全17件 (17件中 1-17件目)
1

さて、当然、次のような疑問が生じてくる。 「動物のエーテル体なども、人間の視覚から観察できないのか。」 人間の眼の視覚を通じて、動物のエーテル体を観察すると、非常に不味いことになる。このことは公開講義でもよく強調してきたが、もっと厳密に強調しておきたい。大半の人々は次のように考える。 「(人間の)眼は(動物の)眼と同じで、(人間の)器官は(動物の)器官であり、肺は肺であり、肝臓は肝臓だ!」 しかし、この考えは間違っている。確かに、人間の眼は、動物でも眼として現われるが、人間の場合、自我が組み込まれ、修正されている。人体の器官は、特に病人の場合、非常に重大な役割を演じるが、自我の浸透により、自我に浸透されない動物の器官よりも、人間特有のものとなる。 大半の人々は、動物の眼には自我の浸透がないことを全く考慮しない観点から、相変わらず、次のような判断をやめない。 「私はナイフを持っているが、そのナイフを、ナイフとして説明して何がおかしい!」 しかし、例えばナイフといっても、一方がテーブルナイフで、他方が髭剃りのナイフなら、ナイフとして説明するのは間違っている。人間の眼と動物の眼も、眼として説明するなら、このナイフ論と同じである。 外見上の類似だけで、同一視するのは誤りにつながる。特に外見だけに基づいて、器官等を研究するなら、ほとんど無意味となる。動物の器官の研究を基礎に、人間の器官を研究するなら、大きな錯誤が生じる。 なぜなら、人間の器官の関係を正しく理解するには、ほとんどの場合、自我に浸透され、修正された器官を観察する必要があるからである。 さて、人間の耳は、眼とは異なってつくられる。外界に対する認識力に応じて、眼に対する理解を習得するにつれ、エーテル体の霊視へとアプローチできるが、認識力に応じて、同様の方法で、耳も理解できる。 動物と同様に、人間にも耳があるが、人間の場合、更に、自我が耳に浸透している事実を、正しく認識できるように教化できる。 耳を研究していけば、眼の視覚によるエーテル体が、人体の周辺の精妙な骨格(ファントム)に関係するのと似た形で、耳の形成が、人体内にある精妙な骨格(ファントム)に関係することがわかる。 いわゆる霊的な直観力を、耳のつくりに向けることができると、自我が、眼のつくりに関わるのと同じように、耳のつくりにも関わることがわかる。自我は、人体内に、今まで特徴を述べてきた精妙な骨格とは、また別の精妙な骨格を組み込む。 この別に組み込まれる精妙な骨格(青の点線)に親和性をもつ骨格が、耳のつくり(聴覚)の基礎を成す。従って、また別の精妙な骨格を図に描いてみる(下図)。 耳のつくり(聴覚)に関わる精妙な骨格の基盤となる骨格を、青の点線で描く(上図の「腫瘍」)と、これは、黄の点線で描いた炎症の基盤となる精妙な骨格よりも内部にあり、これまで述べてきた他の精妙な骨格のようには、四肢の中に拡がって組織化されていない。 この青の点線(上図)で描いた骨格(ファントム)を取り出せたら、腕や脚のない、まるで切り株のような精妙な骨格になる。つまり、この青の点線で描いた精妙な骨格の形成は、幼児期の段階で、(分化、発達が)とまっている。また、この骨格は、他の骨格よりも、頭部に向かって細分化(分化、発達)する度合いも非常に少ない。 とはいえ、この青の点線の骨格(ファントム)は、人間の耳の形成や聴覚の基盤となることがわかる。この骨格に対応する耳の形成や聴覚による内の骨格を、外の視覚による骨格(黒の点線)に対して(上図参照)、すみれ色(薄青、水色)の点線で描く。 この聴覚による骨格も、ある特性を持っている。自我が、過度に強く作用するとき、この骨格は、異常になる。以前、述べた炎症の要因となる骨格は、自我が、人体の表面(周辺部)で、過度に強く作用する場合だった。 以上のような事実を正しく研究するためには、以下のような知見に基づくとよい。 病理(症状)学を多少駆使すると、痩せている傾向があるか、痩せる傾向はないが肥満の傾向もない人の場合、自我が、人体の内部に向かって、過度に強く作用し、青の点線で示した骨格(上図参照)を強化している事実に気づく。 しかし、この青の点線(上図参照)で示した骨格は、先に述べた炎症の要因となる骨格に対して、別の特性を持っている。それは、「内的に増殖する」特性である。 炎症の要因となる骨格が破壊や散乱の傾向を持つのに対し、この青の点線の骨格は、内的な増殖の傾向を持つ。 従って、特に、内と外に対する自我の二重の方向性を学ぶ必要がある。青の点線で示した聴覚と関係する骨格は、自我の適切な輝きにより増殖するのではない。というのも、内の増殖、もしくは外の崩壊のいずれにしろ、骨格(ファントム)に対して、自我が正しい位置を占めずに、放縦し、散逸している事実に関係するからである。
2012年05月31日
コメント(0)

さて、続いて、以下のことが確認できる。 「視覚機構に関係するエーテル体による精妙な骨格(ファントム)は、人間のなかに常在し、自我による物質的で精妙な骨格が異常として現れる場合、正常にとどまる。」 (エーテル体の精妙な骨格「ファントム」は、自我の精妙な骨格「ファントム」に対する境界線といえる。) 「この視覚による精妙な骨格は、日常生活では正常だが、自我による物質的で精妙な骨格に炎症が起こると、炎症に似た状態となる。」 従って、実際、次のような結論にいたる。 「物質体のなかの精妙な骨格が過度に形成され、エーテル体の精妙な骨格も、それに似るようになると、炎症状態の誘因となる。例えば、動物界の蟻に由来する蟻酸[Ameisensaeure]の外用を試みれば、このボンヤリとわかる事実への確信を幾分強化できる。」 蟻酸 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E9%85%B8 蟻酸の使用を研究するには、次のようなことが挙げられる。 「蟻酸の効果を、生体内で高めるために、生体外の蟻酸を、非常に薄く希釈し、例えば、入浴などを通じて、外界からの蟻酸の効果を、生体内で高めるようにすればよい。」 (生体外の蟻酸の効果を段階的に非常に薄めていけば、相対的に、生体内での蟻酸の効果が高まる。) 非常に薄く希釈した蟻酸に入浴すると、以前提示した下図の物質的で精妙な骨格(黄の点線)に介入できる(下図参照)。 つまり、非常に薄い蟻酸に入浴すれば、自我による精妙な骨格(ファントム)を支援できる。このように蟻酸を用いることで、この物質的で精妙な骨格に、自我が浸透し、適切に制御できるようになることが重要である。このような方法により、炎症傾向にある人の炎症に対処できる。 というのも、この物質的で精妙な骨格と、自我は互いに補完し合っているので、この骨格が、炎症的に崩壊する傾向を持つのは、自我が適切に浸透せずに制御できていないからである。 蟻酸を、入浴を通じて用いることで、自我と、この骨格との両者を適切に結びつけることができる。ただし、非常に薄く希釈した状態でなければならず、そのような状態ではじめて蟻酸の作用が生体内に正しくもたらされる。 さて、上記のような事柄を扱う場合には、多少の病理(症状)学を駆使する必要がある。その炎症状態が同時に肥満の傾向のある人たちに現われるかどうか、という観察も必要である。 というのも、炎症と同時に肥満の傾向をもち、一種の複合的な症状を示す場合は、実際、上述したような蟻酸などの外的な処置を通じて、良い成果が得られる。 この物質的で精妙な骨格の崩壊が推測できるとき、実際、これから挙げていくような様々な別の症状からも、その崩壊の根拠が引き出せるが、そのように推測できるとき、同時にかなりの肥満の傾向のある人が対象となる場合、非常に良い成果が得られる。 以上が、考慮すべきことである。 人智学徒は、現代人に、決定的な衝撃を与えるような事実を知っている。 人智学徒が知る事実とは、次のことである。 「人類の長い進化の歴史のなかの現在の進化段階では、視覚、つまり眼を形成するために、生体組織に必要な経過(プロセス)とは、正常へと絶えまなく誘導され、発現までには至らない炎症の経過(プロセス)である。」 (生体組織が炎症を起こすから、眼ができ、みえるようになる。) 炎症の経過(プロセス)と同じ経過が抑えられ、止揚されて集められる場合を考えれば、生体組織のなかでの眼の形成過程(プロセス)が理解できる。従って、眼を診断することで、炎症の傾向の有無についての描像が獲得できる。 (実際、眼の血管から炎症を診断することも行われている。) エーテル体の精妙な骨格(ファントム)の診断を、眼の視覚から修得すれば、炎症の傾向を見て取れる。実際、人間が視覚を通じて行うことは、エーテル体の観察と密接に関わっている。 また、エーテル体の実在や知覚について語るには、本質的な霊視へと通じる瞑想などによる内(精神)的な経過(プロセス)が必須である。 しかし、また外(外界)から、エーテル体を認識する教化の過程も存在する。自然の経過を正しい形で見るように努力すれば、エーテル体についての直観を、物質的な認識力から獲得できる。 (以前、この医学講義の冒頭で、人間の頭蓋骨と、サルの頭蓋骨の比較から、エーテル体の見方を述べた。) 本質的な霊視の器官は、内部から育成される必要があるが、外界を手懸かりにして、認識力を育成できる。外界にアプローチしながら、認識力を育成すると、この認識力が、通常の瞑想による内側の過程(プロセス)、いわゆる内から外へと進行する経過(プロセス)に対応する。 (精神的向上を目指し、霊視器官を育成するか、外界を正しく認識し、認識力を育成するか、の2つの覚りの方法のことである。仏教の密教と顕教の違いのようなもので、密教が、精神的向上法で、顕教が、外界の認識力向上法のことに相当する。禅は、密教と顕教の中間のようなもので、古代インドのヨーガに通じる。)
2012年05月29日
コメント(3)

この連続講義の現段階で当然起こってくることを、今回は、少ない時間で出来る限り、暗示的に述べたい。実は、このことを述べるべきか否か、長いこと考え続けていたのも、このことが誤解を生むことが多く、改めてそのように認識させられることになっても、やはり述べることにした。 人智学協会の内部で話される、これまで講義で述べてきた事柄が、いかに混乱した戯言であるかを指摘しようと長期間にわたって、苦心してきた人々がいる。その人たちは、そのような観点から攻撃してきた。また現在は、次のような意見も現われてきている。 「このような事実は、もはや獲得できないはずなのに、これらの事実が与える印象からすると、どうみても、古代の秘儀を、後から研究して獲得できる事実と一致している。」 そして、また別の「秘儀に対する裏切り者だ!」という私(シュタイナー)への非難も作り出される。そのような人たちは、それらしく既成事実化する可能性を見つけ出したり、言われている内容をもはや否定できなくなると、そのような事柄を述べるのは不都合だ!と主張しはじめる。 さて、今日、述べておきたいことは、次のようなことである。 「物質的に人間を観察するだけでは、人間の一部しかみていないことになり、しかも、そのように判断するのが当然なのだが、それは次のような理由から、はっきりと理解しておくべきである。」 人間のなかには、エーテル体、アストラル体、自我が観察され、これらは、人間の生体のなかで、絶えず働きかけ、絶え間なく活動し続けているが、これから述べることを考慮して、いまはあえて「認識」とするが、当然のことながら、外的で、「物質的な認識」を完全に拒む。 しかし、だからといって、霊視と呼べる類の知力や判断力を、自分のものにできるように、良き意志をもって自らを教化する可能性がなくなるわけではない。その際、明確な像を観れるような霊視にまでは到達できないが、少なくとも、霊視的な直観と強く有効な関わりがあるような判断力は得られる。 さて、以下のようなことを考えて欲しい。 「自我を出発点とし、いわば一般人を手始めにすると、現在の進化段階にある人間に、自我は働きかけ、特に人間の物質体に働きかけている。今日の人類は、エーテル体を支配する能力を比較的わずかしかもたない。 エーテル体は、幼児期に比較的、まだボンヤリとした形で無意識に自我に支配されている。年齢をとるにつれ、この支配はなくなる。ただし、成人してからもなお、強力なファンタジー性をもつような人の場合、エーテル体に対する自我の強い影響も残存する。 しかし一般的に、分別的で、味気ない知性偏重主義になっている人の場合、自我は物質体に対して強い影響力を持ってはいても、エーテル体に対する影響力は弱い。 物質体に対する影響を正しく思い浮かべるだけで、次のような構図が得られる。 「自我は、物質的な生体機構全体に沿って働き、1種の精妙な骨格のようなものを広げている。」 実際、物質体には、精妙な骨格のようなものが組み込まれている。物質体に組み込まれている、この精妙な骨格は、人間のファントムとして捉えられ、常に人間のなかに存在する。 人間は、もっぱら自我を通じて刻印(顕現)された骨格をまとっているが、これは非常に精妙な骨格で、勿論、様々なエーテル体の力により物質体へと組み込んでいる。しかし、人生の経過に伴い、エーテル体を意識的に組み込む力を徐々に失い、結局、ファンタジー性に満ちた創造の際の意識半ばの夢のような状態で残るだけとなる。 さて、自我が、人間の生体組織のなかに組み立てる、この精妙な骨格は、本質的には幾分異物であることを、容易に見て取ることができる。この骨格は、幾分異物となる。 人間の生体組織も、この精妙な骨格に抵抗する傾向をもつ。生体組織は、毎夜睡眠中に、この精妙な骨格を破壊しようと努めている。 通常の生活のなかでは、このような精妙な骨格の知覚がなくても、この精妙な骨格が、生体組織のなかで、いわば破壊や分裂の傾向を絶えずもつことで、継続的に生体組織のなかの炎症の隠れた原因となっていることをやはり忘れてはならない。 実際に、自我が、人間の生体組織のなかへと、ファントムを作り出し、このファントムに対して生体組織は、異物に対するように抵抗し、そして、この異物となるファントムも、物質的な生体機構のなかで、いわば崩壊し、分裂して、生体から抜け落ちていく傾向をもつ。 さて、視覚機能を、心理-生理学的に研究してみれば、この精妙な骨格について、一致した見解がもてる。というのも、魂と外界の間で演じられる全てが、外界、ないし眼を通じて、この繊細な骨格の確立を、正真正銘の如く、明示しているからである。 しかも、盲目の人や盲目になった人との様々な比較研究から、自我の影響から生じるファントムと、眼と外界との相互作用(視覚機能)を通じて成立したファントムとの間において、人智学において様々に研究してきた関係が有意に現れる。 通常の多くの人にとって専ら、視覚を通じて生体組織のなかに組み込まれた、いわゆる正常なファントムと、盲目の人の場合の生体組織への自我の活動の結果であるファントムとの相互関係が、非常に良く比較できる。 この比較を、図で表現するなら、次のような結論にいたる。 「視覚、つまり、視覚の経過を通じて、生体組織に、ファントム、つまり精妙な骨格が組み込まれる。この骨格よりも、自我の経過を通して本質的に組み込まれた別の(本来の)精妙な骨格の方が、少し深い、内側にある状態になっている(下図参照、黒の点線と黄の点線)。」 内側にある精妙な骨格(ファントム)は、様々な物質力の輪郭を明確に描いている。この精妙な骨格は、自我を通じて、組み込まれた物質的なファントムで、実際の精妙な骨格である。 ところが、視覚を通じて仲介される外の精妙な骨格は、まだエーテルである。従って、次のようなことを見ていくと興味深い。 「近視の場合、この両者が互いに接近し、上図の黒の点線の骨格が、黄の点線に接近している。遠視の場合は、外の黒の点線の骨格が、外へと大きくずれている。 要するに、視覚の研究から、上図のように描いたエーテル体を、物質的な認識力に沿って理解できるようになる。 視覚に注目する以外に、人間のエーテル体についての把握を可能にする方法はない。視覚によらない内の自我による精妙な骨格(ファントム)は、人間のなかに既に備わっている。 近視、もしくは遠視に注意を払い、エーテル体の作用を捉える習慣を身につけるなら、エーテル体に対する知覚の感受性を育成できる。 更に、眼を閉じた瞑想状態から、本来の自我による精妙な骨格を把握できれば、視覚を通じて人間のなかに呼び起こされる精妙な骨格との比較観察から、エーテル体の把握へと上昇するのは、もはや、それほど困難ではない。
2012年05月28日
コメント(0)
ジャーナリストのケースは些細なことだが、いわゆる深刻なケース、つまり状況が臨界点を超え、病気に移行する場合こそ、精神医学分野にもあてはまる人間の魂の状態の観察のために、先入観のない洞察力を獲得する必要がある。 その場合、魂の活動により、本質を遮蔽している表面に現れた症状に従って診断することはできない。愚鈍さと天才さの共存からもわかるように、表面ではなく、深いところにある本質に従って診断しなければならない。 従って、魂の状態を観察する場合、錯誤に陥る可能性が究めて高い。なぜなら、例えば、魂の持ち主が、的確な意見を表明するかどうかは大した問題ではなく、的確な意見を表明する際に、必要以上に何度も繰り返す傾向があるかどうか、ということが大切だからである。 (俗に大阪人は、発言を2度繰り返す、といわれるが、魂の観察に役立つ証拠なのかもしれない。) 意見の表明の仕方が重要となる。意見を繰り返し何度も(規則的に)述べるのか、もしくは、意見を、好き勝手に(不規則に)述べるのか、などが、賢い意見なのか、愚かな意見なのか、の内容よりも、遙かに重要である。 つまり、健康でありながら、愚鈍でありえる。病理的には愚鈍ではないが、生理的に愚鈍であるという意味である。 意見表明の仕方のなかに、いわゆる精神病への本質があり、深刻な状況に陥らないためには、その人が、意見を好き勝手に不規則に述べるのか、それとも、繰り返し何度も規則的に述べる傾向にあるのか、ということに注意を払う必要がある。 意見を何度も繰り返す人は、根本的に、肺の形成に不規則な素因をもっている。意見を好き勝手に放縦に述べる人は、肝臓の機能に異常な素因をもっている。これ以外は、この両者の中間に位置づけられる。 以上のことは、日常の生活のなかに探求できる。例えば、いまだ少なくとも薬として用いられていない食品、もしくは嗜好品に対して、以前の公開講義のなかでも、ある程度触れたことがあるが、例えば、コーヒーは、魂の本質から現れる症状全体に、明確で、決定的作用を与えることがわかる。 本当は、このような作用を取り上げるべきではない。というのも、このような作用に依存すると、魂を怠惰にさせるからである。しかし、実際、このような作用が存在していることは確かである。 コーヒーを飲むことで、論理の欠如を補うことができる。つまり、コーヒーを飲むことで、実際に、生体から、論理力を多く引き出すような状態にできる。従って、思考に論理をもたせるために、ペン軸などを酷く齧(かじ)る必要はなく、コーヒーを沢山飲めばよい。 コーヒーを沢山飲む、ジャーナリストたちの習慣は、現代の論理的な見解に見合った手段ともいえる。 他方、逆に、紅茶を飲むことは、ペダンティックに(学識を振りまき)、大学教授風に、論理的思考を積み重ねていくことを妨げる。ペダンティックに、論理的思考を積み重ねていくと、極端な場合、才気に溢れた表現ができず、周囲に、自身の論理を一々披露する羽目に陥り、退屈させてしまう。 例えば、条約や協定の締結などの旧来の体制から与えられてきた役割の職業に対して、内向的にならずに、できるだけ才気煥発なように、紅茶のような外的な嗜好品を飲むことが勧められてきた。 コーヒーが良いジャーナリスト飲料であるように,紅茶は、外交官に効果のある飲料である。ふと現れてくる思考によって、才気渙発であるように見せかけることができ、そのような鋭い思考をする習慣が、紅茶によって本質的に促進される。 以上のような事実を知ることが重要である。というのも、このような事実を正しく評価することを学び、魂が、必要な道徳的な状態を備えていれば、当然、日常生活の道徳として、食餌療法とは別の形で奨励されるようになるからである。 自然の関係を学ぶためには、ジャーナリストの例からわかるような、文化の関係が重要なのと同様に、上述した嗜好品による魂の状態などが究めて重要である。 例えば、ロシアでは、通常、砂糖の摂取が非常に少ないこと(1920年)や、対照的に、西欧世界、イギリスでは砂糖の摂取が非常に多い、といった事実に目を向けてみればよい。 この事実から、魂の(表面的な)発展によって、状態が凍結(麻痺)していない場所では、端的に、人間に与えられている本質が、日常生活のなかに明確に現れていることがわかる。 つまり、外界に帰依することにより、自らを表出するロシア人の場合、自我の感情に乏しく、せいぜい自我の感情は理論的に補完されるだけで、このことが砂糖の摂取量の少なさと関係するが、対照的に、強い自我の感情を持つイギリス人の場合、器官組織として基盤をもち、この器官組織が、砂糖への強い嗜好と関係する。 しかしながら、特に、砂糖の摂取という事実よりは、魂の内面的な衝動を洞察する必要がある。なぜなら、砂糖の摂取という事実も、魂の内面的な衝動から、憧れとして生じてくるからである。 さて、いわゆる精神病、もしくは、心魂病という症状の真の原因は、本質的に、人間の下部の器官組織のなかに探究すべきことを考慮するなら、人間に関する相互作用が示され、これは、病理-治療が問題になるとき、見過ごしてはならないものである。 単純に下部組織と上部組織と呼んだ両者の間の相互作用は、病理的にも、治療的にも、常に考慮に入れるべきで、さもないと、病気に対して作用させるべき外的な影響を、どうやって病気に作用させるのか、正しい見解を獲得できない。 病気に対して、足や頭を通じて、熱の影響を与えるのか、水の影響を与えるのかでは、大きな違いが生じる。このような事柄に対して、下部と上部との間で機能する相互作用の大きな違いに注意しなければ、治療原理(ラツィオ)は獲得できない。 これからも、この新しい分野、すなわち、人間に対する外的な影響について、できる限り述べていく。
2012年05月25日
コメント(0)
大切なのは、薬の生体内と生体外での作用の相違などを見通すことである。健全な考察(合理的な思考)を通じて、精神医学に対しても、洞察力を鋭くしておかなければ、内と外の相違などを見通すことはできない。 思い切った表現をするなら、人智学者[Geisteswissenschaftter]は、単なる「精神病」という言葉を聞いただけで苛立ちを覚える。 というのも、精神(霊、[Geist])とは、常に健康で、本質的に病むことなどないから、精神病(精神の病)[Geisteskrankheit]という言葉を用いるのは根本的に間違っているからである。精神の病などを語るのは、本来、無意味である。 (自我「霊」、アストラル体「魂」、エーテル体「幽」、肉体の4つの体のバランスが悪いと、病気になるわけで、霊「自我」自体が、病むことなどはない。) 精神自らの発現能力が、物質的な生体組織に妨げられることはあっても、決して霊や魂が病むことはない。病気は全て、精神の発現能力と物質的な生体組織の妨害などにより生じる単なる症状にすぎない。 けれども個々の具体的な症状に対する洞察力も鋭くする必要がある。例えば、「宗教的な狂気(妄想性人格障害)」やそれに類する症状に対して、精神医学分野での病名のつけ方は、非常に混乱を呼ぶもので、正確とはいえないが、現代人にわかるように話すには、やはり、このような病名を用いざるを得ない。 (現代でいう統合失調症など。) 「宗教的な狂気(妄想性人格障害)」の最初の萌芽、もしくは、更にそれが進行した症状が顕在化していくのに気づくことが重要となる。 いわゆる精神病全般は、単なる症状にすぎないが、精神病にみえる症状が顕在化する場合に大切なのは、このような顕在化の経過全体に対して1つの病像が獲得できることにある。 そして、更に、このような病像を得たなら、例えば、この病像を示す人間の肺の経過に、何らかの異常を見通すこと、呼吸の経過ではなく、肺の新陳代謝の異常を正確に見通すことが必要となる。 というのも、精神の病と同様に、脳の病[Gehirnkrankheit]という表現も、本質的には正しいとはいえないからである。「精神病」という表現を完全な間違いとするなら、「脳病」という表現は、半分間違っている。脳の変性も、二次(副次)的な症状だからである。 俗にいう精神病といわれる病気の根本的な病因は、人間の上部組織のなかには決して存在せず、常に下部組織のなかで起こる。根本的な病因は、本質的には常に、肝臓、腎臓、心臓、肺という4つの器官組織のなかにある。 外の生活への関心を失い、内的に思い悩み、妄想に囚われる、というような狂気(妄想)への傾向を持つ人の場合、何よりも重要なことは、背後に隠れている肺の状態に対して気づくことにある。 (妄想⇒胸の疾患、例えば、思想家の多くは、胸の疾患で死んでいる。例えば、王陽明の結核の死など。) 同様に、我儘や頑固さ、独善と呼べるような、いわば固定的な考え方、固定観念に凝り固まった人の場合、当人の肝臓の状態の調査へと導くことが重要になる。 なぜなら、固定観念は、内的な化学機構が正しく作用していない結果として現れるからである。例えば、俗に脳の軟化と呼ばれている症状(痴呆、統合失調症)ですら、二次(副次)的である。いわゆる精神病の場合、観察が容易でないことが多々あるにしても、主因は、器官組織にある。 (例えば、アルツハイマーの老人斑はアミロイドベータと呼ばれる蛋白質の変成で生じるが、二次的で、本質は、内的な化学機構にあり、例えば、肝臓などの新陳代謝の問題と考えられる。) 主因が器官組織にあるため、精神的な治療処置を通じて対処できることはほとんどなく、むしろ、器官の疾病に対する治療処置を講じることを認めなければならない。逆にむしろ、いわゆる「精神病」よりも実際、通常の器官の疾病として現れる方が、(ストレスの軽減などの)精神的な治療処置を通じて成果を挙げることができる。 精神病を、薬剤で治療する習慣を身につけていく必要があり、精神病の主因が、下部組織にあることが本質である。そして、これは、外(唯物)的な医学が、人智学の方向に沿った治療法を探求するのに必要な新しい分野に他ならない。 この分野のなかで、正しい観察を行うには、根本から本質的に洞察力を鍛える必要がある。というのも、いわゆる精神病として現れる症状は、しばしば暗示として現れるだけで、途方もなく多様なので、実際、徐々に、正しい観察法を獲得していかざるを得ないからである。 以上のことを1つの実例を挙げて解説する。人間の能力に関して、この能力とは、実際に、霊の道具となる、肉体的な意味での肉体的な能力全般を意味するが、その能力は、単純ではなく、非常に複雑に現れるからである。 奇妙なことに、頭が弱く、愚鈍[schwachsinnig]にみえるような特性を備えながら、逆に才気に溢れ、天才的な創作を行うこともあり得る。このような一見すると、真逆の能力が存在するのは、愚鈍さによって、暗示に罹り易く、周囲の隠れた影響を、容易に自らのなかに反映できる、という理由による。 (オカルトでいう、憑依、霊媒体質のことで、霊媒体質は、愚鈍さにあるから、第三者的な助言者が必要なので、審神者「サニワ」が必要となる。) この理由については、例えば、文化-病理学的な興味深い観察ができる。勿論、このような観察の成果として、個人名を挙げる必要はなく、個人名を伏せると、信憑性がある程度乏しくなるかもしれないが、やはり、個人名は伏せる。 特に、ジャーナリズムにおいて、奇妙な現象が起こっている。本質的に、愚鈍な頭脳の持ち主が、良いジャーナリストになれる。それは愚鈍さにより、自分の意見ではなく、その時代の意見を提示できるからである。 つまり、その時代の意見が、愚鈍な人を通じて反映されるので、例えば、愚鈍なジャーナリストの記事は、知性鋭い[starksinng] 自分の見解を表明するジャーナリストの記事よりも遙かに興味深い。 (現代の日本でもマスコミは適度に馬鹿なので、官僚の主張をそのまま垂れ流している。もっと馬鹿になれば、時代を反映する意見を提示できるのに、マスコミ社会での地位に執着するために、中途半端な馬鹿に止まっている。いまのマスコミは、政府の広報で、官僚の御用聞きである。江戸時代の立て札と同じ。) 自分の意見を絶えず作り出そうとする知性鋭いジャーナリストよりも、愚鈍なジャーナリストの方が、社会全体の意見に通じる。 (日本は、知性鋭いジャーナリストの官僚の意見ばかりしか聞かないから、益々駄目になる。駄目になるとは、先行きを見通すことができなくなるという意味である。社会の底辺に存在するようなホームレスなどの意見の方が、時代を反映する。 評論家の意見が正しかったことなど皆無である。検証すればわかる。特に昨今酷いのが、統計を用いた情報工作である。統計を用いて情報を誘導している。) ジャーナリストは、極端なケースだが、人生のなかでは、頻繁に起こる現象である。愚鈍という本質に対する強度の遮蔽とも呼べる真逆の能力が現れてくる。最初は、天才的とさえ言える能力が現れてくるために、その根底にある愚鈍さに気づかない。 (カリスマ性などは、この現象を良く現わしている。俗に、一発屋というのも同じで、愚鈍さが根底にあるものと思われる。当人は、その愚鈍さ故に、なぜ人気になっているのかわからないはずである。) 当然のことながら、通常の日常生活においては、この現象は些細なもので、記者の愚鈍さにより新聞が書かれていても、結果として、時代を反映した良い意見をもたらすのなら、害がないからである。 (例えば、報道はできるだけ私見が混じらないほうがよい。また、洗脳するには、愚鈍さを誘導することにある。)
2012年05月24日
コメント(0)
これまで述べてきたヤドリギの作用が事実であることがいずれ立証されるだろう。そのときには、ヤドリギを用いるよりも、方法論的に先に進んでいる必要がある。 というのも、以前述べたように、実際、樹の幹は、本質的には土の瘤で、瘤のなかに植物が含まれているので、樹が生えるわけで、いわば小さな丘といえる。 さて、植物を含む土の瘤の幹に、ヤドリギが生えると、このヤドリギは樹の上でくつろぎ、地面とは逆の方向に根を下ろすことになる。このヤドリギの気違い染みた貴族主義を身につけながらも、ボヘミアン的な寄生生活の特性はもたない植物で実験すれば、ヤドリギと同じような作用が期待できる。 例えば、冬の植物に対して、人間の生体組織を健常に導く方向性とは逆の病的な方向性に沿って調べると、冬に開花するのが相応しいと認められる異常な成長力をもつ植物は、ヤドリギと同様な作用を持つことが予測できる。ただし、この一連の実験を、例えば、ヘレボルス・ニゲール[Helleborus niger]のクリストブルーメ[Christblume](クリスマスローズ)といった植物にまで広げていく必要がある。 ヘレボルス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%82%B9 クリスマスローズ http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA/ 実際に、ヤドリギと同様の作用を、クリスマスローズから獲得できることがわかる。ただ、少なくとも、この講義の冒頭の導入部で述べた特徴のように、陰陽、つまり、女性と男性で全く反対に出ることも考慮に入れる必要がある。 腫瘍形成に対して、女性の場合、クリスマスローズでは、反作用はほとんど得られないが、男性の場合、顕著な反作用が得られる。 ただし、ヤドリギの反作用と同様に、生体内で比較的高い反作用が誘起されるように、投与できた場合に限られる(ホメオパシーの原理により、免疫を強化できた場合)。 (日本では、ウコンが有名である。植物に詳しくないので、詳細はわからないが、ウコンも、春と秋だけに繁殖する独特な植物のようである。) 上記のような探求に際し、次のような関係を考慮に入れる必要がある。 「冬に繁茂する植物なのか、夏に繁茂する植物なのか、また、その植物の働きは、ヤドリギのような成長力から得られるのか、もしくはヤドリギの成長力よりは、地面に向かう傾向から得られるのか」というようなことである。 ヤドリギは地を好まず、黒ヘレボルス[Schwarze Nieswurz]やクリスマスローズは地に接近することを好むので、以前述べたように、どちらかといえば、男性的な作用に親和性をもつ。男性的な作用は、地上の作用に親和性がある。 他方、女性的な作用は、地球外の作用に親和性を持っている。このような事実を広く考慮する必要がある。つまり、自然の経過に対する(霊的な)洞察力を獲得することが特に重要となる。 だからこそ、外界からくる様々な作用の特徴を述べ示し、「ボヘミアン、貴族、狂気」などの道徳的な観念を用いて解釈した。このような道徳的な観念は、実際、適切な表現となり得るので、よく用いている。 さて、道徳的な観念の獲得から、薬の体外と体内の働きの間にある特徴的な相違も明らかになってくる。しかし、外と内の違いを考察する前に、道徳に導く正しい観念を洞察しないといけない。 現在(1920年)出現する新種の病気に対する治療法の獲得のために研究すべき事項は、以前既に暗示したが、例えば、植物の炭を比較的長期間メタンのなかに置き、曝しておくことで、充分にメタンを植物の炭に浸透させてから、軟膏として擦り込むなどである。 メタンに浸透させることで、軟膏などとして生体外からの働きかけが獲得できる。特に、生体外からの作用を促進できる物質を用いて擦り込むとよい。このような技術的方法を見つけることが大切である。例えば、滑石土[Talk-Erde](タルク、苦土)などを用いる技術的な方法をみつけて、軟膏として擦り込むと、生体外からの働きかけが得られる。 メタン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%BF%E3%83%B3 滑石 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%91%E7%9F%B3 マグネシウム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%83%A0
2012年05月23日
コメント(0)
ヤドリギの形成を、自然の活動に照らしあわせて観察すれば、次のような酷い表現が浮かぶ。 「自然の活動と比較すると、ヤドリギの成長は、気が狂っているとしか思えない、全てが時期はずれだ!」 ヤドリギ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%AE しかしながら、人間の生体組織が、物質的に、ヤドリギのように気が狂い、例えば、癌腫などの形成として現れた場合、逆に、このヤドリギの狂った成長力が有用となる。このような関係に対する理解力を育てていくことが、重要となる。 さて、腫瘍形成の際、ヤドリギを、生体内で希釈(中和;無毒化)して、外科医のメスの代わりとなる、治療薬にすべきである。ただし、ヤドリギの実を薬にするには、特に他の作用と関連づけて、完全に正しく扱えるようになることが重要となる。 また、ヤドリギが、「気が狂っている」証拠として、他に例えば、次のようなことも考えられる。 ヤドリギという種の存続、つまり受粉が、特に、鳥の移動を頼みにし、鳥の飛行と結びついている点である。つまり、鳥が、ヤドリギの実を、樹から樹へと絶えまなく運ばなければ、ヤドリギは死滅してしまう。 奇妙なことに、ヤドリギの受粉は、鳥の体内を通過する方法を選択するため、ヤドリギの実は、まず鳥の体内に摂取され、排泄されてから、別の樹の上に新しい芽を出す。この事実は、ヤドリギの生命環全体を観察すれば、わかる。 更に、特にヤドリギの膠(にかわ)質[Leimsubstanz]に含まれる作用を、他の作用と正しく関係づけ、塗布剤などとして、物質作用(増殖能)に対する、ヤドリギの反作用のポテンシャル(潜在力)[Potenzierung]を、生体内で徐々に高めていくことが重要となる。 花と葉っぱ:ヤドリギ http://borancha.exblog.jp/15410683/ 更に重要なことは、後に述べていくが、ヤドリギの生える場所、つまり生える樹によって、どの特定の器官に対して、反作用を高められるか、などを特定していく必要がある。 また、ヤドリギの膠質に含まれる作用を、別の植物に含まれる金属などと融合し、共同作用を誘起する薬をつくることなども重要となる。例えば、リンゴの樹に生えるヤドリギに、銀塩(銀の化合物)を擦り込むことで、共同作用を誘起し、下腹部の癌腫に抵抗する反作用を生じさせることができる。 『ヤドリギ最近のハーブ図鑑の記述によると、ヤドリギ(学名 Viscum album)には、蛋白質合成、免疫機構、循環器系、心臓に作用する成分も含むという。内服、外用ともに用いられるが、特に茎と葉はそのまま食すると有毒なので注意が必要。ツンとする、苦甘い、加温性のハーブで、血圧降下、免疫機構を刺激し、心拍低下、鎮痙、鎮静、利尿、抗癌作用があるという。 北欧神話では、オーディンの息子、光の神バルドルは、ロキの計略により、ヤドリギの矢で殺されるが、後に再生する。ヤドリギはまた、ドルイド教で重視され、新年の祝いに関連がある。このヤドリギは特別な月相のとき、金の鎌で樫の樹だけから採られた。』 さて、ヤドリギを、癌の治療薬として用いるのに慎重にならざるを得ないのは、人智学の研究から、癌の治療薬として、正しく、確かで明らかな根拠が挙げられるが、実際の治療を始める場合、治療薬の有効性が、ヤドリギの実の臨床上の加工技術に完全に依存するため、ヤドリギから、生体内で、根本的に反作用を誘起するための加工技術に対する臨床知識に乏しいからである。 勿論、人智学から得られる知見は、現代の医師たちの下でも、大いに根拠をもつので、実際に、臨床過程(プロセス)を積み重ね、絶えず共同で治療法を探求していけば、ヤドリギの効果が、生体内で有効に働くことが可能になるだろう。 しかし、人智学から得られる知見を実践するのに有用な臨床的技術の壁が、人智学と医学との関係を困難にしている。というのも、人智学の探求と、医学上の臨床的な観察とが、今日の社会慣行では、いまだに、全くまとまりがなく、混乱しているからである。 しかし、上述の内容から、人智学と医学の両者が互いに結びつけば、本質的にうまくいく見通しがたつことがわかる。 つまり大切なことは、両者が互いに結びつく方向に向かって、実際に経験を蓄積することにある。というのも、少なくとも、外(物質)的な臨床報告などの検証以外に、人智学的な知見の有用性や、従来とは異なった観点を、現代の人々に与えることができないからである。現代の多くの人々が、必要とするのは、内(精神)的な必然性というよりは外(物質)的な必然性だからである。
2012年05月18日
コメント(0)
最後の「黄胆汁が多い人は気むずかしい気質を持つ」というのは、人智学の「胆汁質」のことで、例の以下のサイトから拝借すると、 4つの気質 http://www2.u-netsurf.ne.jp/~kazumixx/steiner-19.htm 「胆汁質の人の目は非常に生き生きとしており、活発で、刺すような眼差しを見せています。顔の輪郭は非常に鋭く、引き締まっています。態度、言葉使いはとてもきちんとしていて、激しさがあります。体格は、筋肉質でがっしりしている人が多いです。 感情は、愛憎が非常に激しくて怒りやすい感激家が多い。一方、非常に誠実です。 思考活動について言えば、把握力が優れていて、物事をすばやく理解し、それに明瞭な概念づけを行うことを好みます。 問題を曖昧にして残しておかないで、要するにこうなんだという結論を出したがる傾向があり、それだけにものの本質を把握する力に優れています。 意志の点からいうと、非常に決断力に富んでいて、他人に対して影響力を行使しやすい。その反面、他人に対して権力的な態度で臨みやすく、また、厳しい評価を他人に対して行いがちです。 胆汁質は自我をとくに表にあらわす気質ですから、無意識と意識との間の葛藤が非常につよく、なにかというとすぐに真剣になってしまい、カッとなって血が騒いでしまいます。」 一言でいうと、エネルギーが過多な傾向にある人なので、下手すると我儘で、支配的で、どことなく気難しさを感じさせる。
2012年05月17日
コメント(0)
ヒポクラテスの「四体液」説が、あまりにも曲解されているので、続けて解説していく。 人智学により、四体液が、それぞれ、自我、アストラル体、エーテル体、肉(物質)体に置き換えられることを漠然と前回述べた。 つまり、人間は、その4つの要素により構築されている。この4つの要素を、アリストテレスの、火、風、水、土の4元素に帰することもできる。 ただし、現代人は、直観が働かないという意味でも、霊的に「馬鹿」なので、火、風、水、土といっても、古代人を馬鹿にすることに馴れているので、ピンとこないだろう。本当は、現代人の方が現代的思考に飼い馴らされているだけで、馬鹿なのである。 そのことは、プラトンが、「最近の若者は…」といって非難した記録が残っていることからもわかる。人類は、どんどん馬鹿になってきている、というわけである。 余談だが、プラトンが若者を非難している例から、現代人の若者批判を正当化するような発言があるが、現代人とプラトンを同列に置いていること自体が間違っている。立場の違いを考慮しないところに現代人の浅はかさがある。 そのことはさておき、人智学から、「火」、「風」、「水」、「土」を、現代的思考に置き換えるなら、「エネルギー」、「気(体)化」、「液(体)化」、「固(体)化」となることがわかる。 つまり、アリストテレスが述べた4大精霊とは、エネルギー、気化、液化、固化の働きのことなのである。現代科学でいうなら、相転移のことで、現代物理学でいうなら、保存量の対称性のことである。 プラトンが、自分の学院の門に、「幾何学ができない者は、この門を通るなかれ」と掲げたのは、エネルギー、気化、液化、固化の働きを、直観として認識できない者は、哲学を理解できないという意味に解釈できる。 従って、ヒポクラテスの四体液説は、エネルギー、気化、液化、固化の働きから、人間がつくられるということも説いている。 現代的思考では、主に固化、場合によって液化の働きしか想定していない。液化となると、流体力学が必要で、線形解釈では不完全な形でしか解明できない。ましてや、気化、エネルギーなどは、非物質なので、実体がないから、仮想粒子などで、数理的に想定するしかない。エネルギーについては、馬鹿の1つ覚えの保存則しか記述できていない。 非物質的現象を、古代人は、音(言葉)や霊などに解釈した。つまり、現代でいう、エネルギーや気化などの働きである。 だから、現代人の唯物的思考からすれば、胡散臭いのは当然である。物質ではないからだ! つまり、物質的思考が進むほど、実体がわからなくなり、胡散臭くなるわけで、だから、四体液説などは、「秘密の、隠された」という意味のオカルトになる。 しかし、物質的思考などなくとも、人間以外の動物は生きているわけで、微生物などは、遙かに人間よりも特異な能力を秘めている。逆に物質的思考のせいで、自然破壊が進んでいることは確かだろう。プルトニウム等の人工的な放射線源による放射線被曝の増加などは、その顕著な例である。 つまり、生物的にいえば、人間において思考となった能力は、動物における特異な能力を失う代わりに獲得された。 例えば、トカゲは尻尾を切られても再生するが、人間の手足は再生しない。しかし、人間は、手足を使って、再生的に思考できる。 そして、人間以外の生物は、特異能力が活用できないと致命的だが、人間は、間違った思考をしても、致命的にはならない。人間では、動物の特異な能力が、間違う可能性をも広げた思考となった。 では、動物と、人間はどこか違うのかといえば、動物の場合、エネルギー、気化、液化、固化の働きの選択性に乏しく、つまり自由度に乏しく、選択が限られる分、再生が、直接的に実行される。 人間の場合は、様々な選択があり、自由があるので、再生が間接的になる。 このような相違を、人智学では、主に、エーテル体の違いで説明している。例えば、トカゲの尻尾の再生などは、エーテル体と物質体の密接度が高いことを意味し、人間の場合、密接度が低い分、自由で、その再生力が思考などに使われる。 人間の場合、再生力は思考に反映されるので、例えば、手足を失った場合、その人生ではなく、次の人生で、補完されるという。つまり、人間の場合、意識や人生経験に反映されるわけで、輪廻転生を考えない現代人には、さぞ胡散臭く思えるだろう。 しかし、現代人のような思考をもつと、例えば、死は無だとすると、本当に、無になるから恐ろしい。現代人と違って、例えば、古代エジプト人は、輪廻転生を考えていたことが遺跡から明白にわかる。 このことは、デカルトの「我思う。故に我有り」の本当の意味に通じる。 さて、話が脱線気味なので、元に戻し、ヒポクラテスの「四体液」説を更に解説する。以下は、例のウイキペディアからの抜き書きだが、人智学から、気質との関係を解説する。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++この説においては、体液は人間の気質にも影響を与えるという。血液が多い人は楽天的、粘液が多い人は鈍重、黒胆汁が多い人は憂鬱(メランコリーの語源は黒胆汁である[3])、黄胆汁が多い人は気むずかしい気質を持つとする。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ シュタイナーは、血液(自我)、黄胆汁(アストラル体)、粘液(エーテル体)、黒胆汁(肉体)のうちの密接な関係性のなかで、どれかが優先的になることで、主に4つの気質に分類できることを述べている。例えば、以下のサイトなどが参考になる。 4つの気質 http://www2.u-netsurf.ne.jp/~kazumixx/steiner-19.htm 「血液が多い人は楽天的」というのは、人智学でいう、「多血質」のことで、上のサイトから拝借すると、「多血質の人は血色がとてもよく、皮膚がきれいで、均整のとれた体格の持ち主が多いです。多血質の人を後ろから見ると、踊るようにつま先立って歩いています。 感情は刺激されやすく、快や不快、喜びや悲しみに敏感ですが、とくに楽しいことが大好きです。 世の中のあらゆることに関心をもち、社交的です。心配事は好きではなく、ユーモアがあって明るい人柄です。なにかしようというと、よし、しようとすぐのってきます。が、すぐまたイヤになって、イチ抜けたというのも多血質です。 出来上がった人格、自分で作り上げた人格というよりも生まれつきの子どものころからの性格が最後まで続いているようなところがあります。したがって、とても人好きもするし、感じのいい人が多いのですが、案外あてになりません。 思考力の点では、思いつきも想像力も豊かですが、ものの考え方にはかなり遊びの部分がふくまれて、徹底的に突き詰める態度には不向きなのです。すぐに判断を下すのですが、それも熟慮の末ではないのです。 意志の面では、持続力に欠けていて、中途で投げ出しがちです。自分をコントロールしにくく、印象に左右されやすいタイプです。 多血質の人の性格というのが、アストラル体の特徴とまったく同じと言えます。変化するアストラル体がその人間の気質の中で中心の働きをすると多血質の人が生まれてきます。」となり、この気質を、一言でいうと、黄胆汁の気化の働きが大きく、場当たり的な人といえるので、楽天的といえる。 次に、「粘液が多い人は鈍重」というのは、「粘液質」のことで、同じように拝借すると、「粘液質というのは、若いときは人生の上で厳しいことが多いですから、やせた人がいますが、40代50代になって太ってくる人の中に粘液質の人がわりと多いです。 言葉使いや態度も、テンポがゆったりとしていて、活気がなく、むしろ、鈍重な感じがします。ゆったりと確実な歩き方をするので、歩いているところを見ても粘液質の人だとよくわかります。 休むこと、食べること、眠ることが大好きで、感情は好き嫌いをあまり表にあらわしません。おおむね慎重な判断をします。カッとなることが少なくて、ばかげたことなどめったにしません。 思考力があり、冷静で、計算の能力があって、ひとつのことを持続して考えることができます。待つことが得意なので、チャンスに恵まれやすいのです。なにかいい機会があると、それを逃さないというのは、粘液質の人の人生の知恵です。 社会をリードする政治家や学者のなかに粘液質のタイプの人が多いのは、そういうところからきています。そういう人が道徳的な能力を身につけると、正義感がつよく、公正な態度を維持することができます。しかし、もし、そういう人が道徳的な感覚を持たないで大人になってしまうと、非常に冷血で残酷な態度をとることができます。 意志の点からいうと、めったにやる気を起こさないで、楽な状態のなかに安住することが得意なのですが、一度、やる気を起こすと、大きなことを持続してやることができます。 これは、エーテル体の特徴と似合っています。エーテル体の一般的な特徴のひとつは、感情の動きに左右されないで、記憶を保持する働きや新陳代謝・消化器系の働きをつかさどっています。粘液質の人は、自分のなかのエーテル体に非常に敏感ですから、自分の胃や腸が正常に活発に機能していると、とてもうれしいのです。それで食べたり眠ったりすることが好きなのです。」となり、この気質を、一言でいうと、粘液の液化の働きが大きく、大きな河の流れのようなゆったりとした動きをもつので、鈍重といえる。 次の「黒胆汁が多い人は憂鬱」は、その性質通り「憂鬱質」のことで、同じく拝借すれば、「憂鬱質の人の外見はとても冷静で内向的です。顔の輪郭ははっきりしていますが、やわらかい印象を与えます。態度と言葉使いはゆっくりしていて、慎重です。友達と話していて、なにかしようというと、多血質の人のように「よし、しよう」という言葉が出てこないで、「どうしてするんだ?」というところから始まります。 感情は外の世界に対して客観的であり、一見、無関心のように見えます。しかし、その内部に深い世界を担っており、魂はとても深刻な姿をしています。深刻であるだけに、すぐに失望してしまったり、不満を抱いたり、苦悩に陥ったりしがちで、それ故非社交的で孤独で、ときには自殺を考えたりします。 自分を含め、人間に対して容易に失望してしまうものですから、人間嫌いになるわけです。思考活動は活発で、とても探求心が強く、ものごとをそのまま受け取らないで、懐疑的な態度で接しようとし、それだけにとても注意力が発達しています。独創性に徹しており、想像力豊かですけれども、固定観念にとらわれがちです。 意志の点から言うと、持続力がとてもありますが、生活態度においては単調になりやすいので、一緒に生活すると、とても退屈な場合も出てきます。 地水火風の地の世界、肉体にとても結びついています。したがって、本質的に実在論者になりがちです。自分の行動やものの考え方が肉体の重みをともなって感じられるために、なにかしようと思うとすぐに自分の肉体の殻に閉ざされて、もがけばもがくほど、自分自身の限界をますます感じてしまいます。」というように、一言でいうと、肉体が霊魂を束縛するぐらい強いわけで、憂鬱になりやすい。
2012年05月17日
コメント(0)
ネット検索していると、古代医術に対しての間違った見解によく出くわすので、人智学的見解から、少しづつ修正していきたい。 「癌腫」と「新生物」をネット検索していて、ウイキペディアの「悪性腫瘍」の説明のなかに、次のようなものをみつけた。 悪性腫瘍 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E6%80%A7%E8%85%AB%E7%98%8D++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++「古代ローマのガレノス(2~3世紀ごろ)は、がんは四体液のひとつの黒胆汁が過剰になると生じる、と考えた[6]。(ガレノスというのは1500年ころまでは、医学の領域で「権威」とされた人物である[6])。ガレノスの後継者のなかには、情欲にふけることや、禁欲や、憂鬱が原因だとする者もいた[6]。また同後継者には、ある種のがんが特定の家系に集中することに着目して、がんというのは遺伝的な病苦だ、と説明する者もいた[6]。」++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ この記述自体は間違いではないが、「四体液」を、唯物論に染まっている現代人は理解できないので、「黒胆汁」が、現代用語でいう「肉体」のことを意味することがわからない。 つまり、「ガレノスは、『肉体』が過剰になると生じると考えた」という風に変換できる。「肉体が過剰になる」という表現は、現代人には理解困難だろうが、人智学の見解から、ガレノスの考えが明らかになる。 人智学のがんに対する見解を簡単に述べると、「肉体、つまり物質体の、ある部位が、非直線的な、指数的に成長、増殖を遂げたために、エーテル体が、浸透できずに、塊のようになる」というものである。 だから、「肉体が過剰になる」という表現は、物質的な機能が過剰になるという意味で、現代でいえば、「細胞の増殖が過剰になる」という意味になり、現代医学のがんに対する見解と一致する。 現代の医者が言うことと同じことを、ガレノスは、古代の表現で述べているにすぎない。 さて、「肉体が過剰になる」、つまり、現代でいう細胞の増殖が過剰になる原因については、ガレノスの後継者たちが、「情欲にふけることや、禁欲や、憂鬱…遺伝的な…」と様々に挙げているように、現代のがんに対する見解となんら変わりはない。 確かに、古代よりも、物理的検査により、物質的な認識は進んだかもしれないが、この例をとってみても、古代の知識を生かしきれていない点で、むしろ、精神的な意味で退行しているといわざるを得ない。 物質的認識が進んでも、金銭ばかりを消費するだけで、相変わらず、免疫という自然治癒力に依存している点で、がんの治療が古代よりも進んだわけではない。経済的に考えてみれば、非常に大掛かりな機械を導入するだけでも、治療費という点から、退行していることは事実だろう。 このような物質的認識が進めれば、いずれ経済的に国家財政が破綻することは明らかで、例えば、米国のような資本主義の国では、金持ちだけしか物質的認識による医療の恩恵が受けられない、という差別が生じることがわかる。しかも、その物質的認識が必ずしも正しいとは限らないので、医療過誤が起こるわけである。 さて、話を元に戻すと、そもそもヒポクラテスの「四体液」説を現代人が理解できていない点に問題がある。 ヒポクラテスを崇拝し、権威化しておきながら、ヒポクラテスの考えが理解できないのでは、絵に描いた餅である。また理解できないで、崇拝するのは偶像崇拝でもある。 そこで、ウイキペディアを山車に、「四体液説」を解説する。 四体液説 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E4%BD%93%E6%B6%B2%E8%AA%AC++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++「エンペドクレスの四大元素説の影響を受けてヒポクラテスが著書『人間の自然性について』の中で人間は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁からできていると述べており[1]、これが主流の分類である。しかし『疾病について』の中では血液、粘液、胆汁、水、また『疾患について』で病気はすべて胆汁と粘液の作用であるとしており定まっていない。」++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 人智学を理解している人なら、「血液、黄胆汁、粘液、黒胆汁」が、それぞれ、「自我、アストラル体、エーテル体、肉(物質)体」であることがわかるだろう。 宗教的にいうなら、それぞれ「霊、魂、幽、体(肉)」という用語になる。 そして、「『疾病について』の中では血液、粘液、胆汁、水」の、「水」が何処からきたのか定かではないが、「『疾患について』で病気はすべて胆汁と粘液の作用である」という記述を、人智学で解釈するなら、「エーテル体や肉体と、アストラル体との間の不適切な作用から病気が生じる」という意味に解釈できる。 つまり、古代の病気の観点では、霊魂を根底にして解き明かしているので、現代の唯物的な、肉体と、物質的な機能だけの観点よりは、優れていたことがわかる。
2012年05月16日
コメント(0)

炎症と、腫瘍形成の両者は、生体内ではまさに対極に配置されている。 上記の事実を「両手で掴める」と表現したが、例えば、生体の表面近くにできた癌腫を、擬似の偽潰瘍[Pseudogeschwueren]と混同する経験がよくある。そのような経験から、上述の両極性を厳密に探究するように研究を拡張していくべきである。 さて、両極性の探求の際に、よく妨げになるのは、古くからの、いわば中世からの命名ではなく、現代人が連想する中世と関連する命名である。つまり腫瘍形成を「新生物」[Neubildung]とみなすのは正しくない。 通俗的な意味で、「新生物」と命名するには、いままでに腫瘍が存在しない場合であり、例えば皮膚に覆われた生体組織を基底として生じる意味においても、現に、新生物ではない。 腫瘍形成は、新生物ではなく、物質体が特定の過程(プロセス)で、エーテル体に強く抵抗することで、外(物質)的な身体が、いわば外界にも、つまり人間に敵対する自然にも従属するようになり、そして腫瘍形成により、あらゆる可能な外的影響に対して接近を許すことになる。 腫瘍の治療においては、腫瘍形成全般と対極にある他方の極を探求することが重要となる。例えば、人間の外の自然のなかの、ヤドリギ(寄生)の形成[Viscumbildung]を研究することで、(他方の極を)参照すべきである。 まず、他の植物上でのヤドリギ(寄生)類の成長に注視する必要がある。しかし、寄生の性質は、本質ではない。 植物学では、確かに、本質は、ヤドリギの寄生の性質にあるが、外の自然から、いわば人間のなかにある自然を研究するのに、根本的に重要な性質とは、ヤドリギは、他の植物の樹々の上に生えることで、異なった1年のリズムで成長せざるを得なくなることにある。 例えば、ヤドリギが寄生する樹が、春に、葉を形成し始める前に、既にヤドリギは花の形成を終えているため、ヤドリギは一種の冬季植物であり、また、寄生する樹の葉によって、太陽の強い放射や夏の光の強い作用から護られ、直射日光に直に曝されない性質をもつ。 このヤドリギの性質から、ヤドリギは、まるで「貴族的に振舞う」とでも呼べる植物である。以前述べたような経緯、つまり、太陽から光がくるという知識に従えば、太陽だけを光の作用の代表として観察してしまうが、確かに物理学的な観察の対象とはなるが、生命の観察には相応しくない。 それにしても、誤った自然観察から、言葉のなかに混入する誤った知識を、完全に回避することはできないが、とはいえ、ヤドリギが、他の植物に寄生することで、成長し、繁茂する方法全般は、特に重要である。他の植物に寄生することで、ヤドリギは特別な成長力を獲得する。 ヤドリギが獲得する特別な成長力は、例えば、次のように示せる。 ヤドリギは、獲得した特別な成長力によって、いわば直線的に成長する組織形成力ではなく、非直線的な、曲線的(指数的)に成長する組織形成力をもつようになる。 (腫瘍形成が、指数的に成長することでわかる。経済上のバブル形成も指数的に成長する。) このことは、次のように理解してはじめて事実が明白になる。 「図を描くなら(下図参照)、特別な成長力の獲得により、物質体のなかに、エーテル体の作用を拒む部位があれば、結果として、エーテル体の作用が堰き止められ、停滞し、外見上は、「新生物」のように見える腫瘍が出現する。この部位に形成された、まるで袋状の塊に対抗する作用をもつのがヤドリギである。」 (直線的成長が、通常の時間の経過で、指数的成長は、局所的な意味で、通常の時間の経過を逸脱した、いわゆる過渡的な推移「経過」といえるかもしれない。つまり癌は、生体のなかで、通常の時間経過を逸脱した存在といえる。) ヤドリギは、エーテルの作用が及ばない場所へ、エーテルの作用を再び引き寄せる。 このヤドリギによるエーテル体の作用の修復を、適切な方法を用いて実験で確かめることができる。直線的な組織化とは反対のヤドリギの組織化の傾向を、例えば、胎盤の排出に対するヤドリギの作用を観察すれば、よく研究できる。 ヤドリギは胎盤を、生体内に引き留める。すなわち、ヤドリギは、その性質から、直線的な組織化とは反対の作用を及ぼす。胎盤を引き留めるように作用する。つまり、通常の直線的な組織化を止めることが、まさしく、ヤドリギが働きかける経過(プロセス)の本質的な特性の1つなのである。 胎盤停滞 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%8E%E7%9B%A4%E5%81%9C%E6%BB%9E 胎盤を引き留めることと本質的には同じ機序であっても、更なる生体内の精妙な過程(プロセス)では、通常の直線的な組織化の中断が生じることはほとんどないが、ヤドリギの働き全般を考慮する際に得られる知見から、直線的な組織化の傾向に強く対抗するのと同じ作用が、ヤドリギから現れてくる。 例えば、エーテル体が物質体を正しい配分(強度)で掴もうとしない傾向に対して、ヤドリギの反作用に気づいて、ヤドリギの反作用を、生体内で実現させると、エーテル体が、かえって過度に強く物質体を掴み、痙攣などが起こることがある。 また別の場合には、自分が、始終ひっくり返るのではないか、というような独特の感情が生じることもある。このような事例もまた、例えばヤドリギが、基本的に遺精を促進する[pollutionsbefoerdernd]ことに関係する。 遺精 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%81%BA%E7%B2%BE/ 以上のように、ヤドリギが、人間の生体組織に対して、反作用を持つことを、例えば癲癇[Epilepsie]にも関連して、様々な症状から発見できる。 てんかん http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A6%E3%82%93%E3%81%8B%E3%82%93 とはいえ、このようなヤドリギの性質は、寄生的性質というよりは、ウイーンの人々には馴染みある俗っぽい表現でいえば、「自然に特別製のソーセージを焼いてもらっている(特別扱いされている)」性質に関係する。 ヤドリギは、通常の季節、つまり、春が過ぎてから花を咲かせ、実を結ぶのではなく、特別な時期の冬季に繁茂する点で、特別扱いされている。冬季に繁茂することで、ヤドリギは、通常の季節の進行に対抗する成長力を貯える。 (経済成長などにも似たような法則がみつかる。俗にバブルといわれるような急成長する組織は、ヤドリギのようで、短期的投資に依存し、どこか寄生的性質をもつ。バブルが崩壊すると、多大な経済的損失を与え、組織全体を瀕死の状態に追い込む点で、癌にも似ている。急成長する成金を毛嫌いする昔からの風潮は、この法則にあるのかもしれない。)
2012年05月16日
コメント(0)
最初に、特に3つの事実を順に取り上げて、唯物的な方向に偏っている現代の医学的思考を、もっと霊的な、いわゆる人智学的な方向へと導くように、これから述べていきたい。特に腫瘍の形成や、場合によっては、腫瘍の治癒さえも可能にする観察へと導きたい。 更に、いわゆる精神病に対する真の合理的な理解や、前回述べた軟膏などを塗ったり、擦り込んだりするような外的な方法を適用するために、身につけておくべき治療上の知識などにも導きたい。 通常の物理的な検査では、少なくとも人智学的な見解から方向性が与えられなければ、癌を頂点とする腫瘍形成全般にアプローチすることは望めない。今日(1920年)、精神医学が、かくも悲惨な状態なのは、外の自然のなかには、あらゆる場所に架け橋を見つけるのに、特に精神医学から、人間の意識内部へと橋を架け、病理学や治療学にも橋を架けることができていないためである。 そのため、人智学的な考察を学ぶ必要性を感じるのは、病理学と治療学の両分野が一番早いのではないかと思うほどである。特に、その両分野では、人智学から明らかになる事実の考慮が不可欠である。 人智学の著書の内容に注意を払うだけでも、上述した方向に向かって多くの事実が語られていることがわかる。すなわち、人間の生体組織に、エーテル体が完全に介入しているという事実に注意を払うことが不可欠である。 人間の生体組織のなかへのエーテル体の活動を語るには、絶対に霊視が必要というわけではない。というのも、エーテル体の活動と、反対に位置づけられる非常に多くの経過(プロセス)から、エーテル体が特定の形で働いてなかったり、少なくとも正常に働いていない、という事実が見て取れるからである。 従って、医学分野において正しい見解に達するには、炎症に関係する症状や、炎症を基盤として展開する症状と、腫瘍形成に関係する症状や、いわば腫瘍形成にはじまり生体組織を破壊する症状に、注視することが重要である。 腫瘍形成の場合、腫瘍が生じた場合でも、正当な理想に基づく努力から、外科医のメスを必要としない治癒を、絶え間なく探求していくことが実際に正しい。ただ今日(1920年)の社会状況においては、同時に社会を変えていく必要があり、社会といっても、外(物質)的な意味ではなく、医学、特に予防医学が浸透していく状況へと変えていく必要があるが、現状では困難である。 外科医のメスにより癌を完全に取り除ける場合もあるが、切除不可能な場合を補完することが重要である。今日(1920年)では、単に外科的方法以外に他の処置法がないという理由から、外科医のメスによる切除を支持する多くの人々が、他に有用な方法さえ講じられれば、他の方法へと転じることに疑いはない。 さて、炎症の経過の本質全体を、器官別に、様々に異なる特殊な形態化まで述べる必要はないように思う。これから述べることは実際、よく知られたものだが、あらゆる炎症のいわば統一的な経過としては、あまり知られていない。 この統一的な経過の特徴については、次のように良く説明できる。 炎症の大小に関わらず、炎症の根底にあって潰瘍の形成にまで至った症状全般の場合、人智学的な探究から注視すべきことは、エーテル体全体の作用である。 潰瘍 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BD%B0%E7%98%8D そのため、推測すべき事項は、ある特定の方向に向かって不活発になったエーテル体の作用を、正常な方向に引き戻し、エーテル体全体が健全な意味で作用するようにすることである。健常なエーテル体の活動は、本質的に、生体組織のあらゆる方向に拡がってゆくが、この場合、エーテル体の活動が特定の方向に導かれている。 結局、次のような結論にいたる。 例えば、特定の器官に向かい不活発になっているエーテル体に対し、このエーテル体が全体としてまだ健常ならば、その特定の器官に向かう方向へと、いわば宇宙的な活動を展開していくように再び促すような反作用を見つける必要がある。このことについては後に述べていく。 対照的に、腫瘍形成の場合は、炎症とは事情が異なる。腫瘍形成の場合、重要なのは、物質体のある経過が、エーテル体の活動に対して、直接敵対し、反抗するため、物質体のその部位では、エーテル体が活動しなくなる点にある。 とはいえ、エーテル体は、多大な再生力をもち、通常、次のようなことが、人智学的な手段から観察できる。特定の領域で活動しているエーテル体に対する、物質体による妨害を取り除き、エーテル体の活動に対抗している障害を排除できれば、腫瘍形成という問題にも対処できる。 従って、次のような結論にいたる。 「腫瘍の場合、エーテル体の活動に対抗している特定の部位での物質体の妨害的な活動を、いわば自然治癒の働きにより取り除くようにして、エーテル体が、その部位で再び作用できるようにすることが重要となる。」 癌治療の場合、上述したことがまさに大きな意味を持つ。事実に即して観察すれば、癌の多様な形態にもかかわらず、エーテル体の働きに対する、ある物質的機能の反抗を、癌が示していることがわかる。 例えば、生体内での癌腫形成の場合、角質化が現れるが、角質化の傾向は、比較的表面に近い部位にできる癌腫にも、顕著ではないが見られる。 角質 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E8%B3%AA 癌腫 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%8C%E8%85%AB つまり、生体内での癌腫形成の場合に特徴的な傾向から、癌腫に至る物質的な形成が、当の部位に本来あるべきエーテル体の働きに干渉し、妨害していることがわかる。 従って、物質体とエーテル体の作用の両方を正しく探求すれば、結局、次のような両手で掴めるような見解、つまり、炎症[Entzuendungen]や潰瘍形成[Geschwuerbildungen]が、癌腫形成[Geschwulstbildungen]と完全な対極をなす、という見解にいたる。 (私の仮説だが、アポトーシスという細胞死は、この細胞死は、別名「自殺死」といわれているが、エーテル体の関与による細胞死なのではないか、と思っている。逆に、ネクローシスという細胞死は、壊死ともいわれているが、エーテル体の関与のないものと思っている。 癌治療には、癌化した細胞にアポトーシスを起こすことが必須となるが、アポトーシス誘導の遺伝子や蛋白質は様々に挙げられていて、代表的なものは、p53という細胞の周期を司る、いわば成長の時間を制御するものがある。 p53は細胞のミトコンドリアに関係しているようで、ミトコンドリアが、エーテル体の担い手になっているのではないかと私は仮定している。細胞核の遺伝子とは別に、ミトコンドリアは独自の遺伝子をもつからである。 イエルネの免疫ネットワークの数理モデルを用いて、アポトーシスを数理モデルでネットワーク化して、エーテル体を記述しようと考慮中だが、適当な数学と、記述プログラムがわかっていない。非常に陳腐で、漠然としたものなら、カオス工学のパイコネ変換で表記できる。炎症を過度な秩序の状態に、癌をカオスの状態として漠然と解析できる。 アインシュタインにより否定されたエーテルだが、生命を考察する上では、エーテル体を肯定することが必然に思われる。 余談だが、アインシュタインは、量子力学の確率論を、「神はサイコロを振り給わず」と自己都合で、神を持ち出し、否定しておきながら、神の働きでもあるエーテル体を否定している。この自己都合の優先は、新興宗教の教祖と似ている。アインシュタインの過ちを正すことがいま大切に思われる。)
2012年05月15日
コメント(0)
人間は、外界の作用により成立し、物質構造の面だけから、人間を観察すべきではないことから、単に内から外へと働く作用を問題とするのではなく、外から内への作用、外界からの、いわゆる器官組織の過程(プロセス)に対する方向付けの作用も問題となる。 上記のような事実の考慮は、次のような事実からも、非常に深い意味を持つことが明らかになる。 「端的にいって、人間の生体内の物質は、次のように作用する。化学の塩(えん)として知られているように、その物質が塩基と結びついて現われるか、もしくは酸と結びついて現われるか、そのいずれでもなく、中性として現われ、作用する。」 しかし、生体内の事象は、単なる塩(えん)の変化、例えば、塩基から酸への変化の後に、中性へと至るような、アルカリと酸の対立する2極の作用による特性だけでは言い尽くせない。更に考慮すべき事項は、酸、塩基(アルカリ)、中性の塩(えん)という三重性が、本質的に、生体内の器官全体の作用に、どのように関与するのか、ということである。 例えば、塩基(アルカリ)性全般は、口のなかや消化において、前方から後方へと経過し、継続する作用や過程(プロセス)を支援する傾向をもつ。塩基(アルカリ)は、前から後へという方向に関わり、酸は、その逆の方向に関わる。 (ちなみに、ヨガによると、阿吽「あうん」の呼吸の「あ」と叫ぶと、血液はアルカリ性の傾向になり、「う」と叫ぶと、酸性の傾向になり、「ん」と叫ぶと、中性の傾向になるという。) 前と後という対比に注目するときにだけ、塩基と酸との間の対比に辿り着く。中性の塩は、塩基と酸の両者に対して、地上と垂直の位置にある器官に関与する。上から下に経過する作用全般は、中性の塩が関与している。 従って、塩基(アルカリ)、酸、中性の塩のなかに、人間がどのように置かれているのかを考察するなら、前から後、後ろから前、上から下の3つの方向を考慮しないといけない。 以上のような考察や、人間の観察を通じて、純粋に外(唯物)的な科学による金属の性質と、生体機能に関する生理学との間に橋を架けるような例を、正しい認識から、再度獲得できる。このような知見から、中性の塩と、地球との親和性や、塩基(アルカリ)と酸のもつ特性が理解できる。 例えば、以上を大まかにイメージするなら、中性の塩は、上から下への地上に向かう傾向を、塩基(アルカリ)と酸は、前後に向かう傾向を支援するので、地球の周りを回転する傾向を持つともいえる。 そして、上記の事実から、生体組織のなかで与えられている機能の方向を、何らかの方法で熟知することで、逆に、この機能の方向に介入できることもわかる。例えば、軟膏を塗ったり、湿布を貼ったりして、外から生体内の器官の機能の方向性に関与する治療などが重要となる。 すると、軟膏などの、外から関与する作用の方向などを研究する必要性が生じる。場合によっては、ピリピリする芥子軟膏の作用や、金属などの軟膏の作用など、正しく調合するのは勿論だが、外からの作用が、生体内での治癒作用に劣らず大きな意味を持つこともある。 ただし、いずれ明らかになるが、軟膏を、どのように塗るか、もしくは、湿布として貼りつけるべきかなどの用途を探求しなくてはいけない。というのも、ある膏薬を、身体の何処の箇所に塗るかによって、症状が様々に変化するからである。 本質は、身体の適切な場所に塗ることで、生体内の障害を生じる(過度な)作用に対抗する反作用を引き起こすことにある。痛む箇所やヒリヒリする箇所に、大雑把に塗るのは、正しいとは言えない。
2012年05月14日
コメント(0)
例えば次のようなことに言及すれば良い。 以前、植物の炭について述べてきたが、植物の炭には、動物の蛋白質が大抵持ち、本質的には必須の窒素成分が欠けている。 この窒素成分の有無が、燃焼に際しても、動物の炭と植物の炭とで、まったく異なった関係の原因となる。更にまた、動物の炭が、例えば、胆汁や粘液、脂肪などの生産の際に、いくらか関与する傾向も引き起こしている。 このような動物の炭と植物の炭の相違から、人間の生体組織のなかの金属が、非金属とは異なって働くことの注目へと導かれる。 さて、金属と非金属の対極的な相互作用に注目すれば、非常に重要な事実に到達する。人智学の説明のなかで、人生には、周期があることをしばしば強調してきた。幼児期から歯牙交替期(約7歳)までの期間、それから性的成熟に至るまでの期間(約14歳)、更に20代初めまでに続く第3の期間(約21歳)である。 事実、これらの周期は、人間の生体組織における内密な事象に結びつき、次のような結論に導かれる。 歯牙交替(約7歳)をもって終わる第1の期間は、これまで、しばしば特徴を述べてきたが、この期間に、自らを限定し、堅固な骨格の分離や付与へと、器官活動全体の集中した構築が行われる。この期間は、堅固な骨格を、外に向けて、送り出し、まさしく歯(乳歯)で終点に達する。 さて、実際は、まだ大部分が液体のなかで、堅固な構築へと進む。この堅固な構築が、人間の形態形成全体へと進み、特に周辺(末端)部分の形態形成に関わる。非常に注目すべきことに、この幼児期間に生じる全事象に密接に関わるものを、普段注意を払うことがほとんどない2つの物質に帰す必要がある。 その2つの物質とは、フッ素とマグネシウムである。 フッ素とマグネシウムは、いわば「希薄化された」状態で、生体組織のなかに現われるが、この幼児期の過程では歯の生え変わるまで、希薄化された状態で、非常に特別な役割を果たす。 幼児期の骨格等の固定化を、生体組織に組み込む際に生じることは、マグネシウムとフッ素の絶えざる相互作用であり、その際、フッ素の働きは、いわば彫刻家のように、角を削り、金属の放射作用の抑制を引き受けるが、反対にマグネシウムは、放射作用や、繊維束などを組織化し、内部へと石灰質を組織化できるように働く。 決して無意味なことを述べているわけでなく、自然のなかで起こる過程に驚くほど符合する。いわゆる歯とは端的にいって、歯の周囲、つまりセメント質(歯根)やエナメル質(歯冠)に対しては、彫刻家であるフッ素が、形態をつくり、造形される材料のマグネシウムが流れ込むことによって出来上がる。 従って、幼児期のはじめには、マグネシウムとフッ素の供給の間に正しい釣り合いをもたらすことが非常に大切である。この釣り合いが正しくもたらされなければ、早い時期に確実に歯が損なわれることが、体験からわかる。 最初の歯が生えてすぐに、幼児の歯の形成、いわゆるエナメル質(歯冠)の発達が遅れているか、もしくは歯の成長が矮小化に向かっているかどうかなどを、詳しく調べる必要があるが、今は全体像を、包括的に観察し、暗示しながらアプローチする。 歯 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%AF 更に、観察の際に、適切な食餌療法によるフッ素、もしくはマグネシウムの供給により、様々な病変を除去するように気を配ることも必要である。適切な食餌療法により、人間の形成過程(プロセス)を直接洞察できるようになる。 人生の第1期(幼児期)の数年間は、人間は、実際に外界の一部なので、マグネシウムとフッ素間の相互作用は、外界の強い影響下の物質構成に従い、発見できる。実際、フッ素は、外界の、金属の放射作用に対抗する物質から取り出される。 同様に、人生の第3期を取り上げてみると、第1期のマグネシウムとフッ素と同じように、鉄と蛋白質、もしくは蛋白質形成全体との間に正しい均衡を取ることが非常に問題になってくる。この正しい均衡が取れずに、蛋白質と鉄の間の正しくない相互作用を修正するような作用が現われないと、外的には萎黄病[Bleisucht]の症状が現れてくる。 萎黄病 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%90%8E%E9%BB%84%E7%97%85%EF%BC%88%E9%89%84%E6%AC%A0%E4%B9%8F%E6%80%A7%E8%B2%A7%E8%A1%80%EF%BC%89/ 従って、成長を大まかに見るだけでなく、個別的に詳細にみることが必要で、駄目になる歯は、幼児期に既に準備され、後の年齢になって表面化するので、例えば、萎黄病として今日(1920年)、科学的に知られている事項のみに注意するだけでなく、病気の本性まで理解するなら、人間の生体機構の秘密のなかに入っていく必要がある。 以上のことから、人間の生体組織の構築、つまり内的な構築に関与する金属が、どのようなものか、大凡わかるだろう。ある関連から、最重要な金属として示した鉛、錫、銅、水銀、銀、および金は、鉄は例外として、生体構築には関与しない。 鉄は例外として、鉛、錫、銅、水銀、銀、および金は、人間の生体組織の全体的な機能には直接関与しないが、だからといって、関与しないわけではない。概ね、人間の生体組織の末端(末梢)部分に配置されている組織形成に関与する物質を探求すると、珪素[Silicium]に至る。 末端(末梢)部に珪素が関与する事実については既に述べたが、人間に起こることは、皮膚内だけでなく、人間は、全体として、宇宙的な経過(プロセス)に紡ぎ込まれていることに注目しなくてはならない。人間の生体内では、御馴染みの物質が意味を持つように、生体外では、上に列挙した金属が人間に有効で、意味をもつ。 ただし、鉄には生体内と外の媒介の役割が与えられている。鉄はいわば、皮膚内に配置されている組織と、皮膚外にある外界との間を媒介する役割を引き受けている。この事実から、次のような結論に到達できる。 「肺もまた、人間全体になろうと努めているが、肺として現われる組織全体は、人間と宇宙的な生命全体とに密接に関わる。」 単に、人間を解剖して、目の前にみえる構造をみるだけでは、結局、人間の一部を観察しているにすぎないことを理解すべきである。そのような観察では、宇宙全体からみた全体人間ではなく、全体人間に属する物質部分、つまり、外界に対抗する物質作用の面しかみていないからである。 逆に、外界に含まれている鉛、錫、銅他の作用において、人間の本性が成立している。従って、自然科学的な意味で、人間の生体機構を観察する場合でさえも、皮膚による境界づけを行ってはならない。
2012年05月11日
コメント(0)
中村仁一著「大往生したけりゃ医療とかかわるな」を読んでみて、納得することが非常に多かった。 この本から、私が受け取った感想は、「世間の連中は、肉体の死ばかり考えているが、精神の死を問題としない」ということに尽きる。 事実、現代の哲学がもはや死に絶えてしまったことに関係があると思っている。 現代の腐ってしまった哲学に、その答えを望むのは不可能である。 現代で、哲学者といえば、一部のホームレスを除いて、金銭や名誉欲を満たすことしか頭にない腐敗の徒ばかりである。命を捨てずに、他全てを捨てることができたホームレスは、哲学者といえるだろう。 哲学者のなかにも、自分でできることを、自分でできないアホが多く、そのようなアホに付き合わされる位迷惑なことはない。だから、哲学を学ぶのは、無意味なことだと若者は考え、その考えをもつこと自体が、若者を堕落させてしまう要因になっている。 「我思う、故に我あり」が、「我、無意味に思う、故に我、腐敗す」となっている。 自分のこともできない哲学者が多い。他人に迷惑がかかることが理解できていない。自分のことを自分でやらずに、本当の自分が探求できるのだろうか、不思議である。 古代の賢者が述べた名言や思想をかりても、それは他人のものにすぎない。つまり、現代の哲学者は、単なる収集家でしかない。 ソクラテスの「無知の知」さえも理解できていない。知識を収集しても、無意味であるといったのに、金銭や名誉欲が与えられるのなら、進んで収集する虫の存在である。昆虫は、自然を整理しているので、昆虫以下の存在といえよう。 このような虫たちに、ソクラテスの「魂の配慮」など理解不能だろう。 そのようなわけで、知識をいくら収集しても、病気を解明するどころか、病気理論家になるだけで、病気を増やす病気収集家や知識収集病という、本人に自覚なしの「精神疾患」に罹るだけである。 PhDは、単なる収集家の称号である。所詮、足の先についた米粒と同じということだ! 現代の哲学を、本筋に戻す、つまり軌道修正するのが、人智学の立場である。 人智学に出会ってみて、改めて考えることは、病気とは何なのか?にある。 人智学は明確に、その答えを出している。 その答えを、自然のなかから導きだしている。 その回答は、自然の流れに、病気はあるのか?という疑問からはじまる。 自然のなかに、病気と思われる現象は、個別的にみれば、幾つか挙げられるだろうが、時間が経てば、全体として、自然に治癒してしまう。 つまり、自然の流れは、個別的で、一時的な病気のようにみえる現象も、全体としては、自然治癒に向かわせている。 だから、自然全体が、いわば助け合いの精神で築かれていることに気づく。 自然のなかには、全体として、自然治癒力が働いていることがわかる。 パラケルススは、医師は、自然の流れから、自然治癒力を学ぶ必要があると言った。 老子(タオ)の教えも、同じである。人智学からいえば、老子は、古代アトランティス時代の教訓をまとめたものなので、当然ともいえる。 逆にいえば、自然のほんの一部の働きでも欠けてしまえば、自然治癒力は万全とはいえない。 さて、次に人間と自然の関係が問題となる。 人智学では、人間と自然は相反した関係と説いている。相反といっても1種の鏡と考えるべきである。 そこで、数学者の書いた本「不思議の国のアリス」を思い浮かべた人は連想力をもっている。アリスは、鏡のようなアベコベの世界に行くのだが、実は、人間の中を描いた世界だと思えばよい。 例えば、自然のものを、そのまま食べたら、ほとんどが毒になる。自然を構築しているものが、人体のなかでは、毒となるのだから、アベコベである。 自然に対抗する免疫力のお陰で、自然のものを消化できる。自然のものを取り入れても、自然治癒力が免疫力となり、消化できるわけである。人間は、自分の免疫力がどれほどなのかわからないので、伝承された文化から、食物を選択する。 過去の人たちが何度も死に目にあって、免疫を獲得してきたお陰で、食物がある。 少なくとも、文化のない動物は、経験しなくても、自然治癒力を利用して、食物を選択できている。 では、人間は、いつから暮らせるようになったのだろうか? その答えは聖書にある。 「ヤハウエ神は、アダムに、生命の樹からとって食べてはよいが、智恵の樹からとって食べてはいけない、と命じた。」 聖書は隠喩を含んでいる。生命の樹とは、体内にあるもので、智恵の樹とは、体外の自然である。簡単にいえば、精神を潤すものはいくらでも食べていいが、外の物質は、食べてはいけない、ということである。 つまり、「精神を向上させるものはいくらでもとりなさい。しかし、物質や五感を満足させるものをとると、死ぬよ!」と言った! アダムは、外の物質を食べてしまったので、自然の存在となった。正確にいうなら、アダムの霊魂は、自然の一部である肉体に転生してしまったので、この物質界を知り、五感から覚醒意識を産み出し、物質的な神経が生まれた。 人間の神経組織を図にすれば、蛇の形になることでわかる。 蛇の形の神経から生まれる覚醒意識により、自分の体内とは全く異なる自然界を人間は認識し、その認識を「生きること」とし、この覚醒意識が消失すると、「死」を意識することになった! 反面、神の創造世界とは一時離れ、自分だけの仮想世界に遊ぶ自由を手にいれた。人間は、宇宙の腫瘍となった。 人間が宇宙の腫瘍なのは、自然のものをそのまま食べられないことや、ほとんどの人が腫瘍が悪化したガンで死ぬことでわかる。 しかしながら、腫瘍は腫瘍同士で助け合わないと生きていけないことが課された。 腫瘍といっても、宇宙を超えて存在することは不可能だからである。寄生は寄生する本体がいて、はじめて成立する。 宇宙や地球がなければ、人間は存在できないばかりか、腫瘍として一時も生きられない。 だから、人間という宇宙の腫瘍の存在が、病気になったなどとは不思議である。 この矛盾のなかに、神の深慮が浮かびあがる! 腫瘍が、病気になることで、腫瘍を克服する自浄作用が働くからである。 腫瘍が病気に罹るのは、自分を知るよい機会である。宇宙や自然にどれだけ迷惑をかけ、依存しているかがわかる機会である。与えられた自分の本分を尽くさずに、宇宙に適応できていないということである。 長々と書きすぎた感があるので、結論をいう。 病気とは、助け合いの精神を忘れた自己愛から生じる。人間同士がお互い助けあうように、身体を含め全てがつくられている。他者を助けることで、自分の能力が開発される。なぜなら、自然は、人間と正反対だからである。いつでも自然は、人類を滅ぼすことができるが、あえて、人類にその意志を委ねている。 人類を滅ぼすかどうかは人類同士で助け合えるかどうかにかかっているし、私利私欲をなくすことにある。 人はパンのみに生きるにあらず、神の言葉により生かされる。愛の精神を忘れた者は、精神の死を迎えるであろう。 安楽死とは、他や宇宙の融合のなかに自主的に生きることである。外見など無関係である。 死を考えるよりも、よく生きるには他者に何をすべきか、を考えるべきだろう。
2012年05月10日
コメント(2)

本当に、鉄の作用に対する意識が現われてくる。この鉄の意識は、自分に腕や脚があり、頭があるとはっきりわかる通常の意識と全く同じように明確な意識である。すなわち、鉄のファントム[eisernes Phantom]を自ら感じるような意識が生じてくる。 ファントム 神秘学的に言えば、物質としての肉体に先立って、肉眼では可視できない、純粋な肉体の設計図のようなものが、ファントムと呼ばれる。このファントムに物質が入り込み、通常可視できる肉体が成立する。パウロが「コリント書」で言っている「霊の体」のこと。このファントムを理解することで「キリストの復活」を理解する鍵が得られる。 当然、次のような知識が生じる。 「外(物質)的に、薬剤を服用することで、同じ意識が得られるのなら、薬剤により、自分のなかにある固有の鉄に対する感度や、敏感さも、高めることができる。」 この知識は、初歩的段階においては正しいが、この知識を用いて、いわゆる手軽な「霊視」[Hellsehen]の獲得のために、実験し始めれば、忽ち危険となる。実際、このような実験が様々に行なわれてきた。 霊視を、人類のための供犠というか、人類全体の精神的向上のために行うのなら、話は別だが、単なる好奇心から行うのなら、人間の魂の道徳的構造を根底から破壊する。 霊視獲得の方向で、自らを用いて、色々と実験する方法から、今日の著作のなかにもみつけられることを数多く発見した人物は、ファン・ヘルモントである。 ファン・ヘルモント http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%88 対照的に、パラケルススの霊視獲得は、私(シュタイナー)には次のようにみえる。 「パラケルススの霊的認識は、隔世遺伝として、霊魂の内部から現れる。彼は、霊的認識を、地上を超えた世界から、この世に携えてきた。」 他方、ヘルモントの場合、自身に様々な薬を供給し、独特の霊的な見解を得た。彼の叙述から、それがわかるし、個々の叙述箇所にも明白な暗示がある。 最も手近に獲得できる意識は、鉄の放射作用に対する鋭敏な感受性で、それは鉄の奇妙な放射作用が上部組織から発せられ、四肢に分岐していくことを内的に感受できる認識のことである。すなわち、鉄の働きや作用を用いて体内を構築する様子がありありと直観[Anschauung]できる。 この鉄の放射作用を図で示すなら、同時に、鉄の作用は、生体組織を超える能力がないことに言及しなければならない。鉄の放射作用は、生体内に限定され、生体内にとどまる感じを受ける。 また、この鉄の放射力をせき止める切欠を与えるような対抗作用が認識できる(下図参照)。 すると、次のような結論にいたる。 「鉄の放射作用は、生体の周辺(末端)に向かって陽(ポジティヴ)の波動として放射され、周辺(末端)では陰(ネガティヴ)の波動として反射され、まるで球面波を描くように投げ返される。」 鉄の放射作用が、生体の周辺(末端)領域で阻まれること、つまり鉄の放射が周辺(末端)組織等にぶつかり、通過できずに、特に身体の表面を超えて、外に出ていけないことで、鉄の作用の陽と陰の両方を知覚できる。 この鉄の放射作用を反射するのが他ならぬ蛋白質の力で、従って、生体組織のなかに、鉄を通じて、機能的関係が導入されることに対して、以前述べた4つの器官組織から発する全蛋白質が、鉄と反作用をすることに徐々に気づくようになる。 鉄の作用と蛋白質の作用は、互いに抑制し合う。生体組織のなかでは、このような闘いが絶えず存在する。鉄の作用と蛋白質の作用との闘いが、内的な直観から、真っ先に知覚できる。 さて、人間の精神の進化史の研究から、過去へと遡ると、ヒポクラテスの医学、そしてガレノスの医学でさえまだ、上述したような内的な観察の残滓により営まれていることがはっきりとわかる。もはや、ガレノス自身は、霊的には、あまり知覚できなかったが、当時はまだ、古代の霊視可能な伝統が残っていたので、彼は、それらを書きとめた。 ガレノス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%83%8E%E3%82%B9 彼の著作が正しく読めたら、実際にヒポクラテスとともに没落し始めた古代の遺伝的に伝承されてきた霊的な医学のうちのまだ多くが、ガレノスの著作のなかで光を放っているのが発見できる。従って、自然治癒法についての重要な見解も、ガレノスの著作のなかに数多く発見できる。 さて、いままで述べてきたような事柄を探求していくと、人間の生体組織全体のなかの二極、つまり、例えば、鉄の放射作用と、それに対抗して、鉄の放射を滞留させ、止める反作用をもつ蛋白質の抑制作用という二極を総じて研究する必要性に気づく。 このような事柄に注目するのは大切である。なぜなら、これまで述べてきたように、蛋白質形成の傾向をもつ働き全ては、鉄などの放射作用を抑制し、堰き止める反作用と常に関係し、生体内に取り入れられた金属は全て、放射作用と関係するからである。 無論、このなかには意味深い例外もあり、この例外は特質をもつので、この例外を手懸かりに、全宇宙のあらゆる可能な角度から働きかけてくる様々な力の、人間の生体内への独特な共同作用の全貌を、奥深くまで見通すことができる。 そのためには、既に暗示したことを更に探求して、個別的な形に整えて考察できるようになることが不可欠なのは言うまでもない。
2012年05月09日
コメント(0)
現代人が、これまで述べてきた外界と、生体内の関係を、強制的に認知するのではなく、自主的に苦心して認知するのが良い。 というのも、例えば、心臓が、水素(陽子「プロトン」;水素の原子核)の形成力と親和性を持つことに注目するなら、水素(陽子「プロトン」)の形成力が、人間の上部組織全体に対してもつ重要性を自然と認識せざるを得なくなるからである。 プロトンポンプ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%97 上部組織に向かって、水素(プロトン)が展開していくのに伴い、下部組織の動物性(動物的要素)が、本質的に、人間性(人間的要素;イメージ)などへと変化させられる。 以上のことから、以前、鉛の生成過程として同一視した地球外の影響に到達する。以前、鉛、錫、鉄を、人間の上部組織に関わる力とみなした。このような力を認める傾向は、いまだ大きいとは言えない。 というのも、外界の鉛の作用のなかに特別の関係があり、思考器官(脳)の制御の担い手となる水素(プロトン)を、心臓を通じて準備する特別の関係を洞察するような傾向は、いまだ大きいとは言えないからである。 (心臓が、光から、プロトンポンプを作り出している源なのかもしれない。) しかし、人間の進化を、狂信的な扇動ではなく、無意識に駆り立てるような、上記のような事実が、次第に、人類に認められていくようになるだろう。 というのも、実際に、外の自然において、鉛が何らかの役割を果たしていることが、鉛の自然に対する働きを観察するだけでも、もはや否定できないことだからである。実際、科学により確認されたラジウムの崩壊生成物[Umwandelungsprodukute]のなかに、ヘリウム原子核の分裂(アルファ崩壊)とならんで鉛が発見されている。 ウラン系列 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%B3%E7%B3%BB%E5%88%97 アルファ崩壊 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A1%E5%B4%A9%E5%A3%8A ラジウムの崩壊生成物のなかに、いまだ(1920年)原子量は明確には定まっていないが、鉛(鉛214と鉛210と、鉛206)が発見されたように、外界の錫の働きも発見されれば、次に、外界にあるが、生体内にも介入する鉄の働きも発見されるだろう。 今日の放射線科学が、実際に、地球外や外界での金属の働きに対する素晴らしい指針を提供するが、このような科学だけから、必然的に、人類が、その働きを認識するのではない。これまで述べてきた事実こそが、今日語られるべきである。 というのも、今日のいわば新種の病気が発生する際に、これまで述べてきた事柄を是非とも考慮すべきことに気づくからである。 いま差し当たって特に興味を引きつける事実は、外界の炭素、水素、酸素、窒素は、硫黄により媒介される相互作用により個別化され、生体内の4つの器官に受け取られることである。 (水素⇒心臓、炭素⇒肺、酸素⇒腎-泌尿、窒素⇒肝臓) さて、このような事柄から、人間を正しく観察するなら、人間の本性を覗き込むことができる。このような観察ができれば、人間には不随意な、人間の霊的な機能に、当初は直接支配されていないように見えるものが、外の自然全体と関係づけられても、もはや、不思議とも思わなくなる。 また、以下も真実である。 人間はいわゆる腎臓を持つようにつくられる。しかし、このような器官はそれぞれ(人間のなかの一部にとどまるのではなく)全体になろうとする(発ガンの)傾向を持っている。実際に、4つの器官それぞれが常に、全体になろうと努めている。 すなわち、腎臓は、腎機能とともに全体になろうとし、心臓も、肝臓も、肺も全体になろうとする。 さて、いま考察した事柄を確かめるのに意味のあることは、外界に存在するものの働きを、いかに人間自身のなかに観察できるか、という視点を、もっと良い表現でいうなら、感受点をもつことである。 この感受点をもつことに関して、自然科学と人智学との境界を明確に指摘することが不可避となってくる。 自然のなかで、人体を癒すような、医学的で治療的な生活のなかで前進するなら、つまり、益々熟達して自然治癒的な生活と調和するようになり、自らを癒し人と感じられるほどになれば、実際、真の具体的な自己認識を益々獲得するようになる。 真の具体的な自己認識は、積極的な課題、例えば魂の治療といったことが問題になる場合には、実際に軽視できない。霊的観点の獲得において進歩すれば、以前には全く意識されなかった事柄が、自身の生体組織のなかで意識されるようになる。 ただ、このとき、意識されるものに対して、釈明をするなら、公開講演や一般向けの講演では、不可避な問題の傾向が生ずるために、現在のところ、そのような意識について具体的に述べるのは困難である。これまで述べてきた基本的な事柄について具体的に述べるなら、例えば、現代の道徳的状況のもとで比較的大きなグループに伝えるなら、すぐに、次のような質問が出る。 どうして、このような意識からくる知識を活用しないのか? つまり、このような質問の根底には、結局、超感覚的な意識をもつ人を活用すればいい、というような他力本願的な依存の方向への流れがある。自力で、解決しようとする代わりに、超感覚的な意識からわかる薬などを服用するほうが遙かに容易だからである。 (知識で安易に対処しようとする姿勢が、道徳的な精神の進化を阻むことを、聖書は、神が、アダムに、生命の樹から自由にとって食べるのはよいが、智恵の樹からは食べてはいけない、と命じた喩えで記述している。) しかし、そのような人は、安易な選択を行うことによって、ある意味、道徳的に自らを滅ぼすことになる。それでもやはり、現在の非道徳な状況では、今日の人々は、なんらの抵抗感ももたずに、超感覚的な意識を開発するために、適切な瞑想等を用いて、自力で解決せずに、安易にも、何らかの外(物質)的な薬物を服用しようとするだろう。 (シュタイナーによると、神「ヤハウエ」は、人類が道徳的に成熟してから、智恵を与えることを念頭においていたが、人類が、自由を求めるあまり、道徳的に未熟な段階で、智恵を知ってしまったので、神から離れたといっている。 この智恵とは、仏教でいうところの分別知のことで、外見などである。ちなみに、外界の認識というような知恵は、聖書では、「女」や「娘」に喩えて記述される。女性が、外見を美化するのに優れているからである。だから、聖書をそのまま単純に解釈すると曲解してしまう。現代のキリスト教信者の多くに間違いがみつかる。) 確かに、さしあたり、薬物は、自然治癒力をもたらす初めの段階においては、瞑想などの自主的な治癒法によく似た結果を与え、実際、薬物による自然治癒力の誘導も可能だが、正しい瞑想を、一定期間、継続することで、自主的な治癒法を行い、外界に存在するものの、生体内への働きについて、具体的な釈明が行える傾向を持てるようになれば、物を手で掴んだり、足で歩いたりといったような普段意識しているのと全く同じように、鉄の放射作用を直接意識できるようになる。
2012年05月02日
コメント(0)
全17件 (17件中 1-17件目)
1

![]()
