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「変わり種狛犬」 今回は変わり種の狛犬さまさ、紹介すっと。 まずはここ。 足利市の『鑁阿寺』 石灯籠の下んとこだど。 拡大してみっと・・・獅子さまみたいだべw。 反対側の石灯籠は、またちょこっと、絵柄がちがう。 だども、こっちも獅子さまみたいだべ? 最初にみたとき、これが狛犬さまの変わりなんかな? って感じたんだけど。 これは『参道狛犬』の変形した形ってみても、いいんかな。 そして、もひとつ。 これは壬生町の『雄琴神社』にあったやつ。 柱の下を取り巻くように、ちっこい獅子かとりまいてんだ。 あ、柱は神社の鳥居だど。(『雄琴神社の狛犬さま』の記事は、こちら) これ、名称はわかんないんだけど。 狛犬さまの一種って、いっていいみたいなんだ。 っつうのもな。 こないだ行ってきた、『佐野の狛犬・阿吽の世界』展で 同じような狛犬さまが、展示されてたんだ。 展示室の狛犬さまは、鳥居の柱から切り離されちゃって、 前半身だけの状態でおかれてたんだけど。 ちょこっと痛々しくって、かわいそうだったよ。 こっちは佐野市の『一瓶塚稲荷神社』ってとこにあんだって。 狛犬さまさ、くっついてる銅製鳥居は、 延享3年(1746)にこさえられた『天明鋳物』でな。 国指定の重要美術品になってんだって。 展示物なんで、写真さ取れなかったんだけど。『雄琴神社』の銅製鳥居と、似たような形だべ。 あ、だども、狛犬さまが、ちょこっと横向いてっかな。 他にも県内に、同じような狛犬さま付きの鳥居がいくつかあるみたいだど。 どこにあんだべな。 これって全国にも、あんのかな。 機械さあったら、行って、まじかで見たいな~。《参考》 第58回企画展「佐野の狛犬・阿吽の世界」 佐野市郷土博物館 (博物館内、または博物館のホームページから、購入可能) 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.30
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「狛犬留蓋瓦」 狛犬さま、っていえば。 石で出来た『参道狛犬』が、一番に頭さ浮かぶけど。 こったらとこにも、いんだよw。 これは足利市の『鑁阿寺・太鼓橋』の屋根の上だど。 高い位置さいるもんで、ちょっと表情さよくみえなかったけんど。 狛犬さまっていって、いいべな。 あ、だども、角さないから、獅子さま、なんかな? これはな。『狛犬留蓋瓦』っていってな。 屋根瓦の一種なんだと。 屋根の上さみてみっと、わかるけど。 瓦って、いろんな形さしてんだど。 丸かったり、沿ってたり、な。 この辺はまだ勉強不足なんで、詳しいことさわかんないんだけんど。 それらを組合わせて、壮大な屋根が出来上がってんだ。 んで、そんな瓦の種類んなかに、『留蓋』っていうのがあんだけど。『留蓋』はな。 屋根の端っこに置かれる、お餅みたいに丸い形の瓦でな。 瓦の継ぎ目から水が入らないように、防御するための瓦なんだと。 この『留蓋』がな。進化してって、 お餅以外の形が、こさえられるようになるんだ。 桃の実だとか。七福神とか。 ただの瓦とは思えないような。 もう、芸術品っていいたい作品が、みっちりあるんだど。 そして、狛犬さまも、こさえられた。 これは、飾りだけじゃ~なくって、守護の役割もあるかもしんないな。 これは足利市の『鑁阿寺・大御堂』の上の狛犬さま。 反対側の屋根にも、おられる。 そして、裏側の屋根上にも、たしか、おられたはず。 写真さないんで、ちょっとあやふやなんだけど。 こんどいったら、よく見てこなくっちゃな。 ふむふむ。 狛犬さま、ったら。高いところも、お好きなんだなw。 そうすっと、こんどから狛犬さまさみっけるときは、 神社やお寺の周辺だけじゃ~なくって、 上にも注意しなくっちゃ~いけないな。 ますます、狛犬さまさ、好きになっちゃったどw。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.29
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「参道狛犬」 こないだ『佐野市郷土博物館』さ行ってきたんだけど。 今『佐野の狛犬・阿吽の世界』展、ってのをやってんだ。 期間は平成24年10月6日~11月25日まで。 入場料は210円だっぺ。 小さい博物館なんで、特別展示っつっても小さいもんなんだけど。『狛犬さま』の写真さいっぱいあって、楽しかったっぺ~♪ で、ちょこっと『狛犬さま』の歴史さ、勉強してきたんで。 忘れないうちに、書いてみっかな。 最初の頃の『狛犬さま』は、 天皇の玉座を護る守護獣として、宮中の左右に置かれていたんだと。 室内犬? みたいな感じ?(笑) 材質は木製。木彫りの『狛犬さま』だったんだな。 そうそう。この頃の『狛犬さま』はな。 向かって右側が口を開いた『阿形』 角なしの獅子。 左っ側が口を閉じた『吽形』 角ありの狛犬。 『獅子と狛犬』で1対だったんだと。 これがだんだんと、家の中から外の屋根下や、仁王門みたいな場所に出てきて。 今のように、神社の参道脇を護る守護獣に、なったんだ。 これが『参道狛犬』っていわれてる、『狛犬さま』だど。『参道狛犬』が増えだしたのは、江戸時代になってから。 材質も、石になってな。『狛犬さま』の種類も大きさも、いろいろ出てくんだ。 そうそう、江戸時代にはいってくっと『獅子と狛犬』で1対だったのが、『獅子と獅子』ってパターンも生まれてきてな。 さらに、獅子だか狛犬だか、わかんないようなもんも出てくんだけどw。 これらは全部ひっくるめて、『狛犬』あるいは『唐獅子』って呼んだんだって。 これは『太平山』の『あじさい坂』におられる『狛犬さま』 右にも左にも、角さない獅子だけど 呼び名は『狛犬さま』なんだ。 文化9年(1812)のものだど。 ちなみに『参道狛犬』の第1号は『日光東照宮』の『狛犬さま』って言われてんだって。 おおう。日光の狛犬さまなら、写真さあんど。 身近でじっくり、拝見してきました♪ (そんときのブログは、こちら) これが、『第1号参道狛犬』。『奥社拝殿前』の『狛犬さま』だど。『獅子と狛犬』の組み合わせだべ。 お顔も角も、体の模様も、 しっかりと刻まれてるど。 この『奥社拝殿前の狛犬さま』が配置されたのが、 寛永13年(1636)。 その後、承応3年(1654)ごろに、 日光東照宮の造営に関わった棟梁が、 目黒不動尊に『狛犬さま』を置いた。 そっから、だんだんと庶民に広がって。 一般人も神社に『狛犬さま』を、奉納するようになったんだと。 そして、日本中に『狛犬さま』が繁殖していった、とwww。『狛犬さま』って、調べだしたらきりがないな~。 こんでも、まだまだ序の口でな。 いろいろ細かい違いも、あるみたいだど。 う~ん。一度じゃ~勉強しきれないな。 ってことで。 今回はここで、おしまい。《参考》 第58回企画展「佐野の狛犬・阿吽の世界」 佐野市郷土博物館 (博物館内、または博物館のホームページから、購入可能) 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.28
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「亀腹」 これは、足利市の『鑁阿寺』にある『多宝塔』 ここに、ちょこっと気になるもんが、あったんだ。 どこか、っつうとな。 土台の下なんだ。 これだど。 たまたま下んとこさ、目についてな。 なんだんべ~ って気になって、写真さ撮ってきたんだどもな。 わかっかな? なんか白い盛り上がりがあんだよ。 それも、わざわざこしらえたもの。 何の意味さあんだべな? 写真は撮ったけど。 調べることさ、すっかり忘れててなw。 そしたら、今日みたお友達のブログに、同じもんが載ってたんだ。 (戦国ジジイ・りりさんのブログは こちら) ああ~!これ! 鑁阿寺にあったやつと、おんなしだ~! って、心ん中で、叫んじゃったよ~! んでな。 この建物の下にある白い盛り上がりの正体は何か、っつうと。『亀腹』っつう、建物の基礎に使う技術なんだと。 真ん丸くこさえたものは、『饅頭』って呼ばれることも、あんだって。 ふっくらと膨らんだように、 漆喰さ塗って、すべすべに仕上げてあんのは、 水はけさ、良くするためでな。 水をはじいて、基礎の柱が痛まないように、保護してんだと。 へ~。知らなかったべ。 この技法は、社寺建築に用いられる技術で、鳥居にも、似たような部分があるらしい。 ええ~と。 今まで撮った写真の中に、鳥居ってあったかな~? あ、あった! 鹿沼の町で撮ったやつ。ここに、『亀腹』さ写ってる! 四角い石の上の、矢印で示したとこなんだけど。わかっかな? ちょこっと膨らんでっとこが、あんべ? あの部分を『亀腹』、あるいは『饅頭』っていうんだと。 これは石の鳥居なんで、柱さ腐ることはないけんど。 木の鳥居だったら、『亀腹』をこさえることで、 柱さ腐る予防に、なったんだべな。 さてさて。この『亀腹』なんだけど。 まれに建物の屋根の部分に、こさえられることも、あんだって。 ネットで調べてみたら、 多宝塔の上下両層の間に、こさえることも、あるらしい。 そんじゃ~『鑁阿寺の多宝塔』にも、あんのかな? 改めて、写真さじっくり眺めてみたら・・・なんか、あやしい部分さ、あるど。 ちょこっとわかりづらいけど。 屋根の上に、白くて半円形のもんが、ある。 これかな? これは横からみた写真。 やっぱり、屋根の上に白いもんが写ってる。 変わったデザインだな~、って思ってたんだけど。『多宝塔』には、みんなついてるもんなんだと。 は~、そうなんだ~。 また一つ。勉強になったっぺ。 ところで、屋根の上にある『亀腹』も、 やっぱし、水はけのためなんだべか? それとも、屋根から落ちてくる滴が、建物中さ入らないように 予防してんのかな? どうして、思いついたんだべな~? 昔の人の知恵って、すごいな。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.26
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「栃木県立博物館」『栃木県立博物館』は、栃木県宇都宮市睦町2-2にあるんだ。『栃木県中央公園』っつう、広い公園内にあるんだけんど。 公園内は、噴水と大きな池と、 日本風庭園などの散策コースがこさえられててな。 日向ぼっこやランニングにくる人も、たくさんいんだよ。 公園の北には、『緑の相談所』があって。 菊まつりみたいなイベントも、あんだ。『栃木県立博物館』は、昭和57年(1982)10月に開館した、総合博物館でな。 栃木県に関する植物・動物・歴史などの資料を収集、研究してるんだ。 館内には、栃木県内から集められた資料が展示されてんだど。 んでな。 ちょっと楽しいのが、入り口さ入ってすぐの『スロープ展示』 ぐるっと回るような坂道を上がっていくと、 日光地方の植物や動物の分布がわかる、仕掛けなんだw。 途中には、熊もいるどwww。 歴史部門じゃ~、栃木県の遺跡から発掘された品々が、ずらっと並んでる。 なかでも、お気に入りなのが、模型かな。 一つ目は『宇都宮城下町の復元模型』 江戸時代のころ。本多正純が整えたころの、城下町を再現した模型だど。 池とか木戸とか。細かいとこまで丁寧にこさえられててな。 当時のお寺や神社の位置も、よくわかる。 見ててあきないど。 二つめは『日光山内の復元模型』 これは、『日光東照宮』周辺を再現した模型。 これも細かいとこまで再現されててな。 建物の位置とか、よくわかる。 だども、一番のおすすめは。『皆川城の復元模型』だな。『皆川城』は、栃木市にある皆川氏のお城なんだけど。 別名『法螺貝城』っていってな。 山城の周辺を取り巻く堀や堅堀が、迷路みたいになってんだ。 その堀や周辺の様子がくっきりと、再現されてんだ。 目で曲輪を追うだけで、くらくらしてきちゃうべw。 他にも自然部門には、鉱物の標本や剥製、昆虫の標本など、 おもしろい展示物がいろいろあって、あきないべ。 ここまでは、常時展示されてるもんなんだけど。 他にも2階の特別展示コーナーでは、『テーマ展示』や『特別展示』など、 いろんなテーマで、最新の研究結果を展示したりして、 毎回楽しませてくれんだ。『中央公園』には、大きな駐車場も完備。 トイレも綺麗なものが完備w。 博物館内には、レストランと 栃木県内で発行された書籍をそろえた、販売コーナーもある。 ぶらっと立ち寄って、楽しめるとこだど。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.25
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「姫の望楼伝説」 これは『茂木城』の『出丸』んとこにある展望台でな。『姫の望楼』って名前さついてんだ。 これには、悲しい伝説があんだって。 ええ~と。城内に、伝説を紹介する案内板さあったんだけど。 えびねっこ風に脚色して、紹介すんね。『姫の望楼』 毎年夏になると、茂木の城下町じゃ~、祇園祭りさあるんだと。 笛やら太鼓やらあって。 大勢の人たちがたのしみにしてたらしいんだどもな。 こんときに、「お城跡の二本松さ植わっでる出丸さ、行っちゃいげねえど」 って、言われてんだと。 理由はな。 蛇に姿さ替えた茂木城の姫君が、 二本松の間から、城下町のお祭りを 恨めしそうににらんでいるからなんだとか。 だども、これはあくまでも、伝説でな。 ちょこっと、ちがう理由があったみたいだど。 この姫君。いつ頃の人かっていうとな。 茂木城さ納めてた殿さまが、秋田へ移動になったときの話なんだけどな。 殿さまは、たくさんの家臣や、その家族たちをつれて、 新しい土地へ移っていったんだ。 だけんど。当時の秋田っつったら、 は~、どんだけ遠いんだ~? 無事に、つけんだべか? って、心配しっちゃうほど、遠い道程だった。 茂木からは、ちと遠いけど。 奥州街道さ通っていったんかな。 とにかく、途方もないほど続く道を、 とぼとぼ、歩いて、 あるいは、馬っこさ引っ張って。 または、荷物さみっちり積んだ、荷車さ押しながら もくもくと、進んでいったんだな。 そったら苦労の多い移動だもんだから、 家族さ全員、つれてこられなかった人も、いたんだ。 たとえば、体力のない女性や子供たち。老人。病人。 長旅は無理だって、理由で、茂木の城下町さ残されちまった。 そんな中に、城主の娘、つまり姫君さまも、入ってたってわけだ。 茂木氏が去ってしばらくすると、新しい人たちさやって来て、 また茂木の城下町は、賑やかになってきた。 祇園祭りも、楽しそう。 だども、姫君や、茂木に残された人たちは、 新しい人たちの輪になじめず、城跡から、眺めているだけだった。 新しく茂木に移ってきた人たちは、 そげな残った人たちの気持ちを思ってな。 城跡さいくんじゃないよ って、いったらしいんだ。 ・・・ んで? その後はどうなったんだ? 残念ながら、そこんとこは、案内板にも書いてないんで、わかんない。 みんなが仲良くなって、幸せになりました、 って結末だといいな。 だって。不幸な伝説ば~りだから。 幸せな伝説も、聞きたいべ。 ・・・だども、なんで蛇になったんだべ? って、疑問は残るけど。 ・・・茂木の殿さま。ほんとに姫君、追いってったんけ? って、謎もあるけんど。 ま。ま。伝説だから。史実じゃ~ないから。 大目に、大目にw。 こういう伝説が、残ってるよ、ってことで。 楽しんでもらえたら、うれしいべ。《参考》 茂木城の案内板 「姫の望楼」 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.20
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「たばこ神社と狛犬さま」『茂木城・本丸跡』の横に、下さ降りれる階段があんだ。 すんごく、急だな~。 ちと危なっかしいけんど、地面は堅そう。 降りてみんべ。 下は、ちっさな広場になっててな。 お馴染みの、これがあった。 『慰霊塔』だったかな?『供養塔』だったかな? ちと忘れっちまったんだけんど。 戦争で亡くなったかたの、供養をするもんだな。 遠くて文字さみえないけんど。 綺麗に手入れさされててな。 大事にされてるみたいだど。 地域や場所によって、いろんな形さあんだな~。 感心しながら、一礼。 振り返ると『本丸跡』が、あんなに高い。 こっちは、城の南っ側でな。 崖には木が茂ってっから、全体さ見づらいんだけど。『千人溜まり曲輪』方向から見る『本丸跡』とは、また 違った景色だべ~。 崖の傾斜が急なんだな~。 見上げてっと、く、首っこ痛い・・・。 首筋さもみもみしながら、広場の隅に目をやると。 神社があったど。 神社に掲げられた額によると『たばこ神社』っていうらしい。 他になんも、書いてないんだけんど。 どんな神様さ、祀られてんだべか? 境内にお邪魔すると、猫の額みたいにちっさい広場に、 こちらもお馴染み。『狛犬さま』が、おられましたw。 だどもこれ。『狛犬さま』なんかな。 ちょこっと、お顔が、猿みたいw。 これは『右側の狛犬さま』 子持ちだど。 だども、いままでみた『子持ち狛犬さま』と、ちょっと違う雰囲気さする。 ちっと子供が、大きくないけ? か~ちゃん狛犬が、押さえきれなくて、 腕の中から子供が、にゅ~っと、逃げ出しそうだどw。 こっちは『左側の狛犬さま』 と~ちゃん狛犬は、なんだかうつむいてんど。 どしたい? か~ちゃんに、しかられたんけ? な~んて、な。 声さかけたくなるくらい、ここの『狛犬さま』は 動きが生き生きして、見えたんだ。 や~、なんか、家族って感じで、 ほのぼのしてて、いいな~♪ 『たばこ神社』はな。 たばこの原料になる『葉たばこ』の豊作を願って、祀られた神社なんだと。 栃木県はお隣の福島県・茨城県と並んで、 数少ない国内の、『葉たばこ』生産地なんだど。『葉たばこ』畑って、結構あちこちにあるようなイメージなんだけど。 全国でこさえてる作物じゃ~、ないみたい。 ・・・知らなかったな。 そんでな。『葉たばこ』ってのはな。 どでかいぎざぎざした葉っぱが、層になったような植物で。 高さが、約120センチにまで、伸びるんだ。 そこに、長さ70センチ 幅が30センチになる葉っぱが 20枚ほど、つくらしい。 おまけに『葉たばこ』は 茄子やじゃがいもやトマトと、同じ仲間なんだと。 え~。形がちがうど~。 あ、だども、葉っぱのぎざぎざ感は、似てっかなw。 そして、摘み取られた『葉たばこ』は。 太い茎やゴミを取り除いたあと、乾燥して ケースに詰め込んだら、1年以上熟成させる。 この辺の期間はメーカーさんや、煙草の種類で変わってくるみたいだべ。 そして、種さ植えてから2~3年後。 やっとこ工場で加工されて、煙草になんだ。 へ~。知らなかったな。 煙草ってもっと簡単に、できるんだと思ってた。 煙草、吸わないから、あんまし感心なかったんだけど。 もちっと大事に扱わないと、いけないな。 こんだけ手間暇、かかってんだかんな! ポイ捨てなんて・・・しちゃ~だめだど! そったらことしたら『たばこ神社』の『狛犬さま』が おどしに行くかも、しんないどw 《栃木弁 注》 おどす=叱る。怒る。威嚇する。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.18
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「茂木城の戦国時代」 『出丸』から下へ下る道。 右側から続く道は『大手門』跡へ、続いてんだ。 緩やかにみえるけど、ちょっと角度もあってな。 気をつけないと、こけそうだっぺ。 さてと。『茂木氏』の話さ、してみっか。 戦国時代。 天正18年(1590)の『小田原攻め』の話。 当時の茂木城主・茂木治良(もてぎ はるなが)は、 佐竹義宣(さたけ よしのぶ)に従い、豊臣秀吉側についたんだ。 だもんで。戦の後も領地を安堵されてな。 領地を維持できたんだと。 だども。 文禄3年(1594)。 佐竹氏領内で行われた、太閤検地でな。 佐竹氏は、知行替えがおこなわれてな。 佐竹氏の家臣だった治良は、『常陸国の小川城(茨城県小美玉市)』へ、移されちゃったんだと。 変わって『茂木城』には、須田盛秀(すだ もりひで)って人が入った。 ちょっと調べてみたら、この人。すごい人みたい。 さっと紹介すると。 最初は『陸奥国(福島県辺り)の二階堂氏』に、仕えてたんだ。『須賀川城』の城代を勤めてたんだけど。 伊達政宗に攻められて、落城。 盛秀は、常陸国に逃げ、義宣に仕えることになったんだと。 そんで、 文禄4年(1595)に『茂木城』を預かり、城主になるんだけど。 こんときに、な。 二階堂家の旧家臣・須賀川衆を含め、百騎を預かる。 これがのちに『茂木百騎』と呼ばれる、軍団になるんだ。 『関ヶ原の戦い』の後はな。 まず、慶長7年(1602)に、佐竹義宣が出羽国(秋田県)に移封される。 茂木治良も須田盛秀も、家臣や『茂木百騎』を引き連れて、 出羽国へ移っていったらしいべ。 その後は、細川興元がやってきて、『茂木藩』が誕生すんだど。(細川興元の話は、こっちに書いてあるど) 上の写真の道を、さらに下っていくと、『彼岸花の群生地』さ、いけんだけんどな。 途中に、古い石祠さあった。 いつの時代のもんだべな。 何の神様がおられるんか、わかんなかったけんど。『茂木城』の守り神なんかな。 須田盛秀が城主だったときも、あったんかな? さてさて、この須田盛秀は、この後も、 下野国に関係するちょっとした事件に、出てくんだ。 それは、寛永元年(1624)の『本多正純改易事件』。『釣り天井事件』の元ネタっていわれてるやつだけど。 (『釣り天井事件』の話は、こっちだど) こんとき正純がお預けになった場所が、秋田の佐竹義宣でな。『久保田藩』で、預かることになったらしいんだけど。『久保田藩』の藩主が、須田盛秀だったんだと。 なんだか、いきなり、いろんな人が繋がってきたな。 みんなが面識さ、あるわけじゃ~ないだろうけど、 変なつながりさ、あんだな~。 歴史にはまる人ってのは、こういう繋がりが面白くて、 はまっちゃうんだべな~。 ちょこっと、歴史好きの気持ちさ、わかってきたような気がすっと。《参考》 【送料無料】関東の名城を歩く(北関東編(茨城・栃木・群馬))価格:2,310円(税込、送料別) 【送料無料】栃木の城増補改訂版価格:2,039円(税込、送料別) 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.16
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「船着き場?」 彼岸花の道を下っていくと、道が直角に曲がってた。 反対側からみっと、 道脇の崖も、なんだか、手が加えられたように見えるど。 ここって、なんかあったかな? 案内板には、なんも書いてなかったけどな~。 そうそう。この細道はな。 古い時代からあった道なんだと。 彼岸花さ見るために、後でこさえられたもんじゃ~ないらしい。 ちなみに。『茂木城』ブログの最初に、車道について書いたけど。 現在『茂木城』入り口に続く舗装道は、 戦後になってから、こさえられたらしくてな。 戦国時代には、なっかた可能性も出てきちゃったんだ。 すると、昔は、この危険な細道さ、登って。 城さ出入りしてたのけ? 馬はどうしたんだろな? おっと、話さ、戻すどw。 道の横は、崖じゃ~なくって、広場になってんだ。 正面の崖に、細い道があって。 写真の左脇に、繋がってんだよ。 んで、よ~くみっと。 広場も、ちょっと変。 なんだか、奥のほうに段差があって、二段になってんだ。 それも、自然の段差じゃ~ないど。 あきらかに、人の手が加えられてる、って感じなんだ。 だってな。 綺麗な長方形さしてんだど。 なんか重要な建物さ、あったんかな~。 なんで、そったらことさ、考えついたかっつううとな。 この先で、ちょこっとおもしろいもん、みっけたからなんだw。 細道を下って、住宅の間を抜けると、川にぶつかった。『逆川』だど。 ここの横んとこにな。ちっこい公園さあってな。 休憩しよっかな~って、近寄っていったら、みっけたんだ。 川へ下る坂道だべな。 んで、ピン! と来たんだけんど。 ここって、昔の船着き場じゃないけ? 場所は、『茂木城』から下ってくる道のすぐ下だし。『逆川』は、水も豊富で、川幅もある。 ここに、船着き場があったら、『茂木城』に物資を運ぶとき、便利なんじゃないかな。 それに、な。 わざわざ崖っぷちに、細道さこさえた理由にも、なんべ。 橋の上から見てみる。 こっちは川の下流になんだけど。 土手がこさえてあるね。 上流には、あんなもんなかったんだけど。 あれは、なんだっぺ? 城跡と関係あんかな。 んで、まあ。さっきの広場の話になっけど。 ここがもし、船着き場の跡だったとしたら。 さっきの広場あたりに、仮の荷物置き場か倉庫みたいなもんが あったんじゃ~ないかな? って、想像しちゃったわけ。 や~、ほんと。 こ~ゆ~不思議な場所さ、みっけっと わくわくして、きっちゃうね~。 ほんとに船着き場かな~? だったら、いいな~。 どんだんべ? ありえると、おもわないけ? 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.15
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「彼岸花の群生地」『茂木城』は、彼岸花の群生地でも有名なんだ。 見頃は9月下旬~10月上旬なんだけど。 今年は、開花が遅れてたんだ。 だども、城内じゃ~群生っつうほど みっちり集まった場所って、なかったど。 期待しすぎっちゃったべか? ところが。『出丸』から、下の馬場さ降りてきたら。 ぽつぽつ、って感じで、彼岸花が咲いてたんだ。 奥の崖が『出丸』の外観だど。 まだ、蕾みだな~。 「ぼっぼー! ぼっぼー!」 見とれてたら、突然大きな音がした。 汽笛? みたい。だども、どこから? 近くに駅や線路は見えないし・・・ あ、そうか『真岡鉄道』だ!『茂木町』は、下館と茂木を結ぶ『真岡鉄道』っていう鉄道が走ってんだけど。 終点の『茂木駅』が、山下の町ん中にあんだ。 目が悪いもんだから、どの辺か、わかんねかったけんど。 南の奥のほうらしいべ。 んで、な。『真岡鉄道』では、土曜と日曜に、SLが走るんだ。 ちょうど『茂木駅』に、SLが停車してて、汽笛さ鳴らしたみたい。 近くで彼岸花さ見てた、小学生くらいの子供さんは、 SL見えた~! って、いってたど。 ・・・うらやまし~。 どうがんばって目さこらしても。 眼鏡愛好者には、みえませんでした。 しゃ~ない。SLは諦めよ。 彼岸花さ、みよ。 さらに、奥のほうへ。 崖っぷちに向かう小道さ進んでいくと・・・ お~! 崖いっぱいの、彼岸花! 真っ赤だ~。 もっと近くからみたいな~。 と、周辺さ見まわすと。 細道は、ぐんぐんと下っていって、彼岸花の近くまでいけるみたいw。 彼岸花鑑賞にきたらしい観光客も、どんどんと、道さ降りてくど。 よし!行くべ! うねうねとした山道を下っていく。 上をみあげっと 『出丸』そばの展望台が、みえた。 こんなに、くだってきたんだ~。 帰り、だいじかな。 登ってこれっかな~。 っと、ちょこっと後悔。 だども、下のほうは、彼岸花が満開~! きれ~だな~。 9月30日の時点じゃ~、まだまだ蕾みのほうが多かったんだけど。 見応え十分だったど。 これ、全部咲いたら、崖全部真っ赤になんのかな~。 上からの景色も綺麗だけんど。 下から見上げた斜面の彼岸花も、絶景~だど~! や~!これがみたくて、『茂木城』散策は、ずっと我慢してたんだけど。 想像してたより、すごいや~。 満足~w 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.14
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「茂木陣屋跡」 昨日の写真。 じっくりみとこれね、って書いたんは、意味さあんだっぺ。 こっからな。『茂木陣屋跡』さ、一望できんだど。 や~。ほんとはな。 ブログさ書くんで、本さみて知ったんで、 写真は、ずんごい、偶然なんだw。 これは『出丸』からみた、『茂木の町』でな。 正面さ写ってんのは、『逆川』っつうんだ。 ほんとは写真の左側から流れてきてな。 橋の手前んとこで、2つに分れてて。 分れたほうは『坂井川』っていってな。 写真の右へ向かって、『本丸跡』の方向へ流れていってんだ。 実際に行ってみっと、よくみえんだけんどな~。 写真じゃ~、撮れてなかったみたい。 んで、この『逆川』を挟んで左右に、『茂木陣屋』の屋敷が、あったらしいど。 地図にしるしさ、いれてみた。 手前の赤い矢印が『仲橋』 奥の赤い矢印が『御本陣橋』 丸く囲ったあたりが、『茂木陣屋跡』だっぺ。 ええと。『茂木陣屋』って、言うのはな。 慶長7年(1602)ごろ。 茂木氏は常陸の佐竹氏に従って、出羽国に移されたんだけどな。 そんときに、茂木は天領さ、なったんだ。 慶長18年(1610) 肥後熊本藩主・細川忠興の弟・興元が、 1万54石で、茂木に新封。 茂木藩が立藩された。 そんときに、山城で行き来の不便な『茂木城』から、 城下町に屋敷を移し、『茂木陣屋』をこさえたんだと。 その後。興元の跡を継いだ細川興昌は、『大阪の陣』で功績さあげてな。 常陸国谷田部に6200石、もらったんだと。 んで。 元和5年(1619) 興昌は谷田部に陣屋をこさえてな。移っていったんだと。 『谷田部陣屋』のいほうが、 参勤交代さすんのに便利だったらしいな。 だども、 所領の6割以上が茂木だったんで、 茂木と谷田部。2つの陣屋を管理することに、なったとか。 あ。 最後の藩主、第9代・細川興貫は、『茂木陣屋』さ帰って情報も、あんど。『戊辰戦争』に関連してるみたいだけんど。 この辺りはさっぱしわかんないんで、 興味ある人は、調べてみとこれね。 さてと。 現在の『茂木陣屋』なんだどもな。 今は全部開発されちまって、標柱があるのみで、 建物なんかの跡は、残ってないんだと。 なんで。『茂木城の出丸』の上からみても、 なんも、みえないんだけど。 どんぐらいの敷地だったか、一目でわかるど。 《参考》【送料無料】近世栃木の城と陣屋改訂増補価格:1,995円(税込、送料別) 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.13
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「出丸」『知基橋』さ渡たっと、広場になってるど。 ここは『出丸』って言われてっとこ。『本丸』や『千人溜まり曲輪』からは、 深い堀(切岸)で、切り離された形になってんだ。 向こうに見えるのは、駐車場のあるとこ。 自然の崖っつうよりも、手を加えた感じさすんね。 もしかして、ここは一つに繋がってたんかな? だとすっと・・・掘んの大変だったべな~。 んで、『出丸』の様子は、どんなかっていうとな。 広いな~。どんぐらいの広さかな。『本丸跡』より、広く感じるけど。『本丸跡』は長方形だったし。 こっちの『出丸』は、ちょっといびつな丸形なんで、 広く見えんのかな? ここには、何があったんだべな。 屋敷とか? 別邸みたいなもんがあったんかな。 広さは十分だけんど。 さて、実際はどうなんだろ。 芝生さ生えてて、ベンチもあって。 曲輪っつうよりも、公園広場みたいだな~。 けんど、こんなとこもある。『出丸』の岸さ沿って、歩っててな。 北のほう。『大手門跡』に続く道の横っちょあたりだったべか。 奥~んとこに『堀』があるらしい。 だども、この辺りはあんまし整備されてないんで、よく見えないべ。 さらに進んで、東っかわ。 こっちは、木も少ない。 さてさて。崖の下さ、どんなかな~。 覗いてみたら、 おんや? 道さあっと? 地図によると『馬場』の跡らしいべ。 背伸びさして、道の奥さ覗いてみたら、 向こうっかわは、急激な崖になってるみたいだべ。 ってことは。 これは『腰曲輪』ってことかな?『出丸』に沿って、北から南の方向にぐるっと、続いてんど。 途中で広くなってるとこも、あっから、 小屋とかあったかも、しんないね。 さらに進むと、『知基橋』からの道と合流すんだけど。 その前に、こんな建物さ、あったど。 櫓、じゃ~ないな。展望台ってとこかな。 雰囲気は、古い時代っぽいけど、 復元ものっていえるほどの出来じゃ~、ない。 こりゃ、観光用だべなw。 ところで、この展望台。『出丸』の下の『馬場』こ、さえられてんだけど。『出丸』と『馬場』の高さが、ありすぎて、な。 展望台の一番上が、『出丸』の広場と ほとんど同じ高ささ、なってたどw。 いんや、ちょびっとだけ、展望台のほうが、高かったべか。 あんまし、展望台に登る意味さ、ないような・・・w だども、展望台からの眺めは、と~ってもいいらしいから、 登ってみんのも、いいかもな。 高いとこって、苦手なもんでな。 今回は、遠慮したんだけんど。 下の『出丸』からみた景色だって、見応えあんど。 ぜひ、立ち止まって、じっくりとみとこれね。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.12
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「知基橋」 駐車場の東のほうに、青い橋がある。『知基橋』っていうんだ。『茂木城』の基礎さこさえた、茂木知基の名前さつけたんだね。 ここさ越えっと、『出丸』って言われる曲輪さ行けんだ。 これは、公園化した時の橋だから。 戦国時代のころも、ここに橋さあったかどうか、わかんないど。 だども、橋って好きだな。 堀とか崖とか。 上から眺めっことが、できっかんな。『知基橋』の上からも、周辺の景色さ、よくみえるべ。 橋の右側。 写真右の崖が、駐車場のあった場所に通じる崖。 まっつぐに伸びた道は、山沿いに下さ向かってぐど。 こっちは左っかわ。 う~む。わかりずらいな。 真ん中に『大手門跡』さ、続く道があってな。 両側を崖が挟んでんだ。 こっち側は、道幅も狭いし、崖も道沿いまで迫ってきてるっぺ。 うん。城の入り口って感じだな。 さてと。 前のブログで、『茂木城』は二回落城してんだよ、 って、書いたんだけんどな。 2回目は15世紀のころなんだ。 きっかけは、享徳の乱(1454~1482)。 鎌倉公方・足利成氏と関東管領・上杉家が諍いを始めたこと。 茂木氏は、上杉氏(幕府側)についてたんだ。 だもんで、成氏側に味方する軍勢に、攻撃されてたんだと。 康正2年(1456)。 正月ごろから3月にかけて成氏側の攻撃が激化。 だんだんと、茂木氏側は、追い詰められてきたらしい。 だども、『茂木城』は、落ちなかった! 4月になると、成氏側に参戦していた宇都宮氏が、 勝手に撤退しちゃったりしてな。 成氏側に参戦していた那須持資(なす・もちすけ)は、大慌て。 しゃ~ないんで、力尽くの攻城さ諦めて、兵糧攻めに切り替えたんだと。 そして、8月。 やっとこ茂木氏は、降伏したんだと。 最初の攻撃開始から、半年以上。 籠城戦が約4ヶ月。 たしか最後は、話合いで決着さ、つけたんじゃ~なかったかな? ちと不確かな記憶なんで、自信さないんだけど。 そうすっと、『茂木城』事態は、落ちなかったってこと? 難攻不落・・・じゃ~、ないけど。 そう言いたいぐらい、攻めにくい城だったんだな~w。 これは、下の道から見た『知基橋』 最初ここさ見たとき、 この道を敵が進んでいったんかな~。 って、想像しちゃったんだけんど。 兵糧攻めじゃ~、ここまで敵さ来たかどうか、わがんねな~。 落城はともかく。 他にも何度か、激戦さあったみたいだから、 ここまで上がってきた敵が ・・・いたかどうか。 どうだべな~www ふうむ。ますます、興味さわいてきたど。《参考》【送料無料】関東の名城を歩く(北関東編(茨城・栃木・群馬)) [ 峰岸純夫 ]価格:2,310円(税込、送料別) 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.11
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「大手門跡」『茂木城』には、『大手門の跡』って言われてる場所があんだよ。 地図でみっと、この辺り。『千人溜まり曲輪』の横道さ、下っていけばい~んだど。 この辺りが『大手門跡』っていわれてっとこ。 目の前の登り坂は、『出丸』って言われてる、曲輪に上がる道なんだ。 んで、手前が『千人溜まりの曲輪』さ、続く道だど。 だども、正面さある曲輪に上がる道。 昔っからの道だべか? な~んかな。 変な感じなんだよな~。 戦国時代よりも後の時代さなってから、 つけくわえられた道のようにも、みえんだよな~。 ほんとにここが『大手門』の跡だとしたら、な。 こったら場所に、道さこさえたり、すっかな~? 右さ曲がると、『出丸』と駐車場になってる広場を隔てる、『堀』の中さ行けるんだけど。『堀』をたどっていくと、『出丸』を取り囲んでる道にでるんだ。 だから、右の道は昔っからのもんで、間違いないべな。 んで、右の堀さ行くあたりに、『大手門』にあたる門があったらしいど。 そうすっと、門の中っかわに、曲輪さあがる道があるってことに、なっちゃう。 もし、この正面の道さなかったら? あ!『升型虎口』みたいにみえるど~! だども、写真の左っかわは、深い堀なんだ。 だから、完全に周囲をふさがれてるわけじゃ~ない。 左っかわの崖は、『千人溜まり曲輪』の北っかわにある、高台状の曲輪。 ここさ、進んでいくと・・・ さて、どこさでんだべな。 この辺りはまだまだ、整備さ進んでないみたいでな。 どうなってんだが、よくわかんないんだけど。 地図でみっと、さらに奥の曲輪さ続いてるみたいだべ。 どんだけ広いんだ~、『茂木城』! でな。他にも奥へ続く横道さ、あってな。 ハイキングコースになってるみたいだったど。 そこさたどってくと、茂木氏ゆかりの神社さ行けるらしいど。 今回は時間と体力の関係で、行かなかったんだけど。 さらに奥にも、さっきとは別の曲輪跡が、 いくつかあるらしいんだな~。 ・・・ほんっとに、ほんっとに! どこまで、広いんだ~。 全部さ、見きれないど~!最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.10
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「本丸土塁と 南北朝時代の合戦」 『茂木城』からの眺め。 目の前に見える町並みは、『茂木町』だど。 よく見ると、真ん中に大きな通りがあって。 家並みが綺麗にそろってるど。 これは昔の城下町の名残なんだべか? それとも、近代になってから、整理したんかな? だども、戦国時代から江戸時代にかけて、 この辺りに人さ住む町や村があったんだべな。 やっぱし、今みたいに、綺麗に並んでみえたんかな。 遠くに見える山々。 その前まで、しっかりみえる。 これなら、敵がせめて来ても、すぐに発見できんべな。 敵から見たら、攻めにくいべな~。 さてと。『茂木城』は、戦国時代の実践を、いくつも乗り越えてきた城なんだ。 そんでな。そのうち二回。落城してるんだ。 一度目は、南北朝時代。 建武3年(1336)。『5代茂木城主・茂木知貞』は、北朝方についてたんだ。 知貞が、小山や宇都宮方面に転戦し、城を開けていた隙をつかれちゃってな。 南朝方の『北畠顕家(きたばたけ あきいえ)』の軍勢に攻め込まれちまったんだ。 炎上。そして、落城! だども、留守を守っていた、『茂木氏一族の祐恵』って人がな。 近隣の武士たちを集めて、すぐに城さ奪還したんだと。 北畠って人は、どっから攻めてきたんかな。 本丸から、見えたんかな~。 こったら高くて頑丈そうな城さ、どうやって落としたんだべ。 かな~り、気になんだけど。 今んとこ手元に資料さないもんで、わかんない。 ああ~。くやし~。知りたいな~w。 わかんないもんは、しゃ~ないな。 先さ、進むべ。 ってことで。『本丸北の土塁』さ、登ってみたw。 あ、しまった! 土塁の上の写真は、撮ったんだけど。 正面からみた土塁の写真さ、撮んの忘れた~! たぶんこれに、気を取られちゃって、忘れたんだな。 なんかの石組? 最初は城関係の遺構かな~、と思ったんだけど。 違うみたいだべ。 上の方さ、セメントで固めたみたいになってたかんな。 だども、上になんか乗ってたような跡さ、あったど。 たとえば、石灯籠みたいなもんかな。 なんだべな? そうそう。 建武4年(1337)年にも、『茂木城』付近で合戦があったんだと。 そんときも、『茂木城』を落とそうと、『北畠顕家』の軍勢が、攻め寄せてきたんだと。 だども、今度は落とせなかったんだ。 お城の警備を一新させたんかな。『茂木城』は、知基の代から、改良さ加えられて、 少しずつ拡張してったらしいんだけど。 今の『茂木城』の状態になったのが、 知貞の代ごろらしいんだ。 もしかしたら、一度落城しちまったもんだから、 今度は落とされないぞ って、 気合いさいれて、普請し直したんかも、しんないねw。 この土塁の辺りは、いつ頃のもんなんかな~。 んで、この謎の石積みは?w ん~。考えだすと、きりないど~。 《参考》 【送料無料】とちぎの古城を歩く価格:1,995円(税込、送料別) 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.08
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「茂木城本丸跡」 駐車場から西さ向くと、高台になった場所が見える。 ここが、『茂木城の本丸跡』だど。『茂木城』は、建久8年(1197)ごろ、 茂木三郎知基(とももと)が、築城したっていわれてんだ。 知基の父親は、常陸の八田城主・八田知家(はった ともいえ)っつってな。 源頼朝に仕えて、鎌倉幕府の有力御家人になった人なんだと。 そんときにな。 知家は頼朝より、下野国茂木郡の地頭職を命じられてな。 知基は、地頭頭の職を譲られて、茂木郡を納めることになったらしいべ。 知家の三男だった知基は、茂木郡を本拠地と定め、 名前も『茂木知基』に、変えたんだと。 駐車場から『本丸』へ入るには、坂道さ登ってくんだ。 両脇に土塁の壁が迫ってきてな。 道幅は、大人2人が並んで通れるぐらいかな。 狭くはないけど、広くもない。 ここは『虎口』ってことに、なんのかな。 突き当たりには、『木戸』もあったらしいど。 振り返ってみっと、登りとは違ってみえる。 なんだか、急坂になったみたい・・・おや? 道の両脇に、石垣があるど! 古そうだけど、城跡かな? 違うかな? う~ん。違うか~w。 でも、想像するのは、かってだべ。 石垣がここさあったらな~ って、想像しながら坂道さ上がっていくのは、 楽しかったべ~♪ 坂を上りきると、『本丸跡』の広場に出たど。 南西方向に、縦長に伸びた曲輪だべ。『虎口』は『本丸跡』の南はしに通じてんだけど。 右手側にあたる場所に、『武具庫』 左手側に当たる場所に、『合図櫓』 って建物があったらしいど。 今は、跡も残ってないみたいだけんど。 代わりに、なんかの記念碑があったっぺw。 なんだべな~。わかんないけど、面白いなw。 そして、北方向奥に、かすかに見えるのは・・・ 土塁! 低いけんど、登れそう♪ 早速、探索開始だど。 あ。足下さ、うきうき、してきっちゃった~♪ 《参考》【送料無料】関東の名城を歩く(北関東編(茨城・栃木・群馬))価格:2,310円(税込、送料別)【送料無料】栃木の城増補改訂版価格:2,039円(税込、送料別) 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.07
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「鏡が池」 『水堀』の突き当たりはな。 ちっこい池になってんだ。 水辺は恐いんで、そろそろと近づく。 覗きこんでみた。 ふ・深そうだな。 ここは『鏡が池』。 悲しい御姫さまの伝説さ残る、池なんだど。(『鏡が池の伝説』 詳細は、こちら) 上からみたとこ。 周りは土塁で囲まれた、堀のようになってんど。 ふんじゃ~、池の水は、どっからきてんだべな? 聞いた話だど。『鏡が池』の底から、湧き水がでてるとか。 へ~。 もしかすっと、昔はぼこぼこと、水さわき出てて その水を『水堀』に溜めてたんだべか? この池から、曲輪内の『溜池』まで、繋がってたんだべか? う~ん。違うかな。 写真の上は『二の丸』跡。 3メートルはあんべな。綺麗な斜面になってんど。 今は木が生い茂ってっけど。 下の曲輪広場に負けないぐらい、広い曲輪だったみたいだど。 中には、入れないんかな~? ちと、道はみつかんなかったんだけど。 覗いてみたいな。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.06
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「鏡が池の伝説」『鏡が池の伝説』は、 栃木県の茂木城(桔梗城)に伝わる話なんだ。 城跡の北にある、ちっこい池なんだけんどな。 こんな案内板さ、たってたど。 伝説の内容は。 いつのころの話か、わかんないんだけど。 城主の姫君に、関係する話だな。 うつくしい姫君がいてな。病さ罹っちまったんだと。 やがて病は癒え、元気さなったんだどもな、 顔にむごい痣が残っちまったんだ。 美人な姫君にゃ~、衝撃さ強すぎんべ~。 って、話になってな。 城内の、鏡さ全部、処分したんだと。 姫君が、自分の顔さ見れないように、って気遣いだべな。 ところが、ある日。 姫君は、自分の顔さ、見ちまうんだ。 その場所が、『鏡が池』だど。 これが、『鏡が池』 今は緑色してっけど。 昔は清水が湧き出る、澄んだ池だったらしいべ。 さて。 池さ覗いて、自分の顔の痣さ見ちまった姫君は、 周囲の心配した通りに、衝撃さ受けちまったんだ。 そして、そのまま、『鏡が池』に、 身投げしちまったんだと。 だども、なんで、こんなちっこい池さ、覗いたんかな~。 ちょこっと離れたとこに、もっとでっかい池さ、あんのにな。 あ、そっちの池は、姫さまさ近づかないように、見張りさいたんかな。 なんてな。 へんな所が、気になっちまったけんど。 そういう伝説が残ってるんだ。最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.06
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「水堀」 一番大きな曲輪の横には、こんなもんもあんだよ。 これは、上の『本丸跡』から、撮った写真。 右の方向が、駐車場。 正面が、曲輪、だど。 わかっかな? 曲輪と本丸の崖の間に、まっつぐに伸びた堀があんだ。 これは、左の方向。 曲輪の形に添って、カーブしてんだ。 突き当たりには、小さな池があんだよ。 ここはな。『水堀』の跡なんだ。 なんで山城の天辺に、『水堀』が? って、思うかもしんないけんど。 これは、後からこさえたもんじゃなくって、ほんとに戦国時代から あったもんらしいど。『桔梗山』は、湧き水が豊富だったんかな? こったら広い堀を、水でいっぱいにするとしたら、 相当の水源がなくっちゃ~、むりだべな。 だども、なんで、こったら場所に、『水堀』があんだべな。 普通は、山の下にこさえるもんじゃ~、ないんかな? これは、下に降りてから撮った、『水堀』。 左に見えるのは、『本丸』の崖だど。 深さは1メートルないかな~? 浅くてな。 今は、水もないんだ。 木で出来た通路は、ちと、ガタガタいってて、恐かった~。 だがら、ゆっくり歩いていったんだどもな。 角んとこで、ちょっと変わった地形さ、みっけたど。 わかっかな? なんか、角張ってるべ? 最初は自然のでこぼこかな? って気がしたんだけんど。 正面さ回ってみたら、ちと違うべな。 なんか、人工的にこさえられたみたいだべ。 特に気になったんは、崖の下にあるってこと。 それから、綺麗に四角い広場になってたってこと。 もしかして・・・『横矢』の跡・・・とか? ちょっと離れてみっと、向こうがわに、林が見えるべ。 この林も、『曲輪』なんだど。 んで、この『林になってる曲輪』と『本丸』の崖の間は、 深い堀になってんだ。 そったらとこに、意味ありげな出っ張り。 なんか防御設備さ、あったんじゃ~ないけ? って、思うよね~。 もしも、堀の先が、昔は通行出来るようになってたとしたら? ここに長蛇な『水堀』をこさえる理由も、出てくんな。 なんて、な。 空想さ広がっちまったど。 案内板には、解説、なかったべな~。 実際は、どうなんだべな。 気になんな~。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.04
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「千人溜まり」 昨日のブログさ載せた広場は、『千人溜まり』って名前さついてる、曲輪なんだ。 人が千人、入れるぐらい、でっかいからついた名前なんだと。 兵士の訓練や、馬の調教に使われたって話だべ。 これは、『千人溜まり』の南西方向から、撮った写真だど。 南西には『本丸跡』の高台さ、あってな。 上から曲輪全体が、見わたせんだ。 手前の土んとこが、『本丸跡』の崖だど。 しかし、広いな~。 ここだけ見ら、絶対、山城だって、わかんないべ。 どっかの公園の、芝生広場みたいだどw。 曲輪の大きさは、最大部分で 東西・約440メートル。 南北・約420メートルぐらい、あんだって。 ここの曲輪は、三つに分かれててな。 50センチぐらいかな? 低めの段差で、区切られてんだ。 区切り目んとこに、低い木が植えてあってな。 散策すっときは、邪魔っ気だな~。 って、思ったんだけど。 写真で見っと、曲輪の区切り目がはっきりみえて、わかりやすいな。 曲輪の中で、目立ったのは、これ。『溜池』の跡だど。 今は、水さなかったけんど。 昔はここに、水さはってあってな。 貯水池の役目も、してたらしいど。 これは、『溜池』の西から北にかけて広がる、曲輪。 確か『溜池』近くから、撮った写真だから。 北っかわから、南のほうさ見て写したもんだっぺ。 広~い芝生だべ~。 歩くと、さくっ、さくっ、って音がして、 も~、最高の踏みごごち~♪ イナゴもいたどw。 遠くに見える土壁は、『本丸跡』の切岸だど。 あとで詳しく、書く予定だけんど。 4~5メートルぐらいの、高さだったかな。 いい眺めだど~♪ も~、これだけで、満足、満足~♪ あと、やたらと多かったのが、これ。『ゴルフ禁止』の立て看板だべな。 気持ちは、わかんど。 素敵な芝生に、ゴルフの練習には、ちょうどよさげな、なだらかな斜面。 広さも、グラブを振り回すだけの空間が、め~いっぱい、あんだかんな。 だ・ど・も。 ここは城跡! 芝目じゃ~なぐって、縄張りさ、見んべ~! これは、『溜池』の北側。 池よりは、やや広い大きさの曲輪んとこの写真だど。 周りはぐるっと、低めの土壁で囲まれてんだ。 土壁の上は、細長い曲輪になっててな。 さっきの、曲輪の写真だと、上に写ってる曲輪につながってんだ。 地図だとな。ここに『千人溜まり』って、記載されてんだけど。 歩いてみた感じでは、千人、無理だべな。 ぎゅ~っと詰めても・・・300人・・・かな~。 あとの700人は、どうすべな~? ってことで『千人溜まり』って~のは、ここじゃ~なくって。 ここ辺の曲輪、全部ひっくるめた呼び名じゃ~ないかな? って、思ったんだけど。 どうだべな? そんだったら、千人、余裕ではいれんど。 案内板とは、違っちゃうけどなw。 《参考》【送料無料】関東の名城を歩く(北関東編(茨城・栃木・群馬))価格:2,310円(税込、送料別) 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.03
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「茂木城(桔梗城)」 9月30日(日)に、『茂木(もてぎ)城』さ行ってきたど。 この城はな。『桔梗山』にある城だもんでな。『桔梗城』とも、言われてんだ。 いいな~、『桔梗城』。こっちの名前のほうが、好きだな~。 住所は、栃木県芳賀郡茂木町大字小井戸字城山。 近くには『真岡鉄道・茂木駅』と、『ツインリンクもてぎ』があるど。 戦国時代から江戸時代にかけて、使われていた『山城』でな。 今も、ほとんどの部分が、綺麗な状態で残ってんだと。 全体はこんな感じなんだけど。 ちと味気ない案内板だっぺ。 細かい書き込みが、いっぱいあっけど、 これじゃ~、実物のすごさが、つたわんねんじゃ~ないけ? さてと。『茂木町』までは、大きな道路(国道123号線)が通ってっから、 難なくいけるはず。 城の入り口を示す、『城山公園入り口』って案内板もあったしな。 問題は、そっから先だな。 国道123号線から、横の細道さはいってくんだけど。 ここが、狭いんだ。 さらに城へ向かう坂道は、入り口からして、狭い。 家と家の間の狭い通りでな。 車一台分ぐらいしか、なかったど。 人んちの敷地内に入っちゃうんじゃ~ないけ? って感じでな。 ほんとに『茂木城』さ行けんのか、心配しちゃったど。 これは、少し坂道を上がったとこ。 もうすぐ城跡さつくかな~、って辺りなんだけど。 道が狭くて、急なんだ。 下さ覗いてみっと、遠~くに登ってきた車道さみえた。 どんぐらい高いが、わかっかな~。『茂木城』さ行くには、ここしか登り口がないみたいなんだ。 っつうことは、ここは昔からの登り口だったんかな? そんだったら、道が急な理由も、細く曲がりくねってる理由も、わかるべな。 人や馬で、山を上がって行くには、直線上に上がるわけにゃ~いかねえべ? そったらことしたら、すぐに、へばっちゃうど。 そして、この道へたどり着くまでの道のりが、 細くややこしかった理由も、わかってくるど。 敵の侵入さ防ぐために、わざと細く、わかりづらくなってんだべな。 そうすっと。 国道123号線を曲がって、狭い町並みん中に入った時点で、 すでに城攻めは、始まってたってことに、なんだべか。 ・・・なんだか、どきどき、しっちゃうなw。 なんとか無事に、頂上近くの駐車場へたどり着いたど。 平らでな。20台は止められっかな。 ここも曲輪だったんかな~? ほっと一息ついて、辺りをみまわすと・・・ おお~!いきなり、これ~! 坂道さ登登ってきた甲斐さ、あったど~。 これだけで、満足しちゃいそうだけど・・・。 まだまだ、序の口。『茂木城』は広いど~。 見所も、こでらみっちりあっかんなw。 なんで、ゆっくりと、行くべ~。 《栃木弁 注》 こでらみっちり=非常に多く。非常にたくさん。すご~くいっぱい。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.02
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「樺崎城」『樺崎寺跡』のすぐ近くには、城山があったんだど。 その名も、『樺崎城』っつうんだって。 場所は『樺崎寺跡』の東っかわにある、山のてっぺんにあるらしいんだ。 これは、『樺崎八幡宮』の東にある山。これかな? こっちは、北のほうだから、ちがうべか~? んじゃ~、これは? 東側だけど、ちょこと、南の山だったべか? 周辺はみんな山だから、どれかわかんないど~。『樺崎城』の築城年代は、不明らしいんだけど。 かなり古くから存在していた、山城らしいべ。 あ、だども、規模は小さくってな。 城っっつうよりも、 物見櫓のような役目をしていたんじゃないか、 って話もあるみたいだど。 はっきりした情報だと。 文明3年(1471)に攻撃を受けて、落城したことがあるってことだべな。 当時の『樺崎城主・南持宗』は『古河公方・足利成氏』の味方でな。 敵方の『山内上杉氏(長尾氏)』に攻め込まれたんだと。『樺崎城主・南持宗』は、討死。 そんときの戦で、『上杉顕定』『長尾景信』『横瀬国繁』が『室町幕府将軍・足利義政』から、感状をもらったって記録が残ってるらしいど。 その後は、『足利長尾氏』の城として、 『佐野氏』と争ったりしたらしいけど。 くわしい状況は、ちと、わかんないんだ。 それからな。『樺崎城』の南っかわには、『赤見駒場城』って言う城も、あったらしい。 攻城した人の情報だと、『樺崎城』から『赤見駒場城』へ続く ハイキングコースもあるみたいでな。 尾根伝いに、繋がってるみたいだど。 ここも小規模な城でな。 文明3年のとき、『樺崎城』と一緒に落城してんだ。 んで、『赤見駒場城』についてはな。 これ以外の情報さ、ないもんで、 いつ、だれが、こさえたのか、わかんない状態らしいど。『樺崎城』と、同じ一族の城だったんかなぁ~。 どちらも、遺構は少なくて、小さな曲輪みたいな場所とか 堀みたいな場所が、残ってるみたいなんだけど。 写真みたけど。素人じゃ~、見分けがつかないべな~。 第一、城跡さ着くまでが、大変だっぺ。 藪だの、岩だの、急な坂だの、ありそうだべな。 ってことで。 実際にはいってない城だけんど。 こったらとこにも、城があったんだ~。 って情報だけ、紹介してみました。『樺崎寺跡』さいったら、どの山が『樺崎城』か、 ちょこっと、探してみとこれね。 最後まで読んでもらって、うれしい~ど~♪ あんがと~。 ランキング参加中! ぽちっと 押しとこれ~!にほんブログ村にほんブログ村にほんブログ村
2012.10.01
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