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ようやく巷の雑用にも収拾がついてきた。親戚づきあいほど煩わしいものはない。葬式は何度か経験しているが、死者に死をわからせるよりも、死者が生きているうちに、死者に言っておくべき、やっておくべきだった想いのほうが、生者に多く残っているのに改めて気づかされた。亡くなってから、気が付くという不思議さである。いなくなってみて、はじめて死者の存在感がわかる。霊能者なら話は別なのかもしれない。人智学の輪廻転生論でも、家族や親戚は、同じ人間関係のグループとして、何度も転生しているのがわかっている。以前紹介したペスタロッチの輪廻転生でもわかるだろう。それだけ身近な関係なので、自分がしてきた行為を次の転生で、される身近な存在といえるわけで、いわばブーメランを投げやすく受けやすい相手といえるかもしれない。例えば、前世の人生の半ば35歳辺りで出会う親しく良い関係にあった相手が、次の転生で親になり、はじめに出逢う人間関係と、シュタイナーは述べている。この輪廻転生の法則からすれば、人生の半ばが最も自分という存在の、いわば自我の完成期であり、自分という山の頂上で出会った人が、自分を最もよく知り、より親しい人物となるわけで、だからこそ、次の転生では、その自分を改めて新しくつくる土台の人間関係となるわけなんである。だから、端的にいえば、前世で自分を良く知っていた人物が親となるわけなんである。だから、最も自分というカルマを背負ってくれた相手ともいえるかもしれない。だから、親がいなければ、自分という存在もいないわけで、それが現代物質科学では錯誤されて遺伝として捉えられているが、正確にいえば、自分の良き理解者なのである。だから、性格もある程度似て来るし、特に仕草などが前世から持ち越されるのである。現世で自分となるために、前世で親を選んでいる、といえるかもしれない。カルマを金銭で譬えるのは邪道だが、わかりやすくいえば、人生半ばで、自分という大きな金銭を与えた相手が、今度は、その金銭を返すために、親になって、自分という負債を返す、というようなものかもしれない。また以前に紹介したぺスタロッチの転生でもわかるが、前世の奴隷へのパワハラのカルマを解消するために、パワハラ上司が親ではなく、配偶者になることもある。だから、簡単にいえば、カルマの負債を返しやすい関係が、親戚といえるかもしれない。いずれにしろ、家族や親戚はカルマの負債を愛で返済する人間関係の基本といえるだろう。だから、家族は愛を育成する土台的な舞台といえるかもしれない。シンクロニシティというか、丁度、放送大学で民法から家族関係を考える授業を放送していたので、少し紹介してみる。平均寿命の変化から、家族関係を知るために、昭和22年が例として出され、比べると、当時は平均寿命が男女とも50歳代で、人生50年といわれた時代なのがわかる。令和では30年も延びて、80歳代になって、もはや人生100年時代といわれていることになる。それだけ霊魂が、覚醒意識での人生に馴れて、物質界に適合してきたともいえるかもしれない。家族政策研究(’21)|放送大学 (ouj.ac.jp)放送大学「人生100年時代の家族と法('23)」(テレビ授業科目案内) (youtube.com)家族のモデルケースを探るために、漫画アニメのサザエさんが昭和44年からの放送なので、当時の平均寿命を調べると、69歳になっている。昭和22年から、20年経って、20歳も寿命が延びているので、1年に1歳寿命が延びてきたといえる。人智学的にいえば、エーテル体が、物質体によく浸透できるようになったといえるかもしれない。エーテル体の肉体の制御が進化してきたといえる。そしてまた、自我が自由な愛へと個性的になってきた、といえるかもしれない。サザエさん (テレビアニメ) - Wikipedia第2表 平均寿命の推移 (mhlw.go.jp)キャラクター紹介【サザエさん一家】 | サザエさん - 公式ホームページ (sazaesan.jp)サザエさんの家族をモデルに考えてみると、勿論、放送大学の授業では取り上げていないが、昭和44年当時の平均寿命が約70歳なので、磯野波平は禿げているが、白髪ではないので、当時の54歳のルックス代表といえるだろう。令和でいうなら、平均寿命80歳代で、10歳寿命が延びているので、64歳辺りかもしれない。ちなみにサザエが、24歳の設定なので、あの髪形もあるが、幾分老けてみえるので、現代でいえば、10歳増しで、34歳辺りのルックスといえるかもしれない。しかし、カツオやワカメ、タラちゃんの、子どもたちは、カツオが11歳で、ワカメが9歳で、タラちゃんが3歳の設定なので、現代と比較すると、全般的に少し幼くみえるかもしれない。サザエさんのほのぼのとしたエピソードのせいかもしれないが、家族モデルでよく比較される、クレヨンしんちゃんの、ませた幼稚園児の設定と比べると、しんちゃんのほうが、裸芸を除けば、カツオよりもませてみえ、年上にみえてしまう。ちなみに、しんちゃんの父の野原ひろしは、35歳で、母のみさえは、29歳で、長男がしんちゃんで、5歳なので、24歳に初産という設定になる。クレヨンしんちゃん (アニメ) - Wikipediaクレヨンしんちゃん登場人物の年齢設定まとめ | 漫画とアニメ情報局 (manga-manga.site)クレヨンしんちゃんは、1990年の平成2年からの漫画アニメなので、サザエさんが昭和の二世帯家族のモデルケースで、しんちゃんは、平成の核家族のモデルケースなのがわかる。サザエさんは、昭和の二世帯家族にしては、平均寿命から考えると、波平―フグが、54歳-50歳で、子ども3人で、ワカメが9歳で、フグが41歳の高齢出産で産まれたケースで、すでにやや高齢少子化気味の設定なのがわかる。もうすでに昭和44年の漫画アニメから高齢少子化の未来が暗示されているのに驚かされる。漫画アニメの世界は、将来の予言でもあり、これは驚くべきことで、年齢をとらないアニメなのに、波平―フグが、二世帯家族という割と子育てに恵まれた環境にありながら、子どもが少ないのは作者の画力不足やキャラ設定の怠慢だけでないのがわかる。もしかすると、サザエさんの作者長谷川町子氏が子どもを描きたくなかったのか、同時代の漫画アニメの、巨人の星の貧困父子家庭でさえ、明子と飛雄馬の2人を産んでいる設定で、ましてや左門豊作の6人兄弟設定から考えると、サザエさんはあまりにも、そのルックスさながら、高齢少子化漫画アニメになってしまうわけなんである。スポコン漫画の設定に子沢山環境はドラマ性を生むのも確かだが、子沢山イメージの昭和なのに子どもが少ない磯野家に比べて、クレヨンしんちゃんの野原家は、ひまわりという2人目が産まれて平成の核家族としては何とか少子化は免れたといえるかもしれない。実際、少子化は平成になってなんとか踏みとどまってもいる。漫画アニメなのに、高齢少子化という設定がもしかすると、リアルな高齢少子化を招いているのかもしれないと、漫画アニメに家族モデルを求めながら浮かび上がってきた、リアル日本の家族形態なんである。おそ松くんのような、子沢山設定も漫画ではいくらでも可能なのに、なぜそのような家族モデルが、生まれなかったのか、不思議でもある。人間のリアルな世界ではないが、ウルトラ6兄弟や戦隊モノは5人以上で、サイボーグ009などロボットの世界では、多産兄弟なのに、9人兄弟や11人兄弟で1チームをつくるスポ魂アニメだってつくれたはずなのだが、それではあまりにファンタジーすぎるのか、高齢少子化を脱するには、まずは漫画アニメのなかでの家族形態から変化しないといけないのではないか、と思ったわけなんである。北斗の拳だって一子相伝といいながら、3~5人兄弟の設定だから、そもそも2人以上でないとドラマ性もないのだが、10人兄弟でもいいのに、なぜ中途半端な人数なんだろう。子育てが大変な世界を描きたかったのか? そういえば一時期、子沢山家族が地上波で持て囃されたこともあった。漫画なら100人だって可能なのに、キャラ設定が大変なのだろうか? 大変でも5人くらいは欲しいものである。おそ松さん - Wikipedia北斗の拳 - Wikipedia放送大学の番組から、話がかなり逸れてしまったが、「人生100年時代を乗り切るための標語」として、自助(自分と家族)、共助(地域社会)、公助(国や自治体)が挙げられている。これら3つの標語が高齢少子化のカギとなるだろう。キリストは、特に、自助の、天は、自ら助ける者を助ける、を強調しているが、それは、自我をどれだけ自由な愛へと進化させたか、が問われるわけで、その舞台が、家族となるのがわかる。その番組でも、「幸福な家族には法律は不要、不幸な家族には法律が必要」と紹介していたが、何が幸福かといえば、結局のところ、自分という存在が、自由な愛を行うことで、万人に認められることではないかと思われる。それはつまり、宇宙の、自由な愛への進化と連動し、絶えず変化し続けることではないか、と思われる。自分を愛で形作りながら、常に愛を自由へと解消していく、生と死の繰り返し、のように思われる。所詮、法律とは、自分と他者とに境界を設けるものにすぎない。法律は最低限度の物質的な視野にすぎない。自分という枠を当てはめる肉体であって、地上の土地なのである。自分という枠の法律の設定よりも、自分から生まれる行為の、幸福な道を探るべきである。自分の生き方が万人に認められるのが幸福の道である。それにはまず自分の生き方を真剣に考える必要がある。自分を良く知る必要がある。古代ギリシア時代での哲学は、汝自身を知れ、だった。汝の自身の生き方を通じて、宇宙の進化を知れだった。というのも、人間は、宇宙の大宇宙に対して、照応する小宇宙だからである。孔子は、「まだ生を知らない、ましてや死を知り得ようか」という名言を残しているが、それはまだ、孔子の時代には、現代のように、個人の自我がなく、動物のような集合自我の、民族のなかでの死しかなかったためである。現代人のように、エーテルが肉体のなかにあまり浸透していなかったから、個人という意識も希薄だったので、いわば自己犠牲という概念もなく、それは当たり前だった。動物の世界では、種の存続のために、弱者がその手足となって犠牲となる。動物の擬態は、エーテルの肉体からの撤収ともいえる。エーテルが撤収した部位は単なる物質と化し、腫瘍となるように、動物種の一部は、化石となる。だから、動物には、種が存続する限り、死がない。現代の特に、仏教の葬式の概念も、この集合自我を基にした、死の概念しかないのに、気づかされた。先祖の墓に入ることに、その名残りを感じた。そこに個人的な死はなく、動物種のような祖先の繁栄と寺の維持しかない。勿論、故人を偲んで親族が集会を開くのは遺族にとって、現世を生きる糧となるので、大変意味をもつ。しかし、いつまでも、親族のなかの一員という意識では、個人的な生に目覚めることはないだろう。動物と人間は進化目的が異なるからである。人間には、個人的に生きる権利の、基本的人権がある。象や馬を、人間は個体のようにみているが、勿論、群れから切り離されて、人間に家畜化された動物には、人間により個人的な自我が教化されるので、個人的な意識により死が生まれるが、群れのなかの動物は、種という大きなエーテル体のなかの一部が肉体となっているので、エーテルが撤収し、肉体が切り離されて、物質化され、それが固体の死のような自己犠牲にみえるだけである。いわば、人間の手足の爪を切るのと同じである。だから、動物には、人間のような、個人的な生もない。人間だけが、個人的に生きれるわけで、その個人も、現世の物質界で、物質体という肉体を制御しながら生きる間だけなんである。家族から与えられた愛を基盤に、愛から自己をつくり、そしてその自己から周囲を幸せにするのが、現世での個人の人生なのである。個人として生きれるのは、この人生のこの瞬間の生でしかない。これら周囲から与えられた愛からなる自己の存在は、この人生でのみ意味をもち、この人生でしか働き得ない自己なのである。だから、自分を生き切るのが、現世での自分の役割である。カルマとして与えられた自分の役割を全うして、自分に徹するのが、現世での最高の自分に与えられた幸福なのである。自分で居られるのは、この人生でしかない。この人生を終えた時に、自分はもはや自分ではなくなるからで、自分を超える新しい自分を次の転生につなげていくには、死後に、どれだけ自分を捨て去れるか、自分を諦められるか、にある。それには今一生懸命に自分に正直に自分を生きるしかない。自分とは何か旅に出る必要はなく、既に自分の人生そのものがその旅なのである。自分の人生は楽しかったなと思えるかどうか、それは死後の自分を捨てたときの、楽しみだからである。自分の生と死をみつけるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ソロヴィヨフのような人物からわかるように、東欧は、西欧や中欧とは、全く異なっている!では、人智学の目的とは何か? 人智学により育成すべきものを振り返り、比べてみる。その目的と方向性とは何か。人智学的な知識から、この世界には、意味と目的があるのを認識し、そしてまた、この世界は悪と退廃のみに満たされているのではない、と認識することこそ、我々人智学徒の望みであり、目標である。つまり、霊的な直感的知識を通じて、この世界には意味がある、のを実感するのが、人智学の目的である。このような実感により、我々人智学徒は、キリストを実体験するための準備をしている。これら全てを、勿論、贈り物として、恩寵として、受容し、生きているキリストを包括的に理解するのを望んでいる。人智学徒は、キリストの、「私はいつも、世の終わりに至るまで、貴方がたと共にいる。」という言葉の重さを実感している。キリストは、実際に休む事なく、我々人類への約束全てを遂行している。キリストは、福音書を通じてのみ語っているわけではない。キリストは、いまも、我々人類の魂の内側から、善への意志として、語りかけている。この事実こそが、キリストが「私はいつも、世の終わりに至るまでも、貴方がたと共にいる。」という言葉の意味である。実際、キリストは、いまも生き、常に人類の善の意志として見出せる。我々人類の進化は、キリストの使徒として生き、キリストを、我々の心の中に受け入れることにある。「私ではなく、私の中のキリスト!」聖パウロの言葉のなかでも、この言葉が、最も意味深い。「私ではなく、私の中のキリスト。」 この言葉から、人類は、善の意志を実体験する。人類がどこに向かうとも、常に善は、この世の意味と目的を啓示する。ファウストは、次のような言葉を、自らの哲学で翻訳し、同じ真理を表出した。崇高な霊よ、汝は、私が祈り望んだものすべてを与えてくれた。汝が火中において、汝の相貌を、私に見せてくれたのも、無駄ではなかった。汝は、私に大自然を大いなる世界として与え、それを感じ楽しむ力をも授けてくれた。汝は、ただ冷たく困惑した知を産むばかりでなく、素晴らしいことに、自然の最も深い胸に抱かれて、私を、友人の胸のうちにあるかのように、眺める。汝は、生きたものたちの序列を導いて、私の前を通らせ、風と水と静かな森の中にいる、私の兄弟たちを私に教えてくれる。森に嵐が咆吼し逆巻くとき、樅の巨木は隣の大枝を押し倒し、隣の幹たちをうちひしぎ砕き倒れるとき、うつろな雷鳴が丘に満ちる。そのとき、汝は私を安全な洞窟に導いて、私に私自身の自己を見せてくれる、そして私の胸の中で深い神秘の奇蹟が展開する。これらの言葉は、霊的な、外界と内界についての理解や、霊的な、宇宙の目的への理解や、霊的な、死の意味の理解を、暗示している。死が、ある生から、また別の生への通路にすぎない、のを実体験するのを、示唆している。いまも生きるキリストを実感したいために、我々人智学徒は、死や復活を通して、キリストを追いかける。そして、東欧の知識人が考える、民族的な、集合魂による再生を、我々人類の出発点とは見なさない。西欧や中欧の人々は、キリストに従い、キリストの霊感を、各個人に流れ込ませ、キリストを個人の自由な愛への想像力のなかに招き入れる。そして、各個人が、死に至るまで、キリストを追いかける。Ex Deo Nascimur 「神から生まれた」と唱えるだけでなく、In Christo Morimur 「キリストのなかで死ぬ」と唱え、キリストの善意に従う。この世界をくまなく調べ、この世界そのものが聖書であり、この世界を通じて、神が、自我のなかから神性を表出するのを知る。神の自我の、霊性の織り成す力を経験し、それを理解しようとする。だから、西欧の人々は、東欧の知識人の、「もし、神がこの世界に生まれるなら、神の自己同一性を確立する文書を必要とする」には賛同できない。そうではなく、むしろ、神を、自然の至るところに、そして人々の魂の中に、善意として、自由な愛として、見つけるべきなのである。だから、このポスト・アトランティス時代の第5文化期は、人智学グループのなかで発達育成すべき、友愛からなる善意を必要とする。それは、いま、我々人類の頭上で、まだ羽ばたいている、高次のヒエラルキーの天使たちにより、卵のように大切に育成されている。地上へと降臨させるために、霊的オーラを意識的に、地上で育成する必要がある。それは、来るべき、第6文化期に転生し、生きるとき、人々の魂に流れ込むものだからである。
2024年07月30日
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寝たきり介護の父親がいよいよこの世界を旅立っていく日がきたので、喪主として巷の簡素な葬式をすることになったので、その巷の煩わしい手続きのために、あの世へのパスポートの発行というか、色々な雑事のために、ブログの更新が滞りがちになるのでお許しくだされ。葬式一つをとっても、日本の文化は非常に遅れているようにみえるのは、私だけかもしれない。幸福の国ブータンでは、もはや墓など存在しないというし、だからこそ、霊能者でもない如何わしい生臭坊主に、大金を吹っ掛けられ、時代遅れの訳のわからない念仏を唱えるのに、大金を払ったりして、詐欺メールまがいの地獄堕ちの連中の罠にハマることなどは、幸福の国では、ないのかもしれない。ツァツァ お墓のない国ブータン tsatsa-a mini stupa | ヤクランド (yakland.jp)人智学からもわかるように、葬式というのは、当人の霊魂に、亡くなった事を教える、一種のカウンセルである。死の概念は、生前の生き方や、信仰した宗教に依存し、いわば洗脳されているので、例えば、祖先の供養などで、死の儀式を執り行った記憶、墓参りから連想して、今度は自分がその番になったのだな、とわからせるために、行うわけなんである。だから、生前に信仰していた宗教が、死をわからせる一種のコミュニケーションツールになるわけなんである。霊能者が執り行うのが適格だが、霊能者には限りがあるし、また当の霊魂の死の概念に対する執着心が高い場合は、死を、死と捉えないために、何をいおうが無駄な場合もあり、自らで死を悟らない限りは、成仏はできないわけなんである。いずれにしろ、当の霊魂に、あなたは死んだのだよと、自覚させるために、浮遊霊や地縛霊にならないために、必要なものといえるだろう。確かに葬式は不可欠なのだが、金銭をかければ成仏できるというものではないのは、自らで死を悟るかどうかは、当の霊魂の生前の死の概念によるからである。しかし、この国では、葬式に金銭をかけすぎているのは、それだけ生臭坊主が多い、ということがわかるかもしれない。世界一高い「葬儀費用」が完全無料で、手間もゼロ…直葬よりずっと安い「献体」という終活の奥の手 団体に登録すれば、すべてタダで面倒を見てくれる (4ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)上の記事でも、「日本の葬儀費用は世界一高い 葬儀費用の全国平均は、208万円(2020年)で、これは世界一高いと言われている。韓国は37万円、アメリカは44万円、イギリスは12万円というから、日本とはケタがちがう。葬儀のために貯金をしている人もいるだろう。」とあるが、これもまた、現世の唯物的価値観から判断している記事なので、霊魂に死を自覚させることを忘れて、論点が外れている。カネをかけて葬式をした挙句に、死を悟れずに、地獄に堕ちては元も子もないわけなんである。というよりもはじめは皆が欲界という地獄に堕ちるから、本当は、地獄から抜け出すために、本人への自覚を促すために、この世からの見送り作業といえるかもしれない。重要なのは、生前に葬式を行い、先祖を供養した経験があるかどうかにある。勿論、金額の問題ではないのはいうまでもない。死者を送った経験があれば、送った死者があの世からやってきて、見送ってくれてありがとう、と今度は自分が送られる番だったのか、と悟る機会が得られるからである。だから喪主になるほど、死を悟る機会が得られるといえるかもしれない。坊主がお経を唱えるのも、その経験が多いだけにすぎないし、外科医の術数と同じようなもんである。さて、墓についてだが、地獄の沙汰も金次第という諺があるが、この諺も現代では曲解されているが、ある坊さんが、生前金持ちだった霊魂が金銭の施しが足りなかったので、このままでは地獄に堕ちてしまうので、慌てて、遺産をみんなのためにばら蒔いたという逸話から生まれたものである。つまり、金銭は墓場までもっていけない、という意味なんである。金持ちのままだと、キリストが言ったように、金持ちは天国にはいけない、と同じ意味なんである。だから、亡くなる前に、恵まれない人々や福祉のために、寄付しなさいという意味なんである。キリストの、金銭を捨てて、私についてきなさい、と金持ちの若者に言ったことと同じなのである。だから、本来は、墓は、みんなのための集会場や、美術館や図書館、芸術や音楽の公共福祉の場となるべきなんである。霊魂は天国に還り、肉体は地球の自然に還るのが、なにより死者に死を自覚させるもの、といえるだろう。キリストは、金銭のコインをみて、カエサルのモノはカエサルに返せ、と言ったように、金銭は、この世のものなので、この世に返せといったわけで、肉体や物質的なものはすべて、あの世にはもっていけないので、それを持ち込もうとすると地獄に堕ちるので、皆の為に、集会場となる、お墓でも立てて、霊魂の裸一貫になりなさい、という意味に、神秘学から解き明かされる。海外の葬儀と埋葬方法 | アメリカ・中国・インド|樹木葬辞典 (xn--i6qp24cjfctz3bpyl.com)【葬儀の世界】環境に配慮した葬儀スタイルが魅力のノルウェー (tomuravi-sougi.jp)多種多様な生き方があるように、多種多様な死に方があるわけである。しかしそれはあくまで、この世での個人としての死にすぎない。人間は皆、霊魂として、永遠に生き続ける。
2024年07月19日
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我が物顔の独裁者は困った存在である。巷で就職していたときは、数多くのプチ独裁者に出くわしたが、現場の状況などお構いなしに机上の空論を振りかざし、自分の思い通りにいかないとヒステリーを起こすような子どものような大人を見てきて閉口したものである。こういう人物がいると、振り回されて、現場が疲労疲弊するだけで、有用な人物が辞めていってしまう。当人は辞めた奴が悪いといい、全くの反省がないからいい気なモノである。独裁者の愚かさの特徴は自分が正しいと思っている独善にあり、同じ人間なのに、他の人間を自分よりも下にみているところがある。高次の宇宙人からすれば、地球人の知性など似たり寄ったりなのに、地球人は自分たちのことを知的生命体と呼んでいる自惚れさをもっている。知性がどこからくるのか、知性そのものの存在すらもわかっていないのに、地球人は、知性の代表と勝手に判断しているわけなんである。だから、ソクラテスから言わせれば、人間は、知的生命体ではなく、無知的生命体というべきかもしれない。だから、独裁者とは、無知的生命体の代表で、高次の知性の、神を知らない愚か者ということになるだろう。神を知らないから、天国には行けずに地獄に堕ちるわけなんである。以前、教育者ペスタロッチの輪廻転生を紹介したが、それはぺスタロッチの2つ前の前世が奴隷監督人で、上司のパワハラのいいなりになって、奴隷を虐めていたので、1つ前の前世で、そのパワハラ上司の妻になって、かつての奴隷たちが上司の上役になり、カルマにより、パワハラを仕返し、虐められている上司の愚痴の聞き役になって、カルマを半分解消し、そして今度は、その半分を、ペスタロッチとなって、同じ地域の村民に転生した奴隷たちの子どもを預かり、教育し、解消したものだった。つまり、教育者ペスタロッチは、2つ前の前世の奴隷監督人のときに背負ったパワハラの罪を解消するためのものでもあったわけである。このペスタロッチという偉人の功績の裏には、カルマの解消が隠されていたわけで、この輪廻転生からも、人の上に立つ責任が重いのがわかる。上司の命令とはいえ、パワハラの罪は拭えないわけで、ペスタロッチのなかで、前世のパワハラの罪が、現世で、パワハラをしない教育に変わったわけである。ペスタロッチ~近代教育の父~ - 保育タイムズ (hoikushisupport.com)ペスタロッチとは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)このペスタロッチの奴隷監督時代のパワハラ上司はいわばプチ独裁者といえるだろう。この上司は、前世のパワハラのカルマを背負ったために、次の転生では、前世でパワハラをした奴隷が上役になり、パワハラをされる立場に陥ったわけである。多くの人にパワハラをすれば、より多くの人からパワハラを受ける、いわば、ニュートンの作用反作用の法則のように、カルマの法則を背負うことになる。独裁者は、このカルマの法則を知らないから、愚か者といえるわけなんである。簡単にいえば、上に立つ者は下に立つ者の気持ちを理解できないとダメなんである。神秘学の原則の、上にあるものは下にもある、というのは、水が低きに流れる、のと同じように、神は下々を通じて、人の良心を推し量る、という意味をもつ。仏陀やキリストがホームレスになったのも、神が下々を通じて、人間の道徳性を高め、良心を育成するためである。宇宙では上に立っているので、地球では、下から眺めないと、悪を善導し、地獄を改めないと、天国の領域が拡げられないからである。水を下(ひく)きに流さない〜治療効果を「目視」せよ〜:Cadetto.jp (nikkeibp.co.jp)現代人は愚かなんで、孟子が性善説の例えで言った、水は低きに流れ、人は易きに流れる、という格言を、人は楽な生活をやめられないと他愛もない諺に曲解しているが、そんな解釈では、現代人のほとんどが地獄に堕ちてしまうように、これは完全な誤解釈で、本当は、お釈迦さんの善因善果を言っているわけで、水が万物に水分を与え、瑞々しくさせ、生命に潤いを与え、加水分解で、酵素反応を高め、再生させるように、善導できなければ神の使徒ではなく、人間ではないという、人間の性善説、道徳性を説いたものなんである。簡単にいえば、下々を救えないものは人間をやめるべきである、という厳しい格言なんである。水がなんのために、下へ下へと流れているのか、人間も、水に肖り、下へ下へと善を施し、養うべきである、と説いたわけである。つまり、水が下へと流れるように、人間も善を施すのが、自然の、カルマの、宇宙の法則というわけなんである。楽な方向に流れるのは、いかにも安易な解釈で、恐らく、「易き」を安易と捉えた誤訳だろう。ソクラテスの無知の知もそうだが、現代人の愚かな解釈が、ソクラテスと孟子が、せっかく神から降ろした言葉を人間の低レベルな解釈で、陳腐化してしまっている。「易き」には、他に、安定した状態という意味があり、それは平和や、天国の、秩序だった公正の世界という理想郷や、楽園を指す。前半で、水という、人体に不可欠な成分が低きに流れると言っているのだから、後半で、人が、高きに浮上しないと、起承転結の文体にならないわけで、水は低きに流れるが、人は高きに浮上する、という高揚感がないわけで、それだけで、誤訳の俗世的解釈の低俗の屁理屈なのがわかる。人は楽な方向に生きる、では、背後に隠れている神の摂理、天の理が全く隠れてしまう。水を低きに流すのも、人を道徳や倫理に高めるのも、神の摂理で、天の理なのを、説くのが、孟子の性善説だから、人は道徳によって、高めあわないといけない、と孔子の道徳を継いで、孟子は述べているわけなんである。孔孟、老荘を、唯物論で解釈してしまうから、偉大な賢者の格言が、陳腐な俗物になってしまい、独裁者のような地獄行きの天狗たちを生み出してしまうわけなんである。ペスタロッチの輪廻転生でもわかるように、過去の非道徳的行為を、未来の道徳的行為へと転換していくのが、人間に与えられた人生の宿命なんである。ペスタロッチのように、水が低きに流れるように、人間は道徳的行為によって高きに浮上し、天国に行くべきである、と孟子は説いたわけなんである。教育が水のように下々に行き渡り、そして、その教育から道徳的行為が生まれて、より多くの人間が天国に行けることが、孟子が説いた性善説という学問体系なんである。現代人は、過去の学問体系を馬鹿にしすぎて、プチ独裁者になって、金持ちなどの地獄行きに憧れるから、独裁者の顔色を窺い、独裁者の暗殺などに一喜一憂するわけなんである。そこで、人生において、なんの道徳的行為を行わずに、破壊行為ばかりを行う不真面目な666の肉食獣のような、独裁者の顛末を知るために、シュタイナーの輪廻転生の本から、独裁者ネロの輪廻転生を紹介する。ペスタロッチのパワハラ上司の転生でもある程度わかるが、自分がしたパワハラは、ブーメランとして、今度は自分に返ってくるのを、人の上に立つ責任者は、是非良く知るべきである。シュタイナーははっきりと、ネロのような如何わしい人物が皇帝の座についたのは軽蔑すべき、人間の悪しき行為と述べている。もし、人間に自由が与えられていなかったら、ネロが皇帝になりえなかったかもしれない。「全世界を侮辱する心の持ち主で、人間の生命を軽視する霊魂」とシュタイナーは、ネロの霊性を読み解いている。この愚か者は、「私の死と共に、一人の芸術家が失われる」とほざいたようで、この言葉から、ネロという霊魂の、自己認識の不真面目さ、自我探求への無知さを、シュタイナーは指摘している。この霊魂は、破壊欲や破壊衝動のみを追求したらしい。人生で行った行為全ては、死後にそのまま自分に返ってくる。破壊行為や破壊衝動は、自分に返ってくるわけで、それは被害者の恨みや怨念としてそのまま返ってくるというわけなんである。ネロ - Wikipedia先のパワハラ上司のように、パワハラをした相手に今度はパワハラを仕返しされるようなものである。少し前に、ドラマの半沢直樹の、倍返しが巷で話題になったが、皇帝ネロは倍返しどころでは済まないだろう。半沢直樹のドラマは現世だけの話だが、実際は、輪廻転生を通じてカルマにより、水が下に流れるように、自然の法則のように、人生の法則として行われるわけである。だからといって、現在の不幸を前世に求めるのは間違いである。というのも、報復されることで、カルマが解消されるからで、報復を避けていたら、人の痛みがわからない、人間失格の落第者となって、悪魔になってしまうからである。悪魔は人の痛みがわからないので、互いに痛め合い続けるしかない。人の痛みがわからないから、虐めが際限なく行われ、地獄となるわけなんである。人の痛みがわかることが、人生の学びだからでもある。かといって、報復を肯定するわけではない。際限を越えて報復が行われないように、人間には死がある。半沢直樹 - Wikipediaいずれにしろ、ネロの破壊的人生が凄まじかったのか、ネロの次の転生については、シュタイナーは、2、3世紀後に転生したが、重要な人生ではなく、破壊行為に対しての、カルマの均衡がとられた、としか記していない。恐らく、先のパワハラ上司のように、あらゆる人々からパワハラを受けるような立場の人間に転生したのかもしれない。生まれてから死ぬまで不幸続きだった人の話が残っていないのは当然かもしれないし、そんな人生を語っても無意味だろう。「全世界を侮辱する心の持ち主で、人間の生命を軽んじる霊魂」が逆の立場を経験するわけで、それは全世界から侮辱され、自分の生命が軽んじられる人生を経験することになるのだろう。その転生の話は、置いておいて、シュタイナーは、次の転生を述べている。ネロは、破壊者の人生と、次の転生で、破壊の被害者の人生を経験したらしい。そして、次の転生では、今度は、命令により破壊に従う立場の人生を経験することになったという。そして、その立場というのは、オーストリア皇太子ルドルフとして転生したという。ルドルフ (オーストリア皇太子) - Wikipedia皇太子ルドルフは、皇位継承という輝かしい未來よりも、自殺を選んだのである。ネロという破壊者の人生と、その均衡をとるための転生の人生とを天秤にかけてみて、皇帝となった人生を破棄したのである。それだけ、均衡をとるための転生の人生が過酷だったのかもしれない。人の痛みを知った存在は、皇帝になるよりも自殺を選んだわけなんである。そもそもネロのような人物が皇帝になったのが間違いで、それはルドルフ皇太子の自殺により、人間の、独裁者の、愚かさが証明され、人間の無知さが、カルマにより解き明かされたともいえるかもしれない。現代の独裁者は、ネロの輪廻転生の顛末をよくよく考えるべきである。水が低きに流れるように、人は天国を求めるのだから。キリストは、金持ちが天国に行くのは困難である、と言ったのを、はっきりと理解すべきである。というのも、金持ちは既にカネの奴隷だからである。キリストは、私に従うのなら、金銭を売り払ってついてきなさいと、金持ちの若者に言ったように、富を積むのなら、現人生において、人として道徳的行為をして、天に積むべきなんである。道徳的行為を天に積むことで、未来の人類の、天国での遺産になるからである。さて、シュタイナーは、次の第6文化期に鍵となる人物を挙げている。それはソロヴィヨフである。そこで、ソロヴィヨフの輪廻転生を紹介する。シュタイナーによると、ソロヴィヨフの前世は、有名な、キリスト教がルシファーーアーリマン化する切欠となった4世紀のニカエア公会議に関わる重要な人物だったという。ウラジーミル・ソロヴィヨフ (哲学者) - Wikipedia第1ニカイア公会議 - Wikipediaニカエア公会議で、アタナシオス派が主張する人の子キリストが父である神と同一なのか、アリウス派が主張する、あくまで父に似た子なのか、議論されたなかに、ソロヴィヨフの前世となる人物が参加していたという。この人物は、この両者の主張を統合できる論拠をもっていたのだが、指導的役割ではなかったので、不首尾に終わり、エジプトに帰って隠棲し、禁欲的な生活をしながら、思考の源流となる霊的なイメージ、霊語を探求したという。思考のイメージとは、空海が説く真言であり、曼荼羅のことでもある。プラトンのイデアでもある。シュタイナーによると、ソロヴィヨフの前世こそ、キリストの真意、神意、天の理を知る人物だったという。しかし、彼は論争を好まずに、公会議で議論しなかった。シュタイナーによれば、アタナシオス派も、アリウス派も、キリストの真意には達せずに、どちらの主張も不十分で、アタナシオス派に沿うと、人間の内なる神は、宇宙の外なる神から切り離され、人間の内なる神の、霊我を語る者は異端とみなされるが、逆に、アリウス派に沿うと、人間の内なる神について語り、人間は神の受肉と考え、ついには全ての自然は、神の化身と考え、外なる神へと向上する、人間の認識への努力が無視されがちになるという。シュタイナーは、この2つの外なる神と内なる神の見方を、神の子の黄金伝説と、人の子の神殿伝説として語っているが、アタナシオス派は、神の子の黄金伝説寄りで、いわばルシファー的な偏りがあり、逆にアリウス派は、人の子の神殿伝説寄りで、いわばアーリマン的な偏りがあり、両者の統合を目指すために、キリストによる中庸の人智学を興したわけでもある。つまり、シュタイナーは、ソロヴィヨフの前世の人物を目指していたわけでもある。だから、シュタイナーは、ソロヴィヨフの前世を、外なる神と内なる神を統合する叡智をもった人物と霊視したわけなんである。これまで紹介してきた、輪廻転生での男女の役割からいえば、黄金伝説は、女性的な働きを、神殿伝説は、男性的な働きを、象徴化しているともいえるかもしれない。というのも、黄金伝説は、外なる宇宙神を、内なる人間の自我につなげる役割で、神殿伝説は、内なる人間の自我を、道徳的行為で努力で高めて、神にして、外なる宇宙神につなげる役割と考えられるからである。つまり、ソロヴィヨフのこの2つ前の前世は、外なる宇宙神と、内なる人間の自我神の霊我をつなげる人物だったわけなんである。さて、この人物はエジプトで隠棲し、禁欲的な生活を送りながら、ついには秘儀に参入し、古代叡智まで至り、思考のイメージの源流にある、宇宙神の叡智に達したらしい。そして、死後に、その叡智を外から見て検証し、次の転生では、中世に女性に生まれ、自らの前世のなかで、統合したキリスト教を尼僧として布教活動したという。女性として生まれ活動することで、古代叡智をキリスト教としていわば巫女のように柔軟に地にもたらしたが、それは地上のどのキリスト教よりも、柔軟で中庸的なので、個人的に自由なキリスト教として乗り越え克服していったという。そして、地上に全ての集団的なキリスト教がなくなるのを霊視できたという。そして、この女性だった前世が、あくまで個人的に自由なキリスト教徒として、転生し、生まれたのが、ソロヴィヨフなのだという。ソロヴィヨフの思想のなかには、第6文化期のキリスト教が隠されているわけなんである。それはいわば、人類全体の波動関数としての、人類の神人化といえるべきものかもしれない。しかし、独裁者のような愚かな輩が跋扈しているので、神人というよりも、悪魔化、堕天使化して、悪性腫瘍化しているのが、現状といえるかもしれない。自由と横暴をはき違え、人の痛みを知らない666の獣が闊歩する黙示論の世界が到来しているのが、その証である。同じ痛みを知る人間として生きるために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 以前、公開講義で、偉大な哲学者ソロヴィヨフに触れた。ロシアで最重要な思想家の一人である。ソロヴィヨフは傑出した思想家だが、生粋のロシア思想家で、西欧の観点から極めて理解困難な精神の持ち主である。しかし、人智学徒は、彼の仕事を研究し、理解すべきである。そこで、ソロヴィヨフの主要な中心的理念について、霊的な観点から述べたい。 ソロヴィヨフは、個人的な自我について、集合魂による生命の原理を躊躇なく採用するには、あまりにも進歩的な哲学者である。彼は、現に、その採用について多くの困難に遭遇し、多くの点で同意しなかった。しかし、彼のなかでは、統一的な理念が支配的である。 確かに、彼は、あまり意識していなかったが、霊能者であったならわかっていたはずなのに、だから、彼の霊魂が、第6文化期に受肉し、地上での霊視を待つしかなく、そう願うしかない。西欧や中欧の人々に究めて理解困難な、次のような概念が、ソロヴィヨフの精神では主要の中心的な理念になった。 第6文化期の準備として、西欧の我々が追求すべき霊性は他にも色々あるが、彼のなかでは、死の意味、特に、生命にとって、死は何を意味するのか、その意味を把握するのに力を尽くしていた。死が、宇宙のなかの、いかなる存在の一形態の顕現なのか、また霊魂が、死に際して、別の存在形態に、どのように変化するのか、の理解に努めていた。 我々人智学徒は、霊視から、霊魂の霊的な生活、つまり死から新たな誕生までの間の生活様式を描きだし、人間の死を理解できる。死は、霊魂にとっては、衣服のような外見にすぎない。霊魂は死を通過した後も、生き続けるのを実感できるように、死の克服に努めている。このような霊的な理解を通じて、死を克服することが、現代において、切実に、重要な、人間の進化目的である。 しかし、この目的において、我々人智学徒は、ある別の観点に到達する。実際に、最も肝要な観点で、この観点から、人智学は、偉大なロシアの思想家ソロヴィヨフの保持した中心的理念から、完全に離れる。彼の理念は、次のものである。 「この世には、悪があり、愚かさがある。もし我々が、個人的な自我の感覚で、邪悪と愚劣を眺めるなら、この世が、この2つで満ちているのを否定できない。この2つが、この世の神性を否定する。」と、ソロヴィヨフは述べている。 「日常の感覚で、この世を眺めれば、一体、どこに、神の世界があり、神の存在がみつけられるのか? というのも、神が、悪を開示することは、断じてありえないからだ! しかし、我々人間の感覚から、悪が至るところに知覚され、その悪の極みが、死である。この世に、死がある限り、この世は、邪悪と愚劣の全てが開示される。死こそ、根本悪である!」 このようにソロヴィヨフは、この世界を特徴づけた。実際、彼は、次のように述べている。 「この世界を、日常の感覚で見よ。日常の精神で理解してみよ。そうすれば、この世界における、悪の存在を決して否定できない。そしてまた、死を、思考から理解しようとすれば愚かしいだけだ! 死は実存するからだ。日常の感覚を通して獲得された知識は、愚劣に満ちた、悪の世界を開示する。この世界が悪に満ちていること、そして、あらゆる場面に、死がやってくるとき、この世界が神のものだと、我々は信じられるだろうか?」 このように、ソロヴィヨフは投げかける。 「我々に、死を開示する、この世界が、神の世界であるとは、断じて信じられない。というのも、神は、悪でも愚でもないからだ。何より、根本悪の、死があるはずがない。神に、死はありえない。それゆえ、もし、神が、この世界に生まれるとしたら、もし神が、現れたら、神が、神であるのを、我々は、ただちに信じられるか? 否、信じられないはずだ! 神は、神であるという自己同一性を確立しなければならない。もし、神だと主張する存在が現れたら、その主張は通らないだろう。神は、我々人間が、神として認識できるような世俗の文書のようなものを提出し、自らの神性を証明しなければならない! そのようなものは、この世の中には存在していない。神は、この世界に存在するものを通じて、神の自己同一性を証明できない。というのも、この世界の全てが、神性に矛盾しているからである。それでは、どんな手段で神は自己同一性を証明できるのか。 それは、この世界に現れるとき、神が、死を克服したと、死が、神に対して何ら力をもちえないのを示すことしかない。キリストが自らの自己同一性を証明しなかったなら、我々は、キリストが神だとは決して信じないだろう。 しかし、キリストは、それを為した。キリストが復活した以上、根源悪の死が、キリストにはない、と示した限りにおいて、キリストは、神という自己同一性を示した。」 このようにソロヴィヨフは述べている。この自己同一性は、キリストの、歴史的な事実上の復活に基づく、潜在意識による神性の知覚である。このように、キリストは、神として、神の自己同一性を証明した。ソロヴィヨフは更に続ける。 「この世界の何物も、復活という唯一の例外を除けば、我々に神が存在する、と実感できるものはない。もしキリストが復活しなかったなら、我々の信仰は空しいものとなるだろう。そして我々が、この世界のなかの、神性について知覚できる全てもまた空しいものとなるだろう。」 ソロヴィヨフは、聖パウロの、この言葉を度々引用している。 以上が、ソロヴィヨフの根本的な見解である。もし、我々が、この世界を見れば、悪に満ち、愚劣に満ち、退廃に満ち、無意味さだけを見る。もし、キリストが復活しなかったなら、この世界は無意味そのものとなるだろう。それゆえに、キリストは復活した! この文によく注目すべきである。というのも、これは東欧の最も偉大な思想家の一人の根源的な言葉だからである。 「もしキリストが復活しなかったなら、この世界は無意味な墓場、地獄となっていただろう。この世界を救うために、キリストは復活したのだ!」 ソロヴィヨフは、次のように述べている。 「もしキリストが復活しなかったなら、この世界は無意味となっていただろう。それゆえにキリストは復活した、と私が述べるのを、非論理的に思う人がいるかもしれないが、そのような、私の発言を反証するために提示し得る、いかなる物証的な論理を、遥かに超えるのが、神性復活の論理なのである。」 このソロヴィヨフの、神の神性を証明する文書、このようなオカルトに独特な例を挙げて、これはソロヴィヨフの著作にしばしば見つけられるが、東欧における思考の不思議さの具体例として示した。いかなる手段によって、自らが神であるのを論駁の余地なく、神が啓示するのか、それを理解する努力から、オカルト的な独特の思考が体現し、叡智の金字塔となる。
2024年07月16日
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この国の少子化が叫ばれて30年以上経つが、国や民族の将来を憂うどころか、巷の政治家は己の利権確保に頭一杯で、全くの他人事で、悪魔に誑かされて、地獄に堕ちることばかりして、人間をやめて、666の獣に邁進している次第で、一体、政治家が少子化問題を解決せずして、他の誰が、どの職業がやると思っているのか、全くノー天気な、この国の現状である。考えている振りだけして中身空っぽである。この国の政治家はあまりに無責任すぎて馬鹿を通り越して人間をやめた方がいいと思う。自分の事しか考えられないからどんどん馬鹿になっていくわけなんだろう。そもそもヒト助けなどやったことがないボンボンばかりの人間が権力を持ったからと言って実績がないからできるわけがないのは当たり前である。政治家が何もせずに口先だけの評論家になっていたら、この国は終わりで、現に終わりに近づいているのはほぼ誰の目にも、天候の不順などから、明らかになってきている。七夕という777の神聖な行事でさえも、神殿を穢した商売人の詐欺師たちにより、獣化した悪魔の666の行事に成り下がってしまった。悪魔が来りて法螺を吹くではないが、立候補者の顔ぶれを紹介する掲示板が荒らされた無法地帯になってしまったわけで、この国の現状をそのまま示していた。まさに泣きっ面に蜂である。さて、前回は、先日の七夕選挙があまりに酷くて、七夕だったのも忘れて、思わず愚痴ってしまったが、本来の七夕は旧暦から換算すると8月10日辺りで、いまでいうお盆の季節なので、まだ一カ月余りある。七夕は織姫と彦星の話で有名だが、輪廻転生での男女の役割の違いを考えると、面白い事に気づく。織姫は、天の魂を織り込んでいく仕事の象徴で、彦星は、地の肉体を耕していく仕事の象徴と、神秘学で、考えられるからである。つまり、織姫は女性の霊能力や直観力の象徴で、彦星は男性の肉体力や合理力の象徴といえるかもしれない。伝統的七夕について教えて | 国立天文台(NAOJ)お盆 - Wikipedia2024年の七夕はいつ?7月7日だけじゃない伝統的七夕の意味やイベント情報まで紹介 | HugKum(はぐくむ) (sho.jp)だから、人智学でいえば、織姫は、睡眠中の潜在意識の活動で、彦星は、起きているときの、覚醒意識の活動を意味している、といえるかもしれない。ぶっちゃけていえば、天の活動と、地の活動で、精神の働きと、肉体の働きと分類できるわけなんである。だから、七夕とは、天と地が巡り合う、あの世とこの世がつながる、夜明けの晩といえるかもしれない。夜明けの晩といえば、かごめかごめの童謡を思い出す。かごめかごめ - Wikipedia「かごめかごめ」の意味とは Part I – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究 (historyjp.com)「君が代」「かごめかごめ」など 歌の中に隠されていた日本とユダヤの秘密|日出処の猫 (o-oi.net)かごめの唄は、都市伝説では交霊術ともいわれているが、上に紹介したヘブライ語で解読したサイトから、夜明けの晩とは、ヘブライ語のヨ(神)アケー(根絶する)バン(造る)と強引に解読されて、「神は根絶し、造る」という意味になるから、かごめの唄の前半と後半の意味の流れから、この「神は根絶し、造り給う」の夜明けの晩が、地球紀の、前半の火星紀と、後半の水星紀のちょうど中間の、転換期という意味をもつのがわかる。七夕の7月7日も、一年の中間期辺りで、その中間で、男女が出会う日というのは、両性具有の神の創造の日といえるわけである。このように、人智学の輪廻転生説から、七夕について、かごめの唄を解読すると、男女の天と地の働きが解き明かされる。かごめの唄は、大凡、次のような感じになるかもしれない。人間よ。男となって地(肉体)を支配せよ。そして、肉体のなかから、神となるべき道徳的行為をなせ。そして、神となるために、それまでの不道徳な行為を悔い改めて、女となって天に従い、天から地を救いなさい。そうすれば、永遠の生命を手に入れられるだろう。つまり、この唄は、第6文化期の霊能力再獲得の唄なのかもしれない。七夕は、東洋だけの行事にみえるかもしれないが、特に日本では、お盆と一緒になっているために、東洋の文化と思い込んでいるが、それは以前にも紹介した神秘学の進化数のラッキーセブンの777の象徴で、人間が、地球紀を卒業し、自由な愛の天使になったときの進化段階を意味している。人類の進化計画の最終形態で、救世主の数である。その前に、最悪の獣化した悪党の666の進化段階を迎えるわけで、シュタイナーは万人による万人の戦いの時代と預言している。そこで、西洋の七夕的な行事をググってみると、聖母の被昇天に辿り着く。以下のサイトによれば、聖母マリアの霊魂が天に召された日であるらしい。神秘学では、聖母マリアは、受肉しない純粋なアストラル体を意味し、六芒星の象徴でもあり、聖霊を意味する。聖母の被昇天 - Wikipedia聖母の被昇天とは? | カトリック中央協議会 (catholic.jp)聖母マリアには、人間が、地のこの世に生まれて、古き集合魂の民族魂から自由に独立し、新しき個人の自我による道徳的行為を打ち立てることで、自我を自由に浄化し、愛による救いの霊我へと努力し進んでいく輪廻転生の進化プロセスが秘められている。上の図をダビンチの最後の晩餐の絵画と比べてみる。地球紀の前半の、火星紀は、戦いの時代で、いわば火の、男性が優位な時代だった。しかし、女性の社会進出から、この国にも遅ればせながら、昭和のオヤジギャルが生まれ、平成から令和へと、リケジョ、レキジョ、ウマジョとか、男性優位が逆転し、女性の活動が目立ってきて、性に対しての差別意識の撤廃から、ジェンダーフリーも唱えられつつある。しかし、このジェンダーフリー論には、異性の違いによる社会的役割の違いがどのように生まれてきたのか、そして、それを物質的な肉体性において議論している点で、大きな錯誤に陥っているのがわかる。つまり早い話、輪廻転生での男女の役割の違いを抜きにして語るから、混乱して、地での活動の主権や権力を巡って、男女の利権の闘いになってしまうのである。ジェンダーフリー - Wikipedia男に生まれた後で女に生まれ、またその逆の、交互に生まれ変わると知るだけで、一方の性にだけに固執し、執着する意味がなくなる。輪廻転生のカルマの法則を知れば、性差だけでなく、民族や人種についても、以前紹介したように、特定の民族や人種に固執し、執着する意味がなくなる。単純にいえば、男性中心の社会に生まれて、女性を差別したら、今度は、差別された女性に生まれて、自分が男性となってやらかした差別を、身をもって体験するように、女性に生まれ変わるわけなんである。以前、これをニュートンの作用反作用の法則で紹介したが、自分がしたことがブーメランとして自分に返ってくるわけで、自業自得というわけなんである。だから、目には目を、歯には歯を、のハムラビ法典の戒めは、目を攻撃したら、目を攻撃されるし、歯を攻撃したら、歯を攻撃されるが、それは、加害者と被害者が入れ替わって、次の転生で遂行される、カルマの法則であり、だから、キリストは、他人の目になり、他人の歯になりなさいと、説いたわけである。それはつまり、自分の行いが、次の転生の自分に成り代わるからである。だから、道徳的行為をすれば、次の転生で善人に生まれ変わり、善因善果となるわけなんである。しかし、善人に成り代わるのを見込んで、道徳的行為をするのは偽善で、詐欺なので、詐欺に被害に遭う人間に生まれ変わるだろう。他人に騙されやすい、お人よしの人間というべきかもしれない。さて、地上での男女の役割の大まかな違いをわかりやすくするには、文系と理系分野の例えが面白いかもしれない。芸術や体育会系は、直感型か、理論型かで、分けるとわかりやすくなるかもしれない。だから、文系分野は、直感型が多く、理系分野は、理論型が多いと大別できるようにみえる。勿論、理系分野にも直感型がいないわけではなく、ただ少なく、少数派というだけにすぎない。自分は物理畑に進んだので、ほとんどが理論型ばかりで、それもほぼ男性の世界だった。だから理系の世界では、女性は希少価値があり、教員の最初の挨拶は、女性の数学者や物理学者の紹介が定番だった。逆に、文系の、国文学や英文学は、ほぼ女性の世界で、男性に希少価値があるので、恋人のいない男性はいないと、当時の友人に聞いたことがある。恋人探しなら、男性は文系にいき、女性は理系にいくのがよいかもしれないが、理系では、ある程度真面目にやらないと進級できないので、恋人をつくる余裕はないかもしれない。昨今は、リケジョと言われ持て囃されてもいるが、そもそも理系には女性が少ないので、少ない女性数学者の紹介で、定番なのが、コワレフスカヤである。ラジウムを発見したキュリー夫人はあまりにも有名すぎて、ニュートン力学の授業でニュートンを紹介しないのと同じかもしれない。相対論の授業でも、アインシュタインをわざわざ紹介しない。誰もが知っている人物は紹介されないが、割と知られていない人物が、特に女性の場合、紹介される傾向にあるのかもしれない。ともかく、物理畑に進んで最初に紹介された人物なので、覚えてしまったほどである。ソフィア・コワレフスカヤ - Wikipedia理系分野では、女性が少数なので、理系科目が不得意とみなされがちだが、人智学によれば、輪廻転生での役割の違いにあり、男性のほうが、目立ちがちで、自己主張が強いためである。というのも、女性は天から叡智を降ろす役割をもち、直感を得意とするので、地で、論理的に物証する機会を煩わしく感じるのかもしれない。地上での認識から、緻密な論理を構築していくのは、男性の、筋肉を構築し動かしていく経験が実を結んでいる。だから、筋肉から、物質的に、人工物をつくっていくのは、男性の得意技なのである。そこで、改めて、男性と女性の役割の違いを、輪廻転生から読み解いてみたい。前々回は、熱中症に罹ってしまい、輪廻転生での女性の働きを紹介する途中だったが、改めて代表的な人物をシュタイナーの輪廻転生の本から紹介する。コワレフスカヤの前世かもしれないが、女性数学者の代表的な人物であったヒュパティアである。ヒュパティア - Wikipediaオルペウス教 - Wikipediaシュタイナーによると、ヒュパティアの前世は、古代オルフェウス教徒で、当時の古代ギリシアの秘儀参入法により、霊的な叡智の、オルフェウスの神話に秘められた霊能力を獲得したという。巨人族に八つ裂きにされ、ゼウスにより高次の生命に導かれたデュオ二ソスの神話に秘められた古代の叡智を心魂に体験し、獲得したという。オルフェウス教徒は、秘儀参入すると、自我が八つ裂きにされ、ついには自分がみえなくなるという。現代人がもつ覚醒意識で、動物や植物、鉱物を認識するには、それらの外見から、物質的に構築した概念で、捉え、それ以上中身の精神や魂には入ってはいかない。これが唯物的な観点の限界で、境界である。現代物理学でいえば、波動を量子の場の境界や、時空間に置き換えて、いわば、量子化してモノ的に捉えているわけなんである。数学で言えば、ユークリッド幾何学から、せいぜいリーマン幾何学のミンコフスキー空間や、そのテンソル演算に置き換えているわけである。これは、自分と他人に境界を貼り巡らし、区別しているのと同じである。要するに、自分の空間と、自分以外の空間を外的に分類しているのである。数学というのは、分類に使う道具で、物理は、分類に意味づけ、重みづけする配分の割り当て表、計画表のようなものである。化学は進行過程表で、生物学は数学とはまた別の物質界での経験に基づいた分類表である。いずれにしろ、唯物科学では、物質界の境界を超えることはできない。ユークリッド幾何学 - Wikipediaリーマン幾何学 - Wikipediaミンコフスキー空間 - Wikipediaテンソル積 - Wikipedia 少々脱線してしまったが、オルフェウス教徒は、これら現代人の覚醒意識とは真逆の、現代人のこのハードウェア感覚に対して、自然界を動かす中身の、いわばソフトウェア感覚まで到達し、自然の表に現れる肉体だけでなく、中身の精神や心の中にまで到達し、一体化するための経験を獲得する修行を通して、宇宙の神々との対話を目指していたようである。自然界を形作る神々の心を読み解こうとしていたわけなんである。アリストテレスの4大元素霊とは、その神々の心のなかの残滓みたいなものだという。四元素 - Wikipediaシュタイナーによれば、ヒュパティアの前世の、古代オルフェウス教の師匠は、古代ギリシア哲学の前の、哲学史にも記されていない時代に活躍し、後のタレスやヘラクレイトスの哲学は、その余韻にすぎないという。ヒュパティアの前世は、古代オルフェウス教の秘儀参入者の弟子で、シロスのフェレキュデスだったという。そして、秘儀参入から得た古代叡智を、数学で表現するために、4世紀末に偉大な数学者テオンの娘として転生したという。タレス - Wikipediaヘラクレイトス - Wikipediaシュロスのペレキュデース - Wikipediaアレクサンドリアのテオン - Wikipediaヒュパティアは、古代オルフェウス教による古代叡智を、直感的に数学として体系化したという。ヒュパティアが教える当時の学問体系は、キリスト教が生まれる前の古代オルフェウス教の古代叡智に由来しているために、4世紀当時に支配的となっていったキリスト教の権力者から排斥され、異端とみなされるようになったという。この悪しきキリスト教の権力者が、テオフィロスとキュリロスだったという。エルサレムのキュリロス - Wikipedia教皇ベネディクト十六世の110回目の一般謁見演説 アレキサンドリアの聖チリロ | カトリック中央協議会 (catholic.jp)この悪徳司教たちは、愚かにも非キリスト教的、非教会的なモノを独断と偏見で憎み、私兵を指揮して、ヒュパティアを黒魔術師として糾弾し、民衆を扇動し、弾圧し、虐殺してしまったという。後の魔女狩りの悪しき先例といえるかもしれない。それだけ、この悪徳偏狭の、両司教にとっては、権力を揺るがす存在だったのかもしれない。というのも、ヒュパティアは、当時のアレキサンドリアの代表的人物で、シュネシオスも弟子だったからである。なぜ「女性哲学者」は非業の死をとげたか 『ヒュパティア 後期ローマ帝国の女性知識人』|じんぶん堂 (asahi.com)生きたまま皮膚と肉を削がれて息絶えた…最古の女性科学者が残酷な死を遂げた理由 | PRESIDENT WOMAN Online(プレジデント ウーマン オンライン) | “女性リーダーをつくる”魔女狩り - Wikipediaシュネシオス - Wikipediaシュタイナーによれば、古代オルフェウス教に秘儀参入して得られた霊的な知識を、いわば天から降ろして、地上の言語である数学に肉付け体系化するには、女性に生まれる必要があったために、女性数学者ヒュパティアとして、地に転生したわけで、いわば巫女的な役割を果たしたわけである。その巨大な叡智を、当時の悪魔的な権力者の、キリスト教支配者たちは恐れるあまりに、ヒュパティアを魔女として大衆を動員し、虐殺してしまったわけで、正にカリユガのなせる時代といえるかもしれない。ヒュパティアの人生は、まさに古代オルフェウスの秘儀参入の経験、つまり巨人族の悪魔に八つ裂きにされたデュオ二ソスの叡智の自我を、身をもって個人的に体験したものだったわけである。それは古代オルフェウス教の秘儀参入で、前もって見た、太陽から降臨し、地上で十字架に架かり、受難するキリストの太陽霊の自我の姿だったわけである。天の理の神意が、悉く人間の悪意により八つ裂きにされ、曲解され、道徳の欠片さえもなくなるほどの虐殺を、黒魔術師というレッテルを貼られ、衆目のなかで曝され、ユダヤの王として刑死したキリストの経験だったわけなんである。だからヒュパティアは、キリストが蘇り、弟子を通じてキリスト教を布教したように、甦るわけなんである。ぜウスにより、高次の生命への認識へと導かれたデュオ二ソスのように、輪廻転生から、再生されなければならない。そして、シュタイナーによると、ヒュパティアは今度は、男性として、前世とは逆の道を進み、地から天の神意に達するために、12、13世紀に、哲学と自然科学の、人間の認識の統合を担い、輪廻転生の思想を説くために、アルべルトゥスマグヌスとして生まれ変わったという。アルベルトゥス・マグヌス - Wikipedia大聖アルベルトゥス・マグヌス | ドミニコ会聖人カレンダー | 学校法人聖ドミニコ学園 (dominic.ed.jp) この古代オルフェウス教徒からヒュパティアへと、そしてアルベルトゥスマグヌスへと輪廻転生を、男女交互に転生することで、地から天へ、天から地へ、そしてまた地から天へと、叡智のフィードバックが輪廻転生を通じて、天と地と、男と女で、巡っているのがわかる。つまり、男と女は天に向かうか、地に向かうかの叡智の方向性の違いといえるかもしれない。神意の叡智の獲得のために、地球人は、地球で経験を積むために生きているわけなんだろう。地球人は、宇宙から叡智を獲得するには、地球で経験する他はないからで、地球はそのために、地球人に与えられたものだからで、地球で経験するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★子どもの成長に必要な血縁関係は、老年になっても保持されるが、歳をとるにつれて、新しい関係を受け入れていかなければならない。血縁関係が、未来の人間たちの偉大な共同体を統合することはない。血縁関係は、東から、今日の恐ろしい論争、闘争、戦争のような出来事を生み出している誤謬である。様々なスラブ民族の間で、共同体の支配を巡って戦火が広がりつつある。このような対立を生み出す運命の時代に、今耳にしたばかりの、霊的な自我が入り込んでくる。実は、この霊的な自我のなかには、正しい核心、すなわち、霊我は、友愛に満ち溢れた共同体のなかでしか開花しない、という基本的な霊的感覚がある。だからこそ、この共同体は、血縁関係の、物質的に依存した共同体であってはならない。それは、霊魂の友愛による、霊的に自由な共同体でなければならない。将来、霊魂の共同体として成長する、上空を羽ばたいている霊我は、いま我々の人智学グループを、幼児段階として見守り、発達(進化)させようとしている。東ヨーロッパを、獣のような集合魂の集合自我にかくもしっかりと捉える堕天使群、スラブの集合魂を捨てたくない、という欲望、それどころか、国家全体の発展原理と見なすようにさせている誤謬こそ、克服すべきものである。大いなる恐怖の象徴が、世界の目の前に立っている。戦争(第一次世界大戦)が開始された2国家を思い浮かべてみる。一方で、スラブ世界一般を率いたロシアは、この戦争が血縁関係からなる兄弟愛に基づいている、と宣言している。他方には、オーストリアがあり、オーストリアは、13のはっきりとした民族と13の異なる言語を統合している。オーストリアの動員令は、13の言語で発令する必要があった。なぜなら、オーストリアは13の民族を包括するからである。ドイツ人、チェコ人、ポーランド人、ルテニア人、マジャール人、スロヴァキア人、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人(また別の共通語から分離した方言もある)、ボスニア人、ダルマチア人、イタリア人である。13の異なる民族集団が、小さな差異は別にして、オーストリアにおいて結合されている。この意味を理解しようとしまいとも、オーストリアが、血縁関係に基づかない共同体の、人間たちの集合で組織されているのは明らかである。というのも、この不思議な境界線は、13の異なる系図につながる支脈を含むからである。ヨーロッパで、この最高度の統合国家は、集合魂による人生、すなわち同一の人種などの血縁関係を強力に求める国家とは正反対の位置にある。しかし、集合魂により統合された人生を目指す努力は、非常に多くの他の犠牲を強いることになるだろう。この現状は、我々を別の問題に導くが、その意味について、次に考えてみたい。(オーストリアの歴史 (austria.info))
2024年07月11日
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暑い毎日が続く巷の昨今、何とか熱中症も大谷選手だけのものになり、体調も安定化しつつある。巷は史上最低の醜悪不道徳な選挙が行われていたようだが、もし、少しでも道徳的理性があるのなら、あのような醜悪な選挙で都知事を決めるのはもはや民主主義ではなく、単なる騒々しい自己顕示欲満々の惰眠集会で、数合わせの茶番でしかないので、どことなく戦後の学生運動や極右翼の街宣活動を髣髴とさせて、選挙民には単なる迷惑でしかないので、選挙をやる前に、高校野球の宣誓ではないが、性善説に基づいて正々堂々と議論し、闘うことを誓わせ、少しでも他者に疑問が呈されたら、直ちに立候補を辞退させるような、立候補者に対しての、選挙よりも、選挙に際しての立候補者の人格についての審査や選挙準備が必要になってくるようにみえた。やればやるほどレベルが下がる選挙を考え直さないといけない。そもそも選挙とは、国民のなかでも優秀な人間性を備えた人物を推薦する制度なはずだが、実際はその逆で、もっとも醜悪な俗物の、地獄行きの連中を、票で買収する、いわば一種の賭博に成り下がってしまっている。組織票などが横行するのが、諸悪の根源なのは疑いの余地がなく、民主主義などは絵に描いた餅にすぎない。組織票などを必要としない、個人の思想の自由で選ぶのが、本来の思想の自由による選挙制度である。現代人には、民主主義という思想はあるが、ほとんどが相手を攻撃し、従来の制度を破壊するために使われ、現実の安定した生活や、平和をもたらすものではない。現代では、独裁者でさえも民主主義を叫ぶ。つまり、民主主義が実現するどころか、ますます遠のいて一部の権力者たちの独善独裁主義になってしまっている。税金に寄ってたかったハエやハイエナのような輩ばかりである。公的なポスター掲示板を売買に使うのは、公民権運動への侮辱でしかない。人種差別に対する不平等撤廃への、民主主義による人権運動の歴史を少しは勉強すべきである。大体なんで、本来は、最も優れた人物を選ぶ選挙なのに、最も愚劣で選びたくない奴ばかりが知名度だけで立候補できるのか、ただ、人の上に立って物質界での物質的恩恵に服したいだけの物欲塗れの現代人の浅はかさ、醜悪さが目立って、どんどん馬鹿になってしまっているようにみえる。とにかく、神殿を商売人で穢しているようなのが、現代の選挙制度で、金持ちは天国には行けない、と説いたキリストの言葉を再度、人間の善意に問うべき時代であるのがわかる。自分のためでなく、他人のためにどれだけ苦労した人間なのか、誰でも少しはヒトを判断する眼を養わないといけない。自分に厳しい人物なのか、物質界を経験すれば少しは判断力が磨かれ、心眼がついてくるはずで、外見に騙されてはいけない。だから、立候補の資格を肉体の年齢ではなく、精神の年齢で判断する必要が出てきたようにみえた。性善説で法律ができているから、法律が悪いとするような屁理屈バカが現代人に盛り沢山なのは、正に唯物論のなせる業と言う他はない。法律をどう精神的に解釈するかが人間の行為に求められているだけにすぎない。何度も言うが、人間は神により、高次の宇宙人により見守られ、天使に相応しいかどうか、堕天使に唆されないか、テストされているのである。人間が性悪説でいる限りは、神にはなれないというのを肝に銘じるべきである。性善説で出来ている法律が問題なのではなく、性善説に沿って行動できない人間が問題なんである。いかなる法律も性善説に基づいてつくられているのは、人間が集団として生活し自由に生きるために道徳が必須で、道徳の存在が、宇宙を統合している神の善なる存在の証だからである。勿論、人間だけではなく、人間も宇宙の一部でしかないわけで、全体の集合体のなかでの道徳に従う必要があり、だから、性悪説で、この世に生まれようとも、結局は性善説で、死んでいかなくては、地獄に堕ちてしまうわけなんである。N党のおバカさんはロシアの独裁者と同じように、地獄へと真っ逆さまに堕ちていくだけだろう。人間のつくった法は、人間の行為により破れるが、神のつくりし法は、人間の行為には破られず、その悪しき行為により、人間性を失っていくだけなんである。人間の自我性を失わせ、獣性の悪魔の奴隷へとゾンビ化し、地獄を徘徊する鬼へと堕落腐敗していくわけなんである。暑苦しい梅雨の季節に暑苦しい醜悪な地獄巡りの闘いをみせつけられて、熱中症から白け症に回復したのは良かったが、選挙を改めて考え直さないと地獄巡りの連中を増やすだけで、このような地獄行きの輩を大量量産する国に生まれるとほとんどが悪に染まってしまうので、霊魂がこの国に転生してこなくなって、少子化してしまうだろう。少子化の進行は、もはやすでに手遅れとなっていて、他者に無関心で、弱者にツケを責任転嫁し、厳しい社会となってきているのは、裏金議員やら単なる数合わせの中身空っぽの税金着服議員からなる独裁政権をみればわかるはずである。法律を自分の都合で解釈し、権力で合法化するものは、歪んだ解釈のために、嘘をつき、天から益々離れ、地獄へと下降し堕ちていくだろう。法律を性善説に基づいて解釈するのが、人間に与えられた使命なんで、それがカルマの法則であり、輪廻転生なんである。性善説に基づかなかった行為は、現世でも、罰として法で裁かれるが、いずれ訪れる死によって、性悪説による行為全てが、死後に、自己の内にある自我の神の、審判により裁かれ、地獄行きの地獄巡りの反省により、今度は、自分が苦しめた他人の人生を送るために、カルマの法則で、転生し、生まれ変わってくるわけなんである。暑苦しいなかの、胸糞悪い選挙のせいで、脱水症に罹り、冒頭から愚痴ってしまって申し訳ないが、物質界での運動についての、温度差の調節でもある、いわば民主主義の選挙に、熱を冷やす冷静な水分や塩分の、性善説が求められるように、人体の肉体の温度調節が、現代科学でも、キリストの神殿に近い、脳の視床下部で行われているのがわかってきているが、約37兆個もある細胞を温度調節し、それ以上の約1千兆個の細菌を腸内で地球のように住まわせているのが、人体で、このキリストの神殿の太陽光なんである。臓器はどうやってつくられる? | 理化学研究所 (riken.jp)腸内細菌叢(腸内フローラ)とは | 健康長寿ネット (tyojyu.or.jp)現代人は、人体を外的に、物質的に解釈し、宇宙を物質的に捉えているが、スウェデンボルグが説いているように、物質宇宙の他にも、思想の宇宙があり、それは霊的宇宙と呼ばれている。先の選挙のように、物質界での民主主義は、単なる幽霊のように、現実化されていない霊の思想の存在となっている。民主主義を物質界で現実化させるのは、人間の努力しかなく、それを実現させるのは、人間の道徳的行為しかないのである。ボルグは、道徳的行為は、天の理の神意から生じ、それを宇宙の霊的な太陽と呼んでいる。霊的な太陽は光であり、熱なのである。熱力学の第一法則、第2法則を発見したクラウジウスは、宇宙のエネルギーは一定で、そのエントロピーは最大に向かうと説いているが、それはボルグの霊的な太陽光を定式化したにすぎない。いわば善の道徳的行為を、叡智で表現したのが光で、物質界に転換し表現したのが、火であり、熱なのである。シュタイナーは、この火や、熱を、土星の熱として、座天使の犠牲の火で表現している。この道徳の火とは、生命の光ともいえるだろう。太陽から、この叡智の光が、地球の地上に射し込んで、道徳の火や熱として、地上で性善説として、道徳的行為を現実化させたとき、その行為は、天に召喚されて、次世代の道徳の火となる。道徳的行為がいつ天に召喚されるのかと疑問をもつかもしれない。それは実は人間が寝ているときなのである。人間が現世で行った道徳的行為のみが睡眠中に善天使に受け取られて天に召喚され、悪しき行為のみがカルマとして残され、次へと持ち越される。だから、キリストは、富を積むのなら、天に積みなさいと、地上の金銭的利害行為を戒めて、道徳的行為を推奨したのである。道徳の火だけが、次の宇宙の光となるから、クラウジウスは、宇宙の光は一定で、つまり秩序だって拡大する、と述べたのである。つまり、宇宙の光を受け入れるには、永遠に生きるには、宇宙の光から道徳の火をつくらないといけないわけで、常に道徳を学んでいく必要がある。道徳の火を消してはならないから、真言宗や天台宗などで、仏教の火として、永遠に消してはならないと説いているわけでもある。火は一種の譬えであって、本来は、人間の道徳的行為を絶やすなという意味である。さて、人体でも、宇宙の光を受け入れるには条件が必要で、人体の脳の視床下部が体温を調節するのは、現代科学でもわかっていて、触媒が酵素活性を高めるのに最適な環境を提供しているわけで、それが深部体温で約37度といわれている。シュタイナーは、土星紀の人類は、今の地球紀でいえば、蜜蜂のような存在で、蜜蜂は、土星紀の人間の現在の姿に近いと述べている。勿論、土星紀の人間は、現在の蜜蜂のような物質的な個々の肉体をもたなかったので、熱だけからなる肉体の集合魂をもっていたので、現在の人間の体温分布に近い存在だったので、人間の体温が、蜜蜂の巣の温度に近いのは、土星紀人間の名残りと述べている。蜜蜂の巣の温度は、大体34℃前後らしい。だから、蜜蜂が巣内を34℃で調節するのと、人体が、深部を37度で調節するのは、太陽光を受け取り道徳の火に変換するのに適した温度というわけなんである。深部体温と熱中症 | 熱中症ゼロへ - 日本気象協会推進 (netsuzero.jp)ルドルフ・クラウジウス - Wikipediaハウスで利用する場合の留意事項 « ポリネーション用ミツバチの管理マニュアル « 一般社団法人 日本養蜂協会 (beekeeping.or.jp)人体の恒常性を保つには、体温の他に、塩分とPHが必要で、それぞれ物質科学から、0.9%と、7.4の弱アルカリ性とわかっている。熱中症や食中毒などで点滴注射されるのは、この人体の恒常性を保ち、人体内にキリストの光を集め、道徳の火を灯すためである。人間は神ではないが、神の子なので、以前紹介したように、万物を見通す目のある脳室のなかの、神殿を清潔にして、神殿の火を消さないためなのがわかるだろう。またPH7.4を保つのは、人体内の酸素と二酸化炭素の比率を保つためで、二酸化炭素を排出し、酸素を吸収する呼吸の調整のためである。呼吸が細胞にまで行き届いているかの目安を、現代医学では、血液中の主に動脈内のガス濃度で測定し、血液ガス分析と呼んでいる。コロナ感染が流行った時に、血中酸素分圧を、サーチュレーションで、ヘモグロビンの鉄の酸素結合の赤色具合から、測るのが推奨されたが、いずれにしろ、人体内の呼吸具合を、血中のPHから調べるために行う検査である。福島県厚生農業協同組合連合会 (ja-fkosei.or.jp)おいしいと感じる塩加減とは? | おいしい塩のお取り寄せなら (ishigakinoshio.com)酸塩基平衡の概要 - 12. ホルモンと代謝の病気 - MSDマニュアル家庭版 (msdmanuals.com)【血液ガス】血液ガス分析とは?基準値や読み方について | ナース専科 (nurse-senka.jp)サチュレーション(SpO2)とは? 基準値・意味は?低下の原因と対応 | ナース専科 (nurse-senka.jp)人体は、血中のPH状態から、酸素と二酸化炭素の比率を割り出して、呼吸を調節しているので、例えば、血液ガス分析なしに、呼吸困難だからといって、酸素ガスを吸収させると、二酸化炭素ナルコーシスに陥ることがあるという。これは、血中に二酸化炭素が溜まりやすい慢性閉塞性肺炎などの患者に、酸素ガス吸入で、酸素濃度が上がると、酸素が足りていると呼吸中枢が錯覚してしまい、呼吸を抑制し、終いにはやめてしまい、二酸化炭素が溜まり過ぎて、意識障害に陥ってしまうので、二酸化炭素を体外に出すために、非侵襲的陽圧換気(NPPV)や挿管下での人工呼吸管理が必要になってくるという。酸素療法で注意すべきCO2ナルコーシス|オープンフェースマスクと酸素療法の情報サイト|アトムメディカル ヒューケア (atomed.co.jp)非侵襲的陽圧換気 - 21. 救命医療 - MSDマニュアル プロフェッショナル版 (msdmanuals.com)いずれにしろ、人体内の恒常性が、深部体温37℃、塩分0.9%、PH7.4弱アルカリ性という基本条件からなっているのを理解し、急激な変化に、人体を曝さないのが、基本といえるかもしれない。物欲による自我のエゴから、刺激を求めるあまり、人体の恒常性を歪める、非道徳的行為は慎むべきなんである。これは人体内の霊我を選ぶ選挙ともいえるかもしれない。天に見守られているのを自覚し、性善説をもって行動すべきなのである。孔子の、「七十にして己の欲する所に従えども矩(のり)を踰(こ)えず」といえる。経済は矩を踰えず | 連載コラム | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス今回の選挙を見る限り、呼吸困難の、選挙のナルコーシスに罹っているようにみえる。現代の政治家はいわば場当たり的な意識障害に陥っているといえるわけなんである。二酸化炭素を排出するのを忘れ、地での仕事ばかりに邁進し、酸素を吸入する天の仕事を疎かにしているようにみえる。だからそのうちに、酸素を金銭で買うような、物質的な酸素吸入により、自然の呼吸抑制や呼吸停止を生じてしまうわけで、いまは、金銭による慢性閉塞性肺呼吸疾患の状態にあるといえるかもしれない。どの候補者も、社会に対して何を施すかよりも、とにかく自分が目立てばいいという、低俗で俗物な歪んだ品性しかみえない。だから、もっと自然の呼吸を、太陽光を充分に取り入れる、ヨーガによる輪廻転生の思考法が必要になる。新しきヨーガの霊能力再獲得法のために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 第6文化期に、霊我は降下するが、それは友愛の意識に目覚めた共同体の人々にしか降下しない。霊我は友愛の意識を欠く共同体には広がりようがないと、スラブの民族魂は予感している。このため、ロシアの知識層は、西欧や中欧に、次のような非難を浴びせる。 「西欧や中欧の人々は、友愛に満ちた共同体の生活に全く無関心でいる。貴方たちは、個人主義のみを追求する。自立した人間に、個人になりたい、と願うだけなのだ。ただ個性を通じて、自我を感じ、個人を実感したいがために、それを極端へと推し進め、周囲から孤立させている。」 このような発言が、東から、西欧や中欧へと、独立主義などへの多くの非難のなかに反響している。西欧と中欧の現況を、東から実感する人々は、人間のつながりへの全ての感情を失ってしまったと告発している。そして、現実と未来を混同し、更に次のように続ける。 「友愛からなる共同体が存在するのは、ロシアをおいて他にない。この共同体のなかでは、誰もが兄弟で、ときには「父」であり、ときには「母」となる生活は、ロシアでしかありえない。」 西欧のキリスト教は、友愛からなる共同体を展開するのに失敗したが、ロシア人は、真の友愛からなる共同体を知っていると、ロシアの知識層は断言する。 アレクサンドロ・ヘルゼンは、19世紀に生きた、ロシアの知識階級に属する優れた思想家だったが、「西欧に幸福はありえない。」と断言し、究極の結論をもたらした。いかなる目論見がなされようとも、西欧文明には幸福は決してやって来ない。西欧文明では、人間は決して満足を見出せない。そこでは混沌のみが支配する。 唯一の救いは、スラブの民族性にある。まだ個人を切り離していない、古の共同体の生活にある。ロシアの村々の共同体には、堅固とした頼りになる集合魂の性質がまだ残っている。人智学徒が集合魂と呼ぶ自我の状態から、人類は徐々に個人を発達させ、抜け出したが、動物はまだ、その状態のままにいる。 ロシアの知識層には、このような集合魂は、ロシア人=スラブ民族間の、偉大で意味深い存在として尊ばれている。しかし、未来の、真の共同体は、これから実現すべき高い理想として、現在はまだ上空を羽ばたいている、という霊的な思考には上昇できない。だから、ロシアの知識層は、次のような古い考えに固執する。 「我々は、民族の集合魂で生活する、ヨーロッパの最後の民である。他の民は、集合魂を超えて出ていった。しかし、我々は共同体のために保持してきたし、これからも保持すべきである。」 しかしながら、実は、この集合魂による生活は、未来には存在すべきものではなく、消滅すべきものなのである。というのも、このような共同体での生活は、人類の進化にとっては、古い集合魂だからである。もし、この集合魂の状態が続くならば、ルシファー的な集合魂として、堕落腐敗し、地獄へと堕ちていくだろう。昔の進化段階に留まったまま、霊的には死んだ生の形態を続けるだろう。 だから、この古き、ニセモノの集合魂に対してホンモノの、我々人智学徒が追求すべき、新しき集合魂の生の形態は、人智学による霊能力の再獲得から見出す必要がある。しかしながら、確かに、古い集合魂とはいえ、ロシアの知識人の願望と憧憬は、来るべき第6文化期に、霊我の降下をもたらすためには、新しき共同体を創造する霊性がどれほど必要なのかを、示している。 いまは間違った道に進んだ形で、霊我の降下が求められているが、本来は、人智学において、真実の道に進む形で、霊能力の再獲得から追求すべきである。だから、東欧に対して、我々人智学徒は次のように提案したい。 「東欧の人々が、外的な、物質的な生活形態において、すなわち、古いルシファー-アーリマン的な共同体の形態で、保存しようとしているのを完全に克服するのが、我々人類進化の課題である」。 ルシファー-アーリマン的な性格の共同体には、ロシア正教教会が確立したような硬直した信仰の強制がある。そのような共同体は思考の本当の自由を理解しない。ましてや、完全に自由な個人的な自我が、友愛に溢れる社会生活に結び付くというレベルには上昇できない。古き悪しき滅びゆく共同体は、血縁の兄弟愛に、純粋に血を通じた友愛にとどまるもののみを保存したいと願っている。 血ではなく、霊的に、個人的に自由な魂に基づく共同体は、人智学の道において追求すべきものである。我々人智学徒は、血縁関係が、もはや何の力ももたない共同体を創造する必要がある。 当然だが、ある範囲内で、血縁の要素も存続するだろう。それは家族関係のなかで生き続けるだろう。というのも、家族という共同体は、未来でも、カルマの役割として必要で、消し去られることはないからである。しかし、新しいカルマを基にした家族関係が生まれなければならない!
2024年07月09日
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昨日の起床後に腹痛がするので、また持病の尿路結石かと思いきや、冷たい水分を補給して安静状態でいたら、回復したので、どうも熱中症であったらしい。電気代も高騰している生活のなか、クーラーも故障中なんで、付け替えるのも面倒なんで、なんとか過ごしてきたが、まさか自分が熱中症になるとは思わなかった。年老いると肉体の体温調節が脆くなってしまうのだろうな。一人暮らしのお年寄りが熱中症でぽっくり逝ってしまうのもわからなくもないな。自分もそんな年齢になりつつあるのかと悲喜こもごもだが、ドジャースの大谷には熱中症だがね、とお年寄りのオヤジギャグをかっとばしながら、この暑い日本のさなか、皆さんもお気をつけください。常に近くに冷たいお飲み物(腸からの吸収を考え、血漿の浸透圧に近い生食に近い飲み物が良いらしい、以下の経口補水液の作り方を参照に)を用意して、涼しい恰好で睡眠くだされ。というわけで今回は短めになるのをご容赦くださいな。熱中症について | メディカルノート (medicalnote.jp)塩分と脱水 ~経口補水液の作り方~ | 済生会 (saiseikai.or.jp)経口補水液とスポーツドリンクの違い | サンファーマシーグループ (sunpharmacy.co.jp)さて、病気といえば、先日、手塚治虫氏のブラックジャックの実写化ドラマを久しぶりにTVでみた。ブラックジャックは小学生のときによく読んだ漫画で、ドラえもんと双璧だった。漫画のアニメ化はごく自然の流れでどちらが先か卵と鶏のようにわからなくなっていくように瓜二つの双子のような作品になるが、実写ドラマ化というと、漫画のなかの世界が、物質界とは相反している場面が多いので、違いが目立ってしまう。だから、漫画の読み方や解釈の仕方によって、多様な観点が生まれてしまい、実写化という割と物質界に近いつくりをしてしまうと、全く違う作品になってしまう可能性が高い。だから、実写化を想定して書かれた漫画でないと、整合性がとれなくなってしまうわけなんである。ましてや、ブラックジャックのような作品は、読者の解釈、思い込みが入り込みやすい作風なので、十人いれば、十人十色のブラックジャックが生まれてしまい、主人公ブラックジャックでさえも、読み方によって、統一感のない人物になってしまう。今回の実写化ドラマは現代風のつくりで個人的には面白かった。世間的にも、高視聴率だったようだが、SNSでは案の定不評だったようである。最たる不評の理由が、ドクターキリコに女優を起用した点であったようだ。恐らく昨今のジェンダーフリーの流れで、キリコを女性の姿に脚色したのだろう。つまり原作漫画信者からは、キリコのイメージにそぐわないというわけである。自分は女性の姿でも、特に違和感がなかった。というのも、ドラマの内容からいって、キリコが安楽死を受け寄った女性患者が獅子面病で、顔が醜いまま生きる辛さは、男性よりも女性の方が敏感に感じると思うからである。テレビ朝日ドラマプレミアム『ブラック・ジャック』|テレビ朝日 (tv-asahi.co.jp)容姿が不細工で生まれる辛さは、男性よりも、美を大切にする女性のほうが深刻に思えるからで、カリユガ時代が影響大の現代のルッキズムからいっても、度々紹介している徳川家康の遺訓の、人生は~の重荷になるのは容易に感じられる。だからこそ、現代では美容整形が流行になっているわけでもある。精神的な中身を大切にして生きるという人はほとんど天然記念物のようになってしまっている。相手を騙してでも、外見に拘るのが現代人の特徴といえるかもしれない。それは四六時中来訪する悪霊のような詐欺メールからもわかり、人を欺き騙すことがモラルハザードであり、地獄に堕ちることなどに全く無関心なのに、呆れてしまうばかりである。政治家が国民を騙して税金を着服している現代だから、地獄の世界である。シュタイナーはカリユガの影響が大の現代の特徴を、万人による万人の闘争時代と預言している。硬直した旧来の悪魔支配の組織を脱出し、解体するには、個人主義の育成が急務で、だから、組織内であっても、派閥などの個人主義の闘いが生じるのである。悪党は分割するしか救う余地がないからである。悪は分断して退治するしかない。巷の俗物の自民党のような悪党集団になってしまったら、もはや悪魔の思う壺で、地獄に堕ちていく大量採用の大勢力となってしまう。だからこそ、スウェデンボルグが霊界で体験した最後の審判が必要となるわけなんである。まだ悪に染まり切っていない個人を少しでも解放し、助けるしかない。さて、ブラックジャックだが、多くの人の読者解釈があるように、私にもあり、恐らく、手塚氏は、医者を描きたかったのではなく、生命倫理観を描きたかったものと解釈している。実際漫画なんで、医学や医者を描くのは非常に困難で、ましてや無免許医をわざわざ書く意味がないわけでもある。勿論、ドクターコトー診療所のような、ある程度ドラマを想定した小説風の漫画もあるが、私は見たことがないが、医学や医者というよりも、人間性や、日本の村民の暮らしの人間ドラマを描いているのではないかと思うので、手塚氏の漫画の描き方とは違う。こちらはブラックジャックというよりも、黒澤明監督作品「赤ひげ」のアプローチに近いのではないかと思う。ブラック・ジャック - Wikipediaブラック・ジャック (テレビアニメ) - WikipediaDr.コトー診療所 (テレビドラマ) - Wikipedia虫プロダクション - Wikipediaブラックジャックは医者というよりも、当初の目的が、復讐であったように、手塚氏の当時の状況を反映した漫画で、つまり鉄腕アトムで、粉骨砕身した結果、虫プロは倒産の憂き目に遭い、漫画の神様でも、この時はどん底の状況にあったわけで、この漫画によって、手塚氏は、従来のヒューマニズムを、あえて捨てた賭けに出たといえるからである。それは、前回まで紹介してきた、前世で宗教王だった人が、現世では科学王になる輪廻転生と同じように、漫画界の、特に出版業界に、復讐しようと思い立ったのかもしれない。手塚氏の当時の心境から言えば、ブラックジャックは、ドクターキリコで、この作品を描くことで漫画界から自分という存在を安楽死させたかったのかもしれない。それはこのブラックジャックという名は、別名ジョーカーというババ抜きのババに使われる黒札のジャックに由来するようである。恐らく最強の切り札という意味らしいが、手塚氏は、この漫画という切り札で、倒産の憂き目にあった復讐を、漫画界や出版業界や世間に復讐するのを、思いついたのかもしれない。ユーカー - Wikipedia鉄腕アトムというロボットを描くことで、ロボットといういわば人間の奴隷の弱者目線から、世間にヒューマニズムを問う漫画を描いたが、結局はアトムと一緒に単なる金儲けの道具に使われ捨てられた復讐を、ブラックジャックという最後の切り札で、果たそうというわけなんだろう。だから、ブラックジャックは、当初は、手塚氏のドクターキリコで、恐らく当時の核実験をモチーフに、その被爆被害者に、自分を模して、当時の世間の金満上層部に、復讐しようと誓った漫画の主人公だったようである。だから、金持ちを安楽死させるのが、当初のブラックジャックであったドクターキリコの医者となる目的だったわけで、おカネさえ積めばなんでも治す外科医という評判で餌を撒いて、金持ちをおびき寄せ、ツギハギの顔は、その闇の復讐心を象徴化した、生命をカネで切り刻むメスであり、二人目まではなんとか復讐を果たすのだが、二人目からは、心変わりしてしまう。ググると、次のような見解に辿り着く、「2人目に復讐をし損ねて(ガンで死ぬ寸前だったのを手術して延命し、復讐に取り掛かる前に自然死)」。この2人目の死から、復讐心が薄れていき、ブラックジャックのなかで、別に伏線キャラのドクターキリコが悪を担当し、袂をわけていく。つい最近、バカリズム氏が、「ケンシロウによろしく」というドラマで、外科医から鍼灸師に、メスから空手の北斗神拳へと、わずかに医療職を変えて、この流れを継承した作品をつくっている。虫ん坊 2016年10月号(175):TezukaOsamu.net(JP)【独占配信】ケンシロウによろしく | DMM TVよくよく考えてみれば、ドクターキリコは、求める人だけに安楽死を与えているわけで、復讐心で医師になったブラックジャックのほうが、動機では遥かに悪質性が高いようにみえるのだが、世間的な見方では、ドクターキリコのほうが悪にされているのも不思議であり、先の実写化ドラマの批判では、女優が演じたキリコについて自殺ほう助まがいの解釈が罷り通っているから更に不思議である。実際に安楽死が合法化されている国は以下のサイトにある。ブラックジャックとドクターキリコのどちらが善で悪なのかは、各個人の死に対する認識に委ねられるが、ブラックジャックが当初の復讐心から、漫画のなかだが、自らの医療行為を通して、救済心に目覚めるのは、どこかゲーテのファウストを感じさせる。安楽死が認められている国はどこ? - SWI swissinfo.chファウスト (ゲーテ) - Wikipediaブラックジャックは悪人から善人へと改心していく物語なんである。悪因悪果ではなく、悪因善果に、救いをみつける漫画なのかもしれない。ブラックジャックのなかでは、ピノコという人間にはなれなかった女性で生まれるはずの魂が、ブラックジャックという漫画の世界で、悪因から善果に転じるキャラの、輪廻転生の働きを担う。このピノコが、ブラックジャックのなかの復讐心を失わせる悪のなかの善の存在といえるかもしれない。ブラックジャックはピノコを娘と呼ぶが、ピノコは奥さんと思っている違いが面白い。ピノコはブラックジャックの救世主なのである。ピノコ - Wikipedia長々とブラックジャックの独善ともいえる解釈を披露してしまったが、それは輪廻転生への男女の役割の違いを解き明かすためである。シュタイナーの輪廻転生の本から、ある程度、女性と男性の働きの違いがわかってくる。大まかに言えば、男性は地の人間的な仕事を、女性は天の天使的な仕事をする傾向にある。妻を奥さんと呼んで、陰的な月光の秘めた役割に求めたのも、古の霊力からきているのかもしれない。だから、家庭は奥が崩れると道徳が破綻し、人間性を失うわけで、だから、不倫ともいわれるのかもしれない。これは女性に霊媒が多いのでもわかる。女性は、霊魂が、肉体に深く浸透しないために、物質界に囚われない傾向にあり、物質にあまり共鳴しないし、どちらかというと、精神的な安定を求めがちにあり、信仰に弱い。それは占いなどにもハマりやすく、物質界から育成された意識魂の、悟性や論理性に弱い。理屈よりも直感を重視しがちなのは、よくいえば物質に束縛されないためだが、悪くいえば、依存心が高く、悪い考えや悪霊などに憑依されやすく、洗脳されやすい。これは幽霊を解き明かすことでわかる。現代人は幽霊をみたことがないと考えがちだが、実は誰もが幽霊をみていて、ただその自覚がないだけなのである。何を隠そうが、実は、幽霊とは、思考のことなのである。思考というイメージが思い浮かぶが、それは脳がつくったものと自覚しているが、脳が霊魂から受け取ったものなのである。ただ送信元の霊魂が自分が送ったよ、というサインがないから、脳が自分のものとして、解釈しているだけにすぎない。だから、幽霊はなんらかの思考形態のイメージで、そこらへんに、いわば波動の形で存在しているのである。ただ物質という形態を伴わないので、太陽光を集めた覚醒意識ではみえないだけなんである。だから、量子力学では便宜上確率波となってしまっているわけなんである。女性のほうが物質界をみる肉体のメガネ、ゴーグルに完全にハマらずに、時より外しがちになるので、悪霊の雑音波を受け取りやすくなってしまう。この肉体のメガネ、ゴーグルが、人智学が呼ぶ、意識魂で、それを個人的に育成するのが、我々の第5のアーリア文化期の地球人の使命でなんである。そこで、またシュタイナーの輪廻転生の本から、その解説に相応しい歴史上の人物を紹介しようと思うのだが、せっかく腹痛がおさまった小康状態にあるので、今回はここまでにしたい。なぜブラックジャックの話をはじめたのかといえば、幽霊を説明するのに相応しい作品で、特にピノコという幽霊のようなキャラが、恐らく手塚氏の人生から、ブラックジャックという叡智の幽霊を召喚したものと思われ、ブラックジャックという作品は、手塚氏にはピノコだったのかもしれない。これらの作品は、天使を通して主に夢のなかでみることもあるが、いずれにしろ、思考として脳のなかに与えられる。ブラックジャックという作品も、なんらかの天使が送った幽霊の、つまりイメージから生まれた現実の幽霊なのである。我々地球人は、非現実な漫画やアニメ、フィクションのドラマをみているが、実はそれは幽霊を通じて霊界をみているわけで、ただそれらを幽霊と定義し、認識していないだけにすぎない。幽霊と思っていた存在が実は実写化されて、現実の人間に降臨したのが、キリストなのはいうまでもない。個人意識を発達させ、キリストを実在ドラマとして見に行くために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ ポスト・アトランティス時代は第5文化期に最盛期を迎える。第6文化期と第7文化期に生じるのは、個人意識の衰退である。にも関わらず、第6文化期の、この個人意識の物質性への退化は、霊我により霊感を吹き込まれ、霊我に浸透され、再生され、キリストとして蘇るだろう。 今日、東ヨーロッパの人々は、霊的に、これが真実なのを予感している。ただし、しばしば睡眠中の潜在意識から、そのように感じているにすぎない。 東ヨーロッパの人々の、このような潜在意識は、大抵、睡眠中の夢のなかの、茫漠とした混乱したなかに感じるものである。「ロシア人」という言葉が、特定の個人に関係なく、頻繁に使われるのが、(これは日本人にもいえる)実に特徴的である。 例えば、ヨーロッパの西側で、「イギリス人」、「フランス人」、「イタリア人」、「ドイツ人」という言葉を使う場合、(意識魂が発達しているので、公私の境界が明確で)大抵は特定の個人の具体的な特徴を指す意味をもつのに、ヨーロッパの東側で、「ロシア人」という言葉を使うと、(意識魂が未発達なので、公私の境界が曖昧で)大抵は漠然として、東スラブ民族全体を指し、精神的な意味において、潜在意識のなかの、民族霊も含む。 ロシアの知識層の多くが、「ロシア人」という言葉を使いながら同時にスラブ民族全体を考えている。これは、このスラブ民族固有の民族霊と深く関係している。この民族霊を指す言葉は、東側の共同体の友愛関係の上に広がる、友好的な人間関係から結びつく、仲間意識の、兄弟の要素も含んでいる(悪い意味で、ヤクザ世界の兄弟仁義みたいなもの)。 「ロシア人」という言葉の、「人間」を意味する「人」のなかに、このかつての民族霊の共同意識が示されている。しかし、遠い未来に到達すべき高度な文化には、到達できないのも明らかである(残念ながら、シュタイナーは、日本人も同様に、個人意識よりもいまだ全体意識が強いので、到達できないと述べている。しかし、逆に北米民族も、個人意識が強すぎて、全体意識が弱いので、資本主義をみればわかるが、到達できないらしい)。 ロシアのなかにスラブが含まれ、この言葉の境界が常に曖昧で、ロシア語が広く話される没個性のなかに、個人が全体を超えられず、紛れもなく個と全体が矛盾する現実を意味する。この言葉のなかに、古きスラブ民族という意味を含む限り、常に、共同体と個人の中間に囚われる宿命を背負うのである。 「ロシア人」という表現の「ロシア(の)」という形容詞が、「人」という名詞で表現される個人の存在を、束縛し、実際に無効にしている。というのも、真の理想の、自由な愛の人間に到達したいなら、個人を束縛する要素を示唆する形容詞はつくはずもないからである。 しかし、それよりずっと深いレベルで、ロシアの知識層のなかには、共同体や友愛の概念、来るべきスラブ文化期において必要な理解が、自我のなかに霊的に眠っている。(恐らく、独裁者が個人を戦場に送り、不慮の死を遂げることで、死後にロシアに生まれた生前を反省し、来るべき転生に際して、個人的に、独裁者的存在を乗り越えて進化していくのを、シュタイナーは預言しているようである。勿論、独裁者は、前回紹介したパワハラ上司のように、戦場に送った者たちに報復され、全ての人類に足蹴にされ、ミカエルに退治された龍のごとく、跪くしかないだろう)
2024年07月04日
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人間は天使になるべく地球で自由と愛について学び、試験を受けているわけだが、シュタイナーの輪廻転生の本を読んでいると、ニュートンがプリンキピアで説いた、ユークリッドの原論による、アリストテレスの運動論の焼き直しが、輪廻転生とカルマの法則を説いていたようにもみえてくる。物理学史1/2 (yamagata-u.ac.jp)万有引力 - Wikipedia自然哲学の数学的諸原理 - Wikipedia現代人のほとんどが、唯物論に洗脳されてしまっているために、アリストテレスの運動論やニュートン力学が地上の物質界だけを記述したものと錯覚しているわけだが、ニュートンがプリンキピアの第3巻で、神の世界を数学的に示そうとする動機を明らかにしているように、この動機は、スウェデンボルグの書では、キリストの神意、つまり救世主の意志として明かされているが、勿論、アリストテレスが土として想定していた物質界だけの話でない、のがわかるはずである。では、どうして、地球人はアリストテレスの土の霊の物質界だけの存在へと、堕天使ルシファーやアーリマンの学院による誘導を受けて、失楽へと洗脳されたのか?といえば、個人的に自由な自我を獲得するために、いわば、物質界により目隠しされたのである。ニュートン力学でいえば、土的な本性の、失楽性の、外的な欲望の、慣性性の、欲望という名の低次な愛の、質量を与えられたのである。それはまた、モーゼに与えられた十戒の霊的な教えを歪め、神の名を語る偶像崇拝が地上に蔓延り、大きな塊となって、古代アトランティス時代と同じように、大破局へと下降する時代の大きな腫瘍化の流れを、個々の小さな流れに細分化し、再浮上の糧とするための、自我から霊我への目覚めとして、キリストの降臨を、各個人の自我に体験として印象付け、際立たせるためでもある。迷える子羊は、羊飼いを求める。さて、前回紹介したカルマの法則と、輪廻転生論から、ニュートンの第3法則の、作用反作用の法則が、輪廻転生の、前世と現世での、自我についての作用反作用の法則となっているのが、宗教王が科学王に輪廻転生していることからもわかる。前世と現世をイコール=でつなぐ働きが、キリストの神意のカルマの法則である。これは、前世の自分の行為の、他者にした作用が、現世では反作用の、自分にされる行為として、責任として果たされる法則ともいえる。だから、前世の自分の行為=現世の自分にされる行為となるだろう。だから、カルマの法則により、ニュートンの力学は、人生の法則へと書き換えられる。第3の法則は、言い換えると、自分のなかの非自分の、つまり、自分を超え、自由な愛を探求していく人生となるが、では、他のニュートンの第1、第2法則はどう書き換えられるだろうか?実は、ニュートンの力学を持ち出さずとも、わざわざニュートンの第1法則と、第2法則にしなくても、日本人には仏教でお馴染みのものなんである。それはお釈迦さんが説いた、善因善果、悪因悪果である。道徳的に善い行為は、天に受け取られ、次の人類の行為の指標となる。逆に悪しき行為は、天には受け取られずに、地に戻され、永遠に背負う自己となる。徳川家康の遺訓の、人生は、重荷を背負って歩くの、重荷になる。それは自分がかつて他人にした行為が、ブーメランとして自分に返ってきて自分となるからである。つまり、これがニュートンの慣性の法則で、人生の質量の法則なのである。すると、第2法則も想像がつくだろう。伝教大師の、一灯照隅、万灯照隅である。物質界でのニュートンの第2法則は定式化され、F=maと力Fと、質量mと、加速度aの記号で表現されているが、加速度とは、現世で他に成した行為に置き換えられる。つまり、mは、現世の自分で、aは、自分が他者に成した行為となり、それは他者には、現世での影響力のFとして現れることになる。一灯照隅、万灯照隅は、加速度を、灯の光で代替している点で、特殊相対論に近いともいえるかもしれない。だから、ニュートン力学の唯物論を取り払い、宗教や道徳論に還元すると、人生のカルマの法則が浮かび上がるのがわかる。このようにシュタイナーの輪廻転生論から、ニュートン力学の上辺の自然体系が、ニュートンが本来意図した神の摂理の、天の理のキリストの神意に導かれるのが解き明かされる。ニュートンの3つの法則 - EMANの力学 (eman-physics.net)そこでまた、具体的な歴史上の人物の輪廻転生から、このカルマの法則の、特に作用反作用の法則をみていく。この法則を読み解くのに、面白いのは、ペスタロッチである。ペスタロッチがなぜ面白いかというと、彼の取り巻きとの人間関係から、彼が教育者となった経緯が、前世からわかるからである。ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ - Wikipediaシュタイナーによれば、彼の魂が、ペスタロッチという教育者として転生した理由を知るには、前世を2つ前の、奴隷監督人であった紀元前の南欧にまでに遡る必要があるという。当時の奴隷制は、ある意味仕来りのようなもので、現代人がイメージするものよりは、当時の南欧の奴隷は自由で教養をもっていて、奴隷が、当時の重要な人物を教えることもあったという。そのようななかで、ペスタロッチの前世であった奴隷監督人も温和で親切で、奴隷たちの世話や仕事の分配をしていたという。しかし、上司が過酷で乱暴で、いまでいうならパワハラ上司の下に従事していたという。いまでもこの国の巷にも、似たようなブラックな職場環境が沢山あるが、この上司の言いなりになるしかなく、やがて、このパワハラ上司の命令に従うしかなかった奴隷監督人は、代わりに奴隷たちに反感を買ってしまったという。このようななかで、奴隷監督人を巻き込んだ奴隷たちと、そのパワハラ上司の人間関係は、その時代の人生の役目を終え、死の扉を通過した際に、生前の因縁が深く結びついて、特に、自分の意に反して、上司に従ったために、強いシコリができてしまい、次の転生では、その上司の妻となるべくして生まれたという。このペスタロッチの前世であった紀元前1世紀の奴隷監督人は、今度は、9世紀に中欧で女として生まれ、前世のパワハラ上司との関係を持ち越して、その妻となったという。ペスタロッチの前世の妻と、このパワハラ上司は、9世紀の中欧の、親密な住民たちの村に住み、その役人になったが、下役で、村の住人の皆から殴られていたという。というのは、その村の住人の上役全てが、かつての奴隷の生まれ変わりだったからだという。つまり、シュタイナーによれば、そのパワハラ上司は、過去でしでかしたパワハラを、9世紀の転生で、今度はパワハラを受ける側にまわる責任を背負ったためで、まさにカルマの法則の、ニュートンの第一法則の、悪の慣性の法則であり、悪因悪果なのが、このパワハラ上司の輪廻転生から読み解ける。かつてのパワハラ上司は、上下関係が逆転して、今度はブーメランによりパワハラを受ける立場に甘んじることになったわけなんである。ペスタロッチの前世である奴隷監督人を通して行った、そのパワハラ上司のパワハラの残虐行為が、今度は自分に返ってきたわけなんである。そして、ペスタロッチの前世であった妻は、静かな人生を送りながら、そのパワハラ上司の今度はパワハラを受ける側の不満や愚痴の捌け口に苦悩して生きたという。やがてその人生のカルマの役割を終えたが、過去のカルマ全てを清算したわけでなく、パワハラ上司はこの人生でほとんどパワハラを受けることで、ほぼ完済したが、上司の命令とはいえ、奴隷監督人であったペスタロッチの前世は、パワハラを受ける側の苦悩を、その夫を通じて共に体験し、ある程度果たしたが、まだ奴隷に対してパワハラをした清算が未完済なので、次の転生での完済が必要となる。このカルマの未完済の部分を成就するために、18、19世紀の現世に、教育者としてペスタロッチは生まれ変わり、かつて紀元前1世紀で、奴隷監督人としてパワハラをした奴隷たちの生まれ変わりの、住人たちの子どもに教育を行うことで、その責任を果たすことになったのを、シュタイナーは、ペスタロッチの輪廻転生から解き明かしている。これは、一灯照隅、万灯照隅ともいえ、前世の奴隷へのパワハラが、現世の奴隷の子への教育へと、F=maとして、変換したニュートンの第2法則の人生版といえるかもしれない。つまり、ニュートンの第2法則の真の意味は、悪行が善行に運動変換される、という人生の、カルマの道徳の法則なんである。悪の力Fが、善のaにより、自我を救済するための加速度という禊の運動、カルマの完済のために人生に費やされる救いの運動法則なんである。転石苔むさず、という諺があるように、喜捨の精神が、この人生の運動法則の諺に隠されている。転石苔むさず - Wikipedia喜捨 - Wikipedia布施 - WikipediaA rolling stone gathers no mossの本来の意味は、恐らく、カルマの法則を意味し、輪廻転生を繰り返す魂はやがて、自我のエゴが生えずに、角がとれて、丸い霊我になって、天に召される、という意味になるようにみえる。恐らく、ニュートンの運動法則を意味しているのだろう。F=mr^2ωの角運動量である。角運動量保存則の真の意味を解き明かすために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 西ヨーロッパ文化に隠された深い意味は、ポスト・アトランティス時代の第5文化期での霊的な探求が、意識魂にある、という事実にある。西ヨーロッパ文化、特に中央ヨーロッパでの精神的な課題は、個人の文化、つまり個人意識を育成(進化)させることにある。これが、現代の課題である。この我々の時代を、第4文化期のギリシア・ローマ時代と比べてみる。 ギリシア時代は、特に文明化したギリシア人の間では、集合魂を基盤に生きる意識、民族魂と特別に結びついた霊的な一分枝の精神形態を示していた。例えば、アテネで生まれ生きる人は、何よりもまずアテネの一員の「アテネ人」と感じた。都市とその都市に属する人たちの間にある、ギリシア人の共同体は、当時の個人にとっては、今日意味する共同体以上の大きな存在を意味していた。 我々の時代では、個人は共同体を抜け出て、共同体を越えて成長し努力できる。この成長や努力は、第5文化期では正しいが、かつてのローマ時代では、個人がローマ市民を抜け出るのはあり得なかった。それ以上の存在にはなれなかった。しかし第5文化期においては、何よりもまず自我の最奥のなかにある憧れから理想の人間であろうと努力する。現代人は、一個人の魂であり、集団性に囚われず自由な霊性をもつ。 地球上で互いに闘っている個人を見るのは、我々の時代では苦痛に満ちた経験だが、これもまた、結局、「理想的な人間」の自由な発達(進化)を求める第5文化期の執拗な努力に対する反応にすぎない。 異なる国と民が、今日敵意に満ちて相互から境界を敷き、閉鎖を行うが故に、この閉鎖への抵抗として、人間がもつ全ての能力で、理想的な人間であるための許容力を発達(進化)させることが益々必要となる。 個人が、あらゆる種類の共同体から抜け出して成長し、共同体を超えて成長する許容力を発達(進化)させるのが、益々必要となってくる。しかしその一方で、人間は、完全なる意識魂の、覚醒意識において、第6文化期に、自らの完全に自由な意志から、入る共同体も準備する必要がある。 我々人智学徒の眼前には、高い理想と、第6文化期を包括する共同体の姿が、いま上空を羽ばたいている。第6文化期では、文明化した人間たちが、ごく自然に、兄弟姉妹のように、自主的に互いに自由な愛の共同体として集い、出会うだろう。 過去の年月になされた多くの人智学の講義から、東ヨーロッパには第6文化期に特別な使命をもつ民族が住むのを、我々人智学徒は知っている。東欧に住む人々は、第6文化期になるまで、その自我の内側の奥に今眠っている基本的な霊能力を、明確に表出することはない。 ロシア周辺に住むスラブ民族は、いま自我の奥深くに潜む、かつての前世で秘儀参入に関わった原始の霊能力を展開するのに、第6文化期の受肉を待たねば、準備が整わないのを、知っている。(このスラブ民族による霊能力は、現独裁者により戦場に送られることで、不慮の死を遂げ、次の転生に、悪魔の憎き独裁者を倒す霊能力として準備される。) 西ヨーロッパと中央ヨーロッパの使命は、育成した意識魂によって導入し得る道徳的な資質を、なるべく多くの人々に注ぎ込むことである。この使命は、東ヨーロッパにはない。東ヨーロッパは、霊我が地上に降りて来て、人々の魂に浸透できる、次の転生まで待たねばならない。この人類の進化計画は、正しい意味で理解する必要がある。間違った意味で理解されるなら、正しく東において、権力者の如く、驕りと傲慢へと、容易に導くだろう。
2024年07月02日
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