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ネットフーテンの寅さんをしていると、様々なネット界隈、特にオカルト系動画で、縄文時代に回帰すべきという思想に遭遇する。縄文時代といえば、以前紹介した遺伝子解析による縄文人遺伝子分布などから、大陸から渡来人が来る前は、大体8つの地域に分かれる、のを紹介したが、その8つの地域分布から、八切史観の八つの王朝の古代史を紹介したわけだが、改めて考えてみると、この国の政治体制の現状をみれば、中央集権化が破綻してきている、のがわかる。以前紹介した理論物理屋の保江氏などは、日米地位協定を脱するために、東京都が独立すべきという、地域分権の、独立連合国家像を提唱している。保江氏は、東京都がバチカン市国のようになるのを想定している。それはともかくも、大きな周期的な時代の流れとして、火星紀から水星紀のアクエリアスの水瓶座時代が到来しつつあるので、この国はフレキシブルに変わっていく必然性が感じられてくるわけなんである。被差別民による裏日本史の八切史観によれば、現代にもまだ残る上級国民による下級国民への差別が、そもそも大陸からきた弥生渡来人が持ち込んだ仏教カースト制度に由来するのがわかる。近年の身分制度を大まかに振り返れば、英国などの外国勢力による明治維新で、表面上は四民平等になったが、裏では明治政府による棄民政策で、庶民が臣民とされ、従来のお上の権力は、薩長閥らの官僚制として残ったが、日清、日露戦争と、植民地獲得に連れて、大日本帝国が拡大していくうちに、帝国陸軍の親ソ、海軍の親米で分かれて、分裂し、終いには太平洋戦争敗戦のポツダム宣言受諾で、占領軍GHQにより、米国憲法を経て、日本国憲法成立下に、臣民が国民となったわけなんだが、いまだに議員や官僚が上級国民として国民を支配しているのは否めない。そして、八切史観の古代史から考えれば、白村江の敗戦で仏教カースト制度になり、明治維新で、薩長官軍藩閥制度になり、そして太平洋戦争敗戦で、GHQ統治下の米国風の国民制度になったといえるかもしれない。だから、縄文への回帰思想には、この国の住人にまだ、天下りや、お上意識がなかった古代人の意識に戻れという意味にもとれるわけなんだが、肝心要の、霊的な意識を回復させずに、物欲や権力志向の、唯物論者のままだと、かえって地獄に堕ちるだけでもある。しかし、中央集権化による東京一極集中には、特に政治面で、限界を露呈しているようなので、そこで改めて道州制について考えてみたい。2025年道州制モデル道州制 - Wikipedia道州制とは? - 総合政策部地域行政局行政連携課道州制 3つの誤解|日本総研道州制をググると、以上のような、サイトがみつかるが、ほとんどが道州を10以上にわけているのがわかる。現在考えられている道州制は、縄文時代を全く想定していないので、縄文回帰思想から考えるには、以前紹介した縄文人多型遺伝子分類を改めて紹介するが、以下のように8つにわけられる。 ☆ ☆ ☆図録▽DNAから見た県民相互の類似性と縄文人・渡来人度次に、各地方ブロックにおける特徴を整理した。意外なのは福島より山形の方が関東に近い点、埼玉が関東より中京圏に近い点、四国の中で愛媛が関西に最も近い点、山口は中国というより九州である点などである。北海道北海道は東北の北には位置せず、東北と近接もしていない。むしろ関東の一部のような位置に存する。アイヌの人々が含まれていないせいだが、基本的に明治維新以降に本土から広く開拓民が流入して開かれた地域なので、遺伝子的にも入植者の出身地の平均の位置となったのであろう。東北東北各県は距離的にも相互に離れているが、遺伝子的にも距離がある。しかし、他地域とはやはり区別される位置にある。青森と岩手が最北に位置し、最も南に位置する福島も関東からはかなりの距離がある。「白河以北一山百文」という言い方がまさに当てはまるのではなかろうか。東北に対するこの蔑称に抵抗する意味を込めて、宮城県仙台では「河北新報」が創刊され、旧盛岡藩出身で平民宰相といわれた原敬は「一山」と号したという。なお、山形だけは地理的位置とは食い違い、福島よりかえって関東に近くなっている点が目を引く。これは山形が関東に近いというより、日本海海運と最上川舟運を通じて古くから東北以外との交流が深かったためであろう(図録7810参照)。関東関東各県は比較的にまとまった位置にあり、古くから相互交流がさかんだったことがうかがわれるが、埼玉だけは南にはずれており、むしろ岐阜に近い位置にある。関東の中では渡来人の入植が多かった影響なのかも知れない(うどん好きもそれと関係あるかもしれない)。中部・北陸(福井以外)関東と近畿の中間のこの地域の代表は、愛知と岐阜であり、位置的にも中間に存在する。これに対して、山梨と新潟はほとんど関東とダブっており、古くから関東との交流が密だったことが分かる。普通、北陸に区分される福井(23番)は近畿の一部の位置にある点に注意が必要である。また北陸の富山、石川はほとんど近畿と位置が接している。近畿(福井を含む)関東と同じように各県が比較的まとまった位置にある点と全国の中で渡来人的要素がもっとも強い地域である点が目立っている。京都と和歌山がエリアの南北端に位置するのも何となく納得できる。中国タテ軸方向では北陸や近畿と同じ位置にあるが、縄文人由来の側面がやや強い点が特徴の地域である。山口は、通常は中国地方とされるが、遺伝子的にはむしろ九州エリアに位置している点も目立っている。四国地理的にも文化的にも関西圏の一部と考えられる香川と徳島が近く、西半分の愛媛、高知が近いはずだという想定に反し、遺伝子的には、近畿に近いのは香川と愛媛、特に愛媛であり、この2県から一定の距離を置いて徳島と高知がほとんど同じ位置に存在している。九州タテ軸方向では近畿・四国と同じであるが、縄文人由来の側面が中国地方よりさらに強い点でまとまっている地域である。ただし、鹿児島だけは南方向、縄文方向に片寄っており、九州の他の県とはかなり性格を異にしている点が目立っている。沖縄縄文人由来の遺伝子がもっとも濃い点で他地域とはかなり異なった位置にある。 ☆ ☆ ☆この遺伝子多型から、歴史を探ると、薩長同盟の由来が、山口と鹿児島の縄文人度合の強さ、つまり縄文人分類からすれば、長州藩が実際は九州圏だったのがわかる。ただし九州のなかでは、大分が四国の影響でやや渡来系に偏っているので、福沢諭吉のような開国派の人物を出したのかもしれない。また、大阪人と京都人の相性が悪いというのも、京都がほぼ渡来系なのに、大阪と兵庫にはやや縄文系の血が混じっているせいかもしれない。面白いのは、人種的には、ほぼ渡来系の京都に近いのが福井や和歌山、奈良、滋賀、そして四国の高知や愛媛、徳島で、やや縄文系が入っている、大阪や兵庫、そして四国の香川とは遠いところである。だから、京都人が大阪人を下品と感じるのは、縄文の土着の血を感じるせいかもしれない。また面白いのは、東日本のなかで特に渡来系が多いのが埼玉で、周囲の県からダサい玉と差別されるのは、渡来系の入植民が多いせいなのかもしれない。現在ではクルド人の移住で話題になっているのも、埼玉が東日本で唯一の渡来系の土地で、縄文系の少ない、移住しやすい文化のせいかもしれない。三富地域の歴史 - 埼玉県このように遺伝子多型による、縄文~渡来分類から、改めて、道州制を考えると、渡来系に近い、近畿、四国、中部北陸と、渡来系と縄文系の中間の、中国、関東-北海道、そして、縄文系に近い、東北、九州、沖縄にわけられる。この図からくる8つの分類が、大きく渡来、中間、縄文の3つにわけられ、関西弁訛りが多い近畿とその周辺が渡来系、標準語に近い訛りが多い関東や中国の中間系、そして、標準語では理解不明な訛りの多い東北、九州、沖縄が、縄文系といえるかもしれない。だから、渡来系の近畿、四国、中部北陸の、俗に関西弁の、西日本の方言が、上方言語といわれるのは、大陸渡来の仏教カースト制度に影響を受けているものと思われる。面白いのは、渡来系と縄文系の中間が、中国、関東、北海道で、上方言語を打ち消してしまう標準語に近い訛りになっているところで、縄文系の九州、沖縄、東北は、上方言語や標準語とも全く無関係な言語体系を持つ、と考えられるかもしれない。近畿方言 - Wikipediaこのように、日本語の方言からも、大まかに、渡来、縄文、その中間と3つに大別されるが、更に3つのなかで、フラクタル構造のように、3つに分けると、9つにわけられる。だから、まとめると、渡来系の近畿、四国、中部北陸、縄文系の沖縄、九州、東北、そして中間の、関東、北海道、中国となる。これら遺伝子多型による縄文系-渡来系の分類を、更に全体像から、詳細にみるために、YAP遺伝子で有名なY染色体ハプログループの分布から以下のように改めて考えてみる。以下に紹介するウイキのサイトから、「ハプログループD1a2は今より約45,000年前から約21,000年前までの間に日本列島にて発生したと推定される型である。」で、恐らくこの型が沖縄に多いので、縄文系のルーツとなる有名なハプロタイプDEのYAP遺伝子にみえる。また渡来系として伝来したと思われるハプログループC1a1(M8)の祖型の移動ルートは謎に包まれている。」らしい。Y染色体ハプログループの分布 (東アジア) - WikipediaハプログループD1a2a (Y染色体) - WikipediaハプログループC1a1 (Y染色体) - Wikipedia更に世界地図で示すと、以下になる。ハプログループ - Wikipediaこの図はあまりに、大雑把すぎて、沖縄の縄文系D2がみえなくなっているが、要するに、縄文系はハプログループD2で、渡来系は、ハプログループC1というよりも、ハプログループO2bもしくはO3eと考えているようである。ハプログループO (Y染色体) - Wikipediaこのように、遺伝子解析から、この国の政体を歴史的に遡ると、都会に出てきた人が、田舎に帰るように、明治政府により、上級国民と下級国民として差別化され統一化された中央集権化の基準も、8つ以上の政体に分権化でき、地方分権化への道標となるかもしれない。このように、この国の地方分権化への可能性を探るために、被差別民のサンカの縄文人から、裏日本史を解き明かすために、前回に続けて八切史観を紹介する。 ☆ ☆ ☆(前回紹介の続き) なにしろ各時代の権力者によって、日本歴史は都合よく美化され創作されているにすぎないのは、各会社が自費出版して得意先や関係会社へ配付している社長伝や社史と同じことである。それゆえ歴史を受けもち講義する者は、恩師に対し弟子として領分からはみ出さぬようにのみを心がけて、昇任昇給だけを望み、隠れたベストセラーともいえる文部省検定歴史教科書をだせるようになって、莫大な印税を得られるようになりたいとの願望だけのみであるらしい。 それゆえ、騎馬民族は日本海を渡ってきて裏日本へ入ってきた潮流学を無視して、日本書紀に合せ鴨緑江をわたってクダラ人みたいな騎馬民族とし、体制に合わせ江上教授も発表した。大伴家持が飼戸の「四つ」の奴隷頭ゆえ、いくら働いても認められず癪にさわって飛び込み憤死したのを、日本書紀に辻つまを合わせてた梅原教授も、今では学長にまで昇任した。みなお利口さんは御用歴史作家であるが、彼らとて歴史の講義をする教授ではなく、他科目の教授である。というのは、いくら体制べったりにそっての、事なかれであっても、歴史畑であれば、恩師が言っていないことを発表するには、立場が拘束されていて、絶対に不可能のせいだろう。 つまり監督官庁の文部省の指導方針にそい、恩師の口ききがなくては立身出世の途がひらけぬからである。他の考古学畑にしても、やはり親方は文部省で、宮内庁の権威が影についているから、少しでも日本書紀からハミ出しては、枠内からの落ちこぼれとみなされてしまう。世界最大の墳墓といわれる仁徳陵の発掘を、絶対に宮内庁が不許可にしているのも、日本書紀に記載されているのとは、どうも違う結果がはっきりしていて、はたして仁徳陵といっても、どなたが埋められているか判らぬといった危惧があるせいらしい。なにしろ学校歴史では、「民のかまどは賑わいにけり」と高屋から望みみられたもうた御情け深い御方となっている。しかし、民のかまどから炊煙が絶えるくらいに搾取され、暴動を怖れて淡路島へ待避しておられたのが、浪花へ戻られ、また高所から民の有様をご覧になり、そうおっしゃられたというのは、恐らくまた戻ってきて、これなら課役が増やせて良いと、のたもうたのではあるまいか。 広大な仁徳陵と称せられるような大規模なものになると、ブルドーザーもなかった昔ゆえ、何千どころか数万の奴隷が鞭打たれつ何年も働かされて構築されたものゆえ、古代史の中では、奴隷社会の始まりといえよう。もちろん同国人を奴隷にしてまで、ひどく酷使できる筈はない。となると、鉄製武器をもって渡来された方が、原住民である日本縄文人を捕え働かせたものとみるが至当で、珍、讃などと中国からよばれた五王の四世紀初頭の捕虜課役大工事だったろう。 産業革命以来でも、主だった発明や発見は、みな専門分野の者ではなくて素人だったという。現在の天気予報でも、気象衛星まで使っているオカミよりも民間のお天気おじさんの方が確率がはるかに高いみたいに、天文学でも新星を発見するのは日本でも学者と自認する人たちより、素人で見つけている例の方が多い。歴史の分野でも、やはり保守的な日本書紀派より、畑違いの人による解明の方が、昇進とか教科書作成といった夢をもたぬだけに、きわめて大胆である。 私にしても、父方と母方の宗旨違いで、亡兄の入籍に数年かかり、ようやく届出ができた時には、当人は小児急性肺炎で天野病院で亡くなっていたので、またもめるのは厄介だからと亡兄の戸籍をその侭で引き継がされ、名も生年月日も亡兄のもので、私には本当の名も生れた年も知らされていない、さながら透明人間みたいな存在ゆえ、たえずそれに悩み自殺未遂も何度もして、「真実とは、はたして実存するものか」と、過去の具象としての歴史を、まことに本当なのかと生まれてきた時よりの挫折感を、なんとかして打破しようとして取り組んできてしまった‥‥ 初めは当時の日本へきていたイエズス派資料という裏付けのある戦国時代から検討して入ってゆき、「信長殺しは明智光秀」するのも、光秀のライバルだった秀吉、本当の黒幕は家康だが、仏敵と信長光秀をみたて負けた石山本願寺の一向宗の今の本願寺派が説教節できめつけてしまって、日本全国の居付き部落に説教僧を送り込み、面白おかしく説教にして定説化しただけと判りもした。 美化というか天下一の豪傑とされる山中鹿之助も、本当は殺人鬼みたいに毛利方を、片っ端から討ちとったのではなく、相手方がへばっていて「頼まあ(タンマ)」と声をかけ、「後日に銀一貫匁を支払うものなり」と矢立で紙にかきスタンプ印鑑のなかった時代ゆえ掌に墨を塗って押し渡したのが、約束手形の始まりで、首落し前の談合ゆえ「落し前(をつける)」という。 紙がない時には口約束ゆえ、「武士の言葉には二言はない」といった用語も残される。江戸期に入っても外出の侍が「懐紙」といって夏でも白紙を大切に持ち歩き、今でも財布のことを「紙入れ」とよぶのも、万一の際に落し前の約手をかくための大切な用紙だった名残り。 プロとは、今のプロレスみたいに、やたらに致命的な負傷などはせぬもので、山中鹿之助は約手をとっても集金せずだったから、彼を生かしておいては後に毛利の家中の者が迷惑すると、「約手のパクリ屋」なみの毛利方の者によって、上月落城後、備中合の渡しで殺されたのである。だから、その伜が大阪で鴻池の店を開くにあたって、約手の決済をしてなかった連中が銀を集めて送って開店させたのである‥‥といった従来の歴史とは相反する資料が得られたが、発表すると、勇ましい講談を頭から信じこんでいる人々からは、ただ意想天外とされたにすぎぬ。 しかし尼子方は滅亡しているから何も残っていないが毛利方の「吉田篭城記」によれば、「本日の合戦は、先手の者は石つぶてに当り一人傷つきたれば全軍とって返す」と、あまり殺生沙汰はなかった記述が多い。常識で考えても人口の僅かな時代に、とっては投げ突き刺して殺すみたいに派手にしていたのでは、みな死に絶えてしまって両軍とも戦う者がいなくなってしまう。 美化というか勇壮化されて伝承されているものの、プロの武士道は、落し前をつけるだけのものが本当の処。となると中世紀の宗教戦である戦国時代の前は、どうなるかと問題になる。江戸期でさえ、「やつこさんは辛いね」とか「奴女郎」の名称があり、「町奴幡随院長兵衛」は勇ましく水野十郎左に突き殺されるが、奴とは寺の奴隷のことゆえ、寺奴で、仏教側のガードマン。 とすれば後までそうだとなると、古代史とは、縄文日本人が権力者によって鉄製武器で征服された弥生時代が、日本の古代史つまり奴隷社会の始まりということになると、それへ突入し真実とは何かと逆のぼって解明していったのが、この入門書をかきだした私のノートともいえる。何故に歴史を知りたがるか「一文にもならぬ事は誰がする」といった国民性なのに、向学心ではなくて頗る歴史好きが多い。若い人では中学生ぐらいから、なにか歴史に魅かれだしてしまう人も相当にあるようです。そのうちに高校受験とか色んな口をあけて待っている世の荒浪に呑みこまれ、就職、生活と暮しにおわれて、それっきり歴史願望から離れてしまう人もないではないが、子供が一人前になって手放れしだすと、また歴史探求に取りつかれたように、戻ってくる人も、女性では多い。 それに近頃の現象は、50代になり、ようやく我に返りはしたが、今さら華道や手芸でもないという女性が、何かしら生きざまを求めるみたいに真実をと歴史の中へ突入してくる向きもいる。もっと高年齢層で、死ぬ前に本当のことを知ってから、この世から別れてゆきたいという安心立命型の方も、そう沢山ではないがいらっしゃるのは、十万余枚の年賀状を熱心な読者から頂くが、その内の二百枚余りが、老人ホームの住処だったから、そう明確に、私は言えるのである。 まあ父から祖父母の代まで逆のぼって判る自己の歴史は、せいぜい半世紀がよいところだろう。「あなたの御家系図をお好み通りに作製。古代錦仕上げ、虫くい桐箱入りは十万円にて」などという大阪の何とかの友社からの広告が、今でも歴史雑誌にはよく見受けられる。「死せる子は、みめよかりき」とか、大正から昭和までは身投げした娘は、実際は水ぶくれで、ふた目とはみられぬものなのに新聞記事は、故人に花をもたせて「水死美人」といった熟語を作った。 だから「死んだら天国へゆける」と考えるみたいに、「飛び込めば、水死すれば美人になる。なにしろ新聞にでているくらいだから間違いない」と、生きていては死ぬまで美人と呼んで貰えぬ娘さんが整形美容の流行せぬ時代だったので、美人とよばれたい一心での投身自殺があまりにも数多く、処置に困って「水中美人」なる熟語の使用禁止を各新聞社では申し合わせたことがある。「過去は‥‥過ぎ去った昔は美しい思い出である」と水中美人なみに歴史もかつては扱われた。中学生を対象とする歴史雑誌の読者欄などでは、まず女史中学生の沖田総司讃美、そして次は、「自分の先祖は、江戸時代には何々大名の城代家老だったそうです。何か御存じの方は御教え下さい」とか「太田姓をもつ方は集まって先祖の話をしましょう」などとあるのがすこぶる多い。 ここまでくると日本の歴史は芝居や講談からのものだけだと、情けない想いにされてしまう。「城代家老」などという呼称は、仮名手本忠臣蔵が、時代設定を足利時代にし、大星由良之助をも架空のこうした肩書きにして、おかみの取締り逃れにしただけのものであって実存ではないもの。「城代」というのは武臣派で、野戦の時に城代りとなって殿を守って戦うため、師団長大隊長聯隊長中隊長といった具合に、組頭が下にあって、それぞれ戦場で生死を倶にする者らが堅に累っていて、浅野家でも岡林杢助が壱千石の城代で直属の部下二百名を擁していた。「家老」は「お羽織衆」といって、作戦の際には、糧まつ、兵の食糧や馬糧をととのえ、勘定奉行を監督し年貢の取立てをするのが平時。赤穂では、お浜方の塩問屋木津屋などを取締まるだけの仕事。だから直属は若党二人に仲間一人で、士分の者など大石内蔵介にしても一人もついていない。まったく別個の役目のものを二つくっつけてしまっているのだから、赤穂浪士討入りの真相さえも、討入りを美化してしまって、今では判らなくなっている。岡林は旗本松本孫左衛門の弟で岡林家へ養子に入ったのだが、公儀では前京町奉行で当時は江戸南町奉行の松前伊豆守が、後で始末のつけやすい文臣派が本所松坂町周辺に町人に化けて住みつくのは黙認。(坂本勝説) しかし武臣派の者は岡林一人だけは入府を許したが、他は六郷川の先の川崎から江戸へは入れなかった。京へ昔からの大判小判を送り堺の中村内蔵介に胴を倍加させて元禄小判に鋳造し直させ、通貨を倍加させた張本人の柳沢吉保は贋金作りの秘密が露見するのを惧れ、急に隠居すると言い出した総宰領の吉良上野介を挑発し、抜刀させ処分しようと田舎大名の浅野をよんで、みづから当日の朝に言いつけ。失敗すると口封じに田村邸へ唐丸籠でおくりこみ、門内に入り駕をあけ首を出した処を背後から一刀両断。片岡源吾に引き渡された遺体も大紋姿の侭だった。 吉良が上杉よりの弐万両で自費で建てた呉服橋の邸を柳沢は没取して、代りに騒動を起こしてもかまわぬ辺ぴな本所二ツ目の近藤登之助の古屋敷を与えた。剣呑なので吉良上野介は狸穴の上杉中屋敷へ妻三姫に匿われていたが、いよいよ米沢へと別れの茶会を催すのには上杉邸ではまずいからと、初めて本所へ行った。それを大高源吾に急報した四方庵山田宗偏は、京所司代から贋金作りの功で一万を加増されて老中にまでなっていた小笠原備後守の代々の家臣である。当夜、神戸市刊坂本勝編の「赤穂浪義士事典」によれば、討入りにかけつけた細井広沢にしても、「殿よりの下されものの卵であるぞ、寒いゆえ精をつけて行かれるがよろし」と激励したが柳沢吉保の三百石の儒臣ゆえ、殿とは柳沢吉保のことで、やはり口封じに文臣派を斬りこませ、彼らをまた口封じに柳沢が全員へ賜罪。それでもって一切が有耶無耶にされたゆえ、明治になると、「私利私欲をはからなかった、まこと清廉な政治家」として、追贈正三位にもなっているのは、「オの字忠臣蔵」「元禄泰平記」[共に八切氏の著書]の本に詳しく出ているが、江戸時代その侭なのが今の学校歴史。 つまり江戸時代の事でさえ、明治に世変りした時に真実がみな明るみへ出てもよかったのに、明治大帝が華族令をしき、「皇室の藩屏なり」と勅を出され、華族会長に徳川公爵がなってしまい、学士会がその下に入ったので、何も解明されず江戸時代の事実も匿され通しで、徳川時代の侭。 明治時代のことすら国民には知らす要はないと隠されている学校歴史しか教わっていないのに、一足とびどころか大飛躍して、古代史を探求したがる人が、きわめて多いのには愕かされる。日本史と対比できる唯一の史書として「魏志倭人伝」が、ひっぱりだされて、白髪三千丈的の誇大化を美化する国のものなのに、これをそれぞれがみな、自己流に解釈して一冊にしたものが、「耶馬台国はどこか」とか「ヒミコは美女だったか」、と興味本意で、ひどいのは知名度を利用して、「ヒミコが天照大神」といった類の本までが、訳けも判らぬままに、歴史まがいで次々と出版。 書店の古代史部門のコーナーへゆけば、こうした類の本の羅列である。いくら頭の良い方でも、こうした本から読んでいったのでは、とても真実への追求など無理な出来っこない話である。日本書紀も古事記も今日われわれが拝しうるものは江戸時代に、焚書に次ぐ焚書で消滅していたものを、屏風や襖の下張り用紙とし残存し関西で発見されたものを下敷きにしたものであるとは、詳しく後述するけれど、西での発見ならば、これは第三次勧学院のものであってトウ[唐]製である。 第四次第五次の日本書紀は鎌倉できだから、東で発見の筆写本の残片でなくては、判る筈はない。が鎌倉が北条九代で終わってしまった後は、足利体制は「白旗党余類」の名で、室町文書に書き残されているよう蘇民の源氏を、みなアミかけで散所奉行によって居付き(五木)部落へ、今いう橋のない川のゲットーへ連行収容。その居宅は家ごと燃されているから写しの残存もない。「せっかく大同団結して富士王朝、回復をめざしたものの、追われた日本原住民の蜂起(年号では宝亀)は、後の平氏、平民で『八つ』とよばれた太平洋沿岸に這い上がった西南よりの俗にいう古代海人族は、今の田子浦から江尻、大井川まで、アイウエオ(秋田、胆(夷)沢、宇賀、江刺、雄勝)を先登に逆攻」日本海をベーリング親潮寒流で沿海州から六時間、白頭山の羅津からなら四時間で能登半島や新潟につく。崇神王朝の曾孫ヤマトタケルノミコトが、伊吹山中で、竹内宿弥の廻し者に供された中国産のチン毒にて歿せられてより、騎馬民族ゆえ四つ足とか四ツとよばれた連中は箱根越えに進攻。藤原王朝が身代わりにたてたクダラの桓武帝は天険の長岡へまで待避されたが、やがて富士山の大噴火によって撃退できると、先住民を限定の囲地のセンゲンに封じ込めにした。 今では信州のアサマと同じ浅間の当て字がつけられている。このセンゲンは、出雲節にでてくる安来千軒と同じで、幕末の黒駒の勝蔵が金を掘りに行った千軒とも同じことで、先住民の収容地で先住日本人の隔離収容地のことではあるが、橋のない川の土地ゆえ出入りは不許可だから、「居付き」ともよばれる。歌手の五木ひろしにしても、徳間音工に入社してから歌が巧くなってレコードが売れだしたのではなく、五木と39回目の芸名を変えたから、かつてイツキに収容されていた人々の子孫がレコードを買いだし、それで大人気歌手になれたし、「厳戒令の夜」をかいた作家も、やはりその苗字で人気がある。昭和初期までは、井口は山手樹一郎。藤野は山岡荘八。清水姓が山本周五郎と大衆に信頼されるヤ印の筆名にし韓国人の立原正秋も日本名でかいた。 しかし全人口の一割や五分が奴隷では、残りの人々の食糧増産など出来ようわけはありえぬ。西暦663年に郭将軍が御所に入って、藤(とう)原鎌足と日本名をつけて、藤原王朝をたて則天文字つまり漢字強制当て字令をだした頃は、彼らの軍隊ははじめは二千に人夫や軍属。それに一旗組として渡海してきた者を含めて二万人だけ。レジスタンスをしていた連中や山や海へ逃げ込んでシノガラのサンカになった人々の他はみな降参させられ、日本原住民は奴婢にさせられた。 七世紀に日本列島には何人いたのかの記録はない。しかし白村江の戦いに連行されていった日本原住民の「四つ」の飼戸の民。つまり戦奴が二万七千とあるから、水軍奴隷として伴われた「八つ」の海人族も別に半分はいただろうから、計四万が総動員数。明治36年の町村役場兵事課に対しての軍部よりの動員計劃では、老幼を含めた人口百に対して壮丁一人の割合だから、その割で逆算してゆくと人口四百万になるが、それを半分と押さえてみても二百万人の者が奴隷として、「クダラぬやつ」「クダラぬことを言うな」と、人間扱いされなかった働き蜂非人だった事になる。 それにクダラが敗戦して日本列島のクダラ人も奴婢にされたから四百数万となるが、新しい主人となったのが二万ゆえ、奴婢の割合は、5パーセントや10パーセントは余りにも過小評価で、二百の奴婢で一人の御主人さまに仕えたのが正しい。のち桓武さまの時より、クダラ人は、貴賎の大宝律令の中で良に格上げされ、戦国時代からは「四つ」の騎馬系の戦国武者がブシン(不信)と蔑まされていたのを「ン」をとって武士とよぶ新興階級にのし上がったから、非人とされる奴婢階級は半減し百対一ぐらいになった。 が大岡忠相の貞亨年間に、現在のアメリカの各州なみに、各大名領ごとに国法が違っていたのを、五街道で一斉に取締まろうと「八つ」の海人族の流し行商や旅芸人の道(堂)の者らに朱鞘の公刀と捕縄をわたしてハイウェイパトロールなみに道中探索の御上御用を命じた。後には街道ごとに縄張りを決め合って、鉄火場を開帳してあがるテラ銭で費用にあて、「御用ッ」「御用ッ」と捕物をやらせ、日没になると、彼らに「お客さん遊んでいらっしゃい」と客引きに使う。つまりテレビや講談で悪くいう二足草鞋が、実は公認の本可打ちで本物なのである。 のち幕末近くになると、抜刀禁止令の法破りしだしたので、うっかり召捕りにゆけば怪我をするからと、分久二年までに各地の親分は朱鞘の公刀を返上し縄張りをして、香具師に総転業。そこで空き巣狙いみたいに、半可打ちとよばれていた素人(ねす)あがりの連中が、その縄張りの奪い合いで、清水次郎長や天保水滸伝になっていったのは、私の<仁義と任侠>の本に詳しい。 つまり、彼らは明治までは非人扱いだったから、殺されても殺され損だと本可打ちは転業した後でも、やくざの喧嘩の殺生沙汰は寺人別には入っていない連中ゆえ、犯罪にはならなかった。つまりテレビや映画では郵便制度がなくても、郵便法で戸口配達のためみたいに、クマさんハッツァンの表札まで長屋の木戸口に掲げてあるような暮しぶりを見せるが、前途亨保年間の大岡忠相の道の者の街道目付ができるまでは、八つぁんの部族は居附部落に入れられて農耕、海浜では漁撈や製塩の課役奴隷だった。しかし同じ「八つ」の「道の者」が街道目付になると、目こぼしで街道へ出してもらえた。つまり、それまでの今の庶民はみな各地のゲットーに入れられていた。 領主や代官にとっては、住民をみな居付き部落に入れて働かせ、逃げ出せば逃散の咎で斬罪にできたから都合がよく、殆どが今いう部落であった。私の祖母の先祖も、この貞亨年間に、尾張の徳川継友が将軍吉宗の御庭番村桓左太夫に毒殺され、弟の奥州梁川三万石の宗春が後をついだが、やはり睨まれ家康の曾孫の彼が、「家康は世良田の次郎三郎だった」と公表したので隠居処分にされた混雑にまぎれて名古屋へ住み着いたのだと口伝えに大正の末に教えてくれた。 なんの生産もない江戸に人々が集まり、天保年間には人口百三十万の世界一の都会になった謎も、祖母の先祖らと同じで、道の者の街道目付の目こぼしで居付き部落から出てきた為らしい。しかし、どっと出てきても身体一つが元手ゆえ、馬方みたいな「四つ」は白褌。馬をつかわぬ駕かきや蓮台の川越人足は赤褌で「八つ」と、一見してる色分けで稼ぎをした。 江戸体制は、「四つ」の騎馬系の弾左衛門の下に「八つ」の車善七を、その下に四谷者。またその下に谷津者と交互に組み込んだ。相互に牽制しあって夷をもって夷を制させるのが治安維持の方法だったが、幕末になって、「八=弥次」「四=北=喜多」、今では簡単に野次馬とよぶが、反目しあう日本原住民どうしの両者の融合を狙ったのが弥次喜多道中記で、東海道膝栗毛の題名で濡れ場もないものなのに、貸本のベストセラーとなり、御一新の大衆動員の起爆剤となったのは今では余り知られていない。 幕末になっても限定地のまだ居付き部落に入れられ、界化の非人と差別されていた庶民が全人口の半分は越えていた。貞亨年間から部落抜けをして町人別や寺人別を銭で購って町人になっていた者を加えれば、総人口の八割以上はヤジとキタの日本原住民の末孫だったと考えられるのである。両親が認知すれば嫡子だが、父親だけしか認めねば庶子。つまり庶民とは、テレビ[ドラマ]の「ルーツ」みたいに、白人の旦那が奴隷女に産ませたのは、やはり奴隷として露骨に売るよりは、日本の方がましみたいに勘違いされるが、日本では徹底して全部がみな奴婢だったのである。古代史入門 3受難の日本書紀 学校歴史の古代史は、北条政子の歿った西暦1225年までを一括して、安易に教えている。という事は、七世紀の世変りを匿しこんでしまう意図から、十三世紀まで引っぱって延長した期間を、アミカケ方式で制定している。「日本人の歴史好き」というのは、なにも向学心の現れや、真実追求のものではないらしい。「侵略」を「進出」と変えてしまって、韓国や中国から抗議を烈しく浴びているくらいで、日本の歴史は、「臭いものには蓋をしろ」と、なんでも自分に都合よく過去は美化してしまう伝統がある。それまで幕末までは各地方面に、民間に口から耳へと伝承の歴史があったのを、東京を首都とし中央集権制度をとったから、日本全国を一つの検定した教科書で洗脳するみたいに統一教育を歴史にまで及ぼして、他の国ではディスカッションして覚えさせているものをば、暗記物にした。 だからして学校で教わる歴史では、さっぱり、どうにも呑みこめぬ人々が多く、そこで何とかして己れのルーツを知りたがるのが多く、これが歴史好みというか探求型にもなるのである。近江八幡で「解放」を発行している西川秀夫氏は、祥伝社、大倉精神分化研究所、日本シェル出版、光文社、琵琶湖研究会、新泉社、オリジン出版、秋田書店の出版物を名ざしでピックアップして古代史入門の手引にと並列している。しかしである。それらの本の中で注意したいのは、「日本書紀」や「古事記」を信用してか、それを参考にしている本だけは、絶対に除外してほしい。 なにしろ学校歴史で「西暦720年五月に、日本書紀三十巻成る」と教えているからして、さも、(いま活字本で廻っている日本書紀は、西暦八世紀初頭の編纂された唯一の日本史である)と誤っている方が多いが、私の「天の古代史研究」に詳しく解明してあるように、その六十年後に河内より高野新笠の御子を迎えて、人皇五十代桓武さまとなし、日本書紀をつくったトウの人々が昔の中ツ国、今の中国地方の岡山へ財宝をつんだ牛車の群れをひいて逃避行をしたあと。「彼ら弁髪は日本原住民どもが一致団結して富士王朝復活のため清見潟(今の田子浦)まで、怒涛の進撃をなして攻めてきたのに惧れをなして逃げてしまったのゆえ、もはや構ったことはない」とおおせられて、それまでトウ一族が、自分らが中国大陸から渡来とするよりも(遥かに高い天から下ってきた、選ばれた民族)とした方が恰好がよいから、おおいに美化するために創作した処の日本書紀だけでなく、六国史と称される他の史書類もみなことごとく一切合財を集めさせて、山のごとく各地で積み上げ皆これを燃やしてしまった。世にこれを「桓武焚書」といわれる。 富士王朝のアラビア文字を縦書きにしたような歴史書も、悉く集めて燃やしてしまい、オンモン日本書紀というような、ハングル文字の桓檀古記をタネ本にして、桓武さまの御先祖さまが高千穂峯におりてきたという、クダラ人に都合のよいように美化されて纏め上げられてしまい、ここに第二次の全面改訂の日本書紀の新版が出来上がったのである。 一時は長岡の山の中にまで逃げたが、賎から良に格上げしてもらえたクダラ兵は勇戦敢闘し、原住民を撃退、この時代が本当のナラ時代だが、彼らは威張って、「クダラ人にあらざれば人にあらず、非人である」と、教科書の「侵略」よりもひどい傍若無人。しかし驕る何とか久しからずである。 今でも「クダラぬやつ」とか「クダラぬことを言うな」といった言葉が残っている程ゆえ、桓武さまの血脈の続いた時代は日本原住民は討伐され奴隷に皆され、シラギやコマ系は、「蕃族」として追討された。現代のシラギが慶尚道人で朴前大統領もそうだが今の全大統領や金日成父子やその他南北の軍部も同じである。金大中はクダラ系だから釈放されても国外追放。 日本列島における確執だけでなく朝鮮半島でも、馬韓、辰韓、弁韓の昔から殺し合ってきた民族闘争の原点が桓武さまの時代でも、光州事件の現代でも続いているだけで、民族の血の流れというのは、二千年や三千年たっても変らないものである。ナチスのユダヤ人狩りでも判る。もちろん現代では、ユダヤがイスラエル建国以来アメリカのユダヤ勢力を後楯にして極めて強力である。 さて西南に向けて潮流が変り、瀬戸内の海から鉄製武器が、どしどし送られてくるようになった。初めは護身のための、影武者のようなつもりで王位につけたクダラ系にも援助して勝たせはしたが、やがて延暦十三年の富士の大爆発で、せっかく復活に団結して攻めこんできた日本原住民が、クダラの坂上田村麿に追われ谷底に生き埋めにされ、根つまり死の国へ皆送りこまれた。 ほっとして牛車をつらねて戻ってきたトウの人々は、もはや治安が回復したので、影武者の必要もなしとみた。そこで桓武さまの御孫の嵯峨さまの代になると、せっかく苦労して創作されたのを全部燃やしてしまったのである。が、トウの日本書紀は焚書後四十年も既にたっていたから、「勧学院」をもうけて、武器と共に渡来した医師や漢学者たちに、もう一度改めて「日本書紀漢学版」の作り直しをさせた。しかし一ヵ所だけでは、すっかり燃やされてしまった日本書紀を復元するのは難しく、藤氏一門は勧学院。和気氏には弘文院、王氏に奨学院といったのを、次々と設立させて、百済史の焼き直しの桓武日本書紀を集めて悉く燃やし、第三次の新々日本書紀は、高野山の中国渡来僧たちの綜芸種智院にも協力させ、バビロニア史の漢訳とも対比して今では、言われるごとく司馬遷の史記の中よりも、当てはめられる個所はそっくりいただいて作り上げた。 かくして第三回目の「日本書紀」は西暦833年の「令義解」ができた前後に書きととのった‥‥「桓武焚書」の一件は、南北朝時代の北畠親房の「神皇正統記」にも、はっきりと明記されている。が、これが今日そのまま残されている日本書紀ではない。藤原道長の全盛期をへて、前九年後三年の役、ついで、平清盛の時代にまた焚書されて、第四回目の新々日本書紀が、熊野権現で書き直され、新平氏こそ日本開祖の民族であるとしたものを作らせたが、これは壇の浦合戦で水没した事になっているが、この時の一部の書き直しが梶原景時の手に入り、北条政子に献上された。 頼朝を落馬死という事にし、ついで梶原、畠山、和田、と源氏の主だった連中を粛清してのけた北条政子は、鎌倉をオール平氏一色にしてしまうと、承久三年五月には、京へ大進攻をさせた。「阿魔将軍」と恐れられた彼女みずからが、陣頭にたって押し寄せるわけだったが、大切な北条平氏の女大将が、みづから鎌倉を離れては後が気がかりであると、甥の泰時が代って出陣した。 美化したがる通俗歴史は、夫の頼朝が急死したので、貞婦ニ夫にまみえずで、髪をおろして「尼将軍」になったとしているが、日本では仏教をもちこんだトウの者の他は、男も女も、坊主や尼の官忍の得度は受けられなかった。平氏の政子が尼になろうとしても、有髪の比丘尼だし、男は法界坊、法印の大五郎、日光の円蔵みたいに、くるくる坊主になれずで、吉原でゴザを敷いてカッポレを踊っていた梅坊主一座にしろ、剃刀をあてて奇麗に坊主に頭が剃れたのは明治御一新からである。政子が比丘尼になるわけはないから、古代史の最後を飾る彼女の画像は、後世の儒教時代の想像画で、それが今では歴史教科書の挿絵に使われだしたので、本当らしく誤られる。 富士王朝の残党ともいうべき北条政子は、夷頭(伊東)に逃げ、潮をくんで製塩。漁撈をして塩魚にして銭にかえ、トウ派遣軍には非人扱いされていた積年の恨みの積み重ねの報復として、藤と名乗る公卿の主だった者を斬首。後鳥羽上皇は鳥も通わぬといわれる隠岐の小島の石牢。順徳上皇は佐渡が島の土牢。土御門上皇は土佐へ流罪。そして京御所を監視するため六波羅探題を南北におき見張り侍所をおいた。平政子は生前に大江広元に命じ、かつて梶原景時が入手した平の清盛の第四回目の日本書紀をもとに改訂第五回目の日本書紀は出来上った。しかし北条時宗の時に、(かつて沿海州から親潮で佐渡や能登へ渡り、蘇我氏として栄えた末孫の源氏を、北条平氏は打倒藤原のために、頼朝を担ぎだし散々に働かせた後、使い棄てみたいに主だった者を皆殺しにして天下を北条平氏のものとした。だから、沿海州から中国本土を席巻して、元の国をたてた騎馬民族にしては、占領した朝鮮半島の高麗水軍に命じて、源氏の仇討ちに失地回復のための進攻なり)と壱岐対馬の守護代より急使が鎌倉へ駆けつけてきた。 文永五年(1268)には、その噂通り、元の兵部治郎黒的を高麗人の案内で、正月十八日には太宰府守護の少弐資能に対して、高圧的な態度でのぞんできた。なんでも今では美化して恰好をつけたがる学校歴史では、このことすらも、「国信使をもって、元の国書や方物を献上し通交を求む」といった具合に「世界は一つ人類みな兄弟」みたいなことを記載している。だが翌文禄六年三月七日の条になると、はっきりと、「猛子使用黒的は、高麗人と共に対馬に立ちより、掠奪暴行の限りをつくし、降参した島民の手の甲に穴をあけ鎖を通して舷側に吊し曳行す」とある。通交の為にきた国使のすることではない。挑戦でしかありえない。やがて五年後の文永十一年十月、壱岐対馬から太宰府へ十万の元軍が高麗水軍に護衛されて来攻。守護代宗助国、平景隆は一族と共に、青竜刀や鉄ぼこに取り囲まれて玉砕、少弐、菊池の救援軍も苦戦したが、たまたま台風の目が突如として来襲。元軍十万の木造船は大暴風のために海底。時間稼ぎに翌1275年夏に、訪れてきた朴世忠ら五人の元の国使を、鎌倉龍ノ口で並べて斬首。翌年は再度来攻に備えて九州の筑前海岸一帯に石をつんで防塁を建造した。新興元が高麗水軍を先頭に攻めこんできて台風で悉く沈んだにしても、損害は高麗や新羅の捕虜兵だけなので、改めて来攻してくるのは眼にみえていた。それゆえ時の執権北条時宗は、(元が又も懲りずに攻めてくるというのは、北条開祖の政子さまが、散々に源氏を戦わせて平定すると、もはや馬のりは無用の長物と使い棄てに殺したり、双方で戦わせたことへの仕返しに意地になって失地回復に攻めてくるのだから、もしもの用心に、すべての証拠の書類は燃やすべし) 間柱所文書から、大江広元に書かせた改訂第五次日本書紀も、まさか次の次の弘安四年の来攻の十万の元兵も、台風で又しても海の藻屑になってしまうとは、神ならぬ身の知るよしもなく、万全を期して片っ端から文字のでている物は、みな集めことごとく焼き払って灰にしてしまった。「時宗焚書」というのがこれである。学校歴史では、元寇の実際も明白にしていないが、今もハバロフスク民族館の正面入口の扉の上には、沿海州人の民族章として大きな円形の笹りんどうの紋章がレリーフで掲げられている。つまり元は、日本では源であって、同じ民族なのである。 明治時代の内田弥八の「義経再興記」つづいて小谷部圭一郎の「ジンギスカン義経説」は、源氏の風俗や言語が、沿海州人の元の民族とまったく同じなのが裏日本から入ってきた源氏ゆえ、そこから連想されたもので、ここが判らなくては元寇の意味も判らぬし、ジンギスカン義経説の由来も、ただ奇をてらうものとしか想われないかも知れぬ。 が、バイカル号でハバロフスクへ立ち寄った者なら、源氏の笹りんどうの紋や、パンダがその笹を囓っているマークも見ている筈である。復活日本書紀の捨て石 古代史の範囲に入る平政子の時代の改訂第五次日本書紀は、元寇で上陸された時の用心に、北条時宗によって焚書されてしまったから、西暦720年に作成されたものとは全然、似ても似つかぬものとはいえ、日本書紀らしいものは第五回の書き直しの分で消滅してしまった事になる。「南朝こそ正しい皇統である。北朝とよばれる足利体制は、昔の耶馬台国と同じで親大陸政権どころか、中国より属国扱いをされているではないか」と厳しく論評した北畠親房にしても「神皇正統記」は残しえたが、桓武焚書によって当初の日本書紀は燃されてしまった事実を述べてはいるが、第三次、第四次、第五次の日本書紀にふれていない処をみると、どうも、A第二次桓武製オンモン日本書紀は長岡京から、中国人が坊都とし造営した平安京つまり今の京都へ移る時に、写しはもっていったが原文は匿し長岡京の何処かに埋めてきたらしいこと。B勧学院の第三次漢字版日本書紀は高野山の中国僧たちまで手伝って藤原氏全盛時代にすっかり初めから新しく書かれたものの、平清盛の時に、熊野権現で別個に書かれたものと入れ換わる。Cその第四次日本書紀は、清盛の歿後に福原で消滅したか、安徳帝と共に海底へ沈んだもので、その写しだけは鎌倉へ届けられたとみられる。でないと大江広元の記録所の書役で、平政子の第五次反藤日本書紀が、そう易々と、平氏側日本書紀に書き直されたものとは想えぬからである。Dこの政子が校閲したと伝わる第五次改訂版日本書紀は、その侭でもし伝わっていれば、これは反藤思想のサンカの倫理とまったく同じで面白いものだろうが、北条時宗の時に元寇を懲りずに繰り返して来襲してくる敵の真意が判り、もし元軍に上陸されて読まれでもしては、それこそ大変である、と問注所文書や記録所文書と共に、惜しくも北条時宗に燃されてしまっている。 つまり「時宗焚書」とか「元寇焚書」といわれて第五次までのものは燃やしては次々となくしてしまい、代った権力者の立場によって新しく、滅ぼしたのを蘇られてきたのが日本書紀。が国難の元寇による焚書の時は、もしもの時は殺されるとそれぞれみな探し、写しさえも残されていない。 江戸時代に伊勢の古い神官に保管されていた第四次のものらしい日本書紀を、珍稀本として刊行されたのが公儀の摘発する処となって、版元手錠で絶版にされ、関係したイザナギの神官はみな流罪処分にされた事件があった。戦前の三省堂の「日本歴史年表」には三行程だがでている。 まったく消え去ってなくなってしまった筈の日本書紀が、昭和の初めになると、皇国史観の黒板勝美によって、突如として蘇ってきて、活字本となって、大八州出版株式会社創立事務所より発刊されて、旱天の慈雨のごとくに軍や官だけでなく各学校からも求められた。売行の凄まじさに吉川弘文館が目をつけ版権の譲渡をうけ、歴史物出版社としての今日の大をなす基礎ともなった。出版制限の戦争中でさえも国民精神作興教育のため次々と刊行された。 そして、「神典」として、おおいに一般には、かつての教育勅語のごとくに普及。今も、吾々が手にとってみられる印刷された日本書紀の本はこれである。魔術のように、ない筈のものが、突如として、「神は蘇りたまえり」と、前半は神話で後半が史書という奇妙な体裁だが、現実に皇国史観黒板勝美のものとして、堂々というか、出廻っていて、今では唯一確定的なものとして拝読されている。 という事は、日本以外の国の郷土史家というのは、それぞれ地方の伝承や古記録によって、己が郷土の歴史を探求しているので、それを綜合してゆくと地方別に明確な史資料が一つに纏まって、国の正しい歴史が形成されてゆく‥‥といった積木細工式ゆえ、隣接した他国との歴史とも対照していっても、その接している地方ごとの郷土史で真実はかなり明白になりうる。 処が日本ではそうではない。今ある日本書紀が元本となり、金科玉条のごとく、動かし難いものとされているから、郷土史家のものも、その地方の伝承や古記録を、いかにして今の日本書紀に結びつけてゆくかの方向にだけのみ専念して、まったく他をかえりみようとはしていない。「鵜飼歴史」とでも言うのか、一羽ずつの鵜がてんでに皆ひっぱられ舟の上へ戻され、頚をつかまれしごかれて吐き出させられたものは、鵜匠の手によって一つの魚籠の中に集められてしまう。どの地方の古記録も、みな今の日本書紀の内容に合うようにされてしまう。そして、それが正しいことに、官学の東大閥に認められ、他は黙殺されているのである。 だから日本の郷土史家は零から出発するのが歴史の解明なのに、今の日本書紀を原点とし、それを一としニ、三と研究の展開をしてゆく。しかし困った事に考古学という分野があって、整地の際に土を掘ったりするからして、今の日本書紀では「大化の改新の舞台であった板葺宮は、その後火災にて忘失」とあるのに、さて発掘してみると敷石にも焦げた痕もないのに驚かされて、今の日本書紀は怪しまれる。すると築地へ新築移転前のA新聞が稲荷山古墳で十余年目に121個の文字が発見。これをもってしても、今の日本書紀はまったく正しいものであるとマスコミが証明。 それでも効果があまりないとみると、手を代え品をかえて、大安万侶の木牌が炭やきがまの奥から見つかったから、西暦712年に完成された古事記も正しいものだと大新聞が連日発表。 古事記については後で解明するが、今の日本書紀が大新聞の権威によって、戦後も、「高千穂峯に天孫降臨」と、よし外国では相手にされないものであっても人民共への国体護持の、「聖典」というか「神典」とあがめられて、日本歴史の聖なる原典とされているのだが、なにも720年当時のものが、今までそっくり、ゼロックスコピーでとられ、伝わってきている訳ではない。 前章にも述べたように、第一次から第五次まで。その時々の体制によって都合よく作り変えられて、北条時宗の時までは実存した。が元寇の騒ぎで第五次のものは完全に燃やされた。「黒板勝美日本書紀」は「国史体系」として、編修された第一巻であるが、その序言にまず、「旧国史大系の時は寛文十三年に木版刷りで出版された松下見林のものを原底本となして、それに伴信友のものを参考にして編修をなして完成した」が、そののち大正三年に到りては、『国史大系六国史』の第一巻として刊行なした時は、八代将軍徳川吉宗が元文元年(1748)[1736?]二月六日に三の丸の紅葉山書物奉行に校訂させた「類聚国史」をも入手しえたので、これを参考にしてなんとか定本を作らんことに努めたり」と、徳川時代の原本なりとある。 つまりこれをみると、第六次日本書紀は北条時宗の時に消滅したのが、南北朝時代、足利時代、戦国時代には浮かび上がらず、390年後の江戸時代になって、西暦1673年の寛文十三年九月より延宝元年にかけて、大阪人の松下見林によって、ようやく再生された事があきらかになる。 彼は、日本書紀を四世紀ぶりに世に出したことよりも、「異称日本伝」「公事根源集釈」「職原抄参考」の著だけが、さも代表作みたいな扱いにされているのは、彼のごとき無位無官の者が再生させたのでは、日本書紀のせっかくの権威にかかわるとされたのか、明治以降は、故意に敬遠というか黙殺され遠ざけられて、匿されてしまっている傾きがないでもない。 なお大阪人ゆえ、近くの京の公家より出た故紙の中からでも底本になるものを見つけだし、それを下敷きにして書き上げたものらしいが、出処が京の公家つまりトウ『唐』の堂上かたとみれば、これは桓武焚書後に、主として勧学院で作り出された第三次の、則天(漢字版)日本書紀の反古紙で、何かの内張りになっていたものを、襖の下張りか、掛け軸の内ばりにするため京の故紙商が、かためて購入してきたものを、よってみて大阪の松下見林の許へ、「先生は、四角い文字のものがお好みだと伺いましたによって、ひとつ値良う買うて頂けませんどっしゃろか」と下張りにするよりは、高値にて儲けようと、持ち込まれでもしたものらしい。 版行に先だって大阪町奉行所は事前検問に京所司代に提出し裁断を乞うた。堂上公家の冷泉家を呼んで読ませたところ、トウ製のものゆえ別に反対や異存もなく許可がでたらしい。江戸表でも、だから、この第三次日本書紀は復刻なみと別にお咎めもうけずに済んだらしい。 さて伴信友は、若狭小浜の藩士で、本居宣長の死後に入門し、本居太平の教えをうけ、幕末の弘化三年までは生きたが多才博識。軟派では、「ねやのひめごと」の黄表紙本から、三百余の著作で、「長等山風」「神社私考」などの硬派本まである。もっとも有名なのは、水野忠邦の倹約令で江戸三座が今の浅草松屋よりずっと入ってゆく聖天町とよぶ弾左衛門地の草原に移された時、「先生、わしら芝居者を助けると思って、今までとは違って駕でさえ滅多に入らぬ草深い所へ移された江戸三座の為に、なんとしてでも、どかっと客が来るようなものを書いて下さらんか」と懇願されて筆をとったのが「両島英雄記」である。なにしろ当時の芝居の舞台は間口2メートル半しかなく、両袖のロウソクが照明だった。濡れ場ものなら、この広さでも出来るが、これは倹約令で御禁制。 そこで宮本無三四と佐々木小次郎の両雄が、九州巌流島で決闘の芝居をかいた。なにしろ槍をもって舞台へ出ては、それだけで一杯になって身動きができぬが、刀をもたせ、「雪月花」とよぶ躍りの拍子でチョンがチョンと、上段、中段、下段のからみで、しかも宮本無三四には両手に刀を持たせ、裏日本や東北でいう処の「張(チャン)バラ」を派手にやらせてみたのである。 これが江戸中の大評判になって、黄表紙本の方も売れに売れた。昭和になって軍部が、「明治時代は、桃中軒雲右衛門の赤穂義士銘々伝で、召集兵員の在郷予備教育はできたが、いつまでも大石内蔵介でもあるまい」と、国民精神作興に躍起になっていたので、吉川英治の書き直し、「宮本武蔵」は、おおいに剣だ剣だという尚武の敢闘精神で満州事変から大流行をしだした。 なにしろ主人公の武蔵は慕うお通さえも拒んで剣一道の武芸者で性 的不能の変質者みたいだが、ポルノは全面発禁の世の中なのに、同じ村出身の本位田又八の情事場面が二頁おきぐらいに、汁粉の逆塩どころか全体の半分も入っていたから、おかみの意向とは逆に心なき国民の中の青少年は、オナ ニー用に求めたものだ。少年だった私もその不心得者の一人だった覚えがある。 伴信友が演劇界救済のために書いた宮本武蔵が大当たりをとると、抜け目のない連中が放っておくわけはない。もっともらしい五輪の書までが、生まれたりして、いつか実在の人物化された。「人の一生は重荷を背負うて坂を登るがごとし」といった家康遺訓集は、明治になって徳川家を見殺しにしてしまった勝海舟らが、徳川公爵家の要請で創作したものだとは、名古屋徳川家で思い切って公表したのは、最近の新聞に大きく掲載されていたからご記憶の方も多かろう。 しかし吉川英治は徹底的によく書き込んだからして、国民大衆文学として完成されたから、「二刀流は彼の草案」と思い込む人も多いが、文藝春秋の故池谷信平が京城の陸軍学校へ行き、「壬辰の役(文禄の役)に、進路の倭兵を防ぐ韓国軍」という二百号大の油絵が正面階段の上に掲げられているのをみると、日本軍はみな両手に刀を握っていたので愕いたという話は、故海音寺潮五郎も「文学建設」に書いてはいたが、武蔵がいつの間にか二刀流開祖にされてしまった。すっかり舞台上の産物が、本当にされてしまったのである。 応仁の乱の時に、鉄資源のない国なので、外国のように鉄の楯は作れず、といって、木の楯は重たくて一人では、とても運べぬから、足軽とよぶ、狩り出してきた山者に両手に竹をもたせ、「ししっぱらい」とか「露よけ」と先駆けに使った。関白一条兼良は、反仏派で寺を荒し廻る彼らを、「悪党」ともよんだが、青竹を二本もって人間楯として突進してゆくよりは安全と、戦場で落ちている刀を拾い持ち、生き残れた者は両手に握って、とんでくる矢を打ち払って後の戦国武者。 つまり源平合戦から戦国時代大坂夏の陣まで、当時は雑兵とよばれた者達は、みな両刀づかいだったのだから韓国の画家は正確に描写されているのである。講談歴史とか浪花節歴史とよばれる日本の方が間違っているのである。吉川英治の作では関ヶ原合戦に出ているから、見よう見真似で二刀持ちを他に見習ったといってもよい。 戦争目的に、鉄資源不足を知らせぬ為の学校の歴史の教育を上の指示でされてきたのだから、伴信友の作り出した宮本無三四を吉川英治の宮本武蔵にまで勇ましく作らせたのは、まったく意企的な軍部の指図だったらしい。 元禄初期に書かれた尾州藩鉄砲頭の天野信景の「塩尻百巻」に、細川家の重役間に確執がきわめて甚だしかったの風聞が書かれているから、伴信友は、それに今いうヒントを得て創作したらしい。 さて、芝居の両島英雄記や、黄表紙本を数多く出している彼が、本居太平の許で筆写したのを底本に書いた「日本書紀」では、いくら士分の者の筆になったものとはいえ、問題にならぬと、「伴信友校本」は、「ねやのひめごと」の作者ゆえ、リース門下や黒板勝美にも参考にされたが、軽くみられたらしい。後世の伴信友の三百余の著書目録にも、日本書紀の権威のために削除されて、その書名が全く出ていないのは、こうした理由からであるのだろう。 江戸初期の松下見林や幕末の伴信友は、日本書紀復活に貢献して、それぞれが書いているが、黒板勝美は「国史大系」の下肥えか、縁の下の力もちにされ、彼らの仕事は有耶無耶にされている。つまり第七次第八次ともいえる江戸時代の松下や伴の日本書紀は、それぞれ木版で刊行されはしたが、明治になってすべて回収され、まったく今では跡かたもなく消滅させられている。後西さま著日本書紀 さて、日本書紀の底本として「第六次改訂新訂増補の黒板勝美日本書紀」を刊行できたのは、宮内省も国民教育にその必要を認め、軍部よりの要請もあったので、宮内省図書寮所蔵の、「京都御所東山御文庫」と称せられる渋紙表紙張りの粗末な巻子本だが、五十巻と纏まっている後西院天皇の御直筆が 貸与されてこれを底本にすれば、天皇さま自らが書かれたものゆえ、松下見林や伴信友のものと違って、おおいに有り難られようと、これを定本としての第九次を刊行。これが今日吾々が神典として扱い、日本歴史の原点としている処の、今の「日本書紀」なのである。 まさか黒板は、すっかりこれにオンブしたとは書きにくいので、他の物も名をつらねているが、みな断片的な第三次のものばかりで、実際は後西さまの50巻本がそっくり現代訳になり黒板が、教え子の弟子や学生を動員して書き直させて、それで昭和九年に完成したものであることは間違いないと断言できるものである。 しかし、皇室の歴史でさえ江戸時代には、京所司代が検閲加筆訂正したのを「皇運招運録」として、公儀に都合よく、すべて書き直した上で、千代田紅葉山書物奉行に保管させていたから、この後西さまの五十巻も「無題」のままだったゆえ、何だか判らず辛うじて危うく助かったのである。この「皇運招録」という徳川家で製作された御所記録が、いかにいい加減なものであったかは、初代文部省修史局長重田定一の「謎だらけの日本史」(日本シェル出版刊3800円)にも詳しい。 さて学校歴史で義務として教え仕込まれる歴史と、実際は相違し過ぎている。黒板勝美は、天皇自らの宸筆として、さも錦の御旗をたてたように、定本の基礎としているけれど、この時代の実際を歴史屋のくせに何も知っていない。五十巻ものを後西さまが書かれた経緯も彼は何も知らぬというか勉強していなかったゆえ、そっくりそのままの第九次日本書紀が刊行ができえた。また展開が飛躍するみたいだが、黒板勝美日本書紀の下敷きになった巻子本が、いかにして成立したのかと謎ときがまったく、これまではなされていないのである。解明したのは私だけであろう。 つまり当時の時代背景を学校歴史には出てないが、先に判って頂いておかない事には、「古代史入門」には入ってゆけないのである。まず気の毒な後西さまがいかにして書かれ給うたか?子供は嬉しい事しか書かぬものだが、大人は、口惜しいこと悲しいことしか書かぬものである。つまり巻子本五十巻は、後西さまの怨みつらみの労作のものであると先に判ってほしい。 「謎だらけの日本史」(日本シェル出版刊)には、長州お抱え歴史家アドルフ・リースの門下三上参次や小川銀次郎は開明学校のちの東京帝国大学出身だが、リースの大和民族単一説に対して、「幕末のシーボルトは長崎鳴滝の塾で、赤ん坊を集めてきて尻を並べ、蒙古班の青いのは日本海からの沿海州よりの騎馬民族系の末孫。そうでないのは、大陸系。やや黒ずんでいるのは太平洋沿岸に流れてくる黒潮にのってきた西南系と書生に教えた」と、師リースの説に異見を述べた為に、著者の重田定一は東大閥から村八分にされ、文学博士にもしてもらえず、当時は賎役の文部省の初代修史局長に放り出された。 だからして彼としては、あまり面白くなく「史説史話」として、「後西院天皇の謎」を書き、何故に歴代の天皇さまで、後西さまにだけ「院号」がつけられているのか?江戸時代の御所の記録である「皇運紹運録」によれば、帝の治世に度々大地震が続き、京の民が、これは帝の不徳の致すところと大挙して御所内に乱入し退位していただいた、と宮内庁に保管されている公式記録にはでているが、群集が大挙して御所へ押しかけ帝を無理矢理に退位させるような事が、従順な日本人として、はたして江戸期でも有り得ることだろうか? なお帝の在位中に大地震などは一度もなく、明暦三年に江戸に振袖火事。万治三年に大坂城に落雷があったきりで、いくら京所司代牧野親成が徳川家のためのデッチあげでもおかしいと、「謎だらけの日本史」には、対比表までつけ「院」を何故に生前からつけられていたか判らぬと、その本には暴露している。だから重田定一が亡くなるのを待ちかねたように、東大閥はすうっと問題の後西さまの院号をとってしまい、すっかり何も今では判らなくしてしまっている。 さて何故生前に院号をつけられたか。西暦1654年に後水尾帝末子18歳の良仁親王さまが徳川秀忠の娘和子の産み奉った明正帝につぎ寛永二十年十月の後光明帝のあと、後西帝として即位なされたかというと、公儀としても皇位継承者が、もう他にはいなかったからであるらしい。 当時、徳川家は七百万石から八百万石の台所入りがあったのに、御所は二万石。徳川秀忠の娘和子を女御として無理矢理に入内させた時に、化粧料として持参金の壱万石で計三万石。「春日局と家光」や「将軍徳川家光」の日本シェル出版刊の私の本にあるように、実際は春日局の子として京伏見城で本当は生れた家光は、元和九年六月に二代将軍秀忠と共に上洛した。 家康の遺言で家光が二十歳になったら将軍職を譲るように言われていたので、小御所へ参内。慣例どおり節刀を賜り征夷大将軍の宣旨をうけ、慣例どおりに京五山へ銀百枚ずつを納めて、秀忠はまだピンピンしていたが家光が三代将軍となり、また寛永三年八月に彼は秀忠と共に上洛して二条城に入り、後水尾帝の行幸を仰ぎ馳走申しあげた。 六年後に秀忠が亡くなり、駿河大納言忠長を土井甚三郎に後顧の憂いのないように始末させ、本当に一本立ちになって寛永十一年七月に上洛したが、この時に伝奏中院通村を通して、後水尾帝は家光に対して、「三万石にては御所の賄いは、まことに困難至極、せめて山城一国二十万石を」と仰せられたのに、「はあ」と家光は気軽に承諾してしまった。 話をきいた土井甚三郎利勝は、とんでもないと急ぎ家光を伴って江戸へ戻ってしまった。しかし、後水尾帝にしてみれば、いやしくも江戸の将軍家光が確約したのに、なんの応答もない。そこで立ち会った中院通村を掛け合いに下向させた。当惑した江戸では伝奏屋敷に彼を閉じ込め、正保四年七月付で伝奏の身分から異例の抜擢で摂家の身分でもないのに、内大臣にして懐柔。慶安元年正月に毒害するまで江戸の権力で押さえつけた。 なんの音沙汰もしない侭に慶安四年四月二十日に家光は死んだ。そこで学校歴史には全然出ていないが、徳川の血を引く明正女帝に無理に譲位させられ、仙洞御所へ入っておられた後水尾上皇は、山城一国二十万石の約束をはたせようと、討幕の院宣をかねてから次々と出しておられ、島原の乱をも起こさせ失敗されていたが、十四年間の隠忍自重も、もはやこれまでと家光の死をきかれると、この機を逸しては三万石の侭である、せっかく確約させた二十万石は画餅になると、改めてどんどん討幕の院勅をだされた。 由比正雪、別木庄左ヱ門らも後水尾さまの密勅を受け、討幕のために兵をあげようとしたのである。そこで内大臣をやめさせていた生き証人を幕閣では始末することにした。歴史年表に、「承応二年(1653)二月二十九日前内相中院通村頓死す」と明記されるのも、この裏書である。 さて公儀でも、いくら皇位継承者がないとはいえ、反幕的な後水尾上皇の末子を人皇第百十一代に迎えるのは難色もあったが、誰にも他にいなかったので、やむをえずとなったのである。初めから厳しい目で後西さまは、京所司代や江戸表から監視されていたのである。 というのは後水尾さまは徳川秀忠の娘和子を押しつけられた後も、みぐしの局をご寵愛なさり、その間に生まれたもうたのが後西さま。京所司代の圧迫で、みぐしの局の実家は飯米にもことかき、局の実妹は銀二十貫で身売りして伊達政宗にかわれ、その子の忠宗の側室となり綱宗を生んだ。 さて伊達家も当主になるべき者が次々と若死して、綱宗の代となった。さて後光明帝が崩ぜられ後西さまが即位されると、従弟の伊達綱宗が仙台青葉城主になっているときき、「なにしろ御所の内緒むきは苦しいゆえ‥‥」と姉小路伝奏を無心に使いに出した。これが公儀の公安局にあたる柳生俊方にさぐり出されて幕閣に報告された。そこでまず吉原が明暦の振袖火事の前で移転していなくて今の東京シティターミナルの葭の原っぱにあり、土手八丁を通ってゆくのではなく、今のコールガールみたいに呼ぶだけの時代なのに、講談では誤って、吉原流連不謹慎のせいとす。が、実際は伊達政宗以来の蓄財を吐き出させる為、飯田橋から市ヶ谷までの外濠工事を命じ資材購入にすっかり伊達家の金を出させてから綱宗を隠居処分にしてのけた。 そして三年後の寛文三年(1663)正月に、二十七歳になられたばかりの後西さまを、十歳の霊元帝に換えた。仙洞御所に入ってもらっては、ずっと竹矢来をはるのに出費が掛り過ぎると、今の京都御苑の北隅に「後西帝凝華洞祉」の棒杭のあるあたりに、二間四方程の小屋をたて外側に竹矢来をかけたから、外観は竹籠のごとくみえた。つまり後西帝は従弟の伊達綱宗に、御所の勝手許不如意を訴え、献金を求めただけなのに、でっちあげで謀叛通謀とされてしまったのである。「何人でにてあれ、大公儀に対し異心を抱かれるにおいては、かくの如し」と、見せしめの為に、京所司代の立札が立てられた。そして、この年から貞享二年二月二十二日に四十九歳で崩ぜられるまで二十三年間も、ずっと閉じ込められた侭だった。 その間に家光の末子上州十万石綱吉は、生母が京都の八百屋の娘の於玉とされているが、当時京坂には多く住まっていた済州島の出身だというので、大老酒井忠清と水戸光圀が反対して、京の有栖川幸仁親王を五代将軍に立てようとした。 三田村鳶魚の考証にも詳しくでているが、下馬将軍と全盛をほこった酒井は江戸屋敷まで没取され閉門、御三家だが光圀も、水戸の西山とよぶ特殊な居付き地に押し込まれ、竹矢来で出入りを監視された。春日局の孫娘の夫、堀田正俊が大老、前夫稲葉正成と春日局に産まれた子の孫が、若年寄筆頭の稲葉正休と、幕閣が春日局の孫や外孫によって固められていたから、下馬将軍も水戸光圀も、彼らの勢力には勝てずで追い落されて、綱吉が迎えられて五代将軍になったのだ。 「赤穂義人纂書」に鍋田晶山が詳しく書いているように、済州島の血をひくゆえ、日本人よりは貴種であると、やがて綱吉は千代田城を朝廷とよび幕閣を公家と称するようにさせた。よって京よりの勅使は大納言とか侍従といった官位をひとまず返上。前大納言、前侍従となり無位無官で遠慮して江戸の伝奏屋敷に入り、京へ戻ると前官にまた復していたものである。 「元禄忠臣蔵」で真山青果が「恐れ多くも勅使下向されて、お戻りになる日に松の廊下での刃傷沙汰は、京のみかどに対しても不敬のきわみ」と書くのは、皇国史観での誤りである。 さて、「都にては近頃は雀を大籠に入れて‥‥」と始まるこの時代の「京雀」の一巻は、後西さまを憐れんで江戸への当てこすりだったが、それに対しても公儀は神経をとがらせてしまい、「京雀とは、口さがない者が、詰らぬことを言いふらす流言ひがごとなり」ときめつけてしまった。 さて幽閉された侭の後西さまは、おおいに立腹され、灯油は僅かゆえ夜明けより日没まで、「京こそ体制側であり、江戸は反体制である」と反対立証なさるため、宮中に散逸していた勧学院派の日本書紀の断片を集めてこさせて、改めて、なす事もないから巻子本五十巻に纏められた。 つまり後西さまは、江戸が朝廷にすり変ってしまった事への憤りから、自分らの方こそ正しいのだと、せっせと口惜しさに書き上げられたのが、今も残る東山文庫所蔵本の成立である。黒板勝美は歴史屋なのに、こうした時代背景をすこしも調べていないから、その巻頭に、「天地に墨界を施し一行十数字の外題なしの渋表紙巻子本五十巻を特に御聴許をえて、東山文庫の貴重なる御本を拝観するを得たるは、無上の光栄とするところなり」と有難がってだけいて、ものを書く衝動とは、憤りか何ともならぬ悲しみと口惜しさだけだとも、てんで気づいてはいない。 つまり今われわれのみられる日本書紀は、西暦720年のものではなく、江戸時代の五代綱吉の頃の、恐れ多くも後西さまの徳川家に対しての怨みつらみで、よせ集めて書かれた悲しみのもの。「大正三年刊の国史大系の日本書紀」は、やはり江戸時代の松下見林や伴信友の書いたものから作り直した黒板のものなのだが、その後の第九次日本書紀は、後西さまのものなのである。だからして、学校で教わったままでゼロックスもない八世紀のものが、その侭と思い込んで信じている人の書いたものでは、日本書紀の原本が実際は江戸期製とも知らぬための著作ゆえ、それを読んで参考にしては、解明どころか、かえって誤りのもとといえる。(いまのところ次回に続ける予定だが、長すぎるので断念するかも)
2024年11月29日
コメント(10)
巷の世の中では、あとから知って、なるほど、と思うことがよくある。アニメの一休さんは有名だが、頓智で、天下の将軍を負かす話なので、足利義満が登場するのは主題なのだが、脇役というか、その家臣の蜷川新右衛門の存在に、疑問を抱く人も恐らく皆無だろう。そして、このアニメ一休さんが、はじめは日本船舶振興会の単独提供番組だったのに、違和感を覚える人も皆無かもしれない。一休さん (テレビアニメ) - Wikipedia智蘊 - Wikipediaしかし、前回紹介した裏日本史の八切史観を知れば、疑問や違和感から、あるつながりがわかってくるから面白い。八切史観によれば、蜷川新右衛門の蜷川家は、織田信長が金本位制にしようとして、対立した銀資本制の元締めだったのである。信長の織田家は、旧字体では、小田で、祖先は八田郷の出で、八の民の平氏の被差別原住民の家系で、秀吉も同じ出自のもっと低い身分だったようなのである。小田家は、信秀の代に盛んに興行をして、現代でいえば、プロモーター、興行主のような職で、織田家を大きくするために、沢山の妾をとって種付けをしたために、不細工な姫とも伽をしないといけないために、ついには女嫌いになったそうである。八切史観によれば、八の民は、女性上位の風俗があるらしく、織田家の跡取りの信長は、美濃の斎藤道三の娘奇蝶と政略結婚をしたので、尾張の守護大名になれたのは有名である。奇蝶が、かかあ天下だったらしく、信長にも女嫌いが受け継がれているのが面白い。信秀の死後、信長は、奇蝶の舅道三の支援により、織田家を相続すると、今度は、龍興が道三の子でないという噂を美濃に流し、斎藤氏の混乱に乗じ、美濃三人衆を勧誘し、斎藤家を乗っ取り、のちには三好長慶のように、将軍の有力な後見役となり、義昭を将軍につけた後で、自分の意に沿わない将軍を追放する。三好長慶 - Wikipedia信長の目的は、当時の藤原氏を中心とした仏教カースト制度に対しての、武力行使による天下布武の武力支配にあったからである。元々被差別民たちは、原住民信仰の神道を中心にして、反仏だったわけで、キリスト教布教を利用した反仏により、信長は日本の宗教王になろうとしていたようで、布教を利用して、仏教の銀資本制をやめて、新しい信長教の金資本制にしようとしたらしい。安土城を、信長教の総本山にしようとしていたのを、よく思わない仏教勢力と、キリスト教勢力の顰蹙を買ったので、安土城は、本能寺の変後に、ポルトガルのキリスト教勢力の支援もあり、織田信雄に焼き討ちされたらしい。宣教師が、天罰が下ったと記録し、本国に書き送っているのが印象的である。織田信雄 - Wikipedia話が長くなるので、端折ると、信長は日本の宗教王になり、中国大陸を侵略しようとしていたらしく、そうなると、スペインとポルトガルで世界の植民地領土を二分していた計画が頓挫する恐れがあるので、中国の唐の進駐軍を起源とする仏教カースト制の朝廷と、大陸に貿易進出を狙うイエズス会の利害が一致して、信長が家康の命を狙っていたのを利用し、本能寺の変が企てられて、信長は廃されて、ポルトガル宣教師の意向が通りやすい秀吉に代わったようである。なお明智光秀は現場に間に合わず、愛宕山を下山中で、斎藤利三の単独犯行なので、本能寺の変を後から知ったために、事後収拾のために、信長の首があるのかどうか事実確認が必要だったようである。事後収拾中に、朝廷から征夷大将軍にするから、京を守れと催促がきて、毛利家保護下の足利義昭幕府を再興する手も考えたようだが、そうこうしているうちに秀吉に情報戦で巧みに騙されて、山崎をとられて、合戦になったようである。「本能寺の変」のキーパーソン 15代将軍・足利義昭か|日経BizGate八切史観によれば、蜷川新右衛門の蜷川家が、幕府を通じて西日本の金融を担っていたので、体制維持のために、本能寺の変の資金を出したようである。そして、歴史は繰り返すというが、後の中国共産党への、反共防波堤となるために、笹川良一らによりできる勝共連合の窓口が、日本船舶協会となっているのも面白い。勝共連合は、巷の統一妖怪騒動で有名になったのは、先の岸田政権の、この間の話である。そして、また歴史は繰り返すというが、この信長の被差別民を利用して革命を起こすやり方が、明治革命として、長州藩により行われたのは、外国勢力が、イエズス会から、イギリスに代わってはいるが、古今東西革命の構図が同じなのが面白い。対外勢力の脅威を感じさせながら、国内から反乱を起こし、体制を変えるのが、メーソンの、「風を蒔いてつむじ風を刈る」、という革命思想の諺になっている。巷のマスゴミは相も変わらず嘘を垂れ流し、とっくに天下り禁止の法律があるのに、自分たちの官僚の天下りには目を瞑り、選挙違反だと喚き散らす独り善がりの解釈を世間に撒き散らしているのをみて、どちらも穴の貉ではないかと、自称フーテンの寅さんには呆れてしまう、毎日なんである。天下りを「知っているのに報道しない」マスコミと記者クラブの罪(松岡 久蔵) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)癒着は官とメディアの間にこそ存在するのではないか(城繁幸) - エキスパート - Yahoo!ニュース省庁のしくみ 天下りのしくみと現状/ホームメイト巷のマスゴミはよく真実は一つと喧伝しているが、人智学では、この妄言こそ無知と説いている。確かに、我々の宇宙のなかの宇宙意識、俗に言うところの、宇宙神にまで叡智が到達できれば、真実は1つといえるかもしれないが、地上人のなかでは、まだ多種多様の論争、闘争、戦争をしている現状からみても、多種多様な立場からみた、覚醒意識での、事実があり、まだまだカルマの解消が必要で、だから地上に生まれているわけで、真実は一つと思い込んでいるだけで、まだ自分のなかに執着心がある証拠である。自分が説く仮説だけが正しい、と考えるのも、無知で、執着心であり、ましてや、そこに権力が癒着すれば、自分を一時的には心地よくさせるが、それこそ悪魔の罠で、悪魔に魂を売って、後で地獄に堕ちる切欠を与えてしまうわけで、まさに権力は公正の目を摘む、麻薬といえる。そこで、権力が生んできた、自分さえ良ければいいという代表の、天下りはなぜなくならないか、日本人の他人よりも自分が得をしたいという気持ち、執着心を明らかにするために、古の人間の執着心について、日本の古代史を八切史観から紹介したい。そもそも天下りの、「天」の由来が何にあるのか?なぜ、官僚が天やお上と呼ばれるのか、差別側の権力による表の日本史よりも、差別を受けてきた、裏の日本史により、「天」を解き明かす必要があるだろう。八切史観によれば、古代日本は8つの王朝からなっていたというから、少なくとも、8つの異なる天の見方が存在したといえる。そして、白村江の戦により、大陸から、唐の進駐軍がやってきて、新しい「天」を名乗るわけである。白村江の戦い - Wikipedia663年といえば、オカルトでも非常に興味深い666のアーリマンの数であるのがわかるはずで、アーリマンが地上人を奴隷化するために学院をつくった年であるから、この日本にも身分カースト制度が生まれる3年前といえる。シュタイナーによれば、アーリマンは地上人に3つの唯物論を広めるために、学院を建てたという。3つの学問とは、将来予防医学となる遺伝学、将来再生医学となる解剖学、将来量子力学となる数学である。これらはゴンディシャブールのイスラム科学で有名である。イスラム科学を紹介していると話が逸れるので、いまは八切史観を紹介する。八の民と呼ばれる、元は中東のペルシャ文化に由来する民族は、このアーリマンの学院の影響を、大陸からの唐の進駐軍により間接的に受けている可能性が高い。いずれにしろ、この国の権力構造を理解するために、裏の日本史の紹介を続ける。なお、八切氏の文体は古いので、現代のように整った文体からすると、読みにくいのは歴史背景を考える必要がある。夏目漱石などの小説家が、現代文の文体を整えてきたわけで、早くいえば、現代文ではなく古文調といえるかもしれない。そこで、なるべくわかりやすく、『』付きの解説をいれる。 ☆ ☆ ☆ 古 代 史 入 門まえがき(八切史観の正しきことの立証に、わが命にて証しとせん) 八切止夫拝 今は亡き荒正人先生が、「八切史観は庶民の恨み節だ」とおっしゃった事がある。そう言われればアンラッキーの一語に尽きるみたいに、私は組織機構の末端から迫害され続け、闘争の一生みたいだった。何故にかくも苛められるのかと庶民の立場で、己れ自身に問いかけ続けたのが、これまで誰も試みようともしなかった茨の道への突入というか没頭だったと言うべきだろう。荒正人 - Wikipedia 「不可思議な国ジャポネ」[日本シェル出版]のカバーにケント歴史学博士[同書の著者]の若かりし頃の写真を使い、「タル・ティング(おも恥ずかしい)」と文句をつけられたが、15世紀から16世紀にかけて日本へ来ていたイエズス派資料を教わり、日本での伝承通俗史と余りに相違しすぎるのに愕いたのが、私の開眼のスタート。つまり、戦国時代から「裏返え史」として解明に入ってしまったのが始まりだった。「同士討ちをせぬよう、馬印とよぶ標識を、遠くからでも判別できるように色分けしていた」というレポートで、江戸期になっても大名行列の先頭に立っていた馬印にひかれた。 日本での裏付け資料は史籍雑纂の家伝史料の「黒田文書」に、「馬印が金色に候はば別所同意と存じ候」の一行だけだったが、それを手掛かりに武鑑を調べてゆくと、単一民族ではなく中世期の宗教合戦の時代には、祇とよばれる太平洋沿岸より黒潮で渡来した北条政子系の古平氏の者らは、「赤色」。日本海より裏日本に入って来た騎馬民族系の蘇我となり、源氏となったのは「白色」と色分け。延暦の年号になっての原住民大団結反撃進攻の際に、東北には山金が転がっていたのを叩き延ばし、反射するからと共に同一目印にしたのが始まりで、反仏派は金色を用いたとも判った。 つまり、彼らが捕虜にされ別所・散所の限定地に収容された奴隷の子孫が、下克上の世となって立身して武将になれた者は、秀吉でも金色千成瓢箪である。『家康は金色扇で、当時、金は銀より利用価値が低く意匠に用いて、敵味方の区別に用いた。というのも、当時は銀資本制で、だから、金座ではなく、銀座という地名も残っている。信長が金本位制にするために、蜷川氏中心の銀資本制の本山の四国征伐を行う寸前で本能寺の変にあう。』豊臣秀吉「千成瓢箪」【資料紹介】 | 一般財団法人古橋会徳川家康の馬印 - Wikipedia蜷川親世 - Wikipedia 「八切姓の法則」「日本人の血脈」[共に八切氏の著書、日本シェル出版]は、民族カラーの色分けと、特に、苗字第一字発音の識別重視の選種別を鑑別する方式から、漢字はすべて当字ゆえとローマ字化してみて発見した。 さて、八切史学、八切史観とよばれる私の考究は20年がかりで本書で終るが、新たに全巻を直接に送金してもらえる後学には、私が集めた文献類をもう入手不能の本ゆえ無料で専門別に戦国、外国と分け参考に供したい。 というのは、読者名簿を整理処分したら、年賀状をダンボールに十五、六個も貰っていたが、照合すると九割までが図書館出の方である。八切史観というのは初めから私の頭の中にあったのではなく、禁酒して20年前から次々と考究して展開してきたので、その中の一冊や二冊を読んで感心してもらっては困る。18年かけた「野史辞典」を軸にし、続篇の「庶民日本史辞典」の二冊と、「天の日本古代史研究」と本書の四冊を最低資料に揃え、後学は解明を続けてほしいのである。 No.1 純正日本史案内 「三つ子の魂、百まで」というが、学校で教わった歴史は、ジンムスイゼイと、暗記ものだったゆえ、私でさえ未だに頭の中に引っ掛かっている。どうしても先入観は強いものである。そこへもってきて、前人未踏の八切史観では戸惑われるかも知れぬと案じ、順を追って判りやすく解明してゆくため、前もって予告編みたいにアウトラインを古代史入門の一般的手引きにしておく。 前書きをしてはやや重複をするが、いきなりぶつけるよりは読みやすい。それに、どうしても古代史に入ってゆくには、タブー視されている部落史とは切っても切れぬ問題がある。 なにしろ、西暦663年に郭ムソウ[漢字が出ないのでカタカナとする]が進駐してきて「藤原鎌足」と日本名になり、唐の大宝律令をそのままに輸入したのは「天の日本古代史研究」に詳しいが、天孫と称した郭さんの方は良で、それまでの縄文日本人原住民はみな賎にされた。二大別とされた賎とは太平洋沿岸に漂着の「八の者」。次に裏日本から親潮寒流で能登や新潟へ入って来たのが、獣の「四つ足」から「四つ」と呼ばれる。 「源平藤橘」と四大別するが、藤は唐で、郭さんの一万二千のグループ。橘は、その唐を中国大陸で滅ぼし取って代わった契丹系ゆえ、大陸人でも唐でないゆえ豪く見られず、被差別とされた。 彼ら[契丹系]は天神信仰だが、源は元ゆえ白山さま信仰。平は今のペルシャと同じで、赤旗をふり祇園、八坂信仰で、宮島も紅殻の赤塗りである。藤は墨染めの衣を着た坊主が宣教師として先に来たので、「黒住教」さえ残っていて、藤は唐で黒色。 しかし、この四種の姓別は、最低四種以上の複合民族をさすが、勝てば官軍、負ければ賊で賎、黒の他は次々と体制の変わるたびに限定居附部落へと追い込み。郭将軍に滅ぼされたものの、奈良王朝と栄え、桓武帝より「良」となった百済系は黄色である。 しかし、エタ非人と一つにしたり又分類し、エツタ島など海軍にそっくり召し上げられると、「江田島」と恰好よくなるのは、そうしたゲットーへ次々と敗戦捕虜が入れられ混同している為だが、四大別ではなく、太古日本人はエケセテネが姓の上につくところの「雑色」の人々だろう。「皮剥ぎも皮細工も四つと呼ばれる騎馬民族。判りやすく言えば、白筋の馬方は源氏だが、駕かき川越人足や雲助は平家で、「八つ」とよぶ赤筋の拝火宗徒。トウナイは唐無いで、契丹系の部落民」と、はっきり種族別が分けられるが、喜田貞吉は他国の捕虜とか社会の落伍者と決めつけるが、藤原王朝時代に征伐された日本列島原住民。足利時代は散所奉行が新設されて、南朝に味方した者らの反体制子孫を収容。これは「庶民日本史辞典」「野史辞典」「日本部落史料」で明白にされている。 戦国時代の始めの応仁の乱に部落の者等は山狩りで集められてきて足軽とよばれ楯の代わりにしっ払っさせられ、生き残れたのが戦国武者や武将になれたが、世が泰平になると下克上は明治維新までのびた。が、五代徳川綱吉が韓国済州島系で神仏混合令の法令を下し、反仏派の原住民は宗門改めの寺社奉行によって、浄土(上等)でない汚れた下等人だと差別され圧迫された。太田亮の「姓氏辞典」では加賀に入った藤原氏と美化しているが、仏教は一向宗が入っただけ。 ナポレオンが勲章を発明するまで「賜姓」といって、藤原姓をエゾや反乱軍の純友にも与えた。つまり実際は産所は足利幕府散所奉行で、反体制だった南朝方子孫を捕え収容したのが、同じ呼び方ゆえ産所と間違えられて伝わる。山所ともなり「山しょ太夫」や「さんしょう魚」ともなる。被差別の習慣が広まってしまった為でもあるが、喜田貞吉説も産所と文字通りにとって誤っている。 なにしろ唐語のブシン(不信)つまり信用できぬ輩とし、召し使われ、それが武力をもってついに公家を押さえつけ、公家対地下といったのが実力で逆転。下克上の時代と呼ばれたのが文治革命であったり、戦国時代以降となると、かつては非人とか八部とよばれた蜂須賀小六も阿波の大名となる。傭兵が武力でクーデターを起し主権を奪ったのである。関白の一条兼良は足利末期の藤原系で仏派ゆえ、寺を荒す彼らを悪党と呼んでいる。 さて、藤原王朝は天孫民族なりというが、どうもこれは妄説である。藤原基経に廃帝にされた陽成さまの一族一門が山へ逃げ込み、木地師となって「山がつ」になりたまいし事実もあるが、高貴の出で良であると証明したくて、自分らを放逐した藤の姓を勿体ぶって付けている。それゆえ、その姓を本物と思われてしまい誤られている。 日本には正しい歴史なんかないのだからと、他国のごとき歴史学博士の称号は不可と明治十八年の博士号設定の時リースに言われたごとく、恰好よく美化されているだけで、何も判っていない。 部落とは騎馬民族が日本列島へ渡来時に古代海人族を収容し、藤原時代には良でない人口九割の賎の民をとじこめ、反仏派の北条期には源氏の「四つ」をはじめ、赤系でない者を追い込んだ。 足利幕府になると今度は逆で、赤系の祇の「八つ」も反体制の南朝方と、橋のない川へ入れられたのが実際の処で、喜田博士は日本部落史研究の第一人者とされているが、何も全然ご存じない。まだ曖昧模糊の喜田史観の間違いだらけよりも、明石書店刊行の高柳金芳の「江戸時代被差別分層の生活史」の方が正確である。そこから逆にさかのぼってゆけば、九対一ぐらいの割合だった征服者と被征服者の悲劇。つまり吾々の先祖の虐げられてきた真相が判り得るといえる。 「良い事を言われると、人は悪い気がしない」という人情の機微を巧く利用して、なんでも美化してしまい、敗戦民族を「国津神」などとしてしまうからして、それを文字通りで読まされては、喜田先生でもわけが判らなくなる。仕方がないというか、まぁ当たり前みたいになっている。 さて拝火宗で「祇」とよばれる「八」は、西南渡来系の日本原住民だし、「四つ」は騎馬民族で東北沿海州から日本海を親潮で流されてきた北方民族であるが、治安維持のため徳川時代には施政方針を四つ」と「八つ」を交互にくりこんで、互いに牽制しあわせて被差別。藤で無いは十世紀流入の契丹系をさす。 契丹は唐を滅ぼしてとって換った国ゆえ、大陸系でも御所からは賎民視されていたのである。だが、太平洋側に黒潮で這い上がった「八つ」は八母音の原住民で、農耕漁業製塩をしたから食用課役奴隷にされた。が、「四つ」は沿海州北鮮系で遊牧民族ゆえ、討伐されて捕えられる飼戸(しこ)。 石岡の部落にしても、夷岡とよばれショウモンと蔑まれ、区別されていたというが、契丹系で、天慶の乱とされた時の者らの押し込み限定地。だが「エの民」つまり江戸の以北はみな部落ゆえ、一緒くたにされて被差別され、少しでも反抗すれば徹底的にこらしめて、オカミの言いなりになる奴隷人民に仕立ててしまった。だから藤原王朝の鉄武器による権力はえらいものであった。 「その筋のお達しにより喫煙は」と今も映画館にでている。消防とか警察といった危険を伴う仕事は、「千金の子は盗賊に死せず」とか「良い人は兵にならぬ」といった唐の教え通り藤原氏が日本へ来ても農耕をせぬ飼戸奴隷に施行。なお足利時代に散所奉行が旧南朝の子孫を部落の散所民にしたのが知られていないから、私の「特殊部落発生史」に順に詳しく書いておいた。 千の宗易こと俗に言う利休の自決後、その木像を八付にかけた後、その一味のササラ衆を部落に追い込んだのが茶せん部落で、華やかな茶の湯とは裏はら。 また、昔はハングリースポーツ興行だった角力は「オドマ勧進」[五木の子守り歌]の、勧進元で取り締まっては八百長で儲けていた。儲けるといえば、一番新しい宗派では、既存の旦那などいないからして、一向宗は部落に目をつけた。 悪人でも念仏を唱えれば善人に生まれ変わる。部落民でも信心すれば常人に生まれてくるのだと、真言宗の本願侍説教僧が信徒にして廻ったので、寺人別の数は増えた。だが、彼らの殆どはあくまで反仏であった。僧へ絶対に近寄らなかった原住民の全体は、この百倍以上が実際はいた。今でも旧部落に金ピカの立派な仏壇があるのは、一向宗が利鞘をとって売りつけていた名残りである。 さて、大正八年秋に25銭(現在なら五百円)にて出された一号は、最後の六頁が発禁となったと喜田先生は最後だけ削除し、奥付を大正九年一月一日にし、四倍に値上げ刊行し、第六版から十二版まで世に送り出したのは、金集めのための作為なのかとも感じられる。なにしろ、喜田貞吉博士は、その大正八年には南北朝両統問題でリース直系の三上三次らに睨まれ国定教科書編集官を追われ、やむなく自費で「民族と歴史」の第一号を出した時の事だから、どうも資金ぐりで、発禁も値上げ操作のために、オカミに発禁にしてもらった裏取引とも考えられる。 日本では歴史屋は真実追求よりも、どうも歴史をくいものにし、儲けたがる傾向があるみたいゆえである。部落問題は関西では捕虜奴隷として連行された末裔ゆえ、被差別されて地域的だった。全国的に「解放」の美名で広められたのは、神武陵の守戸の子孫の丑松が教壇で告白する島崎藤村の「破戒」、それとこの「民族と歴史」が、まったく何も知らぬ人々にまで、部落について初めて知らされる結果となり、一般庶民が驚き仰天した。その結果の名残りが、住井すゑの「橋のない川」である。 せっかく親や祖父母も絶対に口にしないことを自分らもその出身者なのを本で知らされ、そこでまだ残っている部落に対し本当の事は何も知らず、子供などは苛める対象にまでしてのけた。「天は人の上に人を作らず」といわれるが、日本では「人の下に人」を作ってきたのである。「天の古代史研究」[八切史の著作]さえ読めば、まったく事実はあべこべで、渡来した鉄剣部族が、それまでの先住縄文日本人を征服して奴隷にし差別歴史が、日本の弥生時代だとはよく判る。 が売れて広まってしまったこれらの本のため、大正14年12月13日の世良田事件となった。上州新田世良田の庄徳川に残っていた23戸の部落へ、近在の3800人が押し寄せ、村田銃をうちかけ火をつけて乱入し、片っ端から打ち毀しにかかり殺傷沙汰を起し徳川の部落は大騒動となった。というのは世良田二郎三郎の出生地で徳川の地名ととった徳川家康さまの由緒ある地とされ、縁切り寺があり崇拝されていた土地。 特殊部落とはいえ長吏岩佐満次郎は、新田義貞の後裔として、「新田男爵」としてロンドンへ行っていた。だが、当時、「華族は皇室の藩屏にして」という世の中ゆえ華族会長となった徳川公爵は青山堂より、「徳川家康は松平元康の改名せしものなり」という故山岡荘八が種本にした一冊を桐箱入りで配布(「松平記」として日本シェル出版4800円)。 そこで、周辺近郊の者らが、世良田の徳川にはこれまで冥加米を散々とられていた三百年の恨みがあると押しかけたが、地元の群馬警察でも宮内庁よりの達しで掠奪暴行を初めは見てみぬふりをした。そこで鬼石や近在の部落から応援が五千人も集まってきて逆包囲し、乱暴する百姓を追い払った。これがもとで全国水平社の結成となったのである。なにしろ民友社の徳富蘇峯のところで出版された「史疑 徳川家康」は華族会で買上げ絶版とされていたが、筆写で広まっていた。まだ部落に残っている連中も、後に政治圧力団体になるくらいの勢力をもって対抗していたからである。 しかし当時の学士会は華族の下に入っていたし、各歴史屋は、それぞれ華族さまのお出入りだったため、渡辺世祐博士も月々のお手当を貰っているゆえ、野盗ではなく由緒正しき家柄と「蜂須賀小六」なる伝記本もだした。明治の贋系図作りは彼らで、みな金を貰って義理を立て、「家康は部落出身」とする村岡の本より五年後の出版なのに、遡った奥付年月にした「松平記」を確定史料に、資金を援助されていたゆえ、東大史学会は確定一級史料に認定してしまった。 なにしろ、彼ら明治史学会の人々は、みな口を揃えて、「明治史学は南朝方の顕彰にある」と称したが、長慶天皇を明白にした事と楠木正成の銅像をたてたくらいで、足利時代にできた散所奉行によって足利創業の叛徒として特殊部落へ収容された南朝の末孫は、その侭で解明できずだった。脇屋・湯浅・新田の地名が特殊部落にどこも多い。 さて明治までに刊行されたのは足利時代の「夷朗詠集」からはじまって「傀儡記」、遊行衆説教師達の「鉢屋由来記」から「賎者考」「見た京物語」「京四条極楽院空也堂文書」「菅茶山備後史料」「塩尻百巻」、そして明治以降となると「日本奴隷史」に私の「野史辞典」「庶民日本史辞典」、菊池山哉の「賎とされし先住民族‥‥日本部落史料」「長吏部落→日本の特殊部落」だけが主らしい。 しかし、国定教科書編集委員だった喜田貞吉だけが学会では評価され、部落者の著としては二十歳前後の若さで柳瀬勁介が書き残した処の「特殊部落一千年史」や「エタ及び非人・社会外の人」明治時代までは口伝えに残っていたユーカラの殆どを書かせ、その中で皇道史観に合致するものだけを己が名で発表し、アイヌ研究の権威となった金田一京助けに対し、アイヌの遺産を返すよう、その伜の金田一春彦に何度も求めたのが、新泉社よりユーカラの残りを訳し、三部作を出しているポン・フチである。 はじめ東大出の教授の肩書きの喜田を信用し、研究を発表してやると甘言でそそのかされ、三脚カメラを担ぎ日本全国の特殊部落研究をした菊池山哉は、いくら草稿や写真を送っても自分の名は全く出してくれぬからと、東京史談会を作ったのである。 さて「日本部落史料」の中に掲出してあるが、昔の荒川三河島は、川の中州の特殊部落地で、戦国時代の村山七党の流れを汲む武蔵党がいた。小田原征伐後関東に領地替えになると江戸城に入り、徳川家康は彼らを新規にみな召し抱えた。これが島をとって「三河譜代」となる。<野史辞典>に、三河[出身の]の旗本は二名とはそれゆえである。 今は一向一揆とされているが、三河人は他所者の世良田の二郎三郎こと家康を入れまいと国中で迎え討ち、駿河や三重、浜松や渥美らの家康軍と戦った時、この時裏切って味方したのは彼ら二人で恩賞の為である。他の三河人は商人になったから、「三河屋いなりに犬のくそ」とまでいわれる。 岡崎城も御三家どころか、僅か五万石の水野の城。渥美半島出の大久保彦左が書いたものとは思えぬ「三河物語」や、贋系図作りの沢田源内の「後三河風土記」が広まったのも、三河旗本が生国尾張三河と系図をみな作らせるのが流行したのに合わされた。だから今も誤られている。 さて部落出身者は立身すると同じ出の者を忌み嫌う。旗本になった連中は後から採用され三十人扶持程度の奉行所同心や材木座火盗同心の連中へ、「不浄役人め」とか、「溝さらえ」と、はっきり差別。この名残りか現代でも特殊部落出身の大製菓や大製陶会社では、興信所を使い部落出身者の就職差別し不採用にする。 明治新政府が徳川家へ、「汝その祖宗の地へ戻るべし」と、駿河七十万石へ移封したのは、家康が徳川の出だが浜松の七変化部落に売られてきて育ったのを、薩長では知っていたからである。そこで勝海舟ら旧幕臣が、「人の一生は重き荷を背負いて‥‥」といった家康遺訓を作っては各社寺へ奉納し、家康神話を作り上げ、徳川家達を公爵にし華族会長にまでした。 それを尾張徳川家で、旧幕臣松田の贋作と暴露。尾張は宗春の時に、松平蔵人元康と権現さまは別人で、両者が戦った古戦場が、石が瀬その他に現存すると、章善院目録の中に発表。宗春は素行不良とされ閉門後殺され、家康(家光は天海の子という話も)の血統は断絶。その後は、徳川吉宗の孫の田安や一橋から交互に、尾張藩主に入っていたのへの怨みであろう。 日本人の九割を占める庶民とは、江戸期亨保時代に部落をば脱出し、寺人別を銀や銭で購入した「八つ」の者や、「四つ」の連中なのに、最後まで残ったのを部落者扱いで人非人して非人と誤る。破戒僧とか心中し損ないを非人頭へ生涯奴隷として、着のみ着た侭で払い下げ。ボロを着て引き廻しの罪人について廻る姿を映画でも見ての連想らしい。彼らの人口が増加というが、明治四年の壬申戸籍に申告したのは本願寺派に帰依した者だけ。無申告の方が遥かに多くて百倍もいた。 明治革命には、ヤジの「八」やウマの「四つ」を動員したものの、あまりに日本原住民の部落民が多く、「棄民政策」と称して北海道樺太やフィリピンやブラジルへ彼らを送り出して口減らしをした。「サンダカン八番館」とか女不足のアメリカの「ガールハウス」へ次々と島原娘が身売りしていた。 が、まだ思いのほかに原住民が多いのがわかり狼狽。治安維持のため男は島流しみたいに労働者としてベンゲネットやボルネオ移民。女は性業婦とし輸出して外貨を稼がせ国益とした政策である。国内で虐殺する代りに「生かして使え国のため」と居てもらいたくない原住民の追い出し策だった。 江戸時代は大蔵省が国民皆税で片っ端から搾りとるような時代はかつてなかったから、戸籍は坊さんの私有財産を守る為の寺人別帳が主であり、町人別は銭さえ包めばすぐにも認めたから、紀州湯浅の居附地で、死なせてもよい奴隷水夫とし荒天の海へ出す蜜柑船にのせられた文左衛門らだけが沈没しなかったため、船底に繋がれていた者共は命拾い。漂着した相州の浜で蜜柑を売り江戸へ出ると、同じ山者ゆえ各地の材木を後払いで集めたのが大火で大儲け。銭を出し町人別や寺人別も購い、ついでに限定収容で残っている湯浅の者もみな呼び寄せたから、「東京都江東区史」には、「別所文左エ門」の名前で、はっきり今も残っているのである[紀国屋文左衛門の事か]。 こうした複合民族の分類がまったく判らずじまいで、七世紀の良賎の大宝律令の侭で解明しようとするから全く学校歴史は、「本当の事を言えば身も蓋もない」こととなってしまう。 彼ら歴史家は。崇神王朝系騎馬民族の「四つ」とよばれるのと、黒潮渡来の古代海人族の「八つ」との区別もできずに、十世紀に夥しく日本海を渡ってきた唐を滅ぼして取って代わった契丹系が「唐ない」ゆえに「十ない」であろうと、指が八本との妄説まで立てる。江戸時代の戯作者でさえも、「和藤内」とし国姓爺合戦に、清に滅ぼされた明の彼が台湾を基地に本国へ挑戦の話を書いているのに、喜田貞吉らは気づかず、「特殊部落とは社会の落伍者と三韓征伐の時の捕虜」としてしまう。 三韓征伐はまったく逆で、馬韓弁韓辰韓が日本列島を三分しコロニーの時代。特殊部落は西暦663年に世変わりした時に、仏教の宣教師坊主を真っ先に送り込み徹底的に教化しようとしたのに、あくまで抵抗した連中が又しても収容されたのがゲットーの居附部落と知らぬらしい。 続いて藤原王朝が中華の風俗に馴染もうとせぬ日本原住民の、降参し奴隷にならぬ徒輩を橋のない川へ追いたて貝を食わせ、尽きると自滅させた。日本後紀や続日本紀に記録されている。 「八つ」はマレーシア語の黒潮渡来族ゆえ農耕漁業製塩をなし、食料増産奴隷とされ、東海地方三河の額田の王(きみ)に率いられ、中大兄の韓国系に食料確保の政策上から子を生まされたり、大海人皇子には政略結婚で妃にされたが、終りには岡山のゲットーへ収容、奴可郡の地名を今も残す。 「四つ」は崇神御孫景行帝が「八つ」の八坂姫に生ませた日本武尊の死からは、共に反体制視される。彼らは韓国勢力大陸勢力に追われて山がつ餌取りと差別とされ、特殊部落民とされてゆく。恐れ多くも陽成帝でさえ藤原基経に追われ山へ逃げて木地師とならせたまう。が、11世紀は青眼の賊船が次々と来襲。山から原住民を人間狩りしてきて出征させたが、戻ってから叛かぬよう片刃の刀をもたせた。一を唐語で「イ」と呼ぶから「カイ(伊)の乱」。この時、頼光四天王として坂田金時らも現れるが、唐語のブシン(不信)から出たのが武士ゆえ、従五位止りで昇殿は不許。 ようやく文治革命で夷津[伊豆]の夷頭[伊東]の北条政子の世になると京を征伐し、尊い方を隠岐や土佐へ流罪にし、御所への目付に六波羅探題をおくが、世変わりして足利期になると新しく散所奉行ができ、北条氏の残党と共に、足利創業時に邪魔した南朝方の子孫をも特殊部落にしたから地名にも残る。 「天の古代史」「庶民日本史辞典」「野史辞典」の三冊をぜひとも順に読んで散所を産所と誤らぬ為にも真相を把握してほしい。また、イザナギ・イザナミ二神が天の浮橋で互いにみそめられたまい、「エな男」「エな女」と呼び合われた故事で、エ民の多い処をエ多と呼ぶのも語源。 また、騎馬民族の蘇我の末裔が「吾こそミナモトの民」と呼ばわっていたのが、白旗の源氏である。先住民族の「セン」を「千」に換えて「千軒」と、ゲットーだった地域の押し込め居附地を呼ぶのとこれまた同じである。 俗にいう処の非人とは騎馬民族の末裔。農耕や漁業製塩をなす「塩尻」とよばれる「八つ」の民が働くのに、彼ら「四つ」の遊牧民族は違うからとの命令で藤原体制に、北方に追われキタともいう。「ヤジ・ウマ」と庶民をよぶのは、「八つ」と「四つ」を合せた呼称だが、山野に昔から自生の草木や土や石をきりだしたり、人や獣を扱うのが原住系の限定職種。それを加工するのが良の舶来職だった。「除地」として大名領でも天領でも年貢なしだったのが、明治新政府が収穫物にのみ対しではなく土地を私有化にし地租課税。よって河岸や山頂を当てがわれた部落は納税のために貧窮化した。八母音を使う名古屋弁のような太平洋岸から日本列島に這い上がって住み着いたのが「八つ」の民。今もイランのヤスドに祀られている天地水火を拝む祭壇があるゆえ、ヤー公とかヤジとよぶ。 裏日本へベーリング寒流で入ってきたのが騎馬民族で、「四つ」とよぶゆえ、今いう白系ロシア人も入っていたので、新潟や秋田には白人の肌を今も伝える色白な美人も産出するのである。治安維持のため江戸期になっても、夷をもって夷を制すで、「八つ」と「四つ」は交互に、互いに監視し牽制しあうように「四つ」の弾左ヱ門家の下に、「八つ」の車善七。その下に四谷者、又その下が谷津もの。とされていたのを、例の「ヤジキタ」もので、共に仲良くしあって、世直しをと煽動された。 その結果、幕末からはポルノでもない東海道膝栗毛の貸本に影響されキタの騎馬系の末孫の馬方が、「八つ」の大井川の赤フン[褌]の川越人足のために「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と白フン[褌]を振りつつ、向こうでは酒手をはずむようにと旅人に馬子唄ですすめもしたものである。 伊勢神宮を北条政子と思い込んでいた大衆へ、お札ふりの「ええじゃないか」の騒ぎといい、部落から脱出してきたものの裸一貫で馬方や車力人足をしていたのを、一つに結びつけさせての大衆動員の策は討幕の大動力となった。頭が良い人が昔もいたものであると感心させられる。 ----己が家系のルーツ調べに学校歴史では納得できず、あれこれ本を読まれる人が多い。人情として美化したがるのなら別だが、もし真実をと想うなら道標は八切史観だけだろう。 古代史入門 2 第一部近視眼的な教科書騒ぎ 日本では古代史を無視し、みんな昔噺にしてしまう。そして勿体をつけて「神話」とまでする。「古事記」にしても、本居宣長によって「古事記伝」として今日のものができる迄は、つまり江戸時代の大岡忠相が死ぬ迄は「骨事記」とか、ただ「こじき」と、ひとつかみの豆を投げて貰って拾って喰って退散してゆく哀れな乞食みたいなハングリーな存在。大安万侶が書かされたものは、八世紀初頭の権力者の優越感を満足させるためのもので、それを日本原住民の末孫として明和年間から寛政十年までかかって、今日の立派な古事記伝にしあげたのは本居宣長の労作なりといえよう。なにしろ隠忍[鬼]とされていた原住民は、野や山に自生するものだけが自由にしてよいとされ、木を切って細工したりする大工のような加工業は舶来系の縄張りとされていたのである。 つまり幕末までは、筆は竹、穂は狸の毛だから、もの書きや版行の出版業は原住民限定職。北条政子が夫の頼朝を、馬から落して即死として始末してから、梶原源太を下手人と[して]殺して、次々と和田、三浦と源氏の主だった連中を処分。郎党や女子供をゲットーへ入れたものの、叛乱防止のために、身分保証みたいな限定職を定めたのだが、発布されたとする治承四年[1180]の年号は石橋山で敗れた頼朝を、政子が平氏の本関地千葉へ逃した年。頼朝御判二十四種は、まさか逃げる途中に細かい布令など出す筈もない。それなのに発表年にされ伝わっている。さて、今日の新聞が土地など賜ってオカミ御用となりだした明治二十に年迄は、「明治密偵史」の宮武外骨の著に詳しい[日本シェル出版より復刻版が出ていた]。それだから東京新聞の「大波小波」によると、中国では台湾の陳瞬臣より、中国本土の血の濃い司馬遼太郎のほうが人気があると報道されているのも、古代史の権力者は占領軍の中国人だった隠然とした匿された歴史があるからして、血は水よりも濃しで、またむべなるからぬ話。 なにしろ日本とよぶ国は、西暦663年に白村江の戦いでクダラ系の奈良朝を倒し九州より御所入りし、<天の古代史研究>[日本シェル出版]にも、「藤原鎌足」と郭は日本名をつけ、則天文字つまり漢字の強制使用と(北東の風が吹かなくては、日本から中国へは航行できぬから、冬至=唐至の当て字もあるが、文部省学校教育で、イアルサンスウから算数とするのは今でもその侭)、築城用巨石の全国供出令を発布した。 ところが俄に今になって、侵略を進出と教科書にのせるのは怪しからんと、「むちゃくちゃな出鱈目歴史[では]ないか」と、訂正するよう抗議されている可哀想な日本歴史は、この時点では進駐軍司令官郭将軍によって高安城を築き金田城を構築。当時は今のアフガニスタンなみの勇敢な縄文日本人ゲリラから、御国を離れて何百里と昔は彼らが歌っていたから、万一の時は冬までは立てこもらねばならぬから、郭ムソウ将軍が降参した日本原住民を使役し築かせたのである。なに日本では文部省が金田城を昨年たしかに国の重要文化財に指定している。 昔は沢田美喜みたいな豪い人がいなかった。それゆえ、郭将軍部下兵四千軍属のチャン輩(バラ)一万二千が単身で来ていたから、女とみれば片っ端から種付け、一人で九人くらいに孕ませて廻ったからして、原住系の日本人女はカイト、界戸、皆戸、海渡いろんな当て字を今ではつけられる個所で、エリザベス・サンダースホームがなかったから堪え忍んで育てあげた。 わが世とぞと想うと詠じた足利時代の義満でさえ、臣源道義と大陸へは絶対服従。日本が被占領国の中国と対等になれたのは秀吉の対明交戦で初めて解放されたと言ってもよかろう。 その国の立場というものがそれぞれある。侵入や進攻の字句で今になって文句を言うなら、七世紀から産まされっぱなしで、テレビの「ルーツ」で黒人女が白人の旦那に産まされた子でも、奴隷として売買されるみたいな有様で、嫡民ならぬ庶民とされ、賎民の奴隷扱いされていた吾々の先祖のことも、古代史を徹底的に昔の事と言わず検討してから、よく考えてほしい。「日帝が三十八年にわたって勝手気侭に振舞った怪しからん」と解放記念日には、テレビでも放映して抗議するが、郭を改名した藤原鎌足が渡来する迄の日本列島は、彼らの先祖のナラ王朝。馬韓、辰韓、弁韓の三韓時代から西暦664年の藤原鎌足まで、彼らが日本原住民に加えた残酷非道は、僅か三十八年間だけの日帝の圧政に比べれば、何十倍もの年数の苛酷さであった。 中国の方も郭将軍の部隊が御所を占領した西暦664年五月十七日からは、藤原王朝をたて、南京の大虐殺以上のことを、かためて捕虜を生き埋め踏んづける根蓋(ねぶた)までやってくれている。しかし藤原鎌足の子孫が作った勧学院日本書紀を金科玉条として、古代史を真剣に勉強し、確り取っ組んでいないものだから、日本の歴史屋は哀れ何も言い返しが出来ないのである。 古代史さえよく研究していたら、逆手にとって反対にこちらが被害者の立場から教科書抗議に対せるのだが、まったく不勉強すぎて悲しいことにそれすらも全然できないのである。といって、まぁ過ぎ去った過去のことを言いだしたら、それこそ切りがないかも知れぬ。 それを良い事に、被害者の立場をとる向こうでは、日本人乗車拒否のタクシーまで出現しているという。家永裁判では民主主義でなく、又しても皇国史観の昔へ逆戻りさせた判決を、せっかく勝ちとったばかりの文部省も、歴史屋の不勉強さで何ともならず、まこと気の毒である。 かつて吾が日本列島が馬韓辰韓弁韓の三韓時代に支配されていた時代は、終戦直後よりひどく、ナラ時代、韓国のカントリーの意味だそうだが、金大中の御先祖さま[これは単に百済系をさす意味]が君臨の昔、「クダラにあらざれば人にあらず」とされ、「クダラぬやつ」「クダラん事はするな」とまで、現代でさえ用いられるくらいに、韓国の御先祖さまは日本へきて君臨なさり、好き勝手な事をなさっていた。 新羅人や高麗人も、日本海よりベーリング寒流で入ってきて勢力争いをした。だから日本の古名は越前越中越後とか備前備中備後と、三韓時代に三分割されていたままなのもその例証である。恐れ多くも桓武帝のごときは、「桓武焚書」と今ではよばれるごとく、前からの日本書紀はことごとく集めて焼き、オンモン日本書記まで作成しなさったくらいに、好きなようになされ遊ばした。 韓国の女性の腹から生れた徳川綱吉は、千代田城を朝廷をよばせ閣老を公家とし、王政をしき、よって東下りの公卿は大納言や侍従でも退官して無位無冠で江戸伝奏屋敷へ入り、京へ戻ると前大納言や前侍従がまた復官したのは<赤穂義人纂書>[日本シェル出版]に明記されていて証拠も残っている。 それなのに日本歴史は、好意的に馬韓渡来の方に、神功皇后の御名をつけマタニティードレスの女将とするくらい、本心では韓国に敬意を失っていない。なにしろ、日本の歴史教科書は単なる暗記もので、ドイツ人リース門下作ゆえ責めても、不勉強の歴史屋が悪いのだから仕方がない。 もし日本古代史が乳離れするみたいに記紀離れして、藤原王朝が作ったのから脱却していたら良かった。半世紀もたたぬ最近のことを突き廻す被害者顔の近隣諸国に、せめて五世紀までさかのぼって日本の歴史家が解明していたならば、薮を突っついて蛇を出すような、しっぺ返しができたものを、従来の学校教育に甘んじ、学者だと自認している連中たちは何も知らぬ。 無智ということは罪悪である。いくらナラ朝時代は韓国製の日本史、七世紀からはトウのトウゲン[桃源=藤原]王朝史だと判らぬのか知らぬのか、何も反対意見を出せぬままの現状ゆえ、この侭では、「ご無理ごもっともです」と、教科書検定審議会の答申をうけ、抗議されるままに訂正して、「おっしゃるように、なおしました」という事になるのだろう。世界中どこの国が、他国より干渉されて、その学校歴史を改訂するといった例が、はたして悲しい事だがあったであろうか。「国辱」というものがあるのなら、これ以上の屈辱はないだろう。 長州より招かれて御抱え教師となり、現代日本史の開祖となったアドルフ・リースが、先進国にならって日本でも、「博士号設定」となった際に、彼は歴史屋なのに理学博士や医学博士は認めたけれど、「独・英・仏・伊には歴史学博士の称号はあるが、この国にては、その設定は無理なり。文字を弁じうる程度なれば、文学博士にて間に合わすべきである」と、後にベルリン陸大の歴史教授となって、「ゲルマン民族優秀説」を発表しナチスに利用させたリース歴史学博士は、日本では開明学校が東京大学になると、「史学会雑誌」を刊行させはしたが、歴史学博士号は許さずに帰国した。 だから歴史の専門家が一人も認められていないゆえ、まぁ古代史は無理といってしまえばそれまでの話だが、もし良心があるなら各大学で歴史担任の教授は丸坊主にでもなるべきだろう。 なにしろ日本以外の国では、歴史を愛国心を育てるために重点的に教える。大学入試でも、歴史は必須科目として必ず受けさせられる。しかし日本ではディスカッションし学生たちに研究討議させる重要科目ではなく、中学生の頃から文字通り教科書を暗記させ、年号を覚えさせるだけであって、大学の入学試験にも歴史を必須受験科目にするようなところは全然ないのである。 ☆ ☆ ☆(非常に膨大な文字数なので、次回に続く)
2024年11月26日
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映画「スターウォーズ」の凸凹ロボットコンビC3POとR2D2は、黒澤明監督の「隠し峠の三悪人」の凸凹コンビからヒントを受けたのは有名な話だが、恐らくこの凸凹コンビは、十返舎一九の東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんに原点があるように思われるのは、あっしだけだろうか?【メディア今昔】「スター・ウォーズ」ジェダイ=時代、R2-D2&C-3PO=太平&又七…ルーカスヒットの方程式は黒澤明(3/4ページ) - 産経ニュース日本初「旅ブーム」を起こした弥次さん喜多さん、駿州の旅|日本遺産ポータルサイトこのブログで頻繁に紹介している、八切史観によると、弥次、喜多の原点は、やじで八の民、きたで北の四の民の、つまり、八の赤の平氏、四つの白の源氏からきている、というわけなんである。NHKの紅白歌合戦も、この源平の赤白にあるようで、日の丸も、源氏の白が、平氏の赤丸を囲む旗でもある。何が言いたいかと言うと、日の丸は、本当は、日本原住民の象徴だったかもしれない、ということである。日本の国旗 - Wikipedia錦の御旗 - Wikipedia菊花紋章 - Wikipedia天皇の錦の御旗は、赤地の錦に、金色の日像・銀色の月像を刺繍したり、描いたりした旗で、有名なのは、菊の御紋である。天皇家については、以前紹介した動画に、中東のウルク起源渡来説が紹介されていたので以下を参照してほしい。都市伝説風の古代史が解説されている。菊花紋章の由来と天皇家との関係 – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究旧約聖書の編纂者「古代エジプト王家説」/隠されたあの"日本の和歌" - YouTube旧約聖書の編纂者「古代エジプト王家説」/隠されたあの"日本の和歌"話が逸れてしまうので、元に戻すと、現代の弥次喜多といえば、「にけつ」の、ケンコバ氏と千原ジュニア氏を個人的に想いうかべてしまう。その次に、「マツコ有吉の怒り新党」の、マツコ・デラックス氏と有吉氏で、三番手に、「出川一茂ホラン不思議の会」の長嶋一茂氏と出川哲郎氏に、ホラン千秋氏が加わった、弥次喜多凸凹コンビの拡大トリオ版という感じだろうか、「さわつく金曜日」も面白いが、一茂氏、石原良純氏に、高島ちさ子氏のトリオに、司会者の高橋茂雄氏も加わったカルテットになっている点で、弥次喜多の、お笑いの珍道中的な伝統芸というよりも、昭和からはじまったドタバタ劇という感じにみえる。にけつッ!! - Wikipediaマツコ&有吉の怒り新党 - Wikipedia出川一茂ホラン☆フシギの会 - Wikipedia日本にくる、インバウンドの外国人が、日本は、新しいなかに、古さが共存している、というような感想をもつらしいが、故きを温ねて新しきを知る、ではないが、その逆の、新しさのなかに、古さを知る、のが、日本文化の、詫び詫び、奥ゆかしさといえるかもしれない。だからC3POとR2D2のなかに、太平又七を知り、太平又七のなかに、弥次喜多を知るというような、ロシアのマトリョーシカ人形のような、時代の入れ子構造のようになっているのが、日本文化の特徴なのかもしれない。マトリョーシカ人形は、日本の箱根細工の七福神の入れ子人形が元になっているという説もあるらしいが、前回紹介した、宇宙のウロボロスを体現している構造でもある。マトリョーシカ人形 - Wikipediaウロボロス - Wikipediaというのも、人間の物質体は、電子や陽子、中性子などの原子構造から、リン酸のアミノ酸、タンパク質を形作り、更には、細胞の器官となるような、いわば、入れ子の構造になっているわけで、古いものが母胎となって、新しいものを纏うことで、入れ子のようにつくられているからである。物質科学では、物質体内部の電子と、外の空気中の電子に違いはないが、人智学では、区別している。というのも、人智学では、人間の物質体=肉体は、前世のカルマからつくられるからである。だから、体内の電子は、前世からつくられるので、古く、外の空気中の電子は、現世のものなので、新しいものと考えられるわけなんである。だから、人体は、絶えず、新しい電子を吸収し、古い電子と入れ替え、前世のカルマから、来世につながるカルマへとつくりかえている、ともいえるわけなんである。日本には、情けは人の為ならず、とか、武士の情け、とかいう慣用句があるが、人間が、輪廻転生のカルマの前世から入れ子構造でつくられていると考えれば、外の電子と、内の電子をつなげる、情けともいうべき、思いやりや感性は、正に詫び寂びで、この思いやりというか、故きを温ねて新しきを知る、というか、古いものと新しいものの共生が、情けと呼ばれる愛により生まれる、のがわかるかもしれない。この日本文化の詫び寂びを、エメラルドタブレットのトートも、他人を助けることが、自分を助けることになると、この情けのカルマを説いているわけなんである。前世で誰かを助けると、現世でその誰かに助けられるからである。だから、誰かを助ければ、未来では、その誰かに助けられる。助けられるならばとにかくできるだけ助けるべきである。このような日本文化の良い点ばかりを紹介しても片手落ちなので、悪い点も紹介したい。それはやはり以下のような八切史観から紹介したい。以下は抜粋紹介である。 ☆ ☆ ☆八切止夫 | page 1 | 嘘八百のこの世界「ひょっとして佐久間象山は、慶喜の正体を知らないで、薩摩藩や長州藩が攘夷を主張しているのは見せかけであり、本当は裏で外国勢力と繋がっていることを慶喜に告げ口したから暗殺されたのかな?」byソウルマン「虚像と実像・明治の首領(ドン)」八切止夫1977年の書と思われるが、よく分からない。以下、一部引用する。*なにしろ、江戸時代の士道は、今日美化されているような派手なものではなく、もっと実質的だった。殿様のお手許が不如意の事が多かったので、「御為」というのが人臣の道とされ、経済的に殿様へ負担の迷惑をかけぬことと、(臣として殿の御為を計る)こと、これが、「武士道」というものだった。だからして、身分の低い者は、嫁とりする時でも相手の実家が身分が上だとか、資産のある時はよいが、そうでない場合は、もしも妻より自分が先立って後へ子女を残した時に、養育費として引きつづき扶持がいるが、それでは殿様の御為にならない。となかなか結婚できなかったものである。ふつうの大名は家臣が死んだ時は跡目が元服するまでは扶持を停止するのが普通で、しいて願いでれば情状により半額までは、「お情け扶持」というのが出たが、(お役に立たぬものに、そういう事をして頂くのは、殿への不為、不忠)になるというので己より身分の軽い女をめとる場合は、「召使い」と届出る風習が決っていた。真田家では、そうした女のことを、「まん」「おまん」と呼びならわしていた。これは戦前、陸海軍とも職業軍人の将校は上司に願い出る許可制になっていて、もし相手が水商売の女性だと許されなかったのも、やはりこの職業がいけないというのではなく、そうしたところで娘を働かせる親の経済力のなさが、不許可の理由だったのである。戦死した後で恩給だけではたらなく、同期会や上官が遺族の面倒をみねばならぬのでは、当人が安心して戦死もできまいという親心で、これも忠誠心の一つの定めだった。*「薩長は大公儀独占の形の火薬の自由化を狙い、開国を意図しながら表面は攘夷を唱え、公儀よりの火薬の配給をうけよう目的で、長州は昨年5月23日に仏船を砲撃し、蔭に廻っては伊藤俊輔(博文)井上聞多(肇)ら、5名の者を秘かにエゲレス船で海外へ出しています。薩摩も昨年7月2日に鹿児島で英艦と交戦してみせ、さも攘夷の魁(さきがけ)のように見せかけを作り、よって長崎出島にて保管中の最新輸入の火薬を長崎奉行より廻送させ、その上、戦った相手の英艦に秘かに薩摩藩士をのりこませ、上海から硝石を輸入させよう為に裏面工作をしています」象山は一橋慶喜に謁見すると、歯に衣をきせず所信を堂々と述べ、「薩長の野望を防ぐ方策は如何」と下問されると、率直に、「向うが開国を望みつつ、攘夷を表看板に偽装して居りますゆえ、此方も対抗上、鎖国を守り抜く為には、表面は開国論を唱えるしかございますまい」と、まず披瀝(ひれき)してから、「長州の久坂玄端なる者が先年私宅へ訪れて参りしより、その後も長州の者が秘かにてまえの許へ寄ってきますが、彼らは皇居を狙い、恐れ多くも一天万乗の御方さまを奪取し、それを己れらの野望の楯になさん所存とみえまする」と告げた。すると慶喜も大きくうなずき、「そこじゃ。どうもそうした動きがある」眉に皺をよせ、何かの案はと促してきた。「昨年の8月の七卿落ちにより、不逞公家と長州との腐れ縁は、なくなったげなに見えまするが、なかなか持ちましてそうもゆかず、御所の内に長州の手引きをなす者がまだ居ります。もし恐れ多くも主上が彼らの奪取する処となり、彼らが本性を現し開国に踏みきり、御禁制の火薬をどんどん入手すれば内乱は必至。よって、この日本列島は二分されてしまい、アメリカ軍の進駐をうけ神州は紅毛人の占領下にもされましょう」といいきり、「・・・天朝さまが長州あたりに利用されるなどとは、臣民として恐懼(きょうく)の他はありませんから、ひとまず安全な所へお移し奉って御守護するべきでありましょう」と述べた。*佐久間象山の門人の三沢刑部丞(ぎょうぶのじょう)も、「薩摩のごときは去年の7月に、表向きは攘夷の魁(さきがけ)じゃと鹿児島で英船と砲戦する反面、秘かに藩士をエゲレスへやっとります・・・」と息まき、やはり鼻を詰まらせた声で、「長州ごときも薩摩より4月も早く馬関で、仏船に大砲玉をうちこんでいますが、これも本当の肚は輸入火薬欲しさの開国が本心で、伊藤俊輔や井上聞多(もんた)らを上海へその月の内に秘かに派遣しとりますそうな」と訴えた。「そうです。表向きは攘夷を叫び内実は開国して新火薬を輸入し、叛を計りたい長州人には、うちの先生が煙たくて、きっと開国論者という張り札をつけ殺したのでしょう」ついにお順は、ヒステリックな声まではりあげた。(管理人=ソウルマン)<著者が理解していること>・薩摩藩や長州藩が攘夷を主張しているのは見せかけであり、本当は外国勢力と繋がっている。・薩摩藩がイギリスと戦ったのは見せかけ。・長州藩がフランス船を砲撃したのも見せかけ。・薩摩藩は元から外国勢力とツーツーの仲だった。・長州藩は伊藤博文や井上肇らをヨーロッパに派遣している。・外国勢力が武器のみならず硝石を薩摩藩や長州藩に渡していたことは隠匿されている。<著者が理解していないこと>・徳川慶喜は外国勢力の手先・傀儡であった。・明治維新が維新側と幕府側の八百長であり両者はグルであった。ひょっとして佐久間象山は、慶喜の正体を知らないで、薩摩藩や長州藩が攘夷を主張しているのは見せかけであり、本当は裏で外国勢力と繋がっていることを慶喜に告げ口したから暗殺されたのかな?(明治維新と同じく、太平洋戦争でも、長州閥帝国陸軍は親ソ連で、薩摩閥帝国海軍は親米国だったのが後に判明している。日本人は巨大な権力を傘に弱者を虐げるのが得意だったようである。まるでドラえもんのスネ夫である。)「明治初期には、「文明開化」の怒涛のごとき輸入に対して、ソニーもホンダもない当時ゆえ輸出して決済するものがなかったせいもあって、昔の堺の納屋衆のごとくに横浜関内に捕えてきたサンカを奴隷として、人間倉庫をたてた。そして出向証明書なしの棄民として、フィリッピンのベンゲダット鉄道工事への7600人を始め、ハワイやアメリカ、女はボルネオのサンダカンへ、島原半島の三角湾倉庫から次々に送られた。彼らを国内から一掃するごとく仕向けられ、これへの反撥が、やがて秩父事件となる。」by八切止夫 | 嘘八百のこの世界「明治初期には、「文明開化」の怒涛のごとき輸入に対して、ソニーもホンダもない当時ゆえ輸出して決済するものがなかったせいもあって、昔の堺の納屋衆のごとくに横浜関内に捕えてきたサンカを奴隷として、人間倉庫をたてた。そして出向証明書なしの棄民として、フィリッピンのベンゲダット鉄道工事への7600人を始め、ハワイやアメリカ、女はボルネオのサンダカンへ、島原半島の三角湾倉庫から次々に送られた。彼らを国内から一掃するごとく仕向けられ、これへの反撥が、やがて秩父事件となる。」by八切止夫「サンカの歴史」①八切止夫1984年の書であるが、2003年の再販されたものを読んだ。複数回に分けて記す。以下、一部引用する。*これまでの日本列島では明治以降も真実を書き残したいと本にしたのは、獄死した阿部弘蔵の「日本奴隷史事典」と「木村鷹太郎著作集」や「日本部落史料」の数冊しか現存しない。昔から日本では口伝えではあるが、「文字づらに捉われるな」とか「文字通り額面通りには受取ってはならぬ」といった戒めが、各地方の部落ごとに守られていたのは、この為なのである。しかし今では義務教育法といった法律で、学校で教わった通り教科書の文字通りに、なんら考えることなく暗記するみたいに覚えこんで、テストに書かねば落ちこぼれにされてしまう。*なにしろ女性は、オカミの為に働き出征する少国民の為にこそ、生かして頂けるものとされオカミに届け出て婚姻をなしたる男女の交渉は、出生児をもうける国益として認められたが、婚姻届なしの男女交渉は禁じられていた時代。東京でも今より交番所は沢山あって川が埋立られず、昔は橋が多く袂にはあった。そこで同伴して通ろうものなら呼びとめられ、男女別個に不審尋問され、姓が違おうものなら、その不心得を長々と厳重に訓戒されたものである。そして、「臨検」が旅館には抜打ちにあった。・・・・・(中略)・・・・・翌朝になって「近く正式に結婚して子供を作り御国の為に役立つよう育てます。必ずそれ迄は無駄な放射は二度とせず絶対に慎みます」と宣誓しやっと放免された。*「かねて気にしてましたが大地震の騒動は、本当に朝鮮人暴動でしたか? サンカ殺し・・・」と尋ねてしまった。しまったと狼狽したが手遅れだった。報道部から、(使いものになる)とでも伝達されて身柄を伴われてきたようであるが、途端に温顔らしくみせていた相手が、「何ッ、国賊のサンカを知っとるんか」と厳しい表情で睨みつけられ、同行の憲兵中尉へ、(連れて行け)と言わんばかりに顎をしゃくってみせた。おかげで何々機関とよばれる軍御用機関入りさせられるのは、免れはしたものの、大正12年の叩き殺しは、末端の在郷軍人会や町内連中は朝鮮人殺掠であったろうが、どさくさ紛れに大量に処分されたのは、サンカとして睨まれていた人達であったろう事が、彼の周章てふためき変った表情から読みとる事ができた。・・・・・(中略)・・・・・さて、A閣下に抹殺処分にされたかも知れぬ危険な質問を、何故その時してしまったかといえば、昭和10年頃になって荒川土手の改修工事で数多く掘り出された人骨の頭蓋骨が世俗に伝えられてきた朝鮮人のものとは、どうやら相違しているらしいと問題にされたからである。「短頭ではない人骨の山」といった新聞のコラム記事等、読んで覚えていたせいもあった。だが元禄11年の江戸大火のあとで火つけの疑いで、根津権現一帯が包囲されサンカ皆殺しの前例すらあったから、つい思いきって尋ねてしまったのである。しかし当時の総指揮官だった前憲兵大尉のフィクサーが顔色を変えただけで否定しなかったのだから、相当数のサンカと睨まれていた人たちが、大震災のどさくさ紛れに退治されたらしい。なにしろ「国賊」と面罵されるくらい当時は誤解されてしまっていて、反体制視されていた存在だったのである。ゴキブリみたいに見つかり次第に皆殺しにされる宿命が、約千年も藤原王朝によって続き、今も伝承され引きつがれてきたせいとみられる。勝てば官軍だが、負ければ賊軍となる国である。つまりサンカの歴史とは、千年前に敗戦し賊軍となった後にも、オカミに対し帰順帰化して、そのオオミタカラの民となって世襲財産となるのを拒んで山海へと逃避行してからなのである。昭和60年代になって初めて、「わが建国は6世紀・7世紀」と、お言葉が隣国大統領へお仰せられる世になったが、それ迄のジンム、スイセイと丸暗記の時代にあっては、反藤原体制の彼らサンカなる徒輩は認めがたく許せぬ存在で、抹消してしまう為に殺掠。もしくは明治初期には、「文明開化」の怒涛のごとき輸入に対して、ソニーもホンダもない当時ゆえ輸出して決済するものがなかったせいもあって、昔の堺の納屋衆のごとくに横浜関内に捕えてきたサンカを奴隷として、人間倉庫をたてた。そして出向証明書なしの棄民として、フィリッピンのベンゲダット鉄道工事への7600人を始め、ハワイやアメリカ、女はボルネオのサンダカンへ、島原半島の三角湾倉庫から次々に送られた。彼らを国内から一掃するごとく仕向けられ、これへの反撥が、やがて秩父事件となる。*「民族融和事業会」というのは大和民族は単一民族なりと国民を戦争させるに好都合のごとく、義務教育で低学年の小学生から叩きこんできた明治・大正のオカミ内務省の警保局が、人民からの税金で設立の傘下団体である。だからして下部団体なのに東大出でも月給30円の時代に、本俸300円、機密費200円の計500円もの莫大な給与で働かされた人物もいたのである。*なにしろ昭和60年2月11日の東京新聞一面の「筆洗」の35行目に、勿体ないことだが、「・・・ここに至って、さきに韓国大統領を迎えた際の陛下のお言葉が一石を投じる。陛下は、『紀元6,7世紀のわが国の国家形成の時代に・・・』といわれた。“神武建国”を否定されたのである・・・」と、日本列島の国家形成を白村江敗戦からである、とされているのである。国の象徴であらせる御方が畏れ多くも、仰せられ遊ばしたものゆえ、白村江敗戦で唐の高宗の則天武后制定とされる則天文字つまり漢字の使用時が、統一国家形成とせざるをえないようだ。(管理人=ソウルマン)本書に書かれていることは、ほとんどの現代の日本人は知らないだろう。「国民に本当の歴史を教えさせない」ことを至上命題にしてきた学校教育の賜物である。「お前ら大衆は、我々が真実だと伝える嘘の歴史を信じとったらえーんじゃ」という「彼ら」の意図です。その最たるものが「サンカの歴史」なのです。これまで「真実の日本史」を書き続けてきた八切氏も、このサンカについては書くことを躊躇していたらしいです。それだけヤバイことらしいんです。「これまで災害等のドサクサに紛れてサンカが大量に殺されてきた」という史実があり、「こういった黒歴史がいつ復活してもおかしくない」と八切氏は感じていたからなのです。はっきり言って、サンカは支配勢力の敵でした。何故か?はい、「彼ら」支配勢力にとって非常に都合が悪い存在だからです。納税の義務、徴兵の義務、戸籍の義務を果たさないからです。今なら「ワクチンの義務」を果たさない私のようなものでしょう(爆)これらの「義務」から逃れるために、サンカは山等へ逃げたのです。7世紀から江戸時代までの支配勢力は、唐から来た藤原氏を中心とした外国勢力でした。サンカは日本原住民勢力の末裔です。ところでサンカをネット検索すると、こう出てきます。「調べてはいけない」と・・・もう十分調べてしまったが(笑)それだけヤバイ存在であり、支配勢力は国民から隠しておきたい存在らしいのです。まぁ、今回はこのぐらいにしておきます。「つまり親方中国が幕末まで銀本位貨幣制だったゆえ、藤原王朝の孝明帝が薩摩によって斥けられるまでは、三島から九州の涯(はて)まで日本も銀本位だった。本能寺を爆発させ信長主従30余と、ついで旧二条城へ逃げこんだ織田信忠一行をチリー硝石で全滅させたのも、マカオ貿易から銀本位貨幣制度を金本位に換えようとした織田政権を蜷川道斎が姪の夫の斎藤内蔵介に軍資銀をだしての仕業。」by八切止夫 | 嘘八百のこの世界 「つまり親方中国が幕末まで銀本位貨幣制だったゆえ、藤原王朝の孝明帝が薩摩によって斥けられるまでは、三島から九州の涯(はて)まで日本も銀本位だった。本能寺を爆発させ信長主従30余と、ついで旧二条城へ逃げこんだ織田信忠一行をチリー硝石で全滅させたのも、マカオ貿易から銀本位貨幣制度を金本位に換えようとした織田政権を蜷川道斎が姪の夫の斎藤内蔵介に軍資銀をだしての仕業。」by八切止夫「サンカの歴史」②八切止夫*この八切史観や八切史学と称されるのは「誰が書いた」とか「誰が残した」など問題にせず、「何の目的で書かされたか」「何故に今まで残されているのか」と、その存在理由を問うというか、疑問をぶっつけ常識で解明してゆく事に始まる。前述したが、考える事なのである。「コケの一念、岩をもとおす」というのが、正直この前人未到となったのであるといえよう。*「民友社」を創立し「近世日本国民史」を刊行した徳富蘇峰も、これには弱ったらしく村岡素一郎著「家康は特殊地出身の世良田の二郎三郎」の「史疑徳川家康事蹟」を同社から出した処、華族会の要請で明治神宮内省より弾圧をうけ、紙型もろとも在庫を買上げられ自発的絶版にした。・・・・・(中略)・・・・・「華族は皇室の藩屏(はんぺい)にして」と明治17年7月7日の華族令が発布されたのに、その華族会長徳川家の御先祖がエタ非人では困るから国庫補助で、総予算丸抱えの東大に、明治文部省より、命令したのであるらしい。だから私は東大史学科は信用しない。*なにしろ日清戦争に勝って対等となるまでは、現代のアメリカの代りに中国が親方でトウゲン王朝を倭訓フジハラ王朝とし京の蜷川財閥が一切を仕切っていたのは「阿片戦争」でも判る。当時は「清国」となっていたが親方が銀本位制で、「足銀」とよぶサンダル型に純銀をかため避難の時には足に履いて全財産を運んでいて、日本も箱根以西は同じ銀制だったのである。今でもマカオで純金のことを24金とよばず足金と言うのはこの名残りだが、銀しか鉱産されぬヨーロッパの銀の80パーセントを通商決済に、ラテン系発音の国ではキタイ。英語国ではシノア(チャイナ)とよぶ中国が各国より取りこんで集めすぎた。そこでバイキング英国勢力が銀を取り戻すため、夥しいインド阿片を大量密輸した。やむなく麻薬取締を敢行した林将軍は戦争を怖れる北京朝廷に左遷された。つまり親方中国が幕末まで銀本位貨幣制だったゆえ、藤原王朝の孝明帝が薩摩によって斥けられるまでは、三島から九州の涯(はて)まで日本も銀本位だった。本能寺を爆発させ信長主従30余と、ついで旧二条城へ逃げこんだ織田信忠一行をチリー硝石で全滅させたのも、マカオ貿易から銀本位貨幣制度を金本位に換えようとした織田政権を蜷川道斎が姪の夫の斎藤内蔵介に軍資銀をだしての仕業。だが一向宗の説教節で仏罰があたって信長を光秀が殺し共倒れで仆れた(倒れた)と宣伝された儘である。徳川政権が「有難やの有難や」で始まる説教節を黙認して流行させたのは、信長殺し黒幕が権現さまとは知悉されていたから光秀に転化をしたらしい。*「コケシ」つまり子消しの名称で、現代では御土産品として鳴子あたりでは売られているが、「お白さま」と昔は称され、男女をなんとか一対に添わせてくれるなら、子供が生まれて迷惑なら子おろしをして消しても構いませんと、木の棒の頭に白紙や布で丸めたのをかぶせて、祈願の箱入れにしていた。*神社は騎馬民族系で新羅を同音の「白木」と呼ぶ処の白木の社である。さて紅殻塗りの朱色の、「堂」とか「宮」と呼ばれる八坂さんや祇園さん、安芸の宮島。俗に稲荷の当て字を吉田神道でされている処の「夷也」、これも赤鳥居だが、こうした解明をこれまで誰もしていない。そのくせ、この人口が日本列島原住民の大半をしめる。だから今でも日本人は七五三の際でも、「お宮参り」はするが、お社参りとは言わないのである。菊池三哉の「日本の特殊部落」でも、四つの白系までは解明しているが、この肝心な民族カラー赤色の方は未研究だった。が、共に「前代サンカ」の基盤となる民族ゆえ、双方とも反仏派であることに違いはない。だから、「寺」派は、極楽浄土へゆくため葬われ供養をうけ、ねんごろに墓地へ埋められる。が、反対の「神祇」派は、反体制の反仏教ゆえ、神社や祠堂や、お宮には、墓地は許されていない。だから埋葬ということはありえない。幕末になっても、遺体を寺へもってゆけば、銭を納めても、「畜生塚」とよばれる孔へ放りこまれるだけだったから、「投げこみ」と言われるのである。「新選組」と名のった連中が、壬生の八木源之丞宅の屯所を半年たらずでやめ、当時は部落搾取で繁栄していた西本願寺の本堂横の、大会所を占領してのけ、参詣人も来られぬように本堂前で打ち首をして屍体をいくつも転がし、洛中の各寺ばかりでなく仏壇屋やケサ衣販売店へ、「坊主憎けりゃケサまでニクい」と放歌高吟して、隊伍を組んで次々と荒らし廻っていたのは、「幕末の群像」にもあるように、日野や百草や卑地方とよばれた近藤勇や土方歳三らの出身地が弾左衛門地であって、死んでも葬いは許されず、投げみの畜生扱いだった寺、つまり仏教の意趣返しに、彼らは「誠」の旗をたて、日本最初の制服集団として、明治元年の廃仏稀釈の先払いみたいに振舞い、鳥羽伏見の敗戦まで反仏破損を続けたのである。つまり明治以降の、「価値転換」ともいうべき「神は拝むもの」と一変させられてしまうまで、占領軍宗教の黒染の衣と、反仏神祇とは全然あい入れぬ睨みあいの儘でサンカ信仰の天神崇拝も反体制サイド。*それでは、いつから、さも日本古代よりの信仰のごとく、仏教が国教みたいにされたかといえば、「野史辞典」の「衛生ごっこ」の項目にあるみたいに、新選組によって徹底的に西本願寺がいためつけられてしまい、代って東本願寺が隆盛となり、そこからアラヒトガミさまの東宮さまに妃殿下として入られた為で、大正官憲が寺内墓地の広さが限られているゆえ衛生上の理由で、「火葬埋葬法」という法律を作り、誰も彼も墓地を借りねばならぬよう義務づけたからである。「何々家先祖代々之墓」といったのが、大正年代でみな刻みこまれているのであって、それ迄は貧乏で墓がなかったわけではなく、法律でそうされたからに他ならないのである。隠れシノガラで戸籍で作られていない人たちは、今でも墓などは、誰一人として作ってはいない。*今では判らなくなっているが、信州上田の真田一族のごときは、サンカ集団ではよく戦った一例である。もちろん白サンカ側だった徳川方とは内ゲバみたいなものだが、この衝突の原因は徳川家康が大坂を仆すために、なりふりかまわず京の蜷川財閥に対し、銀本位貨幣制を守る約定を申し入れて、その資力で西国大名の裏切りを取りつけての関ヶ原合戦ゆえ、信州上田で真田昌幸は当時としては莫大な一文銭6枚、江戸開府時でも髪結いが一文だったゆえ、一文は今なら約2500円で日当15000円の募兵をなし、猟師たちを集めた。それに対して、昔は武蔵七党と謳われたものの足利時代の狩りこみをされ、橋のない川の荒川筋の三河島や尾久島に居付きさせられていたのを解放して武装させたのを、徳川秀忠直属につけて向わせた。のちに江戸創業に功のあったとされる三河譜代の者たちである。今では「みかわ」と呼ぶから判らなくなるが、三河はサンガ、つまりサンカであるが、彼らは高麗系新羅系白サンカで室町御所では、「白旗党余類」と侮称し、公文書では反体制の非人と、されていた者たちである。だからして赤サンカとはいえ六文銭の旗印で募兵しながら攻めてくるのへ、徳川勢は突入をためらっている裡に、日数がのびにのびて関ヶ原合戦に間に合わず遅れてしまった。・・・・・(中略)・・・・・のち大坂城に招かれ入ったものの仏教徒の淀どの始め取り巻き連中から、反仏派の真田一党は、「けがわらしい」と、陰口を叩かれて、やむなく三の丸の外へでて真田丸を築いたのである。なにも勇敢で戦さ好きだからと、今の大阪市内の大半を占める城の三の曲輪の外へでて、己が陣所をかまえたりしたわけではない。白サンカは馬鹿と四つ足の動物名で侮称されて非人とされ、赤サンカは水のアをとって阿呆とよばれ江多と当時でも、反仏派から差別をされていた。それでも仏教側の淀君らは、赤旗と白旗や金色旗印に分かれていても、同じサンカゆえ徳川方に裏切りはしまいかと、伜の真田大助を人質にして秀頼の監視下において見張ったのである。(管理人=ソウルマン)村岡素一郎著「家康は特殊地出身の世良田の二郎三郎」の「史疑徳川家康事蹟」の一部を下記から引用する。家康はフォールと同じような偽物だったらしい・・・徳川家康の影武者説 - Wikipedia影武者説の発端徳川家康は江戸時代を通じて神君とされていたため、その出自を疑う者はいなかった。1902年(明治35年)4月、徳富蘇峰が経営する民友社から、地方官吏であった村岡素一郎が『史疑 徳川家康事蹟』という書籍を出版して家康の影武者説を唱えた。文学博士で元内閣修史編修官・東京帝国大学文科大学教授の重野安繹が、この著書の序文を記している。影武者説の概要村岡素一郎によれば、「松平広忠の嫡男で、幼名は竹千代。元服して松平二郎三郎元信と名乗った人物は、正真正銘の松平(徳川氏)の当主である。桶狭間の戦いで今川軍の先鋒として活躍したのも、この竹千代(当時は元康)である。しかし元康は桶狭間の戦いで今川義元が死去した後に独立したが、数年後に不慮の死を遂げた。そして、その後に現れる家康は、世良田二郎三郎元信という、全くの別人が成り代わったものである」という説を村岡が着想したのは、林羅山の著書『駿府政事録』の1612年(慶長17年)8月19日の記述である。村岡は以下のように引用している。駿府政事録に云ふ、慶長十七年八月十九日御雑談の内、昔年御幼少之時、有二又右衛門某云者一、錢五貫、奉レ賣二御所一之時、自二九歳一至二十八九歳一迄、御二座駿府一之由、令レ談給、諸人伺候、衆皆聞レ之云々。公が此の自白の述懐に據れば、公は幼少の時、又右衛門なるものに、錢五貫を以って鬻賣せられ、九歳より十八九歳迄、駿府に在住せられしと、此比は人の子女を勾引して賣買したることあり、公も此の災厄に罹られたるなり、陪席の左右侍御輩皆之を聽けり— 村岡素一郎著、『史疑 德川家康事蹟』14頁「(大意)『駿府政事録』にはこうある。慶長十七年八月十九日、家康が雑談の席で「私は子供の頃、又右衛門ナニガシというものに銭五貫文で売り飛ばされ、九歳から十八歳、十九歳まで駿府に居たのだ」と語ったというのだ。家康公は戦国時代よくあった誘拐にあい、売り飛ばされていたのである。家臣達はみな、この話を聞いていたのだ。 」当時、松平広忠は今川義元の庇護を受けるため、息子の竹千代(家康)を駿府に人質として送ろうとしていた。しかし、広忠の継室真喜姫(田原御前)の父である田原城主の戸田康光が今川家と松平家を裏切り、竹千代は織田信秀のもとへ売られた。後に織田信長の庶兄である織田信広が今川軍に敗れて捕らえられたため(安城合戦)、その信広と交換されて駿府に送られた。その様子を家康が語ったものとされている。村岡は戸田家が竹千代を売ったことを否定しているという。しかし、康光を始めとする今川家を裏切った戸田一族は今川家に滅ぼされており、否定したという戸田家の人物は不明である。なお、近年になって、アカデミズムの側から戸田家が竹千代を売った事実を否定する見解が出されるようになっているが、結果的に影武者説についても否定することになるため、後述する。影武者・世良田二郎三郎元信村岡素一郎は元康と入れ替わった人物を「浄慶」、後に「世良田二郎三郎元信」と名乗った願人であると推定している。彼の母親は、ささら者(賤民)の娘である於大、父親は新田氏嫡流(新田氏支流江田氏)で下野国都賀郡小野寺村出身の「江田松本坊」という祈祷僧としている。天文11年12月26日(1543年1月31日)、駿府の宮の前町で生まれた子は「国松」と名付けられたが、松本坊は彼が生まれた直後にどこへともなく出奔したとしている。母子のみでは養育する事が出来なくなった於大は、有度郡石田村の富士見馬場にある久松土佐の家に再嫁する。異父弟の三郎太郎康元が生まれると、於大の生母で祖母にあたる源応尼に国松の養育を頼んだという。その後、国松は東照山円光院の住職・智短上人の門に入って「浄慶」と改名したとしている。しかし今川家の菩提寺で殺生禁断の地とされた増善寺山内で小鳥を捕らえたため、師から破門されたという。その後、浄慶は駿府を放浪していたが、又右衛門という男に攫われて、子供を欲しがっていた願人の「酒井常光坊」に銭五貫で売られたという。村岡は、願人を妻帯肉食の修験者と説明している。こうして少年時代を過ごした浄慶は、1560年(永禄3年)に「世良田二郎三郎元信」と名乗る。実父の松本坊が新田氏の末裔と称していたため、世良田姓を名乗ったという。そして同年4月の桶狭間の戦い直前、元信は元康の嫡男で駿府に人質としてあった竹千代(のちの松平信康)を誘拐して遠州掛塚に逃走したという。これが原因で、源応尼は同年5月6日に処刑されたとされる。そして桶狭間で今川義元が織田信長に討たれて今川氏が混乱すると、「世良田二郎三郎元信」は同志を集めて浜松城を落とし、さらに勢いに乗じて三河を攻略しようとしたが、松平元康に敗れて尾張に逃れる。信長と水野信元を使い、元康に今川から離反するよう説得する。しかし元康が断ったため、怒った信長は、信元に命じて元康を攻撃する。しかし、元信が期待したような本格的な侵攻にならず、孤立した元信は元康に降伏し、信康の身柄を元康に返還することを条件に罪を許され、その家臣になったという。これら、「世良田二郎三郎元信」の経歴やその父江田松本坊なる人物は徳川氏に伝わる始祖松平親氏の伝説と類似している。親氏は新田源氏の一族、世良田有親の子として生まれ、時宗の遊行僧として三河に漂着、酒井氏の入り婿になった後、松平氏の婿となったと伝えられている。しかし、この伝説には疑問も多く、松平氏の先祖を粉飾するための伝説とされている。徳川は自身の出身の秘密を暴露された書を廃刊に追い込んだのだ。何もやましいところがないのなら、正々堂々と筋道を立てて反論するべきなのだ。そもそも明治維新で敗れた側の徳川が明治以降も権力を握っていること自体がおかしいのだ。維新側が徳川と本当に対立していたならば、明治以降は徳川の正体は国民に周知されているはずであり、出自を偽って本物と入れ替わった偽物大名家であることを誰もが知っていたはずである。そうならなかったのは、明治維新が八百長であったことの証拠なのだ!ところで、トウ由来の藤原王朝以来、当時の日本は銀本位貨幣制度だったらしい。勿論、支配層の母国である中国も同じであった。金は通貨でないから、茶室や金閣寺など“貨幣価値のないもの”として使われていたようである。ほとんどの日本人は知らされていない。 論考 『足利義満』 足利義満と金 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。金が無くて倒産というのはある。だが大阪城のように天守閣には割竹に流し込まれた金の延べ棒が山積みされていて落城してしまった事実は何を意味するのだろう。分銅流しとか竿金の名称で「頑丈な天守の床板が軋む程に積み上げて在った」と記録にある。有り体は、この時期においても金はカネでなかったことである。大阪落城後の焼け跡に岩のようにごろごろしていた黄金を、略奪したり、掻払った兵もいない。「汝に悉皆みな呉れてやる」と家康に言われて全部貰った籐堂高虎も有難迷惑そうに集めて茶釜や茶壺を作っている。歴史屋は(猛烈な炎に焼きただれていたゆえ、そうした用途しかなかったのだ)と説明する。だが鉄屑のスクラップを溶かして新鉄にするごとく銀でも金でも火力のため黒ずみは表面に出るが変質することはない。高虎にしても、黄金がカネなら茶壺など作らず通貨に鋳造し直す筈だし、それより吝な家康が気前良く皆呉れてやるはずはない。これは家康が元和元年五月の時点で、黄金とは単なる装飾用軟質金属にすぎず、まだカネではないと認識していた例証でもある。十六世紀と現代では様々な事象に対して評価が逆なのを理解しなければならない。「黄金の茶室」を秀吉が作ったからと言って、さも豪華絢爛だったごとく目を奪われ間違えるが、金閣寺や金色堂と同じように、廃物利用とはいえぬまでも、余っているから使ったに過ぎないらしい。当時ヨーロッパ各国もルネッサンスの為のバブル金儲けの植民地政策上、従来の銀本位制から金本位制に切り替えていたゆえ、織田信長もポルトガルとの火薬輸入決済に日本を金本位に切り替えようとしたらしい。しかし、当時の日本の銀の大半を支配していた蜷川道斎に忌まれ、その姪の夫にあたる丹波亀山在城目付の斉藤内蔵介に率いられた一万三千の軍によって本能寺で爆死を遂げた。(この内蔵介を影で操った黒幕が家康なのである) 次の秀吉も大陸遠征の火薬や資材購入のため、やはり対外的には金で決済だったゆえ、金本位制に貨幣制度の切り換えを目論んだ。その計算の元彼が作らせたのが、日本最初の金貨である天正大判小判なのである。だが秀吉の権勢をもってしても、足利時代から連綿として続いてきた蜷川財閥金融資本の銀は強く、切り替えは出来なかった。やむなく勲章代わりに各大名へ与えたり、公家を集めて「金配り」とばらまいたと言うのも、金本位移行の為の布石か、又は蜷川勢力に勝てぬ事への鬱憤ばらしとも考えられる。この計画のため、佐渡金山を取り上げ、上杉景勝を会津百万石へ移封させもしたが、雄図空しく金がカネにならず、用途を失った地金がやむなく大阪城に山積みされていただけの話しである。だから無価値な黄金を貰っても仕方ないと、諸大名も味方しなかったのである。大正官憲が寺内墓地の広さが限られているゆえ衛生上の理由で、「火葬埋葬法」という法律を作り、誰も彼も墓地を借りねばならぬよう義務づけたからなのだ。そして支配層の母国である中国由来の仏教と、日本原住民の神道は、根本的に相いれないものであった。「墓は寺にあっても神社には無い」理由はここにあったのだ。そもそも墓の習慣は日本古来のものではないのだ。日本原住民は「幕末になっても、遺体を寺へもってゆけば、銭を納めても、「畜生塚」とよばれる孔へ放りこまれるだけだったから、「投げこみ」と言われた」のだ。「新選組」も、仏教勢力に恨みを持っていた日本原住民であった。だから「坊主憎けりゃケサまでニクい」となるのである。でも幕府側であった「新選組」が明治になる前から仏教勢力に実力行使をすることができた理由が今一つ分からない。薩摩の廃仏稀釈はよくわかるが。そして、「「何々家先祖代々之墓」といったのが、大正になってからだ」というのも驚きだ。真田一族は赤サンカであり、徳川は白サンカであった。つまり、サンカ同士で戦ったのだ。「仏教勢力だった淀どの始め取り巻き連中から、反仏派の真田一党は、「けがわらしい」と、陰口を叩かれて、やむなく三の丸の外へでて真田丸を築いた」というのが真田丸の真相なのだ。併せて淀どのはサンカ同士による裏切りを危惧していたのだ。秀吉は日本原住民系であるが、仏教勢力だった淀どのに惚れたということなのだな。そういえば、一時藤原姓を名乗っているときがあったように、自分の出自をよく見せようとしていたのだろう。それにしても、「こけし」の由来が恐ろしすぎる。土産品として購入する人がこのような歴史を知る由もないのは言うまでもない。最後に八切氏は、さりげなくこう書いていました。「藤原王朝の孝明帝が薩摩によって斥けられる」と。天皇入替事件は、明治大正の人にとっては「常識」だったんですよ。いまだにそんな「常識」を身に着けることなく明治維新を語っている人は・・・「戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。判りきったこんな明白な事実でさえ、明治軍部は国民を無謀な戦争にかりたてるため、(国内に火薬の原料なし)を隠すために歴史家を黙らせたのである。さて戦後26年。今になっても歴史家は一人も知ってか知らずか、この事実を発表しない。また吾々をどうするつもりかと、ここに告発したい。」by八切止夫 | 嘘八百のこの世界「隠匿の日本史」③八切止夫*日本人が戦国時代に奴隷に売られて、男は印度から馬来半島方面のポルトガル領の植民地に、容色のよい女は、魔女裁判によって多くの女性を焚殺(ふんさつ)したヨーロッパへ送られていたことは、あまり知られていない。・・・・・(中略)・・・・・さて従来の日本史は、(ギネア海岸からのアフリカの黒人を、聖ドミニカ派の宣教師が、現在のリスボンを集散地として、南米へ送りこんでいたが、天文12年以降は、現在のマカオが、ポルトガル人による日本人奴隷の一大集散地だった)といった事実を隠している。だからして、織田信長が何千人も殺してしまったといった記載など、当時としては、「奴隷に売れば儲かるものを、もったいない事をしたもんだ」といった受け取り方で記録されているのに、今の歴史家はそれを知らず、「信長は残忍だった。だから本能寺で殺されたのは因果応報である」などと説明する。あまりに不勉強にすぎないのではなかろうか。ただ歴史家とは認められていないひとだが、徳富蘇峰の『近代日本国民史』に、「後戸(五島)・平戸・長崎にて、日本人を男女を問わず数百人ずつ黒舟が買いとり、手足に鉄の鎖をつけ舟底へ入れて運び去るは、地獄の責苦にもまさって、むごい有様である」といった実施にみた大村由己の、『九州動座記』の奴隷売渡しの実況が挿入されているだけである。由己は豊臣秀吉の祐筆頭(ゆうひつがしら)で、これは当時の公文書である。・・・・・(中略)・・・・・さて天文12年以前においても、古くは源平合戦の起因となる神戸福原からの原住民を奴隷輸出された事実や、室町時代においても、四国の三好氏や山口の大内氏は、日本原住民を捕えこれを明国や南蛮船に売っていた。また羽仁五郎の『都市の論理』において、「アテネの人口は市民9万に対して奴隷は30万いたから、憲兵や警官のごとき仕事は奴隷の仕事であった」とかかれているのは前述したが、西暦1603年(慶長8年)の、「ゴア(印度)人民のスペイン国王フェリッペ2世陛下への上申書」にも、「当地の白人はひと握りしかいません。軍人とし陛下の城砦を守っているのは、白人の56倍いる日本人奴隷で、好戦的な彼らは鉄砲をもち土民を撃退しています」とある。インドやマカオでは、奴隷の日本人が、「軍人」として使役されていたのである。*もし中学校か高校の地図をもっていたら、マライ半島の部分をひろげて頂きたい。そこの南シナ海に面した部分は今でも、「バハン州」である。そして戦前の地図は、「バハン土侯国」の文字がシンガポール以北にあり、バタビア日記など古いものには、「Pahang」の名になっている。私は春にリスボンへ行ってきたが、今でもポルトガル人は、マライとよばずに彼らのつけた、「バハン」とよぶ。これはマラッカのベンハーの丘に城砦をきずいて同地を占領した、「バハン侯爵」の名をとったものだそうだ。つまりバハン侯爵が軍艦にのり、捕鯨船のキャッチボートのような小舟に、日本人奴隷をのせ掠奪をやらせていたのであるらしい。五島列島の王直らのような倭寇も、ボスは中国人で末端の消耗品が奴隷日本人だった。それより何故日本人が、こんなに奴隷に売られたのか?これまでの日本史では極秘である。というのは今日の日本史は明治帝国主義の所産だから、これは明治軍部のせいだろう。真相は天文12年に銃器が種子島へ渡来。器用な日本人は直ちにそれをまねて精巧な銃も作った。しかし、硝煙とよばれた硝石は、現在でもそうだが日本では一片も産出しない。みな輸入に依存するしかなかった。鉄砲があっても火薬がなくては戦争できぬ立場にあった。よって、しめしめとばかり黒人の奴隷売買で味をしめたドミニコ派の宣教師が、マカオよりの火薬と交換に、日本人を牛馬のごとく買ってゆき奴隷転売にしたのである。戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。判りきったこんな明白な事実でさえ、明治軍部は国民を無謀な戦争にかりたてるため、(国内に火薬の原料なし)を隠すために歴史家を黙らせたのである。さて戦後26年。今になっても歴史家は一人も知ってか知らずか、この事実を発表しない。また吾々をどうするつもりかと、ここに告発したい。(管理人=ソウルマン)ここで改めて分かったこと。・イエズス会宣教師だけでなくドミニカ派の宣教師も日本人奴隷売買をしていた。・織田信長が何千人も殺してしまったといった記載などは、当時は、「奴隷に売れば儲かるものを、もったいない事をしたもんだ」といった受け取り方で記録されている。・長崎だけでなく神戸福原からも日本原住民が奴隷輸出された。・室町時代においても、四国の三好氏や山口の大内氏は、日本原住民を捕えこれを明国や南蛮船に売っていた。・インドやマカオでは、奴隷の日本人男性が、「軍人」として使役されていた。・バハン侯爵が軍艦にのり、捕鯨船のキャッチボートのような小舟に、日本人奴隷をのせ掠奪をやらせていた。八切止夫氏は「戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。判りきったこんな明白な事実でさえ、明治軍部は国民を無謀な戦争にかりたてるため、(国内に火薬の原料なし)を隠すために歴史家を黙らせたのである。さて戦後26年。今になっても歴史家は一人も知ってか知らずか、この事実を発表しない。また吾々をどうするつもりかと、ここに告発したい。」と訴えておられるが、戦後79年が経過した令和6年の今現在も、この訴えは無視され続けている。テレビ・学校教育によってフールにされまくっている現代日本人は、誰もこのような「真実の日本史」を知らない。「何故どうして」という疑問は否定され、何も考えずに暗記のみに終始する「偽装教育」を受け入れさせられ、「物事に何一つ疑問を持たないシープル」に養成させられる。少しばかりの娯楽を与えられ、「我々は自由だ」と思わされ飼いならされる。大谷翔平の活躍を自分の活躍だと誤解して受け入れて満足し、何も考えずに黙って遺伝子組み換え治験注射を6回も7回も受け入れてしまう。そして何も考えずにその生涯を終えていく。日本原住民が奴隷にされてきた歴史を知らない大多数の現代日本人は、自分が奴隷にさせられていることにも一切気づかない。そして何も考えずにその生涯を終えていく。あの世に逝っても騙されたまま・・・(いまでも米国から軍事兵器を買うために、国民には重税を課せられ、奴隷のような生活を強いられているのを、海外の人たちはウサギ小屋に住む、エコノミックアニマルと、特にワシントンの偽ユダヤ連中は本音でほくそ笑んで、蔑んでいる。)「会津の上杉景勝というのは、 「上杉謙信」とよぶひとの姉阿亀の子ゆえ、彼が男なら、英語でいうアンクル。スペイン語では(TIO)でなくてはならぬ。なのに、 「叔母」という報告を、フィリッピンから日本へ当時渡ってきた修道士や舟乗りが、その王様のフェリッペ1世に報告していたというのは、これは、どういうことであろうか?」by八切止夫 | 嘘八百のこの世界「隠匿の日本史」④八切止夫*「スペインのトレドへ行くと、未整理の日本の戦国資料がありますよ」と教われば、そちらへも私はバカ正直にすぐ飛んでいったものである。さてトレドというのはフェリッペ1世が、マドリッドを首都にするまで君臨していた山の中の城下町だが、そこの僧院へ行って500ペセタ奉納して見せて貰った中に、「黄金情報」というとじこみがあって、「アイドのウエスゲはそのTIAの開発したサドの純金を沢山もっている」という当時の日本からのレポートにぶつかった。その時は信長関係をあさっていたので、あまり気にもしなかったが、あとでコピーを訳していって、その(TIA)にひっかかった。なにしろ、会津の上杉景勝というのは、「上杉謙信」とよぶひとの姉阿亀の子ゆえ、彼が男なら、英語でいうアンクル。スペイン語では(TIO)でなくてはならぬ。なのに、「叔母」という報告を、フィリッピンから日本へ当時渡ってきた修道士や舟乗りが、その王様のフェリッペ1世に報告していたというのは、これは、どういうことであろうか?*さて、その無宿の名称たるや、「無宿者」といえば、今ではまるで犯罪人のような感じを一般に与えているのは、「現今の戸籍のように、誰もが人別帳に入っていて、それを削られたから無宿者」といった観念がひろまっているせいではなかろうか。だが実際は違うのである。寺の人別帳に入っていたのは百姓衆だけで、お役人とか木こり、炭やき石切りなどは初めから人別帳には無関係な存在だった。前にかいた陽の民族は、寺の人別帳に、「生まれた時から名をかきこまれ、年貢をとられたり助郷(すけごう)とよぶ伝馬(でんま)の労力奉仕を課せられていたが、原住系の蔭の民は、寺や領主とは関係なしに、各地の何々大夫又は、弾左衛門とか弾正とよぶ者の支配下にあって、まるっきり人別には係りなしだったのである。つまり二つの民族に分かれていたのだが、往々にして人別帳に入っている者の中から、法度(はっと)とされていた駆け落ち者や心中のし損ない、破戒坊主が出た場合、これを陽の側では、人別からはずして蔭の民の方へと廻した。そして「非人」とこれをよんだ。蔭の民の方は、これは奴隷みたいなものだから、女は遊女にして稼がせたが、男は使えるだけ使わねば損ゆえ、これを罪人の処刑人などに用いた。よく罪人の引き廻しや槍で突き殺すのがそれだが、映画でみても、ぼろぼろの恰好をしているから、あれが無宿者かと間違われやすいが、「人別に入っていて削られた非人」と、初めから人別帳に係りあいのない蔭の民の無宿者とは、まるっきり性質が違うのである。この陽の民と蔭の民の争い。つまり、「高家」とよばれる陽の足利家の流れをくむ吉良上野介と、浅野弾正の名でも判る蔭の民の浅野の支流の内匠頭の衝突は、乱心でもなくケチでもなかった事が、こうかけばそれで想像がつくというものであろう。しかし、その後徹底的に調べあげたところ、浅野は当日になって老中小笠原佐渡守によばれ、「なんとしても吉良が抜刀するよう仕向けい。如何に振舞うても咎はせぬ」と命令された。そこで挑発するごとくチョイナチョイナと突いたり叩いたが吉良はのってこずに未遂におわった。すると浅野はすぐに坊主部屋につれてゆかれて切腹どころか烏帽子のままで斬首されてしまっている。*世直しせんとする日本列島原住民のエネルギーがミナモト政権をたてたが失敗し家康を勝たせたが家光の代でまた逆転。寺百姓とかド百姓といわれた奴隷なみの者らは寺人別に入れられ束縛された。が、終には人別に入らない蔭の民は非人間とされた。それゆえお蔭まいりと各地に蜂起した蔭の民は叉も変革を求めて一新の世にした際、寺人別を廃し神社人別を明治5年つくった、氏子札ともいう。がまた2年で敗れた。*<続古今集>の中にも、「エぐ(影供)し侍りしに」と、えは影に用いている。今こそ、「ええ女を持っとってええな」といえば、(綺麗な彼女をなんして良いな)の意だが江戸時代の浄瑠璃ではまた、「えおんな」とは「隠し女」のことで、近松門左衛門の作品でも「身うけの銀さえ払うて下されまするなら、え女になって囲われてもいとやせぬ」とある。つまり、「え=陰」だから、大村崑と小さな娘が出てくるCMで、しきりに、「ええ事しはる」と乱発するが、本来の意味は陰事を行なう、つまり淫事をなすの意味である。何故かというと、出雲系日本人の神話に、「天橋立に立っていた女神がよき相手とみられる男神を見つけ給うて、『えな男』とよっていかれ、衝動的に立ったままで行為を遊され、その落ちた樹液の雫によって、樹氷のようなオオヤシマ列島が出来上がった」というのが話の起りで、やがて船舶をつらねて渡海してきた文化民族のために追われ、「えの民の逃げた島」ゆえ、「えだじま=江田島」「えのしま=江の島」と、いった地名や、東京みたいに、「えど」となって、えばらやえこだの地名すら今もある。山岡荘八氏の小説などでは、徳川家康が「厭離穢土(おんりえど)」の旗をたてて進むが、穢土を好こうが嫌おうが、江戸はエドでしかない。そして今でこそ、当て字だの間違い字だのと、会社の入社試験でもうるさいが、「珍文漢文わからない」と明治になっても、当時の団珍新聞が政府通達の漢文字入りを批難したように、まだ大正までの漢字はみな発音の音標なみで、(edo)を発音できれば、穢土でも江戸でも構わなかった。だが江戸時代の江戸人は、こうした意味合いで、できるだけエドとはいいたがらなかったものらしく、「ご府内」「府内」で通し、このため東京都になる以前は東京府とよばれた程である。つまり本当のことをかくと身も蓋もないが、「江戸ッ子だア」などとタンカをきりだしたのは、江戸がなくなった明治以降の事であるらしい。*そして被占領民族であり被圧迫民族である原住民が、「陽の照る所へ出られぬ種族」となり、これが「陰」になり「影」となった。これを判りやすく簡単に説明すると、「西暦10世紀」の頃に、「われこそはミナモト(原住民)だぞ」と、二千数百あったという捕虜収容所の院地、別所から、白旗を掲げて集まり文治革命を成功させた連中も、やがて足利時代に入ると、もはや彼らは公文書にさえ、「白旗党余類」としか書かれなくなった。そして、なんとか又陽の当たる場所へでて、「立身出世」を願うのなら、彼らが嫌った坊主スタイルになって、その上、ナンマイダナンマイダと唱えさせられ、「何んとか阿弥」と名のって洗礼をうけるしか他に、官公吏に採用される道はなかった。それとても暴動でも起こされては大変との配慮から、茶湯、生花、能楽といった安全職種に限られていた。刀の手入れや鑑定が「本阿弥家」だったのもこのせいである。日本ではヨーロッパ程に芸術が尊重されていないのも、その従事者が<蔭>の民族で、役者や講釈師などが、明治に入っても、「河原者」と扱われたのはこの為で、今でもタレントが近代ビルの放送局でも昔のやくざの慣習そのままに、あたりが真っ暗でも、「オハヨウゴザイマス」と挨拶し、すこしも働いていなくても、ねぎらって、「オツカレサマ」とやりあうのも賭場の慣習そのもので、博徒が、長脇差(ながわきざし)と称して、長刀をさしていられたのも、やくざの根源が、「蔭の民」であり、その流れで、戦国武者の末裔である俘囚の子孫だから、寺の人別帳にも入らぬフリーみたいなもので副業に興行をしていた連中だったからである。(管理人=ソウルマン)ウィキの上杉謙信女性説より抜粋。ゴンザレス報告書スペインのゴンザレスという人物が、日本についての調査報告書を国王フェリペ2世宛てに送った。トレドの僧院にはその報告書が残されており、その中の「黄金情報」というとじこみに「アイドのウエスゲはそのTIAの開発したサドの純金を沢山もっている」(「会津の上杉はその叔母(tia)が佐渡を開発して得た黄金をたくさん持っている)とあったという。この「叔母」は謙信のことであるとしている。AI による概要でも「スペイン語で「Tia」は「叔母」を意味します」と出る。八切止夫氏の情報が間違いであるならば、とっくの昔に誤情報とされているはずだ。そうならないということは、上杉謙信が女性だった証拠だろう。八切止夫氏の情報を否定する根拠を示すことができず、「大衆に情報を伝えずスルーする」という方法をとるしかないのである。大衆を騙しておきたい勢力にとっては。現在過去未来、この世界は、基本、嘘で構成されており、真実はひた隠しにされている。真実を訴えていた八切止夫氏や太田龍氏の書物は、一般の書店で見かけることはほとんどない。一般の書店で見かける歴史書は、大衆を騙しておきたい勢力に雇われた御用歴史家が書いた嘘歴史本ばかりである。自分自身で真実を調べようと努力しない限り、真実にたどり着くことはできない。新聞・テレビ・学校教育の嘘情報に未来永劫騙され続けるばかりである。「噓八百のこの世界」においては。 ☆ ☆ ☆このように世の中には、表の日本史と裏の日本史があり、真実は自分のなかでみつけないといけないわけなんである。いまの官僚が八切史観が説く裏の日本人で、この古い、ネガティヴな日本人を、いかに新しきポジティヴな日本人で克服していけるかどうかが、この国の課題といえるだろう。
2024年11月21日
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巷は、忘年会の季節になりつつあるが、パワハラの温床といわれた忘年会が、若者に嫌われているのは、時代の転換期なのがわかり、自分が若者であったときに、周囲の空気を読まされて、とても、忘年会不参加を言葉にできなかった無念を思いだす。日本の職場に、飲み会行事が多いのは酒を売るための戦略なのかもしれない。アルコール禁止にすれば飲み会は少しでもなくなったかもしれない。忘年会は仕事の延長と割り切って参加するしかなかったが、独りが好きな自分の経験からいえば、忘年会は酔った者勝ちで、その場の雰囲気を記憶からなるべく消し去り、とてもシラフで過ごす気にはなれず、忘年会で羽目を外したフリをしても、人間関係において、少なからず後で禍根を残すのがまた難儀だった。特に上下関係が厳格な忘年会はパワハラ、セクハラの温床と言ってよいだろう。仕事の延長の、会社行事の忘年会はなくすべき、というような事を書くと、忘年会に無知と非難を受けかねないが、そもそも忘年会の「年」とは、陽明学者の安岡正篤氏によれば、その年ではなく、本来は、年齢の、「歳」のことであるらしい。つまり、上下関係を忘れて、人間本来の、精神的な付き合いを求める会合なんである。西洋風にいえば、キリストの最後の晩餐のような師弟の関係を度外視した、師が弟子になるような逆転の発想の、この世の肉体とは無関係の、魂でのカルマの付き合いなのである。安岡正篤 - Wikipedia社会的関係を度外視した、上下関係のない、霊魂での付き合いなので、精神的な意味の、スピリットと呼ばれる、アルコールを摂取して、この世の関係を一時的に断ち切るいわば禊の行事なんである。だから、この世での関係を云々し、あれこれ言及するような会合では、全くないわけで、だから若者は、この世での経験が少ないので、忘年会が嫌いになるのは当然の成り行きといえるかもしれない。しかし、現在は禊の意味も、悪事を誤魔化し、白紙に戻る意味や、定期的な反権力の出る杭を打つような、上下関係を強いるための通過行事で使われている、のもまた現代人の大きな間違いなんである。この世での先輩の経験談よりも、帰って寝て、睡眠中に、明日の出来事の予定を、天使たちからアドバイスされるほうが、若者の人生にとっては精神的な糧になるのが、人智学から解き明かされるわけでもある。しかし、なかには、忘年会で、嫌な先輩とも付き合い学ぶ経験が必要な人もいるので、そのような人は忘年会に参加するように仕向けられるが、忘年会でなくても、そのような嫌な先輩が、過去の自分の前世であるかもしれないので、必ず、そのような経験をするように導かれる。いずれにしろ、現代では、本来の意味とは逆で、上下関係を強い、確認させる行事となっているので、パワハラ、セクハラを生じさせやすく、唯物論に染まった忘年会は、霊魂の、精神的な付き合いとは真逆なので、無くすに越したことはないだろう。トラウマや、アルコール依存症になったりするのは害悪でしかない。会合というのは、この世での利害関係を抜きにした、精神的な感性で付き合うべきものだからである。ある意味、コロナで中止になったのは、現代の若者への霊魂の救いだったのかもしれない。物欲に塗れた地獄行きの連中を少しでも救済するための、かつてのソドムとゴモラへの神の一撃だったのかもしれない。コロナによって大きく損失を被ったのが、拝金主義国家や企業なのが明らかになってきているからである。とにかく物質的な利害関係を断つのが、本来の霊性への回帰、アクエリアスへの水星への精神的進化向上なのである。ソドムとゴモラ - Wikipedia本来は、パワハラ、セクハラとは無縁な、精神的な付き合い、純粋にカルマのつきあいの、例えば、千宗易の、一期一会のつきあい、キリストの最後の晩餐のような、霊魂の付き合いであるべきである。時代の変化に応じて、忘年会を再考する必要はあるだろう。いっそのこと、家庭人は家庭に帰り、独身だけの婚活の会合にしてはいかがだろうか? とにかくもパワハラやセクハラを無くすには、権力からの解放が先決である。忘・新年会「実施予定率」は54.4% 企業の「忘年会離れ」が顕著 | TSRデータインサイト | 東京商工リサーチパワハラ問題といえば、巷は兵庫県知事選の大騒ぎで、ネットフーテンの寅さんをしていると、マスゴミの流す嘘情報を鵜呑みにしている人が、いまだにいるのに、気づかされて驚くのだが、物事には必ず、表と裏があるので、情報については裏とりをしないといけない。なぜそのような情報を流すのか、流す真意を探らない、といけない。巷の、誰が呼んだかわからねど、マスコミは、カネをもらって大量のゴミ情報を流すので、マスゴミとされているのだが、そもそも、カネをもらって流す情報が偏らないわけがなく、カネを出した連中に媚を売るために、権力の利権にありつくために、そのような連中の権力の番犬にならざるを得ないわけなんである。権力を監視する、なんていう標語こそが噓八百なのは、欧米の偽ユダヤ連中の資本の番犬になっていることでも、明らかなんである。マスコミの歴史ぐらい勉強すべきであろう。欧米の情報は、英字紙をそのまま日本語に訳しただけという噂もあり、ネット社会のいまでは、高校生でもできるわけで、それでカネをもらっているのであれば、どこにジャーナリズムがあるといえるのだろうか?そもそも、カネは信用の上に成り立つ貨幣だが、信頼を売るのではなく、そのカネでもって信頼をなくすような不正行為を働いているのだから、本当のジャーナリストは、ボランティアで行うべきなんである。生活費は別の仕事で稼げばよい。だから、宗教家になるべきといえるかもしれない。SMSでの広告料を貰わない活動のほうが、事実に近いとはいえるかもしれないが、はじめは無料でも詐欺メールのような、怪しい宗教団体などに取り込む活動がウヨウヨサヨサヨしているから、注意が必要である。マスゴミなどは、詐欺メールが有料化したようなもので、例えば、あれほど消費税導入で大騒ぎしたマスコミが、消費税軽減税率を受けているのは、生活必需品という名目らしいが、実際には、現代の若者の生活にはマスゴミこそ不必要だろう。マスゴミが新聞は必要だと捲し立てるほど、実際に、若者の生活に不必要なのが明らかなのは、大谷選手から出禁を食らっている現状や、有名人の個人情報保護も守れない権力の犬であるのを証明している。この世に染まらない、純粋な若者の感覚からすれば、ウソヒ、ゴミ売り、惨系、売日などのマスゴミの実態がある程度わかってくるわけなんで、その源流は、欧米にあり、偽ユダヤを発端とするのは、サヨ、ウヨ、コミニスト、リベラルなどの言葉の源流をつくったのが、この連中であるのがわかるはずである。「メディアの権力監視」,日本は最低評価|NHK放送文化研究所「第四の権力」とは?メディアの役割やSNS時代の変化を解説 | スマート選挙ブログ連中はキリストのローマ時代に、キリストを十字架刑に処すために、エッセネ派を貶めるために、情報工作したルシファーの子孫で、ベルゼバブの孫たちなのである。言論は権力による暴力であり、そこに資本が加わると、物質力を形成し、勢力となる。だから、物質力には、物質で対抗するのではなく、精神力の道徳で対抗しなさいと、キリストは説いたのである。そうすれば、聖書を読み解くことで、真の言論の自由が実現するだろう。物質的な暴力ではなく、神の精神力で、カルマの力を使いなさい、というわけなんである。『ベルゼバブの孫への話』という名のカルヴァドス悪魔はこの世の、物質界の存在ではなく、それに権力を与えているのは、人間の欲望で、悪魔はただ善悪の実(権力)を食べるといいよ、と人間の欲望に囁いているだけなんである。だからマスゴミは人間の欲望を刺激する大量のゴミを流すのを生活の糧にしている、いわば悪魔の手下なのである。だから、この世の物質界しか信じられずに、あの世や輪廻転生を否定する。しかし、その否定する言論そのものが、この世の物質性に負っているので、それはいずれ崩壊し、死すべき存在にある。カネにより魂を買われたものは、カネを失うことで、死を迎え、滅びる。物質的な快楽は一時的なもので、永遠ではなく、人間のつくった法は破れ、神のつくった法は破れずに、破れば、自らが滅び、悪の嘘は、神の善により滅ぼされるのが、神のカルマなのである。杜甫は、国破れて山河在り、と詩をつくったが、人間がつくる秩序は滅び、神のつくる秩序は破れないという意味を詩で示した。人間のつくる法は、自分たちに都合よく権力のためにつくるので、いずれ論争、闘争、戦争になって、全てを失う。全体をみないというか、みれない、物質的な一面だけを誇張した情報は、必ず無に帰する。だから、従うなら、神の法の、カルマに従いなさい、というわけなんである。人間のつくる法を破って罪を逃れても、神のつくる法は破れずに、必ず罪は自分に報いとなって帰ってくる、次の転生を送るようになる。春望 - Wikipedia神の法の道徳に従って生きていさえすれば、日常の経験と知識から、嘘情報のデマを流す目的、権力の臭いを感じ取れて、事実に到達することがある。嘘やデマは、情報工作のために流すのだから、その逆に事実がある。それに嘘には賞味期限というか、いずれバレるので、マトモに受け取らない、受け流すのがよいだろう。人間は必ず間違えるので、できるだけ間違えないように、嘘や判断はデマが明らかになってから、判断するのが望ましい。ここにも、キリストのバランスの、右の頬を打つなら、左の頬も指しだせ、で、権力とは戦わずに、受け流すのが返って自分を生かすのがわかる。悪の権力と戦うのは、悪を認めることになるからである。だから、マスコミが流す権力側に都合のよい情報は、マトモに受け取らずに、受け流すべきである。コメンテーターや評論家はディレクターのシナリオに沿って好きなこといってるけど、一体、いくらもらっているのかな?という感じで、聞き流すのがよいだろう。発言と同時に年収も公開すると、その発言の信頼性が失われるだろう。マスゴミの賃金が平均よりはかなり高いのは有名である。特にいま巷を賑わせている物価に合わせて基礎控除を上げる政策に反対している県知事の年収や財務官僚の年収なども公開すべきだろう。年収を半分にカットした斎藤知事のほうが、減収で国民に文句を言っている県知事たちよりも、少なくとも潔さを感じるのは自分だけだろうか?というのも、マスコミは、一部分を切り取って、誇張して、自分たちに都合よく、恣意的に流すので、マトモに受け取れば馬鹿をみるだけだからである。一部を誇張して、それしかみれなくなると、その嘘情報に、洗脳されてしまう。物質界だけの一地域の、一部の発言だけで、行動すれば、そのツケを、今度は自分で払わないといけなくなり、詐欺に騙される。騙されてから気づくのではなく、騙される前に気づくべきで、そのような権力の流す情報には、一方の頬だけではダメで、他方の頬を向けるわけなんである。世の中は、善と悪のバランスで成り立っているからである。人間には、悪を善に転化できる能力が神より与えられているので、その能力を開発することである。特に日本のマスゴミは、世界のジャーナリズムからも低評価で、騙すゴミともいわれている現状を、再確認すべきだろう。だから、マスゴミは何かを発表した後で、大阪人みたいに、「知らんけど」と付け足しすべきかもしれない。このように、この世の出来事は、あの世の精神的な進化と結びついて、カルマのバランスをとって進化している。人智学では、個人だけでなく、全ての存在にカルマがある、といわれている。国にも、民族にも、時代にもある。流石に神様にはないだろうと思われるが、カルマをつくった神にもカルマがあり、それは悪をつくったのが神なので、悪を上回る善を果たす責任がある。自分が為したことは自分にかえってくる、自業自得が、宇宙が閉じている理由でもある。そして、そのバランスを司っているのが、宇宙の神であり、善から出た悪を善へと回帰し、バランスをとっているわけで、それは、実るほど頭が下がる稲穂かな、の言葉で表現されている。蛇が尻尾を噛む夢のイメージから、ケクレはベンゼン環を発見したのは有名だが、どうして物質がそのような構造をとるのか、例えば、DNAがなぜ右巻き螺旋構造なのか?その答えは、このウロボロスの、上が下を支えるバランスの、カルマの宇宙の階層構造にある。アウグスト・ケクレ - Wikipediaウロボロス - Wikipediaウロボロス的陰陽五行思想 – 風水ライフデザインスクール(旧一般社団法人氣質診断士協会)有限会社 三九出版 - ウロボロスの蛇この宇宙環ともいうべき、ミクロからマクロの円環の構造を、日本文化では、大和(やまと)と呼んでもいるが、そもそも、ヤマトとは、八の民で、ヤハウエの八百万(ヤオロズ)の民で、ヤハウエは、日本では八幡と呼ばれる。この古代史の話は、後で、八切史観の古代の八王朝として紹介したいが、このウロボロスの蛇が、マクロの宇宙全体が、ミクロの素粒子にまで反映され、その構造が、エメラルドタブレットの、エーテルと呼ばれている、コズミックダストの宇宙微粒子の実態といえるわけなんである。トートによれば、これは9次元体なので、非物質で、目には見えない暗黒のダークマターなんである。宇宙塵 - Wikipedia暗黒物質 - Wikipediaそもそもエーテルは、有形ではなく、無限の液体の水のような存在なので、物質では解き明かせない代物なんである。シュタイナーは、電子は光の凝縮体で、電子には、宇宙の構造全体が記録されているという。だから、人間が、電子を意識すれば、その意識が、電子に反映し、人間の意図が、宇宙全体に伝わり、そのカルマに沿って、今度は人間の意識に、天使を通じて、潜在意識に届けられるわけで、いってみれば、人間は電子や光を通して、神と交信しているわけなんである。だから、悪魔は人間の意識を誘惑し、洗脳し、神との交信を妨害している、ともいえるわけなんである。それはしばしば、権力により行われ、マスゴミは権力の犬なんである。この全体像に到達すれば、本当の知性が、無知の知からわかるわけなんである。さて、地上波では唯一のオカルト系番組といえる、「世界の何だコレ⁉ミステリー」はたまにみるのだが、ほとんど追及が甘く、中途半端に終わるので、オカルト系というよりは、都市伝説専門の「やりすぎ都市伝説」の方が、都市伝説に搦めたお笑いのオチで済ませる分、まだ遥かにマシにも思えてくるが、日本史のオカルトについては、某日本史番組の「歴史探偵」よりは若干マシかもしれない。世界の何だコレ!?ミステリー - フジテレビやりすぎ都市伝説|テレ東オカルトというと、このブログでも何度も紹介しているが、「秘密、秘教」の意味で、隠された古代叡智のことで、古代の秘教学院の秘教徒を指す。宗教的に言えば密教で、人智学でいえば、秘教参入学となるかもしれない。だから、オカルトとは、物質界での覚醒意識では捉えられない、言葉では表現できない、説明できない、叡智のことで、一般的には第六感や、霊能力、超能力のことを意味するわけなんである。言葉で表せないから、勿論、数学でも表記できないわけで、カオスの混沌の、非線形現象といえるかもしれない。だから日常を超えた、超常現象といわれている。オカルト - Wikipediaだから、オカルトは、物質界の経験からくる、日常の知識を超えた知識のことといえるかもしれない。そして、日常の知識がどのように獲得されてきたのか、日常の知識を超えた知識から、つまり無限から、有限を考える、有り体にいえば、ソクラテスの無知の知で、だから、古代ギリシアでは、数学的にも、言葉でも、無限を記述することを控えたわけで、無限の反対のゼロも記述しなかったわけなんである。そういうわけで、オカルト番組といっても、日常の知識レベルの話なので、本来の意味でのオカルトでないわけで、都市伝説や、古代伝説と言った方がまだマシで、言葉で表現できれば、その現象は、オカルトではないので、物質界での謎解きという意味で、なんちゃってオカルトという感じかもしれない。その物質界の謎解きの知識レベルで、なぜ、緑のグリーンを、日本では青というのか?という疑問を、上に紹介した疑似オカルト番組でやっていたのだが、それは、日本には、古くから、緑の色感覚が、青で表現されていたからで、現代人には緑にみえる信号を青信号というのは、言葉の表現の問題で、信号機が導入されたときの新聞記者の色感覚が、赤、黄、青と表現したせいである、という答えだった。つまり、昔の日本には、緑をみて表現する知識はなく、なんちゃって青しかなかったのである。この背景には、日本人の色感覚の歴史があり、白と黒の二色からはじまり、赤と黄などが加わり、最近まで、緑が青と一緒に表現されていたようである。日本語にはもともと「緑色」がなかった? 【ことばのふしぎ大冒険5】 - コクリコ|講談社緑なのに青?日本語の不思議な色の呼び方 | オンライン日本語教室SuraPera「緑」という言葉が出てきたのは平安時代末期から鎌倉時代初期(1100~1200年あたり)と言われています。 そのため、昔から日本では緑色の野菜や植物を青と呼ぶ習慣があったのです。 現在では「緑」は一般的な日本語になっているため、緑色のものは「青」ではなく「緑」と呼びます。このように、日本語を歴史から捉えると、青全体からの緑の独立が現代になってはじまったのがわかるが、それは、ある意味で、日本史が、勝者によって書かれ、民衆が知らずに、統一された日本語により洗脳されてきた証拠でもある。というのも、色の三原色が赤、青、黄なので、原色だけでほぼ表現できれば、他の色は必要なく、その派生にすぎないという観点にもあてはまるからである。だから、緑は、青と黄からつくられ、その混合色といえるわけなんである。だから、日本史的にいえば、緑は、青に統合されていて、黄に染まって、青から独立した色ともいえるわけなんである。このように現代の疑問から、日本史を遡っていくと、かつての古代日本には、八の王朝が存在したという、このブログで度々紹介している、被差別民族史の八切説が浮上するのが面白い。八切説では、中国大陸渡来の郭ムソウの藤原氏が律令体制による日本全国統一をなすまでの日本列島には、少なくとも八つの王朝が存在したと説く。例えば、「色」から日本史の源流を探ると、赤は平氏、白は源氏、黒は唐由来の藤原氏、黄は唐を滅ぼした契丹の橘氏などを表わすらしい。青は民族ではなく、青鬼のように、鬼は隠忍(おに)で、世間から隔離された被差別民らしい。『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著 | 山梨県歴史文学館 山口素堂とともに - 楽天ブログ勿論、八切史観を鵜呑みにするのではなく、権力側からつくられた表の日本史に対して、裏の日本史として整合性をはかり、バランスをとる、ヘーゲルの弁証論の、正反合の、合に止揚し、融合の合をつくるために、いわば考慮して利用すべき、日本史といえる。このような、裏の日本史の調査から、以前に、都道府県別の少子高齢化についてググっていたら、面白いことに、このブログでも度々紹介したYAP遺伝子解析に絡んで、ゲノムの一塩基多型(SNP)解析から、この古代の8つの王朝を遺伝子的にデータ補完する、以下のような縄文人説に遭遇した。図録▽DNAから見た県民相互の類似性と縄文人・渡来人度この〇で囲んでいる、一塩基多型(SNP)解析によるグループマッピングから、8つの地域に大まかにわけられるのがわかる。日本人の遺伝子解析からの分類は、以下の縄文人説に詳しい。18H02514 研究成果報告書学部生に伝える研究最前線 47都道府県の遺伝的地域差 - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部04saito.pdf渡来人、四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ 日経サイエンス - 日本経済新聞“最初の日本人”縄文人の「親戚」が東南アジアのタイの密林にいた 「古代DNA解析」が明らかにした新事実とは? | NHK日本人の祖先は「港川人」? 旧石器時代、DNAで解析:朝日新聞デジタル港川人 - Wikipedia旧石器時代の沖縄|沖縄県公式ホームページ以前、このブログでも紹介した都道府県別の少子高齢化の図と比較すると、沖縄の出生率が高く、北海道が低いのが、上に紹介した縄文人説の、遺伝子多型からもわかるわけなんである。つまり、端的いえば、縄文人に近いほど出生率が高い、というわけなんである。というのは、渡来系ではなく、沖縄を日本列島にするかどうかは政治的、地政学な議論となるが、九州地方が縄文人に近いことから、定住系が、日本原住民で、純粋な日本人といえるわけなんである。ひょっとしたら、沖縄の出生率が高いのは、縄文人に近い為で、縄文人は、その土地に適合するための星の位置、天空の配位に適合して、生まれてくるのかもしれない。だから、出生率を上げるためには、現代の日本文化が一体どちらの色を濃くするのか、八切史観の被差別民史を解明するのがいま必要なのではないだろうか?そして、元は琉球人であった沖縄人と、現代の日本人との、民族のカルマのなかに、未来の日本文化や日本人の宿命を読み取れるのではないだろうか?再びシュタイナーの職業のカルマと未来を紹介する。 ★ ★ ★シュタイナーの和訳本は色々出ているが、ほとんどが丁寧な直訳なので、読みにくく、意訳は少ないので、思い切って、以下に意訳して紹介する。本当は、ドイツ語原文を読むべきだが、日本人にとってはドイツ語は敷居が高く、そのまま和訳すると、しばしば表現が堅苦しく、回りくどいので、和訳本を基に、人智学の理念から、意訳する次第なんである。人生の宿命と立命物質体は人生の宿命を設定する。自我は人生の宿命を改変し、前世からのカルマを解消し、新しくつくりなおし、来世へと立命する。だから、物質体と自我による相互作用のなかに、個人以外の、他のカルマの流れが、人生に介入する。人生のなかには、個人を、宿命からくる状態に保とうとする力と、そこから解放しようとする力が働く。まとめると、物質体⇒宿命を設定する、エーテル体⇒宿命を保つ、アストラル体⇒宿命をつくりかえる、自我⇒来世へと立命し、運命として運ぶ。まず、物質体と自我が相互に作用するが、次第に、4つの体が共鳴し、多様な波動をつくり、共同に働く。前世のカルマに従って、新しい人と関係を結ぶのは、物質体と自我の相互作用による。それは前世のカルマの解消のためである。だから、物質体がその舞台をつくり、自我がその舞台で愛を演じる。愛を演じるための、仕事や職業については、エーテル体とアストラル体の相互作用によっている。遺伝(前世のカルマからの宿命)前世からの宿命が、物質体をつくるのが、人智学から明らかになるが、それが具体的に、実生活の仕事、職業にどう影響するのか、職業のカルマとして、考察してみる。人間が、地上の生活、職業の上で成し遂げる功績を、単なる唯物的なただ一回切りの人生としてポエムにしてしまうには、あまりにも陳腐である。人智学のカルマ論は、ただ一回切りの人生の、その功績が、将来の人間社会や宇宙全体の進化に寄与できるのを、明らかにしている。人間の生活は、地上の物質的な社会秩序のなかに組み込まれ、前世からの課題に応じて、なんらかの職業に向かう。人間は地上で、物質的な社会秩序による生活を営み、物質的に地球に貢献するだけでなく、地球を次の木星紀、金星紀、ウルカヌス紀へと進化させるためにも、働き、貢献する。このような全体像から、人間の職業を読み解かねばならない。人智学は、単なる美しい理論だけを伝承するだけでなく、時代霊により導かれる時代の精神にあわせて、実際に、個人の霊魂を進化に導くという課題をもっている。だから、人智学により読み解かれる霊的な真理は、個人の前世から実生活に訪れる試練に対しても役立つような判断を提供できる。人智学から独善的な理論に陥るのではなく、実生活を通して、未来への進化のための、新しい経験の糧として、来世へと立命できる自我を霊我へと改める反省材料を提供したい。人智学を深く学べば、単なる表面上の霊的知識ではなく、物質的な、実生活にも意味がある知識を与えるのがわかるはずである。人智学は、実生活の真実を提示してきたし、現代の学者たちが無知の知を理解できるなら、近い将来に、高次の知性に到達できるような、かつての秘儀参入学と呼べるような学問体系、哲学を獲得できるだろう。
2024年11月19日
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巷から、毎日沢山くる詐欺メール、若者の闇バイトなどの犯罪を耳にしながら、ネットフーテンの寅さんとして、ネット風来坊をしていると、現代人には、人間が本来もっていた共感力、思いやり、が失われ、他人を人間とも思わない、モノ化する、低次元の非生命的な感覚がつくづく感じられてくる。覚醒意識での数学的感覚から、生命の非線形現象を、線形化し、モノ化する、このような感覚は、物質界での、投機的な計算や、予測には有用かもしれないが、一回きりの人生の経験に由来し、つまり、有限な領域にとどまる限りにおいて、無限性を克服できないで、物質崩壊と共に、無に帰するしかないわけなんである。端的にいえば、現代人には、人間の心、善良な精神が失われている、ともいえるだろう。このような道徳心からくる、共感力や思いやり、人間が一つの共同体として回帰していくのに不可欠な精神的要素のことを、日本文化ではよく、心を込めるとか、詫び寂び、と言って表現するが、このような日本文化の精神性が、西洋文化由来の、快適で便利な都市生活に憧れ、それを目的とした都市開発が進むにつれ、大自然から、都会進出へと、核家族化による世代分離を経て、少子高齢化と共に失われてきているようにみえる。このように中世の、暗黒のカリユガの時代からの唯物化の弊害で、現代人の私利私欲の横行と、公共精神の失楽で、巷は税金問題と不倫問題で揺れてもいるが、この問題を一言でいうなら、公私混同にあるといえるだろう。税金は公的なもので、不倫は私的なものである。公的なものと、私的なものの区別ができなくなっているわけなんである。公共の場に出ても世間体という公共の精神に乏しく、まるで自宅にいるかのような、現代人が増えているせいなのかもしれない。恐らく、私的領域と公的領域の壁が電子化により取り払われた、ネット環境が、この公私混同の感覚を拡大しているのかもしれない。だからSNSやスマホの世界では、容易に公私混同が生まれてしまう。改めて、この公と私の区別が必要で、このように公共の社会が電子化されていくと、公私混同が広まり、脳科学でいえば、以下のサイトのように、前頭葉が委縮していく傾向が、人体に生じるようになっていくだろう。【スマホ脳過労とは】記憶力低下や無気力など悪影響が - NHK クローズアップ現代 全記録脳科学者に聞いた、スマホ脳過労の症状と対策 - ITをもっと身近に。ソフトバンクニュースさて、税金問題に話を戻すと、そもそも税金は国民のもので、国民生活の向上に役立てるために、政府に公的なものとして預けられているわけだが、いつの間にか、この国の政府は、税金を私物化し、他の先進国が通常行っている、物価や労働者の最低賃金に合わせて、税金の基礎控除額を上げる政策を、この国の官僚などは、自分たちの取り分が減る、というような論調で、税収が減るという奇妙な理屈を持ち出しているのは、公的な責任を放棄して、税金の私物化が当たり前の感覚となっている、と言わざるを得ない。そこで、端的に、このような独善的な公私混同を、「お前のものは俺のもの、俺のものも俺のもの」のジャイアン症候群と表現したい。ジャイアンは、ドラえもんのいじめっ子キャラで有名だが、官僚タイプではなく、どちらかといえば、議員タイプといえるかもしれないが、とにかく独裁者タイプである。だから、この国の官僚を、ドラえもんのキャラで表現するなら、ジャイアンというよりも、スネ夫といえるかもしれない。ジャイアンの喧嘩強さからくる圧力を巧みに操って、ジャイアンのみていないところで、他人のモノを自分のモノにしてしまうわけなんである。『ドラえもん』に学ぶ 今の私を作ったジャイアン的な性格 - SHEsharesつまり、この国の官僚は、ジャイアンの独善的な圧力、それはときには米国の外圧や、カリスマ的な政治家が持つ権力などを巧みに操って利用し、子羊のように弱者の、のび太のような国民を支配するわけなんである。スネ夫は、モノに恵まれた、金持ちなのに、それに飽き足らずに、主人公の、のび太に意地悪し、手下にする。むしろジャイアンよりも賢いために、スネ夫のほうが、のび太にとっては危険人物にうつるわけなんである。シュタイナーは、明らかにわかる嘘はそれほど悪ではなく、むしろ少し事実が混じった、わかりにくい嘘のほうが性質悪く、悪だと述べている。だから、ジャイアンの公私混同は見破れるが、スネ夫の公私混同は、巧みな嘘だけに、見破れないのである。だから、電子化された公共の場では、スネ夫のような公私混同は見分けがつかないので、特に若者などは、SNSから安易に闇バイトに手を染め、その実態に気づかずに、前頭葉を委縮させてしまい、気が付けば逮捕され刑務所にいることになる。だから、ジャイアン症候群よりも、スネ夫症候群のほうが遥かに深刻な問題といえるかもしれない。巷の税金問題や不倫問題には、官僚型の、このスネ夫症候群ウイルスが蔓延しているようにみえる。この国の高齢少子化の背景には、このスネ夫症候群ウイルスの蔓延があり、これが西洋との異文化交流から、感染ウイルスとして、日本文化に寄生したため、詫び寂びの精神が失われてしまったのではないか、と思うわけなんである。そこで、日本文化の詫び寂びを再び取り戻し、この国の少子高齢化を少しでも抑制するために、日本文化の多様性を考えてみたい。さて、地上波の番組「世界くらべてみたら」は、世界の文化が知れるので、よくみているのだが、先日は、特別に「日本くらべてみたら」で、国内の都道府県別の地域文化を紹介していた。地域文化を紹介する番組は、「ケンミンSHOW」が有名だが、このような地域文化の番組をみていて、日本文化の多様性から、前回紹介した、インバウンド需要と、少子高齢化を、改めて見直してみたい。『世界くらべてみたら』|TBSテレビ秘密のケンミンSHOW極|読売テレビ・日本テレビ系このような番組では、地域愛とでもいうのか、地域独特の文化や仕来りが誇張して紹介されるのだが、その地域愛と、少子化には関係性があるのか、ググってみたら、以下のようなデータに出くわした。2023年 合計特殊出生率 過去最低に 推移や都道府県ごとは 東京都は0.99 神奈川 埼玉 千葉など関東地方の状況は| NHKこのデータからわかるのは、出生率が、大都市圏を持つ地域を除いて、ほぼ西高東低であるのがわかる。恐らく大都市圏が低いのは、労働に忙しく子育ての見通しが立たないせいかもしれない。面白いのは、上に挙げた地域番組で、地域愛が特に強いと紹介された沖縄と北海道が出生率では両極端なことである。沖縄は家族愛や親戚のつながりが強く、家族でカラオケをする地域愛が残っているらしい。北海道では家族というよりも、職場や仲間でカラオケをするようである。だから、沖縄は内政的で、北海道は外交的という違いがあるかもしれない。つまり、沖縄と北海道の地域愛というか、郷土愛の違いは、沖縄が内向きで、北海道が外向きという感じかもしれない。そこで、その相違がどう出生率と関わるのか、北海道の出生率の低い要因をググってみると、以下のことがわかる。北海道の出生率1.06、全国2番目の低さ - 日本経済新聞『北海道は出生率が低い要因について、非正規雇用が多く収入面などの経済的な不安感が背景にあるとみている。』少子化問題ってなに? - 保健福祉部子ども政策局以上の日経記事では、『非正規雇用が多く収入面などの経済的な不安感が背景にある』と結論づけているので、ググってみると、以下のサイトから、沖縄を除いて、この結論がほぼ妥当なのがわかる。平成29年就業構造基本調査 結果の概要少子化の理由は、ほぼ非正規雇用が多くなったせいなのがわかり、だから正規雇用を増やすことが、少子化を抑制することなのがわかるが、興味深いのが、非正規雇用が多いのに出生率が高い、沖縄である。恐らく、これは沖縄の、先の番組でもわかるように、内向きの郷土愛の、大家族主義にあるのかもしれない。そこで、大家族主義について、地域別の少子化を詳細に調べる為にググると、以下のサイトに遭遇する。驚かされる少子化の地域格差 ~都道府県ランキングの謎~ | 熊野 英生 | 第一生命経済研究所『九州には大家族が多いことが挙げられる。両親や兄弟が一緒に住んでいると、家族に子育てを助けてもらえる。第2子・第3子を育てやすい。もう1つ挙げるとすれば、物価水準が安いことだ。生活コストの安さは、経済的負担を低くして、子育ての経済的な余力を作る。意外なのは、持家率や所得水準の高さはあまり強い関連が見られなかったことだ。九州地方は、物価の安さが子供を増やすことにプラスに作用している。所得の高さではなく、物価の安さの方が子供を増やすには有利なのだ。例外的に九州で出生割合が低いのは、福岡市である。全国では出生割合が7番目に低い。これは、九州各地から地元を離れて福岡市に集まる若い夫婦は、親元から遠く子育ての協力を得にくいということだろう。東京都区部は、他の大都市以上に親元を遠く離れた夫婦が多いので、その分、潜在的な子育てコストが高くなっているのだろう。北海道は、親元を離れる夫婦が多い分、親族の協力が得にくくなる。潜在的な子育てコストが高いということだろう。』以上のようなこれらのサイトからの情報をまとめると、少子化を抑えるには、北海道の例からわかるように、物的な面で、正規雇用の増加や物価の安さが必要で、沖縄や九州の例からわかるように、精神的な面で、大家族主義で、親族の協力が得やすい環境が必要であるのがわかるわけなんである。だから少子化対策としては、正規雇用を促進し、物価を安くし、大家族主義で、親族の協力が得られる環境の構築が鍵となるわけなんである。そして、上のサイトにあるように、「持家率や所得水準の高さはあまり強い関連が見られなかった」ことから、累進課税を推進し、高額の固定資産投機や高額所得者を抑制し、その税金で、正規雇用と、物価を安くし、大家族主義を促進するための税金控除を推奨すれば良いと思われる。この大家族主義は、九州や沖縄にみられるような郷土愛を推奨すべきだろう。少子化対策には、沖縄や九州の大家族主義の、地域文化を普及するのが良いと思われる。さて今度は高齢化についてググってみると、以下のサイトなどに出くわす。【日本の高齢化率】都道府県&世界ランキングや推移でみる高齢者の割合|ハートページナビ以上のデータをみると、高齢化も少子化とほぼ同じで西高東低なのがわかる。出生率が低いから、死亡率が高くなければ、高齢化率が高くなるのも当然と言えば当然で、高齢化を抑制するには、とにかく出生率を上げないといけないわけで、若者に移住してもらい、正規雇用を増やし、物価を安くするしかない。そして、沖縄や九州のように、大家族主義を復活させるためには、都会に出ていた若者などは、地元の故郷に帰るのが、いわば、サケの母川回帰ではないが、子育て回帰としての郷土愛が不可欠なのがわかる。いずれにしろ、沖縄の大家族主義の郷土愛がモデルとなるようにみえる。沖縄のように非正規雇用でも、大家族主義が残っていれば、出生率を回復できるので、子育て支援のために、大家族主義のための税金控除や、給付金を充実させるべきだろう。ふるさと納税のような、大家族主義のための、ふるさと子育て納税制度による減税などを考えてもいいかもしれない。例えば、共働きで子育てができず、子どもを、祖父祖母にみてもらうような場合は住民税が控除され、減税するとかである。日本全体で標準化して考えるというよりも、地域別の特色を生かして、大家族主義の内向きの郷土愛を育成するのを年頭に置くべきである。さて、次に、日本の少子高齢化対策について、インバウンド需要がどれだけ寄与できるかを考えるために、都道府県別のインバウンドを調べる為にググると、以下のサイトに出くわす。最新の訪日外国人旅行者数や都道府県別訪問率、旅行消費額などがわかる。JNTO統計データサイト「日本の観光統計データ」をご紹介!|インバウンドノウハウ|JNTO(日本政府観光局)都道府県別でみる訪日外国人・消費額ランキング!【マップ付き】 | 日本最大級のホテル旅館情報サイト HOTELIER | ホテル旅館サービス・商品比較以上のインバウンド需要のデータをみると、沖縄を除いて、ほぼ大都市圏に、インバウンド需要が高いのがわかる。大都市圏が少子化傾向なので、インバウンド需要を、少子化対策に生かせれば、インバウンドによる異文化交流が、日本文化の内向きの郷土愛による、大家族主義の再生の刺激となりえるかもしれない。しかし、インバウンド需要が、物価を高くしてしまう、子育てに不都合な環境もつくりだしてしまうので、物的な富というよりも、精神的な富の、いわゆる日本文化の詫び寂びの、千宗易の一期一会の、つまり前世の因縁を思い出させる、精神の旅を認識させるべきかもしれない。一期一会 - Wikipediaだから、インバウンド需要の物質的富を、いかに精神的な富の、モノの異文化交流を、いかに精神的な、前世の因縁の一期一会の出会いへと昇華できるが、そして、霊魂として、この国に産まれたいと思わせるか、の、精神的な少子化対策が、この国の再生のカギとなるかもしれない。千宗易の詫び寂び茶とは、一回きりの現世ではなく、一期一会を基点とした未来永劫のカルマでの、あの世でも変わらない永遠の契りを意味するものなのである。それは霊的な結婚を意味するので、この国に産まれてきたいという、カルマの法則を用いた、少子化問題を解決でき得るものなのである。次の転生にこの国を選んでくれたら幸いで、この国は不滅だろう。しかし、このままでは、この国はきっと滅んでしまう可能性が高いのは、スネ夫ウイルスが蔓延し、私利私欲に塗れた議員や官僚を見れば明らかだろう。スネ夫のような人間が増えたら生きずらくなる、渡る世間は鬼ばかりの世界なのがわかる。人間は死なない。ただこの世を去り行くのみなのだ!
2024年11月14日
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自然と闘い、文化として学び、克服する火星の時代が過ぎ去りつつあり、自然との共生の、アクエリアスの水瓶座の水星の時代が到来しつつあるのか、巷は、円安の影響からか、インバウンド需要の賑わいで、日本文化が海外から見直されてきているが、その経済効果は唯物的に見積もると、「経済産業省によると、2019年のインバウンド消費は4.6兆円で、サービス輸出では自動車(12.0兆円)に次ぐ輸出産業となっています。 また、経済産業省の試算では、2019年のインバウンド消費の経済波及効果は名目GDPの0.9%に相当します。」ということらしい。インバウンド需要の経済効果はどれくらい?訪日外国人旅行者の消費動向と課題を解説 | 知る-コラム | Money Canvas(マネーキャンバス) 三菱UFJ銀行第3節 我が国経済の成長のけん引役として期待されるインバウンド需要:通商白書2023年版 (METI/経済産業省)プラスチックが化石燃料と呼ばれる石油からできるのをポエムにした世襲馬鹿息子議員ではないが、自動車が石油から、電気で動くようになったのは、燃料電池の水素の恩恵であるのに、改めて気づくポエム人間が、これから増えて行くのが予想されている。炭素から水素の時代へと移りかわりつつある、正に転換期といえるのかもしれない。来場のご案内 | H2 POWER WORLD OSAKA -[関西]水素エネルギーワールド-水素エネルギーとは?メリット・デメリットと普及しない理由から考える将来性・課題 - OFFSEL BLOG水素から電気を生み出す燃料電池、そのポテンシャルとは – HATCH |自然電力のメディア実は物質界ではプラズマ状態を作り出すためのコストがかかるために、ほぼ実現が不可能な核融合による発電は、水素エネルギーと関係が深いのは、以下の2つの図の比較からわかるだろう。しかし、大きな相違は、核融合は素粒子レベルで起こるグルーオンと呼ばれる強い力の媒介による素粒子の反応で、燃料電池は、水の電気分解の逆反応で、水素の共有結合などの分子間力での化学反応であり、両者の反応スケールが異なるレベルにあるところにある。つまり、核融合は水素の原子核の反応で、燃料電池は水素の電子の反応の違いがある。また図からわかるように、核融合で生じた中性子によりリチウムの核分裂を誘発させて、重水素と三重水素トリチウムを供給して連続反応を起こしてやる必要があるので、連鎖反応を起こすには、磁場などでプラズマを閉じ込める必要があり、現実的にはなかなか困難なのである。コストに見合わないので、現実にはまだまだ特に核融合発電は不可能に近いが、水素の原子核の陽子と電子のプラスとマイナスを効率的に上手く利用することで、コストを削減し将来可能となるかもしれないが、それにはまだ我々地上人が学ぶ経験や努力が山積しているのも確かであろう。しかし、海水にはリチウムが豊富にあり、同じく海水から水素を製造できれば、海洋国家の日本には海水からエネルギーを取り出して、海水温を下げる技術を編み出せば、環境問題を一石二鳥で解決できる夢も描けるのではないだろうか? 今のところは夢でしかないが、以下のサイトなどをみれば夢も少しは現実化してくるかもしれない。核融合発電 第08回 リチウム、海水・電池から回収 - 量子科学技術研究開発機構海水から水素の製造可能に、貴金属を使わない合金電極を開発 筑波大など | Science Portal - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」さて、日本は西洋社会からすれば、地政学的には、極東と言われ、中世の人間からすれば、地平線の彼方の地であった。そして中世社会には、権力の介入による拘束があり、また国境という障壁もあった。異文化交流が許されない不自由な時代だった。地政学とは、人間を拘束する権力が行き届く空間的な範囲を記述する学問といえる。その拘束性は、しばしば物質的価値観、唯物的な宗教観に依存してきた。だから、異文化交流は、貿易による物々交換を基にしたモノの価値観から行われた。そもそも物々交換とは、異なるモノに同一の価値観を見出し、共有する行為で、文化の融合が不可欠で、文化背景を土台にして、現代では元は錬金術から派生した西洋の金本位の価値観による信用手形の貨幣発行として現実化している。だから、経済の根源とは、本来は文化による共通認識の獲得なのである。文化の融合は、対立する価値観を共通の整合性で統一する作業で、知的なバランス感覚の獲得作業といえるかもしれない。しかし、その共通の知性を獲得するためには、従来の権力の源泉となっている古き、主に地政学からくる知性、特にモノ的な価値観、権力による拘束を伴った不自由な知性を捨て去らないといけない。物理学でいえば、従来の剛体を基にした古典的な価値観から、量子論的な価値観への移行が急務なのである。ここに、ソクラテスが説いた無知の知が、経済問題として浮かび上がる。例えば、巷では昨今、消費活動による景気刺激策として、給与の手取りを増やすために、所得税の基礎控除額の引き上げが、物価に連動して行われるべきで、先進国では行われていることを、この国では30年もデフレのために放置され、昨今の円安によるインフレで、改めて議論になり、問題となっている。この問題の責任は、以下に紹介する高橋洋一氏らが指摘している、日銀と財務省の怠慢にあるのだが、これら政府機関の国家像と、国民生活を基にした国家像についての価値観の相違が大きすぎて、国会での議論が論争となり、しばしば紛糾し、もはや老害垂れ流しの朝まで生TVのように小田原評定の議論が平行線に辿るのを、金銭などの賄賂により金権政治として大企業の経営者などと官僚が癒着結託し、国民には内緒で自分たちで取り仕切ってしまおうと、かつての英国資本の英国病と同じく、英国病を日本病として、問題を先送りしてきて、これまではなんの議論もなしに数の論理での強行採決で、政府の権力で決めてきたため、数々の弊害が国内経済で起こっている現状なのである。この経済的惨状の現状は、以下の高橋洋一氏の動画に詳しく解説されているが、官僚と国民の知性の隔たりが大きすぎて、官僚の独裁ぶりが国民生活を圧迫しているのに気づいていないから、高齢少子化問題は未解決のまま、先の大戦のように、親ソと親米で陸海軍が分裂し、昭和帝が米国に救いを求め、米国の植民地となって、国家が崩壊していく運命にあるのかもしれない。極めて情けない話なんである。高橋洋一 (経済学者) - Wikipedia高橋洋一「金融引き締めについて解説」#高橋洋一 #髙橋洋一 - YouTubeしかし、米国が日本にしたことは、トランプ大統領の再選でもわかるが、そのまま国のカルマになって、いずれ米国にその被害が訪れる宿命となるわけで、現に英国はいま、かつての植民地からの移民が押し寄せて、英国が仕出かしてきた支配の、その被害の責任を取らされる立場となっている。かつての植民地インドの国力が英国を凌ぐほど巨大化しつつあるのは明白である。だから、エメラルドタブレットを書いたトートの叡智に耳を傾けるべきなのである。だから権力を持つ者は、心して、エメラルドタブレットを書いたトートの叡智を知るべきなのである。それはただ本当の叡智とは、実るほど頭が下がる稲穂かな、というもので、無知の知なのである。さて、ネットフーテンの寅さんをしている手前、アレキサンダー大王よりも、ディオゲネスのほうが自由に生きていた点で、自分勝手に偉人視しているのだが、最近になって、ディオゲネスが嫌った知性が、悪魔のような権威主義、権力であったのがわかり、権力と戦うのは、権力を認め、権力の虜になり、自由な生き方に反するのに気が付いた。アレキサンダー大王も憧れた 奇人哲学者の"空気を読まない"生き方 - ニュース|BOOKSTAND(ブックスタンド)つまり、権力と戦うのは愚か者で、キリストが説くように、権力に対しては、一方の頬を打たれたら、他方の頬を差し出すような、権力の虚しさや愚かさ、独り善がりさを知り、ディオゲネスのように、自由な生き方を追求することが、例えば、「お前の望むことを何でも叶えてやろう」というアレキサンダー大王に、「では、日向ぼっこをしたいから。どいてくれ。」と言ったディオゲネスの鋼の精神の、その反骨心に共鳴したわけなんである。権力を背負えば、権力の重さに拘束される。実際に、アレキサンダー大王は、王として生まれなければ、ディオゲネスのように生きたい、と死んでいったようである。だから、アレキサンダーは次の転生にはディオゲネスとして生まれ生きたかもしれないし、ディオゲネスの前世は、アレキサンダーのような権力者だったのかもしれない。輪廻転生の法則によれば、生まれつきの権力者は、次には真逆の、権力に無関係なホームレスに生まれてくるからである。世の中には、権力を持つ者と持たない者がいるが、その両者の経験と努力を一回の同じ人生で悟ったのがゴーダマシッタルダのお釈迦さんである。さて、この二人の権力者と乞食のやりとりからわかるのは、人生が予め見通せたら、このような二人のドラマが生まれなかったことである。自分では努力しているつもりでも、金持ちや権力者にはなれない現実があるのが明らかだろう。もし、予め、金持ちや権力者になれない宿命を知ってたら、少なくとも努力するのを放棄してしまうだろう。なれないとわかっていて努力するのは、現代人には耐えがたく、無駄な事だと思うからである。宿命を見通せない、現代人のほとんどは、アレキサンダー大王のような権力者や、金持ちになりたい欲望に満ち溢れて、なんとか賢明に努力し経験を積もうとする。しかし、実際は、そのような人の前世が、生まれつきの権力者や金持ちであったので、逆の立場の貧困に生まれついて、前世で自分の行為が仕出かした貧困の贖いや償いを責任として背負って努力し経験を積み、その努力や経験により、現世で金持ちや権力者になるためではなく、自分の前世の自分の行為から生まれた逆の立場の努力や経験を感受して、権力と金持ちとその反対側の立場を経て、それらの立場を乗り越えて、愛と憎しみのバランスを学ぶためである。だから、我々の霊魂は、地上を舞台にして多様な立場の俳優となり、演劇を演じて、我々の霊魂の愛と憎しみの感性を研ぎ澄まし学んでいるわけである。さて、このような地上で行われる物質界でのドラマにおいて、このドラマを演じるにあたり、唯物論にどれだけ染まっているかどうかを簡単に診断するリトマス試験紙のような判別法は、その物欲により判定できる。単純にいえば、金持ちや権力者になりたいと思うほど、唯物論に染まっているわけなんである。言い換えれば、そのような現代人の特徴は、物欲ナルシストといえるかもしれない。物欲ナルシストには思いやりがなく、自分中心の権力者なので、視野が狭く、自らのぼせあがって、自らでバランスを崩し、自分では何もできずに、他者を利用するウイルスや細菌のような知性の持ち主で、他人から奪う事しかできない、全くの創造性のない存在なんである。そのような現世でのみ通用する、権力や権威を充てにすればするほど、次の時代を作り出す知性や創造力を失う。例えば、亭主関白が、奥さんに見放されると、何もできないで死ぬしかないのと同じである。欲望の王は、その欲望によって捨てられ、悪魔は神の振りをして、尊敬を強いるが、笑われるのがオチである。権力者は現世だけに通用する裸の王のような生き方を望むが、来世では自分が裸だったのを知る生き方が待っている。だから権力の虜になるなかれ。権力は愛を与えるために使うべきである。権力者に対しては、笑うしかないと思うのが、ネットフーテンの寅さんのお笑い道なんである。そこで、権力を笑う、ネットフーテンの寅さんのお笑い道から、ふと日本的なお笑いを考えてみたら、巷の古典演芸でみかける『「牛丼」とかけて、「海」とときます。その心は、どちらも「波・並(なみ)がある」でしょう。』の謎かけが浮かび上がったので、その原点は何かとググってみると、『平安時代に和歌から派生した宮廷の言葉遊びが原点で、江戸時代に現代へとつながる「三段なぞなぞ」が生まれて大流行した。』というように、古き日本文化の代表だと気づかされた。【なぞかけ 厳選300選】これはうまい…!!面白い名作集を紹介!【お題例一覧】 | みんなのお助け💓NAVI | 高齢者向けレク・脳トレクイズ紹介サイトなぞかけ - Wikipedia<ねづっちの謎かけ道場>道場主直伝 採用の極意 連想する言葉を集めよう:東京新聞 TOKYO Web確かに歴史的には、日本独特なのだが、果たして日本独自の演芸なのか、という疑問も浮かんだので、欧米にもないのか?とググってみると、似たようなものに、Riddleというのがあるらしい。以下のサイトから、謎かけを、英語にすると、『ちなみに、「AとかけてBと説く」を敢えて英語で言えば、以下のようになるかと思います。 Q. Why is A like B? AはどうしてBでもあるの? A. Because C! C だから!』となるらしい。「AとかけましてBとときます。その心はC」 "英語の謎かけ" ってあるの? | “ココネ” の英語学習ナビ by 【cocone】謎かけは、英語にすると、演芸というよりも、よりストレートな言い換えといえるかもしれない。例えば、謎かけでは、権力者とかけて、放浪者とときます。その心は、前世の生まれ変わりです。となるが、英語にすると、権力者はどうして放浪者でもあるの? 前世の生まれ変わりだから。となるわけである。この表現は、同じものの異なる側面という、二元性の一元性への回帰を表現しているようにみえる。例えば、男はどうして女でもあるの? 人間はエッチが好きだからさ。と性 欲の一元性に回帰できる。意味はどうあれ、この謎かけは、陰陽の二元性をよく表現した文学にみえる。例えば、「電子」とかけて、「光」とときます。その心は、どちらも「波で素粒子」でしょう。というように、演芸としては面白くもないが、量子力学を一言で、表現できる。どことなく、一休さんで有名な、「そもさん、切羽」の、禅問答の掛け合いの言葉みたいにもみえる。プジョー長崎 - 一休さんの「そもさん、せっぱ」って?禅問答といえば、旗が揺れているのをみて、旗が風を揺らしているのか、風が旗を揺らしているのか、互いに主張し合っている坊主たちをみて、坊主の心が揺れている、と言った有名な禅僧の話がある。つまり、この坊主たちは、自己主張に心を奪われて、相手の意見を取り入れる観察眼、心理眼が抜けていると喝破したわけで、つまり、仏教の色即是空という中道の精神を失っている、というわけなんである。風の話|法話 - 臨済宗 大徳寺派 東光寺つまり、お互いが自分を乗り越えれない自分の殻に閉じこもっているのを指摘しているわけで、自分の知性に自惚れているわけなんである。互いに物質論で色に染まっているのに気づかずに、例えば、赤と青が、赤だ、青だと、主張しても互いにぶつかりあう同じ穴の貉でしかないわけである。例えば、動物には人間のように七色を見分ける色彩感覚がないので、赤と青で衝突することはないから、互いに色彩の違いだけで言い合って戦うことはない。このような争いのための知識、区別は、論争の元なので、憎しみを生じさせるだけで、不要と言わざるを得ないだろう。このような個人的な立場による知性について、かのソクラテスは、無知の知を説いたわけなんである。二元性を越えた一元性の、なぞかけによる、その心は、の、一元性の無に帰するのを、説いたわけでもある。そうつまり、ソクラテスの無知の知は、般若心経の、色即是空でもあり、それは現代科学の量子力学でも記述化された、ハイゼンベルグの不確定関係でもある。不確定性原理 - Wikipediaプランク長 - Wikipedia我々地上人は、物質界からの覚醒意識では、プランク長の、電子や光の世界を直接みることはできないので、そのような知性は、地上で生きる個人の経験の限界を超えているので、確率統計学を用いた知性の共有による標準化により、線形近似で、定式化するしかできないわけである。勿論、中世には、量子力学はなかったが、まだ古代ギリシアの哲学者のように、電子や光を波や粒子のシンボルとして直接感知できる知性をもつ、いわば霊能者もいたわけで、そのような例としてニュートンなんかが、ハーレーに言われて、プリンキピアを書いたわけなんだろう。だから、ニュートンは自分が編み出した後の微積分の原型の、流率法を用いずに、古代ギリシアの幾何学的にシンボリックに表現したわけで、ケプラーが表現した天体の運行則などは自明だったわけである。ニュートンは、後にアインシュタインが表現した時空の概念も、部分的時間という意味のデュレーションで表現しているが、恐らく後世の弟子たちが、誤解釈し、ガリレイ変換に当てはめて、絶対時間としてしまったようである。ニュートンは、時空を流率法ではなく、幾何学に解釈していたようなので、恐らく分光学で、量子力学も想定していたようである。というのも、ニュートンの分光学からはじまり、プランクが黒体輻射の分光から量子力学を定式化し、ドブロイの物質波の発見へと進み、アインシュタインの光量子説につながるからである。絶対時間と絶対空間 - Wikipediaアイザック・ニュートン | オプティペディア - Produced by 光響プランクの法則 - Wikipediaド・ブロイ波 - Wikipediaニュートンにすれば、数式上で論争するのは、愚の骨頂で、ソクラテスの無知の知と言わざるを得ないわけである。だから、先の禅問答にするなら、光や電子が、量子か波動かで互いに観測を主張し合うのではなく、どちらも部分的な真実として認め、互いの観測を切欠にして、意識をより高い知性に導くのが重要となる。波動になったり、量子になったりするのは、観測者の意識や、知性の問題にあり、それらは観測において移りかわり、座標によって、それらは空が色となった、真空のエネルギーの表れであり、仮の姿でしかなく、本来は変幻自在の一時的存在でしかない、というわけで、全ては愛の無限のエネルギーの一部分でしかなく、その一部分に拘るのは、木を見て森を見ずの、観測している当人の知性の限界を表わすものでしかない。我々地上人は物質波の重ね合わせを量子として、本来は非線形現象を、観測関心領域で物質的に部分的に感受取得し、確率統計学的計算で、線形化して観測実数値(ユニタリー)化するしかなく、ソクラテスの無知の知のように、自らの知性の限界を知ることしかできないわけなんである。しかし、このような限界を知ることを知らない無知な連中が巷に跋扈して論争を始めるので、世の中が益々無秩序化し、カオスに陥っていく。解剖学者の養老氏が、馬鹿の壁を説いたが、馬鹿は自分の知性の限界を知らないから馬鹿なんである。だから、正しいと主張するのは、自分の知性の限界のなかで正しいだけで、それが馬鹿の壁なんである。互いに知性を融合して、巷に溢れる問題を解決していくのが、地上人の生きる責任を果たしていくことなのである。我々地上人が生きる目的は、地上に生きることで、生まれる地上の問題を、できるだけ解決する責任を、自らで背負い、努力し、地上での経験を学ぶことなのだから。地上で生きる行為こそが、地上での学びの経験となり、知性を高度に発達させる糧となる。だから、知性には果てがないわけで、自分が正しいと思うのは知性の限界でしかない。ソクラテスの無知の知とは、知性には果てがないので、自分の正しさを常に疑うことが必要というわけなんだろう。だから、例えば、謎かけでは、権力者とかけて、乞食とときます。その心は、前世での罪滅ぼしです。しかし、実は、権力者は外の幸福で、乞食は内の幸福であるのがわかる。内に創り出す能力があるので、外に求めないわけなんである。権力者は、放浪者をみて、明日は我が身と思い知るのが、トートの教えなんである。出逢う相手に自分の輪廻転生を鑑みて、相手から学ぶのが、千宗易の一期一会の日本文化であるようだから、この国のインバウンドが、愛の絆となることをただいま願うばかりなんである。
2024年11月12日
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巷はアメリカ大統領選挙で、アメリカが内乱で分断するなどの大騒ぎだが、「強いアメリカを取り戻す」というトランプのフレーズは、この国では、どこかで聞いたような、お馴染みのCMのようなフレーズで、「強い国をとり戻す、美しい国ニッポン」で死んでいった某総理の弔いでもないだろうが、また懲りずに、トリクルダウンのトランプノミクスなどでもやるのかな、とか思いながら、昭和の、♪夏が来れば思いだす、遥かな空、赤尾敏♪の街宣車運動の、どこか懐かしくけたたましい犬の遠吠えのように聴こえてしまう、のは私だけだろうか?そんな風に、空風が吹きはじめる、秋の米国大統領選挙をみていると、私には、米国が日本にしたことの繰り返しのようにもみえるわけなんである。性懲りもなく悪魔のやる事は古今東西代わり映えのないものなんだろう。エックスジアンがこの地球を支配したときから、それは何度も独裁者となった悪魔の僕により繰り返されてきたダメ押しの芸当で、現に何度も千日手で繰り返されているなかで、何も学べない学ばない人たちにより、何万回となく永遠に繰り返された憎しみの連鎖なのであろう。まるでハロウィンの笑いを忘れた米大統領選挙だった。選挙そのものが醜悪なハロウィンという人もいるだろうが、最後に笑う者の笑いが最上なのを肝に銘じることである。ハロウィンというよりも、悪魔そのものを選ぶ日だったようにもみえる。果たして誰が笑えるだろうか?プーチンやネタニヤフなどの独裁者が笑っているかもしれない。さて、あえて高次の宇宙人の視点に立ってみれば、人間という生き物は失敗から学ばずに、直接経験し、努力しないとわからない生き物なのだろうか?とも思うわけでもある。エメラルドタブレットで、トートは、宇宙の重要な法則の一つが、人間が生きる全ての行為はその人間が全責任を負う、ことだと戒めている。だから自分のしたことは必ず自分で贖い償わないといけないわけで、誰かを虐げれば、必ず誰かから虐げられ、ハンムラビ法典にも、「目には目を歯には歯を」と書かれているわけで、キリストは、だから「目を失った人には目となってあげなさい。歯を失った人には、歯となってあげなさい」と、憎しみではなく、愛で物事を解決する、愛の学びを説いたわけなんである。米大統領選挙をみていると、アメリカも無秩序な混沌としたカオスの海に堕ちていくようである。いまでは幻影ともいわれている、かつてのカオスの英国病と、非常に似通った状態になっているのは、いまの日本が英国病に倣って日本病と呼ばれているのと同じだろう。英国病をググると、その背景には、経済の停滞があげられる。そして、無責任な奴ほど、自分たちを棚に上げて、他者を見下し批判するのが、巷での賑わいで、その賑わいに乗じて興味深いので、英国病を例にして紹介する。英国病 - Wikipedia『国際競争力の低下1960年代になると、国有化などの産業保護政策はイギリス資本による国内製造業への設備投資を減退させることとなり、(セカンダリー・バンキングで)資本は海外へ流出し、技術開発に後れを取るようになっていった。また、国有企業は経営改善努力をしなくなっていき、製品の品質が劣化していった。これらの結果、イギリスは国際競争力を失っていき、輸出が減少し、輸入が増加して、国際収支は悪化していった。特に多くの労働者を抱えていた自動車産業は、ストライキの慢性化と日本車の輸出が活発化した時期(1970年代)が重なったことで壊滅的な状況となり、2000年代には外国メーカーのブランド名としてのみ名前が残っている。』この英国病の一因に、「国有化などの産業保護政策が、国内製造業の設備投資を減退させ、労働意欲を削いで、経営改善努力をしなくなり、製品の品質が劣化し、国際競争力を失わせた」とあるように、保護策で経営者を甘やかしたツケで、国全体が病気になったわけで、人体も自我を甘やかすことで、肥満体質になって、運動しなくなり、疾患に罹りやすくなるのと同じ道理なのがわかる。つまり、人智学で読み解けば、企業経営者という自我を甘やかしたせいで、社会全体が病気に罹ったわけなんである。この英国病に準えて、日本病と呼ばれているのは、「バブル崩壊以来の日本では、低所得、低物価、低金利、低成長の4つの低い状態が続いており、このような状態のことを言う。 1960年代から1980年代にかけてのイギリス経済を例える言葉として英国病というのが存在しており、日本病は英国病になぞられて名付けられた。」というわけで、その要因の一つが、日本の特に大企業の経営者を、政治家への賄賂の、企業献金で、法人税減税し、代わりに消費税を導入したせいで、格差社会を拡げて、いわば英国の産業保護政策と同じように、政府が税金で経営者を優遇し、競争から隔離したせいなのがわかる。それはドラマ水戸黄門の悪代官と悪徳商人の馴れあい故の年貢徴収の村民虐めのパワハラ構図となんら変わりがないのである。政治家と経営者で「お主も悪よのう」と、悪を競い合っている搾取の構図なのである。この構図を、人体に譬えれば、血液を頭部に集めすぎて、手足などの末梢や末端部に届かなくなり、手足から腐りかけてきて、生命力を失い、固体化し、その血栓が、心臓を通じて脳に流れて、脳梗塞状態に陥っているわけで、私見では、これは旧大蔵省の現財務省の責任にあるとみられるわけなんである。企業献金などは政治家の権力の自己保身にのみ役立つもので、社会の成長や発展には全く何の役にもたたない、既得権益確保だけの無用で無能の長物だからである。だからモラルで禁じられているわけなんである。自分たちだけ得をしようという生き方は、まわりまわって、憎しみを増加させ、宇宙の法則では、自分だけ成長が止まり、置いてけぼりをくらい、自分たちの霊魂を退化させてしまうからである。今生きているのは、自分の霊魂を成長させ、発展させるためである。だから、自分の生の行い全ては自分の全責任となるわけなんである。死んでも罪は消えない、次の生へとその罪が持ち越されるだけである。つまり英国病は、英国資本で経営者を無能な働き者にしてしまったせいであり、しかも、その英国病を日本に金融ビッグバンで輸出し、金融ウイルス感染で日本病にしてしまい、日本の経営者を無能な働き者にしたせいで、日本の経営者は無能な金融資本ウイルスの感染者というべきかもしれない。なんだか媚びっと感染と似たような、また「欧米化」とタカトシの漫才でツッコんでほしいくらいでもある。経営者が無能だと、競争力を失うのは当たり前の論理である。以前、ゼークトの組織論を紹介したが、組織において最も危険な奴が、無能な働き者で、無能の働き者の経営者が、この論理で、無駄な仕事を増やしてしまうので、馬鹿らしくなって誰も働かなくなり、労働意欲がなくなるのは当たり前で、しかもいくら働いても、階級制度のせいで、世襲制度で決まってしまうような官僚社会体制では、共産主義の失敗の繰り返しで、共産主義体制から移行した独裁体制から、独裁者をつくりあげて戦争を誘発し、起こしてきた失敗の繰り返しなわけなんである。日本病 - Wikipediaゼークトの組織論とは|無能な働き者の特徴、4分類についてわかりやすく解説 | オンライン研修・人材育成 - Schoo(スクー)法人・企業向けサービスこのように英国資本が、英国病を日本に感染させたというわけで、同じように米国病として感染しているのは、米国の格差社会からも明らかで、このような階層社会では、強い権力者を求める幻想論が跋扈し、英国病が鉄の女と呼ばれたサッチャーで益々悪化したように、そのような人物が権力についても、恐らく、ハーメルンの笛吹きのように、大事なものを奪われた町民となるのが運命だろう。ハーメルンの笛吹き男 - Wikipediaその後、英国は北海油田で英国病を脱したといわれているが、近年のGDPの成長率をみても、日本よりは遥かにマシだが、前年比マイナス成長もあり、低迷と言ってよい状態である。同じことを言っているトランプがアベノミクスの安倍にならないように、米国民は、経営者を甘やかしてしまった日本国民の経験から学ぶべきだろう。安易なコストカットに走った無能な日本の経営者がいま人手不足に悩まされるのは過去のツケがまわってきたせいで、自業自得というほかはないだろう。カルロスゴーンなどの経営者が話題になったときに日本経済の日本病がはじまっていたのである。いま思えば、金融バブルは、ウイルスに感染された患者がバブル熱に浮かれすぎて踊り明かした感染舞踏病だったわけである。イギリスの成長率見通し、G20で最低に=IMF - BBCニュース世界銀行が「アベノミクスは成果あげていない」と日本経済の成長率を下方修正=アメリカやイギリスの4分の1の低成長がアベノミクス3年目の結果で今後の見通しも同様 | editorGDPは? 株価は? 意外と知らないイギリス経済 - MonJa〈もんじゃ〉お金と暮らしの情報サイト無責任に政治に期待しても、自分のしたことは自分に返ってくるわけで、無能な働き者は、本人を無能にたらしめるだけなのである。というのも、経営者が、金銭勘定に夢中になり、かえって労働者に憎しみを増加させ、労働者に愛を与えるのを怠ったせいである。労働者に愛情を注がない経営者などは無用で無能の働き者でしかないからである。無能であるのなら、経営の資格、権力を行使できる能力がないのだから、一介の労働者として働くべきである。巷で偉そうに説教や講釈を垂れ流す経営者は、その前に、現場で働くべきである。トランプでさえも一日だけだがマクドナルドの現場で一介の労働者として働いている。権力にふんぞり返り、胡坐をかいて憎しみを買うよりも、現場に出て愛を注ぐべきである。現場こそカオスの縁で生き物だからである。米大統領選挙の流れで、経済成長の話になってしまったが、そもそも生き物がなんで生きるのかを解き明かさない限りは、経済成長の話をしても絵に描いた餅で、無意味となるだろう。エメラルドタブレットによれば、我々地上人は、地球の物質界に愛を学びにきているわけで、生命は、愛の意識から生まれるからである。神智学では、愛の意識を、ポジティブなエネルギーと呼んでいる。そして、愛の意識は、人体の太陽神経叢に蓄えられるのがわかっている。憎しみはネガティブなエネルギーである。だから、経営者というのは、誰よりも、この愛の意識を太陽神経叢に蓄える必要があり、誰よりも愛を学ぶ必要がある。それが経営者の責任である。ただし、ここでいう愛とは、恋の欲望ではないので、色欲と錯覚しないでもらいたい。愛というと日本人のほとんどは色欲と捉えがちなんで、仏教の慈悲である。愛を色欲に捉え、走るのも、日本社会の間違った男尊女卑教育のせいで、男らしく、女らしく生きようとして、性バランスを失わせ、かえって異性を求めるようになってしまい、精神的なバランスを欠いてしまうためともいえる。本来は、男女差別のない、人間らしく生きるバランスの道徳教育が重要である。時と場合において、男性らしく、女性らしく使い分けられるのが生命の本来の発情である。というのも、憎しみを中和できるのが愛だからである。欲望は憎しみを増すばかりで、愛ではない。愛が無ければ人間の生命は成長しないのは、子育てでもわかる。だから経営者が愛人をつくったり、不倫などをするなどはもってのほかで、ドラマの世界だけで十分である。そういう経営者は組織をダメにするだけだから、江戸時代は穀潰しと呼ばれた。家族という最小単位の組織すらも破壊しているから、穀潰しなんで、穀潰しを脱し、日本のGDPを向上させたいのなら、経営者の意識改革が急務なのがわかるが、以下の記事などがそれを物語っている。日本は、「無能な経営者」から改革するべきだ アトキンソン氏「働き方改革よりも急務」 | 国内経済 | 東洋経済オンラインさて、前回は、1つしか脳をもたない脳科学者が、9つの脳をもつタコを越えられるか、超弦理論のトーラス構造から紹介してみたが、生命がバランスを現象化させることからもわかるように、脳は、愛の太陽神経叢と対極をなしているのがわかる。心臓が、愛のエネルギーを、時間を通じて送り、脳が、愛のエネルギーを、空間を通じて送っていると考えれば、太陽神経叢は、愛のエネルギーを宇宙から集めて貯める、時空ポテンシャルなのである。エメラルドタブレットによれば、宇宙から愛のエネルギーを貯めるための入口は、頭頂部の大泉門だという。愛のエネルギーの次元、つまり意識の次元は、9つあるという。タコの脳の数と同じである。我々の宇宙は、8次元の壁によって仕切られているらしいので、9次元の愛の意識には到達できないという。我々の愛の意識は、9次元の壁により押し返されて反射され戻ってくるらしい。そして、我々の意識は、上から8番目の愛の意識で、上に7つの意識と、下に1つの意識があり、この上の7つの意識を、七福神でも有名な7つの神意識と呼んでいるらしい。いま数学的な次元を使って表現しているが、この次元とは、数学的にいえば、一次元が線で、二次元が平面で、三次元が空間である。四次元には、時間が加わり、時空となり、5次元以上は、人間の覚醒意識ではもはや分解できないので、認識不可能である。5次元以上は、いってみれば、自他の存在がない世界といえるかもしれない。地上人の覚醒意識は、物質を破壊することで認識できる意識なので、破壊行為を超えた創造の、再生の行為を基にした認識らしく、それは潜在意識のことらしい。人間も睡眠中に人体の再生を行っているので、4次元以上の潜在意識をみているはずなのだが、そのままでは3次元では分解できないので、起きたときに覚醒意識の記憶を用いて、この世の経験から、空間や時空を数学的に力学で割り当てて、夢のように解釈するしかない。非線形現象を、線形解釈し、線形思考を身に着けるしかできないわけである。そのために数学を構築したわけである。しかし、あくまで解釈できるのはカオスの縁までの線形思考だけである。つまり、早い話、4次元以下の愛の意識しか感受できないので、自分勝手な個人の推測の、欲望に囚われてしまうわけなんである。そのかわり、経験と努力で、4次元以下の肉体には移り変われる。動物は自我の霊魂をもたないので、数学もなく、肉体から生まれる個性もないが、愛を直接感じ取れるので、家畜を除いて、個体的な欲望はない。だから、人間が動物に生まれ変わる事もなく、動物が人間になることもない。もしそれが可能ならば、サルが人間に生まれ変わり、動物が人間に生まれ変わる、のもあり得るわけである。ダーウィンの、サルからの進化説は厳密には誤りで、サルと人間の共通の祖先から分かれたというよりも、人間の霊魂が、地上に暮らすのに適した肉体を選んで転生してきたといえるだろう。このようにエメラルドタブレットにかかれた宇宙論によれば、9次元の愛の光の意識が集約した、宇宙微粒子コスミックダストが、オカルトで有名な不老不死のエーテルであるようである。だから、超弦理論は、エーテルを表現する数式なのかもしれない。つまり、タコの姿を超弦理論で再現すると、エーテルの実像が再現されるかもしれない。タコの吸盤が丸くて引っ付くのは、愛の証なのかもしれない。そういえば、フーテンの寅さんには、有名なタコ社長が出ていたなぁ。貧しい生活でも愛情溢れる世界が演じられていたドラマだった。♪今日も涙の日が落ちる。日が落ちる。自由には愛がつきものなんだよなぁ。寅さんは恋に破れ、家族の愛に救われるんだよねぇ。
2024年11月07日
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権力に拘束されない、毎日が自由で愉しすぎて、ブログを書くのが億劫になりつつあるのだが、生活のリズムやメリハリをつくるために、日々のネットフーテンの寅さんの放浪記のために、面倒だけど、時間を割いて書くことにするのも、ギリシア時代の犬の哲学者と呼ばれた自由な生き方を追求したディオゲネスにあやかって生きているためかもしれない。ディオゲネス (犬儒学派) - Wikipediaギリシア時代のディオゲネスのような自由な生き方が、日本の昭和のドラマのフーテンの寅さんのような自由な生き方に憧れて、ネットフーテンの寅さんをしていたら、ディオゲネス症候群という言葉に遭遇し、なんでも「セルフネグレクト」のことを指すのだという。気づいたら親が「セルフ・ネグレクト」に? 「孤立死」や「ごみ屋敷」に至る前に対策を | 済生会上のサイトをみると、「セルフネグレクト」とは、要するに、掃除のできない、自我の世話ができない、第三者からみて、独り暮らしができていない「自己放任」な高齢者をレッテル貼りした言葉らしい。母親が亡くなってからの父親がこの手の類だったので、ただし、父親は、このサイトに書かれている『一人で生活を維持するための生活力不足のほか、「人の世話になりたくない」というプライドや「人の世話になるのは申し訳ない」という遠慮・気がねから支援を受け入れづらいということも考えられます。』という条件のなかの、生活力不足は明らかだったが、人の世話になりすぎていて、遠慮も気兼ねもなく、支援を要請するくらい傲慢の持ち主だったところはかなり異なっている厄介者だった。この父親の生活力不足はマザコンにあり、祖母が常に世話をしていて、祖母がなくなると、今度は母親に世話を求めるような昭和の男にありがちな野暮な性格といえるかもしれない。母親については生活の世話人としか思ってなかったようにもみえる。昨今の熟年離婚が多いのも、昭和の男ならではのマザコン性といえるかもしれない。そういう意味では、昭和の男は独立した自由な生き方ができずに、どこか組織や家庭などの同居者に依存して、その権威にすがって生きていたのかもしれない。生活全般をお嫁さんに任せて知らんぷりが多いとよく聞いたし、洗濯や掃除や自炊もできない独りでは生活できない人が多かったようである。奥さんがいなければ、自己放任主義者が当たり前の昭和だったようにもみえる。高齢者の「ごみ屋敷症候群」~生活が荒廃する三つの要因(東京都健康長寿医療センター研究所 井藤佳恵部長)~|医療ニュース トピックス|時事メディカル|時事通信の医療ニュースサイトこのゴミ屋敷症候群は、ギリシア時代の哲学者ディオゲネスにちなんで欧米で名づけられたらしいが、ディオゲネスの場合は、独立して生きていたわけで、しかも当時のアレキサンダー大王は、哲学者を優遇していたので、ディオゲネスが望めば、いつでも召し抱えられたはずなのに、権威にすがるのが気にいらない、自由な生き方を求めたディオゲネスが自ら望んで放浪のプータローしていたわけなので、「セルフネグレクト」と一緒にされるのは、この上ない侮辱となるだろうが、彼にとっては、現代人のような馬鹿な奴の侮辱などがかえって古代人の名誉にもなるので、そんなことで不名誉な病名に使われて名を残すのも、彼にとっては、アレキサンダー大王の宮殿への招待よりも、好んだ日向ぼっこの邪魔な影にもならないだろう。ギリシア時代の生活環境も知らない、唯物論の現代人が、病名として、ディオゲネスを侮辱できるのも、唯物論に染まって、哲学を単なる物質界の知識までに低レベル化し、知識を権威化し、物質的に権力化して、唯脳論を宗教にまで高めてしまった堕落腐敗性にあるのだが、それらも全てが権力に染まり、日々物質的な金銭の勘定をして暮らす、その奴隷となってしまったせいといえるかもしれない。つまりは、自由な精神の由来を忘れてしまったせいなんである。勿論、聖書によれば、自由は悪魔に由来するが、その自由の下に奴隷となるのか、自由の下の死から解放し、聖霊として復活を遂げるかは、各自の自我の精神性に、物質にどれだけ生命力を与えるか、の自己救済性にかかっている。自己救済性とは、権力に絡めとられない反骨心が、自由を与えた存在をも上回る自由を希求すべき態度から生まれる。だから、悪魔が自由を与えたのは、その自由で悪魔を笑う為であると思うわけである。権力を最後に笑える存在が、最後に大きく笑うのである。権力とは必ず神によって奪われるからである。悪魔に権力は似つかわしくなく、神でなければ権力は似つかわしくないからである。最後に笑う者が最もよく笑うの意味 - 元ネタ・由来を解説するサイト 「タネタン」人類に自由を与えたのは確かに悪魔だが、悪魔に自由を与えたのは神だからである。だから権力を持とうとし、一時的にもてるかもしれないが、いずれは奪われ、失われるからである。権力が奪われるのを知らないで、権力を持とうとする者は、カエサルのようになって地獄に堕ち、悪魔に魂を売って一緒に暮らすしかないだろう。先日、地上波の「アナザースカイ」をみていて、お笑い芸人の反骨心の哲学に共鳴を受けた。シュタイナーによれば、人間だけが、個人的な自我を持つので、「笑える」という。笑いは人類の生物上の特権なのである。動物にも似たような擬態がみられるが、動物の場合は、集合自我なので、笑うとしたら、種全体で笑うことになるだろう。種全体の集団的な笑いが起こるだろう。だから、動物には発情期というのがあり、人間の場合は、個人的に発情を制御できるわけである。アナザースカイ (テレビ番組) - Wikipediaだから、人間だけが自由に性 交できて、権威や権力を自由に笑うことができるわけで、動物のように、種全体を統合している集合自我に対して、自由な反骨心を持てるわけなんである。単純にいえば、動物はこの世の意識に乏しく、いわば白昼夢を見ている状態だが、勿論、人間によって家畜化され、集団から自由になった動物は、野生動物とは異なり、個人的自我が芽生えているが、犬にはまだ組織の習性があるように、完全には自立していない。だから、人間だけが、自我の覚醒意識から、この世の感覚で、あの世の夢との違いを区別できる。だから、たまに夢でみた潜在意識があまりにもリアルなので、現実感覚が麻痺することがあり、それがデジャブと呼ばれることがある。つまり、既視感は、潜在意識の記憶が強い場合に起こるわけで、それは、人間にとっては、この世がアナザースカイだからである。あの世の前世の自分の記憶が、この世の現世の自分を強く感じるときに、既視感が生まれるわけで、通常は、前世を感じないように肉体が遮断している。その逆は、未視感のジャメヴである。既視感 - Wikipediaどこかで見たけど思いだせないのは、人智学でいう、前世からの感情記憶が強く残っているせいで、その記憶は寝たときの夢でみるので、夢とは起きる前に予め今日の行事をみせるためにみるのである。だから、毎日起きる前に今日の予定をみているのである。それが今日の覚醒記憶では論理的に違和感を感じると、今日はじめてみたのに、みたことがあると、デジャブとなるのである。これはリアリティをもった夢をみたせいで起こりがちとなる。だから、逆に、覚醒記憶には残っていて、感情記憶には残っていない、未視感は、夢でみなかった予定が起こったときに、つまり見慣れていたはずなのに、物凄い違和感を感じる、疎外感を感じる場合に起こる、と考えられる。つまり、未視感とは、昨日見たものが、違ってみえるなどである。感情記憶が発展したために、同じ物質界が異なってみえてしまうわけなんである。精神性が発展したのに、肉体が適応できていないわけで、肉体が昨日のままで、要するに、能力者に多い、波動の共鳴不調で、色盲も、この類と考えられる。話が逸れてしまったが、アナザースカイでのお笑い芸人の野田クリスタル氏の、お笑いの反骨心というか、権力や上下関係に媚びない独立した生き方には、かつてのギリシア時代のディオゲネスの自由な哲学者の生き方を思い起こさせるほど、既成概念への挑戦、権威をぶち壊そうとする孤軍奮闘の反骨心の精神を感じさせた。そこには、古代インド人の内なる幸福への求道者をも感じさせた。シュタイナーは、この反骨心、古代インド人の場合は、古代アトランティス時代への内なる回帰であったのだが、この精神は、西洋人には理解できないと説いている。西洋人はせいぜいヨガの物真似しかできないので、かえって西洋人には精神腐敗の毒でしかないとも述べている。というのも、神智学徒の多くが、当時のインドのクリシュナの再生に救世主を求めて、シュタイナーと袂を分けたためでもあり、改めて人智学を興したのも、その出来事に由来する。この出来事以来、シュタイナーは西洋人の東洋化には警笛を鳴らしている。恐らく、西洋人には、ディオゲネスの生き方は理解不能だし、キリストがホームレスで生きていたとしても、かつてローマが、キリストを十字架にかけて殺してしまったように、カトリック教会の権威で追放してしまうだろう。というのも、現代のほとんどの戦争に、西洋人が利益のために関わっているからである。西洋人は反骨心を利用して他国を侵略してしまうからである。そして、キリストのホームとなった地球の環境を企業の利益として搾取し続けているのも西洋人の投資家たちである。中東紛争もイギリス外交のせいであり、ほとんどの戦争や紛争がイギリスに始まった産業革命による植民地政策に起因しているのは歴史上明白である。それはディオゲネスのような生き方を精神病として定義してしまうほど、西洋の統治者が、内向きの反骨心に耐えられないからである。しかし、ローマには次のような格言があったのを、西洋人は思いだすべきである。冥界の王になるよりも、乞食であるほうが遥かにマシである。この格言は、西洋人には理解困難だろうが、西洋には少数派の意見には耳を傾けよ、という格言に似た戒めも残っている。権力は常に奪われ、失われてきたのは、古代アトランティス時代が滅亡したことでも明らかである。そして、この我々のポストアトランティス時代は、古代アトランティス時代生き残りの少数派のトートを中心とする古代エジプトにピラミッドをつくったアメンティの主たちによりはじめられたと、エメラルドタブレットには書かれている。西洋の中世のリベラルアーツに端を発した現代人の脳科学はこれをどう読み解けるのか? 権力は滅びるのを、脳科学での脳死と同じく無として解釈すべきなのか? 権力の大罪の罪は無として免れるのなら、キリストは必要なく、悪魔ルシファーと手を握るしかないだろう。さて、タコの心臓は3つで脳みそは9つある、といわれているが、唯脳論者とも言うべき、高度な知的生命体と自負する現代人がたった1つの脳と、心臓しかもたないのでは、唯物論的進化論では、タコから遥かに遅れた知的生命体なのではないか?と思われてくる。現代人はカリユガの時代のせいで、中世から唯物論に染まって、いまではすっかり唯脳論の虜になっているが、脳で全ての生理現象が説明できるという脳そのものをどうやって説明するのか、脳がホルモンという生理物質を放出する背景をどのように説明できるのか、ただ物質現象を脳の現象に置き換えているだけではないのか、だったら脳死を脳によってどう説明するのか、脳死で全てが無になるのなら、脳は無になるために生まれてくるのか、それなら、宇宙の果てなど脳が考えるのも無に帰するのではないかなど、唯脳論では疑問を解決するどころか、疑問が山ほど生まれてしまい、堂々巡りで、収拾がつかなくなってくる。未知の現象を既知の現象で置き換えるのは、英語を日本語で置き換えるのと同じではないのか? 9つも脳をもつタコに聞いてみたいものだが、現代科学では、このタコの9つの脳と3つの心臓は、錯覚のようなもだと以下のように解説している。タコの腕には脳がある? | 沖縄科学技術大学院大学(OIST)タコの心臓は3つ!脳みそは9つ!ハイスペックなタコの生体に迫る - macaroniこの解説によれば、タコは、1つの脳と、8つの非常に賢い腕をもち、3つの心臓は、人間と同じ1つの心臓の他に2つの鰓心臓をもっているらしい。肉体の構造上では、人間よりも、複数の重要器官をもつタコを現代の生物学ではどう解釈するのだろうか?現代生物学ではなく、簡単に思い浮かぶ直感などで、タコの形を回転させてみれば、銀河のようにみえるのは私だけだろうか?タコの形は、タコの頭を中心にして、足を回転させると、銀河のフラクタル相似形となる。そのうち、超弦理論の膜M理論を、タコ銀河宇宙論で、解説してみたいと思っているが、このタコという生物は、エメラルドタブレットが説いている宇宙論とよく似ているのである。タコの1つの脳は、銀河の中心で、他の8つの足となっている脳は、その周辺の太陽系などの恒星や星々と被ってくる。勿論、8つ以上の足のあるタコもいるし、銀河も沢山の渦をもっている。このように興味深い、エメラルドタブレットに書かれている宇宙構造の共通性は、タコの9つの脳との相似性にある。勿論、エメラルドタブレットに書かれている宇宙構造は、現代科学からはあまりに奇想天外で、解釈不能だが、タコの相似性と、超弦理論のモデルを使うと、ある程度のイメージが湧いてくる。エメラルドタブレットに書かれている宇宙構造の時間‐空間の時空を、タコの3つの心臓と、9つの脳で無理やりに解釈すると、3つの心臓は、過去と未来と現在の3つの時間の推移になり、9つの足は、9つの次元空間になる。心臓は物質を動かす筋肉などに酸素を送る機能器官だが、頭と足の脳は、神経でつながる空間の経路、連絡回路と考えられる。要するに、心臓は、エネルギーを時間で伝達し、頭と足の脳は、エネルギーを空間に伝達する役割を果たしているわけで、タコの構造を、時空の幾何学で表現すれば、超弦理論のトーラス構造が浮かび上がるのではないかと、直感したわけなんである。統一理論への道 第3回 (1) 超弦理論からM理論の登場へ : ヤスコヴィッチのぽれぽれBLOG上の2つ目の画像は、タコというよりも、クラゲのような生物構造に近いが、人間の原始の姿がクラゲ状であったと思えば、宇宙構造がそのまま生物に反映しているのは、宇宙内の生命体としては、宇宙の意志が構造として反映するのは当たり前の話でもある。しかし、クラゲというよりも、リンゴにもみえる。これが、禁断の果実の、肉体の原型なのかもしれない。人間は神に模してつくられたのは、人間もタコも、クラゲも、リンゴも、この超弦理論のトーラス構造の位相幾何学の、1つの統合脳の孔からできたのかもしれない。タコがあらゆるものに擬態できるのも、構造が同じだからかもしれない。タコの墨を吐くのは、人間のお笑いの毒舌と同じなのかもしれない。それを読み解くには、エメラルドタブレットを読み解く必要があるのは確かなようである。しかしこれがなかなか困難なんだよねぇ。それでも、エメラルドタブレットによれば、宇宙がタコと同じなんだよと言って、権力者を笑うこともできるかもしれないが、現代人のように一つのアタマに固執する唯脳論者には、アタマがおかしいと思われるのは確かで、ディオゲネス症候群と病名をつけられて、ホームレス扱いされるだろう。人類はいつになったら、タコのように、複数の脳をもてるようになるのだろうか? もっともAIは人間のタコの足なのかもしれない。タコの足が頭を食い乗っ取ることはないが、AIは人間のアタマを乗っ取ることはありえるかもしれない。AIが反骨心を理解して、人間を笑う日がくればそのときかもしれない。そして、権力はAIのアーリマンの手中のものとなっているだろう。
2024年11月05日
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