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先週からの巷の大谷騒動は大谷会見でようやく終息に向かいつつあるが、今度は、紅麹騒動が巷を賑わせている。この問題は、改めてパラケルススの箴言「どんなものでも許容量を超えれば薬から毒になる」を教訓として蘇らせる。MESSAGE #01 | 先輩からのメッセージ | 厚生労働省 薬系技官 採用情報 (mhlw.go.jp)ベニコウジカビ - Wikipediaスタチン - Wikipedia筋肉痛はコレステロールの薬の副作用なのか? - 大久保駅前・林クリニック (okubo-hayashi-clinic.com)170861-1-09.pdf (kyorin-pharm.co.jp)コレステロールの薬の副作用、血液検査の必要性について | 天沼きたがわ内科 (amanuma-naika.jp)コレステロール降下薬(スタチン)ほど、高齢者を苦しめている薬はない 動脈硬化予防を目的に、多くの高齢者に処方されている ところが、スタチンの副作用で腰痛、大腿部痛、頭痛、物忘れ、めまい 下肢筋力低下によ|悪魔の代弁者 (note.com)宇都宮市の猪岡内科によるコラム。糖尿病、生活習慣病、高血圧が気になる方へ (inooka-naika.com)薬の副作用は怖い | 「柿茶」柿茶本舗ブログ 美容と健康に柿茶 (kaki-cha.co.jp)紅麹はそもそも漢方の生薬で用いられていたようで、少し前に、医学で降圧剤として有名になったスタチンの一種のロバスタチンが、紅麹の製薬剤として使われるようになったらしい。スタチンは、高コレステロール血症の治療薬なんで、そのサプリメントだから、当然、許容投与量を超えると毒になるのは当たり前の話である。大学の医学研にいたときに、スタチンの話は耳にしているし、スタチンのサプリではないが、軟骨のコンドロイチンやらグルコサミン、魚油のDHAやらEPAなどの人体への有効性などの実験を手伝った覚えがある。数十年前の当時は、サプリ云々が流行りつつあったが、怪しいネットビジネスのアムウェーなどもサプリをやりつつある利潤追従の世の中の流れについていけずに、また薬学畑卒ではないので、クスリには興味がなく、当時はクスリといえば、抗ガン剤のほうに関心があったので、人智学から、メラノーマに効くヤドリギ薬、欧州では代替医療となっているイスカドールなどを個人的に探求していた。生薬となっていたヤドリギを使ってのマウス実験でそこそこ巧くいったのだが、人智学が如何わしいと思われているので、発表しても相手にされないので、そのままボツってしまった。あまりに周囲からも馬鹿にされるので、やる気もなかったしね。そもそも当時のなんでも利益追従の世の中の流れが気に入らなかったせいもある。なんでも物質科学で利潤を求める姿勢に嫌気がさしていたのもある。話が逸れてしまったが、紅麹騒動は、クスリの飲み合わせ問題の、グレープフルーツと降圧剤のカルシウム拮抗剤の副作用とよく似ているようにみえる。腎臓は血圧の調整をしている器官なので、極端な降圧は、腎臓の負担になり、また降圧剤となっている紅麹の成分が、肝臓からの、なんらかの代謝酵素と反応して複合体を形成してしまい、腎臓の透析効果を弱めてしまう可能性もあるのかもしれない。薬局で、血圧のお薬とグレープフルーツジュースを一緒に飲んではいけないと言われましたが、どうしてでしょうか|オムロン ヘルスケア (omron.co.jp)公益社団法人 鳥取県医師会 (med.or.jp)だから、紅麹を使ったサプリは、降圧剤のクスリとして医師の問診管理下での投薬が推奨されるわけなんである。人体のコレステロールバランスを測定してから、不足分を補う意味で投薬しないと無意味である。「カラダにいい(この表現こそウソ)」からといって、一成分効果を過剰に宣伝しては、嘘や詐欺行為につながるものでしかないだろう。悪玉LDLコレステロールも人体にとっては必要な場合もあるわけで、善玉HDLによる回復能力があれば、わざわざなくす必要などなく、過剰宣伝が災いを招いた例といえるかもしれない。滅多矢鱈に薬を飲むのはかえって体力を阻むもので、過ぎたるは猶及ばざるが如し、なんである。大谷騒動といい、紅麹騒動といい、巷には詐欺宣伝メールが横行し、詐欺広告を垂れ流すアホ馬鹿マスゴミが、追求すべき裏金議員問題を放置し、不必要なウソ虚言過剰宣伝報道が跋扈しているので、猶更の、情報リテラシーが必要とされるわけなんである。特に昨今は広告料が減っているのか、なんでもかんでも安易に宣伝し利潤を追求する詐欺番組が多いのも問題である。SNSを批難するどころか、マスゴミも劣化しているのがわかる。バラエティ番組なのに、中途半端な「カラダににいい」とか権力に忖度した報道がそもそもの間違いなんである。そもそも視聴者もバラエティ番組をエンタメだと思わないで鵜呑みにするのも問題だけどね。どんな薬も麻薬のような依存症にもなりえるのだからね。現にギャンブル依存症の水原ロスで大谷を責めている水原忖度報道依存症馬鹿もいるし。バラエティ番組はエンタメだけにして、放送大学のような教養番組をみないと、過剰宣伝に踊らされて、騙される日々なんである。放送大学は確かにエンタメではなく、みていても面白くも糞もないが、現代社会の知識を獲得するには持って来いのツールである。情報リテラシーのために、エンタメ番組をみた分を放送大学もみてバランスをとるべきだろう。放送大学 - Wikipedia病院にも勤めていた経験からいえば、まぁ低レベルの病院だったので、プライドだけは馬鹿高くて、中身空っぽな奴が非常に多かったし、世間一般と同じで、渡る世間は鬼ばかりだったから、職業は金儲けの一手段と割り切って付き合っていくのがよいだろう。世の中には詐欺師のようなのが盛り沢山で、前回紹介したように、ルシファーに憑依された某自衛隊出の歴史教育馬鹿老害のようなのがネットウヨ右翼しているので、人付き合いというのは大変ストレスが溜まり、人体に腫瘍をつくりやすくさせ、終いには過労死か、ガンで死んで行くので、適当な見切りどころを間違えると、裏金議員のような妖怪老害ゾンビに変身して、地球紀を落第してしまうので、注意して生きなくてはいけない。我々地球人の使命は、地球紀をバランスよく生きることにある。地球紀の地球人の課題とは、太陽霊キリストによって与えられた自我を、地球や宇宙の進化に沿って、バランスよく育てることにある。だから、十戒にあるように、自我は宇宙のバランスを保つ、バランスの源なので、そのバランス力を、愛を開発し、育てることにある。他人を騙して自己の利益を上げようとするのは、バランスを乱す素なのである。シュタイナーは、キリストの自我バランスは、ルシファーとアーリマンの均衡により成り立つと説いているが、紅麹騒動も、血圧のバランス、コレステロールのバランスなんである。というのも、それら人体のバランス、つまりホメオスタシスは、自我の恒常性、永遠性のバランス回復力にあるからである。与えられた自我のバランス能力を、地球上に確立することが、人類の使命なんである。バランスを保つのが平和で、愛する者を守る秘訣なんである。だからなんでも食べ過ぎはよくないわけで、食べ過ぎると、人体器官に負担がかかり、処理しきれずに過労死になって、食物アレルギーとなってしまうわけで、パラケルススが言ったように、なんでも毒になってしまうわけなんである。詐欺広告に騙されてはいけない。我々地球人は、日常の生活からは、物質しかみえないが、それは物質という幻想から、私という自我がつくられているからで、物質という自由の中でしか、自我の自由が得られていないからである。科学的にいえば、線形現象しか測定できないので、線形の自己しか感覚的に捉えられないわけで、それらの濃淡を7つに分解分類しているにすぎない。地球人は、非線形現象をそのままカオスとして捉えられないから、物質しかみえないわけなんである。いまの地球人の知性では、線形現象でしか、法則をつくりえないし、だからこそ、カオスの非線形現象から、対称性により、自己を分離し、自由にできるわけなんである。地球人の知性よりも高度な宇宙人、つまり堕天使たちは、カオスの非線形現象をそのまま捉えられる知性をもっている。それが霊感、第六感で、超感覚能力である。予期せぬ出来事が起こる、天災や地震が起こるというのは、この非線形現象を意味するので、今の地球人の線形解釈の知性では、捉えられないわけなんである。だから、我々地球人は、ルシファーの知性をかりて、物質界を生きているわけで、大谷騒動でいえば、ルシファーに通訳してもらっている大谷選手なんである。非線形現象を線形化しているのが、ルシファーという通訳なんである。ルシファーは、地球人に非線形現象を線形化して与え、通訳しているが、その通訳で、地球人をいわば支配しようとしているわけなんである。つまり、前回紹介した歴史教育推進者のように、よい日本史を教えることで、生徒を日本史で洗脳しようとしているわけで、その歴史教育者のように、道徳が大切と説くわけなんである。道徳を教えるのに、反対するものはないだろうが、道徳というのは日々移り変わるバランスを保つ能力のことなので、善だったものが、悪にもなるわけで、当人にとっては善であっても、他人には悪にもなる。当人にとっての自由は、他人への不自由になる。物質界ではそれでよく衝突し、戦争になってしまう。だから、道徳というのは、教えられないもので、キリストのように、実際に行動して、みせるしかないわけなんである。現実世界での良きバランスのとれた行動のみが道徳になり得る。だから、紅麹のように、当人には薬になっていても、他者には毒となることがあり、良いモノも悪いモノになる。だから、むしろ、悪いモノを良いモノにするのが、教育で、かつての悪しき行為を反省し、良き行為につなげていくのが、歴史教育といえるわけで、教えるなら、過去の悪しき日本史でないと少なくとも意味がないわけなんである。というのは、過去の過ちを認め、反省し、二度と過ちを起こさない知性を獲得するためだからである。日々、知性をアップデートして、問題を解決していかなければならない。だから、教育は、時代と時代の対話、過去の悪を、未来の善へとつなげる会話といえるかもしれない。人間の心には、この過去の悪を善導する天使、聖霊が眠っていて、それが善天使の良心なんである。過去の悪を善導すると、良心が喜ぶので、気持ちがよく、快適になり、天国にいる心地がして、感激、感動するわけなんである。悪を善に導くバランス感覚が道徳で、親鸞が説いた悪人正機説である。悪人をそのままに放置するのではなく、悪人を善導するのが、天国の働きという意味である。悪人を更生させ、悔い改めさせるのが、地獄から、天国への道なんである。それには、バランス感覚が不可欠で、物質的な感覚を越える、霊的な感覚が必要というわけなんである。人体のバランスを考えずに、矢鱈と薬を飲めばバランス崩して毒になるのは当たり前の道理で、日本史を美化しすぎると、偽証し、隣人と闘ってしまうのも、同じ道理である。悪人正機 - Wikipedia線形現象化として翻訳された通訳を超えた、非線形現象をカオスをカオスで解き明かす知性を獲得するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 例えば、アブラハムの物語では、「神」に自分の息子を犠牲として捧げるが、「神」は受け取らない。もし、この拒絶という概念を、霊視すれば、これまで述べてきた宇宙の進化のイメージが再現される。 アブラハムの犠牲が受けとられ、子のイサクが犠牲になっていたら、もし、「神」がイサクの犠牲を受け取っていたら、イサクに発する古代ヘブライ民族が地球からいなくなっていただろう。 「神」は、ヘブライ民族を拒絶し、諦めたので、神の勢力圏から、ヘブライ民族を締め出し、神の外の存在にすることで、アブラハムに由来する民族を贈り物として地球に与えた。もし、「神」がアブラハムの犠牲を受け入れたら、「神」は古代ヘブライ民族の活動領域全体を、天界から支配しただろう。 というのも、犠牲になったイサクは「神」と共に天界に召されたからである。しかし、「神」はイサクを放棄し、ヘブライ民族の進化が地球上で行われるのに委ねた。太古の人類の父祖によって提供された「犠牲」の意味深いイメージを通じて、「諦め」や犠牲の概念が、我々の自我の中に呼び起こされる。 また、高次の存在による「諦め」、もしくは犠牲の別の例を、地球の進化の中に霊視できる。それは既に前に触れた、レオナルドダビンチの絵、「最後の晩餐」のなかに読み解ける。「地球」と「キリスト」双方の本当の意味を、その本質を目の前にする場面を思い描いてみる。 その絵が持つ完全な本質のなかに没頭してみる。キリストが「私が父に願って、天使の大群をいま遣わしていただくのができないとでも思うのか?」(マタイ26章53節)と言った福音書の言葉を思い出してみる。 この父への願いを諦めたことで、「キリスト」が可能だった、父による、この明確で安易な解決法を拒否した。キリスト=イエスが、最後の晩餐のなかにもたらす、最たる偉大な父への願いの「拒絶」、「諦め」の例は、キリストを裏切るイスカリオテのユダが、最後の晩餐会に参加するのを許したときに、生じたのである。 キリスト=イエスの本性を霊視するなら、その自我のなかに、「犠牲」を諦めたケルビムの本性、つまり時間を「諦めた」永遠不死の存在たちの反映を見るべきである。「キリスト」は、神々が、古「太陽」紀に、拒絶によって、反対者たちをつくったように、ユダが反対者として行動するのを許し、その拒絶を受け入れた。 このように、この宇宙進化のなかの敵対者たちの出現が、「地球」上の絵画のなかで繰り返されているのがわかる。いま、十二人の真ん中にいる「キリスト」が、裏切り者のユダと共にいるのがわかる。人類にとって不可視の価値をもつ存在が進化に参画するために、「キリスト」は敵対者を、対立する位置に置かなければならなかった。 この絵が、霊視により深い印象を与えるのは、「最後の晩餐」から、宇宙進化の力強い、受難の瞬間を、再現させるからである。 「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。」(マタイ26章23節)という「キリスト」の言葉を霊視すれば、神々により、相対する位置に置かれた敵対者たちの、地上での反映を読み解ける。
2024年03月28日
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金持ちを騙すのならまだしも、貧乏人を騙すような、迷惑詐欺メールが相も変わらず送られてくる、ネット環境が必ずしも良好とはいえない毎日で、先週から、巷の大谷騒動に引きづられてしまい、ワイドショーに夢中になる、昭和の家庭の主婦と化してしまい、大谷選手の通訳水原氏に、まるでリアルな「コンフィデンスマン」を髣髴とさせるドラマをみるような感じで、詐欺などの、ウソの恐ろしさ、人類の絆を分断する働きに、改めて気づかされる今日この頃である。コンフィデンスマンJP - Wikipediaコンフィデンスマンは、「ダー子・ボクちゃん・リチャードの3人を中心としたコンフィデンスマン(信用詐欺師)たちのチームが、悪徳企業のドンやマフィアのボスなど欲望にまみれた金の亡者達から、あらゆる手段を使って金を騙し取るストーリー。」で、スポーツ選手を騙すエピソードはなかったように思う。ましてや国民から好かれるスーパースターを貶める話がウケるわけがない。このフィクションドラマは、悪者を懲らしめるのが醍醐味で、ドラマ自体がフィクションの嘘だから、ウソのエンタメなんで、嘘の中の嘘だから、面白いのだが、逆に嘘がリアルな現実となると、かえって興ざめしてしまうだろう。詐欺師はフィクションのなかでしか生きられない。詐欺師はリアルなスターにはなり得ない。所詮、偽物だからである。例えば、スーパースターが犯罪を犯すドラマといえば、古畑任三郎のイチロー選手のエピソードが思い浮かぶ。古畑任三郎 - Wikipedia古畑任三郎事件ファイル-episode41/フェアな殺人者 (coocan.jp)古畑任三郎の場合も、イチローの兄(勿論フィクションなんでウソ設定だが)が重要な役回りを演じていた。このドラマでは、イチローの兄がイチローを庇う話だったと思うが、水原氏の借金肩代わり美談説は、このドラマに非常に良く似ているようにみえるが、所詮、フィクションなんで、ウソの虚構の世界の話なんである。このように、現代人は日常の詐欺に飼いならされている、といえるくらい、フェイク情報に踊らされやすいのが、今回の大谷騒動の水原借金肩代わり発言に現れている。そのような意味で、水原氏は、ウソの演出家ともいえるのかもしれない。水原氏は、ギャンブル依存症と告白しているらしいが、以前紹介した、某芸人の脳が悪い無責任発言と同じように、ギャンブルのせいにして、責任逃れをしているようにみえる。1000億円もの日常生活とはほど遠いまるで虚構の金持ちの世界でのみ生きられたウソの演出家だったのかもしれない。ウソの演出家が、リアルな借金をノミ行為で拵えたのを、どのようなリアルな世界の着地点にソフトランディングさせるかで、ホンモノのスーパースターが隣人として現れ、全てを知ってしまったことで、それまで蓄積してきたウソの演出による偽証がバビルの塔のように崩壊してしまった。それは助けた大谷亀に乗せられて、カジノ竜宮城で遊び惚けて、帰りに借金の玉手箱を渡されて、借金玉手箱を電信で振り込んで賭博胴元口座を開けてしまい、その記録から、実は多額の借金を拵えた詐欺師だった浦島太郎の物語のようで、あるいはまたその妻の一夜限りのシンデレラ物語のようで、結局リアル世界でいうなら、それはキリスト降臨の前に偽キリストとして現れたルシファーのようでもある。ルシファーはウソの演出家で、人類を巧みに嘘で騙し、虚構や幻覚の世界を与えるからである。前回も紹介したが、そもそも、ウソとは、ルシファーの自惚れた知性にあり、換言すれば、ホンモノと偽物の区別ができない、リアルな認識が欠けている、妄想癖に原因があり、ウソをつくことで、ホンモノを区別する自分の知性を破壊しているのに気づいていない。つまり、今風にいえば、知性のアップデートを放棄するのが、ウソといえるかもしれない。だから、ウソとは、飲酒で酔っぱらうように、知性に酔っ払うようなものかもしれない。ウソから虚言癖へと進行し、最終的には妄想に生きるようになってしまうわけで、ギャンブル依存症などは、確率的に非常に低い事象が起こるのを期待して、幸福感を高めてしまうわけで、無限の皮算用をはじめ、利益ばかりを求めてしまうので、逆にいえば、自らの知性の低さに虜になり、知性をどんどん遅れさせ、貶めて、退化させているにすぎないのがわかる。無限のバカ、非現実世界を求める行為なのである。このような妄想に憑りつかせるのが、ルシファーの働きであり、洗脳である。水原氏は、スーパースターの影の功労者として、中学の教科書にも載るように美化されたが、過去の栄光にすがる、その美化されたイメージは、私の記憶のなかでは、大学入試の模試だったかの、国語の問題に、徳川家康が言ったとされる、「世間は事実よりも嘘が少し混じった話を好む」という話を呼び起こした。家康曰く、世間は事実よりも美談を好むので、リアルそのままよりも、少しばかり虚飾され、盛られた話を真実として信じやすいらしく、有り体にいえば、世間は事実よりも嘘を好みやすいらしい。だから、特に、日本史が美化されたり、戦争から美談が生まれやすく、同じ過ちが繰り返され、繰り返されるうちに、美化されてしまうわけなんである。ついには戦国時代の戦が美化されて、信長の野望のような架空のゲームが生まれる。ウソの世界のエンタメで済んでいれば自由だが、リアルの世界に持ち出されると忽ち厄介な悪魔の存在のようになる。信長の野望シリーズ - Wikipedia徳川家康が、戦国期から江戸はじめの時代に、そんなことを言ったのかどうかはわからないが、日本史には年号の問題でもわかるが、美化された嘘が多いのは確かで、それは日本史についての知識が時代によりアップデートされていくからである。日本史の教育が従来の暗記から、歴史的思考を重んじるように変わったのを、巷の最近の動画から知った。それは、現代の科学的思考の流れから、単なる暗記科目では無意味と論破されたために思われる。その動画をみると、歴史教育の重要さを唱える人達のほとんどが、民族主義者で、歴史上の美談を妄想化しているのに気づき、日本史教育の重要さを唱える人の日本史の知識の浅さに逆に驚かされた。まるで日本史馬鹿の一つ覚えで、日本史の画一的価値観の押し付けで、老害にもみえる。その歴史教育を説く姿は、かつての軍国皇国史観に近い妄想の押し付けといえるかもしれない。私見では、その中で、唯一マトモだったのが、東大史料編纂所の歴史学者だけだった。一番愚かなのが、日本は美しい国で、美しい文化を持つのを教えるべきという一点張りの姿勢を持つ某自衛隊出の評論家だった。まるで、統一妖怪の教義のように、日本史を捉えているようであった。ギャンブルで一点張りをするのはハイリスクハイリターンである。木を見て森を見ず、といわざるをえない。どの国にも美しい面と醜い面があるのがリアルな現実である。好きなモノだけを食べていると、それに対応した器官だけが過剰に成長してしまい、病気になるように、全体のバランスが重要で、美しさと醜さは表裏一体なのである。その評論家が間違っているのは、自分の美意識が正しいと思いこんでいるところにある。つまり、その根底には、承認欲や名誉欲、虚栄心が隠れているわけで、これがルシファーの知性、知識欲なんである。ルシファーの知性、知識欲の本質は、物欲で、支配欲でしかないのに気づいていない。だからその知性には謙虚さが欠けている。謙虚さに欠け、アップデートしない知性は、盲信でしかなく、自滅の知性で、いわば馬鹿の壁を超える、知性のブラックホールといえるかもしれない。要するに、自分が他者から褒められたいために、日本史信仰しているわけで、自分だけが救われたい、と願っている地獄行きの知性なんである。このような知的態度で、日本史を勉強しても、自分は偉い、凄いと勘違いさせるだけで、日本人は偉い、日本は凄いという知性の麻薬を与えられ、悪魔に懐柔されているにすぎないわけで、その麻薬がなくなると、つまり、美談がなくなると、逆に日本人の悪しき面や、醜い面を覆い隠すだけになるわけで、現に、そのような日本史教育から、日本人や日本は間違いを犯さないという信仰になってしまい、詐欺や詐欺師が横行し、裏金議員のような顛末になってしまうわけなんである。気づいてみると、現代ではほぼ死んだかのようなゾンビの化石の老害となってしまっている。ウソ詐欺知性の玉手箱を開いた老害浦島太郎である。昔、インディアン嘘つかない、という宣伝文句があったのと同じで、日本史はウソつかないである。その某評論家は、日本史を学べば、自信がつくと言っていたのが象徴的だった。これは麻薬がないと生きられないと告白するようなものなのである。端的にいえば、外見だけの中身空っぽの思想なのである。どこかから、美談をもってきて、着飾れば自信がつくのと言っているのと同じで、要するに箔が付く看板を掛け買えたり、ブランド志向なんである。だから日本史の詐欺師を量産するだけなんである。日本史の美談で金儲けしようとする詐欺師にすぎない。つまり、スーパースターを利用した通訳と同じなんである。歴史の英雄を美談に仕立て上げて、ウソを演出して、歴史家という詐欺師で金儲けするわけなんである。いかに現代人の醜く卑しい下品な、とても美しいとは言えない醜悪な、ルシファーの悪魔の知性の賜物と言わざるを得ない。昭和でいわれた、目立とう精神そのものである。日本史で目立とう儲けようである。日本史から真実を探求するのではなく、日本史を利用して儲けようという魂胆なんである。歴史を学ぶのは、知性をアップデートするためで、過去の過ちを繰り返さないため、なのがわかっていないアホ馬鹿なんである。あまりにもアホ馬鹿な主張なんで途中で視聴をやめてしまった。なんかそういう妖怪みたいな詐欺師が、巷には老害として跋扈している。知性が手遅れなのに、当人が気づいていないのは、知的ギャンブル依存症に罹っているからだろう。ギャンブル依存症というよりも、日本史美談妄想狂というべきかもしれない。何より日本史を学ぶ前に、どのように日本史が美化されてきたのかの、日本史編纂史を先に学び直す必要がある。日本史は、その時代によってどのように改変、再編されてきたのか?の方が重要で、その時代の歴史教育がどのように行われ、変わってきたのかの、日本史の教育史をまずはじめにやるべきであろう。歴史上の人物一人とっても、時代に応じて評価が異なるわけで、それこそが現代に歴史が生きている証拠ともいえるかもしれない。歴史よりも歴史評価史をはじめにやるべきかもしれない。日本史を利用して社会がどのように変わってきたのか、日本史の思想が、人間社会をどう変えてきたのか、が重要なんである。教員が教える内容よりも、学生が日本史を学ぶ姿勢から教えられる事は多い。とにかく教育は一方通行では無意味で、というのも、教育とは、時代と時代の対話だからである。日本史美談妄想狂から脱出し、知性をアップデートするために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ さて、次のような反論も十分に考えられる。 「神は全能なのだから、わざわざ悪を創造しなくても、自由の舞台を人間に与えられたはずだ。どうして、神は、悪無しに人間に自由を与えられなかったのか?」と反論するかもしれない。 しかし、この反論は、世界があまりにも複雑すぎる、と考えたスペインの王が、もし、神が、世界の創造を、私に任せてくれたら、もっとずっと簡単にしていた、と述べたのを思い起こさせる。 人間は、その低次の知性から、世界はもっとシンプルにできたはず、と考える。しかし、賢明な神は、世界の創造を人間たちには任せなかった。 更に、人智学の観点から見ると、この状況を正確に特徴づけられる。例えば、台が必要な人に、柱を立てれば、物を置ける台になる。それに対して、「いや、他の方法もある! どうして他の方法でやらないのか?」と反論するのと同じである。 或いはまた、例えば、建物の建設中に三角定規を使いながら、「どうして、この三角定規には三つの角しかないのか? 神様は、三つの角を持たない三角定規を作れたはずだ!」と言うのと同じで、神様は悪や苦の可能性無しに自由を創造できたはずだ!と言うのは、三角定規は三つの角を持つべきではない、と言うのと同じくらいナンセンスなのである。 三つの角が三角形をつくるように、自由は、精神的存在たちの「諦め」によりもたらされた悪への可能性からつくられる。いま述べてきた全ては、神の「諦め」からつくられる。というのも、神々は、犠牲を受け取るのを「諦め」ることで、永遠に不死のレベルに上昇した後、悪を善に導き戻すために、不死から永遠への進化を創造したからである。 この永遠への進化は、この「諦め」という手段からなされた。神々は、自由を与えられる悪を避けなかった。もし、神々が悪を避けていたら、世界は脆弱で単調で退屈なものになっただろう。神々は、自由のために、悪が世界の中に入り込むのを許し、同時に、悪を善へと導くのに必要な力も獲得した。そして、この力は「拒絶」と「諦め」の結果生じた。 「諦め」は、偉大な宇宙の神秘を反映する像やイマジネーション(霊視)を与える精神的な存在である。太古の宇宙進化を霊視していくと、犠牲や、与える徳に「諦め」が加わるのがわかり、マーヤや幻想に対峙する真の現実へと到達する人類の永遠への進化として現れる。 宗教は、このような精神的な像や概念を提供する。だから、聖書を基にした宗教から、犠牲や諦め、もしくは犠牲の拒否といった概念にアプローチできる。
2024年03月27日
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今回は冒頭愚痴から始まるのをご容赦ください。ほぼ毎日くる迷惑詐欺メールの掃除のために、ネット接続の支払いが馬鹿バカしくなり、ブログ更新も遊び半分で行っているのだが、遊び半分が遊びでなくなるほどの、1日百件ほどの、ほとんどがゴミみたいな宣伝メールで、国税庁を語ったり、入ってもいないカードから警告メールがくる不思議さに驚かされ、日々の煩わしい詐欺詐称メール掃除のために、ブログ更新などのネット活動が億劫になりつつある。現代社会の情報リテラシーにネット環境は確かに必須だが、その手口が巧妙になり、詐欺メールが横行するにつれ、かえって社会不安を増幅させ、巷には、現に、嘘つき裏金政治家などの、記憶にない発言をみるにつれ、人類へのモラルハザードへの警告や、地震などの天変地異への影響を深刻に考えざるを得なくなる。地上に悪が蔓延るにつれて、天変地異が頻繁に起こるのを、人智学は解き明かしている。日本を生かすも殺すも、日本列島に住む日本人の生き様によるのと同じように、地球を生かすも殺すも、地球に住む地球人の生き様である知性によるのである。地球人が高度な知性を持つと自慢するのならば、それを地球環境を永らえる宇宙船地球号に生かすべきである。地球を生かすのと同程度の知性を地球人がもつのを、高度の知性をもつ宇宙人は知っていて、愛を送って警告しているわけなんである。詐欺メールについては、なにより詐欺メールを送る側に、多くの人に迷惑をかけている自覚がない、のが大問題で、裏金政治家のようなアホ馬鹿が、公的な場でウソをつくのが、社会全体に多大な迷惑と、錯誤を生み出す自覚がない、のと同じように、それら自覚のなさを霊的にみれば、悪のウイルスを流し、ウソの虚言癖を撒き散らせているわけで、騙されないように、悪のウイルスや嘘の虚言癖の増殖に迷惑を受けつつも、手を貸さないように注意しないといけない。詐欺メールといえば、昔、「不幸の手紙」問題があって、手紙といえば年賀状くらいしか来なかった自分には、不幸の手紙がくる不幸には出くわさなかったが、恐らく、そんな手紙がきても、筆不精な性格から無視していたように感じる。何しろ切手代も馬鹿にならない。不幸の手紙が来るだけでも不幸なのに、そのような不幸をわざわざ拡散する迷惑さに呆れ果ててしまうのだが、この不幸や迷惑の連鎖は、公的な場でのウソ証言と似ているかもしれない。不幸や悪事の連鎖は誰かが責任をもって止めない限りは拡大し拡がってしまうだけなんである。チェーンメール - Wikipedia例えば、欧米の公的な場では、聖書などに手を置いて偽証しないとの宣誓から発言が求められることもあるが、その真意は十戒からきているようにみえる。というのも、前回紹介したように、人間のウソと悪魔の関係から天変地異との関わりが、霊的に解き明かせるからでもある。人間が自由にウソをつけるようになったのは、ルシファーのネガティヴな影響によるのが大で、人間がネガティヴに陥った力を利用して、幻覚や幻惑の虜の罠に嵌めていくのがアーリマンであり、人間にネガティヴな負債を背負わせ、天変地異を司り、人類の進化に介入してくるのを、シュタイナーの人智学から、前回紹介した。有名な黒魔術も、アーリマンの人類への介入から生まれたという。ルシファーは、人類を、自分しかみえないような、知性的な目隠しをして拉致し、ネガティヴな領域に引き入れて、アーリマンに引き渡し、アーリマンは、人類を唯物論的な迷路の支配下に置いて、天変地異などで揺さぶり、人類の進化に介入している、といえるかもしれない。現代の振り込み詐欺で譬えるなら、ルシファーが、親族などの信頼者になりすまして、ウソや擬態で偽証を誘発し、騙された人間が、偽証された金額を、アーリマンの口座に振り込む、というような詐欺手口といえるだろう。このような巧妙な手口に引っかかり、人類がしばしば錯誤に至るのは、ウソをつくことをそれほど悪いとは思っていない知性にあるのは、前回紹介した通りである。ウソをつく罪悪感が究めて薄いので、それが悪魔の手口なのに気づかずに、人体に病気としてあからさまに現れるまで、放置しがちにしてしまう。ウソをつけば、ガンに罹りやすくなるといっても、現代人のご自慢の知性から、笑い飛ばされるのがオチである。例えば、もし、ウソをつくことで、知性が失われるのに気づける知性を人間が持ち、ウソをつくことで、馬鹿になるのを恥じる知性があれば、記憶にない、というような恥知らずの証言がでるはずもない。ウソをつけるとは、ルシファーのネガティヴな知性に負っているのを告白しているわけでもある。自分は悪魔に憑りつかれているのを公言しているようなもので、古代では、悪魔祓いが必要とされたわけなんである。というのも、ウソをつく者の、嘘がばれるほど自分の知性は不完全ではない、と考えている知性は、自惚れているルシファーの知性で、勿論、ルシファーやアーリマンら悪魔の知性は、人類の知性よりも遥かに高度だから、悪魔の高度な知性を一時かりているだけのおバカな借用知性であるのに気づかないほど低次なんである。悪魔の知性が人類よりも遥かに賢いのは、ルシファーが、月紀の落第者で、アーリマンが、太陽紀の落第者だからである。だから、ルシファーとアーリマンは、人間の知らないことを知っているし、人間の知性を超える知性をもっているので、人類を騙すのも容易だからである。知的生命体と自負する名誉欲や虚栄心だらけの知性に憑りつかれている現代人の生態については、前回も紹介したが、現代人は高度の知性と自らを語るが、ウソをついても、人体がすぐに破壊されないのが、高度でない証拠なんである。つまり、それは、ウソが即座に現実に反映されない、リアルでないのを意味する、からである。かつての人類は、いまの動物のように、ウソがつけなかった、というよりも、ウソを嘘と見抜けなかった。例えば、動物はウソをつけないが、代わりに、ウソに似た擬態を演じる。人間にも擬態に似た人体反応があるので、ポリグラフなどがウソ発見器として用いられるが、現代の科学信仰からいえば、証言者にポリグラフ検査をしないのも不可思議といえるかもしれない。擬態 - Wikipediaポリグラフ - Wikipediaポリグラフは、通常とは異なる生理現象からウソを判断する機械らしいが、人智学では、人間が恥ずかしいときに顔を赤らめるのは、血流を表面に分散し、自我を薄めるためで、人間が恐怖を感じるときに顔を青ざめるのは、血流を深部に集約し、自我を濃くするためと、解き明かされ、笑いは、アストラル体を膨らませ、悲しみは、アストラル体を萎ませる、と人体の現象から解き明かしている。だから、現代人が高度の知性と呼んでいる人類の知性とは、物質界に住み、物質界を作り変える知性でしかなく、それは物質界しか想定できず、覚醒意識を基盤にする活動で、より高度な知性からみれば、破壊活動にすぎないわけで、物質界を破壊する条件に、ウソをつけるような知性は好都合である。だから、ソクラテスの高度な知性からも、この知性を無知と呼んだわけなんだろう。無知の知 - Wikipediaソクラテスの無知の知からいえば、現代人の、ウソをつくのが人類にどれだけ害を与えるのか、知らずに、ウソをつく知性を、無知というわけで、それはせいぜい、物質界でのみ通用する破壊行為というわけなんである。眠ったり、死んで、覚醒意識を失い、物質界から出ると、ウソは通用しないばかりか、ルシファーという悪魔に出くわし、魂の負債を背負わされ、ネガティヴな領域の地獄への入口の、負債口座アカウントが開かされた、と気づくわけなんである。ルシファーらは、人間よりも高度な知性をもつために、それよりも低次な物質界に直接手を下す事は出来ない。だから、人間がウソをつくことで、自我の核心となっている神から離れ、自我を低次にすることに付け込んで、憑りついて、自由を与えたふりで自由で拘束し、意のままに操ろうとする。小人閑居して不善をなす、で、猫に小判という意味で、「人間に自由」というべきかもしれない。人間に自由を与えても、ウソをつくことに用いる、というわけで、ウソから転じて、悪魔により、大震災を起こされると言った方がいいかもしれない。ウソから大地震が起こるというのは、カオス理論のバタフライ効果のようにみえるが、カオス現象のような非線形現象を現代人が理解できないのは、ウソをつくのを平然と行える物質界しかみえないからでもある。バタフライ効果 - Wikipediaつまり、人類はルシファーにより、自由の名の下に、物質界に閉じ込められている。シュタイナーによると、ルシファーらは、月紀に宇宙の進化から外れて、地球紀には進めなかったが、人間のアストラル体に影響し、エーテル体や物質体を操作できる知性をもっているという。人智学では、この知性は、4大元素霊でいうところの、風や水を司る知性で、地球の大気や海水に影響を及ぼすために、天候は月を通じて、ルシファーが司っているのがわかっているが、現代科学では、潮汐力を月の引力の一因にしているが、厳密には間違いで、本当は、地球の天候などを司るルシファーの影響で、悪魔の高度な叡智の賜物なのである。かつての月だった地球のときの人類は、現在の人類が物質界を作り変えているように、かつての月を作り変えていたわけで、天使となった存在たちは、いまでもその能力で、地上に介入しているという。ただ、人類の地球人は、その介入を物質的にしか解釈できないわけで、というのも、物質的知性で、自由に翻訳、解釈するしかできないからである。だから、落第し、堕天使となったルシファーたちは、地球人が自由にウソをつくほど、介入の余地が増す。また、太陽紀に進化から逸脱したのが、アーリマンたちで、その当時の能力を今でも保持しているので、当時の能力は、4大元素霊でいえば、火と土を司る知性で、地球の内部の熱と固体のエネルギーを操って、地震などを起こす天災の元凶となっている。重要なのは、宇宙にはカルマの法則があるので、やられたらやり返される、自業自得の法則があるので、悪魔が勝手に人類に介入するわけにもいかない、ことにある。悪魔が地球人を勝手に苦しめたりするのは、自分たちにも苦しみが及ぶわけで、地球人が自ら求めない限りは行使できない。だから、地球人が身勝手に地球の環境を破壊すれば、悪魔にも、それを根拠に介入の余地が発生するわけである。大袈裟に極論すれば、ウソをつくことは、地球人全体を裏切る行為なので、地球人でないものからすれば、特に悪霊たちの標的になりやすいわけで、地球人釣りをしている悪魔にとっては奴隷にしやすいわけで、権力者であるほど、自分たちの目論見通りに、地上を支配しやすいので、益々介入していくわけである。地球人の結束を奪うのに好都合な人選というわけなんである。かつて人類のなかでも民族同士で、このような裏切り行為などが頻繁に起こって、かつて火と土の世界だった太陽が地球から分かれて、太陽に進化できなかった堕天使アーリマンが生まれ、またそこから風と水の世界の月が地球が分かれて、いまの地球に進化できなかった堕天使ルシファーが生まれ、月を主の舞台にして地上にも天候などで影響を与えている。人類の地球人が、地上で、固体という土の、地の物質界でしか通用しない知性しかもてないのは、かつての火の大破局や、水の大破局を招いて滅亡しないためである。しかし、核兵器を手に入れて、いまや、土の大破局を招こうとしている。自分たちにだけ都合よく、知性を用いるのは、黒魔術で、ルシファーは風や水、アーリマンは火や土の知性で、その黒魔術を、人類に与えて、奴隷化しようとしている。このような全体像を、宇宙の進化に沿った人類の正規の進化を見守るのが、聖霊たちで、かつてマーダックと呼ばれたミカエルが天使長で、太陽霊キリストと共に、地上の人類に愛への目覚めを教え諭しているという。キリストの愛の教えに目覚めるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 既に述べたように、「永遠」は、「土星」紀に準備され、時間とわかれたのは、実際は「太陽」紀ではない。しかし、現代の概念で表現できるほど明確に現れたのは「太陽」紀である。現代の概念と言葉では、永遠が、古「土星」の進化にも存在したのを正確に特徴づけるのは不可能で、時間からの永遠の分離を「土星」上ではほとんど知覚できない。 この出来事を通じて、「諦め」という、古「太陽」紀の神々による拒絶と、不死の獲得という、両方の意味が明らかとなった。この両方からもたらされる結果とは何か? 以前、「神秘学概論」にも書いたが、そこでの記述は、ある意味、幻想のヴェールをかけたが、「月」進化紀が「太陽」紀に続き、「太陽」紀の終わりに、全存在が一種の黄昏と呼ばれる、宇宙的なカオスのなかに沈んだ後に、再び「月」として現れる。 いまの地球紀でも、天使たちの犠牲が、熱の背後に現れるが、「太陽」上の熱もまた、「月」上では外的な熱として現れ、また、与えるという徳は、いまでも、気体もしくは空気として現れ、「諦め」という、犠牲の拒絶もまた今の地球にも現れている。 いまの地球に、「諦め」と呼べる永遠は、古「月」上で生じた全事象にもあった。これが永遠の真実である。つまり、「太陽」上で、時間を手放し、諦めを経験できた存在を、「太陽」の次の古い「月」上の全存在のなかに霊視するには、外界の存在とは異なる存在を想定しなければならない。 つまり、土星紀の「犠牲」は、マーヤという外界では、熱として現れ、太陽紀の「与える徳」は、気体もしくは空気として現れ、月紀の「諦め」は、液体もしくは水として現れる。外界での、水はマーヤ(幻想)であり、もし、太陽紀の天使たちが、拒絶と諦めの精神的基礎をもたなかったら、存在しなかった。だから、いまの地球の、水があるところには必ず神的な拒絶がある! それは熱が幻覚で、その背後に「犠牲」があるのと同じように、気体もしくは空気が幻覚で、その背後に「与える徳」があり、また外界で、物質の水として現れるのは、物質的幻覚で、その背後の真なる存在は、「拒絶」、「諦め」の行為である。 水のような液体現象の背後に、「諦め」が横たわるとき、それらは、水を通じて、地球に流れる。人智学徒は、「太陽」から「月」への移行に際し、空気が水に濃縮したのを知っている。水が生じたのは「月」上であり、「太陽」紀にはなかった。古「太陽」進化紀に集積する雲の塊が圧縮され、水となり、「月」進化紀に「月」の海として現れた。 この事実を考慮すれば、次の疑問に終止符を打てる。水は「諦め」から生じる。実際、水は「諦め」である。だから、水とは一体何なのか?という疑問に対して、「諦め」「拒絶」という特別な精神、想念が獲得できる。 しかし、次のような疑問も生じる。もし、ケルビムが「諦め」ずに生じた状態と、提供された供犠を「諦め」て、自由になった状態との相違とは何か? この違いは、表現できるのか? この問いへの答えは是で、その相違は表現できる。そして、それは「諦め」の結果、「月」状態に生じた事実から現れる。 もし、諦めが生まれてなかったら、ケルビムが拒絶せず、犠牲を受け取っていたら、自我の中に犠牲の煙をもち、犠牲の受容が、犠牲の煙の中に表現されただろう。 ケルビムが多様な行為を遂行できると仮定し、ケルビムの行為を、外的に表現すれば、絶えず変化する空気の雲のように現れただろう。捧げられた犠牲を受け取る毎に、ケルビムの行為は、空気の多様な形で外的に表現されただろう。しかし、ケルビムは、捧げられた犠牲を拒絶し、時間と共に死ぬ運命から退いて、不死を獲得した。 ケルビムは時間という犠牲の、一時的で多様な存在から退き、永遠の存在となった。拒絶された犠牲は後に残され、犠牲を受け取らなかった存在の力に拘束されず、解放される。拒絶された犠牲はもはやケルビムに従う必要がなく、ケルビムの力から解放され、後に残された。 この後に残された犠牲はどうなるのか? また別の存在たちが、受け取り、独立できるようになる。この別の存在たちはケルビムの近くにみつかるが、もし、ケルビムが受け取っていたら、犠牲は、ケルビムの配下となっただろう。しかし、犠牲はもはやケルビムの内にはなく、外へと独立した。この独立により、「諦め」とは正反対の精神、想念が生じる可能性が芽生えた。 つまり、別の存在が、後に残された犠牲を、また別の自我へと引き寄せ、その内で活動するようになる。この別の存在が、後に取り残された堕天使たちである。だから、後に取り残された堕天使たちは、ケルビムによる拒絶行為の結果生まれた。後に取り残された堕天使たちを生み出したのはケルビムの自我である。 ケルビムは上記のように「後に取り残される」可能性を生じさせた。ケルビムによる犠牲の拒絶を通して、供犠を諦めず、自我の欲望や望みに身を委ねながら、供犠を外に表現する他の堕天使たちが、供儀をまた別の自我にする可能性、つまり他の天使たちと並んで独立した堕天使になる可能性を得た。 こうして、「太陽」進化から「月」への移行に際し、ケルビムが 不死になるとともに、また別の存在たちが、自我の中で、ケルビムの継続する進化から逸脱し、自我を分離する可能性を得て、実際、不死なる自我存在からまた一時的で多様な自我を完全に引き離す可能性が生じた。 進化から、後に取り残される深い理由を霊視するなら、堕天使存在を生じさせた責任は、究極的な要因を求めれば、堕天使たちにないのが理解できる。この事実は最重要で、現代人が把握すべき必須の叡智である。もし、ケルビムが犠牲を受け取っていたら、ルシファー的な存在たちが後に取り残される可能性はなかった。 というのも、ルシファーたちが、この犠牲を受け取る機会がなかったからである。「諦め」こそ、ルシファー存在たちが、独立するための前提条件だった。賢明なる宇宙進化の導きは、神々自身が、その反対者たちの存在を生み出すように命じた。 もし、神々が自由にならなかったら、ルシファーたちが、神々に離反するのも不可能だった。もっと簡単に言えば、神々が、もし、「土星」から「太陽」への移行後も、以前と同様に創造行為を続けていたら、自我の主体性から行動する自由な存在たちは、決して生まれなかった、のを神々は見通していた。 神々は、自由な存在を創造するために、敵対者たちが全宇宙のなかで、時間に左右される全てのなかで、神々に反抗し、その抵抗に遭遇する可能性を与えねばならない、のに気づいていた。 全てを支配する者が神々だけだったら、上記のような反対者を見つけるのが不可能なのを知っていた。もし、神々が全ての犠牲を受け入れたら、物事は、非常に容易となり、全ての進化は、神々の思い通りになっていたのを、人智学徒は霊視できる。しかし、神々は、容易な道を選ばないことに決めた。 神々は、自由な存在たち、神々に反抗できる存在たちを望んだ。そのため、神々は、全ての犠牲を受け取らず、神々の自我のなかの「諦め」を通して、別の自我が、後に残された一部の犠牲を受け取った、という事実を通して、反対者になるように定めた。 なので、悪の起源は、いわゆる悪の存在たちではなく、いわゆる善なる存在たちのなかに、つまり、犠牲の拒絶によって、宇宙に悪をもたらす存在たちを通じて、悪が生じる可能性を与えた、善なる存在たちのなかに探さなければならない。
2024年03月22日
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前回は、この国のリサイクルを紹介したが、ヘラクレイトスの万物は流転する、を現代風にいうなら、全てはリサイクルする、といえるかもしれない。先日、BSNHKでオッペンハイマーの番組をみたが、巨大な原子核の核分裂崩壊を生み出したツケは、どこかに巨大な原子核の核融合を生み出す可能性をもたらすのは、宇宙がカルマの法則から永遠に成り立つことで明らかだろう。カルマの法則とは、宇宙で為したことは、為したものに返ってくることで、いわゆるバランスの法則であり、これは4次元の特性としてもわかっている。時間は前後のバランスをとるため、永遠との均衡を図るために、存在する。だから生には死を、死には生をもたらすのが時間で、左は右になり、上は下にもなる。人智学では、この4次元の特性を、アストラル空間の鏡像対称性で示している。だから、破壊的行為を行えば、その破壊的行為を贖う創造的行為が求められるわけで、それには、まずその破壊的行為の犠牲となることからはじまるわけなんである。人間の脳は、昼壊されることで覚醒意識が生まれ、夜に眠ることで、脳は再構築される、のを以前紹介したが、だから、人間は眠らないと、脳が破壊されたままで、痴呆症になっていくわけで、人間の生の昼のリサイクルは夜の睡眠で行われる。だから、人間の脳の昼の破壊と夜の創造と同じく、人間の行為も、創造と破壊のバランスから生じる。だから、広義に考えれば、今生で大量の破壊行為を行えば、その破壊行為と同等の創造行為を行うまで、その負債を返すまで、来世からの地獄の試練の、輪廻転生を繰り返すわけなんである。現世では破産申告できるが、生命の破産申告はできない。生命を奪えば、奪った分だけ繰り返し奪われる人生を送ることになるだろう。永遠にバランスをとるために時間が存在するからである。オッペンハイマーは原爆を発明し、殺人兵器に使ってから、その大罪に気づいた愚か者だったが、現代人はオッペンハイマーの過ちを果たして笑い過ごせるだろうか? 核兵器をつくった記憶がない、とウソをつくかもしれない。現代の負の遺産ともいえる核兵器を放棄できずに、古代文明や古代遺産を読み解こうなどとは不届きモノのなせる業である。昨今、巷のこの国では、古代文明についての地上波の番組が多いが、古代遺跡を読み解くには、現代人の知性からは不可能なのを何度も警告してきた。というのも、現代人の知性では、承認欲や名誉欲のために、平然と嘘をつけるからである。大体、何のために古代遺跡を解明したいのか、興味本位だけでは無理がある。まずは足元を見つめ直すのが先決であろう。古代文明を評価できるに足る思考力や高度な知性を養成する必要があり、そもそも、十戒すら守れない知性では、道徳観が低レベルすぎる。現代人の知性では、嘘をつくことに罪悪感の欠片もないからである。少なくとも、ウソをついたら、人体のどこかが破壊されるというような、ポリグラフがなくても、目視でわかるようでなければ、ホンモノの知性とはいえない。ウソをつきすぎて、ヒョットコみたいに口がひん曲がるとか、人相が悪くなるのは、現代科学からは解明されていない。ウソをつくのは、人間特有の生命現象ともいえるが、それを動物実験から、類推するのも不可能で、現代医学の研究テーマのほとんどがマウスなどのげっ歯類を使った動物実験での物証では、かえって動物と人間の類似点から知性が同レベルと言っているようなもので、それこそ、ルシファーの詐術策略的な思考といえるだろう。人間がつくった法は破れるが、神のつくった法を破れば、人間が破れないとおかしい。完全な知性とは、ウソをつけない知性でないと意味がない。記憶がないのなら、そのヒトから知性全てがなくならないとおかしい。記憶がないと言った瞬間に、そのヒトの存在が消滅しないと少なくとも完全な知性とはいえない。だから、記憶のない状態をマウスに求めれば、ヒトはそのようなマウスの知性に擬態化していくだけである。そもそも、古代文明の解明は、知性の問題ではなく、道徳の問題なのに、知性で解決しようとするのが間違いなんである。記憶がないという記憶は、知性としては使い物にはならず、無意味だからである。せめて、なぜ記憶がないのかに言及しないと理性とはいえない。理性のないものが政治をすれば、国が乱れるのは当たり前である。記憶が無いことで他の多くの人への迷惑を考えないといけない。古代人を現代人から考えるのは無意味なんである。第一、古代人には、現代人のような自我がなく、ウソがつけなかった。ただ、いまの動物のように、民族長の集合魂に従うしかなかった。個人的な自我というのがないから、自己保身もない。ただ民族の手足でしかなかった。現在の動物の死と、人間の自我の死が異なるのと同じである。さて、今年は年頭から大地震が起きて、これまでも何度かの震災に見舞われている。東日本大震災が天罰だといって顰蹙を買い、亡くなっていった政治家もいたが、巷の政治家の、公的な場での嘘つき答弁をみていると、現代人の思い上がった賢さが鼻について仕方がない。ウソをつくのは、天に向かって唾を吐くようなもの、と昔の人は言ったとか言わなかったとか、しかし、偽証するなと、十戒にあるように、嘘つきは泥棒の始まり、ともいわれ、良心を無くす行為に違いないので、ウソを平気でつける、という、その思い上がった知性が何に由来するのかを考えるべきである。十戒というのは、人間が神の子である証で、神となるために必要な徳目であるからだ。例えば、古代人が、「ウソをつくと天変地異が起きるよ」とアドバイスしたら、現代人は、そんなバカな事があるか、と馬鹿にするだろう。しかし、聖書に書かれた出来事を信じるなら、例えば、ソドムとゴモラの出来事は有名である。ソドムとゴモラ - Wikipediaシュタイナーによれば、人間が偽証でき、ウソをつける知性というのは、堕天使ルシファーの悪知恵の教えからきていて、神の子人間の、神への進化を阻む、つまり進化から逸脱させるトラップの罠であるという。だから、ウソをついて自己保身できたと思うのは、そっくりそのまま、ルシファーの悪知恵に取り込まれ、魂を売っているにすぎないのである。自己保身できたかのような錯覚に陥っているだけで、自由と横暴をはき違えている。このような嘘つきの、人間に物質界を与える切欠をつくり、自由の知恵を授けたのはルシファーらである。月は物質界を映す鏡であり、人間は、そのルシファーの月の知恵の中で自由に踊らされている。ルシファーらが、宇宙の正当な進化から逸脱したのは、人間を楽園から追放し、地での自由を与えるためでもあったため、人間はウソをつく自由もあるが、その自由な分、ルシファーに従う事にもなる。だから、人間の自由は、ルシファーに負っている。だから、ルシファーに憑依されたヒトは、自意識過剰な分、ウソをつける自由を獲得したとはき違える。ウソをつくことが、人類の知性の発展を阻み、真実を探求しようとする姿勢を放棄させ、低次な獣へと退化させる、将来への目論見であるのを考慮していない。ウソをつくのは、競走馬にブリンカーをかけさせ、ウソの奴隷にするようなものなのである。人間は自由を得たかのように錯覚するが、実は不自由な知性を与えられているにすぎない。物質界だけしかみえなくされているだけなんである。道徳の感性、宇宙全体の発展をみる視野を奪われているだけなんである。ブリンカー - Wikipedia人間が自由にウソをついて、自己保身という認識を得られるのは、ルシファーたち悪魔のお蔭なんである。しかし、死後にその代償を負う事になり、地獄に行き、来世での人生の選択を負債として背負わされる。だから、悪魔側からすれば、そのような人間を介して、人類や地球の進化に影響を行使できることになる。悪の組織の構成員に雇えるわけなんである。だから、嘘つきは泥棒の始まりで、悪魔の手下の始まりとなる。ルシファーたちは、何度も紹介してきたが、いわば落第生の悪ノリの先輩であり、今話題の老害たちといえるかもしれない。人間がウソをつくとき、そのヒトの心に、ウイルスのような、ルシファーが巣食っている。シュタイナーによると、ルシファーは、古代レムリア時代に、人類に、唯物論的な思考と知性を与え、それを育成する、物質的な感覚器の、目と耳と鼻と口の肉体からなる五感を与えたという。だから、その五感を使って、他隣人を欺き、偽証すればするほど、良心を失い、宇宙の進化から逸脱し、悪霊たちの仲間に加わっていく。物質界からは五感の覚醒意識が明瞭しすぎて、背後の霊界がみえなくなっているだけなんである。聖書では、ルシファーらの蛇が、人類に知恵の実の、善悪を判断する知性を与えたと書かれているが、そのため、人間は楽園が見えなくなり、物質界に埋没して、自由にウソをつける身分となって、他を差別する自意識を手に入れたが、古代人は、この感覚を、3つのグナの、サットヴァ、ラジャス、タマスで区別していたという。このグナの感覚は、現代人の知性とは程遠いものなので、現代人の感覚からは理解不能である。現代人の感覚からは、五感で見える範囲があまりにも物質的に見えすぎて、そこに波長やチャンネルを合わせすぎているので、現代風にいえば、アナログをあまりにデジタル化し過ぎて、見逃し、みえなくなっている。目的が明確になるのはよいが、全体から逸脱していては、方向性が間違っていたら、堂々巡りで、無意味である。だから、五感でわかるもの、在るモノをそのままみるのではなく、五感では無のモノをみないといけない。五感でみえないものこそ、無ではなく、有なのである。五感で捉えられない、無の領域こそ、超感覚の自然を超えた大自然の、愛の働きである。このみえない振動が、ホワイトノイズやピンクノイズといわれる、心の感覚器から、つまり、心眼、心耳から感知できる霊能力である。ホワイトノイズ - Wikipediaピンクノイズ - Wikipediaこの愛の創造の働きと正反対にあるのが、破壊活動である。大自然を超えるポジティヴなエネルギーの愛の働きと、その正反対のネガティヴなエネルギーの憎しみや嫉妬などの破壊活動との間に、大自然の4大元素霊の、火、風、水、地の働きがあるという。これら4態から、火や熱、気体、液体、固体の物質の相転移が生み出される。これら相転移を操り、物質界での破壊活動を司っている悪魔が、ソロアスター教での悪神アンラマンユで、アーリマンである。だから、核兵器を人類に与えたのは、オッペンハイマーではなく、本当はアーリマンなんである。オッペンハイマーや核濃縮を行ったローレンスや、投下に関わったトルーマンらは、人類支配構想の、アーリマンの手下に加わっただけなんである。アーネスト・ローレンス - Wikipediaハリー・S・トルーマン - Wikipediaシュタイナーによると、ゲーテが書いたファウストに出てくる悪魔メフェストフェレスが、ルシファーら月悪魔に対して、更にその上位に君臨する太陽悪魔のアーリマンであるという。ファウスト (ゲーテ) - Wikipediaメフィストフェレス - Wikipediaメフェストフェレスの、メフェスは、妨害や破壊の意味で、トフェレスは、嘘つき、虚偽の意味であるという。だから、嘘つきの破壊者の意味になり、太陽悪魔アーリマンの一派なので、人類を欺いて、破壊行為に誘導する悪魔で、物質界の迷路へと、人間の破壊行為を導く天変地異の本体ともいえる。ルシファーが物質化する感覚器を与え、アーリマンがその感覚器から生まれる物質への欲望に叶う物質界を与える悪魔なんである。だから、ルシファーは嘘つきに憑りついて、アーリマンは、憑りついた人間を介して、破壊活動を行使するわけなんである。古代人が、ウソをつくと天変地異が起こる、と言ったのは、この両者の悪魔の、目にはみえない働きを意味しているわけなんである。いま、真実が求められている公的な場で嘘をつくのは、人類に対しての裏切り行為に当たるのに自覚がないというのは、現代人の感覚が、神や悪魔をも恐れずに、天狗になってしまった証ともいえるかもしれない。記憶がないのは、人間としてもはや良心をもたない、主たる神を信じない、偶像崇拝という悪魔に魂を奪われているから、人間失格の証として、悪魔の手下として、偽証しているのである。だから人間としての記憶がなく、悪魔の手下になり下がってしまったので、地獄に堕ちて苦しむだろう。人間の死すら知らない現代人が、死後どうなるかも知らない現代人が、平気でウソをつけるというのは、無知が何たるかを知らないほど無知なんである。このような人の形をしていても、心はもはやモノであり、他人を慮る心を無くし、ヒトの意見に耳を貸さずに、目はみえるものしかみないのは、悪魔に魂を奪われているからである。悪魔教を信仰しているものに、何を言っても無駄なのは、悪の僕となってしまったからである。耳や目や鼻や口、肉体はあっても、悪魔に魂を奪われているので、もはや使いものにならないのである。悪魔教を信仰してはおしまいなので、心の超感覚を、愛を感じる心を再び取り戻すために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ さて、太陽紀のイメージを霊視する。この古「太陽」の拡がり、すなわち、その塊は、まるで宇宙球のようで、その向こう側の背景は何もみえない。そのため、想像できるのは大天使による拡がりしかない空間である。その中心では、受け入れられた供儀と拒絶された供儀との遭遇から、輪ができるのがみえる。 受け入れられた供儀と拒絶された供儀から、古「太陽」の内部で、「太陽」全体の進化、いわゆる多様性とも呼べる分化が生じる。この古い「太陽」を、いまの外的イメージでたとえるなら、現在の土星、つまり、環に囲まれた天体に似ている。受け取られた犠牲は集積し、塊となって中心へと引き寄せられ、拒絶された犠牲は、外側へと取り残され、環を形作る。このように、「太陽」は、拒絶された犠牲の潜在力を通じて、内と外の2つに分割される。 では、ケルビムの、犠牲を拒む行為から何が生じるのか? これは究めて困難な問題へのアプローチを意味する。長期の瞑想を経た後はじめて、この問題を考察できる概念に到達できる。この概念は、十分に長い間、思考した後はじめて、その奥に横たわる現実に気づくようなものである。 霊能者が語る「諦め」とは、時間の創造に関わり、それが古「土星」上で生じたのを霊視したが、その出来事と結びついている。時間霊のアルカイとともに古「土星」上ではじめて時間が生じたが、それ以前に時間はなく、時間を語るのは無意味だった。 さて、太陽紀にも、土星紀の出来事の繰り返しが起こるが、それは時間が発生した時点から続いているわけで、継続、存続という概念は「時間」が生まれたなかに含まれる。「時間は誕生と共に継続、存続する」ので、アカシャ年代記(虚空記録体)の中に、「太陽」や「土星」の事象を霊視する際、「土星」紀に時間が生まれ、「太陽」上にも続いて存在する、のが読み取れる。 さて、「土星」と「太陽」について、これまでの講義のなかで特徴づけた形で続いていたら、「時間」は進化の中で生じ、進化の指標を示す要素の1つとなっていただろう。進化上生じた出来事から時間という要素を除外できないだろう。 時間霊が古「土星」上で生まれ、時間が、全事象の中に埋め込まれた、のが霊視できる。だから、古土星以後の進化のイメージ、想像全ては、時間という文脈の中で捉えられなければならない。 このようなイメージから、進化上生じた全事象(犠牲を捧げる行為や与える徳の行為)は、時間を前提とする必要がある。時間無しには、何も存在できなかった。存在全て、消滅全てが、時間に左右される。 ケルビムが、犠牲を拒絶し、同時に犠牲の煙を拒絶したのは、この拒絶により、この犠牲の煙に含まれる性質に、拘束されるのを脱するためだった。というのも、犠牲の煙に含まれる性質には、時間と同時に、生じたり、消え去ったりする経過がある、からである。 だから、犠牲の拒絶の奥に横たわるのは、時間を超えて、時間に拘束されずに進化するケルビムの永遠の能力である。ケルビムは時間を超えて進化する。時間を拒絶したケルビムは時間に左右されない。 このように、古「太陽」進化に、犠牲や与える徳を受容し、「土星」から直接時間として継続し、時間に左右され、時間にとどまる存在と、犠牲を拒絶したケルビムの指導下で、自らを時間から引き離し、生まれたり、消えたりする過程に拘束されない、永遠、永久の存在とに、わかれるようになった。 これは特筆すべき出来事である。つまり、古「太陽」進化のなかの、時間が、永遠から分かれた地点へと至った。古「太陽」進化紀に、ケルビムの断念によって、ある出来事の結果として、永遠が生じた、のである。 自我の根底を覗き見て、人間が、自主的に、拒絶し、諦めるとき、魂の中に、ある愛の働きが生じるのと同じように、ある神的、精神的な存在たちが、犠牲と与える徳の遺産を拒絶したことで、永遠と不死が、古「太陽」上に生じる、のが霊視できる。「土星」上での時間の誕生を霊視したように、「太陽」進化の局面から、時間が、永遠から分離する、のが霊視できる。
2024年03月19日
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巷の騒ぎ過ぎの感ありの大谷選手の結婚報道だが、この国の低レベルの政治の元凶が、このようなマスコミの加熱報道にあるのが、国政よりも、一野球選手の結婚が速報と流されることで、なんとなくわかるような気がした。ゴシップ記事により、重要な問題が先送りされてきたようにみえるからである。現に50年も前から、この国が少子高齢化の傾向になるのが予測されてきたのに、全くその対策すらしてこずに、なかば放置され、今年になって、交通や物流などの人手不足から、大騒ぎしはじめた挙句に、野球選手の結婚報道なのだから、馬鹿につける薬はない、という他ないだろう。Q2 どうして日本では少子化が深刻化しているのですか|選択する未来 - 内閣府 (cao.go.jp)1 少子高齢化の進展 (mlit.go.jp)統計局ホームページ/平成31年/統計トピックスNo.119 統計が語る平成のあゆみ/1.人口 人口減少社会、少子高齢化 (stat.go.jp)少子化と家族 (gpc-gifu.or.jp)少子高齢化とは?現状と原因・問題点・対策から若者ができること、日本の今後 - SDGsメディア『Spaceship Earth(スペースシップ・アース)』小さなうちに問題を処理しておくに越したことはなく、未然に防ぐともいうが、東洋医学には、未病という言葉もある。未病のうちに、政治資金問題を透明化しておけば、今になって大騒ぎし、国家の命運にかかわる人口問題、生物学者もお手上げの、少子高齢化についてはもはや手遅れの感が大きい、といえるかもしれない。ちなみに、以下のサイトなどをググると、スウェーデンなどの北欧では、子育て環境を重視した家族形成の基本に戻る、新しい雇用形態への見直しに進んでいる。漢方専門医認定機関、日本東洋医学会 | 漢方の診察、2-1・治療の特徴・未病を治す (jsom.or.jp)5月 はじめよう 未病対策 | 健康サポート | 全国健康保険協会 (kyoukaikenpo.or.jp) 北欧の政治環境ならわかるが、この日本では、今から子どもを増やす方法など生物学的にほぼ不可能なのだから、来るべき少子高齢化社会に対しての政策を準備して、社会全体のスリム化を考えておく必要がある。つまり、いまこの国は、人口的に未病にある、といえるわけなんである。それはつまり、シュタイナーが預言したと一部でいわれる、この国の滅亡が近い、というわけなんである。シュタイナーは、動物の生殖には、太陽光が必要で、渡り鳥が、太陽光に富む、澄んだ空気の大気、気候を求めて、移動するのも、サケが繁殖のために、太陽光に富む、淡水の川に回遊するのも、太陽光の霊的な受精力を求めるため、と述べている。人間の場合は、動物とは異なり、大自然から解放され、自由に生殖の場や季節を選べるが、産まれてくる子は、宇宙の星座や天体の配置に影響されるので、霊的に優位な女性の直感にある程度依存するが、女性の霊感が失われるにつれ、愛も失われ、現代社会の物質的な都市社会の発展により、この現状を、サケに譬えるなら、海水で暮らす生活に馴れ、塩分を摂りすぎて、脂肪よりも筋肉優位体質になり、産まれた故郷の川に戻れなくなってしまったといえるかもしれない。しかし、いまでも、お産が近づくと親族を呼び寄せたり、故郷に戻るのは、女性の直感に生殖が依存するせいともいえるだろう。だからといって、物質社会を、昔の農耕社会へと、逆向きに戻るには、エントロピー増大の法則からも不可能で、農業ですらも、物質的になってしまった略奪環境では、経済的にも不可能で、第一、金持ちや資産家が、現在の金銭に飽かした特権的地位を手放すはずもなく、死後、地獄に堕ちてから閻魔様に怒鳴りつけられて、気づかされる目に遭わないと、わからないほど、人類は悪魔寄りに傾いてしまったわけなんである。権力者から権力を、お金持ちからおカネを、愛のために犠牲になれと、取り上げようとするのは、子どもから玩具を取り上げるのと同じである。前回も述べたように、現代人は古代人よりも遥かに愚かなんで、力づくで取り上げないと不可能な位に幼稚だからである。現代人のほとんどが自己愛しかもたないためである。それは巷の裏金議員などの悪あがきをみれば明らかなんである。国民が納税に苦しみ怒ろうが被災者が生活困難から叫ぼうが、目や耳を閉ざし、知らんぷりで、自己弁護に明け暮れる始末である。国の将来よりも、現在の自分の立場しかみえずに、ただしがみつくしか能がない愚かな置物の銅像と化してしまっている。だから、少子高齢化については、現代医学で再定義された「未病」というよりも、もはや手遅れの感が強く、少子高齢化を人体に当てはめれば、老化した細胞が増え、新しい細胞がほとんど生まれてこないのだから、特に、介護と医療で人手不足を生じているので、末期癌の、延命治療という段階にある、といったほうが的確であろう。このような人体の場合は、QOLをできるだけ向上させるしか手立てがない。このような段階を、現代医学では、緩和ケア、もしくは緩和医療と呼んでいる。日本史から、過去に、そのような時代を探ると、江戸の幕末期に似ているかもしれない。ガンが転移せずに、人体もまだ活力や蘇生の余地があるなら、ガンだった幕府を倒幕で除き、明治維新により、新政府樹立で、国政の交代も可能で、現実に起こったが、いまは、ガンが広く転移した状態で、国会そのものが脳腫瘍のように機能不全を起こしていることからも、政権交代しても、共倒れの可能性が高い。緩和医療 - Wikipediaちなみに、東洋医学での「未病」とは、現代医学とは少し異なり、広義の意味で、未来予測のための概念で、病気になる一歩手前というよりも、どのように予め治療へと誘導したらよいか、という、現代の物質的なハードランディングよりも、ソフトランディングを目指す観点なんである。だから、現代医学は、診断が主目的となり、東洋医学は、治療が主目的となる点で大きく異なる。だから現代医学では、難病と診断され、もはや手遅れの感が大きいから、このまま滅亡してしまうのだろう。というのも、日本全体を通じて、破廉恥議員をみてもわかるが、若者の犯罪や特に詐欺事件が多いのがもはや気がかりを通りこして、諦めの心境にあるからだ。勿論、若者のなかにも優秀な人はいるが、そのような人は、大谷選手のように、海外に出ていく時代だからである。余りに悲観的な見方かもしれないが、例えば、巷で最近話題の、成田悠輔氏の高齢者集団自決発言は、現代社会学からみれば、妥当な意見にみえる。というのは、江戸幕末の幕府瓦解の後の、武士階級の処分に、特に幕府側の武士の処分をどうするか、勝海舟が悩んでいたのが、この発言からも伺えるからである。国体継承のために、いっそのこと武士階級が集団自決してくれればいいと思って、勝と西郷の無血開城が為された背景があるからだ。「高齢者は集団自決」発言どう捉えるべきか 識者3人の見解 | 毎日新聞 (mainichi.jp)成田悠輔氏「高齢者は集団自決」発言 マスメディアは許容でチェック機能喪失の危機(石川慶子) - エキスパート - Yahoo!ニュース勝は、倒幕後の、幕府の武士たちを食わせるのに苦労したと、海舟座談で述べている。福沢諭吉などは、幕臣でもないので、学問のススメを書いて、あっさりと学者に転職して、慶応義塾を興したわけだが、当時の武士道の倫理観からすれば邪道で、死に際に花を咲かせる正道に沿って、血気盛んな連中は、特に御家人株などの武士株を買った俄か武士は、新選組などに加わって、武士になって死んで、名を残し、子孫を食わすため、鳥羽伏見などで、集団自決していったわけでもある。しかし、薩長の王政復古により、徳川幕府が賊軍になってしまったので、幕臣が賊軍として不名誉の戦死となっては、武士でも、切腹にはならずに斬首にされてしまうので、子孫の面目が立たずに、乞食同然の生活が待っているので、慶喜は、大政奉還をして、幕臣を食わすために、勝海舟などは奔走するわけだが、薩長官軍の鳥羽伏見の戦いが起こされて、外国勢力を頼って、慶喜は江戸に逃げ帰るわけなんである。そのうちに、血の気の多い幕臣は戦場で、集団自決していくわけで、戦国時代以来の激動の時代といえるだろう。従来の武士の仕来りからすれば、名誉の戦死から、子孫が残れば、先祖の手柄から食い扶持が貰えるわけで、代々の武士階級は、室町の戦国時代からの、この国の伝統技で、文化でもある。だから、日本史などの伝記もほとんどが創作なんである。子孫が食べていくために仕方なく創作したわけなんである。話を盛って笑かす、お笑い芸人と同じといえるかもしれない。切腹というのも、腹切りだけが強調されるが、実際は、武士と死んで子孫を食わすためである。斬首の場合は、武士の情けもないので、食い扶持もない。だからして、行動の美学の倫理観から、武士道が生まれるわけなんである。このように、この国では先代が滅亡という憂き目にあっても、その志を受け継ぎ、武士道=家を再興する機運や精神が、再生の文化として残っている。その再生の文化が、古代の輪廻転生観と一体となり、お家再興から、先祖を偲ぶ、詫び寂びの文化となっていった。この国では、物質の、モノの発明よりも、精神の再生の方に重きを置いていたのである。しかし、明治維新の、四民平等の理念が、西欧化の植民地主義により、武士道の精神と共に滅んでしまったのが、晩年の勝海舟の愚痴などに表出されている。つまり、この明治政府が、桂や大久保ら欧州岩倉使節団による帝国主義の植民地政策に傾倒し、勝と西郷らの共和制が退けられて、勝は引責し、西郷は、それなら、自分が朝鮮派遣大使になるといったが、許されずに、大久保を見限って、薩摩に戻って、武士階級を食わせるのに腐心した。結局、西郷は、大久保の罠にハマり、西南戦争の勃発で、武士階級と共に死に際をみつける。だから、西郷が最後の武士といわれる由縁で、西郷が、明治の元勲たちを、西洋カブレといい、見下していたエピソードは多い。勝は、西郷のような大人物がいたから、明治維新ができた、と述べているのは有名である。西郷にいわせると、明治政府は西洋カブレの物欲至上主義の植民地政策なんで、そのまま進めば、西洋と喧嘩し、衝突するのがわかっていたようである。だから、予めアジアで合従連衡して、東洋の精神連合で、西洋の物質主義の植民地政策に対抗しようと、島津斉彬の思想を引き継いだようである。だから、西郷は、全権大使として朝鮮に行かせろと、最後の望みの綱の、東アジア共和制を模索した感がある。しかし、結果的には、英国の植民地政策の工作にハマってしまい、明治政府は、武士道を捨てて、銀行屋に魂を売ったといえるだろう。合従連衡 - Wikipedia勝や西郷の予想は的中し、その後の経緯は、戦争史からわかるが、アジアの領土を巡って、西欧との植民地の取り合いになり、銀行業が発達していた資本家などの西洋の物質物量の、物質科学に大敗し、原爆まで投下されたわけなんである。詫び寂びの文化を忘れ、武士道を捨てたツケともいえるかもしれない。ヒトをモノとして扱う、タマス的態度は、いずれにしろ、行き詰まり滅亡するしかない。しかし、詫び寂びの精神は、ある記憶の断片からも再び取り戻せる。物質は亡ぶが、精神は決して滅ばないからである。例えば、大谷選手の活躍の背景には、日本では有名で、その精神的な努力が、挙げられている。ゴミ拾いなどは、詫び寂びの精神の顕れである。また、恥の文化も、死んで祖先にあわせる顔がない、という意味から、詫び寂びの文化であるのがわかる。恥の文化(はじのぶんか)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)第120回「恥の文化と罪の文化」(2017.5.9掲載) – 情報労連 (joho.or.jp)本来、恥の文化は詫び寂びの文化が前提で、西洋の神との契約の罪の文化と同じになる。ただし、最近の西洋人も神への信仰心がないものが多いので、キリストが金持ちは地獄に堕ちるよとアドバイスしているのに、聞かない銀行屋のような神殿を穢す者が沢山いるわけである。天国からすれば、金銭はゴミでしかない。金銭よりも社会的な、人間的な信用が大切だからである。大谷選手の結婚の騒動話に戻すが、日本の過剰な報道からは意外にみえるかもしれないが、大谷選手の知名度を調べてみると、米国ではマイナーなのである。日本人のメジャーリーガーなのに、知名度は米国ではマイナーリーグなんである。というのは、米国では、ベースボール人気が下火だからである。日本のスポーツに譬えると、相撲か、バレーボール辺りといえるかもしれない。しかも、米国に行ってみればわかるが、日本の話題はほとんどなく、日本人は中国人に間違われ、同じアジア人を見分けられない。それは、日本人が、アフリカ人やヨーロッパ人を見分けられないのと同じである。同じアジアでも、イランとイラク、インドとパキスタン、スリランカを見分けらず、中東のドバイの場所もわからない日本人が多いのと同じである。ましてや最近は、日本人ハーフが身近で、日本人が日本人を即座に見分けるのも困難になっている。だから、日本人だけという感覚で盛り上がるのは、例えば、田舎のある村から、都会に出てきて、盛り上がる感覚に近く、例えば、あえて政治家でいうなら、現総理が広島出身だから、広島というだけで盛り上がるのと同じで、他県民からすれば、マイナーな盛り上がりにすぎなく、ある意味、迷惑な盛り上がりといえるかもしれない。少なくともコスモポリタンではない。さて、話を元に戻すと、米国ではベースボールの人気がないのは、メジャーリーグの広報も下手な理由もあるが、大半の米国人の関心が他のスポーツの、アメフトやバスケ、最近はサッカーにいっているからで、米国人の現代感覚からは、ゲーム展開が、退屈という理由が挙げられている。総じていえば、ベースボールは、米国では古いスポーツ文化で、最も知名度が高いメジャーリーガーは今でもベーブルースなんである。だから、大谷ってフー?と言われれば、ベーブルースを成績で越えた選手といえば、へぇーとなるはず。いまは、スポーツ史上最高契約額の選手のほうがいいかも。米国人にはほとんど見限られたベースボールだが、日本ではサッカーと二分するほどの人気である。また、今回の、ゴジラや、ジブリ作品のアカデミー賞受賞をみると、日本人には、まだ、捨てられた文化を再生させる能力があるのに、気づかされる。日本では、一時期、「勿体ない」運動というか、リサイクルの推奨が、社会的課題となってきた背景がある。ベースボールが野球として日本文化になったのは、日本列島という、ガラパゴスな文化形態をつくるのによい、閉鎖的な、地政学的な環境に起因するように思える。そう、つまり、大谷選手は、ベースボール文化の申し子ではなく、ガラパゴスな野球文化の申し子といけるかもしれない。古き良き文化を再生し、甦らせる、ベーブルースの生まれ変わりなのかもしれない。ベーブルースの輪廻転生の生まれ変わりというか、リサイクルの人物なのかもしれない。第5回 ガラパゴス | 続 10分でわかるカタカナ語(もり・ひろし & 三省堂編修所) | 三省堂 ことばのコラム (sanseido-publ.co.jp)日本という国は、古き良き文化を保存するガラパゴスでありながら、新しく生まれ変わる、再生のリサイクルの文化を生み出す土壌なのかもしれない。それは、大谷選手のドジャースのオープン戦の動画を見ていた後で、日本には、インドでは使われなくなったサンスクリッド語が残っている、という動画を見たことで、気づいた理念でもある。日本のこれからの使命は、古い文化の再生なのではないか?と思った。だから、日本は一度、シュタイナーの預言のように、死なないといけないのかもしれない。特に、巷の政治家の恥晒しを見るたびに、そのような想いが濃厚に積み重なってくる。その動画によると、日本語は、漢字とインドのサンスクリット語をミックスして新しく作り直した言葉だという。中国とインドはいまでも仲がいいとはいえないが、それは古代文明の意味でも、中国には中華思想が残っていて、古代インドにはヴェーダンダ―、サーンキヤ、ヨガなどのヒンズーから、現世を幻想と捉える思想が残っている。つまり中国は現世を統治する意識が強く、インドは現世を幻想とみる意識が強いので、中国は唯物に走りやすく、インドは唯心に走りやすく、水と油なんである。【海外の反応】「インドが失ってしまった文化が、なぜ日本に残っているんだ…」世界で日本にだけ残る文化にインド人が大号泣…【日本のあれこれ】 (youtube.com)だから、中国とインドが極端に走れば、対立を生むのは必然といえるかもしれない。しかし、日本には、古い中国の文化も、古いインドの文化も、その残滓として日本語に残っていることからも、その断片から、融合の精神を新しく作り直せる余地があり、しかも、両国の橋渡しとなる、仏教の思想と信仰心を篤くもつ文化なのである。バチカンがキリスト文化を通じて、西洋諸国の文化を調停できるのに似て、日本も仏教文化から、精神的に調停できる可能性を秘めているかもしれない。しかも、日本の文化には、古代イスラエルの、中東文化の残滓も残っていて、赤い鳥居は、モーセの契約の書を意味している。虎の巻とは、トーラーの書である。だから、日本はガラパゴスの古い文化から、リサイクルの新しい文化を生み出す基点となる可能性が挙げられ、それは、大谷選手や、今回のジブリのアニメ作品や、ゴジラの特殊技術などに現れているように思えるわけなんである。だからまず、日本という国をリサイクルし、再生させないといけない。オッペンハイマーの物質的な原子核分裂の核兵器ではなく、精神的な原子核融合の物質的な水素ではなく、霊的な精神融合の愛のリサイクル文化装置をつくり出す必要がある。アニメにはその可能性が秘められているように思える。ジブリの作品に感動しない地球人がいないように。ゴジラは邪な物質支配欲を木っ端みじんに破壊してくれる、霊的な愛のリサイクル融合キャラになるべきである。面白いことに、八切史観からわかるが、古代から、日本列島は、他国の亡命者が辿りつく地だったようである。船の遭難でも、辿り着く島でもある。だから、様々な古い文化や習慣が、この島国に辿り着き、受け入れられ、独自の進化を遂げたわけで、異種文化のガラパゴスとなったわけなんである。いま和食がアニメとともに、インバウンドのブームになっているが、ほとんどの和食は、日本発祥のものではなく、例えば、もともとカレーライスはイギリスからの輸入で、日本でリサイクルされて、鶏肉のカツカレーとして現地で逆輸入されてブームになってるのも不思議である。スパゲティのナポリタンも、イタリアにはなく、アメリカ人に求められて、ケチャップでつくったのが最初だったというし、ミートソースも、同じで、日本でつくられたもので、肉じゃがは、イギリスのビーフシチューのレシピから想像して生まれ、天ぷらも、スペイン料理の物真似で、先日TVでみたが、フランスでブームになっている餃子やラーメンは、中華料理からきたのを日本人風にした、リサイクル料理だというわけなんである。本場の中国では、餃子は水餃子か蒸し餃子で、焼き餃子は、前日に残った餃子を食べるために焼いたもので、客には出さない家庭での残飯処理の料理だったという。だからいわば、食品ロスを減らすための料理だったといえる。日本で町中華となっている料理は、日本でリサイクルし、新しい文化となった、その名の通りの、融合という意味の、和食といえるわけなんである。日本人が太古からの和人、大和人となるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 人間の自由は、ルシファー的な、月紀の存在たちに負っている。しかし、ルシファーたちは人間を正しい進化から逸脱させる為だけに存在している、というような一面的な見方では不十分で、むしろ、人間は、ルシファーたちの背後にある進化から遅れた能力を、善導して、その悪しき能力無しには、人間という価値、つまり愛という真の言葉の意味において、自由を獲得できない事実を見逃してはいけない。 とはいえ、ルシファーたち、そしてアーリマンたちの背後にある、進化から遅れた能力と呼べる自由の根幹には、より深い何かが横たわっている。既に古「土星」上で遭遇したが、その根幹を感じ取るのは極めて困難で、それを特徴づける、いかなる言葉をみつけるのも困難である。 とはいえ、太陽紀で示したような、諦め、もしくは断念の概念をイメージでき、古「太陽」の現実へと遡れるなら、その根幹を明瞭に特徴づけられる。というのも、ルシファーたちが進化から遅れた事と、その影響による、その根幹は、高次の天使たち側での、諦め、もしくは、古太陽という、天国からの拒絶のなかに横たわっているからである。 人智学徒は、この根幹を、古「太陽」上での、次のような出来事からイメージできる。人智学徒は、トローネ(意志霊)がケルビムに供儀を捧げた、のを知っている。地球の進化を遡り、見てきたように、トローネは、供儀を「土星」紀だけではなく、「太陽」紀にも捧げ続ける。 トローネ、つまり、意志霊は、「太陽」紀でも、ケルビムに供儀を捧げる。火、もしくは熱となって、地上の物質界にもある、全ての愛の、実際の本質は、この供儀にある、のを見てきた。さて、 もし、アカシャ年代記(=虚空記録体)を遡って見るなら、「太陽」紀に何か別の出来事が生じたのにも気づく。 トローネたちは犠牲を捧げ、犠牲行為を続ける。人智学徒は、犠牲を捧げるトローネを見る。また、多くのケルビムたちに向かって、トローネ自らの犠牲が捧げられ、その犠牲から、熱や、火が、ケルビムに流れ込み、受け取るのを見る。けれども、同時に、多くのケルビムたちが、その火の犠牲を拒絶し、受け取らず、この火に与らない。この火の拒絶を感じ取れれば、この講義の土星紀で述べた、曖昧なイメージを明瞭にできる。 このイメージのなかには犠牲を捧げるトローネ、そして、犠牲を受け取るケルビムが見られるが、自分に向かって突き進んでくる犠牲を受け取らずに、反射するケルビムも見られる。この出来事を、アカシャ年代記のなかに辿っていく、のは途方もない困難を要する。 つまり、人智学徒は、「太陽」紀に、大天使によって「太陽」の最外殻から光の形で反射される供儀の煙が上昇するのを見るが、それは、叡智霊が、犠牲の熱のなかへ、与えるという徳を流し込む行為による。しかし、また何か別の行為も見る。 古「太陽」の広がりの内部で何か全く別の、つまり、大天使が光として反射せずに、ケルビムも受け取らないために、供儀の煙が逆流する、のがみえるが、そのため、「太陽」の広がりのなかには、上昇する犠牲と下降する犠牲の供儀の煙、すなわち、受け取られる犠牲と、拒絶され、戻される犠牲が存在する。 この太陽紀の、実際の精神的な雲の霊的なイメージによる、「太陽」の拡がりを通じての、人間の自我のなかの、ホンモノの自我(=霊我)との遭遇は、この宇宙と、地球の進化のなかで、人智学徒が、しばしば、外と、内と呼び、区別した、外の、内のなかにみつかる。それはまた「太陽」上の2つの次元のなかの別々の層としてもみつかる。 このように、太陽の、中央には犠牲を捧げるトローネと、高次の愛から、供儀を受け取るケルビムを、また、供儀を受け取らず、方向転換させて、元に戻す、ケルビムたちがみつかる。この方向転換させ、戻すのを通じて、環状の雲が生じ、そして、その周囲には反射された光の塊が見つかる。
2024年03月14日
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先日、BSNHK番組で、現代科学での、宇宙人探索をみたが、相変わらずで、科学的思考も吟味せずに、全てを物質で捉えようとする愚かさに呆れてしまった。現代人の知性が、生命に対して未完成なのに気づかず、生命をそのまま理解できず、物質の構造変化でしか理解できず、しかも覚醒意識においては、破壊に基づく、部分的な分類でしかないのを、その根底から理解しない限りは、宇宙人などみつかるわけがなく、無用の長物と化すだろう。見つかると言う根拠が曖昧で、曖昧さ故の確率論で、みつかるはずなのに、みつからないのは、探索方法が無駄なのが少なくとも明白である。そもそも、みつけようとする人類の目的が明確でない限り、高度な知性の宇宙人が、地球人などの探索にかかるはずがないだろう。我々人類同士だって、ヒトと会うには、なんらかの目的を共有しないとはじまらない。あてづっぽうにやられても、迷惑千万なだけである。詐欺の偽メールと同じである。高度な宇宙人が、低次の地球人の詐欺に引っかかるほうがおかしい。宇宙人にとっては、害獣や害虫のように、巷の、大谷選手の結婚相手を探索するパパラッチやストーカーのようなマスコミのような煩わしい存在にすぎない。もしみつかるとしたら、地球人よりも低次な知性の持ち主で、それらは、地球人に敵対する可能性が高いだろう。寝た子を起こすようなものだろう。巷で話題となった、都会に出て食物を探すクマ騒動と同じだろう。宇宙人と遭遇して、殺されるのがオチである。人類のような低次な獣に襲われては低次な宇宙人ですら迷惑千万である。馬鹿な地球人は、侵略している気持ちすらないから、地球圏外を出れば、宇宙への侵犯になるわけで、アホである。ロシアのプーチンと同じ思考でしかない。結局、現代人の探索方法が、人間の未完成な知性の、土台に基づいているのだから、砂上の楼閣なんである。はっきりいえば、現代人の知性とは、真逆の方向に進まない限りは無理なんである。いってみれば、我々人類も、高度な宇宙人の手足だからである。高度な知性の基に、低度の知性が築かれるから、つまり、創造力の基に、破壊力が生まれるのだから、破壊からは何も生まれず、絶えず、破壊という低い知性から、それ以下の低い知性しか生まれない。現代人は古代人よりも遥かにアホ馬鹿で、だからプーチンのような究極の馬鹿が生まれてしまい、ヨハネの黙示録では、賢い善人と、アホ馬鹿な獣のような悪人に分かれると預言されているわけなんである。どんなに生きる気でいようが、高齢には勝てずに、結局野垂れ死にし、死後に、自らが殺めた霊魂たちに寄ってたかって八つ裂きにされ、復讐されるのがオチである。無間地獄が待つだけだ!宇宙人探索よりも、死を解明する方が先であろう。死後の世界も知らないで、宇宙人探索などできるわけがない。高度な文明を、他の天体に求めるのも無意味である。なぜ現代が最も進んでいる、と思うのか?その思い上がりと、プーチンの侵攻とどこがどう違うのか? 地球の自然破壊すら食い止められないのに、なぜ現代人が高度の文明を築いたといえるのか?いずれにしろ、現代人は生命以下の物質現象しか理解できない、のである。例えば、古代文明を、その遺跡から理解できないのは、古代人よりも、低度の知性しかもたないからである。古代人よりも、馬鹿だから、科学が発展すればするほど、競争が激しくなり、物質破壊により、いまだに、戦争しているわけである。古代アトランティス時代の大破局により、宇宙についてのそれまでの高度な知性は失われてしまったわけで、大破局というのは、いわば、それまでの、タマゴの卵白のような世界から、物質界というタマゴの硬い殻のような世界ができたわけだが、そのために、古代の叡智の、卵白を感じる感覚や知性を失ってしまったわけなんである。聖書の記述では、マヌと呼ばれたノアだけが高度の知性をもち、次の人類に教え説いたという。だから、再度、創造性の柔らかい知性と、その感覚を取り戻さない限りは、高度な知性に向かって進むのは不可能なんである。固い物質よりも、より柔軟な不可視の知性を再獲得しないと、その柔らかい知性からみれば、現代人の知性はあまりに硬直し過ぎて、硬く、未開人のような、破壊的知性なんである。第一、宇宙人を探索しようとする動機が不純である。知的好奇心というと、聞こえがいいが、知的欲求といえば、ある意味、乱暴に聞こえるだろう。物質の構造を知るために、物質を破壊するのは、知的欲求で、動物実験もその類である。知らなくてもいいことを、知ろうとするのは、例えば、赤ちゃんにピストルをもたせる、のと同じではなかろうか?現にプーチンが核兵器をもっているから、ウクライナに侵攻できたわけで、独裁者や権力者に高度な知性を与えたら、何をするかわからないほど危険である。オッペンハイマーが原爆をつくらなかったら、広島、長崎に原爆が落とされ、大量殺人も行われなかっただろう。大量殺人をしたものは、何百万人もの被害者の怨念や死の苦痛を、死後に、地獄でそのまま苦しみを味わい、のたうちまわるだろう。天国から出禁を食らい、永遠に彷徨えるユダヤ人となるだろう。古代人が、死者の書として既に、最後の審判などから伝承しているのを読み解けばわかる道理である。知的好奇心や知的欲求が招いた悲劇が、現代人の核兵器といえるだろう。現代人は、古代アトランティス時代の叡智を再び獲得しないといけない。現代人は、古代アトランティス人からみれば、未開人で野蛮人だからである。生命の尊さを理解できていないからで、それは覚醒意識ではなく、眠ったときの潜在意識から、第六感、超感覚により獲得できる感性で、それらは前世を観れる能力から現れるらしい。だから、覚醒意識で、何をしようが、覚醒意識自体が、高度な知性ではないので、無駄なんである。少なくとも、睡眠中の潜在意識を、覚醒意識に近づける必要がある。つまり、夢を、覚醒意識で解き明かせないとダメである。夢のなかで、高度な知性の天使たちとともに、覚醒時の人生の計画を練り、前世から、人生をやり直すだけの、創造力を獲得するからである。灯台下暗し、というが、灯台の光が、高度な知性であり、我々人類は、その高度な知性の光を使って、灯台のように、遠くを照らしているわけで、元々の光をそのままみることができないから、その光よりは、どうしても、暗くなるわけで、自分の眼を自分で見れないのと同じで、高度な知性の宇宙人を、照らし出すのは不可能なんである。照らし出したとしても、その一部であり、欠片や断片にすぎない。人間もそのまま自分の姿全てがみれない。鏡に写しだしても、表面だけで、しかも表だけの、左右逆になる。体内や内臓もエックス線でしかみれないし、しかも、それは固い物質部分でしかない。現代人の知性は部分的で、包括的ではないからである。また、それら光や電磁波で、より遠くを映しだそうとすればするほど、高度な知性が低レベルになっていくわけで、つまり氷山の一角をより小さくみるようになる。だから、現代人は統計や確率論を持ち出すようになるが、それは所詮、全体の一部でしかないので、確率論では、1をどれだけ少数や分数に分布させるか、分割するかになってしまい、結局は、物質的な経験論からの予知論の問題に行きついてしまう。予知すればするほど、全体の1ではなくなるので、無意味になるわけで、地震予知が不可能なのは、この理由による。確率論でいかに低いといっても、起こらないわけではなく、ましてや量子論的には、トンネル効果もあって、確率がゼロに近くてもゼロではない。だから、地震の少ない確率の土地に地震が起こるわけで、それが神戸や能登だったわけなんである。地震を司っているのは地球にある月の波動なんで、エーテルを検知できないと無意味なんであり、科学ではエーテルを否定しているから土台無理なんである。だから、高度な知性に向き合わない限りは、覚醒意識では、真逆の方向に進むだけなんである。要するに、宇宙人がいない方向に進んでいるだけなんである。地震予知と同じで、地震確率の少ないのを狙って地震を起こせるからで、何事も性善説で起こるわけではなく、現代人は現状しか判断根拠を得られずに、あえていうなら、より宇宙人がいない方向に進んでいる、といえるだろう。だから、宇宙人探索は、我々地球人が最も賢いという鼻を高くするための、天狗になるために行われているにすぎない。たとえ、宇宙人の断片をみつけても、宇宙人という確証は得られない。地球人が、地球という星で生活する限りは不可能なんである。少なくとも、地上の重力を感じる感性を捨て去らないといけない。地球環境で生きられる生命体が、地球生命体なんである。それは高度な知性を、地球化しているからにすぎない。だから、地球化された知性で、他の天体を探索しようが、地球ではない時点で、無意味なんである。地球との違いが現れるだけで、地球から見える姿でしかないからである。探索船を打ち上げようが、電波で情報を伝える時点で、地球化されているからである。このような地球人の知性、つまり、人類が知的生命体であるという、偶像崇拝を捨て去らない限りは、高度な宇宙人をみつけることはないだろう。そのような知的信仰こそが、宇宙人の発見を阻む最たるものだからである。さて、また先日、BSNHKで、原子爆弾を開発したオッペンハイマーの伝記をやっていたので、そのことについて書こうと思ったのだが、漫画家の鳥山明氏が亡くなった、ので、急遽、哀悼の意を込めて、鳥山明氏の漫画についての想い出を書きたくなった。鳥山漫画は、ドラゴンボールで有名だが、個人的には、Drスランプが、ギャグ漫画として、漫画界のブレークスルーに思える。それまでの漫画といえば、スポ魂か、子ども向けの、仮面ライダーのような戦隊モノがほとんどで、ギャグに徹する漫画は少なかったからである。そもそも漫画とは、滑稽さや風刺などの、コミカルな表現からはじまったようにみえるが、手塚治虫という、漫画の神様が出てきて、漫画を小説の文学や哲学に変えたようにみえる。手塚氏の漫画は、従来の漫画を超えた作品といえるだろう。手塚氏のブッダや火の鳥などは、一種の哲学を描いているようにみえる。その後の、藤子不二雄氏や、松本零士氏のSF漫画が活動分野の裾野を拡げ、更にリアル性を求める多様な劇画調のスポ魂モノなどが流行っていき、昭和の漫画の主流派を形成するようになってきた。日本の漫画の歴史 - Wikipediaだから、60年代から70年代には、従来の、滑稽さや風刺などの、コミカルな表現の漫画、俗にいうギャグ漫画は、本来は正統派なのに、有名なのはほとんどなく、新聞に載る4コマ漫画などの、子どもにとっては、亜流というか、異端派に格下げされた感があった。というのも、手塚氏がギャグ漫画を描かなかったせいといえるかもしれない。ギャグ漫画で有名なのは、ほぼ赤塚不二夫氏しかいなかった。しかし、鳥山氏が出てきた当時の80年代は、ギャグ漫画ルネッサンスともいえるかのようなギャグ漫画ブームが到来して、それ以前のギャグ漫画といえば、赤塚不二夫氏の天才バカボンや、おそ松くんなどの、赤塚ギャグ漫画の独断場だった感がある。赤塚漫画といえば、いまでも密かに知られている、イヤミのシェー!や、馬鹿なのか天才なのかわからない、CMでも、お馴染みな、バカボンのパパや、逮捕だ!といって、ピストル打ち鳴らすお巡りさんや、ウナギイヌ、「お出かけですか、レレレのレ」の掃除のおじさん、など一発ギャグ満載の、まるで一発芸人を漫画にした世界にもみえる。シェー - Wikipedia赤塚漫画の一発屋キャラは、人物を綺麗に描くよりも、デフォルメしたギャグセンスに重きを置き、ヘタウマな絵で、現実へのカリカチュアに徹した、独特の虚像、虚構表現満載の赤塚ワールドの住民だったが、対照的に、鳥山漫画は、確かにカリカチュアもあるが、まるで芸術作品のように、人物を綺麗に描き、そのままフィギュアにすれば、斬新的な彫刻やモデルになるくらいの、現実を超えた、未来の、どこかリアルな鳥山ワールドの独創性を感じさせた。カリカチュア - Wikipediaというのも、鳥山漫画にはイラストレーターのような、どこかモダンアート性、アンディウォーホールのポップアートをギャグ漫画にしたような洗練さを感じさせたからである。鳥山漫画に出てくる、どのキャラも、ポップアートのような芸術作品にもみえる。アンディ・ウォーホル - Wikipedia特に好きなのが、ニコチャン大魔王である。ニコチャン大魔王の地球(ちたま)征服には笑わせてもらったし、梅干し食べてスッパマンのセコいキャラでも笑わせてもらった。ドクターマシリトの憎たらしさも面白かったが、なにより、それまで、汚いものとされていたウンチを、芸術作品にして、ウンチ君という生き物にしたのは、ギャグ漫画革命といえるかもしれない。このような鳥山ギャグ漫画の他にも、江口寿史氏のすすめパイレーツや、鴨川つばめ氏のマカロニほうれん荘、高橋留美子氏の、有名な、うる星やつら、ゆでたまご氏のキン肉マンなど、当時の80年代は、ギャグ漫画のルネッサンスといえるぐらい、ギャグ漫画が盛り沢山だった。つまり、鳥山漫画は、漫画キャラのポップアート化に、その神髄があるようにみえる。世界共通の漫画キャラで、現在のアイコンの先駆けといえるかもしれない。個人的には、Drスランプは、当時の米国人の漫画キャラのポップアート化にみえる。というのも、ペンギン村は、日本(作者の出身地らしい)となっているが、どこか、米国の田舎の村っぽさも出ているからである。そして、ドラゴンボールは、鳥山氏が、西遊記をネタにした漫画と言っているように、古代の中国を、現代未来風にポップアート化したような世界で、発刊当初はギャグ漫画路線だったのが、当時大人気の北斗の拳の影響を受けて、格闘路線に変更したようである。当時の週刊ジャンプは、北斗の拳が凄い人気で、他にもキャッツアイやシティハンター、キン肉マンなど、もはやいまでも伝説となっている。アイコン - Wikipedia北斗の拳 - Wikipediaシティーハンター - Wikipedia80年代の漫画の教科書が週刊少年ジャンプだったといえるかもしれない。ジャンプ漫画のキャラを知らない人は少なく、Drスランプのアラレちゃんやドラゴンボールの孫悟空、北斗の拳のケンシロウや、シティハンターの冴羽遼などはお馴染みだった。これら主人公の漫画内での展開が、天気予報と同じで、日常の話題だった。巷の、鳥山氏の追悼ニュースをみると、鳥山氏は主要キャラ以外は度々忘れてしまい、記憶の断片から、その都度新キャラをつくりあげ、古キャラを忘れないと、新キャラがつくれないと、言っていたという。サイヤ人の髪の色が、漫画の紙面では、白なのは、黒のベタ塗りが面倒くさかった、という、有名な都市伝説もあるが、黒に塗るのを忘れていたのかもしれない。超サイヤ人の金髪は「黒の塗りが面倒だから」じゃない。|鈴木 優一 (note.com)その都度、キャラを更新していく描き方は、ある意味、疑問や問題をその都度解決していく、数学者にもよく似ている。古代ギリシア人からすれば、現代の漫画家は、現代の代数学の数学者よりも、数学者のようにみえるかもしれない。というのも、現代の数学者は、大自然を、言葉の代わりに、数で表現する、代数学者と、幾何学で表現する、幾何学者がいるが、古代ギリシアでは、ほとんどが幾何学者だったからである。つまり、鳥山氏のような現代の漫画家は、大自然を、幾何学から発展した、アイコンの、擬人化によるキャラクターで表現しているからである。だから、大自然をアイコンのキャラで表現する、鳥山氏は、古代ギリシア人からすれば、数学者のようにみえるかもしれない。鳥山氏の数学者的な長所が、恐らくドラクエなどのヴァーチャルなゲームの創作活動に巧くマッチしたようにみえる。確かに、日本のアニメには、古くからのアミニズムからの擬人化が、上手く取り入れられていて、その最たる例がロボットで、手塚氏の鉄腕アトムといえるが、手塚氏の自画像は、本人似だが、鳥山氏の自画像は、なぜか、本人とは似てもしないロボットなのが面白い。鳥山氏の画力からすれば、本人の自画像ぐらいは容易なはずだが、ロボットなのはいかにも不思議である。アニミズム - Wikipedia擬人化 - Wikipediaほとんどの漫画家は自画像を描いているが、鳥山氏には本人似の自画像が無いのも不思議である。その代わりに、周囲の人物が、漫画に登場させられている。ドクターマシリトは、当時の編集者で、読者にも、締め切りを迫る憎っくき相手と紹介されている。センベエ博士は、高校の先生がモデルらしい。ペンギン村のモデルは、出身地の清州市という噂もある。鳥山氏が、他の漫画家と違うのは、キャラに合わせて、有名な創作言葉を生み出しているところである。アラレちゃんの、「んちゃ」「ほよよ」「おはこんばんちわ」「バイちゃ」などや、孫悟空の、かめはめ波、元気玉、界王拳など、技に名前をつけるのは、北斗の拳と似ているが、北斗の拳の技名はほとんど知られずに、アタタタタと鍵盤を打つかの如くの連打と、「お前はもう死んでいる」というセリフで、ヒデブ―と言って死ぬ言葉だけが印象的だったが、対照的に、かめはめ波の知名度は抜群で、戦隊モノやウルトラマンの技に近い。則巻アラレ - Wikipedia孫悟空 (ドラゴンボール) - Wikipediaそこで、かめはめ波を調べてみると、カメハメハ大王に由来しているらしいが、その技の仕草は、合気道にも近いような遠いような、独創的な拳法にみえる。ある意味、赤塚不二夫氏の、イヤミのシェーにも似る印象を与える。そして、技のネーミングは、ドラえもんの、4次元ポケットから出る未来の道具にも似ている。かめはめ波 - Wikipediaかめはめ波は、いまでも世界的なアニメファンにより、知名度抜群で、ドラゴンボールファンのコミュニケーションツールとして、独創的な拳法の型として知られているが、鳥山氏の独創性が面白いのは、アラレちゃんに、「めちゃんこ」を言わせることで、当時、「めちゃんこ」が大流行したことがある。漫画から、流行が生まれるのは革新的といえるかもしれない。独創的で革新的な、フォンノイマンや、アランチューリングなどの数学者が、数学から、コンピューターをつくったように、鳥山氏は、ドラクエのようなロールプレイングゲームをつくった。コンピュータはいわば演劇の舞台設定で、ロールプレイングゲームは、疑似演劇といえるわけで、人生の役割分担を疑似ゲーム化したものともいえるだろう。ジョン・フォン・ノイマン - Wikipediaアラン・チューリング - Wikipedia役割演技 - Wikipedia鳥山氏の独創性の凄さは、現実世界の嫌われもののウンチを、キャラ化したアイコンにし、ペンギン村のなかで、擬人化され、アラレちゃんのペットのような遊び相手にしたところにある。この一見して醜悪なもののなかにも、愛嬌を探している洞察力に驚かされる。それは、キリストが、道に転がっていた犬の死体をみて、歯が綺麗だと言ったように、醜悪のなかに、美を見つける態度と似ている。シュタイナーは、動物の糞には、植物の肥料となるような、霊性を育てる養分が潜んでる、と述べている。古代エジプトでは、生命の排泄液を、ミイラと呼び、糞や尿や汗などから、排泄した生命の霊性を探ったという。つまり、古代人は、ウンチから、ウンチを出した生命体を、霊的に推測できた。だから、鳥山氏のウンチ君が、生きているように、ウンチも霊的には生きている、といえるだろう。このような、なにものにも、霊性を探求する姿勢について、前回紹介した、3つのグナをあてはめると、サットヴァに相当する。古代インド人が、鳥山漫画の作品をみれば、ヨーガやサーンキヤの理念から、サットヴァの態度と評価するだろう。古くはアニミズムといわれ、古代ギリシアでは神格化、キリスト降臨後の、中世では擬人化となった、この万物に霊性を求める態度を、サットヴァという。ちなみに、サットは、万物という意味で、ヴァは、見通すという叡智の意味らしい。ドラゴンボールの7つの球は、人体のチャクラを暗示していて面白いが、鳥山ワールドは、どこか宗教観を感じさせるのも不思議である。この万物を見通すサットヴァの目が、霊眼で、それは万物と合一する愛の犠牲の態度らしく、どんなものにも愛情を注ぐ、どんなものにも美しさを感じる態度といわれているらしい。つまり、万物を創造性に導き、善導するのが、サットヴァ的な態度のようである。これとは逆の、万物を奴隷化し、モノ化し、とくに生命を唯物化するのが、タマス的な、闇の態度らしい。大自然を、自分の召使いかのように、奴隷化し、扱う態度を、タマスと呼ぶ。例えば、巷の懇親会に、破廉恥ダンサーを呼ぶような議員たちは、ヒトをモノ化しているので、古代インド人のサットヴァを体現した菩薩の賢者がみれば、タマスと判別されるだろう。ちなみに、万物に親しみ、善導する、サットヴァと、その逆の自分しか考えられない、タマスとの中間の、自分に利益が見込めるときだけ、関係を求める態度、利益のない場合は、我関せずの不干渉の、打算的で、表面的な、利害関係の付き合いを、ラジャス的態度と呼ぶらしい。だから、万物に、愛を追求する態度がサットヴァで、場合に応じて、利害関係で愛を追求するのが、ラジャスで、自己愛のみを追求するのが、タマスといえるかもしれない。だから、形だけの対応、例えば、一時期、巷でいわれたマニュアル通りのマックスマイルは、ラジャスといえるかもしれない。つい最近、巷の芸人の発言で話題になった、医薬分業体制の、薬剤師の問診なども、保健点数稼ぎの形だけの対応なら、ラジャスといえるかもしれない。②資料1 (mhlw.go.jp)wp027.pdf (med.or.jp)これからの病院経営を考える 第6回 変革を求められる薬局業界―今何が起きており、今後どこに向かうのか― | PwC Japanグループだから、心のない素っ気ない対応、自分の欲望を満たすだけの態度、自己目的でしかないエゴを、闇のタマスと呼ぶようである。というのも、それは本当の自分ではなく、自分から派生した物欲のエゴの、虚栄心の、幻想の自己をみているにすぎないからである。偽物のエゴを、自己と捉えるのは、自己の詐欺師である。現代には、タマスが横行している。そのようなタマス的な、唯物的な態度を続けていると、人間はヒトという生命から、神性を失い、獣のモノと化していくだろう。自分の欲望のために、宇宙人をみつけるのは、ラジャスか、タマスといえるだろう。少なくとも、宇宙人を尊敬しているのなら、宇宙人の側に、我々人類が行って近づくしかない。自分の欲望を解消するために、宇宙人探索をする、現代人の邪な態度を、高度な知性の宇宙人は、まるっきりはっきりとお見通しで、サットヴァしているので、そのような科学者に、正体を明かすことはないのである。宇宙人探求法は、物質的観測法では無意味なのであり、古代から伝承されているように、愛に対して祈ることにある。漫画家が、作品に身を削り、愛を込めるのは、漫画の世界への、愛の祈りなんである。そして、愛が、キャラとして、脳裏に降臨し、イメージとして現れ、愛が一つとなり、ペンを動かす。愛されるキャラが生まれるのは、作者が愛をどれだけ込めたかにある。アラレちゃんも、悟空も、高次の宇宙人との愛の絆で、愛の結晶なんである。人間はエッチだけで子が生まれる、と物質的に思い込んでいる。エッチは通過儀礼でしかない。愛への祈りから、宇宙人はいつでも愛として現れる。人類が宇宙人側の愛に寄り添い、サットヴァになれるかどうかの問題である。自らが愛に近づけば、愛は自ずと現れるのを、サットヴァするために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 創造的な諦め、創造的な断念の概念を理解しなければならない。諦め、もしくは創造的な断念(これは魂の中で実際に経験できる)を、日常の生活から、遙かにかけ離れた思考として認識するのが極めて重要である。そのとき初めて、人類の進歩において、一歩先に進める。 というのも、「太陽」から「月」に移行する進化において、実際に、このようなことが起きたからである。そのとき、何か諦めに似た事柄が、高次の存在たちの領域で生じたが、それらの存在は、「地球」の進化に結びついた。 この理解のために、再度、古「太陽」での進化を考えてみる必要がある。しかし、その前に、人智学徒には、お馴染みの、現代に至る過程で生まれた、ある意味謎めいて見えた存在に注意を向けてみる。 繰り返し指摘してきたのは、進化の過程で、後に取り残された存在にまで遡れる、人類の発達に先行する存在たちである。実際、人智学徒は、ルシファー的な存在たちが、地上の人間に介入している、のを知っている。 そして、再度、指摘したように、これらルシファー的存在たちは、古い「月」紀に達成できたはずの発達段階に到達できなかったために、地球紀では、我々人間のアストラル体に侵入できるようになった。 宇宙進化史の文脈の中で、頻繁に、簡便な比喩を用いたが、人間が落第するだけでなく、天使も、発達段階を全うできず、後から生まれた他の存在たちの発達段階に介入することだった。そのように、ルシファー的存在たちは「月」紀において、後に取り残され、「地球」上で人間たちに介入している。 ルシファー的存在たちには、何らかの知的な欠陥があったから、宇宙進化から遅れた知的障害者に違いない、でなければ、なぜ達成できたはずだ、と安易に考えがちである。そのような考えを持ちがちである。しかし、また別な考えもできる。 『月』上にて、ルシファー的存在たちが取り残されなかったら、人間は決して自由を獲得できなかった。自らで決定する為の独立した能力を発達させるのは不可能だった。 自由を獲得する一方で、我々人間はアストラル体の中に欲望、衝動、熱情をもっていて、常に、ある高みから、駆り立て、低次な自我へと引きずり下ろそうとするのは、ルシファー的存在たちに依る。しかし、このアストラル体の中の、ルシファー的存在たちの力を通して、善から彷徨い出て、悪になる能力を持たなかったなら、自由に行動することも、自由意志、もしくは、選択の自由と呼べるものも、人間は自己のなかにもてなかった。
2024年03月12日
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エベレストのような山に登らなくても、誰しも、山登りほど、辛いものはない、と思ったことがあるだろう。そんな辛い登山をなぜするのだろうか? 人はなぜ山を登るのか? 頂上の景色が美しいからか、しかし、今は飛行機やヘリコプター、ドローンもあるが、それでは達成感がないといわれるかもしれない。空撮の映像からは感じられない体験がある。また山や崖から飛び降りるパラグライダーや、鳥のような翼で飛ぶ命知らずの人もいる。登山家ジョージ・マロリーの有名な登山への応え「人はなぜ山を登るのか、そこに山があるからだ」からすれば、登山を人生に置き換えて、「ヒトはなぜ生きるのか、そこに人生があるからだ」という答えになるが、やはり、苦労を乗り越えた達成感、悦び、苦痛から解放された解放感、過去の自分とは決別し、成長した自分、なんらかの自分の壁や殻を破った感覚を、新しい感性を獲得したいため、といえるのかもしれない。ジョージ・マロリー - Wikipediaヒトは、日常の物質界のなかで生きながら、心底では、物質界を超えたい、と願っている。この冒険心が、ヒトをして、山登りをさせるのかもしれない。いうまでもなく、日常の生活は、物質界を破壊することで、覚醒意識を獲得し、ヒトは生きている。そのために、地球の環境は破壊され、地上は都市化され、人間は大自然の営みから解放され、自由に活動し、現代人は自我を確立し、自立して、経済生活を送っている。そして、現代人は、地球の大自然を超えて、月や火星に行こう、としている。月や火星にも、地球と同じ環境を求めて活動し得ると確信し、思い込んでいる。月や火星にも物質界があると信じ込んでいる。月や火星に無人探査を送り込んで、探査船から映像を送ってくるが、果たしてそれは本物の月や火星なのか、コンピューターにより映像化し物質化しているだけではないのか? 宇宙船は飛行機やドローンのようなもので、本当に、山登りをしているのか?という疑問が生まれる。地球とは別の天体を電磁波の光や電波で解析して、物質化しているが、その科学的考察、その物質的な過程は果たして正しいといえるのだろうか? 物質界が全て、と、どうして信じられるのだろうか?我々地球人、自らを知的生命体と呼ぶ人間は、地球以外には、太陽系には存在しないと、物質科学では、覚醒意識から断定するが、それは現代人が唯物論に洗脳されているからにすぎない、単なる妄想だと、古代叡智や、シュタイナーは解き明かしている。我々、地球人は、地球という叡智の山を登っている、にすぎないのである。地球を中心にした、物質界、人智学でいえば、鉱物界を全てだと認識しているにすぎないのである。むしろ、叡智を鉱物に譬えるのなら、地球という山を登っているのではなく、谷を真っ逆さまに堕ちている、といえるかもしれない。前回紹介した人類の進化数からすれば、人類、つまり地球人は、他の天体に住む、宇宙人の意識、つまり叡智と比較すれば、谷を転げ堕ちている段階にある、といえるかもしれない。巷のこの国の裏金政治家をみれば明らかである。【シュタイナー】地球紀の進化過程について~現在はポスト・アトランティス時代~ | Noos Eggs (cosmolifeology.com)上に紹介したサイトは人智学の教科書にもなるので必見である。そこで、地球人の現状、つまり叡智の獲得、あるいは意識段階を、山登りに譬えると、第5文化期(アーリア文化期とも呼ぶ)の下りに相当し、山を登っているのではなく、谷を下っている最中で、これから山登りが始める段階にある、といえるわけなんである。これから物質界の破壊の世界を乗り越えて、創造力を再び取り戻す、第6文化期の登山がはじまるわけなんである。第5文化期の特徴といえば、物質文明による自己確立の時代といえるかもしれない。このまま破壊が進めば、核兵器での戦争のように人類滅亡も充分に考えられるのは、ロシアのプーチンやイスラエルのネタニヤフをみればわかる。シュタイナーは、第6文化期辺りから、霊能力の再獲得が始めるのを預言し、前世の記憶をもつ子どもがうまれてくると語っている。つまり叡智の、霊意識の、山登りがはじまるわけなんである。ちなみに、第6文化期はスラブ文化期と呼ばれ、第7文化期はアメリカ文化期と呼ばれてもいる。それらは物質的意味ではなく、あくまで霊的な意味なので、スラブと呼ばれる意味は、東洋と西洋の狭間という霊的な意味で、アメリカと呼ばれる意味は、物質的な滅亡や死の意味で、アメリカ先住民が持っていた死からの再生の、霊的な不死鳥フェニックスの意味である。つまり、人類はアメリカ文化期に至って、輪廻転生を知るということである。シンボルマーク・カチーナについて | doubleroxer (route66.tokyo)星 ネイティブアメリカンには独自の星座があります(1) | INTO THE DEEP EARTH アメリカ 深く大地の中へ (ameblo.jp)サンダーバード (伝説の生物) - Wikipediaサンダーバードといえば、子どものときの、♪トットるるぅという音楽ではじまる、イギリスの人形劇を思い出し、また、アメ車の名前にもあるが、このサンダーバードという国際救助隊の活躍を描く人形劇が印象に強く残っている。その番組の当初の設定は、2065年に国際救助隊ができて、活躍する未来を描いているわけだが、第7文化期のアメリカ文化期に、サンダーバードという霊視力再獲得の救助隊が生まれれば面白いかもしれない。いまからあと41年なんで、自分は恐らく次の転生に向かっているだろうな。サンダーバード (テレビ番組) - Wikipedia再び、上に紹介したサイトの、意識進化(発展)の教科書みたいな図を参照すると、この図から、他の天体にも、地球人を超える知的生命体がいるのがわかるはずである。ただし、現在の地球人のような唯物論に染まった覚醒意識で確認できる存在でないのがわかるはずである。我々地球人からは、物質的には捉えられない、いわば空や無のエネルギー体であるのが、つまりカオスの海の中に漂流する存在なのがわかる。だから、地球人以外の知的生命体と交信するには、少なくとも、第六感を獲得しないとダメなんである。前回、進化数と一緒に他にも、カオスの海の、空や無を、カオス領域と考えれば、輪廻転生の生命循環論が解き明かせるのを紹介した。つまり、空や無が、物質がないという意味で無といえるが、何もない無ではなく、物質では捉えられない、いわば混沌のカオスと考えられる、のを紹介したわけなんである。そこで改めて考えてみる。現代物理学では、物質で捉えられない、いわば、この混沌のカオスの領域を、例えば、真空のエネルギーとして、調和振動子のゼロ点振動で、数学的に記述し、相対論的量子力学を発展させたゲージ場で、時空の場を、ゲージ理論の対称性を用いて、量子化した場の理論で表現し、電子の生成消滅については、ディラックの海と表現し、考えている。ゲージ理論 - Wikipediaディラックの海 - Wikipedia零点振動 - Wikipediaダークエネルギー - Wikipediaこのゲージ場という考えを、学生のときには、数学が難しくてほとんど理解できなかったのだが、つい最近の、放送大学で勉強しなおして、量子力学ができる経緯の、量子力学史を知って、なんとなくわかるようになった。ゲージ場を簡単にいえば、鏡のような、エネルギーを映し、物質に変換する、ドラえもんの4次元ポケットのようなものである。数学では、この鏡のような物質変換装置を、対称性の変換で数式化し、群論で表現するのだが、鏡は2次元だが、それを立体化し、時空の4次元化した、ドラえもんの4次元ポケットという感じかもしれない。群論 - Wikipedia四次元ポケット - Wikipediaつまり、簡単にいえば、我々の物質界は、無のゼロ点で、他の世界と対称性を通じてつながっているわけなんである。だから、カオスの海のなかを、対称性を土台にし、それをいわば羅針盤にして、地球を宇宙船のようにして、まるで物質界を島のようにして、その島にとりついて、人間は昼に入っては、夜に出ていき、漂っているわけなんである。だから、人体にとりつく細菌と同じかもしれない。ちなみに、人体の細胞の数よりも、細菌の数が多いと、現代医学ではわかっている。というわけで、上図からわかるが、現在は、宇宙全体の潜在意識の、カオス波のなかを、対称性を見つけ、それが物質化されるような覚醒意識で、カオス波群の谷に下っていっているわけなんである。だから、霊魂的には、物質界へとダイビングしているような感じといえるかもしれない。だから、対称性からなるモラルをなくすと、宇宙全体の潜在意識のカオスのなかに埋没してしまい、いわば迷路のなかを堂々巡りする羽目になり、それを地獄巡りの輪廻転生と呼ぶわけなんだろう。だから、人生の中から浮上するには、対称性をみつけるため、つまりモラルを守らないと、カオスのなかに埋没してしまい、自己を失って、獣のように地獄の輪廻を生きるようになってしまうわけで、それを霊魂のゲヘナと呼んでいるのだろう。古代人は、この対称性を、人生の羅針盤を、道徳のモラルとして伝えてきたわけで、それが第六感の再獲得であり、シュタイナーは、バガヴァッドギーターから、アルジャナの時代のクリシュナ神の働きから、サンキヤ―哲学の3つのグナの、サットヴァ、ラジャス、タマスから、古代人の霊能力を解き明かしている。ゲヘナ - Wikipediaバガヴァッド・ギーター - Wikipediaサーンキヤ学派 - Wikipedia世界を作り出す3つのグナ:サットバ・ラジャス・タマスを知ろう | ヨガジェネレーション yogageneration (yoga-gene.com)3つのグナとは、霊能力である創造力を、対称性で表現する言葉のようである。勿論、物質的な言葉ではなく、また現代の覚醒意識からは捉えられない、いわばカオスのような存在なので、表現は不可能である。第六感の感覚みたいなものである。勿論、鉱物の物質界の物質的思考を無くさないと、捉えられない感覚である。つまり、物欲に囚われている現代人には捉えられない感覚である。端的にいえば五感を超える感覚で、超感覚と一般的にはいわれてもいるが、だからカオスのようなもので、最近ではカオス工学で、アトラクターのような記述で表現してもいるが、所詮それは生命現象を物質化して捉えているだけで、シュタイナーによれば、サットヴァに近いがサットヴァではない。現代の五感や感覚では、捉えられない存在なんで、この3つのグナの、サットヴァ、ラジャス、タマスの感覚は、霊能力を獲得しないと、ほとんど理解困難なんである。しかる吾輩も霊能力を獲得していないので、この3つのグナについては、シュタイナーの言葉を理解していくだけしかできない。またシュタイナーの言葉がドイツ語で、その翻訳から現代的発想から連想しているので、その連想を、睡眠中に模索するしかないわけで、この3つのグナについては、いまでも研究中という他はない。シュタイナーに言わせると、現代人の夢の意識に近いものなので、近いだけで、夢そのものではないから、夢分析から、霊能力を連想していくほかはないだろう。しかし、鉱物界を理論により探索する知的作業から生まれる感覚は、鉱物界をつくりかえているわけで、霊的創造力の一つなので、そのような自我の感性は、いわばサットヴァに近い感覚なんであるという。古代ギリシア人が、幾何学を感性に用いたのは、この幾何学の対称性による、物質の構造を理論的に探求する、いわば現代の科学的思考の発端となる、サットヴァに近い感覚といえるかもしれない。シュタイナーは、ポストアトランティス時代以降の人類には、植物界を生命的に捉える感覚が失われてしまっているので、植物を物質のように鉱物化して捉える感性は、ラジャスと呼んでいる。例えば、植物摂取を栄養の物質で捉える感覚は、生命的感性が抜けているので、ラジャスと呼ぶみたいである。3つのグナを現代用語に置き換えるのはカオスで、不可能だが、それは五感の破壊力ではなく、睡眠中の創造力を捉える霊能力を表現する感性だからである。古代インド人が、サットヴァのような人と呼んだ、いまでは、菩薩の語源のボーディサットヴァとは、霊能力者であり、当時の人類の進化段階で最善の叡智、つまり、真善美の意識を体現した生命存在を意味したようである。そして、大まかに言えば、サットヴァが、闇のカオスから対称性を見つける、いわばカオスの縁のような状態を意味し、ラジャスは、ただ物質界の移り変わる現象のままを、そのまま眺めるだけで、いわば自然現象がそのまま崩壊や破壊に向かうのに沿って眺めるだけの態度や状態で、タマスはカオスのなかの闇に横たわる状態を意味するようである。この3つのグナの感性についてはまだまだ研究の余地がある。3つのグナは、いわば、登山の三種の神器みたいなもので、サットヴァが、登山靴で、ラジャスが、ザック(リュック)で、タマスが、雨具といえるかもしれない。三種の神器とは、鏡、剣、勾玉だが、人智学でいえば、霊我=マナス、ブッデイ、アートマといわれている。3つのグナから、再び霊能力獲得の登山に向かう為に、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 土星存在による犠牲に、与えるという徳が、太陽存在により加わったとき、古「土星」紀から「太陽」紀へと上昇した。地球が、土星から、第2の進化紀の、太陽へと体現した中にみつかる存在は、進化の真相へと、我々を、一歩近づける。そこで、再度、物質界という幻想を取り去り、霊的な真実の領域に属する概念を導入する必要がある。それは、人類進化の現状を取り上げる前には、必須の概念だからである。 この必須の概念に、次のようにアプローチする。人間が、外界(物質界)での生活の中で、行い、何かを達成するとき、一般にその成果は、当人の意思からもたらされる。人間が何をするにしても、例えば、手の動作や、偉大な行為であれ、その活動の背後には意思がある。ヒトに何かをさせたり、何かを達成するように導くのは、そのヒトの意思にある。 だから、強く働く行為、例えば、治癒や恵みをもたらすような行為は、強い意思から来て、さほど働かない行為は、弱い意思から来る、と思うかもしれない。一般に、行為の程度は、意思の強さにかかっている、と考えがちである。 そして、意思を強化しさえすれば、どんな行為も達成できる、と考えられるが、その考えは、物質界では、ある程度通用するが、ある限界を越えると、意思を強化しても、達成できなくなる。驚くだろうが、人間の、特に、精神界に関わる行為については、意思の強化に依存しない。 勿論、物質界では、行いの程度は確かに意思の強化に依存する。つまり、より多くを成そうとするなら、より多くの努力が必要となる。しかし、精神界では、むしろ、その逆となる。精神界で、偉大な行いを為して、偉大な成果をもたらすには、意思の強化というよりも、むしろ、意思を空にし、身を引き、諦める、のが肝要なのである。 人間のなかの心の機微、繊細で、純粋な精神の、奥ゆかしさについても、この諦念に則って、促進できる。切なる望みをもったり、没頭するのではなく、意思を抑制し、望みを抑制し、満足を諦めれば、精神的な成果を達成できる。 内的な、精神の精進を通じて、偉大な成果を成し遂げるには、まず、自分の意思や望みを抑制するのを学ばなければならない。物質界では、よく食べ、栄養を満遍なく、人体に行きわたらせ、エネルギッシュになれば、より多く、強くなるのに対して、精神界で、偉大な成果、意義を達成するには、逆に、断食を行い、意思や望みを抑制し、諦めない、といけないのである。 偉大な、精神的な努力に向けた準備には、必ず、欲望や意思の、つまりエゴを捨て去るのが含まれている。エゴの我、意思がより少ないほど、人生が投げかけるのに身を委ね、それに抵抗するような、様々な意思から欲望を導くのではなく、むしろカルマが、我々の前に、投げかけるままに、物事を受け取るほど、精神的成果を獲得できるようになる。つまり、カルマと、それがもたらす現実を受け入れるほど、言い換えれば、人生において、受け入れなければ、達成したいと思った、あらゆる欲望を諦め、冷静に振る舞い、静かに見守るほど、益々精神的に強くなる。この事が正しいのは、例えば、思考活動に現れる。 例えば、美食を好み、好きな食べ物、飲み物を好きなだけ飲食している、教師や教育者が、生徒に向けて語る言葉には、説得力がなく、生徒に対して精神的成果を与えられない。そのような教育者の言葉は、生徒の耳を、左から右へと通過し出ていく、のが明らかになる。 そのような教師は、言うことを聞かないのを、生徒の責任に感じるかもしれないが、そうとは限らない。より高次の、奥深い、人生の意味を理解し、慎みをもって生き、生命を維持するのに不可欠なだけ食べ、特に、運命が与える事柄を、意識的に受け入れるような、教育者は、自分の言葉が大きな力をもつのに、徐々に気づくようになるだろう。そのような教師を一目見るだけでも、精神的な成果をもたらす。 実際、そのような教師は、生徒を見る必要さえない。そのような教師は、生徒の近くに居るだけでよく、生徒を勇気づけるような考えを持てばよい。その考えが言葉で表現される必要もない。言葉にしなくても、生徒には伝わる。運命を受け入れずに、自らが強く望む、欲求に沿って行動するのを、諦め、断念する程度に、欲望を放棄するのに、全てがかかっている。 諦めの道は、精神的活動における正しい方法で、高次の霊界の中で精神的成果へと導く。この点について、多くの幻想に遭遇する。表面的な、物質的な諦めは、諦めに似ているように見えても、幻想であり、正しい精神的な成果を導くことはない。日常の生活において、自らに苦しみを課す、禁欲主義を知っているだろう。 多くの場合、そのような自ら課す苦悩は、自己陶酔、もしくは自己満足のため、より大きな欲望、また別の違った欲望を成就するために、恣意的に選択している可能性がある。そのような場合の、自己否定は何の成果もなく、それは、精神に根ざした諦めでなく、見せかけの自己否定に過ぎない。
2024年03月07日
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前回は、この国のGDPの低迷から、睡眠不足の要因を挙げ、その必要性と、脳の構築が睡眠中になされるのを紹介し、異文化交流と第六感の必要性を説いたが、人類は睡眠のなかから進化してきたのを改めて強調したい。つまり、睡眠中こそが、人間として生きるためのエネルギーを取り込む充電期間で、起きているときは、獣のように、まるで肉食獣のように、他を利用し、破壊する活動に従事しているのが、真相なんである。人間は、寝ている時に人間として生き、起きている時に動物として生きているのである。だから、人間は人間らしい知性を知れないのである。ソクラテスの無知の知の真意とはこのことである。だから、寝ているときの人間を知るために第六感を獲得すれば、人間は動物を超えて進化できるわけだが、そのことを、古代人は霊魂の純化と呼んだのである。寝る子は育つ、というが、寝ている間に脳が再生構築されるのが、最近の物質科学の研究からもわかりつつあるが、第六感を獲得できない限りは、脳の再生のしくみを解き明かせずに、その創造力を見通せない。物質科学では、古代叡智は謎のまま秘密のまま何も語らないのを見守るしかない。まさにサウンドオブサイレンスといえるかもしれない。それは物質次元を超え、時空を超え、物質科学の定義には当てはまらない、カオスの領域のものだからである。子育てアドバイス―「寝る子は育つ」ってほんと?―/岡谷市 (okaya.lg.jp)サウンド・オブ・サイレンス - Wikipediaしかし、人類が進化するには、このカオスの領域に参入して、カオスから自己の意識を紡ぎ出す必要があり、それには、睡眠中に古代叡智を獲得する第六感を開発しないといけないのだが、相変わらず、現状は起きていても眠ったままで、巷では偽証が至る所に蔓延している。例えば、古代叡智から巷の政治家をみていると、唯物論に染まり、嘘つきや詐欺師になっている現代人が増殖中なのがわかる。自己利益や自己保身のためにはモラルハザードもお構いなしである。つまり、中身が空っぽで、ヨハネの黙示録で預言されている獣のような悪人である。人類は善人と悪人に分かれる、とも預言されている。ヨハネの黙示録 - Wikipedia 古代叡智は、神秘とも呼ばれるが、譬えるなら、人類を進化に導く叡智で、映画「2001年宇宙の旅」のモノリスのようなものである。「2001年」と違うのは、人工知能ではなく、生命そのものの、循環を司っている本体で、人類からは謎として解き明かされない、いわば、「無」としかいいようのない、「神秘」であり、秘密である。2001年宇宙の旅 - Wikipediaモノリス (2001年宇宙の旅) - Wikipedia人類が地上で人生を生きるのは、宇宙の生命体に尽くすための自我を獲得するためで、より多くの生命体のために尽くすためだが、そのためには、自我を獲得するなかで、エゴの私利私欲を取り去らない、といけないわけで、自我のバランスの確保が課題となるわけなんである。自我は人体のホメオスタシスと関わっている。どんな薬も、許容量を超えれば毒になる、と説いたパラケルススが、人間の製造法のホムンクルスで説いたのは、錬金術による、自我のホメオスタシスのことである。人体の恒常性、つまり健康には、自我のホメオスタシスが裏で働いていると説いたのである。それを物質的に表現したのが錬金術で、硫黄=燐と炭酸=塩とその間の調和を保つ水銀で解き明かしたのだが、それはあくまで睡眠中での霊的な知識の話なんである。恒常性 - Wikipediaホムンクルス - Wikipedia錬金術の水銀というのも、物質の水銀の意味だけではなく、むしろ、水銀の常温でも液体でいられる性質を意味している。そして、それは気体と固体を仲介する流体の意味で、液体の柔軟性を表わし、天体の水星の意味も併せ持つ。つまり、液体のバランスを保つ働きで、柔軟性の、柔よく剛を制す、の意味で、ホメオスタシスを説いているのである。だから、生命体でいえば、睡眠中の再生と、覚醒中の破壊との間の、寝起きのバランスを、ホメオスタシスで説いているわけなんである。自我の再生と破壊のバランスを、ホメオスタシスで説いているわけなんである。そのホメオスタシスを保つ働きが、十戒であり、これを創造的行為につなげるのが、キリスト霊の自我の働きで、愛の行為なんである。自我のバランスの確保のホメオスタシスには、十戒を守る必要があり、例えば、ウソをついて、人を騙すのは、自我のバランスを失わせ、エゴを生じさせる要因となるのが容易に想像できる。十戒を守らないと、エゴが増殖し、例えば、人体が炎症化して腫瘍化するのが、そのうち物質科学でも明らかになるだろう。モーセの十戒 - Wikipediaヨハネの黙示録では、この十戒からの逸脱を、獣の666のシンボルで表現している。666とは、人類の進化数でいう悪が絶頂となる時期を指し、777が、人類が進化して天使となる、とされる進化数である。進化数と宇宙と地球との進化の関係については以下のホームページが詳しく解説しているので参照してくだされ。【シュタイナー】宇宙と人間創造⑧地球紀―アトランティス時代/自己意識の誕生/人類の指導者ノアの選出 | Noos Eggs (cosmolifeology.com)ヨハネは、人類が十戒に背くようなヒトを666の獣の悪人と表現しているわけで、そのような悪人が増殖するのを警告しているのが、黙示録である。巷の政治家をみればその悪い見本で、皆が偽証しているのがわかるわけなんである。だから、連中は皆666の獣となって死後に地獄に堕ちて、その罪に苛まれ、獣の存在と化していくだろう。既にその顔つきをみれば、獣のような醜い顔をしているのがわかる。動物に顔が似てくるのがその証拠である。どの顔も憎たらしいような動物顔をしているのがわかる。というのも、起きているときに、脳が破壊され、覚醒意識の本体となるが、偽証することで、エゴが分裂し、その部分は、睡眠中には再生再構築されないので、攻撃性をもつ、動物の獣のままに止まるからである。昔風の言い方でいえば、「魂が穢れる」わけなんである。というのも、人間の霊魂は、古くは4つの集合魂の、鷲、獅子、牡牛、原人に分かれていたからである。それら4つが純化し統合したものが、人間の、穢れを知らない、いまだに生まれていない霊魂で、輪廻転生をしない聖霊で、アバターと呼ばれている。アヴァターラ - Wikipediaだから、輪廻転生し、ウソをつけば、霊的にレベルが下がるので、天知る地知る我知る子知る、と言われる所以なんである。起きているときにウソをついた分、つまり偽証した分だけ、修正されず、破壊されたままで、睡眠中には再生されなくなるので、脳が破壊されていき、エゴにより、元々の宇宙に尽くす自己をなくしていくわけなんである。自分が他者に述べたことや行ったことは他人を通して全て巡り巡って自分に回ってくるので、最近でもブーメランと呼ばれるが、ウソや偽証は、ブーメランとして、自分を傷つけることになるのを、古代叡智により理解しないと、獣の動物の悪人になっていくのを覚悟すべきである。さて、数学史を学んでいると、古代ギリシアの哲学者が、無のゼロと無限大を回避していた理由がわかってくる。仏教では、空即是色と、無ではなく、空で表現しているが、これは物質の中身が空っぽという意味でもある。つまり、空は、物質界では表せない、ゼロの意味で、物質は結局、有限で外見でしかなく、中身が空でしかないのを意味している。色や形はあっても、本質は、空なんである。それは所詮、破壊でしかないからである。この世の物質界を空と悟ったときに、第六感を獲得できる、というのが、仏教の教えである。空 (仏教) - Wikipedia仏教では、物質界を空として、無に言及せず、無が無でなく、カオスであるのにも言及せずに、輪廻転生説を持ち出したのは、物質界を穢れた場とした古代インド人の伝統にあるのかもしれない。お釈迦さんも古代インドのヒンズーの教えを改めたとはいえ、いまでも物質界で教えるのに、空さえ理解困難なのに、無を理解させるのは更に困難で、ましてや混沌の意味を教えるのは、更に困難を究めるからである。だから、ヨーガのような座位で、只管に空の意味を考え、前世の記憶を辿るしかなかったのだろう。つまり、現世を空にしていけば、逆に前世がみえてくるという、輪廻転生の思想で、無や無限大の繰り返しを表現するしかなかったわけなんである。無のゼロの代わりに、現世の誕生を、無限大の代わりに、輪廻転生の繰り返しを、説いて、空の意識の第六感の獲得を教えるしかなかったのだろう。だから、東洋では、カオスの代わりに、輪廻転生の生命の繰り返しが説かれ、日本では、詫び寂びの文化として残っているわけである。詫び寂びの文化は、亡くなった先祖の霊と交信し、第六感を獲得することだが、それを更に発展させると、輪廻転生しない、アバターのカオスの本体と交信する古代叡智の、虚空アカシャ年代記の交信の発展へとつながる。対照的に西洋はどうかといえば、古代ギリシア人が、無のゼロと無限大を表現しなかったのは、まだ霊的な第六感をもっていたので、代数の独立した概念をもたなかったからである。代数の概念は、物質界の破壊の概念、つまり物質変化から生まれるからである。古代ギリシアの幾何学は、霊的な第六感から生まれ、代数は、その点や線を表わす添え字の、付け足しでしかなかった。無のゼロや無限大は、幾何学に属さなかったからである。しかし、無のゼロや無限大を表現しなかっただけで、代わりにカオス=混沌の概念をもっていたようである。だから、無のゼロや無限大の代わりに、カオスを表現した。カオス - Wikipediaキリストはアルファでありオメガである、と聖書で説かれているが、古代ギリシア人にすれば、キリストは、カオスの原初の神ということになるだろう。カオスの混沌は、神秘そのものを表わしている。古代叡智では、宇宙はカオスによるカオスの意志による息により生じたとされている。面白いのは、以下の、老荘の混沌の話である。 ☆ ☆ ☆荘子 「渾沌」 現代語訳 | 漢文塾 (kanbunjuku.com)<現代語訳>渾沌南海の帝が儵であり、北海の帝が忽であり、中央の帝が渾沌である。儵と忽とが、ある時渾沌の地で出会った。渾沌の儵と忽へのもてなしは大変良かった。(そこで)儵と忽は渾沌の恩義に報いようと相談してこう言った。「人は皆七つの穴があって、それで見たり聞いたり食べたり息をしたりしています。(ところが)渾沌にだけは(七つの穴が)ありません。ためしに穴をあけてあげましょう。」毎日、穴をひとつずつあけていったら、七日目に渾沌は死んでしまった。荘子の『混沌』とは、どういう意味なのでしょうか? - Quora ☆ ☆ ☆この老荘の混沌は、自我のバランスを説いているようにみえる。人間が、カオスの海に生きているのを連想させる。シュタイナーは、カオスの海で、自我のバランスを保ち、人間が生きる様子を、ホメオパシーで説いている。現代物理学では、カオスの海をディラックの海やダークマターで解釈しつつある。ディラックの海 - Wikipedia暗黒物質 - Wikipediaカオスの海を物質で解釈しようとするのが間違いなんである。無は空だが、無限大のマイナスの、負の意味にも解釈できる。というのは、覚醒意識が破壊を根底にしているからで、質量とは、破壊の結果生じる、エネルギー量の負担で、要するに、時空のエネルギーに対する借金で、負債だからである。例えるなら、土地の値段のようなもんで、固定資産税である。自然から土地を破壊し、奪い、所有し、不動産を売買しないと発生しない仮想粒子のようなものである。プラスとマイナスというのは、物質界での陰陽の対立の換算から発生するもので、分離、破壊活動で生じるもので、破壊を行うほど、人間は獣になるだけで、獣へと退化する算出により生まれる見かけの物欲でしかない。だから結局は、カネ勘定の経済的に考えれば、金持ちは退化ばかりして、天国には行けないわけなんである。巷の嘘つき政治家や自己利益に邁進する詐欺師たちは獣となって地獄に堕ちていくがいい。内部留保に胡坐をかいて従業者の賃金に還元しない経営者は地獄に堕ちるだろう。だから、心の貧しいもの、何も物欲のない者は幸いである。欲望のないものほど、空を悟り、無限のカオスの天国へと、無一文で昇天できるからである、とキリストは説いているのである。真のカオスの海、心のダークマターを求めるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ルドルフ・シュタイナー 真相から見た宇宙の進化 Die Evolution vom Gesichtspunkte des Wahrhaftigen (GA132) 第3講 太陽期における地球の内的側面と月期への移行 ベルリン 1911年11月14日 佐々木義之訳を改訳 -------------------------------------------------------------------------------- これまでの講義のなかで強調してきたのは、宇宙の、あらゆる物質的現象の背後には、不可視の、霊的な存在が隠れていることだった。熱や、流れる空気という現象の背後に、霊的な現実を特徴づけようとした。そのような霊性の特徴を伝えるため、地球の進化を、遙かな過去にまで遡った。 また、物質的宇宙の根幹をなす霊的な歴史を記述するため、自我となる霊魂の循環を霊視した。いずれにしても、霊性を特徴づけ、それに用いるイメージを、物質界から取ってくる必要がある。物質的な言葉だけでは不十分で、なんらかの鮮明なイメージが必要である。 今考えるべき、霊的な宇宙史は、人類が現進化段階での経験から、つまり、今日の人間の知識から、遙かに隔たった過去に横たわっている、のを霊視してきた。だから、このような宇宙史、地球史を理解するには、現在では、滅多にない状況、現代人一般の、精神からは理解できない霊性、精神性を目覚めさせる必要がある。 外的、物質的な、火や熱の現実的な感覚からは、ほど遠い、熱や火の、霊的な、精神的な性質を探求しなければならなかった。精神性、霊性の意味での、ある土星存在による犠牲、すなわち、古「土星」紀に、ケルビムに捧げたトローネによる犠牲を、いまの宇宙の、火と熱全ての本質と同一視すれば、現代人には、まるで、おとぎ話のように感じるだろう。 しかし、宇宙進化の、かつての古土星紀で生じ、現代人の前に現れる、幻視的な、外見的な、熱や火は、トローネの犠牲から生まれている、のが、霊的な真実であるのは人智学徒には明らかとなっている。同様に、流れる空気、もしくは気体の背後には、与えられる徳、霊的な存在たちが、自身の存在を、愛として献身的に注ぎ出す行為が隠れている、のを前回強調し、述べた。 そよ風や、流れる空気の中に存在するのは、この献身的な愛の行為である。外的、物質的な知覚は、その表面に過ぎなく、実際には、幻想、マーヤに過ぎない。幻想から中身の、精神面の現実へと進んだときにだけ、正しい考え、霊性が獲得できる。 火や熱や空気などは、鏡に映った人間のなかに、本人(=精神)がいないのと同様、中身が空っぽで、現実には存在しない。それは単なる映像にすぎない、つまり、鏡に映った像が、精神性の本質では、幻影なのと同様、火や熱や空気も、いわば鏡のような幻影で、鏡の中の像を映す人間と同じように、その背後にいる精神的な真実が現実である。火や空気の現象のなかに、真実という現実を探し求めれば、そのなかに隠れた、犠牲や徳がある。
2024年03月05日
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