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前回述べた主観的な色彩療法や客観的な色彩療法を理解できない人は、例えば、「盲目の人を、ある色で塗られた部屋に連れていっても無駄で、眼がみえなければ、色彩の印象(イメージ)を持てないから、結局、どんな効果も現われないはずだ!」、などと反論するかもしれない。 しかし、その反論は間違っている。 意識のなかでは、知覚可能な色彩の下に、潜在的な色彩の印象(イメージ)が顕著に現われてくるからである。 (例えば、明るい色を見た後に、暗い色をみると、色彩の残像が残る。) 実際に、赤か青で室内全体を配色した部屋に、盲目の人を、連れていけば、その違いが生じることがわかる。つまり、意識のなかの色彩のイメージは、本質的な違いをもつので、例えば、盲目の人を、青い壁の部屋に連れていくと、頭部から、他の部位へと、人体の機能を押し戻すような働きが得られる。 また、逆に、赤い壁の部屋に連れていくと、青とは逆に、今度は、頭部へと、他の部位の機能が向かうような働きが得られる。 盲目の人に対する、上記の事実から、客観的な彩色を施した環境から生じる影響の本質は、色彩の変化により生じる規則性にあることがわかる。 部屋が青いか、もしくは赤いかが本質ではなく、赤い部屋に居た後に、青の部屋に行くか、青の部屋に居た後に、赤の部屋に行くか、という色彩の変化に本質がある。 一般的に、頭部の機能を強く刺激することで、他の部位の器官組織を改善する必要がある場合、青い部屋から赤い部屋に連れていけばよい。 (青;頭→他、赤;他→頭だから、青→赤;頭→他→頭) 逆に、頭以外の他の部位を通じて、頭部の機能を改善させるには、赤い部屋から青い部屋に連れていけばよい。 (赤→青;他→頭→他) 以上の色彩療法は、近い将来、必ず重要なものとなり、その際、光線療法(客観的色彩療法)よりは、色彩療法(主観的色彩療法)のほうが大きな役割を果たすだろう。 将来の治療においては、(覚醒)意識と無(潜在)意識の交替が、重要な役割を果たすようになるべきである。というのは、この交替を理解することにより、以前紹介した、ホメオパシー(同症療法)の原理を用いた入浴などを通じて、物質独特の人体への作用についての健全な判断力を獲得する方法も学べるからである。 外から与えられる感覚が、冷たいか、温かいかでは大きな違いがある。冷たい感覚とは、例えば、湿布や入浴などによる冷たさ、の場合、本質的には、その物質の影響[Substanzwirkung]であり、治癒作用は、物質のなかに把握すべきで、当の薬の物質作用に由来する。 しかし、冷たい感覚ではなく、例えば温かい湿布のような、温かい感覚の場合、物質の影響ではなく、つまり、どんな物質を用いようと大差のない温かさで、結局、温かい感覚とは、どのような面から考えようとも、大差のない非物質的な作用である。 (波動を基本としたエネルギー状態「量子力学的な解釈」で考えるとわかりやすい。比較的低温では、粒子性が現れ、物質波が主となり、比較的高温では、粒子性が失われ、エネルギーの波動が主となる。) 従って、冷たい湿布の場合は、液体や水などを、物質にどのように浸透させ、湿布をつくるか、ということに、注意を払うことが重要となる。物質の作用をなるべく有効に働かせるには、冷水のなかに浸透させ、低温で溶解させなければならない。 対照的に、比較的高温では、物質の作用を、ほとんど直接引き起こすことができない。強い香りを持つエーテルのような場合は、高温でも、物質の作用を引き起こすことが可能だが、固体になり難く、溶解しやすい物質では、物質の作用を引き起こすことは困難となる。 温かい湿布、もしくは温浴の場合、物質自体がもつ治癒力は引き起こせない。対照的に、硫黄や、硫黄に類する物質、または燐のような物質を、温浴に加えれば、物質がもつ治癒力を展開できる。 つまり重要なのは、いままで提示してきたような様々な関係を繊細に洞察する方法を獲得することにある。
2012年06月29日
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マッサージの部位と、その影響の範囲は、人体の個々の部位の関係を具体的に示している。実際、下部組織の腹部と上部組織の頭部は離れた位置にあるが、各部位に密接に関係する相互作用を通じて、例えば、下部組織に端を発する上部の偏頭痛などが顕著に現われてくる。 実際、偏頭痛は、腹部にあるべき本来の消化活動が、頭部に移行した症状に他ならない。だから、例えば、腹部以外の他の部位に強く影響する、月経などによっても相応に、偏頭痛の影響を受ける。 偏頭痛 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E9%A0%AD%E7%97%9B このように、頭部には相応しくない消化活動が、頭部に起こることで、通常の神経活動では、免除されている負担が、頭部にかかることに言及すべきである。 頭部では、純粋に規則的な活動だけが起こることで、頭部の神経は、日常生活で生じる栄養摂取などの不規則な活動の負担を免れ、知覚神経に作り替えられる。 栄養摂取から生じるような無秩序な活動が、頭部で起こると、通常の規則的な活動が、頭部の神経から失われる。すると、内的に感じやすく、過敏になり、本来、神経が感受すべきでないものを感じ取ることが原因となって、偏頭痛のような痛みが生じてくる。 外界の周囲を知覚する代わりに、突然、頭の内部を知覚するように強いられた場合、どんな風に感じるか? は想像つかないだろう。 さて、偏頭痛を正しく見通すなら、やはり偏頭痛の最良の薬は、安静にして熟睡することだと指摘できる。というのも、通常、用いられ、勧められている薬物などは、本質的には、神経に有害な影響を及ぼすからである。 通常、よく用いられるアロパシー(逆症療法)の薬を使用すると、過敏になっている神経を麻痺させ、活動の低下に導くことになる。例えば、どうしても劇の公演に出演しなくてはならないときに、偏頭痛になると、アロパシーの薬を処方して、神経を一時的に麻痺させ、多少害してでも、出演するようなことがよく見受けられる。 以上のような事から、人体の緻密さや、社会に参加することで、頻繁に人体の本性に背いている事実が明らかになる。 以上は至極当然のことで、決して無視できない。従って、社会的立場を通じて引き起こされる害を受け入れ、場合によっては更に起こる後遺症の完治も考えないといけない。 結局、人体機構の精妙さは、疾患に応じた形で、更に色彩-光線療法を用いる場合にも示される。 光線力学的療法(PDT) http://healthlife.xrea.jp/lungcancer/category3/entry9.html 日本光線療法協会 http://www.ark-medical.com/ 色彩療法 http://www.artiro.com/colortherapy.html 国際色彩診断治療研究会 http://www.shikisai-chiryou.jp/shikisai/index.php 色彩心理療法 http://www.aichi-kyosai.or.jp/service/culture/internet/hobby/color/color_1/post_567.html 色彩-光線療法は、過去に考慮されていたものよりも、将来、もっと考慮すべきものである。更に、人間の上部組織に特に強く影響する色彩の本質的な作用と、周囲の客観的存在のなかに吸収された後に、人間全体に影響する光の本質的な作用との違いも考慮することが不可欠である。 様々な色を出せる光の部屋に連れて行き、全身、もしくは人体の一部を照らすと、様々な器官的な作用が直接引き起こされる。この作用は、外から人間に作用する。 (地球外の天体の力を応用したものと考えられる。天体の力は、人体内の器官内部に作用するからである。光線力学的療法などの背後にある治療原理といえる。) また、通常、意識のなかだけにある色彩の印象(イメージ)を用いて、色のついた光で照らす代わりに、ある色を内張りした部屋に連れていけば、光とはまた別の作用を引き起こせる。この色彩の作用は、意識を中心に配されている(霊的な)器官を通っていく。 (色彩心理療法などの背後にある治療原理といえる。) 後者の主観的な色彩療法の場合、全ての面において、自我に働きかけがなされる。他方、光線等で誘導される前者の客観的な色彩療法の場合、物質的な組織に働きかけがなされ、物質的組織を通り、いわば迂回してから、自我に作用を及ぼす。 (意識のなかにある色彩イメージは、人によって異なるので主観的、対して、色彩を帯びた光線等は、波長の違いとして物質的に現れるので、客観的といえる。 だから、主観的な色彩療法が、色彩心理療法で、客観的な色彩療法は、光線力学的療法となる。この2つの治療法は、将来、2大治療法となるように思われる。)
2012年06月27日
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つまり、脾臓マッサージは次のようなことでも実践できる。 例えば、毒を生じさせるイメージ形成活動を伴う器官活動が強い人の場合、主な食事(1日の主となる食事、ドイツでは昼食だが)をできるだけ少食にし、代わりに食事の回数を多くし、間隔を短くするとよい。 イメージ形成活動が強い人は、食事を少量に均等にし、間隔を短くし、回数を増やすことで、脾臓の異常な活動を是正できる。食事をリズミカル(規則的)にとることが、内からの脾臓マッサージとなり、脾臓の働きに本質的に影響を及ぼす。 ただ、どんな治療法にも、ある種の難点があるように、この食事療法にも難点がある。というのは、今日(1920年)のように慌ただしい時代では、大多数の人々は、少なくとも外的な消費活動に追われ、脾臓の機能は、この外的な消費活動に極めて強い影響を蒙るからである。 動物のように、地面に横たわることで、外的な活動から、消化を妨げないようにして、健康を維持することが、人間にはできない。動物たちが、本質的に、脾臓の働きを労わっているのは事実である。 (動物を観察すると、消化のための休息を充分に確保していることがわかる。) 特に人間は、外的に、神経症的な慌ただしい活動のなかにあるとき、脾臓の働きを労わらない結果、次第に、文化人などにおいて、全般的に、脾臓の働きが異常になっていく。脾臓の働きが異常になっていく場合、食事療法による内からの脾臓マッサージで、脾臓の機能の負担を軽減することが特に意味をもってくる。 内か外かのいずれにせよ、脾臓マッサージのような繊細なマッサージに少しでも注目すれば、無(潜在)意識を媒介する器官と、(覚醒)意識を媒介する器官との間の関係について素晴らしい示唆が得られる。 というのも、その素晴らしい示唆により、マッサージの意味を理解することが容易になるからである。マッサージは、重要な意味を持ち、特に人体におけるリズミカル(規則的)な活動の調節に影響を及ぼし、状況によっては強力な治癒作用も発揮することがある。 マッサージは主として人体のリズミカル(規則的)な活動の調節に作用するが、マッサージの効果を上げたいのなら、人体を熟知しなければならない。例えば、動物の生体とは異なり、人体の腕と脚は大変異なっていることを考えればよい。 人間の腕は、重力の支配を比較的免れ、自由に動かせ、腕のアストラル体は、脚よりも遙かに物質体との結びつきが弱い。脚のアストラル体は、物質体に密接に結びついているが、腕のアストラル体は、物質体、つまり腕との結びつきが弱く、外から内へと皮膚を通じて強く作用する。 すなわち、アストラル体は腕と脚とを、外から内へと、ある意味、包み込むように作用する。 対照的に、脚や足では、意志が、アストラル体を貫いて、内から外へと強く遠心的に放射しながら作用する。 以上の相違から、腕と脚との違いは大きい。結果として、脚と腕をマッサージするのでは、根本的に言って、全く違う作用を及ぼす事になる。 腕をマッサージすれば、アストラルを外から内へと引き入れる。腕は、通常よりもむしろ意志の道具となり、腸と血管との間で生じる内部の新陳代謝を調節するような働きが引き起こされる。腕や手をマッサージすれば、血液の形成に対する多くの働きを引き起こせる。 対照的に、足と脚をマッサージすると、表象(イメージ)に応じて、物質の変化する割合が増し、排泄-分泌過程(プロセス)に関係する新陳代謝を調節する働きが引き起こされる。 腕をマッサージすれば、血液の形成というような新陳代謝の内部構築的な領域につながり、脚をマッサージすれば、物質の変化から、排泄-分泌過程というような新陳代謝の解体的な領域につながるというような、マッサージの働きのなかに、人体組織の複雑さが洞察できる。 人体の原理(ラツィオ)に則って探究すれば、実際、身体のどの箇所も、他の箇所と、ある種の関わりを持ち、マッサージは、人体内の相互作用を、適切な形で洞察することに基づくことがわかる。 下腹部のマッサージは、呼吸活動にも良い効果を与える。下腹部のマッサージが呼吸活動に特別に良い影響を及ぼす事実は、非常に興味深い。心臓の下あたりからマッサージする場合、下へいくほど、呼吸活動への影響が強くなり、例えば、咽喉への影響が強まる。 つまり、胴体のマッサージでは、マッサージの場所と、呼吸活動への影響の場所が逆になり、下へいくほど、上半身に位置する器官に影響を与える。 対照的に、例えば腕のマッサージは、上半身を同時にマッサージすることで、影響が強まる。
2012年06月26日
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ついちょっと前に、占い師による女性芸人の洗脳が話題になったが、このことは、いまのマスコミをよく物語っている。 国民に増税を良い事だと思い込ませ、税金を官僚に貢がせるようにして、官僚の利権獲得に群がる。 まさに占い師そっくりである。洗脳である。 この構図は、太平洋戦争のときと同じである。 戦争に至らせたのは、当時の国民の世論だという正論があるが、その世論を形成したのがマスコミなので、マスコミが一番の戦犯に相当する。 しかし、マスコミのなかで、裁きを受けた者はいない。 当然である、米国のオレンジ計画に洗脳され従わされただけで、その起案者がメーソンだからだ! マスコミは、「大東亜戦争」を洗脳しておいて、GHQがきたら、「太平洋戦争」とオベンチャラして180度態度を豹変させ、逃げまくる地獄行きの輩なのである。洗脳が伝播している。 「シロアリ退治に命をかける!」と洗脳しておいて、政権につくと、「増税に命をかける!」と全く逆のことをするどこかの嘘つき総理と同じだ! 「お国のために死ね」と他人にいいながら、自分は逆のことをしている悪魔が正体である。 つまり、自分のために犠牲になれといっている悪魔にすぎない。 だから、つねに権力を確保し、その犬でいたいのである。 このような腐敗した精神が行き着く先は当然の如く地獄である。なぜなら、他人のいないあの世では、自分を犠牲にするしかないわけだが、自分を犠牲にすることがなにより苦痛な輩だからである。 つまり、自分の足で立つことができない寄生精神をもってしまっているからである。 キリストが、悪魔に魂を売る、といったことに相当する。 これからの時代は、外見よりも、そのような精神をみれる眼が必要となる! 仏教では、「心眼」といわれている。 さて、そのマスコミだが、いまもせっせと権力の犬を続けて、その先が地獄なのを考えもしない。 そこで、あるサイトを紹介したい。それは以下である。 御用評論家は「説明責任」を果たすべきだ! http://ameblo.jp/aobadai0301/entry-10524300608.html 権力の犬たちよ! あなた方の罪は、実際、犬よりも深いぞ!! さて、小沢バッシングを冷静にみていくと、バッシングしている連中につながりがみえてくる。筆頭は、小沢と政敵だった野中である。同じ竹下派なのに、不思議でもあった。なにやら因縁めいたものも感じる。野中は、小沢が小渕を殺したと信じ込んでいるそうである。 私は、マスコミが、悪魔の支配の論理で2人を仲違いさせ、竹下派を分裂させたのだと思う。中曽根と近いナベツネあたりだろう。 以上は私の推測なので、どうでもいいことだが、竹下が院政をしくためにつくった三宝会という、なにやら資金流通組織が気になっている。 グラバーが龍馬を介してつくった亀山社中のようなダミー会社に思えるからである。 小沢バッシングしている連中は、この三宝会に絡んでいて、考えられるのは、機密費問題だからである。この三宝会は、行革阻止の官僚たちを集めてつくられたという面もあるそうである。 私のみたところ、機密費問題は、この三宝会にあるように思える。三宝会に対抗してナベツネが、山里会なんかつくっているところをみると、税金を横流しする組織であることが自ずとわかる。 野中が機密費問題を暴露しながら、その組織については何も語らないところに、もはや組織が隠れている可能性もあるが、とにかく、この三宝会という名が私的に気にいらない。 三宝といえば、三種の神器を意味するからである。やっていることは公私混同や税金の着服なので、神を穢す名に思えるからだ! 太平洋戦争のときは、国民の命を奪っておきながら、今度は財産を奪おうとする連中の悪魔性には呆れてしまう。そんなにカネがほしいのか? 金持ちは天国にはいけない。地獄にいくことを、キリストがはっきり述べているのに! 日本は、神の国だというのに、このような不埒な輩が穢しているようでは、天変地異が多発するのも当然に思えてくる。 政治家という連中、勿論、御用評論家などは、それ以下だが、犬以下の存在であることが、TVを通してよくわかる。 本人は動かされていることを知らないアホなのかもしれないが、「そんなに自分が大切なのか?」 とにかく恥ずかしくてみてられないので、モザイクかなにかをすべきに思える。
2012年06月23日
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前回述べたYAPだが、ヤホとも読めるのは面白い。ヤホは、YAWAで、ヤハウエのことになる。日本人には、ヤハウエの民、大和の民というシルシがあるのか? さて前回紹介したサイトには、他にも色々興味深い話が載っていた。メーソンに関わる以下の話などは、特に面白い。 イルミナティと中央銀行支配 http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/764.html#readmore 影の支配者、つまり悪魔については、シュタイナーもよく語っている。現に、悪魔についての解説まであるほどである。 悪魔は、堕天使のことで、人間のような肉体をもたないが、悪霊として人間に干渉する存在のことである。このような話をすると、オカルト扱いされてしまうので、控えるが、上記のような中央銀行を支配することで、富を集中させ、人類を支配する話などを聞けば、少しは、そういうこともあるかもしれないと思う人も出てくるかもしれないが、大半は、自分の生活だけで手一杯で、とても、そのような壮大な話に関心を寄せることはできないだろう。 悪魔はそこらへんを見切っているといえる。 バックミンスターフラーというちょっと変わった時代の寵児ともいえる思想家は、大学ができたのは、支配者が誰なのかをわからなくさせるために、知識を分断させて、お互いがお互いをわからなくさせるためであることを述べている。 互いに目隠しをさせることが、悪魔の支配の鉄則なのである。 だから、中世の支配者ともいえる王様が、自らの支配権が奪われないように、知識を分断させるために、大学をつくり、その伝統が現在にも続いて、学者や専門家は、実用的でない者ばかりとなるわけなのだ! 互いに同士討ちさせることで、支配権を確立することは、悪魔のやり方なのである。 イルミナティという名が、そのことを物語っている。イルミナティとは、光り輝く者という名であるが、ルシファーも、同じ意味をもつ。 つまり、イルミナティは、ルシファーなのである。現に悪魔の支配の鉄則を用いている。互いを分断し、その上に君臨する。 ちょっと賢い人なら、そのような政治体制をとる国の真の支配者が見えないことに気づくはずである。 では、フリーメーソンはどうなのか? これもまた悪魔と思わざるを得ない。 そこで古代ヘブライ語で解釈してみる。メーソンは、「めそ・ん」と読むと、どっちつかずの中途半端という意味をもつそうである。英語の「meson」の意味の「中間子」が面白い。 どちらの味方でもなく、どちらも利用する悪魔の支配と似ている。 しかも、フリーは、自由の意味だが、古代ヘブライ語だと、日本語の「振り」になり、「拍子」、「踊り」になる。 どっちにもつかずに、第三者の振りをしながら、その実、どちらからも甘い汁を吸おうとしているようにみえる。 秀吉と光秀の天王山の戦いで、洞ヶ峠でどっちつかずでいた筒井順慶を思い出させる。 さて、例のサイトには、フリーメーソンと明治維新の関係も載っている。 明治維新 http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/755.html 討幕派と幕府のどっちつかずで、お互いに日本を分断させ、その上に君臨し、資本を搾り取り、支配する明治政府をつくる。 まさに悪魔の手口で、悪魔による悪魔のための悪魔の支配といわざるを得ない。 このフリーメーソンの動きをみると、太平洋戦争に日本人が巧妙に巻き込まれ、動かされていったことが明らかになる。例のサイトの次のような話を読めばわかる。 日英同盟・日露戦争 http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/758.html オレンジ計画と第二次世界大戦 http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/759.html 重要なことは、狙った標的を分断させるために、工作員を入れ、偽情報を流して、お互いがお互いを疑心暗鬼にさせ、その上で、両方に助け船を出して、勝った方を傀儡として、すべてを収奪していくやり方を見抜くことにある。 人間の弱点を知り抜いた悪魔の手口である。 振込み詐欺が、この手口と同じで、分断して暮らす家族が標的にされるのは、愛情が少ないせいと考えられる。
2012年06月22日
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ある検索をしていたら、ロスチャイルド家の紋章が、皇室に伝わる紋章と似ているというサイトに遭遇した。それは以下のサイトである。 天皇家 もう一つの紋章 http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/244.html このサイトによると、皇室に伝わる紋章と、ロスチャイルド家の紋章が、よくにているという。 ロスチャイルド家の紋章には、左にライオン(獅子)、右に一角獣、上にダビデのマーク 皇室に伝わる紋章には、左に一角獣で、右に獅子、上にダビデのマーク そして、ライオンは、南ユダ王国の紋章で、一角獣は、北イスラエル王国のヨセフ族の紋章なので、古代イスラエル王国の紋章ということになるという。 以前、古代ヘブライ語からみると、天皇はスメラ(サマリア)の王で、ガド族(司祭)の長というようなことを書いたことがある。ちなみにガド族の紋章は、天幕(テント)が3つ並んだもので、「五七の桐紋と酷似する紋章」といわれている。 「五七の桐紋」は、豊臣秀吉が太閤になったときに朝廷から下賜された紋で有名で、いまでは日本政府の紋となっている。「五七の桐紋」は、恐らく、聖杯を模ったものだと、私は解釈している。 さて、上記の2つの紋から連想するのは、古代エジプトの最後の審判の図である。以下のサイトの図をみて、比較してほしい。 http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/world_history06.html 細かい点を気にせずに、大まかにみれば、「獅子」を「心臓」、「一角獣」を「真理神マートの羽」に置き換え、「天秤の頂点」を、「ダビデのマーク」に無理やりこじつけると、似てなくもないように思えてくる。 つまり、紋章は、最後の審判を現わしているのではないか? というわけなのだ。 更に連想されるのは、有名なカバラの「生命の樹」である。ちなみに、「カバラ」を古代ヘブライ語で解釈すると、「十字架(か)を(ばら)す」という意味になる。 十字架は、贖罪という意味で、人生を現わすので、人生をばらすのは、明らかにするということになる。人生を明らかにするには、「この世」だけでは片手落ちとなるから、「あの世」からも明らかにしないといけないわけだ! 十字架がなぜ人生を現わすかといえば、輪廻転生を想定しないとみえてこない。過去の罪を背負い贖うために、現世に生まれてくるわけで、現世、つまりこの世の人生も、前半期の罪が、後半期にかえってくることが、秘教を学べばわかってくる。 つまり十字とは、カルマの法則の象徴なのである。 簡単にいえば、自分の行いが、自分に返ってくるという象徴なのである。 その十字を支えるのが、上記の紋章だと、獅子と一角獣となる。だから、ライオン(獅子)は、「この世」の象徴で、百獣の王と呼ばれる。対して、「あの世」の象徴が、一角獣となる。 つまり、この世の行いが、あの世の行いと釣り合いがとれているか?という評価が審判になる。 だから、自分の行為が、自分以外の宇宙からみても、価値のあるものかどうか?という評価に換言できる。 では、紋章の上にあるダビデのマークの正体は? 恐らく、太陽神ラーのことだろうから、ダビデは太陽の象徴と思われる。神道風にいえば、菊花紋にあたるだろう。 以上の大まかな象徴を、生命の樹に当てはめると、 生命の樹 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E6%A8%B9 「ダビデのマーク」は、生命の樹の頂点のケテル、つまり王冠は、アイン(無)とアインソフ(無限)とアインソフオウル(無限光)から生まれ、万物を見通す眼で、太陽神に相当し、「十字架」つまり天秤は、生命の樹の中央の柱の「均衡」を意味するように思える。 続いて、「ライオン(獅子)」は、生命の樹の左側の「峻厳」の柱を意味する象徴と思われる。 更に、「一角獣」は、生命の樹の右側の「慈悲」の柱を意味する象徴と思われる。 つまり、紋章は、生命の樹を現わし、最後の審判を意味する。紋章とは、家族を受け継ぐことで、遺伝を表し、物質的にいえば、血である。 キリスト教風にいえば、先祖の罪を受け継ぐことになる。先祖の罪を受け継いで贖うことが、キリストの教えとなる。 だから、紋章は、家族を意味し、遺伝的な罪を表すことになる。聖書を通じて、キリストは、よくカルマ的な意味で罪を「シルシ」と呼んでいる。 皇室に伝わる紋章とロスチャイルド家の紋章が似ているという意味で、罪も似ていることになる。この2つの紋章の異なる点は、左右の違いにある。皇室の紋は、左に一角獣だが、ロスチャの紋は、逆の右になっている。 東洋と西洋の違いといえばそれまでだが、なにやら因縁めいたものも感じる。ロスチャイルド家は明らかに経済的に日本に侵攻しているからである。 さて皇室の紋章については謎の域を出ないが、現代の遺伝子解析から、興味深いことがわかっている。それは、引き続き上に紹介した以下のサイトをみればわかる。 日ユ同祖論とDNA http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1042.html このサイトによると、「Y染色体のDNAの塩基配列の型から、Alu配列と呼ばれる約300個の特定の塩基配列(YAP+因子)を持つのは、Dグループと、Eグループで、Dグループが相当な頻度で存在するのは、日本とチベット、インド洋のアンダマン諸島のみ(日本で30~40%、アイヌと沖縄ではさらに頻度が高く、チベットでは約30~50%)であることがわかったという。他方、Eグループが相当な頻度で存在するのはアフリカと地中海沿いの中東からイタリア南端にかけてである」という。 「だから、Y染色体にAlu配列(YAP+因子)を持つ者が相当頻度で存在する地域は、アフリカと地中海沿いの中東からイタリア南端にかけてと、チベットと日本のみであり、日本人のY染色体の30~40%については、DNA塩基配列が近縁関係にあるものは周辺国等にほとんどなく、チベットやアフリカや中東のY染色体と近縁関係にある事が分かっている」という。 通称YAPと呼ばれている特定の塩基配列は、Y染色体にあるので、父系遺伝でしか存在しない。ただし、この塩基配列が、どのような意味をもつのかは明らかになっていないようである。 皇室が父系遺伝を尊重してきたのは、このYAPにあるのではないか?とも思えてくる。つまり、皇室の祖先が、チベットやアフリカや中東と縁が深いというシルシなのではないか?と思うわけである。 さて、上記の紹介したサイトには以下の菊花紋に関する面白い話がある。 天皇家の紋章 http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/242.html 結局、古代ヘブライ語と日本語の類似の補強になってしまいました。 残念ながら、上記のサイトの著者は、唯物論思考に洗脳されているため、人類の発祥の地をアフリカに想定していますが、人類の発祥の時代が、現代と同じ地球、つまり大陸でなかったことは確か、なのを忘れています。 人類も移動するが、大陸だって移動していますね。気候や環境だって現代と同じわけではありません。例えば、アフリカが、水没したアトランティス大陸の一部だった可能性だってあります。 さて、Y染色体の父系遺伝で受け継がれてきたYAP型が、最後の審判の鍵となるのかは、いまだかって定かではありません。 しかし、なんだか、昨今の原発問題、つまり放射能汚染との因果関係を考えずにはいられません。ロスチャといえば原子力だし、ロスチャの分家のロックといえば石油なので、エネルギー問題と関わっているように思えてしまう。 開発が進まない未開の地に、YAP型が多いのと関連するような気もします。 失われたアークならぬ、YAPかな?
2012年06月21日
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提出された質問を、講義のなかで少しずつ述べてきた。重要なのは、これらの質問に答えるための、土台を、基本原理(ラツィオ)に則って築くことにある。今回も、前回、述べた事実を引き継いでいきたい。前回は、人体組織において、脾臓の機能が非常に重要である事実に注意を向けた。 脾臓の機能は、本質的に、魂の潜在意識の領域を制御している。 脾臓を、肉体に従属的な器官とみなすなら、人間の本性を見誤ることになる。脾臓は非常に霊化された器官で、脾臓の機能を支援するために他の器官も動員されるために、脾臓の機能がエーテルの脾臓により容易に代替されやすいことで、脾臓を肉体に従属的な器官とみなすような錯誤、誤解が生じる。 しかし、脾臓の機能が、潜在意識から覚醒意識のほうへと引き上げられた場合、更に奇妙になることがわかる。奇妙になるとは、脾臓の機能を手懸かりとして、実際、近代になって脚光を浴びるようになった、ある治療法の原理が現れることである。 いまその治療法の原理を説明するにあたり、特別な点は、脾臓の機能を出発点とすることにある。つまり、脾臓のあたりを、弱くマッサージすれば、潜在意識的な活動に対して、均衡をとるような働きが確認できる。 脾臓のあたりを、そっとマッサージすれば、治癒的な本能(潜在意識の覚醒意識化)が獲得できる。例えば、当人に相応しい食物が簡単にわかり、人体のなかで役立っている成分と、役に立っていない成分に対して、健全な関係を持てるようになる。 (食欲不振に効くつぼ http://www.geocities.co.jp/SweetHome/3406/tyotti.2.htm 脾兪 http://kiraku88.blogspot.jp/2010/10/blog-post.html) とはいっても、脾臓あたりのマッサージは、すぐに限界に突き当たる。マッサージをあまり強くやりすぎると、途端に、治癒的な本能の活動を、逆に完全に弱めてしまうことになる。従って、マッサージの強さにも、均衡点というような、強さのゼロ点を、特別に保持することが必要になってくる。またマッサージの範囲を、あまり広くしすぎてもいけない。 さて、では、脾臓へのマッサージと、治癒的な本能とは一体どのような関係にあるのか? 脾臓の近辺をマッサージすると、実際、マッサージしている場所に、通常は存在しない意識が送り込まれる。 マッサージされている人の、いわば潜在意識が、マッサージされている場所に投影される。マッサージなどにより、潜在意識を転移させ、覚醒意識化することから、非常に多くの生体組織が成立している。人体組織へのマッサージのような精妙な働きの効果を、現代の無骨で粗雑な言葉で表わすのは、非常に困難である。 (瞑想によって、潜在意識の働きを「覚醒」意識化するのも、マッサージと似ている。) 奇妙に聞こえようとも、人体のなかの脾臓、もしくは脾臓の機能により媒介される無(潜在)意識のなかの理性の働きと、(覚醒)意識的な働きとの間には、強度の相互作用が存在している。 では、人体組織の(覚醒)意識的な機能とは、一体何なのか? 人体のなかの物質的な経過(過程)が、特にイメージ形成のような高次の(覚醒)意識の経過に伴われる形で生じると、人体には毒となる。イメージを伴う物質的機能は人体には毒となることを見過ごしてはならない。 すなわち、人体は、イメージ形成(表象)活動を通じて、絶え間なく、自身を毒していることになる。(外界を認識することで、体内が汚染されることになる。だから、古代インド人は、外界を穢れたものとし、マーヤ「幻想」と呼んだという。) この自らを毒する状態は、本質的に、無(潜在)意識のなかの意志活動(霊魂の活動)により絶えず宥和(解毒)されている。 脾臓には、この無(潜在)意識のなかの意志活動の中心(基点)がある。マッサージなどにより、脾臓に影響を与えることで、脾臓の潜在意識を、「覚醒」意識で満たす(覚醒化する)と、高次の(覚醒)意識から発する強い有毒の作用に対抗する働きかけができる。 (この高次の覚醒意識とは、聖書のなかに記述された知恵の実のことである。知恵の実を食べすぎると、死んでしまうというのは、このことと考えられる。生命の樹からは実をとって食べてよいというのは、脾臓の潜在意識のことに相当するのだろう。 つまり、聖書が伝えたかったことは、潜在意識は、上位の神々の神界につながっているが、外界を認識する覚醒意識は、下位の神々、つまり俗にいう堕天使の悪魔の魔界につながるということなのだろう。 聖書の、「蛇を通じて、知恵の実を食べる」という記述は、蛇の形をした中枢神経「脳を含めた脊髄」を通じて、人間は外界を認識しているので、外界を食べ過ぎると、霊魂が腐敗し、角をもつ獣のようになる、ということを意味するのだろう。 人間の中枢神経を、古代人が蛇の形で示したのは、医の紋章の「アスクレーピオスの杖」からもわかる。神道では、あの世とこの世をつなぐ注連縄に相当し、2匹の蛇が絡み合う構造は、DNAの螺旋構造を示し、また、宇宙の天体の運行や軌道を示している。) しかし、脾臓へのマッサージは必ずしも人体の外から行う必要はなく、人体の内からも行うことができる。内部からのマッサージを、マッサージと呼ぶことには、抵抗があるかもしれないが、重要なのは、互いに理解しあうことにある。 (脾臓を摘出すると、少なくとも外から影響を与えることはできなくなる。脾臓を摘出しても、エーテルの脾臓が機能を代用するので、日常生活には支障をきたさないが、イメージ形成活動などによる毒の解毒が困難となるので、例えば、コンピュータウイルスに対して、ウイルス対策ソフトのウイルス定義ソフトが更新されないのと同じで、細菌感染に弱くなるのだろう。)
2012年06月21日
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では、一体脾臓とは何なのか? 人智学の研究では、脾臓は、粗雑(物質機能的)な新陳代謝と、人間のなかで霊化され、魂化された形で生じる全てとの間に、調和を作り出す使命を持つ器官として現われてくる。 つまり、脾臓は、根本的に言って、他の強弱の意識をもつ器官のなかでは、非常に無意識(潜在意識)的な器官であり、栄養摂取のリズム(間隔)に極めて敏感に反応している。いつも食べてばかりいる人は、充分な間隔をとって食べる人とは、脾臓の活動が全く異なる。 栄養摂取のリズム(間隔)の違いからくる脾臓活動の違いは特に、ツマミ食いばかりする子どもの脾臓活動に落ち着きのなさ、として現れる。ツマミ食い(間食)ばかりすると、非常にそわそわした落ち着きのない脾臓活動が生じる。 また、この違いは、栄養摂取のない状態で、睡眠に入るとしばらくしてから、脾臓は、脾臓のやり方で、ある休止状態に入ることからも観察できる。つまり脾臓は、人間の霊魂にとっての栄養摂取のリズム(間隔)を知覚する器官なのである。 栄養摂取が、リズミカル(規則的)でないような有害な影響を少なくとも和らげるために、人体が展開すべき反作用とは何か?を、脾臓は、潜在意識のなかで人間に語りかける。このため脾臓の働きは、表に表れる新陳代謝よりは、リズミカル(規則的)な経過に重きを置くように導かれ、リズミカル(規則的)な経過に関与する。 つまり、脾臓は、栄養摂取と呼吸との間に生じる必須のリズム(規則性)に関与する。 呼吸のリズムと、リズムというような性質を特に示さない栄養摂取との間の中間に、リズムのような性質をもつ経過を挿入し、この経過を仲介するのが脾臓である。 (脾臓の機能は、体内時計というべきか? 4次元機能というべきか? とにかく4次元と3次元を仲介する機能のようである。下半身の体内時計というべきか? また上半身の体内時計は、松果体が担っているようである。 概日リズム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%82%E6%97%A5%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0) 呼吸のリズム(規則性)を通じて、人間は厳密な宇宙のリズム(規則性、四季など)のなかで生きることができるが、不規則な栄養摂取を通じて、絶えず人間は、この厳密な宇宙(呼吸)リズム(規則性)を侵害している。 脾臓が両者の仲介者なのである。 上記の事実は、人体の観察から簡単に確認できる。上記の事実によって導かれ、解剖学的-生理学的に実際に見つけられる知見を、更に探求して欲しい。微小な存在に至るまでの全てが実証できることがわかるだろう。 人体組織のなかでは、脾動脈が大よそ直接大動脈とつながり、脾臓が形成されている状態をみれば、外(物質機能)的にも、上記に述べた、脾臓が、呼吸リズムを調節している事実が実証されていることがわかる。 大動脈 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8B%95%E8%84%88 (脾臓の活動が、心臓の活動と、血液を通じてつながり、心臓の鼓動を調節するので、呼吸のリズムを調節することになる。以下のサイトをみれば、大動脈と脾動脈のつながりがイメージできる。 脾臓の病気 http://www4.ocn.ne.jp/~toyohp/hizou.htm) また他方で、脾静脈が、門脈へと進み、肝臓と直接関係するように、脾臓が人体組織全体に組み込まれていることから、栄養摂取への仲介を果たしていることがわかる。 脾静脈を通じて、脾臓の調節を伴った、なかば外的な呼吸リズムの経過と、不規則な栄養摂取による非リズムの経過が統合され、全体としてリズムを伴った経過として調整されている。 門脈 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E8%84%88 脾臓 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%BE%E8%87%93 (上の「脾臓の病気」サイトからの引用はわかりやすい。 「脾臓には大動脈から脾動脈を経て大量の血液が入ってきます。その為交通事故などで左側を損傷し脾臓破裂を起こすと、お腹の中に多量の出血が起きてショックとなり、開腹手術が必要になることもあります。脾臓を通過した血液は脾静脈となり、胃や腸からの血管と合流して門脈となり、肝臓に流入します。このため血流の下流となる肝臓が硬くなる肝硬変などの時に門脈圧が亢進して脾臓が大きくなることがあります。) すなわち、脾臓の働きは、呼吸による律動と新陳代謝との間に挿入されている。脾臓が仲介する呼吸組織と新陳代謝組織との関係、もしくは血液循環組織と新陳代謝組織との関係に基づいて、正しくない脾臓活動を、おおよそ調整する必要がある。 結局、唯物論的科学では、いわゆる脾臓の生理学が疎かにされてしまったのも不思議ではない。実際、唯物論的科学においては、新陳代謝系統や循環系統、神経-感覚系統という三分節化された人体の機能や、霊魂の働きについては全く無知だからである。
2012年06月19日
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根が発達している植物、例えば、根のなかのカリ塩形成過程が進行し、根の中に、カリ塩やナトリウム塩[Natron-salz]が沈殿するほど発達している植物を観察すれば、その植物の葉のなかには、根の力に対抗する蛋白質形成過程があり、人体に用いれば、出血や腎臓結石[Griessbildung]などに対して、治癒的に作用することがわかる。 上記の意味から、人体内の出血や腎臓結石などに類する症状に対して、治療薬となる植物は、学名「カプセルラ・ブルサ・パストリス[Capsella bursa-pastoris]」のナズナ[Hirtentaeschel]である。 ナズナ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%BA%E3%83%8A (上のウイキペディアに「民間薬として陰干ししたのちに煎じたり、煮詰めたり、黒焼きするなどしたものは肝臓病・解熱・血便・血尿・下痢・高血圧・止血・生理不順・腹痛・吐血・便秘・利尿・目の充血や痛みに効き、各種薬効に優れた薬草として用いられる。」と記載されているように、日本には民間医療として、古代の医学が伝承されていたことがわかる。) さて、例えば、トモシリソウ[Loeffelkraut]「学名;コクレアリア・オフィシナリス[Cochlearia officinalis]」のような植物を考えてみる。 トモシリソウ http://hanamist.sakura.ne.jp/flower/riben/aburana/tomosiri.html 上記のような植物を研究すれば奇妙な事実がわかる。この植物のなかには、油状の硫黄が含まれている。このような植物は、内部に油状の硫黄を持つことで、この植物は、自らの硫黄を通じて蛋白質に直接働きかける。鉱物のなかの硫黄は、蛋白質の形成力を促進するように働きかける。 蛋白質形成過程(プロセス)は、その経過が不活発になると、硫黄が添加されることで、促進され、速められる。硫黄の添加による蛋白質形成の促進は、トモシリソウのような植物では、自らのなかに器官機能として組み込んでいる。 トモシリソウは、特定の生育地(海岸の岩場や砂地)に生えることで、自然のなかに特別な形で組み入れられ、蛋白質形成が極力、不活発な働きしかしないように宿命づけられているが、素晴らしい自然の本性により、トモシリソウ自らがもつ油状の硫黄により、極度の不活発な蛋白質形成に対して、均衡をもたらすことができる。 さて、硫黄により速められた蛋白質形成過程(プロセス)は、本性から同じように速く進行する蛋白質形成過程(プロセス)とは異なる。この違いを念頭に置く必要がある。数多くの植物のなかに、トモシリソウと同じように速く進行(経過)する蛋白質形成過程(プロセス)をみつけることもできる。 しかし、本性から進行する蛋白質形成過程(プロセス)は、不活発な進行と、トモシリソウのように活性化された進行との相互作用により引き起こされたものではない。トモシリソウの成長のなかでは、不活発な進行と活性化され、速められた進行とが連続的に共作用している。 トモシリソウのなかの、この不活発な進行と、活性化された進行との共生のなかに、例えば壊血病[Skorbut]のような疾病に極めて治癒的に働くことを可能にする親和性が見つけられる。 というのも、壊血病の背後で生じている過程(プロセス)は、上記の過程(プロセス)に極めてよく類似しているからである。 さて、個人的に鍛錬して、上記のような、外の自然の事象と、人体内に関わる事象とを共に探求することを身につければ、実際、宇宙の神秘性を、かなりのところまで理解できるようになる。このような理解を通じて、上述のような極めて重要な親和性に到達できる。 このような理解から、他の知識からは決して獲得できない人間に対する完全な理解にも到達できる。何と言っても、本質的に、人間以外の自然と、人間に通じることでしか、人間を完全には理解できない。 自然と人間の両方を一緒に研究できなくてはならない。更に、もう1つ、事実を述べるが、無駄だと思わないで欲しい。次回からの考察のなかで重要となる事実だからである。その事実とは、人体組織において脾臓[Milz]が果たす独特の機能に関するものである。 人体組織のなかの脾臓の機能は、霊的な傾向を強く持っている。そのため、以前、「オカルト(秘教学的な)生理学」の連続講義で、次のように述べた。 「脾臓を摘出しても、代わりに、エーテルの脾臓が容易に発生する。つまり、物質的な脾臓は、エーテル的な脾臓により容易に代替可能な器官である。」 脾臓摘出術 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%BE%E8%87%93%E6%91%98%E5%87%BA%E8%A1%93 しかし、脾臓は下腹部の他の器官ほど、新陳代謝に本質的に関わっていない。脾臓は新陳代謝に本質的にはあまり関係していないが、新陳代謝の調整に非常に関わっている。 (上のウイキペディアにも、脾臓を摘出しても、日常生活に支障をきたさないが、重篤な感染症を起こす場合もあると書かれているが、シュタイナーの言うように、新陳代謝の調整に関わっているのであれば、免疫の抗体との関わりが考えられ、特にヘルパーT細胞のTh1細胞とTh2細胞の関係が挙げられる。このT細胞は、液性免疫と細胞性免疫の調節を行っているからである。)
2012年06月19日
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さて、この動物の形成過程(プロセス)は人間のなかにもある。ただし、人間では物質的な生体機構の内部に配置されている。この過程(プロセス)は、消化や血液形成や呼吸の間で起こる全機能の内部に配置されている。 人間のなかの、この動物の形成過程に関しては、今日の動物の形成過程(プロセス)に酷似している。従って、人体の物質的な機能の内にある過程は、植物の上方(花や果実)の生命傾向と、高い親和性をもつので、植物の生命傾向に有効な過程を用いて、この動物の過程(プロセス)に対処できることが期待できる。 しかし人間は端的に動物に優る過程を持っている。 人間は、植物がアストラルとの間で行なっている動物ももつ共通の過程(プロセス)を遂行するだけでなく、アストラルを超える[ueber-astral]、アストラルよりも更に地球外の周囲からくる力との間の鉱物の共有過程(プロセス)も遂行している事実に、人間の動物に優る過程は、基づいている。 従って、次のような結論に至る。 「現在の地球進化の人間の特徴は、人間が、鉱物の形成過程(プロセス)を、(宇宙と)共有することにある。」 動物が蛋白質の変成を行なっているのと同じように、動物の蛋白質変成過程(プロセス)よりも遙かに地球外の傾向をもつ過程(プロセス)、いわゆる、天と鉱物界との間で生じる過程(プロセス)を人間は行なっている。 この過程は、現代の科学では全く考慮されていない過程(プロセス)である。この過程(プロセス)を表現するなら、その特徴に従い、脱塩(淡水化)過程(プロセス)[Entsalzungs prozess]と呼ぶことができる。 実際、人体組織においては、絶えず脱塩過程(プロセス)が行われている。この過程は、塩形成を逆に変化させる傾向をもつ。そして、人間であることは、特に動物を超えてゆく人間の思考は、本質的には、この脱塩過程(プロセス)に基づいている。 人体内の動物形成に似ている中心からくる力の過程ではなく、地球外の周囲の力からくる過程は、塩形成に逆らう。通常の土壌を形成する植物の蛋白質の力に、動物の蛋白質の力が対抗しているのと同じように、人間は、塩形成に対して、脱塩過程に基づく何かを対抗させている。 植物薬では対処できない病気を治療するために、主として鉱物のなかに探し求めなくてはならない過程や作用は、塩形成に対抗できる脱塩過程に基づく、塩の作用とは逆の反作用のなかに存在する。 植物薬だけで治療すると、植物は、人間の動物過程に関与するので、もっぱら人間を動物と見なすことになる。地球の周囲の、地球の鉱物化に対抗して行なわれる激しい闘いに、人間の参加が期待される。人間の自我が、この激しい闘いに参加する可能性へと導かれるとき、人間は宇宙から敬意を表される。 例えば、石英のような鉱物薬で治療する際、実際は、石英のような硬い鉱物を溶解させ、克服する内部の力に訴えている。石英で治療することは、地上では起こらない、地上の外で起こっている闘いに、自我を、参加できるような状態に移行させている。闘いの場では、地上の固体全てが、熱のなかで粉々になるほどの力が働いている。 実際に、宇宙空間は、惑星のなかで、丸く密集し、固体となる全てを粉砕し、粉々に打ち砕く特性を持っている。 日常生活では、滅多に起こらず、非常に稀である。宇宙空間が行う固体の粉砕や溶解を、地上で行うには、数学をする性質をもち、特に図形をイメージする幾何学的な思考に慣れる数学者になればよい。 というのも、幾何学な思考は、鉱物の粉砕が根底にあるからである。数学的思考に反感をもち、むしろ塩形成過程(プロセス)に甘んじていたいなら、鉱物を内的に打ち砕き、溶解する数学者や解体を専門とする技術者にはなれない。 以上が数学的な性質をもつ人と持たない人との違いである。地球の鉱物化過程(プロセス)に対抗することは、多くの治療過程(プロセス)の理念の根底をなしている。 端的にいって、数学的な思考もまた、古代の人類の攻撃-防御本能に含められる。古代の人間は、自分の思考が弱まったことに気づいたら、鉱物を摂取することで、鉱物の粉砕力に頼った。そして、鉱物を内的に粉砕することで、地球から遙かに隔たった場にある地上を超えた力との調和に至る能力を身につけた。 さて、以上の事柄が正しいことが、いわば手で掴めるほどはっきりとわかるように、外の自然を探求していくことができる。これまで述べてきたような観察から、正しく検証が得られる。 例えば、検証を得るために、この点において非常に興味深い、ラテン語名「ベトゥラ・アルバ[Betula alba]」をもつシラカバ[Weissbirke]と呼ばれる植物を観察してみる。シラカバは、二重の形で、通常の植物形成過程(プロセス)とは異なっている。 シラカバ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A9%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%90 シラカバは、通常の植物形成過程(プロセス)をもたない。つまり、シラカバの樹皮に生じている過程を、シラカバの葉、特に、まだ褐色の綿毛をもつ春の若い葉に生じている過程と混合できれば、通常の植物形成過程(プロセス)が現われてくる。 シラカバの樹皮に作用する過程を、シラカバの葉に作用する過程に共作用するように、この2つの互いに隔たった過程(プロセス)を混合すれば、葉のような花をつけた不思議な草本植物が得られるだろう。 シラカバは、端的にいって、蛋白質形成の過程(プロセス)が、通常よりも、余計に葉の作用にもたらされることで、葉のなかに蛋白質形成の過程(プロセス)が集中し、また逆に、樹皮のなかに、カリ塩(カリウム塩類)の形成の過程(プロセス)が集中することで、成立する。 (シラカバは、通常の植物の形成過程が、両極端に現れた植物。) シラカバのようにはならずに、葉のような状態に留まる他の通常の植物では、この両過程(プロセス)は融合し、根のなかのカリ塩形成過程(プロセス)が、蛋白質形成過程(プロセス)に浸透されている。 シラカバは、土から根が摂取したカリ塩形成過程を、外の樹皮へと押し出し、分離し、通常、他の植物では、カリ塩形成過程に混合する蛋白質形成過程を、葉のなかに送り込むことで、シラカバは、樹皮と葉の2つの方向にいわば分離するので、人体に、シラカバを取り入れると、部位毎に様々に働きかけるように調整できる。 特に、人体が脱塩過程へと導かれ、発疹などの症状を起こすときに、シラカバの樹皮を、人体に取り入れると、そのなかのカリ塩形成過程を通じて、シラカバでは、樹皮のなかで進行するカリ塩形成過程が、人体では逆に進行し(反作用となり)、治癒的に働きかけるように調整できる。 また、蛋白質の形成力が集中しているシラカバの葉を、人体に取り入れ、特に、その蛋白質形成過程の進行が、人体の主要部の胸部までに至り、胸部に影響を及ぼし、その進行が循環すれば、痛風[Gicht]やリウマチ[Rheumatismus]などの良い薬となることが実証されるだろう。 シラカバの蛋白質形成過程(プロセス)を更に高めるには、シラカバのなかの鉱物過程にまで入っていき、シラカバの木質から、植物炭を調合すれば、人体内の外界に接する腸などの、いわゆる内の外とでも呼べる作用に対して、強力に反作用する治癒力を得ることができる。 (恐らく大腸癌などの治療薬になるといっているのだろう。上に紹介したウイキペディアのシラカンバにも、「ソルジェニーツィンの『ガン病棟』ではガンの民間薬として書かれている。」とある。) 植物の外的な形姿から、人間に作用を及ぼす治癒力を洞察する術を学ばなくてはならない。シラカバを研究すれば、実際に、次のような結論に至る。 「シラカバを治療薬として、人体に即して、シラカバのイメージを変化させるなら、シラカバの特に木質と樹皮に向かうカリ塩形成力を、皮膚などの人体の周辺部に適合し、同化させ、シラカバが葉を通じて外に送り出す蛋白質形成力を、人体内の中心部へと裏返すことになるので、実際のシラカバのイメージは、人体にとっては逆転したものになる。」 (人体とシラカバは、作用機序において鏡像対称性(カイラリティ、キラリティ)をもつ。4次元対称性ともいえる。4次元では、内と外が同じになる。) 人体に即したイメージとして、シラカバの樹の本質的なイメージから、人間に対する治癒力が追求できるように、シラカバの樹全体を、逆転できなければいけない。 (4次元的な発想の転換は、内と外を逆にすることから生じる。例えば、自分の行為が、外からどのようにみえるかなどである。内と外を変換することで、わかることは多々ある。簡単にいえば、「押して駄目なら、引いてみな」、というところだろう。)
2012年06月18日
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さて、「興奮しやすさ」の背後には、何が生じているのか、をはっきり理解することが重要である。その背後には、自我の無力さが隠れている。 自我は、第一に、人間に作用を及ぼす地球外の、つまり地球に対して親密でない(地球の)周囲の作用(天の作用)と親和性を持っている。自我の作用は全て、地球の外からやってくる。 (自我は天体の力からなる。) 従って、自我に関係する過程(プロセス)と親和性をもつ地球外の過程(プロセス)を理解すべきである。地球外の過程や力を理解すれば、自我を、地球外の過程や力に正しく参画できるようにできる。 さて、地上のなかにも、自我が、人体内の中心的な機構において働くように、地球外の力から誘導されるような過程(プロセス)と同じ過程(プロセス)が存在する。この地球外の過程が、鉱物や植物に覆われた地球に、エーテルの油を形成する切欠を与える。自我を、この地球外の過程へと導いていく方法を発見すべきである。 外界が押し寄せる人体の湾のような眼のなかで、自我が、実際に外界と直接関係するように、自我と、エーテルの油の形成過程(プロセス)を関係づけなくてはならない。 (メシアとは、「香油を塗られし者」という意味だが、香油とはエーテルの油のことに思われる。つまり、自我が、エーテルの油の形成過程と関係づけられた者という意味にもなる。) この事を可能にするには、微粒子状にした油[fein zerstaeubtes Oel]をつくり、入浴治療を試みればよい。特に、どのくらい希釈し、微粒子状にして用いるか、入浴を何回行なわなければならないか、などを試してみるのが望ましい。この試行法が、生体組織を犯し、荒廃させる糖尿病を克服する方法である。 このような試行法から、生体外の過程(プロセス)の洞察や、同時に生体外の過程(プロセス)と生体内の過程(プロセス)とを共に考えることが、人間と人間以外の存在の生理学[eine menschlich-ausser menschliche Physiologie]であると同時に治療法でもあるが、そのような生理学を実際に生み出すことが必要であることがわかる。そして、この生理学は、進化の途上で、獲得すべき治療法である。 さて、指摘しておきたいことがある。つまり、人智学では、既に具体的な概念を獲得しているので、再度ということになるが、人間は本質的に環境と親和性を持つことである。再度、地球上の植物や植物全体を観察してみればよい。 植物が、地面から上に向かい、地球外や地球からくる様々な力を、花のなかでいわば微粒子化(霧散)し、果実のなかに再び集めている様子を観察してみればよい。 この植物の花や果実の形成過程(プロセス)が、何千もの不思議な多様的な変容として存在する。 通常は、種子のなかに突き進む地球外の力が、葉の形成では、葉にとどめられることで、葉の形成過程が閉鎖する前に、力が留められることで、外皮が草状に厚くなるというような様々な可能な限りの多様的な変容がある。 さて、この植物の形成過程(プロセス)は、例えば、地球の物質的な作用の面から、もしくは、それに対抗する光の作用の面からのみ観察すればよいというものではない。 実際、植物は、自らのなかに、物質体とエーテル体を隠しもち、その物質体やエーテル体は上昇し、地球外の作用が、地上の作用に衝突する上部(花や実)において、宇宙的なアストラルと関わる。 従って、次のような結論に至る。 「植物は、動物の形成過程(プロセス)に向かって成長するが、その過程には到達しない。」 地球の内部は、植物の形成過程(プロセス)にすっかり浸透されているような状態で、また、植物が成長し、向かっていく大気圏は、動物の形成過程(プロセス)に浸透されている。 しかし、動物の形成過程(プロセス)は、植物には獲得されておらず、植物は、その過程に向かって成長していくが、到達できない過程(プロセス)なのである。 動物過程に向かうが到達できない植物の過程(プロセス)は、植物の上方(花や果実)で遂行される過程(プロセス)で、この過程は、地球全体に対しては、円環(循環)の性質をもつ。この円環の性質をもつ過程(プロセス)全体が、動物のなかに、中心的に集められ、植物の上方の過程(プロセス)が、動物では、内部に移されている。 (円環の性質とは、循環のことで、種子⇒葉⇒花や実⇒種子のことである。動物では生殖器に相当する。) いわば動物は植物の上方(花や果実)で起こる過程を細分化し、内部に移す。 動物がもつ、植物に優る本質的な過程は、通常は、地球外の周囲から、地上の植物へと向けられている生命力を、動物自らのために使用し、生体内のある中心点から効力として展開する過程である。 (植物の場合、アストラルの力は、外界に由来するが、動物の場合、内部に由来する。)
2012年06月14日
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科学を、再び健全なものにするかどうかは、実際、正しい宇宙関係を再発見することにかかっている。残念ながら現在の病んだ科学を用いた研究は、本当は、健全な科学を用いた研究となるべきである。 さて、今回は、以前既に述べた事実と結びつけて、正しい人間観察から治療法が示唆されるという観点の延長上にある事柄を、少しばかり扱いたい。 太古の人類は、正しい人間観察である霊的な観点が高度に養成していた。太古の人間が、何らかの異常を見たら、即座に、その治療法も示唆できた。この霊的な観点(洞察力)は現代人からは失われてしまった。 しかも、現代人は、霊的な直観力(イントゥイション;神通力)によっても、例えば、古代人が治療本能により認識できた治療法に到達することはほとんどない。けれども、治療本能を失うことは、進化なのである。本能の損失から、主知主義を経て、霊的な直観力(イントゥイション;神通力)に進むことは、進化なのである。 主知主義への進化を通じて、損なわれた多くの本能のなかに、他ならぬ生理学と医学も含めなくてはならない。では具体的な例を1つ挙げる。 例えば、糖尿病患者を取り上げてみる。そもそも一体、糖尿病という異常進行のなかに示される本質とは何か? 糖尿病[Diabetes]を正しく見るのに、問題とすべき本質とは、自我が弱いことにある。つまり、糖の形成に至る経過全体を克服できないでいる自我の弱さを知ることで、治療がはじめて可能となる。 事態を正しく解釈しなければいけない。例えば、自我が強すぎるせいで、糖が血液中に流出するのではないか、と考えるのなら、誤りに陥る。自我があまりに弱すぎて、生体を正しい形で組織化する要件を果たすように、糖を、器官の過程(プロセス)に参加させることができていないためである。 以上が、本質的に起こっていることである。結果的に糖尿病を促進するような働きは、自我の弱さと関係している。甘いものばかりを食べ、同時にアルコールを飲めば、糖尿病への僅かな徴候を体験できる。 糖尿病への徴候は、消滅することもあるが、自我が弱っていることで、本質的に生じる経過(プロセス)を克服できないと、喚起される。重要なのは、糖尿病の全体の症状に注目することである。これまで述べてきたような観察法は、現代にはまだ、ほとんど登場していないが、多くの聴講者が、質問された概念に導く。この概念については、この連続講義の最後のところで詳しく述べる。 聴講者の質問は全て考慮するが、回答するには、それ相応の準備をしなければならない。この概念とは、糖尿病において大きな役割を果たす遺伝的素因[erbliche Belastung]という概念のことである。 この遺伝的素因が、自我の弱さをもたらす。だから、自我、もしくは4つの体全体の機能の働きの弱さと、遺伝的素因との間にある関係を確定できる。 というのも、単純に、人間は皆、遺伝的な素因を負いやすいのなら、人間は皆、遺伝的素因を負ってしまうことになるからである。皆が皆、遺伝的素因に負っているわけではない、という事実は結局、遺伝的素因にあまり負っていない人は、自我が正しく働いているという事実に還元できる。 ただし決して見過ごしてはならないことは、糖尿病の場合、心理的な要因がかなり存在し、興奮しやすさにより、経験する興奮が、糖尿病の発生とかなり関係することである。 では、なぜ、糖尿病は、興奮し易さと関係するのか? それは自我が元々弱いため、生体組織の周辺部において自我が活動するため、(周辺部を統合している)脳を通じて強固な主知主義を展開するように制限してしまうからである。 (脳自らの思い込みを繰り返し信仰するようになる。脳の考えが、脳を制限してしまう。) 自我が弱いと、生体内深くの、いわゆる蛋白質の加工が本質的に行なわれている場所、つまり植物蛋白質を動物蛋白質に変成させる場所にまで入り込んでいくことができない。自我の活動が、その場所にまで及ばない代わりに、自我が届かない領域では、それだけいっそう、アストラル体の活動が活発になる。 というのも、アストラル体の活動は、蛋白質の加工が行われている、いわば消化や血液調合や呼吸の間にある主に胸部の中間的な組織化過程(プロセス)が起こる場所で、最も活発だからである。この中間的な組織化過程(プロセス)は、自我の活気のなさ(弱さ)により放任される。 アストラル体が、人間全体に関わらず、中心だけに関わる過程(プロセス)を我儘に進行させ始める。だから、自我が、人体内の過程(プロセス)から閉め出されている状態にある場合、糖尿病になりやすい素質をもつ。 さて、人体内の分泌過程(プロセス)もまた、心情や感情の形成と密接に関係している。自我が、脳を通じ、主要な活動を行うのに対し、分泌活動、いわゆる代謝や律動の循環の活動は、自我により管理されないままになる。 そして、分泌活動の放縦が、感情としての働きかけと関係し、心理的な影響に対する支配を失わせる。 では、逆に興奮を誘発させるような出来事が生じても、平静でいるにはどうすればいいのか? それには、知性や理性が、頭脳だけにとどまるのではなく、腸のなかにまで、更には、全体にまで到達し、知性や理性が、人間全体を用いることができる状態にあればよい。 あれこれと思案する[nachdenken]うちは、そのような平静な状態には到達できない。 (仏教でいう没我の瞑想状態。) 一面的、主知主義的に、いわゆる頭脳から活動するなら、頭脳とは別に、人体内は独自の運動を始める。頭脳と人体内が分離して活動すると、興奮しやすくなり、この興奮が、器官の過程(プロセス)をも、喚起することになる。 器官の過程は、実際は、別の本来の作業を行うべきである。この興奮が、感情に本質的に作用する興奮として、器官の過程(プロセス)を喚起すべきではなく、まずは知性に浸透され、理性により和らげられてから作用すべきである。
2012年06月13日
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今回は、人智学徒からの「いま行なっている講義は、人智学のあらゆる講義のなかでも、最も理解しがたい部類に入る」という発言を出発点としたい。 ある限度内において、この発言を認めなければならないが、また別の、容易な形をとることもできない、ということも認めなくてはならない。 しかし、この発言の正当さを鑑みれば、この発言から多くを学ぶこともできる。この発言とは逆に、これまで述べてきた事実が容易に理解できる場合を考えてみる。そのような例は2つ挙げられる。1つ目は、そのような事実が証明する必要もないほど自明な場合で、2つ目は、現代の観点とは全く逆の過去の古代の観点をもつ場合である。 証明する必要もないほど自明な場合とは、今日の文化段階の人間なら、そのような事実を理解し難いとみなすのは当然である。 もし、ツグミ[Amsel](鳥)が人間のように話せたら、ツグミは、「理解しがたい」とは発言しないだろう。ツグミは、これまで述べてきた事実を容易に理解する。しかも、ツグミ(鳥)は、容易に理解できる実際的な証拠まで挙げるだろう。 ツグミは、禁欲的な鳥ではないので、ときどきオニグモ[Kreuzspinne]を食べる。しかし、オニグモを食べた後で、ツグミは必ず不快感を覚え、ヒヨス[Bilsenkraut]が近くにあれば、ヒヨスに近づき、ヒヨスを治療薬にする。 ツグミ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%84%E3%82%B0%E3%83%9F ヒヨス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A8%E3%82%B9 ツグミにとっては、ヒヨスは治療薬となる。というのも、近くにヒヨスがなければ、ツグミは引きつけを起こし、激しい痙攣と震えの後に死んでしまうからである。ツグミは自身の持つ治療本能を通じて、自身を守り、ヒヨスが近くにあれば、ヒヨスをついばみにいって、治療薬(解毒剤)にする。 以上が、1つ目の自明な場合である。 また、2つ目の、今日の人間から既に遠く隔たってしまった古代の治療法も、このツグミの治療本能と親和性がある。つまり、太古の人間は、ツグミに似た治療本能を発達させ、その治療本能が多かれ少なかれヒポクラテス医学のなかに集約されているのがわかり、古代人は既に幾らか治療本能としての治療法をもっていたことがわかる。 上述の正当な発言も顧慮しつつ、ツグミや同じことができる他の鳥たちの叡智を少し研究してみるのもよいだろう。 では、ツグミがオニグモを食べるとき、ツグミには一体何が起こっているのか? オニグモの生体機構は、地球外の宇宙的な関係のなかに組み込まれている。オニグモの四肢や模様も、地球外の形成過程(プロセス)に紡ぎ込まれ、宇宙的な関係に由来し、オニグモは、自らのなかに地球外の多くの惑星的な生命をもつ。 オニグモ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%8B%E3%82%B0%E3%83%A2%E9%A1%9E オニグモは地球外の惑星的な意識をもつ。鳥は、オニグモのもつ惑星的な意識を感じる過程からは取り残され、自らの生体組織内に潜在的に隠した。鳥がオニグモを食べると、この惑星の生命力を感じるようになる。 この惑星の生命力は、地上で形態(表面)化する傾向をもち、鳥に浸透しようとするので、鳥は、この力と闘わなければならない。鳥は、オニグモを食べた瞬間に、内(潜在)的な欲求から、地球外の意識を写し取るようになる。 なので、鳥(ツグミ)は、治療的な植物へと赴く。この植物(ヒヨス)は、地球外の惑星の影響を、完全には克服せずに、毒として残すことで、惑星の生命力に対立する地上の作用をもつようになった。 このような植物(ヒヨス)へと鳥(ツグミ)は赴き、助けを求める。ツグミのなかでオニグモの毒が作用する瞬間に、このオニグモの毒そのものを通じて、ツグミの抵抗、つまり防御本能が喚起される。 攻撃本能から即座に防御本能へと移行するので、この移行は、例えば、ハエが眼にとまろうという瞬間、人間が眼を閉じたり、手を追い払ったりするような反射運動を、具現化し、展開したものに他ならない。 動物、もしくは植物における上記のような経過の観察は非常に重要である。なぜなら、このような観察を通じて、別の、つまり、知性や理性というような働きが、頭のなかだけに含まれる、というような迷信からも救われるからである。 すなわち、知性や理性というような働きは、自然のなかを飛びまわっている。というのも、鳥類の攻撃本能や防御本能のなかの働きは、知性や理性の働きだからである。鳥(ツグミ)に働いている防衛本能は、人間が現わす理性や知性と同じもので、人間は、この知性と理性に参加する能力を持つだけだからである。 人間は、知性や理性に参加するが、それ自体をもっているわけではない。人間が知性や理性を持っているように思うのは無意味で、参加しているだけにすぎない。鳥は、人間のように身体の特定の部位に、攻撃本能や防御本能を身に付けるような形では参加しない。 鳥は、肺を通じて、鳥全体を、頭を通じて理解する人間よりも、遙かによく理解しているので、鳥は、肺を通じて、ヒヨスキアミン(ヒヨスに含まれるアルカロイド)に対する防御本能も喚起する。というのも、鳥は、人間のように周辺の感覚を用いずに、根本の本性で思考しているからである。 人間は、思考を、肺、つまり律動組織から抜き出してしまった。人間は何をもって思考しているのか、ということについてもう少し詳しく述べていくが、いずれにせよ、人間はもはや、鳥のように、中心の感覚を用いて思考していない。 つまり、人間はもはや、鳥の思考のように、宇宙(の力)と結びつき、肺や心臓などで思考してはいない。鳥の思考は、人間が再び修得すべき思考である。 人間を、自然と関係づける本能的な思考の最後の名残りを、人類から取り去ってしまったのは誰なのか?という疑問をもつなら、次のような回答が得られる。 人類から、本能的思考、つまり、霊的な治療法を奪い去ったのは、学校教育であり、最後の名残りまで奪い去ったのは、大学教育である。なぜなら、学校教育に関連する教育全般が、根本的に、人間と自然全体との共生を妨げる性質を持つからである。 (学者や官僚が駄目なのがわかる。現代の日本の財政論も空理空論ばかりで、結局、財政再建ができていない現状をみれば明らかである。益々赤字になっていくばかりだろう。 国民の生活のために用いるべき財政を、利権や特権階級や差別を生むのに使うのだから当たり前である。公正さが確保されていない。利権獲得や利益団体をつくる限り、不可能なのである。公正さを確保するための公共機関なのだが、現在はその存在自体が矛盾している。) 巧緻な知性偏重、もしくは巧緻なセクシュアリティ(快楽志向)のどちらか一方へと一面的に事態は漂っていく。太古の人類においては、バランスを保ち中心(中庸)的だった思考が、現代の人類においては、この両極面への皮相的な思考に分離している。
2012年06月12日
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さて、自我-活動が、ファントム(精妙な骨格)のなかに、正しく組み込まれるように、この自我-活動を本質的に強めることは、例えば、ローズマリー[Rosmarin]の葉から採ったローズマリー液を加え、非常に薄く希釈して、入浴させることで、即座に可能になる。 (ローズマリーの入浴剤は、多数が市販されている。自己責任にて利用してください。 ローズマリー入浴剤 http://www.bath-time.biz/rosemary.html) ローズマリー液を非常に希釈して入浴すれば、ローズマリーを通じて、人体の周辺から刺激が与えられ、自我が関与するファントム(精妙な骨格)を通じて、自我が働けるようになる。この際、非常に奇妙な現象が起こる。 人体のなかに組み込まれている眼の形状を観察すれば、本質的に、視覚の過程(プロセス)が、人体組織から取り出されたファントム(精妙な骨格)に、自我が浸透できる事実に基づくことがわかる。 実際、人間の眼には、あまり動物的な過程(プロセス)は存在せず、人間では、動物的な過程は、下腹部の器官のなかに下降させられ、視覚の過程は、内的な人間の霊魂が、人間的なファントム(精妙な骨格)に浸透することで、内的なだけでなく、いわば外的にも同一化できる事実に基づく。 だから、筋肉を同一化するなら、内部の人間形成過程(プロセス)を同一化することになる。しかし、眼を同一化するなら、結局は、外界を同一化することになる。従って、眼のように、外界から、生体内へと延びて進入されている部位を、以前、湾[Golf]と呼んだことがある。 眼では、人体組織のなかに、湾のように外界の一部が入り込んできている。感覚器についての現代の生理学が、上記のような事柄を考慮しないのは、致命的な誤謬である。というのも、そのために、主観的な愚かしい作り話が成立してしまうからである。 眼という、いわば外界の湾において、外界の客観性が入り込み、外界の過程(プロセス)の一部と、人体が協同作業している事実が、今日、実際には、ほとんど考慮されていない。ここ数世紀、少なくとも1世紀半以来、ありとあらゆる感覚器についての生理学が、主観の上に構築された。 外界が、湾に入り込むように、人体に進入した結果として、人間は感覚により外界に参加している事実を考慮しない。この事実を正しく理解したなら、外からの僅かな進入を通じての作用も正しく理解できる。 今、皮膚を図で示し、毛穴に関係する過程(プロセス)を考察する(上図参照)。非常に希釈したローズマリーの液に入浴すると、皮膚は、その微小なローズマリーの微粒子に遭遇する。 その微細に分離したローズマリーの微粒子と皮膚の間に、いわゆる相互作用が成立し、以前述べた蟻酸による自我への刺激と似たことが引き起こされ、感覚過程(プロセス)が活発になるように刺激される。 この活性化された感覚過程(プロセス)が自我に作用した結果、ファントム(精妙な骨格)に組み込まれる。 感覚過程が正しく進行するように、例えば、非常に希釈した液中のローズマリーの微粒子によって、自我を活性化し、頭皮を保護すれば、ただし、手遅れでは駄目で、適度な時期に用いる必要があるが、周辺(末梢)の感覚過程(プロセス)を正しく進行させ、脱毛を克服することさえできる。 ただし、あくまで正しい方法で行う必要がある。つまり、皮膚という人体機構の表面、いわゆる周辺(末梢)の感覚過程を正しく進行させるように、なんらかの作用を導く必要がある。 さて、いま自我と人体機構の正しく秩序だった共同作用が破られる場合を考察する。自我とは本当は単なる点ではなく、自らの周囲に作用を及ぼす点の集合体なのである。 自らの周囲に作用を及ぼす、ということは、自我が、本質的に、人体機構全体の形成力をもち、つまり、自我の形成力は、人体機構全体に拡がり、全体に浸透していることを意味する。 さて、例えば、人体のどこかある部位に外から損傷が起こり、生体機構が障害を起こすなら、この箇所に、アストラル体から発する力を呼び起こす必要が生じる。アストラル体は、自我よりも一段階下にあり、予め人体組織に浸透して、外的な損傷が生じている部位で、自我が治癒力を発達させるのを容易にする。 いま特徴を述べたような、自我が関与するファントム(精妙な骨格)よりも、もっと内部にあるアストラル体は、既に、そのファントムのなかにも示されるが、アストラル体に、「ちょっと来ておくれ、君がやるべきことがあるのだ、助けに来てくれ!」と語りかけるには、今度は入浴ではなく、アルニカ[Arnika]を、小さなウールの布に塗り込んだアルニカ湿布を貼ればよい。 アルニカ http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%AB/ (アルニカに関しても、ローズマリーと同様に様々な商品が出ている。その効果を自分で納得してから使用したい。) 捻挫などの外的な損傷が生じると、自我の作用力が弱められるが、アルニカ湿布を貼ることなどにより、アストラル体に、「ちょっとここに来て、自我を助けておくれ」というように、内からの力を呼び起こすことができる。すると、人体表面や周辺に沿って、外力に対し、調停的に作用する内力が得られる。 (皮膚の代わりに、袋のように内部を閉じてやれば、アストラル体を呼ぶことができる。また非常に微細な粒子により、外側から皮膚の毛穴を刺激してやれば、炎症を抑えることができる。 余談だが、坊主が髪の毛を切るのは、雑念に惑わされないためである。髪の毛は、いわばアンテナのような役割をしているので、髪の毛が長いと、雑念に惑わされ易いわけで、修行僧が、坊主になるのは、なるべく雑念に惑わされないためである。坊主なのに、雑念に振り回されるのは論外の破戒坊主である。 なにか失態を曝したときに、頭を丸めるのも、雑念を振り払うためと考えればわかる。「耳なし芳一」の話は興味深い。) 実際、調停的に働くアストラル体の内力は、外界の様々な物質を比較するための基礎を与えてくれる。つまり、外界に非常に容易に拡がる傾向をもつ物質が、どの程度拡がることで、人体周辺での自我-活動の助けになるのか?などの比較の基礎を与えてくれる。 ただし、物質の拡がる傾向を、自我が捉えるには、その物質を非常に希釈し、微粒子にして入浴する必要がある。或いはまた、湿布などにすれば、特にアルニカに属するような物質が、どの程度まで、アストラル体を呼び起こし、間接的に自我を支えられるか、などの比較の基礎が与えられる。 以上の自我、もしくはアストラル体に助けを求めることで、本質的な物質の作用へ到達できる。このような物質の作用の理解が、病気の内(精神)的な治療論と外(物質)的な治療論のための第一の基礎となる。
2012年06月06日
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健常人にも、病人にも、本質的には、同じ過程(プロセス)が関わり、通常は正しい速さで進行し、異常なときは、異常な速さで進行することが、健康と病気の間にある驚くべき関係である。 例えば、自然のなかから、炎症過程(プロセス)となるべき過程をなくしてしまえば、人間は、どんな存在も、眼で見れなくなる。端的にいえば、炎症過程(プロセス)の御蔭で、自然のなかのどんな存在も、人間は見ることができる。 しかし、その炎症過程(プロセス)には、ある速さが定められている。この炎症過程(プロセス)が間違った速さで進んだら、病的な炎症過程(プロセス)になる。 同様に、腫瘍の形成過程(プロセス)や増殖過程(プロセス)も、正しい速さで進行するなら、自然のなかで意味を持つ。もし、この過程(プロセス)をなくせば、人間は、この世のいかなる音も聞けなくなる。 この腫瘍形成の過程(プロセス)が、間違った速さで進むと、筋腫[Myom]や癌腫や肉腫[Sarkom]の形成として現われる。 この事については更に述べていく。 いかなる病気の経過(プロセス)に対しても、その異常な経過(プロセス)の対極の、正常(健常)な経過(プロセス)を、探し出せなければ、その病気の経過(プロセス)を、人体機構のなかに正しく組み込むことはできない。 なぜなら、この人体機構の基礎となるのは、全体の自然のなかでは、末端部に位置し、分離されている過程(プロセス)を、人間の中心へと集約し、内化した全過程に他ならないからである。 現代(1920年)の生理学等で様々に述べられているような知識の代わりに、上記のような、別の事実に注目しなければならない。多少とも注目されることがあっても、それが非常に大きな意味を持つことには気づかないでいる。 例えば、肉眼で、身体の皮膚が体表に拡がる様を追求できる。皮膚は様々な場所で内側に陥入し、内に向かった延長部は内張りされている。この皮膚の内外の逆転、例えば、顔の外面の頬から、唇を経て、反転し、内に向かう皮膚の逆転は、非常に大きな意味を持っている。 実際、胎生学のなかに、この皮膚の内外の逆転を、外面(物質)的な肉体に沿って、一度正しく探求すべきである。皮膚の機能は、本質的には、外から袋状に閉じ込めることと、その閉じ込めを内から裏返しにすることに基づいているが、現代の胎生学のなかでは、探求されずに残された知見である。 そして、このような皮膚の機能の逆転を探求すること、例えば、蟻酸を外側の皮膚に用いる場合と内側の粘膜に用いる場合の反応の違いなどの研究から、現われてくる微妙な反応の違いに注目すれば、非常に教唆に富んだ事実が明らかになるだろう。 なぜなら、いま述べた皮膚の機能の逆転は、根本的に、今述べた蟻酸の方法から現われてくるからである。更に、このような内外の逆転の研究から、外に向かう人体機構では、エーテルも逆転し、内に向かい中心化するエーテルとの違いがわかり、互いに対極をなす内外のエーテルの違いにも直面する。 さて、エーテルの内外の違いは、以下のことからも観察できる。 また、再度、耳に関する第2のファントムとして提示した青の点線は、人体組織のなかでは何に対応するのか、と問うなら、その青の点線で描いたファントムは、人体組織の物質的な骨格であり、増殖の傾向を持つ(下図参照)、と答えられる。 青の点線で記述された過程の正常な進行は、耳の進化と関連する。また耳の聴覚機構の内面化に注目し、同時に視覚機構にも注目する認識法を用いて、聴覚力と視覚力を同時に教化できる。 というのも、視覚の過程(プロセス)は、(光の媒質という意味で)エーテルのなかで、聴覚の過程(プロセス)は、空気中で起こるからである。これは、視覚と聴覚の少なからぬ違いである。 測定可能量や測定不可能量に対する感覚系統のなかで、下方に向かって位置づけられる感覚器官は、人間の場合、生体内の中心に配置される器官に関係する。対照的に、エーテルと関係する感覚器官は、生体の外に向かう周辺(末梢)に配置される器官に関係する(上図参照)。 菫(水、薄青)色の点線(上図参照)で描いた生体内の中心に配置される器官に関係する過程は、アストラル体を暗示する。 耳の聴覚機構を手懸かりに、人体の観察から、自らの認識力を教化していけば、アストラル体を霊視するための代用法が得られる。視覚機構の観察術を学ぶことで、エーテル体の観察力が、聴覚機構の観察術を学ぶことで、アストラル体の観察力が養われる。 耳の不自由な、もしくは生まれつき、耳が聞こえない人に注目すると、非常に興味深い観察が生まれる。この観察から、自然のなかの奥深い関係が明らかになる。 生まれつき耳の聞こえない人が、もし耳が聞こえない状態で生まれなかったら(耳が聞こえる状態で生まれたら)、生まれたときから、腫瘍形成への非常に強い傾向を持つことになる。だから、生まれつき耳が聞こえない、というのは、自然が行った救助措置である。 このような事実は、もはや誕生から死ぬまでの間の人生のなかでは理解できない。輪廻転生を前提とした、繰り返しの地上生のなかで理解すべき事実で、それは前世の罪に対しての調停が行われるからで、そのような霊界の現象の理解に通じる必要がある。 このような霊界の現象を、ある程度まで追究すると、繰り返される地上生を把握するときに到達する霊的な観点へと通じていく。 人体の周辺を刺激すれば、視覚の基盤となる第1のファントム(精妙な骨格)として特徴づけた、自我が関与するファントム(精妙な骨格)を、強めることになる。この自我が関与するファントム(精妙な骨格)を強めるには、教育的な方法を採ることもできるし、治療的な方法を採ることもできる。 炎症の傾向が観察できる場合は常に、自我-活動を強め、自我が関与するファントム(精妙な骨格)のなかに、正しく組み込むことが必要となり、自我が正しく組み込まれれば、ファントム(精妙な骨格)は崩壊しなくなる。
2012年06月05日
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自我が、青の点線(上図)で示した骨格から外れ、放縦し、生体内で、単独で維持できるほど充分に強くなると、その帰結として、魂や肉体の関係を通じて症状が現われる。 それが、ヒポコンデリー(心気症)[Hypochondrie]や、便秘、もしくは、それらの症状に親近性のある複合的症状である。 心気症 http://kotobank.jp/word/%E5%BF%83%E6%B0%97%E7%97%87?dic=daijisen http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E6%B0%97%E7%97%87 以上が、自我の一面である。 しかしまた、自我の輝きが、自らの維持には、あまりに弱すぎることも生じる。いわゆる、自我が壊れる場合である。 自我に関係する物質的な骨格(ファントム)が、崩壊の切欠を与えるのではなく、自我自身が崩壊の切欠を与える場合である。この場合、どのような現象が生じるか、を考えてみる。 自我崩壊の場合に生じる現象は、自我があまりに弱すぎて、いわゆる自我の破片が人体内に付着する現象である。自我が、弱いために、その破片が付着するのである。 自我の弱い人が眠りに入るとき、自我全体を、完全に連れて出て行くことができない理由から、破片が付着する。 (人智学では、睡眠中、自我とアストラル体は、エーテル体と肉体を残して、出て行くと考えられている。出て行くとは、あの世にいく。睡眠と死の違いは、睡眠は、エーテル体が出て行かないが、死は、エーテル体も出て行くことにある。 夢を見るのは、あの世にいってきた自我とアストラル体が、この世に出るときと、戻るときに、エーテル体に自我とアストラル体のもつ感情が転写されるからである。エーテル体が、感情を、この世の体験に基づいて翻訳する。出て行くときの夢は、この世の経験で、戻るときの夢は、あの世の経験といえる。) 弱い自我が残した破片は、人体のなかにとどまり、魂的な自我として増殖する。腫瘍形成の傾向をもつ人は特に、睡眠中に、このようなことがよく起こり、魂的な自我が増殖する傾向にある。この自我崩壊の傾向を探求していけば、腫瘍形成に関係した重要な経過(プロセス)に気づく。 腫瘍形成の傾向をもつ人は、眠りに入る際、自我の破片を生体内に残すため、充分な睡眠がとれない。このような自我の破片が、悪性腫瘍の本質的な原因であり、上に挙げた複合的症状全般に関係する。 実際、次のような結論にいたる。 ヒポコンデリー(心気症)と便秘になりながら、そのヒポコンデリー(心気症)や便秘により、生体組織を助けることができないなら、生体組織が内的に増殖して悪性の腫瘍ができる。 このことについては、更に述べていくが、今は、この原則だけ注目しておきたい。 以前述べた方法を別の形で考察することで、上記のような事実が、外的にも確認できる。以前、蟻酸を非常に希釈して、入浴する形で、生体外から作用させれば、自我がつくる骨格(ファントム)を刺激し、炎症を和らげることができる、と述べた。 この蟻酸を非常に希釈して調合し、内服(生体内への投与)を試みると、特に痩せた人に対して、腫瘍形成の傾向を取り除くような作用や腫瘍の形成に影響を与える作用が観察できる。 (内側の自我のファントム「青い点線」を刺激するのだろう。炎症の場合は、「黄の点線」の刺激。) この蟻酸の試行は、肉眼で観察すべき事実だが、(青い点線の)骨格(ファントム)を、肉眼で見れるような感覚の獲得法をも示している。この感覚は、全体の体格の概観や、生体機構や生体構成の考察に必要な情報全て、更に、病人の場合に、前面に現われてくる症状の概観を捉えるのに必要となる。 この蟻酸の、外(入浴)や内(内服)からの試行を通じて、人体に、正しく作用を組み込む観点を獲得できる。同じ薬の作用を、外、または内からも追求していくことで、人体に対する理解が得られる。人智学は、生体機構の、この第2の感覚、つまり聴覚に関して、示唆に富む事実を知っている。 (第1の感覚は、視覚で、視覚は、人体が炎症に至る作用を止揚「中和」することで、獲得される。そもそも、炎症とは、人体が、異物と認識することで生じるので、異物かどうかの判断は、視覚が、モノを認識する感覚とよく似ている。実際、眼の免疫は、免疫特権といわれる独自性を持っている。) その事実とは以下である。 「耳の形成力が、放置されすぎ、過度に進行すると、結局、内的な腫瘍の形成に通じるような力と同じ経過を辿る。」 というのも、人体内に耳をつくる過程(プロセス)は、腫瘍の形成力を、適切な位置に抑制することで、正常化する過程(プロセス)に基づくからである。だから、人間の耳は、人体内の腫瘍ともいえるが、ただし、腫瘍といっても、正常に形成された腫瘍である。 人間の進化過程(プロセス)において、眼の形成は、炎症の過程(プロセス)と、耳の形成は、腫瘍形成の過程(プロセス)と親和性をもつ。
2012年06月01日
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