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宇宙の進化を知ることから、人間の病気のシステムが洞察されうる。太陽性のものと、月性のものである。これは東洋医学にある、陰陽理論である。 簡単にいうと、進化が、あまりに早く進むようなものが、太陽性のものであり、腫瘍性の病気を意味するものと考えられる。東洋医学の「陽」である。 これに対して、進化が、あまりにゆっくりと死んだようなものが、月性のものであり、硬化症の病気を意味するものと考えられる。東洋医学の「陰」である。 地球が、太陽と月の間で、ちょうど進化が早くもなく、遅くもなく適度に整えられているように、人間も、腫瘍性と硬化症の間で、平衡、恒常性を保っている。 これらを、神秘学でいうならば、この平衡、恒常性は、キリスト原理と呼ばれるものを意味するだろう。なぜならば、過剰な腫瘍性のものは、ルシフェルという淀んだ熱情的な悪魔の存在を意味し、過剰な硬化症のものは、アーリマンという物質的な悪魔の存在を意味し、そのルシフェルとアーリマンの両極端の中道、中庸、中央に、キリスト=イエスの丁度良い適度な存在が、現れるからである。 これらをまた、物理的な波動の概念で考えると、イメージしやすい。ルシフェルのような腫瘍性のものは、波動があまりに繊細すぎて、過剰な熱を帯びすぎる傾向にあり、時空間で例えるならば、ブラックホールか、特異点を表すだろう。対して、アーリマンのような硬化症のものは、波動があまりに粗すぎて、過剰な冷却を帯びすぎる傾向にあり、時空間で例えるならば、対称性の自発的破れ、超伝導状態を表すだろう。これはあくまで仮説にすぎないが…。 そもそも物理自体が、唯物論なので、それを超えることができないゲーデルの法則だろう。唯物論からは唯物論しか生まれない。物理を物理以外のものから証明できない。全てを物理で覆い尽くさない限り、物理は不完全なのである。 話を陰陽理論、太陽月理論の、腫瘍硬化理論に戻す。 例えば、太陽の腫瘍性の過度のものには、月の硬化症のもので、生を殺してやらないといけない。 実は、このことは、ドイツの神話に隠された秘密なのである。 それはバルドゥルとロキの伝説として残っているものである。 バルドゥルは太陽神として、信仰されていて、地球上のいかなる存在も、その太陽神に敵対して近づくことはできない。なので、落伍したロキという月神は、地球上の産物を使っては、太陽神バルドゥルを殺すことはできなかった。 しかし、地球上の産物ではなく、進化から遅れて、地球の神々に属さないロキが、使うことができて、太陽神バルドゥルを殺すことができるものがあったという。 それは地球上の産物ではなく、進化から遅れたロキが使うことができるものである。 そして、それは、太陽性の腫瘍性を殺すことができる月性の硬化症のものである。 それは何であろうか? 実は、これは、ヤドリギという植物に宿る植物のことであるという。 ヤドリギは、進化から遅れた月紀のものであると、神秘学ではいわれている。なぜならば、地球紀前の、月紀には、鉱物はなく、最低状態が、植物であったという。いわば、現在の土地が、植物のようなものであったという。そのとき、ヤドリギは、動物と植物の中間体であったという。植物という土地に生えた、いわばいまの植物のような、動物であったという。 ヤドリギは、その性質を、鉱物からなるいまの地球紀にも持ち込んだという。だから、ヤドリギは、鉱物には棲息できずに、植物に棲息するという。 だから、ヤドリギは、腫瘍性のものに、死を与えることができるという。この神秘学の秘密は、ドルイド神話として受け継がれているという。 また、月性の硬化症には、遺伝の秘密が隠されている。 そもそも、人間の人種は、太陽とともに進化を進んだならば、猛烈なスピードで、進化を進み。いわば単一人種の存在で、人間という進化段階を通過したといわれている。しかしそれでは、多くの落伍者が生じ、宇宙の多様性が生まれないだろう。 太陽だけで、進化を続けたら、人間は、全て同じ形で、同じ性質もつものになったとされるのである。本来、それは霊的に好ましいものだが、自由がなく、第一、悪を救うことができない。依然として、落伍した、進化を途中で断念し、それに留まる、いわば遺伝性の月が残されてしまう。 月を救うために、地球を月から分離し、太陽と月の間に地球を置いたという。月には、遺伝性のものが残った。地球は、月から遺伝を受け継ぐようになり、太陽神が予定した1つの人類ではなくて、多種多様な遺伝に留まる人類が生まれたという。 太陽神の考えでは、当初、遺伝は想定外のものであった。進化から遅れるものが出て、そこに留まり、それが遺伝性のものとなり、進化のなかの、多種多様性を生んだという。地球上で、太陽と月のこれらの霊性を浴びて、人間はこの遺伝性を徐々に苦服していかねばならないという。 遺伝性の象徴は月であり、錬金術では、銀、そして水銀を意味するという。水銀という金属は、地球紀になっても、結晶化(鉱物)せずに、月紀のときの液体のまま(植物性)を留めている存在である。だから、水銀は、金属のなかの進化の遅れたものであり、金属のヤドリギともいわれる。 遺伝とは、進化から残されたものを担うカルマを意味する。月において、人生を振り返り、克服すべき遺伝性を担いながら、人間は地球上で、その遺伝性を克服する人生の旅を送るといわれるのである。 遺伝子などは、唯物論的印でしかないという。遺伝子を解明しても、人間の人生を変えることはできないという。ただ、克服すべき運命が、次の転生に持ち越されるだけなのであるという。唯物論をいくらやっても、時代に先んじることはできずに、闘争や論争、自我の破壊性に至るだけであるという。 これは現代社会の戦争や経済闘争の因果である貧富の差をみれば明らかなことなのである。人類はお互いに、これらを、見て見ぬ振りをしているだけだろう。
2006年03月30日
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前回までに、7つの手紙の時代と、7つの封印の時代の簡略的な内容をまとめてきた。我々の時代が過ぎて、その終末の万人の万人に対する戦いのあと、人類は善なる人種と、悪しき人種に分かれるということが、黙示録に書かれていることである。 では、人類のその進化の舞台である、地球は、これまでいかなる転生を遂げてきたのかを、書きまとめたい。 神秘学では、地球は、遥か昔に、土星紀といわれる状態の星からはじまったといわれる。地球は、人間の魂のように、輪廻転生を繰り返してきたという。土星、太陽、月、そして現在の地球。地球の前半期は、火星紀といわれ、後半期は、水星紀といわれる。それから、次の地球の転生期は、木星紀が予定され、そして、その次が金星紀、最後にウルカヌス星紀であるという。 神秘学でいう、「人間」というのは、一種の進化状態を意味しているという。地球紀に、「人間」段階にあるのが、我々人類なので、人間と呼ばれるが、土星紀、太陽紀、月紀にも、同じように、「人間」段階を、進化し通過した霊体の存在がいるという。 それらの存在は、いま、人間の上位に属する進化段階である、いわゆる「天使」と呼ばれる霊体の存在であるという。「天使」には、位階があり、土星紀に、人間段階を通過し、いまでは、人間より第3段階も上位の、人格霊(権天使)が存在し、太陽紀に、人間段階を通過し、いまでは、人間より第2段階も上位の、火の霊(大天使)が存在し、月紀に、人間段階を通過し、いまでは、人間より1つ上位の、薄明の霊(天使)が存在するといわれている。 だから、現在の地球紀の人間段階を通過して、進化し、次の木星紀の人間段階よりも上位に属すると、いまの人間のなかから、第4位階の天使(愛と自由の霊)と呼ばれる存在になるものが現れるといわれる。 それらが、キリスト=イエスから、白い衣を着せられた善なる人種であるというのだ! では、現在の地球の太古の状態である、土星紀の状態を書きまとめる。土星紀には、現在で言われるところの、熱の原初のような状態のみしかなかったという。だから、もし、人間に感覚器がついていたならば、熱いか冷たいかでしか感じないという。それらが、いわば、熱の等高線を形成していたという。恐らく数式で表すと、エントロピーで有名な、熱の第2法則が現れるだろう。 余談だが、バックミンスターフラーは、このエントロピーの時間依存の無秩序状態の増加に対して、シントロピーという、秩序形成の知性のような概念を、数式で表そうとした。 ともかくも、神秘学でいうところの土星紀は、この熱の分布が、土星という、原初の地球を形成していたという。そしてその土星は、土星人間というべき、熱の分布からなる、現在の肉体の原基のような人間から成っていたという。 土星人間が集まって土星を形成していたという。 現在の我々人間のなかにその土星を見い出すとするなら、それは血の中の熱、温度であり、血温、体温であるという。だから、肉体の最初の原基は、今日、血液のなかに担っている熱であるという。 アダムという言葉が、土人間を意味することがここからわかるだろう。肉体のなかの血液の熱のなかに、アダムの存在の名残りを見い出せるのである。その土星の周囲には、土人間の他に、7つの霊的存在がいたという。いつの時代にも、7つの霊的存在があるという。というのは、人間を最低状態とすると、7つ上の段階までしか、霊的に感じることができないからだという。 土星紀には、7つの時代があり、その中期頃に、いまでいう「人格の霊」の権天使(アルヒャイ、アルカイ、アシュラ)が、人間段階に達し、それを通過し、進化したという。 神秘学では、人間というのは、自我を持つ存在のことを意味する。 今日の人間は、土星紀には、人間ではなく、当時の熱の肉体のみの存在だったという。他の霊的存在(天使)が、その熱の肉体を制御していたという。だから、現在の人間は、そのとき神々(天使)とともに霊的に一体となっていた存在だったのである。 神々(天使)の命じるまま行動(熱の肉体)した。長くなったので、ここまでにして、次回は、太陽紀を述べる。
2006年03月30日
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「天網恢恢疎にして洩らさず」とは、老子の出典だが、勝海舟も座談で以下のように語っている。 人には何か使い道がある 「人はどんなものでも決して捨つべきものではない。いかに役に立たぬといっても、必ず何か一得はあるものだ。おれはこれまで何十年間の経験によって、この事のいよいよ間違いないのを悟ったよ」 人材は探す側の眼玉1つ 「近頃世間で得々西郷がいたらとか、大久保がいたらとかいうものがあるが、あれは畢竟自分の責任を免れるための口実だ。西郷でも大久保でも、たとえ生きているとしても、今ではもはや老耄爺だ。人を当てにしては駄目だから、自分で西郷や大久保の代りをやればよいではないか。 (中略) 太公望は、(略) ただ朝から晩まで釣ばかりしていた男だ。人才などは騒がなくつても、眼玉1つでどこにでもいるよ。 天下の事に任ずるくらいのものは、今日朝野にどんな人物があるかということは、常に知っていなくては困る。おれなどは、あらかじめその辺を調べて、手帳に留めておいた。すると、瓦解の際におれの向うに立った奴は、西郷を初めみな手帳の中の人物に洩れなかったよ。天下に人物のいるいないかくらいの事は、坐ながらにして知れるようでなくては、とても天下の大事に任ずることは出来ない。」 海舟は、また、島津斉彬に、以下の2つのことを教わったという。 1.人を用いるには、急ぐものではない。 2.1つの事業は、十年経たねば取り留めの付かぬものだ。 つまり、人間を使うことこそ、最も重要なことであるといえる。人間の見極め、いまでいう人間学が最低限必要だということだろう。 現代のように、人を人とも思わずに、モノのように、まるでコスト削減、経費節減とばかりに、雇用を切り捨てにかかるのは、天下に対して、無責任で、邪道の極みということになるだろう。 人材がいないのでもなく、人材に金がかかるのでもない。要は、見る目、観察眼に乏しいのである。とどのつまり、人間を見る眼、命を養う心が乏しくなってきた証なのであろう。 人間を見る眼がないので、金がかかるわけだ。雇用を削るよりも、人を見る眼を養えばよいのである。 いまの会社は、日本人のなかに、日本人を見る眼がないから、外国人のようなやつが、出てきて、外面体裁を、コストカットで、外科手術をやる。しかし、重要なことに気づいちゃいない。それでは対処療法であって、根治治療ではないってことなのである。外国人なぞは、適当なその場の利益をもって、自分の国に帰ってしまえばいいだけだから、正に無責任なもんである。 そして、遠隔操作で、利益を吸い上げるシステムをつくってしまえば、更に良いてなもんで、もう、やり放題すき放題のオンパレードである。その間に、どれだけ日本人の、人間を見る眼が失われてきたか、日本人の日本人たる美徳が失われてきたか。 それら日本人の美徳が失われたのは、外国人のせいではない。 自分たちが、人を見る眼を養わなかったせいなのだ! 自分たちの文化を疎んじてきたせいなのだ! いまからでも遅くない、日本人のなかに、その見る眼を養えばよいだろう。1億2千万人もいれば、現代の西郷や大久保がいてもおかしくなかろう。 政治家に、人を見る眼がないから、いかにも政治家らしくない者が溢れているのであろう。政治家にも色々いてもよいが、使い方を養うべきなのである。 海舟の座談のなかに、以下のように、党をつくるなという戒めがある。 党をつくるな 「人を集めて党を作るのは、1つの私ではないかと、おれは早くより疑っているよ。人はみな、さまざまにその長じるところ、信じるところを行えばよいのさ。社会は大きいから、あらゆるものを包容して毫も不都合はない。 卑近の例だが、酒屋も餅屋も、慈善家も高利貸しも、差別無く貸家に住まわせてよいと同じだ。大家はただ家賃だけをとり、適当に監督すれば、それでよいのさ。世の中の事でも、ただ機会と着手と、この二つをさえ誤らなければ、なに物でも放任しておいて差し支えはない。」 我々に欠けているのは、財政ではない。人をみる眼なのである。 TVに出る回数よりも、その人が大臣の地位についたことで、社会が乱れたか、平和糧に治まっているのかということなのであろう。 前者であるのは、大臣がその任に無いこと明らかであろう。社会が乱れる責任は、国の権力者にあること真実なり。
2006年03月29日
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前回は、4つの封印が解かれ、馬(知性)が現れる、黙示録の記述の簡単な解説を書きまとめた。 我々の時代(ポストアトランティス)の終末期に予定されている、万人の万人に対する戦いの後の、次の第6の時代といわれる時代に、キリスト=イエスにより、封印が解かれるということは何度と無く書いたが、その封印の第4まで、解かれると、死が現れ、知性に霊性を伴う者は、白い衣を着ることができ、不死者として、第2の死を免れるという。 これに反し、知性が、物質的な知識のみに留まる者、仏教でいう分別知の知性のみを有するものは、物質世界にとどまざるをえなくなり。地球という進化の舞台が、その物質性を失うので、分別知と共に、消え去らなければならない魂となるという。 分別知は物質世界があって、意味をもつのだから、物質という対象が無くなってしまえば、その行き場に困るのである。知識という、認識を得る対象がなくなれば、認識すら意味をもたない。それは、錯誤した漠然とした記憶として、分別知は残されるだろう。 それはしばしば、物を無くして、その記憶を辿るようなものである。「確か、ここらへんに、あったはずだ? まてよ、もっとあっちだったかな?」というように、辺りを彷徨い、それらしき類似の錯誤のものをみつけると、それに永遠に取り付こうとする。これこそ執着心のなせる業だろう。 このような人間は、自分が一体なんであるかすら、見い出すことができないだろう。それは欲望のままに、低次元の自我に棲息したからに他ならない。「私」という感覚を、この欲望、つまり物質的依存性に依らせたからに他ならない。 人間を外見で見る者が、外見によって騙されるが如く、自分を自らのなかで正確に把握しない者に、自らの土台となる自らを築くことはできないだろう。低次の自我に留まる限り、その上に建物をつくることは不可能である。ましてや、物質的知識の土台によって、この世に自我を構築しても、それをそっくりそのまま、物質性が何もない、いわば、空の世界のなかでは、土台すらつくることができないだろう。 人間の現在のイメージが未来を作り出すように、物質世界は、空の世界からつくられるのである。自らに由るものが、真の自由を築けるのである。自らを土台とするものが、空の世界でも、真に自由で独立した家を建てることができるのである。 空の世界において自らに由り創造を行う行為を「自由」という。 それは100%自らにより成し遂げうる成果でもある。 物質世界では、何がしかに由らなければできない。物質世界では、何かに依存するからこそ、間違いを犯すことができる。ある物質的な知識の立場にたてば、他の物質的な立場とは矛盾するものである。物質世界では、お互い矛盾する存在なのである。 「矛盾」という言葉は、最高の矛と最高の盾が同時に存在しえないことから生まれたというが、その矛と盾が、物質でなければ、存在しえるのである。実際、言葉では、「矛盾」として成立しえている。最高の「矛盾」というものがある。最高の矛であり、同時に最高の盾でありえる。物質としては創造できないが。それは立場(認識)の問題である。 これが、霊的知性の意味であろう。 キリスト=イエスにより、この霊的知性、つまり自らのなかにある愛に火を灯した者、そして、我々の7つの手紙時代に、高次の自我を育んだ者は、その愛と自由を土台として、次の時代に、家を建てることができる。そして、愛と自由の家を建てた者から、愛の都市が出来、それを、新しいエルサレムとするということが、黙示録で、暗黙の糧に語られているという。 第5の封印を解くと、人間は、善へと上昇する者と、悪に堕ちて行く者に分かれるという。 「神の言葉のために、その証言のために殺されたもの」には白い衣が与えられるという。これは愛に生き、自由を求め死んだ者ということだろう。 この第5の封印は、我々の現在の、ポストアトランティス文化期に、霊的知識に目覚め、愛と自由を、魂に刻印した者、知性に霊性(白い)を加え、愛と自由の叡智を身につけた学びを行った者、それらの者が、この第5の封印が解かれるときに、白い衣をまとうわけだ。 第5の封印が解かれると、地球は、もはや、物質性ではなくなり、神秘学でいうアストラル体の地になるという。だから、物質性に依存した知識のみを有する者は、第2の死を体験する。 第5の封印が解かれると、全ては外的に殺され、霊において生きるという。人間も、もはや物質的肉体を失い。我々の時代での死んだ後と同じように、エーテル体が最下層の身体となるという。そこで、キリスト=イエスのエーテル体と同じ魂の刻印(言語)がないと、白い衣(愛のエーテル体)をまとうことはできない。 だから、神の言葉は、愛の言葉であり、その証言は、自由の証言なのである。愛さないこともできるほど、自由な愛を持つ者は、白い衣をまとう。 第6の封印が解かれると、「大きな地震があり、太陽は毛織物の袋のように黒くなり、月は血のようになった」。 この意味は、太陽も月も、もはや物質性が失われるということであるという。太陽も月もアストラル体となり、人間がいま、こころでみるその霊的象徴であるという。こころ(魂)のなかに、霊的感覚器をつくると、太陽は毛織物の袋に見え、月は血のようにみえるという。 神秘学では、太陽は霊的進化を早める存在であり、月は遅くする存在であるといわれる。あまりに太陽的であると、進化が高度に進んでしまい脱落者が増えてしまうので、そこに、ちょうど、月の存在があって、太陽の進化を緩め、太陽と月の関係により、地球は、早すぎも無く、遅すぎもなく、うまい具合に、人間の進化に即しているというのである。 これは仏教の中道の思想にもみられるところである。お釈迦さまは、「弦を張りすぎても、いい音色は出ず、また、緩めすぎても、いい音色が出ない。だから、張りすぎても緩めすぎてもダメで、ちょうどよい加減が、いい音色を奏でる」と言った。 これは、太陽の高速な霊的進化の舞台でも、月の低速な霊的進化の舞台でもダメで、人間には、地球というちょうどよい、霊的進化を奏でる舞台が、正に適していて、与えられているのであるということを言っているようだ。 地球こそが適切な人間の進化速度なのである。だから人生こそ、その進化の適切な、神々が与えた舞台であり、だからこそ、太陽や月に感謝せねばならないということなのである。地球は太陽と月によって与えられた人間進化の舞台なのである。 だから、お釈迦様は、地球は美しいと言って、この世を去ったのであろう。
2006年03月29日
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わが座右の銘は、少しばかし前は、ちょっと一端偉ぶって、「無為自然」などと、老子風を気取っていたが、近頃は、ともかく、「生きることは何かと面倒だ!」というものに変わった。 勝海舟の座談にも以下のようなものがあるが、海舟のような人生の達人なんかに比べれば、同じ銘としても、いかにも恐れ多い伯爵様と、生まれたてホヤホヤの赤子のような雲泥の差もんであろうが…。 生きているのは面倒臭い「人間生きて居るほど、面倒臭いものはない。それならといって、まさか、首をくくって死ぬるわけにも行かず、伯爵の華族様が、縊死したとでも新聞に出されると恥だからノー」 人間生きるためには、食わねばならんし、食うために金を稼がにゃならんし、金のためには、仕事や芸も身につけ、奉仕もせねばならんし、そんでもって、糞や、ゴミの始末もせにゃならん。 お釈迦さまは、それらを一刀両断の如く、「苦」という一言で片付けたが、さすがお釈迦さま覚ったお方だよね。その苦の素がこころからくるといって、こころを洗濯せねばならんというわけだ。 面倒なことを洗濯しちまうと、綺麗になるわけだ。 面倒なのは、何かせねばいかんという必要性に囚われているからであり、強迫観念、恐怖なんである。強迫観念や恐怖は、こころから生じる、こころのなかに主義主張がある。「こうでなければならない」とする偏ったもんがある。ホントにそうなんだろうか? そんな主義主張をうっちゃって、とにかく綺麗にしちゃえば、美学ができるだろうてなわけで、面倒なことから、美学を追求する態度に変える。 そうするってえと、なぜだか、私のなかでは、大西郷のイメージが浮かびあがるんだね。美学を追求してれば、面倒なものは面倒でなくなる。 だったら、美学ってなんなんだ!というのを西郷に求める。すると、勝海舟の座談に、以下のようにある。 馬鹿の真似「何事も知らない風をして、独り局外に超然として居りながら、しかもよく大局を制する手腕のあったのは、近代ではただ西郷一人だ。世が文明になると、みな神経過敏になって、馬鹿の真似など出来なくなるから困る。」 ということで、私は、生きているのが面倒なので、馬鹿な振りして(ホントに馬鹿かもしれんが)、神秘学をして、気ままに遊んだ人生を、殺されるまで送ることに決意したのであります。 馬鹿が馬鹿な振りするとどうなることやら疑問だが…。 神秘学でいろいろキリストが、ど~のこ~のと偉そうな事を言っておりますが、ただ、面倒な人生を、少しはキリスト様の言葉に耳を傾けて、救われたいからでありますよ。念のために言っておきますが、キリスト教信者じゃありません。だから、布教活動など一切なし。ただ生きるのが面倒なだけで、道楽でやっていることでござんす。 ホント、生きるのは面倒くさい。かといって死ぬのはもっと嫌なので、人生の謎を解くことにしたんです。それが私の美学です。
2006年03月28日
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我々の時代(ポストアトランティス)の7つの文化期を通じて、7つの手紙として準備されたものが、次の時代(第6の時代)に、キリスト=イエスによって、7つの封印として、解かれることを、前回、書きまとめた。 つまり、黙示録にある7つの手紙が、我々の時代であり、それは7つの手紙の時代と呼ばれる。そして、次の第6の時代が、7つの封印の時代だと呼ばれている。 ヨハネの黙示録で書かれている、最初の4つの封印が解かれるさまを、解説していく。 「私は見た。見よ。白い馬だ!」。これは、霊化された知性が現れてくることを暗示したものだという。我々の古インド文化期に、霊的なものに目を向けたことで、物質的なものを克服しえる可能性が与えられる。 「白い馬に乗った者は、弓を持って、彼には王冠が与えられ、克服するために、出かけ、勝った」。これは、霊的なもの、知性が霊性を伴ったので、物質性を克服したことを示すという。 第2の封印は、赤い馬が現れることにより、解かれる。赤い馬の上に乗っている者は、地球から平和を取り上げ、人々が互いに殺しあうようにさせた。そして、彼には大きな剣が与えられた」。これは、人類の進化についていくに値しない者たちを、崩壊させたのだという。 これは、古ペルシャ文化期に、アフラマズダの光の神と共に、アーリマンの闇、物質性を打ち破り、物質性を霊性によって克服した体験をもつものが、勝利を得るという意味だという。 第3の封印をで解くと、黒い馬が現れる。その馬に乗っている者は、手に秤をもっていたという。その秤は、古エジプト、バビロニア文化期に、人間の周囲を、計量、計測した天文学、占星術等の霊性を学んだことを意味するという。 第4の封印を解くと、青白い馬が現れ、その上には、死という名の者が乗っており、地獄が彼のあとについていた。 これは、青白い馬から落ちる者は、全て悪の人種になるが、その声を聞き、死を克服した者が、霊的な生命を共有するという。 「我あり」と、その声を理解した者は、死を克服した者だという。彼らは、知性(馬)を、霊化したのだという。もはや、馬(知性)は、霊化され、物質性を克服されたので、馬という象徴はなくなるという。 馬ではなく、獣ではない、白い衣を着た、不死の、永遠の霊的生命を受け取った者という象徴に変わるという。 これは、我々の時代の、ギリシャ、ラテン文化期に、キリスト=イエスの受肉、受難を体験した者だからこそ、それに相応しい、第4の封印が解かれたときに、不死を得るのだという。 第4の封印までを、まとめると以下のようになるだろう。 第1の封印を解く=白い馬(知性)、古インド文化期の物質世界はマーヤーであるという魂への手紙の教えの刻印 第2の封印を解く=赤い馬(知性)、古ペルシャ文化期の霊的世界の光により、物質世界を克服しろという魂への手紙の教えの刻印 第3の封印を解く=黒い馬(知性)、古エジプト-バビロニア文化期の物質世界を克服したなかに、神々の叡智を法則として認識しろ、という魂への手紙の教えの刻印 第4の封印を解く=青白い馬(知性)、ギリシャ-ラテン文化期に、キリスト=イエスが現れ、十字架刑により、受難(死)を克服し、人類に愛を示した、その行為を共感すること(永遠の命)への目覚め、魂への手紙の教えの刻印 我々の時代ににこの4つの文化を含めた7つの文化から、肉体を通して、7つの手紙として、魂に刻印するならば、次の時代に、封印が解かれ、地球が物質性を失い。人間が、物質的肉体を失っても、その魂に刻印されたものが残り、地球のエーテル体となった主キリスト=イエスの「我あり」の声を聞き、その復活を見て、白い衣(キリスト=イエスのエーテル体)を着る様になるだろうという。 7つの手紙によって、魂に刻印されたいわば言語ともいえるべきものが、7つの封印が解かれたときに、キリスト=イエスの言葉と共鳴し、魂がその愛と自由の言語に彩られるというわけである。 それが白い衣の意味で、白の魔術師の意味でもある。
2006年03月28日
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「国家の品格」という書籍が売れているという。これは武士道を復活させるべきだという主張らしい。で、その具体的方法については、残念ながら、書かれていないらしい。 実は、勝海舟は、氷川清話で、武士道復活の方法を、語っているのだ! 武士道は頽れて当然「武士道的気風は、日をおうてくずれてくる。これはもとより困った事には相違ないが、しかし、おれは今更のようには驚かない。それは封建制度が破れれば、こうなるということは、ちゃんと前からわかっていたのだ。今でもおれが非常な大金持ちであったら、4年、5年の内には、きっとこの風を挽回して見せる。それはほかでもない。全体封建制度の武士というものは、田を耕すことも要らねば、物を売買することも要らず、そんな事は百姓や町人にさせておいて、自分らはお上から禄を貰って、朝から晩まで遊んでいても、決して食うことに困るなどという心配はないのだ。それゆえに、厭でも応でも是非書物でも読んで、忠義とか廉恥とか騒がなければ仕方がなかったのだ。それだから封建制度が破れて、武士の俸禄というものがなくなれば、したがって武士気質も段々衰えるのは当り前のことさ。その証拠には、今もし彼らに金をくれてやって、昔のごとく気楽なことばかり言われるようにしてさえやれば、きっと武士道も挽回することが出来るに相違ない」 と、海舟は言っている。海舟が言っているのは、明治期のことなので、時代が時代だけに、現代では、再び封建制度を復活させるのは、現代の身分平等主義に反するので、ほとんどこれは不可能だろう。また、昔に比べ、誘惑も多い。だが、しかし、少人数の孤島でなら、できうる話かもしれない。 実際、海舟は、静岡に、そのような武士道の類を育成するために、浪人に、給付金を与え、実行したという。すると、浪人たちは、最初は、遊んでいたが、それにも飽きてきて、毎日、することがなくなり、ついには、遊んでばかりいては申し訳がないので、何か仕事をしたいと申し出るようになったという。封建制度がなくなってしまったので、浪人たちは、書物を読んで道徳を語ることはしなかったが、代わりに、お茶を栽培することにしたという。それが静岡名産のお茶となったというのだ! 瓢箪から駒とはこういうことだと思う。 現代風にやるなら、大金持ちに、自然の溢れる土地を買わせ、そこに学校のようなものを建てたらよいだろう。吉田松陰の松下村塾のようにである。江戸時代の武士道は、この寺子屋に支えられていたといってよいだろう。それと重要なのは婦女子の教育である。江戸があのように長く続いたのは、田舎侍の教育制度、つまり寺子屋と、これは見逃されていることだが、婦女子の教育、習い事が普及していたからである。江戸時代、家庭を守り、子供を躾けるのは母親の役目であった。教育により、母親の賢さが子供に受け継がれたのである。 実は、このシステムは西洋の騎士養成にもみられるものなのである。中世の教育は、外に戦があったために、内にこのような精神教育の必要性があったのである。勿論、中世の戦は、決闘に近いものであり、現代の物量がモノをいう戦争とは明らかに違うのである。現代の戦争は物質による殺人である。中世の戦では、名誉と大義名分が優先された。そして、騎士は、惚れた貴婦人、それはその騎士のパトロンでもあったが、その貴婦人の愛情の為に、闘ったのである。 女の為に男は命を捧げたのであり、女がそれに足る道徳性、美徳性を身につけていた時代であったともいえる。ここに、家庭の意味が見い出されうるだろう。 考えてみたら、江戸時代、母親は、働かなくても父親のお手当てで食べていけたので、子供の教育やら、家事等に専念できたのである。母親に道徳が行き渡ったからこそ、武士道が成立したともいえるだろう。父親は、男として、そのような妻であり女のために、また自分の子の母親のために働いたのである。 家光の教育係りが春日の局であったように、名だたる将軍の教育係が乳母であることからこのことが伺えるだろう。 女性が男性と同じように、自ら稼ぐような存在となって、社会進出したために、子供の徳育という面の教育を行う人間がいなくなってしまったのである。現代でも道徳を教える乳母のような教師制度を構築するか、身分制度を改めて考え直す必要があるだろう。 男女の愛も欲望の虜となり、物欲に変わりつつ昨今であることは確かだろう。男女の愛は死んだといわざるをえない!男女の愛は実際、死んでいるのだ!だから、同性愛も生まれてくるのかもしれない? 男という生き物は、美しいものに死を捧げるのである。昨今の誰が、つくられた、美しくもない動物のようなものに、命を捧げるだろうか? 武士道とは死ぬことにみたりと葉隠れは語るが、武士道を武士道に足らしめる死は、美のなかにある。
2006年03月27日
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勝海舟は、氷川清話のなかで語っている。 国が乱れると金が入用「世の中は議論ばかりでは行かない。実行が第一だ。国が乱れてきたら、誰がこの日本を背負うだろう。国が乱れると、金が入用だから、今のうちに金で貯えるのが大切だよ。しかし、あまり急ぐと邪魔が出るから、いつ松を植えたか、杉を植えたか、目立たないように百年の大計を立てるが必要さ」 とどのつまり、議論なんか何遍やっても、相手が悪い、自分が正しいとノボセ上がっている連中が喧々諤々騒ぐだけだというわけだよ。そんなに、正しいと思うのなら、試しに自分で実行してみればいいのだ! 実行する気概もないくせに、他人のやることを、ああでもないこうでもないなんていえる無責任さは、一体どこからくるのだろうか?そんな時間があるのなら、少しは手伝ってやったらどうなのだ!手伝ううちに、自分の思うようなところにもってきたらよいだろう。 この世の中、岡目八目で、他人の打つ手の不味さは、よくわかるもんだろう。他人の欠点探しほど容易いものはない。それは結局、自分が一番素晴らしいのだという思い込みを正当化する利己主義、エゴからくるものだからである。 他人が打つ手がどうしてそうなったのか?を考えた方が、まだ随分とマシだろうよ。批評家なんか、「そうですね、あなたは偉い。正しい」と言ってやれば、猫に魚をくれてやるのと、同じような他愛もない戯言と同じだろう。自分が可愛くて、かまってほしくてたまらない愛に飢えた子供と同じだといってよかろうね。聞かされる方はたまったもんじゃないな!ストレスが溜まるばかしだ! 公共の電波で、このようなことを垂れ流しされれば、誰だって、ストレスがたまって、皆、他者の粗探しをはじめて、批評家になってしまうだろうよ。そして、自分だけが可愛い奴ばっか増えて、自分しか入らない器量の小さい者だらけになってしまうだろうよね。他者を入れることができてはじめて、大人となるのだよ。
2006年03月27日
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前回は、7つの封印を解くのが、7つの手紙を送った主である、キリスト=イエスであることを、書きまとめた。では、なぜ、キリスト=イエスが、7つの封印を解く資格があるのかを改めて、書きまとめる。大抵の手に入るヨハネ黙示録では、「巻物」と書かれているが、原典では、それは「本」であるという、原典の聖書のなかで、「本」という言葉は、ごくわずかしかみられないという。 その「本」の意味は、「本」というよりも、所有を表す、土地台帳の意味に近く、旧約聖書では、血を通して受け継がれる系統を記録する文書の、意味であるという。年代記とか、歴史という意味で使われるのが、「本」という言葉だという。現代のコンピュータの世界でいえば、ログファイルであり、ワェブログ、つまりブログのことだろう。 聖書の世界と、コンピュータの世界は、非常に似通っているように思われる。コンピュータの世界は人間が創造したように、この世は、神々が創造したと思えば、なんとなく辻褄があってくるのだろうか? さて、黙示録で記されるところの、この本(巻物)には、7つの文化期を通して、人間の自我のなかに、書き込まれ、人間の魂のなかに書き込まれたもの、つまり、諸文化期を通して、人間が霊的に到達したものが、書き込まれているという。 その本(巻物)の封印を解くに相応しい人物は、創世記5章1節にある、「これは人間の系統の「本」である。神は人間を創造し、人間を神の似姿につくり、彼らを男と女に創造した」にある、神に値するのに相応しい人物で、この1節の「本」は、第1福音書の第1章にある「これは、アブラハムの子、ダヴィデの子、イエス=キリストの誕生の「本」である。」の「本」の言葉に受け継がれる形となっていて、神に相応しい存在がイエス=キリストであるという暗示になっているという。 そして、それは、黙示録において、子羊のみが7つの封印のある本を開くのに相応しいという「本」によって、子羊が、キリスト=イエスの存在そのものであることを、意味するという。子羊は、しばしば、キリスト=イエスの象徴の像として記述されるという。黙示録の7つの手紙では、キリスト=イエスが、7つのイメージにより語られているが、それは諸文化期の特徴から、イエス=キリストのイメージに相応しいものとして、黙示録の著者である、秘儀参入者が、みたそのままを表現しているという。 キリスト=イエスが、人間の魂に、7つの手紙を送り、7つの文化期を生じさせて、人間の魂に、7つの封印を刻むのだから、その7つの封印を解くのは、人類の系図の主である、キリスト=イエスこそ相応しいということなのである。「本」という言葉は、その人類の系図が、キリスト=イエスに繋がっていることを意味しているのである。 だから、人類である者、人間であるものは、キリスト=イエスを通して、進化しないものはないということなのである。コンピュータの世界でいえば、キリスト=イエスのログの記録を持たない、あるいは、ブログをみない者は、人間として、進化することはできないということになる。 だから、キリストは「私を通してのみ、父(神々)に達することができる。誰も、私を通さずして、父に行くことはできない」と言ったのだという。キリストを通さない人間は、獣になるしかないというのが、黙示録の語るところでもある。 なので、キリスト=イエスのみが、7つの封印を解くに相応しい存在であるという。 さて、キリスト=イエスが、次の時代に、7つの封印を解くとき、人間は、7つの文化期のなかで、7つの手紙から、霊的に到達するものが、万人の万人に対する戦いのあとに現れるという。 これは、人間が、人間であるための資格試験のようなものだろうか? 我々のポストアトランティス時代の、第1文化期である、古インド文化期に、物質界から目をそらし、まなざしを霊的なものに向けたことを通して、その復唱(復活、再生)として、万人の万人に対する戦いのあとの、次の第6の時代のはじめに、物質的で、感覚的なものに打ち勝つという。第1文化期の古インド文化期の体験を通して、魂のなかに、書き込まれたものを、自分のものにしていればしているほど、勝者となるという。 次に、第2文化期である古ペルシャ文化期の、古ペルシア人による物質の克服が現れるという。剣は外界に対する勝利のための道具を意味するという。 そして、次はバビロニア・エジプト文化期に習得した計量法、正確な測量が、現れるという。それは秤で表示されるという。 万人の万人に対する戦いの後の、4番目には、最も重要な、キリスト=イエスの出現を通して、我々が第4文化期に習得したもの。霊的な生命、自我の不死が示されるという。このときに、不死に適さないもの。死に捧げられたもの全てが示されるという。 このように、我々の7つの手紙の時代に準備されたものが、万人の万人に対する戦いの後、次の7つの封印の時代に、現れるという。そのとき、地球は現在の物質性を失い。もっと微妙で、繊細なアストラル体になっているという。そのとき、現在の地球のエーテル体のなかに活動する、キリスト=イエスの働きをみるという。 つまり、物質性が失われたときに、エーテル体の中で活動しているキリスト=イエスの復活を目にするのだという。聖書に書かれているキリスト=イエスの復活は、物質体ではなく、エーテル体で、いまでも雲(地球のエーテル)に乗ったように活動する存在のことを指すという。だから、秘儀参入法により霊眼を手に入れた秘儀者は、キリスト=イエスの復活をみることができるのだという。 キリストの弟子たちが、キリストの復活をみれたのは、キリストが地で活動したときに、弟子たちに、秘儀参入を通じて、いずれ霊眼を有するように、準備していた結果だという。
2006年03月27日
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前回は、太古の霊的な人間が、馬という動物を、自らのなかから、分離することによって、知性を獲得したことを、書きまとめた。来るべき、我々のポストアトランティス時代の終焉の、万人の万人に対する戦いの後に、知性に霊性が加わった、叡智を獲得するために、人間は、666と呼ばれる獣を、自らのなかから、切り離すという。 ケンタウロスの像はその象徴であるという。 現代、我々が生きている、ポストアトランティス時代は、古インド文化期、ペルシア文化期、エジプト文化期、ギリシア・ローマ文化期と、太古の秘儀参入者の教え、指導の基に、文化を創造し、継承し、我々は輪廻転生しながら、その教えを学んできたという。 それらの時代に学んだことが、いま、我々の魂のなかに生きているという。その魂のなかに刻まれたこれらの教えを、黙示録は、7つの文化期から、魂に刻まれる教えとして、7つの封印と記すのであるという。 今日、それらは、まだ、外的には現れていない。これらの封印は、最終的に、我々の時代の終末期の、万人の万人に対する戦いの後に、解かれるというのである。つまり、次の第6の時代に、魂に刻まれた7つの文化期の教えである、7つの封印が解かれるのであるという。 それらの封印は、我々が現在、第5文化期(ポストアトランティス文化期)の物質文明に生きている間は、いまだ5つの封印でしかなく、人間の魂は、物質以下の奴隷状態に、文化期が下降、堕落しているのだが、これから、第6文化期(ロシア文化期)のフィラデルフィア(友愛)の教区、第7文化期(アメリカ文化期)のラオディキアの教区の、アーメンが統治する文化期になるにつれ、7つの封印を魂に刻んでいくことになり、しだいに、人間の顔に現われる人類共同体が、発展していくという。 万人の万人に対する戦いのあと、まず、古インド文化期に学んだものが、顔つきに現れ、次に古ペルシア文化期に学んだものが現れ、このように我々の時代に、段階的に学んだ霊的な教えが、次の時代の、人間の顔つきのなかに現れてくるという。だから、黙示録でいう666の獣(悪人種)の刻印と、777の人間(善人種)の刻印の2つの人種に分かれるという意味が明らかになるだろう。 我々の時代(ポストアトランティス時代)を貫いて響く、キリスト原則の呼び声を聞いた魂は、7つの教区への手紙に暗示されたことを、超えて生き、7つの文化期が与えるものが魂のなかに据えられるという。7度、魂は封印され、それぞれの文化期が、魂に封印を押しているという。 古インド人が魂のなかに書き込んだもの。ペルシア人、エジプト人、ギリシア人、ローマ人が、魂のなかに書き込んだもの。そして、我々の第5文化期が、魂のなかに書き込んだもの。やがて、第6文化のロシア人、第7文化のアメリカ人と、それらが、魂に書き込んだものが、魂のなかに封印されていくという。 我々の時代に、手紙を送った人物が、次の時代に、その手紙の封印を解く資格を有するのであるという。 来るべき、次の時代に、人間の魂の7つのその封印を解く資格があるのは、我々の時代に、人間の魂のなかに、7つの手紙を送ったものであるのは、正統なことといわねばならないだろう。 人間の進化を、正統な人間らしさを、もたらしえるその人物とは、キリスト=イエスであり、宇宙から人間の進化を指揮している天使(形態霊)であるという。 つまり、簡単にいえば、キリスト=イエスが、宇宙から、人間の進化(神々へと人間を導く)を指揮するために、人間の魂に、7つの手紙を送り、人間はその7つの手紙を、魂のなかに、封印し、いわば、こころのなかにしたため、次の時代に、その封印を解くのが、手紙を送ったキリスト=イエスであるというわけなのである。 我々の時代に、万人に平等に、7つの手紙を送るための、宛先、いわばメールアドレスを、個的な魂のなかに、自我として開き、そこに、手紙を送り、そのなかから、その手紙の教えを、(自我に)生かした人物のみを、自らの教えに導き、次の時代を形成していくというわけなのである。 個的な自我から、霊(無)我として、発展しええた魂のみを、次の地球の転生舞台である時代に、率いていくという。霊我は、マナスというが、マナスの担い手を意味する名称は、マヌ、マニである。 かって、アトランティスの大破局(大洪水)のときに、人類を指揮したものは、ノアであったといわれるが、ノアの別名は、マヌ、マニなのである。 万人の万人に対する戦いは、その為に、必須で必要なことなのであるといえる。友愛を成り立たせるため、悪を救うのが、真の善であるために、それは予定されたことなのである。我々はただ、手紙の教えを生かすしかない。手紙に書かれていることは、友愛であるので、それは至極尤もなことといわなければならないだろう。 とどのつまり、汝の敵を愛せ、隣人を愛せ。ということである。 ただし、それは愛さないという自由をも赦せるほどの愛でなければならない。ということである。
2006年03月25日
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神秘学では、神々(天使)のなかには、民族霊と呼ばれる神々(天使)がいるという。民族霊は、民族に、霊感を与え、指導しているという。また、民族霊を指導している神々(天使)に、時代霊という上位の神々(天使)がいるという。時代霊は、それぞれの民族霊に、宇宙の進化に沿った、その時代の霊感を与え、指導をしているといわれている。 このように、あらゆる現象の背後には、これらの神々(天使)の導きが隠されているのである。だから、人間がゆめゆめ、独力で事業をなしたと錯覚してはならず。また、自らの責任を、これらを含めて、他の責任に転嫁してはならないのである。 日本のプロ野球代表が、世界一になったからといって、日本の野球が独力で成したと思ってはならない。実際、隣国の韓国には負け越しており、メキシコに助けられて、準決勝に進出できたのを忘れてはならない。 まさに、「勝って兜の緒を締めよ」である。 冷静に考えてみれば、米国の独り善がりの皮算用が、自ら墓穴を掘っただけであり、「棚から牡丹餅」といってもよいであろう。米国は、これから益々酷くなるであろう。確かに表面上は物質主義を謳歌しているが、内実は、他国をいわば物質的に植民地にして、曲がりなりに成り立っているだけで、内実は、ほとんど死に絶えているのである。それが今回のような、独断と独善的な運営、ならびに、机上の空論を用いて、墓穴を掘ったのである。 いうなれば、今回のWBCは、米国の独り負けの感が否めないだろう。 米国はこれからも益々世界から孤立し、嫌われていくだろう。他を力により支配しようとする者は、内面の精神に、他から怨念を生むものでしかない。覇道は行き詰るときが必ずやってくるのである。反動勢力が、内側から現れるだろう。それを取り締まろうとして、益々、情勢は疑心暗鬼に陥り、信頼がなくなり、悪化の一途を辿っていくのである。 実際、現在の米国は不自由で、差別的で独断的である。 精神を愚弄するものは、精神により内部崩壊させられる。 日本は、このような米国に追随するのではなく、また、あまりに民族主義的になってもいけない。もはや、過去の伝統や文化は過ぎ去った走馬灯であり、執着心を生むものでしかないのである。 世界一になれたのは、ただただ、真剣に、真面目に、グランドの上で、団結力を持って、事に当たったという精神性が、相手よりも優れていたのである。そのような精神性に、勝利の女神が、霊感を与えたに違いないだろう。奢ることの無い、その純粋な精神を大切にするべきである。 確かに、世界一となったことは、日本人に自信を与えただろう。だが、そこから、日本の野球が優れていると考えるのは早急な結論で、何事も真剣に全力で、取り組めば、プロもアマも、民族の優劣もなく、勝負の差もないということを示したことであったに違いないだろう。 最後は精神力がモノをいうのである。 いまこそ、日本人は、政治や経済に関しても真剣に全力で取り組むべきではなかろうか?昨今の国会やM&Aのどこに、真剣さや全力さを感じられるといえるだろうか?それらは、騙し騙されあいの、米国の二流以下の誤審が常習化している審判の行為そのものではないだろうか? 日本の政治や経済は、ボブデービッドだらけだといえるだろう。だから、偽メールなどにひっかかり国会を空転させたり、これらは与党野党の両者お互いの責任問題だろう。また、ホリエモンのような虚業張ったりだけの人物に、人々の生活がかかっている会社を乗っ取られたりするのだ! 周りが誤審だらけでは、危なくてプレーなどとてもできないだろう。いまでは、馬鹿で単純という悪い意味の、ヤンキーが、かって、米国の褒め言葉だったように、かっての褒め言葉の、侍が、冷酷で、組織奴隷のサラリーマンを意味するようにならないように、注意するべきであろう。 真の侍とは、自由と愛に生きる存在であるように思われる。 米国はカネに目が眩み、堕落の一途を邁進するが、日本はそれに付き合ういわれはないだろう。日本の精神性をいま再び取り戻すべきである。
2006年03月24日
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前回は、人類進化の偉大な真理である、魂の進化と人種の進化を区別し、いかなる魂も不当に、古い体にとどまってはダメで、前進しなければ、万人の万人に対する戦いを超えて、今日とは、全く異なった、新しい体のなかに、受肉することができないことを、書きまとめた。 今日の体(人間)が、アトランティス時代とは、全く異なるように、我々のポストアトランティス時代の終末の大破壊、破局である、万人の万人に対する戦いのあとの、人間は、全く異なった形姿をとることが、黙示録でいわれているところである。 今日の人間は、ある点で善悪を隠せる肉体を有しているが、万人の万人に対する戦いのあとの人間は、もはや善悪を隠すことができずに、顕になるという。肉体がなくなるので、こころ(魂)がそのまま剥き出しになるのだという。 現在では、悪党が善人の振りをしていられるが、我々の時代が終わると、悪党と善人の二種に分かれるという。今日の魂の内奥が、顔に現れ、額に書き込まれるという。それが悪党の数字の666か、善人の数字の777かであることが黙示録に書かれているところのものである。この666、777は単なる数字ではなく、宇宙の霊体の進化の状態数を表していて、666は、進化に反する状態を表し、777は進化に準じる状態のことをいう。 人間は666を超えて、777に進まなければいけないのである。 今日において、精神生活に従い、魂を霊的に高貴にするものは、次のフィラデルフィアの教区である、ロシア文化期に、友愛を発揮して、次第に善人としての姿形を現すようになり、精神生活を省みずに、背を向け、物質世界にエゴを向け、利己主義に埋没するものは、その次のラオディキアの教区である、アメリカ文化期に、人類進化を遅滞させ、進化に対する反動的な力を保持する者になり、悪人らしさを現すようになるという。 そして、この現象が、万人の万人に対する戦いのときに、はっきりと表に現れるようになっていくという。その後に、肉体は取り払われ、魂が顕になり、善人と悪人に分かれるというのである。 このことは、地球のこれまでの進化を振り返るとわかるという。地球紀のはじめ、人間だけがはじめに生まれた存在だったという。そのとき、まだ人間は全くの霊的な存在だったという。この霊的な存在から、次第に物質的に、粗雑に、硬化し、下降していったという。 それはいわば、水が氷になっていくことで、説明できるという。水の1部が氷に結晶化し、この過程が何度も繰り返されるとすると、水のなかで氷が固まれば、どんどん氷の塊は大きくなるが、氷になったとたんに、水から離れると、氷はその大きさにとどまることになる。 進化とはこのようなもので、水を霊的母体だとすると、長い間、霊的母体(水)のなかで、結晶化した水、すなわち大きな氷が、人間であり、結晶化してすぐに、氷として、霊的母体(水)から離れた氷が、低級の動物であるという(なんだか、ここに、人間が、「霊長類」といわれる由来があるような気がしてならない。低級動物は、霊短類とはいわないだろうが…)。 低級動物は、あまりに早く霊的母体から離れたために、それまでの進化段階にとどまることになったという。人間は、霊的母体のなかに長くいたので、進化を前進することができたわけである。そして、人間は最後の段階まで、待って、霊的母体から離れ、肉体形姿のなかに下ったという。 だから、動物は、人間の一分枝であるともいう。 太古の霊的な人間は、霊的母体と一緒に、獣性を自らのうちに宿していたわけなのである。濁った液体から、濁ったものが沈殿するまで待つと、純できれいな部分が、上部に残るように、人間が今日の進化段階に必要としなかった濁った部分が、動物の形姿として、沈殿として析出したのであるという。 人間は、自らのなかから、動物の形姿として、進化の歩みから、それを投げ出すことによって、今日の進化の高みにいるという。ある意味、人間は進化のために、動物を犠牲にしたともいえる。 次の時代に、人類は再び、人類のなかから、悪人種が現れて、それを霊的に分離することによって、善人として上昇するという。このように書くと、非情のようにみえるが、悪人種は自らが悪を好む性質に因るゆえに、悪因悪果であり、改心して、善因善果に転じればよいのであるから、いわば自業自得なのである。 また、そのとき善人は、善として現れようとも、それは、いまだ改心できない悪人を救うために、善人になるのであって、自らが善人になるために、善人になるのではない。善を目的として善を成すのではなく、悪を救うことが善になるのである。 このように、人間は、魂を純化、浄化するために、魂のなかから不純な、低次のものを、動物の形姿として分離してきたという。だから、動物界のなかには、人類が、かってもっていた魂の名残りが見い出せるという。 例えば、我々のポストアトランティス時代の、古インド文化期から、現在までの、5つの文化期では、魂のなかから、知性、理性の、2つの能力を開発、発展させ、進化させることが目的であるという。アトランティス時代には、この知性と理性はみられなかったという。アトランティス人は、記憶力などの魂の能力はあったが、知性を発展させ、目を外界に向けることはできなかったという。 では、なぜ、人間は、魂から、そのような知性と理性を発展することができるようになったかというと、ある動物を、形姿として、分離し、魂を純化、浄化することで、できるようになったという。 その動物は、「馬」であるという。 「我々の周囲に、馬という動物がいなかったら、我々は決して知性を有することができなかったであろう」という。 ある種の人種と馬の関係は、男女両性の間の愛の感情と比較できる感情でもあるという。 ケンタウロスのような馬と結びついた人間の芸術的な作品像は、かって知性を有する以前の人間の姿を意味するものだという。 ケンタウロスのような人間が、馬を分離することで、知性を有する人間となったことが、進化の意味を込めて描かれているという(日本語の馬鹿は、ここから来ているのかもしれない?魂の知性の無い部分を背負った動物が馬や鹿であるという意味なのかも…)。 この我々の時代初頭の、霊的に、馬を放出することの、人間の知性、理性の獲得は、次の時代にも似たように繰り返され、今度は、知性に霊性が加わり、叡智を獲得するために、現在の人類のなかから、悪人類が放出され、獣となることが、黙示録に記載されているという。その獣の名が666であるという。
2006年03月23日
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我々のポストアトランティス時代と呼ばれる第5の時代の、7つの文化期が、7つの教区であり、7つの手紙で表されていることが、黙示録の筆者に意図されているところのものであることを、前回までに書いてきた。 人間は、この7つの魂の教区、文化期によって、魂を磨くことを通して、再び、無くしてしまった霊性、精神生活を取り戻さなければならないという。 我々が霊感を与える者(黙示録の筆者)の言葉に、耳を傾け、7つの星と神の7つの霊の意味するものを理解し、霊的な認識を未来にもたらさねばならないことを理解し、現代において、精神生活へと浮上する意志を確固のものにすることが肝要であるという。 黙示録で述べられている7つの手紙の時代の後に、7つの封印の時代がやってくるとされる。7つの封印の時代は、もはや、人間が物質的肉体をもたず、地球も、もはや物質世界ではなく、2つに分離し、アストラル体と呼ばれる。いわば非物質性の精神世界になるといわれている。現在の月のように、地球は、進化の遅れた物質性の衛星を切り離すという。それはちょうど、かってのレムリア時代の月分離と同じような、しかし全く同じではない事象の繰り返しであるという。 7つの封印の意味を理解するには、過去を知らねばならないといわれる。我々のポストアトランティス時代に先行する、アトランティス時代があって、我々の時代があり、そして、7つの封印で表される、第6の時代があるからだといわれる。 アトランティス時代の住民の大部分は、未熟で、進化することができず。我々のポストアトランティス時代へと移行することはできなかったという。今日のアイルランドの近くに住んでいた少数の人々が、アトランティスの最高の文化へと進化し、東に移動していったという。アトランティスの諸民族は、つぎからつぎへと、西から東へと、移動したという。北ヨーロッパののちの諸民族は、全てこの道を通って、西から東へと移動したという。 最も進化し、最高の文化をもたらした者たちだけが、人類の偉大な導師(ノア;別名マヌ)の指導下にあったという。中央アジアに、ごく少数の選ばれた人々の種族が定住し、そこから、古インド文化期、古ペルシャ文化期へと展開し発展していったという。 前にも書いたように、アトランティス時代には、7つの根幹人類がいたとされる。ここでいう人種である。このうちの第5根幹人類にあたる古アーリア人のみが、ポストアトランティスの先進的な文化を形成していったとされる。 アトランティスの人種問題に拘ると、大部分の人種が未熟で、能力を発達できずに終わり、少数の集団のみが、次の時代の文化の萌芽を、引き渡すことができたというのは、いかにも、過酷な話ではないかと思われるだろう。 しかし、人種の進化と魂の進化を、区別すればこの考えは過酷でもなんでもない。人種として進化から取り残されはすれど、魂としては、進化に沿って、時代を超えていくことができるからである。 魂は個々の人種を超えていくからである。 だから、今日、文明国に受肉していた魂も、アトランティス大陸に受肉していたとされるわけなのである。 アトランティス大陸で、少数の魂がみずからにふさわしい方法で進化し、それらの魂は、アトランティス人の体のなかにとどまることなく、魂が進化したので、より進化した体のなかに受肉することができるようになったという。 自分から結びつくのでなければ、いかなる魂も、進化から遅れた体には受肉しないという。 魂は、自らのなかに、より高次の自我を求めて、より進化するに足る体に受肉するのだという。 しかし、物質から抜け出ようとしない人種のなかに下った魂は、みずからの重さ(執着心)により、その人種のなかにとどまり、繰り返して、二度、場合によっては三度、同じ人種のなかに受肉することもあるという。 偉大な精神的救済者である導師に従わなければ、人類の目的を示す地球の使命を果たせないという。これらの偉大な精神的指導者に、耳を傾けずに、拒否していると、同じ人種にとどまり、その人種のなかにとどまる運命にあるという。 例えば、キリスト=イエスを拒否した当時のユダヤ人は、そのために、いつも同じ人種のなかに、転生し受肉するという。これがアハスエルスの伝説といわれる「永遠のユダヤ人」の意味であるという。 だから、いつもある民族に固執した思想をもつ、民族主義者は、永遠に罪深き、進化から遅れた魂を意味するのである。だから、「汝の敵を愛し、汝の隣人を愛せること」ができない魂は、いまだ進化から遅れたものの余韻を内面にもつといえるのである。つまり、進化から閉じた、自ら閉ざした魂で、だからこそ、ある民族に固執した存在であるといえる。 数学の時間が終わり、社会の時間なのにも関わらず、いまだ数学をやろうとしている愚かな行為といわざるをえないだろう。地球の時間割に沿って、満遍なく学ぶことが大切なのであろう。 つまり、人種に拘ることなく、どの人種であっても、そのなかの人間的本質を見い出しえることが重要であるということに気がつくだろう。愛の表現形態が異なってはいても、人間としての、それを表出する、愛の本質は変わらないものであるように。 何を愛するかではなく、どれだけ愛せるのかだと思われる。
2006年03月22日
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前回までに、現代であるサルディス、そして次の未来であるフィラデルフィアについて書いてまとめた。今回は、更に、その次の未来であるラオディキアについて書きまとめたい。 ラオディキアは、我々のポストアトランティス時代の最後の文化期であり、この後に、ハルマゲドンとも呼ばれる、万人の万人に対する戦いがやってくるとされる。万人の万人に対する戦いは、我々の時代に先行した、アトランティス時代の破局である大洪水の、いわば復元現象であるといわれる。 このように歴史は繰り返すのだが、まるっきり同じというわけではないとされる。それはいわば、カオスの軌跡、軌道が、元の位置に巡ってはくるが決して同じ点ではないことと、よく似ているといえる。 だから、ある意味、預言者は、予言を行え、この黙示録のように、預言書を書くことができるといわれる。 さて、万人の万人に対する戦い、いわゆる利己主義者たちによる、エゴの戦いの一歩手前に、第7の文化期である、ラオディキアの教区が予定されている。それは、アトランティス時代の第7文化期とよく似たものであるが、決して同じものではないとされるものである。 アトランティスの第7の文化期の末裔が、いまの中国民族であることは、以前に書いたところのものであるが、我々のポストアトランティス時代での、第7文化期、ラオディキアの教区は、アメリカ文化期とも呼ばれている。 この文化期には、多くの人類が、かってアトランティス時代の第7文化期のように、いわゆる、なまぬるい状態になっているといわれる。なまぬるいとは、宇宙の進化に関心も無関心もない、どっちつかずの、ただただ現状に満足し、安定に埋没する、連中のようなものだといえるという。 精神性も物質性も、求めずに見い出せずに、いわば、意志薄弱性の現状維持に埋没するような性質の人々といえるだろう。そのような人々は、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない。」と言っているが、実は、それが単なる精神の、なまぬるい状態であり、魂を磨くことなく、ただただ、無駄な人生を送って、宇宙の進化から逸脱していることに気がついていないだけだというのである。 だから、アーメンたるキリスト=イエスが言う。 「私は、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、汝を口から吐き出そうとしている」と。 アーメンとは、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいものを吐き出した後に、真の最終的な存在を有する存在のことである。 つまり、善でなく、悪でなく、善でも悪でもない、なまぬるい状態を全て吐き出して、全てが善に変わり得る最善の初歩的で究極的な存在のことである。アルファでありオメガである存在が、アーメンなのである。 だから、この文化期までに、霊性を見い出し、精神生活を志す少数の者は、偉大な導師のもとに集まり友愛活動を実践していくといわれる。このような精神の少数の人々は、なまぬるい連中からは区別され、来るべき次の第6の時代の愛の建設の為に、準備されるという。 第6の時代は、友愛を基調とした、愛の建設がなされなければならないからであるという。第6の時代のその前に、万人の万人に対する戦いが来る。なまぬるい連中も、アトランティスの人類が生き残ったように、この戦いを生き残ることができるが、なまぬるい状態で留まるようなら、友愛の精神に乏しいので、第6の時代の文化に寄与することができないという。 万人の万人に対する戦いの後、地球は物質性を失い、アストラル体の状態になるという。だから、こころが剥き出しになるという。こころが姿形となるので、悪のこころがあると、そこに獣性が現れるという。 だから、黙示録のアーメンたるキリストは言う。 「私から火で精錬された金、身につける白い衣、目がみえるような薬を買いなさい」と。「私は戸口に立って、戸を叩く、求める者は、戸を開けなさい」と。 火で精錬された金とは、錬金術でも有名な金のオーラのことである。金のオーラを放つようになるには、自我がアストラル体を、完全に制御できなければならない。秘儀参入でいわれるところの、アストラル体を浄化し、いわゆるマナス(霊我)と呼ばれるものを手に入れることである。 つまり、キリストは、「私の言ったことを守り、自我で浄化した、金のこころを保て」というのである。 身につける白い衣とは、浄化されたアストラル体による、清いエーテル体のことであろう。いわゆる、白魔術師になれということである。白魔術師とは、他の幸せの為に働く者である。白い衣、いわゆる白衣は、そのような清い愛の犠牲の行為、エーテル体を現す。 つまり、キリストは、「私の行ったとおりに行い、愛の奉仕活動で、命を清く保て」というのである。 そして、目が見えるような薬とは、お釈迦様が言う蓮華(チャクラ)であり、霊的感覚器のことである。秘儀参入では、開悟のことである。人間は、肉体を無くすと、肉体に目や耳の感覚器があるので、目や耳が聞こえなくなる。だから、エーテル体に、感覚器をつくらないと、目がみえない。 つまり、キリストは、「私は、戸口にいて、門を叩いている。汝が、戸を開けるなら、入って食事を共にしよう」と言うが、それは、「私は肉体では見えないが、エーテル体で存在していて、汝の肉体を、地球という物質体で、叩いているのだが、汝は、こころの目(蓮華)をもたないために、気がついていない。だから、汝が肉体を離れ、失ったときに、私を見い出せるならば、私はいつでも、汝の進化のお手伝い、助けをしよう」と言うのである。 古代の秘教学院には、3つのクラスがあり、1つ目は、認識の発展であり、秘教家であった。これは、いわば火から精錬された金であるだろう。2つ目は、感情の発展であり、医者であった。これは、いわば白い衣であるだろう。3つ目は、意志の発展であり、魔術師であった。これはいわば、目のみえる薬であろう。これらのことが、ラオディキアの教区での、人類の課題なのである。 そして、第4のクラスとして、それら3つの力を統合し、調和する力が発展されたという、これこそキリストとともに食事をすることの意味であろう。 第7文化期に、これらの力を、魂のなかに養成しないといけないという。
2006年03月21日
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我々、野球野郎世代にとっては、非常に嬉しい正真正銘の世界一である。野球は筋書きのないドラマというが、今回のWBCは、正に筋書きの書きようのないドラマだったといえる。 アメリカが、その筋書きを書こうとした目論見は、まるっきり、当てがハズレ、全て裏目に出て行ったというか、あからさまに露見したともいえるくらい、特にアメリカチームの弱さも際立ったのが特徴だった! つまりアメリカの筋書きを超えたドラマだったといえる。逆に、日本には天から地に落ち、また地から天に這い上がらんばかりの筋書きのないドラマ性を与えた。 イチローの30年発言による韓国チーム奮起 大リーグを降格されたボブデービッドソン審判による誤審事件 日韓三度対決 メキシコチームの誤審による発奮 本命アメリカチームの予選敗退危機及び2次リーグ敗退 本命大リーグドミニカ軍団を破ったアマチュア最強キューバ軍団数え上げたら切りが無いが、とにかく総じて、年棒や肩書きとは関係のない真剣に、グラウンド上で、集中し懸命に全力を尽くし、努力したものが、勝ち取れる大会だったような印象が残った。真のスポーツマンシップ、スポーツ魂、精神を見たような気がする。今日も朝からTVに釘付けで、とりあえず、日本チームに感謝したい。
2006年03月21日
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我々が生きる現代の、サルディスの教区への手紙について、前回、まとめた。端的にいえば、現代人は、あまりに物質主義に陥り、利己主義になってしまったので、もはや、霊的には死んでいるといわれるのである。 霊的に死んでいるとは、自己を向上し、切磋琢磨し、他者に愛を与えるような存在から、堕落して、自己の利益ばかりを求め、他を省みない、エゴイストのことであるといってよいだろう。 エゴイストは霊的に死んでおり、宇宙の進化から取り残されざるをえない。 利己主義や自己愛は、低次の自我であり、物質や周囲の環境に執着することから、生じるとされる。この低い自我を、霊的に、高次の自我に向かわせないと、人間は、最後の審判の日に再び、獣へと戻されるというのが、黙示録の趣旨である。 現代人のほとんどが、このように、いわば霊的に死んだ状態なので、第1の死といわれる、肉体の死を、非常に恐れるという。エゴイストは、肉体の感覚器に依存してしまうので、肉体が死んでしまうと、それに依存していた自我(自己認識)が、建築物が土台から崩れるようにして、路頭に迷う存在と化してしまうのである。 幻を追い求めて、彷徨うことになる。もはや消えてしまい、崩壊してしまった砂上の楼閣を、当て所も無く求め、その欲望、欲求に苛まされるといえよう。 お釈迦さまは、人生を苦と説き、この苦を克服するために、八正道を説いたが、人類は、この八正道を、この地球紀の間に、実践し、魂のものとしないと、人生が苦ばかりでなく、魂そのものが永遠の苦となるのである。肉体を有する人生は束の間の苦であるが、その束の間の苦を克服しないと、永遠の苦へと埋没してしまうのである。これが第2の死である。 人生の苦を、愛をもって克服せよ。汝の敵を愛し、隣人を愛せ。 そうすれば、肉体の死に臨んで、苦を感じることなく、かえって安らぎを見い出すだろう。そうすれば、肉体の感覚に囚われることなく、肉体を棄てた後に、霊的に生きることを知るという。そして、キリストに出会うという。キリストは、第2の死への克服法を教えるという。第2の死は、第1の死を克服したものに、与えられる試練でもあるという。第1の死の肉体の死のあとに、キリストとともに歩む者は、もはや第2の死を感じないほどに、愛に目覚めるという。 その話は、いずれまたまとめるとして、次の教区である、フィラデルフィア(友愛)の教区、我々の第5文化期(ポストアトランティス文化期)後の、第6文化期、別名、ロシア文化期をまとめることにする。ロシアと呼ばれているが、とくにロシアが中心ということではなく、第5文化期において、霊性に目覚めた、世界中の少数の人々が、友愛活動の基に、文化を再び上昇させていくことをいうらしい。 第5文化期までは、文化はいわば下降してきた。第5文化期の中頃から、再び、かってあった霊性に目覚め、上昇しはじめていくということが、黙示録で語られているところのものであるという。 このように、第5文化期(ポストアトランティス文化期)に、精神生活へと、再び上昇し、正しく道を歩むことを知り、この道を進むならば、第6文化期のフィラデルフィアの教区に、自由に愛を他者に捧げることができるようになるという。 個的な自我を見い出し、自らが望まないときは、外的な力が、働きかけることができないように、自らを閉じることができ、このように、閉じることができると、自らの意志を無視しては、誰も開けることができないようになるという。そして、自らが開けるときは、どのような力によっても、閉じることはできないという。これが「ダヴィデの鍵」のことだという。 この「ダヴィデの鍵」とは、高次の自我のことに他ならない。 この高次の自我を、自由と愛のもとに開けよ。自らの意志により、開ければ、高次の自我は、他の誰にも閉じることできない。また、自らの意志により、閉じれば、誰も、その高次の自我を、開けることはできない。 高次の自我を開けたり閉めたりできるのは、まさに、自我そのものの、愛と自由の行為、実践にかかっているのである。 だから、ダヴィデの鍵をもつキリスト=イエスはいう。 「わたしはあなたの前に、門を開けておいた。この門は、誰にも閉じることはできない。」 キリスト=イエスのゴルゴダの秘儀(十字架刑)を知り、体験をイメージすることにより、人間のなかに、愛と自由への高次の自我の門が開かれたのである。 誰でも、この愛と自由の門を、キリスト=イエスを通して、通過していくことができるのである。これが天国の門とされる。 高次の自我への道を、見い出しえるのは、自分のなかの自由と愛への営み故によるのである。再び、精神生活への道を見い出すことなのである。 その門を通過するには、汝の敵を愛し、汝の隣人を愛し、その他者への愛に生きることなのである。その他者への愛こそが、次の時代に、万人の万人に対する戦いの後に、悪を救う善となり、新しい神々の都である、新しい愛の都であるエルサレムを構築するものとなるという。 その来るべき愛の都の建設のために、現在はその準備段階である、物質やエゴ性ではなく、霊性であり、愛を育てるということが、次の第6文化期の課題だとされる。第6文化期、フィラデルフィアという友愛の文化こそが、かって、アトランティス時代の第5根幹人類のアーリア人が、我々のポストアトランティス時代をつくったように、次の第6の時代をつくりあげる、中心となるという。 我々はいま、霊性、精神性に再び目覚め、エゴや執着心を棄てて、次の文化期で、自分ではなく、他者の幸福を願いながら、愛を育てることが課題であるとされるのである。
2006年03月20日
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サルディスの教区とは、我々のポストアトランティス時代の、まさに我々がいまいる第5文化期のことであるとされる。 サルディスの教区に手紙を書く人物は、神の七つの霊と七つの星を持つ者である。つまり、キリスト=イエスであるとされる。 神の七つの霊とは、人間を構成する4つの身体である、肉体、エーテル体、アストラル体、自我と、これから、人間が、未来において、獲得すべき、いわゆる三種の神器の、マナス(霊我)、ブッディ(生命霊)、アートマ(霊的人間)をあわせた、7つの神の身体を表すといわれる。 人間は、いまのところ、進化によって、4つまでしか獲得していないので、中途半端な存在といえるだろう。 そして、七つの星とは、地球の転生を現し、土星紀、太陽(日)紀、月紀、地球紀(火星紀、水星紀)、木星紀、金星紀、ウルカヌス星を意味する。 人間は、地球が、土星紀のときに、肉体を得て、太陽紀のときに、エーテル体を得て、月紀のときに、アストラル体を得て、現在の地球紀に、自我を得て、自我を無我にし、アストラル体を浄化させれば、次の木星紀に、マナスを獲得し、エーテル体に刻印すれば、開悟し、金星紀に、ブッディ(生命霊)を獲得し、そして、すべてが善のもとに、悪の肉体を棄てると、ウルカヌス星という、いわば天界の星で、アートマ(霊的人間)を獲得するということが、神秘学でいわれているところのものである。 キリストは、それを前もって、我々の第5文化期に先行する第4文化期に、人間となって、見本をみせてくれたのだという。 第5文化期である、現代のサルディスの教区において、この第4文化期の霊性を再び回復するものこそ、白い衣を着るものだという意味なのである。 サルディスにある教会にあてた手紙は以下のようになる。 現代文化期にある人間の魂に告ぐ 人間の最高の進化の状態であり、宇宙の進化の法則を司るキリスト=イエスが語る。「わたしは、あなた(人間)の行いを見守っている。あなた(人間)が生きているとは名ばかりで、実は(霊的に)死んでいる。」 (霊的に)目を覚ませ。(霊的に)死にかけている残りの者たちを強めよ、わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。(人間の進化段階はいまだ中途半端な、過程のもので、これからである)。 だからどのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。もし、目を覚ましていないなら、わたしは、あなたが目にみえないうちに、あなたが眠っているように行くだろう。わたしがいつあなたのところへいくか、あなたは決して分からない。(人間が、進化へと、自らを向上しないならば、永遠に眠ったままとなるだろう。そして、ついには、私の存在をみることはないだろう。そのときあなたは獣になるのだから) しかし、サルディス(現代)には、少数ながら、衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着て、わたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちである。(エゴを棄て、利己主義に生きるのを止めるもの、他の幸せを願い、その他への愛の恩恵と共に生きるものは、自らのこころが浄化されるだろう) 勝利を得るものには、このように白い衣を着せられる。わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で、公に言い表す。(こころ、魂を浄化したものは、霊の声を聞くだろう。霊が、その魂の愛の言葉を囁くのを、天界は聞くだろう。) 耳ある者は、「霊」が諸教会(諸文化期)に告げることを聞くがよい。 (人間は、あらゆる文化期を通して、魂を磨かねばならない。魂に、この黙示録を刻印しなさい)
2006年03月18日
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我々のポストアトランティス時代に、象徴的なことが起こったとされるのは、第4文化期のティアテラの教区で、それは救世主キリストイエス自身が現れたことだと、黙示録の筆者が語るという。 キリストは、「燃える炎のような目と真鍮のような足をもった神の子」として自らを告げるという。 第4文化期に、人間は物質界に下り、外的な文化手段のなかにみずからの模像を創造し、神性自身が、人間、肉、個人となる時がやってきて、人間が個人の段階にまで下り、ギリシアの彫刻が個体化された神性を個人として表し、ローマ市民が個人というものを世界に登場させる時代が到来したという。 この時代に、神性が人間の形姿のなかに現れることによって、下降した人間に、神自身が人間として現れることによってのみ、救済がなされるという。 「我あり」というアストラル体のなかの自我が、キリストイエスの神性を保管しなければならないとされる。 「我あり」という自我が、世界史の外面に現れ、「全ての教区は、心臓と腎臓を試す「我あり」を知るべきである」といわれる。 「私が父から受け取ったように、明けの明星を与える」 明けの明星とは、神秘学では、水星のことだという。俗に金星と流布されているが、それは中世の秘教家が、秘密を守るために、金星と水星をわざと入れ替えたのだという。なので、俗世で金星と呼ばれるものは、実は水星のことだという。ちなみに仏陀も水星の人と呼ばれる。 では、水星は何を表すのだろうか? 地球紀は、前半を火星紀、後半を水星紀と、神秘学では別名で呼んでいる。そうすると、地球の転生が、土星紀、太陽(日)紀、月紀、火星紀、水星紀、木星紀、金星紀と、1週間の順で現れるのがわかるだろう。 火星は、力(能力)を与えるいわば太陽紀の地球への贈り物、水星は、叡智を与えるいわば月紀の地球への贈り物とも呼ばれる。地球紀は、太陽紀と月紀のこの力と叡智を融合して、愛を育むことが目的だとされるのである。 水星は、この叡智に力を統合する愛であり、霊的に上昇する力なのである。水星は、進化の方向を示す星であるとされ、我々に方向を与える力であり、人間が把握すべき上方への方向として、我々に現れる星なのである。 だから、仏陀は水星とも呼ばれるのである。 地球紀の前半の火星紀において、人類は物質界に下るほどの自我を手に入れた。かって人類は、「我あり」の存在ではなく、まず集団があり、民族のなかで、その手と足であった。血縁が全てで、民族長がただあった。集団自我のなかに自我があった。その名残りが、いわば国家である。 その集団自我のなかから、「我あり」が芽生え、独立が起こった。太古では、人間は霊的な世界に生きていたので、民族のなかに生きることができたが、物質世界に下るにしたがって、個人の記憶が形成され、周囲がみえるようになり、個人的な自我が芽生えてきたのである。そして、集団自我からの独立が起こり、同時に自由意識も芽生えた。 これを芽生えさせたのは、物質への憧れ、誘惑であり、その背後に、悪魔ルシフェルの影があった。黙示録で書かれている預言者と称して人を騙す女のことである。この女のする淫らな行為に従ってはならない。この女と、サタンは、悪の両極端に存在するのである。 悪魔ルシフェル(デーモン)と悪魔アーリマン(サタン)は、悪の両極に属するものなのである。だから、お互いが悪を尽くすと、そこに均衡が保たれる。だから、キリストは、「わたしはあなたに、悪魔のように重荷を負わせない」と語るのである。 悪魔は、自分たちが、人間の自我を支配しようとするために、人間に、自我を与えたのである。だから、悪魔は、自我に重荷を背負わせようとするのである。 自我に重荷を背負わせ、重力を課するのである。自我は、物質世界に惹かれ、魅了されると重みを感じる。そして、下降するのである。 光に重みが課されると、闇になり、下降する。そして、それはエゴとなし、物質世界のなかで、利己主義と化す。そうすると、その人間は、進化から逸脱し出すのである。 これら、集団から独立する自由な自我は、宇宙のなかの存在としては、本来必然のものなのである。しかし、悪魔が、早まって、支配するために、人類に与えたのである。神々はそれをご存知であり、うまく進化の方向に導いている。そして悪を善に転化していっている。 「わたしはあなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、近頃の行いが、最初の行いよりも優っていることも知っている」 つまり、自我が個人的なものになるにつれ、強制や、命令ではなく、自由な意志により、なされるようになる。これは、正しい進化の方向にある。ただし、悪魔の誘惑に負けなければ。 だから、この個人的自我を、「わたしが行くまで、固く守れ」とキリストはいうのである。そして、キリスト=イエスが、現れ、個人的自我が、人間として愛を表現するのを、間近に、人間は、キリストの行いをみて、体験したのであるという。 悪魔が、人間に自我を与えたのだが、キリストがきて、自我の真の使い方を教えたのである。 悪魔は、人間よ独立しろ、集団にいても、損をするのはお前ばかりだ!といって、人間を唆したのだが、キリストが来て、人間よ、お互いに愛し会いなさい、あなた方は愛し合うために、独立し、自由な身になったのだといって、悪魔の行為を無に帰したのである。 だから、キリストこそが、真の光の担い手であるといわれる。光の担い手とは、自我のことを意味し、ルシフェルという言葉で呼ばれるが、キリストこそが、真のルシフェルと呼ばれるのは以上のことなのである。 だから、悪魔ルシフェルは、キリストと自称し偽証する偽の預言者なのである。 ルシフェルは、キリストの十二の使徒のうちの裏切り者のユダのなかに現れたという。キリストはユダがルシフェルの回し者であることを知っていたという。だから「いってなすことをなせ」といったのである。ルシフェルは、人間に、自我を与え、原罪を行ったが、その基に、キリストは、その原罪を贖うように、自我の上に愛の行為の土台を築きあげたのである。 ユダが、キリストを引き渡したのも、キリストがゴルゴダの秘儀をなすための準備であったわけでもある。 悪魔は一時的な誘惑を成し闇を生じるが、全ては神々によって光に変えられるのである。悪は、よりよき善を行い、悪を救うための必然でもある。 「耳あるものは聞くがよい。勝利を得るものに、私が父からうけたように、私も明けの明星を与える。」 地球紀の前半の火星紀が終われば、水星紀、いわゆる霊性、霊的叡智、愛の地球の時代がはじまるといわれている。
2006年03月16日
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スミルナの教区、古代ペルシア文化期のあとは、ペルガモンの教区である。ペルガモンの教区は、我々のポストアトランティス時代の第3文化期である、バビロニア-カルディア-エジプト文化期のことであるという。 この教区は、人類が次第に物質界に現われ、星々の文字のなかにみずからの精神が探知するものを見た時代の人類を代表しているという。 人間は、自分の内にあるものをとおして活動し、内面を有することによって、外界を探求できるとされる。 魂を有するから、星々の運行を調べ、幾何学を打ち立てることができたという。 このことは、言葉をとおしての探求と名づけられたという。これが「口の剣」のことだという。 この時代の力は、鋭利な言葉、鋭い、両刃の剣であることを示唆していて、それは古代司祭のヘルメスの言葉であり、自然の諸力と星々を探求することに用いられた言葉であり、人間の内的な、アストラル的、心的な諸力を通して、物質界で獲得された文化だという。 この文化が、古代の形態、いわゆるアトランティス時代の自然力と融合した言葉をとれば、まさに両刃の剣だという。そして、アトランティスの破局のような終末を再び迎えうるのであり、実際に、それは、この黙示録により、万人の万人に対する戦いとなって、再び現れるという。 そのとき、アトランティス時代の両刃の剣を意味するものが、ポストアトランティス時代では、自我の存在になるといわれている。 言葉を発するものは、まさに自我であり、まさしく両刃の剣なのである。 叡智は、白魔術と黒魔術の間、至福に導くものと破滅に導くものとの間の縁にかろうじて立っているとされる。 それゆえに、この文化期の代表者が住むところは、サタンの座でもあると書かれている。これは進化の目的をそらせるものを指し、黒魔術へ、破滅へと導くものを意味するという。 「バラムの教え」とは、民族を貪り食う者の教えであり、黒魔術師の教えであるという。民族を貪り食う者、民族を荒廃させる者、自分個人のためにのみ働き、すべての共同体を破壊する者は、黒魔術師であるという。 黒魔術師は、利己主義者であり、他者が不幸であろうと、自らのみ、自分だけが、幸せであるのなら、そのことを優先し、正当化する者であるといわねばならない。 このような他の不幸を省みずに、自らの幸福のみを追求する態度は、この世でのみできる、いわば自由にすぎないのである。この物質世界である、この世では、自らが幸せであれば、他が不幸であっても、喜ぶことができ、他の不幸を蔑み、嘲ることも、その気になれば可能であるといえる。 実は、これこそ、サタンの座なのである。 もし、進化を志す人間であれば、このような態度を放棄し、棄てないといけないという。人間が神々の道へと一段階上がり進むには、他が不幸であることを喜ぶことはできず、自らのみが幸せであってはならないという感情を持つに至るといわれる。他が幸福であってこそ、自らも幸福であるという心境に至らないといけないという。なぜならば、そこに愛があるからである。 自分だけが幸せであることを正当化する態度は、バラムの教えであり、サタンの座なのである。競争に勝つことによって、自らの利己主義を正当化しようとも、それは、黒魔術師が行うことそのものなのである。いずれ、それらは、破滅へと向かうからである。 このような黒魔術師により、民族は貪り食い尽くされ、破滅へと導かれる。民族を破滅させるのは、外部ではなく、内部にあるのである。そのような事態に至ったことは、アトランティスの大破局が証明するところなのである。そのような黒魔術師が、現われ、人類は、万人の万人に対する戦いへと導かれるという。 しかし、この文化期のなかに、善なるもの、サタンの座を放棄し、内部を浄化したもの。穢れた、淫らな言葉を使わない者、いわゆる人間のアストラル体を浄化し、明るくすることをはじめた者たちがいたという。そのことが、「隠れたマナ」として記されているという。 この物質世界のためにあるものを、神の食べ物に変え、利己主義的な人のためにあるものを、神的なものに変えることを、「隠れたマナ」と呼んだという。 進化に向かうには、人間が、魂を浄化し、マナス(霊我)の担い手とすることが必要であることが、「隠れたマナ」という言葉で、象徴的に語られているという。 「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこには、サタンの王座がある。」 他の不幸を省みずに、自らの幸せに浸るもの、利己主義を正当化し、他を貪り食う者、民族を破滅に追い込む者は、サタンの王座にあるといえる。 「私の忠実な証人が、サタンが住む処で殺されたときでさえ、わたしに対する信仰を捨てなかったが、バラムの教えを奉じ、ニコライ派の教えを奉じるものがいる。だから、悔い改めよ」 神々の叡智が殺され、それより出た神々の言葉を信じるものはいたが、バラムの教えや、ニコライ派の教えを奉じ、黒魔術師となるものがいる。だから、悔い改めるべきであるというのである。 「悔い改めなければ、わたしの口の剣で、その者どもと戦おう」 つまり、悔い改めなければ、人間の自我のなかにある、神々の口の剣である、高次の自我をもってして、低次の自我と戦おうということなのである。だから、自我のなかに利己主義のものをもつ人間は、いわば、精神分裂病のような、日々悩まされる人間となるというのである。 人間のこころのなかで、神々と悪魔が格闘することになるだろう。なぜなら、その人間のこころは、闘争を好む利己主義者の舞台となっているからである。他を利己主義により貶めようとするものは、自らがそれに取って代わられる。策士、策に溺れるということだろう。 サタンの座に座るものは、サタンに絡め取られる運命にあるだろう。 自らの幸せのみを追求するものは、その自らの幸せの僕、精神分裂の囚人となり、破滅させられるのである。 「耳あるものは聞くがよい。勝利を得る者には、隠れたマナを与えよう。また、白い賢者の石を与えよう。」 自らのこころを浄化し、サタンの座を棄てた者は、霊我という器官を得て、マナスの使い手となるといわれる。霊我とは、仏教でいう無我であり、神々の叡智を、言葉ではなく、そのまま手に入れることを意味する。 我々は、自我により、こころの内面から、言葉を発するが、このこころの内面に、利己主義的なサタンの座がある。このこころの内面から、サタンの座を奪い、棄てた者は、闘争の道具としての、穢れた、乱れた言葉を使用しなくなるという。 お釈迦さまは、悪いことを行ってしまったら、悔い改めよといったが、正しくそれは、こころから、このサタンの座を奪い、棄てることなのである。そうなると、アストラル体=こころは浄化され、利己主義がなくなり、円くなり、融通無碍に、無我として感じることができる。 神秘学では、微妙で繊細な感情を有する意味になる。これこそ、マナスの意味である。微妙で繊細な精神とは、神々の叡智であり、魂の能力、力である。微細身である。魂の能力と神々の叡智を愛によって融合することが、マナ(霊我)を手に入れたことになるという。 マナ(霊我)を身につけた人間は、白魔術師と呼ばれ、白い賢者の石を手に入れたと呼ばれる。 次回は、キリスト=イエスが、現世に現れたギリシャ-ラテン時代の手紙について語りまとめたい。
2006年03月15日
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第2文化期は、スミルナの教区、スミルナの教会と呼ばれる、古代ペルシャ文化期を表すという。 そのペルシャ文化期に、人類の導師が、霊感を与えた人物に、次のように語ったという。「昔、光の神がいた。その神には、外的な物質、闇のアーリマンという敵がいた。私は、最初、この光の霊と結ばれていたが、やがて、物質世界のなかに組み込まれた。物質世界では、アーリマンがわがもの顔に活動している。私は、光の霊とともに、物質に働きかけ、物質を霊に組み込ませる。そうすれば、悪しき神性に打ち勝ち、善なる光の神性がふたたび現れる」 「私は最初であり、最後のものである。」 これは物質生活において死に、霊的な復活のなかで、ふたたび生きる者であることを示すものだという。 死に生命を与え、死を霊化することが、大切だという。 人生から、果実を得ることができなかったならば、霊的生命のなかに果実を携えていくことができない。この果実によってのみ、人は霊的存在のなかで生きることができるのだという。 果実をたずさえていなければ、「第2の死」を体験するという。 この地上に働きかけることによって、「第2の死」から救われるのだという。 だから、「耳のあるものは聞くがよい。打ち勝つものには、第2の死という苦悩は生じない。」 光の神アフラマズダとその敵の闇アーリマンの関係は、ゾロアスターにより、古代ペルシャで説かれたという。人間は、光の神から出で、闇のアーリマンと戦い、闇を克服し、光を生じさせ、霊化していかなければいけない存在であり、使命を負っているという。その行為こそ、愛であり、その愛の果実が、将来の人間をつくるのだというのである。 だから、物質的な死は、一種の仮想であり、試練なのであり、一時的なものというべきで、克服可能な障害というべきものである。物質的な死に、生命を与えるのは、人生のなかに、いかに愛をもたらしたかなのであるといえる。人生のなかに、愛をもたらさなかったものは、克服すべき死を克服できずに、第2の死という、真の霊的な死に至るという。 その真の死は、悪魔アーリマンの掌中にある。だから、人生のなかに、愛をもたらし、死に生命を与え、死を霊化すべきなのである。 「わたしはあなたの苦難や貧しさを知っている。だが、本当はあなたは豊かなのだ。」 人生に物質的な死はあるが、人生に愛をもたらすことにより、霊化という愛の果実をもたらしえる。そして、その愛の果実が、次の人生(転生)を豊かなものにするのである。 だから、苦難や貧しさのなかに、愛の果実があり、それが豊かさをもたらすのである。苦のなかに楽がある。不幸を体験することで、幸福が何であるかがわかるのである。 死があるから、生がある。人生をよく生きるものが、真の死である永遠の命を得ることができる。 「自分をユダヤ人と言うものは、実はサタンの集いに参加しているものである。」 物質的な人生で、富を得ようとするものは、実はアーリマンの手下に成り下がっているのである。闇を得れば益々暗くなり、ユダヤ人と自称し、名誉欲に囚われているものは、実は、真のユダヤ人ではなく、キリストに敵対したユダヤ人なのであり、アーリマンの集会に参加している者なのである。 我々の時代であるポストアトランティス時代に、人種という表現は、意味をなさない。ユダヤ人という人種も同じである。もし、我々の時代に、ユダヤ人と自称するものは、キリストに敵対した側についた意味としてのみ、捉えられると自覚せねばならない。 なぜなら、どんな人類も輪廻転生し、色々な人種に生まれ変わるのだから。 ユダヤ人だけに、あるいは一民族だけに、生まれ変わるというのは、それこそ、魂のなかに執着心がある証であり、魂の偏向、偏りを意味し、それこそ、アーリマンの物質性のなせる業なのである。 我々の時代に、異常な民族主義にある者は、魂が偏っているといわざるをえない。だから、実はアーリマン(サタン)の集会に参加しているだけなのである。 だから、はじめであり、おわりである光の神とともに、光の神から離れずに、愛を捧げ、この世を霊化していかねばならない。それが、人間の、神への進化に沿う生き方なのであるという。 物質に囚われることなく、物質を霊化し、生きろ 民族主義に囚われることなく、愛を捧げ、同じ人間として、共鳴共感しろ 汝の敵を愛せ、そして隣人を愛せ その愛の果実こそが、汝を築き上げるのだから
2006年03月14日
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我々のポストアトランティス時代は、前半、つまり古代インド文化からはじまり、我々の第5文化期までに、明確に、文化の下降の道を辿ってきたという。そして、更に、下降していくといわれている。 その文化の下降は、福音書に書かれているとおりであるという。 そして、黙示録の7つの教会への手紙には、夫々の文化の特徴と、キリスト教(密教)と一致する点と異なる点が書かれているという。 黙示録の筆者は、夫々の文化期に保持されるものと、もはや合致せずに、違ったものになるべきものを語っているのだという。 エフェソの教会とは、エフェソにあった秘儀参入の学院のことを意味するという。そこには、古代インド文化期を認識できるような、キリスト教の密教があったとされる。 エフェソの教会は、まるでかっての、古代インド文化が再生したそのものだったという。外的な生活には疎遠で、ポストアトランティス時代を通して、魂が身につけるべき、愛には満たされていなかったという。 エフェソでは、処女ディアナを主神とした密儀が行われ、物質から離れ、感覚的生活から離れ、霊的なものに向かう傾向が盛んだったという。 黙示録の手紙には、「しかし、お前がはじめの愛から離れたことに、私は反対する」とある。 「地上を耕地とみなし、地上に神的な種を植え付けねばならない」という、ポストアトランティス時代の第1文化期の課題である愛から離れたという。 これは、人間が外的な作業を憎み、外的な作業への愛を捨てるなら、進化できないことを言っているという。 エフェソの密議者たちは、古代インド文化期の人々のように、外的な作業への愛を捨てたという。そして、黙示録にあるように、「ニコライ派の行いを憎んでいる」という。 ニコライ派とは、この手紙が指し示す時代に、外的、肉体的、感覚的人生のなかだけに、人間にとって価値があるものを見た宗派のことだという。 だから、「お前はニコライ派の人々のようであってはならず、はじめの愛から離れてはいけない。外界への愛を持つことによって、外界に活力を与え、外界を霊的な生命へと高めることができる。」と語られるという。 これは、第1文化期の進化に必要な善き部分をもち、かつ、次の第2文化期に進むためのアドバイスであるといえる。 「耳のある者は聞くがよい。打ち勝つものには、はかない木ではなく、生命の木から食べ物を与える」 これは、この感覚界(物質界)に存在するものを、精神生活の祭壇に捧げるため、霊化することができるという意味だという。 だから、第1文化期、つまり古代インド文化期の教訓と次への課題をまとめると以下のようになるだろう。 物質世界を、幻(マーヤー)として、嫌うのではなく、また、ニコライ派のように、幻を実体だと、錯誤することなく、愛によって、幻から実体を抜き出し、感覚界を、霊化(精神化)せよ。ゆめゆめ、過去に憧れ、過ぎ去ったもの、もはや取り返しのつかないことに、執着してはならない。 文字を、愛によって殺し、霊を、愛によって生かせ。 ただ、幻だけがみえるのは、愛から離れたからであり、愛をもって接すれば、幻のなかにも、本体を見い出し、実体が浮かびあがる。 灯火が消えたのは、作為によってである。 心に火を点すことが肝要なり。 犀の角のようにただ独り歩め。 第1文化期から第2文化期に進む過程には、どうしてもどこか仏教を彷彿とさせ、感じざるをえない。 人間がこの世に生まれるのは、神々の使者として、この世を神々の地とするためである。悪を救うために、神は人間をこの地に使わしたのである。 朱に染まることなく、泥のなかから、華を咲かせよ! 真事に、仏教の言わんとすることが、黙示録にも書かれている。
2006年03月13日
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我々のポストアトランティス時代の第3文化期は、バビロニア、カルディア、エジプト文化期とも呼ばれる。 エジプト文化期になって、マーヤー(幻)のなかに、霊的なものを見い出し、人々は法則を探求しはじめたという。 エジプト人は、「神々は無駄に星々のなかに文字を残したのではない。神々は、無駄な自然法則のなかに彼らの意志を伝えているのではない。人間みずからの働きによって救済をもたらそうとするなら、星々から探求したものを地上で模倣しなければならない」と思ったという。 そして、彼らは、星々の位置と運行のなかに、星々の位置が地上に生起することがらにおよぼす影響に法則性があるのを知ったという。こうして、何千年先までなすべきことが予見され、巫女の書が書かれたという。 第4文化期は、この第3文化期の巫女の書を実践したのだという。 古代ローマ文化の起源を調べれば、このかすかな余韻を認識することができるという。アルバロンガ(長い白衣)という名の司祭文化の都市から、ローマの文化は発生していったという。そして、それはカトリックの司祭のミサの服装に、その余韻が残っているという。 人間は、第3文化期に、マーヤーを人間精神で貫くことを可能にし、第4文化期に、この行為は完成にいたったという。 エジプトの芸術には、神々の意志が見られ、そして、ギリシアに見られる物質の征服は、人間が物質存在を愛するようになる段階よりも、一段高いものとなったという。ローマにおいては、人間は完全に物質界に歩み入ったという。 そして、個体原則が完全に現われ出、ローマに法という概念が、現れたのだという。 ギリシア人は、自分を都市国家の一員と感じ、アテネ人、スパルタ人という概念の方が、個人という概念よりもずっと大切であったが、ローマにおいてはじめて、個人が市民となり、遺言のようなものが存在するようになったという。 我々は、文化が人間よりも深くまで下った時空の、第5文化期に生きているといわれる。人間が外的な状況、環境の奴隷である時代に生きているという。 ギリシアでは、精神は物質を霊化するために使われ、そこでは、人間は物質界に下ってきてはいたが、人間の下には下っていなかったという。ローマでもそうだったが、現代になって、人間の領域の下への下降が生じ、現在、精神は、物質の奴隷になっているという。 外界の自然の諸力に浸透し、この外的な物質界を人間にとってできるかぎり快い場にするために、現在、精神は用いられているという。 人間の領域とは、この世を精神という神々の意志を浸透させ、刻印する行為の場であるのだが、逆に、精神が、この世の物質世界の虜になってしまい、人間の領域以下に、現代がおかれているという。 朱に交われば朱に染まるといわざるをえないのが現代の精神が堕落した、第5文化期のいわば物質文化であるという。
2006年03月12日
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我々のポストアトランティス時代が、古代インド文化よりはじまったことを、前回述べた。古代インド人が、物質界をマーヤー(幻)と見て、そこから逃れて、過去に帰りたいと望んだのに、対して、次の第2文化期に属する人々は、物質界を自分たちの仕事の場とみなし、物質界に手を加えなければならないと、感じたという。 これが、いまから5千年ほど前の太古のペルシャ文化期の特色だという。 ペルシャ文化期の人々は、周囲の土地をまず敵対的なものとみなしたが、古代インド人のように、幻だとは見なかったという。 周囲の土地から逃れるのではなく、その土地を仕事場とし、そこに精神を刻印しようとしたという。 この時期に、ゾロアスターが説いた教えは、古代ペルシャ人にとって、非常に意味をもつ。 地上の物質は、善に対抗する悪の力、アーリマンに支配されており、アーリマンの地上の物質支配に対抗して、善神アフラマズダが、人間を助け、人々は、アフラマズダに仕え、アフラマズダの意志を遂行することによって、この世界を、上方の霊的世界の耕地に変化させ、自分たちが、霊において、認識したことを、感覚的、現実的世界に刻印しなければならないと思ったという。 インド文化期では、感覚界(物質世界)は錯覚で、マーヤー(幻)であったが、ペルシャ文化期では、感覚界は確かに悪魔に支配されるものだが、その感覚界から、悪魔を追い払い、光の神アフラマズダに仕える善良な霊的存在の下に組み入れられるべきものだとしたのである。 このペルシャ文化のなかに、悪を克服するものが、真の善であり、悪を救えない思想は、真の思想ではないという、人間のなかの善への意志の芽が見られる。 人間は、ポストアトランティス時代の諸文化を通して、外的な感覚的現実の意味を次第に理解し、「外的感覚に与えられるものを単なる仮象として扱ってはならず、地上に存在するものは、霊的存在の贈り物であり、神々が、無駄に私たちに感覚を与えたのではなく、地上に、物質世界の文化を構築したものを、徐々に洞察していくことこそが、真の人間の認識であるとした。 これこそが善の認識だと思われる。 お釈迦様が説いた仏教にも、この認識が見い出されるだろう。仏教の中道の理念がそれである。いたずらに、現世を幻とみて、苦行をしてもダメで、また、周囲の悪の欲望のままに、快楽をもとめ、感覚世界の虜になり、迎合し、快楽行をしてもダメである。 つまり、仏教のなかで、古代インド文化のヴェーダ、バガヴァッドギーターの思想と、古代ペルシャ文化のゾロアスターの思想が融合されているのである。 現世を幻とみて、逃げるのではなく、だからこそ、自ら人間が、神々の意志の下に、善を行い、真実のものをつくりあげていくべきだとするのである。確かに、幻は悪だが、だからこそ悪から善を生み出す努力こそが、真の人間の目指す道で、それこそが人間が、この世に生まれた目的なのである。 人間は神々の使者となるべきである。 それがゾロアスターの説いた教えでもあるが、仏教のなかに、それが再生しているのである。 次の第3文化期になると、この態度は、より鮮明になり、人間は、外的な感覚的現実に近づいていったという。 この態度は、虎穴に入らずんば虎子を得ずの格言に見い出せるだろう。 第3文化期のカルデア、エジプト文化になると、周囲の感覚世界から、神的なものを洞察しようという態度が鮮明になってくるという。 太古のインド人が空の星々を見上げて、マーヤー(幻)、錯覚にすぎないとしたのに対して、カルデアの司祭たちは、星々の位置、運行は、神々の文字であり、その文字には、神々の意志を認識できるとしたのだという。 カルデア人は、それら自然の文字を判読し、神々の意志を解く占星術を生み出したという。 そして、太古のペルシャ人が、地上を耕したのに対して、エジプト人は、幾何学を発明し、地上を空間の法則に従って分割することを学んだという。 第3文化期の続きは次回に譲りたい。
2006年03月09日
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七つの教会への手紙は、物質世界のことが書かれているとされる。前回で、神秘学では、我々の時代、つまり物質世界が、ポストアトランティス時代といわれている。 ポストアトランティス時代は、洪水によって、アトランティス大陸が没してから、文化の循環が続き、我々のそのポストアトランティス時代も、没落し、新しい時代が現れるのが、ヨハネ黙示録の7つの手紙にみられるという。 我々のポストアトランティス時代は、「万人の万人に対する戦い」と名づけられる、恐るべき道徳的な混乱によって、崩壊するという。そして、我々のポストアトランティス時代は、以下の7つの文化期に分けられるという。 ポストアトランティス時代 1.インド文化期;エフェソの教区 2.ペルシャ文化期;スミルナの教区 3.バビロニア・カルデア・エジプト文化期;ペルガモンの教区 4.ギリシャ・ラテン文化期;ティアテラの教区 5.第5文化期(現代);サルディスの教区 6.第6文化期;フィラデルフィア(友愛)の教区 7.第7文化期;ラオディキアの教区 であるという。このポストアトランティス時代も、神秘学により、以下の7つの時代の5番目に位置しているとされる。 1.ポラール時代 2.ヒュペルボレアス時代 3.レムリア時代 4.アトランティス時代 (洪水) 5.ポストアトランティス時代 (万人の万人に対する戦い) 6.第6の時代 7.第7の時代 であるという。 秘儀参入の高みである、アストラル界と霊的・神的世界の境に至れば、以上の7つの時代が見えてくるという。 秘儀参入の最初の段階では、7つの手紙である、7つの文化期がみえるようになるという。 我々のポストアトランティス時代の第1文化期であるインド文化が栄え、インド文化は、ペルシャ文化に吸収され、ペルシャ文化期についで、アッシリア・バビロニア・カルディア・エジプト・ユダヤ文化期が興り、ついで第4の文化期であるギリシア・ラテン文化期が到来し、このギリシア・ラテン文化に続いて、現在の第5文化期がやってきて、つづく第6文化期には、我々の築いた精神文化の果実が現れ、そして、万人の万人に対する戦いの前に、第7文化期がやってきて、万人の万人に対する戦いが生じると、文化は恐ろしく荒廃し、ごく少数の、精神的原則を受け入れた人々だけが、利己主義による破壊から逃れることができるという。 7つの文化期は、人間がこの世に輪廻転生をしながら、その文化からでる、いわば気分のようなものを体験し、魂のなかに、記述すべき事柄、いわゆる霊的な言語から、物質的な言語へと変換される、記憶、こころのようなもので、だからこそ、7つの手紙を、その教区である、文化期に、魂に書きおき、刻印すべきであるということを、意味するのである 7つの手紙は、魂に7つの文化を書き置きなさいという意味である。 神秘学では、7つの文化期は、物質界で人類文化として広がっているものを表示しているので、現代言葉でいう人種と対照的なものとして、文化期について語られる。現代では、人種イコール文化として語られる。 しかし、本来の人種という概念は、アトランティス時代のものであり、現在の人種という言葉に結びついたものは、アトランティス時代の残留物であるという。アトランティス時代は、つぎつぎと7つの人種がつくられていった時代だったという。勿論、この人種形成の所産は現在にも残留しているので、今日でも、人種について、文化として語ることができるが、それは、アトランティス時代のものではなく、今日では、文化として語る、そのものの概念が、人種という概念を、すでに消去しているという。 人種が文化に置き換わる我々の時代以前、いまから、約1万年前の八千年、九千年前に、アトランティスの洪水、科学がいう氷河期時代の影響下に、人類は立たされていたという。アトランティス大陸は洪水によって次第に沈んでいき、地上に生き残ったのは、努力して最高の段階に達した、古代インド民族だったという。 インド人は、アジアに住み、現在よりも過去の思い出のなかに生きていたという。インドの文化は偉大で力強い文化で、人々はアトランティス時代に体験したことの思い出のなかに生きており、その余韻は、ヴェーダやバガヴァッド・ギーターのなかに見られるという。 当時の人間はぼんやりとした霊視力を発達させることができたので、神的、霊的存在と共に生き、祖先たちがアトランティス大陸で見たものへの憧れを持っていたが、アトランティス時代の破局により、その道の扉は、既に閉ざされていた。こうして、陸地が人々の肉眼の前に、神的、霊的なものから、姿を現すようになってきたが、それら外的なものは全て、彼らが記憶として残していた憧れとは程遠いもので、肉眼で見たものは、全て、マーヤー、大いなる幻想で、その大いなる錯覚から脱出したいと思ったという。 実際、これら第1文化期の最良の者たちは、ヨーガのなかに残余が見られる秘儀参入の方法により、祖先たちの段階に至ることができたという。そして、そこから、「私たちの周囲にある感覚的な仮象は価値のない、空虚な錯覚である。真実なものは、私たちが捨て去った霊的世界のなかにあるのだ」という宗教的な気分が生まれたという。 この古代インド人の思いが、バラモン教、ヒンズー教の宗教となっていったということが容易に、推測されるだろう。しかし、そのなかから、お釈迦さまが現れて、これらのいわば執着心というべき、後退の思いを解消し、前進させるために、これらいわば硬直した宗教のインドの地で、仏教を説いたことの意味が見い出されるだろう。 7つの文化期のたった1つの手紙では、7つの手紙の時代を、魂は超えることはできないのである。7つの手紙を揃えて、魂に刻印しなければ、神々の道へと進化できない。獣性に再び舞い戻るしかないのである。 長くなったので、次回に続く。
2006年03月08日
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神秘学によると、秘儀参入において、人間が到達するものは、霊眼によってのみ見ることができるものであり、キリスト教的な秘儀参入であるなら、キリスト=イエスのしるしであり、それは、右手に7つの星を持ち、鋭い両刃の剣を口から出す、人の子のしるしだということを、前回までに書き述べた。 ちなみに両刃の剣とは、自我のことである。古代人は、いまのような個人意識がなかったので、両刃の剣のような自我ではなく、集合自我であったことは、何度となく書いた。なぜに両刃と呼ばれるかというと、エゴが深まると闘争の道具にもなるし、友愛に貫かれれば、他への慈しみ、自己犠牲の愛情表現にもなるからである。 とくに古代アトランティス期では、このような個人的自我をもつものは皆無で、大半が皆、集合自我だったという。いまでも東洋民族のなかで、このような集合意識があるのは、個人のなかに、悟性が発展していない証拠でもあり、いわば古代アトランティス期への時代回顧主義であるとも、その名残りであるともいえる。 古代人は、集合自我のなかに、自らがその手足としての存在として、いわば個人を感じていたので、勿論、誕生したときの、その個人の名前などなかったという。個人は、曽祖父時代からの、いわゆる集合自我の記憶を受け継いで生まれてきたので、いわば、その集合自我の名前がつけられているのである。例えば、日本人ならば、いまでいう、姓がその名前の名残りといえるだろう。 例えば、日本人ならば、家系図の源平藤橘の名前しか存在しないといえるわけである。もっと極端にいえば、源平藤橘自体が、天皇家の何代から出ているという意味だから、天皇家しかないといえるわけなのだ。 日本人の場合、いわばこの源平藤橘が、4つの集合自我といえるだろう。 だから、古代人は、皆、長生きだったというわけなのだ! 姓が存在している間はその個人は、その姓由来の祖父の記憶の手足であるというわけなのであるから。だから、家の存立が、その人間の生死であったわけである。これは西洋では、何々二世、三世という呼び名と同様である。 だから、聖書に書かれた、アダムやノアは、現代人でいう個人名ではない。個人という認識は、ギリシャ時代からようやくはじまる概念であるといえる。 古代アトランティス期のこのような集合自我の認識から、個人の認識へといわば、霊的に下降したのは、実はルシフェルという悪魔の御蔭なのである。これが聖書の原罪の意味なのである。ルシフェルは、人間のアストラル体のなかに不浄なものを持ち込み、集合自我から、個人のエゴとして、いわば悟性という知性を与えたのである。 人間の集合自我は、ルシフェルという悪魔により、集団から個人へと切り離されたという。悪魔は、早熟な知性、悟性を、人間にもたらしたといえる。それ故に、人間の自我のなかには、エゴを生じる欲望の自我が存在するのである。 悪魔ルシフェルが、人間の自我に欲望、エゴ性を与えたのに、連動し、物質世界の、錯誤の唯物性を与えたのは、アーリマンという悪魔である。ルシフェルが自我のなかの欲望、衝動を煽り、その報酬として、アーリマンが物質性、物質世界依存的な執着心を与えるのである。 だから、人間は、これらの悪魔のなかに存在しているといわねばならない。なので、無意識でいると、霊的に盲目なのである。 さて、秘儀参入の段階で、キリスト=イエスをみたものは、上述のこれらの悪魔の均衡の上にある、高い次元、高い認識を、人類の進化の上に見い出すことができるようだ。そして、現代における人類の進化を洞察するようになるという。 「私は何であり、現在、私はどこに向かっていくように定められているのか」という問いが浮かび上がるという。 すると、神秘学でいう、我々の時代であるポストアトランティス時代の認識が現れてくるという。 神秘学でいう、我々のポストアトランティス時代は、現在より約1万年前のアトランティスの大洪水(大破局)の後より、はじまり、最後は、人々が利己主義に陥る万人の万人による戦いで終わるとされている。 それまで善人も悪人も、その万人の万人による戦いを生き残れるが、しかし、悪人は、その後、黙示録でいわれる第5の封印を解き、第5時空という、霊的世界が広がると、もはやそこを生きる霊的資格、霊的資質にないので、動物に降下せざるをえないという。 なぜなら、その第5時空は、アストラル体の世界であり、アストラル体を純化し、浄化していない者は、霊的観照を得ることができずに、人間のような形態を、アストラル体に有することができないからだという。 霊視力のない我々は、物質界しかみれないので、物質界での人間の形姿が霊性に基づいたものだと普段は知覚できないが、物質界での動物をみれば、それをイメージできるだろう。物質的肉体を失ってはじめて、いわば、自分の霊的姿をみることができるわけだろう。空けてびっくり玉手箱というわけなのである。 実際、動物という存在は、動物のアストラル体をみれば、人間のアストラル体の一部が、部分的に過度に発達したものであるという。だから、人間は、あらゆる動物のアストラル体が集合して、図形でいえば円に近い形に、いわば平衡状態にあるから、人間の身体を保っているといえるという。だから、人間の肉体的能力は、動物のものよりも部分的に劣っているが、全体的には、何でも平均してこなすようにできているというわけでもある。「有名なレオナルドダビンチの人間が手を広げた身体図が円のもとに描かれているのは、上述したことの深い示唆を意味している。あの図は神秘学では、人体象徴図として有名である。とくに次の言葉とセットで伝承されている。 光は上を伝わり上昇させる。重さは下を伝わり下降させる。」 だから、外見を金銭や物質で飾り拘っている者こそ、中身が空疎であるだろう。そのとき、自分の本来の姿をみるのである。魂がそれを見て、いわば悔いるから、また再び転生し、綺麗で美しい魂を磨こうという気になるのだろう。角がとれて、円のような丸い魂になろうとするのである。 地獄というのは、是の円とは逆のいわば、角ばった同士が、相手をせめぎあい、また、お互いを相手に依存し合うような魂であって、そのような依存波長のあった魂の連中同士が、お互いをみて、嘲り罵り合っているのだということが、ここから想像できなくもないだろう。自らが不完全であることに気がつかずに、それを棚に上げて、相手を見下しているわけであろう。これはこの世の世界でも、精神的にいえば、同じであろう。 黙示録では、角というのは獣性を表す言葉で記述されている。動物は角で格闘することでイメージできるだろう。魂も、角で格闘するのかもしれない。 後半は大分話が逸れてしまったので、改めて、元に戻して、ポストアトランティス時代の文化を、次回より、黙示録より続けて書いていきたい。
2006年03月07日
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昨今、人種差別問題が、浮上している。勿論、人種差別問題を放置したままでは、人類は発展も進化もできないことは確かであろう。 そこで、人種問題を、神秘学で考えてみたい。 人種の定義ほど曖昧なものはないだろう。現代の人種は、唯物論からきていると断言できる。姿や形、血統の法律的解釈、全ては幻といってよいだろう。神秘学で解釈すると、現代の人種の概念ほど、人種という意味をなしえないほどの、殆ど同列な意味を、差別化しているだけだという。それは神秘学が、人類の歴史を解き明かしているからであり、人種のもともとの概念は、古代アトランティス期の人類の存在に起因するという。つまり、古代アトランティス人に対して、ようやく当てはまる概念であって、アトランティス期からみれば、現代人は、みな同種の存在だという。それは神秘学が、精神、魂の開発、能力から、その開発や能力を目的とするために、差別化するのであって、少なくとも、所持している形態や外見の優劣を競うような代物ではないという考え方にある。人種の問題は、魂の開発がどの段階にあるのか?でしかない。それゆえ、古代アトランティス人からみれば、現代人の大半は、皆、第5根幹人類の古代アーリア人の末裔である。古代アーリア人が、秘儀の文化を伝えるために移住したのが、土地とともに定着し、いわば土地に根付き、飼いならされるように溶け込んで、いまの形態が出来上がったという。その土地の特色が、アーリア人にもたらされ共同作業で、いわば融合し、現代人ができたといえる。だから、現代人の場合、いま住む土地を離れて住むことは、多くの場合、人体の障害を生じるようになり、その子孫は途絶えがちになるという。ある意味、それぐらい、土地に執着をもち、唯物的思考が身についてしまったわけである。本来、魂は何の執着ももたない、性差もなく、いわば、無や空という存在だといわれる。だからこそ、体験することができるのである。無や空でなければ、体験することに魅力を感じることはないだろうし、魂自体が変化することはないだろう。無や空の魂が体験により、穢れてくるといってよいだろう。だから常に、この世の泥のなかで、泥の付着を、日々洗っていかなければならない。なにより大切なことは、人間は、本来太陽の子であって、この地に暮らすのは、人生体験をして、魂を磨くことが主眼なのであり、その土地や人間に安住することではない。地球に、進化の舞台を提供してもらっている存在なのであり、実際、人間は、数千回ほど輪廻転生をしており、あるとき、ある場所に生活することは、魂の体験を積むことに意味があり、その存在に執着することではないのである。そういうわけで、輪廻転生から考えると、本来、とるに足らない人種問題や国家問題に固執したり、地位や金銭を求めることこそ、自らのエゴを野放しにし、放縦にしている自我そのものを表し、魂の堕落を、そこに見い出すだろう。魂の輪廻転生の法則からいえば、魂は霊を観照し、高次の自我自らが、常に向上を求めるので、堕落した要因を生じるであろう肉体には、受肉しないという。だから、1人の人間が、進化の遅れた動物の肉体に、転生することは、本来、ありえないのである。しかし、堕落した魂には、執着心が容易に生じえるので、続けて同じような肉体や、或いは進化の遅れた動物に転生することも皆無とはいえないが、それはもはや進化の法則を逸脱しているというような、いわゆる悪魔の部類に属するといわざるをえないだろう。これが悪霊の存在ともいえる。そういう意味では、魂が、何度も進化という面で同じような人間に転生するのは、あまり好ましい状態とはいえないだろう。だから、ある意味、現代人のなかに、異常に保守的で国家主義、あるいは人種主義というのは、魂の不健全な転生を意味するか、その行き詰まりを学習するために、転生しているともいえるだろう。神々は、満遍なく他を自ら照らすに足る魂や、真実をあらゆる立場で捉え、自由な思考を促進させる体験を、生じるように配慮しているのである。それは、神々が、人間であったときに、自らが体験したことなのであるのだから、かって辿った道として、理解できるのである。人間がいかに賢くあろうとしても、神々はすでにその段階を通過してきているという点において、全てが見通され、その賢さを上まわっているのである。というよりも、人間の賢さのなかに、神々の配慮が行き届いているのが真相であるようだ!
2006年03月07日
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人間が、眠っているときに、肉体とエーテル体を、残して、アストラル体と自我が、かって古代人がそうであったように、精神界に戻っていくことは、何度も書いてきた。古代人は、現代人と比べて、肉体とエーテル体への結合が、緩かったので、曖昧な霊視力を有したが、だんだんと、人間は、物質世界に馴れ親しんでいくうちに、現代のように、肉体とエーテル体の結合が密になり、精神的には粗く、物質のように、身体構成が粗雑になっていったという。 人間が物質中心の思考になるにつれ、微妙で詳細な精神界の感覚は失われ、物質界を固定して捉えるにつれ、代わりに、精神界を全くみれなくなっていったという。このことを、できるだけ表現しようとすると、以前は、色彩のイメージで、ぼんやりと周囲を捉えていたのが、色彩に枠ができてきて、はっきりと形として捉え、その形のなかに色彩をおいていくような知覚が、現れてきたという。 だから、秘儀参入を行うと、これと逆の現象が現れてくるという。物質性のものから、それを形作っている色彩のイメージへと、意識が広がるような感覚で、深く記憶を辿っていくという。普通の人間では、感覚器のある肉体を離れては、もはや何も知覚することができないが、秘儀参入者の場合は、アストラル体が浄化、純化されているので、人間が生まれた出た、アストラル界、神界の魂的特性、魂的な人間的特性を意識するようになるという。 仏教でもいわれているように、人間には元々、仏性があり、神秘学でいうところの、上記の神々の領域を感じる感覚というべきものであるだろうが、この仏性が、輪廻転生のうちに、肉体に依存した生活をするうちに、魂が穢れを蓄積してしまうものと思われる。だから、朱に交わっても朱にならないように、泥のなかでも、華を咲かせるように、アストラル体を浄化、純化することが、大切なわけである。 では、なぜ、そのような魂の穢れを生じる、物質世界を体験し、輪廻転生を通して、それを解消していかなければなければならないかというと、真の善とは、悪のなかにいても、揺るぎが無く安定な善であり、悪を善にかえる力こそ真の善であるということだと思われるのである。 神様から善をいただいても、その善の意味がわからなければ、猫に小判なわけで、かえって、似非宗教の似非教祖のように、形の上の善であり、その内実は、自らのエゴで、固められた単なる権威主義や、依存主義のようになってしまい、善より堕落してかえって悪になってしまい、なにより、与えられた善そのものを、そっくりそのまま同じ形の善として、神様に返さないといけないのである。 ともかくも、秘儀参入者は、秘儀参入のうちに、かっての自らが出たところの魂の親玉のようなものをみるという。そして、このイメージに、全宇宙を満たすかのような、より高次の象徴が現れるという。 ヨハネ的な秘儀参入の道を行く者は、以下のような第1の封印によって示されるものが現れるという。 黄金の帯をしめ、金属を鋳造したようにみえる脚をし、白い羊毛のような髪で頭を覆われ、口からは火のような剣が燃え出ており、手には七つの星、土星、太陽、月、火星、水星、木星、金星を持った司祭王が現れるのを、霊視的にみるという。 そして、第2の封印として、その中央にある形態は、古代の秘儀参入のおいては、単に、第5の集合魂を示すものだったが、ヨハネ的、キリスト教的な秘儀参入では、「人の子」と呼ばれるものとして、はじめて現れ、七つの星を支配する、人の子の真の形姿を人間の前に現すという。 秘儀参入法も、人間の身体が進化し、変わっていくのと同時に、時代と共に移り変わり、太古では、いわゆるアダムが秘儀参入を通してみたときは、一種の植物的な世界体験までしか、至らなかったが、秘儀参入法が発展し、秘儀参入を通して、アストラル体が、エーテル体に触れる際に4つの集合魂が輝き、第1の封印として現れてくる。更にキリスト教的な秘儀参入法を通して、秘儀参入すると、第2の封印によって象徴的に表される、アストラル体のなかでのより高次の秘儀参入の段階が得られ、キリスト=イエスのイメージ像をもって、現れてくるという。 ヨハネの黙示録で述べられている秘儀参入を行うと、4つの集合魂、鷲、獅子、雄牛、原始人のイメージが現れ、更に進むと、それを創出する、いわば虹のように、現出させている12の黄道宮が、表出し、そこから24人の長老が時間を支配しているのを予見し、7つの神々と7つの星を、統べる中央の司祭王であるキリスト=イエスを知見するという。 いまあり、かってあり、やがて来る者の姿は、人の子であり、神の子であるキリスト=イエスなのであるという。それは、これまで、人類がみた最も神に近い存在だからだという。神秘学では、人類は何度も、輪廻転生をしている存在であるから、必ず、イエスの存在はイメージできるという。人類は、必ず、キリスト=イエスを、イメージでき、霊的に知覚できるという。 以下は余談なので、軽く受け流してください。 よく間違って言われることが多いので、最後に断っておきたいが、このようなことを書いていると、キリスト教信者だと思われがち、あるいはとんでも論の持ち主だと思われがちだが、私は全くキリスト教信者でもなく、科学に対してもそれなりに学業を修めてきた。ただ、哲学や神秘学に興味があるだけだし、自由な思想を尊重する立場にたちたいと思うだけである。いまある宗教については、ほとんどが堕落していると思っている。宗教法人といえども、社会の一員ならば、お布施等の収入に応じ、少なくとも税金位は払うべきだろう。 なにより、貧乏でなければ、宗教はやる意味がないと思っている。金を稼いで悟ろうなど、甘い考えはないだろう。お釈迦さまだって、キリスト様だって、貧乏一文無しなのだから。カネを稼ぐような宗教ならば、やらないに超したことはないし、一々、教条や教義を、唱える資格などないだろう。それこそ、カネ目当ての行為だととられかねない。やるなら、一切無料奉仕で、できぬなら、何もしないことであろう。なにより、無我の境地に至っていない証拠だろう。せめて、自分の悟りのためだと、割り切ってやるべきであろう。 現代では、なにより自由意志を尊重しなければならない。
2006年03月06日
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前回は、秘儀参入者が、4つの集合自我から、12の黄道宮の時間の管理者の長老たちをみて、地球の生まれる前の、お釈迦様が、ニルヴァーナと呼んだ、時間の無い永遠の静寂、持続のなかのやすらぎを知覚することを書いた。 では、秘儀参入者は、なぜ、このような精神のイメージをみるのか?を、神秘学から、書きまとめていきたい。 人体は4つの体である、自我、アストラル体、エーテル体、肉体からなるが、上記のイメージのなかに、人間のエーテル体と肉体を、今日の形態に形成した力が、象徴的、いわばイメージ的に、アストラル的に表示されているから、秘儀参入者は、上記のイメージをみるという。 人間は、寝ると、自我とアストラル体が、肉体とエーテル体を離れ、霊界にいわば里帰りとして、旅をするが、その間に、肉体とエーテル体の世話をしているのが、上記の精神的イメージで捉えられた、いわば、神々たちなのであるという。これらの神々を宇宙神霊として、通俗的に呼んだりしている。 寝ている間に、健康が回復したり、何らかの技術や、記憶を獲得するのは、上記の働きの御蔭である。つまり、車検ならぬ、人体検査を行っているわけである。ちなみに、飲酒をすると、この人体検査は、あまりよく行われないという。だから、二日酔いのようなものが生じるという。神様も酔っ払ってしまうのだろうか…(冗談)。 人間のような血も流れ、神経組織もある肉体は、アストラル体と自我がないと存続できないが、植物のような血も神経組織もない肉体は、存続できるとされる。なぜなら、自我は、血と関係し、アストラル体は、神経組織と関係するからだという。 秘儀参入者は、アストラル体を浄化、純化し、エーテル体に、それを刻印するために、エーテル体に、触れるときに、人間をつくりあげた諸力に貫かれ、第2の封印に象徴されるこの諸力のイメージを見るという。人間を維持し、宇宙全体との関係をもたらすものが、秘儀参入のこの瞬間に輝くという。 秘儀参入者は、人間の肉体とエーテル体を形成した存在たちを見、この存在たちが毎夜、生命を維持しているのを見るという。
2006年03月04日
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前回までに秘儀参入者は、鷲、獅子、雄牛、原始人の4つの集合魂をみたことを書き、それらが、4つの福音を意味し、新約聖書がキリスト=イエスの存在であることを書いた。 4つの集合魂の次に、秘儀参入者がみたのは、12の黄道宮の印のイメージであったという。4つの集合自我が、12の黄道宮に取り囲まれているのをみるという。人間が、死に、エーテル体が、肉体から抜け出たときに、このことを体験するという。 ここで気づいたことがある。4つの集合自我と12の黄道宮といえば、トランプを思い出す。トランプはタロットカードからきていると聞いたことがあるが、恐らく、秘儀参入者が、この4つの集合自我と12の黄道宮を、イメージトレーニングしたり、師となり弟子に伝えるときに、使ったものが、名残りとして残ったのだろう。 神秘学では、地球の最初の状態は、土星紀と呼ばれる、全くのいまでいう、熱しかない状態の星だったとされている。土星紀以前に、遡ることは困難だという、なぜならば、もはや時間が存在しないからだといわれている。時間は、土星紀に生じたとされている。土星紀前は、時間がなく、永遠、持続で、全てが同時で、動きがなかったという。 回転、循環はなく、持続とやすらぎがあり、神秘学は、この状態を、持続のなかのやすらぎがあるものと、表現しているという。お釈迦様が、ニルヴァーナと表現したものかもしれない。 土星紀の前に、このニルヴァーナが先行していたという。 秘儀参入者は、自らの自我の源が、4つの集合魂であることを知覚し、それを超えたところに、十二の黄道宮を知覚し、そして、ニルヴァーナに至り、こころの静寂を得るのだろう。 天体の運動は、土星紀からはじまり、その軌道は、十二の黄道宮の印で示されるという。一つの惑星が、この十二の星座のうちの一つを通過すると、それが一宇宙時間だという。 土星紀に、時間が生じ、運動が生まれ、土星が、十二の黄道宮を通過したので、十二の土星紀の昼(夜)の時間が生じたという。それは、その後の地球の転生である、いわば受肉状態の、太陽紀、月紀、そして地球紀にも、それぞれ十二の宇宙時間が考えられるという。 その12の宇宙時間のうち、7つが外的に知覚可能であり、5つは知覚されずに通過するというので、7つの土星紀の循環が知覚可能であり、12の宇宙時間を、いわば、7つの昼と、5つの夜として、区分でき、知覚可能な7つの昼、宇宙の循環を、「マンヴァンタラ」と呼び、知覚されない5つの宇宙の夜を、「プララヤ」と呼んできたという。 この夫々の土星紀、太陽紀、月紀、地球紀の12の宇宙時間を、土星紀-太陽紀、太陽紀-月期、月期-地球期と、2つの地球の転生、受肉状態を続けてあわせて考えることにより、12の宇宙時間×2で、24の宇宙時間を形成し、この24の宇宙時間を考えることが、人間の進化にとって非常に重要なので、現在の地球紀の時間の1日=24時間となっているという。 この24の宇宙時間(時期)は、黙示録に書かれている24人の長老、24人の宇宙循環、宇宙の時間の調整者によって管理されているという。 現在の時計の数字は、長針、短針で、示されて、いわば、24時間のなかで、分断されているが、それは、いわば長老の二重の王冠で中断され、彼らが、天体の循環を管理する時間の王であることを示しているという。
2006年03月04日
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仏教でいう色即是空、いわゆる中道とは、現代科学でいえば、双対性のことであり、神秘学でいえば、2という開示の数字で、2元性を意味し、ギリシャ哲学では、アリストテレスの中庸ということであるように思える。 ぶっちゃけ、「あんた」と「わたし」があるから、「わたし」という存在があるのだ。ここから、この世があるのは、あの世がある御蔭であるともいえるのである。そして、宇宙はそれらを統合し、一に帰するということで、中道、中庸が、宇宙の進化の法則となるわけである。 「あんた」と「わたし」が、この世で、出会い体験して、それが、次の宇宙をつくりだすといってよいだろう。 だから、この世で、数々の人と出会い、知り合い、そして友愛を深めることで、その絆は、死んでもなお、宇宙のなかで、魂の存在のなかで、生き続けることができると思われる。 あの世に行くには、この世で死んで、肉体を去らなければならない。肉体には、外見(物質)をみる感覚器がついているから、感覚器に頼って、この世で、物質的な交際(損得勘定)を行っていた人は、あの世で、精神的に盲目になるだろうし、逆に、この世で、物質的な感覚が不自由な人は、今度は逆に、そのハンデを負わなくてすむようになるだろう。 あの世では、人間の姿を、いわば、霊的に捉えられないと感じられないのである。その霊的な感覚器は、この世に生きているときにこそ、容易に開発できるのである。なぜなら、間違うことができるからである。間違いを正すことができるという点において、進歩、進化が存在する。悪を善に改善することで、はじめて善の意味をもつ。この世で友愛活動が推奨されるのは、そういうことだろう。 この世でのこのような不正を正す体験がないと、あの世では、ただただ盲目的な孤独の存在とならざるをえないだろう。だから、自殺は避けるべきものなのである。 この世をいわば、ネット世界として、人間を、ネットでしか感知できないネット人間の世界で捉えると、このことは容易にイメージできる。ネットでの交際がないネット人間は、オフ会をすることができない孤独のネット人間となってしまうだろう。しかも、自ら、ネットから去ることを決めた自殺者は、永遠に、その時点以前で、知り合った人間を、ネットという感覚ツールもなく、当てどもなく、探し様もなく、永遠と孤独のなか、オフ会をすることもなく、一人で反省の日々を送るしかないだろう。 まさしく独房状態と相違ないだろう。時間を潰す材料は何もないのである。ただただ、自分のなしたことを後悔するしかないのである。 だから、この世で生きている限り、友愛活動を行い、いろんな人と、魂のつながりを豊富にしておけば、死んでもなお、あの世で、その交際を続けることができるだろうし、更には、不正を正すことにより、いわゆる物質世界を克服し、霊的感覚器官を開発すれば、人間の上の神々の世界の霊たちとも、交際をすることもできるのである。 だから、あの世での生活の基盤は、この世で、友愛的な何を成したかなのである。 この世でお互いを愛し合いなさい。そうすれば死んでもなお、救われるだろう。
2006年03月02日
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前回は、人間の進化の源の4つの集合魂である自我が、秘儀参入者に、どうみえたかを、まとめた。以下簡単に前回のまとめを書く。 1.鷲=頭部=思考=自我=火の精霊 2.獅子=胸部=(前回、感情と書いたが、前回のは間違いで)意志=エーテル体=風の精霊 3.雄牛=腹部=(前回、意志と書いたが、前回のは間違いで)感情=アストラル体=水の精霊 4.原始人=四肢=労働(運動)=肉体=土の精霊 前回は、獅子と雄牛を、取り違えていたので、今回訂正したい。アストラル体とエーテル体は密接に関与しているので、よく取り違えてしまうので、注意が必要であろう。 実は、この人間の原初である、集合魂の自我のことは、新約聖書の福音で述べられているところなのであり、なぜ、キリスト=イエスが、天から地に降りてこなければならなかったのかをも、黙示録のなかでいわれる、人間の進化を考えれば、明白なのである。 上記の1~4の4種の集合魂と、4つの福音書には、対応関係があり、それらを、調和のもとに理想的に統合した存在が、イエス=キリストなのであると、神秘学では、確証されているところなのである。だから、人類は、最終的に、イエス=キリストに達しなければならず。そのとき、額に777(ラッキーセブン)という神の名が刻まれるのであると黙示録ではいわれているのである。対して、悪魔の人類は、666である。 1の鷲は、光であり、叡智であるという、それはヨハネの福音で述べられているところのものであり、キリスト=イエスが、「私は宇宙(世界)の光である」と述べたことに要約されるという。それはまた、人間が、魂のなかの意識魂を進化させ、発展させるべき課題が記されているという。それは、人間の自由な思考であり、それが克服されると、マナス(霊我)が形成されるという。 3の雄牛は、愛であり、献身という最大の供犠であるという、それは、ルカの福音で述べられているところのものであり、キリスト=イエスが、「父よ、あなたの御手に私の霊を委ねます」と述べたことに要約されるという。またそれは、人間が、心情魂を進化させ、発展させるべき課題が記されているという。そして、それは、人間の他に対する献身の愛情であり、博愛であるという、それが克服されると、ブッディ(生命霊)が形成されるという。 ちなみに、雄牛が宗教行事で、供犠とされ、神聖なものとされるのは、この神的な愛にあるといわれている。 2の獅子は、創造力であり、神々の力、法であるという、それはマルコの福音で述べられているところのものであり、キリスト=イエスが、「かって存在し、かつ現に存在する」ことによるもののなかに要約されるという。また、それは、人間が、感受魂を進化させ、発展させるべき課題が記されているという。法の下の平等であるが、この法は、創造力、宇宙の法のことである。宇宙の法と一体化すること。それが克服されると、アートマ(霊的人間)が形成されるという。 そして、4の原始人は、肉体をもつ、人間そのものの存在であり、物質界で、運動し、労働する、いわば体験であり、人間の歴史といってもいいだろう。それはマタイの福音で述べられているところのものであり、太陽神が、人間として、この地において、実際に歴史を刻んだことを意味するものだという。キリスト=イエスの人格は、マタイの福音書に書かれているのであるという。 まとめると、ヨハネの福音は、叡智というソフィアの理念を学ぶものであり、ルカの福音書は、供儀と愛の秘蹟を学ぶものであり、マルコの福音書は、地球と宇宙の諸力を学ぶものであり、そして、マタイの福音により、人間の生、人間の歴史、人間の運命を知るようになるという。 人間は、地球という転生の舞台のなかで、これらの4つの集合魂から出た(与えられた)自我をもって、個別に、人体のなかの、アストラル体、エーテル体、肉体を、キリスト=イエスのように、調和的に、理想的な制御を通して、統合するように、魂を進化し、発展させることが、人間の神に至る進化の道筋であり、目的であるという。 個別的な自我を進化させ、発展させることにより、霊我(マナス)、生命霊(ブッディ)、霊的人間(アートマ)という、三種の神器を、手に入れなければならないという。 これらの三種の神器と、いまある、4つの集合魂から与えられた4つの人体である自我、アストラル体、エーテル体、肉体を、あわせて、人間のなかの7つの神々(霊)と呼ぶという。つまり七福神のことでもあるだろう。 そして、地球という舞台も、宇宙の進化にそって、転生しており、それは、土、太陽(日)、月、地球前期(火星)、地球後期(水星)、木星、金星と進化していき、それらは7つの星と呼ばれている。 ヨハネの黙示録でいわれる、7つの神々(霊)と、7つの星を持つ者とは、キリスト=イエスに他ならないのであるという。 それはつまり、人間の最終到達目標であり、その見本なのであったという。人類が、悪魔に魘され、進化の目標を失ったときに、救世主が、地に現れ、人間として暮らすことにより、その見本を示したのだという。神秘学では、これをゴルゴダの秘儀と呼んでいるのである。 キリストは、人類進化のはじめであり、中心であり、終わりである。 次回からは、地球の進化についてと、進化の数である666、777の意味を書いていきたい。
2006年03月02日
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神秘学によると、エジプトのピラミッドやスフインクスは、最も単純な方法を使って建造されたという。そして、そこからわかることは、古代は、現代にも匹敵するほどの人口を有していたということだという。ただ、その記録が残っていないだけであり、現代が、統計という錯覚技法を用いているせいだともいう。 それに比べて、現代人は、複雑な方法を駆使し、物質的な文化的手段をつくりあげるといえる。しかし、現代人と古代人の大きな違いは、精神生活を、その為に酷使しないというところにある。古代人は必ずといっていいほど、精神生活を主眼においたといえるのである。 どんなに物質的手法を駆使しようとも、胃袋を一時満足させるために、活動している事実には変わりがないのである。 いかに、現代人が、頭が良いことを自慢しようと、その行い、精神性において、古代人と変わりがないばかりか、それを他に自慢し、見下した態度、利己主義において、現代人が、古代人よりも傲慢であることが、証明されるであろう。 古代人はいうであろう。一時の胃袋を満足させるために、何故にそこまで欲望の虜となったのだ!それこそ精神性を失っている証ではないのか?と。 現代人のなかに蔓延る大きな錯誤の元は、利己主義にあるといえるだろう。利己主義は、他を支配することを、神のように定義し、法律を制定するが、それは神の道などではなくて、悪魔そのものといわざるをえないだろう。 単なる一時の胃袋を満足させる行為が、複雑な利己主義に豹変する文化こそ、堕落した文化だといわざるをえないだろう。人間は、一時の胃袋を満足させようが為に、支配権を振りかざし、法律をつくるが、それに誤りが含まれていることに気がつかないのである。法律ができればできるほど、利己主義は深まり、闘争が生じていくといわざるをえないだろう。 一時の胃袋を満足することに拘るあまり、他を巻き込むことに齷齪する。一時の胃袋を、平和糧に、我慢する精神性を重んじることができない人間の多い時代が、現代であるといわざるをえないだろう。 人は、パンのみに生きるにあらず
2006年03月01日
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前回までに、ヨハネの黙示録の神秘学的解釈の概要をまとめた。これからは、秘儀参入者が、実際、何をみたのかを、伝承されてきたものを元に、書いていきたい。 秘儀参入者が、秘儀参入により、その前までは、全く知らなかったものを、知るには、人間の進化に目を向ける必要があるという。 以前の人間は、現代人のように、個人的な自我の意識をもてるような存在ではなく、「わたし」と呼べる個人的な自我は、個体的な自我の意識を徐々に、獲得してきたことで、現在のように、到達し得えたといえるという。 以前の人間を、いまのように「わたし」と呼ぶのなら、それは、種族全体の自我であり、例えば、日本人ならば、天皇を中心にし、血縁関係で結ばれていた人々、いまでいう天皇家そのものが、いわば日本人の自我であったという。 そういう意味では、太平洋戦争時の日本人の没個人性は、いわば、古代のアトランティス時代に、後退し、戻った意識感覚ともいえる。 このことは、旧約聖書を信望している民族には、はっきりと語られ、個々人は、自分を民族の一員と感じ、例えば、古代ユダヤ人が、私と民族の長アブラハムはひとつであり、自我意識は、実際、アブラハムにまでさかのぼるものだったという。 血縁関係が、自我のなかに含まれていたという。 「真に私たちのもっとも内なる、不滅の本質を形作るものは、個々の人ではなく、民族全体のなかに存在する。個々の成員はこの共通の自我に属する」と思ったという。 そのために、彼らには「自分が死ねば、アブラハムにさかのぼる不可視の存在と合一する」ということも、明らかなことだった。 そして、実際、民族の永遠の集合魂のなかで、生まれたように感じ、個々人は、アブラハムの懐にいたると感じていたという。 しかし、この民族全体の集合魂は、物質界にまで、下ることはできなかったという。物質界には、個々人の人間形姿が見られるだけで、それは、古代においては、現実のものではなく、現実は、霊(精神)的世界にあるものと意識されていたので、血(血縁)を通して、流れるものは、神的なものであると予感し、その神的なものを、ヤハウエ神のなかにみるしかなく、そして、その顔を、ミカエルと名づけたという。 旧約聖書を信望する人類は、自我を、ヤハウエにみて、その表れ、いわば顔を、ミカエルとしたのである。しかし、このことは、本来、歴史の上での実際は、古代アトランティス期の時代の人間のことであり、アトランティス時代は破局で終わり、我々のポストアトランティス時代になって、文化の担い手になったアーリア人において、最初にみられた、その特徴であるといえる。 アーリア人において、秘儀参入により、魂のなかの悟性が発達し、周囲の物質世界に溶け込むにつれ、これら精神(霊)界の集合魂の自我から、個々の人へと、自我が、いわば下降し、個人的なものに進化してきたといえる。 だから我々のポストアトランティス時代において、魂が何度も輪廻転生を繰り返しているにも関わらず、上記した民族霊に拘るというのは、一種のいわば回顧主義であって、執着であり、進化から堕落したものといえるであろう。 現代では、個々の人の自我こそが最も不滅なものであるからである。 現代の個人的な自我を、何らかに帰属させようとし、システムいわば物質的なものに組み込ませようとするものは、魂のなかの霊性を失わせる、堕落させたものといわざるをえないだろう。 現代では、個人の自由な思想こそが最も尊重される、永遠のものであり、何らかの主義主張が、他を強い、これに帰属せしめんとするのは、進化から逸脱する行為であり、霊性を失わさせ、過去辿ってきた人間の姿に後戻りすること。すなわち、獣の存在といわざるをえないのである。 現代では、個人の自我からの、自由な意志こそが、永遠の命の土台となりうるものなのである。 まずは、このことから、現代人は、自らの内に、高次の自我をみいだせなければならないだろう。ギリシャ時代では、このことを「汝自身を知れ」という格言に意味を込めたのだという。 では、実際に、秘儀参入者が、秘儀参入のなかで、このかってあった集合自我をみたのかというと、そうではなくて、かっての集合自我、集合魂、いわゆる民族魂が、人類に、個々の自我を与えたが故に、一層進化し高度になった、最も重要な集合魂をみたという。そこに個々の人間が、川の流れを遡っていくと、合流地点が見い出せるように、合流しているのをみるという。 その集合魂には、4つの原像があるという。 この集合魂は、人間がまだ、地上に下らずに、肉体に受肉していない時代では、その4つの原像がはっきりとみえるという。神秘学では、この時期は、レムリア期前期以前であるとされる。レムリア期中期に、人間は、そのときの肉体(いまでいうエーテル体)に受肉したとされる。そのころは、人間は、まだ空気のような存在だったという。地球は、いまよりずっと柔らかく、岩や石は今日のように硬化しておらず、動物や植物すべては水のなかで生きていたという。人間は水の中の空気存在だったという。 この地球の時期、状態を、神秘学では、月期と呼んでいる。月期、いわばレムリア期中期のときに、月が地球から分離したので、人間は、肉体に受肉でき、月期から、物質性を生み硬化する地球期の発展につながる前段階が形成されたという。 人間の自我の源になった集合魂である、その4つの原像は、鷲、獅子、雄牛、原始の人間(いまの人間に近いイメージ)であったという。 神秘学では、鷲は鳥の翼であり、頭部、思考を意味する。4大元素霊では、火の霊、4つの身体の個人的な自我を表すものだろう。獅子は、胸部、心臓であり、感情、感性を意味し、4大元素霊では、空、風の霊、4つの身体では、アストラル体であろう。雄牛は、腹部、消化であり、意志を表し、4大元素霊では、水の霊、人間の身体ではエーテル体であろう。そして、人間に近い原始人のイメージは、四肢であり、手足、労働であり、4大元素霊では土の霊、4つの身体では肉体であろう。 つまりは、人間を構成する4つの人体、自我、アストラル体、エーテル体、肉(物質的)体は、この4つの集合魂から自我が、進化し発展することで、お互いの個人の人間へと組み込まれてきたといえるだろう。 そして、それらは、4つの自然霊である、4大元素霊の、火、空(風)、水、土の精と、霊的に深いつながりをもっているのである。この4つの身体のどれが強く出ているかで、性格気質も影響するといわれる。現代でいうところの、血液型人格判別法にも通じるところであろう。 神秘学でいえば、自我が強い人、アストラル体が強い人、エーテル体が強い人、肉体が強い人となるだろう。自我が強いと、鷲のように自分気ままに我儘で思考を巡らす傾向となるだろうし、アストラル体が強いと、獅子のように、感情の揺れが大きく、自己防衛的な傾向だろうし、エーテル体が強い人は、力強いが鈍重で、太りやすい傾向だろうし、肉体が強いと、原始人のように、野蛮的で依存的な傾向であろうと思いを巡らせることができる。 これはいうまでもなく、魂のなかの話なので、この差異をできるだけ、人生体験において克服しようとするのが、夫々の個人的な人間進化の課題なのでもある。だから、4つの身体がバランスよく調和できるように、魂の制御能力をいわば、開発し発展させることに主眼がおかれ、輪廻転生の課題であるカルマを形成するのである。 それは、それぞれの人生体験のなかから、苦や病や老から直接学んで、克服し、魂に刻みこむことで、解消されていくのであろう。 長くなったが、ヨハネの黙示録の解説は、まだまだ入り口で、いまだ序の口という段階である。
2006年03月01日
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