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「佐野城の東側」 城の内部を散策した後は、外側も散策してみっぺ。 崖の上に在ったり、住宅地がくっついてたりして、外周が見れない城もあんだけど。『佐野城』の周りには、道があっって、歩けるようになってんだ。 出発点は、ここ。『3の丸』の南。『佐野公園』の入口だんべ。 今回は右周りで行ってみっかな。 歩き出すとすぐに曲がり角にでる。 角を曲がると、 目の前に、公園の駐車場と、曲輪を隔てる堀あと道路にでた。 この辺は、来るときにも通ったし、特に見るもんがないんで、ぽてぽてと通過。 すると、堀切の前にでた。 ここは、『2の丸』と『本丸』の間の堀切だど。 ん? 横に岩があるど。 城に関係する石かな? わかんないけど、とりあえず写真撮影。 この辺りには岩がごろごろ転がってんだ。 休憩所もあって、崩れそうな崖を背景に、一休みできんだ。 これは『本丸』側の崖だど。 だどもこんなに急な崖を背景に、のんびり休憩できんかな~? 今にも崩れてきそうで、ちょっと怖い。 迫力あって、見てて飽きないけどな。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.30
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「大手門と搦手」 お城といえば、『大手門』と『搦手』がつきもんだ。 『大手門』ってのは、お城の玄関みたいなもの。 んで、『搦手』は裏口ってイメージかな。 だども、昔の城址や、改易などで廃城されたりな。 戦争の被害で、城が破壊されちゃった場合は、位置がわからないこともあんだ。 城全体の縄張り図が残ってれば、まだ、推測できんだけんど。 資料が残ってない城も、多いんだ。『佐野城』も、まだまだ、発掘調査中の城で、わかっていない事実が多いんだけんど。『大手門』と『搦手』の位置も、わかってない事実の一つなんだ。 ただな。『搦手』は、ここら辺かな? って言われてる場所があんだよ。 ここは『北出丸』の西側階段なんだども。 この辺に『搦手』があったみたいだべ。 今回は見逃しちゃったんだけど、『北出丸』の西側には、出丸から独立した、広場のような空間があんだと。 そこは、ちょうど、この西側階段の上のほうにあってな。 櫓が建ってたんじゃ~ないか、って言われてんだって。 下を覗くと、急激な階段。 ここが、門に続く道だったんだと。 さっきの櫓(推測)から、この辺も見渡せんだべな。 この道とか、櫓跡とか、から推測して、ここに『搦手』があったって言われてるみたいだど。 この階段。下っていくと、今は『北の堀切』に上がれる階段につながってんだ。 昔もつながってたんかな? そこんとこは、どうなんだべ。 資料には、載ってないんだな~。 こういうとこが、知りたいんだけどな~。 階段を降り切ると、公園の外にでる。 登り口の街頭には『北出丸』って書いてある。 真っ直ぐに上がる道が『北の堀切』。 右に曲がると『北出丸』。 こうやってみると、堀に繋がる道は、後でくっつけたみたいに見えるべ。 昔はつながってなかったんかもしんないな。《参考》 第54回企画展「佐野城址(春日岡城)を考える」 佐野市郷土博物館 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.29
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「北出丸」『本丸』から『北出丸』へ向かうには、石橋を渡るんだ。 この石橋の下が、昨日紹介した『北の堀切』だど。 橋の上から見た『北の堀切』。 普通の道みたいだな。 ここが『北出丸』だど。『本丸』より、ちっちゃいな。 正面にある建物は、なんだんべ? 近寄ってみたら、『戦争慰霊碑』の建物だったべな。 中には花が添えれれててな。今も、大事にされてるみたいだど。 『北出丸』はまだ、一部分しか発掘調査されてない。 だがら、わかってることが、少ないんだけどな。 南のほうから、瓦がたくさん出土してんだと。 総量は約1トン! なんか、大きな建物があったんじゃ~ないか、って言われてるんだと。 1トン……て言われても、な。 どんぐらいか想像できないんだけんど。 簡単な、掘っ立て小屋みたいなもんじゃ~、なぐって、 本格的な、御屋敷が建ってたって、証拠になんのかな? 慰霊碑の後ろを覗いてみると、ぐるっとまわりこめるようになってた。 神社のときと、おんなじだ。 こういうとこに、珍しいもんが隠れてたり、すんだよな。 いそいそと、歩いていくと、建物の後ろには ・・・なんもなかった。 でも、こんなんが、あったっぺ。 お山だ~。『佐野城』は高台にあるから、遠くまで景色が良く見えるんだ。 町ん中っていっても、山を邪魔するような、高い建築物もないし、な。 なるほど。 こんだけ遠くがよく見える、ってことは敵が攻めて来ても、すぐみっかるな。 なんとなく、この場所が『佐野城』に選ばれた理由が、わかった気がしたべ。『佐野城』の北っ側は、全部、山なんだ。 んで、ふと思ったんだけど。『唐沢山』は、どこだんべな? 位置的には、『佐野城』の北に『唐沢山城』があるはずなんだ。 車で『佐野城』に来る途中も通ったし、そんなに離れた場所じゃないはすだど。 こんだけ山々がよく見えるんだから、『唐沢山』も見えるはずだべ。 たぶん、あっちだな~。とは思うけど、どれか、わからん。『唐沢山城』は、元・佐野氏の居城だったんだ。 佐野信吉もここからか『唐沢山城』を眺めたんかな~。 と、ちょこっと、考えちまったよ。《参考》 第54回企画展「佐野城址(春日岡城)を考える」 佐野市郷土博物館 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.28
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「北の堀切」 佐野城の本丸の先には、『北出丸』って言われる曲輪があるんだけどな。 その前に、深い堀切があるんだ。 これは西の方向、外から、堀切の中に入る階段なんだけんどな。 急だったど~。左右は崩れそうな崖でな。 足元は木の階段だし。 佐野城で、一番急で長い階段だっべな。 よっこらしょ。よっこらしょ。 やっと、頂上! 堀切の底で、一番高いとこは、こんな感じ。 石橋が『本丸』と『北出丸』を繋いでんだ。 『本丸の南側にあった堀切』とくらべると、深さが浅いのかな? 石橋と底の隙間がせまくてな。たぶん2mないど。 だもんだから、下を通るときは注意だべ。 頭さ、つっかえそうになったかんな。 背の高い人なら・・・ぶつかっと! これは東側。こっちには、『本丸』に上がる階段もあったけどな。 やっぱし、急だった・・・。『本丸の南側の堀切』よりも、、こっちのほうが、崖は急だな。 んで、堀の底は、山みたいに盛り上がってんだ。 盛り上がり加減も、北の堀切のほうが、高いな~。 堀の中を歩いてるのに、小山を一つ越えたような気分だな。 堀ってのは、崖とか土塁の底の、まっすぐな道って、思ってたからな。 変な感じだべ。 おもしろかったけんどな~! ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.27
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「佐野城本丸 西側」 ここまで歩いて来たけんど。 佐野城には、案内板が、あんましない。 正面入口の案内版と、2の丸の石畳跡で、みただけだった。 城址にきたのに、城跡を感じられるものが、ない。 これは、すんごく、さびしいべ~。 せめて、「本丸跡」ぐらいは、標識がほしいな~。 と、思ってたら、こんなのが、あった。 本丸跡って書いてあるべ~。 でも、これは看板じゃ~ないんだど。 公園内にある街頭の、柱んとこなんだ。 ちょこっと、おしゃれだな~。 でも、城っぽくないんだけど・・・複雑な気分だな。 これは本丸の西側。 石碑が真ん中にたってたけんど、『影忠碑』というらしい。 よく見なかったんで、わかんないな。なんだんべ。 さて、と。 この辺からは、建物の礎石が発掘されたんだと。 写真にもちょこっと写ってっけど。 線が引いてあって、並べたように、綺麗に石が置いてあった場所があったんだ。 そこらへんから、出てきたみたいだな。 今は埋め戻されちゃって、なんもない。 一見、椅子のかわりにおいたのかな、って思えるような高さの、小さな石があるだけ。 その石は、発掘されたもんじゃあ、ないみたいだけんど 意味があって置いたみたい。 均等の間隔で、同じ石がならんでたかんな。 ・・・やっぱし、こったらとこには案内板が、ほしいべな~。 大事な石に、座っちゃうとこだったど~。《参考》 第54回企画展「佐野城址(春日岡城)を考える」 佐野市郷土博物館ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.26
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「虎口と石畳」『佐野城の本丸跡』を歩いていくと、こんなものを発見したど。 場所は本丸広場の東側。 昨日の石垣通路(推測)の横んとこ。 ここからは、石垣と石畳の跡が発掘されたんだと。 真ん中辺りは、幅が3.2mぐらいの通路になっててな。 1.5mぐらいの高い石垣で、固められていたんだと。 こっちは、北に向かって伸びた部分。 ここからは、石畳が出てきたんだ。 幅は2.5mぐらい。長さが5.6mだって。 掘があった場所には、石垣の名残りが残ってる。 この石は、実際に掘りだされた石垣の一部でな。 元の石垣を再現して置いてあんだって。 案内板によると、この先に、大型な井戸の跡があってな。 そこまで行く道じゃないか、って言われてるみたい。 んで、先のほうを覗いてみた。 ちょいと、急激な崖なんで、降りられないな。 なんか、石みたいなものがみえるけど、あれも遺構なんかな。 だども、残念ながら、井戸は見えなかったっぺ。 発掘調査によると。 この辺の様子から、ここにも『虎口』があったんじゃないかって言われてるみだいだな。 上の写真の通路も、左に折れ曲がってんべ。 そのあたりが『虎口』じゃないか、って考えられてんだと。 残念ながら、この先の道は崩れっちまって、降りられないし。 素人じゃぁ、空想しかできないけんど。 この道は実際に、大型井戸の横を通って、外まで続いてたのかもしんないな。《参考》 第54回企画展「佐野城址(春日岡城)を考える」 佐野市郷土博物館 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.25
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「佐野城 本丸の虎口」 本丸広場に到着~! ここには、たくさんの遺物があるんだど。 ただし、土ん中に、な。 発掘調査で、出てきたんだけんど。 今は保存のために、埋め戻されちゃったんだって。 て、ことで、こっから先は、想像力をフルに発揮して読んでみとこれね。 ここは『本丸入口』だど。 調査の結果では、ここに『虎口』があったことが、わがってる。 それも、石垣で区切られた虎口だど! これが、虎口付近の石垣造りに使われた、って言われる石。 四角い形をしてんね。 調査では、『枡形状の虎口』だったことが、わがってるんだけどな。 南北に、17.3m。東西に11.5m以上、続いていた、と推測されてんだと。 石垣の高さは、最高で1.5mあったらしいべ。 本には調査中の石垣と、虎口の写真が載ってんだどもな~。 見せたいな~。栃木県ではめずらしい、石垣だど。 これは、本丸の中から見た『虎口』。 この道の両脇に、石垣があったらしいど。 道の脇には、発掘したときに出てきた石の一部がおいてあるんだ。 たぶん、道も、石垣の幅に合わせてあんじゃないかな。 もう少し、離れてみる。 と、入口付近が、ちょっと曲がってるように、見えた。『虎口』があったとこだど。 あそこに、石垣が組まれてて、曲がった道になってたんだべ。『唐沢山城』の入口みたいだな。こっちの方が大きさは小さいけど。 ふうむ。『唐沢山城』も佐野氏の城だかんな。『唐沢山城』で使われた技術が、使われてんのかもしんないな。 《参考》 第54回企画展「佐野城址(春日岡城)を考える」 佐野市郷土博物館 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.24
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「堀切 1」 2の丸と本丸の間には、深い堀があるんだ。(これは、本丸側から撮った写真だど。)『堀切』っていってな。 元は広い台地だった場所を、曲輪にする時にな。 地面を掘って、堀にしたもんなんだって。 曲輪と曲輪の境目の役割と、敵の侵入を防ぐ役割をしてんだど。 石橋を渡ると、本丸に入る。だども、横に、下に降りる階段さ、あんべ。 よし! 降りてみっか。 ここの階段も、堀にそって、こさえてあるんでな。急だど。 だども、堀の深さが、わかるっぺ? 西に向かって、真っ直ぐに伸びる堀。 綺麗に整備されてて、なだらかな堀底だな。 歩きやすいけんど、ちょっと、物足りないべ。 左右の崖は、こんな感じ。 地面と違って、あんまし、整備されてないみたいだな。 崩れてて、木の根っこが剥き出しになってるし。 大きな岩の姿も見えたど。 この岩は、自然の岩で、石垣じゃないみたい。 自然な感じで、いいな~。 だども。あんまし、緊迫感は感じないな。 明るい、っていうか。ほのぼのしてる、っていうか。 ほけっ と、見上げっちまうよ。『祇園城』の堀切は、もっと怖い感じが、したんだけどな。 高さのせいかな。 それとも、木が少なくて、光がたくさん入るから、明るく感じるのかな。 突き当りは階段になっててな。 さらに下の道路へと、続いてるべ。 ってことは。 この堀は、下の地面より高いとこに、掘られてるってことに、なんべな。 これって、どういうことかな。 昔は下まで堀だった? それとも、地面が高かった? あ、でも、昔は城の周りに堀があったって、聞いたど。 じゃあ、下の堀とは、つながってなかった堀なのかな。 なんか。中途半端な、気分だな。 こっちは、橋の東側の堀底。 坂になってて、段々と下っていくんだ。 そして、外の地面とつながってんだ。 ここだけ見ると、堀じゃなくって、小山を横切る道みたいだな~。 すると、上からきた堀切は、道の役目もしてたのかな? 東側は城を取り巻く形に、掘があったことが、確認されてるんだけどな。 堀に橋を渡せば、堀切の中にはいれるべ。 ・・・と思わせておいて、行き止まりの掘で、敵は一網打尽! こんなんも、ありかな。どうかな? いやあ。あちこちの城さ見て、掘も、わかったつもりだったけんど。 まだまだ、わかんないことってのは、いっぱいあんだな~。 こりゃ~、城散歩が、ますます楽しみになってきたど~! ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.23
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「2の丸と池」 坂道を上がって行く。 ここは昔の道なのかな~。わかんないけど、急な登り道になってんだ。 小高い丘みたいな場所を、迂回するように、左にカーブした坂道だど。 一休みして、崖から下を覗いてみると、 おう! 車がちっこく、みえるべ~。『3の丸』よりも、さらに高い場所に上がってきたみたいだな。 坂の上に到着! 芝生の広がる場所に出た。ここが『3の丸』だべ。 ほんとはこの写真の、3倍ぐらい広いんだけどな。 木が生えてたり、花壇があって、広さがよくわかんなかったど。 昨日の『城山記念館』も『2の丸』にあんだ。『2の丸』は『佐野城』の曲輪では、一番の広さがあるっていうけどな。 ごちゃごちゃしちゃってて、『3の丸』よりも、ちっこく見えたべ。 それにな~。なんだか、斜めになってるべ。 歩きにくいほどの傾斜じゃぁないけどな。変な感じだど。 さらに奥に進むと、あれは・・・藤棚だべか? そして・・・ 池だべなw。 2段重ねの豪華な奴。中には鯉と和金が泳いでた。 ほんと、皆、池が好きだべな~w。 でも、城址に池は・・・なんか、違うど。 さて。『2の丸』も発掘調査さ、あったんだどもな。『織部向付』っていう焼き物や、瓦がたくさん見つかってんだって。 他にも古銭や土器の破片も、いくつか出てるようだど。 そして一番の遺構は、北の隅から発見された『溝』。 細長い溝でな。所々に石組みが組んであったんだど。 専門家の話では、『庭園の跡』らしいべ。 この跡地も、埋め戻されちまって、今はみることができないんだ。 んで、その跡地に作られたんが、さっきの池。 実際に池があったらしくてな。再現してみたんだって。 形はどう見ても、現代風の池だどもなw。 この辺はちょっと、小高い場所になっててな。『2の丸』が見渡せる感じだべ。 ここに東屋でも建てて、庭全体を眺めたら、きっといい眺めだべ~。 庭園だった、って話は、本当かもしんないな~。 だども、やっぱし。 池は、変だと、思うけどな~。 《参考》 第54回企画展「佐野城址(春日岡城)を考える」 佐野市郷土博物館 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.22
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「2の丸の入口」 次は『2の丸』さ行ってみよ。 元は堀だった坂道を登って行くと、行く手を遮るものがある。 バイクは立ち入り禁止だと。 徒歩なんで、楽々通過。 でも、柵の上さ、ちょこんと乗っかった雀。 めめこいな~。みとれっちまったよ。 って、こったらとこで、時間さ使ってる場合じゃぁねえべ! 雀の誘惑さ、振り切って、先に進む。 すると、道が2つに別れてた。 右に進む道は、綺麗に舗装されてる坂道。 向こうに見えるのは、管理と休憩所になっている、『万葉の里・城山記念館』だど。 この、一見なんにもない坂道だけんどもな。 当時の入口だった形跡が、道の端に残ってるんだと。 門の礎石になったんじゃぁないか、って言われている石が、道の横に置いてあったんだって。 そんなん、どこのホームページにも、書いてなかったから、知んなかったど。 案内板もなかったし。 数少ない史跡だったのに、見逃した~。 でもな。写真さ見直してたら、それらしい石さ、見っけたど! これは、城山記念館の方向から、撮った写真だべ。 真ん中あたりに、石が見える。これ、だべか? どっちにしても、ここの坂道あたりに門があったってことは、ほんとらしいど。 門、といえば。『佐野城』から移築された門が、『佐野厄除け大師』にあるらしいべ。『佐野厄除け大師』の歴史は古くって長いんで、簡単に説明すっとな。 藤原秀郷が、平将門降伏の誓願のとき、な。 佐野の春日岡に、春日明神の社殿・お寺を建てたんだ。『春日岡惣宗寺』っていいいてな。『佐野厄除け大師』の元になったお寺だべ。 んでな。 春日岡ってどこか、というと。 今の『佐野城』が築かれているとこなんだ。 だから『佐野城』は、別名『春日岡城』って言われてんだど。 慶長7年(1602)に『佐野城』が築かれたとき、移転。 佐野市内に移り、『佐野厄除け大師』になったんだと。 『佐野厄除け大師』はな。栃木県じゃぁ、有名なお寺でな。 毎年初詣の時期は、大勢の初詣客が押し寄せて、ぎゅうづめになっとこなんだど。 名前は知ってたけんど、こったらとこで、お城とつながりがあるとはなあ~。 びっくりだど。 いつまでも、びっくりしてらんないんで、先に進もう。 今回は、右側でなく、こっち。左の道を進むことにしたど。 理由は簡単。 こっちの方が、土がいっぱいあったから。 最近、土のある道さ、歩いてなかったかんな。 土に餓えてたんだな~w。 《参考》 第54回企画展「佐野城址(春日岡城)を考える」 佐野市郷土博物館 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.21
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「三の丸と佐野駅」 ここが『三の丸』。 今は、公園になってんだ。 反対側には、子供用の遊具もあってな。 近所の人らしい子供連れが、楽しそうに遊んでた。 『三の丸』の中央には、大きな桜が一本植わってる。 ちっとばっかし、時期が遅かったかな。 もう、散り始めてたべ。 綺麗な桜の後ろに見えるんが、『佐野駅』と『佐野城』を繋ぐ、連絡口だべ。『佐野城』は、駅から直接こられるように、なってんだ。 ちょうど駅の2階部分と、『三の丸』の高さが、同じぐらいになってんだね。 こんな城は、ちと、珍しいんじゃないけ? 利用客は、結構いるみたい。 見学中も、何人も出入りしてたど。 中央の桜に、見とれている人あり、 遊具で遊ぶ子供あり、隅の東屋で、休憩する人もいる。 と、思えば。 駅から『三の丸』を通り抜けて、市街地の方向へ、歩いていく人もいる。 家へ帰る、近道なんかも、しんないな。 それぞれが、それぞれ別々の行動を、楽しんでいるみたい。 そんじゃあ、こっちも、楽しく城散歩、はじめっぺw。 まずは、『三の丸』をぐるっと一週、歩いてみた。 小さい広場なんで、5分もしないで、スタート地点に戻っちまったけどな。 南の端っこに、井戸の跡があるって案内板にかいてあったんだけんど、どこだべか? それらしき場所を、探ってみたんだけんど。 残念ながら、発見できなかった。埋め戻されちゃったんかな~。 これは、南側の階段の写真だど。 城の虎口じゃなくって、公園に出入りするために、こさえた階段だべな。 だども、わかるかな。 階段は城の崖に沿うように、こさえられてんだ。 だから、こんだけ急な階段、ってことは。 城を取り巻く崖が、こんだけ急だってことなんだど。 身をにりだすと・・・おおう! 駅の構内がよく見える! それに、ホームが長い。 もしかすっと『佐野城』の横幅と、同じ長さなんじゃぁないけ? べ、別に、鉄道ファンじゃぁ ないど。 だども、近場にあんだもん。気になっちゃうのは、しゃーないべ? ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.20
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「佐野城公園 入口付近」 城の部分だけ、拡大してみたど。 大まかな感じさ、わかっかな。 連廓式の平山城でな。 丘陵地帯を上手く利用して作られた、小高い丘の上にある城なんだべ。 北から、『北出丸』堀『本丸』堀『二の丸』。 現在地の看板前さ、抜けて『三の丸』って縄張になってんだ。 城の周りを囲むのは、崖だべ。『二の丸』と『三の丸』の間には、堀があったって言われてるみたいだけど。 現在は、坂道になってて、堀の跡は残ってないんだ。 ここが、『二の丸』の入り口。ちょっと坂道になってるべ。 ここまでの道も、坂になってたんだけんどな。 少しずつ、登っていく形になってるみたいだべ。 さて困った。 北へ登れば、『二の丸』だけんど、足元に広がる『三の丸』広場も気になる・・・ どっちさ、先に、いくべかな? ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.19
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「佐野城」 4月18日(水)。 『佐野城址公園』さ、行ってきたど。 夕方から雨だって言ってたけんど。 途中で降られることもなく、楽しいお散歩でした。『佐野城址公園』は、栃木県佐野市若松町にある城でな。 唐沢山城・城主 佐野信吉が築いた城なんだべ。 幕府の命令で、『唐沢山城』から移らなければならなくなったとき、こさえたのがここ。『佐野城』なんだ。 慶長7年(1602)頃の話だど。 これが『佐野城』の案内板。これは、上が北になってっから、わかりやすいべ。『佐野城』は、JR両毛線の佐野駅の真ん前にあるから、わかりやすい・・・はずなんだけんど。 入口が、わかりにくくてな~。 線路横の、車一台がやっと通れる細道を、入っていかなくっちゃ~なんないんだ。 さすが、城! ただでは入らせないって、魂胆だべな。 だども 今までいった城址でも、入口近くになると、道が込みいっててな。 散々、迷わされてきたかんな。 こんぐらいじゃ~、引き返えさせるなんて、できないど! 気合をいれて、だども、ゆっくり進む。 もう城は目の前だ。行き過ぎっちゃうわけには、いかねえもんな。 それに、問題がもう一つ、ある。 駐車場だな。これも、毎回、迷うんだ。 無料の駐車場があるってきいたんだけんど、さて、どこだんべ? 結局、見つからず。 時間さもったいないんで、駅前のパーキングに止めちゃったけんど。 3時間は無料だから、だいじだべ。 んで、無料の駐車場はな。 公園の東側を回り込んだとこに、あったっぺ。 ここも、細い道を入っていかなきゃ~、わがんないとこ。 さらに、公園内に入る細道を行くと、入口前にも無料の駐車場さあった。 う~ん。なんで、こったら、わかりにくいとこさ、駐車場にすんのかな~。 これは『佐野城』だけじゃないんだけんど。 それに、無料だし。駐車場がないとこもあるから、文句をいうのも、なんだけんど。 公園化するんなら、な。 広くてわかりやすい駐車場に、しとこれよ~。 城さ攻め込む前に、疲れっちまったべな。 ・・・む? もしや、これも、敵(?)の作戦け?『佐野城』。油断できねえべ。ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.18
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「2つの馬出 その2・崖の上」『祇園城』には2つの馬出跡が残ってるんだけど。 2つ目は、ここだど。 場所は、現存している祇園城跡の一番北んとこ。 だども、ここは馬出じゃないど。 ここは、3の丸の北にある堀の底でな。 馬出があるのは、崖の上。ちょうど鉄柱があるあたりの上にあんだって。 堀は鉄柱に邪魔されて、途中までしか、いけないんだけどな。 その先に、上にあがるための土橋があったらしいべ。 今もちょこっと、跡が残ってるみたい。 ここの馬出は、こないだ紹介した本丸近くの馬出にくらべっと、半分ぐらいのちっこい物なんだと。 だども、保存状態もいいし、中世城郭に2つの馬出跡が残ってることって、めずらしいんだと。 そったらこと言われたら、見てみたいべな~。 んじゃあ、そこまでどうやっていけばいいか。 3の丸から、馬出へ。直接行ける道はないんだ。 ここには、公園の通行用の橋もかかってないかんな。 一旦堀の底さ降りたら、堀にそって、南へ進む。 そうすっと、民家に囲まれた空き地にでんだ。 ここは近所の人達の運動場みたいになってっけど、曲輪だったとこだど。 左右の高い崖に、曲輪だったころの、面影さあったべ。 そこを通りすぎると、右っ側にお寺が見える。『天翁院』っていってな。小山氏の墓もあるらしい。 さて、馬出に行くにはな。ここのお墓を通らなくっちゃいけないんだ。 もともとは、このお寺の辺りも、祇園城の曲輪だったみたいなんだけんどな。 今は、お寺の敷地と墓地になっちゃってるんだよ。 墓地・・・ちょっと、行きづらいべ・・・ な~んかな。人んちの庭先に不法侵入するみたいに、気まずい感じがしちゃうんだ。 で、結局いけなかったんだけんどな。 馬出の跡は、はっきりと残ってて、見る価値があるって聞いたから、 勇気のある人は、ぜひ見にいっとこれね。《参考》 『鷲城・祇園城・中久喜城 小山の中世城郭』 鷲城・祇園城跡の保存を考える会 随想社ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.14
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「2つの馬出 その1・本丸へ続く虎口」『祇園城』の馬出について、ちょこっとわかったことがあっから、書いてみるど。『祇園城』には2つの馬出跡が残ってんだって。 1つ目はここ。 本丸と2の丸跡って言われてる、曲輪の北側だど。 広場になってて、馬出の堀があんだ。 堀は、思川のある西っ側から伸びてきて、くの字に曲って、本丸方向へ向かってく。 本丸跡と馬出の間には深い堀があんだけど、馬出の堀は、少し手前でとまって、土橋になってんだ。 ちょっとわかりづらいけんど。 赤い橋の手前んとこ。木の柵あたりが、土橋だど。 敵はこの土橋を渡って城内に攻め込むんだけんどな。 右側の馬出と本丸側の土塁の上から矢をいかけられて、容易には攻め込めないって仕掛けさなってんだ。 今は公園内を行き来しやすいように、赤い木の橋と石橋が、それぞれの堀に架けてあんだけとな。 これは、戦国時代の出入り口じゃあ、ないんだ。 本丸側の赤い橋は、もっと西よりで、馬出の真ん中さ出られるようになってたんじゃあないか、って言われてるんだと。 もう一つの石橋は、完全に後世の作りもんでな。 実際の通路は、城の崖っぷちにこさえられた土橋を使って、通行してたらしいんだ。 これは、石橋からみた馬出の堀だど。 思川の方向さ見てんだけんどな。 昔は、この先に土橋だあったらしいんだ。 この土橋は、長い年月の間にくずれてなくなっちまったらしいど。 川沿いだかんな。洪水の被害とかも、あったんだべな。 しかしな~。こったら深い堀だど。2mぐらいはあんべな。 どんな橋だったんだ? なかなか想像出来なくってな~。悩んでたんだけどな。 この文章さ書いてたら『飛山城』に似たような場所さあったこと、思い出したど。 やっばしがけっぷちさあってな、堀をせき止めるような道になってたっぺ。 その光景を『祇園城』に当て嵌めてみっと…なるほど、こんな感じだったんか~、ってやっと納得できた。 さて、この馬出だけんどな。 こさえたのは、後北条氏だっていわれてる。 四角い形が当時の後北条氏の馬出に似てんだって。『祇園城』は一時期(ねんだい)後北条氏に支配されてたことがあっからな。 そんときこさえられた可能性が強いんだと。 ってことは。 小山義政や若犬丸が『祇園城』に立て籠もったころは、馬出さ、なかったんだべか。 それとも、変わりになりそうな防御設備さ、あったんかな。 気になるな~。《参考》 『鷲城・祇園城・中久喜城 小山の中世城郭』 鷲城・祇園城跡の保存を考える会 随想社 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.12
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「鷲城の虎口」『鷲城』には、虎口が3つあったことがわがってる。 一つ目はここ。 小山総合公園側からくると、2つ目の入口に当たるとこ。 城の位置でいうと、西側になるとこで、思川の崖に近い場所だど。 崖の傾斜を利用した虎口で、中世の城址としては、状態がよく残ってるんだって。 2つ目はここ。 現在は『鷲神社』の入口になってるあたりだべ。 住宅地などの開発のため、土塁は無くなっちまったんだけんどな。 昔はこの辺りにも土塁と堀があり、城へ通じる虎口があったことが、わがってる。 こっち側は、思川の崖もなく、平な台地が広がってる場所なんだけどな。 敵が攻めて来た場合、ちょっと防御に不安があってな。 堀や櫓で、警備を固めてた可能性もあるらしいど。 実際に、櫓台の跡もいくつか残ってるから、時間さあったら、周りを探索してみても、面白いべな。 3つ目の虎口は、今回いけなかったとこ。『鷲城』の見どころ、大きな堀の真ん中あたりにあるんだと。 ここの虎口は、堀の中の曲輪と外の曲輪を結ぶ役割さ持っててな。 堀の上を渡る木の橋があったんだって。 ちょうど虎口の向かい側にあたる敷地に、橋を架けるために作られたと思われる、広い空き地跡が残っててな。 研究者が、「橋があった可能性が高い」といってんだ。 この広場は個人の家が建っててな。私有地だから、見学はできないけんど。 土塁の底から見ることは、出来るかもしんないな。 『鷲城』が、現役で活躍していたころの、虎口はこの3つなんだけんどな。 現在は、もう一つ、入口がこさえられてる。 総合公園側から入って来ると、1個目の入口になるとこ。 城の地図でいうと、南西のあたりかな。 ここは、戦国時代にはなかった入口なんだ。 んじゃあ、誰がこさえたか? それはわがんない。 だども、江戸時代の頃に、開けられたものみたいだど。 近所の村民が通る道だったんかな? それとも、災害があったときに、土塁の中に逃げ込んだとか? 理由はわかんないけんど。 これも、今んなったら、立派な史跡の一部、なんだべな。《参考》 『鷲城・祇園城・中久喜城 小山の中世城郭』 鷲城・祇園城跡の保存を考える会 随想社ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.11
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「小山氏の戦乱時代」 享徳の大乱がおこったころ。 小山持政は、結城一族の山川氏から、養子を迎えたんだ。 茂長っつってな。彼が跡を継いで、小山一族を率いていくんだ。 さて。茂長の代に替わっても、戦乱は終わることはながったんだ。 たとえば、1506年(永生3)の永生の乱。 こんときは、宇都宮氏と対立したみたい。 う、う~ん。難しいな~。 この後も、まだまだ、戦乱は続くみたいだけんど・・・さっぱし、わからんべ。 小山氏の歴史って、難しいべ~。 こりゃ、すぐには、理解できないや。 と、いうことで、申し訳なんだけんど、詳しい話はもちっと、勉強してからに、します。 このあとは、後北条氏の勢力が、小山一帯に及んできたり、上杉氏の勢力が、迫ってきたりして、 小山一帯は、戦乱に巻き込まれていくみたい。 小山氏ん中でもな。 家督相続に関して、騒動があったりして、落ち着いた時期はなかったようだべな。 《参考》 『鷲城・祇園城・中久喜城 小山の中世城郭』 鷲城・祇園城跡の保存を考える会 随想社 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.10
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「小山氏の復活」(これは、思川の近くからみた『鷲城』だど。後ろの森ん中に、『鷲神社』さあんだ。) 小山義政・若犬丸の反乱で滅びてしまった小山氏だどもな。 お隣でもあり、親戚筋でもある結城氏の一人、結城基光が祇園城に入り、小山氏を再興することになったんだ。 基光の次男・泰朝の代になってから、小山氏を名乗るようになって、幕府にも認められ、やっと、小山氏が再興されたんだど。 そして、本格的に小山氏が活躍し始めたのが、1416年(応永23)におきた、上杉禅秀の乱だっぺ。 城主は泰朝の子・満泰。 満泰は鎌倉公方・持氏の味方さして、活躍したんだと。 常陸の小栗満重を打ち取ったあと、満泰は亡くなり、子の持政が後を継ぐ。 さて、こっからが、たいへんだ。 1438年(永享10)。 まずは鎌倉公方・持氏と、将軍・足利義教の対立。 持政は将軍・義教側につき、持氏を追い詰めた。 持氏は自害。これを、『永享の乱』っていうらしいべ。 そして、1440年(永享12)。 結城城に逃げた、遺児・春王丸、安王丸は、城主・結城氏朝と供に鎌倉公方再興を合作したんだ。 こんとき。 持政は氏朝に、味方につくように、説得されたらしいけんど、断った。 小山持政は将軍側につき、結城城を攻め落としたんだ。 2人の遺児・春王丸と安王丸は、捕えられ、美濃の垂井で処刑された。 これを『結城合戦』っていうんだべ。 さらに、1441年(嘉吉元)。 将軍・足利義教が暗殺されちまった。 そして、万寿王丸(成氏)が、鎌倉公方として、復活。 さらに、成氏は幕府と対立して、反乱を起こす。 関東全域を巻き込んだ反乱を、『享徳の大乱』という。『享徳の大乱』で、小山持政は成氏側について、戦ったんだと。 最後は、幕府と成氏は和解すんだけんどな。 その頃には、持政の子も孫も、亡くなっててな。 小山氏は再び、滅亡の危機を迎えっちまったんだべ。《参考》 『鷲城・祇園城・中久喜城 小山の中世城郭』 鷲城・祇園城跡の保存を考える会 随想社 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.09
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「謡曲『安犬』」(鷲城の南端。道路の境目あたりにあった、梅の花。この辺の奥には、櫓があったらしいど) 前に「若犬丸の反乱」について、ちょこっと書いたけんどな。 この反乱さ、謡曲にした人がいる。『金春流能作家・左阿弥(または、佐阿弥)』っつう人だべ。 室町時代に、活躍した人らしいんだけんど、よくわからない。 有名な作品がいくつかあるらしいんだけんど、どんな人なんかな。 さて、と。『安犬』の内容は、な。 若犬丸の長男・安犬丸が、主人公なんだどもな。 反乱の時に死なずに、生き伸びた安犬丸が、14歳になって、故郷の母親を尋ねるんだ。 だども、鎌倉幕府側の、笠間十郎(常陸の住人)に、めっかって、襲われる。 母親に説得されて、一度は逃げ出した安犬丸。 だども、だんだんと包囲されてって、母子ともども、打ち取られる。 母子共々逃げ延びて、鎌倉で幸せになったって、話もあるみただけんど、打ち取られっちゃうほうが、有名みたいだど。 桜や柳の枝の中を、駆け巡り。 長刀を振り回し、50騎の兵をやっつける。 って場面が、最後のほうにあるらしい。 この辺が、一番盛り上がるとこなんかな~。 そんでな。 この話は、鎌倉幕府に対抗して滅亡した、小山一族に対する鎮魂のための能、っていわれてんだって。 史実とは違う話だけんど、能としては、面白かったんだべか。 能って、難しいかんな。よくわかんないんだ。 興味のある人は、調べてみとこれね。《参考》 『鷲城・祇園城・中久喜城 小山の中世城郭』 鷲城・祇園城跡の保存を考える会 随想社 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.07
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「堀の中の坂道」 謎は、すぐに解けた。 っつうのもな。こんな道さ出て来たんだ。 堀の上に通じてんだ。 上を見ると、民家らしい建物が見える。 お年よりは、ここさ上がっていったんだべな。 上は町になってっけど、昔は曲輪だった場所。 ちょこっと、いってみようかな? だども、堀の先も気になるべ。 ・・・今回は、堀の勝ち! ってことで、坂は登らずに、先に進んだど。 あんまし、手入れがされてないみたい。 倒れた木が、たくさんあったど。 自然の状態w。でも、安全面を考えると・・・ちょっと不安だべ。 今度は、前回と違う意味で、どきどきしてきたど。 これは、不安な状態。あんまし、体にいくないべ。 や~な、予感さ、すっと~。 って思ってたら、的中しちゃったっぺ。 前方に、障害物、出現! 車・・・かな? 青いシートが掛かってる。 おまけに、堀を塞いでる。 ぎりぎり、通れるような気もすっけど・・・なんか、怖い雰囲気さする! この先にあるはずの虎口、見たかったけんどな。 安全第一。残念だけど。 今回は、ここまでで、撤退しました。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.05
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「堀の底」 堀の底を歩く。 カーブさなったとこをすぎたら、こんなとこにでたど。 藪んなかで、解りづらいかもしんないけんど、これって、遺構だべ? 左っ側は高い崖さなってて、右っ側は、なだらかな坂道になってっと。 同じもんを『黒羽城』の堀んなかでも、見だな。 規模は『鷲城』のほうが、ちっこいけんど、同じもんじゃ~ないかな~。 これ、なんていうんだろ?『黒羽城』の場合は、確か、堀の入り口んとこにあったんだけどな~。 そんじゃ~ここにも、入り口があんの? ここが虎口け? んで、ドキドキしながら、右っ側の坂さ、登ったんだけっとな。 見た目よりも、キツい坂なんだ~。 ほんとに心臓さ、ドキドキしちゃったっぺ。 こりゃあ、敵さんも、ていへんだ~。 登ったあとを、振り返ってみたら、こっちの崖も、見た目より高い 草が生えてっとこが、崖の上。 んで、土んとこが堀の底だど。 ちと、写真さわかりにくいかな? だども、敵を迎え撃つには、有利だべな。 戦国時代だったら、この辺の高台に柵とかこさえて、矢を射たんだべなぁ。 しばし、空想の世界で楽しんだあと、辺りをよ~っく見ると、土塁の切れ目さ発見したど。 表を覗いてみると、 ここは総合公園からきたとき、前を歩いていたご老人が、曲がったとこだった。 ・・・え~と、ご老人、ここさ通ってどこいったんだべ? だって、周りは土塁の壁だど。 先はず~っと、掘だど。 足元の遺構も気になっけど、ご老人の行方も、気になるべ~。 ・・・謎が、増えっちまったど。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.04
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「土塁・空堀」 参道を戻る途中に、広い空き地があっだ。 ここも、曲輪だったらしいど。 鷲神社と隣合わせさ、なっててな。 こないだの畑とは、土塁で仕切ってあるって聞いたけど、藪だらけで見分けらんなかったっぺ。 今は公園広場になっててな。遺構らしいもんは、発見できなかったべ。『鷲神社』を抜けて『虎口』さ、かけ降りると、最初に『鷲城』さ入った場所に戻ったど。 そごには、『土塁 ⇒』って書かれた看板があってな。 そっから、南に向かうと、土塁のうらっ側さ、はいれんだ。 幅が広いな。これは、空堀ってやつだべな。 見上げっと、左右に土塁の壁がそびえてる。 曲輪方向からみたときは、もっとちっこくみえたのになぁ。 今じゃぁ、押しつぶされそうな脅威を感じるべ。 う~んと。5mはあっかな? 高くて見当さつかないな~。 しかし、よぐもまぁ~、こったらすげぇもん、こさえたな~。 こんな感じは『黒羽城』の堀に入った時いらいだべ。 おっかないけど、先さ楽しみになってきたど。 藪ん中を、さらに進と、こんな看板さ、でてきたど。『虎口』だって。 こりゃ~テンション、あがっちゃ~な~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.02
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「参道」『鷲神社』からまっつぐ伸びる道。参道だっぺ。 両脇に聳える木は、杉。 いい感じだな~。 杉並木を眺めながら、ゆるゆると歩いていると、気分もすっきりしてくんね。 そろそろ、花粉症が気になる季節だけんど、今んとこ、ぜんぜん花粉と縁さ、ねえもんでな。 みっちり生えた杉も、ぜんぜん平気なんだ~。 だども、長いな~。どんぐらいあんのかな? それに、なんで、参道脇の木は杉なんだべな? この前行った『雄琴神社』も参道の横には、杉の並木があったしな。 なんか意味があんのかな。 なんて考えながら歩いていたら、入口に着いた。 こっちが、ほんとの『鷲神社入口』だど。『鷲神社』の隣に、『鷲城』の石碑。 案内板もここにあった。 城の案内板によると、一番東の端っこにあたる場所だな。 ここは昔も、城の入口だったみたいでな。 鳥居の横には『虎口』って表示がしてあったっぺ。 でも、よぐわがんないな~。 どの辺が、虎口なんだべな。 ちなみに。 うらに見える畑は、昔、曲輪だった場所らしいど。 あとな。案内板によると、な。 道沿いに歩いていくと『櫓台跡』ってのがあるらしい。 これも、城の遺構だべな。 どうしようかな~。いってみっかな? 迷ったんだけど、今回は、やめた。 だって、この後、土塁探検するんだもん! 体力温存しとかなくっちゃ、な。 だがら、一通りぐるっと見回して、参道を戻ることにしたど。《栃木弁:注》 うら=後ろ ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村
2012.04.01
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