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ところで、なぜに東照宮は日光なのか。家康が自分の死後を天海に託したから?でも、それだったら仙波でもよくね?なんでまた、江戸から遠い日光なのだ?世間で多く語られるものには、江戸城から北にあり鬼門にあたるという説。それから、北極星がうんたらという説。ま、いわゆる風水っぽい説明が賑やかに語られる。私は占いだとかは好きな方だけど、なぜか東照宮に関するそのテの話は受け付けない。ゆえに、そういう類のものはほとんど読まない。(読んでも何言ってるのか皆目理解できない。)まあ、そういうちょっとアヤシゲな話でも執筆者の方々は入念な考察の上に書いてるんだとは思うけど、私はどうも性に合わないので、そっち系の話は書きません。別にそういう説をバカにしてるんじゃないので誤解しないでね。何話か前に、アマテラスから東照大権現の名を選んだんじゃないかという思い付きの案を書きまして、「東を照らす神」なんだから「日光」の地名がふさわしいという考え方もできますが、天海が寛永年間に入って天台の教義や伝承などを基に「東照社縁起」をまとめたように、あくまでそれも後付けの理論だと思う。少し前に日光輪王寺のサイトを見ていた時、こんな記述を見つけました。 【日光山に帰依していた源頼朝は、従兄弟であり熱田神宮大宮司の子である 観纏(かんてん)を座主職に任じます。観纏は早々にその職を退きますが、 その後頼朝が征夷大将軍となり鎌倉に幕府を開くと日光と中央(鎌倉)との 絆は深まり、頼朝が父義朝の菩提を弔うため鎌倉に創建した勝長寿院別当の 貴族座主が日光山座主を兼務するという新しい形態が成立しました。 日光山第24世弁覚法印(在位1209-51)が日光山を統括する本院として 光明院の称号を得てより、光明院院主は、常には鎌倉に住し勝長寿院別当と兼務で 日光山の寺務を執ります。】 (第143回企画展「中世の日光山」解説より)光明院主は、弁覚以降は親王家または鎌倉将軍家の一族が院主を務めたという。皇族出身者が日光と鎌倉を兼務し、院主は普段は鎌倉に住んでいた・・・そうです、のちの輪王寺宮と同じスタイルなんですよ。てことは、すでに日光には山主を兼帯する前例があったわけだ。私が読んだ本などはどれも「天海が日光を任され、その後寛永寺を創建して東叡山と日光を兼帯した」という簡単なことしか書かれていなかった。日光の山主になったのはいい。寛永寺を創建したのもいい。でも、なんで両方を兼務するわけ?私の素朴な疑問を解決してくれる解説書には出会わなかった。でも、上の文章を読んでああ、そういうことなのか~ってやっと納得がいった。日光は関東随一の霊場だし、歴史も古い。家康自身は生前は日光へは行ったことがないみたいだけど、天海からその様子は聞かされていただろう。そうしたことに加え、頼朝が帰依していたことがポイント高いんじゃないだろうか。家康は頼朝に私淑していたと言われる。家康が開いた江戸幕府は、一般論として鎌倉・室町に続く第3の武家政権。そう、ここでも家康は3番手なのだ。頼朝の政策を見て自己の様々な政権運営に役立てた可能性もある。小田原攻め以降、日光は秀吉に寺領を没収されて衰退した。日光輪王寺のホームページにはそんなこと書かれてないけど、闕所も同然の状態だったかもしれない。それを、家康の命を受けた天海が復興させた。寛永寺創建プランと宮を迎えるプランを建てた時期についてはあれこれ思考の波に揉まれましたが(笑)、今はやはり家康の生前、それも結構早い時期に発案したんじゃないかと思っている。あるいは、鎌倉期に山主兼帯の例があったことから宮を迎えることを思いついたかもしれない。その前例は家康が天海に教えたのかもしれないし、逆に天海が家康に教えてそれじゃウチらも真似っこしちゃおって2人で盛りあがったかもしれない。ともかく、家康が日光を指定したこと、天海が日光と寛永寺を兼帯して公海を経てそのまま輪王寺宮に引き継がれたことは頼朝の前例と無縁だとは私には思えない。さて、ちょっと話は変わります。日光輪王寺の上の文章からヒントを得たのはごく最近のことですが、それまでなぜ2つの寺を1人の山主が持たなければならないのか、という疑問をずっと引きずっていました。で、櫛田良道氏の学位論文『近世における将軍家祈祷寺について-護持院を中心として-』の要旨をまとめたものに出会って、寛永寺と日光輪王寺にはそれぞれの役割があったことを理解したので、学位論文の要旨をさらに要約してご紹介します。まず、徳川将軍家の祈祷寺に関する研究は、制度史・宗教史の両面から進められることがほとんどなかったんだそうな。つまり、「祈祷寺」って言ってもその詳しい内容はわかってなかったって事だな。 【先論の緻密な研究蓄積により護持院については様相が解明され、その性格は 「奥向」とされている一方で、寛永寺については明確な史料提示がされないまま 将軍家祈祷寺として認知され、その性格は「表向」とされている。表・奥これら二つの 性格を合わせてこそ、将軍家祈祷寺の全体像は浮き彫りとなる。】とした上で、寛永寺に関する問題を挙げている。 【1、寛永寺における祈祷実態の様相を伝える日鑑や年中行事記などの寺院史料不足。 2、祈祷寺でありながらも菩提寺の性格を有したことによる機能の曖昧化。 3、寛永寺門跡が輪王寺門跡・天台座主を兼任したことによる機能の同一視。】これらを念頭に置いて、まずは「将軍家祈祷寺の様相」の章で新義真言宗の護持院と護国寺の祈祷実態の内容を比較した結果、【将軍家の祈祷のみを実施する山内機構を有する護持院の方が、将軍家祈祷寺として相応しい】と論証。続いて天台宗の寛永寺・輪王寺・覚樹王院の祈祷事例から寛永寺の解明にアプローチしたところ、 【そこからは寛永寺の祈祷実施の実態は見えず、むしろ輪王寺の祈祷寺としての 性格が浮上した。それは家康が逝去後に日本国の鎮守神=東照大権現へと 神格化することにより構築した幕府の宗教権威に大きく係わる内容であることが 指摘できる。このことから、輪王寺の祈祷体制が幕府の朝廷を意識した宗教権威の 上昇を目的として存在したと判断できる。 よって、寛永寺・輪王寺の機能は別々に存在したと考えられ、輪王寺門跡は、 将軍政治の中心たる東照大権現の祭祀と幕府の視点からの鎮護国家を担い、 その門跡が江戸では寛永寺住持として存在し、将軍政治における宗教権威の 象徴として存在する、と言うことに存在意義があったと考えられる。 従って寛永寺の存在意義は、将軍政治の中心部分に在ったと指摘することができ、 護持院の有する純粋な祈祷寺院の性格とは全く別次元に在ったと論証できる。】その次の章では『御触書集成』にある諸寺院への祈祷命令のお触れを分析。しかし、御触が表向から出されているのにそこに寛永寺の名はなく、その他の史料からは将軍家祈祷寺の中でも護持院が代表的存在と認識されていたそうな。つまり、同じ祈祷寺と言っても護持院と寛永寺とでは存在意義が違うんだと。で、結論では 【寛永寺の性格は兼任した輪王寺で実施された祈祷により判断できる。即ち、幕府が 直面した「朝廷を超越することが不可能」という現実問題への解決策として、 宗教権威を取り入れることにより朝廷に準拠する政治権力を形成し、国内支配を 継続させて行くことに目的が置かれていたと判断する。 従って、将軍家と言うよりも、幕府が打ち立てた「公儀」的な意味合いを有した 祈祷寺であったと捉えることが出来る。従って、両寺院のどちらが将軍家祈祷寺 として相応しいのかと言うよりも、護持院が「将軍政治の内部部分」、寛永寺が 「将軍政治の朝廷を意識した外部部分」を担う祈祷寺として機能を果たしていたと 言える。こうした定義付けをすれば、両者は機能を干渉することなく幕府権力の 下に上手く調和し祈祷寺としての職務を果たせていた可能性を指摘できる。】なるほどね~。だから宮はわざわざ日光に出張したのか。そういえば、天海も家綱の誕生祈願の時は日光へ行ってるよな。せっかく秀忠が近くに寛永寺を造ってくれたんだし、寛永寺には慈恵堂もあるんだから江戸でやりゃいいのに、わ~ざわざ寛永寺の僧を引き連れて新たに日光に天狗堂まで建てて大規模な祈祷会をしている。輪王寺宮が誕生したのも、天海が誕生祈願をしたのも、日光に東照宮ができた後。当然、東照宮があるからこそ日光を祈祷の場に選んだのだろう。私が知っている数少ない日光の祈祷例は、確かにどれも国家鎮護のための祈祷だよな。天海が複数の寺を兼務したのが日光と寛永寺だけだったら、自己の権勢キープのために日光を手放さなかったという見方もできる。寛永寺の創建は日光に東照宮ができた後だからね。だけど、東照宮ができる以前から天海は日光と喜多院を管理していた。家康がなぜ日光を選んだのか、単品だけで考えるなら風水系の説でもまかなえる。天海の寺だったから日光を指名した、という説でも単品ならアリだとは思う。ただ、その前段階として天海が日光と喜多院を兼務していたことにまで踏み込むと、それらの説だけじゃ納得いく説明にはならない。日光が鬼門で江戸城の鎮護に適していて、家康が死後に日光に落ち着こうと考えたのなら、天海は日光だけを管理してればいいじゃないか。で、これらを踏まえてわたくしの推測をまとめますと、家康の生前には頼朝の前例を踏襲する方向性が出来上がっていた。あるいは初めから日光を国家鎮護の寺とする構想もあったかもしれない。天海は日光を復興させ、ここを押さえた。論議を通して天海の天台で神となる思いを固めた家康は、遺言の場にも天海を臨席させ、死後を託した。天海は頑張って権現号の勅許を得、家康を日光に移してアマテラスに並ぶ国家鎮護の神として祀り上げた。朝廷との軋轢などもあり、宮を江戸にお迎えするのには少し時間がかかったが、朝廷の宗教的権威を越える存在を宮に求め、秀忠および幕閣も理解を示し、日光は祈祷の場として位置付け、そして江戸城に近い場所に宗教的権威の象徴である宮を住まわせるために、幕府の全面バックアップにより寛永寺を創建。周囲も都育ちの宮のために整えていった・・・ま、最後の宮に関する部分は我ながらちょっとゴーインかな~とも思うけどね世間で言われるように、叡山の勢力から何から江戸に移すために寛永寺を創建して堂宇や地名も叡山にならった、ってのが正しいのかもしれないけど、どうも私には素直に受け入れられない。ただ、京から遠く離れた江戸に来た宮を慰めるために叡山周辺の名称を付けたなんてのは、少女趣味もいいとこだという気もするけど。アハハハ。宮に関する部分の推測は今後変わってくる可能性もあるけど、ひとまず今はこれまで。にほんブログ村
2014年02月26日

2代将軍・秀忠が元和3年(1617)に完成させた東照社は、秀忠の死の2年後に3代将軍・家光によって現在の建物群へ建て替えられた(寛永の大造替)。最初に秀忠が建てた東照社は、質素なものだった。ま、遺言ではいちおう「小さな堂を建てて勧請」だったしね。それに、最終的に天下を手にしたものの、家康は苦労人でケチ・・・あやや、質素をモットーとしていた。前田利常が若い頃、江戸城に人質のような立場で詰めていて、家康に会う機会もあった。ある時、寒い廊下で平伏して家康のお通りを待っていると声を掛けられた。顔を上げる訳にはいかないので足元を見ると、真冬の寒い中、足袋も履かずにいた家康の足はヒビワレ・アカギレだらけで血がにじんでいたなんてエピソードがある。そんな父をこよなく尊敬していた秀忠もまた、父の真似っこをしただろう。秀忠が臨終の直前には、自分の葬儀は倹約を徹底すること、位牌以外は一切新調してはならないということを命じたという。だから、秀忠が東照社をそこそこ質素に抑えたのも無理のない話だといえる。それを、家光はごっそり派手な建物に造り変えた。このあたり、家光が秀忠を嫌っていたとする証拠だとよく言われる。ただね、「上野第二編(17)」でも書いたように、自分のやり方をためらわず変えていけという秀忠の遺言もある。まあ、さすがの秀忠も家光がまさか東照社を丸ごと建て替えるとは思ってなかったでしょうけど(笑)。あと、何で読んだんだか忘れちゃったんだけど、家光の弟の忠長がお江の霊廟だか何かをすごく派手なものにしちゃったとかいう話もあったな~。だから日光の方も豪華にせざるを得なくなったとかなんとか。ですが、ここまで書いてきた今となっては、別の推測も浮んできます。アンタ、派手好きでしょ!?って思わず言いたくなるような家光の性格ももちろんあるし、何度も家康を夢に見てはその姿をいちいち絵師に描かせたりという異常なほどの祖父への崇敬も手伝ってるでしょう。が、これは天海が念入りに仕込んだ成果なんじゃないかと私は思うのだ。前回、 【だから、自分と天台のために日光遷座を計画したという面も 確かにあるんだろうとは思います。 ただ、その比率はそう高くはないんじゃないかと思うけど。】としましたが、自分と天台のためだけに家康(のホネ)をゲットしたんであれば、別に社殿を建て替える必要なんかない。秀忠の質素な社殿が気に入らなかったんなら、最初に言えよ、天海!ってエコな私は文句を言いたくなります。もちろん、天海が反対しても家康様サマの家光が強引にやりきったって可能性もあるけど、天海の遺言そのものに「東照大権現の神威を増すこと」という項目が含まれている。しかも、天海が死んだのは寛永20年(1643)。その前年には大造替の造営奉行を務めた秋元泰朝から造替の決算書が提出されている。つまり、工事はもう終わっている。どころか、リニューアルオープンした新社殿への遷宮は天海が祭祀を取り仕切っている。当然、どんだけ派手になったか天海は知っている。それでもなおかつ、死ぬ前に「神威を増すようにしてね」と言い置いた。天台の権勢を保つためという解釈もできるけど、それにしてもちょっと度が過ぎてね?だから私は、日光遷座の折りに天海の中に不純な動機もあったかもしれないけど、その割合というのはかなり低く、天海はやはり純粋に家康の遺志を遂行したのであって、自分の死後も引き続き東照大権現の権威をゆめ落としてくれるな、と家光にバトンタッチしたんじゃないかと思う。天海からすれば、自分を引き立ててくれた家康への恩義は並々ならぬものがあったろう。家康の死後、秀忠・家光という個性豊かな将軍たちを見続けてきた天海は、自分や家康が苦労して生き抜いてきた時代が日ごとに遠ざかっていくのもひしひしと感じていただろうし、時にはひそかに家康と比較することもあっただろう。徳川政権は葵三代で完成を見た。家光がどこまで政治に関与したかは見解の分かれるところだし、私は家光とその両親との確執の通説には懐疑的なんだけど、それでも家光はクセのある性格でやたらプライドだけは高く、危うい一面があったろうとは思っている。天海もその辺はよく理解していただろうし、「戦争を知らない子供たち」が増えていく中で、東照大権現様の権威をより高めることで幕府の屋台骨をしっかりさせていく必要性を感じたかもしれない。まあ、あくまで想像の域を出ませんけどね。けど、「上野第二編(15)」で『寛永寺』にピックアップされている天海の功績の12の項目をタイトルだけ紹介しましたが、もちろん東照宮創設もそのひとつに入っている。家康を権現に仕立てて、特別な神として祀り上げた功績は非常に大きい。権現に至るまでの経緯はもちろんのこと、それを引き継ぐ後継者(家光)も育てた。これだけのことを成し遂げるには、たった1人の老僧のちっぽけな野心が発端というだけではちょっと説明が付かない。さて、東照大権現顕彰の弟子・家光はどんな対応をしたか。まずは寛永の大造替。家光は工事にあたり、金に糸目は付けなかったという。上の方で秋元泰朝が決算書を提出したことを書いたけど、 【これによれば泰朝等は寛永12年に金56万8千両(但し小判、内2千両は一分銀) および銀百貫目を与次右衛門と市兵衛より受取り、また米千石を幕府の御庫より受取り、 これが日光東照宮造営の全費用であった。この造営帳発見によって幕府が天下の 300諸候に命じて大いに金銀を献ぜしめ、これを造営費用にあて、諸候を疲弊 せしめて反乱を不可能ならしめたという俗説は誤りであることが明らかになった。】 (『家光時代の経済生活と倹約思想』/安藤良平より)なんだそうな。つまり、全部国庫から出したっていうんだよね。ただし、造って終わりじゃない。家光はしげしげと日光社参に向かうし、社殿の維持・管理にも費用がかかるので、幕府の財政にも影を落としただろうと安藤氏は語る。派手に散財をしたことなども家康と比較されがちな家光だけど、安藤氏の論文を読むとただの浪費家という訳でもなく、祖父や父の方針とは全く異なるものの、彼には彼なりの経済感覚もあったらしい。多少の脚色を含んでいるであろう様々なエピソードを紹介したいところだけど、ちょっと長くなりそうなので今回は割愛します・・・が、私が気に入ったエピソードをひとつだけ。家光の代、寛永15年~17年にかけては倹約が奨励され、これは沢庵に影響を受けたものではないかと辻善之助博士は推定しておられるそうな。で、辻博士はとある史料からこんな話を紹介している。 【毛利秀元、林道春、阿部対馬守というような人が皆城中に弁当を自分で携えてくる。 所が或時毛利の弁当に塩鮭があった。それは珍しいといって皆でわけて食べた。 或は阿部対馬守が焼飯を紙に包んで持ってきて、その飯を食べた後に、 その紙のしわを伸ばして紙に付いている飯を拾って食べてその紙を捨てないで 鼻紙にするために取って置いた。】 (前掲論文より)「どこが家光やねん!!」ってツッコミ入れないでよ。貧乏くさくて、なかなか面白いエピソードでしょ?まあ、世が安定してくるにつれて下々の者も華美に走る傾向にあったので、倹約を奨励して、殿様みずからその範となるべく努力しておられたんだそうな。「阿部対馬守」はのちに家光に殉死した、阿部重次さんのことね。その他にも家光流の経済政策もあったようだけど、すでに時代は倹約モードに入っておりました。その一方で、贅を尽くした建物を日光にばんばん建てている。単なる派手好きとか親子の確執だけでそういうことするかな?って思うんだよね。作戦その2。正保2年(1645)11月3日、日光東照社に宮号が宣下され、「東照宮」に改められた。格が上がったんです。神社のことを「お宮」ともいうから大したことないようにも思うけど、臣下を祀る神社で宮号が下されたのは天満宮(菅原道真)と東照宮だけなんだと。どうもこれまでは、単に徳川家を優位に置くための宮号への変更と見られていたらしいんだけど、近年になって「当時の対外情勢を考慮して国全体を守るための精神的支柱として神格化され、東照大権現を国家鎮護の軍神と位置付けて、家康と天照が力を合わせて国を守る」という説が提唱されているそうな。あ、この説はたった今ネットで知ったんですけどね(笑)。やっぱりアマテラス説はあちこちにあるんだ・・・作戦その3。正保3年(1646)、家光は朝廷に働きかけて伊勢神宮の例幣使を復活させた。ついでに、日光東照宮へも例幣使を送る手はずを整えた。つまり、天皇家の皇祖神である伊勢と同時に権現様へも例幣使を送るということは、アマテラスと権現は対等の立場ということになる。日光例幣使は慶応3年(1867)までのべ221回、1回も休むことなく続けられたそうな。とどめの作戦その4。これは師匠・天海から引き継いだものだけど、輪王寺宮を誕生させた。弟子がこうして忠実に教えを守って着々と作戦を遂行していく中、師匠・天海もまた『東照社縁起』をまとめ上げ、山王一実神道の整備にあたった。2人による見事な連携プレーの成果は、幕末までその力を保ち続ける。にほんブログ村
2014年02月24日

え~、日光遷座の話に戻ります。元和3年(1617)3月15日、久能山を出発。同日、富士の善徳寺にお泊り。16日、三島着。ここで2泊。18日、箱根越え。小田原に2泊。20日、中原(平塚)着。ここで1泊。21日、武州は府中へ到着。ここで2泊。23日、仙波着。天海の喜多院があるから当然だな。 ここで天海が法会を催している。そのまま4泊。27日、忍(おし)へ到着。ここでも法会があり、1泊。28日、館林で休憩した後、佐野に到着。 ここではあらかじめ本多正純がお迎えのための御殿を用意しており、1泊。29日、鹿沼へ到着。ここで6泊。4月4日、日光到着。これは『日光市史』によるお引っ越しのスケジュールだけど、浦井正明氏は『徳川家康の葬儀と天海の役割』の中で遺骸を掘り起こしたのが2月8日、着いたのが4月8日で丸2ヵ月をかけているとしておられる。 【それは死の直後の極秘裏の扱いとは対照的で、今や偉大な神に昇化した幕府創業の 英雄家康の神威を広く天下に認知させるための一大デモンストレーションであったと 考えるべきであろう。】 (前掲論文より)『日光市史』のスケジュールが正しければ、20日ちょいの行程だから浦井氏の説はちょっと厳しくなってくるけどね。それより、この行程・・・江戸には寄らなかったんだな。確かに、江戸に入ると効率は悪いけどね。ただ、デモンストレーションの意味合いが強いんだったら、江戸できらびやかなお行列を見せる方がより効果高いような気がするんだけど。もう神になってから1年経つんだから、死穢も関係ないだろうしな。ところが、平塚から先は海の近くを通らず、ぐぐっと北上している・・・これは、この行程の重要な目的地が天海の仙波(川越)だったためじゃないかと思われる。仙波では天海みずから法会を行い、4日もの長逗留をしている。天海もさぞ鼻高々だったろう。その後、忍(行田)を経て佐野へ。忍では城内に入ったらしいが、佐野では惣宗寺(そうしゅうじ)という寺に入っている。本多正純は寺の中にお迎えの御殿を用意したんだそうな。このお寺ね・・・寺名だけを言われてもわからない人が多いと思うけど、いわゆる「佐野厄除け大師」のことなんです。はい、ここのお大師さんとは、良源さんのことですよ。惣宗寺の歴史は古い。当初は法相宗としてスタートしたが、鎌倉期に入って天台へ改宗。良源さんを祀るようになったのがいつからなのか、ネットで調べただけじゃわからなかったけど、なんかこの辺、クサイ。忍から佐野までは23キロぐらいなのかな。でも、もっと長い距離を移動している日もあって、むしろ忍~佐野間は短いぐらい。領主の本多正純がわざわざ御殿を新調するぐらい気合が入ってたんなら、自分の城で神輿を迎えたいと正純は思ったんじゃないのか。でも、惣宗寺へ入った。なら、すでにこの時点で惣宗寺では良源さんを祀っており、それゆえに天海が惣宗寺を指定したんじゃないだろうか。ま、それは想像ですが。その後の鹿沼での滞在が異様に長いけど、これはもう日光入りを目前にして日程調整のためだったとも考えられる。『東照宮御鎮座之記』によると、天海が行列の先頭に立ち、続いて叡山の高僧や学者などがつき従った。お供は綾錦を着て、目を見張るほどの美しさだったそうな。『御鎮座之記』を書いたのは公家の烏丸光広。また余談になりますが、この方は色んなエピソードをお持ちです。たとえば、こんな話がある。 光広が江戸に長く滞在して、京に戻ろうという段になって 留守を預かっていた雑掌が何を思ったか蔵を破壊し、中にある光広のお宝を 他の家臣にすべて分け与えてしまった。しかし、帰った光広は何も言わなかった。 「おっかしいな~、なんで何も言わないんだろ・・・ よし、こっちからつついてみるか」 と雑掌が 「殿は長く江戸におられましたので、急に狭い我が家へ戻ったら 不便に思うんじゃないかと思って蔵を取っ払って庭を広くしておきましたよ」 「あ~、そっか~。 で、中にあった物はどうしたの?」 「みんなで分けっこしました」 「うんうん、いいね。 で、お前は何を取ったの?」 「私は何も取りませんでした」 「お前も欲がないな。 ヘンなやつう~!!」 とからからと笑ったそうな。「変なのはオマエだろ」とツッコミ入れたくなりますが、他にも風呂が大嫌いで無理に入れようとすると子供のようにむずがって泣き出すことさえあったなんて、変人丸出しのエピソードも多い方です。妙な性格は書体にも現れ、「寛永の三筆」に並ぶ能書家でありながら独自のユニークな書体を持っていたそうな。歌人でもあり、『御鎮座之記』はなかなかの美文だと思う。この方は御水尾天皇から信頼され、朝幕間の交渉にあたってちょいちょい江戸を訪れている。武家に好意を寄せる公家の中でも、とりわけ幕府寄りだったそうな。まあ、それも納得いく部分もある。光広御年30歳の時、あの猪熊事件に関わり、恩赦により許されているのだ。光広が許された経緯はわからないけど、一歩間違えば自分も遠国へ流罪だったし、多少なりとも幕府に恩義は感じていただろう。さて、4月4日に日光入りした家康の遺骸は8日に奥院に葬られ、14日には御仮殿に神霊が遷された。ここでいう御仮殿は、残念ながら現在日光で見られる御仮殿じゃありません。あれの建築年代ははっきりしてないものの、少なくとも家光による寛永の大造替の際に建て替えてるからね。16日の夜から17日にかけて正遷座祭が行われ、秀忠も列席。以上をもって、東照大権現様のお引っ越しが完了です。興味のない方には「家康は死んで神になった」の一言で充分でしょうが、そんな言葉じゃ済まされないほど、沢山の人の色々な思いが複雑に交差してここに至っています。家康の遺言の話が本当であれば、故人の遺志に反する形で物事が進められた結果になります。天海にあまり好意を持たない(と思われる)人に言わせると、 「自分の権勢をより高めるために、遺言だとゴリ押しして 強引に日光への遷座を進めた」という感じの説明になるけど、ここまで読んだ皆様はどう思います?まあ、私が天海を中心にした内容で書き進めてきたので、悪感情を持った方はあまりいないのかもしれませんが、実はわたくし、天海が好きという訳ではありません。気づいてた方もおられるかもしれませんが、好きというなら、天海より崇伝の方が好きだななんでかはわかりません。崇伝のことは、現段階ではろくろく知りません。ま、好きになるのに理由なんていらないし(←いつものパターン)それでもああいう記事になったのは、わずか数年であの家康に引きたてられ、その後も家光の代で死ぬまでその地位を保ったのはなぜなんだろう?という素朴な疑問を自分なりに考えたからです。前々回、「天性明るく寛容」という安藤良平氏の天海に対する評を紹介しましたが、天海はただの大らかで明るくて寛容でのんきなジイさんではありません。天海が家光に託したとされる5つの遺言の中に、「天台宗を繁栄させること」という項目が入っていましたね。天海の遺言の話が事実じゃなかったとしても、少年の頃に出家して以来天台ひとすじだった天海はそういう思いを確かに持っていました。それは、他の寺に対する天海の行動から窺えます。要するに、一つでも多くの寺を天台に引き込もうと結構強引な事をしている訳です。そういう面も確実にあるため、多少の悪意を含んだ「天海は自分のために家康(のホネ)を奪った」という説明もあながち的外れではないと私は思っています。その一例として、日光輪王寺所蔵の什宝を2つご紹介しましょう。ひとつは「御案」(ぎょあん)。え~、書物などを載せるお盆に天蓋がくっ付いてるようなもんだと思ってください。木製ですが、金箔が貼ってあるようです。 【寺伝に徳川家康公が久能山より日光山に遷座の折りに用いられたと伝える。 青貝摺に透金具で、美しく仕上げられている。】もうひとつは、「行事壇(ぎょうじだん) 伝天海所用」。天台の護摩とか法要を見たことのある方はわかるかもしれませんが、平たく言えば導師の仕事場です。真ん中に座る場所があり、その前に細長いテーブル、左右の両脇にサイドテーブルがあり、密具などが置かれます。蓮唐草蒔絵、寛永18年(1641)作。 【金剛盤の裏面陰刻銘「寛永辛巳四月十七日 日光山東照社御宝前」により、 寛永18年東照宮法要の折り新調された一具であることがわかる。 天海大僧正入滅の2年前、大僧正晩年の壇具である。堂宇の復興に尽力した 大僧正は、法具・荘厳具なども整備、徳川氏の祖廟を荘厳(しょうごん)するに ふさわしい、当代記述の粋を極めた工芸品を現在に伝えている。】 (【】内はいずれも『日光山と徳川四〇〇年の文化』より)まあ、徳川将軍初代の廟を管理するとなれば管理人もそれなりの体裁を整えるのは当然のことでもありますが、現実問題として廟を管理することはその分だけ収入もアップするし、名声も上がる。これほどいいテはないとも言えるでしょう。だから、自分と天台のために日光遷座を計画したという面も確かにあるんだろうとは思います。ただ、その比率はそう高くはないんじゃないかと思うけど。個人的意見をあえて言いますと、天海が何を考えてたかはここではあまり問題にはならないと思います。家康の遺言はムシ、崇伝と吉田家を出し抜いて権現号を認めさせ、自宗の繁栄のために家康を日光へ連れ去った。事実がそんなえげつないものだったとしても、いいんです。家康の遺言のエピソードが事実だったのであれば、家康は死後を天海に託した。たとえ不純な動機であったとしても、天海は自分のトシもかえりみず奔走して日光へ権現として祀り上げることに成功した。「東照大権現」はその後、幕府の精神的支柱として君臨し続けた。ちゃんと結果を出してるんです。だから、結果オーライなんです。ここまであれこれ書いてきたくせに、今さら何てこと言うんだ!と呆れる方もおられるかもしれませんが、自分なりに事の推移を分析・想像するのとはまた別のところにある意見です。にほんブログ村
2014年02月23日

元和2年(1616)10月、幕府は家康を祀る「東照社」を日光に置くことを定め、10月26日、天海・藤堂高虎らが縄張を行う。造営奉行は藤堂高虎、本多正純。大工頭は中井正清。中井正清は、久能山東照宮の方も手掛けてるみたいね。久能山のサイトでは元和2年5月に着工とあるから、かけもちか?(笑)ただ、日光の工期は約半年だから、その期間だけは日光でしゃかりきに頑張ったのかもしれないな(久能山の工期は1年7ヶ月)。11月17日、東照社の造営に着手。翌年の4月までには社殿を造り終えるようにとの命があり、近隣の城主などもお誘い合わせの上、社殿造営にいそしむ。翌元和3年(1617)2月21日、朝廷から「東照大権現」の神号が下される。3月9日、家康に正一位が追贈される。3月15日、東照社竣工。この日の早朝、天海は自ら鍬を持って久能山に仮埋葬された遺骸を掘り起こしたともいう。遺骸は金箔を貼った輿に載せられ、300余騎、雑兵1,000人の大行列でもっていよいよお引越しのスタート。現在日光東照宮で行われる例大祭の中での大イベント、「千人武者行列」はこの久能山から日光への引っ越しを再現したもので、神のお渡りだから神事のひとつで正式には「神輿渡御(しんよとぎょ)祭」という。私はイベント嫌いゆえこのお祭りは見たことはありませんが、流鏑馬と同様、徳川宗家の方も参列されるそうな。これにからんで、歴史ファンの想像を掻き立ててやまないものに家康の遺骨の行方のナゾがある。驚いたことに、久能山東照宮のサイトでは家康(のホネ)の引っ越しについては一切触れていない。久能山の方にも、日光と同じ宝塔形式の墓があるみたいだね。久能山サイドの気持ちもわからなくはないけど、総合的に考えてやはり天海はごっそり家康を連れてったんだろうと思う。分骨の可能性もなくはないけど、おそらくそれはないだろう。以後の徳川将軍は、わかっているところでは最後のケイキさんを除きみな土葬なのだ。それに、御年80才のスーパージジイ・天海が家康を権現とするためにどれほど走りまわったことか。強い信念を持って葬送戦争を勝ち抜いた天海が、家康の骨のひとつぶたりとも残していくことは私には考えられない。まあ、そもそも柩は開けなかったんじゃないかと思うしね。だから、久能山のは供養塔的なものなんじゃないかと思う。かと言って、1年近く最初に埋葬された地ではあるし、「久能山はカラッポで価値がない」なんてことを言ってるんじゃないですよ。あるいは久能山の宝塔は、仮埋葬の期間に墓を務めたものの名残かもしれないな。んでは、寛永寺とは直接の関係はありませんが、ご参考までにここで徳川将軍の埋葬方法について少しご紹介しましょう。以前雑談で『徳川将軍家十五代のカルテ』(篠田達明・新潮新書)という本を(たった2行だけど)紹介しましたが、増上寺の発掘調査結果が確か結構詳しく書かれていたと記憶にあるんだけど、ただいま近隣の図書館が蔵書整理期間中でその本を借りられないので、『魔都江戸の都市計画』(内藤正敏)を参考にいたします。まずはこちらの図をご覧ください↓。 徳川11代将軍・家斉(いえなり:1773-1841)さんの埋葬の様子を図解してみました。最初にご本人の処理をするんですが、家斉さんについては詳しい処理方法は書かれてないので、そこは省いて、家斉さんを座らせます。座っていたとは書かれてないんだけど、皆様座っておられるようなのでたぶん座っていたんでしょう。個人的には、いつどうやって座らせたのかが気になるところだけど。硬直するでしょ?で、 御肌付(おはだつき)と呼ばれる桐の箱に入れる。 ↓ 桧の箱に入れて、間に練香を詰める。 ↓ さらに桧の箱に入れて、間に石灰を詰める。これで御内箱の出来上がり。 ↓ 御内箱を厚さ三分の銅の棺に入れて、間に木炭の粉を詰める。 ↓ 穴を掘って石垣を組む。これが御鞘(おさや)石垣。 ↓ 御鞘石垣の中に切石で組んだ御石槨(おせきかく)と呼ぶ石室を組む。 ↓ 御石槨の中に銅棺を入れてふたをかぶせ、上に土をかけて完成。図の中では便宜上それぞれの箱にふたを描いてませんが、もちろんそれぞれ密封されてます。御肌付からスタートしてなんと5重。厳重もいいとこです。個々の違いも多少はあるようですが、だいたいこんな感じで埋葬されているらしい。ただ、こういう埋葬の仕方そのものは将軍家の専売特許ではなく、他の大名クラスなどでもよく保存された遺体が見つかっているんだと。上以外の方法では、内部の棺の箱の外側に松ヤニが塗ってあったり、棺と棺の間の詰め物には漆喰や抹香が使われたり、茶が詰められていたケースもあるそうな。 【このシックイの成分は石灰と同じである。これらの充填剤のうち、石灰には殺菌作用 があり、現在でも農作業に畑にまかれている(また、石灰のカルシウムは 後述する石鹸型屍蝋の生成には有効である)。木炭の粉は活性炭のような 吸着作用があり、汚水が入ってきたときには、バクテリアや細菌を吸着する 濾過作用がある。 また石灰も木炭の吸湿作用があるので、埋葬直後に棺内が湿気をおびたときに、 腐敗しにくい状態にする効果があったのかもしれない。抹香や練香は防虫作用が あり、茶も殺菌作用があることは、民間療法でノドが痛いとき、緑茶や紅茶で うがいをする方法が知られている。】 (『魔都江戸の都市計画』より)だいぶ以前、お医者さんに「お茶でうがいするといいんですか?」って聞いたら、「お茶~!?ハッッ!!」ってものすごいバカにされたけどね。ま、それはともかく、こういう外側の処理以外にもご本人の処理があった。 【津軽承祐が死去したとき藩内から朱を集めて、遺体の口、鼻、耳、肛門などの 穴々に朱をつめたことが、埋葬に立ちあった藩士の話として伝わっていることである。 (中略)朱とは硫化水素(HgS)のことであり、朱の殺菌・防腐効果は 古くから知られている。 徳川将軍の場合にも、柩の充填剤に「朱とみつかね」を用い、外側は「朱と石灰」を 詰めたという。この’みつかね’とは水銀のことである。以前、上野の裏山を 工事で掘ったところ水銀が出て大騒ぎになり、調べたところ将軍の棺に入っていた 朱が流れ出たものだったという事件があったという。実際に増上寺の徳川家墓所の 学術調査で、後述するように棺の中から大量の朱が発見されているのである。】 (『魔都江戸の都市計画』より)こうした処理を受けた遺体は、思ったよりも保存状態がいい。ただし、乾燥した場所でできるミイラとは違って湿った土の中なので、「屍蝋」(しろう)という状態になる。土の中の水分量や地質、周囲の温度などの外的環境に加え、本人の脂肪の量などの内的要因も色々違いがあるので、出来上がった屍蝋には様々なバリエーションがあるらしい。6代・家宣の場合は【顔や四肢には黒褐色の軟部が薄い板状に固着し、顔面には一面に不精ひげが生え、さかやきにも短い黒色の生毛が生えていた。】そして遺体の入った棺には石灰と朱が詰めてあり、中にあった朱はなんと370キロもあったという。家宣あたりになると、埋葬の仕方もかなり高度化されてたんじゃないかと思うけど、じゃあ増上寺埋葬組初代・秀忠はどうだったのか?秀忠の場合は銅の棺は使われず木棺だけだったので、砂利が棺の中に入り込み、その重みでぺしゃんこにつぶれていたという。『徳川将軍家十五代のカルテ』では確か「折りたたまれた提灯のように」みたいな表現が使われていて、それを読んだのは何年も前のことだけど「うわあ・・・・・」って衝撃を受けたことをよく覚えている。それでも、つぶされた事を除けば保存状態はなかなかのものだったらしく、【半白の頭髪を正しく髷に結った上に、衣冠束帯の姿で、東方の拝殿の方を向いて座っていた。胸の前におかれた手の先には、金地の扇子、遺体の左には太刀、右に小刀が発見された。上・下肢部の軟部はよく保存され、濃い生毛やイン毛もよく残っていた。】(【】内はいずれも『魔都江戸の都市計画』より。)「イン毛」はもちろん陰の毛と書きますが、楽天ブログではわいせつな表現としてエラーになります。ちっ、めんどくせーな・・・ま、秀忠も400年近く後になってから自分の下半身が白日のもとにさらされるとは、あの世でびっくらこいただろう。家康の死から秀忠の死まで16年。秀忠よりは簡易かもしれないけど、家康にも何らかの処理を施した可能性はある。ただ、家康の場合は前に書いたように、当日の夜に急いで久能山に運び上げられているので、浦井正明氏ははたしてそういう時間があったのか’94の時点では懐疑的に見ておられるようだけど。科学技術が進んだ現代では、モノさえあれば結構色々なことがわかるもんだけど、なにぶん日光埋葬組は墓の調査が行われていない。ゆえに久能山には骨があるのかないのか、それぞれが好きに想像する余地が残されている。なぜこんなにしてまで遺体の保存に努めたのか・・・正確なところはわからないし、呪術系な話が好きな方だとかなりオカルトちっくな説明も見受けられる。ただね、上野編で一度、朱を使った埋葬をちょろっと書いてるんですが、記憶にありますか?それは日光埋葬組・・・ただし、将軍ではありません。かの天海大僧正がそうなんです(「上野第二編(18)」参照)。天海の埋葬に使われたとされるのは、水銀、朱、塩。あの記事を書いた時はどういう意味があるのか知りませんでしたが、まあこれは天海大好きの家光の指示によるものだろうな。久能山からの改葬の際、家康の棺の中まで手が入れられたかはわからないけど、それなりの保存処理はされていたんじゃないかと個人的には思う。家康が東照宮に鎮座した後、天海も保存処理が施され東照宮の西の大黒山に葬られた。ついで家光が天海の墓のすぐ近くに大猷院を構えて葬られる。家光は間違いなくちゃんとした保存処理がされているだろう。仲良し3人組が生きてる時とあまり変わらないような状況で今でも日光で固まっている・・・オカルトちっくなのがお好きな方達があれこれ推測したくなるのも、わかる気がするな・・・とちょっと思った。にほんブログ村
2014年02月22日

天海の独自の主張は、プレゼン上手なこともあってまろ軍団に受け入れられた。もちろん、禁中并公家中諸法度などでこれまでとは全く違う強い意志を持って天下の経営にあたろうとしている幕府の強大な力をまろ軍団が認識していたことも大きな後押しになっただろう。それ以外に、家康の生前に天海がお使いをしたことで朝廷に顔も知られていたことが助けになった。ここまで何度か、天海が朝廷との折衝にあたっていたと書いてきましたが、実際どんな事をしていたのか『江戸時代初期の朝幕周旋について』(安藤良平)を参考に少しご紹介しましょう。家康が江戸に幕府を開いた時の天皇は後陽成天皇。この方の父は、織田家と親密だったとされる誠仁(さねひと)親王。誠仁親王が天皇に即位する前に若くして亡くなってしまったので、その子が祖父の跡を継いだ。この帝は当代一流の学識を持ち、また皇室の回復を強く願う方だったそうな。英邁な天皇は一見いい事のようでもあるけれど、歴史の中では後白河院、後鳥羽院、後醍醐天皇など、頭のキレる方は政治への意欲も強く、武家政権にとってはぶっちゃけロクなことはなかった。家康の心中も穏やかではなかったかもしれない。特に秀吉は関白・太閤という地位を利用したため、自分のために朝廷の権威を高める必要があった。その後で天下を手中におさめた家康は、朝廷への対応も慎重だった。何しろ、朝廷ウケがいい豊臣家はまだ健在。当初は朝廷に対していくぶん控えめに対処していた家康は、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした直後からバシバシと厳しい法令を公布した。もう誰にも遠慮はいらない。統制の対象には朝廷も入っていた。後陽成天皇の侍医は、「帝には著しい神経症のケがある」という診断を下したらしい。秀吉が健在の頃、聚楽第に行幸された後陽成天皇は秀吉らしいハデな歓待を受けたりして、幸福のさ中にあった。それが家康の代になると一転、一応礼は尽くしていたものの、あくまで天下を治めるのは徳川で、帝はどうぞ学芸に精進され、お静かにお過ごし下されという風に家康にクールにあしらわれ、「キイッッ!!」と御機嫌ナナメの日々が続いたらしい。大坂の陣より少しさかのぼった慶長14年(1609)、朝廷でとんでもないスキャンダルが発覚した。俗に「猪熊事件」(いのくまじけん)と言われる。主犯の猪熊教利(のりとし)は光源氏や在原業平にも例えられるほどの、当代きってのイケメン公家。顔だけじゃなく、下半身も光源氏のようだったま、要するに女グセが超悪かったそうな。慶長12年(1607)には大坂へ出奔。これは女官との密通が原因とのウワサがある。その後京へ戻ったらしいが、光る君がいいトシしてまで最愛の紫の上を泣かせたように、コイツも懲りねえ。ある時、ある公家が後陽成天皇の寵愛を受ける女官と密通してるのを耳ざとく聞きつけた猪熊は、チャンスとばかりに他の公家や女官を誘って宮廷のあちこちでイチャイチャやり始めた。公卿8人、女官5人、地下1人。こんな人数であれこれやってれば、バレないはずがない。7月、ついに後陽成天皇の耳にまでウワサが届いた。「なっ、なんてことを・・・死刑じゃ!み~んな死刑じゃ~~~!!」ウィキペディアによると、当時の公家社会には死罪はなかったらしい。事件を聞いた家康の命を受け、京都所司代の板倉勝重とその子が調査に乗り出した。ところが、「大御所様・・・マズイっす。思ったより多くの人間が関わってるようですよ。全員を死罪なんかにしたら、大変なことになりますよ」「ああ、そう・・・しょうがないか。どうでしょう、帝?先例もないことですし、ここは軽い処分に収めましょうよ」「キイイイッッ!!!」結局、猪熊と他1人は死罪、2人は赦され、残りは流罪になった。怒りの収まらない後陽成天皇は関係者の処分が決まった1ヶ月後の11月、「朕、もう天皇やめる」「あ、そーですか。どうぞお好きなように。次は第三皇子の政仁親王がいいですな」「こ、政仁(ことひと)!?朕は我が弟の八条宮に譲ろうと・・・キイキイキイ、家康め~!!」もともと、後陽成天皇は秀吉の勧めで第1皇子の良仁親王を東宮としていた。後陽成天皇の弟の八条宮は秀吉の猶子となって将来の関白を約束されていたが秀吉に子が生まれたことで契約は破棄。八条宮家を創設し、細川藤孝から古今伝授を受け、さらに作庭の才もあったそうで、領地の下桂村に別邸を作り、これが現在の桂離宮だそうな。結局、良仁親王を強引に出家させ、家康の意向通り政仁親王に譲位した。これが後水尾天皇。こんな経緯で譲位が行われたものだから、院となった後陽成氏と新たな帝となった後水尾氏の仲もおよろしくなかったらしい。心配した母后は家康に調停を依頼した。この任にあたったのが、天海。慶長19年(1614)、天海は上洛し院を諌めた。『駿府記』によると、夏頃には家康は天台論議ばっかり聞いている。11月頃には院のお心も少し和らいだ。翌春には表向き院と天皇の和解があった。この頃天海はたびたび参内しては院に天台の教義を授けたりしているらしく、家康が院の書物を借りるのに天海が使いとなっていること、また院から家康に名香を賜った時も天海が使いに立ってることからして天海が院の信頼を勝ち取っていたのだろうと安藤氏は語る。その他、院と女院の仲についても天海が調停役を務めたらしい。天海にも「人たらし」の特技があったんだろうか。気難しい院から信頼を寄せられて万々歳・・・と言いたいところだけど、後水尾天皇は禅宗に入れ込んでいて、かつ父院との仲もよくなかったので、院と天海の接近を好ましいとは思っていなかった。「上野第二編(45)」で天海に対する後水尾天皇の辛辣な評価を紹介しましたが、それはこの辺りの複雑な感情を表している。オヤジが片付いたら、今度は息子・・・朝廷と幕府のアヤしい雲行きは、後水尾天皇の代になってさらに暗雲が立ち込めますが、そこでは別の方が登場しますので、まずはここまで。安藤氏は前掲論文の中で、天海のことを 【学識は崇伝、羅山にはるかにおよばなかったが、その天性明るく寛容で、その発明頓智の才は よく人々に親愛された。】と評しておられる。たぶん、人の心をよく読み取り、機転のある対応ができた人なんだろうな。さて、寛永寺の創建についてはまず『寛永寺』で流れを学び、おおよその事を書きました。その後、自分で歴バナを書く中で、ホントに家康存命中から寛永寺創建プランがあったのかとか、宮を迎える事を思い付いたのはだいぶ後になってからなんじゃないかとか色々自分なりに考えたりもしました。幕府の思惑なども絡む話なので、たぶん自分で納得する結論が出せるのは相当先になると思いますが、また少し考えたことがあるので、ここで書いておきます。先日、日光で買った『輪王寺 宝ものがたり』を少し読んでいた時、日光輪王寺に宮のために造られたといわれる庭がある事を知った。その庭園は私も見たことはあるけど、当時はもちろんそんな事は知らなかったし関心もなかったので、ちょっと驚いた。寛永寺創建の中で私が特に引っかかるのが、諸堂宇とか周辺の地名・名所など叡山のものをパクったという話。「根本中堂」は叡山にもあるし、不忍池を琵琶湖に見立てたとかいうし、これまでに紹介した堂宇の中では「にない堂」なんかもそう。叡山にも「にない堂」があるのだ。 【こうした例は挙げていけば際限がない訳で、要は天海僧正が如何に 比叡山を東に移すということに執心していたかを知っていただければよい。】 (『寛永寺』より)前にも書きましたが、『寛永寺』は私のすべての出発点。この文章を読んだ当初は、叡山のコピーから始まってしまいには叡山のお株を奪おうという、ギラギラした天海像をイメージした。その後で寛永寺モードで日光に行った際、大猷院の手前のお堂の名称を初めて知って驚いた。いや、お堂の近くにある看板などにはちゃんと名称が書いてあるんだけど、ホントにこれまでそういうものに関心がなかったのでね写真はいずれ日光写真館の方に掲載しますが、2つあるお堂はそれぞれ「常行堂」と「法華堂」。「にない堂」と同じ造りなんです。ただ、日光は2つの堂が渡り廊下でつながれているものの、廊下は地面に接しているので寛永寺や叡山とは少し違います。でもほぼ同じな訳だから、「なんだ、日光にもあるんじゃん。ホントに寛永寺のは叡山のコピーかよ!?」って疑問が湧きました。そういう事もあって、小早川隆景の相続イベントのように寛永寺創建についても巨大な迷いの森に入り込んだような状態に陥ったのですが、宮のための庭が日光にあると知った時、あらたな考えが浮かんできました。 【門跡のお庭として門主が幼少の頃を過ごした琵琶湖の景色を写したものと いわれています。】 (『輪王寺 宝ものがたり』より)その庭がいつ造られたとははっきり書いてない。江戸初期としてあるだけ。宮のための庭・・・なら、寛永寺を叡山周辺に似せたのも、すべて宮のためだったって推測もアリなんじゃないのか?だとするなら、あるいは天海は寛永寺の創建というよりも宮を江戸にお迎えすることを主眼にしていたかもしれない。そうなるとプランニングの時期がどこになるかって問題になるけど、天海が任された関東天台はすでに叡山から独立した存在だった。ゆくゆくは天台すべてのトップに立つことを視野に入れながら、かなり早い時期に宮をお迎えすることを考えついたとしても特段無理はない。であれば、家康の存命中からその企画があった可能性は確かにある。ただ、その頃の朝廷は上に書いたような感じだったし、朝幕の関係は危うかった。宮を下さいと言ったところで、とてももらえるような状況ではなかった可能性がある。なんかこの問題、隆景の相続イベントと共に墓場まで引きずっていきそうな気がしてきた・・・にほんブログ村
2014年02月21日

前回のアマテラス説は、「天照」の名が浮かんだ後に『神君家康の誕生』で読んでいた天照大神の扱われ方を思い返して、大した扱いを受けていなかった時期があったのなら天照の名の一部を貸してやることに抵抗感はなかった可能性もあるし、それだったら別にムリムリな話でもないよな・・・って妙に自分の中で納得してしまいましたが、そこまで行きつくのに5分かかってない(笑)。ので、別にアマテラス説を力説する訳でもないんですが、時間をかけてなくて教義による裏付けもないからといってそんなに悪い推測でもないだろうと1日経った今日でも思ってます。それにこれは、名前を進呈する朝廷側からの推測だし。提示された幕府・・・というか天海の方では、4つの中から選ぶにあたって当然一番見栄え良く納得させられる神号とするために、山王一実神道の教義と照らし合わせる(悪く言えばどうにかこじつける)作業が行われただろう。そういう点では、先人が色々研究されておられるように天台や山王一実神道の難しい内容が神号に反映されているということに反論の余地はない。ただ、選んだ側から見た場合でもアマテラス説の裏付けと言ってもいいんじゃないか、と思える部分もある。なんと天照大神は、日本天台宗の開祖・最澄から「治国利民法」なるものを授けられたというのだ。東照宮の縁起には、写本を含めて数種類あるという。また、同じ内容のものでもタイトルが違っているものもあり、ちらりと説明を読んでるだけじゃ何がなんだかわからないまあ、知りたいとは思っても本気で覚えようと思ってないから頭に入らないんだと思うけど(笑)、いくつかある中でも天海の撰による『東照社縁起』、さらにその中で最初に成立して当初は続編の刊行の予定のなかったであろう『真名縁起』上巻は家康の生涯のある時期を集中的に描いており、それだけ天海のもっとも主張したいことが凝縮されているのだろう、と曽根原氏は語る。して、天海は家康を権現とするにあたり何を言いたかったのか、『神君家康の誕生』の解説から『真名縁起』の内容と特色をごくごく簡単に紹介しますと、 ・天海は家康を武将として描かず、宗教者的な存在としての造形を試みている。 ・ある日、家康は酒宴の席で近くの庵から聞こえてきた読経の声に無常を感じる。 あれこれ考えて仏教の多様性に思い至った家康は、各宗派から僧侶や学者を招き 論議を催す。 ・叡山の僧侶が「王法繁昌」には天台宗の教えが最適だと説明。興味を持った家康は さらに叡山の守護神・山王権現の神道と叡山に伝わる治国利民法について知り、 「王法相承」のためには天台宗が最も適していることを理解する。 ・天海の言葉として、家康の徳の高さを称え、その遺命に従い山王神道を守るべきことが 述べられる。だいたい、こんな感じになるようです。「治国利民法」「王法繁昌」「王法相承」など何やら難しげな言葉がいっぱい出てきますが、大ざっぱに言って漢字から普通に読み取れるそのまんまのものだと思っていいと思います。もちろん、本来的には経典などの典拠があるもののようだけど、ここではそこまで触れません。要するに、「現在の政権をより繁栄させ、それを子孫まで伝えるためには天台宗、および天台の神道である山王一実神道が最適であるということを家康公は知り、納得された。だから、その遺志に従い山王一実神道を守るべきなのだ。」と天海は『真名縁起』の中で主張しているようです。しかも、現実には徳川家は浄土宗に帰依していたにも関わらず、縁起の中では死後の成仏だけを願うのではなく、むしろ現世利益を願う天台宗的な信仰者として描かれているらしい。もう少し、重要な部分を見てみましょう。仏教にも色々あると知った家康は、論議を通じて自分に一番ぴったり来る教えを求め、天台の神道に出会った。以下は天台の僧と家康との会話です。 「城に4つの入口があっても、中に入れば同じ場所に着きます。 仏教も同じで、様々な教えがあっても最後は共通の悟りに至るのです。 それが、天台宗の神道です。」 「へ~、その辺をもうちょっと詳しく・・・」 「叡山は国家を守る霊場です。古い本には、霊山の聴衆の中には桓武天皇がおり、 伝教大師(最澄)もいました。2人は日本を救うという約束をして、 1人は天皇に生まれ変わり政治を担当し、もう1人は僧侶に生まれ変わって 仏教を担当するという記述があるんです。」 「へ~、それでそれで? 何で2人はあの時代を選んで生まれ変わったの?」 「古い予言書には、百代目の王の時に子孫が絶えて猿や犬のような輩が英雄を 称するだろう、と書かれています。一般にはそれは後円融天皇の時代と考えられて いますが、実は光仁天皇の時代のことなんです。 だから、その時代に桓武天皇と伝教大師が現れたんです。」 桓武天皇と最澄は、前世ではインドの霊鷲山でブッダの説法を聞いた仏弟子で、法華経の教えを実現するために政治と宗教を分担して、助け合って日本の地を救おうという約束をした、という話のようです。さて、生まれ変わった最澄さんはある時、叡山に入りました。東から峰を越えて岩場に入ったところで、身長3m、頭に光を背負った妙な人に出会います。 「誰だ、お前? ここは前世での善行で煩悩を断ちきった者だけが来るところだぞ。 とっとと帰れよ!」 「え!い、いや、私は前世でブッダの説法を聞いた者で、 悟りの世界からこの世界へ降りて布教しようと思って来たまでで・・・ ところで、そういうあなたはどなたさんで?」 「私は山王権現だ。エッヘン 日本の神で、陰となり陽となり一定せず、おのずから存在している。 心は自在で、この世に教えを広めている。 仏の道を究め、国を守る強い心を持つのだ。 この世界はすべて自分の所有物だし、その中に住む者たちは皆私の子なのだ。」 「ハア、そうですか・・・」これは法華経の引用によるもので、山王権現の言葉は釈迦の言葉として書かれているそうな。つまりは山王権現イコール釈迦ということになり、山王が他の神と異なる最高神であるという指摘がされているとある。山王権現とは、中世の天台教団において叡山の鎮守である日吉神社の神をこう呼んだものらしい。縁起では続いて、山王権現の教えについて語られる。その中でメインとなったのが、冒頭で書いた天照大神が最澄から授けられたという「治国利民法」について。 【「治国利民法」とは、中世の天台宗で作り出された概念である。古代インドでは、 四つの大海の清浄な水を頭に注ぐことで、国王は世界の支配者となる力を得ると 考えられていた。その思想が仏教に取り入れられ、高僧から象徴的な形態で秘法を 授けられることにより、国王ははじめて支配者の資格を得るという観念が生じた。 (中略)中世天台宗の中で、治国利民という<王>の行為は、何より仏教の力を 必要としていると主張された。(中略)天皇が日本を支配する正当性は、しばしば 日本神話に淵源するといわれる。(中略)天皇家が地上の正統な支配者である理由を、 神孫にあることに求めたのである。 しかし中世の宗教世界では、神孫である正統性を相対化する動きが見られ、儒教的な 徳治主義、仏教的な転輪聖王観などが広がりを見せた。治国利民法の概念は、仏教の 力によって支配の正統性を得るという主張を内包している。 『東照社縁起』はそうした中世思想の伝統に立つ。その端的な現れが、アマテラスは 最澄から秘伝を受けたという記述である。(中略)日本を支配する正統性は、神の子孫 であることではなく、山王権現の神道、すなわち天台仏教の力にあるということになる。 また、山王権現の教えの特色は聖界と俗界の一元的把握にあるのだから、宗教的な徳を 持つ者が、政治支配を行うべきという理屈になる。 家康神格化の論理によれば、家康の子孫や天皇家には、強力して治国の実現をはかる ことが求められていくだろう。ちょうど最澄と桓武天皇が、仏教の精神に基づき 協力して救済を実現したと記されたように。】 (『神君家康の誕生』より)長い引用で恐縮です『真名縁起』上巻が成立したのは、寛永13年(1636)。権現号の選定からはだいぶ後の話になる。曽根原氏の解説によると、経典などの知識がないと正しく内容を読み取れないそうで、天海は自慢の天海蔵にあるたくさんの書物と首っ引きでこれを編纂したかもしれない。が、細かい内容はだいぶ後になってから考えられたものだろうけど、縁起の骨子は当初から天海の中にあり、それを最初は秀忠の御前で、ついでまろ軍団を相手に展開していったんじゃないだろうか。ただ、全部をストレートに語ると「あずまえびすが、なんてナマイキな事を言うでおじゃるか!!」とまろ軍団の反感を買うかもしれない。どこからどこまでが後付けの理論なのかもわからないし。でもあるいは最澄と桓武天皇の伝承を控えめに持ち出して、「山王権現の教えに納得された家康公を権現として祀ることで、かの伝教大師と桓武天皇の先例にならい、今後は帝を補佐して国を守ってゆくのです」な~んて語ったかもしれないな。これは言いようによっては、危険な側面も持つけどね。ヘタな言い方をすると、逆に警戒されちゃうだろうし。言うまでもないですが、これは現実のことを記したものではなく、東照大権現の縁起譚です。ただ、論議を催したという実際の出来事も含まれてはいるけど。だから、「天照大神が最澄から秘法を授けられたなんて、バカなことを・・・」ってツッコミ入れちゃいけませんよ。これは天台で語られていた伝承や教義を基に、権現にこじつけ・・・あやや、祀り上げるための天海の論理だからね。ただ、中世以前のアマテラスの扱われ方などが窺われて、実に興味深い内容ではある。にほんブログ村
2014年02月20日

元和2年(1616)5月26日、天海は秀忠に呼ばれ、家康を権現号で祀ることを告げられた。家康権現の誕生です。天海は仮の神号として、「薬王大権現」という名を付けたともいわれる。 【大師が説いたのは、家康という実在の英雄(「君」)と、死後に昇華した東照大権現 (「神」)の背後には家康の本地仏としての薬師如来(「仏」)が存在するという思想で、 これは天台宗の空仮中(くうげちゅう)という三諦(さんたい)が圓遊(えんゆう) するという思想に基づくものである。】 (『寛永寺』より)第一関門はクリアした。天海は板倉勝重らと共に次なるダンジョン・京へ向かった。5月30日頃出発し、6月11日頃には到着したと思われる。公家の社会というのは、とにかく先例を大事にする。例えばわたくしのブログの中では、象へ官位を与えたなんて話もありましたね。案の定、権現号に決定したことを上奏した天海には「権現どすか!?まろはてっきり、先の秀吉と同じ明神かと・・・」「まろもそう思っておじゃりましたぞ。権現なんて、先例がないでおじゃる!」「そうじゃそうじゃ。まろもそう思いますぞ」・・・と、まろ軍団からブーイングが集中した。 【当時の朝廷(公家衆)においては、まず山王一実神道というあまり耳馴れない習合神道 への反撥が強く、加えて、かねてからの崇伝や梵舜らによる強力な根回しもあったから、 なぜ前例のある唯一神道で勅許を奏請してこないのかという意見が多かったのである。】 (『徳川家康の葬儀と天海の役割』より)崇伝の根回しというのは個人的には疑問があるけど、この辺りの日付でも何やかやと崇伝が日記に書き遺したりしていておよその経過は把握しているようでもあるので、朝廷内部にパイプを持っていたらしいことは窺える。が、浦井氏は天海の方でもそれまでに禁中論議などを通じて朝廷に強い発言の場を持っており、さらに幕府の強大なバックアップがあったのでこれは強みだったとしておられる。まろ軍団の方でも色々会合が持たれたらしいが、天海もこれが家康の遺志なのだと説明して頑張ったらしい。7月13日、朝廷から権現号の勅許が下りる。『寛永寺』によると、周囲はもっと説得に時間がかかるだろうと読んでいたらしい。天海はプレゼン上手だったんだろうなめでたく、第2関門もクリアした。朝廷からは勅許と同時に「ナニ権現」とするかの案が示された。候補は4つ。まずは二条昭実(あきざね)から2つ。この方は秀吉に関白の職を譲った方だそうで、自分の養子には家康の偏諱を受けさせて康道とし、それ以後、二条家の歴代当主は徳川将軍家からの偏諱を受けるのが通例となったそうな。ついでに言うと、信長様の養女と実の娘を娶っており、武家政権と良好な関係を築いた方らしい。昭実からは「東照大権現」、「日本(ひのもと)大権現」が提示された。それから、菊亭晴季(きくてい・はるすえ)から2つ。この方は戦国ファンにも有名ですね。娘を豊臣秀次に嫁がせており、真田昌幸の正室・山手殿も晴季の娘とされています。ただ、山手殿の出自は諸説あるし、晴季の娘の可能性は低いとされてもいるけど。この方も武家と友好的な間柄にあったと言えるでしょう。晴季からは「威霊大権現」、「東光大権現」が提示された。9月に入った頃、天海らは江戸へ戻ったと思われる。4つの案を書いたものには、「どれでも将軍様のお好きなものをお選びください」との御内證が添えられていた。崇伝はその辺りを板倉勝重から聞かされたものの、「まだどれにするとも聞いてない。使者たちが戻ってから相談して決めるのだろう」と9月7日の書状に書いている。その後の文章には 【吉田殿は不被指出、何もかも南光坊之神道と相聞え申候】とある。「吉田殿」は吉田家のことだろうな。えっと、この時はもう兼見は死んでるから兼見の子かな。完全に流れが変わって、もう吉田家はお呼びじゃないって雰囲気が窺われる。権現交渉の正使は板倉勝重。崇伝とともに、のちの寺社奉行にあたる職務に就いてたからまあ当然かな。副使は法印永喜。しかし、まぎれもなく交渉の主役は天海。秀忠が帰りを待っていた「使者たち」も天海が主眼だろう。9月7日に崇伝がどこにいたのかちょっとわからないんだけど、9月3日には天海が江戸に入ったという記述がある。天海から勅許が下りたと報告を受けた秀忠は大喜びしたという。9月17日、たぶん江戸城で天海が七五三の膳を振舞われる。饗応については新高山城の遠足イベントでさんざん書いてきたから、わかるよね。(忘れた方は「新高山城(18)」以降をご覧ください)その翌日の崇伝の書状には「まだ神号が何になるか知らないんだ・・・近頃は大御所様が生きてらした時のようには忙しくないし、なんかもう疲れちゃったな。ここ1週間ばかりは食欲もないし・・・」って弱気な発言が見られる。10月に入ると、藤堂高虎が日光の社殿造営を仰せつかり、その縄張のために天海と共に日光に向かう。ウツウツとしていた崇伝とは対照的に、天海は忙しく立ち働いていた。さて、神号。秀忠は最終的に「東照大権現」を選び、元和3年2月21日、天皇よりその通りの諡号が下された。この名称については、先人が力を入れて解析にあたっておられます。ただ、それに関するものだけを読んでると、ものすごく失礼な言い方だけどなんか言葉遊びのように思えてきちゃって、あまり真面目に考えようという意欲がなくなってきます。(先人の努力をバカにしてる訳じゃないですよ。決して。)ひとまず浦井氏の説だけを紹介すると、 【筆者はこの試案の撰定については、天海の主張がかなり採り入れられていると 考えている。と言うのは、まず朝廷が四つの神号案を撰んだ上、その最終的な撰定を 幕府(実質上は天海)に一任したことであり、更に、それ以上に大きな理由は、 この四つの案の中で、「威霊大権現」という、きわめて月並な神号以外の三案が、 すべて「東」にかかわりをもっているということなのである。(中略) 実は、家康はその生母於大の方が三河の鳳来寺(峰の薬師)に頑掛けして授かった子 なのである。しかも、薬師如来は紛れもなく東方薬師瑠璃光浄土の教主なのである。 この場合、光と照はほぼ同じ意味の言葉と考えていいであろうし、更に薬師如来は 天海の属する天台宗の総本山・比叡山延暦寺の根本中堂の本尊でもある。 その上、家康自身の遺言の中にも「八州の鎮守」となるとの言葉がある。この場合の 八州が関東八ヵ国であることは疑う余地がない。こう考えてくると、東にかかわる 三つの神号とが無関係であるとすることの方が、むしろ無理だと言えよう。】 (『徳川家康の葬儀と天海の役割』より)これが呪術系に重きを置く説になると、緻密すぎて頭の悪いわたくしにはもう何言っちゃってるのかさっぱりわかりませぬ。生理的に受け付けないんだろうね、たぶんので、東照大権現の名についてはさらりと流すつもりでいたのですが、昨日の朝、出勤前に鏡の前で支度している時にふと「あ、アマテラス(天照)か・・・・・」って湧いてきました。別にその事を考えてる訳でもなかったのに、なんでいきなりそんな事を思ったのかは皆目わかりませんが、とにかく思いついてしまった。アマテラス説はすでにどなたかが書いてる可能性も高いですが、ひとまずちょっと考えたことだけ書いておきます。現代において天皇家がどういう位置付けにあるのか正確なところはわかりませんが、身分制度がなくなった現在でも天皇家だけは別格。去年(2013)伊勢神宮の式年遷宮があって、TVで大々的に放映されましたが、私の記憶にある限りではこれまではあれほど大仰にTVに映ることはなかったし、あれ自体は古式ゆかしい世紀の大イベントって感じで感動的ではあったけど、その一方で長い歴史の中ではもっとわびしい、形だけの遷宮もあったろうに・・・と思いながらニュースを見てました。アマテラスの子孫は日本で最も古い家系であり、激動の時代を生きた昭和天皇および今上陛下の努力の甲斐あって、天皇家は今でも国民の尊崇と、子が親を慕うような愛情を集めている。天皇が日本のトップに立つのは、天照大神の子孫だから・・・しかし、その天照大神を祀る伊勢神宮にも様々な変遷があった。ここからは『神君家康の誕生』の要約です。古い時代には天照大神は至高の神として位置づけられ、一般人の祈祷は受け付けない天皇専用の神だった。それが、中世に入ると武家の寄進を受け、伊勢からは御師(おし)が全国に出張し神府を配って歩く、庶民にも開かれた神となる。さらには仏教思想の影響を受け、大日如来や観音菩薩の変身した姿だとされたり、あるいは男神と言われ、あるいは留守居の神を残していなくなったと説かれたこともあるそうな。伊勢神宮は外宮(豊受大神)と内宮(天照大神)から成り立ってますが、驚いたことに中世には内宮よりも外宮の方が格が上だとする説が優勢だったという。江戸期に入ると、正月6日に全国の神職や僧侶が江戸城に年頭の挨拶に登城したが、内宮よりも外宮が先の順番になっていた。寛永12年(1635)、内宮の神職がこれに異を唱えた。まず幕府内で検討され、ついで朝廷に先例を問うた。その回答は、順序は祭神の優劣ではなく属性によるもので、外宮が優先というものだった。それに対し、幕府は再度朝廷に諮問を行った。朝廷に対して再検討を依頼すること自体が異例で、その内容は順番ではなく、神位の高下を問うものだった。再度の諮問に対し、朝廷では当時の常識だった外宮優位を覆して内宮が優位にあるとした。幕府もそれで納得した。つまり、江戸初期頃は朝廷は天照大神のことをさほど重視していなかったんだそうな。なら、寛永寺を「東の叡山」としたように、東照大権現を東の天照だとした可能性だってあるんじゃないのかな。現代の感覚からすると、どれほど徳川政権が力を持っていようとも東の天照はないだろ~!!ってカンジだけど、上の例にもあるように、さしもの天照大神も大したことない(と扱われていた)時期があった。であれば、諡号を選定した朝廷側でも、天照の名を持ち出すことにさほど抵抗感はなかったかもしれない。ま、想像です、想像・・・にほんブログ村
2014年02月19日

ここからいわゆる「神号問題」に入ります。これについて世間で多く語られるものは、後世の編纂に基づく俗説だと曽根原氏は書いておられますが、まずは事の経緯を戦国ジジイ脚本のドラマ仕立てでご紹介しましょう。 元和2年(1616)4月20日、秀忠の御前にて。 崇伝:このたび、御遺命により大御所様を吉田神道で久能山へ 明神としてお祀り致しました。 天海:大御所様は、明神で祀れなんて言いませんでしたがの(ボソッ)。 正純:な、なにを言われる、ご老体! ついにモーロク(←80歳)されたか!? 天海:シツレイな!その辺の若いモンにゃあ、 まだまだ負けませんぞ!!ホレッ!ホレッ! 崇伝:・・・・・・・・・ 秀忠:(あ~、びっくりした) 天海、それでは大御所様は何と仰せになられたのだ? 天海:山王一実神道で、権現として祀れとの仰せでした。 崇伝:山王一実神道?ナニソレ!? 正純:我ら3人で御遺命を承った時には、 そんなことこれっぽっちも言ってなかったじゃろうが! ワシャ権現なんて話、ちいとも聞いとらんし!! 崇伝:まあまあ本多殿、熱くならないで。 ここまで明神で進めてきたものを、 今さら権現はないでしょう。 ご老体は何か勘違いされているのですよ。 天海:明神は縁起が悪い(ボソッ) 崇伝:は?何か言いましたか? 天海:子孫が滅亡した豊国大明神の例をお忘れか。 秀忠・正純・崇伝:あ・・・・・・・・ てな感じで、天海が持ち出した秀吉の話が効いて、秀忠は権現とすることを決定し、天海の大逆転勝利・・・と紹介されることが多いです。でもさ、これっておかしくない!?「明神って、先の太閤と同じだよな・・・なんかやだな」ぐらいのこと、崇伝なら気づくだろ?まあ、神式だったら吉田神道=明神、ってのが固定観念だったので何も疑問に思わなかったという可能性もあるけど、ホントに家康が「明神じゃなく権現にしてね」って言ったのなら、とっとと言えよ、天海!ってカンジだよね。てことで、この有名な話はやはり俗説の域を出るものではない・・・ただし、明神から権現への変更があったことはもちろん否定しません。 【実際は、一ヵ月近くの熟慮を経て秀忠の決断が下されており、俗説のような単純な 話ではない。また、判断の際に山王一実神道の性格が重視されたとも推測されている。 山王一実神道は天台宗の神道であるため、現世秩序を肯定する国家鎮護的性格が 強いというのである。】 (『神君家康の誕生』より)これは『上野寛永寺 将軍家の葬儀』の著者で寛永寺のお坊様でもある浦井正明氏の研究をベースにした文章らしい。で、その浦井氏は神号が変わった理由についてどう見ておられるかを要約すると、 1.何よりも明神号は不吉だった。「明神号はつい先頃滅亡した豊臣家の秀吉に用いた 神号であり、その豊国廟を破却させたのは他ならぬ家康公自身ではないか」、 この天海の一言が秀忠や幕閣を権現号に踏み切らせた最大の理由だろう。 2.明神号と豊臣家の滅亡には何の関連もないと幕府が判断したとしても、 まだ天海には奥の手があった。 家康を秀吉と同じ明神号で祀れば、2人は同格の神になってしまい、 家康を類い稀れな偉大な神とする幕府の方針そのものがぐらつく事になる。 それは崇伝が「権現号を採用することは、日本国中を山王一実神道に塗り替える ことになる」と述べている事からも裏付けられるのであり、後の歴代将軍の誰一人 として権現号を用いなかったことからも明白であろう。山王一実神道が東照宮神道と 呼ばれるゆえんである。 3.かつて梵舜は秀吉の使者に、明神号と権現号には優劣がないと語っている。 4.一旦状況が変わると、梵舜が豊国廟の社僧であったことが不利に働いた。また、 唯一神道よりも山王一実神道の方が家康と神がより直結する。加えて、状況の変化に 伴い家康の遺言に「日光」の言葉があったことが急に意味を持ち始めた。 (『徳川家康の葬儀と天海の役割』より)とな。山王一実神道とはなにか?天台の神道です。以上(笑)。いや、ものの本には色々書いてあるんだけど、なんかよくわからないんだよね~(←相変わらずバカ)ま、後でちょっと出てくるかもしれませんが、ひとまずここはわたくしらしく素朴に考えてみたいと思います。崇伝は確かに優秀な人だった。優秀であるがゆえに、外交僧としての近侍から始まったのに、僧侶という立場にありながらも開幕初期の重要な法令の立案にも参加するなど、政治面での実務者的性格の方が強かったんじゃないだろうか。だから、家康のブレーンという表現は天海よりも崇伝の方がしっくり来る。天海も、天台の統轄や外部・・・特に朝廷との折衝などに当たり、わずかな期間で実力を発揮していった。その一方で、前回「茶飲み友達的」と表現したけど、最晩年の悩める家康の心に寄り添ったのが天海だったろうと思えてならない。遺言を聞いたのが4月2日。家康が死んだのが、4月17日。死の前日、家康を神式で送ることが発表され、死の2日後には久能山に遷宮され、葬送の準備はとんとん拍子に進んでいった。明神号うんぬんというより、吉田神道方式で祀ることを恐らく誰もが疑問に思わなかった。当時の吉田家の勢力というものは、結構なものがあったのだろう。浦井氏の推測その3「山王一実神道が東照宮神道と呼ばれるゆえんである」・・・数種類ある東照宮の縁起書の解説を読んでると、どうも急ごしらえのような印象を受ける。おそらく、天海はずっと考えていたのだ。論議などを通して家康の心が読み取れた天海は、どうしたらその願いを叶えてやることができるのか、一生懸命考えていたのだ。その結果、それまで茫漠としていた山王一実神道の教義を急いでまとめ上げたんじゃないだろうか。ただ、現実はどう転ぶかわからない。事の成り行きを見守っているうち、やっぱり明神になってしまうことが判明したので、意を決して「ちょおっと待ったあああ~!!」と声を上げたんじゃないだろうか。おそらく、「権現にして」とは家康は言ってない。天海もそんなウソは持ち出してないだろうと思う。でも、天海には勝算があった。山王一実神道の教義について、秀忠がどこまで理解し、賛同したのかはわからない。それでも、秀吉とは違う権現にして幕府の精神的中心部へ据えることには秀忠も納得しただろうし、あるいは家康が最後の数年間でどんなことを考えていたのか、天海は説明したかもしれない。天海は家康にとってのエンディングノート・・・自分の気持ちを天海が理解してくれていると感じた家康は、タテマエでもある遺言の奥の真意を汲み取って、「天海ならきっとやってくれる」と信じて遺言の場に存応ではなく天海を呼んだんじゃないか。ただ、「権現号が大御所様の望みでした」とは言わなくても、「御遺命」とは言ったかもしれない。その場合、言葉(遺言)による御遺命ではなく、天海が読み取った「御遺命」になる。こうなるとあながちウソとも言えない。さらに後押ししたのが、浦井氏の推測その4「日光の言葉が急に意味を持ち始めた」。家康の死の時点で、日光は天海が管理していた。つまりは、天海による祭祀を家康が望んでいたという意志表示とも取れる。まあ、ここはビミョ~な表現だけどね。遺言では、「1年経ってから小さな堂に勧請」だったから。でもその言葉通りにしたら、前回の引用文で浦井氏が力説したように、「家康は神になった」感が薄れてしまう。ので、総合的に考えた上で、権現として日光で祀るのを秀忠が許可したんじゃないかな。『東照宮信仰の広がり』の中で高藤晴俊氏は 【「神号問題」の本質は、徳川王権構想ともとられかねない日光山選定の意図を隠蔽 するために、崇伝から持ち掛け、天海と二人で演じられたと筆者は推測している。】とちょっとびっくりするような説を提示しておられる。これ自体についてはその根拠の説明は省かれているけど、秀吉神を越える神格を求める者にとっては明神号は初めからあり得ない選択肢であり、ゆえに秀忠も崇伝も権現号とすることをすでに了解済だったとしておられる。根拠を読んでいないので何とも言えない部分はある・・・天海のことはこれまでも色々書いてきたし、考えてもきたので難解ながらも少しは自分なりに想像(妄想)できるようになってきた。が、崇伝がこの辺りで何を考えていたのか、まだ自分の中で消化できてない。ただし、自分と一緒に遺言の場に呼ばれたのが存応でも梵舜でもなく天海だったことから、あるいは崇伝も早い段階で家康の意図に気付いた可能性はある。ウィキペディアの崇伝の項には、 【優れた学僧であったが、その権勢の大きさと、方広寺鐘銘事件に代表される強引とも 思える政治手法により、世人から「大欲山気根院僭上寺悪国師」とあだ名されたという。 ただし家康没後は後ろ盾を失い、天海にその地位を奪われたとの評価もある。】とある。方広寺の鐘銘事件はともかく、次々と公布されたお触れは対象者からすれば厳しい内容だった。その法案の多くを崇伝が起草していることから恨まれる対象となり、こんなあだ名があると言われたり、神号問題では敗者となって以後は落ち目になった、って辛辣な言われ方をされる部分があるように思える。でも、崇伝の案を決裁したのは家康と秀忠だし、崇伝は別に悪い人じゃない。この問題をきっかけに失脚した訳でもない。高藤氏が推測するように、案外この問題のキーマンは天海よりも崇伝なのかもしれないな。にほんブログ村
2014年02月18日

基本的に、歴史を見る上でわたくしは精神世界というのは無視できない事柄だと思っています。歴史ファンの書いたものを読んでいても、精神世界を軽く見ている方の文章というのはどうも薄っぺらいもののように感じてしまいます。ただ、特に天海の周辺などは、たとえば江戸の町を風水で造り上げたとか日光遷座なども風水によるものだとか色々言われますが、江戸の初期については現実的な面がほとんどだろうと思ってます。風水とか精神世界だけに浸りきる・・・というか、それだけで説明しようとすると逆にこれまた薄っぺらいものに感じてしまって、実は先日も参考までにそういう類の本を読み始めたのですが、違和感がありすぎて(笑)途中でやめました。ここ数回の記事では『神君家康の誕生』(曽根原理著)から多く引用させて頂いてますが、これも見方によっては精神世界の文章が多いものの、異様なまでの回数の御前論議とか、家康以外の徳川将軍は神になっていないことなどの様々な疑問について対応できるだけの素地を備えている本だと思っていますので、本文を多く引用させて頂いております。さて、3番手・家康さんに移ります。トップバッター・信長が神になる意図を持っていたかの確証はありませんが、安土城の造りを見ても宗教の融合の意志も感じられるし、生前の神志望者第一号としても差し支えはないものと個人的には考えます。ただ、完成に至る前に滅ぼされてしまった。2番手・秀吉は天下も掌握し、望み通り神になることはできたけども、家康が自ら滅ぼした。前の2人、特に秀吉の二の舞を演じないためにはどうしたらよいのか。ここからは前々回の家康神格化の通説も押さえながら、皆様もご一緒にお考えください。元和2年(1616)4月2日、家康は本多正純・崇伝・天海を呼んで死後の処理について指示を出す。4月15日、梵舜は秀忠に駿府城に呼ばれ、「神道仏法両義」について諮問を受ける。崇伝の日記によると、この日の内容は事実上、葬儀の作法についてだという。梵舜は崇伝を通じて呼ばれたので、崇伝もその場に同席してたって事だろうな。4月16日、秀忠は家康の葬儀を神式で行うこと、久能山へ祀ることを正式に発表。4月17日、家康死去。『徳川家康の葬儀と天海の役割』の中で浦井正明氏は 【常識的に考えると、まだ死んでもいない家康の葬儀について、こうも手際よく 段取りが進められていること自体にも、大きな疑問の余地があると言わざるをえない。】とヒントを与えているものの、ここでもその回答は割愛されているので、これも自分で考えなきゃならない・・・冗談ヌキで、書きながら考えてる部分も多いので、書いてるうちに考えが変わる可能性もありますが、単純に考えられることとしては、「死者を祀るなら吉田神道」という認識があるように、神式なら他に選択肢がない。そして、葬儀について諮問を受けたのは吉田家出身の梵舜であり、実力者・崇伝も同席している。崇伝と梵舜は仲良しだったって言われるんだよね。ついでに言うと崇伝と本多正純も仲良しだったと言われるんだけど、そうであれば「う~ん、崇伝。そ、葬儀のことなんだけどさ・・・」「あ、そうですね。じゃあ、梵舜呼びますよ」「あ、ああ、うん。そうだね・・・」て崇伝が秀忠に梵舜をプッシュした可能性だってある。梵舜の側でも、先代の天下人・秀吉の葬儀から祭祀まで深く関わった実績があり、吉田家ではお呼びがかかるのを今か今かと待っていたかもしれない。何しろ、将軍の霊廟や祭祀を管理するとなれば、幕府からの援助はもちろんのこと吉田家にもハクが付いて世間からも尊崇され、売上だって伸びる。現に、日光は今や「世界のNIKKO」だし、菩提寺となった寛永寺や増上寺の江戸期の地位は大変なものだった。ここは吉田家にとっても正念場と言える。故人の祭祀については、吉田家は業界NO.1。あとは神式とするか仏式になるかの問題があるけど、これはあるいは4月2日の遺言を受けた崇伝から「どうやら神式になりそうだぞ。頑張れよ!」ってリークされていたかもしれない。その辺りはわたくしの平凡な推測ですが、家康自身に神になる意志があったのなら当然神式での祭祀になるし、神式であれば他の選択肢はないから、迷いがなかった可能性はある。ただ、ちょっとおかしいと思う部分もあるけど。家康が死んだのは、4月17日の午前10時頃だったという。死はすぐには公表されなかった。その日の夜、雨の中をついて遺骸を久能城まで運び上げた。お伴は本多正純を含めた重臣数名、それに崇伝、梵舜、天海のわずかな者のみ。久能山へはまだ行ったことがありませんが、TVでなら観たことがある。なんかすごい所にあるよね、アレ。浦井氏によると、1,156段もあるそうな。真夜中・雨の中・急な坂道と三拍子揃った悪条件の中をなんでわざわざ運んだのか・・・家康の神格化にあたってそれは必要な要件だったのだと、浦井氏は語る。 【秀忠や幕府の首脳部にとっては、ただ一つ、一体いかにしたら、家康を類い稀れな 偉大な神に祀ることができるのかということだけが当面の課題だった訳である。 そのためには、家康の遺骸はなるべく早急に人目から隔離しなくてはならないのである。 家康の神格化がすみやかに行われる為には、遺骸の状態で置かれることははなはだ 具合が悪いのである。家康はその死の瞬間を以て、直ちに類い稀れな偉大な神に 昇化しなければならないのである。両者の間に繋ぎの時間が存在することは絶対に 避けなければならないのである。 と言うのは、繋ぎの時間が存在することによって、家康はその死を以て直ちに神と なったということにならなくなり、一度その死が確認された家康を、また改めて神に 祀ることになって、家康=神という一体感がひどく薄れてしまうからである。 従って、家康の生身の遺骸が一般大名などの目に晒されることは、絶対にあっては ならないのである。】 (『徳川家康の葬儀と天海の役割』より) そういう意図があったために、死の発表後も諸大名からの香典の類は一切受け付けなかったそうで、そうした点も含めて浦井氏の説については『神君家康の誕生』の曽根原氏も支持しておられるし、私も基本的にはこの説を基に考えを進めている。ちなみに、冒頭で途中で読むのをやめた本があると書きましたが、その本、『魔都江戸の都市計画』(内藤正敏著)だとこういう表現になる。 【遺言のとおりに家康の遺体はその日のうちに久能山に移され、急造された仮殿に、 梵舜らによって京都・吉田社の唯一(ゆいつ)神道の方式で、神に祀り上げられました。 そのため増上寺での葬式はおこなわれませんでしたし、諸国の大名からの香典も 受け付けませんでした。家康は死ぬとすぐ神になったからです。】内藤氏が個人的に本心から「家康は死んですぐ神になった」と思っている訳ではなく、当時の状況を端的に語っているものだ(と思う)けど、浦井氏の説と対比させて読むと、よりはっきりわかって面白い。「も~っ、雨降ってるし足元は全然見えないし、それにこのずっと続く急な坂!!なんでこんな中死体を担がなきゃならないんですか~・・・」って当日の夜に家康の遺骸を運んだ人間のうち、家康の死を悲しみながらも1人は心の中でボヤいたかもしれないセリフを表現してみましたが、苦労した甲斐あって、「家康の死=神への昇化」の演出が見事に実を結んだ結果が内藤氏の文章になると言っていいんじゃないでしょうか。家康の看護に当たった者の中に、久能城(久能山東照宮ができる前に存在していた中世の城)の城番をしていた榊原清久がいた。清久は家康の死を看取ったが、家康は自分の死後、清久が神職となりこれまでと変わらず仕えるよう遺言したとされる。4月18日の朝までには、家康を久能山へ運び上げた。そして、すぐさま仮殿の建設が急ピッチで進められる。4月19日、山頂に造られた仮殿に御霊を遷宮。仮殿は三間四方、鳥居・玉垣・燈籠一対と神社に必要な様式はちゃんと整っていたというんだから、驚くべきもの・・・てか、やっぱり秀忠の正式発表がある前に、梵舜が手配してたね、コレ。祭主は梵舜、それから榊原清久。4月20日、大工頭中井正清が久能山への神社造営を命じられる。4月25日、秀忠は榊原清久を神官に任じて、父の最期を看取ったことを褒めてやった。さてね、家康の遺言では、増上寺で葬儀を行うことになっていた。増上寺で遺言通り家康の葬儀が行われたと書いている人もいるけど、前後の状況から考えて、内藤氏の文章通りそれはなかっただろうと思うんだよね。時の増上寺の住職・存応は遺言の場に立ち合っていない。懸命に看護した榊原清久は、神職になって引き続き自分に仕えるように言われている。そして、タイミングはともかく家康自身に神に祀られる意志があった。てことはつまり、家康としては神式での葬送を考えていたとも考えられる。増上寺で葬式を上げてほしいとは思っていなかった。だから存応を呼ばなかった。なら何で、増上寺で葬儀を行うようになんてめんどくさい事を言ったのか・・・結局のところ、増上寺のメンツを保ってやるためなのかな、って推測しました。最初から増上寺をカヤの外に置いてしまうと、江戸開府以来徳川家の菩提寺として歩んできた増上寺の立場がなくなってしまう。しかもそれが家康の遺志となれば、いくら存応が憤慨したところでもうどうしようもない。イチ国人からスタートして戦国武将として多くの苦難を乗り越え、最終的に権力の座に上り詰めた家康は各方面への配慮も怠ることはなかった。自分の言葉の重みもよく理解していた。しかし、自分の死後、一悶着あったとしても残された者たちが決めたことであれば、結果は同じであっても、自分の遺言として初めから増上寺を無視するよりはいくらか収まりもいいのではないか・・・そんな感じでどうでしょう?そして、遺言に立ち合った3人のうち、家康が真に自分の死後を託したのが天海だったんじゃないかと思うのだ。神式を考えていたのなら、梵舜を呼べばいい。けど、呼ばれたのは天海だった。論議のところで「心のすき間を埋めたのが天海だったんじゃないか」としましたが、天台や朝廷対策での実務的な駒でもあったものの、私の中では老後の様々な悩みを抱えた家康にとっての茶飲み友達的な間柄でもあったんじゃないかという気がする。吉田神道による家康の葬送の準備が進む中、家康の複雑な心のひだを読み取って、その意を充分に理解していた天海は静かに事の成り行きを見守っていた。にほんブログ村
2014年02月17日

前フリその2。「織田信長は神になろうとした」とはよく言われるところですが、『信長公記』の中では鬼柴田に対し、「とにかく私を崇めろ!絶対足なんか向けて寝るんじゃねーぞ!!」と言ったというエピソードがあるし、あと神社だか門だかの上に石を置いて「これを私と思って敬え」と参拝させたとか言われますね。この話自体が事実かどうかはわからないけど、近年では様々な方面からのアプローチにより、 【当時の大名が死後時を隔てず祀られた例は、すでに識者の指摘がある。戦国時代に 大名を「菩薩の分身」「氏神」などと見なした例も存在することから、信長の場合も こうした「超越的絶対者」への志向に連なるものとして論じられている。 また、天皇(アマテラスの子孫)や本願寺法主(生き仏)に見られる、人を神と同一視 する傾向(「人神化」)に連動する形で信長の神格化を把握する説も提出されている。 (中略)権力者の神格化は当時にあって決して異様な現象ではなかったというのである。 信長の神格化については根拠となる資料に難点があり、彼が本能寺で志半ばに斃れた こともあって、正確な把握が困難である。(中略)しかし近年は、当時流行の 諸教一致説(仏教・儒教・道教・神道等を究極的に一致するものと見なす考え方) に基づき、個別宗派のカミを超越した絶対的神格を求めた動きとして考えられる 傾向にある。(中略)信長自身の意図としては、神格化の動きを認める方向で議論されて きている。】 (『神君家康の誕生』より。中略の他に一部省略した箇所あり)なんだそうな。なるほどね。そうなると一見、「信長神」は大して特殊なものでもないように思えるけど、決定的な違いがある。権力者が神や仏とされるのは、本人が死んでから。みんな周囲に祀られて、死後にバージョンアップしているのだ。例外は天皇家や本願寺だけど、これはこれで「誰々の子孫」という条件が付いている。最初に挙げたエピソードが事実ではないにしても、それに近いようなことはあったんじゃないだろうか。だとすると、血筋に頼らず、一代で権力を築いた生身の人間が、生前に神、もしくは超越的絶対者となる意志を持っていたと言うことができる。これはある意味画期的で、別の立場の者からすれば脅威でもあったろう。信長様が生前に神となる意志を持っていた可能性は、2番手である秀吉の動向からも窺えるように思える。秀吉の施策は、すべてが信長のコピーじゃない。が、そのエッセンスの多くは元主君・信長から学び取り、秀吉独自の方法で展開させていったように私は思っている。『神君家康の誕生』を読むまで私は知らなかったんだけど、 【<慶長4年>正月時点での梵舜の日記には、神号はただ「大仏」の「鎮守」とのみ 記されていた。東大寺大仏の鎮守は、神仏習合の先駆けである八幡大菩薩 (手向山八幡)であった。 それに倣ってか、やがて秀吉も「新八幡」と呼ばれた。この神号が秀吉本人の遺志で あったことは、キリスト教宣教師だけでなく日本側の記録にも記されており、 事実であろう。そして宣教師の記録では、神号の意図は八幡=軍神だから、と 書かれている。】 (<>内は戦国ジジイが追加)だそうな。しかし、何でまたこうも次から次へと神になりたがるのか・・・権力者の傲慢?「上野第二編(44)」で 【当時、巷には「天下は回り持ち」という考え方から、天下人の子の世襲を 認めない風習がありました。】 (『お江と徳川秀忠101の謎』より)という話を紹介しましたが、これって結局、「天道思想」のことを言ってるのか、と記事を書いた直後に気が付きました。「天道」は仏教の用語に由来するものだそうで、のちに儒教や道徳的観念もプラスされ、「天の意志に叶った者がそれにふさわしい結果を与えられる」とか「徳のある者に天下の支配が許される」とかいう風に発展していき、中国の革命なんかも天道思想があったから思い切りよく前政権を打倒したりできた。日本の戦国時代は中国の革命ほどドライではなくても、やはりこの思想に支えられて下剋上を是とした。簒奪者を罪の意識から救う宗教と言ってもいいのかもしれない。しかし、一方で「天」は無慈悲。徳のある者が徳のない者を滅ぼすことを許したように、自分にも徳がなくなれば他の徳のある者に滅ぼされる、というのが天道。自己の政権、あるいはのちの子孫に至るまでそれを維持するにはどうしたらよいのか・・・ 【天道は、新たな秩序を作りだす上で有効性を持ったが、それを固定化するには 向かなかった。そのため、天道に代わる新たな人格神が求められた。政治権力者の 神格化が始まった必然性はそこにあった。 そこで求められたのは、権力者の子孫永続を擁護する存在である。天道思想が理念 (道徳性など)を為政者の要件としたのに対し、血統を用件とする新たな人格神が 必要とされた。】 (『神君家康の誕生』より)梵舜と吉田神道について前回紹介しましたが、秀吉の政権と吉田神道は密接な関係があったらしい。ゆえに秀吉の葬送に関しては吉田家と梵舜が主導権を握ったようだけど、梵舜の日記によって秀吉の死から神になるまでの経緯が詳しくわかっている。具体的な流れを見ていきましょう。慶長3年(1598)からスタートします。8月18日、秀吉死去。慶長の役の最中でもあり、その死は伏せられた。夜になって遺骸は 伏見城から運び出され、ひそかに京都東山・阿弥陀ヶ峰に運ばれた。8月22日、「大仏供養」と称して阿弥陀ヶ峰の麓にある方広寺で葬儀が行われる。9月6日、「方広寺大仏殿の鎮守社建築」と称して廟の建設が始められる。12月10日、島津隊が遠征から帰国し、撤兵完了。12月18日、諸大名が阿弥陀ヶ峰に集められる。翌日からは秀吉を「神に祝う」ための 動きが見られるため、この頃神格化の発表があったものと思われる。4月16日、朝廷から「豊国乃大明神」(とよくにのだいみょうじん)の号が宣旨される。(慶長4年)4月18日、正遷宮が行われ、「豊国神社」とされた。 少し上の箇所で、秀吉自身は「八幡大菩薩」として祀って欲しかったと紹介しましたが、結局は「豊国大明神」という神になった。 【『当代記』に神号変更の理由を「大菩薩はいかが有るべし」(大菩薩と号するのは いかがなものか)と、仏教風の呼称を忌避したような記事があるのを知れば、 変更の意図に興味が湧く。遷宮に前後して神号を変更した当事者は、吉田一族の 梵舜であるはずだからである。この変更は、吉田家側の影響力を示すのではなかったか。】 (『神君家康の誕生』より)つまりは故人の遺志に反した形で祀られることになった訳だけど、吉田家のプッシュによりこういう結果になったということは充分考えられる。この辺り、覚えておいて下さいね。 (京都・豊国神社) (京都・豊国神社)ここにある国宝の唐門は、二条城にあったものを崇伝が幕府から譲り受けて金地院に置き、それをさらに移築したという実に見事なものですが、その写真はありません。ここへ行ったのは2010年の1月。まずよく見てから写真を撮ろうと思っていたら、豊国神社で結婚式があって、その記念写真を唐門の前で撮るからどけって言われちゃってさ~。「これを見にわざわざ来てるんだぞ!観光で食ってる町がそーゆー態度でいいのか!!」・・・と非常に気分を害した、苦い思い出があります。だからこういう場所でのイベントは嫌いだし、観光名所でもある寺社でのブライダルはぶっちゃけ観光客には迷惑なので、これまた嫌いです。と、それはともかく、秀吉の廟の置かれた阿弥陀ヶ峰は現在の豊国神社から東へしばらく行った場所にあります。豊臣家の安泰を願って吉田神道方式で大明神となった秀吉さんですが、その神威はいかに?元和元年(1615)、大坂の陣により豊臣家滅亡。ウィナー・家康はその直後から動いた。梵舜は豊国神社の社領の安堵を願い出るが、家康は寺社の統轄にあたっていた板倉勝重・崇伝、それから天海と相談の上、豊国神社の破却を決定。神官の知行や社領は没収、方広寺大仏殿の住職はよそへ移された。代わって天台宗妙法院常胤が方広寺大仏殿の住職となった。神号は後水尾天皇の勅許を得て剥奪された。「社殿は荒れるがままに、どうかそのままにしておいて欲しい」という秀吉夫人・おねの願いを受け入れ、一部の存続が許されたが、次第に朽ちていった。旧参道には別の神社が建てられ、妙法院常胤が神社への道を閉ざした。また、全国20ヵ所ほどに勧請されていた分社も破却された。夭折した秀吉の長男(捨丸)の菩提寺・祥雲寺は智積院へお下げ渡しとなり、祥雲寺住職は捨丸の遺骨を持って妙心寺に移ったとされる。秀吉の霊は「国泰院俊山雲龍大居士」と変えられ、仏式で祀ることになった。御神体は梵舜がひそかに持ち出して、自宅に隠していたとの話もある。現在は「馬塚」と呼ばれる五輪塔に祀られている・・・秀吉の一周忌の際に秀頼が納めた方広寺大仏殿再建の願文には、豊国大明神の加護を祈る言葉が含まれていたという。しかし、秀吉大明神は子を守れなかったし、それどころか生前のライバルによって自身の神号さえ剥奪され、神社は徹底的な破却の憂き目にあった。 【秀吉の試みは、家康に大きな教訓を残した。強力な守護神となれず、孤立して滅びていく 神の姿を、家康は間近に見た。(中略)神の子孫とされた天皇は、神号や神階を コントロールする。秀吉神を「豊国大明神」と名付け、「正一位」を与えたのは 朝廷であり天皇だった。だが、天皇家の神もその他の神々も、秀吉神を助けなかった。 新たな神は、従来の神々を越えた力が必要であることを、家康は意識せざるを得なかった だろう。】 (『神君家康の誕生』より)次はいよいよ、3番手の登場です。にほんブログ村
2014年02月16日

いやあ~、また積もっちゃいましたね~。先週の雪かきの際、隣のダンナが自分ちの雪をうちの前に捨ててった疑惑があり、それを聞いたうちのオヤジが怒って「今度は雪かきは俺はやらないよ」とかおかしな事を言い始めて、頭のおかしいのは伝染するのか・・・とげんなりしたんですが、その言葉通り今日は何もする気配がなかった。ので、腰の弱い母親とこれまた腰の強くないかよわいジジイ(わたくし)が雪かきをしたんですが、雪が雨に変わったおかげで少し雪は減っていたものの、水分を含んで重いチョ~疲れました。その後で娘さんたちを散歩に連れてったんですが、道々雪かきをしている人達を見ていたら、結構、ケッコーな人が多かった。私の感覚だと、せめて道の手前側半分くらいは自分ちに寄せるべきかと思うんだけど、すべての雪をお向かいの家に寄せてる人も結構いたのだ。それどころか、小道に入ったところに家のある人がわざわざ表通りまで雪を捨てに来ているのも見た。過去には雪かきが原因で殺人事件まであったそうだし、こーゆー時に人柄とか色々出てくるもんなんだな~と思いました。娘さん(大)の方は、散歩ではわざわざ雪の上を歩いてたので楽しんだらしいけど、(小)の方は家の近くまで来て全く雪かきしてない場所の前で立ち止まってしまったので、抱っこして帰りました。(小)は薄毛で寒がりなので、しょうがないよね。人も色々だけど、犬も色々です(笑)。さてと慶長19年(1614)、再建された方広寺へ奉納する鐘の銘に難があると家康が豊臣秀頼にいちゃもんを付けた、いわゆる「方広寺鐘銘事件」が起こる。これは豊臣家を何としてもつぶしておきたかった家康の意を受けて崇伝が献策したものというのが有名な話だけど、ウィキペディアによると家康は五山の僧や林羅山に鐘銘文を解読させており、依頼された者たちは口をそろえて「いや、これマズイっしょ~」と回答したので、家康のこじつけとは言えないし、崇伝の直接の関与も史料の上からは見られないとしている。確かに、鐘の銘文を作ったのは南禅寺の僧だから、家康のブレーンとして活躍する一方で自らの属する臨済(とくに南禅寺)の地位を高める活動も行っていた崇伝が、同じ南禅寺の僧の発案に対して難癖つけるようなことするかな~って気はするんだよね。ま、事実はどうであれ、チャンスをつかんだ家康は狙い通り豊臣家、および関ヶ原での敗者群を一掃することに成功した。その翌年早々、家康発病。その辺のことは「上野第一編(4)」で書いてますが、死が目前に迫った元和2年(1616)4月2日、本多正純・崇伝・天海を呼んで例の遺言を託す。これは崇伝の日記『本光国師日記』に書かれているもので、これによって神へ祀られることは家康自身の考えだったということがわかるのだけど、なんかしっくり来ない部分もある。まず、『徳川家康の葬儀と天海の役割』の中で浦井正明氏は 【ところで、この遺言の席に、家康の側近中の側近である正純と崇伝が呼ばれたのは ごく当然のこととして、なぜ、すでに江戸における菩提寺として確定していた 浄土宗の増上寺(遺言では葬儀も担当するはず)の住職存応が呼ばれないで、代って 一見何の関係もなさそうな天台宗の南光坊天海が呼ばれたのかということも 大きな疑問の一つである。そして、その理由は、やがて家康の神号問題が表面化 した時に明らかになってくるのである。】とする。なるほど、確かにここは源誉存応(げんよぞんのう)を呼ぶべきだよな~。で、どう明らかになってくるのかと思いきや、どうも『徳川家康の葬儀と天海の役割』の中でははっきりと書いてくれてないしょうがねえ、自分で考えるか・・・(←他力本願)んじゃ、まずは「家康の神号問題」から。一般的には次のように言われます。 家康の遺骸はその夜のうちに久能山に運ばれ、祭祀は梵舜が取り仕切り、 吉田神道方式で「明神」として祀られる方向で進められた。 ところが天海がこれに異議を唱え、秀忠の御前で崇伝・正純VS.天海の大論争となった。 結局、天海が勝利し遺骸は久能山から日光へ移され、天海の主張する「権現」号で 祀られることとなった。最初は私も、もちろんこの有名な説から入ってます。しかし、色々読んで考える中で「なんかこれ、変じゃね!?」って思う部分が出てきた。少し長くなるかもしれませんが、ひとつひとつ見ていきましょうかね。 が、本題に入る前に、ちょっと前フリを書く必要があります。 まず、梵舜(ぼんしゅん)。「神辺城(8)」で大内義隆が吉田兼右から神道を学んでいる話を紹介しましたが、梵舜はこの兼右の子。吉田兼見の弟になります。つまり、吉田神道を司る吉田家の出身で、吉田家の次男は氏寺である神龍院へ入る習わしがあり、梵舜も神龍院の住職となります。兼見と梵舜は秀吉が亡くなった際には豊国廟の建設で活躍し、梵舜は豊国廟の社僧に、ついで秀吉を祀る豊国神社の別当となった人です。 (大阪・豊国神社) (豊国神社に立つ秀吉像) 日本には古くから「言霊」の思想があり、「ケガレ」を嫌ったという話は誰もがご存知のことと思います。物語なんかでは、公家が出勤する途中、道端に犬の死体なんか転がってた日にゃあ、「きゃあああ・・・もっ、物忌み!今日は休みっっ!!」てそのまま引き返したことが書かれていて、私が同じように鳥の死骸なんかに出くわすと「あ~、物忌み・・・昔は良かったよなあ」と思いながらそのまま出勤する訳ですが、「死穢」は特に嫌われた様子がわかります。物忌みなんて羨ましい制度がとっくに死滅した現代でさえ、葬式から帰ってくると「清めの塩」をまくしね。普段意識することはなくても、遠い昔から引き継がれた風習や考え方が現代にもひそかに息づいているというのは結構あるもんです。 【仏教は、死穢を解消するために活用された側面を持っていた。 清浄を重視する神道は、もっともケガレを忌む宗教である。神は死穢に触れると祟ると 観念され、神職はケガレに接触しないよう細心の注意を払った。】 (『神君家康の誕生』より)しかし、注意を払うったって、神職だって人の子。一族から死者も当然出る。そしたら、どうするのか?『神君家康の誕生』には上の文章に続けて、梵舜の先祖である吉田兼煕(かねひろ:1348~1402)の葬礼を紹介している。かいつまんで流れを書きますと、 正月に発病した兼煕は、後生を思い4月26日に出家した。 5月3日臨終の日、病床には僧侶と吉田家の面々、家来などが控えていた。まさに 臨終かと思えた時、その瞬間を見ることのないよう吉田家で神職を務める者たちは 庭へ降りていった。兼煕は5回、6回と念仏を唱え安らかに往生を遂げたようだが、 庭へ降りた者はその様子はわからず、ただ念仏の声がかすかに聞こえたことで その死を知るに留まった。 兼煕の遺体は板輿に乗せ人夫が担いで寺へ運んだが、神職を務める者たちは 地上にうずくまり、輿を見ることはなかった。一族で神職でなかった兼之は、 僧侶とともに板輿に手をかけて遺骸を寺まで運んだ。葬礼は仏式で行われ、 一族で神職の者たちは一切関与しなかった。てってーしてる神道とは元々こういうものだったという、実に興味深い例です。神職は故人の祭祀には立ち会えない・・・この課題を克服したのが、兼煕の4代あとの兼倶(かねとも)。兼倶の生み出した思想などにより、中世末期以降の神の観念が変わったという。 【彼が創始した新しい神道では、遺骸の上に「霊社」と称する社檀を作り、 僧侶を排除した神道式葬送を行い、死者を神として祀るようになった。(中略) しかし中世までの通常の観念では、神とは人間とは別の、祈りを捧げる対象であった。 神を人間(の心)と一体視するのは、仏教(密教)思想に淵源を持ち、兼倶以前の 神道思想にも全く見られないことではなかったが、それを前面に押し出して 新たな祭祀形態を作り上げたところに、兼倶の独自性があった。 兼倶は文明19年(1478)以降、死者の霊に対し「大明神」号を授与するように なった。さらに、兼倶の孫の兼右(1516~73)は、遺言で指示をし、葬送を 子息の兼見(1535~1610)らによって執行させた。僧侶は一人も関わらなかった。 (中略)吉田家当主たちは、死後「○○霊社」として神に祀られ、家の守護神となった。 死者はケガレでなくなり、人を神に祀ることが始まったのである。】 (『神君家康の誕生』より)兼倶の創始した新しい神道の流派が、いわゆる「吉田神道」。室町期には伊勢神道が落ち目だったこともあって、吉田神道が全体の中で優位に立ち、とくにタブーを克服したことで、「死者を祀るなら吉田神道」と認知されるまでに至った。にほんブログ村
2014年02月14日

あ~、マタいてえ・・・のっけからすみません。今日は雪の中、人間ドックだったんです。去年のドックは色々つらい思いをしまして、今年はバリウムを胃カメラに変えたんですが、ある程度の本格的な検査となるとそれなりに身体に負担がかかることは変わりません。胃にポリープがあるのは以前からだったけど、さすがに直接胃の中を覗くと色々わかるもので、一気にあらたな病名を3つ言われました(笑)。ま、大したことはありませんが。自分のポリープの写真、面白かったなあで、冒頭の下品な発言は婦人科検診によるもので、なるべく力を入れないようにしたのにまたもや痛かった。婦人科検診を終えたと思われた女性たちはみんな変な歩き方をしていたので、今日のドクターはヘタクソだったんだと思いますすべての検査が終わって食事をしていた間も、マタは痛いわ胃カメラの前に飲んだ薬のせいかお腹にガスは溜まるわ心なしかみぞおちの辺りも痛くてテンション最低でご飯を食べていたのに、隣の女性2人はドック終わりたてで昼間っからビールを2本飲んで盛んにおしゃべりをしている・・・人間、色々です。さて、前回の論議の続きです。この辺りの話は『神君家康の誕生』(曽根原理/吉川弘文館)を主な参考文献としてますので、詳しくお知りになりたい方はそちらをご覧ください。ここではかいつまんで紹介していきます。各宗派の論議の中で最も多く開かれたのが、天台。天台論議とはどのようなものであったのか? 【先行する法相宗や華厳宗などに対し、天台宗が宗教界で地位を築くためにも、 論議の場で自宗教学の優越を示すのは避けられない課題であったため、良源 (911-985)以降、天台宗では論議を盛んに行った。大小さまざまな 法会の場での論議が重視される中で、論題の整備も進められた。 天台宗の論題は大きく三つのカテゴリーに編成される。それぞれのカテゴリーは、 さらに分類され数百の論題に整理された。 この世の中が空であることを、すべては虚しいと解釈し、ともすれば厭世的になる 傾向は、仏者にとって望ましいものではなかった。そこから、この世の中にこそ 真実を見出し、前向きに生きるべきと説く思潮が発生し展開した。 そうした中で、人間おのおのには本来真実が備わっていると説く思想が生まれた。 煩悩を無くしたところに悟りはなく、煩悩の中にこそ悟りがある(「煩悩即菩薩」) といった主張はその典型である。】 (『神君家康の誕生』より抜粋)「上野第二編(14)」などで天海の現実主義的側面を、やはり『神君家康の誕生』を参考に紹介してますが、上の文章によると天台宗そのものも現実肯定の考え方があったようですね。そして、よりによって大坂の陣の前後に多く天台論議が開催されていることから、この時期にこそ御前論議の必要性があったのだろうと曽根原氏は語る。戦国武将には実にマルチな人が多いけど、さすがに仏教にまで関心や知識が高かった人はそういないらしい。そう言われると、大内義隆の特異性が鮮やかに浮き彫りにされてくるんだけど、ちょっと大内氏のことはここでは我慢しましょう(笑)。で、数多くの論議を開いた家康さんはというと、論議のテーマを自ら指定するなど積極的に論議の運営にも関与しており、他の武将とは違って仏教への関心が高かったらしい。 【天台論議の論題には、罪悪や救済、成仏に関するものが多く見られる。単なる経典解釈に とどまらない、実戦と関わる内容が扱われている。さらに別の論題の中には、 「君臣の関係は一生のみか、それとも生まれ変わっても変わらないのか」といった、 およそ仏教とは縁遠く、武家の立場でしか考えられないような題も扱われていた。】 (『神君家康の誕生』より抜粋)こういう現実的なお悩みに現実的な対応ができる要素を天台宗が持っていたので、家康は好んで天台論議を開いたのだろうと曽根原氏は語る。が、加えて論議の中心になったのが天海だったからこそ、天台論議が家康のハートをわしづかみにしたんじゃないかと私は思う。あ、途中で言うなって感じですがここでの歴バナは東照宮のことに加え、これまでの上野編の歴バナの総まとめ的な意味もあります。が、やはり天海は「謎の怪僧」と呼ばれるにふさわしく、まだ理解できないことも多いし、色々な面から考える必要があるので、現時点では性急に答えを出そうとは思っていません。ので、広島の旅の記事でも多くそうしてきたように、ここまで読んだものや考えたことを書き留めておくぐらいの位置付けで中途半端な内容もあると思いますがそこはご了承ください。え~、それで天海。曽根原氏がカウントした御前論議は慶長16年(1611)から始まってるけど、16年・17年は真言宗のみで天台論議が顔を出すのは慶長18年(1613)。慶長12年(1607)の家康との出会い以降、天海は叡山で地位をゲットし、川越喜多院および関東天台を統轄する立場となり、慶長18年には日光を任されるところまで来た。わずかな期間にどんどこ出世をしていることからして、かなり家康に気に入られ、信頼された様子がわかる。歴史ファンの書くものの中では、天海は「黒衣の宰相」と紹介されることが多い。しかし、天海が政治に重きをなすようになるのは家康の死後らしい(『江戸時代初期の朝幕周旋について』/安藤良平)。えっ、そうなの!?と意外に思ったんだけど、実は「黒衣の宰相」とは金地院崇伝(こんちいん・すうでん)の異名でもある。前回、家康の遺言の場面を再掲しましたが、天海・本多正純とともに家康の枕頭に召された3人のうちの1人が崇伝さんです。崇伝と天海は年も全然違うけど、経歴も全く違う。以下、大きなことだけを紹介すると ・慶長10年(1605) 崇伝:36歳で京都五山派トップ南禅寺の住持となり、慶長15年まで勤める。 天海:長沼宗光寺に在籍。 ・慶長12年(1607) 天海:家康との対面。叡山に登る。 ・慶長13年(1608) 崇伝:家康より駿府に迎えられ、外交往復文書担当となる。 ・慶長14年(1609) 天海:叡山の復興に関わる。探題執行となり、のち朝廷より権僧正に任じられる。 ・慶長15年(1610) 崇伝:家康から駿府に土地が与えられ、金地院を建てて常駐。家康の書記となる。 ・慶長17年(1612) 崇伝:板倉勝重とともに寺院行政(のちの寺社奉行の職務に相当)を担当。 天海:無量寿寺北院の再建に着手し、喜多院へとあらためて関東天台の本山とする。 ・慶長18年(1613) 崇伝:家康の命により一晩で「伴天連追放令」を起草。 天海:日光山貫主を拝命。 ・慶長19年(1614) 方広寺鐘銘事件起こる。 天海:家康の命により上洛して後陽成院と後水尾天皇の仲裁にあたる。朝廷から家康へ 名香が下賜された際、お使いの役にあたる。 ・元和元年(1615) 崇伝:秀忠の命により「武家諸法度」を起草。禁中并公家中諸法度も起草したとされる。 寺院法度でもその任にあたる。 天海:後水尾天皇と女院の調停にあたる。崇伝という人は、大変に頭の切れる人であったらしい。若くして南禅寺のトップに着いた後、先輩の後を受けて初めから家康の側近く仕え、その才能が認められてわずか数年後には徳川幕府の重要な法令の起草をするなど、大寺の高僧と呼ぶにふさわしい活躍をしている。対する天海は、家康に出会う前の71年間に比べたら確かに短い期間に出世はしている。が、崇伝のように政権の運営に直接関わったというよりは、天台への干渉と朝廷との調停・・・あ、ヤバいとにかく、嫌な言葉を使えば外部対策の手駒のような立場とも言える。そう考えると、「黒衣の宰相」の名は崇伝にこそふさわしい。なら、なぜ家康は天海の論議に魅かれたのか?上記リンク先で、家康の晩年に出会ったからこそ天海は重用されたんじゃないかと思う、と書きましたが、それがここにかかってきます。天海は家康よりも年上で、70年以上生きてきた。実のところ、他の高僧と言われる人達に比べて天海がどれほどの学識を有していたのかはわからないけど、学識もさることながら、長い人生で培ってきた天海の柔軟さや現実的な面を論議でいかんなく発揮したんじゃないだろうか。2人の出会った慶長12年は、天海:71歳、家康:64歳。崇伝は38歳。天台論議が盛んになり始めた慶長18年は家康は70歳で、自分の死と豊臣家の処遇を含めた徳川の行く末が気にかかってしょうがなかったかもしれない。そういう心のすき間を埋めたのが、人生経験豊富な天海だったんじゃないのか?天海は家康と出会うまで、大きな歴史の上では田舎者の無名の僧だった。後水尾天皇なんかは、天海のことを「天海者凡僧也、田舎之老也」とこきおろしている。ここには個人的感情も含まれているけど、これが当時の貴人にとっての天海だったろうとものすごく納得できるのだ。そして、論議を通して家康は天海に魅かれ、天海から個人的に天台の教義を受けるまでになる。『神君家康の誕生』での論議の項目は、次のように締めくくられる。 【家康が関与した結果、論議の場は単なる経典解釈ではなく、いかに生きるべきかが 問われる場所となった。(中略)家康にとって、自らが理想的な秩序を作り上げる ことは、自己の来世と子孫や徳川家中の将来に対する最大の貢献と考えられたのでは ないだろうか。家康が目指したものは、自己の救済・成仏とともに、子孫繁栄・ 政権永続であり、論議はそのための功徳を積む場であったと考えてみたいのである。 万事多難の時期、あえて論議を行った家康の意図は、そう考えた時はじめて無理なく 理解されるように思われる。(中略)家康の意識の中で、神格化の選択肢が 大きな部分を占めてきたことを示す事件だったといえよう。】にほんブログ村
2014年02月14日

やっと社殿の前まで来ましたが、この後もまだ写真は沢山あって長いので一旦境内の紹介は中断しまして、しばし歴バナに入ります。上野編全編を通してまとまった歴バナはこれが最後になります。上野東照宮ですので、ここでの内容はもちろん東照宮関係。皆様ご存知の通り、東照宮は日光が本廟ですので本来であれば日光のところで書くべきなのかもしれませんが、あちらは写真館という位置付けでもありますし、寛永寺を勉強する中で、やはり東照宮も寛永寺の記事の中で書くのがふさわしいと思うようになりましたので、上野に限定せず東照宮全般について書きたいと思います。プラス、これまでの歴バナの内容もあちこちで顔を出すと思いますので、忘れた方は「上野第二編(9)」以降しばらく続く歴バナをおさらいしておいて下さいね。「上野第一編(4)」で徳川家康の死の前後について簡単に書いてますが、その中で そして自分の死後の処理についても、本多正純・南光坊天海・金地院崇伝を召して、 指示を出した。すなわち、 ・遺体は駿河国の久能山に葬ること ・葬儀は江戸の増上寺で行うこと ・位牌は三河国の大樹寺に納めること ・一周忌が過ぎてから、下野の日光山に小堂を建てて勧請すること そして、神に祀られることによって八州の鎮守になろう、とな。という話を紹介しました。戦国を好きになって最初の頃は、家康ってあまり好きじゃなかったし、もっと前は「人が神になるって・・・」って思ってましたが、家康には家康の考えがあったらしい(当たり前か)。天海と家康のエピソードのひとつとして、「上野第二編(15)」で論議のことを紹介しましたね。この論議、上記リンク先でも書いてますが慶長末年の数年間だけで120回・・・安定した時期ならともかく、まだ豊臣家も健在なこの時期にこの回数ってのはフツーに考えても尋常じゃない。私、従来の説通り、関ヶ原後の豊臣家はイチ大名に転落したんだと思ってたんだけど、近年の研究では秀頼は従二位右大臣まで昇ってるし、オヤジの余波で朝廷からも厚遇されたし、独自の確固たる地位を築いていて周囲からも期待されていたって見られてるらしいね。関ヶ原で秀吉子飼いの武将たちがこぞって東軍に付いた理由がどうも理解できなかったんだけど、中国方面に関心を持ってからは、戦国のラストを飾る最も華やかな中央の動向からは遠ざかってましたので、逆に今では以前よりもクールにこの頃の出来事も見られるようになりました。で、秀吉の死から大坂の陣までのことを江戸幕府の動きなども含めて考えてみると、結局はやっぱり世間一般で言われるように、三成憎し・・・はちょっと表面的すぎるけど、政権の運営方針の違いでいわゆる武断派が家康に加担したってところが妥当なのかな、と思うようになった。関ヶ原ではどちらの軍も、「秀頼様のために」を名目として掲げていた。一見、徳川方に寝返ったようにも見える加籐清正や福島正則などの中にも、将来の秀頼に期待をかけていたように思えるフシもある。彼らは豊臣家を裏切った訳じゃない。家康も、そんなことはわかっていた。秀吉子飼いの武将たちを多く抱き込んで関ヶ原に勝利し、彼らを大藩に封じた徳川政権は、燠火を抱えたようなものだった。 「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座りしままに 食ふは徳川」という有名な落首はかなり後になってから作られたものらしいけど、織田の天下を見たかった戦国ビギナーのわたくしは、この歌を見るたび「チッ!!」と思ったものだった。が、今となってはなかなか的を得た歌だと思う。家康はいつも三番手なのだ。もちろん、三番目なら誰でも成功した訳じゃない。前の二手をじっくり観察した上で、三番目に大きな花を開かせた家康はやはり偉大な人物だったと思う。以前はその老獪さが気に入らなかったんだけどね。石田三成の仇でもあったしね(←三成ファン)。さて・・・織田家は王手に手をかけようとしたところで頭打ちになった。秀吉は得意の「たらし」でついに天下までたらし込み、草履取りが天下人にまでなった。実に鮮やかなサクセスストーリー。しかし、秀吉には致命的ともいえる欠陥があった。以前、懐かしの東西条編で「やっぱ戦国武将には寿命と繁殖力が大事」と書いたけど、秀吉の場合は「チミは女は大好きだけど、子種を持っとらんじゃろ!?」だった。公式発表では秀頼が実子ってことになってるけど、誰が見てもおかしいでしょ。ま、とりあえず秀頼を子としたところで、たった1人。沢山いればいいってもんでもないけど、やはり数少ない親族である秀次を死に追いやるべきではなかった。そして、秀吉の後継者である秀頼がまだ幼かったのが幸いして天下は家康の手に転がり込んできた。いや、もぎ取ったってのが現実だけど(笑)。現代の私達からすると、天下人の子が天下を受け継ぐというのは別に不思議とも思わない。鎌倉幕府の初期もそうだったし、室町幕府もそうだった。ところが、 【当時、巷には「天下は回り持ち」という考え方から、天下人の子の世襲を 認めない風習がありました。】 (『お江と徳川秀忠101の謎』より)なんだそうな。これには若干の疑問もなくはないけど、そういう認識が秀吉の中にもあったんだとすれば死を間近に控えた秀吉が「ひ・・・秀頼を、秀頼を頼むぅぅぅ・・・オネガイ・・・」と最大のライバル(イエアス)にまでなりふり構わず頼みちらかしたことも別の意味で納得がいく。さて、次の天下人となったイエアスさん。諸方面での政権の地盤を固めつつ、秀吉の轍を踏まず徳川の世を末長く存続させるためにはどうしたらいいか考えた。何しろ、健康オタクの甲斐あってまだピンピンしてるものの、征夷大将軍に任じられた時点で57歳。世間的にはそろそろ老齢に差しかかる頃。対して、秀頼はまだこの時幼いものの、火種を抱えてのスタートでもあるし、この先、豊臣恩雇の武将たちがこぞって秀頼に走る可能性もある。まず家康は2年で征夷大将軍の座を秀忠に譲り、自身は大御所として引き続き駿河で指揮にあたった。これにより、政権を譲る意志はないこと、徳川の子孫が天下人となることを表明した。そして様々なお触れを出したりして天下を整えていく訳だけど、家康が征夷大将軍になってから大坂冬の陣までが13年。自分は日に日に年老いていくのに、秀頼は立派な青年に成長した。財力もかなりある。天下を治めるには色々やることがあるし、秀頼は大きくなってきて徳川の行く末が気になるし、ああ忙しいそんな中で、論議三昧?可能性のひとつとしては、「死」を現実のものとして感じる年になったので、来世の幸福を考え始めたということも考えられる。それにしたって、回数多すぎね?それに、往生を考えるなら浄土宗で充分じゃね?松平時代から、徳川家は浄土宗。どんな人も、「なんまんだ~」の念仏さえ唱えてれば阿弥陀様の極楽浄土への切符を手にできるのだ。浄土宗はその手軽さ、わかりやすさがウケたのだ。先日(2014年1月)の旅で、とある浄土宗大本山の朝の法要に出仕いたしました。わたくし。その内容については上野編の次シリーズで紹介しますが、長いお経の中で何度も「なんまんだ~」が出てきた。その後で法話があったんだけど、結局のところ、弥陀の慈悲におすがりすれば来世の幸運が約束される、という内容だった(と思う)。法話の内容をバカにするつもりは毛頭ありませんが、正直言って世間にもまれた現代人にはその教えを丸ごと受け入れるのはキツイな、と思った。そう思いながら法話を聞いていて、やっぱり家康の御前論議は死後の幸福だけを願ったものじゃないな、と感じた。だからと言って、そういう意図が皆無だったとは言いませんよ。三河の小せがれは、今川家での人質時代から出発して死の前年まで数多くの戦陣に立ってきた。その中には恐怖のあまり馬上でウンコもらしたとか愉快なエピソードもあるし、大坂の陣で家康が使ったとされる網代の駕籠は今も日光東照宮の宝物館で見ることができる。そうした人生を振り返って、罪業消滅を願う気持ちもあったかもしれない。それから、『神君家康の誕生』によると、僧侶の管理・統制や寺院勢力への干渉が論議の目的だったと従来から言われていたそうで、これもまたひとつの側面ではあるだろう。この中には、人材の発掘という点を加えてもいいかもしれない。何しろ、参加する僧の立場からすれば論議は自分の学識を披露する絶好のチャンス。あの良源さんも、論議法要でその知力を存分に発揮し周囲にその才能を認められたそうなのだ。しかし、ここまで上げたいくつかだけを理由とするには、家康の論議にはちと偏りがある気がする。『神君家康の誕生』の中で著者の曽根原理氏がカウントした、慶長16年(1611)から元和元年(1615)までの御前論議の内訳を見てみましょう。 ・真言・・・35 ・新義真言・・・17 ・天台(山門)・・・48 ・天台(寺門)・・・6 ・法相・・・7 ・華厳・・・6 ・不明・・・2この他にも、浄土宗や臨済・曹洞などもあったらしいが、上の数を合計するとなんと121回。月に2回ぐらいは論議を開催してる計算になる。『寛永寺』では約120回の論議のうち、約90回が天台論議だとしていて、上の数とはだいぶ食い違いもあるけど、元にした史料の違いなのかもしれない。まあ、合算しちゃうと真言系(真言+新義真言)は52回、天台系(山門+寺門)は54回でほぼ同数とも言えるけど、はたして山門(延暦寺)と寺門(園城寺)を一緒にしていいものか疑問もあるしな。現実問題としては、権力者があまり一つの宗派に入れ込むのも良くないし、見方によってはそこそこ広く論議を開催してるとも言える。が、単品で見ると山門は単独で半分近くを占める。やはり、天台への関心は高かったと見ていいのだろう。にほんブログ村
2014年02月13日

さて今度はエリア8。この時もまだ藤堂高虎の灯籠を探してて足を踏み入れたのですが、池田光仲の灯籠を見た後だったので、光仲のいとこである光政君の灯籠探しも目的に加わりました。ここは銅燈籠の密集地帯なので、すべての灯籠は撮ってませんが、探しついでに「おっ!」と思ったものだけ撮ったのでまずは一部のみのご紹介となります。 【奉献 銅燈籠両基 武州東叡山 東照宮 尊前 慶安四年四月十七日 正四位上行左近衛權中将兼掃部頭藤原姓井伊氏直孝】徳川四天王・井伊直政の子。別名、「井伊の赤牛」しっかし、直孝が正四位上とは知らなかったぞ。保科正之でさえ、灯籠には「従四位上」とあったのに・・・(ただし、正之はのちに正四位下まで進んだらしい)ここまでの灯籠にあった銘は、ほとんどが「従五位下」だったしね。ずいぶん昇進したもんだな。極位極官(人物がゲットした最高の位階と官職)の運用については時代によって差があるらしいけど、ウィキペディアの「正四位」の項には 【江戸時代には、御三家の水戸藩の水戸徳川家の当主、家門大名では福井藩の越前松平家 (15代中4人)、譜代大名では彦根藩の井伊氏(17代中3人)、外様大名の 加賀藩の前田氏や薩摩藩の島津氏(12代中、島津斉宣のみ)、仙台藩の伊達氏 (歴代では伊達慶邦のみ)などの大名家が昇ることを許された。】とある。数ある大名家の中でも、ごく一握りの人しか正四位になれなかったってことだな。水戸家は御三家の中でも家格が多少劣ると考えられているので、大ざっぱな言い方をすると直孝と水戸徳川家が並ぶような形になるのか。もちろん、井伊家と水戸家が対等って訳じゃないけどね。御三家の残りの2家、尾張家と紀州家の極位極官は従二位権大納言。ちなみに、徳川宗家の位階は従一位。「上野第二編(19)」で、親王の位は一品(いっぽん)から四品(しほん)までの4つに分けられることを紹介してますが、このうち一品は「正一位」と「従一位」に相当します。正一位が生前に贈与された例は長い歴史の中でも実に6人しかいないそうで、他はほとんどが死後の追贈。家康でさえ生前は従一位が最高位で、死後に正一位が贈られた。ケイキさんを除く他の徳川将軍も、死後に正一位を追贈されている。こういう身分からも、一品宮である輪王寺宮が将軍とほぼ対等の立場だったというのがうなずけますね。で、こちら↓。 どちらもてっぺんの部分が欠損してると思われますが、これが 【奉献 東照宮 金燈籠両基 慶安四年辛卯暦 尊前 四月十七日 備前少将源朝臣光政】やっぱりあったよ~!これが光政君の灯籠かあ~!!ところでこの銘は、1枚目の写真の灯籠を銅の真ん中のつなぎをまたいで上下通しで読んだものです。ここまで沢山の灯籠を紹介してきてますので、なんか変なのがわかるでしょう?2枚目の方はかなり状態が良くないんだけど、こちらの方の銘はおそらく 【奉献 金燈籠両基 東照宮 尊前 慶安四辛卯暦四月十七日 備前少将源朝臣光政】となっていて、ちゃんとしてます。実は光政君の灯籠は、残念なことにどちらにも落書きらしきものがあって、てっぺんもなくなってるし、苦労したらしい形跡がある。石灯籠がパーツごとに分解できることは「上野第二編(6)」で知りましたが、造りとしてはおそらく銅灯籠も同じで、1枚目の写真の方の灯籠は1度組み直したんじゃないかなって思うんだよね。それで、胴を組んだ時に位置をちゃんと合わせなかったからこんな風に文字がズレてるんじゃないかと推測致しました。組み直してなかったとしても、上下がズレるだけの出来事があった。名君の灯籠が、残念なことです。灯籠奉納時の慶安4年(1651)は、光政君42歳。この日付の3日後には徳川家光が亡くなり、ちょうど慶安の変・・・いわゆる「由比正雪の乱」の時期にあたりますが、当時から周囲の評価も高かったらしく、ウィキペディアには 【慶安の変の首謀者である由井正雪などは謀反を起こす際には光政への手当を巧妙に しておかねば心もとないと語っている。また由井の腹心である丸橋忠弥は光政は 文武の名将で味方にすることは無理だろうから、竹橋御門で桶の中に扮して 射殺すべき策を立てたという。】なんて話がある。ただ、由比正雪のセリフには 【「(光政の心学は)表向きは儒者、内々は謀反心も候や」】という注釈が付けられているので、ただの大藩の聖人のような君主というよりは、幕府との軋轢を生みだすような、時に苛烈さをも伴う骨太さがあると認識されていたのかもしれない。そういう激しい性格の一端を表すエピソードは、岡山の国清寺のあたりでも少し紹介してますけどね。ウィキペディアには、こんな話も載せられている。 【衆道を嫌悪し、同性愛を激しく弾圧した。光政にとっては男色はかぶき者と同列の 存在であり、断じて許すべきではないものとして、光政は男色を「大不義」と呼んだ。 1658年(万治元年)、男色が原因で死者が出る刃傷沙汰が起こり、関係者が切腹や 追放などの処分を受けた。これを契機として光政は男色の規制を強化し、 男色があった場合迅速に家老に連絡するよう命じた。光政にとって、男色を規制 することは彼の信条とする「仁政」であった。】去年、江戸でどんな出来事があったのかが一覧になっている『江戸東京年表』(小学館)という本を買いまして、各方面の勉強が忙しくてまだ慶安4年までしか読んでません。ここまでは幕藩体制が漸次整えられていく中で、当然様々な法令が出される内容が多いのですが、そのお堅い文章の中でちらほらと男色関係の出来事が顔を出す(笑)。ここに書かれているのはホントに大きな出来事だけなので、実際にはもっと男色のもつれはあったんでしょうけど、もう少し先まで読んでそれなりの分量があれば、江戸の雑談として男色関係特集を組むのも面白いんじゃないかなんて考えてました。だって、寛永元年(1624)には「諸隊番士法度」でこんなことが禁止されたらしいのだ。 ・城内での争いごと ・同僚などとの男色・結党 ・不良少年の集会への同座 ・少童に耽楽すること ・理由なく他の役所に出向くこと ・番頭・組頭の命令に違反すること (『江戸東京年表』より)いやあ~、主従の関係が密接だった戦国時代までは「たしなみ」でさえあった男色が、お触れで禁止されるまでになったんだからね~。時代は変わったなあつか、家光も男色大好きだったってウワサもあるんだけど。江戸では町人の間にも男色が浸透し、前髪立ちの美少年の魅力をウリにした若衆歌舞伎が流行るが、やはりホモ・・・いへ、男色家による弊害が多く、承応元年(1652)には若衆の前髪を落とさせ、ついで若衆歌舞伎そのものが禁止される。『江戸東京年表』には、これも若衆を侍らせて男色にふける大名や旗本対策だったとある。それでも男色による痴話ゲンカなどが後を絶たず、承応3年(1654)には少年を草履取りとする事が禁じられる。しかし、男色問題の根絶には至らず、明暦2年(1656)には男色のもつれで美濃青野藩主が家臣に殺されるという事件まで起こる。公式発表は「自殺」のようだけど、取調べで事件の経緯は発覚しているので、光政君がそのニュースを聞いたとしたら、鼻を鳴らして憤慨したことだろう。さて、エリア8最後は 逆光でロクにわかりませんが、こちら 【會津 従四位上左近衛権少将源朝臣正之】エリア3にあった、保科正之の片割れですね。こんなとこに・・・え~、ひとまず灯籠の紹介はここまでとします。社殿の前におわす狛犬↓。 すげえ江戸の狛犬が個性派揃いなのは「プチ日暮里編」などで紹介してますが、なんともまあ・・・広島の狛犬はこれまで沢山写真を掲載したように、とにかくボールがデカくて独特。ただ、バスケットボールほどの大きさの毬を除けばこれといった特色はない。それに比べると、江戸の狛犬はバリエーションがありすぎるぐらいで広島の狛犬を見慣れたわたくしには面白すぎ。上の写真の後にこんな写真がありまして 順番的に、狛犬の台座を撮ったんじゃないかと思うんだけど、近くにあった灯籠の台座に目が行ってふらりと撮ったものかもしれない。これ、サルだよな?今度は向かって左側の狛犬↓。 歯~剥いてるし~。狛犬のすぐ下の台座は 葵だ。遠目に見ると、ちょっと古代エジプトの「ホルスの目」みたいだな。にほんブログ村
2014年02月11日

え~、エリア3は前回で終わり・・・実はあと2本写真があるんですが、銘が写ってないのでのちほど公開します。、で、ここにはこんな注意書きがあります↓。 まあ、こんな重量物、そうそう倒れないとは思うけどね~。ただ、エリア8なんかは相当キチキチに詰め込まれてますので、ここにいる時に地震が来て銅燈籠なんかに押し倒されたら、まともに受ければ命はないでしょう。てか、狛犬に登る不届き者なんかおるのか?と思ってたら、写真を撮ってる間、銅燈籠に登ろうとしている少年がいた。ただ、その子はどうも障害を持ってるようだったので、まあしょうがないかな。さてと、今度はエリア4。 ここはお守りなどを授与する売店コーナーの狭い脇っちょにひっそりとあって、一般の拝観者の目を引くことはまずないと思われます。と言っても、目立つところにある灯籠だっていちいち観察する人はいないんだけどさ(笑)。まず手前は 【越前少将源朝臣光通】越前福井藩第4代藩主、松平光通(みつみち)によるもの。結城秀康(徳川家康の子)の孫にあたる。「光」は家光からの偏諱。父の死によりわずか9歳で家督を継ぐが、最初は祖父・結城秀康以来の家臣による補佐を受けていたものの、年寄り連の相次ぐ死去により自身で親政を開始する。この方も優秀な人だったらしい。前回の前田綱紀なんかもそうだったけど、戦国を生き抜いたガッチガチの武将だった祖父を失って以降は、戦国の気風を残す武張った藩政から文治政治に移行させる。これも時代の流れだね。この方は表の部分はおおむね良かったが、ちょっと奥に恵まれなかった。光通の正室は、越後高田藩から藩主松平光長の娘・国姫を迎えた。国姫の祖母は、徳川秀忠の娘・勝姫。徳川の血をひく姫は気が強い女が多いのか、家康の娘たちも結構トラブルメーカー。亀姫様しかり、督姫しかり・・・家康の孫である勝姫もその気性を受け継いだ。光通と国姫とは幼くして婚約したが、この婚姻による越後高田藩からの干渉に危惧を抱いた幕府や家臣団によって、2人が19歳になるまで婚礼は遅れた。といっても、実際にゴーインに結婚に持ちこんだのは勝姫。姉である千姫を助っ人に、4代将軍・家綱の代になって「これは先君(家光)が決めたことなのよ!家光公の御遺命なんだから、とっとと結婚させなさ~い!!」と幕府に圧力をかけてようやく婚姻にこぎつけたそうな。国姫との結婚が遅れたせいか、光通には側室がいた。国姫を迎えた当時は側室は一時遠ざけられたそうだが、正室を迎えた後に側室に男子・権蔵が生まれる。国姫との夫婦仲は良かったらしいが、2人の間に生まれたのは女子だけ。あいにく男子は生まれなかった。当然、権蔵が継嗣候補となりそうなもんだけど・・・ここでまたまた勝姫登場。「権蔵は妾腹じゃないの!国姫にも、そのうち男子が生まれるわよ!国姫に男の子が産まれたら、その子を跡継ぎにしなさ~い!!」と詰め寄り、光通は誓いの一筆まで書かされた。うるさいババアのおかげでせっかくの夫婦仲にもヒビが入り、35歳になっても男子に恵まれなかった国姫は、男子を産めなかったことを苦にして、寛文11年(1671)自害した。祖母・勝姫と父に詫びながら。なんてお気の毒な・・・国姫の死は、後を引いた。「国姫が死んだのは、権蔵のせいよ!!」と憤った勝姫や国姫の父が権蔵の暗殺を図ったという、嘘かホントかわからない理由で権蔵が家出したそうなのだ。一方、相次ぐ藩政の改革や天災などにより、藩の財政は悪化していった。光通は財政再建のために寛文元年(1661)、「福井寛文札」とよばれる藩札を発行する。これは、「日本初の藩札」と言われているそうな。その後も城下で大火が起こるなど、政治的な苦労も続き、姑と義父の干渉、妻の自殺、跡継ぎ問題などで疲れ果てた光通は延宝2年(1674)、庶弟に家督を譲るようにという遺書を残して自殺した・・・享年37歳。あ~、ちょっとお気の毒すぎ・・・ ちなみに権蔵の方は、父の叔父にあたる越前大野藩を頼り、のちに幕府から1万俵を与えられ、その子孫が越後糸魚川藩1万石となったそうな。この灯籠の日付は撮ってないけど、おそらく慶安4年(1651)、もしくは慶安5年と思われる。まだ国姫を迎える前の15~6歳のピッチピチで、前途洋洋の若者だったろう。以上のエピソードはすべてウィキペディアからのものだけど、光通のページの最後にはこんな話が載せられている。 家光の死の翌日(慶安4年4月21日)、小浜藩主・酒井忠勝が諸大名を江戸に集め こう言った。 「新将軍・家綱様はまだ幼少だ。 天下を望む者があれば絶好のチャンスだぞ」 すると松平光通と保科正之が進み出て諸大名にこう言った。 「天下を望む者があれば申し出てみよ。我らが踏み潰して、 徳川の代替わりの祝いとしてくれよう」 家綱政権下で大政参与として幕政を主導した保科正之とともに、諸大名を一喝した このエピソードから、光通が親藩筆頭の家柄として高い格式を有していたことを うかがうことができる。いや、いくら家康のひ孫っていっても、まだ少年の面影を残す光通が重鎮である保科正之と肩を並べて諸大名を恫喝するなんてちょっと無理がない?って思っちゃうんだけど(笑)、これがホントでなかったとしてもこういうエピソードを残すだけの気概とプライドを持っていた方だとは言えるだろう。「ババア、引っ込んでろ!!」とわたくしと一緒になって勝姫に悪態ついた読者様が何人おられるかはわかりませぬが、ともかく光通&国姫夫婦に合掌。んでは、奥の方にある灯籠↓。 最初にこのエリア4にもぐり込んだ時は、まだ藤堂高虎の灯籠を探していた頃だった。与右衛門の灯籠が境内にある銅燈籠の中で一番古いことは知っていたので、奥にある古そうなこの灯籠がそれじゃないかと期待して銘を覗いたら 【奉献 金灯籠両基 因幡国主従四位下侍従源朝臣光仲】なあんだ~、光仲の片割れじゃないかなんでバラけてこんなとこに置かれてるんだろう。他の灯籠は表側の銘しか見てないんだけど、これは光仲の名前の近くにこんな彫りがあるのが見えた。 【御鋳物師大工 長谷川豊前守藤原重時】最後の名前の部分はあいにく写真が切れかかっていてイマイチ自信ないけど、たぶんこれであってるんじゃないかと思う。この長谷川さんがどういう流れの鋳物師なのかはわからなかったけど、エリア4にある光仲の灯籠は状態もあまりよくないものの、手前にある松平光通のと比べても大ぶりだし、笠の内側なんかも特徴的でなかなか立派な灯籠。ま、現地にいると銅燈籠が多すぎて感覚もマヒしてくるけどねこれらを撮ってる時は疲れてヒイヒイ言ってたけど、やっぱり写真に撮った方がゆっくりじっくり鑑賞できていいよな。とは言え、撮ってない灯籠たちはまだまだ沢山あるので、あの労力を思い返すだけでげんなりしてくるのも事実です。諸大名が参勤交代で江戸に来た折には上野東照宮へも参拝しているので、「殿!これです、これ!ウチの灯籠~!!」・・・て教えられて、光仲もこの灯籠の出来栄えを観賞したのだろうか。にほんブログ村
2014年02月10日

さて、エリア3の灯籠群に戻ります。 【因幡国主従四位下侍従源朝臣光仲】おおっ、これ、「鳥取の光仲」じゃないか~!!光仲のがあるなら、きっと池田光政君のもあるハズ・・・光政のはぜひとも探したい 2つめの方はだいぶ火袋の部分が欠損してますが、こちらの銘は 【謹奉献上 銅燈籠 武州東叡山 東照宮 神前 慶安五年孟夏十七日 防長二州主大江姓松平千代熊丸】おっと、毛利か!!「千代熊丸」ならまだ元服前だな。官途もないし。毛利輝元の長男・秀就(ひでなり)の子。父・秀就が慶安4年(1651)の1月に亡くなっているので、寛永16年(1639)生まれの千代熊丸は灯籠奉納時12歳。母は結城秀康(家康の次男)の娘なので、家康にはひ孫にあたる。将軍・家綱の偏諱を受けて綱広を名乗り、長州藩(防長二国)2代目藩主となる。ウィキペディアには 【自尊心も人一倍強く、徳川将軍家家門筆頭の越前松平家から正室・千姫(高寿院)を 迎えている(自身も母方で越前家の血を引き、千姫とは従兄妹にあたる)にも かかわらず、元就の孫・毛利輝元の孫であるということから、徳川氏に仕えることを 恥として、江戸に滞在しながら江戸城に登城しないことさえあったという】とある。「頭、大丈夫か!?」ってハリセンでツッコミ入れたくなるようなエピソードだけど、もしこれが本当の話なら「やっぱ、テルの孫・・・」って鼻で笑ってしまうのは私だけじゃないだろう。お次はこちら~↓。 【奉献銅燈籠両基 武州東叡山 東照宮 寶前 慶安四年辛卯四月十七日 従四位下肥前侍従兼信濃守藤原姓鍋島氏勝茂】おおっ、こちらは鍋島勝茂か~!!やっぱ、知ってる人が出てくると楽しいね龍造寺隆信の重臣・鍋島直茂の子。直茂の代から佐賀の国政は鍋島氏が握っていたが、名前だけの国主とその父が相次いで死去すると、勝茂が佐賀藩の初代藩主となった。 【東照宮 廣前 慶安四年四月十七日 加賀能登越中三国主菅原姓松平犬千代丸】うん、こちらも元服前だな。前田利家のひ孫。利家の子であり、犬千代丸の祖父である利常は徳川秀忠&江の娘を娶ったので、秀忠にはひ孫にあたる。寛永20年(1643)生まれの犬千代丸は、2歳の時に父を失い、前田家の家督を継いだ。祖父・前田利常が犬千代丸の後見をし、10歳で元服。徳川家綱より偏諱を受け綱利と名乗るが、のち綱紀に改名。保科正之(徳川秀忠の子)の娘を娶る。ウィキペディアには 【利常が、徳川将軍家に子はなく、徳川御三家も頼りないとして、将軍家の血統に当たり 人物・器量も抜群だった正之の娘をあえて選んだという。】とある。利常の死後は保科正之の後見を受け藩政の改革に乗り出し、また本人もマルチな方でなかなかの人物だったらしい。 【規模の大きい藩である加賀藩が蓄財をしすぎると、幕府転覆を画策しているのでは ないかと幕府から警戒されるおそれがあった。そのため、綱紀は、資金に余裕がある時は 散財をした。】(ウィキペディアより)その方針は祖父・利常のそれを受け継いだものらしいが、だからって訳でもないでしょうけど、この灯籠はかなりゴージャス。ええ、もちろん好みの問題もあるでしょうけど。ただ、この灯籠奉納時点では犬千代丸は実年齢で7歳だから、これは利常が監修した灯籠ってことになるよな。さすが前田家、って言いたくなるようなデコラティブな灯籠です。 【慶安四年辛卯四月十七日 會津 従四位上左近衛権少将源朝臣正之】こちらが、先に出てきた保科正之さんの灯籠です。保科正之は徳川秀忠の4男。秀忠には4人の男子がおり、うち次男と三男を江が生んだ。浅井江は今でこそ大河ドラマ「江」の影響で一般の人にもだいぶフツーの人と認識されるようになったんじゃないかと思うけど、それまでのドラマなどでの江といえばとにかく嫉妬深いイノシシのような女であり、夫である2代将軍・秀忠は血筋の点で妻に若干劣ること、妻より6歳年下であること、などを理由に妻の尻に敷かれる恐妻家として描かれることが多かった。恐妻家って部分は今でも固定化しちゃってるのかもしれないけどね。その原因のひとつに、保科正之の存在がある。正之がひっそりとよそで生まれ、また秀忠の子として堂々と名乗れなかったのは江の嫉妬深さと秀忠の遠慮によるものだとよく言われるのだ。が、当たり前のように猫も杓子も「江はヤキモチ焼きで秀忠は恐妻家」と言われると、逆に「ホントにそうなんだろうか」って疑問が湧いてくる。だって、そもそも秀忠の4人の男子のうち、江は2人しか産んでない。残りの2人の子の母親はそれぞれ別人。これ以外にも、秀忠が実父だろうとされる一般人などがいる。だからね、江以外の女性との関わりは実はそこそこあり、正之の母に対して「ただ1度のアバンチュールだったのに、できちゃったよ~!!でも江はコワいから、このことは内緒ね」 (By 秀忠)ってこっそり他所で産ませちゃったって訳でもないと思うんだよね。だいたい、正之は4男で、長男は別の女性から生まれている。この長男は夭折したようだけど、江が秀忠に嫁いだ後に生まれているのだ。てことは、もし江が身境なく嫉妬深い女であれば、徳川家のお茶の間では長男が生まれた時点で大変な修羅場が繰り広げられただろうし、そんな事になれば秀忠だってバカじゃないんだから、「ハア、地獄を見た・・・もう浮気はこりごりだ」って思っただろうし、場合によっては江との夫婦仲にもすきま風が吹いたかもしれない。ところが実際は、その後も江はガンガン子を産んだし、別の女性から保科正之まで生まれている。ちょっとつじつま、合わなくない?ウィキペディアには 【近世武家社会においては、正室の体面と大奥の秩序を維持するため、侍妾の選定には 正室の許可が必要で、下級女中の場合には出自を整える手続も必要であった。 静(正之の母)の場合にはそうした手続きを取ることを秀忠が怠ったため、 江戸城外での出産となった。】 (カッコ内は戦国ジジイが追加)とある。『お江と徳川秀忠101の謎』(川口素生)には 【第二代将軍・秀忠の御台所(正室)・お江が、二度の結婚歴を持つという点は、当時、 世間の耳目を集めたようです。漏れ伝わった少ない情報には、尾鰭(おひれ)が付くのが 常でした。やがて、「将軍様は御台所様の尻に敷かれている」とか、「御台所様は 大変な焼き餅焼きだ」といった噂話が、まことしやかに世間で語られるようになります。 さらに、お江が気性の激しい長姉・淀殿に似ていた、稀代の悪女であったなどという 噂も流布するようになり、この説を信じる歴史学者まで登場しました。(中略) ただし、お江が恐妻家のようにいわれるのは、夫である秀忠にも責任がありました。 なぜならば、秀忠はあまりにも謹厳実直で、馬鹿正直といってもよいぐらいの人物でした。 (中略)現代でも御主人が余りに気弱であったり、あるいは余りにおとなしい方だと、 奥さんが威張って見えることがあり、「あそこの御夫婦は嬶(かかあ)天下か?」 などと、失礼な邪推をされることがあります。 秀忠・お江夫婦の場合も同様で、余りに夫の秀忠が謹厳実直であるため、お江が 悪女のようにみえたのではないでしょうか。】ともある。こちらの方が私にはすんなり受け入れられるんだけど、皆様はどうお思いでしょう?ま、それはともかく、【庶子の出産は同様の事情で江戸城内で行なわれないことが通例】(ウィキペディアより)だったそうで、正之の母も穴山信君(梅雪)の未亡人(武田信玄の娘)に預けられ、神田白銀で正之が生まれた。その後は信濃高遠藩主保科正光のもとで養育され、保科家を継いだ。腹違いの兄であり将軍の家光はのちに弟の存在を知り、初めは控えめな任務を与えて様子を見ていたが、父親譲りの正之の実直な人柄が認められ、家光に重用されるようになったといわれる。家光の死の際は、徳川家の行く末を頼まれたとされ、これが幕末の松平容保まで続く会津松平氏の忠実な御奉公につながっていく。ちなみに、正之は生前、松平姓を名乗ってもよかったのに、養家である保科家への恩義から保科姓を通し、子の代になってから松平の姓と葵の紋を使うようになったという。水戸の黄門様、おきゃやまの池田光政君と並び、江戸初期の三名君といわれる。まあ、池田光政君が激しい一面も持っていたように、名君とはいっても人間。朱子学の熱心な信奉者だった正之は、先に出てきた娘婿の前田綱紀が朱子学以外の本も集めていると知ると、「他の本、いらなくね?」なんて口うるさく言う一面もあったらしい。私はそういう人間くさいエピソードの方が好きだけどね(笑)。にほんブログ村
2014年02月09日

今日は予報通り、関東でもずいぶん雪が降ってます。夕方見たら、ベランダにもかなり積もっていて重そうだったのでベランダの雪下ろし。そのまま、家の前の雪かきに突入・・・スコップで雪をかくより、雪だるまを作った方が効率よく徐雪できるんじゃないかなんて考えました(やってないけど)。さきほど、娘さんをおしっこに連れ出したところ、娘さん(大)はいつもの通り公園へ行こうと果敢に攻めていきました。公園と家の間の道路は私が夕方家側の半分だけ雪かきしたので雪を踏みながら前に進んでいきましたが、手つかずのエリアに入ったとたん、体がズブッと雪に埋もれたので「こりゃいかん」と思ったのか、体の向きを変えて家の前の道路で済まそうとしたらしいのですが、そこも手つかずエリアで体が雪に埋もれ、そのまま動かなくなったと思ったらその場でおしっこしてましたいやあ~、手つかずのところを娘さん(大)が進もうと思ったらもう完全にラッセル状態になるもんな~(笑)。風向きによっては相当積もってるところもあるので、明日の雪かきが大変です。オリンピックもいよいよ始まりましたが、本ブログはソチそっちのけで通常営業です。さっきは男子のスノボの決勝をやってましたが、解説者の「次のキッカーが・・」とか「このキッカーで・・・」のセリフが「吉川」としか聞こえなくて困ります。全国の毛利ファンの皆様も、きっと同じ耳をお持ちのことでしょうさて、それでは藤堂高虎と黒田忠之以外のエリア3について紹介します。ここはなかなかメジャーどころが揃ってますよ~。 【四品拾遺藝州太守源朝臣光晟】戦国武将・浅野長政の孫。戦国ファンの方には説明はいらないと思いますが、いちおう書きますと長政は浅野長勝の娘と結婚し、のちに浅野家を継ぐ。浅野長勝の養女・おねが秀吉に嫁いだことから秀吉の与力となり、豊臣家のいわゆる五奉行にまで出世する。が、関ヶ原では徳川方につき、紀伊和歌山藩を与えられる。長政の跡は長男・幸長(よしなが)が継いだが、幸長に跡継ぎがいなかったため、次男の長晟(ながあきら)が浅野家を継ぎ、福島正則改易後の安芸へ転封となった。その長晟の子が光晟(みつあきら)。母は家康の三女・振姫。つまり光晟は家康の外孫でもある。振姫は浅野家に嫁ぐ前、蒲生秀行(氏郷の子)に嫁いでいたそうだが戻され、浅野長晟と再婚した。天正8年(1580)生まれの振姫は、元和3年(1616)に長晟に嫁ぎ、翌年光晟を産んだ。ウィキペディアには「高齢出産による無理がたたり、その16日後に死去した」とある。享年37歳。医療技術の進んだ現代でさえ、出産で命を落とす人がいるんだからね~。振姫は蒲生家でも子を産んでいるので、経年初産婦(年取って初めての出産)ではなかったんだけど、やっぱり昔は大変だったんだね~。そこいくと、子をボロボロ産んだまつ(前田利家の妻:2男9女の母)や江(徳川秀忠の妻:2男5女の母。前夫との間にも2人の子あり)はどんだけ強靭だったんだと驚嘆せずにはいられませんが浅野家の話が出たので、ちょっと過去の旅から浅野長晟ゆかりの神社を紹介させていただきます。これは戸津説法の記事で紹介した東南寺の後に寄った神社なのですが、とても面白くてわたくしのお気に入りなので、是非とも皆様に紹介したいと前々から思っていたものです。では、2011年10月の旅より、近江は酒井神社の方から。(場所はこちら) 写真が多いので解説文の掲載は省略しますが、社伝による創建は弘仁元年(810)。【元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き打ちにより神社は罹災しましたが、天正16年(1588)に再建。元和6年(1620)に広島藩主浅野長晟によって現在の社地に建立されました】とある。その社殿がこちら↓。 小ぶりだけど、桧皮だしなかなか風格がある。こちらの屋根に乗るのは、浅野家の家紋、「丸に違い鷹の羽」↓。 割に最近補修されたものらしい手水舎にも、浅野家家紋↓。 酒井神社のお向かいにあるのが、両社神社↓。 ↑上の写真は神楽殿の天井で、格子状に大きく組まれた格天井(ごうてんじょう)の合間にさらに細かく格子が組まれたこういうタイプのものを、小組格天井(こぐみごうてんじょう)という。で、こちらが本殿↓。 こちらも浅野長晟によるもので、棟札から酒井神社とともに建てられたことがわかっている。細部に若干の相違があるのを除いてはお向かいの酒井神社と同じものだと解説がある。浅野長政は賤ヶ岳後に大津を与えられており、初めは瀬田城に、ついで坂本城、大津城へ入った。長晟は坂本で生まれている。私がここへ来たのは、酒井神社・両社神社は長晟の兄・幸長の産土神だったという話を聞いたから。特に浅野ファンって訳でもなかったんだけどね。 さて、ここまでは浅野長晟の建立ということ以外、ぶっちゃけ何の変哲もないフツーの神社ですが、神楽殿の脇にこんなものを見つけました↓。 写真じゃ全然わからないと思いますが、石造りのウサギが2匹、オリの中に閉じ込められているのだ。しかも、オリには御幣(ごへい)まで掛けられている。なんなんだ、これは・・・本殿を見たあとで、入口付近にある手水舎へ行ってみた↓。 ここの瓦がなんと はうっ、うさぴょん!!ここから、ひたすら上を見てあちこち探しました。そしたら、塀の上にも 屋根の上にも いるわいるわ、うさぴょんだらけ!!ウサギの由来を知りたかったけど、あいにく境内には誰もいず、社務所のピンポンを押すのもちょっとためらわれたのでこの時はそのまま帰ってきましたが、後から酒井神社のホームページを見たら、「両社神社のお使い」だとあった。たぶん、両社神社ではウサギを神のお使いとしているって意味だろうけど、三井寺の近くにはウサギを神紋とする神社があるものの、ここまでウサギづくしの神社は他にはないんじゃないだろうか。実に面白い神社で、大変に満足しました・・・て、ごめんなさい、ほとんど寛永寺の記事じゃありませんが(笑)。にほんブログ村
2014年02月08日

エリア8の灯籠群の手前にあるのがこれ↓。 【明治七年甲戌年六月 駒込肴町 願主 石屋八右衛門 狛犬の石工、酒井八右衛門寄進の鈴。井亀泉(せいきせん)の名で江戸三代石匠と 呼ばれ、江戸時代から昭和初期まで四代に渡り、多くの石造物を残した。 鳥居や狛犬などには酒井八右衛門、墓碑や顕彰碑には井亀泉の銘を刻んだ。鈴の来歴は 不明であるが、昭和30年頃珍品であるため人目のつくところにと、この水屋に つけられた。】 (現地解説文より。漢数字は戦国ジジイが変換)石匠奉納の鈴がなぜ珍品なのかよくわかりませぬが、鈴よりその下にあるこっちの方が大事↓。 【従四位下阿部對馬守藤原朝臣重次 奉献 石御手水鉢 慶安4年孟春吉日】はい、前々回、水舎門にリフォームされた重次さんの元・御水屋を紹介してますが、あれとこれがセットだったんでしょうね。ただ、これ、これまでの灯籠と日付が違うなあ。ここまではすべて慶安4年4月17日付けだったのに対し、日付は書いてないものの、「孟春」は陰暦正月の別名。つまり慶安4年1月の奉納。それにしても、なんでこんな風にしちゃったんだろう?こんな訳のわからないデカい鈴なんかぶら下げたら、カラの重次さんの水盤なんかに目が行かないじゃんね~。歴史のある重次さんの水盤には、当然重次さんの上屋の方がふさわしい。実物を見た方にはわかると思うけど、酒井忠世の大鳥居をくぐった後に現れる水舎門は、ぶっちゃけちゃっちい。そりゃそうさ、もともと門として造られたものじゃないんだもん。とりあえず門を設置して見栄えを取り繕ったつもりかもしれないけど、そんなセコいことするよりもきちんと重次セットで手水舎として置いた方が人目を引くに違いない。それに、重次さんの御水舎はもっとふさわしい場所に置かれていたのだ。かつての東照宮の境内は今とだいぶ違っていて、手持ちの資料から少し紹介しようかと思ってるんだけど、それは歴バナの後にしようかな。ええ、もうひとつ歴バナが控えてるんですよ(笑)。でも、もうちょっとだけ境内案内を進めますね。で、エリア8の向かいにあるエリア3。 第二編では、大鳥居のすぐ先に灯籠群が現れたのでつい勢いでエリア1の写真を撮り始めましたが、この時は実はお目当ての灯籠はただ1つでした。一つ一つの銘を見ていくのは大変なので、古そうな銅灯籠を求めてエリア3とエリア8の灯籠の間を歩き回っても、お目当ては見つからない・・・境内を一通り見た後で、疲れてもう諦めようかとも思ったけど、最後に根性入れてまた探し始めてからエリア3の中にようやっとそれを見つけました↓。 なんとまあ、エリア3の一番手前にそれはありました。いや、まさかこんなに地味なものだったなんて(笑)。この灯籠がどなたのかと言いますと、 【東叡山 東照大権現 御寶前 寛永五戌辰年 伊賀少将藤原朝臣高虎】はい、ふたたび藤堂高虎・・・通称・与右衛門(よえもん)の登場です。「上野第二編(2)」の寒松院のところで、「彼についてはホンマもんのゆかりの地で書くことにします」と書きましたが、ようやくそこへ辿り着いたという訳です。それにしても、ホントに地味(笑)。他の灯籠の銘のアップの写真を載せてないので皆様には比較はできないかもしれませんが、こんな竹のへらでつつ~っと書いたようなラインの銘は与右衛門のだけです。しかも、あんまり綺麗な字じゃないし他の意匠にしても、根本中堂や両大師のところの派手なデザインを見た方にはわかるかもしれませんが、例えば隣にある黒田忠之のと細部を比較してみましょうか。これが与右衛門の火袋(ひぶくろ。火を入れる部分)↓。 根本中堂などの銅灯籠では、ここには天人たちがデカデカと優雅に舞う姿がありましたが与右衛門のは 黒田の方は 台座の部分は、例えば日光輪王寺の大護摩堂前の灯籠なんかは実に見事な獅子の彫刻がありましたが、黒田のは 対して与右衛門のは とにかく、飾りがちっこくてシンプルで可愛らしい。誤解のないよう言っておきますが、別に与右衛門のがチンケだとか工費をケチったんだろうとか言ってるんじゃないですよ。ただ、徳川家関連の銅灯籠は石燈籠に比べてデコラティブで、単品でなんとなく見てると気が付かないけど、結構時代の流れというか、色々変遷や流行りがあるんだな~と知って面白いと思っただけです。それと、与右衛門の灯籠にはもう一つ特徴があります。胴の下部のヒラヒラのスカートのすぐ下の台座には、黒田の灯籠は こういう華麗な装飾が施されてるけど、与右衛門の灯籠にはこれに該当する部材がない。離れて両者の台座部分の造りを比較すると、こうなってます↓。 左が与右衛門、右が黒田。造りが違ってるのがわかりますか?上野東照宮のホームページには「形も南円堂形と特徴的です」とある。南円堂形の定義がよくわからないんだけど、奈良・興福寺のホームページに載っている国宝・金銅燈籠が南円堂形と呼ばれたものらしく、確かに掲載されている写真を見ると与右衛門のとよく似ている。とりあえず、台座部分は他が角形なのに対し、与右衛門のは円形なので決定的に違う。ちなみに、比較に使った黒田の灯籠の全体はこれです↓。 【筑前太守従四位下侍従源朝臣忠之 敬白】今年の大河の主役・岡田君・・・じゃなくてかんべ~の子・長政の長男。ゆえにかんべ~の孫になります。この灯籠の日付は撮ってないけど、たぶん他と同じ慶安4年(1651)だろうから、長政はすでに死んでるんだな(1623年長政没)。もし隆景ちゃんがもう少し長生きしていたら、筑前太守として奉納された灯籠の銘には小早川の名前があったかもしれない・・・と、それはともかく、境内にある解説板から。 【銅燈籠 東照宮社殿唐門前と参道に、50基の銅燈籠が並んでいる。燈籠は神事・法会を執行 するときの浄火を目的とするもの。照明用具ではない。浄火は神事・仏事に使う清めた火。 燈籠は上部から、宝珠・笠・火袋・中台・竿・基壇で構成されている。 火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けて いる。火袋下部の長い部分を竿といい、ここに銘文を刻むことが多い。これら銅燈籠は、 諸国の大名が東照大権現霊前に奉納したもの。竿の部分には、寄進した大名の姓名と 官職名・奉納年月日が刻字されている。 それによると、伊勢国(現三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永5年(1628)銘1基を はじめ、慶安4年(1651)正月17日奉献2基、同年4月17日奉献45基、 同5年孟夏17日奉献2基となっている。慶安4年4月17日は東照宮社殿落慶の日。 その日の奉献数が最も多い。これら銅燈籠は、東照宮社殿とともに一括して、国の 重要文化財に指定されている。】 (漢数字は戦国ジジイが変換)ということで、日付の由来が書かれていますが、つまり上野東照宮境内の灯籠の中では与右衛門のが最も古いという訳です。だから、地味な意匠も古いがゆえということになるのかもしれない。なんで与右衛門の灯籠が社殿落慶以前の日付なのか、それも後ほどの歴バナの中で紹介します。↓ぽちっとねにほんブログ村
2014年02月07日

こちらがエリア6、水舎門手前にある3基↓。 【東照大権現宮 慶安四辛卯年四月十七日 源定房】こちらは石材の摩滅がちょっとひどいので、読める文字しか拾ってませんが名前ははっきり読める。・・・が、ホントに「源定房」しかないこれはたぶん久松松平定房で、この時は伊予今治藩主なのかな。家康の母・於大の方は松平氏に嫁いで家康を生んだが、その後、於大の実の兄が松平氏の主君・今川氏から織田氏に乗り替えたため実家に戻される。それから久松氏に嫁いで子を産んだ。これが定房の父・定勝。定勝系の子孫に、NHKの松平定知がいる。今川から独立した後、家康は母・於大とその子たちを迎えて松平姓と葵の紋を与えた。それが久松松平氏。つまり、家康にとっては定房は父の違う弟の子ということになる。灯籠の笠にも葵があしらわれている。その隣にあるのがこちら↓。 【奉献 名燈籠式● 東叡山 東照宮大権現 尊前 慶安四辛卯稔四月十七日 水野出羽守源朝臣忠職】 あれ?水野忠職のがこんなとこに・・・この片割れはエリア1で紹介しました(記事はこちら)エリア6最後の3基の中でひときわ大きいけど、これは両脇の2基がとりわけ小さいんだと思う・・・ 水舎門の外にある灯籠たちは、デザインから大きさから宛名からてんでバラバラ。まあ、個性的と言うべきか・・・最後がこちら↓ これは磨耗というより肝心の名前の部分が半分欠損していてもうどうしようもない。葵の紋が使われてるのと、サイズから松平定房の片割れかとも思ったけど、胴の造りが違うし、銘が全然違う。てことで、こちらはお手上げで~す。さて、これでやっと中へ進めます 参道の敷石は四半敷↓。が、一部揃ってない箇所もある。ホントにこれ、昔のままかな~。たぶん、当初はもっと綺麗な石組みだったんじゃないだろうか。 エリア2と7は通過しま~す。「新春はケージョーから(11)」でぼたん苑から見た五重塔の写真を載せてますが、この参道からはもっと間近に五重塔が見えます↓。 ちょっと木がジャマだけどね。五重塔もかつての寛永寺の一部ですが、現在では東照宮の敷地内にはありません。したがって、ここからじかに五重塔に近寄ることはできません。参道の途中には門があり、社殿もぐっと近くなります。この辺がぼたん苑の入口だったかな。 ここを入ると、まず右手に現れるのが神楽殿↓。 上野東照宮のホームページによると、明治7年(1874)、深川木場組合の奉献によるもので屋根の勾配の美しさは都下随一といわれています、とある。花見の時期にはここでお神楽が催されるらしいんだけど、ちょっと観てみたい・・・でも、桜の時期の上野なんて人がめちゃくちゃ多いしな~。私は寛永寺に来るまでこんなとこに東照宮があるのを知らなかったんだけど、結構ガイジンもやって来る。日光ほどの規模はなくても、都心で手軽にプチ日光が楽しめるなら、観光客には魅力だもんね。あ、あの扉に付いてる鍵、金太郎のマサカリみたいで面白い↓。 その向かいにあるのが、手水舎↓。石と木のミックスになってる。 千社札、剥がしてえいやいや、ここの水盤、男伊達として有名な新門辰五郎の奉納らしいッス。いちおう銘も見たはずだけど、ほとんど辰五郎のことは知らなかったし、それより他に目を奪われてました、わたくし。 水盤にはふたがかぶせられていて、上に何か書いたものが置いてある。一体何かと思ったら アハハハ!!11月に再訪した時は、この覆いは除かれてました。つまり、暑いから夏だけ水浴びしに来てたんだな。うちの庭には、冬でもチュンチュンちゃんが水浴びしに来るけどね。さて、ジグザグで恐縮ですが、この辺のお向かいにはこんなものがあります↓。 ちょっと長いですが、こういうものがあるってことで解説板から全文を紹介しましょう。 【「広島・長崎の火」の由来 1945年8月6日・9日、広島・長崎に人類最初の原子爆弾が米軍によって投下され、 一瞬にして十数万人の尊い生命が奪われました。そして今も多くの被爆者が 苦しんでいます。 広島の惨禍を生き抜いた福岡県星野村の山本達雄さんは、叔父の家の廃墟に 燃えていた原爆の火を故郷に持ち帰り、はじめは形見の火、恨みの火として 密かに灯し続けました。しかし、長い年月の中で、核兵器をなくし、平和を願う 火として灯すようになりました。1963年8月 6日、星野村はこの 「広島の火」を「平和の火」として、村人の協力によって今日も灯し続けています。 核兵器の使用は、人類の生存とすべての文明を破壊します。 核兵器を廃絶することは、全人類の死活にかかわる緊急のものとなっています。 第二のヒロシマを 第二のナガサキを 地球上のいずれの地にも出現させてはなりません。 これは「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」(1885年2月)の一節です。 1988年3,000万人のこのアピール署名と共に「広島の火」は長崎の 原爆瓦からとった火と合わされて、ニューヨークの第3回国連軍縮特別総会に 届けられました。 同年4月、「下町人間のつどい」の人々は、この火を首都東京上野東照宮 境内に灯し続けることを提唱しました。上野東照宮嵯峨敞全宮司は、この提案に 心から賛同され、モニュメントの設置と火の維持管理に協力することを約束されました。 広範な人々のよびかけによって、翌1989年4月、「上野東照宮境内に<広島・ 長崎の火>を灯す会”が結成されました。それから1年余、数万人が参加した 草の根運動と募金により、1990年7月21日、モニュメントが完成しました。 被爆45周年を迎えた8月6日に星野村の「広島の火」が、8月9日に長崎の 原爆瓦から採火した「長崎の火」が、このモニュメントに点火されました。 私たちは、この火を灯す運動が、国境を越えて今緊急にもとめられている核兵器廃絶、 平和の世論を強める全世界の人々の運動の発展に貢献することを確信し、 誓いの火を灯し続けます。 1990年8月 上野東照宮に「広島・長崎の火」を灯す会】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) このモニュメントの先にあるのがエリア8の灯籠群↓。 ここはこれまでと違って銅灯籠だし、ご覧の通り林立してるので実に壮観です。が、これをいちいち撮るとなると、灯籠の間隔も狭いし数も多いのでまだ数基しか撮ってません。にほんブログ村
2014年02月05日

引き続き、エリア1の灯籠群です。 【東照宮大権現 御寶前 慶安四辛卯暦四月十七日 小出●●守藤原朝臣吉親】官途が読めないけど、名前が読めるから何とかなる。但馬国出石藩主、のち丹波国園部藩初代藩主。たぶん、伊勢守とあるんだと思います。 ↑これも相当読みにくいけど、小出吉親のと思われます。 【東照宮 寶前 慶安四年四月十七日 永井日向守大江直清】山城長岡藩主、のち摂津高槻藩の初代藩主。永井直勝の次男。直勝は長久手で池田恒興を討ち取ったといわれる、あの永井さんです。てか、永井氏って大江姓なの?と思って調べたら、もとは桓武平氏の長田氏だったらしく、主君・源義朝を弑した長田忠致の兄の家系らしい。それが、直勝の代になって家康から大江姓永井氏に改姓させられたんだそうな。なるほどね。 【東照宮 寶前 慶安四辛卯歳四月十七日 青山大膳亮藤原●利】これはたぶん、青山幸利と思われます。摂津尼崎藩2代藩主。 ↑こちらも青山幸利の片割れ。以上で第一エリアは終わりです。ゴールから振り返ったところ↓。 ここまでのところ、すべて正しく東照宮へ奉納されたもので日付も同じでした。まあ、東照宮はずっと場所の移動がなかったので当然っちゃ当然のことかもしれないけど。いずれも大名の奉納であるにも関わらず、現在ではほとんど観賞されることもなくただひっそりとたたずむ灯籠たち・・・で、ここから参道の方へ戻りますが、まだ鳥居の写真があったのを忘れてました↓。 【右石華表者七世祖考雅楽頭忠世所奉献也今茲蒙 合命加琢磨奉再建之 享保十九年甲寅十二月十七日 厩橋城主従四位下酒井雅楽頭源朝臣忠知】・・・と、これによって忠知が忠世の鳥居(=石華表)を綺麗にしてここに再び設置したことがわかる訳ですね。たいがいの訪問記では、酒井忠世の灯籠が関東大震災でびくともしなかったことに驚愕された、って風に紹介されるんだけど、実際は忠知が建て直したんだから、忠知の基礎工事がしっかりしてたってことになるよな。 さて、灯籠ばっかりでも飽きちゃうでしょうし、一旦休憩を挟みましょうか(笑)。こちらが鳥居の先にある門↓。 慶安4年(1651)、阿部重次の奉納によるもの。「上野第二編(6)」で墓参りを断念した、あの重次さんです。もともとは東照宮の御水舎の建物だったそうで、上屋部分だけを昭和39年に門としてリフォームの上、ここに移築したそうな。確かに、そう言われてみると 門にしちゃ変だもんな。この下にあるのはやはり水盤が似つかわしい造りになっている。水舎門をくぐると 長い参道の両脇には、たくさんの石灯籠たちが整列してお出迎えです。これがエリア2と7にあたる訳ですが↓ 第二編(2013/7/20)からこれを書いてる今現在までの間に都合3回上野東照宮を訪れてますが、このエリアは見るたび気力が萎えます。単調なくせに数だけは多いし、しかもフツーの参拝客が沢山通るそばで参道の石敷きを外れて一人寡黙に石灯籠を撮り続けるって、もう考えるだけでげんなりですたぶんエリア2と7は一番最後にいやいや撮るんでしょう。(そんなにしてまで撮るなって?)で、第二編では疲れてこのまま奥へ進みましたが、第三編(2013/11/2)でエリア6を消化しましたので、先にそちらをご紹介します。が、その前に。 これが前回悩んだ「もんじゃまん」です。第三編でも悩んだ末、買いませんでした。第四編は寒い時期でちょうど「まん」モノの季節でしたが、翌日は貞子が遊びに来る日で、話のネタに買おうかとも思ったものの、人数分買うとなると7コ・・・しかしケースの中には1コしかなかったので、やめました。東照宮をコンプリートするにはあと数回行かねばなりませんので、そのうち買うかもしれません。けど、ここの売店はのぼりに「東照宮売店」とあるので、もんじゃまんを買わなければコンプリートとは言えないかもしれんしな・・・悩ましいもんじゃまんを売ってる売店のすぐウラにあるのがこちら↓。 【東照宮 寶前 慶安四年辛卯暦四月十七日 従五位下本多淡路守藤原●●】官途からすると、三河足助藩主・本多忠周(ただちか)あたりがクサい気がするんだけど、ちょっと年が合わないかもな~。名前が完全に磨耗しちゃってるからな~。 【奉献 石燈籠 武州 東叡山 東照宮 寶前 慶安四年四月十七日 太田備中守源資宗】太田道灌さんの5代あとの子孫。阿部重次らとともに、のちの若年寄に相当する「六人衆」になる。あちこち転勤したようだけど、この時は遠江浜松藩初代藩主。 【奉献 石燈籠 武州 東叡山 東照宮 寶前 慶安四年辛卯四月十七日 小笠原壹岐守忠知】ちとバックがいただけませんが、お気になさらず。えっと、この方の母は松平信康様の娘とあるから、てことは家康のひ孫になるのか。三河吉田藩初代藩主。 【奉献 武州東叡山 東照大権現宮 御寶前 慶安四辛卯年四月十七日 三州額田部岡崎城主 従五位下水野監物忠善】同じ水野でも、カッチン(勝成)とは少し系統が違う。カッチンのオヤジ(忠重)の兄弟の流れらしい。こちらも水野忠善の↓。どちらも補修の跡があるけど、下の部分の造りが面白い。 【奉献上 石燈籠二基 東照宮大権現 御寶前 慶安●辛卯年四月十七日 内藤豊前守従五位下藤原朝臣信照】陸奥棚倉藩初代藩主。石川数正の従兄の娘の子(笑)。縁戚関係が色々だなあ。年の部分が読めないけど、「辛卯」だから他と同じく慶安4年と思われます。にほんブログ村
2014年02月03日

これが噴水の先↓。現在では四方に道が延びてますが、この辺りがにない堂の前と思われる場所で、往時も参詣の江戸っ子で賑わっていたことでしょう。 ここを右に曲がります。奥へと進んでいたら右手に児童公園があり、古そうな灯籠らしきものが見えたのでのどかに親子連れが遊んでる中へ侵入。 ナニ、この変な形(笑)。灯籠のすぐ近くにも、石碑らしきものが↓。 灯籠には名前なども彫ってあるものの、由来がさっぱりわからない。石碑と灯籠がセットなのかもわからない。でも、全然似つかわしくない児童公園にこんなもの置いておくってことは、そこそこ古い由緒のあるものなのかな~。気を取り直して先へ進むと、こんな可愛い郵便ポストが↓。 パンダしゃん だってこのすぐ先は まずは中へ入らず、写真の左に写ってる売店、桜木亭へ。上野第一編で買いそびれ、第二編の先行プロローグ「リベンジ報告」で載せた、あのパンダ焼きをめでたくゲットしました。食べたかったんだよ、これが・・・さてと、パンダ焼きは買ったし、これからどうしようかな。右にも左にも用がある。とりあえず、そのまま道の奥へ進むことにした。道なりに進むと、これが出る↓。 はい、こちらが上野東照宮で~す。この時、姉ちゃんがなかなかどいてくれなくってさ・・・鳥居の前には、礎石らしきものがある。灯籠でも置いてあったのかな? 礎石の向こうに売店が写ってますが、まんじゅうケースの中に「もんじゃまん」なるものがあった。え~、もんじゃが中に入ってるのか?好奇心で買うか迷ったけど、ケースの中を覗いてみたら、普通の肉まんより小さいのに1コ200円もする。3コ買ったら600円か・・・どうせ私も母親も、あまりもんじゃって美味しいと思わないしな・・・後ろ髪引かれながらも、この時はスルーした。で、この大鳥居は国の重要文化財です。 【奉寄進石華表一基 東叡山 東照大権現實前 得鉅石於備前国迎慈南海運千當山 陽推而奉建 寛永十年癸酉四月十七日 厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世】 酒井忠世は秀忠から家光の代にかけて老中を務めて権勢を振るった方。4月17日は家康の命日だな。これを奉納した翌年、家光がお出かけしている時に江戸城で火事があり西の丸が焼失。家光に命じられて寛永寺で蟄居し、失脚する。天海の取りなしもあったようだけどね。どういう理由かはわからないけど、この鳥居は天和年間(1681~83)に撤去され、地中に埋められたんだそうな。それを、50年近く経った享保19年(1734)になってから酒井忠知が掘り起こして同じ場所に築造したっていうんだけど、忠知さんがどういう人なのかはわからない。雅楽頭(うたのかみ)家には見当たらないんだけど・・・まあ、一族の方ではあるんでしょう。これは関東大震災の時にもびくともしなかったんだそうな。さて、ここはかつての寛永寺の境内域ではありますが、上野第一編からいろんな灯籠を紹介してきましたし、東照宮でもあるので、極力「日光写真館」と同じ扱いをするつもりでおります。何を同じ扱いかって、要するにここも灯籠が林立してるんです。灯籠の撮影も疲れるので、本心ではスルーしたいところだけど、なにかが私をせきたてる・・・って大層なもんでもないんですが、とにかく沢山あって結論から言うととても一度では撮りきれませんでしたので、まずはおおざっぱにエリア分けしてみました↓。 ピンクの「ぽち」が灯籠です。「ぽち」の数は実数を表してません。第二編ではこのうち、まずマル1のエリアにチャレンジしました。 【奉献 石燈籠両基 武州 東叡山 東照宮尊前 慶安四辛卯暦四月十七日 従五位下井伊兵部少輔 藤原直之】最後の官位と名前は読みにくい部分もあるので推測も交えてますが、時期的におそらくこれで間違いないでしょう。井伊直政の長男の子で、「赤牛」直孝には甥に当たります。葵の紋使ってるけどな・・・井伊なのに、いいのか?(笑) ↑こちらは補修の石膏で名前の部分が思いっきりつぶれちゃってますが、「井伊兵部」だし上の灯籠と同じ日付なので、井伊直之の片割れでしょう。 【東照宮 寶前 慶安四年四月十七日 従五位下内藤帯刀忠興】早速言い訳ですが、灯籠を撮る目的は全体像の紹介といつ誰がどこへ奉納した灯籠なのかを知りたいだけなので、「奉献」とかのぶっちゃけどうでもいい文言は写真に収める努力をしておらず、したがって銘の全文を紹介できないものも多いのでご了承ください。↓こちらも内藤忠興。 【東照宮 寶前 慶安四辛卯暦四月十七日 青山因幡守藤原宗俊】このくらい銘が綺麗に残ってると、私もラクなんだけどな・・・この脇には取れた頭がちょこんと置いてある↓。これだけちゃんと残ってるんなら、補修したらどうなの・・・ ここからぼたん苑に沿った道沿いに入る。うぎゃあ、まだあんなにあるう~・・・もう今回はここでやめようかと思いました(←根性なし)。もちろん、こんなとこで灯籠をいちいち撮ってる人なんていやしません。 もうちょっとだけ頑張ろうと再び撮影モードに。 【東叡山 東照宮大権現 尊前 慶安四辛卯稔四月十七日 水野出羽守源朝臣忠職】あ~、これはカッチン(水野勝成)の弟の子だな。つまりカッチンの甥にあたる方ね。え~と、母が前田利家の娘らしい。てことは、利家の外孫にもなるのか。信濃松本藩主。 【東照宮 尊前 慶安四辛卯年孟夏十七日 従五位下中川内膳正源朝臣久盛】おっ!内藤久盛がまた出たぞ。林光院にあるのは慶安5年の日付だったから、2年続けて灯籠を奉納しとるのか。出費続きで大変だなあ。 【石燈籠両基 武州東叡山 東照宮 尊前 慶安四辛卯年孟夏十七日 従五位下中川内膳正源朝臣久盛】こちらも内藤久盛の片割れ。日付の部分、「孟夏」の「夏」とした部分は旧字のような読めない漢字なのですが、前後の流れから見て4月17日だろうと思われるので、孟夏(陰暦4月の異称)としました。 【東照宮 寶前 慶安四辛卯載四月十七日 従五位下行戸澤氏能登守平姓●盛】いやあ~、名前がはっきり読めないのでこの方は苦労しました~。おそらくこの方は、出羽新庄藩2代目・戸沢正誠(まさのぶ)と思われます。なんかこの方、名前をいっぱい変えてるらしくて、最初の頃は「乗盛」を名乗ったようなんだよね。「盛」の字を使うあたり、さすが平氏だと言いたいところだけど、自称、清盛の父・忠盛の弟の系統らしい。あくまで自称ですが。てか、名前をコロコロ変えるのやめてくれる・・・その隣も戸澤乗盛の↓。 にほんブログ村
2014年02月02日

これが大噴水↓。 だいたいこの辺りににない堂があったと思われます。噴水の近くには初代広重による「東都名所上野東叡山全図」のレリーフがあり、にない堂はこんな風に描かれてます↓。 画面手前にあるのが、おそらく鐘楼。これには左甚五郎のこんな伝承があります。 家光の頃、寛永寺に鐘楼を建てることになり、左甚五郎がその柱に龍の彫刻を 依頼された。ただし、甚五郎だけでなく、他の大工にも細工を頼んで 腕を競わせようというのだ。 甚五郎の後見人は天下の御意見番・大久保彦左衛門。 彦左衛門は期日が迫るにつれ、勝負の行方が気になり、進捗状況を見に行った。 「どうじゃな、甚五郎。進み具合は?」 「あ、大久保様。もうほぼ出来上がりです」 「おお、そうか・・・どれどれ」 と彦左衛門が龍を見ると、とても荒削りで大ざっぱ。ウロコの部分などはざっくりと したもので、まだ完成にはほど遠いように見える。 「じ・・・甚五郎、それで、完成はいつじゃ?」 「いや、だからほとんど出来上がりですってば」 「ウゾ!!」 甚五郎の出来に不安を抱いた彦左衛門は、こっそりライバルの様子を覗きに行った。 するとそこにはウロコの細工も細かい、実に見事な龍が出来上がっていた。 「あ~、もうダメじゃ! なんで甚五郎はあんな風にしたんじゃ! こりゃもう負けじゃ~!!」 彦左衛門はぷんすか怒り、そのままお披露目の当日を迎えた。 鐘楼の柱に巻かれた龍には紅白の幕がかけられ、ご開帳の瞬間を待っている。 少し離れたところに家光が座り、その後ろには招待された町の顔役たち、 そしてまだ怒っている彦左衛門が座った。 いよいよ幕が取り払われると、ふくれっ面だった彦左衛門の顔が晴れやかになった。 離れた所から見ると、ライバルの精巧な龍はせっかくの見事な細工もよく見えず、 貧弱なウナギのように見える。 それに対して、甚五郎の龍は側で見ると荒削りだが、遠目には躍動感がありまるで 生きているように見えたという。 その後。 4本の柱に巻かれた龍のうち、甚五郎の龍だけが夜な夜な不忍池へ水を飲みに いくという騒動が起こった。甚五郎が 「可哀想だが、足止めをせにゃならん」 と金づちで龍の頭にくさびを打ち込むと、龍はぱったり夜遊びをやめたという。 鐘楼は上野戦争で焼失したようで、上のエピソードにある龍も現存していません。 これは前回も掲載した図ですが、にない堂の付近には他にも堂宇がありました。まず、常行堂の奥に輪蔵。寛永4年(1627)、徳川頼房(家康11男、水戸徳川家初代)によるもの。それから、法華堂の奥には同じく寛永4年に天海が建てた多宝塔。上の図には描かれてませんが、多宝塔のすぐ近くにはこれまた天海が寛永4年に建てた三十番神社があった。神社に祀られているのは、法華経を守護する30の神々。一般の参詣者にとっては、色々な堂宇が集中するこの場所が文字通り寛永寺の中心部で、かつ華やかな場所と言えるでしょう。レリーフの近くにはこんな解説板もあった。 【寛永寺根本中堂跡 江戸時代、現上野公園の地は東叡山寛永寺境内で、堂塔伽藍が建ち並んでいた。 いま噴水池のある一帯を、俗に「竹の台」と呼ぶ。そこには回廊がめぐらされ、 勅額門を入ると、根本中堂が建っていた。 根本中堂は中堂ともいい、寛永寺の中心的堂宇で、堂内に本尊の薬師如来が奉安して あった。斎藤月岑(げっしん)作「武江年表」元禄11年(1698)の項には、 「八月、東叡山寛永寺根本中堂、文殊楼、仁王門並びに山王社建立。二十八日中堂 入仏あり、九月六日、瑠璃殿の勅額到着」とある。 瑠璃殿は中堂の別称で、本尊を薬師瑠璃光如来ともいったのにちなむ。瑠璃殿は 坂東第一といわれたほど、荘厳華麗であった。瑠璃のように美しかったであろう。 中堂前両側には、近江延暦寺中堂から根わけの竹が植えられ、「竹の台(うてな)」 とも呼ばれた。 竹の台はその名によるものである。慶応4年(1688)5月15日、彰義隊の 戦争がこの地で起こり、寛永寺堂塔伽藍はほとんどが焼けた。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)この辺りの歴史は、上野第一編の方でまとめて書いてますので、もう皆様もおわかりですね。噴水の脇の通りをぼんやり萌え~しながら歩いてたら、解説板があった。 【吉野のヤマザクラ この桜の木は上野恩賜公園開園130周年を記念して、奈良県吉野町にある金峯山寺 から上野の寛永寺を通じて寄贈されたものです。江戸時代初期に天海僧正は、 この地に寛永寺をひらき、吉野から取り寄せた山桜を植えました。それ以来、 上野はお花見の名所となりました。 ヤマザクラ 日本に自生する野生のサクラの一種で、関東以南の野山にみられます。3月下旬~ 4月上旬にわずかに赤く色づいた花と茶褐色の葉が同時にひらき、その調和美が 昔から詩歌などに多く詠まれてきました。ソメイヨシノが植えられるまでは上野の 山の桜の多くはヤマザクラであったといわれています。】 (現地解説板より)へえ、じゃあ、同じ桜の名所であっても、ソメイヨシノが咲き乱れる現在とは往時の様子は少し違ってた訳だね。この木の先に小道があって、どなたかおわすのが見えた。 【ボードワン博士像 オランダ一等軍医ボードワン博士は医学講師として1862年から1871年まで 滞日した。かつてこの地は、東叡山寛永寺の境内であり、上野の戦争で荒廃したのを 機に大学附属病院の建設計画が進められていたが、博士はすぐれた自然が失われるのを 惜しんで政府に公園づくりを提言し、ここの1873年日本初めての公園が 誕生するに至った。上野恩賜公園開園100年を記念し博士の偉大な功績を顕彰する。】 (碑文より) この銅像が建てられた1973年当時はなんと博士の顔ではなく、博士の弟の顔の像が造られていたんだそうな(笑)。で、2006年に正しい顔へと替えられたんだと。いや、でも「上野観光連盟」様のサイトによると、この像が建てられるまでにも連盟の努力の歴史があるそうなんですよ。昭和38年、博士の顕彰をすることを決定。昭和47年、公園の開園100年を記念して博士の顕彰プランを台東区議会に懇請、全会一致で採択される。同時に東京都にも申請し、快諾を得る。次いでオランダ大使館に協力を要請、駐日オランダ大使の一等書記官殿の助力によりオランダ政府が胸像を制作してくれることとなった。作者はオランダの一流彫塑家マリ・アンドリッセン氏。ところが、制作を依頼するのに渡した写真が博士の弟さんのものだったんだそうな。弟さんはオランダの駐日領事だったという。ちょっと冗談みたいな話ですが、ボードワンさんは上野の救世主でもあり、彼がいなかったらあるいは今日の上野は全く違ったものになっていたかもしれない。実に、顕彰されるにふさわしいお方です。では、上野戦争で荒廃した後の上野のお山の変遷について簡単に紹介しましょう。上野の山一帯は明治維新により国家に没収された。明治元年12月からは東京府が管理。明治2年2月には山内への立入禁止が解かれ、民間人も上野を散策できるようになった。ところが、明治3年3月には当時の民部省が山内の木を伐採して資材にしたいと東京府に申請。これは断られた。翌4月には不忍池を埋め立てて水田にする計画が持ち上がったが、有志が政府要人を動かして阻止。水田計画はその後も昭和24年まで幾度か繰り返され、その都度阻止された。5月には現在の噴水広場付近が大学病院の建設用地に決定される。寛永寺はこぞって反対運動をしたが叶えられず、文部省の用地となった。魔の手は東照宮にまで及び、あやうく本殿まで破壊されるところだった。明治5年2月には兵部省の陸軍病院、陸軍墓地の用地となる。・・・とまあ、広い敷地をみんながヨダレを垂らして欲しがった状況だったらしい。ここで登場するのが、ドクトル・ボードワン。中堂跡が大学病院用地に決定したあと、病院の経営にあたる石黒忠悳が博士を連れて、自慢げに用地を見せびらかした。ところが、博士は「こーゆーところは先進国にならって公園とするべきっしょ。病院なんてダメダ~メ!!」と言ってすぐさま太政官に公園建設を進言した。結局、博士の進言を容れて太政官布達によって上野の山は公園地に決まり、東京府の管理に移された。そうは言っても、一旦病院建設が決まったものを、相手方が簡単に了承するはずもない。この時の東京府知事は大久保一翁さん。幕末ファンにはおなじみの方ですね。一翁さん、建設用地をさっさと引き渡せという文部省・民部省を相手に頑張りました。「外国の公園などは、その構造などに注意すべきものがあるが、上野にはすでに徳川家や寛永寺関連の建築物があり、外国みたいに園内に何も建物を置かないというのはちょっと難しいでしょ。だから、今あるこれらの寺院建築なども園内の一景物として保存されるのであれば、いいよ。文部と民部がどうしても一部着手した建物だけを園内に置きたいと言うのなら、公園の景観と調和の取れたものにしてよね。それだったら、別に構わないけど?」・・・結局、建設は取りやめになった。ボードワン博士も素晴らしいが、一翁さんもさすが。そして、見ようによっては幕臣である一翁さんが旧主関連の遺構の保存に務めたとも言えるのに、一翁さんの言い分を認めた当局も大したもんだと思う。にほんブログ村
2014年02月01日
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