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数日前から気候変動の寒暖差の激しさで風邪気味になって体調を崩していたのだが、とにかく暖かくしてひたすら睡眠をとることで、なんとか回復してきた。いま流行りのマイコプラズマ肺炎ではないと思うが、乾いた咳がよく出たので、とにかく出来るだけ外出しないで、家で寝ていたのが良かったのかもしれない。マイコプラズマ肺炎 - Wikipedia上のウイキをみればわかるが、細菌感染症は、抗生物質により治療されるが、抗生物質の選択の仕方によって、かえって耐性菌を生み出す所以となってしまうので、免疫力の弱い体質の人には、感染細菌を特定できる厳密な検査と、抗生物質の選択ミスの少ない、専門の感染症医に罹るのをおススメしたい。そんなわけで神秘学の勉強を今週はほとんど休止していたので、以前紹介した、民王R第2話などのドラマをみていたのだが、大笑いさせてもらい、笑いにより免疫が向上し、良かったのかもしれない。以前紹介したが、笑いは、アストラル体を膨らませ、自我とエーテル体との関与を希薄化し、物質体との間に緩やかな障壁を設けるために、現実とあまり関わらなくするので、物質界の影響を受けにくくする利点がある。キャラクター・キャスト|民王R|テレビ朝日だから四六時中笑っている人は、ある意味、現実と関わるのを拒否しているので、不真面目にもみえるが、季節の変わり目に敏感に反応してしまうと、寒暖差の影響を受けて、体温調節が敏感になってしまい、風邪をひいてしまう恐れがあるわけで、不真面目に笑ってばかりいるのを馬鹿と捉えると、季節感に鈍感なので、馬鹿は風邪をひかないという諺が生まれたのかもしれない。「バカは風邪を引かない」って本当? | 大津市の鍼灸なら改善率93.5%を誇る東洋はり灸院大津石山院また笑う門には福来るともいうから、季節の変わり目には、民王Rのようなコメディなどの、お笑いが、おススメというわけなんである。風邪が流行りそうな時期には、お笑いをみて、とにかく笑うのが肝要なんである。というわけなので、今回は、コメディについて考えてみる。民王Rをみていると、ジョンランディスの映画を思い出す。ジョンランディスというと、マイケルジャクソンのスリラーが有名だが、私はホラーが大嫌いなので、このスリラーはあまり好きではない。そういえば、今週はハロウィンの季節だが、以前紹介したように、エメラルドタブレットによると、ハロウィンと5月のメーデーは、地球の核内に閉じ込められているエクスジアンの悪魔力が地上に影響を及ぼす時期である。ジョン・ランディス - Wikipedia恐らくハロウィンの仮装パーティは、この悪魔力に共鳴しないために、現実を笑いとばすために行われた行事なのかもしれない。古代叡智では、悪魔が恐れる笑いを、「ツァラトゥストラの微笑み」と呼んでいる。ツァラトゥストラの微笑みが、悪魔を退散させた出来事に由来している。376夜 『ゾロアスター教』 メアリー・ボイス − 松岡正剛の千夜千冊上のサイトからも、「ゾロアスターは笑いながら生まれた」といわれているように、笑いは人間に幸福をもたらす。ジョンランディスが、スリラーをつくったのは、ゾロアスターの微笑みに由来して、恐らくハロウィンの、悪魔を笑い飛ばす精神にあるのかもしれない。だから、私は、ホラーは嫌いだが、ホラーを笑いとばすコメディは大好きなんである。とくに悪魔の僕となっている権力者を笑いとばすのが大好きで、なんだかそこに反骨心を感じるわけなんである。80年代のアメリカでは、多くの魅力的なコメディ作品がつくられたが、なかでもジョンランディスの映画、「ブルースブラザース」、「大逆転」、「スパイライクアス」が面白く、どの作品にもダンエイクロイドが出ている。一時期ダンエイクロイドの出演作品をかたっぱしからみた思い出がある。当時のコメディといえば、モンティパイソンと、サタデーナイトライヴがツートップの二大巨頭だった。ダン・エイクロイド - Wikipediaブルース・ブラザース - Wikipedia大逆転 - Wikipediaスパイ・ライク・アス - Wikipediaモンティ・パイソン - Wikipediaサタデー・ナイト・ライブ - Wikipediaどちらも英語がそれなりにできないと面白さが半減してしまうが、とりあえず日本語訳で面白さを理解するしかなかったが、とにかく当時の権力者を笑う姿勢が新鮮だった。日本では権力者を笑ってはならないような、権力に対しては忖度というかゴマすりというか、どこか不自由な重苦しさがあった。日本のお笑いはどこか自分が道化となって、ピエロを演じるものが主流で、権力に楯突くのは御法度だったからである。日本にも権力者を笑うお笑いもあるが、堂々と演じられないし、表には出ない、恐らく江戸時代の幕府の取り締まりが厳しかったせいなのかもしれない。侍は笑わないとされたし、上杉景勝は笑わなかったといわれていたようである。少し前に、ラグビー日本代表で、笑わない男が有名になったほどである。上杉景勝も、笑わない男の稲垣選手も、越後の新潟出身なのが面白い。武士に笑わぬ習慣あり⁉ー『市塵』と『養生訓』 | 嶋村初吉のブログ日本の文化背景に潜む笑いへ のネガティ ブな2側面_pdf稲垣啓太 - Wikipedia昔の侍の慣習からか、日本では笑わないのが尊ばれるのに、欧米人に対して、愛想笑いをしたのが有名になって、気味悪がれて、ジャパニーズスマイルなどと呼ばれているのは不思議でもある。恐らく、江戸時代までは、笑わないのが美徳とされ、公儀の表向きには笑顔が禁止されていたのかもしれない。当時は厳格な身分制度があって、恐らく下層民には笑いが禁止にされていたのかもしれない。これは推測だが、恐らく、笑いが許されたのは、貴族階級だけだったのかもしれない。八切史観によれば、武士は、公家が不信(ブシン)と呼んだことに由来し、武士は、下層民のなかから、腕っぷしのあるものを、用心棒として雇った身分から生まれたので、笑うのは厳禁で、主に身分制度上、上のモノが下のモノを笑うしか許されなかったのかもしれない。笑うのにも上下関係があったのかもしれない。上下関係を度外視して、ましてや、権力者を笑うことなどはあり得ない話だったわけで、明治政府の欧化政策と共に、即席の笑いを輸入したために、ぎこちない、外交辞令のような愛想笑いが、ジャパニーズスマイルとして浸透したのかもしれないが、とにかく不自然な笑いが残っていたために、自分を道化にみたてて、自虐的な笑いが主流になったのかもしれない。米国にも、愛想笑いはあり、それはマクドナルドの、マックスマイルと呼ばれているアメリカンスマイルで、白い歯を強調して健康美でマウントをとる愛想笑いらしい。月刊基礎知識 from 現代用語の基礎知識権力者を笑うのは、一歩間違えれば、殺されかねない、勇気がいることだが、残念ながら、日本には、このような笑いが欠けているのは否めないところで、巷では、脳科学者の茂木健一郎氏が、日本のお笑いはレベルが低い発言をしたのも、頷けるところではあるが、日本では封建制度が長かったせいと、権力者が絶対権力を握ってきたせいと考えられる。権力者がお笑いの地位を低いものにしてきたせいで、お笑いは、階級が上のモノが下のモノを嘲る、蔑むものとしてきたせいなのが大きいようにみえる。日本人よ、いつまでも小学校5年生レベルの「お笑い」で満足しているんだよ! いい加減成長しろよ!! - YouTubeだから、チャップリンのようなお笑いは、日本のお笑いの素地にはなく、恐らく多くの日本人はチャップリンのお笑いを見て斬新さを感じたようにみえる。私は、チャップリンの世代ではなく、その晩年の作品ライムライトを英語の教科書で習った世代だが、チャップリンに影響されたお笑い芸人の話を聞くと、私がモンティパイソンやサタデーナイトライヴで感じた権力への反骨心を、お笑いに感じているのがわかる。ライムライト (映画) - Wikipedia権力者を公然と笑える自由な社会から考えると、江戸時代などは、お笑いが禁止されていたわけで、いわば、いまの麻薬や公然わいせつなどと同じ扱いなわけで、岡っ引きや目明しなどは、お笑いを取り締まっていたわけで、滑稽本など小説の表現などに少しでも公儀を批判するものがあれば、外様大名家などは取り潰しされるわけで、当時は、お笑いも命懸けだったのだろう。だから、お笑いは隠密活動で、実際、毛利家などは、年頭の正月に、今年こそは徳川幕府を倒すのを密かに話し合っていたので、幕末に倒幕がなったわけで、お笑いを育てる余裕などなかったのかもしれない。だから、幕府にひたすら恭順を装うために、志村けん氏で有名になった、自虐的な笑いの、馬鹿殿を故意に演じていたようなのである。道化を演じるお笑い師、つまり権力の太鼓持ちのような、現代でいうところの御用学者みたいなのがいて、世間を見下し、権力者の宣伝広報をするような、お笑い師はいたが、これは権力者に媚を売り、お笑いで命乞いしているようなもので、生き恥を曝しているようにみえるから、先の茂木氏のようなお笑い論からすれば、下品といえるのだろう。ちなみに、勝海舟は自分も蘭学者出なのに、学者をけちょんけちょんに貶しまくっている。同じ蘭学者の福沢諭吉とは犬猿の仲だったのは有名な話でもある。志村けんのバカ殿様 - Wikipedia残念ながら、日本では権力者に楯突くのは命取りになりかねないので、お笑いが育たなかった歴史があるのは否めないし、いまでも、民王Rのようなコメディドラマにも、不謹慎などというクレームが出る始末なのである。そんなに権力者の奴隷となって暮らすのが良いのか? 古い価値観にすがりながら生きたいのか? 一体、いつの時代に生きているのか? そのようなクレームをする奴を笑い飛ばしたいのだが、そのようなクレームが至る所で起こり炎上するのも、権力の旨味に取り込まれ、奴隷化されている日本人が多いのか? 権力ウイルスや権力細菌に感染し、お笑い欠乏肺炎になって、お笑いの呼吸困難に陥るのも時間の問題といえるのかもしれない。権力ウイルスや細菌を殺すお笑い特効薬が必要だが、日本人はお笑いのレベルが低いのでつくれないから、睡眠を十分にとって、この権力の世の中から脱して、権力を笑うドラマを見続けるのが、せめてもの権力感染症の治療法なんである。
2024年10月31日
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自称ネットフーテンの寅さんのつもりで、ネット界隈を旅していると、たまに面白い記事に遭遇する。それは、次の『「なぜ戦争はなくならないのか?」ホッブズが説く人間の残酷な本性とは【社会契約論】』という記事である。「なぜ戦争はなくならないのか?」ホッブズが説く人間の残酷な本性とは【社会契約論】 - Yahoo! JAPANこの記事によると、動物は自然と共生し、比較的平和に暮らせるのに、理性をもつはずの人間がなぜ争い続けるのか、ホッブスは探求した、というのである。この疑問については、神秘学では、人間が悪魔に唆され、理性の、知恵の実を食べて、失楽に陥ったため、と答えがでているが、ホッブスは、人間の(地上の)理性から改めて考えてみたわけなんである。ホッブス曰く、「人間にはプライドがあり、現代社会では、他人と比較しないことは難しく、比較が人間の本能で、生きる意志や努力につながる」。このホッブスの考えは、失楽し、カリユガに陥った人類の本能を説いている、と考えられる。神秘学から端的にいえば、失楽により、神の宇宙意識と直接つながる霊能力が失われたために、本来の自分の役割が悟れずに、悟れない者同士が、お互いに外見を比較して、優劣を競う事で、人類の本能を外側から解釈している状況といえるだろう。そして、ホッブスは、「自分の身を守る事」を外見から、自然権として定義し、自分の生命を、自分の生活圏として唯物化したために、生物の縄張り争い、みたいなものから、「万人の万人に対する闘争」を想定したようである。このホッブスの考えは、シュタイナーの「万人の万人に対する闘争」の預言として、現代で成就しているところでもある。実際に、人類は呼吸するように、論争、闘争、戦争ばかりしているからである。そして、ホッブスは、『結果として自然状態の生活は「孤独で貧しく、汚らしく、残忍で、しかも短い」ものになってしまいます。』と結論している。そして、ホッブスは、この結果を避けるべく、「社会契約説」を提唱した。この社会契約論を、この記事から以下に抜粋紹介する。 ☆ ☆ ☆『すべての人が「暴力を使う自由(自然権)」を放棄し、それを「政治権力」に委ねなければならないと主張しました。ホッブズによれば、すべての人が暴力を放棄し、国家にその権利を譲ることで初めて平和な社会が成立するのです。国家だけが暴力を使う権利を持ち、国民はその国家に従わなければならない、とされました。ホッブズは「国家が成立することで、人々は争いをやめ、平和な生活を送ることが可能になる」と考えたのです。また、ホッブズは「国民は政府に反抗する権利を持たない」と主張しました。再び人間が戦争状態(自然状態)に戻るのを防ぐためです。ただし、ホッブズは「政府が国民の生命と安全を守る限り」という条件を付けています。もし政府が国民を守れなくなった場合、国民はその国家(政府)に従う必要はなく、国家との契約を解除できます。そして、他の国へ移動する権利があると考えたのです。「政府に反抗(暴力)するくらいなら、他の場所で平和に暮らせばいい」というのが、ホッブズの結論になります。』 ☆ ☆ ☆このホッブスの社会契約説を要約すると、人類の生存圏を唯物的に解釈し、自然権とし、個人の権利ではなく、集団の政治権力として、国家に集約することで、国家が個人の生存圏を保障する代わりに、個人には国家との社会契約の選択権をもつ、という万人の万人に対する闘争を避けるための、個人の国家選択権説ともいえるだろう。簡約すれば、個人として戦う競技はやめて、国家というチーム競技で戦うことにして、個人はチームを選べる、という感じといえるかもしれない。現代のスポーツが、ある程度、このホッブスの理想論を現実化しているが、残念ながら、個人にはチーム選択権が与えられていないのが、現実問題として残っている。例えば、日本が嫌だからといって、好きな他国に移住しても、その国での生活圏が保障されるわけではないから、少なくとも、その国の母国語を話せないといけないわけで、選択権が空理の、机上の空論であるのがわかる。しかも、人間の暴力が表面上のプライド、つまり理性から生じている、と誤解釈している点も見逃せない。これはホッブスが唯物論者であり、唯物的知識の限界ともいえるかもしれない。「前世からのメッセージ」のマスターたちによれば、本来の高次の知性ならば、「実るほど頭が下がる稲穂かな」というように、暴力は何の解決にもならず、かえって憎しみを増加させるものでしかなく、何の愛も生じない、愛の反対側にあるものでしかないからである。つまり、ホッブスの社会契約論とは、個人の権利を国家に無責任に帰属させただけでしかなく、人類に憎しみを植え付ける悪魔の権力を与えただけでしかない。個人の小さな憎しみを、国家の大きな憎しみとして表現させただけでしかない。有り体にいえば、目に見えないものを、目に見える形にしただけで、つまり、前回紹介した、悪魔を国家権力として召喚したにすぎないわけなんである。大切なのは、国家権力を、憎しみの総意ではなく、高次の知性によって、個人の愛で、外面から内面へと転化して、再び取り戻し、内面を愛で満たして、権力という魔物を退治し、亡きものにすることである。権力者から外見的な権利をとり上げることなんである。社会契約論というよりも、キリストが説いたように、他者を害する、武器をすてて、お互いに愛し合いなさい、というわけなんである。誰の心にも既に天国はあるのだから、外の国ではなく、内の国の住人になりなさい、という天国住人論が必要なわけなんである。さて、巷の騒々しい選挙も終わってどこもかしこも選挙番組をやっているのをみていて、選挙を勝敗で決める権力闘争の虚しさ、愚かさを感じざるを得なく、しかも、一般の定年年齢の60歳を過ぎてる老人たちばかりで、さすがに少子高齢化といっても、国の中枢が老人ばかりで正直言ってウンザリである。昔の日本人なら、後進に道を譲ってとっくに隠居しているはずで、晩節を穢す日本人が増えているのがよくわかり、この国の政治改革がほとんど進まずに、この現状を、身体に譬えると、新陳代謝が滞っているわけで、これが少子高齢化の元凶なのではないか、とも思えてくる。高齢者の運転事故が問題になり免許返納を推奨するようになったのだから、国会議員も定年制にするか、記憶力検査や知能検査を導入して、ドクターストップでも取り入れるべきではないかと、ヨボヨボ議員たちをみていて、嫌気が差すわけなんである。しかも、話す言葉のほとんどが嘘塗れであるから、あの年齢にもなって、どうしてあのように息をするように嘘をつけるのか、全く笑止千万である。嘘をついてまで、権力者でいたいのか、人間の浅はかさ、欲望塗れの愚かさに呆れてしまうばかりなんである。醜態を曝す格好の悪い老人ばかりの国になってしまった。高齢者同士が仲良く年金で支え合って暮らすのではなく、一部の高齢権力者が権力を振りかざして権力闘争で、税金を収奪し、他の高齢者を死に追いやっているような現状と言わざるをえなく、その醜態は目に余り、被災者などの悲惨な生活には見て見ぬふりである。老後は独り静かに暮らすべき、と、日々ネット界隈でみる、仏教動画も説いているわけで、お釈迦さんは、ある程度の年齢になったら、外に幸福を求めるのではなく、内に幸福をつくること、心を常に平穏で満たす生活を心掛けるべきである、と説いているわけなんである。まともな人が孤独(ぼっち)な理由 | ブッダの教え - YouTube早い話、外に幸福を求めるのは若者の特権で、いい歳こいて欲ボケ爺になってはいけない、と言っているわけで、老人は、内に幸福を求めるのが人生の後半の重要な役目なんである。でないと、老人に相応しい叡智が獲得できないからである。老人に相応しい叡智とは、自分の人生の目的を知ることで、自分らしく生きることである。自分の前世からのカルマを知り、カルマを解消するために自分らしく生きることなのである。自分の人生は、他者とは違っているわけで、他者の人生とは比較にならない。だから、若者のように、外に外見だけの幸福を求めても無意味だからである。老人になってまで、他者に承認欲を求めるのは、欲ボケ爺で、自分の人生を生きていない証と言わざるを得ないからである。だから定年とは、ある意味、自分の人生を生きてきたかどうかの、人生の前半期の審判といえるかもしれない。孔子は、「50にして天命を知る」、と説いている。この意味は、在り来たりの唯物論でも、自分の人生の意味を知ると、解釈されているが、真意を解釈するなら、自分の前世が見えるようになった、という意味となるだろう。そして、次の「60にして耳従う」というのは、霊視力の次に、霊聴力を獲得したという意味で、死者や霊魂と波動を通じて、会話できる、という意味になり、その次の、「70にして、…矩を越えず」、というのは、霊魂が望むように、あの世にも行けるが、自分の肉体にも戻ってこられる、という光と調和し同一した意味になるだろう。だから、この論語の孔子の人生は、人智学でいうなら、秘儀参入法で、真面目な修行者が獲得する人生の推移といえるだろう。40にして惑わず。ー現代版解釈1『論語・為政』ー – ブログ書いてもいいですか?だから、ちなみに、「十五にして学を志す」という、この学とは、秘儀参入学で、密教の秘教でもあり、「三十にして立つ」のは、師から独立して、自分独りで秘儀参入できるようになった、という意味になり、「四十にして惑わず」は、悪魔の誘いに惑わされないようになったわけで、欲望を捨てた、という意味になるだろう。40歳で、人生の欲望を捨てたので、自分の前世が、50歳でみえるようになったと、全てがつながるわけなんである。勿論、従来の唯物論で、物質的に解釈しても、内容はある程度通じるが、50にして天命を知るの「天命」が、唯物論では、人生の使命って、具体的に何だろうね?と、言葉の意味はわかるが、イメージを描くのは実際には困難になってしまう。人生の使命とは、宿命ともいわれるが、それが前世からくる、のを知らないと、具体的なイメージを描くのは困難になってしまうわけで、その後の60の、「耳従う」、の唯物的解釈の「人の言葉に素直に耳を傾けられる」では、50で天命を知った孔子ともあろう人が、この歳になるまで人の言葉に素直でなかったのか?という疑問、成長の矛盾が生まれてしまう。そしてまた70で、人の道に外れないように思うままに生きる、という意味も、孔子が自慢し、マウントをとっているように感じるし、孔子ともあろう人が、70になるまで、道に沿って思うままに生きてこなかったの?という疑問や、これまた知性や経験の矛盾が生まれてしまう。逆説的に考えれば、人の道を外れる70歳の老人がほとんどいないのが当たり前で、孔子の時代の高齢者は人の道に外れる人が多かったのか?新しい疑問が生まれてくる。このような論語の唯物論解釈だと、どことなく、巷を賑わせた某議員の、ポエム語録を髣髴とさせてしまうぐらいツッコみどころ満載なんである。唯物論的解釈だと、現代人の知性が、古代人を、どことなく見下している感がある。こんな、いい加減な教育が、明治政府の道徳教育だったわけで、先に紹介した社会契約論のように、人民から思想の自由の、権利をとり上げて、国家に束縛し奴隷化してしまうような、どこか新興宗教の教義のようで、悪魔との契約論なのがわかる。道徳教育論-理論と実践-(9) | 特別の教科「道徳」指導案唯物論自体が悪魔のモノなので、明治政府の富国強兵から西欧の植民地政策により、太平洋戦争まで、一連の道徳教育を鑑みれば、唯物論の弊害が大であるのが伺えるだろう。戦時中の戦意高揚のための、士族階級保障の靖国神社や特攻作戦などは、ホッブスの社会契約論を地で行った権力者のための権力者による権力者の暴挙であるのがわかる。それは社会契約論などで、万人による万人の戦いを、万国による万国の戦いに変換したためで、個人が国家を選ぶどころか、権力者たちの権力闘争から、国家間の戦争に巻き込まれ、生存圏を保障どころか、生存権を権力者の陳腐な判断力に奪われかねない奴隷と化した現実を生んでしまったわけなのである。これが、現在の民主主義の限界で、国家を越えて権力者を選択できない社会契約論の限界を露呈しているわけなんである。民主主義というのなら、権力闘争をせずに、個人の生存権を保障できる権力者を、地上のどこにでも求められるようなシステムを人類がつくらない限りは、その権利の保障が無意味で、その問題点に言及しないといけないわけで、そのような権力者が絵にかいた餅で、ニセモノであるのを暴露すべきなんである。そのような権力者は人類史上生まれたためしがなく、愚かな権力者しか生み出さなかったから、人類は戦争ばかりしているわけで、だから、そのような権力者から、せめて権力、交戦権をとり上げて分散するシステムを臨時に構築しなければいけないわけで、とりあえず、世界全体で、権力者を隈なく選択できるシステムを身分や人種民族を問わずに、構築しないといけないわけなんである。ホッブスが素晴らしいのは権力が暴力から生じるのを読み解いたところで、権力者が支配欲塗れなのを洞察したところである。しかし、現実には、権力者は権力を正当化するために、出来る限り、自分が権力に居座るために、住民に完全に自由な選択権を与えないし、住民の移住も認めないから、権力者をなくさないと平和はやってはこない。だから少なくとも、権力を無くした、誰もが自由に権力者を選択できる、完全な平等制が実現しないかぎり、民主主義は、一部の権力者に牛耳されて奴隷化され、戦争はなくならないわけなんである。だからせめて、人民を巻き込まずに、権力者同士で戦わせるしかないだろう。権力という武器をとり上げて、お互いに愛し合うように舞台を整えるのに、人類は、経験と努力を注ぐべきなんである。権力者から権力をとり上げて、国境を無くさないといけない、というのが、ホッブスの社会契約論を、霊的に解釈した論語による帰結なんである。誰もが国家を選択でき、自由に移住でき、安全に暮らせる、社会ユートピア論を議論すべきなんである。60も過ぎた権力者が天命も、耳従うのもできないのでは、何のための権力なのか、人類の理性という名の幼稚性を思い知るべきなんである。孔子を馬鹿にし過ぎている。孔子は自分が霊能者になったのを論語で説いたのである。巷の醜い権力闘争をみせつけられて、せめてMLBのワールドシリーズ観戦が、一服の清涼剤になるものと期待して、今回のブログを書いたわけなんである。戦いはスポーツのなかだけにしてほしいものである。国民の生活圏向上のために、戦うスポーツ選手ならみていて楽しいからである。そこには私利私欲塗れの権力者の醜悪な姿など微塵もないからである。戦うのなら、自分の人生と、宿命と戦うべきである。
2024年10月29日
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MLB観戦もワールドシリーズ頂上決戦の週末まで、時間ができたので、久しぶりにドラマを堪能した。ドラマは、バカリズム作以外はほとんどあまりみないのだが、先日、かなり前にたまたまみて面白いと感じた「民王」がパート2として地上波でやっていたのをみたら、非常にまた面白かった。ついでに、その流れで、西田敏行氏追悼で「ドクターX」もみたら、これもまた面白く、人気なのが納得いった。これまで、医療ドラマは、職場が医療機関だったために、ドラマのリアリティのなさがわかっていたので、わざと敬遠していたのだが、仕事も辞めたので、純粋にドラマとして楽しめた、のが良かったのだろう。というわけで、今回は、ドラマを考察してみたい。民王R|テレビ朝日 (tv-asahi.co.jp)ドクターX〜外科医・大門未知子〜 - Wikipediaドラマはいうまでもなく、フィクションで、虚構の嘘である。昔は必ずドラマの終わりに、その文言を載せて、恐らく苦情電話に対処したのかもしれない。だから、実際の経験があると、ドラマのリアリティのなさが、かえって邪魔になったりして、ドラマの内容に入り込めなかったり、ドラマのなかの登場人物の一部分に近い人物が、変にリアリティをもって職場にいたり、似たような出来事があったりすると、ストーリーどころか、そのことだけで頭一杯になるので、ドラマのリアリティさは、諸刃の剣なのだが、この2つのドラマは、ほぼ許容範囲内に収まっていたので、面白く楽しめた。あまりにリアリティがあると、ドラマでなくなってしまうので、ドラマで愉しむのなら、リアリティは少なめのほうがいいかもしれない。自分は嘘を楽しむのがドラマだと思っている。かといってすべてがファンタジーでもかえってみる気をなくすから、全体の流れにリアリティをもたせ、節々にフィクションを散りばめ、場面ごとの出来事があり得ない、奇想天外な展開にしたほうが、コントというか、ドラマ性をもたせられる気がする。その点で、この2つのドラマはコミカルな展開を上手く描き出せていた。民王は、政治家のドラマで、ドクターXは大学病院のドラマなのだが、医療ドラマというよりも、大学病院というヒエラルキーの権力闘争の、人間ドラマというべきものだろう。どちらも、フィクションとして、コメディとして非常に面白く、人気があるのがわかる気がした。特にドクターXの院内でのマウント合戦と権力闘争の組織あるあるネタをコミカルに描く手法は、恐らく、「踊る大捜査線」辺りからはじまったように思われる。踊る大捜査線 - Wikipedia警察に努めた経験はないので、警察内での権力闘争についての人間模様はわからないので、このドラマのリアリティについては言及できないが、今では全く連絡がないが、大学の後輩が警察に勤めていた話を思い起こすと、警察官と事務官は違う、というような話をしていたのが記憶に残っている。恐らく、病院内での医師と技師や事務の違いのような感じかもしれない。病院の場合は、更に薬剤師や看護師が、医療分野別の技師のなかに加わるので、権力体制としては、かなり複雑怪奇である。国家のなかに、独立国が沢山あるような連合国のような感じといえるかもしれない。更に医師の場合は、他病院にも派遣勤務して、いわば副業しているので、複雑の上に複雑となっている。それらの権力が医師の属する医局に集約しているわけなので、俗にいわれる教授を頂点とした、そのピラミッド構造の権力維持体制のなかでは、底辺にはかなりの圧力がかかるわけで、植民地派遣というか、植民病院などへの派遣で、研修医が過労死してしまうのは、この旧来の頂点への権力集中の構造問題にある、といえるだろう。この旧来の権力構造は、おそらく、明治政府がビスマルクを手本に、ドイツの軍医を招いて、古いドイツ式の医学を模範とした西欧化植民地政策のせいといえるかもしれない。過労死は研修医だけに限らないが、私の経験からすれば、教授になる一歩手前の助教授が、無理をして、亡くなる場合が多かった。30年間のなかで3名の助教授の過労死に遭遇した。このような旧来の権力体制だと、研修医の人手不足が時事問題にもなってきたから、労働環境を変えるために、従来の医局制度が、日米地位協定の意向なのかどうかは知らねど、米国の医療に少しでも近づいて、講座制になったのだが、看板を挿げ替えただけにみえるのは、ドクターXが、歪でコミカルな医局を描き出している場面から伺え知れるだろう。医局の歴史~第1回 医局の成立と大学への医師の集中~|医師のキャリア情報サイト【エピロギ】 (dr-10.com)どちらのドラマも、日本人の集団性や組織つくりの、権力闘争という意味ではリアリティをコミカルに描き出しているようにみえる。日本人の組織は排他的で、特に、ドクターXの大門未知子のような、医局の権力枠からはみ出た異端者には、アウトローの一匹狼が、ドラマでこそヒーローやヒロインにもなれるが、現実は忽ち左遷されて厳しい目に遭うだけだろう。私の経験でも、それに近い人物がいたが、その女医は外科ではなく、勿論、ルックスも米倉涼子氏のようなスレンダー美人ではなくて、外見はどこからみても男にしかみえなかった産婦人科医だったために、なぜ産婦人科を選んだのか理由はわからないが、女性患者に診察は女医さんにしてといったのに、なんで女医でないんだと度々病院にクレームされ、自爆していた有名な女医がいた。本人は可哀想だが、患者の立場からすれば、わからなくもない。女性らしい恰好をすればまだしもなのだが、それも拒否していたようだから、自爆してしまうわけなんである。特に近年は医者でも男性に診察されるのが嫌な女性患者も多い。不細工な医者が多いせいかもしれないが、実際に、イケメンの医者は、ほぼ30人に1人くらいの割合なので、不細工に診察されるのなら、いっそのこと、同性の方がマシという気持ちもわからなくもないが、同性でも不細工なのは許せないぐらいルッキシズムが浸透しているといえるかもしれない。ましてや外科で女優のルックスの女医などは、現実にはほぼ皆無といえるだろう。しかし、そのような不細工医師でも看護婦にはなぜかモテモテなのはいうまでもない。男性看護師も増えてはいるが、余程の性格の良さとルックスでないと、女性の世界なので、男性としての気遣いが絶えないようである。そのような不条理な女医のエピソードを基にして、ノンフィクションの、現実の日常を描き出しても、退屈でこの上なく無味乾燥で、あえてノンフィクションドラマで、悲劇を描き出すのならまだしも、「おしん」の流行る時代でもないし、それではかえって視聴率は見込めないし、広告媒体にもならないので、また別の角度から、刑事ネタが尽きたのか、推理ドラマを医療に持ち込んだドラマなども一世を風靡したが、結局は、マスコミの権力忖度、利益追従の姿勢から、深刻なノンフィクションドラマは敬遠しがちで、非日常性の夢に溢れるフィクションドラマを求めがちで、そういうわけで、ドラマはほとんどが虚構になるしかないのだが、そもそも非現実を描き出すから、ドラマがガス抜きの一服の清涼剤になるわけでもある。しかし、ノンフィクションドラマといっても、所詮それはドラマに過ぎず、現実は、前回紹介したように、人生には所々に悪魔の罠や障害が張り巡らされていて、思い通りには進まない。だから、ドラマとは、いかに非現実を、ファンタジーを描き出せるかにあるように思えるのだが、実は、その非現実のドラマを、オカルトで考えると、実際に過去に起こった出来事にもなり、ドラマがドラマではなくなってくるから更に面白い。例えば、「民王」は、総理大臣になった人物の中身の精神が入れ替わる、という虚構を利用して、無味乾燥で退屈な権力闘争を、面白可笑しく喜劇にしているのだが、つまり、この肉体が入れ替わるという表現手法は、男女が入れ替わるという映画「転校生」から使われてきたもので、この肉体交換を、唯物論による脳科学の概念の、単なる電子回路としての脳に見立てて、その記憶体験の入れ替えで、虚構のドラマをつくりあげ、表現しているが、ストーリ―性としては、「転校生」の肉体交換とほぼ変わらずに、この表現法が唯物的になっただけで、権力者の中身が入れ替わる、という話は、オカルトの、霊魂の入れ替え、とすれば、実は、過去の現実でも何度も起こってきたことなのである。転校生 (映画) - Wikipediaこのようにドラマを、オカルトで解釈すれば、ファンタジーが現実化されてしまうわけなんである。「転校生」の男女の入れ替えも、前世での関係に言及すれば、過去世であり得た関係から、現世での関係になっているのがわかるわけで、つまり、現世ではドラマとなっているが、過去世では現実であったともいえるわけなんで、更に、現世での関係から、例えば、シュタイナーが説いているように、自我が完成する35歳辺りで最も親しくなった人と、来世で親子の関係になるわけで、輪廻転生そのものが、肉体交換の関係ともいえるわけなんである。だからどうして、この2つのドラマをとり上げて、紹介したかといえば、異端者X(エックス)と、その異端者が、総理大臣という権力者にすり替わる、実際にあった話を、トートのエメラルドタブレットから紹介したいからでもある。ドクターXの大門未知子には、どこかマカロニウエスタンの一匹狼の西部劇を感じさせ、善い者にみえるが、トートのエメラルドタブレットでの、Xは、黒魔術の魔女で、悪者である。通称リリスと呼ばれ、過去の地球において、蛇人をつくった祖ともいわれている。そこで、リリスをググると、以下の、ウイキのあるコメントに出逢うから不思議でもある。 ☆ ☆ ☆リリス - Wikipedia七十人訳聖書は、適切な訳語がなかったためだろう、リリスをオノケンタウロス(onokentauros)と翻訳している。前のほうにある「山羊の魔神」もダイモン・オノケンタウロス(daimon onokentauros)と翻訳されている。 ☆ ☆ ☆ドクターXの原作者が、上の聖書を知ってたかどうかは定かではないが、リリスは、ダイモン・オノケンタウロスと呼ばれていたようであるから、大門未知子の、大門まで同じで、未知の女性という未知子の名前が何やら意味深でもある。エメラルドタブレットによると、このリリスとは、このブログでも度々紹介してきた通称エクスジアンの第10番惑星人を、この地球に招いた黒魔術師の魔女のことだというのである。それは古代アトランティス時代よりも遥か昔の、古代レムリア時代よりも前の、神智学では、極地人時代と呼ばれる太古の地球での出来事なのである。当時の人類は、北極に住んでいたので、極地人という名称がついたという。当然、現在の物質的な肉体はなく、肉体の原基となる体温を熱で保っていたようである。だから地球全体はまだ暑く、北極もいまの熱帯のように暑かったという。だから物質という存在もなく、全てが水のように液体性で、熱の火から現実化していたようである。だからヒトといっても、巨人で、特にエクスジアンは、1マイル(1600メートル)もの大きさの悪の意識存在だったという。架空のゴジラの身長が、約50~120メートルと設定されているので、その10倍を上回る大きさといえる。当時の人類の大きさには言及されていないのでわからないが、現代人よりは、それなりに大きかったようには思われる。当時の地球全体が液体性のガス球だったので、固体はなく、いわば、地球という海のなかを泳ぐ感じで、人類は北極にゼリーのような軟骨で、都市をつくっていたようである。その話について、エメラルドタブレットを引用すると、次のように書かれている。古代アトランティスについて私は語ろうと思う。暗黒の者たちの惑星の時代について、暗黒の子たちが地球に来たことについて語ろう。彼ら(エックスジアン)は、地球人(リリス)の黒魔術により太陽系の第10番惑星(本当は第11番惑星。というのも、火星と木星の間に遭った惑星が、この連中に破壊され、アストロイド小惑星帯になったせいである)から召喚された。将来の物質力を得るために呼び出された。アトランティス大陸ができる前の遥かな昔に、暗黒を探求する魔女がいて、黒魔術を使い、地獄の世界から、彼ら悪魔のエクスジアンを呼び出した。そうして、この人間が住む地球にやってきた。彼らは、人類とは異なる波動をもち、無形の、不可視の存在なので、人類には未知の存在である。彼らは、人間の血液を通じて、有形化する。だから、人間を通じて、この世に生きるようになる。このように、エメラルドタブレットによると、ドラマのドクターXは、患者を外科手術で治療する医師だが、地球人を、血による黒魔術の儀式で、蛇人を生み出す暗黒の魔女リリスとなるわけなんである。この人間を蛇人にしてしまうモチーフは、映画エイリアンにも受け継がれているようにみえる。エイリアン (映画) - Wikipediaエメラルドタブレットによれば、エクスジアンの真の姿は、蛇の頭部をもつが、人間を騙すために、催眠術を使い、人間の頭部のようにみせかけるという。このエクスジアンの姿は、現代のレブティリアンのモティーフにもなっている。面白いことに、人間に偽装したエクスジアンを見分ける方法は、彼らが発音できない言葉を言わせることなのだという。それは、「キニ二ゲン」だというのである。ヒト型爬虫類 - Wikipediaアーリマンとルシファー、キニニゲン今でもググると、レプティリアンとともに、このキニ二ゲンが出てくるから面白い。この悪の連中は、ドラマ民王のように、総理大臣のような権力者の、悪への欲望に付け込んで、憑依して、肉体から霊魂を追い出して、権力者と入れ替わって人類を奴隷化し支配したという。それが盛んにおこなわれたのが、極地人時代で、これでは地球が危ないということで、アンタレスの聖白色同胞団のマスター(聖者)たちがやってきて、白魔術で、悪魔を退治し、地球を征服し、人類を解放して、悪魔たちを地球の核のパンドラの箱に閉じ込めたのが、伝説として残っているという。そして、驚く話だが、あのヒトラーも、民王ドラマのように、この悪魔が人間の霊魂を追い出して、居座った例なのだというのである。フィクションドラマのようなノンフィクションドラマの話だが、オカルトのなかでは、そもそも人間の知識が、叡智の焼きまわしで、低次の知識は、高次の知識が退化したものなので、下にあるものは上にもある、わけなんである。嘘のような本当の話がドラマなのかもしれない。あり得ない話があり得てしまうのは、人間が叡智をどれだけ、経験と努力で引き出せるかどうか、なのである。努力と経験から、叡智を引き出すために、シュタイナーの職業のカルマと未来を要約して紹介する。 ★ ★ ★人生の形成と改変職業のカルマが、他のカルマの流れに合流する。物質体を考慮すると、誕生から歯の生え変わる大体7歳までの物質体の成長のなかに、その人のカルマの流れが洞察できる。物質体に関するカルマは、この最初の人生期に依る。それはカルマを通じて、特定の家族や国家に生まれ、属するからである。このようにして人間は、特定の性質をもつ肉体を獲得する。特定の家族の家系の、血統に生まれることで、この特質をもつ肉体を獲得する。人間は、この生まれついた環境にいかに左右されるか、考えてほしい。この肉体から、その後の多くの人生の出来事がはじまり、展開されるからである。この誕生から約7年間過ぎるまでは、物質体、もっと正確にいうなら、物質体の周囲のファントム(幽体)のなかに、前世の職業には由来しないカルマが働く。このカルマは、前世で人々とどのように共同して生きたかに、由来する。人生の一部ではなく、全生涯を通じて、人々とどう関わったかに由来する。人生の一部についてのなんらかの関係は、また人生の別の期間の出来事に関係する。人々との深い関係は、霊魂に反映し、死の扉を通して、次の人生へと運ばれて、特定の家族に生まれ、自分の人生をつくりあげる。だから、「前世での人間関係が、物質体を用意し、物質体を通じて働く全てが、人生の宿命を形成する」といえるだろう。この宿命の形成は後年にも引き継がれ、自我がそれに抵抗する。自我は、宿命を改変し、立命とする。自我は宿命と戦い、立命し、運命として次の人生へと運ぶ。だから、「物質体は宿命をもたらし、自我は改変し、立命とする」といえる。この2つの体から生じる戦いを通じて、それぞれ異なるカルマの流れが人生に合流する。このように人間のなかには、人間の活動を宿命のなかに保存する肉体と、そこから解放しようとする自我が存在する。物質体 宿命をつくりだすエーテル体 宿命を促進するアストラル体 宿命を改変する自我 宿命を改変し、立命をつくりだし、運命として次の人生に運ぶ
2024年10月24日
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MLB観戦の誘惑に負けながら、「前世からのメッセージ」を細々と改めて読み続け、ようやく、終わりに近づいてきた。また読み返しをするかもしれないが、とりあえずは一段落したといえるかもしれない。そこで今度はまた、トートのエメラルドタブレットを読み直したい気持ちにもなってきた。しかし、この書は、「前世からのメッセージ」のようには読みやすくはないので、また気が変わるかもしれない。さて、神社には必ず神殿の前の両脇に、狛犬が置かれている。阿吽の呼吸の、阿(あ)と吽(うん)で、右側が阿形の獅子で左側が、吽形の狛犬という説もある。そして、阿が宇宙の始まりで、吽が宇宙の終わりを意味すると、オカルトでは説かれている。この意味は、トートのエメラルドタブレットでわかるので、後に紹介したいと思うが、この獅子のような狛犬が、宇宙の境域を、つまり、愛である神様の叡智を守護しているのは、神社に行ったときなどから、なんとなく直感からわかるのではなかろうか。神社では、鈴や拍手で音を鳴らすが、これは愛の叡智が波動という音で伝わるのがわかるはずである。だから、阿吽の呼吸の、狛犬は、発声の「阿」と着声の「吽」の叡智を音で伝え、凡人には、無暗矢鱈と明かさない、秘教の守護天使といえるわけなんである。神社コラム・6◆狛犬 お使いの動物たち | 【公式】出雲記念館 (izumotaisya.jp)狛犬のいろはを学ぶ |狛犬って千差万別! | 奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」 (pref.nara.jp)自称ネットフーテンの寅さんをしていると、ネット界隈の、いろんな動画にお目にかかるが、大体が詐欺メールのような、「なんだよ、見て損した」という時間を奪うテイカー(Taker)の詐欺広告動画ばかりなので、かえってストレスが溜まる。ジャロのような誇大広告抑制機関が取り締まれば良いとも思うのだが、世の中には、ルールやモラルよりも、自分が上に位置すると自分勝手に判断して生きている連中が多いので、取り締まるのにもカネがかかり、予算が必要なわけで、悪者を懲らしめるのにも、それ相応の経済力や権力が必要なわけで、結局は、この有形無象の物質界では、自分の身は自分で守り、自分で判断するしかないわけなんである。JARO 公益社団法人 日本広告審査機構このように、人生には至る所に、障害が充ち溢れ、張り巡らされているわけで、前進しようとすれば必ず摩擦力が生じて、出る杭は打たれるわけでもある。至る所に悪魔の罠が張り巡らされ、そのような低俗な玉石混交のネット動画に満ち溢れるなかでも、以下のカウンセラー竹内成彦氏の動画は非常に参考になるので紹介したい。特に、なぜ虐めや戦争がなくならないかを、カウンセルを通じて割とはっきりと明らかにしている。端的にいえば、ルールを守らない人がいるせいである。特にそのような人が権力をもつと、世の中が乱れて、戦争になるわけなんである。【公認心理師】精神医学と性格心理学に詳しい 心理カウンセラー 竹内成彦 - YouTube特におススメなのは、「こういう人とは距離を置こう」や「あなたから人が離れていく8つの理由」や「高齢になって不幸になっている人の特徴6選」や「この人たちがいなければ戦争やいじめが起こらない」などである。特に「恋と愛の違い」は明解で、心のなかでは、恋と愛を混同しがちで、恋なのに、愛と偽る事例を紹介している。また「ルールよりも自分の方が偉いと思っている方をご紹介します」は面白かった。このカウンセラーは、心の仕組みを解き明かし、カウンセルが宗教にまでなっている人といえるかもしれない。ルールを守らない人~性格心理学と精神医学に詳しい心理カウンセラー 公認心理師 竹内成彦 - YouTube恋と愛の違い 愛とは何か 恋とは何か~性格心理学と精神医学に詳しい心理カウンセラー 公認心理師 竹内成彦 - YouTubeさて、この動画では、あるプールでのエピソードで、ルールを守らない、身勝手な、愛のない、憎しみの対象となる、身近な不届き者を紹介している。ほとんどのプールでは飛び込み禁止になっているが、そのために、飛び込み専門のプールも置いてある施設もあるが、すいている場合は、飛び込んでもいい、と考える人が、「ルールよりも自分の方が偉いと思っている人」と紹介している。つまり、万人のルールよりも、自己都合を優先する我儘な人がルールを守らない人、といえるだろう。こういう人になぜルールを守らないと問い詰めても、自己都合をあげつらって言い訳するばかりなので、時間の無駄である。自分がその罰を受けないとわからないほど無知なんである。要するに、他人の気持ちがわからない、思いやりのない人なのである。このような人は、自分の心のなかに、悪魔が巣食っているのに気づかない人である。悪魔となかば同化しているので、悪魔の存在に気づかないわけなんである。また、このようなルールを守らない人をみて、ルールを守るのが馬鹿らしいと思う人もまた、ルールの意味を理解していないといえるかもしれない。ルールは安全のためにあるわけで、ルールを守らない人はそれだけ安全に関心が薄いわけで、心のなかに他者との共有性や協調性がないのを示している。このような人を権力者などにしてしまうと、人類全体の安全が脅かされるのはいうまでもなく、裏金議員のように政治低迷の元凶となるわけなんである。ルールを守らない人は、ルールに特例を設けて、自分をその特例に勝手に当てはめてしまう性格なのを挙げている。独裁者や裏金議員も、このような性格の持ち主といえるだろう。ルール、つまり法律は万人に平等に、万人の幸福追求のためにあるのに、自分には適用せずに、特権的な地位を与えてしまう、我儘な性格といえるだろう。万人が平等に幸福であってこそ、その幸福は見せかけではなく、本物の幸福なのだが、自分から脱落腐敗していく、無責任な輩ともいえる。このような落伍者は、誰か一人でも法律を守らない者がいると、法律は無効になり、人類が失楽してしまうのがわからない、アホなんである。つまり、いまのところは、幸福にはなれない人といえるだろう。確かにルールや法律を守らないのも自由ではあるが、その自由と共に、幸福になる権利を自ら放棄しているのに気づかないアホなんである。ここでいう幸福とは、一時的な快楽ではなく、永遠に無限に続く幸福である。ルールには、人間が幸福となるための、指標が、進むべき方向性が示されているわけなんである。これが、神社になると、狛犬となって現れているわけでもある。神社は、愛であり、モラルである。その愛を守護し、叡智として指し示しているのが、阿吽の呼吸の狛犬たちといえるだろう。キリスト教でいえば、キリストの聖霊たちである。三位一体を表わすのなら、父が、宇宙の自我意識で、聖霊が、人類の集合意識で、子が、人間個人の自我意識であり、それらすべてが一つの「わたしある」の主からなるわけである。愛が愛を感じるために、3つに分かれたといえるかもしれない。さて、「前世からのメッセージ」のマスターたちも説いているように、幸福を求めるには、幸福は人間の内側からくるので、まずは心を自分風につくらないと、コントロールできないと、いけないわけである。簡単にいえば、不安や恐怖を、自分の心のなかから追い出さないと、締め出さないといけないわけで、それには、自分の心を隈なく観察して、経験を蓄積し、獣性の心の、欲を捨て去る努力をしないといけないわけである。幸福になるためには、諦念が必要というわけなんで、自分の欲の、自分の心は、自分でしかみえないからである。少なくとも、他人に見てもらうのには、自分の心がはっきりとわからないといけないわけである。ほとんどの人には、下心があり、心が汚れているわけなんで、他人には見せられないわけでもある。自分でも下心の自覚がないから、欲望に振りまわされてしまうわけでもある。マザーテレサのような綺麗な心の持ち主でいてはじめて、心が他者にも見せられるのかもしれない。勿論、心には物質のように実体がないので、みせることはできないのだが、言葉や行為により、愛を与えることで表現するしかない。そしてまた、愛を与えるには、叡智が必要となる。我々地上人である地球人は、愛を実践するには、心を叡智によって磨かないといけないわけで、そのために、地球という愛の実践学校で、人生を生き、愛を叡智として学んでいるわけなんである。そこでまた、「前世からのメッセージ」のマスターたちの言葉をかりて紹介する。大切なことは、忍耐とタイミングである。全てのことには時があり、人生を焦ってはいけない。人生は期待するように、うまく予定通りにはいかない。だから、その時々にやってくるものを受け入れ、それ以上を望まないのがよい。新たに生まれるというのも本当はないことである。ただ異なる全ての場面が通りすぎてゆくだけで、終わりもない。人間は本来沢山の次元空間をもっている。時間も人間が考えているようなものではなく、学んだレッスンのなかにある。ただ愛だけが真実で、愛は信じられないほど強力なエネルギーで、そして、人間はこの愛のエネルギーからできている。人間が真実を追求するほど、愛に満たされ、愛に目覚めるようになる。だから愛は絶対で、終わりもなく、とどまることもない。愛の純粋な形は、無条件の愛であり、見返りを求めない愛が永遠の幸福の表現となる。自由に愛を与えることで、人間は霊的な大富豪となる。このように紹介すると、愛と恋を取り違える凡人が出てくるので、上に紹介したカウンセラーの動画を参照してほしい。大きく異なるのは、恋は自己中で、愛は相手を思い、自己犠牲的である。例えば、自分の能力を鑑みて、相手を幸せにできないと思えば、恋をしても、一緒にならない選択もできるわけである。だから、不倫は愛ではなく、恋であり、欲望でしかないのがわかるはずである。むしろ、相手と繋がりたいと思うのは承認の欲望であって、無償の愛ではなく、見返りを求めているわけなんである。そして、不倫は取り返しのつかない不幸に至ってしまうわけなんである。一緒になって生活してみてから気づくのは、自分に知性がない証拠でもある。恋に溺れ、愛を知らないのは、人生を学ばない人といえるかもしれない。一緒にいることが必ずしも幸福というわけではないからである。一緒にいなくても、心のなかでは、結局は、同じ宇宙のなかで、皆が幸福を追求しているわけなので、同じ方向に向いて、ルールを守り、真実を追求し、愛を深めればいいのである。現代人は唯物論に染まり切っているので兎角、線形思考から、直線的に因果関係を追求し勝ちだが、宇宙はむしろ非線形現象で成り立っているのを理解しないといけない。急がば回れである。航空機が、地球を直線航路で進めば、地球から離れてしまうのを考えるべきである。もっともロケットでないと、そのような航路は辿れないわけで、重力によって地上に引っ張られてしまう。地上人は、地上から抜け出せないようになっている。地上から抜け出すには、肉体を捨てないといけない。地上人が多くを求めても、地上の人生はそのようにはできていないからである。地上人が物質界を抜けられないのは、唯物論に洗脳されて、直線的な関係の、線形思考の賜物だからである。だから、恋と愛の区別さえできないのである。そこで、その区別の大切さを、トートの、エメラルドタブレットから読み解き、紹介する。神秘の鍵人間よ わたしトートは、あなたたちに、わが叡智を授けるために降りてきた。あなたたちに、光の叡智を教えるためにきた。いまの人生を鑑みて、その経験から、よく学びなさい。そうすれば、この地上界を超える、宇宙意識からなる神界の叡智(虚空記録)を読み解くことで、全ての真実からなる宇宙の法則が見通せるようになる。私は、固有の波動の、肉体をもつ人間ではなく、宇宙のいろんな階層を出入りできる、完全に自由自在の波動の存在なので、波動を操作して、いろんな階層の次元空間を旅できる、いわば霊魂の意識のみの宇宙人である。全ての形ある物質は、形のない波動の、霊魂の法則からつくられるのである。この地上界を超える、神界には7柱の偉大な、主とよばれる光の叡智の神がいる。光の叡智により、その存在を、愛の力により、あなたたちに愛を送ることで、あなたたちと共にいることの存在を証明している。あなたたちは、この愛の力から、光の叡智を、音声の言葉として読み解いて、あなたたちの言葉の表現により、愛の力として、あなたたちの無限の存在を、永遠の生命を解き明かしなさい。あなたたちの言葉のなかに、愛の思いやりを、神が与えた、光の叡智をみつけなさい。この光の叡智をみつけることが、愛の真実を解き明かす鍵となる。神秘とは、あなたたちの霊魂の不浄な、闇により隠された光の叡智にすぎなく、人生の障害などの、不浄の闇のなかから、光の叡智を読み解くことで、あなたの、愛の真実を、解き明かしなさい。あなたの霊魂の奥底に眠っている潜在意識を、光の叡智による覚醒意識で、あなたが愛の真実からなるのを、人生において明らかにしなさい。そうすれば、あなたは、潜在意識と覚醒意識に均衡を見い出して、私トートのように、光と暗闇とを自由自在に制御できるようになるだろう。この後の話は、現代人には奇想天外なので、またの機会にしたいが、狛犬の話が残っているので、そこだけトートの言葉から、紹介したい。なお、トートによれば、地上にピラミッドが建設されたのは、上に紹介した光の叡智を補完するためで、これは人類には、古代の叡智と呼ばれ、虚空(アカシャ)記録の解読法だったという。ピラミッドは、いわば、その習得研修所で、人智学でいうところの、秘儀参入法の秘伝所であったという。だから、研修中に、未熟な霊能者だと、霊魂が抜かれたまま、冥界を彷徨ってしまい、しかも自然霊などを無暗に扱う黒魔術師だと、策士策に溺れ、自暴自棄に陥り、暗闇にハマり、肉体に戻れずに、肉体を失ったままになるので、ミイラになってしまうわけなんである。ここら辺の話は、現代人にも、冒険活劇の映画などにもなっているから想像しやすいだろう。いまでも、写真を撮ると霊魂が抜かれるなどは、秘儀参入法の失敗の名残りともいえる。悪魔は鏡を恐れる、なども同じだろう。つまり、不浄な霊魂の持ち主が、古代叡智を獲得しないための、門番をしているのが、狛犬の原型の、境域の守護天使たちなんである。現代では、ドッペルゲンガーとも呼ばれている。トートはエメラルドタブレットで次のように戒めている。安易で容易く獲得できる、暗闇の世界に入ってはいけない。必ず、迷宮に迷い込み、悪魔の奴隷となってしまう。光輝く叡智を授ける聖霊に教えを乞いなさい。聖霊の光こそが、恐怖や憎しみの暗闇を制御できる心の愛の真実なのだから
2024年10月22日
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最近の巷の、空を飛ぶ話題といえば、信じられないドローンの原型となったUFOの話と、信じられる大谷選手のホームランの話に、二分されるといえるかもしれない。神秘学を語るブログなので、まずは、信じられない話からはじめたいが、端的にいって、UFOとは、人類の知的レベルを観測し監視する、宇宙人の観測装置といえるかもしれない。それはUFOが墜落したりして、目撃されたときに、地球人が、天候の観測装置と、弁解することからもわかるように、地球人が、物質界の天候から、宇宙人を観測しているように、宇宙人も、地球の隅々を観測しているわけで、観測のレベルを比較しても、宇宙人の方が遥かに賢いのがわかるわけなんである。宇宙人にとっては、地球人などはほとんど無知で取るに足らない幼稚な存在だが、というのも、地球人のなかには、蛇を異常に恐れる人がいるのに、なぜ蛇を恐れるのかすらもわからないほど無知で、また地球人のなかには、悪人も沢山いるが、その悪人でも、パンドラの箱の意味が理解できていないぐらい無知だから、地球人の人類をヨチヨチ歩きの赤ん坊くらいに思っているわけで、「そっちにいったら危ないよ」、と母親がなんでも口に入れる赤ん坊から、危険な玩具をとりあげるか、興味半分で、コックリさんなどの悪霊交霊術などをする、子どもに警告するような感じといえるかもしれない。しかし、ここでいう宇宙人というのは、若干広義の意味で用いているわけで、狭義にいうなら、実は宇宙人のなかでも、現在の地球に関心のある、地球が誕生する前の、かつての地球の過去の天体に住んでいた宇宙人という意味になるかもしれない。勿論、地球人も、肉体から離れて、霊魂のままでいるのなら、広義の意味で宇宙人といえるかもしれない。何処から宇宙人で何処から地球人なのか、と問うのなら、現在の地球に適合した、地上に肉体をもつのが、地球人というか、地上人ということになるだろう。更に、人というからには、神と同じ自我意識をもつ存在ということになるので、少なくとも、自然霊の妖精たちは、自我意識をもたないので、地上人とは区別されるだろう。このような古代叡智は、アカシャ(虚空)記録を、霊能力で読み解いた神智学の知識体系からわかったことなんである。それによれば、地球は、UFOによりくまなく監視管理されているというのである。しかも、地球人自身でなるべく問題を解決できるように、地球人の自由意志をサポートしているというわけなんである。だから、スピルバーグの、未知との遭遇の、「We are not alone. 宇宙に生きるのは我々だけではない。」だけでなく、我々地上人の知的水準は、かつての地上人に、UFOで知的水準を監視管理されている如く、遥かに幼稚で、かつての地上人にも遥かに及ばない、というわけなんである。だから、地上人に核兵器をもたせるのは、赤ん坊に拳銃をもたせるようなもので、拳銃をもたせるのをやめさせないとダメで、拳銃よりも遥かにヤバい、愚かな権力者が自己目的のためだけに、宇宙の法則を濫用して、私欲を遂げようとしないように、そのような場合は、古代アトランティス大陸のように、民族や人種ごとに滅ぼさないと、天国の叡智には到達できない、霊魂のゲヘナを増やすばかりなんで、厳しくUFOで監視管理しているわけなんである。しかし、カリユガも終わったことだし、そろそろ地上の人類にも、霊能力を取り戻させるために、オカルトという隠された叡智を、少しづつ情報公開しはじめるようでもある。だから、宇宙人のUFO活動にとってみれば、未知との遭遇は、無知との遭遇の日々というべきかもしれない。その前に権力者からその地位を奪う出来事が起こるかもしれない。この無知の、「未知との遭遇」の他にも、レイダース~インディジョーンズは、スピルバーグ監督の冒険活劇映画で有名だが、主人公のインディのモデルは、個人的に、トートのエメラルドタブレットを書に記した神智学者Murielドリールだと密かに想っている。レイダース/失われたアーク《聖櫃》 - Wikipedia失われたアークとは、失楽した人類の象徴で、つまり蛇に唆され、善悪の知恵の実を食べ、霊能力を失い、カリユガに堕ちた人類を意味し、アークとは、三種の神器の霊能力のことで、神智学の光の輝きのイルミネーションのことである。再び、このイルミネーションを取り戻せるかどうかは、人類個人個人の努力と経験によると、トートのエメラルドタブレットから、ドリールが読み解いている。このエメラルドタブレットの七章に、前回紹介した「前世からのメッセージ」のマスターたちが述べているように、「人生は克服すべき障害で満ちている」と、同じようにトートが述べているのを、ドリールはこの書に解読し、したためている。この書は、宇宙のあらゆる法則を説いている書である。いずれ、この書を要約し紹介したい。前回は、愛と慈悲を体現させるのが、宗教で、宗教を現実化させるのが職業であるのを、人智学から紹介した。現在、もっとも日常的に、日本人に愛と慈悲のメッセージを送っている職業は、メジャーリーグの日本人選手ではないかと思うわけでもある。日本のためとアピールする、日本の政治家のほとんどは愛と慈悲を語る偽善の詐欺師でしかないだろう。ベースボールというように、地上で行われるスポーツなのだが、大谷選手によって、その情報は、いまや地上を越えて、地上の空を巡るスポーツとなっている。大谷選手のホームランが空を制覇しつつあるのだから、今度は、地下を制覇してほしいものである。大谷選手のような存在が、地底人として、存在するのかどうか?それについては、後に言及してみたい。このように、大谷選手の活躍が、天気のように、気になる、ここ最近は、巷のMLB観戦にすっかり夢中で、ほぼ毎日が野球観戦の日常である。はっきりくっきりいって、ブログを書いている、とりつく島もない。ベースボール観戦に専念したい気持ちもある。といって観戦に専念すると、今度はドジャースが負けるし、大谷選手は打たないし、やはり、ブログを書いた方がいいようなので、書くことにする。そんなにもなぜ大谷選手に肩入れしたくなるのか?冷静に考えてみると、やはり、日本人だからで、MLBが米国の象徴みたいなもので、かつての日米戦争で、敗戦国となり、占領された暗黒時代からの因縁で、いまだに日米地位協定という柵を受け入れ、米国人に、51番目の州とジョークまでとばされるような属国になりさがってしまっている現状を、大谷の活躍で、いっとき溜飲を下げられた感がするからである。大谷選手は一人で敗戦国のイメージを払拭している。日本がアメリカ51番目の州になったら「日本がアメリカを乗っ取ってしまう」大学教授の投稿に反響 - いまトピランキング (goo.ne.jp)知ってると英会話学習でも役立ちます! - ジャンヌ・ダルクも関係してた!イギリスの公用語はフランス語だった!?イギリスで英語が公用語になるまでの物語 (b-cafe.net)米国から与えられた民主主義の象徴が、野球でもあり、あとでそれがGHQの愚民化政策の3Sであるのに気づかされるが、愚民のなかから、大谷選手のような、米国の移民から選民を選ぶ大統領制を、凌駕するような人物が出るのは、痛快というか、敗者復活戦のような、死からの再生のようで、世の中捨てたもんでもない気がするからである。その一方では、独裁者の権化のようなトランプと、老人でヨボヨボバイデンの代わりにでた、ぱっと見の良さだけの付け焼刃のハリスの、どう見ても人材不足の感に堪えない大統領選が行われようとしている。今では物質欲で色ボケしてしまった体たらくの、このような現状の米国に日本は占領され、植民地となっても、そんなに意気消沈しなくて済んだのは、少なくとも、男には、野球というスポーツの楽しみが与えられたからかもしれない。女性には高校野球で郷土を応援する楽しみが与えられ、荒木大輔選手の追っかけや、ハンカチ王子などのアイドルが生まれた。野球は、米国による植民地政策の成功例かもしれない。しかし、いまだにその現状を受け入れられずに、明治政府の官制日本史の御用学者などは、日本は植民地化を免れてきた、というような、西欧向けの体裁のいい建前論を持ち出してくるが、八切史観の、被差別原住民による歴史観を無視しなければ、白村江の戦いで敗戦してから、すでに唐の属国に成り下がって、漢字を受け入れていたのがわかるはずで、中国制の仏教を遣唐使で派遣して、昭和のGHQの愚民化政策と同じように、大陸文化を受け入れていたのが、朝貢外交からもわかるわけなんである。朝貢 - Wikipedia野球と漢字とを比較できないが、日本の古代史については、以下の動画が詳しく調べて紹介しているので、載せておきたい。巷では台湾有事が問題となっているが、台湾の独立問題に絡んで、日本も本当に米国から独立しているといえるのか? 米軍駐留のために、国民が犠牲を強いられていないのか?怪しくなってくるわけでもある。他国の台湾の独立には関心が深いが、日本の独立については官僚の言うなりに税金を納めているのに気づかないのは、いかにもお人よしの騙されやすい日本人らしい気質といえるかもしれない。中国が台湾の独立を認めないように、米国も、日本の独立を認めないのは、日米地位協定の改定に特に米国の意向を傘にして権力を握る官僚たちが神経質になっているのでわかる。日本の核保有に対して、真剣に反対しているのは何よりも日本に原爆を落とした米国なのだから、その利権に従って、国民に税金負担を強いる官僚には、それだけ利権には旨味があり、同胞を裏切る、前回紹介した悪魔のような、他者を犠牲にして権力を掌握する、日本人が増えたということが、裏金問題となって明らかになってきたのがわかる。反米主義の鳩山家が失脚したのも、権力を握って離さない官僚世襲制の為せる業ともいえるかもしれない。いずれにしても、権力者に世界を纏める能力がないのは、権力欲すらも捨て去れないからで、そのために人類同士を殺し合いに参加させるような戦争という大量殺戮の暴挙すら私利私欲で行う愚か者たちだからである。国民を巻き込まずに、単独で相手国に行って、命懸けで交渉し、ダメなら、自分の生命を捧げればいい。権力欲旺盛な人物は履いて捨てるほどいる。国民のために生命を捧げられない権力者は権力者たる資格がないからである。日本人が世界を一つにまとめる為の基礎知識【総・総集編】 - YouTubeさて話を日本から、ドジャースの米国に戻したい。司馬遼太郎氏によれば、英国人のなかには、米国人を植民地人と呼んで差別する者もいるらしく、米語を植民地語と解釈する者もいるかもしれないが、英語の源流を探せば、ノルマン人の征服によるフランス語の民衆化にはじまり、それよりも前に遡れば、北欧のヴァイキングの古ノルド語に起源を発するらしい。そして、古ノルド語がルーン文字を使用していたのがネットをググるとわかってくる。ルーン文字といえば、関係が深いのが北欧の神話を伝承したドルイド僧である。ドルイドとは、オークの木を意味し、それはドルイド僧が使ったオガム文字をみれば、樹木の名から、なにやら、易経の算木を髣髴とさせるので、恐らく、古代の計算法だったのだろう。ドルイド僧は、オガム文字を用いて、天体の軌道を計算したのかもしれない。だから、ドルイド僧は古代の天文学を司った、日本でいうところの陰陽師であった可能性が高いといえるかもしれない。英語はいかにして世界の共通語になったのか|IIBCの活動|IIBCについて|IIBC (iibc-global.org)古ノルド語 - Wikipediaルーン文字 - Wikipedia魔術と神話の深い関係!ルーン魔術と北欧神話について | 通信教育講座・資格の諒設計アーキテクトラーニング (designlearn.co.jp)中世北欧のルーン文字と言葉(古ノルド語)|北方 碧(JAMIE) (note.com)オガム文字 - Wikipedia歴史に浅い英国人のなかでは、米語を植民地語と捉えているが、英語すらも、実はドルイド僧の天文学から与えられた天体運動を起源とする、言語体系であるのが、英語史から、霊的に読み解けば、わかるわけで、以前紹介した古代エジプトのファラオの娘スコタを起源にするスコットランド王ロバートブルースの話となにやら被ってくる。そして、ブルース王が活躍した時代の13世紀に、イギリスは英語を国語とするのである。英語史 - Wikipediaハノーヴァー朝 - Wikipediaしかし、そもそも現代の英国王室につながるハノーバー朝が、ハノーバーの旧ドイツ出身なのだから、北欧の古ノルド語を起源とする英語が、ドイツを再び経由して、ブリテン島で再会したようなものである。言葉が先に上陸してから、当時の古英語のいわばドイツ語を話すジョージ王が18世紀に上陸してきたわけなんである。この歴史的な事情は、渡来人の集合体の朝廷が君臨し、朝廷語が次第に京都の民衆に浸透し、独特な京言葉となった、日本の京都を髣髴とさせて面白い。イギリス人が京都に愛着を感じやすいのも、外様の王様がやってきて懐かしい古代文化を広める、この歴史的背景が似ているせいなのかもしれない。しかも、上に紹介した動画、「日本人が世界を一つにまとめるための基礎知識」によれば、日本語の「大王」が、西欧ではギリシア経由で「デウス」から「デーヴァ」となったというから、西と東が、日本で出会うようなものである。このように、人類は天体の運動を言語化することで、ドルイド僧から、ブリテン島の住人と、北欧などの西欧大陸の住人とが、言葉のキャッチボールで、言語のスポーツというか、ルール化というか、英語という国境を越えて、愛や慈悲を語り合う国際語が生まれるようになった。そこには人種や民族を越えて言葉を楽しむ文学が生まれ、心のやり取りが行われている。そしてまた、そこには、天体の運動を唯物的に計算し、計算から秩序だった法則を導き出した観測態度が、国境を越えて、民族や人種を越えて、現れてきている。そしてその成果は、唯物的な形だが、物質科学として現れている。つまり、天体の運動を観戦し、宇宙のプレーを記録し、解説するうちに、言葉のキャッチボールから科学が生まれたのがわかる。さて、そこで、今度は言葉のキャッチボールから、ベースボールのスポーツに話を戻したい。大谷が活躍しているドジャースは、ドジャースブルーといわれる青色を基調としているチームなのである。このドジャースブルーのイメージは、以下のサイトによれば、「チームが移転する前から、この青はファンの心をつかんでいたことは間違いありません。その理由の一つに、青は自然界でよく見られる色であり、親しみやすく、安らぎを感じさせるからだといわれています。また、青は信頼感や知性を象徴する色でもあり、スポーツチームのイメージカラーとして適した色と言えるでしょう。」とあるように、信頼感や知性を象徴する色のイメージは、恐らくブルーブラッドに端を発しているようにもみえる。ドジャーブルーとは?ウェブカラーが存在している!? - Dezaiinブルー・ブラッド - Wikipediaそして、自然界でよくみられる色で、安らぎを感じさせる色の、「青い」血の源流を神智学に探ると、非常に面白いことがわかる。というのも、青という色のイメージの源流が、古代アトランティス時代の青色人にあるからである。神智学では、アカシャ(虚空)記録を読み解いて、古代アトランティス時代に人種ができたといわれているが、いまは地上にはいない、黄色人、黄金人、青色人、緑色人などがいたといわれている。現在の黒人は、青色人と緑色人の混血から派生したという。そして、古代エジプト時代には、赤色人、黄色人、黒人、白人の4大種がいたという。この黄色人は、古代アトランティス時代の黄色人の子孫で今は滅んでしまい、赤色人と混血し、いまの古代エジプト人のイメージの、浅黒人となっているという。聖書に記されているアダムの種族とは、赤色人のことらしく。アダムは本来、赤色の土という意味をもつらしい。神秘学でいえば、土は固体=物質なので、赤色の肉体を持つという意味になる。赤色人については、以前に、赤髪のモーセの話から、アシュケナージユダヤ人について紹介したが、今はまだ神智学を完全に理解しているわけではないので、詳細に語るのを控えたい。エメラルドタブレットも、現代人には理解不能な奇想天外な話が書かれているが、この青色人についても、現代人には、かなり理解困難な話で、それは地底人の話で、地上と地下を監視する、いわば監獄の管理人という話なんである。この青色人が、古代アトランティス滅亡後、そのごく少数が、ブリテン島に住みつき、地球の内外の監視管理体制をつくったというのである。そしてそれが、地上では、青色の粘土などで全身を塗りたくったブリトン人に受け継がれていったというのである。少し前に、欧米で、ブルーマンが流行ったが、恐らく、このブリトン人のイメージがモティーフになっているのかもしれない。ブルーマン - Wikipediaこの青色人たちが、地上の人類の監視管理をしている以外に、実は大変重要な役目があり、それは地中深くの地球の核内に閉じ込められている、以前このブログでも何度も紹介した、かつて地球を支配した悪の権化のエックスジアンの蛇人を監視管理するためなんである。そして、この地球の核に閉じ込められている、次の地球の進化舞台には進めない、霊魂のゲヘナとなってしまう悪魔のエックスジアンたちが、パンドラの箱に閉じ込められている、というわけなんである。このパンドラの箱をかつて開けてしまい、地球人を蛇人の支配の奴隷の地としたのが、リリスという女性といわれている。リリスについてはエメラルドタブレットにもでてくるが、詳細は解読中といわざるをえない。パンドーラー - Wikipediaいずれにしろ、地上人は暗黒の道に進むべきではなく、光の輝く道へと、努力と経験を結集して、困難でも進んでいかなくてはならない。それが人類に与えられた十字架の試練で、天国への33階の階段なのである。33階とは、時間と空間の数を意味するようで、次元と、位階といわれている。そしてそれは人体の脊柱骨の数にも反映されている。別名で、ヤコブの梯子ともいわれているが、それは愛が深まるほど頭部の安心の天国へと上昇し、逆に、憎しみが深まると尾骶骨の怒りの地獄へと下降していくからである。努力と経験で、上昇するのか、それともそれらを放棄して、下降してしまうのか、それは、あなたのなかの、青色人がUFOに乗って監視管理し、接近遭遇する度合によっている。人体のなかのUFOをみつけないといけない。
2024年10月17日
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「はたらけど、はたらけど、猶わが生活(くらし)楽にならざり、ぢっと手をみる」という短歌をつくった石川啄木は、その伝記によると実際は、この短歌とは、ギャップ(職を転々とし、女性問題、借金問題に追われる日常)のある生活をしていた、というのは、割と有名な話である。【はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る】徹底解説!!意味や表現技法・句切れ・鑑賞など | 短歌の教科書|短歌の作り方・有名短歌の解説サイト (tanka-textbook.com)とりあえず、石川啄木にとっての労働の価値観は置いておいて、この短歌を、人智学で再考すれば、労働が生活向上の手段でない、のを明らかにしているのがわかる。つまり、逆説的にとらえれば、いくら労働しても、裕福な生活が身につかないのは、自分の幸福が、そこにはないからで、暮らしが楽にならないのは、前世の自分の振る舞いに起因しているからで、労働で与えられる金銭で、幸福(一時的には得られるが、永遠ではない)を得ることはできず、つまり、幸福が内からくる真理を物語っている、句といえるわけなんである。だから、恐らく、「ぢっと手をみる」というのは、半ば諦めの境地で、自分の人生の運命を、手相に委ねたのかもしれない。自分の手相の、金運でも調べてみたのかもしれない。とにかく、手をみて、「自分の人生って、何なんだろうか?」と問いかける短歌である。喜劇的にいうなら、前世が裕福だったからだよ、という答えがでるかもしれない。前世が裕福だと、今度は貧困に生まれてくるからである。このように、人生には何度も逆境ともいえる、障害といわれる、行き詰まりが準備されている、順風満帆であったら、人生からは何も学ばないからである。職業や仕事がなければ、嫌な人とも話さないで済むし、思い通りにいかないからこそ、人生を生きる意味がある。かの天下人の、徳川家康だって、人生は重い荷物を背負って歩くようなものである、と言ったようにされているわけなんである。人生は、思い通りにいかないし、至る所に障害が張り巡らされている、障害競走のようなものかもしれない。戦争はなくならないし、政治家のような、権力で、他人を支配しようとする自己顕示欲が強い人も沢山いる。以下のような、他者を犠牲にし、自らの目標達成を目指す悪魔のような、自分さえ良ければいいという人などに、職場で関わったら、ぢっと手をみるどころか、生命がいくつあっても足りないブラック職場と化すだろう。他者を犠牲にし自らの目標達成を目指す「危険」なマキャベリ的人物、2つの特徴(Forbes JAPAN) - Yahoo!ニュースこのような悪魔のような人物と遭遇すると、職業が行き詰まり、過労死などで、人生も行き詰ってしまう。特に、日本社会の場合は上下関係が厳しいので、先輩や上司にこのような人物がいると、人生が行き詰まりを迎えてしまう。自分も半世紀も物質界を生きてきたので、このような人物は、結構多く、自分を賢いと思っている節があり、他者の意見を一切聞かずに、自分の価値観を押し付けてくるので、随分と苦労させられた。このような行き詰まりの場合は、とにかく環境を変えるしかない、と思われる。シュタイナーの「職業のカルマと未来」の本を書いた訳者の西川隆範氏が、この本の冒頭で、自身の職業経験を載せているのだが、なかなか参考になる。その序論で、西川氏は、マックスウェーバーを紹介しているのだが、ウェーバーは、職業を神から与えられた使命と捉え、禁欲的に労働する近代西欧人の生活態度がプロテスタンティズムに由来し、その生活態度が、合理的な営利追求という資本主義の精神をつくった、と考えたという。マックス・ヴェーバー - Wikipediaアダム・スミス - Wikipediaつまり、神に仕える精神で職業に奉仕すれば、その奉仕の精神が資本主義の合理的な営利追求となり、アダムスミスの、神の見えざる手と同じような、市場原理の合理的な営利追求となる、というわけなんである。神の見えざる手とは、以下のサイトを参照に。 ☆ ☆ ☆K.Kawabata_courses (kobe-u.ac.jp)今回はアダム・スミス(1723-1790)という人についてのお話しです。アダム・スミスは「近代経済学の父」と呼ばれていて、現代の経済に多大な影響を与えた人です。『国富論』(「諸国民の富」とも呼ばれる)を書いた人としても有名です。 この『国富論』については、いくつかの重要なポイントがありますが、特に有名なのは「神の見えざる手」と言われるものです。これは「市場経済において、各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体において適切な資源配分が達成される」とする考え方を指します。つまり各個人が利益を追求することは、一見、社会に対しては何の利益ももたらさないように見えるけれども、あたかも「神の手」によって導かれるように、社会全体の利益となる望ましい状況が達成されるというものです。これは「市場メカニズムを重視する」考え方で、現代の経済学の基礎となっています。 ☆ ☆ ☆このアダムスミスの、神の見えざる手とは、現代人は唯物論に染まっているので、神を、モノを支配する市場の悪魔に解釈し、利益を、主に金銭の貨幣などの物質的な信用手形とみなしているから、人間同士で殺し合う戦争沙汰にもなってしまうわけで、ウェーバーのプロテスタンティズムからわかるように、神というからには、その利益が、愛や慈悲に相反しないものでなくてはならない。つまり、早い話、職業が金銭を巡って対立を起こすようなものであってはならないわけで、それでは、悪魔教崇拝になってしまうだけなんである。利益というからには、宇宙全体にとっても、人類全体にとっても、共に愛や慈悲を深め合うものでなくてはならないからである。端的には、一人勝ちであってはならないわけで、ウインウインの特定の二人勝ちの癒着でもよくない。全員が負けない、敗者のないシステム変換が肝要なのである。どういうことかというと、モノではなく、心の発展でないと意味がない。利益とは、愛や慈悲が深まらないと意味がない。愛や慈悲の感受性が高まらないとダメなんである。つまり、アダムスミスが、求める市場での自己の利益も、ウェーバーが、求めるプロテスタンティズムの資本主義の精神も、共にそこに、カルマの解消と輪廻転生がなければ、絵に描いた餅なんである。カルマの解消が、今生の自己の人生の目的で、だから、自己の利益になるわけで、自己の職業に、プロテスタンティズムの資本主義の精神が生かされるには、自己の職業が、前世での自分の行為に由来しているからこそ、禁欲的な奉仕の精神が、キリストの説いた、富を積むのなら、天国に積むべきである、に叶うわけなんである。早い話、いかなる職業も、宗教にならないとおかしいわけで、それは金銭だけを求めるのではなく、自分の愛や慈悲の精神を高め、深めるものでなくてはならないわけなんである。だから、職業や人生に行き詰まっている場合は、信仰から外れていることを意味しているわけなんである。そこで、ウェーバーの説く、プロテスタンティズムの資本主義の精神では、「神に祈って、働きなさい」というわけで、この場合の神とは、今の現世の、自己をつくった、過去世の、自己のなかの、カルマによるバランスの自己のなかの核のことになる。この本来のプロテスタンティズムが、悪魔教となってしまったのは、カルマと輪廻転生が抜け落ちてしまい、現世だけの一回の地上生だけしか、考えられなくなってしまったせいと、シュタイナーは何度も指摘している。このプロテスタンティズムが、仏教の在家信者の意味でもある。簡単に紹介すると、「日常生活と別個に精神修養があるのではなく、一心に仕事に打ち込んでいれば、悟りは開ける」というわけなんである。この「一心」とは、勿論、自分だけの、金銭的な、モノ的な利益だけではなく、それらの全体を生かそうとする、宇宙全体の発展に寄与することなんである。在家 - Wikipedia一心で打ち込んでいなくても、人生には、至る所に罠や障害が張り巡らせられていて、思い通りには、生きられないようになっているわけなんで、実は、この一心は、多心でもあり、多心を高め深めていくと、一心に結びついていくわけなんである。だから、一心というよりも、人生を生き続けようとする自由な意志とでもいうべきかもしれない。悪魔の罠や、障害を乗り越えて、自由に生きる、クリエイティブな心、愛と慈悲を感じ、高め、深める心というべきかもしれない。さて、西川氏は、序論で、続けて、シュタイナーによる、ゲーテの職業観を紹介しているが、ゲーテは、若い秘書エッカーマンに、「有用な仕事に力を集中して、君の為にならない仕事は、全て放棄したまえ」とアドバイスしているという。そして、ゲーテ自身も、多面的な洞察を得ようと努め、活動面では、ただ一つのことに自分を限定したという。また、ゲーテは、「自分の本領にとどまって、能力以上のことはしない。生産的でない日や時間には、むしろ雑談や居眠りをしたほうがいい。そんなときにモノを書いたりしても、後で、嫌な思いをするだけだ」などを述べているという。つまり、ゲーテもネタ切れのときは、雑談や居眠りをしたわけなんである。ネタ切れといえば、随分前にTVのニュース番組で、ネタ切れのときにはどうすればいいか?の話題で、三谷幸喜氏は、「ホテルのベッドと壁の間に挟まって寝る」と応えていたのが、いかにも喜劇作家らしい、ネタ切れとの格闘が喜劇になっているが、終いには睡魔に負けて寝てしまうわけで、ネタ切れのときは、とりあえず寝るしかないように思われるが、色々な意見も調べる意味で、ネットでググってみると、以下のような、主に漫画家だが、色々な対処法がみつけられる。 ☆ ☆ ☆アイディアの出し方のコツ ネタ切れを克服できる3つのB - ログミーBiz (logmi.jp)「横になり目を瞑る」「お風呂に入る」など、音楽や映像など余計な情報がない状態で思考を巡らせると、さっきまで思いつかなかったアイディアがすっと出てくる時があります。机に向かって出るアイディアは、あんまり期待できないことが僕は多いです。ネタに詰まった時は、知らず知らずのうちに影響を受けるのが怖いので、なるだけ仕事から遠い事をやります。1,一旦作業から離れて、映画を観る、街に出るなど他のことをしてみる。思いもよらぬところからヒントが降りてくることがあります。2,人と話す。「こういうところで詰まってるんだけど…」という話題から始めて、連想される漫画の話、最近読んだ本や観た映画の話、お互いの体験談など、話を広げていきます。すると、思わぬタイミングでネタが降ってきたりします。1と2どちらも、楽しみながら「視野を広げる」「インプットする」ための方法です。漫画のネタ出し・詰まった時の対処法【漫画家調査レポート】|マンナビ マンガ賞/持ち込みポータルサイト (mannavi.net)有名なやつなんだけど、「アイデアが出る3つのB」ってやつ知ってる? 結構コテコテで有名なやつなんだけど。俺、本当にそうだと思ってて。1個はBusね。移動中。車に乗ってる時。あと、Bath、風呂。あと、もう1つ、Bed。寝てる時、寝起きってところ。アイデアってどうしたら良いかって、これすごくおもしろいんだけど、基本的に血流なんですよ。だから、ここが(首の後ろ)が詰まってるとアイデアが浮かばなくなる。スピリチュアルの人はよくね、ここに(首の後ろ)に入ってくるとか言うじゃん? 僕は昨日ヨガに行ってきたんだけど、ヨガに行くとここが(首)が通るんで、アイデアがすごく湧く。☆ ☆ ☆上の、Bus、Bath、Bedの3つのBには、私も経験上、助けられた思いがある。共通するのは、気分がリフレッシュされるとき、つまり、バスに乗っているとき、風呂に入ったとき、ベッドで寝起きたときなどの、睡魔に襲われ、ふとウトウトしているときに、アイデアが、ふっと浮かんでくるというか、降りてくるような気がする。シュタイナーは、ドイツの田舎町の風習の、寝起き時にはすぐに日光に当たらずに、数分間、暗闇のなかで、想いにふける、のを紹介し、そうすると、天使たちからその日一日の生活への助言が与えられ、アイデアが、思い浮かぶ、と推奨している。これは、例えば、スポーツでのタイムアウトの作戦会議みたいなものといえるかもしれない。現代社会では、自給自足はかなり困難なので、生活費を稼ぐためには、働かざるを得ないが、働き続けるには、仕事についてのアイデアは必要不可欠で、だからして、3つのBなどの、天使たちの陰からの助言が必要不可欠なのがわかる。私の場合は、いまは、「前世からのメッセージ」のマスターたちの助言である。『「前世」からのメッセージ』のマスターたちによれば、人間は自分自身を四角い氷のように、一人一人が物質的に分離した存在だと思い込んでいる。しかし、実は、人間はみな互いにつながり合っている、同じものなのである。だから、自分と同じバイブレーションを持つ人とだけつきあっていればよいというわけではなく、自分と同じレベルの人に魅かれるのは当たり前の話で、しかし、それだけではいけない。自分のバイブレーションとあわない人たちとつきあうのもまた必要なのである。このような人たちを助けるのが、大切だからである。永遠の道とは、内に向かうもので、これは外に向かうものよりも困難な、苦痛の多い旅である。人間は、自分の内なる喜びの感覚に全責任を負っている。内なる喜びの感覚に全責任を負うために、シュタイナーの「職業のカルマと未来」から抜粋して紹介する。 ★ ★ ★前世の仕事夢のなかで、訂正者が、起きているときに行われた教育を、訂正するのを通じて、指摘したいのは、人間の霊魂のなかに、全てが存在し、それが受肉から、次の受肉へと進んでいく、ということである。ある受肉から次の受肉に作用する力の源泉があり、この力の源泉である、霊魂の核と、生まれてから死ぬまでの人間の生活との間にどのような関係があるのか、よく考察する必要がある。人間はいわば四弦の楽器で、カルマが演奏される。自我、アストラル体、エーテル体、肉体(物質体)の四弦から、演奏されるわけである。四弦なので、バイオリンと同じなので、バイオリンで譬えてみる。カルマの弓に擦られて、4つの体の振動による組み合わせで、音楽が生まれ、個人の人生が音色として奏でられる。多様な音色で、この四弦が演奏される。空虚な一般的な抽象論ではなく、具体的に語ろうとすると、人間の生活のメロディーを解説するのは非常に困難である。カルマの弓が、人間の四弦をどう演奏するか、を見れるときにのみ、実り豊かに解読できるからである。その際、地上生での一般的な観点も考慮しなくてはならない。「人智学観点からの子どもの教育」で書いた肉体と、特にエーテル体が成長する、子どもの成長期を考察する。凡そ、7歳から14歳までの子どもの成長を考察してみる。そうすると、この時期に、特に際立つ特徴が現れるのがわかる。この時期に人体の成長が強まるのがわかる。子どもの成長は複合的なので、生まれてから7歳までのときにも現れるが、7歳から14歳までに明確に現れるので、深く観察できる。身体や振る舞い全体を通して、はっきりした特徴がこの時期の子どもに現れる。姿勢、身振り、生活態度などの表現が、振る舞い全体に、例えば、ずんぐりした姿、短躯、長身などや、しっかりとした足取り、踊るような歩み方などである。子どものときの成長の全部ではないが、大部分は、前世の職業のカルマの作用に由来する。この霊的な事実を無視し、日常生活の表面に現れる姿勢や、振る舞いによって、職業を決めようとすると、間違いを頻繁に犯すだろう。その子どもが前世で就いていた同じ職業に就かせようとすると、過ちを犯し、その子のためにならない。この子どもの成長期にみられる大部分が、前世の作用だからである。(前世とは異なる人生を送るために生まれてくるわけで、同じだとまた同じ過ちを繰り返すので、千日手で、無意味だからである)この子どもの成長期の前、もしくはその後に、特にアストラル体が現れる。そして、アストラル体は、現れる前に形成された肉体やエーテル体に作用する。人智学を知っていれば、それが外的な物質界でも観察できる。7歳から14歳までの子どもの成長期に、職業のカルマを通して純粋に現れた肉体やエーテル体を、アストラル体は、他のカルマの作用によって改変する。つまり、人体のなかに、相反する二つの力があることになる。一つは、一回きりの人生の、現世に沿って人間を形成する力で、エーテル体に由来する。もう一つは、この力に対抗し、部分的に、中和し、無効にする力である。このアストラル体に由来する力を通じて、前世からくる職業のカルマが構築した人体を改変する。だから、「エーテル体は、形成的に作用する。アストラル体は、改変的に作用する」のがわかる。肉体の振る舞い、姿勢は、エーテル体に由来する。実際に激しく争っている、この二つの力を通じて、職業のカルマの作用が表現される。
2024年10月15日
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「自分は何をしている時に、安心や平和を感じるだろうか?」という疑問は重要である。「何をしているときに、自分という存在を感じられるだろうか?」 自分という存在を全体的に感じるとき、外界の、何者にもとらわれずに、外界からくる何の束縛感もなく、内面的に、全く自由である、のがわかる。だから、マインドフルネスとは、一般的に瞑想と考えられているが、自分のなかにある、自由の意識に目覚め、自由を感じる体験といえるかもしれない。前回は、マインドフルネスについて、神秘学から、割とざっくりと紹介したが、巷では、一般的には、唯物論に染まり切って、以下のウイキのような、わけのわからない解釈が罷り通っている。脳科学などから、心を機能的に、物質的に解釈する考え方が間違っている、のに気づいていない。巷のマインドフルネスなども、現代の解釈から生まれた、例えば、空海さんの物真似をしたり、南無阿弥陀仏やら、南無妙法蓮華経と唱えるだけで悟れるなど、と言うような、末法と全く同じ出鱈目と言わざるをえない。ちなみに法華経とは、末法について、厳しく論じ、お釈迦さんの教えの根本に還ろう、とするお経のようである。しかし、そのような法華経からも末法の連中が生まれてしまっては元も子もない。マインドフルネス - Wikipedia第一、そんなに簡単に悟れるのなら、なんでお釈迦さんでも、伝説となっているように、人生を通じて、散々に苦労したのだろうか? 不思議でもある。例えば、末法が説くように、そんなに簡単に金銭などで悟れるのなら、金持ちなど悟りきって、金銭などなくても、生きていけるのだから、金銭を貧困問題の解決に役立てているはずなのに、一向に貧困問題はなくならず、人災や天変地異ばかりで、人類は、益々、論争、闘争を好んで、戦争に明け暮れ、逆に益々格差社会を拡げて、その上で胡坐をかいている悪魔のような連中を生み出している現状全ては、末法の為せる業である。現代人のほとんどが、金持ちなどにならずに、お釈迦さんのようにホームレスで生活できないと、仏教が説く世界観から逸脱し、世の中が、おかしいわけなんである。このような格差社会の、差別社会の、地獄の世界を考察し、金銭をいくら積もうが、マインドフルネスには到達できないばかりか、益々平和や安心から遠ざかる現状を考えてみるべきなんである。偉人などと崇め奉るような人物も、実はボンクラ詐欺師でしかなく、金銭欲や名誉欲の奴隷に成り下がっているわけで、悟るどころか、悪魔の手先に成り下がり、自分が地獄に堕ちているのさえ気づかないでいるようなのばかりなんである。戦争をする独裁者や、金銭で仲間を買い奴隷のように扱う経営者たちを見れば明らかである。また、現代のマインドフルネスは、仏教の瞑想を基にしたものと解釈されているようだが、そもそも現代の仏教が末法になっているのだから、末法から何を解釈しようが、末法に変わりがない。というのも、肝心なカルマの法則と輪廻転生を想定しないから、自分がどこからきているのか、も読み解くことができないからである。自分がどこからきているのか、わからないから、独裁者になったり、金銭で仲間を買うようなことをする悪魔の手先に成り下がるわけなんである。そして、自分が他人にしたことを将来思い知る人生を送ることがわからないほど馬鹿で愚かなんである。悪いことをすれば、悪いことだとわかるような人生を送る羽目になるのが、悪因悪果の意味でもある。だから、いますぐにでも、善いことをしないと、いけないわけで、だから、マインドフルネスが意味をもつのである。簡単にいえば、マインドフルネスとは、自省、内省である。内省 - Wikipediaだから、マインドフルネスの真意は、自分の前世を、現在の自分の境遇から推し量ることにある。自分の前世を読み解けないから、わけがわからずに、子どもの遊戯のような、以下のような、末法の物真似に走るわけなんである。 ☆ ☆ ☆マインドフルネス - Wikipedia 現在のマインドフルネスと呼ばれる言説や活動、潮流には、上座部仏教の用語の訳語としてのマインドフルネスがあり、この仏教本来のマインドフルネスでは、達成すべき特定の目標を持たずに実践される。 医療行為としてのマインドフルネスは、ここから派生してアメリカで生まれたもので、特定の達成すべき目標をもって行われる。 マインドフルネスは、大きくこの2つの流れに分けられる。 医療行為としてのマインドフルネスは、1979年にジョン・カバット・ジンが、心理学の注意の焦点化理論と組み合わせ、臨床的な技法として体系化した。 心をリラックスさせたり、清めたり、思考を制御したり、不快感を即解決することではない 1881年に原始仏教の経典に使われているパーリ語の学者であるトーマス・ウィリアム・リス・デイヴィッズが、八正道におけるsammā-satiをRight Mindfulness(the active, watchful mind)と訳したのが、sati が mindfulness と英訳された最初である。サティとは「心をとどめておくこと、あるいは心にとどめおかれた状態としての記憶、心にとどめおいたことを呼び覚ます想起のはたらき、心にとどめおかせるはたらきとしての注意力」であり、この「心をとどめておく」「注意」などの意味が英語の mindfulness の含意と近かったため、英訳として選ばれ、mindfulness が仏教的な意味を帯びるようになった。ヴィパッサナー瞑想 - Wikipediaさまざまな流儀のものが存在するが、共通するのは「今という瞬間に完全に注意を集中する」ということである。何をしていても「今・ここの自分」に気づいていく。この「気づき」(巴: sati, サティ、梵: smṛti, スムリティ、英: mindfulness、漢語「念」)が、この瞑想のもっとも大切な技術である(したがって、「気づきの瞑想」とも呼ばれることがある)。このようにして自分を客観的によく観ていく実践によって、心を成長させることを目指すのである。 ☆ ☆ ☆以上に紹介したように、神秘学が説くマインドフルネスとは、上のヴィパッサナー瞑想に近いが、この瞑想は、カルマや輪廻転生を読み解く、霊能力に言及していないので、ホンモノとはいえない。日本の神道には、「中今」という瞑想法のようなものがあるが、それに似た瞑想法で、「この自分が、いまこの地上にいるのは、前世からの因縁によるものを自覚して、現世から、更なる来世の自分をつくる」ことなのである。というのも、前回、シュタイナーの職業のカルマから紹介したように、人間の頭部は、前世の自分の行為からつくられていて、その他の人体、胸部や腹部四肢は、現世に適合するために、両親の肉体を見本にしてつくられたわけなので、自分の人生のなかには、前世からの自分の横のつながりと、現世の両親との、縦のつながりから、生まれるので、人間は十字架を背負って生きている、というわけなんである。つまり、自分が前世で他人に為した行為を経験するために、現世で、両親の関係を選んで、その絆を舞台として生まれてくるわけなんである。だから、前世の半ばで最も親しい人が、来世の両親になるように、自分で選んでいるわけで、それがカルマとなっているわけなんである。だから、人体の頭部と、腹部四肢とは、真逆の対応になっているわけで、例えば、左脳が、右半身とつながり、右脳が、左半身とつながっているわけで、内と外との鏡像関係になっているわけなんである。つまり、頭と他の人体がカルマの鏡像関係になっているから、自我が生まれるわけなんである。前世と現世の自分と他者の鏡像関係が、現世の頭部と、他の人体の鏡像関係に反映されるから、しかも、他の人体は、両親をモデルにしてつくられるので、外界との親密な関係からつくられるので、人間として活動できるわけなんである。この鏡像関係を、人智学的医術から考察すると、人体の破壊過程と構築過程としての、以下のような、陰陽の関係が明らかになってくる。 ☆ ☆ ☆ 人体の、内と外の作用の相違から、人間と外界との相互作用を、次第に見通せるようになる。人体内でのシリカの循環過程から、自我が、相反する四肢や腹部の新陳代謝に作用するときには、生命力を最大にして作用し、自我が、頭部に作用するときには、物質の破壊力を最大にして作用するのがわかれば、自我が、人体に応じて、多種多様に働く、のが見通せるようになる。さて、人間の自我と四肢-腹部の代謝系の相対関係に注目すると、人間のエゴイズムの起源が、本質的に、この相反関係のなかにある、のがわかる。人間の性も、このエゴイズム(利己主義)に含まれる。そして、自我は、この性という迂回路を通して、人間の本性にエゴイズム(利己主義)を浸透させる。人体の、頭部と腹部及び四肢が、それらを仲介する胸部を基点とし、その対極なのを理解すれば、おそらく次のような事実に気づくはずである。「自我が、四肢に作用するように、シリカを用いる方法に対して、自我が、頭部に作用するように、シリカを用いる方法は、相反し、対立するのでは?」頭部でのシリカの作用について、自我は、いわばエゴイズムから解放される。そして、この頭部のシリカの作用を、人智学で探求すれば、このシリカの作用が、物質の破壊作用なのがわかる。 頭部とは対照的に、自我の、四肢でのシリカの奇妙な作用を、図(下図)で表現するなら、次のようになる、「四肢での、自我は、統合的な作用(図参照、赤点線と内部のピンク)で、本質的に、人体を統合し、いわば、液体のように流動的で、区別なく、統一へと結合する作用で、従って、四肢では、自我の区別のない、固体化しない未分化な、一様な全体作用となる。」対照的に、頭部での作用は、上図の、金点線の矢印で表わされる個別化、多様化を示す。この頭部の作用は、四肢での液体のような統一作用、物質力がそれほど強くない、同じシリカのプロセスの、この四肢での自我の統一作用とは、相反する(上図参照、金点線矢印)。この頭部での作用は分類化を行い、崩壊の作用である。だから、人体は、シリカにより、下の四肢から区別なく統合され、上の頭部からは分類化され、互いに異なった作用を行う。すなわち、頭部で、分類され、組織化する力は、個別の器官に作用する為に分類化されている。いわば、頭部での独特のシリカプロセスによって、この物質化の作用は、諸器官のなかで秩序正しく働くように、心臓、肝臓他に対して、適切な振る舞いを行うように、(ホルモンのような分泌作用として)誘導されている。 シリカプロセスを前にして思い浮かぶ、人体の循環プロセスは、下から上へと作用すれば、人体全てを万遍なく、混ぜ合わせ、上から下へと作用すれば、人体を分類化区分し、いわば組織化しながら統合支配して、個々の器官を順調に活動させる基となる。人体は一方では、下から上への混合によってつくられ、他方では、上から下へと、様々な器官への区分化、統合組織化しながらつくられ、その相反によって生じる事象について、個人の自我の特性による、この相反する混合と分類の、均衡の恒常性が、いかに不規則になり得るか、の直観が獲得できれば、当人に何らかの異常があれば、この均衡の、方向性に従って、当人を治療する技術を学び、獲得していけるようになるだろう。 ☆ ☆ ☆このように、人体の疾患などは、頭部とその他人体との均衡、バランスの不具合から生じるわけで、そして、それを調整しているのが、自我で、その自我は、前世と現世の均衡、バランスを調節統合し、その不具合が生じると、次の転生の自我として、バランス回復力として持ち越すわけなんである。だから、マインドフルネスにおいて、自我を知らないと、そして、その自我の前世を知らないと、天上天下唯我独尊である、現世に今生きる、自分の人生の目的もわからなくなるわけなんである。だから、マインドフルネスとは、過去、未来を通じて、輪廻転生してきた、自分を知る事なんである。過去での自分の失敗など、未完成だった自分が、未来で、完成した自分に成長する機会を与えることになる。カルマや輪廻転生を知らないと何もわからなくなる末法の世になるわけなんである。この世で幸福になるだけでなく、前世から残してきた成長の糧となる課題をも克服して、来世には、天国に帰るのが、本当の、永遠の内から来る幸福なのである。だから、現世での肉体上のバランスだけでなく、前世からの霊魂でのバランスを測るのが、カルマを解消するのが、真の幸福なのである。自分のなかに全ての能力があるのが、マインドフルネスの、バランスによるバランスのためのバランスの存在なのである。さて、前世療法で有名な、「前世からのメッセージ」の著書のブライアンワイス氏自らが、自らの前世を記載しているので、非常に興味深いので、以下に抜粋要約して、紹介する。私(ブライアンワイス)は古代の僧侶でした。ジグラートという言葉が心の中に残っていた。その僧侶は絶大な権力をもっていたが、自分の地位を、霊的な真理を教えるために使わずに、より一層の富と権力を得るのに夢中だった。後半の人生においても、霊的な価値観を見出せなかった。僧侶は王族の要求を満たしている限り、霊的な真理を教えるのも自由だったのに、そうしなかった。この夢の出来事を、起きてから調べると、紀元前1000年のバビロニアの時代の寺院がジグラートと呼ばれていたのがわかった。そして、また他の瞑想のときに、再び、この前世が現れて、前世からのメッセージ「真理を教えるチャンスがあったのに、お前は、教えなかった」が心に響いた。そしてまた他の瞑想時に、次の前世が現れた。私(ブライアンワイス)はまたもや僧侶でした。しかし、今回は数世紀前のヨーロッパのどこかのカトリックの神父だった。地下牢に閉じ込められて、片方の腕は後ろの壁に鎖でつながれていた。異教的に禁じられている事柄を教えたとして、拷問にかけられたあとで殺された。このときに、前世からのメッセージ「チャンスがないときに、お前は、教えた。お前は、この問題を強行したのだ」が心に響いた。カトリックの神父は、愛と思いやりについて、安全に教えることができたのに、当時の冷酷な政府にたてついて、殺される必要もなかったと、ブライアンワイスは反省した。そして、「今回はうまくやりなさい。」前世からのメッセージの声が諭すように心優しく響いたという。このように霊的な真理の、カルマの法則と輪廻転生なしでは、マインドフルネスは全くの無意味になることを、続けて、マスターたちのメッセージから紹介する。我々は、地上に、霊的存在として学び、成長して、もっと愛と思いやりを深め、人生のバランスと調和を達成し、心の平和をいつも感じるようになるために生まれてきた。物質界に知性のレベルがあるのと同じように、霊界にも叡智のレベルがある。肉体を失って、霊魂の存在になったからといって、すぐに霊界の叡智が身につくわけではない。無知で愚かな霊から、優れたマスターたちのように、いくつものレベルがある。その違いを見分けるのが、とても重要である。霊界からのメッセージは、シンボル、寓話、ヴィジョンなどのイメージで現れるために、その解釈が、意味を読み解くカギになる。職人が技術のコツを伝授するようなものなので、体験、経験、努力を通じて、感性を磨くのが重要となる。霊媒によっては全く正反対に間違って解釈してしまう事も十分にありえる。優れた伝道者は、我々を指導し、支援してくれる。霊界を垣間見せ、亡くなった人からのメッセージを伝達してくれることもある。彼らは、人生の生き方、価値観、大切なことと大切でないことの指標を与えてくれる。しかし、究極的には、我々自身が、直接、自分のなかで体験し、理解し、自分の能力としないとホンモノにはならない。マインドフルネスを意味あるものにしないと、明日の自分がつくれないので、シュタイナーの「職業のカルマと未来」から抜粋して紹介する。フィッシャーの小説「美学」の哲学者フィッシャーは、「アオホ・アイナー」という小説で、夢の特性を示す、面白い話を書いている。この話は、職業や、仕事についての例証なので引用する。フィッシャーは、父と息子の話を書いた。二人は一緒に歩いている。父が息子に色んなことを尋ねたあと、息子が、父に、「あのね、『どんな仕事をしているの?』と誰にでも尋ねるべきだ、と先生は僕たちに言ったんだ。マトモな仕事をしている人かどうかで、その人がきちんとした人間かどうか、きちんとした心魂かどうかがわかるんだ。」と話した。「へぇ、そうかい」と父親は応える。すると、息子は、「そうなんだ。先生が学校でその話をしてから、僕は夢を見たんだよ。僕は、湖に行った。僕は夢のなかで、湖に、『どんな仕事をしているの?』って訊いたんだ。すると、湖は、『瑞々しくするのが仕事だよ』っていったんだ。」「そうとも」と父親は頷いた。この話は、非常に、精神豊かな物語である。多くの示唆に富む、生活認識を明かす物語である。父親は息子をダメにしたくない。しかし、「なんて愚かなことを、先生は言うのか」と、息子には言いたくはない。父親は、先生よりも、賢明な方法で、息子を啓蒙しなければならなかっただろう。「そんな表面的な見方で判断してはいけない。そのような誤った判断で、マトモな仕事をしていない人はきちんとした人間ではない、と思ってはいけないよ。その人には何か事情があるのかもしれない。」と、父親は諭す必要があっただろう。このように、父親は息子を教えるべきだっただろうしかし、父親は教える必要もなかった。好都合にも、夢が、その代わりをしてくれたからである。息子の覚醒意識に上った夢は、父親の忠告よりも、力となるからである。夢は、覚醒意識下の、潜在意識のなかで活動するが、教師が授業で語った愚かな見方を、心魂から拭い去る。すなわち、表層の覚醒意識よりも、賢い潜在意識のなかで、夢は活動し、夢を通じて、教師の愚かな観点が、笑いとばされる。湖は、「瑞々しくするのが、自分の仕事、職業だよ」と応える。この夢が、息子の心魂に、治癒的に働き、教師の教えを通じて発生するかもしれない、有害な、上辺だけの先入観を、解毒する。夢は、次の夜に追憶として現れたのだが、同時に、人生を修正する。実際、夢として、アストラル体は作用する。そして、人生の経験から、なによりも誤った教育から、霊魂のなかにもたらされたものの残滓の傍らに、覚醒意識下の、潜在意識のなかに、人生の訂正者がいるのを、やがて、人間は、そのうち見出すだろう。子どもの頃のことなら、しばしば、同じ人生のなかで訂正が行われる。しかし、なによりも、その訂正者は、死の扉を通って運ばれていき、次の転生にも作用する。本当に、人間には、自己訂正者が存在する。この霊的な真理に、注目(マインドフルネス)しないといけない。(つまり、瞑想とは、白昼夢のことなのである。)
2024年10月10日
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現代人は誰もが何かに依存し、洗脳されているのに、気づいていないから不思議である。例えば、無料で流されるCMなどに洗脳されている、のに気づいていないのは、不思議でもある。どこどこのなになにがいい、というだけで、それはそのモノに洗脳されているわけなんである。実際の社員でない、俳優が演じたCMをみて、その会社がいい、と思うのは既に洗脳なのにも気づいていない。俳優は社員のニセモノなのに、ニセモノを信じている。綺麗な俳優や女優がカッコいい、または綺麗なお化粧をしたからといって、自分もその俳優や女優になるわけではなく、所詮それは自分のニセモノでしかない。外から幸福はやってこない。広告はニセモノなので、それで稼ぐ連中を私は一切信用せずに、騙されないようにしている。連中の情報操作は、はじめに事実を述べて信用させて、次第に論点をはぐらかし、最後には、何らかの価値観を植え付ける。これらは悪魔の計略と言わざるを得ない。現代の政治家のほとんどもこのやり方と変わりない宣伝ばかりである。広告は幻想を植え付ける悪魔でしかなく、所詮一時的なもので、外から人間は永遠には幸福にはなれない。ネットフーテンの寅さんをやっていると、ネット界隈には、ニセモノに沢山出くわす。特に末法の世では、ニセモノを語る仏教徒にも出くわす。自分が末法を教えているのに気づいていない。特に日本の仏教は金儲けが主眼で唯物論に染まり切って、霊魂がみえないから、酷い詐欺が罷り通っているので、ほとんどが死後に地獄に堕ちるだろう。地獄に堕ちることすらもわからないので、末法と言わざるを得ない。末法 - Wikipedia例えば、空海さんを信仰しているから、南無阿弥陀仏と念仏を唱えているから、自分は地獄に堕ちないなどと錯覚している輩がいるが、これらはとんでもない悪魔教の偶像崇拝の倫理で、末法である。空海さんを信仰していても、自分が空海さんになろうとしない限りは、単なる依存心で、悪い意味の他力本願なんである。空海さんを信仰しているのなら、空海さんのような生き方をしないとウソになる。他力本願の本来の意味は、以前にも紹介したが、霊能者だけが使える阿弥陀如来の能力で、俗にいう、天性(転生)の能力で、前世から引き継いだ、例えば、前世で不運にも天災でなくなって、その能力を持ち越したとか、多くの人々を救ったカルマから、その能力に目覚めたとかの、特別な能力の持ち主でしか使えない能力のことで、親鸞が説いた他力はニセモノと言わざるを得ない。像法 - Wikipedia親鸞自体が、鎌倉時代の人物で、日本では像法の時代は1051年に終わったとされているので、親鸞が当時の仏教で悟れるわけがない。元々、霊能の持ち主か、如来が、教えを説くために現世にやってきたかでないとニセモノなわけである。日本史をみれば宗教戦争を起こした人物として有名なので、恐らく地獄に堕ちているのだろう。古今東西、スウェーデンボルグの書からも明らかで、似非宗教家は地獄に堕ちていて、現世で多くの人々を騙した詐欺師は、地獄に堕ちているのである。末法の世の現在では、空海さんのように、仏教だけで食っていくのは大変困難なんで、空海さんのようなモノから食べ物がつくれる霊能者でもないので、しかも現代ではニセモノの霊能者も多く、唯物論に染まりやすく、地獄に堕ちる可能性が高いので、特に日本社会の制度では、血縁を断ち切る、出家もほぼ不可能だから、以前、在家信者で紹介したように、仏教は副業にして、他の本業で食っていく他はないだろう。例えば、農業をやりながら、教師をやりながら、医者をやりながらとか、他の仕事で、生計をたてながら、仏教をやっていく他はないだろう。昔は、仏教徒がいわば公務員だったので、仏教だけで食っていけたわけだが、それでも、像法なので、霊我=心眼を獲得し、霊能者となり得たものはいないわけなんである。末法の世なのに、末法を布教するのは大変危険なんである。神を信仰するどころか、悪魔の手先となっているわけで、末法の世では洗脳に気づき、洗脳から自分を解放するのが先決で、とにかく宗教を疑う必要がある。宗教を疑うのには科学は有用だが、これまた科学教となってしまったら、今度は、アーリマンの悪魔教になってしまうわけで、ルシファーの宗教には、アーリマンの疑いの宗教を、毒には毒で制すのはいいが、何事も中庸で、中道でないと、意味がない。さて、前回はスパイの目的が思想洗脳にあり、巷に溢れる思想洗脳の恐ろしさを紹介したが、今回は、知らぬ間に思想洗脳されている、依存や依存心の恐ろしさを紹介したい。巷に溢れる情報の多くがニセモノであり、それらは携帯端末で日常茶飯事のように、同じ言語で流され、同じ言葉を使う民族を洗脳していく。現代での偶像崇拝の先兵なのがスマホなんである。つまり、スマホが末法の最前線となっている。生産性を上げたいなら今すぐスマホを手放そう! (flierinc.com)スマホなどの情報ツールで、自分が洗脳されているかどうか、は、これまで紹介してきたように、未来や過去に囚われ、今に生きていないかどうかで、ある程度判断できる。過去の行いから、いまがあり、いまの延長上に未来があるのだから、いまを真剣に生きる判断が重要となる。自分の判断を誰かに委ねるのは、洗脳されている証拠である。勿論、専門家に話を聞くのは重要だが、結局、自分の行為については自分が責任をとらねばならない。とどのつまり、お釈迦さんが説いた、善因善果、悪因悪果である。仏教の法=ダルマとは、このお釈迦さんが説いた、善因善果、悪因悪果で、過去に鑑みて行う、いまの自分の行為が、未来の自分をつくる、という法則のことなんである。この究極の自己責任のことを、宇宙の法の、カルマの法則で、輪廻転生の法則なわけなんである。昔流行った、林先生ではないが、「今でしょ」が、「今することでしょ」が、仏教の法なのである。いまあるのは、過去の自分の行いにより、いますることが、未来の自分をつくる、この自分のなかの自分を知るのが、仏教の究極の目的というわけなんである。お釈迦さんの天上天下唯我独尊で、ただ我あるのみなんである。多種多様な我が集って宇宙がある、というわけなんである。だから、欲望に塗れて、執着心などで、我を失ってはいけないわけなんである。少なくとも、我を知ることが、人生の目的である。我は我でしか理解できないからである。何者かに洗脳されてはいけないわけである。さて、上に紹介したように、スマホを捨て、「生産性」を上げる、という表現はあまりよくないが、最近、巷ではマインドフルネスという言葉が目に付くようになってきた。マインドフルネス - Wikipediaマインドフルネスとは、端的にいえば、内観のことである。自分の人生を見つめることで、自分という存在を明らかにする。それは現世の自分だけでなく、前世の自分、何回もこの世に転生してきた、自分の歴史を、現世から探求することである。古代ギリシア哲学では、「汝自身を知れ」と表現された。自分を通じて、人間を探求せよ、というわけなんである。自我のなかに、前世と現世をバランスするカルマの法則があり、今度は、現世の行為から、来世の自分をつくる、現世と来世をバランスする、バランスにより、バランスをつくる、バランスの存在が、神なのである。だから、我は我ある我なる存在が、モーセに語った、エヘイエ、アシェル、エヘイエとなるわけなんである。メッセージ 共に苦しむ神~モーセの召命|藤沢バプテスト教会 (fujisawa-baptist.church) 仏教的にいえば、天上天下唯我独尊は、善因善果となるべく働く法である、ということになるかもしれない。我は我ある我なる存在だ、というわけで、いまの我は、過去の我があってのもので、そして未来の我となるものでもある、という、時間を超えて、我という存在を、バランスする存在という意味なのである。だから悪いことをすれば、地獄に堕ちるし、良いことをすれば、天国に行けるわけで、何をするかは、いまの自分の行為により、自己責任なんである。だから、いまの自分だけでなく、過去の自分、前世をも考えた自分で、判断し、いま行うべきなのである。マインドフルネスは自分を考えるために不可欠なのである。そのようなマインドフルネスについて、「前世からのメッセージ」のマスターたちの言葉をかりて以下に紹介する。我々は皆、霊能者であり、自分で思っているよりも、遥かに素晴らしい直観力をもっている。他から得た情報を、あなた自身の直観力で、注意深く観察し、吟味し、評価してください。もし、それが正しくないと感じ、自分に相応しくないと感じたなら、恐らくその情報は間違いで、あなたの霊能力を奪うものです。他から受け取る情報には、伝達者の想いで加工され、バイアスがかかっている。だから、情報は、伝達者により故意に歪められている可能性があり、その作為の影響は伝達者の個人的問題に関わる。何の作為もない歪みのない情報はなく、伝達者の気分、欲望などで、情報は歪んでしまう。インチキな伝達者は、高額の料金を要求し、自分の忠告に、あなたを従わせようとする。また、そのような伝達者は、自分は特別な能力をもつ者とみせかけ、あなたを洗脳し、自分に従わせようとする。このようなやり方に気づいたら、即座に逃げ出すべきである。(南米では、優れた伝道者は、他の職業で生計をたてて、貧困者に、伝達を奉仕で行っているという。つまり、優れた伝道者は、完全なボランティアで、慈善活動なのである。金銭を要求した時点でニセモノなのである。広告活動も広義にはニセモノである。)真の成長は、内面の精神的プロセスなのである。他の優秀な伝道師などは、あなたの内面の学びを刺激できますが、自分で十分な瞑想を行えば、他の伝道師を必要とせずに、自分が霊能者として独立し、やっていけるようになる。しかし、最初は、解釈に歪みのほとんどない優秀な伝道師に、内面の学び方を確認する必要がある。霊能力は、必ずしも、精神的進化と連動しているわけではなく、非常に高い霊能力者でも、利己的な、見下げ果てた行動をする者(黒魔術師)もいる。だから、高い霊能力に騙されてはいけないわけで、それだけで高い地位に祀り上げてはいけない(日本にはこの手の類が多い)。そのようなことをすると、その者に利用され、犠牲者となるだろう。ほとんどの霊能者は、その霊能ゆえに、現代社会には不適合で、特別な訓練を受けたわけではないので、霊能力者というだけで、自分の人生を期待して、相談したり、委ねてしまうのはやめるべきである。カウンセルという職業は、現代社会に適合するためにあり、あなたの望みを叶えるためにあるのではない。奇跡に期待したり、あなたが抱える問題を、一気に解決してもらおうと期待したり、奇跡的な治療を期待してはいけない。なにより、あなたのなかに眠る本来の霊能力を開発せずに、その能力と誠実さを、他の誰かに完全に委ねて、霊魂をうってしまっては、この世に生まれてきて、愛を学ぶ機会を失ってしまい、元も子もなくなるからである。悪魔に魂を売り渡しては元も子もないので、自分で自分の霊魂の成長を見究めるために、シュタイナーの「職業のカルマと未来」から抜粋して紹介する。 ★ ★ ★ 輪廻転生人間の潜在意識、霊魂の奥底に、破綻した人生プランを、見つけたなら、それが、繰り返される地上生(輪廻転生)において、どのような意味をもつのか、探求すべきである。そうすれば、その人の生活のある面が、潜在意識のなかにも存在し、活動し、その人が人生プランを実行するのを、宿命的に妨げているのが、わかるかもしれない。そして、まだ潜在意識の、霊魂の奥底にある、破綻した人生プランは、その人を病気にする決定だけではないのが、わかるかもしれない。この人生プランは、人生が終わったときに、死の扉をくぐり、死から再誕の間の、あの世で生きる力となり、次の転生の、地上生で大事な役割を演じるように定められる。そのように、破綻した人生プランが、潜在意識の、霊魂の奥底に保存されることで、死後に、再生力を得て、よみがえり、死と再誕の間のあの世で、本来の均衡力から、正しい修正力が獲得できる。そうして、今回の地上生では、霊魂の奥底のいとなみの、妨害の反作用の特性から、受け取れなかった能力(治癒力)を、次の転生の、地上生において、再生力(修正力)として受けとれるようになる。低俗な表現だが、「潜在意識のなかの、動物的本能」は確かに存在する。しかし、私(シュタイナー)が、人間の頭と、他の人体部位との関係について、述べた事実を思い出してほしい。頭以外の人体部位は、人間の地上生、多くの点で現在の受肉に関係する。それに対して、頭は、かつての地球進化の成果であり、なによりも、人間の前世と関係する。この事実を深く考察すれば、人間がカルマの法則全体において演じる役割に従って、人間の頭部の、神経系から発する、前世を基にした役割とは、全く異なった、現在の成熟段階にある、多様な役割が演じられるように働くのが、把握できるようになるだろう。精神分析で、無意識のなかの動物的本能だけを分析するのは、全くの的外れで、そのような分析は、まだ穀物が生えていない土地をみて、どんな穀物が生えるのか知りたい、と考えるのと同じである。そのような人は、土を分析し、土を掘り、肥やしを撒いて、堆肥をよく知っているので、堆肥から穀物が生長する、と唱えるだろう。肥やしを撒いても、穀物が堆肥から生長しないのと同じで、この動物的本能の、奥底に埋まっている、魂の核が問題なのである。この動物的本能のなかに埋まっている、魂の核が、死の扉をくぐりぬけて、次の転生の地上生に働きかける。だから、動物的本能を調べても何もみつからないわけで、このなかに埋まっている魂の核が、つまり霊の、自我が重要なのである。いわゆる精神分析は、現代の先入観から、何が人生に宿命的に作用するのか、を地上生に沿って、研究する。そして、心のなかにだけ意識やその経験を求めるだけでは満足しない現代の科学は、表層の(覚醒)意識下から押し寄せてくる、動物の本能の領域を扱うようになり、思考が入り乱れるところを調べる。しかし、霊界や、人智学を理解できないので、ただ一回だけの地上生から、あれこれと不器用に、人生をこねくりまわし、引っ掻き回して、人生の出来事を、宇宙の天体の運動から起こる、首尾一貫した、正しい解釈には到達できずに、誤った位置に置き換えて、間違った解釈に誘導してしまう。私(シュタイナー)が示唆したように、カルマの法則が紡ぐ糸を辿っていけるときにだけ、人生の出来事を正しい位置から解釈できるだろう。現代の精神分析が、人間性を掻き回すほど、人間は不健康になっていくのがわかるだろう。(前世療法に到達できない精神分析は何の意味もない、のがわかるだろう。)人間の霊魂のいとなみのなかの、起きてから、眠るときまでの、覚醒意識での生活は、いくつもの受肉を通して働くカルマの流れを、ほとんどあまり示さない。覚醒意識での体験は、ほとんどが現在の受肉に関するものである。人間は、現在の受肉に精通するために、肉体での愛を学ぶには、良い事なのである。死の扉を通って運ばれていく、霊の魂の核、自我の萌芽は、現在の受肉による、(愛の)体験、経験、努力からつくられる。それは、眠ってから起きるまでの、睡眠中の生活のなかで、大きな役割を演じ、睡眠中の、夢として何度も表現される。夢を正しく解釈するには、霊的な法則、つまり鏡像関係の理解が必要となる。夢は追憶で、確かに像(イメージ)の一種だが、夢は、そのままの像では表現されずに、よく反対の像や反作用として表現される。そのような夢の特性を示すために、次回に文学から例証したい。
2024年10月08日
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♪バンバラババンバンバンバラとお馴染みのテーマ曲で登場する、ジェームスボンドの007のモデルは、ヴィクターロスチャイルドであるのは割と有名な話だが、前回紹介したように、ジャームスという名が、元々はジェイコブのヤコブからきているのは、あまり知られていない。ヤコブの名のように、スパイは、「人を出し抜く」職業といえる。このような話は、表向きの歴史にはほとんど載ってはいない。ヴィクター・ロスチャイルド (第3代ロスチャイルド男爵) - Wikipedia007のMI6は、ジョンコールマンの300人委員会という著書で、ジョンFケネディの暗殺に関与している、というのは、陰謀論で有名だが、スパイといえば、日本では、戦時中の親ソ統制派のゾルゲと尾崎のほうが、遥かに有名だった。日露戦争の明石元二郎や後の川島芳子、そしてミカドのスパイべラスコも一時期話題になったが、反ユダヤ主義がマスコミ系に評判が悪いのか、広島に落とされた原爆がナチス製という発言があまりにも胡散臭かったのか、いまではほとんどが都市伝説となっている。リヒャルト・ゾルゲ - Wikipedia尾崎秀実 - Wikipediaアンヘル・アルカサール・デ・ベラスコ - Wikipedia日本では、スパイという目にみえない隠れた存在よりも、目にみえる物質的脅威のほうがわかりやすいのかもしれない。日本には、スパイの前身でもある柳生十兵衛の忍者ドラマや忍者ハットリくんのアニメなどは沢山あるのに、矮小化され、リアリティが抜き取られ、偶像アイドル化されている。実は、忍者とは、古くは陰陽師で有名なように、思想洗脳にはじまるのである。だから、ポルトガルはイエズス会を植民地の先遣調査隊として送り込んだし、スペインは、フランシスコ会をアメリカ大陸に送り込んで、サンフランシスコ州を植民地にしたわけなんである。さて、幕末の黒船来航が、当時の日本の平和を乱すのに衝撃だった、と令和のいまでも語られているのに、NHK歴史番組などで語られる嘘くさい定説の日本史では、ペリーが日本に来て開国を迫ったのは、以下の進研ゼミの回答のような、清国との貿易の捕鯨船の寄港地のためと教えられている。当時の日本人には相当な衝撃を与えたはずなのに、そこには、リアリティの欠片もみられずに、清国との貿易で、実際どれだけ米国が利益をあげていたのか、米国が世界戦略として、新たな植民地を求めていたのか、については、全くの言及もなく、人間の欲望について全く考えていないから、日本史を勉強する意味がない。ペリーが日本に開国を求めた理由とは?【日本史】|中学社会|定期テスト対策サイト (benesse.jp)まるでニュートンのリンゴのように、当時の出来事が自然現象のように起こったかのように記述されている。このような全く考えない、暗記だけの日本史を学んでも、大学入試に役立つだけで、教訓や啓蒙として、社会に全く生かされないのは、随分前から、日本史教育論でも批判されてきた。これは念仏さえ唱えれば、仏になれる、という詐欺のような末法仏教と同じでもある。例えば、前回紹介した、茂木誠氏の日本史解説の動画などをみれば、NHKなどよりは、少しはマシで、人間の思想が、歴史的出来事にどう関与したのか、少しは考える日本史の勉強となる。この人が面白いのは、日本史の思想論について、特に日本の宗教論について、観念論が少し入っているために、やや右よりの表面的な見方だが、ともかくも、当時の日本人の思想として要約している、ところである。アヘン戦争の衝撃 / 佐久間象山と吉田松陰|茂木誠 - YouTube長州藩の維新回天 / 高杉晋作と伊藤博文|茂木誠 - YouTube日本史の研究は出来事を羅列するだけでは、人間の動機と、動機を生む思想がみえてこない。例えば、思想史としての、明治維新の目的すら見えてこない。例えば、上の、茂木誠氏は、江戸幕府の体制思想が朱子学で、佐久間象山は、黒船来航により、この朱子学を捨て、蘭学に転向した意味を紹介している。だから、当時の学者の仕官運動が朱子学だったのがわかり、幕府じゃ立身出世ができず、食べていけないから、蘭学に転向したわけで、それが後々に、豊前中津の田舎下級武士出身の、福沢諭吉をして、「学問のススメ」を書かせるわけである。また、このような立身出世物語から、明治維新の目的が、八切史観で明らかになっているように、当時差別されていた部落民の解放運動につながるわけである。江戸時代に続いた身分制度を改革したかったわけである。というのも、赤穂浪士のように、いまでは美談にされているが、実は柳沢吉保による、いまでは金利政策となっているが、当時は汚職の、金の含量を少しづつ減らした小判つくりで不当な利益をあげたのを、吉良上野介が朝廷に告げ口しようとしたのを、殿中での吉良に抜刀させた罪で切腹させようと浅野内匠頭と謀ったが、吉良が抜刀しなかったので、やむを得ずに浅野を口封じのために切腹斬首してしまったので、後に赤穂の文官家老の大石内蔵助に、朝廷に知られる前に吉良の始末を嫌々やらせたわけなんである。大石良雄は、内蔵助でわかるように藩の財政担当で、武官ではない。つまり、武官に討ち入りをやらせると反乱になってしまう恐れを柳沢が考えていたわけである。幕末には、大塩中斎平八郎が、元大坂町奉行なのにもかかわらずに、反乱を起こしているのでわかる。度々の飢饉などから、町民が貧困に苦しむ様子は、幕末の勝海舟の伝記でもわかる。このように日本史の背景やリアリティについて言及する姿勢は、明治からはじまった従来の日本史教育にはなく、当時の日本人は、生活を良くしたいと思わなかったのか? 思わなかったとしたら、なぜなのか? 当時の日本人は、日本や政治を行っていた幕府をどう思っていたのか? そのような視点から考えないと、歴史を学ぶ、教訓を得る勉強にはならない。実際、幕末の日本の生活がどうだったのかは、日本史からはわからないが、前回紹介した都市伝説の動画によれば、なんと、ロスチャイルドが日本の市場調査をしているのである。また、視点を変えて、米国側から考えれば、ペリー来航の1853年の、少し前に清国でアヘン戦争が1840年に勃発しているわけで、同じ頃の1848年に、フランスで、プロレタリアートによる二月革命が起こっている。アヘン戦争 - Wikipedia1848年のフランス革命 - Wikipedia黒船来航 - Wikipediaそして、前回紹介したように、その都市伝説動画によれば、スコットランドに辿り着いたアシュケナージユダヤ人による、スコットランド王ロバートブルースによるイングランドからの独立から、アメリカ独立革命へと経て、更にフランス革命に続くジャコバイト=ヤコブの「人を出し抜く」流れが浮かびあがってくる。更に面白いのは、スコットランド王の母系の先祖を辿るとテンプル騎士団のウイリアムマーシャルにつながり、テンプル騎士団の最後の総長のジャックドモレーのジャックという名もヤコブのジャコバイトで、海賊旗の骸骨は、ジャックドモレーの復活を意味しているらしく、スペインのイギリス討伐を阻んで、エリザベス一世を助けたのが海賊だった、のも有名な話で、エリザベス一世には子がいなかったので、その後を継いだのが、ジェームズ一世のジャコブ=ヤコブつながりなのである。ウィリアム・マーシャル (初代ペンブルック伯) - Wikipediaジャック・ド・モレー - Wikipediaこのように、巷のネットフーテンの寅さんをしていると、様々な動画に出くわすが、ほとんどがインチキ臭い都市伝説モノが多いのだが、上の、前回紹介したアシュケナージユダヤ人の都市伝説モノ動画は、なかなかよくできているので、もう少し紹介したい。恐らく同じ動画モノで、日ユ同祖論の都市伝説モノも見つけたので合わせて紹介する。日本人が知らない彼らの起源/新時代の扉『ロスチャイルド編』総集編 | 考え方の学校 Yoshi Sun TV|YouTubeランキング (yutura.net)旧約聖書の編纂者「古代エジプト王家説」/隠されたあの"日本の和歌" | 考え方の学校 Yoshi Sun TVの人気動画|YouTubeランキング (yutura.net)この動画が面白いのは、アシュケナージユダヤ人を通じて、金融の流れがわかるからで、フランス革命が、米国の独立戦争を支援した財政負担からはじまり、ジャコバイトにより起こされたように、日本の明治維新に関わったグラバーのジャーディマセソンが、ペリーの黒船来航による日本への不平等条約により、中古の武器を買い取らせて、米国の南北戦争でリンカーンの北軍に資金援助をして勝たせたことにある。だから、リンカーンは、ペリーの不平等条約がなければ、南北戦争に勝てなかったわけで、日本は、この不平等条約がなければ、幕府の財政負担もなく、倒幕運動も起こらなかった可能性が高い。つまり、薩長は、身分制度撤廃のために、倒幕運動を行い、幕府は不平等条約の貿易による、武装化の、財政負担のために、破綻したわけなんである。つまり、この日本のATM化がなかったら、慶喜が、薩長官軍をみて、敵前逃亡をしなくてもよかったわけで、というのも、薩長軍の背後にイギリスが賠償金を請求してくるからで、賠償金を払えないと、代わりに幕府を通じて日本の土地が奪われ、日本がなくなってしまうからである。慶喜が、敵前逃亡をしたのは、幕府の財政を守るためで、日本の土地を外国に盗られずに、最後の奥の手が大政奉還で孝明帝に政権を返還するわけなんである。ここら辺の歴史年表が書き換えられている可能性が高い。いずれにしろ、薩長がイギリスと同盟したので、イギリスによる賠償金請求を逃れるための政権交代なんである。しかし、孝明帝崩御(岩倉ー大久保の暗殺説)のあとで、それも薩長による大室帝傀儡の、王政復古の大号令で日本の土地がそのまま大室帝に継承されたので、終いには慶喜が逃げて、無血開城となったわけで、長州は、南朝の大室天皇を囲っていたが、幕府も南朝の天皇を囲っていたという説もある。実際に、勝海舟等は伝記で、慶喜をフランスに亡命するための工作資金を、小栗忠順が手始めに、横須賀製鉄所に使った話を披露している。それが噂となって徳川埋蔵金伝説となるわけなんである。カネがなければ戦はできない。ここら辺の裏事情を、表向きの日本史は教えないから、話がみえてこないわけなんである。現代の歴史教育では、戦争にカネがかかるのを全く考慮していないばかりか、上のアシュケナージユダヤ人からロスチャイルドが生まれ、秘密結社のフリーメイソンや、それが元々は、テンプル騎士団の金融事業からはじまっている流れを掴まないと、絵に描いた餅を食って、戦場に送られてから後悔する単なる戦争オタクなんである。ちなみに、日清、日露戦争の戦費が以下で、日清が国家予算の約3倍で、日露が国家予算の約30倍で、先の太平洋戦争では、表向きは、国家予算の8倍となっているが、以下のサイトだと、実際は280倍なので、当時の経済状況での返済には、280年かかるわけなんである。米国は3倍だという。経済をみても、無謀な戦いなのがわかり、双方合わせて軍需産業がぼろ儲けしているのがわかる。しかし、死後地獄に堕ちたはずである。日本戦略研究フォーラム(JFSS)日本が太平洋戦争に総額いくらを費やしたか、知っていますか(加谷 珪一) | 現代ビジネス | 講談社(1/3) (gendai.media)さて、徳川埋蔵金がいくら残ったのか、倒幕運動にどれぐらいの資金がかかったのかは、ほとんど明らかになっていないが、鴻池、三井、三菱、住友などの財閥が台頭してきたのは、先に紹介した動画による、長州ファイブとのつながりが有力だろう。そして、渋沢については、慶喜の弟昭武の幕府のフランスとの交流によるものと考えられる。明治期の財閥と当主たち|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館 (ndl.go.jp)徳川昭武 - Wikipedia上の都市伝説の動画により、革命と資金の関係からロスチャイルドの暗躍が明らかになるが、当時の日本の市場調査をしたのが、スコットランドの、ジャーディンマセソンの配下のメイソンリーのトーマスグラバーで、ロスチャイルド家に、アメリカではなく、日本を紹介したのが、以下に紹介する、アーロンパーマーである。このパーマーにより、ペリー来航となったわけなんである。 ☆ ☆ ☆ペリー提督、日米和親条約、Japan-US Encounters 日米交流 (japanusencounters.net)エアロン・パーマー書簡、アーロン・パーマーとも、Japan-US Encounters 日米交流 (japanusencounters.net)特に日本についても、1839(天保10)年、ロスチャイルド銀行の紹介でオランダに行き、オランダ政府の協力で、長崎のオランダ商館長の報告書やエンゲルベルト・ケンペルの『日本誌』なども入手して読み、深く日本を研究している (Letter to The Hon. Charles J. Ingersoll, 1846)。その後パーマーは連邦最高裁判所の法廷専門弁護士 (Counselor of the Supreme Court of the U.S.)としてその立場を充分に活用し、自身で集めた情報を駆使し、「アメリカ政府は、大西洋と太平洋を結ぶ運河や大陸横断鉄道の建設も含め、大西洋から太平洋にかけた世界貿易の基本政策を策定すべきである。また、アフリカや中東およびアジアの新興国地域に使節を送り、貿易拡大の実現を図るべきだ」 とする計画案を、数次に渡り、ポーク大統領やテイラー大統領、ここに述べるフィルモア大統領宛て等、アメリカ政府や議会にも建策している。 (省略)特に日本政府とは交易を開き通商条約を結びます。そして、この東方地域の貿易活動が増加し、我が政府による駐在公使や領事が任命できるほどになるまで、この方法を継続します。地理学的、政治的、商業的、水路学的な各種重要情報はそんな短期的訪問で取得できますが、それは、我が国がこうして訪問した国々と近い将来交易活動を行うに際し、特にサンフランシスコからその地域への蒸気船連絡網を確立するに当たり、石炭補給基地の選定や、不可欠な暫定的準備を行う上で非常に有用で有利な情報となります。 この包括的で、効率的、経済的な組織のもと、我が国の支那との正当な通商は、(公式には禁止されている)アヘン取引量を含まないイギリスのちょうど半分の量で、利益の見込める取引量は更に巨大ですが、支那とその近辺の国々との貿易拡大と管理監督に要する年間費用は、たとえこの使節を、1849年2月24日付けでテイラー将軍(筆者注:ザカリー・テイラー大統領)に提出したニューヨークからの建白書で推奨したような、全権が伴う公使に格上げしてみたとしても、イギリスの支那貿易の監督官とその確立した五ヶ所の特権的貿易港の領事体制で発生した、1848年3月31日現在の年間経費である、英国貨幣・33,326ポンド10シリングの10分の1にも満たないでしょう。* * * * * * * *一般的に、日本国民は外国人に対し友好的で親切であると云われていて、外国人と交流し貿易したいという気持ちを例外なくはっきり示していますが、彼らの統治者とその国法への恐れの念から、公然とそうする事は妨げられています。この国の政府は、やがて周囲の状況の力で、また特に太平洋へ進出している我が国民の存在により、益々強まるこの時代の商業精神に屈服することになります。1811年(筆者注:文化8年)には、当時蝦夷と千島列島諸領の奉行(筆者注:松前奉行)だったよく名の知れた日本の政治家・荒尾但馬守(筆者注:成章・しげあきら。文化8年夏、国後島で捕縛されたロシア軍艦ディアナ号艦長・ゴローニンの尋問にあたった)は、帝国の諸港を外国貿易に開く事に賛意を持っていましたが、松前から江戸の老中に宛てた公式報告で、「創造主の創った、太陽、月、そして多くの星々は夫々の経路を自由に経巡るが、外国船が長崎以外の如何なる港にも入ることを禁じた人手による日本の国法は、永遠ではあり得ない」と述べています。この人物は最終的に江戸幕府の上席奉行に昇格し、政務上の大事に参画する職に連なりました(筆者注:文政3(1820)年、江戸町奉行になり三奉行の一角を占め、幕政にも参与する立場になった)。私は過去5年間に、種々な機会を捉え、日本で野蛮で侮辱的な取り扱いにあった遭難アメリカ人水夫たちに関する我が政府の注意を何時も繰り返し促してきたし、そんな暴力行為に対する満足のいく償いと賠償金を江戸幕府に支払わせ、日本沿岸で不幸にも船が難破したり、悪天候時や救助を求めて、あるいは修理のために、彼らの如何なる港へも避難を余儀なくされるこれら我が同胞に、寛大な厚遇と友好裏の保護を受ける権利を保証させるべく、何らかの有効で強力な、国家の対策が採られる必要性と緊急性を示してきました。前の国務長官・ジョーン・M・クレイトン氏宛ての1849年9月17日付けの書簡の中に、これは国務省にある私の記述書類のファイルにありますが、アメリカの捕鯨船・ラゴダ号乗組員の日本に於ける拘留と受難、そしてそこからアメリカ軍艦・プレブル号の艦長・グリン中佐により長崎で救い出された詳細記述が報告されていますし、私は昨年の4月、上に述べた重要事項を完遂すべき計画を提出し、クレイトン氏の賛同を得ています。それはあらゆる局面と、特に日本人の国民性と智謀に関し再度十分に考慮しているので、彼らが我が同胞に加えた不法行為に対する賠償を即座に要求し、その再発がないよう十分な保証を取り付ける事は、我が政府が威厳をもって採用できるただ一つ実現可能なものだと、私自身満足に思うものであります。必要な気転、精力、そして確固たる目的を持つ使節に委ねられ、堂々たる合衆国艦隊に支援され、提案の如き性格を持つ使節団は、確信を持って予言できますが、高慢で強情な将軍、その「老中」、精神的な「帝」たちを、何らかの満足できる解決策へと速やかに引き込み、その帝国に我々との通商の道を開かせるでしょう。* * * * * * * *事実、1860年3月の上院・請求事項審査委員会の議事録に依れば、パーマー自身が政府や議会の要請で1848年と1850年にニューヨークからワシントンまで出張して来たり、特に1852年には、海軍長官の要請で日本に行く直前のペリー提督とワシントンで何度も面談し、パーマー自身が作成した「日本開国計画書」をも提案し、日本遠征に有用で重要な情報を提供したと云う。上下両院も最終的にこのエアロン・パーマーの貢献と要請を受け入れ、上院では1860年3月30日、下院では同年4月20日を以て、パーマーの貢献と努力に対する3千ドルの報酬支払いを決定している(The Congressional Globe, March 30, 1860。36th Congress, 1st Session, Senate Act S.111)。ちなみにペリー提督には、日本遠征を成功させて帰国した当時、上下両院議会の賛同により2万ドルの報奨金が支給されている。 ☆ ☆ ☆というように、今日と同じように、日本を米国政府のATMとするべく、ペリーが送られたわけなんである。現に日本がATMとなったので、米国政府は南北戦争で、南部を併合できたわけなんである。そして、今度は日本に明治維新をもたらして、日本をけしかけて、清帝国に革命を起こし、ロシア帝国にも革命を起こさせて、プロモーターのように、東と西の冷戦時代へと人類を二つに分断し、戦わせて支配していくわけである。連中にアーリマンが受肉するのも時間の問題なのかもしれない。日本人は何度騙されれば気づくのだろうか? シュタイナーは白人種にアーリマンが受肉すると預言している。アシュケナージユダヤなどの白人がアメリカ先住民に行った土地略奪を見れば明らかである。今週は忙しく時間がないので、今回は、ここまでにしたい。
2024年10月03日
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昭和の学校の卒業式では、必ずといってよいほど、蛍の光が歌われたが、実はこの歌の楽曲が、スコットランドのオールドラングサインを原曲にしているのを知っている人はほとんどいない。この曲を調べてみると、作曲者ロバートバーンズはフリーメーソン員なのに気が付き、この曲の歌詞をみると、かつての古き同志が、袂を分かち合い、荒波に呑み込まれながら、時を隔てて、再会する、歌なのがわかる。蛍の光 - Wikipediaオールド・ラング・サイン - Wikipediaロバート・バーンズ - Wikipediaヨナ抜き音階 - Wikipediaつまり、この歌はメーソンリーが、この表現は石やレンガ、コンクリートブロックの積み上げ構造をも意味するが、本来は、人と人との友愛による積み上げによるメーソン会員の絆を意味するようで、そのメーソンリーの絆を歌っているようにもみえる。この絆による自由な革命や自由な国の、共和国建国が、この歌の背後に隠されているようにみえてくる。ブロック材研究会|一般社団法人 北海道建築技術協会 – ブロック材研究会 (hobea.or.jp)しかし、この歌が、日本では「蛍の光」に置き換わり、どうも歴史的経緯をみると、イギリス海軍を通じて、幕府の海軍を再編して、明治の日本帝国海軍に導入され、中国の「蛍雪の功(一途に学問に励む事を褒め称えること)」の故事を交えて、かつての学業の友が、国家の重要な位置について、領土拡張と共に国防を担う歌に改変されていく。つまり、スコットランドでは、メーソンの革命の歌が、日本では、倒幕の明治維新の歌になり、帝国軍の領土拡張の歌になっていったわけなんである。だから、この歌から、フランス革命と、明治維新の裏のつながりがわかる。このような日本史の裏事情を知らないと、歴史は繰り返すというように、現代の政治もみえてこない。フランス、イギリス、アメリカの背後にフリーメーソンがいるのは、都市伝説や、有名な万物を見通す目が、1ドル紙幣に載っているのでもわかる。ちなみに、以下に紹介する、茂木誠氏によると、日本の日米戦争の敗戦の原因は、人の好い日本人の本性が出たのか、帝国陸軍にソ連のスパイ瀬島隆三がいてソ連に負けるように誘導され、帝国海軍に米国スパイのメーソン米内光政がいて、米国に負けるように誘導され、分裂してしまったせいにある、と述べている。日本が負けるような作戦内容が不可解すぎる、というわけなんである。昭和帝は薄々この2人の裏切り者を知っていたようなのである。大体、特攻なんてものを考えるのが、当時の上級国民が下級国民に強いた差別なんである。当時の帝国軍には厳密な階級制度があった。だから、上級国民は今も変わらずに権力闘争を続けているわけなんである。さて、明治から令和と、時間を進行させると、巷の、国民はほぼ白け気味の傍観者だった、裏金問題や統一教会問題を解決もできないで、与党の座に居座り続けるための、最低最悪のオジサンの詰め合わせアウトレイジのような総裁選もようやく終わったが、自称ネットフーテンの寅さんとしては、ネット界隈で、パヨク、ネトウヨなどの、左翼、右翼の歴史も知らないで、罵倒用語に使われるのが、あまりにも無知なので警笛を鳴らしたいので、政治史から紹介したい。アウトレイジ (2010年の映画) - WikipediaCIAエージェント?岸信介〜宏池会の起源|茂木誠 - YouTube日本の政治史については、上の茂木誠氏の動画に巧く要約されているが、この人は、日本を縄文時代に戻したいと述べているように、どこか懐古主義に執着している感じがして、その意味でやや右よりといえるかもしれない。一般的に、右翼とは、ルシファーの懐古主義で、過去に執着する思想で、逆に左翼とは、アーリマンの唯物主義の、未来の物質主義に執着する思想と、現在を大切にする中道からは区別できるわけなんである。天使が両翼を必要とするように、片方に偏り、一方の翼しかもたないのは、地獄に堕ちるのを意味する。つまり、神秘学では、かつて行われた天空の戦いから、神に離反した、革新的な、左翼の堕天使が生まれ、堕天使に従わなかった、保守的な、右翼の天使が生まれたといわれている。人智学では、どちらにも偏らない、中道を、キリストの中庸と呼んでいるわけで、仏教でも中道を説くのは、お馴染みだろう。オカルトでは、左右のそもそもの意味は、生命の樹にあるのがわかっている。生命の樹は以下の図のように、三本の柱からなるが、中央からみて、左右の柱を意味している。この三本の柱のなかに、人体の4つの体、すなわち、自我、アストラル体、エーテル体、肉体が隠されている。「生命の樹」の概念図−第八章 生命の樹 (aura-soma.jp)この左側には3(理解)、5(峻厳)、8(栄光)があり、右側には2(知恵)、4(慈悲)、7(勝利)があるのがわかるが、左側に過去を充てると、過去の理解、過去の峻厳、過去の栄光となるのがわかる。そして、右側に未来を充てると、未来の知恵、未来の慈悲、未来の勝利となるのがわかる。そして、中央の1(王冠)、6(美)、9(基礎)、10(王国)が現在であるのがわかる。そして、中央の、王冠が、過去の理解と、未来の知恵からなり、美が、過去の峻厳と、未来の慈悲からなり、基礎が、過去の栄光と、未来の勝利からなるのがわかる。これら、王冠と、美と、基礎が、地上に、王国を築くのがわかるだろう。この生命の樹の流れを、王道と古代人は呼んできたのである。そして、孔子の忠恕、中庸とは、この王道の精神に他ならない。だから、まずは思想を偏らせないのが肝要なんである。忠恕は人生の基本|共和コンサルタント株式会社‐道路・橋梁設計、都市計画、上下水道設計 (kyowanet.jp)このように忠恕とは、思想のバランスであって、老子の無為自然でもあり、仏教の中道でもあり、かつての中華思想にも、この精神が垣間みられたのだが、唯物化され、覇道により、バランスを失い、古代アトランティスの大破局に至ったわけなんである。この生命の樹の図の、中央の×の、ダアトが隠れてみえなくなっているのは、裏表が逆になって、つまり鏡図になっているのを意味している。ダアトは、善悪を判断する、自由の知識の実を意味し、人間が食べたので、みえなくなっているわけでもある。タロット de カバラ【神殿再建と生命の樹の光と闇の秘義】「ダアト=大いなる知識」を得るには | 【やまねワールド】NRC自然療法研究所/セラピースクール「シーズ」/所長山根康児ブログ (ameblo.jp)生命の樹☆ダアトに光を与える | 数秘で☆キラメク☆いつだって今が一番幸せ (ameblo.jp)聖書にも書かれているが、人間は、悪魔の蛇に唆され、この自由の実を食べたので、肉体をもち、神智学でいうところの、ネガティブの地の領域に立ち入ってしまった。だから失楽の実であり、禁断の果実とも呼ばれている。永遠の生命ではなく、地上を這いずり回る蛇のような、一回切りの人生を地上で送るようになったわけである。ダウトは、過去の理解と、未来の知恵から生まれた、自由な知識なので、どちらかに偏ると、左翼、右翼となってしまうわけなんである。過去の理解に乏しいと、過去に執着が残り、過去に拘る右翼となるわけで、自由を束縛する、秩序だった知識、権威をもちがちになる、逆に、未来の知恵に乏しいと、未来に執着が残り、未来に拘る左翼となるわけで、自由を放縦とし、無秩序な、ルールに従わない、我儘な理想主義を好むようになるわけなんである。いずれにしろ、左翼も右翼も現状を否定している時点で偏った思想で、現状がもつ長所を生かすような肯定が必要である。確かに過去に学ぶのは必要で、過去が、今に生きているのを肯定しないと、学ぶ意味がなく、現状の肯定のその延長上に未来があるのだから、あまりに先を見過ぎても、灯台下暗しになるだけである。自分の思想がどちら側に偏っているかの判断が重要なのである。さて、歴史的に、左翼、右翼という表現は、フランス革命の急進共和ジャコバン派と立憲君主フィヤン派が、議会の左側と右側の席を占めたことから、左翼と右翼という言葉が生まれたこととなっているが、ジャコバンという名は、ジャコバン修道院に由来するらしいが、ジェイコブ=ヤコブの名にも由来しているらしい。ジャコバン派 - Wikipediaヤコブ (旧約聖書) - Wikipediaヤコブはイスラエルの祖と呼ばれる人物で有名だが、最近、以下のような動画で、恐らく都市伝説だろうが、ヤコブ=英名でジェイコブが、革命の担い手で、アシュケナージユダヤの系図から、ロスチャイルドを通じて、テンプル騎士団とスコットランド王のロバートブルースから、ジャームズ1世、ジョージ1世と経て、ハノーバー=ウインザー家のイギリス王室、更にフランスでの王政打倒の共和国建国、そしてアメリカ合衆国、そして大日本帝国まで、ジャコバイトと呼ばれる革命軍をつくり、フリーメーソンから派生した建国思想を導入していった経緯が紹介されている。日本人が知らない彼らの起源/新時代の扉『ロスチャイルド編』総集編 | 考え方の学校 Yoshi Sun TV|YouTubeランキング (yutura.net)ジャコブ・マイエール・ド・ロチルド - Wikipedia興味深いのは、ジャコブ=ジェームス・ド・ロスチャイルドという人物である。この人物は、フランスグランドロッジの監査役なんである。またジェイコブの愛称はジャックである。ジャックはユニオンジャックや、飛行機ジャックとよく知られているが、「併合、乗っ取り」という意味をもつ。ユニオンジャックのジャックは、ジェームズ1世からきている。そして、上の動画によれば、そのジェームズ1世の先祖がロバートブルースで、このブルースの母方の先祖がテンプル騎士団の初代総長のウイリアムマーシャルで、父系の先祖がアシュケナージユダヤ人で、更に遡ると、エジプトのファラオのツタンカーメンで、その父アクエンアテンが、モーセのモデルだというのである。そのカギをとくのが、YAP遺伝子で有名になった、Y遺伝子ハプロタイプのR1bであるという。Y染色体ハプログループ - WikipediaハプログループR1b (Y染色体) - Wikipediaツタンカーメン - Wikipediaアクエンアテン - Wikipediaちなみに、有名なYAP遺伝子のハプロタイプは、DEである。YAP遺伝子は、日本やチベットの母系民族の原住民系の縄文人に多いのがわかっているが、ハプロタイプR1bは、上の動画では赤髪の遺伝と関わり、アシュケナージユダヤ人と関係が深いらしい。ちなみに、アクエンアテン=モーセも赤髪だったという都市伝説もある。上の動画によると、アシュケナージは、アッシリアから来た、という意味らしいが、スキタイという意味ももつらしい。このスキタイは、エジプトファラオの娘のスコタに由来し、スコットランドの国名は、これに由来するらしい。つまり、アシュケナージ=スキタイ=スコタなのだという。ユダヤ人は、アシュケナージとセファルディに大別される。セファルは、スペインに多く定住していたので、イベリア=スペインの意味といわれているが、恐らく、「純粋の、生粋の」の意味で、生命の樹のセフィロトを言語にしたユダヤ人のことに思われる。セフィロトとは、「計算」を意味するらしい。セファルのなかには、あとミズライムの東のユダヤ人もいるらしい。ミズライムはミツライムで、「エジプト」を意味し、土地やその地に定住する人々を意味するらしい。だから、ミズライムからわかれて、モーセによりエジプトを出たのが、アシュケナージとセファルディで、更に進んでスコットランドに到達したのが、アシュケナージというわけなんだろう。だから、残ったミズライムが右翼で、王政維持の保守で、先に進んだアシュケナージが左翼の源流となって、革命思想をつくりあげたのかもしれない。アシュケナジム - Wikipediaセファルディム - Wikipediaミズラヒム - Wikipedia<90BC976D8E6A8A773233378D862E6D6364> (jst.go.jp)聖書に出てくるミツライムとは誰ですか? (ministryvoice.com)さて、上の動画によれば、面白いことに、ジェ―ムズ1世の後に、息子のチャールズ1世がイギリスを統治したが、プロテスタントを迫害しすぎたために、反乱が起こり、チャールズ1世が処刑されてしまい、イギリス議会は、自分たちに都合のいい法律をつくり、代わりに、遠縁の現在の王室につながるドイツのハノーバー家のジョージ1世を連れてくるが、スコットランドのジャコバイト派が、フランスに亡命した、チャールズ1世の息子のジェームズ2世に継承させようとして、再び、反乱が起こしたが鎮圧されてしまったという、日本の亀山天皇の後の南北朝のような、継承問題が持ち上がったことがあったという。この時のジャコバイト派の失敗が、フリーメーソンを通じて、後のフランス革命に生かされたのかもしれない。長々と左翼と右翼の大まかな近代政治史を紹介してきたが、人智学が説いているように、最悪の人物を選ぶように、フリーメーソンに操られている、のがわかる。それは唯物論では、人物を外からしか選べないわけで、所詮、物質世界を操る銀行の金融支配によるのが、米国の1ドル札をみればわかる。そして、米国では、かつて、左翼をコミュニストと呼んで、反共体制を築いたが、いまは左翼をリベラルと呼んで、ニューリベラルとか、ネオコンとか、ネオリベラルとかわけがわからなくなっている。そもそもそのようなネーミングをつけたのが、フリーメーソンだからである。左翼も右翼も、メーソンから生まれたからで、俗にいうキングメーカーなんである。ユダヤの祖ジャイコブ=ヤコブとは、「かかとをつかむ者=人を出し抜く者」だからである。このような外の世界に幸福を求めても無駄な徒労に終わるのがわかるだろう。TOMOX NEW YORK 1ドル札の謎 (fc2.com)米国では、ヤコブの、「人を出し抜く」賢さが尊ばれるが、そういえば、日本の日露戦争のために、外債を高橋是清に貸しつけて戦費とし、日露戦争での戦勝利益を巻き上げたのも、ヤコブシフという名の、日本人を出し抜いた賢い人物だった。このようなヤコブの末裔の国について、シュタイナーは、いずれ欧米の白人種にアーリマンが受肉するのを預言している。アシュケナージユダヤが、暴力を捨てずに覇道を突き進むのなら、アーリマンがやってくるだろう。それは現にイスラエルとアラブの中東戦争で明らかになっていて、多くのアメリカの大学では、そのアーリマンのかつての学院の唯物的技術の、黒魔術が蘇りつつあるからだ。ジェイコブ・シフ - Wikipediaというのも、アメリカには守るべき、霊性がみられないからである。かつて中国に受肉したルシファーに呼応し、米国には、アーリマンが受肉するだろう。一回切りの人生に拘るほど、米国は金融により、崩壊していくだろう。というのも、金持ちは天国には行けないからで、天国にいけないということは、永遠の生命を手に入れられずに、永遠に彷徨えるユダヤ人となるからである。だからアメリカ人は、かつてマックスウェーバーが説いた、プロテスタンティズムの禁欲的に労働する生活態度の、資本主義の精神に立ち返るべきである。労働して得た利益は、社会に還元すべきなのである。社会に還元することで、社会は労働者に職を与えるからである。機械などを導入し、利益を得れば、人間は働かなくなって、労働の喜びを忘れ、神に奉仕する健全な精神が損なわれるだけなんである。金融は麻薬のようなものである。日本では、この精神は仏教の在家信者と同じである。ただし、末法にならない精神でないとダメ。プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 - Wikipediaこのようにプロテスタンティズムの精神を忘れ、米国は悪魔崇拝に向かっているが、日本も在家が末法に向かって退廃しているが、日本にはまだ神道が残っている。神道は中今の精神を重んじ、左は火の、地から天に向かい、右は水の、天から地に向かう、エーテルの流れを表している。火と水の循環のなかに、中今がある。中今は、土を空気にしてくれる。火から水は、固体の土になり、水から火は、気体の空気になる。随神の道とは、中道を失わないことである。左右に傾かない道で、無為自然の、忠恕であり、生命の樹の中央の均衡の柱なのである。仏教では、大日如来の両脇に、普賢菩薩と文殊菩薩があるように、峻厳の柱と慈悲の柱を意味する。つまり、真言宗の曼陀羅は生命の樹でもある。さて、「前世からのメッセージ」のマスターたちによれば、幸せは、内からやってくるわけで、外に求めても無駄な徒労に終わるのがわかる。だから、外の物質界に求めても、他人と比べても、一時的な満足は得られるが、幸せはやってこないわけなんである。幸せは歩いてこない、だから歩いて行くんだよ♪の三百六十五歩のマーチの歩くのは、外ではなく、内に歩いていくことなんである。水前寺清子 三百六十五歩のマーチ 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)内に歩いていくとは、前回紹介したように、老子の無為自然の、大自然のバランスに近づいていくことで、思いやりや、感謝をもって生きていくことに思われる。大自然のバランスには、生命エネルギーが巡っていて、ヒーリングが隠されているのである。だから、生命エネルギーのバランスに従って、歩いて行けば、ヒーリングが得られて、幸福がやっていくのである。生命エネルギーの流れを、人智学ではエーテルと呼んでいる。エーテルを肉体にバランスよく巡らせるのが、アストラル体の心の働きで、その心を統合し、統一し、一つにしているのが、エゴの、自我である。これらは、前回紹介したように、「今」の漢字の象徴となっている、メーソンの万物を見通す目の三角形である。メーソンの場合は、物質界の金融で、金銭の流れとなるだろうが、本来の意味は、大自然のバランスをとっている、エーテルの流れのことで、この流れを掴むには、万物を見通す目のエゴの自我を、ダアトではなく、霊我に育成させるのが、現代人の人生の課題である。このようなエゴのバランスについて、「前世からのメッセージ」からの文章を抜粋し要約する。私というエゴは、日常の現実を処理し、統合していく統一機能体である。このエゴは、過去のトラウマに傷ついたり、未来を誇大妄想し、巨大化させたりする。外界への適合性を失うと、一つに集中させられなくなり、バラバラになりそうになる。それが、いわゆる精神分裂症や、統合失調症などになる。大事なのは、物質界への適合を優先し、心のバランスを失うのではなく、まずは、心のバランスをとることにある。不完全な物質界や病んだ社会になんとか対応し、モノや金銭を手に入れようとしたり、他人に好かれようとして、心の安定を失うのではなく、それらの行為を出来るだけ少なく、減らしていくことで、内なる心のバランスを回復していくことが肝要である。我々の頭は、過去や未来に、エゴをつなげようとし、外から、絶えずエゴを支配し、分析し、あれこれ考え続けて、習慣や思い癖の偏見をつくり、そこから抜け出せないように、今に生きるのを、妨害している。このような色眼鏡が、現実をありのままに捉える感覚を邪魔している。自分を救うため、ひいては世界を救うために、我々現代人は、エゴをコントロールしなければならない。シュタイナーは、人間の頭は、前世と来世をつなげるためにあり、頭以外の肉体は、現世を生きるためにある、というようなことを述べている。だから、現世で、肉体で行った行為こそが、頭で統合し、要約されて、前世から、来世へと、新たなる、頭部となって、生命の樹の王冠となって、運ばれるのである。以上をまとめ、マスターたちの言葉をかりれば以下のようになるだろう。知識を分かち合うべきなのです。人間は皆、いま活用しているよりも、遥かに大きな力、愛のエネルギーをもっています。目にみえないために、気づかないだけなのです。霊力は、知識をわかちあうことで、他の人との関係を通じて開発されます。ある人はより深遠な知恵と大きな力をもって生まれ変わっています。そういう人は霊性開発が必要な人を探して、助けてあげるべきです。地球人は宇宙を巡る愛のエネルギーの活用法を知るべきなのです。愛のエネルギーの活用法を知るために、シュタイナーの「職業のカルマと未来」から抜粋して紹介する。 ★ ★ ★神学的精神分析潜在意識のなかの「動物的本能」についての理論は、多くの点で事実である。覚醒意識では、「私はこれが欲しい。私はこれを体験したい」と思うが、そのとき、潜在意識のなかの「動物的本能」が作用している。動物的な欲望に、覚醒意識が仮面を被せて、綺麗ごとにしている。更に、現代の「精神分析」は、「潜在(無)意識のなかに、過去の歴史的な体験、個人や人種、国家その他に関わる残滓が残っている」と主張する。しかし、潜在意識のなかの、これらの活動は、覚醒意識に現れると仮面を被り、全く別物のように振舞う。今日、世界で起こっている出来事について、「それが、世界各地でみられる民族性から解き明かせない」とはいえない。多くの人々が、民族の権利と自由を高い理想としているが、実際には、潜在意識のなかで、動物的本能が活動している。精神分析家が、このような動物的本能をどのように議論するのか、知らないが、神学的に解釈する分析家もいる。そのような神学的な精神分析家は、潜在(無)意識のなかに、悪魔の存在を考える。悪魔は、深層意識の奥底の、非合理な地下の領域からやってくる、と主張するのである。(バチカンによるエクソシストの悪魔祓いは有名である。)神学的精神分析家は、「人間の潜在(無)意識のなかに、未知の悪魔が活動している」と御託を述べて、科学的な精神分析で不明な異常者を、グノーシス主義者や神智学者のような異教者と決めつける。精神分析をして、潜在意識のなかに、動物本能をみつけ、それが地下から現れる悪魔の正体だ、と主張する。彼らの見解では、精神分析が不正で、悪魔的行為なのではなく、神智学その他の異教を信じる、のが不正で、悪魔的行為とあくまで主張する。精神分析を批判するつもりはない。ただ、潜在意識のなかの活動を探求していく方向が、現代の精神分析にみられるのを指摘したい。しかし、唯物的な自然科学の先入観により、現代の精神分析、特に潜在意識のなかの探求には、不正の、間違いが生じやすくなっている。さしあたり、精神分析による探求に関わるなら、「地上の人生は一回きりではなく、何度も繰り返されていくのを知らないと、潜在(無)意識のなかの活動、つまり霊魂のいとなみを正しく分析できない」という事実が洞察できないと話にならない。現代の精神分析家は、一回の地上生からのみで、全ての意識を説明しようとしている。それでは、的外れな、闇が深い、ぼやけた光で、霊魂の根底を照らし、悪魔を呼び出すだけなのである。
2024年10月01日
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