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現代人が脳科学により科学的思考に洗脳されているのは、ヒトの脳を、他人を欺くウソの道具にしている実態からもわかるが、脳科学を究めても、脳の破壊しかもたらさないのは、脳の再生について、覚醒意識で、脳自身が感知できないからである。色々なホルモン云々で物質で分解的に分析できても、それは結局、機械的な分解で、破壊でしかないから、再生の議論にはならないわけで、朝まで生テレビと同じ茶番でしかない。だから、結局は、誰も責任をとらず、良心の呵責もなく、脳の持ち主が、脳に責任を押し付ける羽目になるわけなんである。そして、脳は自らを破壊の道具として、ゾンビのように崩壊し自己保身という名の自己破壊へと向かうだけなんである。夜は下らない議論をする時間ではなく、脳を休め、再生させるための、睡眠時間なんである。睡眠を怠るから脳がどんどん破壊され、無責任になっていくわけなんである。脳科学は、脳破壊論でしかない。脳を動かしているのは、脳ではなく、宇宙の摂理なんである。つまり宇宙の愛の創造力である。なにより、宇宙が、人間の脳をつくっているからである。脳のなかに、宇宙がある。神はモーセに、私は貴方の私であり、宇宙の私であるから、私のなかに全てがあり、貴方のなかの全ては、私のもので、だから、貴方の脳も私のものなのだと、命令している。人間の働きは、脳で宇宙とつながっている。脳科学は、宇宙の働きから、脳を分離し、ヒトに、ウソをつかせている。人間の脳が、昼の運動により破壊され、夜の睡眠により再生されるのは、巷の大谷選手が睡眠を大切にしているのをみてもわかるように、物質界での五感による運動能力を最大に発揮するには、睡眠による脳の再生、再構築がなにより重要なのがわかるはずである。前回、日本のGDPが低迷しているのは、日本の経営者の愛の枯渇にあり、再び、詫び寂びの文化を取り戻す必要性を紹介したが、大谷選手の活躍からもわかるように、なによりも日本人の睡眠不足が根底にあるのがわかる。そこで、経済的にGDPを考える前に、日本人の睡眠不足を挙げてみたい。日本人は「睡眠不足」 女性の4割が睡眠6時間未満 先進国で最下位:朝日新聞デジタル (asahi.com)日本が「睡眠不足大国」に転落した3つの事情 急速に減少していく日本人の「睡眠時間」 | 健康 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)睡眠課題|睡眠バランス研究PROJECT - ウェルネス総合研究所 (wellnesslab-report.jp)そこで、睡眠時間とGDPの関係を調べてみたい。平均1日睡眠時間1位、2位は南アフリカと中国で、9時間ほど。次いで米国、カナダのほぼ9時間。スペイン、イタリア、フランス、イギリスがほぼ8時間半。ドイツが少し少なく、ほぼ8時間。デンマーク、スウェーデンが、8時間ほどで、7時間となると、韓国と日本しかなく、日本は最低の7時間22分となっている。日本の場合、国会での居眠り議員の睡眠時間のデータも欲しいような気がするが、良心のない貧弱な脳に睡眠が必要なのかどうかは定かではないが、サルに退化している脳と思われるから、官僚の作文すら漢字が読めずに、ルビを振られて、母国語も満足に話せずに、嘘ばかりついて、国会の質疑が健忘症気味になるのだろう。先進国でのGDPランキングをみてみる。米国とカナダが、2.20, 2.17の倍率でトップ1,2。ドイツが続き、フランス、イタリア、イギリス、そして、先進国最下位が、日本の0.90となっていて、ほぼ睡眠時間のランキングと同じになっている。ドイツは睡眠時間が少ないのに、GDPが高いのが、覚醒時間の効率的な生産の数値に現れている。日本の場合、睡眠時間が短い理由に、労働時間の長さが挙げられているが、GDPの数値に反映されていないので、非効率な労働時間の長さとなっているわけで、経営者の職場環境への責任が求められる。かつての量産体制は、現代の労働の質の向上に結び付いていないわけで、それがパワハラなどのコンプラ問題となっているのがわかる。たった23年でトップから最下位…G7で“日本だけ”が経済成長できない「2つの理由」 連載:野口悠紀雄のデジタルイノベーションの本質|FinTech Journal (sbbit.jp)このようなデータからも、日本人の睡眠時間の乏しさにより、脳の破壊が進み、脳が退化しているのがわかる。特に経営者が、職場の環境改善への危機意識が乏しいのがわかる。無駄な労働時間が多いのがGDPからもわかる。国会の居眠り議員などをみれば、数値などをみなくてもわかるが。国会で寝るくらいなら、議員をやめて家に帰って寝るべきだろう。そのほうが人命重視になる。また、高齢者の脳が、議会の責任を果たせるのか、という問題も、脳科学から言及されないのも不思議ではある。高齢者の運転免許が社会問題化しているが、社会的責任の意味では議会運営のほうが致命的である。故意だとしても、一時的に記憶喪失になるような議員の脳を国民の代表とするのは知的生命体としての脳としては恥晒しである。いかに選挙で選ばれたとしても、議会運営に支障をきたしている現実をみるなら、辞職させるべきである。このままだと、日本の政治が低迷したままで、政治が経済の足を引っ張っていくのが目に見えているので、日本の将来の国力を考えるために、経済成長率ランキングをみてみる。世界の経済成長率ランキング - 世界経済のネタ帳 (ecodb.net)経済成長率1位のガイアナは、南米最貧国だったが、原油開発が要因で、一気にトップに浮上したようだ。南米の最貧国ガイアナが2020年に大化けする 巨大原油開発でIMFが前年比86%の成長予測 | 中南米 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)2位のフィジーは、金の採掘で、浮上したようである。世界の鉱業の趨勢2021 フィジー (jogmec.go.jp)3位のカーボヴェルテは、はじめて知った国だが、調べて見ると、大西洋の交通要路となる地理にあり、運輸業が発達しているらしい。カーボベルデの経済 - Wikipedia4位のセントルシアも、はじめて知った国だが、調べてみても、経済成長につながる産業がイマイチわからなかったが、カリブ海にあるので、タックスヘイブンと関係があるのかもしれない。次のバハマをみれば、この線が濃厚か?セントルシア - Wikipedia5位のバハマは、バハマ文書で有名である。バハマ - Wikipediaバハマ文書 - Wikipediaヨーロッパのなかで、8位で最上位のアルメニアはダイヤモンドの加工産業で有名で、11位のジョージアはロシアのウクライナ侵攻で経済成長し続ける国で目立っている。PowerPoint Presentation (pref.aichi.jp)202301_seriesmacro.pdf (jbic.go.jp)13位のアイルランドは、外資に対する法人税が12.5%と欧州で最安と外資進出の環境設備が挙げられている。労働生産性の高い【5カ国】その理由を徹底解剖!|経営をアップグレードしよう!中小・小規模事業者の生産性を10倍上げるWEBマガジン (all-in.xyz)このように経済成長の上位国をみていると、地理的環境を利用して、良い労働環境へと、経営者が努力し、時代に見合った資本投入を導き、呼び込んでいるようにみえる。端的にいえば、経済成長は、設備投資にあるといわれるので、新規雇用や新規参入の労働環境をつくり出す努力にあるといえるかもしれない。日本の場合、この点において、著しく遅れ、いまだに、昭和時代の労働環境が残っていて、それが睡眠時間にも如実に現れているわけなんである。いまだにフォード式の大量生産を行う愚に陥っていて、石油の時代に、石炭に拘り、航空機の時代に、大型艦船ばかりに拘っていた過去の愚を髣髴とさせ、先見性のない経営を思い出させる。松下幸之助の時代はとっくの昔の話なんである。石川啄木の、働けど働けどわが暮らし楽にならず、じっと手をみる、である。「働けど働けど」の歌の意味・石川啄木の心理状態や生活について-言葉の意味を知るならMayonez石川啄木自体は放蕩三昧で、いまの政治家のようなご身分だったらしいが、その歌は、巷のこの国の現代人の労働者の気持ちを語っているのは明らかだろう。働く時間が必要なのではなく、休み、眠る時間が必要なんである。無駄に働いているから、脳が破壊され、暮らしも破壊され、放蕩してしまうわけなんである。飲み会などで、無能な経営者や上司の提灯もちなどするから、老害が蔓延り、全体的に、GDPが低迷して、時代から取り残され、遅れて、パワハラコンプラ問題化してしまうわけなんである。飲みにケーションなどは、昭和の時代の話で、令和には時代遅れの代物なんである。とにかく時代に応じて、アップデートすべきである。大体アルコール摂取や喫煙が既に時代遅れであるのに気づくべきである。大谷選手を絶賛しながら、大谷選手とは180度違う飲酒や喫煙をしている時点で、時代にアップデートできていない身の程知らずで、脳が破壊されている証である。飲酒や喫煙する時間を睡眠に充てるべきで、脳を再生させるべきである。飲酒も喫煙も個人的な自由だが、部下や周囲を巻き込んではいけないのが、令和のコンプラといえるだろう。個人的な経験からいわせてもらえば、職場の飲み会ほどつまらなく、無駄なものはなかったように思われる。大体が上司の自慢話を聞かされるだけで、説教ばかりだった。説教する人ほど時代に遅れていて、無能を象徴している。本人は楽しいのかもしれないが、聞かされる身になってみるべきである。自慢話ほどくだらないものはないよ。承認欲の顕れでしかない。アップデートといえば、「私のバカせまい史」という番組は面白く、先日、努力は報われる、報われないか、の逆転が、時代に応じて、何転したかを、研究発表していたが、そもそも見返りを求めるのを努力とはいわないのではないか?とも思った。私のバカせまい史 - Wikipedia見返りを求める努力は努力ではなく、見返りを求めない努力こそ、尊いもので、愛なんだと思う。だから、努力ではなく、愛を与えるべきで、愛があれば、努力云々ではなくなるだろう。そして、愛は与えるほど促進される。だから、生物が子を求めるのは、愛を促進するためである。自分のなかから、愛を汲み出すのが、努力なんである。だから、万物は、自分のなかで、流転する。万物は愛により流転する。しかし、現代人の信仰の対象となっている、定義を重んじる科学的思考が、人間に自己を与え、大自然から、人間を解放するにつれ、逆に物質界へと執着させ、人間の脳に五感を植え付け、五感により、人間を地の物質界に拘束する脳をつくりあげるにつれ、現代人は、五感を通じて、自分の脳に支配されるようになっている。五感において確立された自己のみが正しいという錯覚に陥っているのである。そして、巷の、良心を失った政治家が、「私は知らない、私が悪いのではなく、私の脳が悪い」と言葉巧みに嘘をつくようになった。政治家の言葉を信用する現代人はもはや皆無で、政治家の脳が嘘をつくのを、動物園のサルをみるかのように、軽蔑し、見下して、時には怒り、呆れ、サルに退化した現代人の成れの果てを、ただ傍観するしかなくなっている。現代人は互いを五感により評価し監視しあっている。つまり、科学的思考が、ヒトをして、ヒトの脳に五感を与え、五感により五感の奴隷となった。そして、ついには、五感を偽り、信じられなくなっている。それは見えるものだけを信じる立場から、見えるものの虜になり、みえるものに騙されるようになった、といえるかもしれない。絶え間なく流される情報のなかで、五感から何が真実なのか、自己すらもわからなくなってきた。情報リテラシーが叫ばれるのも、現代人が良心を失った警告ともいえるかもしれない。ダーウィンの進化論を逆行するかのように、現代人は良心を失い、急速にサルに退化している。永田町界隈と、動物園のサルを比べれば、動物園のサルのほうがまだ愛嬌があるだけマシといえるかもしれない。しかし、ロシアのサルの方が核兵器を抱えているだけ遥かに危険なので、まだマシといえるかもしれない。いずれにしろ、現代人は、脳を、ヒトを欺く道具に使っている。脳科学では、政治家のこのような偽証行為を何と捉えるのだろうか? 一時的に健忘症に罹る、死んだ振りをする動物と同じと解釈するのだろうか?擬死 - Wikipedia擬態 - Wikipedia死んだ振りとは、擬態の究極の表現にみえる。ヒトは恥ずかしいと感じると、顔が赤くなるが、シュタイナーによれば、それは血液である自我が、なるべく外へと分散しようと、末梢へと至ろうとするために、体表面に、広く薄く拡がろうとするためだという。自我を希薄に、周囲へと分散し、相手から、正体を隠すためで、いわば、忍法の分身の術なんである。恥ずかしいときに顔が赤くなるのは、土星紀の人間が、熱の存在だった名残りで、いわば血液を分散することで、熱の分布を、薄く広く分散させ、固体から気体へと相転移する現象といえるかもしれない。この恥ずかしい、のとは逆の、恐怖を感じた時に、顔が青くなるのは、血液を内へと集め、結束させ、自我を強化するためであるという。敵に遭遇した小魚が、群れを集めて巨大化した組織をつくるのと同じである。だから、自我による、熱集中の、気体から固体への相転移現象といえるかもしれない。例えば、感染症に罹ったときの、人体の、この自我強化による、熱集中が、人体の発熱を促すのである。この発熱現象は、蜜蜂が集団で、外敵のスズメバチから、巣を防衛するのと同じものである。ニホンミツバチの対オオスズメバチ蒸し殺し戦法は「諸刃の剣」だった<br>-天敵熱殺の代償に蜂球参加ミツバチの余命が短縮!それに対応する驚きの戦略も!!-|ニュース&イベント|玉川大学 大学院 (tamagawa.jp)シュタイナーによれば、蜜蜂の巣の温度は、ほぼ人間の体温と同じで、34℃前後であるという。人体の深部温度は37℃とわかっている。人体の温度が3℃ほど高いのは、恐らく、人間が自我をもつせいだろう。みつばち社会〜働き蜂⑨扇風と温度調節①〜 | 草地家 (kusachike.com)人間がつくウソ、つまり、ヒトの脳の一時的な健忘症は、脳が五感に依存しているせいで、物質的側面では、動物の擬態や擬死の死んだ振りと似ているが、動物の場合は、それ自体が真実となっているが、人間はウソをついている点で大きく異なり、例えば、目が目そのものをみれないように、脳が脳そのものを感知できない。それはただ演じているだけにすぎない。つまり、人間だけが自由にウソをつけるわけだが、それはウソをつける、ウソを演じれる、舞台を与えられているからである。人間が五感をもてるのは、五感を感じ取れる能力を、大自然から与えられているからである。つまり、大自然から五感を感じ取れる能力を、大自然と人間に与えている存在がいるから、人間は大自然を五感で感じ取れるわけなんである。例えば、写真でいうなら、ネガとポジで、だから、五感のネガとポジ、大自然の陰と陽といえるかもしれない。大自然のなかにも、人間と同じ、霊的な陰と陽の存在がいて、それが、アリストテレスが唱えた、4大元素霊なんである。四大精霊 - Wikipedia828.pdf (beret.co.jp)万物は流転すると、ヘラクレイトスは説いたが、これは生命の循環法則のことで、大自然のなかの四大元素霊の働きで、それを五感で物質的に感知できるのも、人間が、それらと、ネガとポジで交信し、いわば数理的感覚で捉えられるから、覚醒意識が生まれているわけである。例えば、火は熱やエネルギーで数理的に換算し、風は、光の満ちた大気や空気の気体として、気体の運動論に数理的に換算し、水は液体に、土は、固体の、結晶化構造や、機械化構造に仮定し、数理的に換算し、触覚などで、実験的に測定し、統計処理を得て検出しているわけである。量子力学のシュレディンガーの猫などは、四大元素霊をネコの生死として示した端的な例である。科学的な思考実験とは、私ではなく、私の脳がしたこと、というのと、同じで、私ではなく、ネコがしたこととして、責任を回避し、五感で検出することを重視し、そこから定義づけをはじめるのと同じである。シュレーディンガーの猫 - Wikipediaつまり、電子の振る舞いは直接みれないが、その結果生じたことを基点にして、五感で捉えられる範囲で、物質界を構築しようというもので、実は、脳を物質界に合わせて破壊し、再構築しているにすぎない。その作業が端的に現れているのが、この国の巷の、ウソをついてはいけない審議会で、ウソをつく現代人の典型のサル化した政治家に現れている。みえなければ、物証がなければ、何をしてもよいという、良心の欠如である。このような十戒の、騙すな、偽証するな、に反した行為がなされるのは、現代人が、創造力の源である、愛の良心を、破壊にしか用いれないほど、劣化した証といえるだろう。つまり、人間は、破壊行為によって、覚醒意識を獲得し、四大元素霊の足跡しか辿れないほど、科学的思考に洗脳されているわけなんである。実際に、核兵器を使って大量殺人をして、いまだ恫喝の道具として利用し、領土紛争に固執し、五感に囚われ、開き直っている始末である。最近は、五感を超える、超感覚の第六感について、巷では、科学的思考を問うが、霊感や第六感をオカルト視して、問わなくなり、不問に付しているが、自分のなかから、愛を汲み出す働きこそが、第六感といえるだろう。五感では捉えられない、五感を超える存在に出逢う感覚なので、それはもはや覚醒意識の破壊作業から自己を解放しないといけない。創造力をポジとネガに分け、破壊作業に費やすのではなく、創造力をそのまま創造性や再生としてみるのである。それは統合で、愛の働きといえるかもしれない。巷に残る、この国の詫び寂びの文化の再生である。日本という文化的にガラパゴスな、多様な異文化が入り乱れている国の利点を生かして、輪廻転生的な思考を、詫び寂びの文化として再生させるべきである。日本の秋葉原はその拠点になりえるかもしれない。日本全体のオタク文化の発祥の地にすべきかもしれない。アニメーションには詫び寂びの霊的な文化が残ってるような気もする。日本を、霊的な異文化交流の地にすべきである。どんな異文化も受け入れ、融合和合していく、それは多様な多角形を、球面上の点に変換していく群論の対称性の問題へと帰着していく作業ともいえるかもしれない。科学的思考の定義を超えて、性格付け、特徴づけで、リズムや波動の違いとして、循環論に帰着させていくべきである。シュタイナーによると、鮭が産卵のために産まれた川に戻るのは、淡水のなかの、澄んだ光が産卵に必要だからであるという。渡り鳥も、生殖のために、澄んだ空気のなかの光を必要とするという。太陽光がなければ、生物は愛を育めないし、生殖ができない。例えば、コウノトリが赤ちゃんを運んでくるという逸話は、太陽光が、夏至に、地球に授精する超感覚的認識をイメージしたもののようである。キリスト教では、夏至に、聖ヨハネ祭りを催す。ヨハネは鳥のシンボルで、鷲の象徴でもある。洗礼者ヨハネにより、太陽霊キリストが、地球に受肉した。「コウノトリが赤ちゃんを運んでくる」というイメージはどこから来たのか? - GIGAZINE聖ヨハネの日 - Wikipedia福音書記者ヨハネの象徴は鷲。 | 名画を読み解く (amebaownd.com)この国の詫び寂びの東洋に保存された輪廻転生の思想を、西洋のキリスト教に、受胎させるのが、この国の、東洋と西洋の融合で、生命再生のカギとなるように思われる。八咫烏とは、フェニックスの不死鳥で、キリスト教に、仏教の輪廻転生の再生思考を与え融合し、霊的思考を、三位一体の、心技体の再生論として復活させる象徴のようにみえる。古代エジプトのトートが、輪廻転生の思考をもたらし、八咫烏として自己復活し、再生するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 古「太陽」紀の出来事が、キリスト「存在」の魂の中に集められ、濃縮され、そして、後になって再び、人類の目の前の出来事として、前面に持ち出された、のを想像してみる。この「存在」は地上に現れ、原初の犠牲行為と、その犠牲の煙が創り出した、与える愛(光を生む時間と、与える無償の徳)から、賦活する慈悲の精髄を受け継ぎ、魂の熱と、輝く光が、宇宙から、太陽のなかに反射するような働きを行った。 この愛の全てが、たった1つの「魂」の中に濃縮され、それが、自我として、「地球」の人類に受け渡される、のを想像してみる。 次に、濃縮した愛を受け取り、返すと同時に、後に残る「地球」の人類のために、愛を保存した存在たちが、キリストの「魂」の周りに集まる。 太陽の中心には、犠牲を通して、与える「存在」がいて、この「存在」の周りには、愛を受け取る意志を持つ存在たちがいる。この古い太陽のイメージと結びつくのは、地上の存在へと受け継がれた愛の犠牲であり、その犠牲に喜んで従うか、それとは逆に、この犠牲を拒否するか、である。 というのも、慈悲を生じさせるには、人間に与えられる可能性は、喜んで受けるか、拒否するか、のどちらかだからである。これらがインテンション=霊的な合一として体験される、のを想像してみる。 その再現は、まるで、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の経験のようである。つまり、この絵画には、過去に生じた愛を、未来に伝えるために選ばれた「者」たちが与え、受け取り、返される「愛の太陽」が描かれ、それらの愛は、犠牲を捧げる「存在」たち、与える徳の「存在」たち、魂を温める喜びと光に満ちた荘厳さの「存在」たちと共にある。これら愛の全ては、特に「地球」のために、同時に、愛を、拒絶する離反者と共に、据えられた。 「太陽存在」が、「地球」上に再び現れ、「地球の存在」のなかに経験できる。外的、知性的でなく、芸術的に感じるなら、「地球」存在の精髄を反映する、この偉大な芸術作品の中に、人類を進化させる推進力を経験できる。 この絵画を見るとき、「キリスト」が「太陽」の環境から育ってきたのを知ると同時に、人智学徒がしばしば語ってきた意味がよく理解できる。 もし、ある精神の持ち主が、「火星」から「地球」にやってきて、地球上に見る全てを理解できなくても、レオナルドの「最後の晩餐」の絵画をみれば、「地球」の人類の使命が理解できるだろう。火星の住人は、「太陽」存在が、「地球」存在のなかに隠れている、のがわかる。そして、人智学徒が語る、重要な意味が、火星の住人にも明らかになるだろう。 その火星の住人は「地球」の意味を理解し、「地球」の重要性を知るだろう。そして、次のように言うかもしれない。 「この出来事は、地上でのみ起こり得たが、宇宙の片隅の『地球』存在にのみ意味を持つ。この中央の人物の行いを、その周囲を取り巻く人たちとの関係の色合いから、こちらに向かい流れてくる行いとして本当に表現できたなら、『叡智の霊』たちの『太陽』上での経験が、『私の記念として、このように行いなさい』という言葉の中にこだまするのが感じとれる!」。 この晩餐には、後に行われる、前の出来事の保存がある。このキリストの言葉を理解するには、人智学徒が学んできたように、宇宙史の文脈から、その内容が把握できたときだけである。この晩餐で指摘したかったのは、至上の愛の、芸術的な創作行為が、宇宙の発達(進化)に関係する、という事実である。 次回の講義では、「月」の精神的「存在」についての観点へと進むために、「太陽」の精神的「存在」の観点から「キリスト存在」を理解したい。
2024年02月29日
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人間が生きるには、太陽光と空気と水が不可欠で、それらは大自然の恩恵、つまり人間に対する自然の愛にあるのがわかる。人間は大自然の愛がなければ生きられないが、当たり前のように、我が物顔のように生きている。この大自然の身近な愛に普段は気づいていない。マイナスイオンが昨今非科学的という理由で、死語になったが、森林浴をして、空気がウマいと感じるのは、自然のなかに愛を感じるためであろう。愛とは生命を循環させるエネルギーのようなもので、現代の機械論でいうなら、機械を動かす油のようなものである。愛がなければ、いかなる生命体も生きられない。世界から戦争が亡くならない現状をみれば、人類がいま何のために生きているのか、という広い視野が現代人に求められるが、あらゆる宗教が、その答えを導き出しているように、ヒトを愛するため、であるのは、明白である。しかし、ヒトを愛する、のが困難なのは、現代人のなかでも愚かで救いようのないロシアのプーチンをみればわかる。自分と異なる意見を愛せないのは現代人の思いあがったエゴなのに気づいていない。そのエゴがどこにあるのか?現代人はそれがわからないほど馬鹿になってしまっている。自分の意見と相対する意見こそ、自己の確立に不可欠なのである。というのも物質界では陰と陽、プラスとマイナスがあってはじめて存立するからである。闘うためでなく、互いにライバルとして切磋琢磨し、認め合うためにある。愛は与えるためにあり、求めるためにあるのではない。前回、現代人は科学的思考に洗脳されている、のを紹介したが、それが特に行き過ぎて始末に困るようになった成れの果てが、自己の誤りを認めようとしない、このような悪あがきの、エゴの奴隷となった権力者たちである。真の民主主義とは、国民のためにならない馬鹿でエゴの奴隷となった、過ちを認められない指導者を即座に変えられる体制の確立といえるだろう。大自然の動物たちの生態をみれば、集団を存立し得ないボスは信頼を失い、信頼ある次のボスに取って代わられるのが明らかである。集団の長として、全員の面倒を見れないボスは、ボスたる資格がない。BSNHKのグレートネイチャーやワイルドライフをみれば、動物の集団が信頼を共有し、民主的に生きている、のがよくわかる。動物の場合、ボスの判断が集団全体の生死に関わるのだから、優秀なボスの集団種だけが残るので、大自然の摂理では当たり前といえる。大自然の摂理を持ち出すまでもないが、表向きの科学的思考でも、優秀なボスの集団種だけが残る、という結論に至るだろうが、「優秀さ」だけを特別視すると、間違ったダーウィンの進化論のように、本当は、そのように大自然が配慮している裏の働きを見落とすことになる。食物連鎖からわかるように、科学的思考では、優秀さを強者とみなし、それを弱肉強食というが、それではなぜ弱者が多産多死なのか、説明できないからである。論理的には、強者が多いと弱者を巡って、強者同士で争うことになる。つまり、強者は、弱者の多産多死の上に生存できる。それは、強者よりも、弱者のほうが愛を与える働きが大きいから、多産多死といえる。実るほど頭が下がる稲穂かな、である。愛情が深まるほど、多産多死の弱者になるわけである。表向きには、強者は愛情を奪っているから、物質的には強くみえるが、実は愛に飢えているにすぎない。だから、科学的思考は、愛を定義したがるのかもしれない。科学的思考が、動物がもつ本能ともいえる集団的生存主義ならぬ民主主義を奪い、現代人のような誤りを誤りと認めないような悪あがきや強がりを生んだのは、何のためか?それには、科学的思考の特性を考えてみないとはじまらない。科学的思考は唯物論から定義をはじめるが、科学的思考自体の定義が抜けているからである。だから定義ではなく、特性や性格付けが重要なんである。科学的思考の特性を考えるには、古代叡智が不可欠で、輪廻転生の思想を考えないと、その根底となる覚醒意識について理解できないからでもある。前回紹介したように、科学的思考というのは、古代ギリシアのある哲学学会での、唯物論的な、貧弱な人間の定義からもわかるように、定義からはじまる思考である。数学史を学べば、数学が古代エジプトのユークリッドの原論からはじまるのがわかるように、科学的思考が、定義づけからはじまるのがわかる。ユークリッド原論 - Wikipedia上の紹介リンクにあるように、本来の「数学」の意味は、「学ばれるべきこと」で、どうして数学が学ばれるべきことなのか?については、ユークリッドは、言及していない。これこそが、数学の定義で、ただ必要性を説いているだけなのである。しかし、その後の数学が人類にもたらした計算能力をみれば、空間認識と、時間認識に沿った、物質的感覚の必要性だったのが、中世以降の人類の進化からわかるはずである。そして、数学により、現代人が古代人とは異なる感覚をもつのは、いまでも、大自然の動物の集団主義と比較すれば明らかである。人間の特に権力者の悪しき自己をみれば、動物が集団の動物種を超えるエゴをもたない点で、現代人との自己意識の違いが明らかであろう。動物には自己満足という自我すらもちあわせていない。愛を求め、愛を奪いとる、という意識もない。大自然のなかの動物の生態と比較すれば、人間は、特に現代人は、物欲に染まり過ぎた自我の存在であるのがわかる。大自然で生きるには、人間のエゴは不必要な邪魔な存在となるからである。さて、巷の生活では、相変わらず毎日詐欺メールが来て煩わしい電子社会だが、詐欺をするような奴が来世にどうなるかを少しは考えてみるべきである。物質的知性でヒトを騙すような輩は、来世では物質的知性を奪われた存在となるので、生まれついて知的障害を背負う羽目になるものと考えられる。だからヒトを騙すほど、その騙した知性が奪われる宿命を背負い、罪はその霊魂に憑りついてまわり、生き霊が騙された被害者の怨念と共に来世に現れる、と考えられる。罪をカルマとして、衣服のように背負う。魂は、愛の光の核からなるので、騙せば騙すほど暗く曇っていく。だから、騙した罪を解消しようとして、物欲に走れば、悪魔からまた別の悪魔へと魂を奴隷のように売り渡す羽目になる。だから、そのような罪深い罪人には、馬鹿は死ななきゃ治らないとして、死が救いとなる。ヒトを騙す知性など知性とは言えない代物で、ヒトを騙すくらいなら、騙せない馬鹿な方が遥かにマシである。このような巷の惨状から、シュタイナーの予言が頭にこびりつき、日本の行く末が気になる昨今で、還暦に近づいているせいか、BS11をみていて、昭和の風景を昭和の音楽で振り返るノスタルジーが心地よいのを感じた。個人的に、昭和を一言で表現すると、「激動」の時代といえるかもしれない。昭和を、令和の今になって、振り返ると絶えず闘いが要求された、余裕のない時代だったような気がする。人混みや満員電車などが、その闘いの象徴といえるかもしれない。昭和を感じると、なんとなく、中島みゆきのファイトという昭和の名曲が思い浮かんだ。自分は中学でニューミュージック世代にぶち当たり、アリスを聴いてから、男子高に進み、70年代のブリティシュロックの洋楽世代に染まり、それ以降は、恋愛ばかり語る邦楽にはあまり興味がなかったが、今思えば、森高千里にもファイトという曲名があるように、恋愛にも、闘いを持ち込む曲が多かったような気もする。恋愛もある意味戦争ともいえるが、昭和にはどこか、闘っていないと生きられないような生き苦しさがあり、大学受験のための受験戦争などはその象徴といえるかもしれない。昭和の息苦しさが、平成のゆとりへの希求を生んだのかもしれない。中島みゆき ファイト! 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)昭和の音楽を流して昭和を映像化すると、昭和の空気感に浴し、ノスタルジーに浸れる。昭和が良かったとは全く想わないが、あの時代はああだったよな、というような、いまからすれば、喉元過ぎれば熱さを忘れる、地獄も傍からみれば地獄でなくなる、というような、苦しかった時代を第三者的にみる余裕が生まれる。昭和のなかでも、戦時中を戦後から振り返るような、本心では振り返りたくもないが、音楽が流れることで、カタルシスを生むというか、新しく昭和が令和に再生されるような気がする。昭和をそのまま実感したくはないが、平成のゆとりを経て、令和にアレンジされて、原曲を当時のそのままに聴くよりも、令和にまた違った歌手にテイスティングされながら聴くのが、新鮮で、懐かしくて、なぜか自然と涙が出てくるから不思議である。クラッシック音楽も当時のまま演奏されるよりも、現代的にアレンジされて演奏されたほうが、個人的には好きで、中世の西欧に生きていたかどうか、前世がわからないので、原曲に忠実とか、中世の感覚など霊能者でなくてはわかるはずもないのに、現代から考える中世という意味ならわかるが、現代人のいかにも理屈っぽい脳の構造が、音楽のなかに、そのままの違いで現れるとしか思えない。そもそもなぜ中世の音楽が生まれたのか、といえば、人智学によれば、音楽のなかに、自己を確立したいがためで、音楽の個性化にあるらしい。音楽が生まれる前は、声音しかなく、その前は自然の音しかなく、音はそのまま集団に対する命令のような機能をもっていたという。いまでも動物が鳴き声で交信するのと同じである。自然の変化音に共鳴して、動物の集団全体が鳴き声で呼びかけ、自然に対応していくのである。例えば、鳥が「春が来るよ、春だよ」と、同じ鳥の種に呼びかけて、「わかったよ、春の態勢をとるよ」というわけである。人間の場合は、大自然のそのリズムを、数理的に捉え、その調和を見つけ、数学や、自然の法則として音楽が生まれたようである。だから、動物のような集団的自我から、自らを解放するために、個人的な自己を確立するために、音楽が生まれたわけなんである。シュタイナーによると、14、15世紀から20世紀までは、個人的な自我、つまり自己を確立するために、天使長ガブリエルによる数学や音楽などの知的感性、俗にいうリベラルアーツが人類に与えられたという。リベラル・アーツ - Wikipedia というのも、人類が自由であるには、自由の礎となる、個人的な自我を確立できなくてはならず、それには、物質界に、ある程度染まらないといけないからでもある。物質的に自己を形成することではじめて、動物のような集団的な自我から解放されるからである。つまり、音楽が生まれる前には、動物と同じように、人間の言葉には、「わたし」という主語がなかったのである。個人的に自由な音楽がなかったのである。現代では、個人的な音楽がいくらでも自由につくれるわけである。個人的な自己の確立により、自然のルールから独立し、春に、秋の歌や、地球の変化とは無関係に、人間独特の音楽が自由な曲で奏でられるようになったわけである。ルールがどうとか、そんなのは中世の時代背景を知らない時代遅れの足枷でしかなく、現代から考えた中世でしかない。つまり、人間により、音楽は自然の音響から独立し、クラッシック音楽も貴族のものから、大衆のものになったわけで、貴族しかもたなかった、音楽による個人的な自己の確立が、大衆のものとなり、そっくりそのままの音響により、脳の構造に影響し、「朕」から「わたし」になったわけで、中世が云々というのは時代への逆行で、ルシファー的な、エゴの働きといえるかもしれない。だから、伝統は古いままでは意味がなく、新しく作り変えられなくては意味がない。昭和こそ、いまの令和につくりかえられるべきである。小野リサが昭和の邦楽を歌うと、昭和が令和の今に蘇り、生きかえるような気がする。音楽が新しい息吹を得て、生命になったような気がする。そのような昭和リバイバルの音楽番組があってもいいかもしれない。とにかく、昭和の総括が音楽でなされると面白いかもしれない。もっと音楽は自由になるべきだろう。愛を与え、奏でるのになぜ拘るのだろうか? そもそも、私の歌とか、私の曲と思えるために、音楽は個性を尊重するために生まれてきたのだから。自分が好きなように愛を与えるためにアレンジし、自由に表現すべきである。邦楽洋楽のジャンルや時代を超えて自由にアレンジすべきである。小野リサ - Wikipedia先日、指揮者の小澤征爾氏が亡くなったが、小澤といえば、有名なN響とのトラブルである。音楽業界には、特にクラッシック界にはなにやら、昔の階級社会がいまもなお残っているが、シュタイナーによると、階級社会とは、人類が、個人的自我に目覚めるために、切磋琢磨して、次の転生でできるだけ自己を確立するために、上位の階級に生まれるために、自己の確立への憧れのためにあった、というのである。小澤征爾が世界へ飛び立つ理由となった「N響事件」の真相 | カドブン (kadobun.jp)中世以前の古代では、自己を自由に確立できた者が、輪廻転生を通じて、最高位の階級につけたのである。自己を確立できるとともに、自然から独立して、覚醒意識で運動ができるわけで、そのようにして、自己が、朕から私へと受け継がれていったのである。それは、コンピューターの世界が、メインフレームから、パーソナルコンピューターのパソコンに進化したのと同じである。自己を確立するためには、物質界で、肉体を持ち、作り変えて、自己を体験しないと確立できないからである。物質界で、体験により、自己を映す鏡をつくらないといけないからである。その鏡が肉体である。自己を確立できるというのは、潜在意識から、覚醒意識を獲得することで、それには、物質界を感知できるように、脳をつくりかえないといけないから、神経組織を破壊し、脳を再構築しないといけない。だから、古代人には、脳の頭がなかったと、シュタイナーは述べている。物質界を昼の意識で感知し、従来の脊髄の神経組織を破壊するにつれて、睡眠中に、神経組織を脳へと再生し、再構築することで、昼に神経組織を破壊しては、夜の睡眠で、再生して、物質界で運動できる脳が生まれ、個人的な自我が確立できたという。古代エジプト人は睡眠中しか活動できずに、昼はほとんど動けなかった。覚醒意識をあまりもたずに、ほとんどが潜在意識だった。だから、いまでも、睡眠中に、脳は再生、再構築されるために、無意識になる。神経をスパークで破壊する度に人間は覚醒意識を獲得する。だから寝ないと神経組織は再構築されないという。覚醒の破壊と、睡眠の再生の生命循環により、人間は生きている、というわけで、破壊と再生は、輪廻転生へと永続する。睡眠不足は、脳の構造を崩壊に向かわせる。睡眠不足から、人間は個人的自我を失っていく。寝る子は(脳が)育つ、というわけである。かつての階級社会は、自己の確立のためにあり、脳を個人的に再生させるためだったが、現代人は逆に階級社会により、個人を失わせているわけで、行き過ぎたルシファーの権威主義にハマっているわけなんである。過ぎたるは猶及ばざるが如しで、特に日本はいまだ古い集合自我をもち、個人的自我に目覚めていないので、雇用改革が望まれているが、いまだにブラック企業が多い。階級社会が形骸化し硬直化した上下関係となってしまっている。本来は、階級社会が自己の確立のためにあり、また、この国の独特な文化とされる、詫び寂びの文化とは、実は、祖先崇拝からきていて、祖先の霊魂に対して、詫びる寂びる、の意味をもっている。中世の何人かの霊能者は、脳を個人的な自我につくりかえるだけでなく、あまりに物質的に染まってしまわない程度に、エゴにならないために、脳を自己陶酔に使い切らない状態に止め、物質界への個人的な運動能力を失う代わりに、霊能力を同時に獲得できたという。つまり、わびさびの文化とは、霊能力の再獲得が本意なんである。恐らく仏教の修行から生まれた文化なのかもしれない。だから、○○道や、免許皆伝、つまり霊能力再獲得の免状というわけなんだろう。物質界から自己を失わずに、霊界のあの世の先祖霊にコンタクトできるのが、わびさびの本意なんだろう。そのような霊能者は、亡き祖先の霊魂がマナス=霊我と交信でき、いまでも霊媒体質をもつ人もいるが、そのような霊能者が、祖先崇拝により、霊界と物質界との橋渡しの、いわば通訳として、個人的自我を物質界に染まりすぎないように、エゴを回避するように指導したのが、日本の墓参りなどの習慣に残っているわけで、常に、祖先の霊魂を偲んで、詫びる寂びるの、詫び寂びの文化が生まれた、といえるわけなんである。要するに、物質界の欲望に染まりすぎて、輪廻転生の生命循環の働きを忘れるな、という警告なんだろう。一方で個人的自我を確立しながら、他方で、霊我の精神を高めて、個人的自我を覚醒意識で獲得しながらも、同時に、その個人的自我を、愛を与えるために高める、霊我へと進化させ、古の霊能力を獲得するのが、現代人の今に生きる意味である。個人的自我をつくりながら、それを愛の奉仕へとつくりかえるのが、地球人の使命といえるかもしれない。この国に、詫び寂びの文化が残ってるのは、輪廻転生の思考が残っている証拠でもある。放送大学にハマり、現代の学問を勉強し直している手前、経済論にも言及してみたいので、この自己の確立を経済学的に変換するのなら、個人当たりのGDPに換算できるかもしれない。また巷では、日本のGDPが、ドイツに抜かれ、世界4位に脱落したとのことで、また新ニーサで株価が最高とか、物欲塗れの連中が声高に叫ぶニュースをみると、改めて経済成長について考えてみる気が生まれた。というのも、BS朝日の長嶋一茂氏のミライアカデミアという番組が非常に面白く、個人当たりのGDPについて言及していたからでもある。老害番組代表の朝生なんかよりも遥かに良い未来志向の番組である。馬鹿息子で有名なのか、司会者のキャラが自称馬鹿で謙虚なのが遥かに良い。長嶋一茂のミライアカデミア~これからを生き抜くための特別授業~ | BS朝日 (bs-asahi.co.jp)結論からいえば、番組では特に言及していなかったが、日本のGDPがよくないのは、企業経営者のエゴによる内部留保にあり、資本設備に投資していなかったせいなのが明白である。納税逃れや国の支援に頼ろうとする経営者のエゴによる甘え故の弱体化である。長期的視点でいえば、愛の枯渇である。番組で言及していたのは、少子高齢化による社会生活に必須の介護職など人手不足の社会福祉業界は無税にすべき、というのは、良い案に思える。要するに、エゴが際立つ法人には課税し、その被害を受けている法人は無税にし、バランスをとり、エゴを無くさせるのが肝要である。勝海舟の、天下の経済をして、国民を富ませないはずがない、というわけである。経済の要諦は、質素倹約で、徳川家の家訓も質実剛健だった。徳川家は、大奥の贅沢のせいで滅んだのは、大久保一翁が語っている。現代の自民党は、江戸時代の大奥といえるだろう。一茂の番組が語るように、人手が足りすぎている政治家よりも、人手の足りないライフラインの介護職員こそ無税にすべきであろう。それと、日本の労働組合の横のつながりに乏しいという、番組中の、パックン氏の指摘は的を得ていて、この労働組合の閉鎖性こそが雇用の流動化を阻み、経営者を甘やかし、経営を脆弱にしている元凶といえるだろう。米国のように職業別の労働組合に統合すべきである。米国では、職種別に共通の労働組合があるので、より最適な待遇を求めて転職も容易にでき、しかも、好待遇を求めてスキルアップできるために、経営者も常に従業員と対等な契約関係に、人と人の関係になる。日本では労働組合が弱いので、経営者が労働者をモノ的に扱いやすくなり、ブラック企業を生みやすい環境にある。経営者を物欲に走らせる要因とさせ、愛を枯渇させるのである。日本の経営者に愛が乏しいから、ブラック企業化する。日本に愛を取り戻すために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 現代へと伝えられてきた古い表現の、空気や大気について実際に経験できる人たちは、その古い文化を知らなくても、自分が、人間の精神のなかにいる時間=時代霊の影響下にある、のを感じとれる。これら古太陽紀の出来事に対する確かな感情が、人類の進化全体と結びついている、という素晴らしい感情から生じる。 大天使たちは叡智霊による原初の思い出を保持している。過去の地球上に存在した事象は必ず、後の時代にも繰り返されるが、後で現れる場合、何か別の新しさがつけ加えられる。だから、ある意味、現代人は、現代の「地球」上で遭遇する存在の中に、古「太陽」の存在を見つけることになる。 現代人にも、この古太陽のイメージ全体を、獲得できる。この感情全体が与えるのは、犠牲を捧げるトローネのイメージ、その供儀を受け取るケルビムのイメージ、その供儀から放射される煌めきの叡智霊のイメージ、空気のように拡散する供儀の煙の時間霊のイメージ、そして、原初に生じたものを後の時代のために保存する大天使から反射する光のイメージである。この感情を目覚めさせるには、これら太陽紀の創造に関係した出来事全てに関する理解が不可欠なのである。 魂の経験として、いまここに描写した過去の地球、つまり太陽紀の環境は、過去に太陽という外的な表現を通して達成された歴史的経緯であり、現在の地球紀では、内的な精神的な観点から提供される。そして、今や、キリストとして「地球」上に現れた存在が、この古太陽の環境から生まれた、のが理解できる。 キリスト存在が、「地球」にもたらしたものを理解するには、宇宙の光として、「太陽」内の中心に向けて反射され、太陽の光として変わるような、愛を与え続ける、という無限の慈悲を生じさせる徳についての概念を、自分のものとして体験する必要がある。 もし、今述べたような、このようなイメージを、イマジネーション(霊視)へと発達させ、キリスト存在が地球へともたらし、体現したのが、この無限の、無償の愛であると考えるなら、キリスト衝動という精神的存在を深く経験できるだろう。人間の魂の中にある、薄っすらとした仄かな暗示が、このような愛の表現によって記述でき、「地球」上に再現できる、のを、現代人が感じ取れれば、その暗示の真の意味が理解できるようになるだろう。
2024年02月27日
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現代は科学万能の時代といわれるが、古代叡智からすれば、科学洗脳の時代といったほうがいいかもしれない。言葉だけの科学が蔓延していて、では科学的思考とは何なのか?と問われれば、現代人のほとんどがその答えに行き詰まるだろう。しかし、放送大学をみていると、古代ギリシアの哲学的思考から、科学的思考へとつながって、現代の洗脳時代へと進む、科学史の流れが漠然と明らかになってくる。そこで、現代人がいかに「科学」という言葉に洗脳されているかを物語る発言を取り上げてみる。それは、巷のあるお笑い芸人が言い放った、現代人らしい頓珍漢で無責任な言い訳で、「俺が悪いのではなく、俺の脳が悪いので、脳に文句言ってくれ」である。勉強できない子どもが、勉強しないのを、頭が悪いせいにするのと同じである。努力不足なのに、努力したくない言い訳に使う。この言い訳を、脳科学では、どうとらえるのだろうか? 脳に自己がある、と、現代人は考えているはずなので、では、脳に責任を求めている存在は一体なんなのか?という疑問が思い浮かぶ。脳科学で考えれば、俺という意識が、脳にあるのだから、脳が俺をつくっているわけで、俺の脳という言葉がおかしいわけで、俺の脳というのは、俺のなかの俺という矛盾を生んでしまう。俺のなかの俺という発言は、サッカーの本田選手の、リトル本田発言を思い出させる。「リトル本田(リトルほんだ)」の意味や使い方 わかりやすく解説 Weblio辞書そこで、俺のなかの俺でない俺はあるのだろうか?という疑問も思い浮かぶ。脳科学で厳密に考えれば、自分を自分で制御できていない発言なので、精神分裂症、いまでいえば、軽い統合失調症といえるかもしれない。現代人が責任を回避するときに、よく、このような発言をする。統合失調症 - Wikipediaこのような無責任発言は、巷の政治家の答弁によく頻繁にみられ、「記憶にない」やら、「秘書が勝手にやった」やら、知るべき立場にいながら、知らない振りをするのは、脳が脳を否定してるわけで、科学的思考が嘘つきであるのも同時に示している、といえるだろう。つまり、脳が自己をつくっているのではない、と考えるしかない。もし、脳が自己をつくっているのなら、このような発言は自己を否定しているわけで、自己を無くそうと自己がしていることになり、自己に罪意識がない事も表わすからである。罪の意識がないというのは、良心の欠如を意味する。自分は悪いことをするはずがなく、悪いことをしたのは自分ではなく、何か他のものである、と考える思考法にあるからである。だから、自分ではなく、自分の脳であると、頓珍漢な発言が生まれるわけなんである。回りくどい話になってしまったが、要するに、現代人は素直に誤りを認められなくなっている、といえるわけなんである。特に巷の政治家にこの罪意識が欠如している。反省という言葉は使うが、反省できていない。自分には思いもよらない、何か良からぬ事が起こると、家で飼っているペットの猫の仕業だろうと、なんでもネコのせいにしてしまいがちなのと同じである。自分は悪くない、悪いのは他にあると偽善者になるわけなんである。しかし、これでは自分という存在は精神的に成長しなくなってしまう。良心は、神様への成長の種子で、神の証だからである。勝海舟は、その書で、明治の時世を嘆き、昔(幕府時代)は他人の責任でも自分の責任として、責任感が重かったと愚痴っている。だんだんと人間は軽薄になってきたと、既に明治時代に嘆いていたという。現代の国会の緊張感のなさといったら、居眠り議員など国民がみているのに恥ずかしくないのだろうか? 「お前の父ちゃん、国会で居眠りしてたよな」と子どもたちに馬鹿にされないのか、不思議である。子どもは国会中継をみていないだろうが、嘘つき答弁ぐらいはみているだろう。居眠り議員が子どものときに、国会で居眠り議員をみて、育ったのだろう。歴代の居眠り議員のせいで、情けないことに、現代の居眠り議員ができあがってるわけなんである。代々居眠り議員が継承され、いまの嘘つき答弁ができあがっている。巷のこの国の議会に、科学的思考があるのか? 古代ギリシア人がみたら、なんというだろうか?さて、シュタイナーによると、古代ギリシアのある哲学学会で、定義の本質を明確にするために、人間とは何か?を定義することになり、そして、その学会では、「人間とは、2つの足をもち、翼をもたぬ生き物である」と決まった。次の日、誰かが、翼をもぎ取られた雄鶏をもってきて、「あなたたちの定義によれば、これが人間ですよね」と言ったという。このような定義づけの、ギリシアの哲学的思考が、数学的思考につながり、現代の科学的思考による洗脳の時代となっているのが、現代人の、脳による脳への無責任発言による責任の不在、誤魔化しに現れている。人類が古から現代へと進化するのに際し、現代人に求められているのは、その脳への機械的な構造ではなく、精神的な中身にある良心なのである。人間という生命体に常に求められるのは、機械的構造をつくる遺伝子をもつ、細胞の核ではなく、精神的発展につながる自己の核となっている良心、愛なんである。キリストは人類全体の失楽に対する原罪を背負って、代わりに肉体で身をもって死んでくれたが、各個人の罪意識は残ったままで、各自の良心から、それを克服しなければならない。肉体の死が死ではなく、ただ人類の死であり、各個人の死ではないのである。つまり、各民族の、全体の集合的な死であるが、各個人の再生でもある。つまり、キリストは、各民族の死から、各個人の死へと、死を個人的なものにし、解放したのである。人智学的にいえば、キリストは、ルシファー的な民族の死から、偽の死から、個人の本当の死へと解放したのである。ルシファーは、民族のために、個人の死を厭わないが、キリストは、人類に、個人的な自我を与えに来たわけで、民族に囚われない生き方を、新しい自己を、モラルを与えに来て、実際に、個人的な自我を、人類にもたらした。しかし、いまだに、古き集団的な自我に生きるルシファー的洗脳のままに生きる現代人が数多くいる。自分は神なので、悪いことをするはずがないと考える自惚れ屋の自我である。そのような時代遅れの、彷徨えるユダヤ人といわれる自我の持ち主が、ルシファー的な、目覚めない、死んだままの自我なんである。人間を高度な知性体と考える脳の持ち主こそルシファーに洗脳された科学的思考の産物なんである。そのような脳が、軽い精神分裂、現代の統合失調症になり得るのは、自然の成り行きともいえるだろう。このように、ルシファーは、人間の脳を称賛するが、それは、地球がかつて月だったときの、人類の教師で、人類を指導していたからでもある。その教えの名残りが、古代アトランティス時代の残滓として、中国や、この国にも残っている。中華思想や、ツァーリズムである。ツァーリズムの語源は、かつて中東のイランの北東にあったツランという国からきているという。簡単にいえば、自己こそ全てという考え方である。中華思想 - Wikipediaツァーリズム - Wikipediaツラン人種 - Wikipediaツラニズム - Wikipediaこのブログでも何度も紹介している、ルシファー的存在は、地球がかつて月と一体で、月紀といわれたときの、人類で、そのとき、いまの人間は、まだいまの動物のような存在で、個人的意識をもたなかった。だからいまの地球紀でいえば、サルのような存在だったといえるかもしれない。月紀の人類、つまり、人間はルシファーで、今の地球人を指導していたわけで、地球人をよく知っているし、いまも人類を月から人間の心の感情や情緒を通じて支配しようとしている。だから、人間が、「自分がするはずがない、他のせいだ」と無責任に嘘をつくとき、それはルシファーの影響下にあるといえるだろう。だから、「文句があるなら、俺の脳に言ってくれ」と告発しているのは、ルシファーに憑依された人間の霊魂なんである。悪魔に罪の借金を肩代わりしてもらっているようなもので、死後に、その借金の返済を、霊魂として求められるわけなんである。キリストが、魂のゲヘナと呼んだものである。ゲヘナ - Wikipedia月紀に人類から天使に進化できなかった堕天使ルシファーたちが、月の領域に住み、いまも、地球の人類に悪へと誘導している。嘘つきなどは、このルシファーの影響下にある。ルシファーだけでなく、月紀の前の、太陽紀にも、次に進めずに堕天使になった存在が、アーリマンである。太陽紀には、いまの人間はまだ植物のような存在だったという。アーリマンは、ゾロアスター教のアヴェスタ語で、アンラマンユと呼ばれた悪の存在である。善の太陽神の、巨大なオーラという意味の、アフラマズダに敵対する存在である。ゾロアスター教は、その名の通り、ゾロアスターが説いた教えである。ちなみに、ゾロアスターは輝ける星という意味をもつのは、何度も紹介している。このアーリマンが、現代人の科学的思考をつくった存在なんである。このブログでも紹介したが、666年に、ゴンディシャブールに叡智の学院をつくり、アラビア科学を興した存在とシュタイナーは述べている。その目的は、人類から、輪廻転生の思考を奪う事である。この世だけ、物質界だけが全てだと思わせる、洗脳させるのが、この悪魔らの目的で、その末節が、人類奴隷化計画なんである。アーリマンは、人類に魅力的な3つの叡智を与えると、シュタイナーにより預言されている。そして、将来、アーリマンの一派の太陽悪魔ソラトが、人類に受肉するとも預言している。そのようなソラトが受肉した人間の自我は、自我を機械化し、アスラとなっていくといわれている。アスラとなっていく自我には、3つの叡智を科学的思考により獲得していくらしい。1つ目は、機械的な律動-リズム学を用いた計算機などによる遠隔操作などインターネットのIOT化、また現代のAIなどの人工生命知能による機械化支配。2つ目は遺伝的な医学で、DNAなどによる遺伝子医療などや、最近のiPS細胞など人工細胞による再生医療。3つ目は、ウイルスワクチンなどの予防医学や、遺伝子編集ベビーなど出産などの人工公衆衛生である。このように、ルシファーは自惚れた自己に、人類を導き、アーリマンは、更に、夢のある物質科学で、人間の自我を誘惑し、人類を地上に拘束し、科学的思考の恩恵のなかで、その奴隷とする。悪魔たちにより、眠ったままに生きるのかどうかは、本人の自己意識次第なんである。地上に長く生きる事が全てではないのを、悟るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 古太陽は、現在、外にある太陽とは違い、むしろ内的な空間の天体としてイメージしなければならない。その中心では、「土星」の出来事が繰り返され、つまり、ケルビムに自らを捧げるトローネの犠牲の愛を思いやる叡智霊が加わる。 現代風にイメージするなら、トローネの犠牲の火から煌めきが生じ、叡智霊がその犠牲を変えることで、その犠牲の物質的な表現は、犠牲が捧げられる間、空気の煙となって生じる。要約すると、次のようになる。 ・ ケルビムの前に跪き、犠牲を捧げるトローネ(土星の領域)。・ 「太陽」の中心で、トローネの犠牲を思いやり、祈りを捧げる叡智霊(キュリオテテス)の合唱。・ 叡智霊(キュリオテテス)の献身は、犠牲の煙のイメージとなり、周囲のあらゆる方向に広がり、外へと流れ出し、雲へと濃縮する。・ 大天使(アルヒアンゲロイ)が煙の雲から生じる。・ 「太陽」の円周からは、犠牲の煙が光の形で反射され、中心へと返される。・ 「太陽」の内部を照らし出す光。・ 叡智霊(キュリオテテス)の光が円周と、中心とでキャッチボールされることで、「太陽」の領域が創造される。 このように太陽の領域は、燃える熱と犠牲の煙という、外に向かって注ぎ出される愛の光から成り立っている。外の円周には光の創造者でもある大天使がいて、「太陽」上で、前に生じた光を後に反射している。時間を経由して、最終的に、犠牲の煙が光として差し戻される。 では一体、大天使は何をしたのか? 大天使たちは、時間のお蔭で、前に生じたものを受け取ったが、それは叡智霊(キュリオテテス)の光である。その光を受け取り、後に、中心へと反射して、戻したが、前には時間だった光を、後には空間にして返した。つまり、時間だった光を、空間として反射し、戻すことにより、大天使たちは、アルヒャイ(時間霊)から受け取った光を、時間から空間として返した。 このように、大天使たちは原初の天使たちとなる。というのも、前に存在した時間を、後の時代の空間へともたらしたからである。 だから、「大天使は、原初(アルヒャイ、時間霊)の御使いたちなのである!」 秘儀の知識から、このような「言葉」が再現され、そして、この「言葉」が、太古の伝統の中に生き、パウロの弟子であるディオニシウス・アレオパギータの学院を通して、現代まで伝えられた、のを考えてみるのは素晴らしいことである。 この言葉を、心に深く刻みつけると、イメージとは別に、この言葉が、原初として再現され、最初に生じた意味が、新しく再生される、のは素晴らしいことである。この言葉は、人智学徒を大いなる尊敬の念で満たす。人智学徒は、秘儀の叡智に参入するための、古い聖なる秘密の学院に、この言葉が結びついているように感じる。 この言葉から、太古の伝統が、人智学徒の中に流れ込んでいるが、それは、自身の責任により、その古い伝統とは別に、このような知識を獲得し、その理解により把握しているからである。
2024年02月22日
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放送大学にハマり、ブログ更新が週2回になるのをお許しくだされ。放送大学の講義をみていて思うのは、外国語、特に英語からの翻訳語が多いのか、そのまま横文字にしたものや、日本語の覚え難しさにある。特にホルモン名や薬名、専門技術用語などの読み方など、記憶力に乏しい脳をもつ拙者には、なかなか頭に入れるのが困難なんである。考えてみれば、漢字は中国の漢のもので、カタカナ横文字は西洋のもので、純粋に日本の古来のものといえる日本語は、ひらがなぐらいしかないのに気づかされる。コンピューターの語源のコンプトスがギリシア語の計算の意味からきていて、アルゴリズムが、算法という意味で、古代アラビアの数学者フワーリズミーからきているのを知って驚かされる。アルは冠詞で、アル-フワーリズミーの発音から、アルゴリズムとなるそうである。数学史を学ぶと非常に面白く、このような未知の面白さがあるから、放送大学にハマってしまうのだが。フワーリズミー - Wikipedia昔に勉強した経験のある学問ならば、懐かしさもあって、それほど苦痛ではないが、初めて知る専門用語などは、日常生活ではほとんど使わないものなので、似た言葉から連想して覚えるしかないが、結局、似た言葉で覚えてしまうので、似た言葉で記憶力が定着して、逆に障害になり、思い出せずに難儀となる。シュタイナーによれば、潜在意識においては全てが体験として記録されているが、そのうちのどれだけが覚醒意識で脳裏に印象として焼き付けられるかの、いわば写真の現像と同じで、その処理能力が、記憶力の優劣になる、というような話をしていたように思うのだが、この記憶も吾輩のものなので、定かではないのであしからず。いずれにしろ、潜在意識中では、日常の全人生が経験として、記録されているので、それを人智学ではエーテル体と呼んでいるのだが、それは死後に肉体から離れるときに、走馬灯のように人生を遡って追体験するわけで、記憶上、つまり覚醒意識で失われていても、経験としては失われていないので、覚醒意識では、何も覚えていなくても、人生経験をする意味は充分にある、といえる。現代では記憶力が良い人が頭が良いとされるが、それはつまり、写真の現像処理が素早く、常に覚醒意識でもって、写真として取り出せることで、その能力は、覚醒意識の優劣に帰される、といえるだろう。人智学的にいえば、肉体の感覚と、エーテル体との連携がスムーズで一致しているといえる。この覚醒意識の能力には、数学や音楽の才能も関わっているようで、知り合いに聞いた話だが、東大生のなかには、見ただけで瞬時に記憶してしまう優れ者がいて、大学入試や非公開試験の問題作成に重宝されるらしいが、将棋の藤井聡太八冠もそのような存在なのかもしれない。脳科学では、右脳の空間把握力を使っているという説もあるが、前回紹介したように、人体の右側は、エーテル体が優位の側面なんで、物質的な言語分類感覚よりも、非物質的なイメージの感覚を、イメージの霊感を活用したほうが良いわけなんである。古代アトランティス人は、現代人のような物質体の肉体をもたずに、エーテル体が最下位で、いわば肉体だったので、そのまま記憶力が生かされ、現代人とは比較にならないぐらいの記憶力に優れていたが、覚醒意識ではなく、潜在意識だったので、太陽光の昼は眠っていて、夜に月光から活動したのを以前紹介した。そのときの物質体は、現代の寝袋だったわけである。だから、古代エジプト人は、霊魂を肉体に戻すために、寝袋としての、ミイラをつくったのである。だから、記憶力を優れたものにするには、エーテル体と物質体を密接にし、連動をよくすることなのだが、どんな物質的な元素でもいずれ崩壊し、放射線を発するのでわかるように、物質体は崩壊に向かう自然の法則に従っているわけで、崩壊を再構築する生命力のエーテル体が、地上の生活とともに、物欲の高まりに、処理しきれなくなり、その再生力を失い、物質界から離れていくわけで、つまり、物質界に固執すればするほど、物質的に安定を求めるほど、不安定になり、崩壊していくわけで、例えるならば、美味しいものを食べた分だけ、その美味しい食べ物を失うわけで、欲望を求めるほど、現実は安定どころか、一方通行になり、崩壊に向かっていくわけなんである。人間は物質を破壊させながら生きている。世のなかの、物質界には、押してみてだめなら、引いてみな、という諺があるが、生命力と物質の関係をよく表している。これは陰陽の関係の経験則ともいえ、男女間も、相手に求めるだけではいずれ別れてしまうので、ある程度求めたら、今度は逆に(考える時間などを)与える事の重要性を説いている。求めすぎるとかえって崩壊に向かう。男女間の関係崩壊も、陰陽の違いを考慮せずに、自然の物質的関係を求めすぎるからといえるだろう。男女は陰と陽だからこそ引き合うわけで、同じ陽と同じ陰なら、プラスとプラス、マイナスとマイナスで、物質的には、かえって反発するのが自然の法則なんである。「押してダメなら引いてみろ」で男心を掴むには? 成功パターンを解説! | Oggi.jp陰と陽の、マイナスとプラスが引き付け合うのは、現代科学でも周知の事実で、男女間も同じで、例えば、自分にないものを相手に求めて、結婚がはじまるわけだが、長続きしないのは、日々同じ生活空間を共にすると、相手を自分と同じようにしようとする欲望が生じてしまうからである。自分に無いものを求めて結びついたのが、物質的生活を共用するうちに、自分と同じにしようとする矛盾に気づいていないわけである。だから、昔は、男と女で物質的生活の役割分担を明確にし、価値観の違いによる、縄張り争いを避けたのだが、物質的価値観に染まるうちに、男女の違いも不明確になってきて、どちらがやるのか云々となり、喧嘩となってくるわけである。そして、離婚の原因が、価値観の不一致となるわけである。自分にない価値観に惹かれてくっついたのに、価値観を一致させようとすれば、分かれるのは必然の自然の法則といえるだろう。宇宙全体は多様性の方向に進んでいるわけで、だからこそ、自分に無い価値観に惹かれ、くっつくわけなんで、それを永久に固定しようとし、物質的にも、異なる価値観を一致させようとすれば、互いが標榜する価値観の土台となっている、自己を相手に奪われる恐れが生じ、論争、闘争、戦争になるしかない。特に精神的には女性が優位なので、この価値観の一致を相手に強いる傾向にある。男性は、物質界において安定を求める傾向にあり、物質的に自己を満足しようとするので、精神的に安定を求める女性とは、真逆で水と油の違いともいえる。つまり、重要なのは、互いの価値観を認め合うことで、価値観の一致ではなく、それは宇宙が多様に進んでいるので、困難なんである。相手の異なる価値観をどこまで認めあえるかの許容範囲、つまり、相手への理解力といえるだろう。更に、結婚は、異なる価値観の上に、子育てという、また新たに、この世にはない未知の子どもの誕生から、男女相互の現実的な価値観の違いを浮きだたせ、未来についての新しい価値観を共有する必然性をもった存在が加わる出来事が生じるわけで、だから、結婚は、逆説的にいえば、異なる価値観をどれだけ認め合えるか、愛の試練が日々努力によって試される愛の道場といえるだろう。記憶力から、結婚の話となってしまったが、結婚は判断力の欠如、離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如と誰が言ったかわからねど、有名な文言で、価値観が異なる相手と惹かれ合い結びつくのは、確かに判断力の欠如といえ、相手に自分の価値観を押し付けるのは、忍耐力の欠如といえ、価値観の不一致で別れたのにまた結びつくのは、記憶力の欠如といえるかもしれない。異なる価値観を認めない独善的な人は結婚には不向きかもしれないが、そのような人が結婚してしまうのは、記憶力と判断力の欠如にあり、それは、人智学的にいえば、エーテル体と物質体との関係もアンバランスで、それを統合し、バランスさせるアストラル体、つまり情緒が不安定といえるわけで、心の病気といえば、病気なのだろう。しかし、結婚して子どもが産まれなければ、民族が絶えてしまうのは、自然の摂理なので、より多様な他民族国家に向かうように、移民を認めるような寛容性をもてればいいが、いまだに巷には老害が盛り沢山の令和で、老害の女性への蔑視の子を産む道具発言などが度々かまされる、のをみれば、結婚欲という物欲の奴隷がゾンビのように繁殖するだけなのかもしれない。いずれにしろ、老害が蔓延る社会で、異なる価値観を認めあえない家庭に育った子どもは孤立を深めるしかない。だから、偽物の愛である欲望には、注意しないといけない。愛は求めるものではなく、与えるものであると、キリストも語っている。なにより、巷の政治家をみれば、国民への愛が皆無で、金銭欲や名誉欲、物欲に旺盛で、それらは死んだら皆無になるのに、国家を滅ぼす、馬鹿で愚かな輩が増殖中なのが明らかなんである。さて、恋多き大人といえば、先日、映画「男はつらいよ」の寅さんに憧れた外国人をTVで紹介していた。その外国人が挙げていた、寅さんの名言といえば、妹の子どもに、失恋で意気消沈した際に、「おじさん、人間はなんのために生きてるのかな」と聞かれ、「なんだ難しいこと聞くなぁ、なんていうかなぁ、あぁ、生まれてきてよかったなぁ、と思うときが何遍かあるじゃない。そのために、人間は生きてるんじゃないのか」と応えるセリフが人生の機微を表わしていて象徴的である。男はつらいよ - Wikipedia男はつらいよが、本当は、恋はつらいよ、ならぬ、人生はつらいよ、人間はつらいよ、を意味していて、つらいなかにも、ほっとする安堵の瞬間や、ひとときの幸福感、躍動する恍惚感というか、何度も死にたい思いをしながら、あぁ、生きていて良かったなぁ、と言える瞬間を求めて、人間は生きていると、寅さんは語っているようでもある。自分の想いは届かないのに、現実にはあり得ないのに、寅さんは、辛い茨の道とわかっているのに、恋する主人公なんである。非現実な恋愛病である。考えてみれば、人間誰しも恋愛病に罹っている。叶わぬ夢をもとめて、名誉欲や承認欲、物欲などは、恋愛病の亜種とも考えられる。飲酒や喫煙が体に悪いとわかっていても、やめられない人も沢山いる。一度身についた習慣は、失恋という現実を知らされるまでは、なかなかかえられない。病気やガンに罹ってから、飲酒や煙草の害をリアルに知る。寅さんの場合は、たとえ成就したとしても、渡り鳥のような渡世の生活では、世間的な常識に叶うリアルの価値観を埋めるのは非常に困難である。渡り鳥をやめるわけにはいかない。寅さんという人物は映画の世界だから存在するわけで、現実の世界では、マドンナは現れず、現れても、価値観があまりに違いすぎて、惹かれ合う領域にも到達しないだろう。非現実な演劇の世界である。しかし、そのような全く異なる水と油の価値観でも、一瞬のひとときなら、認め合えるリアルがある。どんなに地獄の世界に暮らしていても、ある瞬間のひとときには、天国が垣間見れる。地獄のなかに咲く花がある。それが叡智なんである。あらゆる多様性を認め合える叡智がある。あぁ、生まれてきて良かったなぁ、生きていて良かったなぁ、というセリフから、自分の価値観が、他の異なる価値観とつながり、根底では一致し、同じだったんだと、叡智により教えられるときがある。いまは自分として生まれているが、遥かに昔は、他の自分だったんだと、前世では、全く逆の価値観で生きていたんだ、と潜在意識の感覚で悟ったときである。この経験を得るために、自分は生まれてきたのか?と叡智から知らされ、わかったとき、人間は現世を超え、昇天する。まさに天国にいる心地になる。いまの他人は、実は昔の自分だったんだと。エリ、エリ、ラエマ、サバクタニキリストは、人間の死を知るために、生まれてきた。あぁ、生まれてきて良かったなぁ。人間になってみてわかったよ。人間を宇宙からみていたらわからなかったよ。人間から宇宙をみて全てがつながったと。潜在意識に眠っていた記憶が蘇り、キリストのように復活し、昇天する。この経験をするために、自分は生まれてきたのか、とわかり昇天する。そのひとときの天国を求めて、地獄の世の中に、人生はつらいよで、寅さんは生きる、のである。なにやら、寅さんが、昭和のキリストのようにみえてきた。♪今日も涙の日がおちる。日がぁ~落ちぃる。渥美清 男はつらいよ 歌詞 - 歌ネット (uta-net.com)フーテンの寅さんのなかに、キリストを読み解くために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ いまの地球を、現在の物質的な存在だけでなく、過去の時代に生じた事象が再び、現在のなかへと流れ込み、繰り返されるもの、と想像してみる。人智学徒は実際、このような歴史の繰り返しが起こるのを熟知している。現代人が生きているのは、ポストアトランティス時代の第5期のアーリア文化期だが、第3期の、古エジプト-カルディア時代に起きた出来事が、現代にまで流れ込み、また違った形で、再現される。 第3期の時代に生じた事象が再現し、繰り返される。これは古「太陽」紀に生じた、愛を与えることと、愛を受け取ることの再現でもある。このように想像すれば、叡智霊を、古「太陽」紀における、愛の授与者、そして、大天使を、愛の受容者と見なせ、宇宙進化の歴史を読み解ける。この解釈から特筆すべきイメージが生じるが、それを正確に思い描くには、与えられる愛が、中心から放射してくるような、内的に閉じた円の天体を想像できる。 その球は、中心点から周辺へと愛を放射し、そして、円の側面に達すると逆に、反射され、中心点へと戻っていく天体である。大天使たちは、自分たちが受け取った愛を、その天体の球面の内側から再び反射し、中心に返している。その円の面の外側には、何もない。 中心から外に向かって動くのを想像すればよく、それは、叡智霊からやってくる。それはあらゆる方向へと放射され、それを反射し、返す大天使たちによって受け取られる。では、空間中へと反射し、返される愛とは何なのか? 大天使により、再び、叡智霊へと返される、この愛への返礼品とは何なのか? 再び、中心の源泉へと向けられ、叡智霊へと返され、放射される愛への応えとは何なのか? それは「光」である。大天使たちは光の創造者でもある。光とは外(界)的な幻想の中に現れるものではない。光が生じる処では、叡智霊による愛が、人間に向けて大天使により変換されている。光がある場に、いるのは、大天使たちである。 だから、溢れる光線の内部には大天使たちが隠れている、と言える。人間の元に来る、溢れる光線の背後には大天使たちが隠れている。光を流出する大天使たちの能力は、叡智霊たちが、大天使に向けて放射する、「与える愛」という徳から生じる。 このように読み解けば、古「太陽」のイメージに到達できる。その中心では、叡智霊たちが、古「土星」から受け継がれてきた遺産(トローネによるケルビムへの犠牲行為)を思い浮かべ、その叡智を秘めているのが想像できる。この犠牲行為を思いやることで、叡智霊たちは、自身の本性(与えるという徳の、愛の形を取った流れる叡智)を放射するように、解き放たれ、促される。 この徳は、時間のなかに保存されているために、送り出された後、再び反射されるが、そのため、イメージすれば、中心の源泉へと反射し、返される徳の、愛の光によって、内部が照らし出された天体である。というのも、古「太陽」は、現在の太陽のように、外からではなく、内に向かって輝く天体だからである。そして、この内への光の照射により、何か新しいことが生じるが、それを次のように読み解ける。 叡智霊が「太陽」の中心で、犠牲を捧げるトローネを思いやり、犠牲の愛に満ちる自分という存在を、その遥かな周囲へと放射する。そして、叡智霊が放射した愛は、その天体の表面から、大天使たちに、光の形に変えられて戻ってきて、再び、叡智霊により受け取られる。その愛と光の繰り返しにより、あらゆる存在が益々愛の光で照らし出されるようになるが、光として反射され、返される愛から、受け取れる、その光の、愛の、内実とは何なのか? 大宇宙への贈り物として捧げられた愛とは、自我自身の存在、愛で一つとなる、その根底にある無償の愛へと犠牲になる存在である。いま、その無償の愛が、光により反射され戻ってくる。無償の愛の存在が、外から、その本性をなす叡智霊へと戻ってくる。叡智霊たちは、大宇宙全体にばら撒かれた自我の内的存在である無償の、犠牲の愛の行為が、光として、つまり、自我の存在の反映として、反射され、戻ってくるのを見る。 いま、太陽という天体で、内と外とが2つの極として、人間の前に解き明かされ、立ち現れる。前と後とで、自らを無償の愛により還元し、変容し、内と外とになり、そして、愛のキャッチボールをする、空間が生まれる! 叡智霊により与えられた、犠牲の愛への思いやり、というまた別の愛の徳への返礼の光から、古「太陽」上では、空間が生じた。それ以前には、空間とは、なんら存在し得ない、無のシンボルのようなものだった。しかし、古「太陽」上には、実際に、光により空間が生じたとはいえ、それは現代の数学でいえば、2次元的な円のような形に過ぎず、上下も、左右もなく、ただ内と外があるだけだった。実際、これら2つの極は、古「土星」紀の終わりには既に現れていたが、古「太陽」上での空間の創造のために、その土星での出来事が、太陽紀に、叡智霊たちにより繰り返された。 そして、もし、これらの出来事全てを、現代風に、想像し直すなら(土星紀に、犠牲を捧げるトローネが時間霊を生じさせたように)、現在の、光からなる太陽のような、球の天体を思い描いてはならない。というのも、当時の光はまだ外に向かって放射するようなものではなく、内に向かって放たれる反射のみ可能な、2次元の円として存在していたからである。
2024年02月20日
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前回、四季と祭典の関係を、太陽と地球との呼吸から紹介したが、記憶違いで、聖ミカエル祭を夏至の祭りと紹介していたが、聖ヨハネ祭が夏至で、聖ミカエル祭は秋分祭であったので、改めて紹介する。だから、改めてまとめると、冬至のクリスマス祭、春分の復活祭、夏至の聖ヨハネ祭、秋分の聖ミカエル祭となり、改めて、太陽と地球の呼吸に譬えると、冬至は、太陽による地球への受精であり、太陽霊キリストが地球に降霊し、3年間にわたって、宇宙のカルマなどの教えを説いて、12人の弟子たちと最後の晩餐から、十字架刑で、人類の罪を背負ったキリストの受難の生涯を象徴するのがクリスマス祭で、人間の呼吸でいえば、空気を吸い込む吸気にあたる。聖ヨハネの日 - Wikipedia夜長の季節を迎える頃に行われる豊穣の祝祭・ミカエル祭(ミカエルマス)とは?(季節・暮らしの話題 2016年09月14日) - 日本気象協会 tenki.jpキリストは、十字架刑にかかった際に、エリ、エリ、ラエマ、サバクタニ(太陽霊よ、地球霊よ、この死を知るために、私は地球に降臨した)と言ったとされ、人間の肉体の死を知って、肉体から解放され、復活し、地球霊となって、弟子たちを拠り所として、あの世のエーテル界から人類を指導する活動を象徴するのが、春分の復活祭で、太陽と地球の呼吸に譬えると、太陽霊を身籠った地球が、太陽と一体だった昔の生命体であった地球が、再び太陽霊となって再生し、復活し、活力を取り戻す祭典を意味し、人間の呼吸でいえば、息を吐き始める息吹にあたる。太陽霊キリストの息吹により、人類の自由、平等、博愛の精神が、地球という生命体を蘇らせ、再生復活させ、太陽へと向かっていくにつれ、多様化した最大の分岐点へと到達すると、生い茂った樹木の反対に影が深まるように、地球に闇が生まれてきて、次第に行き詰まり、生命力を失っていくので、再び、太陽からの受精が必要となり、その準備の、地球を洗礼する、聖ヨハネを必要とするので、精神的な知識から、夏至に聖ヨハネ祭が執り行われるようになった。聖ヨハネ祭は、人間の呼吸でいえば、呼気にあたる。地球が聖ヨハネにより浄化された後、太陽を再び地球へと導くために、天使長の聖ミカエルが、キリストを支援し、地球の闇や穢れ、悪を裁くためにやってくるのが、聖ミカエルの龍退治で、収穫祭でもある、聖ミカエル祭である。人間の呼吸でいえば、吸い始めにあたる。収穫祭といえば、聖書のカインとアベルを思い出す。カインとアベルの話は、このブログでも何度も紹介しているが、一般的に、神に、カインは農作物を捧げ、アベルは羊の初子を捧げたと解釈されているが、カインは土を耕す者で、アベルは羊を飼う者と聖書には記述されている。カインという名がヘブライ語の鍛冶屋を意味するように、土とは、現代の意味の土だけを意味しない。だから、カインは農夫ではなく、収穫物も農作物ではなく、現代風にいえば、唯物論者のことである。カインとアベル - Wikipedia現代の聖書も唯物論で解釈されているから、誤解を生んでしまうのである。この記述が意味するのは、聖書は唯物論で解釈すれば誤解を生んで、兄弟で喧嘩し、論争、闘争、戦争して、カインのように、アベルを殺して、その死さえもわからないくらいバカになるよ、と警告しているのである。アベルは、ヘブライ語では、霊や生命、息を意味するので、唯物論者のカインが、霊や生命、息であるアベルを殺すのは、必然の出来事となるのである。カインは、神に物質的な収穫物を捧げるが、神は、十戒で、偶像崇拝を禁じているので、物質的なものは受け取れないし、それらは生命からみれば、死や崩壊の象徴である。神は人間でないので、人間の死がわからない。だから、アベルはどこにいったのか?とカインに聞く。アベルは、生命を意味し、羊を飼う者とあるように、生命体を育てる者なので、現代風に言うなら、精神論者で、殉教者と解せる。だから収穫物の、肥えた子羊とは、モラルに富んだ精神的な知識で、つまり神の教えを忠実に守った、という意味に解せる。アベルは神と一体になっているので、神にも、アベルとの違いがわからなかったわけである。つまり、アベルは、殉教して、神の息となったのである。アベルを殺したカインの子孫が天国に行く事なく、物質界を永遠と輪廻転生し、地獄の修行を続けるのを、象徴化したのが、キリストを無視した彷徨えるユダヤ人である。だから、カインとアベルの出来事から、聖ミカエル祭の秋分の収穫祭の意味がわかるだろう。秋に精神的な実りをもたらすのか、物質的な実りをもたらすのかは、人間の自由だが、天使長ミカエルが、神に成り代わって、そのヒトがもたらした収穫物をみて、天国に行けるのか、地獄に堕ちるのか、を裁判するのが、秋分の祭典で、聖ミカエル祭といえるだろう。美しい紅葉の季節と言われる所以である。聖ミカエル祭とはどのようなお祭りか? | Shaddyのギフトマナー辞典聖ミカエル祭は、人間の呼吸でいえば、吸い始めなんで、どんな大気を吸うか、新鮮な空気を吸うか、澱んで濁った空気を吸うかで、生命の生死が問われる。つまり、当人の価値観や生き方、生活環境が問われる。シュタイナーは、ミカエルが天使長の座は、2400年(予定で、前後するらしい)までで、その座を退くと、次は、オリフィエルになると預言している。オリフィエルは怒りの大天使と呼ばれ、人類を強引に浄化させる時代(時間)霊であるという。だから、いまはまだ聖ミカエル祭だが、いずれ聖オリフィエル祭となり、人類を善人と悪人へと強引に分けていくだろうし、ヨハネの黙示録でも預言されている。このように、人智学の精神的な知識から、人間の呼吸と、太陽と地球の呼吸を解き明かすと、四季と祭典の意味が、人生を通して、感じ、理解できてくるだろう。我々人間は、祭日を通じて、天使たちにより生かされているともいえる。霊的な知識なくしては、生きられないわけで、モラルは生命の柱なんである。人間の自我には、生命のモラルの柱が秘されている。だから、モラルなくしては自由に生きられない。モラルは、宇宙を1つにまとめ、1に向かわせる神の生き写しである。モラルを呼吸することで、人間は生きられる。モラルを失うと、人間はゲヘナとなる。巷の裏金議員などは、ゲヘナの輩と呼ぶべきだろう。永遠のユダヤ人ならぬ、永遠の上級国民日本人である。滅びゆく国に生まれ、寄生して一緒に滅んでいく寄生ウイルスといえるかもしれない。永遠のウイルスというべきだろう。ゲヘナ - Wikipedia巷の、この国のほとんどの人間が愚かにも、物質科学で解明されず、バレなければ、何をしてもよく、モラルハザードがないと思い込んでいる。しかし、罪は犯したときに既に加害者に皮膚のようにつきまとい、死んでも拭えないものなんである。人間には天国から授かった良心があり、良心が、それを糾弾しているからで、それを恥じているからである。良心を閉ざし、失うほど、天国から遠ざかり、ゲヘナの地獄へと堕ちていく。良心を生かすも殺すも、本人次第なんである。呼吸と人間の感覚については、以下のような面白い研究もあるので、紹介する。 ☆ ☆ ☆呼吸位相が外界事象の知覚・認知に及ぼす効果_pdf (jst.go.jp) ☆ ☆ ☆さて、いかに物質科学が発展しようとも、人間の良心を解き明かすことが不可能なのは、良心は不可視で、宇宙を1つにまとめている働きの全体だからである。部分から全体を見渡すことはできない。全体から部分を見積もるのが、算出で、古代ギリシアのアリストテレスの運動論から、古代アラビアの算法により、古代数学として発展してきたが、それは宇宙から1つにまとめる能力を、自我として人間に与えられてきたからである。人間は睡眠中に、この1なる力を、全体に帰する働きを、天使長などから与えられているわけなんである。キリストは、この1なる力のリズムの象徴である。地球は太陽との呼吸から1なる四季を生み出し、人間は呼吸から、この1なる四季を感じ、それに合わせて、太陽から授かった1なる自我と、外の地球の1なる四季を、人体により、1なる力で統合する。大学を英語ではユニバーシティと呼ぶが、このユニバーシティは、ラテン語で、1つに向かって、という意味をもっている。つまり、1なる力を解き明かすのが大学で、この1なる力の源泉が、愛なんである。だから1は多であり、無限で、無限は1なんである。物質では、1は無にはならずに、多でもない。物質は、精神の1部でしかないからである。さて、愛もそうだが、物質からは解き明かせない、精神の働きを示す、わかりやすい例がある。それは左と右の違いである。物質から、なぜ左右があるのか、が解き明かせない。先日、NHKのヒューマニエンスという興味深い番組で、左右をテーマにやっていたが、物質科学では解き明かせないのが明らかだった。ヒューマニエンス - Wikipediaそこでヒントというか、人智学的波動学では明らかになっている左右の違いを紹介する。それは、左は地球の力を受けるためで、右は太陽や宇宙の力を受けるためにあるという。脳の言語処理が、左脳に多いのは、地球の力の、つまり物質界の力を受けるためにある。だから、右脳で言語処理をやろうとすれば、物質界の力が受けにくくなるわけである。面白いのは、NHKのその番組では、スポーツ選手が、左利きになりやすくなっているという話である。シュタイナーは、スポーツは、地球環境の、つまり重力を受けるのに、適した人体をつくりやすくするので、逆に精神的活動には妨害となると言っている。勿論、精神をリラックスさせるための余暇的な遊びのスポーツを問題とはしていない。しかし、精神的な修行には不要と述べている。ヨガについては、ヨガは視覚を内に向けるための、潜在意識の覚醒化という精神的鍛練で、あくまで人体の運動は付随的なものらしい。運動は物質体、つまり肉体を鍛えるためで、筋肉を鍛えるためなんで、人智学のエーテル体とは無関係と述べている。そして、エーテル体は、円の回転運動をする傾向をもつと、シュタイナーは述べている。だから、人間の回転運動は、エーテル体の指向によるという。エーテル体は常に回転運動をしたがるが、地球の重力を受けるには、肉体を安定させなければいけないので、人体の左側が回転運動を抑制し、安定させるために、肉体の左側がその運動に負荷をかけるために、特にスポーツ選手は、左側が強くなる傾向を帯びるので、左利き有利になりやすいわけなんである。だから、逆に、人間の右側が、エーテル体の力に従いやすいので、つまり地球から離れやすく軽くなるので、運動は右足から始めやすいわけなんである。人体の右側は大地から離れやすく、負荷が軽いので、右足から踏み出すほうが運動しやすいわけなんである。行動をしやすいのは、右足で、行動を続け、安定させるには左足という役割分担が、天と地の真逆の力から、自然になされるわけなんである。古代人は、この左右の役割分担を知っていたのか、行動をはじめるには、右からという慣習が残っていて、右利きが多いというわけなんだろう。左右の非対称については、物質科学でも、カイラル(キラル)鏡像対称性として、一部の素粒子など、例えば、ニュートリノが左巻きしか観測されていないので、研究テーマとなっているが、物質界が地球に属していることから、物質性を示すフェルミオンが、左利き優先なのが、このことからもわかるわけなんである。ニュートリノ - Wikipediaニュートリノなどの特性から、DNAの右巻き螺旋構造を通じて、生物の左右非対称性を説明しようとする研究論文も、以下のような話から、でてくるかもしれないが、いずれにしろ、人智学的知識が不可欠では、困難なものに思われる。【KEKエッセイ #26】タンパク質の対称性の破れは宇宙起源? | ニュースルーム | KEKまた、左右については、左翼、右翼というような、政治的に、革新派、もしくは保守派を表わすのに用いられる言葉も、シュタイナーによれば、実は神学の、天使論に由来しているのさえ、知らずに、この国の巷の似非政治評論家らが論争するのをみて、サル山のサルと変わらないのに呆れ果ててしまうわけなんである。天使の右翼と左翼は、神による反逆の命令に沿った、運動霊の力天使の区別から生まれたわけで、それによれば、宇宙や太陽系から、地球を独立させようとする、つまり神から離れるのが左翼で、神に帰属し、独立を阻むのが右翼となるわけで、巷の政治といえば、物質界のなかの左翼のなかの左翼で争っているわけで、あくまで天に帰属する右翼からすれば、同じ穴の貉なわけなんである。反逆命令をうけた力天使も神に従ったわけで、左翼の振りをしているだけで、本質は右翼なわけで、隠れ右翼なので、左翼も右翼も、外見だけの、物質に囚われた見方にすぎないので、この左右分割の捉え方そのものが無意味なんである。無駄な議論を聞かされる気持ちを少しでも思いやれば、左も右もなく、生命の役割分担にすぎないのがわかるはずなんである。人体には左右の両方があってはじめて意味がある。それは、全て善導するためで、多を救い、一となすことにすぎない。多は一で、一は多であるのを、左右の統一を目指すには、精神的な知識が不可欠なので、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 超感覚的な視覚をもてば、空気のなかに、古「太陽」上の顕著な出来事が現れてくる。太陽紀を理解するには、与え施す、という徳についての正確な考えを、日常生活の経験のなかで想像できなければならない。また、その前の、土星紀に記述したような、供儀を知覚し、そのイメージを浸透させた際に現れる感情を、再度、思い浮かべる必要がある。 霊的な思考を浸透させると、特別な感情が引き起こされる。この感情は科学的思考には生じないが、非常によく似た経験を挙げるなら、芸術分野で見つけられる。というのも、芸術分野では、精神的に単独な存在を表出するのに、色や形などを駆使する技法の習得を必要とするからである。 与え施す能力をもつ精神的な存在を特徴づけるなら、それはまさに、愛の創造的活動、といえるだろう。というのも、与える行為そのものが、愛の創造的活動だからである。この愛の創造性が、物質界に癒しをもたらすのを感じ、そして、それを芸術作品の形で提示するなら、与え施す徳がもたらす果実を正しく理解できる。 この芸術家の心の中にある創造的思考について、その思考が物質の中にどのように顕現するか、を想像してみれば、この思考こそが、空気のなかの真の精神的存在だとわかる。空気がある処には、創造的な活動がある。そして、この生きた創造行為がかつて「太陽」上にあったから、いまも、空気と創造的活動とが関係している事実を見て取れる。 また、時間霊が、古「土星」上ではじめて誕生したのがわかれば、「太陽」上にも時間があり、時間により「土星」から「太陽」へと進んだのがわかる。「太陽」上にも時間があり、「与える」行為が原型のままで行使されたことで、古「土星」上にはなかったものが、古「太陽」上で起こった。 もし、時間がなければ、「与える」行為はどうなっていただろうか? 「与える」行為は、受け手がいてはじめて成立するので、あり得なかったことになる。受け手がいないと、与えることもできない。 「与える」のは、受け取ってはじめてなりたつ。でなければ、「与える」目的もなくなってしまう。「太陽」上では、「与える」は、受け取り、に対して、特別な関係にあった。「太陽」上には既に時間があったので、古「太陽」の周囲へと送り出された愛は時間のなかに保存された。 叡智霊たちが、愛を注ぎ出し、愛は時間の中に保存された。だから、それを受け取る存在が必要となる。叡智霊たちの与える活動との関係が、時間の流れのなかで、後の地点において、受け取る行為につながる。叡智霊たちが、与えるのは、時間においては、前の瞬間であり、その「与える」に対して「受け取る」のが後の瞬間で、必然的に、前後の時間のなかで結びつく。 この正確な像を得るには、再度、自分の魂のなかで経験しなければならない。精神的な存在を理解するには、それらの創造的な思考に与るには、大変な努力を払うのが想像できる。 多様なイメージの創造を考える。次の日、前の日に、思考の中で創造したあらゆるものを、再び心の中に呼び起こすために、心の中を空にする。このように、昨日、想像した多様なイメージを、今日受け取る。古「太陽」上も同じである。つまり、前の瞬間に、与えられた愛は保存され、後の瞬間になって受け取られる。しかし、「受け取る」とは、どのような意味があるのか? 土星紀での供犠がそのまま、太陽紀の「与える」ものとなり、「受け取る」のもまた古「太陽」上での行いで、出来事だった。「受け取る」のと「与える」の違いは、時間的な意味だけである。受け取りが生じるのは後になってからである。「与える」のは叡智霊だが、では、どの存在が受け取るのか? 受け取るには、そのような存在がいなければならない。「土星」上でのトローネによるケルビムへの犠牲から、時間霊が生まれたのと同様に、「太陽」上での叡智霊による愛の授与により、大天使、もしくはアルヒアンゲロイと呼ばれる霊たちが生じた。 大天使とは古「太陽」上で、受け取る存在たちである。けれども、特別な方法で受け取る。というのも、大天使たちは、叡智霊から受け取る愛を、自分たちのために保持せずに、鏡が、受け取った像を反射するように、受け取った愛を投げ返す。 このように、「太陽」上の大天使たちは、前に与えられた愛を、受け取る、使命をもち、そのため、大天使によって、保持された愛は、時間の後に再び投げ返される。だから、「太陽」上には、与える、という前の行為と、受け取る、という後の行為が時間を経て存在するが、その受け取りは、前に与えられた愛を、後で投げ返す行為なのである。
2024年02月15日
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現代人が古代人と比べて、どんどん馬鹿になっているのは、物質的な知識は豊富だが、人間の中身の、感情や気持ちを汲み取れない人間が増え、論争から闘争、そして紛争や戦争へと陥ってしまうことでわかる。巷をみれば詐欺師がウロチョロ徘徊し、物欲を互いに深めあっている。自分が他の人より優れている、という自惚れ屋さんがゾンビのように徘徊し、その思い込みや承認欲求が、物質的な知識を身に纏い、論争から闘争、そして紛争や戦争へと陥ってしまうのが、現代人の過ちの特徴といえるかもしれない。冷静に考えてみれば、自分が優れているかどうかは他の人により評価されることで成り立つのだから、お互いの意思疎通が図れ、互いの内面がわかりあえて初めて可能になるので、外見的な物質的知識よりも、内面的な精神的知識が重要なのがわかるはずなんである。外見よりも中身が重要なのに、現代人は外見ばかりに拘って生きている。巷の裏金議員は、外面ばかりを取り繕い、死後に、地獄に堕ちるのに思いも至らない。精神的な知識とは、端的にいえば、生命的な多様性であり、不可視のリズムである。あえて外見的に表現するのなら、律動や波動現象のことを指す。動物は四季に応じて、体毛を変えるなどである。この国では季節感、俳句では、季語で表現し、一般的に、空気を読む、などで表現し、心の大切さを強調する文化を継承しているが、昨今は、心よりも体裁に拘るので、西洋化された日本の、西洋風にいえば、TPOを考えるなどといえるかもしれないが、要するに、気持ちの問題で、多様な心を経験するのに意味がある。多様な社会には多様な立場や役割があり、それらに伴う責任と気持ちを、精神的に読み取るのが生きる目的でもある。多様な心を身をもって経験しないと、精神的な知識は獲得できないわけで、それには多様な人生を経験しないといけないために、輪廻転生があるといえるだろう。近代から、ルシファー化されたキリスト教などの、唯物論の教育により、相手の気持ちを読み取る教育が無視されてきたから、人間関係のトラブルが生まれてきたといえるかもしれない。そもそも霊感とは、相手の気持ちを読み取る感覚のことで、相手の生命的な使命=運命を見抜く事である。しかし、唯物論に洗脳されている現代人は、外見の物質的な知識からヒトの中身まで判断しがちで、そのために、身近なペット動物よりも、ヒトの内面の精神性を度外視しがちで、巷の老害政治家のような、時代遅れの、ルッキズムでの、おばさん発言が出てしまうわけで、言葉を発する本人は褒めようとしているのかもしれないが、精神的な知識がお粗末なので、かえって貶めてしまうわけなんである。現代人は愚かなので、自分が信じるものに欺かれるのに気づいていない。外見に囚われると外見に欺かれるのである。物質に囚われると、物質は流転しいずれ消滅し、自分も一緒に消えてしまい、死を無と捉えてしまう。肉体を失っても、精神は失われないので、キリストは神の精神を信じなさいと言ったわけで、神の精神は、永遠であり、与え救済する精神なんである。精神とは、神へと精進するものと漢字で書けるのは面白い。【やめたい】ルッキズムとは?意味やなぜ社会問題なのかを解説 (gooddo.jp)動物は、ヒトの感情となっているアストラル体をみていると、シュタイナーは述べている。養蜂されている、蜜蜂は、養蜂家の感情をみて生きるペットとなり、養蜂家の世話に環境的に依存してしまうので、養蜂家が死んでしまうと、野生に還れずに、ペットとして全滅してしまうという。現代人も集団で生きる場合は、動物のペットのように、サル山のサルのように生きることもできるが、それだけではサルに退化してしまい、進歩がない。現代人は、動物よりも、ヒトの心を読み取れずに、自分本位で生きれるようになった反面、動物が野生を忘れて、病気になるのと同じで、自己本位なリズムにより、宇宙サイクルのリズムから離れ、自由になった反面、自己を成している一定のリズムから逸脱し、自己がなんだかわからなくなり、自己分裂を起こして、あらゆる自己免疫疾患に罹りやすくなった、ともいえるかもしれない。自己とは一として、一にまとめているリズムで、唯一性の道徳なんである。この唯一なるリズムが乱れると、感情に乱れが起こって、人体が病気になるわけなんであり、現代科学でも明らかになっているが、人体の細胞の数よりも、細菌の数の方が多いわけで、それらを纏めている唯一なるリズムが、モラルが崩壊し、一部の細菌が増殖し出したりして、無秩序になり、病気になるわけなんである。だから、人体内の細菌は、モラルハザードの結果として現れる指標でしかなく、増殖した細菌を除いただけではダメで、増殖に至ったリズムをも元に回帰させないと、また違う病気が発生するだけなんである。巷の裏金議員の問題も同じで、除くだけでなく、法律も厳しく改正しないとまた同じような悪玉細菌を増殖させるだけなんである。そして、多大な借金を拵えて国民経済破壊から国家滅亡へと進んでいくわけなんである。死後に地獄でのた打ち回るよりは、生きているうちに改心したほうがいいのは、あらゆる宗教が説く教義でもある。自らで悔い改めるのが、天の摂理というものだからである。この点でも、現代人は、古代人よりも遥かに愚かといえるだろう。再度、輪廻転生して、今より酷い更に地獄のような苦しみを味わうよりも、今の地獄を克服するに越したことはないからである。さて、前回紹介した、人体内の分泌物ホルモンの根本には、人智学的波動学でいうところの、アストラル体のリズムがある。アストラル体のリズムで有名なのが、呼吸で、酸素を体内に取り込む回数といえる。このブログでも何度も紹介しているが、人間の1日の呼吸数は、1プラトン年の、25920回で、この回数は、地球の歳差運動による、太陽の春分点の黄道との一周の移動に一致し、1度の移動に72年要するので、360度×72=25920となる。このことから、人間の1分の呼吸数は平均18回となるのが宇宙のリズムになるわけで、18×60分(=1時間)×24時間=25920となり、現代人の平均寿命が、72.5歳となっているが、この72歳は、古代人の族長の寿命が71歳だったので、ほぼ同じで、春分点の1度の移動とほぼ同じである。基礎から学ぶホロスコープ(特別講座2)プラトン年の理解 (aqast.net)【2023年最新】WHO世界の平均寿命ランキング 日本の順位と世界の状況とは | ELEMINIST(エレミニスト)この族長の寿命は、人間の覚醒意識での呼吸から、潜在意識との呼吸、つまり地球の昼と夜の太陽との呼吸に拡げて考えて、つまり、酸素摂取の呼吸から、覚醒時と睡眠時の意識変換を呼吸と考えると、昼夜で1回となるので、1日に1回で、一年で365回となり、族長の寿命の71年生きれば、365×71=25915回となり、1プラトン年には、5回足りないが、閏年分を考えれば、ほぼ同じと考えられるだろう。族長の寿命からわかるのは、族長とは、古代人が、この世に転生できる時間でもあり、俗にいえば、ウルトラマンのカラータイマーみたいなもので、71歳を越えると、物欲に傾きがちになり、だから、人体が物質のように固体化し、硬化していく傾向を帯びるようになると考えられ、人智学でいえば、肉体から、生命力を再構築しているエーテル体が離れやすくなるわけで、より崩壊性を帯びやすくなるわけで、日本人では、人体に腫瘍からガンが生じやすくなり、世界的には、人体に血栓が生じやすくなり、心不全などの虚血性心疾患や、血管硬化などから梗塞を誘発し、脳卒中などが生じやすくなってくるわけなんである。カラータイマー - Wikipedia世界の死因トップ10「日本の1位はがん」だが、世界では… | ゴールドオンライン (gentosha-go.com)【世界の死因(2019年)】1位 虚血性心疾患2位 脳卒中3位 慢性閉塞性肺疾患(COPD)4位 下気道感染症5位 新生児固有の状態6位 気管・気管支・肺癌7位 アルツハイマー病を含む認知症8位 下痢性疾患9位 糖尿病10位 腎臓病【日本人の死因(2019年)】1位 悪性新生物(腫瘍) 27.3%2位 心疾患(高血圧性を除く) 15.0%3位 老衰 8.8%4位 脳血管疾患 7.7%5位 肺炎 6.9%6位 誤嚥性肺炎 2.9%7位 不慮の事故 2.9%8位 腎不全 1.9%9位 血管性及び詳細不明の認知症 1.5%10位 アルツハイマー病 1.5%これらの死因が上位になるのは、飲酒と喫煙が背景にあるのはいうまでもないが、日本の場合は、俗にいう、ガンが1位なのは、食べ馴れてなかった、飲食の欧米化が大きいのが一因と考えられる。それでも、平均寿命が伸びているわけで、族長年齢の71歳よりも遥かに長寿の、80歳を越えるので、物欲のリスクによるものと考えられる。シュタイナーによれば、物質界に長く居たいと思う物欲が旺盛な霊魂は、死後もそれだけ執着が大きいが、地獄から現世に早く戻りたいという意識も強いので、つまり、あまり、あの世にいたくないと思うので、地獄にいるのも長いから、中途半端にまた修行に出たいと思うらしく、あの世にいるときの方が時間の進みが速いので、数十年を経て、転生してくるという。そのような霊魂の存在を象徴化したのが、永遠のユダヤ人なんである。さて、このように、生命体には必須なのは、宇宙のリズムであり、それは道徳やモラルとして、現代人にも精神的な知識として知られ、表現されているのが、地球と太陽との呼吸を表現した、四季の、古代からの祭りで、キリスト教などでは、冬至のクリスマス、春分後の復活祭、夏至の聖ミカエル祭などが知られ、カトリックでは秋分の祭りがあまり有名でないが、プロテスタントには収穫感謝祭が有名となっている。四季と祭典の意味が不明瞭になっているのは、西洋が唯物論に染まり、キリスト教がルシファー化し、古代叡智の輪廻転生の思想を失ったせいかもしれない。古代叡智では、四季とは、太陽と地球の呼吸状態を意味しているのである。太陽からキリスト霊が、いわば酸素として、地球に取り込まれ、地球に多様な生命を宿らせ、地球からまた生命体とともに吐き出され、太陽へと昇天し、聖霊ミカエルなどが、太陽と地球との間をとりもって、太陽から送り込まれた大気として、再び蘇ったキリスト霊を、地球へと支援するのである。この太陽と地球の一連の呼吸状態を、四季による祭典として読み解いたのである。感謝祭 - Wikipedia四季は、太陽光と地球の呼吸の、つまり、人智学でいう太陽光である自我=霊我の基点とした、アストラル体とエーテル体のやり取りで、祭典は、それを古代人が、精神的知識で表現したものなんである。古代人は、古くは、キリストが降臨する前の、神殿などで、月に反射した太陽光の、月光から精神的な、宇宙の知識を空間的に読み解いていたが、それが後に、太陰暦として定着し、キリストが降臨した後に、太陽光を、直接に、昼の覚醒意識から、時間的経緯で読み解くようになり、太陰暦から、太陽暦となったという。太陰暦 - Wikipedia太陽暦 - Wikipediaだから古代人は、地球と太陽との呼吸を、月光から空間的に四季を読み解いて、祭日を決め、祭典を行っていたが、キリスト降臨後は、月光ではなく、太陽光から直接に時間的に四季を読み解いて、祭日を決め、祭典を行うようになったわけである。日本では、陰陽師といわれる霊能者が、月光に従って四季から、祭日を決め、暦や行事を取り仕切っていたわけなんである。現代人は陰陽師を物質科学的に解釈しているが、物質では解明できないから、陰陽師の知識を解き明かせない。当時の地球環境も、人間の人体も、現代人とは異なっているのを考慮していないから、アニメのキャラクターのように非現実的な存在になってしまうのは否めなく、現代人からすれば、サルから人間をみるのと同じで、宇宙人にみえるかもしれない。古代人の人物像に遠近法がないのは、物質的に見ていなかった名残りでもある。現代人がサルを物質的知識が欠けた存在とみるのと同じで、古代人が現代人を精神的知識が欠けた当時のモラルハザードの存在とみるのと同じである。例えば、昭和の世代が、スマホや電子メールでやりとりする現代の若者をみて、直接会わずに、精神的な中身を問わないのを不思議と思うのと同じである。AIと機械的なやり取りはできるが、精神的なやりとりは不可能である。機械とやりとりしても、物質的なやり取りだけで、精神的な知識は獲得できない。現代人は自らの欲望のなかに生きているだけで、それでは宇宙からみれば無呼吸のやり取りの死んだ存在といえるだろう。宇宙とつながり、生命体として、呼吸するために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 太陽の天使たちの主な特徴の、恵みを注ぎ出し、降り注ぎ、与える能力を把握するには、このトローネのケルビムに対する犠牲のイメージを、自分のものにしないといけない! トローネによるケルビムへの供儀の意味を理解できると、ある天使存在がやって来るのが想像できる。その存在は、トローネの犠牲が理解できる能力、つまり、その犠牲を、周囲に恵みとして、与える能力、自らの贈り物として注ぎ出す能力へと変換できる存在である。 例えば、現代人が、薔薇を見て喜びに満たされ、その「美しい」ものを眺めることで、その対象から祝福される、という感情を経験する場面を想像すると、続いて、また別の存在が想像できる。それは、ケルビムに対するトローネの犠牲の意義を理解し、その理解能力を、周囲へと捧げる存在であり、与える精神と共に、与えられる犠牲全てを、世界へと注ぎ出す存在である。 そのような存在を想像するなら、それは、「神秘学概論」でも記述したように、土星紀の存在たちに、太陽紀になって、加わった、叡智の霊たちなのである。 このように、土星紀に既に存在していた霊たちに、太陽紀に現れた存在が加わった、これらの叡智霊たちの特徴はどのようなものかと問うなら、次のように答えられる。 「これらの霊たちの、はっきりとした特徴とは、与える、授ける、恩恵を行使する、という、徳をもっている。」 これらの天使存在たちを定義するなら、叡智の霊、大いなる譲与者、宇宙の偉大な授与者(プレゼンター)たちとなるだろう! トローネを偉大なる犠牲者と呼んだように、叡智霊は、偉大な授与者で、宇宙は、これらの犠牲と譲与から織りなされ、全生命は生かされている。叡智霊は、生命へと、その贈り物を授ける者たちである。というのも、自身を宇宙に注ぎだし、最初に秩序を創り出した存在だからである。 「太陽」上での叡智霊の影響とは上述した通りで、つまり、太陽霊たちは、自身=自我の存在を、周囲に向けて与える。もし、現代人が、現代の外的な物質的な観察から現れる背後を、高次元の知覚で感知したいなら、「太陽」上では何が生じたのか?という疑問に向かい合う必要が生じるだろう。 「太陽」を感覚的に捉えるなら、現代人が観察できるのは「神秘学概論」で記述された外的な物質的なイメージである。確かに、「太陽」は、外的な熱に加えて空気や光からも構成されている。「太陽」は熱に加え、空気と光からも物質的に構成されている、と外的なイメージでのみ捉えるなら、例えば、地球の、グレーに染まった雲の青空を、遠くから眺める、のと同じようなものといえる。 現代の画家なら、グレーの雲として、地球の青空を、遠近法などの外見的イメージで描くだろう。しかし、その雲に接近すれば、雲が、水滴の集合で、それらが生きていれば、むしろ虫の大群のようにみえるだろう。グレーの雲のように見えた存在は、実際は、無数の生命存在たちなのである。 遠く離れた現代から、古「太陽」について捉えるときも、これと同じような状況にある。遠くから見ると、古「太陽」は空気と光からなる天体のように見える。しかし、接近すれば、空気と光からなる天体ではなく、叡智の霊による、授与という大いなる生命の徳が現れてくる。 空気を、外的な物質的性質に従って解釈する人は、空気の真実を見通せない。これらの外的な性質は、物質界に現れた幻想(マーヤ)で、外見的な顕現に過ぎない。宇宙では、空気の存在には必ず、その背後に、愛を与える叡智霊の行為がある。 太陽上で、絶え間なく巡り、働き続ける空気は、大宇宙霊の、叡智を与える、という徳を顕している。空気の本質を見通せれば、空気の物質的な要素だけでなく、その中で実際、叡智霊たちが、周囲に愛を与え、その周辺へと、愛が流れ溢れ出すのを感じとれる。 このように、古「太陽」は、空気からなっている、と霊的に言うなら、古代人が本当は、叡智霊について語っていたのがわかる。だから、外見的に、空気として現れるものは、実際、叡智霊たちが、愛の要素となる、自我=自身を、その周囲へと放ち、与えている活動なのを知り得る。
2024年02月13日
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なかなかゴミはだしたくないものだが、現代の物質生活の便利性に馴れきってしまうと、どうしてもゴミはでてしまう。出されたゴミをみれば、そのヒトの生活がある程度推測できる。人体からも、汗、尿、糞などが、物質界で生きるためには、排出されているが、現代人の唯物的感覚では、それを完全に不要物、つまりゴミとみなしている。数十年前の一時期に、飲尿健康法などという馬鹿げたモノが流行ったが、腎臓が不要と判断して人体から出しているわけで、腎臓の機能に無知な現代人の典型といえるかもしれない。現代科学の物質的知識では、ゴミにどんな化学物質や成分が含まれているかで、そのヒトの生活や、環境への影響などを調べるが、古代叡智では、物質面だけでなく、そのヒトの精神的な、生活態度などを、例えば、頻繁に掃除をして、ゴミを分別して出しているか、とか、また、どんな仕事をしているのか、ゴミの出し具合から、精神的な知識を探求する。古代叡智では、ゴミの出し方からも、そのヒトの頭の良し悪しなどがわかる。最近は、地球への環境破壊から、リサイクル論も盛んになっているが、古代人は、人間の出す汗、尿、糞などを、ミイラと呼んで病気の治療薬に用いていたと、シュタイナーは人智学的リズム(波動)学で述べている。勿論、古代人の考える人体のリサイクル論は、飲尿健康法では全くないので、それでは唯物論的方法で、都市伝説になってしまうわけなんである。古代人は、物質的な感覚というよりも、精神的感覚を重視したので、もはや物質となってしまった尿についてリサイクルする意味がないからである。昭和の体育会系では、根性や気合いなどの、精神論が横行したが、結局、それは肉体や筋肉をどれだけ強化するかという唯物論になっているわけで、精神を物質に置き換えて、俗に筋肉馬鹿になっているだけで、精神を強化しているわけではなく、飲尿健康法と同じ穴の貉なんである。精神を強化するには、愛を高めないと意味がないのを、愚かな現代人よりも、古代人はよく知っていたのである。現代には、愛の鞭などという唯物的な表現が残っているが、少なくとも、愛は癒しであり、痛さを与えるものではなく、それではマゾを育成してしまうだろう。精神を強化するには、愛が必要で、それはそのヒトの気持ちを理解し、一体となることである。つまり、共感力や、思いやりである。だから、物質では、愛を表現できない。しかし、現代人は唯物論に洗脳されて馬鹿だから、愛を物質で表現してしまうわけなんである。だから、前回紹介したように、現代人は、輪廻転生を理解できないわけで、少しでも長く、物質界にいられるように、長生きしたいと思っているわけで、特に西洋では、ルシファーとなった偽キリスト教が、古代叡智の輪廻転生の書物を焚書してしまい、権威を保つために、唯物論を普及しているから、キリストが神ではなく、一人間になって、キリストの復活さえもわからなくしてしまっているわけなんである。キリストの復活とは、キリストがいまも生きていて、キリストのように生き、死ねば、死後にキリストに出逢えるということなんである。つまり、キリストとは、古代エジプトのトートでもあり、救世主の霊魂の呼び名のことである。イエスキリストとは、イエスという人物に、キリスト霊が降臨し、イエスという人物とともに、人間の死を知ったというのが、ゴルゴダの十字架刑の意味であり、イエスの肉体を捨てて、キリストととしていまも生きているわけなんである。この出来事については、シュタイナーの二人のイエスを参考にしてほしい。シュタイナーの「二人のイエス」説から何がわかるか: ヒロさん日記 (seesaa.net)2人のイエス (imagecreate.sakura.ne.jp)愛は物質では贖えないわけで、その叡智を理解するために、人間は物質界で生きている。人間の死は、それを教えるためにあり、物欲に塗れた人は、だからこそ死ぬのが怖いのである。カネで何でも買えるといった現代人のおバカな典型の人物もいたが、だったら、自分の死をおカネで買ってみたらいいだろう。脳を記憶回路として半導体上に転写するとでも考えるのだろうが、それこそが現代人の無知さ故の、飲尿健康法と同じである。電気がなければ、半導体は機能しないし、電気は電子で突き詰めれば、光である。光は太陽光からくるから、太陽光がなければ何もできない。つまり、その概念こそ、唯物論上の幻でしかなく、前回紹介した、敦盛の人間50年である。宇宙の流れのなかで生きるには、宇宙のルールに従わないといけない。その一部の物質界でさえも、宇宙の秩序に従わないと崩壊してしまうわけで、宇宙のリサイクルに従うしかない。宇宙は生命に愛を送っているわけで、だから、愛のリサイクルでないと、永遠ではなく、物質では死によって崩壊してしまい、意味がないのである。だから、排出物は物質的ではなく、精神的なものでなくてはダメなんである。古代叡智によれば、そもそも、輪廻転生とは、人生のやり直しで、前世の排泄物の罪のリサイクルだからである。罪をまた罪にしてしまえば、本当にゴミの存在になり、魂の墓場行きで、地獄行きである。ということは、地球は、宇宙のゴミ集積地なのかもしれない。さて、シュタイナーによると、古代人は、人体からの排泄物の汗、尿、糞をミイラと呼んでいたのは既に紹介したが、古代エジプトのミイラとは若干異なるが、古代叡智の霊視を獲得すると、それらミイラから、当人の霊魂が読み解けるという。汗から、当人のエーテル体、尿からアストラル体、そして糞から自我を読み解けるという。古代の医師は、ミイラから、当人の健康を読み解いたという。現代科学でも、例えば、ポカリスエットは、人間の汗を人工的に真似たものという都市伝説があり、最近は生理食塩水に近い飲料水なども出ているが、それらは人工的につくられたものなので、古代人がミイラと呼んだ治療薬とは似ても似つかないものである。というのも、物質的には同じでも、精神的には、霊魂的には全く異なるからである。あえて物質科学的にいうなら、波動が異なるからである。古代人が説くミイラには、人体内の分泌物の、つまり現代人が名付けているホルモンの意味ももつ。しかし、分泌される物質成分は同じでも、分泌に至る経路やプロセス、つまり精神的な経験が、古代人の説くミイラとは異なる。だから、ミイラとホルモンの違いは、現代科学のジェネリック医薬品みたいなもので、物質的な成分は同じでも、化学的製法が異なるのに似ているといえるかもしれない。後発医薬品 - Wikipediaだから、現代人の知識は、古代人からみると、粗雑で粗く、記憶力においては曖昧で、痴呆症や認知症に近いようにみえるだろう。もし、タイムマシンがあり、現代人が古代に行ったら、現代人は、痴呆症か認知症に罹った人にみられ、意味不明で、相手にされないかもしれない。古代人は、結果も大事だが、そこに至る精神的なプロセスを詳細に理解していないと、意味がない、と考えていたからである。現代人がいう精神論や根性論ではなく、精神そのものの経験論、思考そのものが、古代人の正真正銘の精神論なんである。ホルモンはギリシア語で、刺激するもの、という意味をもつようで、勿論、焼肉の内臓肉のホルモンとは別物で、人体の分泌物で、最近の物質科学では、情報伝達物質とも呼ばれ、分子生物学などから、ホルモンに類似した人工情報伝達物質が、現代医薬学から、様々な薬剤がつくられている。脳科学とはいっても、脳を精神論から解き明かすのではなく、どの脳の部位がどのようなホルモンを分泌するかという神経伝達論や、情報伝達論の、唯物論に終始していて、結局、物質的な分泌論の還元論に至っている顛末といえるだろう。現代科学での物質還元論は、どの家庭が、どのようなゴミを出しているか、と同じようにみえる。勿論、そのような議論も必要だが、それだけでは、古代人からみれば、枝葉末節論にしかみえない。例えば、巷の、裏金議員が、自分たちがつくった法律を破って、誤魔化すのと同じで、自作自演の一人芝居と同じで、罪を犯すために法律をつくることになり、法律をつくればつくるほど、どんどん馬鹿になり病気になっていくだけなんである。破れるような法律をつくるのが悪いわけで、神がつくった法は破れず、破れば、自分が破滅するわけなんである。だから、ゴミを出さない生活が、愛のリサイクルが必要なんである。法を破った人には罰が必要なんである。ただし、精神上での罰で、それが愛のリサイクルで、贖いである。さて、現代科学では、人体の情報伝達物質ホルモンに真似て人工の薬剤をつくるが、有名なのが、ドーピングなどの、ステロイド型薬剤である。副腎が放出するホルモンの人工ステロイドは強力すぎて、炎症部位のターゲットを絞り難いので、それだけ副作用も強くなるので、現在はNSAIDsと呼ばれる非ステロイド系の抗炎症剤が主流で、炎症の情報伝達物質のプロスタグランジンの放出を抑制するCOX阻害剤で知られている。ステロイドホルモン - WikipediaCOX阻害剤|【ライフサイエンス】製品情報|試薬-富士フイルム和光純薬 (fujifilm.com)ステロイド外用剤の上手な使い方|くすりと健康の情報局 (daiichisankyo-hc.co.jp)ちなみに、コロナワクチン注射後の熱発への解熱剤に用いられたカロナールとの比較は以下である。放送大学の講義にハマっているせいか、物質科学の進展が伺い知れるようになってきて、古代叡智の必要性に再度気づかされ、唯物論から脱しないと、人類同士で戦争するような羽目になって滅亡へと向かうのを確信させられる。物質科学から、人体の物質体をつくる材料や道具は沢山あるが、それを使いこなせるだけの能力や精神的な熟練が欠けているので、巷には単なる金儲けのための詐欺が横行し、核兵器での戦争で互いを恫喝するような人類の愚かさ馬鹿らしさに陥っている。例えば、現代科学では、人体の細胞は37兆個、細菌は100兆個いるといわれている。だから、人体の細胞よりも、その周囲で暮らす細菌のほうが多いという。物質的にも、常在菌により、健康が保たれているわけなんである。いわば常在菌の共存共生の平和により、人体の健康が保たれているわけで、だから、現代科学でもようやく腸内細菌の研究や、口腔内細菌の研究がはじまっている。最近は、腸内細菌の研究から、腸の研究で、糞移植なども考えられているが、飲尿健康法のように、まさか食糞健康法などは生まれないとは思うが、唯物論が行き詰まると何をやらかすかわからないので、事実、核兵器で武装している愚かな現代人では、何をやらかすかわかったものではない。巷の裏金議員をみれば不信感だけが増大してしまうわけなんである。人智学によれば、糞は、古い自我の残りで、脳でもあり、腸からつくられるので、腸と脳は糞を通じて兄弟姉妹の関係にあるという。刎頸の交わりならぬ、糞兄弟の交わりともいえるかもしれない。古代人は、糞をみて、そのヒトの自我を霊視でき、どのような人物かを認識したという。犬が匂いから、人物を当てるのと似ている。ヒトの糞から、脳や自我を認識するのは、数万回の輪廻転生を必要とするかもしれないが、シュタイナーによれば、現代人のほとんどが1万回は輪廻転生をしているというから、唯物論を捨て、前世からの記憶力を取り戻せば、認識できるようになるかもしれない。ヒトの糞からヒトの自我を認識するのは、現代人にはほとんど不可能でも、例えば、ウマの糞とウシの糞の違い位はわかるだろう。ウマの糞は丸っこく、ウシの糞は水っぽく広がるのは、ウマが忙しなく動きまわり、ウシがゆったりと動く違いが現れていると、人智学的波動学で解き明かしている。現代科学でも、糞から腸内細菌を分析しているが、腸内細菌が、ヒトの腸と共生共存する理由を解き明かせないのは、唯物論から脱せられないからである。人智学的栄養学では、人間は7年毎に人体をつくりかえていて、糞などの排出物は、いわば、古くなった人体なので、そのなかには古くなった経験が情報と共に残っている。だから、古くなった情報を新しい知識で、甦らせ、そのゴミを精神的にリサイクルすれば、人間の死が、前世の罪に対する贖いで、来世で蘇るように、汗、尿、糞から、人間の精神は健全になり、人体も健康になるわけなんである。シュタイナーによれば、ゲーテは、人間の眼は、太陽光により、不要だった器官からつくられたと述べているという。つまり、人間の眼は、太陽光により、人体のゴミから生まれたという。また、人間が産まれた直後の胎盤の残りは、いわば霊魂の糞で、古代人が、胎盤をみれば、その赤ちゃんの運命が読み解けるという。人体のゴミから、キリストの再来を予感するために、シュタイナーの人智学的波動学を紹介する。 ★ ★ ★ 現代の科学や日常的な思考が働くのは、人間の覚醒意識、すなわち、物質界で、現代人が受け継ぎ、もしくは育成してきた経験、感情、思考から、自我の意識が創り出してきた、あらゆる感覚的な認識を通して、なのを明確にしておく必要がある。 このような感覚的認識は、間違った方向に導かれる可能性があり、実際に、錯覚が非常に多い。例えば、次のような反論があるかもしれない。「人智学が提示する、霊的な知識を受け入れるべき、と言われても、これまでの思考体系に一致しないものを受け入れるつもりはなく、証明できないものを受け入れるつもりは毛頭ない。」 確かに、証明が無いものを受け入れるべきではない。しかし、これまで示されたもの、既に知っているものだけ受け入れるだけでは、一歩も前に進めなくなる! 超感覚力を持ちたいと願うなら、頑なに証明できたものだけを受け入れるだけでは足りない。超感覚力を持ちたいなら、通常の、自己の認識からも自由でなければならず、宇宙から、自分へとやってくる全てを、それはただ「恩恵」という言葉で記述できるが、予見できないといけない。 超感覚力の持ち主は、宇宙から照らし出された恩恵が、あらゆるものが、自分へとやってくるのを見通している。では、どのようにすれば、超感覚的認識が獲得できるのか? それは覚醒意識での既知の知識を脇におくことで、唯一可能となる。現代人は、自分で認識できたものを知識と考えている。けれども、この知識は、先達が既に考え、その願望が実現し、またその他などを新しくした焼き増しに過ぎない。 自分で認識できたかどうかが問題なのではない。自己の認識を主張する人は、自己の偏見の奴隷になっているのに気づいていない。高次の認識を獲得したいなら、自己の認識からも、脱却していなければならない。 霊魂を空虚にし、空間もなく、時間もなく、対象もなく、事象もない、隠された、土星の秘密の世界から受け取れるものを、静かに待てなければならない。現代人の霊魂が、顕現、もしくは悟りに到達するための能力を育成するのを待たずに、高次の認識が獲得できる、と信じるべきではない。 こちらへと近づいてくる全て、他でもない恩恵として「来るもの」、何かを与えるものを、辛抱強く待っていられるのは、上記のように、霊魂を空虚にするときだけである。 では、高次の認識はどのように現れるのか? 我々人類へと来るものは、人類が十分に準備できたとき、どのように現れるのか? 我々人類に来るものは、精神界から、我々と出会うために来る、その贈り物により、我々の将来の成長を祝福する、というような愛の感情を通じて、自らを現わす。もし、人生において、そのような、人類への贈り物、つまり愛の恵みに満ち、その愛の認識に満たされるもの、を記述すれば、その表現は、次のようなものかもしれない。 「我々人類への、愛の贈り物であり、愛の恵みであり、愛を与えるものとして、我々人類の処へとやって来る救世主を、人類は出会い経験する。」
2024年02月08日
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放送大学の講義をみるのにハマってしまい、ブログの更新がイマイチなのであしからず。巷は相変わらずコンプライアンスで話題だが、逆説的にいえば、それだけ、地上波TVの情報についての信頼度が高まっている証拠ともいえるかもしれない。半世紀前の子どものときの、TVについては、当たらない天気予報と同じで、「TVの言う事なんて噓八百で当てにならない」というような暗黙の了解があったような気がする。当時は、TVの言う事など話半分に聞き流していたもので、どこか浮世の話で、自分とは無関係とタカをくくっていたのもあるかもしれない。八切史観でもわかるが、芸能界は河原者の活動域で、TVもそのような集合体とみられ、どこか差別され、ニュース以外は視聴禁止の厳しい家庭もあったし、TVをみるのは不真面目で、モラルハザードの元凶という説もあったぐらいで、有名な謀略論の、GHQの3S政策の洗脳マシンと考える評論家もいたほどである。先日、水曜日のダウンタウンという番組で、ビートルズの初来日に対して、当時のマスコミの一部が、「きちがい音楽と罵る評論家を報道していたのを、みたが、過激な言論と共に、TV自体が、日常生活とはかけ離れた虚像の道化師のような役割を果たしていたようにも思われる。その番組のテーマは、ビートルズ初来日で失神者を探す企画だったのだが、意外にも、失神者は皆無で、今日のイメージとは大きく異なり、当時のビートルズの音楽を理解する人も少なく、ルックスだけで若者にウケていたようで、逆に大人たちから不道徳と敵対視されていたのがわかった。私はどちらかといえば、ストーンズ派なんで、個人的にはビートルズがなぜ人気なのか?理解できない。恐らく当時の邦楽界の状況を、現代で譬えるなら、ヒップホップのランDMC(古いかも?)か、エミネムの来日みたいなものかもしれない。ヒップホップを理解する高齢者は少ないだろうが、多様性が進んだ令和の日本の音楽界ではそれほど大騒ぎにもならないが、逆にいえば、昭和の音楽が画一的で保守的だったのがわかる。河原者 - Wikipedia水曜日のダウンタウン - Wikipedia【不適切発言】水ダウ:4文字の放送禁止用語は何て言った? | 道楽日記 (mybouzu.info)ビートルズ - Wikipedia3S政策 - WikipediaRun-D.M.C. - Wikipediaエミネム - Wikipedia当時の大人が大人げない態度で、パンク音楽の前触れかと思われるぐらいのNGワードで罵るぐらいの、ビートルズの来日騒動から、その前のGHQのマッカーサー来日騒動、更には幕末の黒船騒動が連想されるぐらいの混乱ぶりで、令和の今から考えれば、コンプライアンスどころか、カオスそのものだったわけで、芸能界や、それを映すTVの世界はいわば無秩序な幻想の非現実な世界なんで、特に子どもには視聴制限を設ける家庭が多く、中学受験や勉強を勧める家庭ではTV視聴は厳禁だったので、いまのスマホやゲームの扱いと似ていたかもしれない。TV自体も、「TVばっかりみていると、いまに尻尾が生えてくる」というようなCMを流したりして、自己防衛を図っていたようにもみえるぐらい、昭和の当時のTVの言うことはインチキ臭く、話題にはなるが、現在の都市伝説のように、マトモに信じるのは、どこか頭がおかしい人というような印象を与えていたものである。昭和のTVは猥雑で、猥雑な世界から、自分のお気に入りのコレクションをしていたような感じで、子どもには、パンドラの箱ともいえたかもしれない。だから、現実逃避には持って来いの、非現実の世界で、現実には使えないガラクタの道具箱ともいえたかもしれない。実際にTVは暇人の道具ともいわれていたし、今日のように、TVが語る事をマトモに受け取る人はほとんどいなかったので、コンプライアンスなどが問題になることもほとんどなかったわけなんである。つまり、日本史でいうならば、TVは河原者のように暗黙糧に差別されていた、といえるかもしれない。いま巷を賑わせているお笑い芸人の文春報道について、以下のように、日本文化史研究家が面白い記事を載せたのをみつけた。昭和までの芸能界は、江戸時代の河原者という差別がTVを通じて、暗黙糧に残っていたのである。松本人志さんの“罪”を考察したブログに反響広がる「ぐうの音も出ない」「完璧すぎる論破」(ダイヤモンド・オンライン) - Yahoo!ニュース明治維新で法制上は四民平等になったが、現代でも、上級国民と下級国民という言葉に変わって残っているように、江戸時代の河原者の流れを受け継ぐ芸能界には、江戸の庶民の風習が文化として残っているのが、このような一件からわかる。TVで流されるものをマトモに取り合うことは昭和にはなく、だからヤラセもある程度ゆるされていたともいえるかもしれない。TVのやることを大目にみていたともいえる。つまり、芸能人と、一般人の境界や縄張りがはっきりしていたともいえるかもしれない。翻って、現代をみれば、巷に、インターネットが浸透してきて、TVの代わりにユーチューブなどのネット動画が、昔のTVのような如何わしさを担っていくようになり、TVの地上波が、ネットがフェイクの嘘塗れだと糾弾するようになってから、地上波こそ多数な情報で、正統派を主張するようになったので、コンプライアンスが求められるようになったともいえるかもしれない。昔のTVもネット以上にヤラセやガセネタが横行していたのを知っている視聴者にとっては、TVも、如何わしさにおいては、ネットとどっこいどっこいで、TVの過去のアナログ映像をみれば一目瞭然で、改めて映像を流すには、差別的表現がみられる云々の注意書きが必要なので明らかである。昭和の天気予報は競馬予想と同じ位当たらなかったが、スパコンを導入してから、少しづつ統計データから、恐らく、天気予報が当たるようになってきて、スポーツの実況中継と共に、ネットよりも、情報を得るための正統性の主張が認められるようになってきたのかもしれない。しかし、TVやネットにしろ、正当性を主張しようとも、その情報は、発信者により恣意的に切り取られ、加工されたもので、大自然の物質的領域のなかでの、特定の一部でしかなく、その情報を鵜呑みにするのは、非常にリスクを負う羽目に陥りやすい。だから情報リテラシーが叫ばれ、詐欺の横行に注意を払う世の中の、人間社会になってきたわけである。情報リテラシー - WikipediaTVやネットで流される情報のどれがフェイクなのかはなかなか見分けがつかないばかりか、現代人の知識は、唯物論に洗脳されているので、情報を覆いつくす物質的なベールを剥がすのがほとんど不可能になっているからである。むしろ、昔のように、全てをフェイクだと思った方がリスクを冒さずに済むかもしれない。さて、人智学的栄養学の紹介が一段落し、今度は、シュタイナーの人智学的リズム学を紹介していくつもりなのだが、それによると、人類は段々と愚かになってきている、というわけなんである。というのは、現代人が、知識は与えてもらうものと錯覚しているからで、実際、人間の脳を、知識を汲み上げるバケツにすぎなくさせているからでもある。人間は、脳を唯物論から唯物的につくりあげるパズルにしているだけなんである。だから、人間は、死を理解できなくさせているわけで、唯脳論が罷り通るようにさせてしまっているわけで、もはや脳をTVと同じような文明の利器とでも思って、洗脳されているわけなんである。確かに、知識とは、感覚から学んで、つくりあげるものなのだが、唯物論で作り上げるのなら、それはいずれ物質界のように、砂上の楼閣で、死によって無になるしかないわけなんである。だから、知識を永遠の、不死のものにするのには、死を乗り越えた宇宙のもの、つまり、宇宙の精神に則り、つくりあげないといけないわけで、だから、知識には、宇宙の法則のモラルが不可欠なんである。物質界というのは、死ねば去らなければいけない領域で、時空間なんで、そのような場にいかに頑丈な建物を建てようと、地球上にピラミッドのような完成度が高い図書館をつくりあげようと、地球にある限りは、いずれ環境破壊と共に滅亡してしまうわけなんである。地球は宇宙のなかの一部であり、だから、宇宙のなかで生きる限りは、宇宙の法則のモラルに則らないと、宇宙の循環に従わないと、永遠とはいえないわけなんである。ソクラテスの無知の知ではないが、この無知の知さえも、現代人は唯物的に解釈して誤っているが、人間の死を超える本当の知識を、古代人は、知っていたわけで、その古代叡智が、創造の知識といわれる生きた知識なんである。この生きた知識とは、物質欲に目覚めた西洋にはないもので、現在のキリストの顕教にはない、というのも現代のキリスト教はルシファー教なので、だから、人類を宗教論争などから、戦争などに追い込んでいるのがその証拠でもある。これは霊能者の多くが述べているキリスト教の現実でもある。その証拠に、現在のキリスト教は人間の輪廻転生を認めていないが、キリストこそ、神そのものでその使者というのなら、輪廻転生をつくった神そのものであるから、輪廻転生を否定するのは、神を否定することになってしまうわけなんである。輪廻転生を否定するのは、あの世を否定することなんである。天国も地獄もないという、唯物論と同じで、それなら、なぜ人間の死があるのか、解き明かせなくなる。死んで終わりなら、死の否定とともに、生の否定でもあり、生きること自体が、物質界自体が無意味であるのを示すことになるし、キリストが死んだのなら、甦れるはずがないわけなんである。つまり、キリスト教は物質界でも論理的矛盾を犯しているわけなんである。人間の死がなぜあるのか?この質問に応えられない限りは、宗教は絵に描いた餅にすぎない。古代叡智によれば、古代人は人間の死の意味をよく知っていて、古代エジプト人などは、最後の審判を壁画に書いているくらいでもある。シュタイナーは、現代人が愚かで馬鹿なのは、前世を忘れているのがその証拠であると述べている。現代人が死んだらお終いという唯物論に染まってしまったので、前世が思い出せなくなっているだけにすぎないのである。現代人が、再び古代人のように自らの精神の働きから、生きた知識をつくりだして、賢くなり、霊能力を獲得できたら、死を乗り越え、前世がみれるようになる、とシュタイナーは述べている。死者の書 (古代エジプト) - Wikipedia現代人は、唯物論で、悪い事をしても、死ねば、その罪は全て消えると思い込んでいるが、むしろ、罪は死んでも消えないどころか、永遠と付きまとう、いわば借金のような負債となるのである。だから、現代人の多くは自分に付きまとう過去の罪を思い出したくないので、死んだら全てなくなると思い込んでいるだけなんである。キリスト教徒などは、キリストに、自分の罪などの全ての罪を背負いさせて、キリストの死で解消したと思い込んでいるだけなんである。キリストが人類全ての罪を背負って死んだお蔭で、人類は過去の罪を背負った前世を記憶から消すことで、いま唯物的に物欲で生きられるが、キリストが、罪を背負ったのは、人類が進化するための猶予期間を与えただけで、いずれは、最後の審判が下るまでには、自分で物質界で生きるうちに、その罪を解消しないといけないわけで、いわば執行猶予にすぎないわけなんである。キリストは、人類の罪を、執行猶予付きで許しただけなんである。だから、生まれ変わるうちに、自分で罪を償い、カルマを解消していかなければならず、加害者は、次回に被害者の人生を送らないといけないわけなんである。だから、無知に甘んじることなく、ソクラテスの説くように、無知の知を実行しないといけないわけで、輪廻転生の意味を知らないと、永遠の知を知らないといけないわけなんである。東洋には、古代アジアを通じて、輪廻転生が伝承されてきたので、この世よりも大切な、あの世の生が説かれ、この世の儚さを、詩にした、敦盛などの、「人間50年下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり、ひとたび生をうけ、滅せぬもののあるなきか、これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。」というわけなんである。この詩の解釈が物質界からのものばかりなんで、あの世から解釈すれば、次のようになるだろう。この世に50年生きるとはいっても、あの世に比べれば儚き幻のようなもので、生まれては死んでいく世界であるから、その生の行いを、死後に、後悔しないようにしないと、永遠と罪を背負うようなことになっては、いけないぞ、という戒めでもある。キリストを差別し、見放した、永遠に彷徨えるユダヤ人になってはダメだぞ!という詩なんである。敦盛 (幸若舞) - Wikipediaつまり、この世の生とは、前世の失敗を成功に転換するためにあるわけで、前世の罪の執行猶予期間でもある。だから、夢の、仮の姿にすぎないというわけなんである。特に「これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。」の訳が重要で、仏様になるように、せっかくやり直しの人生が与えられたのだから、無駄な人生を送っては後悔しては後の祭りだよ、というわけなんである。この古代叡智の前世からの知識、つまり輪廻転生の思想は、仏教にはまだいくらか残っているが、キリスト教が唯物論でルシファー化され、現代仏教も、糞坊主ばかりになって金儲け主義に走ったせいで、ほとんどみなが死後地獄に堕ちて後悔先に立たずで、執行猶予のやり直しの人生を送る羽目になり、だんだんと愚かで馬鹿で、頭空っぽな論争、闘争、戦争をするような肉食獣の動物になってしまっているので、人生の落第者だらけの地球は滅亡に向かっていくのだろうね。戦争の大罪を知らない偽善者たちや、金儲けの虚しさや、同じ穴の貉同士の中身が空っぽのTVとネットのやりあいや、この国の裏金政治家たちをみれば、死んで全てがチャラになるとでも思っているのか、世も末だよなぁ。死後に、自分の人生を後悔しても手遅れなのを知るために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ さて、もし、古「土星」存在から古「太陽」存在へと突き進むのなら、現在の太陽ではなく、古い「太陽」のイメージをつくるための、その基礎づけが必要となる。これについても、「神秘学概論」で提示したのは、その外(物質)的な表現に過ぎなかった。 古「太陽」は、空気と光が、熱に加わり、熱を高めたが、「意志の霊」からもたらされた犠牲の輝きを、知覚するのに、熱を超える存在を探求したように、古「太陽」上で、熱に加わった空気と光を理解するなら、空気と光にもまた、その道徳的な存在を探さないといけない。 古「太陽」上での空気と光についての思考や表現、更には感情に至るには、霊的な方法で、自我の内面を経験し、探求するしかない。 このような感情は、霊魂の経験として次のように記述できる。本当の犠牲行為を霊的な観察で想像する。つまり、前回の講義で述べたように、トローネが、ケルビムに、供儀を捧げるイメージが、深い感動を生み、無上の喜びによって、霊魂を輝かせるのが想像できる。 この犠牲を捧げる存在、つまり、霊魂を目覚めさせ、活性化させるイメージを想像すれば、人間の魂は、何を感じるのか? 生命に満ちる感情を持つ魂なら、犠牲行為のなかに感じる喜びを前に、無関心ではいられず、この犠牲行為を目の当たりにすれば、深い目覚めを経験するだろう。この犠牲から生じる無上の喜びを見守れば、それが至上の美しい行為で、至上の美しい経験であるのを、魂は感じるはずである! しかしそれとはまた別の経験も生じ得る。それは完全に自己に身を委ね、無関心でいる態度である。実際、もし、この献身からなる犠牲行為を見守る、という憧れを、魂に生じさせなければ、その自己犠牲の美徳をもたらさなければ、人間は魂をもたない、一片の木のような固い物質になってしまうだろう。 自己犠牲、つまり未熟な自己を諦める、無我の境地について考えてみる。自己を諦める行為は、自己犠牲が変化した行為ともいえる。そして、能動的で、意識的な自己犠牲を深く考えれば、自分を諦め、自己を無くし、自己を忘れるなどについての、親密なイメージを沸き立たせる。 このような親密感、少なくとも自己犠牲についての示唆、もしくは残響が感知できなければ、自己犠牲についての霊的な理解には至れない。 実際、「自己を諦める」への親密感を、魂のなかに感知できれば、高次の認識が、現代人に与える霊的なイメージへと到達できる。自己犠牲の精神を創造できない人は、高次の認識にも到達できない。この自己犠牲という態度と正反対となるのは何か? それは自己保身である。自分の思考の中に、自己を無くすこと、そして、その反対側にある、自己を権威化し、保身すること、つまり、これらが魂のなかの2つの対極で、これが魂のなかの大いなる対極である。 もし、精神的な、真の認識を獲得し、自我を叡智で満たしたいのなら、自己犠牲の対極にある、この自己保身は致命的なものとなる。日常生活において、自己保身は、頑固、頑迷、偏屈な我儘として知られている。そして、この偏屈な我儘は、高次の洞察を絶えず破壊する。 実際、自己犠牲への能力として表現できる行為を、思考の中で叡智にまで促進する必要があるが、それは、自己犠牲の促進された無我の感覚のみによって、人間は高次の世界に向けて、進化できるからである。 高次の世界では、自分を捨てる能力、少なくとも、その魂的な無我の境地を経験できなければならない。もし、物質科学的知識や日常的な唯物的思考だけでやっていくなら、高次の認識の獲得は不可能となるのを強調しておきたい。
2024年02月06日
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BS4Kで、綺麗な映像のワールドライフという番組をよく見るが、地球の神秘を感じさせる。壮大な地球の大自然のなかにはまだ、現代人が解き明かしていない神秘が盛り沢山なのに、地上については、もう充分とばかりに、他の惑星に、知的生命体がいるかどうかの探索船を打ち上げてもいるが、野生の動物の生態をみれば、現代人の知らない叡智がまだまだ隠されているのに驚かされる。先日、その番組で、アフリカ象の双子の子育てをやっていたが、象の世界も、人間の社会も似たようなものだと気づかされた。というのも、象の子育ての邪魔になるのは、子どもを狙う、他の肉食の動物だけでなく、オスの象の権勢欲だからでもある。象の世界では、オスとメスは、集団に別れて暮らし、子育ては、メスの集団が行う。オスの集団は、発情すると、メスの集団に襲いかかるので、子育てには邪魔で厄介な存在となる。オスは、メスの奪い合いで喧嘩したり、メスの集団が、餌が豊富な草場に来て、自分の食い分が減り、気分を害されると、メスの子育てを考慮せずに、大暴れなどするのをみると、人間社会と同じで、巷の裏金議員などが思い浮かび、いまだに派閥解消すらできないでいるのは、まるで、オス象のように我儘で、厄介で邪魔な存在なんである。三人寄れば派閥ができるなんて言っているのは、オス象の脳レベルなんである。平成の後期から、イクメンと言われ出し、男も子育てに協力するが、老害と言われる昭和世代の男たちは、子育てについては、女まかせで知らんぷりの輩が多かったわけで、野生の象の世界と同じで、いまでも男尊女卑を地で行く老害政治家が、派閥などをつくり、闘争、論争し、オス象みたいな権勢欲の強い毒災者の獣が、自己顕示欲で、戦争を起こしたりしているわけで、現代社会の人類も、野生の象の世界のように、実態は変わらずというか、古代エジプトに比べれば、まるでサル化し、獣化し、退化しているのがわかるわけなんである。このように、象の世界だけをみても、野生の動物においては、オスは生殖だけの存在で、カマキリなどは、生殖が終われば、オスは食べられてしまうわけで、子育てについては、不要な存在と暗に仄めかしているようにもみえる。人間も元々は両性具有で、霊魂に性差はないが、神霊が受肉した姿は、聖書の記述にあるように、娘の姿で、女性だったので、男性の姿は後発といっていいかもしれない。ややこしいのは、霊魂が受肉するために、陽性の男性の形だと、肉体は、女性の姿になり、その逆の、霊魂が受肉のために、陰の形をとる女性だと、肉体は男性の姿になることである。つまり、精神と肉体は陰陽逆の形をとることにある。つまり霊魂の受肉の形で、男女差が生まれることになる。人智学では、エーテル体の差異で表現している。エーテル体が肉体に深く浸透していると、肉体は男性になり、あまり浸透しないと、肉体は女性になるわけで、だから、男性はネガティヴに親しみ、物欲が旺盛になりやすく、女性はあまり物欲がなく、精神的な充実を好み、直感的になりやすいわけなんである。だから、女性の肉体をもつ人は、精神が陽の男性なので、気が強いのである。だから、女性を怒らせると怖いわけで、逆に男性は、肉体は強いが、精神が陰の女性なので、気が弱く、優柔不断なんである。だから、忍耐強さを要求される子育てには、女性のほうが優れているので、母性本能と呼ばれるわけなんである。勿論、霊魂においては中性の両性具有なので、肉体の束縛から離れ、霊魂の姿に近づけば、性差はなくなっていくわけで、知性が高度になるほど、性差別もなくなっていく。人間の世界は野生とは異なるので、男性が不要とはされないが、人類同士で、戦争をするような、混乱を招くような権勢欲はどこの世界でも不必要となるのは明らかだろう。特に、この国の巷の男尊女卑を地で行く政治家の権勢欲はもはや無用の長物と化している。少なくとも、自然の野生からの叡智を読み解けば、そのような古い価値観は認められず、淘汰され、通用しなくなるだろう。人類は、宇宙の営みから、地球上で、自分たちの世界を切り離して、物質界に独自の世界を築きあげたが、地球環境を破壊し、物質科学などの権勢の振興により、金持ちを中心にして階層奴隷社会をつくったが、支配欲は益々肥大し、悪党の群れとなってしまい、地球環境から疎外され、ガン化しはじめ、迷える子羊なっているのが、現代人の現代社会である。さて、このブログでは、現代人よりも、古代ギリシア人の知性が遥かに優れ、更にまた古代エジプト人の知性がより優れていたのを、古代叡智から読み解いて、紹介しているのだが、それを示す証拠が、古代遺跡で、エジプトのピラミッドであるのを、紹介してきた。ピラミッドには、宇宙進化の歴史が記述されているが、ピラミッドという言葉は、まさに光で、叡智という意味をもつ。だから、ピラミッドをみることは、光の叡智をみることなのである。そして、ピラミッドは、人類に、宇宙をみなさい。宇宙の進化を感じなさいと、問いかけているのである。宇宙には、無駄なものは全くなく、全てが不可欠で、有用なのである。だから、人類の進化への答えをみつけたいのなら、宇宙をみなさいと、人類に問いかける。例えば、一休さんのどちて坊やのような人こそ、宇宙をみるべきである。いままた、巷では、新型コロナ感染が増大しつつあるという。今年は元旦の年頭から能登地震という悲劇に見舞われ、この国が生まれ変われるかの正念場の年といえるかもしれない。東日本大震災の復興を希望に、悲劇の克服に邁進していくしかないだろう。悲劇の克服から、ヒーローやヒロインが生まれてくるからで、それらの存在こそが、悲劇に対する癒しだからである。ではなぜ、この物質界には悲劇が起こるのだろうか?唯物論に洗脳された現代人は、悲劇後などに発症する、うつ病に対してほとんど理解できていないが、シュタイナーによると、古代ギリシア人は、悲劇が、人間の精神を捕え、束縛するのを知っていて、アリストテレスなどは、悲劇を克服する英雄劇をつくり、観客に経験させ、劇場から出ると、悲劇から自らを解放する英雄となったような、癒しの効能をもたらした。古代ギリシアの哲学者は、悲劇が、人間の知性を拘束するのを知っていて、自らを解放する、自由で新たな知性を、英雄という形で与えたのである。悲劇や苦悩は、人間の頭の中の脳に居座るので、それを退散させるために、英雄という、現代的にいえば、一種の自己暗示、新しい価値観を与えたのである。だから、古代ギリシアの神話劇は、精神を癒すための薬といえるかもしれない。現代では、物質的な肉体の病気を、物質薬で癒すのと同じで、物質化する前の、現代でいう精神病を、神話などの、精神薬で癒したわけなんである。英雄や、神々は、人間の自我を、日々の物質界から来る闘争や論争などの悲劇による、束縛から解放し、自由を目覚めさせる、新しい価値観なんである。だから、自我の救世主と呼ばれた。日々の日常生活で生じる、悲劇や苦悩に囚われてはいけない。それは、金持ちの金儲けや、健康マニアの○○が体によいという独自の価値観と同じで、自らの自由な進化を阻み、物質により、拘束するものなんである。新興宗教と同じで、悲劇教団や苦悩教団の一派にすぎない。人間には信教の自由があり、他人の価値観に拘束される必要はないのである。自分の価値観で、自由に生きる自由がある。ただしそれは思想の、精神の上での話なのに注意すべきで、誰かに、自分の価値観を押し付けてはいけない。だから、他者に価値観を押し付ける宗教教団は偽物である。例えば、偽教団は、○○がよいとか利己的な価値観を押し付けてくるが、それが他者によいかどうかは、その個人の自由により、個人の判断による。だから、本来は、個人個人に宗教がある。物質界では、互いの違いを認識し認め合わないといけない。そこに優劣はなく、平等で、いわば陰と陽のようなもので、両者において互いに不可欠なんである。ただ、カルマの解消のために、人生においての一方の役割を果たしているにすぎない。前回紹介した、一休さんのどちて坊やのような、子どもはまだ自我が未完成で、人生観や価値観がなく、外から押し寄せる攻撃的な価値観に疑問をもつしかできないが、自我が完成し、それ相応の人生観や価値観ができて、善悪の判断がつけば、日々の生活の移り変わりに応じて、「自分」という価値観を変えていく必要がある。人間は人体を7年毎につくりかえているわけだが、日々の感覚と同時に、人生観や価値観もかえていくわけである。唯物論に洗脳された現代人は、肉体や外見のことしか考えていないが、人智学によれば、肉体の他の、自我、アストラル体、エーテル体も、カルマの解消のために、日々、天使たちと睡眠中に相談し合って、進化させていくわけで、有り体にいえば、悲劇は、その自分を変える切欠というべきものなんである。だから、逆説的にいえば、悲劇が襲い掛かったときには、自分がヒーローか、ヒロインに変わるべきとき、蛇や海老が脱皮するとき、なんである。数十年前に、JIN仁(じん)というドラマの主人公の医師の、神様は乗り越えられる試練を与える、というようなセリフが、思い出されるが、まさに、このようなドラマは、古代ギリシアのアリストテレスが書いた神話と同じといえるかもしれない。JIN-仁- (テレビドラマ) - Wikipedia古代ギリシア神話には、人類を癒す叡智が眠っている。新しい価値観、新しい叡智が必要なときに、人類には悲劇が訪れる。英雄には乗り越える試練が必要なんである。誰もが人生のヒーローやヒロインになるために、悲劇を救済の恵みとするために、シュタイナーの人智学的宇宙進化学を紹介する。 ★ ★ ★ 超感覚力をもつ人でも、古「土星」時代の中に身を置き、経験するのは、無空間での、温かさの満ち引き、という印象だけだが、この印象は「土星」状態の外見の覆いに過ぎない。というのも、神秘主義でいう、この土星の火の温かさは、その精神の基盤において、実体を現わすが、既に述べたように、古「土星」上で、実際に生起するのは精神上の振る舞いのみだからである。 この古「土星」上で起こる、精神上の振る舞いについての、温かいイメージは、「意志の霊」、トローネの犠牲行為だった。「土星」上に生じた出来事を振り返れば、ケルビムとトローネから流れ出す供儀を感じるのがわかる。 トローネからケルビムへと供儀が流れ出すが、その精神を、外から見ると、この犠牲行為は、熱として現れる。だから、熱の状態とは、精神的な供儀の、外的な、物質的な表現である。実際、宇宙の中で、熱を知覚するときには、その背後にある、天使たちの供犠の、外(物質)的な表現なのである。 熱は、いわば幻想で、熱の背後には、精神的な存在たちによる犠牲行為という現実がある。だから、熱を正確に特徴づけるなら、「宇宙の熱とは、宇宙的な供儀、宇宙的な犠牲行為の表現である」というべきである。 また、トローネたちが、その犠牲行為をケルビムに捧げると、現代人が呼ぶ、時間が同時に生まれる、のを述べてきた。既に触れたように、「時間」という現代の言葉は、これから述べる出来事に、それほど適合しない。ここでいう「時間」は、今日感じるような「前に」や「後で」というような抽象性=順序性をまだもたない。 時間は、「人格の霊」、もしくは「時間霊」とも呼ばれる精神の存在たちの、外(物質)的な姿として始まった。「時間霊」は、太古における時間の表現で、トローネとケルビームの所産である。とはいえ、時間のような側面を持つ存在たちが、古「土星」上で生まれたのは、土星の天使たちの、犠牲行為があったからである。 熱の背後に立つ存在を、本当に理解するには、外的、物質的概念だけを適用すべきではなく、熱という言葉を使うとき、熱は物理的概念であるのを思い出せば、その熱ではなく、精神的な、「魂の」生活の、つまり、魂の道徳的な生活、叡智に満ちた生活から導かれる、熱の概念を適用すべきである。 自分の所有物、自分の持つもの、自分自身さえも、喜んで捧げる行為の意味が、想像できないと、精神的な熱は理解できない。必要なのは、霊魂の観点から、自分自身の存在を捧げる行為、自分自身を意識的に諦める行為の意味についての理解に至ることである。 言い換えれば、最良の自分を、世界の治癒のために与えること、最良の自分を、自分のために取っておくのではなく、宇宙という祭壇の前に捧げる行為について想像できなければならない。もし、この精神的な行為を、生きた概念として、人間のなかの感情として把握するなら、熱が生じる背後に立つ存在への理解に少しずつ導いていくだろう。 現代生活においては犠牲の概念が何と結びつくのか、を想像してみる。つまり、自分の意に反して、意識的に犠牲を捧げるとは考え難い。もし、自らの意志に反して、犠牲を捧げるなら、それは圧力を感じているに違いなく、強制に違いない。 しかし、この土星の供儀は全く強制ではなく、この供犠は、自主的に捧げられた行為である。もし、外的な強制や、行為に対する見返りの、期待無しに、内的に促されるのを感じて、無私の犠牲を捧げれば、内的な熱と至福を経験するだろう。 内的な熱と至福で輝くのを感じ、それを表現するなら、「犠牲を捧げた後で、熱の浸透を感じ、至福で輝く」などで記述できる。外(物質)的な熱という幻想のなかに、犠牲の輝きが、近づくのを経験できる。熱がある処では何処でも、その基盤に、霊魂の現実がある、のを把握できる人だけが、熱を真に理解できる。 熱とは、犠牲の喜びを通じて存在し、活動するものである。熱を、このように経験できる人なら、物理的な熱という現象、つまり幻想の背後に存在し、隠されている霊的な現実へと到達できる。
2024年02月01日
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