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現代のような思考法では、病理学を自立させ、治療学との関連性を排除していかざるを得ない。 従って、次のような疑問が生じる。 「人間の、いわば宇宙的な末端領域と、地上の地球的な中心領域との間に、二重(両極)性が成立していることは、人間の生体組織全体にとっていかなる意味があるのか?」 という疑問である。 人間の上記の二重(両極)性は、組織に対して、異なった作用を表出している。末端領域は、形成として現われてくる。そして、いわば末端領域の究極的形成は、他ならぬ人間の形態を与えることなのである。 例えば、末端領域における人間の形態形成の、珪素の生成との共作用を、髪の毛の珪酸に対する振る舞いから研究してみるとよい。 人間の形態形成への介入、もしくは介入に対する抵抗の割合を、頭の髪の毛の生成に対する珪酸の作用の持続、もしくは消耗から研究できる。ただ、髪の毛以外の他の形態と一緒に一括して共に見る必要がある。 例えば、通りを横断している禿げ頭の人をみれば、珪酸-形成過程(プロセス)の受容レベル、もしくは抵抗の傾向がわかる。この傾向から、本当の霊視はできなくても、形態形成に対する直観[Anschauung]が獲得できるが、ただし自然の働きの深層へと入り込んでいく必要がある。 形態形成力に対する直観が得られるが、それは細胞形成力ではなく、人間の究極の形態形成力で、いわゆる全(包括的な)形態形成力[Total gestaltungs kraefte]である。毛が沢山生えているかどうか等の皮膚全体の構成も、勿論、全(包括的な)形態形成力に含まれる。 末端領域の形態形成に対して、人間の中心に置かれている器官、いわゆる炭素や炭酸と関係する経過(過程)全般には、形態を解体する作用があり、そこでは破壊や解体が働いている。実際、人間内部では、絶えず形態が破壊、解体され、絶えず宇宙から形態が再び作り出されることで、人間は生きている。 人間は、自らの形態に対して、絶えまない変形(破壊、解体)を行うので、この変形が、宇宙から、繰り返し調停されることによって、人間は生きている。人間のなかにあるのは、いわゆる形成(生成)[Gestalten]と変形(消滅)[Deformieren]の二重性である。 (ミクロレベルでは、粒子も生成、もしくは消滅している。生成が天の力で、消滅が地の力といえる。) この二重性は、人間の生体機構において共作用している。宇宙的な形成力(下図参照、上からの矢印)が、人間の末端領域に作用している。この形成力は、心臓においては、地上からくる力と遭遇する。心臓によって均衡が作り出されることは、以前述べた。 今度は、次のように考えてみる。 人間の末端領域に作用する天(宇宙)の力は、本質的に、心臓にまで到達する傾向を持つが、心臓の機能(下図参照、右からの矢印)により堰き止められる前に先に膨張し、滞留する。 天(宇宙)からの力が、心臓での大きな堰き止めに遭う前に、いわば堰き止めの前兆[Vorstauung]のように膨張し、滞留するのが確認できれば、たとえ低い割合でも、宇宙的、地球外的な形成力の出現が示される。 さて、天(宇宙)からの力に対抗する力、消化の経過(プロセス)の変遷を通じて、心臓にまで作用する地上の力もまた、心臓に到達する前に、先に膨張する。すなわち、心臓において、地球が膨張する(上図参照、右側)。 上記のような膨張や収縮は、霊的、または物質的な形成や、頭や腸での分泌全般に関係するが、心臓の活動には直接作用せずに、いわば前もって行われる一種の副次的な活動全般である。 これは一種の副次的な消化活動で、地球の中心から発せられる力が、先に膨張することで、心臓では、人間の形態の変形や解体作用として成立する。 以上の人間に及ぼす天と地の力、いわゆる人間の二重性を人間の器官として表せる。つまり、天の力の場合には女性の生殖器官、女性の性が、後者の地の力においては、男性の性が与えられる(上図参照)。 (女性が形態形成力、男性が形態解体力を表すことがわかる。) 女性の性を研究するには、女性の性が、宇宙-末端的な形成力に依存している点を観察するとよい。そして、男性の性を、個々の形態(形状)に至るまで観察するには、男性の性が、地球の解体力に従属している点を観察すればよい。 人間の生体機構を、科学的に観察可能にする、以上のような観点に至るまでの深い探究法がある。このような方法からまた、形成力が麻痺している子宮にも、自らのうちに形成力を担う植物から、再び形成力をどのように呼び起こせるかがわかる。 以上のように、人間の生体組織のなかの形成力を研究すれば、植物や鉱物のなかの形成力も発見できる。後に個別的に観察していくつもりだが、最初に、大きな関連全体に触れなくてはならない。一度、このような事柄が見通せれば、ようやく本当の胎生学が獲得できる。
2012年03月30日
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生(なま)の食物と調理(料理)した食物の消化における違いは、治療方法論上指摘しておきたい事項である。というのも、このような事項の追求は究めて意味深く、いままで研究されてこなかったからである。 概ね経験的に研究されただけで、なんらかの法則性、いわゆるラツィオ(合理性)は探究されず、従って、この分野において確認できる事項については、満足のいく治療法を打ち立てる可能性が余り見つからない状況である。 以上の事項全般において、個人に注意を払うことが重要なのは言うまでもない。だから、私(シュタイナー)は、今までの講義のなかで、次のように述べてきた。 「この分野で何かを語れば即座に、ある関連から否定される。」 しかし、以上の事項は、治療指針として知っておくべきである。例えば、次のような個別のケースにおいても、重要となる。 この患者には、生(なま)の食物を与えてはいけない。もし、生の食物を与えれば、この患者の体質から、様々な障害を誘発してしまうだろう。 (免疫が弱いので、アレルギー疾患を誘発してしまうということだろう。) つまり、生と調理の食物の違いは、患者に一々食事の指示が必要な場合にも重要となる。そのような場合でも、これまで述べてきた特徴や事項は重要でかつ正しい。このような特徴や事項からはじめて、人間の体質全般を真に見通すことができる。 というのも、人間の末端領域と中心領域を明確に区別する必要があるからで、末端領域では、人間は、現実に全宇宙に組み入れられ、中心から離れている鉱物を、生体に組み入れ扱うことができ、先の図で赤く示した領域とを明確に区別しなければならない。 人間の中心領域を扱うには、確かに植物を通じる必要があるが、塩の特徴による作用、すなわち炭酸塩[kohlensaure Salz]の摂取で扱うこともできる。一方、アルカリ性のものは、両者の均衡を図るのに関係する。つまり(順に)、炭酸塩、アルカリ、珪酸塩もしくは珪酸となる(下図参照)。 つまり、上図から、人間と周囲の自然との親和性が示唆される。人間を、末端と中心の2つに分かれた領域として捉え、2つに分かれた領域の間の中間を、行ったり来たり振り子運動している。 人間の末端領域と、個別化された中心領域とを、以上のように見通すことで、全自然の内奥の本性まで導いてくれる。つまり末端領域は、地上を超えた天と親和性を持ち、その関係を如実に示すのは、実際に鉱物として様々な惑星や星座に依拠している人間のなかの鉱物の働きである。 更に中心領域は個別化したものとして、地上の作用に親和性を持っている。しかし、消化器官に表現されている地上との親和性により、人間は、同時に思考でき、それが人間として進化できる人間本性でもある。 さて、人間における二元性を、地上を超えた宇宙と、地上の本質との二元性として見ることができる。人間の生体組織のなかに、明確な素質として出現するのは、地上を超えた天の力と地の力である。 そして、人間が天の力である精神(霊)[Geistorganisation]を備え、同時に精神と対極的な関係にある消化機構も持つことで、人間の末端領域や地上を超えた天の作用が、人間に反映するのは、既に示唆したが、実際繰り返し指摘してきたことである。 消化での分泌と関係し、精神の働きの基盤となる脳の分泌に関係する機能全般は、根本的に、人間の末端領域で、天[himmlisch]の作用を示している。いかに奇妙に、逆説的にみえようと、この事は事実である。 対照的に、人間のなかの液体的な経過(プロセス)や、気体的な経過(プロセス)や、尿や汗に関係する排泄の経過全般が示すのは、自己を個別化する人間としての地上的人間である。 以上の、人間の本性のなかの互いに離れようとする両極のなかに重要性を見る必要がある。 さて、残念ながら、近代においては、これまで指摘してきた人間の本性のなかの二元(両極)性を、治療に役立つように指摘するような切欠は、少なくとも、私(シュタイナー)の知る限りでは、一度もなかった。というのも、これまで考察してきたような事実全ては、治療と病理を1つにまとめるものだからである。 病理学と治療法は、2つの互いに分離した分野であってはならない。これまで提示してきた事実全てを、いわば治療法へと方向づけるように導ければ、病理学的な理解から、治療法を考えることが可能になる。 従って、治療法を導くための病理学的な事実を述べている。治療法への方向付けを、全く考慮しなければ、非難は究めて容易となる。 例えば、梅毒の発生を、外界(物質)的に知る場合に問題となるのは、実際、梅毒の症状が出現するには、どのくらい感染する必要があるのか、少なくとも、大体どのくらい感染していなければならないのか、ということを確かめることである。 単に、確かめるだけなら、このような確認を進めるうちに、病理学を、いわば自立させる[emanzipieren 解放する、自由にする]だけである。なぜなら、大雑把な比喩を用いれば、実際、梅毒の感染さえも、例えば、頭にコブが出来たら、何か石のようなものが当たったかのように、つまり頭に打撃を受けたかのように考える以上のことは考えないからである。 確かに、頭に打撃を受けなければ、例えば、レンガ等が頭に当たらなかったなら、コブができることがないのはいうまでもないが、このような理由で、感染を特徴づけてしまうと、治療方法(プロセス)を実り多いものにするような特徴付けには至らない。 結局、例えば、石のようなものが頭に飛んでくることが起こる経緯は、社会的には非常に意味のあることだが、治療法に到達するための生体の探究に対しては、このような経緯が、普遍的な意味を持つとは考えられない。治療学においても役割を果たせるような事柄が発見できるように探究すべきである。 さて、梅毒の治療においても、これまで述べてきた事実は大きな役割を果たす。治療法(プロセス)は、このような事実から解明できる。これまで述べてきた事実は、病理学的な重要性というよりも、病理学と治療学の両者の間に橋を架けるためのものである。 両者の間に橋を架ける事実を述べることにより、ある種の精神から、議論が、日毎に際立ってくるように、育成されるのを特徴づけたいからである。 しかも、今日では、病理学を益々一層自立させ、治療学へと導かないような傾向が出てくるので、思考の方も、同様の形で追求すれば、治療法(プロセス)の探究にとっては、究めて意味深い実りの多い事柄を排除してしまう。
2012年03月28日
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引用のつづき。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 台頭する古代イスラエル しかし、ここに来て「異邦人の時」は終わろうとしている。 今、彼らに対抗する勢力が『荒野』で目を覚ます。 これは、イザヤ書の中で示唆されている。 イザヤはなぜか、神の民を二重に配置するような預言を、多数書き残しているのだ。 イザヤ書 64:12 ヤーエよ。これでも、あなたはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。 イザヤ書 65:1 わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ。」と言った。 イザヤ書 65:2 わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。・・・ 表面上は、「背教したイスラエルを矯正しようと、神が何度も呼びかける」といった内容に思える。「『神の懲罰』が下るまでの温情」を記述したものだ・・・と。 しかし、不思議な表記方法だ。 これは明らかに、別の意味を重複させている。 私「ヤーエ」の名を呼び求めなかった国民に向かって、 「私はここだ、私はここだ。」・・・と神(ヤーエ)は呼びかけているという。 彼らはやがて、神(ヤーエ)を探さなかったのに神を見つけ、 それを神とするようになる。 この時点で、「別の『神の民』が生じる」という示唆だ。 彼らは、一体何者だろうか? それは、「反逆の民」だという。 その彼らに対して、神(ヤーエ)は「手を差し伸べる」と語っている。 これは、本物のイスラエルが、他の神々に仕えて「ヤーエ」を怒らせたので、 神(ヤーエ)の方も「別の国民を起こして」それを「イスラエル」と呼び、 神(ヤーエ)の民にねたみを引き起こす・・・ そんな構図だろうか。 イザヤ書 65:3 この民は、いつもわたしに逆らって、わたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、 イザヤ書 65:4 墓地にすわり、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ、 イザヤ書 65:5 「そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている。」と言う。「これらは、わたしの怒りの煙、一日中燃え続ける火である。・・・ これには、ほとんどの点で「現代イスラエル」が当てはまっている。 しかし、「豚の肉や汚れた肉」を食べるところは一致しない。 彼らは、厳格なユダヤ教のしきたりを守っているだろうから・・・象徴表現か? しかし、この部分は後日に回して、その先を考えよう。 イザヤ書 65:6 見よ。これは、わたしの前に書かれている。わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する。―― イザヤ書 65:6 見よ。これは、わたしの前に書かれている。わたしは黙っていない。必ず報復する。わたしは彼らのふところに報復する。―― イザヤ書 65:7 山の上で香をたき、丘の上でわたしをそしったあなたがたの咎と、あなたがたの先祖の咎とをともどもに。 わたしは、彼らの先のしわざを量って、彼らのふところに、報復する。」とヤーエは仰せられる。・・・ 「ふところに報復する」という記述が、三回重なっているのも気になるところだ。 一体、何を意味しているのだろうか? 「『金融支配』を毀つ」という意味だろうか? 次の記述も、二つのユダヤに被っているようだ。 イザヤ書 65:8 主はこう仰せられる。 「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。その中に祝福があるから。』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない。 イザヤ書 65:9 わたしは、ヤコブから子孫を、ユダからわたしの山々を所有する者を生まれさせよう。わたしの選んだ者がこれを所有し、わたしのしもべたちがそこに住む。・・・ これが、誰に向かうべきか?と迷うのだが、 「わたしのしもべたち・・・」 とあるのだから、「『岩』の陰のユダヤ」だろう。 ただし、「二重性」は、常に念頭に置くべき。 「ヤコブから子孫を、ユダから・・・」 と書かれているので、 「ヤコブ直系の子孫」を意味しており、しかも「ユダ族出身者」だと考えられる。 彼に、最終的な権利が行くようである。 イザヤ書 65:10 わたしを求めたわたしの民にとって、シャロンは羊の群れの牧場、アコルの谷は牛の群れの伏す所となる。 イザヤ書 65:11 しかし、あなたがた、ヤーエを捨てる者、わたしの聖なる山を忘れる者、ガドのために食卓を整える者、メニのために、混ぜ合わせた酒を盛る者たちよ。 イザヤ書 65:12 わたしはあなた方を剣に渡す。それであなたがたはみな、虐殺されて倒れる。わたしが呼んでも答えず、わたしが語りかけても聞かず、わたしの目の前に悪を行ない、わたしの喜ばない事を選んだからだ。」・・・ ここで、具体的に「わたしを求めた『わたしの民』」という表現があるのは、生粋のイスラエルを意味しているのだろう。 つまり、「わたしを求めた『わたしの民』」と、 「わたしを見つけた『わたしのでない民』」 とがいるようだ。 『わたしのでない民』は「ヤーエ」を捨てるため、「難儀」がある。 「わたしの目の前に悪を行い・・・わたしの喜ばない事を選んだからだ。」・・・というのである。 イザヤはここでも、「二つの民」を対比させている。 イザヤ書 65:13 それゆえ、神であるヤーエはこう仰せられる。「見よ。わたしのしもべたちは食べる。しかし、あなたがたは飢える。見よ。わたしのしもべたちは飲む。しかし、あなたがたは渇く。見よ。わたしのしもべたちは喜ぶ。しかし、あなたがたは恥を見る。 イザヤ書 65:14 見よ。わたしのしもべたちは心の楽しみによって喜び歌う。しかし、あなたがたは心の痛みによって叫び、たましいの傷によって泣きわめく。 自ずと「ユダヤ対ユダヤ」の戦いが浮かんでくる。 イザヤの記述が、そうした暗示を確かに与えているのだ。 イザヤ書 65:15 あなたがたは自分の名を、わたしの選んだ者たちののろいとして残す。それで神である主は、あなたがたを殺される。ご自分のしもべたちを、ほかの名で呼ばれるようにされる。・・・ 「自分の名」が「のろい」として残される民は、一体誰だろうか? それを「主のバールの民とすれば、 今は、『カザール』が浮かんでくる。 「岩陰のイスラエル」にとって、「イスラエル」という名はもはや「呪い」である。それは、永遠に「傷を持つ名前」と化しているからだ。 それゆえに神は、「名を汚した者」を殺し 「自分の僕達を、『ほかの名』で呼ばれるようにされる」・・・ では、『ほかの名』とは、何だろうか? ここで、ふと 『ヤマト』という名が浮上してきた。 「神の民」は「ヤマト」と改名されるのか? :これには、もっともな理由がある。 「イスラエル」という名前には、「神と戦う者」という意味がある。もしこのまま「大和民族」がこの名を踏襲すれば、これからまた「神から離反する」つまり神と戦う羽目に陥ってしまうだろう。 それで、彼らには、『ヤマト』、(古代ヘブライ語でいう)天壌無窮という名前の方が願わしいのだ。 公式に、呼び名変更があるかもしれない。それによって、「『神』と、『その民』との戦い」に終止符が打たれる。 イザヤ書 65:16 この世にあって祝福される者は、まことの神によって祝福され、この世にあって誓う者は、まことの神によって誓う。 先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。・・・ 「まことの神」と、「そうでない神」が存在すればこそ、イザヤはこうした、意味深長な文章を残しているのだろう。 やがて、真の神による祝福が始まる。 イザヤ書 65:17 見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。 イザヤ書 65:18 だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。 イザヤ書 65:19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。 『新しい天』は、「新しいイスラエルの支配体制」であり、 『新しい地』は、「その臣民としての新しい民族」だろう。 他の意味も含むが、ここでは割愛 これは、黙示録にもある新しい支配体制を意味するが、これは「まことの神の民」を通して実現されるはずだ。 それ以後イスラエルの中に・・・いや世界中に、「やもめ」や「みなしご」の「泣き声」も「叫び声」も聞かれなくなる。 なぜならそこは、「新しい民」が、「思いやり」をもって統治するからである。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 以上から、神のニセモノが存在することがわかる。そのニセモノは神を語り、神のコピーをつくる。神でないのに、神の振りをする。すなわち権威を振りかざす。 日本人は権威に弱い。 かつてのソ連も、現在の米国も、日本人は権威で脅かせば言う事を聞くことをよく知っている。小泉がブッシュの犬だったように、いまのどじょう総理もオバマの犬である。 なぜ、日本人は権威に弱いのだろうか? 「触らぬ神に祟りなし」というように、神の祟りを異様に恐れている。 農耕民族の習性というような説もあるが、神とは恐ろしいものという遺伝子がまるで刷り込まれているかのようである。 イスラエルという言葉には、「神と闘い勝つ」いう意味があるが、古代イスラエル民族の末裔であるなら、神を極端に畏れるはずはない。 この疑問は、上記の引用にある以下の解釈から明らかになる。 『これは、本物のイスラエル(民族)が、他の神々に仕えて「ヤーエ」を怒らせたので、神「ヤーエ」の方も「別の国民を起こして」それを「イスラエル」と呼び、神「ヤーエ」の民にねたみを引き起こす』 以上の解釈の、「ねたみ」を「畏れ」とみれば次のことがわかる。 つまり、神の民が、ニセモノの神を信仰しているために、イスラエル(ヤーエの怒り)を畏れている構図が浮かびあがる。 だから、日本人がニセモノの神を信じること、つまり偶像崇拝を止めれば、畏れる必要もなくなる。 とにかく、日本人が、古代イスラエルの信仰を受け継ぐ民族だとするなら、いますぐ偶像崇拝や権威主義を止めるべきに思われる。
2012年03月23日
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引用のつづき。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 「神の業」比較 「本物の神」と、「陰の神」を比較をしてみよう。 戦争初期には、不思議な「快進撃」を続けた連合軍が、あっという間にバビロンを陥落させ、イスラエルを喜ばせた。 超自然の力が背後に無ければ、ああは行かない。 当初はイラク軍は強敵に思えた。 これがもし『ヤーエ』の応援なら、「その後の経過」が芳しくなかったのはなぜだろうか? イラクに展開するアメリカ軍は「難儀」している。(2003年当時の話) 『神』はどうして、彼らを見捨てているのか? バビロン「現在のイラク」陥落は、預言者ダニエルの時代に既に成就している。ところが、この時には、中東に速やかな平和が訪れた。 聖書には、簡素にこう記されている。 ダニエル書 5:30 その夜、カルデヤ人の王ベルシャツァルは殺され、 ダニエル書 5:31 メディヤ人ダリヨスが、およそ六十二歳でその国を受け継いだ。 ダニエル書 6:1 ダリヨスは、全国に任地を持つ百二十人の太守を任命して国を治めさせるのがよいと思った。 ダニエル書 6:2 彼はまた、彼らの上に三人の大臣を置いたが、ダニエルは、そのうちのひとりであった。太守たちはこの三人に報告を出すことにして、王が損害を受けないようにした。・・・ ダニエルの記述からは、現在の米軍がイラク占領後に味わっているような「苦悩」は、想像もできない。 エズラ、ネヘミヤ、ダニエル、ハガイ、ゼカリヤなどの預言者は、イスラエルを荒廃させたバビロンの王を、メディア・ペルシャ連合軍が倒した後、クロス王やダリヨス王の命令で、エルサレムの「神殿再建」が行われることについて言及している。 この頃の事情について、あらましを列挙してみよう。 1.エルサレムは、当時荒れていた。期間は70年「ゼカリヤ書 1:12」 2.バビロンはメディア・ペルシャ連合軍の電撃戦であっけなく倒れた。 3.バビロンの王であるベルシャツァルは、すぐに殺された。 4.バビロンは、メディアとペルシャで分割統治された。 5.エルサレムの神殿再建は、バビロン補囚から帰還したユダヤ人が行った。 6.占領後は、平和になった。 細かな点で、違いがある。 現在(2003年以降)、イラクは『泥沼』だ。 すると、「聖書予言がなぜ違った成就を見せたのか?」と首をひねる人がいるだろう。 わたし自身も、不思議に思った。 答えは浮かんでくる。 「この度は『ヤーエ』ではなく、『主バール』が動いていたのだ」・・・と。 確かに、「見えるイスラエル」を『ヤーエ』が守るはずがない。第一、『主』の民に干渉すれば、『主』自身が黙っていないだろう。 従って、実際に手を下したのは『主(バール)』であり、使われた人間は、『陰のキュロス』だったのだ。 彼らの持つ聖書では、神の名は『主(バール)』になっているはずである。 まさしく、「彼らの聖書通りに」予言が成就したのだった。 『ヤーエ』という創造神の名前は、天でも地上でも好き勝手に使うことを許されていないはずだ。地上の民族はおろか、霊者達でさえ、この拘束に沿って動いている。だが「選民」だけは、じかにその名を使うことが許されている。その目で世界を見渡せば、「実際に使っている民」はどこにいるだろうか?・・・もう、明らかだろう。 「陰の神」はコピー魔 同じ事を繰り返す、「こだま」のような神がいる。 「奇跡」には「奇跡もどき」、「善」には「偽善」、神の行いをことごとくに真似る「陰の神」は、「神の民」をさえコピーした。 こうした「複写行動」を常とする存在は、出エジプト記にも出現する。 出エジプト記 7:8 またヤーエはモーセとアロンに仰せられた。 出エジプト記 7:9 「パロがあなたがたに、『おまえたちの不思議を行なえ。』と言うとき、あなたはアロンに、『その杖を取って、パロの前に投げよ。』と言わなければならない。それは蛇になる。」 出エジプト記 7:10 モーセとアロンはパロのところに行き、ヤーエが命じられたとおりに行なった。アロンが自分の杖をパロとその家臣たちの前に投げたとき、それは蛇になった。 出エジプト記 7:11 そこで、パロも知恵のある者と呪術者を呼び寄せた。これらのエジプトの呪法師たちもまた彼らの秘術を使って、同じことをした。 出エジプト記 7:12 彼らがめいめい自分の杖を投げると、それが蛇になった。しかしアロンの杖は彼らの杖をのみこんだ。・・・ 奇跡でさえ引き起こせる「陰の神」は、このようにして「ヤーエ」に対抗し続けた。 しかしイエスの時代には、強力なイエスからの縛りがあったため、自由に動けなかったのだ。だからこそ、イエスの技が際だったのである。 マタイ 12:22 そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。 マタイ 12:23 群衆はみな驚いて言った。「この人は、ダビデの子なのだろうか。」 マタイ 12:24 これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」 マタイ 12:25 イエスは彼らの思いを知ってこう言われた。「どんな国でも、内輪もめして争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも、内輪もめして争えば立ち行きません。 マタイ 12:26 もし、サタンがサタンを追い出していて仲間割れしたのだったら、どうしてその国は立ち行くでしょう。・・・ イエスは、パリサイ人達が「悪霊を追い出せない」ことを知っていた。少なくとも彼らは苦労していた。そこでイエスはその「理由」を告げている。 なんと、彼らの頭は『悪霊』だった。彼らはいつの間にか、サタンの支配を受けていたのだ。その立場で、『悪霊』を追い出せないのは当然だろう。なぜなら、「悪霊」が「悪霊」を追い出す形になるからだ。 それでもし、彼らが悪霊の追い出しに成功したなら、そこに「分裂」が起きていることになる。 つまり、「仲間割れ」が起きているのであり、その国家は分裂するだろう。 次にイエスが述べている言葉は、実は相当な「皮肉」である。 マタイ 12:27 また、もしわたしがベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているのなら、あなたがたの子らはだれによって追い出すのですか。だから、あなたがたの子らが、あなたがたをさばく人となるのです。・・・ もしイエスが、悪霊どもの頭「ベルゼブル」の力を味方に付けていたなら、あなた方「パリサイ人」の配下は、誰の力を使うのか? という問いかけだ。 ここでイエスは、彼らの頭こそが「ベルゼブル」つまり「バール」ではないかという意味を込めている。実際それを、知っていたからである。 パリサイ派の思想は、パウロを通して生き残った。 彼の会衆は、コリント会衆を中心にしてローマカトリックの流れにつながっている。 そしてパウロも、その弟子達も、パリサイ派を「悪者」として教えている。 イエスはここまで、予見していたのである。 イエスはもちろん、神の力を使っていた。 だからこそ、こう述べている。 マタイ 12:28 しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。 マタイ 12:29 強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することもできるのです。 マタイ 12:30 わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。・・・ この時のイエスは、目に見えない「霊の軍団」と共にやって来ており、悪霊達はまるで反抗できなかった。 つまり、イエスの軍団によって「縛られていた」のである。 イエスが去り、悪霊の独壇場となった時、悪霊は七倍になって戻ってきて勝手気ままに君臨するようになる。彼らは『神』になりすまし、その後ずっと『神』であり続ける。 この先行きを、イエスは例えで教えている。 マタイ 12:43 汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。 マタイ 12:44 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。 マタイ 12:45 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」・・・ 何ということだろうか? イエス以後、イスラエルの会衆は「世の神の悪霊の支配下にはいる」というのである。 そのため、やがて「ユダ王国の絶滅」が起こり、わずかに声を上げていた神の代弁者は消え去ってしまう。一部逃れた残余者も、『荒野』で眠りについた。もう誰の邪魔も入らなくなった。
2012年03月23日
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例の如く、古代ヘブライ語の例のサイトの力をかりて、前回は、江戸幕府の財政を逼迫させたのが大奥であり、現代の政府の財政を逼迫させているのが、財務省や天下り官僚であることを、江戸時代のサムライ映画から、炙り出した。 現代の大奥が、財務官僚や天下り官僚にあることは、縦割り行政からも伺える。縦割り組織から、横のつながりを重視した組織へのスムーズな移行が、現代の経営学から提案されている。 現在、理念を共有する横の連携組織が理想とされるようになった。同時に複数の業務をこなせる組織員が求められる。これはスポーツのチーム、例えば、サッカーなどをみればよく理解できる。現代サッカーでは、ゴールキーパーという例外を除いて、複数のポジションを兼務できるプレーヤーが優秀とされる。 端的にいえば、チーム全体をみながら、個人のプレーに集中できるプレーヤーが必要とされてきている。チーム全体をみれるようになるには、先の展開を読める能力が必要となる。自分のプレーだけに集中することも大切だが、同時に自分のプレーが、全体にどのような影響を与えるかを考えないといけない。 換言するなら、壊すことを想定しながら、つくることができなければならない。 この能力に最も乏しいのが縦割り行政である。天下りは、つくるだけしか考えない、全体にどのような影響、特に国民にどのような影響を与えるかの想定は皆無である。 だから、事故が起きてから、つくったことが間違いだったことに気づき、「想定外」というような無責任な発言が生まれる。 江戸時代の大奥も、将軍後継者を産むことしか頭になかったといえる。 大奥は、幕府の権威を盾にしていたため、その権威が失墜すると崩れ去る。 将軍を産めない大奥は権威を失う。 しかし、将軍の幕府に権威を与えていたのは、鎖国政策にある。征夷大将軍は、本来、夷狄を討つため、朝廷から与えられた役職で、ほぼ統一された日本にあっては、夷狄と足りうる存在は、鎖国してしまえば、なくなってしまうわけで、権威が一人歩きし、誇大化してしまう。自然、国内にいる外国人や異教徒などが、夷狄となりうる存在なので、幕府は、キリスト教禁止としたわけである。 つまり、徳川幕府は、鎖国とキリスト教禁止により、権威を確立した。 しかしながら、鎖国したからといって、夷狄となりうる存在がいなくなったわけではない。現に外国は存在し、夷狄足りうる存在として南蛮人と呼んだわけである。 だから、徳川幕府の権威は虚構のようなもので、大奥は、その虚構を描く存在として機能した。 この虚構がペリーの黒船により一気に瓦解したわけである。鎖国政策が破られると同時に幕府の虚の権威も失墜した! まるで、福島原発事故が起こるまでの原発安全神話と同じである。 日本人は、このような偶像崇拝に陥り易い面をもっている。 面白いのは、徳川幕府の将軍の継承が大奥という血縁関係から行われた点である。将軍の血縁は偶像崇拝そのものだからである。朝廷ならまだしも、皇室とは希薄な徳川家の血縁が何の意味をもつのだろうか? これと似たことは、現代でも学歴信仰に現れている。学歴といっても、学んだ履歴ではなく、大学への入学の難易度を学歴と主に呼んでいるのだから、滑稽さ極まりない。 徳川幕府の14代将軍継承のときに、井伊直弼が、一橋慶喜では、将軍の血が薄いというような馬鹿な屁理屈を持ち出すのと同じである。家茂の幼さを考えれば、経験豊富な慶喜の方が、現代の常識からみても妥当に思える。 似たようなことは、原発を監督すべき原子力保安院の人員構成に、専門の技術者でなく、東大だからといって、専門外の文系出身の連中を選ぶような人選に現れていた。事故の発表にも、専門外の人員を置いた。虚構の上に虚構を築いても、崩れ去るだけである。 このような日本人特有の幼稚さはどこからくるのか? 信じれば救われる、という偶像崇拝の悪しき面が出ているようにも思える。 「官僚のいうことは正しい」という悪しき信仰の上で、赤字財政を築いてきた日本。 「アメリカ様に従っていれば自分の身は保証される」という悪しき信仰の上で、沖縄は現在も占領されている。 何でも他人まかせで、自立心、独立心を失った幼稚な精神は獣の腐敗した精神である。 日頃、神など信仰したことがないのに、困ったときの神頼み、という日本人の腐敗した精神性を考えてみたい。 そこで、現在の偶像崇拝であるアメリカ教を、例のサイトから引用することで、考えてみる。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 二人の神 「ユダヤ対ユダヤ」というような、今の世には「二つのユダヤ」が存在する。 その「主人」も、やはり二人いる。 イエスと争いながら、自分を『神』に見せかける存在もいるのだ。 黙示録 6:2 私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。・・・ この白い馬を、イエスだと思うかもしれない。しかしそうではない。この馬に乗っているのは「サタン」である。 -詳細は黙示録 5章-6章解説を参照。 サタンは常に、神になりすましてきた。(徳川家の血縁主義など) 見えない姿というのはその点で、都合良くできている。(征夷大将軍なのに、天皇の権威を利用した。) 神もまた、二者が活動している。(悪神と善神) これを思い出せば、焦点のズレは収束できる。 つまり、イスラエルに懲罰を加える「軍」と、イスラエルを救う「軍」とは違っている。 後者には栄光が伴うのだ。 しかし、「イラク戦」を「聖書予言の成就だ」-バビロン陥落の成就とすると、どうも引っかかる。 なぜなら、その軍は結果的にイスラエルをフセイン・イラクの脅威から救ったが、これは「異邦人の時」を埋める「仮のイスラエル」だったからだ。 本来『ヤーエ』は、異邦人「仮のユダヤ」に干渉することなどあり得ないはずである。 その矛盾への答えはあった。 「聖書予言を成就させよう」とする「二つの神」が活動していたのである。 見えるイスラエルに絡むのは、「陰の神」ではないか。すると彼は、下記聖句を成就させたいと願うのは当然だろう。「自分のイスラエル」を救わねばならないからだ。 イザヤ書 44:26 わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。エルサレムに向かっては、『人が住むようになる。』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる。』と言う。 イザヤ書 44:27 淵に向かっては、『干上がれ。わたしはおまえの川々をからす。』と言う。 イザヤ書 44:28 わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる。』と言う。 エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる。』と言う。」 イザヤ書 45:1 主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。 「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。 イザヤ書 45:2 わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。 イザヤ書 45:3 わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。 イザヤ書 45:4 わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。 イザヤ書 45:5 わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。 イザヤ書 45:6 それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。 わたしが主である。ほかにはいない。 -ここでは、敢えて『主』を修正しなかった。・・・「主」を語るバールは、「イスラエルの神」を演じ、「持ち駒」の動きを応援した。 しかし古代とは違って、アメリカのイラク戦争は後になるほど難儀が増え、多くの悲劇を振りまいている。 この「聖句通り」に事を運ぼうとしたが、ヤーエほどの力が無かったのだろう。 「見えるイスラエル」に絡む神は、「陰の神」だったようだ。 それゆえ、この場合の神の名は『ヤーエ』ではなく、『主』が適しているのである。
2012年03月23日
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久しぶりに、くだけた話題を書いてみたい。それは、つい最近レンタルビデオでかりて見たサムライ映画に、いまの日本の状況を照らし合わせてみたいと思ったからでもある。 勿論、映画はフィクションで、虚構である。通常、現実とは全く異なる。 また、時代劇は、現代の心情からつくられたもので、当時の心情をそのまま反映したものではない。 しかし、逆説的にいえば、現代からみるからこそ、第3者的立場でみれ、かえって映画は、人間の心を描いている点では、現実を超えるものともいえる。 私見だが、芸術とは、人間の心の動きや働き、つまり、心の力学を記述するものだと思っている。 またこれも私見だが、科学とは、この世の森羅万象を記述するものと解釈している。宗教は、この世を超えた、人間の心の動きや働きも含め、全宇宙の森羅万象を記述し、理解するものと解釈している。 ここまで書いてきて、ぜんぜん、くだけてないので、ここからはくだけたい。 私がみた映画は、「桜田門外ノ変」、「武士の家計簿」、「13人の刺客」の3つである。 結論からいうと、「武士の家計簿」が一番良かった! 監督は、このあいだ天に召された森田芳光で、非常に意外だった。森田芳光は、「家族ゲーム」で絶賛された監督だが、私にはイマイチ良さがわからない監督だったからである。 この映画は、実際の手記を元に書かれた小説を映画化したものだそうで、江戸幕末の武士の精神を知るには、非常に参考になる映画に思える。 その映画では、一芸を磨くことに徹する武士の武骨な精神が表現されていた。 勝海舟によれば、武士道は、徳川期につくられたものだそうで、戦国期にはなかったそうである。徳川期の長所といえば、武士道のような精神文化が挙げられるが、それはやはり平和な時代だからこそ、生まれた精神なのだと思われる。 徳川期には、技芸を磨くことが推奨され、役割分担が、家ごとになされていたように思われる。このエキスパート制は、米国の専業専門制に通じるところがある。しかし、日本の場合、身分制度がある点で大きく異なる。 つまり、徳川の江戸期の長所は、技芸を切磋琢磨して磨くことで、短所は、身分制度であることがわかる。 いうまでもなく、明治維新は身分制度を改めるために行われたわけだが、実際は、徳川に代わり、薩長土肥の藩閥に代わっただけともいえなくもない。それは、現代の日本の政治が、米国を仲介しないと国際舞台に出られない無能さにも現れている。 技芸が平和な世の中に磨かれるのは、一見すると矛盾しているようにみえるが、秩序が安定し、平和だからこそ、脇目もふらずに特定の技芸に専心できるという面が生かされた、と考えればよいだろう。 「武士の家計簿」は、一技芸が、時代や価値観を超えることを思わせる映画であった。ただし、一技芸が、真実探求の方法になっている必要がある。 このような映画から、理想を汲み取り、現代の家庭教育の一考にでもなれば幸いに思える。 さて、他の2つのうちの「13人の刺客」は、黒澤明の「7人の侍」を思わせるもので、基本は、身分制度の弊害を描いたものである。エンターテイメントと思えば、それなりに楽しめる作品である。 残る「桜田門外ノ変」も、身分制度の弊害を描いている。今更、桜田門外の変か、という感じで、この作品をかりるかどうかは非常に悩むところだったが、案外かりてみて、よかったように思えた。現代の政局とカブるところがあるからだ! 桜田門外の変は、暗殺というよりも、必然的な改革に思える。司馬遼太郎も、桜田門外の変を評価しているが、西欧でいう革命に近いものに思う。 そういう意味で、私は、井伊直弼は全く評価できない人物である。日本史上、東条英機か、菅直人か、井伊直弼か、という位至上最低の人物に思える。小泉純一郎は最低というよりも、極悪人である。魔界からきた人物なのではないか、とも思える。野田などは語るだけ無駄で、官僚のシナリオに動いている菅以下のアホでしかない。 井伊直弼のよくない点は、徳川家しか考えられない小器量の人物ということに集約できる。 家康が天海と江戸幕府を開いた経緯を知れば、徳川家ばかりを考えるような間違った方向に進むことはなかったはずだ! 家康は、秀吉の子の秀頼を追い詰め、豊臣から政権を奪ったことを自らに戒め、もし、徳川幕府に一大事があれば、日本という国家のために、政権交代がスムーズに行くように、諸大名を配置したというのが真意だという。これは海舟の言にある。 だから徳川家の財政を緊縮化し、質素倹約を旨とした。徳川家で事業を独占することなく、平等に分配し、流通させ、監視役に徹したともいえる。また参勤交代制度は、当時の公共事業の一環ともいえる。海舟は無血開城を進める上で、以上のことに気づいたようである。 従って、慶喜の大政奉還、つまり政権交代は、家康創業期からの徳川家一大事のときの規定路線だった。問題は、徳川家が大名として残るかどうかにある。 偉大な人物というのは、作る前に壊すことを考慮するものである。 先君家康の意を知っていたかどうかは定かではないが、15代将軍の慶喜は、賊軍となることをなんとしても避けたかったようで、結果論だが、井伊直弼が出なければ、14代慶喜政権で、案外に大政奉還はスムーズに進んだとも思える。 水戸藩は、尊王攘夷思想の総本山なので、朝廷を中心に事を進めた可能性があり、勿論、米国と衝突する可能性もあるが、米国も、アジアとの交易を優先させたはずで、無意味な衝突は避けた可能性が高いからである。 しかも、慶喜の背後には父親の水戸の列公や、朝廷工作を得意とする薩摩の島津斉彬や、理論派の松平春獄がいて、慶喜さえ出しゃばらなければ、外国とも対等にやっていけた可能性が大きい。 結果論だが、井伊が血迷って、安政の大獄などをしなければ、明治維新は血生臭くなっていなかったように思える。慶喜が将軍になっていれば、安政の大獄はなかっただろう。 つまり、井伊を代表とする江戸期の無意味な世襲制が、日本を血迷わせた。 そもそも、当時英邁と噂された慶喜では、血のつながりが薄いという自論を展開したのが井伊である。14代将軍家茂選出の裏には、大奥の意向も働いたようである。8代将軍吉宗の享保の改革も大奥の支出削減からはじまったように、大奥は、現代の天下り官僚のように、国家財政逼迫の大きな一因であった。 第一、皇室ならわかるが、朝廷でもない征夷大将軍の任命に血の濃さなど荒唐無稽だろう。皇室は、祭祀の家系なので、霊能力に卓越し、神道を奉じていかなければならないので、ある程度の血の拘りは必要だが、南北朝の経緯をみれば、厳密には血のつながりを本位にしたものでもないことがわかる。 単なる朝廷の一役識の征夷大将軍の血の拘りが、大奥のような財政逼迫、ひいては農民弾圧を生じさせた。 実際、江戸幕府瓦解の経緯をみれば、財政破綻の元凶が大奥の浪費にあることは衆目一致するところだろう。大久保一翁などは、大奥から幕府が潰れると、海舟に手紙を送っている。 つまり、14代将軍選出の際に、井伊が失脚し、慶喜が就いていたら、大奥の改革は必然だったように思われる。大奥でも、自分たちがお荷物であることを自覚し、予め手を打ったのが、家茂選出につながったのだろう。 このような関係は、現代の日本の状況とも酷似している。井伊は、仙石か財務官僚のような感じともいえる。 以上のように、映画「桜田門外ノ変」をみて、現在の政局を改めて感じた。 幕末の無血開城までいたる経緯をみれば、大奥がガンであったことは明らかである。いまなら、官僚の天下りで、財務省というところだろう。 公武合体の経緯でも、井伊が血にあくまで拘るあまり、最後は朝廷の血を入れて、正当化しようとするところなど、略奪者の悪魔が考えそうな手口である。 井伊は、自分が血の薄い出身で出世の見込みなく遊び呆けたくせに、非常に運よく大老になった途端に、血に拘るとは、よほどのコンプレックスだったのだろう。小人物に共通するのは、役職に見合うだけの器量がないため、体裁に拘ったりして、自己のコンプレックスに埋没してしまうところにある。 幕府が公武合体したため、家定の妻の天璋院と和宮の贅沢競争がはじまり大奥の浪費が益々進んだのは、井伊のせいである。 「武士の家計簿」からわかるように、世襲制というのは、血への拘りがなければよい。つまり、血よりもお役目の方が大事という責任感の問題である。 江戸期では最下層に公的に身分差別された商人の商家などは、そもそも下層階級なので、血の拘りがなく、世襲制が上手くいった例ともいえる。 つまり、明治維新を逆にみれば、身分制度がなくなって、商家が一番繁栄したからこそ、大正につながっていくわけで、実際に明治維新を陰で支えたのは有力な商家だった。 つまり、血の拘りのない能力による世襲制、それはもはや世襲制とはいわないが、技能のお家制度のようなものが、日本の江戸期からの繁栄を受け継いでいく基本となったようである。 それは、天皇が、神を祀る祭祀の家柄継承なのと同じように、血の拘りというよりも、本質的には、能力や技能の継承、古代でいう秘儀参入法の継承であるべきである。 井伊という頭でっかちの無能なボンクラが、もう日本の歴史に登場しないことを切に願いたい。 くだけた話題のつもりが、くだけていない話になったのは、井伊のようなボンクラと同じ現代の政治家をみているせいでもある。 大奥の改革を進めなくては、日本国は滅亡まっしぐらであることが、3つの邦画に描かれたサムライ魂が警告しているように、私には聞こえた!
2012年03月22日
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前回の「古代ヘブライ語から日本を考えてみる その11」の引用が長くて、辟易してしまった方もいるだろう。 要するに簡単にまとめると、「偶像崇拝の戒め」に他ならない。 聖書の神、ヤハウエ以外の信仰は偶像である。 では、ヤハウエとは何なのか? 簡単にいうなら、人間誰にもある良心である。 日本語は非常に面白い、「良心」は、「両親」でもあるからだ! 両親のいない子はいない。必ず両親から生まれている。 つまり、人間は、両親、つまり良心の子である。 良心から生まれるということは、神から生まれたことで、人間誰もが、神の遺伝子を受け継いで生まれてくる。 この事実を、秘教学では、E.D.N=[ex deo nascimur](神から生まれた)と象徴化している。 「神から生まれた」という言葉の頭をとって、「エデン」となる。 人間は、神の遺伝子をもつのだが、残念ながら、発現させる方法を忘れてしまった! 自分のなかにあるものを、外に求めてしまったからである。 そのため、人間は外観しか捉えることができなくなってしまった! それは、一方的な見方や、個人的立場を持つことになり、外見を着飾ることにつながる。 そうして、人間は、神の遺伝子を発現させるどころか、闇に隠してしまったのである。 さて、「火事場のクソ力」という格言がある。また、「絶望の淵に、神は現れる」という格言もある。 人間は自信をなくすと、日頃信じてもいない神にすがりつくようになる。日本人には、このような傾向が顕著にある。占いブームなどは、この傾向を悪用した最たるものである。 神の遺伝子は人間誰もがもっている。しかしながら、発現のさせ方、この秘密の箱の開け方を知らない。 なぜなら、多くの人間は、神は外にあるもの、と錯覚しているからである。 どうして、そのような錯覚、神を外に求めるのだろうか? それは、人間が勝手に、必要ないと思い、外に放出してきたからである。必要だと思うところ以外を捨ててきたからである。 例えば、雨の日に差していた傘が、晴れの日には、邪魔なので、捨ててしまうのと同じである。雨なんかもはや降らないと勝手に思い込んでしまったからである。 さて、晴れの日があれば、雨の日があるのは当然である。一方だけをみているだけでは、想定できないのは当たり前である。 雨が降った途端に、捨ててしまった傘を捜しはじめる愚かさが、錯覚を生んだ! このような愚かさや錯覚を生まないために、教訓が遺産として残されている。 その一部が秘教学なのである。 秘教を学ばなくても、外をくまなく探し回って、「もはや外にない」という無意味な経験を充分に積んだら、かえって、その無意味な経験が生かされる。 「絶望という淵に神は現れ、火事場のクソ力」を発現させてくれるからである。 そう、「何事も、自分のなかの良心に委ねるしかない」、ということに気づけばいいからである。 結局、自分を信じるしかないのだが、その自分の本性は、良心でなければならない。 良心に忠実に生きることが人生の課題といえる。良心という神の代弁者、つまり救い主に忠実に生きることは、秘教学での、「キリスト(救い主)において死ぬ」という象徴のI.C.M[Im Christo Morimur]で表される。 これは日本語では、「イク(行く)」あるいは「イシ(意志)」とも読める。イシは古代ヘブライ語では、「救い」である。 それにしても、現代の日本人の多くは、良心を隠してしまった親知らずな輩ばかりである。 TVをみていると、狡猾で卑怯な日本人ばかりを目にする。悪徳政府や官僚や財団と一緒になって、国民から搾取することで、いずれ死ぬことを自覚せずに、自己保身に邁進している。それも60歳を過ぎた輩である。日本人の恥である。 特にマスコミの劣化が著しい。赤字財政の原因を究明するのが、報道の責任なのに、原因を究明することなく、自己利益を求めて、とっくに覚るべき年齢を過ぎたのに、悪徳官僚と一緒になって、国民から真相を隠し、騙しに加担し、詐欺の片棒を担いでいる。良心がないのだろうか? 良心があるなら、とっくに後進に道を譲っていて当然だが、生き恥を曝していることに気づかないボケ老人だから、始末に負えない。 このような輩が巣食われることはあっても、救われることはないだろう。 このような輩に生き恥を曝させ、精神的に腐敗させるために、多くの日本人が命を犠牲にしてきたわけではないことは歴史が証明している。公共電波を使って、国民を愚弄し、責任逃れをしながら、頭を下げる演技ばかりして、恥ずかしくないのか? 報道が報道の精神を失い、自己宣伝ばかり垂れ流すのだから、マスコミの情報など誰も信じるわけがない。狡猾で卑怯な狐のような腐敗した悪霊がTVを賑わせている。 死んでから気づいても遅いとだけは言っておきたい。 良心を失ってしまえば、未来永劫救われないのだよ! キリストとして死ぬ覚悟がない人間は、救われないのだよ! それはつまり良心のために自己を犠牲にできない人間は恥の塊である。 恥の塊こそが、聖書に記述された獣のことである。 他者からみれば隠しておきたい恥が、本人は恥とは感じないのは、良心を失っているからである。神の遺伝子を必要とせずに、隠してしまったことになる。 筋肉は使わなければ衰えるように、良心も隠されてしまう。 さて、聖書の獣は666という数字で表されるが、秘教学では、進化の数を表す。古代ローマでは、数字は、文字を使って表記されたが、400+200+60+6=666で、太古数字をアルファベットで記すと、「TRWS」の子音体になる。 シュタイナーによれば、666とは、太陽悪魔のアーリマンのことを表すらしいが、「TRWS」の子音体に、母音を補い、右から読んで、Sorath「ソラト」と読めるそうである。 面白いことに、この「ソラト」を古代ヘブライ語で読むと、「略奪を本分とする」というような意味になる。そう、つまり、「略奪者」のことである。 略奪者は、詐欺師ともいえるが、いま日本社会に、詐欺が横行している要因は、良心を隠してしまったからである。いうなれば、「天照の岩戸隠れ」である。 つまり、略奪者は、ソラトの手下であることがわかる。 ハゲタカのような金持ちは、金を使った略奪者ともいえる。 「略奪者」は、本来、全ては神の持ち物なのに、自分のものだと正当化することにある。だから、必然的に、神の名を語ることをする。 神の名を語って略奪を正当化するのが、ソラトの本性である。 だから、神の名を語るのは、略奪者の証である。なぜなら、神は名を語る必要がない全ての存在だからである。名前は、他と区別するのに用いるので、全体を差し示すことは不可能だからである。ましてや人間が出来るわけがない。 さて、悪の代名詞の略奪者も、神の持ち物であるから、神の一部ともいえる。 つまり、悪も、神の一部なのである。 では、悪が何故に存在するのかといえば、善を際立たせるためである。 善より生まれた悪は、善に帰る宿命にある。善と悪を統合しているのが、秘教学でいう三位一体の神であるという。 そのため、人間には良心という善もあるが、同時に、良心の使い方を私腹(利己)化し、偶像崇拝すると、悪になる。 日本の戦中でも、「これは天皇陛下のお言葉である」といいながら、自己都合の解釈を強要する悪が蔓延った。 いま、国家斉唱が問題となっているが、例えば、歌わない人を問題にするよりも、歌わない人の分まで、代わりに自分が歌えばよいのではないか? 国家を歌うのが好きであるなら、自分が他者の分まで歌えばよいだけの話である。 自分は天皇でもないのに、天皇に成り代わるのは、略奪者でソラトである。 他者のなかの悪ではなく、まず、自分の中の悪を善導すること、良心を高めることが先決である。国家を楽しく歌えば、その楽しさが自然と伝わるはずである。 結局のところ、他者の振りみて我が身を正すしかない。 良心に忠実に自己犠牲を払えば、聖霊が良心とともに復活させてくれる。良心とともに、生きれば、人類が良心を失わない限り、未来永劫、良心とともに生きられる。 以上のことが、秘教学では、P.S.S.R=[per spiritum sanctum reviviscimus](聖霊により復活する)の象徴で表される。 キリストの言葉が生きているのは、人類に良心がある証である。 良心こそが永遠の生命の実体に思える。
2012年03月21日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ 最初から、順を追って説明しよう。 メシア「5」はやってきた・・・しかし 遠い昔から、救世主(メシア)の出現は予告されていた。 それは、「神のイスラエル」を救うための備えだった。 しかし神が選び取ったイスラエルは、人類の一部だけである。これでは、それ以外の大多数の人々は、誰一人救われない。 それは、最初の親たち「アダムとイブ」が、「サタンの世話を受ける」という意思表示をしてしまったからだ。 彼らは、エデンにおける「善悪の知識の実」を食べることによって、その「選択」をした。 この瞬間から、人類全ては「サタンの所有物」となった。 それ以後、生殺与奪はサタンの思いのままである。 騙されたとはいえ、先祖は大変なことをした。 このサタンから、人類を取り戻す手だてが「メシアの登場と、試みと、死」だった。 イエスが試みを克服したので、人類を請け戻しできるようになった。 ただし、「サタンの支配が『失敗』すれば」である。 サタンは「世話」を約束した以上、「責任」を担った。自分流による成功を追い求めている。今度、人類を絶滅させる危機を招けば、天の会議から「失敗した」と見なされる。 サタンは、「反自然の文明」を目指していた。 古代、地上に「神々」が降り立って、文明が一挙に花開いた。 「シュメール」から「エジプト」、「アッシリア」の時代に至るまで、実際に「神々による支配」が行われていたようである。もちろんこの神々は、地上を世話する権利を持つサタンの輩「ともがら」だった。 しかし彼らは一度、大失敗をした。 人類を、絶滅寸前まで追いやった。 「古代核戦争」などの暴挙もあったようだが、それだけではなく、「超科学の実験」が行き過ぎたため危機が迫っていた。 道徳も退廃し、悪の限りを尽くす人間の姿が、神の目を苛立たせた。 遂に、地上は「刷新」された。 それが「ノアの大洪水」である。 この時残された人物は、神が「保険」?として選んであった善良なノアとその家族である。 大洪水以後、サタンの支配は「危険を孕んでいる」と知られるようになった。それで、「神の手にも選民を選んで所持させよ」という意見が生じた。 神は、選民である「イスラエル」を持つことが許された。 神は独裁ではなく、「天の会議」があらゆる決定をしている。また、神が所持しているイスラエルを、実際に世話しているのは天でサタンと対立していたイエスである。天では、「言葉」、あるいは「ロゴス」、または「ミカエル」という名を持つ。日本では「天照大神」、また「伊勢」となっている。 こうして、サタンは地上の「イスラエル以外の民」諸国民を支配し、 神は、「イスラエル」だけを世話するようになった。 以後、「サタンの民」と「神の民」は、常にせめぎ合いの中にある。 そして時が満ち、イスラエルに「メシア」が登場する。 イスラエルの民は、メシアの登場で生き返った。 イエスは短期間のうちに、効果的な教育を施した。 しかしサタンは、メシアの足をすくおうと企んでいた。 イエスが処刑されて去った後、すぐに彼は「乗っ取り」を実行した。 それが『実際にあった』というのは、「世紀の秘密」となっている。 こうして、時代は「6」に突入した。 サタンの時代は、「諸国民」の時代 キリストは、サタンを「この世の支配者」と呼んだ。 サタンは、正式に全世界を牛耳っている。それは、「アダムとイブの選択」があるからだ。 彼らは騙されて、全人類をサタンに売った。実際は任せた。 サタンこそは、「初めからの蛇」と呼ばれる「最初の詐欺師」である。 しかし現在、サタンの担当しない民がある。 「イスラエル」は、諸国民の中に点在しており、「神の世話」を受けている。 諸国民の時代・・・「6」の時代は、「暗黒の時代」である。 科学文明が森羅万象を明らかにしているようだが、「肝心の部分」は闇に包まれている。 「誰が世を支配しているのか?」・・・つまり、「『創造主』と『サタン』の存在」という部分は見えなくされている。 「肝心の部分」が「真っ暗」だ。 それを照らすのが、再び訪れる「救世主」の太陽である。 現在の我々は、朝日が昇る寸前に位置している。 「夜明け前の冷え込み」はひどいものになった。 「獣の政権」が冷たい支配を行い、人々の心にも霜が降りている。 しかし、この世代にはこれからの希望がある。 我々は、「御子」の登場・・・つまり「日の出」を目の当たりにするだろう。 キリストは王として「千年支配」を行う。その後「王権」を「神」に返上する。 こうして「7」の時代(神権支配)が始まる。 「御子の到来」は、悪人に「後悔の時」となり、善人には「希望に満ちた時代」となる。 「激動」が起きる予感があるが、辛抱して待つことには、大きな報いがあるだろう。
2012年03月21日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ 最初から、順を追って説明しよう。 メシア「5」はやってきた・・・しかし遠い昔から、救世主「メシア」の出現は予告されていた。 それは、「神のイスラエル」を救うための備えだった。 しかし神が選び取ったイスラエルは、人類の一部だけである。これでは、それ以外の大多数の人々は、誰一人救われない。 それは、最初の親たち「アダムとイブ」が、「サタンの世話を受ける」という意思表示をしてしまったからだ。 彼らは、エデンにおける「善悪の知識の実」を食べることによって、その「選択」をした。 この瞬間から、人類全ては「サタンの所有物」となった。 それ以後、生殺与奪はサタンの思いのままである。 騙されたとはいえ、先祖は大変なことをした。 このサタンから、人類を取り戻す手だてが「メシアの登場と、試みと、死」だった。 イエスが試みを克服したので、人類を請け戻しできるようになった。 ただし、「サタンの支配が『失敗』すれば」である。 サタンは「世話」を約束した以上、「責任」を担った。自分流による成功を追い求めている。今度、人類を絶滅させる危機を招けば、天の会議から「失敗した」と見なされる。 サタンは、「反自然の文明」を目指していた。 古代、地上に「神々」が降り立って、文明が一挙に花開いた。 「シュメール」から「エジプト」、「アッシリア」の時代に至るまで、実際に「神々による支配」が行われていたようである。もちろんこの神々は、地上を世話する権利を持つサタンの輩(ともがら)だった。 しかし彼らは一度、大失敗をした。 人類を、絶滅寸前まで追いやった。 「古代核戦争」などの暴挙もあったようだが、それだけではなく、「超科学の実験」が行き過ぎたため危機が迫っていた。 道徳も退廃し、悪の限りを尽くす人間の姿が、神の目を苛立たせた。 遂に、地上は「刷新」された。 それが「ノアの大洪水」である。 この時残された人物は、神が「保険」?として選んであった善良なノアとその家族である。 大洪水以後、サタンの支配は「危険を孕んでいる」と知られるようになった。それで、「神の手にも選民を選んで所持させよ」という意見が生じた。 神は、選民である「イスラエル」を持つことが許された。 神は独裁ではなく、「天の会議」があらゆる決定をしている。また、神が所持しているイスラエルを、実際に世話しているのは天でサタンと対立していたイエスである。天では、「言葉」、あるいは「ロゴス」、または「ミカエル」という名を持つ。日本では「天照大神」、また「伊勢」となっている。 こうして、サタンは地上の「イスラエル以外の民」(諸国民)を支配し、 神は、「イスラエル」だけを世話するようになった。 以後、「サタンの民」と「神の民」は、常にせめぎ合いの中にある。 そして時が満ち、イスラエルに「メシア」が登場する。 イスラエルの民は、メシアの登場で生き返った。 イエスは短期間のうちに、効果的な教育を施した。 しかしサタンは、メシアの足をすくおうと企んでいた。 イエスが処刑されて去った後、すぐに彼は「乗っ取り」を実行した。 それが『実際にあった』というのは、「世紀の秘密」となっている。 こうして、時代は「6」に突入した。 サタンの時代は、「諸国民」の時代 キリストは、サタンを「この世の支配者」と呼んだ。 サタンは、正式に全世界を牛耳っている。それは、「アダムとイブの選択」があるからだ。 彼らは騙されて、全人類をサタンに売った。実際は任せた。 サタンこそは、「初めからの蛇」と呼ばれる「最初の詐欺師」である。 しかし現在、サタンの担当しない民がある。 「イスラエル」は、諸国民の中に点在しており、「神の世話」を受けている。 諸国民の時代「6」の時代は、「暗黒の時代」である。 科学文明が森羅万象を明らかにしているようだが、「肝心の部分」は闇に包まれている。 「誰が世を支配しているのか?」 つまり、「『創造主』と『サタン』の存在」という部分は見えなくされている。 「肝心の部分」が「真っ暗」だ。 それを照らすのが、再び訪れる「救世主」(太陽)である。 現在の我々は、朝日が昇る寸前に位置している。 「夜明け前の冷え込み」はひどいものになった。 「獣の政権」が冷たい支配を行い、人々の心にも霜が降りている。 しかし、この世代にはこれからの希望がある。 我々は、「御子」の登場・・・つまり「日の出」を目の当たりにするだろう。 キリストは王として「千年支配」を行う。その後「王権」を「神」に返上する。 こうして「7」の時代(神権支配)が始まる。 「御子の到来」は、悪人に「後悔の時」となり、善人には「希望に満ちた時代」となる。 「激動」が起きる予感があるが、辛抱して待つことには、大きな報いがあるだろう。 現代までに何度も成就したイエスの警告と、黙示録「啓示の書」の現段階の解釈とは同列に置けない。この時代の人々は、どちらを優先させるべきなのだろうか?当然イエスの言葉である。 西暦70年の滅亡当時、イエスの追随者全てがエルサレムの町から逃れたのではなく、避難した組と、居残った組とに別れた。この事実は、イエスの例え話の中のこの言葉から理解できる。「一方は、連れて行かれ、他方は捨てられる」・・・当時イエスの話を喜んで聞いていた人々の中からも、滅びる人々が出たのは、避けられなかった。 たとえ神に献身した者であってもその半数?が、滅びてしまうという示唆である。逃れた者と、滅びた者との比率は記録されていないが、いずれにしても、その時には「逃げないで残った者は滅びる」。 当時の宗教指導者たちの態度は、どうだったろう。彼らは、そうした緊急時に心を鈍くし、民を誤導していた。エゼキエル書にはこう書かれている。「我々は、この広口の料理鍋の中の、肉のように安全である」 こうして、手遅れとなってもはや誰一人出られなくなるまで、民の行動をなだめていた。エゼキエルの予言書の記述は、後代の教訓とされるべきものであるから、西暦70年の滅びの時代から、現代の大成就の時代にまで当てはまる。指導者はいつの時代も鈍いという点で。 現代の、宗教指導者達は、これと違った態度をとっているだろうか?いや、今でも同じだ。こう話している。「組織から出てはならない、この中が一番安全なのだ・・・」と。 仮にもし、「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」が実際に国連であるならば、それは既に神の民を滅ぼしていなければならない。しかし、そうでないならば、何か別の者が間もなく確実な絶滅をもたらすだろう。高慢な宗教指導者を盲信し、最重要な「イエスの言葉」を理解できなかった、「善良だが心の鈍い」民とともに。 このように、荒廃をもたらすものに対する解釈には信者の命が掛かっている。安易な間違いは許されない。組織に頼れないなら、信者自身でそれを察知し、分析して時を知らねばならない。人は、組織ではなく神に仕えている・・・神の子キリストが語ったこれらの言葉は、個人に向けてのメッセージなのだ。⇒自分で考えよ!、 逃げる時と、とどまる時 試みの神 人間を試みるのは誰か? 神の試練という言葉がある。しかし、いかにも意地の悪いこの行為は、本当に神の行いなのだろうか? 実はそうではないらしい。ルカの聖句に注目してみよう。 ルカ 4:9 また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。 ルカ 4:10 『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。』とも、 ルカ 4:11 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。』とも書いてあるからです。」 ルカ 4:12 するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神であるヤーを試みてはならない。』と言われている。」 ここでイエスに、神を試みる行動をすすめたのは言わずと知れた悪魔サタンである。彼には、何かを見るとすぐに試みるという癖があったらしい。それは聖書のあちこちから読み取れる。黙示録ではこのようにも書かれている。 黙示録 12:9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。 黙示録 12:10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。 12章9節から、投げ落とされたのがサタンであると判るが、続く10節からは彼が、告発者と呼ばれている事も判る。つまりサタンは事ある毎に誰かに目を付け、「あいつは悪い!こいつはおかしい!」とそしり続けていたわけだ。それが人間である場合、義人とされる人々を見ると、「疑え!試せ!」と言うのは当然だろう。この記述の喜び方から見て、天の組識でもサタンの性悪さには相当悩んでいたらしい。 犠牲者ヨブ 聖書の中で有名な試みの記述はヨブ記だろう。神が善良なヨブを、サタンの突き上げで試みる事になったという記述である。この頃サタンは、神の組識の中の重要な地位に就いていたようだ。それで、神の代理としてその名前を代表して語る事も人間を試す事も許されていたようである。ヨブ記の神の言動に、冷たさや辛辣さが見え隠れするのはこのためだ。以下はヨブ記の一部である。 ヨブ記 1:6 ある日、神の子らがヤーの前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。 ヨブ記 1:7 ヤーはサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンはヤーに答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」 ヨブ記 1:8 ヤーはサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」 ヨブ記 1:9 サタンはヤーに答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。 ヨブ記 1:10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。 ヨブ記 1:11 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」 ヨブ記 1:12 ヤーはサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンはヤーの前から出て行った。・・・この後、ヨブには次々と不幸が襲うのだ。最後には耐え忍んだため、神から祝福を受けるが、こんな経験を誰も喜ばないはずだ。試練を与えた「許可した」神でさえ喜ばず、喜んだのは実際サタンだけだろう。神は試さずに見通す力もある。
2012年03月21日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ 2.似たる者 ヘブライ語の「コ」という言葉には、「似た事柄を行う者」という意味がある。 言葉:「御子」は「似たもの」 弟子達が、イエスのわざを真似てそれを可能とした時、彼らはイエスの「子」となった。 ルカ 10:17 さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」 ルカ 10:18 イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。 ルカ 10:19 確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。 ルカ 10:20 だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」 3.無邪気さ 大人が子供の中にいて感じる、一種の「安らぎ」がある。 それは、子供達が「無知」なるがゆえ、「無邪気さ」を振りまくからである。 弟子達はいつも、「自分達の中で誰が一番偉いか?」などという比較に没頭したりしていた。 これはイエスから見れば、一種の「無邪気」だが、方向性が間違わないようにイエスは注意していた。 マルコ 9:33 カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」 マルコ 9:34 彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。 マルコ 9:35 イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」 マルコ 9:36 それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。 マルコ 9:37 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」 マタイ 20:25 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。 マタイ 20:26 あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 マタイ 20:27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。 マタイ 20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」・・・ 弟子達はイエスから、「指導者の謙遜」を学んだ。 4.弱さ イエスは、試みを克服する強さを持っていたが、弟子達はその点で劣っていた。 とはいえ、これは「人間共通の弱さ」で誰の中にもある。 ルカ 22:54 彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。 ルカ 22:55 彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。 ルカ 22:56 すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」 ルカ 22:57 ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。 ルカ 22:58 しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかし、ペテロは、「いや、違います。」と言った。 ルカ 22:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。 ルカ 22:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。 ルカ 22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。 ルカ 22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。・・ この話で、ペテロが弱さを示した部分は「無理もない」と理解しなければならない。 人間は「子」であるが、「自分を存在させた親」の立場を奪うことは決してできないからである。 子は、系統樹を遡って親になることはできない。 イエスの弟子達は、イエスを超えることはできない。 並ぶこともできない。 それは、系統樹を遡るような話であるからだ。 5.愛情 元々、「コ」というヘブライ語は「愛情表現」を含んだ言葉である。 しかし、どうしてイエスは弟子達にこう告げているのだろうか? マタイ 10:24 弟子はその師にまさらず、しもべはその主人にまさりません。・・・ 理由は、サタンが「弟子達をイエスと同じ目に遭わしてやろう」と企んでいたからである。 イエスは、弟子達から迫害を遠ざけたかった。 しかし、弟子達はイエスの後に続いてどこまでも着いてこようとする。 「迫害も共に受けたい」とさえ考えている。 イエスは、その気持ちを区切りたかったのだ。 マタイ 10:25 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶぐらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう。・・ イエスはマタイ10章25節で、自分が去った後の弟子達を心配している。 以下の聖句では、そのイエスの気持ちと弟子達とのギャップが明らかになる。 ルカ 22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 ルカ 22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 ルカ 22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」 ルカ 22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」 ルカ 22:35 それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」 ルカ 22:36 そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。・・・ 22章33節で、「サタンが弟子達への試みを許可された」という部分は重要である。 それ以後の弟子達は、「迫害の火」に突入するという予告となるからだ。 保護の要であったイエスは、去らねばならない。 イエスの心中は、穏やかではなかっただろう。 「親」が「十字架」に付けられる時、「子供達も後を追って欲しい」と思うだろうか? そんなはずはない。 「同じ迫害を被らないで欲しい」と思う。 イエスは、自分に打ち当たる迫害が弟子達にもやってくることを望まなかったため、ペテロが「共に死ぬ覚悟だ」と告げた時にも、いさめるように接している。 神に護られるはずの神の民が「迫害に遭う」など不思議な話だが、そのための策略をサタンが計画しているのだ。イエス以後の会衆は、外からは見えない変化を通して神の保護の柵から外に出てしまうのである。 イエスが弟子達を思う心は、我々が考える師弟関係よりはるかに温かいものだった。 「親は子供を愛するもの」であり、イエスの愛情はその弟子達に向けて豊かである。 「子供達よ」というイエスの言葉に、それが表れているのかもしれない。 ⇒イエス以後のイスラエル、 倒れた会衆 5.6.7の秘密 数字に隠れた秘密とは? 聖書の中に、謎の数字が登場する。 有名な「666」である。 黙示録 13:18 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。・・・ 黙示録にあるその数字は、「獣の数字」と言われている。 この「6」には、「サタンの時」という意味が含まれ、それが三回繰り返された「666」は、「強いサタンからの影響」という示唆があるかも知れない。 ユダヤ人に迫害を加えた歴史上の人物(アドルフ・ヒトラー)などは、この数字らしい。 ユダヤの数字占いである「ゲマトリア」にて 一方、「7」は「完全数」であり、「創造神の数字」だとされている。 それでは、「5」にはどんな意味があるのだろうか? 知る人ぞしる・・・ これこそが、「『救世主』の数字」だ。 しかし、「救世主がサタンより少ない」というのも変である。 なぜだろうか? 「登場の順番」を意味していた 聖書全体に秘められた「5.6.7」に付された意味は、「優劣」というよりも、「登場の順」と見た方がいいかも知れない。他の意味もあるはずだが、ここでは棚上げ。 5.まず、ユダヤに救世主が出現する 6.それを、サタンが利用する 7.サタンのもくろみを神が覆す こうして、全世界の人々は救いを得る。 地球創造以来、メシアが登場するまでの数字が「1」から「4」までとなっているはずだ。 これについては、別の機会に考えたい。 メシア「インマヌエル」の再臨する「7」の時代には、サタン支配で生じた害悪すべてが精算される。 その時代は、「キリストの千年王国」に移行すると思われるが、それで終わりではない。 「8」の時代・・・「試み?」が来ることになっている。 それを通過して、「完全な世界」に向かって行く。 さて現在、世は「6」から「7」に移行しようとしている。
2012年03月21日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ イエス以前と以後では180度違う 黙示録(啓示の書)はイエスの直接語った言葉ではない。それは老年のヨハネにもたらされた幻だ。神の民イスラエルが滅んでしまった後、遠い未来に焦点を当てた幻である。現代の解読としても、まだまだ修正が繰り返されている。 また、ヨシュアやダビデの軍が保護されたのは、神がイスラエルを自分の腕として使っていた時代の話であり、それは他民族の悪事をいさめる必要が神にあったからだ。イスラエルは、実際に武装して戦っていた。現代の状況とは比較できない。 ソロモン以後は、イスラエルが武力で他民族を圧倒する事は少なくなった。それは、純粋だったイスラエルが、長い間に逸れて行き、腐敗して多くの罪を犯したからである。それで、ダビデの時代のような形での、はっきりとした神の保護は期待薄だ。 それに代わって、「逃げろ」という個人への警告がある。集団としての保護より個人を退避させて命を救うのが現代の神の保護政策になっている。いつの時代も、危険が迫った時は、預言者が遣わされ、民の悪事をいさめていた。しかし、イエスは預言者のしんがりであり、全ての予言を終結させる存在だ。それゆえ、イエスからの警告は、最終的、絶対的なものである。それ以前の遠い時代とイエス以後を比較する事自体間違っている。現代までに何度も成就したイエスの警告と、黙示録(啓示の書)の現段階の解釈とは同列に置けない。この時代の人々は、どちらを優先させるべきなのだろうか?当然イエスの言葉である。 西暦70年の滅亡当時、イエスの追随者全てがエルサレムの町から逃れたのではなく、避難した組と、居残った組とに別れた。この事実は、イエスの例え話の中のこの言葉から理解できる。「一方は、連れて行かれ、他方は捨てられる」・・・当時イエスの話を喜んで聞いていた人々の中からも、滅びる人々が出たのは、避けられなかった。 たとえ神に献身した者であってもその半数(?)が、滅びてしまうという示唆である。逃れた者と、滅びた者との比率は記録されていないが、いずれにしても、その時には「逃げないで残った者は滅びる」・・・。 当時の宗教指導者たちの態度は、どうだったろう。彼らは、そうした緊急時に心を鈍くし、民を誤導していた。エゼキエル書にはこう書かれている。「我々は、この広口の料理鍋の中の、肉のように安全である・・・」 こうして、手遅れとなってもはや誰一人出られなくなるまで、民の行動をなだめていた。エゼキエルの予言書の記述は、後代の教訓とされるべきものであるから、西暦70年の滅びの時代から、現代の大成就の時代にまで当てはまる。(指導者はいつの時代も鈍いという点で) 現代の、宗教指導者達は、これと違った態度をとっているだろうか?いや、今でも同じだ。こう話している。「組織から出てはならない、この中が一番安全なのだ・・・」と。 仮にもし、「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」が実際に国連であるならば、それは既に神の民を滅ぼしていなければならない。しかし、そうでないならば、何か別の者が間もなく確実な絶滅をもたらすだろう。高慢な宗教指導者を盲信し、最重要な「イエスの言葉」を理解できなかった、「善良だが心の鈍い」民とともに。 このように、荒廃をもたらすものに対する解釈には信者の命が掛かっている。安易な間違いは許されない。組織に頼れないなら、信者自身でそれを察知し、分析して時を知らねばならない。人は、組織ではなく神に仕えている・・・神の子キリストが語ったこれらの言葉は、個人に向けてのメッセージなのだ。⇒自分で考えよ!、 逃げる時と、とどまる時 試みの神 人間を試みるのは誰か? 神の試練という言葉がある。しかし、いかにも意地の悪いこの行為は、本当に神の行いなのだろうか?実はそうではないらしい。ルカの聖句に注目してみよう。 ルカ 4:9 また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。「あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。 ルカ 4:10 『神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。』とも、 ルカ 4:11 『あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。』とも書いてあるからです。」 ルカ 4:12 するとイエスは答えて言われた。「『あなたの神であるヤーを試みてはならない。』と言われている。」 ここでイエスに、神を試みる行動をすすめたのは言わずと知れた悪魔サタンである。彼には、何かを見るとすぐに試みるという癖があったらしい。それは聖書のあちこちから読み取れる。黙示録ではこのようにも書かれている。 黙示録 12:9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。 黙示録 12:10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。 12章9節から、投げ落とされたのがサタンであると判るが、続く10節からは彼が、告発者と呼ばれている事も判る。つまりサタンは事ある毎に誰かに目を付け、「あいつは悪い!こいつはおかしい!」とそしり続けていたわけだ。それが人間である場合、義人とされる人々を見ると、「疑え!試せ!」と言うのは当然だろう。この記述の喜び方から見て、天の組識でもサタンの性悪さには相当悩んでいたらしい。 犠牲者ヨブ 聖書の中で有名な試みの記述はヨブ記だろう。神が善良なヨブを、サタンの突き上げで試みる事になったという記述である。この頃サタンは、神の組識の中の重要な地位に就いていたようだ。それで、神の代理としてその名前を代表して語る事も人間を試す事も許されていたようである。ヨブ記の神の言動に、冷たさや辛辣さが見え隠れするのはこのためだ。以下はヨブ記の一部である。 ヨブ記 1:6 ある日、神の子らがヤーの前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。 ヨブ記 1:7 ヤーはサタンに仰せられた。「おまえはどこから来たのか。」サタンはヤーに答えて言った。「地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。」 ヨブ記 1:8 ヤーはサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」 ヨブ記 1:9 サタンはヤーに答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。 ヨブ記 1:10 あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。 ヨブ記 1:11 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」 ヨブ記 1:12 ヤーはサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンはヤーの前から出て行った。・・・この後、ヨブには次々と不幸が襲うのだ。最後には耐え忍んだため、神から祝福を受けるが、こんな経験を誰も喜ばないはずだ。試練を与えた(許可した)神でさえ喜ばず、喜んだのは実際サタンだけだろう。(神は試さずに見通す力もある) イエスの代弁する神の気持ち イエスが祈りの方法を弟子達に教えた記述を見ると、「試みに合わせないよう祈れ」とある。-11章4節 ルカ 11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 ルカ 11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。 ルカ 11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。 ルカ 11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」 これも実際、サタンの存在抜きにはまともに解釈できない。試練に遭わせようが遭わせまいが神の自由だとすれば、自分の子供のように信者を思いやる神がどうして試練を加えて苦しめる気持ちを起こすのか? しかし実際は、これはサタンの試練から守って欲しいという祈りなのだ。神が人間をそのように意地悪く試すはずがない。 宗教組識の中には、試みをあまんじて受けるように奨め「試練を喜べ」と教える所がある。しかし、当のイエスが試みを避けられるように祈れと教えている。「人間達、試みを喜べ」というのはサタンの理論であり、神の意図ではない。自虐的クリスチャンが試みの経験を喜び、それを求める光景もよく見かけるが、それが本当の神の意志に沿っていないのは明らかだろう。神は、「信者達を守りたい」と考える存在だからだ。イエスはそれをよく知っていたため、祈りの中に試練を避ける内容を含めたのだ。つまり、試練「難儀」を信者から遠ざけるのは、神自身の意志なのである。 子供達よ イエスから見た弟子達 イエスは、弟子に対して「子供」という表現を使うことが多かった。 ヨハネ 21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」・・・ では、「子供達よ」とはどんな意味で告げられた言葉なのだろうか? この意味を解明してみよう。 1.知識の差 イエスは、創造主から遣わされた「創造主の子」である。 マルコ 1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。 マルコ 1:10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。 マルコ 1:11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」・・・ この瞬間、人間イエスの心に、天で暮らしていた頃の記憶が移った。 名実共に、イエスは創造主の子供となって活動を始めた。 救世主誕生である。 天での彼は、もちろん「イエス」という名前ではなかった。おそらく「言葉」という名前だった。彼は創造主の手伝いを常としていた。それで、彼の手を通してあらゆる物質が創造された。 ヨハネ 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 ヨハネ 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。 ヨハネ 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。・・・ この意味で、彼の知識は我々と桁違いのものである。 イザヤ書 55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。・・・ 弟子達は、イエスから見て確かに子供のような状態だった。イエスは自分の知識のレベルを下げ、子供に教えるようにしてつきあっていたことになる。
2012年03月21日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ 黙示録 13:12 この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。 黙示録 13:13 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。 黙示録 13:14 また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。 黙示録 13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。 黙示録 13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。 黙示録 13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。 黙示録 13:18 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。・・・ 確かに、これらの聖句は「あの時代」に一度成就している。しかし、これから別の背景で成就が起きる。もう一つの「獅子」に油断してはならない。 今から後、「小泉内閣」を子分に従えた「アメリカ(獅子)の暴走」が始まるかもしれない。 アメリカ・イギリスという姉妹の獅子は、既に「暴走する性格」を顕わにした。イラクにおいて。 「獅子」はやがて、イスラエルにまで手を伸ばし、「聖なる都」を覆す可能性がある。 小泉内閣がイスラエルまで追随するとすれば、自衛隊戦闘機による地上攻撃まであるのだろうか? 以下の聖句は、上記聖句と連動しているかもしれない。 ホセア書 13:6 しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた。 ホセア書 13:7 わたしは、彼らには獅子のようになり、道ばたで待ち伏せするひょうのようになる。 ホセア書 13:8 わたしは、子を奪われた雌熊のように 彼らに出会い、その胸をかき裂き、その所で、雌獅子のようにこれを食い尽くす。 野の獣は彼らを引き裂く。 ホセア書 13:9 イスラエルよ。 わたしがあなたを滅ぼしたら、だれがあなたを助けよう。 ホセア書 13:10 あなたを救うあなたの王は、すべての町々のうち、今、どこにいるのか。 あなたのさばきつかさたちは。 あなたがかつて、「私に王と首長たちを与えよ。」と言った者たちは。 ホセア書 13:11 わたしは怒ってあなたに王を与えたが、憤ってこれを奪い取る。 ホセア書 13:12 エフライムの不義はしまい込まれ、その罪はたくわえられている。・・・ その頃の大統領は、「ブッシュ」か「ケリー」かは定かでない。しかし小泉政権は、どのみち追随外交を止めないだろう。聖句にまでそれが予告されている。 あるいは小泉政権やブッシュ政権が崩壊し、「ケリー・アメリカ」と「ポスト・小泉政権」が後を引き継ぐというシナリオもある。 そしてそうなったとしても、その「獣達」は、あの「神の幕屋」を標的とするだろう。 その時、「獣の謎」は全世界に知られるようになる。----------------------- PS:選挙を経た「獣の国」は? 現在、ブッシュとケリーの対決が迫っている。ケリーが一度負けたようになってから再起してブッシュを倒し、反イスラエルの政策を行い始めるとすれば解りやすい。 「ケリー」という「獣」がイスラエルを憎み、「ユダヤロビースト」や「国際ユダヤ」が陰で行っていた謀略を暴き立てる。人々の目から見れば当初、「神の国に対する冒涜」、「タブーを犯している」と見えるかもしれない。しかしアメリカ全体は、やがて「反ユダヤ」に傾き始める。「ユダヤ糾弾」の流れに乗って、過去の「ユダヤの謀略」が残らず明るみに引き出されるだろう。 これには逆の可能性もある。風見鶏ブッシュが、ケリーとの選挙戦で「反ユダヤ」に目覚め、その方が有利だと考えれば彼は変わり身を果たすだろう。この時から彼は「獣」として誕生する。そして、42ヶ月間(3年半)暴走することになる。 ただ、ブッシュが「反イスラエル」の態度に翻るというのは考えにくい。自分の支持者を裏切り、自分と彼らの関係を暴けるはずがない。ブッシュ=親ユダヤ、ケリー=反ユダヤとして登場し、それぞれの政策を敢行するのだろう。 最終結果として、アメリカという国は凶暴な牙をむく。日本は何も考えずに、後について走り回る。 「ユダヤがアメリカを操縦していた」と知られるようになると、アメリカ国民も黙ってはいられない。ユダヤ人が必死で行う「汚名返上キャンペーン」も押し倒し、世論は一気に、「反ユダヤ」の流れとなるだろう。 もしかすると、「豹」、「熊」、「獅子」の連合軍がイスラエルに襲いかかるかもしれない。 現在、こうした「あり得ない予想?」を建てているのだが・・・⇒終りの日 荒廃をもたらすもの (こうはいをもたらすもの) 荒廃をもたらすもの(憎むべきもの)とは何か・・? 「荒廃をもたらす嫌悪すべきものが立ってはならない場所(聖なる所)に立っているのを見かけたならば、その時、ユダヤに居る者は山に逃げなさい!」 イエスのこの言葉には、信者の命が掛かっている。これは、最も重要な警告だ。人々は、是非ともそれを見分け、それに気付いて逃げ出さねばならない。 ある宗教組織は、公式にそれが「国連」であると言っている。国連は、既に居座っており、本当なら非常事態だ。組織の上層部が率先してすぐさま避難するべきだろう。イエスの言葉を真剣に、しかも純真に受け取るならば・・・また、彼らの見解が正しいのならば国連発足と同時に、非常事態が生じた事を意味する。参照した聖句はこう述べている。 マタイ 24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、読者はよく読み取るように。 マタイ 24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。 非常に切迫した警告だ。ぐずぐずしている猶予は無い。しかし、いっこうに避難の兆しを見せないとすれば、彼ら(組織指導者)自身が行動でこう語っている。「なんら避難の必要はありません・・・」 安穏(あんのん)として腰を据え、動こうともしない。いったいどうしてなのか?イエスの警告を軽く見ているのか。それとも、この組織は自らの分析を信頼していないのだろうか? この疑問に対して、彼らはおそらくこう答えるだろう。「これは私達ではなく、偽りの宗教であるキリスト教世界の信者達に適用される。『山』とは、真の宗教のことであり、既に、私達の組織内部の人々はその中にいるのだから、避難の必要はない・・・」と。 はたして、そうなのだろうか?・・・イエスは、「ユダヤにいる者は」・・・と話している。「ユダヤにいる者」とは、神の選ばれた民・・・イスラエルの事である。当時、偽りの宗教は宗教都市ユダヤの「外部に」存在していた。それで、イエスがユダヤで話した事柄は、正真正銘内部の人々・・・つまり神の民にしか聞こえなかった。警告は、内部へ向けたものであり、外部の民へ伝える必要は無かったのだ。「滅びは内部の人々が被る」からである。 誰かが引き連れて逃がすのではない そもそもイエスは、「神の民」をその滅びから救うために遣わされた。しかも話は、「聞くため」に集まって来た群衆に対してなされている。反抗的な者や、無関心な部外者に無理に話してはいない。 現代のキリスト教世界は、イエスに反抗する分子だと、この組織は分析している。彼らは「異邦人と同列だ・・・囲いの外の人々だ」とする。・・・すると、イエスが話をする対象とはならない。上記の警告を発する相手ではなくなるのだ。すると、「山に逃げよ」という言葉を彼らが聞く事も無いはずだ。 素直に解釈するなら、この話(マタイ24:16)は当然、本当の信者達・・・即ち、組織「内部」の人々に向かってなされたと考えるしかない。 その内容は、信者がその都(イスラエルの都市つまり自分たちの宗教組織)から出て行く事を促していると取れる・・・イエスは、自分が民を誘導して逃がす事はできない立場だった。というのは、彼はキリストとして死ぬ定めだったからだ。指導者としてのイエスを取り上げられ殺されたそれ以後の民は、西暦70年の徹底的な滅びの際には、(その前に)自分の判断で逃げ出す必要があった。 なぜなら、イエスは最後の預言者であり、それ以後は滅びに際して警告を発してくれる神からの預言者は出てこない。民は、自分の判断で逃げるしかなくなるのだ。イエスはそれを知った上で話していた。 では、イエスの言葉の、真の意味を理解せず、組織という人間の機関に自分をつなぎ留める人々は、いったいどうなるのだろうか?残念ながら、当時エルサレムの都の中でローマ軍の包囲で餓死し、あるいは剣に倒れた人々と同じ惨状を味わう事になる。「神がまさかそんな事を・・・それは残酷だ・・・」等と考えてはならない。残酷な事態を予想すればこその警告なのであり、座っていても安全なら、最初から警告など必要が無いのだ。 この点、攻撃の刃が自分たちに向かってくる寸前に、神が立ち上がり、その難を止めてくださる・・・と期待する人々の自信は、黙示録(啓示の書)からの理解や、モーセやヨシュアやダビデの時代のイスラエルが経験した神からの保護を根拠にしているのだろう。
2012年03月21日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ 黙示録 14:1 また私は見た。見よ。小羊がシオンの山の上に立っていた。また小羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とがしるしてあった。・・ もし、イエスをキリストと認め、獣の印に注目しているなら、これからのユダヤ人は難を逃れる事ができる。政治家の中に獣の数字がいないかを常に注意すべきだろう。彼が指導者になると、事は重大である。バーコードという現代の獣の印についても、見張らなければならない。刺青が開発されても、体に受けるべきではない。その辛抱には報いがある。 彼ら神の追随者達は、獣のバーコードの代わりに、神からの是認のしるしが額に書かれるからだ。サタンの印「バーコード」は目に見えないので、神のしるしも見えない形であるに違いない。⇒黙示録13章解説、 「獣」人種論、 「獣」とは何か?-17章 獣の謎-13章2 アメリカと日本とイスラエル さあ困ってしまった。 思いつくままに記しているうち、「獣」が複数生じてこんがらがってきた。 政治、経済、科学など、分野を変えて判断すると、複数の獣がいてもおかしくない。しかし、ここに限っては、政治面の獣を一つに絞りたい。いったいどれが本物の獣なのか? 微妙な表現の違いを見落としているかもしれない。 ここで一度、整理してみよう。 「獣」 「獣の国」 「獣の像」 「獣の数字」 これらは、「獣」というキーワードが絡んでいる表現だ。「特定の時代、特定の存在」に、条件が揃った時にそうなるのだろう。 獣には、「第一の獣」 「第二の獣」がいる。 その意味で、「獣の国」は二つあってもおかしくない。 また、「獣は人間」-18節である以上、ある時代に「ある人間」-指導者?が出現し、その組み合わせで「獣の国」が構築されるということになる。 先の考察で考えたように、「第一の獣は世界強国」だとしても、将来への謎を解くためもう少し掘り下げなければならない。 聖句を参照しよう。以下が第一の獣である。 黙示録 13:1 また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。 黙示録 13:2 私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。 黙示録 13:3 その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、 黙示録 13:4 そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」と言った。 黙示録 13:5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。・・・ 「海から上る」というのは、「諸国民」の中から出てくる存在だと以前に述べたように、それがどの国であるかは特定されていない。むしろ、複数の国を意味しているかに思える。 ここでその獣の特徴を思い起こそう。 それは「豹」のように見え、足は「熊」、口は「獅子」だ・・・とある。 先の考察の引継で、「豹」の部分は「ナチス・ドイツ」の「ヒトラー政権」ではないかと思われる。イメージではナチス親衛隊の黒い軍服はまるで「黒豹」のようである。 ナチス・ドイツの主力戦車に、「パンツァー」というのがある。「パンツァー」は「パンサー」・・つまり「「豹」である。「ティーゲル戦車」『タイガー、つまり虎』という無敵戦車もあったのだが、これは数が少なかった。 では、「熊」という部分は何だろうか? それは、「スターリン支配のソビエト連邦」ということになる。ソ連のイメージはまさに「白熊」だ。 さらにもう一つ、「獅子」が出てくるのだが、これは「大英帝国としてのイギリス」、さらにその姉妹国である「アメリカ」を含むかもしれない。 アメリカには「鷲」のイメージがあり、実際、「白頭鷲」がシンボルなのだが、「獣」の特徴表記に「鷲」のイメージは使えない。「獣は四つ足」、「鷲は二本足」だからだ。 「獣」の中に、すべてのイメージを込めるなら、この表記しかないのかもしれない。 三種類の特徴を持った獣は、「同時に存在していた強国だった」ということになる。 獣には、「複数の頭」がある。 この記述を定義しておこう。獣は「人間」でありながら、「複数の頭」を持つという。それなら「王」、「大統領」などの「役職」を「頭」だと考えることができる。 では、獣を列記してみよう。 1.ヒトラーのナチスドイツ 2.スターリンのソ連 3.チャーチルのイギリス 4.ルーズベルト、トルーマンのアメリカ 現代の「第一の獣」は、これらの複合体だ。 過去にはローマという強い国があったが、現代こそ黙示録成就のクライマックスである。 第一の獣の中に、ギリシャや古代ローマを当てはめて役立ったのは、一世紀当時のユダヤ人だった。彼らの時代は悲劇で終わっている。つまり予言は役立たなかった。ほんの一部だけが逃げおおせた。 現代人にとって、重要なのはこれからの成就である。黙示録は現代の定義をもって理解しなければ役立たない。 ユダヤ人が対象となっている聖書の予言は、現代のユダヤ人・・・つまり中東イスラエルが役立てなければならない。予言は確かに、「ユダヤ人」の上に成就してきた。 しかし、諸国民にとってもそれは役立つ予言となっている。人類史の中で大破壊を伴った第一次、第二次大戦は、予言に注目して被害から逃れることが可能だったのだ。重要なのは「役立てること」である。 第一次大戦を経た後のナチス・ドイツの台頭から、冷戦を経て現在のアメリカ主導の世界秩序に至るまで、この予言が支配しているように見える。それがユダヤ人の被害を述べているとしたら、ユダヤ人が注目して損は無い。 ユダヤ教がそれを無視するように教えていたとしても、実質を考えればこれが無視できるだろうか? 実際にユダヤ人は、ナチス、ソ連と成就を見てきたではないか? では最後の「獅子の成就」を無視して難儀を被るべきだろうか? もう一度、あのナチスやスターリンの災厄を思い出そう。 これらの世界強国は互いに戦火を交えたが、ナチスやスターリンほどユダヤ人との関係で際だった存在は無い。中でもナチスは排斥運動に熱心だった。 黙示録 13:6 そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。 黙示録 13:7 彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。 黙示録 13:8 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。 黙示録 13:9 耳のある者は聞きなさい。・・・ 当時明らかだった「神の幕屋」は「ユダヤ人共同社会」だろう。それに対する「けがしごとを言う」というのは、「反ユダヤ」を意味している。 現時点まで、反ユダヤを表明したのは「豹」と「熊」・・・つまり、ナチス・ドイツとスターリンのソ連だった。表面では語られないが、ソ連もナチスに負けず劣らずユダヤ人を大量虐殺しているのだ。また、圧政においても負けていない。だからこそ、この警告があるのである。 黙示録 13:10 とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。・・・ これと相前後して、もう一つの獣が登場する。 黙示録 13:11 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。・・・ 第一の獣に追随する第二の獣が登場する。 この獣は過去「大日本帝国」を意味していた。第一の獣『豹』であるナチス・ドイツに付き従っていたからだ。 そして、その時代は終わり、現在は「獅子の時代」となっている。 ユダヤは、「獅子」によって受難があるかもしれない。 当時のイギリス、アメリカはイスラエルに対して保護者であり、牙をむいていなかった。とすれば、成就はこれからだと思われる。 現在その状況は整いつつある。 強引に独裁を行う「ブッシュ・アメリカ」 それに付き従う「小泉・日本」 そう言えば、小泉首相は「子羊」のように話す。 国民を納得させるために「人道」を持ち出してくる。 「大切なのは、国際貢献!」・・・わかりやすいフレーズは、子羊である「イエス」の話し方に似ている。短いセンテンスの中に多くの事柄を含ませ、解釈は民に預けている。つまり、「勝手に解釈しなさい」という意味である。 「善良な人」はそれを「良い意味」に解釈し、自分なりの想像で膨らまして行く。そして小泉ファンになる。 「人々の自己解釈を利用する」という意味で、彼は「子羊のように」話している。しかし、人物としては似ておらず、「・・・のように」話すだけである。 アメリカの威光を借りて、小泉政権は有利に事を運んでいる。
2012年03月21日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ 黙示録 13:13 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。 黙示録 13:14 また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。 黙示録 13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。・・・ 実際にヒトラーの像、あるいはナチスドイツの鍵十字を象徴する銅像や象徴を作らせ、その前で忠誠を誓わせる動きはあっただろう。しかし、「獣の像」と「その像がものを言う事さえできるようにした」というのは、何だろう。やはりラジオや映像メディアだろうか? そのような像が何を指しているのかは不明である。しかしナチス国旗への崇拝や、ナチスの政権放送が当時の人々の心を捉えていたのは確かだろう。科学者達が、その陰で大きな役割を果たしていたのは間違い無い。 科学者は権力を好む? 科学者というと、悪いイメージを持たない人が多いが、遺伝子工学などを取ってみても、科学者の貪欲には驚くはずだ。もちろん全ての科学者が悪いのではないが、一部には確かに「悪魔の科学」に手を染めた者がいる。ヒトゲノム計画の加速によって、人類は遂に、「ある種族だけを地球上から抹殺する」ような病原菌を合成できるようになった。 今も密かにそれらを研究している科学者はいるに違いなく、そのような科学者は神の目から見て「獣」、つまり、「人間の心を持たない狂った存在」に見えるだろう。権力者と科学者は利害が一致しており、共同歩調を取っているからだ。 ナチス起源の科学者の影響 さて、「獣」としての科学者は一人ではなく、「近代のハイテク」を実現する人々を総称しているのかもしれない。ヒトラー以後も生き残り、多くの発明をして近代軍事国家の軍事力や民間技術強化に寄与した科学者は、この頃のドイツから数多く出現している。 ナチス崩壊後に、アメリカやソビエトに引き抜かれた科学者は多い。そして彼らの発明から、現代の原水爆やミサイルなどの軍事技術や、民間のハイテク技術が派生している。その意味では、近代のスーパーウェポン「超兵器」を生み出した科学者達は、全てが「第二の獣」に属すると考えるしかない。 現代最大の軍事大国は、アメリカである。(ソ連の流れも消滅していない)その国の中で、軍事技術に磨きをかけている科学者は、「大義名分」を掲げている。「専守防衛のため、これらの技術は不可欠だ」と述べる。論議は別として、これらは神の目には「子羊のような角」、つまり善良さを装った開き直りと映るに違いない。 コンピュータ登場 その流れは、遂にコンピュータというハイテクマシンを作り出した。これらは即刻軍事利用され、兵器の精度を上げ強化を果たした。コンピュータ無しには、近代軍は成り立たない。また、コンピュータという「心を持たない生き物」は、それ自体が「獣」の象徴でもある。この獣?は、すでに「話す力」を持つようになった。音声認識ソフトや、読み上げソフトが完成し、人工知能さえ実現しつつある。 電子ハイテク技術で、軍事関係の需要を満たし尽くした企業は、やがて民生用にも手を広げ、遂にバーコードという人類管理システムを世に送り出した。人類の生活の全ては、それに牛耳られつつある。 黙示録 13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。 黙示録 13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。 黙示録 13:18 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。・・・ 上記の聖句では、獣は数字を持っており、数字そのものが人間を指しているという記述が気になる。「獣の数字=人間=666」だと書かれた部分を考えよう。 ゲマトリアによる計算 ユダヤの占いには、人間の名前を数字に置き換える「ゲマトリア」という占いがある。それによると、ローマの暴君「ネロ」や、「アドルフ・ヒトラー」は、666に相当するそうだ。いずれも、自国内のキリスト教徒やユダヤ人を迫害した。この図式は現在でも存在するはずである。しかし、世界に知れ渡っている獣の数字の人物は、わずかしかいない。 興味があるのは、マルクスやレーニン、スターリンなどの宗教弾圧者や、現在の共産国の指導者達、また織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などのキリシタン弾圧者の名前である。中世ヨーロッパの異端審問に関係した指導者達も、この数字を持っていたのではないだろうか? 特に、共産国では、現在でも宗教関係者の投獄や拷問、処刑が行われているはずである。これらは、キリスト教、ユダヤ教を率いる宗教指導者達が解明して、信者達に警告を与えるべきものだ。しかし、警告のためのゲマトリアが、事後確認のための道具に成り下がっている。どうしてなのだろう? 文字通りの成就か? 近年、とうとう「バーコードの刺青」まで発案され、それは人々の腕や額に彫りこまれるよう予定されている。目に見えない形ではあっても、刷り込まれたバーコードは「獣の象徴」だ。なぜなら、識者の間では、そのコードの中には6-6-6の隠し数字が封入されている事が知られているからだ。666という数字を忌み嫌う欧米での発明であるバーコードシステムに、この数字が使われている事の真意が計りかねる。 しかし、とにかく・・・それは非常に便利なのでスーパーマーケットの商品など、ほとんどの日用品に刷り込まれている。程なくしてそれは全世界に広まるだろう。後は人間に刷り込むだけである。これらは予想では、個人認識システムとして一般化するはずだ。彼らは、文字通り666の刷り込まれた「人間の獣」になる。 しかし最近は、「網膜認識システム」や「指紋認識システム」が存在している。それなのにどうして、バーコードなのだろうか。 それは、バーコードに「信頼性」があるからだ。指紋や網膜の認識には誤動作が付きものである。ドアが開かない程度ならいいが、もし数億円の取り引きに誤動作のあるシステムを使えば、大変な事態が予想される。そのため一番実績があり、信頼性が確立したバーコードが見直されるのだろう。一度採用が決定すれば、急速に流れは決まってしまう。 獣の象徴である666の隠し数字を刺青された人間達については、聖書にこのように記述がある。 黙示録 14:9 また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、 黙示録 14:10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。 黙示録 14:11 そして、彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上る。獣とその像とを拝む者、まただれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も休みを得ない。・・・ 当人は、それが忌むべきものであるとの認識はない。しかし神の目から見れば、それは憎むべきサタンのシンボルだ。この意味を理解している人々は、当然その刷り込みを拒否するだろう。こんな場合、科学者の口が開いてサタンの心を語る。 「これほど素晴らしいものを拒否してみんなを困らせる者は、仲間外れになって当然でしょう。」 こうして、拒否する者の市民権は剥奪され、仲間外れになるのかもしれない。社会における象徴的な死である。 なお、ヒトラーに限って言えば、彼こそが獣の一つの頭であり、その崇拝を演出した宣伝相ゲッペルスは地から登ってきた第二の獣に相当するのかもしれない。確実ではない。彼には、子羊のような二本の角があり、竜のようにものを言う。これは、偽善で固めた発言を意味しているのだろう。更に、獣の像とは当時ならヒトラーの写真や肖像画だ。当時はどこの家にもそれは置かれていたはずだ。 ヒトラーは一度投獄されており、その時、政治生命は絶たれそうになった。この打ち傷は癒えて政界に復帰している。いずれにしても、ユダヤ人(アシュケナジー)にあれほどの打撃を与えた人物を、聖書が見過ごすはずが無い。この獣はヒトラーの上にオーバーラップされているはずである。 ユダヤ人達は絶滅収容所に送られる前に、これらの示唆を知るべきであった。・・・しかし何と言うべきだろうか。せっかくのこれらの警告も役立たなかった。彼らユダヤ人社会の指導者達は、イエスをキリストと認めていない。今でもメシア(キリスト)を待っている。それゆえにこの警告は、全く無視されたのだった。指導者達は、ユダヤ人の全リストまでナチスに提出し、その絶滅を手助けしている。この罪は後世に問われるだろう。 終わってしまった事柄の次は、未来に目を向けなければならない。これらの聖句の成就は、これからの時代にも起きるのは間違いが無いからだ。「獣の頭」は、まだ他にもある。それが最後の頭となるのだろう。
2012年03月21日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ 黙示録 13:7 彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。 黙示録 13:8 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。・・・ ユダヤ人の理解者たちも沈黙させられ、良心を持った人々も、誰も反対できなかった。ヨーロッパは、ヒトラーのナチス主義一色に染まった。そして、心無い者達は、ヒトラーに命を預け忠誠を誓う。黙示録の「獣」は「人間」であり、その数字を計算すれば666だと述べている。ユダヤ教に伝わる秘儀によれば、人物を数字に変換できる。アドルフ・ヒトラーは666なのだろうか?-黙示録13章18節 また彼は、イエスの述べた「滅びの子」だったのだろうか? 黙示録 13:9 耳のある者は聞きなさい。 黙示録 13:10 とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。・・・ パルチザンなど地下運動が勃興して反旗を翻したが、ヒトラーの軍に逆らって勝ち目は無かった。武力で対抗しても捕らえられ処刑されるのが落ちだった。そのような選択の道は、死を意味していた。虜にされるべき者とは「逃げなかった者」と考えるしかない。聖徒としてのユダヤ人キリスト教徒は、イエスが述べていた警告に「耳」を貸すべきだったのだ。 マタイ 24:15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、 マタイ 24:16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。 マタイ 24:17 屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。 マタイ 24:18 畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません。 マタイ 24:19 だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。 マタイ 24:20 ただ、あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい。 マタイ 24:21 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。・・ イエスのこの警告は、ローマ時代に一度成就しているが、近代においても成就した。ヨーロッパに住んでいたユダヤ人にとって、「ユダヤから逃げる」とは、ヨーロッパにおける「ユダヤ人共同社会脱出」の事だったようだ。この警告を注目し、ナチスから逃れて、実際に山(山の国スイス?)に逃げた人々もいたのだろうか。 黙示録 13:11 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。 黙示録 13:12 この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。・・・ この獣は難解な謎を突き付けてくる。流れからいくと、この「もう一匹の獣」はやはり「人種」を意味し、軍事大国であり、機械化された軍-機甲師団であると考えたいところだ。しかし、何かが違う。このヒトラーの第三帝国ドイツを崇拝させようとしたもう一つの獣とはいったい誰なのか?それには子羊の角のような小さな角がある。竜のようにものを言う。 もう一つの獣はハイテクか この獣は、おそらく同時期に輩出する「人間の誰か個人」を指しているのだろうが、現時点でははっきりしない。聖句には多重の意味が付されているため、「獣」が「人物」と「国家『軍』」などを同時に示している場合がある。いずれにしても、「獣」には正常な人間の心の良心や情が欠落している。それで、「正気を逸した集団」を指す場合もある。 日独伊の三国同盟で考えれば、ドイツに陶酔していた「日本」だという事になってしまう。 「地から上がってくる」という部分に注目すれば、確かに日本になってしまうのだ。聖書の中で「海」(諸国民)に対比される「地」とは、イスラエル民族を意味する。それは、中東のイスラエルから軍事大国が生じるというのではなく、ここでは「隠されたイスラエル」を意味している。 ここにおいて、この日本が「隠されたイスラエル」であるという「日ユ同祖論」が浮上する。それに基づくなら、この獣はまさに「帝国日本」である。子羊のような角という意味が不明だがその意味は何だろうか? 三国同盟の中のイタリアが抜け落ちているのもおかしい。もっともイタリアは、ドイツより先にファシスト政権を発足させ、最初は先輩格だった。獣はドイツから始まっているはずだ。 いずれにしても、ユダヤ人に絡んでくる世界強国としてはドイツだけである。第二の獣は日本ではないのか?確かに、当時の日本はユダヤ人に対して寛大だった。(結果的にだが) 杉原千畝という日本の外交官は、ナチスに追われたユダヤ人達に「命のビザ」を支給して多数を国外に逃がしたのだった。この行為は、今もユダヤ人達から感謝されている。 このゆえに日本は、神の目から見てキリストのように見えたかもしれない。つまり、杉原個人の業ではあったが、日本はヨーロッパのユダヤ人に対して「子羊の角を持ったように振る舞った」のである。「子羊」はキリストを意味する。-(前の)黙示録13章解説では、これを日本と見立てて考察している。 しかしここで、サタンが多くの発明に関して科学者達に「念」を送っている事を考えれば、それを受け取る誰かだろうか。また、「策略や陰謀」を担当する誰かもしれない。ここでその第二の獣が「地」から上ってくるという記述を別の意味で掘り下げてみよう。 これは、「知識面」に関係した記述だろう。それは、「地」という表現が、人類の知識、つまり「頭の中」という意味を含むからだ。人物を意味しているにしても、それは「知的な存在」であるに違いない。彼は竜のようにものを言う。つまり、サタンの心中を代弁するのだ。それは「策謀」や「偽善」が特色である。 彼が活用するものは、声を伝えるラジオだろうか?あるいは、映画テレビなどの映像メディアかもしれない。それには、ヒトラーの顔や姿が映るからだ。人々はそれを見てヒトラーを崇拝できる。名前の中に666という数字を持つ側近や科学者がいれば、彼が大きな力をヒトラーの「獣」に与えるのは間違い無い。 また、ミサイルを発明した科学者は、天から火を降らせた。V型ロケットの発明者あるいは発案者も獣に属する存在かもしれない。子羊の角は、彼の少しの良心を示しているのだろうか?それとも、別の国で活動する「頭角」を示しているのだろうか? 「子羊のような角を持つ」という表現は、「子羊」、つまりキリストイエスのように、「善に見える部分」を持ち合わせているという意味にも取れる。しかしその善意は、本物の域に達し得ない。彼の生み出したアイデアや発明品の罪の営みが、彼自身の善意?をかき消してしまう。ナチスから出た発明の中でも、取り分け大きな罪につながったものは「ミサイル」及び「核爆弾」だろう。以下の聖句にある「天からの火」は、それを彷彿とさせる。
2012年03月21日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ 獣の話し方 では黙示録に戻って、「獣は竜のように話す」という部分に注目してみよう。 『竜』の話術は、どのようなものだっただろうか? 以下の聖句が語っている。 竜=蛇 創世記 3:1 さて、神であるヤーが造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」 創世記 3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。 創世記 3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」 創世記 3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。 創世記 3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 創世記 3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。・・・ その話術は、非常に巧みだった。 「竜」は「蛇」をクグツのように操り、優しい声でまず女を騙した。 「魔術師小泉」と興味深い一致点がある。 夫は、騙された女の後に従うしかなかった。 これはまるで、小泉政権下で人気調査に振り回される日本そのものではないか。 これから先、本当に「像の夢」が実現するだろうか? 今は、まるでわからない。 獣の謎―13章 獣の意味は? 黙示録13章も非常に難解だ。この謎のキーワードは「獣」である。これをどう解釈するかで、意味は180度違ってしまう。では、「獣」とは何を言い表しているのだろうか? ここでは、一般に広がっている解釈で検討してみよう。つまり、「獣」は「軍事大国」という図式である。 黙示録 13:1 また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。 黙示録 13:2 私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。・・・ サタンは、はじめからの蛇、大いなる竜として聖書の中に何度も登場する。このサタンは、勇ましくかっこいい軍隊が大好きである。特に自分を崇拝する国や軍には絶大なる力を与える。それで、サタンは歴史上の軍事大国に力を注いできた。サタンの軍事大国が地上を支配する機会は十回であった。支配を示す冠が十に達するからである。「海から上ってくる」という表現は、「諸国民の中から出る」という意味だろう。政治家は選挙で民衆からの支持を得ている。また、軍事大国も民衆が形作るものである。 また、サタンの領分は「海」であり、「神の民以外の領域」がテリトリーである。そして、過去の世界強国も全て、神の民以外から輩出していた。聖書の用語では、「海」は異邦人の象徴なのである。つまりこの獣は、サタンの支配する民から出る歴史上の強大な帝国の総称のようである。 では、「七つの頭」は何を意味しているのだろう。まず、これは特定の「国」だろうかそれとも「指導者」だろうか。聖書は、「何度も多重的に成就する」という原則がある。それで、一つの時代のある出来事だけに特定されて終わってしまうものではない。波が何度も寄せるように、大成就、小成就がある。 またその全ては、神の民であるユダヤ人「イスラエル」に焦点を当てて書かれているため、彼らの周囲に存在し、彼らに関係してくる国々が予言に登場する。全ての記述をイスラエル人の目で見つめ、彼らの立場で考える必要がある。 神がこの書物を与えた動機は、「自分の民を守るため」だ。それで、彼らへの危険は特に重視され何度も警告されている。 一つの結論として、「七つの頭」は「一つの人種」―獣が起こした歴史上の「七つの強国」であり、それが十回の覇権(王冠)を手に入れるのだとすることができる。詳細はいずれはっきりするだろう。 「頭」は当然「指導者」、「王」という意味もある。とりあえず先に進もう。 黙示録 13:3 その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、 黙示録 13:4 そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」と言った。・・・ もし、この「打ち殺されたように見える頭」が、「人種を強調する国」と想定するなら、それは歴史上で何度も「支配民」の地位を得た「アーリア人種」の国、「ナチスドイツ」だろう。 ヒトラー自身も語っているように、アーリア人種は何度も世界強国を築いてきた民である。確かに、「『獣』が『海』から出る」という表現を掘り下げれば、これは民族に関係した記述だと気付かされる。つまり、「海」は「神の民以外の諸国民全体」であるので、その中から出る(抜粋する)なら「特定の人種」を意味しているに違いないのだ。 すると、「アーリア人種」がサタンのお気に入りなので、サタンはその人種を使って世界強国を何度か起こし、その一つが過去の「ローマ帝国」であり、現代の頭が「ナチスドイツ」であるということになる? ユダヤ中心で物事を考えなければならない。ユダヤ人に絡んできた人種は、確かに古代ローマなどアーリア系の人種だ。「獣」は「人種」という考えが有力になってくる。 聖書の中には、何度も民族の父祖が誰であったかという「系図」が登場する。そして神は、その民族によってその境遇を決めている。つまりそれほど、神の目から見て「人種」は大切なものだということだ。 聖書:「獣」人種論 現代ユダヤの歴史の中で、大きな出来事といえば、ユダヤ民族すべてを抹殺しようとした「ホロコースト」だ。それなら、「殺されたかに見えた傷ついた獣」の正体は、「アーリア人種」を強調していた「ナチスドイツ」である。 ドイツは、第一次世界大戦で大敗北を被った。国土は荒廃し、復帰不可能かに見えた。しかしヒトラーの出現で、奇跡の復興を遂げたのである。その後の経過はご存知の通り、ヨーロッパを席巻した。そのあまりの強さに、誰もが逆らう事をあきらめ、彼らへの崇拝さえ生じた。 ヒトラー率いるナチスドイツは、神さえ信じない無神論者に見えるだろうか?実はそうではない。彼らは、政治結社でありながら宗教結社でもあった。ナチスドイツには、崇拝する神が存在した。それが「竜」である。この竜の分析については、ここでは棚上げして置こう。 当時のヨーロッパでは、占領された国の人々は、ナチスのハーケンクロイツ(鍵十字)を崇拝させられた。また彼らナチス兵士のバックルには、「神われらと共にあり」という文字が彫り込まれていた。彼らは、彼らの神を崇拝しながら戦っていたのである。このナチスのハーケンクロイツが象徴する「神」こそが、「竜」に違いない。また、ヒトラーを含む側近が、「霊との交信を行っていた」という話は有名だ。 機甲師団とマインドコントロール ヒトラーの軍には、機械化部隊「機甲師団」という特色があった。強さの秘密は戦車や航空機など先進の兵器である。このような「機械装置」にも「獣」という意味がある。古代ローマも当時のハイテクである戦車や投石機を使っていた。 ヒトラーの軍には、宗教的な特徴もあった。それは、「マインドコントロールを使っていた」という点である。 ナチスドイツは、軍事パレードや演説会や勇ましい挙動で人々を魅了し、ヒトラーを中心人物として崇拝させ、熱病におかされたような群集を作り出していった。当時、誰もがあの「ナチス式敬礼」を強要された。いや、自分から進んで行っていた。人心は、あのマインドコントロール無しには、自由に操れなかっただろう。人々は強い酒を飲んだように酔いしれていた。 その意味で、「人間爆弾」や「神風特攻」を実行した旧日本軍も同様の「獣」だったと言える。しかしその規模と質において、ヒトラーの軍は圧倒的だった。このように、人々の心から「正気」を奪い去り、「獣の心」のように変えて操る集団や国家を、神は「獣」と呼ぶのかもしれない。 どんな場合も、「マインドコントロールを使う集団」は、「獣に深く関連する」と考えて良いだろう。サタンはそのような集団を使って、人心を奪おうとする。 獣の口 黙示録 13:5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。・・・ ヒトラーの演説は、血の気の多いものだった。「傲慢ではない」と否定できる人はいないだろう。確かに多くの「けがしごと」が彼の口から出た。また、四十二か月といえば、三年半である。ナチスドイツの活動期間はどうだっただろう?また、プロパガンダ作戦の一環として、ヒトラーは国民の全家庭に「ラジオ」を普及させた。当時は高価だったラジオが行き渡って、国民はそれに洗脳されるようになった。しかし、他国のラジオ放送を聞けば、国民は厳罰に処せられた。この「口」は世界に向けての放送を行い、ユダヤ人をののしった。 黙示録 13:6 そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。 ヒトラーのユダヤ人撃滅主義は有名だ。それは、神の選民と言われるイスラエルに対する挑戦だった。ユダヤ人の崇める神を畏れず、敵対行動に移る。しかし、これらに関係するユダヤ人は、アシュケナジーユダヤである。本来は、スファラディーユダヤに関しての予言であるはずなのだが、現時点では不明である。
2012年03月21日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ ダニエル書 4:8 しかし最後に、ダニエルが私の前に来た。――彼の名は私の神の名にちなんでベルテシャツァルと呼ばれ、彼には聖なる神の霊があった。――私はその夢を彼に告げた。 ダニエル書 4:10 私の寝床で頭に浮かんだ幻、私の見た幻はこうだ。見ると、地の中央に木があった。それは非常に高かった。 ダニエル書 4:11 その木は生長して強くなり、その高さは天に届いて、地の果てのどこからもそれが見えた。 ダニエル書 4:12 葉は美しく、実も豊かで、それにはすべてのものの食糧があった。その下では野の獣がいこい、その枝には空の鳥が住み、すべての肉なるものはそれによって養われた。 ダニエル書 4:13 私が見た幻、寝床で頭に浮かんだ幻の中に、見ると、ひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来た。 ダニエル書 4:14 彼は大声で叫んで、こう言った。『その木を切り倒し、枝を切り払え。その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え。 ダニエル書 4:15 ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、地の草を獣と分け合うようにせよ。 ダニエル書 4:16 その心を、人間の心から変えて、獣の心をそれに与え、七つの時をその上に過ごさせよ。 ダニエル書 4:17 この宣言は見張りの者たちの布告によるもの、この決定は聖なる者たちの命令によるものだ。それは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。』 ダニエル書 4:18 私、ネブカデネザル王が見た夢とはこれだ。ベルテシャツァルよ。あなたはその解き明かしを述べよ。私の国の知者たちはだれも、その解き明かしを私に知らせることができない。しかし、あなたにはできる。あなたには、聖なる神の霊があるからだ。」・・・ ダニエルは、誰にも解けなかったその夢の謎を告げた。 ダニエル書 4:20 あなたがご覧になった木、すなわち、生長して強くなり、その高さは天に届いて、地のどこからも見え、 ダニエル書 4:21 その葉は美しく、実も豊かで、それにはすべてのものの食糧があり、その下に野の獣が住み、その枝に空の鳥が宿った木、 ダニエル書 4:22 王さま、その木はあなたです。あなたは大きくなって強くなり、あなたの偉大さは増し加わって天に達し、あなたの主権は地の果てにまで及んでいます。 ダニエル書 4:23 しかし王は、ひとりの見張りの者、聖なる者が天から降りて来てこう言うのをご覧になりました。『この木を切り倒して滅ぼせ。ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、七つの時がその上を過ぎるまで野の獣と草を分け合うようにせよ。』 ダニエル書 4:24 王さま。その解き明かしは次のとおりです。これは、いと高き方の宣言であって、わが主、王さまに起こることです。 ダニエル書 4:25 あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれます。こうして、七つの時が過ぎ、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになります。 ダニエル書 4:26 ただし、木の根株は残しておけと命じられていますから、天が支配するということをあなたが知るようになれば、あなたの国はあなたのために堅く立ちましょう。 ダニエル書 4:27 それゆえ、王さま、私の勧告を快く受け入れて、正しい行ないによってあなたの罪を除き、貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう。」・・・ この解き明かしは、一年後に成就した。 ダニエル書 4:28 このことがみな、ネブカデネザル王の身に起こった。 ダニエル書 4:29 十二か月の後、彼がバビロンの王の宮殿の屋上を歩いていたとき、 ダニエル書 4:30 王はこう言っていた。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」 ダニエル書 4:31 このことばがまだ王の口にあるうちに、天から声があった。「ネブカデネザル王。あなたに告げる。国はあなたから取り去られた。 ダニエル書 4:32 あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、こうして七つの時があなたの上を過ぎ、ついに、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。」 ダニエル書 4:33 このことばは、ただちにネブカデネザルの上に成就した。彼は人間の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲の羽のようになり、爪は鳥の爪のようになった。・・・ 彼は正気を失って、「狂人」となったのだった。 7つの時の間、彼は政務ができなかった。 しかし、至高者は彼を正気に戻して自らの力を教えた。 ダニエル書 4:34 その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。 ダニエル書 4:35 地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。 御手を差し押えて、「あなたは何をされるのか。」と言う者もいない。 ダニエル書 4:36 私が理性を取り戻したとき、私の王国の光栄のために、私の威光も輝きも私に戻って来た。私の顧問も貴人たちも私を迎えたので、私は王位を確立し、以前にもまして大いなる者となった。 ダニエル書 4:37 今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。・・ ネブカデネザル王は、またしても至高者の力を讃えた。 しかしここで、彼がどうしてその神ヤーエを崇拝するようになれなかったか不思議に思うだろう。 これほどの力を目の当たりにすれば、自分の神を捨てて「ダニエルの神」に帰依しそうに思えるのだが・・・ しかしこの神は「イスラエルの神」であり、「人種の壁」を超える意志を持たない。 だからネブカデネザルが望んだとしても、異邦人の神になってはくれないのだ。 もし彼が、自分の国を捨ててダニエルの僕にでもなれば、彼個人の帰依は許されただろう。しかし、王としての立場がそれを許さなかったのだ。 こうして、「獣となった王」の話は、ユダヤ人やバビロンの子孫達にまで伝わった。 この話は、黙示録にまで流れ込んでいるように思える。 ではこれが、現在の日本の獣、すなわち第二の獣に、適応されるだろうか? 文字通りの成就があるとすれば、小泉は一度「狂人」になるはずだが。 ところが、この話は、「異邦人とヘブライ人」との関係であるため、『獣王』を小泉個人に重ねることができない。 なぜなら、この日本は「地の国」・・・つまり、古代ヘブライの流れを汲んでいるからである。 するとこの話は、むしろ「第一の獣」との関係で成就するのかもしれない。 黙示録では、「第二の獣」が慕う「第一の獣」が登場する。 それは「海」から上ってくる。 黙示録 13:1 また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。 黙示録 13:2 私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。 黙示録 13:3 その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、 黙示録 13:4 そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」と言った。 黙示録 13:5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。 黙示録 13:6 そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。 黙示録 13:7 彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。 黙示録 13:8 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。 黙示録 13:9 耳のある者は聞きなさい。 黙示録 13:10 とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。・・・ これが「ブッシュ政権」だ。 もしかすると、「第一の獣」が「狂人」または痴呆状態となって回復し、それを喜ぶ「第二の獣」が「獣の像」を建てるという考え方もある。 しかしそうだとすると、「像の崇拝を強制する」という部分で、「第二の獣」は「第一の獣」との二役を演じることになる。 複雑である。 いずれにしても、これから先、アメリカと日本の首脳からは目が離せない。 私達は聖書予言の成就を、それぞれの目で見極めることができるのだ。 ブッシュ政権は、3年半、つまり42ヶ月続いたら、もう後が無い・・・ ただ、彼が「獣」としてのスタートを切る時期は、「神の民を罵(ののし)る」という態度によって見分けられる。 そこから「3年半」が寿命である。
2012年03月21日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ 獣の政権 「竜の声」が聞こえる 私達日本人は、「竜の声」を聞くことができる。 なぜなら、日本には現在「第二の獣」が政権の座に着いており、彼が「竜のよう」に話しているからである。 黙示録 13:11 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。・・・ この聖句が今現在成就しているとは、にわかに信じがたいが、これは現実である。 最近になって、これが日本の「小泉政権」であることが判明した。 今現在は「終わりの日」であり、黙示録の重大な成就の時代である。これは、マイクルドロズニンの著書「『聖書の暗号』(コンピュータで解読された聖書予言)の中で紹介され、世界に知られるようになった。 それによれば、2006年には大事件が起こり、それ以後短期間でこの世界は覆(くつがえ)ってしまう。人類の歴史の最終日は目と鼻の先ほどの位置にある。 つまり、人類の最終段階に向けた黙示録の予言は、今現在成就していなければおかしいのだ。 聖書の中の「地」という表現は、系図上のイスラエルであり、それは大和民族に相当する。従って、地から上ってくる「獣」は、現在日本に登場する政権を意味している。 総合的見地から、それは小泉政権であることが明らかになってきた。 二本の角は、子羊のように小さい。 これは、どんな意味かを考えていたのだが、見たところやさしく感じる外見の指導者を意味しているのかもしれない。しかしそれが、二本であるのは、その政権の「顔」が二つという意味だろうか?あるいは、連立政権という見方もある。 無理解な獣 人間と動物の違いは、「理解力」にある。 それで、『獣』という表現は「無理解」を意味しているようだ。 演技のセンスはあるが、政治、外交センスが無い。 諸外国の考えが理解できない。 そのため、頓珍漢な発言を繰り返す。 「演劇として」見るなら「おもしろい」だろうが、国民の生活は諸外国の食い物にされる。 獣は、反対する声が弱いことを追い風にして「やりたいこと」を始める。 黙示録 13:12 この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。 黙示録 13:13 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。 黙示録 13:14 また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。 黙示録 13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。 黙示録 13:16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。 黙示録 13:17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。 黙示録 13:18 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。・・・ 「獣の像を拝まない者をみな殺させた」という表現は、どんな意味だろうか? 「獣の像」というのは、以下の聖句に関係する。 ダニエル書 3:1 ネブカデネザル王は金の像を造った。その高さは六十キュビト、その幅は六キュビトであった。彼はこれをバビロン州のドラの平野に立てた。・・・ このバビロンの王であるネブカデネザルは、自分の記念像を建てた。 そして、このように触れを出した。 ダニエル書 3:6 ひれ伏して拝まない者はだれでも、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。 ところが、外国からの拉致者であった三人のユダヤ人はこれを拒否した。 そこで、彼らを見張る者達が王に訴えた。 ダニエル書 3:12 ここに、あなたが任命してバビロン州の事務をつかさどらせたユダヤ人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴがおります。王よ。この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝みもいたしません。」・・・そこで、王は彼らに訊いた。 ダニエル書 3:14 ネブカデネザルは彼らに言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。あなたがたは私の神々に仕えず、また私が立てた金の像を拝みもしないというが、ほんとうか。 三人は自分達の態度を曲げなかった。 彼らには崇拝すべき神『ヤーエ』がいたからである。 それで彼らは、王に言った。 ダニエル書 3:16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。 ダニエル書 3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。 ダニエル書 3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」 ダニエル書 3:19 すると、ネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴに対する顔つきが変わった。彼は炉を普通より七倍熱くせよと命じた。 ダニエル書 3:20 また彼の軍隊の中の力強い者たちに、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを縛って、火の燃える炉に投げ込めと命じた。・・・ それは実行された。 彼らはどうなっただろうか? ダニエル書 3:22 王の命令がきびしく、炉がはなはだ熱かったので、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを連れて来た者たちは、その火炎に焼き殺された。 ダニエル書 3:23 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は、縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。・・・ ここで、超常現象が起こる。 王は、自分の目を疑った。 ダニエル書 3:24 そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。「私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」彼らは王に答えて言った。「王さま。そのとおりでございます。」 ダニエル書 3:25 すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」 ダニエル書 3:26 それから、ネブカデネザルは火の燃える炉の口に近づいて言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい。」そこで、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは火の中から出て来た。 ダニエル書 3:27 太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、この人たちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。・・・ イスラエルの神は、忠実な三人を救った。 驚いた王は、彼らの神ヤーエを讃え始めた。 ダニエル書 3:28 ネブカデネザルは言った。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。 ダニエル書 3:29 それゆえ、私は命令する。諸民、諸国、諸国語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ。」 ダニエル書 3:30 それから王は、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴをバビロン州で栄えさせた。・・・ これが、「像を拝ませようとした『獣王』」の話である。 では、なぜ彼が『獣王』なのだろうか? それは、この王が一時期、「至高者」の手によって『獣』にされたことがあるからだ。 その経緯は、ネブカデネザル自身が語っている。 ダニエル書 4:4 私、ネブカデネザルが私の家で気楽にしており、私の宮殿で栄えていたとき、 ダニエル書 4:5 私は一つの夢を見たが、それが私を恐れさせた。私の寝床での様々な幻想と頭に浮かんだ幻が、私を脅かした。 ダニエル書 4:6 それで、私は命令を下し、バビロンの知者をことごとく私の前に連れて来させて、その夢の解き明かしをさせようとした。 ダニエル書 4:7 そこで、呪法師、呪文師、カルデヤ人、星占いたちが来たとき、私は彼らにその夢を告げたが、彼らはその解き明かしを私に知らせることができなかった。・・・ バビロンのどんな識者達にも、まるで理解できない。 ユダヤ人「ダニエル」にそれができるだろうか?
2012年03月21日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ 付録:神の心 神は、「命令の動機」を語っている。 これをわきまえておけば、自分達が「何をすべきか」が理解できる。 特に7章31節に注目 エレミヤ書 7:22 わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかのいけにえについては何も語らず、命じもしなかった。 エレミヤ書 7:23 ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』 エレミヤ書 7:24 しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。 エレミヤ書 7:25 あなたがたの先祖がエジプトの国を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるすべての預言者たちを、毎日朝早くから、たびたび送ったが、 エレミヤ書 7:26 彼らはわたしに聞かず、耳を傾けず、うなじのこわい者となって、先祖たちよりも悪くなった。 エレミヤ書 7:27 あなたが彼らにこれらのことをすべて語っても、彼らはあなたに聞かず、彼らを呼んでも、彼らはあなたに答えまい。 エレミヤ書 7:28 そこであなたは彼らに言え。この民は、自分の神、ヤーエの声を聞かず、懲らしめを受けなかった民だ。真実は消えうせ、彼らの口から断たれた。 エレミヤ書 7:29 『あなたの長い髪を切り捨て、裸の丘の上で哀歌を唱えよ。ヤーエは、この世代の者を、激しく怒って、退け、捨てたからだ。』 エレミヤ書 7:30 それは、ユダの子らが、わたしの目の前に悪を行なったからだ。――ヤーエの御告げ。――彼らは、わたしの名がつけられているこの家に自分たちの忌むべき物を置いて、これを汚した。 エレミヤ書 7:31 また自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテに高き所を築いたが、これは、わたしが命じたこともなく、思いつきもしなかったことだ。 エレミヤ書 7:32 それゆえ、見よ、その日が来る。――ヤーエの御告げ。――その日には、もはや、そこはトフェテとかベン・ヒノムの谷と呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。人々はトフェテに、余地がないほどに葬る。 エレミヤ書 7:33 この民のしかばねは、空の鳥、地の獣のえじきとなるが、これを追い払う者もない。 エレミヤ書 7:34 わたしは、ユダの町々とエルサレムのちまたから、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす。この国は廃墟となるからである。 エレミヤ書 8:1 その時、――ヤーエの御告げ。――人々は、ユダの王たちの骨、首長たちの骨、祭司たちの骨、預言者たちの骨、エルサレムの住民の骨を、彼らの墓からあばき、 エレミヤ書 8:2 それらを、彼らが愛し、仕え、従い、伺いを立て、拝んだ日や月や天の万象の前にさらす。それらは集められることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。 エレミヤ書 8:3 また、この悪い一族の中から残された残りの者はみな、わたしが追い散らした残りの者のいるどんな所でも、いのちよりも死を選ぶようになる。――万軍のヤーの御告げ。――」 エレミヤ書 8:4 あなたは、彼らに言え。ヤーエはこう仰せられる。「倒れたら、起き上がらないのだろうか。背信者となったら、悔い改めないのだろうか。 エレミヤ書 8:5 なぜ、この民エルサレムは、背信者となり、背信を続けているのか。彼らは欺きにすがりつき、帰って来ようとしない。 エレミヤ書 8:6 わたしは注意して聞いたが、彼らは正しくないことを語り、『私はなんということをしたのか。』と言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない。彼らはみな、戦いに突入する馬のように、自分の走路に走り去る。 エレミヤ書 8:7 空のこうのとりも、自分の季節を知っており、山鳩、つばめ、つるも、自分の帰る時を守るのに、わたしの民はヤーエの定めを知らない。 神の望みは、『民の幸せ』であると知っているなら、『自分の子供達を犠牲にしろ』という命令など発するだろうか? 「私にイサクを捧げなさい」と神が告げた時、神は『二つの顔を持つ』と考えていた昔の人々も、天に二つの勢力があって、両者に鬩ぎ合いがある・・・という理解にまで至らなかった。 しかし現代では、「それが『イエス』と『サタン』である」という理解がある。 さらに、「サタンの勢力は、天の会議からは締め出された」という理解も得ている。 この中で、「人間の犠牲」を説く人々は、あらゆる意味で孤立するだろう。
2012年03月21日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ イスラムの自爆テロ 「人間の犠牲」を最も嫌う聖書の神は、明確にそれを禁じている。 その点で、イスラムの「自爆精神」は受け入れてもらえない。 むしろ彼らへの風当たりは強くなるだろう。 犠牲を続ければ続けるほど、神が敵対するようになるからだ。 人の犠牲は一つだけ 人間の犠牲が、どうしても必要だったのは『贖い』であった。 このために、ただ一人、キリスト・イエスが捧げられた。 マタイ 20:28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」・・・ 人間の犠牲は、この時点で終っている キリストの犠牲は、「人類の贖い」という高級なものであり、これ一つがすべての犠牲を終らせた。それほど重いものだった。 神が要求した『獣』の犠牲が、『象徴である』と気付かない勘違いの人々が、古今東西人間を犠牲として捧げ続けた歴史がある。 「プレインカ」や、その他の文明の中で「人身御供」の痕跡が残っている。 それらは、現在も「廃墟」のままだ。 これが、神の怒りに触れた「歴史上の証拠」である。 角を絡めた獣 アメリカと日本に出現した黙示録の獣達は、イラクという藪に、角を絡めてしまった。 聖書には、この出来事の「これから」を予言する記述がある。 創世記 22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。※『神は』という記述に注目できる。それが誰なのかが明記されていない。 創世記 22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」 創世記 22:3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。 創世記 22:4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。 創世記 22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。 創世記 22:6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。 創世記 22:7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」 創世記 22:8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。 創世記 22:9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。 創世記 22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。 創世記 22:11 そのとき、ヤーエの使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」 創世記 22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」 創世記 22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。※現在はこれが成就する一歩手前だろう。 やがて『獣』は屠「ほふ」られることになるのだが、どのような形かは不明である。これから大事件が起きる予感もある。 しかし、この「『獣』にとっての難儀」は、『イサク』にとっては救いとなる。 創世記 22:14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。 創世記 22:15 それからヤーエの使いは、再び天からアブラハムを呼んで、 創世記 22:16 仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、 創世記 22:17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。 創世記 22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 創世記 22:19 こうして、アブラハムは、若者たちのところに戻った。彼らは立って、いっしょにベエル・シェバに行った。アブラハムはベエル・シェバに住みついた。・・・ ○『アブラハム』は、『一人子』を護る守護神。 ○『イサク』は、その守護神に守られる『岩陰のイスラエル』。 昨年の秋から正月にかけて、見えない世界でこの『鬩(せめ)ぎ合い』があったと思われる。大和民族は寸でのところで難を逃れた。 その意味で、今年(2005年?)の正月は『大いなる過ぎ越し』だったと言えるだろう。 年末年始の激動は、偶然とは思えない。 その後、アブラハムが目を上げると、『藪』に角を絡めた『獣』が目に入る。 アブラハムの手が、これを屠「ほふ」るだろう。 これからも、不思議な事柄が連続することになる。
2012年03月21日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ 乗り手は変化する こうして、女はひどい目にあったため、その影響力は低下した。しかし、依然として存在は許されている。しかも、その女を追い落とした進化論そのものが、女の地位に座って君臨し、世界の人々の心を支配している。そして、その進化論もまた、自分自身を支えてきた科学界の新たな発見により、葬り去られる日が近付いているのだ。最新科学は、「神の存在」を検知し始めているからである。 このように、「女」についての現在の解釈は、「キリスト教(また、キリスト教を奉じる世界強国)」であり「進化論」であり、「偽の宗教全体」であるという複雑な形態に推移している。 こうして、何重にも意味を重ねられた「女」の実体は重複して存在しているが、絶滅は同時に起きる。つまり、この「多重の大淫婦」の息の根は、近い将来連動して停止させられるだろう。それは、傍観者達に「気の毒だ、気の毒だ・・・」と嘆かせるほどの「大事件」となるに違いない。 こうして、ここまでの考察で、黙示録の17章の「獣」は、「機械」であり「科学」であり「進化論」であるという理解が得られている。しかし、大淫婦を覆す最後の征服者は、メディアの王となるだろう。これについては、別の考察に記されている。 獣の終る時―人間の犠牲は必要か? 『獣』の末路 「獣」という表現を考えた。 彼らは「弱者」を食う 「獣」は「弱った獲物」を狙う。 弱い子供や、老齢の獲物を狙う。 現在のような、子供や老人を食い物にする社会は、「獣の社会」と言えるだろう。 好き勝手に行動 「獣」が鎖を解かれると、何をするかわからない。 言い聞かせようとしても、聞く耳を持たない。 自分が望んだとおりに行動し、後始末は周囲に押し付ける。 裏切り 「獣」に「約束」など存在しない。 以前の約束に対してはこう言う。 『たいしたことではない』。 「言う事」と「やる事」が違っても、いっこうに反省しない。 彼に何かを任せるほど、危ない話はない。・・・ こうした人間を、神は『獣』と呼んだ。 獣の生贄 聖書では、一つの決まり事がある。 イスラエル民族は、ずっと獣の犠牲を捧げていた。 それは、神からの要求だった。 レビ記 3:6 主への和解のいけにえのためのささげ物が、羊である場合、雄でも雌でも傷のないものをささげなければならない。 レビ記 3:7 もしそのささげ物として子羊をささげようとするなら、その人はそれを主の前に連れて来なさい。 レビ記 3:8 ささげ物の頭の上に手を置き、会見の天幕の前でこれをほふりなさい。アロンの子らは、その血を祭壇の回りに注ぎかけなさい。 レビ記 3:9 その人はその和解のいけにえのうちから、主への火によるささげ物として、その脂肪をささげなさい。すなわち背骨に沿って取り除いたあぶら尾全部と、内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、 レビ記 3:10 二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とである。 レビ記 3:11 祭司は祭壇の上でそれを食物として、主への火によるささげ物として、焼いて煙にしなさい。 レビ記 3:12 もしそのささげ物がやぎであるなら、その人はそれを主の前に連れて来なさい。 レビ記 3:13 ささげ物の頭の上に手を置き、会見の天幕の前でこれをほふりなさい。そしてアロンの子らは、その血を祭壇の回りに注ぎかけなさい。 レビ記 3:14 その人は、主への火によるささげ物として、そのいけにえから内臓をおおっている脂肪と、内臓についている脂肪全部、 レビ記 3:15 二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とをささげなさい。 レビ記 3:16 祭司は祭壇の上でそれを食物として、火によるささげ物、なだめのかおりとして、焼いて煙にしなさい。脂肪は全部、主のものである。 レビ記 3:17 あなたがたは脂肪も血もいっさい食べてはならない。あなたがたが、どんな場所に住んでも、代々守るべき永遠のおきてはこうである。」 レビ記 4:1 ついで主はモーセに告げて仰せられた。 レビ記 4:2 「イスラエル人に告げて言え。もし人が、主がするなと命じたすべてについてあやまって罪を犯し、その一つでも行なった場合、 レビ記 4:3 もし油そそがれた祭司が、罪を犯して、民に罪過をもたらすなら、その人は、自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして主にささげなければならない。 レビ記 4:4 その雄牛を会見の天幕の入口の所、主の前に連れて来て、その雄牛の頭の上に手を置き、主の前にその雄牛をほふりなさい。 レビ記 4:5 油そそがれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持ってはいりなさい。 レビ記 4:6 その祭司は指を血の中に浸し、主の前、すなわち聖所の垂れ幕の前に、その血を七たび振りかけなさい。 レビ記 4:7 祭司はその血を、会見の天幕の中にある主の前のかおりの高い香の祭壇の角に塗りなさい。その雄牛の血を全部、会見の天幕の入口にある全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければならない。 レビ記 4:8 その罪のためのいけにえの雄牛の脂肪全部を、それから取り除かなければならない。すなわち、内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、 レビ記 4:9 二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とを取り除かなければならない。 レビ記 4:10 これは和解のいけにえの牛から取り除く場合と同様である。祭司はそれらを全焼のいけにえの祭壇の上で焼いて煙にしなさい。 レビ記 4:11 ただし、その雄牛の皮と、その肉の全部、さらにその頭と足、それにその内臓と汚物、 レビ記 4:12 その雄牛の全部を、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、たきぎの火で焼くこと。これは灰捨て場で焼かなければならない。・・・ これら一つ一つの行為に意味があった。 そのうち、いくつかは判明しているが、また別の機会に 神が「獣の犠牲」を要求したのはなぜだろうか? それは、「終わりの日」に神が「獣を糾弾する」からである。 ゼパニヤ書 1:7 神であるヤーエの前に静まれ。主の日は近い。主が一頭のほふる獣を備え、主に招かれた者を聖別されたからだ。 ゼパニヤ書 1:8 主が獣をほふる日に、わたしは首長たちや王子たち、外国の服をまとったすべての者を罰する。 ゼパニヤ書 1:9 その日、わたしは、神殿の敷居によじのぼるすべての者、自分の主人の家を暴虐と欺きで満たす者どもを罰する。・・・ 殺され、火で焼かれる『獣』は、「糾弾を受ける人間」に相当する。 国であれば、戦火に包まれる 神の目から見て『獣』と判断された人々は、その時辛い目にあうだろう。 黙示録 19:20 すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。 「死」によって彼の意識は途絶えるが、その後永遠に汚名が歴史に残される。人々は思い出しては彼らを糾弾する。 それが、神の「火あぶり」である。硫黄の火は消えることがない。 ヒトラーや、日本の政治家達は、すでに全世界で焼かれている。 その火は「煙」を立ち昇らせる。 『煙』は、祈りにも共通の「思念」であり、人間社会から立ち昇る精神的な煙である。 神は「正義の煙」を好み、「積年の憂鬱」を晴らす。 こうして、神の目的は達成されるだろう。 ------------------------------ 追加: 「神が獣の犠牲を喜ぶなら、人間を捧げよう」 「そうすれば神は、もっと喜んでくださるだろう」 こうした考えを持つ人々がいる。 しかしそれは、思い違いである。 神が憎むのは『獣』(獣になぞらえた人間)であるので、「獣」以外の犠牲は喜ばれない。 まして、人間の犠牲を捧げたりすれば、神は烈火のごとく怒るだろう。※バールやモレクなどの偽神に、人間の犠牲を捧げる人々がいた。この勘違いに、神は腹を立てた。 レビ記 18:21 また、あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしはヤーエである。・・・ しかしここで神が怒るのは、「自分以外の偽神に捧げたから」・・・という意見があるだろう。つまり、それは『嫉妬』からであると。 では、「自分に向けた人間の犠牲」なら、神は喜ぶのだろうか? もちろんそんなことはない。
2012年03月16日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ アモス書 5:25 「イスラエルの家よ。 あなたがたは、荒野にいた四十年の間に、ほふられた獣とささげ物とをわたしにささげたことがあったか。・・・ 次に、「肉食獣」について考えてみよう。聖書での肉食獣は、「牙」に例えられている。 ヨエル書 1:6 一つの国民がわたしの国に攻め上った。力強く、数えきれない国民だ。 その歯は雄獅子の歯、それには雄獅子のきばがある。 獣は使役するもの このように、「獣」という表現は、牛や鹿のような草食獣で、おとなしく、草を食べる存在に適用された。ヘブライ人達がいけにえにする獣は、主に「牛や羊」であったので、彼らが「獣」と聞けばそれらを想像したかもしれない。 また、「牛」はその力を利用して畑を耕し、荷を運ぶ使役動物だった。つまり、「獣」は「使役するもの」という意味も含んでいる。それなら、現代人が利用している「各種の機械」も昔の人から見れば「獣」である。 文明の中の「獣」 最初の蛇(サタン)は、人間に文明を与えた。その文明の初期には、本物の獣が労働を行っていたが、近代では「機械」がそれを肩代わりするようになった。この意味で、黙示録の「獣」は機械文明における「機械」を指しているように思える。 それらは実際、人間を補助して多くの仕事をこなしている。蒸気機関、内燃機関、電気モーターや、それを使った、鉄道、自動車、飛行機、建設機械・・・・など、多種多様である。 「機械」が登場してからは、人間の生活も飛躍的に向上した。しかし、昔の人々はその存在すら知らなかった。彼らに、陸上を走る「鉄の馬」や、空を飛ぶ「金属の鳥」を説明しても理解されないだろう。 結局彼らには、「今はいない獣」・・・と説明するしかない。では、「昔いたが」とは、どういう意味なのだろう? 昔いた獣 黙示録の中の、「その獣は昔いた」という意味の記述については、「オーパーツ」を抜きにしては語れない。それは、現代文明の謎とされている。しかし、あまりに奇妙な出土物であるので、ハナから無視する学者もいる。 出土した「スパークプラグ?」 説明のできない不思議な「晶洞石」が発掘された。アメリカのカリフォルニア州オランチャの北東約10キロにはコソ山脈がある。 1961年2月13日に、男女3人の鉱石収集家がそこで上記の石を発掘した。「晶洞石」とは石灰質や粘土質の岩の中にできる球状の岩石である。内部は中空で、内面に水晶の結晶やめのうのきれいな文様が生じたものがある。これを半分に切断したものが、各地のみやげ物店で売られている。この三人も、オランチャ市で、宝石貴石の店を共同経営している。 この日彼らは、水の干上がったオーヴェンズ湖に近い峰の頂上付近で岩石標本を漁っていた。そこにその不思議な石が出土したのである。外殻部分に貝の化石の破片が埋まっていた。 店に持ち帰った翌日、いつものように石を切断してみると、それはやけに硬かった。ダイヤの丸鋸でも切断に長時間を要した。それは、新しかったその刃がぼろぼろになったほどだった。 彼は驚いた。普通は中空なのだが、これは中身が詰まっていた。切断面に、直系2センチほどの白い円筒が見える。その中心には2ミリほどのシャフト(心棒)があった。それはまるで、ガソリンエンジンのスパークプラグを輪切りにしたような断面だった。 事実、X線写真を撮ってみると、機械部品としか思えない形状が浮かび上がった。シャフトにはスプリングかコイルのように見える金属が接続されている。シャフトの材質は不明だが、切断面の色は真鍮に似ていた。それは5年後も曇る事がなかったという。 地質学者が、外殻の岩に付いていた貝の化石を調べると、50万年前の原始貝の一種だった。この年代測定が正しければ、人類出現よりはるか前の「部品」という事になる。これは、25万ドルの価値があるとして、3人のうちの一人であるウォーリー・レーンが所有している。南山 宏著 オーパーツの謎 P64 飛翔する黄金シャトル 昔から、世界中に残る伝説がある。「太古の人間は空を飛んだ」というものだ。日本神話の、「天の磐船」(鳥船)、古代インドの「ヴィマーナ」(飛行車)、古代エジプトのラーの目(太陽の船)、オーストラリア・アボリジニやプレインカの「鳥人」(有翼人)など、世界中に色々な形で伝わっている。 問題の物体は、南米コロンビアの首都ボゴタの黄金博物館に展示されている。コロンビアの考古学界では、これは西暦500年から800年頃のシヌー文化のものだと考えている。大きさは長さ6センチ、幅は5センチ、厚みは1.5センチ程度である。それは金のペンダントのようだ。何かの模型をアクセサリーにする事は、古今東西で行われているが、これもその種のものだろう。しかし、何をかたどっているのか? 「黄金シャトル」と題したように、これはまるでデルタ翼のジェット機の形そっくりなのである。実際、「航空機だ」と仮定して見ると、コックピットや主翼の形、胴体、垂直尾翼、水平尾翼、風防、エンジンの空気取り入れ口、補助翼、昇降舵は現代のものと同じ形状である。ただ、着陸灯やエンジンレイアウトが違っているように見える。また、専門家の目による空気力学的評価にも耐えるそうである。 専門家の中には、「これは水陸両用の潜水飛行機だ」と分析する者もいる。それは、デルタ翼の形状が、潜水に適した「端が下がった形」だったからである。更には、これは上空から滑空して降りてくるシャトルの形状だと述べる学者もいる。ナスカの地上絵との関連が、興味深い。 耕耘機もあった? 黄金シャトルと同時期のオーパーツがある。パナマのコークレ地方で発掘され、米国フィラデルフィア市のペンシルヴェニア大学博物館に展示されている「黄金ブルドーザー」である。 全長は12センチほどの小さな像だが、何とも機械じみた形状をしている。爪を立てて襲いかかろうとする動物のようにも見えるが、どんな動物にも似ていない。その爪は、もぐらのようであり、尾は長方形である。歯車のように見える車輪が尾の先端に付いている。オーパーツの名付け親であるアメリカの動物学者、故アイヴァン・サンダーソンは、これを「黄金ドーザー」と呼んだ。 これ以外にも、様々な「機械」が、古代社会に満ちて働き続けていたようである。 背景の考察 現代文明で使役されている機械は、トラックにしても機関車にしても、それほど動物という形を意識しない。しかし、車の顔だけは、ヘッドライトを動物の目に見立てて構成されている。人間は「一つ目」という形状には馴染まないからだろう。 しかし、古代の人々は機械一つにしても、非常に動物を意識してデザインしていたようである。建設機械なども地上の獣を模(かたど)っていたようだ。冷戦当時のアメリカ空軍の戦闘機には、目や口をペインティングしているものが多かったが、ちょうど「あの精神」だろう。 それだけ、古代の人々は「余裕」があったのかもしれない。社会全体に、「遊び感覚」が満ちていたとも考えられる。 ではもし、遠い昔にそのような世界が広がっていたとしたら、どうして現代社会に伝わらなかったのだろうか?それは、何らかの「伝達遮断事件」があったと考えられる。これは、学者達がいつも跨いで通ろうとする盲点である。 伝達遮断=大洪水? 一つの事柄を仮定して、それ以後数多くの説明ができるようになれば、その仮定は正しいとされる。しかし、その正しいとされた仮定を覆すには、相当な証拠がなければならない。ここでは、「太古の文明は機械文明であり、現代を凌駕するほどの高度なものであった」・・・とする仮定を据えてみよう。 しかし現代のアカデミズムは、「気に入らない」とか「ばかげている」とか「信じられない」といった「気分」によってこうした説を否定し続けている。「現代に伝わっていない」「証拠が少ない」という点が不満なのだろうか? 「太古のハイテク文明」がいくら事実であっても、「伝達遮断の大事件」が起きれば、それらの歴史はことごとく、「神話、伝説」の部類となり証拠もがっくりと減ってしまう。 しかし証拠が「皆無」でない以上、「その少なさ」は否定の根拠とはならない。むしろそれは、伝達遮断の大事件が起きた状況を物語っていると考えられるのだ。そして、その「大事件」として一番理に適った説明は、「地球規模の大洪水」を置いて他に無い。これは、聖書の中に明確に語られている。 同じ聖書は、「その獣は昔いたが今はおらず、将来出現する」と予言している。この記述は、「獣は機械文明」というキーワードを当てはめた時、今までの謎を一挙に解消してくれる。さらに、この理解は新たな理解を産む。「この聖句は過去に一度、成就を見ている」のである。 獣は女を憎む この、黙示録17章の中には、獣に乗った大淫婦が出てくるのだが、この獣は自分の上に乗った女と相性が悪いらしい。最後には、女(大淫婦)を憎んで滅ぼしてしまう。その部分を抜粋してみよう。 黙示録 17:16 あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。 黙示録 17:17 それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行なう思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。 黙示録 17:18 あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」・・・ 他の考察でこの女の正体は詳しく述べているが、これは主に創造論を掲げる「キリスト教」に当てはまる。キリスト教が世界を制覇したのは、グーテンベルグの印刷技術に負うところが大きかった。この技術は当時のハイテクであり、「バイブル」という語も、印刷した紙を束ねた「本」という意味と同義である。このメディア無くして、その拡大はあり得なかった。 ゆえに、この獣は「機械を産み出した近代科学」と見る事もできる。聖書の記述にはこのように、多重の意味が含まれているからだ。すると、この女は既に一度、獣から「手痛い目」に遭わされている。 その女(キリスト教)は、その近代科学技術に腰掛けてそれを利用してきたが、ある時から科学界が産み出した「種の起源(進化論)」によって権威を失墜させられてしまうのである。 近代科学と手をつないだダーウィンの進化論が、それまで力を持っていた創造論をほとんど駆逐してしまった。近代に打ち出された進化論は、圧倒的権威を保っていたキリスト教全体を揺さぶり、ほとんど葬るところまで追い込んだ。 黙示録17章16節は、そのような形で一度成就している。また、当時これが成就した18節の大きな都とは、キリスト教の総本山であるバチカンだろう。僧職者の権威は、全世界に広がった進化論によって、一度崩壊した。中世ヨーロッパで実現していたような強い力は二度と戻りそうに無い。
2012年03月16日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ ルベンの行く末 創世記 49:3 ルベンよ。あなたはわが長子。 わが力、わが力の初めの実。 すぐれた威厳とすぐれた力のある者。 創世記 49:4 だが、水のように奔放なので、 もはや、あなたは他をしのぐことはない。 あなたは父の床に上り、 そのとき、あなたは汚したのだ。 ――彼は私の寝床に上った。―― ・・・ このように、ルベンには不道徳の罪があった。そのため、イスラエルは彼が鳴かず飛ばずの状態に甘んじることを告げている。現在の地上では、少数民族となっているだろう。 シメオンとレビの行く末 創世記 49:5 シメオンとレビとは兄弟、 彼らの剣は暴虐の道具。 創世記 49:6 わがたましいよ。彼らの仲間に加わるな。 わが心よ。彼らのつどいに連なるな。 彼らは怒りにまかせて人を殺し、 ほしいままに牛の足の筋を切ったから。 創世記 49:7 のろわれよ。彼らの激しい怒りと、 彼らのはなはだしい憤りとは。 私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。 ・・・ ヤコブを悩ませたほど、シメオンとレビの傍若無人はひどいものだったようだ。彼らもまた、大きな国民となることはない。イスラエルの各部族の中に、少数派として混じることになるのだろう。つまり彼らは今で言う「武闘派」である。 しかし本当の武闘派は、ユダ族だ。彼らは「王権」を与えられる。 ユダの行く末 創世記 49:8 ユダよ。兄弟たちはあなたをたたえ、あなたの手は敵のうなじの上にあり、あなたの父の子らはあなたを伏し拝む。 創世記 49:9 ユダは獅子の子。 わが子よ。あなたは獲物によって成長する。 雄獅子のように、また雌獅子のように、彼はうずくまり、身を伏せる。 だれがこれを起こすことができようか。 創世記 49:10 王権はユダを離れず、統治者の杖はその足の間を離れることはない。 ついにはシロが来て、国々の民は彼に従う。 創世記 49:11 彼はそのろばをぶどうの木につなぎ、その雌ろばの子を、良いぶどうの木につなぐ。 彼はその着物を、ぶどう酒で洗い、その衣をぶどうの血で洗う。 創世記 49:12 その目はぶどう酒によって曇り、その歯は乳によって白い。 ・・・ 統治者の杖が離れないと言う意味は、彼らが王統に徹するという意味だろう。杖は牧羊を行うための道具で、宗教的な意味合いを持つ。つまり、王は王でも、祭司王のことだ。 ここで、ユダが「獅子」に例えられているが、これが民族を見る神の目なのかもしれない。逆に言えば、「獣」という表現があれば、それは「民族」を意味しているのかもしれない。 そのほかの例も見てみよう。 ゼブルンの行く末 創世記 49:13 ゼブルンは海辺に住み、そこは船の着く岸辺。 その背中はシドンにまで至る。 ・・・ 彼らは、漁業に従事するのだろうか? あるいは、海洋民族となって、貿易に精を出すのだろうか? 今のところ、民族までは特定できない。 イッサカル 創世記 49:14 イッサカルはたくましいろばで、彼は二つの鞍袋の間に伏す。 創世記 49:15 彼は、休息がいかにも好ましく、その地が、いかにも麗しいのを見た。 しかし、彼の肩は重荷を負ってたわみ、苦役を強いられる奴隷となった。・・・ 彼らイッサカルは、あまり楽な境遇にはならないようだ。下積みの労働を引き受ける民族となっているだろうか? それはどこの民族だろうか? ただ、ここでも「ロバ」という例えがある。動物・・・つまり「獣」に相当する表現だ。イッサカル民族=ロバ=獣 ということになる。では、それ以外の動物も出現するだろうか? ダンの行く末 創世記 49:16 ダンはおのれの民をさばくであろう、イスラエルのほかの部族のように。 創世記 49:17 ダンは、道のかたわらの蛇、小道のほとりのまむしとなって、 馬のかかとをかむ。 それゆえ、乗る者はうしろに落ちる。 創世記 49:18 ヤーよ。私はあなたの救いを待ち望む。・・・ ここで出現するのは「蛇」であり、それは獣と表現できそうにない。しかしやはり聖書では「蛇も獣」なのだ。創世記には、このように書かれている。 創世記 3:1 さて、神であるヤーが造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」・・・ 「蛇は野の『獣』」に数えられているのである。 では、馬の乗り手を後ろに落とすという「マムシ」である「ダン」は、いったいどこの民族だろうか? これもまた不明だが、自分より強力な軍に向かって攻撃を仕掛け、これを悩ませることだけは確かだろう。 ガドの行く末 創世記 49:19 ガドについては、襲う者が彼を襲うが、彼はかえって彼らのかかとを襲う。・・・ 「ガド」にも「ダン」のような強い闘志があるが、「マムシの一撃」のような力は見られないのかもしれない。つまり、「撃退するまでには至らない」という意味だろうか? アシェルの行く末 創世記 49:20 アシェルには、その食物が豊かになり、彼は王のごちそうを作り出す。・・・ 食物に不足しない。王に治められる。これは、宮廷料理人のようだが、民族としては熱帯に済む種族となって、小さな王国に暮らすのだろうか? 今は不明。 ナフタリの行く末 創世記 49:21 ナフタリは放たれた雌鹿で、美しい子鹿を産む。・・・ 彼らナフタリ族も「獣」で表現されている。「雌鹿」である。その意味は、騎馬民族などの遊牧民なのだろうか?美しい子鹿は、子孫達の繁栄を意味するのだろうか? ヨセフの行く末 創世記 49:22 ヨセフは実を結ぶ若枝、泉のほとりの実を結ぶ若枝、その枝は垣を越える。 創世記 49:23 弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。 創世記 49:24 しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。 これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。 創世記 49:25 あなたを助けようとされる あなたの父の神により、また、あなたを祝福しようとされる全能者によって。 その祝福は上よりの天の祝福、下に横たわる大いなる水の祝福、乳房と胎の祝福。 創世記 49:26 あなたの父の祝福は、私の親たちの祝福にまさり、永遠の丘のきわみにまで及ぶ。 これらがヨセフのかしらの上にあり、その兄弟たちから選び出された者の頭上にあるように。・・・ とりわけ祝福を受けているのは、このヨセフだろう。彼の選びは神からのものであり、ヤーエはいつまでもヨセフの子孫を世話してくれるのだ。 不思議なのは、彼が「獣」ではなく「若枝」で例えられているところである。それはおそらく、「宗教組織」に関連した表現で、「獣を養う側」であるという意味かもしれない。神の教えが彼ら民族の中で保存され、受け継がれて行くのだろうか? 「乳房と胎の祝福」とは、「多産」「民族増加」を意味するのだろう。すると現在は、相当な人口を抱える大国となっていなければならない。 ベニヤミンの行く末 創世記 49:27 ベニヤミンはかみ裂く狼。 朝には獲物を食らい、夕には略奪したものを分ける。」 創世記 49:28 これらすべてはイスラエルの部族で、十二であった。これは彼らの父が彼らに語ったことである。彼は彼らを祝福したとき、おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。・・・ 「ベニヤミン」も狼(獣)とされている。「獲物」、「略奪」、「狼」という表現が、連想させるものはあまり良いイメージではない。それは、盗賊であり侵略者であり、強奪組織となってしまうからだ。あるいは「外交上での駆け引き」が得意な国家だろうか? 上記聖句全体から、「獣」は一人の祖先を通してでた人々・・・つまり「人種である」と結論できるかもしれない。神の目が、ヤコブを通して民族の祖先を「獣」に例えたとするなら、その子孫である民族全体もまた「獣」ではないだろうか? こうして一つの仮定・・・つまり、「獣=民族」という図式が登場することになった。ただし、民族の先祖である一人の人間を「様々な獣」に例えているため、「一人の人間=獣とする」選択肢もまた可能である。 ではこれからは、この仮定を、いろいろな聖句に当てはめて使うことにしよう。 ⇒獣の謎-13章 「獣」とは何か?-17章 黙示録17章の中の獣 以下の聖句には、謎の獣の記述がある。この意味を考えてみよう。 黙示録 17:8 あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上って来ます。そして彼は、ついには滅びます。地上に住む者たちで、世の初めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現われるのを見て驚きます。・・・ 黙示録では「獣」とは何か? という謎がかなりの部分を占める。これが解けると、多くの部分も明るくなる。では色々な聖句を手がかりに考えてみよう。 獣は猛獣ではない? ヨエル書には、それが「草食獣」である事を思わせる聖句がある。 ヨエル書 2:21 地よ。恐れるな。楽しみ喜べ。ヤーが大いなることをされたからだ。 ヨエル書 2:22 野の獣たちよ。恐れるな。 荒野の牧草はもえ出る。 木はその実をみのらせ、いちじくの木と、ぶどうの木とは豊かにみのる。・・・ ヨエル書2章22節では、「野の獣達よ恐れるな」と記述され、その後で「草が萌え出る」と述べて、彼らに食料が行き渡る事を連想させている。よって彼らは草食獣である。このように、「野の獣」とある場合は、草や木の実を食べる草食獣のようである。しかし、もちろん聖句には「肉食獣」も登場する。ミカ書には、こう書かれている。 ミカ書 5:8 ヤコブの残りの者は異邦の民の中、多くの国々の民のただ中で、森の獣の中の獅子、羊の群れの中の若い獅子のようだ。 通り過ぎては踏みにじり、引き裂いては、一つも、のがさない。 ただの、「獣」とは違って、「森の獣の中の獅子」と表現され、詳しく説明が伴っている。説明無しに「獣」とあれば草食獣であり、「肉食獣」には、注釈が伴っている場合が多い。 以下は、ネブカデネザル王が狂気に満ちて獣のように野にさ迷った事件の記述である。4章15節では「草を獣と分けあう」と表現されている。ただ単に、「獣」という表現がされていた場合、「草を食べる獣」だという事だ。ネブカデネザル王はしばらくの間、正気を失って原野を徘徊し、「獣」と共に草を食べていた。 ダニエル書 4:14 彼は大声で叫んで、こう言った。『その木を切り倒し、枝を切り払え。その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え。 ダニエル書 4:15 ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、天の露にぬれさせて、地の草を獣と分け合うようにせよ。 ダニエル書 4:16 その心を、人間の心から変えて、獣の心をそれに与え、七つの時をその上に過ごさせよ。・・・ ここで述べられている「獣の心」とは、「狂気」というよりも、「無心」あるいは「無理解」という意味だろう。 また「獣=草食獣」という暗黙の了解は、以下のような記述にも見られる。ヘブライ人がいけにえとして神に捧げる「獣」には、肉食獣は決して含まれなかった。
2012年03月16日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ 「獣」人種論 神の目 神は、聖書の予言の中で、「獣」という言葉をどういった意味で使っているのだろうか? 特に、黙示録13章の「獣」に当てはまるものが何であるか定まらない。 そこで、創世記のイスラエル(ヤコブ)の予言からヒントを得ることにした。 創世記48章の中に、もはや老齢で病に落ちたヤコブが、死ぬ前に自分の子供達や孫達ヨセフの子供に祝福を与えながらその先行きを預言している場面がある。 注:ヤコブはイスラエルと改名しているが、記述ではそれらの名が無差別に使われている。 創世記 48:1 これらのことの後、ヨセフに「あなたの父上は病気です。」と告げる者があったので、彼はそのふたりの子、マナセとエフライムを連れて行った。 創世記 48:2 ある人がヤコブに告げて、「あなたの子ヨセフがあなたのもとにおいでです。」と言ったので、イスラエルは力をふりしぼって床にすわった。 創世記 48:3 ヤコブはヨセフに言った。「全能の神がカナンの地ルズで私に現われ、私を祝福して、 創世記 48:4 私に仰せられた。『わたしはあなたに多くの子を与えよう。あなたをふやし、あなたを多くの民のつどいとし、またこの地をあなたの後の子孫に与え、永久の所有としよう。』 創世記 48:5 今、私がエジプトに来る前に、エジプトの地で生まれたあなたのふたりの子は、私の子となる。エフライムとマナセはルベンやシメオンと同じように私の子にする。 創世記 48:6 しかしあとからあなたに生まれる子どもたちはあなたのものになる。しかし、彼らが家を継ぐ場合、彼らは、彼らの兄たちの名を名のらなければならない。 創世記 48:7 私のことを言えば、私がパダンから帰って来たとき、その途上カナンの地で、悲しいことに、ラケルが死んだ。そこからエフラテに行くには、なお道のりがあったが、私はエフラテ、すなわちベツレヘムへの道のその場所に彼女を葬った。」 創世記 48:8 イスラエルはヨセフの子らに気づいて言った。「これはだれか。」・・・ ヤコブは相当衰えていたが、まるで神に導かれるような不思議な力を発揮していた。 創世記 48:9 ヨセフは父に答えた。「神がここで私に授けてくださった子どもです。」すると父は、「彼らを私のところに連れて来なさい。私は彼らを祝福しよう。」と言った。 創世記 48:10 イスラエルの目は老齢のためにかすんでいて、見ることができなかった。それでヨセフが彼らを父のところに近寄らせると、父は彼らに口づけし、彼らを抱いた。 創世記 48:11 イスラエルはヨセフに言った。「私はあなたの顔が見られようとは思わなかったのに、今こうして、神はあなたの子どもをも私に見させてくださった。」 創世記 48:12 ヨセフはヤコブのひざから彼らを引き寄せて、顔を地につけて、伏し拝んだ。 創世記 48:13 それからヨセフはふたりを、エフライムは自分の右手に取ってイスラエルの左手に向かわせ、マナセは自分の左手に取ってイスラエルの右手に向かわせて、彼に近寄らせた。 創世記 48:14 すると、イスラエルは、右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。マナセが長子であるのに、彼は手を交差して置いたのである。 創世記 48:15 それから、ヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神。 きょうのこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神。 創世記 48:16 すべてのわざわいから私を贖われた御使い。 この子どもたちを祝福してください。 私の名が先祖アブラハムとイサクの名とともに、彼らのうちにとなえ続けられますように。 また彼らが地のまなかで、豊かにふえますように。」 ・・・ この時ヨセフは、イスラエルがどのような力を受けて行動しているかを知らなかった。それで、老齢ゆえの間違いだと思い込んで、イスラエルに修正をうながそうとした。通常は、右の手を長子の頭に置くのである。 創世記 48:17 ヨセフは父が右手をエフライムの頭の上に置いたのを見て、それはまちがっていると思い、父の手をつかんで、それをエフライムの頭からマナセの頭へ移そうとした。 創世記 48:18 ヨセフは父に言った。「父上。そうではありません。こちらが長子なのですから、あなたの右の手を、こちらの頭に置いてください。」 創世記 48:19 しかし、父は拒んで言った。「わかっている。わが子よ。私にはわかっている。彼もまた一つの民となり、また大いなる者となるであろう。しかし弟は彼よりも大きくなり、その子孫は国々を満たすほど多くなるであろう。」 創世記 48:20 そして彼はその日、彼らを祝福して言った。 「あなたがたによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。 『神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。』」 こうして、彼はエフライムをマナセの先にした。 ・・・ 兄であるマナセより、弟のエフライムに長子としての祝福を与えたのはなぜだろうか? 確かにイスラエルはエフライムの子孫が「国々を満たすほど多くなる」と預言している。 「国を満たす」ほど多くではなく、「『国々』を満たすほど」多くという部分が鍵だろう その意味が何であるかは、今のところ解らない。あるいは、「多国籍民族」となってあちこちの国々に同化して暮らすようになるのかもしれない。だとすると、エフライムこそが「アシュケナジーユダヤ」だということになるのだが、人種の違いが引っかかる。そのあたりもまだ不明である。 不思議なことに、「イスラエルでもあるヤコブ」が「イスラエル」について予言している。 「あなたがたによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。 『神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。』」 ・・・ これは、後のイスラエル12部族が、自分達の仲間の中で突出して増加した二つの部族「エフライム」と「マナセ」を特定できるようになった時の事を述べているようだ。その日には、この多人数のイスラエル部族がどの国であったかが知れ渡っている。中国あたりだろうか? 創世記 48:21 イスラエルはヨセフに言った。「私は今、死のうとしている。しかし、神はあなたがたとともにおられ、あなたがたをあなたがたの先祖の地に返してくださる。 創世記 48:22 私は、あなたの兄弟よりも、むしろあなたに、私が剣と弓とをもってエモリ人の手から取ったあのシェケムを与えよう。」・・・ これからヤコブは、自分の子供達に向かって預言を始める。それぞれの子供達はこれから、多くの国民の祖となるはずだった。ここでヤコブは、「終わりの日」という言葉を使っている。これこそ、今この時・・・つまり現代を指している。 創世記 49:1 ヤコブはその子らを呼び寄せて言った。「集まりなさい。私は終わりの日に、あなたがたに起こることを告げよう。 創世記 49:2 ヤコブの子らよ。集まって聞け。 あなたがたの父イスラエルに聞け。
2012年03月16日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ 軍神と日本(3) ヨシャパテ王への救い ユダ王国に、ヨシャパテという王がいた。 彼には「うかつ」な部分もあったが、真の神への崇拝には熱心だった。 歴代誌第二 19:4 ヨシャパテはエルサレムに住んだ。それから、彼はもう一度ベエル・シェバからエフライムの山地に至る民の中へ出て行き、彼らをその父祖の神、ヤーエに立ち返らせた。 歴代誌第二 19:5 さらに、彼はこの地、すなわち、ユダにあるすべての城壁のある町々にさばきつかさを立て、町ごとにこれを任命し、 歴代誌第二 19:6 さばきつかさたちにこう言った。「あなたがたは自分のする事に注意しなさい。あなたがたがさばくのは、人のためではなく、ヤーエのためだからです。この方は、さばきが行なわれるとき、あなたがたとともにおられるのです。 歴代誌第二 19:7 今、主への恐れがあなたがたにあるように。忠実に行ないなさい。私たちの神、ヤーエには、不正も、えこひいきも、わいろを取ることもないからです。」 歴代誌第二 19:8 なお、ヨシャパテはエルサレムでは、レビ人と祭司の中から、またイスラエルに属する一族のかしらたちの中から、主のさばき、および訴訟に携わる者たちを任命していた。エルサレムに帰ったとき、 歴代誌第二 19:9 彼はこの人々に次のように命じた。「あなたがたは、ヤーエを恐れ、忠実に、また全き心をもって、このように行なわなければなりません。 歴代誌第二 19:10 おのおのの町に住んでいるあなたがたの兄弟たちから、あるいは互いの流血事件について、あるいは律法、命令、おきて、定めなどについて、あなたがたのところに訴訟が持ち込まれた場合には、いつでも、あなたがたは、彼らがヤーエに対して罪を負い、その結果、あなたがたとあなたがたの兄弟たちの上に御怒りが下ることのないよう、彼らに警告を与えなければなりません。あなたがたはこのように行ないなさい。そうすれば罪を負わずに済むのです。 歴代誌第二 19:11 ご覧なさい。あなたがたの上のかしら、祭司アマルヤは、主の事がら全体に当たります。また、ユダの家のつかさイシュマエルの子ゼバデヤは王の事がら全体に当たってくれます。さらに、あなたがたの前のレビ人はつかさです。勇気を出して実行しなさい。ヤーエが善人とともにいてくださるように。」 彼が、その配下に発した命令は、神の観点から正しかった。彼の崇拝は神の心にかなった。そこで神は、ヨシャパテの危機に際して救いを施した。 歴代誌第二 20:1 この後、モアブ人とアモン人、および彼らに合流したアモン人の一部が、ヨシャパテと戦おうとして攻めて来た。 歴代誌第二 20:2 そこで、人々は来て、ヨシャパテに告げて言った。「海の向こうのアラムからおびただしい大軍があなたに向かって攻めて来ました。早くも、彼らはハツァツォン・タマル、すなわちエン・ゲディに来ています。」 歴代誌第二 20:3 ヨシャパテは恐れて、ただひたすらヤーエに求め、ユダ全国に断食を布告した。 歴代誌第二 20:4 ユダの人々は集まって来て、ヤーエの助けを求めた。すなわち、ユダのすべての町々から人々が出て来て、ヤーエを求めた。 歴代誌第二 20:5 ヨシャパテは、主の宮にある新しい庭の前で、ユダとエルサレムの集団の中に立って、 歴代誌第二 20:6 言った。「私たちの父祖の神、ヤーエよ。あなたは天におられる神であり、また、あなたはすべての異邦の王国を支配なさる方ではありませんか。あなたの御手には力があり、勢いがあります。だれも、あなたと対抗してもちこたえうる者はありません。 歴代誌第二 20:7 私たちの神よ。あなたはこの地の住民をあなたの民イスラエルの前から追い払い、これをとこしえにあなたの友アブラハムのすえに賜わったのではありませんか。 歴代誌第二 20:8 彼らはそこに住み、あなたのため、御名のために、そこに聖所を建てて言いました。 歴代誌第二 20:9 『もし、剣、さばき、疫病、ききんなどのわざわいが私たちに襲うようなことがあれば、私たちはこの宮の前、すなわち、あなたの御前に立って――あなたの御名はこの宮にあるからです。――私たちの苦難の中から、あなたに呼ばわります。そのときには、あなたは聞いてお救いくださいます。』 歴代誌第二 20:10 ところが今、アモン人とモアブ人、およびセイル山の人々をご覧ください。この者たちは、イスラエルがエジプトの地を出て来たとき、イスラエルがそこに侵入することをあなたがお許しにならなかった者たちです。事実、イスラエルは彼らから離れ去り、これを根絶やしにすることはしませんでした。 歴代誌第二 20:11 ご覧ください。彼らが私たちにしようとしていることを。彼らは、あなたが私たちに得させてくださったあなたの所有地から私たちを追い払おうとして来ました。 歴代誌第二 20:12 私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」 神は祈りに答えた。 神の霊が一人の人の上に下り、彼は神の意図を告げた。 歴代誌第二 20:13 ユダの人々は全員主の前に立っていた。彼らの幼子たち、妻たち、子どもたちも共にいた。 歴代誌第二 20:14 ときに、ヤーエの霊が集団の中で、アサフ族の出のレビ人ヤハジエルの上に臨んだ。彼はマタヌヤの子エイエルの子ベナヤの子ゼカリヤの子である。 歴代誌第二 20:15 彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。ヤーエはあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。 歴代誌第二 20:16 あす、彼らのところに攻め下れ。見よ。彼らはツィツの上り道から上って来る。あなたがたはエルエルの荒野の前の谷のはずれで、彼らに会う。 歴代誌第二 20:17 この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。ヤーエはあなたがたとともにいる。』」 歴代誌第二 20:18 それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダのすべての人々とエルサレムの住民もヤーエの前にひれ伏して主を礼拝し、 歴代誌第二 20:19 ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、ヤーエを賛美した。 さあ、「神の戦い」とはどのようなものなのか? すべての民が、それを知ることになった。 歴代誌第二 20:20 こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、ヤーエを信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」 歴代誌第二 20:21 それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「ヤーエに感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」 歴代誌第二 20:22 彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。 歴代誌第二 20:23 アモン人とモアブ人はセイル山の住民に立ち向かい、これを聖絶し、根絶やしにしたが、セイルの住民を全滅させると、互いに力を出して滅ぼし合った。 歴代誌第二 20:24 ユダが荒野に面した物見の塔に上ってその大軍のほうを見渡すと、なんと、死体が野にころがっている。のがれた者はひとりもない。 歴代誌第二 20:25 ヨシャパテとその民が分捕りをしに行くと、その所に、武具、死体、高価な器具を数多く見つけたので、これを負いきれないほど、はぎ取って、自分のものとした。あまりにも多かったので、彼らはその分捕りに三日かかった。 歴代誌第二 20:26 四日目に、彼らはベラカの谷に集まり、その所でヤーエをほめたたえた。それゆえ、人々はその所の名をベラカの谷と呼んだ。今日もそうである。 歴代誌第二 20:27 それから、ユダとエルサレムの人々はひとり残らず、ヨシャパテを先頭にして、喜びのうちにエルサレムに凱旋した。主が彼らに、その敵のことについて喜びを与えられたからである。 神は、その民を守った。 正しい信仰を保つ限り、神は臣民を捨てない。 ユダの民には、くすしい戦略もなく、重装備もなかった。 ただ、その神に祈っただけであった。 イスラエルが「正しい信仰」を保っていた時には必ず、神は祈りに答え応じ、強い敵から国を守ってくれた。 従って、神国に「莫大な軍事予算」や、「狡猾な戦略」は要求されない。 純粋でゆるぎない信仰だけが、必要とされていたのである。 歴代誌第二 20:28 彼らは、十弦の琴、立琴、ラッパを携えてエルサレムにはいり、主の宮に行った。 歴代誌第二 20:29 地のすべての王国が、ヤーエはイスラエルの敵と戦われたということを聞いたとき、神の恐れが彼らの上に臨んだ。 歴代誌第二 20:30 このようなわけで、ヨシャパテの治世は平穏であった。彼の神は、周囲の者から守って、彼に安息を与えられた。 神のもたらす平和は、このようにして永続する。 『軍神』は、ただ勝利を手助けする存在ではなく、勝利の後に「平和な時代」をもたらしてくれるのだ。 「万軍のヤー」の救いは、それほど完璧なものである。 付録:軍神はどこにいる? 神国の民は、どこに向かって祈るべきなのか? ヨシャパテが、どのように祈ったかを思い出そう。 歴代誌第二 20:9 『もし、剣、さばき、疫病、ききんなどのわざわいが私たちに襲うようなことがあれば、私たちはこの宮の前、すなわち、あなたの御前に立って――あなたの御名はこの宮にあるからです。――私たちの苦難の中から、あなたに呼ばわります。そのときには、あなたは聞いてお救いくださいます。』 『―あなたの御名はこの宮にあるからです。―』 ・・・この注釈は、とりわけ重要な部分である。 日本において、神の名を担う宮は『伊勢神宮』だ。 そこには、先祖から伝わる選民の神 『万軍のヤー』とその『御子』が祀られている。 一方、旧軍部が重んじたのは『靖国』だ。 しかし、その宮に『ヤーエ』はいない。 「万軍のヤー」に背を向けた軍が、どのようにして守られるというのか? 現人神(天皇)を『神』と位置付けた間違いも大きかったが、指導者が「ヤーエに背を向ける」という根本的な間違いを犯して戦った。 このため日本は、「その通りの結果」を受け取ったのである。
2012年03月16日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ サムエル記第一 17:20 ダビデは翌朝早く、羊を番人に預け、エッサイが命じたとおりに、品物を持って出かけた。彼が野営地に来ると、軍勢はときの声をあげて、陣地に出るところであった。 サムエル記第一 17:21 イスラエル人とペリシテ人とは、それぞれ向かい合って陣を敷いていた。 サムエル記第一 17:22 ダビデは、その品物を武器を守る者に預け、陣地に走って行き、兄たちの安否を尋ねた。 サムエル記第一 17:23 ダビデが兄たちと話していると、ちょうどその時、ガテのペリシテ人で、その名をゴリヤテという代表戦士が、ペリシテ人の陣地から上って来て、いつもと同じ文句をくり返した。ダビデはこれを聞いた。 サムエル記第一 17:24 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。 サムエル記第一 17:25 イスラエルの人たちは言った。「あの上って来た男を見たか。イスラエルをなぶるために上って来たのだ。あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」 サムエル記第一 17:26 ダビデは、そばに立っている人たちに、こう言った。「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」 サムエル記第一 17:27 民は、先のことばのように、彼を殺した者には、このようにされる、と答えた。 サムエル記第一 17:28 兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして、言った。「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。」 サムエル記第一 17:29 ダビデは言った。「私が今、何をしたというのですか。一言も話してはいけないのですか。」 サムエル記第一 17:30 ダビデはエリアブから、ほかの人のほうを振り向いて、同じことを尋ねた。すると民は、先ほどと同じ返事をした。 サムエル記第一 17:31 ダビデが言ったことを人々が聞いて、それをサウルに知らせたので、サウルはダビデを呼び寄せた。 サムエル記第一 17:32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」 サムエル記第一 17:33 サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」 サムエル記第一 17:34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、 サムエル記第一 17:35 私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。 サムエル記第一 17:36 このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」 サムエル記第一 17:37 ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださったヤーエは、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。ヤーエがあなたとともにおられるように。」 今やダビデの信仰は、誰のものよりも強い。しかし神は、彼を守るのか? サウル王はダビデの熱意に負けて、彼を送り出した。 サムエル記第一 17:38 サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。 サムエル記第一 17:39 ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」ダビデはそれを脱ぎ、 サムエル記第一 17:40 自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。 サムエル記第一 17:41 そのペリシテ人も盾持ちを先に立て、ダビデのほうにじりじりと進んで来た。 サムエル記第一 17:42 ペリシテ人はあたりを見おろして、ダビデに目を留めたとき、彼をさげすんだ。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。 サムエル記第一 17:43 ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。 サムエル記第一 17:44 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」 サムエル記第一 17:45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍のヤーの御名によって、おまえに立ち向かうのだ。 サムエル記第一 17:46 きょう、ヤーエはおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。 サムエル記第一 17:47 この全集団も、ヤーエが剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。ヤーエはお前たちをわれわれの手に渡される。」 神と神の戦い ペリシテ人の陣営にも神がいる。彼らはその神に戦勝を願った。 一方のイスラエルは、全地を治めるヤーエに望みを託す。 これはもはや、神と神との戦いとなった。 サムエル記第一 17:48 そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。 サムエル記第一 17:49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。 サムエル記第一 17:50 こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。ダビデの手には、一振りの剣もなかったが、このペリシテ人を打ち殺してしまった。 サムエル記第一 17:51 ダビデは走って行って、このペリシテ人の上にまたがり、彼の剣を奪って、さやから抜き、とどめを刺して首をはねた。ペリシテ人たちは、彼らの勇士が死んだのを見て逃げた。 サムエル記第一 17:52 イスラエルとユダの人々は立ち上がり、ときの声をあげて、ペリシテ人をガテに至るまで、エクロンの門まで追った。それでペリシテ人は、シャアライムからガテとエクロンに至る途上で刺し殺されて倒れた。 サムエル記第一 17:53 イスラエル人はペリシテ人追撃から引き返して、ペリシテ人の陣営を略奪した。 サムエル記第一 17:54 ダビデは、あのペリシテ人の首を取って、エルサレムに持ち帰った。武具は彼の天幕に置いた。 サムエル記第一 17:55 サウルは、ダビデがあのペリシテ人に立ち向かって出て行くのを見たとき、将軍アブネルに言った。「アブネル。あの若者はだれの子だ。」アブネルは言った。「王さま。私はあなたに誓います。私は存じません。」 サムエル記第一 17:56 すると王は命じた。「あなたは、あの少年がだれの子か尋ねなさい。」 サムエル記第一 17:57 ダビデが、あのペリシテ人を打って帰って来たとき、アブネルは彼をサウルの前に連れて行った。ダビデはペリシテ人の首を手にしていた。 サムエル記第一 17:58 サウルはダビデに言った。「若者。あなたはだれの子か。」ダビデは言った。「私は、あなたのしもべ、ベツレヘム人エッサイの子です。」 サムエル記第一 18:1 ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。 サムエル記第一 18:2 サウルはその日、ダビデを召しかかえ、父の家に帰らせなかった。 サムエル記第一 18:3 ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。 サムエル記第一 18:4 ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。 サムエル記第一 18:5 ダビデは、どこでもサウルが遣わす所に出て行って、勝利を収めたので、サウルは彼を戦士たちの長とした。このことは、すべての民にも、サウルの家来たちにも喜ばれた。・・・ 戦況を一気に覆した「ダビデの武勲」は、イスラエルの歴史と民の記憶に刻まれている。 そしてまた、「神は斯(か)く戦う」・・・という教訓も。 日本に流れる『正々堂々』の精神文化 一騎打ちで、面と向かって戦い、敵の武将の首をはねて「勝利の証」としているあたりは、日本の時代劇を思わせる。 それは、日本に流れる精神文化が、「古代イスラエルのもの」という一つの示唆に他ならない。西洋の中世などに見られる一騎打ちは、古代イスラエルから流れ込んだ精神文化だと考えている。 ダビデが叫んだ神の名前 「万軍のヤー」は、日本の神「八百万-ヤオヨロズ」と同じ意味を持つ。 従って日本は、「正々堂々」をバックボーンにした「イスラエル文化の国」なのである。 小手先の業はむなしい。 戦いは『神の力』で勝利する・・・ 神の民であるイスラエルにはそうした認識があった。そこでイスラエルの軍は、どの軍よりも「正攻法」を重んじた。 ダビデは真正面から向かっていったが、彼の投げた石が数センチ的をはずしていればゴリアテに殺されていただろう。 ダビデは「神の加護」を疑わなかった。 彼が普段から、神の示した「正道」を歩み続けていたからだ。 よって「正々堂々」は、「普段の生き方」を含めた「裏表のない人生」を意味する言葉である。 「正しく歩む者は、神の助けで勝利に導かれる」・・・ それは聖書の語る「法則」であり、古代の武将もまたこれを心得ていたのだ。 乱れた生活や、逸脱した背教に浸りこんだ愚か者が、神の加護を受けるはずもない。 イスラエルの歴史は、『その通り』を繰り返してきた。 今も昔も、神の民は清さを保ち、『正々堂々』と生きてこそ勝利を得るのである。 余談:神の民と取り締まり 「止まれ!」 「何ですか?」 「スピード違反だ!」 「汚いなあ」 彼が述べた『汚い』という言葉の意味は理解できるだろう。 物陰にこっそりと隠れて違反者を検挙する。 『汚い』は、この手法を指した評価である。 「正々堂々」から離れてしまえば、「正々堂々」を好む民から悪く評価されるのは当然だ。 ヤマト民族は、「正々堂々の民」だから、御上はその「手本」を示すものだと思っている。 天皇に直結する「御上」は、昔から「手本」とされてきた。 過去のある時期、交通警察は諸国民から取り締まり手法を学び、交通社会に『卑怯』を持ち込んだ。 だから民の心は、彼らを離れ去った。 それは神の摂理であり、「自業自得」というものである。 (現在、官僚は卑怯の代名詞となっている。)
2012年03月16日
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以下は引用のつづきである。++++++++++++++++++++++++++++++++++ エレミヤ書 14:17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は夜も昼も涙を流して、やむことがない。私の民の娘、おとめの打たれた傷は大きく、いやしがたい、ひどい打ち傷。 エレミヤ書 14:18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町にはいると、見よ、飢えて病む者たち。しかし、預言者も祭司も、地にさまよって、途方にくれている。』」 エレミヤ書 14:19 あなたはユダを全く退けたのですか。あなたはシオンをきらわれたのですか。なぜ、あなたは、私たちを打って、いやされないのですか。私たちが平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒しの時を待ち望んでも、なんと、恐怖しかありません。 エレミヤ書 14:20 主よ。私たちは自分たちの悪と、先祖の咎とを知っています。ほんとうに私たちは、あなたに罪を犯しています。 エレミヤ書 14:21 御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座をはずかしめないでください。あなたが私たちに立てられた契約を覚えて、 それを破らないでください。 エレミヤ書 14:22 異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。私たちの神、ヤーエよ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。 戦時中、日本の神はこれほど激しく怒っていた。 「義人のとりなし」さえも、無駄なものだった。 エレミヤ書 15:1 主は私に仰せられた。「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。 エレミヤ書 15:2 彼らがあなたに、『どこへ去ろうか。』と言うなら、あなたは彼らに言え。『主はこう仰せられる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、ききんに定められた者はききんに、とりこに定められた者はとりこに。』 エレミヤ書 15:3 わたしは四つの種類のもので彼らを罰する。――主の御告げ。――すなわち、切り殺すために剣、引きずるために犬、食い尽くし、滅ぼすために空の鳥と地の獣である。 エレミヤ書 15:4 わたしは彼らを、地のすべての王国のおののきとする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行なったことのためである。 エレミヤ書 15:5 エルサレムよ。いったい、だれがおまえをあわれもう。だれがおまえのために嘆こう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねよう。 エレミヤ書 15:6 おまえがわたしを捨てたのだ、――主の御告げ。――おまえはわたしに背を向けた。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに飽いた。 エレミヤ書 15:7 わたしはこの国の町囲みのうちで、熊手で彼らを追い散らし、彼らの子を失わせ、わたしの民を滅ぼした。彼らがその行ないを悔い改めなかったからだ。 エレミヤ書 15:8 わたしはそのやもめの数を海の砂よりも多くした。わたしは若い男の母親に対し、真昼に荒らす者を送り、にわかに、苦痛と恐怖を彼女の上に襲わせた。 エレミヤ書 15:9 七人の子を産んだ女は打ちしおれ、その息はあえいだ。彼女の太陽は、まだ昼のうちに没し、彼女は恥を見、はずかしめを受けた。また、わたしは、彼らの残りの者を彼らの敵の前で剣に渡す。――ヤーエの御告げ。――」 絶滅前の街中で、エレミヤが「悪い預言」をするので、彼は人々に嫌われていた。 ※このあたりは、象徴表現が重なっている。 ユダ王国の中でイエスが悪い預言をして嫌われた状況を同時に語っている。『昼に沈む太陽』とは『十字架のキリスト』であり、『女』は、「イエスの母マリア」だ。また、「イスラエル国家(神の女)」をも重ねている。 エレミヤ書 15:10 ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている。 エレミヤ書 15:11 主は仰せられた。「必ずわたしはあなたを解き放って、しあわせにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。 神はその民を絶滅へと向かわせた。 真昼に空爆を受けた『銃後の日本』もまた、『女』と表現されている。 エレミヤ書 15:12 だれが鉄、北からの鉄や青銅を砕くことができようか。 エレミヤ書 15:13 わたしは、あなたの財宝、あなたの宝物を獲物として、ただで引き渡す。それは、あなたの国中で、あなたが犯した罪のためだ。 エレミヤ書 15:14 わたしはあなたをあなたの知らない国で敵に仕えさせる。わたしの怒りによって火がつき、あなたがたに向かって燃えるからだ。」 こうして、神の国に対して、その神が怒った。 呪いは避けようもなく、神を忘れた国に襲い掛かる。 戦後、他の国に仕えるようになった日本。 その中にはまだ、『二つの座』がある だからこそ、再び『軍神』に触れた者は「同じ呪いを引き起こす」と予想できるのだ。 軍神と日本(2) ヤマトの文化は、「武道の精神」に裏打ちされている。 『正々堂々』である。 その昔、無敵と言われた『元』の軍隊が日本に押し寄せ、沖合いに陣取った。 浜辺では、ヤマト武士が馬に乗って相手に挑んでいた。 「やあやあ、我と一騎討ちをする者はいないか」 それは、日本古来の戦闘作法であった。 しかし「元」の兵士達は、集団で戦う。 そのような、武士の挑発に応じるはずもない。 彼らは、火薬を使った『飛び道具』まで所有しており、上陸すれば、日本は危なかったのだ。 ところで、「一騎打ち」は「正々堂々の精神」を象徴する。 その歴史は古く、元々は「古代ヘブライ」からの文化である。 ダビデとゴリアテ 旧約聖書には、「ダビデとゴリアテ(ゴリヤテ)の一騎打ち」が出てくる。 やがてイスラエルの王となるダビデは、恐ろしい敵であったゴリアテを相手に、「世紀の一戦」を経験している。 それは恐ろしい戦士であった。 体は巨大で、手にする武器も巨大。 まるでそれは、第二次大戦当時、ドイツの無敵戦車、「キング・タイガー」が、軍の前面に身構えているようなものである。 サムエル記第一 17:1 ペリシテ人は戦いのために軍隊を召集した。彼らはユダのソコに集まり、ソコとアゼカとの間にあるエフェス・ダミムに陣を敷いた。 サムエル記第一 17:2 サウルとイスラエル人は集まって、エラの谷に陣を敷き、ペリシテ人を迎え撃つため、戦いの備えをした。 サムエル記第一 17:3 ペリシテ人は向こう側の山の上に、イスラエル人はこちら側の山の上に、谷を隔てて相対した。 サムエル記第一 17:4 ときに、ペリシテ人の陣営から、ひとりの代表戦士が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。 サムエル記第一 17:5 頭には青銅のかぶとをかぶり、身にはうろことじのよろいを着けていた。よろいの重さは青銅で五千シェケル。 サムエル記第一 17:6 足には青銅のすね当てを着け、肩には青銅の投げ槍を背負っていた。 サムエル記第一 17:7 槍の柄は機織の巻き棒のようであり、槍の穂先は、鉄で六百シェケル。盾持ちが彼の先を歩いていた。 サムエル記第一 17:8 ゴリヤテは立って、イスラエル人の陣に向かって叫んで言った。「おまえらは、なぜ、並んで出て来たのか。おれはペリシテ人だし、おまえらはサウルの奴隷ではないのか。ひとりを選んで、おれのところによこせ。 サムエル記第一 17:9 おれと勝負して勝ち、おれを打ち殺すなら、おれたちはおまえらの奴隷となる。もし、おれが勝って、そいつを殺せば、おまえらがおれたちの奴隷となり、おれたちに仕えるのだ。」 サムエル記第一 17:10 そのペリシテ人はまた言った。「きょうこそ、イスラエルの陣をなぶってやる。ひとりをよこせ。ひとつ勝負をしよう。」 サムエル記第一 17:11 サウルとイスラエルのすべては、このペリシテ人のことばを聞いたとき、意気消沈し、非常に恐れた。 まともに勝てる相手ではない。 歴戦の勇士達も、彼の前には出ることができなかった。 さて、そんな中、一人の若者がこの事情を目撃する。 彼の仕事は『羊飼い』であった。 サムエル記第一 17:12 ダビデはユダのベツレヘムのエフラテ人でエッサイという名の人の息子であった。エッサイには八人の息子がいた。この人はサウルの時代には、年をとって老人になっていた。 サムエル記第一 17:13 エッサイの上の三人の息子たちは、サウルに従って戦いに出て行った。戦いに行った三人の息子の名は、長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シャマであった。 サムエル記第一 17:14 ダビデは末っ子で、上の三人がサウルに従って出ていた。 サムエル記第一 17:15 ダビデは、サウルのところへ行ったり、帰ったりしていた。ベツレヘムの父の羊を飼うためであった。 サムエル記第一 17:16 例のペリシテ人は、四十日間、朝早くと夕暮れに出て来て姿を現わした。 サムエル記第一 17:17 エッサイは息子のダビデに言った。「さあ、兄さんたちのために、この炒り麦一エパと、このパン十個を取り、兄さんたちの陣営に急いで持って行きなさい。 サムエル記第一 17:18 この十個のチーズは千人隊の長に届け、兄さんたちの安否を調べなさい。そしてしるしを持って来なさい。 サムエル記第一 17:19 サウルと兄さんたち、それにイスラエルの人たちはみな、エラの谷でペリシテ人と戦っているのだから。」
2012年03月15日
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末世なので、終末論が盛んだが、終末論といえば、ヨハネの黙示録が有名である。 そこで、またマンネリのようだが、例の古代ヘブライ語のサイトから引用したい。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 軍神と日本(1) 日本を見捨てた神 「選民の立場からの『反省』」 「神国」と呼ばれた日本は、徹底的な敗北を被った。 換言すれば、「日本は(信じていた)軍神に見捨てられた」ということだ。 戦後、「なぜ見捨てられたのか?」と言う人はいなかった。 そのショックがあまりにも大きく、『軍神』に失望してしまったからである。 日本の民はそれ以来、「『軍神』としての神」を振り向かなくなった。 『軍神』とは? 「軍神」と聞いて、真っ先に思い浮かぶのは『靖国』だろう。 ただしその宮は、王政復古の明治からの歴史しか持たない。 一方、伊勢神宮は、出雲大社とともに推定で7世紀末から8世紀より続き、神道の歴史そのものは縄文時代から続くとされている。 しかし戦時中に、「『軍神』の座」として扱われたのは「伊勢」や「出雲」ではなく、「靖国」だった。 その意味で、国家神道復活の基礎に、『靖国』を持ってきたのは大きな過ちだ! ※いわゆる「軍神」と、「兵士の顕彰」とは別である。 兵士達が戦う時に「頼り」にしていたのは、「過去の兵士達」ではない。 「元寇」の際に、日本を守った『神風の神』・・・日本軍はその神を「軍神」としていたつもりだった。 ではなぜ軍部は、数千年の歴史を見守ってきた『伊勢』や『出雲』の神ではなく、『靖国』を祀りあげたのだろうか? それは、天皇の口が語ったように、伊勢や出雲のクニツ神は「戦争に反対」だったからだろう。「靖国」は、その代理として純粋な『戦争神社』となった。 戦後、天皇が『中心』の地位を降りてしまったので、実質靖国が、軍部の『神国思想』を担った。 その「信仰」は、今も残されており、詣でる人々を「あの時代」に引き戻す。 靖国は今も、『戦争遂行のための神社』なのである。 (偶像崇拝の源泉といえる。バールやミトラだろう。) 何も知らない人々は、この神社によって、一つの謎をかけられる。 この兵士達は、「なぜ」死んだのか? 「なぜ」戦争は、あのような形で負けたのか? 「なぜ」神は、この国を見捨てたか? 「戦争を率いた『現人神』」というイメージは軍部が作り上げた便宜上のものである。 『現人神』は神の代弁者であっても、『神』ではない。 「『祭司』としての役割」を果たしている。 その願いも虚しく、神がこの日本を見捨てたのは事実だ。 では、天皇に「敗戦の責任」があるだろうか? 『外面』からそう見えても、「戦争『遂行』の観点」からは、違う結論が出る。 1.戦争遂行に「積極的」であった軍部と、その軍神を祀る靖国。 2.内々では「戦争反対」を唱えていたが、押し切られた天皇。 『敗戦』の責任は、どちらが負うべきなのか? また、敗戦の理由は、どちらが説明すべきなのか? それは、旧軍部と、靖国だ。 「靖国は『軍神の座』」であったし、今も「その立場」を放棄していない。 一方で天皇は、大陸進出には反対していた。 「『暴走』に反対していた者」に、「『暴走結果』の理由」を問いただす事はできない。 「日本が『軍神』に見捨てられた理由」を説明できない靖国に、これから先、どれほどの望みがあるだろうか? 負けた理由は『祟り(たたり)』 日本は、「クニツ神」に見捨てられた。 「伊勢」や「出雲」を粗末にして、ただで済むだろうか? 戦争遂行に「反対」だった大祭司、天皇の意に逆らって勝てるだろうか? 否。 靖国一辺倒であった軍部が勝てるはずもない。 こんな諺がある。 「触らぬ神に『祟り』なし」 これを、「神の『気に』触らねば祟りなし」と理解できる。 『守りの神』は、『祟りの神』でもある。 古来より、「神道の神を粗末に扱えば祟る」とされている。 宗教の観点から、我々は、その『祟りの理由』を知らなければならない。 そうでなければ、「その神」に回帰し、この先、日本を守護してもらえるだろうか? 「軍神」を中心に戦争をして見捨てられ、未だに「その理由を知らない」では済まない。 ※計画より反省 周到な準備も狂いが生じる。その要因として「神国」に与えられる答えはただ一つ ・・・『神の祟り』である。 現在の政府は、「恐ろしい祟り」を受けた理由も知らずに、靖国の軍神にもう一度触れている。 「靖国参拝」を見ると、いつもこう思う。 「また『祟り』を呼びたいのか?」 日本の指導者が「靖国の軍神」に触れた場合、「伊勢」と「出雲」の『クニツ神』は「あの怒り」を思い出す。 北朝鮮とは敵対が続き、日本周辺に波風が立つのは、そのせいだろう。 この宮が持つのは、 「過去の戦いの雰囲気」 「兵士達を顕彰する心」 「あの栄光への回帰心」である。 「神の気性」を知れ この民に、決定的に欠けているのは「神の気性」への予備知識だ。 「間違った行動の結果」を泣きながら受け取るのは40年後かもしれないが、それでは遅い。 「これでうまく行く」と豪語する人々が突っ走り、あの「壊滅」があった。 それなのに、後人が同じ過ちを繰り返していたのでは話にならない。 では、日本の神の「気性」を知るには、どうすればいいのだろうか? 神の「真の姿」については、(古代ヘブライ語からの解釈でわかるが)その神は『聖書の神』だった。 日本の文化は、「モーセに率いられていた民」のものである。 古代からの祭り、伝統、文化、政治形態など、あらゆる事柄がそれを教えている。 それなら「『聖書の神』の気性」を知れば、『祟り』から逃れる事ができるではないか。 背教→祟り 聖書の神は、「因果応報」の神である。 では、「『祟り』の原因」となるのは何だろうか? それは「背教」だ。 (すなわち、偶像崇拝である。) 出エジプト記 20:14 姦淫してはならない。 国の中に二つ(2種類)の神があれば、それは『背教』と見なされる。 二千年以上の歴史を持つ日本が、その中心としてきた「神の座」は何だろうか? それは実質で『伊勢』だった。 軍部はこの中心に対抗して「靖国」という宮を持ち上げ、これを軍神として戦争を遂行した。 クニツ神の目からそれは「背教」であり、『姦淫』に当たる。 神はこう告げる。 エレミヤ書 13:27 あなたの姦淫、あなたのいななき、あなたの淫行のわざ――この忌むべき行ないを、わたしは、丘の上や野原で見た。ああ。エルサレムよ。あなたはいつまでたっても、きよめられないのか。 それ以来、神からの的確な導きは失せた。 エレミヤ書 14:1 日照りのことについて、エレミヤにあった主のことば。 エレミヤ書 14:2 ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫び声をあげる。 エレミヤ書 14:3 その貴人たちは、召使を、水を汲みにやるが、彼らが水ためのほとりに来ても、水は見つからず、からの器のままで帰る。彼らは恥を見、侮られて、頭をおおう。 エレミヤ書 14:4 国に秋の大雨が降らず、地面が割れたため、農夫たちも恥を見、頭をおおう。 エレミヤ書 14:5 若草がないために、野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。 エレミヤ書 14:6 野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないためだ。・・・ これらは象徴表現であり、『水』は神の教え、つまり、指導、慰めだった。 ※大戦前夜の日本は、世界からの封じ込めで苦慮していた。 これは正に、「神の敵対」『ヤークーム』の典型だ。 ここでエレミヤは、神と民とのとりなしをする。 エレミヤ書 14:7 私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、ヤーエよ、あなたの御名のために事をなしてください。私たちの背信ははなはだしく、私たちはあなたに罪を犯しました。 エレミヤ書 14:8 イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。なぜあなたは、この国にいる在留異国人のように、また、一夜を過ごすため立ち寄った旅人のように、すげなくされるのですか。 エレミヤ書 14:9 なぜ、あなたはあわてふためく人のように、また、人を救うこともできない勇士のように、されるのですか。主よ。あなたは私たちの真中におられ、私たちはあなたの御名をもって、呼ばれているのです。私たちを、置き去りにしないでください。 厳しい答えがあった。 エレミヤ書 14:10 この民について、主はこう仰せられる。「このように、彼らはさすらうことを愛し、その足を制することもしない。それで、主は彼らを喜ばず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」 そして、祭司の口は封じられる。 「民の滅び」が決まっているからだ。 エレミヤ書 14:11 主はさらに、私に仰せられた。「この民のために幸いを祈ってはならない。 エレミヤ書 14:12 彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のいけにえや、穀物のささげ物をささげても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣とききんと疫病で、彼らをことごとく絶ち滅ぼす。」 エレミヤは問いただした。 エレミヤ書 14:13 私は言った。「ああ、神、ヤーエよ。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、ききんもあなたがたに起こらない。かえって、わたしはこの所でまことの平安をあなたがたに与える。』と人々に言っているではありませんか。」 エレミヤ書 14:14 主は私に仰せられた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、むなしい占いと、自分の心の偽りごとを、あなたがたに預言しているのだ。 エレミヤ書 14:15 それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣やききんがこの国に起こらない。』と言っているこの預言者たちについて、主はこう仰せられる。『剣とききんによって、その預言者たちは滅びうせる。』 エレミヤ書 14:16 彼らの預言を聞いた民も、ききんと剣によってエルサレムの道ばたに投げ出され、彼らを葬る者もいなくなる。彼らも、その妻も、息子、娘もそのようになる。わたしは、彼らの上にわざわいを注ぎかける。 「日本は神国だ、この国は守られている」 そう告げて戦争を遂行した偽の預言者たち。 しかし、結果は『逆』だった。
2012年03月15日
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さて、鉱物界や、鉱物界の様々な力との関係から再現できる治癒経過の必要性を認めるなら、植物薬との相違点に導かれる。鉱物薬の問題については、実際に取り組んできたが、この問題の解決には、次のような観点が必要となる。 人智学的に、鉱物界を観察すれば、ある関係を発見できる。 治癒経過に導くには、同化吸収のために準備され、調理された食物と、野生のままの生の食物との相違が極めて重要になる。菜食主義と同じように、何らかの主義主張を宣伝するわけではなく、調理せずに食べる生食を扇動しないように、客観的な事実のみを述べる。 調理された食物を食べる場合、生(なま)の食物を食べる場合の自分で行う同化吸収の過程を、外的に行うことになる。生(なま)の食物を食べる際に、自分でやるべき同化吸収過程を、調理などによって、人間は省くことができる。 さて、人間は、確かに末端領域において、いわば自然全体と交わるが、中心部では、特に消化の領域もその1つだが、人間を自然から分離し、個別化するように構築されている。 以上のような、人間と自然との関係を、そのままイメージするなら、次のようになる。 「人間は、末端を通じて(下図参照、緑色の領域)全宇宙に組み込まれ、逆に、中心の消化や血液形成に向かって自らを個別化していき(赤色の領域)、もはや中心では、外界の経過(プロセス)には、完全に対応しない経過(プロセス)を遂行している。 だから、外界の経過(プロセス)に対して完全に決定され、いわば固定されている領域よりは、人間の中心部は、少なくとも外界の経過(プロセス)に対抗して独自性を打ち立てている領域である。」 更に、次のようなことを述べるとわかりやすくなるだろう。 これまで述べてきたことは、人間は実際、全宇宙に組み込まれている事実、特に、上図の緑色で描いた領域では、鉛、錫、鉄の形成力(形成過程)が作用している、という事実である。赤色で描いた領域では、銅、水銀、銀の形成力(形成過程)が作用している(上図参照)。 この調停作用をしているのが金の形成力(形成過程)であり、特に心臓の領域を定めている力である。 以上の人間と宇宙との関係についての喩えは、1本の指が、人間という生体組織全体の一部とみなせるのと同じである。すなわち、人間を、本質的に、全宇宙の一部とみなすこと、全宇宙に組み込まれた存在とみなすことである。 しかし、人間の中心の領域には、矛盾もあり、消化に関連する全般においては、自らを分離し、思考や観察の際の相互の経過(プロセス)のなかにも、自らを、普遍的な宇宙の経過(プロセス)から個別化させていく特質が存在する。 従って、人間は、消化過程(プロセス)に関連する全般(個別化)のために、個別的な欲求、いわばワガママな必要性が生じる。このワガママさが、自然から直接与えられるものを一端拒否し、分離し、個別化して取り入れる調理という特質を顕現させた。 というのも、大概の平均的な人間は、自然から与えられるものを、そのまま直接取り入れ、加工する能力に欠けているからである。逆説的な表現をするなら、もし、食物を調理せずに、食べるなら、食事がそのまま治療となるだろう。 (医食同源の意味。) つまり、もし食物を調理せずに、生で食するなら、環境との強力な親和性により、食事は絶え間なく自然治癒を誘発させるだろう。だから、生(なま)の食物を摂ることは、調理された食物を摂るよりは、遙かに自然治癒を誘発させる。 調理された食物を食することは、治療というよりも、むしろワガママな栄養摂取の経過(プロセス)である。生(なま)の食物の摂取は、調理された食物の摂取よりも、遙かに強い意味において、自然治癒を生じさせる経過(プロセス)であることは、非常に重要な原則である。 生(なま)の食物を摂取する食餌療法は、本質的に、調理された食事より遙かに治療に近い。更に言及すべきことは、調理された食物は、いわば作用が切り詰められ、作用が赤色の領域(上図参照)にとどまるのに対し、生(なま)のまま摂取された食物、例えば、果物などは、この領域を超えて末端にまで入り込み現われ、例えば、末端まで、血液の成分を送り届ける誘因となる。 例えば、珪素[Silicea]を用いた治療を試行する場合、しばらく、患者に、生(なま)の食物を与えれば、上記のことが確かめられる。珪酸と同時に生の食物を与えれば、珪酸の作用を、本質的に高めることがわかる。 なぜなら、生の食物を与える際、末端で、珪酸が行なう作用、つまり、変性[Deformationen]を回復するような形成、勿論、この形成は、物質的な形成ではなく、解剖学的には直接現われてこない、生理学的に現れる機能的な形成だが、治療期間中に、相応しい栄養分を珪酸に供給することによって、珪酸が直接行なう作用を支えることができる。
2012年03月15日
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比較的最後になってから、人間から、外に放出された過程は、逆に治療経過(プロセス)では、初期に人間のなかに取り戻す必要がある。動物界を、考慮に入れなければ、動物界の問題にも、光を当てていくつもりだが、さしあたりは除外して考えると、植物界の後に、鉱物界の本質を、人間は、自らのなかから外に放出した。 そして人間と植物界の関係だけの探究は一面的であるということを明確に理解すべきである。とはいえやはり、依然として、植物界は有益である。なぜなら、結局、植物といっても、病気の治癒には、植物の形成過程による治癒作用ではなく、珪酸のように、植物内部の鉱物的な形成過程による治癒作用によるからである。 従って、植物は鉱物薬という面からも依然として有益である。更にはっきり理解しておくべきことは、植物はまた、鉱物界の形成過程の一部を新たに加工しているので、植物により既に加工された過程は、まだ加工されていない過程とは異なる薬となる、ということである。 つまり、既に植物により克服され、植物の経過(プロセス)のなかに取り入れられている珪酸は、鉱物として現われてくる珪酸ほど強力な薬ではない。鉱物中の珪酸の場合、生体組織が同化吸収し、一体化するためには、植物界のなかの珪酸よりも、遙かに生体組織に負担がかかる。 以上の相違は常に強調すべきものだが、強い力に対処するには、強い力を発達させる必要性をもつ。自らの内部に、鉱物を同化吸収し、克服するには、植物の一部となった鉱物を同化吸収するよりも、陽(ポジティヴ)に強い力を必要とする。 鉱物と植物の違いは、同化吸収の強弱の点にある。以上は、なるべく公正な立場から述べた事実で、鉱物療法よりも、植物療法を宣伝するつもりなど毛頭ないことを強調したい。菜食と動物食との違いも、以上の同化吸収の強弱の点にある。 植物性の食物のみを摂取するなら、植物の全形成過程(プロセス)を引き受け、生体内で継続しなければならないが、動物は、植物よりも少しばかり先の形成過程を継続し、進めているので、動物性の食物を摂取すれば、動物が進めた形成過程(プロセス)を、生体内で継承することができる分、同化吸収が容易となる。 すなわち、換言すれば、植物が、下図の1まで既に成し遂げた形成過程(プロセス)を、動物は継続する。従って、考慮すべき動物が行う形成過程(プロセス)は、1から始まり2で止まり(下図の緑)、植物では、1で止まらずに2で止まる(下図の黄と赤)。 さて、肉を食べる人は、植物の1までの形成過程(上図の黄色)を、生体内では成し遂げない。植物の1までの形成過程(プロセス)を引き継ぎ、2まで成し遂げるのは動物である。動物を食べることで、植物の1までの形成過程(プロセス)が、人間は省略でき、結果として、動物に(同化吸収過程を)2までの形成過程を取り除いてもらえる。 つまり、肉を摂取する人は、植物のみを摂取する場合に、必要な同化吸収力を、自らの内に、発生させることなくすますことができる。植物だけを摂取する場合は、植物の形成過程(プロセス)を、自らで、継続しなければならない。 すなわち、菜食者の場合の生体は、肉食者とは異なる(同化吸収)力を、自らの内奥から引き出す必要がある。植物の形成過程を克服するために、動物が用いる同化吸収力が存在する。 菜食すれば、人間がかつて外に放出した、この同化吸収力を呼び起こし、いわば逆転により、再び人間の生体組織に戻し、活動させることもできる。生体内で、この力が活動すると、人間を、根本的に酷く疲労させ、妨害するように働く。 ともかく、はっきりと強調すべき事実は、菜食療法による疲労が生じたとしても、本質的には、負担が軽減することである。人間は、内部(霊魂)から力を取り出すことに慣れているので、疲労が生じても、(霊的な)活動が強化される。 このような霊的な力を、肉食すれば、取り出せなくなり、いわば生体に対する妨害力として用いてしまうこともある。 (坊主が肉食禁止なのは、霊的な力を取り出せなくなり、霊視できなくなるからである。) しかし、先に述べたように、菜食主義を宣伝しているわけではない。ホメオパシーの医師たちでさえ、たとえ菜食がよいとしても、直ぐに肉食をやめさせると、癆([Schwindsuche] 癆[ろう]、結核)を植え付けてしまう云々と、何度となく反論する。 確かに、そういうことも生じるが、純然たる事実として述べた菜食の利点は、全く揺るがない。いうまでもなく現に菜食はよいことだからである。しかし、当然、現代の価値観の多様性のなかでは、植物性の食品だけでは耐えられず、どうしても肉類を食す必要のある生体の存在を否定するつもりはない。菜食か肉食かは、個人的な(嗜好の)問題である。
2012年03月14日
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また、スギナ[Equisetum arvense]も、植物薬として非常に興味深い植物である。スギナにもチコリと同様に、消化不良に強い作用と、末端にまで達する強い作用が見られる。 スギナ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%AE%E3%83%8A 従って、次のような疑問が生じる。 末端にまで達するスギナの強い作用は何によるのか? するとまた、珪酸成分に由来する、という回答が得られる。比較研究から、医学的な植物学を探求すれば多様化することがわかる。 外界に植物として現れる経過や植物の成分全般は、消化管に対して親和性をもち、鉱物として現れる経過や珪酸と同じ傾向を持つ成分全般は、人間の中心から末端を、目指し、治癒的な作用をもたらすことがわかる。 例えば、治癒作用においては、単純だが、極めて教唆の豊富な素晴らしい植物がある。その植物は野イチゴ[Fragaria vesca/Walderdbeere]である。野イチゴの作用に滅多にお目にかからないのは、野イチゴの作用が表面に出ずに、生体のなかに覆い隠してしまう人たちに食べられているからである。 野イチゴの治癒作用が(免疫により)覆い隠されてしまわないような、野イチゴに感じやすく、敏感な人たち、つまり、通常、野イチゴを食べない人たちに食べさせれば、野イチゴの素晴らしく意味深い治癒作用が明らかになる。 野イチゴは、特に血液形成を改善する。野イチゴは、血液形成を促進するので、野イチゴを好んで食べることで、野イチゴに対して免疫がない場合は、下痢の治療薬として用いることができる。なぜなら、下痢が起こるのは、間違って下腹部に現われてくる作用が、(野イチゴの作用により)正しい場所、つまり血液組織のなかへと撤退させられるからである。 さて、野イチゴのなかには、本質的に血液を形成する作用があり、同時に珪酸をもち、珪酸により、野イチゴの成分は、人間の末端組織を目指す。野イチゴは非常に素晴らしい薬で、珪酸を含有することで、自身のもつ治癒力を、生体組織の末端にまで展開していくような傾向ももっている。 しかし、末端にまで、治癒作用の展開が生じるのは、ある種の危険が伴う。つまり、末端に、珪酸の作用を過多に導いてしまうと、珪酸により生じた末端の経過に、十分な栄養分を供給する血液を転送できなくなり、いわば珪酸の展開力に相応しい治癒力が同時に獲得できなくなり、作用が変質してしまう、という危険が生じる。 しかし、野イチゴは、本質的には、転送すべき血液を自らで準備する素晴らしい植物薬である。つまり野イチゴは、珪酸により末端に生じる経過(プロセス)を、驚くべき方法で助ける。 自然を観察することで、上記のような植物薬が増えていく可能性もあるが、少なくとも、このような植物薬から、実に驚くべき洞察力を獲得できる。ただし、自然を正しい観点で探究する神通力(イントゥイション)が備わっていなければ、意味がない。 更に、上記の観点から、別の植物薬に注意が向けられる。例えばラヴェンダー[Lavandula]のような植物が持つ、包括的な治癒作用を研究するとよい。 ラヴェンダー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC ラヴェンダーのなかにある作用は、魂の陰気(ネガティヴ)な衰弱[negative Seelenschwaeche]とでも呼べるような、失神、神経衰弱、麻痺全般に対して、強い治癒作用をもつ。ラヴェンダーは生体の末端に作用し、アストラル体を追い出し、アストラル体が物質体に及ぼす力を抑制するように働きかける。 さて、ネガティヴな神経衰弱を改善する作用をもつようなラヴェンダーのような植物全般に対して、逆の陽気(ポジティヴ)な神経状態を改善する植物薬も探求できる。例えば、月経不順に関わる薬である。 月経不順に関わるような物質は、陰陽両面の神経状態に作用することがわかる。陰陽両方に強く作用する植物は、例えば、メリッサなどであり、眩暈や失神にも強く作用し、また月経をかなり改善する。 メリッサ(レモンバーム) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%A0 以上のような例を挙げたのは、生体内で起こる経過(プロセス)との類似から、外界の植物経過(プロセス)を探求する方法を示すためだった。ただ、植物が持つ実際の親和性は、人間の特定の器官や領域に対するものである、という事実を理解する必要がある。 例えば現在、狂信的に植物療法だけに切替えたいと思うような人たちには、次のようなことをよく考えて欲しい。 人間は実際、自然界全てを自らのなかに含んでいたが、進化の様々な段階において、自然界と親和性をもちながら、人間が必要とする形成過程以外の他の全ての過程を、ある種の形で、自らのなかから外に放出してきた。 だから、場合によっては、自らが外に放出した形成過程を、自然界から再び自らのなかに取り戻すこともある。自然治癒とは、自分のなかに、放出してきた形成過程を、取り戻すこと[In-sich-Zuruecknehmen]なのである。 自然治癒が、放出した過程を、自分のなかに取り戻すことである、という事実は大変重要である。
2012年03月13日
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本質的なことは、医学研究を実り豊かにできる方法を発見する試みを行うことにある。さもないと、あまりに分別しすぎて個別的な専門性のなかに全体像を見失うようになる。個別性が持つ意味は、結局、相対的なものにすぎない。 しかし、人間と外の自然との関係を、方法論的に探求することこそが、人間一人一人を、自然のなかに観察できるようにする準備に適している。 従って、今回は、その前置きとして、ある医療分野において、画期的な方法となる可能性のある2,3の事柄を述べていく。その探求の途上で有用な方法を見つけることもできる。 また、人智学的探究から、以前シュタイン博士(☆1)の講義で提示された意味を検証することもできる。一度、人智学的探求の分野に入って行くと、将来的展開に対して、幾つかの方向付けがもたらされる。そこで、今回は、人智学的探求の上で、注目に値する例を指摘したい。 さしあたり、しばらくは植物(を用いた)療法の探求にむかう。 例えば、アニス[Anisum Vulgare]の通常の、人間の生体組織への作用は良く知られている。 アニス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%B9 アニスの最も特色ある作用というのは、分泌(排泄)促進[absonderungsfoerdernd]、すなわち、利尿、乳汁分泌、更に発汗の促進などである。この作用が何に関係するのかを考察する。 このアニスの働きが、アニスのなかに含まれている微細に分離された鉄分[Eisen bestandteile]、もしくは鉄酸塩[Eisensalz bestandteile]に関係することがわかる。 通常、血液中の鉄分により形成される経過が、鉄分の不足のために、血液から形成されず、血液より下位の領域に止められていた経過が、アニスのなかの鉄の作用により改善することがわかる。 ある植物は実際、生体の外の表面と内の心臓との中間に、非常に強く作用を及ぼすので、このような植物の作用が、様々な領域にまで及ぶことを良く研究できる。更には、このような植物から、薬学として、合理的に薬を見つけるためのライトモティーフ(教科書)が獲得できる。 例えば、上記のような正真正銘の自然の教師とでも呼べる植物の、チコリ[Cichorium intybus]を観察する。 チコリ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%83%BC チコリを手がかりに植物薬をみつければ、人間の生体組織に関する、あらゆる経過の改善が研究できる。チコリからわかることは、チコリは、消化不良[Verdauungsschwaeche]を克服する薬、つまり外界に向かって開いている器官を通じて現われてくる疾患を克服する薬となるだけでなく、血液に必須の経過(プロセス)、例えば、血液の液性に停滞が生じないように血液に作用する。 (血が固まる、つまり血栓を生じさせないような作用のことなのだろう。現在では、ヘパリンが有名である。 ヘパリン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%91%E3%83%AA%E3%83%B3) チコリの治癒作用は、末端の経過(プロセス)にまで及ぶので非常に重要である。状況によっては、頭部にまで、特に喉や胸の器官の肺にまで作用を発現させることもある。チコリは、末端の経過にまで強く作用するので、チコリの作用の研究は大変に意味深い。 チコリの作用が、いわば扇形に拡がるのが見てとれる。続いて、次のような質問が生じる。 「では、チコリの消化不良に対する治癒作用は何によるのか?」 これは、チコリのなかの味覚として現れる苦味成分[Extrakutivstoff]の強い作用によることがわかる。この苦味成分は、植物の強力な物質的性質を含み、生体内では、まだ加工(希釈)されていない、外界にあるときの外観に類似した強い親和性をもっている。 生体は、外界の物質的素材を、初めはあまり加工(希釈)せずに、胃の領域に取り込んだ後で、加工し、腸を通じて、根本的に改造され、血中に現われ、そして末端部の骨組織や神経組織や、筋肉組織において、最も改造された状態で現われる、ということをはっきりと理解すべきである。 この苦味成分は、生体内ではまだ加工されていない外の物質と非常に強い親和性をもっている。 チコリはまた、アルカリ塩やカリウムも含んでいる。このアルカリ塩やカリウムのなかに、血液に作用する要素を探究する必要がある。そうすれば、チコリのなかで、どのように作用が分離しているか、ということも同時にわかる。 苦味成分のなかにある作用は、親和性により消化器官へと到達する。アルカリ塩のなかにある作用は、親和性により、血液と親和性のある器官、もしくは血液へと達する。更にまた本質的に、(チコリのなかには)珪酸も多量に存在する。珪酸は血液を超えて末端の器官にまで作用し、神経組織、筋肉組織を経て骨組織のなかにまで達する。 従って、チコリとは、結局、次のような結論に達する。 「チコリの苦味成分は、アルカリ塩とカリウムと珪酸の3つからなる。だから、人間の生体組織の3つの構成要素の血液、神経、筋肉全てに対して作用を与える。」 上記の事実は、自然自体が目の前で行なう、いわば(人体)実験であり、人為的に行う(解剖等の)実験よりも、遙かに意義深いものである。なぜなら、実験により、自然に対して問いかけをする人間よりも、自然の意図は遙かに豊かだからである。 (人為的な実験は、部分的で、特定の一部しか現れないが、自然現象は、全般的で、全体構造を現している。自然の実験者は、自然法則で、神様自身であるから、自然の進む方向性が隠れている。)
2012年03月13日
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例の古代ヘブライ語のサイトから、日本を考えてみることで、教育については、「日新公のいろは歌」に辿り着いた。 「薩摩(さつま)」は、古代ヘブライ語で読むなら、「核心を探る」というような意味をもつことを前に書いたが、明治維新の一躍を担った薩摩藩に、郷中教育が生まれたのは、神の恵みに思える。 明治維新の他方の一躍を担った長州が、古くは出雲だったこと、薩長を仲介した土佐が、剣山のある四国というのも、どことなく神の三位一体をイメージさせるようで面白い。 日新公のいろは歌について、色々とネットで調べていくうちに、日新公が出てから、「薩摩に暗君なし」といわれるようになったそうである。それまでは、馬鹿殿も多かったそうである。 ちなみに「馬鹿」は、馬と鹿を間違えることから、分別ができないという意味で使われる言葉だが、例のサイトによると、古代ヘブライ語の「バケ」からきているそうで、その意味は、「区別」である。 古代イスラエル人は、食べれる動物かどうかを、蹄の数で判断していたそうだ。馬は蹄が分かれていないが、鹿は蹄が分かれている。だから、馬を鹿と間違えるのは、蹄の区別ができていないので、「区別しろ!」という意味で、「バケ」と呼んだようである。 日新公は、いうなれば、薩摩のキリストのような存在だといえる。日新の号は、「日々新たに」という意味でつけたそうである。 その日新公が祖父となり、孫にあたる16代藩主義久に送った手紙の中に書かれていた歌が以下のものだという。+++++++++++++++++++++++++++++++++++ 善も悪 悪も善なり成せばなす 心よ心 恥じよ怖れよ 善行も時には悪となり、悪行も時に善となることがある。 まず心に恥じるところがないかどうか己に問うてみよ。 恥じることができてしまうことを自ら怖れよ。 心に恥じるところが一切なければ、 為すことはすなわち善行となるであろう、、、。+++++++++++++++++++++++++++++++++++ 以上の内容から、正義感に溢れる人物であることがわかる。 思うに、上に立つものが最も必要なものは、正義感ではないだろうか? 正義感を失った者は破滅に向かうしかないからである。 ここでいう正義感とは、善悪の判断力のことである。 絶えず独善に至らないように、名君は、敵対する意見をも汲み取るように、お膝元に、耳の痛いことをいうような役割を果たす、いわゆる御意見番を置いたようである。 西郷さんが斉彬により御庭番にとりたてられたのも、西郷さんが藩主などにも、お構いなしに、正義感を表明する態度に意欲や新しい価値観を感じたものと思われる。 「藩をよくしたい」、という気持ち、つまり正義感は、上も下も変わりはないからである。 まとめる能力や新しい価値観を、古い価値観と上手く折り合いをつける能力が、上に求められる。そのような能力のない上層部は、姑息な手段を使っても、破滅に向かうだけなので、潔く身を引くのが妥当であろう。 島津家の家紋は、十字である。いろいろな謂れがあるが、神秘学では、十字は宇宙霊を表す。横の一が、動物(霊)を表し、縦の1が、植物(霊)と人間(霊)の関係を表している。 プラトンは、大宇宙について、神が宇宙の肉体の十字架の上に、宇宙の魂を宿らせた、というようなことを語っている。この宇宙の魂がロゴスにほかならない。 ロゴスが肉となる場合、肉として、宇宙の創造過程を反復しなければならない。ロゴスは、十字架にかけられ、復活しなければならない。というようなことが神秘学ではいわれている。 つまり、十字架とは復活のシンボルで、永遠の命の証であり、完全性の表明である。 完全性を求める能力が、正義感に隠されている。 正義感とは、誰とでも、どんな存在とも融合していける精神にあると思う。理解力にあると思う。 敵対する勢力をも理解し、自らと融合させる精神は、愛に他ならない。愛がなければ何もはじまらない。 敵対する勢力を遠ざけても何も解決しないばかりか、戦って消滅させようとすれば、今度は、自らが消滅する側になる。つまり共倒れになるだけである。 価値観を改め、多様化することこそ、感動を呼び起こし、幸福の源になるように思われる。 日々新たまる精神こそ、幸福の源泉になるように思われる。 「生き続けることは辛いけど、辛いからこそ楽しい!」というような精神になりたいものである。 敵対する勢力とも仲良くやっていける愛の能力を育む必要があるから、神は悪を産んだのだろう。神の愛の力を信じるべきである。 昨今の指導者をみていると、神の愛の力なんて存在しないように考えている輩が多すぎる。 人間は感動するために生まれてきたように思う。感動するには正義感、つまり善悪の判断力が必要であることはいうまでもない。 愛は、宇宙語であり、誰にでも、どんな生物にも理解できる。翻訳者など必要ない。
2012年03月09日
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+++++++++++++++++++++++++++++++++++ 日新公いろは歌のなかで、特に以下の歌が興味深い。 ほ 仏神他にましまさず人よりも心に恥ぢよ天地よく知る ⇒神仏はどこにでもいるものではない。自分の中にいるのだ。恥ずべき行動をしたら、自分の良心に恥じよ。世間は欺けても自分の心は欺けない。 む 昔より道ならずして驕る身の天のせめにしあはざるはなし ⇒昔から道に外れて奢り高ぶった者で天罰を受けなかった物はいない。 人は正道をふんでおごりを遠ざけ、神を敬い教えを守っていきなさい。 う 憂かりける今の身こそはさきの世とおもへば今ぞ後の世ならん ⇒嫌なことの多い現世は前世の報いの結果である。現世の行の報いは後の世の姿である。現世の行いを大切にしなさい。すべては因果応報である。 あ あきらけき目も呉竹のこの世より迷はばいかに後のやみじは ⇒光あふれる世界である現世でさえ迷っていては、死後の闇の世界ではますます迷うだろう。仏道を修めて悟りを開きなさい。 以上の歌に大意をつけた人はかなりの秘教学通に思える。 ほの歌では、神や仏が、自分のなかにいるという意訳をしている。 むの歌では、「神を敬い教えを守っていきなさい。」と意訳を付け加えている。 この意訳は、古代イスラエルの十戒に通じ、偶像崇拝を禁じている。 うの歌では、前世と現世の関係と現世と来世の関係を付け加え、神秘学でいうカルマのことを述べている。 あの歌では、「死後の闇の世界」とあるように、死後の世界を想定している。 そこで、他の訳とも比べてみたいと思い、以下のサイトにいきついた。 http://ittoshogu.seesaa.net/category/10903788-1.html http://hamabe.web.infoseek.co.jp/iroha.html 2番目のサイトに気になったところがあるので、抜き書きする。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 日新公は文武、神、儒、仏三教をきわめ、善政をひいた「薩摩の聖君」と呼ばれる。この“いろは歌”は忠良公が1545(天文14)年に作った47首の歌。忠良は5年余りの歳月をかけ、この“いろは歌”を完成させた。 添削を頼まれた和歌の名手、近衞種家がただ一字を直したのみという出来栄えで、さらに種家は「老若を問わず、こころをとめて見れば、この47首のみで、善悪のことわざを知ることが出来る、教訓の手本となるべきものだ。幼少で道理に暗い者が、道理を求めるには、最高のもの。」と褒め称えたという話も残っている。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ この内容をみると、近衞種家という人物も重要に思える。近衞種家を、ネットで調べると、近衛前久の父親であることがわかった。 近衞種家 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%A8%99%E5%AE%B6 上のウイキペディアから、種家は、武家伝奏という武家と公家の仲介役を果たしている。また子の近衛前久は、明智光秀の信長への謀反の重要人物ともいわれている。そこで、近衛家を調べてみる。 近衛家 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6 近衛家の上のサイトの内容に特に目新しいものはなかったが、近衛家の家紋の近衛牡丹に目がいった。 家紋といえば、古代イスラエル民族の紋章との関連が思い浮かぶ。話が脱線してしまうが、古代イスラエル民族の紋章は、検索してもなかなかみつからなかったが、以下のサイトにわずかながら載っていた。 http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/55084666.html 天皇の家紋といえば、菊花紋が有名で、エルサレムからもみつかっているのはもはや有名だが、現在、政府の紋章となっている桐花紋は、見ようによっては、古代イスラエルのガド族の紋章の幔幕(テント)にみえなくもない。 上のサイトの紋章では、桐花紋にみるのは困難だが、浅草神社の三網紋は、桐花紋とガド族の紋章の中間的な紋にみえ、双方によく似ている。 さて、話を元に戻すと、いろは歌なので、47首という数は赤穂浪士の47士を彷彿とさせる。いろは歌と古代ヘブライ語については、以下のサイトが面白い。 http://www.historyjp.com/ArticleList.asp?bu=10 上のサイトによれば、いろは歌の作者は空海で、内容は、キリストのメッセージであるとしている。 面白いことに、日新公いろは歌の日新公も、真言宗なのである。なにやら密教めいたものを感じる。 「47」は、日本語では、「しし」となるので、「獅子」つまりライオンのことになる。ライオンは、古代イスラエルでは、ユダ族の紋章である。古代イスラエル王国では、北の紋章がユニコーンで、南の紋章がライオンだったという話もある。 「しし」の連想からすると、幕末の討幕の武士たちは、「志士(しし)」と呼ばれていた。 後半からとりとめのない話になってしまったが、ともかくも、日新公いろは歌を私見で簡単に解釈すると、一言でいって、「謙譲の精神」を尊んでいるように思える。 西郷さんが、人をいれる器になる教育を自己に課したように、相手を尊重する姿勢というものを大事にしたようにみえる。 そこには、人智学のホメオパシーの原理を彷彿とする陰陽の原理をみてとることもできる。陰陽の原理とは、簡単にいえば、「テコの原理」である。自らが謙(へりくだ)り、相手を持ち上げるテコの原理である。 自分が陰となり、相手を陽とするわけである。 相手が、良き人物なら、やがて自分を抜擢してくれるだろうし、もし、逆に悪しき人物なら、墓穴を掘って自然と下降し、自分が引き立てられるわけである。 果報は寝て待てとはよく言ったものである。 相手を持ち上げる教育が、幼少期から必要に思われる。
2012年03月07日
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以下は、日新公いろは歌の抜粋のつづきである。 +++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 「日新公いろは歌」とは、島津家中興の祖で、島津義弘の祖父でもある島津 忠良(ただよし)(号は日新斉・じっしんさい)が、5年余の歳月をかけ完成させたという薩摩藩の「郷中(ごちゅう)教育」の基本の精神となったとなったといわれる47首の歌です。義弘も多大な影響を受け、その後も薩摩武士、士道教育の教典となったこの「日新公いろは歌」は現代の私たちにも通じる多くの示唆を含んでいます。ここでは、その47首すべてを大意とともにご紹介します。 い いにしへの道を聞きても唱へてもわが行にせずばかひなし ⇒昔の賢者の立派な教えや学問も口に唱えるだけでは、役に立たない。 実践、実行することがもっとも大事である。 ろ 楼の上もはにふの小屋も住む人の心にこそは高きいやしき ⇒立派な御殿に住んでいようと、粗末な小屋に住んでいようとも、 それで人間の価値は判断できない。心のあり方によってこそ真価が決まる。 は はかなくも明日の命を頼むかな今日も今日と学びをばせで ⇒明日のことは誰もわからない。勉学修行を明日に引き延ばし、 もし明日自分が死んだらどうするのか。今この時を大切にすべきだ。 に 似たるこそ友としよけれ交らば我にます人おとなしきひと ⇒人は自分と似たような人と仲良くなるが、それだけでは進歩は望めない。 自分より優れた見識を持つ者を友とすることで自己研鑽をすることが必要だ。 ほ 仏神他にましまさず人よりも心に恥ぢよ天地よく知る ⇒神仏はどこにでもいるものではない。自分の中にいるのだ。恥ずべき行動をしたら、自分の良心に恥じよ。世間は欺けても自分の心は欺けない。 へ 下手ぞとて我とゆるすな稽古だにつもらばちりもやまとことのは ⇒自分は下手だと卑下して努力を怠ってはならない。稽古を積めば少しづつ進歩して、遂には上手になれる。ちりも積もれば山となる。継続は力なり。 と とがありて人を斬るとも軽くすな活かす刀もただ一つなり ⇒科(罪)のないものを切ってはもちろんならないが、たとえ罪があっても刑を行うにあたって、軽々しく行ってはいけない。殺人も活人も心一つで決まる。 ち 知恵能は身につきぬれど荷にならず人は重んじはづるものなり ⇒知恵や芸能は身につけても重荷にになるようなものでもない。多くを習って身につけるべきだ。世の人はその人を見て尊敬し、己の及ばない事を恥じるだろう。 り 理も法も立たぬ世ぞとてひきやすき心の駒の行くにまかすな ⇒道理が通らない乱世であっても、自分一人は正道を行き、心を奮い起こして正義と人道を守り通せよ。自暴自棄になって勝手放題するものではない。 ぬ 盗人はよそより入ると思うかや耳目の門に戸ざしよくせよ ⇒盗人は他所から入ると思うかもしれないが、本当の意味での盗人は耳や目から入ってくるものだ。目や耳によく戸締りをせよ。 る 流通すと貴人や君が物語りはじめて聞ける顔もちぞよき ⇒たとえ自分が知っていることでも目上の人の話は、初めて聞くという顔で聞くのがよい。その話は知っていることを言葉や顔に出したりしてはならない。 を 小車の我が悪業にひかれてやつとむる道をうしと見るらん ⇒人は己の怠け心に引っ張られ勝ちで、やがては仕事が辛くなり悪癖となって下落してゆく。人はそれぞれ職分を守って、真面目その業に務めるべきである。 わ 私を捨てて君にしむかはねばうらみも起こり述懐もあり ⇒君主に仕えるには全く一身をささげて我を捨てなければ、恨みも起こり不平不満もでる。自分の一身をささげて君主に仕えよ。 か 学問はあしたの潮のひるまにもなみのよるこそなほ静かなれ ⇒学問をするには朝も昼も間断なく修めなければならない。特に夜は静かで勉強しやすい。無駄な時間を過ごすのではなく、しっかり勉強するべきだ。 よ 善きあしき人の上にて身を磨け友はかがみとなるものぞかし ⇒人は自分の行いの善し悪しを知ることは難しいが、他人の行いの善悪は目に付く。日頃、友人を見て良いことはこれを見習い、悪いことは反省せよ。 た 種子となる心の水にまかせずば道より外に名も流れまじ ⇒私利私欲にかられて世の中の事を行えば、道に外れた悪い評判もたつ。 この悪の種を刈り取って、仏の教えに従って正道を行くべきだ。 れ 礼するは人にするかは人をまたさぐるは人を下ぐるものかは ⇒人に礼を尽くす事は、自分を正しくして己を敬う事でもある。 天を敬い己を慎む心を養え。 そ そしるにも二つあるべし大方は主人のためになるものと知れ ⇒家臣が主人の悪口を言うのは二通りある。主人を思うあまり言う悪口と自分の 利害から来る悪口である。主人たるものは良く判断し、反省の資とすべきだ。 つ つらしとて恨かへすな我れ人に報い報いてはてしなき世ぞ ⇒相手の仕打ちがどんなに辛くても相手を恨み返してはならない。次から次へ恨みが続き良くないことである。恨みには徳を持って対処すべきである。 ね 願わずば隔もあらじ偽の世に誠ある伊勢の神垣 ⇒誠を持って事にあたれば相応の人生を歩むことができ、不正を持って事に対処すれば結局は地に落ちる。人は欺けても、天は公平に人を見ている。 な 名を今に残し置ける人も人こころも心何かおとらん ⇒後世に名を残した偉人も、人であって我々と違いはない。心も同じであるから我々とて及ばないということはない。奮起して努力することが必要である。 ら 楽も苦も時過ぎぬれば跡もなし世に残る名をただ思ふべし ⇒苦も楽も永久的な事ではなく、一時が過ぎれば跡形もない。困難に耐えて世の為に身を粉にして尽くすべきだ。後世に名声を残す事を心がけよ。 む 昔より道ならずして驕る身の天のせめにしあはざるはなし ⇒昔から道に外れて奢り高ぶった者で天罰を受けなかった物はいない。 人は正道をふんでおごりを遠ざけ、神を敬い教えを守っていきなさい。 う 憂かりける今の身こそはさきの世とおもへば今ぞ後の世ならん ⇒嫌なことの多い現世は前世の報いの結果である。現世の行の報いは後の世の姿である。現世の行いを大切にしなさい。すべては因果応報である。 い 亥に臥して寅には起くと夕露の身を徒にあらせじがため ⇒亥(午後10時)に寝て、寅(午前4時)に起きると昔の本にある。朝早く起きて夜遅く休むのも、それぞれの勤めを果たすため。時間を惜しみ勤労すべきだ。 の 遁るまじ所をかねて思ひきれ時にいたりてすずしかるべし ⇒君や国のため命をかけなければならないときがやってくる。日ごろから覚悟を決めておけば、万一の場合にも少しの未練もなく気持ちが清らかであろう。 お おもほえず違うものなり身の上の欲をはなれて義を守れ人 ⇒私欲を離れて、正義を守って行動せよ。 私利私欲を取り去って心の鏡を明らかにすると迷うことはない。 く 苦しくも直進を行け九曲折の未は鞍馬のさかさまの世ぞ ⇒どんなに苦しくても、悪事を行ってはいけない。正道をいきなさい。 鞍馬のつづら折の道のように曲がった道を歩んだものは、まっさかさまに闇の世界に落ち込むような目にあうものである。心正しい正道を歩みなさい。 や やはらぐと怒るをいはば弓と筆鳥に二つの翼とを知れ ⇒穏やかと怒るをたとえれば、文と武である。これらは鳥に二つの翼があるように自由に飛ぶために必要な二つの要素である。 どちらか欠いても役に立たない。寛厳宜しく使い分けて政治を行うべきである。 ま 万能も一心とあり事ふるに身ばし頼むな思案堪忍 ⇒ことわざに「万能一心」というのがある。いかに万能に達するとも一心が悪ければ役にたたない。自分の才能に自慢めいた言動をしてはならない。 け 賢不肖用い捨つるといふ人も必ずならば殊勝なるべし ⇒賢者を登用し、愚者を遠ざけて政治を行えと口に唱える人もそれを実行できるならば素晴らしいことである。だが、実行はなかなか難しい。 ふ 不勢とて敵を侮ることなかれ多勢を見ても恐るべからず ⇒少数だからといって侮ってはいけない。また大勢だからといって恐れるに足りない。少人数でも一致団結すれば大敵を破ることができる。 こ 心こそ軍する身の命なれそろふれば生き揃はねば死す ⇒心・士気こそ戦争する者の命である。自分たちの軍隊の気持ちが一つにまとまっていれば生きることができ、揃っていなければ死を招く。 え 廻向には我と人とを隔つなよ看経はよししてもせずとも ⇒死者を弔って極楽往生を祈るには敵味方分け隔てなく、等しく祈りなさい。 読経するもよし、しなくてもよいのである。 て 敵となる人こそ己が師匠ぞと思ひかへして身をも嗜め ⇒自分にとって敵となる人こそわが師匠と思いなさい。思い直して冷静に観察すれば反面教師として見えてくるだろう。すなわち手本ともなるものである。 あ あきらけき目も呉竹のこの世より迷はばいかに後のやみじは ⇒光あふれる世界である現世でさえ迷っていては、死後の闇の世界ではますます迷うだろう。仏道を修めて悟りを開きなさい。 さ 酒も水ながれも酒となるぞかしただ情あれ君が言の葉 ⇒酒を与えても水のように思う者や、少しの酒で奮い立つ例もある。 要は与え方の問題である。人の上にたつ者は思いやり深く、情け深くあれ。 き 聞くことも又見ることもこころがらみな迷なりみなさとりなり ⇒我々が見たり聞いたりすることはすべて己の心の持ちようで、迷いともなり悟りともなる。 ゆ 弓を得て失ふことも大将のこころひとつの手をばはなれず ⇒軍隊の結束力をまとめるのも失うのも、すべて大将の心一つにある。 め めぐりては我が身にこそつかへけれ先祖のまつり忠孝の道 ⇒祖を祀ることや、忠孝の道に尽くすということはやがて自分にめぐりめぐってくるものである。おろそかにしてはならない。 み 道にただ身をば捨てんと思ひとれ必ず天の助けあるべし ⇒正しい道であれば一身を捨てて突き進め、そうすればかならず天の助けがあるはずである。 し 舌だにも歯のこはきをばしるものを人は心のなからましやは ⇒舌でさえその触れる歯の硬いことを知っている。ましてや人においてはなおさらなことである。交わる相手の正邪善悪を察する心がなくてはならない。 え えへる世をさましてやらで盃に無明の酒をかさねるはうし ⇒この迷いの世の中、その上に杯を重ねて酔いしれ、迷いの上に迷いを重ねて歩くのは情けないことである。真っ直ぐに先を見据え歩くべきだ。 ひ ひとり身をあはれとおもへ物ごとに民にはゆるす心あるべし ⇒たよる者がない老人、孤児、寡婦に対しては情けをかけて一層いたわれ。 人に対しては仁慈の心で寛大に接しなさい。 も もろもろの国やところの政道は人にまづよく教へならはせ ⇒治める国や村の掟は、まず民に良く教えさとした上で政治を行え。 教えないで法を犯したものを罰するのは不仁の仕方である。 せ 善に移りあやまれるをば改めよ義不義は生れつかぬものなり ⇒善にうつり、過ちは改めよ。元来、義不義は生まれつきのものではない。 心のありようで義にも不義にもなる。悪いと気づいたらすぐに改めよ。 す 少しきを足れりとも知れ満ちぬれば月もほどなく十六夜の空 ⇒少し足りないぐらいを満足とすべし。月も満月の次の十六夜の月は欠け始める。足るを知って楽しむ心が大事である。禅の「吾唯足知」に通じる教訓。
2012年03月07日
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前回まで、例の古代ヘブライ語のサイトから引用し、教育を考えてみた。 日本の教育とは、正しい神、キリストが父と呼んだヤハウエであり、主たる神であり、その正しい神を崇拝するために、偶像崇拝をなくし、真贋を見極める洞察力を獲得するものでなければならないことが明らかになった。 この教育の精神を、大和魂と表記し、「ヤマトダマシイ」と読むことができる。 古代ヘブライ語では、「ヤマト」は「ヤハウエを崇拝する民」という意味で、「ダマ」は、日本語の「玉」で、「宝石」や「完全性」を意味し、英語のdiamond(ダイヤモンド)のdiaの語源で、「シイ」は、「然り」や「従う」という意味をもつようである。 だから、「ヤマトダマシイ」は、「ヤハウエを崇拝する民の完全性に然り」という感じになる。 また、「ヤマト」を、「ヤマド」と読むと、古代ヘブライ語では、「天地と共に、永久に続くこと」という意味をもつようで、「天地と共に永久に続く完全性に然り」という感じになる。 要するに、完全性を崇拝し、追究することを意味するのだろう。 さて、問題は、何が「完全性」なのか? にある。 完全性を取り違えると、忽ち偶像崇拝に陥り、不完全故に、神の怒りを買ってしまう。だから、完全性を見極める能力が必要である。 いうまでもなく、人間は皆不完全な存在である。どの人間も不完全なので、完全になるためには、人類全体で結集しなければ、とても完全とはいえない。たとえ、人類全体で結集できたとしても、なお完全には程遠いだろう。 しかしながら、近づく手立ては残されている。 それは人間自身が不完全な存在だと自覚し、お互いを補完し合うことで、能力を高めあうことである。 明治維新で有名な西郷隆盛は、「一人でできることには限界がある」と述べている。だから、西郷さんは、人を入れる器となった。 「押してだめなら引いてみな」 という格言が浮かぶ。人間の様々な能力を入れる器となれば、少しでも神に近づける。 様々な人間を入れる器になれば、最終的に、神を入れる器になることに気がつく。 実は、この発想こそが、古代イスラエルから伝わる聖杯の叡智なのである。 「敬天愛人」という西郷さんの座右の銘は有名である。西郷さんの人生を研究すると、西郷さんの器の大きさが響いてくる。 勝海舟の海舟座談に、坂本龍馬が、西郷を評して、「小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば、大きく鳴る鐘のようだ」と述べたことが書かれている。西郷さんは、文字通り、鐘のような器だった。 世間一般では、明治維新は、西郷と海舟でなされたように思われているが、海舟は明治維新というよりも、江戸幕府の無血開城や事後処理に功績があり、明治維新といえば、西郷と山岡鉄舟の2人の功績が大きいように思える。 西郷は、海舟をそれほど気にかけておらず、鉄舟に惚れ込んだようである。海舟自身も「自分はズルイ」と吐露しているが、海舟は山師的なところがあり、その海舟の山師的なところを西郷は好かなかったのだろう。 西郷が下野したときに、明治政府が、西郷の仲介に、海舟をよこすのではないかと周囲が噂したが、西郷は、「勝がくるわけがない!」と述べたそうである。 どうやら、西郷は、海舟だけは油断のならない存在として、その器に入れなかったようである。というよりも、海舟が器に収まるような人物ではなかったことがわかったのだろう。 西郷と海舟は、島津斉彬を介して面識がある。久光の怒りを買って、西郷が島流しにされたときに、海舟は会いにいったことがあり、いずれ薩摩が幕府に反旗を翻すことがわかり、密貿易などコソコソやってないで、幕府を倒せば、おおっぴらに開国できるというようなことを述べて、海舟は西郷を驚愕させた。幕府の小役人が幕府側の立場とは逆の発想を言うことに海舟という人物の真価をみたわけである。 斉彬を介しての、西郷と海舟の上記の出会いのなかに、将来の日本の国家像が出来上がったといえる。当時の江戸幕府の弱者いじめが酷かったからである。 西郷は、元は、薩摩の年貢を調べていた小役人だったが、あまりの賄賂や不正の横行に我慢が出来ずに、身分をわきまえずに、藩主に進言したため、周囲の怒りを買っていたが、斉彬が、お庭番に取り立てた。 西郷は、また月照という勤皇の僧と意気投合し、一緒に身投げまでするような正義感の塊というべき人物なのである。 このような正義感の強い西郷の幼少期はどうだったのだろうか? 「薩摩(サツマ)」を古代ヘブライ語で解釈すると、「サツ」は、「探す」という意味で、英語のsearchの語源でもあり、「マ」は、マートだと、日本語の「的(マト)」を意味し、イタリア語のmot・toの語源にもなるそうで、「核心」とか「秩序」という意味をもつようである。 だから、「サツマ」は「核心や秩序を探す」という意味になる。 では、実際、薩摩の教育はどのようなものだったのか? 薩摩では独特の教育制度 「郷中教育」が行われていたという。 調べたいときに検索してすぐに出てくるネットは素晴らしい。以下は、次のサイトの抜粋である。 http://blogs.yahoo.co.jp/kobayashi_rk/28983896.html+++++++++++++++++++++++++++++++++++++ ○薩摩独特の教育制度 「郷中教育」 江戸時代、庶民を対象とした教育機関としては寺子屋がありました。維新後の日本が急速に近代化を成しえた背景として、寺子屋が高い教育基盤を築いたことがあげられます。 武士を対象とした教育制度としては,薩摩独特の教育制度「郷中教育」があげられます。 薩摩城下には数十戸を単位としておよそ30の郷中(今でいう町内会)があり、勉学・武芸を通じて、先輩武士が後輩を指導し、ここから維新の傑物を数多く輩出しました。 武士の子弟は、一日のほとんどを同じ年頃や少し年上の人たちと一緒に過ごし、心身を鍛え、躾・武芸を身につけ、勉学に勤しみました。年長者を尊敬すること、負けるな、うそをつくな、弱い者をいじめるな、などなどが、人として生きていくために必要なこととしてたたき込まれたのです。 郷中教育を受けた志士たち: 西郷隆盛 (1828-1877)軍人、政治家 大久保利通(1830-1878)内務卿 寺島宗則 (1832-1893)外務卿(外務大臣) 小松帯刀 (1835-1870)政治家 松方正義 (1835-1924)第4代、第6代内閣総理大臣 村田新八 (1836-1877)政治家 五代友厚 (1836-1885)実業家 大山 巌 (1842-1916)元帥陸軍大将 森 有礼 (1847-1889)文相 東郷平八郎(1848-1934)元帥海軍大将 山本権兵衛(1852-1933)第16代、第22代内閣総理大臣 ...! 郷中教育の指導者は,同世代の「先輩」が務めました。 この郷中教育のはじまりは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の時に遡るとか。このとき、留守を預かる武士の青少年の風紀が乱れ、これを心配した留守居役の家老たちが考案した青少年教育制度、それが郷中教育というわけです。イギリスで始まったボーイスカウトも、郷中教育を研究し、そのよい点を採り入れ組織されたものだということです。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ また、薩摩藩と会津藩の教育制度が似ているという以下のサイトも参考になる。 http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/bakumatsu15.htm 特に以下の、いろは歌との関係を述べるサイトは興味深い。 http://www2.osk.3web.ne.jp/~aranishi/personal8.htm 以下はその抜粋である。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 「400年の歴史を持つ郷中教育」 新しい日本の夜明けである明治維新には、薩摩から多くの人材が出て、かれらが近代日本を築く礎となりました。 「ふるさと維新館」でも語られていますがこれらの人々は幼少の頃から郷中(ごじゅう)教育 で育った人々です。薩摩藩の郷中において行われた藩士の子弟同士の相互の助合いによる教育制度。島津家中興の祖、島津忠良(日新公)の「いろは歌」の教えを中心にしており、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、留守を預かった大口郷の地頭、新納忠元が武士の心得をまとめ、郷中教育に発展していった。郷中教育は島津 義弘公のころに確立され、今日まで継承されてきた400年の歴史を持つ薩摩藩独特の青少年教育です。 島津日新公のいろは歌 島津日新斉忠良公 明応元年9月23日(1492年)伊作亀丸城に生まれ、幼名菊三郎。21歳のとき伊作、田布施城主となり三郎左衛門忠良と称し、36歳のとき髪をそり相模守入道日新斉と号する。日新公は文武、神,儒、仏三教をきわめ、善政をひいた「薩摩の聖君」と呼ばれる。中でも「いろは歌」は天文8年から14年ごろの作で、藩政時代から薩摩武士、士道教化、師弟教育の教典となった。今の時代にも通じる多くの教えを含んでいる。 歌 いにしえの道を聞きても唱えても 我が行いにせずばかいなし 大意 昔の賢者の立派な教えや学問も口に唱えるだけで、実行しなければ役に立たない。実践して実行することがもっとも大事である。 この歌は薩摩藩教学の金科玉条となったもので47の代表名歌である。 薩摩藩から維新の時代に行動的な武士を輩出したのも納得できます。 『 郷中教育』は、各自が日常守るべき規約を定めて、違反した人は、処罰するという厳しいものでもあった。
2012年03月07日
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前回まで、古代ヘブライ語の例のサイトから引用し、教育を考えたみた。そこで、その総括を考えてみたい。 明治維新以降、日本の教育は、欧米の猿真似だったことは否定できない。欧化政策などは典型である。その目的は、欧米列強に侮られないことで、日本は、欧米からみて、紳士になる必要を感じ、そのための教育だった。 かつての帝国大学は、欧米の大学の猿真似でしかなかった。実際、多くの西欧人が教員としていわば輸入された。 当の欧米人は、猿真似と笑っていた。そもそも、欧米からみて紳士になるという発想自体が、日本人の観点だからである。 それは、欧米の独創性を尊ぶ価値観とは真逆のもので、歴史的経緯から、英国が紳士の国とは、とてもブラックジョークといわざるをえないだろう。 西欧を真似るどころか、日本人からみた架空の西欧を真似ているわけである。 例えば、現在の医学体制も、当時のドイツの陸軍の医学体制を継続した(ドイツにはもはや存在しない)名残りが随所にみられる。ドイツ語の医学が高齢の医師に浸透しているのも、その名残りである。忘れてはならないのは、ドイツ留学の陸軍医の森鴎外のせいで、日本陸軍は脚気に悩まされた事実である。 面白いところでは、食事のとき、ライスをホークの背にのせて食べるのが、西欧の作法と思い込んでいる日本人が多いが、西欧文化の輸入の経緯から、恐らく英国海軍の作法に思われるが、間違っても一般西欧人の作法ではないので、フランス料理の食事の際に、そのようなことをやると奇妙に思われる。 そもそも、食事の際に、作法などに拘るのも、いかにも日本人的ともいえる。例えば、逆に、欧米人が、寿司を食べるときに、日本人みたいな食べ方をわざわざ試みるだろうか? また、日本の「肉じゃが」が、英国の「ビーフシチュー」を真似たものであることや、日本の「ウインナコーヒー」が、オーストリアのウィーンにはないことで、日本の物真似の滑稽さが明らかになる。 このような猿真似は、現在、音楽の分野に多いが、米国で受けないのは当然だろう。「肉じゃが」を、「ビーフシチュー」として出すのは、「カルフォルニアロール」を、寿司といって出すのと同じである。 それは、現在、中国が、「ドラえもん」であるかのような猫キャラクターを複製するのと同じ感性ともいえる。しかし、西欧人のように猿真似といって馬鹿にしないだけ、マシかもしれない。だからとって、日本人が過去に同じ事をしていたことに気づく人はほとんどいない。 実際、満州支配は、欧米の植民地支配の物真似である。 これと同じようなことは、現代でもマスコミにより頻繁に行われている。その多くは、官僚が自己都合で流す嘘情報に起因しているように思える。 少し考えて、欧米人と日本人の立場を入れ替えてみれば、一目瞭然である。米軍と同じ兵器を使ったからといって、自衛隊が米軍になるわけではないのは、成績優秀な人の鉛筆を使えば、高得点がとれるわけではないことから、明らかだろう。 つまり、猿真似や、権威を真似ても、バレれば恥ずかしい思いをするわけである。 猿真似の根底にある偶像崇拝というのは独創性がほとんどないので、所詮、偽者なので、バレれば恥ずかしい思いをする。 以上のような猿真似ケースは、日本の伝統的文化の根本にある相手の気持ちを「察する」という精神風土が怠惰に染まって誤って出てしまった例といえる。 相手の気持ちを本当に察するのではなく、自己都合や偏見を交えたままに、察する振りをしているにすぎない。1種のパフォーマンスなのである。お笑いの道化としては通用するだろうが、お笑いの世界を、常識の世界に持ち込むのは狂人である。 例えば、日本人が集団でレストランにやってきて、ライスをホークの背にのせて食べ始めたら、西欧人の多くは笑い出すか、忽ち噂するだろう。 そのような意味で、日本のお笑いの有名人の物真似は優れているとはいえる。 しかし、西欧人の格好や風俗を真似れば、西欧人と同等の扱いを受けるというような単純な間違いに気づかないのは、日本人の思慮の浅さにある。 このような単純な間違いは、日本に原爆が落とされるまで、落とされても尚、ほとんどの日本人は気づいていないようである。特に官僚は、精神性まで真似れば、西欧人と扱われると思い込んでしまっているようである。それは自分が奴隷や道化であることに気づいていないことで、最も教育の成果に乏しい現われである。 戦後の日本の教育の失敗の象徴が現在の官僚にあるといえる。 道化だって、望まれたときにしかやらないプライドをもっている。プライベートまで道化であるのは奴隷である。 米国人の真似をすれば、米国人に扱われるという発想は何に根源があるのだろうか? これこそ、古代イスラエルの風習にあるように思える。 日本が外国に評価されるのは、猿真似とは逆の日本人的な精神風土にある。なぜ、評価されるかといえば、古代イスラエル文化を継承してきたから、そこに西欧人は歴史的な根源や懐かしさを感じるからである。 日本人は、古来から、皇室を模範として、家族を形成してきた。つまり、日本の文化は、皇室、つまり朝廷の文化なのである。 京都に観光する外国人が多いのは、皇室文化の名残り、つまり古代イスラエルの平安京が再現されているからである。 しかし、「天下り」という単なる無能官僚の利権獲得に、朝廷文化の用語が利用されるのは、上記に説明した猿真似の1種にすぎない。 「天下り」の本当の意味を知らずに、偶像崇拝し、俗物化した典型である。このような俗物化が、ヤハウエを怒らせるのだろう。ヤハウエは「天下り」を断じて許さないだろう。 キリストが、悪魔に荒野で唆されたときに、断固として、「主なる神を信じよ!」と拒否した態度を忘れてはならない。 言葉の意味を理解しないで使ってはならない。それは神の言葉も穢すことになるからである。 「天下り」というのは、皇室や、神事に関わることに対してのみ用いられるものなのだ! 官僚たちがやっていることは、猿真似である。中国が、日本の製品のコピーをつくることを批判できるのだろうか? もし、批判するのなら、「天下り」の罪を先に裁かなくてはならない。相手を裁くには、自分が裁くのに相応しい資格をもつことを実証しなくてはならない。 偽者が通用しなくなるときは、本物が明らかになるときである。教育とは真贋を見分ける能力を身につけることでもある。 ユダヤ人でないのに、ユダヤ人として裁くことは、主たる神に背く行為となる。教育とは、つまり、自らの出自を明らかにすることからはじまる。 自分とは何なのか、どこから来るものなのか、はじめに明らかにしなければいけない。 そのような明らかな証明が抜けてしまったので、教育が荒廃してしまった。日本人が古来からもつ、「察する」という感覚の源がどこからくるのか、この感覚を高め、継承するには、どうすればいいのか、そのようなことが教育である。 「察する」の根源は、日本人が伝統的に受け継いできた真贋を見分ける感性のことである。 日本人の模範は、皇室であり、父親は天皇が見本である。皇室が倹約すれば、日本人の家族はいかに富んでいようとも、自然と自主的に倹約しなければならない。それが、日本の教育なのである。 日本人が自然の四季とともに生活を変えるのは、皇室とともに精神を一にし、永遠の命を永らえ、楽しむ秘訣でもある。 強制ではなく、思いやりをもって、自主的に行う態度の育成にある。だから、日本人は自然を愛でるし、皇室に親近感を覚える。 尊敬する人の身振りを自主的に真似ることは非常によいことである。 問題は、自主的に楽しく行う気分にある。嫌々やるのでは、やらない方がマシである。 だから、まず、自己の由来を理解しないと、教育を何者もはじめることはできない。自己の由来とは、日々の反省にあることはいうまでもないだろう。 偽者や詐欺を正すことをはじめなければならない。それが教育の大原則である。
2012年03月06日
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つづき+++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 詰め込みより人格重視 日本の教育は、記憶力を重視するあまり、大切なものを見落してきた。その一つに、個人のセンスがある。 人を楽しませるセンス。 物作りのセンス。 話術のセンス。 絵やデザインのセンス。 アイデアや、インスピレーション。 ・・・など、 個人に求められる能力やセンスはその他、いくらでもある。しかも、社会に出てからはこれが役立つのだ。 現在最重要視されている記憶力は、優れているに越したことはないが、個人差のあるものだ。「クイズのプロ」にでもならない限り、各個人のそれで充分生きてゆける。 詰め込み教育で、いらない知識を生徒達に強制した結果、彼らは死にもの狂いの勉強を強いられた。たまったものではない。何らかの形で訴えて当然だろう。自殺は最も、顕著な危険信号だ。 もちろん、子供の自殺の原因は様々であり、簡単ではない。しかし、教育に根本的な歪みの原因があるのは否定できない。子供にとって、学校は暗い場所なのだ。教育者は、言い逃れができない。 もし自殺志望の生徒達が、昔ながらの「寺子屋」で人格者の教育を受けていたら、どうなっただろうか?事態は変わっていたはずだ。 人間、知識だけが増えても、自動的に人格者には成れない。それで、学校を人格教育の場であると期待するのは、間違いかもしれない。教師自身も迷いつつ教えているからだ。それならせめて、学校で教えるべきは、実践のための教育と割り切るのも仕方がない。しかし、そちらの方も中途半端なのが現状である。 なぜ過剰な詰め込みなのか? よく言われることだが、現教科の内容は過剰気味である。これほどのノルマを、全員に強いる値打ちがどこに有るのだろうか?レベルを下げろと聞こえるかもしれない。しかし、教育の改革で、日本「全体」のレベルは、むしろ上がるだろう。 今の教育は、全員スーパーマン・・・つまり万能者を目指している。しかし、それは不可能な挑戦である。国民全体としてそうなるのが、無理のない姿というものだ。人間本来の姿、つまり分業化である。グループを分け、個人の得意分野を伸ばすのだ。 天才や秀才は、いつの時代にも存在しており、現在の教科レベルでさえ、物足らない生徒は存在する。グループ別教育なら、そのような問題も無い。現在、それは大学で一部実現されている。 義務教育では、制度が枷「かせ」となっている。結局今は、中途半端な切り捨てプランが精一杯である。 天才には「彼らを待ってやれ・・・」と足踏みさせ、 鈍才には「彼らを待たせるな・・・」と尻をたたいている。 そして、レベルの低い3分の1の生徒は切り捨てられる。制度に無理があるため、どうしてもこうなってしまうのだ。人それぞれ違った特質で生まれているというのに、同一教科を、全員が同じペースで学ぶ必要がどこにあるのだろうか?それは、教育者の自己満足ではないか? 繰り返すが、現代教育は、「社会に出てから役立たない」 と言われる。多様な個人の能力を、記憶力一本で評価するからだろう。暗記量に応じて点数が決まる。こんな評価の仕方が、偏っているのは否めない。いや、本来は、評価そのものが必要ない。人間の個性は多種多様であり、優劣が付けがたいからだ。 (役に立たない不満を言うよりは、役に立たせる努力をすべきには思える。馬鹿とハサミは使いよう。) 絨毯の量産 日本人が現代の子供に施してきた教育は、のっぺりとした、絨毯のような社会人を量産した。長さを切りそろえられた人々である。それは、教育界の大失敗だった。その弊害が明らかになりつつある。 猿まね日本 日本人は、発想の無い国民だと言われる。確かに、特許の出願は数では多いのに、内容は「応用特許」ばかり。「基本特許」と呼ばれるものは少ない。日本は、今まで無かった物、新しい物を開発するという力が乏しい。 過去、後進国だった日本は、諸外国の模倣に徹していた。そのころは、それで仕方がなかった。しかし、現代でもやはり猿まねなのだ。特許の傾向が、それを物語る。諸外国との違いは歴然だ。理由は、個性無視の教育を続けてきたためである。日本には、独創的な人間が育たなかった。 特殊な事情として、日本人には「慎みの美学」がある。人と違った行動をしたがらない保守的な国民である。しかし、それを加味しても、やはり独創性が欠けている。 私事だが、一例を挙げよう。 ある商品を発明して、ケミカルメーカーを訪問した。すると、応対に出たのは課長クラスではなく、現場の担当者のようだった。彼らは、まずそのアイデアの全貌を知りたがった。私は、もっと上司の人と話がしたかったので、多くは語らなかった。すると、彼らはこう言った。 「いくら秘密にしても、分析すればわかるんですよ・・・」 つまり、この社員達は、他社の製品の分析を通して、発想を真似る癖が付いていたのである。 どこかの会社が、斬新なアイデアの製品を出せば、それを買ってきて分析し、同じ商品を作ろうとする。こうした事を繰り返してきたため、こんな言葉が口を衝いて出たのだろう。 「大メーカーが、町のアマチュア発明家の発想を盗んでいる」 私は、こんな話しは何度も聞いている。メーカーは、個人の発想を利用して肥え太ったのか?それは裏返せば、町の発明家という人材を踏み潰してきた事になる。日本全体がこうした状況なら、発明家が生きてゆけないのも当然だ。 日本企業は、いまだにアイデアの盗み取りを繰り返しているのだろうか?日本が諸外国から嫌われるのも、こうした背景があるからだろう。まさに、「猿まね日本」である。欧米でも、同じく外国製品の分析は行っている。しかし、彼らは基本特許を充分持った上でそうしている。意味が違う。 (中国のモノマネを悪くはいえない面もある。) 日本車は、最近かっこよくなった。日本もここまで向上した。捨てたもんじゃない・・・このように喜ぶのは早計だ。車のデザインは、数多くが外国の設計事務所に依頼している。かっこいいのも当然だ。 (日露戦争の日本海海戦に勝ったときの戦艦も多くは外国製であったことを日本人の多くは知らない。) こうした、センス・・・つまり、デザインや発明のそれは、その人独自のものだ。つまり、「生え抜き」である。持って生まれたものゆえ、別人で代用はできない。 独創的人材を、育てて来なかったた日本は、今になって困り果てている。人材がいなかったのではなく、踏みつぶしてきたのである。気持ちを入れ替えて、日本が方針転換しても、人材育成にはあと二十年かかるだろう。日本人が世界の中で尊敬を受ける日は、いつ来るのだろうか? 中国の知恵 一方中国は、個性開発の面で日本より進んでいる。中国人のコンピュータプログラマは「優秀だ」と言われているが、なぜそうなのかを考えてみよう。 彼らは、日本人の技術者が、2~3人で2年、3年かかるソフト開発をわずか半年で、しかも一人でやり遂げてしまう。レベルが違うのだ。 ソフト業界での生き残りは、画期的な技術が不可欠だ。彼らのような人材は、喉から手が出るほど欲しい。こんな人材に乏しい日本は、このままでは取り残される。 中国の、この優秀なプログラマーを産み出した教育が、「個性重視」のそれである。プログラムに必要なものは高度な数学力だが、中国政府は、苦手科目があってもとがめず、「一つ秀でていれば良い」とした。数学だけできれば、教師から高く評価してもらえるのだ。彼は安心して、日夜邁進する。 一芸に秀でた人材を、子供の頃から重視する国・・・。優秀な中国人プログラマーは、このような畑からやってくる。 天に目を向ける国 学生を他の煩いから開放する・・・そして英才教育を施すのは、確かに頭の良いやり方ではないか。こんな諺がある。 「天は二物を与えず」 これを中国は信じ、日本は信じなかったのか?他の教科に足を引っ張られない分、飛びぬけた秀才が育つ。・・・確かにそうだろう。 社会で役立たないものより、役立つものに時間を使う・・・それが、社会貢献の準備である。一芸の天才が集まる中国と、百芸の凡才がひしめく日本・・・どちらが、未来明るいのだろうか? 天の摂理に目を向け、先の世を見越した中国には、やがて日本を抜き去る日が来るのかもしれない。 (中国は、個人に1つのことに専心させ、全体でバランスをはかるが、日本は、個人にあれもこれもやらせバランスをはかろうとする。どちらが全体として大きな力となるかは一目瞭然だろう。中国は大器晩成型で、日本は早熟型といえる。 だから、日本には大きな人物が生まれにくい。勝海舟も、日本は箱庭的で、中国は大きいという意味のことを言っている。米国も中国型である。 簡単にいえば、日本は平均高得点型の教育で短所を無くすことを推奨し、中国、米国は一分野高得点型の教育で、一芸に秀でることを推奨する。日本はどこから切っても同じ金太郎飴で、中国、米国は、アタリハズレの大きいワインといったところか?)
2012年03月06日
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つづき+++++++++++++++++++++++++++++++++++++ なぜ過剰な詰め込みなのか? よく言われることだが、現教科の内容は過剰気味である。これほどのノルマを、全員に強いる値打ちがどこに有るのだろうか?レベルを下げろと聞こえるかもしれない。しかし、教育の改革で、日本「全体」のレベルは、むしろ上がるだろう。 今の教育は、全員スーパーマン・・・つまり万能者を目指している。しかし、それは不可能な挑戦である。国民全体としてそうなるのが、無理のない姿というものだ。人間本来の姿、つまり分業化である。グループを分け、個人の得意分野を伸ばすのだ。 天才や秀才は、いつの時代にも存在しており、現在の教科レベルでさえ、物足らない生徒は存在する。グループ別教育なら、そのような問題も無い。現在、それは大学で一部実現されている。 義務教育では、制度が枷(かせ)となっている。結局今は、中途半端な切り捨てプランが精一杯である。 天才には「彼らを待ってやれ・・・」と足踏みさせ、 鈍才には「彼らを待たせるな・・・」と尻をたたいている。 そして、レベルの低い3分の1の生徒は切り捨てられる。制度に無理があるため、どうしてもこうなってしまうのだ。人それぞれ違った特質で生まれているというのに、同一教科を、全員が同じペースで学ぶ必要がどこにあるのだろうか?それは、教育者の自己満足ではないか? 繰り返すが、現代教育は、「社会に出てから役立たない」 と言われる。多様な個人の能力を、記憶力一本で評価するからだろう。暗記量に応じて点数が決まる。こんな評価の仕方が、偏っているのは否めない。いや、本来は、評価そのものが必要ない。人間の個性は多種多様であり、優劣が付けがたいからだ。 絨毯の量産 日本人が現代の子供に施してきた教育は、のっぺりとした、絨毯のような社会人を量産した。長さを切りそろえられた人々である。それは、教育界の大失敗だった。その弊害が明らかになりつつある。 猿まね日本 日本人は、発想の無い国民だと言われる。確かに、特許の出願は数では多いのに、内容は「応用特許」ばかり。「基本特許」と呼ばれるものは少ない。日本は、今まで無かった物、新しい物を開発するという力が乏しい。 過去、後進国だった日本は、諸外国の模倣に徹していた。そのころは、それで仕方がなかった。しかし、現代でもやはり猿まねなのだ。特許の傾向が、それを物語る。諸外国との違いは歴然だ。理由は、個性無視の教育を続けてきたためである。日本には、独創的な人間が育たなかった。 特殊な事情として、日本人には「慎みの美学」がある。人と違った行動をしたがらない保守的な国民である。しかし、それを加味しても、やはり独創性が欠けている。 私事だが、一例を挙げよう。 ある商品を発明して、ケミカルメーカーを訪問した。すると、応対に出たのは課長クラスではなく、現場の担当者のようだった。彼らは、まずそのアイデアの全貌を知りたがった。私は、もっと上司の人と話がしたかったので、多くは語らなかった。すると、彼らはこう言った。 「いくら秘密にしても、分析すればわかるんですよ・・・」 つまり、この社員達は、他社の製品の分析を通して、発想を真似る癖が付いていたのである。 どこかの会社が、斬新なアイデアの製品を出せば、それを買ってきて分析し、同じ商品を作ろうとする。こうした事を繰り返してきたため、こんな言葉が口を衝いて出たのだろう。 「大メーカーが、町のアマチュア発明家の発想を盗んでいる」 私は、こんな話しは何度も聞いている。メーカーは、個人の発想を利用して肥え太ったのか?それは裏返せば、町の発明家という人材を踏み潰してきた事になる。日本全体がこうした状況なら、発明家が生きてゆけないのも当然だ。 日本企業は、いまだにアイデアの盗み取りを繰り返しているのだろうか?日本が諸外国から嫌われるのも、こうした背景があるからだろう。まさに、「猿まね日本」である。欧米でも、同じく外国製品の分析は行っている。しかし、彼らは基本特許を充分持った上でそうしている。意味が違う。 日本車は、最近かっこよくなった。日本もここまで向上した。捨てたもんじゃない・・・このように喜ぶのは早計だ。車のデザインは、数多くが外国の設計事務所に依頼している。かっこいいのも当然だ。 こうした、センス・・・つまり、デザインや発明のそれは、その人独自のものだ。つまり、「生え抜き」である。持って生まれたものゆえ、別人で代用はできない。 独創的人材を、育てて来なかったた日本は、今になって困り果てている。人材がいなかったのではなく、踏みつぶしてきたのである。気持ちを入れ替えて、日本が方針転換しても、人材育成にはあと二十年かかるだろう。日本人が世界の中で尊敬を受ける日は、いつ来るのだろうか? 中国の知恵 一方中国は、個性開発の面で日本より進んでいる。中国人のコンピュータプログラマは「優秀だ」と言われているが、なぜそうなのかを考えてみよう。 彼らは、日本人の技術者が、2~3人で2年、3年かかるソフト開発をわずか半年で、しかも一人でやり遂げてしまう。レベルが違うのだ。 ソフト業界での生き残りは、画期的な技術が不可欠だ。彼らのような人材は、喉から手が出るほど欲しい。こんな人材に乏しい日本は、このままでは取り残される。 中国の、この優秀なプログラマーを産み出した教育が、「個性重視」のそれである。プログラムに必要なものは高度な数学力だが、中国政府は、苦手科目があってもとがめず、「一つ秀でていれば良い」とした。数学だけできれば、教師から高く評価してもらえるのだ。彼は安心して、日夜邁進する。 一芸に秀でた人材を、子供の頃から重視する国・・・。優秀な中国人プログラマーは、このような畑からやってくる。 天に目を向ける国 学生を他の煩いから開放する・・・そして英才教育を施すのは、確かに頭の良いやり方ではないか。こんな諺がある。 「天は二物を与えず」 これを中国は信じ、日本は信じなかったのか?他の教科に足を引っ張られない分、飛びぬけた秀才が育つ。・・・確かにそうだろう。 社会で役立たないものより、役立つものに時間を使う・・・それが、社会貢献の準備である。一芸の天才が集まる中国と、百芸の凡才がひしめく日本・・・どちらが、未来明るいのだろうか? 天の摂理に目を向け、先の世を見越した中国には、やがて日本を抜き去る日が来るのかもしれない。
2012年03月06日
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つづき。()内は私見。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 教育は、価値観を決める 人には、価値観というものがある。女性は洋服や宝石を欲しいと思う。男性はスポーツカーや、メカニズムに魅力を感じる。これは、男女で生まれつき価値観が違うからだろう。 さて、日本の若者が学校で教わる価値観といえば、ひとえに「無個性」である。人と同じように行動する事・・・全教科が人並みにできる事・・・はみ出してはならない事・・・二宮尊徳のように、理想像を「ひとつだけ」与えられる場合もある。 (日本の唯一の問題点は、信仰心は画一的でもいいが、価値観を画一的にしてしまうところにある。宗教と、生活とを混同するところにある。) 問題は、子供は感化されやすいという事だ。ものの考え方までが、型にはめられてしまう。学校で学んだ数学や歴史は大部分忘れてしまうが、型にはめられた価値観は、大人になっても残っている。このために、自分で自分をコントロールできない人も生じてくる。 (子供から学ぶことを忘れている大人も多い。弱者を助けることで、自分の問題解決能力が高まり、親として成長することも忘れている。) 例え話をしよう。ある社会人は、すばらしい絵の才能があるのに、下手なセールス業務で苦労している。この人は、お世辞にもセールスのセンスがあるとは言えない。それでも苦労を重ね、ある程度まで成果を上げた。美しい姿だろうか? (あくまでも喩えという意味だろう。) しかしもし、その人がデザインなど絵のセンスが必要な道に進めば、独創的な分野を次々と切り開いたかもしれない。それも鼻歌まじりで・・・ ところがその人は、自分が苦手な仕事になぜか情熱を燃やしてしまう。彼は、死ぬまで気付かないかもしれない。自分は「選択」を誤っているのだと・・・ 彼は、「苦手」が先に来て、「得意」は後回しになった人生を歩んでいるのだ。 これは、自分で自分を導けない社会人の一例だ。この人物の、「苦手克服」という心情は学校時代に培われた。なにしろ、一科目でも落第点を取れば卒業できなかったからだ。 「できる事」は放っておいて、苦手な分野を集中努力する・・・こんな癖が付いている。彼は、「得意分野を極める」という楽しみを忘れてしまった。 幼い時代はそうではなかった。自分の好きな事に、熱中する子供だった。絵が好きだったので、毎日絵を画いていた。そうしていればご機嫌だった。しかしある時母親が来て、クレヨンを持ったその子の手をたたいた。 「なぜ絵ばかり画いてるの! 勉強しなさい!」 その子の心に、罪悪感が生まれる。 好きな絵を画くという「悪事」への・・・ こうしてその子は、「嫌いで不得手」な事を重視するようになった。義務教育の年代になると、さらにこの傾向は強まった。 「一番苦手な教科を、最重要で取り組むように・・・」 「苦手を持たない人こそ、理想だから・・・」 そうした考えが、自然と身に付いていった。この価値観は大人になっても続く。恐怖心にも似た観念が、彼を追い立てる。 現代の教育が、こうした価値観によって子供の可能性を閉ざしてきたという事は重大な問題である。特に「根性主義」の親の子供は、決して自分を開放できない。 残りの人生の全てを、「苦手克服」に費やしてしまう。しかも、そんな自分に気付かない・・・ 近代の日本の教育は、こうした社会人を量産してきた。彼らは、自分の「真の能力」にいつまでも気付く事がない。そうした隠れた人材が数多く埋もれることは国家の損失だが、それは国家自身が招いたことなのだ。 偏った人間評価 現在、全教科に秀でた人と呼ばれるには、記憶力さえ高ければいい。数学も歴史も、地理も化学も、丸暗記でかなりの線まで行くからだ。この場合、体育は別問題。 彼は、非常に優秀な生徒となる。また、忘れっぽい生徒は、鈍才だとされる。しかしこれは、生徒の能力への偏った評価だ。 記憶力は個人差が有る。生まれつきそれが優れていれば「楽」、劣る人は、「苦」の学生生活である。何という不公平だろうか?こんな教育が、変質的国家を作り、子供達の可能性を踏みつぶしている事実は否めない。 社会は、何でもできる人が構成するのではない。何かひとつできる人が、集まって構成するものだ。現代教育は、この点を勘違いしている。学校には、もう一つの弊害もある。 なまくらの量産 学生を、社会に出てから鍛え直す必要は多くの企業が感じている。それは、学校時代に実践教育を怠ってきたからだろう。 接客の仕方がまずい。 挨拶さえできない。 常識に分別が無い。 礼儀が重要だという事は、 頭で知っているだけである・・・ 原因は、受けた教育の中で非常識がまかり通っていたからだ。変調した教育がこんな社会人を産んだ。 (お笑い番組は非常識さを売りにしているが、その分別がつかない。) 学校は、道具箱から出せば、すぐ使える工具のような社会人を育てているはずだ。しかし実際には、もう一度溶かして打ち直すべき「なまくら」を量産している。 温室ではもやしが育つ 全く特殊な環境である学校は、社会の常識から隔離されている。そこは温室のようで風は吹き込まず、子供達はもやしのようにふやけている。原因は、「義務」教育制度にある。 校内暴力で手の付けられなかった生徒が、社会に出てもまれると、急に平凡になってしまう・・・こんな風景は数多い。 社会では甘えは通じない。常識が支配している。彼らは、この事実を肌で感じるからだろう。 一方、学校はどんな無礼もまかり通る。簡単には首にならない。大人達が、ちやほや世話してくれるのだ。しかし結局、彼らは卒業してから苦労するだろう。 今の学校教育は、正しいのだろうか? 子供達は、社会に出てから戸惑い、あれこれやり直さねばならない。こんな教育が、企業や親に喜ばれるだろうか?学生自身は、当然反発し、突っ張っているのだが・・・ ただここで、「がんじがらめ」の教育は求めない。教育管理者の良識を求めているだけだ。目上の者を敬うのは「常識」であり、常識に強制は必要無い。社会を見れば解る。 会社で、上司に礼儀を怠ればクビが待っている。天につばを吐けば、当然自分にかかるのだ。どんなに礼儀を怠っても、クビにならない学校の制度「義務教育」の方がおかしいのである。 (モンスターペアレンツ等を考えると、最近は、親への義務教育の必要性も感じる。自分の価値観の押し付けが多い。) 私個人としては、教育に「義務」の必要を感じない。全員が行きたいならそれは自由だ。しかし、「義務」という一言は必要無いと思っている。 (権利の獲得には、義務を果たすことが前提なので、社会人として独立して生活する権利をもつには、義務教育を果たす、つまり修めるという意味なのだろう。) 義務教育は利用された 義務教育は、戦前の兵士育成のプログラムの一環だった。国民全体を政府の管理下に置く、いわば「国の必要」から生じたものだ。 (義務というより、常識教育というべきだろう。社会規則教育でもいい。話し合い、相手の考えを理解するためには、常識の理解とある程度の教養が必要である。) 日本の学生服は、諸外国の軍服を手本にしていた。学校制度と軍隊は一対であった。しかし、問題が増加したのは「大正」から「昭和」であり、明治の政府は、教育に対してバランスの取れた見方をしていた。 「もし、学校以外に教育を受ける場があれば、それを教育とみなす」 という考えだった。しかし、軍事色の強い戦前の政府は、国民学校令においてその条項を削除してしまった。国民は、一人残らず政府の認める学校しか選択肢が無くなったのだ。どんな意図が含まれていたかは、推して知るべしだろう。国民を子供の時代から、政府の管理下に置くという政策である。その名残りは戦後も続いて来た。 黒一色に統一された学生服が象徴するのは、「統率」の精神である。統率は個性を殺し、子供達の多様な可能性を摘み取ってしまう。 余談だが、無個性の軍隊は弱い。一糸乱れぬマスゲームや軍事パレードは勇ましく、いかにも強そうに見える。「統率された行動が、威圧感を生む」という法則を、軍は大いに利用している。しかし個性まで奪い去れば、兵の力は削がれてしまう。実戦では意外と粘らず、犬死にが多い。兵力は容易に底を突く。 (1種のパフォーマンスにすぎない。信長が、戦国時代を統一したときの、御所前でやった閲兵式と同じである。山内一豊が閲兵式のためにわざわざ馬を買ったように、戦場での働きとは全く別である。) 一方、各個人が個性で動く奇襲部隊は逆である。コマンドーや各地のゲリラ軍がそうだ。私は戦争を好む人種ではないが、こうした考察を通して、人々の個性を削れば、自滅が待っている事は理解している。 (集団スポーツからもわかる。個性のないチームは弱い。単純な喩えだが、サッカーのリフティングが上手くても、試合で良いプレーヤーになれるわけではない。守備に強い選手もいれば、攻撃に強い選手もいて、要するにバランスがとれているのがよい。バランスは、画一とは全く逆である。) 日本の現代にも、学生服に「統率の精神」が生きている。坊主頭もその一つ。兵士を象徴する髪型が坊主である。なぜ、こうしたものを残してきたのだろうか?「国民を、もう一度号令一つで動員するためだ」と言う人もいる。 確かに、一番影響を受けやすい学生時代に、国民全体にタガを掛けておけば統率には都合が良い。私が独裁者ならそうするだろう。義務教育制度には、「国民の教養向上のためだ」という大義名分もある。 従って、この制度から「義務」という文字をはずしてしまえば、この意味で損をするのは国民ではなく施政者だ。国民を、管理統制する術「すべ」を失ってしまうからである。 国民の教育熱が冷める事を心配する意見もあるだろうが、義務ではない大学教育にはあれほどの人々が殺到する。この現状を見れば、「義務」教育廃止後の状況は心配するほどではない。 助成金の心配をする人が、いるだろうか。しかし、義務の文字をはずす条件として、補助金を国家が打ち切る理由は無い。学校制度が、「希望者」の受け入れシステムに変われば、校内暴力などは瞬時に消える。この場合、社会と同じ面接入学である。 辞める事や、辞めさせられる事も当然存在する。不幸にして文盲の人も現れるだろう。それは「流れ」の結果として、ゼロにはならない。しかしやる気さえあれば、大人になってから学ぶ道がある。 このような思い切った方針を打ち出しても、個性を無視した詰め込みの教育システムを変更しなければ、何の意味も無い。 個性を伸ばす教育 生徒はそれぞれ、入学してから好きな分野の素質を伸ばす必要がある。苦手な教科の強制もしてはならない。荒療治だと思われるかもしれないが、今までの制度の方がよっぽど荒療治だったのだ。学生達の「悲鳴」が、それを物語っている。 教育の中で、個性を無視しているために、日本はずいぶん損をした。 (日本のサッカーをみているとよくわかる。)
2012年03月06日
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例の古代ヘブライ語のサイトにこだわって、前回は、政治について考えた。 政治の要諦は弱者救済であり、そのためには預言力、いわゆる洞察力が必要であり、その洞察力を獲得するには、現状の問題を解決し、未然に処理していくしかないことを、明らかにした。 このような意味から、現代の指導者を考えれば、どいつもこいつも自分たちの利権保守に必死で、失格者の烙印を押さざるを得ないことがわかる。唯一、天皇は象徴天皇に甘んじ、日本の神を祀り、平和憲法を死守してきたことで、烙印から除かれるだろう。 日本の指導者がダメなのは、権威にすがるものは、権威そのものになることはできない、ということを、理解していないからである。権威の奴隷になれば、権威になることを諦めなければならない。 他人の価値観ではなく、自分独自の価値観をもつべきなのである。 つまり、他人の基準の奴隷となり、新しい創造を忘れたものは、消えゆく運命なのである。 思考を、現実の進行に沿ってかえていかねばならない。 現実の進行方向とは、弱者救済であり、それが宇宙や神の御業だからである。 神の意図がわかる者なら、未来はその者のためにある。 だから、権威にすがる者は、権威に潰される。 このような観点から考えるなら、天災は、神の救いと考えられる。 天災によって命が救われた者は、命の尊さを知り、過酷な現実にも向き合わねばならない。 また、天災により、この世の生を終えた者は、死を恐れることなく、死に絶望することなく、自他の関わりなく、生命を救おうとしながら、死そのものを受け入れ、次の相応しい転生へと羽ばたいていくことができる。 現代社会が不安に塗れているのは、死を無と勘違いしていることにある。死を無と捉えている限り、いかに権威にすがろうとも、死を乗り越えていくことはできない。 また、死が安楽であると自殺するのも大きな間違いである。死ねば楽になるどころか、現状の生が濃縮されるだけである。だから、自殺は、より苦しくなるだけである。 なぜなら、生と死は神しか決めることができないからである。 自殺は、肉体を失ったまま苦しみを永遠と続けることになるだろう。 簡単にいうなら、あの世の受け入れ態勢が整っていないことになる。 では、生きる目的とはなんだろうか? 端的にいえば、自分のなかに平和をみつけること、つまり自分の幸福をみつけることだろう。 幸福は、十人十色なので、幸福とは、幸福をみつける自己の能力いかんとなる。だから、幸福とは、自己の能力を発見することになる。そして、その能力は、自分以外の多くの人にも、同時になんらかの恩恵を与えないといけない。少なくとも善の行為でなければ正しい能力の使い方とはいえない。 以上を想定すれば、人生で遭遇する問題をできるだけ自身で解決できる能力をもち、数多くの問題を実際に解決することが、幸福であることがわかる。 言葉にいうのはいかにも容易だが、欲望の本性として困難な問題は避け、他人任せにしたいのが誰にもある欲望の本音でもある。その欲望が、成長力の基礎になっている一面は否定できない。そのため、子供のときには、保護者がいて、保護者が問題を代わりに解決することで、子供の生きるための欲望をある程度尊重している。 あえて一面的な見方をすれば、この世の社会にとってみれば、新しい価値観をもって生まれてくる子供は、問題を生じさせる可能性の高い存在である。ヘロデ王が、救世主誕生を恐れ、幼子イエスを殺すように命じたのと同じである。 人類にとって悪しき指導者は、権威により、弱者を抹殺しようとする。 子供は天の贈り物なので、社会改革に必要な存在である。社会改革には、問題が必要なのだ! また、逆にいえば、問題が生じるのは、価値観の違いにある。価値観の違いが、和解することで、新しい価値観の融合をもたらす。 だから、平和や幸福であるための基本となる前提は、価値観が多様で、お互いの価値観を認め合い、共同して新しい価値観を創造する態度をもつことが必要となる。 価値観の多様性やお互いの価値観を認め合い、新たな価値観を創造する態度は、教育によってつくられる。 だから、価値観の創造は、教育が原点となる。 「星の王子様」の著者サンテクジュペリは、「愛とは、互いに向き合うことではなく、共に同じ方向を見ることだ」と述べているが、価値観の創造には愛が必要に思う。 それでは、また、例のサイトから、教育に関して抜き書きして、考えてみる。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 先進国日本? 無心に働き、努力を重ねてきた日本。しかし、イエローモンキーと言われて嫌われる。世界では、経済大国となっているのに、リーダーシップが発揮できない。どうしてなのか? それは、大部分、教育に責任がある。いろいろな要因があるにしても、集約されるのはそこだ。 教育分野を、なぜ重視するのか?それは、人間の基礎的部分を決めるものだからだ。教育界で言われている「基礎」とは、また別の意味でである。
2012年03月06日
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つづき。++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 利用される日本 おぼこい日本は、政府もまたおぼこい。 国と国の交渉において、相手が述べることに「裏がある」ことは当然だが、政府にはそれが読めないようである。 相手が今「どんな立場」にあり、「何を望んでいるか」を予測して対処しなければならない。 「イラク特別措置法」を考えてみよう。 これはアメリカが、日本の政府に裏ルートから打診して成立させたことは明らかだ。なぜなら、このような理由があるからである。 1.現在のアメリカはイラクで困窮しており、自分達と交代する兵力を緊急に必用としている 2.利権問題があるため、自分達の撤退は絶対認めない。 3.アメリカ国内には、今でも「真珠湾を襲った卑怯なジャップ」という考えが残っている。「ジャップの軍は、こき使え」というわけである。 4.一部の高官は、自分の「属国」から「最大限の利益」を絞り出そうと考えている。 5.実際に過去、日本との不平等条約や密約を駆使して、財力を絞り上げてきた。 6.当然、日本の軍はこれから先「紛争地域で活用する」という秘密の計画があるはずだ。 7.アメリカの中で「死の商人」は発言力が強く、日本市場を狙っている。核以外は何でも売る。必要なら、「需要」も造り出す。 8.彼らの突き上げは、水面下で「日本再軍備」の推進力となっている。 9.しかし日本国民は、世界の紛争に介入する軍事大国になることに拒否反応を持っている。 10.アメリカは表だっては「善良」を装い、日本政府自ら平和憲法を破棄するよう圧力をかけている。当然、裏工作も多用している。「誤爆」、「テロに変装」、「風説」ー危機をあおる、「密約」、「盗聴と暴露」・・・などがその手段である。 これらを深く考えれば、「イラク特別措置法」が通った背景が理解できるだろう。日本が再軍備して海外に兵を出せる憲法が最終目的なのだ。しかしそれまでの道のりは遠く、最初は低いハードルを越えさせたに過ぎない。イラクへの派兵は、「堤防」に「蟻の穴」を空けるための一段階である。 兵が海外で戦闘に巻き込まれ、軍事行動を常とするようになれば、もはや憲法9条は空文化する。アメリカはそれを狙っており、現在の政権を使って「既成事実」を作らせようとしている。 空文化した憲法9条を取り払ったとたん、ベトナム、ソマリア、現在のイラクのような、泥沼の最前線への派兵要請が殺到するだろう。もう平和は無く、アメリカの引き起こすあらゆる戦争に、荷担することになるのだ。当然、徴兵制が検討され、秘密警察も復活する。民衆の反対を抑えるためである。 小泉政権は、平和貢献を言い訳に使って、実質派兵をもくろんでいる。この態度は、国民をなだめるというものではなく、「騙す」態度なのだ。自分達はこう思っている。 「とにかく派兵したい」 では、国民をどうやって騙すのか? それは、「国際貢献」や、「人道援助」という言葉を使えばいいというわけだ。 「危ない地域には出さない」と、言いながら「重装備の武器」を持たせる。 「おかしいじゃないか」と、咎める人間には、 「では自衛隊の危険を見過ごすのか?」と、開き直ってくる。 まったく本末転倒した筋の通らない態度だ。 アメリカの突き上げが強く、焦りがあるからだろう。 だから、心ある人がこう言えばいいのだ。 「敗戦時のあの苦痛を忘れたのか?」 「死者達に、『もう過ちは繰り返しません』と誓った決意を踏みにじるのか?」 「我々の平和憲法を軽視し、死者に無礼を働き、国民に嘘をつく内閣などいらない!」 「国民のみなさん、そうでしょう?」 泥沼への道 もし、「アラブとイスラエルの紛争」に巻き込まれた場合、日本の国益と平和は吹き飛んでしまう。難儀と苦悩が付きまとうようになるだろう。イラク派兵はまさにこの入り口となっているのだ。決して足を踏み入れてはならない、恐ろしい「罠」なのである。 しかし、「他国の苦悩」など頭にないアメリカは、下請けに「3K仕事」を押し付けるために圧力をかけ続けている。もし日本政府に骨があれば、平和憲法を理由にアメリカの意図を跳ね返すことができる。しかし、「人道援助」を唱えて兵を出そうとする小泉政権は、主目的がまず「派兵」にあり、「人道」はただの言い訳に過ぎない。 イラクの人々でさえ、「外国の軍隊は来て欲しくない」と明言しており、自衛隊派遣を喜んでいない。つまり小泉政権の主眼はイラクへの人道ではなく、アメリカの意図に従うことにある。そして、貧乏くじを引こうとしている。これは「国民への裏切り」だと知っておくべきだろう。 アメリカの行動や主張は常に、「大儀」、「理想」、「善意」の飾りで覆われているため、裏側の陰謀は見えない。しかし、世界の国々はとっくに「アメリカの本意」を読み抜いている。それを知った上で、利用されないように立ち回っているのだ。これが日本の政治家にはできないのである。 平和憲法は絶妙の盾 アメリカが日本の平和憲法を崩そうとするのは、それが絶妙の盾になっているからだ。この憲法がある限り、日本の軍を海外の紛争地帯に引き出すことができない。それは派兵どころか、「戦闘行為」そのものを禁じている。さらに言えば、軍所有そのものが禁じられているのだ。 自衛という名目で軍を備えた日本だが、海外での戦闘行為はできない。しかし、この憲法が縛っているため、日本はベトナムや朝鮮を横目で見ながら今までの平和を享受できたのだ。これからも同様である。 今までの日本の態度から、「憲法を崩すのは難しい」と考えたアメリカは、「既成事実」を積み重ねてゆくというアイデアをひねり出した。時の首相は、これに乗った。 現在日本に、「変人」(仲間内のあだ名)と呼ばれる首相が誕生し、暴走を始めた。この行動はアメリカの意向にぴったりと一致した。ブッシュ・アメリカは、喜んで全面支援を行うようになった。 「その代わり、わかっているな・・・」 「兵を出せ」という密約が交わされているはずである。 国民の意向とは別なところで、アメリカが日本を自由にすることができるようになった。 当然この噂は世界中に広がっており、世界は「アメリカの横暴」をささやくようになった。しかしそこは「狸」である。顔には決して出さずにアメリカの要求をうまく交わしている。日本の首脳も、政治家達もこうした「狸顔」ができない。交渉では、アメリカの思い通りに操られてしまうのだ。 識者の中では、「アメリカこそ悪の枢軸」という声さえ挙がるようになっている。アメリカは、政治面、経済面、軍事面など、あらゆる面で策謀を使っているからである。これは、人に見えなくても、神には見える。 現在はイラク派兵「前」だが、これからどうなって行くだろうか? 「利用される日本」を目指すこの政権が倒れるなら、日本国民に安全と繁栄が訪れるのだが・・・ 我々は今、「暴走するイノシシ」ではなく、「賢い狸」を必要としているのだ。
2012年03月05日
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つづき++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ (7)事が起きると、権威に言いつける これも、国際社会での教訓だろう。正しい道を歩んでさえいれば、日本は追い込まれるはずがなかった。大陸に進出したばかりに、日本は国連に問題視され脱退した。 諸外国にどのような偽善があっても、日本にも落ち度があった場合、国際世論に逆らうことは命取りとなる。常に、国際社会の目を意識しながら行動しなければならない。 小泉政権が掲げている「国際貢献」は本物ではない。それは、国際社会の意見が二分しているからである。その少数派である一方に付いて、「国際貢献」とは叫べない。そして、日本の行動は、深読みできる筋には「愚か」と見られているだろう。 (8)正義を振りかざす キリスト教国には、国是として「正義を正面に出す」という拘束がある。どんな場合も、聖書のキリストの教えに反して行動できないのだ。逆に、「正義」という大義名分があれば、世論は簡単に賛同を与えてくれる。それゆえ、キリスト教国の行動は「正義」を振りかざしているように見えるのだ。 この特質を完全に理解していれば、彼らと交渉する際に賢く振る舞える。 彼らは、「あなた方はキリストの愛に反している」と、指摘されるのを一番嫌うからである。オレンジ輸入に際して、 「あなた方は、私たち日本国民の健康を犠牲にして良いと思っているのですか?」 という糾弾は、彼らの手を止めるだろう。「防黴剤が危険であるという証拠が、これだけそろっている」と追求すれば、アメリカは「歩み寄り」を模索し始めていたはずである。 (9)最低限の礼儀をわきまえる イスラム教国に対して、裸を晒すなどの非礼はタブーである。たとえそれが、お笑い芸人の個人技であっても許されない。 これと同様の最低限の礼儀が、キリスト教国にも存在する。何だろうか? それは東洋人の正義観とおおむね共通しているが、その中でも特に「女性」や「子供」に対する虐待に彼らは敏感である。また、「鯨」という動物に対する理解と愛護精神が確立された現在、それに反する言動や行動も忌み嫌われる。 逆に、道徳心とは別の所で遠慮はいらない。むしろ、意思表示をはっきりさせる方が、礼儀に沿った行動と見なされる。メモを見ながら話す東洋系の政治家は、自分の意見を述べているように見えず、白人社会には物足りないだろう。 快活な応答ができず、口ごもって考え込む日本の政治家などを、彼らは侮り、また「不気味」に感じるかもしれない。ヤペテの子孫達は、お互いに自己主張をしながら折り合いを付けて行く。この点で中国や北朝鮮の指導者は、日本の指導者より賢く振る舞っているのである。 (10)利用できるものは活用する 「揚げ足を取る」という罠は、政治家に付きまとう。田中首相を追い落とすために、ロッキード疑獄が利用されたのは有名だ。政治家にはどんな隙もあってはならない。それはいつか暴露されるからである。 彼らの世界では、常に利用できる糾弾の証拠が追い求められ、吟味されている。国際的視点から見れば、叩けばほこりの出るような人物は一国の首相になるべきではない。さらにまた、企業に傾き弱者救済を忘れるような人も好まれない。この点で、狡猾な政治家はチャリティを大いに活用している。 現在、イラク侵攻に際しての「大量破壊兵器発言」が問題視されている。「利用すべき」と思える情報も、「誤報」を採用すれば命取りだ。ここでも慎重さが要求されている。 「遺伝子組み替え食品」を、世界にばらまこうとするブッシュ政権は、あらゆる状況を利用してそれを送り出し、既成事実を作ろうとしている。まず、アフリカに、そしてアジアに、「援助」という大儀を通してそれは普及するだろう。消費者のうるさいヨーロッパより、こちらの方が話が速いからだ。しかし、見返りとなる支払代金は滞るかもしれない。結局、それら全てに都合がいいのは、親米政権ができた小泉日本である。アメリカは、これを徹底活用する腹なのかもしれない。 「自衛隊に戦争の下請けをさせる」というのが、狡猾で遠慮のないブッシュ外交の決定事項だろう。だとすれば、彼らはその防波堤となっている「平和憲法」がずたずたになるまで小泉政権を応援するはずだ。それら全ては、生ける神ヤオヨロズの眼前で行われている。 ヤーの立ち上がる日に、ブッシュ政権や小泉政権がどうなるか見物(みもの)かもしれない。政治は、「日本を護る神ヤー」を無視して語ることはできないからである。
2012年03月05日
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つづき ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 外交は最大の防護 白人社会と東洋人のそれとでは、大きな違いがある。それは、外交姿勢だ。白人が国際社会に目を向けるのに対して、東洋人は内にこもってしまう。 これは、ヤペテの子孫が次男坊の性格を引き継ぎ、セムの子孫が長男気質であることに起因している。東洋人は、長男気質であり、外交が下手なのである。しかし、国の外交は非常に重要なもので、これをうまくこなさないとすぐに付け入られてしまう。次男坊気質が国際社会を支配している現在では、それに見合った防御を固めなければならない。 次男坊が得意とする外交方針や駆け引きは、以下のようである。 (1)自分の主張をはっきり打ち出す。 (2)要求には、取引を持ち出して対処する。 (3)常に「自国の利益」を忘れない。 (4)相手を徹底分析する。 (5)常に先を読む。 (6)相手の手を封じ、自分は自由を確保する。 (7)事が起きると、権威に言いつける。 (8)正義を振りかざす。 (9)最低限の礼儀をわきまえる。 (10)利用できるものは活用する。 白人世界は、ほとんどの国が「キリスト教」を国教としているため、次男坊気質とキリスト教気質が混合したような有様となっている。それで、彼らに対処する外交官や省庁は、それを根底から理解していなければならない。 では、上記項目を順に分析してみよう。 (1)自分の主張をはっきり打ち出す この次男坊気質は、「遠慮」というものに縁がない。何かをはっきりと要求するが、相手もそうするものと考えている。つまり交渉に際しては、「相手に遠慮がある」という読みが頭に無いのである。 欲しいものは欲しい できないことはできない というように、はっきり言葉にして伝える必要がある。そうしないと、相手は「無条件で要求を呑んだ」・・・と考えて、ずかずかと踏み込んでくる。白人社会同士が、対峙している姿を観察すれば理解できるだろう。 「遺伝子組み替え作物など輸入しない」 欧州には、アメリカにはっきりものを言う姿があった。 そして、「交換条件」や、「どこまで譲れるか」をちゃんと考えている。つまり、最初から「落としどころ」をにらみながら交渉に打ち込んでいるのである。白人社会においては、言いたいことは遠慮しないで打ち出さねばならない。 (2)要求には取引を持ち出して対処する 見返りのない受諾などあり得ない。日本政府がアメリカの圧力で「オレンジ自由化」を呑んだ時、政府は「見返り」を打ち出せなかった。いや、「交換条件」さえ無かった。 量の取り決めや、手続き上の制限などは交換条件ではない。最低限政府が「見返り」と考えているのは、「アメリカからの是認」なのかもしれない。しかし、それはひじょうに甘い態度である。 アメリカが、「それでよろしい」 と、日本政府を是認してくれたとしても、それが何だろうか?そんな事を喜んでいるなら、それはまるで赤子の外交だ。しかし、大人が本当に打ち出すべき交換条件はこんなものだろう。 「日本国民の口に、危険な薬品を入れることはできない」 「アメリカはOPPなどの薬剤を使わないオレンジを出せ」・・・これで、アメリカの手が一瞬止まる。その主張は相手の良心を突いた「道理」であるからだ。発ガン物質であるカビ除け剤をたっぷりと染み込ませたオレンジを、アメリカは平気で輸出してくる。相手の国民がどうなろうと儲かればいいのだろうか? しかしそれは、「キリストの精神」に反した行動だ。日本はその部分を突けばいいのである。事実、ヨーロッパは「遺伝子組み替え作物」に対して、 「安全が不明な食物はいらない」・・・と、はっきり拒否していた。それでもアメリカがしつこく迫ったため、とうとう「表示義務」を交換条件に打ち出した。これが「落としどころ」である。 日本の場合も、オレンジには「どんな薬剤を使っているか?」・・・と、消費者の知る権利を打ち出すべきだったのだ。実際、あの危険なオレンジの皮で、マーマレードを造るような無知な主婦がいるかもしれないからである。 また、小麦には「品質改良材」と呼ばれる劇薬が混入されている。輸入小麦で造ったうどんを食べると、「胃の膨満感」が生じるのはそのためである。しかもそれは、将来のガンや成人病につながる危険な混ぜものである。こんな点も指摘できない外交とは、いったい何だろうか?政府が表示義務さえ勝ち取れなかったので、それは知られずに自国民の口に入っている。 (3)常に自国の利益を忘れない オレンジや小麦の自由化は、目に見えない不利益をもたらしている。それは、使用されている薬物の引き起こす障害である。 日本の健康保険制度は赤字であえいでいる。それには、こうした薬物も絡んでいるのだ。アトピーなどの皮膚炎も、成人病もガンも、その幾分かは多用される防腐剤や防黴剤、香料や合成物質に起因している。 輸入オレンジや小麦に添加された薬物は、病人を増やし健康保険財政を赤字に追い込んでいる。こうした国益に反する状況を招いたのは、外圧である。 日本は普段から、薬物による社会悪(乱用)に厳しい目を向け、国内でもそれを取り締まらねばならない。消費者への愛を忘れ、薬品会社に便宜を図る政府の姿勢を外国に知られると、「薬剤の危険性を理由とした輸入拒否」などは力を失ってしまう。 自国の利益とは当然、業者の利益ではなく「自国民の利益」である。国民を被支配民と考えるような頭からは、民への愛も、それに根ざした深い洞察も浮かんでこない。しかし、キリスト教国の民主主義は、「民こそ主役」という精神が根付いている。彼らとつきあうなら、これが心底理解できなければならない。日本には、「同胞愛」が欠けている。 (4)相手を徹底分析する 自分の国に大きな影響を与える他国の指導者が代わった時、政府は全精力を傾けて彼の分析を行わねばならない。これから以後、打ち出される政策を理解するためである。 例えば、ブッシュ大統領の学生時代に、担当教師となった人物からの情報は、貴重な示唆を含んでいる。それによれば、ブッシュジュニアは結構な野心家で、狡猾であったそうである。弱い者より強い者に囲まれた生活を好む姿は、日本の小泉首相と似通っているという。 こうした分析を、国家の総力をあげて行い、彼がどのような政策を打ち出すにしても、その裏を読んで自分達の態度を決めることができる。そのための情報は、広い範囲から集めなければならない。 (5)常に先を読む どの国でも行っているように感じるが、実際には満足にできていないのがこれだ。しかし、不確定要素の多い政治の世界で、どのように先を読むというのだろうか? 経済情勢や、軍事情勢を読む場合でも、相手の「信条」を知っていれば読みは深くなる。国際社会では、挑発や牽制発言が飛び交っているが、信条の違いがその反応を決めるのである。 アメリカは、イラクに侵攻する際に、フセインの信条や性格を読むために、メディアを通じていろいろな挑発を行った 先を読む努力を「北朝鮮」に向けるなら、その指導者が持っている信条を知っておかねばならない。では、金正日の信条はどのようなものなのだろうか?彼の宗教観や処世術はどんなだろうか? 一つ言えることは、彼はヒトラーのような夢想家ではなく、現実主義者であるということだ。それゆえ、勝てる見込みがなければ戦争に踏み切るような無謀さは持たないはずである。また、必要なら妥協も辞さない現実的観念を抱いている。持てるカードをフル活用する策士の顔も見える。 小泉首相と会見して拉致問題について訪ねられた時、「 拉致はあった。謝る。」 という言葉が口に出たのが、その証拠である。彼はこの時、意地を捨てていた。金正日は、我々が思うほど得体の知れない不気味な人物ではない。その点でむしろ、小泉首相こそ不気味な人物かもしれない。立場が逆なら北朝鮮の小泉将軍は、 「拉致問題などあり得ない」と突っぱねるはずである。 むしろ、「不気味さ」を感じているのは北朝鮮の方だろう。「拉致はあった」と認めて謝罪し、友好関係を結んで仲良くやりたいと考えて握手したのに、相手(小泉)は急に怒りだし、 「拉致があったならこのまま進めない」 「全てを明らかにして責任を追求せよ」 と、言い始めたのだ。普通ではあり得ない外交手腕である。 もはや、共産主義が世界を赤化できるはずもなく、民衆をだまして踊らせることも限界に近付いている現在、「穏便に政治形態を変化させたい」と考えているのは、金正日自身だろう。彼は、アメリカのイラク侵攻以後、自分の命と家族の命、親戚縁者の命を心配する必要が生じている。 小泉首相が訪朝して、国交回復の歩みを始めた頃、彼の頭には尊厳を保ったまま徐々に国を開放する考えがあったのかもしれない。過去の身方であった中国も現実路線に転換し、ロシアもアメリカ寄りになっている。孤立した現在、アメリカに難癖を付けられて攻められ、壊滅する現実が目の前にある。その前に、日本と手を握り韓国とも融和して援助を引き出し、もう少し将軍の地位に止まりたいと考えていたはずである。 北朝鮮軍の実力は、金正日自身が一番よく知っている。腹を空かせた国民は、戦時には持続力が無く、軍への物資補給が続かない。今や軍は張り子の虎のようになっている。「一発で相手を滅ぼす」と脅しに使う核ミサイルも、撃ってしまえば後がない。しかも、日本と北朝鮮との間には海がある。海を渡る軍を、ミサイルでねらい打ちされれば戦わずして敗北が決まる。地続きの朝鮮半島とは全く違うのである。 偵察衛星が、港を出る海軍の姿を捉えた場合、たちまち集中攻撃されてしまう。かといって、日本に潜入したゲリラ軍の破壊工作が成功したとたん、その軍の出所である北朝鮮本国が攻撃の的となる。どんなシナリオを描いても、北朝鮮に勝ち目はない。金正日ほどの人物なら、これくらいの先は読んでいるだろう。 彼はむしろ、拉致問題を認めた言葉の揚げ足を取って、強引に「交渉打ち切り」を決定した小泉政権の裏に、アメリカの謀略があることを読み抜いているはずだ。だからこそ、アメリカとの二者協議にこだわっているのである。そして、小泉政権によって、日本の国民が踊らされ、アメリカの利用しやすい形での再軍備に向かっていることも知っているのだ。 「次に戦う相手は、アメリカの犬となった日本軍かな?」 彼はそう考えているかもしれない。それなら、アメリカさえ押さえておけば、日本などどうでもいいことになる。先を読む力は、金正日の方が一枚上である。 (6)相手の手を封じ、自分は自由を確保する これは白人社会の特徴である。捕鯨禁止を強弁する白人社会が、実は過去に鯨を捕りすぎて絶滅に追い込みそうになっていた。 動物保護を世界に訴える国の過去が、一番血にまみれている。 植民地政策を模索し始めた日本を憎み、ABCDラインで経済封鎖して追い込んだ諸外国が、自分達の過去に植民地政策や奴隷制度を隠していた。 諸外国を見習う日本が、その「帝国主義」や「植民地政策」まで真似たのは愚かだった。諸外国が何をしていても、日本は礼節を守って正しい道を歩むべきだった。それが日本の神の望みであるからだ。どうせ日本は、狡猾なヤペテの子孫達にかなうはずがない。品行方正な独自路線は、この点で護りとなるのである。
2012年03月05日
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つづき+++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 一方、弱者の生活に目を向け、これを中心に回る社会は経済から治安まで全ての要素が安定する。アメリカを例にして考えてみよう。 奴隷解放以後の過ち アメリカの南北戦争は、奴隷解放という事業を成し遂げたが、精神的には黒人は奴隷のままだった。彼らは、ハーレムの中で惨めに暮らしていた。黒人は差別のため、まともな仕事に付けず、社会からの愛情には無縁だった。彼らに溜まった鬱積は、やがて数々の暴動や犯罪を引き起こした。その地域は腐敗した心を育て、犯罪多発という悩みをもたらした。 これは非常にわかりやすい原因と結果である。弱い人々を虐げれば、一時は平穏でも、将来に問題を発生させる。白人社会は、力でそれを乗り切ろうとした。しかし、うまく行かないまま現在に至っている。 もし逆に、奴隷解放以後の黒人達に、白人社会が親切を尽くしていたらどうだっただろうか。結果はまったく逆になったはずである。アメリカは今以上に繁栄し、平和で満ち足りた国になっていただろう。しかし、発言力の強い感情的な勢力のために、アメリカは棘の道を歩むことになった。 彼らは、目の前に奴隷から解かれた黒人達が存在しているという「状況の意味」を悟らなかった。それは、神の与えた選択肢であり、「繁栄のチャンス」だったのだ。 もし、リンカーンが生きていたら、彼はこのように述べただろうか? 「諸君、国の繁栄の鍵は弱者救済にある。団結して内外の弱者を助けよう。」 個人の業が国を救う もちろん、白人の中の親切な人々は、困った黒人達を援助していた。救われた彼らの喜びは神の知るところとなり、悪意の者が撒いた毒素を中和した。現代アメリカの繁栄は、こうした営みが支えている。 では、古代の例を考えてみよう。 弱者にも喜びのあったローマ 恐ろしいばかりの殺戮を行い、地中海を震え上がらせた古代ローマにも繁栄の秘訣があった。自国民には非常に寛大であったのだ。歴代のカエサルは、民の歓心を買うことに注意を向けていたし、実際にそれは実行されていた。ローマ市民は小さい者(下層階級)でも潤っていた。 「ローマの市民権が欲しい」 当時の諸国民は、このように感じていただろう。公共設備、娯楽、日常の豊かな糧などは有り余るほどであり、奴隷にも余禄があった。 当時の「奴隷」という概念は、今の解釈とはかなり違っている。それは、現代の「雇われ労働者」に近い。厳しい主人がいたにせよ、昭和初期の労働者の待遇と似ており、鎖につながれた囚人奴隷などではなかったのである。ただし、例外はある。ローマは戦争を数多く行ったが、味方になった人々には寛大だった。また、たとえ敵であっても、寝返った人々には援助を惜しまなかった。 不満分子はいつの世にも、どこの地方にもいるが、こうした勢力ではなく、底辺で社会を支える「身内の弱者」をどう扱うかが重要なのである。ローマはこの点で賢く行動していた。 切捨て社会の末路 およそ歪の多い社会は、強者が弱者を見捨てる世界だろう。その社会には難儀が多く、敵も多くなる。それは、超自然の力に濁りが生じ、悪い方向へと傾くからだ。人間にはその力の流れは風のようにしか感じない。しかし、弱者を思いやらない社会は、その風に倒される。 人に貧富の差は必ず生じる。全員を富める者にすることは決してできない。それが、社会の法則のようなものだからである。共産主義が破綻したのは、その法則を理解できなかったからだろう。貧しい者はいつの時代もどの社会にも存在し、富める者もまた同様である。 そうした世界の中で、人がどのように行動するかがその社会の将来を決める。強者が弱者を潤していれば、その社会は存続し、切り捨てるならそれは衰退する。ヒトラーのユダヤ人排斥運動は、結局は「弱い者いじめ」だった。彼らが最初、社会の中の精神障害者や厄介者を「処分」した事実からそれが理解できる。ナチスは、弱者を自分達から切り捨てたかった。そうすれば、その民族はもっと強くなれると信じたのだ。しかし、実際それは逆の結果を生んだ。得たものは神の怒りであり、奈落への道であった。 いつの世も、富める者が貧しい者を援助する姿は美しい。そして古今東西、そうした行動を常とする軍が勝利し、そうした国が勝ち残ってきたのである。非情の国は一時栄えても、いつしか衰退する。それは弱者切捨てが、神の最も嫌う精神態度であるからだ。 不良債権処理としわ寄せ では、現在の政府の行う「金融改革」は、どのような結果を生んでいるだろうか?これは神の観点からは、「弱者切り捨て」であり、「弱い者いじめ」に見えるはずである。なぜなら企業のうち、弱い者にすべてのしわ寄せが集中しているからだ。 中小企業は貸し剥がしによって衰弱し、実際に自殺する経営者も増加している。こうした状況が続く限り、日本の上にかかった暗雲は停滞するだろう。そしてその結果は、采配を振るった者の上に戻ってくる。彼は、神からの怒りがどんな感触であるかを、身をもって知るだろう。 嘘をつかない政治 「常夏の島、沖縄行き」と書かれた船が停泊している。これに、荷物を抱えた団体が乗り込んだ。しかし、心配になって前を通る船長に尋ねた。 「この船は沖縄に行くのですね?」 すると、彼は答えた。 「そうです!」 船は出航した。興奮して夜遅くまで遊んでいた人も、やがて眠りについた。しかし、真夜中過ぎに船が不自然に揺れている。それで、船員室にいる人に聞いてみた。 「船は沖縄に向かっているのですね?」 するとこう答えた。 「そう聞いています。」 「しかし、この揺れはUターンしているようですが?」 「たぶん、浅瀬を迂回しているのでしょう。」 それで、安心した人々は眠りについた。 しかし、朝になってみると、海に氷が浮いている。 乗客は仰天して走り回ったが、時すでに遅かった。 その船は、しばらく後、北海の国に到着した。 薄着で乗船していた乗客は、惨めだった。 「政治家は国民に嘘をつかない」 このような「嘘つき船長」の船に、誰が乗りたいと思うだろうか?しかし、乗る前にその心を読み抜くことは難しい。それは、その船長が堂々と嘘をつくからである。日本国民は少し前に、このような仕打ちを経験している。 「大本営」は、最初から嘘で固めた組織だった。天皇の指揮で全ての体勢が動いている・・・と主張していたが、天皇は「イエスマン」に過ぎず、事後承諾の毎日を送っていた。この時、大陸進出も、国民教育も、外交も、将軍達が決め、行動後に結果を押しつけていた。 垂れ流される多くの嘘を、国民は大まじめで信じていた。もしこの時、彼ら政治家に少しの良心があったなら、この国には良識が満ちていたはずである。少なくとも日本の外交は極端から極端に走る事もなく、あのような泥沼に沈むこともなかったはずである。 しかし、勇ましい事が好きなタイプの指導者は、自分の「冒険心を満たしたい」と考える。未知の分野に憧れる。しかし、国民の目の前での「独走」は、すぐに横槍が入る。「独走」が知れると、台の上から蹴り落とされる。そこで、使われるのは「巧みな嘘」と「事後承諾」である。軍部はそれをフル活用した。そして、行く所まで行ったのだ。 つまり、人々はそこに「独走」と「事後承諾」の政治を見いだすなら、すぐにもその道を引き返さねばならない。逆から言えば、政治家は国民を決して「騙さず」、「独走」もしてはならないという結論になる。それは、「現政府」には耳の痛い示唆であるに違いない。
2012年03月05日
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つづき++++++++++++++++++++++++++++++++++++これからの道 戦後処理を神の意志に沿って行えば、日本は栄える。反すれば没落する。これからの日本が抱くビジョンは、神が示している。真摯な政治家がこの反省の道を通り、周辺の国と共に栄える事こそがこれからの日本の道だ。 原爆という、人類最大の苦しみを味わった日本は、平和の使者として正しい生き方を選ぶべきだろう。日本の神は、鞭打ったわが子を慈しむように、戦後の日本を陰から支えている。その神を、失望させてはならない。これからの日本が進むべき道は、哀れみと善良さの神が示す、明るいまっすぐな道なのである。 ゼカリヤ書 8:6 万軍のヤーはこう仰せられる。「もし、これが、その日、この民の残りの者の目に不思議に見えても、わたしの目に、これが不思議に見えるだろうか。――万軍のヤーの御告げ。――」 ゼカリヤ書 8:7 万軍のヤーはこう仰せられる。「見よ。わたしは、わたしの民を日の出る地と日の入る地から救い、 ゼカリヤ書 8:8 彼らを連れ帰り、エルサレムの中に住ませる。このとき、彼らはわたしの民となり、わたしは真実と正義をもって彼らの神となる。」 ゼカリヤ書 8:9 万軍のヤーはこう仰せられる。「勇気を出せ。あなたがたは、万軍のヤーの家である神殿を建てるための礎が据えられた日以来、預言者たちの口から、これらのことばを日ごろ聞いているではないか。 ゼカリヤ書 8:10 その日以前は、人がかせいでも報酬がなく、家畜がかせいでも報酬がなかった。出て行く者にも、帰って来る者にも、敵がいるために平安はなかった。わたしがすべての人を互いに争わせたからだ。 ゼカリヤ書 8:11 しかし、今は、わたしはこの民の残りの者に対して、先の日のようではない。――万軍のヤーの御告げ。―― ゼカリヤ書 8:12 それは、平安の種が蒔かれ、ぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を降らすからだ。わたしはこの民の残りの者に、これらすべてを継がせよう。 ゼカリヤ書 8:13 ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。」 ゼカリヤ書 8:14 万軍のヤーはこう仰せられる。「あなたがたの先祖がわたしを怒らせたとき、わたしはあなたがたにわざわいを下そうと考えた。――万軍のヤーは仰せられる。――そしてわたしは思い直さなかった。 ゼカリヤ書 8:15 しかし、このごろ、わたしはエルサレムとユダの家とに幸いを下そうと考えている。恐れるな。 ゼカリヤ書 8:16 これがあなたがたのしなければならないことだ。互いに真実を語り、あなたがたの町囲みのうちで、真実と平和のさばきを行なえ。 ゼカリヤ書 8:17 互いに心の中で悪を計るな。偽りの誓いを愛するな。これらはみな、わたしが憎むからだ。――ヤーの御告げ。――」 極端主義とスポーツ 勇ましいせりふを口から出せば、人々はそれに酔わされる。この現象はスポーツの世界によく見られるはずだ。 「絶対に勝ってみせます」 「優勝を固く誓います」 「我々に不可能はありません」 これは実に無責任なせりふである。その誓いは後で破棄され、観客は失望する。しかしそうした結果が見えていたとしても、極端な発言は大胆に見え、当初は勇ましく感じるのだ。 体育系の出身者は、極論を好み、勇ましさで人々の歓心を得ようとする。そして、人間社会の極限状態では、そうした発言が真実に聞こえてしまう。 「たとい玉砕してでも、この国は明け渡さない」 しかし、玉砕したら明け渡すしかないのだ。支離滅裂なこうした発言も、国中がパニックに陥っている場合はすんなり通ってしまう。 政治に必要なのは、勇ましい発言でも、血が上った頭でもなく、冷静に物事を見通す目である。適切なだけ梶を切り、全ての発言を考慮し、あらゆる可能性や方法を模索して歩んで行かねばならない。そこに不可欠なのは、「フィードバック」である。 民の声は重要 人間の体には、無理をして破滅に至らないようなシステムが備わっている。それが「神経組織」である。足の先の先であっても、トゲが刺されば痛みを感じる。人は作業を止めて、そのトゲ抜きに没頭する。こうして体全体の健康は保たれる。 一国のフィードバックシステムが拾うべき信号が、「民の声」である。昔は、目安箱という「声」の収集装置が設けられた事もあった。また、水戸光圀の諸国行脚(あんぎゃ)のように、直に民の声を聞く人々も存在した。このようなシステムは現在機能しているだろうか?少し前までそれは無かったのだ。 官僚は、庶民の声をフィードバックする末端神経のはずだが、それはまるで腐ったように、機能停止を起こしている。車の流れは、列島の血の巡りに相当する。この交通システムの面倒を見る交通警察は、死んだ神経の代表だろう。彼らは庶民の意向を汲む事無く、組み伏せる事ばかり考えて、庶民から憎まれている。 選挙が時々行われる。これは、貧弱なフィードバックのシステムだが、それでさえ金や人脈や様々なトリックで油が塗られ、空回りしている。大切なのは、選挙後の政策モニターの方である。しかし、選挙後の民の声はほとんど聞かれることなく、世の中の強者だけが国民の権利を牛耳ってしまう。 フィードバックの途絶えた国は、トゲのいっぱい刺さった体で働き続ける人に似ている。脳は痛みも感じず、傷の手当てもしない。そして体は、破傷風の毒素によって、やがてはひっくり返るだろう。どんな小さな傷でも、それを放置すれば、化膿して全体に影響するのだ。 過去の日本の失敗は、弱者の痛みを脳が無視したところにある。この点で小泉内閣の場合は、インターネットの活用によって庶民の声を汲み上げようとしている。積極的な点は評価できるのだが、老人は、パソコンなど触れない。ゆえに、老人宅を巡回する公務員が、神経の末端として働く方がより現実的だろう。 (小泉内閣も、森内閣と同じで、庶民を操作するために、汲み上げただけだったと後に判明している。) 社会の上層には浮き粕が浮かぶ 世の中の目立ったところに、人を掻き分けて登ってくるのは、特別な人々である。こうした人々は、決まって自己顕示欲が強く、数多く発言し、強い要求を投げかける。しかし「彼らの声が庶民を代表している」と考えるのは早計である。本当の庶民の声は、底に沈んでいるからだ。社会に充満し漂っているのは、発言を求めて手を挙げる優等生の意見ばかりである。 しかし、実際にトゲが刺さって痛みを感じているのは、手を挙げない人々だろう。彼らは、その痛みでうずくまり声を挙げる事さえできない。腐った神経は、いったい何をしているのだろうか? 弱者の視点に立てば問題を回避できる 世界中で起きてきたクーデターの原動力は何だろうか?それは、最低の生活に甘んじている貧しい人々の嘆きである。満ち足りた国がクーデターを引き起こす話は聞いたことが無い。もしそれを起こそうとしても、成功する確率は非常に低い。暴徒として鎮圧されるのが落ちである。よって、社会弱者の嘆きこそ、政情不安定の要素となっている。 ロシア共産主義革命が起きたのも、その一因はロマノフ王朝の政策にあった。ニコライ二世が弱者の訴えを無視し続けたからである。民の不満は、共産主義の仕掛け人を引き寄せ、後押しした。 このように、大切なのは主義主張ではなくむしろ政策である。それに伴って、弱者の心こそ最優先でモニターすべきものだ。政治家は常に、彼らの視点に立って物事を考えねばならない。また、共産主義は平等を謳っているため、結果はどうあれ「弱者の視点に立つ」という構えである。今まで存続できたのは、弱者からの精神的な支えがあったという部分が大きい。 資本主義においても、弱者が満たされた社会は住みやすくなる。これは、やって見なければ実感できない法則のようなものである。社会型の生物である人間には、「弱肉強食」という言葉は通用しない。人間には潜在意識という目に見えない強力な力があり、それは思っている以上に社会に影響を与えているからである。 弱者の潜在意識は強く、強者の築いた社会をなぎ倒してしまう。一時期うまく行っても、すぐに予期せぬ問題が頻発する。ゆえに、「淘汰」に任せて弱者を嘆かせる政治家は、国を治めることはできても真の繁栄を実現することはできない。
2012年03月05日
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つづき。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 具体的な神託の方法 これが良いというのではないが、必要なので一例を挙げる。例えば、イスラエルとアラブのそれぞれの神に対して、国民挙げてこのように祈るよう指示を出す。 「今から3日間、両国民は自分の神に願え。『私達にとって、一番良い方法を仲裁者の口に入れてください』…と」 その結果、仲裁者がどのような言葉を述べようと、彼の指示は神の指示となる。どちらの国民も、自分の神の指示が彼の口を通して出るということを信じなければならない。信じない者は、祈らなかった者であり、祈っても神の力を侮っている者である。それらに神を語る資格は無い。彼らは信仰ではなく、自分の腹で動いていることを明らかにしたからだ。それらは信仰の外にいる者であり、民族全体の敵だ。 これが、長男の気質を持つセム系の種族が満足する、「神託」というものだ。そして、その仲裁者として最適な人物は、日本の天皇なのである。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 日本が仲裁者になれなくても、ともかく、日本の伊勢神宮に、両国の宗教の指導者を訪問させるべきである。きっと何かを感じるはずである。 日本は世界平和の中で精神的な意味において重要な立場にいる。 さてまた続ける。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 明治天皇は知っていた 過去にも、日本が「聖書の神を信奉する国民」であるという事実を、知っている人物が存在した。偉大なる明治天皇である。 彼は自分の娘にこう述べたそうだ。 「私はあらゆる天皇の権限で調査をしたが、日本の国は確かにユダヤ教だ」 考察なので、敢えて敬語は使っていないが、この明治天皇の洞察力には驚嘆させられる。この看破眼も神から来ているのだろう。 「天皇の求心力が強いため戦争が起きた」と分析する人は多いが、私は逆に、「天皇の権限がもっと強ければ、太平洋戦争突入は無かっただろうに」と悔やまれてならない。 参考までに、日ユ同祖論者が、日本の祖先の神だと主張するイスラエルの神(ヤハウエ)の気性を知るために、少しの聖句を聖書から転載しておこう。以下は、その神が自分の民に対して叱責を加えている場面である。 エレミヤ書 44:9 あなたがたは、ユダの国とエルサレムのちまたで行なったあなたがたの先祖の悪、ユダの王たちの悪、王妃たちの悪、あなたがたの悪、妻たちの悪を忘れたのか。 エレミヤ書 44:10 彼らは今日まで心砕かれず、恐れず、わたしがあなたがたとあなたがたの先祖の前に与えたわたしの律法と定めに歩まなかった。』 エレミヤ書 44:11 それゆえ、イスラエルの神、万軍のヤーは、こう仰せられる。『見よ。わたしは、わたしの顔をあなたがたからそむけて、わざわいを下し、ユダのすべての民を断ち滅ぼそう。 以上、ヤーの部分は神聖文字でYHWHとされている 理解の後にビジョンを 以上で、日本民族の「自己確立」への道を述べてきたつもりだ。最初にまず、日本国民は自分達の自己を確立するための「知識」を必要としている。だが、勇ましい人の口から出る「神の国論議」は毛嫌いされ、まず受け入れられないだろう。それは、古神道勢力の責任だ。過去に、彼らの自意識過剰による増長があったからだ。 増長の原因は、「日本の神の性格」に対する無知である。「暴虐を憎む神」に対して、「暴虐による崇拝」を行った。この勘違いが、悲惨な処罰への道に国民を追い込んだのだ。 当時の2.2.6事件の際、昭和天皇は激怒し、更に大陸への進出にも猛反対したが、国民はこの事実を知らされなかった。では、その時の「天皇の怒り」は何を物語っているのだろう。実はそれこそが、「神の意志」だった。神の代理である「大祭司天皇の意思」は「神の意志」である。これを、軍部は無視したのだ。何の事はない。軍は神に逆らって行動していたのである。 (天皇は、実際、靖国参拝をやめた。偶像崇拝だからである。) 理解こそ先決 靖国神社参拝などの問題は、アジア諸国の神経を逆なでする。戦後何の分析も無いまま、戦前の軍部の行いのように行動すれば当然の事だろう。ここで抜け落ちているのは、正しい分析による全ての人々の理解である。このような分析だ。 1.日本はなぜ神国なのか? 2.神国なら、なぜ負けたのか? 3.反省点は何か? 4.これからはどう生きるのか? ではこれらを、アジア諸国にも納得できる形で分析して行こう。 日本はなぜ神国なのか? 日本の特異性はアジア諸国も知っているだろう。「文化は全てを物語っている。」日本が、どんな神を奉じているかを調べ、その神を広くアピールしなければならない。それは、日本の神がどんな性格の神なのかを知ってもらうためである。 聖書の神と同一? もし、これが証明されれば、日本の神は「哀れみを望む」神であり、「暴虐を憎む」神であるという性格が明らかになる。日ユ同祖論では、確かに多くの証拠が提出されている。またそれは、現代イスラエルからもかなりの支持を得られる論である。 日本が、戦争利用のためではなく純粋に自分達の神を模索している事を知ってもらうべきだろう。それこそが日本民族の自己発見の道だからだ。国の道徳を立て直し、犯罪を減少させ、アジアの良き理解者となるために避けて通れない道だ。 日本はなぜ負けたのか? この点の分析をおろそかにしているのはいったい誰だろう?日本は神国であるという人がいるなら、その人は負けた理由も答える責任がある。それがなされてこそ、神への理解が生まれるからだ。では日本はなぜ負けたのか? それは先ほども述べたように、アジア各地での「暴虐」の故である。日本の神は、旧約聖書の神と同一であり、それはキリストの神でもある。哀れみを望む神なのだ。では、旧約聖書の中で、神の民イスラエルが他民族を征服していったのはなぜか?実はそれにはもっともな理由があった。それは「領土獲得」が動機ではなかったのだ。 当時、「人身御供」を続けていた残酷な諸国民の悪習を断ち切る・・・これが神の目的であった。イスラエルはそのために使われた神の指だ。彼らは結果的に、残った空き地を提供されたに過ぎない。それで、領土拡張を動機として謀略を巡らせた旧日本軍の行いは、神の意思に反していた。 これが、日本の負けた理由である。日本の神は、処罰の神でもある。暴虐を行い、礼節を忘れた自分の民・・・神はそれを罰した。そんな哀れみと礼節の神に、反省した日本国民が立ち返ったとしても、恐れる必要があるだろうか?日本の神は、隣人への親切を望んでいる。弱い者を哀れむ心を持った日本人は、神の目に尊い。日本人が自分達の神に目覚めるのは、周辺諸国にはむしろ善い事なのだ。 日本はこうした分析を怠り、諸外国の要らぬ恐怖心を掻き立てている。 反省点 日本の反省は、まだ終わっていない。逃げただけである。つまり、負けたから「神国」というのは「嘘だった」と逃げてしまったのだ。しかしそれでは、死んだ兵士達に申し訳が立たない。そのため、「神国は嘘だった」と言いつつ、靖国神社にも参拝する。矛盾だらけの態度である。 最大の間違いは、「反省を逃げた」事である。しかしもし真正面から反省すれば、日本が神国でありながら負けた理由が説明できる。日本人の自己確立に寄与する「理解」も得られるだろう。では、まとめてみよう。「日本は神国でありながらなぜ負けたのか?」「神の望みは何だったのか?」 分析はこうなる。 神は怒(いか)った。それは、「崇拝の方式が間違っていた」からだ。暴虐を憎む神の前で暴虐を行った。・・・では、その暴虐への反省と詫びを、神の前で行うべきではないか?・・・しかし、日本はまだそれを行っていない。731部隊の行いには背を向け、従軍慰安婦達の訴えを蹴り、追い返してしまった。暴虐の相手が生きている間なら、まだ詫びるチャンスはあるというのに。 哀れみを望む神は、「間違いを詫びる謙虚さ」こそを喜ぶ。なぜ祭司である天皇が、日本に残されているのだろう?それは、神が正しい崇拝を再び望んでいるからではないか。その正しい崇拝とは何か?「間違いへの自己反省と償い」である。自分達の間違いをもみ消すために、弱い者の訴えを退ける事ではない。日本の指導者達は今、神の前に「検分されている」のだ。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 原発事故の補償を国や電気料金値上げで賄おうとする無責任な東電の姿勢は、戦後の日本の指導者の生き写しのようにみえる。 民族から、このような連中を出す限り、国としての信頼は得られないだろう。毅然とした態度には程遠いからである。ましてや増税の山車に使おうという詐欺政治家は、人間としての権利を剥奪され、失うだろう。
2012年03月05日
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以下は、例のサイトのつづき。()内は私見。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++ では、アメリカという目標の先に、日本には何があるのだろうか? (戦後、日本は、戦勝国アメリカに追いつき、追い越せが国是になった。) まとまり無き所に行動無し それを考える前に、今の日本に欠けているものを考えよう。それは、「民族意識」である。これはアメリカが日本を占領した頃、最も危険なものとして、排除を試みたものであった。一時、学校で漢字を廃止し、英語教育に切り替えようとする動きさえあった。 米軍はこう考えた。「軍国主義日本が、再び復活する事があってはならない。民族としての団結意識を骨抜きにしておかねば・・・」 それほど日本人の団結力は強く、やっかいなものであった。勘違いしないで欲しいのだが、私自身は軍国主義を嫌う。しかし、民族の自意識が戦争への動員に利用されたとはいえ、国民の団結を忌み嫌い、消し去ろうとする態度は間違いだ。 同じ団結でも、戦争中のような、統率による団結と今論議している団結は違っている。前者の団結はマインドコントロールによるものであり、後者の団結には理解が伴っている。 民族としての自覚が、帝国主義への傾倒に「利用された」のだ。しかし、民族意識は、民族をまとめるたった一つの方策である。つまりそれは、日本全体が一つの体であるという自覚なのだ。 民族意識の強い国民は、物事の協議や話し合いにも同意が速い。しかし、現在の日本は、町の中に道路を一本通すだけでも、何年もかかる。公共という意識も弱く、それぞれが自分の利益を追い求めている。これは全て、民族意識が巧妙に取り去られたからである。現在残されているものは、その残骸だ。 そして、皮肉な事に、日本から民族意識を取り去ろうとしたアメリカ自身は、それをしっかり保っている。 注意が必要 ここで、一言注意を述べなければならない。体育系の人間は民族主義が大好きである。そして、彼らは集団同士の戦いを好む。中には、自分が先頭に立って相手に石を投げ、争いが始まると後ろに逃げて見物に回る者もいる。 指導者は、彼らのような愚か者の、スタンドプレイを決して許してはならない。彼らは相手の集団を民族の敵だと煽るだろうが、石を投げた彼らこそが敵である。 お互いの集団・・・つまり国同士が、こうした場合の対策を「予め協議」しておけば、多くの戦争を防ぐ事ができる。 また、勇ましい言動を好む体育系の人物は、集団を自分の元にまとめ、駆り立てて争いに動員しようという人物が多く、彼らにもし良識が欠けていれば、民衆は悲惨なめに遭う。民衆に、予備知識があれば、そんな人物は最初から支持されないだろうが…それで、普段からの良識教育が、安全弁となるのだ。 では、この日本のバラバラな民族をどうやってまとめ、どうやって目標となるビジョンを定着させればいいのだろうか? 神の国発言の波紋 ビジョンを提供するはずの中心人物、森(元)総理大臣が、日本を「神の国だ」と発言したため、大問題になった。それは、真意のほどはともかく、多くの憶測を招いた。 (この内容が書かれたのは、森が総理のときのようである。) 問題視する側は、その発言は軍国主義の理念から出たのだろうと疑い、森総理の発言撤回を求めた。一方、若い世代は、その発言の意味を理解できず不思議に思っただろう。 学校では、戦前の教育方針に重ならないよう、極力気を遣って歴史を教えている。それで、あいまいにしている部分も多い。では、この答えはいったいどうなのか?日本は、神の国なのか?・・・そうではないのか?答えはこの二つに一つしかない。 結論から言おう。日本は、確かに神の国である。ただし、多くの補足説明が必要だ。「神の国」・・・この表現は漠然としており、どうにでも取れる。その神は、「アジアの国々を征服せよ」と命じたのだろうか?また、神の国ならどうして戦争に負けたのか?神とは、いったいどの神を指しているのだろうか? 最初に述べるべきは、日本の神は中国大陸やアジア諸国で行った、日本軍の蛮行を許さなかったということである。その神は、自分の国民を躊躇せず罰する神だということだ。(文末の聖句を参照)結果として、日本は戦争に負けた。完璧な敗北である。 それゆえ、もちろんアジア諸国への拡張侵略行為は、神の容認を受けていなかった。日本は、神の意向に反する行動を重ね、敗戦という罰を受けたのだ。 昭和天皇は、軍部の独走に反対していた 日本の神の祭司である天皇は、2.2.6事件では激怒し、軍部の勝手な振る舞いや大陸への拡張主義に反対していた。それは、日本の神の意志でもあった。その点で、日本の神には正義があり、アジア諸国の恐れるような野蛮な神ではない。彼らは、日本人が自国を神国だと騒いでも、神を称える祝賀行事を行っても、少しも心配することはない。戦時中と同じ愚行を繰り返せば、日本には、もう一度原爆が落ちるだろう。つまり、ひどい結末が待ち受けているだけである。 (原爆ではなく、原発事故という形で、指導者に対する天罰が下った。) では、その日本の神はいったい、どこから来た神なのか?この点でも、ベールがはがれるように、少しずつ明らかになって行くだろう。すでに、多くの研究者が指摘しているように、日本人の祖先は大陸からやって来た。そして、その携えている文化はアジアの遥か彼方の国、古代イスラエルの文化である。この問題についての研究は、もともと民間ではなく、政府が行わねばならないものだ。 日本という国の、古い歴史をピンぼけ状態にしておいて何の得があるだろうか?今はもはや、そのような時代ではない。日本の軍国主義は、二度と復活できない。そのような形で、国民を総動員することを神が許さないのは、敗戦の事実から明らかだ。 神をピンぼけにして、歴史を隠すという行為には、次の意図が見え隠れする。施政者が、自分達の神を、都合の良い色に塗り替え、国民を統率するために利用するという企みである。実際には、日本の神は、暴虐を許さない良識に満ちた神だった。それが明らかになってしまうと、国民は二度とあのような、狂気のコントロールは受け付けなくなる。独裁者には都合が悪いことなのだ。 施政者は、国民よりずっと多く、民族の神に関する情報を貯えている。そして、それを隠匿しているはずだ。それを明らかにしてならないような都合は、神の側に無い。それは、神に最も近い政府の都合なのだ。 民間は知りつつある 日本人の神に関する、はっきりした説明と情報も無いまま、総理大臣一人が、神の国発言をしたとしたら、突き上げられるのは当然だろう。それは、日本の旧軍部の常套手段だったからだ。 ところが、ここに驚くべき資料がある。日本の神が、どんな神かをはっきり示す本があるのだ。 旧約聖書の神 日ユ同祖論に詳しく述べられているように、日本人の神は、もともとヘブライ民族の崇拝していた神である。これは、そうらしいとか・・・かもしれない・・・などといったレベルではなく、はっきりと間違いない結論だ。 (少し言い過ぎの感もある。ともかくも、人類共通の神である。) 世界の中でも飛び抜けて、奇妙な風習の数多い日本の文化は、古代ヘブライ人の文化そのものである。 それなら、日本の神の性格も、旧約聖書の中に詳しく述べられていて当然だろう。日本人の神が、何を望み何を要求しているか、この書物から明らかになる。 日本政府は、かなりの部分、それらを掴んでいたが、決して国民に知らせてこなかった。年配の人々でも、その事実について知らないというのが、それらの情報が握り潰されてきた証拠だろう。 日ユ同祖論は、かなり古い仮説で、昔からあった。何よりも、それに一番近い存在なら、一番興味を持ち修正せず伝えるべきもののはずだ。また、そうした研究にも熱心でしかるべきだろう。 国民の知る権利 自分達の先祖が崇拝していた神が、どんな神なのか?その神の望んでいることは何か?正月さえ興味の無い、無神論者ならともかく、相撲を見、清めの塩を撒き、祭りに出かけ、日本語を話す民なら、自分達のそうした文化に深く関係する日本の神に無関心ではいられないはずだ。 政治家は、そうした背景も研究し尽くしてから、神の国発言に評価を下さねばならない。日本の神という重要な中心部を模索する努力・・・それは、日本の将来に明確なビジョンをもたらすための、太い柱となる可能性を秘めている。 アラブとイスラエル…その中を取持つ者 まさに、世界の火薬庫であり、犬猿の仲といわれる人々がいる。アラブ世界とイスラエルである。これは宗教対立であるため根が深く、和解は困難を極める。それを、平和へと導く適任者は誰か?それは、アメリカではない。実は日本である。日本は、その生い立ちからそうした立場に生まれている。 双方の立場を理解できる者 日本の政治家には、荷が重いだろうが、中東問題は日本に与えられた使命とも言える。それは日本が世界で唯一、双方の立場を理解できる民族だからである。 まず、現在のイスラエルは、キリスト「メシア」の出現を認めていない。ユダヤ教は、メシアの到来を今でも待っている。アメリカは、それと逆に、イエスをキリストと認める国である。一方、日本は古代イスラエルの流れを汲んでいるが、イエスの出現前に国を出た、北のイスラエル王国の子孫である。民族としては、キリストを知らないユダヤ人だ。これは十部族説であり、逆に南のユダ王国から出た民族とする説もある。 また、現代イスラエル人は日本に対して言い知れぬ親近感を抱いている。それは、日本が彼らの同胞である「失われた十部族」の末裔ではないかと考えているからだ。実際、文化的な共通点が数多い。かなりの数の研究者からは、日本は失われた北のイスラエル王国出身の人々の末裔だろうと言われている。ただし、十部族以前の、預言者イザヤの時代に国を出た人々だという説が濃厚である。このように、イスラエルにとって日本は特別な国だ。 では、アラブ諸国は日本に対してどう考えているだろうか?彼らもまた、日本人と多くの共通点を持っている。セム系の種族であり、ものの考え方や感性も近い。NHKドラマの「おしん」が中東で大ヒットしたのもそのためかもしれない。彼らの宗教であるイスラム教も、その実ユダヤ教から派生したものだ。それは、日本の神道との共通点が多い。 神道は、偶像を崇拝しない。神社には、鏡が置かれているだけだ。この点で、徹底的に偶像を拒絶するイスラム教と似通っている。根が同じなので、当然のことだろう。だが、しかし、イスラエルとイスラム世界との宗教の根も同じではないか?それでいてどうして、争うのだろうか?それは、聖地エルサレムの帰属問題があるからだ。イスラエルは、自分達の教会を建てたいと考え、パレスチナ人は、自分達が建てた現在のモスクを守りたいと思っている。それに、イスラエルを建国した際に追い出されたパレスチナ人の恨みも絡んでいる。 日本人の判断基準…「神託」が鍵 この中に割って入り、しかも適切な打開策を打ち出すのは、並みの人間にはできない。それは、カリスマ性を持った人物だろう。彼は、解決に際して人間の判断ではなく神の判断(神託)を使わねばならない。信仰の深い人々は、神の判断には決して逆らわないからだ。
2012年03月05日
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古代ヘブライ語のサイト(言葉の杜)にハマってから、シュタイナーの講義の要約を小休止しているが、まだ続けたい。 今年は、日本の国家や民族にとって重大な局面を迎えるように思われるからである。 国家や民族が継続するかどうかは、天災よりも、天災以後の民衆の精神が反映されるように思えるからである。 日本人には助け合いの精神が乏しくなってしまった。その証拠が、無責任な人物の増加にある。政治家をみればわかる。いまだに内輪モメを続け、利害関係を優先しようとしている。 驕り高ぶり、謙虚や謙遜を知らない財界人たちは罪作りである。 大企業は大企業故の傲慢さにあっけなく滅んでいくだろう。 社会や国家が大企業よりも上位にあることは明白である。より多くの人々を救うのなら、大企業を解体するのは必然となる。社会や国家に貢献し、責任や役割を果たしている組織を残し、国家や民族を生かすには、利益、利害関係を優先する近視眼的な組織は淘汰されないといけない。 自然淘汰は、競争原理ではなく、責任や奉仕原理にある。 食物連鎖において、底辺の下等生物ほど、多産なのは、下等生物に、神の御業が現れているからである。下等生物は、見かけの上では、多くの生物に食われ、犠牲を払っているようにみえるが、食われる生物のなかで、生きている。なにより、多くの生物に食われることで、多くの生物を養っている。 その犠牲行為を神が受容し、下等生物を天国に生かしている。 粘菌が自然の土台となって、自然をつくるのに優れているのは神の御業であろう。 他に犠牲を求める者を、神は拒絶し、地獄へと追いやるが、自ら犠牲となる者を、神は祝福し、天国の一員に加える。 政治を改めないといけない。 政治とは、弱者救済であり、弱者に神の御業を認めることにある。 弱者は常に権力において少数派だが、少数派が歴史を動かすことは、陰陽の原理から明らかである。 確かに現状は多数派に権威が与えられるが、ホメオパシーの原理、中和の原理からすれば、次の未来は、少数派が役割を果たし、権威を握ることになる。 なぜなら、神は、少数派を救い、多数派を分断するからである。 故に、多数派は現状維持を好むが、宇宙は常に動き、神が弱者を救うことから、現状は常に改善されざるを得ない。停滞は許されない。停滞は悪である。 多数派に現状はあるが、少数派に未来がある。 少数派の意見に耳を傾けるのが賢者である。そこに未来がある。 現代の政治の低迷は、端的にいって、創造力の欠如にある。多数派工作をして、数を集め、現状維持に奔走するなら、活力がなくなり場当たり的な対応しかできなくなる。 そのうち、現状維持すら困難になり、権力独裁志向になる。権力独裁志向が続くと、差別主義が広まり、偏見に満ちて、次第に政治は滅んでいく。江戸幕府をみれば明らかである。江戸幕府は、安政の大獄により滅んだといえる。 切欠は黒船の襲来とはいえ、それ以前から幕府は混迷をつづけていた。吉宗の享保の改革以降目立った改革がなされなければ、停滞するのは当然である。人材登用1つとっても、斬新さがなければ、組織は衰亡していかざるを得ない。 戦国時代の信長が優れていたのは人材登用だが、大勢力になると、得意の人材登用がままならなくなり、謀反という形で幕を終える。 さて、ではまた、例のサイトから政治を考えてみたい。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ ■ 政治学考察------------------------------------------ ◆ 多角的知識の必要性------------------------------------------ 政治家は、駆け引きばかりに気を取られず、広い知識を持つことに熱心でなければならない。 その知識の一つに、文化人類学がある。世界の人々の歴史や、考え方を知ることは、外交上最も重要である。しかし、学問の世界としての文化人類学には、多くの主観や主張が入り込んでおり、政治に求められる純粋な知識は得難い。偏見に支配されてしまうからだ。 政治には、純粋な知識を必要とする。----------------------------------------- ◆ ビジョン・・・現在の状況----------------------------------------- 指導者は、実務レベルの事柄は官僚クラスに任せておき、政策論争などの混雑の外で、遠くを見詰めるべきである。彼は、上空を飛ぶ鷲の目を持っていなければならない。その目は、常に世界を見渡しているべきだろう。 ビジョン不在でも走れた時代 国民を率いて行く指導者は、自分自身の持つものの中からビジョンを描けねばならない。今までなら、「日本という国はどこに向うべきか?」と聞かれた時、こう答えれば良かった。 「先進諸国に追いつくのだ・・・」 生活水準の高い国々に、追いつく事が自動的に据えられたビジョンであった。つまり、この時期には、政治家に本当の意味で、ビジョンを描くという要求は無かったと言えるだろう。 日本は、戦前はイギリスやドイツ、戦後は、戦勝国アメリカを目標に据えていた。長い間歩んできたその道にも、先が見えてきたその時、前方に歩むべき道は消え失せていた。ビジョン不在で、走れた時代は終結したのである。しかし、そうした現在においても、政治家は実務レベルの政策論争ばかりに気を取られている。----------------------------------------- ◆ ビジョンの定義----------------------------------------- ビジョンとは何か それは、国全体が追い求める目標である。一人の政治家の目標とか理想とかではない。国民全体がその達成意欲を持ち、彼らが立ち上がらねばならない。従って、 「金権政治を無くし日本を住み良くする・・」とか、 「景気を回復しよう」(非常に漠然としすぎているのも問題である。) などというのは、ビジョンではない。それ以前である。国民にとっては、受け身のものでしかないからだ。マッサージ師から体をもんでもらうようなものである。これは、国全体を人間に例えればよく理解できる。 (国民をその気にさせないといけない。国民一人一人に自覚を促すことが肝要。) 大志無き選手 こんな人がいた。 「私は最近体が冷える。血の巡りが悪く、手足の先が冷たい。そうだ!体を温めるには、これが一番だ」 そう言って、その人は酒を飲み始めた。 これが、今の日本の状況である。日本は今、景気沈滞という「血の巡り」の悪い状況だ。これを良くするために、様々な景気対策を行っている。それはまるで、アルコールによって、冷えをしのいでいるようなものだ。やがて酔いが覚めると、また体は冷える。 その人がしゃがみこんでいる以上、この繰り返しである。日本は、アメリカに追いつくという目標を達成し、しゃがみこんでしまった。「目標」つまりビジョンを持たなければ、この酔っ払いと同じ事になる。大志を持たぬその日暮らしの選手だ。 目標を持った選手は変わる もし、その人が例えば短距離ランナーであったとしよう。彼は今、オリンピック競技場のスタートラインにいる。集中し、合図と共に飛び出して行くだろう。彼の頭には、 「ゴールに向って誰よりも速く走る」 という目標がある。彼の脳から発した命令は、全神経を目覚めさせ、体は一丸となって活動する。手足の先まで血は巡り、体温は上がる。体全体は協力して脳からの司令に答える。 ビジョンとは何か・・・その答えは、この場合、 「オリンピック、短距離優勝」 という脳からの命令そのものである。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ というように、上記のサイトは語るが、私見では、政治家は、預言者でなければいけないと思う。預言者というのは、十年先や百年先を見通せる洞察力をもつということである。 だから、十年後、百年後の日本が、世界においてどのような立場にいて役割を果たすのかを想定することが肝要となる。 過去の歴史を勉強すれば、日本がどうなるかはある程度予測できる。 しかし、単なる予測ではダメで、それでは、単なる予言者でしかない。神の御業を理解していなければいけない。神の御業を理解するには、現状生じている問題を解決し、その背後の問題を究明し、将来、遭遇する恐れのある問題を予め小さなうちに対処しておくことが重要である。 問題は小さなうちに解決しておくべきである。問題を解決することで、国家の進むべき方向性やビジョンが次第に明らかになっていく。 例えば、原発問題も解決できずに、エネルギー問題を語ることはできない。福島の例でわかるように、国民の多くを不幸に陥れることになるからである。なぜ、事故が起こる前に、対策ができなかったのかが問題である。 隠しても何の解決にもならない。また、大きな事故が起こるだけである。無責任な分だけ、事故は大きくなる。事故とは、神が、人類に軌道修正を求めるものだからである。 福島事故によって、国民は、教訓として、原発推進のための買収に敏感になったわけである。怪我の功名だが、一種の正義感ともいえる。 福島事故は現在も継続中で、放射能汚染も頻繁に起こっているのである。隠しても意味はない。より身近な問題として、責任をとらないといけない。被害に遭った被曝者を養うという精神性が求められる。加害者の東電が補償を削減していることからも、この企業が無責任であることがわかる。神の怒りが届かないうちに、東電を解体しないといけないだろう。 責任を果たさない組織を果断に処理することに躊躇していれば、今度は、指導者としての自分が、天に裁かれる番になるだろう。
2012年03月05日
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つづき+++++++++++++++++++++++++++++++++++ ある日、自分の通勤する道に壁ができる。 会社に行けない。 給料がもらえない。 学校にも行けない。 「一体誰がこんな事を?」 『政府』がやったのだ。 銃と戦車の力で。 思いあまって抗議するとこう応える。 「知ったことではない」 その政府の名は、「イスラエル」という。 彼らは以前、ナチスに同じ目に遭わされた。 それはほんの半世紀前の出来事だ。 自分達がひどい目に遭わされたのなら、人間は「人の痛み」を知るようになるものだ。 しかし、イスラエルは悟らなかった。 パレスチナ人は、ローマ時代以降そこに住んでいた。 なぜ、追い出せるのか? 「お告げ」があったのか? 神が「そうしろ」と告げたので、住宅を奪い、年寄りや女子供を追い散らしているのか? どの預言者が、そんな声を聞いたのか? 「壁は防衛のためだ」 「自爆テロが原因だ」 彼らはそう言う。 しかし、自爆テロが始まる「はるか以前」から、 パレスチナ難民は生じていた。 イスラエルの行う「追い出し作戦」のために。 突如家を失った彼らは、泣きながら放浪の旅に出た。 自爆テロの原因は、イスラエルにある。 それは明らかだろう。 自爆テロの「発生原因」は、恨みだ。 生活を奪った相手であればこそ、死を賭して出向くようになる。 強引な支配者にこそ、真の原因がある。 世界は冷たかった 暖かいリビングで、テレビを楽しんでいる人々は、 家を奪われた、パレスチナ人の嘆きを理解しなかった。 どちらかといえば・・・ 『正義の国』アメリカに遠慮して目をつぶっていた。 長い間苦しませたので、パレスチナは自ら立ち上がった。 イスラエルは『テロリスト』と呼んでそれを非難する。 あまりにも放置が続いたので、本物のテロリストが育った。 するとイスラエルは、壁で『防衛』する。 テロリストはとうとう、世界に散るようになった。 「テロは中東が発生源だ」 こう言われるようになった。 ここまで来ても、イスラエルの態度は変わらない。 これが『イスラエル』のやり方なのか? すると、彼らの神は『非情』なのだろう。 「その神は、まるで鬼だ」 こうしたそしりが、起こり始めている。 イスラエル自ら、神の顔に泥を塗っている。 「哀れみの神」がこれを放置すると、本当に信じているのだろうか? そうではない。 彼らは自分の神から、鉄槌を下されることになる。 哀れみを忘れ、国を追われた自分達の過去を、別の民族に押し付けたからだ。 こうして彼ら自身が、ナチスの再来のようになった。 世界はそれに、気付くようになった。 「イラク以後」の猶予期間は、「検分の時」だ。 彼らはそれに、気付かなかった。 「イスラエルには哀れみが無い」 「権利ばかり主張している」 世界はそれを、知るようになった。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 日本にも、権利ばかりを主張する電力会社が問題となっている。被曝者への補償の義務を忘れて…。 義務を全て果たし終わってから、その働きに応じて、権利のお伺いを国民に立てるべきではないだろうか? 順序がアベコベなので、またそのうち罰が降りかかるだろう。電力会社への怒りが増すばかりなのだから。政府に対しても怒りが向けられていくだろう。
2012年03月02日
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