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「大晦日」 もうすぐ、2012年も終わるべ。 今年は、どんな年だったべな。 仕事はまずまず。 つらいこともあったけど。 楽しいことも、たぐさんあった。 もともと出不精なんで。 なかなか外に遊びにいったり、しないいだけど。 今年はあちこち、うろちょろしてきたしw。 だんだんと、散歩のこつさ、わかってきたど。 それは、「あせらないこと」。 自分のペースで、好きな場所をゆっくり歩く。 本さ読んだり、ネットで調べたり。 ブログさ書くのも、のんびりと。 他の人と自分のスピードは、ちと早さが違うんだな~ と、わかってきた。 仕事なら、どうしても、 周りにあわせなくっちゃ~なんない場合も、でてくるけんど。 趣味の散歩なら、遠慮なしに、自分ペースでいいべな~。 ブログも楽しみながら、のんびりと。 書き続けていきたいな。 そろそろ、2012年が終わるな~。 みなさま。 今年一年。ブログさ読んでくれて、ありがとうございます。 とっても、心強いです。 みなさまにとって、2012年はよい年だったべか? もし、このブログが、ちょこっとでも役にたってたら、 うれしいな~♪ では、みなさま。よいお年を~♪ 今年最後の ぽちっと!を。にほんブログ村
2012.12.31
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「おさらい」 2012年も、もうすぐ終わっちゃうど。 だもんで、『今年のおさらい』さ、してみんべ。 え~と。今年は、運動不足とストレス解消さかねて、 ひと月に一カ所は、回るようにしてたんだけど。 さて、どんなとこさ行ってきたんべな。1月 ・二荒山神社(宇都宮市) ・壬生城(壬生町) ・精忠神社(壬生町) ・雄琴神社(壬生町)2月 ・祇園城(小山市) ・小山御殿跡(小山市)3月 ・乙女河岸と小山市博物館(小山市) ・鷲城・鷲神社(小山市)4月 ・佐野城(佐野市)5月 ・鹿沼城(鹿沼市) ・今宮神社(鹿沼市) ・千手山公園・千手院(鹿沼市) ・飛山城(宇都宮市)6月 ・芳賀城・真岡陣屋跡(真岡市) ・太平山と富士山(太平山)城(栃木市) ・六角堂・太平山神社(栃木市)7月 ・山田大中寺(栃木市) ・白石家戸長屋敷とおおひら歴史民俗資料館(栃木市)8月 ・屋台のまち中央公園と掬翠園(鹿沼市) ・鑁阿寺と足利学校(足利市)9月 ・樺崎八幡宮・樺崎寺跡(足利市)10月・茂木(桔梗)城(茂木町)11月・皆川城(栃木市)12月・勝山城(さくら市) 城跡が、11城。 神社とお寺が11社。 その他が6カ所。 あ、博物館や資料館は、書いてないとこも、あんな。 結構たくさん、行げたな~。 っつうか。 栃木県って、気軽にいける城跡が、結構たくさんあったんだな~。 日本一地味な県・栃木だかんな。 すぐに行くとこさねぐなって、 ネタがなくなっちまうんじゃ~ねえか、と思ったけんだど。 今年いっぱい、もったっぺw。 そして、まだまだ、行ってない城跡は、みっちりある。 危険なとこ、個人の所有地もあっから、 全部の城跡さ行けないけんど。 まだまだ、城跡散歩さ、出来そうだど。 でもな。 ここまで、ほげほげと散策さ続けてこれたのは、 ブログさ書いてたおかげかもしんないな。 いろんな人に、写真さ見てもらったり、 文章さ読んでもらえるって思うと、 がんばれるもんなんだよ。 城跡探検も、おもしろかったけど。 きっと、散策だけじゃ~、途中でくじけてたべな。 文章の善し悪しはともかく、楽しくブログさ書けたし。 散策もおもしろかった。 そうそう。今年はな。 城跡の他に、『狛犬さま』っつう楽しみも増えたw。 毎年ちょこっとづつだけど、楽しみが増えてるみたいだなw。 来年はどんな楽しみが、待ってんだべか。 わくわくしながら、お待ちしてんど。 早く来い来い。2013年~! 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! よろしぐ~。にほんブログ村
2012.12.29
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「はしっこの堀と土塁」 今日は『勝山城』のはしっこさ、注目してみた。 地図でみっと、この辺。『赤い矢印の堀跡』と『青い矢印の土塁跡』だど。 どっちも、看板さないんで、気がつかないかもしんないけんど。 ちゃ~んと、跡さ残ってんだよ。 これが『堀跡』。『勝山城の北端』にあたる、部分だべ。『本丸周辺の堀』と比べっと、 浅いし、わかりにくいな。 おまけにこの辺は、雑木林ん中なんで。 地面は、でこぼこ。段差や通行用のつねうね道もあってな。 見分けさ、つけにくい。 夏に来た時も、みたはずなんだけど。 草に埋もれててな。山道にしか、みえなかったな。 それがな。今回は、どういうわけか。 ここさ通ったときに、ぴん!っと来るもん、感じちゃってな。 うずうずしてきたんだよ。 ふんだから、ここさ、ずっ~っと歩いていったんだけど。 突き当たりは、こんな。 正面に見える建物は、移築された『長屋門』 あの向こうには、昔の屋敷や倉も移築されて、小さな広場になってんだ。(詳しくは、こちら。昔の記事だけどw) 注目すっとこは、道の先だど。 土の壁に行く手さ遮られてんな。 これさ見たとき ここは堀跡にちがいねえ! って、確信したど。 だって、通行用に作られた道だったら、 土壁さあったら、邪魔で通れないべ? 本来は、もっと先まで続いてた堀を、 開発中にふさいだ、って見たら、どうだんべ。 堀跡だって、思えてきたべ? 帰ってから、資料さみてたら、『勝山城』の北っぱしに、堀跡が残ってるって、書いてあったしな。 位置も、ちょうど『長屋門』の前あたり、で、ぴったりあうんだ。 整備された公園だからって、油断してたっくれ危ないな。 知らないうちに、元・堀跡だの、元・土塁跡だの、 歩いてっかも、しんないんだかんな。 それって、すご~っく、損だんべ。 そして、もう一つの場所。 『勝山城の南端』に、あたるとこだな。『青い矢印んとこの土塁』は、こんなの。 こっちも『本丸周辺さ囲む土塁』に比べちゃ~、 ちっこいし、崩れててわかりにくいけんど。 ちゃんとした土塁だど。 つうかな。実物さ見て貰うと、土塁にしかみえないど。 高さは1メートルないべな。 だども、長さは・・・どんぐらいあんだべな? ず~っと先まで、続いてんど。 この辺は、公園から外れた場所でな。 私有地みたい。個人のお宅さ、あったから。 でも、城跡地図でみてみっと。 この辺りは『勝山城の曲輪』だったんだ。 だもんで、やっぱし、土塁だべな~。 と思ってな。 城跡に沿って端っこを進み、 落ち葉の層を踏み分け踏み分け、進んで、撮影したんだ。 もっとじっくり見てたかったんだけど。 ここは公園の外だから。 よそ様の目が、ちぃ~っと気になってな。 早々に退散しちゃったよw。 でも、なかなか、おんもしかったな。 さて、帰ろうかな。 と、雑木林の落ち葉から、えっちらおっちら抜け出した。 なんか、歩きにくいな~。おや? 足の裏さみたら、山歩き用の底が厚い靴に、 栗のイガが、刺さってる! 中学生のこぶしぐらいあったべか。 こんなん刺さっても、気がつかないなんて、 どんだけ落ち葉さ積もってたんだ? や~、底が厚い靴さ履いてて、いかったな~w。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中なんだ。 にほんブログ村
2012.12.24
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「西と北の堀」『勝山城の本丸』周辺は、堀で囲まれてんだけど。 復元部分も含めて、きれいに残ってんだよ。 これは『西側の堀』 誰が見ても、堀だ! って解る、おっきいもんだべ。 車が走れそうな広い堀底は、きれいにならしてあっけど。 深さは、あんましないみたいだど。 う~ん。1メートルから2メートルってとこかな~。 『大手口』付近の堀とくらべっと、ちと物足りないな。 『西側の堀』は、すぐ西側が崖さなっててな。 崖の下は『鬼怒川』に続く、河原になってんだ。 開けた場所にあっから、余計、浅く見えたんかもしんないな。 きれいに整えられた角を曲がると、 お~! まっつぐな道~! じゃねぐって。 まっつぐな堀っこ! ここが『北側の堀』だな。 この辺は、西側と違って、雑木林さなってる。 この日は整備のかたたちが、大勢いてな。 落ち葉の清掃さ、してたど。 それが、ちょうど堀の前でな~。 申し訳ないな~、と思いつつ、皆さんの間を通り抜け、 堀さ取り憑き覗いてみた。 上の土塁から覗いたときにゃ~、わかんなかったけど。 反対側さまわってきたら、堀の深さがよく見えた。 ん~でもな~。『西の堀』とくらべっと、幅さ狭いな~。 地面や土塁の表面も、最小限の手入れしかしてない、って感じだど。 でこぼこさ、あっし。 ちょぼちょぼと、草もはえてんもんな。 木だって、倒れてるw。 前日は強風さ吹いてな。 この日も冷たい風が、ごうごうと吹いてたかんな。 それで、倒れっちゃったんだべな。 きっと『北の堀』辺りは、昔のまんま、残ってる部分なんじゃ~ねえかな。 そのまんまの姿さ残すために、手入れも最小限にしてあんだんべな~。 こういう堀っこって、大好き~! じ~っと見てても、飽きないな~。 だども、掃除係のかたたちが、じ~っと見てるような気がしてな。 早々に退散! ちと、物足りないな~。 ってことで。堀の南ッかわから、覗いてみた。 やっぱし、まっつぐに伸びてるな~。 こったら堀って、珍しいんじゃないけ? 堀の向こうに、山が見えるど~。 あれは、なんて名前の山だべな~。 なかなかいい、撮影ポイントさ、みっけちゃったな。 うふふふ、ふw。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中!だど。 にほんブログ村
2012.12.22
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「西側の土塁の上から」 この辺は『西側の土塁』になんだな。 ええと、そうすっと、この辺がぼっこわされて、 偽天守閣さ、こしゃった場所かな? 広くて歩きやすいな~。 昔もこったら、広かったんかな? だったら、塀とか壁さ、こしゃれるぐらいの幅さあっけど。 ど~なんだべな。『土塁』の下は、堀になってんだけど。 ここはきれいに整備されてて、形がはっきりしてんど。 底が平らになってんな。 こういう底の平らな堀を『箱堀』って、言うらしいど。 ここは、他の堀と比べっと、浅く見えるけど。 防御の役にたつんかな? ちと不安だな。 遠くに見えるのは、『ゆうゆうパーク』っつう公園の池。 お城とは関係ないけんど、散策してみっと、運動不足解消になんど。 それにな、あそこからは『勝山城』の全景がみえっかんな。 (夏にいったときの、全景写真は、こちら) 時間さあったら、ぜひ、いってみとこれね。 さらに、こっからは『鬼怒川』が見える。 今の時期は、水量が少ないんかな。 水よりも、砂の部分が多いな。 夏には、もっと、水かさがあんだよ。(そんときの写真は、こちら) でも、秋じゃ~ないと見れないもんも、ある。 火事だ~w。 んにゃ。これは、河原の草さ、燃やしてんだな。 今の時期は、空気が乾燥してっかんな。 野火や火事の防止と、河原の整備さ兼ねて、 草や枯れ木を、燃やしてんだ。 のんびり歩いてきたけんど。 土塁散歩もそろそろ、終点だど。 ついた場所は『搦手口』の上。 ここんとこに、人さ降りた跡が残ってた。 降りれるみたいだな。 でも、階段はないから、ちと、心細いな。 枯れないで残った草が、ちびちび生えてるけんど。 足がかりにゃ~、なりそもない。 逆に、滑りそうだど。危ね~な~。 でもな。他に降りられそうな場所さないし。 ここだと、堀底じゃ~なくって、『搦手口』に降りる形になるから、 土塁西角の階段よりも、高さは半分ぐらい低い。 傾斜も、他の場所より、ゆるそうだし。 ゆっくり降りれば、だいじかな? で、ゆっくり降りたんだけど・・・こけた! おしりからこけたんで、怪我はなかったけんど。 おしり、痛かった~! やっぱし、「こける、こける、こける」 って、考えてたんが、行けなかったんかな? 運良く誰も、みてなかった。 ああ、いかった~w。 これが、こけた土塁w。『搦手口』の西側の土塁になんだ。 ちょうど写真の正面に写ってる傾斜さ、落ちてきたんだどw。 下から見ると、そんなに傾斜がないようなんだけど。 なかなかどうして。 登り下りは、難しいみたいだな。 登って見ないと、わがねかったな~。 ってことは。昔の武士は、どうやって登り下りしてたんだべな。 どっかに登り口さ、あったんだべな。 少なくとも、『櫓台』さ上がるための階段は、あったはず。 それは、いったい、どこだべな?『本丸跡』から『土塁』さ見渡してみたけど、 素人じゃ~、見当もつかないや。 あ~あ。新しい謎が、また増えちまったよw。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! だど。 にほんブログ村
2012.12.20
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「土塁の上から」『土塁』の上からみた『本丸跡』 木がちっと邪魔っけだけんんど、 広場が全部、見渡せんど。 ここにあったっつう、櫓台の上からは、 もっと遠くまで、見えたんだべな。『土塁』の上は、平たくて、幅も広いな。 これなら、ほげほげ歩いてても、 落っこちないな~。 安全そうだし、よし! 土塁散歩さ、出発!だっぺw。 今回は、『勝山城』の『本丸北側の土塁』さ、進んでいくど。 だから、前回紹介した堀と、反対側の土塁になんだ。 こっち側にも、堀っこさあんだけど。 さてさて。 上から見っと、どんなかな~? う~ん。土塁の上は、歩きやすいんだけど。 景色は・・・いまいち・・・ 木が邪魔っけで、見えね~ど~! あの辺は、曲輪かな? 木がいっぱいで、わかんねな。 手前の藪が、堀なんだけど、 こっちも、木が生い茂ってて、 上からじゃ~、よくわかんないな~。 さらに進むと、ゆるゆるとした曲がり角さきた。 この辺が、『土塁の西っかど』だな。 あ、この辺が開発で、ぼっこわされたとこかな。『土塁』が、きれいだべw。 ひょいっ、と右側さ覗いてみたら、 おお~、こえ~。 深さは正面の堀と、同じぐらいかな。 そうすっと7メートルぐらい、あんだべな。 だども、こっちは、あんまし整備されてない。 自然に近い状態になってっから、 正面の堀より、さらに、こわ~! あ、あれ? こったらところに、階段さあるど! 写真じゃ~みえないけんど。 下さ降りる、木の階段さあんだよ。 ええ~!ここさ、降りるんけ~! 無理だ~! 手すりもないし、階段もほとんど『土塁』さめり込んでてな。 足が掛けられっかどうか、っつ感じだし。 絶対、転げる! ・・・でも、堀底さいけんだよな~。ちょっと、行ってみたいな~。 む、む、む。悩む・・・。 しばらく、堀底とにらめっこ。 で、諦めた。 安全第一。まだ、先さあんだから、な。 さてと。 そんじゃ~、どっから降りたらいかんべな~。『土塁』は、もちっと先まで続いてる。 そっちに降りるとこ、あっぺかな。 よし。行ってみんべ! 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.12.19
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「櫓台跡」『搦手口』から『本丸跡』を通って、『大手口』へ。 あ、あそこさ、まだ見てねがったな。 写真の右側。土塁の上にな。『櫓台跡』があんだよ。 夏に来た時は、城跡散歩さ始めたば~りでな。 土塁の登るなんて、考えたことさねがったんだけど。 最近は、ちぃっ~とばっかし、度胸さついて。 土塁は、登るもんだ! 堀底は、歩くもんだ! って、考えさかわったw。 や~、慣れって、こえぇ~な~w。 それに、さっきまで『本丸跡』で遊んでた家族連れが、『櫓台跡』周辺さ、登ってたし。 城跡散歩人としては、やっぱし。 登るっきゃ~ね~べ! で、登ったw。 見たところ、簡単に上がれそうな斜面だったんだけど。 あ、足さ、滑る~。 力が入らない~。 そ、そうか。あんまし人が通らない斜面だから、 地面さ、や~らかいんだ~。 ずるずる、滑りながら、やっとこさ、到着。 う~、変なとこで、余計な体力さ使っちまったど~。 目の前に、堀。そして、向かい側の車が、ちっこい。 下から想像してたより、高いべ。 この辺、高さが7メートルぐらいあんだって。 お~怖。『櫓台跡』があったっつう、標識さみっけたんだけど。 離れて写真さ撮ろうとしたら、崖のほうさよらなくっちゃ~なんねぐて。 恐くて離れらんなかんた。 橋のほうから見た『櫓台跡』 崖の端っこに、ちっこい杭が見えっかな。 あれが『櫓台跡』の標識だど。 おまけに、文字は、外の堀っかわに書いてあってな。 橋からだと見やすいんだけど。 写真にゃ~、撮りにくい。 なんで、あんなことさ、建てたんだべな。 もちっと、内側さ立ててくれたら、いかったのに。『櫓台跡』は多少、でこぼこしてたけど。 比較的、平らな空き地でな。 建物一つ分は、軽くこしゃれる広さがあったど。 それに、入り口より前につきだした形さしててな。『横矢』のような役割も、してたらしいど。 橋さ渡ってきた兵を、横から攻撃出来る仕組みになってたんだな。 さて、と。『櫓台跡』を堪能した後は、 せっかく、上に登ったんだから、土塁の上さ散策してみっかな~。 上は歩けんのかな? 北へと続く土塁の上を確認してたら、こんなもん見っけた。『望楼跡』って、書いてあるど。 へ~、ここに、『望楼』さあったんだ~。 でも、この空き地に2つの建物は、狭いんじゃ~ねえかな~。 いろんな、建物があったんだな~。 で、帰ってきて、ブログさ書くために、『望楼』って調べてみたら。 電子辞書によると、『遠くを見るための高い建物。ものみやぐら』 って、出てた。 あのう・・・それって・・・櫓のことじゃ~ないんけ? 2つの櫓があったんかな? それとも、まちがって、標識さ2つ、立てちゃったんけ? っつうか。『櫓』と『望楼』は、違うもんなの? 同じなの? お城用語は、難しい。 時代とか、お城によって、呼び名が違ったりすっかんな。 あ、頭さ、こんぐらかってきた・・・ なにが、建ってたんだべな。 あ~あ、また。謎が、増えちゃった。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.12.17
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「南の堀」 今日は『勝山城』の『南の堀』さ探検してみる。 場所はここらへん。(注:この写真は夏に撮ったやつだど。だから、周りが緑なんだw) こないだの『搦手口』から掘に沿って、東に進む。 ちょうど『本丸』の外っかわさ通って、『大手口』さ戻ってく、感じだな。 上から見た堀跡。 底は平らで、両脇に土塁の壁がある。 この土塁は、堀の底さ掘った土を盛り上げて、こしゃったものらしいど。 この先は、林になっててな。『二の丸跡』の広場さあんだ。 そこさず~っと通りすぎると、 やっと『大手口』側にでんだ。 堀の入り口は、急斜面になっててな。 落ち葉がこんもりと、積もってた。 足さ踏み入れっと、 ざくっ・・・おっ!抜けない? 埋まっちまったよw。 どんだけ積もってんだ~! まるで雪の中さ、歩いてるみたいだな。 ざくざく。がさがさ。 足さ抜いて、踏み込んで。地面さ確認して、1歩踏み出す。 ゆっくり降りた坂の先は、 堀の底w。 ここも、落ち葉がこんもりだ~w。 振り返ると、 こったら急な坂道。 あの~。 ここって、本来の入り口じゃ~ない、べな。 たぶん、整備の都合で出来た、通り道だべな。 ってことは、元・土塁の斜面さ、降りてきたんだな。 急なわけだw。 で、いったん『大手口』へ向う堀と、合流。 右っかわが、降りてきた道。 左が『大手口』の堀だべな。 手前の斜面が、南さのびて、堀になってんだ。 ここに一段、段差があった。 これは、昔っからのもんかな?どうかな? もっとじっくり、眺めてたかったんだけど この辺も落ち葉の層が出来てんで、ぽけ~っとしてらんない。 葉っぱさ、すべんだよ。 まだ、積もったば~りなんだべな。 かさかさ、いい音さすんだ♪ で、足が埋まるw。 なんか、いい腐葉土さ出来そうだな。この落ち葉。 左右にそびえる土塁さ眺めながら、がざごそ、がざごそ。 落ち葉さ、かき分け進む。 右っかわの『本丸側の土塁』は、土っこ盛り上げた土塁だから、 左っかわの崖よりも、高くなってるど。 崩れてっとこもあっけど。 高いとこだと、4メートルぐらい、あったべな~。 所々に、紅葉したもみじが、まだ残っててな。 森の中さ、歩いてるみたいだったど。 ちょこっと、探検隊の気分♪ 曲がり角さ来たど。 写真の上に、建物さみえんね。 休憩用の、東屋なんだけど。 最初に、掘りさ上から撮った写真さ、あったんべ。 あの写真は、ここから撮ったんだ。 やっぱし、上と下じゃ~、全然景色さ違うな~。 土塁さ見るなら、下から見上げた角度が好きだな。 だども、堀の全体さみっときは、やっぱし、上からがいい。 う~ん。どっちの景色もそれぞれの魅力さあってな。 どっちの景色がいいかなんて、決めらんね~べ。 ぐるっと周りこむと、もう少し、堀は続く。 だども、左っかわの壁は、少しづつ、低くなってくど。 堀も、気持~ち、登り坂になってるみたいだべ。 そして、最終地点は『搦手口』に合流~。 堀跡探検は、終了だど。 ・・・ありゃ? 戻ってきちまったw。 帰り道は『大手口』の方向なんで、また、戻んなきゃなんないど。 でも、楽しかったから、いっかw。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.12.16
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「搦手口と土橋」 これは『勝山城』の『搦手口跡』だど。 奥の広場が『本丸跡』。 外っかわから、見たとこだど。 左右は土塁の山が、ちゃんと残ってる。 そして、土塁の横には、深い堀もあんだよ。 この辺りは前回来た時と、あんまし変わってないな~。 芝生が枯れ葉に変わったぐらいかな。 ほてほて歩きながら、『搦手口』を通りすぎる。 と、こんなもんが目の前に!『土橋』だ~! 案内板には、なんも書いてない。 立て札もない。 けんど、これは、どう見ても『土橋』だべな? ここは、前回も通った記憶がある。 だども、ちっとも気がつかなかったど。 ま、まあ。前回きたときは、まだ城跡散歩さ始めたば~りでな。 からめて、ってなに? って状態だったかんな~。 お城の知識さ、ぜんぜんなかったんだ。 土塁や堀に目さ奪われてて、地面さあんまし、みてなかったんだな。 だども、今回は一目でわかったど。 っつうことは。 少しは、お城に詳しくなってきたんかな? お城さ見る目が、ついてきたんだべか。 うれしいいな♪ ええと。『土橋』の話、だったべな。 写真の手前が『本丸跡』 奥が『曲輪』。『曲輪』の先は断崖になっててな。 横を『鬼怒川』が流れてんだ。 ここの『曲輪』は、広場になってんだけど。 ここから、建物跡が発掘されてんだ。 ちょうど目の前。土手っこの上に、いっかい木があんべ? あの辺に、左さ向いた建物があったらしいんだ。 兵の詰め所かな? まだ、建物の詳細は、わかってないみたいだべ。 さて。『土橋』だどもな。 上からみると、こんな感じ。 これは『搦手口』の土塁さ登って、撮った写真。 あ、ここは登っていい、土塁なんだ。 無理矢理登ったんじゃ~、ないかんなw。 だども、こったら上からみたっくれ、 はっきし『土橋』だってわかんな。 上の堀は、『本丸』の南側さ回って、『大手口』まで続いてる。 下の堀は、『本丸』の西さ守る堀。『土橋』の高さは、1メートルないかな。 低い橋だべな。 だども、ちょっと、いい感じ♪ 得した気分♪ 素人でも、はっきりわかる、ってとこが、いいべ~。 ・・・だども、こったらはっきりした『土橋』なのに。 前回は、なんで、気がつかなかったんだべな~。 どんなちっこい城跡でも。 一回見ただけじゃ~、だめなんだな~。 また、行こっと。 《栃木弁:注》 ば~り = ばっかり いっかい = でっかい。大きい。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.12.14
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「秋の本丸跡」 橋を渡って、『大手口跡』を通ると、『本丸跡』に出る。 広いな~。 でも、前に来た時は、もちっと広く感じたんだけど。 これも、季節が変わったせいなんかな。 秋って、葉っぱが落ちて、草も枯れて。 土塁や堀の形が、はっきり見えるけど。 なんか、ちびっと、寂しい感じも、すんだよな。 ちなみに、『夏の本丸跡』は、こんなだった。 これだと、木々が邪魔で、土塁の高さとか はっきり見えないんだけど。 生き生きしてる、っつうんかな。 活気があって、ひろびろして見える。 どっちがいいか、っつうと・・・ どっちも、好きだな~♪ 秋は、静かにゆったり散歩 夏は、はきはき、ウォーキング。 楽しみかたは、季節によっていろいろだべな。 そして、城跡の楽しみかたは、時代によってもいろいろ変わる。 大正時代~昭和時代の『勝山城』周辺は、 地元の人たちの憩いの場のような、公園だったらしいど。 テニスコートや闘鶏場があったんだって。 公園周りには、競輪場も、あったとか。 城跡に、テニスコート! って、怒る人もいっかもしんないけんど。 これは、まだいいほうなんだ。 だって、この頃は、土塁なんかも、まだそのまんま、残ってたんだかんな。 大変なんは、この先。 明治17年。『2の丸外堀』が、国道建設で埋められた。 まあ、これは、しゃ~ないな。残念だけど。 昭和30年ごろ。開発の勢いが、どんどん進んでくる。『勝山城』周辺には、キャンプ場ができたり、観光施設も出来てきた。 それに伴って、 城内の危険な場所に柵が出来たり、 発掘調査が行われたり、 民族資料館が出来たりした。 うん。この辺は、歴史好きからみたら、いいことだべな。 そして、昭和48年。 不動産業者が、レクリエーション施設を建設するため、『本丸虎口』周辺を破壊した! おいおい! そりゃ~ね~よ~! この頃は、今のようにお城や歴史に、興味さある人も少なくてな。 城跡保存も、あんまし活発じゃ~なかった時代、だかんな。 しゃ~ね~、っつっちゃ~。しゃ~ね~んだけんど。 ・・・泣けっちまう所行だべ。 けんど、これがきっかけで、町やら議員やら、文化財委員の人たちが 大勢動きだした。 あ、実際には、もちっとまえから『勝山城跡を守れ!』って、声は、地元であったらしいんだけど。 まだ、本格的じゃ~なかったんだな。 これで、本格的に保護活動がはじまる・・・と思いきや、なかなかうんまくいかないんだな。 っつうのも、『本丸』周辺を含んだ場所が、私有地だったもんだから。 保護活動もそっちのけ。破壊活動が進んでいったんだ。 一番ひどい時期が、昭和50年ごろ。『本丸西側の土塁』が、埋め立てられる。『大手口の土塁』が削られ、埋め立てられる。 そして、さらに。 埋めた西土塁跡に、『6層の近世様の天守閣』を建てる。 結婚式場を建てる。 宿泊施設を建てる。 プールを造る。 など、『勝山城』を、痛め尽くした。 だが。 破壊活動は長くは続かず。 昭和54年。 本丸跡周辺の施設は、経営不振で営業を停止したそうだど。 ・・・ふ、ふ、ふ。罰さ、あたったなw。 大事な城さ壊されて、昔の武将たちが、怒ったんだど。きっと。 この先は、細かく書くと長くなっちまうから、簡単にすっけど。 業者が撤退した後。保護活動をしていた人たちが交渉した結果。『勝山城』周辺は公有地になり、公園として整備されることになる。 公園っつっても。天守閣やプールのあるやつじゃなくって。 なるべく遺構を残した、自然に近い状態の公園に整備してな。 埋められた堀や壊れた土塁も、できる限り復元された。 昨日のブログさ書いた、『大手口前の堀と土塁』が そこだけ、みょ~にきれいに整備されてたんは、 いったん破壊されたものを、復元したからだったんだな。 これは、『本丸』の北に残ってた、紅葉した木。 もう、秋も終わりだな~。 ここらへんから、西のほうは、土塁がきれいに形作られてたようなきがする。 ここも、壊された部分なんかな。 ここまで『勝山城』さ復元すんの、大変だったべな~。 知らない人がみたっくれ、ただの土の山だけんど。 大勢の保護活動家が、苦労してんだ。 こりゃ~、ほげほげと歩いてたっくれ、申し訳ないな。 と、いって、何も協力さ出来ないけんど。 じっくりと、『勝山城』の土塁と堀を楽しませていただきました。 ありがとうございます。 そして、これからも、ずっと、この景色が残りますように。 ・・・こんどは『春の勝山城』さ、見たいな。 どんな花が咲くんだべ? 楽しみだな~。《参考》 『廃城400年特別展 勝山城 ~氏家氏 栄光の時代~』 ミュージアム氏家(現・さくら市ミュージアム ~荒井寛方記念館~)発行図録 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.12.11
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「秋の勝山城・正面の堀」 久しぶりに『勝山城』さ行ってきた。 橋の右側が、『大手口跡』って言われる場所だど。 堀はきれいに整備されてて、曲がりくねった様子が、はっきりみえるべ。 なんか、前回みたのと、違うな~。 整え直したんかな? これが前回散策した時の写真。 だいたい1年半ぐらいまえかな。8月ごろの写真だど。 位置がちょこっと違うけんど。 同じ場所さ、撮ったんだど。 雰囲気がぜんぜん違うな~。 なんか、橋まで別のもんに見えちまってな。 ここ、ほんとに勝山城? って、びっくりしちゃったど。 けんどな。よ~くみくらべてみっと。 堀底のくねくね感が、同じだw。 夏と秋じゃ~、 こんなに雰囲気さ、変わっちまうもんなんだな。 少しはなれた場所から、眺める。 堀はこの正面辺りが、一番よく整備されてて、な。 初心者でも、じっくりながめて楽しめるw。 深さは5~6メートルぐらいあんのかな。 覗いてみたけど、傾斜もあっし、落ちそうでな。 くらくらしちまってw。 実際の深さより、割り増しになってっかもしんないなw。 堀はさらに、右手(北方向)へ伸びていく。 こっちは、未整備状態なんかな。 正面の堀と比べっと、荒れてるように見える。 堀の底も、正面より狭まってんな。 この堀は、さらに伸びて、『本丸跡』を囲むように、 続いていくんだ。 正面の堀も、ほれぼれしちゃうけんど。 こっちの荒れた感じも、ぐっ!と、きちまうな~! 自然に近い堀と、整備された堀。 両方を、一度に眺められるなんて、 く~! たまんないな~! ふと、足元に目をやると。 正面の堀と、北へ続く堀の境目が目に入った。 なんだべな? 段差があるど? 写真の右側の窪んでるとこが、ず~と伸びて、堀になってんだけど。 どうみても、右と左の堀の深さに差があんだ。 なんだべな、これ? わざと造った段差かな? それとも、整備の都合で出来た段差かな? 夏に来た時は、草の中に隠れて見えなかった段差。 秋になって、ひょっこり、顔を出した段差。 なんてことない、段差だけんど。 なんか、意味がありそうな・・・。 う~ん。う~ん。 なんだべな~。気になっちゃうな~。 なんてな。堀さ覗きこんで、頭さ捻ってる姿さ他人がみたら。 変なおばさんさ、いんど~。何してんだべ? て、こっちが変に思われっちゃうべなw。 でも、気になる・・・ 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.12.10
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「喜連川御城下 ~そのくらしと文化~ 展」『さくら市ミュージアム』側にある、昔のお屋敷(移築したもの) こないだ来たときは、塀か柵があって、全体は見えなかったんだけど。 これだと、全体の配置がよくわかんね。 それに、奥のほうに、公園広場ができたとか。 へ~。1年ぐらいしかたってないのに、ずいぶん変わっちまったな~。 さて、今回再訪した理由は、これ。『喜連川御城下 ~そのくらしと文化~ 展』 今『さくら市ミュージアム』でやってる、企画展なんだ。 期間は11月2日(金)~12月24日(月)までだど。 これ、県立博物館でやってた『足利尊氏展』と 連動した企画展でな。 ちょっと前だったら、『足利学校』や『古河歴史博物館』と合同で、 足利氏関連企画のスタンプラリーさ、やってたんだって。 すでに他の場所は、開催期間さ終わっちまったんで、 スタンプラリー特典は、ないんだけんど。 ミュージアム入り口で、入場券さもらったとき、 記念にチラシだけでも、ほしいな~ と、お願いしたら、スタンプも、押してくれたよ。 帰りに資料本さ買った時の対応も、よかったw。 受付のお兄さん、お姉さん、あんがと~♪ あ、ここ。普段は入場無料なんだけど。 企画展さあるときは、有料になんだ。 今回は300円。お安いな。 で、中身はどうか、っつうと。 なかなか、いかった~♪ 300円分は十分あったべ。 企画展の会場は、大きめの会議室みたいな場所が、一部屋なんで、 そったらたくさんの展示物さ、ないんだけんど。 そだね。一番たのしかったのは、模型だべなw 昨日のブログにも書いたけど。 模型ってやつは、想像力がわいてる、っつうんかな。 見ててあきないど。 それに、わかりやすいしな。 そんで、な。 企画展会場にあった模型は、な。『喜連川城下町を再現した模型』なんだ。 模型の隣には 文久3年(1863)に書かれた『紙本着色喜連川城下絵図』 ってのが置いてあってな。 この図を参考に復元された模型が、隣に並べてあんだ。 つまり、両方を見比べて、あれこれ探索出来るってわけ。 地図好き、模型好きにゃ~、たまりません! 運のいいことに、ちょうど人もいなくなり、 貸し切り状態だし。 右と左といったりきたり。 じ~っくりと、堪能してまいりましたw。 あ、そうそう。 地図と模型の大きさなんだけど。 2つは、ほぼ同じ大きさでな。 ん~、テーブル一つ分は、あったべな~。 両手広げたぐらいかな。 1メートルは、なかったかな~。 ちと、うろ覚えなんだけど、とにかく、でっかかったから。 見応え十分だったっぺ。 他には、『喜連川藩の家紋』さ、染め抜かれた『黄色い陣羽織』とか『素襖』『侍烏帽子』など。 江戸時代の喜連川藩に、関係する品物や文書が、展示されてたど。 でな、でな。 喜連川藩の家紋は、鹿の角が2つ向き合ってる絵なんだど。 知らなかったな~。はじめて見たど。 変わってんね~。これは、なんていう紋なんだべな。 これだけで、300円分は、あったかなw。 や~。なかなか面白い、企画展でした。 勉強さなったな。 《参考》『喜連川御城下 ~そのくらしと文化~』 さくら市ミュージアム ~荒井寛方記念館~ 発行 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.12.09
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「さくら市ミュージアム ~荒井寛方記念館~」 12月8日(土)。『さくら市ミュージアム』さ、行ってきた。 住所は、栃木県さくら市氏家1297 にある、 記念館と資料館さ兼ねた、建物だど。 常備展じゃ~、『氏家町』と『喜連川町』に関する、資料や発掘品が展示されてんだ。 みどころは、さくら市出身の、日本画家『荒井寛方』の仏画。 あと、『のこぎりのコレクション』だべな。 仏画のほうは、ちと、よくわかんないんだけど。 のこぎりは、圧巻! その数、600点だって。 なんでも、さくら市出身の、鋸研究家『吉川金次』氏が 寄贈品したもんでな。 研究家の所有品とあって、そんじょそこらの、のこぎりじゃ~ない。 って、紹介しようと思ったら、 パンフレット、もらってくんの、忘れちまったよ。 前に来たとき、もらったからいいや~ って、今回は、もらわなかったんだけど。 どっかへ、雲隠れしちまったみたいだべ。 ええ~と。とにかくな。 箪笥造り専用の、のこぎり とか 江戸時代の頃の、丸太から平板を切り出すための、のこぎり とか 大人の背丈ぐらいの、大のこぎり とか。 他ではみれない でっかいのこぎりが、見られるど。 あと、『勝山城』の模型が、ちょこっとある。 これも、面白くってな~w。『大手口の橋』んとこが、再現されてんだけど。 普通に再現したんじゃ~ねぐって、な。 橋と周辺の土塁や堀を、修理している場面さ、再現してんだよ。 堀の中じゃ~、土っこ、ほっくりけ~してる、やつがいるし。 ちゃんと、指図する役人もいてな。 思わず、ほくそ笑んじまう光景なんだ。 あ、『勝山城』っつうのはな。 この『さくら市ミュージアム』の、横っかわにあんだよ。 建物さ周り込むと、 目の前に、木橋が見える。 あそこが『勝山城』の『大手口跡』なんだ。 ほんと、歩いて1分もかかんないとこに、あんだよw。 実は。『さくら市ミュージアム』が、建っている場所は、『勝山城』の、曲輪だったとこなんだ。 資料本も、たくさんそろってっかんな。『勝山城』さ、散策したら、帰りにでも、よってみとこれね。《栃木弁:注》 ほっくりけ~す = 掘り返す。耕す。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.12.08
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「皆川城落城」(皆川城本丸近くの崖に咲いていた、『あざみ』だど。秋っぽいべ)『皆川城』は、天正18年(1590)、『小田原城攻め』の後で、廃城さなった。 理由は、まだ『皆川広照』が『小田原城』さ、こもってっときにな。 本城『皆川城』さ攻め込まれて、落とされた。 ってことに、なってんだけど。 これ、違うかもしんないんだと。 ええ~と。『皆川正中禄』や『栃木県史』によると、『上杉景勝』『前田利家』『松平修理亮』らが『皆川城』さ、 攻め込んで落とした。 って、なってるらしいんだけどな。 専門家の話じゃ~、上の3人は、3月上旬~4月20日まで、 上野国『松井田城』あたりを、攻撃してたんだと。『皆川城』が攻撃さ受けたのは、4月8日。 記録さ間違って、日付さ少しずれてたとしても、 上の3人が、『皆川城』周辺に攻め寄せる暇は、なかったんだと。 あと『石田三成』が攻め込んだ。 って話もあんだとw。 だども、これも、没。 当時『石田三成』は、『豊臣秀吉』と共に、 『小田原城』さ攻めてたかんな。 そうすっと、他には誰がいっかな? ・・・誰もいないや。 って、ことで。 豊臣側が『皆川城』を攻め落とした、って話は、 あやしいな~ って、言われるようになったんだと。 ちなみに『皆川正中禄』って書物は、物語っぽい本でな。 ちと、大げさに書かれた部分が多いんだと。 読み物としちゃ~、おもしろいんだどもな。 記録書としてみっと、信憑性が低いもんなんだって。 たとえば、『皆川城に5万人が篭城した』って書かれてるw。 実際に行ってみた感想じゃ~、 5万人、はいんね~ど。絶対に、な。 斜面ばっかしだし、ひらたい場所は、ほとんどねがったもんな。 それに、麓の里人がみんな『皆川城』さ、きちまったら、 守備の兵たちの居場所さ、ねぐなっちまうど。 そしたら、せっかくの法螺貝状の土塁や竪堀も、 意味さねぐなっちまうべな。『皆川城』は、人が居られる場所が、少ないんだかんな。 んじゃ~、当時の『皆川城』周辺は、どんなだったか、っつうとな。 『平穏』 だったんだと。 5月ごろ、『結城晴朝』が『小山城』『榎本城』を落としたり。『皆川城』の西隣。『佐野氏』に、内部抗争があったらしいけど。 他には、一切、戦らしい動きはねがったらしいべ。 東隣の『壬生義雄』は、『小田原城内』に籠もってたんだけど。『壬生氏』の城は、攻撃さえ受けなかった。 『小田原城』にいる『壬生氏』が攻撃さ、されてね~のに、 いち早く脱出(降伏)した『皆川氏』の城が、 攻撃されんのは、おかしい! 専門家は、そんなことさ、考えてな。 これも『皆川城』攻めがなかった、理由の一つになんてんだ。 じゃ~、『皆川城』は、落城しなかったんけ? そこは、ちと、わかんないんだけど。 この後、『皆川広照』は、『皆川城』を出て、『栃木城』に移ってる。 これも、『皆川城』が落城したせいだ、って説が強いんだけど。『皆川城』が攻撃されてない、としたら、 話は全然、変わっちまうど。 どうして移ったのか。 ほんとに『皆川城』は、攻め込まれたのか。 それとも、『皆川城攻め』は、なかったのか。 こっから先は、専門家の研究さ、任せるしかないんだけんど・・・。 どうも『皆川城攻め・落城』って話は、なかったんじゃ~ないかな。 って、思えてきたど~。 これからの研究成果が、たのしみだべな。《参考》 下野戦国史~皆川広照の生涯~ 大森隆司・大阿久岩雄 下野新聞社 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.12.06
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「永野川と富田城」(これは、皆川城の入り口付近から、本丸跡をみあげたとこだど) さてさて。『川連城』からさらに『永野川』さ下っていくと。 こんどは『富田城』ってのが、出てくる。『永野川』は『富田城』から、2キロメートル以上離れてっから すぐ側さ流れてるってわけじゃ~、ないけんど。『富田城』付近の里人たちは、『永野川』さ利用してたかもしんないど。『富田城』も『川連城』とおんなじ、平地の平城だったんで、 跡地は開発されちまってな。 本丸跡は、小学校になってんだって。 よくみれは、堀らしいでこぼこの地形も、残ってるらしいんだけど。 素人じゃ~、わかんねな~。 あと残ってんのは、『富田』っていう、町の名前ぐらいかな。『富田城』は、嘉吉元年(1441)。『富田成忠』が築城したって、言われてる。 東西、400メートル 南北、500メートル 、ほどあったらしいべ。 弘治3年(1557)。『富田城主・富田右近信吉』のとき、な。『皆川俊宗』と戦って落城。 その後は『皆川城の支城』に、なったんだ。『皆川俊宗』が隠居所にした、って噂もある、城なんだど。『皆川城』が、廃城になった跡。 天正19年(1591)ごろに、な。『富田秀重』が『富田城』を取り戻し、城主になんだけど。 慶長2年(1597)。 徳川家康の城取り壊し策で、廃城になっちまったんだと。『永野川』には、ほかにも、緑地公園や、『宮の桜』っつう、桜の名所があんだって。 あ、『宮の桜』は、栃木市皆川城内にあんだって。 栃木インターチェンジの近くって、書いてあっから、『皆川城』から、近いんかな。 桜の季節になったら、城跡散歩といっしょに、 桜並木さ歩いてみんのも、いいかもな。 南下を続けた『永野川』は、『巴波川』と合流。 『渡良瀬遊水池』で、『渡良瀬川』と合流すんだ。 ちょど栃木県が終わって、 茨城県と埼玉県に入る手前んとこで、『永野川』は終ってる。『永野川』は、栃木県だけの、川なんだど。 べつに、なんの意味も無いんだろうけど。 なんか意味がありそうな気がしちゃうな。 不思議だな~。《参考》【送料無料】栃木の城増補改訂版価格:2,039円(税込、送料別) 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.12.04
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「永野川と川連城」(これは西の散歩道からみた、皆川城だど)『皆川城』の東っかわに、『永野川』って川が流れてる。 城の行き帰りに、ちょこっと通ったんだけどな。 川幅は狭く、あっという間に通りすぎちゃった。 おまけに川さ、水がねかった。 どしたんだべな?『永野川』じゃ~、ヤマメ釣りさ出来るって聞いたけど。 ヤマメ、どこさいっちまったんだ? ええと。この『永野川』は、利根川水系に属してんだ。 ってことは。最後は『利根川』さ、合流するんだな。 んじゃ~、流れの先は、どこだべな? 地図でみっと、北のほう。鹿沼市の山奥みたいだど。『猿岩の滝』って書いてあるけど、ここらへかな。 おや、隣にもひとつ『猿岩の滝』があるど。 こっちはたどって行くと、『秋山川』の源流になってるみたいだべ。『秋山川』といえば。『唐沢山』の麓さ流れる川だんべ。 そこの山には『唐沢山城』があんだど。 こったら鹿沼の山奥でも、お隣さんなんけ~。『皆川城』と『唐沢山城』、やっぱし、深い因縁さあんのかなw。 下流のほうは、どうだべな?『皆川城』から南さ下っていくと、蛇行しながら『太平山』の側さ通る。 あ、でも、ちょこっと東さずれてっから、『太平山』よりも『川連』に近いかな。『川連』には『川連城』があったんだよ。 平地の平城だったんで、ほとんどの部分が開発されちまってな。 城跡の石碑しかない、って聞いたけど。『川連』の名前は町名として残ってるんだ。 応仁年間(1467~1469)ごろに『川連伊賀守仲利』が、築城したって噂だど。 東西380メートル 南北500メートル、ぐらいあってな。『永野川』の断崖と、周辺の湿地帯をうんまく利用した、 城だったんだと。 だども。永禄6年(1563)。『皆川俊宗』が攻め落とし、『皆川城の支城』にしちゃったんだ。 でもな。天正6年(1578)。『城主・川連土佐守仲重』んときに『佐野氏の家臣・粟野城主・平野久国』に、とられっちまった。 あ、『粟野城』は、『皆川城』より北。 鹿沼に近い『粟野』ってとこにある、城だど。 遠くから、遠征してきたんだな~。 っつうか。『平野氏』、前々から皆川領を狙ってたみたいだべ。 それが行き過ぎちゃって、後に報復さうけることに、なっちまうんだな~。 天正16年(1588)『粟野城落城』! 落としたのは、もちろん『皆川俊宗』だべな。 そんときに『川連城』も一緒に、取り返したんだって。『川連城』は天正18年(1590)。『皆川城』と一緒に、廃城なったんだと。《参考》【送料無料】栃木の城増補改訂版価格:2,039円(税込、送料別) 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村
2012.12.03
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「家康公と玄宥と広照のつながり」(これは、皆川城内のどっかの写真だよw) 今日は『徳川家康』と『玄宥上人』と『皆川広照』のお話。 ええと、家康公と広照、といえば、思い出すのは『小田原城攻防戦』だべな。『豊臣秀吉』が北条方の小田原城さ攻めた時、 北条側につき、小田原城に籠もっていた広照は、 いち早く城を抜け出し、近場に陣取っていた家康のもとへ逃げ込んで、 降伏したって話だど。 だども、これ、ちょっと不思議だよな~。 聞いた話じゃ~、小田原攻めは3ヶ月も続いたらしいけど。 その間、小田原城から脱出した武将は、いないんだと。 じゃ~なんで、広照は逃げ出せたんだ? 不思議だべ? さてさて。今回参考にしている本に、面白いことさ書いてあるど。『広照は、家康公のスパイだった』 なんだって?『北条方に味方さしたふりして、内部情報を探り、 小田原城脱出後、家康公へ、情報さ流した。 そのおかげで、家康公の信頼さえて、のちのちまで 重要視された』んだって。『小田原城さ抜け出せたのは、元々北条軍に味方するつもりがなかったため、 最初から逃げ出す算段さつけてたせい』じゃ~ないかって書いてある。 いままで、広照は、本拠地の『皆川城』さ幕府側に攻め込まれて、 このまんまじゃ~、まじいぞ! ってんで、逃げだしたんだと思ってた。 家康の陣さ逃げ込んだんは、偶然だと、思ってた。 本の話がほんとだったら、全然違っちゃうど。 ど、どうなってんだんべ? ちなみに、広照スパイ説には、ちゃんと根拠もあんだよ。 それは、小田原城攻めの4年まえごろに、 家康公と広照の間に、交流があった、ってことなんだ。 あ、それって。 天正5年(1587)に『北条氏政』と広照が、家康の仲介で、 氏政の養女をお嫁に貰って、手を組むことになった話だ! って、思ったかた。 残念!はずれ、だど。 年代ははっきりしないんだけど。 小田原攻めの3~4年前っていうから、1586年前後ってころかな。 京都に住んでいた『玄宥上人』を、家康が訪ねていった。 玄宥の才知を、知ってたんだべな。 だんだんと親密度を増していった、家康と玄宥は、 戦の話なんかも、するようになった。 そんときに天正13年(1585)にあった『草倉の戦い』の話さ出た。 ええと、詳しく書くと長くなっちまうんで、簡単にすっとな。 当時は佐竹側についていた、皆川氏を落とそうと、 北条側の軍勢が、攻め込んで来たんだ。 太平山の頂上にある『富士山城(太平山城)』を落とし、 さらに『皆川城』さめがけて、攻め寄せる北条軍。 草倉の地(現・栃木市志鳥町)で迎え撃つ、皆川軍。 3ヶ月にわたる戦いの末。和議を結んで、終結になったんだと。 そんときの、広照の活躍さ聞いた家康は、 興味さ持ったらしくてな。 玄宥に頼んで、広照とつながりさ持ったらしいんだ。 それも、ちょこっと知ってるど。 って感じの、軽いもんじゃ~なくってな。 かなり親密な関係に、なったらしいんだ。 そこで、『広照は、家康公のスパイ説』が生まれてくんだど。 北条に味方さするように、仲介したのは家康公だし、 小田原攻めでは、家康公の元へ、まっつぐ逃げ込んだし。 もしかすっと、専門家の情報では、もっとあやしい話が あんのかもしんない。 そういえば玄宥上人は、後年家康公にから、山林や荘田をもらったり、 僧正に推挙してもらったり、してんだ。 それって、広照を紹介したお礼? とか? 玄宥上人も、スパイ活動に一役かってた、とか? う~ん。それは、考えすぎかなw。『広照スパイ説』ほんとかどうか、わかんないけんど。 おもしろい話だべ~。 こういう説話って、いろいろ考えられっから、大~好きだど!《参考》 下野戦国史~皆川広照の生涯~ 大森隆司・大阿久岩雄 下野新聞社 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! にほんブログ村
2012.12.01
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