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ドリールの書を読んでいると、老子の説く教えと二重写しになることがよくある。特に、老子の教えを、いま流行の超訳したような「タオの教え」と二重写しになる。 二重写しで特徴的なところは、ドリールも老子(タオ)も、古代人の歴史的建造物は、男性器と女性器を模したもの、という話にある。 古代の神殿などでみられる塔などは、男性原理の象徴で、三角形状の建築物は、女性原理の象徴であるという。古代建築の基本は、太陽の火(光)を受け、貯蔵することにあるそうで、現代でいうエネルギー供給装置もしくは発電装置であるという。 例えば、火(光)をピラと呼んでいたことから、ピラミッドと呼ばれたという。だから、男性原理は、火を灯すエネルギー点火装置といえ、女性原理は、火を受け貯蔵し、伝達するエネルギー供給装置といえる。 例えば、六芒星の、(上を頂点とする)正三角形は男性を顕し、(下を頂点とする)逆三角形は女性を顕すという。すると、六芒星は男女の融合で、つまり、両性具有は、永遠の生命を意味するという。このような陰陽の融合、統合は、一なる神の性質ともいえる。 ドリールは、神々も、聖者も両性具有であると述べている。人間も、肉体を持つ前の霊体では、両性具有だったが、肉体に転生してから、男女に分かれたという。 人間はもともと両性具有だったので、肉体に転生し、男女の一方の性をもつようになったときに、異性を求めるようになった。しかし、異性を求めるのではなく、再び、自分のなかから異性を引き出すことが、聖者への道であるという。 総ては、自分の魂のなかに既にあるからである。このことから考えれば、結婚は、自分のなかから異性を引き出す切欠である。肉体は違えど、霊魂の上では中性だからである。 また古代遺跡にみられる、円に左右の2本の角(つの)や翼が生えた象徴図などは、中性、中庸の原理を表現したものであるという。孔子も老子も、宇宙や神は、忠恕、中庸であることを述べている。 前回も述べたが、神の存在を意味する「エヘイエ アシェル エヘイエ」は、「我ある者なり」(英語では、『I am that I am』)ではなく、「中庸を与える存在」、「バランスのバランス」という意味であるという。つまり、陽には陰を、陰には陽を与えて、全体のバランスを保つ存在なのである! だから、善には悪を、悪には善を与える存在でもある。これは、キリストの「一方の頬を打たれたら、もう一方の頬を差し出しなさい」という発言に酷似する。悪には悪ではなく、悪には善を、善には悪を与えることで、善に導くことが重要ということなのだろう。 厳しくいえば、神様は一切の贔屓をしない存在といえる。善に対しては悪で望むし、悪に対しては善で望むからである。だから、神様は、まるで自分の生き写しのような鏡であるから、三種の神器の八咫鏡は、そのような古代の叡智をうまく表現している。聖書の「神に似せて人間をつくった」の意味でもある。 だから、神様とは簡単にいえば、「あなた(自分)のやったことを、そのまま、あなた(自分)にやりかえす」存在といえる。ただし、鏡が左右反対に写るように、主客逆転して還ってくる。 「愛されたいなら、愛しなさい。欲しいなら、与えなさい。」というキリストの発言が思い浮かぶ。 あなたが他の人に良い事を行えば、他の人があなたに良い事を返し、あなたが他の人に悪い事を行えば、他の人があなたに悪い事をかえす、というような完全な対称性をもつ補完的な存在の善因善果、悪因悪果の働きが、神様の働きだといえる。 このことは、人間が神様から生まれ、また、神様に還る、ということを意味する。古代人は、このような働きを、元に戻ってくる円で表現したようである。中性原理を円や鏡だとすると、男性原理は剣で、女性原理は勾玉となる。 このようなことを、老子は、第43章で説いているので、例の如く、抜粋し紹介する。 ☆ ☆ ☆ 第43章 不言の教、無為の益は、天下これに及ぶもの希なり 原文 天下之至柔、馳騁天下之至堅。無有入無間、吾是以知無爲之有益。不言之教、無爲之益、天下希及之。 書き下し文 天下の至柔(しじゅう)は、天下の至堅(しけん)を馳騁(ちてい)す。有る無きものは、間(すきま)無きに入る。吾れここを以(も)って無為の益あることを知る。不言の教(おしえ)、無為の益は、天下これに及ぶもの希(まれ)なり。 英訳文 The most soft thing can handle the most hard thing. A formless thing can get into a narrow gap. So I know that how useful doing nothing is. There are few better things than wordless teachings and usefulness of doing nothing. 現代語訳 この世の最も柔軟な物が最も堅固な物を思い通りにする事が出来る。また決まった実体を持たぬものだけが本当にわずかな隙間に入り込む事が出来る。私はこの事によって無為である事の有益さを理解しているのだ。言葉に頼らない無言の教えと、無為である事の有益さに匹敵するものは、この世にはほとんど無い。 Translated by へいはちろう 第43章 創造の崇高度は 弛緩の深度に正比例する 手を抜くこと全てをよくないことと考える人が多い。しかし、「深い弛緩の時にこそ、新たな胎動が始まる」のが自然の摂理だ。 ニュートンの偉大な発見のほとんどは、疾患が流行したために大学を休んだ20ヶ月の間に生まれたという。大学から離れた途端に発見のインスピレーションが洪水のように彼に押し寄せた。彼はその間、解放感と深いリラクゼーションの中にあったに違いない。彼が大学で頑なに研究を続けていたなら、彼の名は歴史になかったであろう。 体の世界でも、いかにリラクゼーションを習得するかによって、球技も、体操も、武道も決まる。舞踏家の体は、力が抜ければ抜けるほど、その芸術性を増す。 深いリラクゼーションとは、単にぽかんとした心の状態ではない。それは、時間感覚が失われるような悦とした集中の繰り返しによって深まり、無限の深度をもつものである。集中とは中心性の確立であり、全てを宇宙にゆだねる行為であり、だからこそ、全ての力という力を抜く必要がある。 そうして、内なる一点(タオ)につながることによる真の弛緩状態に至って、神業と言えるほどの創造が生まれる。 ☆ ☆ ☆ 急がば回れ。負けるが勝ち!
2012年10月31日
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前回は、ドリールの書から、カバラの意味と、現代の聖書の解釈の間違いを紹介した。そして、人間の意識は、神の意識に倣ってつくられ、神の意識は、一なるバランスの中庸精神なので、一から出た意識は、一に還るから、自らが行ったことが、自らに還ることを紹介し、老子の第81章につなげた。 生命の樹の解説ばかりを続けていると、退屈な話になりかねないので、少し身近な話を紹介して、老子の第81章につなげる。 昔の日本人は、現代よりも、中庸精神をもっていたことが、建築物から伺える。日光東照宮の逆柱などは、その代表例である。 逆柱 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%86%E6%9F%B1 逆柱などは、人間がつくる建築物が、自然破壊につながってはいけないので、自然との調和を配慮して、あえて、未完成にすることで、陽に陰を加え、自然に対して反抗心がないことを現しているものと考えられる。 自然を破壊すれば、因果から、今度は、自然から破壊される番となる。自然を破壊しなければ、自然から破壊されることもない。 つまり、中庸精神の適応を誤ると、そっくりそのまま自分にかえってくる。 この言い伝えが形骸化し、悪く伝わり、「出る杭は打たれる」となったのだろう。何事もバランスや調和が重要である、というのが、大和魂(精神)につながっているのだろう。 このような日本人の古来から来る徳目が昨今、ほとんど無視されてきたが、それでも、ファッションのなかの、着崩し、などに一部残っているようにも思われる。着崩しとは、洋服を着るときの約束事をあえて破ることで、美や創造性、精神性を高めることである。 では、そもそも約束事がどうして生まれたのか? 古代人は、裸だったので、服は着ていなかった。服は、おそらくオーラから派生したものに思われるが、オーラの性質が形骸化して約束事になったものと思われる。 それは、服装の約束事が、「会合や式典において、周囲の人々に不快感を与えない服装」であり、「地位と教養に裏付けされた正しい装い」という参加者の意識から生じているので、オーラの性質とよく似ていることがわかる。 ドリールによると、魂は基本色をもち、この基本色はオーラの色ではなく、オーラの色は、前世のカルマにより、基本色が抑えられ、異なった配色になったものだという。オーラの色は、当人の感情や知性や意志などで、絶え間なく変化し、当人の心を反映した色となるそうである。このオーラの性質から、服装の約束事が生まれたように思われる。 オーラ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%A9 そもそも、可視光線の色とは、白色光線のうちの反射された一部の光を情報として受容していることからみえるものなので、反射された光線には、なんらかの反射物の構造が含まれているわけで、色とは、その構造を捉えていることを意味する。 だから、オーラとは、発する当人の身体構造を捉えていることになる。古代人は、霊視ができたので、裸でも、オーラが服のようにみえたが、唯物論が普及するにつれ、ネガティヴ想念から、現代人のように、だんだんとみえなくなり、衣服のような、いわばオーラの着崩しが生まれたのだろう。 オーラが、基本色のいわば着崩しで、衣服が、オーラの着崩しとなったように思われる。人間は、能力を失うにつれ、変わりに、代替の創造性を開発してきたのだろう。 スーツが軍服の着崩しなのと同じで、時代が降るに従い、霊からだんだんと物質的に、着崩しされてきた。そもそも、時代とともに人間の意識や価値観が移り変わるのに、古来から、服装が変わらないというのは、自由にも反する。 勿論、着崩しが、環境破壊や、調和を乱す破壊であってはもっての他だが、冠婚葬祭にお決まりの如く喪服を多用するのは、創造性の枯渇で、奴隷的で、自由意志に対する一種の破壊とも思われる。社会的に高い地位に就きながら、精神性が低い権威主義者は現に沢山いる。 オーラの色と服装の関係は、例えば、聖徳太子がつくった冠位十二階制度などによく現われている。 冠位十二階 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%A0%E4%BD%8D%E5%8D%81%E4%BA%8C%E9%9A%8E 冠位十二階の位階と冠の色などは、オーラをよく表現しているようだ。オーラは、最低色の黒から、最高色の紫まで、意識が高次になるにつれ、変化するといわれている。 聖書にしろ、服装にしろ、言い伝えられてきた約束事が間違っていたら元も子もない。特に、日本人の洋服の服装に関しては、曲解が誇張されて伝わってきている面が多い、といわれている。 例えば、結婚式なのに、黒の礼服に白のネクタイというような井出達などである。恐らく、紋付羽織袴が、黒の喪服と化したものと思われる。それとも、結婚は人生の墓場といった、とある作家の代弁だろうか? 紋付羽織袴 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8B%E4%BB%98%E7%BE%BD%E7%B9%94%E8%A2%B4 これなどは、日本人独特の習慣で、同じ東洋でも、白は中国では、縁起の悪い色になるから、特定の日本社会でのみ通用する概念である。尤も、日本でも、江戸時代までは、白は、喪服にも用いられた色だったようである。 だから、色とは、習慣でもあり、色は、人間の意識に影響を与えるから、色使いにより、病気の治癒にも導くことができる。ドリールは、色彩療法を、「療法の真義」で展開している。黒は、あらゆる光線を吸収する色であり、白は、逆に総てを反射する色である。 何色が好ましくて、何色が嫌悪されるのかは、多種多様で、外見よりも、中身が重要なのである。精神性や意識が重要で、何を着ているか、ではなく、どういう精神なのか、が重要なのである。例えば、「療法の真義」でいえば、高血圧の人には青色を、低血圧の人には赤色を想い浮かべることが治療となる。 また、いかに物質的に金をかけた葬式をしようとも、他界した霊に参加者の意識が伝わらなければ意味がない。派手にやり過ぎて、破壊に繋がらないようにすべきである。 聖書に人間が従わされては駄目で、服に人間が着られては駄目で、本末転倒である。権威主義者は、神の名を語って人々を従わせようとするから、真意を掴むことが重要である。 そのことを、老子は第81章で説いているので、例のごとく紹介する。 ☆ ☆ ☆ 第81章 信言は美ならず、美言は信ならず 原文 信言不美、美言不信。善者不辯、辯者不善。知者不博、博者不知。聖人不積。既以爲人己愈有、既以與人己愈多。天之道利而不害、聖人之道爲而不爭。 書き下し文 信言(しんげん)は美ならず、美言(びげん)は信ならず。善なる者は弁(べん)ぜず、弁ずる者は善ならず。知る者は博(ひろ)からず、博き者は知らず。聖人は積まず。既(ことごと)く以(も)って人の為にして己(おのれ)愈々(いよいよ)有し、既く以って人に与えて己愈々多し。天の道は利して而(しか)して害せず、聖人の道は為(な)して而して争わず。 英訳文 Reliable words are plain, and decorated words are unreliable. Good people are reticent, and talkative people are not good. Wise people are not erudite, and erudite people are not wise. The saint who knows “the way” does not save up. He acts for others and gets important things. He gives to others and gets richness of the heart. Heaven’s way benefits all things without harming them. The saint accomplishes everything without competing with others. 現代語訳 信頼に足る言葉には飾り気がなく、耳障りの良い言葉は信頼するに足りない。善人とは多くを語らないもので、おしゃべりな人は善人とは言えない。本当に知恵がある人は物知りでは無いし、物知りな人に大した知恵は無い。そうして「道」を知った聖人は蓄えをせず、人々のために行動して大切なものを手に入れ、人々に何もかも与えてかえって心は豊かになる。天は万物を潤しながらも害を与える事はなく、聖人は他人と争わずに物事を成し遂げる。 Translated by へいはちろう (続いて、タオの法則より抜粋する。) 第81章 人生は逆説の法則に貫かれている 得る者は失い 与える者は得る 高くする者は低くされ 低くする者は高くされる 聖書の中のキリストの言葉は、老子と共通するものが多い。キリストは「自らを低くする者は高くされる」と言い、老子は「柔弱なる者は最も強い」「真の王者はよくへりくだる」と言った。 キリストは、「幼な子は天国に一番近い」と言い、老子は、「赤子は、タオに一番近い」とも言っている。水が低きに流れるように、人間もそうあるべきだと老子は言う。 水は、その謙虚さ、柔軟さゆえに、万物の中で最も強いと老子は言うのである。彼は、他の何よりも水の精を範とし、水の精を導き手としている。水の精は、すべての精たちを陰で支える精霊界の最大の奉仕者である。老子が女性や谷を喩えに用いるのも、その裏には水の精への認識がある。水の精はまた、聖性の精でもあるのである。 水のようになるとは、謙虚にふるまうことではなく、謙虚な心になることだ。難しければ、天を意識しよう。天に導かれる時、人は真に謙虚となる。そうなって、人は他者に振り回されることのない自己が確立される。自尊心で生きる間は、個であるがゆえに、個に振り回される。 ☆ ☆ ☆ 過ぎたるは及ばざるがごとし。
2012年10月30日
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オカルト(秘教)を学んでいると、現代に伝わっている聖書の解釈には誤訳が多いことがよくわかる。スウェーデンボルグ、シュタイナー、そしてドリールの書が、誤訳を明らかにしている。 特にドリールは、太古より言い伝えられてきたカバラ(生命の樹)を知らなければ、聖書の本当の意味は理解できないと、「カバラの真義」で述べている。カバラの真義から抜粋し要約する。 ☆ ☆ ☆ 原初には、「ホア(Hoa)」という「原始の一者」、「秘密のなかの秘密」、「神々の神」、「アイン(Ain)」と呼ばれる存在のみがあった。宇宙は、ホアが、様々な側面をもって表現したもので、それは、宇宙根源「生命の樹」が存在する領域のことを云う。 (ホアは、宇宙の映写機のような存在か? 聖書は、「神は言葉とともにあった」と表現している。アインは、お笑い好みなら、志村けん氏のギャグを思い浮かべる人もいるだろう。ホアの逆読みは、アホなので、これまた、坂田氏のギャグを思い浮かべる人もいるだろう。) アイン(ホア)は、総ての存在の根源であり、大なり小なり総てのものに浸透している。だからアインは、総ての創造と非創造の両者なのである。 実質、本質、知性は、アインの非創造からの顕現で、純粋な本質のアインは、創造も非創造もどちらも持たず、ただ、法則そのものを体現している。 総てのものは、アインから生まれ、最後にはアインへと帰る。「アイン」とは、宇宙根源の「生命の樹」が誕生した場所で、地球物質(3次元)界は、非創造から顕現した世界である。 アインとはまた、あらゆる側面の中立的な状態を保ち、どちらか一方に偏ることはない。 それが、宇宙の法則というものである、と告げられている。 生命体の原初の姿は、宇宙根源の「生命の樹」が誕生した場所に、大きな水辺があり、魚型生命体として生息していた。それは、今現在(西暦2012年)から遡ること、3191億9998万2366年前である。 (キリストは魚に喩えられることもある。) 宇宙根源の「生命の樹」が誕生してから、正確に、7年後のこと。アインは、「古代のなかの古代」であり、古代の象徴では、「閉じた目」として象徴化されていた。 アインが、創造、顕現した時には「開いた目」で象徴された。 既存の地球物質(3次元)界では、「ひとつ目」とは、闇の勢力により悪用されて来たので、「邪悪な(ルシファーの)目」の象徴となっているが、本来の意味においては、「創造の目」である。 アインはまた、永遠のシンボルたる円によって象徴され、それは単に宇宙の中心だけでなく、その領域をも象徴する。 (岡本天明著『日月神示』に出て来る、「丸の中に点」は、カバラで云うところの「アイン」を指しているようである。) アインの中に形成された総てのものは、結局は、分解崩壊して「第一原理」たるアインに帰属してしまうのだから有限なのである。 既存の地球物質(3次元)界は、有限の代表的な世界である。 だが、アインそのものは、総ての原初と究極の双方であるから、無限なのである。 アインの外側には何もない。真空さえもない。だから、総てのものは、アインのシンボルたる円の円周内にある。円の内部で総ての創造と分解とが起こる。 こんなわけだから、この円は、しばしば、「宇宙卵」で象徴される。この「宇宙卵」は、必要な周期(営み)が終わるまでは不滅で、いつか、総てのものは究極根源にまで帰る。 アインは、あらゆるものから、究極の結界によって守護され、全宇宙の何者であろうとも、結界を破ることは出来ない。つまり、この結界と、また、アインの外側については、究極の秘密がある。 この秘密について、どうしても知りたいのなら、地球の「内部世界」に入るしかない。 アインとは、「一なる存在のいる場所」である。 「一なる存在のいる場所」が、宇宙根源の「生命の樹」が存在する場所である。 アインは、第1の三光球(ケテル、コクマー、ビナー)を顕現させた。この三光球もまた、「アイン、つまり、ポジティヴ創造の始まり」、と呼ばれる。だから「原始の一者」は、時によっては、三光球の顕現、つまり、ポジティヴの存在に対して非顕現、つまり、非存在となるので、三光球は、アインのアインだから、「アイン・アイン」とも呼ばれる。 (「アイン」を繰り返して、反対に読むと、「イア、ニア」もしくは「エア」となるので、「アイン・アイン」から、「エア神」、もしくは、光に浸透された「空気」を連想させる。) ケテルは、陰も陽も統合する両性をもち、ケテルから、外面的に男性で、内面的に女性を秘めるコクマーが生まれるので、父性、もしくはヤーと呼ばれる。更にコクマーから、外面的に女性、内面的に男性を秘めるビナーが生まれ、母性、もしくはヤハウエと呼ばれる。 第2の三光球(ケセド、ゲブラー、ティファレト)を生じることで、アインは無限になり、無限の根源という概念をアインに与えるので、それらは「アイン・ソフ」と呼ばれ、低位への発生を伝える。 (「ソフ」とは、「浸透する」という意味をもつから、アインが浸透する、という意味になり、「アイン・ソフ」は、逆さ読みすると、ソフィエアー、つまり、「ソフィア」の意味の「神の愛」、もしくは「叡智」を連想させる。) そして、第3の三光球(ネツァク、ホド、イエソド)を生じることで、アインは無限光になるので、それらはアイン・ソフ・アウルと呼ばれ、物質界のすぐ上の形成(4次元アストラル)界を生じさせる。 (光球群の全体でもって、聖なる人、アダムカドモンの体を形成し、第1の光球が頭部、第2の光球が両手と胸部、第3の光球が両脚と腹部、残った光球のマルクトは、物質界に立つ両足となり、この体は、10の光球(セフィロト)より成る。 物質界では、マルクトは、陰陽(正負)に分かれ、2つの黒光球となるので、物質的な数え方だと、12の光球となる。だから、霊(意識)的には、10次元だが、物質的には、12次元となる。 恐らく、超弦理論のM理論で、Dブレインを相対論的に扱うことで、10次元の意識論から、12次元の物質論に展開できるものと思われる。) アイン・アイン(Ain Ain)とは、均衡(バランス)の中心であり、ポジティヴ(光)とネガティヴ(闇)との均衡の中心でもあり、これは、「真ん中の人」を指す。 聖なる人「アダムカドモン」とは、10の光球=10のセフィロト=宇宙根源の「生命の樹」のことである。従って、宇宙根源の「生命の樹」は、アインの中に存在し、アインは、ホアの中に存在することになる。 三光球(三つ組)が、常に、1セットであることが、宇宙の真なる教えが三位一体であることを告げている。 人類が、当面、向かってゆく場所とは、「アイン・ソフ・アウル(Ain Soph Aur)の形成(4次元アストラル)界」であり、弥勒の世=地上天国=約束の地といった場所が、その入り口となっている。 (4次元アストラル界は、金星ともいうようだ。) 「アイン・ソフ(Ain Soph)の世界」へ向かうのは、約束の地の3036年間を通り抜けた後の、更に先の段階となる。 ☆ ☆ ☆ 以上のような内容だが、以前にも述べたように、生命の樹とは、神の創造を説く書物でもある。例えば、聖書の創世記を細かく説明する書なのである。例えば、以下のウイキにある「生命の樹」と、「形成の書」を組み合わせると、カバラの奥義が明らかになる。 生命の樹 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E6%A8%B9 形成の書 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E6%88%90%E3%81%AE%E6%9B%B8 以上のサイトのなかの 『10の「数」(によって象徴される4つの根源的元素と6つの方位)と22の「文字」(によって象徴される元素)を用いた、神による世界の創造を描く。また、この「数」と「文字」を合わせて「33の智恵の経路」とも総称する。』 を解説する。 4つの根源的元素とは、テトラグラマトン(YHVH)のことである。ドリールによると、唯一神ホアが、6つの方位、つまり、六芒星形に、テトラグラマトン(YHVH)を発(表現)した。テトラグラマトン(YHVH)は、4つの世界を意味する。 ドリール風にいえば、テトラグラマトン(YHVH)は、1.霊(スピリチュアル)界 2.心(メンタル)界 3.形成(アストラル)界 4.物質界となる。だから、Yは霊界、Hは心界、Vは形成界、Hは物質界となる。 それぞれの世界が、陰陽とその融合の三位一体の3組からなるので、4つの言葉の3つの表現から、4×3=12に分かれることがわかる。この12が、10の光球(セフィラー)にあたることは上に紹介した。マルクトが、陰陽を含め3つの光球になる。 この10の光球(セフィラー)と22の文字を現す小経(パス)から、生命の樹が成り立つことが再確認できる。ホアを含めるかで、合計32か、33の叡智の経路が成立する。この32、もしくは33の数は、生命体の基本数といわれ、例えば、人間の脊柱骨の数を現していることは、以前述べた。 そして、カバラの概略は下図からわかる。 上図のイソッドはイエソド、ゼブラーはゲブラー、チョクマーはコクマー、ニトザクはネツァク、ティペレトはティファレト、マルキュトはマルクトであるが、唯一神ホアが、三母字の三つの言葉:アレフ(空気)、メム(水)、シン(火)から、スピリチュアル界(霊界)を顕現させることがわかる。 テトラグラマトン(YHVH)のYのヨッド、Hのヘー、Vのヴァヴ、Hのヘィは、それぞれ、Yは霊界、Hは心界、Vは形成界、Hは物質界を形成するが、Yのヨッドは、三母字の霊界を現し、Hのヘーは、七複字の心界を現し、Vのヴァヴは、十二単字の形成界を現すようである。 またHのヘィは、物質界のことで、Hを、現代の聖書解釈者は、He(彼)と取り違えて訳したために、「物質界の克服が、魂を磨く(意識を高める)唯一の道」という意味を失ってしまったという。 また、有名な「エヘイエ アシェル エヘイエ」とは、「我は存在するところの存在なり」と現代の聖書解釈者は、誤訳しているが、本当は、「バランス(均衡)によりバランス(均衡)をもたらす存在なり」というのが本当の意味であるという。 つまり、老子風にいえば、「陰に対しては陽を、陽に対しては陰をもたらす存在なり」ということになる。だから、中庸による中庸をもたらす存在が、唯一神ということになる。全ての存在は、総てにバランスをもたらす唯一神から出て、唯一神に還る、ということなのである。 「エヘイエ アシェル エヘイエ」が、三種の神器の八咫鏡(やたのかがみ)に書かれているというのは、非常に興味深く、鏡は、左右(カイラル)対称性をもたらす存在なので、つまり、神は、この世に対称性をもたらす法を与える存在であることを意味している。 だから、宇宙の総ての存在は、自らがなしたことが、自らにかえることになるわけだ! このようなことを、老子は、第81章で説いているが、その紹介は次回に譲る。
2012年10月26日
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前回はエメラルドタブレットに書かれている光と闇の戦いについて紹介し、老子につなげた。オカルト(秘教)では、光の一部が、闇(ネガティヴ想念)に陥ってから、光と闇の戦いは続いている、といわれている。 光の神は、巨大なオーラ(霊光)という意味のアフラマズダで、闇の帝王は、アーリマンである。古代では、物質光、つまり電磁波は、黒光と呼び、霊光を白光と呼んで、区別していたそうである。人間には、神は光にみえるが、光といっても、輝き具合から様々な段階があるからである。 だから、光を区別する認識が必要になる。ドリール著「カバラの真義」によると、聖書の「神に似せて、人間をつくった」という記述は、人間の肉体の形ではなく、人間の意識のことを述べているという。つまり、人間は、神の意識である白光の分光である、というのである。 また、神を認識するには、人間は分光なので、自らが全体光になるまで、ネガティヴ想念からくる鈍重さを捨て、輝きを増さないといけないと述べている。仏教でいう穢れを浄化することである。 穢れを浄化するといっても、物質世界を否定するのではなく、克服することが必要である。そのために、闇の世界である物質世界に転生し、その領分に応じて、自ら物質世界を克服し支配する必要がある。 エメラルドタブレットには、この世に転生する3つの方法が書かれ、3種類の聖者についても、ドリールが言及している。 3つの転生の方法は以下であるという。 1.両親から遺伝として受け継いだ肉体に宿って誕生する方法 2.既に肉体をもっている魂と交換する方法 3.魂をそのまま肉化させる方法 1の方法がほとんどであるそうだ。2の方法の代表例は、ヒトラーであるという。ドリールは、キリストも1の方法で生まれた、といっているが、シュタイナーは、2の方法だと、その見解は異なっている。 シュタイナーは、ゾロアスターが転生した魂と仏陀の流れを汲む魂が、1の方法で2人のイエスとして生まれたと述べている点では、ドリールと同じだが、2人のイエスが12歳のときに、仏陀の流れを汲む魂が、ゾロアスターのイエスの魂の乗り代わりの犠牲になって、仏陀の方の肉体に転生し、ゾロアスターの魂の元の肉体は他界した、という見解である。 2人で1つとなったイエスに、ヨハネが洗礼を施すことで、いままで生まれたことのない光の子の純粋なアダムの霊キリスト(白い鳩を象徴とする)が宿った、という2の方法を用いた見解を、シュタイナーは述べている。 以下のサイトを参照に http://blogs.yahoo.co.jp/sakimorikeikan/55920796.html 3の方法は、一時的にしか効果がないという。蛇人が使う血を代償とした幻術も恐らくこの3の方法のように思われる。 さて、3種類の聖者については、ドリールは以下のように述べている。 1.アヴェターラ(アバター) 2.アデプト 3.マスター 1のアヴェターラは光の子で、この世に転生する必要のない意識体であるといわれている。2のアデプトと3のマスターは、秘儀参入者のことを意味するが、秘儀参入は3段階に大別されていて、第3段階にまで達した者をアデプトと呼ぶようである。ただし、第3段階に達したからといって、必ずしも上位とはいえないという。 つまり、アヴェターラはもとから純粋な光の意識をもった魂で、アデプトやマスターは、輪廻転生を繰り返し行ってきたことで、浄化し、秘儀参入して、光の意識を獲得した魂という区分けがあるという。 いずれにしろ、光に従うか、闇に従うかは、本人次第というわけである。 以上のようなことを、老子は、第63章で説いているので、例のごとく紹介する。 ☆ ☆ ☆ 第六十三章 無為を為し、無事を事とし、無味を味わう 原文 爲無爲、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳。圖難於其易、爲大於其細。天下難事必作於易、天下大事必作於細。是以聖人終不爲大、故能成其大。夫輕諾必寡信、多易必多難。是以聖人猶難之、故終無難。 書き下し文 無為を為(な)し、無事を事(こと)とし、無味(むみ)を味わう。小を大とし少を多とし、怨みに報ゆるに徳を以(も)ってす。難(かた)きをその易(やす)きに図(はか)り、大をその細(さい)に為す。天下の難事(なんじ)は必ず易きより作(おこ)り、天下の大事は必ず細より作(おこ)る。ここを以って聖人は終(つい)に大を為さず、故に能(よ)くその大を成す。それ軽諾(けいだく)は必ず信寡(すくな)く、易きこと多ければ必ず難きこと多し。ここを以って聖人すら猶(な)おこれを難しとす、故に終に難きこと無し。 英訳文 Do doing nothing. Live for nothing special. Enjoy tasteless life. Consider small things as big and small quantity as large. Repay a favor to a grudge. Solve a problem before it becomes hard. Solve a trouble before it becomes big. A hard problem often results from an easy problem. A big trouble often results from a small trouble. So the saint who knows “the way” does not do a great thing. He does small things and accomplishes great things. If you undertake problems casually, you will lose your trust. If you regard problems as easy, they will become hard. But the saint considers all problems as hard, and he can solve them easily as a result. 現代語訳 「特に何もしない」という事をして、「なんでも無い事」を仕事として、「味気の無い生活」を味わう。小さなものを大きく捉え、少ないものを多く感じて、人から受けた怨みには徳をもって報いる。難しい事はそれがまだ簡単なうちによく考え、大きな問題はそれがまだ小さいうちに処理する。この世の難しい事は必ず簡単な事から始まり、大きな問題は必ず小さな事から始まるのだ。だから「道」を知った聖人はわざわざ大事を成そうとはしない、小さな事を積み重ねて大事を成すのだ。安請け合いをしていては信頼など得られないし、安易に考えていると必ず困難な目に合う。しかし聖人は些細な事でも難しい問題として対処するので、結果的に特に難しい事もなく問題を解決できるのだ。 Translated by へいはちろう (続いて、「タオの法則」から抜粋する。) 世の中には2つのリーダーがいる 1つは世の中の枠組みの中で上を目指すタイプ もう1つは自己に耳を傾けることで 世の中の流れを変えてしまうタイプ 真のリーダーは例外なく後者である 世の多くの上に立つ人間は、属する社会組織に自分を合わせ、認められるよう努力を払い続けることで大きな立場を掴み取った人間だ。彼らは他人の評価に価値を置き、上ばかりを目指す同類タイプとの見えざる競争の中で、その目的を勝ち取る。 世の中の戦争を作り上げるリーダーたちは、前者のタイプである。彼らは組織のトップを目指し、トップになれば、その組織の巨大化を目指す。そうして集団と集団は、いずれ対決を迎える。彼らは、社会の性質に影響を及ぼすことはない。ただただ社会の現状に当てはまり、1つの歯車となるだけだ! しかし、こうした世の歯車タイプとはまったく異なるタイプの人間が、時に世の多くの人たちの心を動かすことがある。他人の評価などまったく眼中になく、常識や既成観念にもとらわれず、自己の中心から聞こえる内なる声にただただ耳を傾け続ける。 彼らは、自然界同様、常に新たな創造を創出する。 ☆ ☆ ☆ ワビサビまで味わい尽くせば三昧になる。例えば、人間の味覚は7段階あるが、更に味わい尽くすと12段階に分かれるそうである。甘味、酸味、塩味、苦味、辛味、渋味、刺激味、無味、脂身味、アルカリ味、金属味、電気の味であるそうだ。 充分に味わうには、味覚を超越しないといけない。つまり物質界を味わうには、物質界を超越しないといけない。つまり、ワビサビを代表とする日本文化は、小環境、小宇宙という箱庭をつくることで、物質世界を超越する秘儀参入の方法の名残ともいえる。 「入魂」という言葉からわかるように、精神の創造性、精神の向上を目指すもので、単なる金儲けでは人間失格なのである。日本人とはいえない。日本は、太陽の火を崇拝する国だからである。日本人とはいえない大人が沢山いる日本はもはや日本ではない。
2012年10月25日
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ドリール著のトートのエメラルドタブレットにすっかり嵌まってしまっているが、「療法の真義」にも書かれていることで、大切なことは、実は人間の死は本質的には存在しない、ということである。 つまり、秘儀参入と同時に、人間は死ななくなる、ということなのである。 人間が本質的に不死の存在であることは、エメラルドタブレットに書かれているが、実際に、トートは秘儀参入を果たし、不死の存在となったが、大体5万歳のときに、人類の未来を見据えて、この世を去ったそうである。 では、人間の死とはなんなのか? 端的にいえば、個人という意識がなくなる、ということだそうだ。複雑系の科学でいえば、自己組織化が解消される、ということになる。人間個人は、様々な力を統合し、様々な細胞を集約させ、それらに役割を与え、自己という認識を持たせた集合体といえる。 それら個人を集約し、様々な機能を持たせた社会からなる国家も似たような存在である。人間の意識だけに存在する国境は、その代表的なものである。地球から考えれば、国境など、人間が勝手につくったものでしかない。国と国との過去のやりとりから生まれる認識が、国境をつくっている。 では、自己、個人とはなんなのか? 自己、個人を理解するには、輪廻転生とカルマを理解しないといけない。宇宙意識に対する認識不足からくる前世の罪を贖うために、現世に生まれてくるわけで、前世をポジ(陽)とすれば、現世はネガ(陰)となる。だから、基本的に、前世とは正反対の性格をもって、生まれてくることになる。 だから、宇宙意識と融合できない部分を、自己として背負って生まれてくることになる。融合できない部分は闇となるから、自己は、闇から作られる。闇とは、自分と他人の境界をつくる意識ともいえる。 オカルトでは、地球は、贖いの星と呼ばれている。別名、罪人の星ともいえる。キリスト教でいうところの原罪意識のことである。ドリールの書物から察するなら、人類が、ネガティブ(陰、闇)の想念をもってしまった故の、宇宙意識からの逸脱というような意味をもつのだろう。 エメラルドタブレットには、人類が原罪に至る前の経緯についても書かれている。光の子らが、ネガティヴを救済しよう(悪を善に導くこと)として、ネガティヴ領域に介入しすぎて、光の子らの一部が、ネガティヴ領域に陥ってしまった、というようなことが書かれている。 その箇所を一部抜粋する。 ☆ ☆ ☆ 第6章 魔法の鍵より一部抜粋して要約 遥か昔、原始の人間の時代に、闇と光の戦いがはじまった。当時の人々は、現代人のように、闇にも、光にも満たされた。或る者は闇に支配され、他の者の魂には光が満ちていた。 この戦いは闇と光の永遠の争いとして、これまで続いてきた。人間には、秘められた不思議な力を用いて、いつの時代にも激しく戦っている。 宇宙の偉大な力を、建設の為ではなく、破壊を行うのに使う超人達がいる。法則は善にも悪にも、積極的(ポジティヴ)にも否定的(ネガティヴ)にも働くからである。宇宙の偉大な力を破壊に使うような超人達は、闇の兄弟等で、光の子等と戦う黒魔術を用いた。 彼等は光の子等が光の中へ連れて行こうとする人々を引き戻そうとした。闇でもって総てを満たさんとする闇の長(帝王)等がいて。人々を、彼らの夜へと引きづりこもうとした。光の子等は激しく抵抗し、激しく夜の闇と戦った。 闇の長(帝王)等は、人間を夜の闇に縛る鎖と足伽を絶えず硬く締め付けた。彼らは常に黒魔術を用いた。闇で、人の魂を覆う魔術を暗黒の力により、人間にも用いた。彼らは幾世をも経て、ある秩序にて団結せる闇の兄弟等(悪魔)になり、人類には敵となった。 彼らは常に密かに隠れて歩き、人類の子孫には見つからない。常に彼らは光より離れ、夜の闇に隠れ、闇の中を歩き、働く。彼らは沈黙し、密かに闇の力を用いて、人々の魂を奴隷にし、束縛する。 黒魔術の導師団は、白魔術の導師団の正反対である。黒魔術は破壊し、白魔術は建設する。黒魔術団は、今、秘密結社として知られる組織を持ち、白魔術団の超人達が持つような弟子たちを持つ。彼等は、白魔術団に似せた組織をつくり、度々、人々に白魔術団だと思わせていた。 人々があるものを得たり、或る力を得たりするのを助け、遂にその人達を自分らの手下とし、逃げる手段がないと、押さえつけてしまった。彼等は、思想移入や催眠術によって他人の心を支配する力を持っていた。この力により人間の心を支配し、無秩序の中へ引き入れることが出来た。 もし、黒魔術団に降伏し、黒魔術団の名簿に記入された人は、死後も、黒魔術団に縛られることになる。彼等は、見えずに近寄ってきて去る。人類は無知なので、彼等が、下位から来た存在に思う。 暗闇は闇の兄弟等の歩く道で、夜の暗きよりも暗い闇なので、地上を満遍なく歩きながら、彼らは人間の夢をも貫いて行く。闇の兄弟等は、周囲の闇より力を得て、彼らの世界とは異なる世界の住者を招き入れる。 彼等は、力を持ち、その力を、人には暗くて見えない方向に向けて送り出す。闇の兄弟は、人間の想いの世界にも到り、夜のヴェールで、この世界をとり巻く。人間の魂は、生涯、夜のヴェールの足伽に縛られ、束縛の中に住む。彼等は禁じられた知識を持つので強い。その知識は、夜と一つになるため、禁じられているものなのである。 そして、トートは以下のように人間に忠告している。 「人間よ、わが警告を聞け! 夜の束縛より自由となれ。闇の兄弟等に汝の魂を引き渡すな。汝の顔を常に光に向けよ。汝の悲しみは夜のヴェールを通してのみ来ることを汝は知らない。 常に上を向いて努力せよ。汝の魂を光に向けよ。暗黒の兄弟等は光の道を旅する者を、彼らの仲間へと誘惑する。光への道を、太陽に向かって旅する者等は、光の子等を、闇で縛ることができるような大いなる力を持つようになることを、彼等はよく知っているからである。 もし人間の魂が、光へと進歩したいことを願うならば、束縛されてはならない。暗黒(物質)の力に降伏することは、光を遮断することになる。暗黒と無秩序によってのみ、人間は肉体に縛りつけられる。だから、光となり、秩序あるものとなるべきである。 人間よ、汝のところに来る者の言葉を聞け! されど、その言葉が光のものか否かを見究めよ! 闇に染まる輝きの中で、歩むものが多いからで、そこから脱すれば、光の子となる。 黒魔術団は、光の道に進歩した人を、いつも引きずり降ろそうと画策している。何故なら彼等は既に進歩させた力を色々と持っているからである。ごく僅かしか進歩してない人や、全然進歩してない人々よりも、高く進歩した人の方が、堪えるべき出来事がより多いのは、この為である。 光を学べば学ぶ程、逆にその人は無秩序の誤魔化しについて解るようになり、黒魔術団にとっては、価値のあるものとなるからである。 彼等の道を行くことは易し。彼等の誘う道に従うことは易し。されど、我が警告に注意せよ。光は努力する者のみに来る。智慧に到る道を行くは難しく、光へと誘う道を行くは困難である。その道には岩石が多く、光に向かい、攀じ登るべき山脈が多いいことがわかる。 困難な道に打ち勝つ者だけに、光の道が開放されることを知れ! 暗黒の兄弟等の道を行くこと勿れ。常に光の子たれ! 遂に光は勝ち、闇と夜とは、光により離れて消え去るべきを知れ! 暗黒の智慧に注意すると同じく、光の智慧にも注意を払え! 暗黒が消えて、凡てのヴェールが引き裂かれる時に、闇より光が閃き出る。 黒魔術団に反対して白魔術団があり、人間を無秩序から解放しようと常に努力し、黒魔術団の様々な力をくい止めている。もし、道の探求者が、霊能力ではなく、光に対しての本当の望みを持つならば、白魔術団は、その人と黒魔術団の間に立ち塞がってくれることだろう。 彼等は黒魔術団よりも大きな力を持っているからである。 だが、黒魔術団は人間が進歩するのに必要な暗黒面(遺伝力)をつくっているので、存在が許されている。つまり、そのような暗黒を経験し、それに打ち勝ち、そこからとび出すことが、人間の進歩には必要なのである。 (遺伝力や宿命を克服すべき、ということなのだろう。) 光の子等は、常に人間の傍らにあって一緒に歩んでいることを忘れるな。 彼等は太陽の力を持てる大師等である。常に見えないが、人々の守護者である。総ての者に道は開かれる。光に踏み入る者に、その道は開かれる。彼等は、異次元の出入り口のアメンティーの広間への出入りの自由を得ている。 彼等は太陽なので、朝の君主でもあり、人々の間に耀く光の子等なので、至る場所で、最高に生命のために主権を奮う。彼等は、人のようだけど、同じではない。彼等は、この世に生まれたことはない。 (生まれたことのない魂を、光の子のアヴァターラと呼ぶ) 原始より、永遠なる1つなるものの中で、あらゆる空間にあまねく居る存在である。彼等は「一切の無限なるもの」と1つにして、原始の空間から来た存在で、形を持つこともあるが、形なき存在でもある。 白魔術団の大師や大超人達は、人間を守護し、悪い力を防ぐ為に、人間の中に目覚めた太陽の力、太陽叢の力を使う。光の子等は、決して、原初は1つであったことを忘れずに、彼等の兄弟である人間の守護者となる。 彼等は暗黒を押し戻す秘密の保持者である。このような秘密は、大師となる道を行く者に与えられる。 彼等は秘密を与え、あらゆる害より、人類を守る。大師への道を行く者は、夜の束縛より自らを解放すべきである。その人は恐怖の妄想を征服すべきである。 これらを知りながら、彼はあらゆる智慧を獲得すべきである。暗黒を貫く道を行くべきである。しかもなお、自らのゴールの光を絶えず自分の前に掲げることを忘れるな! 光への道の行く手には、大きな障害物に出くわすだろう。されど、太陽の光とともに、それらを乗り越えよ! 大師になりたいと思う者は、この世に現れるものを規制する法則をマスターしなければならない。そして恐怖に打ち勝ち、光の道を恐れずに進まなければならない。」 ☆ ☆ ☆ 以上のようなことを、老子は、第63章で説いているので、次回に例のごとく紹介する。
2012年10月24日
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前回は、エメラルドタブレットから、トート(トス)を紹介し、老子との関連を探ってみた。続けて、エメラルドタブレットを要約していき、老子とのつながりを紹介する。 エメラルドタブレットに書かれている内容から、人間の生きる意味は、オカルティストがいうところの秘儀参入といわれる宇宙意識と融合することにある。宇宙意識と融合することが、自ら育ててきた意識(魂)を永遠にし、永遠の生命を手に入れることができるからで、様々な輪廻転生を繰り返してきたことを知るからである。だから聖者は、過去の前世や宇宙の歴史を知っているという。 秘儀参入を果たした魂は、次に金星に向かい、地球と似たような輪廻転生を続け、今度は水星に向かう。太陽に近い惑星ほど、高い意識が育っているという。だから、学校の進級と似たような形になっている。まさに、「上にあることは、下にもある」、といえるだろう! 勘違いしてほしくないのは、人類のような姿は地球にしか存在しないということである。金星は、花のような姿で転生するといわれている。つまり、その星の環境に応じた輪廻転生を行うそうである。意識レベルが異なるのだから、設計図が異なるように、当然といえる。 いま地球人のほとんど(火星以下の星から裏口入学してきた魂もいる)が、地球学年であって、地球を生かし、宇宙を生かす地球意識と融合してはじめて、地球の学年を卒業できるわけである。 自然破壊や、自分のことしか考えず、ゴミなどを撒き散らす生活を続けていると、地球を卒業できないまま、地球の環境が大規模に変わる審判(陰陽の逆転のポールシフト)のときには、月のような地球の衛星に幽閉されて、火星から進級してきた魂と一からやり直すことになる。しかし、落第者だから、特権を失う。 月には、かつての進級できなかった落第者が棲み、人類の怒りや憎悪等の闇となる感情(意識)を食べて生き(劣等意識だから、成立という意味)、月から、地球人を支配しようとしている、とオカルトではいわれている。 月といっても、物質的な月は、一部で、物質界ではない世界、俗にいう黄泉の世界をオカルトでは月と呼んでいるようである。だから、月の裏側というのは、人間の眼にはみえない黄泉の世界のことをいうのだろう。 月から、落第者が、闇の感情(意識)を用いて人類に干渉することで、地球人の魂のなかの闇が露わになる。どんな善人でも、地球人である限り、闇をもつから悪人なのである。真の善人は、地球には基本的に生まれないが、例外として、上位の意識体が、地球の霊を指導するために、教師として生まれることがあるともいわれている。ちなみに仏陀は、水星人といわれている。キリストは太陽意識といわれている。 月の住人が、地球人の意識に眠っている闇を明らかにするから、地球は、人類の魂にとってよい修行場になる。闇を更に撒き散らし拡げるのか、光に変えるのかは、本人の努力次第(魂の能力次第、意識次第)というわけである。 また月の住人は、遺伝を司っているとオカルトではいわれている。遺伝は、カルマから生じるから、闇の支配を意味し、物質は闇から生じる。人間の魂は、カルマという罪を解消しに、遺伝を背負い地球に生まれてくるわけである。 例えば、前世で、危害を加えた者に対しては、来世では、それを償うような機会が、遺伝的な宿命として与えられる。遺伝的な闇をどのように克服するかで、本当の自由を獲得できる。月の住人に支配されるのは試練であり、そのような圧力があるからこそ、かえって自らで自由の力を手に入れることができる。 親鸞が説いた「善人もて往生を説く、いわんや悪人をや」の悪人正機説は、以上のような意味を持つのだろう。悪人がいるから、自分のなかの悪が明らかになるわけで、悪に染まらない本当の自由を手にすることができる。それが秘儀参入であることはいうまでもない。 端的にいって、秘儀参入とは、自らを、物質的な肉体から解放することにある。本当は太陽の子である人間の霊が、肉体に入ることで、自分という闇を知り、闇を知ることは、闇の克服、つまり、闇を光に変えることにつながるわけで、鏡をみなければ、自分がどのような姿をしているのかがわからないから、自分が持つ光の強さは、闇によって明らかになる。 このようなことを、老子は第32章で説いている。以下に、ある御馴染みのサイトから抜粋して例の如く紹介する。 ☆ ☆ ☆ 第三十二章 道は常に無名の樸なり 原文 道常無名樸。雖小、天下莫能臣也。侯王若能守之、萬物將自賓。天地相合、以降甘露、民莫之令、而自均。始制有名。名亦既有、夫亦將知止。知止所以不殆。譬道之在天下、猶川谷之於江海。 書き下し文 道は常に無名の樸(ぼく)なり。小なりと雖(いえど)も、天下に能(よ)く臣とするもの莫(な)きなり。侯王(こうおう)若(も)し能くこれを守らば、万物は将(まさ)に自ら賓(ひん)せんとす。天地は相い合して、以(も)って甘露(かんろ)を降し、民はこれに令する莫くして、自ら均(ひと)し。始めて制して名有り。名亦た既に有れば、それ亦た将に止まることを知らんとす。止まることを知るは殆(あや)うからざる所以(ゆえん)なり。道の天下に在(お)けるを譬(たと)うれば、猶(な)お川谷(せんこく)の江海(こうかい)に於(お)けるがごとし。 英訳文 “The way” is always like a nameless raw wood. Nobody can handle it even if it is small. If a monarch follows “the way”, all things will obey him readily, then heaven and earth will be harmonized and rain love, and people will unite without an order. If you cut a raw wood into pieces and make tools with them, those tools have names. Those names make distinction and distinction makes discrimination. If you abstain from distinguishing moderately, you will not face any danger. The aspect of “the way” like this, so to speak, is like “the ocean is in lower place than rivers and gathering them.” 現代語訳 「道」とは名の無い切り出したばかりの丸太の様なものだ。この丸太はたとえ小さな物でも思い通りに使いこなせる者などいない。人の上に立つ君主がこの事を弁えていれば、この世の全てが喜んで従うだろう。そして天地が豊かになりその恩恵は人民の上に慈愛の雨を降らせて、わざわざ命令などしなくても人々は統一される。丸太を切り分けて道具を作れば名前を持った物となる。名前がつくと他の物との区別が生じてそれが行き着くと差別となる。だから物事の区別は程ほどにしなければならない。程ほどにしておけば危険が生じる心配が無い。この様な「道」の在り方は例えるなら大きな海が数々の川の流れを集めながら最も低い位置に存在しているかの様である。 Translated by へいはちろう (続いて、タオの法則から) 信念とは 時を見通すことを言う 別れが来れば 出会いが来る 崩壊が極まれば 創造が始まる 必ずそうなる ただし それには少しの時が必要だ 自然界の木々が新芽の胎動を始めるのは、極寒の時期である。極寒を全身で感じることで、見えない未来へのトキメキを感じ始める。極寒時の内的胎動なき木々は芽をだすことができない。人間はどんな人でも、現象的には、発展の時、頂点の時、衰退の時、忍耐の時を繰り返す。これに例外はない。物質が陰陽で生じるように、時というものも、陰陽の創造原理をもつからだ。 しかし、この法則を知らず、不運を恐れる人間は、目先の現象に右往左往し、リズムを壊してしまっている。例えば経済的に不安になり、その不安から株に手を出して借金を抱え込む。これは、本来の創造リズムから離れ、自身が作り上げた苦痛でしかない。こうして現代人は、苦悩を自ら作り上げている。 自然世界は、未来を見通す目を持っている。 未来を見通す目は、性エネルギーの本質によってもたらされる。 ☆ ☆ ☆ 伸びるには、まず縮まなければいけない。
2012年10月23日
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これまでの内容から、全宇宙の環境のなかに、人間が、どのように継続的に存立しているかが、わかるだろう。人間が、自然のなかに存立する意味を見つけるには、自然のなかの地の力に対して、植物のような形で、直接抵抗する力と、人間を成立させている構造との関係を調べてみればよい。 植物は、地の力に対して直接抵抗している。植物は、花や種子を形成するために、地の力に対して、抵抗することで、(地球外からの)形成力を確保する。食用の植物の基礎をなす形成力は、特定の地の力に抵抗することに基づいている。 植物は、地の力への抵抗に続き、その代償として、地球外(天体)の力に曝されることで、最終的に、種子や果実を形成する。次いで植物は、本来なら、植物界の上方にいる高次の存在たちが世界を見渡すように、世界を見渡したい、と思うような境地に達する。 つまり、植物は、知覚を求める。ただし植物は、知覚器官を持たないので、植物のままで、人間の眼のような構造を発達させようとするが、植物は眼を発達させることはできない。植物は、人間、もしくは動物の体をもたずに、植物の体しかないからである。 上述した植物などは、例えば、ベラドンナ、アトロパ・ベラドンナのような植物になる。このような植物が、ベラドンナになっていくときに生じる過程(プロセス)を、以前、わかりやすく描写した。 ベラドンナ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%B3%E3%83%8A このような植物はベラドンナになることで、最終的に、根のなかに、黒い液果として実を結ぶように導く力が存在するようになり、この植物は、人体組織の、次のような作用と親和性をもつようになる。 「本来は、感覚(アストラル)領域で働く過程が、物質的な形態形成の過程で働くようになり、つまり感覚(アストラル)の領域から、人体の組織化の領域に、意識を浸透させるような」作用と親和性をもつようになる。 ベラドンナを生体内で希釈されるような微量となるように、服用する場合に生じる過程(プロセス)は、非常に興味深く、夢が混入した寝起き時の過程(プロセス)に非常によく似ている。夢の混入した寝起き時の過程は、ベラドンナによる過程(プロセス)が、正常化された形で起こる。 寝起きの際は、まだあまり外界への知覚が行われず、外界への知覚に、夢を伴う内的な意識を浸透させる性質は、このようなベラドンナの一種の作用である。従って、ベラドンナによる中毒というのは、通常の寝起きの際の、夢にまだ浸透されているときと同じ過程(プロセス)が、ベラドンナの毒により引き起こされ、その過程が継続し、外界への知覚による意識によって、受け取られることなく、その過渡的現象が持続することに基づく。 中毒を引き起こすような過程(プロセス)でも、それが適切な形で、人間のなかに引き起こされるなら、人体機構の一部となることがわかるのは非常に興味深い。 以前特徴を述べたように、植物のベラドンナ化は、植物の人間化への気違いじみた努力ともいえる。だから、人間は、寝起きの際に、自らのなかのベラドンナ化の性質を発揮するが、ただし、これは和らげられた、節度あるベラドンナ化であり、寝起きの瞬間だけに限定されている。 従って、人体内で過度に強く作用するアルブミン化過程(プロセス)の負担を解消し、物質的な過程を、魂的な過程に導くように、影響を与えるなら、生体内で希釈され、上部組織へと浸透するようにベラドンナを、与えればよい。 ベラドンナを服用することで、人体から物質的な負荷を除き、魂を優位にさせることができる。このようなベラドンナの働きは、確かに混乱を生み、幻影に満ちているが、以前述べたように、通常の肉眼でも見えるベラドンナの作用である。寝ている人を突いた結果、寝起きの状態から、(持続的な)覚醒状態へと移らずに、寝起きの状態のままにとどまれば、その人は死んでしまう。 人間は寝起きの際に、常に生命の危険に曝されている。ただ、この生命の危険を克服するように、その状態が継続しないように、素早く起きているだけなのである。このような寝起きが、適度に、瞬時に起これば正常に、限界を超えれば異常となる、というような興味深い関係がある。 この興味深い関係から生じる寝起きの過程は、古代の医師たちは、繰り返し追求しようと試みていた過程(プロセス)である。だから、古代の医師たちが、ホムンクルスの製造法について語る際、これは根本的に言って、まだ残っていた霊視力で、アンチモンからつくられるファントム(幽体)を見ていた、ということなのである。 ホムンクルス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%B9 古代の医師たちが、実験室で外(物質)的に実行していた形成過程(プロセス)とは、アンチモンが、その(形態形成)力を展開する間に、医師自身の本質を投射し、アルブミン化の力として現わすことで、このアンチモンの力を撲滅し、アンチモンの力とアルブミン化の力が1つになって現われた過程のことである。 アンチモンが様々な形態(フォルム)をとっていく間に、人体組織のなかに残っている通常の形成力を投影することで、アルブミン化の力との均衡の基に現われてくるホムンクルスを古代の医師たちは見た。この均衡が起こる過程(プロセス)において出現するものを、彼らはホムンクルスと見たのである。
2012年10月23日
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前回は、ドリールの書のトートの「エメラルドタブレット」について紹介した。非常に興味深いことが書かれているので、前回紹介した例のサイトから抜粋して、続けて要約し紹介する。 興味深いことは、地球意識よりも、劣った意識が、人類を支配することを目論んでいる、ということである。エメラルドタブレットから、その意識の持ち主たちは「蛇人」と呼ばれているが、蛇人かどうかを見分けるために、ある言葉を話させることが有効だという話だ。 蛇人について、再度、紹介する。 ☆ ☆ ☆ 蛇人は、血の犠牲が捧げられると、その血の中の生命力を取り上げ、催眠的幻覚術を自らの周りに発散して、人間の姿をつくりあげる。蛇人は、幻術を用いて、外見は人間の姿をしているが、その真の姿は、蛇の頭を持った男、または女の体をもち、秘密裏に殺した(魂を追い出した)指導者らの形姿をとって、次第に、彼らと彼らを黒魔術により呼びだした者どもとが、その国の支配を引き継いだ。 悪魔やネガティブ(闇)の霊能力者どもが、人間を支配する1つの方法は、その人間を殺して(魂を追い出して)その肉体に入ることなのである。もしくは、似た姿の人間を血液からつくって、その中に入ることである。 しかし彼らには発音できない言葉が1つあった。この言葉は、聖師たちにより人間に教えられ、それから公職に就いている者は全て、各太陰月毎に人々の前で、この言葉を発音せねばならない規則になった。もし発音に失敗すると殺された。その言葉とは『キニニゲン』であった。 人間の姿をとっている蛇人を見破る方法は、『キニニゲン』と発音させる事だ、と述べられている。 ☆ ☆ ☆ また、人間の本質にも言及している。 ☆ ☆ ☆ 暗黒と光とは、単に外見が異なるだけで、1つの本質の両面である。 人間は如何なる肉体を纏(まと)っていようとも、その魂は、住んでいる星々(地球)の魂と一体である事を知る必要がある。 肉体は、太陽である魂の周りを廻っている惑星に過ぎない。 人間の本体は、光の善なる魂であることを知れば、惑わす闇(悪、煩悩)を照らす太陽のような光となり、光の中で成長し、宇宙で輝く存在になる。 人間の意識を宇宙へと光へと向ける必要がある。光と一体となれる心から出た自由と魂の言葉を話し、高い波動を創造する必要がある。凡てを宇宙と融合させ、光の一部となるように成長させ、世界の秩序・法則の道案内人になる必要がある。 闇の束縛から解脱し、太陽や魂の光で、空間を認識した時、この宇宙空間は無限ではない事実を知る。この世の凡てのものは、次の次元へのステップとなるべく存在し、物質は波動から成立しているに過ぎなく、常に形を変える「諸行無常」が実体である。 人間は地球から生まれるが、その本体は、光より生まれた霊なのである。 だから、人間の本体は光より生まれた霊だと言う知識が無ければ、解脱はできないし、その知識が無い者は闇(悪、煩悩)に取り囲まれ、闇(悪、煩悩)に魂を束縛される。従って、自分の内を見つめ、探求する者だけが解脱できる可能性がある。 闇(悪、煩悩)と光(善、真我)は見た目が異なるだけで表裏一体に過ぎない。 なぜなら、それらは宇宙の根源(創造主)から生まれたものだからである。闇(悪、煩悩)は宇宙の摂理に反しているが、光(善、真我)は宇宙の摂理に適っている。闇(悪、煩悩)であっても光(善、真我)に照らされると光に変わり得るのは、闇は元々は光でもあるからである。 人間が存在し生きる目的は、生まれながらに持っている闇(悪、煩悩)を光(善、真我)へと変貌させることである。 人間の肉体には2つのチャンネル(陰陽)があり、それは循環運動をなす血液と神経経路を伝わる電磁気から生じ、この2つのチャンネルを統合させる働きを持つアカシャというものがある。アカシャとはヨガで言うところのチャクラ、もしくは気功で言うところの経絡・ツボらしいとのことである。 これら三者(血液、電磁気、アカシャ)は、お互いに同調し助け合いながら肉体と生命の維持に影響を及ぼし、精妙なるエーテル(宇宙エネルギー)が肉体に流れる重要な構造を形作り、肉体的生命の秘密は、これら三者(血液、電磁気、アカシャ)の支配にある。 聖者が悟りに達し解脱を果たした時、自らの意志によって肉体を棄てる事が叶い、秘儀参入を果たせる。 人間は各惑星が持っている固有の波動(地球では3次元の物質的な波動)にて取り囲まれ、その次元からは決して出る事ができないように束縛されている。よって地球人は、3次元の波動である時間と空間に束縛された奴隷も同然なのである。 その次元から解脱(脱出)する鍵は、自分自身の内にのみ存在し、その鍵が見つかれば次元の束縛から解放されて自由になれる。それが秘儀参入を果たす、と言うことである。 ☆ ☆ ☆ このようにトートがエメラルドタブレットのなかで述べていることは、老子が説くことと非常に一致している。シュタイナーは、老子は、古代アトランティス時代の叡智の名残のようなものと述べているが、トート=老子と考えてもよいと思われる。 さて、このようなことは、老子の第48章に端的に説かれているので、例のごとく、某サイトから抜粋し紹介する。 ☆ ☆ ☆ 第四十八章 学を為せば日々に益し、道を為せば日々に損す 原文 爲學日益、爲道日損。損之又損、以至於無爲。無爲而無不爲。取天下常以無事。及其有事、不足以取天下。 書き下し文 学を為(な)せば日々に益(ま)し、道を為せば日々に損(そん)す。これを損して又(ま)た損し、以(も)って無為(むい)に至る。無為にして為さざるは無し。天下を取るは、常に無事を以ってす。その事有るに及びては、以って天下を取るに足らず。 英訳文 The more you learn, the more you get knowledge. The more you acquire “the way”, the more you lose your knowledge. Losing your knowledge again and again, you can reach the stage of “doing nothing”. You can do everything if you never do anything unnecessary. You even can get the world if you never do anything unnecessary. If you do something unnecessary to control the world as you like, you can never get it. 現代語訳 学問を修めると日に日に知識が増えるが、「道」を修めると日に日に知識が失われていく。知識を減らした上にまた減らし、そうして無為の境地へと至るのだ。無為であれば出来ない事などありはしない。世界を支配するには、ありのままにまかせて余計な事はしない事だ。自分の思い通りにしようとして余計な事をすれば、世界を支配する事など出来はしない。 Translated by へいはちろう (続いて、タオの法則より) 手放し難きを手放せば 得るべきを得る 新たな生長を前にした木々が、葉を落として、それに備えるように、人生の流動も、本来は、手放すことや、捧げることから始まる。そして必ずその分だけ、新たな何かを手に入れる。 ところが、エゴの心は所有にばかり意識を向かわせ、得るべきを得られなくしている。 何かの実現を控えた未来が近づいたと感じたら、手放せる限りを手放して、それに備える。忙しさで自分をなくしていると心がささやいたら、思い切って今の仕事を手放す。 部屋の中も、ガラクタは流れを損なう。空間の少ない部屋は血管が詰まった体のようなもの。使わなくなったものを捨てれば捨てるほど空間は生命力を取り戻し、エネルギーは流動する。 過去に得た知識や情報も、実現すべきを阻んでいる障害であることが多い。器にきれいな器を入れようと思えば、まず古い水を捨てなければならない。我の強い人ほど、それを悲痛に感じるものだ。それでも、器を空にしなければきれいな水にはできない。 タオの領域は、無所有の領域だ。 だから、人間も、何もない無の心となる時、存在の奇跡がわかり、尊さがわかり、ありがたさがわかる。それだけで、私たちはタオの至福に乗るのである。 ☆ ☆ ☆ 押して駄目なら、引いてみろ。溜めたものは捨てなければいけない。金銭だって、有効に使うことで、益々増えるわけだ! 全ては使い方次第である。
2012年10月22日
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前回はオカルティストの教育から、ドリールの治療哲学を紹介した。ドリールの書籍を色々読んでいると、特に「エメラルドタブレット」という本の内容は、真実だとしたら、非常に驚愕すべきものがある。 例えば、以下のサイトなどに、その内容の一部が転載されている。 霊人のひとり言 http://reijin32yoshi.blogzine.jp/shinsey/2007/10/post_bd90.html 以上から抜粋して、要約して紹介すると ☆ ☆ ☆ 『エメラルドタブレット』とは、約3万6千年前に秘儀参入を果たし、高次世界(4次元アストラル界)に到達した「トート」と言う名のアトランティス人により記述された12部からなる最古の文献であるという。 ピラミッドの中からトートの弟子の賢者たちが、トートの教えを広めるために持ち出し、マヤの神殿のある場所に保管していたのを、トートが、ドリールに霊的交信で、発見させ、10部までの内容の公開を許し、ドリールは、その内容を転写し、再びエジプトのピラミッドに返還したという。 現代人の意識レベルでは証明不可能な叡智を授ける古代アトランティス語で書かれたエメラルド色(永遠不滅)の石版であるという。 この石版に書かれた内容も、太古の叡智に比べれば幼稚なものでしかないという。トートは、本来なら、高次世界の金星に転生すべきものを、後世の人類のために、地球に残り、地球人類の宇宙意識との融合のために、教師になる選択をしたという。 この石版によれば、トートは、地球に何回も転生したが、主に有名なのが三回あるそうだ。このような経緯を知れば、トートは、あるとき、タオ(老子)に転生したのではないか?という発想も浮かんでくる。 トートは、三回、この世に受肉する、という伝説から、ヘルメス・トリスメギストスと呼ばれている。 トート http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%88 ヘルメス・トリスメギストス http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%A1%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%B9 以上のウイキから抜粋した以下の3つのヘルメスとは、トートの主に3回の受肉(転生)を述べているようである。 1.第1のヘルメス:ノアの洪水以前にいた神。アダムの孫という。衣服、ピラミッドを作ったという。天文などを研究したという。 2.第2のヘルメス:ノアの洪水以後のバビロンにいた人。ピタゴラスの師という。医学、数学などに優れる。 3.第3のヘルメス:エジプトの人。医学者、哲学者。都市計画をしたという。 第1のヘルメスとは、エメラルドタブレットによれば、大体、紀元前5万年前の受肉だと考えられる。トートは、約2万歳のときに、エメラルドタブレットを書いたという。トートを含む一部のアトランティス人は、秘儀参入を果たし、地球意識の1つ上の金星へと転生していったという。 代わりに火星から、地球より劣った魂が、地球に転生し、当時の叡智を悪用するようになったため、高次世界から派遣されていた当時の指導者が怒って、トートらの一部の秘儀参入者を除き、これ以上、人類に悪用されないように、叡智を封じるために、当時のピラミッドごと大陸を水没させ、現在は、地球の底(500キロ以上の底)に眠っているそうだ。アトランティス大陸は、約2万年前に水没したという。トートは、5万歳まで、この世にいたという。 ちなみに、太平洋の底にあるのは、レムリア大陸のピラミッドだという。レムリアは、アトランティスの500年前に水没したという。アトランティス大陸は、いまの大西洋にあったそうだ。 第2のヘルメスとしての受肉のときに、トートはエジプトのピラミッドを建設したそうだ。ピラミッドは、高次世界につながる宇宙船で、太古の叡智を獲得した者でないと動かせないという。ピラミッドは、高次世界の守護者に守られ、結晶構造をゆるくし軽石のようにして、動かして、つくられたという。 ピラミッドは、トートの超能力でつくられたから、現代人には建設は不可能で、地下には現代人の知らない構造が眠っているという。ピラミッドは、将来の悪魔の地球侵略の防波堤のために建設されたという。 第3のヘルメスについては、特に、このドリールの書には書かれていないようで、未来のことのように思われるが、探求中である。 この書には、宇宙構造も書かれ、3次元物質世界に「空間-時間」として現われる本性は、この宇宙の運動から生じる管(トーラス)のようなもので、数学的には、9次元の性質をもつという。 数学的には、9次元の演算子のようなものが考えられ、それが意識(知性)と掛け合わされ、3次元空間と時間を生じるようである。量子力学でいう生成消滅演算子が、恐らく、9次元に拡張されたものなのであろう。 この9次元物質(演算子)をエーテルとも言う。エーテルと言っても3次元ではなく、電子や素粒子の素となるコスミックダスト(宇宙微粒子)といわれる。カバラでは、これを「母なる水」と言っている。錬金術では、エリクサーや、水銀と呼んでいる。 ちなみに、宇宙は、6次元の境界をもつ管のなかを、高速で螺旋を描きながら回転しているという。位相(トポロジー)空間でいうところのトーラスが考えられる。 アトランティス人たちの一部の秘儀参入にまで到達した魂は、金星へと旅立ったそうで、トートは、後世の人類のために、地球に残ったそうである。 代わりに、火星の未熟な魂の集団が大挙して、地球に転生したため、人口が増え、当時の叡智を悪用したために、戦乱が続いたそうである。神秘学では、この時代を、火星紀とも呼んでいる。現代を、アクエリアスの水星紀と呼ぶ神秘学者もいるが、マヤの暦によると、2012年から、水星紀になるようだ。 『エメラルドタブレット』によると、太陽に近い順に生命体は高位の意識を持ち、火星から地球へ、地球から金星へ、金星から水星へ、そして太陽に転生(受肉)するために、輪廻転生のサイクルを繰り返し、カルマを清算するそうである。 地球の住民は秘儀参入の第1段階を得ないと金星へは行けない。第2段階を得れば水星へ、第3段階を得れば太陽に転生できる。火星にいた意識体は、上位の地球にやって来て、魂を向上させ、第1段階を得るまで地球にいる。だから、地球人の意識体は、過去に、火星、木星にいたことになる。 また、過去の時代に、第1段階にいけなかった魂は、陰(ネガティヴ)のエネルギーが強いので、落第し、地球に残るしかなくなり、当時は「蛇人」や「爬虫類人」という形だったので、未来に人の姿をとって人類のなかに現れる、と告げられてきたという。 月ができたのは、それら過去の落第者を封じ込めるためだったという。蛇人や爬虫類人とは、恐竜に受肉した魂のことで、悪魔のことである。ヨハネの黙示録の666である。 アトランティス時代以前の遥かな昔、暗黒を探索する悪魔的存在がいて、黒魔術を使い、地球より下位の惑星の大深淵より、下位に住む存在を呼び出し、地球の転生サイクルに侵入した存在もいるという。 彼らは、地球の意識から生じる振動とは異なる振動の意識体なので、地球の人類には見えないが、地球人の血を糧にして、血から肉体をつくることで、姿を現す存在となるようである。そのような下位の存在は、人間の血を代償にして、存在を現すので、吸血鬼やモンスターの伝説となったという。 そのような連中は、太古の聖師(アデプト、マスターの秘儀参入者)たちにより、来訪した下位の惑星に追い戻されたり、征服され、地球の内部に幽閉されたりしたという。しかし、地球の人々の知らざる空間に、隠れ残った者らも若干いて、アトランティス時代にも、闇のなかに住み、時には、人々の心の内に現われるが、血による犠牲を献ぜられる時に、人々の目の前に現われるという。 このように、血を献じる儀式は、黒魔術による悪魔崇拝だと断定できる。新興宗教などは、非常に危ないものである。暗黒界も、光の世界と同様に9次元まであり、3次元以下の暗黒界に陥ると、地球の輪廻転生では、秘儀参入不可能となるというから、永遠の落第者となるそうだ。物欲に囚われ、陰(ネガティヴ)のエネルギー(想念)で、自身を束縛してしまうことを意味する。 彼らは、人の姿にみせる幻術を用い、その魔術を解くと、蛇頭なる存在を露わにするという。彼らは、人の姿にみせる幻術で、人々の様々な会議に忍び入り、姦計を巡らし、国々の首長らを殺し、彼らの姿に成り代わり、人々を支配するという。 彼らの魔術では、発音できない言葉があるので、その言葉を唱えさせることで、発見できるという。彼らは、闇の国から来て、人々を殺し、その人々になり代り、支配するという。ちなみに、ヒトラーは、その代表だったという。ヒトラーの人生の前半と後半を比較すれば明らかである。 現在のアメリカの指導者は「蛇人」に憑依されているとの情報もあり、ある霊能力者がブッシュ大統領やチェイニー副大統領やライス国務長官を見ると、明らかに尻尾の生えたトカゲの顔をした鋭い爪を持つ姿に見える、と言い切っている。さらにキッシンジャー元大統領補佐官も同じで、クリントン夫人も怪しいといわれている。 聖師たちの白魔術は、黒魔術よりも強大なので、蛇人らの顔から、ベールを取り去り、元の場所に戻すことができる。聖師たちは、人間のみが発音できる言葉の秘密を教えることができ、その言葉を蛇人に話させることで、蛇人からベールを取り去り、支配の地位から追放させることができるという。 しかし用心も必要で、蛇人らは時折り、この世に開放される場(恐らく月のことだろう)に、今なお棲み、生贄(いけにえ)の儀式の行われる様々な場所に行って、時々、人の姿をとって現われるそうだ。 この書によれば、これら下位の闇の侵略者が、地球の3分の1の生命体を奪った段階で、古代アトランティスのピラミッドが浮上し、エジプトのピラミッドと融合して、再び、大洪水のような最後の審判と呼ばれる天変地異を引き起こすことを伝承しているという。 エジプトのピラミッドは、地球の環境を制御する中枢機能の役割をもっているそうである。その下には、宇宙船が隠され、侵略者に対する罰を与える道具が眠っているというのである。 ☆ ☆ ☆ 非常に奇想天外で、驚愕した内容となっているために何度も繰り返して書いてしまったが、そのなかの最後の審判は、いまから200年~300年後といわれているのだが、現代のような気もしなくもない。科学技術の悪用が深刻になると、神々が、地球の内部から天変地異を発生させることも考えられる。現に地震が多発しているからだ。 老子の第48章につなげる予定だったが、トートがタオなのではないか、ということで、次回に譲る。
2012年10月18日
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前回は、オカルティストの教育について考えてみた。オカルティストの教育とは、キリストの「信じるものは救われる」を源流にしていることに、改めて気づかされる。 「信じるものは救われる」は、よく誤用されることが多い言葉である。それは悪魔も同じ言葉を使うからで、新興宗教の教祖などは、宗教を利用して、「信じるものは救われる」、と洗脳するからである。 モーリス・ドリール著「療法の真義」を続けて読んでいるのだが、治療哲学ともいうべき、非常に興味深い内容が書かれている。ドリールは、決して、近代以降の物質的な医療を否定するわけではないが、その限界を認めている。 そもそも、病気とは、患者本人の否定的(ネガティヴ)な想念から生じたもので、その想念を消し去らない限り、その帰結として、肉体に現われた疾患を取り除いても、やがて再発するばかりか、かえって悪化した形で現われる、と述べている。 このことはドリール自身の2年にわたる医療行為から、はっきりと確認した事実だと述べている。シュタイナーも同じことを述べている。 つまり、「信じるものは救われる」の、いわば逆説的な、「悪しき想念を信じるものは、悪しき想念に巣食われる」というわけである。 そして、ドリールは、治療に際して、最も重要なことは、患者本人の自主性であり、受容性である、と述べている。いかに、名医であろうが、患者自身が、その名医を信じない限りは、患者自身のなかに、否定的な想念があり、治療は不可能と述べている。 人間には、もともと神から自由な意志を与えられているので、神の命令さえも、拒絶できる。人間は、神の命令さえも拒絶できるのだから、悪魔の命令など取るに足らないはずだ! キリストの「信じるものは救われる」という言葉は、非常に重要なことを述べている。それはつまり、人間は、神が命じる死でさえも、本当は拒絶できる、ということなのだ! ただし、それは、逆説的な意味で、神の命じる死を、人間の考える(ネガティヴな)死と受け取らないことが必須となる。なぜなら、人間に生命を与えているのも、神だからである。 そのような意味で、現代の患者のほとんどが唯物論者なので、唯物論を信じている限りにおいて、物質的な医療が、唯物論のなかでいう治療効果を発揮でき、その治療効果も、他の価値観からすれば、プラシーボと同じ、というわけなのである。 だから、人間が、何を信じるかにより、その人間の存在が明らかになる。古代では、このような認識が当たり前だったので、信仰心が問われた。どの神(意識レベル)を信じるかで、その信仰者の立場(意識)が明らかになるからだ! だから、人間は、意識の表現体で、神の名を唱えることは、信仰者の意識を明らかにすることになる。 つまり、古代の信仰を、現代に置き換えるならば、神は、意識レベルになる。その人の意識が高次なのか、低次なのか、は、その意識が共鳴する意識レベルによる、ということになる。高次と低次の違いは、次元に置き換えられ、高次ならば、意識の行き渡る範囲が、繊細で広範囲ということを意味する。現代物理学の超弦理論などは、この意識論を語るのに相応しい記述をもっている。 ドリールつながりで、ドリール著の「エメラルドタブレット」も読み始めたが、遥か太古の叡智、つまり意識論を学ぶ上で非常に面白い書である。その本のなかでは、宇宙全体が、6次元の境界の管のなかを、螺旋状に回転しながら、高速で進行している、という。このイメージは、超弦理論に出てくる数理的なイメージとよく似ている。次回以降に、老子につなげて、紹介していきたい。 さて、何を言っているのか、恐らくチンプンカンプンの人もいるだろうが、はっきりしていることは、良い想念が、健康的な肉体をつくり、悪い想念が、肉体を病気に至らせる、ということである。 では、良い想念とは何なのか? ドリールによると、それは、どんな想念ともバランスを取ることができ、秩序を与えることができる想念だという。この想念は、大和魂のことを述べているのではないだろうか? 日本には、古来からの裸の付き合いがある。この裸のつきあいとは、信仰する神、つまり意識を表明し、どんな神とも仲良くやっていくことを意味しているのではなかろうか? その多様的な意識のことを、大和魂と呼んだのではないか? ドリールは、他に、治療哲学のようなことを述べている。病気は、患者の悪しき想念の現われなので、患者の悪しき想念を、善導してやらないといけない。つまり、悪しき想念のまま、いくら肉体を治療しようとも、また同じ過ちを繰り返すどころか、かえって悪化させることにつながる。 だから、極論をいえば、犯罪を犯すことがわかっている人の生命を助けることは、本人が改心しない限り、無駄な努力で、ほとんど不可能ということになる。このことを、「馬鹿につける薬はない」、という諺は、端的に示している。 なによりも、そのような人は、病気が魂を救う恵みであることにさえ気づいていないのだから、この世の授業をボイコットしているようなものである。 ドリールは、一度、病気を治しても、改心しない患者は、再発し、悪化しても、治さなかったと述べている。また、物質的な治療に対しても、金持ちから、カネを使わせる効用があると述べている。 それは、キリストが、「金持ちは天国には行けない」とはっきりと述べていることからもわかる。金持ちに、カネよりも生命の方が大切であると悟らせるには、大病に罹らせるしかないからだ。それぐらい、金持ちは馬鹿なのだ! そのようなことを、老子は、前にも紹介した第48章で述べているが、その紹介は次回に譲る。
2012年10月17日
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前回は、教育について、老子の説く感性へと結びつけ紹介した。今度は、オカルティストの教育について考えてみたい。例えば、オカルティストの教育水準とは、自分の行いが、宇宙や、他の人にどのような影響を与えるか、の理解や認識力が、どのくらいあるかで決められるものに思われる。 例えば、なぜ、嘘がいけないかといえば、他の人を欺き、嫌な思いをさせるだけでなく、嘘を嘘でないように取り繕うために、嘘を隠す行為から、自分を嘘の奴隷とし、嘘がバレルことの恐怖心に脅かされ、そのような偽善行為を、宇宙全体に広めてしまうことなどが想定されるからである。 嘘は、自分が、宇宙の進行方向と一致していない証でもある。だから、嘘はバレル。 とどのつまり、宇宙の一部としての自分が、宇宙全体に良い影響を与えることを前提にできる感性をもつことがオカルティストの徳目である。 宇宙全体を司るのが宇宙の意識なわけで、その意識は、各々の人間のなかにも流れているわけだから、素直に、それに従い、その流れを土台にして、その上に自分の幸福を築くのが最も合理的に思え、なにより、宇宙意識が全体の幸福を望んでおられるのだから、素直にそれに従うのが賢明である。 だから、「キリストは、主なる神(宇宙意識)を信じよ。信じるものは救われる」、と説いた。 例えば、スポーツでは、チームプレーというのが求められる。個人プレーが、全体によい影響を与えるかどうかは、第3者である観戦者には岡目八目で、一目瞭然である。 例えば、良いサッカー選手は、サッカー通の観戦者が、あそこにパスを出せばいいのに、あそこでシュートを打てば入るのに、と思ったところに必ずパスを出し、シュートを決める選手である。サッカー通の知人がストイコビッチ元選手のプレーをみたところ、上述したような感想を述べていた。 つまり、観戦者の期待に応えられる技能をもつ選手が良い選手ということになる。だから、チームとして機能するには、個人プレーが、そのままチームプレーになる技能をもつ選手が重要といえる。 だから、個人として全体の流れを把握できるプレーヤーが優秀ということになる。 また、スポーツ選手の優秀さは、言い訳をしないことでも評価される。ヒーロー、ヒロインは言い訳をしないものだ! 私は競馬をよく見るのだが、騎手のコメントは職業上仕方のないことだが、言い訳だらけで、馬のせいにするのも多い。確かに馬の競走なのだから、負ければ馬の責任は大だが、騎手とは、馬を走らせてナンボの職業なのだから、猿回しが、猿のせいで芸ができない、というなら、金を返してくれ、といわれてしまうだろう。 優秀な騎手は、騎乗馬のベストパフォーマンスを生かせる技能をもち、レースの流れを掴んでいる。また、調教師以上に、騎乗馬を良く知る。馬にとっては、レースは平時とは異なる極限状態なのだから、興奮するのが普通である。 強い馬は、興奮を、ある程度制御でき、パフォーマンスにつなげる能力をもつようになる。知性をもつようになるわけである。興奮の制御、つまり知性は、人間が、レース経験を共有することで教えないといけないことだ。だから、良血といわれる種馬は、平時では気性が荒いのが特徴でもある。 サッカーと競馬を例にして考察してみたが、優秀な選手は、個人目線だけでなく、同時に全体目線をもっている。全体目線をもてるようになるためには、豊富な経験が必要となるだろう。僅かな環境の変化も敏感に感じ取れる能力を開発しなければならない。そして、パニックにならず、騒がず動じず平然としていなければならない。 僅かな環境の変化であっても、そこには宇宙全体の意識が働いている。微妙な変化のなかにこそ、主たる宇宙全体の意識の働きが現われている。 その微妙な宇宙意識の働きを探るには、少なくとも、自分から出た感情や行為を除かないと掴めない。自分の中からでた欲望、欲求を除いてみてはじめて、本当の自分のなかにある、宇宙意識の働きを探ることができる。 個と全体がつながり一致したときに、とてつもない歓喜が訪れるという。 そのようなことを、老子は第41章で説いているので、例のごとく以下に紹介する。 ☆ ☆ ☆ 第四十一章 道は隠れて名なし 原文 上士聞道、勤而行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之。不笑不足以爲道。故建言有之。明道若昧、進道若退、夷道若纇。上徳若谷、廣徳若不足、建徳若偸。質眞若渝、大白若辱、大方無隅。大器晩成、大音希聲、大象無形。道隱無名。夫唯道、善貸且善成。 書き下し文 上士は道を聞きては、勤めてこれを行なう。中士は道を聞きては、存(あ)るが若(ごと)く亡(な)きが若し。下士は道を聞きては、大いにこれを笑う。笑わざれば以(も)って道と為(な)すに足らず。故に建言(けんげん)にこれあり。明道は昧(くら)きが若く、進道は退くが若く、夷道(いどう)は纇(らい)なるが若し。上徳は谷の若く、広徳は足らざるが若く、建徳は偸(おこた)るが若し。質真(しつしん)は渝(かわ)るが若く、大白(たいはく)は辱(じょく)なるが若く、大方(たいほう)は隅(かど)無し。大器は晩成し、大音(たいおん)は希声、大象(たいしょう)は形無し。道は隠れて名なし。それただ道は、善く貸し且(か)つ善く成す。 英訳文 A superior person tries to practice “the way”. A normal person doubts of “the way”. A inferior person laughs at “the way”. If a inferior person does not laugh at, it is not qualified as “the way”. They say, “A light road looks dim. A forward road looks going backward. A flat road looks uneven. A superior virtue looks like a low valley. A broad virtue looks not enough. A firm virtue looks lazy. A pure thing changes flexibly. A whiter thing looks blacker. A great square has no corner. A great vessel matures late. A great sound is hard to hear. A great figure has no form.” So “the way” is hiding behind things that we can see and we cannot name it by nature. But still “the way” gives power to all things and lets them be. 現代語訳 優れた人間が「道」の事を聞くと、努力してそれを実行しようとする。普通の人間が「道」の事を聞くと半信半疑である。くだらない人間が「道」の事を聞くと馬鹿らしいと笑う。そうやってくだらない人間に笑われるくらいでなければ「道」とは言えないものだ。こんな言葉がある、「はっきりと明るい道は薄暗く見える。しっかりと前進する道は後退するかのようである。ほんとうに平坦な道はちょっとした起伏を大きく感じる。高い徳のありさまは低い谷川のようである。広く行き渡る徳は物足りなく感じる。確固とした徳はだらけきっているように見える。純粋なものほど柔軟に変化する。真っ白な物ほど黒く見える。大いなる四角には角が無く、大いなる器は完成が遅い。大いなる音は聞き取りづらく、大いなる形には明確な形が無い。」つまり「道」とは目に見える事象の裏側に隠れているもので、もともと名づけようがないものなのだ。しかしそれでも「道」は万物に力を貸し与え、万物の存在を完成させている。 Translated by へいはちろう (続いて、「タオの法則」から) 人間の創造エネルギーの量は 悦びの量に比例する この宇宙は、たった一つの点から生じた。その一点が、太陽系や銀河系、あるいは人間のような叡智ある命を生み出すのは、宇宙がそうした活動を、悦によって達成するからだ。深い深い悦の中に至ろうとすることで、存在は、常に新たなる創造へと導かれる。宇宙がそうであるように、人間も、ほんの1つの小さな「悦び」に導かれれば、宇宙大の創造へとつながり、宇宙大の至福へとつながる。 いかに自身の中の小さなトキメキに着目するかですべてが始まる。「好き」「嫌い」「快」「愛」これらは本当は同一であり、その感覚を生み出す本質を老子はタオという。 悦に導かれる時、流れるような創造と出会う。自然界が創造性をもつように、私たちが創造の過程にある時、私たちの魂も充足し、愛に包まれる。 愛は人間が創るものではなく、最初から宇宙の根本に働くものであり、人間に無尽蔵に提供されている最大のエネルギーである。悦に身をゆだねる時にのみ、人は、愛の次元に合流し、愛ゆえに創造は生じるのだ。 ☆ ☆ ☆ 宇宙全体が与える幸福と、個人が全体に求める幸福とは、与える愛のなかで巡りあい、悦びとして一致する。
2012年10月16日
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前回は、教育について思うところを述べた。「鳶が鷹を産む」という諺もあるが、大体は、「蛙の子は蛙」なので、親の人生が、子の人生に引き継がれると考えた方が無難である。親以上になるには、やはり、親以上の苦労が必要ということだろう。 だからといって、親と全く同じ人生を歩むわけではない。それは自主性いかんにかかっている。 オカルトでは、本人にとって、学びの多い親を選んで、生まれてくるといわれているから、逆説的にいえば、親以上の教育者はいないはずである。また、親も、子を通して、その自主性から学び得るわけで、どの親にどの子が産まれるのかは、神様の優れた叡智によるものといえる。 このオカルトの意味から、仏教の出家とは、もはや親に学ぶ必要がなくなったことを意味する。同時に、親も子から学ぶ必要がなくなったことになるから、もはや前世の因果である宿命を克服したことをも意味するわけである。 俗世間でいうところの、親離れ、子離れのことになる。血縁関係からくる依存心や甘えを克服したことを意味する。西洋では一般的に早くから自立心をもつように配慮しているから、日本の「閉じこもり」というようなことは、余程の金持ち階級ならあるかもしれないが、一般的にはほとんどありえないはずである。 子どものときから、好きなものだけを与えていると、社会や職業まで、与えられないと何もできなくなる。要するに精神の成長力がなくなる。すると、愛情も自分でつくりだすことができずに、与えてもらうものと錯覚してしまう。そこに唯物論で価値観が色づけされると、与えられた価値観にすがって、自分からは何もできない受動的な奴隷人間になってしまう。 「三代目の穀潰し」というように、三代目で滅ぶというのは、二代目までは、創業者の苦労を共にしたことで、周囲がなんとか持ちこたえるが、三代目は生まれながら金持ちの坊ちゃんなので、苦労知らずだから周囲と孤立し、ましてや社会の底辺の気持ちなど汲み取る能力もなく、穀潰しになるようなカラクリがある。2,3年前に流行ったKY(空気読めない)である。 KYは、非社会性、社会適合能力なしなので、お笑いや特殊芸能の世界では重宝されるが、一般社会では、非常に厄介な存在となる。政治家をみればKYだらけで、庶民の生活の苦しさなどには不感症で、自分のことしか頭にない受動的な奴隷人間ばかりであることに気づかされる。 社会の底辺に対して、真剣に耳を傾けようとせずに、貧乏の克服能力を高めることなく、社会に対して不感症になってしまったので、図体は大人だが、中身は幼児並という政治家ばかりになってしまったわけである。 このようなことを、老子は第73章で説いているから、例のごとく紹介する。 ☆ ☆ ☆ 第七十三章 天網恢恢、疏にして失せず 原文 勇於敢則殺、勇於不敢則活。此兩者、或利或害。天之所惡、孰知其故。天之道、不爭而善勝、不言而善應、不召而自來、繟然而善謀。天網恢恢、疏而不失。 書き下し文 敢えてするに勇なれば則(すなわ)ち殺され、敢えてせざるに勇なれば則ち活かさる。この両者、或(ある)いは利あり、或いは害あり。天の悪(にくむ)む所、孰(たれ)かその故を知らん。天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召さずして自ら来たし、繟然(せんぜん)として善く謀る。天網(てんもう)恢恢(かいかい)、疏(そ)にして失せず。 英訳文 If a judge is brave to punish criminals, they are killed. If a judge is brave to pardon criminals, they survive. These two kinds of bravery, some say the former is right, some say the latter is right. Since it is difficult to tell right from wrong of human judgement, it is impossible to tell right from wrong of Heaven’s judgement. Heaven, wins a victory without any battle, answers without speaking, gathers everything without calling, and is loose but has a grand program. Heaven’s net is very loose, but it never fails to catch a sinner. 現代語訳 裁判官が勇気をもって刑を執行すれば罪人は殺され、勇気をもって刑を免除すれば罪人は生き延びる。この二種類の勇気は、それぞれ時と場合によって良いとされたり悪いとされたりする。人間の裁きでさえその是非を判断するのは困難なのに、天の裁きについてはなおさら人の身で理解するのは困難である。大いなる天のやり方は、争わずに勝利し、言葉を用いずに応え、呼びよせずに自ら来させ、ゆったりとしながら遠大な計画を内に秘める。天が悪を捕える網は、粗い目をしているように見えて悪を決して逃しはしない。 Translated by へいはちろう (タオの法則より) 第73章 人間は感性で決まる 感性が正しければ 「好き」「快感」「ワクワク」はゴーサイン 「不快」「気分が乗らない」はストップサイン 「飽きた」は完了サイン 人間の体は必要なものは何かを知っている。あなたがオレンジを食べたいと思う時は、それに含まれる何かが、あなたの体の営みや成長に必要な時だ。そしてそういう時は、心からそれがおいしいと感じるものだ。 人間の心もこれと同じだ。その人に必要なものは何かを正確に知っている。あなたがダンスを見ると踊りたくてウズウズする。そして実際に踊るとそれがたまらなく快感に感じたとする。これはダンスが必要であり、あなたの魂の成長に必要だからだ。そして、それを追求することは、他の人を楽しませたり、それによって培った美的センスが何かの創造に役立ったり、結果として必ず人の役に立つことになる。 逆に気分が乗らないというのは、それを止めなさいという内なるささやきである。この、小さなささやきに耳を傾け続けていると、タオの流れに沿った生き方が実現する。 タオへと至った人間は、好きなことをやりたい時にやれるだけやれる生活が自ずと実現する。そしてその人は気のおもむくままにやりたくてたまらないことに没頭し、そのときにしか得られないチャンスを絶妙なタイミングでものにする。 大切なのは、快と不快を嗅ぎ分ける鋭敏な体感力だ。 ☆ ☆ ☆ どんなことにも、真剣な態度で臨んだなら、自己の感性を磨くことにつながる。
2012年10月16日
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この間、TVで、ゆとり教育について議論していた。大学生が大学で分数を習っていることが例として出されていた。 非常に疑問に思うのは、大学にもいって、分数を学ぶ必要があるのか、ということだ。大学入試に分数がなかったから、大学生になってしまったのだろうが、それでも、高校では、分数を勉強しなかったのか、の疑問が残る。 何よりも不思議なのは、大学生にもなって、分数を教えてもらわなければいけないほどの学習能力のなさである。分数は小学校の低学年で習うはずだから、厳密にいえば、小学校の段階で、進級不可なはずである。 それで進級するのは、一種のズルであって、本来、恥ずかしいわけだから、嫌でも、最低限、自分で学ぶ位の責任感があってほしいものだが、なぜ、自分で勉強しようとしないのか、その無気力さに嫌悪感を覚える。 なによりも問題に思うのは、大学生にもなって、教えてもらわないと学ばない他力本願の姿勢にある。大学入試を通過儀礼にしているのは、そういう大学生の姿勢にある。だから、大学が研究の場から遠のいてしまうわけだ。 教育とは、本質的に、自己教育しかないと、私は思っている。他人から教えてもらうのは、ある意味で、自己怠慢である。自主的にやらなければ、身につくはずもなく、第一、学ぶ楽しさがない。 勉強は嫌だからといって逃げていたのでは、世の中、好きなことの方が少ないので、いつまでたっても幸福にはなれない。誰もが好きなことは、それだけ競争が激しくなるということでもある。競争の波にのまれると好きなものも嫌いになっていくのが普通だ。 第一、嫌いなことを好きになることが成長といってよいし、幸福を掴む秘訣だと思う。 逆説的にいえば、分数が出来なくても、他に能力が優れていれば、問題はない。ゆとり教育の目的とは、知識詰め込み型の画一的な人物を育成するのではなく、創造力豊かな個性的な人物を育成することだったはずであるから、分数ができなくても、それに代わり得る他の能力が優れていれば問題とはならないはずである。 だから、大学で、分数をやるよりも、その大学生がもつ優れた分野を極めさせるべきだろう! しかし、残念ながら、大学の場で、補習ともいうべき、高校レベル、中学レベル、小学レベルの課題をやっているのが現状だから、ゆとり教育の失敗が問題とされるわけである。 このような現状をみていると、ゆとり教育は、自主性を創出するどころか、逆に自主性を奪っていくような気がしてならない。 つまり、大学で研究目的を除いて、教育として分数をやるのは本来は論外なはずで、大学が死んだように思える。本来、大学とは、その分野において、最先端の課題を探求する場であるはずだ。補習をやっている暇などないはずだ。 探求姿勢や研究姿勢に乏しい学生は、社会にでて痛い目に遭うべきだろう。そのような学生にかまっていれば、大学が潰れるだろう。社会に出れば、嫌が応にも、特定の能力を開発しなければ生きていけないからである。 とどのつまり、ゆとり教育の失敗というよりも、大学をつくりすぎた問題に思えてくる。 教育に対する持論を展開するのは控えたかったが、教育の基本は、勉強の面白さや楽しさがわかるようになり、自分の能力や、成長力が手にとるようにわかるようになることだと思う。 自主性を身に着けるかどうかは、家庭の躾に負うところが大きいように思える。特に親がなるべく自力で行うことを心がけている家庭は、父親が尊敬されているものである。3、4年前に話題になった「がばいばあちゃん」や、明治期の偉人伝などをみると、子どものときの貧しさにより、かえって創意工夫が身についていることに気がつかされる。 人生の前半に楽をすると、後半に苦労を背負うことになる。だから、子どものときになるべく苦労をさせるべきである。「かわいい子には旅をさせろ」、というわけである。特に、挫折を自力で克服する経験をさせるべきである。真剣にやりさえすれば、なんとかなるはずである。 孔子は、「学びて時にこれを習ふ、亦説ばしからずや」と論語で述べているが、勉強を真剣にやれば、自分の能力がわかり、成長力が手にとるようにわかるから、楽しくて仕方がないと、悦びを表現している。 つまり、自主的に真剣にやればなんでも楽しい、はずである。勉強が嫌いになるのは、「つまらない」という先入観があるせいに思える。遊ぶのが楽しいのは、自主的に真剣にやるからである。 遊びだって、競争になれば、過酷な練習をしなければならず、技能により自然と上下関係ができ、勝負事になれば、経験の豊富な人の命令に従わざるを得なくなり、反強制になるから、遊ぶこと自体よりも、人間関係の方が重要になっていくわけで、結局、経験の豊富な人の意見に従う勉強になる。 遊びだって勉強なのである。 本来、独学でできる人は、大学に行く必要もないが、独学だと独善に陥る恐れと、世間離れしてしまう過ちに陥るので、自分の進む方向性が間違っていないかの確認のために、大学に行く必要がある。 どうも昨今の大学生や若者をみていると、真剣さに欠け、食わず嫌いで、すぐに楽しようとする傾向にある気がしてならない。草食系というレッテルが貼られているが、恋愛だけでなく、学習態度にも、はじめる前から結果を求めすぎ、シュミレーションばかりして、情報過多に陥り、食わず嫌いに陥っている気がしてならない。 確かに背伸びや高望みはよくないが、若者なのだから、一度、痛い目に遭わないと、自分の能力や成長もわからないはずである。失敗を異様に恐れているような感じをうける。 手前味噌で悪いが、私は、高校では、理系科目が不得意だった。英語はそれなりにできたが、物理と数学は、ゼロ点を取るくらい酷かった。進学校だったので、ゼロ点をとるのは、非常に屈辱的である。特に数学はチンプンカンプンだった。 そういう自分が情けなかったこともあるが、数学ができることに同時に一種の憧れが生じた。だから、高校で、文系、理系に進路を決めるときに、あえて理系進学を選択した。数学、理科の成績が悪ければ、当然、文系を薦められるわけだから、物理、数学とは、嫌いでも、好きにならざるを得ない。 なんとか、物理と数学をできるようにしなければいけなかったが、物理や数学というのは、基本的に、暗記科目ではないので、勿論、公式は暗記なのだが、その公式でさえも、公理から導出されるわけで、文系科目のように、問題に答えがあるわけでなく、公式の周辺を含めた全体像がイメージできていないと、解答できないものがほとんどである。 しかし、逆に、イメージさえできていれば、文系の科目、特に英単語のように、なんでもかんでも全て覚える必要はない(勿論、英単語にも語源を探れば法則性はあるが、そうやって覚える人は少数派だろう)。 そこで、「大は小を兼ねる」という諺から、大学の物理と数学を勉強すれば、高校の物理や数学など簡単に解けるのではないか、というような、自分の能力を度外視した安易な発想が浮かんだ。当時でも、大学レベルの本とはいえ、易しく書かれていた本は沢山出回っていたから、高校生でもわかるような本を選んで読んでみたら、目から鱗だった。 無機的な高校の物理や数学とは全く違う、有機的な生きたニュアンスが伝わってきたからである。 高校の物理や数学は、当時の自分には、どうも権威的で、機械的で、どこか冷たさを感じさせたが、大学の物理や数学は、当時は内容はわからなかったが、どことなく自由な発想や伸び伸びさを感じさせたのである。 そのときから、高校で習う物理や数学は、いわば仮面のようなもので、本当の顔をみるには、大学にいってから学ぶ必要がある、という認識が強くなった。 後に、大学に入ってから感じたことは、高校の物理や数学は、確かに基礎で必須なのだが、勉強の目的が入試なので、どこか、型を教え込むようなもので、マニアックさもあり、味気のなさを感じさせるほど、高校と大学では、全く異なる。 高校で習った物理や数学は、大学一年の4月で終わってしまう。実際に、物理、数学を暗記科目だと捉えている人は多く、それだと自分で開発し、積み上げていくことはできない。一種の通過儀礼で終わってしまう。 大学で教わる物理や数学は、高校など比べ物にならないほどハイレベルで、高校の物理や数学が、幼稚なのがわかるのだが、その幼稚なレベルでゼロ点をとっている自分が、過去にいたわけだから、成長力の凄さを感じさせるわけである。 後半は手前味噌な話で恐縮せざるを得ないが、教育についての話を、老子は、第73章で説いているが、その紹介は、次回に譲る。
2012年10月16日
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前回は、クンダリーニの制御の体験を述べ、クンダリーニの開発が非常に困難なことを紹介した。そこで、モーリス・ドリール著「療法の真義」では、なんと書いてあるかといえば、心の呼吸の重要性に言及している。 クンダリーニの覚醒には、鼻の左右の穴からの同時呼吸が基本となるが、クンダリーニの制御には、心の呼吸が基本になるそうである。心の呼吸とは、鼓動にあわせて、脳を拡げたり、縮めたりすることなのだそうだ。この脳の拡大縮小は、以前述べた「〇に・(点)」を連想することもできる。 モーリス・ドリール著「療法の真義」のなかでは、人間は、宇宙意識の一部で、その手足なので、心は、宇宙意識が、人間に現われた意識部分で、人間が、宇宙意識から引き出してきた一致部分だという。 宇宙意識のなかで、人間が受信した部分が、心で、人間が宇宙の観測装置であるとするなら、観測値が、心ということになる。 だから、心の呼吸というのは、宇宙意識を観測するためにアンテナを合わせ、受信領域を拡げる機器調整ということになる。いわば宇宙意識につながるイメージ法で、このことから、なにやら超弦理論のホログラフィック原理が思い浮かんだ。 以下のサイトには、超弦理論のホログラフィック原理がわかりやすく紹介されているので、必要なところを抜粋する。 超ひも理論 http://blog.goo.ne.jp/westeast16/e/7c58c6968f658746f4b3353aa93f3a90 ☆ ☆ ☆ ボームのホログラフィー宇宙モデルは、驚きの理論でしたが、簡単におさらいしておきましょう。 この理論によりますと、宇宙は、私たちが見ている「表」の世界と「裏」の世界の二重構造になっている、というのです。 「表」の世界を明在系といい、「裏」の世界を暗在系といいます。 そして、「暗在系」がメインで、「明在系」の今現実と思っている世界は、影、幻のような存在といわれます。 (「明在系」は、「暗在系」の一部が現われたもの) この最新の科学の仮説は、実は2000年以上も前にある東洋の思想、特に仏教の唯識学と合致するものなのです。 哲学、深層心理学、科学という分野が、長い歴史の試行錯誤を積み重ねながら辿り着いた先が実は、東洋哲学(仏教)の世界観・宇宙観だったと驚く科学者は少なくないようです。 その「暗在系」の表現形式の一つともなるのが、今、科学の世界で最も熱い(!?)超ヒモ理論です☆ 今日の科学は、仮説が多数、同時進行に研究されており、お互いに、その仮説を裏付ける理論ともなっています。 ホログラフィー宇宙論と、超ひも理論もそんな関係です。では、その超ひも理論について、今日は話しましょう(^-^)/ では、関連する本はたくさんありますが、今日はその中で、竹内薫著の『超ひも理論とはなにか』を参考にすすめていきます☆ 相対性理論と量子力学を統一させる仮説の中でも最も有力な説の一つが、超ヒモ理論です☆ 超ヒモ(弦)理論(スーパーストリング理論)は1974年、ハンガリー出身の理論物理学者のジョン・シュワルツによって提唱されました。超ヒモ理論とは振動する10のマイナス33乗センチメートル程度の大きさのヒモが基本単位であり、その振動の仕方やエネルギーによってすべての素粒子ができるというもので、宇宙の物質やエネルギー、さらに時空の姿を明らかにするもっとも有力な究極の理論の一つといわれています。 この理論に基づく宇宙論では、宇宙は10次元の時空という説。つまり、宇宙は9次元の空間と1次元の時間からなるといわれるものです。 (10次元だと、生命の樹の10のセフィロトと一致する。) 更に、1995年、アメリカのエドワード・ウィッテンによって新しいM理論が提唱され、こうなると1次元を加えて合計11次元を必要となります。 (11次元だと、生命の樹のダアトのセフィロトを加え、11のセフィロトと一致する。) さてさて、10次元とか、11次元とか、いきなりスゴイ話になりましたね。まあ、今日、知っている人は、とうの昔に知っていることではありますが、知らない人からすれば「SFじゃあるまいし!」といいたくなるでしょう。 無理もありません、超弦理論の父とも呼ばれるジョン・シュワルツにしても、そのアイディアをカリフォルニア工科大学大学院時代にリチャード・ファインマンに語ったところ、「シュワルツ君、君は今何次元に居るんだい?」と笑われたそうですから。 でも、これが今日の(もはや常識となったともいえる)科学の宇宙観なのです。 (10次元の弦「音」と弦を調節する1次元のDブレイン「音節」の「暗在系」の一部が、「明在系」となって現われる。) ☆ ☆ ☆ 以前、大宇宙と小宇宙は、生命の樹の相似構造をもつことを紹介したが、生命の樹を、超弦がつくる状態との関係から、連想すれば、宇宙意識と心の呼吸が明らかになるかもしれない。 そのようなことを、老子は、第77章で説いているので、例のごとく紹介する。 ☆ ☆ ☆ 第77章 天の道は余り有るを損じて而して足らざるを補う 原文 天之道其猶張弓與。高者抑之、下者擧之。有餘者損之、不足者補之。天之道損有餘而補不足。人之道則不然、損不足以奉有餘。孰能有餘以奉天下。唯有道者。是以聖人、爲而不恃、功成而不處、其不欲見賢。 書き下し文 天の道はそれ猶(な)お弓を張るがごときか。高き者はこれを抑え、下(ひく)き者はこれを挙(あ)ぐ。余りある者はこれを損(そん)じ、足らざる者はこれを補う。天の道は余り有るを損じて而(しか)して足らざるを補う。人の道は則(すなわ)ち然(しか)らず、足らざるを損じて以(も)って余り有るに奉(ほう)ず。孰(た)れか能(よ)く余り有りて以って天下に奉ぜん。唯(た)だ有道の者のみ。ここを以って聖人は、為(な)して而も恃(たの)まず、功成りて而も処(お)らず、それ賢を見(あら)わす欲(ほっ)せず。 英訳文 Heaven’s way is like to string a bow. You lower the upper part and lift up the lower part. If a string is long, you shorten it. If it is short, you add to it. Heaven takes from the haves and gives to the have-nots. But human world is opposite of it. It takes from the have-nots and gives to the haves. Who is able to give people his fortune? Only a person who knows “the way”. So the saint who knows “the way” does not rely on his success, does not cling to his achievement, does not boast of his wisdom. 現代語訳 無為自然の天の道は、弓に弦を張るときと似ている。上の部分は下に引き下げ、下の部分は上に引き上げる。弦の長さが長すぎれば短くし、短すぎればつぎ足す。この様に天の道は余った所を減らして足りない所を補っているのだ。しかし人の世の道はそれとは逆で、足りない所からさらに奪って余っている所に補っている。自らに余るものを人々に分け与える者は誰であろうか。それは「道」を知った者だけである。そうして「道」を知った聖人は、何かを成し遂げてもそれに頼らず、過去の功績にいつまでもしがみつかず、自分の賢さを人に誇る事も無い。 Translated by へいはちろう タオの導きに 自己のすべてをゆだねる時 我なる自己は消え 人は天と1つの精霊に帰化する 宇宙はスピンで成り立つ。それは、常に中心があることを意味する。 中心があるとは、コマが回転による中心軸でバランスをとるように、万象が、バランス作用で成り立ち、バランス作用で息づくということだ! 矢を射る時、弓をたくさん引けば引くほど元に戻ろうとする力は大きくなる。引けば引くほど、腕は苦しくなるが、その分だけ、目標へ到達するエネルギーも大きくなる。人生の難関や辛苦や恥をかくことは、この大きく張った弓の状態を意味している。 だが、人生を生き生きと送り、大業を達成する人に共通なのは、この弓を張った状態を自ら悦として作り上げている点にある。弓を張った状態は、ある意味で危機感にも似ている。失敗は許されない、というギリギリの状態に自らを追い込む。しかし、彼らはその危機感を快感として求め続ける。そこに、本来苦しいはずの弓張りを、至福に感じさせるほどの魔法の力が働く。 その感知力を導くものこそ、タオであり、天との交合である。 ☆ ☆ ☆ 道(タオ)は死ぬこととみつけたり
2012年10月12日
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モーリス・ドリール著「療法の真義」を続けて読んでいるが、以前、その本から、ヨガと気功と丹田呼吸法が、似たもので、それらが、生命の樹を活用したアストラル界への参入法、つまり秘儀参入法であることを紹介した。生命の樹の活用から、ピラミッドは、人間の構造を模した秘儀参入法を実践する神殿であることもわかる。 紹介はしたが、実際に行うことには責任をもてないので、慎んでほしい。というのも、クンダリーニの火の蛇の実体がいまだわからないからで、下手すると、クンダリーニ症候群というような、いわゆる精神病に罹ってしまう恐れもあるからである。 グルジェフは、クンダリーニのことなのか定かではないが、以下のクンダバッファと呼ばれる装置が、原始の人類につけられていたとも述べている。 以下の抜粋は、自称霊能者白山道のブログからの抜書きである。 ☆ ☆ ☆ とても怪しいオジサンである ゲオルギイ・グルジェフ は、人類が覚醒する手段を求めて長い旅をしました。 (中略) 後年、彼は面白い発言を沢山残しています。彼の発言の1つを私の霊脳で読み取ると、 太古に人類が開発・飼育されていた時に、背骨の尾てい骨の先端に取り付けられていた、逃げ出さないように精神を拘束させて夢を見させる機械である、クンダバッファー装置(マイクロチップの様なものを感じます)が有ったと言います。この装置は、月から遠隔操作されたとの事です。 瞑想やヨガなどの背骨の霊的ポイントに干渉する行為や、クンダリーニの覚醒を意識した修行の多くは、じつはこの隷属的な精神状態の復活、追求であると示唆しています。自分で、遺伝子の記憶に眠るクンダバッファー装置を再生させようとする行為になります。 人類の大半は、瞑想により覚醒を体験したと「思い込む」世界は、確実に魔境を見ていると私は考えます。その理由は、その方の実生活がよろしく無いからです。色々な社会的な家庭面で、です。しかも本人の健康も病弱に成る人が多いです。 そして、晩年の状態が悪い人が多いです。これは、霊的に干渉した根本先が間違いだからです。ラマナ・マハリシのように、自己の内面への瞑想により、真の覚醒に至るのは極まれな奇跡であり、神の恩寵としか言えません。 ☆ ☆ ☆ 以上のように、真偽はともかく、非常に危険なことだけはわかり、実生活の適応を失うことは確かなので、控えた方が懸命である。恐らく、4次元以上の高次世界といっても、多種多様なので、下手すると、魔界の扉を開く破目に陥る可能性もある。 クンダリーニのエネルギーを善の扉を開くのに使うのか、悪の扉を開くのに使うのかは、その人次第なのだろう。善というのは、この世の意識を失わずに、あの世に行けることで、悪というのは、この世の意識を失ってしまうことだと思われる。いずれ、死ねば、人生の行いにより、あの世に行くわけで、何も急ぐ必要もないことは確かである。 しかし、真実探求の精神だけは失いたくはないので、クンダリーニの制御に類似するような体験を、以下のサイトから紹介することで、再考してみたい。 覚醒・至高体験の事例集 http://www.geocities.co.jp/noboish/case/index-c.html 上の白山道サイトでも、評価されているラマナ・マハリシの経験を抜書きする。 ☆ ☆ ☆ ごく平凡な屈託のない少年だったマハリシが、高等学校に通っていた17歳のとき、その根本的な体験をします。親戚の一人が亡くなったことをきっかけに、彼は死の体験を直接探求しようとしました。彼は、驚くべき集中力をもって、自分の体が死んで行く、と想像したのです。 「叔父の家の二階の部屋に一人で座っていたときに、突然、物凄い死の恐怖が私に 襲い掛かってきた。私はめったに病気をしたことがなく、いつもと変わりない健康 状態だったので、その恐怖が身体の異常からくるものであるとは思えなかった。私はただ死んでしまうのだという想いが頭をよぎり、何をすべきかを考えはじめた。医者や兄や友人たちに助けを求めようという考えは起こらなかった。私はすぐに、これは自分で解決すべきものだと感じた。 死の衝撃は私の心を内へと向かわせた。私は心の中でつぶやいた。 『今死がやってきた。これはいったい何を意味するのか? 何が死んでゆくのか? この身体が死んでゆくのだ』。 私は手足を伸ばして、死後硬直が始まったかのように硬くなって横たわり、本物の死体に見えるようにした。私は息を止め、どんな音も漏れないようにした。また『私』をはじめどんな言葉も発することができないように唇をギュッと閉ざした。 『これでこの身体はもうおしまいだ』と私は心の中で呟いた。『これから斎場へ運ばれ、焼かれて灰になってしまうことだろう。だが身体が死ん でしまえば私も死んでしまうのか? 果たしてこの身体は私なのか? 身体は明ら かに無言で生起がないが、私は私の人格が十分に機能していることを感じているし、それとは別に、内側から「私」という叫び声まで聞こえてくるではないか! 私とは身体を超越した魂のことなのだ。身体は死滅するが魂は、死によって決して私と離れることはないのだ。身体は死滅するが魂は、死によって決して離れることはないのだ。私とは、不滅の魂なのだ!』。 これらは決して取り留めのない漠然としたものではなかった。それは、私に閃いた生き生きとした真実であった。 『私』とはきわめて実在的な何ものかであり、私の現在の状態で唯一実在しているものであり、私の身体にまつわるすべての意識的な働きは、その『私』に集中された。その瞬間から『私』あるいは真我は、それ自身に注意を集中し、引きつけられていった。 死の恐怖はこれを最後に消え去った。しかし、私はそれからもずっと絶え間なく真我に没頭し続けた。他の様々な考えは音楽を構成する様々な音のように浮かんでは消えていったが、「私」はあらゆる音の底に横たわり、それと調和する基底の聖音のように力強く続いた。 会話や学習や他の諸活動をしようとも、私はいつも『私』に注意を集中させた。その転機(死の体験)より以前は、私には真我についてのはっきりとした知覚がなかったし、それに興味を持ったこともなかった。ましてやその中に生涯にわたって留まっていようとは思ってもみなかった。」 ☆ ☆ ☆ では、次に、もっとわかりやすいゴーピ・クリシュナの体験を抜書きする。 ☆ ☆ ☆ 34歳の時、突如として予期せぬクンダリニーの上昇を体験する。それは最初、筆舌につくし難い至上の幸福感をともなったが、直後に死と隣り合わせの危険と辛苦に満ちた体験に変わる。クンダリニーがシュスムナ管以外のナディ(管)、特に脊髄の右側にあるピンガラから誤って上がると、心身にきわめて重大な混乱がおこり、制御できない体内熱のために時には死を招くことさえあるという。 彼は、その最悪の場合を体験したのだ。「体内の器官や筋肉が花火で焼き切られるような、無数の灼熱の針が身体中を走りまわっているような」苦痛が数週間も続いた。精神錯乱の一歩手前までいったとき、ふと正気にもどった彼は最後の賭けをする。 もしクンダリニーがシュスムナ管の右側のピンガラを上ったのであれば、その左側の気道イダを開くこどでピンガラの焦熱を中和できるのではないか。彼は、最後の気力をふりしぼって一心にイダの気道が開くように念じる。すると、それを待っていたかのように奇跡が起こったのである。 「パチンと気道に音がしたかと思うと、銀色の流れが白蛇の這うがごとく脊髄をジグザグ状に動いて昇り、最後に生命エネルギーの光り輝く滝となって脳髄に降りそそいだのである。それまで3時間あまりも私を苦しめていた火焔にかわり、至福の白光 で私の頭はみたされた。少し前まで私の神経組織をはせめぐっていた火の流れが、このように突然変わったことに驚き怪しみながらも、私は苦痛がやんだことに深い喜びを感じていた。」 こうして危機を脱したのちも、クンダリニーの光は、彼の中で不断に発光し続けた。それはもはや、焼きつくすような熱気ではなく、すべてをいやす快い温かさをともなっていた。その光によって彼の脳や神経組織は再調整され、意識は、確実に覚醒に向かって拡大していった。彼は、自らの意識の変化をつぎのように語る。 「私は、子供の時から慣れ親しんできた自我に統御された一つの意識単位から一挙に拡大し、光り輝く意識の輪となり、最大限のところまでずんずん大きくなっていった。『私という感じ』は以前と変わらないものの、それはもはや一つの小さく固まった存在ではなくなった。私は四方八方の広大な次元に通達する光り輝く意識の球体の中に包みこまれていた。 適切な比喩もないが、しいていえば、小さな明かりから出発した私の意識は次第に大きな光の海に成長し、気がついてみると、自分の周りを近くから、或いは遠くから取り巻く歓喜を放射する大きな意識の中に浸されていた。」 それは、「認識主体がより広大な視野を獲得」し、「以前より大きくなった表層意識に世界が映し出される」ような体験だった。その後、瞑想中の喜悦のなかで自己の限界を超えたエネルギーの噴出を許してしまい、再び灼熱のクンダリニーに苦しめられるようなこともあったが、そうした経験を経て彼の意識の座が限りなく広がっていくのも事実だった。彼はつぎのようにもいう。 「肉体と環境に束縛されていたはずの自分の存在が、名状しがたい形で、とてつもなく大きな人格として拡大し、自分の周りにある宇宙が不思議にも内在する感じがして、意識そのものといえる大きな宇宙と自分が、自分の内部ですぐさま直接に接触できる。」 こうしてゴーピ・クリシュナの意識の場は拡大するが、同時に彼は、「自分の内と外に知覚するものがゆっくりと輝きを増し始めていたこと」に気がつく。例えば、彼は、その知覚の変化を次のように語る。 「眼前にある景色は私がよく見慣れていたものであったし、またある意味で、その出来事以前から私がなじんでいたものであった。しかし、私が現に見ていたものは、私を驚きのあまり棒立ちにさせるほど異常なものであった。この世のものとも思われない、何かおとぎの国のような風景が私の前にあった。 古めかしい風雨に曝された建物の正面には別に、これという飾りもなく、その上に青空が拡がっていた。燦々とした陽の光の中で、建物も空も美しい、しかも荘厳味溢れた銀色の光沢に輝いていて、それがまた、筆舌に尽くしがたい驚くほど微妙な陰影効果を醸し出していた。 驚き怪しみながら別の方向に目を転ずると、そこでもまたあらゆるものが美しく銀色に輝いていた。あきらかに私のクンダリニー開発は 新段階に到達していた。私がどちらを向いても何を見ても知覚した、あの銀色の光沢は、物体から発していたのではなく、あきらかに自分自身の内部にある光が投射されたものに他ならなかった。」 ☆ ☆ ☆ 以上のように、宇宙意識と一体化することについて、老子は、第77章で説いているが、その紹介は、次回に譲る。
2012年10月12日
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アンチモンの投与により、器官形成力を刺激できるが、その刺激に強い体質をもつなら、通常の食事などの摂取から、特定の体質を促進するのと同じように、アンチモンの有害な作用も克服できる。アンチモンの刺激に強い人とは、循環や律動過程(プロセス)を、調整的に維持できる人のことである。 コーヒーを嗜好する人は、コーヒーにより律動過程(プロセス)を調停的に促進する。いまは単に事実を述べているだけで、コーヒーを推奨するつもりはない。というのも、律動過程(プロセス)の調整を、自身でなく、コーヒーなどに依存すれば、別の面から、有害性が生じる可能性があるからである。 律動過程(プロセス)の調整が不得手なくらい、魂の能力が未熟な場合、コーヒーの嗜好は、その調整へと導く。従って、アンチモンによる中毒には、コーヒーは一種の特効薬となる。なぜなら、コーヒーは、人体内の器官の形成過程と、外で生じる過程との間に、律動(リズム)を回復させる働きをもつからである。 人体内は、ある一定の律動(リズム)により維持されている。コーヒーを嗜好するのはそもそも、人体内の諸器官の形成過程と、外から諸器官の周辺へと摂取された食物との間に、継続的な律動(リズム)をもたらすためである。 形成過程に対する律動化の過程は、再度、アルブミン化の過程(プロセス)への注目へと導く。器官形成過程とは対極的な過程(プロセス)は、器官自身がもつ内的な組織力ではなく、外的な消化力により促進される。 つまり、腸の運動のような機械的に生じる過程や、通常、消化として生じる過程全般は、他ならぬ蛋白質形成力でもあるアルブミン化の力が親密に関与し、同時に、アンチモン化の力と対置される。 さて、既に指摘したことだが、再度指摘しておく。殻を形成する牡蠣などは、アルブミン化の力が外に現れた典型的な例で、かつ特別な存在でもある。同じ過程が、小規模だが、卵の殻の形成、いわゆる石灰の分泌などの場合にも見られる。 牡蠣の殻や、卵の殻のような形成過程とは一体何なのか? 殻とは、卵の本体や牡蠣が、自身から解放し、放出しなければならない産物で、もし、卵の本体や牡蠣が、殻の成分を保持したままでいたら、死んでしまう。つまり、殻の形成は、単純にいえば、生命の維持活動に基づいている。 従って、牡蠣を食べれば、牡蠣と一緒に、今日の科学でいうなら、若干の表現が必要となるが、殻形成として、外に現われてくる基の生命過程(プロセス)を食べることになる。つまり、牡蠣とともに、その生命過程(プロセス)を一緒に食べることになる。 つまりアンチモン化の過程に対置される、アルブミン化の過程(プロセス)を、一緒に食べていることになる。だから、牡蠣を食べすぎると、人体のなかの、チフス様の症状に通じる過程全般が促進される。牡蠣を食することで、究めて興味深い経過がわかる。 牡蠣を食べれば、下腹部の消化力、つまり、それに関与するアルブミン化の力を促進する。ところが、下腹部の消化力により、それと対極的な力が、頭から解放され、下部へと放出される。すると、牡蠣を食べたときは、頭のなかで働く本来の力がなんの抵抗もなくなり、主観的に軽く感じるようになる。 牡蠣を食べると、頭が軽くなる。人間は、このアルブミン化の消化力を、絶えず発達させる必要がある。なぜなら、アンチモンの外からの形態形成力の負担を、頭にかけることができないからである。ところが、牡蠣を食べすぎると、あらゆる情熱で、頭が空っぽになる。 従って、牡蠣を食べ過ぎる人は、以前、特徴を述べた、上部の力による、下腹部の器官への突破の可能性を大きくし、いわゆるチフスへの傾向を促進する。だから、このチフスの傾向を認めたら、上部の力の、下腹部器官への突破を抑制するために、アンチモンの処置を考えることができる。 従って、アンチモンの内服と外用との同時的な処置を遂行することで、例えば、アンチモンを、生体内で非常に希釈し、上部組織に浸透するように内服し、同時に、アンチモン軟膏を外から擦り込むことで、チフスへの傾向の克服に到達できたら、良い治療成果が得られる。 また、アンチモンの投与量と投与法の調整により、逆のアルブミンの作用も高めることもできる。なぜなら、アンチモンの作用もアルブミンの作用も、チフスの傾向に対して相互に(陰陽として)調整しあうからである。
2012年10月11日
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前回は、iPS細胞(誘導多能性幹細胞)の紹介から、種の違いと、進化について新しい知見を与える可能性と、人生における家族の役割をオカルト的に論じた。 人工多能性幹細胞 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E5%B7%A5%E5%A4%9A%E8%83%BD%E6%80%A7%E5%B9%B9%E7%B4%B0%E8%83%9E 例えば、一卵性双生児は、親からほとんど同じ遺伝子を受け継いでいるのだが、性格は全く異なっている。それは、精神、つまり心が違うからで、還元すれば魂の違い、過去世の違いからくることは、オカルトから明らかである。 だから、人工的に同じ肉体をつくっても、それに入る霊は異なるので、全く違うものなのである。白山道という自称霊能者のブログでも、似たような見解を述べている。 実は、シュタイナーがアカシャ年代紀を読み解いたところによると、アトランティス時代に、すでに、物質レベルの一段階上のエーテルレベルで人体実験がおこなわれていたというのである。心は、エーテルレベルの一段階上のアストラルレベルなので、エーテルで多能性細胞をつくろうが、心を入れることはできない。 聖書の創世記には、以下の記載がある。 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」 上記の記載からわかるように、土とは、秘教でいうところの、固体のことで、物質体、つまり肉体で、その鼻に命の息を吹き込んだ、とあるのは、魂を入れた、ということを意味する。 神は命のないアダマの体に、生気、つまり地上の全被造物の内に活動している「命の力」を入れ、肉体を生かす、この力を「霊」と呼んでいるわけでもある。 つまり、心をいれなければ、人間ではなく、ゾンビなわけで、「仏像つくって魂入れず」という諺そのものである。 また、「鼻から命の息を入れた」とあるのは、以前述べたヨガの呼吸法によるクンダリーニの昇華にもつながる記述でもある。 要するに、アストラル界、つまりタオの宇宙意識と融合できなければ、何をしても無駄に終わるということなのである。エーテルレベルでアストラル界に行くことなく、腐敗した魂は、堕天使となり、物質段階の創造に進むことができずに、物質世界をみることができなくなった、といわれている。だから、堕天使は、人間を通じて物質界をみるしかない。 つまり、腐敗した精神は、独力で、天国に行くことはできないから、永遠と地獄を彷徨うしかない。真の愛をみる能力を失ってしまったので、愛を探し求めても、得ることができないわけで、それはもはや心を失ったゾンビなのである。 では、例のごとく、老子の第23章とつなげてみる。 ☆ ☆ ☆ 第23章 希言は自然なり ホンマの言葉は、一言でエエ。 それが自然や。 それはな,夜中の強い風も朝まで続かへんし バケツをひっくり返したような雨も一日中降らへん 天災かて、ずーっとパワー全開なんか出来へん まして、ちっこい人間なんかで パワーの持続なんか出来るわけないわ ウダウダ主張してたかて、しゃぁないねん 言葉でウダウダ言うても 結局は、人間は望んだ通りになるねん そいで環境は、「こんな友達イヤや」て言うても やっぱ類友やねん。同類が集まってくる 自分を変えへんかったら、環境は変わらへん 言葉なんかいらへん 信じられへん人は信じてくれへんし 信じられる人は信じてくれるもんや すべての関係は「鏡」やよ 原文 希言自然。故飄風不終朝、驟雨不終日。孰爲此者、天地。天地尚不能久、而況於人乎。故從事於道者、同於道、徳者同於徳、失者同於失。同於道者、道亦樂得之、同於徳者、徳亦樂得之。同於失者、失亦樂得之。信不足、焉有不信。 書き下し文 希言(きげん)は自然なり。故(ゆえ)に飄風(ひょうふう)は朝(あした)を終えず、驟雨(しゅうう)は日を終えず。孰(た)れかこれを為す者ぞ、天地なり。天地すら尚(な)お久しきこと能わず、而(しか)るを況(いわ)んや人に於(おい)てをや。故に道に従事する者は、道に同じくし、徳なる者は徳に同じくす、失なる者は失に同じくす。道に同じくする者は、道も亦(ま)たこれを得るを楽しみ、徳に同じくする者は、徳も亦たこれを得るを楽しみ、失に同じくする者は、失も亦たこれを得るを楽しむ。信足らざれば、焉(すなわ)ち信ぜられざること有り。 英訳文 Whispering is natural. Storms do not continue over half a day. Downpours do not continue over a day. Nature itself does not continue these. So mere humans can not continue speaking loudly. A person who follows “the way” unites with “the way”. A person who follows the virtue unites with the virtue. People who lost the virtue by following benevolence and courtesy unite with them. “The way” also requires the person who united with “the way”. The virtue also requires the person who united with the virtue. Benevolence and courtesy also require people who united with them. If your words do not have honesty, you will lose trust from people. 現代語訳 聞き取れない程のかすかなささやきこそ、言葉の自然な在り方である。吹き荒れる風は半日も続かないし、土砂降りの雨も一日中は続かない。そうしているのは自然そのものである。自然すら長く続けられない様な言葉の発し方を、人間が長く続けられる筈が無い。だから「道」に沿った生き方をする者は「道」と一つになろうとし、徳に沿った生き方をする者は徳と一つになろうとし、仁や礼を求めて徳を失った者は、それらと一つになろうとする。「道」を求める者を「道」の方でも求め、徳を求める者を徳の方でも求め、仁や礼を求める者もそれらから求められる。いずれにしても言葉に誠実さが足りないと、人からの信頼を失うものだ。 Translated by へいはちろう (「タオの法則」から) あなたの求めるもので 与えられないものはない 人間は見かけ上、様々なものを求めているように見える。恋人、結婚相手、お金、物、権力、名誉、数え上げればきりがない。しかし、本質では、たった一つのものしか求めていない。それは愛である。愛以外を求めているという人は、自身の心がわかっていないだけだ。 あらゆる欲は、愛の代償として生まれる。愛に満たされていない人間は、異性の獲得を愛を得たことと錯覚する。そうして所有の愛が生まれる。その心理は、物品を得ることをも愛の獲得と錯覚する。買い物をすることでストレスの解消を感じる心理もそれである。 その心理はまた、人々を自身の配下に置くようなことを大きな愛の獲得と錯覚する。これらは、いくら求めても終着点のない架空の愛の世界だ。 タオは、全てとつながり合った完璧な愛の領域だ。タオに至った人間は、居ながらにして全てを満たす愛を享受する。何ものにも依存せずに愛を得るのである。そして逆に、そうして真の愛へと至った者のみに、現実世界の愛も流れ込む。 ☆ ☆ ☆ 愛を求めるのではなく、与えられている愛に気づきましょう。
2012年10月10日
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巷は山中教授のノーベル賞受賞の話題でもちきりだが、決して日本の景気や政治がよくなっているわけではない。むしろ逆であるから、深刻だ! 受賞に便乗しようとする腐敗した精神がミエミエである。 山中教授の偉業は50歳という若さという面が強調されているが、タイミングさえよければ、いつでも受賞していた研究で、今更という感がなきにしもあらず。50歳が若いのかといえば、数学のフォールズ賞の受賞対象年齢が、確か40歳以下だったはずだから、数学では、老齢ということになる。 数学と基礎医学の比較は無意味だが、高齢化社会の現状では、世間的に、50歳が若手になってしまうのだろう。ここらへんで、研究者の人生というのを考える時期にきているのかもしれない。山中教授も50歳までに、2度ほど挫折感を味わっているようである。 さて、iPS細胞については、専門ではないので、はっきりしたことはいえないが、マウスの多分化機能細胞が完成したからといって、人間の細胞にそのまま適応できるわけはないはずで、再生医療というのは、先走りの感がある。 むしろ、マウスなどのげっ歯類と人類の細胞の機能の相違などが明らかになる方が重要に思われる。遺伝子レベルで、物質的に違わないとしても、細胞への機能分化や命令系統からくる神経を通じた精神的な違いが明らかになれば面白い。 物質的に、細胞が同レベルに還元できるのなら、細胞を多種多様にしている要因が他にあるからだ! また人類と動物種の違いや、それらの細胞からなる各感覚器の違いや、臓器の進化度の違いなどが明らかになれば、マウスの臓器の構造の比較から、人間の臓器の進化具合などがわかるようになるだろう。 果ては、生命法則などが明らかになってくるかもしれない。人類が、サルなんかから進化したのではないことが明らかになれば革命的である。 マウスの臓器の方が特定の機能として進んでいる面もあるだろうし、人間の臓器の方が特定の機能として進んでいる面もあるだろう。 細胞の機能を考える場合、増殖能と分化能を基本として考えると、両者が、特定の場所でバランスしているのが理想にみえる。増殖能の旺盛な細胞を分化誘導してやれば、発がん性がおさまり、正常に戻ることもある。 例えば、白血病細胞などは、特定の遺伝子欠損で、増殖しているケースが多く、遺伝子欠損を補完するような分化誘導で、つまり分化誘導剤で、正常化させる療法が近年明らかになっている。それは、適材適所にない細胞を、適材適所に導くような感じにみえる。 ここからオカルトとして話を進めるが、適材適所がどこから来るのかといえば、それは天性(転生)のものなので、人生といえる。つまり過去生というべきだろう。肉体は、親の遺伝子から受け継ぐのが当然とすれば、親の人生と子どもの人生は、ある程度の特性と共通性をもつはずで、それが宿命と呼ばれるものである。 だから、いかに親の人生のレール、つまり宿命から外れるかが、子どもの独自性ということになる。ただ単に外れて、人間として生きていけないのは、創造ではなく、破壊なので、運命とはいえない。自殺はもっての他である。 親の人生を教科書として、自分の人生を切り開くことが重要である。このことを、東洋哲学では立命と呼び、感情を制御し、心を安らかにすることと合わせて、安心立命と呼んでいるようである。 安心立命 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E5%AE%89%E5%BF%83%E7%AB%8B%E5%91%BD/m0u/ 上記の解説にあるように、「天命」という言葉を、理解するのは、なかなか困難だろう。自分の人生を考える場合でも、いま現在しか考えていない人がほとんどであるから、将来の人生設計や、自分に与えられた天命などは、知る由もないのが普通である。 しかし、科学では、遺伝子レベルで相似形を探しているわけで、その相似形から、自分の親が、自分の見本であることに気づくはずである。遺伝子というのは、過去から未来へと、ある特性を伝達する役割を果たしている。 例えば、遺伝子ではないが、Y染色体のYAP型は、日本人の祖先の痕跡となっている。 よくよく考えてみると、家族というのは、宇宙の構造を知るのには、実に巧くできた機能だと思えてくる。少なくとも、地球上では、人類の基本保存量というか、基本保存質になっているからである。科学が証明していることは、肉体的に、家族が最も身近な存在である、ということである。 だから、最も身近な存在を知ることから、果ては天命を知ることにつながるからで、そのようなことを老子は、第23章で説いているが、老子との関連は次回に譲る。
2012年10月10日
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前回は、丹田呼吸法から、ヨガと気功が同じものであり、丹田呼吸法の源流の錬丹術(れんたんじゅつ)から、生命の樹を読み解く方法を紹介した。続いて、丹が、火のクンダリーニを表し、神道のつながりから、丹田が、神社を意味し、結局、老子が説く、タオに一致することを再考してみる。 そこで、改めて、錬丹術のウイキペディアのサイトから、概要を抜き出してみる。 錬丹術 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%AC%E4%B8%B9%E8%A1%93 ☆ ☆ ☆ 錬丹術(れんたんじゅつ)は、中国の道士の術の一つ。服用すると不老不死の仙人になれる霊薬(仙丹)をつくる。中国の道士の術の一つ。 煉丹術は中国古代の神仙思想より発展した道教の長生術の一部をなす。広義の煉丹術は外丹と内丹に分かれるが、学術的文脈においては煉丹術といえば一般に「外丹」のほうを指す。外丹においては丹砂(硫化水銀)を主原料とする「神丹」「金丹」「大丹」「還丹」などと称される丹薬や、金を液状にした「金液」が服用された。 このようなものは実際のところ人体に有害であり[1][2]、唐の皇帝が何人も丹薬の害によって命を落としたことが『旧唐書』『新唐書』に記されている[3]。外丹術は不老不死の薬を作るという本来の目的では完全な失敗に終わったが、中国の医薬学と化学の発展に貢献した[2]。 「内丹」は外丹の用語と、存思・房中・行気・吐納などの気の養生術を、胎児の成長過程の再現に結び付けて作り出され、発展したと考えられる一連の身体技法である[4]。内丹は、外丹における外的存在である物質としての丹の錬成を、自己の心身の内なる修煉のプロセス(聖胎)として行うものであり、「性」(こころ)と「命」(からだ)の身心一体を修める「性命双修」[2]が必要とされている。 その効果は外丹における不老不死から歴史的に変化していき、生命力を高めることで、道(タオ)との合一に至ることを目的とする。内丹術は、現代の「気功」の重要な源流の一つとなった。 ☆ ☆ ☆ 以上のように、ウイキペディアは、現代人特有の唯物論に染まっているので、表面上のことしか記述していない。 まず、「広義の煉丹術は外丹と内丹に分かれる。」とあるが、神秘学を学びば、外丹が、外の大宇宙からみた覚醒方法で、いわゆる錬金術のことで、内丹が、人間の内の小宇宙からみた覚醒方法で、ヨガや気功や丹田呼吸法のことを意味することがわかる。 覚醒方法とは、俗にいうところの幽体離脱のことで、下手すると、現代人のほとんどが唯物論に染まっているので、意識を失い、植物人間になってしまう可能性が大きいので、やってはいけないものとされている。 外丹は、特に危険で、金属等を非常に希釈して内服することで、ホメオパシーの原理により、瞑想時の覚醒意識の補強を行うことができる、というようなことを、シュタイナーは、人智学で述べている。 そもそも人体に毒ということは、覚醒意識を失わせることなので、使いようによっては、覚醒意識の補強にもなる。神秘学では、そもそも、金属とは、天体の配置から生じ、いわば、宇宙意識が部分的に顕著に現れた結果だとわかっているので、例えば、鉛が松果腺の振動に影響を与え、そこにあるチャクラを開発するというような伝承が残っている。 また、銅が、胃腸薬に使われるのも、銅の微量な服用が、銅の意識から、覚醒意識を補強させるためだといわれている。 だから、端的にいえば、外丹とは、金属を微量に服用することで、覚醒意識を補強させる方法で、内丹とは、呼吸法で、覚醒意識を補強させる方法といえる。覚醒意識を補強というのは、端的にいえば、眠たくても、眠りに陥らないということである。 眠りに陥らないとは、神経が露わになるので、激痛が伴うわけで、下手すると失神してしまう。神秘学では、この激痛を、高次意識につながる際の試練として、キリストの茨の冠で象徴化している。 人体には恒常性があり、いちいちそれを意識せずに生活できているわけで、日常の覚醒意識の有り難さがよくわかる。個人個人の意識を、いきなり宇宙全体の意識とつなげれば、いわば広大な宇宙の地図から、地球上の自分の場所を探すことと同じで、パニックを起こすのは当然である。だから、自分の場所から徐々に広げ、痛みを緩和していくしかない。 現代人は唯物論的という意味で、徐々に唯物論という先入観の緩和が必要なのである。だから、内丹による呼吸法を独自で獲得していかざるを得ない。人間は皆同じだが、立ち位置が皆異なるからである。 さて、以上のことを、老子は、第11章で説いているので、そのことを例のごとく紹介する。 ☆ ☆ ☆ 第十一章 有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり 原文 三十輻共一轂。當其無、有車之用。埏埴以爲器。當其無、有器之用。鑿戸牖以爲室。當其無、有室之用。故有之以爲利、無之以爲用。 書き下し文 三十の輻(ふく)、一つの轂(こく)を共にす。その無に当たりて、車の用あり。埴(つち)を埏(こ)ねて以(も)って器を為(つく)る。その無に当たりて、器の用あり。戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以って室(しつ)を為る。その無に当たりて、室の用あり。故(ゆえ)に有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり。 英訳文 A wheel has thirty spokes and one hub. We can use a wheel because a hub has a hole to insert an axle. We knead clay and make a vessel. We can use a vessel because it has a space with nothing. A house has doors and windows. We can live in a house because it has a space with nothing. So when we use something, we always benefit by “nothing”. 現代語訳 車輪というものは三十本の輻(や)が真ん中の轂(こしき)に集まって出来ている。その轂に車軸を通す穴があいているからこそ車輪としての用を為すのだ。器を作るときには粘土をこねて作る。その器に何もない空間があってこそ器としての用を為すのだ。戸や窓をくりぬいて家は出来ている。その家の何もない空間こそが家としての用を為しているのだ。だから何かが「有る」という事で利益が得られるのは、「無い」という事が影でその効用を発揮しているからなのだ。 Translated by へいはちろう (例のごとく、「タオの法則」から) 孤を実現しなければ 真の愛も実現できない 人との関係を求め、一人になると不安でしかたがない。誰かが自分を気にかけてくれないとさみしくてしかたがない。いつも人を求めながら、心が本当に満たされるということはなく、その欲求がときに反転して人への憎しみへと変わる。現代はそうした人が増えている。孤独に弱く、孤独を恐れて生きている。 ここにも逆説の法則は働く。自ら、一人の時間を充足させ、快を感じて生きている人は、愛も知っているものだ。これは法則だ。一人を満たすことのできる人は、自己の中心性もそれに応じて確立されている。こういう人は、中心性と対になる愛をも知っている。だから、必然として愛ある交流も生まれる。 自立した人と自立した人との出会いが生まれる。ところが、孤独に弱い人間は自立しない人しか引き寄せられず、最後には奪い合いの結果をもたらす。まずは一人を深め、極めることだ。一人を極め、中心性を確立すれば、その対極の、広大な愛に出会う。 ☆ ☆ ☆ 人間各自の意識は、宇宙意識の一部であるから、1つも欠けてはいけないし、各自の意識がそのまま宇宙意識に反映される。だから、宇宙意識と大きく異なると、それは痛みを伴うことにつながる。 逆に各自の意識が、宇宙意識と同じものとなれば、痛みが快にかわる。宇宙意識にも、中心があるのだから、その一部である各自の意識にも中心があり、宇宙意識と同じように快を実現しているのならば、快の一部となる。 まず、自身の快を実現し、快を広めていくしかない。天は自ら助ける者を助ける。自己を助けようとする想念が自己を救う。要するに、すぐに他者にすがるな、ということでしょうね。
2012年10月09日
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シュタイナーの人智学的医術の要約を随分と休止しているが、とりあえず老子の紹介を続けたい。前回は、脊柱下のクンダリーニの火の蛇と、脊柱上の松果腺を併せると、カゴメ紋の六芒星が顕れ、それが第3の目、つまり宇宙意識との融合を意味することを紹介した。 宇宙意識とは、いうまでもなく、タオのことである。 さて、この六芒星は、シュタイナーの人智学では、人間のアストラル体を表す。だから、六芒星をアストラル界の象徴と考えると、カゴメの歌から、クンダリーニの火の蛇が鳥に昇華し、火の鳥のイメージが顕れてくるから面白い。火の鳥とは、不死鳥で、大宇宙意識のことに他ならない。 3次元の物質界の意識では、みえなかったエネルギー体の蛇が、第3の目、つまりアストラルの4次元意識から、不死鳥として顕れてくる。まさに「上にある如く下にもある」だ! さて、その第3の目の不死鳥となるべく、クンダリーニの火の蛇を昇天させる方法は、ヨガと気功があるが、日本では、丹田呼吸法が有名である。 そこで、「丹田」という言葉を調べると、面白いことがわかる。 丹(タン)は、タオにも似ているが、以下の3つの意味をもつそうだ。 ☆ ☆ ☆ 丹(タン) 1 硫黄と水銀の化合した赤土。辰砂(しんしゃ)。また、その色。に。 2 黄色みを帯びた赤色顔料。日本画に用いる。鉛の酸化物で、人工的に製造される。鉛丹。黄丹。 3 薬。特に、道家における長寿・不老不死の薬。 ☆ ☆ ☆ 上記の1は、錬金術からきたのだろう。錬金術でいう、硫黄と水銀とは、中和(融合)剤のことで、硫黄は、炭酸塩と燐の融合、水銀は、外惑星の金属と内惑星の金属の融合を意味し、液体、つまり水やエネルギーの流れ、を意味する。だから、「融合する」という意味をもつ。 上記の2は、鉛とあるが、鉛は土星に由来し、土星は、人体では松果腺を意味する。松果腺は赤灰色である。 上記の3は、勿論、火の蛇からくる火の鳥の宇宙意識のことだろう。宇宙意識は長寿で不老不死である。 だから、1~3により、火の蛇と松果体を融合することの意味が、「丹」にあることがわかる。「丹」を日本では、「に」と呼ぶが、恐らく、火の蛇と松果体の、陰陽の2つという意味を後で付け加えたのだろう。 そこで、続けて「丹田」と「錬丹術」を調べる。 丹田 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%B0 錬丹術 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%AC%E4%B8%B9%E8%A1%93 上記のウイキの「丹田」から、上中下の「三丹田」説があることがわかる。そこでは、「上丹田は神(しん)を蔵し、中丹田は気を蔵し、下丹田は精を蔵す。」とある。 だから、これまでの話から、宇宙意識と融合する第3の目の神を蔵す「上丹田」が、松果腺で、火の蛇であるクンダリーニの精を蔵すのが「下丹田」であることがわかる。 で、「中丹田」は、どこかといえば、「気を蔵す」とあるので、気は、プラーナ、つまりエーテルの貯蔵庫なので、太陽神経叢のことだろう。太陽神経叢は、外の太陽に対する人体内の太陽のことで、人体に入ってきたエーテルエネルギーを、生存に必要な分だけ蓄積確保し、入ってきた分だけを出し、常に人体の恒常性を保っているそうである。 太陽神経叢に蓄積したエーテルエネルギーを浪費すると、生命力が急速に欠乏し、衰えていくという。 「上丹田」を正三角形(正四面体)、「下丹田」を逆三角形(逆正四面体)、両方の境界融合面の三角形(上下2つの正四面体をあわせた6面体)を「中丹田」とすると、「生命の樹」が浮かびあがる。そして、それらは、前にも述べたが、三種の神器の、鏡が上に、勾玉が中に、剣が下の丹田に対応する。 生命の樹 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E6%A8%B9 上図から、「上丹田」の松果腺は、上部4つのセフィロトの、ケテル-ビナー-コクマーと、そして隠されているセフィラーのダートは、松果腺の第3の万象を見通す目を表し、その4つのセフィロトから正四面体の、大宇宙とつながる天の陽のピラミッドが顕れる。この正四面体は八咫鏡に相応する。 また、上図から、「下丹田」の火のクンダリーニの蛇は、4つのセフィロトの、ホド-ネツァク-イエソド-マルクトからなる逆正四面体の、小宇宙の人間の基盤となる地の陰のピラミッドが顕れる。この逆正四面体は、天叢雲剣に相応する。 そして、その均衡を保つのが、3つのセフィロトのゲブラーケセド-ティファレトの三角形、もしくは、その三角形を底面とし、そこに上のセフィロトのダートと下のセフィロトのイエソドをあわせて、上下2つの正四面体をあわせた6面体として顕れるのが、「中丹田」の太陽神経叢である。この6面体は、八尺瓊勾玉に相応する。 エジプトのピラミッドの内部にも、必ず、上部に松果腺となる洞窟があり、下部には、クンダリーニの火の蛇を表すマルクトの王国の棺があり、その中間に、太陽神経叢があるはずである。だから、神殿には、必ず、三種の神器もあるはずだ。王の座と王妃の座と、王国の座である。 さて、これまで述べてきたように、「生命の樹」は陰陽とその均衡の3つの柱からなるが、この3つの柱の意味は、前回のカゴメの歌から明らかになる。下にあるクンダリーニの火の蛇が、鳥になるのが、第3の目の開眼である。 火の蛇が、翼をもって、鳥になるから、蛇が飛ぶイメージは龍となる。だから、赤龍のイメージとなり、また火の鳥の不死鳥のイメージとなる。 すると、左側の峻厳の柱は、陰の左回りの天から下降する蛇で、翼を失った黒龍となり、右側の慈悲の柱は、陽の右回りの天に昇る蛇で、白龍となる。 この3つの赤龍、黒龍、白龍からイメージされるものは何か? それは神社の鳥居である。赤い鳥居は、宇宙意識の火の鳥で、黒龍と白龍は、黒と白の交互の注連縄になり、昔は横綱を意味したが、いまでは慶弔時の黒白幕(鯨幕)となっている。 横綱といえば、相撲で、相撲といえば、神と相撲をとって勝ったヤコブで、イスラエルの語源となった。つまり、イスラエルとは、ヤコブが自分の名を失い、宇宙意識と融合したという意味なのだろう。 つまり、神社は、この世とあの世を結ぶ世界で、鳥居は、あの世のアストラル界の扉ということになる。鳥居をくぐれば、宇宙意識、神と一体となる意識をもたないといけないということになる。 宇宙意識の前では、現世の名前は捨てられ、例えば相撲の土俵は、注連縄を丸く囲んだもので、相撲の前に、塩を撒き、水で清め、そして、手をうち、土俵入りの際には火の鳥の形の表現、もしくは、赤龍か、白龍か、黒龍かの運動を行い、「雲龍型」と「不知火型」になったのだろう。西洋風にいえば、ヤコブが階段を上る様子になる。 だから、鳥居をくぐる前に、身を清め、上を下にして、頭を下げて、屈まないといけない。恐らく、手を二回叩くのは、左右の均衡を図り、上下、左右を入れ替えることを意味するのだろう。鳥居をくぐった先の領域は、あの世の意識なのである。タオの領域である。 古代の神道の神社は、自然の山や石を神として、つまり宇宙意識として、その前に鳥居を立てたが、それは恐らく、宇宙意識をもてば、自然の山や石が、神様として現れてくるのだろう。それはいわば、意識の図書館のようなものなのだろう。オカルトでいう宇宙の進化の歴史を記録したアカシャ年代紀なのだろう。 以上のようなことを、老子は、第11章で説いているが、次回に譲る。
2012年10月05日
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前回は、気功から、改めてヨガのクンダリーニを紹介した。人体の構造を、気功やヨガから考えると、人体は、宇宙の構造の模造で、いわゆるフラクタルの相似形になっていて、究めて合理的であることに気づく。 さて、下にあるクンダリーニは、上では何に相当するのか? という問いに対する回答は、恐らく松果腺というべきだろう。松果腺のことを、古代では、第3の目と呼び、神話などで出てくる一つ目とは、第3の目のことを意味し、第3の目こそが、4次元以上の高次の世界を覗くことができるといわれている。 第1、第2の人間の両目は、物質界しかみれないから、第3の目を開くことを、覚りと呼び、心眼と呼んでいたようである。 そこで、モーリス・ドリール著「療法の真義」によると、松果腺の底部は、脳砂が占有し、脳砂の振動により生命力が、魂から肉体へと、送られているという。松果腺の基部の周囲は脂肪質に覆われ、脂肪質が脳砂を圧迫すると、振動が弱まり、老化していくという。 だから、松果腺の振動が、生命を形成しているという。この第3の目を開くことで、永遠の生命のしくみが理解できる。 松果腺は、ヨガでは最上部のチャクラといわれているが、前回述べた気功の「小周天」の動力になっているようにみえる。モーリス・ドリールは、気功でいう「丹」の陰陽を調和統合した火のクンダリーニ蛇を、上部のエーテルエネルギーにより持ち上げる必要性を説いているからである。 象徴図でいうなら、脊柱下部のクンダリーニは陰陽の調和統合の逆三角形を表し、脊柱上部の松果腺は、正三角形を表し、この2つの三角形を組み合わせると、ダビデで有名なカゴメ紋の六芒星が現れる。 六芒星 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%8A%92%E6%98%9F だから、「上にある如く下にもある」し、「人は、(高次の)大宇宙に対する(低次の)小宇宙なのである。」 オカルトの「万象を見通す目」とは、第3の目の松果腺のことであろう。松果腺を開発すること、つまりエーテルエネルギーの循環により、松果腺の振動を高めることが、下部にある逆三角形のクンダリーニを呼び起こし、気功でいう丹から小周天、ならびに、他の6つのチャクラを自由自在に操り、12の霊エネルギーセンターから、12の肉体エネルギーセンターへとエーテルエネルギーの循環を起こすことが、大周天の意識拡大となり、宇宙意識と融合することにつながるのだろう。 カゴメ紋といえば、カゴメの歌が思い浮かぶ。カゴメの歌は、秘儀伝授に使われたのではないだろうか。 カゴメ カゴメ カゴのなかの鳥は いついつ でやる 夜明けの晩に 鶴と亀がすべった 後ろの正面だあれ というものだが、恐らく以下の意味なのだろう。 陽の正三角形と陰の逆三角形を統合した六芒星のなかの第3の目はいつ開発されるのか 太陽と月や天と地との上下や左右が入れ替わり、合流したときに開発される。 そのときは、あの世もこの世もなくなり、人間の背後にある大宇宙の意識と融合し、永遠の生命の秘密が現れる。 このカゴメの歌を歌いながら、子どもは目隠しした子のまわりをまわるのだが、それは「〇に・(点)」を表し、中心の目隠しをした子は、第3の目を開発しようとしている秘儀参入の弟子であり、「・(点)」を表し、そのまわりをまわる子どもたちは、導師が7つのチャクラを駆使し、12の霊エネルギーセンターを巡らせ、大宇宙意識を融合し、松果腺を取り囲んでいる「〇」に相当する。 すなわち、中心の弟子が、目隠しをしながら、まわりの大宇宙意識と融合できたなら、後ろ(あの世の高次意識)の正面(この世の低次意識)にいる意識(大宇宙意識のなかの一部である真の自己意識)を読み解くことができるという秘儀、つまり覚りの伝授が、民間の遊戯になったものなのではないか? このようなことを老子は、第25章で説いているので、例の如く、紹介する。 ☆ ☆ ☆ 第二十五章 人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る 原文 有物混成、先天地生。寂兮寞兮、獨立不改、周行而不殆。可以爲天下母。吾不知其名、字之曰道。強爲之名曰大。大曰逝、逝曰遠、遠曰反。故道大、天大、地大、王亦大。域中有四大、而王居其一。人法地、地法天、天法道、道法自然。 書き下し文 物有り混成し、天地に先んじて生ず。寂(せき)たり寞(ばく)たり、独立して改(かわ)らず、周行して殆(とど)まらず。以(も)って天下の母と為すべし。吾(わ)れその名を知らず、これに字(あざな)して道と曰(い)う。強(し)いてこれが名を為して大と曰う。大なれば曰(ここ)に逝(ゆ)く、逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反(かえ)る。故に道は大、天も大、地も大、王もまた大なり。域中(いきちゅう)に四大(しだい)あり、而(しか)して王はその一に居る。人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。 英訳文 There is a mixed one that has been born before heaven and earth. It is silent, formless, independent, unchangeable, vast and unlimited. It is the mother of all things. I do not know its name, so I call it “the way” for convenience’ sake. Or “the great”, it can be called. “The great” is unlimited. So it can reach anywhere, then returns to the original place. “The way” is “the great”. Heaven’s nature is “the great”. Earth’s nature is “the great”. King’s nature is also “the great”. There are four “the greats” in the world. A king who rules the people must be “the great”. People follow earth. Earth follows heaven. Heaven follows “the way”. “The way” follows its nature. 現代語訳 なにやら漠然と混じり合った物があって、それは天地より先に生まれ出た。音も無く静かで形も無く、何ものにも頼らず存在し何の変化も無く、どこまでも広がって行きとどまるところが無い。それは万物を生み出す母の様なものだ。私はそれを何と呼んで良いのか解らないので、仮に「道」と名づけた。あえて別の言い方をするなら「大」と呼べるだろう。「大」であればどこまでも広がって行く、どこまでも広がって行けば果てしなく遠くまで到達し、果てしなく遠くまで到達すればまた元の位置に帰ってくる。つまり「道」がこの「大」の性質を持つように、天も「大」であり、地も「大」であり、王もまた「大」である。この世界にはこれら四つの「大」が存在し、人を統べる王はその一つであらねばならないのだ。人は地を模範とし、地は天を模範とし、天は「道」を模範とし、「道」はそのありのままの姿のままでいる。 Translated by へいはちろう (つづいて、「タオの法則」により紹介する。) 早朝、小鳥たちがさえずる 朝が来たことを悦ぶ彼女たちは 大自然が導く至福の中にいる 我無く 邪心なく 無心の光の中にいる 私たちは、何を得たか、何があるか、何をしてもらったか、そうしたことが幸せだと思っている。しかし、老子の目からは、そもそもそうした観念そのものが、幸せを失った心の結果である。 幸せを失った心であるがゆえに、そうした形ある結果をその代償として、追い求める。だから、どんなに求めても、ゴールというものはない。求めているものの本質に気づくまでは、永遠に求め続ける。どんなに物があふれても、どんなに成功や権力を得ても、魂はどこかにむなしさを感じ続ける。 地球のバランスを崩すほどに自然が破壊されたのも、権力と権力がぶつかり、国と国とがぶつかり続けるのも、すべては元来の悦びを忘れ去った結果である。 小鳥たちがそうであるように、私たちには、必要なものは、はじめから与えられている。それを忘れ、Getの心となる時、不安や、恐怖や、闘争が生まれる。小鳥のように、快に生きる時、天の導きが始まるのである。 ☆ ☆ ☆ もし、左目と右目が自分のみたことだけを主張し、対立したらどうだろうか? 何もみえなくなってしまう。左右の目が協調することで、奥行きが生まれる。2つの目は、対立の目にもなるし、協調の目にもなる。 だから、みんなで分かち合い、みんなで喜ぶのが本当の悦びであり、最高の悦びである。みんなで喜べば、喜びは宇宙全体を巡り、宇宙大の賛歌となる。己を喜ばせ、他者を喜ばせる心の幸福の目をもとう! 自然は、幸福の「〇に・(点)」の目からなっている。
2012年10月04日
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ヨガによる鼻の左右の穴の同時呼吸法が、スシュムナのチャクラを回転させ、4次元の扉を開き、快のアストラル界である、タオの領域へと一体化する1つの方法であることを、モーリス・ドリールの書物から紹介してきた。 重要なことは、最古の以下の基本的な教えにある。この教えを、「〇に・(点)」で表すこともできる 「上にある如く下にもある。」 「人は大宇宙に対する小宇宙である。」 これは人体でいうなら、「上半身にある如く下半身にもある。」となる。シュタイナーは、腸は、下半身の脳だと述べているように、人体の上下は、互いに相応している。 とすると、下半身の底にあるクンダリーニに対応するものは、上半身のどこなのか? という疑問が浮かぶ。この回答を見つける前に、ヨガと気功が同じものであることを、あるサイトにみつけたので、そのサイトから気功によるクンダリーニの体験を抜粋し紹介する。 気功家の場合:島田明徳 http://www.geocities.co.jp/noboish/case/ki-yoga/shimada.html 気功の「気」とは、オカルトでいうエーテルやプラーナのことである。例えば、「元気」の元は、大宇宙のことだから、元気とは、「宇宙の気をもつ」、という意味になる。だから、「元気か?」と聞くのは、「宇宙と一体になっているか?」というような禅の公案ともいえる。では抜粋し紹介する。 ☆ ☆ ☆ 島田氏は、本格的な「気」の修練を、仙道の練丹行からはじめている。練丹というのは、下腹部(下丹田)に全身の「気」を集めて「丹」(「気」の固まり)をつくるという仙道の修練法である。 彼は、陳驢春老師のもとでこの行を続け、素晴らしい進歩をとげたという。下丹田の熱気が強まり、「何やら液体状に感じはじめ、続いて粘土を腹の中でこねているような感じになり、さらに続けているうちに、その粘土状の物が腹部で振動してきた」というのだ。さらに、「気」の固まりが上下左右に動き出すように感じられてきた。 次の修練段階は、練丹でつくった「気」を意識の力で体内に巡らす小周天である。「気」を下丹田から会陰(肛門の1センチ前あたり)を通して尾てい骨へ、そこから背骨を通して頭頂(百会)まで上げ、さらに顔の前面から身体の前面を通して下丹田まで下ろしていくのである。 そのとき、熱気をもった液体状のものが虫が這いずるような感じで移動するという。とくに気が会陰から尾てい骨に移動するときには、まるで焼き火鉢を当てられたような熱さだったという。 島田氏の場合、練丹を開始して六年目に「丹」ができ、その後まもなく小周天ができるようになった。そして、小周天ができるようなって数日たったある日、島田氏はつぎのような強烈な体験をした。 「‥‥夜、床につくと、何も意識しないのに尾てい骨から強烈な熱気が昇ってきました。この『気』が背骨を上昇するたびに上半がそり返り、頭項から身体の前面に抜ける時に、上半身が床から50センチくらい持ちあがって、バタンと床に落ちるのです。自分ではまったく意識していないのに、熱気の動きに合わせて身体が勝手に動くのです。 (覚醒しながらの幽体離脱で、空中浮遊のこと。) これでは、とても眠ってなどいられません。しっかり目を覚ましていれば動かないのでしょうが、少しでもウトウトすると、またしても『気』が勝手に動き出して、さっきまでの動きが始まります。この日はとうとう一睡もできませんでした。 (完全なリラックスと完全な精神集中による、良い想念の形成がないと、死んでしまうこともあるという。) そして翌日になると、尾てい骨から背中にかけて、今までに感じたことのない強い気感が広がっていました。それは、まさしくエクスタシー感(強烈な快感)というもので、目はうつろ、思考する気にもなれないほどでした。目を開けているのに、意識がほとんど身体の内部に向いていて、とてつもなく気持ちがいいのです。 これが本当の恍惚感かと思いました。何をやっても身体中が快感です。疲れないし、感情が波立つこともない。」 この体験を境にして島田氏の気感は、それまでとは大きく変化したという。人や樹木や大地からの「気」が、以前よりも遥かに強く感じられ、樹木などからの気の摂取もこれまでと比べられぬほどうまくいくようになった。 やがて気感も落ち着き、一時の異常な強烈さは薄まった。そして修行は、さらに高い段階に進む。「気」を自分とは別個のエネルギーとして感じている段階から、「気」と自分の意識が一体化してしまう段階へ進むのである。そのための修練が精宮瞑想であるという。 小周天で練った「気」を身体の各部にあるエネルギーセンターに集める修練である。このセンターは、ヨーガではチャクラとよばれるが、仙道では精宮という。この部分に「気」が集まると内的な変化が生じやすくなる。自分の意識が精宮の中に入り込み、自分が「気」そのものになってしまうという。 そして、精宮に「気」を集める瞑想を始めてから数カ月たったある日、立禅による気功の修練中に、島田氏は自分の意識が飛躍的に拡大する体験をする。 「この時の私は、自分の周囲に意識が拡がって、周囲の山々が、みんな自分になってしまいました。単なるイメージではなく、自我意識が残っている状態ですから、自分を意識できる状況下において、その自分が、山であり、川であり、空であるといった状態をはっきりと認識できるのです。 山の緑が自分、空の青さも自分、川の冷たさも自分、すべてを自分の意識として実感できるのです。自分の意識が、自分の肉体から離れて外の世界へ拡がって、まるで 自分自身が宇宙そのものになったようでした。 その時に私は、私が個としての人間(意識が肉体の中に閉じ込めれられた状態)としてだけ、この世界に存在しているのではなく、私という人間が、すべてのものとつながって互いに影響しあいながら、この世界に存在している、ということを悟りました。 自分とは別なものとして考えていたものが、実は、自分と同じものであるということ、すべての存在は、個々の存在を超えた大いなる意識(宇宙意識)にその源を発し、その意志を(部分的に)反映しているにすぎない、ということに気づいたのです。」 島田氏は、このような意識の状態を大周天とよぶ。大周天とは、自分の意識が拡大して宇宙の意識と一体となった状態だという。この体験が、植芝盛平の体験と共通した点があるとすれば、それは「自分自身が宇宙そのものになった」という感覚だろう。 植芝流にいえば「地球全体が我が家、日月星辰はことごとく我がもの」という感覚である。「悟りとは何か」をはっきりさせることは難しいが、少なくとも両人に共通するように、狭く固定化された「自己」という枠組みが崩れ去って、自己と世界との境界が無くなってしまうような「意識の拡大」体験が根底にあるといえるだろう。 そして注目したいのは、島田氏の場合、「気」に導かれ、「気」の修練段階を一歩一歩踏みしめ、登っていくことで、この状態に至ったらしい、ということである。 ☆ ☆ ☆ 以上の体験の内容を、前回述べた蛇使いの喩えで考えてみると、「丹」は、陰陽のエネルギーの協調統合で、「小周天」は、クンダリーニの火の蛇を目覚めさせることで、「大周天」は、火の蛇を使役する(躍らせる)ことに相当する。 ここで思い浮かぶのは、白龍に乗る少年を描いた西洋の神話や、金斗雲に乗る孫悟空などの東洋の神話のイメージである。このクンダリーニに乗ったイメージから連想されるのは、4次元への旅であり、意識の拡大である。 この覚醒体験を、わかりやすく現代科学で喩えるなら、磁性体を考えるとよい。磁性体とは、物理的に、電子のスピンが特定の方向に揃った状態から生じる。つまり、磁性をもたせるには、スピンの方向を揃えればいいのである。 だから覚醒体験とは、いわば人体の各々の部分部分の磁性の方向をあわせることといえる。秩序を持たせることなのである。人体の磁性とは、神経細胞(ニューロン)などの発火による信号伝播の方向性を揃えることと考えればよいだろう。脳の発火からわかるように、人体も電子や光(電磁波)で交信している。 つまり、通常は、磁性のプラスマイナス、つまり陰陽がせめぎ合ってバラバラで中和している状態だが、陰陽を協調し統合して、大きな磁性体のような秩序をもたせて、意識拡大を図ることと考えられる。 クンダリーニの通る経路は、スシュムナと呼ばれるが、その4次元の経路には、7つのチャクラと呼ばれる4次元の扉があり、その扉は、それぞれ7つの惑星に対応し、例えば、一番上の松果腺は、土星に相当する。 それは太陽系の運行により、宇宙エーテルの巡りも変化するので、例えば、土曜日は、土星の松果腺のエーテルエネルギーが強いというように循環するので、松果腺のチャクラを強くすれば、開放感などの快が増す、というわけである。 このような、いわば宇宙の運行表に照らして、どのチャクラを動かし、12の霊的センターと12の肉体のセンターに、集約し統合したエーテルエネルギーを巡らすかは想念の使い方によるのだろう。 このようなことを、老子は、第25章で説いている。次回に紹介する。
2012年10月04日
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ヨガといえば、ほとんどの人は、インドを思い浮かべるだろう。インド人といえば、なぜか、蛇使いが想い浮かぶ。 実は、生命の樹と、クンダリーニの図を照らし合わせると、蛇使いが、ヨギ(ヨガの実践者)であることがわかる。 ヨギの物質化が、蛇使いなのである。 生命の樹も、クンダリーニの図も、人間の脊髄や背骨を表現したものであることを、これまで述べてきた。生命の樹は、人間全体を表し、脊髄や背骨だけではないが、中央の柱は背骨を表していることは確かだろう。 背骨は、端的にいって、あの世と、この世をつなぐ橋であると前回述べた。背骨が大体33段あるのは、天国にいけるまで精神を老熟させるのには大体33回の修行が必要で、この世の卒業には、33回の学年が必要というわけである。その由来から、メーソンの石工、つまり、松果体の制御技術者組合は、33位階をもつことは既に述べた。 非常にSFチックな話は、唯物論者から生まれるが、生命の樹を、そのまま物質化すると、宇宙船になる。面白いことに、井口御宅博士のサイトのUFO紹介欄に、生命の樹にそっくりなUFOの構造図をみつけたことがある。唯物論者は可笑しい生き物である。 唯物論者の頭の構造からも、想念が、世界をつくることが実証される。 さてUFOよりも、まだSFではないのが、蛇使いである。勿論、蛇は、脊髄のことである。脊髄の下部に潜んでいる火の蛇のことで、ヨガでは、通称、クンダリーニの蛇と呼ばれている。この蛇は、3回転半のトグロを巻いているといわれている。 恐らく、3つの柱を反転させる、という意味からきているのだろう。恐らく、頭部にある松果体の正三角形に対し、脊髄下部の逆三角形という意味も含まれているのだろう。 そこで、インドの蛇使いのイメージといえば、背骨のような笛を吹いて、蛇を使役する(躍らせる)光景が想い浮かぶだろう。笛にある7つの音階の穴は、7つのチャクラに相当する。 実は、蛇使いの吹く笛のイメージに、ヨガの回答がある。笛は、呼吸により、音を鳴らす道具である。だから、背骨を笛のように使って、背骨の下に棲む、3回転半のトグロを巻くクンダリーニの蛇を、使役する(躍らせる)、という意味なのである。 さて、著書「ヨガの真義」によると、クンダリーニの蛇を使役する(躍らせる)笛を鳴らすには、ヨガによる呼吸法が必要で、そのヨガの呼吸法とは、左右の鼻の穴を同時に使って呼吸する方法が必須となるそうだ。 現代人のほとんどが、左右の鼻の穴を、大体1時間毎に、交互に使って呼吸しているという。ヨギは、意識的に、鼻の穴を自由自在に開閉して、左右同時呼吸を可能にするという。 左右の鼻は、神経を通じて、各々が左右の脳につながっているので、左脳、右脳の役割の違いの観点から考えれば、左右からくる呼吸の働きの違いが、現代人でもある程度は想像がつくが、脊柱下部のクンダリーニの蛇を動かす道具となることは、オカルトでないと理解できない。 だから、オカルトの知識がないと、脊髄や脊椎を、火の蛇を動かす笛として奏でることはできない。「ヨガの真義」によると、鼻の左の穴は、大気中にわずか1%にも満たない宇宙のエーテルの陰のエネルギーの流れを吸収し、反対に、右の穴は、陽のエネルギーの流れを吸収するという。エーテルのエネルギーの流れが、細胞の核にイメージを伝えるそうだ。 現代人が行う通常の左右交互の呼吸では、適度なリズムもないので、一方が他方を揺さぶるだけで、いわば中央を支点とした左右に上下するシーソーのようになり、シーソー自体(支点)を上昇、もしくは下降させることはなく、生命の樹でいうところの中央の均衡の柱にある経路にエネルギーを流入させることができないので、脊柱下部の火の蛇を動かすことはできない。 現代人の通常の呼吸では、脊柱下の蛇を起こすことはできず、眠ったままとなる。だから、呼吸の偏りは、宇宙のエネルギーを万遍なく吸収することができずに、自然と、老化し、病気を発生させる。 ヨガによると、脊柱の中央の均衡の柱には、7つの回転する車のようなチャクラ(蓮華)があり、身体の左右の経路からくるエーテルの陰陽のエネルギーを中央で融合合流させ、脊柱の中央の経路へと流し、中央の均衡の柱にある7つのチャクラを回転させないと、4次元の扉が開かないことを、蛇使いの喩えで表しているようだ。 ちなみに、中央の4次元の扉、つまり陰陽の合流したエーテルエネルギを流す4次元の経路(菅)を「スシュムナ」といい、その言葉は、「他世界の道」という意味をもつそうだ。チャクラは、4次元世界への回転ドアのようになっている。 また、左右同時の呼吸でも、呼吸自体にリズムがなければ、音楽を奏でることはできない。リズムをつけるには、心臓が奏でる鼓動を利用する必要があるという。心臓の鼓動は、8回を目処にリズムをつけて、左右同時の呼吸を行うのがよいという。 呼吸にリズムをつけ、音を出すことは、発声を意味するから、生命の樹は、言葉をつくる文法や音楽にもなる。作曲が十人十色のように、音楽の音色のつくりかたは、各々のヨガの導師の教えによるわけだ。 聖書で有名なバブルの塔が、言葉の法ともいわれるのは、生命の樹からくるからである。7つのチャクラの回転が乱れたので、民族により使う言葉が異なってきたわけだ。 蛇使いは、素晴らしいリズムで、音楽を奏で、火の蛇を昇天させるが、失敗すると、蛇を怒らせ、蛇に噛まれることになる。火の蛇は、毒蛇なので、失敗すると、破壊や死を招く。 右の陽のエネルギーが多いと、この世に執着をもち、左のエネルギーが多いと、あの世へに未練をもつそうだ。左右を融合させたエネルギーを活用すれば、自由自在に幽体離脱もできる。オカルトだろっ? 蛇に心地好い音楽なのか、不快な音楽なのかは、中央の脊髄にある7つのチャクラ(音符)で奏でる音楽を背景に、松果体で、良き想念をつくるか、悪しき想念をつくるかに、かかっている。 要するに、言葉使いでもある。言葉使いにより、人の心は、天国のように機嫌良くなったり、地獄のように機嫌が悪くなる。 このようなヨガの働きを、老子は、第1章で説いている。例のごとく、御馴染みのサイトから拝借して紹介する。 ☆ ☆ ☆ 第一章 道の道とすべきは これが「道(真理?)」やてミンナが言うてる「道」は、絶対変わらへんホンマの「道」ちゃう。 価値観は時代や個人の環境なんかで色々変わって行くモンや。 これが「名」やてミンナが呼んでる「名称」は、絶対変わらへんホンマの「名」ちゃう。 その時と場所で使えるだけのモンや。区別するだけの記号や。 一番はじめ、言葉に言い表せることが出来へんホンマの「名」があって、そこに「道(宇宙法則)」があっやんや。 そしてそこに天と地が生まれたんや。その天と地間から数々の名が生まれた。 天地は名のある全ての「おかん」や。 いっつもに欲張らんとピュアにいたら、その微妙な根源的な「しるし」が見えるんや。 反対にいっつも欲張っていたら表面的な現象が見えてくる。 根源的なしるしも表面的な現象も、一見違ってるように見えても出どころは一緒や。 でもな、名前はちゃう。呼び方がちゃうだけやねん。 名前と言う制約でちゃうように見えるだけやねん。 言葉の壁を越えた向こうに、ホンマ(玄)の世界がひろがってるねん。 ちょっとの出来事や意味ないと思ってしまうモノなんかにでも、 思いもよらへん色んな「ホンマ」が隠れているんやで。 読み下し文 道の道と可きは、常の道に非ず。名の名と可きは、常の名に非ず。 名無きは、天地の始めにして、名有るは、万物の母なり。 故(まこと)に常に欲無きもの、以(もっ)て其の妙(みょう)を観(み)、常に欲有るもの、以て其の徼(きょう)を観る。 此の両(ふた)つの者は、同じきに出(いで)たるも而(しか)も名を異(こと)にす。 同じきものはをこれを玄(げん)と謂(い)う、玄の又た玄は、衆妙(しゅうみょう)の門なり。 白 文 道可道、非常道。名可名、非常名。無名、天地之始、有名、萬物之母。故常無欲、以観其妙、 常有欲、以観其徼。此両者、同出而異名。同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門。 老子 第一章 道の道とすべきは、常の道に非ず 第一章 英訳文“A way” you can call it way is not the great everlasting way. “A name” you can call it name is not the true unchangeable name. There was no name when the world was created. After all things were created, they were named. So if you are disinterested, you could see profound forms of all things. If you are greedy, you can see only surface of them. The source of both of them is the same one. I named it “deep mystery”. And the further source of the mystery is producing all phenomena and things of the world. 現代語訳 これが「道」だと言い表せる様な道は、偉大なる不朽の道ではない。これが「名」だと呼べる様な名は、真実不変の名ではない。天地が創られた時には名など存在せず、万物が生み出された後にそれらは名づけられたのだ。だから無欲な心をもってすれば、万物の深遠なる姿を見る事ができるだろう。欲望の虜のままでは、万物の上辺の姿しか見る事ができない。この両者の根源は同じ一つの物であるのに、それぞれ別の名を持っている。その根源を「玄 – 深遠なる神秘」と私は名づけたが、その玄のさらに玄からこの世の全ては生み出されている。 Translated by へいはちろう (さて、続けて「タオの法則」から) 無限なる自由か 耐え難き孤独か それを決するものこそ 性である 空間を超えて万物と1つとなり、時間を超えて未来を変容させ、創造する。そうした人間の意識本来の働きは性エネルギー(陰陽のエネルギーの合流)とともにある。老子が暗に語る性エネルギーとは、生命だけでなく、宇宙の本質でもあり、全てが、そのエネルギーにより、悦(タオ)として活動している、というのである。 「電子が原子核の周りを回るのも、原子と原子の出会いも、それは一種の愛であり、性交だ。原子はただ動いているのではない。それを楽しんでいる。悦として行っている。そうした悦とした微細な活動の背後に、それら全てを抜き超え、統括する、見えざる働き、大道が潜む。それのみが永遠の意識であり、常道(チェンタオ)だ」 宇宙が与える聖なる働きは本来、人間を、あるべきところへと導く導き手であり、宇宙大の自由と解放へと導く促しである。本来ならば人間を最もダイナミックに解放するはずの力に、人間が縛られるのは、宇宙本来の性の充足の素晴らしさを知らないからである。それに出会う時、束縛の性を超え、囚われることのない至福へと至る。 孤独か完全愛かのわかれ道の本質が、そこにある。 ☆ ☆ ☆ 音楽を歌うのなら、宇宙に鳴り響くような楽しい音楽を歌うべきだ。皆が、一緒に踊れるような音楽を奏でれば、皆が幸せになる。宇宙は皆、幸せの歌を求めている。男も女も、陰も陽も、皆、踊り、歌いあうような、宇宙全体が幸せになる道が本当の道であり、性である。ヨガは宇宙の心と1つになることだ!
2012年10月03日
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前回は、「療法の眞義」の著者モーリス・ドリールのカバラの生命の樹を断片的に紹介した。恐らく、ほとんどの読者は、なにがなんだかわからなかったのではないだろうか? 古代の導師は、弟子に秘儀を伝授するときには、一遍の詩として与えたという。現代でも、一部の職人が、技術を伝授するときには、その技術の極意やコツなどを短く表現することが慣わしとなっていることで大凡わかるだろう。 日本では、特に神道が、そのような秘儀伝達の風習をもっているようで、だから歴代の天皇による歌詠み会が開かれてきたわけである。 そこで秘儀とは、何かといえば、ドリール風にいうならば、聖法則への適応法である。オカルト風にいえば、現界にいながらの幽体離脱の方法である。現代のスピリッチャル風にいえば、アセンションの方法である。 導師が導師でなくなり、秘儀の伝達が形骸化し、金銭や権力が介在することで、多くの人々は、4次元世界から、3次元物質世界へと、自らで島流ししてしまったわけである。 唯物論に染まるということは、物質世界だけで生きる方法を探すことになり、その世界から出られなくなることを意味する。挙句の果てには失望し、せっかく神から与えられた生命を殺してしまう。自殺は殺人である。死んでも、想念は残り、物質世界を探し歩く。 だから、金銭獲得の想念をもつ守銭奴になることは、金銭の世界でしか生きられないことを意味する。金銭とそれに付随する権力という物質性で、4次元と3次元の間に、時間という闇を配し、壁をつくったために、3次元想念に没落してしまったのである。4次元への扉を封鎖してしまった。もはや、人類は、金銭や権力があれば、宇宙を買える気にもなっている。 「我思う、故に我在り」の真の意味を理解しなければ人生を誤るのに、さぞ、古代ギリシア人は、現代人をみて、馬鹿にするだろう。 だから第3の目を失い、古代の書物を読んでも、意味を理解できない阿呆ばかりとなってしまったわけで、挙句の果てには、キリストの発言を私服化し、悪魔が巣食う集金や権力癒着の宗教教団をつくるまでに至っている。全く情けない。教祖の背後に悪魔がいることに教祖は気づかないほど、目がみえなくなった。 さて、そのことは、現代のヨガの邪道の多さからもわかる。ヨガを教えるのに、金銭や権力の介在を許す弊害に気づかないだけでも、導師失格であろう。何のためにヨガをやるのか? その目的が私利私欲であって、聖法則を解さないのなら、ヨガはかえって悪になる。その危険性を考慮しない。悪魔は神の名を語って人間の魂を支配するのだ! そういう訳なので、聖法則が理解できる意識にまで達したら、伝授した詩が、その鍵となって、聖法則の意味が自然と理解できるようになる。理解できない人には、理解できないように、生命の樹という詩はつくられている。 それは悪用しないための安全装置なのだ! 生兵法は怪我の元である。 前置きが長くなったが、生命の樹を理解するには、ヨガを理解しないといけない。モーリス・ドリールが、何故に、「ヨガの真義」を記したかは、この本を読むことでわかる。そこで、生命の樹は、ヨガから読み解かなければいけないことがわかる。 さて、前回までに、人間は、生命の樹であり、それは人間の脊髄を表すことを述べてきたが、その極意は、以下の教えにあることがわかる。 最古の基本的な教え:「上にある如く下にもある」 人は大宇宙に対する小宇宙である。 だから、人間の背骨は、大宇宙と小宇宙を結ぶ橋なのである。なぜ、「生命の樹」というのかを、よくよく理解しなければいけない。 生命の樹の図からわかるように、右側の慈悲の柱と呼ばれる陽のエネルギーの経路と、左側の峻厳の柱と呼ばれる陰のエネルギーの経路、そして、その2つの陰陽を中庸(均衡)させている中央の柱は、均衡の柱と呼ばれるが、この均衡の柱が、陰陽のエネルギーを協調させることで、3次元世界の創造と破壊を可能にする経路を切り開き、この3つの柱が、人間の生命を司っていることが、わかる。 陰陽のエネルギーを協調させ、新しい経路をつくるか、こわすかは、その人間の意志に委ねられているわけで、それは、その人の想念による。例えば、男女が交わり陰陽のエネルギーを協調させ、互いの未来を思う想念を元に、高次元世界から、新しい経路をつくるから、子どもが授かるわけである。 だから、性とは、秘儀の端的な表れである。 性からわかるように、ヨガとは、陰陽のエネルギーの融合、統合の方法である。つまり、宇宙に満遍なく流れている陰陽のエネルギーを集め、宇宙の想念の原理により融合し、統合することで、新しい世界、つまり、高次元から低次元への流れの経路をつくることなのである。 重要なのは、宇宙の聖なる原理により、何を思うかの想念によって、善の創造にも、悪の破壊にもなることである。 その使い方の訓練のために、人間は、肉体という教科書を与えられ、3次元世界という学校で学んでいるわけだ! 少々勿体ぶった話を羅列してきたが、ヨガを用いて、脊髄をいかに制御するかが、人間を聖法則に従う健康とするのか、それに反する不調和の病気へと至らせるか、の鍵となる。 ヨガを詩的に語ったのが、老子であると思う。老子は、第1章で、ヨガを説いている。そこで、次回は、老子の第1章を例のごとく、紹介する。
2012年10月03日
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前回までに、カタカムナの31の図が、恐らく人間の脊髄神経を表し、脊髄を中にいれている脊柱は、32~35個の椎骨から構成されるが、それが秘密結社等の33の位階に反映され、あわせて老子の説く意味を紹介した。 そこで、人間の脊髄を表した、カタカムナと「〇に・(点)」の関係を、カバラの生命の樹という別の面から、再考したい。 シュタイナーもカバラの生命の樹を紹介しているが、それとはまた違ったカバラの生命の樹の興味深い説明が、前にも紹介した以下のサイトに載っていたので、拝借してわかりやすく要約し紹介する。この説明は、前に紹介した「療法の眞義」の著者モーリス・ドリールのものである。 知足自愛 http://blog.livedoor.jp/k12345kk-12345678910/archives/cat_188312.html ☆ ☆ ☆ この外(物質)的世界では、極めて少数の学徒を除いては、実際に有用で、正しい教えを伝授することは不可能である。それはなぜか? 学徒は、自分のしたいことを望むからである。真理の正しい探求方法は、絶対的な無私の、全てに開かれた心で、教えを学びとり、実践することだからである。 カバラでは、「ネフェシェ」と呼ばれる物質界の魂と、「ルアキ」と呼ばれるアストラル界の魂と、「ネシェマー」と呼ばれるメンタル界の魂の3つの魂と、この3つの魂を超越した「キアー」と呼ばれる魂がある、といわれている。キアーから他の3つの下位の魂が発生した。 人間の特性は、「ネフェシェ」が、魂の特性につけいり、支配するから、決して進歩せずに、情緒的な深みへと入り込んでいく。このように、人間の特性として既に現れている情緒性を、高め、支配することで、人間は、自己の感情や情緒から生じる低次元の特性を制御できる。 物質界の人間は、「ツェレム(想念)」と呼ばれる二重性から造られた、と言われている。人間は相反する二つの特性(悪天使サマエルと善天使ミカエル)を持っている。 情緒により支配された低級ツェレム(想念)のサマエルの反映が「左側の道」となり、ネシェマーとキアーとに導く理性の力により支配された高級ツェレム(想念)のミカエルの反映が、「右側の道(善の道)」となり、この両者の道に、魂は通じている。 人間は、「聖の根源」の自由意志の代理者として、分離されているが、ある霊力のチャンネルと結びつき、この自由意志の意識上で、全てのネガティヴ(否定)なものを受け取る事が出来る。 「聖の根源」は「聖」自身の、絶対調和や絶対秩序の本性の故に、ネガティヴ(否定)なものを隔絶していたが、人間は、ネガティヴ(否定)なものを形成しなおし、その本性を転換してポジティヴ(肯定)なものへと変えることが出来る。 原始の人間では活動的だったが、人体の進化の故に退化し、今もなお、その痕跡を遺す器官として、扁桃腺、虫垂、頭部の第三の目(松果腺)がある。 扁桃腺 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%81%E6%A1%83%E8%85%BA 虫垂 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%AB%E5%9E%82 偉大な人間や、その弟子たちは、自身をマスター(導師)と言ったりはしない。マスターというのは、「聖の根源」と接した人のことで、総てのネガティヴなもの(否定・消極)を捨て去った人で、因果から自由に解脱した人で、同時に、この地上の各々の魂が、自分と同様な能力をもつことを知っている人のことである。 グノーシス派による紀元4世紀までの著作の大部分は、キリスト教の神秘主義に関するもので、それはイエスが、直弟子たちに教えたもので、一般大衆に対しては全く教えなかったものである。 イエスの教えは明らかに神秘主義的なもので、神や人生の道徳的教訓について語る教えとは遠くかけ離れたものだった。 グノーシス派の人々にとっては、イエスは「心(魂)的出生」の一人で、総ての根源、総ての力と智慧と知識を獲得した人と考えられていた。またイエスが、この世に出てきたのは以下の二つの目的のためである。 1)永劫の中の永劫をはじめるため 2)人間種を、物質的存在から解放して、代わりに「心(魂)的出生」意識を達成するため。 神は外から内へ行くことも出来るし、内から外へ行くことも出来る。「大なる世界の入口へは、意識の収縮拡大によって、つまり、外から内へ行くことか、内から外へ行くことかによって可能となり、総てを成し遂げる」 <創造の書>より 智慧への不可思議な32の神秘の道:10の数と、ヘブライアルファベットの22の文字数を足すと32となる。 これは生命の樹(アダムカドモン~聖なるアダム)の10のセフィロト(十光)と、22の小径(パス)のことになる。 宇宙の3つの創造原理:数(物質法則)、文字(固形化、すなわち物質化)、言葉(創造をもたらす力の振動)。 3つの母字は3原要素:アレフ(空気)、メム(水)、シン(火)で霊界を表す。 7つの複字は、7つの神秘の聖なる霊の感星、ヨガの7つのチャクラ、7周期の世界でメンタル界(心界)を表す。 12の単字は、有限界の12の神秘法則、12の惑星、12の黄道宮、脳内の12の霊センターでアストラル界(形成界)を表す。 ソロモンの標章(六芒星、カゴメ紋)は、非常に強大な力をもち、ソロモンは、これによって、自然の四大の精霊の力を呼び出し、命令出来た。 生命の樹 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E6%A8%B9 最古の基本的な教え:「上にある如く下にもある」 人は大宇宙に対する小宇宙である。 人間の意識(本性)は、実際は、内巻きの道に従って、モノの根源へと戻る。あなたの魂は、「聖なる霊的創造」の一部であり、神が「十(完成)」として顕現しているので、あなたが「絶対」に戻るためには、生命の樹の段階を再び踏み上がらなければならない。 人間が、神と呼んでいるものは、自身の全目的に向かって、成長し、変化し、拡大しつつある。物質肉体に住んでいる魂は、この宇宙に存在する死に過ぎない。肉体内の魂は、この根源(神)との接触を失ってしまっているから、霊界の見方からすると死んでいる。 悪は、ネガティヴ(消極・否定)な表現の一つの状態であり、秩序的で、調和的となって、聖なる光の一部となり得る潜在性を持っている。創造者の内に本有する特性を分有しない様な創造物なんて一つもない、という確固とした法則がある。 人は自己の目的達成のための自由意志を使って、不調和と不秩序のなかへ、より深く入ってゆき、深く入りすぎたために、ネガティブの犠牲となってしまった。そして、人間の失格(神性剥奪)として知られている出来事がおこった。 人はもはや創造力を駆使して望むものをつくれなくなった。これはネガティヴの中に落ちてしまって、ネガティヴに縛られたからである。 全宇宙というものは、聖なる機構により極性(陰陽)のバランスのとれた広大な動く蜘蛛の巣の様なものである。 物質界は、ネガティヴ光と完全(ポジティヴ)光との間の緩衝物である。 人類は、人生は学校であると悟らねばならない。死は実在ではなく、魂を完全なる光から妨害しているネガティヴを取り除く一助として、偉大な存在たちが、つくった振動(変容)にすぎない。 肉体から肉体へと移り住む進歩のほかに、惑星から惑星へと移る進歩がある。この魂群の次の惑星への大移動が文明の興廃の因である。一つの文明をもった人々の魂群が高い発達状態へと達して一歩進める(一段高い惑星へ行く)と、その代わりに低い惑星から別の魂群が移り住んで、再び未開から文明への道を昇りはじめる。 ネガティヴなエネルギーは力を常にもっている。ネガティヴは、調和を超えた力をもつのではなく、もしネガティヴとの調和が、それに力を与えるなら、ネガティヴは同調力をあわせもつ。 もし、人間の意識が、ネガティヴなものに、力と同調の道とを与えるならば、ネガティヴは力をもつようになる。 我々は聖書に次の様に語られている時代の時にある。 「天にシルシと不思議とがあらわれるだろう。それらのシルシと不思議とによって、あなたがたは最後の日が近づいたことを知るだろう」 「あなたがたが平和にいると思った時、天から火が振り、強い熱によって諸元素は燃えるであろう」 これらは原子爆弾や水素爆弾のことについて完全な記述なのである。 ☆ ☆ ☆ というように、生命の樹については断片的に語られているにすぎないが、人間自体が生命の樹であることが伺える。次回に老子との関連を紹介する。
2012年10月02日
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前回は、オカルトでは、アストラル界と呼ばれる霊界と、この世の物質界の判別の重要性を紹介した。良い想念は、良い結果を生み、悪い想念は、悪い結果を生むが、これは、御釈迦さんが説いた良因良果・悪因悪果のことで、3次元の物質界では、苦痛や病気などとして現れるので、誰でも判別ができるわけだ。 3次元の物質界では、目に見えない想念が、一時的に固定化した状態で現れるので、誰でも判別できるが、4次元以上のアストラル界などでは、目にみえない想念が、ありのままにそっくりそのまま現れるので、判別できない。 このことは、例えば、シュレディンガーの猫という有名な思考実験などを考えればわかる。分子世界のミクロの挙動を、日常生活から判断するのは困難でほとんど不可能である。 目にみえない想念がありのままに現れるのなら、判別できそうに思えるが、判別する基準がなく、客観視できないから、判別ができない。だから、他者からみれば、地獄にみえることでも、本人は判別できないから、そのまま受け取るしかなく、絶えず葛藤が生じては消え、また生じるの繰り返しとなる。 例えば、単純な喩えとして、一卵性双生児を区別するのが困難なのと同じである。しかし、アストラル界でも通用する感覚器官の心眼を獲得したなら、ほとんど似た顔をしていても、心の違い、魂の能力の違いなどで判別できる。 多くの人間は、3次元物質世界しか判別できないので、心の安らぎは、自分でしかつくれないのに、他に求める愚かさを犯してしまう。 そのようなことを老子は第2章と第63章で説いているので、例のごとく、御馴染みのサイトから拝借して紹介する。 ☆ ☆ ☆ 価値観ってエエ加減なもんやねんで 第二章 天下皆美の美たるを知るも 世間の価値観は確かな境界線があるワケちゃう、 醜があるから、美を感じれるし、悪があるから、善を感じれるんや。 暗闇があるから太陽の光が見えるんや。 何でも相方がおるから、その違いとかが分かるんや。 不幸も誰かの幸せと比べるから、自分の不幸せが気になりよる。 価値観ってそんなモンやで。 対象物がなかったら判断なんて何んも出来へん。 上も下も、長も短も、前も後も、良し悪しなんか決められへんのや。 基準となるモノサシがあるからワタシらはそう感じてるだけや。 そんなコトを知っている人は、決めつけたり押しつけたりしぃひん。 判断の空しさを知ってるんで、心のおもむくまま自由に生きているんや。 ナチュラルな人は いろいろなモノの「活動」を観てもアルガママ自然に受け取ってんねん。 モノを作ったって自分だけのものにせぇへんし、 エライ仕事しても、その仕事にしがみついてるワケちゃう、 立派な成果を上げても、その成果にアグラかいてるんちゃう。 何もかも、自分のモノにしぃひんからこそ、自分のものであるんや。 自分のモンでないモンは、誰も自分から盗んだり出来へんからな。 まぁ~、世界の全ては誰のモンでもないし世界の全ては私のもんでもあるんや。 珍しく真面目に 世界のみんなは美しいモノを美しいって思っているが、本当は、それらって汚いモノなのだ。善いモノを善いって判断しているが、本当は、それらって悪いモノなのだ。 本当、「有」は「無」があるから生まれてくる、「難」は「易」があるから成り立っている、「長」は「短」があるから長さがわかる、「高」は「低」があるから傾斜ができる、「音」は「声」があるからハーモニーが生まれてくる、「前」は「後」があるから順序ができてくる。 それゆえ、「道」と「ひとつ」になった聖人は自然体でいる。 世間で言われている価値観、「言葉」や「概念」に惑わされず「自然の真実」ともにいる。 聖人は、万物が「活動」するのを観ても、偉そうに説明をしない。 ものを作り出しても、それを自分のものにしない。 大きな仕事をしても、それに頼りにすることはない。 大きな成果を上げても、それに胡座(あぐら)をかいて居すわらない。 だから、それらに執着しないから、それらはどこかには行かない。 読み下し文 天下皆美の美たるを知るも、斯(こ)れ悪のみ。皆善の善たるを知るも、斯(こ)れ不善のみ。故(まこと)に有と無と相い生じ、難と易と相い成り、長と短と相い形(あら)われ、高と下と相い傾き、音と声と相い和し、前と後と相い随う。是(ここ)を以て聖人は無為の事に処(お)り、不言の教えを行う。萬物焉(ここ)に作(おこ)るも而も辞(ことば)せず、生ずるも而も有とせず、為すも而も恃(たの)まず、功成るも而も居らず。夫れ唯居らず、是を以て去らず。 白 文 天下皆知美之為美、斯悪已。皆知善之為善、斯不善已。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音声相和、前後相随。是以聖人処無為之事、行不言之教。萬物作焉而不辞、生而不有、功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。 英訳文 Everyone recognizes the beauty as the beauty. But this is an ugly thing. Everyone recognizes the good as the good. But this is a bad thing. Because being and not being, difficult and easy, long and short, high and low, these are relative concepts. Sounds and voices harmonize each other. The front and the back exist each other. So the saint who knows “the way” does not distinguish them and practices teachings that cannot be told. He does not explain all things of the world, does not possess things that he made, does not rely on things that he achieved, and does not stay in his success. All of them follow him because he is never attached to them. 現代語訳 世の人々は皆美しいものを美しいと感じるが、これは醜い事なのだ。同様に善い事を善いと思うが、これは善くない事なのだ。何故ならば有と無、難しいと易しい、長いと短い、高いと低い、これらは全て相対的な概念で、音と声も互いに調和し、前と後もお互いがあってはじめて存在できるからだ。だから「道」を知った聖人は人為的にこれらを区別せず、言葉にできない教えを実行する。この世の出来事をいちいち説明せず、何かを生み出しても自分の物とせず、何かを成してもそれに頼らず、成功してもそこに留まらない。そうやってこだわりを捨てるからこそ、それらが離れる事は無いのだ。 Translated by へいはちろう 小さいサインを見つけて 第六十三章 無為を為し 何もするな、お節介焼くな、何気ないモンを楽しめ 誤解しないように言うけど(^^) 亀のようになれて言うてないねん 頑張って背伸びするんぢゃぁなくて 自然に振る舞えってことやからな 怨み??? そんな小さいことに自分の大事な時間裂くて、 何かめっちゃモッタイナイやん。 怨むこと・・・してまうよなぁ でも、怨んで何も手に付かないなんて状態より その時間をちゃうことに使いたいやん。 怨みて感情は否定でけへんけど、 自分のタメに使う方がエエでぇ 小さいキッカケを見逃さんで大切にして 少ないモンでも貴重なモノのように丁寧に扱うんや 難しいなぁと思うようなコトもコンガラガル前 大問題になる前のうちに対処すればエエねん 世の中の出来事はぜんぶ大問題になる前に サインが見えるから注意すればエエねん まぁ~何でもハイハイてぇ返事してたら 信用はなくなって、やっかいな出来事に発展するんやから ちゃんと考えてハイて言わなあかんで なんも難しいことないんや エエなぁと思う出来事もアカンと思う出来事も 小さなサインを大切にして、安請け合いせぇへんかったら 大したことないんやで ホンマそれだけや 読み下し文 為(な)す無きを為し、事とする無きを事とし、味わい無きを味わう。小なるを大とし、少なきを多しとし、怨みに報いるに徳を以てす。難(かた)きを其(そ)の易(やす)きに図(はか)り、大を其の細(小)に為す。天下の難事は、必ず易きより作(おこ)り、天下の大事は必ず細より作る。是(ここ)を以て聖人は、終(つい)に大を為さず、故に能(よ)く其の大を成す。夫(それ)軽々しく諾(だく)するは必ず信(しん)寡(すく)なく、易しとすることは多く必ず難(かた)きこと多し。是を以て聖人すら猶(なお)之を難しとす。故に終(つい)に難きこと無し。 白 文 爲無爲、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳。図難於其易、爲大於其細。天下難事、必作負於易、天下大事、必作於細。是以聖人、終不爲大、故能成其大。夫軽諾必寡信、多易必多難。是以聖人猶難之、故終無難矣。 英訳文 Do doing nothing. Live for nothing special. Enjoy tasteless life. Consider small things as big and small quantity as large. Repay a favor to a grudge. Solve a problem before it becomes hard. Solve a trouble before it becomes big. A hard problem often results from an easy problem. A big trouble often results from a small trouble. So the saint who knows “the way” does not do a great thing. He does small things and accomplishes great things. If you undertake problems casually, you will lose your trust. If you regard problems as easy, they will become hard. But the saint considers all problems as hard, and he can solve them easily as a result. 現代語訳 「特に何もしない」という事をして、「なんでも無い事」を仕事として、「味気の無い生活」を味わう。小さなものを大きく捉え、少ないものを多く感じて、人から受けた怨みには徳をもって報いる。難しい事はそれがまだ簡単なうちによく考え、大きな問題はそれがまだ小さいうちに処理する。この世の難しい事は必ず簡単な事から始まり、大きな問題は必ず小さな事から始まるのだ。だから「道」を知った聖人はわざわざ大事を成そうとはしない、小さな事を積み重ねて大事を成すのだ。安請け合いをしていては信頼など得られないし、安易に考えていると必ず困難な目に合う。しかし聖人は些細な事でも難しい問題として対処するので、結果的に特に難しい事もなく問題を解決できるのだ。 Translated by へいはちろう (そして、「タオの法則」から) 人は交感にあるとき 不運という不運を遠ざける 宝くじで大金を得た後に、大不運に見舞われる、というようなことがある。何かで成功したと同時に凡人は有頂天になる。そうなった瞬間、運気のリズムは反転する。そうさせてしまうのも、人間のエゴの心、自尊心だ! ゴルフの世界ではホールインワンをした後は、大きなミスが多くなると言われるようだが、これは心理的な作用を超えた法則だ。現象の世界に陽が生じた時、反転させないコツは、心の世界を陰にする、つまり、とことん謙虚であること、あるいは、いい意味で、ハングリーであることだ。 自我が強い人ほど、人の上に立てば有頂天になり、異性に出会えばうわつき、財力を得れば自分のために使いたがる。しかし、これも、本質の悦(タオ)へと至った人間なら、そうした幸運に振り回されることがない。世間の見栄や競争のなかで生きる人々にとってのどんな喜びも、彼の悦(タオ)を上回るものではないからだ。 彼は最上を知るが故に、偽物に心を動かされはしない。常に満たされているが故に、一時の幸運に感情を振り回されることがない。悦(タオ)のなかに生きる人間は、意図しなくても真に謙虚となる。 ☆ ☆ ☆ この世の相対的な基準ではなく、あの世の絶対的な基準からみれば、この世の現象を司る背後の遥かに広大すぎて目にみえない繊細で微妙な宇宙の意志を感じ取ることができる。宇宙の意志を感じ取れれば、自分の心(想い)から、快の秘訣を通じて、幸福をつくりだせる!
2012年10月02日
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前回は、人間がタオの領域である快のアストラル界に昇天するためには、クンダリーニの象徴図で表される三種の神器を、人生のなかから自身で獲得しなければいけないことを紹介した。 そこで、アストラル界を、イマイチ理解できない人も多いように思えるので、以前紹介した「知足自愛」のサイトから、御馴染みのオカルティストのスウェーデンボルグの話を紹介する。 ☆ ☆ ☆ 「私は霊界を見て来た」エマヌエル・スヴェーデンボリ著「私は霊界を見て来た」は、スウェーデン出身の科学者・神学者・神秘主義思想家であるエマヌエル・スヴェーデンボリの著作「霊界日記」の抄訳です。哲学者カントやゲーテの「ファウスト」に多大な影響を与えたとされるこの著者の日記からは、学ぶことが多いものです。 例に拠って重要な個所を引用していきます。 <以下引用> 霊的に心の窓が開けた生涯とは簡単にいうと、『霊界の秩序を守り、これに素直に従った生涯を送る』ということである。そして霊界の秩序は人間にも素直な心さえあれば、その存在を感ずることも、その姿をもっと具体的に知性によって知ることも全く不可能ではない。なぜなら、人間の住む自然界との間には、『相応の理』といって、多くの事物についての相応があるからだ。 (中略) そこで心を素直にして自然界を見わたしてみる。鳥や獣、虫などの動物界、樹木のような植物界にせよ全ての生命は、不思議な自然界の秩序によって生きている。この不思議な秩序に素直に感嘆し、この秩序に素直な心をもって生きようとする人は、既に、心の中に霊界の秩序をある程度感じとっている人たちだ。 根本的なことは、何度も私がいった「直ぐなる心」なのだ。 この世とは霊界の広大無辺な空間の中にポッカリと浮かんでいる一つのゴムの球のようなもので、このゴムの球である自然界の周囲は全て霊界に取り囲まれている。 ゴム球の中にも、霊界は、しみ込んでいる。ゴム球の中も実は霊界なのだ。ゴム球の中以外の空間は霊界だが、ゴム球の中だけは、例外的に自然界と霊界の二つの世界が、同じ空間にともに存在している。 霊界とこの世とは実は別々の世界ではなく「一つの世界」なのだ。そして霊界と、この世とは、この二つの世界を含む大きな一つの世界の「二つの異なる側面」なのだ。 霊界と、この世は一枚の金貨の裏表のように切り離しがたく結びついているのではなくて、もともと一枚の金貨の表裏なのだ。 霊界の太陽から流れ出る霊流が霊界の生命の源である。この霊流には、霊界の上・中・下の三世界に直接、太陽から注がれる直接霊流と太陽~霊界上世界~中世界~下世界~人間界の経路を経て各世界に注がれる間接霊流の二つがある。 人間の生命は、その根源において生命の源始とつながることによって命が継続している。それでは、その生命の源始とは何か。これが他ならぬ霊界の太陽なのだ。 (中略) 自然界の太陽は、この世における霊界の太陽の相応物で、いわば代理人、代用品にしか過ぎない。この世の太陽の源は霊界の太陽なのだ。 人間の生命の根源は本質的には霊なのだ。そして人間の肉体に住む霊が、自分の中に霊流を吸収することによって、人間は生命を継続することができる。 物質界でない霊界が、その意図や意志を物質界において完結するには、霊に人間という物質的形骸を与えなければならない。人間界は霊界の終極点であり、霊界の生命の根源の霊流も、その終極点である人間の肉体の中に霊を住まわせ、この霊に霊流の終極点としての霊流を与えることによって、物質界における完成に達する。 このことは、霊界とこの世が協力関係にあることを示している。 人間界は霊界から見れば霊界では不可能な「将来の霊」の増殖を図る世界だ。また霊界は人間の肉体に住む霊に、霊流を間接的に受け入れさせ、人間の生命の継続をはかる。 人間は物質界に属する肉体と霊界に属する霊からできている。そして物質界に属する肉体には、肉体自身をはじめ、眼や耳、鼻などの肉体的感覚などがある。だが、これらの働きを本当の一番深い所で支配し、肉体に、生命を与えている存在は、霊界に属し、霊界の太陽の霊流を受けている霊なのだ。 もし、人間が霊の存在や、その永遠性を本当に確信をもって信じられるように、できていたらどんなことになるか? おそらく多くの人々は、肉体的、自然的生命を全うすることなく自ら命を断って霊界へ入ってしまうに違いない。自然界は、その不思議な知恵によって人間に自然的生命を全うさせるために、霊や霊界の存在と永遠性を、死の瞬間まで人間の眼にふれさせないようにしている。 人間は霊と肉体との二つの要素からできているが、もし人間がつねに自分の肉体に住む霊の存在を意識し、その霊に支配されているのを知っていたら、どうなるか? 自由を何よりも欲する人間は必ず、自分を支配しようとする霊に対抗し、両者の闘争が起きるに違いない。 だから、人間の中に住む霊は、そのことを全く知らない。彼らには自然界の存在である人間の肉体は見えない。そして、その結果、霊は、人間も自分だと思っている。これは、人間が霊の存在に気付かず、全て自分のものだと思っているのと同じなのだ。 霊は人間の中に住んでいることに気付かず、全て自分だと思いながら、人間の肉体に生命を与え、その考えや思いを無意識のうちに支配している。ここには、霊界と自然界の二つを一つに合わせた大きな世界の知恵が働いている。 <引用終了> 上記の文中で紹介されている、「霊界の太陽」というのは、カタカムナで「宇宙の万物万象の存在(生命)の根源」とされる「カ」あるいは「カム」のことを意味していると思われます。 ☆ ☆ ☆ 以上がスウェーデンボルグの話の引用だが、ボルグも、シュタイナーも、霊界、あるいはアストラル界は、大体3段階の階層に大別できると述べている。「療法の眞義」の著者モーリス・ドリールも、人間は、物質界の経験を元に、アストラル界に想念を実現化させると述べているから、経験によって、多種多様の世界が、アストラル界に存在することがわかる。 だから、物質界にいるのか、アストラル界にいるのかの判断は、熟練者でないと難しいという。例えば、睡眠中の夢をみているときに、見ている光景が夢であると気づくのが困難なのと同じである。 物質界とアストラル界の判別などは、例えば、自分に浮かんだ想念を、自分の脇に流れる川のごとく、自己と切り離して捉える訓練などから、可能になるようだ。思考から自己を分離する訓練は、「療法の眞義」によると、自己治療に役立てることができる。 自己治療の原理は、病気の元になっている想念を捨て去り、健康な状態のときの想念をつくり、肉体に流し込むことだからである。 このようなことを老子は、第63章と第2章で述べているが、その紹介は次回に譲る。
2012年10月01日
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前回は、オカルト(秘教)が説くアストラル界が、老子のタオの領域のことで、アストラル界に到達するには、陰陽のバランスをとりながら、人間の脊髄の、いわば天国への階段を、精神(心)的に、一歩一歩昇っていく必要性を紹介した。 以下は、クンダリーニの象徴図だが、この図のなかには、三種の神器も隠されているようにみえる。また、カタカムナの図もこれと同じで、その断面図に近いものだろう。 おおよその全体図は、三種の神器でいうところの草薙の剣にみえる。天叢雲剣ともいう。天叢雲剣の以下の説明でもあるように、「(八岐大蛇、八俣遠呂智)の尾から出てきた太刀」というのは、脊髄の尾骨から、出るという意味にとれる。 天叢雲剣 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%A2%E9%9B%B2%E5%89%A3 また、上のウイキの解説にもある「天叢雲という名前は、ヤマタノオロチの頭上に常に雲気が掛かっていたためとしている。」というのは、脊髄の上部の天(アマ)と、太陽神経叢と、ヤマタノオロチの尾骨の上の雲の仙骨のことを、短縮して、天叢雲と呼んだようにも思われる。 上のクンダリーニの象徴図でいえば、中心が剣で、そのまわりを螺旋で回転する注連縄のようなものが雲にもみえる。この雲のようなものが、勾玉で、それは、中央の最上部の円から出ている。 八尺瓊勾玉 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B0%BA%E7%93%8A%E5%8B%BE%E7%8E%89 生命の樹からもわかるように、クンダリーニの象徴図も、中央の柱と、左右の螺旋状の曲がった柱からなる。中央の柱が、アストラル世界のチャンネル、左右が、陰陽の3次元物質世界を形成する螺旋階段と考えることができる。つまり、人間の脊髄を表すクンダリーニの象徴図は、バビル(シュメール)の塔ともいえる。 八尺瓊勾玉は、イスラエル風にいうなら、マナの壷になる。マナの壷は契約の書を収めた棺ともいわれ、日本の神輿である。だから、バビルの塔は、神輿のことでもある。 人体でいうなら、オカルト(秘教)でいう洞窟の松果体のことで、契約の書、つまりキリストである八咫鏡を収める場所となる。 八咫鏡 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%92%AB%E9%8F%A1 上のサイトからもわかるように、八咫鏡が石(意志)の鏡、もしくは金属の鏡といわれるのは、松果腺の脳砂のことを指している。その鏡には、古代ヘブライ語でいう「エヘイエ・アシュル・エヘイエ(我は我あるところのものなり)」が記されている、といわれている。 それはつまり、人間の自我は、神の自我からくるもので、大宇宙は、人間のなかの小宇宙に転写されている、という意味で、人間は、神の子であるということなのだろう。 そのことを、「〇に・(点)」で表すこともできる。 だから、「〇(人)」は「・(神)」あるところの存在で、また、「〇(神)」は「・(人)」あるところの存在なのである。 古代ギリシア人が、「汝自身を知れ」と言った意味は、人間は神の子なのだから、人間自身を知れば、神を知ることができる、という事実を言っている。人間のなかに、宇宙があるから、人間は、人間自身を知ればいいのだ! 以上のように、「〇に・(点)」から、クンダリーニの図が、老子の説く意味を象徴化していることがわかる。 さて、このことを、老子は、第29章で説いているので、例のごとく紹介する。 ☆ ☆ ☆ 第二十九章 天下は神器、為すべからず 原文 將欲取天下而爲之、吾見其不得已。天下神器、不可爲也、不可執也。爲者敗之、執者失之。凡物或行或随、或歔或吹、或強或羸、或培或隳。是以聖人去甚、去奢、去泰。 書き下し文 将(まさ)に天下を取らんと欲してこれを為(な)すは、吾れその得ざるを見るのみ。天下は神器、為すべからず、執(と)るべからず。為す者はこれを敗り、執る者はこれを失う。凡(およ)そ物、或(ある)いは行き或いは随(したが)い、或いは歔(きょ)し或いは吹(ふ)き、或いは強く或いは羸(よわ)く、或いは培い或いは隳(こぼ)つ。ここを以(も)って聖人は、甚(じん)を去り、奢(しゃ)を去り、泰(たい)を去る。 英訳文 People are competing with one another to get the world. I think they are wasting their efforts. The world is not human’s. You can not do anything to the world or get it. If you do something to the world, you will spoil it. If you got the world, you will lose it very soon. In this world, someone goes ahead and someone follows him. Someone stays calm and someone makes haste. Someone is strong and someone is weak. Someone makes something and someone breaks it. So the saint who knows “the way” avoids extremes, luxury and arrogance. 現代語訳 世界を我が物にしようと人々は争っているが、私には無駄な努力をしている様にしか見えない。世界とは人間の力の及ばぬものであって、人間が世界をどうにかしたり、また自分の物にしたりは出来ないものだ。人間が世界をどうにかしようとすれば却って世界を駄目にしてしまうし、たとえ自分の物にしたとしてもすぐに逃げてしまうものだ。この世の仕組みというのは、誰かが先に進めば誰かが後からついて行き、誰かがゆっくりしていれば誰かが急ぎ、誰かが強ければ誰かが弱く、誰かが作れば誰かが壊す。だからこそ「道」を知った聖人は極端な事を避け、贅沢を避け、傲慢な心を避けるのだ。 Translated by へいはちろう ☆ ☆ ☆ 「タオの法則」から紹介する。 ☆ ☆ ☆ 「ねばならない」を捨てよう 自然界は常に流転し続ける 万物は常に変化で成り立つ。それがどんなに価値あることに思われても、「ねばならない」になってしまったら、自身への束縛が生まれ、その価値も失われる。そうなっている物事がもしあったなら、潔く手放すべきだ。 執着は、その対象が何であれ、自然のリズムから人間を引き離す。心の赴くままに、いつもワクワクした心で、物事を行う人は、必ず人間としての魅力に溢れている。様々な体験をすることで、様々なことを学んでゆく。 「ねばならない」はいかにも固く強そうに見え、進歩するかに見える。だが、固い物は何であれ、脆いものだ。柳の枝が折れないように、強くは見えない柔らかさの中に、宇宙大の強さがある。だから何事も、極めれば直線から円へと至る。これは自然の理である。 武道の世界でも、真に強い武道家は、必ず円型の動きを帯びてきて、柔らかく優雅で女性的になる。これを「柔よく剛を制す」という。 ☆ ☆ ☆ 3次元の物質対立世界を超えよう。3次元世界は、4次元以上の高次の世界からつくりだされている。高次の世界は、思ったことがそのまま実現する。だから、悪い想いは、悪い結末を生み出し、良い想いは、良い結末を生み出す。 執着心をもったまま、高次の世界に出てしまうと地獄となるが、慈悲心をもったまま、高次の世界に出れば、天国となる。 だから、低次の世界にいるときに、執着心を捨てることが、天国に入るための準備で、生きる目的なのだ!
2012年10月01日
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以前、紹介した以下のサイトのモーリス・ドリール著「療法の眞義」をいま読んでいるのだが、この書から、カタカムナの意味が、なんとなくだが浮かびあがってきた。 知足自愛 http://blog.livedoor.jp/k12345kk-12345678910/archives/5778606.html カタカムナは、31の「〇に・(点)」と「十字」などの図からなるが、これは人間の脊髄を表すのではないかと思う。 人間の脊髄は、以下の「脊髄の構造の図」により、33の部位からなることがわかる。 脊髄の構造の図 http://health.goo.ne.jp/medical/mame/karada/jin011.html カタカムナの31は、2つ足りないが、それは恐らく脊髄の仙骨と尾骨の部位のことで、この部位は、「療法の眞義」によると、動物界と関係があるそうだ。動物界については黒魔術の領域なので、省いているのだろう。 「33」という数を聞いて、フリーメーソンの33位階を連想する人は、かなりのオカルト通だろう。モーリス・ドリール著「療法の眞義」によると、メーソンの33位階は、人間の脊髄に由来するそうである。モーリス・ドリール自身、ブラザーフッド~というオカルト組織をつくっているようである。 モーリス・ドリール http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%AB 人間の脊髄のことを、聖書では、「蛇」と呼んでいる。実際、蛇の形だからだ。「療法の眞義」では、その辺の経緯が書かれている。オカルト(秘教)では、脊髄に沿って、「アストラル界」と呼ばれる4次元世界のチャンネルが広がっている、といわれている。 実際、ヨガでは、脊髄に沿って7つのチャクラが説かれている。「療法の眞義」によると、最上部のチャクラは、松果腺にあたり、オカルトでは、その部位を洞窟に喩え、そこにキリストが住み、そこから、12の霊的センターを通じて、12の肉体のセンターに、宇宙エネルギーを送っているというのである。 この松果腺は、古代では、第3の目と呼ばれ、いわば心眼であったそうだ。仏像が、この第3の目を表現するのは、心眼が開眼していることを意味するのだろう。 クンダリーニとは、この心眼を開発することをいうようである。脊髄の下部から、脊髄の上部の松果腺まで、アストラル界の快が広がることであるようだ。クンダリーニとは以下を参考にして欲しい。 クンダリニー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%BC 「療法の眞義」によると、モーセも、キリストも、このクンダリーニを用いて、病人を治癒したという。病気とは、身体の陰陽のバランスが崩れていることなので、クンダリーニを用いて、再びバランスを回復させてやると、病気は治癒する。 「療法の眞義」によると、古代では、アストラル解剖学が教えられていたという。シュタイナーが説く生命の樹のことである。シュタイナーも、医学の基本として、人間は4つの世界からなっていることを説くが、「療法の眞義」においても、名称は若干異なるが、同じく4つの世界を説いている。 クンダリーニとは、どうやら、アストラル界への昇天を意味するようだ! 興味深いことに、アストラル界を、タオの領域に置き換えると、老子は、快のアストラル界のことを述べていることがわかる。 端的にいえば、アストラル界とは、人間が思い描いた想念が、そのまま実現してしまう世界なのだ! だから、恐怖心などをもっていると、それがそのままモンスターとなって、自分を襲うことになる。逆に、慈悲心などをもっていると、それがそのまま善天使となって、自分を祝福することになる。 つまり、アストラル界は悪人にとっては地獄で、善人にとっては天国なのだ! 我々人間が、天国に行くには、恐怖心や、妬みや、憎悪などの悪い感情を、自らで捨てていかないといけない。それは自分の想念から生まれるので、自分で捨てるしかないわけである。 天国は、自ら援けるものを援ける。 とキリストが述べた意味がわかる。自分で自分を助けられない人は、他人を助けることはできないわけだ。 さて、「療法の眞義」では、悪い感情は、人を、病気にさせるわけで、病気とは、そのまま感情を保持していると、地獄にいくことの警告でもある。苦しむのは、本人が、苦しみの由来となる想念を保持しているからなのである。 だから、苦しみの由来となる感情や想念を解放させ、本人が自ら捨て去るような形にもっていく必要がある。抑圧された感情は、肉体に、腫瘍を形成させるので、抑圧する前に、解放することが肝要となる。 感情を巧く制御できるようになると、骨髄の33の部位を、ヤコブが梯子を昇ったように、一歩一歩、天国に向かって昇っていくようになるそうだ。秘密結社は、そのことを友愛の感情と呼んでいるようである。 だから、感情を制御する段階は、33段階あるということなのだろう。メーソンでは、いちいち区分けしているが、メーソン自体が、イルミナティに侵食されてしまったので、もはや逆の悪魔の地獄行きの蟻地獄といえるだろう。 カタカムナは、ヤコブの天国への階段、梯子を意味しているのだろう。感情の制御の段階を表しているのではないだろうか。つまり、右回りのクンダリーニの蛇の図といえる。 さて、このようなことを、老子は、第29章で説いている。その紹介は次回に譲る。
2012年10月01日
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