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パゴダのおじちゃんは大変フレンドリーな方で、大仏を見てた時にも色々話しかけてきた。え~と、最近では受験生もお参りに来るとか言ってたような・・・あれ?でも、何度もお首が「落ちてる」んだから、ホンマかいな。私の記憶違いかな・・・お参りに来た人は、大仏のお顔に触っていくという。私にも「おさわり」を許可してくれたので、ちょっと触ってみた。大仏は、有名どころでは奈良と鎌倉と宇治の平等院・・・関東には、私が知ってるだけでも他に牛久(茨城県)と鎌ヶ谷(千葉県)にもあって、たぶん全国的には案外大仏の数はあるんじゃないかと思う。が、おそらく大仏に、それもお顔に触れる大仏となるとここ上野ぐらいじゃないかと思われる。まあ、ある意味貴重な体験のできる大仏様ではあります。なんで上野のはお顔だけなのか?現地には平成18年3月27日付の読売新聞の記事が置いてあり、これもいちおうおじちゃんに断って写真を撮らせてもらったので、かいつまんで近代の大仏の歴史をご紹介します。時は大正12年(1923)9月1日。正午前に関東大震災は起こった。上野公園に近い谷中に住む宮内さんは、友達の家で震災にあい、どうにか自宅に戻った。家は無事だったが、余震が怖くて外で眠った。そのうち、あちこちで火災が発生。火が迫ってきたため親戚の家に避難した数日後、上野大仏のそばを通ったらお首が転がっていて、空洞になってる内部が見えた。【「子供心に『仏様』を敬う気持ちがあり、触ったり、いたずらしたりはしなかった。 ただ、震災の混乱の中、ずいぶんと長い間、その状態のままで放置されていましたね」】他にも古老の話が載ってるけど、みんな「まさか大仏が」という気持ちだったらしい。【現在も大仏を管理する寛永寺の執事長浦井正明さん(68)によると、関東大震災後、 壊れた大仏は解体したうえで寺で保管し、復元の計画を温めていた。新しい大仏を 建てる計画も浮上、日本画家の吉川霊華に原図を依頼したこともあったという。 先の大戦中は、軍需品製造のため、金属類の供出令が出された。胴体や足は差し出したが、 顔だけは境内のヒノキにくくりつけて残した。「復元するつもりだったから、 『せめて顔だけは』と隠したのでは」と浦井さんは話す。 戦後、復活のチャンスはあった。上野観光連盟が昭和30年代、観光振興にと大仏再建 構想を打ち出した。1967年には、かつて大仏が座っていた場所に仏塔を建てた。 「大仏再建には、当時で○億~10億円ぐらいが必要だった。浄財を募るため、まず 『拠点』を作って募金の受け皿にしようということになった。」当時、同連盟の事務局長 だった石原亮さん(70)は説明する。しかし、連盟はその後、東北・上越新幹線の 上野駅誘致などに忙しくなり、大仏再建はその脇へと追いやられてしまった。 「今時、大金をはたいて大仏を造ることがいいことだろうか、と二の足を踏んだ」と 浦井さんは振り返る。 結局、保管されていた顔(約1.5メートル)だけの姿で、上野の山に再登場したのは 72年のこと。以来、30年余り。大仏の全体像を記憶する人はめっきり減った。】しばらく上野編をお休みしてたので忘れちゃった方も多いかもしれませんが、記事の中でインタビューを受けている寛永寺の浦井執事長は、ここまでの上野編で多く参考にさせていただいている『上野寛永寺 将軍家の葬儀』などを書いた方です。この記事の見出しは、『仏の顔も 4度の受難』。うまいこと考えるよな~。こういう訳で、江戸期に3回、関東大震災でまたお首が落ち、果ては頭部(つーか、顔)以外は兵器に様変わりしてしまったんだそうな。ちょっと暗いですが、記事には健在だった頃の大仏様の写真が載ってます↓。 両大師あたりで買った『東叡山 寛永寺』という小冊子には、もっと綺麗な写真が載っている。が、大仏様の手のあたりにちっこい人間らしきものが見える・・・これ、心霊写真じゃないよなと眉をしかめましたが、読売新聞の記事によると、小泉八雲も大仏の前で写真を撮っているらしいので、あるいはその写真なのかもしれない。関東大震災で崩れるまで、上野大仏も人気の観光スポットだったらしい。驚いたことに、胴体には千社札なんかが貼られていたそうな。「大仏が座っていた場所に仏塔を建てた」ってことは、つまりパゴダの位置におわしたってことか。記事の最後は、ここへお参りに来る受験生の話で締めくくられている。なんでも、「胴体がないんだから、もう(首が)落ちることはない」という理屈なんだそうな。アハハハ・・・まあ、ものは言いようってゆーか、何事も信心ですな。雑談「リベンジ報告」で第二編の当日におみやげの数々を披露してますが、珍しい丸い絵馬と大仏飴はここで買ったものです。飴の方は正直、ビミョ~な味だったんだけど、「カリー探偵団2」その他に登場している同僚のチャチャさんにも1コ上げたら、社交辞令なのか彼女はおいしいと言っていたので、人それぞれなようです(笑)。さて、第二編ではこの後他へ移動しますが、第三編でこの付近の取りこぼしを拾いに来たので、ついでにそちらを紹介します。大仏様のおわす小山は大仏山ともいうそうで、大仏山南側にはこんなのがひっそり建っていた↓。 宝塔だな。しかし、何の解説もないし銘らしきものも確認できなかったのでこれがどういうものなのかはわからない。ただ、笠の上に乗っかってる相輪は明らかに欠損しているので、元からこの位置にあったかはわからないけど、おそらく上野戦争以前からあったものだろう。つまりは、上野のお山全域が寛永寺だった頃からのものと思われる。宝塔の近くの掲示板にはこんなポスターがあった↓。 慈覚大師・・・円仁(えんにん)か。御遠忌イベントは平成24年4月1日から平成27年3月31日まで続けられるらしい。円仁さんについては、別のところで簡単に書く予定ですのでここでは話を先に進めますが、ウィキペディアによる円仁さんの生没年は延暦13年(794)~貞観6年1月14日(864年2月24日)。あれ?命日とも関わりがなさそうなお日取りだな・・・円仁さんはあちこちに足跡を残した方なので、天台寺院、とくにゆかりの寺では来年まで様々な遠忌イベントが企画されるんだろう。前回、パゴダのちょうちんの脇から時の鐘が見えてましたが、大仏山のすぐ南にありました↓(場所はこのへん) 鐘楼の下にあった石組み↓。 石自体は割に古そうだけど、雑だし積み直されてるのかな。上には瓦が数枚載っている。あるいは旧寛永寺の遺物かもな。 【時の鐘 花の雲 鐘は上野か 浅草か 芭蕉が詠んだ句はここの鐘のことである。 時の鐘は、はじめ江戸城内で撞かれていたが、寛永3年(1626)になって、 日本橋石町3丁目に移され、江戸市民に時を告げるようになったという。元禄以降、 江戸の町の拡大に伴い、上野山内・浅草寺のほか、本所横川・芝切通し・市谷八幡・ 目白不動・目黒円通寺・四谷天竜寺などにも置かれた。 初代の鐘は、寛文6年(1666)の鋳造。銘に「願主 柏木好古」とあったという。 その後、天明7年(1787)に、谷中感応寺(現、天王寺)で鋳直されたものが、 現存の鐘である。正面に「東叡山大銅鐘」、反対側には、「天明七丁未歳八月」、 下に「如来常住、無有変易、一切衆生、悉有仏性」と刻まれている。 現在も鐘を守る人によって、朝夕6時と正午の3回、昔ながらの音色を響かせている。 なお、平成8年6月、環境庁の、残したい「日本の音風景100選」に選ばれた。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)時の鐘自体については、小伝馬町にある石町の時の鐘の解説の方が少し詳しい。しかし、不思議なことに石町の時の鐘は「日本の音風景100選」に入ってないらしい。石町の方のが、歴史もあるし鋳直された時期も宝永8年(1711)と上野より古いのに・・・なんでじゃろ?やっぱ、外枠の外観が悪いのか、はたまた金や運動の成果か・・・イヤなことを言うと思うでしょうが、たとえば世間では相変わらず百名城が人気ですが、あれだってね、純粋な視点での選定じゃなく、所在地のバランスとかあってあーゆー選定になってるんだからね。だから、都内でいくつも鐘を選定する訳にもいかなかったのかもしれないなって思ったんだよね。鐘を間近で観たいと思ったものの、ここからでは入れなさそう。精養軒の方に入口があるのかな。てことで、とりあえず真下から。 ここも現在の寛永寺の所属のようです。『東叡山 寛永寺』には、この鐘は除夜の鐘も撞くとある。あれ?根本中堂にある家綱の鐘も除夜の鐘やるんじゃ・・・と思って寛永寺のホームページを見たら、やはり根本中堂でもやるらしい。ただ、どちらも事前の申し込みが必要とある。・・・何のための申し込み?鐘が撞けるのかな?園城寺のように有料かな?(笑)まあ、どちらもそんなに広くはないから、入場制限的な意味合いもあるのかもしれない。でも、鐘なんて響きわたるものだから、上野東照宮あたりにいれば家綱の鐘と時の鐘とダブルで除夜の鐘が楽しめるかもしれないってことだな。にほんブログ村
2014年05月31日

お久しぶりです、上野編で~すやれやれ、両国編にまるまる1ヶ月かかっちゃったな・・・でも思いがけず大内氏のことも書けたし、ま~いっか~。実は最近、「はじめてのけいけん」をしたので、記憶の新しいうちにそれをちょっと書こうかとも思ったのですが、いいかげん上野編を上げないとマズイ・・・いや、上野編がどーのというより、その次のシリーズを早いとこ始めないとヤバいと危機感を抱き始めたので、まずは上野編を終わらせちゃいます。ま、主要な歴バナはもう書き終えてるので、ぱっぱか進められるだろう(←予定)。前回の上野編の最後は、上野東照宮を出てすぐのところにある佐久間勝之のお化け灯篭で終わったんだな。(おさらいしたい方はこちら)そのすぐ南には、こんもりした小山がある。これを裏手から登ってみると、小さな空き地のようになっていて、誰もいなかったのでちょっと腰かけて手持ちの菓子パンを食べながら休憩。は~、お腹すいたな~。この場所からは、次のお目当ての裏っかわが見える↓。 まったりしてたところへ1人の兄ちゃんが来てなぜか私のすぐそばに座ったので、軽食も早々にして表側へ回った。 この場所ももちろん、かつての寛永寺の境内域ですが、この施設は現在でも寛永寺の所属であり、ゆえに寛永寺のちょうちんが掛かっている。ちょうちんの側面には 「パゴダ薬師堂」と書かれている。木の隙間から見えてるのが、時の鐘だな。時の鐘は、「新春はケージョーから(3)」の解説文にも少し説明がありましたね。まずは入口の看板から。 【大佛パゴダ 御本尊 薬師瑠璃光如来 御脇侍 日光月光二菩薩 (旧上野東照宮薬師堂ご本尊) 沿革 寛永8年(1631)堀丹後守直寄公が釈迦如来尊像を当山に建立せられ、 1660年頃青銅の大仏に改鋳された。大正12年、大震災で破損のため 撤去する。 パゴダ建立 発願者 上野観光連盟 寄進者 大成建設株式会社 昭和42年7月吉日竣工 東叡山寛永寺】 上野東照宮にあった薬師堂(本地堂)については、上のひとつめのリンク先の「上野第二編(77)」でも少し触れてますが、『寛永寺』によると寛永16年(1639)小浜城主・酒井忠勝の寄進で康猶(こうゆう)作の薬師三尊像が安置されていたとある。康猶は江戸時代の東寺の大仏師で、寛永寺本地堂のほか、上野東照宮の神将像、それから日光東照宮の釈迦・大日・多宝如来像も造った人だそうな。本地堂は寛永年間と正保年間に火災にあったらしい。ああ、寛永年間の火事って「上野第二編(7)」でちょろっと書いた寛永16年(1639)の東照社付近の火事のことかもな・・・正保の火災の後、本地堂は再建されて明治維新まであった。それが、明治の神仏分離令によって上野東照宮が神社となったため、本地堂は取り壊され、ご本尊様はパゴダへ引っ越してきた。で、『寛永寺』には【用材は寛永寺本堂再建の用材の一部となった】とある。あれ、こんな話どっかで聞いたような・・・そもそも、「寛永寺本堂」ってどれのことだ?やっぱ、根本中堂のことかな・・・そこまで考えて、正月の根本中堂特別公開のことを思い出した。根本中堂内部の解説には 【現在の根本中堂は、明治12年(1879)に川越喜多院の本地堂を移築し、 上野山内の寛永寺本地堂の焼け残った材をあわせて再建され、今に至ります。】とあったんだよね。「新春はケージョーから(10)」を書いた時は、綱吉が現在の噴水広場の場所に建てた根本中堂の用材のことだと勘違いしてたみたいだけど、ちゃんと「寛永寺本地堂」って書いてあるじゃんね~。てことで、現在の根本中堂の一部になったのは上野東照宮にあった本地堂の木材が正しいようですのでお詫びして訂正いたします。やだわ、わたくしったら・・・門を入って正面にあるのがこちらのパゴダ薬師堂↓。 中におわす薬師様はのぞけるようになってます。が、撮影禁止のため写真はありません。ここにはこんな解説も付いてます。 【当病平癒(心と身の病を癒す) 祈願成就のお参り 薬師如来は大医王仏とも称され、人々の病苦を救う仏様です。 先、薬師如来絵馬を受付にて授かり、願意と名前を記入します。絵馬を合掌に はさみ、正面で一礼して時計回りに薬師如来のご真言「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」を唱えながらパゴダの周りを歩きます。正面に戻ってきたら 再度一礼して絵馬掛けにかけて祈願完了です。 ※一周する間に7回ご真言を唱えてください。 西国49薬師霊場の49番目結願札所は、此処東叡山(東の比叡山)寛永寺と同じ 天台宗総本山比叡山延暦寺です。】パゴダを見ていたら、作務衣を来たおじちゃんが話しかけてきた。お坊さんなのかわからないけど、どうやらこの日のここの管理人さんらしい。で、回りかたも教えてくれたので、あとで回ったものの、外観の方ばっかり見てたので、いつの間にか真言を唱えることを忘れてましたまあ、どのみち絵馬も買ってなかったし、この時は特別なお願いごともなかったしな。 んで、パゴダのはす向かいにあるのがこちら↓。 これが「上野大仏」です。そう、上野にも大仏様がおわしたんですよ~。これだけ見ると冗談みたいな光景ですが、入口の簡単な解説にあったように、歴史のあるものです。「上野第二編(65)」で寛永寺ができる以前の上野山内の推定配置図を載せてますが、この辺から不忍池にかけてが堀家関係のものが多いので、山内の南の部分が堀家の敷地だったと思われます。堀直寄が寛永8年(1631)に寄進した最初の大仏は、塑像(心木に粘土をくっつけたもの)で表面を漆喰で固め、高さは丈六だったそうな。物知らずなわたくしは、最初「丈六」を「6丈」かと思って計算してみたところ、1丈=約3.03mに6をかけて約18mというすごい数字が出た。ええ、ちょっと待ってよ!18mって何階建ての建物の高さじゃないの?いくらなんでも、まさかデショ・・・と思って、「丈六」で検索してみたところ、デジタル大辞泉には 【《釈迦の身長が1丈6尺(約4.85メートル)あったというところから》 1丈6尺。また、その高さの仏像。座像の場合は半分の8尺に作るが、 それも丈六といい、また、丈六より大きいものを大仏という。】とあった。なるほどね、つまり正確な高さは今となってはわからないってことか。それにしても、485センチの人間なんてどっから出てきた話なんだで、その丈六の大仏は正保4年(1647)の地震で崩れてしまったんだそうな。どうも、お首が落ちたらしいんだけど。17世紀の間は関東でマグニチュード6以上の地震が10~15年おきくらいに頻発していたので、大仏様もくたびれちゃったのかもしれない。正保4年の地震は5月13日。『江戸東京年表』によると、大名屋敷で被害が出て人馬が多数死んだとある。この年9月には【皇弟守澄法親王が輪王寺門跡となる】と『江戸東京年表』にあるんだけど、「上野第二編(19)」で自分のまとめた年表を見返してみると、宮が輪王寺門跡となるのは明暦元年のことだから、ちょっと違うな・・・たぶん、9月に下向してきたんだろう。にしても、大仏が崩れるほどの地震から間もない時期に、守澄法親王が江戸入りしたのか・・・明暦に入って輪王寺門跡となり、三山管領の宮となった直後に明暦の大火が起こってるので、宮も結構苦労したんだな。まあ、幸いと言っちゃなんだけど、明暦の大火では寛永寺は風上だったので大きな被害は受けてないと思う。(「本所Wデビュー(19)」参照)宮のパパ・後水尾院は突然の譲位の後は松姫(徳川和子)以外の女性にボロボロ子を産ませている。(譲位頃については「上野第二編(62)」参照)明暦に入ると子作りも一段落した頃だけど、後水尾天皇と幕府のいざこざは与右衛門の歴バナで書いた通りなので、頻発する地震や空前の大火の報を受けとって、宮を江戸へやったことを後悔していたかもしれないな・・・話を大仏に戻します。明暦年間、木食上人によって高さ2尺2丈(約7m)の青銅製大仏に生まれ変わった。元禄に入ると、輪王寺宮・公弁法親王によって大仏殿が建てられたというから、しばらくの間は露座だったのかもしれない。しかし、天保12年(1841)、宮の建てた大仏殿から出火、またもや大仏の首が落ちる。この時は越後椎谷藩主・堀直央によって修復され、幕府が大仏殿も再建した。が、安政2年(1855)の安政の大地震によって3度めのお首落ちこの時も堀家によって修復がなされたようで、大仏建立以後の長きにわたって堀家が関わっていたことがわかる。にほんブログ村
2014年05月30日

さて、享保18年の水神祭では、鍵屋さんは弥兵衛から数えて6代目。弥兵衛が江戸に店を構えたのは万治2年(1659)のことで、同じ年には江戸城本丸へ花火を納めるまでになったそうな。初代弥兵衛のあと、鍵屋では代々弥兵衛の名を受け継ぎ、両国川開きの花火を担当した。前回の引用にあるように、文化7年(1810)には玉屋がのれん分けをする。玉屋になったのは、番頭で腕の良かった清七(新八とも)。鍵屋では鍵屋稲荷を祀っており、そのお狐様の一方は鍵を、また片割れは玉を持っていたそうで、清七ののれん分けの際、この玉をもらったので「玉屋」を名乗ったという。清七あらため、玉屋市郎兵衛の腕はかなりのものだったらしい。玉屋ができると、両国の花火は両国橋の上流を玉屋が、下流を鍵屋が受け持ち、花火の競演で出来のいい方を「かぎや~」「たまや~」と呼んで評価し、これが花火の掛け声の由来だとされる。ただ、実のところ、当時の浮世絵で花火が描かれる場合は玉屋ばっかりだったようで、本家本元の鍵屋をしのぐほどの玉屋の人気の高さがうかがわれる。ところが、玉屋は天保14年(1843)4月17日に失火で全焼、付近の町並も類焼してしまう。罪科は時代によって違いがあると思うけど、江戸中期以降は公事方御定書に基づいて刑が決められたようで、火事の中でも放火と失火では当然罪の重さは違い、失火の中でも平日の失火と将軍の外出日では刑罰に違いがあった。平日の失火なら当人の「押込」だけで済むものが、将軍のお出かけデーに当たってしまうと、家主・地主や五人組までも連座となる。玉屋の火事は運悪く将軍の日光参詣の前日だったため、江戸払いという重い処分を受けた。これにより、玉屋は断絶。結局、鍵屋と玉屋の競演はわずか32年に限られたものとなったが、玉屋の花火が両国に上がらなくなっても、「たまや~」の歓声は残った。絶大な人気を博した玉屋は、ほとんど伝説のようになっていたのかもしれない。両国の川開き花火は明治維新や戦争などで中断されながらも、昭和36年まで続いた。昭和53年、復活。「隅田川花火大会」と名を変えたこれが、現在まで続く人気の花火大会。去年は開始直後の大雨で異例の中断となっちゃって残念だったね。テラスには、こんなものもあった↓。 下の3つのラインは実際の大川の水位のようだけど、一番上のは昭和34年の伊勢湾台風級が来た場合の想定値らしい。現在の堤防はこれより高い位置にあるので、大丈夫だよと言いたいのかもしれないけど、ホントに大丈夫なのかな。先の震災では、津波が川を遡上してったからね。この辺も心配だけど、羽田へ行くモノレールから見る京浜運河沿いは絶対ヤバいと思う。いわゆるウォーターフロントとしてオシャレになった無防備な低地を早くなんとかした方がいいといつも思いながら、羽田空港へ向かってます。だから~、東京オリンピックよりやることが山ほどあるだろって・・・(←しつこい)総武線の鉄橋が近くなってきた手前でテラスを出る階段が現れたので上がろうと思った頃、川辺の柵にこんなのがあるのに気がついた↓。 おお、相撲の「手」じゃ~ん!!もしかしてここ、48手全部あるのかな・・・もっと早く気付けばよかった。 しかし、引き返して48手すべてゲットするほどの時間も体力も気力もない・・・で、隅田川テラスは今回はこれにて終了。ここまで歩いてきた堤防の向こう側には、かつて伊勢津藩藤堂家の蔵屋敷がありました。はい、与右衛門(高虎)の藤堂家ですよ。両国駅に向かう前に、もうひとつだけ見ていこうかな。当初の予定では、駅より少し北側まで歩いていくつもりだったんだけど、また来ればいいや大体のあたりを付けて小道を川辺まで進んでみたけど、たぶんあるであろう高札はそこにはなかった。おかしいな、何かあるハズなんだけど・・・と思ったら、駅前の通りにあった↓。 【百本杭跡 百本杭とは、総武線鉄橋あたりの隅田川の湾曲した東側の部分に打たれていた 護岸のための杭で、ここからほど近い川中にありました。川の流れを和らげて、 土手を保護する役目を負っていました。その辺りは、明治中頃までは鯉の釣り場 として有名で、釣り好き幸田露伴もよく出かけたといわれています。 その風景も見事だったため、広重の「東都名所」にも描かれていますし、最後の 浮世絵師といわれる小林清親が「千ぼんぐい両国橋」や「東京両国百本杭暁之図」 として、浮世絵に描いています。また、歌舞伎の「色街模様薊色縫」の「稲瀬川 百本杭の場」で、かなわぬ恋をした二人が身を投げて心中する場所とされています。】高札に載ってる清親の「千ぼんぐい両国橋」がこちら↓。 カメラを右に振ると、そこはもう両国駅前↓。 かつてはこの辺りに津軽藩の下屋敷があった。青いバスの向こうに国技館の屋根が見えてるけど、そこまで行くと御竹蔵の敷地。清親の絵の左側にぽっこり突き出た場所があるけど、藤堂家蔵屋敷のあった辺りは、当時こんな風に突き出ていたので、ちょうど川の湾曲部でもあるし、そりゃ~護岸のための杭は必要だろうと思う。そういう不自然な地形なので、昔は「どざえもん」が引っかかったという。関係ないけど、「どざえもん」の名はその膨れ上がった姿が享保頃の相撲取り、成瀬川土佐衛門に似ていたことから付いたんだそうな。今は多少埋め立てられたらしく、百本杭を必要とした場所はなだらかな地形に変わっている。行きは大江戸線で来たけど、帰りはJRで。両国駅には相撲の町らしくこんなのがあった↓。 サイズがちっこいので、わんぱく相撲になっちゃってるけどね(笑)。改札付近には、明暦の大火から現代に至るまでの両国と両国橋の歴史を記した解説版があった。かなり長い文章だし、大まかなところは本シリーズで書いてきたので解説文は割愛します。ただ、こんな絵がありました↓。 江戸期の川開きの光景と思われます。すごい舟の数・・・真ん中にあるのはもちろん両国橋ですが、都内の通勤ラッシュもまっつぁおのぎゅうぎゅう詰め。こんな重量、木橋じゃ耐えられんだろう。実際、川開きの日の両国橋はギャラリーの重みできしんだって言うし。川開きに関連する一部分だけ、駅の解説版から紹介します。 【江戸の夏の楽しみといえば、夕涼みがあげられますが、特に大川(隅田川)での 納涼は代表的なものでした。5月28日の川開きから8月28日の川仕舞まで、 見世物や水茶屋は夜間営業を行い、花火も毎晩のように打ち上げられたといいます。 川面に大型の屋形船や屋根船など数百艘を浮かべ、三味線の音に耳を傾け、 船上での料理に舌つづみを打ちながら花火を眺めました。】現代の隅田川花火大会で打ち上げられる花火は合計で2万発以上。1晩で上がる花火の数は、往時と現代とでは比べ物にならないと思うけど、3か月もの間、連日のように花火が上がる大川の賑わいは相当なものだったろう。火事が多かった江戸では、火の取り締まりも結構厳しく、寛文元年(1661)には夜7時ころ以降は市中の茶店・煮売りの営業は禁止され、夜中に火を使って煮物を売ることも禁じられた。まあ、夏の夜の両国では火を使った料理は出なかったかもしれないけど、全く使わないってのもちと無理があるし、おそらく江戸っ子の楽しみである川開きの期間中の両国は特別扱いだったんじゃないかと思う。解説版の先には、こんな絵が↓。 おお、白鵬だ。カッコいいなそのお隣はなぜか・・・ なにゆえ、ムサシ?この奥では、こんなのやってた↓。 「両国歴史展」なら頑張って観たけど、「両国駅歴史展」じゃな・・・ワシャ、鉄子じゃないし。以上で今回のお出かけは終了。歩きやすかったし、史跡の案内板なども充実しててセンスがいいと感じたので、かなり楽しめて満足しました。江戸に目覚めたのは寛永寺に行ってからだけど、一口に江戸時代っていっても長いし、両国へ来るまでは江戸でも武家を対象に史跡めぐりなどをしようと思ってた。が、本シリーズを書く中でいろいろ読んでみると、やっぱり下町は町人の活気がある。それに、土地勘があるせいか、西国の勉強をするよりも江戸はすんなり頭に入ってくるので、もっと江戸が好きになりました。「戦国ジジイ」の称号を(称号か?)返上する気はありませんが、今のわたくしの体組成割合は戦国45%、江戸30%、仏教15%、建築10%といったところでしょうか。今後どう変わるか見ものですねにほんブログ村
2014年05月29日

さて、見世物見物で浮かれた人が渡ったり、大切な橋を何とかして守ろうと頑張る人がいたり、避難路であるはずの橋が焼け落ちてここで死んだ人がいたりと様々な人の思いが行き交った両国橋をくぐり、ここから隅田川テラスを北へ向けてしばしの散策です。電車の中から見下ろしはするけど、間近で大川を見るのは初めて。水はたぷたぷだし、この時は結構波もあった。 潮位表を見ると、この日は昼すぎが干潮で写真を撮った時間は潮位が上がり始めていた頃。だいたい50センチぐらいあったのかな。にしても、よくこれで水上バスとか通れるよな~。隅田川テラスは綺麗に歩道が整備されており、壁には色々な絵などが掛かっている。前々回の両国橋の絵や、回向院の勧進相撲の絵などはすべてここにあったものです。隅田川テラスがどこまで続いてるのか知らないし、こういう展示物は両国付近に限定されるのかもしれないけど、展示物と大川端の風景を楽しみながらのんびり歩くだけでも、興味のある人にはかなり楽しめる散策路じゃないかと思います。いい仕事してます、墨田区でわたくしはといえば、楽しみながらも予定より時間をオーバーしてたのですべての展示物をゆっくり見た訳じゃありませんが、撮ったうちの展示物の写真の残りを紹介します。っつっても、絵はあと2枚なんだけど。 (歌川国盛「江戸一目図」)富士山の手前に山のような森のようなものが描かれてますが、これが江戸城。右から2つめの橋が両国橋で、新大橋、永代橋と続いて東京湾に至る。画面の右にあるのが不忍池で、この画面の切れた右端に寛永寺があります。もう1枚がこちら↓。 (2代歌川広重「東都両国橋渡初寿之図」)タイトルからして、どうやら橋の渡り初めのイベントらしいな。イベントの主役らしき人達を見ると、こんな顔ぶれになっている↓。 ほお、先頭から順に、ジジババ、中年、若いのってなってるようだな。こーゆーのは昔特有のイベントかと思ったら、現代でもこうやって3世代にわたる渡り初めの慣習があるんだってね。ただ、歴史の中では3世代が主役の他にも、ご長寿の人を渡らせたり、時の権力者が渡り初めの主役になる場合もあったらしい。橋の開通イベントでこうした式典が行われる由来については、正確なところはわかってないんだそうな。両国橋の下をくぐりぬけると、こういう風景になる↓。 いやもう、位置関係を把握してないところが都内はホントに多くて、柳橋ってあんなところにあったのか~と今回初めて知りました柳橋といえば、高級料亭や芸者で有名なところですが、戦国ジジイの萌えポイントはもちろんそこじゃなくて、柳橋が架かっている川。あれが神田川です。・・・誰ですか、貴方はも~お、忘れたかしら~赤い、てぬぐいマフラーにして~て歌ってるのは(笑)。じゃなくて、あれがぐるりとカタツムリのように渦を巻いて江戸城の外堀をなしておるのです。明暦の大火では、写真に映ってるあたりもものすごい光景が広がっていたものと思われます。ここで、最近恒例になってきた短い動画をまた撮ってきたので、よければ雰囲気だけでも味わってみてください。両国橋からスタートして、すぐ柳橋、その右が蔵前。蔵前も歴史のある地名で、かつてその場所に幕府の御米蔵があったことに由来します。フルスクリーンにしてご覧いただくと、蔵前の先にかかる橋をちょうど総武線の電車が走っていくのが見えますが、橋の右のすぐ先が両国駅。今回はあそこまで隅田川テラスを歩きます。テラスには水辺らしく小鳥ちゃんも・・・えっと、これってセキレイだよな? てろてろ歩いていたら、ちょうど水上バスも通りかかった↓。 そういえば、昔一度だけデートであれに乗ったなあ。どこから乗ったんだっけ?両国にも発着場があるみたいだけど、確実に両国じゃないな。浅草あたりかな。そんで、浜離宮で降りたんだ。今はお台場の方まで行かれるみたいだけどね。テラスから水上バスを見ながら、船内から陽気に手を振る人がいたら振り返してあげようかと思ったのに、あいにくこの時は陽気な乗客はいないようだった(笑)。ハアアア~~花はうーえーのーよ、チョイト柳はぎーんーざ~(ヨイヨイ!)月はすーみーだああのおお、月は隅田の屋形船~あ、ヨイショ・・・つい「東京音頭」なんか出てきますが、大川には現在も屋形船が浮かびます。屋形船も昔、職場の飲み会で一度だけ乗ったことがあるけど、ま~2時間だかの制限時間の中で天ぷらだの唐揚げだの出てきて、食べて飲むのに一生懸命で周りの風景なんか見ちゃいませんでしたよ江戸期にも大川には屋形船が浮かんでました。裕福なお大名や豪商が仕立てた自前の舟での舟遊びはかなり豪勢なものだったらしい。「すみだあれこれ」様のサイトによると、暑い夏の大名たちの贅沢は大川にとどめをさすと言われたそうなので、どんだけ・・・承応3年(1654)には大川に屋形船を浮かべての舟遊びが流行する。明暦の大火(1657)の後しばらくはさすがにそれも沈静化したものの、世間が落ち着いてくるとまた流行り始め、大して金を持ってない庶民も舟遊びに大金を使うようになったので、天和2年(1682)に町方に対し、長さ4間3尺以内、屋根の高さが5尺以上の屋形船のレンタルが禁止される。その2年後には、町民が屋形船を新造する場合は町年寄に届け出て監修を受けるようにとのお触れが出される。それでも舟遊びがよほど楽しかったのか、町方の屋形船ブームは続いたらしく、宝永3年(1706)には市中の屋形船は100艘に制限されてしまう。さらには正徳3年(1713)、二挺立て、三挺立ての舟は奢侈につながるとしてすべて破却が命じられ、一挺立てのレジャー用の舟は100艘に制限される。『江戸東京年表』には各種お触れが色々書かれてるけど、禁令の裏を返せば当時の状況が見えてくるので、見てると面白いッス。さて、川遊びの話になったので、ここで両国名物の話をば。現代では隅田川の花火大会が大人気ですが、江戸期にもその前身となるイベントがありました。それが両国川開きの花火。 【室町時代末には、簡単な花火の技術は知られていたと思われるが、鑑賞用の 大花火が普及したのは、江戸時代に入ってから。江戸の花火師の祖は、 1659年に大和国から出てきた弥兵衛とされ、鍵屋の初代となったといい、 1810年、鍵屋から玉屋が分派した。】 (『江戸東京年表』より)弥兵衛さんが江戸に来た後の延宝元年(1673)には、花火の打ち上げやからくり態勢と呼ばれる仕掛け花火は大川筋海の手以外でやっちゃダメ!って禁令が出ているので、すでにその頃から打ち上げ花火が広まっていたことがわかる。市中での花火なんか禁令が出されるのは当然じゃの。大川では、屋形船の間を花火やさんの舟が漕いで回り、オーダーをもらって花火を上げていたんだそうな。おそらく、大して離れてない場所で打ち上げたんでしょうから、いくら当初は小さな花火だったとしても危ないって・・・そうして、花火が大川に集められるようになったが、一大イベントが発生したのが享保18年(1733)。前回、享保の飢饉のことを少し書いてますが、この頃、不作による飢饉のほか、疫病(コレラ)の流行で多くの死者が出た。「すみだあれこれ」様のサイトによると、5月28日に慰霊と疫病退散を兼ねた水神祭が行われ、両国橋付近の料理屋が幕府の許可をもらった上で川施餓鬼を行い、花火を打ち上げた。以後は川開きの初日に花火を上げるのが恒例になったという。『江戸東京年表』の享保18年のページを見ると、1月25日、幕府は飢饉救済を目的とする堀さらい事業を諸大名に命じ、人夫を雇用させた。12月、全国的な疫病の流行を慮って薬の服用法の出版を町奉行に命じる。という現実的対策のほか、4月16日、西国でイナゴによる不作となったため、「虫除呪法」の出版が許可される。7月上旬に疫病が流行したため、施薬が行われる一方、鉦や太鼓を鳴らしてワラで作った疫神を海に流す風神送りが流行。が、7月20日には幕府がこれを禁止する。という、天平エピデミックからあまり変わってない状況を連想させるような記述もある。にほんブログ村
2014年05月28日

前回の続き。寛文8年(1668)2月6日江戸下谷辺りより失火。下命を受けた松浦鎮信は自ら小船に乗り、手勢を率いて両国橋を火災から防ぐ。寛文元年(1671)11月、大川が出水した場合の橋を守る対策についてお触れが出される。すなわち、 ・両国橋に流れ寄る船は壊してでも橋脚を守ること ・上流にある船は流れないよう、常に係留しておくこと ・流れ着いた船は橋脚を守る役夫のものとなること ・水路の妨げとなる河岸に建てられている家は取り壊すこと近年はゲリラ豪雨による水害が多いけど、TVを見てると流木による破壊力ってすごいものがあるもんね。震災の時の津波もそうだったけど。江戸期はずいぶん河川の付け替えがあったようだけど、前々回の解説文によると当時の大川は今よりも水量が多かったらしいし、大川の下流では流れも早かったらしく、ひとたび台風や豪雨が起こると下流は水浸しになったという。水だけならまだしも、船までどんどこ流れてきたら木造の橋なんかひとたまりもない。巨額の投資をして作った橋を守るために、「船が流れてきたらもらっちゃうからね~」ってのもなかなか厳しいと思うけど、まあしょうがないよな。延宝5年(1677)2月には、官費で架設した橋を、町方で怠りなく掃除するよう命令が出される。延宝8年(1680)8月6日、本所・深川・浜町・霊岸島・八丁堀・芝・木挽町・築地・鉄砲州などの下流域で津波により700余名の溺死者が出る。地震かと思ったら、延宝5年には大きな地震はあったようだけど、延宝8年のは台風による高潮らしい。この時は江戸城門の瓦や壁が落ち、倒壊した建物は3420戸あまり。しかし、両国橋は高潮にも耐えたらしい。天和元年(1681)には何らかの理由で橋の架け替えの話があったらしく、11月12日、「出火の際は長持や車長持で仮橋を渡るんじゃねえ!」って通達が出されているので、すでに工事は始まっていたものと思われる。もしかして、前年の高潮でダメージを受けたのかもしれない。しかし、いつの時代も公共工事には汚職がつきもの。架け替えの助役・上野沼田藩真田信利が材木代金を横領。また品行不正のとがで除封の上、山形に配流される・・・とこれは『江戸東京年表』の記述だけど、真田で「信」なら信之兄ちゃんの系統か?と思って調べたら、やっぱり信之の孫で、父は信之の庶長子らしい。お?兄ちゃんは側室を持っておったのか・・・真田信之は、真田信繁(幸村)のお兄ちゃんです。再来年の大河の主役は信繁らしいですが、もういいかげん「幸村」の名称を使うのはやめて頂きたいものです。じゃなくて、信之の正室は御存知の通り本多忠勝の娘・小松殿。が、いとこを側室としていたらしく、そこから生まれたのが信利の父。信利が生まれた当時、沼田藩は松代藩の分領であり、信利が成長すると本家の家督相続に名乗りを上げるなど、ちょっと藩内でゴタゴタがあった。結局、信利は本家を相続することはできなかったけど、沼田藩はこの時に松代藩から独立した。家督に大きな影響を与えたのは、まだこの時生きてた信之兄ちゃんだけど信利としては本家へのライバル意識からか、自領の城や江戸藩邸を本家に負けないような立派なものにするなどの無理をしたので、領主としてのウケはあまり良くなかったらしい。で、問題の汚職についてウィキペディアでは 【延宝8(1680)、信利は両国橋改修の用材の調達を、材木商大和屋から 請負った。しかし、折からの台風により利根川、片品川が氾濫して用材は流出し、 翌天和元年(1681)10月の納入期日に間に合わなかった。さらに同年、 長年の領民の怒りが杉木茂左衛門の直訴という形で噴出した。11月、沼田藩は 幕府から治世不良、納期遅滞の責めを問われ、改易された。】としている。なんか、こっちの話の方が信憑性がある気がするな。領主としてはいい器じゃなかったかもしれないけど、めぐり合わせが悪かったとゆーか、ちょっとお気の毒な方ではある。元禄9年(1696)頃にも架替えがあったらしい。 元禄10年には両国広小路に髪結い、水茶屋などの商人が置かれる。元禄16年(1703)11月29日、小石川の水戸徳川家藩邸より出火。火元から「水戸様火事」と呼ばれるこの火災では、両国橋を渡って本所まで火が入り、深川あたりまで延焼。両国橋は避難の際に焼け落ちて5~600人が死亡したともいう。宝永元年(1704)7月5日、大雨により利根川が決壊。本所深川周辺が浸水、永代橋や両国橋の損壊で多数の死者が出る。この辺は御難続きだの・・・享保4年(1719)4月3日、本所奉行が廃止される。本所上水は勘定奉行の所管となり、4月4日には両国橋と新大橋が町奉行の所管となる。享保11年(1726)には下流の永代橋が維持管理の資金獲得のため、1人2文ずつ10年の期限つきで渡銭を徴収することが認められる。ただし、武士・医師・僧・神主は除外されたそうな。永代橋付近は私のなじみのエリアで、そのうち史跡めぐりにも行くと思うので詳しいことは別に譲りますが、もともと永代橋も両国橋と同じく官費で架けられた橋だった。それが、本所奉行の廃止に伴い両国橋と新大橋の管轄が移管されても、永代橋はその中に入っていなかった。実は架橋から大して年数が経っていないにも関わらず、永代橋の老朽化はひどくて廃止されることが決まっていたんだそうな。けど、地元はこれに猛反対。「お上が修復できないんなら、ワシらで!!」と嘆願し、町方への払い下げが認められたらしい。で、維持管理の資金繰りのために通行料を取ることが許可されたそうな。へ~、じゃあ、両国橋は無料で渡れたのか?と思ったら、両国橋も1人2文の通行料を取ったと書いている人がいる。ただ、『江戸東京年表』の中では両国橋の通行料に関する記述は見つけられなかった。が、取ったとしてももう少し後の話だと思われる。享保13年(1728)9月2日、数日続いた大雨で大洪水。低地(おそらく下流域)の被害は大きく、3500人余りの溺死者が出る。両国橋は橋の中ほど30間ほどが切れて流される。昌平橋なども流されたため、神田祭りが11月に順延される。11月10日には架け直しのための入札が行われ、落札価格は2475両だそうな。え~、享保小判1両が約8万円ぐらいらしいから、それで計算すると1億9800まんえん・・・確実じゃないけど、たぶん最初の架設の時はもっとかかってるよな。だって、明暦の大火の直後だから。智恵伊豆・松平信綱はそれこそ猫だましのような手まで使ってインフレ抑制に努めている。それでも、材木はいくらあっても足りない状況だったし、当初の橋は一体いくらかかったんだろうと興味が尽きない。(て、また金の話かって?)享保19年(1734)6月17日 大雨のため出水。架設中の両国橋が流失する。また8月にも出水のため破損する。この2年前にはイナゴの大発生と冷夏でいわゆる「享保の大飢饉」が起こり、また疫病も流行っていた。前年には米の買い占めの噂が立ち、「享保の打ちこわし」が起こる。疫病もまだ続いていた。それでこの水害だから、またもや疫病が流行し、多数の死者が出たという。吉宗ちゃん、たいへ~ん・・・寛保2年(1742)8月1日、暴風雨のため各地で浸水。8日にも暴風雨で大洪水、溺死者3800人ともいわれる。寛保3年(1743)おそらく前年の洪水で両国橋にも被害が出たものと思われ、1月1日、両国橋の改架工事の参考として千住大橋の構造が調査される。延享元年(1744)5月、新しい橋が完成。宝暦2年(1752)9月30日、官費で架橋、維持されてきた御入用橋の一石橋が町方橋に改められる。10月、官費で架設した深川地区の26箇所の橋が町方の共有となる。深川は両国のすぐ南だけど、この26の橋に両国橋が含まれているのかは不明。もしここで町方に移管したのであれば、両国橋でも渡銭を徴収した可能性はある。永代橋の方は、10年の期限が切れるとまた10年延長されるといった具合で、ずっと渡銭を徴収し続けていた模様。橋の維持管理にはそれだけ金がかかったってことだな。ただ、宝暦5年(1755)頃にも両国橋の修復があったらしく、「御修復」という言葉があるから、たぶん両国橋は26の橋のうちに含まれていないんじゃないかと思う。宝暦9年(1759)頃にも架け替え。安永元年(1772)9月17日、暴風雨が発生し両国橋の欄干が吹き倒される。天保10年(1839)架け替え。『江戸東京年表』から拾えた江戸期の記事は大体こんなとこかな~。一部ネット資料も参考にしてますが。まあ、『江戸東京年表』は紙面に制限もあり、大きなニュースしか載っていない。話題豊富な年は両国橋はカットされてるのもあるでしょうから、これだけが両国橋の歴史じゃありません。ネットで検索すると「十数回架け替えられている」とあっさり紹介している人が多く、その回数程度の記録が残されているということなんでしょう。明治8年(1875)になると大きく橋が改修され、石やレンガも使われたらしい。が、明治30年(1897)、悲劇が起こる。なんと、川開きに集まった群衆の重さに耐えられず欄干が落下、死傷者が出たという。どんだけ・・・これを機に木橋から鉄橋に変え、位置も現在地に変えて明治37年(1904)に完成。しかし、関東大震災でこの橋もダメージを受け、昭和7年(1932)に2代目の鉄橋が完成。これが現在の両国橋で、東京大空襲をも乗り越えた強い子ですにほんブログ村
2014年05月26日

両国橋東詰の公園の奥には、さっき高札群から見た石碑があった↓。 「元帥侯爵大山巌書」とある。本所松坂町公園にあった碑の墨田区長さんの字もやたら綺麗だったし、偉くなる人は字も綺麗にならないとダメだね(笑)。吉良邸付近で買ったお土産でだいぶ手荷物が増えていたので、カバンに詰め直して荷造りを整えてから両国橋へ。 両国橋の上から南側の眺めです。前回の解説にもあったように、ちょうどここは湾曲部にあたり、しかも大川沿いを走る首都高向島線がジャマして下流がよく見えない。が、永代橋を越えて佃島・晴海を過ぎるともう東京湾。昔は江戸湾ていうのかと思ったら、これは造語で江戸期に「江戸湾」という言葉は使われていなかったんだそうな。う~ん、大川だ~、大川と思って橋の上から眺めていたら、首都高の下になんか道みたいのが見える・・・あれって、川べりを歩けるようになってるのかな?もともと両国橋を渡り切るつもりはなかったし、ちょうどすぐ左手に階段らしきものが見えたので、戻って入口を探すことにした。橋から東詰に戻ると、正面にこんなお店が見えた↓。 なんじゃあ、ありゃ~!!しかも、お店の名前・・・「ももんじや」?大川下流の月島なんかはもんじゃ焼で有名だから、もんじゃの店かな?それとも、イノシシがおるからシシ肉でも食えるのかな?この時は鼻で笑って写真を撮っただけでしたが、帰ってから『両国物語』を読んでたら、ももんじやさんのことが載ってた。 【享保3年(1718)の創業以来約300年近く営業を続ける由緒ある 老舗である。 「ももんじ」とは「百獣」と書き、獣の肉のこと、かつては獣の肉を 食べさせる店を「ももんじ屋」と総称した。(中略) 江戸時代は獣を食べることを禁忌とした時代だった。しかし、うまいものは やっぱりうまい。江戸人は、それを「薬食い」、または「山くじら」と称して、 食べた。二代広重が「名所江戸百景 びくにはし雪中」で描いた風景は、 そんな食文化が江戸に定着していたことを示すが、その絵は現在、この 「もゝんじや」のシンボル画になっている。】 (『両国物語』/墨田区観光協会より)へえ~っ、ももんじ!百獣!面白いな・・・そんな歴史を知らなければ、確実に「ヘンな看板の店」で終わってたよな(笑)。江戸博で『両国物語』買っておいてよかったなあ さて、ももんじやさんの前を右に曲がる。位置的に、どうも高札のあった小道の先がアヤシイ。そう思って高札の前を過ぎて道の奥まで行ってみると あったあ~!!へえ、ここ「隅田川テラス」っていうのか。階段を上がると、そこは首都高の真下↓。 うわっ、すげえな・・・首都高ってこんな構造になってるのか。頭の真上を車がびゅんびゅん走ってるなんてコワイな隅田川テラスに下りて、少し下流の南側から両国橋を見たところ↓。 ずいぶん低いな・・・現在の両国橋は江戸期のとは位置も違うし、当然当時のままじゃないけど、昔の絵にはこんな風に描かれている↓。 (初代歌川広重「東都名所永代橋全図」) (歌川広重「江戸名所百景 両国橋大川ばた」)多少デフォルメされてる部分もあるでしょうけど、往時の両国橋は今よりはもう少し川面からの高さがあったものと思われる。前々回の高札の解説にも少し両国橋のなれそめが書いてありましたが、ここでかいつまんで両国橋の歴史を紹介しましょう。明暦の大火以前は防衛上の理由から大川には千住大橋しか橋が架けられていなかったそうな。千住大橋を渡る以外の交通手段は、すべて舟。両国付近にも、その頃は「牛島の渡し」があったという。しかし、江戸を焼き尽くした明暦の大火では、逃げ場を失った人々が多く火にのまれた。特に、江戸城の東側は第一陣と第二陣とダブルで被害も大きかったので(「本所Wデビュー(19)」参照)、大川端での溺死者なども多く、ために大火後は方針を転換して大川に橋を架けることを決定した。架橋は万治2年(1659)とも寛文元年(1661)ともされる。初代の橋は長さ94間(約171m)、幅4間(約7.3m)。橋を架けるにあたっては、松平信綱が扇をぱたぱたと開きながら橋の角度を決めたというエピソードがある。お手持ちの扇子を真ん中からちょっとずつ開いてみてください。開き具合によって角度が変わるでしょう?傾斜が最大角になるのが、扇を開ききった時。古い絵に描かれた両国橋を見ると結構傾斜が付いてるから、智恵伊豆のエピソードが史実であれば、かなり開いた時点を基にしたのかもしれない。さて、明暦の大火以前、大川の東は全くの無人の地という訳でもなく、ぱらぱらと人も住んでいたようだし、あとは田んぼかな。「本所Wデビュー(1)」で両国の地名について前フリを書いてますが、大川に新しい橋が架かる以前は、本所は下総国葛飾郡に属していた。本所が下総国から武蔵国へ編入されたのがいつかは「江戸初期」としかわかってないようだけど、まあ素直に考えて大火後に大規模な宅地造成が行われた頃だろうと思われる。新しい橋は、正式には「大橋」だった。が、武蔵国と下総国を結ぶこの橋は「両国橋」と俗称された。橋が架けられた当時はまだ本所は下総国だったのか、あるいは武蔵国になってはいても、新興住宅地だからちょっとバカにされてたのかのち、元禄6年(1693)に「新大橋」が架けられると、俗称だった「両国橋」は正式名称へと格上げされた。こういう流れなので、「両国」の地名は両国橋が架かったことによって生まれた名称ということになる。本所と対岸をつなぐ橋がなければ、「両国」でもなんでもないしね。もし別の場所に橋が架かっていたら、おそらくそこが「両国」になっただろう。「両国」は固有の地名なので、そーゆー歴史を知ると「へえ、そうなんだ~」って思うけれども、初めから地名として受け入れているのでそれ以上のことは何も思わなかった。が、『江戸東京地形の謎』(芳賀ひらく/二見書房)には 【「両国」橋という名称が今でも変更されることなく使用されているのは 不思議でもあり、また一方で大いに意味あることと言わなければならないでしょう。】とあって、おお、そう言われればそうだよな~ってあらためて思った。既成概念ってコワイね。本来であれば、もうここは「両国」じゃないんだけど、これも歴史を伝える名称だってことだよな。さてと、仲良しのウィキペディアには、あいにく両国橋の細かい歴史は書かれていなかった。で、手持ちの『江戸東京年表』を開いてみたら、そこそこ橋についての記述があった。ので、少しそちらから橋の変遷をご紹介します。万治元年(1658)7月16日、大川に新しい橋の工事が命じられる。しかし、翌年7月2日、大風雨による増水で仮橋が流され、他の場所でも橋が流されるという被害が出る。同年12月13日、両国橋が完成。架橋命令から1年経った夏にできてなかった橋が、年末に出来上がっている・・・ということは、夏に流されたのは工事中の両国橋ではなく、ホントの仮の橋だったのかな?その辺の詳しいことはちょっとわかりませぬが、出来上がった橋の東西の橋詰および橋の中央には番所が置かれたそうな。12月15日、本所・深川・鉄砲州の整備が始まり、武家屋敷地として定められた。それと同時に波除稲荷が祀られたというんだけど、波除・・・ここでちょっと松坂稲荷のことを思い出した。 もいちど現地の解説を引用しますと、 【「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、 其の水門内に鎮座せしもので(後略)】水門内に置いたってことは、兼春稲荷も波除け目的だよな。この辺は前回の百本杭の解説にあったように、流れが強く当たる場所だし。御竹蔵が本所に置かれた時期がわからないんだけど、両国橋からちょっと北に上がっただけの場所でもあるし、これが兼春稲荷のことだって可能性もあるんじゃないかな・・・ああ、本所開拓にあたっては本所奉行が置かれたと「本所Wデビュー(20)」で一瞬紹介してますが、開拓が終わっても享保4年(1719)まで本所奉行は残っていたらしく、「すみだあれこれ」様のサイトによると本所奉行の任に就いたのは全部で29人。そのうちの8代目の本所奉行が、梶川頼照・・・狂った浅野長矩を抑え込んだ、あのかじかわ殿なんだそうな。なあんだ~、吉良邸も本所にあるんだし、かじかわ殿も本所になにかと縁の深い人だったんじゃ~んにほんブログ村
2014年05月25日

はうっ、30話越えそうだ・・・30話越えを短編と呼べるのかは疑問がありますが、まあ今回は初めから多少の歴バナを交えるつもりでいたので、しょうがないよな。上野編の再開はあともうちょっとお待ちくださいさて、前回の写真の場所をちょっとだけ進んで、京葉道路に出る手前にはいくつも高札があります。まずは下の図で紫の矢印の部分。今度はお尻じゃなくて、先っぽの方ね。 【駒留橋跡 駒留橋は、この辺りにあった旧両国橋北側の入り堀に架かっていた長さ二間半 (約4.5メートル)、幅三間(約5.4メートル)の小さな石の橋で、藤代町と 東両国広小路を結んでいました。 その堀の幅はもっとも広いところが四間(約7.2メートル)で、奥に行くほど だんだんと狭くなっていました。本所七不思議の一つである片葉の葦が生えていたので、 別名、片葉堀といわれ、盛り場の近くにありながら、夜になると寂しい場所でした。 両国の繁華街がもっとも賑やかになる時間帯でもこの橋の周りは森閑としていたと 伝えられています。 そのせいか、夜になると、橋詰にあった自身番(町内の私設交番)の前に夜鷹が集まり、 道行く人の袖を引いていたようです。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)「本所七不思議」は7つではないらしく、モノによっては話が入れ替わってたりもするけど、この場所には「片葉の葦」の高札もあったので、ここでは1つだけ紹介します。 【片葉の葦 駒留橋が架かる入り堀に生える葦は、同じ方向にしか葉を出さなかったことから、 片葉の葦と呼ばれていました。入り組んだ地形の風の吹き込み方が影響していたと 考えられますが、当時はそれが、本所七不思議の一つとされていました。 その由来は・・・ 昔、本所横網町に住んでいた留蔵という男が、三笠町のお駒という娘に惚れました。 留蔵はお駒を自分のものにしようと、あの手この手で近づきますが、お駒は一向に なびきません。腹を立てた留蔵は、お駒を殺害し、片手片足を切り落として堀に 投げ込みました。それ以来、ここに生える葦は、すべて片葉になったというものです。 当時、葦は吉原の語源となるほどこの辺りにはたくさん生えていました。】この高札は片葉の葦の絵つき↓。 江戸時代からストーカーはおったんじゃの~。こわや、こわや・・・て、留蔵とお駒の話はフィクションですってまあ、片側にしか葉を出さない不思議な葦と、繁華街を一歩外れただけなのにうら寂しい駒留橋の雰囲気をドッキングさせたようなお話だな。七不思議の他のお話は、今後寄った時に紹介する機会もあるでしょうから、いずれね。その次は、上の図で赤の矢印の解説です。 【藤代町跡 かつてこの辺りにあった町名です。その由来は・・・。 享保年間(1716~35)、紀伊生まれで麹町に住んでいた毛利藤左衛門は、 自分の支配地である西葛西領猿江村の入り堀2万5千坪を自費で開墾し、 「毛利新田」と呼ばれていました。しかし、これが幕府の貯木場として、残らず 召し上げられ、その代わりにこの土地を賜ったのです。藤左衛門が代りに賜った ことから藤代町と呼ばれています。 回向院や向島に通じる要衝だったため、商家が軒を並べるかなり賑やかな場所で、 入り口にふさわしい繁華街でした。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)駒留橋がさびしい場所だったのに、すぐ近くにある藤代町が賑やかってのがちょっと合点がいかないけど、「本所Wデビュー(1)」でちょろっと出てきた「毛利さん」がこの藤左衛門さんです。「すみだあれこれ」様のサイトによると、藤左衛門が代替地として賜わった藤代町は700坪。いくら藤代町が一等地とはいっても、2万5千坪と700坪じゃ釣り合いが取れない。ってんで、幕府はオランダから献上された象の飼育を藤左衛門に命じ、両国広小路で見世物とすることで収益を得させようとした。その後の象と藤左衛門の詳しいことはわからない・・・とある。ふ~ん、象?享保っつったらアレだよな・・・と思って、久々に「赤間ヶ関編(47)」を読み返してみましたが、私が調べた中では享保13年(1728)に吉宗が取り寄せた以前は慶長7年(1602)までさかのぼるので、まんず源助の象のことだと思われる・・・が、あらためて調べ直してみても源助の象が両国で見世物になったこととか藤左衛門のことはわからなかった。ただ、享保の象が来た時は江戸でかわら版が出たらしいんだけど。古い文献をダウンロードしてみたけど、新しいプログラムまでインストールしたのに結局ファイルは開けなかったしそういえば、こないだ図書館に行った時、源助の象の本ぽいのを見かけたので、今度読んでみるかな・・・ウィキペディアによると、毛利新田の開発は享保7年(1722)、そこに幕府の木場が置かれたのが享保19年(1734)らしいので、源助の象の来日した享保13年(1728)より接収は後の話になるけど、象なんてそんなしょっちゅう来日したもんでもないし、おそらく源助の象のことだと思うんだけどなあ・・・浜御殿で暮らす間の出来事なんだろうか。広小路にあった高札はここまで。高札の向いには、大きな石碑があった↓。 「明治三十七年役戦病死者」とある。この石碑は少し高いところにあって、これは裏っかわらしい。高札の並ぶ小道の先はすぐ大川で、行き止まりっぽいので京葉道路に出て両国橋へ向かう。 なんか不思議なオブジェが・・・地震で転がり落ちたらどうするんだ この手前には小さな公園があり、さっきの大きな石碑やら解説版やらある。 【両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。昭和5年(1930) に荒川放水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。 そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が浸食されました。 両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる 両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ杭の抵抗で流れを和らげ、 川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その 光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。 江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。 「十六夜清心」でも、冒頭に「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は 鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。 観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は隅田川を舞台としていることに 気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。 また、明治17年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の 川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。 明治35年(1902)に幸田露伴は『水の東京』を発表し、「百本杭は渡船場の 下にて、本所側の岸の川中に張り出でたるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと 多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた 特に深し。こゝにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の 南側から見られた様子を綴っています。このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、 百本杭と往時の記憶について書き留めています。 しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの杭は抜かれ、百本杭と隅田川が おりなす風情は今では見られなくなりました。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)高札は写真と絵つき↓。 <明治22年春狂言「忍宵恋曲物」百本杭の場 新富座 豊原国周筆 (国立国会図書館所蔵)> <両国百本杭「仁山智水帖」より(国立国会図書館所蔵)>なんか、昔の川べりの風景ってカンジ~。あとですね~、私は浪士ファンじゃないのであえて写真は撮りませんでしたが、赤穂浪士・大高源五の句碑がここにありました。『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』によると、明治期に作られた『松浦の太鼓』という芝居の中で、討入りの前日、大高源五と俳人・室井其角が出会うシーンがあるそうな。粗末な身なりの源五を哀れに思った其角は、松浦候から拝領した羽織を源五に着せかけてやり、「年の瀬や水の流れとひとの身は」と詠んだところ、源五は「あした待たるるその宝船」との句を返してその場を去っていった。翌日、吉良邸への討ち入りのニュースを聞いた其角は、源五の句が討ち入りの成就のことだったと思い至る。引き揚げの途中の源五を見た松浦候は涙を流して「浅野殿はよい家来を持たれた」と言い、一緒にいた其角が源五に辞世を求めると、「山をぬく刀も折れて松の雪」と短冊に書いてそれを槍の先につけて返したという感動的なストーリー。が、これもフィクションだそうな。ただし、其角と源五は俳句を通じて親交はあったらしい。ま、そのエピソードにちなんでこの東詰に句碑が建てられたのかもしれないな。 【現在、両国橋東詰めにある源五の句碑「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」 (昭和3年建立)は、討入り後、近くの酒屋に飛び込み「死骸取捨ての方への 酒代」として金二両を亭主に与え、酒樽の鏡を抜かせて詠んだ句と伝えられている。】 (『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』より)う~ん・・・吉良邸の近所の酒屋さんだったら、午前6時前の話だからな。間違いなく開店前だから、無理に押し入って酒樽を奪ったことになるけど、酒屋さんの話もフィクションじゃないの?って気がする・・・にほんブログ村
2014年05月24日

前回に引き続き、広小路。 (尾張屋清七版 江戸切絵図より)黄緑のラインが現在の京葉道路。これはそのまま大川へ出て、現在の両国橋につながります。で、わたくしがいるのは紫の矢印のお尻のあたりになるのかな。 この辺の写真はあまり撮ってないので、前回と同じ写真ですが、真ん中の電信柱の奥に見えている大きな建物の手前が京葉道路。このまま京葉道路に出て左に曲がるとすぐ現在の両国橋があります。 【旧両国橋・広小路跡 旧両国橋は現在の両国橋の下流約50メートルのこの辺りに架かっていました。 完成は万治2年(1659)12月。明暦3年(1657)の大火が大災害と なったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、 両国橋と呼ばれました。 橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の 筑波山まで見えたようです。橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、 橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。 西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が 立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が 軒を連ねる繁華街となりました。寛保2年(1742)の調査では1日に 2万人以上が往来したとされています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)両国橋はちょっと後回しね。再び「本所Wデビュー(20)」に続く明暦の大火の話ですが、幕府が真犯人だろ~と疑われてもしょうがないくらい綺麗に江戸市中が焼けたので、松平信綱を中心とする幕府は思い切りよく江戸の大改造に着手した。明暦の大火以前も、江戸ではひんぱんに火災が起こっていたので、この大災害を機に防災の町づくりにも注意を払った。以下、『明暦の大火』(黒木喬著)から簡単に防災対策を紹介しましょう。(1)道路の拡張 それまでは道路の両側にある商家では京間1間(約1.97m)もの庇を 道路に張り出していたそうなのが、避難を容易にするのと延焼を防ぐ目的で 魚・鳥・青物などの生ものを扱う商店の多い河岸通り以外は全部取っ払った。(2)河岸端禁令 河岸通りや橋は火災の時の避難ルートとなるため、大火前から木材系の積み方は 決められており、小屋・雪隠などは禁止。橋の上やたもとでの商売は禁止されていた。 それから、橋詰・道のつきぬけ・積み荷を上げ下ろしする場所などには 商売物を置くことが禁止されていた。 避難通路に物を置くなってのは現代も同じだけど、なかなか守られず時に被害が 拡大するように、当時も何度も幕府から厳重な通達が出されても、イマイチ 効果が上がらなかったらしい。(3)広小路・防火堤の設置 火除け地・広小路と呼ばれる広場が両国をはじめあちこちに設けられた。 上野にも広小路があるけど、これもそうらしい。「防火堤」の詳しいことは わからないけど、まあ被害の拡大を防ぐ土塁といったところなんだろうか。 明暦の大火では、川も海も越えて火が飛んだからね。 湯島の広小路には植溜(うえため)と呼ばれる樹木などの栽培場があったそうで、 災害の際には植溜が避難場所にもなった。両国広小路にもこの植溜があったらしい。 田安門外にあった火除け地にはゴミの不法投棄が多かったそうで、門番は見つけ次第 捕らえるように言われていた。 火除け地にも当然商売物を置くことは堅く禁じられていた。(4)屋根の泥ぬりと穴蔵 『明暦の大火』では【町家の屋根から瓦が消えたのは、大火のさい、瓦が落下して 多数の怪我人が出たという理由で禁止されたからである】とある。が、実際には 万治3年(1660)に「町中茅葺・藁葺早々に土にて屋根を塗り付けること。 出来得れば瓦葺の屋根にすること。」というお触れが出されているので、 ちょっと黒木氏の意図がよくわからない。 が、ともかく防火のために茅葺やわら葺きの屋根に土を塗ることを指示したようで、 期限つきで実行しなければ家を取り壊すと厳命している。寛文元年(1661) になると、新規で茅葺やわら葺きの小屋を建てることは禁止され、板葺にするようにと 指示が変わっている。 ・・・板葺だって燃えやすいけどね(笑)。幕府にシビアな目を向ける黒木氏は 【むしろ、町家など焼けやすいように造っておいたほうが、今後も市街改造が スムースに実施できると考えていたかもしれない】とするけど、それはちょっと 言いすぎじゃ・・・ あと、穴蔵。 「図書館の収穫・・・ホネと火事」で地下室のことを少し書いてますが、 それのことです。『明暦の大火』には 【穴蔵という地下室を掘って貴重品を入れておき、火事のときには身ひとつで 逃げるようになった。荷物の山で逃げ場を失った大火の教訓は、ここに生かされた のである。】 とある。 ふんふん、そーゆーことだったのか~!そして、 【穴蔵は流行して、江戸の十分の一が穴になったといわれたほどであった。】 だそうな じゃあもしかしたら、今でも古い木造住宅の地面の下には誰かさんのヘソクリが 残ってるかもしれないんだな。鉄筋の建物だったら、とっくに掘り返されちゃってる でしょうけどね。(5)定火消と町方の消防 これはもうそのまんま、消防団の設置です。 ただ、大岡忠相による町火消の制度化はもっと後の時代だけどね。という感じで、智恵伊豆も色々と工夫をこらしたようですが、両国橋のたもとに広小路が造られたのは、大切な橋を火から守るためでもある。橋を守ることは避難ルートの確保にもつながるしね。さて、1日に2万人も往来したという驚異的な通行量の両国橋。目ざとい商人たちがこのビジネスチャンスを逃すハズがない。ので、常設の店舗にしないという条件のもと、小屋掛けスタイルで店が立ち並ぶようになった。見世物系のひとつだと思うけど、史跡解説の高札にはこんな絵が載っている↓。 (「広小路における水仕掛け大からくり引札」)その他にも、 【風来山人(平賀源内)の『根南志具佐』などに見られるように、講釈・軽業 などの興行や豆腐料理・玉子焼き・茶・餅・鰻の蒲焼き・鉢植え・釣竿・化粧品・ ガラス細工・髪結いなどさまざまな店が並び、多くの人々で賑わった。】 (『地名で読む江戸の町』大石学/PHP新書より)う~ん、卵焼き・・・おいしそ。厚焼きかな。かつての回向院の正門が西に付いてたのはなんでなんだろう?と思ってたけど、江戸切絵図を一番上の図のように回転させてやっとわかった。江戸の中心部から両国橋を渡ってくると、その正面にどーんと回向院の山門があるってことだったんだな。回向院の西側(図では左側)にある「元町」などはどれも町人地だから、常設にしないと言いつつも、元町の敷地にも各種店舗が軒を連ねていたのかもしれない。浅草生まれの池波正太郎は、本所界隈はほとんど庭のようなものだったようで、大川端を舞台にした時代小説も多い。その他、江戸の各地を紹介しながら、自分が生まれた頃の話やちょっとした歴史の話を『江戸切絵図散歩』という本の中で書いている。それによると、浅草寺よりちょっと北にある待乳山は大きな山だったのが元和5年(1619)に幕府が削り取ってしまったといい、 【それより、五、六十年の間は、このあたりの荒涼たる景観は物凄いばかりの ものであったらしく、 「堤の、夜の闇の中を歩いていると、どこからともなく、なま臭い血のにおいが ただよってきて、肌に粟を生じた」 などと、むかしの本に書いてある。強盗や辻斬りが絶え間もなかったのだ。】とある。「鬼平犯科帳」で有名な長谷川平蔵こと鬼平の私的テリトリーは前回歩いてきた竪川の南側あたりの設定らしいけど、「剣客商売」で藤田まこと・・・いへ、秋山小兵衛が若い奥さんと暮らす家はドラマだとものすごいイナカに見えたから、都下(23区外)あたりかと思っていたら、なんと浅草寺の対岸をも少し北に上がった鐘ヶ淵だというじゃあ~りませんか~!「剣客商売」の時代設定までは知らないけど、もともと回向院の場所は処刑地だったというし、大川を隔てただけなのに、本所一帯は古くはかなりイナカでさびれた場所だったんだろうな~。それが、明暦の大火を境に一変。中でも両国は江戸でも随一の繁華街となった。江戸っ子で賑わう華やかな両国を思い浮かべて江戸情緒に浸るのもいいけど、大火以前のさびしいイナカの風景をそこに付け加えると、さらに両国の歴史が味わい深いものになるんじゃないかと思います。華やかな時代をすっ飛ばしてイナカの時代を想像しろなんて勧める人もあまりいないかもしれませんが、それもひとつの楽しみ方だと思うのですよ。↓ランキング参加ちう。クリックよろしくねにほんブログ村
2014年05月23日

本因坊さんちの後は、ちょっと南へ寄ります(地図はこちら) 川にかかる橋の上ではあいにく工事をしていたので、あまりいい感じで写真は撮れませんでしたが、これが竪川。上記リンク先の地図でもわかるように、ホントにまっつぐで人工的な川だとすぐにわかります。これは、昔のままなんです↓。 (「尾張屋清七版 江戸切絵図」より)明暦の大火後の本所の成り立ちを「本所Wデビュー(20)」で軽く紹介してますが、排水にも一役買った川らしいです。のちには、大川と中川をつなぐ水運にも役立ったようです。現在では竪川の上を首都高小松川線が通っているので、あまり歴史のある川の風情はありませんが、こういう川もだいぶ少なくなったらしいので、残ってるだけいいのかもしれません。で、上記リンク先の地図を江東橋のあたりまで右にずらすと「大横川」という川が出てきますが、これも人工の川。北を上にする現在の地図で見ると、東西(=横)に流れる川を「竪川」と呼び、南北(=縦)に流れる川を「大横川」と呼ぶ不思議・・・これは実は江戸城から見た呼び名なんだそうです。上の「江戸切絵図」は両国界隈だけをピックアップしたものだけど、両国橋の先の画面の切れている上の方には江戸城があります。だから、江戸城から竪川を見ると、まっつぐ自分の方へ流れているように見える川な訳です。こんな細い川の名前ひとつにも歴史がにじんでます。この後は一旦吉良邸の表門と裏門の高札を見に行ったのですが、裏門の近くにもこんな高札がありました。 【江東義塾跡 文豪、夏目漱石が明治19年(1886)から約1年間教師をしていた 私立学校江東義塾はこの辺りにありました。当時漱石は、大学予備門(一高)で 学んでいましたが、ここで教師をするようになってから、さらに学業に励み、 ほとんどの教科で首席でした。 漱石は「夏目漱石全集」(筑摩書房)の中で、「その私学は有志が協同で設けたもので、 ・・・月に使えるお金は五円で、少額であるが、不足なくやって行けた。時間も、 午後二時間だけで、予備門から帰って来て教えることになっていた。だから、 夜は落ち着いて自由に自分の勉強をすることができた。」といったことが 書かれています。】ほ~、夏目漱石・・・漱石といえば、高校の頃、夏休みの課題図書かなにかで「こころ」を読まされて、あの果てしなく暗い世界に気が狂いそうになって以来漱石ギライになったわたくし・・・両国には「芥川龍之介生育の地」などもあり、今回も文学碑のすぐ近くを通りましたが、これは明治の文豪ツアーじゃないので、その類の写真は撮ってません。で、これで吉良邸周辺のお目当ては制覇したので、少し南へ下がって竪川のすぐ北を流れる道を西に向けててくてく・・・後から地図を見ると、その道沿いには出羽海部屋もあったようですがエンディングが近づいていたので、この頃にはすっかりそんなこと忘れてました竪川にかかる橋を数本見た後、最後に出てくるのが「一之橋」。一之橋のすぐ先は、道なりに北へ折れる。そのまま周りを見ながら歩いていくと、脇の小道にこんな面白い建物があった↓。 現地ではフツーのマンションかと思って鼻で笑いながら遠くから写真を撮っただけだったんだけど、後から地図を見たらこの辺に春日野部屋があるらしいので、もしかしたらこれがそうだったのかもしれない。てか、たぶんこれがそうだな。この少し先はこんな道↓。 左に史跡解説の高札が立ってますね。ここはこういう場所です↓。 【赤穂浪士休息の地 元禄15年(1702)12月14日、赤穂浪士は本所二ツ目の吉良邸に討ち入り、 主君である浅野内匠頭の仇討ちを成し遂げました。これが世に言う赤穂事件で、 芝居などで「忠臣蔵」と呼ばれるようになりました。 赤穂浪士が討ち入り後、泉岳寺への引き揚げ前に休息をした場所がここにあった 広小路です。吉良家への応援に駆けつけて来るであろう上杉家の家臣たちを 迎え撃つ心算であったとの説もあります。休息後、大名との無益な衝突を 避けるため、登城路になる旧両国橋を渡らず、一之橋、永代橋を経由して、 泉岳寺へと引き揚げました。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ということで、「本所Wデビュー(18)」で回向院裏門からの侵入を拒まれたわたくしは、表門へ回ったり忘れ物をしたりと吉良邸周辺をぐるぐる歩き回りましたが、元禄の古図を見るとやはり当時の回向院の正門も幕末と同じ東にあったようで、途中まではわたくしは浪士達と同じルートを辿ったようです。それで、回向院での休憩を拒まれた浪士たちは途中から西に向きを変え、春日野部屋の近くを通ってここまで来たようですね。解説には討ち入りの日は14日となってるけど、この日の午後に集合して準備をして、実際の襲撃は日が変わってからだった。15日といえば、大名たちの江戸城への定例登城日。ので出勤ラッシュを避けるため、すぐ先にある両国橋を渡らなかったものと思われる。ただ、ここの高札にはこんな絵も掲載されてるけどね↓。 歌川国安画「忠臣蔵義士四十七騎両国撤退図」。これがどの橋かわからないけど、川幅からして両国橋のような気がする・・・まあ、両国橋を渡らせる方が絵にはなるよな。で、浪士側が気にしていたと言われる上杉家の動きはどうだったのか?ドラマでは周囲に加勢を止められて「ぢぢうえ~~!!!」と鼻水垂らして泣きわめく藩主・綱憲の姿があるけど、ウィキペディアによると 【上杉家では藩邸に討ち入りの報が入ると、直ちに数人を出して様子を探らせ、 赤穂浪士に対抗できるだけの人数を集めていた。そうしているうちに吉良義央が 討ち取られて、赤穂浪士たちは引きあげてしまったという報告が入った。 やがて、幕閣から上杉家へ赤穂浪士の処分は幕府が行うので上杉家は手出し しないよう命じられてしまった。】だそうな。結局、上杉家では兵を出すことはなかったので、江戸っ子からは腰ぬけのレッテルを貼られ、 上杉のえた(枝)をおろして酒はやし 武士はなるまい町人になれ 景虎も今や猫にや成りにけん 長尾を引いて出もやらねばなどの落首で好き勝手言われてしまった。浅野長矩のぶち勝手な行動の犠牲者がここにもいることを忘れないでくださいさて、しばしの休息の後、浪士たちは吉良義央の首を引っさげて泉岳寺目指してここから大川の東岸を南下する。一之橋を渡ったそうなので、この道を私と逆に歩いていったってことだな。その後は永代橋を渡り、旧赤穂藩邸に寄りつつ、築地本願寺を通り過ぎ、汐留を抜けてずっと南へ。泉岳寺に着いたのは、午前8時半頃。『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』には【引き揚げにかかった時間は約4時間といわれている】とあるけど、どうなんだろうね、コレ。そもそも、討ち入りを開始した時間というのも午前3時過ぎとか午前4時頃とか、若干のズレがある。早い方の3時説を採用するにしても、一連の殺戮に約1時間、邸内の後始末と回向院に寄って広小路での休息を終えるまでのトータルで2時間ぐらいかかってるんじゃないのか?そうすると、ここ広小路を出発するのが5時頃だから、ちょっと4時間はかかりすぎじゃないかって気もする。ただ、回向院に寄ったのは6時前のはずなので、少なくとも2時間半以上はかかってると見てもよさそうではある。泉岳寺に着いた浪士たちは浅野長矩の墓前に吉良義央の御首を供え、討ち入りを報告。住職は浪士たちを温かく迎え入れ、酒と食事を提供したという。 【この時、泉岳寺は上野介の「首」の預かり証を書いたが、今も 泉岳寺に残されている。】 (『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』より)浪士たちは翌年2月4日、切腹が言い渡され、その日のうちに事が済んだ。その亡骸は泉岳寺に葬られ、「忠臣蔵」ファンが今も墓参に向かう。泉岳寺の居開帳で浪士たちの遺品が客よせの展示に使われた話を前々回紹介してますが、ウィキペディアにも面白い記事があった。 【義士の討ち入り後、当時の住職が義士の所持品を売り払って収益を得たことに 世間の批判が集まり、あわててこれらの品を買い戻しに走ったことがある。】営業、営業・・・買い戻した甲斐あってか、現在の泉岳寺の境内には浪士たちの遺品を展示する「赤穂義士記念館」があるんだそうな。にほんブログ村
2014年05月22日

本シリーズで紹介する、本所両国の構成要素は明暦の大火・元禄赤穂事件・相撲・葛飾北斎の4つですが、北斎は回向院とも関わりがあります。時期ははっきりしてないのかもしれないけど、回向院で布袋の大きな絵を描いたそうなんですね。その前にも音羽護国寺・本所合羽干場で120畳敷の紙に大きな絵を描いたというから、回向院の布袋画も同じくらいの大きさだったのかもしれない。で、大きな布袋を描いた直後に米粒に雀2羽を描いたそうな。その布袋画がどこ行っちゃったのか気になるところですが、回向院ではこのほど、北斎の布袋画の伝承にちなんで布袋像を作ったそうです。本堂はすぐ出てきちゃったから気付かなかったけど。さて、これで回向院を後にしますが、入口には明暦の大火の解説の他にも解説版があります。 【国技館(大鉄傘-だいてっさん-)跡 相撲は、もともと神事であり、礼儀作法が重んじられてきました。現代の大相撲は、 江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある「回向院相撲記」には、 天保4年(1833)から国技館に開催場所が移されるまでの76年間、 相撲興行本場所の地であった由来が記されています。 国技館は、この回向院の境内に明治42年(1909)に建設されました。 32本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は大鉄傘とも呼ばれ、1万3千人収容の 当時最大規模の競技場でした。日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が 設計を監修しました。 相撲興行は、戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかし、 メモリアルホールと改称された後は本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や 浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における 興行に至ります。 一方、接収解除後のメモリアルホールは、日本大学講堂となりますが、老朽化のため 昭和58年(1983)に解体されました。そして昭和60年(1985)、 地元の誘致運動が実を結び、JR両国駅北川の貨物操車場跡に新国技館が完成、 「相撲の町両国」が復活しました。 大鉄傘跡地は現在複合商業施設となっていますが、中庭にはタイルの模様で 土俵の位置が示されています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)あ~、蔵前ね~。そういえば、そんなの聞いたことあったような・・・で、その大鉄傘の写真がこちら↓。 今は大鉄傘跡はこんなんなってます↓。 見ての通り、ここはもう回向院の境内じゃありません。 ここにも例の高札があったので、ついでにご紹介しましょう。 【旧国技館跡 旧国技館は、天保4年(1833)から回向院で相撲興業が行われていたことから、 明治42年(1909)に、その境内に建設されました。建設費は28万円 (現在の価値では75億円程度)です。 ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は1万3千人でした。開館当時は両国元町常設館 という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。 しかし、東京大空襲まで、3度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は進駐軍に 接収されました。返還後は日大講堂として利用されていましたが、昭和58年(1983) に解体されました。左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を 示しています。】で、上空からの大鉄傘の写真がこちら↓。 すごい立派~。明治にこんなドームが造られてたなんて。こんな洋風の小洒落た建物の中でふんどしの大男たちが「どすこい」してたなんてちょっと笑える~この「両国シティコア」は複合施設のようで、大鉄傘の解説のほかにこんなポスターがあった↓。 【伝統の町両国と鼠小僧次郎吉! ここ両国シティコアの界隈では、江戸の昔、曲芸、軽業、相撲などの小屋掛けが 立ち並び様々な芸能が連日演じられていました。6回までの「大江戸両国・からくり祭」 を「大江戸両国・伝統祭」と改名し、当時の江戸のにぎわいを今に再現し、より広く 伝統文化を伝えるべく開催致します。 その昔、両国の町の一隅に鼠小僧次郎吉が住んでおり、今も回向院の地に眠って います。鼠小僧は泥棒でしたが、金持ちから盗んだ金を貧しい人々に分け与えて いたと言われています。鼠小僧の身の軽さは、今日の手妻、軽業、曲芸に通じる ものがあるかもしれません。また、庶民の味方という心意気も立派です。 これからも、前回と同様に「大江戸両国・伝統祭」をここ両国に関わる「鼠小僧次郎吉」 をシンボルマークとし開催して行きます。 どうぞよろしくごひいきのほどお願い申し上げます。 大江戸両国・伝統祭 プロジェクト】伝統芸能と当時の両国の賑わいを再現するのはいいけどね、次郎吉を称えるのはね・・・まあ、「庶民の味方」「義賊」というイメージが定着しちゃってるんだろうな。私個人としては、遊ぶ金欲しさに盗みを繰り返し、バクチと女にパア~ッと使ったケチな泥棒野郎って方が人間臭くて好きなんだけど・・・さてと、前回書いた通り見落としがあったので、ここから一旦京葉道路を東へ戻りま~す。少し歩いてすぐの場所にあったのがこれ↓。 うおお、ラッキーこんなとこにあったぜ。「本所松坂町」の名称は本所松坂町公園内の文章にあったように、現在では残っていません。この石碑の存在は、江戸博で買った『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』をご飯食べながら読んでる時に知ったんだけど、どこにあるんだろう?って思ってた。冊子には住所も書いてあったんだけど、わざわざ調べて行こうというほどの気はなく、歩いてるうちに忘れた(笑)。本来であれば回向院の後はそのまま西へ向かうはずだったのが、忘れ物をしたがためにこの道を通って、偶然見つけてしまうなんてラッキーすぎる。ちょうどこの石碑のすぐ近くにはなぜかおまわりさんが立っていて、「うろんな奴」と思われても困るけど、周囲の目なんか気にしてたら史跡めぐりなんてできやしません。ま、石碑を撮るぐらいで補導されることもないだろ・・・(↑もう未成年じゃありまへん)で、石碑をパチリ。側面には何やら碑文も刻まれてるけど、一部摩耗がひどくて全文は読めない。ので、『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』の解説を御紹介します。 【本所松坂町の石碑 吉良邸は、討入りの一連の処分後は取り壊され、跡地は開放されて町人地と なった。同時に町名がつけられ、宝永年間(1704~1711)に 松坂町1丁目、松坂町2丁目となった。 昭和4(1929)年11月に、町名が東両国3丁目に変更されることが決まり、 近世史上に残る「松坂町」の名を後世に残すために、昭和7(1932)年 6月に町会によって建碑された。石碑は、現在の墨田区両国3丁目19番地に建つ。 石碑側面には「・・・松坂町トテ近世史上著名ノ地ナリ・・・江東ニ於ケル 不可失ノ地名ノ永ク後世ニ傳ハラムコトヲ希ミ・・・」とある。】てことで~、「本所松坂町」の地名は赤穂浪士の討ち入りが造り出したものだったんですね~。吉良邸と「松坂町」の名称は直接の関係はないけど、かつて両国に吉良邸があったことを偲ばせる地名でもある。歴史ファンとしては松坂町の名称は残して欲しかったところだけど、歴史ある地名を惜しむ地元ではこの石碑や吉良邸跡にある「本所松坂町公園」にしぶとくその名をとどめている。地元のこうした努力がなければ、松坂町の名称は完全に消滅しちゃってたからね。近年の市町村の大合併などでは、字ヅラだけ綺麗な名称に市町村名が変えられちゃって由緒ある古くからの地名が姿を消しているなんて話も聞くけど、たかが地名でも歴史を伝えるものだと考えれば、やはり勿体ないことだと思う。ここから再び吉良邸の表門前を通り過ぎて、着いたのがこれ↓。(場所はこちら) 【本因坊屋敷跡 ここに本因坊屋敷跡がありました。本因坊家は、囲碁の名門で、織田信長、 豊臣秀吉、徳川家康の3人に仕えた日海(一世本因坊算砂)を開祖とする家系で 名棋手を輩出してきました。「本因坊」の名は、算砂が住職を務めた寂光寺の 塔頭の一つに由来しています。 もともとその拝領地は芝金杉にありましたが、幕府に接収されたため、その代地として 寛文7年(1667)この場所が屋敷となりました。江戸期を通じて、常に囲碁 四家元(他に安井家、井上家、林家)の筆頭の地位にあり、道策・丈和・秀和・ 秀策などの棋手を生んでいます。特に江戸末期の秀策は、史上最強の棋士として 「棋聖」と呼ばれました。 現在は、実力制で争われる多くのタイトル戦のさきがけとして名が残っています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)戦国ジジイだから本因坊なら算砂がお目当てなのに、巣鴨の本妙寺には4代目以降の墓しかなく、算砂も江戸に来たことはあるらしいものの、屋敷がここに移される以前にとっくに死んでるから、残念ながらここも算砂とは関わりがないでもちょっと来てみたかったんだよね。今年の夏の墓参りの後は小林平八郎の墓に寄ってみようかと思ってるから、「棋聖」秀策さんの墓ぐらい撮り直してくるかな~。にほんブログ村
2014年05月21日

さて、次郎吉さんのお墓ですが ずいぶん金かけてるなあ。供養墓だし、ドロボウだよ?こんなに立派にする必要あるんだろうか・・・奥にある大きな石が墓石のようですが、なんか札が立ってるので行ってみると 「お前立ち」・・・ああ、あれのことか~。 前回の解説にあった「欠き石」がこれです。前回は金運アップ、病気平癒の霊験を紹介してたけど、回向院のホームページには 【長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が当時より 盛んで、現在も特に合格祈願に来る受験生方があとをたちません。】 ・・・・・・・・長年捕まらなかったったって、最後は獄門だしね。それに、受験とは何の関係もないと思うんだけど・・・志望校がいつまでも捕まらなかったらどうするんだ?ま、何事も信心です、信心・・・次郎吉の墓に背を向けて塩地蔵のところに戻ると、こんな古そうなものが目についた↓。 灯篭?それとも墓か?こんな形のお菓子あったよな(笑)。ここでふと左手を見ると、入場を拒まれた裏門がすぐそこにあった。なんだよ、こんな近い場所にあったのか~!くそっ、ものすごく大回りしてきたのに・・・ひとまず、これで回向院での目的は済んだ。ここには山東京伝の墓などもあるので、横死者エリアとは別の奥の墓地へ行ってみたけど、ぱっと見案内板などはなさそうだったのでめんどくさくなってすぐに出た。境内にはベンチがあったので、座って休憩がてら持ってきた地図を見てこの後の行程を確認・・・と、ここで見落としがひとつあったことに気がついた。どうしよう、でもそんなに遠くないハズだし、せっかくだからやっぱり見ていこうかな・・・てことで、ここで一旦戻ることに決定。それにしても、36mの「穴」は一体どこにあったんだろうか。境内は往時よりはだいぶ縮小されてるはずだけど、現在の境内より外れた場所にあったのなら、基礎工事の際に大量の人骨が出て大騒ぎになっただろうしな・・・であれば、現在の敷地の下に今も明暦の大火での犠牲者が眠ってるんだろうか。少し休憩した後で、本堂へ寄ってみる。フツーの寺だったら外に賽銭箱とかあるもんだけど、ここは現代風の建物なので、中へ入らなければならない。ところが、入ってみるとすぐ前にある扉は閉められている・・・ちょうど、映画館や劇場のような構造。しかも、中では法要か何かやってるらしい。ちょっと見たいものがあったんだけどな、しょうがないな。こちらのご本尊様は阿弥陀様。回向院のホームページには、阿弥陀様の背後にびっしりと居並ぶキンキラのミニ仏像の写真が掲載されている。このキンキラ像、現代に生きる人達による奉納らしいが、そのモデルとなったのはかの恵心僧都(えしんそうず)の作と伝えられる「備中千体阿弥陀如来像」なんだそうな。しかも、増上寺の黒本尊と同じ木で作られたものだという。黒本尊も、恵心僧都の作と言われてるんだよね。なら黒本尊の兄弟分ってことになるけど、惜しくも関東大震災の折に焼失してしまったんだそうな。恵心僧都源信と言えば~、そのお師匠様は元三大師・良源さんですが、実は良源さん(の像)もここ回向院を訪れております。深大寺(調布市)におわす良源さん(の像)は寺伝によるとかなり古いものらしいですが、明和2年(1765)7月と文化13年(1816)の2回、回向院で出開帳をしたんだそうな。なんでも、深大寺の良源さんの頭は大きなスイカほどもあるらしく、文化13年の際の記録には良源さん(の像)の大きさに江戸っ子が驚嘆していたらしい。まあ、この出開帳は成功だったと言えるんだろうな。回向院では深大寺の他にも多くの寺社が出開帳にやって来たそうで、出開帳の成功・不成功がそのまま収益につながるもんだから、回向院に限らずどこの出開帳でも奇をてらった演出とか、寺宝の展示をするなどして主催する寺側では客ひきにあれこれ工夫を凝らしたという。泉岳寺が居開帳(自分とこで秘仏開帳すること)をした時には、赤穂浪士の遺品も展示して集客アップに務めたそうな。成田山新勝寺が出開帳で大躍進を遂げたと「本所Wデビュー(22)」でも一瞬紹介してますが、成田山の場合は歌舞伎の初代市川団十郎が開帳期間中に舞台で成田不動を演じたことが大きな話題となり、予想を上回る収益を上げることができた。が、江戸で多く行われた出開帳・居開帳のすべてが大成功を収めた訳ではなく、PRが効を奏したりパフォーマンスが江戸っ子にウケればウハウハだったが、ハズした場合・・・特に出開帳でハズすと思いっきり赤字となり、実際ハズした寺も多かったという。成功を収めるためには、何らかの目玉商品なり派手なパフォーマンスなりがどうしても必要・・・狙いが当たって大勢の客を集めることはできても、本来の目的である本尊よりも客はオマケの娯楽性が目当てとくれば、当然批判も出てくる。十方庵敬順という僧は、「もし本尊が口を聞けたなら、濁った世の中の人の心は仕方のないものだと嘆くだろう」と本末転倒の現象を批判している。そういう真面目なお坊さんもいる一方で、境内を貸す側の寺も、出開帳を成功させるために派手な演出を応援した。なんたって、客が集まれば自分とこにもついでのお布施も期待できるし、門前にあるショッピング街も売り上げが伸びる。門前を貸しているからには、当然店側からの冥加金も入ってくる。 では、文化4年(1807)2月28日から回向院で行われた、武州幸手(さって)の不動院の出開帳の記録をご紹介しましょう。 【2月2日、江戸到着の日、講中と称する者、幟・錫杖・法螺の類を持ち、 前駆すること、凡そ千人ばかり、次に山伏数十人、兜巾・篠掛(すずかけ) にて二行に列す。次に大なる斧を担ぎたる山伏20人ばかり、法螺を吹く。 次に山伏8・9人、厨子、神宝を荷はせ、其の後に住職輿に乗じ、 伊達道具・打物を持たせ、供奉の山伏、大勢中に異形の出立(いでたち) するもあり。近来是れ程なる江戸入りの開帳なし。去年の琉球人の行列よりは、 殊にめざましと云いあへり。】 (「増訂 武江年表二」より。漢数字は戦国ジジイが変換)出開帳は会場でのイベントだけじゃなく、すでにその前から始まっているのだ。ここで話題作りをしておくと、興味を持った観衆がそのまま会場へも足を運んでくれるというワケ。ここでは、「ちょっと、去年の琉球人の行列よりすごくない!?」ってギャラリーが口ぐちに言い合ってるので、第一段階は成功したと言える。 【又開帳始りて、大護摩と称し、矢来の内に火を起し、山伏大勢、烈火の上を 素足にて渡り行き、前代未聞の事とて、見物群集し、境内混雑して、怪我人もあり、 程なく、此の事を止められたりとぞ】 (前掲書より)今でこそ火渡りはTVでも時々やるのでそう珍しいことでもないけど、それでも私は「あつっ!熱いよ~!なんでこんな事するんだろ・・・」って言いながらTVを観てます。ので、初めて火渡りをナマで見た江戸っ子たちは度肝を抜かれたことだろう。あまりに当たりすぎて、境内は押すな押すなの大騒ぎになり、運悪くケガ人まで出てしまったので残念ながら火渡りイベントは中止となってしまった。まあ、ちょっとケチは付いたけど大成功とはいえるのかな。回向院での開帳の賑わいは、「開帳の雪隠」という落語にもなっている。江戸の町歩きではトイレに苦労しないので、トイレの話も久々ですが(笑)設定などに多少の差はあるものの、大体こんなとこです。 回向院門前に駄菓子屋を営む老夫婦がいた。 「は~、もう、開帳で賑わうのはいいけど、雪隠を貸せって輩ばかり・・・」 「まあいいじゃねえか。女の人はどうしたって雪隠がなけりゃな~」 「だってジイさん、駄菓子を買う訳でなし、ただ雪隠を貸すのに 忙しいだけなんてさ・・・」 「う~ん。おい、今度から”ひとたれ8文”で金取ったらどうだい?」 てことで、店のトイレを綺麗にして「8文で雪隠貸します」の貼り紙を出したところ、 大はやり。 ところが、4~5日もすると向かいでもっと綺麗なトイレを8文で貸すのを 始めたため、客がみんなそっちに取られてしまった。 「おう、明日はお参りに行ってくるから、ちょいと弁当こさえてくんな」 次の朝、ジイさんは弁当を持って出かけてしまった。 「今日は忙しくなるから、金勘定間違えんなよ」 という謎の言葉を残して。 果たして、ジイさんが出かけた後は以前のように雪隠を借りに来た客で大賑わい。 夕方になってジイさんは帰ってきた。 「も~ジイさん、今日は忙しくて大変だったんだから・・・ それにしても、ずいぶん霊験あるところへお参りに行ったんだねえ。 一体どこへお参りに行ったんだい?」 「なに、向かいの雪隠で8文で夕方まで座ってただけよ」出開帳の会場にはあちこちの寺社が選ばれたが、江戸の出開帳のうち回向院で行われたものは全体の四分の一にあたるという。出開帳のほか、勧進相撲もあったし、周りには見世物小屋も並ぶ人気の繁華街だったから、江戸期の両国界隈は常に賑わっていたと言っても過言ではないのかもしれない。にほんブログ村
2014年05月20日

明暦の大火供養碑の並びにあるのがこれ↓。 関東大震災の供養碑のようです。このエリアは横死者オンパレードのようだな・・・かと思うと、一番奥にはこんなのがあった↓。 竹本?って義太夫の?都賀太夫の墓の裏手には 竹本咲太夫、組太夫など竹本さん関係の墓がいくつか並ぶ。もひとつ墓を見る予定なので、このまま明暦の大火供養碑の裏手を歩く。 この辺はこんな風にいかにも古そうな、横死者系の碑っぽいのばかりで怖がりのわたくしは立ち止まっちゃいけなさそうな雰囲気・・・ので、前回の溺死者一覧で紹介したような、帆掛船形の碑も記憶にありませぬ。うん、どうもこの辺は違うっぽいな。とすると、さっきから数人立ち寄っていたこれがやっぱりそうか↓。 奥へ進む前に、この入口にあるお地蔵様をご紹介しましょう。 だいぶボロボロで、ほとんど心霊写真のようですが、大丈夫です。 【塩地蔵 宝暦7年(1757年)建立 [文政寺社所] 「日参の諸人心願成就の上塩を供す。依母而俗に塩地蔵と云」とある。 ※さまざまな人々が願いをかけそれが叶ったおりに、供える塩が大雪が積もった ように見えるときもあったと記されている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)とゆーことで、霊験あらたかゆえにお礼参りで塩を沢山振りかけられて腐食してしまったんでしょうか(石が腐食するか?)このお地蔵様は平成に生きる私達にも恵みをもたらして下さるようで、この日もお地蔵様の足元には と奉納品の塩が積まれてました。 解説の最後には【「東都48塩地蔵の第47番目」である】と書かれているものの、回向院のホームページには【「東都歳時記」所載の江戸東方四十八ヶ所地蔵尊参りには、その四十二番目として数えられています】とある。塩地蔵があちこちにあったのか、48の地蔵のうちのひとつが塩地蔵なのか今ひとつわからないにしても、塩とか油とかよく考えるよな~。塩地蔵の反対にある灯篭はちょっと変わってる↓。 火袋部分↓。 なにこれ?これじゃ火は入れられないよな。胴の部分もオシャレ↓。 それじゃ、道の脇にある墓っぽいのは無視して奥へ進みます。 全然墓っぽくない・・・しかし脇にはこう書いてあったので、どうやらこれが2つめのお目当てのようです↓。 はい、境内には色んな動物が眠りますが、ねずみはねずみでもこちらはニンゲンです。 【鼠小僧供養墓 「墨田区民族文化財指定」 碑の正面には「天保二年八月十八日」「俗名 中村次良吉之墓」 「教覚速善居士」「道一書」 裏面には「大正十五年十二月十五日 建立」 左側には「永代法養料金 五十圓也 細川仁三」と刻まれている 鼠小僧は寛政9年(1797)生まれの実在の盗賊であり、「武江年表」によると 天保3年(1832)8月19日に浅草で処刑されている。 「甲子夜話」によれば、武家屋敷にのみ押し入ったため、庶民からは義賊扱い されていると記されている。 後に幕末の戯作者河竹黙阿弥が、権力者である大名家に自在に侵入し被権力者側 である庶民に盗んだ金を配るという虚構の鼠小僧を主人公とした作品を世に 送り出したことから人気に火がつき、演劇界においては現在まで続く当り狂言の 一つとなった。 明治12年(1879)1月の「朝野新聞」によると、歌舞伎の市川一門の一人 である市川団升が狂言が当った礼として碑と永代供養料10円の寄付を行うほどの 熱の入れようであったと伝えており、施主として刻まれ、墓の横にも石灯籠を 寄進している。細川仁三とは市川団升のことであるとみる説もある。 文学界においても芥川龍之介が「戯作三昧」・「鼠小僧次郎吉」・「復習」と 3度題材に取り上げるなどとしており、虚構の鼠小僧の人気は高い。江戸時代、 犯罪者には墓を作ることが禁止されていた。しかし歌舞伎や狂言での成功によって 祈願対象物としての墓の必要性が生じこの供養碑が作られたと思われる。 ※他方、供養墓の前にある小さな供養碑は正面に供養墓同様「教覚速善居士」と 刻まれているが、別名「欠き石」とも呼ばれるものである。鼠小僧の墓石を欠き、 財布や袂に入れておけば、金回りが良くなる、あるいは持病が治るとも言われ、 成就した人々の奉納した欠き石は数年ごとに建て替えられ続け、現在までに 数百基にも及んでいるという。 発生時期は不明であるが、明治18年(1885)に初演された河竹木阿弥の 「四千両小判梅集」には、台詞の中でこの信仰の事が触れられている。 「この供養碑は変貌著しい墨田区と歌舞伎とのかかわりを示す資料でもあり、 そこにはまた庶民のささやかな幸福追求の対象物としての価値も含まれる」 (墨田区史より)】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ねずみ小僧は時代劇でおなじみですが、実在の人物だとは思わなかったよ~。ちょっと前までは、タッキーがNHKでやってたよね。一体どんな人だったのかとウィキペディアを見てみたところ、そこには「義賊」とはかけ離れた、生臭い人間・次郎吉の姿がありました。以下はウィキの要約です。え~、まず鳶職人となった次郎吉は25歳で親から勘当される。その後、博打に手を染め、資金稼ぎのために盗みを始めたそうな。文政6年(1823)以降、武家屋敷の奥向に忍び込むこと28箇所32回。大名ばかりを狙った理由としては、 ・庶民の長屋には当然大金はなく、金持ちの商人は警備も厳重。 ・大名屋敷は謀反の疑いをかけられては困るので警備は厳重にできなかった 可能性があり、一旦屋敷内へ入ってしまえば広いので案外と警備は手薄。 ・表向と奥向がはっきり分かれていたので、奥向で見つかっても女ばかりで 逃げやすい。しかも、盗みがバレたところで体面があるため公にはなりにくい。と、「あくどい大名ばかりを狙った」という時代劇のイメージはカケラもなく、ひたすら現実的な面から大名をターゲットにしたらしい。文政8年(1825)、土浦藩上屋敷に押し入ってお縄になるも、「初めてなんですう。ごめんちゃい!!」と大ウソこいて南町奉行所の尋問を切り抜け、入墨を入れられて中追放となる。この後は上方へ行ったらしいが、こっそり江戸に戻って父親の住む長屋で暮らす。ここでやめときゃよかったのに、ギャンブラーの血が騒ぎ、再び盗みに手を出す。そこから7年にわたり武家屋敷71箇所、90回もの盗みを繰り返し、天保3年5月5日上野小幡藩屋敷にて2度目の逮捕。1度目の時の入墨があるから、もう同じ手は使えない。同年8月19日、市中引き回しの上での獄門で有罪が確定。次郎吉も小伝馬町の牢屋にいたらしく、引き回しの際には有名な次郎吉を一目見ようと、日本橋や京橋あたりまで沿道に江戸っ子が押し寄せたという。重罪人であっても、一種のショーである引き回しにボロっちい姿で出すと観客からブーイングが起こるので、次郎吉にはいい着物を着せて薄化粧の上、なんと口紅までささせたという。35歳にして、あわれ小塚原(こづかっぱら)の露と消える。こんな概略のようですが、本人の自供によると盗んだ金は3000両以上。が、正確な数字はわかってないという。フィクションとしての義賊・次郎吉に欠かせない要素はあくどい大名や商人から盗んだ金を貧しい庶民に配る、というもの。ところが、それは彼の生前からあった噂だそうな。2度目の逮捕の時だと思うけど、役人が次郎吉の家宅捜索をした。けど、あれだけ盗みまくったにも関わらず、自宅からは盗んだ金はほとんど押収されなかった。傍目には派手な生活はしていなかったらしく、盗んだ金の行方がわからないことからこういう伝説が生まれたのだろうという。ウィキペディアによると、【現在の研究家の間では「盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着している。】だそうな家に帰って長命寺の桜餅をほおばりながら、「ねずみ小僧の墓が回向院にあったんだけどさ~、実際は女やバクチに使い果たしちゃったらしいよ」と時代劇好きの母親に言ったら「やめてえ~、夢を壊さないでえ~~!!」と耳をふさいでいた。そんなもんかね・・・女やギャンブルに使ったって方が人間臭くていい気がするけどね。にほんブログ村
2014年05月19日

木遣塚のお隣がこちら↓。 ほう、これはなかなか・・・台座には「慈母観音」とある。台座の彫刻↓。 観音様の周囲には石仏が4体↓。 1つめは寄進者と思われる名前は読めるけど、どなたかわからない。2つめは摩耗して字がよく読めない。3つめは欠損している箇所もあって全部は読めないけど、「正徳五乙未三月十三」と「元禄十一戌●九月二日」の日付が確認できる。1715年と1698年だな。最後がこちら↓。 頭の盛り具合で瞬間的に青面金剛様かと思ったけど、光背にある名前からすると違ったみたい(笑)。こちらには「宝永六己丑六月●三日」と宝永七年2つの日付がある。ひとまず、このエリアはこれで終わりみたいだな。慈母観音様の脇にはあまり綺麗でない小屋があって、数人の参詣者が入っていくのを見た。・・・が、どうも雰囲気的にここ、「お焼き場」っぽいんだよなあ寺の境内にそんなのあるワケないよな?首をひねりながらも本堂前の通路に戻って奥のエリアへ行こうとしたら、本堂前のガラスケースの中にお不動様がおわした↓。 憤怒の形相で右手に剣を持っている。あれ?この左手にあるのって・・・ 羂索(けんさく)じゃん!!東大寺のケンちゃん(不空羂索観音像)は「春の寛永寺シリーズ」で何度も出てきましたが、人々をもれなく救済してくれる慈悲の縄が羂索です。羂索のことを知ったのが『アシュラブック』だったから、それまで見たお不動様のすべてが羂索を持っているかなんて当然見たこともなかったけど、コワい顔して片手には降魔の剣を持ちつつ、一方では救いも約束して下さる方だったのか~。ひとつ新しいことを覚えると、見方も色々変わってくるから面白いなと思った。さて、道なりに奥へ進むとまずこれが目につく↓。 なんじゃ、こりゃ?実は山門からここへ着くまでの間、なにげに参詣者が歩いていくのを見た。そのほとんどは小さい子供や小・中学生くらいの子供を連れた家族連れ。中年の夫婦なんかもいたけど、どう見ても回向院へ来るまでの史跡で会ったような史跡めぐりの風情じゃない。墓参りかな・・・にしても、お彼岸にはまだ早いし、なんでもないフツーの土曜日にこんなに墓参りに来る人がいるってのもなんか妙だな、と思ってたんだけど、ここまで来て彼らが何者なのかようやくわかった。この現代ちっくな塔、どうもペット用のお堂らしいんです。上の写真にも小さく写ってますが、お塔婆らしきものが並んでたので近寄ってみると、何列にも分かれて林立するお塔婆にはすべて「愛犬ポチ」とか「愛猫タマ」とか、とにかくペットの名前が書かれていた。そして、ここまでで見かけた参詣者はほとんどがこの塔の中へ吸い込まれていく・・・要するに、墓参は墓参でもペットの墓参りだったようですね。墓参を終えて帰っていく人たちの中には「またしばらく会えないね」なんて話しながら歩いていく人もいて、もう人間となんら変わるところはないですうちも長いこと犬と一緒の生活をしているのでお別れはつきものですが、うちの場合は「お焼き」にしてもらった後、持ち帰ってきてしばらく置いた後、庭に埋めてます。でも、マンションとかだったらそういう訳にもいかないだろうしね。回向院の歴史の解説文はここまでで2種類紹介してますが、境内には史跡や著名人の墓も多いし、一般用の墓もあるのに、この日境内で一番賑わっていたのはペット用エリアだったとゆー・・・(笑)。いくらヒト以外のものも区別なく供養する回向院とはいえ、時代の流れだなあ~としみじみ思いました。しかし、ペットを祀るのは何もペットブームの現代に限ったことではありません。回向院のホームページによると、回向院ができて間もない頃、時の将軍・家綱の愛馬が死んでしまったので、ここ回向院に葬ることになったんだそうな。いやあ~、明暦の大火の犠牲者を供養するために造られた無縁寺に、将軍様の思し召しとはいえ、馬だよ、ウマ!!当時の感覚からすればものすごく違和感あったんじゃないかと思うんだけど、無縁寺の住職・貞存はなんと自ら馬頭観世音菩薩像を彫って新たに建てた馬頭堂にそれを安置し、供養に務めたってんだからオドロキ。しかも、 【当院の馬頭観世音菩薩に祈願をこめると、当時最も恐れられた瘧疾(熱病)や 疱瘡(天然痘)にかからぬといわれ、時代が下るにつれて諸病平癒の霊験顕かな 観音様として、人々の厚い信仰を集めました。】 (回向院のホームページより)だそうな。今回、その馬頭観音様は拝めなかったけど、先人の訪問記では上の写真の塔の中にあると書いている人がいた。ただし、貞存が彫ったという像は焼失してしまったんだそうな。このお堂の近くにも、また別の犬猫用供養塔がある↓。 いやあ、手厚いなあ(笑)。後からふと思ったんだけど、慈母観音様の脇にあった小屋ってもしかしてペット用の「お焼き場」だったのカモ・・・ペット用のだったら、そんなに場所取らないからね。けど、こんな場所にそんなものあったら付近から苦情が来るよなペットエリアの向かいにあるのがこちら↓。 ああ、いかにも古そう・・・これだな。解説版があったので見てみたら、明暦の大火供養碑の説明ではなく、このエリアにある海難供養碑についての説明だった。全部紹介すると長いので、概略だけ紹介しますね。●「南無阿弥陀仏」海上溺死群生追福之塔 文化10年(1813)に菱垣廻船十組問屋が建立。 正面の名号は増上寺第66世大僧正冠誉の揮毫を碑刻したもの。●「溺死四十七人墓」 明治2年(1869)に現千葉県勝浦市沖で沈没した肥後熊本藩 お雇い蒸気船に乗っていて死亡した260余人のうち、47人を供養したもの。●「南無阿弥陀仏」勢州白子参州平坂溺死者供養塔 白子・平坂二港の溺死者のために文化11年(1814)江戸大伝馬町 太物問屋仲間が建立したもの。●「紀州大川徳福丸富蔵船溺死人之墓」 安政4年(1875)紀州大川浦の富蔵船の乗組員7名が遠州相良沖で 溺死したのを、江戸の廻船問屋や酒問屋などが供養するために建立したもの。●「勢州白子三州高濱船溺死一切精霊」 白子・高浜の犠牲者7名を供養するため、寛政元年(1789)三河平坂の 施主が建立した帆掛船形の碑。●勢州白子戎屋専吉船溺死者等供養塔 文政8年(1825)伊豆神津島沖での溺死者のための供養碑。のち、 天保・安政の遭難者名を追刻。うおお、溺死者ばっか供養碑が多いとはいえ、あんまり何でもかんでも手を合わせるもんじゃないとセキュリティよしおから注意されてるし、これ以外にも横死者の墓が沢山ありそーだ・・・とりあえず、ここでのお目当て2つだけを見ることにしよう。で、明暦の大火の供養塔はどれじゃ?と思ったら、一番前にあった↓。 碑文からすると、これは大火から20年近く経った延宝3年(1675)8月25日の建立らしい。よし、あとひとつだ にほんブログ村
2014年05月18日

「勧進相撲」とはなにか? 【勧進とは、仏教の僧侶が衆庶の救済のための布教活動の一環として行う行為の 1つで勧化(かんげ)ともいう。 直接民衆に説いて念仏・誦経などの行為を 勧める者や寺院・仏像などの新造あるいは修復・再建のために浄財の寄付を求める 者がいたが、中世以後には後者の行為を指すことが一般的となった。】 (ウィキペディアより)ここでは後者を指すので、平たく言って営業活動の一環です。江戸期の寺社の資金繰りのひとつに、「出開帳」がある。これは地方の寺社が江戸で「秘仏公開」して、収入を得るというもの。何しろ江戸は当時世界最大クラスの大都市だし、江戸っ子にウケれば莫大な収入が見込める。早い話が出稼ぎですね。現代では全国第2位の初詣客を誇る成田山新勝寺なんかは、この出開帳で大躍進を遂げたらしい。まあ、幕府の助成を受けられればそれが一番いいんだけども、幕府の財政も苦しかったので、直接の助成を受けられるのは大寺院や徳川家にゆかりの深い寺院に限られていた。直接の援助は受けられなくても、出稼ぎ(勧進)をするにあたって幕府のお墨付きをもらえるだけでも随分活動が楽になった。ので、間接的助成を受けるために熾烈な争いが繰り広げられたらしい。出開帳がこういうものだったから、勧進相撲を自分とこで打てれば場所を提供する寺サイドとしても売上アップにつながるし、ついでに教線の拡大も見込めるかもしれない。ちなみに、少し前の短編「建仁寺が出稼ぎに来てます」のタイトルは「栄西と建仁寺」展を見てて「これって現代の出開帳だよな~」って思ったので、出稼ぎの言葉を使いました。いや、ご本尊様はトーハクには来なかったけどね。現代のお寺さんは、観光寺院を除いては境内はひっそりとした厳粛な雰囲気の空間・・・あるいは「葬式仏教」と揶揄されるように、「死」につながる気軽には近づきがたい空間というイメージを持つ人も多いかもしれない。が、江戸期には大都会・江戸での収入アップを目論んで江戸へ進出する寺も多かったらしく、今からじゃ考えられないくらい元気に営業活動をしていたそうな。当時の寺の業務内容をいくつか挙げるなら、貸金業、投資信託業、イベントホール経営などおよそ寺らしからぬ言葉が並ぶ。「イベントホール経営」とした中には、勧進相撲のように境内を貸して興業を打つことも含まれる。「イベント企画業」とした方がぴったりくるのかな。興業にも色々あり、芝居や寄席も立った。境内が各種イベントで賑わえば、それにあやかろうとする茶店などが出て門前には飲食街が充実する。ウェイトレスに美人を置いてそれが美人画に描かれるなどして評判が広まれば、ウワサの美人を一目見ようと江戸っ子たちが押し掛ける。境内は女性アイドルが誕生する場でもあった。門前に立つ店には土産物を売る店もあり、これはまだわかるけど、その他日用品などを売る店もあったというからさしずめショッピングモールとアミューズメントパークをドッキングさせたような複合商業施設的存在とでも言うんでしょうかね。とゆー訳で、全部が全部じゃないかもしれないけど、繁盛してる寺の賑わいとは相当なものだったらしい。時代劇でよく見かける寺での興業のひとつに、「富興業」がある。現代の宝くじに相当するもので、江戸期には「富突」「富」などとも呼ばれた。これもいちおうは寺社の助成策で、ゆえに富突を主催できたのは寺院に限られ、幕府の許可が必要だった。富突はギャンブル性が高いため、幕府の許可は簡単には得られず、江戸の中期頃までは富突を行える寺は2つに限定されていたのが、自分の懐を痛めずに寺の助成につながるという幕府の経済的事情からぼんぼん許可されるようになったそうな。富突は短期間で大金を集められるというメリットがあったため、多くの寺社が参入するようになり、最盛期には2日に1回は江戸のどこかしらで富突が行われたという。富突は幕府公認のものだから、イベント当日には寺社奉行から監視人が派遣され、不正防止のために富くじを入れた箱などを入念にチェックするところから始まる。メーンエベントの富突の前には大般若経の読経が行われ、富くじは寺の僧が突いた。ここからも、寺側が主催し切り盛りしていたことがうかがえる。さて、わたくしが一等1.000両の富くじを当てたとしましょう。「えっ、ウソ!マジ!?いやったあ~、1,000両何に使おう・・・えっと、まずは祝賀会にパア~ッと吉原でいつもよりランクの高い花魁を買って、それから・・・」「おめでとう、白川りりさん!さあ、賞金をお渡ししますのでこちらへ」「あっ、はいはいくっふっふ、1,000両・・・」「え~、じゃまず、これが1,000両ね」「あざ~す!!どれどれ、持てるかな・・・」「あっ、ちょっと待って。まず、1割の100両はウチへの奉納金として頂きます。これが決まりですから」「あ・・・」「それから、別に100両を札屋への謝礼として頂きます。次回の富くじを100両分買ってもらうってことですけどね」「の、残り800両?」「で~え、興業の経費分として4~50両頂きます。あと、世話人へのお手当もちょっと頂きますね~」「な、700両しかもらえないの?」「仕方ありません、決まりですから。一等おめでとう、りりさん!!」手持ちの資料では勧進相撲のお金のシステムがわからなかったので、富突の場合を例に挙げましたが、相撲興業に参加した力士への報酬や世話人などへのお手当を差し引いても、前回の絵にあったような盛況ぶりだから寺社側としても相当な収入が見込めたのだろうと思う。だから、前回最後の碑文にあったように、回向院が定場所となるまでにあちこちの寺社で相撲興業が打たれたんじゃないかな。勧進相撲は江戸だけじゃなく、京・大坂でも行われたらしい。が、興業に伴って色々な問題も起こったらしく、慶安元年(1648)には一旦勧進相撲が禁止されている。それが、次第に規制が緩和されるようになり、寛保2年(1742)には江戸で勧進相撲のすべてが解禁され、以後は春は江戸、夏は京、秋は大坂、そして冬に江戸にまた戻ってくるというシステムが出来上がったそうな。さて、回向院相撲記の他にも2,3何かあった気がするけど、よくわからないのでスルーして力塚のブースを出る。力塚を出た斜め前には現代風でやけに立派な建物が建つ↓。 なんか、すげえな・・・境内を訪れた人がちらほら中へ入っていったので、庫裏かもしれない。力塚の隣にはこんなものがあった↓。 アハハ・・・脇の石に何やらびっしり刻まれていたので覗いてみると、○○ペットショップとか○○ケンネルとかペットサロン○○とかペット関係の企業の名前が沢山並んでいた。「愛犬供養」碑の隣にあるのがこちら↓。 この脇に解説版らしきものが立っていたので、そちらへ回ってみた。 【東京都指定有形文化財(歴史資料) 石造明暦大火横死者供養塔 一基 明暦3年(1657)1月、江戸市中の繁華街を焼いた有名な明暦の大火による 焼死者・溺死者をはじめとして、入水者・牢死者・行路病死者・処刑者その他の 横死者に対する供養のために建立されたものである。 もと、回向院本堂の向って右に存した三仏堂の前に建てられていたが、堂社の 位置がその後移転したにもかかわらず、この供養塔の位置はほとんど動いていない ものと思われる。総高3.05メートル、延宝3年(1675)頃建立された。 願主は回向院第二世住持信誉貞存。】 うん?これか?そう、ここ回向院のお目当てのひとつは明暦の大火の供養塔だったんです。で、もう一度戻って見てみたけど、 ?台座に何か書いてあるわけでなし、どう見ても供養塔じゃないよな・・・明暦の大火供養塔の解説版の隣には、回向院に眠る著名人の墓についての解説版が3つ並んでいた。別に解説版の付近に墓があるわけでもなさそうなので、回向院にある指定文化財の解説をひとまとめにしただけらしい。解説版があったらそこがそうかと思っちゃうじゃんね~ とりあえずこの裏手にも何やらあるので順番に見て行くか。 「木遣塚」。何も解説はない。ヒトに限らず生命あるあらゆるモノを供養する回向院だから、木の供養碑か何かかと思った。帰ってからネットで調べてみると、め組のサブちゃん(By 暴れん坊将軍)のような江戸の火消したちが唄った「木遣」を記念した碑だと書いてる方がいた。木遣ってなあに? 【木遣、木遣り(きやり)は、労働歌の一つ。1202年(建仁2年)に 栄西上人が重いものを引き揚げる時に掛けさせた掛け声が起こりだとされる 事がある。掛け声が時代の流れにより歌へ変化し、江戸鳶がだんだん数を増やした 江戸風を広めていった。】 (ウィキペディアより)木遣の伝統を伝える「牛嶋木遣会」様のサイトによると、【働く者の気と力を一つに合わせ、一同の力を一遍に出させるために歌われ】たそうな。時代劇の火事のシーンでは、町火消が水をかぶって燃えてる家の屋根に上がってまといをぶんぶん振り回す程度のもので、あまりリアルな現場での作業は出さないような気がするけど、当時の消火活動は現代のように直接火に挑むのではなく、周りを立て切って火の行き場をなくさせてやっつけるという間接的な方法。だから火消しの中心は鳶の人たちで、破壊した隣家から出た重い木材などを運ぶのに木遣歌などを必要としたのかもしれない。まあ、それは想像ですが。にほんブログ村
2014年05月17日

それじゃ、回向院の境内へ入りましょう。 ・・・なんか、寺っぽくないなあ。少し進んだところ↓。 木に隠れちゃってるけど、正面に見えてるのが本堂らしい。今では現代風な建物だけど、入口にあった史跡解説の高札にはかつての立派な本堂の写真が載っていた↓。 え~と、本所松坂町公園内の史跡整備の趣意文には関東大震災での火災によって区画整理が行われ、その結果松坂町の名称が姿を消したとあったから、回向院も被害を受けたかもしれないな。もしくはその後の東京大空襲で堂宇が焼失したかもしれない。まずは、上の写真の左に写ってる場所へ。ここにも回向院の歴史を物語る石碑があるんだけど、先に古そうな灯篭の方へ目が行きました。ああ、なんか灯篭オタクへの道を歩み出してる気がする・・・ この灯篭はどの角度からでも見られる訳じゃないので、日付などは見えませんでした。下部の裏には名前らしきものが彫ってあるけど、結構摩耗している。ただ、向かって右側の灯篭の裏には朱で「相撲茶屋組合」となぞってあった。 このブースのメインはこちら↓。 【相撲関係石碑群<力塚> 墨田区と相撲の関わりは、明和5年(1768)9月の回向院における 初めての興業にさかのぼります。以後、幾つかの他の開催場所とともに 相撲が行われていました。天保4年(1833)10月からは、回向院境内の 掛け小屋で相撲の定場所として、年に2度の興業が開かれ、賑わう人々の姿は 版画にも残されています。 明治時代に入っても、相撲興業は回向院境内で続いていましたが、欧風主義の 影響で一時的に相撲の人気が衰えました。しかし、明治17年(1884)に 行われた天覧相撲を契機に人気も復活し、多くの名力士が生まれました。そして、 明治42年(1909)に回向院の境内北に国技館が竣工し、天候に関係なく 相撲が開催できるようになり、相撲の大衆化と隆盛に大きな役割を果たしました。 力塚は、昭和11年に歴代年寄の慰霊のために建立された石碑です。この時に この場所に玉垣を巡らせ、大正5年(1916)に建てられた角力記と 法界万霊塔もこの中に移動しました。 現在は、相撲興業自体は新国技館に移りましたが、力塚を中心としたこの一画は、 相撲の歴史が76年にわたり刻まれ、現在もなお相撲の町として続く両国の姿を 象徴しています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)『両国物語』(墨田区観光協会発行)にはもう少し詳しい歴史が載っている。 【江戸の大相撲は、寛永元(1624)年四谷笹寺境内で明石志賀之助が打った 6日間の興業が最初と伝えられている。以後、深川八幡宮、神田明神など、 場所を変えて行われたが、”勧進相撲”が回向院で初めて打たれたのは、 明和5(1768)年である。 大相撲興業はやがて江戸一の盛り場、両国の回向院境内で興業されることが 多くなり、天保4(1833)年から年2回の定場所となった。以来、小屋掛け (興業直前に造り、興業が終わればただちに取り壊す)による”回向院場所”が 続くことになる。】ふんふん、つまりは江戸の中で巡業が行われてたようなもんかな。最初は武家地としてスタートした本所両国は、のちには見世物小屋なども建ち並ぶ一大繁華街へと発展した。見世物にもいくつかの系統があるらしく、曲芸のような運動系、からくりや各種細工の工芸系、それから舶来の動物を見せる動物系。現代風に言うなら、サーカスや人形の館や工芸ミュージアムや動物園などの各テナントが入ったテーマパークみたいな感じ?杉浦日向子先生の『百日紅』にも両国の見世物小屋が登場する。この中に出てくるのは、「大力女」と「蛇使い女」。日向子先生は彼女らに「ここのものはみ~んなウソ!!」と言わせているので、高い技術を持ったホンモノの他にも怪しげな見世物も混じっていたらしい。して、大川沿いには回向院での勧進相撲を描いた絵が展示されていたので、そちらを先にご紹介しましょう。 ↑こちらが「勧進大相撲土俵入之図」。土俵以外はギャラリーも力士もぎゅうぎゅう詰め。観客席からはみだしちゃってる人もいます↓。 観客は男しか描かれてませんね。江戸期の相撲興業は、なんと女性は見物できなかったんだそうな。そしてなぜか、土俵の下にいる力士たちは密着してます。お色気顔の力士がぴったりくっついてる図を見て、なぜだか無性に腹が立ったわたくし・・・↓。 お次はこちら↓。「東都両国回向院境内相撲の図」。 こちらもギャラリーがびっしり。んで、こちらが立川斎国郷「両国大相撲繁栄之図」↓。 こちらは外観を描いているので、勧進相撲全体の様子がうかがえます。この絵の左側に描かれているのがメイン会場だな↓。 これが『両国物語』の解説にある「小屋掛け」だろうな。3階建ての桟敷にもびっしり人がいる・・・これを興業の都度造っては壊し、って大変な作業だよな。屋根はないので、雨が降ったら興業は中止したんだろうか?で、画面中央にあるのがこちら↓。 「日本一」の酒樽が高く積まれている。シャンパンタワーならぬ酒樽タワーだと思って、ニヤニヤしながら写真を撮ってました。酒樽タワーのてっぺんにはお頭つきのタイが載ってるし、回向院山門の外まで年末のアメ横ばりの大混雑。江戸期の勧進相撲の盛況ぶりがよくわかります。と、こんな感じで現在も両国は相撲の町だけど、その歴史はここ回向院に由来するものだったようです。力塚の大きな石碑の斜め後ろにも石碑がある↓。 この法界万霊塔は、現地には何も解説はなかったけど、墨田区のサイトによると大正5年5月に初代梅ヶ谷が建立したとある。法界万霊塔のところまで行ってみると、力塚の裏手にも碑などがあってぐるっと一周できるようになっていた。 これは昭和14年に建立された回向院相撲記。 【江戸勧進相撲が記録で判明した最初の場所は貞享元年(1684)深川八幡宮 境内である。其後、新材木町杉森稲荷、浅草御蔵前八幡神社、芝神明社、 本所回向院、市ヶ谷八幡宮、芝西久保八幡宮、市ヶ谷長龍寺、深川三十三間堂、 本所一ツ目八幡宮、茅場町薬師、芝愛宕山、神田明神と転々したが、天保4年10月 (1833年)から明治42年6月(1909年)に国技館が建設されるまで76年間 に亘って回向院境内が本場所の開催地となっていた。 其後昭和29年9月蔵前国技館完成とともに財団法人日本相撲協会はこの地を去るに 当り力塚は残して永く先人の徳を慕い且大相撲回向院時代を偲ぶため、力塚修復祭祀に 際し之を記す。 昭和38年9月24日 財団法人日本相撲協会】相撲の歴史は存外に古い。もとは宮中行事として「相撲節会」(すまひのせちえ)が行われていたそうで、相撲に関する最古の記録は神亀3年(726年)・・・興福寺の東金堂が建立された年です。(「春の寛永寺(6)」参照」つまり、本ブログでもすっかりお馴染みになってしまった聖武天皇の時代ですね(笑)。この頃が節会の成立した時期と見られているらしい。相撲節会は平安時代まで続き、承安4年(1174)で廃絶。が、相撲そのものがなくなったのではなく、武家社会で引き続き行われていた。信長様が相撲好きだったという話は有名ですね。安土には「近代相撲発祥の地」として、「相撲やぐら」が復元されてるしね↓。 現在の大相撲は宮中行事でも武家社会での相撲でもなく、回向院などで行われたような「勧進相撲」の流れを汲むものだという。にほんブログ村
2014年05月16日

牛島に運ばれた遺体は、20間(約36.4m)四方の穴に埋められた。36mの穴に2万2千が埋まるか?いやでも、焼死体が多かっただろうから多少サイズは小さくなってたカモ・・・いや待てよ、大火の犠牲者は焼死だけじゃなく、大川をはじめとする水辺での死者も相当数いたはずだしな。火から逃れようと堀や川に飛び込んだものの、おそらく石垣だったら垂直なラインじゃなく下方が張り出してるから、石垣に激突して死んだ衆も多くいたようでね。あと、溺死もいるしね。とか考えてたら、今朝チャリで走ってる時に「この30m先から一方通行」の標識を見つけたので、そこまでの距離を見やって思わず穴のサイズを目測しました(笑)。結構、デカいね。ただ、万単位の人間が収まるものか・・・かなり深く掘らないと、難しいだろうなあ。回向の任に当たったのは増上寺。明暦当時の立場を考えたら、適任だな。寛永寺が徳川の菩提寺となるのは、家綱・綱吉が続けて寛永寺に葬られて以降の話だからね。(「上野第一編(4)」参照)幕府は寺社奉行を増上寺に派遣して大火の犠牲者の法要を営むように命じ、300両の経費もあわせて下賜。念仏堂や庫裏が建てられ、埋葬塚の近くには金銅のお地蔵様も置かれた。無縁寺と呼ばれたこれが、回向院のスタート。2月26日からは増上寺23世遵誉(じゅんよ)上人貴屋(きおく)が一山を率いて盛大な法要を行った。貴屋は小石川智香寺の信誉上人貞存を無縁寺の住職に指名。貞存は貴屋を開山に戴いて、みずからは2世を名乗った。貞存は武家の出身でのちに出家した人らしいが、無縁寺・・・というか埋葬地が完成するまでの間、山と積まれた死体のある牛島に簡素な小屋を設けて、そこで昼夜を問わず鉦を鳴らしながら死体の山の前で何日も念仏を唱えていたという。万を超える死者の宗派はそれぞれ違っていたので、はじめ諸宗山回向院無縁寺と称し、のち増上寺に組み込まれて山号を国豊山にあらためた。現在ではまた元の諸宗山に戻したみたいだけどね。『明暦の大火』に掲載されている『むさしあぶみ』の絵を見ると、土饅頭どころじゃないくらい高く盛られたデカい土の塚が描かれている。茶碗の深さと同じくらいご飯をぺたぺたと盛り上げたお茶碗の真ん中に箸をまっつぐ突き立てた画をご想像ください。茶碗部分を除いたあれのデカいバージョンが埋葬塚の形状です。無縁寺ができると、毎月18日・19日の大火発生日、つまり犠牲者の月命日には江戸の庶民がこぞって参詣に訪れ、塚に五輪卒塔婆を並べたり声高に念仏を唱える姿などが多く見られたという。大火の後には大雪も降り、まともに寒さをしのげる家もない状況で凍死する者も出たらしい。誰もが不安と絶望で失意のうちにある中で、幕府は炊き出しやインフレの抑制など様々な手を打った。先代の家光時代の重臣たちが家光に殉死せず生き残ったことは大きなプラスになったと思う。中でも、松平信綱の冴えわたる頭脳と機転は随所で大活躍をした。戦国を好きになって最初の頃は、戦国はホントに層が厚いなあ~と思っていたけど、あの時代は厳しい環境の中で自分の中に眠る能力を最大限発揮して奮闘しなければ生き残れなかった。智恵伊豆・信綱ももともと頭のいい人ではあったんでしょうけど、大ピンチにこそその能力が余すところなく生かされたんだから、やっぱり時代が人を育てるんだろうな、って思うようになった。名だたる武将や大政治家が現代の平和な日本に生まれていたら、案外ぱっとしない平凡なサラリーマンで終わったかもね(笑)。いやいや、平和が悪い訳じゃないですよ、もちろん。さて、そういう信綱率いる幕府は、大火の後処理をする一方で大火以前から構想のあった江戸大改造に着手した。多くの大名家や寺社、それから町方も移転されることになり、防火のために道路を拡張するなど、防災にも注意を払った都市計画が次々と実行された。しかし、これまでの江戸市中の範囲ではすでに飽和状態となっていたのに、「城の近くから出ていけ」と言われたところで、どうしようもない。そこで登場するのが、大川を挟んだ対岸にある本所周辺。『江戸東京地形の謎』(芳賀ひらく/二見書房)によると、7000年前ころの縄文時代には今よりも海面が3mほど高く、低い土地である本所なんかはすっぽり飲み込んでかなり北の埼玉あたりまで巨大な入り江が広がっていたという。海岸線が後退するにつれて、北から次第に陸地となり、また入り江に注ぐ河川が運ぶ土砂の堆積により、陸地化が加速されたそうな。明暦の頃には陸地部分がだいぶ増えていたものの、寛永19年(1642)頃の古絵図を見ると、本所には一部住居なども描かれているが、「田」が多い。江戸博で買った復刻地図の中には寛永期のものと明暦のものがあるんだけど、後代の地図に比べると簡素なもので、どちらも大川の東は絵図に描かれていない。つまりはその程度の土地利用しかされてなかったんだろうけど、明暦以前はまだ大川の東は下総国だったことも関係してるのかもしれない。全然関係ないけど、西の方の旧国名って筑前・筑後のように前後の国名が多いのに、なんで総(ふさ)の国は上下なんだろう?ってふと疑問に思いました。うう?でも毛野(けぬ)の国も上野(こうずけ:群馬県)と下野(しもつけ:栃木県)だしな・・・東国は上下方式なのかと思ったら、上下の付く国名は総の国と毛野の国しかない・・・仕事中にとある場所に電話をかけたところ、えらい長く待たされたので待ってる間、ネットで検索してみました(←まじめに仕事しろよ)。どうも、上下方式と前後方式に分かれてる理由はわかってないらしいんだけど、今までそんなの考えたこともなかったので、ちょっと面白いなと思いましたま、それはともかく、榛稲荷神社の古碑には「総国当亀澤村」ともあったし、確かに古くは大川の東は総の国に所属していた。それを幕府が接収したのが大火の翌年の万治元年(1658)ごろで、さらにその翌年には排水工事が始められたという。やっぱし、かなり水っぽい地域だったんだな。回向院のすぐ南には、東西にまっつぐ延びる細い川がある。事前に調べている時、この川と垂直に交差する川なんかもあることを知った。見るからに人工的な直線で、堀の役目を果たしていたのかと思ったら、これは排水の役目もあったらしい。排水工事は寛文3年(1663)のスカイツリー付近から大川へと通じる源森川の開削で終了となった。本所の干拓には掘割工事で出た土砂を当てたが、それでも足りなかったらしい。相当広い地域の工事をしたってことだよな。万治3年(1660)にはそれまで整地にあたっていた2人が本所奉行に任命され、宅地化が着々と進められていった。古くは海だった地域なら、真水は出たのか?と思ったら、万治2年に亀有上水が本所の武家屋敷の飲料水として引かれたらしい。万治3年には松平綱吉(のちの徳川綱吉)が本所に屋敷地をもらって蔵屋敷を建てたので、輸送に関わる商人なども移り住んできた。寛文元年(1661)はひとまず干拓が終了したようで、この年から武家屋敷の建設ラッシュが始まった。もともと本所の干拓は武家地とする目的があったので、初めのころは町方が移転してくるのは幕府の再開発によって追い出された町がほとんどだったという。それでも、大火から5年が過ぎる頃には浅草の9町を上回る14町が本所に成立したという。そして、おそらくこの頃に下総国から武蔵国に所属が変わったものと思われる。とゆーことで、前々回両国付近は意外に歩きやすかったと書きましたが、歴史を知ればそれも道理。初めから大規模新興住宅地として開発された土地だったからのようですね。ウィキペディアによると、無縁寺ができた場所はそれまでは処刑地だったとある。江戸の外れにあった本所エリアは、水っぽくて草ボーボーのさみしい土地だったのかもしれないと思った。が、空前の大災害となった明暦の大火はさみしかったイナカの本所を一新させ、江戸随一の繁華街を作り上げた。ここまでの記事でも色々な事を書いてきましたが、本所両国を構成する主な要素がこれで出揃いました。本シリーズもぼちぼち終わりに近づいてきましたが、この後も主要構成要素が顔を出しますので、皆様がそれぞれに脳内メーカーならぬ本所メーカーを作り上げて歴史が作り上げた両国をお楽しみいただければ嬉しいです。にほんブログ村
2014年05月14日

明暦3年(1657)1月18日の出火から始まった明暦の大火は、3日間の火事。山火事みたいに長々延々と燃え続けた訳じゃありません。でも、大変な規模の大火災となりました。だいたいどの辺が被害にあったのか?と思って今回読んだ『明暦の大火』(黒木喬/新潮社現代新書)などを基に図にしてみました。 ものすごく大雑把ですけどねまあ、こんな感じで江戸城の周りは驚くほど綺麗に焼けたようです。火の進路は風向きによるものですが、それにしてもずいぶんと効率よく焼けたもんだと感心するほどです。『明暦の大火』によると、江戸では次のどちらかの条件で大火が発生したそうな。 ・冬から春さきに北ないし北西の冷たい季節風、つまり「空っ風」が 吹きつづけ、数十日ものあいだ、一滴も雨が降らないばあい。 ・春さき、または秋口、日本海を通る強い低気圧のため「春一番」と 呼ばれる南風が吹くばあい。関東にお住まいの方は、今も江戸期と気候条件が変わってないことに気づくでしょう。このうち、明暦の大火はひとつめの条件に合致するそうな。山川健次郎氏の分析によると、江戸の火災には季節的な傾向があるそうで、太陽暦での7・8月には一件も火事が起こっていない。9月以降火災の件数は増え3月が発生件数のピーク。4月からは次第に件数が減っていくという。明暦2年の11月からは江戸では雨が降っていなかったらしく、明暦3年は正月早々、元日、2日、4日、5日、9日と火事が相次いだ。して、大火前日の1月17日は風が強く、翌18日朝頃にはさらに風速が増したらしい。 【不思議なことには出火の確率と風速との関係はあまりないが、延焼速度とは 関係が強く、風速が毎秒7m以上になると飛火が多くなるので大火になりやすい。 (中略)この日の午後から翌19日の夜までの北西風の平均風速は毎秒27mに 達していたであろうともいわれている(荒川秀俊『災害の歴史』)から、まさに 小さな台風なみであった。】 (『明暦の大火』より)極度の乾燥と強風。こうした条件の元で、まずは18日の昼頃、当時は本郷丸山にあった本妙寺付近から出火。湯島・神田をのみ込んだ火は風に乗って東へ、さらに南へ進み、海をも越えて佃島まで火が飛んだ。当時は防衛上の観点から大川にはずっと北の千住にしか橋がかかっておらず、逃げ場を失った人々が多く火にのまれた。中でも浅草橋と霊厳島では大惨事となった。日が暮れてもまだ火勢はおさまらず、昼のような明るさだったという。16歳の将軍・家綱は夜になって江戸城二の丸の櫓に上り、火事を検分したそうな。日が変わった19日の午前2時頃になって、ようやく第一陣がおさまった。しかし、ほっとしたのもつかの間、今度は11時頃に小石川伝通院付近から出火。小石川といえば後楽園、後楽園といえば水戸の黄門様のお庭。この時はまだ頼房が水戸家当主で、頼房・光圀ともに江戸にいた。第二陣の火は水戸屋敷に入り、焼け出された28歳の光圀は駒込の別荘に移り、そこで『大日本史』の編纂を始める。水戸屋敷を焼いた火は、続いて多くの著名人を被災者にした。 ・千姫(家康の孫) ・鷹司孝子(家光の正室) ・松平綱重(家綱の弟。6代将軍家宣の父) ・松平綱吉(のちの5代将軍) ・酒井忠清(老中)などなど・・・ 智恵伊豆・松平信綱の屋敷も含め、多くの豪華な大名屋敷も灰塵に帰した。江戸城には幕閣たちが詰めていた。下っぱたちはさかんに寛永寺に家綱を避難させるべきだと言ったが、保科正之は「本丸に火が入ったら西の丸に移ればいいんだし、そこも焼けたら本丸の焼け跡に陣屋を建てればいいさ。寛永寺に退くなんてとんでもない!!」と叱りつけたという。昼頃には天守に火が入り、地下の莫大な金のヘソクリが溶けた。ついで弾薬庫などにも火が移り、城内は大変な状況になってきた。家綱は本丸から西の丸に動座、重臣たちは徒歩で付き従った。 やがて西の丸にも黒煙がかかるようになり、あまりの状況にさすがの信綱も寛永寺への避難を勧めてみたが、阿部忠秋はひとり 「上様が城を出られても、ワシは、ワシだけはここに残りますぞ!」と頑張った。これを受けて家綱も、「豊後(忠秋)の言うことはもっともである。将軍である私がこの城を出て、一体どこへ行くというのだ」と腹を決め、よそへの避難はとりやめになった。のちに忠秋さんが語ったところによると、紅葉山への動座も考えていたらしい。城内にある大名屋敷が次々と燃える中、上総久留里藩・土井利直(土井利勝の子)の屋敷も炎上。土井家家臣の新井正済(まさなり)は臨月を迎えた妻をかばいながら利直の外孫の屋敷へ避難した。そこで避難生活を送る中、翌月の10日に無事に子は生まれた。それがあの新井白石。出生のエピソードから、白石の幼少期には「火の児(ひのこ)」とあだ名されたという。消えた多くの命あり、生まれる命あり・・・ドラマだなあ。午後4時ころには風が西風に変わり、江戸城全焼はまぬがれた。その分、火は東へ移り、第一陣からここまでで天守を含む江戸城の東側、城外では北から東にかけてが壊滅的な被害を受けた。これだけだったのなら、江戸城の南西から南のエリアは被害を受けずに済んだ。ところが、風向きが変わったちょうどその頃、麹町から新たな火の手が上がった。これにより、ここまで無事だった西から南側にかけてが火にのまれた。こちらも大名屋敷が多く、広島浅野家、福岡黒田家、萩毛利家、赤穂浅野家、佐賀鍋島家、彦根井伊家、仙台伊達家などが炎上。幕閣の阿部忠秋、稲葉正則、堀田正信の屋敷も全焼した。現在の霞が関や日比谷あたりが劫火に包まれていたとご想像ください。豪華な諸邸を焼いた火は海岸へぬけ、保科正之の屋敷も焼けた。さらに増上寺にも移り、僧たちは慌てふためいてそのまま逃げたらしいが、幸いにしてこの頃には風がおさまったので、秀忠の霊廟や本堂などは類焼を免れた。大火の終焉は1月20日の午前8時ころ。『むさしあぶみ』には焦土と化した江戸の光景を詠んだ狂歌がある。 武蔵野は人の入るべき家もなし こもより出(いで)てこもへこそ入れ 丸焼けのつれなく見えしわが宿の 赤土ばかり浮きものはなし多くの方が、元ネタの歌をすぐ思い浮かべるでしょう。これを江戸っ子のセンスと見るか、なかばヤケと見るか・・・わたくしは思わず笑っちゃいましたけどね。本歌がわからない方は、記事のいちばん最後をご覧ください。さて、死亡実数については史料によって差があり、正確な数はわかっていない。一般的な明暦の大火の紹介では、死者10万とされる。が、当時の江戸の町方の人口は28万ぐらいだそうで、ちょっと10万は多すぎるだろ~とする人も多い。『明暦の大火』では、史料としては信頼度の低い『元延実録』の68,430余人という数字が案外実態に近いのではないかとしている。なんにしても、かなりの数の江戸の住人が犠牲になった。前回紹介した解説版には、家綱が身元不明の遺体を収容して供養するように命じたとの解説があったけど、『明暦の大火』にはこんな話が載っている。 保科正之が将軍の代参で増上寺へ赴いた帰り、京橋のあたりに 焼死体が山積みになっているのを見て驚いた。そこで、家臣をやって 様子を見に行かせたところ、浅草門の辺りまで同じような光景が続いている という報告を受けた。正之はさっそく登城して、井伊直孝や老中に 「いや、京橋なんかホントすごくってさ・・・ 浅草門までずっとそんな感じらしいよ。 それだけじゃなく、川筋や堀にも滅茶苦茶死体が浮かんでるってさ・・・ この江戸には公方様がおられるので多くの民が江戸に集まることになって、 その結果、この大火に巻き込まれて焼死したって考えるとかわいそすぎるよ。 その上、数万にものぼる死者たちをこのまま外海へ流し捨てちゃうのも どんなもんだろう? ここは公儀からの命で、死者を一か所に集めて埋葬するようにしたらどうかと 思うんだけど・・・」 一同は正之の意見に賛成して、町奉行に命じて死体を収容させた。さすがは保科正之、と言いたいところだけど、『明暦の大火』の著者・黒木氏はこの大火はどうも幕府による計画的犯行という推測をしておられるようで、上のエピソードの後には 【幕府はあとに述べるように、さまざまな救済事業に手をつけていたが、 町方の死体だけは放置したままであった。保科正之の提議がなければ 「ことごとく外海に流し捨て」たかもしれない。それをとどめえたのは、 将軍のお膝元の江戸に死骸が充満している状態では幕政が批判され、 幕府の威信低下にもつながりかねないという懸念であった。】と続く。まあ、確かにそういう面もあったかもしれないけどね。集められた死体は船で牛島新田へ運ばれた。「牛島新田」の位置が今ひとつはっきりしないんだけど、どうもこれが現在の両国のことらしい。『本所回向院記』によると10万8千人、『回向院過去帳』によると2万2千人とあるそうで、すでにここから数に大きな差があるが、回向院には少なくとも2万2千が葬られたとは考えてよさそうだし、そもそも回向院に運ばれたのは身元不明だったり引き取り手のいない死体。つまりは大火の犠牲者で回向院以外に埋葬された人もいるはずだから、焼死者の実数はもっと多いことになる。ちなみに、以前の本妙寺の記事では大火の原因の説をいくつか紹介してますが、少し勉強した今では「阿部忠秋邸が本当の火元」説や「江戸再開発を目論んだ幕府による放火」説はないと思ってます。阿部忠秋さんなら、幕府の体面うんぬんというよりソッコー切腹してるよ。それに、幕府の中心人物は松平信綱。江戸城以外を綺麗に焼き払うなんて都合のいいことはできないし、実際江戸城は第二陣で大変なことになってしまった。智恵伊豆が将軍を危険にさらすような、そんなことをするワケがない。まあ、結果論からいえば大火以前から手を付け始めていた再開発はやりやすくなった訳だし、本妙寺はお咎めなしとか不審な点も多いのは確かだし、名将とか名政治家と後世に称えられる人は冷酷な面も持ち合わせてはいるけどね。※大火後に詠まれたという狂歌の正解はこちら↓。・武蔵野は月の入るべき山もなし 草より出でて草にこそ入れ・有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなしにほんブログ村
2014年05月13日

吉良義央公の最期に思いをはせながら西へ進むと、通りに出る。下の図だと、「裏門」とあるあたりになります。 が、現地では『吉良供養』に載ってる邸内図を持ちながら同定していて、それによると裏門はもう少し下の方に描かれている。ので、下の写真だと奥のクリーム色の建物のあたりかと思って写真を撮った。 この写真にも、実は史跡案内の高札が写ってます。が、最初は遠目に見てたたけなので気がつきませんでした(笑)。ので、2回目に通った時に撮った解説文を紹介します。 【吉良邸裏門跡 吉良邸の裏門はこの辺りにありました。 赤穂浪士討ち入りの際、裏門からは大石主税以下24名が門を叩き壊して侵入、 寝込みを襲われ半睡状態に近い吉良家の家臣を次々と斬り伏せました。吉良家にも 何人か勇士がいましたが、寝巻き姿では鎖帷子を着込み完全武装の赤穂浪士には 到底適わなかったようです。 広大な屋敷の中で1時間余り続いた討ち入りは、壮絶なものでしたが、吉良家側の 死傷者が38名だったのに対し、赤穂浪士側は2名が軽い傷を負っただけでした。】大石主税(ちから)は、ご存知大石良雄の嫡子。討ち入り組の最年少ながら、内蔵助良雄の子であったために裏門隊のリーダーとなったが、実質的には他の家臣が指揮を取ったという。父と同じく、主税のビジュアルにもフィクションと史実で差があるようで、『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』によると ・創作・・・最年少の大石主税は、15歳の華奢な美少年 ・史実・・・親に似ず5尺8寸(174センチ)の大男だそうで、梅干し的丸顔で小太りの父とともにそれぞれ史実に沿った配役をしたら、ほとんどギャグかも討ち入りに参加した浪士達は預かりの身の時も、また死してなお周囲からおおむね厚遇を受けているようで、ウィキペディアの主税のページを読んでも、破格の待遇だったらしい。吉良義周とは大違い。世の中って、実に不公平だ・・・吉良邸を過ぎて、そのまままっつぐ西へ。次のお目当てと思われるあたりまで来ると、寺とは思えない光景があった。 あれ、この辺だと思うんだけど・・・地図を見てるだけだと、寺の入り口ってどこにあるのかわかりにくいけど、ここは裏口だったらしく、こんな看板が立っていた↓。 ハア?どーゆー不審者よ・・・ここが裏口で入れないなら、ぐるっと大きく回っていかなきゃならんな。え~と、裏口からでなんですが、ここが回向院(場所はこちら)。時代劇などではよく出てくるようなので、ご存知の方も多いかと思います。往時よりは境内は縮小されているようで、今私がいる裏口は南側で正門が北側にあるけど、幕末の頃の入口は西側に付けられていたらしい。吉良義央を討ち取った赤穂浪士達は、義央の遺体を寝所に安置して火の始末もしてから、吉良邸を退出。たぶん、あちこちに付けまくったローソクを消してったってことなんだろうな。その後は槍の先に義央の首を掲げ、主君の眠る泉岳寺を目指す・・・が、その前に追手に備えて一旦回向院で休憩を取ろうとしたらしい。この頃には5時くらいにはなってたと思うけど、回向院には6時開門という決まりがあり、寺法を盾に頑として開けなかったそうな。そのため、浪士達は回向院での休息を諦め、大川の方へ移動してそこで休息を取ったという。時間はクリアしてたけど、どこぞの不届者のせいで裏口からの訪問を拒まれたわたくしも、やむなく入口を求めて浪士と同じくそのまま西へ。裏口のすぐ近くには、こんな表示があった↓。 ほ~、1m切ってるのか。確かに低い感じはするよな。今回は両国駅の南のごく狭い範囲を歩いただけだったけど、全体として意外に歩きやすかった。なんつーの、道がすとーんとしてわかりやすいってゆーか。この付近は、吉良邸やご近所さんも旗本だったりと武家屋敷も混在していて、そういう広い敷地は現在では細かく区切られてるという違いはあるものの、大まかな地割は江戸期のものを残しているところが多い。それから、江戸城北側なんかに比べると地形が平坦・・・てか、今回歩いた中には坂が全くなくて真っ平ら。比高があまりなくても丘とか小山があればそれなりに道も複雑になるんでしょうけど、起伏がないためか地形の制限を受けずにいい道が通ってるのかな、と思った。まあ、もう少し江戸城に近ければこういう道にもならなかったかもしれないな。何年か前、江戸城鎮守の山王社へ初もうでに行った時なんかはチョ~歩きにくい道で、なんだこの道・・・って思ってね。あの時はそれがどういうことなのかわからなかったけど、今にして思えば城下ならではの道だったんだな。この辺のお向かいにはこんなものがあった↓。 あれって、灯篭の台座だよな・・・寛永寺であれのビッグサイズをさんざん見てきたから、すぐわかる。けど、建物はフツーの民家っぽいけど?なんなんだ、ここ・・・と思ったら、 あ、なるほど・・・お寺さんだったのねこの大徳院も、幕末頃の絵図には今と変わらない場所に描かれている。この先の道に出たところで、北に向きを変える。途中、住居表示板があったので見てみたら、「吉良邸裏門跡」も書かれていた。なにそれ、そんなのあったんだ~。まあ、もう通りすぎちゃったしな。しょうがないよな。と、ここでは通過しましたが、その後で見忘れた場所があるのに気がついて、戻った時に裏門同定地付近をよく見たらちゃんと高札があったという訳です。木の立て札だから、ちょっと地味なんだよね~。さて、再び東へ向きを変えて回向院のあるブロックを回り込んでそろそろ寺の入口が見えてもいいんじゃないかと思った頃、こんなものが出てきました↓。 なんだ、これ?まさかこれ? これでした(笑)。いちおう唐門ふうって言うのかなにしても、歴史のある寺の割に大胆なデザインだこと・・・この入口には碑文もあったんだけど、ちょっと読みにくいし文章もイマイチなので高札の方から由来を紹介しましょう。 【回向院 明暦3年(1657)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事) が起こり、犠牲者は10万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが 身元不明、引取り手のない有様でした。そこで4代将軍家綱は、こうした遺体を 葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり 弔うように念仏堂が建立されました。 有縁・無縁、人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという 理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震、関東大震災、 東京大空襲など様々な被災者、海難事故による溺死者、遊女、水子、刑死者、 諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。】「回向院」という寺名からしてフツーじゃないので、何の回向かと思ったら、明暦の大火に由来するお寺だったんですね~。明暦の大火は火事の多い江戸でも甚大な被害をもたらした大火災であり、「江戸の三大火」でも筆頭格。ゆえに、世界三大大火のひとつとも言われる。上記リンク先の本妙寺へ行った時はまだ明暦の大火のことを知らず、記事を書くにあたって軽くウィキペディアなどで概略を読んだだけだった。が、江戸を歩けばあちこちで明暦の大火がらみの話も多く出てくるので、テーマを明暦の大火に絞った記事をそのうち書きたいと思っていた。ので、今回ちょっと頑張ってついでに明暦の大火の記事をまとめようかと思って本も1冊読んだものの、諸事情により断念しました。ただ、あちこちで大火の話も出てくるので当面はその都度関わりのある部分だけ紹介していこうかと思います。けど、今回は文字数が残り少ないので次回ね↓ランキング参加ちう。ぽちっとクリックよろしくねにほんブログ村
2014年05月12日

大川屋さんを出て、本所松坂町公園前のルートに復帰。これが大川屋さんのあるブロックを北東から見たところ↓。 現在住宅が建ち並んでいるこの場所に、かつては東西に長い吉良屋敷が建っていました。画面の右はしに小さくオレンジの郵便局の看板が写ってますが、だいたいこの辺りが台所で、ウィキペディアには 【富森正因の証言によると礒貝正久が軽い者を捕えてろうそくを出させ、 真っ暗だった吉良邸内を明るくしたという。後に取り調べの時にこれを聞いた 大目付仙石久尚も礒貝の機転の良さに感心したという。】とあるが、『吉良供養』によると菓子蝋燭役人が台所で浪士に捕まって命乞いをしたところ、「早々に菓子蝋燭出し候へさなくば首討ち申すべし」とローソクだけでなくちゃっかり菓子も出させて、殺人現場で菓子をむさぼる浪士の姿が描かれる。凶行のさなかに菓子を食うって異様な気がする・・・が、私はもちろん人を殺したことも、戦に参加したこともありませんが、案外人間て神経が高ぶる時ほど頭の中は冷めているもので、別に人を殺した手で菓子を食う浪士達を鬼!悪魔!!と非難する気もないのです。「ジジイ、頭おかしいんじゃない!?」と言われようが、結構人間ていろんな面を持ってるもんですよ。むしろ、自分の中にもそんな異常さが眠ってるなんて露ほども思わない人の方が、いざって時に抑制が利かなくなったりするんじゃないかなって気がするんだけどね。本所松坂町公園の周辺では、毎年12月に忠臣蔵のイベントが開かれるそうな。まずは吉良祭。その名の通り、吉良義央と家臣たちを供養するもので、昭和48年に始まったとのこと。それから「元禄市」として、地場産の衣料品、物産などの大売り出しに加え、ちゃんこ屋台が出たり和太鼓の演奏もされるなど、多くの買い物客で賑わう写真が『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』に載っている。この2つは日を限定せず、土日の開催らしい。また、義士祭。こちらは毎年12月14日の討ち入りの日と決められており、本所松坂町公園内で赤穂浪士を供養する神事だそうな。12月14日なら吉良義央の供養の神事にするべきじゃ・・・って思うのは私だけ?さて、ここでの用事は済んだから、佃煮を買ってから移動しよう。で、本所松坂町公園となりの「小松屋」さんへ向かう。お店の入口にも色々貼られてて、何の佃煮を買うかまず店の外で悩む。ああ、江戸前の佃煮とか買ったことないけど、高いんだろうな・・・買って帰ると言った手前、高くても買うしかない。佃煮の貼り紙の他に、たしか「歴史カフェ」みたいな紙も貼ってあったな。中へ入ってみると、品数は多くないけど、地元みやげの小物とか割に色んな種類のものが置いてあった。ここまで参考にさせていただいた、墨田区観光協会発行の『両国物語』と『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』がここにも置いてあった。店内には誰もお客さんはいなかった。入口からゆっくり見て行って、佃煮の手前にある棚で「なんだろう、これ?」と足を止めて見ていたら、お店のお兄さんに声をかけられて、色々教えてくれた。 【煎酒(いりざけ) 日本酒に梅干と花がつおを入れ、ことことと煮詰めた江戸時代の食卓には 欠かせなかった調味料です。有機肥料で栽培した紀州南高梅の質の良い 梅酢を使用し、塩分は一般的な醤油より四割も少ない、まろやかな調味料に 仕立てました。かつお節の旨みと梅干しの酸味と塩けが、いろんな料理に よく合います。】 (銀座三河屋のリーフレットより)お兄さんは、しょうゆの代わりに江戸で使われていた調味料だという。あれ?でも甲府の武田家には信玄が生きてた頃から野田のしょうゆが納められてたような・・・そう聞き返したら、「でも、庶民にはまだ簡単に手に入れられるものでもなかったでしょうしね」と言われた。なるほど、確かにそうかもな・・・まだこの後ももう少し歩くし、沢山のみやげや江戸博で買った地図で荷物も重かったけど、初めて見たので気になってしょうがない。びん詰めの調味料とか持ち歩きたくないけど、せっかくなので小びんのを買うことにした。帰ってから早速開けてみたけど、美味しかったッス。味は梅干し風味の麺つゆって感じなんだけど、市販の麺つゆとかドレッシングは味が単調なのに対し、こちらは飽きが来ないとゆーか、かなり気に入りました。で、本命の佃煮・・・小さい木のわっぱに入ってるんだけど、やっぱり高かった一番お値段張ったのが、あさりとあなご。個人的にはアナゴさんの方が好きだけど、ここはやっぱり定番のあさりでしょう。後日、このあさりをおにぎりにしたけど、あさりも佃煮もどちらも苦手な私が大変美味しくいただくことができました。最近ではコンビニのおにぎりも豪華なものが増えつつあるから、江戸前のあさりの佃煮おにぎりなんか出したら売れるんじゃないか・・・そんな風にも思いました。あさりのお値段札に「大潮限定」とか気になる言葉が書かれていたので、どういう意味か聞いてみたら、大潮の方があさりが浮き上がって大きなものも取れやすくなるんだと。ほお、なるほど~。世の中には知らないことが沢山ある・・・こちらの小松屋さんのお兄さんは、品のいい若旦那といった風情。後から地図を見てたら、大川の向こう側にも佃煮の小松屋さんがあるようなので、松坂町公園の隣のは支店なのかもしれない。このお兄さんが従業員じゃなく、婿さんでもなかったら江戸っ子ってことになるけど、だからと言ってどの佃煮を買おうか悩んでいても「えい、早く選ばんかい!こんべらばあめ!!」とせかされる事もないので、安心してください(笑)。あさりの他、海老の佃煮があまりしょっぱそうでもなかったのであさりと海老と煎酒お買い上げ~。包んでもらってる間、店内を見渡すと和スイーツなども店内でいただけるらしい。この時はまだ後の予定があったし、なるべく早く帰りたいと思っていたので買い物だけで終わらせたけど、とっても優しい若旦那(←決めつけ)だったので今度行った時に誰もいなくて時間に余裕があれば、若旦那とおしゃべりしながら休憩するのもいいかもな帰り間際、若旦那が付近の地図をくれた。「本所Wデビュー(9)」にも少し書いてますが、付近に相撲部屋が結構あるのを知ったのはこの時。当然この付近ではお相撲さんもよく見かけるので、若旦那が言うには少し前に自転車でお相撲さんが走ってくると思ったら、なんと横綱(白鵬)だったそうな。わざわざ相撲部屋を観に行くほどの時間と体力の余裕はないけど、小松屋さんのすぐ近くにもいくつか部屋があると教えてくれたので、通りがてらちょっと見ていこうかな・・・若旦那にさよならをして、小松屋さんを出る。本所松坂町公園の脇の道をちょっと北に行くとあるのがこれ↓。 何の変哲もないマンション風ですが、こちらが時津風部屋。ここには案内の高札もありましたが、長いので割愛します。本所松坂町公園の前に戻って、さらに西に進む。 現在ではフツーの住宅街。ここは、下の図で緑の★の位置にあたります。 多少のズレはあるかもしれませんけどね。★の下にあるグリーンの区画が義央公の部屋。で、部屋の下に赤丸を付けましたが、これ、冨森家所蔵の吉良邸平面図には「上野死骸」と書いてあるんです。義央の部屋には近いけど、義央は自室で殺された訳じゃありません。裏門の近くに、「柴小屋」と書き入れましたが、ここが殺害現場。「柴小屋?屋外の炭小屋じゃないの?」って思った方もおられるかもしれませんが、『吉良供養』によると、屋内にある柴小屋が正しいとのこと。『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』では「茶道具収納部屋」だとする。炭小屋というのは浪士側の覚書によるものらしい。午前3時すぎに始まった討ち入りは、1時間ほどで家臣の惨殺は終了した。が、邸内をくまなく探しまわっても肝心の義央の姿が見つからない。空は白み始め、上杉家の加勢も気がかり。このまま義央が見つからなければ、この場での切腹も覚悟したともいう。「忠臣蔵」だとここからがひとつのハイライトなんでしょうが、裏門付近の台所からひそひそと話し声がするので中へ踏み込むとここに2人の吉良家臣がいたのでまずバッサリ(2人とも死亡)。台所にある小屋をまだ調べてなかったので、戸を破ってローソクを差しかけてみても中の様子がわからない。矢を射込んでみると、小屋の中から茶碗やら炭やら狂ったように投げつけられ中から2人の吉良家臣が躍り出るも、すぐさまバッサリ(また2名死亡)。その後は中を槍で突き、義央が出ようと刃向ったところを袈裟懸で斬られて絶命。だから上の写真だと右側のブロックの奥で殺されたはずなんだけど、検分のために赤丸の場所まで引きずられていったのかもしれない。浪士側では吉良義央の顔を知る者がいなかったのか、浅野長矩がつけた額と背中の傷で本人と確認し、さらに吉良家の生き残りにも確認させている。その現場が、上の写真の道の奥あたりと思われる。自邸への侵入者がいないか見張っていたお隣の土屋さんは、浪士達が義央を探す声を聞いて「取り逃がしたか」と思っていたが、「素直に吐かんか、ゴルァァ!」「額に傷ある?傷!」という声が聞こえてきたかと思うと、少し間を置いてからわあっと泣きだす声が聞こえてきたので、その瞬間に浪士達が本懐を遂げたことを悟ったという。享年61歳。義央公へ合掌。にほんブログ村
2014年05月10日

吉良家臣の供養碑のとなりにあるのがこれ↓。 吉良義央の追慕碑。吉良町から寄贈されたものらしいな。最後がこちら↓。 【松坂稲荷大明神由来 『松坂稲荷』は「兼春稲荷」と「上野稲荷」の二社を合祀したものです。 「兼春稲荷」は徳川氏入国後、現今の社地たる松坂町方面に御竹蔵を置かれし当時、 其の水門内に鎮座せしもので元禄15年の赤穂浪士討入り後、吉良邸跡へ地所清めの ために遷宮され、昭和10年に既存の「上野稲荷」と合祀され、当本所松坂町公園 開園とともに当所に遷座されました。】 (現地解説板より)地所清めか・・・わざわざ幕府所有の御竹蔵のお稲荷様を遷すとはね。「本所Wデビュー(11)」にも書いたけど、討ち入り後、吉良邸の敷地はまるごと町人地へ移行している。公園内にある別の解説には、この松坂稲荷は吉良義央を祀っていると書かれている。朱の鳥居をくぐってお宮へ近寄る。 これは、ずいぶんと綺麗にしてるな。それに、この捧げかた・・・確かに吉良義央を祀っているのかもしれない。こちらが社殿の妻↓。 上屋の懸魚↓。 ちょっと略式な感じだけど、デザインが面白い。以上で本所松坂町公園はおしまい。低い扉をくぐって外に出ると、向かいにも小さな神社があり、史跡案内の例の高札が立っている↓。 【鏡師中島伊勢住居跡 中島伊勢の住居は、赤穂事件の後、町人に払い下げられ、本所松坂町となった この辺りにありました。伊勢は、幕府御用達の鏡師で、宝暦13年(1763)、 後に葛飾北斎となる時太郎を養子とします。 北斎の出生には不明な点が多く、はっきりとしたことは判りません。中島家は この養子縁組を破綻にし、実子に家督を譲りますが、北斎はその後も中島姓を 名乗っていることから、中島伊勢の妾腹の子だったという説もあります。 飯島虚心の『葛飾北斎伝』によると、北斎の母親は赤穂事件に登場する吉良方の剣客、 小林平八郎の娘で、鏡師中島家に嫁いでいるとしています。この話は、北斎自身が 広めたようです。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) 北斎ジジイに関しては謎が多いようだけど、『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』によるとこの辺りに中島伊勢の住まいがあったのは確かなようで、伊勢の養子にもなったようなので、この辺で幼少期を過ごしたとは言えるだろう。北斎はその生涯で90回以上も引っ越しをしたとされるが、その住居のすべてがわかっている訳ではないらしい。けど、江戸市中での町人地は限られていたんだし、少なくとも半分くらいは本所界隈に住んでたんじゃないかという気がする。生まれも本所らしいので、本所の道のほとんどを歩きつくしていたかもしれない。で、吉良家臣の小林平八郎さん・・・この方もイマイチ不明な点が多いらしく、フィクションとしての「忠臣蔵」では不破数右衛門と対峙するなど、吉良陣営で最も活躍した剣客として描かれる。が、 【『大河内文書』によれば、平八郎は逃げようとしたところを赤穂浪士達に捕らえられ、 「上野介(義央)はどこか?」と聞かれたのに対して、「下々の者なので知らない」 と答えるも、「下々が絹の衣服を着ているはずがない」と言われ、首を落とされたと している。】(ウィキペディアより)『吉良供養』でもこちらのあえなく首を落とされた説で描かれる。ただし、【この資料は上杉家の編纂したものであるため、山吉盛侍など上杉家家臣の働きのみを評価し、それと相対させて吉良家家臣を貶める傾向があると指摘する研究家もおり】(ウィキより)正反対の説のどちらが正しいのかはわからない。小林平八郎の墓は、ウィキペディアでは2つ紹介されている。1つは中野の万昌院。ここには吉良義央の墓があり、吉良家臣の墓もある。ただ、家臣の墓は供養墓だろうと思われる。前回、「吉良家臣の墓の場所はわかっていない」としたのは、本当の埋骨場所という意味です。もう1つが巣鴨。なんと本妙寺の近くだというじゃあ~りませんか~!今年の夏の墓参りの後に寄ってみるかな。ここの神社は「飯澄稲荷」。その隣には、こんなものがあった↓。 「吉良まんじゅう」?「買い」でしょ~!!吉良まんじゅうの立て札の後ろのベンチには、リーフレットも置いてあった。 これを頂いてから、吉良まんじゅうを求めに大川屋さんへ。和菓子やさんで上生とかも美味しそうだったけど、すでにここまでで沢山土産を買っているので、とりあえず「吉良まんじゅう」とおせんべをお買い上げ~。 きなこ餡とあったけど、ちょっと落花生餡に似た感じだったな。一緒に買ったおせんべは大川屋さんで作っているものではないようだけど、これがチョ~美味かった。『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』にはこんな解説がある。 【吉良邸跡前にある両国大川屋は、明治2年(1887)に創業された和菓子屋で、 名物の黄名粉あんの焼菓子「忠臣蔵の吉良まんじゅう」がおみやげとして、 観光客らに喜ばれている。この両国大川屋の歴代の女将は、昭和9年(1934) に吉良邸跡(本所松坂町公園)が完成して以来、邸内の清掃を欠かさず行っている。】ああ、なるほどね~。たぶん毎日お掃除して、お水とかもきちんと替えてるんだろうな。すごく綺麗にしてたもの。大川屋さんは下の図の青の星の部分にあります。 大川屋さんのあるブロックは、現在では一般住宅が建つ。そして、この区画は吉良邸の建物部分がすっぽり入ると思われます。討ち入り当時の吉良家当主・左兵衛義周(よしちか/よしまさ)については「忠臣蔵(後)」でも簡単に書いてますが、義周の寝間と居室もこの区画内にあり、ここで夜這い・・・じゃなくて襲撃を受けた。若い義周は果敢にも防戦するが、額を斬られた。『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』では肩も斬られ、肋骨は折れていたという。おそらくそこで気を失って、そのためにとどめを刺されずに済んだんだろうな。それでも【事件後に来た幕府の検分役に重傷の身で気丈に応対して、検分役を感心させている】(ウィキペディアより)という。しかし、辛くも助かった義周に対し、幕府の反応は冷たかった。「おめおめと生き残りやがって」とか「当日の対応が不届きじゃ!」とか言われて、元禄16年(1703)2月4日、浪士達が切腹、吉良邸は没収&改易、義周は信濃諏訪藩へ預かりとなることが言い渡される。その1週間後の2月11日には信濃へ発つ。護送の諏訪藩士130人が付いていたが、義周の家臣は2人だけ。荷物は長持3コ、つづら1コというわびしさ。諏訪での幽閉生活は、いちおう高家の出ということでそれなりに大切にされ、たばこも許され、衣服や蚊帳も与えられたという。しかし、【自殺防止のため剃刀すら与えられず、暖をとる火鉢もない部屋で過ごした】(『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』より)といい、諏訪藩士が義周の前に出る時は帯刀は禁止されていたという。宝永2年(1705)からは寝たきりとなり、翌1月20日、20才の若さで死亡。ウィキペディアによると、【義周は「武芸等不得手」と文献に特筆されているように、生来虚弱な体質で病で寝込むことが多】かったという。それでも自ら武器を取って抗戦したのに、世間の風はあまりにも義周に冷たかった。元々長生きできる体質でもなかったかもしれないけど、討ち入りから改易までの心労、厳しい蟄居生活などのストレスが命を縮めた可能性は十分にあるだろう。改易からぴったり3年後の宝永3年2月4日、幕府の検死を終えた義周は諏訪・法華寺に葬られた。諏訪まで付き添っていた2人の家臣、左右田孫兵衛と山吉盛侍は義周の石塔を自然石で立てて欲しいと代金3両を寺に納めたというから、浅野長矩以上にわびしい葬儀だったんじゃないだろうか。 【上諏訪の法華寺には小さな自然石の墓が残っている。檀家から「もう少し大きく 立派なものに替えたらどうか」という提案があったが、住職が墓の中の吉良さんに 聞いたところ「大石(内蔵助)はもうこりごり」という返事が聞こえたといって、 やんわり断ったという。300年を経た今、当時のままの姿で静かに守り 続けられている。】 (『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』より)にほんブログ村
2014年05月09日

浅野長矩による事件を聞いて、綱吉は激怒したといわれる。そりゃ怒るっしょ~。審議はソッコー行われ、かじかわ殿は老中・若年寄・大目付を前に質問を受けた。ここでの争点は、殿中ルール。「吉良は刀に手をかけたか?または抜いたのか?」と聞かれたかじかわ殿は、「いへ、刀に手はかけてませんでした」と答えたそうな。これにより浅野長矩は切腹、お家断絶と決定。吉良義央はルールを守ったことでお咎めなしとなった。 【浅野家では、事件を「喧嘩」と捉え、「片落ち」裁定とし、亡君の遺志を継いで 吉良を討ち、両成敗の鉄則を全うさせようとする急進派と御家再興を望む 穏健派とに二分されたが、元禄15年(1702)7月、弟の浅野大学が 広島に御預けとなり、再興への望みが断たれ、仇討ちへと一気に駆り立てられて いった。】 (『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』より)「喧嘩両成敗」の当時のルールに反するという言い分は一見もっともらしいけど、 【幕府が喧嘩両成敗を殿中抜刀の被害者に適用した例はない。そもそも、松の廊下事件に おいては、浅野が背後から一方的に吉良に斬りつけ、吉良は気を失っているので 「そもそも喧嘩として成立していない」「よって喧嘩両成敗は考慮できない」。】 (ウィキペディアより)・・・うん、確かにそうだよな。 【本件に関する幕府の裁定は浅野長矩の殿中抜刀に対する処罰だけで、これは相手の生死や 傷害の程度・抜刀の理由に関係なく、無条件に死罪となる。これに対して吉良義央は 抜刀はしていないので無罪となる。】 (ウィキペディアより)・・・まあ、当然だよな。しかし一方では、大名の即日切腹は異例なので、遺恨の内容などもっと慎重に取り調べた上で、と意見した幕臣もいた。が、結局は裁定の通りに事が進められた。もしこの時、吉良義央が死んでたら、その後はどうなっただろう?赤穂浪士の口上書には「喧嘩の時に(かじかわ殿が止めたから)吉良を討ちもらしてウチの殿はさぞ残念だっただろうと、も~くやしくってさ~。だからその遺志を継いだだけなんだよ~」とある。しかし、浅野家家臣の誰も長矩の真意は知らなかったんじゃないのか?もし、長矩がイジメにあって我慢できずに「くそっ、吉良のジジイめ・・・殺してやるぅ。どうやったらいいかなあ?」なんて漏らそうもんなら、どんなにイケてない家臣だって「ちょ・・・ダメですよ~!絶対ダメ!!叔父上の例があるでしょう!?」ってさすがに止めただろう。「忠臣蔵」では浅野長矩の切腹のシーンで、腹に刀を突き立てた瞬間に「しばらく!あいや、しばらくッ!!」と大石良雄が駆け付け、長矩が最後の力を振り絞って「ま、待ちかねたぞ、内蔵助・・・」と言って絶命するエピソードが盛り込まれる時がある。が、大石良雄は国許で留守居だったので、電話で連絡を受けて新幹線にでも乗らない限り事件当日に切腹した長矩に会えるハズがない。つまりはこれもフィクションらしいんだけど、誰か家臣が居合わせたところでなぜ事件を起こしたのかは話してないだろう。長矩が真意を話さなかったゆえに、どこにも書かれておらず、真相は歴史の闇の中なのだから。それに、理由を知ってれば口上に「吉良の罪状」を並べ立てたかもしれない。長矩は自分1人の胸に秘めたまま、死んでしまった。長矩を死に追いやったのは、幕府。殿中での抜刀という頭のおかしな事をしたんだからどのみち厳罰は免れないとはいえ、もう少し時間をかけて調べてもよかったんじゃ・・・とは私も思う。だから、仇というなら浅野家臣の仇は幕府なのだ。けど、恨みの対象になったのは吉良義央だった。義央が長矩に殺されてたら、赤穂浪士の不満はどこへ向かっただろう?(もと)5万石じゃさすがに幕府に楯付くことも難しいだろうし、義央が生きててくれたからこそ、浪士は鬱憤晴らしの口実を作ることができたんじゃないのか・・・そんな風にも思える。切腹した浅野長矩の遺骸は家臣が引き取り、【彼らはそのまま泉岳寺へ向かい、同寺で長矩の葬儀を執り行ったが、大名の葬儀とは思えぬ淋しいものだったといわれている。】(ウィキペディアより)ここだけを読むとちょっと気の毒な気もするけど、はっきり言って自業自得でもある。それに、長矩が別のさみしい葬儀を造り出してもいる・・・が、残念なことにそこにはほとんどスポットが当てられない。吉良義央の不運は、浅野長矩およびその家臣との出会いだけにとどまらなかった。『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』による分析には続きがあります。 ●幕府への庶民の不満 綱吉の前半は善政だったが、天和2年(1682)の生類憐みの令以降は おかしくなった。その2年後に堀田正俊が殺された後は大老を置かず、 側用人を重用する「寵臣執政」の様相を帯び始めた。 元禄11年(1698)の勅額火事、宝永4年(1707)の富士山噴火などの 災害が相次ぎ、経済が大きな打撃を受ける。【財政の建て直しを図るため年貢の 引き上げ、悪貨の乱発などが行われ、社会の不平不満が鬱積していた時代で、 赤穂事件は正に胸のすくようなできごとであった。】 ●スケープゴートにされた上野介 【当時のメディアといわれる芝居ではこれを面白おかしく脚色して上演、ヤンヤノ 喝采を受けた。その大半は上野介を悪と見立てた勧善懲悪の筋立てで、後世に確かな 史実の裏づけのない歴史観を伝える元になったようだ。(中略)言い換えれば、 適切な検証もせず浅野内匠頭を処罰し、数々の失敗を重ねた幕府に向けられるべき 民衆の不満の矛先が上野介一身に向けられるかたちとなったのではないか。】こういう面は確かにあるだろう。つまり、事件の起きた時代が悪かった。そして、江戸という場所もアダになった。江戸っ子といえば、「義理人情に厚い」の代名詞みたいなもんだけど、その一方ではかなり辛辣であり遠慮もない。このマイナスの面が、義央を悪役にするのを加速させた。場所と立場をわきまえずキレた浅野長矩、愚かな主君に殉じた忠臣の浅野家臣、そして不満を抱え、かつ刺激的なことが大好きな江戸の庶民。この3者ががっちりタッグを組んだ結果、大悪人・吉良上野介義央がこの世に誕生した。そんな風には思えませんか?さて、この辺で吉良義央公の像のあたりまで来ました。義央公のおわす上屋の先には、こんなものがある↓。 【みしるし洗いの井戸】義央公の御首を洗ったといわれる井戸のようです。ここは当然、覗くでしょう。 あ、あれ?なんかずいぶん・・・当時の井戸を再現しただけ?前々回紹介した、史蹟整備の趣意文には「旧松坂町吉良邸内伝首洗い井戸の所在地たる東両国3丁目18番地の5の旧宅地29坪5合1勺を購入し」とあるので、じゃあ東両国3-18-5ってどこじゃい・・・と思ったら、現在5号は存在しないらしい。うむ、昭和8年の住所だからな(笑)。しかし、『都指定旧跡 吉良邸跡 本所松坂町公園』というリーフレットには【邸内の「吉良公 御首級(みしるし)洗い井戸」を中心に土地を購入し】とある。なら、井戸はずっとこの場所に残ってたってことか?保存工事の結果、ちょいとばかり現代風に味気ないものになっちゃっただけなのかな?吉良義央を討ち取ったあと、浪士達は首のない遺体を寝所に安置し、首は主君・浅野長矩の眠る泉岳寺へと運んだ。あの日、討ち入りがなければ、この井戸の水は茶会に供され、義央は米沢へと旅立っていたかもしれない・・・切ないのう。もっと切ないのが、井戸の隣にあるこちら↓。 討ち入りで無残にも殺された、吉良家臣20人の供養碑です。吉良義央以上に、この方達は世間に顧みられることは少ない。吉良家中には役職などの不明な者もおり、後日死亡した者も含め正確な被害者の数はわかっていない。『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』では38名を紹介しながらも、44人死亡という説もあわせて紹介している。『吉良供養』によると、 【公の調書では死亡16名、負傷23名となっているが重傷で落命する者が多く、 検視後には死亡23名負傷16名と逆転。いずれにせよ、家中の約半数が 死傷した。】だそうな。討ち入りの際、浪士達の間では「刃向かう者のみ斬る」という取り決めがあったという話がある。が、実際は「敵対して勝負仕り候者は三、四人許り、残りの者どもは立合に及ばず、通り合せに討捨て」られたという浪士側の証言もあり、杉浦日向子先生の言葉を借りれば【完全なワンサイドゲーム】でバッサバッサと多くが斬られた。浪士側には死者はいない。そしておそらく今も、ここで殺された吉良家忠臣の墓の場所はわかっていない。これを理不尽と言わずして何と言う・・・にほんブログ村
2014年05月08日

公園内は八重桜がちょうど見頃だった。 吉良邸の見取り図などの展示の後には、こんなものがある↓。 【吉良町甚句 三州吉良町甚句で読めばヨー 国宝建物金蓮寺 七福神の宝珠院 仁吉の墓は源徳寺 吉良の殿様華蔵寺で 黄金堤か陣屋跡 星の勘左は通し矢で 尾崎士郎の吉良常は 義理と人情で花咲かせ 花で飾った大太鼓 吉田神社の秋祭り 茶摘み娘の手まねきで 宮崎海岸来てみれば ノリつむ船のろもゆるく 汐の香ただよう湯の里は あつい情けの ヨーホホイ 吉良の町 ヨー 平成23年3月20日 吉良町立吉良中学校 吉良町長 山本一義様 作 本所松坂町 大川平三郎様 唄 本所松坂町 市川博保様】吉良町の名所などを盛り込んだものらしい。吉良町と両国では義央つながりで親しくしているみたいだな。最後に「本所松坂町」のお2人の名前がありますが、現在松坂町の名称はありません。この場所も「本所松坂町公園」となっているものの、現在の町名じゃない。けど、あえて「松坂町」としているのでしょう。その次がこれ↓。 何かと思ったら、「浅野内匠家来口上」だった。討ち入りの際、箱に入れたこの口上を青竹に挟んで吉良邸の玄関前に立てかけたという。ここにあるのは原文ですが、読み下し文で紹介します。 【去年三月、内匠儀、伝奏御馳走の儀に付き、吉良上野介殿へ意趣を含み罷りあり 候ところ、御殿中において、当座遁れ難き儀御座候か、刃傷に及び候。 時節場所を弁えざる働き、不調法至極に付き、切腹仰せ付けられ、領地赤穂城 召し上げられ候儀、家来共まで畏れ入り存じ奉り、上使御下知を請け、 城地指し上げ、家中早速離散仕り候 右喧嘩の節、御同席御抑留の御方これ在り、上野介殿討ち留め申さず、 内匠末期残念の心底、家来共忍び難き仕合いに御座候。 高家御歴々に対し、家来共鬱憤をさし挟み候段、憚りに存じ奉り候えども、 君父の讐ともに天を載くべからざるの儀、黙止しがたく、今日上野介殿御宅へ 推参仕り候。 ひとえに亡主の意趣を継ぎ候志までに御座候。私共死後、もし御見分の 御方御座候わば、御披見願い奉りたく、かくの如くに御座候 以上 元禄十五年極月日】との文章の後に、「浅野内匠頭長矩家来」として大石内蔵助以下浪士の名前が並ぶ。・・・にしても、「御同席御抑留の御方これ在り」はつまり、「かじかわ殿があん時止めたからあっっ!!」って言ってる訳だよね(笑)。その松の廊下の場面の絵が口上の隣にありました↓。 拡大↓。 刀を振り上げる長矩を羽交い締めにして二人羽織状態になってるのがかじかわ殿なのか、あるいは「ああ、あんさん、何しますのん!!」て顔して右から駆け寄ってるのがそうなのか・・・右だったら面白いのにな(笑)。 何にしても、ここがすべての発端。 事の一部始終をそばで見ていたかじかわ殿(梶川頼照)は事件の経緯を『梶川日記』に書き遺しているそうで、ウィキペディアにその現代語訳が載っている。まあ、ここでは浅野長矩に刑事責任能力があったかどうか・・・つまりは心身喪失状態だったのかが問題だけど、浅野長矩が義央に斬りかかる時、訳のわからない言葉を叫んでいたという話がある一方で、かじかわ殿は長矩が「この間の遺恨を覚えているか」と言って斬りかかったと言い、取り押さえられた後は「上野介には恨みがある。殿中であること、また今日は儀式であることに対して恐れ多いとは思ったが、仕方なく刃傷に及んだ。討ち果たさせてほしい」と言っていたと書いているらしい。かじかわ殿の話を見る限りでは、長矩はそれなりの正気を保っていたように思われる。が、過去の記事でもしつこく書いたように、長矩の行動はクレイジー以外の何者でもない。わたくし的には、この異常さは精神を病んでたんじゃないかと思うのだけど、かじかわ殿の証言もあるしな・・・遺恨があったにせよ、時と場所を考えろっつーの。おのれの立場を何と心得るか!やるならこっそり夜討ちにするとかさ・・・(夜討ちもいけません)実は、この傷害事件の21年前に、長矩の母方の叔父が同じようなことをしでかしている。犯人は、鳥羽藩主・内藤忠勝。被害者は、丹後宮津藩主・永井尚長。延宝8年(1680)6月26日、4代将軍家綱の法要が増上寺で営まれた。この席で、方丈口番の内藤忠勝が法会奉行の永井尚長を刺殺するというこれまたクレイジーな事件を起こしている。これは内藤忠勝の乱心とされ、忠勝は翌日に切腹、お家は断絶。ウィキペディアには【忠勝との不和が原因とも、逆に尚長が忠勝に遺恨をもって切りかかったが返り討ちにあったという説もある】とある。『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』ではこの点について、 【ともに刃傷事件を起こした叔父と甥、どうも短気で我慢することができない 癇癪持ちという性格が共通しているようだ。】と分析する。まあ、事件の下地としてそういう性格があったとは言えるだろうな。しかし、叔父の家が断絶するという出来事を間近に見ていながら、なおかつ自分も同じことをしでかすとは学習能力が・・・『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』による、松の廊下の刃傷事件の史実の分析はこんな感じ。 ●その1 刃傷事件の3年前にも吉良義央は斬りつけられている。 元禄11年(1698)に津和野藩主・亀井茲親が饗応役となった際、 吉良義央が指南役であったが、亀井茲親は有職故実のこまごまとしたしきたりに ブチ切れ、打ち合わせのあった伝奏屋敷で義央に斬りかかった。 この時は亀井茲親の家老が主君を止めて済んだが、義央はこれを厳しく問い詰めた。 義央の追及に対し、家老が賄賂を贈って丁重に詫びをしたため、 大事にはならなかった。 場所が伝奏屋敷だったこと、家老の処置がよかったことが功を奏したが、 これがもし殿中であれば切腹・御家断絶は免れなかっただろう。 このように、饗応役とは難しく、また骨の折れる役目だったようだ。 ●その2 浅野長矩が饗応役を仰せつかったのは2度目。 1度目は17歳で、この時も吉良義央の指南を受けている。1度目は大石良雄の 叔父である江戸家老が補佐にあたり、無事大役を果たすことができた。 が、2度目は自身で職務を果たす立場にあった。 1度目から2度目までは18年。 元禄9年には幕府財政の建て直しのために金銀貨の含有率が変わり、 物価は高騰、経済は悪化するなど、18年の間に大きく環境は変わっていた。 【本来なら前回の三倍は見込んでもおかしくない経費を倍以下で抑えようとして、 どうも上野介の不興を買ったのではないだろうか。他にも賄賂説、塩田問題や 赤穂藩江戸家老らの才覚不足など、まだ多くの指摘はあるが、大方は以上のような 要素が複雑に絡み合って突発的に発生したものと考えるのが妥当のようだ。】その1の亀井氏は、義央サディスト説の証人としてよく引き合いに出される。亀井茲親も浅野長矩も、義央の陰湿なイジメに遭っていた・・・だから義央は悪いヤツで、殺される要素が義央本人にあったんだ、って2時間ドラマかっつーの!しかし、細かい作法にガマンできず抜刀ってのもどうなの・・・吉良義央は、年賀使に15回、幕府の使者で9回の計24回上洛したという。 【24回もの上洛は高家の中でも群を抜いており、さらに部屋住みの身でありながら 使者職を行っていた事は、高家としての技倆が卓越していた事を表している。 優秀な技倆を綱吉が寵愛した為ともいわれている。】 (ウィキペディアより)つまりは、当時のスペシャリストだった訳だな。サディストな義央はいじめる為に格好の奴を選んだって書く人もいるけど、自分の教え子が失敗すれば教官役の自分の汚点になり、責任問題にもなる。高家第一人者としてのプライドもあったであろう義央が、わざわざそんな事をするだろうか。にしても、亀井茲親の例は興味深い。確かにそれだけ大変なお役目ではあったんだろうけど、刃傷事件を起こした時、浅野長矩は2回目。いくら初めての時はしっかりした補佐役がいたとはいえ、結局は最初の時も自分で大事なお役目は果たしたんだし、なぜ2度目でキレるか?そう考えると、その2の金銭感覚のズレというのは現実味がある。浅野長矩の饗応役再選を誰がプッシュしたのかはわからないけど、いちおう実績があるので、その点も考慮されたかもしれない。が、「初めての経験」じゃないからこそ、義央も厳しく指導した可能性もある。長矩本人が動機を自供していないので何とも言えない部分はあるものの、もし指南を受ける中で恨みに思ったのであれば、逆ギレもいいとこ。饗応役は朝廷に対し、幕府を代表する立場なのだ。しかも、2度目の時は実に間が悪かった。将軍・綱吉は【この機を生母桂昌院が従一位に叙される大切なステップと捉えていた】(『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』)らしい。こんな席でとんでもない事件を起こしたのだから、綱吉じゃなくてもソッコー切腹は致し方なかろう。だから~、やるなら闇討ちにしとけばよかったんだって・・・(ダメですってば)ま、私が思うに、長矩本人ももちろん悪いけど、江戸詰めの家臣がイカンね。亀井茲親の家老のように、うまくやることだってできただろうに。亀井氏の件は、これまた義央が賄賂好きの腹黒ジジイにされる基ではあるけど、授業料を差し出すのは現実問題としてやむなしでしょう。戦国時代だって、公家が地方の武家に出向いて和歌やら何やらカテキョーして収入を得ていたんだもの。それと同じことじゃないのかなあ?授業料だけじゃなく、もし『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』の分析のように金銭感覚がズレていたのなら、きっちり家臣が江戸の状況を長矩にわからせるべきだった。しかし、それができずに長矩1人がストレスを抱える羽目になってしまったのかもしれない・・・にほんブログ村
2014年05月07日

本所松坂町公園に着いた時、ちょうど史跡めぐりと思われる2人連れが中へ入っていくところで、付近には他にも数人いたので、古地図を見て周囲の位置を確認するなどして間合いを取った。それから、本所松坂町公園のお隣にはお店があって、佃煮ののぼりが立っていた。おお、ラッキー!こんなとこにあったわ私は佃煮は苦手だけど、せっかくの名物だし母親は確か好きだったハズ・・・んでも勘違いだったら困るので、母親に現在地の報告と「吉良さんちの隣に佃煮屋さんがあったから、買って帰ります。佃煮嫌いじゃなかったよね?」と確認のメールをしたら、「大好きだけど、値段たかいよ。無理しないでね」という返事がソッコー返ってきた高いのは知ってます・・・スーパーで売ってる安物だって単価は結構するし、江戸前の佃煮ともなればかなりのお値段するに決まってます。しかし、本所両国で佃煮を買わずして何を買うというのだ・・・(と言いつつ、すでに桜餅やら饅頭やら沢山買っている)あ、土産といえば江戸博で長命寺の桜餅を買ったと報告しましたが、記事を書いた後に部屋の掃除をしていて、ブログ用に床に平積みにしている本の山を移動させた時、山の下から出てきた本に長命寺のことが書いてあったので忘れないうちにご紹介します。その本、ネットで中古を安く買ったのはいいんだけど、ちょっと期待外れだったのでほとんど見てないんだよね(笑)。 【ところで、長命寺の寺名だが、境内の井戸水を腹痛で悩んだ家光公に飲ませたところ なおってしまい、長命水と名付けよということで、常泉寺から長命寺に改めたと いわれている。】 (『東京古寺巡礼』高石泰次/東京新聞出版局より)長命寺の場所は、大川を挟んだ浅草の対岸あたり。家光のゆかりか・・・そのうち行ってみよう。で、長命寺の桜餅は江戸風なんだそうな。確かに、よくある桜餅とはちょっと違ってたけどね。でも美味しかったよ。話を現地に戻しますが、そんな事をしてるうち、さっきの人たちが出てきて中が静かになったようだったので、公園内に入ってみました。こちらが入口↓。扉が低く造られているので、江戸時代人サイズなんだな(笑)。 入ってすぐの、全景↓。狭い上に土塀で囲われているので、少々圧迫感があります。 まずは、正面におわす義央公へごあいさつ。 おお、バックまできちんと造ってあるな。表にあった前回の解説には義央の名前は「よしなか」とカナがふってあったけど、私は「よしひさ」と呼んでいる。ウィキペディアには、【義央の読みは従来「よしなか」とされていたが、愛知県吉良町の華蔵寺に収められる古文書の花押などから、現在では「よしひさ」と考えられている】とある。前回の解説の通り、周囲には色々な史料が掲示されている。義央公像の後ろにはその経緯の説明があったので、ちょっと長いですが全文紹介します。 【吉良上野介義央公座像建立の経緯 平成21年6月、吉良邸跡保存会の会合で、吉良上野介像を製作、園内に設置 しようとの提案があり、当両国3丁目町会長市川博保氏、吉良邸跡保存会長山田繁男氏 及び両国3丁目町会顧問岡崎安宏氏の三者で検討、その結果、時代の推移と共に 吉良公への歴史的認識とその評価が変わってきたこの時期に、大変に意義あることと 考え、製作を決定する。 岡崎安宏氏の知人で横浜在住の造形作家米山隆氏に製作を依頼し、製作に当っては 岡崎安宏氏が監修、企画協力を山田繁男氏が担当する。 愛知県吉良町に吉良家の菩提寺華蔵寺があり、1690年吉良上野介50歳の時、 自らが造らせたと言われている寄木造り(檜材)の座像が現存している。 姿、形についてはこれをモデルに、そのほかは愛知県歴史編纂委員会の調査資料を 参考にする。 吉良上野介の位は従四位上なので束帯は黒、後襟袍の下に緑、藍、紅、白の襟が あらわされている。表襟は白色で、左手に太刀、右手に朱塗り平板の笏を持ち 正面で足裏を合わせて座す。頭部に巾子冠を被り、頭髪は黒一部白髪である。 据え付けた台座は御影石を使用する。 本像制作に当たって、両国3丁目町会、吉良邸跡保存会、東京両国ライオンズクラブが 資金提供を行い、平成22年12月12日に墨田区へ寄贈する。 また、本像の上屋については、愛知県吉良町(現西尾市吉良町)が、吉良上野介 義央公座像建立に感銘をうけ建設し、様式については、園内の修景に配慮した 銅葺屋根、無垢の木材を用いた温かみのある設えとする。 平成23年3月に吉良邸跡保存会を通じて墨田区へ寄贈する。】 ということで、ホントの地元と終焉の地が協力して、きちんとした考証のもとに出来上がった像のようです。位階による衣冠束帯の相違なんて、フツーの人にはわからないからね。ちゃんと解説を添えてくれてるのがうれしいところ。素材はファイバープラスチック。現地の協力のもと、着衣は当時の色彩を忠実に再現したそうな。 義央公のおわす上屋のとなりには小さな植え込みがあり、ちょうどツツジも咲いていた頃だったのでよい景観を作り出していた。 公園内には吉良氏の領地、吉良町についての展示資料もあった。本所の像の元になったという華蔵寺の「吉良上野介義央木像」の写真がこちら↓。 【華蔵寺の御影堂(みえいどう)にまつられている。元禄3年(1690)義央公が 50歳の時の姿で、自ら彩色したと伝えられる。】 (現地解説より)なら、おおむね本人の面影を残していると言っていい訳だよな。本所の像は華蔵寺のと同じサイズだそうな。華蔵寺は義央公が愛用したと伝わる茶道具なども所蔵しているそうで、その写真もあった。それから、これ↓。 【赤馬玩具 約100年位前から吉良町で、つくられている置物。義央公は赤馬にまたがり 領地内を巡回し、領民と親しく接していた赤馬。(農耕用の駄馬)】 (現地解説より)ウィキペディアには 【領地三河国幡豆郡では、貞享3年(1686年)に築いた黄金堤による 治水事業や富好新田をはじめとする新田開拓や人柄から名君とされ、 地元では慕われていると言われてきた。(中略)しかし、吉良家のような旗本は、 一部の例外を除けば参勤交代がない定府であり、江戸に常住して領地は幕府が 任命した代官に任せるのが一般的である。そのため、義央も領地を殆ど訪れた 形跡はなく、領民に接する機会は無かったと思われる。】とある。まあ、私もこちらの方が妥当だとは思うけどね。でも、赤馬玩具が造られたのが約100年前位なら、明治に入った頃でもあるし、それまで義央公は吉良町ではそれなりに尊崇されてきたってことにはなるよな。さて、ここからは入口から時計周りと逆に順を追って紹介します・・・が、結構沢山あるし、ガラスケースに入っているので写りは良くないし、赤穂浪士関係の資料は一部割愛しますのでご了承ください。まずは入口脇。早速長文からスタートします。達筆すぎて結構読めない箇所もございますので、大体の内容のみご紹介します。 【元禄15年赤穂浪士47人によって為された義挙は、徳川中期の泰平に 慣れたる士民の惰眠を覚醒せしめた警鐘とのみされるが、この一筆は 百世の後までも我々の脳裏に銘すべし。 誠に日本精神の存する限り、日本国民の地上に生きる限り、この行為を 未来永劫燦然として国民性の上に光を放たん。而して義士の英魂は善人敬慕し 香華のうちに静かに君側に侍して眠れども、その根幹たる快挙の発生地・ 吉良邸は今や全く廃滅して礎石をも留めざるに至るとともに、其の結果として この貴重なる史蹟の歳月と共に世人の記憶より遠ざかり行く末を思わば、 誠に遺憾の極みというべきなり。 たまたま大正12年9月1日、関東大震災の為に帝都を焦土と化し、その後の 区画整理による町名変更はついに史上忘るべからざる松坂町の町名すらも失うの やむなきに至る。すなわち今にしてこの史蹟に対し、最善の努力を払わざれば 悔いを後世に遺すたるらん事は火を見るより明らかにして、これを想わば 座視するに忍びず、ここに吾々同志相図りて旧松坂町吉良邸内伝首洗い井戸の 所在地たる東両国3丁目18番地の5の旧宅地29坪5合1勺を購入し、 これを赤穂47浪士討入義挙の史跡保存の為に東京市へ寄付することとなりぬ。 幸いにこの企てにして将来の国民思想上の稗益するあらば我等同志以て欣快とする 所なり。よって一篇を作して後日の備忘となす。 昭和8年12月14日】・・・として、同志の名前が連なります。いやっ、昭和8年の文章を読むのに古文書解読字典まで持ち出さなきゃならないなんて・・・(それでも正確に全文読めなかった)にほんブログ村
2014年05月06日

え~と、それじゃまず、吉良邸侵入の状況から。 ガラスケース越しなもので、写りが悪くてすみません最近のドラマなどではどうだか知らないけど、歌舞伎・講談の「忠臣蔵」では上の絵のように事件当夜は雪が降っている設定だそうな。が、『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』によると、この日は快晴。ただし、かなり冷え込んだ夜ではあったらしい。それから、討ち入りの装束。 上の絵を一部拡大したものですが、「忠臣蔵」の中の浪士は新撰組みたいなギザギザ模様のおそろいの派手な衣装をまとっている。が、実際は鎖帷子の上に火事装束を身にまとった完全武装で、火消し役人の偽装をしていた。表門隊のリーダーは大石良雄(内蔵助)。『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』には、大石良雄の外見について ・創作・・・恰幅のいい大男。 ・史実・・・小太りの小男で、梅干のような丸顔。とあって笑える。いやいや、人様の外見で笑っちゃいかんな。ドラマでは必ずといっていいほど、大石良雄は大ベテランのカッコいい俳優が演じるけど、すでに配役の時点で極めつけのフィクションですで、その表門でカッコいい大石良雄が陣太鼓を鳴らして、吉良邸内の剣客が「あれぞまさしく、山鹿流・・・!!」と討ち入りに気付くのが「忠臣蔵」だけど、ウィキペディアによると【合図の笛と鐘は用意したが、太鼓は持っていなかった】そうな。『吉良供養』でも、表門隊はまず持参した梯子で静かに塀を乗り越え、数人の浪士が邸内に入った物音を聞きつけた当番の表門番足軽が出てきて、そこから殺戮劇がスタートしている。外側から梯子で塀に登ったあと、内側には塀の上から飛び降りたりしたので、ウィキペディアによると、ここで足をくじいた浪士もいたらしい(笑)。そりゃそうだよね、人の背丈以上の高さがあるんだもん。現代でも、自分の年を省みずちょっと高いところから飛び降りたがために骨折したりするお茶目さんは結構いるもんです。裏門隊は力づくで門を開けて邸内に侵入。表門隊・裏門隊ともに邸内に入ってから「火事だ!火事だ!」と叫んでいる。東の表門と通りをはさんだお向かいさんの旗本・牧野一学は「火事のようだったので様子を見にいきました」と言い、西の裏門前の住人の仕立屋は「えっ、火事!そりゃ、てえへんだ!!」と鳶口を抱えて勇ましく駆けつけたという。(『吉良供養』より)前回、吉良邸の描かれた古図を掲載しましたが、吉良邸は東・西・南は通りに面しており、北側だけが2軒のお隣さんと地続きになっている。そのうちの1軒、お隣の旗本・土屋さんは火事だと思って出てみたら喧嘩のようであり(『吉良供養』より)、塀越しに吉良邸に声をかけたところ、浅野家臣を名乗る者が吉良義央を討ち取って本望を遂げたと言う声を聞いたそうで、土屋さんは吉良邸との境近くに灯りを掲げて射手を置き、「ウチへ入ってくる者があればすべて射落としちゃってよ」と命じたそうな(ウィキペディアより)。表門隊により5人の吉良家臣が犠牲になったところで、異変に気がついて様子を見に出た足軽の丸山氏が必死になって屋敷を抜け出し、日比谷の上杉邸へ注進に走る。通りに面した三方は浪士が固めてたんじゃないかと思うんだけど、他にも自力で吉良邸を抜け出した家老もいるし(「忠臣蔵(後)」参照)、門のある東西以外は案外手薄だったのかもな・・・ま、丸山氏が知らせに走る前に、近所の豆腐屋さんがすでに日比谷へ走っていたそうな。と、ご近所さんの対応はさまざま。知らせを受けた上杉家の当主は、吉良義央の子の綱憲。吉良さんと上杉さんの関係はこうなります↓。 大昔に観た「忠臣蔵」では、綱憲がすぐさま飛んでいこうとするのを家臣に抱きかかえられて止められ、「父上!ぢぢうえ~~~~!!!」って大泣きしてるシーンが印象に残っていてジジイの涙を誘ったけど、ウィキペディアによると、綱憲は江戸に赤穂浪士が多いことを警戒して、自分の領国である米沢での隠居をオヤジに勧めており、討ち入り当日の吉良邸での茶会はそのお別れ会だったとある。それと、綱憲を止めたのは上杉家臣ではなく、居合わせた縁者の畠山氏だそうな。さて、それじゃ吉良さんちへお邪魔しましょう。 これが吉良邸の見取り図。画面のすべてがかつての吉良邸の敷地です。現在、「吉良邸跡」として史跡整備されている場所にもこの絵図がありましたが、こちらもガラスケース越しで写りが悪かったので、『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』に掲載されているものに若干加筆しました。この見取り図は結構あちこちに出回ってますので、詳しく配置を観たい方も入手はしやすいかと思います。で、ピンクのラインが現在の道路部分。これも目分量なので多少のズレはあるかもしれませんが、まあ大体こんなとこだと思われます。赤の星の部分が両国小学校裏の小道を抜けた先あたりで、ここから道路に沿って西へ歩きます。この南には表門があり、表門隊も西へ向けて侵入するので、ちょうど表門隊と並行して進むような形になります。少し進むと、これが現れます↓。(場所はこちら) 【赤穂義士遺蹟 吉良邸跡】別名・本所松坂町公園。この石碑は墨田区長さんの書によるものだそうだけど、ずいぶんと綺麗な字だなあ・・・じゃなくて、上の図で黄緑の区画がこの公園にあたります。かつての吉良邸は2,550坪(約8,430平方メートル)。現在の本所松坂町公園は29.5坪(約98平方メートル)で当時の86分の1のサイズだそうな。入ってみると、実際本所松坂町公園は小さい。庭が持てない小さめの一戸建てが建つぐらいのスペース。そうは言っても、ここは都内ですからね。地価のことを考えるとバカにしちゃいけません。 【本所松坂町公園由来 この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討入があった、 吉良上野介義央(よしなか)の上屋敷跡です。 その昔、吉良邸は松坂町1、2丁目(現、両国2,3丁目)のうち約8,400 平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、 いまではそのおもかげもありません。 昭和9年3月地元町会の有志が、遺跡を後世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し 史蹟公園として、東京市に寄付したもので、昭和25年9月墨田区に移管されました。 周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した 造りで、園内には、元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺蹟があり 当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が 銅板で展示されております。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)とのことで、地元の有志によって始められた史跡だそうです。『両国物語』によると、【両国は「吉良びいき」が多い土地柄】だそうで、地元の古老が語った面白いエピソードが載せられている。 【「両国はお膝元だから、吉良様びいきが多く、吉良の悪口をいう人はいません。 昭和40年代のことですが、12月14日になると、メリヤス会社の社長と 社員47人が討入り装束に身を固め、陣太鼓をたたきながら、両国橋を渡って やってきていました。 吉良邸跡前まで来ると全員で『エイ・エイ・オー』と勝ち鬨を挙げ引き揚げて 行くんですが、地元の血の気の多い連中とケンカにでもなるんじゃないかと、 いつもひやひや。10年くらい続きましたが、社長が亡くなってからピタッと 来なくなりました。 社員に聞いてみると『討入りの後に、社長からボーナスを手渡されていたので 休むわけにいかなかった』とのこと。地元の連中も、そんな軟弱な義士たちを わざわざ門を開けて待っているんですから、どっちもどっち、間抜けな話でした」。】 (『両国物語』より)なんつーか・・・江戸っ子だなあってカンジ討ち入りの直後から、多くの江戸っ子が浪士達にやんやの喝采を浴びせたというのに、その一方で現代に至るまで吉良びいきの人たちがいる・・・前回書いたように、ここに吉良邸があった期間はごくわずか。高家筆頭の義央、あるいは討ち入り当時の当主であった義周(よしちか)自身が親しく町人とご近所付き合いをしたとも思えないのに両国の人達が「お膝元」の意識を持ってるのは、世間で義央が一方的に悪役扱いされる不条理に江戸っ子の人情が働いたのかもしれない・・・そんな風に思った。にほんブログ村
2014年05月05日

両国公園を出て西に向かうとすぐこの道に出る↓。 これが両国小学校。幕末頃の絵図によると、この辺の区画は細かく仕切られた武家エリアだったらしい。小学校の南辺に沿う小道を入る↓。ま、小道と行っても古い城下町である三原や白市などのあの広島の小道に比べたら全然マシな道ですが ここからが、今回の史跡めぐりの中で1・2を争う重要スポット。古絵図から目分量で比定した位置なのでイマイチ自信はないけど、おそらく間違ってはいないハズ・・・小道を歩きながらテンションは急上昇。この小道を抜けると、こういう場所に出ます↓。 手前の道路を除いた上の写真に写ってるすべてが、かつて吉良邸があった場所です。はい、いわゆる「忠臣蔵」で有名な、あの吉良上野介義央さんのおうちです。ここは吉良邸の敷地でも東端にあたるところで、正面に写ってるマンションのガレージの左側あたりに吉良邸の表門がありました。いや、現地では最初、ここが表門だよな~って想定しながらこの場所で繰り広げられたあの惨劇の開始光景を思い浮かべてたんですが、写真ではかなり見にくいけど、左のガレージのすぐ先にちっちゃく墨田区設置の高札が立ってます。・・・立ってますが、最初は気付きませんでした。あとでこの近くでひとつ見落としたものがあるのに気がついてここへ戻ってきた時に初めて高札があったことに気がつきました目に映ってたのに気がつかないってどゆこと・・・ので、2回目に通って写真に収めた解説版を紹介します。 【吉良邸正門跡 この辺りに吉良邸正門がありました。 元禄15年(1702)12月14日、寅の刻(午前4時)の七つ鐘を聞いた後、 正門から大石内蔵助以下23名が用意した梯子で邸内に侵入して、内側から 門を開け、「浅野内匠家来口上」を玄関前に打ち立てて乱入しました。 赤穂浪士は正門、裏門の二手に分かれて討ち入り、大声を上げながら、百人以上の 大勢が討ち入ったように装いました。これに動揺した吉良家家臣の多くが外に 飛び出そうとしました。しかし、弓の名手、早水藤左衛門らが俵屋敷の戸板に 向かって威嚇し、出口を固められたため、飛び出すこともできず戦闘不能になったと いわれています。】はいよ~。そーゆー訳で、ここが吉良義央(よしひさ)さん最期の地であり、大石良雄(内蔵助)率いる浪士の半分の表門隊がまさにここから侵入を企てた訳です。長らくのわたくしのブログの読者様の中には覚えておられる方もいるかもしれませんが、わたくしは無残な殺され方をした吉良家中に同情する派です。第3代輪王寺宮・公弁法親王の紹介をした時(「上野第二編(23)」参照)、吉良同情派は希少価値だろうと思っていたので、あえて過去のいわゆる「忠臣蔵」に関する記事のリンクは貼らずにおきましたが、今回ちょっと検索してみたら案外最近では吉良擁護派も増えてるらしい。ので、上野編の時よりはちょっと堂々と記事を書こうかと思ってます。「元禄赤穂事件」に関するわたくしの基本姿勢は「忠臣蔵(前)」 「忠臣蔵(後)」をご覧ください。で、ここからは多少の(←予定)歴バナも交えることになるかと思いますが、言葉を使い分けようと考えておりますので、まずはそちらから。史実として起こった、元禄15年(1702)12月14日の赤穂浪士による吉良義央への復讐劇、こちらは「元禄赤穂事件」とします。毎年12月になるとどこかの局で必ず1度は放映される、世間に有名ないわゆる「忠臣蔵」、こちらは「忠臣蔵」とします。「いわゆる」も判別のために使い続けるかもしれないけど。世間にはあまりにも「忠臣蔵」の方が有名なので、現実の出来事ときちんと区別する必要があります。なぜというに、「忠臣蔵」の方はかなりフィクションの部分が多く、また単純な勧善懲悪スタイルで描かれており、しかも始末の悪いことにフィクション部分が独り歩きをして、「忠臣蔵」だけを見聞きする方の中には、それらの有名なエピソードがいかにも現実であるかのように思っておられる方も多いんじゃないかと思うからです。それくらい、「忠臣蔵」の浸透力はすごい。私はもともとドラマなどは観ないし、ある時期を境にますます「忠臣蔵」などは観なくなったのだけども、それでも「忠臣蔵」に出てくるそこそこのエピソードは知ってるし、思ってたよりも事実と違うことが多いということを今回あらためて知ったぐらいなので、「忠臣蔵」だけを観てる方にとってはもはやそちらの方が現実だと思われても仕方ないな~って率直に感じました。でも、歴史ファンとしてはフィクションなんかに萌え~するつもりはない。ので、「忠臣蔵」を見慣れた方もここではそれは置いといて、この場所で起こった惨劇に思いを馳せて頂けると嬉しいです。わたくしが「忠臣蔵」を観なくなった境目の時期とは、杉浦日向子先生の『吉良供養』を読んでから。前々回、榛稲荷神社のところでは葛飾北斎が主役の『百日紅』を紹介してますが、『吉良供養』も杉浦日向子全集(筑摩書房)の『合葬』に収められている短編。上記リンクを貼った「忠臣蔵(後)」は、『吉良供養』を参考にしたものです。時代劇では殺陣はお馴染みだから、ドラマの「忠臣蔵」を観てる分には単なるチャンバラシーンだけど、『吉良供養』を読んで実際どういうことが起こったのかを知った時、「げえっ!現実ってこんなだったの!?」と衝撃を受けました。「忠臣蔵」はご存じの通り、赤穂浪士が主役で吉良は悪役なので、『吉良供養』を読んでからはもう「忠臣蔵」を観る気は全くなくなりました。正直、腹立たしくて。ただ、必要以上に吉良義央を擁護するつもりもなく、基本的な立ち位置は(たぶん)中立です。そもそもの発端となった事件の真相すらわかってないし、義と正義は違います。「(たぶん)中立」としたのは、この討ち入りがあまりに凄惨だったため、吉良家に同情する心情が強いからです。記事の中で「ジジイ、感傷的になっとるな~」って感じた部分があれば、少し差し引いてお読みくだされまあ、事件当夜の流れについては「忠臣蔵(後)」で簡単に書いてるので同じことは書きませんけどね。ここからは江戸博で買った『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』が主な参考資料です。『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』は墨田区観光協会の発行によるもので、まえがきの最後には 【発端となった殿中での刃傷事件は未だに謎が多く、さまざまな憶測を呼び、 今なお新たな説が生み出されている。なかには事件の「悪」を上野介一身に 負わす従来の筋立てとは逆の視点で捉えたものもある。そこで、事件の真実は どこにあるのか、極力多くの事実を淡々と積み上げることによって迫ってみる。】という基本姿勢が示されている。ここは江戸だから吉良氏の領国ではないけど、屋敷をここに構え吉良義央の最期の地でもあるから「地元」と言ってもいいくらいの場所だけど、地元の殿様だからといって単純に擁護するんじゃなく、客観的に捉えようという姿勢には好感が持てる。現に、冊子の中では浪士の紹介もしているし、初めて知った事も多かった。私は『両国物語』と『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』は江戸博で買ったけど、この後寄ったお店の中にはこれらの冊子を置いてあるところもあったので、両国界隈のいくつかのお店でも入手できるかと思います。さて、まずは当時の絵図から。 (『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』掲載、元禄15年版「回撰江戸大絵図」より)母方の先祖に今川氏真(今川義元の子)を持つ吉良義央は、元々鍛冶橋に屋敷を持っていたが、元禄11年(1698)の勅額火事・・・「上野第一編(9)」で紹介した、寛永寺瑠璃殿(根本中堂)の勅額が江戸に着いたその日に出火した、あの火事のことです。その時に鍛冶橋の屋敷が焼失し、呉服橋に引っ越したそうです。その後の元禄14年(1701)のホワイトデーに浅野長矩(内匠頭)による傷害事件が起こり、即日長矩は切腹。旧浅野家家臣に関する不穏な噂を耳にしたご近所さんの蜂須賀家から「吉良さんが近くにいるの、やなんですけど~。とばっちりはごめんですう~!」と嘆願が寄せられたといい、これを受けたものかはわからないけど8月13日には幕府から義央へ引っ越し命令が出され、9月3日には本所の新居を受領。ウィキペディアには【この本所移転は、幕府によって計画的に行われたという説が有力になってきた】とあるけど、義央は本所の屋敷に常時住んでいたという訳でもなかったらしい。翌年の12月には討ち入りが決行され、浪士達が切腹した2月4日には本所の吉良邸が没収される。その後屋敷は取り壊され、町人エリアとなった。ゆえに、こうして本所の絵図に吉良邸が描かれているのは1年ちょいのごくわずかな期間に限られる。にほんブログ村
2014年05月04日

世間ではGW後半・・・が、うちの職場はカレンダー通りなもので、ここに来てようやくGWという感覚です。元はこの4連休で行こうと思ってたところがあるのですが、4月に2週続けて出かけたし、やることが山積みどころじゃないくらい山積しているので、出かけるのはやめました。明日は貞子が遊びに来るので、ちょっと楽しみです。ので、本ブログは連休中も通常営業・・・連休中、お出かけのご予定のない方は戦国ジジイが見た江戸のイチ風景を一緒にお楽しみいただけると幸いです。それじゃ、前回の続き。推定二所ノ関部屋を過ぎて、次のお目当てへ。 現在、両国公園と呼ばれるところ(場所はこちら)。 【勝海舟生誕の地 勝海舟は、文政6年(1823)正月30日、ここにあった男谷精一郎の屋敷で 生まれました。父惟寅(小吉)は男谷忠恕(幕府勘定組頭)の三男で、文化5年 (1808)7歳のとき勝元良に養子入りし、文政2年に元良の娘のぶと結婚、 男谷邸内に新居を構えました。 海舟が男谷邸で生まれたのは、このためだと考えられます。海舟は7歳までの 幼少期をこの地で過ごしました。その後は、旗本天野左京の自宅2階 (現亀沢2丁目3番)や代官山口鉄五郎の貸家(現亀沢3丁目6番)を転々とし、 ようやく落ち着いたのは天保初年、旗本岡野融政の貸地(現緑4丁目25番)に 転居してからのことでした。 海舟は、赤坂に転居する弘化3年(1846)までそこで暮らし、島田寅之助 (豊前中津藩士)に就いて剣の修行に励む一方、向島の弘福寺に通い参禅していたと 伝えられています。 海舟が海外事情に関心を寄せはじめた時期は分かりませんが、天保14年(1843) 21歳の時には師匠島田のすすめで蘭学者永井青崖(福岡藩士)に師事し、嘉永3年 (1850)には「氷解塾」を開いて西洋兵学を教授しはじめました。米国使節 マシュー・ペリーが浦賀に来航したのはまさにその頃、嘉永6年6月3日の ことでした。 海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し、安政2年(1855)正月には目付 大久保忠寛の推挙をうけて異国応接掛手附蘭書翻訳御用となり、翌3年に 講武所砲術師範役、同6年に軍艦操練所教授方頭取に就くなど、活躍の場を 広げていきました。そして、同7年正月には日米修好通称条約の批准使節に随伴し、 軍艦咸臨丸の艦長として太平洋横断に成功しました。 また、帰国後も軍艦操練所頭取や軍艦奉行などを務めるなど、政局の混迷の中で ますます重要な役割を担うようになったのです。慶応4年(1868)3月に 行われた西郷隆盛との会見は、徳川家の存続と徳川慶喜の助命、無血開城を 実現に導き、維新期の混乱収拾に力を発揮した海舟の代表的な事績となりました。 海舟は新政府で高官に任ぜられますが、明治8年(1875)11月に元老院議官を 辞した後は著述活動や旧幕臣の名誉回復、経済支援に尽力しました。同19年 (1886)5月には酬恩義会を創設して将軍家霊廟の保存を図るなど、 最期まで旧幕臣としての意識を持ち続けていました。 明治32年(1899)1月19日、海舟は77歳で病没。洗足池畔の墓で 静かに眠っています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)この解説版には、晩年の勝麟太郎(海舟)の肖像(国立国会図書館蔵)も掲載されている↓。 勝麟太郎で最も有名な写真はもっと若い頃のだと思うけど、あれで見る限りではイケメンだよね~。じゃなくて、勝先生には龍馬さんも弟子入りしたので、わたくしは勝先生に親近感を持っており、そのためここへ寄ったという訳です。勝先生はいちおう(てか、れっきとした)幕臣で武家だけど、私にはちゃきちゃきの江戸っ子というイメージが強い。が、それも道理、江戸でも下町である本所の生まれだったとはね。両国に生誕の地があることは今回初めて知ったんだけど、なんだかすごく納得がいった。実父・小吉は旗本小普請組の41石取りだったというから、平穏な世の中であればいくら才能があったところで出世にも相当限界があっただろうけど、世は幕末の動乱の時期。解説にある「海舟は幕府首脳部に独自の海防論を呈し」というのは、時の老中・阿部正弘さんが広く世間から海防についての意見を求めた時のようで(「福山編(16)」参照)、推挙した大久保忠寛は大久保一翁さんのこと。解説の最後の部分にある「将軍家霊廟の保存を図った」というのは知らなかったんだけど、やっぱり旧幕臣の中にそういう動きはあったんだね。とすると、寛永寺の旧境内の利用について一翁さんが頑張った中にも(「上野第二編(35)」参照)、霊廟や徳川家の遺物の保護という観点が含まれていた可能性は十分にあるよな。現在の両国公園は、遊具なども沢山置いてあるフツーの児童公園。天気の良い春の昼下がり、多くの親子連れが公園内で遊んでいた。その隅っちょにひっそりとたたずむ大きな石碑↓。 【由来碑 勝海舟は幼名を麟太郎といい、文政6年(1823)1月13日この地 男谷精一郎邸内で生れた。剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、 万延元年(1860)幕府軍艦咸臨丸艦長として、太平洋を横断渡来した。 慶応4年(1868)3月13日高輪薩摩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と 会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進撃を中止させ、江戸百万の 庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名な話である。 明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去。 行年77歳であった。墓は洗足池畔に建立されている。 平成元年10月 墨田区 (幕府講武所剣術師範役 元 男谷邸跡)】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)でこの石碑、脇に「法務大臣 西郷吉之助書」とあるからてっきり西郷(せご)どん・・・西郷隆盛のことかと思ったら、どうもこれは西郷どんの孫の西郷さん(1906~77)によるものらしい。西郷どんが勝先生と会談した後に一蔵どん(大久保利通)へ送った手紙では、「勝さぁに初めて会ったとこい、実に大した人物で、どれほど知略があっとか測れんごっ思おいもした」と勝先生を評価したというし、勝先生の史跡整備に協力するにふさわしい人物ともいえる。今回、ここに来るまではおもに龍馬さんと関わった部分ぐらいしか勝先生については知らなかった。が、江戸博で買った『両国物語』には面白いエピソードが載っている。 【9歳の頃、狂犬に睾丸を噛まれて生死の境をさまよったが、父・小吉が 能勢妙見山別院で水垢離をして、回復を祈願したおかげで一命を 取り留めた。しかし、トラウマは残り、成人後も犬と出会うとガタガタ 震え出したという。】おお、本所にも妙見様があったのか!『両国物語』によると、この能勢妙見山別院には勝先生の胸像があるそうな。う~ん、両国からだとちょっと歩くな・・・しかし、覚えておこう。その他、墨田区役所には勝先生の銅像もあるという。にしても、子供の頃に犬に噛まれた人ってたいがいトラウマになるよね。それも、勝先生の場合は噛まれた場所が悪かったよなピッチャー返しとどっちが痛いだろうと想像してみたけど、生死の境をさまよったぐらいだから「ピッチャー返しなんかと比べるんじゃねぇよ!おいらのがてぇへんだったに決まってんだろ!!」って勝先生はお怒りになるかもしれない・・・石碑の近くにあるベンチに座って、休憩がてらこの先の道を確認。両国公園に入ってから出るまでの間に、史跡めぐりと思われる中年夫婦など数人に会った。史跡めぐりに遠征して、城以外の場所でいかにも同輩と見られる人にはあまり会うことがないので、ちょっとこれは意外だった。彼らは手に何やら資料らしきものを持っていたので、史跡めぐりのコースなどが墨田区から提供されているのかもしれない。実際、ここから歩いてすぐの電信柱にはこんな案内が貼り出されていた↓。 お~、こんなのあるのか。歴史にさほど興味のない人でも、こうやって整備されてたら気軽に近隣の史跡めぐりをしてみようって気にもなるだろうし、本所には江戸の香りの残るスポットが沢山あるから、いいことだよな。各スポットにはそれぞれ榛稲荷神社で見たような高札スタイルの案内板が設けられていて、絵や写真などのビジュアル資料も豊富だから、墨田区の史跡整備事業には好感が持てる。とは言っても、まだ両国公園の時点では高札を探せばいいというルールに気づいてなかったので、遠くから高札のある現場を眺めていたにも関わらず高札の存在に気付かず見落としたところが数か所あった。ゆえに、この後少々歩きまわるハメになったので、欲を言うならもうちょっと目立つ色とかの高札にしてもらえるとありがたい・・・それが、高札ルールに気付いてからの率直な感想でした。↓ぽちりと応援よろしくねにほんブログ村
2014年05月03日

前回、榛馬場跡の解説の中に葛飾北斎のことが出てきましたが、北斎ジジイにはちゃんと別の解説版が用意されてます。長いので、榛馬場跡の解説と重複する部分などを割愛して紹介します。 【本所(現在の墨田区南部)に生まれた絵師葛飾北斎は、この稲荷神社の すぐ近くに住んでいたことがありました。(中略)榛馬場の辺りに住んでいた 当時の様子を伝えるのが、「北斎仮宅写生」(露木為一筆)です。絵を描く 年老いた北斎と娘の阿栄(おえい)が描かれています。阿栄も優れた絵師でした。 その暮らしぶりを飯島虚心は「蜜柑箱を少しく高く釘づけになして、中には、 日蓮の像を安置せり。火鉢の傍らには、佐倉炭の俵、土産物の桜餅の籠、 鮓(すし)の竹の皮など、取ちらし、物置と掃留と、一様なるが如し」 (『葛飾北斎伝』)と記しています。北斎がこの地に暮らしたのは天保末年頃 (1840年頃)で、80才を越えていたと思われますが、絵を描くこと以外は 気にも留めないような暮らしぶりが見てとれます。 北斎は生涯で90回以上も転居を繰り返したとされていますが、居所のすべてが 正確に分かっているわけではありません。榛馬場の北斎住居跡は、ある程度 場所の特定ができ、絵画資料も伴うものとして貴重な例です。】で、その「北斎仮宅写生」(国立国会図書館蔵)に描かれた北斎ジジイとお栄ちゃんがこちら↓。 こういう資料まで解説版に載っけてくれるのはありがたい。葛飾北斎といえば、「冨嶽三十六景」などの高尚な作品で有名な絵師。多くの方が立派な巨匠のイメージを持っておられるのかもしれませんが、わたくしの北斎のイメージは、無精ひげを生やした変わり者で偏屈でお茶目で感受性の鋭いジジイ・・・これはかつての名番組「お江戸でござる」で解説をしていた故・杉浦日向子先生が描いた北斎像の影響が強いです(杉浦日向子全集「百日紅」/筑摩書房)。私はかなり昔にこのハードカバー全集を買いましたが、今は文庫になって復刻されてるみたいだね。北斎・お栄親子に加え、渓斎英泉、歌川国直など名だたる絵師が等身大の飾らない姿で生き生きと描かれている作品です。ちょうど、「北斎仮宅写生」の一場面のような感じ。てか、こういう史料を元に日向子先生は自分の北斎像を作り上げたんだと思うけど。てことで、北斎ジジイが本日の史跡めぐり第一のお目当て。今回は寄りませんでしたが、本所には北斎生誕の地といわれている場所もあります。まあ、現在では榛稲荷神社の敷地は小さくて、周りの大きな建物に囲まれてひっそりと地味な存在だけど、この辺にかつてはごちゃごちゃと長屋が並び、その小さな一室に北斎とお栄が住んでいたと思うと、急に江戸のかほりが漂ってくるから不思議なものです。前回載せた「江戸切絵図」を見ると、この辺りは武家の屋敷と町人のブロックがかなり混在していたようです。さてそれじゃ境内に入ります。小さい神社といっても、そこは古い神社らしく古っちいものもある。 ↑小さな境内には似つかわしくない、大きな倉庫・・・神輿でも収められてるのかな? 石碑の下部には、なにやら縁起が彫ってある。全文はちょっと読めないんだけど、どうやら関東大震災でこの付近に火災が起こり、榛稲荷神社と神社の名称の由来となった榛の木が炎上。のち、神社の社殿を復興するにあたって旧蹟地から古碑を掘り出したらしい。それには 【和銅二年 総国当亀澤村 亀澤稲荷神社】とあったそうで、古くは亀澤稲荷神社と呼ばれていたみたい。和銅2年って709年・・・聖武天皇の2代前、元明天皇の時代だ。これが正しければ相当古い神社ってことになるよな。 ↑この灯篭はもう銘どころじゃありませんでした。が、かなり古そうだな。 ↑手水鉢に付くのは宝珠。大正15年の奉納とあるから、関東大震災(大正12年)を経て復興後のものだな。こちらが現在の社殿↓。 お?両脇にあるのはもしかして・・・ おお、やっぱりお狐様だ!!このテの頑丈なケージ入りお狐様は、巣鴨のとげぬき地蔵以来だな。 なんとか鮮明に撮れないもんかと近寄ってみたけど、目の細かいケージに阻まれ、ろくな写真撮れず・・・ 社殿には、なぜか馬の絵馬がかかっていた↓。もしかして、毎年干支の絵馬に換えてるのかな(笑)。 賽銭箱には、宝珠じゃない紋がついていた。しかし、盗難防止に賽銭箱にかけられたチェーンがちょうど紋にかかって撮影には邪魔だったのでちょっとずらして・・・ これ、他人が見たらチョ~怪しい人だよな。監視カメラに怪しげなわたくしの姿が映って、賽銭ドロボーと間違えられて警備員が飛んできたらどないしょ・・・なるべく誤解を招かないような動作を心がけながら、内心びくびくしつつ写真を撮る。これで榛稲荷神社はおしまい。大通りの清澄通りへ戻って南下を続ける。すぐ先の大きな交差点で信号待ちをしてたら、通りの向こう側にこんな店があった↓。 ライオン堂?キングサイズ?いくらここが両国だからって、お相撲さんまで描いてあるししかし、後から知ったんだけど、この辺て相撲部屋が多いらしい。松戸とか、結構千葉にも相撲部屋ってあるから近郊に分散してるのかと思ったら、やっぱこの辺に集中してたみたい。なるほど、じゃあホントにお相撲さんもOKなサイズのお店な訳だな。現地でもらった地図によると、ライオン堂のお隣は靴やさんでこちらも「大きい靴 イマムラ靴店」とあるから、好みはともかく、ここの交差点の2軒のお店でお相撲さんも全身コーディネートできるってことだな(笑)。内心ニヤニヤしてたら、信号が青に変わった。今日のモットーは、「手早くコンパクトに」。てか、江戸めぐりは普段の土日がほとんどになるかと思うし、あまり根を詰めると事前の準備も後始末(←ブログ)も大変になるので、江戸めぐりの時はきっちりと下調べはしないことにしたのだ。ので、今回歩きながら手にするのは「すまほ」だけ。大体のお目当ての位置は頭に入っているので、あとはすまほのマップで現在地を確認しながら進むお手軽なスタイル。もちろん、遠征の時は今後もきっちり準備はしていくけどね。次のお目当てはすぐ近くにある。が、マップを見ていたら、その手前に二所ノ関部屋があるとわかったので、せっかくだから相撲部屋を見ながら行こうと小道を入った。しかし、道はたぶんあっているハズなのに、相撲部屋らしきものは見当たらない。ここじゃないかと思われる場所はこんなんなってた↓。 これも後から判明したんだけど、相撲部屋と言ってもデカい看板がかかっている訳でもなし、ぱっと見はフツーのビルかマンションといった建物が多い。ので、たぶんこの工事中の大きな建物が二所ノ関部屋なんだろうと思われます。↓ランキング応援よろしく~。にほんブログ村
2014年05月02日

え~、紅葉山について少し書こうと思ってたことがあるんだけど、前回キリ良く売店でお買い物するところまで行ってしまったので、次の機会に回します。自粛したにも関わらず、特別展の売店コーナーでかなりな散財をしてしまったわたくし・・・ちょっと江戸博では今日はこれ以上買わないようにしよう。そう思いながら特別展エリアを出て1Fの奥へ進んでみると、墨田区の銘菓や物産を扱ったショップがあった。覗いてみると、「長命寺の桜餅」なるものがすっげ~美味そうだったので家への土産にお買い上げ~。母親は知ってたから、有名なものらしい。見かけも美味しそうだったけど、味もよろしかったですそれから、こんなのもゲット↓。 上の写真のは、鈴。こーゆーのってありがちだけど、何だかすごく綺麗に見えたのでつい・・・(笑)。けど、綺麗なのも道理だった。 【古来より鈴の音は難を切ると言われ、いまも神事に用いられています。 神輿などに多く使われている「七宝文様」を鈴にも取り入れてみました。 神輿屋のオリジナルなオンリーワンの鈴です。 かざり工房しおざわ】という訳で、かざり職人の作った鈴なんだそうな。やっぱこの辺て、江戸の香りがする。それから、スカイツリーの可愛いストラップがあったので娘さん達へお土産。今は確か宮島で買ったみかんちゃんのストラップが彼女達の首輪にぶら下がってるけど、そのうちスカイツリーをぶら下げることになります。本所をわたくしのイメージで表すと、「大川沿いの水っぽい地域」。この辺の名物といえばやはり佃煮だろうと思うんだけど、あいにくここのコーナーには置いてなかった。私は佃煮は苦手なんだけど、せっかくの本所だから途中にお店があったら買って帰りたいな。ちなみに、江戸博の次回企画展↓。 5月11日までに江戸博に行かれる方は、『大江戸と洛中』展とダブルで観られます。私もできれば一緒に観たいとは思ったんだけど、歴代将軍の書画は結構日光で観てるし、こちらの開催を待つと『大江戸と洛中』展の方が会期ギリギリになってしまうので、その時に体調が悪かったりしたら本当に観たいものまで観られなくなってしまう ので、先に『大江戸と洛中』展を観に来た訳です。その次の企画展がこちら↓。 あ~、大河効果でどこもかんべ~かんべ~って・・・まっ、これは私は行かないだろうな。 さて、もうお昼。なるべく早く帰りたいから、ここからはちゃっちゃと行動したいところ。今日は弁当持参で来たので、3Fの無料休憩所に移動してお昼。途中、江戸博のショップもあったけど、ここに入るとまたあれこれ買い込んでしまいそうだから、見ないようにして脇を通り過ぎた(笑)。特別展ではちょいちょい座って休憩もしたけど、寝不足だしすでに腰も痛い。疲れてる時は異様に食べるので、持ってきたパン2コと途中の上野駅で買ったサンドイッチ、すべて平らげました。さっき買った冊子を読みながら。この日は結構風が冷たくて、しかも特別展示室は展示品保護のためにクーラーがきいていた上に、上着はロッカーに預けちゃったからかなり寒くなっちゃってね。寒いとこれまたよく食べるんです、わたくしお腹もいっぱいになったし、最後に江戸博でトイレを済ませて(←重要)3Fの入口から外へ出ようと歩きだしたら、こんなのがあった↓。 【浅草寺旧本堂大棟部分復元 浅草寺旧本堂(国宝指定建造物)は、1649年(慶安2年)に完成し、 1721年(享保6年吉宗将軍)に大修復が行われるなど、度々修復を 繰り返してきたが、1945年(昭和20年)戦災炎上に至るまでの間、 観音様をお守りしてきた貴重な建造物であります。 今回の企画は、享保の大修復の時に造られ、現に健在保存されている大鬼面瓦 (享保6年作)を拝借し、忠実に部分原寸大の大屋根を復元しようとするもので あり、同時に日本鬼瓦師の会会員の伝統技術向上を図ろうとするものであります。 棟大棟の飾りの上に、当時の貴重な鬼瓦に再び出現を願い、今は当時を知る人も 少なくなっていますが、少なくとも大正大震災当時の面影を想い出して頂き、 昔日の国宝浅草寺の本堂の大棟再現の姿を間近で鑑賞されることは、 観音様の御心が伝わることと信じます。】 (現地解説板より)「江戸名所図会」から場所の説明つき↓。ちょっと見づらいかもしれないけど、赤丸の部分を再現したようです。 これはご覧の通り、入母屋のてっぺん部分だけなんだけど、それでもさすがにかなりのデカさ。そして鬼瓦↓。 【浅草寺観音堂大棟鬼瓦 この鬼瓦は、浅草寺(台東区浅草)の本堂である観音堂を飾る鬼瓦として、 享保6年(1721)から昭和4年(1929)まで大棟に使われていたもの。 観音堂は明治40年(1907)、国宝の指定を受けていたが、関東大震災による 修復の際、この鬼瓦は様式があわないと言う理由で屋根から取り外された。 瓦の銘には、享保6年(1721)に浅草寺領である浅草諏訪町、浅草瓦町で 制作されたことや、「作者 平井助左衛門」と鬼瓦師らしき人物の名が 刻まれている。浅草寺の瓦が寺領から供給されていたことを裏付ける、 由来の明らかな資料として価値が高い。なお旧国宝浅草寺観音堂は昭和20年 (1945)3月10日、空襲により焼失している。】 (現地解説板より)3月10日・・・東京大空襲か。浅草も焼かれたんだな。鬼瓦の様式なんかはわからないけど、確かに現代でよく見るタイプとは違うよな。そして、大棟復元を通り過ぎて振り返ったところ↓。 ほ~んとに広いよな~。先日、たまたま夕飯を食べている時に母親がNHKの「探検バクモン」を見てて、本を読みながら横目で見ていたら、ちょうど江戸博が出てきた回だった。この通り、変わった造りをしていると思ったら、どうやらこのデザインは高床式をイメージしたものらしい。それから、江戸博は確か7Fまであるんだったかな、かなり大きな建物なんだけど、実は江戸城天守とほぼ同じ高さらしい。現地ではそんなこと知らなかったので、帰りに駅のホームからぼんやり眺めただけだったけど、今度行ったらちゃんと見て天守の高さを体感してこようっと。この撮影地点から少し後ろに下がるとスカイツリーが見える。今度は望遠で撮りました。 前に本所の図を載せましたが、スカイツリーはここから北の方角にある。でもわたくしはスカイツリーを背にして、南の方角へプチ史跡めぐりのスタートです。今回はいくつかのスポットしか回らないから、そう時間はかからないはず・・・だけど。んで、まず来たのが榛稲荷神社(場所はたぶんこちら) 【榛(はんのき)馬場跡 この辺りには、榛馬場と呼ばれた馬場がありました。本所に住む武士の弓馬の 稽古のために設けられ、周りを囲む土手に大きな榛(カバノキ科の落葉高木)が あったところから、そう呼ばれたようです。 勝海舟の父小吉の著書「夢酔独言」の中にも、子どものころの回想として、 榛馬場のことが出ています。馬場の傍らに祀られていたのが、この榛稲荷神社です。 天保8年(1837)に亀沢町の若者が奉納した木造朱塗の奉紙立が、震災、 戦災を逃れて今でも保存されています。 葛飾北斎も娘のお栄といっしょに稲荷神社脇に住んでいたことがあります。 奉紙立=正式の食事の時、膳の盛り物の周囲に、紙をさまざまな形に折って 立てる器】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)この解説は高札スタイルになっていて、「尾張屋清七版 江戸切絵図」の両国部分が掲載されている↓。 赤の矢印のところが榛馬場。その上のデカい白い敷地が御竹蔵。ここに、現在の両国国技館、江戸博、あと学校と公園がすっぽり入ってます。相当デカいのがわかるでしょ?にほんブログ村
2014年05月01日
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