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しつこいようだが、紹介したサイト(言葉の杜)で、古代ヘブライ語を学ぶうちに、日本という国名が、二大政権からきているのではないか?と思うようになった。 二つの出自を元にする、という意味で、日本(ニホン)というのではないか?という疑問である。 その理由は、日本の政体が、常に2つの政体の2重構造から行われているからである。その源流が、日本の南北朝時代にあるのではないか、と思えたのは、かつての古代イスラエル王国も、北と南に分かれた経緯からである。 つまり、単純に考えて、古代イスラエル王国の北と南の闘争が、日本の南北朝の源流にあるのではないか、という疑問である。 ネットを探索していると、日本の皇室には、暗黙糧に、北朝と南朝で、政権を交代していく仕来りがあったという。この政権交代は、現代の欧米社会での二大政党の政権交代、特に米国をみれば、少なくとも表立っての権力腐敗を封じるための基本的手段であることがわかる。 米国の歴史をみれば、米国の民主党と共和党を仲介する組織が、米国の黒幕であることは一目瞭然である。 また、日本の歴史の戦乱を大まかにみると、蘇我と物部、源と平、豊臣と徳川といったように、常に二大勢力の争いに終始していることに気づかされる。 戦国時代でさえ、平氏の太政大臣と源氏の征夷大将軍の政権交代が守られていた。 その疑問の回答が、古代ヘブライ語にあるのかもしれないと思い、例のサイトにそれに近い回答をみつけた!++++++++++++++++++++++++++++++++++ 部落よ胸を張れ 民族の追憶 遠い昔に、日本列島に生じた歪みがある。 それは、意識の土に埋没され地下深く隠された。 「部落差別」である。 最初に結論を書こう。 部落の人々は、「高貴な立場」を取り戻す事ができる。 先祖の神、『ヤオヨロズ』への回帰によって。 日本民族のルーツを研究する中で、得た結論はこうだった。 ○「部落の多くは、『出雲族の末裔』だ」 彼らは、大和朝廷との戦いに敗れ、地位を剥奪され、「下種(げす)な奴ら」と見下されるようになった。 ところがその民族の素性は、古代イスラエルの高貴な流れを汲んでおり、古代の「君」達であり「姫」達である。 列島の中に、二つの王朝文化が潜んでいる。 下積みになっているのは「敗軍となった第一次ユダヤ王朝である」と明らかになってきた。 「我々に降伏せよ」 「いやだ!」 「女子供まで皆殺しにするぞ」 「我らは最後まで戦う」 彼らの神を賛美する神聖な詩「日本民謡」が、下品な歌詞を被せられて貶められている。 先の王朝は敗北したのだ。 そして出雲族の生き残り達も、惨めな下積みの立場に甘んじている。 「ここから日本の部落差別が生じた」 そう考えることができる。 背教の結果 日本民謡の神は、人類の創造主『万軍のヤー』である。 その神を信奉する軍は無敵で、少数で大群を打ち負かす力があった。 では、彼らはなぜその神に護ってもらえなかったのか? 答えは『背教』だ。 色々な証拠から、「出雲王朝の末期は、背教に染まっていた」と結論できる。 「バール」 「アシュトレテ」 「モレク」(弥勒?) その他の神々が彼らの中に食い込んでいた。(聖書:桑の木とバール) 一方、最強の神ヤーエはそっぽを向いていた。 彼らが「部落差別」を受けることになったのは、その背教ゆえである。 それが、『呪』いというものだ。 神の呪いは数千年でも被さってくる。 虚勢を張っても、いじけても、それは消えない。 では、どうすればいいのだろうか? 彼らがその境遇を脱却するためには まず、その手を清くしなければならない。 先祖の神『ヤーエ』に向き直る必要がある。 「ヤーエ」を思い出せ。 打ちしおれた出雲の民よ。 そうすれば、ヤーエは彼らを、栄光の座に据えなおしてくれるだろう。 ※イザヤ書の成就はすでに60章に向かっている。そこでは、惨めさの中で疲弊していた神の民が、再び栄光の座に据えられる予言がある。ヤーエは、『仮のイスラエル』から地位を奪取し、自分の民に与えるだろう。日本の民はそんな形で栄光を受ける。 日本国内でも、部落の地位は「根本から」見直される。「出雲の栄光」が再び戻ってくる。その時、二つの王朝間に敵対は起こらない。「エフライムはユダをねたまない」と予言されているからだ。 人々は、あらゆる仕事を投げ出してこう叫ぶだろう。 「『部落』よ、胸を張れ!」 「あなた方こそが、ヤーエの栄光なのだから」+++++++++++++++++++++++++++++++++++ 以上の内容から、明治天皇の他愛もない逸話が思い浮かんだ。ネットでは有名な替え玉説である。幕末の朝廷は毛利家と親交が深く、尊皇攘夷の過激な公家は、毛利家を頼った。古代ヘブライ語でいえば、毛利というよりは、出雲と呼ぶべきなのだろう。 信長が光秀に謀反されたのも、毛利家討伐の最中だったし、朝廷を蔑ろにする信長への謀反の黒幕が朝廷だとする説もある。また、信長は、三種の神器が隠されているとされる剣山がある四国討伐を着手する段階でもあった。信長は、第6魔王と自称もしている。つまり、信長は、自分を異教徒だと公言している。 信長謀反暗殺には、イエズス会も絡んでいるという説もあり、真のキリスト教徒ならば、第6魔王を称するような人物をほおっておくはずはない。しかし、当時のイエズス会もかなりの異教なので、絡んでいるのなら、イエズス会を使って同士討ちさせたという感が強い。 話が脇道に逸れたが、明治天皇替え玉説というのは、部落出身の大室寅太郎を、病弱の天皇にかえて、明治天皇にしたというものである。その際、岩倉と大久保が、孝明天皇を毒殺したという噂があったそうである。 この説の信憑性はかなり低いが、明治維新が、かつての出雲王朝による政権交代であったなら、神の御業としかいいようがない。しかも、江戸幕府は征夷大将軍家康が開いた政権だから、古代ヘブライ語によれば、征夷の夷(エビス)が、出雲王朝の末裔だったから、政権転覆そのもので、歴史的因縁がいかにも深いことがわかる。 では、古代日本はどうだったのか? また、例のサイトから引用する。++++++++++++++++++++++++++++++++ 探求の後 日本民族は雑種である。6種類に大別される民族が混合しており、歴史家によっては「30種類におよぶ」と述べるほどである。 1.古代朝鮮族 (ツングース族) 2.苗族 (南支那から来た常世族) 3.ネグリート族 (南洋フィリピン方面からの民) 4.アイヌ族 (小アジアから来ているヒッタイト族) 5.天孫民族 (セム系イスラエル民族) 6.支那民族 (歴史時代に帰化した漢、唐、呉など北部民) これらの文化や言葉が混在する中、天孫民族の統一がなされ、現在の日本文化が定着した。 この王朝は二つあった。出雲族が活躍した「縄文後期」、そして大和朝廷の「弥生期」である。天皇支配は一系とされているが、王朝そのものは途中で交代していると考えられる。 日本列島に展開された戦いの歴史を通過し、政府も文化も統一された現在、もはや民の掲げる氏名(うじな)は「区別差別」の根拠とはならない。日本民族はその心を一つにしているからである。 例えば、古代クス族の流れが「国栖、玖珠」などの名を掲げるに至った背景には、「天皇がそれを許可する」という事情が絡んでいたはずだ。彼らが支配者達を助け、功績を挙げたからこそ、誇りとして民族の名を掲げるに及んだはずである。 終わりの世には、全ての民族が「海」(諸国民)と「地」(選民)との区別を無くしてしまう。つまり、当初選民を通して為されていた支配が、1000年後の試みを通してまとめられ、最後には全人類が神によって治められる。 大和民族の神であるヤーエは、この国の中にその理想をすでに実現しているのかもしれない。+++++++++++++++++++++++++++++++++++ 上記の出雲族の王朝と、大和朝廷の王朝である。上記の内容のサイトでは、先に日本列島にきたのが、出雲族中心の王朝をつくったイスラエル民族で、はじめで第1の王朝とみている。 次に日本列島にきたのが、大和朝廷をつくったイスラエル民族で、第2の王朝とみている。 つまり、上記のサイトによると、第1王朝が、出雲族王朝で、「大国主の尊」で、第2王朝が、大和王朝で、「素戔嗚尊」と仮定している。 いずれにしろ、日本には2つの王朝の流れがあり、それが日本という国名の由来になったのではないかと思うわけである。
2012年02月29日
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では、その解決に相応しい参考例として、古代ヘブライ語の例のサイト(言語の杜)から抜粋し考えてみたい。+++++++++++++++++++++++++++++++++++ 「お金を貸してください」 と頼まれた時、状況は二つある。 借主が、お金が無くて困っている時と、 そうでない時である。 そうでない時とは、「借りたお金で儲けよう」と考えている場合かもしれない。そして、銀行が相手にするのは、そんな人である。 現代の銀行にとって、お金を貸すというのは人助けではない。人を利用して儲けるためであり、銀行とはそうした利益追及のための機関である。そこには、情けも愛も無く、駆け引きと打算だけがある。こうした考えから、「不良債権」という言葉が出現した。 しかし、人間社会を潤すのは打算ではなく「愛」である。社会は、人と人との愛が形作っている。その愛があればこそ、人は人に猶予や情状酌量や思いやりの心を示す。それが社会の礼儀となり、暮らしやすい永続の共同体が生み出される。なぜなら、社会の最も古い形態は「家族」であるからだ。 不良債権の分析 社会で流れている金は、雨と同じで地域差がある。余る場所と足りない場所である。人の社会では、水が足りなくて困っている時、「返せる」「返せない」などと心配することなく提供しあうだろう。不足している個所に、余っている個所から融通するのが道理だからだ。借りた側も、恥を掻かないように努力して返却する。そしてそれは、暖かい人間社会の暗黙の了解でもある。 ただ、すぐに返せる場合もあれば、そうできない場合もある。雨は不定期だからである。それでも、自然はどこかに雨を降らせる。決して全体が枯渇することは無い。このように、不足している場所に対して、余っている場所からの提供というのが金融の自然な姿だろう。しかし、人間社会から愛を奪い、打算で全てを割り切ろうとすると、「不良債権」という言葉が生まれてくる。その背景にあるのは、冷徹な心である。 「この担保には価値が無いから、貸している金は不良債権だ」などと言い始めた人は、自分自身スーパーマンで、社会からの猶予など必要としていないのだろうか?誰かに「待って欲しい」と頼んだことは無いのだろうか? しかし、これだけは確かである。社会の命題は、強い者に目を向けることではなく、むしろ弱い者をどのように保護して行くかにある。「社会」を一人の「人間」に例えて考えてみよう。 人体の中で、「眼」は弱い部分である。それで人は、そこを保護しようとして、強い日差しの中ではサングラスをかけたり、砂が入らないように手をかざしたりする。では、それほど弱い目は、人体には不要なのだろうか?そうではない。それは「弱くても必要な部分」である。人間社会も同様、弱くても必要な企業もある。それは、その企業の持つ技術や業績が、その国に不可欠な場合があるからだ。 必要な企業が儲かるとは限らない ここに、全人類に恩恵を及ぼす難病治療薬を研究している企業がある。それは弱小の駆け出しであり、いつも資金不足に悩んでいた。発明が完成しても、自分で製造する力が無い。それで、いつも大企業に特許を売ってしのいでいた。 これでは、いつまでたっても儲からない。しかし、その企業のセンスは抜群で、真似のできない新薬を次々と生み出してくる。こんな企業は、儲からなくても国には必要なのである。「儲かる」「儲からない」を基準に物事を考えれば、このような企業は消え去ってしまうだろう。そして人間社会に、不毛をもたらすだろう。 不良債権という公式を、最初に持ち出したのが誰であるかは知らないが、彼は愛と思いやりに欠けている。そして、彼の後に従う社会は、愛不在の社会となる。それはきっと自滅に向かうだろう。なぜなら、愛は繁栄の鍵であり、打算は衰退の前置詞であるからだ。 「不良債権」という言葉が生み出される前は、返せなくても必要な企業は援助するという考えがあった。それは、物事を広い目で考える家族のような社会を意味していた。社会全体で強ければそれでいいのである。日本という国は、そのようにして国内をまとめていた。 しかし、そこに他人の風を持ち込んだのが「不良債権」という言葉である。それは、立派な考えに見えるが非常に無理のある空論なのだ。人間社会において、全ての企業が自立できるはずが無い。無駄を省く経営改善の努力は必要だが、いつの時代も、どんな企業も黒字であり続ける事など不可能である。 社会全体で物事を考える目は、政治が持たなければならない。社会の中に流れる愛の精神こそ、活気をもたらし繁栄を引き付ける要なのだ。「金融」という言葉は、「助け合いの精神」が元になった言葉ではなかっただろうか? 社会は家族の延長であり、そこで通用するのは助け合いの精神なのだ。それを思い出した時、人々は高い次元からやってくる本物の祝福を受け取ることができるだろう。 物質と意識 (ぶっしつといしき) ある質問 ある賢者がこんな質問をした。 「人は誰に対して生き、また死んで行くのか?」 意味不明の質問である。 その意図はどうにも量りがたい。 しかし、深い意味がありそうだ。 そこで、ある人はこう答えた。 「家族に対して生き、死んで行くのだ。」 すると、賢人はこう聞いた。 「では、身寄りの無い者はどうか?」 その人は答えられなかった。 そこで、別の人が、こう答えた。 「私を見る人に対して生き、また死んで行く。それは、友人も含めて、社会の全ての人に対してだ。」 賢人は、また聞いた。 「では、無人島に一人生きる者はどうか?」 この人も答えられなくなった。 そして別の人がこう答えた。 「自分が影響を与えているもの全てに対して生き、また死んで行くのだろう。」 賢人は聞いた。 「それは、海や空や空気なのか?」 「そうだ、大地には痕跡を残し、雨は体を伝って流れるではないか。」 しかし、賢人はこう言った。 「人は土に返り、土もまたその形を保てない。その世界の中で、何を基準とできるのか?」 それで人々はその賢人に聞いた。 「では、あなたはどう答えるのだ?」 賢人は言った。 「人は神に対して生き、神に対して死ぬ。宇宙の中で永遠なのは神だけであり、永遠の意識もまた、神のものだからである。」 意識に対して 生きている者は、死んだ者を憶えている。 そして彼を追悼して悲しみ、懐かしむのだ。 しかし、その人々もまた土に返る。 そしてその記憶もまたいつかは消えて行く。 過去、消え失せた文明を幾人が憶えているだろうか? 人々に知られない、密かな文明もまた現れては消えていった。 それを誰一人捕捉できないとすれば、その存在意義はどこにあるのだろうか? 観察と存在 人が意識を集中して物質を観察すると、そこに物質が存在できる。 しかし、観察をしていないもう一方は、消え失せている。 このような不思議な理論を科学は実証した。不確定性理論という。 観察しているから、物質は存在する。 非常に微弱な世界ではそうなっている。 それはつまり、人の意識が物質の存在に関与しているという意味である。 意識がある所に観察がある。 そして観察があるからこそ、物質が存在できる。 それで、この世界に対してはこう言うしかない。 神の観察があるからこそ、この世界の物質は存在できている。 言い替えれば、神の意識がこの宇宙の基礎を支えている。 それで人は、神に対して生きそして死んで行くのである。 やがては科学も、そのような結論に到達するだろう。 +++++++++++++++++++++++++++++++++ 人間は誰もが裸で孤独になって死んでいく。 抱えていくものは、この世で経験した意識だけである。 そのとき、弱者を救済する力が、天に昇る翼になる。 死んでから気づくのでは、遅すぎる。重力に引きづられ真っ逆さまに堕ちていく。 なぜなら、救済する力に乏しく、自分を自分で羽ばたかせる力がないからである。 そのとき、自分が裸であることに気がつく。 裸の王様の話が本当だったことに気づくのだろう。
2012年02月29日
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いま金融危機が叫ばれている。超大国米国を使って偽ユダヤが、戦争する度に、戦費を私腹化してきたのだから、当然の成り行きといえる。 偽ユダヤのやることは、売春と同じ手口である。 1.魅力ある売春婦を探す⇒犠牲になりそうなターゲットを探す。 2.売春婦の魅力を宣伝する。⇒その犠牲者(国)がいかに不正で穢れているかを宣伝する。 3.売春を斡旋し、代償として金を巻き上げる。⇒軍隊を派遣し、全てを略奪する。 以上は、悪の手口としてお馴染みである。 この悪の手口は、聖書のなかの売春婦の話を思い出させる。悪魔が民衆にけしかけて、売春婦の処罰を、イエスがどうするか、をテストした話である。 イエスは、はじめ相手にしなかった。あまりに五月蝿く民衆が、処罰しろ、というので、処罰するのに、相応しい者はいるのか?と逆に問い正した。 人間は皆平等で、神だけが人間を処罰できるので、処罰にも、神の認証が必要だからである。 このイエスの発言から、悪が、常に成り代わりの論理を働かせるのに巧みであることが、明らかになる。処罰するのには、自分が、少なくとも神の代理であるという証拠が必要となる。イエスは、処罰が、神の良心に沿ったものなのか、各個人の判断に委ねたわけである。 このイエスの問いこそが、悪に対する解決策といえる。悪は、分断することが肝要である。 悪は、悪であるが故に単独では正当性がなく自滅するだけである。自滅に追い込むには、正当性となるものから分断することが重要で、分離されないために、悪が用いるのは多数という論理である。 だから、多数の論理、統計学を用いるのが悪の手口だということは、昔から明らかなのである。従って、悪魔は常に主流派を形成しようとする。主流派を形成することで、権力を握るためである。 実際、悪魔は人類を誑かして、主流派を形成し、イエスを十字架にかけ、この世から抹殺した。しかし、その行為は悪の表明にもなる。 多数を形成し、弱者を葬る、悪の手口である。 実は、そもそも多数などというのは有り得ない話で、全体ではじめて1つなのに、そのなかの多数といっても、全体の1よりは大きくなく、分数とならなくてはいけない。また、多数といっても、人間の誰一人として同じ考えや存在などないわけで、同じような考えといっても詳細に聞けば、各自で異なる。 高校の数学の先生が口癖のようにいっていたが、三人寄れば文殊の智恵というが、0.1と、0.1と、0.1の知能が集まって掛け合わせれば、逆に、ゼロが3つ増えて、0.001になり、馬鹿になる。 つまり、全体がみえない連中が集まっても益々みえなくなるだけだ!というのである。 それでは決められないではないか?という疑問もあるが、全体を1として考えて、全体をみればよいだろう。つまり補い合う形、相手を補完する形で、全体を見通すことが重要なのである。 さて、前置きが長くなってしまったが、人類は、新しい経済システムをつくるべき過渡期にきているように思える。その解決法が、弱者救済策にあり、強者分断策にあることが、イエスの回答から明らかになる。 大きな悪でも分断し個人の問題に置き換え各自で処罰すれば、善への力となる。大きな問題も分断し、各個人の問題にすれば解決できる。外の誰かに求めるのではなく、明確に責任分担をして、各自で処理することにある。 弱者を救済できない組織は分断しなければいけない。社会的役割や、愛の機能や役割を果たしていないからである。 地から離れるに従い、空気が薄くなるのと同じである。 悪を薄めるために、分断しないといけない 一人一人の問題として片付けなければいけない。 天に向かう建物は壊されるし、壊されないためには、少しづく軽くし、身軽にならないといけない。 心の貧しき人は幸いなり、天はその者のためにある。 これまでの経済を改める時期にきている。
2012年02月29日
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何度も紹介するが、以下のサイトは、古代ヘブライ語を学ぶのによい切欠になるように思う。 言葉の杜 http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/word/word.html 以上のサイトから、重要に思ったので、以下を抜書きした。++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 歴史の書き換え(2005年の日記から) 「教科書問題」が騒がれているが、ともすると為政者は歴史を書き換えようとする。どの時代にも、そうした事が繰り返されてきた。 「政府は、国民を騙す」 こう考えておけば、間違いない。 さて、日本の古代史も相当手が加えられているのだが、これからの時代は「そんなこと知らない」では、済まされない。 「古代ユダヤの暗号」という本から「言葉」について抜粋してみよう。 七つの文字と言葉 「先代旧事本紀大成経」(せんだいくじほんぎたいせいきょう)には、 「古代日本には、七種類の文字と言語があった。」 「それを、聖徳太子の時代に廃止して統一した。」と書かれている。 文字は ○アヒルクサ文字 (クシュ系の文字か?) ○出雲文字 (出雲族) ○豊国文字 (トヨクニ) ○秀真文字 (ホツマ) ・・・・など。 これらの文字で、実際の遺物に刻まれた文字が解読できるという。 川守田博士の研究では、日本語の中のヘブライ語は「千二百以上」もあるという。 関係が深いとされている「ドラビダ語」でも、「四百五十」しか一致していない。だから日本人は、「ヘブライ文化」を踏襲している民である。 日本語は、古代ヘブライ語そのものなのだ(私見では、ちょっと、いいすぎの感あり)。 結果的に混合の民である日本人は、ヘブライ語を話し続けている。 こんな話は、歴史教科書には決して載らないだろう。 なぜなら、 1.日本語は、 → 古代ヘブライ語(を部分的に継承した言語) 2.文化は? → 「古代イスラエル」(を参考に継続した文化) 3.では、その神は? → 「ヤーエ」 4.どんな神? → 「聖書の創造主」 5.民族の理想は? → 「神への服従」 ・・・ そして、今までの為政者達が ○ 『嘘』で、国民を騙し ○ 道を逸れて『神の怒り』を引き起こし ○ 多くの国民を犠牲にし、 ○ 兄弟の国「大陸」に無礼を働き、 ○ 今もなお、神を怒らせている こんなことは、「面子上」書けないからだ。 結局、「謙遜さ」と「正直さ」を失った為政者達には、「正しい歴史」を伝える仕事はもう無理だろう。彼らは、「弱き」を庇う日本の神からは、相手にもされていない。 濁る世の中 頭(かしら)が悪いと民も悪くなる。 ここ数年で、特に悪くなった。 強者を残し、弱者を葬り、 『報道管制』を敷いて監視を逃れる。 『法律違反』で兵を出し、 『軍国憲法』への流れを造って、 アメリカの『代理戦争』へと踏み出して行く。 『嘘』に『嘘』を重ね、 『言い逃れ』と『開き直り』で追及をかわし、 誠実さを忘れて、傲慢に染まっている。 こんな政府を見ていると、 年の初めからろくな考察は浮かばない。 まったくなさけないかぎりである。 もうしばらく辛抱すれば、この世は終わるが それまで憤りが絶えない。 医者も商人も『不正』で儲け、 司法は『えこひいき』を繰り返し、 警察、役人、教師までもが 『偽善』を身に付けている。 若者は成人式で暴れ、 親は子供を虐待する。 タクシーは強盗に怯えている。 あらゆる場所で、秩序破壊が進んでいる。 世の中も、政府も民衆も悪すぎる。 善人は底に沈んで目立たない。 人々は、思いやりと優しさを忘れた。 「強ければいい」、「競り勝てばいい」と。 安らぎはもう、神の中にしか見出せない。 ヤオヨロズだけが真実を語る。 弱者をすくい上げる。 そして人々には、 持ち時間の消滅が近付いている。 水を失った切り花のように。+++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 以上が、古代の日本と現代の日本の一部の抜粋である。 日本人が、古代イスラエル王国の末裔であるなら、ヤハウエ神を信仰するのが本分であり、その祭祀者であるスメラミコトの天皇を尊び、文化を築き、精神を育成しなければおかしい。 1.相手に対する思いやりをもった日本語を使っているだろうか? 2.日本国が1つの家族となるように一致結束した文化を担っているだろうか? 3.ヤハウエが与えた十戒を守っているのだろうか? 4.聖書を読み込んで、教えとしているのだろうか? 5.常にヤハウエを尊び、感謝しているだろうか? 現代の日本人のほとんどが、上記とは全く逆のことをしている。 1.現代の日本人は、相手を罵るような、乱れた汚い日本語を使っている。意味もわからずに、他国の言葉を平気で用い、同じ日本人を見下し、傲慢になっている。 2.現代の日本人は、弱者救済(東北の復興)よりも強者(官僚の利権や大企業の利益)の利権拡大に走っている。 3.現代の日本人は、十戒を忘れてしまった。偶像崇拝、御利益信仰で、自分だけがよければいい、という欲を拡大し、全体がみえなくなっている。 4.現代の日本人は、聖書はキリスト教信者のものと錯覚しているのに、クリスマスだけは、利益につながるので祝うというような守銭奴に成り下がっている。また、聖書を読んでも内容が理解できない、論語読みの論語知らずになっている。 5.現代の日本人は、神社のお参りを、自己の欲望の祈願に使っている。自分たちで解決できることさえ、神に頼ろうとしている。 神のやり方を知る賢者なら、神が弱者に現れることを理解しているはずである。マザーテレサは、多くの貧しき人を助けたことで、有名だが、彼女は、助けられているのは自分である、と言ったそうである。 そして、日本にきたとき、日本は非常に貧しい国であると断言し、ホームレスの教養の高さに驚いた、という。つまり、日本という国は、アベコベの国だと断言した。 これは、日本は、出世するうちに、傲慢になり、人間としてダメになる社会といったのと同然である。実際、戦時中の日本の軍隊を、ソ連と米国が調査したところ、下士官が最も優秀で、中級クラスの将官は並で平凡、大将となる指揮官は無能と、両国とも一致したそうである。 つまり、日本社会は、中身よりも外見で出世するので、世界的に通用しないわけである。日本の技術が優れているのは、大企業が素晴らしいのではなく、大企業に技術を売って凌いできた中小企業が優れていたからで、昨今の大企業の低迷振りが、中小企業の空洞化にあることで、それを証明している。 このようなやり方がもはや通用しないのは明らかで、なんらかの弱者救済策をとらない限り、早晩大破局が訪れるだろう。バビロン捕囚と同じ過ちを繰り返すだろう。 日本の現状は、いま起きている女性芸人の問題と全く同じ構図である。女性芸人が国民で、女性占い師が、政府や官僚やマスコミである。 国民は目を覚まし、自分の頭で、自分の考えで、自分の良心から現状を切り開いてほしい!
2012年02月29日
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その1では、注連縄から、この世とあの世の境界をつなぎ、最終的に最後の審判より、閻魔様が円満で、エンマヌエルで、イシュマエルのイエス・キリストだということを、あるサイトのお陰で、古代ヘブライ語から、連想し考えてみた。 思うに、「イシュマエル」は、古代ヘブライ語では「イシュ」で、日本語の「イシ」にあたり、「救い」という意味をもつ。日本で、「石」を祀るのは、「救い」、つまり「救世主」を祀っているわけである。 だから、石に、注連縄が巻かれるのは、救世主を祭る意味なのだろう。 日本語では、石(イシ)は、「意志」でもあり、「医師」も「イシ」である。ここから、連想されるのは、「全体として1つになるのが、救い」という意味に思われる。 注連縄が、「対称性」や「全員一致」を示すのは、和の精神を示したものなのだろう。 さて、この「イシュマエル」は、「インマニエル」と読めば、「神との間をとりもつ」という意味になるが、「イシュマニエル」と読めば、「イシュ」は「救い」で、「マニ」は、マニ教の「マニ」の「マヌ」であり、古代ヘブライ語では、「神の答え」で「表明」を意味するようだ! ちなみに、マニは、英語のmanifestの語源で、「明らかな」という意味をもち、民主党が無視している公約でもある。ちなみに、festは、festivalの「祭り」や「会合」の語源で、festの日本語「ふと」は、古代ヘブライ語では、「法」の意味、日本語の「法度(はっと⇒ふっと)」となる。 だから、英語のmanifestは、日本語では、「明らかな法度」となる。古代ヘブライ語からも、公約を守らない民主党は地獄行き決定だろう! 残りの「エル」は、「神」の意味なので、「イシュマニエル」は、「救いを表明した神」、もしくは「神の救いを表明する」という感じになる。 読み方が多少違っても、再度、イエス・キリストが現れる。聖書では、アルファ(最初)であり、オメガ(最後)である人物といわれている。日本語の母音「あいうえお」の「あ」であり、「お」でもある。 「イシュマニエル」は、日本語の「一緒にいます」に聞こえなくもない。キリストも、「私は、常に人間とともにいる」と宣言したように、神も常に人間とともにいるのが、人間に良心がある証ともいえる。 イエスは、古代ヘブライ語の1つのアラム語を話していたとされている。前のその1で紹介した古代ヘブライ語のサイトによると、イエスは、ヘブライ語の聖書から、悪魔のことを、「マムシ」と呼んでいたという。 マムシは、日本では、蛇のマムシである。マムシは、古代ヘブライ語では、「マ(はじめから)ムーシ(地を這うもの)」で、「はじめから地を這うもの」の意味をもつという。 つまり、マムシは、神の天にむかって進化しない、進化から取り残された地を這う落第者ということになる。地獄を這いずり回る存在である。 「ムーシ」は、日本語の「虫」の語源であるそうだ。日本語では、虫は昆虫というよりも、「虫の居所が悪い」といったように、慣用表現に度々でてくるように、精神的な意味でよく使われ、「地を這うもの」から、恐らく「気の巡り」、つまり「気功」を表現しているように思われる。 悪魔の反対の神は、古代ヘブライ語では、「エル」だが、神々のなかでも代表的な神は、キリストが父と呼んだ「ヤハウエ」である。 「ヤハウエ」は、テトラグラマトンの「YHWH」の子音に、「アドナイ」をつけて呼ぶことから生じる。「アドナイ」と当時の人々は、神を呼んでいたそうである。伊勢神宮に納められている八咫鏡の複製にも、「YHWH」の原語があり、「我は我あるものなり」という意味をもつという。 「ヤハウエ」は、日本語の「ヤオ」の語源だという。八百(ヤホロズ)の神は、ヤハウエのことだろう。神々の代表的存在という意味なのだろう。八重桜は、「神聖な儀式」や、「ヤハウエに自己を捧ぐ」という意味をもつようだ。 サクラは、英語のsacrament(秘教の儀式)や、sacred、sacrificial(犠牲)の語源となっているそうだ。 悪魔は、神のマネをするので、神を称して、犠牲を求めるが、主たる神のヤハウエではないので、偶像崇拝に陥る。しばしば、回し者のサクラを使って人間を欺く行為をする語源にもなっている。 良くも悪くも、サクラには、犠牲という意味があるが、その大きな違いは、犠牲者が自主的に犠牲になるのか、強要、もしくは利益誘導されて犠牲になるのか、の違いといえる。要するに、全体を考えず、一面しかみていないことにある。 犠牲といえば、古代イスラエル人の祖のヨセフが思い浮かぶ。ヨセフは、兄弟の嫉妬を買い、売られてしまう。嫉妬の犠牲になったわけだが、ヨセフの名は、ヤーセフだったそうで、「ヤー」は「ヤハウエ」で、「セフ」は、「加える」、「分ける」という意味で、「ヤハウエが分け加えた」という感じになるそうだ。 ヨセフが犠牲になったお陰で、家族は助かるのだが、ヨセフは、後に北と南の2つに分かれるイスラエル国の北を代表する人物となる。イエスの父の名もヨセフだった。 ヨセフを、「ヤハウエから分かれ、人類に加えられた者」と解釈すれば、ヨセフの子のイエスの出自もヤハウエからきていることがわかる。 さて、「ヤハウエ」を、当時の人々は、「アドナイ」と呼んでいたそうであるが、「アドナイ」は、日本語の「贖(アガナ)い」を思わせる。確かに、子音「YHWH」に「アドナイ」の母音を贖って、「ヤハウエ」になるが、神秘学では、地球を「贖いの星」と呼んでいる。 地球は、贖いの星、つまり救いの星で、人類は、宇宙の進化でいえば、贖いの段階にいるそうだ。贖罪ともいうが、キリストは太陽から地球を贖罪しにきた、とされる。 では、日本との関係はどうなのか? 日本はBC660に神武天皇により誕生したとされる。神武天皇の名は、カムヤマトイワレビコノスメラミコトだという。 「カム」は、古代ヘブライ語では「神を祀る」という意味をもち、日本語の「神(カミ)」は、正確にいうなら、「司祭(祭祀)者」のことになる。本当の神は「エル」で、「ヤハウエ」や、その短縮形の「ヤー」なのだろう。だから、カムは、神を祀る人で代理のことになる。 「ヤマト」は、ヤーの真(マ)人(ト)でもあり、「ヤハウエに従う人」の意味になるという。だから、「カムヤマト」は、ヤハウエに従う人の代表者で、祭祀王となるそうだ。 「イワレビコ」の「イワレ」は、イスラエル人の祖アブラムの原語イブラムを意味し、アラム語では、ユダヤ人を意味する「イワデ、イフディ」となるそうだ。日本語で、理由を聞くときに「イワレは何?」の起源のようで、「賛美」の意味もあるようだ。「ビコ」は、日本語の「初子」や「火(日)の子」の意味らしい。だから、「イスラエルの初子」という意味をもつようだ。 「スメラミコト」は、「(神の住む)サマリアの王」という意味をもち、現在では天皇の別称である。 だから、神武天皇は、ヤハウエ神の祭祀王で、イスラエルの初子で、サマリアの王となる。
2012年02月28日
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さて問題は、以前の講義でも暗示したように、腸を通じての排泄全般は、頭部の経過と関係し、これら2つは互いに密接に関係し合っている。同様に、尿の経過全般は、心臓周辺に起こる経過と関係している。 根本的に、人間は、腸を通じる排泄全般において、珪化過程(プロセス)を模造し、尿の排泄全般において、炭化過程(プロセス)を模造している。 脳―腸(糞)→珪化 心臓―腎(尿)→炭化 更に、上述の関係は、健康な人間に起こる経過と、病気の人間に起こる経過とを結びつけている。いま腸と頭、腎と心臓の関係から、経過(プロセス)上の関係を指摘したが、ただ一面的に観察してはならない。 上述のような関係全てに精通してはじめて、以前、非常にわかりやすい方法で、シャイデッガー博士により言及された類似の関係の法則(シュタイナーの講義前に行われたそうである。)を正しく評価できるようになる。 この類似則は極めて重要な事実を含んでいる。たったいま確認したような関係の考察から得られた要素に基づき、この類似則を打ち立てることが不可欠である。というのも、たった今議論した関係の背後には、実際、人間と鉱物との関係があるからである。 一方で、いわば人間の形成を珪化で語り、また他方で、人間の解体を炭化で語るなら、生の経過(プロセス)とは、この絶え間なく人間を形成し解体する珪化と炭化の傾向のなかにある。 一方で、人間を形成する珪化の経過を見るなら、忘れてはならないことがある。それは、既に以前の講義で、その理由を断片的に暗示したが、珪化過程に類似する生体の器官は、鉛や、錫や、鉄として外界に現れる鉱物全般との親和性をもつ、という事実である。 つまり、次のような結論に至る。 「心臓より上の器官に注視するなら、珪酸形成的な作用、つまり、鉛や、錫や、鉄の作用を注視しなければならない。鉄は、肺の形成過程(プロセス)に関わり、錫は、頭部全般の形成原理に、そして鉛は、骨の局所の形成原理と非常に強く関わっている。なぜなら、骨の構造や成長は、実際、本質的には、上部組織から発され、下部組織ではないからである。」 さて重要なのは、これらの金属と、器官の形成過程がどのように相互作用しているのか、つまり例えば珪酸塩をどのように使うのか、つまり、これら3つの代表的金属と、珪酸塩がどのように類似するのか、を調べる必要があり、いわば慎重に吟味する術(叡智)を学ぶ必要がある。 更にはっきりと理解すべきことは、他方で、下部組織が、銅、水銀、銀と親和性をもち、これらの金属と類似の金属、もしくは、これらの金属を、どの程度用い、炭酸形成過程(プロセス)と結びつけるのか、ということを考慮しなくてはならない。 生体と金属との関係を明らかにすることで、天体力に起因する地上の金属の生成過程と、炭酸形成原理の影響下に、通常は岩石状の形で形成された炭酸形成の経過と、珪酸形成原理の影響下に形成された珪酸形成の経過とが、統合される。 以上のような関係から、特定の疾患に対して、生体が治癒されるように、生体に供給すべき外界にある経過等を、徐々に具体化していく可能性にアプローチできるようになる。 その際、常に注意すべきことは、それほど下位の感覚には作用しない経過等、つまり嗅覚や味覚にはあまり作用せずに、外界に向かって、本質をそれほど曝していない鉱物等は、生体のなかで、非常に希釈した形で用いることができ、対照的に、本質を、嗅覚や味覚のなかに曝している植物等の場合は、生体のなかで、それほど希釈しないで用いることができる、ということである。 嗅覚や味覚に強く作用する物質は、治療すべき病因が明確ならば、基本的に、その物質そのものが、特に、その物質が出す治癒へと向かう作用が、通常の食餌療法などにより相殺されない場合には、極めて良い薬となる。 とはいえ、上述のような事柄に更に立ち入っていくなら、少なくとも、次のようなことを考慮すべきである。 人間の感覚は、上述したように、嗅覚や味覚というように分化しているので、臭いも味も無いような物質では、困難なのは言うまでもないが、根本的にいって、人間自身の反応によって、最良の試薬を発見しなければならない。 注目すべきことは、特に医師にとって重要な一種の自己教育が行える点にある。この自己教育とは、精妙な感受能力(霊能力)を養成すること、例えば、外の自然界の珪酸形成過程(プロセス)等の感受まで導くような感受能力の養成にある。 一考すると、確かに石英は規則的な形態を、一方で見せているが、他方で、この石英が珪酸塩という岩石の形になると、この石英に親和性のある形成(珪酸形成)では、様々な結晶形態をとる傾向をもち、途方もなく多様的な結晶構造を形成することがわかる。 石英 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%8B%B1 珪酸塩 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%82%A4%E9%85%B8%E5%A1%A9 珪酸 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%82%A4%E9%85%B8 石英を含む岩石のなかに、珪酸形成過程を感じ取れる人は、多様な形態形成を生じさせるなかに、優勢となっている分裂要素を感じ取れる。外の自然では、珪酸塩は、多くの形成物を生じさせる可能性をもち、珪酸塩のなかの分裂要素を模範とすべきである。 上記のような事実は、珪酸塩を、生体内で希釈(ホメオパシー化)して用いなければならないことを示している。このためには精妙な感受能力(霊能力)が身についていなければならない。これから見ていくように、この感受能力が更に薬の評価にも通じていくからである。 他方、不可欠なのは、人間が自身を、薬の良い反応指標として、例えば嗅覚も、色彩感覚と同様に、本質的に7段階に区別できる能力にまで感受能力を修得することである。甘い匂い、刺すような匂い等に対して識別能力を身につければ、実際に嗅覚も、味覚と同様に7つに区別できることがわかる。 更に興味深いことは、嗅覚の7つの区分け、いわゆる匂いのスペクトルを修得すると同時に、可燃性の物質の臭いも自然とわかるような教育手段も獲得できる。嗅覚から、いわば可燃性の物質の本質に迫っていくわけだが、その方法については後に見ていく。 味覚に対して、ある種の感受力を身につけるなら、例えば、甘い味を、塩辛い味から、塩分をきちんと区別でき、両者の間になお、5つの味を区別できれば、自然における塩形成過程との、一種の内的な親和性を身につけることになる。 そして、上記のような内的な親和性を身につけたなら、いわば自然から得る印象をもとに、そこから次のように感じ取ることができるようになる。 外界の事物を、「これは人間の生体組織のこの面に役に立ち、あれは人間の生体組織のあの面に役に立つ」、というように感じ取れる。 様々な物質の作用については慎重で厳密な科学的調査を基礎にしなくてはならないが、それでもやはり大きな意味を持つのは、科学的な調査の成果にも、主観的な感受能力を添えることを決して無視してはならないことで、すなわち自然に対する、ある種の内的な親和の感情を獲得することである。 以上の議論を引き継いで、更に個別的なことに入っていきたい。
2012年02月27日
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以下は前回紹介したサイトの抜粋のつづきである。 軍隊での利用 多くの国の軍事教練ではマインドコントロールが多用されている。これは、施政者にとっては知られたくない事実である。行動を揃え、言動を揃える。上官への疑問や反論は絶対に許さない。人々は、軍事教練とはこんなものだと思い込んでいるかもしれない。しかし、人間をロボット化するこうした方式は、「公然のマインドコントロール」なのだ。 兵士は、何も考えず命令通りに行動する。相手が誰であれ、命令で(銃の)「引き金」を引く。そこには自分自身の感情は無く、良心や判断力の入り込む余地は無い。体が自動的に命令に反応して動いてしまうのだ。そしてこうした不自然な人間を作り出す訓練は、誰もが見慣れた光景だろう。しかしこのような行為は、神の目から見て「犯罪」である。 自己責任を取れない兵士達 ナチスドイツが敗北し、戦犯が裁かれた法廷で、兵士達はこう言った。 「我々は命令で行動したに過ぎない」 しかし、彼らの言い分は通らず、多くの司令官や司たちが死刑になった。法廷を運営していた人々の言い分はこうであった。 「たとえ命令でも、自分の良心を使わなかった者は罪人だ」 この場面を分析すれば、こういう事だ。 ナチの兵士達は、マインドコントロールで確かにロボット化されていた。自分達がその影響を受けていた事を訴えようとしていた。しかし当時は「マインドコントロール」という言葉さえ無く、そんな主張は受け入れてもらえなかった。 ここで注意すべき点を述べておこう。 ナチスの使っていたマインドコントロールを論じたからといって、彼ら戦犯達を擁護しているわけではない。戦犯をどう裁くかは、論点ではない。ここでは、ナチスの使った「マインドコントロールの罪」を糾弾しているのだ。民衆をコントロールするためにそのテクニックを使ったナチスドイツの大きな罪は、決して許されるものではない。 知っていた? マインドコントロールの存在が一般に知られるようになってきたのはごく最近の事だ。そのテクニックは確かに人をロボット化する。それで、この支配下に入ると人々の良心はねじ伏せられてしまう。 しかし連合国側は、「マインドコントロール」の力を認めれば、ほとんどの戦犯を裁く事ができない。それで、全ての主張は無視された。彼らの行った「行為」に応じて罪が決定されたのだ。しかし、裁く側が知らなかったはずはない。おそらく上層部では「マインドコントロールの実体」について理解していたはずである。ではどうしてそれが論議されなかったのだろう? 「使える道具」は裏に隠す 施政者側がマインドコントロールの存在を認めたがらないのは、それが無害だからではなく、「自分達がそれを使いたい」からなのである。 戦後になって、「ナチ式の軍事訓練」はアメリカを始め連合国に飛び火した。それは、秘密裏に採用されたはずだ。民衆や兵士をロボット化しコントロールするこうした「黄金の道具」を、暴き立て打ち捨てるほど施政者達は甘くない。 神は裁く マインドコントロールは、聖書には「酔わせる酒」として明記されている。このテクニックは、宗教団体が一番多用しているからだ。それは神の憎む「裁きの対象」となっている。自由意志を奪い、人々を組織に縛り付け、動けなくするこの卑劣な手段は、聖書では次のように表現されている。 黙示録 17:1 また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。 黙示録 17:2 地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」 黙示録 17:3 それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。 黙示録 17:4 この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。 黙示録 17:5 その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。 では、彼らのような悪意の支配者はどうなるのだろうか? 黙示録 14:8 また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」 黙示録 14:9 また、第三の、別の御使いも、彼らに続いてやって来て、大声で言った。「もし、だれでも、獣とその像を拝み、自分の額か手かに刻印を受けるなら、 黙示録 14:10 そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む。また、聖なる御使いたちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。 詩篇 75:8 ヤーの御手には、杯があり、 よく混ぜ合わされた、あわだつぶどう酒がある。 ヤーが、これを注ぎ出されると、 この世の悪者どもは、こぞって、 そのかすまで飲んで、飲み干してしまう。・・・これが神の報復である。マインドコントロールを利用した「悪人達」には、神の手から罰としての同様の酒が飲まされ、自分達が与えた害と同じ種類の害を受け取る事になる。心有る人々は、彼らとの縁を即刻断つべきだろう。 神の方法は 「自分を飾らない」 これが神の方法である。 イエスが、何とも見劣りのするロバの背中に乗って入場するという形を採ったのも、神のこの方針があったからである。 人の目の前に「侮られるような姿」をわざと晒すのは、神ヤーのテクニックである。このようにして、人の心を試しているのだ。人間は、立派な風格でだまされてしまい、無意識に値踏みを高くしてしまうからである。立派に見える人を好んで群がるファンは、本物ではない。それは神の望む「謙遜で清い心」を持ち合わせていない民衆である。彼らは「酔い」を求めて群がっているに過ぎない。 ただ、選別が終わってしまえば、神は酒を振る舞うこともある。それが人生の楽しみであることを知っているからだ。適量であり、節度を保っているなら、ぶどう酒を飲む人々を神はとがめない。
2012年02月24日
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今日本をみれば、公約無視の詐欺政権である民主党は、国民を人身御供のように、バール教を信仰する偽ユダヤの金持ちに提供しようとしている。 後で手を引いているのは、バール教信者の一団であろう。 キリストが金持ちが地獄に行くとはっきりと言っているのに、守銭奴をやめない教団は、バール教である。バール教、つまり自分のことしか考えず、他を犠牲にする教えである。 それが昨今の出来事に現れている。 1.天皇の心臓の手術 2.神隠しのような異教徒による芸能人の洗脳 3.度重なる地震 などである。 命あっての経験であり、一度地震があれば、金銭など何の助けにもならない。命の大事さをもう一度考えるべきである。 人はパンのみに生きるにあらず。神の言葉で生かされる。 その神の言葉を理解するには、古代ヘブライ語を学ぶべきである。 古代ヘブライ語を勉強するうちに、以下のサイトに出会ったことは非常に重要であった。 繰り返しになるが、以下のサイトから重要部分を抜き書きしたい。 http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/word/word.html ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 「平和ボケ」から引き返す時 日本はこうして自分達の過去を見失い、それでも民族は行くべき道を模索している。実際、この国を正しく導く手だてはまず、日本の神についての「正しい知識」を持つことから始まる。しかし、不透明な過去を歴史に持つこの民は、正しい方向に向かって力を合わせることができない。 ここでの「平和ボケ」とは、一種の「逆説」である。 大正デモクラシーでふやけた国民が、戦争が何であるかも知らずに一挙に軍拡を行い、謀略に掛かり、突っ走り、甚大な被害を出して壊滅した・・・その一連の流れを述べているのだ。 それはまるで、「武器を持とうとする子供」のようだ。彼はやがて、それを振り回したくて仕方が無くなるだろう。しかし大人であれば、自分の立場を知ってじっと座っている。思慮深い者は、「誘いに乗れば打たれる」事を知っている。 戦後の繁栄は、アジア民族の中で唯一、神からの祝福を受けたような状況であった。実際、この日本ほど恵まれた環境にある国はない。しかしその日本も、平和ボケのためにとうとう「二度目の過ち」に足を踏み出した。「再軍備」が叫ばれ始めた。 よく考えれば、あの絶妙の立場をもたらす「平和憲法」が、意味もなく偶然に備わるはずがない。これは、「高い次元からの意図」によるものだろう。状況から判断すれば、その意志は国民が平和で長続きするように望んでいる。これを汲み取るなら、再び軍国の道を歩もうとするだろうか? このように、「平和ボケ」という指摘はむしろ考えるのを止めた「軍拡志向の日本人」に向けるべきものだ。戦後の絶妙の立場と経済成長を「祝福」として与えてくれた神、ヤオヨロズ(万軍のヤー)を捨てた彼らは、軍の活用で守りが実現すると思っている。しかし、実際に日本を守ってきたのはイスラエルの神「ヤーエ(短縮形はヤー)」である。 エレミヤ書 17:5 ヤーはこう仰せられる。 「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、 心がヤーから離れる者はのろわれよ。 エレミヤ書 17:6 そのような者は荒地のむろの木のように、 しあわせが訪れても会うことはなく、 荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。 エレミヤ書 17:7 ヤーに信頼し、 ヤーを頼みとする者に 祝福があるように。 エレミヤ書 17:8 その人は、水のほとりに植わった木のように、 流れのほとりに根を伸ばし、 暑さが来ても暑さを知らず、 葉は茂って、 日照りの年にも心配なく、 いつまでも実をみのらせる。 ヤーは決して、「軍を持て」、「拡張せよ」、「世界の紛争に身を乗り出せ」・・・という声を発してはいない。それを発しているのは、日本をもう一度誘い出して打ちのめそうと構えている神の敵、「竜」の口である。 日本に防衛力が無ければ、不安かもしれない。しかし、名前を「自衛隊」と変えた絶妙の「隠し軍」がある。その軍は、「隠すためにある軍」で、外国に出て行くために備えた軍ではない。そして、それを海外に出した時、日本はトラブルに巻き込まれ、やがて世界から憎まれ孤立して行くかもしれない。それは、戦前の政府が思い知ったはずの教訓である。(挑発となる思わぬ事件は、「起きる」と想定して動くのが本当の政治だ) (テロリストは、憎しみによって行動する。そして、軍の行動はそれと背中合わせである。アメリカにすり寄って軍を派遣する日本は、そのうち標的となる。そしてまた、軍が増強され、事態は加熱する。最終的には、中東の争いが日本の中に飛び火する。・・・「軍を動かそう」と提案する人間は、これら全ての結果に責任を負わねばならない。一方、黙って座っていれば、日本は馬鹿にされはするが安全だったはずなのだ。賢い人は、どちらを選択するだろうか?) 竜の手口はこのように見え透いている。そして、竜に使われている人間達の心もまた見え透いている。役者として、「思いやり」や「勇ましさ」や「誠実さ」を演じている彼らにだまされてはならない。 やがて「御輿」が出現する時、日本の軍はどうしているだろうか?座っているか立っているかで運命は違ってくる。世界の紛争地域を飛び回る軍は、やがてトラブルの根を日本に持ち帰って来る。そして、御輿を持つ国ゆえの注目と孤立が日本にやって来る。 その時、賢明な指導者が出なければ、日本は再び壊滅を被るだろう。それは、竜の筋書きであるため、意外な展開によって実現に向かう。どんな事件が起こり、どう展開するかを知る人は誰もいない。 ただこれだけは言える。今の日本を守る力は日本に無い。どんな軍備も盟約も、無意味な空手形となる。それは日本が偶像に満ち、神の保護の手がその上に無いからである。神の打ち込んだ絶妙の楔である「平和憲法」だけが、現在の日本を守っている。 今それを崩そうと画策している人間達は、日本の神ヤオヨロズの逆鱗に触れているだろう。御輿が出る日に彼らがどうなるか、今は知ることができない。 日本に救いはあるか? 聖書予言に沿った流れがはっきり見えてきたのは、ごく最近だ。 中東では大きな政変が続いている。 日本でも、政権交代があってから、国民は新政府に望みを託した。 しかし・・・ 坂を転がるように、落ちてゆく新政権。 「せっかくあそこまで引き上げてやったのに・・・」 現在、 日本は国内の柵(しがらみ)に縛られ、 外交では「強い国」から頭を抑えられ、 「終わりの日の台頭」を阻止されているかのようだ。 国内で、どんな力が障害となっているのか? 官僚組織か? 古い政治体制なのか? いずれにしても、自力で浄化ができない日本は 「鳴かず飛ばず」の状態にある。 数々の理由が考えられる。1.日本の中に背教がある。(仏教や偶像崇拝)2.異教徒によって、天皇中心の国家体制が縛られ、壊されようとしている。3.悪事の蔓延。(政界の欺瞞、公僕の身勝手、振り込め詐欺などもなくならない)4.世を正すべき司法に不正がある。5.日本に圧力を掛ける国々の横暴。6.神の名が残されているだけ、まだまし。7.日本は、自力で国を改善できない状態。 無力感 目が覚めると、急に無力感に襲われ、生きる事への気力を失っている。・・・マインドコントロールにかかった人々には、よくこうした事が起こるらしい。それゆえ、どんなに便利で役立つテクニックだと思っても、これを使うべきではない。 ところが現在、秘密裏に・・・あるいは公然と、このテクニックは使われている。行動を規制して、「見せ掛けの行儀良し」を作る・・・というのは、多くの宗教団体でよく見かける光景だ。そしてそれらが、マインドコントロールのテクニックを使って実現されている場合は少なくない。これは問題である。上記のような、無気力な人間を量産してしまうからである。それは、精神的囚人を作る行為に他ならない。(これは聖書の比喩では「死人」と表現される) 実際、マインドコントロールでまとめられた集団は非常に行儀が良い。教祖の命令を実によく守る。しかし、どんなに彼らの行儀が良くても、それは無気力と背中を接したものだ。彼らは不幸なのである。 マインドコントロールは、人を内部崩壊させる行いであり、人の心から自由を奪う行為ゆえに、神からも許されない。確かにそれを使えば、薬物や酒を飲ませたように信者は従順になり、主催者の意のままに行動する。しかし、「酒」の実現させた従順に、どれほどの値打ちがあるだろうか?またその結果、驚くほど整然とした平和な集団を作り上げたとしても、決して自慢できる事ではない。 マインドコントロール・・・それは、聖書の中では象徴的に「ぶどう酒」と表現されている。参考のために、聖書から引用してみよう。(下記の大娼婦が宗教組識を表す) 黙示録 17:1 また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。 黙示録 17:2 地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」 「不品行」とは、神とサタンに同時に仕えようとする態度を言い表している。神の名前を使い、教えを唱えながら、サタンの奥深いテクニックを利用しているからだ。そのテクニックこそがマインドコントロールである。 マインドコントロールは、かなりの宗教団体で多用されている。それは、そのテクニックに必要な中心となる人物(スター)が最初から備わっているからである。それは、教祖であり、組識の指導者である。彼の口を通して、巧みに「規制と繰り返し」を行えば、信者達は思いのままに動き始める。 マインドコントロールを行う組識は、巧みに信者を誉めながら、実際には彼らを手荒に扱う。その一つとして、行動をスケジュールで縛る冷徹な規約がある。どんな場合も「例外」をけっして認めない。 たとえば、「集会は決して休むな」とか、「全員の義務として伝道が課せられる」といった要求がある。催される大会にも、必ず出席するよう強いられる。 集会を中心に据え、三日を開けずに顔を合わせるようプログラムを組んで教育を行うのだ。それは、「繰り返し」そのものが目的だからである。ゆえに、内容は何度も重複する退屈なものになっている。この集団には、それが必要だからだ。マインドコントロールは、繰り返しによって人々の心を縛る技術である。 この組織は、中心部への批判をけっして許さない。信者から、「批判の自由」も、「欠席の余裕」も奪ってしまうのである。それとは逆に、「あなたがたは自由になった」と暗示を繰り返す。こうした組識を見つけたら、彼らの「行儀の良さ」に騙されてはならない。それは、マインドコントロールで実現された「空虚な行儀」であるからだ。彼らは間違いなく危険を孕(はら)んだ集団だと知っておくべきである。 キリストが出現した時、真っ先に糾弾したのが、こうした「無害に見える」教団組織だった。彼はこう言った。 「この組織は外側は美しいが、 内部は死人の骨で満ちている」 「死人」とは、もちろんマインドコントロールの犠牲者とされている組織内部の民衆を指していた。マインドコントロールで実現された「品行方正」など、神は少しも喜んではいなかったのである。++++++++++++++++++++++++++++++++++++
2012年02月24日
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真事に、前回紹介した、面白いサイトにハマってしまって、古代ヘブライ語から、検索し、色々考えてしまっている毎日なので、面白さ全開気分で書き込んでみる。 言葉の杜 http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/word/word.html このサイトは、現代でいうところの生命の樹に近いものである。 そこで、このサイトを使って、思いついたことを自由に考えてみたい。 生命の樹つながりで、日本の神道の注連縄(しめなわ)を思い出す。そこで、注連縄を取り上げる。 注連縄 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A8%E9%80%A3%E7%B8%84 「しめなわ」の「しめ」は、古代ヘブライ語の「シンメ」からきているそうで、日本語の「天地神明に誓って」の「神明」でもある。「神明」は、天照大御神のことで、更に短縮すると「シメ」になるが、飲み会などの会合の最後は「シメ」と呼ばれる。 会合の最後に行われる三本締めの「シメ」は、神様に拝することを意味するのだろう。神社で参拝するときと同じように手を合わせ拍手するからである。 私見だが、拍手とは、拍子をとることで、人間ができる簡単なリズム運動である。つまり、呼吸の調整なのではないか、と思う。会合の最後に、拍手をするのは、全員の呼吸を一致させることに意味があるのではないか、と思う。 神社にいって、手を合わせるのは、自然の神様と呼吸を合わせるという調節を意味しているように思う。なぜなら、神の存在は呼吸の機能にあり、気を取り入れることだからである。時計でいう時刻合わせ、なのだろう。 だから、太陽を拝むことで、1日の呼吸を整えるということが原点なのだろう。 「神明」の語源の「シンメ」は、英語では、「シンメトリー(Symme-try)」の「シンメ」になったという。日本語では、「神明鳥」となるだろうが、英語の意味は、「対称性」である。対称性といえば、鏡が思い浮かぶ。 神明鳥からは、鳥居や、ヤタ烏が連想され、対称性からは、鏡が連想される。 神秘学で、鏡の国といえば、黄泉の国、つまり、あの世のことで、鳥居や、三本足のヤタ烏は三位一体の象徴なので、この世とあの世を統べる神のことを意味する。ヤタは、ヤハウエ神で、聖書のエロヒムのなかでの中心神である。 ちなみに、エロヒムは、古代ヘブライ語では、「エホヤキム」で、「ヤハウエ神が君臨(樹立)し給う」という意味になるという。また「エホヤキム」の「キム」は、君が代の「キム」で、日本語の「決める」や「君」になったという。 「キム」といえば、朝鮮族の「金」の姓が思い浮かぶ。恐らくなんらかのつながりがあるのだろうと思って検索してみると、新羅の王族の姓で、満州族の清も、キムと発音していたという情報にぶちあたった。満州族を検索すると、金朝に辿り着いた。きりがないのでやめるが、古代イスラエル人となんらかの関係をもつのだろう。 「エホヤキム」の「エホ」は丁寧な表現だそうで、日本語の「御」にあたるようである。大阪人が、「エライ何々ですなぁ」というときの「エライ」の語源なのではないか、と勝手に想像してしまう。おそらく、丁寧な表現が、大袈裟な表現に変化したのだろう。 「エライ」といえば、日本語の「偉い」で、「偉い神」なら「オオギミ」で、日本語の「大君」は、古くは、「エロヒム」の意味なのではないか?とも思えてくる。ヘブライ語で、神は、「エル」だから、「エルい」が転じて「偉い」となったと思われる。 さて、話を注連縄に戻し、「カラス」を古代ヘブライ語で考えると、「カタス」が、黄泉の国を表すようである。カタスは、日本語では、「片付ける」という意味にもなるし、「形」ともとれる。 だから、鳥居は、神の門で、三本足のヤタカラスは、三位一体の対称の形に片付ける神の働きで、「シンメ」は、この世とあの世を統治し、審判する基準ということになる。 結局のところ、三種の神器の八咫の鏡が思い浮かぶ。 八咫の鏡は、上のサイトによると、「ヤダー」=「知れ」、「偲べ」、「親しめ」の意味を含み、鏡に込められている意味は、「この鏡を見るときは、われ(神)を見るごとくにせよ」というもので、また、「感謝・感恩」、「頌栄賛美(しょうえいさんび)」という意味を持つ語句で、ユダヤ国名の「ヤウーダ」の語源で、日本全国の地名や神社名に残る「八幡」(ヤワダ)となっているようである。 つまり、注連縄は八咫の鏡に同じことになる。八咫の鏡には、古代ヘブライ語で、「我、ある者なり」と書かれているという。恐らくその意味は、自分のことのように、全てに親しみをもって扱い、感謝すれば、神様が現れる、ということなのだろう。 なにしろ、全てを公正に対称的に働かせているのが神様なのだから。 さて、「シメナワ」の「ナワ」の方だが、「ナワ」は、古代ヘブライ語でも、「縄」の意味をもち、「ナワー」というそうだ。また、「代々受け継がれる民族の営み」をも意味するようだ。 だから、「シメナワ」は、代々受け継がれる八咫の鏡で、公正な見方で、神への崇拝ということになる。単純にいうならば、法律のことだろう。神は、宇宙を法で動かしているから、人間は、それに見習って鏡のように、人間社会を、法で動かす必要がある。 つまり、注連縄とは、法律に思えてくる。 では、法律を犯すとどうなるのだろうか? 注連縄により罰せされると考えられる。罰する者は誰なのか? 注連縄は、あの世とこの世をつなぐ縄である。先祖から受け継がれた法である。人類の祖はアダムで、古代イスラエルの祖はアブラムである。 そこで、「アブラム」の古代ヘブライ語の意味を調べると、「アブラム」は、「ヘブライ」、「ヘブル」とも呼ばれ、原語は、「インブリ」だそうである。「インブリ」といえば、キリストが処刑されたときの十字架に刻まれた「ユダヤの王」という意味の「INRI(インリ)」を思い出させる。 余談だが、「インリ」は、「イナリ」として、稲荷神社につながるともいわれている。私見では、かつてメソポタミアの神殿といわれたイシュタルの呼び名の「イナンナ」が転じたほうをとりたいが、どちらでも、東洋の秘儀に変わりはないだろう。 で、「インブリ」の意味は、「彼方の」で、仏教でいう彼岸の「あの世」ということなのだろう。古代イスラエル人の祖のアブラムは、はじめは「インブリ」と呼ばれていたが、途中で、「インブリヒーム」と複数形になったそうである。 単数形の神「エル」が、複数形の神「エロヒム(エホヤキム)」にかわるのと同じにみえる。だから、日本の現代でいえば、アブラムは、アブラム君と呼ばれるようになったわけである。複数形というよりは、代表や象徴という意味なのだろう。 「インブリ」は、日本語の「燻る」や「いびる」に通じているようである。「追放する」という意味である。村八分というわけだ! アブラムは、追放の身ではないが、モーセも、イエスも、追放の身に遭い、モーセはエジプトを追放され、キリストは、この世から追放された。 何がいいたいかといえば、追放した者が、追放された彼方の者により裁かれる公正さ、つまりカルマのことである。ちなみに「カルマ」は、日本語の「こみ」で「関係をもつ」という意味に辿り着く。また「刈る魔」や「蹴る魔」ともとれる。ちなみに、「蹴る」は、英語の「kick」にあたる。 死後、あの世の門で、閻魔様に裁かれると誰もが聞いているだろう。この閻魔様が、実は、人類が追い出したイエス・キリストなのである。 それを古代ヘブライ語から、解き明かしたのが、上のサイトであり、閻魔とは、日本語の「エンマン」、つまり、「円満」からきたもので、古代ヘブライ語では、「インマヌ」で、「イン・マニ」で、「間に入る」という意味になるという。 誰の間に入るのかといえば、「エル(神)」で、「インマヌ・エル」となり、神に取り次ぐイエスということになる。 神と円満な関係にあるイエス・キリストなのである。しかも、イエス・キリストは、人類から迫害されたので、裁くのに、充分な資格をもっているわけである。 このことを、この世の裁判官は肝に銘じておくべきである。 では、円満に裁くというのはどういうことなのか? 円満は、円が満ちるということで、円というのは、高度な対称性をもっている。なにやら八咫の鏡を連想させる。 つまり、八咫の鏡から、この世で自分が成したことが、あの世では、逆の立場の相手の立場に立って、鏡のように裁かれるというわけなのである。だから、注連縄は、相手の立場に立って思いやる気持ちを大切にしましょう、という教えの象徴にもなる。
2012年02月23日
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古代ヘブライ語と日本語の関係にドップリとハマってしまった感じで、毎日検索して、以下のようなサイトをみつけた。 古代ヘブライ語から、日本語と英語を考えたものである。 http://www.sun-inet.or.jp/usr/hiro7733/public_html/word/word.html このサイトは、古代ヘブライ語が西側を経由して、一方で、ラテン語、ギリシャ語から簡略化されて英語になり、他方で東側を経由して、日本語へと到達したのだから、元は同じなので、末端から、改めて、語源を考えてみるものである。 また、日本語と古代ヘブライ語を考える上で、日本名がもっともわかりやすいのではないか、とも思って検索していたら、以下のサイトに遭遇した。 http://heshbonit.blog122.fc2.com/blog-entry-277.html 考えてみれば、イスラエル人の祖先アブラムやイサクやヤコブも、なんとなく日本人の名前を彷彿とさせる感じがする。少なくとも、欧米圏の名前という感じがしない。イサクなんか、日本昔話によくでてきそうな名である。 そこで、日本の姓は、古代ヘブライ語に由来するのではないか、と思ったわけである。 例えば、「タイラ」なんか、非常に面白く、タイラは、古代ヘブライ語では、「鳥」という意味をもち、トリは、トーラーが転じて「虎の巻」の語源になったと考えられてもいて、地名で探ると、チグリス川のチグリスに辿りついた。 チグリス川は細く、流れが速い川なので、「素早い」という意味で「チグリス」と名づけられたそうである。 鳥も、虎も、素早いことで変わりはない。異なるところは、鳥は空を飛び、虎は地を駆けるところである。 ちなみに、「タイラ」、つまり平氏は、桓武天皇から下賜された姓だというが、カンムは、古代ヘブライ語では、「カン」は「光」を意味し、「カンプ」だと、「闘争」を意味するという。桓武天皇は、「あめくにおしひらきあめのしたしらす」とも呼ばれたそうで、古代ヘブライ語で解釈すれば、神武天皇(モーセともいわれている)のように、意味が通るかもしれない。 また桓武天皇は、「カシワハラ」とも呼ばれていたそうで、古代ヘブライ語では、「カシ」は、「貸し」や「足枷」、「不自由」、「束縛」や「呪い」を意味し、「ハラ」は、「払う」、「適う」、「達する」などを意味し、桓武天皇の業績をみると、平城京から長岡京に遷都した挙句、更に平安京に遷都するなど、旧体制の足枷などの束縛を打破し、新体制を築いた人生などが思い浮かび、なんとも意味深い呼称であることがわかる。 桓武天皇 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%93%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87 平氏とくれば、今度は源氏だが、「ミナモト」で、古代ヘブライ語から検索していくと、どうも、「ミズモト」という訛りから、水源という意味は現れてくるのだが、いまいちしっくりとこない。「ミモト」なら、身元という意味にはなる。 ともあれ、源は、海と関係があるようだ。 源氏は嵯峨天皇を起源とするらしいから、「サガ」は、古代ヘブライ語では、「性(サガ)」で、これまた、「源」と同じ、「起源」を表す。また清和源氏が有名だが、「セイワ」は、「セイ」で、「聖」で「正しい」という意味になる。 正しいの逆の「間違い」は、古代ヘブライ語では、「サーイ」となり、「悪魔」を意味するそうだ。災難のサイだという。 さて、古代イスラエルの正統な継承者であるなら、三種の神器をもたなければならない。古代日本語でいう八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣(「草薙剣」)で、聖書でいう、十戒の石版、マナの壺、アロンの杖である。 そこで、古代ヘブライ語で考えると、十戒の石版は、「トーラー(十)の救いの教え」となり、「虎の巻」で、「トリの教え」となる。「トリ」は、英語の「ツリー」の語源で、古代ヘブライでは、「木」を、「トリ」と呼んだそうである。 神秘学に理解があるのなら、「木」といえば、カバラの「生命の木」のことを指すことがわかる。生命の木には、十のセフィロトがあるが、人智学から、生命の木とは、古代の言葉のことである。十のセフィロトが、霊語で、神の言葉で母音、それをつなぐパスが人間の言葉で、子音となる。 アロンの杖も、生命の木を思い出させるが、人智学から、これは「メリクリウス(水銀)の杖」で、生命の木の操作を意味するものと考えられる。つまり、呼吸により言葉を話すことに相当する。 モーセは、日本語では、「申せ」の意味をもち、「守り」の意味ももち、モーセは古代ヘブライ語の「ミシュ」から、「水から救われた」という意味ももち、金属のなかで常温でも水の状態の液体である水銀と一致する。 つまり、言葉を生かせ、ということなのだろう。有言実行ということである。 そして、マナの壺だが、八咫鏡が十戒の石版で、天叢雲剣がアロンの杖なので、八尺瓊勾玉になる。 八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を古代日本語で考えると、「やさか」は、八坂で、古代ヘブライでいう、「神を崇めよ」で、「にの」は、「陰陽を踏まえて」で、「まがたま」は、「完全体への克服」と解釈でき、「完全体になるために、陰陽を踏まえて、神を崇めよ!」という意味にとれる。 この八尺瓊勾玉は、韓国の国旗にあるような太極図を思い描くとよいだろう。この図は、宇宙の構造を表している。つまり、陰陽が相互に補い合うことで完全体となっているということを意味する。 だから、三種の神器の意味は、神を信仰し、共に助け補い合うように、言葉を生かし、実行にうつしなさいということになる。 また、カバラは、「か」は十字架の「架」で、天秤にかける意味をもち、「ばら」は、「ばれる」、「ばら」、または薔薇につながり、薔薇は、神秘学では、人間の血を意味し、罪ともとれるから、カバラとは、罪が明らかになるという意味になる。 生命は、声明ともとれるし、声明の木は、声明の気にもとれる。気は、宇宙を巡る神の言葉である。 まだ、探求中だが、恐らく、ノアの箱舟は、生命の木のことを表すのだと思う。聖書には、ゴフから箱舟がつくられたとあるが、ゴフが「護符」なのかどうかが、怪しい。 護符ならば、ノアの箱舟は、神の言葉を唱えることで、つくられて、アララト山に到達したというのは、アララトを古代日本語で読めば、「歩く」という意味になる。山を歩くとは人生のことなので、つまり、人生そのものがノアの箱舟そのもので、人智学でいう肉体と一致することになる。 つまり、ノアの箱舟は、人間の言葉で、三次元世界のことである。だから、ノアの箱舟とは、古代日本語でいう神輿のことで、トリとは、日本語の「とる」、神秘学でいう叡智のことで、神様、つまり良心を拝することになる。 宇宙は、神の言葉からなり、キリストが、「人はパンのみに生きるにあらず、神の言葉で生かされる」といったように、人間の正しい言葉の用い方により、神の子である人間は、神に近づいていくことができるわけである。 古代ヘブライ語と日本語の関係から、古代の叡智が理解できるのは本当に不思議なことである。日本の歴史も、この関係から考えるとわかりやすくなるかもしれない。 部分的な関係から、全体の構図がわかりやすくなるということは、宇宙全体が神により統一されている証拠ともいえる。
2012年02月22日
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さて、外界の珪酸生成過程(プロセス)は、人間の生体内に、他方の極(対極)を持っている。しかも、この他方の極は、心臓の活動より上の、肺の活動に向かって位置する器官にあり、また、生体内の器官形成の過程からいえば、肺を形成してから頭部に向かう形成過程にあたる。 つまり、心臓の活動より上で生じる経過全般のなかに、外界の珪化過程(プロセス)の対極にあたる過程がある。上部組織内の器官形成過程(プロセス)の本質は、既に、これまでの講義でも示唆したが、外界の珪化過程(プロセス)をホメオパシー化(中和)している点にある。 従って、発病の箇所が、心臓よりも上にあることがわかったら、例えば、髄膜炎や仮性髄膜炎でも少なからず現われてくる、肺の分泌が非常に強いことで、大まかな場所が明らかになるが、当然、そのような症状は、他の生体組織に別の障害をもたらす可能性がある。 髄膜炎 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%84%E8%86%9C%E7%82%8E なぜなら、生体内では、全てが相互に関連しているために、肺の障害が、心臓血管の障害にも作用を及ぼすからである。また脳の炎症として現われる傾向をもつ障害が、脳の炎症として生じずに、消化器官、もしくは消化に関係する器官の炎症として現われる可能性もある。 下腹部の器官の炎症として現れた場合に肝要なのは、そもそもの出発点がどこにあるのかを知ることである。病因については、後に述べるが、心臓より上の機能の障害が疾患として現れる場合に重要なのは、外界の珪化作用を希釈(中和)するような経過を、生体組織に供給することである。 外界の珪化の経過と、人体の上部組織の経過との関係を正しく捉えることができれば、治療の際に、非常に有益で、重要な関係となる。 また同時に、この関係から、人体の上部組織に観察できる経過が、直接、自然のなかに現れる場合は、珪酸生成過程となり、生体内では、この珪酸生成過程(プロセス)を、粉々に分割し、粉末状に希釈し、変形し、中和(ホメオパシー)していることが示される。 人体の下部組織に障害が発生した場合、例えば、心臓に障害が生じた場合、状況によっては、珪酸を多量に含む植物を溶かすか、もしくは直接用いることにより誘導される経過(プロセス)から、自然治癒を生じさせることもできる。 珪酸を含む植物が、心臓より下の人体で生じる経過に対して、どの程度の作用を及ぼすのか、また他の組織に対しても、どの程度、逆の作用をするのかも綿密に調査すべきである。 珪化の経過と正反対の経過は、外の自然では、炭酸形成[Kohlensaeurebildung]と呼ばれる経過(過程)に含まれる。炭酸形成過程(プロセス)は、いわば、珪酸形成[Kieselsaeurebildung]過程の対極に位置する。 従って、治療に際し、炭酸形成過程(プロセス)を追求していけば、今度は、これまで述べてきた上部組織の特徴とは正反対の、消化を端に発した広義の意味の消化器系統(システム)全般のなかにある経過に必須の特徴的な関係が発見できる。 従って、炭酸形成物を、特に、自然が形成する形で用いるなら、つまり、炭酸形成過程を植物のなかに獲得するなら、人体の下部組織に生じる病気の症状に対して利用できる。 さて、ここで、ある関係に注目することが非常に重要である。嗅覚や味覚において、物質が提示する性質に従って追求するなら、嗅覚は、可視的な世界から出て行かせ、味覚は、生体組織のなかの隠された世界に引き入れるが、消化を、考慮するなら、次のような結論にいたる。 「消化の経過(プロセス)のはじめの段階では、物質は溶け合い混ざり合っている。消化の経過(プロセス)が進むにつれ、その混合物の再分離へと、人間は関わるようになり、最終的には、物質よりもむしろ、経過(プロセス)の再分割がなされる。」 栄養摂取の際の、混合物の再分離こそが、生体組織の非常に大きな課題の1つなのである。 生体組織がはじめにとりかかるのは、混合物の分離であり、腸を通じて排出される物質や尿を通じて排出される物質は、排泄へと向かう。 このような混合物の再分離過程から、ある器官にアプローチできるが、この器官に対する治療には、医師の神通力(イントゥイション)が非常に問題になってくる。いまアプローチしている器官とは、人体のなかで非常に素晴らしい作用をしている腎臓のことで、腎臓は、その再分離過程(プロセス)においても、全く奇妙な分岐を成している。 しかし、腎臓についてはまた後に述べる。
2012年02月21日
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また肺の機能と密接に関係する気象的要素は、土地の組成、例えば、非常に石灰質に富む土壌なのか、もしくは石英質に富む土壌(珪質土壌)、つまり始原岩層か、といった土質にある。 住む場所の土壌環境に応じて、かなりの程度まで、肺機能は異なる。肺は、本質的に、その土地の固体的な土壌の性質に左右されるからである。実際、開業医の最初の課題の1つは、開業地域の地質を徹底的に研究することにある。 地質研究は本質的に、肺機能の研究に他ならない。従って、環境に全く適応できない肺は、かなり不利となることを明確に知る必要がある。 さて、肺機能と地質環境との関連で述べた事実を誤解して欲しくないので、再度、この肺の地質環境との依存関係を確認するが、環境に依存するのは、肺の内(機能)的構造のことで、呼吸機能のことではない。 当然、呼吸もまた、肺の内的な構造に起因し、呼吸機能を良く、もしくは悪くさせる。しかし、地質に本質的に依存するのは、肺が硬化の傾向をもつか、もしくは粘液(軟)化の傾向にあるか、というような肺の内的な構造である。 しかし、上記の気象的要素に加え、肺は、肉体的な作業にも非常に左右されるので、過労となるまで肉体労働をすれば、間違いなく肺が損なわれる。 以上のような、外界の熱と心機能、外界の空気と膀胱の機能、外界の水と肝機能、そして、外界の土と肺機能という関係が、心臓、膀胱、肝臓、肺のような生体内の器官から、外の気象的要素に向かって開かれているという広義の意味での依存関係へと導いていく。 従って、上記の器官に発病があったら、物質的な治療法の獲得を常に試行すべきである。というのも、上記の器官に発病があれば、外界に通じる物質的な治療法は持続し、有効だからである。例えば、肺が弱く、その土地に全く馴染んでないことが確認されたなら、別のもっと肺に合った土地に移動し住めば、実際、最良の物質的な治療法となる。 肺と同様に、肺より上部に位置する器官のためには、住む場所や生活様式を全く変えることでしばしば素晴らしい成果をあげることができる。逆に、心臓より下部に位置する器官に対しては、住む場所や生活様式の変化によってはそれほど成果をあげることはできない。 ただ、生体においては全てが相互作用を行っているので、何らかのものが存在していたなら、隠れた相互作用が存在していないかどうか、調べる必要があることは言うまでもない。 例えば、心臓の血管に退縮が見られたら、次のような疑問が生じないといけない。 「肺の退縮傾向も存在していないか、この肺の退縮傾向から、この病気を把握しないといけないのではないか?」というような疑問である。 この疑問には、少なくとも、人間と気象的要素との関係全般が暗示されている。外界では、天体的作用(天体力)は、気象的作用(気象力)の背後に、気象的作用(気象力)に覆われた形で存在し、人間内にも天体的作用(天体力)が存在している。 さて、生体内での気象的経過は、肺や肝臓や膀胱や心臓の機能として現われ、外界での気象的経過は、固体としての土壌、気体としての空気、液体としての水、そして熱として現れるが、人間の内と外で確かめられる、これら気象的経過の背後にある経過は、植物や鉱物の形成(生成)過程(プロセス)である。 そして、上記のように、地球の外の天体力に近い、この植物や鉱物の形成(生成)過程(プロセス)と、常に対極的に配置されている生成過程(プロセス)が、人間のなかの気象的経過(プロセス)の背後に存在する生成過程で、つまり、先に挙げた肺、肝臓、膀胱、心臓という4つの器官よりも更に内部に向かって配置されている霊的器官(チャクラ)である。 しかし、外界の植物や鉱物(石)のなかに存在する生成過程と、人間の肺や肝臓等の背後にある生成過程との関係は、対極的関係をもつとはいえ、それほど密接ではないので、肺や肝臓等の背後の生成過程の領域に由来する治療の研究は、実際、非常に困難である。 しかし、人間は、何らかの形で常に、外界で生じている経過の反対の経過を、生体内のどこかで成し遂げるという傾向、つまり、そのような傾向を、器官内部にもつ、という事実をはっきり理解することによって、合理的な治療法を発見できる。 具体例を挙げる。珪酸生成過程(プロセス)[Kieselsaeureprozesse]の例である。珪酸生成過程(プロセス)は、第一に、珪酸塩[Silikate]が形成される場所や、石英やそれと同類の岩石が形成される場所に、非常に顕著に現われる。 上記のような外界の珪酸生成過程(プロセス)に対応する過程が、人間の生体内にもある。しかし、この珪酸生成過程(プロセス)は、更に、ある経過の基礎を成す。残念ながら今日では、ほとんど考慮されていないが、この経過とは、植物が育つ土地のなかの経過、つまり、珪質土壌と、植物の根との間で生じる経過全般である。 従って、植物の根を燃焼させて、灰を取り出すことで、植物から得られる成分全般は、外界の、この珪酸生成過程(プロセス)と密接な親和関係にある。
2012年02月21日
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しばしば、訪問させていただいている忠武飛龍さまのブログにまた触発されてしまったので、改めて、古代イスラエルと古代日本の関係を考えてみたい。 以下のサイトから、失われた古代イスラエルの北の十部族の一部が、古代の日本にやってきた可能性が非常に高いことがわかる。 http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-592.html http://www.naritacity.com/journal/japan/ http://www.saturn.dti.ne.jp/~ttshk/mokuji.htm 特に2番目のサイトの、日本語と古代ヘブライ語の比較は、非常に面白いです。 現在の日本語は、明治維新政府が成立したときに整えられた言葉が標準語になっているわけで、江戸より前の日本語とは異なるので、地方の祭りで話される訛りや皇室言葉に、古代イスラエルの源流を求めると非常に面白い。 一部を紹介すると、例えば、天皇は「スメラミコト」と呼ばれるが、スメラは「サマリア」と読めるし、日本語では「住める」とも読める。或いは、「サマリア」から、「サムライ」とも読めるわけで、「ミコト」は、漢字では「命」があてられるので、「サムライ命」ともなる。 「ミコト」は、古代ヘブライ語では、古代イスラエル部族のガド族の出身という意味にもとれ、ガド族は、祭祀を司っていたので、神を祀っていたわけで、人智学でいう秘儀参入者のことで、神の言葉を解する王冠ケテルを受ける者なので、王冠の烏帽子を被る存在で、「王」という意味にもなる。 古代の王とは、神の言葉を解する能力のことなので、神の言葉を解して、命令を伝えるわけだから、「ミコト」とは「命」そのものでもある。 だから、「スメラミコト」とは、「サマリアの王」で、スメルから「シュメールの王」という意味にもなる。 上記の2番目のサイトによれば、「スメル」つまり「シュメール」は、スム・エルで、古代ヘブライ語では、「神を祀る」という意味があるというから、「サムライ」の本来の意味は、神を祀ることになる。ぶっちゃけていうなら、「謙遜する」ことなのだろう。 思うに、最近は欧米文化が入ってきて、非常に怪しいが、日本の社会こそ、謙遜を大事にする風習や礼儀を守ってきた社会はないと思う。 日本の王の天皇といえど、他国の王族の暮らしぶりに比べると非常に質素である。ブータンの王も比較的に、非常に質素といえるが、庶民の貧しい生活を常に見守っているという意味もあるだろう。王族が贅沢な暮らしをすれば、嫉妬が湧くのが人情である。 神の言葉を解する者が、人間の気持ちを理解できないはずはない。 昔、古代エジプトのヒエログリフを少し勉強したことがあった。いまでは、ほとんど忘れてしまっている自分の記憶のなさに驚かされるが、このブログに書いておいたことだけは記憶していたので、検索で探すことができ、ブログの有り難さを実感している。 http://plaza.rakuten.co.jp/5dolphin/diary/200706140001/ 古代エジプトのファラオ、つまり王は、ヒエログリフでは、「大きな家」という意味の文字で表す。大きな家とは、大きな収容力を担う器である。また、ヒエログリフでは、羊飼いの棒、杖のような記号の文字で、ファラオを、「統治者」と表記する。その意は、絶えず羊の群れを導き、一匹でも迷子にさせないような、「良き羊飼い」のことであるという。 まるで、キリスト・イエスのことともいえる。 簡単にいうなら、その国の王をみれば、その国が、神様のいうことを聞いているか、全く聞かずに悪魔に唆されているかがわかる。王のいない国は、元首の生活をみれば一目瞭然である。 同じ民族が飢え死にしかかっているのに、自分だけが贅沢をしているような元首の国などは、潰れて当然だろう。 そのようなことが、古代エジプトのヒエログリフのなかに、すでに刻まれているわけである。 さて、本題の、古代ヘブライ語と日本語の関係だが、まるで兄弟のように思えてくる。 特に、上記の2番目のサイトから、日本語のイロハ歌やサクラの歌、更には、国家の君が代が、キリスト・イエスのことを述べていることが明らかになるからである。 とすると、天皇とは、神を祀るという意味で、イエスの直系の子孫なのではないかと思えてくるから不思議でもある。 少なくとも、キリスト教信者でもないのに、クリスマスを祭る日本人の精神がどこからくるのかがわかる。 かつて、メソポタミアの土地には、イシュタルという神殿があったということは、ギルガメッシュ叙事詩からわかるところである。その東洋の神殿を、再興しようとしたのが、アレクサンダー大王だった、というのが、シュタイナーの見解である。 イシュタルは、シュメール語では、イナンナと呼ばれていたそうで、日本語では、「イネ」、「イナリ」を彷彿とさせ、古代メソポタミアのイシュタル、つまりイナンナ神殿が、現在のお稲荷さんになったのではないか、とも思わせる。 イシュタル http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%83%AB イナンナ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%8A 稲荷神 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E 信じるか信じないかは、あなた次第だが、日本語と、古代ヘブライ語の駄洒落研究は非常に面白い!
2012年02月18日
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さて続いて、膀胱の働きが不十分なために生体組織に出現する疾患全般にうつる。このような疾患全般に対する記述表現が、素人じみているようにみえるかもしれないが、今日の科学よりも、真実に近い表現である。 膀胱は本質的に、1つの吸引機能である。膀胱は、人間の生体組織に、いわば空洞化[Aushoehlung]の作用をもたらし、吸引を行う。膀胱は根本的に生体組織の空洞化に依拠している。 膀胱が、他の生体組織に行う作用は、水中のガス(空気)球の作用と同じである。ガス(空気)球のガス(空気)は、物質が希薄化した気体から成り、ガスの外(球)面は、水や濃密な物質に取り囲まれている。 膀胱が生体内で及ぼす作用は、水中や濃密な物質内の希薄化したガス(空気)球から生じる作用に類似するので、膀胱がもたらす作用に人間が煩わされるのは、次のような場合である。 よく噛まずに飲み込んだりして、内的な運動を正しく行う機会が少ない等の食事を正しく行うことの配慮がなく、また、消化の最中に、適度の休息や運動の節度を守らずに、消化の経過全体を妨害する場合である。 内的な運動の妨害行為全般は、膀胱の正しい機能を妨げる。 さて、膀胱に、ある不規則性が予感できたら、活気をもたらすような何らかの運動が推奨できるが、内的な運動で調整しようにも、当人の習慣から、運動を受け容れたがらないものである。 運動が困難な場合、次のようなことがよい。よく噛まずに飲み込んだりして、消化を妨げることで、身体に必要な休息を与える傾向を持たない人を、気象的に治療するというか、例えば、酸素の多い空気のなかに連れていくような試みがよい。 酸素の多い空気のなかでは、通常よりも多く呼吸せざるを得なくなる。つまり呼吸に対し無意識に慎重にならざるを得なくなる。呼吸に慎重になれば、呼吸の経過(プロセス)の調整となり、他の器官の経過(プロセス)の調整へと移行する。 従って、上記のように膀胱の不規則な機能に悩む人を、人為的か、望むらくは自然に、酸素の多い空気のなかに連れていけば、呼吸の経過を変えるなどの生活様式の変化により、端的に、ある種の均衡がもたらされる。 特に重要なのは、広義の意味での、外界の気象に関係する第3の器官に注意を払うことである。その第3の器官とは肝臓である。生体のなかで一見、外界とは遮断されているように見えるが、肝臓は高度に外界に組み込まれている。 しかも、肝臓が外界に組み込まれている事実は、肝臓の状態が常に、周囲の気象、つまり水の状態に左右されることで確かめられる。ある場所の住人の肝臓の状態を正しく見るには、その場所の水の状態を常に調査する必要がある。 味覚は肝臓の発達を促進させるが、過度になると、肝臓を退縮させる。過度の飲食は、肝臓を退縮させるのと同じである。口蓋と舌に限定される内的な飲食というべき経過が、楽しく共感的、もしくは不愉快で反感的な、いずれかの食事として、内面へと継続され、肝臓の成長や退縮をもたらす。 以上の事実に注目し、この事実を確かめるのは実際、非常に困難だが、肝臓の機能に何らかの支障がある人の味覚を研究し、味覚のなかに、習慣から生じた何らかの特性をみつける試みが重要となる。 肝機能と生活環境の水質との内的な依存関係を徹底的に研究することは、関係が非常に精妙なので、非常に困難だが、例えば、石灰を多量に含む水質環境と、石灰をほとんど含まない水質環境とでは、異なった肝臓疾患が発生することにも配慮する必要がある。 周囲の水質環境から、できるだけ石灰を遠ざけることで、肝機能の促進を心掛けると良い。勿論、その手段と方法を見つける必要がある。 水酸化カルシウム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%85%B8%E5%8C%96%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A6%E3%83%A0
2012年02月16日
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生体組織の背後にある経過を、今度は、広義の意味の外界の環境、つまり気象的な作用[das Meteorologische]と関係づける必要がある。 従って、治療に際しては、薬物の作用のみに目を向けるのではなく、治療の経過そのものを追求し、人間と、広義の意味での気象的作用による経過(プロセス)との間に成立する関係にも目を向ける必要がある。 生体組織の背後のなかに、天体の力として深く組み込まれている経過と、気象的作用として深く組み込まれている経過を区分できる。とはいっても、正確な観察法が必要となる。 上記のような区分が必要というのは、はじめは、ショッキングに思えることかもしれないが、治療の最良の基礎的な指針になることが、次第に理解できるようになるだろう。 天体の力に属する霊的な器官と同様に、気象的作用に対して、生体組織背後の経過に関する様々な器官に目を向けるなら、気象的な経過を背後にもつ器官は、特に肝臓や小嚢状器官の代表である膀胱で、膀胱は、病理学的意味でも重要である。 奇妙に思えるかもしれないが、病理学的な観察では、膀胱は最重要器官の1つである。 更に、肺に注目すべきである。肺は呼吸を中継することで、外界に向かって開いている。更に、外界の気象にむけて開く器官の1つに数えるべき器官は、これまでの観察から述べてきた事実を正しく受け取るなら、ある意味で、組織全体を、外界に向けている器官として即座にわかるが、心臓である。 以上の器官は、実際、特定の気象との関係から組み込まれる経過をもつ。この器官と気象との関係の意味を研究するには、人間と周囲の世界との関係全般、特に人間の活動と周囲の環境との関係のなかに迫っていく必要がある。 例えば、心臓の障害に関する疾患全般の要因を、徹底的に調査すれば、周囲の環境に対する活動の妨害に帰せられることが指摘できる。 例えば、畑を耕す農夫の日常の活動とほとんど変わらない生活と、例えば職業上、頻繁に自動車に乗ったり、頻繁に鉄道旅行をする生活とを調査すれば、心臓の働きが異なって形成されることがわかる。 上記の点などについて一度徹底的な調査を行なえば、極めて興味深い結果が得られる。なぜなら、心臓疾患への傾向は、要するに、自動車や列車などの外的な手段によって動かされている間、そのなかで、自分が座ったまま移動させられることに依拠する事実がわかるからである。 (エコノミー症候群や、心筋梗塞等の発生などで明らかになっている。生まれた土地の神様を信仰する風習は、日々信仰する行為を通じて、心臓の健康な形成を保つために慣習化された、古代の智恵かもしれない。 静脈血栓塞栓症 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E8%84%88%E8%A1%80%E6%A0%93%E5%A1%9E%E6%A0%93%E7%97%87) 上記のように、自動車や列車などの受動的な運動に身を委ねることは、心臓のなかに滞留する、外界や生体内の、あらゆる経過(プロセス)を変形させてしまう。 さて、以上のように、生体内で起こる事象全般は、人間自身が、生体内を温める活動と関係している。以上の事実から、心臓の働きと、人間が関係する外界のなかの熱の流れとの親和性に気づく。 以上の事実から、人間が活動により十分な熱を発生させると、この発生熱のうちの一定の割合が、同時に、人間の心臓の健康を保つことがわかる。従って、心臓疾患に対して常に注目すべき事実とは、自身で運動を体験し、熱を発生させることにある。 これから、15年ほど経てば、上記のような事柄について、現在(1920年)よりも冷静に考えられるようになり、次のように言う人も出てくるだろう。 「不思議だ、オイリュトミーで心臓の働きが良くなるなんて!」 オイリュトミー(シュタイナーの考案したダンスのような体操)は、本質的に、魂を通じて、自身の運動を、規則的に調整するからである。 つまり、「心臓機能の不規則性といった問題では、他ならぬオイリュトミーから得られる健康運動や、人智学的観点から、言及すべきである。」 (エコノミー症候群には、オイリュトミーではないが、規則的な運動が予防策として現に考案されている。)
2012年02月15日
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前回の議論は、人間の生体組織からの、人間の外の自然へのいわば一種のアプローチだった。そして、嗅覚、味覚という2つの感覚が働く場合に存在する相互作用を通じて、人間の生体組織が、人間の外の自然で起こっている経過と密接な関係を持つことがわかった。 以上のように人間と外の自然との関係を探求する理由は、治療法と生体の組織化の過程(プロセス)が密接に関係している、ということが、人智学にとって、重要だからである。 治療に際し、本質的に重要なことは、人間が、身体に供給する化学的、生理学的、物質的作用のいずれであれ、それを及ぼす経過のなかに、また、健康な状態の生体組織ならば遂行され、病気の状態では遂行できない経過のなかに、治療への要因(糸口)を見通すことである。 つまり、外界で起こっている経過(プロセス)と、人間の生体組織のなかで起こっている経過(プロセス)とを一緒に考察できなくてはならない。 さて、この外と内の両経過(プロセス)が最接近するのは、嗅覚や味覚という知覚が問題になるときである。他の感覚では、この外と内の両経過(プロセス)は互いに遠く隔たっている。例えば、視覚と消化では、外と内の両経過(プロセス)はかなり隔たっている。 現在理解されている狭義の意味での消化は、口のなかで食物を噛む経過と、腸腺による加工との間で起こる経過である。この狭義の意味だけを、消化とみなしたい。一方、一見、消化と思われるような他の経過は、排出(空にすること[Entleerung])の機能の領域とみなしたい。 外界への排泄[Ausscheidung]と呼ばれる排泄はもとより、栄養を摂取するための生体内での排出についても、排泄とみなす。従って、様々な腺による消化の経過とは全く反対側にある経過を排泄と呼びたい。 さて、目の前にある外界の物体は、視覚に目を向けるなら、嗅覚の経過(プロセス)と味覚の経過(プロセス)から明らかとなる特質を、物体内部にいわば閉じこめ、表面だけを曝している。嗅覚の経過(プロセス)で知覚できるような、外の自然から取り出される特質が、物体内部に多く潜んでいる。 視覚では、外界の自然の物質内部に、特質は閉じこめられて見えるわけで、物質の形態等の可視的特質を見ることで、視覚から、外界の形成原理の知覚を獲得する。嗅覚の経過(プロセス)では、物質の素材的特質として開示されている形成原理を獲得するわけである。 嗅覚に開示される本質は、植物界、鉱物界にまで追求すれば、嗅覚に現れる形成原理が、外界の形成原理として開示されていることがわかる。 以上のような形成原理の反対(対極)の経過(プロセス)は、他ならぬ消化の経過(プロセス)である。消化の経過(プロセス)は、いわば味覚時に開示される形成原理を自らのものにする。消化の経過(プロセス)は、味覚時に開示される形成原理を、人間の生体組織の内部に(上部組織に知らせずに)逆に隠すことになる。 外の自然を、人間の無意識(潜在意識)のなかに記述せざるを得ないことの指摘は重要である。というのも、宇宙全体を構成する関係は、人間のなかにも存在しているからである。 人間内部には、土星や木星等の天体も組み込まれているが、天体との帰属関係は、人間の生体組織の極めて深い場所に隠され、今日的な表現でいうなら、天体の力は、無意識下に眠り、多くの場合、生体組織の背後にある経過(プロセス)となっている。 さて、この生体組織の背後にある経過を、ある種の方法で、再び開くことが可能な様々な霊的な器官(チャクラ)も、人間は持っている。この生体組織の背後にある経過を、ある形で再び開くことが可能な様々な霊的な器官は、地球の周囲を巡っている天体に関係づけられる。
2012年02月14日
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対処 情報操作に対しては、様々な対抗手段がある。 情報源との意識的遮断 テレビ、新聞等即時性の高い媒体の閲覧を一時的に停止し、書籍のみに目を向けるようにする。停止中は、物事の観察力が向上するが、時事問題に疎くなるという短所がある。 専門的情報源の閲覧 専門的な問題に関しては、その分野の専門家の著作等を読んだ方が良い。ただし、その専門家自身が既に情報操作の影響を受けている可能性もある。 危険性 危険性は大きく分けて情報操作の直接的な影響によるものと間接的な影響によるものに分けられる。 直接の影響 情報操作により誤った結論が導かれ、それに基づいて対象者が行動するというのは、情報操作の一番顕著な影響であり、危険性である。特定集団の利益になるため、情報操作が行われる場合は、より多数の集団の損失を伴うことが多く、情報の検証が欠かせない。しかし情報操作により、常に操作側の意図している通りに対象者が行動するわけではない。対象者の信頼が低い場合、情報操作を常に疑われるため、意図する方向と逆に行動する場合がある。 操作側にも情報操作の危険性が存在する。情報操作に成功したと認識された場合、実際には失敗していても情報操作を続けようとする可能性が高い。現実と内容の乖離が続くと、情報操作側が、操作しているはずの情報を事実だと認識し、行動するようになる場合がある。最終的には、客観的な事実を陰謀や党派的な主張、あるいは差別など主観的な論理から批判するようになる。 間接の影響 情報操作の成功、失敗に関わらず、後の検証で情報操作が発覚した場合には、一般的に操作側に対する信頼性が低下する。失った信頼性を取り戻すのは容易でなく、再度の発覚後は回復に必要な時間は大幅に増加する。このため、常に情報操作を行うのではなく、必要な時だけ行い、それ以外は避けて真実を報道し続けることが最も効果的な情報操作である。 情報操作の対象外である集団から、情報操作を認識することは比較的容易であり、多くの場合は双方に対する信頼性の低下という形で表れる。(以上はWikiより解説・編集) 共同通信社とは? 1901年に設立された「日本広告」と、1906年に設立された「日本電報通信社」が前身(ともに創業者は同じ)。1907年に両者は合併し、広告業とニュース通信業を行うものの、1931年に国策によってニュース通信部門が同盟通信社に譲渡され、広告業のみとなった。しかし同名通信社との縁は続き、戦後に共同通信社、時事通信社に分離したあと、両者は電通の筆頭株主となっている。 このシナリオを書いているのは誰か? オバマの演説から「忠誠・愛国心」の部分を抜く翻訳をした共同通信 オバマ大統領の演説から「忠誠・愛国心」の部分を抜く翻訳をした共同通信 http://s03.megalodon.jp/2009-0121-1356-44/www.47news.jp/47topics/e/88181.php われわれの試練は新しいものかもしれない。それに立ち向かう手段も新しいものになるだろう。 しかし、われわれの成功は、勤勉、誠実さ、勇気、そしてフェアプレーにかかっている。昔から言われていることだが、その価値は本物だ。 原文文章 http://www.nytimes.com/2009/01/20/us/politics/20text-obama.html?pagewanted=3 Our challenges may be new, the instruments with which we meet them may be new, but those values upon which our success depends, honesty and hard work, courage and fair play, tolerance and curiosity, loyalty and patriotism -- these things are old. 全文和訳といいながら なぜかloyalty:忠誠 patriotism:愛国心は消されている。 ※ネット上の疑問の声をうけ、その後いつのまにか修正され今は「忠誠・愛国心」も追加されている。 http://www.47news.jp/47topics/e/88181.php (訂正の説明や謝罪はない) アメリカに限らずどこの国でも当然のように用いられる「忠誠・愛国心」という言葉を避ける、ここにもマスコミによる過剰な何かへの配慮が働いている事が伺えます。 発言の一部を削除する手法は常套手段です。 信じる者は救われない ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 以上が転載だが、第一の対処としては、情報を鵜呑みにしないことが重要である。 100%信じるのは非常に危険を伴うから、大まかにいえば、情報は、相手に信じさせることを意図したものと、逆に信じさせないことを意図したものに大別できる。 問題は、何%信じるかのサジ加減である。 そこで、その目安として、哲学的対処法を提案したい。 それは、なんのことはないヘーゲルの弁証法を用いたものである。 情報が与えられたら、それとは正反対の情報を考案する。逆の立場をとってみる。 情報のあら探し、矛盾点を挙げてみる。これがいわゆる正反合の反にあたる。 そして、あら探しや矛盾点から、自分のこれまでの経験から情報を補完してみる。 これが合にあたる。 情報というのは出所と裏に隠された部分を探り当てるのが重要であり、情報は単なる、その切欠にすぎない。 この正反合の情報処理を続けると、自ずと直観力が働いてきて、無視すべき情報と、重要な情報の嗅覚のような感覚が身についてくる。 下らない情報は、まずは無視するに限るが、下らないとわかる情報をわざわざ出してくるところに、情報出所の意図があり、隠れた情報があることに注意すべきである。 無味乾燥な情報では全く意味がない。情報の断片から、書き手や伝達者の感情やイメージが湧き上がらないと、情報処理に価値を見いだすことは全くできない。 だから、例えば、統計的手法を用いた情報が、感情が全くみえない機械的なものなので、それ自体、全く価値がない情報操作を意図したものであることは明らかなのであるが、しばしば、新興宗教の教義のように用いられるので、その情報操作の意図を探るのには、その情報の逆を考えれば明らかで最も利用価値がある。 しかも、馬鹿の一つ覚えのように、統計的手法を何度も使ってくるので、その意図が逆にミエミエになってくる。統計的手法は、いずれにしろ、静止を想定した線形解析にすぎないものなので、新興宗教の道具にはなるが、人間から、思考力を奪い、精神を腐敗させる機械的な道具といえる。 統計的手法ではないが、例えば、共同通信社のオバマ演説から、「忠誠・愛国心」の翻訳が抜けた意味を考えることは、オバマ演説の内容よりも、発信者の意図がみえ、重要な情報となる。単なる不注意だとするなら、共同通信社のマスコミとしての責任の軽さが明らかになるわけで、怠慢となる。 意図的に抜かしたのなら、日本国民には「忠誠・愛国心」が不要のものと共同通信社が考えたわけで、オバマが米国国民に向けたもので、日本国民などを想定していなかったことも明らかになる。しかも、「忠誠・愛国心」を削るということが、ルールのように存在するのなら、その意図を明確にする必要がある。 例えば、「忠誠・愛国心」という言葉は、沖縄米軍基地問題を連想させるに充分である。 このことから、共同通信社が、米国の軍事的支配に報道面で協力していることがわかる。 情報は、その言葉通り、情の伝達であって、情のない情報など無価値そのものでしかない。 現代の情報戦においては、何を流したのかではなく、どうやって流されたのか、が重要となる。 共同通信社からの同じ内容でも、朝日と、読売では、流され方が異なるわけで、流され方は、新聞を買うかどうかに無関係なので、もはや新聞の内容は重要でなく、流され方の情報が有用になってくる。伝達経路が問題となるわけである。
2012年02月14日
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久しぶりに、シュタイナーの講義の要約以外の内容を書き込む。 というのも、このブログにもよくコメントをくださる播州武侯祠遍照院さまのブログに訪問している間に、以下の非常に面白くためになるブログを発見したからである。 徽宗皇帝のブログ http://dorian.en-grey.com/ このなかの情報操作に関して、全く同意なので、勝手に転載したい。そもそもは、私もよく参考にさせていただいている井口博士のサイトからの引用であるが、現代社会では、あまりにも詐欺的な情報工作が平然と行われているので、哲学的観点から、その対処法を考えてみたいと思ったからである。 では、情報操作の手法を転載する。 情報操作の手法 この本はKGBというタイトルでLeninからGorbachevのことが書かれている。著者はChristopher Andrew & Oleg Gordievskyであるが監修をしたのは管理人の友人で元KGB・CIAのアナトリー・ゴリツインであるがその名前は本には出てこない。 1993年5月13日故クリストファー・ストーリーが盟友のアナトリー・ゴリツインから聞いた「KGBの裏側」に関する極秘メモで裏表二枚にぎっしりと書かれている。 映画にもなったスパイもの「フェアウエル事件」 レーガン・ミッテラン協定とレオ・ワンタ事件は映画になることはない 旧ソ連共産党の手法を例に挙げる。なお、これらの手法はソ連共産党に限らず、どのようなグループにおいても用いられ得る。 匿名の権威(ロシア語:Анонимный авторитет)「消息(信頼すべき)筋によれば…」等のフレーズで始まり、記事の内容に権威を与えることを目的とする。この「筋」の名前は決して明かされることは無い。 日常会話(Будничный рассказ) 暴力、殺人等、人々が否定的に受け取る情報をあたかも日常会話のように記述し、心理的習熟効果を発生させ、反応を麻痺させる。 ハンガー・ストライキ(Голодовка) 本来は抗議手段であるが、現代のハンガー・ストライキはマスコミと密接に連携して行われる。 泥棒捕り(Держи вора) 何らかの事件に対して批判・責任を問われる筈の人物が、他者に先駆けて事件を批判し、国民の怒りを他方向に向けさせる。 撹乱(Забалтывание) 大量の誹謗中傷を流し、事件そのものに対する関心を低下させる。いわゆる情報ノイズ。(管理人注:やっているのはHungarian Black Intelligenceやその下請け) 感情共鳴(Эмоциональный резонанс) デモや集会等における群集の扇動。群集を理性ではなく、感情レベルで反応させる。 感情整列(эмоциональная подстройка) 一定のシチュエーションを用意して、群集の感情を均一化させる。 ブーメラン効果(Эффект бумеранга) 国家権力により弾圧・迫害されることで、「自由の闘士」というイメージを作り出し、官営マスコミの報道を逆用する。 ハレーション効果(Эффект ореола) 政治家、芸能人等の著名人の横に並ぶことで自分の信用を高める。 一次効果(Эффект первичности) 最初に発信された情報は、後発の情報よりも優先され、信用されやすいという原理に基づく。 プレゼンス効果(Эффект присутствия) 事件現場から発信される情報は、人々に現実のものと受け取られやすい。臨場感を演出するために、しばしば、やらせが行われる。 管理人注:自ら事故現場まで足を運び,庶民の味方であるように装う(平凡化)。 情報封鎖(Информационная блокада) 軍事行動や刑事事件の際に情報の流通を制限又は停止させる(報道協定など)。情報支配と密接に関係しており、当局の一方的な情報が流される。中国・北朝鮮・ビルマ・イラクでは、国全体に情報封鎖がされている。またサウジアラビアは外国メディアの内政取材を一切許さない。 仲介者の利用(Использование медиаторов) 集団に対して情報操作を行うために、その集団のオピニオン・リーダーに狙いを定めて工作する。しばしば、オピニオン・リーダーは金品等で買収されることもある。 分類表(Классификаторы) 決まりきった単語、フレーズを使用することで、事件がどのようなものなのか分類してしまう。 コメント(Комментарии) 人々を一定の方向に誘導するために、事件に対する解釈を付け加える。 事実確認(Констатация факта) 一面的な事実を提示して、世論を誘導する。 虚偽類似(Ложная аналогия) 世論操作に都合の良い「原因-結果」の因果関係を作り出す。 フィードバック(Обратная связь) 予め特定の結論が得られるような質問を作成しておき、一般の視聴者の回答を受けて、視聴者全体の意見に偽装する。テレビの電話投票やネット投票等。 側面迂回(Обход с фланга) 主題とは無関係な記事の正確性を期して、記事全体の信憑性を高める。真実に紛れれば嘘の信憑性は高まる。 注意転換(Отвлечение внимания) スローガン等を駆使して、世論の注意を別の方向に向けさせる。 事件の目撃者(Очевидцы" события) 事件の目撃者を証言させ、感情共鳴を引き起こすことを目的とする。目撃者は、しばしば、プロの俳優であることがある。 歴史の書き換え(Переписывание истории) 国家、民族全体に対する長期的な情報操作。 観点の偏り(Перспектива) 紛争の報道において、どちらか一方の主張のみを取り上げ、他者の立場を無視する。いわゆるスピン。 反復(Повторение) 同じフレーズを反復して、人々の記憶に刻み込ませる。嘘も 百回言えば真実となる(ヨーゼフ・ゲッベルスの言葉)。 すり替え(Подмена) 否定的な意味を有する言葉を受け入れ易い言葉に置き換える婉曲的手法。たとえば、テロリストはレジスタンスとなり、略奪行為は抗議デモと報道される。 半真実(Полуправда) 虚偽の中に一面的な真実を織り交ぜ、記事全体を真実に見せかける。 コントラストの原理(Принцип контраста) 心理的に対照的な刺激を受けると、人間の知覚や認識に対比効果が出る。 観測気球(Пробные шары) 世論の反応を見るため、試験的な報道を流す。 心理的ショック(Психологический шок) 感情共鳴のピークを利用する。生々しい戦災や事件現場の映像が利用される。 格付け(Рейтингование) 例えば、選挙の立候補者の能力や当選の可能性等の格付けを行い、世論を誘導する。 センセーショナリズム(Сенсационность)又は緊急性(срочность) 緊急性を有する事件・事故の報道において、報道を一方的に飲み込ませる。 アクセントの転移(Смещение акцентов) 事実を改編することなく、強調点を転移して事実の意味を変えてしまう。 連想の創出(Создание ассоциаций) 隠喩、比喩を駆使して、敵対者に否定的な印象を与える。 情報の波の創出(Создание информационной волны) 情報の一次波を起こし、不特定多数による大規模な二次波を発生させる。いわゆるブログの炎上。 問題の創出(Создание проблемы) 記事のテーマを指向的に選別して、強調したい問題を提起する。 脅威の創出(Создание угрозы) 敵対者(反対意見)の危険性を強調して、よりましな(当局に好都合な)選択肢を選ばせる。 社会的同意(Социальное одобрение) 社会全体が報道の中の意見に同意しているような印象を与える。逆の手法(社会全体がその意見に不同意)は、社会的不同意。 癒着提案(Сросшиеся предложения) 互いに無関係な情報から一定の意味のある文章を作り上げる。これらの情報は個別的には事実であるが、組み合わせの結果、読者に誤った印象を与える。 予告打撃(Упреждающий удар) 世論の否定的反応を引き起こす政策を採る際、情報を事前にリークし、決定採択時までに世論の関心を低下させる。 毒入りサンドウィッチ(Ядовитый сэндвич) 序文と結論に否定的報道をおいて、肯定的な報道を挟み込み、肯定的な報道の意義を低下させる。逆の手法(肯定的報道で否定的報道を挟み込む)は、砂糖入りサンドウィッチ(Сахарный сэндвич)と呼ばれる。
2012年02月14日
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さて、上部組織の嗅覚と味覚の間の領域にある器官を観察すれば、人間の生にとって重要な、ある別の経過(プロセス)が組み込まれていることに気づかされる。 この組み込まれている経過とは、呼吸の経過(プロセス)である。 この呼吸の経過(プロセス)の対極の経過(プロセス)を探すことができる。この呼吸の経過(プロセス)の対極の経過(プロセス)は、消化の経過(プロセス)の内への継続である排泄の経過(プロセス)が、上部組織の表象(イメージ)の経過(プロセス)の対極の経過なので、排泄の経過(プロセス)とは区別できる経過(プロセス)でなければならない。 外向きの味覚→視覚→表象 内向きの味覚→消化→排泄 呼吸器官が、嗅覚-味覚器官の近くにあるのと同じように、消化器官の近くにある経過として、区別されなければならない。 この経過とは、リンパ-血液の経過(プロセス)や、血液形成の経過(プロセス)全般、もしくは消化から内へ向かう経過、つまり、リンパ腺のような器官や、血液形成に関与する器官全般のなかにある経過である。 以上から2つの対極的な経過(プロセス)が発見できる。 呼吸過程⇔リンパ-血液形成過程 この対極的な経過の一方は消化過程から分離されたリンパ-血液形成過程(プロセス)で、他方は、外に向かって配置された感覚の経過(過程)から分離された呼吸の経過(過程;プロセス)である。 すなわち、感覚の経過の背後にある呼吸過程と、消化が排泄に通じる前に配置されているリンパ-血液形成過程(プロセス)が、対極をなしている。 以上のように、人智学では、自然のなかの外界の経過(プロセス)から、人間のなかに入っていくのに対し、奇妙なことに、今日の科学では、通常、目の前にある物質的な器官からしか人間の観察がなされていない。 人智学では、経過(過程;プロセス)から、人間と人間の外の世界との関係や、人間を認識し、洞察しようと試みている。そして実際、人間のなかのエーテルの活動全体の写像となる様々な関係を直に発見している。 (経過から、現象を捉える方法は、素粒子物理学では、ファインマンの経路積分法が有名である。ファインマンは、この方法から、量子電磁力学「QED」を構築し、朝永やシュヴィンガーと共に、ノーベル賞をもらった。) というのも、結局は、これまで探求してきた、様々な経過の関係は、人間のなかのエーテルの作用に他ならないからである。 (ファインマンの経路積分を使って、生体内のエーテル電磁力学をつくれるかもしれない。) 外向きの呼吸過程(プロセス)と、内向きの血液形成過程(プロセス)の2つの外と内の経過は、再び出会う。この外と内の出会いは、人間の心臓で起こる。 外界全体が、外向きの呼吸過程に含められ、人間の内向きの血液形成過程と、心臓で堰き止められ出会うことで、心臓において一種の均衡状態を目指す二重性として現われてくる。 (宇宙論でいうなら、心臓は、呼吸のブラックホールでもあり、血液のホワイトホールでもある、という二重性をもつ。神の言葉を吸い込み、人間の言葉として経験を刻み込む。) 以上のように、ある独特のイメージ、人間の心臓のイメージに到達できる。この心臓のなかでは、全体にわたって、外からの作用全体の統合[Synthetisieren]がなされ、逆に外界では、分裂[Analysieren]が起こっている。 つまり、心臓のなかで堰き止められ融合し、膨らんだ経過が、外界のいたるところで分裂し、拡散している(下図参照)。 以上の事実から、重要な見解に到達でき、次のような結論に至る。 「宇宙を見渡し、黄道のような円周(上図)をイメージすれば、次のような疑問が浮かぶ。 一体、この円周は何なのか? この円周を通じて働きかけてくるものは何なのか? この円周に親和性をもつ同じようなものを、人間のどこに見つけられるのか? それは人間自身の心臓を覗けばわかる! そこには、いわば反転した天(黄道)が、天と対極となるものがある。 人間の外には、いわば無限の彼方へと拡張された地球の周辺を表す外円があり、人間の内には、心臓に集約された内円がある。 心臓に集約された円のなかには、宇宙全体が存在している。」 大雑把な比喩を用いるなら、次のように簡単に言える。 人間が山の上に立って、遙か彼方を見渡し、宇宙の広大な円周を見ることを思い描く。それから、人間よりも遙かに小さな小人を、人間の心臓に置いて、この小人が見る光景を思い浮かべる。 この小人は、心臓内部の回転運動のなかに、宇宙が完全に縮小され、統合された像を見る。このような想像は、単純な具体的イメージにすぎないが、正しく感受できれば、正規の治療指針、人体の調整的なイメージや調整原理として機能するもので、個別的な疾患の認識をもたらし、正しく総括する手引きとなるものでもある。 以上の内容から、個別の観察のための大体の基礎が作れた。また、提出された様々な質問への個々の回答への土台にもなるものである。 (何度も書いて申し訳ないですが、古代エジプトの最後の審判では、心臓を天秤にかけることで、当人の人生を評価していたそうだが、上述してきたシュタイナーの心臓の話を知れば、古代エジプト人の考えがわかる。 人生は、心臓に記録されている。心臓は、神の言葉を、人間の言葉に置き換えるものである。心臓に、神が宿っている。)
2012年02月13日
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では、更に生体内の内的な経過(プロセス)を探究していくなら、どの過程に行き着くのか? 前回述べた魂のなかの表象(イメージ)の経過は、視覚においては外面(物質)化され、思考においては内面(精神)へと反射される経過である。すなわち、魂のなかの表象(イメージ)の経過は、視覚の経過(プロセス)を、いわば反対(逆)向きにし、再び生体組織内へと導く経過なのである。 従って、内向きの表象(イメージ)経過の反対の対極にある経過(プロセス)は、外向きに導く経過である。 従って、前回延べた消化の経過(プロセス)が、内向きに、排泄の経過(プロセス)へと継続され、内向きの排泄の経過(プロセス)が、外向きの表象(イメージ)の経過の、他方の対極となる。 外向きの味覚→視覚→表象 内向きの味覚→消化→排泄 表象⇔排泄 以上の関係は、以前、骨格等の比較から示した関係を、別の内密な観点から見たことになる。以前示した関係は、いわゆる人間の精神力と、排泄過程(プロセス)との間の内的な親和性、つまり下腹部の機能の規則、もしくは不規則が、エーテル体や、特に腸内細菌の発生などからわかる、というものだった。 別の面から、上記の親和性を捉えることもできる。つまり、内に向かっては、思考(表象)過程(プロセス)のなかに、視覚過程(プロセス)が継続され、外に向かっては、排泄過程(プロセス)のなかに、消化過程(プロセス)が継続されている。 さて、少し前に観察したこと、つまり、芳香の発生は、止揚された燃焼過程(プロセス)であり、植物の硬化は、止揚された塩化過程(塩生成過程)である、という事実に戻るなら、再度、生体内で生じる経過に光を投げかけることができる。 ただし、反転も可能なことを明確にしておく必要がある。 人間の上部組織では、視覚の経過を反転させ、内に向ければ、味覚の経過になり、下部組織では、消化を反転させ、外に向ければ、味覚の経過になる。 外向きの味覚→視覚→表象 内向きの味覚→消化→排泄 従って、上部組織の視覚が反転した経過は、植物の塩化過程との親和性が認められ、下部組織の消化が反転した経過と、植物の火(燐)化[Feuerwerden]、もしくは燃焼過程との親和性が認められる。 つまり、人間の下腹部に、植物の芳香発生の経過や止揚された燃焼経過(プロセス)を導けば、下腹部の消化の働きを助けることができる。 植物における塩の生成過程(プロセス)を止揚する作用を、上部組織の生体内に導けば、視覚の経過(機能)を助けることができる。 以上のことを、更に個別的に実施していく必要がある。 以上のように、外面全体が、いわば再び内面全体から現われることがわかる。従って、人間の生体内の経過に入り込んでいけばいくほど、外界の経過をより深く探究する必要がある。 (人間が、外に出れば出るほど、人間の内面を発見することになる。) 消化器官、特に腎臓の機能のなかに、芳香の発生過程(プロセス)や燃焼過程(プロセス)に親和性をもつ過程と対極にある過程を探す必要がある。 更に、肺から喉頭を経て、頭部へとむかう上部組織のなかに、植物では塩化の傾向をもつ経過(過程)と親和性があり、その対極にある過程を探す必要がある。 従って、次のような結論に至る。 「植物が塩を集積する方法がわかれば、その方法に対応する経過(プロセス)を、人間の生体組織のなかに探せばよい。」 以上、概略的に探究してきたが、個別的には、以後の講義で追求していく。 これまで探求してきた事実から、とりあえずは、植物療法(植物薬を用いた療法)の治療理論を特徴づけ、植物療法の原理が理解できたように思う。植物療法は、人間の内と外との相互作用において生じる実際の経過(プロセス)全体を見通すことを根拠としている。 しかし、同時に特殊な経過にも目を向けることができる。例えば、芳香というよりむしろ味覚への傾向をもつ植物、つまり、噛むことで香りを放つような、嗅覚と味覚の統合を知覚するような、メリッサ[Melisse、メリッサ、レモンバーム、西洋ヤマハッカ]やカキドオシ[Gundelrebe]のような植物を考えることもできる。 レモンバーム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%A0 このような植物の芳香の発生の経過のなかに、塩化の経過がわずかに存在し、芳香発生と塩化との共同作用が発見できる。 上述の事実から、メリッサのような植物に親和性を持つ生体器官は、下腹部から外へと、つまり胸部に向かう位置にあり、芳香を沢山放つボダイジュやバラのような植物に親和性を持つ生体器官は、内へと、下腹部に深く入り込み、消化や排泄の機能に向かう位置にある、ということが示される。 ボダイジュ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A5 セイヨウボダイジュ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%A4%E3%83%A8%E3%82%A6%E3%83%9C%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%B8%E3%83%A5
2012年02月10日
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さて当然だが、いかなる意味においても、生体組織が外界に与えるものと、外界が生体組織にもたらすものとを区別しなければならない。例えば、生体組織を通じて、血液が眼に流れ込み、血液が、眼に働きかけることで、内部に生じる経過に注目すべきである。 人間と同様の器官をもつと同時に、眼のなかに房室や剣状突起のような、いわば血液の滞留器官をもつ動物の場合に強力に起こる内部の経過に注視すべきである。眼のなかの、いわば血液器官を通じて、自我(エゴ;自意識)が眼球のなかに強力に送りこまれる。 人間の場合、自我(エゴ)は後退し、眼球を、内的に自由にしている。人間は、血液という、いわば全身の回り道を通じて全体の組織に作用を及ぼすことで、眼においては感覚現象全体に作用を及ぼしている。だから、人間の視覚の経過のなかでは、味覚の経過が変容させられ、視覚を、「変容した味覚」と呼ぶことができる。 従って、変容した味覚としての視覚が、味覚や嗅覚の上部に位置づけられる。 つまり、味覚の経過も、視覚の経過も、内に向かうと同時に外界にも向かっている。つまり、味覚の経過が、外界や人間の上部に向かって変容した経過が、視覚の経過となる。 また逆に、下部組織へ向かっても、味覚の変容が生じる。視覚の経過において、味覚の経過は、外界へと上昇し、骨格が窪んだ場所に、眼は嵌めこまれ、その凹部から外に向かう眼は外的な器官なので、視覚の経過は外界に向かって組織されているが、逆に下部組織へと向かう味覚の経過の変容は、眼とは逆(対極的)に内的に考察しないといけない。 (全ての経過は、波動のようにイメージでき、外に向かう波と同時に内に向かう波を想定すべきである。) 上方に向かうと同時に下方に向かう経過を考察することで、いわば、視覚の経過と対極をなす生体組織のなかの経過へと辿り着くことができる。視覚と対極をなす経過は、次のような考察から、明らかになる。 視覚の経過の対極と考えられる、味覚の経過を下方に向かって変容させた場合に得られる経過とは何なのか? 味覚の経過を下方に変容させていくと、消化の機能が前提になってくる。内的な消化の理解には、視覚を、外に変容した味覚の継続と捉え、同時に、消化を、内に変容した味覚の継続と捉える必要がある。 消化は、外界に向かう視覚に対しての完全な対極として理解できる。 外(物質)化された視覚は、いわば外界のなかの消化の機能に相当し、人間の器官として、内(霊)化されると、消化となる、という認識が導かれる。また、同時に、消化の経過が、味覚の経過に親和性を持つこともわかる。 消化の経過(プロセス)全体を、次のように考えれば、人間の生体内の消化の経過(プロセス)のなかの、繊細で、局所的に現れる作用を理解できる。 その考えとは、「良い消化とは、いわば消化器官全体で味わう能力から生じ、悪い消化とは、いわば消化器官全体で味わう能力の欠如から生じる。」である。 さて、これまで考察してきた経過は、味覚と嗅覚の機能に大別できる。根源の1つの経過が分かれ、一方は、味覚となり、エーテルと物質との相互作用が活発な経過(プロセス)と、他方は、嗅覚となり、エーテルとアストラルの相互作用が活発な経過となる。 味覚から継続(延長)して分かれる経過に対しても、上記と同様な区別ができる。すなわち、腸による糞便の排泄である消化と、腎臓による尿の排泄の2つに区別できる。 上記の2つの区別から、人間の上部組織と下部組織における対応が得られる。上記の2つの区別から、相対する対極の関係が獲得できる。味覚と嗅覚に分け、通常の消化と、それよりも内密な腎臓の働きに基づく排泄全般に分けることで、その間の対極な関係が得られる。 以上のように、いわば、外界から皮膚により隔てられた生体内で生じる事象(現象)を、外界の経過の内面化として観察できる。というのも、人体の上方に向かって継続する経過は、外界に入り込んでいくからである。この経過の流れから、人間は、外に向かって開いていることがわかる。 さて、以上の経過の流れを更に追求し、唯物論的な意味ではなく、これまでの講義からもわかるが、霊的な意味で、生体組織と結びつく霊魂のなかにまで辿っていくなら、変容した視覚[ein metamorphosiertes Sehen]に到達できる。 変容した視覚を、更に内面の思考や表象(イメージ)のなかの経過にまで追求すれば、思考や表象(イメージ)の根底にある器官、すなわち、頭のなかの器官(脳)を、変容した視覚器官として捉えることができる。 脳を探求すれば、思考のなかにある表象(イメージ)の多くは、視覚による表象(イメージ)の単純な継続にすぎないものとわかる。生まれつき盲目の人や、生まれつき耳の聞こえない人の表象(イメージ)と比較すれば、明らかになる。 人間は、思考のなかに、内部に向かって継続された視覚をもっている。 以上のように、頭部や脳の解剖学的構造と思考の経過との間に生じる独特な相互関係に、一条の光を投げかけることができる。 実際、奇妙にも、厳密に、思考の経過に迫っていけば、医学の学位請求論文も書けるが、例えば、脳の組織構造と、統合的思考の関連を探求すれば、不思議なことに、嗅覚神経が変形したような構造に行き当たる。 従って、次のような結論に至る。 「人間の散漫な分析的思考は、内的には、思考の対極にある視覚に似ているが、物事を統合するような観念の総合は、本質的に、内的には、嗅覚に非常に似ている。」 上記のような結論は、顕著な形で、脳の解剖学的な構造にも現われている。以上のような考察から、いずれにせよ、表象(イメージ)や思考の一面に辿り着ける。
2012年02月09日
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さて今度は、植物による味覚の刺激を考察する。 味覚は、植物の深部にある経過で、嗅覚のように植物の形成力を、幻影として周囲に送り出すような経過ではなく、形成力を、自らのなかに統合し、植物内部の形成力のための使用に導く経過である。 植物を味わうことで、人間は、植物の内部形成に加わるので、植物の下部組織(根)の別の段階の変容、いわゆる硬化や塩化の経過(プロセス)に到達する。勿論、植物の考察なので、この変容経過は、植物の塩化の経過(生成過程)になる。 これまで考察してきたことから、植物のなかには独特な変容があることがわかる。植物のなかには、上に向かう芳香の発生過程(プロセス)がある。これは、いわば止揚された燃焼過程(プロセス)で、この過程から、燃焼過程(プロセス)をはじめることも可能である。 というのも、花の形成(生成)経過(プロセス)には、燃焼過程(プロセス)が組み込まれているからである。逆に、植物の下方には、硬化の経過、つまり塩化の経過がみつかる。 植物に対する味覚の経過は、止揚された塩化の経過である。植物のなかに塩の生成過程が組み込まれ、植物塩が得られるのは、植物塩が、植物のなかの植物化の経過を超えた(鉱物的な)結果でもある。植物の塩化の場合、上方の燃焼過程と異なり、植物は、自身の本質のなかに、幻影を押し込めた、ともいえる。 植物に対する人間の味覚の経過から、治療薬の理論[Ratio]が獲得できる。ある意味、植物に光を当てることができる。植物の塩化の経過に注目すべきである。繰り返し強調すべきことだが、具体的な観察が肝要である。 さて、更に進むためには、高度に臨機応変に、人智学的な理由から生まれる議論を、今日行なわれている治療法に結びつけるべきである。人智学が与える知見から、外(物質)的な科学に橋を架けることができればよい。 当然、人智学的な意味から、次のような議論を特徴づけることもできる。現に存在している今日の科学に通用する見解に関連づけていきたい。今日の生理学者は、眼の前にある物質について語るが、人智学者にとっては、物質が、眼の前にある必要はない。 物質が目の前にある必要がない、というのと同じ意味で、人智学者は解剖をする必要もない。今日通用している医学に、人智学からの知見を関連づけるために、実際に人間を解剖するなどという暴挙を受け容れる必要もないが、解剖学が既に存在し、その成果を提供している、という事実に対しては、やはり考慮に入れる必要がある。 人智学により自然科学の見識が豊かになれば、解剖というような暴挙も止むだろう。では一例を挙げる。 視覚の経過(プロセス)と、嗅覚、特に味覚の経過(プロセス)との間に、視神経の拡がりと、嗅覚、もしくは味覚神経の拡がりにおいて、密接な親和性や関係が成立する事実が、人智学から明らかになる。 視覚と、味覚の間には、非常に密接な親和性が成立し、視覚の経過の内的な特徴を示すには、実際、味覚の経過の類似(アナロジー)を探せばよいほどである。確かに、味覚神経が拡がっている器官組織と、視神経が拡がっている精緻な器官組織は、直接には結びついていないので、視覚と味覚は本質的には別物である。 しかし、眼という精緻な物質的構造の背後の、いわば視覚の経過の基点は、内的に、味覚の経過と親和性をもつ。人間は、視覚において、変容した味覚[ein metamorphosiertes Schmecken]を実現している。味覚の変容は、食物を味わう味覚器官が味覚経過を起こす前に、眼の精緻な構造により、食物の外観を生み出すことでなされる。 (食物を見て食べるのと、眼を閉じて食物を食べるのとでは、味覚が異なる。例えば、ゲテモノを食べるときは、自然と眼を閉じて食べるだろう。)
2012年02月08日
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さて、これから明らかになっていくが、自然においては、全てが何か別のものへと絶えず変容(移行)しているという事実が存在する。自然においては、全てが、ある出来事(事象)から別の出来事(事象)へと移行する傾向や、別の出来事(事象)へと自ら変容する傾向にある。 臭覚は、どちらかといえば、人間の感覚の表面に配置され、それよりも内部に配置されているのが、いまは植物に対してだが、味覚である。 そして、臭覚や味覚は、エーテルが、アストラルに向かって拡がっていったり、もしくは物質へと硬化していく、という意味で、エーテルのなかの経過である。 人間は、植物が外に向かい気化し、芳香を放つ経過全般に向かって進んだり、もしくは、芳香を放つ過程とは別の、外界のなかで植物が硬化に至る経過全般を味わうことで、内面化したりしている。 臭覚や味覚に注目すれば、そこでは、いわば外と内が共に経過している。 自然においては常に、1つの経過(プロセス)が別の経過(プロセス)へと移行している。植物は芳香を発することで、硬化を免れているが、同時に、植物は、幼稚な表現だが、その霊性を大気中に発している。 植物の霊性に感覚を向けると、大気中の芳香物質には、植物の状態が、まだわずかに含まれていることがわかる。 外界で香りを放つ植物の芳香のなかには、植物の幻影[Schemen]が存在している。植物は、香りの幻影を送り出し、自身を、硬化の状態に至らせない未完な状態にする。 例えば、花になろうとはするが、花を完成させずに、気化的な未完の状態に止まる。 では、香りの幻影を送り出すときには、本質的には何が外界で生じているのか? (陰陽の転換の法則、ホメオパシーの原理を知る者は、未完の状態に止まることを知る。完成させてしまうと、反対の作用に転じてしまうからである。日光東照宮は、天海という易や風水を熟知した僧に建立されたが、建物の多くが、未完の状態に止められている工夫が施されている。また、家康の葵紋以外に、信長の木瓜紋や光秀の桔梗紋、秀吉の桐紋も弔いの意味で施されている。) すなわち、これは、止揚された燃焼過程(プロセス)に他ならない。 植物の芳香の変容を継続的に考察していけば、次のような結論に到達する。 「植物の芳香は、止揚された燃焼過程(プロセス)である。」 植物の変容において、燃焼が一方にあり、芳香の発生が他方にあることがわかる。その両者のなかに、両者に共通する統一体による2つの変容(陰陽)形態が認識できる。言うなれば、芳香の発生のなかには、別の段階にある(止揚した)燃焼が既に存在することになる。 (山岡鉄舟の詩の、「晴れてよし、曇ってよし、富士の山、もとの姿はかわりざりけり」を思い出させる。山岡鉄舟は、禅を学ぶ際、師匠に毎日富士山に行けといわれ、愚直に守り、箱根で大悟したという。そのときの詩なのだろう。 勝負事は、先手を競うものだが、宇宙というのは、先手を競うものではなく、異質なものを和合していくものである。変に応じる、ということに尽きる。 晴れの富士は、陽の富士で、曇りの富士は、陰の富士で、双方は異質だが、共に和合して、富士をなしているわけで、あらゆる富士を見ない限り、本当の富士がわからない。これと同じように、あらゆる欲望を絶つには、あらゆる自分を経験しないとわからない。自分を掴むには、自分の心を充分に経験しないとダメである。)
2012年02月07日
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今度は、味覚との親和性の例証をする。甘草の味、もしくは甘い葡萄の房の味を例にとると、嗅覚と同様のことがわかる。外界のものを味わう感覚は、嗅覚器官で生じる経過とは別に、味覚器官で生じる経過である。 味覚器官は嗅覚器官と親和性を持っている。自然の事象(出来事)に関し、味覚において生じる経過と、嗅覚において生じる経過が、即座に互いに親和性を持つことがわかる。 しかし、味覚は、嗅覚よりも、遙かに人間内部の器官の経過(プロセス)であることを明確にしておく必要がある。嗅覚はむしろ、人間のなかでは表面で行なわれる。嗅覚は、人間の外の、空間に、人間自らを拡張(展開)する、いわば拡張(展開)の経過(プロセス)に関与する。 味覚は、拡張(展開)の経過ではない。味覚を通じては、むしろ、物質のなかに潜在する特性、つまり実質と結びつく特性に到達できる。嗅覚を通じるよりも、味覚を通じて、外界のものが、この場合は植物が、人間内部において実質を現すようになる。 すなわち、少々の神通力(イントゥイション)の支援を受ければ、次のような結論に至る。 「植物の硬化に関する経過や器官的な過程(プロセス)全般は、植物のなかにある特性を、人間が味わうことで、姿を現わし、自らを開示する。」 しかし、逆に、植物自身は、硬化に抵抗する。植物の硬化への抵抗は、植物が芳香の発生を誘導する経過に現れている。従って、味覚は、本質的に、エーテルと物質に関わる経過であることに疑いの余地はない。 では、今度は、嗅覚と味覚を同時に考察する。 植物の花の匂いを嗅ぎ、植物の実などを味わいながら、人間は生きることによって、実際、人間のエーテル体が、植物を通じて、アストラルと物質という両方向に対し持つ関係のなかで生きることになる。 嗅覚と味覚に注意を払えば、人間のエーテル体に刻印された事象のなかに正しく参入できる。人間が、匂いを嗅ぎ、味わうことで、基本的に、人間のエーテル体が、アストラルや物質と関わることになり、人間のエーテル体が、物質界に顕現する。 上記のように、嗅覚と味覚において生じる経過を調べることで、人間自身が、人間のなかの表面(人間の感覚)にいることになる。 実際、現代に必要なことは、人智学の側面から真の科学の結実に向けて、抽象的で、神秘主義的な知見を抜けだし、具体的な霊の理解へと実際に突き進む、ということにある。 相も変わらず、「人間のなかの神性を理解せねばならない」、と説諭するばかりでは、無駄に時間を過ごすだけである。この「神性」という言葉のうちに、説教者が理解しているものは、抽象的な神性にすぎない。 神性に対する考察が実りをもたらすのは、実際に、具体的な現象に参入でき、具体的な意味で、外界の経過が人間の内的な経過になっていくのを観察するとき、つまり、例えば、嗅覚と味覚のなかで、人間と親和しながら外界に生きる存在やエーテルを、実際に観察することにある。 すなわち、外界のエーテルが、人間のなかで、いかに内面化されていくか、もしくは、嗅覚や味覚よりも粗雑な人間の上部組織の感覚経過(プロセス)のなかに、外界の経過が、直接、内面化していくのを見て取る、という観察にある。 現代において極めて重要なことは、単なる抽象、神秘主義を抜け出すことにある。
2012年02月06日
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人智学徒が「エーテル体」、「アストラル体」などと言う場合、人智学の理念を短縮し、簡潔にするような意味をもつため、このような用語法を使用せざるを得ないが、「エーテル体」、「アストラル体」などの用語法によって、いわば物質界に刻印された事象(出来事)を、そのまま還元(解釈)できる。 ただ現代は、物質現象のなかに現われる背後の存在を、霊的存在に正しく関係づける方向にあるとはいえず、真に医学的な思考や霊的な直観[Anschauen]の獲得のためには、人智学の用語法が必要となる。 更にまたエーテル体と物質体との相互作用は、本質的に、どのように生じているのか、ということにも立ち入って行く必要がある。 人間のなかではエーテル体と物質体の相互作用が起こっていて、以前、この相互作用のある側面、つまり、アストラル体の作用に対して、このエーテル体とアストラル体の相互作用が一種の混乱状態になる場合について述べた。この相互作用は、人間の外の自然においても起こっている。 さて、上記の考えを正確に最後まで押し進めていくと、人間と人間の外の自然との関係を実際、根本的に見通すことになる。人間の外の自然を眺めれば、周囲には、ありとあらゆる種類の植物が広がり、様々な感覚を通じて、人間は植物を知覚する。 周囲を眺めれば、様々な感覚を通じて植物が知覚できるが、第一に、植物と地球の大気との関係、第二に、植物と、大気の外の惑星の力やアストラルとの関係が、少なくとも予感できる。 地球の植物を観察するとき、植物は、地表面から(下図参照)、大気やアストラルへの生命力を示している。植物のアストラルへの生命力は、地球外の天体を目指し、下図の矢印のような力を示している。 秘教学[Okkultes]を理解できなくても、次のように予感できる。 「外界において、植物として現われ、その開花や結実として現われる生命力と、遙か彼方の全宇宙から作用する力との間に活発な相互作用が発見できる。」 更に、以上の相互作用から目を転じ、人間の内部に、洞察力を導く必要がある。この洞察力を導くには、多少の神通力(霊的な直観力)の支援を必要とする。既に述べたように、医学においては、神通力(霊的な直観力)の支援なしでは何もできない。 つまり、外界から、この洞察力を導き、人間内部にも、この洞察力を用いると、人間の外にある力とのある種の親和性が発見できる。 このような親和性から、次のような結論に達する。 「植物のなかでは、エーテルと物質が密接に結びついている。植物のなかのエーテルと物質の結びつきと、人間のなかのエーテル体と物質体の結びつきに、ある種の親和性があることも予感できる。」 さて問題は、このエーテルと物質の親和性について、どのように外的、具体的に答えることができるか、ということにある。さしあたり、抽象的には、次のように答えることができる。 「エーテルは、上方にむかって開いている点で、物質よりもアストラルに近い。」 しかし、「エーテルは、物質に対しても何らかの関係をもつ」とも答えないといけない。 このようなエーテルの二重の親和性、エーテルが一方では物質に、他方ではアストラルに対してもつ二重の親和性に目を向ける必要があり、更に、この二重の親和性へと導くものを探究していかねばならない。 では、どのように、この二重の親和性へと導かれるか、ということを、できるだけ具体的に述べる。 例えば、花が満開の菩提樹の並木道を歩いてみる。花が満開の菩提樹[Linde;西洋ボダイジュ、シナノキ科]の芳香のなかを通り抜けていく様子を明確にイメージしてみる。 嗅覚器官のなかに、いわば網の目状に拡がっていく神経と、この菩提樹の花の芳香との間に、1つの知覚経過(プロセス)が生じることが明確になる。 更に、この菩提樹の花の芳香の知覚の経過(プロセス)に注意を向けると、この知覚経過は、菩提樹の花の芳香や匂いに対する嗅覚力の発露(発現)[Aufschiessen]であることがわかる。 そして、次のように結論できる。 「この知覚経過は、外界を人間の内面にもたらす経過であり、この外界の内面化は、人間のなかの内的な親和性により、外界の経過に沿って内面の経過が共に遂行された結果から生じる。」 更に、次のように結論できる。 「菩提樹の花から、外界に発散されている芳香は、地球の外の環境に向かって開いている植物の生命力と、地球の外の環境全体の力との相互作用に基づくが、このような外界の芳香が、いわば嗅覚という知覚のなかで内面化されている。」 知覚のお陰で、人間は、内的に、エーテル体の作用を、アストラル体に与えることができる。このアストラル体へのエーテル体の作用は疑う余地のないものである。この作用がなければ、人間は知覚できずに、単なる生命経過(プロセス)を辿るだけの存在になってしまう。 事実、嗅覚器官そのものが、アストラル体の関与を証明している。しかし、外界との親和性をもつ嗅覚器官が同時に人間に示すことは、菩提樹の花の甘い香りの発生は、嗅覚器官のなかで起こる経過(プロセス)と、ある意味、親和性をもつが、その対極(反対側)にある、ということである。 実際、菩提樹の花から拡がっていく甘い香りのなかに、植物-エーテルと、その周囲にある宇宙空間を遍く充たしているアストラルとの相互作用が発見できる。 従って、人間は、匂いを嗅ぐ行為のなかに、1つの経過(プロセス)をもち、この経過を通じて、地球外のアストラルに親和性のある植物のエーテルの経過に関与している。
2012年02月03日
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心臓より下部の組織において働く2つの相反した惑星の力を引き続き追求していくと、下腹部の器官と水星状態を表わす金属の水銀との間に成立する関係にまで到達できる。 これまで試行してきた探求法が、非常に合理的であることに納得するだろう。現在や将来の人類のためには超感覚的観察により発見できる事実を、外(物質)的で感覚的に知覚できる事実により証明する必要がある。 自然のなかの鉱物、もしくは金属、また動物のなかの鉱物や金属、更には植物のなかの鉱物や金属の作用などの各々の作用が、本質的に、人間の生体組織に対して、どのように働くか、ということが、臨床的にも文献上でも追求されれば良い結果を生むだろう。 上記のような研究を、惑星と鉱物の特定の関係から、はじめることができる。以前、受胎前の、ある傾向(肉化、軟化症)に対して、骨化、硬化症が、反対の働きかけを行っている事実を述べた。 この骨化、及び硬化症は、受胎前の傾向とは完全な反対像をもつ。骨化、硬化症を促進するには、人間に鉛毒を盛ればよい。 鉛毒を盛るといっても、動脈硬化の研究のために、実際に鉛中毒を引き起こしてしまっては元も子もない。重要なことは、自然自らが実験する際に現れる現象のなかに、人間に鉛毒を盛る場合と同じ意味を追求し、自然現象のなかの鉛の作用から、人間と鉛との間に内的親和性が成立しているという事実に辿り着くことである。 鉛の作用(生成)過程(プロセス)と、人間の骨化と硬化症過程(プロセス)は、綿密な研究により追求すべきものである。 同様に、錫の生成(形成)過程(プロセス)と、以前、水頭症やその反対の髄液減少症との相互作用として特徴づけた症状全般との間の相互関係も研究できる。 その際、頭部と腹部との正確な対極の関係とでも呼べるような関係が生じる幼年期(7歳以降)の生成過程のなかに、錫の生成過程と同じ作用が発見できる。 さて、幼年(7歳以降)期の水頭症への傾向が、後の年齢では、肺のほうへ押し進められることを見てきた。実際に自然現象を試行する必要もなく、数世紀来の医学文献の記述を、正しく読み統合すれば、肺炎と胸膜炎の付随症状全般に関係する過程(プロセス)と、鉄の生成過程(プロセス)との関係について、内的な親和性が発見できる。 鉄と肺炎の関係を、更には、健常状態時の鉄と血液のなかに生じる通常の生成過程(プロセス)にまで追求できる。鉄と血液の相互作用時に起こるのと同じ生成過程(プロセス)を、肺炎に伴う症状全般にまで追求できる。 鉄と血液の特別な関係から、水頭症とその反対の髄液減少症との相互作用が、肺にまで押し進められ、そのような相互作用における鉄の働きに対する見解が獲得できる。 以上のような関係は相互に影響し合っているので、相互に影響し合った作用の理解と、更には人間の外のものとの関係を通じて、薬の治癒作用に到達する可能性を獲得できる。 人間を、2つの相反する惑星(天体)力の複合(融合)体のように見ることを尊重するならば、観察者に一種の神通力(直観力)が生じるのは疑いのないことである。この神通力(直観力)は、本質的には、どんな診断の際にも特に重要である。 診断の際に重要なのは、人間に関するより多くの作用を統合的に観ることだからである。いかなる診断の際にも、当人がどのように生きているのか、今までどのように生きてきたのか、今後どのように生きていく見込みがあるのか、ということに目を向けなくてはならない。 今後生きていく、といま述べたが、これは一体どういう意味なのか。現在の人間のなかには、既に、ある意味で、残りの人生において特に消費する器官組織が、萌芽の形で素質として存在しているのである。 更に、上記に述べた、鉛、錫、鉄の人間の生体組織に対する作用や、金属という側面から発せられる作用との関係を探究するなら、鉛、錫、鉄の生成過程と、いわば対極的に相対するのが、銀、水銀、銅の作用で、その生成過程であるという事実に辿り着く。 今述べた事実から、何らかの薬を特に奨励するわけではない。しかし、いま金属と人体の関係を述べるのは、これらの金属のなかの力が、これまで見てきたように他の物質のなかにも含まれ、物質がもつ構成と、人体組織自体の形成(生成)力との間に、特定の性質を有する相互作用が成立する事実を指摘するためである。 従って、例えば銅のなかにある力は、特定の形で、鉄のなかにある力に対抗し、反対の作用を及ぼす。鉄に対する銅の反対の作用から、例えば、鉄の力が強すぎるときに、銅の反対の力を取り出し、用いることもできる。 例えば、人体内の鉄の力が明らかに強すぎる特定の症状だとわかれば、銅、もしくは銅に似た作用を植物から獲得し、後に見ていくように、この症状に対して適用することが重要となる。 (鉛「土星」、錫「木星」、鉄「火星」、金「太陽」、銀「月」、水銀「水星」、銅「金星」の錬金術の対応がある。シュタイナーによると、錬金術師は、秘密がバレないように、「水星」と「金星」の呼び名を入れ替えたそうである。だから、現代人が呼ぶ「水星」は、古代人の「金星」になる。 また、錬金術師が呼ぶ「賢者の石」とは、現代人が呼ぶ「炭素」で、「エリクサー」とは、「エーテル」のことである。「エーテル」といっても、現代人の呼ぶエタノールの「エーテル」ではない。) さて、以上のように、幾つかの方面にわたって見てきたが、読者に多くを要求しすぎたかもしれない。とはいえ、これまで述べてきた事実を正しく見ていくなら、そのような事実から、更にどのような研究を行っていくべきか、そして、そのような研究から、医学研究制度と医学制度全体の改革のために有効なものをいかに引き出すかなどが理解されることを期待したい。
2012年02月02日
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さて、地球外の惑星(天体)の力を研究するには、惑星の力が共同作用した全体的な結果を、人間のなかに見る必要がある。 人間のなかの全体性を見るのであって、何処か1部を見るのではない。惑星の力が共同作用した全体的結果に最も乏しいのは細胞である。細胞は、共同作用の結果が最も少ないことに注意を払うべきである。 では、一体細胞とは何なのか? 細胞とは、人間に対し、本質的に、独特の成長や独特の生命を、利己的(ワガママ)に通用させようとする生命体である。 そして、人間という生命形態全体において、人間を、地球の作用と地球外の作用の複合体とみなし、細胞を観察するなら、細胞とは、地球の作用のなかに密かに入り込み、地球外の作用を妨害する存在である。 実際、人間は、生体組織のなかで、絶えず細胞の(独特の)生命力に対して闘っている。従って、細胞病理学や細胞生理学により成立した見解は、ナンセンスも甚だしい。現代医学は、細胞を基本に据え、人間の生体組織を、細胞の構築物と見なしている。 細胞の生命力とは対照的に、人間は全体の宇宙と関わり、部分的な細胞本来の利己(ワガママ)に対して、常に闘う全体なのである。細胞とは、根本的に、生体組織を構築するのではなく、絶えず妨害する存在である。 細胞病理学や細胞生理学的な基本的見解が、通常の思考全般に入り込めば、人間や生物全般に関して、本末転倒した考察に行き着くのも全く不思議ではない。 以上のように、いわゆる人間の形成(生成)過程(全体形成プロセス)と、細胞過程(部分形成プロセス)において、2つの対立する力が、人間のなかに複合体として現われてくる。 人間の様々な器官組織は、2つの対立する力の中間に位置し、どちらかが優勢によって、肝臓だったり、心臓だったりする。人間の器官組織は終始、2つの対立する力の間の複合体として均衡をとっている。 ある器官組織は、細胞への傾向を多くもった後に、この細胞への傾向が、宇宙の力により克服される。また或いは、個々の器官組織の特徴は、後に述べるが、宇宙(全体)の力が優勢で、細胞(部分)の力が後退しているような器官組織もある。 生殖-排泄の通路と心臓との間に本質的に位置する全ての器官組織を、対立する2つの作用間の複合体の観点から考察することは、非常に興味深いものとなる。 心臓より下部の器官組織では、大抵、本質的に、細胞が目指す独特の生命力との類似が存在する。人間の全身を通過しながら、器官組織の構成要素を全て観察すれば、大凡、人間が目指す全体的な生命力に特色づけられた器官部分と、細胞が目指す独特の(部分的な)生命力に類似する器官部分に大別できる。 しかし、人間全体の機能に彩られた部分と、細胞独特の機能に染まった部分に大別できた結果、次のような疑問が生じる。 それでは一体、細胞自体は、どのような状態なのか? という疑問が生じる。 細胞はいわば、生命の状態をいささか極端にするために、独特の生命力を利己的(ワガママ)に展開する。細胞は、独自の生命力を展開する状態にある。細胞が、逐一展開する、いわば利己的(ワガママ)な生命に対抗し、絶えず別の、つまり外から反対の(全体の)作用が及ぼされる。 そして、外から、この反対の作用が及ぼされることで、細胞独自の形成(生命)力から、利己的(ワガママ)な生命力が奪われ、細胞にいわゆる滴の形状が与えられる(細胞が液化される)。 惑星(天体)の力は、細胞から、いわば独自の生命力を吸い取り、細胞に滴の形状を与える。 (アポトーシスという細胞死を研究すれば、この惑星の作用の描像が明らかになるかもしれない。アポトーシスは、形態発生に不可欠な細胞死で、別名プログラム細胞死ともいわれる。) 地球上の滴の形を有する存在は全て、生体の内外問わず、そのなかに2つの力の合力、つまり、独特の生命を目指す力と、独特の生命を吸い取る力との合力が働いている、という事実を、実際に知るべきである。 さて、興味深いことに、古代の医学では、「水銀」をどのように考えていたのか、追求すると、「水銀」とは、生命を奪われ、滴の形状が与えられている存在という結論に辿り着く。 つまり、「水銀」のなかには、利己的(ワガママ)にも細胞になろうとする力が働いているが、水星の逆の力により、細胞になることが妨げられ、いわゆる細胞の死骸、つまり「水銀」の小滴となった経緯を読み取ることができる。 「水銀」のなかに観察できるのは、「塩」と「燐」との中間状態であると同時に、地球上に現れる存在のなかで、惑星(天体)の作用が、どのように生かされているのか、の洞察に必要な実際複雑に入り組んだ経過(経緯)である。 水星という惑星が存在しなければ、「水銀」の滴はどれも細胞として生きるはずである。そして、上記に述べた生殖-排泄の通路と心臓との間に位置する全ての器官組織のなかで、概ね細胞になろうとするものは、水星という惑星の作用に曝されることを想定している。 つまり、排泄器官と心臓との間に位置する下腹部の器官は特に、その器官特有の傾向、すなわち、細胞性を保持する傾向が妨げられずに、かといって独特の生命力によって全体が覆い尽くされるほどには至らないように、適度に、生命力が麻痺させられ、死滅させられるように、水星状態に曝されたままになることに依存している。 この中間(水星)状態に維持されないと、下腹部の器官活動は、すぐに増長してしまう。
2012年02月01日
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