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思いっきりページがまたがっちゃって申し訳ありまへん。前回の年表と見比べながらご覧ください。年表青字の部分は『続日本紀』の記述によるものですが、『続日本紀』には書かれてないものの、この年10月5日、太政官符で出家僧や在家の信者が寺や山林で陀羅尼(だらに)を読み壇法を行じることを禁止している。また、『叡山大師伝』によると最澄が山籠りを始めた頃、すでに叡山には修行をしている先住者がいたらしい。前回、5月25日には僧が勝手に民間に交わることを禁止している。高利貸しや共有の地である山林を囲って利益を独占するなどのことはさておき、この頃仏教界に向けてぼんぼこ出される各種の禁令をもって仏教界の堕落と見なすこともできなくはないけど、これはあくまで為政者の論理。「春の寛永寺」で天平の歴バナを書いていた頃は、古代の仏教は国家による管理がされていたということを本などで読んだのでそれをそのまま受け入れていた。が、最近手に入れた『奈良仏教と古代社会』(冨樫進著/東北大学出版会)という(まだ読み途中の)本によると、これまでの奈良仏教ははたとえば「律令仏教VS.反律令仏教」というような、単純な対立構造として描かれる傾向が強かったらしい。しかし、実際には為政者の思惑とは別の純粋な宗教者的立場において、僧と僧、あるいは僧と民間など色々な交わりがあるんだという。まあ、言われてみればそりゃそうだろうな~。て、言われるまであんまり疑問にも思わなかったんだけどそういう「奈良の仏教はなにがなんでも国家仏教」的な視点を外れてみると、案外素直に当時の状況というのも見えてくる気がする。たとえば『日本霊異記』には色んな話が出てくるけど、光仁朝の時代、奈良・大安寺の僧が近江野洲の神社のそばのお堂に住みついてしばらく修行をしていた話などもある。大安寺は十二大寺のひとつなのに、そういう寺の僧でさえ寺から離れたイナカでひとりぽつねんと修行をしていたというのだ。これは、これまで見てきた勅の観点からいうと、届け出をして認められていなければNGだろう。けど、それはあくまで僧を管理したい朝廷の勝手な思惑で、僧侶の立場からいえばそんなの知ったこっちゃない。修行に適した地で修行し、仏の救いを求める民衆に仏法を伝えてどこが悪いのか。『日本霊異記』のエピソードが仮にフィクションであったとしても、私度僧の他にも本寺から離れて修行したり、時には民衆に仏の教えを説いたりする官僧は実際にいたのだろうと思う。当時の仏教は国家が管理し、国家に奉仕する面が強かったのは事実だろうけど、それ以外に宗教者として純粋に信仰をまっとうしようした僧も確実におり、そういう二重構造であったであろうということを改めて押さえる必要があると思いました。『日本霊異記』にもうひとつ興味深い記事があるので、ついでにご紹介しましょう。これはいくつかのファクターを含んでいるので、わたくしにはなかなか都合のいい記事でもあります。前回、6月20日に北家の藤原家依(いえより)が死んでますね。家依は、光仁天皇の信任篤く道鏡&称徳天皇を追い落とした(可能性のある)藤原永手の子です。 『日本霊異記』下第36 延暦元年(782)のころ、家依が夢を見た。 「見知らぬ兵が30人ばかり、父上を連れに来る夢を見ました。 これは絶対悪い兆しですよ~!仏に祈祷して災厄を祓った方が・・・」 と家依は永手に勧めたが、永手は聞き流し、その後死んだ。 その頃、家依は長いこと病気にかかっていた。そこで僧や在俗の修行者たちを呼んで 呪文を唱え身を守らせたが、病が癒えることはなかった。 看病にあたる者の中に1人の禅師がおり、自分の命と家依を引き換えにするので、 本当に仏法に不思議な力があるのならば、家依を助けてくれるよう誓いを立てて 手の上に燃えさかる火を置いて香をたき、仏の周りを呪文を唱えながら歩いて 一心に祈祷した。 と、僧が突然すっ転び、家依に霊が乗り移って言った。 「ワシは永手である。ワシャア生前、法華寺の幢(はたぼこ)を倒させたり、 西大寺の八角の塔を四角にしたり、七重の塔を五重に減らさせたりした。 これらのことが罪となり、ワシャア閻魔大王によって火の柱を抱かされたり 折れ曲がった釘を手に打ち込まれたりした。 そうしているところへ煙が立ち込めてきて、『ナニコレ?』と大王が問うので、 『子の家依が病で苦しんで呪文を唱える僧が手の上でたいている香の煙です』と 答えたところ、閻魔大王はワシを許して追い返された。しかし、ワシの身体は すでになく、霊魂の落ち着くところもないのでこうして宙を漂っているのだ」 すると、今まで食事も摂れなかった家依が突然起き上がって腹が減ったと言って 食事をし、病気も治ってしまった。 幢は仏の利益を招くのによいアイテムだし、塔は仏舎利を収めておく宝庫である。 だから、幢を倒し塔の高さを減らした永手は罪の報いを受けたのだ。 これはこの世の報いはすぐに現れるという最近の話である。 (参考訳文は中田祝夫氏:講談社学術文庫)史実としての永手の死亡年は宝亀2年(771)だから、「延暦元年のころ」とするこの記事は正確性を欠いてます。が、だからと言ってこの記事の何から何までウソっぱちとするのは適切でないと思います。まず、手の上で香をたくという荒行は思わず江戸期の了翁さんを思い浮かべてしまいますが、これまでの勅の中で「呪法をもっていたずらに無知な庶民を惑わすな」といったものは、こういう呪術的なものを含むのでしょう。この話の中では「禅師」がそれを行ったということもポイントです。して、仏的なものに対して数々の無法を行ってきた永手があの世で閻魔様に罰を受けていることで、霊異記の著者・景戒はホントは「ザマミロ」と言いたいのかもしれません。僧侶や寺に対してなにがしかの敵対行為をした者があの世、もしくは生まれ変わってその報いを受けるという話は他にも霊異記に色々あります。根性なしのわたくしは、霊異記の全訳注つきの文庫本を買ったのですが、訳者の中田氏の解説も付いていて、 【(前略)永手は道鏡時代の左大臣で、道鏡の野望を制圧することで功績があったように 見える。しかし、それも仏徒の方面から見れば、僧の道鏡を追放し、挫折させたことには 強い不満が感じられたらしい。 また西大寺の仏塔の規模を縮小したことも仏教弾圧に連なったものと受け取られた。 僧景戒が、藤原永手に対して好意を示さず、これを非難しているのは、そのような 仏教徒の側面よりする批判感情と、無関係ではないと思われる。】とある。ここでは、実際に永手が寺や僧に対してどういう弾圧行為をしたのかは問題ではありません。大事なのはそこじゃなくて、「仏敵」に類する者に対して当時の現役僧がどう思っていたか、ということです。特に、道鏡に関する解説は目を引きますね。そもそも道鏡に関する史料というのはかなり少ないらしいのに、ほとんど道鏡のことを知らないだろうという人までもが当たり前のように「悪の権化」的扱いをするのが現代のもっぱらの風潮。しかし、同時代の仏教界では必ずしもそういう見方をしていなかったという可能性がうかがわれます。まあ、これは「因果応報を信じきっていた」景戒(前々回参照)ならではの見方で、当時にあっても少数派だったかもしれないけど、「そういう人もいた」と言うことはできるでしょう。仏道修行という観点から見れば、俗世間の最たるものである政治に僧が関わることは確かによろしくない・・・が、見方を変えれば僧が政治の実権を握ることはすなわち仏法によって国を治めるということでもあるから、仏教界としては案外法王の誕生を喜ぶ一面もあったかもしれないな・・・なんて想像もしてみました。だいたい、道鏡が政界に躍り出た時期はまだ良弁さんは生きている。道鏡は良弁さんからサンスクリットを習い、良弁さんと鑑真(←ガイジン)の会話を理解できたというエピソードもある。つまり良弁さんと道鏡は面識があった(と思われる)訳で、良弁さんは出世していく道鏡をどう思っていたのだろうと思うんだけど、あるいは良弁さんも柔軟な思考で道鏡の活動を「是」としていたかもしれないなって個人的には思うんだけどね~。ただし、僧だって人間だし、道鏡の政策が自分の寺の既得権を犯すものだったとしたら猛反発をくらう可能性も充分にあるけどね。ちなみに道鏡さんも山での厳しい修行をしてそれが認められ、称徳天皇の看病禅師になったという経緯があります。「禅師」、これ覚えておいてね国家による仏教の管理は、権威づけと経済的支援という重要な要素もあった。が、その一方であれこれ規制が加えられ、修行や活動がやりにくくなった一面もあったろうと思う。景戒のような考え方をする僧が多くいたとしたら、朝廷の保護は「大きなお世話」であり、「あれはダメよ!これもダメ!だ~か~ら~、これやるなって言ってるでしょ~!!」って口うるさい母親のようなけむたい存在だったかもしれない。『若き日の最澄とその時代』では長岡京への遷都について、 【政治の中枢部が平城京から消えてなくなり、貴族・官人もあいついで旧都から 新しい都へ去っていってしまうという状況のなかで、それまで国家の保護のもとに、 のほほんとしていた平城京の諸寺院とそれに所属する僧だけが取り残されて しまったのである。旧都の僧侶たちは、ただ呆然として遷都のあわただしさを 眺めるほかなかった。 宝亀11年(780)正月に焼失した新薬師寺の西塔ほか数寺の再建も儘ならない時、 遷都という大がかりな引っ越しが、降って湧いたのである。古き良き都は、いまや 廃墟と化しつつあった。なかで、いままで国家の権力を背後にうごめいていた 僧侶たちは、旧都に取り残されて、ほとんど茫然自失の状態にあったであろう。】と解説する。確かにパトロンが遠く離れてしまうことは痛手だろうとは思う。ただ、山に入ったり、個別に独自の修行をする僧たちも多くいた中で、ホントに南都の寺は権力にべったり寄り添ってのほほんとしていただろうか。長岡京への寺院移転禁止というのは私の手持ちの資料では見つけられないけど、遷都の理由のひとつとして南都仏教界から距離を置きたかったというのが通説。でも、実は桓武が南都仏教を捨てたのではなく、仏教界の方で桓武を見捨てたって可能性はないのだろうか。わずかながらも個別の僧の動向を見て、そんな想像もしてみた。にほんブログ村
2014年09月30日

延暦4ね~ん。(大変だから)書きたくねえ~!!歴バナの途中で泣きごと言うのはいつものことです●延暦4年(785)この年、瀬田の近江国分寺が焼失(詳細は不明)。1月14日、長岡京造営の物資運搬のため摂津・三国川の開削工事を行う。1月19日、安房に大きな魚500あまりが漂着する。3月下旬~4月上旬、最澄が東大寺で具足戒受戒。4月6日、最澄の受戒の終わったことの通達「僧綱牒」が近江国司に送られる。4月7日、多賀城から遠く離れた名取以南の14郡から人民を募集し、仮に置いた多賀・階上の2郡に人や兵を集め東西の防御としたが、郡を統括する官人がいないので正規の郡を作って官人を置いてほしいと陸奥按察使・鎮守将軍の大伴家持らが進言。4月30日、皇后宮に赤い雀が現われ、10日ほど遊んでいた。5月、周防で飢饉と疫病。5月3日、桓武の祖父母に尊号を贈る。また、臣下の礼として君主の諱(いみな)を避けるべきであるが、最近ではこれを犯す者が多いので諱に触れる名を避けるよう通達。5月19日、先の赤い雀を調べたところ瑞鳥だとわかったので、大赦。また、山背国には初めて皇都が置かれたので今年の田租は免除とし、遷都の際に土地を接収された者に対してはすべて京に戸籍がある者と同様の扱いとする。5月24日、遠江国からの調・庸は質が悪く使用できなかった。近年では他の国からの貢進物も粗悪品が多いので、今後同じことがあれば担当の国司を解任、またその国の郡司も解任し系譜を断絶せよ、という勅を出す。5月25日、出家した人は仏道を修行するのが本来の勤めであるのに、最近では多くの僧が仏法に背き、勝手に檀越を定めて民間に出入りしたり、仏の霊験といつわって愚かな民を欺き誤らせたりしている。これは僧が教えや戒律を守らないというだけの問題ではなく、管轄の役人の取り締まりが甘いせいでもある。今後このようなことがあれば、その者は畿外へ去らせ、官の認可を受けた寺にとどまらせるようにという勅を出す。5月26日、畿内5ヶ国で雨乞い。5月27日、地震。6月、出羽と丹波で不作による飢饉。6月18日、藤原是公(南家)らは百官を率いて、赤い雀などの瑞兆に対して祝いの上奏文を奉る。6月20日、藤原家依(北家)が死去。7~8月頃、遠江・下総・常陸・能登などで大風。のち飢饉が起こる。7月上旬、最澄、叡山へ登り山林修行に入る。7月17日、淡海三船死去。7月20日、勅。「仏の教えはまことに深遠で、天下が安寧であるのはその教えの霊妙な力によるものだろう。そして、仏の道を伝えるのは僧侶である。僧尼で徳があり修行に励んでいる者を表彰して世に知らしめることは、仏道を広めることにもなる。よって、担当の役所でひたすら修行に励み法灯を伝えている僧を選んで詳しく報告させるようにせよ。」(by 桓武天皇)その他、長岡京の造営にあたる人夫に賃金を払うこととし、諸国の人民31万4千人を雇い入れることとした。7月24日、正税とは水害や旱魃への備えであるのに、国司の中には正税を横領する者が多い。今後はこれを厳しく禁じ、国司同士でも互いに検察するように。国司に郡司が同調して見逃した場合は、国司と同罪とする。7月28日、土佐から送られた時期外れの調が粗悪であったので、国司の目(さかん)以上を解任する。8月24日、平城京にいた桓武天皇の第2皇女・朝原内親王が伊勢の斎王としていよいよ伊勢に出立することになったので、それに立ち会うため天皇が平城京へ行幸。8月28日、大伴家持死去。9月、河内で洪水。9月3日、地震。9月7日、斎王・朝原内親王が伊勢へ出立。百官が伊賀との国境まで付き添って見送った。9月8日、天皇が水雄岡(みずのおのおか:現・京都市左京区)で遊猟。9月23日、夜、工事現場の見回り中に藤原種継が射られる。9月24日、種継死亡。享年48歳。天皇が還御。大伴継人・大伴竹良ら数十人を捕らえて取り調べたところ、種継暗殺を認めたのでそれぞれを法によって裁き、斬首や配流とした。天皇は種継の死を悼み、正一位・左大臣を贈った。天皇は犯人の捜索を命じ、大伴竹良・伯耆桴麿・牡鹿木積麿が捕らえられた。天皇は右大弁・石川名足らに取り調べるよう命じ、桴麿が自白した。『大伴真麿、大伴夫子、佐伯高成、及び大伴竹良らが謀り、自分と木積麿を遣わして種継を襲いました』大伴継人・佐伯高成らも自白。『大伴家持が大伴佐伯両氏で種継を除こうと言ったので、それを皇太子にお伝えし事を起こしました』残る関係者を厳しく尋問したところ、全員が罪を認めた。主犯の大伴継人、佐伯高成、大伴真麿、大伴竹良、大伴湊麿、多治比浜人を斬首。種継暗殺実行犯の伯耆桴麿、牡鹿木積麿は種継の棺の前で自白・懺悔をさせてから、山埼の南の河原で斬首。また五百枝王、藤原雄依(北家)も連座していた。五百枝王は本来死罪のところを伊予へ流罪。藤原雄依及び紀白麿、大伴永主(家持の子)らは隠岐へ流罪。林忌寸稲麿は伊豆へ流罪。他の者も罪の重さに従って流罪に処した。大伴家持(故人)はまだ埋葬されていなかったが、官位剥奪。9月28日、天皇は事件のあらましを発表。皇太子・早良親王も事件に関与していたと公表。早良親王は内裏から春宮に帰り、夜8時頃乙訓寺へ移され幽閉された。以後、早良親王は自ら食を断つ。10月4日、班田収授のため、畿内5ヶ国で水田を検分させる。10月8日、天智天皇・聖武天皇・光仁天皇の各山陵に使者を遣わし、早良親王を廃太子としたことを報告。この頃、石川垣守らを派遣して早良親王を船で淡路へ移送させる。10月15日頃、護送途中、淀川にかかる高瀬橋のほとりに差し掛かった頃には早良親王の息が絶えていた。遺骸はそのまま淡路へと移送し、淡路で埋葬。10月27日、河内の堤防の30ヵ所が決壊。30万7千人あまりに食料を支給し修築にあたらせる。11月8日、三国広見が謀反を偽って告げた罪で斬罪となるべきところ、佐渡への配流となる。11月10日、以前から祈ってきたことの礼として、交野(現・枚方市)で天の神を祀る。11月25日、桓武天皇の子・安殿(あて)親王を皇太子とし、あわせて大赦を行う。ふ~っ・・・通しで書いた方が流れがつかみやすいと思ったので、年末まで書き出しました。早良親王は有名なので、この年を今か今かと待っていた方も多いんじゃないでしょうか(笑)。ま、まずは最澄の方からいきますかね。 この春、東大寺の戒壇においてめでたく受戒。これによって正式な官僧となります。前年の終わりに桓武が長岡京に引っ越しているので、首都移転で取り残された奈良の元・都において受戒した訳です。 【当時、東大寺戒壇院で受戒を許される僧は年間10人前後であり、最澄は国家仏教の 超エリートとして将来の出世が約束されていた。】 (『あなたの知らない最澄と天台宗』より)ところが、官僧としての最終ステップをクリアして前途洋洋たる青年僧・最澄が選んだ道は、山籠りだった。入山の正確な日付はわかっていないものの、『水鏡』では 【サテ同4年7月中ノ10日比ニ、伝教大師比叡山ニ昇テ住給キ、是ハ大和国大安寺ヨリ 御登アリシニ、御年19ニゾ成給シ。】 (漢数字は戦国ジジイが変換)ということで7月10日頃に叡山に入ったと伝える。『若き日の最澄とその時代』で佐伯氏は受戒の前に大安寺で修行を続けたとし、受戒の後は国分寺には入らずそのまま叡山へ向かったとしているので、この辺の記事を基にしているのかもしれない。大安寺からそのまま山籠りに入ったということは、受戒の前にも大安寺を奈良での拠点としていた可能性は充分にある。大安寺は師の行表が籍を置く寺でもあるんだし。瀬田の国分寺の火事の時期は延暦4年ということしかわからないけど、のち弘仁11年(820)に国昌寺が近江国分寺となる。国昌寺は最澄の実家・三津首氏が住んでいた古市郷にあった寺で、最澄の受戒から約20年後の文献に「国昌寺の僧最澄」という記述があることから 【おそらく、その(山籠りの)さいに僧籍を最澄の本貫の地、滋賀郡古市郷にあった 国昌寺に移したのであろう。それは同寺が国分寺の代行寺院としての役割を果たして いたことによるのであろう。】 (『若き日の最澄とその時代』より。カッコ内は戦国ジジイが追加)と佐伯氏は語る。まあ、世情がわさわさする中で最澄にも思うところはあったんでしょうけど、それにしたって宝亀10年(779)には国分寺の僧は原則自分の寺に帰るようにとされているし、この年の5月には官僧が勝手に民間と交わるなとも言われているのに、これからって時になんでまた急に山ごもりなんて始めたのか・・・具足戒を受けた僧が超エリートなら、国分寺僧は特別国家公務員とでも言うのかな。宝亀10年の勅では、本人が希望するなら京での仮住まいも認めるとしているので多少は自由行動の余地も残されてはいるものの、そもそも欠員補充のために得度・受戒した新人が寺に入るかわりに山に入るってどうなの・・・これはやはり師であり上司でもある行表の理解があってこそだろうと思われます。最澄の生きた時代を細かく見る前は、なぜ突然山に入ったのか?と大変疑問に思いましたが、道鏡の時代に禁止された山林での読経が、宝亀元年(770)に撤回されている事を知ってからは、そこはあまり重要な疑問ではなくなりました。なぜって、最澄が生まれた頃から山籠りが流行ってたってことで、仏教界のお偉方にも山林修行は意義のあるものって見なされてたってことでしょ。だから、最澄一人がキヨラカな世界を目指して孤独に山籠りを始めた訳ではなく、あくまで「山に入った大勢の中の1人」だったんですよ。もちろん、そのまま埋もれてしまわなかったのが彼の非凡なところだけど、その後の華々しい活躍も一面ではやはり「その時代だったから」という気もするんだな。にほんブログ村
2014年09月29日

え~、有名な外国人俳優の名前の数よりも藤原一族の名前の方をよっぽど多く知っているだろうという、およそ現代人らしからぬ生活をしている戦国ジジイでございます。(ツイッターのフォロワーさんは今朝のついーとも見てね)ところで、木曽の御嶽山噴火のニュースは驚きました。高山ではもう紅葉も始まってるし、秋晴れの週末とくれば全山ではかなりの登山者が入山してたものと思われます。まあ、警戒情報は出されてても入山規制がないのならそりゃ登るよな。登山者の基本知識として、わたくしも山をやってる頃に独学で火山の勉強もしましたが、実際の映像を見てるとやっぱり恐いもんだな~とあらためて思いました。自然災害は仕方のないことですが、早く火山活動が終息してくれることを願うばかりです。さて前回、藤原乙牟漏が皇后に立ってますが、この人光明子に続く2人目の非皇族出身の皇后になるんじゃないかな。式家、優勢です。 それから、前回書くのを忘れてましたが(笑)、2年遅れで最澄に発行された度縁についてもう少し紹介しましょう。度縁の申請をしたのは師の行表。宝亀11年(780)11月12日に「国分金光明寺」で得度したと記載がある。国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」と「春の寛永寺(14)」で紹介してるから、「国分金光明寺」が国分寺のことだとおわかりですね。度縁の発行日の後には近江の大・中・少の国師の署名があり、このうち大国師は行表。その次には近江の役人たちの署名が並ぶ。ただ、署名した国司たちのすべてが現地にいた訳でもないようで、偉い方から順に ・国守:藤原種継(「在京」で不在) ・介(すけ):大伴継人 ・大掾(だいじょう):橘入居(「暇」で休暇中) ・少掾(しょうじょう):津真道(「暇」で休暇中) ・大目(だいさかん):調家主 ・少目(しょうさかん):酒部造(「入部」で出張中) 秦忌寸(「在京」で不在)となり、7人の署名者のうち5人までが不在であったようです。度縁の発行日は1月20日とあるものの、国司たちの官位から近江の役人による署名は1月20日以降4月26日以前のことらしい。ということは、最澄が度縁を手にしたのは5月に入った頃だってことだな。 ●延暦3年(784)5月1日、国師の任期を6年に延ばす。5月7日、午前6時頃、摂津難波のたまり水から2万匹もの黒いガマカエルが300mほど連なって道を行進して四天王寺へ入り、昼頃になって残らず散り散りに去っていった。5月16日、都を移すため重臣などを山背国乙訓郡長岡へ遣わし、土地の検分をさせる。6月10日、藤原種継(式家)以下10人ほどを造長岡宮使に任命。長岡の地で新宮の建設が始まる。6月13日、遷都の報告のために使者を遣わし賀茂大神へ幣帛を捧げる。今年の調・庸や必要な人夫・物資を長岡に進上するよう諸国へ通達。6月23日、諸国の正税68万束を新京での住宅建設費として地位に応じて公卿らへ支給。6月28日、新宮の建設予定地に先住民の住む家の建つ土地が57町あったので、接収の代価として正税4万3千束をもとの持ち主へ与える。7月4日、長岡に造る橋のために阿波・讃岐・伊予から資材を提供させる。9月5日、京に大雨が降り民家が倒壊する。9月12日、藤原魚名の子・末茂(北家)が「ある事で罪とされ」再び左遷される。9月27日、金星が昼間見えた。閏9月10日、河内国茨田(まんだ)郡の堤防が15か所で決壊。6万4千の人夫を動員し修復にあたらせる。10月3日、小豆島で放牧されている官牛が地元民に迷惑をかけているので、牛を長嶋に移して小豆島では農耕をさせるとする勅を出す。10月28日、皇后・乙牟漏の母が死去。10月30日、「近頃、平城京には盗賊が増え放火などもある。役所がきちんと取り締まらないからこーなるんで、今後は令に定めのある通り隣組を作って互いに監視させてよね。プータローやギャンブラーはたとえ出自による特権があってもそれを剥奪し、百叩き!放火・略奪・恐喝などに対しては法にこだわらず死罪!悪徒は捕まえて悪を根絶するよーに!!」(by 桓武天皇)11月1日、「今日は冬至だね。11月の1日が冬至にあたることは滅多になく、王者のめでたいしるしである。朕は不徳ではあるけど、こうしてラッキーな日を迎えることができたので、皆と一緒にお祝いしたいんだ王・公卿以下には物をあげちゃうし、京と畿内の田租は今年は免除しちゃうよ~。あ、めでてえなっ!」(by 桓武天皇)11月3日、人民は国の根本であり、人民の生活の基は農業と養蚕が大切。だが、諸国の国司には不正が多く、人民を苦しめている。今後、国司らは俸給として支給された田以外に水田を営むことは禁止。発見された場合は収穫物と開墾した田を没収の上、解任。国司の不正を知って隠す者も同罪。国司の不正を告発した者には、被告人から没収した田の苗を与える、とする。11月11日、桓武天皇が平城京から長岡京へ遷る。11月17日、皇后・乙牟漏は先だって母が亡くなっており、また桓武の母・高野新笠も平城京へとどまっていた。そこで和気清麻呂らを遣わし、乙牟漏と新笠を長岡京へ迎えさせる。11月20日、遷都のため、上下の賀茂社と松尾・乙訓の両神に位を叙す。11月24、皇后と高野新笠が長岡京に入る。11月28日、上下の賀茂社と松尾社・乙訓社を修理させる。12月6日、畿内と七道諸国で大祓。12月13日、山や川などの未開発地の利用については官民の共有であることが令に規定があるにも関わらず、王臣・役所・寺院などが山林を囲って利益を独占しているので、これを禁ずる。12月29日、住吉の神の位階を上げ、長岡宮の造営に関わった職人・役人らに功労に応じた褒賞を与える。え~、突然の遷都です。桓武がこの後、平安京へ遷都することは誰もが知ってますね。聖武天皇に続く第2の「せんとくん」の誕生です。一時的にせよ確かに長岡の地には都が置かれており、6月23日の勅からもわかるように公卿らにも引っ越しの援助をしているので、単なる「宮」の建設ではなく、本格的な都の造営であり遷都であったハズなのに、短命だったせいか長岡京の一般の知名度はかなり低く、歴史に興味のない方の中には平城京からそのまま平安京へ遷都したと思ってる方もいるんじゃないでしょうか。で5月のガマガエルの行進は怪奇現象かと思いきや、遷都の予兆として挿入されたエピソードのようです。『日本霊異記』(正式名称:日本国現報善悪霊異記)はちょうどこの時代を生きた奈良・薬師寺の僧の景戒(きょうかい)によって書かれた仏教説話集ですが、そこから分析される景戒は【仏教の因果応報を真剣に信じきっていたらしい】(『日本霊異記』中田祝夫訳/講談社学術文庫)であり、本文では因果応報とからめた景戒自身のコメントなども多く見受けられる。その他、「世間や人に変化がある時には、必ずなにがしかの予兆があるものだ」というスタンスにのっとっていくつかのエピソードも紹介されている。延暦3年のガマ田行進曲は、この「予兆」の類にあたります。『水鏡』では2万匹じゃなく3万匹に増えてるけどね(笑)。して5月16日から現地視察、6月10日に着工。桓武が入京したのが11月11日。チョ~早いスケジュールで遷都を敢行しました。「せんとくん」はやるとなったら何がなんでもやるんですただ、イチからすべてを新築した訳ではなく、難波にあった宮が長岡に移築され、保良宮の瓦も出土しているそうです。とは言っても都全体の建設が半年以内に終わるハズもなく、11月には宮「だけ」はできていたってとこじゃないでしょうか。長岡に都を遷した理由については、『続日本紀』では水の利を重視したと繰り返し語られていますが、それだけであわただしく遷都が行われたとも思えず。それに満足できずに多くの人が遷都の真の理由についてあれこれ推測する訳ですが、ウィキペディアでは4つの説が紹介されてます。 1、既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置く 2、新京の周辺地域をおさえる、帰化人勢力との関係 3、父の光仁天皇の代から天智系に皇統が戻った事による人心一新 4、難波津の土砂の堆積によってここを外港としてきた大和国の東西間交通の接点としての 地位を失い(難波津-大和国-鈴鹿関ルートの衰退)、代わって三国川(現在の神崎川) の工事の結果、淀川-山背国-琵琶湖・近江国のルートが成立したこと(長岡遷都と 難波宮廃止が同時に決められている)このうち、一般に一番よく語られるのは1ですね~。ここでもまた悪僧・道鏡の名がよく持ち出されますが、政治にまで深く介入するようになった南都仏教界の影響を脱したかったという風に言われます。長岡京へは寺院の移転を認めなかったとされるのが大きな根拠となっているようです。ただ、井沢元彦氏は『逆説の日本史2』で 【政治再建の実をあげるために寺院勢力が邪魔ならば、寺院の方を移転させれば いいではないか。確かに大仏を移動することは難しいかもしれないが、それにしても 新たに首都を建設するよりは安上がりである。だいたい政治再建とは政治改革であり 財政改革だ。少しでもムダな出費を抑えようとするのが当然ではないか。】ともっともな反撃をしておられる。確かにそうだよな。2については、遷都の地として長岡を勧めた藤原種継の母方(秦氏)の実家が長岡にあったそうなんですね。実際、この年の末には秦忌寸足長が褒賞されてるし。『平城京 街とくらし』(田辺征夫/東京堂出版)によると、【平城京は、都市計画から見ればきわめて計画的な都市】であったらしい。莫大な資本を投下した大仏もあるし、そういう整った初めての首都としての都を捨てるには複合的な理由があったと見るのは当然のことで、わたくしは現時点では3の割合が大きいかなって思っている。ただ、「人心の一新」というより桓武の中での一新じゃないかと思う。この年、延暦3年は甲子革令の年にあたり、天応2年(=延暦元年)には氷上川継をつぶし、天武系の不安要素は排除した。前年、延暦2年には藤原乙牟漏を皇后に立てるなど、しがらみが取れたかな、って思わせる記述もある。桓武が天智系と天武系を分けて考えていたことのひとつの現われが、長岡京への遷都じゃないかと思うのだ。井沢氏は平城京~長岡京~平安京への一連の遷都はひとつながりだから分けて考えるのはおかしいとする。井沢説については、もう少しあとで紹介します。にほんブログ村
2014年09月27日

●天応2年/延暦元年(782)閏1月15日、地震。閏1月18日、謀反を起こした氷上川継の妻の父の藤原浜成(京家)も川継の一味であろう、という推測で参議・侍従を解任。他2名の処分も発表。閏1月19日、大伴家持以下、川継に味方したとされる40名の処分を発表。2月18日、空中で雷のような音がする。2月19日、地震。3月、武蔵・淡路・土佐などで飢饉。3月9日、虹が太陽の周りをめぐる。3月26日、三方(みかた)王とその妻・弓削女王、山上船主が天皇を呪詛したとして死一等を免じ配流。藤原種継(式家)、参議。4月11日、経済が疲弊しているので、宮城と法華寺造営を司る省庁などを廃止し、緊縮財政に取り組むアピールをする。4月13日、宮門に白い狐が現われる。4月16日、畿内で雨乞いの祈祷。4月27日、諸国の兵士はそれぞれ調や庸を免除されているのに、山背にはそれがないので平等にしてくれという嘆願が山背国から出される。5月12日、陸奥ではこの頃兵乱があり、奥郡の民が散り散りになっているので向こう3年間租税を免除とする。5月20日、鹿嶋の神に祈ったところ賊を討ち払うことができたので、鹿嶋神に位階を授けてくれるよう陸奥から奏上がある。6月、和泉で飢饉。6月14日、藤原魚名(北家)は「あることで罪に触れ」、左大臣を罷免。その子達もあわせて左遷され、追い立てられるように出立する。また、地震があった。6月21日、藤原是公(南家)、大納言。6月28日、左遷されて大宰府へ向かっていた藤原魚名が摂津で発病。病が癒えるのを待って再び大宰府を目指すよう指令。7月3日、雷雨。大蔵省の長蔵が落雷で火災。また馬2頭が落雷で死ぬ。7月11日、技術職54人をリストラ。また省庁2つを廃止。7月25日、地震。去年は不作により貧困が深刻化し、今年は疫病による死者が多い。これはひとえに朕の不徳の致すところである、として大赦。7月29日、右大臣以下、参議以上の官人から奏上。「このところ、どーにもヘンな事が多すぎます。そこで亀甲占いと筮竹占いをさせたところ、天下は先帝の服喪のため喪服を着用しており、吉凶が入り混じっている状態です。ゆえに伊勢の大神や諸神がすべて祟りをなしている、とのことでした。このままだと陛下は病気になるでしょう。陛下が子として服喪をまっとうしようとするのは結構なことですが、今病気になると治るのには時間がかかります。どうか、自分1人の小さな孝行を尽くすのではなく、まつりごとを大事にしてください。早い話が、もう喪はやめちゃってくださいよ」これによって、やむなく喪を終わらせることにする。8月1日、すべての官人が喪服を脱ぐ。8月9日、先帝の山陵を改葬するため使者を大和へ遣わす。8月19日、勅。「大陸では天子が位につくと元号を開き、祥瑞があれば年号をあらためるというのに、朕はまだ新しい号を制定していない・・・今、穀物は豊かに実り、数々のめでたいしるしが現われた。よって、延暦に改元ね」(by 桓武天皇)11月13日、虹に似た色の丸い光が太陽を挟む。12月14日、来たる23日は先帝の1周忌にあたるので、諸国の国分寺と国分尼寺で誦経するよう通達を出す。諸国の国司で官稲を横領する者が多いので、厳しく処罰するよう指令。12月23日、光仁太上天皇の1周忌の斎会を大安寺で営む。12月24日、「あ~、1周忌があっとゆー間に終わっちゃったよ・・・本来であれば新年の祝いをするべきだけど、朕の悲しみは深く、親への報恩の思いはますます深い。だから、来年の元日の祝賀の礼はナシね」(by 桓武天皇)祥瑞があったから改元、てホントかよ?ただ、一般的には「白い狐」は吉、とされてるようだけどね。ガンコに服喪を続けながらも、官の出費を抑える政策を打ち出していちおう真面目に仕事してるみたいだけど、不作や飢饉による庶民の困窮は続き、東北は相変わらず疲れ果てている。その一方で、役人の無法は続いている。まっ、それでも延暦の時代の始まりです。●延暦2年(783)1月1日、身分による服の色の制限があるにも関わらず、庶民は禁制の色の服を着て役人もそれを取り締まることもせず、貴賎の区別も上下の秩序もあったもんじゃないので今後は厳しく禁断するよう命じる。1月20日、2年遅れて最澄へ「度縁」が発給される。1月23日、地震。2月5日、3年前に死去した藤原百川(式家)に対し、右大臣を贈る。2月7日、藤原乙牟漏(おとむろ:式家)と藤原吉子(よしこ:南家)を夫人(ぶにん)とする。4月15日、陸奥では役人が坂東8国から送られたモミ米を横領したり、鎮兵を勝手に使って私田を営んでおり、ために鎮兵は疲れ切って戦に堪えられなくなっているので、今後はこのようなことがないよう通達。4月18日、夫人の藤原乙牟漏を皇后とする。4月19日、蝦夷の狼藉によってやむなく軍を催したが、坂東諸国はうち続く徴兵と軍需物資の供給によって疲弊してしまった。この労をねぎらうため、使者を慰問に遣わし、また蔵を開いて手厚く支給するという勅を出す。4月28日、天平13年に聖武天皇が国分寺建立の詔を出した際、国ごとの寺には必ず20人の僧を置くように、国分寺僧にはきちんと修行をして品行の良い者を得度させ、数年間様子を見た上で心映えが変わらないようであればそこで初めて入道を許せとした。「なのに国司らは厳密な試験も行わず、死亡や欠員が出るといい加減に得度させてるっていうじゃない。これからは、国分寺の僧に空きができた時は地元の僧の中から法師とするにふさわしい人物をあてるように。欠員ができたからといって、新たに得度させることは禁止!まず欠員のできた事情を報告し、指示を待つようにせよ。ただ、尼僧についてはこれまで通りでいいよ。」(by 桓武天皇)5月11日、外記(げき:太政官の職階)の仕事は忙しいので位階を上げてやる。流された藤原魚名はまだ病が癒えず途中に留まっているので、京へ呼び戻し親戚に面倒見させるよう指示を出す。6月1日、蝦夷との戦いで疲弊している出羽国に対し、向こう3年間の免税を決定。6月6日、坂東諸国の民は虚弱で軍務に堪えられない者が多いというが、下級役人や浮浪人の中には弓馬に秀で戦にも使える者もあるというのに、そういう者はこれまで対蝦夷戦に徴兵されることがなかった。同じ皇民としてこれでははなはだ不公平なので、使える者を選び出し訓練し、軍人としての装備を準備させるよう指示。また有能な国司1人を専管の管理者として置き、有事があれば軍人たちを率いて現地へ急行するよう手配する。6月10日、私寺の建立はすでに禁止しているものの、役人の甘い処置によりこのままでいけばそのうち寺でない土地はなくなってしまうだろう。今後はこれを厳しく取り締まり、個人で道場を建てるのはダメ、田や土地や家を寄進するのもダメ、土地建物を換金してそれを寺に寄進するのもダメとする。7月19日、藤原是公(南家)、右大臣。7月25日、藤原魚名死去。7月30日、「魚名は祖父や父の代からよく仕え功績もある。功績に報い過去の過ちを赦すことは昔の文献にも書かれている。よって、朕は魚名の罪を忘れ復職させることにする。去る年に魚名の免官について出した詔勅や官符などはすべて焼却するように」(by 桓武天皇)10月6日、宝亀元年以降国内の僧尼を監督する国師の定員をある国では3人、またある国では4人などと増やしてきたがこれを旧例に戻し、大・上国には大国師と小国師をそれぞれ1人、中・下国には国師1人を任じることとする。10月14日、天皇は交野に行幸し鷹狩り。10月16日、山背国交野郡の今年の田租を免除。10月18日、天皇が交野から帰還。11月1日、日食。12月6日、「去る天平勝宝3年には私出挙(利子付きの貸付)を禁止しているのに、まだ懲りずに続ける輩がいる。京内の寺では家を質に取ったり利子を元本に組み入れたりして利潤を求め、上級の僧自ら法を犯し、役人もへつらってそれを見逃している。なんで役人が簡単に法を犯し、出家したはずの僧侶が俗世間と関わりを持とうとするのかなあっ!出挙の利子は、何年経とうと元本の1倍が限度!違反した役人は解任の上、財貨は没収にするからね!!」(by 桓武天皇)蝦夷征伐は先年よりは少し落ち着いてるようであるも、坂東諸国への指示を見るに備えを強化しているようですね。それから、相変わらず役人の無法行為は続き、寺でも狂乱のマネーゲームが繰り広げられていたようです。利子は元本の1倍が限度って、100%まではOKってこと?さてさて、この年初めには2年前に得度した最澄への度縁が発給されてます。ゴタゴタ続きだったからまあそれは仕方ないとしても、重要なのは4月28日の勅。国分寺僧に欠員ができても、補充のためにあらたに得度させることは禁止。必ず地元の現役の僧の中から補充人員を選ぶように、という内容ですが、広野が得度したのは最寂の死による欠員補充のためだったので、あと少し遅く広野が生まれていたらあるいは彼の人生も少し違っていたかもしれません。まあ、得度自体は2年前に済ませていてその証明書の発行が遅れただけだからあまり問題はなかったかもしれないけど、場合によっては度縁の発行は却下され、遡及して得度の取消なんて可能性もあったかもしれない。とりあえずここはギリ間に合いました。して、『若き日の最澄とその時代』の中で佐伯氏は 【おそらく最澄は、延暦2年(783)には、平城京に出かけ、師主である行表の本寺、 大安寺において、東大寺で受戒するための修行に励んでいたに違いない。】とする。桓武天皇の勅がどの程度当時の仏教界の実態を反映してるのかはわからない。『続日本紀』はあくまで朝廷側の言い分だから、これだけを見てると総合的に仏教界が俗世とほとんど変わらないようなことをして腐敗が蔓延してたようにも思えてくるけど、他の文献を見ると心ある僧も大勢いたんじゃないかって気がする。ともかく、この年は寺による超高利貸しの禁止、国師の人員の削減、それから国分寺僧の補充についての通達など、朝廷からの介入が多い年だった。そういう都に、最澄はやって来た。あるいは、こういう時期であったことが最澄の心の中にひとつの方向性を植え付けたかもしれない。ともあれ、最澄の地道な修行はまだしばらく続きます。最澄17歳。にほんブログ村
2014年09月25日

桓武の即位と同時に皇太子となった早良親王は系図の通り同母弟で、生年ははっきりしてないようですが、桓武とは10歳ちょっと離れていたようです。ウィキペディアの桓武天皇のページを見てたらやたら妻子の数が多いので思わず子の数を数えてみたところ、なんと35人・・・最後には「ほか」とあるので、どこぞでおイタをして生まれちゃった子も他にもまだいるのかもしれない。とにかくお盛んな天皇様だったようです。桓武が即位した時は44歳。彼の子で生年のわかってない方も多く、はっきりしたことは言えませんが、桓武の跡を継いだのちの平城天皇は父の即位時点で7歳。艶福家の割にまだ子は小さかったようです。この年の『続日本紀』には簡単なことしか書かれてないけど、早良親王を皇太子に推したのは父の光仁天皇だったとされます。早良親王は10歳ころに仏道に入っており、東大寺や大安寺にいたようですが、東大寺の縁起によると宝亀4年に良弁さんが亡くなった時、良弁さんは死の間際に早良親王に後事を託したと言われます。それが本当なら、良弁さんの後継者ってことになりますね。が、桓武の皇太子に指名されたので還俗。それでも、早良親王が還俗した後も東大寺では大事なことはまず早良親王に相談してから取り決めていたという話もあり、南都の仏教界に大きな影響力を持っていた方のようです。早良親王が皇太子となったのは30歳のころ。政情が不安定な時期でもあり、まだ幼い桓武の子を皇太子とするよりは成人して寺院にも強いパイプを持つ早良親王を立てることを光仁天皇が意図した、という風に一般的には語られます。が・・・・・・・・・●天応2年/延暦元年(782)1月6日、故・光仁太上天皇に諡号を贈る。1月7日、先帝を広岡の山陵に葬る。1月30日、大祓。閏1月10日、氷上川継の謀反が発覚。閏1月11日、川継が逃亡したため、三関を固め京畿内と七道に捕縛の命を出す。閏1月13日、地震。閏1月14日、大和で川継を捕らえる。「本来であれば、川継は死罪だ。また、その母の不破内親王も重罪だ・・・が、まだ父君の喪は始まったばかりで山陵の土も乾いていない・・・哀悼の気持ちで刑を論じる気にもなれないし、川継は死を免じて伊豆に流罪、母と姉妹は淡路へ流罪とする。」(by 桓武天皇)この事件は重要なので、ここで一旦止めます。「氷上川継(かわつぐ)の乱」と呼ばれるこの事件は『続日本紀』によると、まず10日に川継の家臣が武器を帯びて宮中に侵入したところを捕らえられ、尋問したところその夜に川継が一味とともに宮中を襲撃してクーデターを起こすつもりだった、と自白したことによる。事件の真相はわかりません。が、こちらの図をご覧ください↓。 左下に川継がいますが、この人、バリバリの天武系なんですよ。桓武には天武の血は入っていません。光仁天皇の皇后・井上と最初の皇太子・他戸も天武系。天武天皇以降、称徳天皇までは無理な譲位を繰り返しながらずっと天武系が皇位を占めてきました。称徳女帝が急死したあと、天武系にはろくな皇族は残っておらず、協議の結果白壁王・・・のちの光仁天皇に白羽の矢があたり皇位を継いだともされますが、即位直後に吉備真備が突然辞職するなど不審な点も多く、フジワラムシの暗躍があったと見る人が多いと思われます。ぶっちゃけ、フジワラムシにとっちゃ天智系でも天武系でもどっちでもよかったんじゃないかと思うけど、藤原一族の中でも勢力争いがあり、皇位から遠いと思われていた白壁王が地面に落ちたボタモチを拾えたのは藤原永手や百川のバックアップによるところが大きいと思われ、実際、天皇となってからも永手らに対する信任は篤いものがありました。ただ、仮に永手たちが希代の策略家だったとしても、ずっと天武系で来たものを突然飲んだくれの白壁王に皇位を継がせるってのも少々無理があると思う・・・が、彼の妻には聖武天皇の娘・井上内親王がおり、さらに白壁王との間に他戸親王という男子もいた。他戸親王なら女系ではあるけれど天武系の血も入ってるし、次代を待てば天武の血をひく天皇が復活する。白羽の矢にあたったのは白壁王ではなく、他戸親王の方だった可能性がある。ところが、井上母子は追い落とされ、宝亀4年には2人とも不自然な死を遂げる。(「叡山攻め(34)」参照)天武系でもっとも有望だった2人がここで消えた。これが桓武が立太子した年のできごと。前回、天応元年にはこれまた女系で天武系の血をひく薭田(ひえだ)親王が若くして死んだ。光仁天皇の子で天武の血の入った子はこれでいなくなった。そして川継。これは父母とも天武系であり、母は聖武天皇の娘。天武系の存続という視点で言うならば、渡来人の家系の高野新笠と光仁天皇の間に生まれた桓武よりはよっぽどいい血統だという見方もできる。ウィキペディアでは川継を、 【父と母の両方を通じて天武天皇に繋がるその血統は、反政府勢力の期待を集めるとともに、 朝廷側の警戒をも招いていた。】とし、これが実態に近いんじゃないかと思う。ところがその川継は「謀反を企てている」という下っぱの自白で伊豆へ流罪となった。ついでに母である不破内親王や姉妹まで巻き添え食って流された。そして、天武系の候補者は完全に排除された・・・あるいは川継は本当に謀反を計画していたかもしれない。「天武天皇の血をひくあなたこそ、天皇となるべきお方!」そう乗せられて「だよね~」とその気になったかもしれない。が、大逆を犯したのなら喪が明けてから処罰してもよかったんじゃないかとも思うし、それどころか川継は桓武の在位中に赦されて帰京までしているのだ。ちょっと変じゃね?川継の乱では連座して多くの官人が流されたり左遷されたりした。こちら、大ざっぱな藤原氏の系図になります↓。 例によって長幼の順番は無視してますのでご了承ください。不比等の下が藤原四兄弟。四兄弟はそれぞれ家系を立て、同じフジワラムシの中でせめぎ合いが続きます。上の図の中で、川継事件に連座して処分されたのが北家の魚名(うおな)と京家の浜成。浜成はまず山部(桓武)が立太子する際、高野新笠の子である部分に難をつけて薭田親王を推したとされる。して、桓武が即位すると行政能力が低いとして降格。ウィキペディアでは 【これは即位した桓武天皇による、反対する勢力への見せしめ、さらにはかつて 自らの立太子に反対したことに対する報復であった可能性が高い。】とする。川継事件が起こると、舅という立場もあってか参議・侍従を解任される。魚名の方は光仁天皇の信任も篤く順調に出世したものの、同じ年の6月に突然左大臣を解任され、大宰府へ飛ばされた。魚名の子たちもあわせて左遷された。ウィキペディアには【これは氷上川継の乱に連座したものと考えられており】とだけあり、具体的にどう魚名が関わったのかは不明。あと、著名人では歌人としても有名な大伴家持も処分を受けている。で再び藤原氏の系図に戻りますと、北家では絶大な権力をふるった永手はすでに死んでおり、魚名は左遷。京家では浜成の処分以降、失速したという。南家の仲麻呂は乱を起こしてとうに滅ぼされている。この頃は是公の代で、是公は順調に出世もしたらしい。ということで、川継の乱で北家と京家がダメージを食っている。ここから、藤原一族内部での勢力争いが絡んでいる可能性がうかがわれる。ただ、それがメインだったとも思えない・・・「いちばんトクをした奴を疑え」というのは2時間ドラマでもよく使われるセリフですが、2つの系図を見ていちばん疑わしいのはやはり桓武でしょう。のちの桓武の行動を見るに、どうも彼は天智系であることを無上の誇りとしていた可能性がある。今回、ネットでも色々気になることを検索してみたところ、正史では天智と天武は兄弟ってことになってるし、天武系といっても結局は天智の娘の持統天皇の子孫がほとんどなんだから天智系だ天武系だとするのは全く意味がないとズバッと切ってる歴史ファンの文章も読みましたが、桓武自身が天智系と天武系を分けて考えていたと思われるフシがあるのだ。ま、それについては後の記事で簡単に紹介しようと思ってますが、光仁周辺の系図の方を見ると、ずいぶん都合よく天武系が消えてったな~って思いませんか?薭田親王(ジジイ愛用のグラフィックソフトは薭田の漢字が使えませんでした)については別に注目してなかったし、『続日本紀』には特段怪しい記述も見受けられないから、世間では薭田親王の死について疑う人はどうもいないらしい。が、系図を作ってる時、ちょっとわたくしはゾクゾクしました。薭田親王はホントに自然死かよ?桓武にとって、あまりにも都合よく死んでくれたもんだよな~。しかも、光仁天皇が死ぬ直前だよ?光仁天皇の血をひく薭田親王は、ある意味川継よりも先に排除すべき存在。事実、皇太子候補にノミネートされてもいた訳だし。ゆえに、どいつもこいつも桓武から敵視されて排除されたんじゃないかと、何の根拠もなく妄想してみたのですが、かと言ってすべてが藤原氏と桓武のタッグによるものとも思えない。少なくとも井上母子の件については、光仁天皇も噛んでいただろうと思う。それが「黙認」だけであったとしても、そういうやましいところがあったから井上母子の死後、光仁は彼らが怨霊になったと恐れおののいたんじゃなかろうか。にほんブログ村
2014年09月23日

●天応元年(781)1月、下総で飢饉。1月1日、伊勢の斎宮に美しい雲が現われ、祥瑞だとする報告があったので年のあらたまった元日の吉日をもって宝亀から天応(てんおう)へと改元。あわせて大赦を行う。前年の宝亀11年3月の陸奥の反乱において、あざむかれて賊軍へ加わった者のうち賊から逃げ戻ってきた者に対しては向こう3年間租税を免除するという通達を出す。蝦夷征伐に遠征した者で長い兵役に疲れ家業が破綻をきたしている民衆も多いので、その家に対しては今年の田租を免除する。もしも蒔く種モミがない場合には所管の国司がこれを貸し与えるよう指令を出す。2月17日、光仁天皇の第一皇女・能登内親王が死去。享年48歳。「近頃具合がよくないと聞いてはいたけど、いつになったら参内して朕を慰めてくれるのかと心待ちにしていたのに、こんなに急に、しかも年取った朕を置いてあなたが先に行ってしまうなんて、何て言っていいかわからないよ。こんなことになるとわかっていたらもっとおしゃべりしたのに!今はもうあなたの情愛を少しの間も忘れることができなくて、ただ声を挙げて泣くばかりだよ・・・あなたには位一位を贈ろうと思っていたけど、今こそそれを果たそう。あなたの子達は本来は5世王だけど、2世王として特別に遇するから、あなたは子供に心を残すことなく、黄泉へと続く道を心安らかに歩んでください」(by 光仁天皇)2月30日、陸奥の軍営に向けて相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸などの国から穀10万石を船で輸送させる。3月3日、地震。3月12日、美作の苫田郡の兵器庫が午後3時と午後3時半の2回、大きな雷が次第に轟くような音を立てて振動する。3月16日、鈴鹿関の西側の城門の太鼓がひとりでに3度鳴る。3月25日、1ヶ月に渡って治療を続けているものの、光仁天皇の不眠が続いている。そのため、大赦を行う。4月1日、左右兵庫の兵器が大石を地面に投げつけたような大きな音を立ててひとりでに鳴った。光仁天皇、危篤。このため鈴鹿・不破・愛発の関を固めさせる。4月3日、勅。「ち・・・朕は徳が薄いのに天皇となり、もうよく国を治めることもできなくなってしまった。しかも以前からの病は治らないし、もうトシでお迎えも近いだろう。ゲホッ今ここに、皇位を山部親王に譲って朕は残りの日々を養生して過ごしたいと思う。山部はずっと朕によく仕えてくれたし、憐れみ深く孝心にも篤い親王だ。憐れみ深く孝行というのは、すべての行いの基本だからね。ムカデが死んでもひっくり返らないのは多くの支えがあるからだって言うじゃない?とかくこーゆー時ってのは悪い心を起こす輩がいるもんだけど、天下を乱すだけじゃなく、自分の一門まで滅ぼすことになるからね。もしこの機に乗じることを考える者がいたら、先祖からの家門の誉を汚すことのないよう、心を入れ替えて清く仕え、ムカデ・・・いや山部をよく支えてほしい。天は空高いところにあるけど、低い地上の民の声をよく聞いてるらしいよ」(by 光仁天皇)祥瑞によって意気揚々と改元して蝦夷征伐で疲弊する農民を慰撫する徳令も出したのに、娘には先立たれ、奇っ怪な出来事の報告も続き、自分の病も重い・・・ここに至って光仁天皇は皇太子・山部親王に譲位。歴史に興味のない人でもその名前を知っている、桓武天皇の誕生です。 光仁天皇の治世は年を追うごとに混乱の様相を呈していきましたが、まだゆるやかなもんでした。それを引き継いだ桓武天皇の時代に入ると、ぎいぎいと不快で大きな音を立てて歴史が動き出します。そしてそれは、奇しくも最澄が都に出てくる時期とクロスします。4月4日、桓武天皇の弟・早良(さわら)親王が立太子。4月11日、桓武天皇が即位したことを伊勢神宮に報告。4月15日、「近江の大津宮で天下を治められた天智天皇が初めて定めた法にしたがって、我が父上の大君より天下の政を行う皇位を朕に授けられたことはただただ畏れ多く思っている。さて、天下を治める君主はよい臣下を得てこそよく天下を治められると聞いてるんだけどさ、朕は劣った者ではあるけど、親王をはじめとして皆がよく補佐してくれればやっていけると思うんだよね。だから、皆はへつらいや欺きの心を持たず、忠実で裏表のない誠意でもって朕を助けて欲しい。朕一人がこうした喜ばしい位に着くのも何だし、朕の母上は皇太夫人として位階を上げ、朕に仕える中で勤務態度のいい者も1~2人ばかり位階を上げちゃおうかな。それから、伊勢神宮をはじめ諸神社の禰宜たちには位一階を与え、諸寺で智行に秀でた人や80歳以上の僧尼たちには物を布施しよう。高齢者や窮乏する者、孝行や節義のある者には適宜援助をするよ。えい、持ってけドロボー、今年の田租は免除じゃ~~!!」(by 桓武天皇)4月20日、賀茂御祖神社と賀茂別雷神社の禰宜や祝(ほおり)などに初めて笏を持たせる。4月27日、皇太夫人・高野新笠に正三位を加叙。5月4日、地震。5月13日、地震。5月14日から15日にかけて、鈴鹿関の城門と守屋4棟で木で建物をつくような屋鳴りがする。6月、日照り。6月1日、勅。「古の時代には役人には能力のある者を選んで、定員には限りがあった。ところが時代が下り政務が増えると定員外の役人を置くようになり、その傾向は広がり続けている。例えていうなら、10頭の羊を養うのに9人の牧夫がいるようなもんだよ。これの弊害をこうむるのは、他でもない民衆だ。そこで、郡司と軍毅を除く内外の文武の官で定員外の者は解雇!また、多くの国司はその務めを果たさず横領したり、法に背いて民から利益をあさっている。よって、行いのひどい者は任期の途中でも格下げとし、逆に公正で清い行いの者には高い官職を授ける。悪を除き善を奨励し、朕は昔のような淳朴な気風を取り戻したい・・」(by 桓武天皇)同日、征東大使らに向けてお小言。「先日の上奏文を見て現地の様子がわかったよ・・・1人の賊の首も斬らないうちに軍隊を解散しただってえ~賊は攻めれば逃げるし、ほっとけば攻撃してくる。賊の首領たちは1人で千人にも匹敵する。奴らはまだ捕まってはいない。上奏文によると、賊4千に対して斬ったのはわずか70あまり。なんでこんなで解散なんかするのさ!都に帰るより、戦勝報告のが先だろ!!いくら旧例があると言っても、朕はこんなの認めないからね!まず副使の2人のうち1人を早馬で来させ、委細報告せよ。他は勝手には動かず、朕の指示を待ってろよ!!」(by 桓武天皇)6月12日、地震。6月18日、道鏡の失脚の際、土佐に流していた道鏡の弟とその子らを赦す。ただし、故郷の河内には帰れても入京は許さず。6月22日、地震。6月24日、金星が昼間見えた。7月5日、日照りのため大赦。7月6日、富士山麓に灰が降り、木が枯れたと駿河から報告あり。7月18日、尺度(現・羽曳野市)の池の水が10時~18時にかけて血の色になり生臭い臭いが漂う。8月25日、陸奥按察使・藤原小黒麻呂が帰京。9月22日、蝦夷征伐の関係者に苦労を讃えて位階を上げる。9月26日、従四位下を授かって蝦夷征伐に向かった大伴益立(ますたて)に対し、進軍が進まなかった咎で従四位下を剥奪する。10月10日、地震。10月16日、尾張・相模・越後・甲斐・常陸などに在住の12人が自腹で兵糧を陸奥に輸送したことを受け、物資の量に応じて位階を加える。また、軍功のあった蝦夷の人らにも位階を授ける。11月3日、地震。11月13日、大嘗祭。11月27日、地震。12月12日、地震。12月17日、桓武天皇の異母弟・薭田(ひえだ)親王が死去。享年30歳。12月20日、光仁天皇の病が重いため、大赦。12月23日、光仁天皇死去。享年72歳。桓武天皇はのどがつぶれるほどに慟哭し、「朕の誠意は天に届かず、ついに父君が亡くなられてしまった・・・服喪令では1年の喪としてるけど、父君の尊さを現すために喪を3年にしたいんだ。けど、政務がとどこおるのはよくないって皆が言うから、服喪の期間は6か月とする。今月25日から、神社の封戸とされている郡を除き、諸国の郡司は役所の前で3日間声を上げて泣く礼を行え。初日は2度の礼拝を立坐2回、それ以外は1日に3度行うように。遠方の郡ではこの命令が届いた日を初日として行え。」(by 桓武天皇)12月24日、地震。12月26日、兵庫司の南院の東の庫が鳴った。12月27日、「服喪6ヵ月はやっぱり撤回!父君を失った悲しみが深すぎるから、1年にする!!」(by 桓武天皇)12月29日、光仁天皇の初七日。七大寺で読経させ、この後は7日ごとに京内の諸寺で誦経させる。また、49日には国分寺と国分尼寺で光仁天皇のための斎会を催すよう指示。地震多いなあ、この年。日照りもあるし、怪奇現象も続くし、それから7月6日の記述。詳しい規模などはわかってないけど、どうやら富士山が噴火したようですね。まあ、現代人にとっては自然災害なんかは別に不思議でもなんでもないけど、それにしても世情の不安定な時期をこうして細かく見ていると、ホントに災害って天子の徳にかかってるんじゃないのかって錯覚すら覚えますね。蝦夷征伐の方はあれだけ物資や兵をつぎ込んだのに結果を出せないまま解散・・・光仁天皇路線を引き継いだ桓武はさらに過激に事に臨もうとしている様子がうかがえます。↓ぽちっとよろしくですぅ~にほんブログ村
2014年09月21日

「春の寛永寺」シリーズを書いていた頃からその予兆はありましたが、平城京の歴史は面白すぎます。まあ、どの時代だって結局は色んな人があれこれ頑張ってるんだから、それぞれに面白さはあるとは思うけど。ただ私が知らないだけで。歴史の勉強をして新しいことを覚えるのはまさに「ディスカバー・ジャパン」・・・先日は仕事中に急に郷ひろみの「2億4千万の瞳」を思い出して、頭の中で歌ってました。出会いはぁ億千万のぉ胸騒~ぎィィ~命のときめきエキゾチッ~ク!えきぞちぃぃ~っく・・・ジャパン!!!とPCやケータイの画面に向かってご唱和いただいたノリのいい皆様、ありがとうございますゆんべはついYouTubeでこの歌の動画を見てしまいましたが、コンサートではくるくる回るし走り回るし、ヒロミGOかっこよすぎ。・・・じゃなくて、私のブログに主題歌を設定するとしたら、この歌以外にはないでしょう。うんうん。では宝亀11年の後半です。●宝亀11年(780)7月22日、征東使が綿入れの上着4千を請求。東海道と東山道の諸国に作らせて送らせる。8月20日までに下総と常陸の干し飯計1万6千石を陸奥に運ぶ手配をし、9月5日までに坂東の兵士を集結させるよう命じる。7月26日、大宰府と沿海諸国に重ねて防備を固めるよう命じる。8月18日、これまで鉄の甲冑は3年に1度修理してきたが、利便性を考えて今後1年間は皮の甲冑を造るよう命じる。8月23日、宝亀年間の初めに維持の難しい秋田城から河辺城に移るよう指示していたが、いまだ秋田城下には民が住んでいて動こうとしない。これは移住が民の重荷になっていると考えられたので、現地調査を命じる。8月28日、官人の任期は4年だが、大宰府は重要な場所であり頻繁に役人が代わることの弊害も多いため、任期を5年とする。10月3日、左右の兵庫の鼓が鳴り、その後で矢の飛ぶような大きな音がした。10月5日、近江国分寺で最寂の死による欠員ができたので、広野を得度させたいと近江国が申請する。10月10日、治部省から近江の国府に対して広野を得度させるよう通達を送る。10月26日、伊勢で放浪する民が多く、徴発しても人数が集まらない。このため国内を調査したところ、隠れていた多くの者を見つけだし、その数は千人に上った。これにより調・庸が増えたと伊勢から報告あり。これを受け七道の諸国にも調査を命じる。「課役を逃れて他国へ逃亡する者は望郷の思いはあっても処罰を恐れて結局戻ろうとはしない。それを知る周囲の者もまた見逃してしまう。けどこれじゃ、税収は減る一方だし他にも問題がある。だから、まずは浮浪民を見つけて帰るかどうかの意思を確かめ、そこに留まる者はその地の戸籍に編入し、帰る者は人夫を付けて順番に送り帰らせることにするよ。もし浮浪民を見つけても官人がこれを隠して勝手にこき使った場合は解任、民間人が同じことをしたら百たたきね。今後もこの措置は続けてね」(by 光仁天皇)10月29日、「先日の報告を見て、すでに征東のチャンスを逃したと知った。これまでに援兵を送りこんできたので、数万人の兵が集結しているハズなのに、将軍たちはあれこれ理由を付けては攻撃を先延ばしにし、今頃になって今年は征討できないと言ってきやがったけど、まだ11月にもなってないんだし、チャンスはあるはずだ。部下たちを鼓舞してなんとか今月中に攻め入るようにせよ。もしそれができないのなら、多賀城・玉作城などに駐留して防備を固め、今後の計画をしっかり練り直せ!!」(by 光仁天皇)11月2日、ニセ金造りの刑罰を見直す。11月10日、広野の得度に関する近江国の役人の署名による「国府牒」が国師所に発給される。11月12日、広野得度、最澄となる。12月4日、最近では寺を造る際、墳墓を破壊してその石を建立に用いているが、これは死者の霊魂を驚かすだけでなく、子孫にも憂いを残すことになるので禁止を命じる。越前国丹生郡の小虫神社を官幣社とする。12月10日、征東使から、五道を攻めて道をふさぎ砦を作って蝦夷の拠点を叩くとする報告が入る。12月14日、越前国丹生郡の大虫神と礪波郡の高瀬神に従五位下を授ける。「最近、無知な民が男女の巫(みこ)と一緒になって淫らな祭をし、ワラで作った犬やお札や護符などのアヤシゲなものを街路に並べ立てて喜んでるって聞いたんだけど。呪術は国法で禁じているし、アヤしげで淫らなものを永らえさせるのはよくないので、今後は厳しく禁止する。ただし、京外において病気平癒の祈祷をする場合はヨシとする」(by 光仁天皇)12月22日、神社に属する賎民774人が戸籍からもれていたので、鹿島神社の神戸に編入するという申請が常陸から入る。朝廷はこれを許可するが、神司は良民までもいつわって神賎としていて規定を犯し乱しているので、二度と申請しないよう伝える。12月27日、陸奥では敵に囲まれて苦戦していたが、当地の11社に祈願したところ、神威により囲みを破ることができた。これら11社を幣社に加えるよう上奏があり、これを許可。叡山シリーズなのに、いつまで関係ないナラの話やってんの~と飽き飽きしてる方も多いかもしれませんが、最澄がどういう時代に生き、己の道を突き進んでいったのかは実際の世間の動きを追わないと感覚的に理解できません。それでちまちまこうして書き出している訳ですが、この年前半部では蝦夷征伐の仕上げに本腰入れたように見えるのに、結局ろくな成果を上げることはできなかったようです。数年前からは社会の混乱ぶりをうかがわせる記述が増え始めてましたが、通貨の変更による混乱や飢饉・疫病・役人や富裕層のしめつけによる農民の逃亡が相次ぎ、大きな社会問題となっていたようですね。この年後半もとりあえず怪奇現象の記述はほとんどなく、現実問題としての蝦夷征伐がおもな話題となってますが、12月4日には古墳を破壊しての寺の建立を禁止するなど、祟りを思わせる「何か」もあったものと思われます。 【この勅を受けた「太政官符」によると、この禁制を全国的に布告しているので (『類聚三代格』巻19)、墳墓の破壊は、京内だけの問題ではなかった。 いくら小規模の寺院でも、かなり大きな石が礎石として必要である。したがって 石を採るのに目をつけられた墳墓は、石室をもつ古墳とみなしてさしつかえない。 造寺のために姿を消した古墳も多かったのである。】 (『若き日の最澄とその時代』佐伯有清著より)この年の初めには新薬師寺などの寺院の火災が起こっているので(前回参照)、破壊された墳墓の祟りとみなされていたのかもしれない。が、火災については落雷による自然災害、あるいは祟りのほかにも可能性があると佐伯氏は語る。宝亀5年には陸奥行方(なめかた)の役所で火災があり、宝亀年間にはほかにも下野・上野の正倉で「神火」による火災が起こっている。 【「神火」と呼ばれている正倉の炎上は、雷火のためではなく、実際は東国農民が 蝦夷征討をも加えての過重な負担、および旱魃などによる自然災害にもとづく 困窮の結果による放火なのであった。やがて「神火」は、諸国の国分寺にまで 及んでいく。そこで新薬師寺などの寺院の炎上も、一種の「神火」であったと 類推することも可能である。】 (前掲書より)役人や僧侶の腐敗、さまざまな社会不安を背景に民間にも不安な心理が広がっていたとみえ、アヤしげな呪術も流行っていたようです。前々回、宝亀10年6月には死んだはずの他戸親王を名乗る男まで現われてるし、民衆の不安で弱い心につけ込んだ悪い輩もはびこっていたのがこの時期と言えるでしょう。周防国衙に勤める大内氏の御先祖もあるいはニセ他戸親王の捕縛に参加したカモこういう中で広野は得度し、本格的に仏道を歩み始めます。広野この時14歳。正式な僧となるまでには3つのステップがあり、当時は国家による僧の管理がなされていたので色々役所への手続きなどもあった。 この頃の過程を『あなたの知らない最澄と天台宗』を基に作図してみましたが、ここでは得度なので第2ステップを通過したことになります。小僧から見習いの僧へバージョンアップです。太政官が許可したことにより発給される「度縁」はフツーはそこそこの期間で本人に渡されるようですが、広野の場合は2年後にズレ込んだらしい。現在残っている広野の度縁は原本ではなく写しのようで、そこには「近江国滋賀郡古市郷の戸主正八位下三津首浄足の戸口、同姓広野、黒子、頸の左に一つ、左の肘の折上に一つ」との注記があり、身体検査したのかよ?と思ったら 【身体上の特徴まで記載されているのは、「計帳」にもとづいているためである。】 (『若き日の最澄とその時代』より)だそうな。ということで、広野は左の首すじと左ひじにほくろがあったようです。なんか面白いな。で、広野が得度したのは国分寺の僧に欠員ができたためで、欠員となった国分寺僧の名前が「最寂」(さいじゃく)・・・いやいや、のちの功績から、「最も澄む」って名前をよく付けたな~って思ってたんだけど、何てことはない、先に死んだ僧の一字をもらったのか・・・まあ、現実なんてこんなものでしょうただ、偶然にしてもよい名前ではあるし、その名に恥じない大活躍をして歴史に名を残すんだから、不思議なものです。こうして見習い僧となった広野あらため最澄は、この時すでに瀬田に移っていた国分寺へと入ってさらに修行に励みます。この時点で師の行表が近江の大国師となっていたかはわからないけど、最澄が定員の決まっている国分寺の僧になったことからすると行表大国師の引き立てによるものという可能性はあるよな。にほんブログ村
2014年09月20日

やべえ、前回の記事ちょっと間違えてました広野が行表に弟子入りしたのは、宝亀9年でした。前回の記事は修正したものの、時系列に見るなら今回の記事は本当は前回書くべきものだったのですが、もう仕方がないので1年さかのぼって宝亀9年の広野の出家の話から始めます。 耳慣れない名前が多いので再度以前の系図を載せますが、12歳の三津首広野が弟子入りしたのは、行表(ぎょうひょう)。宝亀9年に行表は近江国の大国師になったとされており、一般向けの説明では広野は近江国分寺で出家したとされる。叡山で買った『比叡山』(延暦寺発行)にもそう書かれている。けど、『若き日の最澄とその時代』によるとそう単純でもないらしい。まず近江国分寺の方ですが、聖武天皇が天平17年(745)に都と定めた紫香楽宮は「春の寛永寺(16)」の通り、挫折と言っていい形で廃されました。あのまま平城京に戻らず紫香楽に大仏ができていたら、あるいは紫香楽も世界各国から観光客が集う人気スポットになったかもしれない。しかし、紫香楽の宮は放棄せざるを得ず、大仏造営プランも平城京に引っ越した。もともと大仏を置くはずだった寺は、紫香楽宮の造営とあわせて創建された甲賀寺。ところが、大仏プランごとごっそり平城京へ移してしまったので、後に残された甲賀寺は近江の国分寺となった。のち、天平勝宝3年(751)以降に国分寺は瀬田に移されたらしい。近江国庁跡の近くにある瀬田廃寺跡から「国分寺僧」と書かれた須恵器が見つかっているので、瀬田廃寺が近江国分寺だろうと推定されているとのこと。が、広野が最初に出家したのは瀬田の国分寺じゃないようなんだな。結論だけ紹介しますと、行表が近江の大国師になったのは宝亀10年以降だと『若き日の最澄とその時代』の佐伯氏は語る。つまり、広野が入門した当時はまだ行表は大国師ではなかった訳で、ゆえに瀬田の国分寺に入ったのではないという。行表は大国師となる前、崇福寺の住職を務めていたとされる。崇福寺は今ではもうありませんが、「跡」は地図にも載ってます。(場所はこちら)前の図に上書きすると、大体の位置関係はこんなとこですかね↓。 三津首氏の故地にも近い山の中です。こういう立地なので、もともと行表と広野の父・百枝は親交があり、広野の才能を見込んで行表がスカウトしたとも、あるいは広野の才能を埋もれさせないようにとの周囲のすすめで我が子に仏道を歩ませることを百枝が決断したとも言われる。して、崇福寺で最初のステップ、沙弥(小僧)となった。崇福寺は志賀山寺ともいわれ、天智天皇の勅願による創建とされる。また、最初の山岳寺院的存在であるらしい。広野の師の師である道センは天平8年(736)にインド僧・菩提僊那(ぼだいせんな)らとともに来日した唐僧で、天平勝宝4年(752)のまだ完成してない東大寺の大仏の開眼の際は菩提僊那が導師を務め、道センが呪願師を務めた。晩年、道センは吉野の比蘇山寺(比蘇寺)に入る。比蘇寺は現在の世尊寺の場所にあった寺で、わたくしのブログの中では三井寺に移築された三重塔を紹介しております。(「大津編(16)」参照)道センは禅の流れも受け継ぐ方で、『若き日の最澄とその時代』では【道センが比蘇山寺に入ったのは、山中でもっぱら禅法を修するためであった】とし、ウィキペディアでは【修禅に精励し、山岳修験者にも少なからぬ影響を与えたとされる】とする。そして道センは天台大師智ギ(ちぎ)の思想の影響を受けており、【最澄は、師の行表を通じて道センの『註梵網経』によって、早くから天台大師智ギの所説に接していたと考えられる。】(『若き日の最澄とその時代』より)山岳寺院である崇福寺、天台の思想に影響を受け比蘇山寺に籠った道セン。のちの最澄が辿る道すじが仏道に入った最初の段階から垣間見えるようです。行表は道センの導きによって得度し、天平15年(743)に興福寺で受戒した。 【行表の俗名は百戸(ももへ)といい、天平13年(741)12月14日の勅によって 宮中において773人のうちの一人として得度した。】 (『若き日の最澄とその時代』より)天平13年は国分寺建立の詔が出された年で、この年の『続日本紀』には12月14日の勅というのは見つけられなかったんだけど、10月16日の記事には在家信者ら計750人を得度させたという記述がある。この頃は大仏開眼に向けて僧侶作成推進運動が着々と進められていたと思われ、その中には10月16日の条のように在家なども含まれアヤシイ人もいたようだけど、行表のような人もその中にいたんだから、まさに玉石混交・・・では小僧・広野の周辺についてはこのぐらいにして、前回の続きに戻ります。●宝亀11年(780)1月14日、落雷があり京中の数ヵ寺で火災が起こる。新薬師寺の西塔や葛城寺の塔・金堂などが全焼。1月19日、大赦。また、この年の田租を免除。さらに宝亀10年以降、不作による税の延滞がある場合はこれを免除。寺社の稲についても同様とした。1月20日、勅。「仁徳があり仏弟子たる王が仏法を広めれば、みんなハッピーになると思うんだよね。そうして現世と死後の世界が調和すれば、鬼神が暴れることもないんじゃないかな。ところが、近頃は寺に火災が集中している。これは天の咎めによるものだと思うし、朕の不徳の致すところでもあると思うけど、仏門にある人たちはどうよ?聞くところによると、最近の僧侶の行いは上は仏の教えに背き、下は国の法律を犯して俗人と何ら変わるところがないらしいね。上が率先して行いを正せば、下もそれに従うんじゃないかな。また、寺院を管理する者たちはいいか悪いかの判断ではなく、もっぱら権力のある者に私事を頼み込んでるし、人ばっかり多くて損害が少なくない。こういう不正はもう放置できないよ。だから、僧たちはきちんと国を護る仏法を広めて災いを福に転じさせるようないい因縁を広めるように。これは僧たち全員によくよく言って聞かせるように。」(by 光仁天皇)1月26日、現・宮城県古川市に蝦夷の来襲があり民家を焼く。官軍が追撃するが、双方に死者が出る。2月1日、宝亀3年に祟りがあったと占いで出た伊勢の大神宮寺は渡会郡から飯高郡に移していたが、まだ神郡(多気郡)に近く祟りがやまないため飯野郡以外の都合のよい場所に移すと神祇官から奏上。2月2日、船で敵地へ攻め込みたいのに近年の寒波により川が凍って船が出せず、陸奥では蝦夷の襲来が絶えない。そこで、まずは敵の侵攻路をふさぎ、雪溶けを待って兵3千で進軍し、胆沢の最前線の城を固めたいと陸奥から奏上がある。光仁天皇もこれに賛成。2月11日、1月26日の戦いを受けて、3月中旬の進軍の許可を求める知らせが陸奥から入る。光仁天皇は現地の判断で自由に行動し、3千の兵をもって賊を討ち滅ぼすよう指令を出す。2月15日、新羅の使者が帰国する際、「最近おたく、調子に乗って無礼じゃないかい?アンタはうちに朝貢してる身分なんだから、そこらへんよくわきまえてちゃんとしてよね」という天皇の書状を持たせる。3月、駿河で飢饉と疫病が起こる。3月3日、厨子に入った金銅仏一体と白銅の香炉1つが出雲に漂着する。3月16日、大宝令を制定した頃は役人は少数精鋭でしかも節約をしていたので今より国の収入が少なくても余裕があった。ところが近年は役人の数ばかりが増え浪費するので、役人を減らし農耕に努めるよう奏上があり、これを許可。また、ろくに戦えないのに国のスネをかじる兵士が増えているので、三関(伊勢・美濃・越前)および重要な国をのぞいて国の大小によって兵の数を決め、富裕な農民層の中から弓馬に秀でた者を選び出し、軟弱者は農耕をさせるのがよいとの奏上があり、これを許可。3月22日、陸奥で反乱(宝亀の乱)。5月、伊豆で飢饉。5月8日、平城京と諸国にある鎧600を出羽に送る。5月14日、軍事上の備えとして坂東諸国・能登・越中・越後に干し飯3万石を備蓄するよう命じる。5月16日、対蝦夷戦のために広く兵士を募り、努力次第では異例の抜擢を行うとする通達を出す。5月29日、伊勢神宮と大安寺の封戸を旧状に戻す。6月5日、「思うところあって」秋篠寺に封戸を施入。本来の律令では食封の施入は5年以内と定められているが、それを一代限りに変更。今後はこれを慣例とする。6月16日、鈴鹿の関の西の内城で太鼓が一度だけ鳴る。「5月に蝦夷の討伐をするって報告が来てからもう2カ月が経つのに、あれから何も言って来ない。朕は捕虜が都に連行されるのを心待ちにしているのに、一体どーゆーことなのさ!今後はマメに報告してよね!書状では限界があるというなら、誰かよこして報告させてよね!!」(by 光仁天皇)7月15日、大宰府はもとより、沿海諸国の因幡・伯耆・出雲・石見・安芸・周防・長門に警護を怠らないよう指令を出す。7月21日、征東使から鎧1千領の請求が入り、尾張・三河などの5ヵ国に運ばせる。にわかに東北の動きが活発になってきて長いので、一旦ここでストップです。6月5日の秋篠寺の記事は『続日本紀』ではあっさりしたものですが、この辺りをもって秋篠寺が勅願寺だとするようです。(前々回の記事も参照のこと)近江の山寺で修行に励んでいた小僧・広野がどこまで時事ニュースを聞いていたかはわかりませんが、この年はまたもや仏教界に対する苦言から始まっており、すべての僧に朕の考えを理解させよ、としているので、少なくともこの勅については広野も聞いたことでしょう。仏道に入って意気揚々と修行に励む多感な少年は、前年から次々と伝えられる天皇のお小言を聞いてどう思ったのか・・・あるいは理想と現実のギャップに心を痛め、ひそかに苦悩したかもしれません。にほんブログ村
2014年09月19日

西国へ行っていたセキュリティよしおから残りのお土産が届きました。ひとつは桃のおみくじ。早速開いてみるといきなり 望んでも叶わないこともあるてな言葉から始まり、 でも過程が大事なこともあるのさという今のわたくしにドンピシャな内容でまず苦笑・・・それからこれ↓ ぎ・・・ギシの塩じゃん!!「本所Wデビュー」編であれだけキラ擁護の記事を書いたのに、キラの仇のギシの塩を送ってくるとは・・・一瞬、戦国由来の有名な格言が頭に浮かびましたが、この場合はそのそっくりさんで「敵の塩を送る」だな。ナイスすぎるお土産をありがとう、よしおさんそれから、前回ついでに書いておけばよかったですが、上御霊神社に行ったのはこの場所だったからです↓。 日本最古の菓子、御霊神社名物「からいた」も上御霊神社前にあります。この旅の2・3日目は応仁の乱の跡地めぐりをしまして、福山編の前後あたりにこの時の記事を書こうと思っていて、そのシリーズで応仁の乱をきっちり書こうと思っていたのですが、寛永寺シリーズが予想以上に長引いて、本シリーズはさらに長丁場になりそうなので、3年前のこの旅のシリーズを書くのはもう諦めました。ゆえに今後の記事で関連がある時にちょぼちょぼ写真をアップしていくようになりますので御了承ください。本シリーズでも結構さかのぼりの記事が入ると思います。今の歴バナも当分かかるし、今回の写真だけで1000枚以上あるのに、一体どうなっちゃうんだろ・・・完結は来年の春を過ぎるかもしれませんねつか、マジで現地紹介は50話以降が濃厚になってきたし。では過程を大事にしつつ、今回も地道に流れを見ていきます。●宝亀9年(778)三津首広野12歳。行表に師事。1月1日、山部親王の病が思わしくなく、朝賀の儀は行われず。1月20日、井上内親王の遺骸を改葬。『続日本紀』訳者の宇治谷孟氏によると、前年末から始まった改葬がここで終わったかもしれないとのこと。3月3日、藤原魚名が内臣になる。3月20日、山部親王の病はまだ治らず、東大寺・西大寺・西隆寺で読経させる。3月23日、淳仁廃帝の墓を「山陵」(みささぎ)と称し、その生母(故人)の墓を「御墓」(みはか)と称するよう勅を出す。また、墓守に1戸をあてた。3月24日、「皇太子が病となってもう数カ月、手当をしてもいっこうに回復しない。これを治すには朕が徳のある政治をするっきゃないので、大赦を行う。また、皇太子のために30人を得度・出家させよ」(by 光仁天皇)3月27日、山部親王の回復を願って大祓。伊勢神宮と諸国の神へ幣帛を捧げ、畿内と畿外の各境界で疫病の神を祀らせる。4月30日、2年前に高麗の使者30人が溺死していたのを、埋葬させる。5月21日、地震。5月25日、地震。5月27日、光仁天皇の異母姉・坂合部(さかいべ)親王が死去。天皇は3日政務を休んだ。6月26日、秋の実りを祈るため広瀬・竜田の2社へ幣帛を奉納。8月1日、日食。10月23日、前年6月に出発していた遣唐使の第3船が肥前に到着。10月25日、病気平癒の祈りの礼に山部親王が伊勢神宮へ向かう。11月10日、遣唐使の第4船が薩摩へ帰着。11月13日、遣唐使の第2船が薩摩へ帰着。第1船は途中で船が分断し、副使の小野石根ら38人と唐使の25人は海に流され死亡。一部が肥前に流れ着く。11月18日、第1船で流れ着いた唐使56人を送り返すため、安芸で船2隻を造らせる。いよいよ広野の動きがわかってくる年まで来ました。しばらくの間は広野が中央に関わってくることはないので、それまでは広野の流れと全体の政治向きの流れと2本立てで追うようになります。で、まずは全体の流れから見ると、再び淳仁天皇追悼が出てきます。大事な皇太子の病もなかなか治らず、異母姉まで死去。『続日本紀』では簡単な記述になってますが、ほとんどなりふり構わずといった雰囲気もうかがえます。それから遣唐使。ひとケタ世紀の船で大海に漕ぎ出すって勇気あるなあと思っちゃいますが、この時も第1船から犠牲者が多く出て大変だったようですね。これより以前、天平勝宝5年(753)の遣唐使の時には大使の藤原清河(藤原四兄弟次男・房前の子)が帰路逆風にあってベトナムに流れ着き、船も人も現地人に痛められ、清河はかろうじて逃げたものの帰国はかなわず、そのまま唐で生涯を終えたというケースもある。まさに命がけ。遣唐使の話はまた後で出てくるので、参考までにここに載せました。『続日本紀』を見る限り、ここまで遣唐使が使う船はすべて安芸で造らせているようですが、そのうちのどれかはのちの小早川領・沼田(ぬた)付近で造られたかもしれません。(「高山城(5)」も参照)あと、3月24日の大赦の際に30人を得度・出家させてますね。聖武天皇の3800人にははるかに及ばないけど、鑑真ら多くの唐僧もやって来て出家のハードルは上げられてたんじゃないかと思うのに、まだこういう勅による大量出家が行われてるのか・・・この頃の仏教界の堕落と腐敗の最たるものが道鏡とされると前に書きましたが、本来の仏教からいえば確かに僧侶が政治に関わることはよいことではない。ので、道鏡に対する個人攻撃を差し引いたとしても、本職の僧侶が本格的に高度な政治に関わった最初が道鏡だと思われるので、そういう反省があったかもしれないという点では異論はございません。ただ、井沢説のように道鏡自身に政治的野心がなかったとしたら、政治に関わったことイコール腐敗というよりは、為政者による安直な大量出家のような出来事が仏教界のレベルを大幅に落としたんじゃないかって気もする。●宝亀10年(779)4月19日、夜に暴風雨。木や家に被害が出る。4月30日、唐の客が入京。5月26日、前の留学生・阿倍仲麻呂が唐で死去。6月23日、周防で他戸親王を名乗る男が出て人心を惑わせたので、伊豆へ流した。6月29日、因幡で大雨による山崩れ・洪水が起き3千以上の民が飢饉に苦しむ。7月、駿河で大雨・飢饉。7月1日、日食。7月9日、参議・藤原百川死去。8月15日、宝亀3年に旧銭をやめてすべて新銭にするよう決めたが、旧銭が使えなくなるのかとの混乱が起きているので、旧銭と新銭の価値を同じくして共に流通することを許可する。8月19日、「思うところあって」大赦。8月23日、僧尼が僧籍に入ったあとの記録がないため、僧尼の生死の確認ができず、役所で確認を取って在・不在の報告をさせるようにする。これで私度僧が増えることはなくなるだろうとの治部省の奏上によるもの。8月26日、治部省が調べたところ、国分寺の僧尼は多く京に住んでいたことが判明。聖武天皇は建立の際、国分寺には僧20名、国分尼寺には尼僧10名を置くとしたので、旧来に戻すよう奏上。結果、知識と修行が充分で京での仮住まいを希望する者はそれを認めるが、それ以外の者は本国に帰るよう取り決める。9月17日、死者の名を借りて名乗る僧が多く、そういう輩はよこしまな気持ちを持ち憲章を乱し犯している。しかし中には知識と修行の備わった者もおり、急な改革を行えば正しい者をおとしめることにもなる。よって、現在の数を調べて彼らに官僧の身分証明書を発行することにする、との勅を出す。9月22日、京の役人に不正が多く民を苦しめているので、今後は厳しく禁断を加えるよう勅を出す。9月28日、民間で高利貸しなどが増えて暴利をむさぼる者が多く出ているので、今後は10割を超える利子を禁じ、違反する者は処罰する旨の勅を出す。10月13日、天長節の宴。10月16日、年功の僧を昇進させる。11月19日、宝亀6年に在京の役人と地方の役人の落差をなくすとした法令の廃止を願う声があり、これを許可。11月29日、役人の怠慢・違反が続いて人民が家や田を売って放浪するケースが増え続けているので、違反者は厳しく処分するようにとの勅を出す。この年は比較的自然災害の記述は少ないし、『続日本紀』には怪奇現象の話も書かれてない・・・が、目に見えない世界のことではなく、目に見える現実の世界の各方面で大混乱が起きていたようです。簡単な説明だと一言で済まされてしまう「僧侶の腐敗と堕落」の具体的内容がこの年の記述からうかがえます。僧侶だけでなく役人も民間も利益を求め、追い詰められるのはいつだって弱い立場の民百姓。その一方で、「叡山攻め(33)」の宝亀3年には墾田永年私財法が復活しているので、力とカネのある者だけがトクをするという社会の矛盾もより一層深まっていった時期だと思われます。それから、この年藤原百川が死んでますね。百川も光仁天皇の即位に尽力したとされます。宝亀2年に藤原永手が死んだ時のように故人を悼む長ったらしい弔辞は『続日本紀』には書かれてないけど、百川も光仁天皇の信任が篤かったと言われます。『愚管抄』の中で慈円は、死んだ井上内親王は龍となって百川を蹴殺したとし、自分と皇太子がそろって病気になった後に百川が死んだことは、忠臣を失った悲しみもさることながら光仁天皇の心にひそかに恐怖をもたらしたかもしれない。まあね、いくら怨霊が怖いといっても、自分にうしろめたいことがなければそんなにビクつくこともないような気もするけど、一般的には「心当たり、あるんでしょ」と見られているのでね。井上内親王母子の死についてはもう少し後で書こうと思いますので、今しばらくお待ちください。↓ぽちっとよろしくだすにほんブログ村
2014年09月17日

も~、な~んて効率の悪いことしてるんざましょ、あたくし。しかし、このブログの読者様はおそらく歴バナの方がお好きなんでしょうし(そうでないと読み続けられない)、ここまでするのはたぶんこのシリーズぐらいじゃないかと思います。ところで今日、暗記中のお経がめでたく最後まで行き着きました。完全に覚え込むのにはまだしばらく時間をかけねばなりませんが、実は仏バナを書き終えて以降、色んなことが急によく見えるようになってきました。ちょうど、かすみ目がクリアに見えるようになったようなカンジ。もちろん、わたくしのつたない知識ですべてがわかった気になった訳でもないですが、野生児のわたくしにとっては、自分で実感して納得するという作業はとても大事なこと。当初は日本の仏教史を軽く見るだけの予定だったのがなぜか勢いでインドまで行ってしまいましたが、あの作業を経なければ今でも感覚的に多くのことが理解できなかったと思うので、今続けてる作業もおそらく無駄にはならないだろうと思って腹を据えて頑張ります。●宝亀7年(776)2月6日、兵2万をもって4月上旬に陸奥と出羽の蝦夷を討つべしとの陸奥からの言上あり、出羽の兵4千を動員して賊を討たせる。夜、鉢くらいの大きさの流星があった。4月1日、日食。4月12日、「近頃、諸国の神社ではロクなお祀りをしてないって聞いたんだけど。だから天変地異が多く起こるんじゃないか~!これからはきっちりとやってよね!」(by 光仁天皇)4月15日、遣唐使に刀と天皇の衣服を与えていわく、「くれぐれも国の代表として恥ずかしくないようにしてね。もしこれに背くヤツがいたらこれで斬っちゃってよ。それから、先の入唐大使の藤原河清も一緒に連れ帰ってきてね」(by 光仁天皇)5月2日、出羽の賊が反乱。下総・下野・常陸の騎兵を動員して救援にあたらせる。5月29日、災害や変異が続くため、大祓を行う。5月30日、宮中と朝堂で僧600人に「大般若経」を読ませる。6月4日、金星が昼間見えた。6月7日、播磨の50戸を唐招提寺へ喜捨。6月13日、参議・藤原楓麻呂(藤原四兄弟次男・房前の子)が死去。6月16日、右京大夫・百済王理伯が死去。6月18日、日照りのため黒毛の馬を丹生川上神へ奉り、畿内と京で大祓をさせる。7月2日、置始女王が死去。7月7日、参議・大伴駿河麻呂が死去。7月14日、安房・上総・下総・常陸に船50隻を造らせ、陸奥に配備。7月19日、西大寺の西塔に落雷。8月1日、全国の諸神に幣帛を奉納。掃除を怠って神社を綺麗にしていない神職は交代させる。8月13日、大風。8月15日、諸国でイナゴの被害。閏8月、壱岐で風害により稲が損害を受け、今年の調を免除する。閏8月6日、遣唐使は肥前で風待ちをしていたが、順風が吹かず渡航の時期も外れていくので、来年の夏まで渡航を延期するとの報告が入る。9月、毎晩庁舎や京中のあちこちの屋根の上に瓦や石や土くれが自然に落ちてきた。それが20日ほど続いた。9月16日、初めて越前の気比神社に宮司を置く。10月9日、地震。10月11日、蝦夷との戦いで陸奥の国が疲弊しているので、今年の田租を免除する。11月2日、地震。11月26日、陸奥で3千の兵により胆沢の賊を討たせる。12月14日、陸奥で奥地の守りにあたる者を募集。採用者には3年の租税を免除した。12月22日、渤海国から使者。一行が我が国の海岸に到着する頃、突然暴風が起きて120名もの溺死者を出したという。使者は光仁天皇の即位の祝いと、渤海王妃の喪を伝えた。●宝亀8年(777)1月3日、藤原良継を内大臣に任命。2月、讃岐で飢饉。2月6日、遣唐使が春日山の奥で天神地祇を礼拝。2月28日、畿内5か国で疫病の神を祀らせる。2月30日、日食。3月19日、宮中でしきりに奇怪なことが起こるため、大祓。3月21日、宮中において僧600日、沙弥100人に「大般若経」を転読させる。3月下旬、蝦夷で投降する者が相次いだ。4月5日、ヒョウが落ちる。4月13日、雨氷が落ち、太政官・内裏の建物に雷が落ちる。4月22日、遣唐大使の佐伯今毛人が病気のため輿に乗って都を発ったが、日が経っても治らなかった。そこで、副使の小野石根に先発するよう伝え、順風が得られたら石根がそのまま代行して出発するようにした。5月13日、長雨のため白馬を丹生川上神に奉納する。5月19日、藤原仲麻呂の乱以降内裏に置いていた太政官の印を元の通り太政官に戻した。5月23日、渤海国の使者が帰国。渤海王へは今回のねぎらいと、王妃への弔辞を述べた書状を持たせた。6月、隠岐で飢饉。6月12日、参議・紀広庭が死去。7月、伯耆で飢饉。7月14日、伯耆の国分寺の塔に落雷。7月16日、内大臣・藤原良継が病にかかったので、その氏神の鹿島神社(常陸)と香取神社(下総)の社格を上げる。8月8日、長雨のため白馬を丹生川上神に奉納する。8月15日、上野と美作の各50戸を妙見寺(河内)に喜捨する。9月15日、4月の大々的な蝦夷討伐のため国が疲弊しているので、陸奥国から今年の免税の嘆願があり、これを許可する。9月18日、藤原良継(藤原四兄弟の三男・宇合の子)死去。10月30日、大赦。11月1日、光仁天皇が病にかかる。12月14日、出羽の蝦夷が暴れて官軍が敗退したと報告あり。鎮圧に向かわせる。12月25日、皇太子・山部親王が病気にかかり、畿内5か国の神社に幣帛を捧げる。12月26日、出羽の蝦夷が反逆。12月28日、井上内親王の墓を改葬。塚は「御墓」(みはか)として墓守1戸を置いた。この冬は雨が降らず、井戸の水は涸れ、木津川・宇治川が徒歩で渡れるほどだった。自然災害はずっと続いているので、現代人がすら~っと読む分には天平エピデミックの時ほどばたばたと人が死ぬ訳でもないしドラマティックな展開でもないように感じますが、当時の人にとってはかなりびくびくものだったようです。それがいつからかというのは、もうおわかりでしょう。前回の宝亀6年4月27日・・・井上内親王と他戸親王の死からです。前回、7月1日に藤原蔵下麻呂が死んでますが、この方は光仁天皇即位に尽力したといわれ、他戸皇太子の春宮大夫も務めてます。奈良市の秋篠寺の紀元は定かではないようですが、光仁天皇の勅願によるものとも、それ以前からあったけど途中から勅願寺となったとも言われ、蔵下麻呂の死でビビッた光仁天皇が秋篠寺を建てたという話があります。当時の人にとっては「奇異」な出来事が『続日本紀』の記述以外にもあったと思われ、『水鏡』には光仁天皇とその即位に尽力したとされる藤原百川(藤原四兄弟三男・宇合の子)が「甲冑姿の武者が100人ばかりおいでおいでをしてるんだよ~!!」という夢を見たというエピソードがあります。それで行き着く先が、宝亀8年ラストの井上内親王の墓の改葬・・・一連の出来事は井上内親王の祟りによるものと認識されたようです。まあ、頼りにしてた藤原良継も死んじゃったし、その次は自分と皇太子まで病気とくればね・・・大体、宇治川なんてかなり水量が多いのに、あそこが歩いて渡れるとか信じられないんだけど大祓や大般若経転読などの手は打ったものの効き目がなかったので、大もとに手を付けざるを得なかったというところでしょうか。井上内親王と他戸親王が幽閉されたのは現在の奈良県五条市のようで、五條市のホームページにこんな記述を見つけました。 【五條市の辺りは藤原南家ゆかりの地だったから、おそらく退官した藤原一族の館へ 預けられたものと思われますが、須恵一帯を下馬町と呼び、江戸時代ここを通行する者は、 大名といえども馬から下りて通る習わしがあり、それを犯すと、落馬するか、禍を受けたと 伝えられ、それもこれも井上内親王の幽居があったからで、その跡に井上院 (いじょういん)が建立され、現在井上町と云う自治会があり、「聖神さん」と呼ぶ 古い祠を祀り、境内で子供はいくら戯れて遊び、おしっこを漏らしても祟りはないけど、 大人が放尿でもしようものなら病魔に冒されてしまいます。】 (「井上内親王」のページより)今でも井上内親王は怖れられ、丁重に祀られてるようですね。のち、井上内親王のために寺が建てられ、奈良市の御霊神社には他戸親王とともに祀られます。都が移った際にもこのお2人は新京で祀られました。怨霊を集めた神社といえば・・・はい、京都の上御霊神社です(場所はこちら)。お2人は立派な怨霊と認定されたんですよ。文字数の関係もございますれば、今回は3年前の京都旅行から上御霊神社の写真でお別れしたいと思います。ろくな写真もないんだけどさ。もっと色々撮っておくべきだったな・・・まあ、この時は戦国合戦モードで行ってたし、しょうがないよな。 にほんブログ村
2014年09月15日

西国へ行っていたらしいセキュリティよしおがおきゃやまのマスカットを送ってくれました。 【瀬戸ジャイアンツ 岡山瀬戸ジャイアンツは、通称桃太郎ぶどうと呼ばれ皮のまま食べられるのが 特徴です。しかも種なしです。岡山の新しい味をお試し下さい。】1粒がすごく大きくて、しかも箱から出してみたら「ゼッペキ頭」のように後頭部が薄っぺらじゃなく、裏までこんもり粒がぎっしり。かなり沢山付いてるので、思わず数を数えたくなるほどでした。しかし、この名前聞いたことがあるな・・・たぶん、備中高松のコープでシャインマスカットを買った時にどっちにするか悩んだんだろうな。先日、スーパーでシャインマスカットがあってマスカット好きなわたくしは買うか悩みましたが、山梨産だったし高かったので泣く泣く諦めたんだ。山梨が悪い訳じゃありませんが、おきゃやまのが食べたかったんだよ、ワシは。よしおは去年はピオーネやフルーツカレーを送ってくれたしな。持つべきものは、(美味しいものをくれる)友達・・・●宝亀4年(773)1月2日、山部親王が立太子。1月7日、大赦。2月、志摩・尾張で飢饉。2月17日、地震。2月27日、平城宮内に楊梅宮(やまもものみや)が完成。光仁天皇が楊梅宮へ居を移す。3月、近江・飛騨・出羽・三河で大風のため飢饉。3月13日、日照りのため黒馬を丹生川上神へ奉納。3月14日、米価が急騰。ビンボーな庶民へ向けて、備蓄米を安く売る対策を取る。4月17日、大赦。4月22日、日照りのため黒馬を丹生川上神へ奉納。5月1日、日照りのため畿内の神々へ幣帛を奉納。5月2日、雨が降ったので丹生川上神へお礼参り。5月、伊賀で疫病。5月27日、甕ぐらいの大きさの流星が南北に降ちる。6月1日、日食。6月、長雨が続く。6月12日、渤海国の使者が到着したと能登国から言上があった。前年帰ったはずの使者がまだ帰国しないという。渤海からの本来の交通路は筑紫経由であるのに能登航路を取ったこと、また書状とその箱が無礼だとして、入京させずに帰国させた。7月10日、疫神を鎮めるため、諸国で疫病の神を祀らせた。8月、長雨続く。8月29日、地震。10月1日、地震。10月4日、地震。10月14日、光仁天皇の同母姉、難波内親王が死去。10月19日、井上内親王とその子の他戸王(もと他戸親王)が捕らえられ、大和国宇智郡にある没官の邸に幽閉した。井上内親王が皇后を廃されたのは呪詛した罪によるものだったが、今回は再び呪詛して難波内親王を呪い殺したという罪状だった。11月20日、故・行基が修行した道場40余のうち、6か寺については田や園地がなく、今後荒廃する恐れがあるので田畑を施入し、仏法の興隆を願うとする詔を出す。11月21日、葬儀・服喪の際の僧侶への礼物の基準を定める。11月24日、良弁没。12月、乙訓郡の乙訓社でオオカミや鹿が多く出て、100匹ばかりの野狐が夜な夜な吠えたり鳴いたりしていたが、7日でおさまる。12月25日、大赦。だんだんと歴史が動き出し始めます。そろそろ系図が必要ですかね。 オソロシイことに、系図を作るのもだいぶ早くなってきました(笑)。じゃなくて、天武系の称徳天皇の死により天智系の光仁天皇が奇跡のカムバックを果たしたものの、皇后の井上内親王は天武系。一旦は井上皇后の子の他戸親王を皇太子としたものの、呪詛の罪を着せられて母子とも栄光の座から転落。して、この年は井上が小姑の難波内親王を再び呪詛して殺したとされて、ついに母子とも捕らえられてしまいます。他戸親王はこれ以降「他戸王」として書かれるので、皇籍も格下げになったようです。光仁朝、早くもキナ臭い匂いがたちこめて参りました。自然災害も前年にもまして増え、日照りのあとは長雨。地震。そして日食。当時の人にとっては、日照りや長雨は単なる自然災害ではないし、日食は心躍る天体ショーではありません。疫病と飢饉も再び起こり、天平の歴バナを覚えてる方にはまさにこれは「いつか来た道」・・・ただ、まだ政争による死者が出てないだけです。呪詛されて死んだ難波内親王は政争の被害者?さあて、それはどおでしょう・・・●宝亀5年(774)2月、京師と尾張で飢饉。2月3日、疫病祓いのため諸国に7日間、読経させる。3月、讃岐・大和・三河・能登で飢饉。3月4日、新羅からの使者が大宰府にやって来たが、無礼だとして帰国させる。4月、美濃・近江で飢饉。4月11日、悪性の流行病が続いているので、これを救うため『摩訶般若波羅蜜』(鳩摩羅什訳)をどんな時も常に念ずるよう詔勅を出す。「天子がこれを念じれば、兵乱や災害は国に入ってこないし、パンピーが念じれば流行病や疫神は家の中に入ってこないって言うよ」(by 光仁天皇)4月22日、日照りのため黒馬を丹生川上神へ奉納。5月、河内で飢饉。5月17日、近年、新羅人が多くやって来るが、日本に心服して帰化するのではなく単に漂着して帰れなくなってるだけなので、援助して送り返してやるように大宰府に命じる。6月、志摩・伊予・飛騨・若狭・土佐に飢饉。6月5日、山犬やオオカミの怪がある乙訓社に幣帛を捧げる。日照りのため黒馬を丹生川上神へ奉納。7月、尾張で飢饉。7月20日、陸奥国行方の役所で火災。7月23日、蝦夷征討に全面的に乗り出す。7月25日、桃生城(もものうのき)が蝦夷に攻められる。8月2日、坂東8国に対し、陸奥からの救援要請があれば速やかに軍を発するよう勅。援兵の数は各国で2千以下5百以上と定められる。9月6日、諸国の池や溝を修造させる。9月7日、諸国の情勢を使者に繰り返し調べさせる。9月25日、畿内の堤や池を修造させる。10月4日、地形が険しくてこれまでの将軍が踏み込めなかった陸奥国遠山村に初めて侵攻。蝦夷を追い詰め、ある者は逃走しある者は降伏した。11月10日、「陸奥と大宰府はともに有事に備えているのだから、万一の場合の早馬による奏上文には時刻を記載するべきです。ところが、大宰府には水時計があるのに、ウチにはありません」との陸奥からの言上により、水時計を支給する。飢饉がかなり広範囲に広がってきました。報告がない国でも、おそらく畿内に隣接するエリアで飢饉が起こっていたのでしょう。疫病もまだ続いてます。それから、この年は蝦夷征伐に大々的に乗り出したようですね。征討の再開は桓武天皇の代からかと思ってたけど、光仁朝からだったんだね。外交もうまくいってないのに、そんな余裕あるんでしょうか・・・●宝亀6年(775)1月3日、大赦。2月、讃岐で飢饉。2月8日、地震。3月、夏から秋にかけて蝦夷の活動が活発だったので田畑は荒廃し、この年の陸奥の課役・田租を免除した。4月7日、河内・摂津にねずみが増えて穀物や草木を食い荒らしたので、諸国の群神に幣帛を捧げる。4月27日、井上内親王と他戸王がともに死去。5月、備前で飢饉。5月4日、地震。5月13日、野狐が大納言藤原魚名(うおな)の朝堂の椅子に座った。5月14日、白い虹が天にかかった。6月19日、遣唐使の人事発表。使節用の船4隻は安芸国に造らせた。6月22日、畿内諸国に疫病の神を祀らせた。6月25日、日照りのため黒馬を丹生川上神へ奉納。畿内諸国の神社でよく雨を降らせる神社に対し、幣帛を奉納。7月、三河・信濃・丹後で飢饉。7月1日、参議・藤原蔵下麻呂が死去。7月16日、下野国に黒いねずみが数百匹現われ、数十里にわたって草木の根を食べたとの報告あり。7月19日、碁石ぐらいの大きさのヒョウが降る。8月、和泉で飢饉。伊勢・尾張・美濃で水害。国分寺などにも被害が出る。8月7日、野狐が内裏の門にうずくまった。8月19日、「中央の役人は薄給で苦しんでるのに、地方の役人は利益が多くてみんな恥じる様子もなく地方役人になりたがってるって聞いたんだけど。なんでこんな不公平なのか、ちゃんと調べてよ」(by 光仁天皇)8月22日、畿内5ヶ国で疫病の神を祀る。8月30日、伊勢・美濃などの水害のため、大祓(おおはらえ)を行う。9月20日、長雨のため白馬と幣帛を丹生川上神と畿内の神へ奉納。10月1日、日食。10月2日、吉備真備死去。享年83歳。10月6日、地震。10月13日、蝦夷対策に国府を移すので、3年の間鎮兵996人が欲しいと出羽から要請あり。この日は光仁天皇のバースデー。この年からこの日を「天長節」とし、僧尼は読経と仏像の周囲を回って礼拝供養し、屠殺は禁止。また、役人には1日中宴を賜ることとした。10月19日、内裏と朝堂で僧200人に「大般若経」を読ませる。10月24日、風雨や地震があったため、大祓を行う。10月25日、伊勢神宮に幣帛を捧げる。11月7日、日向・薩摩が風雨のため桑や麻が全滅したと大宰府から報告あり。この年の調庸を免除。11月15日、蝦夷を服従させた陸奥に対し、論功行賞。飢饉や疫病はまだ続いてますが、蝦夷問題は少し落ち着いたようです。日照りには黒馬で、長雨には白馬を奉納するのか・・・どういういわれがあるんだろう、面白いな。てか、丹生川上神は馬であふれんばかりじゃろう(笑)。で、この年は大変なことが起きてます。それが4月27日の記事、井上廃后と他戸廃太子の死去。ついに犠牲者が出てしまいました犠牲者っつっても、どこにも殺されたとは書かれてません。が、幽閉されていた2人が同じ日に死ぬって、誰が見てもヘンでしょう。そもそも発端となった呪詛事件も、一般的には疑わしいものとされてます。難波内親王の死の真相はわからないけど、光仁天皇はこの年66歳。その姉なら当然もっとバアさんです。「お年」が原因だとしてもおかしくない年です。なら、何で井上と他戸の2人は殺されなければならなかったのか・・・これはどうやら、寄生虫の方に原因があるようです。にほんブログ村
2014年09月14日

わ~い、連休だ~と言っても、どこにも出かけませんが。以前はこのシーズンはお出かけで忙しかったですが、最近では連休は出かけない方が当たり前になってきたので、あちこち行ってた頃が懐かしくさえ思えます。●宝亀2年(771)1月4日、それまで僧尼の出家証明書に道鏡の印を押していたのを、旧来の方式に改める。1月23日、井上皇后の産んだ他戸(おさべ)親王が立太子する。2月2日 藤原永手死去。 2月、石見で飢饉。3月5日、諸国に疫病を祀らせる。3月13日、藤原良継を内臣(令外の官)に任じる。3月29日、和気清麻呂が従五位下に復位。7月、淳仁天皇の廃位に伴って配流や皇族の籍を除かれた皇族たちを復位させる。この年、日照り。10月27日、それまで東山道に属していた武蔵国を東海道に改める。11月1日、遣唐使の船4隻を安芸で建造させる。 11月29日、流星が落ちる。12月1日、日食。いくぶん関係のない項目も入っていますが、お気になさらず(笑)。道鏡の時代が日に日に遠ざかっていきます。和気清麻呂もこの年朝廷に復帰しました。藤原永手・良継は光仁天皇の即位に尽力したとされ、永手やそのいとこの百川などは一般的に策略家として有名ですが、永手を失った際の光仁天皇の嘆きは深く、「も~、朕はこれからどうしたらいいのさ・・・あなたの子供たちは朕が引き立てて決して悪いようにはしないから、安心してあの世へ旅立ってちょうだい」という弔辞を寄せている。ここから、永手がかなりの重きをなしていたことがうかがわれる。●宝亀3年(772)正月、渤海国の使節が土地の産物を献上するが、渤海王の書状が無礼だとして進物を返品。1月25日、渤海国の使節が書状を修正の上、謝罪。2月2日、渤海王と使者たちにそれぞれ官位と礼物を授ける。2月、日照り。3月2日、井上内親王が呪詛の罪で皇后を廃される。裳咋足嶋(もくいのたるしま)が謀反したとして自首。自首したことを賞されて足嶋は昇官。自首しなかった者どもは斬罪すべきだが、「思うところあって」遠流に減刑との詔が出される。3月6日、永興(えいこう)ら、戒律を守り看病などに功績のある10人の浄行僧を内道場の禅師に任じる。彼らは十禅師と呼ばれ、天皇から衣食を布施されてその地位は終生だった。欠員ができると行いの清らかな者を後任に選んで補充した。4月7日、下野から道鏡の訃報が届けられる。4月18日、恩赦。4月29日、西大寺の西塔に落雷。近江の小野神社の神木を伐採して塔を建てたための祟りであるとの占いが出た。5月26日、西北で雷鳴。5月27日、他戸親王が皇太子を廃され、庶人に落とされる。「皇太子の母である井上内親王はこれまでも呪詛を行って大逆を犯した。それも、1度や2度じゃなく何度もなんだもんね。天皇の位というのは私的なものじゃないんだから、それを継ぐ皇太子に大逆の人の子を置くってどんなもんかと思ってさ」(by 光仁天皇)この年から色んな事が出てきます。項目が多い分、今回の記事が何話も後で話題になる可能性もありますので、特に重要な部分は下線を引いておきます。6月1日、日食。6月、讃岐で疫病。6月15日、宮中と京内の寺、プラス畿内・七道諸国の国分寺に仁王経を読経させる。6月16日、太陽の周りに虹がかかる。6月19日、京内に数日間、柚子ぐらいの大きさの隕石が落ちた。6月20日、大安寺の講堂の屋根に野狐がうずくまっていた。6月23日、日照りのため畿内の神々に幣帛を奉納。7月9日、光仁天皇の姉妹の衣縫(きぬぬい)内親王が死去。8月1日から強風と雨が続き、畿内の各地で堤防が決壊した。8月6日、異常な風雨により樹木が倒れ家屋が損壊。占いによると、伊勢神宮の別宮の月読神の祟りとのことだった。8月18日、使者を遣わして、天平神護元年(765)に亡くなっていた淳仁廃帝の墓を淡路国に改葬させた。現地では僧60人によって法会の食事を用意し、読経しながら陵の周りを歩かせ、さらに年若く行いが清らかと評判の現地人を得度させて廃帝陵の傍の庵に常住させ、読経などに勤めるよう手配した。9月、尾張で飢饉。9月21日、渤海国の客を送る船が暴風雨に遭い、能登に漂着。10月11日、下野から陸奥へ逃亡する者が多くて困っているとの報告がある。10月14日、墾田永年私財法を復活させる。11月10日、連年の飢饉のため、諸国の国分寺において吉祥悔過(きっしょうけか:吉祥天を本尊として三宝<仏教>に罪過を懺悔する法会)を行わせ、またこれを恒例とさせた。11月11日、8月の風雨の被害が大きかったので京畿七道諸国の田祖を免除。11月13日、光仁天皇皇女・酒人(さかひと)内親王を伊勢の斎宮とする。 12月13日、流星が雨のように降る。12月23日、南に彗星が現われる。12月29日、狂い馬が出て、追儺のために平城宮の諸門に立てた土牛と童子の人形、それから官舎の門の敷居を食い破った。ひとまず『続日本紀』から一気に書き出しましたが、後半部分では天平の雰囲気を思い出した方も多いんじゃないでしょうか。特にそういう項目を選んで抜き出している部分も多いですが、この年後半からは奇異な現象が増え出し、6月20日の出来事なんかは現代人からすると単に野狐が寺の屋根に上がって降りられなくなっただけの事が書き留められるなど、当時の不安な世相を反映してると思われます。疫病や飢饉はその前からも続いていたものの、この夏の雨の被害はかなり大きかったようで、光仁天皇の姉妹が亡くなるなどの出来事もあり、8月18日の淳仁天皇の改葬および手厚い供養につながったことがうかがえます。淳仁天皇の最初の墓の場所ははっきりわかっていないが、兵庫県南あわじ市天王森が推定地だそうな。その前の8月6日の被害などの時には占いの結果もはっきり書かれているけど、これまでの記述で「淳仁天皇の祟り」による被害が出たとはどこにも書かれていない。けど、突然こんな供養が行われるなんておかしいと誰もが思うはず。そんなことするより、被災地の救援が先だろ?しかし、淳仁天皇・・・いや、当時はそんな立派な名称はなく、ただの「廃帝」だった、への供養のが優先事項だった。突然ですが、3年前に京都へ行った時の白峯神宮の写真をご紹介します。 【当神宮は、崇徳天皇および淳仁天皇を祀る。 明治天皇は父孝明天皇の遺志を継ぎ、保元の乱により讃岐国(香川県)へ配流になった 崇徳天皇の慰霊のため、明治元年(1868)讃岐の白峯陵より神霊を迎えて、創建 された。次いで明治6年(1873)には奈良時代に僧道鏡と恵美押勝の争いにより、 淡路島に配流の淳仁天皇の神霊を迎えて合祀された。(後略)】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)崇徳(すとく)天皇は平安時代末期の天皇で、日本史上に燦然と輝く大怨霊です。讃岐にも陵はありますが、突然京に神霊がお迎えされることになりました。『逆説の日本史2』(井沢元彦/小学館)を参考に、勧請のスケジュールを見てみましょう。慶応2年(1867)12月25日、孝明天皇没。慶応3年(1868)1月 鳥羽伏見の戦い5月 上野戦争7月 江戸を東京に改称8月26日 明治天皇が崇徳天皇陵へ勅使を派遣8月27日 明治天皇が即位の礼を行う9月6日 崇徳天皇の神霊が京都に到着。明治天皇が拝する9月8日 明治に改元讃岐の白峯陵で勅使が読み上げた内容というのは、「陛下が遠い讃岐で鬱憤のうちに亡くなられたことは何という悲劇でありましょう。先代の帝はぜひ陛下の霊に京にお帰りいただき、お慰めすべきとお考えでしたがそれを果たせず亡くなられたので、今上陛下が先帝の遺志を継ぎ、都の近くに清らかな新宮を建立いたしましたので、どうか我らの志をお受けになって長年の怒りをお鎮めになり、京で天皇と朝廷を末永くお守りください。」とひたすら低姿勢にお慰めし、どうか京へお戻り下さいとお願いをしている。して、その翌日に即位の礼。10日後ぐらいに天皇の霊が帰京し、明治天皇がそれに拝謁した翌日、明治への改元を行っている。こうしたスケジュールから、名だたる大怨霊へ多大な配慮をしたことがうかがえると井沢氏は語るが、あいにく淳仁天皇の霊が迎えられた詳しい理由というのはわからない。が、わざわざ崇徳天皇のために新造された神社へ淳仁天皇の霊を迎え、崇敬の意義として 【当神宮は、かような歴史上御非道に会われた御二方の天皇の御神霊をお祀り申し上げて おります。しかしながら、両天皇の御治績をうかがう時、わが国の発展に示された 御聖徳はまことに偉大でありながら、かつ御無念な御生涯であられたことを悲しむ ものです。かかる場合は、後世の人々がその聖徳を偲び、御霊を慰め奉ることが大切 です。御創建に当っての明治天皇の深い御志を尊ぶことにより、両天皇の御神霊は 更にさらに私たちを御加護下さいます。】 (『白峯神宮略御由緒』より)と神社サイドが謳っていることで、淳仁天皇が祀られる理由もわかろうというもの。つまり、2人とも誠にご無念なご生涯であらせられたからこそ、後世の人間がきちんとお祀りしないとね、って言ってる訳だから、淳仁天皇も怨霊と見なされてたってことだよね。それも、宝亀年間だけじゃなく、明治に入る頃までその認識が続いていた。おそらく明治5~6年頃に何らかの兆しがあったので、それであわてて淳仁天皇も合祀することにしたんじゃないのかな。「淳仁天皇」の諡号が贈られたのも、合祀とセットだと思うけどね。白峯神宮の境内には、崇徳天皇の霊をお迎えした記念碑があります↓。 そして、昭和天皇のお手植えの松もあります↓。 おふた方の怨霊に、昭和天皇もわざわざご挨拶しに来たってことだよな。ここはあの飛鳥井家の邸宅跡で、「井」でわかるように名水の湧き出る井戸があった。ゆえに「清らかな地」としてここに新宮が建てられたのかもしれない。白峯神宮では、春秋に例大祭が行われます。春には淳仁天皇のために蹴毬が、秋には崇徳天皇をお慰めして薪能が奉納されるそうです。宮中の奥深くでは、今でもお2人に対して鎮魂のための神事でも行われてるかもしれないな。にほんブログ村
2014年09月13日

今日は思いがけず懐かしい人の顔を見て、嬉しいひと時を過ごしました。頑張ってる人を見ると、自分も頑張らなきゃって思います。何を頑張るって、もちろんわたくしの本業(←ブログ)を・・・え~、前回は道鏡を擁護してたらページがまたがっちゃいました(笑)。今回は最澄の生まれから見ていきましょう。前回の『ご一代記』では最澄が生まれる際に蓮華が降ったとあるけど、まっ、そこはフツーに考えれば脚色だよな。で、「後漢の孝献帝の子孫」てのも最澄を持ち上げるための脚色かと思いきや、どうもそういう訳でもないらしい。最澄が生まれたとされる場所は、滋賀側の叡山のふもとの坂本にある。が、最澄の出身の三津首(みつのおびと)氏は坂本より南東、琵琶湖の南岸の古市(ふるち)郷に住んでいたらしい。 わたくしの愛らしい手描きの図も久しぶりだな(笑)。かなり大ざっぱなのはご容赦ください。地名からすると、古市郷は上の図で紫のあたりにあったと思われます。瀬田の唐橋周辺てカンジですかね。神亀元年(724)~天平14年(742)のうちの9年分の古市郷の戸籍のようなものが正倉院文書にあるらしく、その中に三津首氏が含まれていることから、その頃三津首氏が古市郷に住んでいたことがわかるようなんだな。で、古市郷には他に大友姓の諸氏族やら色んな氏族が住んでいたらしいんだけど、たとえば大友村主(すぐり)氏といえば三井寺を建立したといわれる氏族だし、丈安史(はつかべのやすのふひと)氏は地名のゆかりから野洲(やす)の出自と思われるなど、周辺からいろんな氏族が移り住んでいたらしい。その中には渡来系の氏族もあり、そうでない氏族もいた。渡来系の方では大友姓の諸氏族と錦部(にしごり)氏が「後漢の孝献帝の子孫」を称しているらしいので、三津首氏が「後漢の孝献帝の子孫」を名乗ったこともあながちウソでもないのかもしれない。三津首氏の「三津」の由来は、氏族の故地である「今津・戸津・志津」によるものとされる。戸津の名に覚えのある方もおられるかもしれませんが、「戸津説法」の戸津です。上の図では、東南寺のあたりね。以前の大津訪問(未公開)では、わたくしは東南寺から坂本まで歩きましたので、その程度の距離です。わたくしが以前歩いたあたりが、三津首氏のテリトリーと言えるでしょう。『あなたの知らない最澄と天台宗』(洋泉社)の中で著者の山折哲雄氏は 【後漢滅亡時に戦乱を逃れて渡来し、応神天皇の代に滋賀郡の地を賜り、 三津氏を名乗った。】としておられる。後漢のラストは220年とあるから、その伝承が正しいとすれば来日してから500年ぐらい経った頃に最澄が生まれたことになる。渡来系帰化人ていうと半島からの移住者が多いようなイメージがあったけど、最澄さんは中国人系か・・・同書では 【「首」は古代の姓(かばね)の一つで、その土地を管理する役職をいう。 今でいう町長ぐらいの役職だといわれる。】とあるけど、最澄当時の三津氏の戸主の位階は正八位下だった。 【正八位下の有位者は、中央にあっては下級官人であるとはいえ、地方においては 郡司クラスの有力者であった。】 (『若き日の最澄とその時代』より)まだこの頃の都は奈良なので、古市郷は「地方」です。ので、町長さんよりはもう少し名士だったと思ってもいいかもしれない。そういうおうちに、最澄さんは生まれました。父は百枝(ももえ)。母は藤子(とうし)。藤子は応神天皇の9代の孫で、かつ藤原房前(ふささき:不比等の子で、藤原四兄弟の次男)のひ孫という説もあるが、真偽は定かではないらしく、多少差し引いて考える必要もあるようです。最澄が15歳の時の戸籍によると、その時点で父の百枝は三津首氏の戸主ではなかった。戸主には「三津首浄足」(きよたり)とあって、これがジイちゃんなのかおじさんなのかまではわからないけど、ともかく、百枝夫妻にはなかなか子ができなかった。最澄の伝記によると、百枝はまず私宅を寺にして修行して功徳を授かろうとしたものの、あいにく子はできなかった。そこで叡山に登って草庵を建て、7日間の参籠をしたところ、4日目に霊夢を見て見事子を授かったという。こうして生まれた待望の男の子は広野(ひろの)と名付けられた。のちの最澄さんの誕生です。個人的には、最澄より広野の名前の方が好きなんだよな・・・だから愛称の「ひろのん」で記事を進めたいところだけど、「ひろよん(大内弘世)とかひろのんとか、似たような愛称付けるんじゃねえ!」とかって一部からクレームも付きそうなのでとりあえず出家するまでは「広野」としておきます。『ご一代記』の2ページめのタイトルは「神童広野さま」とあり、著名な人にありがちな聡明な少年だったとされます。それから、【あらかた陰陽・医術、そして土木・書算などの技術も磨きあげて】(『若き日の最澄とその時代』より)いたという話もあるようです。百枝の方も、人柄はいいわ仏教や儒教の経典を読むわ仏道の修行に励むわと最澄の伝記の中ではかなり持ち上げられてるようですが、百枝父子の伝承をいくぶん差し引いたとしても、家長の浄足の位階を考えると裕福な識字層に属してはいたので、そのような事実もあったかもしれないと佐伯氏は語る。神童の誕生で多少ほんわかした雰囲気になりましたが、ひろのん・・・いへ、広野の幼少の頃の詳しいことはわかってないらしく、再びキナ臭い世間の流れに戻ります。この年に道鏡が法王になっているので、中央では女帝&道鏡のコンビとフジワラムシの対立が深まっていく時期ですね。(「叡山攻め(12)」あたりも参照)●宝亀元年(770)8月4日、称徳天皇崩御。同日、白壁王が皇太子となる。8月23日、坂上苅田麻呂が道鏡の陰謀を打ち砕いた功により正四位へ昇進。9月6日、和気清麻呂とその姉・広虫を呼び戻す。9月7日、吉備真備が辞職願いを出す。9月23日、一年間の服喪を終わらせる。10月、山林読経禁止令解除。10日1日、白壁王即位。元号を宝亀に改める。大赦、叙勲が行われ藤原永手が正一位へ昇進。この年から、新しい時代の幕開けです。といっても、まだ助走期間のようなものだけど。亡くなった称徳天皇に対しては7日ごとにあちこちの寺で読経をさせて法要を営んでたようだけど、9月22日が49日。もともと一年間の服喪のはずだったのが、49日を終えた翌日に打ち切られてしまった。それ以外にも、称徳天皇と道鏡時代の政策をくつがえし、和気姉弟は赦され、前回紹介した山林へのおこもり禁止令も解除、前政権の打倒や光仁天皇の即位に尽力した面々は褒賞を与えられた。吉備真備は元々別の親王を推していたとされ、それを永手が出し抜いて白壁王を立ててしまったので、そういう政界に長くとどまることは危険でもあり早々に身を引いたのだろうと井沢元彦氏は語る。天武天皇以降、皇位はずっと天武系が独占してきたが、光仁天皇は天武の血は入っておらず、天智天皇の孫。ただし、皇后の井上内親王は天武系。孝謙および称徳天皇の代には内乱や後継者問題で多くの皇族が処罰されたり、また道鏡即位への道筋を作るためか邪魔者となる皇族を排除した動きがみられる。 【(光仁:ジジイ註)天皇はこうしたことから思いがけない災難にあうことを用心して、 或いは酒をほしいままに飲んでは行方をくらまし、それによってたびたび害を免れた。】 (『続日本紀』より) これは天平の歴バナで使った系図ですが、井上内親王は聖武天皇と県犬養広刀自の間に生まれた子で、安積親王の姉にあたる。しかも、聖武天皇の第1皇女。三千代と同じ県犬養(あがたいぬかい)氏の娘とはいえ、三千代は不比等に再嫁したので、藤原氏という強大なバックを持つ異母妹の阿倍内親王が立太子し、井上内親王は幼くして伊勢の斎王に立てられた。27歳の時に斎王の任を解かれて帰京。その後、飲んだくれの白壁王に嫁ぐ。彼には複数の妻や子もいた。どこからこの結婚話が持ち上がったのかはわからないけど、ろくでなしを装う白壁王との結婚は、称徳天皇から危険視されることを免れるいい隠れ蓑になった可能性はある。して、37歳の時に初産で皇女を、ついで45歳の時に皇子を産む。この話は一旦置いておいて、前回『続日本紀』から紹介した山林読経禁止令に関する嘆願の続きを紹介します。 【俗人の巣父(そうほ)や許由(きょゆう。中国古代の伝説的人物)でさえ、なお 山林に隠遁することを尚(たっと)んでいます。ましてや出家した僧侶で山林に 侘び住まいする者がいなくてよいものでしょうか。伏してお願い致します。山林に 隠遁した僧侶がそのまま長く修行できるよう許可してください。】 (宇治谷孟氏/訳)結局、これは許可された。ただし、誰でも彼でも好きに山に入って修行できた訳ではなく、お役所に届け出て許可された者に限られていたという。僧尼令では、僧尼が山林に入る際は居場所を届け出て、勝手に届出以外の別の場所に行ってはならないと規定されている。ので、禁令が解除されてもあくまで僧尼令の範囲内だとも言われるんだけど、実のところ僧尼令がいつまで、どの程度実効性を持っていたのかはっきりしたことはわかっていないらしい。実際には、在家の信者や私度僧なんかは結構山に入ってたらしいんだよね。正式な僧侶に限定せず、末端までも含めた仏教界全体では広野が生まれる前から山籠りが人気だったことは押さえておく必要があると思います。↓今日もぽちっとおよろしくね。にほんブログ村
2014年09月12日
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仏バナが終わって少々燃え尽き気味の戦国ジジイでございます。ここからはようやく叡山シリーズっぽくなりまして、引き続き歴バナです。本当はこれからが大変なんだけど(笑)。(また)ちょ~っと回り道しながらになると思うので、歴バナもそこそこの話数になるかな・・・まさかと思うけど、現地紹介が始まるのって50話近くになってからじゃないよな、と少々不吉な予感がよぎりましたが、書ける時、書きたい時に書いておかないと自分の身につきませんので、地道に頑張りたいと思います。本シリーズでは超マイナーなイベントもご用意しておりますので、全体では200話ぐらい行くかもしんないな職場の人には基本的にブログアドレスを教えてないのですが、少し前に3人目にカミングアウトしました。早速色々読んでくれたようで、「松葉日記」も読んだらしいのですが、その後「松葉杖だけでよくあれだけ書くことあるよな~」と笑われました。話が長いのは昔からです。ふん・・・そもそも偉大なる先人たちの歴史を5~6行でまとめようなんて失礼なことはわたくしにはできませんので、毎度のことですが、気楽に気長にお付き合いくだされえ~、それで、いよいよ最澄さんの登場です。当初は最澄さんの人生をかいつまんで書くつもりでしたが、ものの本を読んでるうちに、なんかイメージと違う部分が出てきた・・・「叡山攻め(22)」で 【歴史を勉強してると、新たな思想ややり方を打ち出した偉大なる先人たちも、 一面では「その時代背景だったからこそそのやり方が生まれた」みたいなのが 意外に多い。 お釈迦様しかり、この後出てくる最澄しかり。】としたのがまさにそれ。それを説明するとなると、やはり背景の歴史を追わざるを得ないので、最澄を書くのに歴史ファンでこんな書き方をする人間もそういないでしょうが、全般的な歴史もあわせて見ていきます。どこから見るかって、称徳天皇がまだ生きてる時から・・・つまり、「叡山攻め(13)」の続きのような感じになります。過去の記事と一部重複する部分もありますが、ご了承ください。直接関係のない箇所は極力簡潔にしますが、これが終われば聖武天皇から平安の初めまで通しで書いたことになるよな。まあ、いっぺん書いとけば後がラクだしな。最澄だけに照準を合わせるとよくわからない部分もあるし、「なんかすごい人」という先入観にジャマされて見えてこない部分もありますが、お釈迦様がそうであったように、案外最澄のスタート地点も「時代の流れに乗った大勢の中の一人」であったことがわかってきます。て、もちろん最澄さんをおとしめようなんてつもりじゃないですけどね。それでは、最澄さんの前半生あたりを大きな歴史とからめながら順々に見ていきましょう。基本の参考資料は『続日本紀』(宇治谷孟訳/講談社学術文庫)と『若き日の最澄とその時代』(佐伯有清/吉川弘文館)です。 若き日の最澄とその時代/佐伯有清 ●天平宝字5年(761)10月13日、淳仁天皇が保良宮に行幸。僧・法進もこれに従い、国昌寺に滞在。法進は10月23日から12月17日まで弟子の東大寺僧・慧山、元興寺僧・聖一、山田寺僧・行潜のために自らの著述を講義する。いっきなり色んな名前が出てきましたが、時は孝謙天皇が淳仁天皇へ譲位したあと。まずはこちらの図をご覧ください↓。 この他にも沢山の僧侶はいますが、この頃の僧の簡単な系譜です。良弁さんも生きてますよ、もちろん(笑)。一般的な説明としては、最澄が叡山に山ごもりしてるうちに天台の教えに出会い、これを最も優れたものとして天台に邁進し日本天台宗を開いた・・・みたいなのが簡単な流れとして語られることが多いように思われますが、天台自体はかなり早い段階から日本に入ってきていたようです。重要な人だけを簡単に紹介しましょうかね。まず、道セン(どうせん:センの字は王へんに睿)。この方は最澄に直接つながってきますが、鑑真よりも早くに戒律を伝えるために来日していた中国の方で、禅では多くの弟子もいたようですが、一部残る彼の著述からは天台の影響を受けていたことがうかがわれるらしい。それから、鑑真さん。上の図では「律」とだけしていますが、彼は師の弘景(こうけい)から律と天台を学んでおり、中国天台宗の中心・国清寺も2度訪れているんだそうな。鑑真といえば戒律のイメージが強すぎるけど、実は【天台学僧のひとりであった】(『若き日の最澄とその時代』より)そうなんですよ。鑑真以下の方々は、鑑真の来日にともなって一緒にやって来たらしいけど、どなたも天台の流れを汲んでいます。道センと鑑真の弟子たちの間には色々な交流もあったようで、たとえば思託が忍基・善俊らに講義をしたり、善俊が法進に著作を勧めたりもしたらしい。もちろん、天台一色という訳でもないんだけど、結構日本にも天台の影響を受けた僧がごろごろいたとイメージしてください。つまり、最澄は突然天から啓示を受けたように天台の教えを膨大なお経の中から掘り出した訳ではなく、天台に目覚めるだけの土壌があったということです。まあ、ここでは道センと法進だけ覚えてもらえればいいです。で、この年の記述に戻りますが、国昌寺は大津の瀬田の唐橋の近くにあったものらしく、この時の講義に使われた法進の著作が国昌寺に書写されていた可能性も考えられるという。●天平宝字8年(764)巻き返しを図った藤原仲麻呂が乱を起こす。乱の最中、山林の寺院における読経などを固く禁じた詔勅が出される。この年の『続日本紀』には、そういった勅が出された記述は見つけられない。が、称徳天皇が亡くなり、道鏡が追われた後の宝亀元年(770)にこんな記述がある。 【去る天平宝字8年の勅を承りますと、朝廷に逆らう一味が、山林の寺院において 密かに1人以上の僧を集めて、読経や悔過(けか)を行っておれば、僧綱が固く 禁制を加えよ、とあります。このため、山林や樹下に末永く禅行を行うことが絶え、 伽藍の院内でも、長く読経の響きが止んでいます。(後略)】道鏡が失脚した後にこの勅が解禁されていることから、道鏡を快く思わない後世の研究者の中には 【道鏡が、かつて右のような禁制をしいたのは、山林の寺院において道鏡政権に対する 陰謀がなされることを恐れてのことであった。】 (引用文は『若き日の最澄とその時代』より。横田健一氏の『道鏡』によるもの)とする方もおられるが、 【仲麻呂が決起する前に、山林の寺院に僧侶を集め、読経や悔過を装いながら与党に誘う ことを図る行動があったことがうかがえる。】 (引用文は『若き日の最澄とその時代』より。岸俊男氏の『藤原仲麻呂』によるもの)という見方もあるようで、時期を考えると道鏡が保身のために出した禁制というよりも、仲麻呂対策に孝謙上皇が打った一手って気がするけどね。こんな風に、道鏡をどう捉えるかによって実際の出来事の解釈というのはかなり違ってきます。残念ながら、ほとんどは道鏡を悪く言うものなんですけどね~。●天平神護2年(766)道鏡法王になる。最澄生まれる。は~い、ここで主役の登場で~す。最澄の生年は、神護景雲元年(767)という説の方が一般的なようなんだけど、佐伯氏は『若き日の最澄とその時代』の中では天平神護2年説を採用しておられるので、わたくしもそれに従います。わたくしがお経の暗記に毎日使っている天台宗勤行式の裏面には、『伝教大師ご一代記』という最澄さんの一生を簡単に絵本のような形式で紹介してあります。これは叡山にも看板で同じものがありますので、勤行式を買わなくても現地に行けばタダで見られます(笑)。最澄さんの出生の話は、論文などの専門的なものを除いてはどれも同じように簡単なものなので、代表として『伝教大師ご一代記』から出生部分をご紹介しましょう。 【比叡山の東ふもと坂本の地には、後漢の孝献帝の子孫で日本に帰化した、三津首の 一族が久しく栄えていた。ときに神護景雲元年(767)8月18日のこと、 坂本の地には蓮華の花がふり、めでたいしるしが現われ、おりしも三津首百枝公の 家に玉のような男の子が生まれた。後に日本天台宗比叡山の開祖となる、伝教大師 最澄上人であった。】して、佐伯氏は『若き日の最澄とその時代』の冒頭で 【道鏡による法王政権の誕生に象徴されているように、僧侶の腐敗と堕落は、その極みに 達していた。その一方で、心ある僧侶は、歪められた仏教を正常なかたちに取り戻すために、 ひそかに思いをめぐらせていたであろう。こうした時代に、最澄は、この世に生を享けたので あった。当時、すでに新しい平安仏教の創始につながる雰囲気が、かもし出されていた ことは間違いなかった。】としておられる。こんな風に、最澄の略歴を語る際は必ずと言っていいほど、道鏡は仏教界の堕落と腐敗の象徴として引き合いに出される。わたくしがこうした見方に真っ向から反対していることは、道鏡の歴バナで書いた通りです。てか、猫も杓子も道鏡=悪!!って書き方が我慢ならなくて道鏡の歴バナをねじ込んだようなものです。道鏡をネットで見てみると、結構再評価の動きもあるようですが、まだまだ一部に限られてると思うので、1日も早く悪の親玉的扱いから道鏡さんが卒業できることを切に願っております。にほんブログ村
2014年09月10日

最後はこれまでのまとめです。個人的な話が続いて恐縮ですが、よければ今夜もお付き合いください仏教に関する話題なぞ、ド素人のわたくしにはかなり背伸びした内容でしたので、本をいくつか読んだ他にネットでもちょいちょい検索したりしました。その中で、仏教の女犯戒について、女性蔑視がベースになってるだろうと書いておられる方がいました。もちろん、考え方は人それぞれでいいんですが、初期仏教の時代から尼さんはいましたし、日本の仏教公伝のすぐ後から日本にも尼さんはいました。「女犯」という言い方をするから男性向けの戒律のように思われがちですが、尼さんは若いツバメを囲っていいってハズもなく、結局それも前回スッタニパータから紹介したように、感覚的快楽・・・つまり性的快楽も欲望を生じさせ、それがもとで愛憎だの苦しみだのが起こるから我慢しなさい、ってことかとわたくしは思います。一方的に「これをするな」と言われても、そのココロが分からないと理解はできないし、結局それを破るということになると思うんですよね。激しく変遷してるとは言っても、大乗だって原始仏教が基になってるんだから、根本は同じだと思うし、原始仏教を理解しないとその発展形を理解するのも難しいかな、って歴史を追いながら感じました。とは言っても、パーリ仏典もお釈迦様の言葉そのものじゃありません。それに、テーラワーダ仏教もお釈迦様にお花やお香、お水や食事などを捧げる日常儀式のようなものもあるみたいで、個人的にはそれをお釈迦様が見たら「自分を拠り所とせよと言ったろーが!その時間を修行に使え!!」って言いそうな気もするのですが(怒るなって教えがあるから怒鳴りはしないでしょうが)やっぱり後世の仏教は多かれ少なかれお釈迦様個人に対する崇拝・・・言葉は悪いですが、偶像崇拝の一面があるように思われ、原始仏教により近い形でお釈迦様の教えを実践しようとするのなら、原典から教えの真髄だけを抽出して、何者にも頼らず、自分一人で行動しなければならないのか、とも思いました。ヘタにわたくしの解釈をねじ込むよりも、現代人でも今すぐ実践できる内容をパーリ仏典から直接紹介する方がいいかと思って、前回は具体的な方法を羅列しました。お釈迦様の教えの最終地点は輪廻からの解脱にあるとはいえ、前回紹介した内容はぶっちゃけ信仰は必要とはしないし、どんな時代のどんな社会においても通用するものだと思います。特に、感情に振り回されたり流されがちな人には、あの内容を心がけるだけでずいぶんと生きるのが楽になるのではないかと思います。中には、「喜怒哀楽を抑え込んだら全然人間らしくないじゃん?」て思う方もいるかもしれませんが、ノープロブレム、そんな心配は全くいりません。なんでかって、人はそう簡単に悟れないからですよ~!お釈迦様は、やはり出家しなきゃダメだとお考えだったようです。ゆえに、出家者には在家よりも厳しいプログラムがあり、中には「こんな修行やってたの!?」って驚きの方法もありますが、在家に対してはおそらくわかりやすい実践方法を示されたのではないかと思います。前回の内容は、言葉だけ見てると難しいことでもなんでもない・・・ところが、人間はささいなことで色んな感情が湧きあがってくるし、どうしたって何らかの執着も生まれてきます。かの道元さんは、お釈迦様の教えを 「3歳の子供でもいい得るもの、 しかし80歳の老翁でも行ない得ないもの」とされたそうで、すぐ実践に取り組めても、それを実現するのは非常に困難です。パーリ仏典には「妄想するな」ともありまして、そうなると果てしない妄想と歴史上の人物への妙な執着で成り立ってるわたくしのブログも終わりだな・・・とさらに妄想を膨らませましたが、どうせわたくしも悟りは得られませんので、このブログが終わることもありません部分的にでもパーリ仏典に触れたことで、少し大乗についても見えてきた気がします。たとえて言うなら、一糸まとわぬ素っ裸のお釈迦様を原始仏教とすると、テーラワーダ仏教は裸のお釈迦様に薄衣と華奢なアクセサリーをまとわせたもので、まだ幾分装飾性は抑えられてます。それが大乗になると色んなタイプの手持ちのお洋服が増え、各国でヤンキー風だとかアイビールックだとかパリッとダンディー風だとかの色んなバリエーションの外見のお釈迦様ができるようになり、その中でも最も派手に、ゴージャスに着飾ったのが中国。それが東の小島では十二単をまとうようになる。薄衣1枚のテーラワーダと何枚も重ね着する日本仏教に大きな違いがあるのは一目瞭然。男なら束帯だろ?って思うかもしれませんが、浄土真宗を除いては妻帯禁止の教義は変わってないハズなのに、明治政府がそれをOKにしたからとなし崩し的に妻帯までするほど変化した日本仏教を表現するには、「沢山着込んでその上女装した」ぐらいの方が表現としては合う気がします(笑)。お釈迦様の死以降は、各仏教国にそれぞれ別の衣装を身に付けたお釈迦様がいた、仏教の流れをイメージで表すとこんなとこじゃないかと思います。ストリーキング・・・じゃねえ、素っ裸のお釈迦様はもうどこにもいません。さて、パーリ仏典の内容に触れ、色んな仏教史を見ていく中で、大乗は邪道だと思うようになりました。必ずしも古いオリジナルがいいものとは限らないけど、パーリ仏典の内容を見るに(輪廻などを除いて)これは確かに普遍的な教えだと感銘も受けたので、仏教に関しては原始仏教が優れていると思いました。しかし、そうなってくると大乗の歴史である日本仏教をどう自分の中で消化したらいいのか、記事を書いてる間中かなり悩みました。ただ、書いてるうちに考えがまとまってくる部分もあるもので、原始仏教のレベルがあまりに高すぎたために、お膝元のインドで大乗が生まれ、それが各国に輸入されると土着の信仰や風習と融合するようになり、日本では古神道や修験道との一体化が進んだあとで鎌倉新仏教の頃にはなにかひとつを特化させる動きが始まり、民衆の生活レベルへまで深く深く浸透するに至った・・・これはつまり、その時代時代で望まれた変わり方をしたってことだよな。そう変わっていかなかったら、仏教は本場インドのように消滅していたかもしれない。それがいいとか悪いとかの問題じゃなく、変わる必要があり、変わったからこそ受け入れられた。それから、お経。偶然にも本シリーズを書き出す前からお経の暗記を始めてましたので、大乗が邪道だと感じてしまってからは、暗記をこのまま続けるか迷いました。が、仏教を受け入れた大抵の国では自国語に翻訳したのに、仏教が伝来した頃の日本では「文化」といえば中国のそれだったし、当時の知識人は漢文が読めたので、翻訳することなくそのまま受け入れた。読み方こそ中国語そのものじゃないけど、たとえばわたくしが毎日開いて暗記に努めてる天台の勤行式も、すべて漢文(ただし読み仮名つき)。ということは、訳経の歴史もかいつまんで紹介してきましたが、おおむね原文がインドで作られて、中国の訳場で沢山の僧たちがあーだこーだ言いながら翻訳したものが今わたくしの手元にある訳で、当時の訳場のにぎわいとか想像するだけで、ろくに意味もわからないお経が急にいとしいものにすら見えてくるから不思議なものです。偽経だってなんだって、もうどうでもいいです(笑)。むしろ、パーリ仏典を知ったことで、暗記しているお経も大きな意味だとか原始仏教とどこが違うのかってこともあぶり出しのように見えてきた部分があるので良かったと思ってますので、これからもお経の暗記は継続します。ただ、天台の勤行式の制覇はやめましたが。あ、天台宗徒になるプランはやめたんです。これからはテーラワーダの教えを指針として生きていくつもりなので、ブログの中で毒を吐くのも多少は減るかもしれませんあと仏像や寺院建築。テーラワーダ仏教徒になるというと、大乗で進出してきた沢山の仏様や菩薩・明王など色んな仏像を拝めなくなるのか?困った時になにがしかのお願いをすることもできなくなるよな・・・そう考えましたが、だからと言ってもうしみついてるそれらの慣習を簡単に捨てることもできません。どうしたらいいんだ・・・とこれまた悩みましたが、大乗は生まれるべくして生まれ、日本仏教も必要があって生まれ変わっていったんだ、そう自分の中で消化できてからは気持ちもラクになりました。というより、テーラワーダが「信仰」じゃなく「実践」だからこそ折り合いもつけやすいのかもしれません。どうせ大した信仰心も持ち合わせてませんが、テーラワーダは日常における実践、大乗はそれまで通り信仰、といった具合に共存させることにしました。仏像や寺院建築の日本仏教美術はそれだけで素晴らしい価値があるものだし、必要があって長く日本人に愛されてきたものなので、テーラワーダだ、いや大乗だ、ってちっぽけな考えで切り捨ててしまうのは大変惜しいものだと思ったからです。ゆえに、これからもお寺へは行きますし、良源さん集めもやめません(笑)。この辺は、やっぱり日本人だな~と我ながら思いますね。だけど、今回色々なことを知って良かったと思います。もし仏教関係者の方がこれを読んだら、途中思ったままのことも書いてるので気を悪くされるかもしれませんが、私は悪意を持って書いた訳ではありません。仏教離れが深刻と言われても、実際には沢山の仏教用語や考え方、慣習に囲まれて生活してるのですから、テーラワーダ仏教圏では今でも熱心な国もありますが、大きく変質したとはいえ、仏教が最も根付いたのは日本なんじゃないかと私は思います。ただ、「祈れば救ってくださる」とかの民衆信仰的な部分はやはり今の時代にはそぐわない気もするし、いい教えなのだから葬儀の時しかお世話にならないってのもあまりにももったいない。本末制度は今も残っているようなので簡単ではないでしょうが、少しだけ、ほんの少しでいいから原始仏教を復活させて、他力ではない自力の救済を広めてみてもいいんじゃないかって今回思いました。伝統を守るのも大事なことですが、これまで見てきたように、長い歴史の中で仏教は必要に応じて変わってきたものだし、同じ仏教なんだから、古いものを復活させるのはそうおかしなことでもないと思うんだけどな・・・さて、仏バナも予想より相当長くなりましたが、アクセス数が激減することもなく(笑)、多くの方にお付き合いいただいたようで、お疲れ様・・・いへ、ありがとうございました。中には「こんなん知らなかった~」ってこともあったかもしれませんが、歴史を愛する皆様ですし、日本から仏教がなくなることはないと思いますので、もっと仏教に興味と愛情を持っていただけたら嬉しいです。がっしょーにほんブログ村
2014年09月08日
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仏バナの最初で「宗教」の一般的定義を紹介しましたが、神や仏のような絶対者的存在への信仰を「狭義の宗教」とするならば、原始仏教は狭義の宗教にはあたらないと言えると思います。今回はパーリ仏典からその中身を簡単に紹介しようと思いますが、古代インド人ならではの教えであったり、長く大乗に親しんできた日本人にはちょっとなじめないような部分もあります。たとえば、お釈迦様は出家と在家ははっきり分けておられたようですが、出家者に対する教えのひとつに、「ナマの穀物や肉をもらっちゃダメ」というのがあります。これは、命を大切にするという面もあるようですが、その実、ナマ食材をお布施としてもらってしまうと、自分で調理する必要が出てくる。まず何を作ろうか、と考えるところから始まって、調理そのものにも時間がかかる。その時間を、修行に使えってことらしいんです。これ、日本人には違和感を感じる人が多いんじゃないかと思うんですよね。曹洞宗の高祖・道元が明に渡った際のエピソードが『逆説の日本史6』に載ってますので、簡単に紹介します。現在の寧波に着いた道元は、すぐ上陸できた訳ではなく、3か月もの間船の中に留め置かれたそうな。当時、日本産のシイタケは名産品だったようで、中国禅宗五山のひとつ、阿育王山の炊事係を務める一人の老僧が停泊中の道元の船に干しシイタケを買いにやってきたことがあった。より高度な禅を求めて海を渡った道元は、思いがけない来客に喜び、茶をたてて老僧をもてなしたという。ひとしきりの話ののち、「おお、お名残り惜しいが、私はそろそろ戻らなければ・・・」「え~・・もっと沢山お話したいのに・・・どうか今夜はこの船中に泊まっていって下さいませんか」「いや、私には大勢の食事を作るという仕事がある。お泊まりはムリですな」「でも、炊事係はあなた一人じゃないでしょう?」「この仕事は私の修行と思ってますので、おろそかにすることはできませんよ」「あなたは大層なお年ですし、炊事のような雑用は若い者にまかせて、静かに座禅を組むとか研究するとかされればいいのに・・・」「ハーッハッハッ!!あなたは修行とはどういうものか、文字とはどういうものか、全くわかっておられないようですな」そう言い残して、老僧はさっさと帰っていった。笑われた道元は茫然としていた・・・平たくいえば炊事とか洗濯などの身の回りの雑用もすべて修行、老僧はそう言ったんだけど、昔の高貴な人ってのは自分では何もしないのが当たり前で、「自分のことは自分でする」という方が変わった考え方だったそうな。つまり、日本人が「自分のことは自分でしろ」と教えられるのは、この経験を持ち帰った道元がそういう考え方を広めたからだっていうんだよね。おそらく、そうした大乗仏教由来の考え方などは私達が知らないだけで、他にも沢山あるんでしょう。だから、日本人ならもらえるものは何でももらってあとは自分で調理する、って考え方の方が自然なんじゃないかと思うけど、まあ古代インドが発祥ですから、気候とか保存技術・調理環境なんかも現代日本とは全然違うし、当時ならではの教えについてはいくぶん差し引いて受け止めるのもアリなんじゃないかと思います。仏教における基本的な禁止事項は、盗むなとか殺すなとか大乗もテーラワーダも同じのようですが、そのうちのひとつ「酒を飲むな」のココロは、酒に酔って自分を見失ったら、それまでの修行をパアにする過ちを犯してしまう可能性がある、だから酒を飲むなってことのようです。「じゃあ、お釈迦様はドラッグやるなって言ってないから、ヤクはいいんだね」って論理にならないのは当たり前の話で、時代の差による多少の教えのズレは常識の範囲内で判断・修正してもお釈迦様はお怒りにはならないと思います。まあ、パーリ仏典のごく一部しか読んでない初心者のわたくしがのっけから教えの差し引きを勧めるのもなんですが、少し読んだ中での印象ではそうした外的なことはある意味些末な脇役的なもので、お釈迦様の教えの中核は時代も民族も越える普遍的なものだろうと思います。それでは、『新編スッタニパータ』(今枝由郎訳/トランスビュー)から、ごく簡単にお釈迦様の教えを紹介します。以下、青字の部分はこの本から切り貼りした上で一部語尾などを変えたものです。まず、日常生活においてどう振る舞えばいいのか。 ・自分よりすぐれ、あるいは自分と同等な朋友に親しみ、 品行悪く、しっかりした目的を持たない友を避ける。 みずからを清め互いに思いやりをもって清らかな人たちとともに住め。 ・広い学識と技術を身につけ、よく自制すること。 ・尊敬と謙遜、満足と感謝を持ち、怒らず、恐れず、自慢せず、悔いることなく、 適度に語り、興奮しない。ふさぎこみに打ち勝ち、姿かたちにこだわらず 荒々しさがなく、貪欲さがなく、激しく望むことがなく、すべてに平等にする。 ・言葉遣いを美しくし、道理にかなった清らかな行いをする。虚飾を捨てて、真実を語れ。 ・足るを知り、多くを望まず、雑務少なく、生活を簡素にし、聡明に、他から咎められる ような下劣な行いをせず、すべての生きとし生ける者を幸せに、安らかに、楽しくさせよ。 ・誰であれ他人を欺いたり軽んじてはならず、怒りや憎しみから苦しめてはならない。 恨むことなく敵意を持たず、慈しむべし。 ・批難にも賞賛にも動じることなく、世俗のものごとによって心が動揺することなく、 心を統一する。自己を制し、他人に挑発されず、他人を挑発しない。 ・実直でよこしまな行いを嫌い、正と不正を吟味して選別する。しかるべき時に慈しみ、 憐れみ、ものごとに平静で、くつろぎ、喜び、柔和にする。 意外に現実的で具体的で、しごくノーマルでしょ?では次にNG項目。 ・荒々しい言葉を語り、他人を苦しませ、悩ますことを好み、獣のようにふるまうなら 生活は悪くなり、汚れが増す。 ・冗談、むだ口、嘆き、嫌悪、偽り、欺瞞、貪欲、高慢、激昂、汚濁、耽溺を捨てよ。 うらやまず、物惜しみせず、傲慢にならず、人から嫌われることをしてはならない。 ・知識、戒律、道徳を基準に見解に固執してはならない。自分を他人と等しいとか、 劣っているとか、あるいは優れているとか思ってはならない。これも、当たり前っちゃ~当たり前ですけどね。とにかく「よく自制しろ」ってことが繰り返し語られますが、その他に頻出する言葉として、「執着」と「感覚器官」があって、この2つは「欲望」に絡むものであり、「その執着を越えよ」とお釈迦様は諭します。 ・欲望は色鮮やかで甘美であり心を楽しませ、かく乱する。いろいろな欲望には この本性があることを知り、遊戯や娯楽のような感覚的快楽に心惹かれず、満足するな。 ・人には5<感覚器官>の欲望の対象があり、心<の欲望の対象>と合わせて、6つである。 それらに対する執着を離れれば、苦しみから解き放たれる。 ・感覚的快楽は渡りがたい欲望の泥沼である。感覚器官が執着するものには楽しみが少なく、 心は満たされることがなく、苦しみが多い。 下を向いてさまよわず<欲望の対象から>感覚器官と心を護り<煩悩に>流されず、 <煩悩の火に>焼かれず、愛欲の思いとすべての束縛を離れ、もろもろの感覚器官を よく静めよ。 ・心の汚れの原因を知る人は、心の汚れを除き去る。激しい執着をなくすために、注意深く、 賢明に学び、考え、教えを理解し、努力して<煩悩の>起こるさまを考察し、その原因を 滅ぼし、新たな<煩悩>を生じさせない。 ・世間でのいろいろな束縛の絆にほだされてはならない。もろもろの感覚的快楽<の本質>を 見極め、自分にとって何が安らぎであるかを学べ。 ・人が「自分のもの」と考えるもの、それは死とともに失われる。わたしの教えに従う者は、 賢明にこの道理を知り、「自分のもの」という考えに執着してはならない。よい教えを受けることは大事です。が、頭でわかっただけじゃダメなんです。初めに、原始仏教は教義の宗教にはあたらないとしましたが、それはお釈迦様の次のような言葉にかかってきます。 ・よい教えは理解してこそ糧になり、理解したことは、実践してこそ糧になる。 性急で、怠惰な人は叡智も学識も増大しない。 ・生前に教えを実践すべし。正しくないとわかったことは何であれ行ってはならない。 「人の命は短い」と賢者は説いている。つまり、お釈迦様はチョ~現実的な話を持ち出して、それを実践せよと説いておられるのです。生きてる間に、実践しないとダメなんです。この中身を知った時、衝撃的と言ってもいいぐらい驚きました。何かにすがって望むものを与えてもらおうなんて甘いもんではなく、ひたすら自制、感覚器官から生じる欲望を抑え、心静かに生きよ。これが仏教だったんです。『新編 スッタニパータ』は大幅に原典を省略した上で、わかりやすい言葉で訳されたものです。本の帯には、【貪欲な人、怒りっぽい人、迷っている人、愛しすぎる人、快楽に弱い人、苦しみをかかえた人への最良の処方箋】とありますが、まさにその通りだと思います。私自身がこういう性向を持っているので、それがわかるんです。いいものを紹介するのに、余計な言葉はいりません。パーリ仏典を訳したものは色々あるようですが、煩雑な教えはいらないけど教えのエッセンスに興味を持ったという方には、『新編 スッタニパータ』がわかりやすくてオススメです。 新編スッタニパータ [ 今枝由郎 ]にほんブログ村
2014年09月07日

そろそろ仏バナも終わりですが、最後は原始仏教に戻ります。 かなり強引ですが、前の図にそのまま中国と日本を上乗せしました。ブロックをずらしてるのが変遷の度合いのイメージで、中国もかなりずれてますが、日本仏教のずれ方も激しいです。それでも、絶妙のバランスで崩れずに来たものの、神仏分離でバランスを欠いてしまったので、現在は一番上のブロックが大きく揺らいで落ちそうな状況にあるような気がします。仏教のことを勉強するまでは、小乗は個人の救済で、大乗で衆生の救済に変わり、1人より大勢を救う方が優れているように思えるので、大乗の方がいいよな~と漠然と思ってきました。ところが、実際の歴史の流れを追ってみると、原理的側面からいえば大乗のずれ方はすさまじく、ホントにこれは仏教と呼べるのか?新興宗教がさらに新興宗教を生むという変遷を繰り返して、もう仏教とは呼べんだろ!・・・という風に考えるようになりました。現代のような葬式の時だけ大活躍するように形骸化してしまったものなら、いっそのこと大乗を捨てて小乗に戻ったらどうじゃろ?あれ、ところでお釈迦様って一体どんなことを語ったのだろうか、そう思って、まずネットで調べてみました。意外にテーラワーダ系の教義やパーリ仏典のあれこれを紹介している方は多く、その中でもわかりやすく書いておられるサイトがあったので、少し集中して読んでみたところ、思いがけずこれに魂を撃ち抜かれてしまいました。「なんだよ、仏教ってこんな教えだったの?現代にもバリバリ通用するじゃん!てか、現代日本に必要なのはまさにコレなんじゃないのか!?」とまさに目からウロコ状態だったのですが、そのサイトでは現代日本にもマッチするように書かれているものの、読み進めていくうちにちょっと苦しくなってきました。何が苦しかったのかって?パーリ仏典にも、やっぱり輪廻とか天界・地獄などの六道とかの話が出てくるようなんです。高度に科学が発展した現代でも、「輪廻はない」とか「地獄はない」ってことの証明はなされてません。けど、「ないことが証明されてない」からと言って「じゃああるんだね」って訳でもないし、やっぱり今のような世の中に生まれると、日本人で輪廻や六道を心から信じることのできる人ってのはあまりいないでしょう。「あるかもね」じゃなく、リアルに信じるって意味ですよ。スピリチュアルなものはいつの時代にも一部の人に人気があって、私も昔はそういう本が好きでしたが、好きだからといって現世でおりこうさんにしないと死んでから地獄で何億年も苦しむ、とかってリアルな危機感を持つ人もあまりいないでしょう。スピリチュアル系で語られる輪廻ってのは、たいていは「前世で果たせなかったことを果たすために生まれてきた」とかの「あなたが生まれてきたのには意味がある」的な癒しの目的で話が展開されるもので、「個人の厳しい修行によっていい来世をつかもう」「最終的には苦しみの基である輪廻からオサラバしよう」という仏教的なものとは毛色が違う。仏教の方は、場合によっては癒しの効果もあるかもしれませんが、実のところはそんなに甘いもんじゃありません。現実的には結構厳しいです。そりゃね~、教えの通りに実践できればこの世はブッダだらけだし、そもそも大乗が発展することはなかったかもしれない。で、パーリ仏典を解説したものを読んでると、どうしたって輪廻にからむ話は出てくるし、たとえば六道のトップに君臨する天界にもいくつかレベルがあるらしく、ナントカって位で天界に生まれ変わったらそこで何億年生きてうんたら・・・とかって、「まず信じて受け入れる」ことをしないと、その先へ進めません。そこがどうにも消化できなかったし、そもそもパーリ仏典も後からできたものだし、やっぱり「お釈迦様本人は何をどこまで説いたのか」って疑問が浮かんできます。ただ、記事を書いていく中で輪廻は古代インド人の思想だってことを知ったので、お釈迦様の教えにケチをつける訳じゃないですが、とりあえず「古代インド人であるお釈迦様が説いたもののうち、古代インド人の既成概念である輪廻関係については頭っから信じなくてもいいかも」というスタンスを獲得するに至りました。それから、原典を解説するのにわかりやすく現代の例などもひかれる場合が多いですが、理解の助けになる時もあれば、反発を覚えるような表現も往々にしてあります。わかりやすく説明するには、煩雑な経緯や難しい言葉・人名などを大幅に省略する場合とその逆に言葉を尽くして読者の理解をサポートする場合の2種類があると思いますが、わたくしの歴バナは前者に該当します。仏典解説に多いのは後者ですね。後者の方法というのは、オオカミとか犬とかの動物の母親が一旦自分で咀嚼して飲み込んだものを吐き出して子供に食べさせるようなもので、大変こなれて消化も良くなってますが、解説者の意図や解釈(犬のたとえなら母親の唾液)がどうしても入り込むので、消化できない話に行きあたった時に「ホントにそうか?そんな言い方していいのか?」って思うこともままあり、わたくしの場合は極力原文を訳したものを読んで、解説文はサポートとして活用する方がいいような気がしました。単にわたくしがヘソ曲がりなだけかもしれませんが、実は法話ってちょっと苦手なんです。これまでの人生で法話を聞く機会は数回ありましたし、毎年日光輪王寺で受けるお護摩の時は、それがいつもの導師様の回であればお護摩を始める前に時事に見合ったプチ法話を毎回して下さるので、それも含めたら普通の人よりは結構法話を聞いてる方かもしれません。法話を聞いてる時はいいんですよ。自分の状況に合った話に出会うこともあるし、聞いてる時は「なるほど~」と思うんです。でも、身につかないんです。法話を文字で読むとなると、耳で聞くよりもどうも説教臭さが鼻についちゃって、もっと身につきません(笑)。それはパーリ仏典の解説書でも同じ。だから、よりお釈迦様の言葉に近い仏典そのものを読む方がいいなと思ったのですが、今にして思うと、法話が説教臭く感じるのは結局根本をわかってないからなのでしょう。特に、大乗の方は「信仰心」が必要とされます。根本もわかってないのに、信心がないとくれば馴染めないのは当然です。先日、図書館で宗教関係の書架を一通り眺めたのですが、複雑な世の中で生き方を見失った人に向けた「心が軽くなる仏教」みたいな感じの本が結構並んでました。それで救われる方もいるでしょうし、そういうものを求める人が多いからこそやさしい法話集的な本も多く出版されているのだとは思いますが、突き詰めて言えばやっぱり根本を理解しないと一時の癒しに終わってしまうケースが多いんじゃないかと思うし、真面目に大乗仏教に臨むとなると、信心がないと厳しいんじゃないかな~と個人的には思いますね。別に、そういう本が無駄だって言ってるんじゃないですからね。そう思うのには、今回の旅での経験がひとつの原因になってます。大まかな流れはあとの旅日記の方で書きますが、今回の旅でも法話を聞く機会を頂きました。それは浄土宗の大きなお寺で、説法者は研修にでも来られていたのか、山陰のお寺の住職さんで若くてつるんとしたイケメン・・・じゃなくて、若い私服のお坊さんも数人、ギャラリーとして参加してました。ギャラリーの総数が少ないので、半分はお坊さんだった計算になります。どうやら説法者の近親の方が最近亡くなられたらしく、その話から始まって、他宗の檀家のトップを長年務めていた方から質問などを受けるようになり、住職さんのお話に納得されたその方が最終的に浄土宗に改宗して、数年後に亡くなった時には住職さんがお見送りをして阿弥陀様にバトンタッチをした、てな感じのお話で、朝から「死」についてのお話がメインでした。まあ、浄土宗だからな。阿弥陀様っつったら、極楽浄土がウリだもんな。ちょうど寛永寺シリーズで家康の死から東照宮の成り立ちまでをそろそろ書こうと思っていた時期だったので、その話を聞きながら「こんな風に論議を聞きながら、家康は何を考えたのだろうか?浄土宗から天台宗へ傾いた理由はなんなのか?」てなことをぼんやり考えていたのですが、法話のシメはいかにも浄土宗らしく、「阿弥陀様を一心に信じれば、死後は必ず阿弥陀様がやさしくお迎えしてくださいます」てな感じのお話だった(ように思う)。そして続けて、「皆様でご一緒に念仏をお唱えして、阿弥陀様の功徳におすがりしましょう」と言って、正面に懸けられていた画像の方に向き直った。して、全員で「な~む~あ~み~だ~ぶ~つ~な~む~あ~み~だ~ぶ~つ~な~む~あ~み~だ~ぶ・・・(あと7回つづく)」の唱和が始まった。が、わたくし、この波に乗れませんでした。何度か書いてますが、白川の家は浄土宗、生まれ年から見た場合のわたくしの守り本尊は阿弥陀様。そして、わたくしの(源)頼政も平等院で西を向いてなんまいだ~を唱えてから自刃しているので、わたくしも念仏を10回唱えて極楽浄土へ行かせてもらい、あの世で頼政に「なんであの状況で挙兵なんかしたのよ?」と直撃インタビューする予定でした。まあ、寛永寺シリーズを書いてるうちに天台宗徒になろうというプランの変更はあったものの、別になんまいだ~を唱えるぐらい、何も難しいことはありません。ところが、言えませんでした。本格的な歴史あるお寺の一室で、本職のお坊さんも多い・・・つまりそこは、厳粛な「ホンモノ」の空間だったんです。それに、直前に「ただ阿弥陀様を信じましょう」ってことを言われてますから、信心もないのになんまいだ~なんて、とてもじゃないけど言えません。その時、ぶっちゃけわたくしは「うわ~、これ、現代人にはムリ!!」と思いました。たとえば子供の頃からばあちゃんと一緒に念仏を唱える環境にでもあったなら、抵抗はないかもしれません。でもそうでなければ、ひたすら信じるところから始まる大乗仏教を現代人がマジに受け入れるってのは相当難しいと感じました。そもそも大昔にできた宗教なんだもん、今の時代には合わないよ・・・そう実感したんです。にほんブログ村
2014年09月06日

昨日は途中まで書いたところでうっかり記事のほとんどを消してしまい、更新が間に合いませんでした。わたくしが乱暴なことばかり書くので、お釈迦様がお怒りになられたのかもしれません(でもまた書き直した)。寺の規模にもよるけど、寺社にやって来る人のほとんどは、まっすぐ本堂ヘ向かっていってお参りを済ませたら、またまっすぐ帰っていく・・・歴史に浸ったり建築を楽しんだりして人よりもかなり寺に長居するわたくしからすると、一体みんな何が楽しくて何をしに来てるんだろうと思うことはしょっちゅうある。もちろん、それが悪いって言ってるんじゃないですよ。私も史跡めぐりをする前は同じでしたし、むしろ自分も同じだったからこそ、ホントに何も知らないのに、なんでこれまで観光などで沢山の寺に行ってたんだろうって我ながらつくづく不思議に思ったんです。神仏分離令によって、比翼の鳥のように長く愛し合ってきた恋人たち(寺と神社)は無情にも引き裂かれ、それぞれが片羽を失ったようになってしまい、あとには上っ面の現世的御利益と葬儀だけが残った。これはあくまで現代の一般的日本仏教に対するわたくしの勝手かつ一面的なイメージで、寺への回帰を促そうと日夜頑張っておられるお坊さんたちを侮辱したり皮肉ってる訳じゃないですからね。長くこのブログを読んでくださっている方はそうしたことも充分ご理解いただいてるものと思いますが、そうでない方や真面目な仏教徒の方にはかなり誤解を受けやすい部分だと思いますので、しつこいようですが何度でもお断りを入れておかなくちゃなりません。でね、こういう状況になってしまったからには、もういっそのことお寺は葬儀のプロとして大きな顔して葬儀ビジネスを展開していったらどうかということまで考えました。まあそれは極端ですが、葬儀で収入を得ることが世間からいい眼で見られないのは、「寺が金儲けするなんて!」って概念と、実際葬儀関係がお寺の重要な収入源であっても、当のお寺さんが「葬儀で儲けてなんておりません」て顔して高い戒名料を取ったりすることも原因のひとつなんじゃないかと思ったんです。だけど長い歴史の中では堂々と色んな営業活動をしてた訳だし、現代だって開き直って堂々と営業やったっていいんじゃないかと思うんですよね。無宗教と核家族化が進む中で、仏教を介さない、あたらしいスタイルの葬儀が増えたといっても、現実には無宗教の現代人でもほとんどの人が仏教式で見送られることに特段の疑問も不満も抱かないだろうし、そういう面で言えば今でもお寺は必要とされている。お寺もそれで収入が得られて存続することができる。葬儀という点においては、需要と供給が成り立つんです。 【翻って考えてみると、たとえば葬式をきちんと僧侶がとり行ってくれるという のは、一人の人間にとって「誕生」とならぶ「死」という一大画期を荘重かつ厳粛に 通過したいという願いに応えていることも間違いない。誰だって、葬送の儀礼も なされず、自分の死体が切断され、ビニール袋に入れられてインター・チェンジの ゴミ箱に捨てられたくはないだろう。葬式は人間の根源的な願いに応えているのである。】 (『葬式仏教の誕生』松尾剛次/平凡社より)ただ、「叡山攻め(11)」で戒名があの世の護符という解説を紹介しましたが、本来は生前に戒を受けて仏縁を結ぶのがスジ。それを、生きてる時は仏教徒らしいことは何もせずに死んでから形だけの戒名を受けたところでそれが役に立つのだろうか?という素朴な疑問もありますが、そういうことを言い始めたらきりがありません(笑)。葬儀の話が出たので、ここでついでに葬儀の歴史なぞも書いた方がいいのかもしれませんが、そこまですると長くなるし大変なので(←ホンネ)それは別の機会に譲ります。民間レベルでいえば、日本仏教は大乗のいいとこ取りをして民衆の信仰を集めてきた。今でもたとえば人生に行き詰った時とか、病気になった時などの「困った時」には「仏恃み」をすることは往々にしてある。けど、何事もない時に現世利益をうたう沢山の仏様に対して、今のような豊かな物質文明の時代にお経を信じて純粋な信仰心が持てるものだろうか?(信心深い年寄りは除く)これはぶっちゃけ、難しいだろうな。ひとつの例として、般若心経の次にわたくしが覚えたお経の内容を簡単に紹介しましょう。タイトルは『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第25』。法華経の一章で、「普門品」(ふもんぼん)「観音経」とも呼ばれ、メジャーなお経です。観音様の名を唱えれば、どんな苦しみも観音様が救って下さるという内容なのですが、長いお経の半分ぐらいは、実際どんな風に救って下さるのかということがえんえんと続きます。いくつか例を挙げますと、・悪い人に炎の燃え盛る大きな穴に落とされても、たちまち穴は池に変わる・ガケから突き落とされても、太陽のようにふわりと体が浮いて助かる・盗賊から斬りつけられても、盗賊に慈悲の心が芽生えて助かる・無実の罪で刑場で殺されそうになっても、首斬り役人の刀は粉々に砕ける・猛獣や毒虫に襲われても、すたこらと相手が逃げてしまうなどなど・・・観音様を念じるだけで、ピンチの時でももろもろの災厄は過ぎ去ってハッピーハッピーてな感じの内容です。このお経は般若心経よりもずっと長く、覚えるのもひと苦労でしたが、これを通して言ってみると、お経の言葉にはなにか力強さがあるなと思ったものですが、じゃあこの内容を額面通りに受け取って心から信じることができるのかといえば、それはもう・・・『すぐわかるお経の心』(大角修/東京美術)には 【そんなことを事実として信じたとすれば、かなり危ない世界に踏み入っていることに なります。】と実にクールに書かれていて大笑いしました『女人成仏への開眼』(後藤宏行/毎日新聞社)には、こんなエピソードが書かれている。 佐渡女(さとめ)が聞いた話。 叡山山麓の坂本の職人が、山科のとあるお寺で3日間仕事をして3日めの夕方に 材料費と細工費をまとめて渡された。金細工の費用だから、かなりの大金だし これから夜道を帰らなきゃいけないってのに、どうしよう・・・ ちょうどその近くで空也が説法をしていたので、どうしたらいいか空也に相談した。 空也のアドバイスは、ひたすら南無阿弥陀仏を唱えて、とにかく念仏の功徳を信じて 歩きなさいというものだった。 男は言われた通り、手を合わせながらなんまいだ~を唱え続けて夜道を歩いた。 逢坂の峠にさしかかった時、数人の盗賊が飛び出してきた。 男は怖いながらもひたすらなんまいだ~を唱え続けて歩いていくと、驚いたことに 盗賊たちは道をあけて男が通り過ぎていくのをただ見守っていた。 遠ざかる男の背中を見ながら、盗賊たちは「あの方は市井の聖(ひじり)様に 違いねえ」と言って男に手を合わせて拝んだという。 そう語りながら、佐渡女は大笑いした。阿弥陀様のお力というより、単に男が空也と間違えられただけという話ではありますが、教えられた通りに念仏を唱え続けて盗賊の間を堂々と通り過ぎるなんてことは、信心がなければできないでしょう。でも、空也が活躍したのは10世紀だからね。今は21世紀。仏教が誕生してからは2500年近く経っており、大乗の成立からは2000年ぐらい経ってる。2000年も前の、しかも日本へ来るまでに仏教は何度も変遷を繰り返しており、通過点である中国などの土着の思想や信仰も多分に入り混じってる仏教が、近代化をとげた現代日本にマッチするものだろうか?もうひとつ、オドロキのお経を紹介しましょう。これは密教経典の『理趣経』(りしゅきょう)というお経で、とある歴史的経緯からこのお経の存在だけは前々から知っていたのですが、最近になって初めてその中身に触れて目玉が飛び出るほど驚きました。まず、お釈迦様が大日如来様と一体になられ、その大日如来様の教えを聞こうと80億もの菩薩が集まり、八大菩薩に囲まれて大日如来様が教えを展開していくという設定らしい。最初に「大楽の法門」という教えが説かれるのですが、清浄なる菩薩の境地として17の項目を挙げる。 ・満ち足りて心が輝くこと ・目にする色、耳で聞く音、鼻でかぐ香り、舌が感じる味わい ・身体が楽になることうん・・・早速引っかかる部分はあるんだけど、まだいい方です。 ・自慢する心 ・ものを飾って喜ぶこと ・思いのままに振舞って心が喜ぶことうん・・・だいぶアヤしくなってきましたが、まだマシです。しかし、理趣経が一般人にも有名なのは、何といっても以下の項目にあると思われます。 ・男女の触れあい、男女の愛 ・欲のある心で異性を見ること、欲望が矢のようにびゅんびゅん飛び交うこと ・異性を愛してかたく抱き合うこと、それによって満足し天にも昇るような心地になることして、きわめつけが ・男女が交合して快感を味わい、恍惚となること・・・・・・・・実は「理趣」のお経は過去の記事にも登場しています。「大津編(17)」がそれで、わたくしの愛する大内盛見が大般若経理趣分の1巻ごとに100銭のおこづかいを付けて諸国の貧僧に配ったというエピソードです。理趣経の出だしがこんな過激な教えになってることを知った時、まずわたくしは「盛見はなんてハレンチなお経をバラまいたのかしら~!!」って思わずのけぞりました。ただ、どうも理趣経と大般若経理趣分とは少し違うらしい。大般若経理趣分に理趣経と同じ文言があるのか探しましたが、類似する教えの章はあるものの、上のような17の項目は見つけられなかったので、ハレンチなお経をバラまいた訳ではないようです理趣経に説かれる17の項目は、テーラワーダ系の教えからはかなりかけ離れている。というか、かけ離れているように見える。字ヅラだけ見ると上の17の境地はかなりびっくりするような内容ですが、欲望の心なども含めた世のすべての本性は清浄なものだから、真理を見ることができる智恵の目であるがままの姿を見るならば、世の中に清浄でないものは何もない、という論理なようです。ああ、そういうことなのかと少しほっとしましたが、それでも仏教の基本的考えからはだいぶ離れたたとえでもあるし、それにとにかく表現にインパクトがありすぎるので、ネットで理趣経を検索してみると、その過激な部分が言葉通りに受け取られて一部に誤解を招いているようでもある。確かにね、男女のことを持ち出すにしても、1つだけで良かったんじゃね?17のうち半分近くを男女関係の項目が占めてるんだから、このお経の作者は一体何を考えてこんな構成にしたのだろうかという素朴な疑問も湧いてくるというものです。にほんブログ村
2014年09月05日

晴れてると暑いけど風は涼しい・・・こんな気候になってくると、吉備路の楽しかったサイクリングを思い出します。また行きたいなあ。今度は総社の方を走るんだただ、クチビルを奪われないようにしないとな(笑)。(「吉備路編(2)」参照)つれづれ私見はまだ続きます。前回途中で読むのをやめた方は、今回もパスしてください長い日本仏教の歴史の中では数回の転機があった。そのうちのひとつが、墾田永年私財法。この頃の背景については「叡山攻め(12)」で教科書から解説を引用してますが、法令の制定によって積極的に私有地の開墾に乗り出したのはフジワラムシだけじゃなく、寺社も同じだった。これが初期荘園で、のちに寄進型荘園も現れ、肥えたものはますますぶくぶく太るという理不尽な状況が続いた。たとえば小早川氏の沼田領の本家は蓮華王院だったけど、現在観光スポットとしても有名な寺社なんかはどれも大規模荘園領主だった。現代の(いちおう)平等な世に生まれると、荘園がフィーバーしてた時代はなんかよくわからないし、金持ちばっかりトクをするようであんまりいい印象がないんだけど、悪い面ばかりでもない。というのも、寺社にとってみれば荘園経営で安定的かつ自給自足のできる収入が得られた訳で、真面目なお坊さんが修行するにはいい環境だったとも言える。(仏教界の腐敗とか堕落についてはここでは置いておきます)小早川氏の歴史も思い出して欲しいんですが、室町から戦国期にかけてはその広大な荘園も武士が管理するようになり、荘園のピーク時からは収入も減ったかもしれない。それでも寺社領がなくなった訳じゃない。荘園が完全に消滅したのは安土桃山の頃。江戸期にはかなり寺社領も減ったようだけど、それでもそこそこはあったらしい。民間寺院にはそんな立派なものはろくになかったかもしれないけど、江戸期の寺は娯楽を提供する場でもあり、色々な商売にも手を出した。(「本所Wデビュー(22)」あたり参照)それと、檀家制度が寺院を支えていた。経済面での大きな転機を迎えたのが、明治維新。まず神仏分離令で一体だった寺と神社を切り離した。儒教の盛んだった藩ではそれ以前から分離が行われていたらしいが、明治を迎えて全国一律に旧寺院の人間は寺か神社か選ばなければならなくなった。さらに追い打ちをかけたのが、勘違いから起こった廃仏毀釈。多くの寺が大きなダメージを受け、神仏分離とあわせて廃絶した寺も多かろう。しかし、寺院の不運はこれだけじゃなかった。明治6年には地租改正による土地改革で寺社領の解体が進み、先の大戦ののちにはGHQによる農地改革が進められ、寺院経営を支えてきた寺社領は壊滅した。非常に大ざっぱな流れですが、こうした経緯により、かつては潤沢すぎるほどあったであろう寺院の収入は時代を下るごとに先細りとなり、ついには自力で稼がなければならないところまで来た。「葬式仏教」という言葉は誰しも聞いたことがあると思いますが、広大な所領も失われ、強制的な檀家制度は崩壊したとはいえ、長い間の慣習で檀家は今も、特に地方に残っている。その檀家に頼るだけでは心もとなくなってきたので、葬儀ビジネスに大々的に乗り出し、かつ依存し、特定の宗教を持たない民間人が増える中で、葬式の時しか必要とされない・・・そんな寺の現状を皮肉った言葉が「葬式仏教」。こうした仏教界の現実を憂う声は多いですが、でも葬儀ビジネスを展開すること自体は私は別にアリだと思うんです。歴史を見れば、荘園時代が一番経済的にラクだったかもしれないけど、何もしないで「アガリ」が入ってきた訳でもないし、預所を現地に派遣したりして、1000年の昔からしっかりがっつり荘園経営してるんですから。「本所Wデビュー」の回向院あたりの記事では、勧進相撲とか出開帳・居開帳、富突、貸金業や各種興業の例を紹介しましたが、そりゃもう元気に営業頑張ってるんです。現代ではそれが葬儀と学校経営に絞られたぐらいのもんじゃないですか?今みたいな世の中では、何かしらやってお金を稼がないとやっていけません。ただ、「葬式仏教」という言葉の裏に隠されている問題点・・・戒名が高いとかお金のシステムがわからないという点、そして何と言っても仏教離れが深刻なこと、これらをひっくるめたのがこの言葉なんでしょう。ちょっとうちのお墓の話をしましょうか。白川の墓は岩手にあります。父親はあちらの出身なんです。柏の我が家で亡くなったおばあちゃんは岩手のお墓に入ってますので、法要などの時はあちらに行ったりもしますが、うちは父親の親戚とは縁が薄く、また遠いのでわたくしは行ったことがありません。ただ、お墓の管理料の請求が定期的に来ているのは知ってたし、やれ本堂を修理するから寄付してくれだのってお知らせが届いては母親がぶつぶつ言ってました。数年前、両親が娘夫婦と岩手のお墓に行った時のこと。お墓の場所を把握してるのはそのメンバーでは父親だけなので、そこに向かったところが、お墓がない。母親はお墓を探す父親の姿を見て、「なにやってんのかしら」ってイラついたらしいんですが、いくら探してもあるはずのお墓がない。探して探してやっと見つけたと思ったら、それはあるはずの場所ではなく、墓地の隅っちょのガケぎわだったそうです。つまり、こちらに何の断りもなく勝手に墓を移動して、もとの場所に別のお墓を入れてたそうなんですね。これには両親とも大激怒しましたよ。そりゃそうでしょう。管理料を払わないとかならともかく、きちんと納めてるんです。住まいが遠くてめったに来ないからどうせわからんだろうとお寺さんが思ったのかはわかりませんが、ちょっと考えられませんよね。で、少し前にも書きましたが、うちは春頃一般霊園にお墓を買いましたので、岩手のお墓には両親は入りません。いちおう父親は長男なのであちらのお墓をこっちに改葬するかどうかという迷いもありますが、たぶんしないでしょう。それでも先々のことはわかりませんし、一般霊園の墓地なんて初めてなので、改葬についてもいちおう霊園の担当のおじさんに話を聞いておきました。で、岩手のお墓が勝手に改葬されてたことも話したんですが、おじさんも「ちょっと考えられませんね・・・」とあぜんとしてました。まあ、こんなあくどいお寺さんはごく一握りなんでしょうが(そうであって欲しいという願望含む)、確かに存在はします。その一方で、表には出てこないけど真摯に勉強や修行に取り組むお坊さんも当然います。最近ではイケメン僧侶が人気らしいですね。そうした方は「僧職系男子」と呼ばれたり、なんと『美坊主図鑑』なるものも出版されており、大人気なんだそうな。去年だかの朝のNHKのニュースでそれを見て驚きもしたし少々鼻で笑いましたが、TVに出てた方々は顔がいいだけじゃなく、昔のようにもっと寺を身近なものにしたいと頑張っておられました。顔はそれほどではなくても(笑)、同じように熱心な思いを抱いてカフェを併設したり、境内でミニコンサートなどのイベントを催したり、地道な活動を続けておられるお坊さんも増えているようです。これはとてもいいことだと思います。ただ、個人的には限界があるんじゃないかと思うのだ。(この辺から暴言)仏教の本質的・根源的な部分についてはまだ全くわかりません。けど、歴史の流れを追っているうちに思ったのは、日本仏教界にとって致命的となったのは、所領を奪われたことでも、明治に入って僧侶の妻帯・肉食が認められたことでもなく、やっぱり神仏分離が大きいんじゃないでしょうか。わたくしが記事の中で神仏分離の言葉を出す時はたいがい「薩長は余計なことしてくれたよな~」というつぶやきもセットにしてますが、ホントに余計なことをしてくれました。現代に生まれた人はほとんどが・・・いや、高齢化時代だから中年未満としておこう、中年未満の人は物心ついた時から寺と神社は別モノだったからそういうもんだと思ってるでしょうが、長い日本仏教の歴史からいえば神と仏が同居する時代の方が圧倒的に長い。平安建都1200年?そんなもんじゃ~ありませんよ。少なくとも奈良時代にまでさかのぼるんですから。「神仏」って言葉を私達はなにげに使いますが、この言葉はその長い歴史を象徴する言葉なんじゃないでしょうか。アマテラスは大日如来、スサノオは牛頭天王、イエアス(東照大権現)は薬師如来・・・その真偽がどーのって話じゃなく、神と仏は長いことおんなじだったんです。ずーっとそうしてきたんです。それを無理やり切り離した。その時点で、すでに日本仏教は形骸化することが決まってたんじゃないか、そんな風に感じました。もちろん、神仏分離がなかったからといって、明治以降の近代化の波はかなりの逆風にはなっただろうし、現代のような自由がもてはやされる豊かな生活の中で、近世以前のように寺社が活況を呈していたかというと、それはさすがに難しいでしょう。でもね、たとえば旅行に行って有名な寺でもあれば、仏教なんて全く関心がなくても、大抵の人は足を運ぶでしょう?初詣には寺や神社へ行って、お札やらお守りやら買い込みますよね。厄除けや七五三でも寺社へ通いますよね。仏教なんて縁がない、仏像の何たるかも知らない、日本建築に興味なんて一切ない・・・そんな金髪の兄ちゃん姉ちゃんでさえ、京都や奈良に行けば寺のひとつやふたつは必ず寄るでしょう?たとえそれが観光気分であれ、本堂に行ってご本尊様に向き合えば、ちゃんとお賽銭を入れて真面目にご挨拶するでしょう?そういう沢山の若者を、あちこちの寺社でわたくしは見てきました。ご本尊様の前で手をあわせて拝む素朴な背中を見ては、いいもんだな~と思ってきました。結局、日本人は好きなんですよ、お寺が。好きっていうか、もうしみついちゃってるんですよ。マクベス夫人の手に付いた血のように、どう頑張ったって取れないんです。ええ、例えが悪い?日本人のDNAには、見つけられないほど小さく「オンリョー」とか「ブッキョー」って刻まれてると思いますね。だからまだ望みはある。長い歴史でつちかわれた慣習や考えってのはそう簡単に失われるものじゃありません。だから望みはあるとは思うんだけど・・・(つづく)にほんブログ村
2014年09月03日

夏休みが終わってみたら、足の痛みがだいぶ落ち着いてました。休みに入る前までは結構痛かったんだけどね。ずっと引きこもってたからな(笑)。6日でちょうど3ヶ月だから、全治3ヶ月ってとこでしょうか。今日はケガをして以来初めて、ヒールのある靴を履きました。ヒールと言ってもほんのわずかの高さなんですが、患部に負担がかかるのでそれすら履けなかったんです。ただ、さすがに心持ち痛みが出たので、もうしばらくは運動靴生活ですかね。私と同じ頃に骨折した娘さんを持つ同僚からは、「3ヶ月の間は骨折しやすいらしいですよ」と言われてましたが、ここまで回復すれば(たぶん)もう大丈夫でしょう。御心配いただいた方々、ありがとうございましたさて、中国での仏教は、地元産の儒教や道教と結びついて独自の発展を遂げ、チャイナ的モデルチェンジをした。特に御利益だとかのお手軽呪術ちっく的側面は、どうも道教の影響が強いような気がする。そこに密教が入ってきたことにより、インドよりも「信仰」という側面が前面に押し出されてきたとも言えるんじゃなかろうか。日本の仏教はその中国版をベースにさらに和の要素が加えられ、これまた独自の日本版仏教が出来上がった。和の要素の最たるものは、やはり神仏習合でしょう。大仏のところで書いたけど、東大寺に手向山八幡が勧請されるなど、聖武天皇の頃にはすでに融合が始まっている。それから、これは神道の部類に入るのかもしれないけど、修験道も仲良く仲間入りした。東アジアで仏教を受け入れた国は、大なり小なり土着の信仰との融合があり、それゆえに長続きしたものと思われる。これは大乗の包容力のようなものの影響が大きいのかな、とも思うけど、テーラワーダ仏教圏でさえ同じように民間信仰との融合があるように思われるので、仏教そのものに他を受け入れるだけの要素があったとも言えるかもしれない。日本では仏教を「人の生きる道を教えるもの」ではなく、「信仰」として受け入れた。はじめの頃は護国経典などがもてはやされ、上流社会に独占されたが、そのうち私度僧や遁世(とんせい)僧が出るようになり、彼等は自ら民衆の中に入っていって民衆にも仏教がしだいに浸透していった。時代が下っていわゆる鎌倉新仏教の頃になると、「念仏を唱えるだけ」といった感じの手軽でわかりやすい教えも増えてさらに民衆への浸透率が高くなった。また、遁世僧などが葬儀にも関わるようになる。本来の仏教は死者をあの世に送り出すための宗教なんかじゃないんだけど、営業範囲を広げていき、のちにそれが制度化されるに至って仏教=葬式というような現在のイメージが出来上がってしまった。遁世僧ってのは聞き慣れない言葉かもしれませんが、国家による許可を受けて国家に管理されていた「官僧」と逆の立場にあった僧、とでも言うんでしょうか。言ってみれば遁世=出家なのに、平安頃には貴族の子弟が多く仏教界に入って第二の俗世のようなものを作り上げてしまったので、さらにもう一段階出家した、てなことを指すらしい。『沙石集』(しゃせきしゅう)をご存じの方も多いでしょうが、あれを書いた無住(むじゅう)も遁世僧です。江戸期に入ると大々的な国家の介入が行われる。室町から江戸初期にかけては多くの寺院が建立されており、それらを管理するのに本末制度・・・本寺と末寺を規定し、本山を通して末寺まで管理できるようにした。また、国民すべては仏教徒とされ、どこかの寺へ必ず所属するという檀家制度ができ、キリシタンでないことを寺に証明してもらう寺請制度もできた。これらによって、葬式はもちろんのこと、結婚やら生活に密着したことにも寺が深く関わるようになった。まあ、仏教徒であることを証明してもらうのを除けば、おおむねこのスタイルが現在にまで続いてますね。え~、ここまで大雑把すぎるほどアバウトに日本に入ってきた仏教のアウトラインを見てきましたが、ここからは私見や暴言も入り混じってきますが、何度も書きますが私は別にバカにしている訳でもないし、自分の意見を振りかざそうというつもりもなく、思ったことや考えたことを書き留めておこう、ぐらいのスタンスです。ゆえに反論は受け付けませんので(笑)、反論したくなる予感のある方は2~3話程度は読まないことをおススメします。私はどなたとも議論するつもりもありませんし、人間は変わるものです。現に、叡山に行った頃とこれを書いてる今とでは変わったと感じる部分もあります。では先へ進めてもよござんすか?日本版仏教は、中国のそれを引き継いで現世利益的な色彩が濃厚だと思われます。初期の頃に護国経典が大活躍したなどはそのいい例でしょう。民間レベルのご利益といえば、商売繁盛、病気平癒、安産祈願、恋愛成就など色々ありますが、官民に共通する日本ならではのご利益があります。日本で仏教と融合したのは、日本古来の神道や修験道だけじゃないと思うんです。ひそかに融合したもうひとつの土着信仰、それは怨霊信仰です。ここらへんは見解の相違もあるでしょうが、聖武天皇の数々の仏教政策はこれが基だと思うし、奈良以降の遷都にも関わってるかもしれません。それには誰もが認める証拠などはありませんが、密教が日本に持ち込まれると、ブームを巻き起こしました。呪術的性格の強いものがウケた理由の第一が怨霊対策だったとは言い切れませんが、そういう面を多分に含んでいた可能性はあると思います。密教は、修行によって神通力を得た僧が怨霊を操ることができる、というような説明を読んだことがありますが、密教なんてわからんちんなのでそのお説の真偽はわたくしにはわかりません。が、もし密教がそういう性格を持つものであればなおさら怨霊鎮魂の手段にはうってつけだし、元来そういう面はなかったとしても、土着の怨霊信仰がそういう側面を持たせた、という可能性もあるんじゃなかろうか。怨霊対策のイチ手段として活用されたからこそ、仏教はより日本に浸透したんじゃないかと思いました。『日本霊異記』や『今昔物語集』などの古い文献には、摩訶不思議な話が沢山収められています。あ、摩訶不思議の「摩訶」も仏教用語だわね(笑)。じゃなくて、その中では霊や人外などが日常と隣り合わせに存在しており、しかもやけにリアルだったり、中にはチョ~びっくりするような話も収録されています。「霊は存在するのかしないのか」なんてレベルじゃなく、当時の人は「いる」ことを大前提に、普通に会話したり調伏したり、あるいはなすすべもなくただ見守っていたりと対応は様々ですが、そんな話が1話や2話じゃなく、実に沢山あるものですから、昔の人は異界が身近な存在だった、もしくは異界が身近にあると感じて(信じて)生活をしていたのだろうと思われます。あの慈円でさえ、『愚管抄』の中で怨霊や人外に触れてるんだからね。(「春の寛永寺(10)」参照)そして調伏には仏僧が活躍をした。活躍したのは僧だけじゃありません。本来は違うことを説いているはずのお経も使われました。たとえば過去の記事では、耳なし芳一の耳を除く全身に書き付けられたのは般若心経だし、スサノオ(牛頭天王)の復讐を恐れた古単将来が身を守るために千人の僧に読経させたのは大般若経。芳一さんの場合は、般若心経は「無」を説くお経だからそれを体に書くことによって芳一の身体をないものとした、とかの理由付けをする方もおられるようですが、仮にそれが正しかったとしてもそれって和尚さんの「とんち」みたいなもんだし、般若心経それ自体が調伏のお経ではないことに変わりはないでしょう。芳一も古単も単なる伝承だって?まあ、そりゃそうでしょう。ただ、フィクションだとしてもその話が生まれた当時の認識を反映してると思うけどね。なら、もっと身近な話題にしましょうか。前にもどこかで書きましたが、墓マイラーであるわたくしは墓地にも足を運びます。墓地を歩く時は、三井寺で買った頼政の数珠を手にぶら下げて歩きます。未公開の廿日市編では、「おそらく残党狩りの際に、この辺で兵が死んでるよな~」という厳島の登山道を歩いた時に、ポシェットに頼政の数珠をぶら下げてました。東西条編では、4つの城跡のうち3つが実戦経験を持つ城だったので、腕輪念珠を投入しました。いずれも「お守り」であり、「魔よけ」です。数珠も本来はそんな役割を持つものじゃないことはわかってますが、怖がりなので「なんか効き目ありそう」ってカンジで装備します。「アナタは霊の存在を信じますか?」と聞かれたら答えに詰まるし、もちろん調伏の知識がある訳でもありませんが、それでも数珠を装備します。霊と仏教、これは日本人のDNAに刻まれてるものじゃないかとつくづく思いますね。にほんブログ村
2014年09月02日

偽経は、本来の仏教から言えばあくまでパチもんであり、その点から言えば価値はない。ゆえに、中国僧たちはつとめて偽経を排除しようとした。ただ、別の視点もある。 【しかし教条主義的な判断から離れて、中国仏教史の現実はどうだったかを知ろうと する場合、偽経はそれを示す貴重な文献群として評価すべきであり、中国の仏教徒が インド伝来の漢訳のいかなる面に飽き足らなさを感じていたかをありありと告げて くれるものである。(中略)中国仏教の実態は漢訳からは知られず、むしろ偽経から 知られると言っても決して過言ではない。】 (『仏典はどう漢訳されたのか』より)して、著者の船山氏は偽経研究の先人である牧田諦亮(いりょう)氏の『偽経研究』(京都大学人文科学研究所)から、偽経を作った動機やその目的の6つの項目を紹介しておられる。ここでは『仏典はどう漢訳されたのか』から、項目のタイトルのみご紹介します。 1、主権者の意に副わんとしたもの 2、主権者の施政を批判したもの 3、中国伝統思想との調和や優劣を考慮したもの 4、特定の教義信仰を鼓吹したもの 5、現存した特定の個人の名を標したもの 6、療病・迎福などのための単なる迷信に類するもの 【このように偽経は中国仏教史の実態と直結する内容を含み、仏教の中国的変容の現実を 解明する上で格好の資料である。中国の仏教徒が数世紀にわたって訳出経典を次々と 受容しながら、そのどこに満足しなかったかを偽経はわれわれに告げている。 要するに、中国人にとって、経典に明言して欲しいけれども翻訳経典には書かれていない ような事柄があり、その場合に、「如是我聞」からはじまる翻訳経典の体裁をかりて、 中国人が必要とする内容を記した文献をひそかに作成した人々がいたのであった。 こういう事柄を裏付ける経典が欲しいが翻訳経典には求められないという場合、 偽経が作成されたのだった。】 (『仏典はどう漢訳されたのか』より)まあ、そう考えてみれば面白いジャンルでありテーマだよな。唐代には民間で地蔵信仰が流行ったそうで、【民衆的な偽経はしばしば道教信仰ともつながる側面をもつ】(前掲書より)という。面白いとは言っても、前にも書いたように漢訳の歴史はそのまま日本の仏教にも関わってくるので、その面から考えると偽経の存在を知って間もないわたくしには、頭と気持ちの整理がつきかねる部分がある。ええ、日本にも入ってきてるんですよ、偽経が。その偽経を、我が日本の偉大なる先人たちがあーでもないこーでもないって考えたり、自分の疑問を解決するのに膨大なお経を一生懸命見て求める答えを探したり、現代に続く日本の慣習が出来上がったり、宗徒が日常使う勤行式の中に入っていたりするんです。こうなってくると、大問題でしょう?じゃあ、どんな偽経が日本に入ってきたのでしょう。有名どころでは、 ・無量義経 ・十王経義経 ・仏説盂蘭盆経 ・十句観音経偽経ではないけれど、中国でお経を編纂・撰述したものもある。日本で撰述されたものとしては『延命地蔵経(延命地蔵菩薩経) 』などがあるそうな。『無量義経』は法華経三部経のひとつと言われるもの。法華経は最澄が「すんばらしい!」と感銘を受けたお経で、日蓮さんが「マジすんばらしい!!」と惚れ込んだお経。『盂蘭盆経』の内容を詳しく知らなくても、毎年私達が行う「お盆」と関わりがあることは誰でも察しがつくでしょう。『十王経』の十王とは、地獄で審理を行う裁判官のような方々で、閻魔様もそうだし、「泰山府君」の名を聞いたことのある方も多いでしょう。ウィキペディアには 【日本では、十王信仰が持ち込まれた事で他界についての情報が飛躍的に増えた。 旧来は『古事記』に見られるあいまいな黄泉国の他界観で、漠然と死後ただ行く 世界だった。 それに対し、死した後の世界を詳細に定義付けた地獄の他界観は道教と儒教の影響を 色濃く受けた、人一人一人に対し厳しいものであった。しかし、末法思想が流行った 当時は他界観がクローズアップされ、明確な情報をもった仏教的他界である地獄が 広く受け入れられる結果となったのは自然だった。】とある。というカンジで、どれも日本人および日本の歴史に大きな影響を与えている。で最後の『十句観音経』は、ウィキの説明では【大乗経典の観音経系経典に属し、わずか42文字の最も短い経典として知られる偽経だが、古来ただ何度も唱えるだけでご利益を得られるとされており、人気が高い】、とあるんだけど・・・「りりさんの趣味は何ですか?」「お経の暗記です」って答えたら面白いかな、って最近思うようになったんだけど、まあそれが見合いの席だったらソッコーその場でお断りされるだろう。見合いの相手が本職のお坊さんだったとしても、ヘタしたら敬遠されるかもしれないじゃなくて、お経の暗記は継続中です。短い句のものもいくつか覚えたけど、長いお経を先に覚える方がいいかな・・・と思って、大きいものでは3つめのお経暗唱にチャレンジ中です。これ、膨大なお経の中から無作為に選んでる訳じゃなく、叡山で買った『天台宗日常勤行式』を制覇しようとしてるんです。そして、『十句観音経』は天台の勤行式の中にあるんです・・・・・・まあね、偽経っていっても、お釈迦様の名前を借りて好き勝手な物語を作ってる訳でもないようだし、中国人の性向と古来からの習慣や思想と融合して、船山氏の解説にあるように「望まれて生まれたお経」な訳だから、価値がないとか意味がないとかって短絡的な評価は的外れだとは思うんだけど、正直言って感情的にどうもな・・・それから、翻訳とはみなすことができない、おそらく偽経だろうというものに『梵網経』があります。「叡山攻め(10)」で日本における戒について少し触れてますが、鑑真さんがやって来てあらたに伝え、正式な戒として認定を受けたのが「具足戒」。それ以前からあった「梵網戒」は具足戒の登場によってちょっと肩身が狭くなったものの、そこですたれた訳じゃありません。のちにある方が梵網戒を重視し、戒壇も作られます。で、梵網戒の出どころについては幾つかの説があるようだけど、『梵網経』由来だとするのがその1つ。梵網戒の戒壇ができたぐらいだから、日本仏教とも深い関わりがあります。 【『梵網経』は、系統の異なる諸経の文言を用いて作成されている点、中国仏教特有の 教理を説く点、梵語では説明できない漢語ベースの教説を含む点において、翻訳と みることができない。 しかし本経には特に間違った教説が説かれているわけではなく、非常にうまく 整理された体系的な教えである。本経を菩薩行の実践基盤とする人々が東アジアに 今なお多く存在することは、本経がすばらしい編纂であることを如実に裏付ける。】 (『仏典はどう漢訳されたのか』より)わかります、わかります。おっしゃることは、頭では。少なくとも梵網戒には1000年以上の歴史があるわけだしね。「確かな信頼と実績」がなければ、各国でこれだけ生き続けることはできなかったのだから、冷静にクールにその事実を受け止めるべきなんでしょう。だけど、そういう歴史を全く知らなかったわたくしには、まだそういう高尚な理性が働きません偽経だけじゃないんですよ。大乗がそこまで大きく様変わりしてるってことも知らなかったので、大乗の大きな乗り物に丸ごと乗っかってる日本仏教の歴史を考えた時に、これまた自分の中での感情の整理がつきません。して、いつの間にか海を渡って東の小島の話になってますが、実は近代以前に大坂の醤油屋の息子がすごい発見をしていたそうです。彼の名は富永仲基。幼い頃に儒学を学んだ仲基は、【若くして『説蔽』(せつへい、現存せず)を著し、独特の大乗非仏説(法華経、般若経など、いわゆる大乗仏教の経典は釈迦の言行ではなく、後世の産物という主張)によって儒教を批判したため破門されたという】。(ウィキより)一体どうやってそれに気がついたのかは不勉強ゆえわかりません。が、おそらく偽経の判定をする際にあれこれ経典を読み比べたりするように、色々読んで研究したんだろうな。仲基のこの発見は有名らしいが、ウィキでは続けて【これは富永を批判する仏教僧側からの主張であるので事実としては疑われている】とある。が、仏教側から儒教信奉者への攻撃であれば、何も「大乗は後世の創作」ってことを持ち出さなくてもいいんでない?それにしても、富永仲基の発見が事実であるとして、日本仏教界には沢山の頭のいい方々がそろっていて、沢山の経典などを読んでいるはずなのに、誰1人気付かないってことがあるだろうか。ただ、真面目な仏教徒だったからこそ気付かないってことはあるだろうな。 【仏教は、先進的な外来文化として受け入れられたから、僧は、ひたすら仏典の解読に 努め、儀礼の修得に励むべきものと考えられた。専門的に仏教を学ぶ僧にとって、 仏教は疑う余地のないものであり、仏教を儒教・老荘思想などと比較し、その目的とする 所がどのように違っているのかを考えることは稀であった。】 (『朝日百科 日本の歴史3』より)仲基はなかなか進歩的な考えの持ち主だったようだけど、儒教の方により傾いていたからその事実に気付くことができたのかもしれない。にほんブログ村
2014年09月01日
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