。 これらがさも当然のごとく行われるのは、悪というものが、時流に沿っていない善であり、無駄なものが、時代とともに移り変わるということをわかっていないからである。パラケルススが現代の医学をみたら、まるでフランケンシュタインを扱うような、それでいて、フランケンシュタインに生命を与えられずに、死に近づいていくに従い、肉体を切り刻んでいる道化師のように映るだろう。 それはともかくも、話を元に戻して、太古の医術をつづけて語るとする。腸組織全体の形態変化を、一面においては魚類から両生類、爬虫類を経て鳥類に至る変化として記述し、他面においては、哺乳類そして人間にまで至る変化として記述し、比較研究を行ってみれば、器官の特殊な形態変化が生じていくイメージが浮かび上がり、例えば盲腸ができてくるという。人間の場合には後に盲腸となるものが現れ、下等な哺乳動物の場合や、鳥類の組織から、盲腸の原基が現れてくる場合には、魚には全く存在していない大腸から、より完全な秩序による進化の上昇を通じて、大腸が、更には複数の盲腸、人間の場合は1つの盲腸として現れてくるのがみえるという。 人間を、心臓を基準として上部の人間と、下部の人間として分けると、上部の脳が下部の腸に該当することがわかり、人間の盲腸のような、外に向かって閉じたものの存在は、上記の人間の二元(二極)性として理解でき、それは上部では、脳すなわち思考器官にあたり、腸器官の負担のお蔭で、脳ができ、腸器官は脳器官の忠実な裏面であるといえるという。このように人間の物質的世界に現れている最高の霊的-魂的活動は、脳の完全な形成と結びついているのと同時に、その一部である腸の形成とも結びついているという。 この人間における上部と下部間に、絶えず緊張が存在しており、この緊張の制御の二極としての1つは、松果腺といわれる粘液腺のなかに現れていて、松果腺においては、上部の力である全ての力が現れており、もう一方の下部の力である粘液腺の力、脳下垂体の力に対して緊張関係を成しているという。 この人体内の二極化は、上部から下部に下降するにつれ、腸内植物相を形成する力から、腸内動物相を形成する力へと下降し、他方逆に、人間の上部へと昇っていく場合は、内部の植物相が克服される領域から、絶えざる鉱物化、いわば人間の硬化が克服されねばならない領域へと上昇するという。いわば外的に、頭部の骨化が他の部分より顕著であるということから見ても、人間は上へ向かって進化するほど、その器官を通じて正に鉱物的になる傾向が強まるという。この上昇への抗鉱物化を、塩プロセス、下降の動物相形成を、硫黄プロセスとして、太古の医学は名付けたという。 人体内のエーテル体の作用は、塩プロセスと硫黄プロセスによって二極(二元)性として表されるのである。これが中世錬金術に顕れるエリクサーと賢者の石の意味を表したのであろう。 この概念は、また腫瘍と硬化の描像を与えるものでもあることがわかる。腫瘍とは、硫黄プロセスであり人体の下部に向かうエーテル体の過度に不活性なもので、硬化とは、人体の上部に向かうエーテル体の過度に不活性なものを現すといえるだろう。これらの状況を、松果腺と脳下垂体との緊張関係を用いて、制御することも考えられることである。 神秘学では、エーテル体の制御を用いた治療法として、リッターの治療といわれる光力学的な療法と、ホメオパシー原理を用いた鉱物療法を提唱している。
2006年10月11日
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人間の内部は、外部である自然のプロセスとは異なった、プロセスにおいて、生を足らしめている。例えば、植物は、人間のなかでは、腸内細菌群として、植物相が発生しているが、人間内部の下腹部において、エーテル体が正しく働いていないと、腸菌群落に夥しく蔓延る機会を与えるという。心臓を基準にして、上側を上部プロセス、下側を下部プロセスとすると、下腹部において、正常のプロセス、起こるべきプロセスが起こらないと、下腹部で、その起こらないことによる歪みともいえるべきものが、上部へと押し戻された形で、作用するという。 このことから、ある特定の器官に関連する思考を行うと、この特定の器官に活動を起こすことができるという。器官のなかに、いわば思考に関連するプロセスがあり、ある考えを抱くと同時に、腺分泌が起こるということは、腺から、そのような考えを取り出していることにより、腺自身に運命を委ね、腺は自身の活動に没頭して分泌を行うことを意味するという。 これは前回、神経細胞が、増殖能力を止め、代わりに思考能力を発展させているのと、似ている。 だから、腺分泌が妨げられているのは、分泌を妨げているような、腺分泌を結びつけている思考が存在しているということを意味する。ある思考をしたことにより、分泌を行うことも、そのような思考をしないことにより、分泌を止めることもできるということなのである。これは、感動したときに、涙が流れることでもわかるし、緊張したことにより、手から汗がでることでもわかるだろう。 だから、我々は、思考により霊的活動を行うが、その霊的活動の結果としての分泌活動は、人間の外の自然の形成力になる。例えば、自然を、一種の大きな電気回路と考えれば、人間は、その自然の電気回路のなかの増幅器であるコンデンサー、もしくは抵抗、あるいは、発信器とでもいうべき、知的なパーツであると考えることができる。エーテル体は、このような電気回路を流れる一種の信号のようなものといえるだろう。我々の思考による分泌活動の結果により、我々の外の自然は、その分泌物を取り入れて変わっていくのだから、自然のなかの電気であるエーテル体は、人間の思考により制御されてくるともいえるのである。 だから、我々の思考が、自然現象を起こしているともいえるのである。いわば、これをエーテル保存則とでもいうべき方程式で表せば以下のようになる。 自然の植物の形成プロセス=人間が思考により取り除いた形成プロセス+人間が思考により排出した形成プロセス つまり、思考は、下腹部の腸菌群落の植物相から、その形成力を奪いとることで、行うことができ、逆にいえば、その形成力を奪いとらなければ、思考できない。これは動物相についてもいえることだという。 例えば、前回から述べているように、心臓から上の人体の上部を上部人間とし、下部を下部人間とした場合、腸内の植物相並びに動物相から取り出した思考力、これはつまり、下腹部の腸の機能にあたるが、それが上部にまわると、脳の機能になり、そのまま脳の思考力となるわけである。腸からエーテル体を形成したものが、脳の神経細胞から、増殖力を奪い、思考力となるわけである。だから、盲腸の存在は、絶え間ない思考の継続を、神経細胞にもたらし、その分の思考力になるといえるという。 このような自然から、取り出した形成力、いわば体内のエーテル体というべきものは、例えば、細菌が体内で繁殖しやすい原因から、探ることもできる。細菌は、太陽光により死滅させられるが、体内では、太陽光の殺菌力が、失われているので、繁殖できる環境にあると考えられる。この太陽光の殺菌力が、体内で減弱されているのは、太陽光が、体内で変容されていると捉えることができ、その変容した光において、体内にて、エーテル体を構成していると考えることができる。 細菌の繁殖具合により、人体に必要な太陽光の変容の蓄積である、エーテル体の活性を調べることができる。例えば、人体が結核菌に適した土壌となる場合に起こってくることは、人間が太陽光を十分取り入れることができないか、或いは、その人の生活習慣のために十分太陽光が得られずに、人体内に入ってきた太陽光と、太陽光を変容させて加工することとの間の均衡がくずれ、自分のなかにずっと備蓄して変容させた光から、貯えを引き出さざるを得ないということであるという。 人体内で作用する大きなものは、顕微鏡のようなミクロレベルではなく、むしろ、宇宙スケールのようなマクロレベルの循環にあるといえるという。 例えば、鳥類は、膀胱と大腸の発達が不十分で、摂取と排泄との間は絶えず持続的な平衡状態を保っており。鳥は飛翔しながら排泄することができる。鳥は食べた物の残りを体内にとどめて蓄積するということはなく、実際、腸菌群落に対して激しい戦いを展開する必要はない。そのため、鳥の腸内は、羊の腸内に比べて、不快な匂いを発散しないという。 人間は、この鳥類の腸内と比べて、腸菌群落と戦って、エーテル体的な力である、思考力を取り入れないといけないので、不快な匂いを発する存在だが、思考力を度外視すれば、このようなエーテル的なものを変化させる活動、光を変化させて変容に導く活動、こういう活動に関しては、鳥と同じものといえるという。人間が、物質的な膀胱と物質的な大腸のみの存在としたら、これらの器官に関わるエーテル体に関しては、鳥と同じといえる。 重要なことは、外部の植物相と動物相に起こっていることと、人間の生体組織のなかの腸内の動物相と植物相において起こっていて克服されねばならないこととの対応を調べていくことであるという。つまり、人間の外にある自然のプロセスと、人体内の自然を克服するプロセスの違いを調べていくと、主に、エーテル体の存在が浮かび上がってくる。エーテル体の循環をみれば、自然と人間とのつながりや、1つのマクロコスモスとしての回路が浮かび上がってくるといえる。 そして、人間は、自然のプロセスを一部拝借して、それと対抗し、克服することで、思考力を手に入れ、加工し活動し、思考した残りを、いわば思考エキスの分泌物として、再び自然に排泄している存在だといえる。だから、人間は、自然現象を押し止めているなかに、生きているといえる。
2006年10月10日
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昔から、人間というのは、人間らしく育てられた人間のことをいってきた。狼に育てられた人間の子は、人間とはいえない。なぜならば、人間として、人間らしいコミュニケーションをとれないからである。本来の教育の意味は人間そのものにある。 子供は、大人とはいえない。社会生活において最低限の礼儀とマナー、責務と他に迷惑をかけない自己表現を身につけた人間のことをいう。そういう意味で、成人というのは、昔から、一人前の大人になった社会からの個人的存在としての承認儀礼といえるだろう。 年功序列が企業社会の雇用体系で問題になっているが、ただ20歳になったからといって、成人として認めてよいのかどうかも、いま考えるべきときにきているといえる。すくなくとも、大人なら常識として身につけているモラルが、身についていない若者があまりに多すぎるといえる。更には、親として子供を育てられない親の資格のない者が、ただ産まれたからといって、親をやっている例もあまりに多い。子供を親の所有物だと錯覚している親も多い。是が現代教育における大きな弊害である。精神的な意味では所有の概念など存在しない。 このような教育の弊害は、外見的な姿や、物質主義、快楽主義のままに、親が、子供を甘やかし、一人前の大人としての躾けの義務を怠ってきたことが背景にあることはいうまでもないだろう。一体全体、どちらが人生の先輩なのであろうか? 子供には、人間の子供として成長すべきことがあり、子供のうちに、成人だけが許される行為を行ってしまえば、忽ちその成長が阻害されることはいうまでもないだろう。子供の時点で、大人の報酬を与えてしまえば、夢がなくなり無気力になるのは当たり前なのである。手に入らないからこそ、憧れが生まれるのである。そして、大人の報酬は、大人なりの節度と秩序があるからこそ、意味をもつのである。 それは、いかなる生命体にも、成長プロセスがあることでわかる。 例えば、植物は、天体の星の位置関係から、その形態が確定するのである。だから、薔薇の種であっても、本来、地球上でその薔薇を生じさせない星の配置であれば、植えても薔薇は発芽しないのである。現代では、遺伝が形態を生むものとされているが、それは嘘であり、そのような考えがある限り、やがて、自然保護の下に、貴重種とされながらも、その種は消えてなくなっていくだろう。 地球上に多種多様な生物があるのは、ノアが、多種多様の遺伝子を船に集めたのではなくて、万物を生むに足る種を、少数から、天の星の配位を基に、時期に応じて、蒔き分けて、形態を生み出したためだと、聖書では記述されているのである。 つまり、生命には、その時期に応じて、必要な自然の配位があるのである。農夫が、収穫のときを大成功に収めるために、その種(タネ)や土地に充分な配慮とケアを注意深く、行うように、親は、子供に対して、精神的ケアと、将来の自分の子供の可能性を見究めて、躾けなければならないのである。よい植物を育てようと思うなら、タネをそこらへんに植えることなど誰ができようか? 農夫が、自分が植えた植物の成長を通して学ぶように、親も子供から教育を通して学ぶべき存在といえるだろう。子供に、人間の子供としての愛情を注がなければ、その子供に仕返しされるであろう。子供のときに、大人の行為を与えたものは、そのとき必要な子供の代償行為として、何倍もの幼児性の行為、我儘な行為として、その親に与えられるだろう。 昔は、子供をみれば、親の躾けがわかるといわれた。現代では、あまりにも子供の自主性に任せられているのは、親の無責任にあるといえる。子供の判断は、必要な社会常識や知識が身についた成人にこそ、はじめて、ある程度判断を下せるものとなるのである。それまでは、親が社会的判断や道徳をよく吟味して、子供を保護してやらなければいけないといえるだろう。 現代の政治家にも、大人の格好をしながら、知識を振り回すような子供そのままの人が多い。だから、意見をいっても採用されないし、国は動かないのである。だから、子供がそのまま政治をやっているから、だんだんと堕落してくるのである。このような政治家は、国のことより、まず、自分の子育てをしっかりしろ!といいたい。少なくとも国家に保護されようと甘い蜜を吸うために2世、3世をつくるな!といいたい。 私は、教育現場にいるわけではないが、道を歩いてても、電車に乗っていても、非常識な大人に遭遇するのを至る所にみるので、学校の現場は、驚くほど、崩壊しているのであろう。子供は大人の行為を真似ているのだから、子供の非行の原因が、親であることはいうまでもないだろう。荒地にタネを植えて知らん振りというような、放任というのが一番よくないように思える。現代の親たちは、親としての自覚にどれだけ芽生えているのだろうか? 少なくとも、子供の将来性の種(タネ)、才能は見つけてやらなければいけないだろう。それは他に奉仕する苦とならない才能という意味でである。
2006年10月10日
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北朝鮮が、核実験をしたという。その真偽は定かではないが、全く懲りない悪人とは、このような考えの持ち主にあるのだろう。いつの時代にも、周囲の意見に耳を傾けずに、独断と偏見で突き進む独裁者はいるものである。 独裁者が長く続かないのは、嵐が長く続かないのと同じである。 確かに、このような、北の国際社会への挑発行為は、赦しがたき、人類に対する信頼への損失に他ならないだろうが、本当の問題は、この北の行為に加担する、裏切り行為にあるといえる。悪そのものは、ほおっておけば、そのうち自滅する性質にあるのだが、この悪を利用して、問題を複雑化しているところに、最たる悪が潜んでいる。 つまり、北を利用して悪を行う偽善者こそ最も悪なのである。 強いてあげれば、このような北に核技術を提供した国や、企業は、北よりも悪である。それは赤ん坊に、凶器を渡す行為と同じなのである。 国連表決が無視された背景には、北を裏で支援する裏切り者がいるということである。今後、国連の表決が、無視されることのないように、北を裏で支援した国にも制裁が必要だろう。でなければ、せっかくの兵糧攻めが、全く無意味と化してしまうだろう。 兵糧攻めは、何より攻める側の結束力がモノをいう。国家間の信頼がまさに問われるところである。核兵器は、現代の人類には猫に小判である。核兵器を使わずに相手を納得させることこそ、人類の目指すところのものである。そういう意味では、この世に核兵器があるということは、人類が堕落してきたことを表してもいる。 人類は、科学により堕落してきたのだ。強大な恐怖による統治というのは、悪魔でこそ為し得る技といえるだろう。今回の国連に対する北の無視行動の責任は、中国とロシアならびに韓国の甘い態度にあるといえるだろう。恐らく一番の罪は、核技術を提供したと思われるパキスタンもしくはイランにあるといえるだろう。このような国はイスラムを信仰する資格もないといえるだろう。ムハンマドの教えを背徳し、核兵器のような偶像崇拝に走る悪魔の国ともいえる。 北解決には、ソ連を解体させたゴルバチョフのような人物が、アジアに出ない限り、北に関しては、金正日が死ぬまで待つしかないだろう。 一刻も早く、核兵器など必要のない。恐怖感を科学技術のような堕落した教えで埋め合わせることのないような、真の幸せ、人類全体で幸福を分かち合える精神的風土を育成して欲しい。
2006年10月10日
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爆笑問題の太田総理の激論バトルを愉しくみさせてもらった。思想を吟味するより、自分の思いをぶつけている印象をうけた。これはテレビのバラエティだから仕方がないことだろう。 まず、はじめに、消費税の問題が議論された。経済的格差をなくすために、格差是正税を導入すべきということが主題であった。まず、大前提として、種々のデータから判断される、現状の経済的格差を是正すべきか、それとも容認すべきかが問われるところである。この点について、自らの価値観をぶつけるだけでは本格的な議論にはならず、ただただ感情論に埋没してしまうことに注意を払うべきだろう。現状に満足している者は、必要ないといい。現状に不満足な者は、是正すべきだという意見をもつのは、容易に考えられるところだろう。 まず、はじめに、現状に満足している者の統計とその理由を述べさせるべきだろう。恐らく、現状に満足している者は、自分の周辺しか考えていない近視眼的視点から、満足しているものと思われる。なぜなら、消費税導入の経緯が、政府の赤字財政にあるからである。赤字財政を続ければ、将来、国民に対する政府のサービスが受けられなくなるのは目に見えているからである。 これを、馬鹿小泉内閣は、無責任にも、政府の援助を切り、民営化といって、事実上、政府のサービスから切り離したのである。当然、社会セキュリティーにかかる予算は削減され、サービスは低下し、社会不安に陥ったわけである。この世のどんな存在にも、エネルギーと養分が必須で、それが切り離されたら、忽ち消えてなくなる。これは自然の法則である。それとも、仙人のように、霞を食って生きろとでもいうのだろうか? それならそれで、まずは、自ら率先して断食をはじめるがよかろう。 話が逸れたが、少なくとも、政府のサービスを縮小し、財政支出を削減するのなら、まず、国会議員の削減からはじめるべきだろう。減らすところと、減らさないところの明確な価値基準と国民の信頼やコンセンサスが得られないならば、一律にトップダウン方式で縮小するのが望ましく、なるべく平等に、公平に誰も文句をいわないようにするべきだろう。どんな政府のサービスや職でも、国民のためには必要なものだからである。第一、自分がやっていることが、無駄とかいわれれば、誰だって、頭にきて、感情的になり抵抗するのは目にみえている。かえって、不満が蓄積し、隠れた不平等意識のストレスが、国民に蔓延するだろう。そして、そのうち、暴発することは目にみえている。 負け戦こそ、有能な司令官が必要とされるのである。財政支出削減には、なにより、負け戦の殿を任せられるような有能な指導者が必要とされるのである。 さて、このような有能な指導者の人材が得られない限りにおいて、財政支出削減はまず、困難で、不可能なもので、反発を招き、かえって財政支出増大に向かうだろう。それは、社会の不安定要素が増えれば増えるほど、増大する性質をもつからで、更に、政府の公的で平等なサービスが削減されるのだから、ますます、雪崩式に増大してしまう。民間というのは、自分たちの利益にならないことはやらないから、主に、金を基にした不平等なサービスが増せば、たちまち、経済的格差は増大していくのである。 これを補うのがボランティア活動だが、米国のような巨大な資本主義社会が、情報通信の高速化に伴って、至極身近に感じられるのだから、せいぜいNGOや、政府代行の非営利団体企業が繁殖するようになるだろう。 そういうわけで、消費税率アップのための、財政支出削減は、大失敗に終わったといえる。この現状で、消費税をアップすれば、社会不安はますます増大し、自殺者が今以上に増えるだろう。そして、導入後、2,3年に革命のような市民運動が勃発するだろう。 というわけで、消費税率アップは、国民の信頼とコンセンサスを得られるような、細心の注意を払ったものにしなければならないだろう。更に議論が必要だが、格差是正税は、なかなかよいものに思われる。 この経済格差是正税に対する反駁として、高い税率をかけられた商品が、庶民の届かないものになるというものがあるが、これは日本社会が、衣食に困らない環境にあるからいえる贅沢な意見だといえるだろう。これまで、日本社会は裕福だったから、いえることで、他国の貧困国では、ブランド品のようなものには、一生お目にかからないのが普通であろう。なにより、衣食に困らない環境はいつまで続くかわからないのである。いまより税率分を稼ぐために、商品の購入時期を遅らせればいいだけの話であるし、贅沢品が身近にあるのと、衣食が、常に低税率で手に入るのと、どちらを選択するかの問題でもある。 なにより高級品というのは、なかなか手に入らないから意味があり、稀少価値があるのであり、最近はそうでもないが、一時、女子高生がブランド品を身につける姿等は、海外の日本の不可思議さや、無理解さを誘発し、日本の不信感を生む行為にもうつった。一番、深刻なのは、ブランド品が買いたいがために、売春等に手を染めてしまう例である。未成年者は、価値判断が未成熟なので、大人になるまで、手の届かない存在にすべきだろう。あるいは、また、保護者の認証が必要とされるような、なんらかの保護策をとるべきで、そのかわり、学業に関する商品は、税率を下げるといったことも考えるべきである。 基本は、衣食住の最低ラインは税率を下げ、高級品になるにつれて、税率を上げるような、いわば、消費税の累進課税制を考えるのもよいだろう。戦後の日本の中流意識や、所得倍増は、経済成長もあったが、それを陰で支える累進課税制が、なにしろ、儲ければ儲かるほど、国家財政も潤うのだから、多大の貢献を成したように思われる。 さて、後半は、憲法第9条が主題だった。憲法第9条改正の必要性がはっきりしないというのが、太田総理の意見で、私も同感である。北朝鮮問題も、日米安保問題も、その問題の本質と、憲法第9条は、なんら関係がないようにみえる。なぜなら、憲法第9条を改正したら、これらの問題が、ただちに解決するのかというと、その見通しはいまだ困難で、希望的観測のうちを出ないだろう。 憲法第9条を改正したからといって、北朝鮮拉致問題は解決するのだろうか? あるいは、日米安保がより深まって、沖縄から米軍が退くのだろうか? なにより、現日米安保関係があって、ブッシュと小泉が、マブダチの関係だからといっても、ロシアから北方領土はかえってこずに、中国の日本近海の油田採掘問題に、米は何もいわず(なんでも、米国の企業の協力もあったという話じゃないか?)、竹島なんか、日和見主義でいるのが、米国の基本的スタンスである。それよりなにより、直前になって、日本の常任理事国参加を、見限ったのは、米国なのである。 いい加減、日本人は目を覚ましたらいかが?といいたい。 憲法第9条のために、多国籍軍には参加できなかったというが、イラク戦争には、真っ先に参加したのは現政権なのである。世界から感謝されるどころか、日本が、テロの標的にされてしまった! 確かに自衛隊の犠牲者は、出ていないが、外交官が2人死んだことは、いつの間にか忘れられている。サマワの人々には、期待感から落胆、そして失望を与え、一体何のための派兵だったのか、改めて問うべきである。海外派兵は、単なる遊びじゃないのだから。 理性をもって熟考すれば、支離滅裂なことをいって、無理やり論理づけしているのは、憲法第9条改正を唱える政治家の方で、自分たちの外交努力を棚にあげといて、全て、憲法第9条のせいにしているとしか思えないし、どこかイデオロギーを感じざるをえない。恐らく、米国の情報操作に乗らされているのであろう。 私には、憲法第9条よりも、防衛という面では、非核三原則の方が、現実的でさえあるが、ともかく、このような憲法第9条があることによって、政治家たちが、無駄だが、真剣に議論し、不勉強で馬鹿な頭とはいえ、国家を考えることは、重要な機会を提供しているといえるだろう。この憲法をなくしたら、いまの愚かな政治家なんか、勢いでイケイケドンドンをやりかねないのである。 少なくとも、国会で、小学生のような討論をしているようでは、憲法改正を機に、国家の調和と秩序が乱れ、制御不能に陥ることも現実的になってくるだろう。タイのように、軍隊がクーデターを起こしても不思議ではない。いまのゲーム世代の若者が、軍隊に入ったら、益々、そのような誤った野望や誘惑に芽生える可能性もあるだろう。なにしろ、イラク派兵だけで、自衛隊は、かなり不人気な職業に下降したくらいなのだから。 憲法改正を唱える政治家たちは、自衛隊をイラクに派遣しておいて、イラクには、1度か2度しかいっていないのである。なんと無責任だろうか。それほど軍隊が必要というのなら、まずは、自ら軍隊経験を積んでみて欲しい。少なくとも、戦場視察はするべきである。それでなくては、非現実的議論に埋没せざるをえないだろう。戦場を知らない兵士など、軍隊としての意味をもたないばかりか、いわば凶器ともいえる存在である。それは沖縄で米兵が度々不祥事を起していることが物語っているだろう。 考えて見て欲しい。一体全体、米国の武力外交が成功しているのかどうかということを! いまや、世界中が米国を嫌っているといえるだろう。所詮、力で、他を強要するものは、嫌われ、恨みを生むだけでしかない。テロリストは米国が生み出したものともいえるだろう。 米国のような力を背景にした外交は、不成功に終わるということが、はっきりしてきているのである。昔から、覇道というのは邪道なのである。なぜなら、人間は精神で動いており、精神を尊ばなければ、心服、心酔などしない。何より、信仰は高貴な精神を目指すものなのである。覇道には、理想がない。ただただ、現実主義に埋没せざるをえない。気がつくと巨大な軍隊と、もはや払いきれない負債が後に残される。 結局のところ、武力解決がもたらすものは、怨みでしかないだろう。 武力でしか、解決手段がないとしたら、人間が生きることとは、一体、何なのであろうか? もはやそれは人間とはいえず、獣と同じなのではないだろうか? 人間には、思考があり、感情があり、意志がある。 ソクラテスは、死を死とも思わないように、刑に処され、自ら毒を飲んで死んだ! 生きることを、武力に頼ろうとするのは、恐怖に怯える鶏と同じであろう。いかに、切れる刀を持ったからといって、切られないわけではない。むしろ、刀を抜かせないことこそ、考えるべきなのである。理性が、武力を上回ることが可能なのである。 憲法第9条は、どこか武士道を感じさせる。日本人は、憲法第9条を神の如く、平和の象徴として、信仰しているのである。 武力なんかよりも、日本社会の豊かさと平和な生活ぶり、日本国民が皆、仲良く助け合って暮らす習慣を、みせてやれば、それに優るものはないだろう。人間は皆、幸せな生活を求めているのだから。 無能な政治家が、自らの無能さをパフォーマンスや見栄えで誤魔化そうとするのを見抜くことである。愚かな犬ほど吠えるものである。戦後の平和は、憲法でもなく、安保でもなく、日本国民が平和で安定な生活を望んだから、現実化したのである。とどのつまり、日本国民は、敗戦を知って、賢くなったのである。その賢さを忘れてはならない。負けるが勝ちというではないか?。
2006年10月06日
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気がつかないうちに、国政が、学級会のようになっていた。カフカの変身じゃないけれど、社会科見学に来た小学生が、作文を読んでいる姿には、呆気にとられた。もはや、なんでもござれ、政治のことなど、アホらしくて、語る気にもならない倦怠感を催すだけである。 この国の政治家は、もはや救いようのない連中ばかりである。官僚たちが、子供扱いして、無視する気持ちが痛いほどわかる。政治家たちは、どうみても、知性に欠ける連中ばかりで、痴性丸出しだからである。 イラクの場所もわからずに、イラク派兵賛成をするような馬鹿自民議員。そのような馬鹿に、支持されて、身の程も知らずに指導者の地位に就く、まるで子供のような人格の持ち主。国家がもっていることさえ、不思議である。 情勢が悪くなると、北朝鮮を持ち出すが、解決のめどは立たず。かつて馬鹿大統領が、立場が悪くなると、イラクを持ち出したのと変わりがない。あまりに下手な芝居のようで、裏でつるんでいるのではないかと薄々、国民も気がつきはじめているといえる。 安倍学級委員よ!僕ちゃんは、一体、何しに国会に出てきているの? その発言は、あまりに知性の無さを感じさせ、あまりにアホらしくて、もはや総理大臣という名称こそ捨てるべきだ! 安倍内閣なんておこがましいぞ! 安倍学級でよい。 どうせなら、社会科見学として、小学生やニートを政治家にした方がまだマシでさえある。これまで、語るのも恥ずかしい位、低レベルなので、語らずにきたが、全くアホらしくて、嫌になるよ!! こんな国、滅んでしまったほうがよいのかもしれない。
2006年10月06日
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前回は、パラケルススが、人体のなかに、エーテル体の作用を見い出すことで、いかに病を見い出し、自然のなかから、その治癒力を引き出し得たのかの、概略のいわばプロローグを簡潔に述べた。 神経細胞が、その形態を原始レベルに止めることによって、下等生物において、失った物質体の復元力である、細胞の増殖能力、いわば生命形成力ともいえる、エーテル体の霊的能力を手に入れ、思考活動を行うことを大まかに述べた。つまり、下等生物においての、細胞の増殖能力が、高等生物においては、それが、機能的ともいえる霊的能力に置き換わっているというのである。 この神経細胞の役割は、図形で例えると、メビウスの輪の捻り部分であり、クラインの壷でいえば、内側と外側が、つながった部分を意味するものと思われるのである。神経細胞のこの働きにより、位相が変わり、内と外の独立平衡した循環が、内と外がなくなり円環のような循環を繰り返しえるものになるのである。 エーテル体の活動は、人体のなかの分泌腺に現れるといわれ、まさに腺が分泌するのは、このエーテル体の霊的活動の副産物だというのである。それは、例えば、人間がなんらかの感動を得たときの、涙を流す行為により明かされる。「涙は心の汗だ!」といった芸能人がいたが、あながち、それは間違いではないのである。 このような原始の状態に止まっている神経細胞が集まっている人間の頭部が、硬い頭蓋骨に覆われていて、まるで、下等生物のような外骨格をもつ構造とそっくり物質的に見えるにも関わらず、高度な知的な精神活動を行っているというのは、この霊的活動を行うエーテル体の存在を意味するものであるという。 この霊的活動を行うエーテル体に沿って、人間の外にある自然のなかのエーテル体の活動を、人体内にもってくるならば、人体内でのなんらかのエーテル体の不活性状態である病気の状態に、治癒的効果をもたらしえるものと考えられるのである。 このことを、端的に、前回述べたパラケルススの言葉は語っているのである。 人体内の霊的なエーテル体の不活性活動を、自然のなかから適切なエーテル体の活動プロセスをとってきて、人体内で補完することにより、霊化される前の生命形成力を強めることができるのである。 いわば、これは不純な人間の精神活動を自然のなかの物質的なもので補完でき、また、人体の物質的損傷を、精神活動により補完できることを意味しているのである。だから、いわゆる精神病を薬剤によって治癒でき、器官機能障害等の病を精神活動によって治癒できることを意味するのである。 俗に「病は気から」といわれるが、正しくその格言を意味するものとなる。 この霊的なエーテル体の活動を担う神経細胞と似た細胞に、血液細胞があるという。血液細胞の赤血球は、この神経細胞と、増殖力の無い点でよく似ているが、神経細胞よりは欠乏しているわけではなく、神経細胞が、実際、神経実質として、表象生活の基礎を成す場合、内的(物質的増殖)形成力を、かなり欠いているために、外的な印象に依存しつつ、それを模写して形成されるのに対し、血液細胞は、高度に内的形成力を有し、生体組織全体の消費に見合うだけの、いわば予算として計上しなければならない内的形成力をもっているという。このような血液形成と類似したものに、乳汁形成があるという。母乳を乳児に与えることができるのは、この乳汁形成のなかのエーテル体の活動の御蔭であるという。 このような内的形成力、いわば生命的というべき、エーテル体の活動の対極的なものが、鉱物の結晶形成力にあるという。エーテル体の活動が天に向かう光的なものに対し、結晶形成力は、地に向かう重力的なものといえるという。 つまり、宇宙のなかには、植物から動物を経て、人間へと上に向かう(エーテル的)進化と、植物から、鉱物に下降する(結晶的)進化があるという。 血液は、内的形成力を有しているとはいえ、赤血球において、いわば、神経細胞のように増殖能力を欠き、欠乏した分を霊的な活動に置き換えているので、そのままでは、分解してしまう運命にあるという。この赤血球の分解化を阻止し、いわば癒すために、鉄の結晶形成力が必要とされるという。 だから、血液は、常に、自然から鉄を補完されないと、内的形成力を維持することができないという。 鉱物の結晶形成力、とくに金属の形成は、太陽系の他惑星の力から形成されるという。ここに、占星術と錬金術の関係が秘術的に関係づけられるという。例えば、地球における鉄の形成は、火星の力に負うところが大であるという。火星が他の惑星と離れて単独で地球に影響を及ぼすことが大である配置により、鉄は地球に形成されるという。土星は鉛、木星は錫、月は銀、金星は銅、水星は水銀、そして太陽が金である。 人間が金をみて心が癒されるのは、金のなかのこの太陽的な調和と秩序のエーテル的形成力を感じた御蔭であるという。金の金属を形成する力、これを秘教ではエーテル力というが、ここにキリスト原理を見い出すのである。 これらの金属は、3つの部分から構成されているとされる。これを秘教では三位一体というが、錬金術的には、塩的なもの、水銀的なもの、硫黄、燐的なものを意味し、古代医術的には、石灰的なもの、炭素的なもの、珪石的なものを意味し、占星術的には、月水金、太陽、火木土を意味するようである。あえて、これを現代科学的に置き換えるとするなら、塩的なもので、石灰的なものは、ブラックホールのような重力を表し、硫黄、燐的なもので、珪石的なものは、ホワイトホールのような光の浮遊力を表し、その均衡に、水銀的なもの、炭素的なものがあるといえるようである。 エーテル体が霊的生命形成力を失い、重力に囚われ物質形成に向かうと、塩的、石灰的といわれ、その逆のエーテル体の活動、つまり光を担い、火のような目に見えない非物質化、霊化すると、硫黄、燐化あるいは珪石化するといわれる。その中間が、水銀状態で、炭素である。つまり賢者の石の状態であるといわれたという。 この3つの状態比喩は、カオス、秩序、カオスの縁として理解する複雑系ならびにカオス工学分析に酷似している。 これを用いると、人間は、心臓の律動器官を中間状態として、上部の神経器官からなる部分と、下部の新陳代謝器官からなる部分の3つの状態にシステム的に分けられ、以前から述べてきた、心臓を介して上部と下部が相互作用する体系が浮かび上がる。 この構図では、下部の腸は、上部の脳に対応しており、盲腸があるのは、脳に思考を与えるためだということがわかるという。このような話の詳細は、次回に譲る。
2006年10月05日
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神秘学によると、パラケルススは、錬金術を用いて、医術を行ったという。ヒポクラテスの医学が、4つの人体である、自我、アストラル体、エーテル体、肉体の結合具合から、病気と正常なものを定義したことを以前に書いたが、パラケルススは、その4つの人体の結合の様子を、自然のなかから吟味したのである。 だから、パラケルススは、「医師は、自然を通じて、試行していかなければならない」といったのである。これは現代では、唯物論的に、自然治癒力と解されているが、その自然治癒力を言ったのではなく。自然のなかに、人間がみつけるべき隠された治癒力があり、人体は、自然そのものであり、だからこそ、人間の病を治癒する術が、自然のなかから取り出しえることを言ったのである。 これは、逆に言えば、自然とは、人間が吐き出してきたそのもので、かって、人間は自然と一つだったが、人間が、自然から離れ、自由の存在となった、いまの存在となるために、外に吐き出してきた、人間の進化事情そのものを、物語っているのである。 これは、かって人間は、神と一体だったが、悪魔に唆され、人間となった、いわば原罪という病の存在なのであるが、だからこそ、人間という病を克服し、再び、自らが神のものとなるべきであるという宣言でもある。 人間があまりに物質的な自由に埋没したために、原罪の克服が困難なときに、太陽系の調和と秩序の神であるキリストが、人間の形である原罪を担って現れ、死を克服したので、再び、人間に天国の道である神の道が開かれたというのが、太陽系における人類が学ぶべき精神であるというわけなのである。ちなみに、キリストは、いまも、地球のエーテル体として存在しているというのが秘教の教えである。人間に愛があるのは、キリストのエーテル体である、キリストの愛の行為の記憶が人類史に現存しているのと同等の意味において、現存しているというわけなのである。 現代人は、物質的に固執したために、分析力に優れ、ミクロ事象に知識を凝縮させ、その知識群を遺伝的に蓄積し、科学を発達させてきたが、分析力では、真の宇宙の法則を理解することはできず、太古人が理解していた、より大きな、マクロの宇宙的なスケールで、知識を捉える包括力を再び、手に入れなければならないと、神秘学は問いかけている。人類がこのような現状におかれることは、既に予測されていたことなのである。 それでは、パラケルススの医術を簡潔に述べていきたい。 パラケルススは、エーテル体をアルケルウスという言葉として用いて、錬金術を加味して、医術を説明したようである。ここに、前回、書いた霊的化学表現が、根底にある。 パラケルススの医術の主要部分は、人体のとくにエーテル体をみることであり、エーテル体の操作を、錬金術的に、鉱物や植物、あるいは動物の器官を用いて、制御することにある。エーテル体の流れは、霊能者には、オーラの色彩として認識されるので、錬金術の金とは、このオーラの色彩をいうようである。 霊能者でなくても、エーテル体の動きは、人体(肉体)の腺から流れる分泌物に現れていて、汗が、エーテル体の動きを表現しているという。エジプトのミイラ学の本来の意は、この分泌物から、エーテル体や、アストラル体、自我の動きを推測することをいうのである。自我の動きが、糞に現れ、アストラル体の動きが、小便に現れるという。いまでは、これが形骸化し抽象化して気孔術等が生まれたようである。 エーテル体の存在を、簡単にイメージするには、トカゲのしっぽや、ミミズ等の下等生物の再生能を考えるとわかりやすいという。トカゲのしっぽや、ミミズ等は、ある一部を切られても、切られた部分がすぐに修復するが、これがエーテル体の主要な働きだという。 では、人間において、このようなエーテル体の働きは何処にいったのかというと、思考力に発展したのだという。 下等生物において、身体の再生を担う、いわば形成力は、高等生物では、思考力に発展したというのである。それは、神経細胞の特徴に顕著に現れているという。神経細胞は、増殖力を欠如しているが、それは神経細胞が、増殖力を欠如し、いまでも原始的な状態に止まる代わりに、思考力という、目にみえない形成力を創造しているというのである。 つまり、神経細胞は、増殖力を、物的なものから、霊的なものに発展させているというのである。下等動物のエーテル体は、物的に失われると物的に補完しようとするのに対して、高等生物では、物的に失われたものには、霊的に補完しようとするというわけなのである。 だから下等生物は物質的自然に対して、高度に物質的に補完できる能力があるが、高等生物のような思考、いわば物質性から自由になる能力が欠けているというわけなのである。 下等生物は物質的に恵まれているから思考する必要がなく、いわば物質に束縛された存在だが、高等生物は、物質的に欠乏するからこそ、思考を発展させ、神々の存在のように、物質から自由になって、物質を自在に操作する存在へと、進化できるわけなのである。 人間が発明能力を有するのは、物質的に欠乏するからに他ならないのである。物質的に欠乏したという認識を、必要とするならば、「必要は発明の母である」といった発明者の発言はこれをよく表している。 それはエーテル体を高度に進化させたことに他ならないのである。だから、エーテル体の進化は、発明の母であるといえる。実際、人間の思考を形成する記憶力は、人間の場合、このエーテル体に担われているという。 勿論のこと、自然のプロセスのなかにも、このエーテル体は存在し、太陽を源にする太陽系の光の伝播、星の配置に関連して、地球に現れているという。その働きは、人間の次元には、あまりにもマクロ的なので、認識できないでいるが、人間が、睡眠中に、人体のなかのアストラル体と、自我を、自らの肉体とエーテル体から、切り離したときに、宇宙のエーテル体的なものを、夢のような意識として感じることができるという。 また、人間は、死に際して、自らのエーテル体を肉体から切り離し、宇宙のなかに解消し、宇宙のエーテル体と親和力のあるものだけを、いわばそのエキスとして、担っていき、次の転生への糧とするので、エーテル体を進化させるために、生きているともいえる。死後、宇宙のなかに、自らのエーテル体を解消させるこのときに、人間は、自らのエーテル体に刻印した人生の記憶を振り返るのであるという。 これが、死後走馬灯のように流れる人生の体験であり、仏教の葬式の49日とは、この人生振り返りの体験の大体の大まかな長さをいう。勿論、個人的にその長さは人生の経験により異なる。人生の長さの三分の一というのが神秘学のいうところの長さであり、仏教の49日は、四苦八苦の四苦にかけたものだろう。なぜなら、このエーテル体を解消した後、今度は欲界といわれるアストラル体の解消へと人間は向かうので、今度は八苦、つまり、二倍の苦しみを負うのである。 エーテル体の解消は、単なる記憶力を後追いするものだが、アストラル体の解消となると、今度は、苦痛を伴うものとなるからである。これはエーテル体のエキスを基にして体験されるので、例えば、人を殴った人は、記憶が主体と客体が逆になるので、今度は殴られる記憶を基に、感情を味わうのである。だから、欲界では、例えば、人生において、他者に迷惑かけて生きてきた者は、それが倍となって、今度は逆に迷惑をかけられる体験をすることになるのである。 だから、欲界が、天国か地獄かになるのは、その人自身の生き方にある。とどのつまりは、エーテル体をより進化させたのかどうかということでもあるだろう。進化の基準は、神の存在により近いもの、物質を他者に惜しみなく与えたかどうかというようなことになるわけなのである。 更に換言すれば、霊的創造力を身につけたかということである。簡単にいえば、他者への思いやりということなのだろう。 どうも、長々として、話が逸れてきたので、続きは改めて、原点のパラケルススの錬金術から医術への主題へと戻り、次に譲る。
2006年10月04日
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神秘学では、錬金術でいわれる賢者の石とは、炭素のことだった。炭素といっても、化学でいう死んだ炭素元素のことではない。活動している、いわば生きている炭素のことをいう。現代の化学は、いわば太古の生きた化学(錬金術)の死骸版であることは確かだが、死骸からでも、ある程度予測はできるだろう。 炭素は、植物をみれば一目瞭然の構造形体形成の担い手、更には自然の形体プロセスの担い手、造形芸術家ともいうべき存在なので、賢者の石と呼ばれたという。中世の錬金術師は、炭素と呼んでしまうと、誰にでも入手されてしまうので、いわば隠語として、炭素を賢者の石と呼んだという。余談だが、そういえば炭素といえば、その存在率から、原子量の基準となっている元素である。科学的年代分析法でも崩壊率から用いられている元素でもある。 植物は、最も根幹的な生命体であり、神秘学では、植物とは、エーテル体から、物質体を形成した生命体と捉えられている。エーテル体は、別名アイテール(光の担い手)と呼ばれるように、太陽光を変換した光の一種と捉えられている。 炭素は、ズルファー、フォスファーという光の担い手という意味の言葉で表される、硫黄、燐の仲介によって、霊的なもの、いわば設計図というべきものに結びつけられるという。炭素を光り輝くものにするには、硫黄の働きが必要なのであるという。 つまりは、炭素をエーテル体が満たすべき光の担い手にするには、硫黄が仲介役なのだという。 炭素は、人間をあまりに硬くつくりあげようとするので、人間は、呼吸により、直ちに酸素で、炭素を分解し、人間としての均衡を保っているといえるという。 そして、エーテル体の担い手は、酸素であるという。いわば、炭素は、酸素の通る道を構築しているともいえるという。酸素は、炭素でできた構造体に、生命を与える息吹でもあるという。 エーテル体の担い手の酸素を、炭素構造体に導くものは、窒素だという。だから、窒素は、アストラル体(感受体)の担い手だという。実際、窒素は、感受性を有するという。窒素は物質的構造体をなぞらえることができるという。窒素はあらゆる場所に多量に存在して、宇宙の感覚的均衡を保っているという。例えば、満遍なく水分を保つために、感覚的に大地の水の分配(均衡)を担っているという。植物は、窒素に触れられないと生育しないという。 炭素構造物を分解するものは、水素であるという。水素は、一切を解消し、元素では最も小さい原子量のように、いわば非分化的存在だという。水素は、複雑な構築物を解消し、混沌に戻す役割を担うという。
2006年10月03日
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凱旋門賞をみていて、やはり、真の勝負は違うな!というのが実感だった。昨今の形だけの選挙マスコミ操作に辟易していたので、なんだか、心が洗われる気がした。確かに、日本の最強馬の、ディープインパクトが負けたのは、残念だが、世界は甘くないというのが身に染みてよくわかった! 今更といわれてしまうが、私の当初の予想は、2着にはくるが、勝てないというものだった。それが過剰なマスコミの勝てる報道により、ついその気になってしまったが、血統予想家の亀谷の発言により、少し冷静さを取り戻し、「勝てればいいな」位になった。 日本人は、どうも勝負を少し甘く見ている気がする、あまりに勝負の世界を運に任せ過ぎている気がなくもない。確かに最後は、ときの運だが、本当にできることは全てやったのか?というと、意外と残っていることに気がつかされる。 ぶっつけ本番で、勝った馬はいない。これは前々からわかっていたことで、フランスの騎手の全てが指摘するところだった。理由は、叩いていないと、最後の叩き合いのときにどうしても息がもたずに、甘くなる。いくら調教を強くしようと、レースのときの接戦の息はつくれないというのである。 ヨーロッパにおいて連戦して、万全の体制で凱旋門に臨んだエルコンドルパサーでも、2着だったのである。このときは、斤量の差が大きかったと記憶している。やはり、初斤量では分が悪いし、経験が必要だろう。コースにしても一戦はするべきだろう。でなければ、血統的に、馬場が合うのか吟味する必要がある。 日本の馬場で、最強でも、条件が変われば、弱点にもなるだろう。スピードがあるのがかえって、スタミナ不足になることも考えられる。なにより、盲点なのは、いくら、最強馬だといっても、世界最高峰のレースに、1頭出して、その馬が優勝を掻っ攫うなんて、出来すぎの話だと思わないか? 現に3頭出しで、7度も勝っている調教師がいるのだから、それを真似せずに、勝てるわけがないだろう。勝負の世界には、やはり、戦略と戦術が必要なのがわかる。 1頭出しで、勝てるのなら、エルコンドルパサーが、とうに勝っていただろう。少なくとも、ディープよりは、ロンシャンの馬場に、血統的に向いているのだから…。 まとめると、休み明け、斤量初体験、コース初体験、1頭出し、血統的にあまり向かない。これらの点を加味すれば、3着という成績は、健闘したといえる。 レース展開については、ディープが、ハリケーンランを内側に囲んだことを想定して、シロッコと、レイルリンクが、ディープを取り囲むように後ろからマークしていた。恐らく、ハリケーンランは、内側で囮になり、ディープの仕掛けを早くしようと目論んだのだろうが、上手くいけば、ハリケーンランのバテない終いで、せり勝つことも可能、しかしそのためには、極端なスローペースが必要。恐らくそのために、ラビットを出さなかったのだろう。しかしこれは、武豊騎手の好騎乗により、外から挟んで、前に出れなくなったので、ハリケーンランは仕掛けが、逆に遅れた。 だが、ディープがハリケーンランに気をとられているうちに、その分、外からの馬に甘くなった。外の2頭のうちのレイルリンクが、ディープに外から被せ挑発し、最後に、シロッコが、外から、一気というパターンだったのだろうが、これは、プライドにとられたのと、あまりに、ペースが緩すぎて、シロッコの仕掛けどころを失ってしまった! 武騎手の騎乗にミスは全くないと思う。ミスというより、あのような大舞台で非常に上手く乗ったように思う。エルコンドルの蛯名騎手のときよりは、数段上だった! エルコンだったら、勝っていただろう。 では、負けは何かといわれれば、やはり、叩きなしの休み明けで、息がもたなかったのと、コース未経験なために、あまりに馬の状態がよくて、道中の抑えが、万全の体制で利いていなかった。初コースだと、馬はペース配分を自ら判断できないので、気持ちで走ってしまう。ディープの場合、折り合いに難があるので、初コースは更に困難なのである。恐らく、あまりに馬の手応えが良すぎて、終いの脚に期待をもちすぎたのだろう。馬も、調子がよすぎて、前半で、幾分脚を使ってしまったのだろう。 だから、やはり、休み明けで凱旋門を制するのはほぼ不可能だと思われる。個人的には、ハーツクライも出ていたら、ひょっとしたら、ダークホースになれた感がなきにしもあらず!なんで、ハーツが出なかったのか悔いが残る。 最後に、日本人のナイーブさが印象に残った! 欧州競馬は、やはり考えながら戦うレースなのである。フランスは、チームで戦ってくる。それは調教師が、騎手に一々五月蝿く騎乗指示することでわかるだろう。だから、最後は馬のスタミナがモノをいう。対して、日本の競馬は、単純なスピード勝負である。アメリカは、もっと単純で、はじめからどんどん飛ばして、パワーでぶっちぎって勝つ。 欧州競馬とアメリカ競馬は対極的で、その中間が日本といえる。両方のレースに勝つには、日本の馬場に合うというよりは、両極端な馬を選んで遠征した方がよいように思われる。そのかわり、注目度やドラマ性は失われるが…。 所詮、マスコミは視聴率が良ければそれでいいという程度だろうから、まぁ、負けても成功なのだろう。
2006年10月02日
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