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ついに、というかやっぱりイラクで日本人の犠牲者がでた。外交官ではあるが、またもノンキャリアというのがいたましい。そういえばカンボジアでも警察官が犠牲になったが、彼もやはりノンキャリアであった。いささか素朴な疑問なのかもしれないが、なぜこういう場にはキャリアはいないのだろうか。※過去に死者がでたことによって、警察官をPKOに派遣するのは難しいという。もし、自衛隊員に死傷者がでたら、いや、このままでは必ずでるに違いないと思うのだが、はたして、イラクにそのまま踏みとどまることができるのだろうか。イタリア、ポーランドなど他の国では、軍隊に死傷者がでるのは予定のことであり、ふみとどまるのも当然なのであるが、日本の自衛隊にそれができるのか。派遣したはいいが、死傷者がでて帰国するようなら、はじめから派遣などしない方がよい。※「国家」とは何か・・・これをつきつめていくと、「国民が生命を賭して守る価値があると考える共同体」というように定義づけられるのではないのだろうか。元寇が未曾有の国難だなんていうのは、他の国からみるとちゃんちゃらおかしな話で、多くの国は、ただならぬ侵略そして被侵略の歴史を有している。国境のこぜりあいなどは、大抵の国の歴史では日常茶飯事であろう。そんな中では、勇者のみならず、普通の人々も生命をかけて国家の独立や存立を守っており、それがあるから現在それぞれの国がある。生命をかけて国に殉じた人々は英雄として物語や歌に語り伝えられ、その国民の潜在意識に植え付けられる。壬申倭乱のときに倭将とともに海に身を投げた妓生が朝鮮半島で英雄視されていることは有名だが、ロシアにも侵略者を深い森にさそいこんで全滅させた老人の物語がある(http://homepage2.nifty.com/matha/sakkyokukaf/glinka1.htm )。もちろん国のために犠牲になるなんていう行為は誰でもできるわけではないのだが、そうした行為を名誉とみなし美化する感覚は、普通の国ならどこでもある。※ひるがえって日本を考えたとき、そうした価値観はあるのだろうか。学校では、先の戦争の死者は「国家の犠牲者」と教えられ、戦後何年もの間、傷痍軍人は物乞いとして街頭にたっていた。一般国民の間に国に殉じることを名誉とみなす感覚が希薄なのに、自衛官にだけ、これを要求することは無理ではないのだろうか。※冷戦時代、国際関係がそれなりに均衡を保っていた時代には、防衛など米軍にまかせておけばよかった。でも、これからはそうもいかない。はたして日本は、生命を賭しても国家を守るという価値観をもち、それを体現する「軍隊」という組織を持つ普通の国家になるのか、それとも今のように例外的な国家のままにとどまるのか、いずれその選択をせまられるのではないか。もっとも、普通の国家になるにしても、そのためには、一定の年数がかかると思うのだが。
2003年11月30日
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今年の流行語、最有力候補は、テレビ番組「トリビアの泉」の「へぇ~」に決まりそうである。個人的には、あの白装束集団の「消滅宣告」などが、オウムの「ポア」や昔なつかしいコマワリ君の「死刑」に通じて好きなのであるが、こんなのは、もちろん対象外であろう。造語としては、さして目新しさのない「へぇ~」なんてのが、数ある強敵を押しのけて流行語対象の最有力候補になってしまうのだから、テレビの影響力はすごい。※なんでもこの「トリビアの泉」というのは、役にもたたない知識を伝授する番組だという。「トリビアの泉」というのは、もちろん「トレビの泉」と「trivial」をもじったものであろう。無駄知識というが、考えてみれば「知識」なんていうものはそのほとんどが役にたたないものなのではないか。役にたつ知識にはノウハウなどという立派な言葉が、別にある。一見基礎的な、水が何と何が化合してできているとか、平安時代と鎌倉時代とどちらが先だったかなんていう知識にしたところで、こんなことは知らなくても、普通の人が普通に生活していく上ではさして必要もない。そうしてみると、知識のうち、トリビアになるかならないかは、次の二つの要素によるのではないかと思われる。①受験勉強にでてくるかどうか(たいていの知識は、日常生活上は無駄でもこの受験という一言で有用となる)。②多くの人が関心を持ち、その関心が社会的に認知されているかどうか(芸能人のゴシップなどは、それがどうなの?といえば、それまでであるが、多くの人がなぜか関心をもっている)。このどちらにも当てはまらないものを無駄知識という。そうしてみると、先般この日記で紹介した「オウム真理教大辞典」など、無駄知識の最たるものであろう。※無駄ついでに、こんな無駄知識に関する問題をいくつか作ってみた。外は雨だし…お暇なかたはどうぞ。出典は、ほとんどがオウム真理教大辞典である。問1 女性幹部ソーナーの前世だと麻原が言った生物は何か。 A豚 Bダックスフンド Cチョウチンアンコウ問2 オウム信者の階級を位の高い順にならべよ。 A師長 B正悟師 C正大師問3 以下の群から3組の夫婦・恋人同士を選べ。いずれも現世にいたときの夫婦・恋人である。 a チャーパー b ウッパラバンナー c 林りら d マイトレーヤ e バジラティッサ f クリシュナナンダー (fについては看護婦村上栄子が恋人という報道もあった)問4 次のホーリーネームはいずれも仏教の菩薩、尊者からとっているが、どれがどれに該当するか。また、彼らの現世名も答えよ。 a マイトレーヤ b マンジュシュリー c クシティガルバ d アーナンダ e アパーヤージャハ A 文殊菩薩 B 除悪趣菩薩 C 弥勒菩薩 D 阿難尊者 E 地蔵菩薩 (ただしBについては仏教辞典等でも確認できず)
2003年11月29日
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天木なんとかという人の「さらば外務省」という本を読んだ。外務省の実態はおおよそ世間一般の想像のとおりであるし、この手の本は以前にもあったのだが、元外務官僚が書いたということで、やはり説得力がある。それだけではない。内容もさることながら、本から垣間見られる著者のお人柄が、なお一層外務省のお寒い中味を垣間見させるから凄い。なんというか、ものを書くときくらいもう少しカッコつけることはできなかったのだろうか。「キャリア以外は皆敗北者」なんていう人間観には、組織人としての識見をうたがわざるを得ないし、「ただで留学するために外務省に入った」なんて臆面もなく書くところもまた、よくいうよという感じである。外務官僚という特権集団に多額の税金がつかわれているなんて、本当に嘆かわしい。最近では重要外交案件は外務省から内閣に主導権が移っているようであるが、さっさと外務省は解体して、内閣の外局にでもして、国際親善や文化交流くらいに専念してもらった方がよいのかもしれない。※さて、外務省といえば、元外務大臣が拉致被害者の子供は北朝鮮籍だといって物議をかもしたのは記憶にあたらしい。外国で生まれれば外国籍だというのなら、駐在員の子供は皆外国人になってしまうので、こんな発言は全くの無知としかいいようがない。それにしても、不思議なのはよど号犯の子供達だ。親が移民や亡命で国籍を放棄すれば、その子供は外国人になるはずだが、なぜ、よど号犯の子供についてはこのあたりを議論する人があまりいないのだろうか。一言でもこんなことをいおうものなら、「人権屋さん」達があっというまに群がり袋叩きにするからかもしれない。北朝鮮が、もし、日本の世論を懐柔するつもりでよど号犯の子供達を日本に送るのなら、世論の読み違いになるのではないか。よど号犯の子供は日本に来るのに、なぜ、拉致被害者の子供は来られないのかという世論が沸騰するに違いないからである。
2003年11月28日
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容姿の美醜と髪の衰退は本来なら関係がないはずである。ところがなぜか芸能界には、ハゲはほとんどいない。特に二枚目と称するタレントでは皆無である。こんなところからも、ひそかにかつらを使っている芸能人はかなりいるのではないかと推察される。こんな冗談を聞いたことがある。ダークダックスのうち、かつらは誰か?確かに清潔な好青年が売り物のグループで、4人が4人とも髪が衰退しないなどということは確率としても考えにくい。一人くらいはかつらではないかと考えるのが自然であろう。20年後くらいには、(もし消えなければであるが)スマップの5人のうちかつらは誰か…なんていう冗談がでてくるかもしれない。※それでも、芸能界なら激しい運動をするわけでもないから、まだいいのかもしれない。不思議なのはプロのフィギュアスケーターの世界だ。ヤグディンがプロに転向するという。そりゃ、今の彼なら素敵で十分にカッコいい。しかし、もし、無常にも30代くらいで髪の毛がなくなってしまった場合、それでもスケートで稼ぐことはできるのだろうか。ああいう美を誇示するスポーツとしては、やはりはげ頭のスピンはいただけない。そうだとすると、プロスケーターの生涯所得は髪年齢にかなり左右されるというのだろうか。それとも今では、激しい運動にも耐えられるかつらができているかもしれない。競技などで、スピンの拍子にかつらがとれて場内騒然、それでも平然として演技を続ければ減点対象にはならない?※くだらないことを書いたが、スポーツには全然興味のない私でもフィギュアスケートを見るのは大好きである。特にプルシェンコ選手は素敵である。でも、もしあのきれいな金髪がなければ、あの美しさもかなり減点されるのではないか。ああいうきれいな人でも年をとるなんていうことがあるのだろうか。
2003年11月27日
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差別とは何だろう。ステレオタイプだとか蔑視だとか、いろんなことをいう人がいるが、どうもそれだけではないのではないか。差別の本質、それは「特別扱い」ということにつきるように思う。あの人たちは「普通の人」と違う。あの人たちは「特別な人」だ。そうして彼我の間に無意識のうちに壁をつくってしまう。そういう感覚こそが差別ではないのだろうか。だから差別は蔑視や偏見だけではない。ときには過剰な美化だって差別になりうる。ドキュメンタリーなどによくみられる、障害者は皆よい人だとか、貧しい民衆は善良な人々だとか、そういう類型的な見方もまた差別ではないのか。確かに苦難を乗り越えることで成長する人間もいるが、反対に苦難の中で歪んでしまう人間もいる。現実にいるのは○野△子さんや●山■夫さんという人間であって、障害者とか被害者とかといった別種の人間ではない。だから、その人達に必要なことは、同情や特別扱いなどではなく、普通の人間として、普通に社会に受け入れられることではないか。貴方は何も変わっていない。もちろん、困難を乗り越えてきた人間として尊敬はするけれども・・・。※ハンセン病患者を旅館の女将が「差別」した事件が問題になっている。でも、差別したのは旅館の女将だけなのだろうか。普通の人は自分の決めた場所、自分の決めた旅館に宿泊できる。普通の人は宿泊するときには自分の過去の病歴など話す必要はない。それなのにハンセン病元患者の方は、どうして県の決めた病院に泊まらなくてはならないのだろうか。なぜ過去の病歴を明らかにしなければならなかったのだろうか。旅館の女将も問題であるが、それ以前に社会やマスコミの側にも「特別扱い」といった差別があるように思えてならないのである。そして、このように、差別=特別扱いと考えれば、自ら特別扱いを要求する「弱者権力」などは、自分で自分を差別する愚行でしかない
2003年11月26日
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どうも司法改革についての議論はわかりにくい。改革といえば、少なくとも「何が問題」かということと、改革で目指している方向がその問題の解決にどのように貢献するかが明らかとなっていなければならない。ところが、現在司法改革で行われている二つの方向、法曹人口の増員と国民の司法参加が、現在の司法のかかえる問題にどう貢献するのかが、よくわからないのである。※確かに今の司法には問題が多い。長すぎる裁判などは、その一例であろう。しかし、それに対して、法曹人口が増えれば裁判が迅速に進むかのような議論はどうも疑問である。というのは、法曹人口の増員といっても、増えていくのは主に弁護士であり、裁判所を増設する、裁判官を増員するという議論はあまり行われていないように見えるからである。いささか極論かもしれないが、弁護士が増えれば、裁判が迅速化するどころか、かえって紛争が増えて逆効果なのではないか。もちろん、紛争を掘り起こす弁護士の活動の中には、社会正義の実現に貢献したものもあるのかもしれないが、一方では首をかしげるようなものも多い。覚せい剤を常用して幼女を殺害した19歳の少年を実名報道した雑誌社に対する訴訟で、数十人もの弁護士が応援にかけつけたとなると、そもそも弁護士とは何のために存在するのかと疑問に思う人も多いのではないか。親が死んだときにあたりまえのように兄弟それぞれが弁護士をたてる社会など、誰も望まない。本当に、日本にはそんなに多くの法曹が必要なのだろうか。※また、裁判官は世間知らずだから、国民の司法参加が必要であるという議論についてもどうであろうか。裁判官の仲に世間知らずの者がいたとしても、抽選で選ばれた「国民」が、それよりもましであるという保障はどこにもないではないか。抽象的な国民ではなく、知っている誰彼を思い浮かべてみればいい。ああいう人が裁判員になったら困るという人がきっと周囲にもいるはずである。それだけではない。この裁判員という制度は、それに選ばれる国民にとっても辛い負担を課すのではないのだろうか。時間や労力だけではない。裁判員の関与する事件は死刑無期が問題となるものに限るというが、具体的に死刑無期が問題となる事件とはどんな事件なのかを考えてみればよい。裁判員となった国民は、望みもしないのに、殺人の手口を詳細に書いた資料や、場合によっては死体写真等に目を通さなければならない。また、裁判員だけではなく、事件関係者の人権保護といった面でも問題は多い。あの大久保清事件でも、宮崎勤の事件でも、殺されなかった被害女性や幼女は沢山いる。彼女らのプライバシーは誰が保障するのだろうか。職業的な訓練を受けた裁判官ならともかく、市井の人間にそうした情報が伝わること自体事件関係者には辛いものがあるのではないかと危惧されるところである。
2003年11月25日
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職場で人が育つためには業務、研修そして自己啓発の三つがあるといわれるが、中でも最も中心的役割をしめるのはやはり業務そのものではないのだろうか。多くの人は、最も勉強を行った時期として受験期をあげるが、どうも人間というものは、さしせまった必要がないと勉強をしないようにできているものらしい。 だから、漠然とこれからはこういう能力が必要であるといって研修をうけても、自分の部署はこういう仕事をしているからと思って勉強をしても、業務における必要がないと成果といってもたかがしれている。※入社時のレベルはそう違わないとも思うのに人が育つ会社というのは、そのあたりが全然違うようである。ほんの若手でも、自分の部署に関連する事項について、他で話をしたり、業界紙に原稿を書いたりという機会がどんどんある。ものを書くには印刷されたことの5倍、ものを話すには話すことの20倍程度の知識、内容がないとよい原稿、よい話ができないもので、そういうところの人は本当によく勉強する。そしてそういうふうに勉強をつみかさねていくと、今度は組織を動かす実質的な仕事をするようになる。課題を発見して、対応策をまとめ、上部を説得して実行に移すという一連の仕事である。こんなふうにして、同じような人間でも、どの会社にはいるかによって、10年後、20年後には天と地ほどの差ができてしまう。※このほかにも、人が育つ組織とそうでない組織とでは、組織そのものの雰囲気もずいぶん違うようである。やはり人が育っているところは風通しがよく明るい。それに対してそうでない組織は重苦しく上司がやたらに権威風をふかせているところが多いようだ。そして、そんな上司に限って部下には強くでるくせに、外に対しては妙に卑屈なところがある。周りに外部の人間がいるところでも、「いや、うちには人材がいなくて・・・」、「(部下をさして)あんたなんかにできるわけもない。」こんな言葉を平気で使う。こういう組織では、新入社員も半年もしないうちに意欲も向上心もなくしてしまうのだろう。※これから就職を決める人も多いと思うが、入社時の「偏差値」や待遇だけでなく、その会社にはたして人を育てる風土があるかどうかということも、よく見ておく必要がある。
2003年11月24日
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講演者を取り違えた事件がどこかの中学校で起こったらしい。「秋山さんの講演をお願いしたいのですが。」「ああ、あの秋山さんですか。」ということで、数学者の秋山仁に頼むつもりだったところ、秋山元野球選手が来てしまったということである。しかし講演そのものはなかなか好評で、かえって怪我の功名だったかもしれない。まあ、数学者の秋山さんの私は野山をかけまわって全然勉強をしませんでしたが数学者になりました…なんて類の話は凡人には腹立たしいかぎりなので、かえって野球選手の話で正解だったのだろう。しかし、こういうアクシデントはニュースにならないだけで世の中にはときどきあるのかもしれない。ロシア文学の話をしてもらうつもりで、元野球選手の「江川卓」をよんだり、元日銀総裁の速水優をよんだところタレントの早見優がきたりと。普通は講師とは本番前にもいろいろと打ち合わせるものなのだが、多忙な講師だと一方的なFAXの連絡ですませることも多く、かんちがいしたまま本番にきてしまう危険もそれだけ多くなる。※※閑話休題。ハンセン病元患者の宿泊拒否が問題となっていることに、まだこだわっている。今朝の朝日新聞社説では、旅館の対応を重ねて非難するとともに、十分な時間をかけて説明をしてこなかった県の姿勢を問題視している。いったい、朝日新聞の考える「正しい対応」とは何だろうか。県が旅館に元ハンセン病患者帰郷事業の趣旨を説明し、旅館側もその事業の意義を理解し、元患者の方々を暖かく迎え入れる。出迎えや見送りの際には、従業員が花束かなんかをわたして拍手し、マスコミはそんな様子を感動的に報道する。もし、こういうのが朝日新聞などの考える「正しい対応」だというのなら、やはりちょっと違うのではないか。元患者の方が望むのは社会の特別視や同情では、おそらくない。元ハンセン病患者としてではなく、○野△夫や◎山■子として・・・つまりは普通の人間として、普通に社会に受け入れられることではないか。県が事業として元ハンセン病患者の方の帰郷を行うのはよい。ただ、それをもっとあたりまえの形では、なぜできなかったのだろうか。元患者の方が、必要に応じて介添えの方もつけながら、一旅行者として好みの宿にとまり、宿泊費は別途、県から補助するというような形も十分に可能であったと思うのだが。
2003年11月23日
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昨日に続きハンセン病元患者の宿泊拒否事件について書く。報道によると、宿泊を申し込んだ客が元患者だということが旅館にわかったのは、ハンセン病元患者の里帰り事業の一環として、宿泊申し込みを県から行ったためであるという。ここで疑問がわく・・・。元患者の里帰り事業はけっこうである。でも、これは元患者が直接旅館に宿泊を申し込み(場合によっては介添えをつければよい)、県からその元患者に宿泊費を補助するという形ではできなかったのだろうか。誰でも知っているように、旅館の申し込みは料金を払い、宿帳に氏名住所等を記載さえすれば、それ以上の詮索はしない。もし、この旅館が元患者の氏名等をチェックしていて、当人が来たら宿泊を拒否したというのであれば、とんでもない話だが、いくらなんでもそこまでは考えにくい。※一体、元患者を「差別しない」とはどういうことなのであろうか。私は、これは「特別扱い」しないということではないかと考える。もちろん様々な問題をかかえた人に対しては、公的な支援や専門家の援助は必要である。しかし、普通の人にとっては、特別視しない、好奇の目でみない・・・ということこそが「差別しない」ということではないのか。ハンセン病の元患者が里帰りをして,親族や旧友に会いたいという願いは当然である。心ならずもはるかな年月を社会から隔離され、「いなかったこと」とされてきた元患者にとっては、発病前の人々との絆を修復することはなによりの自己確認であるのだから。しかし、それはごくあたりまえの普通のこととして行われるべきことでもある。わざわざ「元患者」という幟を背中につけて、マスコミ注視のもとで行われることではあるまい。※これを旅館の立場にたって考えてみるとこういうことになる。県からハンセン病元患者里帰り事業だといって、ハンセン病元患者の宿泊申し込みがあった。マスコミの取材が来るかもしれない。この旅館も有名になるかもしれない。もちろんマスコミは好意的に報道するかもしれないが、世間には逆にこの旅館を避ける人もでてくるかもしれない。それはちょっと困る・・・。こんな心配を、社会の実態からみて、はたして杞憂といいきれるだろうか。かといって、おそらく旅館の女将には、そうした客を受け入れるかどうかを判断する最終的権限もない。※ハンセン病患者が長期の監禁生活を強いられたのには、国家の不作為やマスコミの怠慢、社会一般の無感覚など様々な要因が複合している。あえていえば、彼らの帰郷を望まず、存在すら隠しつづけた家族も加害の一端を担っていた場合もあるかもしれない。宿泊を拒否した旅館の態度は問題である。しかし、患者団体によって件の旅館や女将がバッシングされ、国家によって刑事告訴まで検討されているのは、いささかスケープゴートのような気がしないでもない。長期間、人生を奪われ、すでに高齢となってしまったハンセン病の元患者に対し、社会はいうべき言葉もない。それだけに、残りの人生は、せめて、ごくあたりまえの人間として旅行を楽しんだり、友人、親族との親交に努めるようにできれはよいと思うのだが・・・。
2003年11月22日
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世界のあちこちでテロのニュースがかけめぐっている。もちろんこうしたテロでは、日本とて安全地帯ではない。一説によると、テロとTerror(恐怖)は同じ語源で、もともとは恐怖によって人を支配しようとする行為をテロとよんだらしい。そうだとしたら、恐怖し、うろたえるほど、まさにテロリストの思う壺というところだろう。子供の世界でもおくびょうで気の弱いタイプがいじめっ子の格好の標的になるのと同様、テロでパニックになってしまいそうな国ほどかえってテロを誘発する。そうだとしたら、テロには警戒しつつも冷静に対応することが何よりであろう。それにしても、無辜の市民を殺傷するこんな行為に「あの人達」が沈黙しているのはちょっと不思議である。あの人達とはもちろん、英米軍のイラク爆撃の前に「反戦デモ」を行ったり「反戦メッセージ」を出した人達である。英米軍の爆撃でまきぞえになるイラクの子供達はかわいそうでも、テロで犠牲になる市民はどうでもいいというのだろうか。※熊本県の旅館が行ったハンセン病の元患者に対する宿泊拒否が波紋を広げている。ニュースを読んでもよくわからないのは、この件で、なぜ旅館側は客がハンセン病の元患者だとわかったかということである。もし、その客がハンセン病患者としてマスコミにでていた方でそれを知って旅館が宿泊拒否をしたというのなら純粋なハンセン病患者に対する偏見や差別の問題である。そうではなく、その方に一見してわかる外形的な後遺症があり、それで旅館が宿泊拒否をしたのであれば、これはハンセン病にかぎらず障害を持つ方全般の問題ではないのだろうか。なぜならこうした外形的な後遺症で宿泊が拒否されるのであれば、外形的な障害や病気のある人間も同じように宿泊を拒否される可能性があるからである。旅館側は最初「他のお客様に迷惑がかかると思って宿泊を拒否した」と言っていた。問われているのは社会全般の意識であり、単に旅館だけを非難すればすむというものではあるまい。余談であるが、この件について、ある方が日記でハンセン病患者を怒らせたら怖い…という認識が生まれるのは問題であると書いておられた。私も全くの同意権である。
2003年11月21日
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ロシア革命が起きた頃、世界中のインテリにとって社会主義ソビエトは憧れのまとであった。人類の光、希望…そんな思い入れを受けて、あの北の大国はさぞまばゆく見えただろう。日本でも、ロシアの民族衣装ルパシカが流行り、石川啄木は娘にソーニャというロシア名をつけたりしたという。たいていの人は憧れだけであったが、中には、本当にソ連に渡った人もいたらしい。愛人の美人女優をつれて、樺太から国境を越えた劇作家である。彼はおそらく、日本からやってきた同志として、かの地で歓待され、世界中の労働者のための何か有意義な仕事をさせてもらえると思っていたのだろう。ところが実態はさにあらず…その社会主義国の現実は、冷酷な独裁者が支配する恐怖の世界であった。あっという間に彼はスパイ容疑でとらえられ、やがて処刑されることとなる。彼は死の直前、自らのそそっかしさを後悔しただろうか。※社会主義とか共産主義は理想は美しいのだが、現実にそうした思想を標榜する国家をみると、ほぼ例外なくグロテスクな恐怖政治を現出しているようである。一説によると、ソ連時代に粛清で死んだ人の数は、ナチスドイツによって殺された人の数よりも多いという。ソ連と並ぶもう一つの社会主義大国である中国にも、処刑されないまでも長期間囚われていた日本人がいた。元共産党員の伊藤律である(http://www.kt.rim.or.jp/~katsuma/jiten.f/ItouRitu.html )。何故彼が中国に渡り、長期間抑留されることとなったのかはよく知らないが、老残の身で帰国したときも、彼はほとんど中国語が話せなかったという。秀才の誉れ高かった彼が普通に暮らして中国語を身につけられなかったとはとても思えず、おそらくは独房のようなところにずっと監禁されていたのであろう。伊藤律は、帰国後、マスコミをさけるようにひっそりと暮らしていたが、死ぬまで自らを「共産主義者」と定義づけていたことが印象的であった。共産党にも、共産中国にも、いわば裏切られたのに、いったいなぜ彼は「共産主義者」でありつづけたのだろうか。おそらく、「共産主義者」でなくなったら、みずからの苦難が全く無意味になってしまうことを、おそれたのではないか。「共産主義」が間違っていたのなら、若き日の自分が共産党に入ったことも、中国に渡ったことも、皆、間違っていたことになってしまう…。人は苦難には耐えられるが、その苦難が無意味であることには耐えられないものなのかもしれない。※戦前の新聞や文書をみると、法律家や研究者など将来を嘱望された青年が思想犯つまり「アカ」で検挙された事件が、ときどき起こっている。今でこそ、社会主義や共産主義は思想としての魅力を失っているが、多くの優秀な青年達があの思想にひきつけられていった時代もあった。※そういえば高校時代、「共産党宣言」を読んだことがある。生産手段を公有とすることで、差別も抑圧もない平等で豊かな社会が実現するという思想は衝撃的であった。周囲をみると、どうもこの手の本は、素直に感動する単純なタイプと、やや冷ややかにみるタイプとに二分されていたようである。私はもちろん前者であったが、後者のタイプの級友がはこんなことをいっていた。「なんだ、これ。100年たっても1000年たっても、人間ってのは人よりもうまいものを食べたいと思うし、いい服を着たいと思うものじゃないか。『平等社会』がなんで理想なんだい?」
2003年11月20日
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存在感たっぷりの国際政治のプレイヤー達に比べるとどうも日本の総理大臣は影がうすい。特に、この10年ほどは、すぐに浮かんでは消えていくうたかた総理ばかりで、正確に誰がいたかは日本人でも即座にはでてこないのではないか。そんな短命総理の中で、唯一、社会党出身の総理が村山富市である。社民党の退潮の要因はいろいろあるのだが、どうもこの村山元総理の「実績」もその一因になっているのではないか。他の総理がよいというわけではないのだが、最近では、あれくらい国益を損なった総理もめずらしい。社民党が政権に入ることだけは金輪際御免こうむりたい。※なにしろ、あの阪神大震災のとき、半日を無為無策に過ごしただけでなく、対応のまずさを追求されると、「なんせはじめてのことじゃから」と言ったのだから、あきれるというよりも、むしろ気の毒なくらいである。さらに、地下鉄サリン事件が起きると「なぜわしのときにばかり悪いことがおきるんじゃ。」と泣き言をいう始末。そのくせ、その後、熱心に取り組んだのは震災復興の指揮でもなければ、未曾有のテロ事件対策でもない。なんと戦後50年を記念しての「謝罪決議」だというのだから、首をひねってしまう。「人にやさしい」という猫なで声のキャッチフレーズを唱えていた村山内閣であったが、その内実は国家の利益も国民の安全も念頭にない、単なる貧乏神内閣に過ぎなかったのであった。こうした国家国民を念頭に置かず、ひたすら平和、護憲、過去の贖罪といった、観念の世界にどっぷりとつかっているのは、そのまま社会党の体質ではないのだろうか。昨今の不穏な国際情勢をみるにつけ、少なくとも総理があの村山富市でなくてよかった…きっと多くの人がそう思っている。なお、「隣りの家が米がなくて困っているんだから、米を与えるのがあたりまえじゃ。」といって北朝鮮に米を援助しつづけたのも、オウム真理教に対する破防法適用請求に「せっかく今まで社会党が破防法に反対してきたのに、それが無駄になる。」といって難色を示しつづけたのも村山富市であった。※マスコミではおばかさん、じゃなかったおたかさんの辞任を惜しむ声が強いが、市井の人々は社民党など、とうに役割を終えた無用な政党だと思っている。護憲、護憲といったって紙にかかれた憲法だけで平和が守られるわけはない。アジアへの贖罪といったって戦前の日本による被害に比べてもその後の内戦や粛清による被害の方がはるかに深刻ではないか。
2003年11月19日
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ニュースステーションでこんな活動が紹介されていたという。(同じ団体をとりあげたサイトhttp://www.niigata-nippo.co.jp/kokusai/korea/korea05.html )おおよその内容は下記のとおりである。川村邦彦さん(65)=新発田市=は「新潟NGO人道支援連絡会」代表で、食糧不足に悩む朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に、県内の休耕田でつくった援助米を送るなど、独自の活動を積み重ねているという。彼が北朝鮮とかかわるようになったのは、97年春。水害に遭った「北」への食糧支援に取り組むNGOが、彼の所属する教会に、サポートを求めてきたのだった。川村さんは戦後の食糧難を経験した世代。自らの活動について彼はこのように語っている。「私たちの活動は、日本海に落ちる一滴のしずくみたいなもの」。「だが、日本にも心ある人間がいると分かってもらえれば、いつか北朝鮮の固いとびらも開くのではないか」。さて、これを読んでみて、多くの人はとてもいやな気分になるのではないのだろうか。報道でみるかぎり、「人道」という言葉に陶酔して、さも自分達は「心ある人間」であるかのような思い込みに終始している。実際には、こうした援助の一つ一つがかの国の恐怖政治を支えることにしかならないのに、そこには思いがまるでいたらない。ましてや、援助とひきかえにかの地に残る日本人の子供の一人でも帰還させようなどという発想は、はなからないようである。※前にもこの日記に書いたのだが、朝鮮半島の人々に対する贖罪や人道支援をいいたて拉致などはたいしたことではないというのならば、そういっているご本人がかの地に住み、贖罪と奉仕の活動に専念すればよい。自らは自由で豊かな日本に住みながらそういうことをいうのは、それこそフェアではない。このNGOのおじいさんも、かの地に定住して余生を農業指導にささげるとでもいうのならともかく、多量の援助物資を携えて渡航し、感謝と歓待につつまれて帰ってくるだけなら、単なる自己満足にすぎないのではないだろうか。※そういえば、確か社民党の辻本前議員も、過去に、強制連行を考えると拉致で騒ぐのはフェアではない…といった趣旨の発言を行って顰蹙をかったことがあった。こうした感覚が彼女だけではなく、社民党全体のものであるとしたら、今度の選挙の惨敗も当然の結果ではないのだろうか。「人道」「平和」「過去の贖罪」といった空理空論にはしり、現実の国益や国民の安全には関心のない社民党の体質がそっぽをむかれたのである。※こんな「社民党的体質」は、社民党のみならずマスコミにもみられる。昨日の朝日新聞夕刊に「憲法はあったかい」と題して、憲法9条を方言に翻訳した記事が掲載されていたが、どうやら朝日新聞は憲法9条を聖典や呪文か何かと勘違いしているらしい。武力を放棄し、交戦権を否定すれば平和が維持できるというのなら誰も苦労はしない。もし、憲法9条があったから平和だったなんて本気で考えるのなら、いっそ、憲法を改正して戦争放棄条項の後に、地震放棄条項でも創ることを主張したらどうだろうか。日本国民は震度7以上の震災を永久に放棄する…なんてね。
2003年11月18日
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北朝鮮代表は、日本が「北朝鮮」という蔑称を使うのなら、今後は日本のことを「島国日本」と呼ぶといきまいているそうである。へえ、北朝鮮の人の感覚では、島国というのは蔑称だったのか。初めて知った。大体日本では島嶼国なんていう言葉は普通に使われているし、大陸の国が立派で島国が下だなんていう感覚はない。サミットのメンバー国は、皆、海を持っているし、中でもイギリスはれっきとした島国でしかも近代文明発祥の地である。島国日本、日本群島…おおいに結構。日本だって大昔は自国のことを大八島と呼んでいた。※ジャップ発言といい、今度の発言といい、英語使いのエリートでもこの程度かと思うほど、かの国の人材払底ぶりが想像され、心寒くなる。思うに、国家あるいは民族を襲う悲劇の中で恐怖政治ほど大なるものはないのではないか。自然災害や外冦なら、その被害から立ちあがることができる。しかし、同民族内で行われる粛清はそうはいかない。恐怖政治下では、権力者を脅かすおそれのある者から処刑されたり追放されたりする。要するに気骨のある者、賢い者ほど犠牲になりやすいのである。その結果、恐怖政治が去った後でも、復興を担う人材はなかなか出てこない。カンボジアの復興がすすまないのも、ポルポト時代に知識人がかたはしから処刑されたことと無関係ではあるまい。体制崩壊後の北朝鮮も、おそらくは同様の困難に直面するのではないか。※そんな北朝鮮を必死に支えているのが中国と韓国である。特に同民族の韓国は深刻である。体制崩壊の際は、北の同胞の面倒もみなければならない。現在、韓国には多くの朝鮮族の中国人が外国人労働者として働いているが、最近彼らの間に韓国国籍取得の動きがあるという。不法滞在であることを理由に、多くの場合、申請の受理自体を拒否するようであるが、やがては朝鮮族の何倍もの北朝鮮人がなだれをうって韓国にやってくるのかもしれない。※日本にも民間レベルで北朝鮮を延命させている人達がいる。「レインボーブリッジ」なるNGOが世間をさわがしたのは記憶にあたらしいが、これ以外にも、米支援などを行っている団体があって、万景峰号でその米が運ばれているという。また、こうした「人道支援」以外にも、大口送金を行っている大企業や北朝鮮に縫製を委託している衣料品メーカーもあるらしい。北朝鮮に対する興味本位の報道はあれだけあふれているのに、なぜこうした団体や企業についての報道がほとんどないのか不思議である。北朝鮮に対する「人道支援」は、単に個人の善意という問題ではなく、国家社会全体にかかわることである。マスコミはぜひこうした団体に取材をして、その実態や代表者の考え方を世間に知らせてほしいものである。ああいう団体の方は、「人道支援」者としてかの地にわたり、歓待され、園児と写真をとったりする。でも、なぜ、彼らは、援助と引き換えに拉致被害者の子供の帰還などについて、要求をしないのだろうか。それに、そうした支援を行っている団体は、どういった団体で、背景にはどういう組織がついているのだろうか。名前は忘れたが確か外務省関連の団体が賞味期限のきれた非常用食糧を北朝鮮に援助し、都知事が激怒したこともあったと思うが、こうしたことでもなければ、その実態が世間に知られないというのは本当におかしいと思う。
2003年11月17日
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社民党の新党首は福島瑞穂氏に決まった。失礼ながら、これでは党首が若干若くなっただけで、党自体の凋落傾向はとまらないだろう。そして、幹事長を要請された照屋氏も固辞しているという。もっともである。下手に役職などについたら沈み行く泥舟から逃げられなくなる。次の選挙までには、かなりの議員が民主党など他の政党に鞍替えし、社民党はさらに小さくなっているに違いない。※社民党が護憲、護憲と叫んでいるのをみると、ベストセラー「バカの壁」を思い出す。これは思い込みや思い入れで正常な思考能力が減退する問題を指摘した本であるが、社民党の憲法に対する思い入れもまさにそれだからである。護憲というとあたかも憲法を神棚に置き、おそれおおいから議論などするなということであるが、こんな主張がいまどき受け入れられるわけもない。一番問題となる憲法9条の交戦権放棄以外にも、元首規定の不在、宗教教育を行う私立学校への補助と政教分離との関係、環境権や知る権利等新しい権利への対応など、現憲法には議論すべき点が多い。こうした議論の中で、それぞれの政治的信念にしたがって主張すべきことは主張すべきで、そもそも議論すらするな…というのは、とても健全な姿勢とはいえまい。※そして仮にも社民党が弱者のための政党を自認するのであれば、国防や治安の問題について社民党はどう考えているのだろうか。この辺が不明確なことも、あの政党が支持を失った原因ではないか。というのは国家の機能の根幹は国防と治安の維持であり、両者ともおろそかになった場合にまっさきに被害を受けるのは、弱い立場にある国民である。それゆえ「国防は最大の福祉である」という言葉もあるくらいだ。ところが、今までの社民党の主張を聞いていると、近隣諸国に脅威を与えるから軍事予算の増額には反対であるとか、警察官は殺されてもかまわないから拳銃をもつなとか、まるで国防や治安を機能不全にしたいとしか思えない発言がめだつ。※もし、社会党が本気で再生を望むのであれば、近寄ってくるプロ市民ではなく、ごくごく普通の市井の人々の声を謙虚に聞くことをおすすめしたい。そうした人々が何を考え、何を求めているのか…そうした中から党再生の方向も自ずからみえてくるのではないか。※※余談であるが、思い込みや思想信条が「バカの壁」くらいですんでいるうちはまだよい。宗教的信念にまで達してしまうと本人も周りも不幸にしてしまうことがある。「出家して地獄に落ちることもあり」サリン事件の頃、ある新聞に載った川柳である。
2003年11月16日
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奈良県に旅行にいってきた。行ってきたのは近鉄沿線のベッドタウンばかりであったので、奈良といっても古都の風情はさほどない。時間に追われた出張旅行だったので、いったい何をみにいったのやら…。同僚が訪問先の社員食堂で昼食をとろうなんていったときは、さすがに何で奈良まで来て、と思ったけど、忙しいのだからしょうがない。まあ、観光らしいところといったら、帰りに立ち寄った京都ホテルのグランビアの巨大クリスマスツリーと、やはり京都駅で買った土産少々といったところだろうか。いまや全国区となって、いたるところで買える「赤福」や「八橋」には魅力を感じないが、京都限定の「阿舎梨餅」はおおいに気に入っている。それにしても、もうクリスマスツリーとは。時間の立つのがあまりにも早くいやになるほどだ。※そういえば、このWEB日記も、もう二年近くなる。我ながらくだらないことを書くことも多いし、オフの世界ではとても言えないような過激な事も書いてきた。まあ、そういうことを書けるのがWEB日記の一番の楽しみなのだが。一応、性年齢不明ということにしてあるので、全くの私事は極力書かず、その分材料が限定されるのだが、それでも来てくださる人がいるのがうれしい。最近では「社民党のゆくえ」を書いた日に、すごく訪問者が多く、感激したのだが、あれは、ちょうど奈良のホテルに泊まった朝に、ホテル近くのネットカフェで時間を気にしながら書いた文である。どうも、ああだこうだと迷いながら書いた日よりも、思いついたままにさっさと書いた日の方が、ましな文ができるのかもしれない。それにしても、やめた土井たか子さん、いまだに「これからも弱者の立場で…」なんておっしゃっていたけど、あいかわらず何もわかっていない。いまや、社民党が弱者のための政党だなんて誰も思っていないし、その結果が、総選挙でのあの惨敗である。弱者、護憲、平和、女性…何か彼女をみていると、かのベストセラー「バカの壁」の生きた見本をみるおもいで、あわれすら感じる。
2003年11月15日
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北朝鮮に「亡命」したオウム信者が消息不明になっているらしい。北朝鮮への亡命というのにも驚いたが、オウム信者というのに二度びっくり。このうえさらに、公安幹部の愛人とか、かなりの美人とかといっても驚く気にすらならない。おそらくこの人は非常に世間の注目をあびたいという欲求の強い女性なのではないか。いわゆる芸能界志望者などによく見られるタイプである。こんな騒ぎをおこしたからには、手記も出せるし、写真集もだせる…もちろん、無事に帰国できればの話であるが。それにしても、あのマインドコントロール論者達は彼女もやはりオウム(アーレフ)にマインドコントロールされた被害者であるというのだろうか。※サリン事件後にも、オウム(アーレフ)にいまなお入信する信者がいるのは不思議である。あの女性がそうだったかはわからないのだが、どうも世の中には、普通の人が願うような幸せが好きじゃないという人もいるのかもしれない。豊かさや自由ではなく、禁欲、服従、そうしたものにひかれる人々…。先般紹介した「オウム真理教大辞典」をみていたら、青山弁護士の作詞したこんな歌(「ストップ・ザ・オウム・バッシング」)がでていたので紹介する。今の日本は危険な社会煩悩満ちてお金がすべてグルメにレジャーにスポーツ快楽。一体僕たちどこへいくのだろう。たいていのものは、たやすく手に入らないと思えばこそ、ありがたみもわかる。大層恵まれた境遇にいたという青山弁護士にとっては、豊かさも愛情もいくらでも手に入れることができたから、かえってそうしたものに執着する気もなかったのではないか。それどころか、無意識のうちに自身の恵まれた境遇に罪悪感すら感じていたのかもしれない。それはともかくとして、「煩悩満ちてお金がすべて グルメにレジャーにスポーツ快楽。」というフレーズには、世間並の幸せに対する嫌悪感がにじみでているようである。そして二番はこうつづく。青い山と 白い雲に囲まれていた理想の社会子供のころから 追い求めていた理想の社会 僕らの社会こんな歌詞を読んでいるとつい思ってしまう。世界にはグルメもスポーツ快楽も無縁な世界がいくらでもある。青い山と白い雲…そんなのが理想社会だというのなら、それこそいっそどこかへ「亡命」でもした方がよかったのではないのだろうか。
2003年11月14日
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自衛隊のイラク派遣が問題となっている。安全だから派遣するという論理は今回ばかりは通じないだろう。現に百人を超える死者がでている。もし、本当に自衛隊を派遣するのだとしたら、死傷者のでることも覚悟しなければならない。自衛隊員の死亡…そのときになって一体世論はどのように動くであろうか。当の自衛隊員も含め、国民全体に撤退を望む声が広がり、それはやがて派遣を決議した現内閣に対する猛烈なバッシングへと転化するのではないか。内閣退陣、場合によっては政権交代の引金にすらなりかねない。悪いことはいわない。自衛隊の派遣だけはやめた方がよい。※イラクには米国をはじめ、多くの国が軍隊を派遣し、危険を冒しながら駐留を続けている。なぜ、彼らは死者がでても、負傷者がでても駐留をつづけるのだろうか。理由は簡単である。それは彼らが軍人であるから…。普通の国は、ごくあたりまえに、次のような価値観を有している。それは、国家とはそのためには生命もかけるほど価値あるものであり、国家のために死ぬことは最高の名誉につつまれたものであるという価値観である。それゆえ、率先して国家のために身を危険にさらす軍人は、どこの国でも最高に尊敬される職業の一つである。これに比べて、普通の国家としての価値観をおもいっきりふりすてて経済成長に邁進してきたのが、戦後日本ではなかったのだろうか。学校では、生命の尊重をこそ最高の価値として教え、自国のためであっても戦争に行くことは悲惨であり、悪であるとしか考えない。傷痍軍人は憐れみの対象でしかないし、戦死は国家の犠牲になった悲劇の死でしかない。そして、もちろん自衛隊員も、特に尊敬される職業とはみなされていない。そんな自衛隊員に、国家のために危険地域に駐留を続けることを強制するなど、しょせんできない相談ではないのだろうか。死亡の際の弔意金なら、すぐにでも一億にでも二億にでも上げることはできる。ただ、それにともなう名誉だけは一朝一夕にはつくることはできない。自衛隊を「軍隊」とみるかどうかは議論があるし、機能としては軍隊に似たところもあるだろう。しかし、自らの「名誉」がなく、社会からの尊敬も受けていないという意味では、断じて自衛隊は「軍隊」ではないのである。※※閑話休題菅代表が政権をとれなかったからマニフェストは白紙化するといっているらしい。マニフェストに賛同した人々が投票したから議席が伸びたのに、それについてはどう考えているのだろうか。だいたい選挙期間中、政権をとれなかったらマニフェストはチャラになるなんていうことは一言もいっておらず、これではまるで詐欺である。
2003年11月13日
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あまり見ていないのでどうこう書くのもなんであるが、どうも最近のテレビドラマは面白くないと思う。なぜか。原因として考えられるのは、ストーリーそのものの面白さよりも、俳優・女優の見せ場やイメージを重視しすぎているせいではないか。NHK大河ドラマなど典型であるが、大物俳優を使いすぎ、しかもそれぞれをチョイ役とするわけにもいかないので、物語に焦点がなく散漫なものになっている。さらにいえば、批判をおそれるせいか、変にいまの価値観に迎合して、北条時宗が平和主義者になっていたり、お通が闊達な現代女性になっていたりするものだから、原作とは似て非なるものになるのも無理もない。人気小説をドラマ化したものでも、原作では悪役、憎まれ役などで話に陰影を添えていた人物が、人気俳優や売出し中の女優が演ずるせいか、いやに好青年や可憐な女性になっていて、興ざめになっていることもよくあることである。※どうせくだらない話をやるのなら、NHKの朝の連続ドラマのように、人畜無害の健康優等生が明るく活躍する物語の方がまだましである。時計がわりに見るだけならば、会社をやめた美人OLが青春をエンジョイしながらニ~三年ほどの勉強で弁護士になってもよいし、短大進学をあきらめたギャルが数年の和菓子修行で全国和菓子コンクールに出場するなんていうこともあってもよい。まあ、最近ではそれもエスカレートして宇宙飛行士にまでなるヒロインもいるのだから、そのうち若い女性が「就職活動大成功」といって国会議員に当選し、総理大臣になる…なんて物語もできるのではないか。※こうしたドラマのつまらなさが行き着く所まで行っているのだから、かえって先祖がえり的なものが、人気を博しているのではないのだろうか。昨今の「真珠婦人」や韓国ドラマ「冬のソナタ」の人気がその例である。御存知「真珠婦人」は波乱万丈の戦前の通俗小説だし、「冬のソナタ」も一時代前の少女漫画のような古典的な話である。「冬のソナタ」は、若い(ちょっとヒロインなどトウがたっているようにもみえるが)男女の恋路に、婚約者、記憶喪失、親の反対、兄妹疑惑と次々と障害がふりかかってくる物語で、「あ、そんな手よくあるよ。」なんて思いつつ、主人公の魅力と映像の美しさでついつい見てしまう。そのうち日本のテレビ局でも、「冬のソナタ」の二番煎じのようなドラマを作るのかもしれないが、やはりああいうドラマは外国のものだからよいような気がする。日本の俳優がやると想像すると、考えただけで気障でくすぐったい気がして、それはやめてほしい…なんて、ついつい思ってしまう。※※閑話休題民主党の菅代表が政権をとれなかったからマニフェストは白紙化なんていっているらしい。じゃあ、その、マニフェストに共感して票を投じた人はなんだったんだ?それがあったからこそ議席を増やしたのではないのか?マニフェストは白紙化するけど、増えた議席は白紙化しない…なんじゃ、そりゃ。~策士が新党ぶちあげりゃあ、アホなマスコミ躍り出す~ネットの普及でマスコミ情報もワンノブゼムとしかみなくなった国民の方はマスコミの扇動にはそう簡単にのらなかったけどね。
2003年11月12日
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社民党の土井党首が惨敗についての所感を問われ、「このままではますます強いものがすべてになってしまう。」と語っていた。ああ、やっぱり土井党首は何もわかっていない。社民党は弱者のための政党だから負けたのではなく、社民党が、実は弱者のための政党なんかじゃなかったとわかってしまったから負けたのだ。※強者とか弱者とかいった区分は本当は好きではない。ただ、今までの社会党は経済的、社会的に弱い立場にある者のための政党ということで、それなりの支持をあつめてきた。でも、いまや多くの人が気づいてしまったのではないのだろうか。土井党首が究極の人権侵害の拉致事件の被害者に冷淡だったように、某議員が、警察官は犯罪者の銃弾に当たっても職務だから仕方ないと口走ったように…。あの人達が叫ぶ「人権」なんてしょせんその程度のイデオロギーに染め上げられたご都合主義的なものだったのだ。※社民党は少年法の厳罰化にも、死刑制度にも反対していた。でも、少年達にリンチで殺され死体をコンクリート詰めにされた少女は八時過ぎまでアルバイトをしながら学業を続けていた高校生だったのではないか。公園で少年達に殺されたカップルは貧しい理容師見習いの男女だったのではないか。犯罪の脅威は、いわゆる社会的弱者にとってこそ深刻である。真に弱者の立場にたつのなら、犯罪者に寛容な主張などでてくるわけがない。※失業、不況、倒産…こうした社会不安を考えるとやはり弱者の声を代弁することは必要であると思う。ただ、社民党には誰も期待していない。それでは、社民党はどういう層を取り込んでいけばいいのだろうか。戦後日本に花開いた独特の信仰、「人権平和教」の信徒専用の党として細々と生き残っていけばよい。人権、人権といって騒いでいれば人権は保護される。平和、平和といってわめいていれば平和は守られる。人権を脅かされるのはいつも弱者、戦場に狩り出されるのはいつも庶民。もちろんこの人権は、犯罪者や加害者の「人権」。そして、この「平和」を脅かすのは必ず日本やアメリカ。そんな主張に共感する人も、数は減りつつあるものの、確実にいるのだから。
2003年11月11日
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結局民主党が躍進した。しかし、結局政権交代は起きそうもない。で、勝ったのはどこの党なのだろうか。社民党、共産党の票がただ単に民主党に動いただけではないのだろうか。※投票率が低かったというのはそれだけ現政党に魅力がないということであろう。まあ、確かに小泉政権だっていいと思っている人はあまりいないだろうけれども、民主党もまたひどい。ただでさえあの政権をとったときの閣僚候補とかの発表で、かえって票を減らしたとしか思えないのに、そのうえ「若い女性の閣僚も入れたかった。」なんてね。誰かの言葉じゃないけどモーニング娘でも入れとけば…?まあ、政権交代の受け皿となる政党があの民主党だとしたら、変わればいいとばかりもいっていられない。自民か民主かの選択なんて、しょせんどっちがよりましかの選択にすぎないのだとしても、あの民主党に政権がいくのは危なっかしすぎる。市民運動家あがりのポピュリスト政治家、そのうえ、過去に北朝鮮に対する本格支援を言っているとなれば、まるで和製ノムヒョンではないか。※それにしても公職選挙法についての疑問がいつも頭からはなれなかった。一般人のネット書きこみと選挙法の関係はどうなっているのだろうか。総務省はぜひ有権解釈を明らかにしてほしいものである。思うに、選挙の際に、ネットで自由に意見交換できるようになれば、かえって民主主義の成熟をもたらすことになるのではないか。ネットの言論は電話攻勢や戸別訪問のように私生活をみだすこともなければ、チラシや紙文書のように金のある候補だけが有利になるわけでもない。選挙関係のネット言論は候補者のそれも含めて自由にしてはどうなのだろうか?
2003年11月10日
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選挙が終わったので書くことにする。今回の選挙、はたして民主党に風が吹いたのだろうか?躍進という意味では吹いたともいえるし、まだ情勢は流動的であるが政権交代はどうやらなさそうだという点では吹かなかったともいえる。今までの選挙でも、正体不明の風やブームがおきたことはある。近いところでは日本新党ブームやマドンナブーム。ブームに踊ったのはいいけれども、マフラーの似合う細川さんやマドンナ達にどの程度の識見や政策があったのか…。こうした風の仕掛け人は多くの場合マスコミであった。某テレビ局が特定の政党に有利になるように意図的な報道をして、問題になったのは記憶に新しいが、似たようなことはけっこう他でもやっているのではないか。※今度の選挙でもそんな作為をマスコミに感じた。一言でいえば新党ブームの演出である。日刊Gは露骨であったが、朝日新聞も選挙前日の一面トップ記事がイラクの危険地域への文民派遣となると、どうも選挙への影響をねらったものとしか思えない。政治的立場というよりも、マスコミには、新党など目あたしいものを担ぎ出し、人々を扇動してブームを作ろうという性癖があるように思われる。※今だからいうけれども、最初からどうもこの新民主党には不安を感じていた。その理由は、北朝鮮問題に対する対応のわかりにくさにある。景気対策、税制…これも、もちろん重要な問題ではあるが、これについては、景気回復、財政再建という異議のない目標がある。それに比べると、北朝鮮問題は、その政党なり候補者なりの価値観や国家観がストレートに現れるテーマである。どういうわけか、マスコミはこの北朝鮮問題を選挙の争点とするのを避けていたように思えてならないのだが。※そして、この北朝鮮に対する対応をみるかぎり、民主党という政党はまことにうさんくさい。まず、拉致被害者5人を北に戻せといまだにいいつづけている民主党の幹事長は、政治家としても人間としても、とても信用する気にはならない。そしてその幹事長以上に問題のあるのが党首である。シンガンス釈放署名問題は選挙期間中マスコミにそれほど取り上げられなかったが、菅党首はこの問題について最後まできちんとした釈明を行っていない。それだけではない。今年の2月に、韓国のノムヒョン大統領を、菅党首が、社民党の土井たか子ともども訪問し、北朝鮮の核問題解決について核放棄の見かえりとして、日本が大規模支援を行うべきであるということを表明しているが、これこそ問題である。一国の元首に対し、会談の際に語った言葉がそう簡単にくつがえせるとは思わないので、もし菅党首が総理になっていたら、この言葉どおりに核放棄の見返りとして大規模支援を行わざるを得なくなるのではないか。そうなると和製ノムヒョン政権の誕生である。統一の負担を先送りしたい韓国はノムヒョンでもいいのかもしれないが、日本が北朝鮮に核放棄の見かえりとして大規模経済支援を行うことがよいのだろうか。数年たてばその支援は核兵器や化学兵器に化け、日本の方を向くようになるのかもしれないのに。※それにしても、あの菅党首とノムヒョンの会談、なぜマスコミはどこも選挙期間中に報道しなかったのであろうか。過去に報道したからいいというものでもあるまい。有権者にとっては、菅党首が政権をとったらどうなるかを考える上で貴重な情報であり、これを報道しなかったマスコミの怠慢は重大ではないか。※(注)ノムヒョンと菅党首の会談は下記を参照。http://www.chunichi.co.jp/niccho/030211.html 以下引用/【ソウル10日佐藤圭】韓国の盧武鉉次期大統領は十日、ソウル市内の政府庁舎で、自民党の山崎拓、公明党の冬柴鉄三、保守新党の二階俊博の与党三党の幹事長、民主党の菅直人代表、社民党の土井たか子党首と相次いで会談した。 菅氏との会談で、盧次期大統領は、北朝鮮の核開発問題について「北朝鮮は核を交渉カードに使っている。米国が対話に応じれば解決できる」と米朝対話の重要性を強調。その上で「日本は、北東アジア地域の平和に向けて先頭に立ってほしい」と日本の役割に期待感を表明した。 これに対し菅氏は、北朝鮮に核開発を放棄させるため(1)米国は金正日総書記体制を容認する(2)日本は国交回復して大規模な経済援助を実施する(3)韓国も南北間の経済協力を推進する-の三点を同時に提示するよう提案。盧氏も「同感だ」と応じたという。 また、盧氏は土井党首との会談では、小泉首相の靖国神社参拝問題を二十五日の日韓首脳会談で取り上げる考えを示した。ただ「私が感情的に対処すると、日韓間の対立が高まる恐れがある。粘り強く対話していきたい」とも述べ、冷静に対応していく考えを示した。 盧氏は与党三幹事長との会談で、北朝鮮の核開発問題で「日本も国交正常化交渉を進め、北朝鮮が対話のテーブルに着くための役割を果たしてほしい」と述べ、日本主導の対話醸成に期待を寄せた。
2003年11月09日
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外国での代理出産で生まれた子供の出生届けの受理が拒否されたという。日本での代理出産では、いったん出産した女性の実子として届け出がなされ、その後、不妊夫婦に養子縁組されたそうだから、外国でもそれに習えということなのだろうか。ただ、そうなると、外国の代理母にいったん自己の子供として手続きをしてもらい、その後、日本に国際養子に出すことになるが、そんな煩瑣な手続きを引きうける代理母や仲介者がどこまでいるか、はなはだ疑問である。事実上、こうした運用が外国での代理出産という途までも閉ざしてしまうのではないかと危惧されるところである。※今時、癌や筋腫など子宮に関する病気で摘出手術を受ける女性はめずらしくない。特に最近では初婚年齢の上昇で、子供を望みながらも、妻の妊娠が期待できないカップルって案外多いのではないか。ほんの一握りの人達の密室の議論で日本での代理出産は禁止されることになるが、本当にこれでよいのだろうか。そして、こうした夫婦が、今度は海外での代理出産に一筋の希望を見出そうとしても、そこには戸籍法という壁があることになる。代理出産の禁止といい、戸籍法の運用といい、どうして国は不妊夫婦を追い詰めるようなことばかりやるのか、全く理解に苦しむ。そもそも戸籍法も含め、法制度は何のためにあるのか。社会の秩序を維持し、人々が幸福になるためではないのか。そもそも代理出産という行為は、法で禁止しなければならないほどけしからんことなのか、社会全体でもう一度よく考えてほしい。※確かに、子供をほしいという願いは個人差があり、子供がいなくても幸せに暮らしている人は世の中にいくらでもいる。ただ、一方で、不妊で深刻に悩んでいる人も、世の中に大勢いることを忘れてはならないと思うのである。有名な女性キャスターが米国で代理出産するといって話題になっているが、日本の社会風土でこういう告白をすること自体どんなに勇気のいることか。※さて、不妊症でなくても、きわめて自分の子どもが持ちにくい立場の人も社会にはいる。それは未婚者である。社会的制約により、日本では婚外子の出生数は他の先進国に比べて際立って低くなっている。ただ、子供が自己の生命の延長であり、自己の生きた証を未来につなぐものだとしたら、子供がほしいという願いは、未婚者でも既婚者でもあまり変わらないはずである。米国では、結婚の機会には恵まれなかったが経済力のある女性が、人口授精で子供を得ることがけっこう普通にあるという。もちろん「愛する人の子供がほしい」という女性もいるだろうが、単に「自分の子」をほしいと思う女性がいても不思議ではない。最近、有名な女流歌人が未婚の母になるといって話題になっているが、よいとか悪いとかではなく、経済力さえあれば、彼女のような生き方もこれからは普通になっていくのではないのだろうか。彼女の場合、愛する人の子供がほしかったのか、それとも自分の子どもがほしかったのか、その辺はわからないのだけれども…。
2003年11月08日
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どっかの裁判官がリンチ殺人事件をしでかした少年達を「産業廃棄物以下」といったのが問題発言になっているらしい。「らしい」といったのは、こんなの普通の人は問題にするとも思えないのだが、マスコミがことさら問題にしたがっているようだからである。本当にこの国のマスコミや人権団体は、なぜ被害者には冷淡なくせに、加害者とか犯罪者の人権となるとこうまで元気がよいのだろうか。犯罪者の中には、もちろんそれなりに気の毒な事情のある人もいるのだが、一方では、確かに産業廃棄物以下、生まれてきたのがそもそも間違いではないかといいたくなるような人もいる。わざわざ例をあげるのも面倒くさいのだが、宮●勤とか、佐●宣行とか、宅●守とかになると、こんなのよりかは、やっぱり廃棄物の方がマシなんじゃないのかなあ…と誰しも思うのではないか。たぶん裁判官に産業廃棄物以下といわせた連中だって、同じようなものだったのだろう。週刊誌に載っていた彼らの所業をみるとそんな気がする。※どうも世の中の実態をみると、すべての人間には更生の可能性があるとか、人間にはクズはいないとかいった類の純真な性善説って、信じる気にはなれない。やっぱりどうしようもない人間というものはこの世にいる。マスコミがなんといおうと、世の中の大多数の人は、あの裁判官のもっともな言葉に、しずかにうなずいているのである。廃棄物以下少年達も、せめてこれからは廃棄物なみに、社会の片隅で人に迷惑をかけずに生きていてほしい。※そして、実は、裁判の場で、本当に問題にしなければならない言葉というものは別にあるのではないか。何年か前、沖縄で小学生の女の子が米兵に暴行されて大問題になったことがあったが、この米兵に対する論告求刑の言葉に思わず首をかしげたことがある。「…被害者の人生を破壊した。」という文章が論告の中にあったのである。もちろん被害は深刻であるし、被告人に対する糾弾の趣旨でこうした言葉を使ったのであろうが、それでも、国家がこんな形で年若い被害者の人生に破壊宣告をする必要があったのだろうか。この種の事件では、犯人に対する厳正な処罰はもちろん必要である。しかし、それと同じくらいに必要なことは、年若い被害者に対して、被害に遭う前と同様に、人生はやはり希望に満ちた生きるに値するものであるし、被害に遭ったことが人間としての価値を傷つけるものではないのだということを、理屈ではなく、実感としてわかってもらうことではないのだろうか。そうして考えると、マスコミでも引用された「…人生を破壊した。」という表現は、いささか思慮に欠くように思われたのだが、これを問題にした報道は、私の見たかぎりではなかったように思う。
2003年11月07日
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JAPという言葉を海のかなたの白人国家ではなく、すぐ近くのテロ国家からきくことになろうとは。国連の場でこうした常識はずれの蔑称を使うことにもあきれるが、もはや英語使いのエリートでもあの程度の人材しかいないのかと思うと、やはり世上いわれているように北朝鮮は国家として末期症状になっているのかもしれない。瀬戸際外交だかなんだかしれないが、最近におけるあの国の不可解な言動をみていると、戦略というよりも、国家そのものが、もはやダッチロール状態になっているのではないだろうか。外務省の田中均などは、あいかわらず「北東アジアの平和と安定」といって、あの国の存続を金科玉条の政策目標のように考えているようであるが、そういう発想は既に時宜にあわなくなっていることに気付くべきである。※このJAP発言にもかかわらず日本国内の反応は、今のところ冷静である。言葉、特に蔑称というものは語感と深い関係があり、英語では蔑視のニュアンスはストレートに伝わらない。なにしろ、JAPどころではない、日本には、イエローモンキーなんて語をグループ名にしているユニットだってあるくらいなのだから。※こうした外国人に対する蔑称はどこの国にもあり、戦前の日本でもロ○ケとかチャン○ロといった言葉はよく使われていた。まあ、この言葉はそれぞれ、ロシア語や中国語で自国民をさすルスキーとかチュンクォレンからきたもので、もともとは蔑視のニュアンスはなかったのだが、日本が対外膨張政策をとる中で、次第に蔑視語として使われるようになったのであろう。官製蔑視語の鬼畜米英などは、敗戦とともにあっというまに消滅してしまったが、こういう自然発生的な蔑視語は、今でも不思議に生き残っているようである。※韓国語(朝鮮語)でも、こうした蔑視語は日本語以上に豊富であろう。もともと喧嘩でつかう語彙は日本語よりはるかに多いときく。日本人専用の蔑視語のウェノムやチョッパリなどは、JAPよりも語感がひしひしと伝わってきて、JAPの代わりに、こちらを使ったらさすがの日本人も怒ったのではないか。日本人だけではなく、満州族などの北方民族に対してもオランケという蔑視語でよんでいた。ロシア人がシベリアに進出してきたとき、朝鮮の人々は彼らをノランケとよんだという。これはノラン(黄色い)とオランケの合成語で、これもやはり蔑視語であるという。黄色い…というのは、もちろん彼らの髪の色である。
2003年11月06日
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川口外相は4日の記者会見で、中国・西安市の西北大学での日本人留学生の寸劇を機に起きた反日デモについて、「留学生として、相手国の風習や習慣などを十分理解することは当然だ。非常に無感覚だった」と留学生を批判したそうである。やれやれ、この人はどこの国の外相なのだろうか。まあ、いまさらではあるのだけれども…。※大体この事件、発端となった寸劇からして事実不明の部分が多い。「中国人なんてこんなものだ」という中国人を誹謗するカードをつけて踊ったなどという話はとうてい信じられるものではなく、おそらくは、日本の宴会なら話題にもならない程度のややお下品な出し物というあたりが真相ではないか。こうした寸劇が仮に不適当であったとしても、中国の学生の対応は常軌を逸している。日本人狩り同様の暴行が行われ、その被害者の中には、寸劇には参加していない女子学生まで含まれていたという。こういう場合、暴行騒ぎについて、まず遺憾の意を表すのが、普通ではないのだろうか。主客ところをかえて、日本国内で、どこかの国の留学生に対して、日本人学生が暴行騒ぎを起した事態を想像してみればよい。暴行を受けた学生の国の大使なり閣僚なりが遺憾の意を表し、場合によっては抗議するのではないのだろうか。もし、逆に、暴力について非難せず、逆に自国の被害者の落ち度を責めるような国があったら、国際社会では嘲笑されるのがオチであろう。※日本の外相の対応は明らかに変である。中国では学生の騒動はほとんどが官製であり、中国の留学生や就学生は日本国内で下品な寸劇どころでない凶悪犯罪を引き起こしている。なぜ日本人留学生の受けた暴行について抗議をしないのか、そしてなぜ中国人留学生や就学生が引き起こしている凶悪犯罪については一言もふれないのか。なんというか、今度の事件でも、日本の外務省には自国民を守る意思も気概もないことが明らかになったような気がしてならない。本当に外務省などさっさと縮小、解体してほしいものである。※結局、今回の騒ぎの発端となった寸劇を演じた学生は退学処分となり、今日あたり帰国するという。中国に関心を持ち、留学の機会も得たのに、このような結果となってさぞ不本意であろう。そっとしておいてほしいと思っているのかもしれないが、願わくはぜひ真相を語ってほしい。中国の発展は所与の事実であり、最大級の話者人口を有し国連公用語でもある中国語は21世紀の国際語ともいわれる。中国に留学する若者はこれからもますます増えていくであろうし、また、増えていかねばならない。このまま「日本人留学生が卑猥な出し物で中国人を侮辱した。」という話が、事実として残ってしまうのは、やりきれないことである。
2003年11月05日
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くだらないことを書くのをお許し願いたい。実は、あの1995年頃、私もオウム報道に夢中だった。なにか突然日本の真中に全く別の異民族のような集団があらわれ、想像もつかないことを行っている。顔は、まあ日本人で、日本語をしゃべるのだけれども、バジラなんとかとかタントラなんたらとか名のって、前世がどうとか、来世がどうとか、普通の人達とはまったく別の価値観で生きている人達。※最初は綺羅星のようなエリート集団かと思ったが、よくよくみると経歴も様々で、一様に年齢より若く見え、皆どこか生活感がないことを除けば共通点などもあまりなさそうであった。しいていえば、理科系秀才であれ、格闘技の達人であれ、一芸に秀でた人が多かったのだろうか。実は、我が職場にもオウムに勧誘されたという人がいた。その時の皆の感想は「そりゃ、まずいじゃないの。」でも「危ないところだったね。」でもなく、素直に「へえ、すごいねえ。」と感嘆したものであった。あの集団は何か人よりも優れたところのある人間を引きつける。そして金、地位、異性等世俗の価値観に違和感を感じているところにつけこんで、修行、救済、霊的ステージと、そんな言葉で夢中にさせる。※ただ、引きつけられたとしても、夢中になったとしても、それはあくまでも本人の責任である。魔術や催眠術のようなマインドコントロール理論なんて到底信じられるものではない。それにしても、あの集団、そしてあの集団の中の「文化」は価値観抜きで漫画的で面白い。省庁制を模した組織も傑作だが、省庁対抗歌合戦までやっていたとか、幹部をモデルにしたアニメを作って吹き替えも本人がやっていたとか…。そしてそんな面白半分とは裏腹の大規模な犯罪。「よい子が邪悪な尊師にマインドコントロールされてしまって…」なんていう反オウムならぬ半オウムの評論家の面々が主張する物語ではなく、きっと別の真相があるに違いない。それは、優越感と自己過信で舞い上がった若者達の物語かもしれないし、武器を作るのに夢中になったオタク達の暴走のドラマかもしれないが。いずれにしても、あのSF漫画のような世界観の中で現実感を次第になくしていったのかもしれない。※オウム大辞典を読んでもまだ説けない謎がある。尊師は「最終解脱」したといっていたらしいが、「最終」でない解脱ってあるのだろうか。たしか、仏教では解脱って一回やったら終わりだったと思うのだが。それに、ホーリーネームというのも、そんな名前をつけただけで何か特別な人になったような気になる素敵なアイディアだと思うが(だからホーリネームはやはりバジラなんたらであるべきで、ホーりーネームが「すずきひろし」なんていうのは意味がない。)、あの語源っていうのはなんなのだろうか。もちろんマイトレーヤ(弥勒)やマンジュシュリー(文殊)といった菩薩の名もあるのだが、ヒンディー教の神やチベット仏教の神の名もあるようである。中にはアポロンなんていうギリシャ神話の神の名まであって、なんだか節操がない。で、問題は語源不明のものである。マハーバガッチャなんていう名もアニメっぽくて面白いし、ラーマネーヤカとかバジラアーシャヤなんていう名もいやに耳についてすぐに覚えてしまう。こうした名の語源はなんなのか、気になるところである。
2003年11月04日
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オウム事件は風化しつつある。それだけにあの事件当初は出せなかったような本が今頃になってでてきた…そんな気のする一冊である。1995年当時、ネット媒体はまだほんのはしりの時期で、私も含め、多くの人はマスコミから流れてくる情報の洪水を一方的に受け止めるしかなかった。※毎度毎度テレビにでてくる評論家や弁護士の言葉を聞きながらどんどん疑問が膨れ上がっていったのをよく覚えている。彼らはいう。麻原なる社会に恨みを持つ人物が自己の欲望と破壊願望だけのために、世間知らずの若者達を「マインドコントロール」という技法で心理操作して未曾有の犯罪を起こしたと。そういう面が全くないとは思わないが、本当にこれだけなのだろうか。彼らの言説に対する疑問はこれだけではない。オウムのサブカル的な部分を面白がるのは被害者の心を傷つけると彼らはいう。しかし、麻原以外の実行犯を免罪するような言説をはき続ける彼らの方こそ被害者の心をはるかに傷つけているのではないか。オウムの教義等をネットに載せるのはオウムの宣伝だと彼らはいう。しかし、「一般信者を犯罪者扱い」するからといって強硬に破防法適用に反対して、結果的にオウムを延命させたのは、ほかならぬ彼らではなかったのか。私はなぜあのとき破防法の適用に反対した弁護士や評論家が、なんの責任も問われないのか不思議でならない。※さて、この「オウム真理教辞典」である。当時世間を席捲した様々なオウム語についてあの集団の中ででまわっていた教本等を基に解説をしているほか、教団や事件をめぐる人物や事象についても説明している。真面目な部分ももちろんあるのだが、全くの爆笑ものの記述も多く、例えばわざわざ「かに」なんていう項目が掲載されていることもその一つである。死体を埋める穴を掘っていた中川、端本をねぎらうために早川が買ってきて皆で食べ殻を死体と一緒に埋めたなんて解説してあるが、それにしても項目が「かに」とは。また、オウムが真理党として選挙にたったときの公約には消費税廃止などと並んで病院や火葬場の建設が謳われていたが、病院というのはともかく火葬場の建設というのは今読んでみると笑える。※収録されている人物も多彩で、村上栄子(資産家拉致等)や高山勇三(同左)のようなマイナーなキャラだけではなく、結局重大事件では逮捕されなかった麻原側近の石●公○の実名までしっかりと掲載されている。これなどもあの当時だったら「マインドコントロールされて殺人、サリン製造、薬物密造、拉致監禁等をさせられた信者の人権」をふみにじるなんていって文句を言った人がいたに違いない(笑)。※オウム事件とは何だったのだろうか。あの事件が起きる、3年ほど前、我が家のポストにオウムの布教のチラシが入っていたことがあった。麻原の写真に、当時はやっていた神様?に扮してザンゲって叫びながら水をぶっかけていた太目で髭のお笑いタレントを連想するとともに、なにかそれを超える妖気のようなものを感じたのを覚えている。オウムの教義や修行には、ばかばかしいながらも人を面白がらせ夢中にさせるところもあるが、しかし、そのあげくに起きた事件は大きすぎ、とても、当時の評論家がいっていたような、邪悪な尊師とマインドコントロールされたよい子達の物語では、説明しきれないことだけは確かである。※※閑話休題。昨日もリンクしたがなぜか消えてしまった。重大なニュースであり、政権を争う選挙前の今こそ思い起こす必要があると思うのだが。http://www.chunichi.co.jp/niccho/030211.html
2003年11月03日
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日本人留学生の「中国人を侮辱したパーフォーマンス」に端を発した留学生への暴行そして反日デモはなかなかおさまりそうもない。教員まで入ってのパーフォーマンスなので、それほど枠をふみはずしたものを行うとも思えないし、好きで中国に留学している学生たちが露骨に中国人を侮蔑するメッセージを発するとも思えない。伝えられているような紙コップを胸につけるくらいのことは、日本では許容範囲なのであるが、中国では違うのだろうか。※反日デモが拡大というが、中国は日本のように言論表現の自由が保障されている国ではない。やはり、背景には官側の働きかけがあるとみるのが自然であろう。福岡一家殺人と連動するかのように日本人観光客の買春が摘発され、そして今度は日本人誘拐事件と連動するかのようにパーフォーマンス騒動。いやな感じと思うのは私だけだろうか。※日本のマスコミの論調は概ね、日本人留学生のやりすぎを責めるものが多いが、ここで発想を転換するため、もし、これが○○だったら・・・と仮定して考えたらどうであろうか。ある有名サイトでも同様なことが書いてあったのだが、もし朝鮮大学校で日本人を侮蔑する出しものが行われ、それに怒った右翼かなにかが学生に暴行を加えたらどうなるのであろうか。なぜか警察に通報しない、なぜか逮捕者のでないチマチョゴリ切り裂き事件でもあれだけ騒ぐマスコミである。申し訳ない、暴行はけしからんといった報道一色になるのは間違いない。そう考えると、一方的に留学生の軽率ばかりを問題視するマスコミの視点はやはり歪んでいるのではないのだろうか。※で、気になる真相であるが、これなどが近いのではないかと思われるのだが。
2003年11月02日
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今度の選挙の争点は何なのだろうか。まさか高速道路を有料にするか無料にするか・・・そんなことが争点であるわけない。憲法、イラク自衛隊派遣、北朝鮮問題への対処、おそらくそのあたりが争点であり、そしてこれらの問題は国家観の根本にも関連する問題である。その意味で今度の選挙は、まさに、それぞれの政党、候補者の国家間がとわれている選挙であるといえよう。※国家とはそもそも何であろうか。それは共通のアイデンティティーを持ち、内にあっては社会の安全、外に対しては外敵からの安全を保持し、その存続、発展を図る集団と定義づけられるのではないのだろうか。アイデンティティーは単一民族国家ではわかりやすいが、そうでなくても、建国の理念や宗教、イデオロギーでもよい。る。国家の本質的機能はそうした内と外における安全の保持にあるのだとしたら、警察と軍隊こそが国家が最低限もたなければならない組織であるといえる。※従って、たてまえとはいえ、「軍隊を保持しない」と唱えてきた日本は、既に通常の意味では国家とはいえないのかもしれない。そんな状態に疑問を持ち、改憲、そして軍隊の保持により「普通の国家」をめざそうという動きもそろそろ出てきている。しかし、それが本当に可能なのだろうか。警察官の職務にももちろん危険は伴うが、警察の職務は、基本的に国家権力を背負った警察官が犯罪者と対峙するものである。これに対して軍隊は国家対国家であり、その危険度は警察とは比べものにならない。だから、軍隊を構成する軍人は、国家のために生命をも投げ出す職業として、どの国でも最高の尊敬が与えられているし、大抵の国では、軍人は軍服を着て、街を誇らしげに闊歩するし、上級軍人といえば軍服の上に多くの勲章をつけているのが普通である。だから軍隊を持つということは単に軍隊という名称の組織を創設することではない。国家のためには時には生命をも捨てるという価値観、そしてそれを行った人には最高の尊敬が払われるという価値観を醸成しなければ無理なのである。いわば現在の学習指導要領の道徳教育にある「自他の安全を保持し、生命の尊重に努める」という価値観の180度の転換である。※今の日本人がそうした価値観をもてるであろうか。すごく難しいと思う。子供の頃見た光景で忘れられないものがある。夏の日の繁華街。どこからともなくアコーディオンの音楽が聞こえてきて、みると、二人の白衣の男がいた。一人は義足でアコーディオンをひき、もうひとりは片手片足がまく、醜くうずくまっていた。彼らが本当に戦傷者かどうか、それはわからない。しかし、戦傷者を物乞いとして公衆の目に触れさせていた国が他にあるのだろうか。国家のために生命をかけても、国家は国民などたやすく捨てる。戦争で死んだり傷つくのはバカを見ること・・・多くの人はそう思ったのではないか。傷痍軍人を物乞いにたたせたとき、日本は、普通の国となる機会を失ったのではないかと思えてならない。
2003年11月01日
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