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所信表明演説をきいてがっかりした。日本を強く元気な国にする。これってアベ総理の「美しい国」とどう違うのだろう。多くの国民の望んでいるのは強い国に住むことではない。貧困や長時間労働などの劣悪な労働環境をなんとかしてほしいということではないか。なぜこうした問題について語らない。※そしてまたミンシュへの質問にもがっかりした。総理としてあの場で質問をするのが適切かどうかの問題はさて置く。国連と日米同盟のどちらを重視するか。インド洋での給油をどう考えるか。それも国政の重要課題だろうけど、庶民の目線ではやはり貧困や雇用環境が最重要のテーマだろう。ミンシュはいったいどう応じるのだろうか。ミンシュも同じように貧困や雇用環境の問題にふれないのであれば、マスコミの囃す二大政党制なるものがますます怖ろしくなる。※いわゆる二大政党制でなくとも、政党政治の健全な形というのはあるのではないか。かって日本に社会党という野党第一党があった。結局政権はとれず万年野党と揶揄されていたが、社会党があったからこそ、与党も労働政策や福祉政策、公害対策などに力を入れてきたのではないか。そうした意味で社会党も政党としての役割をきちんと果たしてきたように思う。それにあの時代、社会党に政権が移らなかったのは、自民党政権下で徐々に暮らしがよくなっていったのを多くの人が感じていたからではないか。婚姻率も高く、家庭をもっているのが普通だったので、急速な社会変革を望まなかったということもある。豊かでなくとも楽しい我が家があり、アフターファイブのささやかな娯楽があれば、人はそうそう過激なことは考えないものだ。もし、この平成の世に昔の社会党のような政党があったらどうだろうか。オンナを売りし、憲法9条礼賛の平和念仏教、加害者の人権擁護大好きで拉致事件スルーの今のシャミンでは、本当にみるかげもない。
2008年09月30日
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NHKの政治番組をみていたら、しきりに「今度の選挙は政権選択選挙だ」とか「日本もいよいよ二大政党制の時代になった」と繰り返していた。ちょっと待て。選挙の争点を「政権選択」つまりジミンとミンシュの二者択一選挙にするかどうか。そして、二大政党制をよいものと考えるかどうかはNHKではなく、有権者が判断する。ジミンとミンシュは政策が変わり映えしないから勢い党首のイメージ選挙になる。二大政党制はよい面もあるのだが、変わり映えしない政党同士の二大政党は一党独裁と同じではないか。ジミンに不満があるからといってミンシュに投票すればよくなるというものでもないし、選択の自由を奪い、投票権を有名無実化する似たもの二大政党制などは御免こうむりたい。「一度はミンシュにやらせてみたら」というたわけた声も聞こえるが、一度ナチスに政権をまかせて痛い目にあった歴史の実例もある。まあ、これは、ミンシュとナチスが同じだというのではなく、失政であっても一度やればそれが既成事実化してとりかえしのつかなくなる場合もあるということだ。あの派遣業の自由化だって、一度導入すればもうそれなしでは企業経営ができない状態が出現したではないか。※人によって考え方は様々だが、これからの政治の争点は格差と貧困だと思う。今の市場原理主義の方向にどうすればストップをかけられるのか。ちょっと前までの世の中がそうであったように、普通の人が真面目に働けば幸福に暮らせるような社会にどうすればもどせるのか。とりあえず派遣業の規制についてどう考えているかあたりが試金石だとは思うのだが。ただはっきりいえることはミンシュが格差や貧困のストップをかける政治勢力だとはどうしても思えないし、弱者から選択肢を奪うような二大政党制がよいなんてとても思えない。米国の貧困層は政治から阻害されているといわれるが、その二の舞になってはならないのである。しかもジミンとミンシュは米国の共和党と民主党よりもさらに似たり寄ったりではないか。
2008年09月28日
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都道府県別の学力なるものが話題になっている。秋田県が高く、大阪が低いとか・・・。でてくるのは平均点のことばかりで、その高低だけが問題になっている。でも、ここで大いに疑問がわく。集団の特徴をみる場合、平均だけみても実はあまり価値がない。1、1、1、9の平均も3だし、3、3、3、3の平均も3である。同じ平均が3といったって、前者と後者ではまるで異質であるし、そうした中で平均はどっちが高いのなんのといったって仕方がないではないか。都道府県別学力といったとき、次の点が気になるのだがどうなのであろうか。※その1そもそも分布の形はどうなっているのだろうか。普通、学力テストのようなものだと平均あたりを山にして左右同じような形ができるものである。もしも右の裾の端(最上位部分)に比べて左の裾の端(最下位部分)が少なくなっているのであれば、サンプルの段階で何らかの人為がはたらいたとも想像できる。田舎の学校などでは、極端に成績の悪い子どもに対し、学力テストの時間だけ休むような圧力がかかったという事態もあるのではないか。想像のしすぎかもしれないけど・・・。また、知的遅滞児については普通学級で学ぶ方法と特殊学級で学ぶ方法とがある。特殊学級については学力テストの対象にはなっていないだろうから、この都道府県別学力順位なるものは実は知的遅滞児がどの程度普通学級で学んでいるかでかなり左右されているのかもしれない。※その2次に分布の峰の数はどうなっているのだろうか。小学校や中学程度の学力分布なら大体平均あたりに大きな峰が一つできる形になる。二つの峰となるのは高校あたりからで、これは異質なグループ(進学組と就職組など)の存在を暗示する。ところが昨今の社会情勢などをみていると、この異質化はすでに小学校あたりで始まっているように思うときがある。収入の低いカップルの間で出来ちゃった婚で生まれた子どもと、両親ともに高収入の正社員で教育熱心な家に生まれた子どもとでは、小学校段階でもかなり学習に対する意欲や能力が異なるだろう。そしてその中間、つまりそこそこのサラリーマンが専業主婦の妻をもって子どもを育てている家庭というのは昔に比べてずいぶん少なくなっているのではないか。こうした山が二つある分布が東京や大阪などの都市をかかえるところを中心としてかなりみられるように想像するけど、実態はどうなのだろうか。※都道府県別の学力の平均だけではなく、このような分布の特徴についてまとめた報道はなぜないのだろうか。平均だけを見て議論しているのをみると、すごく不思議である。※※蟹工船はブームというよりも社会そのものが蟹工船化していることの反映ではないか。一方の側に非正規雇用、プカレタリアート、ワーキングプアがいれば、もう一方には定期昇給、ボーナスなしの名ばかり正社員、過労死、職場の鬱がある。そして生活保護110万世帯突破、下がる賃金、自殺者3万人超の高止まり。ずいぶんと歩いてきたつもりが気がついてみると、いつの間にか最初の荒地に戻っていた。こんな感じだろうか。せめて8時間労働、残業規制、残業にはきちんと手当てのつく労働基準法くらいは守られる社会になってほしい。
2008年09月28日
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民主党が今度の選挙の公約に「子ども手当て」なるものを打ち出している。ネットを探すと、わざわざ法案まで作っているのだから本気なのだろう。いうまでもないが国家財政というものは打ち出の小槌ではない。どっかを出せばどっかを減らす。誰かの利益は誰かの負担ということである。※子ども手当ては子ども二人以上の世帯に一律に現金を支給するものらしい。所得制限なし。国籍要件もなし。国籍の方はともかくとしても、所得制限なしというのはどうなのだろうか。子どもを育てるには膨大な費用と労力がかかる。所得が少なくても、勤務時間が多すぎても、子どもを持つなんてとても無理だろう。従って「貧乏者の子沢山」なんてのは昔の話。今や某知事を見ればわかるように金持ちでなければ3人以上の子どもを持つなんてできない時代だ。ぎりぎり生活している人の税が優雅に子育てを楽しんでいるシロガネーゼやアシヤレーヌにまわる。これって極めてまずい施策ではないか。それでもそんなことなど考えず「これならおれっちの家にも現金が入ってくる。ミンシュに投票しよう。」なんていう人が世の中には多いのだろうか。どうもよくわからない。※報道では、もしこの子ども手当てを実施したら何兆円もの予算がかかるという。これだけのお金を使うのなら子ども手当てではなく、老人と同居している家庭に援助したり、介護労働者に支給したりする方が、よほど生きた金の使い方になるのではと思うのだが。※相変わらず新聞は次の選挙でジミン、ミンシュのどちらに投票しますかとバカな質問をしている。これではまるで投票先がジミンとミンシュしかないみたいではないか。はっきりいってミンシュの公約は「政権さえとればこっちのもの」という発想がみえかくれするえげつないものだし、政権に拘る姿勢も手段と目的を取り違えているとしか思えない。政権奪取というけど、それをするのは普通に考えれば投票する有権者だろう。それとも選挙後の政局での数合わせの離合集散の方に興味があるのだろうか。よく二大政党制や政権交代がよいという人がいるがそれは中味の問題だ。市場原理主義に軸足をおく政党と福祉や再分配機能に軸足を置く政党との二大政党ならともかくとして、ジミンと元ジミンの辣腕幹事長の率いるジミンもどき政党との二大政党では、庶民の選択肢は全くなくなると思うのが、どうだろうか。
2008年09月27日
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コイズミ総理が引退を表明したといってマスコミは大騒ぎだ。ジミンをぶっこわすといってさっそうと登場したコイズミ総理だが、彼が壊したのはジミンではなく日本社会ではないか。彼がおしすすめた新自由主義路線の下で、格差は拡大し、貧困層は量産された。普通の人間が真面目に働いて、結婚どころか自分の口も養えない。貧乏でも夢があるというのが、いつの時代にも若者の特権だったはずだが、夢もない、希望もない、「貧困の自己責任論」の中で自分を責めるしかない人間が増えているのが今の状況ではないか。※自暴自棄的な貧困層が増えれば、まずそれは犯罪という形ででてくる。昨日公判が開かれた「闇サイト殺人事件」はまさにそんなタイプの犯罪で、その土壌はアキバ通り魔事件と同根である。犯人はいずれも格差社会の底にいるような人間で、うち一人は車中ホームレスだったかと思う。犯人達はたまたまネットの闇サイトで知り合ったが、闇サイトがなくても、こういう連中が増えれば彼らが知り合う機会などはいくらでもあるだろう。だからこれは闇サイト殺人というよりも、格差社会殺人事件といった方が正しいのかもしれない。もちろんこう書いたからと言って犯人を擁護する気はさらさらなく、今後の同種犯罪を予防する上でも厳罰で臨むべきである。主犯については自首云々の議論もあるが、自首さえすれば刑を減刑されるという前例にしないためにも、やはり厳罰が望まれる。※犯人3人はいずれも40代の定職なし、低収入のその日暮らしの人間だった。よく知られているように今の30代以下では非正規雇用者や不安定就労者が非常に多い。彼らの一部はネットカフェを定宿にしたり、派遣会社の寮に住み込んだりしているが、親の庇護の下で暮らしている例も多い。そうした人々もいずれ40代になり、親も面倒を見切れなくなっていけば、どっと街にでてくるだろう。つまり、今後もこうした犯罪が増えていく土壌は十分にあるわけである。そして被害者の女性もやはり派遣社員で30代で母親と二人で暮らしていた。男女とわず派遣という働き方はここ数年急増している。彼女は仕事で遅くなり夜の10時頃ひとりで歩いていたというが、男女雇用均等法で女性の夜間残業もフリーになり、夜遅くまで働く女性も増えた。均等法はもともと女性の管理職を増やすという掛け声で導入されたかと思うが、現実に夜間残業をする人達は、自家用車で通勤したり、タクシーを気軽に使えるような人達ばかりではない。また、未婚化や晩婚化の中で、30歳を過ぎても、親と暮らすというのも普通の生き方になっている。犯人だけではなく、被害者となった女性の状況もまた今日的である。※※今の日本は大きな岐路に建っていると思う。米国式の競争礼賛の新自由主義路線をいくのか、ヨーロッパ型の福祉社会をめざすのか…。こうして考えた場合、ジミンの対案はミンシュしかないのか、二大政党制、それも似たような政党が政権を争うような二大政党制がよいのか、批判的な野党を育てることも必要ではないかとか、マスコミ報道に流されずによ~く考えてみることが必要だろう。ミンシュに一度やらせてみればなんていうことを言っている人もいるようだが、国政の重大性を考えると「一度やらせてみる」なんていう表現はあまりにも無責任。あの鳩ポッポに豆をまくようなデタラメ公約をみただけで不安でたまらなくなるのだが・・・。
2008年09月26日
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以前、次の選挙は「蟹・工・選・挙」だというようなことを書いたが、それは今も変わっていない。格差と貧困をどうするのか、市場原理主義をこのまま突き進むのか否かが真の争点だと思うからである。今の日本には非安定雇用や劣悪な労働条件が急速に広まってきている。そしてそれは今後さらに悪化する可能性もある。残業代ゼロ法案や解雇自由化法案。アベのときに顔をだした法案だって、選挙結果如何によっては再度でてくるだろう。背景には財界の強い要請があるのだから。渋沢栄一に代表される昔の経済人は自分の懐だけではなく、天下国家の利益を考えていたようだ。しかし、今の財界人は違う。あるのは自分の利益だけ。そんな財界の意向を受け、彼らの意にかなう施策を次々と行ってきたのが、ここ何年かの状況ではないのだろうか。累進税率の緩和や相続税の軽減など富裕層に有利な税制改革。中核社員以外は使い捨てできる労働法制の規制緩和。このままでは、本当に日本も少数の富裕層と大多数の貧しい大衆という途上国型の社会になっていくような気がする。本当にこうした方向でよいのか。それを決めるのが次の選挙ではないか。※そう考えるとマスコミのあおるジミン対ミンシュという構図も怪しくなる。ミンシュが本当に「格差と貧困」の増大にストップをかける政治勢力だなんてどうしても思えない。マスコミの情報操作や印象操作というのは本当に危うい。ジミンかミンシュか。批判層はミンシュにどうぞというばかりのマインドコントロール報道だが、ミンシュといったってもともとはジミン。そしてミンシュは郵政選挙のコイズミと同じ手、公務員に対する嫉妬心をあおろうとしてなんか官僚VS国民という図式をつくりたがっている。でもミンシュ元代表の岡田氏だってバリバリの官僚だったし、ミンシュの中には政界を転身先に選んだ華麗な官僚候補が綺羅星のごとくいるのも周知のとおり。だからミンシュの官僚批判ははっきりいって意味不明。まあ、ジミンかミンシュか、太郎か一郎かにかぎらずマスコミの報道はうさんくさいものだらけだけどね。消費税の議論だって、なぜ福祉削減か消費税増税かという二者択一になるのだろうか。消費税増税や「無駄遣い削減」以外にも、税収を増やす方法としては、累進税率の見直しや相続税の強化などの選択肢もあるはずだが、それにはなぜかふれない。また、消費税と一口にいうが生活必需品や食料品には別の税率にしている国も多いがそうした制度についても紹介も少ない。なぜなのだろうか。
2008年09月25日
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某政党の党首の言葉「格差がなく公正で、ともに生きていける社会を築く」と、その言やよし。でも、肝心の公約の方をみると格差是正については、中小企業に補助を行いながら最低賃金を引き上げるというだけで、きわめて中味が薄い。そもそも格差是正と言いながら、ワーキングプアの温床になっている派遣労働や長時間残業などの劣悪な労働条件については何も言っていない。そのかわりに眼につくのは、貧困層ではなく、中間所得層に対するバラマキ政策だ。子供手当て、高校大学の授業料補助、農家の個別所得保障、高速道路無料化。なんかとにかく政権がほしい、政権さえとっちゃえばこっちのもんだという意図が透けて見えるように思うのは気のせいだろうか。そういえば昔、「公約など大衆はすぐに忘れる」と言った政治家がいたような気がしたけど、あれは誰だったっけ。マスコミもいい加減、ジミンかミンシュかと、あたかもこの二つしか選択肢がないような報道はやめてほしい。ジミンに不満でミンシュに投票したら、その後は大連立でもっと酷い状況になることだって考えられるのだから。
2008年09月23日
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4年前に映画館でみて印象深かった「グッバイレーニン」を再びDVDで見た。共産主義体制にもよいところがあったのではないか・・・というのが、おそらくこの映画の底流にある感覚なのだろうが、あらためてみるとますますその印象を強くする。なにしろこの映画の圧巻はラストシーンの偽ニュース映像だ。ベルリンの壁崩壊などの実際の映像にかぶせこんなナレーションが入る。「本日も出世や消費生活以外の人間らしい生活を求め、無意味な競争から逃れるために多勢の人々が西からやってきました。社会主義の理念は門を閉ざすことではなく、手をさしのべることです。我々は西からの難民を受け入れることにしました。」社会主義建設に人生を捧げた母は死期が近い。そこで母の精神的安定のために、西が東を吸収するのではなく、逆に東が西を吸収するバーチャルな偽映像を主人公が見せる場面である。現実の歴史はなぜこうならなかったのだろうか。なぜ資本主義が勝利したのだろうか。そもそも資本主義の「勝利」がよいことだったのだろうか。はじめてこの映画をみた4年前もこう思ったが、今見るとますますその思いを強くする。※格差と貧困はますます酷くなっている。今や雇用者の3人の1人が非正規雇用で、年収200万円以下も1000万人を超えている。そうした人々のかなりの部分が、本来それで家計をささえなければならない30代や40代の人々だ。さらに、昨今では正規雇用者でもボーナスなし、定期昇給なしの「名ばかり正社員」が増えているという。少数の「勝ち組」を除けば、長時間残業や低賃金、不安定な雇用などの劣悪な労働環境がどんどん広がっているようでおそろしい。それこそ無意味な競争に疲れ、人間らしい生活を求めて壁を越えて行きたい人は日本にも多勢いるのではないか。※さらにこんな状況が悪化しそうな兆候もある。アベ坊ちゃんが政権の最後に画策した「ホワイトカラーエグゼンプション」とか、解決金と引き換えに解雇自由とする「労働契約法」の改正案を覚えているだろうか。前者はホワイトカラーの残業代をタダにすることで、さらに労働環境を劣化させる危険な法案だし、後者は正規雇用を非正規雇用化させるだけの法案である。いずれも背景には強い経済界の要望があるので、選挙結果によっては、こうした法案が再度でてくる可能性は大きい。その意味でも次の選挙は非常に重要だと思う。※さて、グッバイレーニンの話に戻る。東ドイツは監視社会の重苦しさはあったかもしれないが、社会主義圏では比較的豊かな生活を享受していた。だからこそこうした社会主義への郷愁を描く映画も生まれたのかもしれない。社会主義といっても国によって内実は様々だ。その意味でも共産化するとカンボジアや北朝鮮のようになってしまうぞみたいな言説はナンセンスといえよう。特に北朝鮮などは先祖がえり的な王朝国家で社会主義とはどうみても無縁だろう。歴史のIFをいっても仕方がないが、日本が戦後もしソ連の影響下に社会主義国家として出発していたらどうなっていたであろうか。比較的同質な社会。強い共同体意識や連帯感、それに組織への忠誠心。案外、東独以上の社会主義の優等生国家になっていたかもしれない。
2008年09月22日
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公務員が赤旗を投函して刑事事件となった「事件」をブログや日記の自由とからめて書いている人はそんなに多くない。しかし都会の集合住宅のポストに赤旗を投函した行為が刑事責任を問われるのであれば、ブログや日記に○○党支持の文章を書くのは、もっと「政治的行為」としての性格が強いのではないか。ポストに新聞を投函する行為はいわば機械的行為であるが、○○党支持の文章を書く行為はまさに政治的意見の表明であるのだから。※ポストに赤旗を投函した公務員を逮捕できるのなら、ネット上で政治的意見を表明している公務員だって探せばいくらでもいそうである。なにしろ「小女子を殺す」と掲示板に書いただけで逮捕者を出すくらいの警察のネット監視。そこまでだってやりかねない。この場合、本当に怖いのは自分は公務員でないから安心というわけにはゆかないことだ。刑法上の「公務員」の範囲というのは、普通の公務員よりもずっと広い。公的機関や団体なども公務員の範囲に入るし、役所から事務委託を受けているところの社員や職員だってたしか入ったかと思う。そして、公務員が刑事罰を科せられる行為ともなれば、民間のサラリーマンがやったって無事にすまないだろう。社員が○○党支持の文章をブログに書けば、公的存在であるわが社の政治的中立性が疑われたなんていうことで解雇事由にだってなりかねない。※こうなるとブログや日記はすっかり萎縮し、誰も日常雑記以上のことは書かなくなる。政治的な意見はマスコミにおまかせということになるが、これってすごくフラストレーションがたまるし、民主的な先進国のあり方からは大きくずれていく。かってはマスコミは社会の木鐸だったかもしれないが、今では皆マスコミを批判的にみることを知っている。マスコミは決してニュースソースやスポンサーの利益に反することは書かない。また、自分達の業界の批判も書かない。それになによりも昨今のマスコミの政治報道って本当に変だ。ゴレンジャーのようなジミン総裁選候補のお祭り騒ぎ報道だって単にジミンを利しているだけではないのだろうか。ジミンかミンシュか政権交替が争点だといわんばかりの報道も結局は批判票をミンシュに誘導してジミンとジミンもどきが政界勢力図のほとんどを占める構造に誘導するとしか思えない。某総裁選候補が漫画に造詣が深く若者に大人気だなんていう報道もコイズミブームを作ったときと同じ構図ではないか。コイズミブームの後に庶民には本当に辛い時代が来たとこを忘れてはいけない。
2008年09月21日
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憲法では公務員は全体の奉仕者となっており、それを受けて公務員法では公務員の政治的中立義務が規定されている。つまり公務員たるもの、○○党よりや△△党よりではなく、常に政治的に中立であるという信頼をもたれなければならない・・・ということである。こうして考えると政治的中立がうたがわれる場合というのは、それが行政官としての行為か私人としての行為か、私人としての行為であっても衆人環視の行為かそうでない行為か、意思決定を必要とする行為か機械的行為かなどで結果がわかれるであろう。たとえば市町村の責任者が市民のための集会室を○○党の集まりには貸して△△党の集まりには貸さないとなったら政治的中立をうたがわれても仕方ない。また、私人としての行為でも何とか省の課長とかそんな肩書きを利用して、特定政党の宣伝をやったりしていれば、それも政治的中立を疑われるかもしれない。しかし、公務員が勤務時間外に「赤旗」を集合住宅に投函した行為がなぜ「政治的中立義務」違反になるのかさっぱりわからない。※そもそも「赤旗」を配られた側からすれば、投函したのが公務員かどうかなんて知りようがないし、知らない以上は公務員の政治的中立が損なわれるなんていう問題はおきようがない。しかも投函したのは勤務時間外となれば、全くの私人としての行為ではないか。配ったのが「赤旗」だから刑事責任を問う。ピザ屋のビラなら不問だが、共産党のビラを配れば住居侵入罪で逮捕。あげくのはてには盗聴など。なんか日本では警察の役人の方がよほど「公務員の政治的中立義務」に違反しているのではないか。特定の公党だけをねらいうちするような権力の行使が中立だなんてとても思えない。※ところで疑問ついでに次のような場合は公務員の政治的中立義務に違反するのだろうか。新聞の投書欄に「公務員」の肩書きで与党や特定の野党を擁護あるいは批判するような投書が掲載されることがあるがあれはどうなのだろうか。高級官僚の発言や著書ではどうなのだろうか。ブログでも実名あるいは匿名で「公務員」という人が特定政党より、あるいは反特定政党の書き込みをしているのがあるが、これはどうなのだろうか。「公務員」の肩書きをだしていなくても、実は公務員だったという場合はどうなのだろうか。ちなみに、刑法でいう「公務員」というのは、国家公務員や地方公務員ばかりではない。みなし公務員といって、公的機関や団体であればかなりひろく入る。勤務時間外に赤旗を配った公務員が逮捕されるのであれば、そのうち広範なブロガー狩が行われて特定政党よりの意見を書いた公務員や公的団体の職員が逮捕されるなんていう事態もおきるかもしれない。オソロシ~。
2008年09月20日
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汚染米の被害が日に日に拡大している。あえて言ってしまうと、この汚染米の被害というのは、ちょっと前の耐震強度偽装の被害によく似ていると思う。どちらも人が現実に病気になったり怪我をしたわけではない。食べ続けるといつか癌が発症する。いつか地震が来たとき崩れる。現実の病気や怪我といった被害ではなく、不安そのものが被害なのだ。※こうした問題では情報公開が重要だというのは分かる。でも小さな和菓子屋さんや食堂の名を公開するのがよかったのか。事故米と知って使っていたのなら問題だが、おそらくそんなことは知らずに米を買っていたのではないか。気分で口に入れる嗜好品など「発癌」を連想させるだけで売り上げにひびく。公開されたところの中には廃業に追い込まれるところもでるかもしれない。この問題に対する行政の対応はいろいろと議論があるが、使用した業者の氏名公表についても、その是非は大いに疑問である。理由は以下の点による。汚染米を使用した業者は汚染米であることを知らず、むしろこの事件では被害者である。街の和菓子屋や食堂などの零細なところが多く、すぐに経営基盤も脆弱である。公開したところで、それが今後の被害の予防や拡大防止に結びつくわけではない(耐震強度の問題とはここが異なる)。
2008年09月19日
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消費税をめぐる議論には大きな疑問がある。高齢社会をひかえ、国家としても大きな費用が要る。これはわかる。でもその税源がなぜ消費税なのだろうか。たとえば所得税。かっては高かった累進税率がどんどんと平準化されてきた。これを再び累進税率を高くする方向にできないのだろうか。そして相続税。高齢社会とはいいかえれば死亡者の多い社会でもある。死亡の際の税収である相続税の税率を上げれば国家としても大きな収入になるのではないか。それにあのバブルのときに相続税の要件を絞り現実には相続税を払う比率は非常に少なくなっている。せめてバブル以前に戻すだけで相当の税収になるはずだ。とまあ、こんな議論をしないで、いきなり金が必要だ、だから消費税という議論しかでてこないのはおかしい。※そしてまた消費税にも実はいろいろな形態があるのにこの議論もない。つまり消費税といっても生活必需品とそれ以外、食料とそれ以外で税率を変えている例もあるようだが、このあたりの議論もないし、そういう制度があるという紹介も少ない。※福祉に金が必要ですよ、だから消費税ですよ・・・という議論はあまりにもバカにしてはいないだろうか。消費税を上げれば物価に直結する。理屈では年金も生活保護費も、そして介護士さんの給料もあげなければならない。福祉のために消費税を上げても、それがまた福祉のための支出を増やすのである。消費税の議論は単に賛成だの反対だのではなく、もっと細かい議論が必要ではないのだろうか。
2008年09月18日
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病気の人に医師が薬を調合した。病気はちっともよくならない。それどころか日増しに悪くなる。思い余って患者は医師に問いただした。「ますます苦しくなるばかりです。薬が間違っているのではないのでしょうか。」それに対して医師はこう答えた。「薬は間違っていません。この治療をしなければ、とっくに死んでしまっているはずですよ。」※こんなときに患者がどう考えたらよいのだろう。コイズミ改革の成果はあった、もっと「改革」をすすめなければならないという人がいる。しかし、最近の厚労省の統計でみても、所得は減り、生活の苦しさを訴える人は確実に増えている。一人当たりの国民所得も、今やシンガポールにも抜かれて18位。格差の拡大を考えると、普通の庶民はもはや豊かともいえないのではないか。本当にコイズミ改革は正しい治療法なのだろうか。※昨日かおとといこんな人生相談が読売新聞に載っていた。就職に失敗した後、アルバイトも長続きせず、母親に暴力をふるう30代の娘。以前には定職が決まらず、周囲に責められ「生き地獄」状態だという30代男性からの相談も掲載されていた。非正規就労者の比率は高止まりのまま好転の気配はない。彼らの多くは親の庇護の下で、様々な家庭内の軋轢を抱えながら生きている。でも親だっていつまでも庇護していられない。親という最後のセーフティネットが切れたときに、これらの新しいタイプの貧困者はどっと街にでてくる。なんかあのコイズミ改革は間違っていたのではないか、ここで引き返さないと取り返しがつかなくなるのではないか…どうもそんな気がしてならない。
2008年09月17日
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今の憲法は押し付けだとかと言われるが、議会に憲法案が提起された後、そこでの議論で入った条文がある。まさにGHQの素案にもなかった純国産の条文である。それは憲法25条。すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する…という生存権を規定した条文だ。※ときどき思う。9条の会というのはあるけどなぜ25条の会というのはないのだろうか。9条の歌、9条茶、9条のなんとやらはあちこちにあるのに、なぜ25条の歌なんてないんだろう。9条があったからといって日本にミサイルを打ち込もうとする国が遠慮するかどうかはわからないけど、25条というのは常に国家の大きな存立意義として多くの人が認識していなければならない条文ではないのだろうか。国家は何のためにある。それは何をおいても国民を守るためではないのか。国民を外敵から守る国家機能は防衛。社会内の犯罪から守る国家機能は警察。でもそれだけでは足りない。国民を飢えや困窮から守るのもまた国家の大きな役割であろう。※そして、そのためにはいろいろとやることがある。心身ともにぼろぼろになってから、生活保護という最後のセーフティネットを用意するばかりが生存権の発動ではない。私的契約といっても企業と雇用者の力関係は天と地ほどの差がある。労働法制を適宜定めて、労働者の権利を守るのも、25条を具現化するために国家がなすべきことであろう。ましてや今は一つ職場に大量の労働者が継続雇用される実態がなくなり労働組合の作りにくい時代である。10数時間働いても自分一人の生活がやっとのワーキングプア。電話一本で仕事内容も知らされないまま呼び出され、労災の危険の中で業務を行う日雇い派遣。単純労務なのに半分を超える派遣会社のピンハネ。先進国に比べても低い最低賃金。職場いじめで心身を病む社員や過労死。そして福祉窓口での水際作戦。憲法9条が危機だという人は多いが、憲法25条だって、それ以上に危機なのではないのだろうか。※本当にあればいいのに。憲法25条の会、そして憲法25条の歌。そんな憲法25条の歌にはぜひこんなフレーズを入れてほしいものだ。「いいないいな~人間っていいな~」(「日本昔話」の主題歌の一節だったろうか)誰もが人間に生まれてよかったと思えるようにしたい。これこそが憲法25条の精神ではないかと思うからである。
2008年09月16日
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日本人の昔からの娯楽の一つである神社仏閣めぐりに最近はまっている。神社仏閣といっても観光地ではない。家の近くの神社仏閣、そして職場で昼休みの散歩で行ける範囲の神社仏閣である。神社と仏閣とは違うという人もいるかもしれないけど、蘇我物部の争い以降は日本では神様と仏様は仲良くやっているので、神社仏閣とひとまとめに言っておく。※そんな神社仏閣の一つで「太子堂八幡宮」に行ったのだが、そこに神社についてやさしく解説した子供向けのパンフレットが置いてあった。こんな内容である。雨が何日も降らず鎮守の森の仲間達(虫や木や花など)は皆困ってしまう。ようやく雨が降ってくると、皆、「ありがとう」と叫ぶのだが、そのあと、いったい何に対して「ありがとう」といったんだろうね、と考える。ありがとうの意味は、「有り難し」で珍しいこと、普通でないことというのが本来の意味だ。健康であること、食べるものがあること、今生きていること、こんなことは当然のように考えがちだが、本当は適時適切に雨が降るようにすごく「ありがたい」ことなのかもしれない。よく神仏に感謝なんていうけど、神仏に感謝することで、不思議に周囲の人への感謝も生まれてくる。※よく社会的成功者が「自分は努力したからここまでこれた」と胸をはる姿をみることがあるが、こんなのにはつい一抹の傲慢さを感じてしまう。成功の条件となった高い能力や運。そうしたものは誰にでも与えられるものではない。自分にそうしたものが与えられたことにまず感謝し、そして世の中には自分と同じくらいに努力してもそれほどの成果を得られない多くの人がいることに思いをはせてほしい。昨今の日本で多くの人が「格差社会」に不満を感じているのは、勝ち組の側から傲慢な発言ばかりが聞こえてきて、そんな彼らの発言に公共とか社会全体とかといった視点を感じることが出来ないのも一因なのかもしれない。社会的に成功した(と思う)人は自分の能力や努力を誇る前に、自分にそうしたものが与えられたことをまず感謝してみてはどうなのだろうか。※成功者かどうかは別として、友人の一人に小さな事業所で働いている人がいる。彼の同僚に体の弱い人がいて、いつも同僚の仕事までカバーしなければならないのが不満らしい。同じ給料なのになんで・・・という疑問が頭を去らないというし、本人にしてみれば無理からぬことなのかもしれない。でも、ちょっと視点を変えてこんなふうに考えてみてはどうなのだろう。同僚が病弱なのは本人が好き好んでそうなっているわけではない。彼が病気にもかかわらず自分が健康だというのはすごく「ありがたい」ことなのではないか。そんな風に考えると、不平不満もずいぶん変わっていくと思うのだけれども。※なんか今日は年寄り臭い日記になったが、「敬老の日」ということでご容赦を・・・。
2008年09月15日
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ロシア文学には往々にして余計者という人物がでてくるという。高い教養と知性を持つが繊細な感性故に周囲にとけこめず無為の日々をおくる人間というのがその定義だろうか。教養や知性、感性はともかくとして、こういうのは今でいえばニートである。ところで、ニートが社会問題であるのに対し、余計者が周囲に問題視されているというストーリーはあまりない。なぜだろうか。それはニートには将来の生活不安があるのに対し、余計者にはそれがないということがある。余計者の出身階級である貴族は往々にして領地を持つ地主であった。このような貴族や工場主など生産手段を有することで働かないでも生活できる人が19世紀あたりまでは多勢いたし、そのように働かないで優雅に暮らすライフスタイルも許容されていたのだろう。19世紀が芸術の世紀といわれるのも、そうした余計者やそれに近い優雅な生活をしている人が芸術家を金銭的に支援し、自らも目の肥えた批評家として彼らを育てたからだろう。※そんな優雅な人々がいる一方、悲惨極まる都市労働者が発生したのも19世紀である。十数時間労働はあたりまえで、子供の世話の出来ない母親は子供にアルコールを飲ませていたという話もある。要するに、少数の地主や工場主の優雅な生活のある一方、多数の労働者の悲惨、そして小作人の悲惨があった。だから19世紀は余計者や芸術の世紀であるとともに、マルクス主義が生まれた世紀でもある。親が地主か小作人か。工場主か労働者か。それで、子供の人生は天と地ほども違う。だから格差はまず機会の平等の問題であり、格差の問題は、生まれによる集団、つまり「階級」間の対立と認識されていた。※21世紀の今日、マルクスにまた再照明があたっているという。でもマルクスの時代と今日とはずいぶん違う。マルクスの頃の格差と今の格差とでも、また違う。たとえ平等と言う理念は色あせていなくても、マルクス主義は宗教ではないし、マルクスの著作は聖典でもない。そうしたことをふまえ、なにか今日的なマルクス主義の生かし方のようなものが求められているのではないのだろうか。
2008年09月14日
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民主主義国家にとっての政治の機能とは何か。それは、むきだしの弱肉強食を緩和して、国家としての再分配機能を果たすことではないか。なにしろ大金持ちも一票。貧民も一票。そしてどんな国家であっても金持ちよりは庶民層の方がはるかに数が多い。政治を通じて、この再分配機能が適切に果たされることにより社会も安定し、最大多数の最大幸福が図られていく。逆に言えばこの機能がはたされないとき、社会は不安定化し、場合によっては暴力による政体の変更が起きたりするのかもしれない。※現在では多くの国がこの民主主義という体制をとっている。ただ、中にはこの民主主義が十分に機能をしていない国もある。それは社会が多様であるにもかかわらず、その多様な人々の立場や利害を代表する政党が表れないで、変わりばえしない政党が交替で政権を担っているような例だ。アメリカの二大政党制なんてのは、もしかしたら民主主義の機能不全の状態なのかもしれない。変だと思わないのだろうか。報道されるのはオバマブームなるものやペイリン副大統領候補の私生活やファッションばかりだなんて・・・。仔細に報道をみれば民主共和両党の政策の差異を記事にしたものはあるのだろうけど、印象にのこらないほどその扱いは小さい。これではたぶん米国の選挙民も政策で選ぶのではなく、黒人だからとか副大統領候補が女性だからとかいった理由で選ぶ人が多いのではないか。※最近アメリカの貧困層をルポした本が売れているが、知りたいのは彼ら貧困層と政治との関連である。相当多数の貧困層がいるのに彼らの声を掬いあげる政治勢力が育たない。ことの是非はともかくとして、北欧型の大きな政府、かってのイギリスのような福祉国家の樹立を訴える政治勢力がでないことこそが二大政党制の欠陥なのではないのだろうか。※「日本でも本格的な二大政党の時代を迎えた」、「今度の選挙は政権選択」、「ミンシュかジミンか」、「ミンシュにも一度やらせてみたい」、総選挙が近づくにつれてこんな声があちこちから聞こえてくるかもしれない。でもだまされてはいけない。ミンシュとジミンは二大政党というよりも、もともとは一つの政党から生まれ、政策の差異もほとんどない二大政党もどき。これで連立などしたら、政党政治の実態もなくなってしまう。今の日本で何が問題なのか。それをよく考えて一票を行使したいものだ。やはり真の問題は格差と貧困。貴重な一票は、ぜひ市場原理主義の暴走をとめるために使いたい。
2008年09月13日
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まだまだ続く蟹工船ブーム。その背景にはあの作品で描かれている過酷な労働者の実態が決して過去のものではないということを再発見したことがある。※こんな労働環境悪化の大きな要因となったのは派遣業の規制緩和だろう。派遣業者のピンハネ率は公表されていないが半分ほどになるらしい。通訳のような高度な専門職であれば労働単価も高く業者のピンハネがあっても雇い側、雇われる側双方にとってもメリットは大きい。しかし非専門的な業務だとそうはいかない。もともと高くもない賃金でピンハネを認めたら、ワーキングプアが発生するのはあたりまえである。派遣業の普及が減少させたのは正社員の椅子ばかりではない。そこそこに食っていけるアルバイトというのも激減しているように思う。※そしてもう一つ労働環境悪化の原因になっているものは組合の弱体化である。たしかに最近では一人でも入れる組合もできて成果をあげているという話もあるが、これはやはり例外的だろう。どうもこの労働者が団結して組合を作って権利を守っていくという仕組み自体、一つの工場で多勢の労働者が働いていた時代のなごりではないか。今の時代、労働者がひとつところにいて集団で体操をやったりするような職場はあまりない。身分が不安定で立場が分断されていたり、職場が小さな店舗などで分けられていて組合というものが作りにくい。また、正社員もいくらでも非正規でとってかえることのできる状況であれば、組合を作れば即解雇ということだってある。組合もよいが、こんな時代だからこそ、労働基準監督署など国家がきちんと労働者の権利を保護するひつようがあるのではないのだろうか。経済のサービス化の中で、土日も祝日も関係ないような職場は確実に増えている。過労死(その寸前の心身の健康破綻も含め)なんて現象があること自体、世の中「女工哀史」の時代からさして進歩していないし、労働行政も十分に機能していないということの表れであろう。※こんな多くの人にとっての過酷な状況に少しでもストップをかけたい。蟹工船のような労働環境をなんとかしなければならない。次の選挙はそうした意味で庶民が貴重な一票を行使する重要な機会である。ジミンやその同類の政党にいれ、大連立でも組んでやりたい放題やられたら、この蟹工船列島・・・さらなる地獄に向かうばかりである。
2008年09月12日
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9月11日がまたやってきた。科学と夢の世紀だったはずの21世紀冒頭に起きた宗教テロ。あれから世界はますます混迷と対立の様相を深めているように見える。20世紀後半を特徴づけた冷戦の終結は世界に平和をもたらすどころか、民族や宗教などもっと厄介な対立をもたらしている。一方、冷戦終結で社会主義の理想がいろあせたとたんに資本主義の暴走がとまらない。厚生労働省の調査では、日本でも「生活の苦しい世帯」は75%に達したという。そりゃそうだろう。企業は労働者の取り分をどんどんと減らしてその分を役員報酬や株主にまわしているのだから。こうして集められた一部富裕層の富は社会に還元されずにさらなる投機に向かう。民主政治の中での選挙とは、こんな大多数の庶民の声を政治に反映する千載一遇の貴重な機会ではないか。くれぐれも無駄にはしないでほしいものだ。格差拡大や貧困の増大に歯止めをかけるのなら、どこに投票したらよいのか。おそらく「今のジミンがけしからんから一度はミンシュにやらせる」というのは間違いだろう。ミンシュも労働法制の規制緩和などにずっと賛成してきたのだから。その上、大連立でもされたら、さらにまた何年も庶民には辛い政策が行われることにもなりかねない。
2008年09月11日
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「生きているのが辛いなら」という歌が様々な議論をまきおこしているという。最初の方に自殺をすすめているともとれる歌詞があって、それが問題になっているようだ。でも、あの歌を聴いて自殺するとしたら、それこそ自己責任で、歌自体が原因だなどとはとても思えない。それに歌を一応聴けば、趣旨は「いやになるほど生きればいい」にあって「いっそ小さく死ねばよい」ではないことは、すぐにわかる。それにしても、なかなか説得力のあるよい歌だと思う。※ただ、ちょっと気になるのは「小さく死ねばよい」も「いやになるほど生きればよい」も、生きづらさをあくまでも個人の領域として扱っており、横への広がりがあまりないことだ。でも、生きているのが辛い…というのは、本当に個人だけの問題なのだろうか。もちろん個人的な生きづらさもあるだろうけど、社会の問題として考えなければならない生きづらさもあるはずだ。貧困や雇用をとりまく問題のような「生きづらさ」なら、個人の心構えの問題にしてしまうよりかは、声をあげることだって必要ではないか。どうしてこんな風に歌わないのだろうか。生きているのが辛いなら、こんな世の中変えればよい…と。※昔、それこそやんなるほど聞いた歌に「友よ」(岡林信康)というのがある。この歌は、同じ辛さでも直太郎の歌とは、全く別のメッセージを発している。友よ 夜明け前の闇の中で友よ たたかいの炎をもやせ今、本当に必要なのはこんな歌なのではないのだろうか。誰かカバーして、平成の今の世に「友よ」の大合唱が起きたら素敵だと思うのだが。http://jp.youtube.com/watch?v=oB94C--IgoM
2008年09月10日
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これからの政治に期待することは、やはり格差と貧困の問題をなんとかしてほしい…ということではないか。ここ数年で行われた構造改革というのは、もしかしたらその前の失われた10年よりも酷いかもしれない。ワーキングプア、ネットカフェ難民、自殺者の高止まり。巷では資本主義の限界が囁かれ、今や国民作家は夏目漱石ではなく小林多喜二になったのではないかと思うほど蟹工船が売れている(100万部を超えたそうだ)。※それにしてもジミンかミンシュかを煽っているマスコミというのは不見識極まりない。ミンシュの政権構想なるものが新聞に掲載されていたけど、せいぜい最低賃金の引上げくらいで格差や貧困に対する処方はゼロに等しい。いくら今のジミンがけしからんからといってミンシュに政権を渡しても蟹工船からは下りられない。ジミンとミンシュはもともとは同一の政党で、その実態ときたら自由民主党と民主自由党くらいの差しかない。冷静な眼でそれぞれの政党が格差や貧困の問題についてどのような主張をしているのか。そこをこそみたいものである。ああ、それにしても日頃格差や貧困の問題を主張している政党はあいかわらず「憲法9条」を大書きしたポスターを並べている。別に憲法9条が悪いとかいうつもりはないけど、切実なのはもっと別のものではないか。あの「憲法9条」を「憲法25条」に変えるだけで支持はたぶんぐっと違う。貧困は自己責任なんかではない。行き先の仕事内容もつげられない派遣で最低生活もできないなんて重大な人権問題ではないか。※なぜ格差や貧困が問題なのか。日本の社会は普通の人が真面目に生きていればそこそこに幸福に暮らせる社会をずっと維持してきた。でもいまや少数の傑出した人材以外は幸福になれない社会となってきているのではないか。貧困は決して非正規雇用者だけの問題ではない。正社員でも加重労働、定期昇給なしの使い捨て社員が出現してきている。そしてそんな貧困者の多くは20歳代、30歳代。今のところは親と同居し実質扶養されている人も多いだろう。しかし後10年もしたら、こうした貧困が本格的に社会問題化する。蟹工船はどこに行く・・・。今の貧困は今までの貧困とはちょっと違う。かっての貧困は病気の家族や子沢山など扶養の負担とセットになっていた。でも、今は健康な男性が酒もギャンブルもやらず働いても自分の生計を維持できないタイプの貧困が増えている。そしてかっての貧困は階級というか生まれた家の経済状態と密接にかかわっていた。しかし今の貧困は家庭や学歴とはかかわりなく、すぐそこに身近にある。アキバ殺人の加藤容疑者の両親も二階建ての立派な家に住んでいた。派遣労働者の中にも裕福な親のもとで大学まで通ったという人もめずらしくないだろう。本当にリストラや失業などで、あっという間に貧困に転落していくこの滑り台社会。格差や貧困の問題が他人事だなんて、どうして思えるのだろう。
2008年09月10日
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野党党首の政権奪回とか政権交代という言葉を聞くたびに違和感を感じてきた。政権というものはあくまでも手段であって、問題は政策ではないか。この国をどんな方向にもっていきたいのか…それを語らずして政権ばかりをいうのはやはり変。そう思っていたらようやくその野党党首が政権構想なるものを発表した。思ったとおり貧困や格差対策についての記述はほとんどない。いったい派遣労働の規制についてはどう考えているのかしら。※そしてかわりに目に付くのが官僚とか公務員とかいう言葉だ。今の公務員のあり方がよいとも思わないけど、公務員バッシングというのはていのいい不満そらしとしか思えない。自分よりも荷が軽い(と思う)ロバの荷物を重くしても、自分の荷が軽くなるわけではない。深夜勤務の公務員がタクシーを使うのをやめれば、民間だって社員にタクシー代を出すのをやめるだけのことである。官僚だって別に官僚という人種がいるわけでもなければ、その地位が世襲されているわけでもない。官僚主導というが、今だって政策の根本は政治が決めているのではないか。大量のワーキングプアの悲惨を生んでいる労働者派遣法の規制緩和だって、厚生労働省の役人の頭からでたのではなく、もともとは財界の要望を受けた政治家が官僚にそうした方向での制度改正を命じたものだろう。というわけで、某野党党首の官僚や公務員たたきというのは、郵便局の職員たたきで圧勝したコイズミの二番せんじとしか思えない。※政権よりもまず中味をみたい。格差や貧困の問題にどうとりくむのか。このまま市場原理主義の方向につきすすんでよいのか。まず最初の試金石は、労働者派遣法についてどう考えるかだ。単に今の自民党政権がけしからんから「一度はミンシュにやらせてみる」では、地獄をみるのではないのだろうか。※※ジミンの総裁選もいよいよ熱をおびてきた。どうせ人寄せの出来レースでも、ニュースとしては面白い。でも、そんな総裁候補の一人が、クールビズの普及を政治家としての成果にあげていたのにはなんとなく笑えた。
2008年09月09日
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中国の反日感情というのはよく知られているが、実は韓国に対しても嫌韓感情というのがあるらしい。その一つには歴史認識がある。歴史・・・といっても近代のそれではない。古代国家高句麗の歴史は中国史の一部と扱って韓国が反発し、まあ、大王四神記なんていうドラマを作っているわけだが、火種はそれ以外にもある。韓国は大陸と地続きのせいか、俗説も含めると気宇壮大な歴史の仮説が多い。中国古代史にでてくる○○族というのはKoreanではないかというのは、よくある議論だし、それを発展させて漢字の発明はKoreanだとか孔子も実はKoreanだとかいう説もある。それに中国人が反発する。日本にだってチンギスハン義経説があるけど、モンゴル人がそれに反発しているという話はきかない。おそらく中国人の嫌韓感情の根底には、個々の歴史のとんでも仮説というよりも、豊かな先進国としての姿を現してきた韓国に対する中国人のねたみやっかみがあるのだろう。※それに孔子韓国人説を云々するのなら、中国に昔からある釈迦中国人説はどうなのだろうか。唐の時代、道教が国教となり仏教の勢いが衰微したとき、仏教と言うのは実は老子が蛮人を教化するために考えた教えという説がうまれた。老子化胡説といって牛にのっていずこともなく姿を消した老子は釈迦となって印度で教えを説いた。道家の教えと仏教とはどことなく通じているので、説話としてはなかなか面白い。http://www.ne.jp/asahi/choonji/namo/hanasi3-295.html
2008年09月08日
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最近、二大政党についていろいろと書いたが、よく考えてみると、二大政党だからよくないというわけではない。二つの政党が政権をとるために競って民意にあった政策を打ち出すのであれば、それは二大政党のプラス面であろう。この意味で英国の保守と労働などは、二大政党の理想に近いのかもしれない。問題は、その二大政党が、変わり映えのしないものである場合である。それは、庶民にとっての悪夢ではないか。政権交代のためのお祭騒ぎは行われるが、主役となる政党は大企業から潤沢な献金を受けているようなところに限られ、庶民が望む福祉や再分配政策を掲げる政党は伸びる余地もないという状態である。今の日本で二大政党に擬せられるミンシュとジミンというのは、どちらかといえば後者の典型的なパターンのようにみうけられる。政策面では、もともとが同じ自民であっただけに、自民内の派閥ほどの差異しかない。そして政権を争う彼らの脳内にあるのは、政策でも、国家・国民ではなく、ひたすら政権についたときのウマミだけ。そういえばミンシュの掲げる政策で自民と異なる部分もあるが、それって国連指揮下の国際貢献とか外国人への参政権付与とか、普通の感覚ではあぶないものが多い。このままでは、マスコミがもりあげるお総裁選、ミンシュの小沢の無風選挙との対比、自民新総裁へのご祝儀報道、選挙勝利、政権恋しさによるミンシュ党員のさみだれ式ジミン復帰なんてのが、一番ありそうなパターンかしら。せっかくの庶民の1票。行使するなら市場原理主義の弊害を少しでも緩和しそうな政策を掲げているところに投じたい。※※新聞をつらつら見ていたら、政権奪取も二大政党も手段であって目的ではないという趣旨のコラムがあった。たとえ政治家の本音が政権にあるにせよ、国民の側からみれば政権をとって、じゃあ、どんな政策をやるかが重要なはずだ。いくら今の政権政党に批判があるからといって、変わればよいというものでもない。格差や貧困の問題に照明を当てる限り、総裁選の本命といわれるA候補は貧困の問題には冷淡なように思えるのだが誤解だろうか。そしてまた二大政党の一方の雄にマスコミが擬している某政党だって格差解消などに熱心とも思えない。政権選択とか二大政党なんていう言葉にまどわされず、それぞれの政党、それぞれの候補者の掲げる政策をよく見極めて、投票先を決めるべきであろう。
2008年09月07日
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解散風がふきはじめると、どっかの与党もどき政党が、さっそく「選挙の争点は政権選択」と騒ぎ始めている。ああ、選挙の争点なんて有権者の一人ひとりがよ~く考えて決めることで、いくら政党党首やマスコミが選挙の争点は○○だ…と叫んだところでそのとおりにしなければならない義務なんてない。個人としては次の選挙の争点はやはり格差と貧困。派遣法の改正や労働法制の規制にどの党が熱心なのか。市場原理主義にストップをかけるとしたら、どの党が伸びたらよいか。そのあたりを冷静に考えてみるつもりだ。政権選択だ二大政党だという掛け声に踊って、議席のほとんどを与党と与党もどきとが分け合うような政治構図になったら、貧乏人には本当に辛い時代になりそうだから。民主党と共和党しか現実の選択肢がなく、数多くの貧困層が政治から阻害されている米国の実情は決して他人事ではない。総裁選挙のワイドショー騒ぎに乗せられてご祝儀支持をするのもバカだが、「二大政党」だ「政権選択」だという掛け声に踊ってせっかくの批判票を与党もどきに入れるのはもっとバカ。※ちょっと話は変わるがAという現象とBという現象が同時に起きていると人は往々にしてどちらを原因、どちらかを結果と解釈したがるが、実際にはCという共通の背景があってAとBが発生しているという場合が多い。共産党の党員数増と蟹工船ブームも実はそんな関係なのではないのだろうか。両者に因果関係があるわけではなく、貧困層の増大という共通の土壌があるからではないか。貧困については正確な統計もないようだが、実はこの問題は非常に深刻なのではないかと思う。今の20歳代や30歳代には非正規雇用者や無業者が相当数いるが、彼らは親の高齢化や死とともに街に出てくる。貧困の自己責任論なども語られるが、高所から自己責任論を語るのと当の貧困者が自己責任論を受け入れるか否かは別の話である。近い将来、自己責任論に異議を唱える貧困層の間から大きな政治的うねりが起きてきそうである。※願わくはジミンの総裁候補者もミンシュの政治家も格差や貧困について語ってほしい。それぞれ本当のところ、こうした問題についてどのように考えているのか。そのあたりをぜひ知って、今後の投票行動の参考にしたいと思うから。
2008年09月06日
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ジミン総裁選でミンシュが危機感を深めているという。マスコミの話題がそっちにいけばいくほどミンシュは脇役でかすんでしまう。ちょうどあの刺客選挙と同じ構図だ。でも本当はもっと危機を感じなければいけないのはミンシュかジミンかという構図になればなるほど、誰かがほくそえんでいるのではないかという気がすることだ。変な喩えを承知でいるのだが、桃の林檎も栗もメロンもあるのに、耳元で温州みかんと愛媛みかんとどっちがいいのとしつこく聞かれているみたい。ミンシュもジミンももともとは一つの政党にいた人々だ。格差や貧困の問題に冷淡なのも似たり寄ったり・・・。ジミンかミンシュかと騒げば騒ぐほど、本当の意味で再分配政策や労働者保護を唱える政治勢力はかすんでいく。米国のような多様な社会で貧困層もかなりいるのに、貧困層が投票するような政党がないって怖いことじゃないのかしら。ペイリンの子供が実は実子じゃないとか、オバマの友人の牧師がああいったとか、政策とはさして関係ないことがクローズアップされていること自体、二大政党制の不毛を如実に表しているように思う。※毎年、今頃になると秋祭りのお囃子があちこちで聞こえる。神道は明治以降、国家神道として天皇制礼賛のために利用されたけど、民衆の間に根付いていた信仰と言うのはもっと別物だったように思う。自然への感謝と共同体意識・・・これが本質なのではないのかしら。収穫の後の秋祭りと会社で一仕事終わった後の「打上げ」はなんか似ている。皆が車座で酒を飲む祭りと管理職もヒラも一緒にもりあがる「打上げ」。たぶん日本社会の体質には、格差も過度の競争も似合わない。
2008年09月05日
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日本の総選挙も近いのかもしれないが、アメリカの大統領選挙ももりあがっている。オバマブームはやや沈静化して、昨今では副大統領候補のおばさんの知られざる秘密がかっこうのマスコミネタになっているようだ。日本の政治をワイドショー政治とか週刊誌政治というのなら、アメリカなどはとっくにその最たるところにまでいっている。それにしてもあの民主党と共和党ってどう違うのだろうか。前者はリベラルで再分配重視、後者は伝統重視の保守ともいわれるが、どうもそれほどの違いもなさそうである。いや、違いがないからこそ逆に候補者の私生活だの個人的な発言などが、選挙結果に影響を与えるのだろう。となると、ワイドショー政治は、政治の貧困の裏返しなのかもしれない。だいたい本当に有権者に問うべき重要な争点があるのなら、候補者が白人か黒人かなんてどうでもいいはずではないか。※アメリカは多様な移民社会であり、凄まじい格差社会でもある。貧困層もマイノリティーも全国では相当な数にのぼるだろう。そしてその一人ひとりが民主国家の国民として投票権をもっている・・・はずである。いったい膨大な数の貧困層はどこに投票をするのだろうか。民主に投票しようが、共和に投票しようが、現状はさして変わらないのだとしたら、それはそれで政治の機能不全ではないか。アメリカにも実は数多くの政党があるはずだ。それなのに民主と共和の二大政党以外にはほとんどマスコミで報道されることもなく、選挙のたびごとに民主か共和かのお祭り騒ぎがくりひろげられる。※あらためて思う。二大政党制がそんなによいのだろうか。ましてや日本のジミンとミンシュではアメリカの民主党と共和党ほどの違いもない。内実は昔のジミンの派閥と同じようなもので、選挙のたびに政権ほしさに角をつきあわせるだけではないか。もし選挙になればマスコミははしゃぐだろう。ミンシュかジミンか、今度の選挙は政権選択選挙だ・・・なんてね。冗談じゃない。二大政党制がよいなんて誰が決めた?なんてったって選挙権は庶民にとっての最後の武器。投票する政党は自分でよ~く考えて決めよう。ミンシュとジミンの二つしか選択肢のない「二大政党制」なんて、庶民にとっては実は悪夢ではないのかしら。
2008年09月04日
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福田総理の辞任会見を受け、早くも総選挙の時期がとりざたされている。・・・となると総裁選の日程が民主党の代表選の直後というのも、民主にとっては「いやな感じ」だろう。民主の代表選といっても全くの無風選挙で、しかもでてくるのは小沢なので全く新鮮味がない。それにひきかえ、自民の総裁選では、一部で取りざたされているような麻生対小池という構図になれば願ったりかなったりである。小池という人は振袖を着てピラミッドに上ったなんてことを本にして有名になったくらいの人で、もともとさしたる識見があるとも思えない。しかし、美人で「絵になる」人物であることは間違いない。これにキャラがたっている麻生がかめば、ワイドショーは大喜びである。これで民主代表選挙などはすっかり影が薄くなる。いわばコイズミが「刺客」を送り込んで総選挙を圧勝したのと同じ手法ではないか。あの時も、これでもかこれでもかとワイドショーがくいつきそうな候補をだし、「女の戦い」(マスコミはなぜかこれが好き)だとか「ホリエモン出馬」だとか囃しているうちに、民主はすっかり脇役になってしまった。総裁選で盛り上げた後、麻生新総理が選出されれば、それはそれでまたマスコミは持ち上げるだろう。その勢いで総選挙をやれば、小沢代表で新味のない民主よりも自民は票がとれるのではないか。どうもこんな計算があるような気がする。※つらつら思う。マスコミが囃す政治ワイドショーに踊ってよいのだろうか。コイズミ人気に踊り、純ちゃん饅頭や写真集が売れたのはそんなに遠い過去のことではないのだが、その結果、やってきたのは格差や貧困の蔓延する時代だった。もうマスコミの煽る「政治家人気」に惑わされるのはやめよう。マスコミや政党が勝手に決める「選挙の争点」なるものにふりまわされるのもやめよう。今のまま、新自由主義の道をつきすすんでもよいのか。格差や貧困を放置してよいのか。真の選挙の争点はたぶんここにある。その意味で次の選挙は、今後の国家の進路、私達や子供達の将来を決する極めて大切な選挙だと思う。
2008年09月03日
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福田総理の辞任で財界からは改革の停滞を心配する声が聞こえているという。改革改革…とこの言葉をどれほど聞いただろう。改革といえば、まるで自由とか人権とかのように無条件でよいものだとイメージしてしまうが本当にそうだろうか。改革という名で雇用規制が緩和され大量の非正規雇用者やワーキングプアが生み出された。同じ改革という名で村の郵便局がつぶれ、郵便配達はフリーターになった。改革という名でタクシー運転手はワーキングプアの別名となった。貧困や格差を広げるだけの改革ならいらない。※政治家と財界の重鎮がディナーなんかとりながら、こんなことを話した(かもしれない)。雇用はさらなる規制緩和をして、もっともっと人件費を安くできるようにしなければ困る。残業代ももったいないので、ホワイトカラーエグエンプションを導入してはどうじゃろか。非正規雇用が問題というが、真の問題は正規雇用の身分が守られすぎているからではないか。金を払ってクビにできる制度がなきゃあきまへん。生活保護以下の貧困者がいると騒ぐ人がいるようだが、なら、生活保護を下げたらどうかいな。もっと安く働く人間、そうだ外国人を入れてはどうだろか、1000万人ほど。ビンボーだ格差だというけどスキルが無いのが悪いのよ、自己責任じゃないの。ビンボーがいやなら私みたいにノーリョクを持って生まれてこなければ。日本の貧困はなんてったってアフリカよりもましではないの。エトセトラ・・・。右手に算盤、左手に論語なんていってた渋沢栄一の時代はとっくに過去のこと。今の財界人は自分の利益っきゃ考えていない。政権交代すればよい?でも、財界人と仲良しなのは民主だって同じ穴の狢じゃないのかしら。本当は怖い二大政党制。庶民の選択を奪ってしまうから。今必要なのは市場原理主義や格差拡大に待ったをかける健全な批判勢力である。
2008年09月02日
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安倍総理に続いて福田総理も投げ出し辞任。本当にどうなっちゃっているんだろう。並みのサラリーマンだって辞表を出すときには、それなりに周囲に相談するだろうけど、最高権力者の投げ出しっていうのはなんなのだろうね。でも、福田総理と言うのは不思議な人で総理の座にいたときも、なんか総理という感じがしなかった。自分でもあまり実感もなかったのかもしれない。それにまた福田氏についていえば、政治家として徹底的にかけているものがあった。それは大衆をひきつけるビームのようなカリスマ性だ。今後の政治を考えた場合、格差や貧困の問題を訴える政治勢力がブレークしていくと思うのだが、その場合に党首や看板となる政治家のある種のカリスマというのも重要な要素かもしれない。まあ、これでますます「一度は民主にやらせてみれば」という声がますます強くなるだろうけど、外国人参政権とか国連指揮の下の国際貢献とか・・・あの政党のいっていることも、ずいぶん変じゃないのかしら。
2008年09月02日
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共産党に対する関心が高まっているという。資本主義が限界をむかえ、格差や貧困に多くの人が悲鳴をあげだしている現在、ついに来るべきものが来たという感じだ。ただ、この「ブーム」が、本当の意味で格差拡大や貧困の増大に歯止めをかける政治勢力の出現となっていくのかどうかはまだ未知数なのではないか。だってそもそも10ヶ月で新規党員1万人ってどんなにすごいことなのだろうか。10ヶ月で1万人増なら1年で1万2千人。10年で12万人。12万人増としても60万人か70万人。ちょっとした宗教団体だってそのくらいの人数のところはけっこうある。党員が1万人増えたって政権に近づくわけではない。※問題は党員数だけではなく、支持率ではないか。支持が増えれば、得票が増える。得票が増えれば議席が増える。それではじめて政治的発言力が増す。さて、共産党の支持率はどうなっているのだろうか。支持率が増えてこそブームは本物なのだが…。それにつらつら思うのだが、本当に格差や貧困に苦しんでいる人って、とてもじゃないけど入党どころじゃないのではないか。共産党に入党すれば就職や雇用継続に不利ではないか・・・ということは誰でも思う。その上、党費や赤旗の購読費だってけっこう痛い。党員を増やすのも良いけど、選挙で確実に投票をする支持者を増やすことにも力をいれてはどうなのだろうか(もうやっているかもしれないけど)。なんか最初から党員増とか機関紙の定期購読とかいうとひいてしまう。党員よりもまず支持者、機関紙の定期購読よりもまず認知度や時々購読者を増やす方が先ではないか。機関紙の赤旗であるが、街の中で手に入れるのは至難の業である。せめて購読できるスタンドをもっと増やしてはどうだろうか。
2008年09月01日
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