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あと二日です。今年は年初めから親しい身内が亡くなったり、色々とあった年でした。来年は何事も無い一年になってくれたらと願っています。 それでも良いことも悪いことも必ず色々とやってくるのだろうなぁとは覚悟しています。日々精進して欲をかかずに人様のお役に少しでも立つように少しずつ努力をしていこうと思っています。 皆様本年もいろいろとありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。皆様にとって来年が本当に良き年となられるように祈願しております。 新年は四日より営業しています。ただ今の時点で10日まで予約がいっぱいになっております。ありがたいことです。ご了承ください。
2018年12月30日
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当院の施療は基本的に「氣むが身体の中をスムーズに通るようにすることです。氣の流れは一部分で滞っていたり、逆方向に流れていたり、一番多いのが上半身にほとんどの氣が集中してしまっていたりする形でしょうか。 お客様はそんなことはわからないかもしれませんが、氣が流れるようになると気持ち良かったり、例えば大腸とかがグルルと動いたり、急に睡魔が襲ったり、咳が急に出始めたりするようです。お客様の中には「何か身体の中をすーーっと何かが通った気がする」とおっしゃる方もおられます。長い間滞っていた氣が一気に通ったりするとそういう実感があるのかもしれません。 氣が流れれば血流も流れますし、体液の循環も良くなります。何よりも心のしこりのようなものが少しだけ溶けるかもしれません。私はそんなことを願って施療を続けています。 氣がスムーズに流れているとまず素直に何でも感じられるようになるようです。そうすると周りの運気のようなものが自分の心の中とシンクロしやすくなるようです。ちょっとだけ生きやすくなるかもしれません。身体の中の氣の流れは世間の中を、自然の中を流れている氣と基本的にシンクロしているものなのだろうと私は考えています。 自分と外との繋がりは実は「氣」というものが基本になって出来ているのだと私は考えているのです。
2018年12月28日
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もう今年もあと数日というところで何だか重いテーマですね。 「死」とは何か?人に必ず訪れるもの。究極の別れ。別次元への転移。様々な思想がありますが、それが在ることは確実なのに、その本質は誰にもわからないというものでもあります。 私が今、感じている、考えている「死」とは肉体を失って「氣」というもののみになった生命の塊が「生命流の大河」とも思われるものに還元されるということが「死」というものの本質かなと思っています。 「氣」という元素に戻った時に人の魂に限定するなら、それは多元的な存在となります。時間と空間を超越した存在になるとも言えるかもしれません。目に見えなくなるだけで大気の中にも宇宙の中にも遍く存在しているものになるのだろうと思います。人の為や他者のために尽くした魂というのは氣の密度というか性質が純度が高まります。そういう氣は塊になることも可能で、ある意味「使命」というものを持つことができるようになります。ただ漠然と生きて来たり、自らの欲にのみ忠実に生きたり、他者に迷惑をかけ続けたような魂は「生命流の大河」に全て還元されて元素に戻されることになります。 「死」というのは本質が変わることではなくて、役目が変わることに過ぎないと私は考えています。現世での役目を終えて、氣の塊のような存在となって別の役目を果たしていくことになるのだろうと思います。 人というのが目に見えているだけの存在なのかどうか。人の「生きる」という行為の本質とは何なのか?それを考えることが「死」という転換点までの人の役目の一つなのかもしれません。
2018年12月26日
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ある女性のお客様のご相談を受けるために施療しながら氣視させていただいておりました。 事前に言っていただいていた通りに身体の方はそれほど不都合な個所はないようで、ご相談のほとんどはご家族のことだったり、精神不安のことだったり、お仕事場の人間関係だったりのようです。 ただ氣視させていただいていて気になったのが、ご先祖霊のお姿が何だか視えづらいことでした。何だか白い霧の向こうに視えなくなっているような感じで・・・・これはもしかしたらご自宅にお仏壇とかが無いのかなと感じました。 施療後ご相談についてお話ししながらお聞きしてみるとやはりお家にお仏壇が無いとのこと。少し前まではご実家で暮らしておられたそうで、そちらにはもちろんあったそうなのですが、今は簡単な神棚が置いてあるだけで他にはそういう類のものは無いということです。 霊的なお話をすればお仏壇というのは霊界アンテナのようなもの。それがあることで霊界からの繋がりがつながりやすくなります。ご先祖様たちがいつでも見たり聞いたりそばに来たりしやすくなります。現世の方にするとお仏壇のお世話をすることによって潜在意識的に精神安定につながったり、生活に小さな張り合いが作れたりします。お仏壇はどんなに小さくても簡素なものでも構わないのです。仏様に手を合わすときに生まれる目に見えない方達への感謝の思いというのが人にとってどれだけ大事かということです。 荒れて反抗的だった一人暮らしの息子さんがお仏壇を買って差し上げて、これを守って行きなさいと告げたところ生活が安定してとても親孝行な息子さんに変わって行ったという実例があります。息子さんは自分が親や祖父母やご先祖様に守ってもらっているとお仏壇を感じることで実感したのだと思います。 不必要なアイテムと思われがちなお仏壇ですが、意外と大切な霊的アイテムなのだと思っていただけると嬉しいです。仏具メーカーさんから一切何もいただいてはいません(笑)。
2018年12月24日
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空を見ると気が晴れます。曇っていても晴れていても雨が降っていても空を見ると気持ちが何だか大きくなって心の中のわだかまりのようなものが無くなっていくような気がします。 金沢の犀川という川の下流のあたりから上流の方の空を見ると、緩やかに南北に広がる山並みが空の下に見えて、これも心を穏やかにしてくれます。 どこへ遊びに行っても空を見上げることはよくあります。地方によって空の感じがちょっと違っていたりするのが面白いです。きっと海外などに行けば、その国によって空の雰囲気も違って見えるのだろうなぁと思います。 北陸の空は子供のころ常にどんよりと厚い雲に覆われていて憂鬱なものでした。それでもそんな空をいつも見上げていたような気がします。きっとあの雲の上には綺麗な青空が広がっているに違いないと思って見ていたような気がします。 いつも見上げている空、きっともうすぐ白いものがたくさん降ってくるような気がします。
2018年12月22日
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前回のブログとも関連しているのですが、霊的な世界というのは基本的に人とは関わらない存在だと感じています。 霊能者と言われている方達が不思議な能力を発揮して現世の方にいろんなことをアドバイスされていますが、これは何というか霊界の雑音のようなものを生きている人が勝手に解釈して伝えているだけのように思います。使われている心霊体は動物霊や眷属の類であって、神仏の本体ではないように思います。 何故ならそこに「現世の欲」というものが介在しているから。 私が言うのは本当におこがましいし、恥ずかしいことのように思います。常識的な方達は無視していただいて構いません。 ただ本当の神仏や霊界のメッセージというのはただ前向きで愛情にあふれていて、日の光を浴びてほっこりしているだけの単純な形のものがほとんどのように思います。命を頂いてそこで生きているのなら、全てのものに感謝して感謝して真っ当な道を一歩ずつしっかりと歩んでいきなさい。それだけ。それだけしか霊的な存在は望んでいません。 それ以外のごちゃごちゃしたメッセージはこちら側の世界の良識やら何やらを含まされた二次的な意見にすぎないように思います。 霊的なものの値段というのは「愛」だけなんです。そこに金銭は存在せず、現世の思惑も存在はしていません。霊能者という職業は本当は成り立たないように思いますが、霊的な方達は優しいから許してくださっているんでしょうね。 私の本質は審神者だと考えています。巫女さんをサポートする立場です。だから霊能者には厳しいのかもしれません。
2018年12月20日
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基本的に神様というものは神社などの専用に窓口以外では人と関わることはありません。 それは神様というものの存在がそういうものなのだということだと考えています。当院のお客様で在る方がある霊能者の方に持っておられる土地建物に龍神様が封じられていて、それが困った状態だから解放したのだけれど、これからは貴女に就きますと言われたそうです。 その土地建物の地下に水脈があるのは私も氣視で判っていたのですが、神様が個人の人に就いて行くというのはありえないなぁと思いました。守護神としてご縁を頂いているということはありますが、これは関わっているということではありません。縁でつながっているだけであって干渉することはないのです。 例えとしては変かもしれませんが、それは一国の大統領が一人の人の個人的な悩み事を解決して廻ることなど無いのと似ているかもしれません。人は大統領に「こうしてください。」とお願いをするかもしれませんが、それが全て叶えられるなどとは思わないと思います。 神様は人の大統領などよりもはるかに偉大な存在です。仏様は人に寄り添い心の中に存在するものですが、神様は決して人と交わることは無い完全な意思疎通など望めない存在なのだと思います。 神様が貴女に就いておられます。それはご縁を頂いているということなのであって、個人として常に気にかけてもらえているというわけではないと思ったほうが良いと思います。神様とは自然そのもののエッセンスとでも思っていただいた方が良いと思います。
2018年12月18日
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子供のころ、冬になると雪を使ってかまくらを作ることに没頭した時期がありました。 子供というのは秘密基地を欲しがるものですが、雪を使った基地というわけです。男の子というのはそういうものがとても好きで作りたがる時期というのを必ず通るもので、幸いにも北陸は雪という材料には事欠かない土地でした。 しかし実は北陸の雪というのはかまくらに向いていないということがあります。子供にはわかりませんでした。それは水分を多く含んだ雪というのはかまくらを造ろうとしても、その自重が重くなりすぎてすぐに倒壊してしまうというものでした。 だから作っても必ず途中で壊れてしまいます。重すぎるというのもありますが、水分が多いために固まりにくい部分もあって雪同士が滑って崩れるという原因もあったのかもしれません。かまくらが作られる地方の雪はきっと水分が少なく、固まりやすいものだったのだろうと思います。 子供はそんなことなど全くわからずえっちらおっちら十個くらいは日を空けて作り続けていたような気がします。中には中へ入っているときに崩れて半分生き埋めになりかかった時もあったように記憶しています。体中がべちゃべちゃになった思い出が残っています。 今年の冬はかまくらを造れるほど雪が降るのでしょうか?大人になった私はかまくら無しで・・・と願ったりしています。
2018年12月16日
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50代の男性のお客様が足の裏が痛いと訴えてこられました。一回目の時に、これはわき腹の痛みとつながっていて、そこから胆の経絡の弱りと判断して胆の反射区に処置をして、それで痛みが緩和したので施療終了としました。 それから一週間後にやはりまた痛みがぶり返して、しかも痛む場所が踵付近から足側部に移動したというのでお話を聞いて見ると「整形外科へ行こうと思ったらお休みだったので、その近くの皮膚科のお医者さんに行って話したら これは魚の目ですね、削っておきますね と言われた。」とのこと。 何だかなぁと思ってしまいました。魚の目が一週間くらいで移動するのかな?痛む部位が移動するということから考えても、それが広範囲の魚の目と言うことになるのかな?何だかなぁいい加減だなぁと思いました。 患者さんに掛かりつけのホームドクターのような方はおられないのですか?と聞くとおられるとのこと。けれど足の裏の痛みを内蔵の弱りと結びつけて考えてくれるでしょうか?と聞くと患者さんと私は同時に「それはないでしょうね。」と答えていました。 身体全体を常に細かく触って見ている私達民間療術師は「関連痛」というものを当たり前に在ることと捉えています。身体の内臓がその弱りを「痛み」として身体の表面に出してくるということは当たり前のことと考えています。どこの痛みであってもそこから意外と離れた部位や体の中と関連しているのは間違いないことだと思っています。 ひざの痛みでさえも膝そのものの弱りではなくて仙腸関節の引っ掛かりが原因だったりします。それを治せばひざの痛みが取れたりします。そういうことがお医者様にもわかってもらえたら・・・・お医者様が全身を細かく触って診てくださるようになる・・・・そういうことが実現して行ったらいいのになぁと思います。
2018年12月14日
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書いたブログが消えてしまいました。これは載せてはいけないというメッセージなのでしょうか? 最後の最後まであきらめないで頑張れば道は開けるという内容だったのですが、これが消えてしまうというのはそれでもあきらめずに書いてみますか?という問いかけなのでしょうか? 何十年も書き続けてきましたが、こんな風に消えてしまったのは二回しかないので何だか考えてしまいます。 それは無理に頑張らないで途中で力が入らなくなったら止めてしまってもいいんだよという意味があることなのかもしれません。根性論の時代は終わったと言われていますから、パワハラやら体罰やら体育系の暴力沙汰やら、人が頑張って頑張って結果を出すという行為自体が美しく称賛されるべきものとされた時代が終わりつつあるのかもしれません。 何か一つのことに集中して頑張っていくというのは大切なことかもしれませんが、本当は好きなことを楽しく楽しみながらやっていったら結果として良い力やスキルが身に着いたというほうが良いようにも思います。 自由な発想で、人それぞれの道を気楽に生きて行くほうが人は幸せなのかもしれません。
2018年12月12日
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八日の土曜日に母と倶利伽羅不動尊へ行ってきました。ご縁日ということで多くの参拝客で堂内は溢れていました。厄払いの方が多かったようです。 いつ見ても護摩壇の炎には癒されます。山頂の御堂の中は長い間の護摩のすすで天井が黒く煤けていますが、それがまた味があっていい感じです。開山千三百年という記念の年になるそうですが、千三百年前というのは様々な寺社が開山した年でもあるようで、そのころに日本中に何かが起きていたのかもしれないと思われます。 お賽銭を入れてお参りをし、お線香とお灯明を購入して火をつけて供えてきました。以前は護摩木を買ってお願いすることもよくあったのですが、最近は何だかあまりそういうことはしなくなりました。それは信仰心が減ったというのではなくて、よりお不動さんの身近になったような感覚が出来てきて、お参りするだけで何もかもわかってくださるような感があるからのようです。 この不動尊は石川県と富山県の県境にあるので、富山県の方も数多く来られています。雪が降って道が凍るようになると峠の道が急峻なために来るのが怖くて足が遠のきますが、また春になったら一番に来させていただこうと思っています。ここはとんでもないパワースポットですから。
2018年12月10日
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今朝は冷たい雨が降っています。本当なら雪になるはずなのにそれでも雨です。 南米チリ沖のエルニーニョ現象のせいなのでしょうか。昔の江戸時代あたりの人たちなら「今年の冬はやけに雪が遅いねぇ。」なんて気楽に喜んでいたかもしれません。現代の何でも、遠いところのことが簡単にわかるというのも良いものなのか悪いものなのかよくわかりません。 昔も殺人事件や虐待事件、悲惨な事件というのは全国であったのだろうと思います。けれど昔は今のようにマスコミなどという情報網はなかったので、人はみんな自分の住んでいる狭い地域の中で平和に暮らしていたのだろうと思います。現代は遠いところで起きた悲惨な事件がすぐ隣で起きたかのように目に耳に入ってきます。これが精神的にも肉体的にも良いことなのかどうか甚だ疑問に思います。 知らぬが仏という言葉がありますが、これを良い意味に捉えるか悪い意味に捉えるかなのかもしれません。人は知りすぎる状況というのはある意味回避していったほうが良いのかもしれません。 アマゾンやボルネオの未開地にテレビもラジオも知らないで暮らしている部族民の方達のほうが精神的には私達よりはもっと幸せなのかもしれません。 良いことも悪いことも知りすぎるということの功罪は多々あるように思われてなりません。
2018年12月08日
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何だかなぁと思っていることがあるとすれば「何でも東京編重」かなぁと思います。 政治もマスコミも何でもかんでも東京、東京というのは如何なものかと心の片隅で思っています。日本の人口の一割以上が関東圏に住んでいるわけだから、そこが何もかもの中心になるというのはわからないわけではないですが、そこだけで日本という国が動いているわけではないのになぁとも思います。 北陸の片隅に生まれてから死ぬまでずっと住み続けていくわけですが、自分の目や耳で直に見たり聞いたりする世界が自分の生活圏であるわけで、そこが私にとっては世界の中心であるわけです。 だんだんと東京編重は無くなっていくとは思います。ネット・インフラが充実してくれば地方に居ても生活が成り立つようになっていくだろうとは思います。ドローンなどが性能が上がってくれば地域の生活というものも変化していくかもしれません。 まぁ地方住民のひがみなのだろうとは思いますが、少なくとも東京に住みたいとは地方の人たちは決して思わないでしょうね。若い人たちを除けばですが。家族も言っています、東京はたまに遊びに行く場所ですと。
2018年12月06日
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これは私の好きなSF小説家のフランク・ハーバード氏の「砂の惑星」という作品の中に出てくる文です。 衰退したある貴族の最後の跡取りである主人公が戦闘訓練の中で教え込まれた生き残るための秘訣というやつです。自分の中に湧き上がってくる恐怖という感情をできる限り客観的に見つめなおすことによって心のコントロールを取り戻すためのキーワードのようなものになります。 とても印象深い一言で、私の心の中に深く刻み込まれた一文になりました。恐怖や不安感というのは漠然と心の中に存在するものなので、その存在をくっきりと一つの事象として確認するという心の作業はなかなかできるものではないように思います。しかしこのセンテンスが刻まれたことで、私は自分の心のコントロールが容易になったような気がしています。 本を読んでいるとこういう心に刻み込まれる言葉に数多く出会います。それは心のコントロールの要素にもなり、心を豊かにする要素にもなります。言葉が言霊になっていくのだろうと思います。 人との出会いというものも大切ですが、本との出会いというものも人の人生を豊かにしてくれるものなのだろうと感じています。
2018年12月04日
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滝は本当に好きでちょくちょくいろんな所のものを見に行っています。 私の中のベストはやはり熊野の那智の滝です。これは素晴らしかったです。霊格もとても高い感じで、浄化する力がとても強くておおらかな氣が溢れていました。とても強い霊脈が流れている熊野の地が清浄な状態に保たれているのはあの滝があるお陰だと思っています。 二番目に好きな滝は赤目四十八滝です。これは滝のテーマパークというかレジャーランドというか本当に様々な滝のバリエーションが連続していて、全く飽きることなく見続けながら滝の探索が出来ます。登り道も整備がきちんとされていて登りやすく、ハッとする光景が随所に散りばめられています。暗い渓谷になりがちな連続する滝群がキラキラと輝いて見える場所でした。とても女性的で抜群の性格美人という感じです。 これはあくまで私の個人的な意見で偏見と独断にあふれているものなのですが、決して近寄りたくない滝もあります。それは日光の華厳の滝です。これは滝には珍しく個性が強すぎる滝と言えるかもしれません。つまり私の嫌いな英雄タイプの滝のようです。もちろん今まで近寄ったこともありません。行く機会があっても決して近寄らないと思います。滝が好きなだけにこういう場所には近づきたくありません。食わず嫌いなのかもしれませんが、私の直感に従いたいと思っています。
2018年12月02日
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