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「ゆるぷ」 だいたいちょっきんさんの記事より今日もまた、こんな冗談のような写真から始めることになってしまった。まあ、「何のためにもならない純粋雑談」を標榜するこのブログにはふさわしいネタではある。でも、近頃はみなさん、一億総物知りみたいになってきているからなあ…わしが種明かしする前に、ちゃんと「何だ?この石ころのてんこ盛りは…」なんてボケてくれる人が果たしていてくれるだろうか。 笑リトープス。ギリシャ語で、「石ころに似ている」という意味らしい。日本語では「メセン」とか「イシコロギク」と呼ばれている多肉植物である。原産地はアフリカ南部で、「岩が風化した礫の間や砂地に埋もれて生育する」という。だから、いつの間にか石に擬態する術を身につけるようになったのだろう。では、これに対抗して、こんなのはどうか。BRUTUS 「珍奇鉱物」特集号よりブルーのフローライトの上に咲いた淡いピンク色の薔薇。かと思いきや、実はこれ、薔薇に擬態したカルサイトの結晶なのである。石ころに擬態する植物があれば、逆に植物に擬態する鉱物もあるというのが、自然の奥深さなんだよね。でも、こんなもんで驚くのはまだ早い。生物やスイーツなどに擬態するのみならず、石は自らの内に絵を描くアーティストでもあったのだ!ロジェ・カイヨワ 『石が書く』より去年、ユリイカの石特集号で、山田英春氏がロジェ・カイヨワの『石が書く』という本にものすごく影響を受けたと言っておられた。わしもこの本のことは昔から知っていたのだが、残念ながらまだ読んでいない。買うには高すぎるし、ちょっとレアな本なので、もちろんローカルな図書館には置かれてない。よって、上の写真は他の人がネットに上げていたのをそのまま転載したものである。この写真の石はメキシコ産の瑪瑙とあるが、一目瞭然なのはその断面の模様が風景画を思わせるという点である。手前に川の流れと河原があり、対岸に植物の茂みのようなものが見える。彼方には断層を伴った山の斜面とその山頂。そして、天辺には紺碧の空。えっ、全然そんなふうには見えんぞってか。もちろん、見る人によっては、こんなもん、ちょっとばかしカラフルな模様に過ぎないのかもしれない。けど、パエジナ・ストーン(イタリア、トスカーナ地方の大理石)みたいな風景石をいくつも見ていると、どんな唐変木でも、少しばかり妖しい気分になってくるのではないか。カイヨワの本に触発された山田英春氏の図鑑(『不思議で美しい石の図鑑』)には、そうした瑪瑙やジャスパーや風景石などの美しい写真がたっぷり収められているそうだ。もしあなたがわしみたいな貧乏人なら、ユリイカを買ってその一斑だけを見るという手もある。5ページにわたってカラー図版が載せてあるので、この手の石へのアプローチとしてはそれで十分かもしれない。ちょっと興味が湧いてきたけど、ユリイカを買う金すらケチりたいというのであれば、SNSでなんとかなることもある。例えば、これ(↓)なんかも山田氏がXに投稿しておられるのを拾ってきたもの。これは「アルノーの緑」と呼ばれている石で、イタリアのフィレンツェに流れるアルノー川流域で採取されたものだという。続けて、山田氏はこの石のことを次のように説明されている。「パエジナと同じ地域でとれる石灰岩だが、こちらは風景のように見える模様ではなく、幾何学模様の石だ。交差する線とそれが切り分ける面の濃淡が、さながらクレーの絵のような絶妙な構成美を見せる、他に似たものがない石だ。」確かに、クレーの抽象画にこんな絵柄のものがあったような気がする。と同時に、わしは昨年ふくやま美術館で開催された「イタリアと日本の前衛」展で見たブルーノ・ムナーリの「ダイレクト・プロジェクション」のことを思い出した。あれらの図柄もなんとなくこの石の模様に似てるんだよなあ。それもそのはず。山田氏が紹介している「石を知るためのブックガイド」にムナーリの『遠くから見たら島だった』という写真絵本が選ばれていて、その記事を読むと、この本が石の模様をフィーチャーしたものであることがわかった。うわっ、ムナーリ、お主もか! 笑「お主もか!」というのは、「お主も鉱物派か!」という意味である。アーティストや作家や思想家の中には、鉱物を偏愛する人がホンマに多いんだよなあ。今回のトリを務める日野啓三もそんな鉱物派のひとりである。Wikipedia よりこれはカーネギー自然史博物館に展示されている輝安鉱(アンチモナイト/スティブナイト)の写真である。日野啓三の「石の花」という短編の中で触れられている珍しい鉱物だ。その箇所を抜粋してみよう。「なかでも一条氏がこよなく愛しているのは、輝安鉱である。色は地味な鉛色だが、斜方晶系の針状結晶が集って鋭く宙に伸び出る姿は、意識そのもののかたちを見るような、醒めたよろこびを与えて尽きることがない。冷やかな光沢を帯びた黒と紫の縦の縞模様が、わずかな見る角度の変化に応じて無限に変幻する。」もうこれだけで、一条氏のマニアぶりが窺い知れるのではないか。夫人の方は石榴(ざくろ)石を深く好んでおり、彼らはふたりして庭園に大きな花壇をいくつも設け、そこでさまざまな石の花を育てている。やがて、その中で彼らが最も目をつけている「謎の石」がすくすくと成長し、ついに薔薇に似た大輪の花を咲かせる時がやって来る。そして、傍にはその成長を見守るかのように、二個の石が並んで立っているのであった…えっ、そのラストはもしかして…そう、そのとおり。彼らはいつの間にかひっそりと石化していたのである。石が生命を獲得し、人が石化するって、まるでマックス・エルンストの絵のようではないか!何という倒錯の極み!そう、そのとおり。エルンストの絵が大好きなJ・G・バラードは世界が結晶化する小説(『結晶世界』)を書いたが、日野啓三はそのバラードのことが大好きなので、おそらくエルンストの「沈黙の眼」なんかも熱愛していたのではないか。では、何故、鉱物派の人たちはそれほどまでに鉱物に傾くのか。答えは簡単!おそらく生命の起源を辿っていくと、最終的には鉱物へとたどり着くからではないだろうか。彼らはそのことに気づいているだけなのだ。かつて日野啓三は「廃墟 ー 鉱物と意識が触れ合う場所」というエッセイの中で、こう語っている。「そしてこのわれわれは鉱物が幾度もの相転移を経て意識にまで到達したのだという神秘に、言い難い眩暈と畏敬の念にうたれるのである。」
2025.02.21
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わが家のノキシノブ前回お届けしたアベコボフェアの余韻がまだほんのり残っている。今日はどんなトリビアから始めてみようか。こんなのはどうだろう。一緒に飲みに行ったことがあるというタモリが言うには、アベコボはその時ピンク・フロイドの話ばかりしていたそうである。そして、「フロイドの悪口言ったら安部さんに怒られた」らしい。 笑遺作とされている『カンガルー・ノート』の中でも、二箇所ほどピンク・フロイドに言及している場面がある。よほど好きだったんだろう。あ、そう言えば、この『カンガルー・ノート』、2023年にはSNSで大バズりしたらしいね。没後30年たって、やっと時代がアベコボに追いついたのかな。 笑脛にかいわれ大根が生えてきた男が自走ベッドに乗って冥府巡りをするという、アベコボらしいとんでもない設定のこの連作長編、死をテーマにしているわりには意外と軽い。というか、たぶんわしが読んだアベコボの小説の中ではダントツに読みやすい。アベコボ流の私小説をポストモダン風に展開したって感じかな。まあ、大病を患っていたこともあり、適度に肩の力が抜けているのが、令和の読者にとっては丁度いい感じなのかもしれない。往来堂書店 高橋さんのツイートよりここでまたピンク・フロイドに戻る。小説のエンディングで、「エコーズ」をBGMに使っていることからもわかるように、アベコボはこの曲がフロイドの中でも一番お気に入りだったようだ。彼のみならず、昔ながらのフロイドファンなら、おそらくこの曲をベストに推す人が多いのではないか。わしも高校生の頃、夜中にこの長尺の曲をよく聴いたもんだ。何がよかったんだろうね。風の音や、海鳥の鳴き声を模したあの効果音かな。独特な浮遊感とか上昇感とか寂寥感?あるいは、文字通り、遠い時代の残響 ( The echo of a distant time ) を聞いている感じがよかったのか。いずれにせよ、73年くらいまでのピンク・フロイドといえば、イメージ喚起力の強い音作りが売りだったような気がする。そして、アベコボもそのへんにフロイドらしさを感じていたのではないだろうか。ここで、『カンガルー・ノート』からもう一つの当該箇所をまるごと抜粋してみる。波のうねりがしだいに幅を狭めてきた。船だろうか?櫓を漕ぐひそかなきしみ、船縁をたたく水の音。まるっきりピンク・フロイドの『鬱』の出だしとそっくりじゃないか。バンド内の紛争でロジャー・ウォーターズが抜けた後、87年に制作された新グループによる作品だ。ぼくは以前から髭を剃った馬みたいなウォーターズのファンだったから、多少の偏見はあったかもしれない。でも出だしの音色には、昔の雰囲気が色濃くにじんでいて、悪くない。いずれ家に戻る機会にめぐまれれば、あらためて全曲を聞き直してみたいものだ。「髭を剃った馬みたいなウォーターズ」ってどんな顔?気になる人もいるかと思い、若い頃のロジャー・ウォーターズの写真を用意した。要するに、アベコボは馬面のウォーターズが好きってことだよな。 笑歳をとってからは髭をたくわえて、少しダンディな顔つきになったけど、若い頃は顔の長さが異様に目立っていたような気がする。でも、ロックスターなんて目立ってなんぼの世界なので、このくらいインパクトのある風貌の方がいいのではないか。ところで、そもそも人の顔なんて、大なり小なり他の生き物に似ているものではないだろうか。猿顔、狸顔、狐顔、豚顔、犬顔、猫顔 …哺乳類なんてまだまだ青いぜ。ヘビ、トカゲ、ワニのような爬虫類顔。カエルに代表される両生類顔。さらに遠い祖先を偲ばせる顔だってあるだろう。ということで、こんなのはどうか。NHK NEWS よりこれは昨年亡くなった松岡正剛の若い頃の写真である。晩年は眼鏡をかけ顎髭もたくわえて、まるで明治大正時代の文人に扮した南原清隆みたいな顔つき(?)になってしまわれたのだが、それでは何に似ているかよくわからないということで、あえて若い頃の写真を探し出してみた。(ヒマ〜)この写真を見て、何を連想するかはその人の勝手だが、東京芸大の名物講師として有名だった三木成夫は初対面の松岡正剛に対し開口一番こう言ったそうだ。「そうか、あなたが松岡さんですか。うーん、デボン紀ですね」「えっ、デ、デボン紀?」「そう、顔ですよ、顔。松岡さんはデボン紀だ」これは松岡正剛の千夜千冊の「胎児の世界」の冒頭で紹介してあるエピソードだ。『胎児の世界』というのは、三木先生の本の中で一番よく話題にのぼる本であるが、わしは残念ながらまだ読んでいない。けど、この先生の名前は以前から知っている。解剖学や発生学の分野では著名な方で、たしか養老孟司の師匠にあたる人だと思う。その型破りな講義は無類の面白さで、学生たちにものすごく人気があったらしい。で、ついでに言っておくと、その『胎児の世界』というのは、ヘッケルが提唱した「個体発生は系統発生を繰り返す」という説をオカルティックに肉づけして拡大解釈したような本らしい。もっとわかりやすく言うと、どうやら「人間の胎児は母親の胎内で、古代生物からの進化の過程を追体験する」みたいな話である。そんなことを始終考えているような人だから、松岡正剛の顔にもすぐさまデボン紀の面影を見てとったわけですな。 笑では、「デボン紀の顔」というフレーズで三木先生は具体的に何を思い浮かべておられたのか。松岡正剛も件の記事の中で色々と候補名を挙げつつも特定には至ってない。なんでも、デボン紀と言えば「魚類の時代」ということなので、無難なところで、シーラカンスみたいな肺魚か?あるいは、デボン紀の初期に現れたというトビムシのような翅のない原始的な昆虫か?いや、いや、そうではあるまい。わしなら、真っ先に軟骨魚類の類いを思い浮かべるけどな。軟骨魚類?そう、サメやエイの類い。松岡正剛はやっぱサメ面だよ。 笑さて、さて。最後に、どさくさに紛れて、例によって例の如く、オマケを一丁追加しよう。このブログの常連さんにはおなじみのサミュエル・ベケットである。松岡正剛がデボン紀なら、こちらは間違いなくジュラ紀だろう。典型的な鳥顔。それも、猛禽類。 耳の形はカフカに似ている。 笑
2025.02.02
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