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日本人の特徴を一言でいえば、真面目でナイーブだと思われる。仮に例えば、他の民族が、1日、日本人として働こうとしたら、とてもじゃないけど、キレてしまうように思われる。 それは例えば、なぜ、日本人が拉致されても、北朝鮮に経済制裁をしないのか?といった米国の疑問がそれをよく表現しているといえる。 日本人くらい耐え忍ぶことを美徳としている国民性は、他にみられないように思われる。 それは堕落した政治家をいつまでも野放しにしていることでもわかるし、お上の高給の為に、多大な税金が支払われることでもわかるだろう。一般市民はせいぜい年収500万円がいいとこだろうし、それは昨今のデフレでも、日本の物価に比べれば、決して高いものとはいえないだろう。 年収500万円もあれば、贅沢をいわす質素な生活を心掛ければ、極平均的な暮らしはできるだろう。いわゆる中流階級といえる。ほとんどが、年収500万円を切るのが一般的であるからだ! 早い話、報酬に見合う働きをしていれば、貧困やニートのような層は生まれないだろう。つまり、高い報酬を貰いながら、それほどでもない働きをしている人たちが多いから、貧困層が生まれるのである。それが資本主義というルールだといえる。 そのような資本主義のアメリカナイズされた人間が、日本人の年収500万円以下の人の生活をしたら、必ずキレること請け合いであろう。一度、1日体験でもいいから、やらせてみたらよいだろう。恐らく、彼らは言うであろう。なんでこんなに安い報酬で、サービス残業までして、働かなくてはならないのか?と、合理的でないというだろう。 アメリカでは、ホワイトカラーとブルーカラーという階層があるから、それは暗黙糧に、決められている。これは一種の差別である。働くことにおいて、人々は平等であるが、その報酬は大きく異なるのである。そこが資本主義の原点であり、貧富の差を広げるカラクリでもある。 忍耐をすればするほど、報酬は少なくなっていく、これがコスト削減であり、資本主義のルールである。 もし、それを合理的に判断するとしたら、働き者は馬鹿をみるだろう。金持ちは益々金持ちになる道理だからであるし、益々貧富の差は大きくなる。そのような調整を行うのがかっての革命であったが、いまでは、それは幻の出来事にすぎない。 しかし、この世は全く合理的ではないのだ! それはこの世に金は何の救いももたらさないという真実があるからである。 忍耐を積んだ者こそが、人生を深く味わうことができるという真実があるからである。 深く苦しんだ人間こそが、深く人生の喜びを知るのである。 苦あれば楽ありなのだ! 日本人は忍耐という面で幸いなり、西洋人もかなり忍耐強いが、昔の日本人もなかなか忍耐強かった。西洋人はすぐに自己主張するが、日本人は、自己主張はよくないとされてきた! 西洋人は忍耐強いというよりも、クール(冷静)なのである。勝海舟も西洋人は怜悧だといっている。対して、日本人は、情に脆い面で、弱い。西洋人は上にいけばいくほど、怜悧だが、日本人は上にいくほど、情が深く涙脆い面がある。 西洋人はだから涙を嫌う。対して、日本人は涙を好む。 西洋人は忍耐する前の前提で対策を立てるが、日本人は、忍耐することそのものに意味を見い出す。 例えば、昔流行った一杯の掛けそばのような話は西洋人にはわかりにくいだろう。 どちらが良いというわけでもないが、そろそろ、中庸が必要な時期であるように感じられる。日本人の忍耐性は、神道のような思い込みからきていて、西洋人の怜悧は、何事も個人主義という独自の自由を追求するところからきていると思うからである。 日本人は組織重視、西洋人は、個人重視の傾向にあるといえるだろう。 どちらも偏りすぎることなく、中庸を心掛けるときだと思われる。 かって西洋人が忍耐強かったときに、ローマ帝国ができたのである。 日本人があまりに信仰深いときに、太平洋戦争の敗戦が生まれた。 日本人は西洋人に学び、西洋人は、日本人に学べばいいのである。 要するに、何事もほどほどのケジメが肝要で、それが秩序や道徳を生むということなのであろう。 ケジメを生むものは、他から自己分析をすることなのであろう。 自己分析を客観的に行おうと思えば、これほど過酷な作業はないだろう。
2006年04月28日
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古エジプト文化期に加えて、ピラミッドが秘儀参入の場であったことを再掲したので、ついでに、秘儀参入法(霊界をみること)についても、再掲したい。 神秘学を学ぶと、宗教が秘儀参入法の伝承の名残りであることが理解される。つまり、宗教は、神々との出会いの秘儀参入法の開発、公案(禅では)を目的としたものであることがわかる。 だから、秘儀参入者が皆無といわれる現代の世にあって、多くの宗教があるのは、ほとんどが伝統的形式的な名残りであるにすぎない(密教は秘密糧に行われているので、密教についてはわからないが…)。とくに金銭目当ての現世御利益主義のものは、怪しいといえる。いわば、悪魔の手先であることは確かだろう。 神々との出会いに、金銭やこの世での地位名誉ほど、無駄なものはないからである。必要なのは魂の輝き、どれだけ愛情を注げるかである。 悪魔は自由を振りかざすだろう。たしかに自由は尊いものだが、結局のところ、神につくか、悪魔につくかの選択でしかないだろう。 秘儀参入法が、おおまかに大別して、以下の4段階で示されることは以前書いた。 1.死への接近 2.四大元素界通過 3.真夜中に太陽をみる 4.神々との出会い である。 神秘学では、人間は次の4つの体をもつとされる。 1.肉体 2.生命体(エーテル体ともいう) 3.感受体(アストラル体ともいう) 4.自我 である。 この上の秘儀参入法と下の人間の体4つを比較すると、イメージできるだろう? 死への接近は、肉体を捨てることでなされる。四大元素界とは、火、空気、水、土の精霊、俗に妖精の世界のことである。火は熱の種のようなもの、火をつくる創造言語といってよいだろう。それを火の妖精と呼ぶ。空気の妖精は、光の種のようなもので、空気(気体)をつくる創造言語、水の妖精は、水(液体)をつくる創造言語、土の妖精は、土(固体)をつくる創造言語のことである。 生命体は、肉体をつくるもとといってよいだろう。人間は、植物と、この生命体を共有しているといわれる。生命体には、光が必須である。植物は日が当たらないと育たない。人間と植物を比較すると、植物の日光にあたるのが、人間の自我にあたり、夜の星空が、人間のアストラル体にあたるといわれる。 だから、植物の自我とアストラル体は、この世にはなく、天(霊)界にあるといわれる。 人間はまた、動物とアストラル体を共有している。動物の自我は、この世にはなく、あの世にあり、それは集合魂の自我であるといわれる。かって、人間も、神の子である洗礼者が、この世に現れる前までは、動物と同じ集合魂が、民族霊として人間を、霊的に統合していたといわれる。 つまり、4大元素界を通過するには、エーテル体(生命体)を捨てないといけない。 そして、それら精霊をみるには、エーテル体のなかに、感覚器、通称チャクラ(蓮華)を形成しないといけない。 エーテル体を形成するには、光が必須である。人間の場合は、輝く自我である。自我のなかに、どれだけ神々の光を取り入れられるかが、はじめに必要とされることなのであろう。 太古アトランティス時代が破局に終わり、マナス(霊我)の使い手という意味の名マヌ(ノア)が、秘儀参入者たちを、太古インドに集め、7聖仙(リシ)とし、秘儀参入法を伝承し、それから、バビロニア時代に、マヌの弟子ゾロアスターが、受け継いだ。 ゾロアスターは、秘儀における死の接近から、4大元素界通過までを伝承し、伝承された弟子は、自分の肉体と、生命体が、何からできているのかを知って、当時は満足したといわれる。 肉体が、太陽霊アフラマズダにより、生命体(エーテル体)を通して作られるのをみるのだという。アフラマズダの霊力によりアメシャスペンターから、人間の脳、脊髄上部が構築され、月霊イセドから、28の脊髄下部の神経が形成されるのを体験したという。 しかし、なぜ、人間が輪廻転生するのか、カルマの力は何なのかを知ることはできなかった。 ゾロアスターの弟子ヘルメスのカルディア-エジプト時代になると、秘儀参入者は、真夜中の太陽をみるところまでに進んだ(というか、太古には、4段階まで進んでいたので、再生したというべきか)。 「真夜中の太陽をみる」とは、アストラル体(感受体)を浄化することであるらしい。アストラル体を浄化し、鏡のようにし、神々そのものである自我を、照らし写し出したのだろう。 そうすると、最初に、女神イシスの存在をみたという。そして、イシスから子であり夫であるオシリスが生まれる(正確には隠れ出る。最初から存在したのだが、人間は生まれたように勘違いするらしい)のを、感じるという。 オシリスは、創造する宇宙言語(ロゴス)とされる。イシスとオシリスが共にあり、宇宙言語を奏でるように感じられるという。 しかし、エジプトの後半期になると、秘儀参入者は、イシスがひとり、無口に、悲しみに暮れる姿をみるようになったという。なぜなら、オシリスが、地に下り、イシスがとり残されたからである。 オシリスはどこにいったかというと、当時の秘儀参入者モーセに啓示を与えるために、地に下ったという。その啓示は「かってあり、いまあり、やがてある、私はあるものである」ということを、告げなさいというものだったという。 これが、後の聖杯伝説とつながったという。 恐らく、聖杯とは、秘儀参入の第4段階まで到達したものをいうのだろう。第4段階とは、神々との出会いが実現した秘儀参入者である。第3段階の「真夜中の太陽をみる」のアストラル体浄化から、第4段階の「神々との出会い」の秘儀参入法(これを開語というらしい)が、聖杯伝説および、アーサー王と十二の円卓の騎士の伝説に残されているという。 アーサー王と十二の円卓の騎士とは、秘儀参入法を守る秘教集団だともいわれている。魔術師マーリンは、おそらくモーセの啓示をひきついだものだろうか? 上記のように第4段階に相当する、人間の体は自我である。人間の自我は、神秘学によると、更に以下の3つの部分に分かれる。 1.感覚魂(発展させるとマナス=霊我となる) 2.悟性魂(発展させるとブッディ=生命霊となる) 3.意識魂(発展させるとアートマ=霊人となる) この3つを含む自我をもって、アストラル体に浸透させると、マナス(霊我)を得るという。そして、エーテル体に浸透させると、ブッディ(生命霊)を得るという。更に肉体に浸透させると、アートマ(霊人間)となるといわれている。アートマまで進化すると、神となり聖杯になるといわれる。 そして、それぞれの発展の秘儀参入法は、 1.アーサー王と十二人の円卓の騎士伝説(太陽と月の黄道十二宮との関係) 2.聖杯物語(魂の統治) 3.パルシヴァル伝説(黒魔術師により負傷したアンファルタスを、パスシヴァルが霊騎士となり聖杯城に入場する) というものになるといわれている。 つまり、アーサー王と十二人の騎士は、太陽と月の黄道十二宮の宇宙的関係の象徴であり、それを感覚魂として克服すること、叡智を得ることで、次の、聖杯伝説で、自我の悟性魂のなかにある、自分のなかの敵なる悪魔(支配するゼルブスト)と戦い、負傷したアンファルタスをみて、自我のなかに、「鈍さ」と「疑い」を認め得るが、それを克服するために、最後の霊騎士パルシヴァルを、自らの自我から目覚めさせ育て、聖杯城へと向かわせることが、秘儀参入法の最終段階だとしている。 これがカルマの力を形成する源になるのだという。 要するに、自我のなかに神々の光をどれだけ取り入れられるかで、神々から自我を戴き、人間の他の3つの身体の聖杯部分を、悪魔に渡すことなく、輝かし、自我を聖杯そっくりに形つくることができるかということなのだろう。聖杯を聖杯城に導くと、人間は、そのとき神となるという。その神は自由の愛の霊であるという。そして、ヨハネの福音には、言葉は愛と自由のもとにあると記されるのだろう。
2006年04月25日
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古エジプト文化期に加えて、ピラミッドが秘儀参入の場であったことを再掲したので、ついでに、秘儀参入法(霊界をみること)についても、再掲したい。 神秘学を学ぶと、宗教が秘儀参入法の伝承の名残りであることが理解される。つまり、宗教は、神々との出会いの秘儀参入法の開発、公案(禅では)を目的としたものであることがわかる。 だから、秘儀参入者が皆無といわれる現代の世にあって、多くの宗教があるのは、ほとんどが伝統的形式的な名残りであるにすぎない(密教は秘密糧に行われているので、密教についてはわからないが…)。とくに金銭目当ての現世御利益主義のものは、怪しいといえる。いわば、悪魔の手先であることは確かだろう。 神々との出会いに、金銭やこの世での地位名誉ほど、無駄なものはないからである。必要なのは魂の輝き、どれだけ愛情を注げるかである。 悪魔は自由を振りかざすだろう。たしかに自由は尊いものだが、結局のところ、神につくか、悪魔につくかの選択でしかないだろう。 秘儀参入法が、おおまかに大別して、以下の4段階で示されることは以前書いた。 1.死への接近 2.四大元素界通過 3.真夜中に太陽をみる 4.神々との出会い である。 神秘学では、人間は次の4つの体をもつとされる。 1.肉体 2.生命体(エーテル体ともいう) 3.感受体(アストラル体ともいう) 4.自我 である。 この上の秘儀参入法と下の人間の体4つを比較すると、イメージできるだろう? 死への接近は、肉体を捨てることでなされる。四大元素界とは、火、空気、水、土の精霊、俗に妖精の世界のことである。火は熱の種のようなもの、火をつくる創造言語といってよいだろう。それを火の妖精と呼ぶ。空気の妖精は、光の種のようなもので、空気(気体)をつくる創造言語、水の妖精は、水(液体)をつくる創造言語、土の妖精は、土(固体)をつくる創造言語のことである。 生命体は、肉体をつくるもとといってよいだろう。人間は、植物と、この生命体を共有しているといわれる。生命体には、光が必須である。植物は日が当たらないと育たない。人間と植物を比較すると、植物の日光にあたるのが、人間の自我にあたり、夜の星空が、人間のアストラル体にあたるといわれる。 だから、植物の自我とアストラル体は、この世にはなく、天(霊)界にあるといわれる。 人間はまた、動物とアストラル体を共有している。動物の自我は、この世にはなく、あの世にあり、それは集合魂の自我であるといわれる。かって、人間も、神の子である洗礼者が、この世に現れる前までは、動物と同じ集合魂が、民族霊として人間を、霊的に統合していたといわれる。 つまり、4大元素界を通過するには、エーテル体(生命体)を捨てないといけない。 そして、それら精霊をみるには、エーテル体のなかに、感覚器、通称チャクラ(蓮華)を形成しないといけない。 エーテル体を形成するには、光が必須である。人間の場合は、輝く自我である。自我のなかに、どれだけ神々の光を取り入れられるかが、はじめに必要とされることなのであろう。 太古アトランティス時代が破局に終わり、マナス(霊我)の使い手という意味の名マヌ(ノア)が、秘儀参入者たちを、太古インドに集め、7聖仙(リシ)とし、秘儀参入法を伝承し、それから、バビロニア時代に、マヌの弟子ゾロアスターが、受け継いだ。 ゾロアスターは、秘儀における死の接近から、4大元素界通過までを伝承し、伝承された弟子は、自分の肉体と、生命体が、何からできているのかを知って、当時は満足したといわれる。 肉体が、太陽霊アフラマズダにより、生命体(エーテル体)を通して作られるのをみるのだという。アフラマズダの霊力によりアメシャスペンターから、人間の脳、脊髄上部が構築され、月霊イセドから、28の脊髄下部の神経が形成されるのを体験したという。 しかし、なぜ、人間が輪廻転生するのか、カルマの力は何なのかを知ることはできなかった。 ゾロアスターの弟子ヘルメスのカルディア-エジプト時代になると、秘儀参入者は、真夜中の太陽をみるところまでに進んだ(というか、太古には、4段階まで進んでいたので、再生したというべきか)。 「真夜中の太陽をみる」とは、アストラル体(感受体)を浄化することであるらしい。アストラル体を浄化し、鏡のようにし、神々そのものである自我を、照らし写し出したのだろう。 そうすると、最初に、女神イシスの存在をみたという。そして、イシスから子であり夫であるオシリスが生まれる(正確には隠れ出る。最初から存在したのだが、人間は生まれたように勘違いするらしい)のを、感じるという。 オシリスは、創造する宇宙言語(ロゴス)とされる。イシスとオシリスが共にあり、宇宙言語を奏でるように感じられるという。 しかし、エジプトの後半期になると、秘儀参入者は、イシスがひとり、無口に、悲しみに暮れる姿をみるようになったという。なぜなら、オシリスが、地に下り、イシスがとり残されたからである。 オシリスはどこにいったかというと、当時の秘儀参入者モーセに啓示を与えるために、地に下ったという。その啓示は「かってあり、いまあり、やがてある、私はあるものである」ということを、告げなさいというものだったという。 これが、後の聖杯伝説とつながったという。 恐らく、聖杯とは、秘儀参入の第4段階まで到達したものをいうのだろう。第4段階とは、神々との出会いが実現した秘儀参入者である。第3段階の「真夜中の太陽をみる」のアストラル体浄化から、第4段階の「神々との出会い」の秘儀参入法(これを開語というらしい)が、聖杯伝説および、アーサー王と十二の円卓の騎士の伝説に残されているという。 アーサー王と十二の円卓の騎士とは、秘儀参入法を守る秘教集団だともいわれている。魔術師マーリンは、おそらくモーセの啓示をひきついだものだろうか? 上記のように第4段階に相当する、人間の体は自我である。人間の自我は、神秘学によると、更に以下の3つの部分に分かれる。 1.感覚魂(発展させるとマナス=霊我となる) 2.悟性魂(発展させるとブッディ=生命霊となる) 3.意識魂(発展させるとアートマ=霊人となる) この3つを含む自我をもって、アストラル体に浸透させると、マナス(霊我)を得るという。そして、エーテル体に浸透させると、ブッディ(生命霊)を得るという。更に肉体に浸透させると、アートマ(霊人間)となるといわれている。アートマまで進化すると、神となり聖杯になるといわれる。 そして、それぞれの発展の秘儀参入法は、 1.アーサー王と十二人の円卓の騎士伝説(太陽と月の黄道十二宮との関係) 2.聖杯物語(魂の統治) 3.パルシヴァル伝説(黒魔術師により負傷したアンファルタスを、パスシヴァルが霊騎士となり聖杯城に入場する) というものになるといわれている。 つまり、アーサー王と十二人の騎士は、太陽と月の黄道十二宮の宇宙的関係の象徴であり、それを感覚魂として克服すること、叡智を得ることで、次の、聖杯伝説で、自我の悟性魂のなかにある、自分のなかの敵なる悪魔(支配するゼルブスト)と戦い、負傷したアンファルタスをみて、自我のなかに、「鈍さ」と「疑い」を認め得るが、それを克服するために、最後の霊騎士パルシヴァルを、自らの自我から目覚めさせ育て、聖杯城へと向かわせることが、秘儀参入法の最終段階だとしている。 これがカルマの力を形成する源になるのだという。 要するに、自我のなかに神々の光をどれだけ取り入れられるかで、神々から自我を戴き、人間の他の3つの身体の聖杯部分を、悪魔に渡すことなく、輝かし、自我を聖杯そっくりに形つくることができるかということなのだろう。聖杯を聖杯城に導くと、人間は、そのとき神となるという。その神は自由の愛の霊であるという。そして、ヨハネの福音には、言葉は愛と自由のもとにあると記されるのだろう。
2006年04月25日
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古エジプト文化期は、いわば一人の人物によって代表されるものといわれる。その人物は、ヘルメスである。ヘルメスは、トートとも呼ばれ、時の神、叡智の神とも呼ばれている。一人の人物といっても、現代のように一個の個人、一人の人生をあらわすものではない。なぜなら、現代人のような個人認識をもつ自我を有していなかったからである。 古エジプト人は、現代人のような一個の独立した人間ではなく、何代もの記憶と、先代の意志を受け継いだ、いわば民族として一個の人間であったという。だから、ヘルメスといっても、ヘルメスという名の指導者が、何代も続いたというわけである。つまり、ヘルメス何世というべきものなわけである。例えば、日本の天皇なんかがその名残りでもあるだろう。 早い話、現代人は、神々と独立し、霊能力を失ったために、一個の個人としての自我認識を得て、生死を送る、昼の目覚めた人生を意識するようになったのである。なので、代わりに、現代人は眠っている間の自我認識が、なくなったのである。対して、古代エジプト人は逆で、夜でも若干の霊能力を有していたから、眠ると霊世界を感じることができたわけである。その代わり、昼は、現代人のようには、はっきりとした感覚をもっていなかったようだ。 このような、朝目覚めて、自分の肉体のなかに入り、外から昼の光を浴びて、物質を感覚的に捉え、夜、眠りにつくと、肉体から出て、宇宙のなかにひろがり、意識をいわば無意識のなかに解消する、自我認識の自我そのもののことを、神話では古くから「船」と呼んでいるのである。 つまり、自我は、宇宙船なのである。 現代人は、夜中その宇宙船に乗っていることは、霊能力がない限り、感じることはない。それは、昼のあまりの物質的感覚のなかに、肉体そのものが、宇宙船そのものだと錯覚しているからでもあるという。 論理脳(左脳)からくる物質知(感覚)により、自我=肉体だと錯覚しているのである。そして、脳が捉え、構築する画像そのものが現実だと思い込む習性をもつのである。いわば、人間は、物質脳が好む論理的な幾何学(意識)のなかの洞窟に棲息する住人といえるのである。プラトンは、これを否定しイデアを唱えたわけである。 つまり、物質脳により、肉体=自我と捉えている。 神秘学によると、実は、このような意識を生み出したのが、エジプト時代のミイラつくりであったという。古代エジプト人は、肉体を魂を運ぶ船だと捉えていたから、肉体を保管しようとしたわけである。もっとも、古代エジプト人のミイラつくりの真の意図は、エジプト時代の霊能力を、そのまま保てるための、肉体を保持することであったようだ。古代エジプト人は、人類が将来、霊能力を失うことになることを知っていたのである。 これら霊的な叡智の多くは、アトランティス時代の文化の伝承発展からきていたという。その指導者が、ヘルメスという人物なのである。 ヘルメスは、ゾロアスターの弟子であり、ゾロアスターは、インドの7聖仙の弟子であり、インドの7聖仙は、マニの弟子であるという。マニは聖書にもある、ノアであり、神々から教えられたノアの箱舟をつくったあの人物であり、マニ教の伝承者でもあるという。 マニは、アトランティス時代の太陽神託所の指導者であったという。マニは、アトランティスの大破局(大洪水)を見通し、きたるべきポスト(後)アトランティス時代の文化を創設するために、7人の弟子を集め、インドに深く潜伏したという。 インドの地から、エジプトへと文化の種を蒔いたという。他にもアトランティス時代の生き残りの民族があったという。それが中国となったという。アトランティス時代の文化は非常に優れたものであり、生命(気)力を操作したものであったという。しかし、中国の素になった民族は、発展性がなく、いまでも中華思想にみられるような、進歩を排し、自己の栄華に閉じこもるような保守的で排他的傾向があるので、インドに伝承された発展的なアトランティス文化とは、対極的にあるという。この対極性は、いまでも中国とインドの思想に唯物的に悪い意味で深く遺伝されているという。 遺伝性そのものが利己性によるもので、悪いものであり、発展性がないから、当然といえば当然であるといえよう。 ヘルメスは、マニから伝えられた人類の進化の道筋を伝承されたといえる。人類の進化の道筋とは、秘儀参入法であり、神々との交信であるだろう。 ピラミッドは、天の神々を地に写し取った霊的な幾何学的存在なのである。神殿であり、秘儀参入法である。そこで、民族の頭である民族長が、秘儀参入法により、神々から叡智を受け取り、周囲を霊化(法則化)していったのである。ミイラをつくることにより、自我が、肉体のなかに入り込むようになっていき、やがて現代人の昼の物質的感覚からくる意識をつくりだした。 ピラミッドは、宇宙から人間ができた象徴でもある。人間は頭からでき、民族は、頭である民族長から生まれる。それがピラミッドである。ピラミッドは人間の頭部を表す。神々が幾何学を形作ると信じられていたからである。 エジプト人は、あらゆる方向からの神々の力が集まって幾何学的図形ができると考えていたのである。雄羊宮、雄牛宮、双子宮、巨蟹宮は、ピラミッドの上部、底面、左右一対、そして囲い込む面を表すのであろう。これは同時に人間の頭部でもあり、前世を運ぶものでもある。 スフィンクスは、人間の胸部であり、人間に、思想、感情、意志を表す、こころが生まれたことを表す。獅子宮、処女宮、天秤宮、天蠍宮は、獅子、女、翼をもつスフィンクスの形となっていく。獅子は心臓(こころの象徴)の強い動物であり百獣の王、処女は、成熟し生まれ死ぬ存在、天秤は、霊的世界と物質的世界の均衡を保つ存在、そして、蠍は毒であり、毒から防衛し、免疫(自己認識)をもつ存在である。 つまり、スフィンクスは人間の現世である、生命存在を表現している。 そして、当時の古代エジプト人の階層は、人馬宮、磨羯宮、宝瓶宮、双魚宮から、狩人、畜産家、農民、商人という職業体験を生み出し、その職業体験は、次の来世の頭部を形作るのである。よく働く者は、よく頭を動かすものとなるだろう。 古代エジプト人は、ヘルメスの教えにより、神々から生まれた人間の存在の意味をよく理解していたといえる。 それらの教え、古代の叡智を、イシスとオシリスの神話に残したのである。イシスから、オシリスが奪われ、いま人間の下にあるということを、それが自我であり、宇宙船であるということを! かって、神々と人間は1つであった。それはイシスとオシリスが1つに結ばれていたように。しかし、人間は、神々から独立し、集合的自我(民族霊)から、分離し、霊的世界から下り、物質世界に目覚め、個人的自我となった。イシスからオシリスが奪われたのである。 イシスは、オシリスと結びついていたときは、美しい歌声を奏でた(天空の音楽)が、オシリスが奪われてから、イシスはもはや悲しみで歌わなくなった。 人間は霊能力(霊聴)を失ったので、霊的(神々の)世界が奏でる天空の音楽を、聴くことができなくなったというのである。人間は、霊的感覚器官を失ってしまったという。 それを再び取りもどすことが、我々の時代の課題であるという。エジプト時代が再考されるのは、その前触れであるというのである。
2006年04月24日
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ついでに、ピラミッドの話も再載します。 秘儀参入法は、神々との出会いであることが目的であると、前回、書いた。エジプト時代の秘儀参入者は、女神イシスに出会い、そしてイシスから子であり夫である神オシリスが失われたことを知った。 そのことがミトラ教の聖杯伝説にある。聖杯には1つの宝石がはめられているという。その宝石は、かって神の王冠にあったものであるといわれている。 つまり、この宝石が、オシリスであり「かってあり、いまあり、やがてある。わたしあるもの」であろうことがわかる。その色は薔薇色のような赤である。赤ワインの色もこの薔薇色に近い、そして人間の血の色もこの薔薇色のものである。 薔薇色は、高貴な帰依と献身能力の表れ、いわゆる愛情のオーラの色とされる。 神秘学では、血は自我を表すので、自我の色ともいえるだろう。 聖杯にはめ込まれた宝石は、自我なのである。その自我はオシリスであり、オシリスは、かって王冠イシスにあった。 聖杯は、4つの人体のうち、自我の他の3つの身体であるアストラル体、エーテル体、肉体の将来の姿である。自我は、創造する言葉。イシスからその創造する言葉は、オシリスとして出で、人間のもとにいまある。聖杯の火は、宇宙創造の言葉から、いま個人個人の人間のなかの言葉を発する自我に移されたのである。 オリンピックの聖火はこの名残りであろう。ギリシャ時代のオリンピックは哲学の場だったからである。ギリシャの哲学者は、全身を使って思考したのだ。ギリシャ哲学の堕落した名残りがいまのスポーツである。 エジプト時代後半から、イシスは、オシリスを失い、悲しみで歌わなくなったということは、前回書いた。そしてオシリスは、モーセのもとで、十戒の「わたし」であるを示し、そのオシリスの「わたし」という自我が守るべき、イシスの掟、子供を育てる母性のようなルール、躾である十戒を与えたのである。 だから、十戒には、自我を育てる、宇宙神のイシスのなかにある、道徳的法則、創造する言語規則が存在しているのである。だから、十戒には、言葉を発する前の言葉の種があるだけであり、言葉で書きあらわしたものではないと思われる。だから、書き表された唯物的十戒を守るのではなく、霊的原型である十戒を守るべきなのである。だから偶像は禁止された。 偶像が赦されるのは、キリストが肉体を伴って現実化したとき、新しい契約を結んだときからである。 神々に出会うための秘儀参入法は、人間がこのオシリスに相応しく、いかに、自らのうちに聖杯を形つくるかの方法のことである。創造言語を、更なる自由な創造言語として育てあげることにある。 自我がまず克服すべき杯は、アストラル体である。実は、アストラル体の象徴は、六芒星形である。この形に意味があるのではなく、この象徴を感じることが大切であるといわれる。この形に魂を感じることであるといわれる。 この六芒星形のなかの2つの正三角形を、上下に引き離す。すると、そこに適度に両足両手を開いた人体が浮かびあがるといわれる。言葉で表すなら以下のことだという。 「光は上方に流れる。重みは下方にかかる」 これが、中世の秘儀参入法のカギであったという。 神秘学から、考え続けると、光は絶え間なく生命を形作る。光の影は空間をつくる。空間に光や影が交わり、色彩ができる。色彩は水である。水にあらゆる方向から、神々の叡智が、星を通して押し寄せ、互いに譲り合いながら、光はまるまり、重みとなって、角がとれ、土(固体)となる。 光がつくるものがエーテル体であり、エーテル体を通して、宇宙と相互作用し、肉体が生まれる。 肉体は、自我と、宇宙の関係からつくられる。 肉体はオシリスとイシスの結婚の証の結果である。 そして、オシリスとイシスのつながりは、霊界と物質界の結婚を意味する。 これは、七夕伝説にみられる。つまり777というヨハネの黙示録でいう数に、人類の進化が至ると、人間のなかにある自我オシリスと、天界にあるイシスが、再び出会うからである(ちなみに天の川は、自我と宇宙を遮るエーテル体と肉体のことであろう)。 恐らく、エジプトのピラミッドは、このイシスとオシリスの結婚指輪であり、秘儀参入の場であり、神々との出会いであると思われる。 太古の遺跡は、これらを現しているだけでなく、実際の現実のものであった。ギリシャ神殿には、実際に、神々が住んでいたのである。秘儀参入者は、神殿に行き、神々と会話したのである。 ピラミッドが、秘儀参入の場であることをイメージさせる、中世の秘儀参入法があったという。 それは、以下のようなものである。秘儀参入の師が、弟子を、雲の上の非常に高い高山に、つれていくと、弟子はそのうち、地上のことが夢のように感じられ、雲のなかから、自分の幼いときの子供(少年)を、見い出すという。 そして、弟子はその子供(少年)と対話を続け、秘儀参入の名残りである宗教のなかの神の啓示の意味を見い出すという。これは恐らく、イシスのイメージである、愛のなかにある母性であろう。 次に、師は、弟子を、地の深い洞窟のなかに連れて行く。すると、今度は、年老いた自分の未来であるかのような老人を見い出すという。 そして、また弟子は、その老人と対話を続ける。すると、自らの体内を通して、自然のなかにある神々の叡智を感じるようになるという。これは恐らく、オシリスのイメージである、愛のなかにある父性であろう。 ピラミッドには、天上にそびえる外形と、そして中には深い洞窟を見い出せる構造が存在するだろう。このことが、秘儀参入の場であったことを意味しているように思えてならない。 そして、古代遺跡は、神々が存在している証でもある。
2006年04月24日
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昨今、エジプトのピラミッドについての話題が、再燃しているので、神秘学によるエジプト文明の解釈を、また載せてみたい。 スフィンクスの謎々とは、「朝は4本足、昼は2本足、晩は3本足で歩く者は何か?」と、スフィンクスが、謎かけをして、それに「それは人間である」と、答えるものであるが、神秘学によると、それは太古の謎々であったというが、これは少し趣が異なる。 「若いときは、人間は四本足で歩く。中年には、二本足で歩く。年を取ると、三本足で歩く」というようなもので、人間は老いるということが、その答えだったという。そして、そのときの人間の認識は、人間は足から老いていくというもので、頭に関しては、常に、前世の成果に留まるということだったようだ。 つまり、頭は一生のあいだ、子供のままにとどまるので、子供の頭の教師が、子供の頭の生徒をどのように扱えばよいか? この問いこそ、真の謎々だったという。 人間の頭は、残りの身体、胸部や四肢に運ばれる旅人に他ならないという見解なのである。 胸部は、頭を世話する養育者、世話人であり、四肢は、労働者であり、奴隷である。 神秘学によると、肉体の原型は、土星期に、黄道十二宮からつくられたとされる。前回、その簡単で大まかな解説を書いた。 そこでは、前世を形成する4つの精神である、雄羊宮、雄牛宮、双子宮、巨蟹宮が頭をつくり、地球と均衡をとるにおいて、4つの精神である獅子宮、処女宮、天秤宮、天蠍宮から、現世を形つくる胸部をつくり、そして、四肢の活動である4つの精神の、人馬宮、磨羯宮、宝瓶宮、双魚宮が、次の来世を形つくるものとされている。 太古の人類は、精神から人間がつくられることを理解していたとされるのである。 神秘学では、太陽の春分点が、黄道十二宮のどれを通るかで、その時代の精神的象徴が得られるとしたので、現代は魚座にあるとされるという。太古の魚座(双魚宮)の時代では、人間は分解、解消の危機に、具体的にさらされたので、現代の魚座の時代ではいわば抽象的に、機械的に自動に、この分裂、解消が行われるというものであるようで、実際、抽象的な分別知から、闘争や戦争、そして世代間ギャップが生じて、先進国では、人口が減っているだろう。次の水瓶座(宝瓶宮)では、この解消が更に発展するので、精神的なつながりを見い出さないと、人間の精神は、物質的、抽象的世界に、解消されてしまう危険にあるといわれている。 神秘学では、アトランティスの大破局後の地球の文明を、ポストアトランティス期として分類しているが、第1期は古インド期で、それはノア(マヌ、マニ)が、アトランティス期の7つの神託所から7人の弟子を連れてきて、古インドに7聖仙(リシ)として、文化を形成した時代を指し、第2文化期は、ゾロアスターの活躍したカルディア期で、第3文化期は、ゾロアスターの弟子のヘルメスとモーセの活躍した時期とし、第4文化期は、ギリシャ文化期としている。そして、現在は第5文化期といわれる。 カルディア期からエジプト期には、人類は太陽に目を向けていたので、神秘学では、「両生類」の時代とも呼んでいる。それは日光を浴びて、土の湿っぽさから解放されるのを喜んだという意味で呼ばれる。アトランティス期のときは、人類は多量な水を含む空気のなかに生きた生物だったので、水生だったのである。いわば「魚類」だった。 現代の第5文明期では、土(物質)のなかにこもっている文化なので、「モグラ」とはいえない「ミミズ」状態と呼ばれるという。太古においては、具体的な精神的象徴として記述された。 そして、最初に述べたスフィンクスの謎々は、次のエジプトの神、イシスの碑文によって明らかにされるという。 「私は全てである。私は過去であり、現在であり、未来である。私のヴェールを、死すべき者全てが取り去るべきである」 そして、遺伝の問題は、上述した碑文と、以下の碑文の相違により帰されるという。 「私は全てである。私は過去であり、現在であり、未来である。私のヴェールを、死すべき者が、取り去ったことはない」 つまり、死すべき者が、私という普遍性を有する真実のヴェールを取り去ることができるかどうかで、遺伝が生じるわけである。逆にいうと、遺伝を克服したときに、真実のヴェールが取り去られ、永遠の私のなかに、生きることができるというのである。 私のなかの普遍的真実とは不死なる魂のことであろう。 それは遺伝には因らないものである。この世に生まれるからこそ死すべきものであり、遺伝を有するものなのである。 遺伝とは血であり、穢れたものに堕落したものである。精神は、それを乗り越えることができる。なぜならば、精神性は、宇宙の構造、黄道十二宮と7つの惑星の関係から生まれるものであるからであるという。 ちなみに、スフィンクスの物質的形は、おそらく、4つの精神である獅子宮、処女宮、天秤宮、天蠍宮を象徴的にかたどったものであろう。 ピラミッドは人間の頭部を成し、スフィンクスは胸部、そして当時のエジプト人が四肢を表していたのだろう。ピラミッドは、おそらく、雄羊宮、雄牛宮、双子宮、巨蟹宮を表現したもので、当時のエジプト人は、狩人、畜産家、農民、商人の4つに分類される。 人間は宇宙において、もともと、それらを調和した関係において、精神的に結びついていたのである。精神は、宇宙構造、黄道十二宮と7つの惑星により生まれたのであるのだから。 それをエジプト人は知っていたのである。 人間のなかの23の思想とのこれら宇宙構造の関係は、神秘学により表現されうるが、その解説は次回に譲りたい。 そして、エディプス王による複雑な血縁の系図、遺伝とも象徴的に思わせる解答は、遺伝的な問題は、抽象的な論理では、解答できない謎であることを意味している。だから、現世の精神の象徴であるスフィンクスは死んだのである。 とどのつまり、遺伝の問題は、論理ではなく、血を超えた精神性でこそ解決すべき課題であると、人類に警告しているのであろう。血が闘争を生み、抽象論で解決するものではなく。胸部の象徴、調和、調整能力である金の作用こそ相応しいと説くものなのであろう。 同時に、スフィンクスは、人類の自ら1人1人に、天から下ったイシスである自我の象徴をも表すのである。 我々がイシスを生かすかどうかにより、現世である胸部は生きることができる。イシスをスフィンクスにし、蘇らせることが未来への人類の課題と、エジプト人は警告するための意味でも、古代遺跡をつくったのだろう。
2006年04月24日
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恐らく、どの時代にも、遊び人のような、現代で言うニートのような存在はいただろう。しかし、現代のように、ニートという言葉で、いわば一種の階層差別した時代は、あまり無かったような気がする。 ニートという言葉を使っても、その解決法を生むどころか、ある意味、差別的に表現するだけでは、絵に描いた餅であろう。そして、ニートに対して、セレブという言葉が流行している。日本が二極化している証拠であろう。 このような日本の二極化の社会背景には、日本に対する米国の影響が強くみられる。 現代の日本をみると、ほぼ80~90年代の米国を彷彿とさせる。 当時は確かレーガン政権だったが、働かず学ばず、社会福祉の恩恵のみで生活していた人たちが、問題となっていたように、記憶している。当時は冷戦で、極右ともいえる政権は、内政の失敗を、対外的な敵に向け、強いアメリカを目指し、軍備拡張に、湯水の如く国家予算を費やし、多大な財政赤字と貿易赤字をこしらえ、その失政から結局、共和党右派は自滅し、内政重視の民主党のクリントン政権になっていった。 米国という国は、大きくみて、内政主義か外交主義かの2つに分かれるように思える。総じて米国が内政主義である方が、世界は安定しているようにみえる。歴史をみていくと、世界にとっては、強いどころか、目立たないアメリカの方が望ましいといえる。 なにより、世界の一番の問題は貧困問題であり、米国が強いとか、国連を牛耳り世界の兄貴分になるべきだということなどは、二の次の問題で、少なくとも、なぜ、かって英国の植民地だったアメリカが中心なのだ!といまだに、欧州では、疑問符が多い。 いかに力があろうとも、成金国家では、文化、伝統、秩序を担うには資質が足りえない。 というのが、暗黙の歴史からくる、人類の見解の一致なのである。 そして、米国は貧富の差が大きい国でもある。 早い話、米国という国に貧富の差がなくなることが、世界貧困問題の一番の解決法を提示することであるといえなくもない。 米国は、世界平和を問う前に、自国の平和を解決しなさい! といいたい。自国をなんでも世界一といえる国家精神ならば、まず自国を犯罪のない安全で快適な国にしてみたらいいだろう。 まず、隗よりはじめよの精神がない限り、何をしても、無駄であるばかりか、悪であるだろう。 まとめると、米国という国自体が、その成立時点から二極化しているのである。 これに比べ、日本は曲がりなりにも統一国家政権となっている。しかし、それも、昭和初期までの話であったといえるだろう。 昨今では、自由という名の無責任主義が横行し、まず、政治家自体がバラバラで、功利主義、堕落腐敗で、権謀術などの錯誤、邪道が幅を利かしている。 国家政権が、国家の面倒を放棄したから、ニートというような、日本語だか、英語だか、なんだかわからない言葉が生まれるといえる。 とどのつまり、無責任の象徴なのである。他の面倒がみれない、責任がとれない、責任を回避したいのに、他の面倒をみ、責任をとり、義務を遵守するその地位につくという不可思議な現象が、国家の中枢機関で起こっている。 一言で言えば、堕落である。 その地位に相応しくない人物が就いているから、他を差別するような外見的な演技、パフォーマンスを行うのである。これを邪道といわずして、なんというのだろうか? こんなような小器量では、国家はどんどん分裂し、やがてなくなってしまうだろう。 外交というのは、断じて、誠心誠意であるといったのは、勝海舟である。 パフォーマンスや自己保身でやるものではない。それは単なる利己主義である。 ニート(遊び人)をみてわが身を反省すべきときだといえる。 遊び人に罪はない。
2006年04月23日
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キリスト=イエスは、神殿のなかで、商売をしてはならないといっている。イスラムでも、金利を取って、金を貸してはならないという教えがあるようだ。それはモーセの十戒にもあるところである。 つまりは、金貸し業や銀行という商売は、少なくとも神の世界では赦されない職業といえるだろう。言い換えれば、最もモラルの低い職業だといえるだろう。 では、最も、モラルの低い職業はなんだろうか? 本来、職業というのは、生活をする糧、生きるためのものでなければならないだろう。 売春は、どうだろうか? 勿論のこと、売春は職業とはみなされないものであるが、売春をした女性に対し、キリスト=イエスは、赦しを与えている。 売春をしてはならないが、してしまった以上は、生きていく上で、何の罪も犯さなかったといえる者でこそ、その売春を裁くことができるというようなことを、キリストは言った。 それは、お釈迦さまが、殺生をしてはならないが、やむをえない場合に、してしまった以上は、反省し、二度としないようにしないといけないというようなことを言ったのに似ている。 罪を犯したという意識があれば、まだ悔い改める余地があるから、救いがあるということなのである。だから、これらの後者の悪は、救われる可能性のある悪であるといえるだろう。 しかし、前者の神殿の中で商売をする金貸し業や銀行業は、救いのない悪であると、キリストは厳しく言い、実際、裁いているのである。これらの悪は、実際、救いがない悪といえよう。 金があるのなら、なぜ、無償で分け与えないのか?同じ同胞であり、人間なのであるから。 これが、宇宙の大原則なのである。 生命体とは、無償で分け与える行為からはじまるといえるからである。 対して、これら悪の商売は、分け与えることを拒み、所有する悪の概念を生み、生命体から命を奪い、殺傷する概念に発展する。そして資本という機械化社会に結びつけられる。 これが悪魔の正体なのである。 神秘学では、銀行業は、人格を無力なものにする悪魔の商売としているのである。 悪の銀行業のはじまりは、ロスチャイルド家の4人の人物が、フランクフルトから世界各地に移住したときからはじまるという。サロモンロスチャイルドはウィーンへ、ナータンロスチャイルドはロンドンへ、カールロスチャイルドはナポリへ、ヤコブロスチャイルドはパリへ移ったという。そして、銀行という存在が、彼らの天分により、個人的な領域にもたらされ、人格が金銭のために斡旋されたという。そして、今日では、銀行全体が非個人的なものになり、資本は株式会社に移行し、もはや個人に管理されなくなり、資本自らが資本を管理することになり、資本のなかで、非個人的な力が経営を行うようになっている。その上に、個人の意志を全て、自らにひきつけて、人格を無力なものにする悪魔の力がこの領域でできあがっているという。 この人格を無力なものにする悪魔の力、すなわち、客観的な資本の力から、独立しなければ、人類は救えなくなるくらい、物質世界に埋没するだろうといわれているのである。 物質世界に埋没した人間は、もはや無人格なマシン(機械)でしかない。 これが666の悪魔の数を額に刻印した悪の人種というより獣になるというのである。 彼らは、右手にコストダウンの契約書を掲げ、左手で、自らの首を絞める紐を持って、いかに、酸素を効率よく、呼吸し、生きながらえたかを、紐を締めながら、自虐的に楽しんでいる連中なのである。いずれ、臨界量を超え、一瞬にして、息の根が止まるとも知らずに。 実は彼らが楽しんでいるのではなく、それを操っている悪魔がその滑稽さを楽しんで笑っているだけなのである。悪魔はとりつく人間を変えれば済む話だからである。 銀行業や金貸し業の人たちは、心改めるべきときにきているといえよう。 百歩譲って、これら金貸し業や銀行業にモラルがあるとしたなら、本当に金を必要としている人にこそ、分け与えることだといえるだろう。金がなければ、明日をも生きていけない貧困な人にこそ、分け与えることだといえよう。 しかし、この裕福な日本国において、そのような真にお金を必要とする人なぞ、果たしているのだろうか? たわいもない自分の我儘を通すだけの浪費に使われているだけではないのか? あがったさがったといって、元々、何の価値もない、虚偽に踊らされて、いい気になっているだけではないのか? お金の貧困者なんかより、心の貧困者のいかに多きことだろうか。 人はパンのみに生きるにあらずとは、真事に金言だといえる。
2006年04月20日
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前回は、北欧の神話に残っている悪魔の伝説をまとめた。 ロキは、ルシフェルという悪魔のことをあらわすと前回書いた。ロキは、ルシフェルのように、殺す力を表すという。 ロキであるルシフェルは、人間に3つの子を宿す、こころに利己心であるミズガルズの蛇、いのちに、不正直さというフェンリル狼、からだに死と病であるヘルであるという。 ロキが、人間にそれら3つの子を宿すことで、もう一種の悪魔であるアーリマンが、それに物質的解釈を与え、物質世界の虜、囚人とするという。そして、苦や死の恐怖で、人間を幻惑し、自由自在に操るという。そして、人間は益々、物質世界に侵入し、侵食され、宇宙の霊的進化から取り残されるという。 現代人はあまりに科学信仰論者なので、この関係に気がつかないと、神秘学は説く。 現代人は、「狼が太陽を追いかけているなんて、なんと馬鹿げた話だ。そんなことは迷信に決まっている。」というだろう。 日食は、月が太陽の前を通るから起こるのだと、説明するだろう。 確かに、外的な観照でいえば、月が太陽の前を通るときに日食が起こると考えれば、わかりやすいし、実際、そうであろう。しかし、そこに見過ごされている観点がある。アーリマンという悪魔の土台に立つ、外的な観照に依っているということである。 人間は、認識できている範囲内でしか、認識できないという事実である。そもそも、どんな人間も、物事を同じ立場に立って、みていることは有り得ない。その人なりの人生の観点から、物事をみている。そこに、論理を用いて、共通の約束事のようなものをつくり、それを用いて解釈してその気になっているにすぎない。論理脳といわれる左脳は、そのような約束事を構築することで、認識を映像化してきたといえるのである。 単なる思い込みでしかないことかもしれないのである。 悪魔は詐欺師のように、わかりやすい証拠を提示し、術中やワナに嵌めていく。 人間はみえるもの、認識できうるものしかみることができないのである。 このような立場に立つならば、人間は皆同じ認識でなければならないと考えるだろう。 このような認識のもとに、古代人をいかに考えようとも、意味をなさないことを、神秘学は説く。なぜならば、人間は一人として、同じような認識には立っていないからである。同じような認識に立てるとしたなら、神々のように、全ての物事を知りえる立場でなければ、有り得ない話だろう。一卵性の双子にしたって、そのような認識には差異がみられるだろう。 双子のように、外見的相似性が見い出せても、人間の中身、内側が同じであるとは限らないのである。 実は、人間が認識を超えて、思考することができないというのはウソなのである。本来、人間は、認識を超えることもできるのである。なぜならば、現在のような認識は、これまでの認識の成果により、構築されてきたのだからである。 それこそ、自我認識であるからである。 自我こそが、いままでの認識を超えて、認識を育てあげる、認識の種なのである。 私はこれまで間違っていた。でも、これからはいまとは異なる。なぜならば、これまで知らない世界を体験したからである。それにより、私の自我は、いままでとは異なる。 それこそが、人生の果実といえるべきものだろう。 悪魔は、その自我認識に、誘惑と錯誤を与える。それに打ち勝ち、自我認識を育てるのが、我々の生きるという人生の目的だともいえるだろう。したがって、人生は、死で終わるのではなく、自我認識をいまのままにとどめようとしたときに終わるのである。 しかし、そうしたときに、ルシフェルという悪魔が、アーリマンという悪魔に、人間の肉体を通して、病と死のなかに対面するのである。人間は非常な苦痛を感じる。そのとき、いままで、自我が経験しなかったものを、一気に経験させられるのである。 神秘学では、病と死は、悪魔にとりつかれた警鐘であり、神々の救いなのであるという。 人間は、苦痛を感じないと、改めようとしないからである。ここに聖書の説く、原罪の救いがある。 人間は、悪魔ルシフェル(ロキ)に誘惑され、知恵の実を食べ、利己心に目覚めた。これがルシフェル(ロキ)の人間に宿す第1の子である。人間は利己心から、自由になり、神から独立し、エデンの園から、いわば自ら望んだ形で追放された。知恵の実をとって食べてはならないという、神の言いつけに背き、ウソをついた。ここに、ルシフェルの第2の子を宿す。いのちに、第2の子、不正直さが宿され、人間は、いのちに死を宿すことになる。つまり、生死の存在となったのである。 そして、その人間の不正直さは、アーリマンという悪魔を呼び寄せ、地上で生活する存在となるのである。人間に、昼と夜の生活、目覚めと眠りの二面生活が与えられ、生死の人生を歩む存在となったのである。ここに、ルシフェルの第3の子、ヘルを宿すことになる。生活のなかの病と死である。 神々は、人間がそのような生死の存在を克服するために、不正直さが、昼の目覚めの意識状態のときの、病と死となるような、生みの苦しみを与えたのである。 ヘルを克服するために、利己心からくる不正直さを克服するためのカルマを与えたのである。 ヘルとは一言でいえば、遺伝である。遺伝は利己心からくる不正直さからなる。 「利己的な遺伝子」というタイトルの書籍を書いた生物学者がいたが、それはこのことを上手く表現しているといえるだろう。しかし、神秘学では、根本において、態度が180度異なる。 遺伝は、克服されるべきものなのであり、そもそも遺伝こそが錯誤であり、遺伝が存在しないのが、本来の姿なのであるという根本的態度において、科学とは異なるのである。 遺伝は、悪魔ルシフェルが、人間のこころに、利己心という子を生みつけたことで生じたというのである。 物質世界においては、その遺伝性はアーリマンという悪魔により極大化広大化され、錯誤により展開されるのである。 だから、遺伝は物質的な意味ではなく。霊的意味において、克服されなければならない。なぜなら、それは不正直さ、不真実さから、うまれた姿そのものなのであるからである。 だから、人間は、遺伝という不正直さをもって、それを課題として、この世に生まれてくる。したがって、人間は誰もが、病と死に苦しまねばならない存在なのである。 だから、何も、物質的操作を施す必要もないのである。それでは錯誤から錯誤を生じるだけのことなのだ。ただ、降りかかる人生の困難を、そのまま受け止めて、真正直に誠心誠意で、もって歩めばよいのだ! 間違った道を進むことなく、正しい道、困難に真正面から取り組めばそれでいいのである。 人生は神々が、遺伝を克服するために、与えてくれている道、カリュキュラムなのである。全知全能の神が、与えてくださっているのだから、そっくりそのまま進めばよいのである。 人生の辛酸をなめ尽くして、魂を磨け、そして真正直な人間になれ! なんのことはない、これは古くから日本古来の神道で唱えられていることである。 世の中が歪んでくると、本来、真面目なものが歪んで捉えられるのである。 政治をみればわかるだろう。神々はさぞお嘆きであろう。日本民族の神々は、日本人の精神にかかっているのだが、もはや、これまでだろう。日本人の精神から、日本の自然が生まれ、日本の美やワビサビが生じ、そこに神々が宿り生きるのである。 アスファルトで覆われた都会だけの日本に、日本の民族神が宿るとでも思うか? 宿るとしたら悪魔だろう。堕落した天使たちである。人間は獣のように快楽の奴隷とされる。 愛国心の前に、日本文化とは何か? 日本人が最も美徳としたこと。それは正直さであり、誠心誠意であるだろう。 詐欺や不正で、金を稼ぎ贅沢な生活をし、同じ民族でありながら、貧困には目を向けない人間のどこが、立派な日本人なのだろうか? 私が民族の神々ならば、このような民族は滅んでしまっても仕方がないと思うだろう。かえって他民族に迷惑をかけるだろう。つまり、切腹もんであるだろう。 日本の民族霊が、自ら命を捧げる前に、我々人間が不正を正し、利己心を埋没させなければならない。 悪魔を追い払え! 人生の試練に耐え、深く苦しめ! お釈迦さまは、この世の全ての苦と病を耐えたからこそ、覚者となりえた。 キリストは、当時の人類ほとんど全てから敵対視され、磔にされ、それでもその運命を成就させた。 人生を深く味わうということは、深く悲しみ苦しむことなのである。だからといって苦行にあるのではないだろう。ただ、それぞれの人生にそのままあるのである。それを真っ直ぐに進むのである。 犀の角のようにただ独りで歩め 北欧神話の悪魔の話を、次回にも、詳細に続けようと思う。
2006年04月19日
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広告代理店くらい節操の無い連中はみたことがない。いまや政治家をお得意先にしているらしく。政事に、芸能を持つ込むことなんぞ、考えられないくらい堕落しているといわざるをえない。亡国総理が、まるで芸能人気取りで、TVに出るなんぞ、下品そのもので、吐き気がする。 もうこんな国滅んでしまえ! 民族も何もあったもんじゃない! 怒りがこみあげてきて仕方がない!! 何が愛国心だ!! 利己主義や、自己保身で塗り固めた嘘ツキ、詐欺師でしかない! こんな国、はっきりいって吐き気がする。 ニートの連中を支持したい。こんな国滅んでしまえ! 全く、こんなに程度の低い政治家はいまだかってみたことがない。 ヒットラーといい勝負だ! 広告代理店の連中にいいたい!お前らは金が貰えればそれでいいのか! 地獄に堕ちろ!もうすでに堕ちているか!! 世も末になると、感覚が麻痺してくるらしい! この国には、無節操な連中ばかしで、嫌になる。 はっきりいって愛国心よりも嫌悪国心がもたげてきた!! こんな政治家の国に、誰が尽くすか!アホらしい!税金返せよ!! 国会に出るよりも、TVに出る方が大事な馬鹿政治家ばかしだ! 目立つことしか、選挙で勝つことしか頭に無いボンクラ連中、一体、こいつら何者なんだ? そういえば、ある番組で、イラクの場所も地図で間違えた某自民党政治家、あんたらの頭の中身は、一体、どうなっているんだ!国のことよりも、自分のことで頭一杯なんだろうね? サラリーマンは税金不払い運動でもはじめた方がいい! どうせこの国は滅んでしまうのだからね。相変わらず国民は能天気だし! 切り捨てられても、怒りすら起さない。感情を失った蝋人形のようだ! バイバイ、ニッポン!さようなら、ニッポン!!
2006年04月17日
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神秘学によると、古代インド人と、古代ペルシャ人では、自我の認識が異なったという。古代インド人の自我認識は、いわば、主観的な自我認識であり、古代ペルシャ人の自我認識は、客観的な自我認識であったという。 認識というのは、対象がいてはじめて可能であるが、自我認識というのは、自我そのものが認識であり、つまり、認識主体そのものが、認識対象をも兼ねるので、通常いわれる、対象を認識する認識とは、異なるといえる。 神秘学でいう、主観的な自我認識というのは、自我そのものが、そのものとして認識すること。なんらかの自我というものを、外的に対象として捉えるのではなく、例えば、「自分」という言葉でわかるように、内的な自我を感じることを、意味するようである。東洋哲学でいう、内観に近い。 これに対し、客観的な自我認識というのは、自我を、自我でないものから区別し、自我であるものを自覚することで、なんらかの自我というものを、外的対象として捉え、それに親和性を感じるようなものであるという。いわば、外的な自我を感じることを、意味するようである。ギリシア哲学でいう人間性、人格性、ヘレニズム文化というものに近い。 古代インド人の主観的自我認識が、東洋の哲学をもたらし、古代ペルシャ人の客観的自我認識が、西洋の哲学に影響しているといえる。東洋哲学が、その認識において、非個人的で、没我から無我に転じるのを課題とし、西洋哲学が、その認識において、個人的で、人間生活のなかに求める傾向にあるのは、ここからくるのだという。 古代インド人は、周囲の世界である、物質世界をマーヤー(幻想)だと認識していたので、主観的自我認識に専念でき、ブラフマン(梵)のなかに上昇し、自分のなかにアートマン(我)を見出し、非個人性が最高の要求で、しばしば、無我が問われるのに対し、古代ペルシャ人は、物質世界を、光の善き神と、闇の悪しき悪魔に分けて、光の善き神へと、自我を帰依させようとする傾向にあり、物質界を、これら善き神の光の霊的なものから、改めよう(霊化する)とすること、いわば客観的自我認識に専念したという。 なので、古代ペルシャの影響を受けた北欧の神話には、客観的自我認識の担い手であるべき、神々(大天使や天使)の存在が、現れているという。北欧の神話には、古代ペルシャ人が語った、光の神々に敵対する、闇の悪魔の存在が語られているという。 神秘学では、悪魔には2種いることがいわれている。ルシフェルとアーリマンであり、聖書的にいうなら、デーモンとサタンである。ルシフェルという悪魔は、人間の内面に巣食い、いわゆるアストラル体(こころ)に、欲望、衝動、情念の、いわゆる思想の悪しき面、意志の悪しき面、感情の悪しき面を、呼び起こし、人間の内面を攻撃する存在であるという。 ルシフェルという悪魔に対して、アーリマンという悪魔は人間の外界認識を、濁らせる誤った物質的認識、唯物的認識を与えるものだという。古代インド人は、内面の悪魔であるルシフェルを知り、それと戦うデーヴァを探求したのだという。古代インド人は、外界を幻として、避け、内面の戦いを目指し、内面に沈潜することを通して、高次の領域に至ることを目指したという。 それとは逆に、古代ペルシャ人は、内面に向かわずに、外面にあるアーリマンを知り、光の霊とともに、闇の悪魔アーリマンとの戦いを目指したという。ゾロアスターは、太陽神霊、光の神霊をペルシャの人々に認識させ、光の神霊とならんで闇の霊が、この世界に混ざり込んでいて、人間の外界認識が濁らされていることを、示唆したという。闇の霊アーリマンに打ち勝ち、光の神霊に結びつくことが、古代ペルシャ人の課題だったという。 では、これら悪魔の影響を受けると、人間はどうなるか?というのが、神秘学では語られている。 ルシフェルという悪魔の影響に曝されると、ルシフェルは、人間のアストラル体(こころ)に入り込み、アストラル体(いのち)のみでなく、エーテル体(からだ)にも、物質体(肉体)にも働きかけるという。 ルシフェルは、アストラル体に利己心を生じさせ、エーテル体には、虚偽と不正直さを生じさせ、物質体(肉体)には、病気と死を生じさせるという。 北欧の神話には、このことが以下のように語られているという。 北欧神話のロキとは、ルシフェルのことで、「ロキは3つの子を持っている」とは、利己心と、不正直さと、病気と死の3つの子のことを指すのだという。 つまり、ルシフェルという悪魔は、人間のこころに、利己心を生み、人間のいのちに、不正直さを生み、人間の肉体に、病や死を生むということだという。 これらロキ(ルシフェル)の3つの子を、北欧の神話は、それぞれ、利己心をミズガルズの大蛇、不正直さをフェンリル狼、病と死をヘルというイメージで、あらわしているが、それは、北欧の秘儀参入者が、実際に、霊能力で、直接みたそのものを現しているのだという。 北欧の神話では、日食は、狼が追いかけ、太陽に追いついたときに、起こるイメージを、実際、霊能力からみたのだという。そして、ロキ(ルシフェル)の影響の結果として、アーリマンの影響が生じたことを、北欧の人々は、知っていたのだという。 それらの叡智は、秘儀参入者がみたことから伝承し、語られた神話からきたのだという。神話は、北欧の人々が、古代ペルシャ人の客観的自我認識を引き継ぎ、人間に、自我をもたらしたのが、大天使や、天使の神々だと考えたことから生まれたからだという。 古代インド人が、自らの内の自我を求め、神話を語ったように、古代ペルシャ人は、自らの外に自我を求め、神話を語ったのだという。 ルシフェルであり、デーモンである、ロキは、人間を、サタンであるアーリマンへと駆り立てたという。それらのことが、北欧の神話、ケルト人のドルイド神話のなかに秘められているという。 人間は、ルシフェル(ロキ)により、霊的世界より、誘惑され、おとされ、霊力を失い、アーリマンが支配する物質(幻想)世界の住人となった。これが聖書の記述する、原罪の意味でもある。 人間は、ルシフェルにより唆され、知恵の実を食べ、善悪を知る自由な身となった。善悪を行える世界が物質世界であり、それはアーリマンの支配する世界である。アーリマンは、ルシフェルが生み出す、利己心、不正直さ(虚偽と錯誤)、病や死から、それに呼応し、物質世界の闇を現出して見せるのである。 人間は、生と死の狭間に、魂を捉えられ、物質世界で生きる存在となったのである。 人間は、悪魔がそうだったように、宇宙の進化から逸脱させられているのである。悪魔を超えて、再び、宇宙の進化へと歩みをもたらすことができるかが、今地球に住む課題なのである。物質世界のなかから、霊的世界へと再び、かえることができるか?それが問題である。 生きるべきか、死ぬべきか、それが問題である。 物質的に生き、霊的に死ねば、進化から取り残され、悪の人種となるだろう。 しかし、霊的に生き、物質的に死ねば、再び、進化へと戻ることができる、善き人種となるだろう。 人間にとって、生きるべきか、死ぬべきか、それが問題なのである。 それを解決できるのは、人間の魂に芽生えた(神々の)自我でしかないだろう。 長くなったので、北欧神話のロキの死の力の話は次回に譲りたい。
2006年04月17日
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人生を振り返ってみると、若いときは、理想を追い求めるあまりに、自分のことしか頭になかったといえるだろう。自分だけよければ、他人のことなんかどうでもいい。はっきりいえば、自分が常に正しいという単なる自惚れ屋にすぎなかった。そして、極端にいえば、自分だけが、人間で、他者は、その道具だと思っていた節もあったといえる。 理想のなかに強さがあり、強ささえあれば、何でも叶うような錯覚に陥っていたといえるだろう。しかし、理想は、未熟な若さから来る単なる思い込みにすぎないことが、歳を取るにつれ、苦い経験を味わうことで、わかるようになった。 そして、それは自分の弱さからくるものであり、自信がないあまり、自分を常に正当化するための、単なる強がり、見せ掛けにすぎないこともわかってきた。 人間は、自分の言う事がある程度通用すると、思い上がる傾向にある。それは、ホリエモンや、巷をにぎわせる占い師をみれば、わかるだろう。 ホリエモンはその典型であり、単なる虚勢を張るやくざと変わりがない。弱い自分を常に正当化するために、大きく見せる必要があるために、宣伝活動をしているにすぎなかった。 人間は皆人間という点で、本来、平等なのである。 全ては人間ということで平等なのである。 他をモノ扱いすることなど、単なる思いあがった傲慢にすぎない。 必ず、その、報いを受ける人生になるだろう。 私は、若いときに、このような未熟な利益主義の間違いに陥っていたことを、深く反省し、その機会を与えてくれた神に深く感謝したい。 この世は虚偽と錯誤に満ち溢れている。だからこそ、日々の考えは正されていかねばならないのだろう。 かって、古代インド人は、この世の全てはマーヤー(幻想)から成っていると自覚していた。 マーヤーを信じてはならない。マーヤーを糧として真実を見い出すべきなのだ! 断じて、他をモノ扱いしてはならない。皆、人間なのだから。 人間にはこころがある。いかに科学者がその存在を否定しようが、あるものはあるのだ! 科学という実証主義、科学をした人間が、科学をしない人間よりも優れていることなど、ありえることだろうか? たとえ百歩譲って、真実を知っている人間だとしても、その人間が、真実を知らない人間を、モノ扱いしてよいということは、断じて正当化されないだろう。 それが正当化されるとしたら、そこに愛が存在するかどうかであろう。 いま、人間を人間として、愛情のこもった人間関係を構築すること、至極当たり前のことが求められている。 人間は皆平等なのだ! 損益や、経済的理由で差別することなど、宇宙では赦されない行為なのであろう。 人間はあまりにも科学的になりすぎ、あまりにも物質的に贅沢になりすぎ、人間という大事な存在を、忘れてしまっているような気がしてならない。 科学がそれほど進んでいるというならば、未開民族の暮らしと、都市生活とどっちが幸せなのか、自ずとその答えは明らかだろう。実際は、都市生活者の方が、便利な生活に慣れすぎて、それに依存しすぎて、独立体という意味で、病んでいることは明らかだろう。 自分の理想のなかに、私利私欲がないか充分に吟味する必要がある。非常な苦難を味わってみて、はじめて理想が見い出される。理想を言葉なんかで表すことなどできない。 その人の人生こそ理想であり、死んだときにはじめてわかるものといえるだろう。 我々は皆、平等な人間なのである。人間は皆、平等に死ぬ存在なのである。 最大の喜劇であり悲劇なのは、人間は皆自分が死ぬ存在であることを、日々生活するなかで、忘れていることである。人生には終わりがあり、それが死であるという単純なことを忘れてしまっている。 科学者がいかに立派な仮説を実証しようと、その科学者は、死ぬ存在なのだ! 立派な仮説が生き残ったとしても、実証主義で、それを証明した科学者は死によって、宇宙から消えてしまう存在には変わりがない。 天才アインシュタインも、お馬鹿ブッシュも、宇宙から消えてしまう死ぬ存在という実証主義の意味で平等である。 それにしても、昔の人はよくいったものである。器量という言葉は、それを的確に表現しているように思える。自分しか考えられない人間は、小さい器量で、小人。要するに我儘利己主義人間で、社会的に信用するに足らない人間だ!結婚して、家族としてやっていける者で、ようやく、一人前。そして、大きな組織で、他の世話もしっかりとできて、それなりの地位に就ける。国家を背負うなぞは、大人物にして初めて可能な大人である。 しかし、昨今の政治をみたら、独身が総理大臣で、全く我儘勝手に自己宣伝に埋没している有様。これで、国家が滅亡しないのが不思議といえるだろう。よほど日本民族を支えている神々(霊)の恩恵が篤いのだろう。しかし、それももはや危ういように思える。 あんな総理大臣にして、人口や人心が荒み、若者に夢がないことがその証であろう。悪いが、日本民族はどうみても滅ぶことは確かだと思われる。いや、もう既に滅んで死んでいるのだが、それに気がついていないだけだ!だって英語は巷に溢れているし、アメリカの退廃文化や、物質主義、セレブなどという人種差別主義が生じていることがその証であろう。 遊んでいるにすぎない利己主義のスポーツ選手を褒めちぎる文化のどこが素晴らしいといえるだろうか?いかにスポーツが進歩しようと、所詮、パフォーマンスの目立とう精神であり、人命を救うことや自己犠牲の精神を生じることはできない。それは単なる利益誘導でしかないからである。 一時の感動を与えようとも、所詮、数字勘定でしかない。目立つか目立たないかでしかない。目立たなくても、重要な仕事こそが、本当に大切なものなのである。目立てばそれだけで、充分恩恵にありつけているのである。贅沢な暮らしができれば、それだけで、単なる傲慢を生んでいるにすぎない。 とどのつまり、ただ、楽がしたいにすぎない。快楽主義とどこが異なるのか? 人生において、自分がどれだけ、他の犠牲になっているか、愛を与えているかが、真の意味であろう。わざわざ、苦行主義を肯定するでもないが、あのお釈迦さまだって一度は苦行を行ったからこそ、悟れたのである。苦行を通らずして、悟ることもないだろうし、苦行のみでもダメなのである。 苦あれば楽在り、そういうことなのであろう。
2006年04月14日
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5大人種の木星人種(ヨーロッパ人種)まで、まとめて書いたところで、少し脱線してしまったので、続けることにする。 金星人の呼吸から精神に至る道に対し、木星人は、感覚を通して精神に至る道の課題を背負ったという。 ヨーロッパからアメリカにいくと、土星の力が強くなり、土星に中心点を有する形態霊は、腺組織に働きかけるという。土星人種に働きかけるものは、人類のたそがれへと導くという。土星の影響は、腺組織に働きかけ、腺組織は、一種の骨化を働きかけるという。 土星人であるインディアンは、アトランティス文化のなかの偉大なもの全てを、西にもたらしたという。 それはインディアンの語った言葉に残っているという。 「われらの土地を征服した者が歩く土の下に、われらの兄弟たちが葬られている。なぜ、われらを征服した者たちの足が、われらの兄弟たちの墓の上を歩むことができるのか。白人を偉大にしたものが、われらの兄弟の墓を所有しているからだ。べつのものが、茶色の男を偉大にする。偉大な霊が茶色の男を偉大にする。偉大な霊は、吹く風、森のざわめき、波立つ水、湧き出る泉、稲妻と雷のなかで、茶色の男に語りかける。それが、われらの真理を語る霊である。偉大な霊は真理を語る。おまえたちの紙の上の霊たち、おまえたちにとって偉大なことを表現する霊たちは真理を語らない」 このようにインディアンの酋長は語ったという。 茶色の男は偉大な霊に属し、青白い男は、黒い小人のような姿で、紙の上を飛び回る霊たち(文字)に属しているという。その霊たち(文字)は真理を語らないというのである。 文字は殺し、霊は生かす。 ここにも、以上の格言が見い出される。 アメリカという土星の力が強い地域で、これらアトランティスの遺産を受け継いだ土星人種と、ポストアトランティスの感覚から精神文化に至る道の途上にある、偽の文字化した物質文明が出会い、人種は、黄昏へと崩壊する。 アメリカは人種の終着駅なのである。文字化により、霊性を失う運命にあるという。 インディアンは、アトランティスの霊性を保管したまま滅んでいったという。 遥か太古のアトランティスの霊性を保管していたインディアンは、直接に霊をみていたので、霊性の終末であり、霊が文字化し、もはや霊の微塵も感じさせない文字を、理解できなかったのである。 それはオリジナルが、なんどもコピー(模写)をえて、オリジナルの感性を失ったモノと化すことを、オリジナルが理解できないのと同じ現象なのである。 直接に見聞できるものは、間接的なモノを理解できないのと同じである。 それは、例えば、日本のテンプラが、発祥のスペインで理解されないように、また、ベルギーワッフルが、アメリカとその発祥国で異なるようなものだろう。間接的に伝播するうちに、その本質が変わってしまうからである。 モノ化(文字化)してしまった後では、作品の製作者の意図とは全く異なったものになってしまう。ここに遺伝の錯誤性が見い出されるであろう。遺伝から生まれたという人種の違いも、錯誤そのものなのである。 神秘学では、遺伝は悪魔の成せる業であり、遺伝は真実を語る口なぞは、持ち合わせていないといわれている。遺伝は実際、錯誤に満ちている。インディアンは、アトランティス時代のその真実性を語っただけにすぎない。ここから、インディアンは嘘をつかないというイワレが生まれたように思えてならない。 現代の人種問題などは、アトランティスの5大人種に比べれば、人種問題なのではなく、文字に囚われた文化の問題であり、錯誤の問題なのだといえるだろう。 錯誤をいくら語ろうとしても、真実には行き着かないからである。 インディアンは、言葉を文字化しないだろう。言葉はそのときその場所でのみ意味をもつからである。言葉はその事象に属する。文字化すればそれは嘘をつくことになるだろう。言葉は文字になれば死に行くものである。
2006年04月14日
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私の好きな動物は、馬とイルカである。いきなし小学生っぽい書き出しだが…。 イルカ(歌手ではない)をみると、何故だか癒される。 杏里のDVDをみていたら、イルカの目があまりに落ち着いた眼差しなのに驚いた。 イルカの目はなぜだか、何処か覚っているようでもある。 イルカが海を泳ぐ姿、海を飛び跳ねる姿、何故だかどこか美しい。 イルカは人のこころを見透かしているようにみえる。 イルカは人間の癒しの動物に違いない。 海の美の象徴がイルカだとすると、陸の美の象徴が馬だと思う。 馬の走る姿を見ていると、惚れ惚れとする。私が競馬が好きな理由の1つでもある。 馬の目は、どこか素直で忠実な眼差しを感じさせる。 馬が一生懸命に走る姿は、このうえなく美しい。 馬が走るとなぜだか、胸がワクワクする(馬券に限らず)。 神秘学では、馬は、人間の叡智の象徴でもあるという。 馬が走る姿は、どこか、人間に知性を感じさせる。 馬は、人間に知性を感じさせる生き物であろう。 イルカをみて、安らぎを感じ、馬をみて、知性を感じる この世に、イルカと馬があることを、地球に感謝しなければならない。
2006年04月12日
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あまりに見馴れ、飼い馴らされてしまった人間は、いつのまにか、この美しい地球の存在を忘れてしまう。絵描きが、絵を描くことを忘れ、お決まりの絵の鑑賞や評論を始めるように。 この地球には、天文学的数字もの生物が同時に暮らし、生きている。 人間は一体、この美しい地球をどう変え、描きたいのだろう。 美しい地球を変え、描くことよりも、自らが、美しい地球に生きるこの生命を感じ、変わることが必要なのではないか?自らが、地球のキャンバスとなるべきなのではないか? もし、自分のなかに恐怖心が芽生え、悪き心が起こったならば、以下の呪文を唱えよう。 私はできる。私にできないことはない。なぜならば地球は美しく、愛に満ち溢れている星なのだから。地球には私の美しい全てが宿る。私の独りよがりな全ての思い込みを棄て、この美しい地球に身を委ねよう。地球と共に呼吸をしよう! 地球を信じよう。地球で生きるこのひとときを信じて、それに身を委ねよう。 地球が与えてくれる、この人生を満喫し感謝しよう! 地球は、神々が描く絵画である。その絵の具のなかに人間がある。 美しい地球、その美しさをどれだけ満喫できるかは、その人の心の問題である。 地球この美しい水の惑星を!
2006年04月12日
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前回、正常な形態霊たちと、進化から逸脱した形態霊たちの共同により、さまざまな人種が、レムリア時代から、アトランティス時代にわたり、生じたことを、まとめた。今回は、それをより詳しく簡単にまとめたい。 アフリカに、人間の物質的進化(肉体)の出発点があるということは以前に述べた。 正常な形態霊たちと、水星に集まる進化から逸脱した形態霊たちが、共同することにより、黒人種(エチオピア人種)が、発生したという。なので、黒人種は、水星人種だという。 やがて、人類拡散の中心点がなす線を辿っていくと、アジアに向かい、金星人種(マレー人種)が、見い出せるという。そして、広大なアジア領域を通過していくと、モンゴル人種、火星人種が、見い出されるという。 ついで、ヨーロッパ人で、もともとの性格に、木星人種が、見い出されるという。海を渡って、アメリカにいくと、そこは人種あるいは文化が死ぬ場所となるという。そこには、暗い土星の人種、インディアン人種、アメリカ人種が見い出されるという。 つまり、まとめると、 1.アフリカ人種-水星人種 2.アジア人種(マレー人種)-金星人種 3.アジア人種(モンゴル人種)-火星人種 4.ヨーロッパ人種-木星人種 5.アメリカ人種(インディアン人種)-土星人種 となるという。 これらの5大人種は、アトランティス時代のある進化の時点のみにあてはまることで、それらは、それぞれ、秘儀神託所から、指導されたことであるという。 例えば、アフリカを通っていくと、エチオピア人種において、結晶化した民族の流れのなかに、水星神託所から与えられた衝動があり、そこには、正常な形態霊と、進化から逸脱した形態霊が、共同して、様々な力を働きかけ、占星術的に、地上に均衡点が、アフリカに見い出されたという。他の4つの人種も、このように、神託所から、神々の与えられた地上での均衡作用、いわゆる衝動があり、指導がなされたという。 このように、天界の活動の模造が、地球に反射され、人間を規定することにより、地上の人種の種となったという。 それらの秘儀神託所は、それぞれ、水星神託所、金星神託所、火星神託所、木星神託所、土星神託所とよばれ、他に、正常な形態霊からの作用の太陽神託所と、地上、自然に関わるウルカヌス神託所の、計7つの神託所が、アトランティス時代に存在したという。 そのうちウルカヌス神託所が、誤った自然力支配を用いたために、アトランティスの大破局(大洪水)を招いたといわれている。その際に、太陽神託所から、正常な形態霊であるエロヒムとヤハウエから、啓示をうけ、ノア(マヌ)は、次のわれわれの時代であるポストアトランティス時代の文化をつくるために、7人の弟子を引き連れて、大洪水の難を逃れ、古代インドに潜伏したという。その7人の弟子が、インドの7人の聖仙となり、伝説となり、ヴェーダや、バガバッドギーターにその名残りがみられるようになったという。 話が逸れてしまったが、再び5大人種の話に戻ると、水星は、人体の腺組織に介入し、水星の力が、腺組織のなかで沸き立つので、もともと、一様な人間の形姿を、黒人種の黒い肌、縮れた毛などを生じるものにするという。 太陽の一様な人間の形姿を、黒人種にするのは、水星の力だという。アフリカからアジアにいくと、金星の力が強まり、アストラル体の模像である神経組織に作用するが、金星は、直接作用するのではなく、間接的な回り道をして作用するという。その間接的な回り道は呼吸のことであり、呼吸から神経組織へと作用することにより、南アジアからマレー諸島に向かう、黄色人種のマレー人種を生んだという。 アジアの上部の広大なモンゴル平原にいくと、火星の力が強くなるという、火星は血液への作用であるという。火星は、正常に進化した形態霊である月神エロヒムに対抗して、進化から逸脱した形態霊たちが住むところであり、そこから血液のなかに対抗心、闘争心のようなものを生んだという。それがモンゴル人種を生じさせたという。火星は、宇宙戦争という映画でもわかるように、戦争、闘争の星といわれるのは、ここから派生しているといえよう(また、モンゴル人は古くは戦闘に強い民族でもあったようだ)。 このモンゴル人とは対照的に、火星の進化から逸脱した形態霊と、月神ヤハウエ形態霊が共同して、モンゴル人の対抗心ではなくて、いわば和解心のような形で生じたのが、セム民族だという。だから、セム民族は、血縁関係から、アブラハムを通して、ヤハウエ神へとつながるものを求める民族であるという。 モンゴル人種とセム民族は、対極をなすという。 そしてアジアからヨーロッパへいくと、木星の力が強くなるという。木星の力は、神経組織に作用するのに、感覚器官を通して行うという。これとは対照的な金星の力は、呼吸組織から太陽神経叢に行き作用したが、木星の力は、感覚器官を通して、脳や脊髄に集中している神経組織の部分に流れ込むという。 アーリア民族、中近東民族、ヨーロッパ民族、カフカス人等は、木星の進化から逸脱した形態霊の影響を受けた為に生じたという。例えば、ギリシア人は、木星(ユピテル)-ゼウスの影響下にあることで自覚していたという。 長くなったので次回に譲りたい。
2006年04月11日
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前回は、地球紀の進化のアトランティス時代までの概略をまとめた。人間という自我をもった存在は、物質的に、レムリア時代の中期に、比較的火山活動の少ない大陸で発生し、よい意志をもった人間のみが、火山活動を鎮めることができ、悪い意志をもった人間は、その破壊衝動のために、自らレムリア大陸の火山活動を盛んにし、滅んでいったという。 そして、よい意志を受け継いだ人類のみが、アトランティス時代に、記憶力を発展させることができ、記憶からくる、よい感情を発展させることができ、悪い感情をもつ人類は、大洪水(大破局)により滅び、よい感情が、よい思考力の素になり、我々のポストアトランティス時代になって、思考力を発展させる段階にあるという。 それら、地球紀の、レムリア-アトランティス-ポストアトランティス時代の進化は、地球紀の前の、土星紀の意志、太陽紀の感情、月紀の思考といった、人間の魂に与えられた力の発展の繰り返しだという。 土星紀に、人間は、熱からなる肉体の原基を与えられ、魂をもってして、それを開発するための能力である、いわば、意志の能力の萌芽を与えられ、太陽紀に、人間は、気体からなるエーテル体の原基を与えられ、魂をもってして、それを開発するための能力である、いわば、感情の能力の萌芽を与えられ、月紀に、人間は、液体からなるアストラル体の原基を与えられ、魂をもってして、それを開発するための能力である、いわば、思考の能力の萌芽を与えられたという。 そして、地球紀の、人間の課題は、これら意志と感情と思考を、統合し調和させるための、愛を見い出すことであるという。神秘学では、これらを、正三角形で表し、その中心に、自我を置いて、いわば、意志、感情、思考からなる3辺の正三角形と、その中心点の自我で、その愛の象徴として、表しているという。 恐らく、ピラミッドの中心点にある、叡智の目のような図は、これの発展形だと思われる。 意志、感情、思考を、愛の自我によって、完全な秩序、調和をもたらせということなのであろう。だから、その中心にある自我は、愛の源であり、自由であり、叡智の目として、表わすことができるのだろう。フリーメーソンという友愛の秘密結社団体に、この図はよくみられるものである。フリーメーソンは、自由な石工と呼ばれ、現在は、堕落してしまったようだが、元々は、石工という意味からわかるように、中世の錬金術師の団体で、賢者の石の完成を目指した、いわば秘儀参入者団体のことだと思われる。薔薇十字会とも、関連が見られるようだ。 ともかくも、我々の地球紀の進化目的は、友愛活動にあることは、少なくとも真実であろう。 友愛というのは、民族や文化を超えて、統合調和をもたらすことであり、ヨハネの黙示録でいうところの、善き人類になることであるようである。それは、フィラデルフィア(友愛)の教区と命名されていることでもわかるだろう。だからといって、堕落したフリーメーソンに入会しろというのでは絶対にない。入会という行為自体が、唯物的で、不自由であるからだ。 現代のような物質的世界に埋没した状態では、まず一人一人の独立と、自立性に、言及し、霊性を深めることからはじめなければならないだろう。何かに依存するのではなく、自らを自らで助けるような土台が必要なのである。 話を元に戻すと、我々の時代に必要なことは、民族や人種を超えることであることに気がつくだろう。神秘学では、人種や民族は、アトランティス時代の、名残りであるという。本来、人種は、神々の想定外のものであったという。正統に進化した7柱の神々である形態霊の当初の目的、想定通りに進めば、人類はただ1つの善き人類のみのものになったという。 しかし、形態霊の上位の運動霊が、宇宙に正統な進化から反するように、上位の霊たちにより命令され、運動霊のうちある部分が、形態霊の領域にどどまり、その運動霊は、形態霊として、5つの惑星である、水星、金星、火星、木星、土星に、とどまったために、太陽にいた7柱の正統に進化した形態霊のうちの、1柱が、その5つの進化からとどまった形態霊たちとの、秩序の均衡を保つために、太陽から、月にとどまったという。その月にとどまった1柱の形態霊が、ヤハウエ(エホバ)神だという。そして、太陽にいる6柱の神々が、エロヒム神だという。 太陽神エロヒムは、多神信仰の原点であり、月神ヤハウエ(エホバ)は、一神信仰の原点であるという。どちらが正しくてどちらが間違っているのではなく、多神と一神があって、はじめて、その両方が、成立しているのだという。ただただ、秩序と混沌、そして調和と均衡、そして存在があるのみである。 アトランティス期に、民族は、上記の5つの進化から逸脱した形態霊と、正統に進化した形態霊である、エロヒム神とヤハウエ神の調和、共同作業により生まれたという。 人間という存在は、早すぎる進化を担う早熟性の太陽のエロヒム神と、緩過ぎる進化を担う硬化性の月のヤハウエ神の共同作業により、地球上で、適度な進化を赦されるものとなり、生じたという。だから、人間の魂は、何度となく輪廻転生をしながら進化し、やがて、徐々に神々の魂の能力を獲得していく機会が、地球上で与えられたという。 更に、人種は、これら正統なエロヒム神とヤハウエ神と、5つの進化から遅れた形態霊との、いわば共同作業により、その均衡点として、地球上に、水星人(エチオピア人種)、金星人(マレー人種)、火星人(モンゴル人種、セム民族)、木星人(アーリア民族、中近東民族、ヨーロッパ民族、カフカス人、ギリシア人)、土星人(インディアン)の5つの人種の素として、アトランティス時代に、誕生させられたという。 現在のポストアトランティス時代では、それらの名残りでしかないという。なので、もはや、民族は、当時の人種というべき違いももたない、もはや、非常に似通ったほとんど1つの人種であるという。代わりに、民族というべきものよりも、民族からなる文化の方が、代表すべき違いのその指標であるという。 アトランティス時代では、人種を語ることに意味があったが、ポストアトランティス時代の、現在では、文化を語る方が、よほど魂の進化の指標となるという。とどのつまり、文化のなかに、友愛がどれぐらいあるのかということなのだろう? これが、我々の時代に、7つの文化を、黙示録が、7つの手紙として語る意味なのでもある。 文字を殺し、霊を生かせ 我々の文化を殺し、文化を体験した霊(友愛)を生かせ。
2006年04月10日
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前回は、太陽と月が、地球から分離することによって、人間が、地球紀において、適切な進化、何万回もの輪廻転生を通して魂を発展させることが、できるようになったことを、まとめた。もし、太陽が分離しなければ、人間は1回の転生、人生のみを通して、進化せねばならない過酷なものになったというし、もし月が分離しなければ、人間はミイラのように硬化した死滅した魂の存在にならざるをえなかったという。 地球紀の、太陽と月が、地球から分離した、しばらくしたあとに、下等動物の姿が、物質的に硬化し現れたという。人間はまだ霊的な存在で、上空を漂っていたという。人間は、地球の周囲から精妙な物質を受け取っていたが、次第に硬化しはじめ、すでに固定し、いくつかの島ができていた地上に下っていくことができたという。 最初の人間は、比較的遅く出現し、今日の人間とは全く異なったグロテスクな記述不可能なものであったという。あえて記述するなら、人体のなかでの諸器官の間の、注目すべき関係が感じられるような、たとえば、盲腸と気管が、かっての形態では、癒着したかのようなものであるという。今日別々になっている諸器官は、かっては癒着し、その関係はいまでも、病気になったときに、現れるという。ある器官が病気になると、他の器官も病気になるということは、かってその2つの器官が癒着していた証だという。 はじめの人間には、骨はなく、骨はまだ、網状に人体に浸透している軟骨のようなものだったという。その軟骨のようなものは、柔軟な実質からでき、柔軟な実質は、液体状のものから成り、液体状のものは気体状のものから成り、気体状のものは、エーテル状のものから成り、エーテル状のものは、アストラル状のものから成り、アストラル状のものは、霊的な実質から濃縮し、結局は、霊的なものから発生したのだという。 アトランティス時代になって、骨組織が形成されたという。 レムリア時代の中期になって、人間は、上記のように、受肉したという。その人間が地上に下ってきたころ、人間の意志の力は、魔術的に作用したという。当時の人間は、意志によって、花の成長に働きかけることができ、意志を集中させると、花を早く成長させることができ、当時の自然は、人間の意志に依存していたという。 よい意志をもっていれば、意志は、水、嵐、周囲を支配していた火を鎮めるように働き、悪い意志によって、破壊的に働き、当時の地球の大部分は火山のような性質だったので、レムリア大陸全体が打ち砕かれることも、可能だったという。 周囲の世界と人間の意志は一致し、当時の人間が住んでいた陸地の主な部分は、人間の悪しき意志によって崩壊し、一部の人間が助かり、次の時代へと移っていったという。ここでも、人類の進化と魂の進化を区別しなければいけない。悪しき意志の人類が滅んでも、魂は、それを乗り越え、よき意志を持ち生き残った人類に、転生しえるのである。ただし、魂が古い身体に執着することなく、魂の進化がなされていなければならないが…。 悪しき意志によるレムリア大陸の大災害の後に、アトランティス時代に至ったという。アトランティス時代は、現代の大西洋上にあった大陸で進化を遂げていったという。 アトランティス時代の人類は、太古の霊視力を有し、とくに、エーテル体と肉体は、まだそれほど強固に結びついていなかったのだが、アトランティス時代の、3分の2を過ぎたころから、肉体の外にそびえていたエーテル体が、肉体の方へ、収縮してきて、今日の人間の頭の形をとるようになったという。 アトランティス時代の空気は、今日のように澄んだものではなく、霧と水に浸透され、当時の文化が最も最高度なときには、空気中の霧が最も深かったという。酷い霧に包まれていたが、その深い霧から、後の文化の基盤が発展していき、霧が文化として消えていくとともに、空気は澄んだものになっていったという。 レムリア人間のなかの善き意志が、火山活動を鎮め、そこから、新たなる生き残った大陸が生まれ、アトランティス時代を形成し、アトランティス人間に引き継がれた、善き意志の中から、霧が深まりつつ、頂点に達し、そして、文化となって形成していくにつれ、空気も澄んだものになっていったといえる。つまり、人間の心、魂の状態から、人間の住む大地を形成していったということになる。 アトランティス時代の空気は、霧が深いために、虹が現れることはなかったという。空気中の霧(水)が、圧縮され、空気が次第に、澄んだものに成っていくにつれ、水が地に落ちるように氾濫したものになり、アトランティス時代の最後に、大洪水として、地上を覆った後、虹がはじめて、物質的に発生したのだという。 アトランティス時代の大破局(大洪水)のあと、ノアがはじめて、虹をみたという。なぜなら、アトランティス時代には、虹は存在せずに、大洪水という、空気中からの水の分離により、はじめて人類が、虹を見ることができたからであるという。 聖書にこのことが、ノアが大洪水のあとに、はじめて虹をみたと書かれているという。 「文字は殺し、霊は生かす」という格言は、ここにも現れているという。
2006年04月08日
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地球紀が、マンヴァンタラと呼ばれる、地球の前の転生期である、月紀から、プララヤと呼ばれる、その後の中間期を経て、現れたことは、前回述べた。 宇宙の進化において、我々人間の進化の速度にとっては、早い速度を必要とする存在がいて、太陽霊と呼ばれるそれらの存在が、地球紀のはじめに、月と地球と太陽の混じり合った惑星状態から、太陽を切り離し、太陽とともに離れ、太陽を自らの進化のための糧としたという。 高次の存在である太陽霊によって、太陽が切り離された後、地球と混合体は、しばらく、その太陽の周りをまわっていたという。 それらの太陽霊と呼ばれる高次の存在は、7体いて、旧約聖書では、エロヒム(エロアたち)、光の霊たちと呼んでいるという。その7体のうち1体が、エロヒムの群から離れ、地球と月の混合体に結びついたという。その1体を、ヤハウエと呼んでいるという。 6体のエロヒムの群は、外から地球進化を導き、1体のヤハウエは、内から地球進化を導いたという。太陽が出て行くと、地球と月の混合体は、粗雑なものになり、のちに人間となる存在は、当時まだ柔軟で精妙だったが、卑しい本能を受け取ることにより、粗雑になったという。 現在の人間が発生するには、地球進化は、上記のような月と地球の混合体のままでは、全てが硬化し、ミイラ化したものになったという。なので、ヤハウエ神が、月を地球から分離したのだという。そのときに、最も粗雑な実質だけではなく、最も粗雑な存在たちも、月と一緒に地球から分離していったという。 太陽が離れていったことにより、人間はあまりに速すぎる進化を辿らなくてもよくなり、月が離れたことにより、人間は荒廃、硬化、ミイラ化への道を辿らなくてもよくなったという。 地球は、太陽と月を放出することによって、六体の太陽神と、一体の月神の影響の元に、人間に適度な速度の進化への道を辿ることができるようになったという。 このことが、仏教の中道、お釈迦さまが唱えた、糸をピンと張ることなく、緩めることなく、適度な音色を奏でるような進化の状態を、意味しているものと思われる。 また、地球から太陽が離れたことは、悪を救うための善となる為に、まず、善が自らをもって最善へと進化し覚醒者となることを意味し、それから、地球から月が離れることにより、覚醒者が、救いの教えを、菩薩として、受け渡し、他を救うようなことを意味し、これら2つの出来事は仏陀の人生の集大成、上座部仏教から、大乗仏教への発展をも、意味しているように思える。 上座部とは、地球から太陽が放出された出来事。自らを救うことがまず第一。すなわち、愛であり、そして、大乗とは、地球から月が離れた出来事。悪を救うことこそ善の目的で、すなわち、慈悲であることだといえよう。 愛と慈悲。儒教では忠恕。道教では道徳。 そのようなことが、ヨハネの黙示録の背景にあるという。言葉で限定するのではなく、言葉からイメージを沸き起すことだと思われる。 文字を殺し、霊を生かせ すると、ヨハネの黙示録から様々なことが浮かび上がってくるという。
2006年04月06日
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前回は現在の地球紀の、前転生期である、月紀をまとめた。今回は、我々の地球紀をまとめて書きたい。 月紀の後の、プララヤと呼ばれる霊的状態、いわゆる人間の生活では夜にあたる状態を通して、地球紀がはじまったという。地球紀は、はじめ、現在の太陽と月と地球を合わせた状態だったという。そして、かってあった土星紀が繰り返され、続けて太陽紀、月紀の繰り返しが行われたという。 そして、重要なのは、人間は進化の中期において初めて、今日の意味での人間になったという。 地球紀の中期は、7つの状態のうちの第4の状態であるという。土星紀には、権天使が、人間存在に達し通過し、太陽紀には、大天使が人間存在に達し通過し、月紀には、天使が人間存在に達し通過し、いつも、なんらかの存在が、それら7つの状態のうちに、進化から遅れ、取り残されたという。 現在の人間が、進化でいうところの、人間存在の状態になる第4の状態の前に、3つの状態が過ぎ去った後で、これまで、進化から遅れ、取り残されたなんらかの存在が、多かれ少なかれ、人間よりも進んだ諸存在として、人間段階を通過したころを回想することがありえるという。 それら、人間になりつつある我々を理解できる存在が、土星紀に7つ、太陽紀に7つ、月紀に7つ、そして、地球紀に、3つの、計24存在するという。 24の「人間」が、今日の人間を、上から見ているという。 これらの存在は正しい理由から、進化の調整者、時間の調整者と呼ぶことができるという。時間は進化に関連しているという。 これら24の存在を、黙示録では、24人の長老と記述し、7つの封印の秘密が解かれたときに登場する存在だという。彼らは天の摂理を導く者たち、本来のアルファとオメガとして記述されるという。 そして、この地球紀に、はじめて鉱物界が現れたという。 この鉱物界の出現は以下のように、黙示録に記述されているという。 「玉座のまわりに、鉱物界はガラスの海のように結晶した」。 ヨハネの黙示録には、宇宙の進化と人類の進化が、いわば、詩という形式で、記述されているという。
2006年04月04日
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前回は、太古の地球の、太陽紀について、書きまとめた。太陽紀のあと、再びプララヤと呼ばれる、惑星の一種の中間状態、最高の霊視でしかみることのできない状態に、なったという。マンタンヴァラと呼ばれる、地球の受肉転生状態の間に、このようなプララヤの状態に、惑星は、人間が昼と夜を送るように、送るといわれる。 そして、地球はこのプララヤ状態から、再び現れ、月紀と呼ばれる、マンヴァンタラの、地球の受肉の第3状態になったという。 月紀において、物質進化はさらに進み、太陽紀に単に気体であったものが、水(液体)へと濃縮したという。水要素をみずからのなかに蓄えることによって、植物が種子から、成長していくように、人間にアストラル体が組み込まれることが可能になったという。 人間は、土星紀に、肉体の萌芽、太陽紀に、エーテル体の萌芽、そして、それらは、地球が転生するに従い、発展し、月紀に、アストラル体を組み込むことが可能になり、肉体と、エーテル体と、アストラル体の3つの部分からなるようになったが、まだ、この3つの部分に、自我を組み込んでいないので、本来の意味の人間ではなかったという。 人間は次の地球紀において、はじめて、自我を組み込んで、人間存在となったわけだ! どの段階においても、進化から遅れ取り残される存在があるという。太陽紀の状態の進化にとどまり、月紀段階に到達できなかった存在たちは、月紀において、一段遅れて、太陽紀段階を通過し、そのために、月紀には、アストラル体を、取り入れることができずに、物質体とエーテル体のみの存在であった。これらは、次の地球紀に、アストラル体を手に入れられる存在であるので、このときは、動物の祖先のような存在だったという。月紀には、まだ物質体しか、取り入れることができない存在は、今日の植物の祖先であったという。 このように、月紀には、肉体とエーテル体とアストラル体をもつ人間界と、物質体とエーテル体の動物界、そして、物質体のみの植物界の3つが、月という惑星に存在したという。 月紀の中期に、人間段階を通過した存在が、薄明の霊たちと呼ばれる存在で、天使たちだという。薄明の霊たちもみずからのうちに、人間の記憶を有しているので、現在の地球紀では、人間の1つ上の位階に属しながらも、人間のことを深く理解し共感しえる存在なのであるという。 月進化紀がはじまったとき、少なくとも最初のうちは、月は液体状の球だったという。しかし、このままでは、人間の進化の舞台には相応しいものではなかったという。 月が二つに分かれることにより、地球人類の前段階に適したものになり、2つの天体のうちの1つは今日の太陽の前身であり、もう1つは今日の地球の前身であるという。しかし、この今日の地球の前身は、今日の月と混じり合ったものであったという。 地球と月が一体となった地球の前身と、太陽が分かれたという。月紀は液体球であり、太陽は分離して恒星への道を辿ったという。分離した太陽は、精妙なエーテル実質の部分をとっていき、残された今日の地球と月の混じり合ったものには、粗雑な物質だけが残されたという。 そのために、太陽は非常に精妙な物質を備え、月は濃密な、液体状の塊になったという。太陽は精妙な霊的諸力を持っていったことにより、高度に進化した諸存在が活動する舞台となり、精妙な実質が出て行って硬化した月には、人間の原基と動物の原基と植物の原基が、月に結びついたまま残されたという。 この月は全く独特な様子で、いまでいうなら、粥のような実質だったという。基本材料は、現在の鉱物ではなくて、植物が土台をなしていたという。絶えず異常な増殖がみられ、当時は、今日の鉱物界と植物界の中間に位置していたという。 その領域は生きていて、絶えざる繁殖がみられ、月は絶えず内的、生命的に活動し、運動していたという。太陽が、月から分離すると、月に残された存在は、半段階、進化が遅れたという。人間は、人間動物のようになり、動物は、動物植物のようになったという。やがて、プララヤの中間状態がきて、分離した月と太陽は再び合一しはじめたという。そして、我々の地球紀の時代になったという。
2006年04月03日
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神秘学を学ぶと、遺伝が虚偽であり、霊性(精神性)には、まるで遺伝的なものがないことがわかる。霊性とは、高次の世界を想定しているので、当然といえるだろう。 では、なぜ遺伝性のものが現れるかというと、進化から遅れた存在が現れるからであるという。 形態霊のなかで、進化の遅れたものが出ると、下の位階である、人格霊の領域にとどまるといわれている。そのようなものが時代霊であるという。また、人格霊のなかでも、進化の遅れたものが出ると、下の位階である、大天使領域にとどまり、民族霊として活動する存在となるという。言語霊はそのようなものであるという。 人間への、影響は、実は正統に進化した形態霊よりも、上記のように、進化から逸脱した霊たちの影響を、多く受け、また受けやすいという。 人間が、正統に進化した形態霊たち、それらは太陽霊とも呼ばれているが、それらの影響のみを受けていたならば、人類は単一民族で、進化も急速で、生まれてまもなく死ぬというような、いまでいう早老症のような人生を送らねばならず、それもただ一度の輪廻転生を通して、宇宙か与える、人類の進化の課題を克服しなくてはならなかったという。 それでは、多くの人類(魂)が、肉体に受肉できずに、落伍者にならざるを得ないので、地球から、月が分離され、月の進化を遅らせる作用により、いわゆる遺伝性の力の御蔭で、地球には、人類の進化にとって適度な速度が保たれるようになったという。 つまり、遺伝力とは、進化を遅らせる、進化をとどまらせる力のことなのである。それは形態の陰の力であり、物質性のものである。 これに対して、形態の陽の力は、太陽の光の霊性のものである。 人間はこの陰の物質性と、この陽の光の霊性により、進化の恒常性を保っているといえるだろう。 月のこの物質性、いわゆる遺伝性の反映は、地球上では、アフリカにある点を与えるという。 アフリカに、人間の物質的進化の出発点があるという。 人間の成長期でいえば、幼年期(0~7歳)こそが、身体の物質的形成がなされる時期なので、アフリカ人(黒人種)は、幼年期に、人格(形態)のある種の固定(主体力)がなされるという。だから、アフリカ人は後脳が発達していて、信仰心や、意志力に富み、運動性が高いという。 アフリカから、アジアの平原に向かうと、アジア人(黄色人種)には、青年期に、主に、人格の固定形成力がなされるという。なので、アジア人は、中脳が発達し、情緒性に富み、感情性が豊富で、詩的で芸術的であるという。 アジアの平原からヨーロッパにいくと、ヨーロッパ人(白人種)には、老年期に、主に、人格の固定形成力がなされるという。なので、ヨーロッパ人は、前脳が発達し、論理性、思想性に富み、科学的であるという。 そして、ヨーロッパから、更に西へとアメリカへと向かうと、人間は死滅へと向かうという。インディアンは、アメリカの土地の力である、人種を死滅へと向かわせる力のために、死滅したという。 このように、東から西へと、地球には、人種を死滅させる力が形成されているという。 だから、逆に、西から東へと遺伝子を辿ると、アフリカに原点を見い出せるのだろうか? 人種だけでなく、文化も、西へむかうと、非生産的になってくるという。唯物的な科学は、最も非生産的な行為といわざるをえない。文化とは精神の育成であり、物質生産のことではないからであろう。 文化が西へ向かうと、非生産的で退廃的となってくるという。 それゆえに、西洋は東へと向かい、そして、東洋の霊性が、領土の狭いヨーロッパのなかに、圧縮され、保管されたという。 それより、西に持ち出されると、霊性は死滅するのである。 実際、アメリカが、人種の坩堝といわれる、他民族国家なのは、そこが人種の死滅地帯であり、文化の最も非生産的なところ、いわゆる物質文明地帯で、物質戦争の生み出す、死滅の原点であることがわかるだろう。 アフリカの原点から、物質的人間の進化が始まり、アメリカの原点で、終わるように、地球はできている。 これが、我々のポストアトランティス時代での、文化の系譜であるという。我々は、いまポストアトランティス文化期(第5文化期)にいる。次の文化である、ロシア文化期には、かってトルストイが描いた友愛の原則のようなものが、再生されるという。アジア的な霊性と、ヨーロッパ的な自由な人格(自我)性が、その境界上(ロシア)で、融合されるようである。トルストイはあまりに、早熟であったために、その前触れでしかなかったという。 人間は、物質的文化を通って、霊的に高められなければならない。 文字を、霊的なものに書き換えなければならない。 「文字を殺し、霊を生かせ」とは以上のことなのであるという。 人間は、進化から遅れ、とどまったものに、取り巻かれ、多大な影響を受けている、人間を正常に進化させるためである。人間は、これらの遺伝性を克服し、唯一の善なる人種として、浮上しなければならない。 人間は、遺伝性を超えて、人類全体の進化のために奉仕する存在なのである。 次の友愛の文化期には、西洋と東洋の文化融合がなされるという。
2006年04月01日
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前回は、太古の地球の土星紀のことをまとめた。土星紀の次は、太陽紀であったという。 太陽紀は、土星紀の熱のみの存在ではなく、光を放つまで進化し、土星紀の熱物質は、太陽紀には、気体・空気物質に硬化し、太陽紀は、空気・気体から成りたっていたという。そのことで、太陽惑星は、光輝く天体だったという。 太陽紀に、人類は、土星紀の肉体萌芽の存在から、太陽紀の霊たちにより、エーテル体(いのち)が組み入れられ、植物存在の形態を有するようになったという。 土星紀から、太陽紀になっても、進化せずに、土星紀にとどまる存在もいたという。土星紀には、物質的(現在の鉱物的物質とは異なる)存在としては、土星人間しかいなかったが、太陽紀には、上記のように、土星紀のままで、つまり肉体萌芽のままで、とどまる存在がいたという。それが、動物の最初の原基となったという。 太陽紀に、肉体とエーテル体の存在の、人間の原基と、肉体のみの存在の、動物の原基が、太陽惑星に物質的に存在したという。 太陽紀中頃に、火の霊の、大天使(アルヒアンゲロイ)たちが、人間段階(自我を有する存在)を通過していったという。太陽紀に、人間存在を通過していったものは、現在の人間をみて、以下のようにいうという。 「私の下には、固い大地も、液体状の地球もなかったが、当時私は、今日、人間が経験しているものを経験した。だから、私は人間が地上で、体験するものをともに感じ、ともに体験することができる」 人間が今日、地球存在のなかで経験していることを、これらの存在は自らの内面で経験したので、理解できるという。 やがて、ふたたび一種の中間状態がやってきたという。地球の惑星転生紀の間には、プララヤと呼ばれる中間状態があり、マンヴァンタラと呼ばれる、転生である惑星顕現状態の間に、そのプララヤが現れるといわれている。これは人間の生活のいわば昼と夜のようなものであるという。
2006年04月01日
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