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最澄を野菜にたとえると。ニンジンとかゴボウとかジャガイモとかの地面から掘り出すものというよりは、ナスとかキュウリとかインゲンとかの地上に出てる部分で実を着ける野菜だろうな。空海だったら根菜類・・・あるいは、地面を突き破って顔を出すタケノコかもしんない叡山での長く地道な修行期間も確かにあるものの、最澄の人生は総じてエリートコースを歩んだといえると思う。しかし、最澄という名のナスが地上で実を着けるまでには、最澄ナスの生命力もさることながら、鑑真・法進ら渡来僧がはぐくんだ豊かな土壌があり、桓武という名の農夫がせっせと肥料を与えたことでぐんぐん最澄ナスは大きくなった。桓武の使った肥料は抜群の効能を持っていた。肥料の名を「怨霊」という・・・延暦16年は善珠と最澄の師・行表が死んでおり、内供奉禅師となった最澄の前任者の可能性のある報恩も延暦16年6月28日に死去したという。ちょうど世代が交代する時期にもあたり、タイミングも良かったと言える。延暦アグリ劇場・最澄ナスの成長記録に当てはめれば、実を着ける大事な時期に天候にも恵まれたといったところだろうか。同じ畑のほかの野菜たちからうらやましがられる環境に育った最澄ナスだったが、宮中という名の権威のある品評会に出されることになった。そして、ここから最澄ナスの評判も高くなっていく。内供奉禅師は宮中にあって天皇のために加持祈祷などを行うのが役目。つまりは山籠り12年を経て、最澄は叡山を降りたということになる。「願文」の内容はクリアしたと自分で踏んだのかはわからないけど、最澄がここをひとつの節目と考えた可能性はある。のちに最澄が執筆した中に、「最下鈍の者も、十二年を経れば、必ず一験を得ん」・・・すなわち、「どんなニブチンでも、ひとつのことを12年も続ければ必ず成果は現れるもんさ~」という言葉があり、ほかにも最澄がのちに定めた山内ルールの中に「戒を受けたあとは12年間山を降りず修行せよ」という規定がある。「願文」であれだけ徹底した分析と自己批判をしたにも関わらず、弟子たちにも「12年ね、12年!!」って言ってるあたり、延暦16年の時点をもって自分の修行という点ではまずまず満足できるセンまで行ったという自負とも取れるし、「底下の最澄」でも12年でモノになったんだから、誰だってやればできるんだよ~と自分の経験に基づいて「12年」を持ち出したという見方もできる。ちなみに、現在の延暦寺では12年の山籠修行は一般的にはやってないようですが、一部で12年ルールが生きている。それについては、旅日記の方で紹介しましょうね。さて、内供奉禅師・最澄の具体的な活動内容はわかっていないらしく、ゆえに内供奉禅師の経歴を疑問視する向きもあるらしい。が、延暦16年に最澄はひとつの活動を始める。それが、一切経および周辺書籍の書写。この頃にはすでに数人の弟子がいたらしく、その弟子たちはのちのちまで最澄の活動に伴って名が見える。内供奉禅師は供養料として禅師本人には日米(にちまい)3升と2人の童子が付けられ、童子にも日米1升5合が支給されたようで、その地位、あるいはお手当は終生のものだった。しかし、膨大なお経や書籍の書写となると紙代などの実費もかかるし、叡山には原本となるお経もまだ十分にそろっていなかったらしい。が、面白いことに昔のお坊さんてのは歴史に名を遺す人ほど驚くほどのバイタリティーや行動力を持ち合わせているもので、最澄の場合は金欠を解決する手段として七大寺へカンパを依頼したそうな。なんでも、弟子を使者として遣わして写経の意義を説明させた上で、ひとつの鉢ごとにひとさじの米を入れてください、って内容だったらしく、すべての寺がこの要請に応えたものかはわからないけど、少なくとも大安寺の聞寂(もんじゃく)という僧はこれに共感を示し、大安寺の別院で写経を行ったという。大安寺は最澄の師・行表の本寺で、最澄自身も東大寺での受戒の際に大安寺に入っていた可能性がある。聞寂だけでも最澄にとってはありがたい援助者だったろうけど、さらに強力なサポーターが現われた。それが下野の僧・道忠(どうちゅう)。道忠は鑑真から戒を受けた人だそうで、「鑑真の持戒第一の弟子」とか「東国の化主(けしゅ)」と呼ばれ、広く衆生に仏法を伝える活動をしていたという。 【道忠が奈良から東国に来たのは、鑑真のもとで戒律思想を身につけた道忠が、 戒壇が設けられている下野国薬師寺の授戒師となって派遣されたことによるのかも しれない。】 (『若き日の最澄とその時代』より)下野・上野・武蔵などで幅広い活動を行った結果、道忠には多くの門弟がいたといい、道忠の弟子や孫弟子の中から最澄のそば近く仕えて名を遺した人もいる。最澄が晩年に東国におもむいた際にも、道忠の門弟から支援を受けており、長きにわたって道忠ファミリーは最澄を強く支え続けた。ウィキペディアの道忠のページにはこんな文章がある。 【後に彼から菩薩戒を受けた円澄が最澄の門人となったことから両者の間に交流が 生まれ、最澄が天台宗を広めるために広く経典の書写を呼びかけた際に仏法発展の ために支援を行ったという。】しかし、道忠の門弟が大安寺の僧・広円の弟子であるという事実から、道忠も大安寺となんらかの関わりがあった可能性があり、ここから佐伯氏は 【道忠が、遠く東国の地で最澄の一切経書写の支援をしたのも、大安寺の聞寂の 最澄への援助の波が、大安寺から起こり、大きなうねりとなって同寺と縁のある 道忠のもとにまで達したことによるともいえそうである。】 (『若き日の最澄とその時代』より)と推測する。一般で語られる最澄のサクセスストーリーには通常梵釈寺や大安寺は顔を出すことはありませんが、背後にこうした沢山の心ある僧たちの援助と引き立てがあってこそ最澄が大きく羽ばたくことができたことはぜひとも知っておくべき事柄だと思います。●延暦17年(798)1月24日、神宮司は一度任命されると終身なのをいいことに神をあなどってロクに掃除もしなかったりする者がおり、しばしば神の祟りを引き起こしていると聞く。今後は諸国の神宮司などには清慎な者を選んで、任期を6年と定める。1月26日、ウサギが朝堂院の東道に出てきて捕らえられる。4月10日、地震。4月15日、年ごとに定員のある年分の得度者は若年の者から採用することが慣例となっていたが、得度者の質が落ちているので、今後は35歳以上という年齢制限を設け、さらに心構え・知識・修行の充分に備わった者を対象とし、試験のハードルもぐっと上げた。また、戒律を破っている僧も多いので、破戒僧は寺へ居住させたり法会へ参加することを禁止。法(戒律)を守る僧はますます精進に励むように勧め、戒を守らない者は僧尼令などにてらして処罰し、反省の気持ちを起こさせるようにせよとの勅を出す。閏5月25日、丹生神社で雨乞い。6月4日、丹生神社で雨乞い。6月21日、相模・武蔵などの諸国に住む帰順した夷人が里心を起こして帰りたくなるのを防ぐため、毎年夏冬の衣服などを与え、食料がなくなった時には恵んでやれという勅を出す。7月25日、長雨が続いたので雨がやむよう丹生神社に幣帛を捧げる。7月28日、旧都である平城京には寺が多いが、みだらな行いをする僧尼による乱行がしばしば発生しているので、検察人を遣わすとする。8月9日、大風により京中で民家が倒壊。9月、阿波で飢饉。9月16日、法相宗と三論宗は教説こそ違っても両宗によって仏法はますます盛んになっている。しかし、今、三論のベースである竜樹の教えは絶えようとしている。これは僧綱の指導力不足によるものなので、両宗が永く廃れないようにせよとの勅を出す。9月17日、子を持つ僧はすべて還俗させよという勅を出す。10月12日、出雲と筑前では国造が郡領を兼帯しているが、神事を優先して郡領としての公務に支障をきたしているので今後は兼帯は禁止する。また、出雲大社と宗像神社では国造が神主を帯びているが、着任すると妻を離縁して百姓の娘を神官の采女とし、みずからの妻としている者がいる。今後は国司が占いによって采女を選定することとせよ、という勅を出す。10月17日、破戒僧の中には経済活動を営んでる者がおり、それらを寺に居住させるのを禁止する。尼は僧に準じる処罰を加えるとする。11月、最澄が初めて法華十講の法会を催す。11月26、雪が降る。11月27日、大和国の荒廃した公田24町と古池1箇所を永く寺田として秋篠寺へ施入する。12月7日、民が食料不足となっているので、畿内の官稲を安値で放出する。この年は怨霊っぽい話は影をひそめたようにも見えるけど、11月の秋篠寺への施入があります。秋篠寺は早良親王の怨霊に関するエピソードなどがあるので、ひそかに対策は続けられていたようです。で目立つのは、またもや仏教界に対する桓武のお小言。前年には尼僧が争って大和国の法華寺へ入るという状況があり、延暦16年2月にはこれを全面禁止。天皇の許可なくして法華寺へは入れないようにしたそうな。その理由については不明なるも、その前に諸天の女や越の優婆夷がいたことから、法華寺が妖言をもって民衆を先導する尼の溜まり場となっていたのではないかと佐伯氏は推測する。また、子を持って経済活動をするなんて俗人と変わらないじゃないか!と桓武は憤慨しているが、『日本霊異記』の著者の景戒なんかもその1人だった。つか、景戒の場合は満足に妻子を養う甲斐性もないと嘆いてますがただ、これまでは仏教界の破戒や好ましくない行為、あるいは集会ばかりがターゲットとなっていたけど、10月12日の記述を見るに神社でも同じようなことやってたんじゃないか~って思う。佐伯氏によると、 【桓武天皇の時代ほど、僧侶に対する取り締まりの厳重なことは、他に類稀(たぐいまれ) であったと評されている。なかでも延暦17年は、その取り締まりが厳重をきわめた。】 (『若き日の最澄とその時代』より)だそうで、桓武の考えでは戒を破ることは国法を破ることだとしている。たしかに妻帯や経済活動はよろしくないけど、別に集会をしてはならないなどと経典に書いてある訳じゃない・・・しかし、僧尼令では徒党を組んだり吉凶を占ったり妄りに罪福を説いたりすることを禁じている。ので、これに照らし合わせるとNG行為ってことになるみたいだね。この後は偉いお坊様でもなかば公然と妻帯する時代に入っていくので、この時代だけを批判するのも気の毒だし、多くのお小言の中には「為政者から見た場合の危険行為」も含まれているので、そこらへんはきっちり分けて見ていく必要がありますね。にほんブログ村
2014年10月30日

前回延暦16年の続きです。全体の流れは前回の後半を見ていただくとして、ひとまず必要な分だけを前回からピックアップします。1月14日、善珠を僧正に、等定を大僧都に、施暁を少僧都に任じる。1月22日、善珠の弟子・慈厚に大和国の稲300束を与える。2月、この頃行表が死去。4月7日、山林での苦行で道を修めた4人の僧侶に対し、大和国の稲400束を下賜する。4月21日、僧正・善珠が死去。5月19日、キジが前殿に集まるという怪異があったので、宮中と東宮で「金剛般若経」を転読させる。5月20日、早良親王の霊に謝罪するため僧侶2人を淡路へ遣わし、転経・悔過をさせる。5月22日、この日まで京内での洪水が続く。このため、宮中で仏の名を唱えて薬師如来の礼拝・供養を行う潅頂経法を行う。6月18日、畿内七道国諸国の名神社へ使者を遣わし、全国の安寧祈願のために幣帛を捧げる。天皇は朝堂院の前庭まで出て使者を見送った。7月2日、晴雨の占いが的中したので、陰陽允・大津海成に布などを下賜する。7月3日、前年の長雨で山崩れが起こった大和の平群山と河内の高安山に陰陽博士などを遣わし、神霊を鎮め祀らせる。12月6日、最澄、内供奉十禅師に選ばれる。まず最初の3人の僧侶への叙任。このうち等定(とうじょう)は延暦2年(783)東大寺の別当になった方。この2年後に高齢を理由に大僧都を辞退して認められるが、その際、「ヒマな時でいいから、梵釈寺については今後も監督して欲しいんだよね~」と桓武から直々に依頼されている。それによると、辞退した時等定は80歳。70歳の時から引退を申請しているのに認められないままずるずると来てしまったが、もういい加減若い者に道を譲りたいので認めてくだされ~としている。桓武は残念な気持ちでいっぱいで、その心は言葉では言い尽くせないと熱っぽく語り、寒い時期だから(申請を出したのは12月)体をいとえよ、としながらも80歳のジジイにまだ梵釈寺を頼むとしている。梵釈寺は「叡山攻め(46)」で紹介した通り、大津京の近くに創建された大寺で桓武の思い入れも深い寺。前々回、延暦14年9月15日の勅に「梵釈寺を創建した」という不思議な記事がありますが、これは寺名を正式に梵釈寺としたという意味なのでしょう。佐伯氏はこの引退劇について 【これは、等定の梵釈寺との関係が、古くからあったこと、桓武天皇の同寺に対する 強い関心、および等定への深い信頼感があったことを示している。これ以外に等定と 梵釈寺との関係を直接示している記録は存在していないけれども、鑑真、法進らが 将来した典籍を書写し、梵釈寺一切経のうちに収めたのは、等定であった可能性が大きく、 またその中に『円頓止観』があった事実によって、等定と梵釈寺とは、天台宗の成立に 一役買ったという推測がなされている。】 (『若き日の最澄とその時代』より)とする。そしてあらたに少僧都となった施暁(せぎょう)はひもじい思いをしている山林修行者への食料援助の手配を奏上した方で、最澄を修行入位に推薦した可能性のある方。また梵釈寺の住持でもある。梵釈寺にゆかりの深い等定と施暁という2人の僧の存在。さらに、最澄は梵釈寺で天台経疏をコピーさせてもらった可能性もある。佐伯氏は最澄の修行入位授位にも、施暁だけでなく等定の存在の影響がある可能性を指摘しておられる。それで、僧正となった善珠(ぜんしゅ)ですが、この方のエピソードについては別のところで書こうと思いますので、ここでは簡単に・・・早良親王の死後、桓武をおびえさせる様々な出来事がありましたが、安殿親王の病気の原因は早良親王の祟りだとはっきり占いの結果が出ています。で、善珠は安殿親王の病気平癒の修法で活躍したようです。と言っても善珠が行ったのは「対症療法」ではなく、「根本治療」。病気の原因はタタリなので、つまり早良親王の怨霊を慰撫し鎮める修法を行ったようです。善珠の弟子・慈厚が1月22日に稲を下賜された理由としては、「倦むことなく師に仕えた」とあるので、佐伯氏は【善珠のもとで早良親王の怨霊をなぐさめる祈祷に、特段に力をつくしたためであると考えられなくはない】と語る。上の抜き書きで5月から6月にかけての記事は、いずれも早良親王対策。善珠は強い呪力を持ち、施暁も山林修行の経験があると思われる。5月19日と22日の記事は桓武が怨霊対策のひとつの手段として仏教、とくに厳しい山林修行で呪力を得た僧を用いたことをうかがわせる。4月7日の山林修行者への褒賞も、優秀で強い呪力を持つ僧を必要としていた桓武のヘッドハンティング的な意味合いもあるのかもしれない。さて、7月には陰陽師が活躍してますね。平安遷都の際も陰陽道が活用されたフシがあり、またお天気占いが当たったからと桓武が喜んでるあたり、この頃の桓武のマイブームは陰陽道のようです。山崩れを起こした大和と摂津に陰陽師を遣わしてるんだから、桓武の陰陽道に対する信頼もかなりのものがあったと思われますが、井沢氏は『人物叢書 桓武天皇』(村尾次郎著)から興味深い話を引用しています。 【仏教に対してあれほど合理的ともいえる考え方をした天皇が、今日では迷信の一語で 片づけられる陰陽道にこれほどこりかたまるというのは、いかにも矛盾しているように 感じられる。しかし、陰陽は、当時の人にとってはすでに指摘したとおり一種の 科学であり、理論であった。(中略) しかし、問題は、陰陽道は人が活用するものであって、それにふりまわされたら おしまいだという点である。(中略)天皇は、はじめはこの積極的立場であったが、 別の原因から陰陽道の捕虜になってゆくのである。それは、神や死霊の怨念が祟りを するという、本来陰陽道自身には存在しない精霊への恐怖にとりつかれ、陰陽道に 救いを求めたところにある。陰陽家自身もまた陰陽道をこの怪力乱神を防ぐ万能薬に したてていった。一切がその辺から狂いはじめるのである。】引用文はここまで。今度は井沢氏自身の解説です。 【ところでここで肝心なことは、仏教から陰陽道に走ったといっても、桓武自身の本当の 信仰は何等変わっていないということだ。村尾氏の表現を借りればそれは「神や死霊の 怨念が祟りをするという、本来陰陽道自身には存在しない精霊への恐怖」のことだ。 つまり一言で言えば「怨霊信仰」なのである。(中略)日本人の心の中にはそれこそ 有史以来「怨霊信仰」があり、外来の宗教はこの「怨霊封じ」の方法論として導入された のだ。そして、これ以外の受容は近世に至るまで無かったのである。】 (『逆説の日本史3』より)井沢氏の怨霊説は独特なのでなじめない方も多くおられるかもしれませんが、すべてをそれで説明できないにしても、古い時代についてはおおむね氏の考え方の方が無理がないような気がします。聖武天皇なんかも殺しては寺を造り、殺しては仏像を造り、でついに世界最大の金銅仏まで造っちゃいましたね聖武の場合は仏教一本だったけど、桓武はバリエーションがある。はじめ桓武が仏教に対してクールに接していたのは、それこそ「大仏が役に立たなかったから」で、ゆえに陰陽道にハマッたのかもしれません。ところが、怨霊が活発になるにつれ的外れの期待を陰陽道に抱き、さらにそれだけじゃいてもたってもいられなくなった。あらたに「金剛般若経」を使ってみたり、薬師如来様におすがりしてみたり・・・それでもまだ不安で、今度は諸国の神様へ神恃みしてみた。わざわざ旅立つ使者を見送るあたり、桓武の悲壮な思いも伝わってくるようです。こんなに方々に頼みちらかすなんて一見信心がないようにも見えますが、桓武自身の信仰は「怨霊信仰」で、それ以外の宗教は「手段」だったと考えれば何の不思議もありません。陰陽道は当時の「科学」で、その「科学」によって安殿親王の病気の原因がわかりました。この頃の桓武の状況を、井沢氏はこんな例えで説明してます。 【今でもそうだが、「重い病気」を宣告された人は医学による「科学的治療」だけでは 満足せずに、「野菜スープ」を飲んだり神社に願をかけたりする。つまり呪術的対応で ある。桓武が陰陽道だけでは満足せずに、仏教にも関心を示し、最澄を唐に派遣して 学ばせたということは、せんじつめればそういうことなのである。】 (前掲書より)最澄の部分を除いては、結局そういうことだと考える方が自然だとわたくしは思います。と言っても、最澄に関する部分も全面否定する訳ではありません。この年12月、最澄が内供奉十禅師に選ばれてますね。内供奉禅師は山林修行者の中から選ばれ、山林修行者は山での修行によって特別な力を得ると考えられていた。そして最澄が抜擢されたのは十禅師に欠員ができたためだったようで、誰の補充に選ばれたのかまではわかっていないようなんだけど、佐伯氏は報恩という名の禅師を挙げる。報恩も色んな伝承があるようだけど、吉野の山で修行を積んだ僧ではあるらしく、延暦4年(785)11月に桓武の病気平癒の加持祈祷を行ったという話があり、そこで効果を上げたので「修行大十禅師」という号を与えられ、報恩は一旦は山に帰ったものの、桓武の迎えがあって参内したという。延暦4年11月といえば藤原種継暗殺の直後であり、廃された早良親王に代わって安殿親王が皇太子に立てられた時期。ここから佐伯氏は 【加持に長けた報恩も、早良親王の怨霊の祟りに恐れさいなまれていた桓武天皇父子の 護持僧として、内供奉十禅師に選任されたのであろう。】 (『若き日の最澄とその時代』より)と語る。そういう人の後任として、しかも公然と怨霊対策にワタワタしてる時期に内供奉禅師となった最澄に何が求められていたのかはもう書く必要もないでしょう。もちろんこれは桓武側の事情と思惑で、最澄自身の真摯な信仰とは何の関係もありません。ただ、叡山に入ってまる12年、ひたすら地道に修行する中で次第に実力者からも目をかけられるようになったことは事実。最澄を内供奉禅師に推薦したのは、最澄の願文に感銘を受けたとされる寿興という説もあるらしいが、佐伯氏は等定の可能性もあるとしておられる。これまでの記事で最澄を「叡山に咲いた小さなハス」とも表現しましたが、実際にはあちこちの山にハスは沢山咲いていた。けど、選ばれたのは最澄だった。もちろん本人の努力と資質のたまものだろうけど、最澄をバックアップする先輩諸氏の引き立てがあり、そしてこういうご時世だったことも見過ごせない。最澄に出世欲があったとも思わないけど、色々な要素が絡み合って最澄は表舞台に躍り出ることができた。最澄31歳。にほんブログ村
2014年10月28日

●延暦15年(796)1月10日、伊予親王に帯剣を許す。2月13日、伊勢で斎王を務めていた朝原内親王が帰京することになり、大和国へ頓宮を造営する。2月25日、南海道が遠回りのため、新道を通すことにする。3月19日、武芸に優れている者を諸国に推挙させる。北辰を祀ることを禁じる勅を出す。4月9日、大学寮の上を飛び去っていった5~6羽のうち1羽が寮の南門の前に落ちた。鵜(う)のようだが、誰もその鳥の名前を知らなかった。4月15日、ヒョウが降った。4月27日、渤海国から使者が来る。5月4日、吉備魚主を山陽道諸国へ派遣して賊の捜索を行わせる。5月12日、大雨で洪水。7月、尾張で飢饉。7月16日、藤原継縄が死去。7月22日、阿蘇の山上にある神霊池の水はどんな天候でも増減することがなかったが、原因不明で涸れて水位が大きく下がってしまったと大宰府から報告があった。亀卜と筮竹で原因を占わせたところ、旱魃と疫病の予兆であるとのことだったので、高齢のやもめなど自活できない者に物を施し、寺ごとに3日間斎戒・読経・悔過を行うようにとの勅を出す。また、京内の市でみだりに人の運命を説いて人心を惑わせる女がいたので郷里へ送り返した。8月1日、日食。8月6日、大和国で山崩れがあり、洪水が起こる。東大寺の瑞垣が倒壊。8月7日、長雨が続くので、畿内の諸社に幣帛を捧げる。筑後で洪水が発生。8月8日、長雨により穀価が高騰したため、京内の百姓に物を施す。8月21日、諸国の地図は古くなったのであらたな詳しい地図を作製するよう勅を出す。9月1日、男山ののろしがうまくいかないので、適地を選んで設置させる。10月、志摩で飢饉。10月15日、桓武の寵愛を受けていた采女・浄成女が死去。40人の僧侶を宮中に招いて7日間の薬師悔過を行う。11月2日、陸奥・伊治(これはり)城と玉造塞(せき)の間が遠いので、中間に駅家を置く。11月8日、あらたな通貨(隆平永宝)を制定する。11月14日、新貨の流通開始。11月21日、相模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・出羽・越後などから9千人を陸奥へ移住させ、伊治城の所属とする。11月22日、安芸国沼田郡の采女・佐伯直那賀女に外従五位下を授ける。12月4日、貨幣鋳造の原料を確保するため、朝服用の銅装の革帯の使用を禁じる。12月29日、伊豆国へ配流されていた氷上川継の課役を免除。え~っへっへ・・・3月19日の記事で「アレ?」って思った方も多いでしょうが、すみません、北辰の祭の禁止令、1年読み間違えてました7月には前回の「諸天の女」と同じように処罰された女性がいますが、この人は「越の優婆夷」と呼ばれていたそうなので、在家の仏教信者のようです。北辰の祭の件は1年間違えちゃったけど、「諸天の女」も「越の優婆夷」のように在家の信者だったろうと佐伯有清氏は語り、いずれの不穏な集まりにも仏教関係者が絡んでいることから、前回紹介したような政治的措置だったのだろうと氏は見ておられるようです。前年もいくつかの自然災害などがありましたが、この年も東大寺が被害を受けたり阿蘇山上の池の水位が大幅に下がるなど、再び不穏な空気がよどんでます。また、桓武の身近な人間の訃報も続きました。藤原継縄(つぐただ)は南家の人で、是公とともに南家を支えた人。延暦4年の藤原種継暗殺以降、式家出身の皇后や妃が相次いで死んだため式家の勢力がダウンし、代わって南家が勢力を盛り返したようです。再遷都前頃の桓武の狩猟ラッシュの際、時々藤原継縄の別荘などにも桓武が立ち寄ったりしているので桓武の信頼は篤かったらしく、そうしたことから佐伯氏は継縄が再遷都に重要な役割を果たしていただろうとしておられます。気になるのは、流罪となった氷上川継が早くも罪を赦され始めていること。前回は触れませんでしたが、前年延暦14年の末には川継に連座して淡路へ流されていた母の不破内親王が和泉へ移されてます。入京こそ許されてないものの、この時点で不破内親王の「おつとめ」は終わったと見ていいのでしょう。これははたして偶然なのでしょうか・・・不破内親王は娘とともに流されたハズなのに、この年の記述には不破内親王が移されたとしかありません。まだ川継の「おつとめ」は続きますが、彼はのち帰京し復位までしてます。ので、川継は実は「シロ」だったんじゃないかという気もします。あるいは母と共に流された川継の姉妹はこの少し前に配流先で死んだのかもしれない・・・前年あたりから漂い始めたミョ~な空気もあって、急きょ刑の終了や減免を始めたのかもしれないな~ってちょっと想像しました。ああ、ちなみに11月22日の記事は本筋とは全く関係ないですただ、沼田(ぬた)からも女を集めてたのか~ってちょっと笑えたし、「佐伯」の名前から仁徳天皇に無慈悲な裁定を言い渡されてしまった佐伯部さんの話を思い出したからさ。(「三原編(6)」参照)佐伯部さんの左遷先が安芸の淳田(ぬた)で淳田佐伯部の祖となったって話だったから、那賀女(なかめ)も鹿の佐伯部さんの子孫かな~とか妄想してみたり(笑)。●延暦16年(797)1月、壱岐で飢饉。1月1日、大極殿で朝賀。1月14日、善珠を僧正に、等定を大僧都に、施暁を少僧都に任じる。1月22日、善珠の弟子・慈厚に大和国の稲300束を与える。1月25日、山城国愛宕・葛野の両郡では死者が出ると住宅地のそばに埋葬することを慣習としてきたが、今では両郡とも平安京に近接しているため、汚穢を避ける必要があるとし、これを固く禁じる勅を出す。違反者は畿外諸国へ追放とした。2月、この頃行表が死去。2月13日、『続日本紀』完成の上表文が提出される。2月21日、神祇伯・大中臣諸魚(もろうお)が死去。3月、下総・甲斐・武蔵・土佐で飢饉。3月2日、相模・甲斐両国の境を定める。4月4日、大納言・紀古佐美が死去。4月7日、山林での苦行で道を修めた4人の僧侶に対し、大和国の稲400束を下賜する。4月21日、僧正・善珠が死去。5月8日、宇治橋を造らせる。5月11日、大和・山城・摂津・河内等の貧しい農民に官田の稲を売り与える。5月13日、キジが前殿に集まる。5月16日、武蔵・下総の稲を貧民に売り与える。5月19日、キジが前殿に集まるという怪異があったので、宮中と東宮で「金剛般若経」を転読させる。この日から4日間、東西の京内で洪水が発生し百姓の家が水没した。5月20日、早良親王の霊に謝罪するため僧侶2人を淡路へ遣わし、転経・悔過をさせる。5月22日、この日まで京内での洪水が続く。このため、宮中で仏の名を唱えて薬師如来の礼拝・供養を行う潅頂経法を行う。6月16日、近親の死去により解任されたものは復任が認められるまで出仕してはならぬのに、それを犯した者は身柄を拘束して奏上するよう言い渡す。6月18日、畿内七道国諸国の名神社へ使者を遣わし、全国の安寧祈願のために幣帛を捧げる。天皇は朝堂院の前庭まで出て使者を見送った。6月25日、参議・藤原真友が死去。6月28日、平安遷都にあたって人民に多大な負担を強いたので、畿外諸国の田租は免除、畿内は田租の半分を免除とする。ただし、造宮に徴発されていない国は免除なし。7月2日、晴雨の占いが的中したので、陰陽允・大津海成に布などを下賜する。7月3日、前年の長雨で山崩れが起こった大和の平群山と河内の高安山に陰陽博士などを遣わし、神霊を鎮め祀らせる。7月11日、男女の別を立てることは礼儀の重んずるところであるのに、近頃の愚かな者たちの会集では男女、上下が混ざりあって区別がない。今後はこれを取り締まるようにせよとの勅を出す。8月3日、郷里を離れて浮浪する者や庄を管理する者の悪事が目立つので、厳しく取り締まることとする。8月11日、造寺以外の寺院に関わる庶務や僧尼の不正を正すことはすべて講師に委任する。8月14日、地震・暴風により京内の区画の門や民家の多くが倒壊する。8月16日、後宮の溝でサンショウウオが捕らえられる。8月25日、これまで山城国の国府は葛野にあったが、葛野郡の一部が京内に入り狭くなったので、国府を長岡京の南へ移す。10月8日、キツツキが前殿へ入るという不審事があり、このため天皇は交野への行幸を取りやめる。10月14日、神職である祝部(ほふりべ)が規則通りに物忌みしない時は解任とする勅を出す。10月28日、キジが兵衛府に入って止まり、ついで親王の部屋に入って捕らえられる。12月6日、最澄、内供奉十禅師に選ばれる。12月14日、大雪。諸司で雪掃(ゆきはらい)を行う。ふっふっふ、怨霊の活発化とともに元気の出るわたくし・・・文字数が残り少ないのでページがまたがりますが、ご容赦ください。え~、この年は奇異が多く、キジが止まったのキツツキが入り込んだのでいちいち大騒ぎです。まっ、それも心当たりがあるから必要以上に怖れるワケで・・・この年は都の近くに死人を葬るなとか、近親者の死で解任されて喪に服してた者は勝手に出てくるなとか、物忌みはちゃんとしろとか、とにかく「ケガレ」を避ける通達をやたら出してますね。5月には「キジに念仏」みたいなことまでしたのに、その日のうちに洪水が起こり京内は水びたし・・・この恐怖に耐えきれず、翌日には使者を早良親王の墓へ再び謝罪に向かわせてます。それでも懲りずに狩猟に出かけたりするから、夏には地震と暴風のダブルで民家が多く倒壊するなどの大惨事まで引き起こしてます昔の狩猟は薬の原料となる鹿の角の採集の目的もあったといわれるけど、桓武の場合は明らかに「シュミ」だよな。だいたい、貧民が稲を買う金なんかあるのか?ケチケチしないでどーんとタダで恵んでやれば少しは徳も積めたかもしれないものを・・・(笑)。にほんブログ村
2014年10月27日

も~い~くつ寝~る~と~お正月~今度の年末年始は貞子がお泊りに来る予定だし、その他の理由もあって今年も年末年始は旅行はしませんが、年明けには色々お楽しみもあるので今から待ち遠しいジジイでござります。来年のおせちももう決めました。あと60回くらい寝ればお正月・・・ふふふ・・・●延暦14年(795)1月1日、新京の大極殿はまだ未完成につき、新年の朝賀の儀を取りやめる。1月13日、大雪。1月16日、天皇が侍臣と宴を催し、「新京は安泰で、平安京は楽土であり、いつも春の穏やかさを湛えている」という内容の踏歌が詠われる。1月29日、征夷大将軍・大伴弟麻呂が参内し節刀を返上。4月1日、日食。4月20日、菩提寺が火災に遭ったため、大和国の稲2千束を施入。4月23日、延暦4年に僧尼が勝手に檀越を決めることなどを禁止したが、いっこうに守られていないので再度厳しく言い渡す勅を出す。4月27日、田宅・園地の寺への施入および売買・交換による譲渡は以前から禁止されているが、寺が他人の名義を借りて土地を手に入れていると聞く。これを厳しく調査し、今後は寺が得た土地は官が没収するという勅を出す。5月3日、右京に諸天(仏教で天部に属する諸神)を自称した女がおり、妖言をもって人心を惑わした罪で土佐へ配流する。5月14日、18人に命じて長岡京の旧宮を守らせることとする。7月18日、使者を七大寺へ派遣して常住する僧尼の調査をさせる。閏7月1日、出挙の利息を返済できず窮乏する百姓が多いため、勅をもって出挙の利息の改定を行う。閏7月11日、大風が吹き、官舎や民家が倒壊する。閏7月17日、近江・若狭方面の駅路を廃止。閏7月21日、死亡した百姓が負っている出挙稲は免除しないこととする。8月7日、陸奥鎮守将軍・百済王俊哲が死去。8月10日、刑罰の執行や判決の時期が守られていないので、律令に従って厳しく守らせるようにする。8月12日、「国師」を「講師」という名称に改め、国ごとに1人置くようにする。また、講師の補佐の読師は国分寺僧の中から序列に従って起用することとする。8月15日、近江の逢坂の関を廃止。8月19日、天皇が工事中の朝堂院を視察。8月30日、伊勢神宮へ装束を奉納するため、宮中や畿内諸国等で大祓を行う。9月15日、真実の教えである仏教を支えるのは国王であり、ゆえに梵釈寺を創建した。願わくは末永くこの寺が人々に崇められるようにとの詔を出す。9月28日、金星が日中に見えた。11月3日、出羽に漂着した渤海国の使者が襲われたとの報告が入る。11月15日、薬師寺の賎身分から良民となった者が姓(かばね)の申請をすることを禁止する。11月22日、七大寺の出挙による収益は莫大であるにも関わらず、疲弊した人民に貸し続けているので、寺に居住する僧侶の実際の必要経費を調査し、民の生活が安定するまで出挙する稲の数を削減することとする。12月22日、淡路へ配流されていた不破内親王を和泉国へ移す。12月26日、出征中に逃亡した兵士340人の死罪を免除し、陸奥国に配備する。そろそろ、本題と関係ない辺りは軽く見ていきますのでご了承ください。まず、前年の正月に大伴弟麻呂が節刀を拝領して遠征に旅立ったハズなのに、もう年初めに帰ってきちゃいましたね。節刀を返上したということは、38年戦争第3期第2次の遠征は終わってしまったようです。『続日本紀』に比べると『日本後紀』の記述は全体的にあっさりとしたもので、これまでの遠征では現地とちょいちょいやり取りがあったことが書かれているのに、今回はほとんどそれがありません。これはどうも『日本後紀』の一部が失われているためのようで、それが意図的な削除なのかはわかりませんが、前年10月に戦果の報告はあったものの、のちの正史の記述からするとこの時の遠征には兵10万、軍監16人、軍曹58人という大軍が動員されたようで、その数からすると戦果ははかばかしいとは言えない。しかも、12月26日の記述によると逃亡兵は340人となってるけど、実際はもっといたのだろうし、官軍の戦死傷者も相当数いたのだろう。結局、この遠征も失敗に終わったようです。諸国も兵ももううんざりしてる様子がうかがわれますね。もうやめたら?桓武ちゃん。して、新京の工事の進捗具合ですが、通常の新年の儀が執り行えるような状況ではなかったようです。それなのに1月16日の宴の踏歌は現状に則してない感じですが、「平安であれ~」と繰り返し唱えることでよい気を呼び込もうとしたんじゃないかって気もします。だって、庶民は相変わらずビンボーにあえいでるんですよ。そしてそれは桓武自身もわかっていました。だから現実をそのまま詠んだ歌だとはとても思えないんだけどね。庶民がビンボ-で苦しんでる中、平城京に残してきた七大寺は貧乏人相手にあこぎな金貸しを続け、名義借りまでして金儲けに走っている様子が4月・7月・11月の記述からうかがえますが、これだけを見ると確かに褒められたことじゃない・・・が、七大寺は官寺。平安遷都の前頃になって「薬師経」や「仁王経」の読経という新しい試みも行われるようになりましたが、それまでの仏恃みといえば、「大般若経」か「金光明最勝王経」が2大レギュラーでした。そして、最勝王経には「寺を美々しく飾り立てれば飾り立てるほど、仏の功徳が得られる」というようなかなりギラギラした内容もあり、権威を示したい王者や寺にとってある意味都合のいいお経でもありました。寺の派手さは王者とは関係ないようにも思えるけど、仏教が本格的に日本に根付いた頃から権威のアイテムは古墳から寺へと変わったからね。(「叡山攻め(8)」参照)ところが、七大寺は長岡には移転しなかった。寺院の移転を桓武が禁止したという説はわたくしはそういう史料を自分の眼で見てないのでとりあえず支持してませんが、佐伯有清氏はこの辺りをもって官費による大寺の建立の時代は終焉を迎えたとする。皆様が豪邸を建てたとしましょう。土地建物代は金持ちの親が払ってくれたので、人もうらやむ豪邸に住んでホクホクの毎日でした。しかし、どんなにいい家でも経年劣化というのは避けようがありません。内部の修理もさることながら、外壁の補修だとか、広い庭の芝生は手入れしなきゃ草ボーボーの荒れ地になるし、いい家ほど維持管理にはお金がかかります。ところが、お金持ちの親は「それぐらい自分で払えよ」と言ってもうお金を出してくれません。したら、費用を自分で稼ぐしかないですよね。これはあくまでわたくしの想像で、実際は七大寺も金儲けが楽しくてたまらなかっただけかもしれません。ただ、それまで官費で建立・維持してきたものをお金がないからといって荒れるに任せるのは大寺の体面やプライドもあるし、現実的に考えて致し方のない面もあったんじゃないかな~とちょっと思ったんです。おそらくこういう記述から、仏教界の腐敗とか堕落という風に言われるんじゃないかと思うんだけど、古い時代の大きな寺ほどある意味お気の毒な面もあるような気がします。けど、これまでも色々紹介してきたように、南都の寺はただお金儲けだけに走って本業をおろそかにしていた訳ではありません。もしそうだったなら、熱意のある僧のために山林読経禁止令を解禁してくれとか、飢餓にあえぎながら山林で修行を続けている僧への援助を認めてほしいとか仏教界の実力者が奏上することはないと思うんだよね。それに、多くの渡来僧ががっちり基礎を固めていた。歴史ファンにも色々いるもので、この時代の南都のことを簡単に「腐敗していた」なんて言い切っちゃう人の多くはこうした僧侶の実態を知らないんじゃないかと思います。別に、わたくしも自分が正しいなんて思っちゃいませんけどね。実際は数々の勅の通りに腹黒い僧がはびこってたのかもしれないし真実なんて今さら誰にもわかりはしません。ただ、自分で見聞きしたものから受けた素直な感覚を大事にしたいと思ってるだけです。正史で言うほど仏教界がひどいものじゃなかったのなら、なんで平城京に置き去りにしたのか?これは世間でも言われるように、影響力を持ちすぎたという点もあるかもしれません。前年の終わり、乙訓寺の仏像を遷したニュースがありましたが、この年は仏教界への取り締まりを強化する一方、5月に諸天を名乗って流罪となった女の記事があります。『日本後紀』には載ってませんが、佐伯氏によるとこの年初め頃には北極星(北辰)を祀ることを禁止しているそうな。 【その禁令によると、春秋二回、京畿の吏民が職を捨て、業を忘れて会集し、男女 いりまじって清浄が保たれていないから禁断を加えるのだという。しかも人々が一度に 集まるのではなく、日を異にして会集してもいけないというのである。したがって、 この禁制の目的は、どれほど人数が少なくても集会を持つこと、それ自体を排除する というところにあったとみなければならない。 そして、この禁制は、もし、この制に背くならば、法師は名前を僧綱に送り、俗人は 違勅罪に処するという、きわめて厳しいものだった。取り締まりの対象にまず法師が あげられているので、北辰の祭りは僧侶が先導して催していたのである。】 (『若き日の最澄とその時代』より)おお、これって妙見信仰のことか~!?と思わず食いつきましたが(←妙見様好き)、祭りの内容とか是非はともかく、僧侶およびそれに準ずる者に対する政治的措置だと佐伯氏は語っておられます。山林読経禁止令も同じく政治的措置ですが、あの時は藤原仲麻呂の乱がありました。(「叡山攻め(31)」参照)が、この年は表立ってのそういう動きはない・・・それでも朝廷が集会を警戒したのは、長く続く蝦夷征討、相次ぐ遷都による経済的・社会的不安などから来る民衆や仏教界の不満を感じ取っていたからじゃないだろうか。そして、政治的措置に加え、この年仏教界に出された禁令は経済的対策だと佐伯氏は語る。なるほど、そう考えると主に南都の寺の勢力を削ぐ目的とも取れる訳だな。勝手に置き去りにしてきちゃった訳だから、恨みを買ってるのも充分わかってたのかもね。ただ、彼らを置き去りにしたのはそういう現実的な面も確かにあるだろうけど、桓武自身の事情と信仰による面が大きいのではないかという気がしています。にほんブログ村
2014年10月26日

前回の記事を上げた直後、「人よむなしく(1467)応仁の大乱」のゴロもあったな~と思い出した戦国ジジイでございます。わたくしが応仁の乱を忘れてはいけなかったわ。なんたって、大内氏が大活躍した戦乱なんですからさてと、『逆説の日本史3』に載っている図をもとに、奈良時代の都と宮の所在地の図を作ってみました。 O型につき、相変わらず大ざっぱなのはご容赦ください保良宮(ほらのみや)は推定地。大阪の地形も今とはだいぶ違います。最澄が東大寺での授戒の準備のために上京した正確な時期はわかってませんが、佐伯有清氏は延暦2年(783)には平城京へおもむいただろうとしています。長岡遷都は延暦3年(784)だから、最澄が上京した当時はまだ平城京が都でした。で、長岡遷都の翌年、カラになった平城京において最澄が受戒。その直後に叡山に入ってます。まだ地方だった近江の山奥で静かに熱心に修行に励むこと9年。気がついたら、まるで引き寄せられるかのように最澄のすぐ足もとへ都がやってきました。なんてドラマチック。山城国葛野の地へ遷都が行われた同じ年、叡山では一般的に語られる華々しいイベントが起こってます。延暦寺発行『伝教大師ご一代記』からその内容をご紹介しましょう。 【比叡山寺の落慶 比叡山のなかで、まことの修行に励まれる大師の行動は、しだいに心ある人々の 注目をあつめた。延暦13年9月3日、めでたく竣工した比叡山寺一乗止観院 (のちの根本中堂)の落慶法要の盛儀には、ときの桓武天皇が行幸され、親しくこの 法会に臨まれたと伝えられる。おりから、同年10月には京都に都がうつされ、 のちには、比叡山は、この王城守護の根本道場とみなされるようになった。】 (漢数字は戦国ジジイが変換)遷都の前から、イチ山林修行者の主宰した法要に時の天皇が参加したとゆーとてつもなく華やかなエピソードですが、前年の延暦12年には文殊堂の供養を催したという伝承もあり、どちらの法要にもそうそうたる顔ぶれの僧侶が参加したとも言われます。が、供養が行われたかどうかは別にして、仏教界のお歴々および桓武が最澄の法会に参列したというのは、どうも後世の脚色のようです。そういう伝説が生まれた背景には、叡山が都の鬼門にあたるという有名な説との混同があるらしいんだな。『ご一代記』では控えめに「のちに王城守護の道場とみなされるようになった」とありますが、一般的な説明だと桓武天皇が最澄をして都の鬼門にあたる叡山に延暦寺を造らせたという内容が多いように思われます。延暦寺の前身である比叡山寺の創建をどこと見るかは見解の分かれるところかもしれませんが、これまで見てきた流れだと桓武が最澄に王城守護の寺を造らせたというのは妥当ではないような気がします。ただ、遷都の年にはいちおう寺のナリはしたものは叡山にあっただろうけど、まだ初期のごく簡素なものだったろうとは思います。だって、そのちょっと前までは食べる物もロクにないような極貧・・・いへ、清貧な暮らしをしてただろうからね。ので、短期間のうちに比叡山寺が大きくなったのは権力者のサポートがあってこそだとは思いますが、スタート地点から権力者が関わってたというのとは違うと思うんだよね。鬼門にデカい寺を建てて守りとしたと言われるのは寛永寺なんかも同じですが、寛永寺シリーズを書いていた時から延暦寺の鬼門説には疑問を持っていました。疑問を持っていたからこそ、平安京の風水説にも懐疑的だった訳ですが、「四神相応」も「鬼門」もどちらも陰陽道に由来するもの。が、ここは分けて考える必要があるようです。前回の勅で「聞いてた通りのいい地形だったよ~」と桓武が言っているので、遷都に先立っての使者の見分の中には四神相応という視点も含まれていたようですが、その際、高僧が新京の鬼門にあたる叡山に登って除災をしたという推測もあるらしい。9世紀後半の文献には東北(鬼門)の方角を忌むような記述があり、その頃には鬼門の考え方は存在していただろうと佐伯氏は語るものの、そういう風習を平安遷都の頃にまでさかのぼらせることはできないようだとしておられる。このあたりの文章は何度も読み返したんだけど結局よくわからないので(←バカ)、ひとまず佐伯氏の結論だけ紹介します。 【比叡山が平安京の鬼門の方角にあたり、遷都にさいして最澄が一定の役割を果たし、 延暦寺が、「皇帝本命の道場」となって国家を鎮護するという説は、12世紀の 後半ころから延暦寺の「記家」のあいだで語られはじめたものであろう。そこに 賢キョウ(けんきょう:キョウは王へんに「景」:大僧都)の行動が点綴されて 史実らしく思わせる伝説が形成された。このようにみてくれば、平安遷都にあたって 賢キョウが平安京の鬼門にあたる比叡山に登って、悪気を祓除したこともあったのでは ないかとする推測説は、当をえていないことになるであろう。】 (『若き日の最澄とその時代』より。カッコ内は戦国ジジイが追加)要するに延暦寺の鬼門説は後世の脚色だとしておられる訳で、「あ、やっぱりそうか~」と納得したところで終わりとしたいのですが、どうも自分の中で頭の整理がつきませんので、その逆の考え方も紹介しておきましょう。井沢元彦氏は遷都の時代から鬼門の考え方があったという自説を展開しておられます。そもそも日本には古来から東北の方角を忌避する信仰があったらしく、『国史大辞典』からの引用文を一部抜き出しますと 【陰陽説では鬼門の方角は北の陰から東の陽に転ずる急所として警戒されているが、 わが国では古来東北の隅は日之少宮(ひのわかみや)のある所で犯すことができないと されていた。】だそうで、 【つまり、高貴な神の霊が眠るところだから、みだりに近付いてはいけないという意味で、 「魔の侵入する入口」という鬼門の考え方とは少し違う。しかし、現在では「日之少宮」 といっても知る人が少ないことからみて、もとは「手を触れてはいけない方角、 日之少宮」だったものが、「魔の侵入する入口、鬼門」に変化したのではないだろうか。 そもそも「東北」というのは共通しているのだから。】 (『逆説の日本史3』より)陰陽道は中国生まれの未完成段階の風水が日本で独自の発展を遂げたもので、詳しい変遷などはよくわかっていないらしい。が、井沢氏が「当時から鬼門あっただろ」説を強硬に主張するのにはいくつかの理由がある。まずは長岡遷都。上の図でもわかるように、平安京は長岡から見てドンピシャ鬼門の方角にあたる。「桓武が鬼門を信じていたのなら、自ら鬼門の方角に遷都するなんてあり得んだろ」という説に対しては、全然オッケーだとする。 【なぜなら、東北方向への移動がタブーなのではなく(それがタブーならそもそも 田村麻呂の遠征も有り得ないことになる)東北方向の守りが大切なのだ。そしてそれ以上に 平安京の地が長岡京の地よりも風水の「祝福」にかなった土地であるという事実が重要 なのである。】それから執拗な蝦夷征伐。桓武は再遷都の前に正規軍の廃止という斬新な、いへ奇抜な・・・てか、とんでもないことをやった。それが延暦11年のことで、『日本後紀』にはその記述はないのでわたくしの記事には載せてませんが、ウィキによると6月のことらしい。安殿親王の病気の理由が判明した月だな。軍縮したなら平和主義者かと思いきや、それには「ただし辺境の地を除く」という例外があった。井沢氏は具体的には「辺境」とは東北地方のことだという。そしてその地には蝦夷がいる。あ~んどその地は都からはるか遠くの鬼門にあたる。「鬼門から侵入する魔を追い払う」という思想にもとづいて、何度も何度も征討を行ったというのが井沢史観。鬼門と蝦夷という組み合わせを奇異に感じるかもしれませんが、そうでなければ軍縮と征討という真逆のことをする桓武の行為が説明できないというのだ。しかも、桓武はだまし討ちのようなことまでした。なんでそこまでしたのか、それは鬼門にいる魔(=蝦夷)に対する恐怖があったからだという。ただ、恨みを持つ人を殺したらまた怨霊を大量生産しちゃうじゃないかという疑問もわくけど、そこには人種差別も絡んでいるので、大和民族でない蛮族をいくら殺したところでへっちゃらなんだとする。かなり大胆な推測なのでピンと来ない方も多いかもしれませんね。わたくしもこの辺りについては支持するかちょいと決めかねております。え~、話がだいぶそれた感もありますが、鬼門というのはその歴史がわかってないだけに諸人があれこれ推測する余地が大きいです。わたくし自身も答えを急ぐつもりはないので鬼門については当面保留としますが、まとまってないことを何で書いたのかというと、世間一般では延暦寺の鬼門伝説が当たり前のように語られるからです。まあ、延暦寺サイドとしては観光客用の説明のために伝承なども採用しつつ簡単に言い切らなければならない部分もあるので致し方のない面もあるとは思いますが、結局のところ創建にからむ伝承はよくわかってないことも多く含まれてるんだよ、ということを少し書いておきたかっただけです。↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2014年10月24日

●延暦13年(794)1月1日、長岡の宮殿の解体が始まったため、朝賀の儀は行わず。征夷大将軍・大伴弟麻呂に天皇の名代のあかし、節刀を下賜する。1月15日、地震。1月16日、天智天皇陵と光仁天皇陵へ蝦夷征伐の件を報告。1月17日、使者を遣わして伊勢神宮に蝦夷征伐の成功を祈願。3月5日、少僧都・等定らを豊前の宇佐八幡宮、筑前の宗像神社、肥後の阿蘇神社へ遣わして読経を行い、3神のために7人を得度させる。3月18日、神祇伯らを伊勢神宮に遣わして幣帛を奉納。5月6日、征夷のために大軍を動員したので、騎射を取りやめる。5月28日、皇太子妃・藤原帯子が急病で死去。6月13日、地震。6月23日または25日、諸国の人夫5千人に新宮の掃除をさせることにする。7月1日、長岡京の東西の市を新京へ遷す。7月9日、新京での家の新築費用の補助金として稲1万1千束を15人の皇族・臣下に与える。7月10日、京畿内で地震。死者が出た。8月5日、安房で疫病。8月13日、『続日本紀』の編纂が完了。9月1日、地震。9月2日、地震。9月3日、『仁王経』を購読するため、天下諸国での殺生を3日の間禁じる。9月28日、遷都と蝦夷征討の成功を祈願して諸国の名神に幣帛を捧げる。9月29日、宮中で100人の僧侶に『仁王経』を読ませる。10月5日、新京への遷都パレードのために天皇の衣装・調度などを司る装束司と行幸の行列を指揮する次第司を任命する。10月22日、天皇が新京へ遷る。10月28日、大伴弟麻呂から首457、捕虜150人、捕獲した馬85頭、焼失した村75の戦果の報告がある。新京に近接する郡の神社などの神階を上げる。遷都が行われる。11月8日、「山背国の地勢は聞いてた通りだったよ~。ここは山と川が襟と帯のような配置で、自然の要害である城みたいだね。この素晴らしい地形にちなんで、山背国を山城国に変えよう。朕を慕い、その徳を讃える民たちはみんな新京を平安京と呼んでるよそれから、近江国の古津は天智天皇がかつて都を置いたところ。遷都で平安京と近接するようになったので、古津を昔の名称の大津に変えることにするよ」(by 桓武天皇)12月11日、乙訓社の仏像を大原寺へ遷すことにする。いよいよ2度目の遷都です。学生の頃、ゴロ合わせで覚えた重大ニュースの年号ももはや 鳴くよ(794)うぐいす平安京 いい国(1192)作ろう鎌倉幕府 いやござんなれ(1853)ペリーさんの3つぐらいしか脳ミソに残ってませんがようやっとウグイスの鳴く年まで来ました。この年は地震が多く、また安殿親王の妃・旅子が急死するなど不穏な空気が漂い続けていますが、この年も桓武の狩猟熱は冷めず、遷都に伴ってか狩場も山城へ広がってます。が、この年から狩猟の記事は割愛します。さて、11月8日の勅であらたな名称が2つ生まれてますが、井沢氏はこう説明してます。 【桓武天皇が都を「平安」京と名付けたのは、そう名付ければ本当に「平安(平和)」 になるからだ。笑ってはいけない。科学全盛の現代ですら、「平和憲法を広めれば 世界は平和になる」と主張する「インテリ」たちがいるのだから。 ついでに言っておけば平安京には、モデルとなった唐の長安と違って城壁がない。 しかし、心配はいらない。桓武は山背国を山城国と改めたからだ。コトダマの世界では これで「城壁」ができたことになる。】 (『逆説の日本史3』より)これだけを読むとちょっと唐突に思われるかもしれませんが、この文章に至るまでに井沢氏は色々な例を挙げて、現代人でさえ言霊に支配されているという事を説明しています。たとえば、結婚式に率先して仏滅を選ぶ人はいないし、たとえ事実であろうとおめでたい席で「死」だとか「病気」などという話を堂々とぶちまける人もいない、とかね。上の引用文に出てくる「インテリ」はおわかりの通り、赤い政党の方たちとかその兄弟分の政党の「平和憲法を守りましょう」って選挙のたびにうるさく言っているあの方たちのことです。まあ、日本には暗い過去があるから憲法改正に慎重になるのはいいとして、現状をかんがみて改正していくのは当然のことだし、戦後これまで日本が守られてきたのはひとえにアメリカ様と自衛隊のおかげです。そんなことは多くの日本人がわかってるのに、現実を見ないで平和憲法に守られてきたの一点張りで頑張っている方たちをチクッと批判しつつ、これも本人たちは意識しないものの言霊信仰のたまものだと言っておられます。「山城国」についてはちょっとビミョ~な面もあるものの、「平安京」についてはまさしく井沢氏の語る通りだと思います。『日本後紀』では桓武の徳を慕う民衆たちが口ぐちに新京を平安京と呼んでいるから平安京という名称になったという流れになってますが、実際この時代が「平安」だったかどうかはこれまでの記述でおわかりでしょう。平安京の言いだしっぺとなったのが民衆であれ桓武であれ、ヘイアンどころか超フオンだったからこそ、「新しい都に変わったのだから、今度こそ平安であれ」という切なる願いを込めた名称だったろうと思われます。で年末の乙訓社の仏像の記事ですが、これは平安京の西の山地で薪を採っていた人が乙訓社で休憩した際に木を刻んで仏像を彫ったものだそうな。乙訓社の祭神・火雷神(ほのいかずちのかみ)は雷神。日照りが起こってこの神様に雨乞いすると霊験あらたかだったため、古くから信仰を集めていたらしい。ただ、日照りの時には「使える」神様でも、雷は恐ろしいもの。平城京でも落雷による火災で寺が被害などを受けてましたね。 【一方では雨を降らせ、また雨をはらす恵みの神であり、他方では祟りをもたらす 恐ろしい神であった。政治的敗残者の怨霊の問題が強まってくると、恵みの神である 雷神への見方は、恐ろしい怨霊神へと変ってくる。薪を採る人が制作した乙訓社の 仏像の神験があらたかであったため、多くの民衆が寄り集まったというのは、種々の 災いを祓ってくれると信じたからであろう。当時の情勢からみなすと乙訓社の仏像は、 火雷神の怨霊神としての神性を具現する存在と観じられることになっていたと思われる。 かつて長岡遷都にあたって、乙訓社の祭神火雷神に従五位下の神階が授けられ、また 同社に使者が遣わされて建物を修理させるという国家的な保護を受けたことがあった。 ところが平安遷都直後には、一転して神の霊験がいちじるしいと信じられた仏像に 人びとが惹きつけられ、乙訓社は民衆の会集する霊場と化してしまったのである。 そこには仏像への信仰からして、当然、僧侶が先導していたであろうし、また平安遷都に 不安をいだく空気も充満していたに違いない。そこで仏像の大原寺への遷置という処置と なったのであろう。】 (『若き日の最澄とその時代』より。文中の出典は割愛)つまり、佐伯氏によると仏像を遷したのは政治的措置ということらしい。過去の記事でいえば、あのお岩様も、祟峻天皇も現在ではここぞという時のお願いを聞いて下さるという霊験あらたかな神仏として祀られていた。妙行寺へは行ってないからお寺サイドの説明は読んでないけど、堀越神社の方は昔から「堀越さん」への信仰があったと書いてあったな。強力なパワーを発揮した怨霊ほど、霊験もあらたかということだろうか。乙訓社の仏像をどなたの怨霊に見立てたのかはわからないけど、安殿親王の病気の原因がわかって間もない時期だし、この年も地震は続いてるし、早良親王を怖れつつもその強力なお力にあやかろうとしたという推測もできる。この件からも遷都は決してめでたいお祝いムード一色という訳ではなく、むしろ遷都がより一層社会不安をあおっていた可能性もうかがえる。「平安京」の命名が民衆だったとしたら、「平安になりますように!これからは平安でありますように!!」って意味で「平安!平安!あ~、平安京!!」って祝詞のように口ぐちに叫ぶことで良い気を呼び込もうとしたのかもしれない。そんな平安じゃない平安遷都は無事に行われましたが、桓武が新都へ遷ったのが10月22日。この前年あたりからはやけに「誰々が奉献した」という記事が多いのですが、10月25日には造宮使と山城国が奉献(物を捧げること)しています。これについて佐伯氏は 【10月22日は辛酉(しんゆう)の日、25日は甲子(かっし)の日であった。 これらの日は、「辛酉革命」「甲子革令」の説にのっとって選ばれた可能性が高く、 それが早良親王の怨霊の祟りから逃れようとする恐怖心と密接につながっていたことは 否定できないであろう(村尾次郎『桓武天皇』)。】 (『若き日の最澄とその時代』より)とする。 ・辛酉革命 辛酉 (かのととり) の年には大きな社会変革が起るという説。(中略)天智天皇の即位も 661年の辛酉であった。 901年も辛酉にあたったので、三善清行の提議により 延喜と改元され、これ以後、江戸時代までたびたび辛酉の年に改元が行われた。 ・甲子革令 日本では孝徳天皇のときに大化の元号が採用され(645)、それ以後この制度が行われた。 中国における改元の理由のほかに、日本では中国の緯書にもとづく辛酉革命、甲子革令の 説によって、辛酉および甲子の年に改元することが王朝時代からはじまった。 (コトバンクより)十二支と十干で60通りの組み合わせができるのはご存じですね。辛酉はこのうち58番目で、そこから3つ進むとスタートに戻る。これが甲子で、この年は天意が革(あらた)まり天命が下されるとされ、辛酉を「革命」というのに対し、甲子は「革令」と呼ぶんだそうな。どちらも「革まる」という意味合いですね。ちなみに、この年延暦13年は甲戌。が、直近の辛酉は781年で、この年に宝亀から天応に改元されてます。天応元年末には桓武が即位してますね。天応元年から3年進んだ甲子は延暦3年(784)で、この年長岡遷都してます。辛酉の年に偉大なる天智天皇の血を引く自分が即位したのはまさに天命だと桓武はウハウハしたかもしれないし、邪魔者を一掃して新しい天智系の都を造ることができたので、王者としての夢は膨らむ一方だったかもしれません。てか、長岡遷都は甲子を狙った可能性も高いと思いますが。天から祝福されたはずの長岡で夢を膨らませすぎたため、「せんとくん2号」は再遷都を余儀なくされてしまいますが、それが新たな歴史の流れを生み出したことも事実です。にほんブログ村
2014年10月22日

え~、本ブログ、本日より4年目に突入です。自称・戦国ジジイでありながら、ここ1年ばかりは戦国関係の記事をロクに書いておりませんちょうど1年前、3年目に突入した時の記事を読み返すと福山編が終わりたてでちょろりと日光写真館と雑談を挟んだすぐ後から寛永寺シリーズを始めてますので、天平歴バナと両国編を除いてはほぼ1年間仏教関係の記事を書き続けてきたことになります。まあ、寛永寺シリーズは内容的には仏教というより江戸初期の話がほとんどですが。1年前とだいぶ方向性がズレていることには我ながらオドロキですが、知らないことを勉強するのは楽しいし、歴史というのは意外なとこでつながってるので無駄なことは何一つないと思っております。おかげさまでこの1年間にアクセス数もだいぶ伸びまして、最近本ブログを読み始めた方は「なんでこれで戦国ジジイなんだ?」と思うかもしれませんが、前々から読み続けて下さっている方々はわたくしの興味がとんでもない方向へ飛んでいっても変わらず読み続けていただいているようですので、これはホントにいつも感謝しておりますさて、前回はようやく再遷都のところまで来ましたが、ここは重要なので今回も引き続き遷都について書きたいと思います。井沢元彦氏は桓武の遷都についても独自の説を展開しておられるので、『逆説の日本史3』から簡単に紹介しましょうか。まずは天平の歴バナ、奈良の大仏についてのおさらい。 【奈良の大仏は、(中略)当時の日本にとって国家財政のかなりの部分をつぎ込んだ 大事業であった。そして、それが何のために造仏されたかといえば、うち続く凶作・ 兵乱、疫病から国家を鎮護し、その国家の中枢たる天皇家を安泰ならしめるためである。 しかし、これを「合理的な目」で見れば、こんな無駄なことはない。(中略)しかし、 聖武天皇や光明皇后は、そうは考えなかった。彼等は当時の人々なりに「合理的」に考え、 これらの不幸な事態を改善するためには大仏を建立することが最善と判断した。(中略) そして、聖武・光明夫妻の思い立ちの中には、自分たちが子宝(男子)に恵まれないこと、 聖武自身が病弱であること、そして天武(持統)王朝では代々後継ぎの男子が早死にして いることを、仏の功力でなんとかしたいという気は当然あったはずだ。】 しかし、結果はご存じの通り。一旦は男の天皇(淳仁天皇)が立ったものの、孝謙太政天皇に倒され、称徳女帝の代で天武系の天皇の時代が終わってしまった。天智と天武が本当に兄弟だったのなら、別系統と分けて考えることはあまり意味がないかもしれない。が、井沢氏は2人は兄弟ではないとし、天武は本来であれば天皇になれるような立場ではなかったんじゃないかとする。天智と天武のテンテンコンビが兄弟でなかったとすれば、天武系から天智系へ皇統が戻ったことは当時の人からすれば大変な驚きだったろう。んにゃ、光仁天皇の時にはまだ天武系が返り咲くチャンスはあった。しかし、フジワラムシのバックアップを得た光仁&桓武の親子が最後の仕上げをして綺麗にその芽を摘み取った。人為的な力が加わってるといっても、天智系が奇跡の大逆転を果たしたといえる。これを桓武の側から見れば、天武系が断絶してしまったので結局「大仏、役に立たないじゃん」てことになるというのが井沢理論。仮に大仏が怨霊対策としての科学的装置じゃなかったとしても、聖武&光明子夫妻が長屋王の怨霊におびえてたというのは正史からもうかがえること。なので、 【簡単に言えば、平城京は天皇家にとって「家相が悪い家」だったのである。】と来る。井沢氏は長岡遷都と平安遷都は同じ流れだとするものの、あいにく長岡遷都についての直接的な動機については触れてない。家相が悪いから引っ越すのはいいとして、何らかの「きっかけ」もあるんじゃないかと思うんだけどね。で、長岡遷都までの流れを見てみると、まず第一に井上内親王&他戸親王親子の怨霊問題が浮かぶ。『続日本紀』には井上内親王の墓を改葬したいう程度にしか書かれてませんが、桓武が再遷都した後でも新京で母子を祀っているので、井上母子の怨霊に対する恐怖はかなりのものがあったんじゃないかと思われます。ただ、ちょっと遷都までの期間が空いてるけどな・・・わたくし的には、長岡遷都の直前に氷上川継を政治的に葬ったことが気になる。川継を殺さなかったのは正解だったね。でなければ、罪の意識から川継の怨霊にもおびえなきゃならなかっただろうからね。じゃなくて、天武系の有力ライバルをすべて潰し終えた時点で区切りがついて、「天武さんちの家」と役に立たない大仏とは綺麗さっぱりオサラバして新しい自分ちで偉大なるご先祖様の天智天皇とパパの光仁天皇を押し戴いてあらたな輝かしい一歩を踏み出そうとしたのかな・・・てのが、現段階での想像。今度は平安遷都ですが、こちらは長岡よりはわかりやすい。せっかく新天地での再出発を図ったのに、欲を出して遷都反対派・・・つまり自分の方針に逆らう者(とフジワラムシの邪魔になる者)および皇太子・早良親王を排除して自分の子を皇太子としたのが裏目に出て、またもや怨霊を生み出してしまい、自分で自分の首を絞める結果となった。井沢氏はこれを 【聖武たちとは血統の違う桓武がその「不運の家(平城京)」を捨てようとしたのは 当然だ。そして長岡京に「家を新築」しようと思ったが、それにも「洪水」という 「ケチがつき」、調べてみると「怨霊の仕業」であることがわかった。ならば、 もっといい所、すなわち「家相の良い家」に引っ越そうと考えるのは当然ではないか。】と表現する。前回、生意気にも学者センセイのお説にちょっとたてついてみましたが、占いの結果、安殿親王の病気が早良親王のタタリだとわかったと正史に書いてあっても、平安遷都に怨霊の影は認めないとするセンセイが多いようです。ま、わたくしのようなイチ歴史ファンと違って研究者ともなれば「正史には怨霊のせいで遷都したとは書いてないけどさ~、ボクは個人的に怨霊が原因だと思うんだよね~」なんて軽々しく言おうものなら、「個人的憶測で物を言うな!論拠を示せ、論拠を!!」ってご同輩から集中砲火を浴びるかもしれないし、そう考えるとセンセイも大変だよな~なんて思ったりもしますが、庶民レベルではやはり早良親王の怨霊の影響と見る人が多いと思います。佐伯有清氏は延暦11年の最初の洪水のあとの8月に長岡京の近くの山に死体の埋葬を禁じているので、あわただしい遷都には怨霊が影を落としているのだろうと著書で語る。それで、遷都を発表する前年の延暦11年に狂ったように狩猟に出かけてたのはあるいは遷都の候補地を検分する目的も含まれてたんじゃないかとも思ったんだけど、遷都を決めた後も変わらず狩猟にいそしんでるので考えすぎかもしれないな平安遷都といえば、四神相応の地だからそこに決めたという風水説がハバをきかせてますが、わたくしはどーもこの説になじめません。後付けのような気がしないでもないんだけどな・・・井沢氏は風水説を支持しておられるようです。 【怨霊の力に対抗するには二つの方法がある。一つは怨霊に直接働きかけること。もう一つは 怨霊が近寄らないように「魔除け」をすることだ。「魔除け」とは具体的にはどうするのか といえば、「家相の良い家」に住み、悪霊が入ってこないように様々な守護神を祀ることで ある。では、「家相の良い家」つまり「家相の良い都」は何によって判断されるか? それが四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)相応の地ということなのだ。】 (ここまですべて前掲書より)う~んう~ん・・・でもね、結局は井上内親王母子や早良親王など、桓武君ゆかりの怨霊をごっそり引き連れて新京内で丁重に祀ってるんだよね。これってどうなんだろ?確かに少しでも「家相の良い」場所は探したかもしれないけど、とりあえず「逃げるが勝ち」であわてて引っ越したような感がなきにしもあらずのような・・・しかし、『若き日の最澄とその時代』を読むと少し頭もすっきりする。平城京へ遷都する前の和銅元年(708)の詔に四神相応の思想によって新都を選定したという内容があり、平安遷都の際にも延暦13年(794)などに同じような内容があるので、桓武の再遷都にあたって四神相応という思想が取り入れられたことは通説通りでOKらしい。そもそも風水と言ってもかなり漠然としたイメージしかないのでそこらへんが混乱の元かとも思うんだけど、あらためてウィキペディアを見てみると風水は中国で生まれたものが日本に伝わったものだが、その完成は宋から元の時代らしい。日本には中国での完成の前のかなり古い時代から入ってきており、中国で未完成のものが日本で独自の発展を遂げたんだそうな。 【特にそれは陰陽道や家相として発展した。平城京・平安京の立地が風水に則っていると されるが、その当時採用された「四神相応」は、四神の方角が固定化されているなど、 すでに日本独自の理論となっていたものであり、現代的な「風水」とは全く関係が無い ことに留意すべきである。】 (ウィキより)『逆説の日本史3』では平安京が風水に基づくものだと証明した黄永融氏の『風水思想における原則性から見た平安京を中心とする日本古代宮都計画の分析研究』という論文をかいつまんで紹介している。要点だけをわかりやすく解説してくれていても、寛永寺シリーズでも書いたようにそのテの話は脳ミソが受け付けてくれませんので、お知りになりたい方は原文か『逆説の日本史3』をお読みいただくとして(笑)、井沢氏は 【黄氏は「怨霊の祟りを防御するために、つぎの新都の造営については大量の陰陽術を 取り入れて計画したのも十分納得できるのではないであろうか」と述べている。つまり、 平安京への遷都(平安遷都)は、「怨霊の祟りを防御するために」実行されたという ことなのである。この風水のことを日本では「陰陽道」といい、それを司る人々を 陰陽師と呼ぶ。】とする。ふむ、なるほど。一般には「平安京は風水思想によって選ばれた地」と言われるけど、「陰陽道に基づく選定だった」と表現する方が事実に近いワケね。風水でも陰陽道でもどっちでもいいっちゃいいいんですが(←大ざっぱ)ここはなにげに重要です。なぜって、この後の流れにもかかってきますのでね。にほんブログ村
2014年10月21日

休みの日ぐらいは毎日更新したいと思っているものの、ちょいと昨日はお出かけしてたので記事が上げられませんでした。なんだか、締切りに追われ続ける売れないマンガ家みたいだな・・・昨日のお出かけ報告も早めに済ませたいところですが、この歴バナが一区切りつくまではそれもできません。てか、あと何年分見てけばいいんだ●延暦12年(793)1月2日、大雪。1月14日、39人の僧侶を宮中に呼んで初めて『薬師経』を読ませ、また天下に7日間の殺生を禁じる。1月15日、遷都のため、藤原小黒麻呂と紀古佐美を山背国葛野郡宇太村(京都市右京区宇多野)に派遣し視察させる。1月17日、射場に不審事が起こったため、射礼(しゃらい:朝廷行事)を中止する。1月21日、内裏の宮を解体することになったため、天皇が東院へ移る。2月2日、賀茂大神に遷都を報告。2月4日、天皇が栗前野で狩猟を行い、伊予親王の別荘に立ち寄る。2月13日、天皇が水生野で狩猟。2月17日、「征東使」を「征夷使」に改める。2月21日、征夷副使・坂上田村麻呂が暇乞い。3月1日、天皇が葛野へ行幸し、新京を視察。3月3日、天皇が禊を行う。3月7日、新京の宮城建設地に住んでいた住民に対し、収公の代価を支給する。3月10日、伊勢神宮へ遷都の報告。3月12日、一定以上の地位にある者に新京の工事に携わる役夫を提供させる。3月25日、天智天皇・光仁天皇・施基皇子(桓武のジイちゃん)の各山稜に遷都を報告。4月3日、天皇が葛野へ行幸。4月28日、年分度者(ねんぶんどしゃ:年ごとに定員が決められている得度者)は漢音を学んでいなければ今後は得度させないとする。5月11日、銭30万と長門・阿波の稲各千束を交野の百済寺へ施入する。5月16日、山背・摂津で放生を行う。6月8日、雨乞い。6月22日、日照り継続中。6月23日、諸国に命じて新宮の諸門を造営させる。7月7日、天皇が相撲(すまい)を観覧。7月15日、新京建設で口分田を収公された民衆に対する補償を指示。ただし、寺田には補償しないとした。7月19日、天皇が大原野で狩猟。7月25日、天皇が新京を視察。8月10日、新京周辺の諸山への死体埋葬と樹木の伐採を禁止する。8月21日、天皇が大原野で狩猟。夜、山辺春日と紀朝臣国が佐伯成人を殺害。山辺らは逃走、翌日になって事件が発覚。桓武は激怒し諸国に捜索を命じたところ、伊予で捕縛したと報告があり巨勢嶋人を派遣して素手で山辺らを殴殺させる。山辺らの犯行の黒幕は安殿親王だと噂する者がいた。8月24日、衛門府の壬生年が宮城の西門に登って首をくくり自殺する。原因は不明。8月26日、天皇が京中を巡覧。8月28日、天皇が葛野で狩猟。藤原継縄の別荘に立ち寄る。8月30日、地震。9月2日、使者を遣わして新京の宅地を班給。9月7日、天皇が大原野で狩猟。9月10日、現在の大臣と良家の子孫が三世以下の女王と結婚することを許可。ただし、藤原氏は特別に二世以下の女王との結婚を許すとする勅を出す。9月22日、天皇が栗前野で狩猟。伊予親王の屋敷に立ち寄る。10月2日、日食。10月6日、深草王が父を殴ったので本来は死罪とするところ、勅により隠岐への流罪に減免する。和気清麻呂が能登の墾田を神願寺(神護寺の前身)へ施入。10月14日、大安寺の僧・行秀に50戸を下賜する。10月15日、地震。11月2日、天皇が新京を巡覧。藤原継縄の別荘に立ち寄る。11月5日、天皇が葛野で狩猟。11月10日、天皇が交野で狩猟。11月12日、大雪。11月26日、天皇が栗倉野で狩猟。12月7日、水鳥が太政官の正庁へ入り、捕らえられる。12月10日、天皇が瑞野で狩猟。12月18日、長岡京建設の際に立ち退いた百姓に支給した代価の返還を求めないことを決定。12月19日、天皇が岡屋野で狩猟。まずは小さいニュースから見ましょう。この年はなんだかよくわからない出来事もありますが、8月の佐伯成人殺人事件の真相もわかりません。が、安殿親王は実は醜聞で有名な方。「素手で殴殺」っていったって、フツー人間は一発殴ったぐらいじゃ死にません。ボクサーの鋭いパンチとか、殴って倒れたところに石でもあって打ちどころが悪けりゃ一発もアリかもしれませんが、そうそうないでしょう。てことは、相当数殴った上での暴行死のようなもんで、その残酷さに桓武の激怒ぶりもうかがえます。当時から安殿親王が黒幕とウワサされてるあたり、成人の死は安殿親王の女性問題に絡む事件の可能性もあるかと思います。フツーなら皇族が殺人事件に関与したなんて正史に書き残さないと思いますが、安殿親王の醜聞は周囲をも困らせたので、あえて控え目に残したのかもしれません。個人的に食いついたのは、10月の深草王の事件。この方の詳しい出自はわかってないようですが、親を殴ったら死罪!?と思って調べたら、確かに律令には目上の親類縁者を殺したら死罪とあり、中でも親と祖父母は殴っただけでも死罪とありました。一時期は家庭内暴力が社会問題になりましたが、親を殴ったら8世紀には死罪ですよ。それだけ大悪とされた訳で、もし親を殴りたくなっても「昔なら死罪」と思ってこらえましょう同じ10月には大安寺の僧侶へ封戸を下賜してますね。てことは、そこそこ平城京に残してきた大寺も尊重してたってことなのかな・・・それから、相変わらず藤原氏が優遇されてるのもわかりますね。さて、この年のトップニュースは何といっても第2次遷都。延暦3年(784)の長岡遷都から10年めにして、「せんとくん2号」は決断しました。古代日本では天皇が代替わりするたびに宮を遷しておりまして、死穢を避けるためだったとも言われます。ゆえに古い時代の天皇はみんな「せんとくん」な訳ですが、当時の遷都は現代の私達が思い浮かべるようなものではなく、天皇の住まいが変わっても臣下たちはそのままで、大ざっぱな言い方をすると天皇の代替わりによって勤務地が変わったというものでした。そのスタイルが大きく変わったのが、持統天皇の時代、持統8年(694)に藤原京ができてから。いわゆる首都機能も兼ねた、日本初の「都」でした。和銅3年(710)、元明天皇の時代に平城京へ遷都。これは首都機能の移転も含むもので、必然的に大がかりな引っ越しとなります。補助金を出すと言っても臣下は新たに新居を作らなければならないし、新京の区割りで立ち退きを命じられた住民への補償もあるし、人夫を提供しなければならない諸国も迷惑な話だし・・・つまり遷都というのは官も民もかなりの負担を強いられるワケで、実際大変なことです。ゆえに、なぜ遷都に至ったのかということについて、それぞれの遷都ごとに現代人があれこれ想像するのですが、たとえば平城京への移転については、古くは藤原京が狭かったからというのが通説だったようですが、『平城京の謎』(奈良大ブックレット/ナカニシヤ出版)によると近年の発掘調査によって藤原京の区画は思っていたより広かったことが判明して通説が根底から崩れたそうで、遷都の理由を探るのはそう簡単なことではないようです。で、「せんとくん1号」聖武天皇による恭仁京⇒難波京⇒紫香楽宮の遷都ラッシュの後で最終的に聖武は平城京に戻り、桓武による長岡遷都まで平城京は約74年にわたる「都」であり続けました。その平城京をあっさり捨て、さらに10年という短期間での再遷都。執拗とも言える蝦夷征伐の準備も始めており、この年2月には坂上田村麻呂が遠征に出立してます。いくら諸国に負担をさせていると言っても、こんな時期に遷都に取りかかるなんて明らかに予算オーバーです。世間で語られる長岡京からの遷都について、井沢元彦氏はこう紹介しています。 1、種継暗殺の影響によるもの。造都責任者の藤原種継は母が秦氏の出身であり、 種継はこの縁故により秦氏の本拠である山背国への遷都を進めていたが、 暗殺されたためその援助が受けられなくなった。 2、早良親王のタタリから逃れるために、都を遷した。 3、長岡京を襲った二度の洪水(延暦11年の6月と8月)によって、適地とは 看做されなくなった。 (『逆説の日本史3』より)2も世間一般で語られますが、3も根強いですね。特に学者センセイには3をベースに現実的視点から遷都の理由を展開する方が多いような気がします。平城京遷都に関する本でも、学者センセイの語る内容というのはとことん現実的な理由が多いですね。まあ確かにそういう側面もあるにはあるんでしょうが、そういう類のものだけを読んでると精神世界については全く出てこないので、あまりに現実的すぎてわたくしはむしろ違和感を感じることの方が多いです。井沢氏はもちろん2を採用していて、氏によると2と3は本質的には同じものだとします。なぜって、昔は自然災害は単なる災害ではなく、天子の行いによるものだと考えられていたからです。まあ、そりゃそうだよな。『逆説の日本史3』では学者センセイのお説をいくつか紹介してもいますが、その中には20年ごとに行われる伊勢神宮の式年遷宮を引き合いに出して、当時の建築耐用年数によって20年というタームが設けられたのだろうから、その半分の長岡京10年というのもアリだとするお説もある。いやいや、それはさすがにキビしくないかい?だったら平城京はどうなるんだ?長岡京は未完成のまま捨てられたと長いこと言われてきたらしいけど、発掘調査の結果、9割方は出来上がっていたことが判明しているらしい。難波宮や保良宮から移築したから大規模な都の造成がその程度の年数でできたんだろうけど、耐用年数うんぬんて言うなら、移築なんてしないんじゃないか?そもそも長岡遷都についても、副都であった難波宮と一体化することで官の出費を抑えたというお説のセンセイもいらっしゃるようだけど、節約効果を狙うなら難波に遷都したって良かったじゃないか。もっと言うなら、平城京と一本化して難波宮を廃止すれば最小限の出費で抑えられるじゃないか。遷都に現実的理由が伴わなかったという気はありませんが、2人の「せんとくん」・・・特に桓武については、それだけで説明するのはどうも無理があるように感じます。にほんブログ村
2014年10月19日

え~、ずいぶんとページの趣きが変わったので驚かれたかもしれませんが、少々デザインを変える必要に迫られまして前回の延暦10年の続きですが、年末には最澄が修行入位の位を授けられてます。この当時、僧の位には「伝燈」と「修行」の2つの系列があり、それぞれ上から順に大法師位、法師位、満位、住位、入位と5段階があったそうで、このうち最澄が授けられたのは「修行」の最下位の入位、ということのようです。最澄が位を授けられた際の原本と思われる「位記」の原本は現存しているようで、それには『僧最澄 年卅臈十 近江国々分寺』とある。 【この「位記」で、もっとも問題となるのは、最澄の年齢を30歳とし、法臈を10年と しているところである。延暦10年(791)の最澄の年齢は26歳、法臈は7年で なければならないからである。(中略)年齢と法臈を実際より増やしているのに 何か事情があるとすれば、それは修行入位の位を授けるのに法臈10年という年数が 最低限必要であったかもしれない。いずれにしても、最澄が比叡山に籠ってから6年に して、最澄の山林修行ぶりが高く評価され、修行入位の僧位を授けるよう僧綱へ推挙する 者があらわれた結果のことであったであろう。】 (『若き日の最澄とその時代』より。漢数字は戦国ジジイが変換)佐伯氏の語る「26歳」は数えです。延暦寺発行の『伝教大師ご一代記』では最澄の誕生日を8月18日としているけど、正確な誕生日はわかってないと思われます。が、単純計算での実年齢でいえば、延暦10年は最澄25歳、官僧歴は7年。なんにしても、ちょっくらサバ読んで修行入位となったようだけど、本人が経歴詐称したというよりは、佐伯氏の解説にあるように授位の要件は満たしてないもののそれをはね返すだけの最澄の才能と努力、そしてそういう最澄を強力にプッシュした方があっての授位だったと思われる。最澄を推薦した人物の可能性として、佐伯氏は梵釈寺の施暁を挙げる。上のリンク先で施暁の奏上をごく簡単に紹介してますが、その奏上がなされたのは最澄の授位の翌年。 【施暁のこうした施策の提言は、許可され実行にうつされているが、山林修行僧が飢餓に 追い込まれた背景には、前年の全国的な旱疫と飢饉があった。(中略)最澄は、「飢餓を 憂えず」(『叡山大師伝』)とはいうものの、施暁の奏言から察すれば、その飢餓の状態は 極限に達していたであろう。最澄が籠っていた山林からは、そう遠くはない地点にあった 山林禅行の寺院である梵釈寺の僧施暁の視野のなかには、山林修行に明け暮れる最澄の 姿も、当然あったに違いない。前年の最澄への修行入位の授位も、山林修行僧に心配り していた施暁の配慮があったためかもしれない。】 (『若き日の最澄とその時代』より)う~ん・・・観光客の便を図って現在の叡山では各種交通手段が整備されていますが、それでも堂宇の建ち並ぶ中心エリアを少し外れれば叡山は樹林に深く覆われる立派な「山」。登山道もない当時は昼なお暗いような「深山」だったと思われます。そして疑問に思うのは、師の師である道センが入った比蘇寺は当時人気の山林修行の道場だったのに、なぜ最澄は比蘇寺を選ばず叡山に入ったのかということ。現地に行った時は、叡山の麓に生誕の地もあるし故郷に戻って修行したのかあ~ぐらいにしか思わなかったけど、少し詳しい本なぞも読んで考えてみると、故郷の山だからこそ霊場という認識を持っていたからなのかな、とも思った。実際、わたくしも登山道を歩いている時にやっぱここ、霊場だわ~と思った場面がありました。霊感がある訳じゃないので特別何かの体験をしたということじゃないんですが、ここは神も魔も住む場所なんだな~って思ったんです。当時はもっとそういう雰囲気は強かっただろうし、薄暗い森の中で1人、あるいは小グループでお腹ぐーぐー鳴らしながら細々と修行している最澄を想像すると多少の笑いもこみあげてきますが、まあ実際の修行生活というのは大変だったろうなあとしみじみ思いますね。けれど、そういう地道な生活をしながらもやはりあふれ出る才能は山外に伝わるのか、最澄の願文を読んでサポーターとなった寿興といい、梵釈寺の施暁といい、最澄の資質を認めた実力者の配慮によって少しずつ社会的地位も獲得していきます。この辺の地味な話題は、興味のない人にはとことん興味がないでしょうが、わたくしはむしろ最澄が歴史の表舞台に登場するまでの過程の方に興味を持ちますね。日本天台宗の祖という立場のために、最澄には実に華やかなエピソードもあり、一般的にはそうした話の方が広く知られていますが、ぶっちゃけかなりうさんくさい話もあります。でも、最澄の前半生は一般に思われてるほどとんとん拍子に進んでいったものではないし、空腹でお腹が高らかに鳴りながらも高い志を持って修行に打ち込み、少しずつ周囲に認められていったというのが実情。施暁に知られるようになったのは、あるいは最澄が天台経疏を書写するために梵釈寺に出向いたことも一因だったかもしれないけどね。まあそれだって最澄の熱意のたまものだもんね。さてと、ここまで『続日本紀』に沿って世間の流れを見てきましたが、実は『続日本紀』の記述は延暦10年で終わってます。なら、編年体歴バナはここで終わるのかって?終わりませんよ~。ここで終わってしまったら、なんのためにここまで苦労して書いてきたのかわかりません。『続日本紀』の後は『日本後紀』に引き継がれますので、今度はそちらからの紹介になります。参考資料は森田悌氏による訳文(講談社学術文庫)です。●延暦11年(792)1月15日、山林修行を行う者は常に深刻な飢餓の状態にあるため、各僧が所属する本寺から食料を供給することを認めてくれるよう、施暁が奏上。また、山背国の百姓・秦刀自女ら31名は宝亀3年(772)からずっと朝廷のために毎年春秋に悔過修福の仏事を行ってきているので、彼らの願い通り全員に出家を認めるよう奏上する。1月20日、天皇が登勒野(とろの)で狩猟。1月27日、地震。1月29日、白いもやが太陽にかかった。2月6日、天皇が水生野(みなせの)で狩猟。2月15日、伊予親王が元服。2月18日、天皇が大原野で狩猟。2月19日、大和国の水田1町を長谷寺と川原寺へ施入。2月27日、天皇が栗前野(現・宇治市)で狩猟。2月28日、諸衛府に平城京の旧宮を守衛させる。2月30日、善珠法師に施した真綿などを本人が辞退して受け取らないので、官庫へ返還する手続きを取る。3月10日、天皇が大原野へ行幸。3月23日、伊勢神宮の内宮が失火で焼失したので、宮を造営する。4月2日、大納言・紀船守が死去。摂津にある菅原寺・梶原僧寺・尼寺の野は寺が買い上げたり借金のカタに取り上げたものなので、法の定めにより元の持ち主へ返還させる。5月6日、年来しきりに旱魃が起きているため、端午の節会に行う騎射を取りやめる。5月17日、天皇が葛野(かどの)川へ行幸。藤原継縄の別荘に立ち寄る。6月1日、冷え込んだので綿入れを着用する者がいた。6月5日、安殿親王の病が治らないため、畿内の名神に幣帛を捧げる。6月10日、安殿親王の病気が長引いているのでその原因を占わせたところ、早良親王の祟りによるとのことだった。このため、使者を淡路へ遣わして早良親王の霊に謝罪した。6月17日、延暦9年(790)に早良親王の塚に墓守1戸を置いたのに、墓守がちゃんと務めを果たさないから祟りが起きてしまった。今後は墓の周囲に堀をめぐらし、乱れ穢れることのないようにせよとの勅を出す。6月22日、大雨による洪水で式部省の南門が倒壊。7月25日、夷の阿破蘇(あわそ)が帰伏を願い出ていると聞き、天皇はこれを喜び、阿破蘇が京に来るまでの途中にある国では精悍な兵300騎を選んで国境で阿破蘇を迎えさせ、朝廷の威勢を見せつけるよう指示を出す。8月4日、長岡に近い山背国の深草山の西側には死体を埋葬することを禁止する。8月9日、大雨で洪水。8月20日、隼人が貢納すべき特別な調が納入されない年もあったので、今後はきっちり貢納させるよう勅を出す。9月9日、天皇が大原野で狩猟。9月21日、天皇が栗前野で狩猟。9月25日、天皇が登勒野で狩猟。9月28日、天皇が交野で狩猟。10月1日、帰服してきた蝦夷を懐柔するため、2名に位を授ける。10月13日、天皇が大原野で狩猟。10月25日、相模の橘、伊予の瓜の献上を停止させる。10月28日、京畿内の百姓への班田は、男子には令規通りの支給を行い、余りを女子に支給、奴婢には支給しないと勅を出す。11月1日、日食。11月14日、先の入唐大使・藤原清河の家を寺とすることを許可。11月24日、雪が降る。11月25日、大雪となる。11月28日、出羽国の3郡に居住する狄(てき)の田租を今後長く免除。閏11月2日、天皇が水生野で狩猟。閏11月4日、参議・神祇伯諸魚の母である多治比子姉が死去。閏11月9日、天皇が葛葉野(現・枚方市)で狩猟。閏11月11日、畿内の百姓はずる賢くて偽りが多いので、真実を取り調べて班田にあたるよう指示。閏11月16日、天皇が大原野で狩猟。閏11月18日、天皇が石作丘(現・京都市西京区)で狩猟。閏11月20日、儒教の経典を学ぶ大学の学生は音読の学習に務めていないので漢音を習熟させるよう勅を出す。閏11月24日、天皇が登勒野で狩猟。閏11月28日、征東大使・大伴乙麻呂が暇乞い。12月27日、東大寺の奴婢で真面目に勤務している者を良民とする。んもう、なによこの狩猟狂い・・・真冬にまで狩猟にいそしむなんてどうかしてるんじゃないの?さて、この年、安殿親王の病気の原因が判明しました。延暦9年に淡路の早良親王の墓に墓守を置いたという記述は『続日本紀』にはなかったので、他の記事とあわせてごっそりカットされたものと思われます。はっきりと早良親王の祟りと判明したのはこの年ですが、すでに延暦9年には思い当るところがあって対応策を打っていたようです。延暦9年は皇后・乙牟漏が死んだ年であり、他にも訃報がある。また、全国的に飢饉が起こっており、年後半には疫病が大流行してたからね。祟りとはっきりわかってからは謝罪と墓の周囲に堀をめぐらす追加対応も行ってるのに、実にタイミング良く2度の洪水も発生。2度めの時には桓武も被害状況を視察してるんだけど、それでもなおたて続けに狩猟に出かけるってのはかなり異常。本人の狩猟好きも確かにあっただろうけど、その他の目的もあってこの時期にこれだけの狩猟をしたんじゃないかって気もする。にほんブログ村
2014年10月17日

●延暦9年(790)1月15日、皇太后・高野新笠を大枝山陵に埋葬。新笠は生前の位だと本来は皇太夫人だが、この年「皇太后」を追贈される。1月30日、すべての官人が喪服を脱いで大祓。2月18日、藤原浜成(京家)が死去。享年66歳。3月、伯耆・紀伊・淡路・三河・飛騨・美作で飢饉。閏3月1日、清橋女王が死去。閏3月4日、蝦夷征伐のため、東海道では駿河より東の国々、東山道では信濃より東の国々にそれぞれ割り当てをし、3年以内に革の鎧のべ2千領を作るよう命じる。閏3月10日、皇后・乙牟漏が病気のため200人を出家させ、左右京と畿内5ヶ国のビンボー人など自活できない者すべてに物を施す。乙牟漏死去。享年30歳。閏3月11日、天皇は内裏から近衛府に移り、皇后の葬儀・埋葬にあたる者を指名し、この月18日から末日まで畿内と7道諸国に白い喪服を着るよう命じる。閏3月16日、相次ぐ訃報や天変地異のため、大赦を行う。閏3月28日、皇后を長岡山陵に埋葬。閏3月29日、蝦夷征伐のため、東海道は相模より東の国々に、東山道は上野より東の諸国に干し飯14万石を準備させる。閏3月30日、すべての官人が喪服を脱いで大祓。4月、備前・阿波・和泉・三河・遠江・近江・美濃・上野・丹後・伯耆・播磨・美作・備中・紀伊・淡路で飢饉。4月5日、大宰府に命じて鉄の甲冑2900領を作らせる。5月3日、大蔵卿・石川豊人が死去。5月21日、畿内5ヶ国で雨乞い。5月29日、先月より日照りが続いているので、畿内の名神に幣帛を奉納して雨乞い。6月13日、皇太后・皇后の死などが続いたので、本来内裏で行う神今食(じんこんじき)の儀式を神祇官の庁舎で行う。7月21日、坂上又子(桓武の子を産んでいる女官)が死去。8月21日、大宰府管轄下に飢えた民が8万8千人いるので、援助物資の申請が入る。9月3日、皇太子・安殿親王が病気のため、長岡京内の7寺に読経させる。9月11日、伊勢神宮に相嘗(あいにえ)祭のための幣帛を捧げる。服喪期間につき、通常の儀式は行われなかった。9月13日、勅。「朕は徳の薄い愚かな者だけど、みんなの幸せを願って頑張ってるんだ・・・なのに、日照りのために田畑は荒れて、聞くところによると京と畿内の不作は他の国よりひどく、疫病や飢饉に苦しんでるって言うじゃない。この責任は朕にあるんだよね。ので、左右京と畿内5ヶ国の今年の田租は免除とするよ」(by 桓武天皇)10月2日、延暦元年に廃止されていた鋳銭司(貨幣鋳造を司る機関)を設置する。10月3日、佐伯今毛人が死去。享年71歳。10月14日、天皇は122歳の道守臣東人を引見し、衣服を与えた。10月19日、先の蝦夷征伐で功のあった者4840人あまりに褒賞を与える。10月21日、蝦夷との長い戦いに坂東諸国は疲れており、それ以外の国ももともと軍役とは無関係だったのに徴発されるなど、同じ皇民の間でも負担に差があるので、左右京・畿内5ヶ国・7道の経済力のある者を調べてそれぞれの財に応じて任意に甲冑を作らせては、との太政官の奏上があり、そのように決定する。11月3日、正税の不足分の補填についてあらたな取り決めを行う。11月15日、午前8時と午前10時に地震。11月16日、皇后・乙牟漏を失った悲しみがいまだ大きいので、来年の新年の儀礼は中止とする勅が出される。11月17日、新嘗祭。まだ天皇の服喪が明けないので、天皇は参加せず神祇官で執り行う。11月27日、坂東諸国は軍役の上に疫病・旱魃の被害があったので、今年の田租を免除。12月1日、天皇のすでに亡くなっている親族でまだ追贈していない人に対し、称号や位階を追贈する。12月13日、地震。12月28日、皇太后の1周忌。大安寺で法会を行う。この年、秋から冬にかけて天然痘が流行し、京畿内の30歳以下の男女のほとんどが病気となった。病が重い場合は死に至り、天下の諸国でしばしば発生した。ふっ、ふふっ・・・まるで「せんとくん1号」の時代に逆戻りしたかのような年ですね。この年、日食はないけど、地震・旱魃・飢饉・疫病、そして相次ぐ訃報。天平の歴バナでは話が長くなるのを避けて蝦夷征伐については書いてませんが、あの頃も実は征討にかかずらわっておりまして、天智天皇を慕うハズの桓武君はまるで聖武君の追っかけみたいなことしております特に母・高野新笠の死から間もない時期にまだ若い乙牟漏を失ったことはかなりの大打撃だったようです。200人もにわかボーズを作ったのにね(笑)。その一方で、122歳という天海もまっつぁおの長生きジジイがいたりする・・・これ、ホントかよ?122歳じゃなくて112歳としている写本もあるらしいけど、全国に疫病の嵐が吹き荒れて若いモンがおおむね天然痘にかかってるというのに、驚異的な生命力。いや待てよ、112歳だとしても天武天皇の時代(!!)だから、天平の天然痘流行を乗り越えたことで免疫付いてるのカモ天平の大騒動には、長屋王の影がありましたね。では今回は?今回はなんざましょ・・・●延暦10年(791)1月18日、蝦夷征伐の準備のために百済王俊哲と坂上田村麻呂を東海道に、藤原真鷲を東山道に遣わし、兵士の選出と武具の点検をさせる。2月13日、類焼を防ぐための措置として、諸国に倉を新しく建てる際は1棟ごとに10丈離すようにし、場所の広さに応じて便宜的に建てるようにという勅を出す。2月21日、文室大原に鎮守副将軍を兼任させる。これまで、五位以上の官人が死亡した場合、支給していた田は1年間は子に支給し、子がない場合は官人の死亡した年に没収としていたが、子の有無に関わらず1年間は等しく与えることとする。3月6日、神護景雲3年(769)に吉備真備らによって改定された律令を、この年になって初めて用いることにした。3月17日、右大臣以下五位以上の官人に対し、それぞれの地位に応じて甲冑を作らせる。3月23日、太政官の奏上により、古い先祖の国忌(その日は天皇は仕事せず斎会を行う)を廃することにする。3月26日、京・畿内・7道諸国の国司・郡司に命じて、国の規模にあわせて甲冑を作るよう指示する。4月10日、越前の雨夜神と大虫神に従五位下を授ける。4月15日、越前の大虫神に従四位下を、足羽神に従五位下を授ける。4月18日、山背国の諸寺の塔の破損がひどいので、勅によって修理させる。5月、豊後・日向・大隅・紀伊で飢饉。5月6日、天下諸国がたびたび疫病と旱魃に苦しんでいるので、端午の節句を中止する。5月20日、藤原菅継(式家:宇合の孫)が死去。5月29日、来年は班田が行われるので、これまで皇族・貴族などのセレブ層が人民から取り上げていた良い田を天平14年頃までにさかのぼって是正させる。6月1日、日食。6月3日、皇后・乙牟漏の1周忌。6月10日、諸国に命じて鉄の甲冑3千領を新式で修理させる。6月25日、延暦3年に皇族・貴族・諸官庁・寺院などに対し山野の独占を禁じていたが、この年になって山背国に使者を遣わして公私の土地を調べ境界を設け、人民が自由に使用できるようにした。6月26日、日照りのため、丹生川上神に黒馬を奉納。7月13日、大伴弟麻呂を征夷大使とし、坂上田村麻呂ら4名を副使に任じる。7月27日、鷹飼戸(たかかいべ)を廃止する。7月29日、百済王仁貞が死去。8月3日、夜、伊勢神宮に盗賊が入り、正殿1棟、財殿2棟、御門3棟、瑞垣1重が焼かれる。8月14日、参議・神祇伯らを伊勢神宮に遣わし、放火されたことについて謝罪し、修理を行う。9月16日、諸国に命じて平城京の諸門を長岡に移築させる。東海・北陸の国々で人民が牛を殺して漢(あや)神に捧げ祀っているのでこれを禁止。9月22日、征夷副使・百済王俊哲に陸奥鎮守将軍を兼任させる。10月10日、天皇が交野で鷹狩り。10月13日、天皇が還御。10月25日、東海道・東山道の諸国に命じて戦に用いる矢3万4千5百余を作らせる。10月27日、以前から皇太子・安殿親王は長く患っていたが、病気平癒のため自ら伊勢神宮に向かう。11月3日、坂東諸国に命じて干し飯12万石余を準備させる。佐伯真守が死去。11月11日、皇太子が伊勢から帰還。12月28日、最澄、修行入位(僧位の最下位の位)の位を授けられる。この年のメインは蝦夷征伐の準備。桓武はかなり鷹狩りが好きだったようで、平安時代には皇室の狩猟地となる交野でこの年も鷹狩りを行ってますが、鷹飼戸を廃止するなど一見緊縮財政を狙ってる風もあるものの、戦争準備にかけるカネは鷹狩りの比じゃない。特に陸奥に近い坂東諸国をはじめ、東海道・東山道の負担は相当なものだったろう。8月3日の記述は盗賊のしわざということになってますが、悪政を恨む民衆による放火って可能性を考えるのはわたくしだけじゃないでしょう。軍需物資を諸国に準備させる一方、征討の新メンバーも任命。いよいよ坂上田村麻呂の登場です。この年はあまり疫病や自然災害系の記事はありませんが、戦争準備に燃える裏で前年に引き続きそれなりの被害があったろうことがわずかな記事の中からうかがえます。6月26日には例によって丹生川上神へ黒馬を奉納してますが、4月に越前の神社へあれこれ位階を授けてますね。どういう意図でこれらの処遇をしたかはわかりませんが、たとえば「雨夜神」はその名の通り雨を降らせてくれそうだし、「大虫神」はウィキペディアによると【垂仁天皇の時代にイナゴが大発生したが、当社に祈願した所たちまちイナゴは退散した】といういわれがあるそうで、霊験があると評判の神様へ日照りや不作の回避を願ったんじゃないかって想像もできる。一部の国で牛を殺して漢神を祀ることが流行っていたようだけど、『福井県史』によると、漢神は恵みの雨をもたらす一方、病気をもたらす祟る神として恐れられていたようで、大陸系の信仰によるものではないかという。この時は病気も日照りもあった訳だからね。越前あたりではこういう祭祀が盛んだったようでこれまでも行われてきたんだろうけど、ここで禁制が出るあたり、社会不安も手伝ってこの頃かなり流行っていたのかもしれない。この年、疫病の被害状況については書かれていないけど、久しく患っているという安殿親王はついにみずから伊勢に向かいます。伊勢大神宮の霊験やいかに?にほんブログ村
2014年10月15日

え~、台風の動きが気になるところですが、少し雨風が強くなってきたものの、今のところこちらはさほどではありません。成田が近いのでうちの上空はよくヒコーキが飛んでますが、こんな中でも轟音を立てながらヒコーキ飛んでます。機内はさぞ揺れておることじゃろう・・・さぞ怖かろう・・・ふふふ・・・(わたくしの恐怖体験はこちら)台風の時に気になるのが、動物園の動物さんたち。細かくケージで仕切られてる鳥さんなんかはがっしりした建物はないと思うんだけど、こーゆー時はまとめてどっかへ収納するのかな?動物園といえば、先日マツキヨでこんな商品を見つけました↓。 「京都市動物園ラーメン醤油」。そういえば、こんなの前にTVで見たことがあるような・・・商品棚にはたしかに「上野動物園ラーメン」のタグが付いてたのに、並んでたのはすべて京都市動物園のだった。パッケージの裏に【この商品の売り上げの一部は京都市動物園のえさ代として寄付されます】とあるので、仕方なくこれだけゲットしてきたけど、首都圏なら上野動物園のをちゃんと置くべきじゃ・・・て、今気が付いたんだけど、もう賞味期限切れとるし生タイプ麺じゃなさそうだけど、市販のラーメンより賞味期限が短いようなので動物園ラーメンは早めに食した方がよいようです。●延暦8年(789)1月1日、日食。2月27日、新内裏が完成し、この日天皇は西宮から東宮に移った。3月9日、陸奥・多賀城に兵が集結し、作戦開始。3月10日、蝦夷征討の報告に伊勢神宮へ幣帛を捧げる。4月、伊賀で飢饉。4月13日、鈴鹿・不破などの関ではこれまで重要な事件の報告の文書を関の役人が見る慣例があったが、今後はたやすく箱を開けさせないようにする。4月14日、美濃・尾張・三河などでは昨年の不作で飢える者が多かったので、米倉を開かせ安い時の値段で分け与える措置を取る。5月、安房・紀伊などで飢饉。5月12日、征討軍へ向けて勅。先月初めの奏上では、3月末に衣川を渡って陣を置いたとあったが、いまだ衣川付近から前進していないのはどういう訳か。行軍には機敏さが重要であり、ぐずぐずしていると6・7月の最も暑い時期を迎えて機会を逸してしまう。あとから悔いても何も始まらないので、臨機応変に対応するように。また、1ヶ月も同じところに留まって兵糧を食い潰すのには疑問があるので、留まる理由と賊軍の様子を詳しく文書で報告せよとの指示を出す。5月15日、貢納の使者として国司が入京した際、貢納品に不備があれば給与を没収するという取り決めを怖れ、国司が入京を嫌がる事態が起きている。今後、こうした者の処罰についても厳しく対処するとの勅を出す。5月18日、本来、令では良民と賎民の結婚は禁じられているが、近年ではこれを犯す者が多く、良民と賎民の間に生まれた子は賎民とされたり、公民の子であるのに奴婢とされたりしてあえいでいる者が多い。よって今後は良民の子は良民とするよう定める。5月26日、征東副将軍・佐伯葛城が遠征の途中で死んだので、正五位下を追贈する。6月3日、征東将軍・紀古佐美から大敗の知らせが届く。官軍側での戦死者:25名、矢傷を負った者:245名、川に飛び込んで溺死した者:1036名、裸で泳ぎ着いた者:1257名。6月9日、紀古佐美から、補給線が伸びてヤバイので現地で討議の結果、軍を解散させると報告あり。桓武激怒。7月、伊勢・志摩・下野・美作・備後で飢饉。7月7日、美作女王と藤原春蓮が死去。7月14日、鈴鹿・不破・愛発(あらち)の三国の関を廃止。 7月17日、陸奥からの書状による報告と現状の矛盾がありすぎるので、報告は虚飾だとし、戦勝報告をするなら賊を平定し功を遂げたあとに報告すべきだとして紀古佐美らに激怒の勅を送る。7月25日、命婦・藤原教貴が死去。8月1日、長岡京の工事に携わる者に功と地位にしたがって位階・物を授ける。8月30日、征夷に従軍した陸奥国の人民の今年の田租を免除し、向こう2年間租税の負担を免除する。9月8日、紀古佐美が帰京。節刀を返上する。9月19日、敗戦の責任問題を追及。右大臣・藤原是公(南家)が死去。享年62歳。10月17日、帰化人の子孫の高倉福信が死去。10月29日、命婦・大原室子が死去。12月22日、参議・多治比長野が死去。12月23日、「思うところあって」来年の新年の祝賀を取りやめる。また、皇太后・高野新笠が病気になって10日経つが、治療の効果が現われない。このため、畿内と七道諸国の寺に7日間「大般若経」を読むよう勅を出す。12月28日、高野新笠死去。享年は70歳ぐらい。12月29日、皇太后の葬儀や埋葬の任にあたる者を選出。左右京と畿内5ヶ国および近江・丹波など周辺諸国から人夫を徴発。最澄の記事の雰囲気とは実に対照的な俗世間の流れです。この年、最澄に関する特段のニュースはありませんが、叡山で感涙の涙なぞ流しながら天台経疏を読みふけっていたかもしれません。俗世の動きを見るに、偶然にせよ最澄があのタイミングで山ごもりしたことは正解だったと思いますね。とはいっても、蝦夷征伐に東山道から兵が徴発されているので、近江の兵が戦傷者に混ざっていた可能性もあり、 【後年、最澄はしきりに「東夷北首(降服)し、帰徳を先年に知れり」とか、 「両蕃、化に帰す」とか述べて蝦夷の帰伏したことの「慶び」を強調している。 それは、延暦八年次の敗北によって受けた衝撃の裏返しの気持ちの表現であったで あろう。】 (『若き日の最澄とその時代』より。「」内の出典は割愛)と佐伯氏は語る。大ニュースぐらいは叡山にも届いて最澄も心を痛めたかもしれない。空海はこの年、桓武の息子・伊予親王の家庭教師を務めた叔父の阿刀大足(あとのおおたり)に付いて引き続き勉強中です。 でその蝦夷征伐ですが、や~見事な惨敗ッス。一時は首領・アテルイの近くまで行って合戦になったらしいんだけど挟撃されて、戦死者より溺死者の方が圧倒的に多いあたり、ほうほうの体で逃げ帰ってきた様子がうかがわれます。さらに桓武を激怒させたのが6月9日の報告で、現地サイドとしては長岡からの指示を待ってるといたずらに出費を増やすだけなので現地の判断で軍を解散させたようなんだけど、桓武としてはそれまでの威勢のいい報告とあまりに違いすぎるので怒りは募る一方・・・まあ、地の利は当然相手側にある訳だし、補給線も伸びきっていたようなのでしょうがないっちゃ~しょうがないよな。アテルイ、頑張れ前年はギリ田植えに間に合ったものの、結局この年は飢饉が起きてますね。ここ数年、なかったんだけどね。訃報については、これまでも官人や皇族などの記事もあるにはあったんだけど、この年後半部はとりあえず全部ここに載せました。まずは9月19日、南家の藤原是公ですが、この人は早良親王とともに長岡で留守居をしてたんだよね。もし早良親王が直接種継事件に関与しておらず、留守居の責任を問われたんだとしたら、是公にも処分を下すべきでした。が、是公の責任は問われず、事件から4年後のこの年、死亡。その他の宮廷人にも訃報が相次ぎ、年末には桓武の母が病に倒れる。「大般若経」の霊験を頼みとするも、7日間の読経が終わらぬうちに新笠も死亡。是公も新笠もそれなりのお年ではあるけど、桓武にとっては悲しい出来事だった。12月23日に翌年の祝賀を取りやめるとしたのは、新笠がすでに闘病中だったことが大きいとは思うけど、ここまでのところで「思うことあって」何かを決める時ってのはたいてい「後ろめたい何か」を思わせることが多かったので、桓武が新笠の病気の裏に「なにか」を感じていた可能性もある。↓ぽちっとよろしくね~にほんブログ村
2014年10月13日

ハッハッハ~!歴バナと仏バナだけでついに50話突破~!!ましゃかと思ってたけど、ホントに行っちゃいましたね~。歴バナを一旦どこで終わらせるかはいちおうの予定は立ててますが、政治向きの話と絡めるとなると一気に書いてしまった方がいいと思われるので、もうしばらくこの方式で進めます。今月中くらいに歴バナを終わらせられればいいのですが、1話書くのにかなり時間がかかっていて、最近更新頻度が落ちてるからな・・・で、前回の最澄の「阿耨多羅三藐三菩提の仏たち」の歌の続き。この歌と薬師仏造像、比叡山寺創建は3点セットになってますが、この歌の最も早い採録は『和漢朗詠集』で、それを読んだ源俊頼による『俊頼髄脳』という書では 【「これは、比叡の山を末まで事なくあるべきよしを、詠ませ給えるなり」と述べている。 源俊頼のこの論を読むかぎり、そこには、中堂を建立するために材木を取りに杣山に 入り立ったという趣は、まったくない。(中略)だが、「わが立つ杣」の歌は、 「この上もなくすぐれ、正しく平等円満な仏たちよ、わたしがいる杣山に加護をお与え ください」と解釈して、仏たちが比叡山で草創した天台宗を行末ながく守ってほしいと いう願いをこめた詠歌として理解することもできる。したがって、かならずしも、延暦 七年の年時を伝える中堂の建立と結びつける必要はないであろう。】 (『若き日の最澄とその時代』)つまり佐伯氏によると、一般的に延暦7年のものとして有名な3点セットの時期についてはちょっと疑わしいということのようですが、いずれにせよ「夜明け前」の時期にさしかかっているとは言えるでしょう。中央政界の方でもすでにその兆しはあるものの、大問題が浮上してくるのはこれから。大規模蝦夷征伐も控え、俗世が混乱の頂点に達しようとする時期に叡山の小さなハスが大きく成長していこうとしているのはまさに歴史のドラマでありますが、実はこの年、もうひとつのドラマが進行しようとしておりました。そのドラマの主役が、最澄と並ぶ日本仏教の2大カリスマの片割れ、佐伯眞魚(まお)・・・のちの弘法大師・空海です。14歳の眞魚はこの年、生まれ故郷の讃岐から平城京へ出てきて、同族の佐伯今毛人の建てた氏寺へ入って勉強を始めたようです。ま~、最澄と空海っつったら、野球界でいえば星君と花形君、テニス界でいえばお牒夫人と岡ひろみ・・・「ジジイ、例えが古いよ!!」と笑われようと、かまへんかまへん永遠のライバルである2人ですが、この場合、最澄が花形君でありお牒夫人だろうな。花形君・・・いへ、最澄はこの年22歳。8歳の開きがある2人ですが、もし最澄がもそっと遅く生まれてたら2人は奈良の(もと)都で初顔合わせを果たしていたかもしれん・・・とどれだけの歴史ファンが妄想したかしれませんが、あるいは最澄が遅く生まれていたら、彼は仏教界のカリスマにはなれなかったんじゃないか・・個人的にはそんな気もします。50話突破でさらに開き直った訳じゃありませんが、『朝日百科 日本の歴史3』に面白い記述を見つけたのでついでにちとご紹介しちゃお。空海が30歳頃になるまでの経歴については詳しいことはわかってないみたいですが、有名な伝説があります。 【ところでこの時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られる ところである。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳(現在の太竜寺山付近)や 土佐の室戸岬などで求聞持法を修ましたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟で修行を しているとき、口に明星が飛び込んできたと記されている。このとき空海は悟りを開いたと いわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは 空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっている。】 (ウィキペディアより)「求聞持法」(ぐもんじほう)とは何か? 【都の大寺で研鑽を積む学僧にとっても、山は大切な場であり、彼等はしばしば山に入って 宗教的なエネルギーを補給した。特に比蘇山寺では虚空蔵求聞持法という修法が多くの 僧により行われた。これを行えば抜群の記憶力が得られるというので、万巻の経典に 通じなければならぬ学僧たちは、熱心にこれにいそしんだ。こうして得られた能力は 「自然智」(じねんち)と呼ばれた。若き日の空海も、一人の沙門から一切の経典を 暗記できると教えられ、阿波や土佐の深山でこの修法を行ったという。】 (『朝日百科 日本の歴史3』より)ほお、抜群の記憶力が得られる修法とな!?ま、皆様もやってみればわかりますが、実際お経を覚えるというのは大変です。お経の暗記に割ける時間は1日のうちでごくわずかなものであり、わたくしの記憶装置がイカれ始めていることも原因のひとつではあるでしょうが、少し前の記事でやっと法華経のひとつを覚えたと報告したものの、まだ文節のつながりにひっかかる箇所があり、これを無意識によどみなく言えるようになるまでは完璧とは言えませんので、いまだ次のお経へ進めません。ので、少しでも暗記に有利になる方法があるのであれば飛びつきたくなるお坊さんの気持ちはよくわかりますし、あわよくばわたくしもおこぼれにあやかりたいもんだとちょっとネットで調べたところ、なんだかとんでもない修行法のようです。一口に言うと、虚空蔵菩薩様の真言を唱え続けるようなんですが、回数がハンパない。まずは「オン・バザラ・アラタンノウ・オン・タラク・ソワカ 」と1回唱える。その後で「ノウボウ・アキャシャ・ギャラバヤ・オン・アリ・キャマリ・ボリ・ソワカ」という真言を100万回唱える。1日に、ですよ。さらにこれを100日続けることにより、抜群の記憶力の獲得のみならず、経典の理解もでき、仏の智恵をがっつりゲットできるというトンデモな秘法だそうなんです。ですが、ネットで見た中でこれを現実的に計算した方がおられて、それによると1日に100万回唱えるには1秒間に11.57回真言を唱えなければならない計算なんだそうな。・・・無理じゃん1日7時間続行する計算だと1日1万回ぐらいは行くそうですが、フツーの人にはまず無理。実際、その方も実行してみたそうですが、やってるうちに「ムダなことをしてるんじゃなかろーか」という疑念がまず浮かんだそうです。じゃあ、比蘇寺で頑張ったという修行僧たちは無駄なことをやっていたのかというと、あながちそういう訳でもないらしいんだな。ヨガなどではチャクラがどーのと言いますが、真言によってチャクラを刺激して気の流れによって活性化する、というような現実的な効果もあるにはあるようです。ので、無理のない範囲で1日に少しずつ、継続して行う分にはそれなりの効果も得られるようですが、ただひたすら膨大な真言を唱えたからといって誰しもが空海のようになれる訳じゃないみたいです。そもそも物理的に無理だし。比蘇寺には最澄の師の師である道センが晩年こもったと何度か書いてますね。比蘇寺に入ったあとで道センは願文を書いているらしいので、叡山にこもった最澄が願文を書いたことは道センの影響を受けている可能性もある、とこれは佐伯氏のお説ですが、最澄が比蘇寺に行ったことがあるかどうかはわからない。ところが、上のウィキペディアの空海の文章の続きには 【求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、旧来の通説では勤操とされていたが、現在では 大安寺の戒明ではないかといわれている。戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後 空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者である。】とある。ほほう~、大安寺の僧とな?それなら最澄とも現実的な接点が出てくるよな。最澄が虚空蔵求聞持法を活用したかはわかりませんが、大安寺にも伝わってたのなら、あるいは最澄もトライしたかもしれない。なんにせよ、当時の修行僧の涙ぐましい努力がちょっと微笑ましく感じられるエピソードでした。あ、虚空蔵求聞持法の実際は上のように真言を唱え続けるという単純なものでやろうと思えばこの瞬間からでもできますが、シロートがやみくもにやると危険な場合もあるようですので、やってみたい方はご自分できちんと調べてからトライしてくださいね。わたくしは忙しいので、求聞持法の実践までとても手が回りませんが。ええと、文字数が残り少なくなっちゃったな。延暦8年の流れは次回に回すとして、ついでにもひとつ『朝日百科 日本の歴史3』から当時の背景に関するお説を紹介しましょう。しつこいようですが、最澄だって時代の子。当時の状況を理解することは、最澄を理解するのに必要なことだと思うからです。奈良時代以前の仏教の実際については詳しいことはわかってないようで、色々な解釈もあるようですが、少しでも紹介することで皆様が通説だけをうのみにするんじゃなく、自由に時代のイメージを描いていただきたいとわたくしは考えます。 【仏教が、色も鮮やかに荘厳された金色の仏像、高く聳える瓦葺きの堂塔に象徴される 先進文化として受容された時代には、僧たちも新しい知識や技術を身につけることに 専念し、専門家として活動したが、最初の伝来から二世紀が過ぎ、仏教に対する 理解が深まると、仏教本来の教えに目覚めて、世俗の権力に仕えて祈祷に明け暮れる 大寺院の仏教に疑問を抱き、世俗を超えた価値を求めて、山林修行に憧れる僧が 増加しはじめたのは自然の成り行きであった。(中略) 仏教が山岳信仰と深い関係を持つようになるのは、仏教が外来文化としてではなく、 信仰の面で日本人の生活と結び付くようになったことのあらわれである。】ふうん、なるほどね・・・ただ、中国においてインドなどのガイジンの僧が訳経に大きな役割を果たしたように、伝来からの時間の経過によって自然発生的に本来の教えに目覚めたというよりは、渡来僧の果たした役割というのが実はものすごく大きいんじゃないかと個人的には思うんだよなあ。研究の分野ではもちろん渡来僧についても色々議論されてますが、一般的な説明でガイジンが顔を出すのはせいぜい鑑真が戒壇を造ったということぐらいでちょっとお気の毒な扱い。でも最澄1人を取ってみても、鑑真や法進が天台経疏を持ちこまなかったら最澄は日本天台宗の祖にはならなかったかもしれないし、日本天台宗の幕開けの時期はもっと遅かったか、ヘタしたら誕生すらしなかったかもしれない。天台宗がなかったら、いわゆる鎌倉新仏教もどういう発展をしたかわからない。そう考えると、広く知られてはいなくても渡来僧の存在というのは日本仏教の発展に欠かせないものであったと言えると思う。最後の一文は興味深いですね。日本人は古来から外来の文化を取り入れてはそれを造り変えて自分達のものにしてきたけど、土着の山岳信仰とミックスすることで仏教を日本ナイズしてきたってカンジなのかな。詳しくわかってないことは歯がゆい面もありますが、あれこれと想像するのは楽しい作業でもあります。にほんブログ村
2014年10月12日

●延暦6年(787)3月20日、歴代天皇が年寄りを大事にしてきたことに倣って老人に物を施す。5月6日、まだ元服前の皇太子・安殿親王に剣を帯びさせる。閏5月11日、これまで役人の引き継ぎの取り決めがなかったために責任の所在があいまいだったので、引き継ぎの際は後任の者が証明書を発行してから前任者が離任するよう定める。7月8日、金星が昼間見えた。7月25日、国司や郡司が上京した際、勝手に任地に帰ったり、仮病を使ってそのまま都に居座ったりと勝手なことをしているので、宝亀10年にこれを改めるよう指示をしたが、相変わらず守られていない。今後はこれを厳しく処断するという命令を出す。8月24日、高埼津(たかはしのつ)に行幸。10月8日、この年は豊作であったので高齢者や病人に物を施す。また、水陸交通の利便を考えて長岡に遷都したが、住民にとってはさぞ騒々しかっただろうとして乙訓郡の住民に過去の税の未納分を免除し、郡司の主帳以上の者は位を一階ずつ上げる。10月17日、交野へ行幸し、鷹狩り。10月20日、長岡へ帰還。11月5日、交野においてふたたび郊祀。玉・絹・いけにえの肉・穀物などを天に捧げる。●延暦7年(788)1月15日、安殿親王が元服。あわせて恩赦を行う。3月2日、翌年の蝦夷征伐に向けて、陸奥国に兵糧3万5千石余を多賀城に運び込ませる。また、東海道・東山道・北陸道諸国に対し7月までに干し飯2万3千石余と塩を陸奥に運ぶよう命じる。3月3日、来年3月までに東海道・東山道・坂東諸国の歩兵・騎兵5万2千8百人を徴発し多賀城に集結するよう命じる。また、近年の国司らは公務を真面目に行わず蝦夷征討に誤った計画を行っているので、今後は「軍用物資の準備に欠ける場合は斬罪」という条に基づいて処断するという厳しい方針を発表。3月4日、霧島山の山頂付近から雷のような大音響とともに火炎が噴き上がる。夜10時頃になって火炎はやや収まるが黒煙が立ち昇り、麓には黒い砂や石が降り積もる。3月16日、和気清麻呂の言上により、23万人余りに食料を支給して河内・摂津両国の境に川を掘り堤を築くという大事業を行う。4月3日、畿内で雨乞い。4月10日、黒馬を丹生川上神に奉納して雨乞い。4月11日、何ヶ月も続く日照りのため水不足で種蒔きができないが、皇族・臣下を問わず家の田で水のあるところには自由に水をせきとめさせてできるだけ種蒔きをさせるよう通達。4月16日、雨は去年の冬から降っておらず、すでに5ヵ月が経っていた。灌漑の水は尽き始め、今年の種蒔きは絶望的とみんなが思っていた。この日の早朝、沐浴した天皇が庭に出て自ら降雨を祈念したところ、しばらくして空が暗くなり、多くの雨が降って大地を潤した。群臣らは歓喜して、万歳を叫ばない者はなかった。そこで、天皇は五位以上の者に夜具と衣を与えた。皆は天皇に立派な徳と真心が備わっており、その天皇が雨乞いをしたので天が感応したのだろうと思った。5月2日、伊勢神宮や七道の名神(全国285座の大社)に使者を遣わし、雨乞いをさせる。この日の夕方から多く雨が降り、全国でようやく田植えをすることができた。5月4日、夫人・藤原旅子が死去。享年29歳。天皇は妃の地位と正一位を追贈した。5月23日、中務大録・中臣浄兄は繰り返し公文書偽造を行っていたので取り調べをしようとした矢先、自ら首をくくって死んだ。6月7日、和気清麻呂が備前和気郡の住民が去る天平神護2年(766)の所属変更により不便をかこっているとして民の負担に不公平がないよう対応策を言上。6月9日、下総と越前の封戸各50戸を梵釈寺へ施入。6月10日、石川名足が死去。7月6日、紀古佐美(きのこさみ)を征東大使とする。7月28日、前右大臣・大中臣清麻呂が死去。9月26日、水陸の利便さから長岡の地に都を遷したが、皇居はいまだ完成せず、都建設に徴発された人民は粗末な着物を着て疲れきっている。これに深く心を痛めているので、役夫を提供している諸国の今年の出挙は利息を減ずるとする勅を出す。10月2日、雷雨と暴風により民家が壊れる。12月7日、征夷大将軍・紀古佐美が別れの挨拶に参内。天皇は夜具や絹・真綿などと共に節刀を与えていわく、「現地では一切アンタに任せるからね。これまでの副将軍たちは、軍令の執行の判断に迷うなどして間違いを犯すことがあった。もし副将軍が死罪に価する罪を犯した時は、拘禁して朕に報告するよーに。軍監以下の者が法を犯した場合は法にもとづいて斬罪とせよ。坂東の安泰はまさにこの一挙にかかってるんだ。必ずこの遠征を成功させてよ!!」(by 桓武天皇)最澄サイドの記事が増えてきたので、ここからは中央政界の動きはなるべく簡潔に見ていこうと思ってますが、同時にページがまたがることも増えてくるかと思いますのでご容赦ください。さて、まず政治向きの動きとしては大遠征に向けての準備が目立ちます。一時は戦況などについて細かく報告しろと言っていましたが、電話もLINEもない時代、陸奥と長岡では遠すぎます。ゆえに副将軍の処置を除いてはすべて将軍の判断に委ねたようです。紀古佐美に節刀を与えたのはその刀で違反者を斬れという意味で、この遠征に賭けるなみなみならぬ決意がうかがえます。蝦夷征伐はかなり古い時代から行われているものの、穏便な時代もあった。が、光仁朝から38年戦争と呼ばれる大規模な征伐が行われるようになり、4期に分けられる征討のうち、今回の遠征は第3期にあたるらしい。蝦夷についてはこれまで特別の興味も持ってませんでしたが、少し前にNHKで放映されていた「アテルイ伝」を観ておけばよかったと今さら後悔したりして・・・父親が東北の出身なので、もしかしたらわたくしにも蝦夷の血が少し入ってるかもしれないよな~なんてついでに妄想してみましたそれはともかく、坂東諸国はもちろんのこと、東北に近いエリアである東海道・東山道・北陸道諸国の負担はかなりのものと思われます。重い負担にあえいでいたのは、蝦夷に関係する国々だけではありません。9月26日の記述からはまだろくに長岡の皇居も完成してない様子がうかがわれるし、工事に携わる人夫は疲れ切ってます。その一方で、23万もの人夫を動員して河内と摂津の境に川を拓くという大事業も行ってます。宇佐八幡神託事件で称徳天皇の怒りを買った和気清麻呂は政界に復帰して以降、着々と位階を上げていきましたが、だいぶ発言力が増してきているようです。各方面に出費が多い中で、梵釈寺には封戸を施入するという記事があり、梵釈寺に対する手厚い保護がうかがわれます。今度は災害のニュースですが、霧島が噴火したようですね。それから、日照りの記事はここ数年はなかったのがかなり深刻な状況にまでなっていたようです。最後は訃報。6月に死んだ石川名足(なたり)は淡海三船などと共に光仁天皇から『続日本紀』の編纂を命じられたとする人物で、抜群の記憶力の持ち主。性格も抜群に悪かったようですが(笑)、『続日本紀』の古い部分などはこの人の記憶に頼るものが大きいようです。7月に死んだ大中臣清麻呂は『続日本紀』との直接の関係は語られませんが、この人も古い時代のことや儀式・しきたりなどについてかなりの知識を持っていたらしく、そういう古老などに話を聞きながら正史の編纂が進められたのかもしれません。それと、桓武夫人・旅子も若くしてこの年亡くなってます。さてと~、イチ僧侶である最澄は叡山にこもって4年目。はっきりとした時期はわかりませんが、『叡山大師伝』では天台大師・智ギの著作を読みたいと熱望していた最澄が そうしているうち、天台の著述の所在を知ってる人に 出会ったので、ようやく読みたくてたまらなかった天台の書を 写してゲットすることができたんじゃ~。と伝える。『若き日の最澄とその時代』によると、梵釈寺には鑑真や法進などが日本に持ち込んだ本の写本が所蔵されていたことは間違いないそうで、しかも法進の手元にはすべての天台経疏が揃っており、 【法進は、物惜しみすることなく、意欲のある修学僧に対して自由に、これら諸本の 書写をみとめ、天台学が伝わりひろまることを期待していたことがわかるのである。】 (『若き日の最澄とその時代』より)ということらしい。こうしたことから、梵釈寺にて天台の多くの書を手に入れたと思われる最澄はさらに天台の教えに邁進していた時期だったと思われる。して、この年延暦7年は一般的に最澄が叡山に延暦寺を創建した年だとされる。たとえばウィキペディアには、【薬師如来を本尊とする草庵、一乗止観院を建立する】とある。これは『山門堂舎記』にこの年、虚空蔵尾の倒木をもってみずから薬師像1躰を彫ってこれを安置し、衆生の救いを祈ったとする記述があることに基づくものらしく、延暦寺サイドでもこの伝承を採用して延暦7年を創建としているが、どうも伝承の域を出ていないらしい。佐伯氏は造像は延暦24年かその翌年頃だろうと見ておられる。創建・造像の時期についてはとりあえず置いておくとしても、修行の拠点である草庵はもちろんあっただろう。ちなみに、延暦寺は当初は「比叡山寺」、根本中堂は「一乗止観院」という名称でした。『新古今和歌集』に「比叡山中堂建立の時」という詞書(ことばがき)とともにある最澄の歌もこれまた有名で、各種ガイドブックなどにも多く載せられています。 阿耨多羅三藐三菩提の仏たち わが立つ杣(そま)に冥加(みょうが)あらせたまへ「阿耨多羅三藐三菩提」(あのくたら・さんみゃくさんぼだい)は訳経のところでも出てきてますよ~。お経は漢訳のままだから、梵語の漢訳である阿耨多羅三藐三菩提とお経で読むのはいいとして、和歌にまでそのまま使われてます漢訳の歴史と思い合わせると、なかなか感慨深いものがありますね~(私だけか?)歴史好きの皆様の中には百人一首コンプリートしている方も多いでしょうが、最澄のこの歌を見て、多くの方が慈円のあの歌を思い浮かべるんじゃないでしょうか。 おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣にすみ染の袖これはわたくしも好きな歌ですが、似ているのも道理、慈円の歌は最澄のこの歌をふまえたものらしいんです。慈円の歌にそんな背景があったなんて・・・歴史を知るとさまざまな事が実に楽しくなりますにほんブログ村
2014年10月11日

最澄は1人で叡山に入ったが、それ以前から叡山には先輩の修行者がいたともいい、あるいは1人修行に励む最澄を慕って叡山に入って来た修行者がいたともいう。基本的には世俗との関わりは絶っていたはずだけど、最澄の願文を読んだ僧侶がいた。それが、内供奉禅師・寿興(じゅこう)。「禅師」は「叡山攻め(44)」で覚えておいてね、としましたが、たとえば道鏡は山での厳しい修行が認められて称徳女帝の看病禅師になったとされる。もともといた禅師を10人ピックアップして終身の朝廷お抱えとしたのが、光仁天皇の時代、宝亀3年(772)。これが「十禅師」とも呼ばれた内供奉禅師の始まりで、選定の基準としては「深山に住し、苦行輩(ともがら)に超ゆる」(『新儀式』)行いの清らかな者を対象としたらしい。寿興についての詳しいことはわかってないみたいだけど、内供奉禅師であったのなら寿興も山での厳しい修行を積んだ僧とはいえるだろうし、志を同じくする高潔な山林修行者の情報にアンテナを張っていたのかもしれない。「行いの良い者は正しく高く評価せよ」という桓武の方針も手伝ってたかもね。して、『叡山大師伝』では「同和金蘭」・・・つまり、願文に感銘を受けた寿興と最澄はがっちり厚い友情をはぐくんだという。ところで、なにゆえ修行者は山に入るのか?遠くお釈迦様は、当時のインド人の頭痛のタネであった永遠の輪廻からの完全な脱却(解脱)を図るためには、出家が必要だと考えておられた。仏バナの最後でテーラワーダ仏教徒宣言をしたわたくしも、あれからたいして日が経過していないにも関わらず、日常生活によって生じるもろもろの悪感情に相変わらず翻弄される日々を送っております。俗世にあっては、心身のコントロールというのは実際難しいです。ので、目的を達しようとするならば、家を出て世間から離れるというのは確かに必要なことであり、それはお釈迦様の在世中からの伝統とも言えます。中国においても山林修行は行われていた。が、仏教的な視点もさることながら、道教的な側面もあったらしい。水墨画などでは、画面いっぱいに大きく山水の風景が描かれ、その隅っちょの高台に置かれた亭建築にちいちゃく人間が描かれてたりしますが、イメージとしてはあんな感じの神仙思想風な目的での山林修行もあったらしいんだな。して、日本。伝統的な仏教の修行方法としてももちろん重視されただろうけど、中国に神仙思想という土着の考え方にもとづく入山があったように、日本にも日本ならではの意味合いがあるんじゃないかと思った。今回、日本人と山の関係の本なぞも少し読んでみましたが、日本人にとって山とは何であったのか、なんでみんな山へ分け入ろうとするのか、漠然と自分なりのイメージを描くことができた気がしますので、少々紹介します。まだ日本史を好きになる前でだいぶ以前の話になりますが、『国民の歴史』(西尾幹二/扶桑社)を読んだ時、縄文期は豊かな恵みをもたらす山とごく近しい関係にあり、そこから自然崇拝が生まれた、てな感じの内容にすごく納得した。昔は(マンガの影響で)遊牧民族の自然崇拝などにも関心を持っていたので、自分が持っていた自然崇拝のイメージと合致するものがあったのが西尾氏の説に共感を持った一番の理由だった。ゆえに、日本的自然崇拝のイメージの原点は西尾説だった。で、『修験道と日本宗教』(宮家準/春秋社)と『朝日百科 日本の歴史3』(朝日新聞社)が語る「山」をいくつか挙げると、 ・「里」が俗なる空間であるのに対し、「山」は聖なる空間。 ・山岳は精霊や神々が住む聖地であり、また死霊や祖霊が住む他界とも考えられ、 聖地や他界へ至るための通路と信じられることもあった。 ・水田稲作をする農民にとって山は水源地であり、農耕の神。航海の目印となることから 漁師たちには航海の安全を祈る対象となり、山中で仕事をする木こりにとっては木の神、 マタギにとっては獲物を支配する神。そうした面から山での安全や豊猟を祈願するなどの 各種信仰が生まれ、里人の山に対する信仰はこの世に生を受けた時から死ぬまで 生活のあらゆる面に浸透している。国土の多くを山林が占める日本、といっても関東平野のど真ん中に生まれ育ち、よほど条件のいい時だけ、それも高い場所から富士山か筑波山が見える程度の山と無縁の生活をしているわたくしには今ひとつピンと来ませんが、日本のあちこちを旅行してみると、山がまったく見えない平野の方がむしろ特殊な環境なんだということにあらためて気付かされる。北海道にも広い平野はあるけど、結構遠くの方に山が見えたりするんだよね。つまり、日本のほとんどの場所ではすぐそばに山があり、山と密接な関係を持ちながら生活をしてきた。ところが、古代では 【山岳は神霊や魔物のすまう所として怖れられ、里人がそこに入ることはほとんど 見られなかった。わずかに狩猟者などが山中に入っていくにすぎなかったのである。】という。そういうわずかな入山者から、宗教者となって山を開く者も現れた。 【やがて仏教の頭陀行や道教の入山修行の影響を受けた宗教者や帰化人が山岳に入って 修行をするようになっていった。彼らが修行した山岳は、一般の里人たちからは、 死霊、祖霊、邪霊、神々などの鎮まる他界としてとらえられ、人々の一生、年間の行事 などの超自然的な影響を与えるものとして畏敬されていた。それゆえこうした山岳で 修行した宗教者が山岳の霊威を体得した修行者として崇められたことは充分推測 されるのである。】ふうむ、なるほど・・・てことは、神道が古くは茫漠としたものだったのが仏教の流入などで触発されてより高度な「宗教」として体系立てられていった(と思われる)ように、ここでも外来の宗教が古来のタブーを乗り越えて新たな道を切り拓いていったとも言えるのかな。そう考えてみると、仏教というのはこれまで思っていたよりもはるかに多くの影響を日本にもたらしたとも言えそうだな。 【奈良時代の山岳修行は山中で法華経を誦し、陀羅尼を唱えて修行することによって、 超自然力を獲得し、出峰後はその力を用いて呪術宗教的な活動を行った。もっとも彼らの 大部分は半僧半俗の優婆塞・優婆夷で政府から公認されぬ私度僧であった。のちに修験道の 開祖に仮託された役小角にしても、こうした宗教者の一人にすぎなかったのである。】ハア、役小角・・・彼は小鬼を使役したとかのイメージばっかりが先行してあまり実在の人物ってカンジしないんだけど、そう考えるとちょっとリアリティ涌くな。ただ、確かに山岳修行者は私度僧が多かったかもしれないけど、官僧がいなかった訳じゃないし、寺サイドでも官僧の山林修行そのものを否定した訳じゃない。あるいは時代が下るごとに山林修行推奨の方向性が強くなったのかもしれない。ウィキペディアによる役小角の生没年は634~701年。修行で呪力を得たっていうと、個人的嗜好によりわたくしは真っ先に良弁さんを思い浮かべるんだけど、同じくウィキによる良弁さんの生没年は689~774年。あら、この2人、カブってる時期あるんだ。なら、良弁さんも古い時代の山岳修行者と言えるよな。 【平安時代に入ると最澄、空海によって山岳仏教が提唱され、比叡山、高野山などの 山岳寺院が修行道場として重視された。天台・真言の密教僧たちは山岳に籠って激しい 修行にいそしんだのである。修行者はもちろん、信者の間でも、山岳で修行すれば 呪験力をえ、すぐれた密教僧になりうるとの信仰が生み出されていった。山岳修行に よって験をおさめた密教僧(験者)は加持祈祷の効果がいちじるしいと信じられもした。 験を修めることが修験と呼ばれ、験を修めた宗教者は修験者と呼ばれたのである。】 (【】内はここまですべて『修験道と日本宗教』より)ハア、「修験」てそーゆーことなの!?修験道ってゆーと、山伏が山で何かするって漠然どころじゃない程度のイメージしかなかったんだけど、仏教と関わりあるものだったんだ・・・といっても、別に修験道の何がわかった訳でもなく、むしろ仏教と密接すぎてさらによくわからなくなった感もありますがたぶん神仏分離が「よくわからん」感を加速させたんだろうな。ただ、ここまで見てきたように最澄が一人前の僧となる以前から崇福寺・梵釈寺などの山岳寺院は日本にもあったし、仏僧は山に入ってもいたけどね。ともかく、古来からの思想として山に対する畏敬・畏怖があったからこそ、そのタブーを克服して山で修行を積み、験を修めた者に呪力が備わったという信仰が生まれたようです。奈良時代の終わり、聖地であり霊域である山へ修行者が分け入っていったのは、なにも畿内周辺に限ったことではありません。最澄・空海の開いた大道場と同じく世界遺産に登録されている霊場でも同じ時期、不屈の精神を持って険しい山へ入っていった1人の修行者がおりました。彼の名は、勝道(しょうどう)。はい、日光を開いたとされるあの勝道上人様ですよ~(『輪王寺1』参照)。輪王寺の寺伝によると、まず入山が天平神護2年(766)。同じ年、西では道教が法皇になり最澄が生まれてます。勝道が山内に四本龍寺を建て、男体山を祀ったとされるのが翌年の神護景雲元年(767)。氷上川継の乱が起き、元号を延暦に改元した天応2年(782)には勝道が男体山への初登頂を果たしてます。長岡京に遷都した延暦3年(784)は勝道が中禅寺湖の湖畔に中禅寺を創建。ね?完全に同時期の出来事なんですよ。今は延暦5年まで見てきたところだから、最澄がこつこつと叡山で頑張ってる頃、日光では年上の勝道が着々と堂宇の整備などに励んでいたか、リベンジにリベンジを重ねてやっと登頂できた男体山に再び登って山頂で修法などをこらしていたかもしれない。そうしてみると、ちょうどこの頃から最澄・空海が華々しく活躍するあたりまでが日本における本格的山岳修行時代の幕開けと言えるかもしれないな。まあ、そうは言ってももう少し前の時期から山中での修行は行われており、渡来僧の神叡は吉野の比蘇寺に20年もこもって修行したという。比蘇寺へは道センも晩年に入ってるんだよね(「叡山攻め(37)」参照)。師の師が山でのおこもりを始めたことも、あるいは最澄に影響を与えたかもしれません。にほんブログ村
2014年10月09日

さて、延暦5年は最澄が山籠りを始めてから2年目にあたりますが、叡山に入ってから「願文」という決意表明のようなものをしたためております。これは延暦4年のところで書くべきかとも思いましたが、4年の記事が長引くのもなんだし、内容的に入山した直後に書いたものかちょっと悩ましい部分があったので、後回しにしました。が、決意表明なんだからそこそこ早い段階で書いたものだろうと思われます。この「願文」、長いんです。ネットでは主要な5か条の部分だけ紹介してる方がほとんどですが、あえて全文ご紹介します。原文はもちろん漢文と思われますが、延暦寺学問所発行の小冊子『道心』の読み下し文を多少漢字を置き替えてさらに読みやすくしました。ここまでの中央政界や仏教界、民間の世情なども思い合わせながら青年僧・最澄になったつもりで「願文」を読んでみてはいかがでしょう。 願 文 悠々たる三界はもっぱら苦にして安きことなく、擾々(じょうじょう)たる四生は ただ患いにして楽しからざるなり。牟尼の日、久しく隠れて慈尊の月いまだ照らさず。 三災の危うきに近づき、五濁(ごじょく)の深きに沈む。 しかのみならず、風命保ちがたく、露体消えやすし。草堂楽しみなしといえども、 老少白骨(びゃっこつ)を散じさらし、土室暗く狭しといえども、しかも貴賎 魂魄を争い宿す。彼を見、おのれを省みるにこの理、必定せり。仙丸いまだ得ず 死辰(ししん)いつとか定めん。生ける時、善をなさずんば死する日、獄の薪とならん。 得がたくして移り易きはそれ人身なり。発し(おこし)がたくして忘れ易きはこれ 善心なり。ここをもって法皇牟尼は大海の針、妙高の糸を借りて人身の得難きを喩况 (ゆきょう)し、古賢禹王は一寸の時、半寸の暇を惜しみて、一生の空しく過ぐるを 嘆勧せり。 因なくして果を得る、このことわり有ることなく、善なくして苦を免る、このことわり 有ることなし。伏して己が行迹(ぎょうしゃく)を尋ね思うに、無戒にしてひそかに 四事のいたわりを受け、愚癡(ぐち)にしてまた四生のあだとなる。この故に未曾有 因縁経にいわく、施す者は天に生まれ、受くる者は獄に入ると。提韋(だいい)女人の 四事の供えは末利夫人の福(さいわい)と表れ、貧著(とんじゃく)利養の五衆の果ては 石女担輿の罪と顕わる。 明らかなるかな、善悪の因果誰か有慚(うざん)の人にして、この典(のり)を 信ぜざらん。然ればすなわち、苦因を知りてしかも苦果を畏れざるを釈尊は闡提 (せんだい)と遮したまい、人身を得ていたずらに善業を成さざるを、聖教には空手と 責めたまう。 ここにおいて、愚の中の極愚、狂(おう)が中の極狂、塵禿(じんとく)の有情、底下 (ていげ)の最澄、上は諸仏に違し、なかごろは皇法に背き、下は孝礼を欠く。つつしみて 迷狂の心に従い、三二の願をおこす。無所得をもって方便となし、無上第一義のために 金剛不壊不退の心願をおこす。 我いまだ六根相似の位を得ざるよりこのかた、出仮(しゅっけ)せじ。その一。 いまだ理を照らすの心を得ざるよりこのかた、才芸あらじ。その二。 いまだ浄戒を具足し得ざるよりこのかた、檀主の法会に預からじ。その三。 いまだ般若の心を得ざるよりこのかた、世間の人事縁務に著(じゃく)せじ、 相似の位を除く。その四。 三際の中間に修するところの功徳は独り己が身に受けず、あまねく有識に回施(えせ)して ことごとく無上菩提を得しめん。その五。 伏して願わくは、解脱の味独り飲まず、安楽の果独り証せず、法界の衆生と同じく妙覚に 登り、法界の衆生と同じく妙味を服せん。もしこの願力によって六根相似の位に至り、もし 五神通を得ん時、必ず自度を取らず、正位を証せず、一切に著せざらん。願わくは必ず今生 無作無縁の四弘(しぐ)誓願に引導せられて、あまねく法界を巡り、あまねく六道に入り、 仏国土を清め衆生を成就し、未来際を尽くしてつねに仏事をなさん。 天海の東照宮縁起なんかもそうだけど、知識豊富な坊様の書く文章というのは経典だとか故事から引いた言葉をさらりと使っているので、正確に意味を読み取ろうとすればそれなりの解説も必要になってくるものですが、大ざっぱなO型のわたくしに言わせると、素直に読んで感じ取れるニュアンスでいいんじゃないかな~って思います。「生きてるうちになんかやらなアカン!!」そういう思いに突き動かされて己の決意を縷々とつづったものがこの願文かと思いますが、佐伯有清氏は 【この最澄の「願文」は、まことに名文である。これを認(したた)めた時、最澄は二十歳。 流麗な文章に、これまでの最澄の修学によって培われた教養が滲みでており、また僧と してのこれからの生きざまの真摯な決意が躍如としている。】 (『若き日の最澄とその時代』より)と絶賛する。え~、はたち・・・たぶんこれは「数え」だろうから、するとやっぱり入山した延暦4年のものってことかな。最澄が残した文章にはあの玄奘の影響が見て取れると佐伯氏は語るが、願文の中に含まれる語句からは天台大師智ギの著作の影響があるんだそうな。ところが、最澄の弟子によると思われる『叡山大師伝』では、 願文を書いた後、大師は天台の教えを指南とし、注釈書などを見ては1人感動して 涙を流しておったんじゃが、天台大師の著作を読むすべはなかったんじゃ~。てな感じの話になっている。これが正しければ願文を書いた時点ではまだ最澄は智ギの書は読んでいなかったことになる。しかし、直接智ギの書を読んではいなくても、天台の思想に基づいた文章を書くことは可能だったそうな。さて、ここでずるっと天平宝字5年(761)へ戻りますよ~。一般にはあまり知られてないと思うけど、最澄が日本天台宗を開く前から日本に天台宗は入ってきていた。上記リンク先の簡単な法統の系図に出てくる方は、多くが天台の影響を受けている。して、名前を覚えてねと書いた法進が重要なカギを握るようです。以前の記事では「善俊が法進に著作を勧めたりもしたらしい」と簡単に書きましたが、勧められて法進が書いたとされるのが『沙弥十戒ならびに威儀経疏』(しゃみじっかいならびにいぎきょうしょ:「ならびに」も漢字ですが楽天ブログでは使えず)。この書は智ギの著述『摩訶止観』の要点をまとめた『天台小止観』からの引用が多いんだそうな。歴バナ最初の記事が今になってようやく生きてくる訳ですが、淳仁天皇の行幸に従って来た法進が滞在したのが国昌寺。この国昌寺は、「叡山攻め(43)」で瀬田の近江国分寺が焼失した後、代行を務めていたと思われる寺であり、東大寺で受戒を済ませた最澄が籍を置いただろうと紹介した、あの国昌寺です。そこで法進は自分の著作について弟子らに講義をしている。 【この法進の講説にあたって、国昌寺の僧たちも聴講したことは、当然考えられるし、 また『沙弥十戒ならびに威儀経疏』が国昌寺において書写され、その写本が国昌寺に 伝えられていた可能性は、きわめて高いと思われる。】 (『若き日の最澄とその時代』より)国昌寺に籍を置いたとはいっても、最澄は奈良からそのまま叡山へ直行したとされているので、「国昌寺で法進の著作を読んだ」と単純には言えないものの、接点はある。のちに最澄は南都仏教界と激しいバトルを交わすんだけど、 【最澄自身、『天台法華宗付法縁起』において、鑑真に先だって天平8(736)年に 日本に律蔵をもたらした唐僧・道セン(702~760)と法進とを、自身に先行する 天台の名匠として高く評価する。】 (『奈良仏教と古代社会』冨樫進/東北大学出版会より)だそうな。道センはある意味師の師だから当然かもしれないけど、法進も尊敬の対象とするあたり、法進の著作に多大な影響を受けていた可能性は充分に考えられる。そういう、自身の周辺にある土壌から養分を吸収して、山で修行しつつ方向性を固めていったようです。で願文に戻りますが、目を引くのは「愚の中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」という箇所。ここについては言葉通りに読んではいけないようです。 【「愚」は、禅定、すなわち精神を集中させ、心に安定をもたらし、また福徳、すなわち 一切の善行によってうる福利を修めて、智慧、すなわち物事を正しくとらえ、真理を 見きわめることを学ばないことをいうのであり、「狂」は、「愚」とは逆に智慧を学んで 禅定福徳を修めないことをいうのである。最澄は、このような意味を持っている「愚」の なかの、きわめつけの「愚」であり、「狂」のなかの、はなはだ度をこえた「狂」であると 言い切り、心の荒れたつまらぬ人間、かつ最低の人間であると断言する。】 (『若き日の最澄とその時代』より)そういう冷徹な分析と厳しい自己批判をベースに、今後の方針を打ち立てたのが続く5ヶ条。佐伯氏によると、「六根相似(ろっこんそうじ)の位」とは【眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの機官が、仏と同様に清浄になった段階のこと】だそうで、パーリ仏典風に言うならば感覚器官から生じる欲望と感情をよくコントロールできるようになった状態、てな感じでしょうか。5ヶ条のうちの語句については見解の分かれるところもあるようですが、大体の意味としては、自分をよくコントロールできるようになるまでは、医術・画・書・呪術などの各種技能や人との交流、世間の俗事には関わらず、檀越の催す法会には参加しないというのが第4まで。第5はおおむね読んだままだけども、さらに続く文において言い換えているので、佐伯氏はここをもって 【すなわち、これが、まさしく最澄の本願であったのである。】 (『若き日の最澄とその時代』より)とする。実年齢で19歳の最澄がひとり山に分け入ってキヨラカで壮大な願文を打ち立てたことは感動にも価する。蓮の花は泥の中から生まれながら、泥に染まらず清らかな花を咲かせることから悟りを象徴するものとして仏教では特別な存在。この頃の世間は殺したり金に執着したり戦争の準備をしたりと実にわやわやとした時期。汚泥と表現しても誰も文句は言わないような世間の中から、一輪の小さなハスが叡山に咲いた。ただ、そうは言っても「六根相似の位を得るまでは」としているあたりがわたくしの興味をひく。汚い俗世間から逃れてただひたすら死ぬまで自分の悟りだけを追求しようとした訳ではないらしい。もちろんそれは、大乗の精神にのっとってあまねく衆生を救うという最終目標があるからこそ、必然的に世俗と関わらざるを得ないんだけれども、権力をかたくなに否定する訳じゃないんだな・・・とも思った。このあと、彼はひょんなことから権力と関わっていくようになるが、まだ本人はそんなこと夢にも思わず静かに修行と勉学を重ねていく。にほんブログ村
2014年10月07日

前回、郊祀について紹介しましたが、これは遠く天智天皇が定めた法に従って父・光仁天皇から皇位を譲られたことを桓武がアッピールしたものでした。正史では天智と天武は兄弟ということになっていますが、実は2人は血のつながらない別人だったのではないかという説の根拠のひとつに、「天皇家の御仏壇」の中身の実態があります。 【京都に泉涌寺という寺がある。別名「御寺」(みてら)ともいい、明治以前は 仏教を信仰していた天皇家が、事実上の菩提寺としていたところである。菩提寺と いうのは、これも言うまでもなく先祖代々の霊を祀るところだ。 ところが、驚くべきことに、この寺へ行くと天武以後称徳女帝までの8代7人 (称徳は孝謙として2度即位しているから)の天皇の位牌がないのだ。位牌がないと いうことは、つまり祀られていないということで、この7人の天皇は「無縁仏」として 扱われていることになる。これは本当の話である。】 (『逆説の日本史2』井沢元彦/小学館文庫より)なかなか驚くべき事実だけど、明治9年に京都各地に分散されていた各天皇の位牌を泉涌寺に合祀させた記録があるそうで、その時には天智・光仁・桓武の位牌のほか、元明天皇の位牌もあわせて安置されたそうな。元明は一般的に天武ファミリーと見られているけど、元明天皇自身の血統でいえば前回の系図でわかるように天智天皇の娘だからな。ただ、持統天皇も条件は同じなんだけど。ところが、一旦泉涌寺に入ったはずの元明天皇の位牌は昭和59年発行の泉湧寺史のリストには載っていないらしい。ということは、昭和59年時点では元明天皇は泉湧寺には祀られておらず、なぜか除外されてしまったということになる。先日、降嫁される高円宮典子さまが宮中三殿に拝礼する姿を(仕事中に)ネットのトピックスで見ましたが、現在こういう歴バナを連載中のわたくしですので、典子さまの向こうに映る三殿を感慨深く見ておりました。宮中三殿は賢所・皇霊殿・神殿の3つの建物の総称で、このうち「皇霊殿」が歴代天皇・皇族を祀る場所。古くは天皇家も仏式で祀られていたものの、明治以降は神式に改められたんだそうな。まさか皇霊殿でも「御寺」と同じ方式を採ってないよな・・・と思いましたが、ウィキペディアの各天皇のページの最後には【皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている】とあって皇霊殿での存在の有無が確認できるので、天武ファミリーの天皇のページをすべて見たところ、さすがに皇霊殿には即位した天皇は全員おられるようでした。ちなみに、藤原光明子(皇后)のウィキには同じ文言はありませんでした。という訳で、御仏壇の中身からも意図的に天武系が外されているのがわかります。そう考えると、延暦4年10月8日に早良皇太子を廃した報告をした御先祖様の中に天智天皇が入っていたことは不思議でもなんでもありません。ま、なんで聖武天皇が入ってるのかはナゾだけど。桓武が天智を特別視していたことは、彼のこの後の行動にも現われます。●延暦5年(786)1月17日、藤原旅子(式家)を夫人とする。1月21日、近江に梵釈寺を建立。1月28日、地震。4月11日、このところずっと諸国からの調・庸やその他の献上品に未納があり、国家の用途に不足をきたし深刻な状況である。これは国司や郡司の怠慢が原因だけども、官吏は物資は横流しするわ、自国の政治についても不正が多いわ、実にひどい状況である。不正を行う者、その反対に公正に職務を全うする者は報告し、それぞれに見合った処罰・評価をするように。まずは行いの是非を判断する基準を作成せよ、と指示する。4月16日、太政官符によって四天王寺へ編入された水田について、播磨から元に戻すよう嘆願がある。5月3日、新しい長岡の都ではまだ移り住んだばかりの人民はいい暮らしをしていないので、地位に応じて物を支給する。5月5日、石川垣守死去。6月1日、国司も郡司も管轄内を統治する職務は同じであるのに、近年では正倉が焼失しても国司は罪に問われず、郡司ばかりが罪を負っている。今後は国司からも財産を没収して焼失分の補填にあてるようにするとの勅を出す。6月29日、藤原諸姉(もろね:桓武夫人・旅子の母)死去。7月15日、本草学にも詳しい羽栗翼を内薬正・兼侍医とする。7月19日、太政官院落成。8月8日、蝦夷征伐に向けて、軍団の整備と武器の点検をさせる。また、諸国の正倉の火災には人為的なものもあり、郡司となる資格のある者が現職をおとしめようと放火したり、あるいは不正を隠すために放火することがある。今後は火災の原因に関わらず火災時点の国司・郡司に損失を補填させるとする勅を出す。9月18日、渤海国の使者65名が乗る船一艘が出羽に漂着。漂着時、蝦夷に襲われ12日が連れていかれたと報告がある。9月21日、畿内と畿外の駅戸の負担が同じでないため畿内の駅子の逃亡を禁止できず、駅子の調を免除するよう摂津職(しき)から奏上がある。10月28日、光仁天皇を大和・田原陵に改葬。12月26日、松尾神社を従五位下から従四位下とする。5月と6月に訃報がありますが、このうち5月の石川垣守は早良親王を淡路へ護送した人。6月の藤原諸姉は式家の良継の娘で、百川に嫁いだ女性。桓武夫人・旅子にとっては母であり、皇后・乙牟漏にとっては姉妹にあたる方です。不吉な兆しは早くもこの年から現われています。さて、ジジイが選ぶこの年のトピックスは、1月の梵釈寺の建立です。梵釈寺の所在地については色々と議論されているものの、3つの尾根に広がる伽藍跡のうち、北2つの尾根が崇福寺、南の尾根が梵釈寺という説が有力なようです。 ウィキペディアには 【延暦5年に桓武天皇が長岡京の無事完成と曽祖父天智天皇の冥福を祈るために創建した とされる。当初は四天王を祀ったことから四天王寺とも称されたが、延暦14年に 梵釈寺と改名されて本格的な寺院建設が始まった。】とあってこれが世間一般の認識と思われますが、寺門の『寺門高僧伝』では 【桓武天皇がまだ山部親王であった頃、百川は親王と相親しく、その践祚を願って 親王等身の五尺の梵天・帝釈の二天像を造立したという。後に念願かなって即位した 桓武天皇は、延暦2年(783)に梵釈寺を建立し、二像を安置したというのである。】 (『施暁と梵釈寺』小林崇仁/蓮華寺佛教研究所紀要第1号より)という興味深い縁起が語られているようです。『寺門高僧伝』の真偽はともかく、まだ小僧だった広野がかつて修行した崇福寺もかなり大きな寺だったと思われるのに、そのすぐ近くに、しかもやっと太政官の建物が長岡に完成するような年に大きな寺を造ったというのは、やはりなにがしかの思い入れがあったものと思われます。延暦7年の史料に「近江に四天王寺を建て、請益を求め加う」とあることから「近江四天王寺」が梵釈寺の別称とされ、難波四天王寺に対して東の王城鎮護的存在という解釈もあるようですが、小林氏はそれよりも「金光明最勝王経」に基づくものだろうとし、【「梵釈寺」とは、『金光明最勝王経』への信仰をもとに、梵釈二天、四天王、さらには諸天善神の加護を期した寺号であったと考えられる】としておられる。いずれにせよ、護国鎮護の寺としてスタートした寺のようではあるらしいんだけど、最澄は梵釈寺には一切経が完備されていたとのちに語り、鑑真や法進ら渡来僧が持ち込んだ経典の写本も所蔵されていたらしい。創建以降も封戸がちょいちょい施入されるなど、朝廷による経済的支援もかなりのものがあったようで、延暦14年頃には伽藍整備や所蔵する経典類なども充実した状態であったものと思われます。奈良時代の仏教界の実像というのは、なんとなくイメージできたと思うと新たな事実を知ってまた混乱したりとなかなか簡単につかめませんが、小林氏の論文からもう少し梵釈寺とその背景について見てみましょう。これまでの勅で、勝手に山林で修行するなとか民間に檀越を求めるなとか各種禁令の類を見てきましたが、これは 【僧尼や仏法の神力を頼みにすればこそ、それが為政者にとって不利に作用することを 恐れたものと思われる。(中略)特に平城旧都や山背国については、官吏を派遣したり、 勘定を実施するなど、より警戒していたことが窺える。さらに山林において、僧尼が 私的な要請を受けて陀羅尼を誦呪し壇法を修すなどは、呪詛・邪法と見なされていた。 梵釈寺造営の詔勅にあるように、仏法を外護して、皇統の繁栄と万民の安寧を願うのは、 まさに天皇なのであって、王臣や寺家が仏法の神力の加護を得て勢力を増すことは、 制限されねばならなかったと考えられる。】ただ、桓武は山林での修行を全面的に禁止した訳じゃない。行いの清らかな者は表彰してよく世間に知らしめるべきだとしている。その一方で民間との個別の関わりを禁止したことによって山林で修行する者は経済的にかなり困窮した立場に追い込まれたらしく、梵釈寺の初代住職ともされる施暁(せぎょう)は延暦11年、山林修行者が籍を置く本寺から物資を分けてもらうことを認めるよう奏上している。 【ここに修行者と為政者の相互依存の関係を垣間見ることができよう。山林修行の道場 としての梵釈寺の造営は、為政者と求道者、両者の意思を反映した、新たな仏教信仰の あり方を象徴する事業であったと言えるのではなかろうか。】長岡や平安京へは南都仏教の移住は認めなかったとされる桓武だけど、こうした事績を見るに、仏教そのものを否定した訳ではないらしい。天平の歴バナでもなにかっちゃ最勝王経や大般若経を読ませていたように、仏法の霊験については桓武も信じていたことがうかがわれる。が、信じているからこそ勝手なことをしてもらっちゃ困るし、僧尼の質も問われてくる。梵釈寺造立の勅で桓武は 【為政者と仏者の立場を明確化(仏法を護持する天皇、仏法を弘教する仏者)した上で、 天皇はあくまで世俗の倫理規範に従いつつも、仏法を外護するという立場を表明して いる。(中略) さらにこの詔勅には、仏法を護持する目的(梵釈寺造営の目的)、それにより望まれて いた果報についても明記されている。(中略)つまり、上は皇祖から下は万霊にいたる 冥福、皇統の永続と万民の豊楽、さらに究極的には一切衆生の解脱と菩提が期されて いたことが確認できる。このように、梵釈寺造営の詔勅は、特に山林浄域における 仏者の修行・修学に対する永世の外護を表明し、その善因の功徳によって、皇統と 万民の現当二世にわたる安楽、ひいては仏果を期待したものであった。】 (ここまですべて前掲論文より)平たく言えば、政教分離を目指したってことなのかな。これを見る限り、この段階では桓武は仏教を保護しながらも、一定の距離を置いてクールに接していることがうかがわれる。ずっとこのままで行かれればよかったんだけどねえ・・・にほんブログ村
2014年10月05日

さて、今度は延暦4年の政界の動きです。中央政界と最澄が同時に動き出す年なもんだから、またもやページがまたがっちゃて申し訳ありまへん。「叡山攻め(43)」の年表と見比べながらお読みください。この年は大事件が勃発しました。それが、9月23日の藤原種継暗殺事件。 式家では百川はすでにこの世の人ではなく、皇后の父・良継も宝亀8年(777)に死んでおり、種継が式家をしょって立つ立場にありました。して、種継は桓武の信任篤く、遷都の際に長岡の地を勧めたのは種継だったとされます。遷都に先立って種継は造長岡宮使にも任命され、ウィキペディアには【事実上の遷都の責任者であった】とある。伊勢の斎王となった娘の朝原内親王の見送りのため、8月終わりに平城京へ出かけた桓武の留守居を務めていた種継だったが、たいまつをともして夜の工事現場の見回りをしていたというから、遷都したとはいえまだ突貫工事が続けられていたらしい。その「夜のおつとめ」の最中、何者かに矢で射られてしまった。即死ではなかったものの、夜が明けて桓武が長岡に戻る頃には種継は死んでいた。捜索はすぐに開始され、あっけなく犯人は捕まって皆罪を認めた。首謀者のうちの1人が大伴継人。ちょっとここで、「叡山攻め(42)」で紹介した最澄の度縁を見てみてください。殺されたのは藤原種継、殺したのは大伴継人・・・どちらも最澄の度縁に署名してる人物です。種継暗殺は最澄が叡山に入ったあとの出来事だから、最澄がこの事件を知ったかはわかりませんが、山籠りしてても完全に外界と遮断されていた訳でもなかったようだし、これだけの事件だから、おそらく人づてに事件のあらましについて聞いたでしょう。自分の度縁に署名した2人の要人が殺人事件の被害者と加害者になったなんて、最澄はどう思っただろう・・・捕まった実行犯と首謀者の主だった者はソッコー殺されてますが、まだここまではいいです。ホントに彼らが罪を認めたのかはわからないけど、「正史」では認めたと書かれているので、とりあえずヨシとします。プランを練ったとされた大伴家持は事件の時点ですでに故人ですが、まだ埋葬される前だったようで、無事に都に埋葬されたのかは不明です。家持の子はこの事件で流罪となっているので、あるいは遺骨も子にともなって流されたかもしれない。問題はその後です。『日本紀略』では皇太子・早良親王も了承済だったとし、早良親王を天皇とする計画だったとあります。『水鏡』には違うことが書かれてます。すなわち、 桓武はあちこち遊び歩いていて早良親王に政治を任せていた。天応2年、 佐伯今毛人(いまえみし)を宰相としたが、還御した桓武に種継が 「佐伯氏が宰相になったことなんて今までありませんよ!!」と訴えたので 今毛人は宰相を解任された。 早良親王はこれに怒り、種継を引き渡すよう桓武に求めたが却下され、さらに 早良親王は政治から遠ざけられるようになった。恨みに思った早良親王は、 種継を狙うチャンスをうかがっていた・・・『水鏡』が書かれたのは鎌倉の初期とかなり後の時代であり、一般的に記事の信憑性については低いとされているものの、他の文献には書かれていないこともあり、興味深い内容ではある、とこれは『国史大系』の解説だったかな。早良親王がこの事件に本当に関与していたのかはわかりません。が、この後の流れから一般的には彼は無実だったろうとされています。前々回の年表の9月28日の記述は『日本紀略』によるもので、それによると9月28日に幽閉されて自ら食を断ったとありますが、『水鏡』では少し違っています。 カクテ其年十月ニ東宮ヲ乙訓寺に押籠奉。供御ヲ止奉リ給ヘリシニ。 十八ヶ日マデ其御命絶ヘ給ザリシニ。淡路国ヘ流シ奉リ給キ。過去のシリーズでの料理関係の記事を覚えている方もおられるかもしれませんが、「供御」(くご)とは皇族など身分の高い人のお食事のこと。ネットで「供御」を検索すると、どれも 【主として天皇・皇后・皇族などの飲食物をいう語。のちには将軍の飲食物に ついてもいう。】 (weblio辞書より)となっていて、「供御」がただの飲食物を指すものだったら「供御ヲ止奉リ」は自分で食を断ったとも思える。が、わたくしは料理関係は大内義興さんセッティングの御成から入っていて、饗応に出された膳の中に「供御」が入っているので(「山口編(13)」)、「貴人へ出すお食事」というイメージが強い。ここでの供御が「貴人へ出すお食事」の意であれば、早良親王は自ら望んでハンストしたのではなく、餓死させられた可能性だってある。原文も「止給ヘリ」じゃなく「止奉リ給ヘリ」だしな・・・飲まず食わずなのに18日まではしぶとく生きていたので、淡路へ流したとも読めるよな。まあ、一般的には無実を訴えてハンストしてそのまま死んでしまった、と解釈されてます。『日本紀略』の記事を採用すれば、流罪で済んだものが想定外のおおごとに発展してしまったとも言えますね。どちらにせよ、遺骸は無情にも淡路へと送られ、そこで埋葬されたようです。この一連の流れをご存じの方も多いでしょうが、実は正史である『続日本紀』にはろくすっぽ書かれてないのをご存じでしたか?前々回の年表はそれまでの記事よりも1色増えてますが、青字が『続日本紀』の記述、赤字はおもに『日本紀略』からの引用です。種継事件のあらましとその後のてんまつがずっぽり抜けてるのがわかるでしょう?かろうじて10月8日に先帝たちに皇太子を廃した報告があるくらいで、なぜそうなったのか『続日本紀』だけ読むと皆目わかりません。いや、元々はちゃんと書かれていたらしいんですよ。 【政治的配慮は、桓武天皇の治世の記述において顕著である。天皇の心痛となった 早良親王廃太子の記事は、事件の発端となった藤原種継暗殺事件とともに、いったん 記載されたものが後に削除された。削除部は平城天皇の代に復活したが、嵯峨天皇に よって再び消されて今に至る。消された部分は『日本紀略』に採録されている。】 (ウィキペディア「続日本紀」の項より)11月の終わりには桓武は自分の子の安殿親王を皇太子に据えている。オヤジに従って弟を皇太子としたものの、親心で自分の子に継がせたくなった、というのが世間の見方です。それから、種継暗殺事件に関わったとされる人々は遷都反対派だったとも言われ、大伴氏の多くと同族である佐伯氏などが処罰され、結果的に反対勢力を効率良く除くことができた。そして処分が一段落した11月10日、桓武は交野(かたの)で重要な儀式を行う。「郊祀」(こうし)と呼ばれるこれは、 【古代中国の王朝で皇帝が天をまつる祭祀をいうが、そのとき昊天(こうてん)上帝 (天帝)にその王朝の初代の行程を配祀するのが慣例であった。ところで桓武が昊天上帝に 配祀したのが、父の光仁天皇であったことは、皇統が天武系から天智系に変わったことを、 中国の王朝交替になぞらえて、意識していたことを示している。(中略) そして桓武は自分が皇位につき正当性の核心を、王朝の始祖、光仁から皇位を譲り受けた ことに求めている。桓武の即位の宣命は(中略)天皇(光仁)が、天智天皇の定めた 法にしたがって皇位を賜り仕え奉れ、と命じたというのが、皇位継承の最大の根拠と されている。】 (『大系日本の歴史3』吉田孝/小学館より)だそうで、つまり 40代天武天皇から48代称徳天皇までの天武系の天皇たちをガン無視して天智⇒光仁⇒桓武の流れを正統としたものなんだと。郊祀については井沢氏の『逆説の日本史』で知っていたのでそれを引用して紹介するつもりではあったけど、実際自分で『続日本紀』を読んでみると「以前から祈ってきたことの礼として」という気になる言葉があった。桓武は何の願かけをしていたのだろう?可能性としてはいくつか浮かぶ。まず、井上内親王・他戸親王・氷上川継などの天武系のライバルを除くことができたこと。薭田親王の死も私はアヤシイと思ってるけどね。天武系を排除し、天武系の都である平城京から長岡京に遷都できたこと。直近では、反対派勢力を一掃し、安殿親王を皇太子にできたこと。早良親王の死は初めから予定されてたのか、あるいはオマケでついてきたものかはわからない。が、仏教界に大きな影響力を持つ早良親王を(生死に関わらず)除くことで、政治への寺院の介入をより抑えることもできる。松本清張は『名札のない荷物』の中で興味深いことを書いている。 【桓武天皇は皇女の伊勢行きを見送るために、わざわざ平城京へ赴いた。 問題はその後である。 遷都後の政務(決済案件)が滞ることも顧みず、一ヵ月間も鷹狩りに興じるなど新都を留守に した。あらゆる困難を排して去ったはずの平城京に留まる理由など見当たらない。 まるで何かを待っているかのような態度である。「何かが起きるはず・・・」、 桓武は何を期待していたのだろうか? 長岡京への遷都提唱者でもあった藤原種継は、平城京勢力からは強く恨まれている。 まさしく攻撃の対象になってもおかしくはない状況にある。桓武が不在中であれば尚更、 そうした危険は増すに違いない。大伴氏や佐伯氏らが早良親王を担いで決行に及び、 種継が殺られるのであれば言うことはない。仮にその逆であるならば、種継を裁判にかけて 有無を言わせず斬刑に処する。 どちらにしても、自分が長岡京に居る限り事は起こらないし、自らのアリバイ作りも 必要だ。】であれば種継はいけにえにされたようなもんだけど、桓武の思惑の他にフジワラムシの利害関係も絡んでいた可能性もある。藤原一族はいつだって一枚岩という訳じゃない。ウィキペディアにはこんな記述もある。 【(朝原)内親王のこの下向は、発遣の儀に桓武天皇が長岡京から平城京へ行幸したり、 大和国国境まで天皇と百官が見送るという異例のものであった。】 (カッコ内は戦国ジジイが追加)父の光仁天皇が生きていた時代から、桓武の動向にはアヤシすぎることが沢山あるんですよ。だから、『続日本紀』から早良親王の記事が削除されたのも、やましいところがあったからだと思わずにはいられないのだ。にほんブログ村
2014年10月02日
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