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何だか懐かしさを感じる霊視になってしまいました。 木蓮の花が咲いている樹のそばに猫がまったりとしていて、そのそばに中年の武家の方が自宅にいるような雰囲気で佇んでいました。 それを見ている娘さんの視線が私の視線でもありました。 お父さんのようです。どこかの藩の家老をしているお父さんとお父さんの愛した木蓮の樹と猫と娘。家族と家の庭の樹を愛して、何事もない日々を送った男の人と、その人を父親として尊敬していた娘の姿。 現世のその女性にこの風景をお話すると静かに涙を流されていました。 私の好きな木蓮の花。その香りに似た穏やかで平和な家族の前世の姿を視ました。
2010年03月31日
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凄く暗い世界にいるように視えました。闇の巫女という感じもしました。死を司る巫女という感じです。 太古から人の死に際して儀式を司るものが必要だったのでしょう。人の生に対して産婆さんのような役目をするのも女性だったのでしょうが、人の死に対してもあちらの世界へ送り出すのも太古の時代には女性が行ってきたのかもしれません。 イザナミノミコトという方は黄泉の国の支配者と考えられていますが、この神様に仕える巫女という前世を視たときに普通では考えられない「暗さ」を感じました。あまり良い現世を生きていけないだろうなぁと思います。現世では「死」というものは封印されて、重要ではあるけれど「神」の領域から離されて「仏」の領域に押し込められてしまっているので、彼女たちは「イラナイモノ」として遇されてきているのかもしれません。 「死」というものを神の領域から感じることもとても大切なことのように思うのですが・・・。
2010年03月30日
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四月二日金曜日の午前十時から一時間強スクールの整体の実験台になってくださる方を募集します。よろしくお願いします。 何の理由も無く友達や仲間になっていると考えるのは浅慮というものです。必ず前世からの繋がりがあって、今世での縁を得ていると考えるのが正しいと思います。それが家族や親友などであれば何度も何度も転生を繰り返しながら付き合い続けていると思っていいのではないかと思います。 人と人の結びつきというのは偶然では決して無く、必然なのだろうと思います。それを深くありがたいと感じることが大切なのだろうと思います。
2010年03月29日
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段々判ってきたように思うことがあります。これは私個人の勝手な見解なのですが、人に就いている守護霊というのは「指導霊」「先祖霊」「防御霊(飼っていたワンコやニャンコの霊)」等がいるらしいということです。 「先祖霊」というのは血筋に沿ってその人に系統的に守護したり因縁に絡んで就いていたりする霊魂です。つまり曾祖父ちゃんとかお婆ちゃんとかの魂です。 そして「防御霊」は飼っていたワンコやニャンコなどの動物霊で交通事故や災害などから守るために専門に就いている魂のようです。 そして「指導霊」というのはその人の魂の転生の歴史の中で功徳を積んだ世での記憶というか情報の詰まった魂が、その人の霊的・精神的指導を目的として守護している魂というわけです。指導霊になるのは功徳を積んだ魂のみで、普通に誰を救うでもなく逆に悪行を重ねたような前世の記憶は普通は抹殺されて魂の転生の記憶からは消されるようです。もちろん動物や虫なんかに転生している時もあるのでしょうが、そういう情報も魂には残らないようです。いや、もし動物の霊能者がいてそういうのを霊視したら視えるのかもしれませんが・・・。 功徳というのは人のために尽くした行為をいいます。死ぬ間際に一人の他人を救ったなんていうのもきちんと功徳として魂には残るようです。 私が霊視で視る姿にお坊様や修行僧や巫女などが多いのは、こういう職種の人達が功徳を積む機会が圧倒的に多いのだとわかってきました。多分一般的な霊能者の方は先祖霊なども視えるのでしょうし、指導霊ではない守護霊みたいな存在も視るのかもしれません。 私の場合は身体や心のトラウマを解いて癒しに繋げたいと考えて視ているので、こういう指導霊的な前世の記憶を視るのかもしれません。 霊的な世界というのは広大無辺ですが、きちんと何もかもうまく行くように考えられて自然に万能の力によって作られているのだなぁと思えます。ありがたいことです。しかも、私に視えている部分などホンの一部なのだろうという自覚があります。
2010年03月28日
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彼女の霊視を始めると、超巨大な木々が視えてきました。セコイアという巨木がアメリカのイエローストーン国立公園にありますが、あんなような巨木が何本も並んで生えていました。 彼女はインディアンの娘のようですが、その巨木の間を奥に続く道を恐る恐るという感じで歩いていきます。神聖な氣が漂っていて、巨木の一本一本が大きな神様のような感じがしました。 その道の奥には「森の王」が居られると感じました。彼女がそこに行き着けるのかどうか判らないところで霊視は強制終了させられました。 その場というのは許されたものにしか視せてもらえない場所のようです。アバターという映画で描かれていた森と巨木もこの霊視の中の世界と重なる感じはしましたが、あの映画よりももっと神聖で不思議な場所のように思いました。人の想像するものをはるかに超える場所というのが世界にはまだあるのだろうと思います。 彼女は大いなるものたちに愛される才能を持っていますが、それは下手をすると本人の心の許容量を越えてしまいかねないので、注意してほしいなぁと思っています。神に愛されるというのは大変なことなのかもしれません。ジャンヌ・ダルクのように。
2010年03月27日
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霊界のメッセージというのは本当に様々な意味が含まれています。伝わってくる一通りの意味だけではなくて、捉え方や状況で色んな解釈が出来るメッセージになっているようです。 一見すると曖昧な言葉なのですが、それは「言葉」というものに縛られているからそう思えるだけで寓意というような事が何重にも複層化しています。 例えば「人に嘘をつかない。自分にも嘘をつかない。」というメッセージ。人に嘘をつかないということは自分を正直に人に見せるということだし、自分に嘘をつかないということは自分の願望に正直に生きる、我慢しないということです。 でも、このメッセージには別の意味もあるようで自分に正直にありすぎて人を傷つけることもあるから気をつけなさいという「裏」の意味も含んでいるようです。また、現実の世界は人にそんなに優しい世界ではなくて正直に生きることを許してはくれない場合が多い・・・でも自分に正直になろうとする事は「自分の心をいつも見つめている」ことになるから、そういう「自覚」を持って生きなさいという意味もあるということです。 そして、私はメッセージを人に伝えながら自分にも「考えなさい」と言ってきているように感じています。メッセージの伝えられるご本人だけではなくて、伝えている私にも大切な内容だったりするわけです。 物事の表面だけを見ていてはいけない。その中に含まれているあらゆる物事に意味があり、必要なことが伝えられているはずなのですよと霊界は私に言っているのだろうと思います。
2010年03月26日
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私の家内と娘が名古屋へ先日遊びに行きました。東山動物園に三時間もいたそうなのですが、あそこは植物園とかも併設されていてゆっくり楽しめる場所だそうで。 そこで起きたお話。家内と娘が動物達を見て廻っていたとき、娘も家内も動物達が家内の方を皆じっと見ていることに気付きました。 娘「皆、お母さんの方を見ていない?」家内「私もそう思う。」何で??・・・・実は家内の後ろにずっと獣医さん(動物園の)が歩いておられたそうで・・・(笑)。 動物達は獣医さんをしっかり覚えていて、周りに結構多くの人がいたにもかかわらずきちんと見分けて反応していたわけです。家内は動物達の注目を浴びる恩恵に恵まれたわけで、ちょっと楽しかったそうです。 自分達の命を守ってくれている人を認識しているのか、痛いことをする人を覚えているのか、動物たちの心は少なくとも人が思っている以上に複雑な働きをしているのかもしれません。
2010年03月25日
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春の彼岸なので、亡き父のことをよく思い出します。ということはそばに来ているということ。あんなに家庭的ではなかった父も魂という存在になったら、時々私や母のそばに来ていることがあるようです。 愛情を表現する事がとても下手だった人でした。一番愛していたはずの母に対してもいつも憎まれ口しか言っていなかったようです。私と弟に対してもどう接していいかわからないような状態が生涯続いてたようです。 それでも亡くなってしまうと良い思い出だけが残っていきます。肉親というのは不思議なものですね。今日は母と二人で墓参りに行く予定です。 さて「整体モニター」さんの募集をします。四月二日の午前十時から一時間強の時間が取れる方ご連絡ください。スクールの生徒さんの臨床コースの授業の実験台になっていただきます。一名です。よろしくお願いします。
2010年03月24日
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昔読んだSF漫画で近未来に男性が女性化して、化粧をして美しさを磨いて男性化した女性達に媚を売るようになるというものがありました。 性の差別化には私は反対なのですが、「らしさ」というものには一定の必要性を感じています。 「草食系男子」とか「男性エステ」とか、今の若い男の子の姿を見ていると前述のSFの世界が現実化していくような気がします。 社会が進化していくと「懐古主義」が進んでいくなどと言われていますが、現代社会は「極化」が進んでいるような気がします。何でも変化が極端です。 引きこもりなんていうのは個人主義の極化だし、男性の女性化も性の極化(極端な傾向に進んでしまう形)のように思えます。 霊的な文化の多様化についても極化が甚だしいと思います。それぞれが好きなように自分の「霊性」を捉えてオタク化しているような気がします。「オタク」というのも極化の良い例かもしれません。 要するに「らしさ」の否定というのが現代社会の流れになりつつあるのかもしれません。男らしさの否定、女らしさの否定、親らしさの否定、子供らしさの否定、政治家らしさの否定、教師らしさの否定・・・・いっぱいあります。 らしさの否定が何か新しい良いものを生み出すためのものならば良いのですが、私には人の人同士の繋がりが少しずつ壊されていっているような気がしてなりません。
2010年03月23日
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先日霊視をしていたら、視えてきたのはその方の父親の、子供に対する「執着」でした。娘を嫁に出したくない。息子を嫁に取られたくない。家族は自分のそばに一生繋ぎとめておきたい。そういう「執着」が潜在意識としてというか「念」として強くあり、しかもご本人が取り分け「念」の強い魂なので、それが子供さんたちを押さえ込んでいるようでした。 私自身が父親であり、娘を持つ身なので我が身を振り返される思いがありました。 父親としての愛情はあるべきだし、それ自体は悪いことではないのですが、それが「執着」となって子供さん達の幸せを阻害しているという事になってしまうと問題です。家族に対する責任感というのはとても重要ですが、子供が成人して独り立ちできるようになったら自分の中に出来ているかもしれない「執着」というものを切り捨てる必要があるようです。「愛情」と「執着」は全く違うものだろうと思います。それを混同している人が現代には多いのかもしれません。 言葉や情報が過多になっている現代では「執着」を「愛情」だと自己弁明する機会も方法も多くあり、自分を見失っている父親というのは多いのかもしれません。私自身、自分の心を見つめなおして「愛情」が「執着」になっていないか考え直してみる必要があるようです。
2010年03月22日
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凄まじい風が時折吹きつのり、町は白い朝霧に包まれています。 春の暖かさと春の風を感じつつ、思うことは不幸な人というのはどこにでも居られるという事。 ただ不幸に負けて鬱屈とした人生の中にいるか、不幸な状況に負けないで顔を上げて前へ一歩でも進もうと頑張っているかの違いはありますが・・・・。 不幸に負けて絶望するということはあってはならないことですが、そういう時の人の心の目というのは焦点がぼやけているのかもしれません。 絶望するのは周りの色んなものが見えていない状況だからかもしれません。その人のことを懸命に思って心配している人が周囲に必ずいるはずなのに、気付いていない。 どんなに苦しい状況に人が陥っていても、そのそばで春の花はひっそりと咲いていく。風は吹く。雨も降る。日も照る。花は咲くし、鳥達は卵を産み育てる。自然の営みは人の不幸などと関わり無くいつもの運行を続けて行く。 ばからしい感じがします。自分が不幸だと絶望していても、自然界には同じような営みが続いていく。強風になぎ倒される巨木があったとしても、その倒れた木を栄養に新たな森が生まれていく。 春の嵐もいつまでも荒れ狂っているものではない。
2010年03月21日
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白山にはいろんな登山路があって、その幾つかを踏破しようと試みたことがあります。 また金沢の浅野川という河川の上流には観光地化されていない山並みが連なっていて、金沢大学のワンダーフォーゲル部くらいが登山練習の地として使っていたくらいで避難小屋もなければ登山道も整備されていない山々があります。 そこも入り口まで行ってみたことがあって、「山の懐」というのを感じています。人がそう簡単に踏み込めない領域というのがこの21世紀の現代にも存在しています。剣岳の映画を見て、現代の剣岳を知れば日本の山は全て踏破されつくして知られきっていると思うかもしれませんが、山には霊的に守られていて人が何故か踏み込めない「禁域」というものが今も存在しています。 それは、海にもあるのだろうと思います。もしかしたら人の多く住んでいる都市にさえも「懐」のようなものがあるのかもしれません。 でも、山にはあります。白山にも薬師岳にも大日岳にもあります。人が踏み込もうとするといつの間にか迷ってしまうような領域が。それを「山の懐」と私は思っています。
2010年03月20日
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という日本映画をDVDで観ました。山の映像美がとても素晴らしくて山好きの人間には堪らない映画でした。 明治期の登山の過酷さがよくわかりました。登山に使うロープはすぐ切れるものだし、テントも布製の粗末なものです。登山装具も今のような科学的な防備がされていなくて・・・・そういう事を言えば映画の中に出てくる修験者の人達というのはまさしく超人です。明治期のものであっても登山装具さえも身につけずに立山連峰中を駆け巡っていたらしく、一般人が決して登れないような山の頂も簡単に登りまくっていたようです。 その当時の一般の人にとって剣岳は「死の山」として入山禁止の山だったらしく、タブーとして麓のヒマラヤでいう所のシェルパに相当する案内人達も剣岳を敬っていたようです。 映画の中で陸軍の陸地測量部の人達が山頂への登り口を探すところが描かれているのですが、どんなに探っても登攀ルートが見つからない・・・そういう山だったわけです。 現在の剣岳は鎖場などが整備されて一般の人でも天候さえ許せば登頂できる山になっていますが、昔はそういう「禁域」というものが自然の中にはあったということです。 そういう時代には山頂には「神」が宿っていたんだろうなぁと羨ましく思いました。
2010年03月19日
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昨日の休日、寒い風が吹いていましたが、家内に促されて一人で散歩に出ました。導かれるようにいつもとは違うコースに。近くの用水沿いの道をぶらぶらと歩いていくと、いつも気になっていた貴船神社がありました。 とても小さな神社で小さなお稲荷さんくらいしかなくて、境内も何も無くすぐ社殿というか小屋のようなものがあるだけの神社です。用水というのは金沢の町には幾つか立派なものが作られていて、今でも農業用水として金沢近郊の田畑に水を導いています。 作られた当時に「水の守り神」として建てられた神社なのだと思います。そして、今日は私を呼びつけたわけですが、それは社殿の目の前にビデオカメラ(業務用)を構えたプロのカメラマンと思しき女性の姿が・・・。近くにアシスタント役の女性も・・・。こりゃ神様恥ずかしいだろうなぁと思いました。長い時間同じアングルで撮影しているから何かのサンプリング用の映像なんだろうなぁと思いましたが、しばらくすると神社前の用水の水の流れの撮影に移ったので、私も神様もほっとして・・・・。 神様の用事も済んだことで、そのまま近くの図書館へ。中をブラブラしてから帰ってきました。この神様、相当恥ずかしがり屋です。
2010年03月18日
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霊能力のある女性の施術をしたら、「先生の手がいろんな事を語ってくる・・・」とか言われて、いろんな事を私が思っているらしいことをどんどん言われました。 でも、そんな事思っていないんだよなぁ・・・と思いつつの施術でした。彼女は受動タイプの霊能者なので、感受性がとても鋭いようです。私もどちらかと言うと受動タイプなので、彼女の「錯覚」の意味が何となくわかります。 私は施術中は心も身体も特に「手」は「空」になっています。「無」になれれば最高なのですが、中々そこまでの境地には至っておりません。ただ、「空」なので邪気や人の思いというのは通過していきます。 彼女の霊感は自分自身の思いを鏡を通して視ていたような状態なのだろうと思います。私が思っていることではなくて、自身が感じていることを相手の思いと混同して感じていたのだろうと思います。感受性が鋭すぎるとこういう事が起きかねません。 私自身も霊視をする際にとても注意をしています。自分自身の思いが霊視の内容に反映してしまっていないかと。感受性の鋭さがフィードバックしてしまって、自己陶酔してしまい勝ちになってしまうのです。 客観的に冷静に自分自身を観察していくこと。これが霊的能力を使う際にとても注意していなければならないこと。自己陶酔は一番危険な罠のようなものです。
2010年03月17日
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この山は中国と北朝鮮の国境にある山で、霊山としても有名で朝鮮民族発祥の地なんていう伝説もある活火山です。 先日霊視した方が古代の朝鮮王宮の宮廷直属の祭祀を司る人で、何だか霊視の中で白頭山に行かなくてはならないと繰り返し訴えていたので、気になって白頭山を調べてみました。 やはり、ここに何かの願いを持って神に会いに行かなければならなかったようです。そして、この山の麓というか山中は高麗人参の産地でもあるので、これの搾取も使命だったようです。 この方の現世の方はもちろん石川県に住んでおられます。それはもちろんこの地に「白山」という山があるからです。この山は中国大陸の白頭山と相似形というかシンクロしている山です。元々、白山という名称も白頭山から取ったと言われているくらいなのですが、彼女は白山ヒメ神社へ御参りに行くと前世の方の思いも少し遂げられるようになるので、行くべきなのでしょう。そうお伝えしておきました。
2010年03月16日
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その方の前世を霊視すると、最初に視えたのは「鈴」。その鈴が転がるような笑い声が聞こえてきて、大豪邸の中の美しい娘が笑っている姿が視えました。 ヨーロッパの貴族の娘だったようです。十何人の大家族だったようですが、彼女はベルギーの貴族に嫁ぎ幸せに暮らしたようです。 ただ同時にチベットの山奥の貧農の家の娘という前世も視えました。こちらも笑い声は聞こえましたが、そんな鈴の転がるような笑い声ではなく低いこもった笑い声でした。でも、家族は貧しいながらも幸せで仏教に対する篤い信心に支えられて幸せに生きていたようです。 何か一人の人の前世を視ているのに二つの前世がとても意味があるように重なって視えたのが、何か大きなメッセージのような気がしました。 大金持ちの娘と貧しい家の娘・・・共に笑いながら日々を過ごしている・・・「幸せ」の価値というのはとても沢山あるのだなぁと感じました。環境が幸せを作り出すのではないということ。人の心の在り方が幸せを生み出す根源になるんだということを伝えたかったのかもしれません。
2010年03月15日
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家内が「福井にボルガライスという食べ物があるらしい。食べてみたい。」と言い出し、ネットで調べて昨日行って食べてきました。 場所は越前市です。総社大神宮という国府であった由緒正しき大きな神社の参道脇にある「ヨコガワ分店」というお店。 金沢からは車で一時間半というところです。神社の駐車場に車を停めてまず神社の方にご挨拶。相変わらず神様は不在。ただし、同じ境内におられた天神様の分霊が挨拶に来なさいとおつしゃっているようでしたので、それは娘の守護神様なので娘に挨拶に行かせました。 それからお店の方へ。まだ時間前だったのですが、お店の方は快く招きいれてくださいました。そして三人で同じボルガライスを注文。 ボルガライスというのはオムライスの上にトンカツが乗っている料理です。食べてみるとオムライスの中身がケチャップではなくてソースで味付けがしてありました。トンカツもオムライスもデミグラスソースが掛かっています。このデミグラスソースもウスターソースに近い味のように感じました。 後で家族内でこんな会話が「福井の人達はもしかしたら目玉焼きにはウスターソースをかける派が多いかもしれない。」「それは・・・そうかも、ソースカツ丼もそうだしね。」「こちらで目玉焼きに醤油なんか掛けたら顰蹙ものかも(笑)」我が家では目玉焼きには醤油を垂らして食べるのです。 雨でも降ってきそうな天気だったので、越前市での観光は早々に切り上げて帰ってきました。ボルガライスは美味しかったです。ただ量が私にはちょっと足りなかった。家内と娘にはちょうど良かったようですが、金沢のハントンライスは半端じゃない量なので比較してしまいました。曇り空の中の福井グルメの小旅行でした。
2010年03月14日
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役の行者を霊視の中で視ました。いや、視たと言えるのかどうか・・・何しろ素早く動き回っているし結界のようなものも掛かっているようで姿がはっきりと視えません。後ろから近づこうとすると鬼のような雰囲気が近づいてくるし・・・。何しろ正体不明な方です。 霊視した対象の方は役の行者が活躍していた山の麓の村の娘だったようで、こちらも行者様を見る時はポカンと口をあけて呆れた感じで見ていたようです。 でも、何だか彼女は行者に寂しさのようなものを感じていたようです。強い人なのだけれど、寂しさがどこかにちょっと感じられるそんな人だったのかもしれません。 孔雀明王の呪を使って空を飛んだと言われていますが、視ているとフッと消えるようにいなくなるので飛んでいる姿とかが見えたわけではないようです。 彼からのメッセージは「妖しいものは信用するな、ただ見ているだけがいい。関わるとろくな事は無い。」というものでした。自分自身が「妖しい者」と思われていたから自虐気味に言っているのか、そういう術のようなものの正体をよく判っていたからなのかはっきりしませんが・・・。
2010年03月13日
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知り合いの方のブログで「月」の記事を読んでいたら、子供の頃に見た月を思い出しました。 金沢の下町で彦三(ひこそ)という町に住んでいた頃、当時は内風呂なんてほとんどの家に無くて銭湯へ行くのが普通でした。私達の町内では歩いて五分くらいのところに在る「五宝湯」という銭湯に通っていました。金沢でも一二を誇る熱いお湯の銭湯でした。 銭湯で母親に体中をゴシゴシ垢すりで擦られると何だか心までまっさらになって正直な心持になったのを覚えています。銭湯では入浴の作法や他人様に迷惑をかけないマナーを教わっていたような気がします。 それで、そんな銭湯を出て多分弟と二人で帰宅するときに途中にあった小学校の前の大きな柳の上に綺麗な青い月が出ていました。 湯上りのまっさらな気持ちで見上げた月・・・・天空に一人で気持ちよさそうに風に吹かれて浮かんでいる月が私の心と同調して、何だか嬉しくて友達になったような気持ちになったのを思い出しました。
2010年03月12日
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突然寒くなりました。上の方を視るとドスンドスンと踏み歩いていくモノたちが視えました。 こいつらロシアの方にいる暴れ者たちじゃないですか。昔の冬将軍というのは年を経て落ち着いた霊性を感じられるモノたちだったのですが、最近の上の空にいるモノたちには「乱暴者」が多いです。 学習院で愛子様にぶつかりそうになっていた乱暴者のように、上空を無秩序に踏み抜いていきます。 私は「風」の属性を持っているせいか、こういうモノたちを感じられます。あぁ何だか今度はヨーロッパの方に行こうとしているような気がします。人の生活は翻弄されますね。
2010年03月11日
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彼女の霊視を始めると「九万坊権現」というキーワードが視えてきました。彼女は神奈川県出身の人で今は地元に帰っておられるのですが、今回また金沢に遊びに来られたようです。 九万坊権現は「魔」の棲むところに近い場所にある寺院です。加賀藩の時代から藩主一族にも庇護されてきた由緒ある寺ですが、カラス天狗を筆頭に諸々の魔族のようなモノ達が跋扈する場所でもあります。 それだけにここで修行するには相当精神力が強くないとダメだったみたいで、彼女の前世の修行僧も随分と意志の強い、若干ひねくれた性格の持ち主だったようです。 今世の彼女にカラス天狗に代表される「魔」が少しちょっかいを出す未来を警告していたようですが、この僧侶の霊格はそれなりに高いので多少のトラブルなら簡単に撥ね退けてしまいそうです。「心配ないですよ。貴女は思った以上に強いです。」そんな言葉をお伝えしました。それよりも彼女は金沢との縁がそんな風にあったことを喜んでいるようでした。
2010年03月10日
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運命というものがあって、人はそういうものに翻弄されながら生きているようです。中々、それを乗り切って逆らって泳ぎ渡るなんていうことは人には難しいようで、苦労というもののタネは「運命」の波によって生まれるのではないかと思います。 宿命という名の大河を泳いでいるのが人というもので、運命というのはその大河に時々起きる「波」だったり「流れの変化」だったりするのかもしれません。 あ~ぁ・・・と思います。運命と言う奴は情け容赦ない奴です。いつ来るかも判らず、どんな勢いでやってくるかもわからず、人は為されるがままでいなければなりません。 でも、くそ~~!と思います。自分の運命に背を向けたりはしないぞと思います。どこかの誰かが言っていた言葉ですが、倒れるときは例えドブの中であっても前向きに倒れてやる・・・というのがあったけれど、私も必ず前向きに倒れてやろうと思っています。
2010年03月09日
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本が好きでいつも読み続けています。何万冊読んだのでしょうか? でも「本」というものに価値があるのではないということはわかっています。月を指し示す「指」に過ぎないものが「本」です。大切なのはそこに示されている「思想」であり「物語」であり「技術」です。 自分の心を「月」に導くための道具が「本」であるわけです。 それでいつのまにか読む本の大半が文庫本になってしまいました。 残すべきだと思う本以外は少しずつBOOKoffに売却しています。それでもまた読んだ本が溜まりつつあって、本棚を増設しましたが埋まりつつあります。 中天に輝く「月」に私の心は行き着けるのでしょうか?珠玉の一冊という本にも何冊か出会ってきました。それらの本は何度も何度も読み返したりしています。時間が足りないのかもしれない。図書館の中で生活が出来ればいいなんて若い頃は何度か考えたりしたものです。 本は私に心の自由もくれましたが、時間の檻の鍵は渡してはくれなかったようです。
2010年03月08日
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一文字シリーズ?(笑)。 「控える」という意味の「控」ということ。私が人と接するときに大切にしている心構え。人の上にもならず、下にもならず、尊大になって教え諭すことを嫌い、卑下して見上げるような目線も取らない、ただ淡々と同じ「人」として見つめあうようにする。 障害者の方と接しても同じ。有名人と接しても同じ。子供と接してもお年寄りと接しても同じ。その付き合いの中に「愛」を通すことも考えて、でもただ「控」の姿勢を崩さない。そういう風に努力してきました。 どんなに品性下劣に見える人にも学ぶべき部分があったりします。どんなに立派で有名著名な方でも、同じ人間であり尊敬はしても謙(へりくだ)ればいいというものではないと思っています。 命・・・というものに真摯に向き合っていると、人の価値も生き物の価値も「命」という基準で考えなければならないということがわかってきます。そして「控」という心の状態になっていきました。一歩引いて我が身の損得を隠す心・・・それが「控」という心だと思っています。
2010年03月07日
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「威」というものがあります。私の守護仏である不動明王様などが担っているものでもあるのですが、戦国時代などに勇猛で精神的にも充実した武将などが敵陣の中に一騎で駆け抜けるなんていう離れ業をするときに前面に押し出して身にまとったもの・・・それが「威」というものです。 他の人が「威圧」されて引いてしまうもの・・・迫力・・・そういう類いのものです。お不動様の目が左右視線が違っているのも、何か歌舞伎の「にらみ」のような、やはり「威」というものを感じさせるためにああいう風に描かれているのではないかと思います。 大学のときに剣道の道場主という方に稽古をつけてもらつたりしましたが、やはり構えた姿に圧倒される感じがして容易に打ち込めない感がありました。あれもやはり「威」というものだったのかもしれません。 「威」・・・今の時代にはあまり見かけなくなったもの。でも、時に人にとって必要なのではないかと何となく感じてしまいます。
2010年03月06日
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先日霊視をしていたら視野の隅をとんでもない勢いですっ飛んで逃げていく影のようなものを視ました。あっという間だったので、追いかけようと意識を広くしてみたのですが、影も形もなくて幻だったのかとも思いましたが、すっ飛んで逃げていく姿だけははっきりと視野に残っていました。 あれは闇の領域の生物だったような気がします。彼女の魂に寄生していたのだろうと思います。あの逃げようからすると、姿を見せないことが大きな武器だと思いました。とりあえず彼女の魂の周りに結界を張っておきましたが、きっとすり抜けて戻ってくるだろうと思います。 闇の生き物は地獄のような場所からやってくるのか、人の醜く汚れた心の世界からやってくるのかわかりませんが、清浄な魂に対しても隙を見せればいつのまにかくっついていることもあるようです。 霊的な反射神経を訓練しておかなければならないなぁと思いました。
2010年03月05日
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生き方を若い頃からずっと考えてきていました。どうやって生きていけばいいんだろう?何を目標に生きていけばいいんだろうと色んな本を読んだり、人の話を聞いたりしてきました。 三十歳を過ぎた辺りで一つ結論が出て「家族を幸せにするために生きよう。」という決意が立ちました。そんなに難しく考えなくてもいい。妻や子や親を幸せにするために生きてみようと思い決めると生き方がシンプルになりました。 四十歳になったときに「生きている」というのは「生かされている」ということなのだと何となく判りました。だったら、人を拠り良く生きられるような仕事をしようと思いました。その仕事を出来なくなるという時は天が私を「お役御免」にしたときだから、許される限り「人に喜んでもらう」仕事をしていこうと思いました。 五十歳を過ぎて「魂」というものが何を求めているのだろうと考えるようになりました。昔から真理というのは単純明快なものだという信念があります。それからすると「魂」が求めているものはとても単純なことなのだろうと思います。そして、今判っているのは「魂」は出来るだけ他の魂と寄り添おうとするものだということです。 それがどういうことなのか?それが私の生き方をどう変えていくのか?それはまだ判りませんが、もう少し考えていこうと思っています。
2010年03月04日
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真心を込めて、というのをいつも心がけて生きています。というか性格がくそ真面目なもので何かいつのまにか手を抜かずに物事をしている自分に気付いて嫌になるときもあります。適当に、要領よく物事をしていくということが出来ません。 段取り良く人の力も借りて効率よくできるならもう少し世の中でいう出世というのが出来たのでしょうが、所詮頭もあまり良くないので一人でコツコツとすることしか出来ません。運が多少他人より良くて、守られているという感覚だけは少しあります。だから、人並みの暮らしは出来ているようです。でも、神様は決して余分のお金を与えて楽をさせようとはしてくれません。生活できるギリギリのお金だけを稼がせてくれて、それ以上は全く「努力し続けなさい。」とでも言っているようです。 真心というのは心の底にある小さな声だと感じています。他人や家族に対して「頑張れ」という気持ちだったり、「愛しているよ」と声に出さずに助けようとする気持ちだったりだと思っています。 自分の心を開いて少しだけでも相手に真心の声を聞かせられたら、真心同士が共鳴してきっと素敵なことが起きたり、出来るんだろうなぁと思ったりしています。
2010年03月03日
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昨日患者さんの霊視をしていたら、その方の守護神が女神様だったのだけれど、「私の所へ来る時はサイフは持たないで来て」というメッセージをもらい、ハッとしました。 神様はお金が嫌いなんだ。それじゃ「お賽銭」は?あれは神官達が勝手にやっていることで神様達には関係ないですよね。 あぁそうなんだ。神様というのは「不浄」を嫌われる。人の「欲望」というものが嫌い。だから勿論人の持つ「金銭」というものには近づきたくないわけです。 私は今度から神社に行く時には必要な額以上の金銭は一切身につけずに行こうと思います。相手が嫌がるものを身につけて近づくのは無作法ですものね。どうも、特に女神様の中に金銭を嫌う方がおられるようです。
2010年03月02日
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人間は炭素型生物なのかな?前世を霊視していると千人に一人くらいの割合で別の惑星の住人という前世を視ることがあります。 今回の別惑星の住人は珪素型生物?つまり石人間?というのかな、全く夢物語としてお読みください。 崖みたいなところの壁面からゆっくりゆっくり搾り出されるように生まれてくるところから視えました。石型生物。地球人と違って身体が石で出来ているわけだから、寿命は半端じゃないくらいに長い。時間の感覚が地球人とは違うし、生きる目的も違うようでした。 宇宙というものを理解しているようで、この個体はそういうものの成り立ちや仕組みを思索することに生涯を費やしたようです。長い長い時間をかけて思索にふけったわけです。 現世の彼は、だから前世の時間感覚を引きずっているので周囲と思考にかける時間の尺が違ってしまっているし、あらゆる感覚が「違和感」の中にあるような感じです。美大に通っておられる学生さんだということですが、さぞかし一般の人との美的感覚はずれて突出しているだろうとは感じました。 前世の生物からのメッセージは「何より多くの人の魂に触れて自分を磨きなさい。貴方の魂は元々「石」なんだから簡単には壊れたりしませんよ。」とのこと。人と触れ合うことを畏れているらしい彼に対してのメッセージのようでした。確かに芯は強そうだと思いましたが、苦労はするでしょうね。
2010年03月01日
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