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「主郭? らしい」 神社の横に『思川 ⇒』っていう案内板さ見つけた。『鷲城』からも、思川がみれるんだど。 さっそく、行くこうとしたんだけんど、こんな道なんだ。 実際はもっと笹がいっぱいで、獣道みたいになってたんだけどな。 さあて、行くか、戻るか・・・ よし、行く! せっかくきたんだから、ちょこっとでも、思川さ見たかったんだ。 城跡からでれば、いっくらでも見れるけど、 上からみたんと、下からみたんじゃぁ、イメージが違うべ? 城からみた思川が、見たかったんだ。 藪を掻き分けていくと、先は広場みたいになってたど。 そっから見た『思川』。 うわ~。緑色だ~。『祇園城』でみたんと、ぜんぜんちがうど~。 水の量も多いし、深さがあんだな~。『鷲神社』の西側にあたるこの辺は、主郭があったんじゃないかって言われてる場所なんだと。 草や木が茂ってて、広さがよくわかんないべ。 ちょっと主郭には、狭ような感じだけど。どうなんだべ? 奥のほうは、案外広いんかもしんないな。 草ぼうぼうで、広場の向こうには、いけなかったけんど。 神社の裏に当たる場所は、木や草がたくさん茂ってる場所があったからな。 そこらへんが、曲輪になってたんかもしんないな。 最後に、木々の隙間から上流を見た。 上流にも、水が並々と、流れてく。 夏になったら、釣りもいいな~。 なんてな。釣りはしたことないから、気分だけ、な。 ・・・『鷲城』にいた兵たちは、ここで、釣りさしたんかな? ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.30
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「鷲神社の狛犬」 神社といえば、狛犬。『鷲神社』にも、狛犬さまがいらしたど。 神社に向かって、左手の狛犬さま。 足元には毬のようなもんが、ある。 よ~く見ると、毬には綺麗な花のような模様が彫られてた。 この狛犬さまの顎には、髭がもあるんだど。 雄の狛犬さまなんかな。 じ~っと、見てたら、ふと、ツイッター仲間さんのブログさ、思い出した。 規模は違うけんど、そこで紹介されてた狛犬さまも、毬を持ってたんだ。 そんで、対さなってる狛犬さまの足元には、子狛犬がいだ。 (子狛犬が載ってる、りりさんのブログは こちら) もしかして、ここにも、小狛犬がいんのかな~? わくわくしながら振り向くと、右手の狛犬さまの足元に・・・いたど~! 小狛犬ちゃん! はじめて見たど~。 実は、小狛犬、みたかったんだ~。 最初にブログさ見たとき、ちっと・・・いんや、すご~くうらやましかったんだ~。 いや~!感動しちゃったな~! こったらとこで、小狛犬ちゃんがみれっとは、思わねがったもんな~。 ここの狛犬さまは、色も付いてないし、地味。 だけんど、いやいやいや~、なかなかいい味もってんど~。 作られた年代とか、銘って気にしないから、見なかったんだけんどな。 狛犬さまにも、なんか、つながりってあんのかな? や~。 狛犬ファンに、なっちゃいそうだっぺw。 狛犬さまの歴史ってのも、深いもんが、あんだべな。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.29
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「鷲神社」 土塁の壁の反対側に目を向けると、神社がある。『鷲神社』だど。 小山義政が、武蔵国太田荘にある『鷲宮神社』から、歓進してきた神様がおられるんだと。『鷲城』の名前も、ここからもらって付けたって話だよ。 本家の『鷲宮神社』は、 天穂日命(あめのほひのみこと)、武夷鳥命(たけひなとりのみこと)、大己貴命(おほなむぢのみこと)が祭神になってるんだ。『鷲神社』も同じだったかな? 案内板さ、見逃しちゃったっぺ。『鷲神社』の正面。 飾りっけはないけど、荒れてもいない。今も大事にされてんだね。 んで。 今回も、神社の裏側さ、行ってみたど。 本殿の横には、小さな建物が建ってた。 ここにも神様さ、いんだね。 そういえば、『鷲神社』の横に、神様の名前が刻まれた石碑があったっぺ。 写真は撮らなかったんだけど、 『鷲宮神社』と同じ神様の名前が入ってたみたいだど。 他にも何人が、神様の名前があったんだけんどな。 漢字さ難しくって、読み切れなかったっぺ。 まだまだ、勉強さたんないな~。 そうそう。『鷲宮神社』には、小山義政ゆかりの品があるんだと。 義政が神社に奉納したっていう、太刀だべ。 刃の部分には表に『武州太田庄鷲山大明神」、裏には「永和二年卯月十九日 義正」って彫られてるから、間違いないみたい。 南北朝時代の特徴が、よく残ってて、歴史的資料としても、貴重品なんだと。 作者は平安時代から室町時代に活躍した、吉次という人。 刀の茎に「備中国住人吉次」って銘があってな。 そこからわかんだと。 義政は刀を奉納して、何を願ったんだべな~? ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.28
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「土塁と曲輪」 虎口の坂を登ると、いきなり広い場所にでた。 遠くに見える土の壁は、土塁だっぺ。 ここが『鷲城』のみどころ。土塁と中城って呼ばれてる曲輪なんだ。 いつもなら、必要以上に曲郭を、うろうろすんだけど、今回はがまんだべ。 写真じゃわかんないかもしんないけどな。 ここは人様の土地で、畑になってんだ。 土塁観賞も、遠くから、みるだけ。 これは、神社の参道側から撮った写真だべ。 しかし、広い畑だど~。これが全部、曲郭なんだ。 んで、周りを取り囲む森林は、全部土塁。 すんげ~眺め! お城好きさんが、推薦する理由がわがったっぺ~!『鷲城』は、あの土塁の向こうに、もう一回り、曲輪と土塁があったんだ。 けども、今は住宅地になってて、土塁跡がちょこっと残ってるだけらしい。 これが『鷲城』の全体図。 神社の入口んとこに、あったんだ。 『とちぎの古城を歩く』という本によると、 東西の最大部分が、約300m。 南北の最大部分が、約500m、あんだって。 だども、これって、残ってる部分だけの記録だべな。 実際は、もちっと、大きかったかもしんないな。 どんだけ広かったんだべか。想像できねぇや~。 《参考》【送料無料】とちぎの古城を歩く価格:1,995円(税込、送料別) ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.27
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「北の虎口 2 横矢と武士だまり」 これが、虎口んとこの写真だど。 わがっかな? 真ん中に道が通ってんだけんど、右いって、左いってって感じで、曲がってっぺ。 まっすぐに進めないようにしてあんだな。 そんで、 最初の曲がり角んとこが、『虎口』って看板があったとこ。 ここも、よ~ぐみっと、おや?って思えるとこがある。 これは『虎口』の看板の横んとこ。 溝みたいになってたど。 ネットで調べて見たら、この溝の辺りに『武士だまり』っていわれる場所があったらしいど。 そういえば、丘の向こうに広場みたいな場所があったような・・・ 笹がみっちり茂ってたんで、わがんねかったな。 それから、正面の崖のうえには、『横矢』って広い場所があんだ。 これは上さ上がったときに、撮った写真なんだ。 実際に上がってみると、下の道がみえたよ。 横矢の高さは、2mぐらいあったかな? 残念なんは、ここにも笹が生い茂っててな。 横矢の先まで、行けなかったことかな。 足元がしっかりしてたら、ちゃんとした写真も撮れたんだけど。 安全第一だかんな。 ちらっと見ただけで、がまんだべ。 ここから、敵を狙い撃ちにしたんだべな~。 ちょっと離れた場所で、しばし、妄想・・・w。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.25
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「北の虎口 1」『鷲城』の入口は、昨日ブログに書いた分かれ道と同じ。 土の壁を回り込むように、中へ入り込んだ道だった。 今の時期は、下草が刈ってないんだべな。 笹の葉っぱさ、茂り放題だったど。 ほんとに城址かな~? 不安になってきょろきょろしてたら、小さな看板さ見っけたど。 土塁って書いてある。城址に間違いないな。 さらに、矢印の示す方向には、さっきの土壁と巨大な穴。 たぶん、土塁と堀だべな。 前方に、道がある。 事前に調べた縄張り図によると、土塁の北にある森ん中に、神社があるらしい。 ってことは、こっちの道が目的地だべな。 さらに進むと、『虎口』の看板さあった。『虎口』ってのは、城の入口にある仕掛けで、敵が入りにくいように、できてんだよね。 へえ~。でも、やすやすと入ってこれちゃったけど? 山道なんで、坂になってっけど、たいしたことないど。 ほんとに『虎口』かな~? って、思ってな。そのまんま、通り過ぎちゃったんだけんどな。 ほんとは、ちゃんと『虎口』になってたんだよ。 気が付いたのは、帰りにここを通った時。 振り返って、あっ、これか~! 思わず握りこぶしさ、作っちゃったよ。 おっと。話さ長くなっちまったんで、続きはまた明日な。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.24
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「土の壁」 前方に、ゆっくり歩く御老人がいた。 追い越す理由さ、ないし。 距離も離れてたんで、周りの景色さ見ながら、ほげほげ、歩く。 右手は、2m近い土の壁になってだ。 木や草が生い茂ってっけど、これは土塁なんかな? キョロキョロと、余所見しながら歩いていたら、御老人の姿が消えた! 道はまっつぐで、見失うような場所は、ないはず。 ・・・もしや。 御老人が消えた辺りにさしかかると、土の壁の中に、入り込む道があったっぺ。 進行方向からみっと、壁を回り込むようさ、なってっから、気がつかなかったど。 中さ覗いてみたら、こんなんだった。 なんか怪しい雰囲気を感じんな。 御老人は、奥へいったんだべか。 う~ん。どうすべか~。 御老人は地元の人みたいだったから、たぶん、ここは入っても、安全なんだろうけど… 土の壁にそった道は、まだまだ先に続いてる。 こっちも気になるな。 よし。まっつぐいってみよう。 ってことで、元の道に戻って、さらに、先に進んだ。 鷲城は、まだだべか~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.23
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「小山総合公園」 3月21日。『鷲城』さ、行ってぎた。『鷲城』は、栃木県小山市外城ってとこに、あってな。 こないだ行った、『祇園城』と同じ、小山一族が築いた城なんだと。 小山義政が築いたっていうけと、このへんは、よくわがんないみたいだな。 向こうに見える林ん中に、『鷲神社』がある。 ちょうど、青い建物の向こっかわあたりだべか。 神社のある辺りが、一番の見どころポイントらしいんで、 まずは神社さ目指して、行軍開始だど! 今回は、城址専用の駐車場がないんで、隣の『小山総合公園』の駐車場に止めたんだけどな。 駐車場は広くてな。隣の車を気にせずにとめられたんだ。 だども、ちっとばっかし、遠くへとめちまってな~。 公園内をぐるりと、回りこまなくっちゃ~なんない。 はやぐ城さ行きたいのに~。 おまけに、強風。 来る途中にあった信号機が、ぐらぐらって、揺れっちゃ~ぐらいだよ。 強風に負けず、ぽてぽて歩く。公園の端っこについた。 公園の周りを囲む森林は、土塁かな? 覗き込むように歩いていたら、 梅の花。めめこいな~。春だべな~。 んで、梅を見ながら、さらに歩く。 左側は、広々とした芝生。 夏になったら、ねっころがって、昼寝もいいな。 しかし、広いな~。『鷲城』跡と『小山総合公園』、どっちがでかいんかな~? なんて、考えながら歩いでだら、バーベキューさ、出来る広場と、トイレを発見。 さっき見た青い建物は、この施設だったみたいだね。 その脇に城へ通じる道を発見! あんまし、自信がないけんど、他に道っこさないかんな。 たぶんここだんべ。 さあ~!こっからが、本番だど。レッツゴ~♪ ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.22
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「小山氏の滅亡 小山氏の反乱 4。若犬丸の乱(後篇)」(馬出しの堀んとこにあった、大イチョウ、だど。) 『小田氏の乱』のあと。 姿を消していた若犬丸は、奥州のほうさ、潜んでいたらしいど。 んで、応永3年(1396)。 若犬丸は、再び『祇園城』を攻め、占領しっちゃうんだ。 これで、2度目だべ。 足利氏満も、本気になったんか、鎌倉から兵をだして、古河まで攻めてきたんだと。 今回は大軍だったんかな。 若犬丸は戦況が不利とさとったのか、氏満が小山へ到着する前に、『祇園城』さ脱出したんだと。 またしばらく、行方不明になんだけんど、今回はすぐに居場所を探りだされちまった。 若犬丸は、だんだんと追い詰められて、会津へ逃げる途中で、自害したんだと。 だども、犬若丸の最後は、暗殺されたって話も、どっかで聞いたべ。 自害説が有力みたいだけんど、謎の部分も、多いみたいなんだ。 残るは、犬若丸の子共たち。 二人の男っこがいたんだどもな。 どちらも捕まって、殺されたらしい。 宮犬丸が7歳。久犬丸が3歳だって。戦とはいえ、ちと、つらいべな。 これで、すべての小山氏が消え、小山一族は、滅びることとなった。 一旦は、な。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.18
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「小山氏の滅亡 小山氏の反乱? 3。 小田氏の乱」 (祇園城から見た思川だっぺ) 小田孝朝は、常陸国の『小田城』に居を構えていた、武将だど。 この人が、前回の『若犬丸の乱』の時、若犬丸をかくまった人なんだ。 理由は、いくつかあるみたいだけんどな。 一番簡単なんは、『小山義政の乱』で、功績を上げたのに、報酬が少なかった。 それを不満に思い、反撃したって説。 ん~。だども、ちっと納得できないな。 報酬が欲しいんだったら、若犬丸さ捕めえて、首でも差し出したほうが、いいんじゃないけ? 油断させて、一網打尽にするつもりだった、てんなら、わかるけどもな。 そんな様子はなかったみたいだかんな。 この説は、違うかもしんないど。 もう一つの説は、政治が絡んでるっていうか、ちと複雑で。 戦国時代さ、慣れてる人なら、わがんのかな。 初心者には、むずかしな~。 ええと。 このころの小山一族は、関東でも、上位にくる勢力を持ってたらしいんだ。 それで、鎌倉幕府が進めてた、東国諸大名の勢力削減の対象になったらしい。 小田氏は、小山氏の隣に接するとこに、領地を持ってたんだけんどな。 小田氏は南北朝戦争では南側に属し、その後も室町幕府と手を組んでたんで、 鎌倉幕府の勢力に、恐怖さ持ってたんだべ。 小山一族がいるあいだはな。 足利氏と小田氏の領地の間に、小山氏がいたもんで、足利勢の攻撃対象は、小山一族に向けられてたんだ。 けど、義政が亡くなったあと。 小山氏の領地は、鎌倉幕府のい直轄地になっちゃってな。 小田氏の不安と恐怖が、一気に増大する形になったんだと。 そこへ、若犬丸が反乱を起こした。 小田氏は、これ幸い! と、若犬丸を支援した。 ・・・って感じかな。 なんとか小山一族に力を取り戻してもらって、鎌倉幕府との間の、盾にしたかったんかもしんないね。 その後。 若犬丸をかくまっていたことがばれた小田孝朝は、鎌倉に出仕してたとこを、息子共々捕まって、幽閉されだ。 『小田城』の留守を預かっていた小田五郎は、『小田城』を追われて、『男体城』へ立てこもる。 が、最後は奮戦空しく『男体城』を落とされて、降伏したんだと。 小田孝朝は、所領没収。 息子の治朝を、那須資之に人質として差し出して、やっと許されたんだど。 これが、至徳4年(1387)に起きた、『小田氏の乱』だど。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.17
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「小山氏の滅亡 小山氏の乱 2。 若犬丸の乱(前篇)」 (これは祇園城から見た、観晃橋 だど) 小山義政がなくなったあと、行方不明になっていた若犬丸(政隆)は、元中3年(1386)に蜂起した。 これが『若犬丸の乱』っていわれる戦の始まりだど。 若犬丸は昔の家臣たちと供に『祇園城』を奪還! 続いて、下野守護代・木戸元連を打ち破った! だども、またもや足利氏満が登場して、『祇園城』は氏満に取られっちまったんだと。 この間、だいたい1か月ちょい。 あっという間に、落とされちゃったみたいだべ。 若犬丸は再び逃亡。行方不明になる。 ええと。 前回、行方をくらましたときはな。奥州へ逃げたらしいど。 あっちに、領地とか知り合いが、いたんだと。 で、今回は、どこさいったか、っていうと。 もうちっと近場の、常陸国(茨城県)だったんだ。 なんでわかったっていうとな。 次の蜂起さ、準備してた朋輩たちが、古河代官に捕まって、自白しちゃったんだと。 かくまっていたのは、常陸の小田孝朝。 だけどこの人。こないだの『小山義時の乱』では、小山一族の敵だった人なんだ。 小田氏が何故、若犬丸をかくまったんか? 理由はここで書くと、ごっちゃになっちゃうから、やめとくど。 とにかく、情報を得た氏満側は、小田氏の小田城を攻めた。 小田城は落ちたけんど、若犬丸は、またもや、逃亡! 行方不明になっちまった。 逃げたり追っかけたり・・・双方、大変だべな~。 んで、やっぱし、書ききんなかったんで、後篇へ続くど。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.15
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「小山氏の滅亡・小山氏の乱 1。 小山義政の乱」 (これは、馬出しのとこの堀だど。先んとこでカーブしてるね)『小山氏の乱』とは、室町時代前期に小山城主・小山義政が起こした反乱と、 その子、若犬丸(小山隆政)が起こした反乱のことだど。 義政は天授6年(1380)~弘和2年(1382)。 その後を引き継いだ若犬丸が、元中3年(1386)~応永4年(1397)。 その間、17年も、戦が続いたらしい。 長丁場だな。うんまく、書けるかな~。 さて、『小山義政の乱』はな。宇都宮基綱との戦から、始まる。 その前から、揉め事はあったらしいんだけんど、きっかけは裳原周辺の境界線と水源争いらしい。 (3月14日、追伸:現在は戦のきっかけについて、よくわかっておらず、謎なのだそうです) 裳原まで進軍してきた義政は、基綱と戦い、基綱の首を取ってしまったんだ。 ここで、出てくんのが、鎌倉公方・足利氏満だ。 このころ宇都宮一族は、弱体化しててな。小山一族のほうが、勢力が強かったんだ。 氏満は、小山一族の勢力を削ごうと、機会を狙ってたんだな。 基綱の戦死に理由を付けて、義政討伐に踏み切った。 詳しい戦況は省くけんど。 義政は、降伏して、一端は戦がおさまったんだ。 だども、隙をみて、義政は、再度蜂起! そして、降伏・・・したと見せかけて、さらに、蜂起! 氏満は3度も兵をだして、やっと、決着さ、つけたんだと。 義政は、『鷲城』『祇園城』と落とされて、最後は『櫃沢城』ってとこにいた。 そんで、『櫃沢城』から脱出したところを見つかって、粕尾の山で自害したんだど。 若犬丸もずっと同行してたんだけど、今時は発見されず、しばらく行方不明になんだ。 そして、『若犬丸の反乱』へつながっていくんだけんど・・・ 長くなっちゃったたんで、次に続くど。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.13
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「小山・長沼・結城一族(鎌倉時代)」『思川』の土手さ歩いてたら、こんなんがあった。『小山政光 夫婦像』だって。 小山政光は小山の初祖でな。先祖をず~っと、たどって行ぐとな。 藤原秀郷さんに繋がってんだと。 この人が『祇園城』を築いたっていわれてんだよ。 さて、時代は鎌倉時代。 小山政光には、3人の息子がいた。 朝政、宗政、朝光 っていうんだ。 朝政が、小山氏を継いで小山氏を名乗った。 宗政は、長沼庄(現・栃木県芳賀郡二宮町)を開いて、長沼氏を名乗る。 朝光は、下総国結城(現・茨城県結城市)に移って、結城氏を名乗る。 3人は、それぞれの領地を納める、祖となったんだ。 小山3兄弟は、『吾妻鏡』に出てくる武人でな。 源頼朝に仕えた人たちなんだど。 それも、かなり近いところにいたらしい。 え~と。良く知らないんだけんど、有名なんかな? 小山3兄弟は、源氏側で大活躍したらしい。 幕府を支える御家人大名になり、陸奥国(福島県)に領地を貰って、勢力をのばしていったんだと。 鎌倉時代の小山氏一族は、下野国でも、一番勢力が強かったみたいだね。 源頼朝が亡くなったあとも、小山3兄弟は活躍し、最後まで『吾妻鏡』に名を連ねたらしいど。 《参考》【送料無料】下野小山・結城一族価格:2,940円(税込、送料別) ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.11
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「思川と乙女河岸」『思川』は、小山の『祇園城』、『鷲城』を繋ぐ重要な川なんだ。 そして、2つの城の守りも受け持つ、雄大な川でもあんだ。 そういえば、『思川』は2度目だべ。『壬生城』の側を流れてるのも、同じ『思川』でな。『壬生城』は上流。下流に下って『祇園城』。さらに下って『鷲城』って配置だな。 これは『祇園城』から見た思川だど。 ここで、江戸時代の思川の話をひとつ。 この辺には『乙女河岸』って船着き場があってな。江戸と小山の間で、荷物の運搬がされていたんだと。 んで。 この『乙女河岸』が、重要な役割を果たした戦がある。 それが『関ヶ原の戦い』だど。 小山評定を開いた後、徳川家康が、小山から江戸城へ帰る際に使ったんだ。 ルートは、『乙女河岸』から船に乗って、 茨城県・古河を通り、今の東京都・葛西のあたりに上陸したんだって。 その間かかった日付は、1日。 速いべな~。 これは、市役所の側から撮った『思川』だべな。 この辺から船に乗ったんかな~? どんぐらいの人数だったんだべな? 休憩しながら、ぼ~っと川を眺めてたらな。 昔の船が、ゆっくりと、川を下っていく姿が、見えた気がしたど。 ただし。 実際の『乙女河岸』はここじゃなくって、もっと下流になる。 小山市の隣に間々田ってとこがあんだけど、そこに『小山市立博物館』があんだ。 その博物館の近く、思川沿いに、『乙女河岸跡』があるそうだど。 距離はどんぐらいだべな。車で30分はかかると思うど。 結構、離れてんだ。 特に目立った史跡があるわけじゃないみたい。 だけんど、近くにいったら、寄ってみんのも、面白いかもな~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.09
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「小山評定址」 小山市役所に到着だど。 ここには『小山評定』の石碑があんだ。 市役所の中にあるって聞いたんだけんど、どこかな? とりあえず、市役所の入口目指して歩いていくと、あった! これが、『小山評定』址の石碑。 真後ろにある白い建物が、市役所だど。 ほんと。市役所の真ん前! はずかし~w。 ええと。『小山評定』っていうのは、『関ヶ原の合戦』で重要な役割を果たした場所なんだそうだど。 おおざっぱに、要点だけ書くと、 慶長5年(1600)7月24日に徳川家康が、会津の上杉景勝を討つために小山まで来たら、 石田三成が、挙兵したって知らせをうけたんだって。 25日、軍議を開き、『関ヶ原の戦い』に突入した。 その会議が『小山評定』。んで、会議を開いた場所が、ここらしい。 ええと。つまり、なんだべな。 ここには、昔、御殿みたいな建物が建ってたってことなんかな。 それとも、隣の御殿址には建てられなかったんで、ここに建てたんけ? ネットをみてたら、軍議は3間4方の仮御殿を急造した、って書いてあった。 へえ~。んじゃぁ、ここに、仮の御殿があったってことなんだべな。 後ろに説明らしき文章があった。 これは、『関ヶ原の戦い』に突入するまでの流れを説明したもの。 じっくり拝見したかったんだけど、ほら、ここは市役所の真ん前だかんな。 人さ、いっぱい通るんだ。 こっぱずかしくてな。早々に、退散してきちゃったっぺw。 帰りは市役所の横から、『思川』に抜ける横道を行く。 そうすっと、昨日ブログに乗せた、『小山御殿』の崖んとこにでるんだど。 そのまま、ず~っと『思川』沿いに歩くと、『祇園城』へ戻れんだ。 祇園城を、一周しちゃったっぺw。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.07
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「小山御殿広場」 『小山城址公園』を出て、市役所目指して歩いていたら、こんな看板さ、めっけた。『小山御殿広場』だって。 ちょうど交差点の角っこで、市役所の隣。 昔は、家かなんか建ってたような気がしたけんど・・・広い空き地になってたっぺ。 入口はこんなふう。看板さなかったら、旅館か洋館か。 ちょっと昔の、豪邸の入口みたいじゃないけ? ここは、下調べしてなかったんで、来る予定じゃなかったんだどもな。 立ち入り禁止の看板もないし、なんだか気になったんで、中さ入ってみた。 広場。ほんとに、広場。他には何にもない。 奥に、段になったとこがあったんで、行ってみた。 だども、石灯籠みたいなものと、庭石みたいな石があっただけだった。 あれは、最近のもんだとおもうど。 建物の址でもあんのかな? って地面をじっと視て来たけんど、なんもなかったべ。 がっかりだど。 帰ってきてから調べてみたら、御殿は広場になってたとこに、あったらしい。 発掘調査は終了して、建物跡は、すでに土の下。 現在は、公園広場にするために、整備中なんだと。 再び、がっかり。 この『小山御殿』はな。 元和年間に、将軍さまの日光社参休憩所として、建てられたものなんだ。 広場を囲むように、2重の堀と土塁があって、中に御殿が建っていたらしい。 御殿は、延宝8年(1680)に暴風により破損。 天和2年(1682)に、廃止・解体されたんだと。 んでな。『小山御殿』が建てられたんは、江戸時代前期になってからなんだけんどな。 その前から、この辺りは『祇園城』の曲輪の一部として、開発されていたらしいんだ。 ただし、この辺りの曲輪は、小山氏ではなく、本多正純が開発した地域って説もあるらしいど。 本多正純、といえば。 宇都宮の、つり天井事件の元になった人、ってことで、有名だけんどな。 宇都宮城へ移る前に、短い期間だけど、祇園城にいたってことが、解ってる。『小山御殿』も本多正純がこさえたんだべか? 本には御殿をこさえて人物の名前さ、載ってないんだけんど、 もしかしたら? ちょこっと、年代が誓うかな? 最後にもう一枚。『思川』から見た『小山御殿』の写真だべ。 右っ側の白い建物が、市役所。 隣の林が『小山御殿広場』だど。 平らな地面と崖が、はっきりと見えんべな。 ここに、豪華な御殿が建ってたんだべか。 なんか、すごいな~。感動しちゃったっぺ。《参考》【送料無料】近世栃木の城と陣屋改訂増補価格:1,995円(税込、送料別) ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.06
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「外から見た城」『小山城址公園』を出ると、すぐ目の前に大きな川がある。『思川』は『祇園城』と『鷲城』を行き来するためにも使われた、重要な川なんだ。 夏には、近くの河原を利用して、大規模な花火大会も開かれるんだど。『祇園城』のそばには、『観晃橋』っていう大きな橋が架かっててな。 こっから、『祇園城』の外観が見られるんだ。 もしゃもしゃと、木が生えてっとこが、『祇園城』。 城と川の間には、広い河原が広がってるど。 この辺りは、石や砂が溜まり易くなってるみたいだな。 上流に目をやると、川幅、水量、どちらも、なみなみと流れてたかんな。 船で航行するには、十分だっぺ。 さて。ここには、城好きの方にぜひ、見てほしい景色があんだ。 まずは、ぐるっと方向転換して、『観晃橋』の反対側さ、見とこれね。 川の下流、南の方向になんのかな。 遠くに、『思川』に向かって突き出した森が見えっぺ。 この森は『鷲城』の址なんだ。 んで、写真のちょうど切れ目の辺りの森が『長福城』があった位置。 振り向けは、『祇園城』。『観晃橋』からは、一度に3つの城址が見れるんだw。『長福城』は石碑しかないらしいから、城址とはいえないかもしんないけんど、 3つの城があった位置は、しっかりわかんべ? どうだい? 城好きさんなら、こう、ぐっとくるもんが、あんじゃないかな。 『祇園城』さ行ったら、見逃さないどこれね。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.05
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「本丸の土塁跡」 後から知ったことだどもな。『小山城城址公園』の2の丸は、土塁で囲まれた一角があったらしい。 すでに公園になってるし、どこら辺が境目なのか。 素人じゃあ~、わがりません。 公園内にあった地図には、北の隅っこに『本丸跡』ってあったからいってみたら、 りっはな『戦争慰霊碑』と供養の碑が建ってたど。 ええと。こういうのって、困っちゃうんだよな。 神様みたいに、拝んでいいもんなのかな。だども、なんか、違うべな。 けど、通り過ぎるのも、無礼な気がしてな。 ちょこっと、拝礼してきた。 たぶん、この碑がある辺りが本丸で、ってことは、殿様の御殿があった場所だべな~ 何か、痕跡が残ってないかな? うろうろと歩き回っていたら、慰霊碑の裏側に、土塁跡を発見したど! 知らない人がみたら、土手にしか見えないぐらい小さい土塁だけんどな。 でも、ここって・・・登れそうだど。 最近の城歩きで、覚えた楽しみの一つに、土塁登りがある。 あ、一応いっとくけんど、危ないとことか、入っちゃいけないとこには、登んないど。 あくまで、入っていいとこだけ。安全なとこだけだかんね。 んで、人もいないし、見ようによっては道に見えたんで、登っちゃったっぺ。 やっぱし、登って正解。 写真でみっと、ただの土手っこの道だけんどな。 右側は、曲輪の広場が広がってる。 こういう景色は、登ってみないとわかんないべな。 昔の人もこっから、遠くを眺めたんかな~。 何気なく左側に視線を向けると・・・わっ!断崖。 左側は、現在住宅地になってる。 その所為なのか、昔からの崖なのかわからないけんど、とにかく境目は崖になってる。 それも、結構の高さ。家の屋根よりは、う~んと高かったようなきがするべ。 そして、ここには、柵がない。 登っちゃいけない場所だったんかな~? どきどきしてたら、前から人がきた。それも管理人さんみたい。 怒られるんけ? とおもったら、普通に挨拶して、通り過ぎていったど。 ああ、よかった。 短い土塁歩きもお終い。たのしかったな~。 ふと、前を見ると、立派な石段が出現したど。 こんなやつ。後ろにみえるんが、歩ってきた土塁。 登っていい土塁だったんだ~。最初にいってほしかったど。 その分、緊張感は増して、面白かったけどなw。 他にも、土塁跡らしき土山が曲輪を囲むように残ってたど。 だども、崩れてたり、立ち入り禁止の場所もあっからな。 土塁に登るときは、安全なとこだけに、しとこれね。ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.04
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「2の丸曲輪」 橋を渡って、2の丸曲輪へ向かう。 ここも、公園になってんだよ。 花壇に、銅像。石碑が、いくつか見えた。 全体的には、日本風かな。 自然に生えていたのか、木々も残されていて、悪くないど。 城址として見たら、残念だけんどな。 そういえば。『小山城址公園』は、桜が植えてあるって聞いたど。 春には、桜まつりもあるみたい。 どうも、城址公園には、桜が植えてあることが多いね。 みんな、桜さ、好きなんだべな~。 だども、綺麗な桜の中で、遺構を眺めんのも、楽しいかもしんないなw。 西の隅っこには、こんなんもあった。 これも、城址には、つきものみたいw。 ちょっとわかりづらいけんど、お稲荷さまだべな。 ちゃんと手入れをされてて、綺麗になってたど。 古いもんだけど、何時頃つくられたんだべか。 小山氏の時代かな。それとも北条氏時代? あるいは、本多正純時代かな? 『小山城(祇園城)』は、小山氏が作ったって言われてる。 けど、戦国時代後期、北条氏照の支配下に置かれた時期が、あったらしいんだ。 んで、そんころに、大規模な拡張工事を施されていたんだど。『小山城』の周辺の曲輪や仕掛けは、そん時に作られたんだって。 どうしてわかるんか、っていうとな。 残存する小山城の縄張図に、ちゃあんと、証拠さ残ってんだと。 下野国の城には見られない、複雑な曲輪の配置。横矢や馬出。 この辺に、武州(武蔵国・今の埼玉県あたり)の『滝山城』や『松山城』など、北条氏に見られる特徴があったらしい。 今まで見て来た城址の辺りは、小山氏が築いたとこらしいんだけんど。 この外側から、4号線のあるあたりまで。 今では住宅地になってっとこに、みっちりと、あったんだと。 そったらこと聞いたら、遺構が無くなっちゃったことが、すごく悔しいな。 ぜひ、実物を見て見たかったど~。《参考》【送料無料】近世栃木の城と陣屋改訂増補価格:1,995円(税込、送料別)ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.03
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「ぎおんばし と 空堀」 真っ赤な観光用の橋は、『ぎおんばし』。『小山城址公園』の真ん中辺りに、あるんだど。 2の丸と3の丸の間の堀を渡るために、こさえたんだべな。 橋の下を覗くとこんな感じ。 こっちは東側。 平らな地面が、まっつぐに伸びてる。 両脇は、土手が崩れないように補強したらしい石垣がある。 横には、遊歩道のような細道まである。 ここだけみたら、お城の空堀だって、思えないな、きっと。 ちょっと寂れた遊歩道か、脇道みたいだべ。 んで、こっちは西側。思川に向かって伸びている堀。 こっちも、まっつぐに伸びてる。 ほんとに、道路っぽいべ。 昔、ここには『結城通』って道があったらしいど。 どんな道だったんか、記録が見つからないんでわかんないんだけど、 堀の幅からすると、車が一台、通れるぐらいの広さがあったみたいだな。 とすると、この堀は、道幅にあわせて、削られちゃったもんなのかな。 だったら、残念だべな。 この空堀は、横に階段があって、下に降りられるようになってんだ。 さっそく降りてみた。 かなりの高さがあっと。 おや? 下に降りてみっと、また違った感じだべな。 ここは、3の丸の下んとこ。 この辺りは、昔の崖っぽい。 さらに奥にいくと、思川に出られるはずなんだけんど、なんか、ちいさな空き地になってたな。 川の側には、おりられないみたいだど。 この空堀は、『小山城址公園』のみどころなんだ。 高さはあるし、長さもあっからな。 ま、ちょこっと、いじっちゃったとこもあっけど、そこは想像力を働かせでな。 端から端へ。うろうろ、歩いてみっとな。 ぐっと感じるもんが、あるど。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.03.02
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