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テレビ番組があまり面白くなくなってきているような気がします。特にドラマなどが面白くありません。ほとんどドラマは見なくなりました。バラエティ番組もマンネリ化がすすみ、その番組の作成側も自覚しているのか、すぐに打ち切りになったり人気のMCを起用して味付けしたりと大変そうです。 ドキュメンタリー番組や自然科学や教養番組は選んで見るようにしています。局によっては偏見が在ったり曲解していたりする場合もあるので、漫然と見ていると洗脳されそうになったりする場合もあるように思います。 NHKの特番は問題提起をしてくれるのでよく見ます。先日の人工知能の特番も興味深いものでした。気象予測や犯罪発生予測にAIを使っているのは興味深いものでした。ただ心臓移植の提供について受ける患者さんをAIで選別しているのはちょっとやりすぎなようにも感じられました。私は臓器移植自体に少し疑問を持っているのですが、それでもAI任せにしないで移植希望の人たちの選択にはもっともっと人が悩んで苦しんで選択していくべきなのではないかと思いました。 超高齢化社会になっていく日本は物質文明の凋落期に入りつつあるのかもしれません。テレビというものの本質が問われて行くような気がします。
2018年10月31日
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お祭というものがあまり好きではありません。あくまでも個人的な思いですので、誰にも共感や同意を求めるものではありません。戯言の一つと読み流してください。 日本人はお祭のようなイベントで集団になると、個人の思いというものを無視する傾向がとても強いように思います。「いっしょに酒を飲め」「いっしょに騒げ」「いっしょにバカなことをやれ」というような雰囲気が場を支配する感じがあります。一緒になって思考を停止させて騒げる人達は幸せですが、私はそういう場に入ると頭の芯が冷えて逆に冷静になってしまうので逃げてしまいたくなります。 オリンピックにしても万博にしても、何かその裏に人の愚かさというものが見えてしまって引いてしまいます。 人の叡智というのは個人の静かな思考の奥に宿るものだと感じています。それは森の中に一人で分け入って静かな環境の中で自らの心の中に踏み込んでいくような・・・そういうものだと思っています。優れた運動能力を競うのは結構ですが、それは一人や一部の集団で勝手に高めて行けば良いものであって、一般の運動神経の普通の人がすごいすごいと見て憧れても何にもならないと思ってしまいます。科学技術の進化も少しずつ人知れずに伸びて行って広く浅く人のために貢献していくもので良いのであって、公の場でお互いに見せびらかして、それをまた多くの人が混雑した中でぎゅうぎゅうになりながら見て回るものではないように思います。 祭のあの熱気は人を愚かしいものに下げてしまうような気がして私はどうしても好きになれません。こめんなさい。
2018年10月29日
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この神様と久しぶりにつながらせていただきました。お客様に就いてくださっていたのですが、施療後にお話ししたらこの神様の神社へ行かれていたとのことなので、間違いないと思いました。 医薬神でもあられるし、温泉の神様でもあられるので、今回も守護するその方にある温泉に行くようにとのメッセージが告げられました。本当にこの神様はきちんとされているし、人に対して懇切丁寧な対応をしてくださる方でもあります。猿田彦命様と一脈通じるところがあるというか、とても良く似た性格の神様だと思われます。 とても頭の良い神様なので、この方とつながるとこちらの頭も冴えてくるような気がします。アイヌの民にとってはコロボックルという神様として知られています。本土の人たちにとっては一寸法師などの小人としての姿が知られているかもしれません。姿を隠すことが得意というか、あまり人前に顕現されることは無いのですが、気配はとても強く残される神様でもあります。 人のあまり訪れない小さな社などに仮住まいされていることがあるように思います。宮崎駿氏のアニメにも主人公として描かれましたが、あれもこの神様の一形態なのかもしれません。 ご縁を頂いて感謝する時間でした。
2018年10月27日
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お風呂が在り難い季節になってきました。まぁ私は暑い夏でも二日に一度はお風呂に入っていて、その間の日はシャワーという日々でしたが。それでもこの頃は熱いお風呂に入ると心も体も在り難くなります。 暑い夏にシャワーばかりしか入られないお客様に「お風呂の効用」を何度も何度もご説明し続けていましたが、これからはお風呂に入られる方も増えてくるので「身体の冷え」という万病の元も退治しやすくなります。 太平洋側はこれから乾燥する冬に向かいますが、日本海側は冬も湿度は高いです。それでもお風呂に入ることによって身体の環境に対する順応能力が高まりますから、絶対に必要な生活スタイルになります。特に大腸経や膀胱経、そして子宮や卵巣の機能に関わる任脈に対してお風呂による身体の温めは絶対必要なものになります。 温泉が湯治という健康法として古くから伝えられてきたのは、温泉成分の身体への浸透も大切ですが、何よりも身体を温めるということが大切なのだということを昔の人たちが本能でわかっていたという事だろうと思います。また大量の水に浸かると体に侵入した「邪気」も水の中に溶け出して薄まるので霊的にも効用はあります。 温かいお風呂にしっかりと浸かって健康を維持していきましょう。
2018年10月25日
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高校二年の修学旅行の思い出がふと蘇ってきました。実はこの旅行が大変でした。その時私は不遜にも学級委員長をしていてクラスのリーダーなどというものをさせてもらっていました。今考えると恥ずかしい限りです。 そして事件が起こりました。クラスメイトの男子の何人かがトイレで喫煙しているのを見つかったのです。彼らはちょっとつっぱっていましたが、気持ちの良い奴らでした。旅の解放感からやってしまったのだろうと思います。 クラスは大騒ぎになり、女子は泣き出すやら男子たちは呆然としているやらで、吸った彼らは教師たちに監禁状態になりました。たった一度の修学旅行が悲惨なことになったわけです。それで私がどうしたか・・・・あんまり何もどうしたこうしたということはしなかったような記憶があります。泣いている混乱している女子たちを女子のリーダーに話をして落ち着くように話をして、男子たちにも各グループごとに話をして旅行を楽しく続けようと話したように思います。 どうも私は当てにされていない状況になると変にうまく立ち回ることができる性格のようです。何とかクラスは平静になり、無事クラスの旅行は終了しました。周りが興奮していると私は逆に落ち着いてしまうへそ曲がりなところがあるようでした。 これには後日談があって、この事件で先生方は私が使える人間だと勘違いしたらしく三年生になった新クラスでもリーダーにしてしまいました。ところがこのクラスには所謂「デキル大人過ぎる」生徒たちが数多くいて、子供の私にはまとめきれませんでした。私は当てにされて期待されると力が発揮できないというか、後ろ向きになってしまうへそ曲がりなところがあるわけで・・・・何にしろひどい高校三年生の一年間を過ごす羽目になってしまいました(笑)。何だか自分発見の思い出です。
2018年10月23日
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私の母は86歳になりますが、いまだに自分の精神性を高めようとするような行動と言動を取ろうとします。先日も親鸞会という浄土真宗のワークショップへ出かけていました。そして帰ってきて言うには「話が浅い」です。大学の宗教学や仏教学の教授クラスのお話じゃないと満足しないようです。 我が母ながらあきれるばかりです。そんな母と話すことと言えば「仏様とは、神様とは」というようなお話になります。結論から言えば、両者ともに人それぞれの心の中にそれぞれのお姿があるということでしょうか。本当にこの二つの存在にお会いになった人は誰もいないわけで、仏陀は実在の人物ですが、霊的な存在となってどこかにはおられるのかもしれません。神様についてはその眷属だろうが、親戚だろうが見たことも会ったことも誰もできてはいないわけです。 こうだろうああだろうと推測したり考察したりすることは自由ですが、何も証明されたものはないわけです。そういえば死後の世界も霊界も誰もその存在を証明した人はいないわけです。 全ては仮説、憶測の域をでていないのです。でも人がそういうものを求めたり大切に思ったりするのは何故なのか?たぶん「心」というものがそういうものを求めるのだろうと思います。 何故心に愛や憎しみが生まれるのか?そこにどう「救い」というものを見出せはいいのか?それこそが仏様や神様というものが求められる原因なのかもしれません。 老い先短い母が求めてやまないもの。それは人が生きている限り心の平安をこそ求める生き物なのだという証明にはなるのかもしれません。
2018年10月21日
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あるお客様にご先祖霊の方から届いたメッセージです。曾祖母に当たる方からのものでした。 「女性の幸せというものに含まれている主たるものは、自分の思いや行為がきちんと還ってくること。そういう相手に恵まれる事。また自分自身がそういうきちんとした思いや行為を送ること。それが大切。男の人にしても女性の思いや行為をきちんと受け止めて誠実にそれを還してくれる人を選ぶことが幸せにつながってくる。一方通行な生き方は決して幸せにはならない。」 そういう意味のメッセージでした。確かに金銭や地位やそんなものよりも、自分の思いや行為を誠実に相手が受け止め、ちゃんとわかっているよ、ありがとうと還してくれることはとても大切なこと。心の平安というものはそういうことが少しずつあって出来上がるものなのだろうと思います。 見返りを求めてはいけないとは言いますが、意思疎通が無ければ人と人の関係というのは成り立ちません。行き過ぎた思い込みを相手に押し付けるのでなければ、還ってくる相手の思いというのは大切な心の栄養にもなるのだろうと思います。 久しぶりに何だか心が温かくなるメッセージを頂いたように思いました。
2018年10月19日
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まだ薄暗い川縁を散歩していると川面でボチャンと大きな音がしました。ちょっと驚いた後で何がそんな音をさせたのだろうかと川面の草むらの影を見てみましたが、何も見えずわかりませんでした。 例えば江戸時代、夜の闇の中で薄い月明りくらいの中で、川べりで何かの生き物が立っていたら、そして動物特有の銀色に光った両目が見えたりしたら、きっと江戸時代の人は妖怪だと思ったに違いありません。 それが今は絶滅してしまったニホンカワウソが珍しく後足で立ち上がった姿だったとしても、その時代の普通の人にはそんな動物の知識も無ければ、そんな異様な姿も見たことがなかったはずです。 またカワウソが水面に頭を出している姿を見れば、きっと河童だと思っただろうと思います。 現代の照明器具の明るい光が闇の中へ押しやってしまったもの、それは妖怪たちの存在なのだろうと思います。先日どこかのテレビ番組で人の脳は片頭痛の前に幻覚を見せることがあるという話を聞きました。昔の人の見た妖怪やなにやらもそういうものに含まれるのかもしれません。現代のUFOなどももしかしたら、そういう人の脳が見せる幻覚という場合もあるのかもしれません。 夜の闇というと怖いもののように思いますが、私には何だか懐かしいもの野ように感じられてなりません。
2018年10月17日
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沖縄という土地は未だに一度しか言ったことのない場所ですが、霊的にはとても特殊な場所だと思われます。 まぁ本当のところ日本という国に特別でない場所など全くないと言ってもいいのですが、沖縄の島々は海の水脈と地脈が見事に交差している土地で、レイラインとしては特殊な吹きあがり口と言えるポイントなのだと感じます。 第二次世界大戦の沖縄戦があり何万もの人たちの御霊が眠る土地ともなりました。鎮魂の思いは強く残りますが、それもこれだけ霊界に近い場所ならそうなっただろうと言えるのかもしれません。 御嶽という霊地がそこかしこにあり、いまだに「ユタ」という巫女の血がそこかしこに息づいています。妖怪的な霊風のようなものも濃い感じで、そのために時々台風が来て浄化されるシステムが出来上がっているようにも思います。 本来なら琉球王朝が代々と続いて日本の天皇家と同じようにこの地を霊的に守護していくはずだったのですが、本土の人間の「欲」というものがそういう平和な地を壊してしまいました。再度霊的な守護を造ろうとしているようですが、まだまだ時間がかかりそうです。沖縄の人たちは時間がゆっくり流れているようですから。
2018年10月15日
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という言葉掛けは心神喪失になりかかっている人に対するものと決まっているようですが、そこまでいかなくともゆっくりとした微妙な状態で、身体の「氣の枠」のようなものが緩んでしまっていて氣の流れが不安定になっている場合があることを先日お客様の身体を視て知りました。 ちょっと想定外な気候の変化というか猛暑から一気に秋に移行してしまったことによって心身が付いていけなくて氣の枠が外れ、経絡それぞれが弱ってしまって症状としては「蕁麻疹」がでてしまうという形になったようでした。 気をしっかり持つというのは気持ちの「張り」というか、自己認識を強く確認することが必要なようです。自分の現在の精神状態や肉体の状態をしっかりと見極めるということをすることだと考えます。 はっきりとした心神喪失ならば周りが気づきますが、緩やかに自分が分からなくなっているような状態というのは周りも自分自身もなかなか気づかないものです。 それは自分自身の身体に原因の分からない不調という形で現れることがあるようです。 異常な気候の推移というのは人の心身に緩やかな衝撃というものを与えます。それから精神と肉体を守るためにも時々しっかりと自己認識をリセットすることが大切かもしれません。
2018年10月13日
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当院のお客様にマレーシアとのハーフのお客様がおられます。とても優秀な方で法律等の知識は弁護士さん並みに持っておられます。 時々母国というかマレーシアやフィリピンなどに行かれるのですが、最近はフィリピンの大学の方で日本関連の特任臨時准教授のような形で働いておられたりします。 彼が帰国して当院で氣視させていただくと島の神様の祝福をもらっていることがよくあります。やはり血の縁というものなのでしょうか、日本でおられるよりも祝福の度合いが強くて、あちらにおられる限りラッキーな状態が続く感じがします。 彼の性格はこだわりが結構強い感じなのですが、神様にも同じように「血縁」のようなものを好む部分があるのかもしれません。彼も彼の地で土地の神様に愛されて幸せそうに思えます。血縁につながる土地というのは人にとってとても大切なものなのだろうなぁと思います。 そういう意味では東北大震災によって生まれた土地を離れなくてはならなかった人たちの魂の悲痛というものは並大抵のものではなかっただろうと思います。原発の持つ罪業というものはとても大きく重いものだなと感じます。
2018年10月11日
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「氣」というものの扱いはとても難しいです。私はスクールをしていますが、「氣」については完璧に教えられる自信など全くありません。 私自身が氣を扱えるようになったのは、全くの偶然によるもののようなものです。それまでの技法に飽き足らず、動禅指圧を永井先生に習い、その過程で手を無にすることを学び、次にタオ指圧を遠藤先生に習い、その過程で心のコントロールや経絡に心の手で触れることを学び、そういう段階をゆっくりと過ごしていくうちにいつの間にか「氣」に触れることができるようになっていきました。 それは求めて得るものではなくて、自然と身に着いたものなのです。何かに導かれたのかなと後になっては思いますが、その時には「氣」というものに自分が手が届くなどとは夢にも思っていなかったことでした。自分で言うのは恥ずかしいのですが、真摯にお客様の身体を癒したいと思い続けていくうちにそこにたどり着いたというのが本当の所です。 外気功という氣を発して人の身体を癒す技法があります。これは体質的に「氣」を外に発することができる人でなくては扱えないと私は考えています。またこの外気功というものは生命力の消費と人格の僅かですが破壊というものが伴うので、よっぽど武術などで心と身体を鍛えた人でないと身体も心も壊していくのではないかと私は考えています。高圧の放水銃を扱う消防士のような体力と精神力と技術が必要なことだと考えています。 氣の経絡指圧では自己の精神のコントロールがとても難しいです。遠藤先生は突き詰めて行ってついには僧侶としての修行生活に入ってしまわれて指導の道から外れてしまわれました。今は奥様とお弟子さんたちが指導されているようです。 私自身も氣を扱うには心に空を造ったり、金銭欲や名誉欲などといったものを排除することは当たり前で「治したい」という欲さえも排除していくように努めている毎日です。 氣は自然と一体になる道つまりタオを常に指し示しているものです。人から教わるものではなくて自ら導かれて届くもののように思います。
2018年10月09日
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二度目の台風接近でした。随分と離れていたので影響は少ないかなと思っていたのですが、やはり台風の進行方向の右側というのは風が強かったです。 24号よりも強風が吹き荒れて我が家のビルも少し揺れていたように思えます。 荒ぶる風神。地球の「浄化」というシステムが徐々に作動しつつあるように思えます。浄化される存在にはなりたくないのですが、人の存在というものがもう少し霊格的に上がらないと地球には認めてもらえないように思います。そういうことに人が気づかないと駄目なのですが、自分が何者よりも賢いと思い込んでいる人がまだまだ数多くいることで種としての進化はまだかかるような気がします。 異常気象というものに地球の意思というものを感じられるか否か、そういう部分における人の感性の進化が待たれます。こんなことを言っているのは私だけなのかもしれません。いやいやきっと他にも数多くおられるように思います。でもそういう人たちというのは目立つことを嫌うからわからないのかもしれません。
2018年10月07日
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霊界からのメッセージが大げさに伝わってくることは以前にも書いたと思います。 何故これほど大げさな形で伝わってくるのか?寓意性という問題なのか?これまでの霊界と現世との関係性が歴史的に歪なのか?よくわかりません。 こういう事のために審神者という仲介者が巫女と依頼者の間に立っていたのかもしれません。霊界が力を及ぼす範囲は「縁」というものに関わる部分が強かったりします。そして「縁」というものはとてもあいまいな形で存在することが多いものです。そういうこともこの大げさな内容に寄与しているのかもしれません。 お客様にメッセージを伝える際にそのままではなくて、私自身がかみ砕いて伝えることも多々あるというものです。全て私自身の心の中の出来事だから独り芝居をやっているようなもののように感じることもあります。 あいまいなもの、はっきりとしない内容、そこには大切なものはほんの少ししか含まれていないのかもしれません。
2018年10月05日
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私の指圧の先生が亡くなられました。まだ70歳代です。本当に優しい先生でした。 初めて先生の下を訪れたのは今から10年以上も前のことです。先生は東京の吉祥寺に指圧スクールを開業されておられました。お電話で予約させていただいて深夜の高速バスで東京に着いて、開講されるまでの時間をドトールコーヒーでつぶしてお伺いしたことを今でも昨日のことのように思い出します。 それほど高額でもない受講料でまる一日丁寧に指導してくださいました。それから二月に一度ほど二年間くらい続けて通わせていただきました。私自身も整体院を営業しながらですが、高速バスで通い続けたわけです。先生は新しく開発した技術もすぐに教えてくださいました。今日の私の指圧の技術の基本は全て先生から学んだものになります。 先生は日本のヨガの草分けである沖ヨガの創始者の下で治療部門のトップとして働いておられた経歴の方で本も何冊か出しておられます。先生は実践主義の方でした。理論よりも実利というか身体によい施術法を常に模索されていた方だったように思います。 私のように様々な技術を応用していくのではなくて、あくまでオリジナルの技法にこだわっておられる方でした。私は晩年の先生の技法は少し自らの命を削る部分がある技法ではないかと危惧していた部分があります。求道心の強い方だったので、行きつくところまで行きついてしまっていたのではないかと思われます。命を削り亡くなられたのではないかと残念な気持ちでいっぱいです。 優しいけれどとても頑固な先生でした。ご冥福をお祈りしています。
2018年10月03日
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元々楽天的な性格なので、落ち込むということはあまりないほうです。 何か辛いことや困難な場面に出くわしても「どうにかなる」と思ってしまいます。どうにかならないときはどうやったってどうにもならないのだから、そういうときはじっと我慢をして待つか、視点を変えてみて別方向から進んでみるかです。 生きていて体と心が動く間は道は常に目の前に開けています。歩き出せばどんなに遠い目標も必ずたどり着くはずです。それは登山が好きで白山によく登っていたときに感じたことなのかもしれません。苦しくても楽しい登山というものはいろんなことを教えてくれるものでした。椎間板ヘルニアを患ってから登山はあきらめてしまいましたが、そこで知ったどうにかなるの精神は今も私を支えてくれているように思います。 「希望」というものは作り出すものでも、そこに元々あるものでもないように思います。人のそばに光があって影があるように、気づかないうちにそばを一緒に歩いているものが「希望」というもののように思います。気づくことが大事。希望は必ずそばを一緒に歩いています。 だからいつでもどこでも「どうにかなる」と思えるのだろうと思います。
2018年10月01日
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