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WEB日記で迎える二度目の大晦日。そして、1月にはわが日記も3周年を迎える。あきっぽい私がこんなに続けることができたのは読んでくれる人がいるから・・・。自分で書いて人知れず自分で読むだけの日記ならば、とうに飽きてしまっただろう。やはり書くということも話すということと同様、コミュニケーションだんだなあと思う。誰も聞かない話し言葉がむなしいように、誰も読まない書き言葉もむなしい。来てくださる方に話しかけるつもりで書くからこそ、やる気もでるというものである。※この日記では世の中に起きる様々な事象について自分なりに思ったことを書いている。右か左か、進歩か保守か、ハト派かタカ派か…と聞かれると、私の立場はどちらなのだろうか。もっとも、今日日、進歩保守、タカハトなんていうのはすっかり死語になってしまったような感もなきにしもない。タカ派といったってホークスファンしか連想しない人も多いのではないか。ただ、私の場合、はっきり言えるのは、平和、民主、女性、人権といった言葉で思考停止してしまったような偽善サヨクの言論は大嫌いであるということである。だから、朝日新聞(くだらなくて笑える記事が多いからいまだに読んでいる)などを読むと、すぐに反論したくなって書きたいことが出てきてしまう。例えば、昨日、投書欄に載っていた憲法全文が掲載されていた手帳を愛用してきたというおじいちゃんの投書。あれも笑える。憲法を平和の護符かなにかと勘違いしているかなり重症の憲法信者の典型だから。戦争放棄条項があるから平和が維持されるなんて本気で考えているのなら、地震放棄条項やSARS放棄条項もつくればよい。そんな偽善サヨクも嫌いであるが、一方、民族だの伝統だのを絶対視する、いわゆる右の立場にもついていけない。チンパンジーと人間でさえほとんどのDNAは一致するというのだから、日本人のDNAなんていってみたところで、それがなんだというのだろうか。長い目でみれば、これからはそんなに民族とか伝統にこだわることもないのではないかなんて、つい考えてしまう。※私が考えるときによってたつのは、ミギヒダリといった立場ではなく、しいていえば当事者感覚と想像力ということにしておきたい。様々な問題やテーマについて、もしこの立場だったら・・・と考えてみて、おかしいところを検証する。それでも、浅学非才な身ゆえ、もしかしたら間違っているかもしれない。批判、反論も建設的なものであれば大歓迎である。ただ、マスコミの大合唱とは別の方向での意見を書いて、そしてそれに賛同する便りをいただいたとき、そうしたときは本当にうれしいものである※※1年間こんな私の日記につきあってくださった皆様、本当にありがとうございます。2004年がどうかよい年でありますよう心よりお祈りいたしております。
2003年12月31日
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昔々の笑い話でこんなのがある。ある村ではお祭りに使うクリームが大変な品薄で皆が困ったとさ。そこで知恵者の長老は一計を案じた。「これからお祭りが終わるまでの間、今まで水とよんでいたものをクリームとよび、クリームとよんでいたものを水とよびことにする」というおふれを出したのである。長老様の知恵のおかげでクリーム不足はたちまち解決。でも、その村ではお祭りが終わるまでの間、大変な水不足に悩んだとさ…。ものの本質は変わらなくても、別の名をつければ人は何か変わったように錯覚する。民事の紛争などでも、頑として「賠償金」を支払おうとしなかった当事者が、同じ金に「解決金」とか「見舞金」といった名称をつけると抵抗なく出費し、紛争解決なんていうことがよくある。※昨日の産経新聞朝刊に、北朝鮮が核兵器解体費用として1億ドル以上要求しており、この方向で協議がまとまると日本も負担を免れない…なんていう記事があったが、ふと、冒頭にあげた笑い話を連想してしまった。もし、この「解体費用」なるものを認めれば、結局、北朝鮮は昨年の日朝首脳会談でもくろんだ巨額の経済援助をせしめるという目的を、核開発宣言、六カ国協議という迂回路をとおって実現することとなる。どんな名でよぼうが金はやはり金である。いや、解体費用として受け取っておけば、それとは別に、日本に対しては、「植民地支配の補償」なるものを要求できるので、かえってかの国にとってメリットは大きいであろう。イラクに手をやく米国が対北朝鮮では宥和政策に転じる可能性は十分にあるし、我が国の外務省の中枢にいるのはあの田中均審議官である。故奥大使や井上一等書記官があたかも日本の外交官全体を代表しているかのような報道がなされることもあるが、外務省主流は田中均であることを忘れてはならない。六カ国協議は年明けから動き出すが、拉致被害者5人の家族の帰国もかなわないまま、巨額の資金拠出を行うようなおまぬけだけはやってほしくないものである。※先の国会議員のアンケートでは拉致事件解決の条件として、真相の究明と関係者の処罰をあげた答が一番多かったようである。個人の犯罪ならそれでもよいだろう。ただ、拉致事件は個人の犯罪ではなく、国家による犯罪である。真相の究明は当然のこととして、国家としての責任をとらない限り、それは解決したとはいえないのではないのだろうか。国家としての責任、すなわち謝罪表明と国際法上の賠償である。もちろん、その過程では、日本の「植民地支配による賠償」との相殺論が起きてくるかもしれない。植民地支配がよいことであったとは思わない。ただ、それによる被害は、その後に続いた朝鮮動乱での大規模な同族殺傷の悲劇や、半島北半分における同民族による恐怖政治の被害に比べてどれほどのものだというのだろうか。贖罪意識そのものは否定しない。ただ、半島分断も含め、何もかも悪いのは日本のせいだとばかりに過剰に贖罪意識を持つことは誤りであるし、かえってかの半島の人々に対しても失礼なのではないかと思う。
2003年12月30日
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21世紀ももうすぐ4年目になる。昔考えていたような明るい新世紀のイメージとは違うけれども、時はやっぱり流れていく。はたして世界はどのように動いていくのか。歴史はどこにむかって流れていくのか・・・。※思えば20世紀とは、大きな二つの歴史的潮流があって、それが勃興し、うねり、そして収束あるいは完成していった時代ではなかったのだろうか。二つの大きな潮流。一つは、欧米によるアジア、アフリカの植民地化に異議を唱え、それに抗していく流れである。そしてもう一つは、初めての社会主義国家の誕生と社会主義陣営の拡大、東西対立による冷戦、そしてそれが頂点に達した後、社会主義体制の相次ぐ崩壊による冷戦構造の終焉という流れである。そして、この二つの流れのいずれもが、ユーラシア大陸の片隅を主戦場とした戦争を契機にしていることが興味深い。いまから100年前に起きた日露戦争である。世界史にはいくつか予想外の結果となった戦争があるが、日露戦争ももちろんそうした戦争の一つである。極東の新興国の日本がときの大国ロシアに戦争で勝利するなどとは誰も思わなかったに違いない。ところがそうした予想を裏切る日本軍の緒戦での勝利は、アジアの独立運動に火をつけ、ロシアでは急進的な革命への動きを促進することとなる。欧米人の世界植民地化に対する異議と社会主義革命・・・20世紀を特長づける二つの流れの導火線的な役割という意味では、日本もまた20世紀の世界史の上で重要な役割を果たしたことになる。※そして2004年は、この日露戦争からちょうど100年になる。100年たてば、同じ国民であっても、ものの考え方や気質は大いに変わる。いったい日本人はどう変わってきて、どこへゆこうとするのだろうか。※我が家の近くのスーパーは、いつも店内に童謡を流している。お正月、たこあげ...そうした昔懐かしい歌の次にこんな歌がかかってきた。いろりの傍で縄なう祖父はすぎし昔の思い出かたる居並ぶ子らは 眠を忘れて こぶしをにぎってききいっているこの歌の歌詞はもともと「すぎし昔の思い出」が「すぎし戦の手柄」であったという。そうでなければ後段の小さな子供が眠いのも忘れて手に汗握って聴きいっているという描写に続かない。こんな歌詞の改変も、戦争はとにかく悪いもの、忌むべきものとする戦後の風潮の中で行われたものであろう。戦争は確かに悲惨で、なければそれにこしたことはない。手柄をかたる老人のかげには何人もの非業の死をとけた人がいるに違いない。ただ、世界史という大きな流れでみると、国家にはその存続を守るために戦わなければならない戦争がある。日露戦争はまさにそうした日本にとっての防衛戦争でもあったのではないか。そんな戦争を戦った100年前の曽祖父や高祖父達が、もし今の日本をみることがあったら、いったい何を思うだろうか。
2003年12月29日
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新聞をみると思わず目にとびこんできたニュース・・・宅間守獄中結婚。なんだこりゃあ、と思わず目をむいた。まあ、誰と誰が結婚しようが自由だし、蓼食う虫も好き好きという俚諺の正しさも、ついこの間の某有名スポーツ選手同士の結婚で多くの人が実感したはずだ。でも、いくら好き好きだといっても、なぜ宅間守なんだ?あのワイルドさがたまらないとか、男くささが魅力とかいうのなら、まあ、勝手にしなさいよというところなのだが、記事を詳細に読んでようやく納得した。※彼と結婚した件の女性は、「彼の精神的弱さをささえてあげたい」と思って結婚したそうである。そういえばこの宅間という男、どうも女性をそういう気にさせるフェロモン?を持っているのかもしれない。彼には4度の結婚歴があるが、最初の二度ははるか年上の女性が相手であったという。また、老女に気に入られて養子縁組したこともあったらしい(後に離縁)。そうした女性との結婚生活は、暴力をふるうために、いずれも長続きをしなかったのだが、今度ばかりは宅間も妻に暴力をふるうというわけにはいかないだろう。せいぜい妻は死を前にした宅間を精神的に支えてやってほしい。まあ、せいぜいお幸せに・・・。※これとは、だいぶシチュエーションは違うのかもしれないが、処刑を待つだけの男と女性との恋愛というテーマで、ふと「平家物語」にでてくる千手前の挿話を思い出した。敵方の捕虜となった平重衡と遊女千手前との短い交情の話であるが、重衡が処刑された後は千手前は菩提を弔うために出家をしたという話である。http://www.geocities.co.jp/SweetHome/4066/heike/senju.html シンデレラ物語とはまったく別の意味で、女性の中にはどこかそうした恋愛に憧れる人もいるのではないのだろうか。献身願望とでもいうのだろうか・・・。きっと宅間と結婚した女性も、そんな献身願望や母性本能の強い非常に心優しい女性なのかもしれない。それにしてもこの獄中結婚の話、夕刊紙やワイドショーならともかくNHKニュースでとりあげるような話なのだろうか。どうも最近のマスコミはニュースの軽重の判断という面でワイドショー化しているように思われる。また、どうでもよいことであるが、今の日本30代40代で結婚しない(できない)男はごまんといる。彼らはきっとこのニュースを聞いて、それこそ「なんでだろう…」と思っているのではないのだろうか。
2003年12月28日
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日本人は三つのものをとかく重視しすぎるという話がある。すなわちオリンピック、ノーベル賞そして国連である。前二者についてはなんともいえないが、国連については確かにそうした傾向があるようにみえる。日本人の国連信仰ともいうべき感覚をみると、村八分をおそれ、仲間はずれをきらうムラ社会的思考様式が、まるでそのまま国際社会の場にもちこまれたのではないかと思うこともある。過去の不行跡がたたって村八分にされていたが、1956年に、ようやくはれて寄合いへの参加が認められた。最初は末席で小さくなっていたが、やがてふところもあたたかくなってきた。今度はぜひ寄合いを仕切る旦那衆の中にいれてもらいたくて、せいいっぱい寄付をしたり贈り物をしたりしている・・・それが今の日本と国連の姿ではないのだろうか。※しかし、国連というのは日本人が考えるような、そんな素晴らしいものなのだろうか。そもそも「国連」なんて誤訳を使うからいけない。正確には「連合国」で、その本質は第二次世界大戦のときの戦勝国クラブである。また、国連を仕切る常任理事国はいずれも核保有国であり、政治体制でみても、中国やロシアなどは成熟した民主国家とはとてもいえないことをみても、国連が平和の殿堂などではないことくらいわかりそうなものである。特に中国は昨今の日本人留学生や日本企業の買春事件で明らかになったように、今でも黒々とした反日感情がとぐろをまいているような国である。そんな国連に、せっせと分担金を払い続ける日本の姿はまるでこっけいではないのだろうか。※日本はアメリカに次いで国連への分担金は第二位であり、ドイツに比べての二倍もの負担をおっている。しかしだからといって、国連の決定などに日本の利益や意向が反映されるわけではないし、それが外交上の武器になっているわけでもない。日本の常任理事国入りにしても、第二次大戦の戦勝国クラブという国連の性格からみると、ありそうもない。国連の機関である世界食糧計画は、再び北朝鮮に大量の食糧支援を行うというが、その支援に、日本人拉致事件被害者の家族の帰国を条件としてつけることはできないのであろうか。子供達の帰国は、彼らの身が必ずしも安全とはいえない以上、焦眉の人道上の課題であると思うし、食糧援助は多少それが飢えている人に届くとしても長い目でみれば、体制延命の効果しかない。※誰も通らない道路や使わない空港など、公共事業は無駄であればそれがすぐに目に見える。これに対して、国連への拠出やODAなどは無駄が目に見えない。ただ、いずれも、出所が税金であることには変わりはない。公共事業の無駄を厳しくチェックするように、国連分担金やODAについても、そろそろ厳しい目を向けるべきときではないのだろうか。
2003年12月27日
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今朝、産経新聞に女帝を認める方向で法改正を検討する旨の記事があった。確かに、日本史には8人の女帝がいたことを考えると、女帝を認めても全く問題ないように思われる。ただ、ここで忘れてはならないのは、過去の女帝は皇后が天皇亡き後次の天皇までのつなぎとして即位した場合か、生涯独身であったかのどちらかであったということである。つまり、夫のいる女性が皇位についたという例は、昔にも例がないのである。お世継ぎに男がいないから、天皇制を存続させるために女帝をおくという場合は、その女帝が結婚し、子供を産まない限り、結局天皇制の存続という面では意味はない。そうだとすると、天皇制存続のための女帝というのは日本史上初になる。※ところで女帝の配偶者を探す場合、問題となる点がある。まず、その彼は当然皇族外から婿入りするということになるのだが、普通の生活をしてきた男性が、はたして女帝の夫という制約の多い身分となることを選ぶものだろうか。そしてその夫君には、当然、誰でも良いというわけにはいくまい。人格識見ともにすぐれ、敬愛を受けるに足るだけの人物ということになるのだが、はたしてそんな立派な男性が自らのキャリアをなげうって皇室に入るのであろうか。次にその男性が政財界の有力な人士の子息であったりした場合、どうしても皇位簒奪のような印象を与えてしまいそうで、問題である。普通、世界史では前王朝の皇女を他家の男性が娶り、その子が皇位を継承した場合、王朝の交代とみるところが多いようである。イギリスでも現女王は血筋だけでみるとかのアングロサクソン七王国を統一したエグバート王の血をひいているのであるが、その継承が父系だけではなかったために王朝は何度か変わっている。まあ、都合よく、旧宮家で、申し分のない男性が婿として皇室に入れば、一番問題がないのであるが、はたしてそう都合よくいくのだろうか。まあ、この問題はけっこう微妙なところがあるので、これ以上はふれないこととしておく。※※昨日、念願のミレナリオに行ってきた。連想したのは京都の伏見稲荷のどこまでも赤い鳥居が続く光景や桜並木の光景。もちろん趣は違うのであるが、ささやかな異界体験という意味では似たところがあるような気がする。
2003年12月26日
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高齢者福祉施設に勤める人から聞いた話である。居室を雑居部屋から個室に変え、職員のものの言い方を命令口調から依頼口調にかえたところ、みるみる高齢者の痴呆症状が改善してきたというのである。この施設では、この他にも、持ち込む荷物の制限を撤廃し、オムツ換えの際にはカーテンで囲うなどのことも同時に行なったそうである。よく考えてみると、この施設の行なったことは全然特殊なことではない。対等な人間、それも年上の人間に対しては、本人の意思を尊重した丁寧なものいいをするし、そこが生活の場であれば、個室で様々な思い出のつまった品に囲まれて暮らすのも当然のことである。こんな当然なことが行なわれていなかったのは、やはり、施設職員と高齢者の間に対等な人間同士というよりも、「管理するもの・されるもの」という関係があったからに他ならないのではないか。それぞれの固有名詞、それぞれの人生を歩んできた高齢者を十把一絡げに「お年より」とよんで、「おばあちゃん、はあい、あ~んしてね。」といって食事をしていたのでは、ボケてない人もボケるのが当たり前のように思う。ボケというのは、もしかしたら自分の人間としての尊厳が傷つけられたときの逃避反応なのかもしれないのだから…。人間は人間である限り、高齢になっても、身体が不自由になっても、尊厳ある個人として遇されたいと考えるのが普通であろう。そして、なによりも自己決定というのは、個人の尊厳のベースである。※ふとここで、もはや時期遅れの話題かもしれないが宿泊を拒否されたハンセン病の元患者のことを考えてしまう。長い隔離された歳月を経て帰郷し、幼馴染を旧交をあたためることは、元患者の方の自己確認のうえでも重要なことである。そして、そんな大切な帰郷旅行の宿泊場所だからこそ、元患者の側にも、自ずと好みというものがあるのではないか。県が例の旅館を選んだのは順番であったというが、元患者の選択を問うこともなく、県の名で元患者全員を同じところに宿泊させようとしたことは、どうもその背景に、元患者の方を客体としてしかみていない管理の発想があったように思えてならない。旅館の対応を擁護するつもりはいささかもないのだが、旅館だけではなく、県の側にも、こうした差別の感覚があったのではないか。※※北朝鮮が拉致被害者の子供を返す要件として拉致被害者自らが平壌空港に子供達を迎えに行くことを提示しているという。北朝鮮当局があれほど5人の被害者に固執するのは、はたして面子だけの問題だろうか。北朝鮮のいうところによると、被害者達は空港で入国手続をしないまま子供達と会って、そのまま子供を連れて帰国するという。これだけみると被害者は100%帰って来れそうであるが、本当にそうであろうか。被害者達が最初に北朝鮮に拉致されたときも別に入国手続など行なっていなかったことを忘れてはならない。おそらく平壌空港で子供に「説得」された被害者達は北朝鮮永住を「自らの」意思で決意し、その後、拉致問題は解決済みの問題として脇においやられ、日本は北朝鮮との国交正常化及び巨額の経済支援に邁進するのではないのだろうか。そして、それこそが、北朝鮮及び外務省の望む筋書きなのではないのだろうか。あ、もちろんかの国がめでたく日本から多額の経済支援をせしめたら、北朝鮮に再度渡った被害者達は「ガス中毒」や「交通事故」に遭う可能性が非常に高いことはいうまでもない。
2003年12月25日
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元外務官僚の著書「さらば外務省」を読んだ。ここに書いてある不祥事は、概ね大方の国民が推測をしていたところでそれほど意外性はない。ただ、それよりも随所にちりばめられている自慢めいたエピソードの方がどうにも鼻についてしまう。文中には高級官僚の志の低さを憤る部分があるが、この著者は、本当に人のことをいうほど立派なのだろうか。ただで留学するために外務省に入ったと臆面もなく書き、ノンキャリアを敗北者よばわりし、息子の友人の大蔵官僚の子供の悪口を得々と書くこの著者にも、どうにもならない人間性の卑しさを感じてしまうのは、私だけなのだろうか。不祥事もさることながら、彼のような人がエリートとして何十年も外務省に居つづけた自体に、外務省の体質への不信感を持ってしまう。※さて、この著書の冒頭に筆者の外務省退職のきっかけとなった文書が全文掲載されてある。これを読んで外務省の職員の中には「男泣き」した人もいるということであるが、読むかぎり、どうしてこれがそんなに素晴らしい意見なのかよくわからない。文章の趣旨は国連決議なしのイラク攻撃はなにがなんでも阻止するとともに、一日も早い中東和平交渉の再開を訴えたものであり、こういう考えもあるであろう。ただ、結論はともかくとして、その理由として述べられている部分にどうにも納得しがたいところがあるのである。※まず、「中東地域で手を汚していない日本…こそ、もっと積極的に中東和平にイニシアチブを発揮すべきである」という部分である。こうした言い方は、天木氏のみならず、様々のメディアや評論家のものいいの中にもでてくる。確かに、中東は文化的にも地理的にも日本から遠く、歴史的なしがらみのないという意味では、日本が「手を汚していない」地域である。しかし、そうしたしがらみがないからといって、その地域でイニシアチブを発揮できるかどうかは別の問題ではないか。イスラム教徒からみると、旧約聖書をともに聖典と戴くユダヤ教徒やキリスト教徒は「教典の民」とよばれるが、無心論者や偶像崇拝教徒(仏教徒)は人間外の存在であるという。イスラム教色の強い中東世界で、日本のような、彼らから見れば人間外の存在ばかりの国家がしゃしゃりでたところで相手にされないだろうと思うがどうであろうか。次に、「唯一の被爆国である日本、そして戦争を放棄した世界でも稀有な平和憲法を誇りとする日本こそ、世界にさきがけて平和の重要性を訴え、その実現に貢献すべきである」というくだりである。これが朝日新聞あたりの論調なら、「ああ、またいつもの…」と思うのだが、現役外交官が、大まじめでこんなことを考えていたとしたら、あまりにもナイーブすぎるのではないか。日本は唯一の被爆国であることは歴史的事実であるが、だからどうこうというのは、感傷としてはともかく、論理の世界ではあまり意味はない。被爆国だから核廃絶の先頭にたつという選択もあれば、核の恐ろしさを身をもって知っているから相互抑止力としての核兵器を保有するという選択だってあり得るのである。そしてまた平和憲法を持っているから平和に貢献すべきというのも、わかったような、わからないような言葉である。交戦権を放棄した憲法というのは世界でも確かにまれであるが、これは別の言い方をすれば、国民や国土が外国から危害を加えられても武力では守ることも報復することもしませんよという規定で、それほど国民こぞって「誇り」とするものなのだろうか。それになによりも、そんな平和憲法をもつのは日本の側の事情であって、日本が主導する平和構築に、ついていくかどうかは、またそれぞれの国の事情によるものであろう。私はもちろん素人であるし、これについては、もしかしたら天木氏に深い考えがあるのかもしれない。ただ、そうではなく、戦後教育の中でさんざん吹き込まれてきた平和憲法礼賛そして観念的平和主義に基いているだけの意見だとしたら、こういうお考えの外交官がやめて下さってよかったと…本当にそう思う。※※閑話休題あの建国義勇軍の事件…具体的に死傷者のでていない、というより初めからでるわけもなかった犯罪にしては、朝日新聞の報道ははしゃぎすぎではないのだろうか。普通の国民で、あれについて民主主義の危機だとかなんだとか本気で怒り心頭に達している人って、はたしてどれだけいるのだろうか。だいたい被害者からして○○や▲▲だしね。そして、単に「刀剣友の会」と最近関係をもっただけの西村代議士をあそこまで名指しで非難するのにも、なにか違和感をもってしまう。この間、詐欺事件で逮捕された辻元清美についての社説がいやに好意的だっただけにね…。
2003年12月24日
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六カ国協議の年内開催があやうくなっている。それにしてもそもそもこの六カ国協議、何のためにやっているのだろうか。もちろん北朝鮮の核問題の平和的解決のためなのであるが、平和的解決というからには、核放棄を後押しするための非軍事的な手段が必要である。それが、放棄に応じない場合の国連での制裁決議・・・そう理解していた。つまり、核放棄に応じればよし、応じない場合には国連での制裁があるというわけである。ところが進展をみていると、どうも国連での経済制裁というのはどこの国も考えていないようである。それどころか、中国などは六カ国協議の定例化をいいだす始末で、当分の間、現状を維持するだけのつもりのようである。この間にも、北朝鮮は中国や韓国の援助をうけながら核兵器、化学兵器、生物兵器の開発をつづける。まあ、日本からも「人道援助」を行う輩もいるが、本当にこれでよいのだろうか。※そうした意味で、最近でてきた北朝鮮に対する日本単独の経済制裁の動きは、北朝鮮に具体的な行動をうながすものとして評価できる。もちろん日本一国では効果がないという人もいるが、制裁の意思を表示することによって中国に対しても援助を行わないように働きかけることもできるし、世界食糧計画による援助にも注文をつけることができるのではないか。前者はODAともリンクさせることができるし、後者はせめて援助の交換条件として拉致被害者の子供の帰国をだすように要求するのである。※そんな経済制裁への動きが本格化する時期に起きた「建国義勇軍」なる集団の逮捕。あまりにもタイミングがよすぎる。この団体から、これまで経済制裁のために中心的に活動をしてこられた西村議員の名があがったり、熊本の「救う会」で逮捕者がでたり...となんとなくいやな感じである。死傷者のでない事件としては異例の大報道ぶりとあいまって、経済制裁つぶしの策動でなければよいがと思う。※忙しく積んだまま読まないでおいた「さらば 外務省」を昨日から読み始めた。上記の北朝鮮の核問題については、小泉首相と外務官僚は、米国が核問題について北朝鮮に譲歩し、核開発凍結の見返りに体制を保障し、経済援助を行うという解決策を強く希望しているという記述があるが、私もそれを危惧しているところである。あの六カ国協議がながびけばながびくほど、その可能性は強くなるのではないか。かっての帝国主義時代、アフリカやアジアの多くの国は若者が拉致されても、麻薬を国内に持ち込まれても、国家が機能せずなんらなすすべがなかった。日本をそんなかっての被侵略国以下の国にしては決してならないのではないのだろうか。
2003年12月23日
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大阪市が大平正代弁護士を助役に任命したことが話題になっている。大平弁護士は、自らの非行体験と弁護士になるまでの経緯を綴ったベストセラー「だからあなたも生きぬいて」の作家として知られている。私は彼女の著書を読んだことがないし、彼女個人については特段どうこういうつもりもない。ただ、彼女が非行体験を公にして世にでた方であることを考えると、この人事には若干の疑問なしとしない。※彼女に限らず元非行少年少女が非行体験を克服して成功した場合、更生のモデルケースとしてもてはやされることが多い。大平弁護士以外にも、関取の千代大海などの例もある。更生が尊く、価値あるものだということは否定しないのだが、こうした事例についての報道ぶりには、正直いってちょっと待ってといいたくなる。非行少年が立ち直り、努力の結果、成功をつかむ。ここまではよい。ただ、それを美談であるかのように報道するのはどうだろうか。非行には必ずそれに巻き込まれた人間がいることを忘れてはならない。直接の被害者だけではなく、彼(彼女)が直接間接の原因となって人生を誤ったり、酷い目にあったりした人もいるに違いない。※もし、大阪市が、難病、障害、事故あるいは犯罪被害などを克服して弁護士になったような人を登用したというのであれば、これは文句なしに素晴らしいことだと思うだろう。しかし、非行体験のある弁護士が、かえってその体験故に、要職に登用される機会を持つということには、どうにも割り切れない思いがするのである。※彼女にかぎらないのであるが、日本の社会はどうも犯罪や非行体験のある者に対して寛大である。あの地下鉄サリン事件の後、多くのオウム真理教の元信者という人が評論家然とした様子でマスコミに登場していたのは記憶に新しいし、犯罪や非行の体験を手記にして出版する人も多い。作家になる近道は犯罪を行なうことではないか…なんていうのは悪い冗談にしても、それだけこの日本は懐の深い社会であるということなのだろう。それにしても、元オウム信者の方がTV等でオウムでの修行はよい体験であったと語ったり、欧州での日本人拉致に関与した元スナック店主の八尾恵がその著書で工作員体験によって様々な国に旅行できてよかったなどと書いていたりするのをみると、正直いって「なんだかなあ」という感もするのであるが…。非行体験を立派に克服して弁護士や関取になった元非行少年少女に拍手を送るのはよい。ただ、それと同時に、声をあげることはないかもしれないが、彼彼女の非行行為による被害者も、きっとこの社会のどこかにいることを忘れてはならないと思う。
2003年12月22日
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「内容なんか誰も聞いていないよ。ただ、スライドがあったとか、パネルがあったとか、そういうのは印象に残るから、何か話すときは必ずそうしたものを用意した方がよい。」ある尊敬する人から昔こんなアドバイスをいただいたことがある。それで、何かを人前で話すときは、必ずOHPというのを使うようにしていた。字の書いてある透明なシートを光にあててスクリーンに映すあれである。最近では、パワーポイントという便利なものも普及してきたので、いろいろなプレゼンテーションをみていると、どうも主流はこちらに変わりつつあるようである。※ひさびさにプレゼンテーションをやる話があったとき、せっかくなので、このパワーポイントを使うこととした。やってみるとこれがけっこう面白い。スライドのデザイン、色調も変化をつけることもできるし、アニメーション機能もあって文字の出し方も様々である。高度なテクニックとなるとBGMをつけることもできるそうである。もっとも、この機能、作成過程で試してみてあそぶのはよいが、本番ではあまりこらない方がよい。うっかりしてスライドをとばしたり、アニメーション機能を使ったはよいが、文字を出し忘れたり…ということがあるので、初心者はスライドの数も少なめで単純なものにした方が無難である。※また、パワーポイント大流行の時勢だけれども、本当の意味で説得力のあるプレゼンテーションというのは、かえって黒板とレジュメという昔ながらの手法のものが多いのではないか。表面的な説明をスマートに行うのなら、パワーポイントは便利だが、説得力を持たせようとすれば、いずれは古典的な方法に戻っていくような気がする。そして、それができるためには話すことを裏づける豊かな知識、経験そして情熱が必要なことはいうまでもない。※何ヶ月も前から気になっていたプレゼンテーションがやっと終わった。あ、別に買収をしていたわけではないのだけれども、聞いた人の反応もアンケートの数字でみるかぎり、まあまあでほっとしている。中には、結構仲良くなった人もいたので、情にほだされて好意的な評価をしてくださった面もきっとあるにちがいないのだけれども。ひきうけたときは気が重く、準備もけっこう時間がかかったが、今にして思えばやってよかったし、機会があれば、またぜひやってみたいものである。ものを書くときはだいたい5倍、話をするのは20倍・・・といつも思っている。よいものを書くには実際に書くことの5倍、よい話をするには実際に話すことの20倍くらいの中味が必要なのではないか。話としてでてくるのは、ほんの上澄みで、それが高くなるためにはやはり裾野、それを裏づけるものが必要である。それだから話をすることは、なによりも自分にとってのよい勉強になる。
2003年12月21日
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電車の中でなにやら大声で独り言をいう人物がいたため、次の駅でそっと降り、別の車両に移ったなんていう経験は誰にでもあるだろう。そうした人は妄想にかられて何をするかわからないし、やはり傍にいるのは気味が悪い。そしてまた、世の中には、実際、そうした不審者にからまれるなんていうこともある。この間、新聞を読んでいたら、幼児連れの母親がそんな不審者におどされたという話が載っていた。暴力こそなかったが、周囲に大勢いた乗客は誰も助けてはくれなかったそうである。これはたまたまその女性が記者の妻だったから新聞に載ったのであり、似たような話ならいくらでもあるだろう。※体感治安は確実に悪化している。子供達に、悲鳴をあげる訓練(なんでも腹の底から声を出さないとだめらしい)をさせたり、防犯グッズとしてブザーを配ったりしているところもあるらしい。しかし、悲鳴といい、ブザーといっても、それを聞いた周囲の大人が何もしなければ意味がない。電車の中の不審者の例同様、今の世相では多くの人が見て見ぬふりをするのではないか。いくら人が大勢いても、これでは砂漠の真中と同じである。※学校への不審者侵入事件が続き、学校の安全管理が問題となっているが、本当に問題なのは学校なのだろうか。学校は、その性格上、保護者を始め、様々な人間が出入りする。厳重な警備といっても限界があるし、また、悪意をもった侵入者なら、学校の警備などものともしないだろう。精神異常者が学校に侵入し生徒に危害を加えた事件があったら、その主な原因は侵入を許した学校というよりも、何度も入院をくりかえしていたような男が自由に刃物を購入し、行動できたということにあるのではないか。学校の責任ばかりを追及しても不毛のように思う。ことはそうした異常者と社会がどう向き合うかということである。※最近の学校侵入事件の中には、若い女性教師が犯人の腕を必死におさえたため事無きをえたという例がある。女性教師の行動は立派だが、もしこのとき、加勢の教師がこなかったら一体どうなっていたのだろうか。彼女自身が被害をうけた可能性だってきっとあったのではないか。安全対策という面で考えれば、教師が素手あるいはモップなどで犯人に立ち向かうなんていうことは前提にしない方がよい。もちろん犯人をとりおさえた教師は立派であるし、十分に顕彰すべきことであるが、だからといって、不審者が侵入した場合、教師は身をていしてでも犯人をとりおさえるのが当然であると考えるのは間違いというものであろう。
2003年12月20日
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中国での集団買春事件で容疑者の日本人が国際手配されたという。買春がけしからん行為であることには異論はないのだが、単純な買春は、多くの国同様日本では犯罪としていない。また、仮に犯罪としている国があったとしても、買春は、一応は商行為を前提としているという意味で、強姦などとは全く異質の犯罪である。売春をさせるための人身売買とかそうした犯罪ならともかく、買春で国際手配…ということに、そもそもすごく違和感がある。※日本人の買春容疑者を中国当局が国際手配をし、中国の国営通信は顔写真まで報道したという。これが他の国ならどうだっただろうか。仮に買春を行ったのが、アメリカ人だったら、フランス人だったら、中国当局は同じ反応をするだろうか。また、仮に同じようなことを中国がやった場合、アメリカやフランスだったらどう反応するのだろうか。思うに、どうもこのようなことは買春を行ったのが日本企業、それも中小企業だから起きたのではないか。言葉はなんだがスケープゴートである。日本から中国をみると、悠久の文明大国というイメージが強いが、中国も、また、北朝鮮や韓国同様、徹底的な反日教育を行い、反日で体制への不満をそらし、求心力を保っている国であることを忘れてはならない。どうも、この前の留学生の寸劇事件といい、この種の騒ぎが、日本国内で中国人犯罪が大報道されている時期と奇妙にシンクロしているようにみえるのは考えすぎなのだろうか。そして、また、もし、アメリカ人やフランス人の買春者に対し中国が同じようなことを行なった場合、それに対する反応も日本とはかなり異なったものとなったのではないか。買春が下劣な行為であることは間違いないが、買春容疑者が国際手配し、顔写真まで報道されたとなれば、放置しておけば、本人だけでなく、一国のイメージダウンにもなりかねない。抗議すべきことはきちんと抗議するとともに、対抗措置的に自国内の中国人の同種犯罪についても同様の措置をとるかもしれない。※それにひきかえ、日本の外務大臣。先の留学生寸劇事件では、自国民(寸劇とは無関係の女子学生もいた)が暴行を受けたというのに、怒る気などはさらさらなく、逆に被害者である留学生を「無知」だといって非難してやまない。今度の買春事件でも、「買春は女性の尊厳を損なう行為」と買春を行なった者のみを責める。こうした態度は、もしかしたら国際的にみても極めて異例なのではないのだろうか。「普通の国」とは、単に軍隊を持つ国だけをいうのではない。国家として国民を守るために毅然とした意志を示せる国である。
2003年12月19日
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100戦100勝ならぬ100戦100敗の競走馬ハルウララが人気を集めているという。どうも時代を映す正真正銘のヒーロー(ヒロイン)がいなくなると、ちょっと毛色の変わったのが人気を集めるところがあって、もしかしたらハルウララ人気も真のヒーロー不在の競馬界の象徴なのかもしれない。いっちゃ悪いが人気低落の著しい相撲界の高見盛人気と同じである。競走馬は引退しても主牡馬や肌馬として残れるのはわずかで大抵は「乗馬」となる。日本にはそんなに乗馬クラブがあったっけ…なんて思うむきもあるかもしれないが、実はこの乗馬というのは、大抵が食用になるということらしい。ハルウララもあれだけ有名になれば食用だけは避けられそうで、そういう意味では幸運なのかもしれない。競走馬だって好き好んで走っているわけではないし、競馬がときに動物虐待であるといわれるゆえんである。※動物虐待といえば、ペットブームの裏にもそんな問題がある。かって大型犬がブームだった頃にはやたら大型犬が目につき、最近では小型犬ブームとかで、街で会う愛犬家の犬も小型種が多いようである。あの大型犬達はどこへ行ったのだろうか。こうしたペットブームの蔭で、実はかなりのペット犬が殺処分されているという。犬といえば10年以上の寿命がある。でも、犬を飼うとき本当に自分の人生の10年をこの犬とともにすごすつもりで飼い始めるという人がどのくらいいるのだろうか。犬だけではない。ハムスターでも二~三年の寿命がある。まあ、あまり深く考えるとペットなど飼えないのだが、それにしても安易に飼い始める人が多すぎるのではないか。もしかしたらペットショップで売られているくらいの頭数の犬が殺処分を待っているのかもしれない。これから高齢者夫婦だけの世帯や一人暮らし世帯が増えていくことを考えると、孤独をなぐさめるペットの需要はますます増えるのだろうが、せめてペットを飼い始めるという人は、ペットショップではなく、殺処分を待つだけの犬から選んで引き取るようなことができないのだろうか。もっとも、こんなことをする人ばかりになればペットショップの方は困るのかもしれないが。
2003年12月18日
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昨年帰国した拉致被害者のところに子ども達のビデオや写真が届けられたという。北朝鮮当局が、別に好意で、こんなことをするとは思えない。理由はおそらく…被害者達に対するおどしと口封じであろう。そんなにも隠しておきたい「真実」とは一体何なのだろうか。そして、いつまでこんなことが続くのか。子供達の中には前回に引き続いて写真に入っていない子供もいるという。悪い想像をしても仕方がないのだが、事態は一刻の猶予もできないのではないか。経済制裁を実行するとともに、世界食糧計画などの国連の機関に対しても「人道援助」については最低限被害者の子供達の帰国と交換条件にするように働きかけることが急務であろう。いつまでもコメじいさんやレインボーブリッジのような輩を野放しにしておくわけにもいかないのである。問われているのは日本国のあり方である。※朝日新聞などはフセイン拘束後も混乱は終息しないことを強調したいようであるが、すでに株価はフセイン拘束を受け、好意的に反応している。言い古された感があるが、フセインがつかまった状況についついあの麻原の逮捕を思い出した人も多かったのではないか。雪隠詰のような状況も似ていれば、命と金に執着していることもそっくりである。イラク問題と北朝鮮問題は実は深いところでつながっている。米国がイラクで手をやけば、北朝鮮には融和的にはならざるをえないであろうし、逆にイラク情勢が落ち着けば北朝鮮に対する選択肢が増える。拉致問題だけではない…核兵器の脅威も生物、化学兵器の不安も、日本にとっての解決策はあの体制の崩壊しかないのではないか。
2003年12月16日
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日本と韓国そして日本と中国の間でもよく「歴史問題」が政治的なテーマとなるが、中国と韓国との間にもそうした歴史問題がもちあがっていることを御存知だろうか。歴史…といっても近現代史ではない。はるか昔の高句麗史の話である。というのは、最近、中国で、この高句麗史を中国史に編入して解釈しようという動きがあり、これに韓国が反発しているという。最近でも与野党の議員25名が「中国の歴史歪曲中断要求」決議案を国会に提出したそうだ。おそらく、今の時期、中国のこのような「歴史歪曲」には、北朝鮮崩壊後のことが視野にあるとみて間違いないであろう。つまり、中国は、崩壊後の北朝鮮の領域を中国に編入することも念頭において、高句麗史を中国史の一部として言い始めているのである。いうまでもなく、高句麗は朝鮮半島北部、今の北朝鮮の領域と重なる。※北朝鮮が崩壊した場合、普通に考えれば、東西ドイツの統一のように、同族国家の韓国が、吸収するとみるのが素直なのかもしれない。ただ、南北朝鮮の統一には、かっての東西ドイツの統一の何倍もの問題がある。まず、北朝鮮と韓国とでは、経済力も生活水準も、かっての東西ドイツ以上の差があること。現実問題として、韓国人が豊かな生活を捨てて、北の同胞の面倒を積極的にみるつもりがあるとはどうも思えない。次に、南北朝鮮は、東西ドイツと異なり、同族間で殺し合いを行っていること。旧東独がいくら抑圧的な体制をとっていたとはいえ、日常的に人が処刑されたり、収容所に送られていたわけではない。東西ドイツがいくら対立していたとはいえ、実際に互いに殺戮を行ったわけではない。これに対して、朝鮮戦争では同族殺傷が徹底的に行われているし、北朝鮮の恐怖政治も東独の比ではない。こうしたものをのりこえて、統一国家として出発していくことは、実際にはかなり難しいのではないか。※こんなふうに考えていくと、いくら韓国が高句麗史の中国史編入に抗議したところで、21世紀の高句麗史、つまり北朝鮮崩壊後の半島の北半分の歴史が中国史の一角となる可能性は、実は十分にあるのではないかと思う。※※以前の日記で、丸腰の相手は襲わない…という「日本的美意識」について書いた。もう一つ、日本的美意識には「自分の受けた被害をグチャグチャといつまでもいわないこと」というのもあるのではないのだろうか。でも、国際社会では、被害についてもきちんと主張すべき点は主張した方がよい場合が多い。第一次湾岸戦争では、日本はどこに国よりも多くの国民を「人間の盾」としてとらえ、彼らの解放はどこの国よりも遅れた。まあ、全員無事に帰還したし、当事者にしてみれば思い出したくもないことかもしれない。しかし、これからはじまるフセインの国際法定では、これもきちんと主張した方がよい。現在、そしてこれからも海外で活動するであろう多くの同朋のためにも…。
2003年12月15日
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日曜日の夜に突然とびこんできたフセイン拘束のニュース。映像でみると確かに本人に似ている。フセインの指紋くらいは当然とってあるだろうから、本人かどうかは早晩確定するだろう。まあ、サッカーのビッグイベントを中継していたテレビ局は災難ではあったが、これが治安の安定に結びつけば、よいニュースである。自衛隊員の派遣が避けられないのなら、やはり、何とか無事に帰ってほしいと願うから…。それに、もし自衛隊員に死傷者がでた場合、それみたことかと囃したてるマスコミや待ってましたとばかり政治抗争に利用する政治家が必ずいるだろうが、そんなものは見たくもない。治安回復と自衛隊員全員の無事帰還…これが実現したら、これもやはり小泉総理の強運というものであろう。このフセイン逮捕については勝谷誠彦氏がHPで面白いことを書いている。国際情勢は複雑怪奇、考えすぎれば難にでも陰謀論的解釈はできる。フセインもとうに身柄は確保していたけど、今の時期にあえて公表したという。そうなると、フセイン拘束と治安回復は全く関係なくなるが、さて真相はどっちなのだろうか。※※今朝の産経新聞長官にAID(非配偶者間人工授精)児のハルさんという人の記事が載っていた。ものごとには、その立場でなければわからないことが実に多いし、AID児の悩みというのも、おそらくはそういうものなのかもしれない。ただ、それを承知であえて言おう。考えてもみるがよい。人は生まれたときから様々な星の下に生まれてくる。障害を負って生まれるものもいれば、先天的な病に苦しむものもいる。また、実の親でも子供を遺棄したり虐待をしたりする例だってある。そうした中で父親とは「遺伝子」がつながらないとはいえ、望まれて生まれてきて、人並み以上の才能も授かり、教育もつけてもらった。人の世の様々な不運、悲しみの中で、AID児であること、父親と遺伝子がつながっていないことが、それほど「不幸な」ことなのだろうか。※新聞記事によると父親は遺伝性の病気で重篤な症状であるという。私はついついこの「父親」のことを考えてしまう。自分が原因で子供を持てないと知った時の哀しみやそれでも妻の願いに応えて人口授精を決意するまでの悩み。そして子供一人を育てるための苦労。養育や教育の費用捻出のために、好きな趣味や付き合いをがまんしたことが、この父親にもきっとあったはずだ。そしてまた、「遺伝子がつながらない」とはいえ、賢く成長する子供を誇りに思ったことだって、きっとあったにちがいない。ハルさんは、いろいろ考えた末、この父親は父親ではないという結論に達し、今では連絡を絶っているという。これをどうこういうつもりはないが、父親の身になって考えるとなんとも惨い話である。
2003年12月14日
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イラク問題に世間の耳目が集中することにより、北朝鮮による拉致問題の風化が懸念される。拉致事件の被害者は決して生還した5人だけではない。100人を超える被害者が、おそらくいるであろうこと、いまなお監視下の生活を強いられたり、場合によっては殺害されたりした人もいるかもしれないことを、どうして、もっと重く考えることができないのだろうか。イラクでテロに遭った二人の外交官の死を悼むのなら、それと同時にいまなお凍土に監禁されたり、骨になっているかもしれない日本人のことにも思いをはせてほしい。※早ければ12月中にも自衛隊がイラクに派遣される。実は日本にとっては、このイラク派遣の問題は北朝鮮の問題と表裏一体ではないか。ご存知のように日本は自国のみの防衛力は極めて貧弱である。したがって国防は米国に頼らずをえず、日米同盟は、日本の生命線である。そして日本の国防に今一番脅威を与えているのは北朝鮮。自衛隊はイラク復興のために、イラクの人々のために派遣されるのではない。日米同盟の強化維持のために、日本の国防のために派遣されるのである。※そして、だからこそ、自衛隊に死者がでたときの反応が懸念される。「それ、みたことか」とばかりに、悲劇を政治闘争に利用したがるクズ政治家も必ずいるであろう。でも、一人、二人…と死者が累積するたびに、世論は沸騰し、そうなると結局は自衛隊を撤退せざるを得なくなる可能性が大である。自衛隊の撤退はイラク情勢全体に影響を与えることとなるであろうし、そうなると、米国の日本に対する不信と侮蔑は頂点に達し、六カ国協議での米国の態度にも、必ず反映されるであろう。米国が強硬な姿勢を変えれば、六カ国協議は中国、ロシア、韓国そして日本外務省内の北朝鮮融和派の主導するところとなり、核放棄の見返りに巨額の経済支援を行うことになる。その請求書の大半を支払うのはもちろん日本である。※念のためにいうが、北朝鮮との国交正常化は拉致事件の解決には全く資するところはない。日本の事業者やマスコミ、そして役人はピョンヤンの街を(監視つきで)闊歩できるようになるが、そうなると拉致被害者達は、田舎に隠されるか抹殺されるかするだけだからである。拉致事件を解決しようとするのなら、体制崩壊も視野に入れながら、経済制裁や国際機関への援助停止の働きかけなど強い態度ででるしかないのではないか。※自衛隊を派遣したはいいが、その自衛隊に死者がでてもイラクに踏みとどまるということが確約できない以上、日本としては、やはり自衛隊を派遣すべきではない。自衛隊派遣以外で日米同盟をそこなわないような方策を模索すべきではないのだろうか。日本が軍隊をもてない国になったこと…そもそも、その遠因は、米国の占領政策にこそあるのだから。
2003年12月13日
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前々から朝日新聞の投書欄は幼稚な意見が多いと思っていたのだが、今朝の産経新聞で曽野綾子氏がコラムで同趣旨のことを書いていた。ここで「幼稚」だとして槍玉にあげた投書は二つ。一つは空き巣に入られて警察に届けたところ被害者なのに指紋をとられて不愉快であったというもの、そしてもう一つは自衛隊を丸腰で送ればかえって安全ではないかというものである。前者の投書については、普通の大人なら、犯罪捜査のためには家人の指紋をとることが必要だということくらいは、すぐ分かるのでふれない。ただ、後者の、「丸腰ならばかえって安全」というのは、自衛隊のイラク派遣だけではなく、様々なところにでてくる議論で要注意である。※「非核国には最初の核攻撃を加えない」という国際規範があるから、核を保有しない方が安全という議論もこの類であるし、もっと壮大な例では、日本国憲法9条そのものが、国家をあげての「丸腰かえって安全」宣言ともいえる。日本古来の美意識には、確かに丸腰の相手には危害を加えないという掟がある。「武器を持たぬ百姓は切れぬ」こんな言葉は時代劇ヒーローの決り文句であるし、実際にもこうした感覚を持つ人は多かったのだろう。しかし、日本にそうした美意識があるからといって、それが人類共通のものだとは限らない。世界史をちょっと学べば、いたるところに異民族同士の血みどろの抗争や専制君主の暴虐がこれでもかこれでもかとでてきて、いかに世界が日本的美意識とはかけはなれた原理で動いてきたかは一目瞭然である。あの産経新聞のコラムでは、そのあたりのことを冷然と指摘している。今のイラクに丸腰の集団を送れば、あっという間に殲滅され、また、それに拍手喝采する勢力がある…と。※投書欄だけではない。朝日新聞には、ときどきニュース価値についての感覚がずれているのではないかと思わせる記事が掲載されることがある。自衛隊員を恋人に持つ女性がたった一人でイラク派遣反対の署名運動を始めた記事などがそれである。一人あるいは数人でさまざまな署名や主張を行うことなど世の中にはいくらでもある。これはニュースの名を借りた朝日新聞の主張ではないのだろうか。以前の日記にも書いたが、私は自衛隊の派遣には疑問である。自衛隊は国営の武装集団かもしれないが、軍隊であるとはいえない。つまり軍隊として最も本質的なもの…国家に対する献身と引き換えに与えられる誇りとか名誉とかいったものがないからである。そうした集団を、いかにも命を金で買うとばかりに報奨金をつりあげて戦地に派遣することは残酷というものであろう。また、死者はでて撤退するようなことがあれば、初めから派遣しないのに比べても何倍も国益を損なう。ただし、こういう派遣への疑問は堂々と主張すればよい。恋人の身を案じる女性の署名活動なんていうニュースにする必要がどこにあろう。それによく考えるとこの女性も変だ。恋人をイラクに行かせたくないのなら恋人同士二人で話し合えばよいことである。失礼を承知であえていえば、この女性、この間、川にとびこんで北朝鮮に亡命した女性と似たようなタイプの人なのかもしれない。
2003年12月12日
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「西太后」という映画の中で、西太后がライバルとなる妃の手足を切り落として生きたまま水甕に漬けたという挿話がでてくる。もし現在このようなことが行われたら犯罪となることはもちろんなのであるが、それでは刑期はどのくらいになるのであろうか。現行刑法では最高刑でも10年ときけば、誰しも軽すぎると感じるのではないか。※殺意がなく、実際にも生命を奪うような方法をとらなければ、どんなに重い障害を与えても、今の刑法では「傷害罪」にしかとえない。つまり、手足を切り取ろうが、目をつぶそうが、顔をつぶそうが、生涯寝たきりにしようが、殺意がなく、生命を奪わない方法を使えば、それは殺人未遂ではなく、傷害罪である。そして傷害罪の最高刑は10年。10年たてば、必ず犯人は五体満足のまま出所できる。考えてみれば、そんな変な話はない。刑法改正の議論の中で、傷害罪の最高刑を引き上げることが検討されているというが、当然といえば当然の話である。※また、この改正の議論の中では、強姦罪の法定刑引き上げや集団強姦罪の新設も検討されるという。ただ、この種の犯罪の場合、実際に警察に持ち込まれるのは氷山の一角である。法定刑の引き上げもさることながら、被害者が告訴によって二次被害を受けないようにする方策を講じることが重要ではないか。自分がもし犯人であると仮定すれば容易に想像がつくことなのであるが、この種の犯罪でターゲットになるのは、世間の偏見とは異なり、遊び人風の女性では断じてない。確実に犯罪を実行し、なおかつ処罰も免れようと思えば、おとなしくて真面目そうな非力な印象を与える女性を狙うに違いない。こうした女性だったら撃退される可能性は少なく、また、被害に遭った後も告訴をためらうだろうからである。治安を守るためには、なによりも被害者を世間やマスコミの好奇の目から守ることが望まれる。まずプライバシーの確保。そうしたことと比べると、聴取にあたる警察官が男性か女性かとか、法廷で証言をする際に付添いが要るか要らないかとかは、枝葉末節のことのように思われる。※このほか、強姦罪や強制わいせつ罪については、その条文の位置も再考すべきであろう。ご存知のように、刑法条文は、似たような性格の犯罪をまとめて規定しているが、強姦罪は、わいせつ物頒布や重婚とともに「わいせつに関する罪」として分類されている。しかし、わいせつ画の販売と強姦は、本当に犯罪として同じカテゴリーになるのだろうか。前者は社会の風俗に対する罪、後者は人身に対する罪である。同じカテゴリーに入れることで、かえって強姦罪の人身に対する犯罪という本質が見え難くなってしまっているように思われる。※刑法典は、もともとが明治の時代に作られた法律である。その当時に比べると、人の考え方も行動様式も大いに変わっている。全面的見直しは、むしろ遅きに失したのかもしれない。変える必要がある条項はまだある。監禁罪の最高刑が5年というのも実態に合わないし、こうした軽い刑罰は、もしかして精神病者を親族が蔵などに監禁することが「必要悪」として容認されていた時代の遺物なのかもしれない。これなども早急に見直すべきであろう。
2003年12月11日
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ずっと準備に気が重かったプレゼンテーション。でも、あせって用意をしているうちに楽しみになってくるから不思議だ。結果はともかくとして、やるだけやれば仕方がないのかなあ。※ニュースの中心がイラクに移っている間にも、六ヶ国協議は水面下で進んでいる。日本の新聞ではあまり報道しないのだが、北朝鮮の求める体制補償には経済支援も含まれていることは周知のところである。核兵器の放棄の代償として、気がついたら、「国交正常化」とよる巨額の経済支援を求められていたなんてことのないように、マスコミにはこちらの方もきちんと監視してほしいものである。※「平和的解決」に「経済制裁」も入らないのだとしたら、残る方法は経済支援というアメをあたえて当座の間は核兵器を放棄していただくという選択肢しかないことになると思うがどうであろうか。もとより話してわかる相手ではない。北朝鮮の崩壊をおそれる中国、韓国はそれでもよいのだろうが、そんなのは本当に国益に合うのだろうか。北朝鮮の脅威は核だけではない。かの国のミサイルが向いているのも日本なら経済支援で最も多額の金をだすことになりそうなのも日本である。外務省中枢に田中均など北朝鮮融和派が健在なことや、外交官の殉職で外務省に対する厳しい視線が変わってきたことで、どうも予断を許さない情勢である。
2003年12月10日
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今朝の産経新聞に面白いコラムが載っていた。現職の教師が書いていたかと思うのだが、選挙などの公約にも取り上げられた小人数学級について疑問を呈したものである。本当に40人学級より30人学級はよいのか。30人学級より20人学級はよいのか。たしかにこの筆者が指摘するように人数が少なくなればなるほど気の合う友人にであう可能性は少なくなる、なにしろ20人学級なら同性の級友は10人しかいないのだから。いや、友人だけではない。子供というものは、気の合わない奴、いやな奴からも学ぶことはあるものである。世の中にはこんな考えもある、こんな人間もいる…そういう体験も必要であろう。従って子供が多様な性格の級友の中に交じって成長するためには、クラスの人数は一定規模以上は必要である。40人というのは、もしかしたらクラスの規模としては最低限なのかもしれない。※さて、このコラムの面白いのはここからである。筆者は小人数学級礼賛に疑問を表した後、こういう主張は少子化で需要のなくなった教師のリストラ策ではないかという。そういえばかの学校5日制の議論も、実は教師の週休二日制の問題であったことは多くの人は気づいていた。そういうものに頬かむりした、生きる力だの地域での教育だのといった、いかにも子供のためであるかのような議論には辟易としたものであった。いわれてみれば、確かにこの小人数学級の議論も、本音のところは、教師のリストラ防止にあるのかもしれない。※現在、少子化によって多くの小中学校が統廃合され、空き教室も目立っている。教師もこのままでは仕事のない人もでてくるのかもしれない。だからといって教師をリストラせよというつもりはない。少子化の時代だからこそ、潤沢にいる教師やゆとりあるスペースを生かして手厚い教育をできないものかと思う。手厚い教育、それは、決してただ学級人員を減らすことではない。例えば副担任制…級友が多ければ友人を作りやすいように担任が複数いれば、子供の立場からは自分と相性のよい教師にであいやすいのではないのだろうか。また、専科教員を考えると、街の語学学校などを考えるとわかるように外国語教育は小人数の方が成果があがる。英語の授業については、学級をいくつかの班に分けた上、複数の教師がつくやり方もあろう。数学なども、はじめから習熟度でわけると差別意識に結びつきやすいが、複数の教師がつき、分かる子と分からない子に問題毎に教えるといったやり方なら弊害は少ないのではないか。なんとなく小人数の学級がよいという固定観念にひきづられて議論するよりは、少子化の動向と教師が人員過剰になることをみすえながら、いかにそれを活かして子供達に充実した教育を提供するかを議論をした方が生産的である。
2003年12月08日
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このところ忙しくて日記も不本意ながら手抜きになっている。選挙後に社民党の悪口を調子にのって書いていたころはアクセス数も増えて喜んでいたのだが、最近はまた手抜きがひびいて来てくださる方の数も落ち着いている。実は今週プレゼンをやらなくてはならないのだが、実は私、書くのは大好きなのであるが、人前で話をするのは大嫌いである。言葉が続かなくて立ち往生するのが怖いので、かならず棒読みできるような原稿をつくるのだが、そうなればそうなったで棒読みだと非難される。本当に難しい。最近は、パワーポイントなどという便利なものができていて、ぜひ、この利器を使おうと思うのだが、これも使ってみると奥が深い。スライドのデザインを変更したり、アニメーションを試したり…こんなことばかりやっていると、なんとなく仕事しているのだか遊んでいるのだか区別がつかなくなってしまいそうである。そんなこんなでこの山を越すまでは、なかなか他のことに熱中する気にもならないし、とてもじゃないが、年賀状書きやクリスマスどころでもない。そうはいっても、時は流れ、今年も追い立てられるように暮れていく。※2004年。21世紀も4年目に入る。昔憧れていた21世紀というのは、もっと明るい時代だったような気がする。そういえば、あの頃って、人類は間違いなく民主、自由、平和という普遍的価値に向かって歩んでいると思っていたし、科学の進歩は間違いなく人々を幸福にすると信じていた。今にして思えばどうしてそんなふうに思っていたのかまったく不思議である。※※「外務省」葬で川口外務大臣は、二人の外交官の死に全身で悲しみを表していた。でも、そんな大臣にぜひ聞きたい。そんなにも国際テロを憎むのなら、なぜ大臣は、もうひとつの国際テロである拉致事件には冷淡なのだろうか。流山市ではクリスマスツリーを拉致事件被害者の無事と生還を祈るブルーリボンで飾ったという。自治体単位では、様々な動きがあるのに、外務省や国単位では、どうも動きが鈍いような気がする。拉致被害者の無事と生還を祈って…私ももちろんその趣旨には賛同する。ただ、いやな想像であるが、やはり全員が全員無事とはとても思えない、殺害された人もいるのではないかという疑念を払拭できないでいる。そうだとしたら、そんなもう一つのテロの被害者達も、一刻も早く遺骨を故郷に戻し、イラクで亡くなったお二人のように、国をあげて弔意を表する場を設けるべきではないのだろうか。遅々として進まない経済制裁。野放しの民間団体による「人道援助」や送金。こうしたことには、多くの人がいらだちを感じているのではないのだろうか。いずれ、北朝鮮によるもう一つの国際テロに対してもまともな国家としての毅然とした対応がとられ、外務省は無理でも官邸にブルーリボンが掲げられる…なんてことを考えるのは、それは無理なことなのだろうか。
2003年12月07日
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イラクにおけるテロで生命をおとした二人の外交官の外務省葬がテレビで中継されていた。亡くなられた二人の方は識見、能力ともに傑出した方で、本当に家族のみならず、国家にとっても痛恨のきわみである。ただし、もし、外務省が、この方々を日本外交官の象徴のようにしたてることで、昨今の外務省に対する厳しい風当たりを沈静化させようとしようとするのであれば、それは筋違いというものであろう。※白菊で飾られた二人の写真を中心に式は悲しみのうちにも粛々とすすんでいったが、この映像をみながら、つい、思いは「もう一つの国際テロ」の方に向ってしまう。いうまでもなく、北朝鮮による拉致事件というテロである。一説によると被害者は数百名に達するともいわれるが、こうした被害者の中には、はたして、殺害された人はいないのだろうか。もちろん、皆無事に生きていればそれにこしたことはないのだが、もし、殺害された人がいた場合、その人達についても、イラクのテロの犠牲者同様、こうして哀悼の意が表せられる機会は来るのだろうか。真相が明らかになり、被害者の中に死亡した方がいるのだとしたら、ぜひ、総理以下閣僚出席の下で、そうした被害者のためにも、このような追悼式典を行い、国家として悼みを共有すべきであろう。そのためにも、拉致事件については、やはり、一日もはやく真相が明らかになる必要がある。もし、死んでしまった人がいて、そのことについて誰知られることなく、遺骨すら帰還できないというのでは哀しすぎるから…。※イラクで非業の死をとげた外交官二名の「外務省葬」行われている。でも、その外務省は、いまだに北朝鮮との国交正常化を省をあげての目標とし、長い年月、拉致事件被害者を見殺しにしてきた組織でもある。国民の目が二人の外交官の悲劇に集中し、論争の中心がイラクへの自衛隊派遣の是非に集中している今こそ、「拉致事件」というもうひとつの国際テロの被害者達のことを忘れてはならないし、そうした拉致事件解決の手段として考えられている経済制裁法案の行方についても、より一層、注視していかなければならないのではないか。
2003年12月06日
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憎しみは憎しみしかうまない…こんな言葉にもし真実が含まれているにしても、それが説得力をもつのは、この言葉が憎しみをもつことが正当化される立場の人間が言ったときのみであろう。なによりも被害者自身や、その親、そんな人々が、悲しみをたたえながらも、憎しみの連鎖を絶ちきる決意をしたら、世の人は大いに感動するであろう。もっとも、そうした例は、私の知るところではローマ法王が暗殺未遂犯について許すといったということくらいなのだが。逆に、そんなすごい言葉であるからこそ、この言葉を、自らが被害をうけたわけでもない第三者や傍観者がいうのは偽善であり、無責任というものであろう。感傷的な死刑廃止論や情緒的な平和主義に、いつも感じるうさんくささはここにある。優しさ故ではなく、他者の痛みに鈍感であるがゆえに、こうした言葉が吐けるのだ。※だから、もし、こんな言葉を第三者どころではない、あろうことか犯人の身内が言ったら、それはもはや偽善を超えて暴言の域に達するのではないのだろうか。韓国のノムヒョンは、森前総理にあって、「拉致事件については、日本人にとって不愉快な結果になるのかもしれないが、憎しみは憎しみしか生まない。だから日本も核問題については、平和解決に協調してほしい。」と日本の対北朝鮮経済制裁の動きをけん制したという。この発言もどうやらこの類であり、強い違和感をもった。http://www.mainichi.co.jp/news/flash/kokusai/20031205k0000m030098000c.html 今まで、戦前の彼らにとっての「不愉快なこと」を、国際舞台などでもさんざん喧伝し、「憎しみをかきたててきた」のは韓国や北朝鮮ではなかったのか。そうした今までの自らの言動には全く触れずに、「拉致問題での不愉快な結果」(何であるかはあまり考えたくもないのだが)について、「憎しみは憎しみしか生まない」云々と説教まがいの言説を吐くのは、全くこっけいであるし、これを黙ってきいていた前総理も前総理である。※もちろん韓国にとって北朝鮮の崩壊が脅威であることは想像に難くない。吸収統一の負担をおうのは韓国であるし、日本の経済制裁の動きをけん制してきたということも、それだけ経済制裁が北朝鮮にとって効果があるということの裏返しであろう。ただ、そこで偽善的な言説を吐くのはいかにもいただけない。実際のところ、ノムヒョンは、こういうべきではなかったのだろうか。「もし拉致事件が日本人にとって不愉快な結果になったとしたら、同じ韓民族として深くお詫びしたい。人類は二つの大戦を経て植民地主義や人種差別を正当化するような価値観とは決別しており、植民地主義が正当化されていた時代の被植民地国の人々の苦難と、第二次大戦後に、平和な国で普通に暮らしていた若者が受けた苦難とはとうてい同視しようもないものである。なぜなら、前者は、過去の一時代、アジア、アフリカの多くの国で普通にみられた歴史上の出来事であるが、後者は、全く異様な世界史でもあまり例もない事件であるからである。いわば、国家の行った単なる犯罪行為である。日本が経済制裁を考えるのは全く当然で、普通の国ならとっくにそうしていることなのだろう。しかし、私達の立場としては、それは少し待ってほしい。経済制裁は強力で、これをやると北朝鮮は崩壊するかもしれない。そうなったら同胞として彼らを引きうけなければならないのはわれわれである。この豊かな生活、あふれる車や電化製品、そして夜でも明るい街角…こんな生活を手放すことには、我が国民は耐えられないだろう。お願いだから経済制裁などしないでほしい。いや、それどころか、本音をいえば、あなた方の負担で巨額の経済援助をして、そして北朝鮮を支え、私達の吸収統一の負担を少しでもさきのばししてほしい。」※※川口外務大臣が国連にテロ非難決議をするようにはたらきかけているという。外交官が殺害されたのが「テロ」にあたるというらしいのだが…おやおや、テロには法的定義がないなんていったのは、どこの大臣だったのだろうか?
2003年12月05日
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その昔、中国の聖人孔子は、政治の要諦を問われて「近きもの喜び、遠きもの来る」と答えたという。この言葉は今でも古さを感じさせない名言である。地域の活性化や観光客の誘致を考えた場合に、その地域の者が「喜ばない」、つまり地域に愛着や誇りを感じることができないのだとしたら、どうして他所から人をよぶことができるのだろうか。豊かな自然でも文化的特色や歴史的遺産でもよい。その地域のよさを、地域に住む者が発見していくことが、地域おこしの第一歩であろう。※福島県喜多方市といえば、今では誰知らぬ者とてない蔵とラーメンの町である。そんな喜多方市でも、かっては駅前再開発のために蔵をとりこわそうとしたことがあるといえば、驚く人もいるに違いない。その蔵を救ったのは、ある日曜画家で、もとから蔵の立ち並ぶ街並みの光景が気に入っていたため、蔵を壊さないようにと市に陳情したらしい。やがて蔵の街並みが人気を博し、遠方から人が訪れるようになると、町に一軒しかないラーメン屋が大繁盛した。それが、麺と蔵のイメージを結びつけた喜多方ラーメンの始まりだという。この話、どこまでが本当かさだかではないが、蔵の立ち並ぶ街並みを愛する市民がいなければ、今日の全国区となった喜多方市はなかったであろう。※似たような話は他にもある。何もない、さびれた温泉町であった湯布院町を、何もない故に俗化していない温泉郷というイメージで売り出した経緯は、最近、プロジェクトXでも紹介された。また、過疎地指定の愛媛県双海町を、日本一夕日が美しいといって「夕日の立ちどまる町」として売り出した町役場の課長はその後、業界きっての有名人となった。このほかにも古い銀行か何かの建物を「黒壁のまち」として売り出した滋賀県長浜市や、出身の映画監督の作品で舞台につかわれたことをきっかけに坂道の景観で売り出している尾道市の例もある。いずれもあっと驚くほどのメジャーな名所や珍しいものがあるわけでもない、似たような景観や似たようなスポットを持つ町なら全国にいくらでもあるだろう。ただ、違うのは、おそらくそこに住む人がその地のよさを愛し、情熱をもって全国に発信したことである。※こういうお国自慢、地域自慢はやはりそこに住んでいる人だと説得力がある。そこに住んでいない、あるいは住むつもりのない人だとどうしても無責任になるからである。こんな話をきいたことがある。ある町に工場を誘致しようとしたら、自然保護を旗印とする反対運動が起こった。あまりの反対の激しさに工場はついに進出を断念した。それからまもなくして、反対運動の中心になって活躍していた青年も町を離れていった。町には確かに豊かな自然が残った。ただ青年が住むための働き口はなかったのである。
2003年12月03日
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気分を変える最も簡単な方法は、通勤経路を変えることではないのだろうか。名前は聞いたことがあるのだが行ったことのない街。経路変更には意外とそんな街と出合う楽しさがある。新経路は、錦糸町乗り換えとなるので、時間があるときには駅周辺の商店街も見て回れそうだ。目新しい景色と目新しい店…これでしばらくの間は通勤が楽しめそうである。※ハンセン病の宿泊を拒否した旅館の親会社の発言が物議をかもしている。反省していない云々はともかくとして、「県の説明が足りなかった」とか、「悪いのは県だ」という発言も問題視されている。当然である。旅館に宿泊するとき、病歴を説明する義務などはなく、ハンセン病だから説明する義務があるなんていうこと自体が差別というものであろう。もっとも、これと同様のことは、A新聞が社説の中でも書いており、私はどうもあの新聞社の「人権感覚」には疑問をもっている。この件では、旅館の対応自体の問題もさることながら、旅館の親会社にもいろいろと評判があるようで、それが、バッシングを増幅させていた面もあるのではないかと思われる。元患者の方々が、「元患者」としてではなく、固有名詞をもった個人として、自分の名で旅館を予約し、そして自由に旅行ができる日が一日も早くくればよい。紅葉、夕焼け、そして初冬の凛とした空気。感傷的なものいいであることを承知で、あえていえば、季節ごとに巡る自然の美しさは、もしかしたら大抵の人生の不幸を補ってもあまりあるのではないのだろうか。旅行し、豊かな自然にふれることによって、元患者の方々も、きっと生きていてよかったと思うこともあるに違いない。※マッチする つかの間 海に霧深し 身捨つるほどの 祖国はありや有名な寺山修二の短歌である。この「身捨つるほどの祖国はありや…」というのは、戦後の多くの人が共有してきた感覚ではないのだろうか。敗戦の焼け野原の中で、多くの人は国家のために死を強要されるのはこりごりだと思ったに違いないし、その感覚は、今なお多くの人に残っている。そして、戦後の道徳教育で一貫して唱えられてきた原理は生命尊重。つまり「人命は地球より重い」し、「この世に生命ほど大切なものはない」という価値観である。こうした価値観は、一皮むくと、生命をかけるほどの価値あるものなどあるわけがないという虚無主義と同根であるといえないこともないのだが、この「命有ってのモノダネ」という生命至上の考え方は、戦後の人々にとっては価値観のバックボーンといえるほどに浸透し、根付いている。生命をかけるものなどないし、ましてや国などのために生命をかけるわけにはいかない。多くの人がこう思っているのに、自衛官にばかりそれを期待するのは、そもそも無理というものではないか。
2003年12月02日
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昨日の日記で修正をしなければならない点がある。死亡された方について「ノンキャリア」だと書いたが、今朝の産経新聞を読むと、どうやらキャリア外交官のようである。同期に臨時大使がいるにもかかわらず、まだ参事官であったこと等から、なんとなくキャリアではないと思っていたが、早とちりであった。外務省の試験区分による待遇の差は、単なる試験区分による処遇の差を超えてカースト制度のような様相を呈しているという。だから、昨日、外交官が銃撃されたという報をきいたとき、すぐにキャリアかノンキャリアかが気になってしまったのである。おそらく、そのどちらであるかによって、外務省の反応は天地ほども違ってくるのだろうから…。※自衛隊派遣についても、今度の事件をきっかけに議論が沸騰するだろう。少し前までのように安全だから自衛隊を派遣するという欺瞞は通じない。派遣はしたものの死傷者がでたから撤退するというのでは初めから派遣などしない方がよい。自衛隊は国家の重要な使命のために派遣され、死傷した場合には、国家が十分にそれに報いると、胸をはっていえるのだろうか。「軍隊」とはただ単に国家によって維持されている武装された集団をいうのではない。国家のために生命を投げ出すことも義務付けられている代わりに、国家から最高の名誉と尊敬を与えられている集団をいうのである。だからどこの国の軍隊も、死傷者を出しながらもイラクに留まりつづけることができるのである。※そして危険なのはイラクばかりではない。東京でだってテロが行われる可能性は十分にある。この可能性は、自衛隊派遣の有無とはあまり関係がないであろう。テロリストにとっては、自分達の敵側で、脅しのきく相手でさえあれば、標的とするに十分だからである。今にして思えば冷戦秩序の崩壊とは、際限のない宗教民族の対立という、とんでもないパンドラの箱をあけてしまったのではないのだろうか。ノストラダムスの予言が二年遅れで的中しているようだ…なんていう笑えない冗談もあるくらいである。
2003年12月01日
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