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彼女の霊視をすると全盲の女性だった前世が視えました。 でも彼女はご両親にとても愛されていたようです。ご両親は彼女の行く末をとても心配して、何とか自分達が死んだ後も安心してくらせるように楽器の演奏や按摩の技術を身につけさせ、最後には素敵なご主人になる人まで探し出して夫婦にさせました。 彼女は目は見えなかったけれど、両親の深い愛情に守られて幸せだったようです。こういう人は珍しいです。昔は「目が見えない」というのは片端者というか不具者というか、ひどい差別があったから世間並みの暮らしなど出来なかったものです。この女性のご両親が多少お金持ちで愛情の豊かな人達だったことが幸したのかもしれません。 今世の彼女が今のご両親に感謝の念が薄いのを嘆いていて、両親に深く感謝して生きなさいと忠告したかったようです。 なかなか心の中ではそう思っていても現実に両親に感謝しながら生きるなんていうことは出来ないものです。でも、日々新たにこの世に生み出してくれて慈しんで育ててくれたことには感謝しなければならないと私も思いました。
2010年01月31日
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その方の霊視を始めると暗い闇の中に白く輝く滝が視えてきました。 滝と滝つぼとそして流れる川。その女神。冷たさと清らかさと汚れを浄化する働きが視えました。 でも寒く、冷たい水の力が強すぎるくらいに働いているのも感じられました。人の姿が視えないので前世というよりも、この方の霊的な背景が視えているのかもしれないと視続けていました。 すると滝のそばにお不動様が飛沫に打たれて鎮座していました。そして、温かい炎の存在も感じられました。 「火」がある。そういうことがこの場をとても救っている感じがしました。本来ならこの不動尊のそばには水場でありながら、「神火」が常時焚かれていたはずです。それが今は消えているけれど、いつかまた暖かな「火」が燃えるはずだと感じました。 清らかで澄み切った空間ではありますが、冷たすぎる滝と水の世界に仏の力が「火」を持ち込んで温めようとしていました。 人の心というのはそういうバランスが保たれようといつもしているものなのだと感じました。
2010年01月30日
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霊能者の知人の方に私は「風」の属性だと教えられました。 確かに「風」にとても敏感で、悪風に少しでも晒されると体調を崩しますし、猿田彦命とは仲がいいです。導きの神様である彼は気安く私を必要な神様の元に導いてくれます。彼は「風」の神の神性を持っています。しかも、彼は私の守護には廻らずにきちんと主たる神を私に授けてくれました。こういう人がいいと称されるような性分が彼を特殊な神様として位置づけしているのかもしれません。 御祭りのときに先導役として天狗のような姿で行列の先頭を歩いています。でも、彼は「天狗」ではありません。混同されてしまっている部分もありますが、人や神を導く役割の「風」の神様です。 今日で53歳になってしまいました。何だか「風」が強く吹きこんできたような気がします。どんな年になるのでしょうか?楽しみです。
2010年01月29日
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心の声が聞こえてきます。「焦るな、焦るな、自分の道を信じていきなさい。」でも、自分の道が間違っていたらどうしますか?間違っていてもいなくてもその道を歩くしかないじゃないか。そうですね。道を選ぶような器用な真似は私には出来ません。与えられた道を愚直に歩き続けるしかありません。 高い頂を見つめていると歩いていくのがしんどくなってしまいます。登山のときに学んだこと。目の前の坂道を一歩一歩足元を見ながら歩んでいくのが一番いい。 焦らなくても一歩一歩地道に歩んでいけば必ずそこにたどり着けるはず。私には私の道を信じて歩いていくしかない。それを誰が認めてくれて、誰もが認めてくれなくてもそれでもただ一歩一歩歩んでいくしかないんだ。そう心に思い聞かせる。 原点に還ろう。いつもそう考える。初心を思おう。何も失うものは無い。何かを少しずつでも学び取りながら、ゆっくりと歩んでいこう。道に光が差し込んでいる限り迷うことは無い。
2010年01月28日
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それはお金です・・なんて言うのは嘘です。 それは私だけの勝手な考えですが、「氣」というものだと思っています。「氣」が何かの拍子に凝縮したものが「神」という名前で呼ばれることもあるようです。自然界の全ての働きはそれに含まれている「氣」によってコントロールされているように思います。 大気の動き。大地の動き。海洋の動き。地球や惑星たちや太陽の動きさえも大きな大きな「氣」の作用によって支配されているのだと感じています。それはまた、小さな小さな細胞の働きや分子や原子のような微粒子の働きさえも支配しているように思います。 人の心というものが微妙絶妙な働きをするのも、それが基本「氣」というものと連動しているからなのだと考えています。だから、人の心というものは宇宙の、そして自然の中に在るあらゆるものとも連動しているのだと思っています。全ては「氣」という目に見えない、存在を立証さえされていないものに許されて生きているのだと・・・。
2010年01月27日
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本当に古い話なんですが、しかも多少差し障りの在るお話です。 オウム真理教団がサリン製造施設などを設置していた村の名前を聞いたときのショックは今も忘れられることがありません。 現在もその村にお住いの方達には申し訳ないのですが、「上九一色村」という名前「カミクイシキムラ」イコール「神喰い死鬼村」と読めて仕方が無かったのです。 何てそこで行われていた所業とベストマッチな名称なんだろうと思ったのですが、あまりの一致加減に誰にも言えず胸の底に仕舞いこんでいました。別に地名がそういう所業を起こさせたわけではないのですから、何のことは無い私の思い込みに過ぎません。 しかし、何かが誰かにそこで行われていることを伝えようとしていたのではないか・・・なんて思ってしまいます。 もう古い古いお話ですが、その当時の被害者の方達にとっては昨日の事のような思いがおありの事だろうと思います。 宗教というものの恐ろしさを忘れてはならない・・という教訓を学んだ出来事です。
2010年01月26日
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マヤ文明の遺産としてそういう説が話題になっています。人が終局や破滅に恐れやマイナスの憧れを持ってしまうのは仕方の無いことなのかもしれません。 しかし、私は2012年の12月22日でしたっけ、この日は人類にとっての折り返し地点になる日なのだろうと思っています。五千何百年ごとに人類の進化の道が大きな分岐点に差し掛かるのだと教えているのだろうと直感で感じています。 物質文明から精神・霊性の文明に変換されていく大きな節目になるのだとマヤの人々は伝えたかったのかもしれません。それが太陽の黒点活動の周期と同調していたとしても何ら不思議ではないと思います。 人の営みというのは宇宙の全ての動きとシンクロしているはずなのですから。 だから、滅亡説を怖れることは必要ないと思いますが、深く全ての人達が自分達の進むべき道の果てに思いを至らせないといけない時期ではあると強く思います。
2010年01月25日
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観世音菩薩様は時折、人のそばに寄り添っておられる姿を視ることがあります。人の魂を安らかな方向へ導くことを願っておられるのがよくわかります。 無償の愛の権化というような存在に感じられます。だからと言って力を使って強引に人を引っ張っていくようなことはされませんから、人は春風に吹かれているような心地よさだけを感じていることでしょう。 これが明王系の方だともう少し強引な「力」を感じます。その時のその人の状況によって庇護される仏様も変ってくるのでしょう。 私の守護は不動明王なので、いつも強引な「力」を感じています。だから、観世音菩薩様に導かれている方を視ると何だかほんわかとしてしまいます。いつのまにか涙が目に滲んでいることがあります。きっと明王系の仏様の心の中にも無償の愛は溢れているのだろうと思いますが、照れくさくてお出しにならないのかもしれません。
2010年01月24日
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というものが私宛に届きました。中を見ると年金の支給額の見込み額(ここがポイント)が記載されていました。 厚生年金と国民年金の支給が62歳とか65歳からとか書いてありました。どちらにしても支給額としては微々たるモノです。しかも「見込み額」とこっそり書き添えてある。つまり、これよりも減るかもしれないし増えるかもしれないということ。多分、減るんだろうなぁ。 少しですが、私の場合は農協の養老保険にも入っていますから、そちらからも少しは年金のようなものが入ってきます。後は生涯現役で働いていくしかないようです。自営業ですから、身体が動く限りは収入が無くなるということはないのですが、病気にでもなれば即収入はゼロになってしまいます。貯金はそれほど無いし、老後の不安が増すばかりの嫌な「定期便」です。 でもまぁ、何とかなると思っている私もいます。何故かわかりませんが、何とかなるだろうという確信のようなものが私の中にあります。それは、苦労知らずで育ってきた楽天主義の私だからかもしれません。苦労はあったはずなのですが、苦労している時はその時に苦労だと感じない鈍感さが出てくるようです。百の苦労が続いていても、その中に一の幸せ感があれば耐えていけるのが私の楽天主義のようです。 何とかなる・・・そんな甘いものではないのが「老後」というものなのかもしれませんが、それでもきっと何とかなると思っている私がいます。
2010年01月23日
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今、荒俣宏氏の「新帝都物語」を読んでいます。この本の中に出てくる晴明紋とも呼ばれる五亡星形の印があります。本の中では「ドーマンセーマン」と呼ばれています。 この形は子供の頃からお米を計る枡の底に描かれていて記憶に残っていたものです。何故、米枡の底に描かれていたのか?清めの印だろうと思われるのですが、自分自身の子供の頃からの記憶の底にあるだけに妙に生々しい印象があります。 「米」というのは人の生活や命に欠かせない大切なものです。昔は「米」という字を解して八十八回お百姓さんが手間をかけて作られた大切な一粒だと教えられたものです。それを計る枡についていたモノです。 第一に「計る」という行為がとても大切な行為なのだとこの「新帝都物語」では書かれています。「国産み」の行為を神様が為されたときにも物差しとぶん回しと呼ばれるコンパスのようなもので「計る」行為をして国産みを形付けたとされています。 人が口に毎日入れる基本となる食べ物である「米」を計る行為というのも「人の心と身体」を生み出す大切な行為なのでしょう。それを清浄なものにするために「ドーマンセーマン」が使われていたというのは、もしかしたら呪術的にとても大切な事だったのかもしれません。 それが失われて、人の口に入るものが少しずつ穢されていったのだとしたらちょっと怖いような気がします。
2010年01月22日
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昨日は大寒だと言うのに四月中旬くらいの陽気で暖かだったので、ワンコを袋に入れて担いでお散歩に行ってきました。 犀川沿いの道は河原のほうはまだ雪が積もったままで歩けませんでした。川の中は温かいので野鳥たちが和んでいました。キンクロハジロという珍しいのもいたりして、命が溢れている水辺の風景でした。 この川筋には犀川神社という郷社があり、私の守護神である経津主命様が祀られています。普段散歩しているそばにこうして座しておられるというのが中々因縁深い感じです。 30分ほど歩いて帰りに近くのお気に入りの和菓子屋さん「野畠」で花見団子と桜餅を買って帰りました。ここの和菓子は甘さが控えめで、何ともちょうどいい甘さがあって私は大好きなのです。金沢には何十軒も和菓子のお店がありますが、気に入った甘さ加減のお店がこんなに近くにあってくれるというのもまた、中々因縁深い感じです。
2010年01月21日
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前世の中に遊女である姿を時々見かけますが、その全てが悲しくて悲惨な境遇であるとは限りません。 遊郭で多数の男の人を相手にしていても、明るく強く生きていた遊女もいるようです。封建的な男尊女卑の社会であったとしても、人の思いをそんなに無碍に虐げることなど人には出来なかったという事だろうと思います。 人に人らしく生きさせる余裕のようなものがあった時代でもあったように思います。 彼女の前世は長崎で外国人相手の遊女をしていたようでした。でも彼女は持ち前の明るさと強さと好奇心を発揮して、異国の文化や言葉を勉強して外国人たちと友達のようになり、彼らに愛されてとても幸せになっていきました。ついには、その中の一人に連れられてヨーロッパまで行ってしまったようです。そういう強く明るい女性も遊女の中にいたのですね。 環境というものが人を作る、育てると言いますが、そういうものを撥ね退けて自分というものを強く持って生き抜いていくタイプの人がどんな時代にもいるものらしいです。 要は、生きているのは「その人自身」だということなのでしょう。自分らしく生きて行きたいものです。
2010年01月20日
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冬の寒さの中で春を想います。雪が降って、外に出ると耳がちぎれるほど寒いけれど春の足音を聞けるような気がします。 梅の花が、桜の花が少しずつ咲く準備を始めています。暖かな春風ももうすぐ吹き始めるはずです。 北陸の冬は鉛色のどんよりとした雪雲の下で何ヶ月も春を想います。雪は断熱材のように厳しい寒さから大地やその緑を守る役目も供えています。 人の心も冷たい冬に襲われることもあるのだろうと思います。でも、必ず春がやってきます。雪は溶け、小川の水がサラサラと流れ出し、虫や生き物たちがモゾモゾと動き出します。 生命のサイクルは永遠に止まる事も無く冬を越え、春に向かいます。
2010年01月19日
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時々、病気の方の霊視をすると牛頭馬頭が守護に就いているのを視ることがあります。 牛頭馬頭と言えば地獄の番人として知られていますが、そういう立場にいる鬼神だから疫病除けとして古くから重用されてきた存在でもあるようです。 そういう時代に生きた魂がその当時の信仰心のままに招致して、就いてもらっているのだろうと推察されます。 確かにとても強そうだし地獄の入り口を管理している存在だから、「死なせない」という期待も強いだろうし、でも本人たちは何だか面倒くさいと思っているような雰囲気なんですが・・・気のせいかな? でも、不思議な感じもします。見えない世界では、こちらには想像もつかない防御システムやら攻撃方法やらが存在しているようです。人智を超えた・・・とはよく言いますが、霊界のシステムは摩訶不思議です。
2010年01月18日
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霊視をしていたら、その方の住む家に古くから棲み付いている「蛇」の精霊のようなものが出てきました。 そして言う事には「庭に在る松の木はとても古いのでもうすぐ枯れます。しかし、この木は私がとても気に入っているものです。この木に登って身を委ねているととても気持ちがいいのです。枯れたら、また同じような松の木を植えてください。お願いします。」ということでした。 蛇の精霊はその家の守り神であり財運をもたらしてくれるものですから大切にしたほうがいいと思いました。 そう言えば以前住んでいた家は築70年以上の古民家だったのですが、リフォームに入った大工さんが「この家には大きな蛇が棲んでいるぞ。」と教えてくれました。そのせいか、その家に住んでいる間ネズミの被害なんていうものには一回もあわず、害虫なんかも滅多に出ない家でした。家族して時々「蛇さんありがとう。」って言っていたものです。(家内はネズミ年生まれのせいか蛇は苦手なんですが・・・) 何しろ松の木というのは木の中でも「氣」の力がとても強い木です。それと「蛇」が相性が良いというのは初めて知りました。
2010年01月17日
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というような疑問をスクール生の方に説明しようとして悩んでしまいました。 当たり前に「氣」というものに関わって生活してきていたものですから、改めて説明しようとするとなかなか難しいものです。 まず生命の定義から・・・なんていうところから始めてみました。 死んでしまうと人の身体から無くなってしまうものは「動き」というものかもしれません。動いているから生命があると認識できるのか?なんていうところから「氣」というのは、生命が動くために自分の身体の細胞を「歪めて」作り出している「流れ」の総称と考えていいかもしれません。 それは生命体全ての中で悠久の昔から途切れることなく続いている「流れ」であり、それを古代の人は「タオ」と呼んだのかもしれません。個々の命の「流れ」は時々切断されるけれど、「流れ」の本流は途切れることなく地球の上で続いているわけです。それは宇宙全体にまで拡がっているのかもしれません。 だからこそ「氣」の流れという生命情報の渦の中にはあらゆるものの情報に繋がっている「道」イコール「タオ」の存在があるのかもしれません。
2010年01月16日
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ウィキペディアより 六神通 (ろくじんずう)とは、仏・菩薩などが持っている6種の超人的な能力。6種の神通力(じんずうりき)。六通とも。 具体的には以下の6つを指す。 天眼通(てんげんつう) - 五眼(ごげん)の一。神通力により、ふつう 見えないものを見通す超人的な眼。 天耳通(てんにつう) - ふつう聞こえる事のない遠くの音を聞いたりす る超人的な耳。 他心通(たしんつう) - 他人の心を知る力。 宿命通(しゅくみょうつう) - 自分や他の人間の前世を知る力。 神足通(じんそくつう) - 機に応じて自在に身を現し、思うままに山海 を飛行し得るなどの通力。 漏尽通(ろじんつう) - 仏のみが持つとされる通力。 世の中に霊能者と呼ばれる方は数多くおられるようです。そして、その中に幾人かは前記のような超能力を発揮されて、人々に驚きを与えることもあるようです。 ただ、最後に書かれた漏尽通という通力だけは持てないとされています。それは仏にのみ許された通力だからです。そしてその他の通力五種については神の眷属や「悪魔」さえもが持つことがあるとされています。だから、そういう力を発現したからと言って神仏のように敬ってはいけないという事です。 これは私だけの考えですが、こういう力の発動には根底に「愛」というものがなければならず、それが無い力の発動は単なる「我」の発露に過ぎないと思うのです。 漏尽通という最後の通力は人の心に愛が漏れ尽くすほどに注ぎ込む力なのではないでしょうか?それこそが本当の神仏の力なのだろうと思います。 私などは「宿命通」という通力の僅かな力を頂いているようですが、それは人の心や身体を癒したいと願う心が根底にあることで許されているものだと考えています。
2010年01月15日
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一晩で30~40センチくらい積もりました。懐かしい子供の頃の金沢の風景です。 何だかウキウキしてしまいます。1メートルを越える積雪はうんざりしてしまいますが、これくらいの積雪は風情があります。と言っても市民生活は多少混乱するかもしれません。暖冬に慣れてしまっていますからねぇ。 何だか今年は霊界からの通信が多いです。昨日の晩は「落ち着け」というメッセージが・・・。どういう意味なのでしょうか? また、最近統括して来ているメッセージは森の樹に会いに行かなければならないというもの。今年の夏は白山のあの場所の樹に会いに行きます。どうしているだろう?相変わらず「山の氣」と会話を楽しんでいるんだろうか?会うのが楽しみな冬の時間が過ぎていきます。
2010年01月14日
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AKAというのは「関節運動学的アプローチ」の略で施療の際に私が使っている整形外科的技術の一つです。 腰の部分にある仙腸関節という部分が固着する事によって起こる周囲の関節痛や周辺痛というようなものを緩和するために行うものです。 10年以上前に理学療法士の方に勉強会で教わりました。それから臨床の場で研鑽を積み、自分なりに診断技術と施療技術を確立しようと模索してきています。 お尻の中心部にある仙骨という骨と腸骨といういわゆる骨盤との間にある関節を他動的に動かす技術なので、制約や条件がいろいろとあって簡単に身につけられるものではありませんが、基本的動作はそんなに複雑なものではありません。 股関節痛や坐骨神経痛といったなかなか治りにくい関節痛に効く場合があり、またこの仙腸関節の固着から骨盤自体が歪むこともよくあるので、結構頻繁に施療で使っています。 こんな簡単な施療でそれまでどうやっても治らなかった痛みや痺れやむくみなどの不都合が緩和したり、解消したり・・・人の身体の不思議さを実感しています。 それでも、この仙腸関節の固着がどういう原因で起きるのか?ということについてはまだ全部解明されたわけではないので、この根本原因を突き止めて固着がおきないようにする事が次の課題になっています。
2010年01月13日
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「恩は岩に刻め。恨みは水に流せ。」そういう言葉をどこかで聞きました。 恩と言えば、親の恩、人の恩、師の恩などいろいろありますね。無償の愛がもたらすものが「恩」のように思います。当たり前・・などと思わず岩に刻んで永久に忘れないようにする・・くらいに感謝の心を忘れずにいなさいということなのでしょうか。 恨みはマイナスの連鎖を産みます。水というのはそういう汚いものを取り込んで流しさってくれるものです。自分の中に生じるそういうマイナスの感情は水に溶け込ませて流してしまうのがいいのだろうと思います。 二つの感情は人の心と身体の原動力ともなるものです。あらゆるものから頂いた「恩」を忘れずに、自分もその恩を返す気持ちで行動して、「恨み」というマイナスで暗い感情はさっぱりと水に流して、新たな気持ちで次の行動に移りましょう。 それが「新たなる一歩」になるのだろうと思います。
2010年01月12日
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時々、霊視の中で出てこられますが、昔は「薬師」というか今で言う薬剤師のような職業の方は専門にはおられなかったらしいです。大抵は医学を修めているものというのはお坊様だったようで、しかも西洋医学が導入されるまでは全て東洋医学、つまり漢方が主体であり、漢方と言えば薬の調合と処方が主体だったわけで、僧侶の中に薬材の研究をしておられる方が居られて、これが医者のようなお仕事をしていたわけのようです。 先日の霊視の中に出てこられた薬僧の方は薬材の研究にとても熱心で朝鮮や中国のほうまで薬材探しに行かれたりもしていたようです。その当時の医学の中では最先端のところを走っておられることになるのでしょう。国内では特に鉱物主体の薬材を探し回っておられたりしたようです。 まぁ、昔の漢方では水銀なんかが薬材として使われたりしていて今では考えられない誤りもあったのでしょうが、その逆に今では考え付かないような神秘的な効能のある薬材もあったのかもしれません。古いものが何でも間違っているとは限らないし、温故知新は正しい考えであるのかもしれません。
2010年01月11日
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昨日の休日は家族でジェームズ・キャメロン監督の最新作「アバター」という映画を観に行ってきました。 3Dではありませんでした。金沢でも3Dで放映している映画館は少なくて昨日のイオンシネマは通常方式の映画でした。でも3D用に創られていた画面構成は奥行きが豊かで微細な画面描写が見事なまでに掘り下げられていて、見ていて引き込まれてしまいました。 あたかも自分自身が「アバター(分身)」として映画の中の世界を体感しているような部分があったようです。 描かれている内容を書いてしまうとまだご覧になっていない人もおられると思うのでネタばらしになるので止めておきますが、人の「夢」の世界という意味と「自然の驚異、自然の恩恵、自然の包括感」というようなものを表していたような気がします。主人公を指導したり補佐したりする女性博士として「エイリアン」のシガニー・ウィバーが出演していたのは適材適所という感じでした。 描かれていた「パンドラ」という惑星。私も住んでみたいと思ってしまいました。あの風景の中に身を浸していたいと感じてしまうほど、素晴らしい絶景と多種多様な生物群。そして、その生物たちと原住民が光ケーブルのような繊毛でコネクト出来るようになっている・・・というのは霊的な理想の世界を感じました。だって、木とも動物とも簡単に心を通わせられるとしたら、どんなに素晴らしいことか・・・・。 人がそんな形で「自然」の生命と心を通わせあえたらこんな自然破壊や環境汚染は起きなかったはずだという監督の心が感じられる作品でした。事はそんな簡単なものではないのですが、大切な事はとてもシンプルなことなのだという矛盾を含んでいるのが、「真実」というか「真理」というもののように思います。
2010年01月10日
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前回、「氣を吸い取る人」のことを考えていたら夢通信で霊界から、そういう人に対する結界の張り方の指導が届きました。 何とも不思議なことに四つのものを四方に置くやり方らしく、これは一体なんじゃらほいと思うようなものです。 困っている人がいれば参考になると思うので書き記しておきます。 四つのものとは 「樹液」(琥珀などで代用か?) 「葦の葉」 「炭」(ダイヤモンドなどで代用か?) 「石の粉」 これらを身につけていると「氣」を吸い取られにくくなるらしいです。正式にはそれぞれが方位を指定されていたようです。どこかの神聖な場所で方位ごとに置いて、呪式を行って見えない結界を張るのが本当のやり方のようです。 何で今年はこんな答えが教えてもらえるようになったのか?謎です。
2010年01月09日
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時々、周りの人の「氣」を吸い取っている人がいます。私の苦手な英雄タイプの人に多いです。英雄タイプというのは精力的で、やり手と呼ばれる人で社長やリーダーになってバリバリやっている人などに多いです。良い意味でワンマンで、周りにいると自分も元気をもらえるような気がしますが、その実その人自身が廻りに集まった人達から「氣」を吸い取っていることが多いようです。 だから、そういう英雄タイプの人といっしょにいるといっしょにいる時は元気になるのですが、家に帰って一人になるとグタッと疲れてしまうような感じになります。 ご本人は周りの人の氣を貰っているから全然元気で疲れ知らずにガンガン働きまくります。けれど、周りの人達もいつしか「耐性」のようなものが出来て吸い取られにくくなったり、「氣」の量が吸い取られすぎて少なくなったりして、気を吸い取りにくくなります。そうすると英雄タイプの人は体調を崩したり短気になって機嫌が悪くなり、周りの人を総取替えしようとします(無意識にですが)。 人は強いリーダーを求めるものです。そういう人に付いていくと楽だし、安全が保障されるように思うからでしょう。しかし、人は自分の面倒は自分で見ないとダメなのだと思います。依存心というのは、人に自分の「氣」を無条件で提供するようなものだと思います。 私が英雄タイプの人つまり気を吸い取るタイプの人が苦手なのは、私自身が「氣」を提供しやすい、つまり依存心の強いタイプだと認識しているからかもしれません。
2010年01月08日
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そういう記事を読みました。百万人を越えてしまったということです。私は一度、「狂気の淵」というのを見た経験があります。ここを心が一歩踏み出したら狂ってしまうだろうなぁという境目を心が歩いていた経験でした。踏み出したいという誘惑は限りなく強かったですが、何とか踏みとどまって戻ってきました。 うつ病の方の症状も体質も心の状態も千差万別だろうと思います。私が素人考えであれこれ言っても何にもならないと思うし、病気の方からは反発されるに決まっていると思います。 だから、バカな戯言として聞き流して欲しいと思います。 今の人達の心は何だか「無防備」なような気がします。昔の人というのは私達以降の年代(50歳以降)の人達ですが、この人達は心をある程度「鎧」のようなもので固める術を持っていたように思います。また、「安全弁」のような心のストレスを逃がす術も持っていたように思います。それは先天的なものではなくて、「時代」というか「社会」というかそういうものが今よりもガサツでつっけんどんで、人の心を大事にする雰囲気が全体としてなかったことが原因のように思います。 つまり「時代」や「社会」がしょっちゅう心に茶々を入れてくるようなところがあって、「免疫」が出来てくるような部分があったような気がします。 ところが今の「時代」や「社会」は優しい。そういうガサツさやつっけんどんさは失われ、それなのに陰惨な事件や厳しい社会状況は人の心を無作為に責めつけるし、一般の人の心にも他の人の心を思いやる温かさや優しさが全体的に(個別に優しい人はいますが、)足りない。 なでなでしながら育てていって、突然毛布の向こうから殴りつけてくるような社会になっているような気がします。これでは、うつになる人が出てもおかしくないと思えてしまいます。 私が何となくわかっているように思えるのは、人を外見や表面上の心の様子で判断してはいけないという事。その人の魂の様子まで視て、対応していかないと人とのお付き合いを間違えてしまうという事。 とても難しい生き方が求められている世の中だという事なのかもしれません。
2010年01月07日
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その女性の霊視を始めると、天照大神が現れて早く私の元へ来なさいと伝えてきました。早く、早く伊勢の地へ来なさいと矢の催促です。 時々、こういう神様から呼ばれている方がおられます。神縁というものでしょうか、こういう神様とのご縁は深くて表面上の現実生活とは関係ない所で強く働くようです。だから、呼ばれて行ったところで何がどう良くなるというものでもないのですが、「神様に呼ばれている」という兆しは人にとっては特別な感じがしますし、ありがたく感じることでもあります。 私も呼ばれて何度かいろんな神様のところへ伺いましたが、清廉な感じが心に湧き上がって、浄化されるのとエネルギー補給がされるような感じがありました。 彼女に施療後お伝えしたところ以前から娘さんに伊勢へ行こうと強くせがまれて伊勢神宮にはご縁を感じていたとの事。「今、鳥肌が立ちました。」とおつしゃっていました。すぐ行って下さい。何度行ってもいいんですよ、とお伝えしました。
2010年01月06日
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彼の前世はバイキングの戦士で呪術師も兼ねていたようです。今のイギリス辺りに遠征した時の光景が視えてきました。 長い航海の後、人の住む入り江に近づきそうになりあの岬を廻ればその入り江に入るという瞬間に、岬の突端が神々しい激しい光を放ち始めました。 あまりに激しい光のためにオールを漕いでいる者たちも舵を取っているものも何も見えなくなり、船は右往左往しています。 彼は何かの結界が働いていることを悟り、逃げ戻ることを選択しました。自分の霊力ではとても叶わない凄まじい力が働いていることがわかったのです。 国に戻って彼は現役を退きました。呪術師としての自信を失くしてしまったのです。 その岬の突端の光の正体は、まだ幼い少女の捨て身の魔力の結界でした。バイキングに襲われれば村は壊滅してしまいます。彼女は自分自身の命を懸けて、バイキングなどを退ける霊的結界を張っていたのです。 たとえ幼い少女であっても命がけの霊力というのはバカにできません。彼は、自分達の行為が他の人達にどんな影響を与えているのか理解したのだろうと思います。力が全て・・・ではないことに彼は気付いたようでした。
2010年01月05日
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毎年恒例の家内の肉まん大会が二日の夕飯で開催されました。 そんな大げさなものではないのですが、家内の肉まんは年々美味さが向上しています。 私がほっておくとドンドン食べ過ぎてしまうので、今年は肉まんの上に小さな昆布の切れ端が乗っていて、これが私の分ということで・・・、トホホ何と信用されていない私。 それでも蒸しあがったばかりの肉まんはとても美味しくて、娘と二人でハフハフと食べ続けてしまいました。 ちなみに我が家の手作り餃子大会は月一回は催され、その時は私が焼き係としてフル稼働します。餃子を焼くのは私、上手いんです。
2010年01月04日
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この言葉のまず、第一義は「飛龍」という部分の「水との決別」というか、水神からの卒業というような意味だろうと思います。 そして次の「蝶文」については風の属性の強化です。私の魂の持つ属性の内で最大のものが「風」らしいので、これを使って為すべきことがあるらしいです。 そしてシンクロ的に私の心の中に現れているのが、この写真にある絵画・・速水御舟の「炎舞」という作品です。 炎の上部で乱舞しているのは蛾ですが、これらはスパイラル状に配置されていて、動の中に見事な緊張感を描き出しています。 炎は私の守護仏である不動明王の背炎である神聖なる炎だと思います。私は、不動明王の破邪の力を得て何かを成し遂げていかなくてはならないと鼓舞されているようです。 まだ、神義というようなものが複層的に隠されている言葉のようなので引き続き探っていきたいと思っています。
2010年01月03日
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世知辛い、ぎすぎすした世の中です。細かいことにぴりぴりと神経を逆立てて生きているような社会のような気がします。 勿論、こんな厳しい経済状況が支配している状況では例え家族の中でさえも優しく思いやりを持って接していく心の余裕も無いことになりかねないという事は良くわかっています。 でも、人の心の犯したミスやしくじりを許したり、逆に思いやりを持って慰めたりしてあげる心を持って行きたいものです。 ごめんなさい・・・と相手が言えなくても、いいんだよ・・・そう心で思ってあげる、そういう寛恕の心を持って他人にも家族にも接していきたいものです。 世の中の歯車がきしまないで、ゆるゆると動いていくような気がします。皆がそういう心を持っていれば・・・・。
2010年01月02日
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今朝方、霊界からメッセージが・・・。 「飛龍蝶文」という訳のわからない四文字が・・・・。 元旦早々謎解きをしていかなくてはなりません。 まぁ、神霊界が見捨てていなかったと考えて喜ぶべきなのかもしれません。ちょっと熟慮中です。 今年もよろしくお願いします。
2010年01月01日
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