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8月ですね。今朝は隣のチームの朝礼で管理職のHさんが「今日は晦日だから・・・」と言ってるのが聞こえた。晦日ってなんだか30日のことを指すイメージがあったので、Hさんが近くに来た際、「晦日って月の最後の日を指すんでしたっけ?30日のことのように思ってましたけど・・・」って話しかけたら、やっぱり月の最後の日を指すんだという。さらにHさんが語るには、Hさんのおじいさんは明治生まれで上野広小路付近に住んでいたそうな。で、そのジイさんは晦日には「月越しのそば」を食べていたんだと。今は大みそかに「年越しそば」を食べるのが日本人の慣習だけど、年の最後だけじゃなく、月の最後にもそばを食べてたんだってさ。「月越しそば」なんて初めて聞いたよ・・・面白いなあさてと、前回の続き。道鏡を自分の後継ぎにしようと称徳天皇が準備を進める中、有名な宇佐八幡神託事件が起こる。これにより道鏡の大それた野望は打ち砕かれ、ついで称徳天皇が亡くなると道鏡は追放され、歴史の表舞台から姿を消す・・・そんな感じが世間一般の見方。神託事件のどこまでが事実でどこからが後世の脚色なのかはわからない。が、あらためて託宣を受けに行って「やっぱり道鏡はダメらしいッス」という報告を持ち帰ってきた和気清麻呂に対し、称徳天皇はぶりぶり怒り和気清麻呂の名前を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて左遷の後流罪とし、その姉の広虫(法均:ほうきん)を別部狭虫(わけべのさむし)と改名させてこれまた配流とした。本当は宇佐に呼ばれたのは法均の方だったんだけど、病弱を理由に弟に代行させたという。出家していた法均は還俗させられた上で改名・流罪となった。これは、最初の託宣通り道鏡への禅譲を支持するという回答を持ち帰ることを天皇が期待していたからこそ、その期待に沿う回答を持ち帰らなかった和気氏に対しこういう処分をしたのだろうと井沢氏は見ておられる。ちなみに、この2人はのちに赦されます。もしここで称徳天皇の意にかなう託宣を持ち帰っていたとしたら、道鏡が皇帝となるのに力強い味方を得たことになる。しかし、結果は上記リンク先の通り。道鏡即位を阻む藤原氏が介入してああいう報告をさせたという推測もアリだけど、だとすると不自然な点があると井沢氏は語る。それが、「これまでと変わらずアマテラスの子孫が国を治めよ」という内容。道鏡の失脚だけを狙うなら、「道鏡はふさわしくないって言ってました」とすればいい。 【この神託を伝えたことで、「天皇家以外の人間はこの国の王にはなれない」という 原則が確固たるものとなってしまったからだ。外国なら、たとえば前に述べた カロリング家のピピンや曹操なら、こういう神託を出させることはない。自らが 王位に就く機会を消してしまうことになるからだ。】 (『逆説の日本史3』より)でも、藤原氏は曹操とは違う。あくまで寄生虫に徹すること、それが藤原氏のポリシー。 【つまり、宇佐八幡神託事件は、天皇制を確立すると共に、藤原氏の原理を確立した 点でも極めて重要な事件なのである。】 (前掲書より)もし中国生まれの禅譲が確立されて、そのシステムを永続させるために代々の皇帝が後継者も僧侶を指定し続けたとしたら・・・僧侶は妻帯しないのだから、「天皇の外戚」というがっちり宿主に食い込む便利な手段は使えない。ま、先々のことは置いておくとしても、とりあえず道鏡には娘を嫁がせて権力を握るということはできなくなる。称徳天皇が位を譲ろうとした相手が道鏡だということに着目した井沢氏は、一連の道鏡にからむ出来事を簡潔な文章にまとめることに成功した。 【要するに、道鏡事件とは、称徳女帝がこの国の統治システムを「天皇制」から 「皇帝制」に替えようとし、その皇帝候補に弓削道鏡という男を選んだだけの、 本質は単純明快な話なのである。】 (前掲書より)井沢氏の推測が合ってるかなんてことはわかりませんよ。でも、私はやたらドス黒く描かれる道鏡像よりも、井沢氏の説の方が素直に受け入れられるんです。道鏡支持説を読んだことがない方には、通説と真逆の道鏡像に違和感を覚えるかもしれませんが、井沢氏の説を詳しく知りたい方は『逆説の日本史3』を読んでね。さて、井沢史観によると崇高な理念を掲げた称徳天皇と道鏡のコンビだったが、聖徳太子が「よく話し合え」って言ったのに、根回しが不足していたらしい。まあ、話し合ったところでフジワラムシが納得するハズもない。宝亀元年(770)4月頃、天皇が病に倒れ、8月4日に崩御する。まずは病に倒れた後の流れを箇条書きで。・道鏡の弟・浄人にあった統帥権を、詔勅によって6月10日以降、 左大臣・藤原永手(房前の子)と右大臣・吉備真備に移した。・真備の軍勢が数百人で昼夜にわたり宮中を取り囲み、一切の出入りを禁じた。 天皇に会うことができたのは真備の娘だけで、ここから死亡日まで 道鏡と天皇の連絡は遮断されていた。・聖武天皇が病気の時には126人(あるいは136)もの看病禅師を招いたのに、 女帝のためには1人も招かず、寺院での公式な病気平癒祈願も行われていない。・女帝(天武系)の崩御後は、天智系の白壁王が次の天皇となるが、 白壁王は200騎の兵を藤原良継(宇合の子)に指揮させ、8月17日に 6300人の人夫を使って大和・高野に陵を築いて葬った。・白壁王が即位すると、真備は辞職した。つまり、病気になった後に天皇は詔を出していきなり軍事権を永手と真備に与えたことになっている。で、その2人はなぜか厳重に宮中を包囲。親族が軍事権を奪われても、道鏡がその気になれば何らかの行動は起こせたと思うのに、彼は何もしていない。そして、白壁王は兵に守らせた上で急いで陵を造って葬った。女帝の両親、そして弟の基皇子は佐保山という場所に固まって埋葬された。しかし、称徳天皇だけは佐保山から離れた高野に葬られた。異常な死を遂げた者は死穢があるので、通常の場所に葬られない。だから称徳天皇は永手らに殺されたか、もしくは治療せずに見殺しにされたか、ともかく異常な死を遂げただろうと井沢氏は推測する。そもそも宮内庁が認定する高野の称徳天皇陵は、でたらめだという。 【なぜならこれは前方後円墳だからだ。八世紀の陵墓に前方後円墳などあり得ない。 形式として古過ぎる。これは考古学者なら誰もが認める「常識中の常識」である。 ということは、称徳女帝の墓は所在不明ということだ。 藤原氏の意向に逆らうと、天皇といえども「男ぐるい」の悪王にされ、あまつさえ 墓すらも所在不明にさせられてしまう。 これも日本史の一つの原理なのだ。】 (前掲書より)「男ぐるい」称徳天皇の臨終に関しては、こんな話もあるそうな。 【「称徳帝は道鏡の陰(いん)をもあかず思されたので、道鏡は山の芋をもって 異形なるものをこしらえて献上した。しかるところ、これが折れこんでしまったので、 ゆゆしい病気になられた。 百済人の医者で小手尼(手の小さい尼で婦人科医なのであろう。現代でも婦人科医は 手が小さくなければ不適当だといわれている)というものが拝診して、『わたくしの手に 油をぬって処置申せば、容易にとり出すことが出来ます』といったところ、百川 (藤原百川:ジジイ註)は『妖狐なり!』とさけんで、小手尼を斬り殺してしまった。 ために帝は病い癒えず、ついに崩御された」とある。 日本紀略にも、水鏡にも、大体同じことが書いてある。】 (『悪人列伝1』海音寺潮五郎より)天武天皇以降、称徳天皇まではずっと天武系の天皇が続いた。しかし、白壁王が即位したことで天智系は奇跡のカムバックを果たした。白壁王あらため、光仁天皇の子が桓武天皇。桓武はのちに平城京から長岡京、ついで平安京へと都を移すが、この際に変わったことをしていて、その一連の動きから井沢氏は天智と天武は実の兄弟ではなかっただろうと推測しておられる。まあ、それは置いておいても、天武系から天智系へと変わったという表現は一般的にも広く使われる。そこから源氏に取って代わられるまでの長い平安時代は別名「藤原時代」と言ってもいいんじゃないかってぐらい、フジワラムシ全盛の時代。 いわゆる正史である『続日本紀』は平安に入ってから編纂された。そこに編纂当時の為政者の意図が入らないと考えるのはあまりに善意が過ぎる。称徳天皇と道鏡のコンビが現在でも当たり前のようにことさらに悪く書かれるのも、そうしたフジワラムシの策略にまんまと載せられ続けているような気がしてならない。『水鏡』なんかは同時代じゃなく、もっと後の成立だけど、それでも称徳天皇が道鏡お手製の「大人のオモチャ」で死んだなんて話、いくらなんでもひどすぎると思いませんか?宝亀元年(770)8月17日、天皇が高野に葬られると道鏡は陵の下に庵をかまえて仕えたそうな。その4日後、白壁王から令旨が発せられる。なんでも、道鏡の陰謀が発覚したというのだ。しかし処分は、 【先聖の厚恩をかえりみて、法によって刑するにしのびず、造下野国薬師寺別当に 任じ、発遣す。】 (『平城京 全史解説』/大角修著より)というもの。下野薬師寺は、鑑真の来日後に造られた三戒壇のひとつ。そして同日、道鏡は下野へ向かわされた。大角氏は山折哲雄氏とともに『日本仏教史入門-基礎史料で読む』を書いた方で、仏教のプロ。しかし、そういう方でさえ、 【僧尼の刑罰はもっとも重くても還俗である。それ以上の刑罰を科すときは、還俗 させたうえで処罰した。道鏡の場合は、左遷とはいえ天下の三戒壇のひとつである 下野薬師寺の造営長官だから、高位の身分のままである。おそらく「禅師」の呪力を 恐れたのだろう。】 (『平城京 全史解説』より)として、道鏡が刑罰に価することをしていなかったから僧籍剥奪にならなかったのだとは見ない。行間からフジワラムシがゆらゆら笑ってる顔が見える気がしませんか?道鏡の弟やその子は流罪とされた。道鏡が下野で死ぬと、その亡骸は俗人として葬られたという。政争の敗者たちに合掌。にほんブログ村
2014年07月31日

天平宝字8年(764)に藤原仲麻呂が滅ぼされると、道鏡は太政大臣禅師に昇進した。その翌年には法王となる。太政大臣禅師に任じられた際、孝謙上皇は【先祖は大臣(おおおみ)として仕えたであろう位と名をうけつぐべき人だ】と道鏡を讃え、この昇進については 【その理由は、上皇自身が袈裟を着ていても政治にたずさわらざるをえないのは、 経典に「国王が王位にあるときも菩薩の浄戒をうけよ」とあるように、出家して 政治を行うことに障りはない。帝が出家している世には出家の大臣がいるのが 当然だということだった。】 (【】内はいずれも『平城京 全史解説』より)「先祖は大臣として」のくだりの真意はよくわからないけど、道鏡の出身の弓削(ゆげ)氏は物部氏の支族ともいわれるので、あるいはそのことを言ってるのかもしれない。ただ、物部氏は「臣」(おみ)ではなく、「連」(むらじ)だったけどね(「叡山攻め(7)」参照)。ウィキペディアの道鏡の項には 【法体で政務に参与する事に対する反感も加わって藤原氏等の不満を高め 確執することになる。】とある。ここでまた仏教史がからみますが、 【飛鳥・奈良時代は大寺院や仏像などの多さから仏教の時代の感があるが、 『続日本紀』では、むしろ神事のほうが多く記されている。しかし、天皇の不予 (病気)や旱(ひでり)の雨乞いなどの非常時には、経典を講じるなどの仏事が しだいに多くなり、葬儀も仏事の色あいを強めて、インドの風習にはじまる火葬や 四十九日の法要がいとなまれるようになった。】 (『平城京 全史解説』より)天平の歴バナを書いてる時に『続日本紀』を少し読んだけど、聖武天皇の頃にはなにかっちゃ経典を読ませていた。まあ、その頃は奈良時代も終盤にさしかかってたからな。皇室が行う重要な神事のひとつに、毎年11月に行われる新嘗(にいなめ)祭がある。去年(2013年)は11月25日がその日で、湯島ではイベントのために干されていた稲がありましたね(「上野第三編(19)」参照)。古くは新嘗祭の別名は大嘗祭(だいじょうさい)だったそうな。それが、時代が下るにつれ、天皇が即位して初めて執り行う新嘗祭のことを大嘗祭として区別するようになったらしい。孝謙上皇が重祚して称徳天皇として再スタートを切ったあとの初めての新嘗祭も、大嘗祭として行われた。 【しかし、天皇は出家して尼僧の身である。すでに神仏習合がすすんではいたが、 皇祖をまつる伊勢神宮には仏僧を近づけなかったし、天皇のもっとも重要な神事である 大嘗祭のときには、諸国の神社の祭りでも僧尼がかかわることを禁じていた。 称徳天皇は詔して、神々は仏とは離れて触れあわないものと人は思っているが、 経典をみると、「仏の御法(みのり)を護りまつり尊びまつるは諸(もろもろ)の 神たちにいましけり」という。たしかに経典にはインドの神々が仏法を守護すると 誓う記述がたくさんある。いわゆる護法尊だ。それを日本の天神地祇にもあてはめ、 僧尼が神事をなすことを忌むべきではないと告げたのだった。】 (『平城京 全史解説』より)インドでデーヴァやアスラが護法神となったように、日本でもついに土着の神が護法神となる時代の訪れです。しかもこれは天皇の詔勅だから、公的なものと言っていいだろう。そうか、色々段階があったんだな、しかも称徳天皇も日本版仏教の発展に一役買ってたとはね。この記述が大変興味深かったので、無知なわたくしが無謀にも仏教史なぞちょっと触れてみようかという気になったという訳です。まあ、書こうと思った時でないとなかなか書けないし、本編には直接の関係はないんだけど、仏教の簡単な流れについて書くのに日本仏教の母胎ともいわれる叡山シリーズならふさわしいんじゃないかとも思ったしね。 こういう流れなので、法体で政務に関わったのは道鏡1人じゃないんだから、ウィキペディアの記述は的外れか、あるいはもう1人の法体政治家・・・すなわち、女帝と道鏡のペアに対して反感があったものか。「伊勢神宮には仏僧を近づけなかった」とあるけど、称徳天皇が重祚した時点で伊勢にも神宮寺があったらしい。天皇はこの伊勢の神宮寺に仏像を贈ったり、西大寺の建立を始めたり、仏教的政策を色々と打ち出した。が、もっと現実的かつ重要な政策も進めていた。称徳天皇は、どうも藤原氏を嫌ってたんじゃないかと思えるフシがある。自分だって藤原氏の血をひいてはいるんだけど、その母はいくつになっても「藤三娘」と名乗るなど、藤原ブランドを誇りとしていたようだし、その母が引き立てたいとこの仲麻呂は王権の一部を手に入れ、海外遠征まで行おうとした。うんざりしたのはフジワラムシだけじゃない。淳仁天皇も仲麻呂の子飼いのようなものだったし、自分の血をひく後継ぎを作りようのない女帝の後釜を狙う皇族たちも橘奈良麻呂の乱などで粛清してきた。藤原氏よりも皇族の血筋として誇り高かったように思われる称徳天皇は、道鏡と組んで経済的側面から害虫たたきに取りかかった。「高山城(2)」で少し荘園について触れてますが、ここではそのなれそめの話になります。奈良時代は律令制が整った時代。公地公民制という言葉は学校でも習いますね。律令制においてはこれが原則だったのに、少し方針を変える必要が出てきた。この辺はさすがに教科書の記述がコンパクトでわかりやすいから引用しちゃおう 【課役の負担に苦しむ農民の中には、家と田地を捨てて浮浪・逃亡する者が増加していた。 その一方で、地方豪族や有力な農民の中には、浮浪・逃亡した農民を使って開墾を進め、 私有地を広げる者もあらわれた。 政府は、土地公有の原則に反するこのような動きを禁ずるとともに、人口増加による 耕地の不足をなくすため、723(養老7)年に三世一身法を施行した。この法は 期限つきではあるが、墾田の私有を認めたもので、土地公有政策の後退を意味した。 さらに政府は、743(天平15)年、墾田永年私財法を出し、墾田の永久私有を認めた。 このことは、律令国家の基礎である公地公民制の原則をくずす重大な政策変更であった。 この法が出されると、資力のある貴族や寺社は、公然と原野を開墾し、広大な土地を 私有するようになっていった。】 (『高等学校 日本史』清水書院より)「資力のある貴族」の筆頭はもちろんフジワラムシ。「政府」といっても、ここは時の天皇である聖武天皇の名で出されてますが、「わあ、ラッキー!聖武君、こんないい法律作ってくれてありがとうそれじゃ、せっかくだからお言葉に甘えて・・・」・・・のハズがない。井沢氏は聖武天皇を光明子の尻に敷かれる「ロボット天皇」と呼び、【そのロボット天皇が裁可した法律には、その背後にいる黒幕の意図が反映していると考えるのが常識】(『逆説の日本史3』)とする。百歩譲って、聖武天皇が亭主関白だったとしましょう。それでも、墾田永年私財法が制定された時、法律を所管する民部卿のトップは仲麻呂だったらしい。つまり、光明子と仲麻呂は宿主の栄養分をさらにじゅるじゅる吸い尽くす基盤を整えた。律令制崩壊の一手となったこの法令に、女帝と道鏡のコンビは真っ向から挑戦した。すなわち、天平神護元年(772)、寺院の墾田と百姓の1、2町以外の墾田開発を一切禁止するというお触れを出した。これまでに私有地化してしまったものはしょうがない。ただし、これ以上は絶対作らせねえ。こういう禁令は、後にも先にもこれっきりなんだそうな。 【つまり、女帝と道鏡がやったことは、「私的土地所有」を「国家的規模」に 拡大させぬための行動であり、日本土地制度史上極めて重大な禁令なのである。】 (『逆説の日本史3』より)そして、フジワラムシの屋台骨を揺るがしかねない、もうひとつの方針の現実化へ向けて天皇が動き出した。ここで記事の最初の道鏡の昇進の話へ戻ります。仲麻呂と同じく、称徳天皇も「中国かぶれ」だったと井沢氏は語る。 【当時の状況から、皇族や藤原氏の「不潔さ」に絶望し、一足飛びに禅譲つまり 「有徳者への政権譲渡」を企てた。(中略)これまでの歴史家は、禅譲の相手が 道鏡であることにあまり注目していない。それはどういうことかというと、道鏡は 僧侶だから子孫はいないし、今度できる見込みもない、ということだ。つまり、女帝から 道鏡に皇位が禅譲されれば、当然そのあとも禅譲になる、ということなのである。】 (『逆説の日本史3』より)考えとしては悪くない。が、それは独善的な正義感によるもので、根回しが不足していたと井沢氏は言う。天平神護2年(773)10月、道鏡に対する月料(毎月支給される米や塩などの食料)が天皇に準じるものと定められる。翌年3月にはあらたな法王のための役所、「法王宮職」が置かれる。その一方で、女帝と別腹の姉妹にあたる内親王とその子を流罪とするなど、「道鏡皇帝」への道を整えていった。にほんブログ村
2014年07月30日

仏教のことをろくに知らないわたくしからすると、「戒律」といえば各宗教がそれぞれ定める、「信者がしてはならないこと」のタブー集のようなイメージがある。が、聖武天皇が薨去した年に娘の孝謙天皇が発した詔に【梵網戒の妙力で亡き天皇の霊が輿に乗って冥土に旅立ち、毘盧舎那仏の蓮華蔵世界に往生できるように祈れ】というものがあり、 【要するに、戒には仏の加護の威力がこもっているというのである。仏教の戒律とは、 たんに守るべき規則とか徳目なのではない。戒をうけることによって仏に守護される。 それが今日、亡くなった人に戒名をさずけて冥土の護符とすることに通じるのである。】 (【】内はいずれも『平城京 全史解説』より)なんだそうな。実はこの春、我が家では待望のお墓ショッピングをしました。お墓を買うなんてのはもちろん初めての経験で、色々思ったこともありましたし、ついでに葬儀と仏教に関する本なども読みまして、いずれ雑談にまとめようと思ってますが、うちが買ったのは一般霊園の区画。そういうところの墓所だと、葬式なんかはどうするのかと思ったら、最近では家族葬や友人葬など形式にとらわれず内々で故人を見送る人が増えてるんだそうな。でもやっぱり、葬式といえばお坊さんのお世話になるイメージが強いので、帰りの車の中では「内々はいいけど、お経とかはどうするのかしらねえ~」「あ、お経なら私読めるよ。だから安心して成仏してよ」しかし、お経は読めても戒名はどうするんじゃい・・・って、どこまでも慣例としての仏教式葬儀から離れられない。そもそも戒名ってなんなんだ?と思ってたんだけど、冥土の護符ね・・・そう言われるとわかりやすい。ただ、本来の戒名というのは生前に仏弟子となることを誓って授かるものらしいけどね。さてと、前回の井沢氏が引用した奈良・唐招提寺の執事である遠藤證圓氏の愛人説に対する反論に戻ります。 【私は当時の僧界の流れからも、あり得なかったと考える。道鏡が僧綱についたのは 天平宝字7年(763)9月のこと、その5月6日鑑真和上が示寂された、まさに 直後のことである。わが国に最初の正式授戒が行われてから10年、ようやく授戒の 制も定着して、戒律への関心・理解も深まっていたときである。 そうした時期に、教団追放をされる重罪の第一にあげられる触女人戒(しょくにょにんかい =女性にふれる戒)を犯したとなれば、それがたとえ位人臣を極めた者であっても、 すぐさま批難されることはまぬがれ得ない。(中略) ましてや僧綱の筆頭には師の良弁大僧都がおり、その下には鑑真和上に随従して来朝し、 戒壇院戒和上となっている法進がいたのである。法進がこれを黙視したとするならば、 苦難をのり越えてまで他国に来た自らの任を放棄したことになる。このあたりのことが、 いまだ歴史学者にも小説家にもほとんど指摘されていないのは不思議である。】 (『逆説の日本史3』より。出典は『奈良新聞』「私の如是我聞」。 漢数字は戦国ジジイが変換)ほほお、これは説得力あるよな~。良弁さんは仏教界の綱紀粛正のために意見奏上なんかもしてるようだしね。べべ別に、わたくしが良弁さんが好きだからと言って「彼は素晴らしい人だ!聖人なんだ!!」と大絶賛する訳でもないんですが、厳格な一面を持っていたであろうという印象はある。まして、海の向こうから待望の受戒の師をお迎えしたばかりの時期だから、戒に真摯に取り組もうという風潮は強かったんじゃないだろうか。上の文章で破戒の罰則について少し触れてますが、僧尼令の公布年代ははっきりしてないようだけども、『続日本紀』の記載から、大宝元年(701)6月1日の少し後のことと思われる。これは文字通り僧侶と尼僧に対する決まりで、具体的に何をするとどうなるかという罰則規定も含まれている。この中で一番重い罰は、やっぱり還俗かなあ。・天文を読んでウソの予言をすること・兵書を勉強すること・殺人・性交・盗み・「自分は悟りを開いた」とウソつくこと・占い・呪術をもって病気を治すこと・勝手に道場を作って民衆に説法したり、やたら罪福を説くこと・長老を殴ること・酔っぱらってケンカすること・偽った説法をし、勝手に法名を俗人に与えること・一般の法に照らして1年以上の罪と同等の罪を犯したとき以上が還俗に価するものです。項目だけ挙げると結構数があるように見えるけど、全体の中では還俗にまでなる禁止事項はそう多くはないです。当然のことながら、異性との交わりは禁止されてます。個人的には、勝手に戒名(法名)を授けることの罪が重いのが興味深いですね。 【もっとも、こういう反論があるかもしれない。「僧侶の一般的事情はその通りでも、 道鏡個人が突出して戒を犯した可能性は否定できない」と。しかし、その可能性は まずあり得ない。 というのは、女帝の死後、道鏡は一切の権威を剥奪され「タダの人」になったわけだが、 もし本当に女帝と性的関係があったのなら、この時点で必ず「破戒僧」として僧籍も 剥奪されたはずだからだ。だが、その事実はない。】 (『逆説の日本史3』より)というもっともな理論により、世に言う愛人説が相当アヤシイものだと考えることができる。道鏡が悪人扱いされるのにはもう一つ理由がある。皆様は「日本三大悪人」なるものをご存知ですか?平将門、足利尊氏、そして道鏡。明治以降のいわゆる「皇国史観」による評価で、いずれも天皇に反逆したり天皇の地位を脅かした人だとされます。道鏡がこの3人の中に入っているのは、巨根の魅力で女帝をたぶらかしたからではなく、反逆をしたからでもありません。なんと彼は天皇になろうとした悪僧だというのです。それが「宇佐八幡神託事件」。簡単に流れを説明すると、「道鏡に皇位を継がせるべし」との神託が降りたとの話が出たので、称徳天皇は宇佐の八幡様へ確認の使いを出す。ところが、使いの和気清麻呂が持ち帰った託宣は、「これまでと変わらずアマテラスの子孫が国を治めよ」というものだったので、道鏡の野望はあえなく潰え、皇統は保たれた・・・そんな感じのお話です。皇国史観などでは、最初の神託を聞いた称徳天皇は臣下を天皇にするという突飛な内容に困惑したとするが、井沢氏はそれこそ天皇が望むものだったであろうとする。「叡山攻め(4)」で藤原仲麻呂の半島出兵の野望を紹介してますが、海音寺潮五郎は仲麻呂は天皇になりたかったんじゃないかと推測しているそうな。井沢氏もその基本ラインは支持しているものの、中国かぶれの仲麻呂がなりたかったのは「天皇」じゃなく「皇帝」だろうと修正を加えている。天皇と皇帝はどう違うのか?天皇については説明はいらないでしょうが、絶対条件がアマテラスの子孫であること。アマテラス一族による世襲制ってとこでしょうか。それに対して、皇帝は「徳」に支えられ裏付けられるもの。「上野第二編(47)」で「天道」について少し触れてますが、あれと同じものであり、「徳治主義」とも言われますね。 【「徳」などというものは客観的に測定不可能なものであるから、とどのつまりは 「徳」があると「自称する」人間なら、誰でもなれるのである。】 (『逆説の日本史3』より)光明皇太后をバックに付け、自分の推す淳仁天皇を即位させた仲麻呂は貨幣鋳造権と税徴収権を握って、新羅に対し「征討」を行おうとした。夢見ただけじゃなく、実際に準備に入っていた。これに危機感を抱いたのが、称徳天皇(当時は孝謙上皇)。彼女は深窓のお姫様育ちのお飾りの上皇じゃない。仲麻呂に対抗するために道鏡と吉備真備を抜擢した。吉備真備は、井沢氏によると【皇族でも藤原氏でもないのに、学問の能力だけで右大臣に出世したのは、日本歴史始まって以来】なんだそうな。ただ、いくら道鏡と吉備真備が優秀な人であろうとも、それだけで仲麻呂に対抗馬とするにはちと弱い。上皇がクーデターを成功させることができたのは、強力な助っ人がいたからだった。それが、仲麻呂を除く藤原氏。同じ藤原氏なのに不思議な気もするけど、ここで上記リンク「叡山攻め(4)」の寄生虫の話を思い出してください。すでに王権の一部を手に入れている仲麻呂が新羅征討に成功すれば、さらに権力は増大する。仲麻呂自身が皇帝になる意思を持っていたとしたら、その夢にまた一歩近づく。すると、寄生虫に徹してきたフジワラムシは困ってしまうのだ。まあ、これが外国だったら、つか日本以外の国だったらこのチャンスを逃さず寄生虫は宿主へフルモデルチェンジする。そういうチャンスはこれまでにも、この後にもあるのに、フジワラムシはそうしなかった。藤原氏はヘンな一族だと井沢氏は言う。(「フジワラムシ」も井沢氏の表現です)で、たまたま宿主(上皇)と寄生虫の利害が一致したために、協調して仲麻呂を倒すことに成功はした。が、皮肉にもその仲麻呂と同じ方向性を持っていた称徳天皇が今度はフジワラムシの敵となってしまう。↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2014年07月29日
最近楽天ブログのフォームが変わりまして、カテゴリー分けさえきちんとしておけばカテゴリーごとに記事が読めるようになりましたが、本ブログもシリーズ数が増えてきましたので、引き続き目次は目次として作っていきます。●2014年1月 叡山攻め(京都府・滋賀県)「休暇のはじまり/叡山攻め(1)」「旅のお決まり/叡山攻め(2)」「叡山攻め(3)」~「(13)」「叡山攻め(14)」~「(77)」「叡山攻め(78)」~「(128)」「叡山攻め(129)」~「叡山攻め(209)」「叡山攻め(210)」~「叡山攻め(216)」「叡山攻め(217)」~「叡山攻め(237)」●2014年3月1日 けぬのお大師ハシゴ編(栃木県佐野市・足利市)「佐野城(1)」~「佐野城(4)」「けぬのお大師ハシゴ編(1)」~「けぬのお大師ハシゴ編(13)」●2014年3月21日 春の寛永寺(東京都・上野)「春の寛永寺(1)」~「春の寛永寺(19)」●2014年4月12日 建仁寺が江戸に出稼ぎに来てます(東京都・上野)「(1)」~「(2)」●2014年4月19日 本所Wデビュー(東京都・両国)「本所Wデビュー(1)」~「(33)」●2014年7月26日 墓参り2014(東京都・巣鴨~上野)「墓参り2014(1)」~「(12)」●2014年10月18日 「東山御物の美」展と日本橋(東京都)「将軍たちの宝(1)」~「将軍たちの宝(31)」「江戸城(1)」~「江戸城(34)」 「江戸城(35)」~「江戸城(49)」<番外編>「ガイジンたちの夕べ(1)」~●2014年11月8日 「高野山の名宝」展と赤坂の史跡(東京都)「高野山が出稼ぎに来てます(1)」~「(10)」●2015年3月21日 「インドの仏」展と「みちのくの仏像」展(東京都)「寛永寺にほとけが集結してます(1)」~「(5)」●2015年8月1日 巣鴨へ墓参りと入谷・小塚原(東京都)「もうその墓参り(1)」~「もうその墓参り(8)」
2014年07月27日

いやあ、今日も暑かった~。7月最後の土曜日ですので、狙い通り今日は巣鴨へお墓参りに行ってきたんです。出かけついでに、良源さんへお礼参りにも行ってきました。まだ足は完治してないし、この暑さですので歩きまわるのは極力控えましたが、なかなか充実した1日でした。ただ、今回(こそ)は早く家を出たものの、朝から相当な暑さだったのでやっぱり夏休みの旅行はやめておいて正解だったかなと思いました。今日撮った写真は194枚。行動時間が短かったのでわたくしにしては少ない方ですし、同じものを2回撮ったりしてるので実数はもっと少ない。それに、今日撮ったのはほとんどが過去の記事を書く中で宿題としたものなので、今日の分の報告は数話でさらっと終わるハズ・・・ので、本当はさっさとそちらを記事にしてしまいたいのですが、さすがにここで短編を挟むとブーイングが出そうなので(笑)、ひとまず今書いてる前置きの分だけは先に終わらせます。っと、それから、隅田川の花火大会は結局最後まで観ちゃいました。ホントはほどほどのところで切り上げて夜のお仕事に入るつもりだったのが、途中で眠くなった母親が花火コンテストの結果を明日教えろと言い残して寝に行ってしまったので、見届けなければならなくなってしまったのです。もちろん、コンテストの結果報告を頼まれたからといって「ごめん、最後まで観なかった~」と言ってしまえばいいんですが、今年のわたくしはTVに釘付けでした。どうしてだか、皆様にはおわかりでしょう?そうなんです、両国編を書いて以降、本所が大のお気に入りになったし、都会の夜景をバックに上がる花火を見ながらかつて大川で毎晩のように打ち上げられていたというお江戸の花火の光景を思い浮かべていたんです。TVを見ながら、いやあこれ、来年は会場へ観に行っちゃおうかな~なんてことまで考えたのですから、歴史を知って愛着を持つと人間ここまで変わるといういい例ですまあ、動物園に1人で入るのは抵抗なくなったけどさすがに花火を1人で観るのはちょっとな・・・相棒でも誘ってみるかな。たぶんヤツは「人ゴミ嫌いなアンタが、どうしたの?一体何があったの!?」って驚くであろう。さて、それじゃ本文に入ります。仏教史と言っても専門的でつっこんだ内容を書くつもりはなく、仏教の流入からの大雑把な流れだけをひとまず紹介したかったので、中途半端な内容で申し訳ないですが、前置きのさらに前置きは前回の記事で終了です。その後は聖武天皇の数々の仏教政策により、大きく花が開きました。たとえ聖武がどういう理由であれだけの造寺・造仏をして国家経済に重く暗い影を落としたとしても、沢山のかたちを残したことはまぎれもない事実。で、再び前置き部分に戻りまして、称徳天皇の愛人2号・道鏡さん。称徳女帝が新しい愛人を作ったので、愛人1号の藤原仲麻呂はボロ雑巾のように捨てられてしまいには殺されてしまったというのが一般的な説。道鏡さんは巨根の人だったので、称徳女帝はメロメロになり道鏡は異例の出世を遂げ、道鏡の一族も巨根パワーにあずかって要職に抜擢され、おごり高ぶった道鏡はついに天皇の位を狙うに至った・・・おおざっぱに言って、そんな感じで語られます。ものによっては皇位を狙ったために称徳女帝に毒を盛ったという話まであり、よくまあこれだけ色んなエピソードを考えつくもんだと感心するぐらい、悪人エピソードには事欠かない人です。今回のシリーズを始めるにあたって、いくつかの仏教関係の本や古代史関係の本なども少し読みましたが、道鏡愛人説、あるいは皇位を狙った大悪人説が大方を占めると知ってはいたものの、仏教史のプロとも言うべき方達までもが道鏡に対しかなり辛辣な書き方をしてるのを実際に読んで、結構ショックを受けました。ま、わたくしは幸か不幸か、道鏡さんについては井沢元彦氏の『逆説の日本史』から入ってまして、昔も今も道鏡さんに関する井沢史観は無理がないと思ってますので、道鏡擁護派はおそらく少数派でしょうが、愛人1号と同様、井沢史観をベースに話を進めますのでご了承ください。道鏡の生年は不明なるも、だいたい700年頃の生まれと思われる。法相宗の高僧・義淵に師事。兄弟子にはわたくしが惚れたあの良弁さんがいる。「道鏡を知る会」様のホームページによると、正倉院文書で天平19年(747) 1月に東大寺・良弁僧正の使人として「沙彌道鏡」が登場するんだそうな。良弁さんは金鍾山房から金光明寺を経てさらに名称変更した「東大寺」の初代別当だからね。道鏡は禅行で知られるようになったと言われ、宮中に仕える僧になる。天平勝宝5年(753)には平城京の北に位置する近江の保良(ほら)宮が北京と定められる。その翌年、当時は淳仁天皇に譲位して孝謙上皇となっていた称徳女帝が保良宮で病気になり、道鏡が看病にあたる。これがきっかけで2人は恋に落ち、その事を諫言した淳仁天皇に怒って上皇がクーデターを起こしたといわれる。で、平城京に戻って淳仁天皇から実権を奪い返したあとに、仲麻呂&淳仁の諫言に対する反論と世間一般で解釈されている詔を発したそうで、海音寺潮五郎の『悪人列伝』によるその訳を井沢氏は紹介している。 【自分は聖武の譲りを受けて、女ながらも皇位についたのであるが、女であるので、 今のみかどを立てて早く譲位した。然るに今上(今の天皇のこと)は自分にたいして 恭敬の礼を欠き、くだらん連中の言うことを真に受けて、自分にたいして言っては ならないことを言い、してならないことをした。そんな無礼なことを言わるべき 自分ではない。(中略) しかしながら、こんなに言われるのも、自分の身が至らないからであると反省もし、 またこれも発菩提心の機縁にもなることと思うから、自分は入道して尼となった。 しかし、政治については、小事は天皇が行ってもよいが、大事と賞罰のことは 自分が行う。皆々うけたまわりおけ。】 (『逆説の日本史3』より)井沢氏はこれを「名訳」だとしているが、海音寺氏自身は愛人説の支持者なんだそうな。愛人説に疑問を持つ井沢氏は、奈良・唐招提寺の執事である遠藤證圓氏の文章を紹介して通説の突き崩しにかかる。ちとここで、聖武天皇の時代に戻ります。天平17年(745)・・・この年は「せんとくん」聖武天皇が紫香楽を都と定めた年ですが(「春の寛永寺(16)」参照)、病にかかって大赦を行った。9月には畿内の寺と神社で祈祷をさせ、諸国の鷹や鵜を解き放つ放生会を行い、さらに3800人を出家させた。 【出家得度させるのは生き物を放つ放生会と同じような功徳のある行いとされてきた。 そして、いつのころからか、一族の一人でも出家して僧になれば七代にわたって功徳が あるともいわれるようになる。 この天平十七年の三千八百人は『続日本紀』にみられる最大の出家数で、これほど 多いのはめずらしいが、千人、数百人、数十人の得度はしばしば行われている。 大仏開眼供養で僧一万人が列したというのも、この大量の得度があったからだ。】 (『平城京 全史解説』大角修著/学研新書より)もともと修行中の僧侶予備軍が大量にいたのならいいけど、どうもそういう訳でもないらしい。大角氏によると、【行基の弟子や信徒のような私度の者たちを官僧にとりたてることもあったようだ】という。「とりあえず、増やしとけ~!!」ってスタンスじゃ、当然仏教界のレベルは落ちる。こういう状況を憂えて、法華経か最勝王経を暗唱できるか、作法をマスターしてるか、3年以上修行したか、などの条件を加えたらどうかという議論も起こる。そうした中、幾多の苦難をはねのけ、はるばる海を越えて鑑真さんが受戒の師として日本にやって来た。歴史ファンの中には、鑑真が来るまでは日本に受戒の制度はなかったと解釈している人もいるようだけど、そういうことではないらしい。それまで日本で行われていたのは自誓受戒(じせいじゅかい)と呼ばれるもので、『平城京 全史解説』によると梵網戒に書かれているものは重いのが十戒、軽いのが八十戒だそうな。これが戒律の基本とされたそうで、仏前で誓えばそれでOKというものだったらしい。梵網戒は鑑真の来日以降、「菩薩戒」と名をあらため、在家の信者と入門僧用の戒律とされるようになる。 【それに対して鑑真は、中国律宗の根本とされる四分律による戒律を伝えた。これは 戒律を四つに分けて説くもので、その第一に比丘(男僧)の二百五十戒、第二に 比丘尼(尼僧)の三百四十八戒を定めており、それを授けるのに三師七証の儀礼を もってした。これを「具足戒(完全な戒)」という。】 (『平城京 全史解説』より)「三師七証」は、受戒にあたって師が3人、証人が7人いるというもので、当然誰でも10人集めればいいってもんでもなく、きちんとした資格を持つ人が師と証人になる必要があった。そして、戒律の数も飛躍的にアップする。なんで女の方が100近くも戒律が多いんだ・・・男の方が煩悩は多いだろ!と文句のひとつも言いたくなりますが、ともかくハードルが一気に上がってしまったので国内では反発もあったらしいが、そもそもこっちからお迎えに行ってるんだから、全体として仏教界引き締めの方向性にあったものか、天平勝宝6年(754)9月には正式な受戒の場として東大寺に戒壇院が設けられた。天平宝字3年(759)には新たに寺を創建し、戒壇も造られる。これが唐招提寺。その2年後には筑紫と下野にも戒壇が設置され、全国の受戒をカバーする体制が整えられる。↓ぽちりとよろしく~にほんブログ村
2014年07月26日

う~ん、なかなか進まないなあ。何のために仏教史に触れるつもりになったのか忘れてしまいそーだそういえば、去年の今頃も福山編を書きたくなくてウダウダ雑談入れてたりしてたっけ・・・いやいや、今回の進みが遅いのはサボってる訳ではなく、単に忙しいのと記事を書く準備ができていなかっただけです。過去のシリーズでは毎日のように記事を上げていたので、今回更新頻度が遅いことに罪悪感のようなものも感じてはいますが、それなりに頑張ってはおります。それにしても、なんか今月はワタワタしてやたら忙しい・・・今日も定期レントゲンに行ってきましたが、予定より1週早まってもうレントゲンで経過を見るのはとりあえず今日が最後ということになりました。診察の方が終われば、リハビリへ通うのはやめにしようかと思ってたものの、あゆみちゃんのレンタル料の労災請求は別口らしくて、その手続きがあるので来週まで通うことになりそうです。も~、労災ホントにめんどくさい・・・それでも治療のためにかかったお金を全額持ってくれるならいいのですが、もしかしたらあゆみちゃんのレンタル料は自分持ちかもしれんホント、ケガなんてするもんじゃないです。あ、それから明日は隅田川の花火大会らしいですね。もちろんわたくしは人ゴミは嫌いですし、暑いし忙しいのでTVで観るだけですが。鍵屋と玉屋の夢の競演・・・はもちろんありませんが、TVで観られる地域の方はぜひかつての川開きの賑わいを想像しながらご覧ください。去年は開始直後の大雨で異例の中止になっちゃったから、今年は晴れるといいですね。さて、三宝興隆の詔や十七条の憲法などにより聖徳太子がソフト面をリードし、蘇我馬子が半島とのつながりをキープして仏教寺院建設のハード面をリードして日本仏教は着々と国内に浸透していった。推古朝の終わり頃の調査によると、寺の数は46、僧尼は1385人を数えたという。しかし、キリスト教なんかの場合、長い迫害の時代を耐え抜いて、民衆の側からの盛り上がりに推されてついに国教の地位を勝ち取っている。まあ、例えて言うなら、アルフィーが長い長い下積みの時代を経て「メリーアン」で爆発的な人気を得たような(←元アルフィーファン)ところが日本仏教の場合は、公式には王から王へ伝授された「公伝」の形を取るがゆえに、国家による管理がなされた。もちろん、出家した僧尼や熱心な信者の間では純粋な信仰がつちかわれ、真面目に経典の研究なども進んでいったと思われるが、同じ仏教を受け入れた仲間でも、立場によってその目的というかカラーが違う場合があった。それは、原産地であるインドからの直輸入ではなく、お隣の大国を経由した影響が大きいと思われる。 【中国社会に受容された仏教は、インド仏教とはかなり異なった発展をとげた。 仏教本来の民族や国家をこえた普遍的性格は変容し、支配者層の特権的地位を保証し その権力を維持するための、呪術的宗教としての機能を発揮したのである。 造寺・造像も国家目的を主とするものに変貌し、国家的な色彩を深めた。】 (「朝日百科 日本の歴史2」)この辺は、「春の寛永寺」の天平の歴バナあたりを思い出していただくと理解しやすいかと思います。(「春の寛永寺(6)」以降参照)聖武天皇夫妻があれほどまでに熱心に造寺・造仏に励んだのは、純粋な信仰にただ突き動かされたにしては当時の「身の程」をはるかに超え、「常軌を逸した」レベルなので、国家鎮護や怨霊対策のイチ手段として仏教を活用したと考える方が自然じゃないかと私は思うんだよね。純粋な信仰とは次元を異にするこうした多重構造は、本シリーズの主役である延暦寺が創建される頃まで、いや、その後もずっと続いていく。その他にも、仏教の流入は多方面に様々な影響をもたらした。まずは神道。「日本の国は天照大神の子孫が代々治めていく」という日本神話の大原則がいつ頃から言われ出したのかはわからないけど、山と豊かな森が多く広がるこの国では、元々自然崇拝があり、古代国家が出来上がる頃には氏族ごとの信仰があったらしい。それが、仏教が入ってきたことで刺激を受けて、神への信仰もより体系立てて整えられていったんじゃないかと今回いくつかの本を読んで思った。仏教に対抗して、というよりは、明確に区別するためにもすこし高度な「宗教」へとランクアップしたんじゃないかと思うのだ。いや、もちろん仏教が入る前から神道的な祭祀とかもあったんだけど、より洗練されてスマートになったというか・・・ちょっとうまく言葉にできませんが。ただ、区別して張り合っただけじゃなく、そのうち新たな動きも生まれてくる。 【しかし、仏像をも蕃神(となりのくにのかみ)と受け取る一般の族長層らの 信仰によって、神々との習合という現象が現れてくる。習合というのは融合とも 混合とも異なる。神も仏もそれぞれの立場を尊重しながら、相互が日常的に 提携しあうのである。それはきわめて賢明な文化の受容方法であった。】 (「朝日百科 日本の歴史2」より)「神仏習合」の「習合」という言葉について深く考えたことはなかったけど、外来の文化を受け入れては自分流に造り変えることをし続けてきた日本ならではの行為なのかもしれない。神仏習合は次第に進み、聖徳太子よりもう少し後の時代になると、皇室にゆかりの深い神社にも神宮寺が置かれるようになってくる。前回紹介した十七条の憲法は、日本古来の原理原則をベースに置きつつ、仏法のススメと天皇への服従を打ち出している。中央集権と律令制は大化の改新あたりからかと思ったら、聖徳太子の頃からすでにその芽が出始めていたらしい。 【さらに重要なことは、律令制という法治国家への波も、この欽明朝のころから 倭列島に迫っていたことである。5世紀における政治的統一は部民制を基礎と していたが、やがてそれを管理・運用するのに不可欠の機構として官司制が導入され、 政治体制の整備に向けて一歩踏み出しつつあった。そして欽明朝、蘇我氏の指導の もとに吉備の白猪屯倉において、国家の直営方式で渡来の新技術が採用され、 戸籍が編貫されて課役徴召に役立てられた。そこでは明らかに公地公民制=律令制の 試行がなされていたのである。】 (「朝日百科 日本の歴史2」より)教科書などで上っ面だけの歴史の勉強をしてる分には、強大な力を持った蘇我氏の専横が次第に目立つようになり、中大兄・・・のちの天智天皇によって宮廷内で馬子の孫・入鹿が惨殺され、蘇我氏は滅ぼされた。蘇我氏は悪いヤツだったから、というような単純な勧善懲悪の図式がイメージされる。が、蘇我氏、とくに馬子が日本史に果たした役割というのは思っていたより大きいんだと今回知ったし、かなり早い段階でその後の日本の方向性を決めるようなファクターが多く出揃っているのを知って、もっと色々勉強したいと思った。ま、ここでは古代史が本来の目的ではないので先へ進めましょう。「無事故で終わった大化の改新」の645年、蘇我宗家は滅ぼされ、大化の改新が始まる。 【その八月、「仏法興隆の詔」が下された。先の「三宝興隆の詔」では氏族ごとに 仏を祀れと布告したが、天皇の国家として仏教を奉じることを宣じたのである。 この詔は、滅ぼした蘇我氏の崇仏を歴代天皇の意を体したものとして肯定したうえで、 今後は天皇みずから仏教を奉じると宣じる。そして官の僧尼を統率するために 十師を任命したのであった。】 (『日本仏教史入門-基礎史料で読む』より)ということで、馬子&太子のラインを引き継いで、より仏教が公的なものとなっていき、国家による管理体制も整えられていく。ちなみに、大化の改新で蘇我氏はほぼ滅ぼされたようにも言われるけど、すべて根絶やしにされた訳じゃない。 前々回などで使った系図で、「第2ラウンドへ」という箇所がありましたが、これがその第2ラウンドで、前の系図の続きになります。これを見てもわかるように、蘇我の血は馬子のひ孫にあたる女性達によって再び天皇家へと入り込みます。ただし、そちらの血統は平安へ入る前に皇室から消えてしまいます。でも、おなじひ孫の娼子によって、藤原氏へとつながるんです。不比等の子の武智麿(武智麻呂)・房前・宇合の名前は天平の歴バナでも出てきましたね。疫病によってばたばたと死んだ四兄弟のうち、3人までが蘇我の血をひいております。その3人はそれぞれ、南家・北家・式家の祖でもあるので、こちらの系統では蘇我の血はしぶとく権力にからみ続けます第1ラウンドと第2ラウンドの系図を見て、「この複雑な姻戚関係、どっかで読んだような?」って思った方もおられるんじゃないかと思いますが、娘を皇族に嫁がせて天皇家の外戚としての地位を築いたのは、まんま「寄生虫」藤原氏ののちの手法と同じ。ちなみに、5世紀頃には葛城氏が同じく天皇家の外戚として権力を握ったんだそうな。こういう手法を用いたのは葛城氏・蘇我氏・藤原氏のみらしい。蘇我氏が滅ぼされたのは、あまりに強大になりすぎて天皇への集権化を目指す中大兄たちに邪魔者にされたのが理由のひとつじゃないかと思うけど、その血を引きつつも蘇我宗家が滅ぶのを見てきた藤原氏は、それを教訓として「寄生虫」手段をより万全なものとし、その後長く続く繁栄の基礎を築いた。仏教の興隆、次世代で形となる天皇中心の政治体制と律令制、そして「寄生虫」手法。初期古代国家から次第に発展していく中で、のちの日本をかたち造っていく様々な要素を蘇我氏が握っていたことは、古代史ファン以外にはあまり知られていないかもしれない。にほんブログ村
2014年07月25日

聖徳太子の様々な業績については、近年では太子の単独の成果ではなく、大おじさんにあたる蘇我馬子との協力関係によるものだとされているそうな。まあ、そりゃそうだろう。邪魔な守屋はいなくなったし、その時点では馬子は時の天皇である推古天皇の叔父でもあり、政権内での実力者だもの。太子の業績のうち、ここで触れるのはもちろん仏教関係です。教科書にもいちおう太子は「仏教にも深い関心を持ち」うんたらと書いてはあるものの、やっぱり有名なのは冠位十二階の制定とか十七条の憲法の方で、あまり仏教興隆に力を尽くしたというイメージは私にはなかった。が、 【太子に対する批判者はそれまでにもいた。たとえば江戸時代の儒学者や国学者は、 口をきわめて太子を罵倒したことがある。しかし、それは太子が「怨霊」だから ではなく、日本仏教の興隆に大きな力があったからだ。 国学者にとって仏教は日本古来の道を踏みはずした邪教であり、儒学者にとっては 合理主義からはずれた邪教である。だから彼等は太子を非難した。ある国学者は 「弑逆太子」とまで言った。弑逆とは「主殺し」のことだ。つまり、聖徳太子は 「天皇殺し」ということだ。 どうしてそんな非難が出てくるかというと、「太子は蘇我氏の一員であるのに、 蘇我馬子による祟峻天皇暗殺に対して何の手も打たなかった。だから太子は 天皇を殺したも同然だ」と言うのである。もちろん、これは「言いがかり」に近い。 (中略)それにもかかわらず、こういう非難をされるのは、非難する側に「太子によって 日本に仏教という邪教が大々的に広まってしまった」という思いがあるからだ。 すなわちこういう非難をする人は、逆説的な意味で太子が仏教の上での「聖人」で あることを認めていることになる。】 (『逆説の日本史3』より)歴史の中でも太子は仏教興隆に功績があったという評価を受けていたようです。ただ、太子がそういう評価を受けるには、やはり馬子の存在は大きい・・・というか、馬子ヌキには語れないんじゃなかろうか。 【この間(崇仏論争のこと:ジジイ註)、仏教と接触しつづけたのは 蘇我氏である。大陸からの文化の流入ルートとしては、早く先行して中国・百済経由の 筑紫ルートがあったが、新しく高句麗が大陸状勢を反映して急速にわが国に近づき、 570年以降、コシ(越前・能登)ルートが浮上し、蘇我氏と結びついた。入京する 高句麗使節の接待は、すべて蘇我氏の役割であった。それは、やがて草堂仏教を 伽藍仏教に飛躍させる重要な契機となったと思われる。】 (「朝日百科 日本の歴史2」より)推古朝の前後は「飛鳥文化」と呼ばれる。そのちょっと前までは、大規模古墳の造成が流行りだった。古墳の技術は朝鮮半島人の指導によるところが大きいとされる。しかし、崇仏派、つか馬子が勝利したことにより 【仏教が広まるにつれて、古墳の果たした祖霊追善と権力誇示の機能は、しだいに寺に 移っていく。有力氏族たちは競って氏寺を造立し、大規模な古墳築造は影をひそめる。】だそうな。「古墳から寺へ」の転換期になったんだね。具体的に仏教関係で太子が何をしたかとゆーと、まず推古天皇即位の翌年、「三宝興隆の詔」を発表した。三宝は仏教のことです。それから、『三経義疏』(さんぎょうぎしょ)の撰述。これは『法華経』『勝鬘経』『維摩経』の3つのお経の注釈書だそうな。これも近年では「大陸にもほとんど同じようなものがあるし、単なるコピペじゃん!太子の撰なんてウソだろ?」とする説もあるらしいが、注釈書という性質上、先人の研究結果を踏まえるのは当然のことだし、似たような記述の中にも独自の見解なども加えられているらしいので、最近TVを賑わしているナントカ細胞の女性研究者の論文の疑惑とは性質が違うようです。そして、もうひとつ取り上げられるのが、「十七条の憲法」。ここに仏教の精神が盛り込まれてるというのだけど、まず『日本仏教史入門-基礎史料で読む』の解説を紹介します。 【民族宗教の記紀神話の段階では勝つことが正義であり、何が正しくて何が 悪なのか、かならずしも明確ではない。太子は民族を超えた普遍の理念として 仏教をとらえ、(中略)善悪の規範を仏教に求めている。 そして第十条では人間は心に瞋恚(しんに:怒り)という煩悩をもつ凡夫だという 認識が示されている。第一条にいう「和なるを以て貴しとし」も儒教の『礼記』に よるだけではなく、仏教思想に裏付けられているといえよう。】で、同書では第二条と第十条のみ紹介されている。手持ちの教科書の方では、項目は結構紹介されているものの、それぞれ一部分しか載せられていない。そういえば、17条全文て読んだことないような・・・と思ってネットで検索したらば、何だか意外な内容だった。つまりは相当イメージと違っていた訳で、なんつーか、かなり生活感が漂っている面白いし、せっかくだから現代語風意訳で全文ご紹介しちゃいます。ただし、17コもあると結構途中でウザくなってくるので(笑)、きっぷのいい江戸っ子風にぱぱっと進めます。遠山の金さんがもろ肌脱いでお白州で諭してるイメージで軽快にお読みくだされ1、どうせ「できた」人間なんかほとんどいやしねーんだ。だから、 お互い協調性を持ってとにかく話し合え!ケンカすんじゃねえ!2、仏教はいいぞ!仏・法理・僧をまとめて「三宝」ってんだ。人間、 たまには救いようのないクズもいるが、大抵は何とかなる余地があるもんだ。 が、「何とか」するのは仏教以外にはねえ!人も国も、これで救われるんだ! いつ仏教やるんだ?今だろ(  ̄▽ ̄)3、天皇の言う事には必ず従え!君は天だ、臣下は地だ。地が上になれば、 世界はぶっ壊れる。おめぇらは天皇に従ってればいいんだ。4、官僚・役人は礼の心を持てよ。お前らに礼がないと、下々が乱れるんだよ!5、ワイロはきっちり断れよ!じゃねえとビンボー人が可哀想だろ。6、人のいい所は大いに誉めてやれ。悪事を見たら徹底的にシバけよ! 人を欺いたり、ありもしないウソ話で悪口を言う奴なんてのは、 国を滅ぼすバイ菌君だからな。7、適材適所がなによりでぇ。与えられた任務は忠実にこなせよ。8、役人は朝早く出勤して、夕には遅く帰れよ。やる事がいっぱいあんだから、 そうでねぇと終わんねえだろ?9、真心を持て。真心さえあれば、どんな事でもうまくいく。 真心がねぇと、何やったってダメなんだぜ。10、考え方は人それぞれだ。自分と違う意見があっても、怒るな。 怒ったとしても、とりあえず顔には出すな。 誰が正しいって決められるもんでもねぇだろう?俺もおめぇも、所詮は凡人なんだ。 相手の意見を受け入れてやれよ。11、役人の勤務評価は正しくしろよ。どうも最近、おかしな評価が多いぜ。12、税金を絞り取っていいのは、天皇だけだぜ。マルサはあくまで天皇の代理人だ。 なのに、勝手に正規の税の他にでっち上げの税を上乗せして私腹を肥やす、 悪いお代官様がいるってじゃねえか。ふざけんじゃねーぞ!13、新しい職に就いたら、前任者と同じように、同じくらいに仕事しろよ。 前任者と俺とはやり方が違うんだなんつって、公務をストップさせるんじゃねえぞ。14、役人たる者、他人を妬むな。自分が妬めば相手も妬む。自分より才能がある者の 出現を喜ぶどころか妬むような小者ばかりが500年、1000年過ごそうとも、 その中から聖人・賢人は生まれねえ。それじゃ、いつまで経っても 国は治まんねえんだよ。15、公務に就く者は、私心を捨てろ。私心があると、恨みが湧く。恨みがあると 法律を破る奴も出てくるし、不和になる。職場がギスギスしてると、 公正無私に仕事すんのも難しいだろ? だから最初の項目で協調性を持って話し合えって言ったんでぇ。16、昔から、民百姓を使うにゃ時期を選べって言うだろう? 民を使うのは、冬のヒマな時期にしろよ。農業や養蚕に忙しい時期に酷使なんかしたら、 俺たちゃおまんまを食うことも、着物を着ることもできなくなっちまうんだぜ。17、大事な事は、皆に良く相談してから決めろよ。なあに、ちっぽけな事なら てめえ一人で決めやがれ。ただ、人間、判断を誤る時もある。 それでも、いくつか雁首揃えりゃあ、いい知恵が浮かぶ事だってあらぁな。 とかくこの世は、話し合いだぜ。ハ・ナ・シ・ア・イ。率直に言って、仏教ってより儒教ちっくだよな。それに、基本法というよりは国家公務員法って呼んだ方がしっくり来る。これが発布された同じ年、これまた有名な冠位十二階が制定されている。そちらの方は、家柄にこだわらず有能な人材を集めようという目的があったといわれ、つまり十七条憲法の内容を見るに、この2つはセットだってことがわかる。天平はこの頃より100年以上あとの時代だけど、聖武天皇&光明子夫妻が大規模な寺を造ったり、2万個以上の宝石の付いた宝冠をかぶるケンちゃん(不空羂索観音像)などの豪勢な仏像を次から次へと造っていたその一方で、庶民はまだ竪穴式住居に住んでいたなんて話もある。なので、聖徳太子の時代にはもっと貧富の差があったろう。どんな有能な人だって、貧しいパンピーから特権のある役人へ出世できれば、中にはやっぱり横柄になったり特権を悪用する人も出てくるかもしれない。ゆえに、役人たる者の心得を具体的に述べたのかな・・・と思った。そうは言っても、仏教をベースにしているあたりはやはり画期的な出来事と言えるだろう・・・が、最初と最後で繰り返し太子が言ってるのは、「和が大事だ、よく話し合え」。井沢氏はこの順番に着目した。 【それはこの「和」こそが日本人に一番大切な原理だと判断したからではないのか。】 (『逆説の日本史1』より)全体としては儒教っぽい印象を受けるけれども、実は儒教道徳には「和」の項目はないんだそうな。 【聖徳太子はやはり偉大な人物だ。日本人の根本原理に気が付いて、七世紀の時点で そのことをはっきり書き残しておいてくれた。そして、二十世紀になって山本七平氏が 日本の社会の基本原理を分析してみると、まったく同じ答えが出た。 となると結論は一つだ。この「話し合い至上主義」、そして、その源流となっている 「わ」の原理は、この日本列島に原住民が住みついた頃から一貫して変わらぬ原理であり、 現代の日本人もその影響下にある、ということである。】 (『逆説の日本史1』より)ただし、聖徳太子がこの原理に気付くことができたのは、別の原理の中に生きていたから、すなわち、熱心な仏教信者だったからこそだと井沢氏は語る。憲法の17の項目を表面だけ見てるとあまり太子の仏教的側面は見えてこないけど、井沢氏のように別の角度から見た場合でも、確かに太子は仏教に入れ込んでいたということがあぶり出しのように浮かび上がってくるのが面白いと思った。にほんブログ村
2014年07月22日

さあ、今日も元気に古代史しましょ~ヤマト政権が整えられていく過程は教科書では 【大王(おおきみ)は、各氏に大和政権の中での身分を示す臣(おみ)・連(むらじ) ・君・直(あたい)・造(みやつこ)・首(おびと)などの姓(かばね)を与え、 臣・連の中の有力者を大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)として国政を担当させた。】 (『高等学校 日本史』清水書院より)として、欄外の脚注に【蘇我氏を大臣、大伴・物部氏を大連に任命したことなどがその代表例である】とあるだけで、教科書だけ読んでると面白くも何ともないし、興味の湧きようもない。ところが、「臣」と「連」とでは大きな違いがあるらしく、「連」は天皇家に仕える氏族であって、天皇家との婚姻はできないが「臣」は天皇家からある意味独立しており、娘を天皇家に嫁にやることもオッケーだったんだそうな。前回の『先代旧事本紀』の記述と重ね合わせて、大和の初代征服者・ニギハヤヒの手足となって国造りを支えてきた「連」組と、大和在住歴は「連」組に多少劣るものの、娘を天皇に嫁がせて急速に力を伸ばしてきた「臣」組との対立構造なんかイメージしてみる。まあそれは個人的な空想でしかないけど、名族の物部氏からすると「なんだよ、蘇我のヤツ。成り上がりのくせに!!」な~んて思いもあったかもしれない。『先代旧事本紀』が正しければ、中臣氏も物部氏と同じくニギハヤヒに従って来た氏族であり、新たな征服者・神武天皇に屈したあとも大和にあって、しかも両者とも祭祀にたずさわる氏族であったから、仏教が入ってきたことはある意味「蘇我つぶし」のチャンスを得たと考えたかもしれない。叡山シリーズでお前は何を書いてるのかって?仏教史ですよ、もちろん。ただ、この頃の蘇我VS.物部の争いは「崇仏論争」として有名だけど、別に純粋な宗教論議じゃなくて権力闘争のイチ側面でしかないよな~と思うので、背景なんかも簡単に書いてるだけです。私だってこの時代のことは『逆説の日本史』と不朽の名作マンガ『日出処の天子』(山岸涼子著)でしか読んでないので、書かない方が楽だし、早く本筋に戻りたいんです。要するに、シリーズしょっぱなからまたイタコがかってる訳ですが、ものすごく古い時代って結構色んなエッセンスが散りばめられていて、今の私の視点でちょっと勉強してみると、すごく面白い。・・・が、なるべく簡潔に話を進めていきたいと思います。前々回の仏教公伝のエピソードでは、欽明天皇は自らの考えは表明しなかったことになっている。その後の天皇たちもそれぞれ仏教に対する好きずきはあったようで、敏達天皇なんかは排仏派だったとされる。大勢力・物部氏を筆頭とする排仏派からイジメを受けながらも、蘇我氏はしつこく粘って崇仏を唱えていたが、あらたにひとつの要素が加わったことにより、バランスが大きく崩れることになる。その要素とは、日本人なら誰でも知っている、あの聖徳太子です。 近年は「聖徳太子はいなかった」説がさかんなようですが、そんなものどうだっていいです(笑)。これまで太子の事蹟として語られてきた事を前提として話を進めます。系図でわかるように、聖徳太子は父母とも蘇我氏の血をひいており、蘇我氏と縁が深い。敏達天皇が崩御すると、そのあとは天皇の継承権争いという大鍋の中に豪族の勢力争いという具材が放りこまれ、さらにそこに仏教というスパイスが入ってどろどろに煮込まれたカレーのような状況になっていきます。ただしこのカレー、わたくしがいまだ継続探索中のレトルトカレーのような美味しいもんではなく、血の味が濃厚です。そう、天平の歴バナもかなり血なまぐさかったですが、それよりさらに古いこの時代は、もっと血なまぐさいです。なんたってアナタ、皇族がばんばん死ぬ上に、こともあろうに時の天皇まで殺されちゃうんですからま、御存知の方も多いでしょうから、簡単に流れだけね。敏達天皇と妃でのちの推古天皇との間には皇子もいた。ただ、この時点ではまだ幼かったのか、皇子は天皇位には就かず、聖徳太子の伯父にあたる穴穂部(あなほべ)皇子が皇位継承の意図を表明したものの、結局は蘇我馬子の推す用明天皇が次の天皇となった。しかし、用明天皇はわずか2年たらずで死亡。物部守屋と結んだ穴穂部皇子が再び野心をのぞかせるが、先手を打った馬子によって殺された。ついで、馬子は守屋を攻めてこれを滅ぼした。13歳の聖徳太子もこの戦いに参加し、木彫りの四天王像を作って「勝たせてくれたら、寺を建ててあげる」と誓って戦勝を祈願したとされる。首尾よく戦いに勝って、誓いを果たして建てたといわれる寺が、大阪の四天王寺。大坂の陣で家康が本陣を置いた茶臼山のすぐ近くにある、あの有名なお寺です。そして、これまた聖徳太子の叔父で馬子の推す皇子が祟峻(すしゅん)天皇となるが、守屋が滅んだことによって物部氏も衰退し、以後は崇仏派が優勢を占める。ただし、物部氏は全滅した訳じゃなく、ウィキペディアによると【物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられ、無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがない】んだそうな。なんでも、荻生徂徠も物部氏の末裔なんだとか・・・それより私が驚いたのが、長門の厚東(ことう)氏も物部氏の支族だったこと。長門の守護だった厚東氏をひろよん(大内弘世)が攻めて追い出したことにより、大内家が長門守護の地位をゲットしたんです。あんまり厚東氏の詳しいことは知らなかったので、物部が本姓だったとはびっくりでした。 あ~、で、祟峻天皇。馬子のバックアップにより天皇になれたものの、いざ天皇になってみると馬子が実権を握ってるしなんか面白くない。それで馬子との間も冷めていったといわれ、祟峻天皇の言動から自分に危害が加えられる可能性を察知した馬子が手下を使って天皇を暗殺したとされる。臣下によって弑逆された天皇は、歴史上この方ただ1人。それでも、近年では馬子の単独行動ではなく、周囲も同意の上での行動だったという説もあるらしい。『逆説の日本史3』で井沢氏は、祟峻天皇の死によって皇位継承の候補者は推古天皇の息子・竹田皇子と聖徳太子の2人となり、自分の息子に皇位を継がせたい推古さんが聖徳太子を追い落とすために「祟峻天皇暗殺の真犯人は聖徳太子」と世間から見られるように仕向けたという説を紹介している。ま、その辺は私はあまり支持はしてないんだけど、おそらく竹田皇子がその時点で若すぎたため、つなぎとして母が皇位を継ぎ、史上初の女帝・推古天皇となったというあたりはうなずける。ちなみに、大阪へ行った時の2日目は大坂の陣関係の史跡めぐりをしましたが、天王寺駅で降りて茶臼山へ向かう途中、四天王寺のすぐ近くの通り沿いの小さな神社の看板に思わず足を止めました(場所はこちら)。 【堀越神社 時の摂政 聖徳太子が、太子の叔父君にあたる祟峻天皇を偲んで風光明媚なこの 茶臼山の地に四天王寺建立と同時に当社を建立創建されました。 明治の中期まで、境内の南沿いに美しい堀があり、この堀を越えて参詣したので、 堀越という名がつけられました。 古くから「堀越さんは一生に一度の願いを聞いてくださる神さん」との言い伝えが あります。 ご祭神 第三十二代 祟峻天皇 配祀 小手姫皇后 蜂子皇子 錦代皇女】 (現地解説板より)四天王寺はデカいからとても寄ってる時間はなかったけど、堀越神社は見るからに小さいので、せっかくだから寄っていきました。と言っても、まだ当時は史跡めぐりを始めたばかりで写真なんてろくな枚数撮ってませんので、上の写真ぐらいですが。それにしても、こんなところに祟峻天皇を祀る神社があったなんて・・・四天王寺と同時に聖徳太子が創建したというのも興味深い。井沢氏は法隆寺の近くにある藤ノ木古墳が穴穂部皇子と祟峻天皇を葬った墓だと見ておられて、埋葬状況から非業の死を遂げた祟峻天皇に対し、「出て」きてくれるな、祟ってくれるなという意図が感じられる、という内容のことを『逆説の日本史2』で書いている。まあそりゃ、怨霊と化す条件は充分に揃ってるもんな。ただ、現代ではお岩様へ熱心に祈る人がいるように、祟りをなす強力なパワーを持つ方々でさえ、丁寧に祀れば逆にここぞという時のお願いをかなえてくれる守り神へ転化してしまうという信仰が生まれるあたり、生きてる人間てホントしぶといよな~と思ったりして・・・堀越神社の境内はほとんど建物でパツパツの、広くない神社ですが、四天王寺へお越しの際はぜひ祟峻天皇を祀るこちらの神社へもお立ち寄りくだされ。で話を戻しますが、一般的には馬子の擁立によって推古天皇が即位し、聖徳太子がその皇太子となり摂政となったとされる。井沢氏は摂政となるまでには少し期間が開いていると見ておられるが、ともかく崇仏派が勝利したことで四天王寺をはじめ寺などが建立されるようになり、有名な聖徳太子の業績もこの後生まれることになる。にほんブログ村
2014年07月20日

やあ、咳で眠れない夜が続きましたが、耐えきれず民間療法の王道、「大根の蜂蜜漬け」にすがったところ、ぱったり咳が止まってようやく夜中に目が覚めることなく眠ることができようになりました。あゆみちゃんも昨日返却しました。診察はもうこれでおしまいかと思ったら、まだあと2週レントゲンで経過観察するらしい。てことは、自分ではもうだいぶ順調モードだったんだけど、骨は完全じゃないんだな。8月終わり頃に完治だな(←予定)。実は本ブログ、数日前に開設1000日を越しました。頑張ればその1000日記念日に記事も800件とキリ良く揃えられたんですが、7月に入ってから何かと忙しかったもので、しょうがないよな。また地道に頑張りますサァー。さて、前回の続き。蘇我稲目(いなめ)が向原に作った寺は日本最古の寺といわれる。教科書によると、当時は和珥(わに)氏・物部氏・大伴氏・蘇我氏・羽田(はた)氏・巨勢(こせ)氏・葛城氏・平群(へぐり)氏などの豪族がぐるっと取り巻くように勢力範囲を持っていたらしい。それらの古い豪族の出自はあまりはっきりしてないようだけど、前回の教科書の引用文にあったように少なくとも5世紀には朝鮮半島から人や技術や文化が日本に入ってきていたので、当時の有力豪族たちの中には帰化人の子孫もいたかもしれない。百済と高句麗の仏教公認は5世紀よりも早いから、人が入ってきたのであればそれに伴って仏教だって前回の日本書紀のエピソード以前にも入ってきていただろう。稲目は初対面の百済王の使者の口上に一目ぼれしたんじゃなく、受け入れるだけの素地があったのかもしれない。ただ、実際の仏教伝来は日本書紀のエピソード以前だったとしても、百済王からヤマトの王へ正式な外交ルートを通じてもたらされた故に、552年の出来事を「公伝」というそうな。(公伝は538年の説もあり)対する中臣氏は神事や祭祀を受け持っていたというから、外来の仏教に反発するのはまあ当然だな。実は物部氏は排仏派じゃなかったんじゃないかとする説もあるらしいけど、ひとまず一般的には蘇我稲目VS.物部尾輿の仏教バトルはそれぞれの子の馬子・守屋に引き継がれたとされる。ちなみに、仏教を日本に紹介したとされる百済の聖明王は実はわたくしのブログの中で数回名前だけ出てきています。半島とのつながりが深いといえば、はい、そうです。わたくしの愛してやまない大内氏の記事の中で~す大内氏の祖とされる琳聖太子は聖明王の第3王子だというのですよ。(「山口編(21)」あたり参照のこと)ただし、琳聖太子の存在はその在世中の時期の史料では確認できず、琳聖太子が大内氏の祖だとする話は大内義弘(1356-1400)の代からなので、今のところ実在の人物ではないと見られている。山口県下松市の琳聖太子の伝説では、太子は来日したあと聖徳太子に会ったということになっているけど、もし本当に百済の王子が日本に流れてきたのであれば、周防なんかに住みつくだろうか・・・大内氏が中央に参画して家運が上昇中の時に、家系にハクを付けるのに誰を祖にしようか?って考えた義弘が唯一知っていた百済人が聖明王なんじゃないかって気もするけど大内氏の氏寺・興隆寺の創建は寺伝によると推古天皇21年(613)。仏教公伝からは少し期間が開くけど、たとえば百済滅亡(660年)の時に日本に流れてきた多くの百済人のうち、一部が大内氏の初期の本拠地、山口市の大内御堀(みほり)に住みついて、あるいはその中には百済の王子の嫁の弟の奥さんのいとこの娘のダンナ、程度の王族とゆかりのある人も混ざっていたかもしれない。興隆寺の寺伝ほど古い時期ではなかったとしても、その他の伝承と合わせて考えるとひとケタ世紀のうちには半島系帰化人は大内御堀に住みついていたんじゃないかと思うけどね。琳聖太子の伝承はフィクションの可能性が限りなく高いものの、仏教の伝来と大内氏が関わりがあるなんてちょっと楽しいよね(私だけか)。んじゃ、次の代へ移ります。まずはこちらの系図をご覧ください。 物部さんちの方は色々説があって詳しいことはわからないんだけど、ひとまず馬子の主だった子は尾輿の娘との間にできた子としてまとめてます。まずはこれが第1ラウンドで、あまり詳しいことはわからないし、当時の婚姻関係は複雑で近親婚も多々ありますが、主だった部分のみ長幼の順を無視して書いてますのでご了承ください。数字は天皇の順番です。馬子の代でも、オヤジと似たような物部氏との仏教バトルがあったとされる。すなわち、敏達天皇の時に馬子もまた仏像をもらい受けて熱心に拝み、3人の女性を尼とした。馬子が病にかかった時、その原因を占わせたところ、オヤジの代で仏像が破壊されたことが原因との結果が出たため、天皇に願い出て仏法を篤く祀る許可をもらったものの、またまたタイミング良く疫病が発生。ここで再び物部&中臣コンビが「だから言ってるでしょ!仏像なんか祀るからですよ~!!」と進言し、弾圧行動に出た。ウィキペディアによると、 【守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に 投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、 およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、 海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。】という。女性を全裸にして公衆の面前で鞭打つなんて「守屋よ、お主も好き者じゃのお~」とついツッコミを入れたくなるものの、尾輿同様、守屋も手厳しい。ただ、このエピソードから思うのは、なんで馬子は「尼」を作ったんだろうか?ということ。長い仏教の歴史の中では女性蔑視の時代もあったことを「春の寛永寺(9)」で軽く触れてますが、日本に仏教が入ってきたのは、その成立から1000年以上経過した頃。『日本仏教史入門-基礎史料で読む』の著者の1人、山折哲雄氏の名前を御存知の方も多いでしょうが、この本の序文で山折氏は 【ブッダの「教え」が時代を経るにつれていつのまにか天文学的な量の注釈と 議論の山を築いていったいきさつを知らされることになった。そしてまさに、 その注釈と議論の膨大な量の山そのものが仏教の歴史にほかならないという事実を つきつけられ、その山の前に首(こうべ)を垂れ、膝を屈するはめにおちいったので あった。(中略) その文献の山の背後から顔をのぞかせているのが、重要課題について論ずる人間たちの あくことをしらない知的好奇心、とどまることをしらない強靭な自己主張である。 そんな自己主張や好奇心が、いつしか思考そのものの水域をはるかにこえて しまったためなのであろう、その熱気に冷水を浴びせようとする試みが企てられる。】と語る。寛永寺シリーズの天海の歴バナあたりでも論議について幾度か触れてますが、仏教の誕生から2000年以上経っても、東の小島でそういうあくなき探究心と自己主張を抱えた人間たちがあーでもない、こーでもないって意見を闘わせてたってことなんだな。まあ、馬子・守屋の時代には本場では高度な議論もさかんだったでしょうが、日本ではまだアウトライン程度の基礎的なものしか入ってきてなかっただろうし、そもそもの原始仏教では女性蔑視的なものはなかったようでもあるから、女性に率先して得度させることに違和感とか抵抗はなかったのかもしれないな。蘇我氏の祖はいちおう武内宿禰(たけうちのすくね)ってことになってるけど、半島系帰化人の子孫の家系だと見る人もいる。つまりはよくわかってないようなんだけど、稲目は娘を3人も天皇に嫁がせて外戚としての地位を固め、馬子の代が絶頂期だとされる。一方の物部氏。『古事記』や『日本書紀』では、神武天皇が初代天皇とされる。高千穂から東へ進軍した神武天皇は畿内において戦い、先住の王であったニギハヤヒから譲位されて天皇になったというのが大まかな流れ。が、物部氏の私記ともいわれる『先代旧事本紀』によると、もとの王であるニギハヤヒも天照大神から、天神の子の証であり大神から統治権を与えられた証を持っており、神武天皇とニギハヤヒはともに同じものを持っていたとあるそうな。だから、初代天皇は本当はニギハヤヒの方だろうと戸矢学氏は『ニギハヤヒ』(河出書房新社)という本の中で力説しておられるが、それはともかく、神武天皇より先に高天原から大和の地に下りてきたニギハヤヒは、多くの家臣を従えてきており、その中に物部氏の祖もいた。ちなみに、中臣氏の祖もいる。戸矢氏は『ニギハヤヒ』の中で物部氏の名の由来について触れており、 【そもそも物部の「もの」とは「うちもの」のことであって「刃物」「武器」を 意味する。つまり「刃物部」である。】で「もの」という言葉について辞書などの解説をひいた上で、 【いずれにも共通するのは「鬼神」と「兵器」である。すなわち「祭祀」と「軍事」で ある。統治者の権力とは、古来「祭祀」と「軍事」と「経済」である。物部は、 このうち実に二つまでも担っていたと思われる。これはもはや臣下ではないだろう。 天皇(おおきみ)と一体の「王家」の者であり、一族であると理解しなければならない。】とする。氏の推測の正誤を問うつもりも知識もないし、『先代旧事本紀』も歴史の中では「ウソくさい本」としての評価の方が長かったらしいので何とも言えない部分もあるものの、『先代旧事本紀』がそれなりの史実を反映しているものだとしたら、物部氏は蘇我氏よりも古く大和に土着したガイジンの家系であり、また名族としてのプライドも高かったかもしれない、そんな風に思った。にほんブログ村
2014年07月19日

あ~、また更新が遅くなりまして申し訳ございません。日曜からずっとカゼで寝込んでおりまして、今日まで仕事もお休みしてたもので。今年は私の職場では、長引くカゼが流行っております。みんなひどく咳こむタイプで、私のは単に寝冷えで職場でうつされた訳じゃないですが、それでもやはりノドがやられまして、昨日の日中なんかは薬が切れてくると咳で苦しい思いをしましたし、夜はせき込んで眠れなかったので、皆様も夏カゼにはご注意くだされ。ところで、今回もらった薬の袋の裏側にはこんなことが書いてありました↓。 左側の注意書きの方ですよ。昼に薬を飲んだ時にこれを見つけて、一体どういう意味なんだろうかといまだその真意がわからずにおりますで、前回は愛人1号・・・どころか称徳(孝謙)天皇のマジなライバルだった藤原仲麻呂と淳仁天皇が倒れるところで終わりました。ウワサの愛人2号は、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)。こちらは愛人としての知名度は仲麻呂よりはるかに高く、そして根強い。単に愛人というだけでなく、「巨根の人」というイメージが世間では非常に強く、すまほで「道鏡の画像」を何気に見ていたら、巨根伝説に由来すると思われる男性性器をかたどったオブジェの数々・・・歴史ファンでも、みんな当たり前のように道鏡の巨根説を面白おかしく書いてる人が多いことに今さらながら驚きました。現在の学界ではどうか知らないけど、もしかしたら愛人説を否定しているのは今もって井沢元彦氏ぐらいかもしれない。まあ、私も詳しいことは知らないし、色んな見方があっていいとは思うんだけど、井沢氏の語る道鏡像については私はおおむね支持しているので、引き続き『逆説の日本史3』から仲麻呂の後についてご紹介します。本当は、本シリーズに多少関係するのは愛人2号の方。1号はほとんど無関係なのですが、2号を書くにあたって1号はどうしても外せない存在なので、ついでに書いたようなもんです(笑)。でも、聖武&光明子の後がどんなバトルを経て奈良から平安へ移行するのか、天平歴バナの続編という意味では前回の話は無意味じゃないんだけどね。え~と、それでここからさっくりと道鏡さんの話に移りたいんですが、その前にちと簡単に日本における仏教史なぞ。毎度のことながら回り道の多いわたくしのブログですが、ま、叡山が主役のシリーズでもあるしね。少しずつ仏教についても勉強していかないとね。学生の頃は世界史の方ばかりやっていましたが、歴史好きのゆえか、ろくな勉強をしなかった日本史の教科書も今もって大事にとってあります。教科書だけ読んでても歴史の流れってスムーズにつかめないんだけど、この数日、寝込んでいる間に日本史の教科書を少し読んでみたところ、多少の個別の知識を持ったあとに読んでみると、さすがにポイントは押さえているな~と思って(当たり前です)、読んでて面白かった。ので、せっかくだから手持ちの古い教科書、『高等学校 日本史』(清水書院)からも少し引用しつつ話を進めますね。邪馬台国、ヤマト政権の研究って現在はどうなってるんだろ?ま、私がこの教科書を使ってたのは大昔の話なので、最新の研究結果とズレがあったとしてもご容赦ください。ところで、「やまと」勢力の表記ひとつでも随分もめてるらしいですね。私の持ってる教科書では「大和政権」ってあるけど、同義語として使われる「大和朝廷」なんて言葉もそぐわないとか、興味のない人には「どうでもよくね?」って議論が真剣に交わされているらしい。ひとまずここでは引用部分以外は「ヤマト政権」としておきます。清水書院の教科書では、4世紀の初めに高句麗が強大になり、半島の南部では韓族が統一国家の形成を進め、4世紀中頃に百済と新羅が成立。同じ頃、呼応するかのように日本でもヤマト政権による支配国家が成立したとある。 【4世紀前半、畿内地方に集中して出現した大規模な前方後円墳は、豊富な副葬品を ともなっている。このことから、かなり大きな権力をもった複数の豪族(王:きみ) がいたことが推定される。(中略)このような畿内地方の豪族たちが、しだいに もっとも有力な豪族(大王:おおきみ)のもとに連合して形成したのが、 大和政権であったと考えられている。(中略) 5世紀の巨大古墳の築造に用いられた土木技術や、大陸系の副葬品などは、朝鮮半島 からもたらされたものであった。(中略)5世紀には、5人の倭国の王(倭の五王)が 中国の南朝に朝貢してその冊封を受け、朝鮮における政治的立場を強めようとした。 倭の五王の意図は、必ずしも成功しなかったが、4,5世紀の対外活動を通じて、 朝鮮とくに百済から日本に移住してくる渡来人が増え、中国南朝や朝鮮の文化が移入 されて、大和政権の国内統一は、いちだんと進んだ。また、統一の進展にともなって、 朝廷は、5世紀ころから氏姓制度という独自の支配組織をととのえながら、各地の 豪族を支配下に組み入れていった。】 (『高等学校 日本史』/清水書院より)と、こういう背景のもと、仏教が日本にやって参ります。え~、「春の寛永寺(5)」では仏教が誕生した後、イランやインドでの先住の神々との争いの神話なぞ紹介しましたが、紀元前6世紀にインドで生まれた仏教は1世紀頃にシルクロードを通じて中国へ入った。ところが、 【中国では仏教は胡族(辺境の異民族)の信仰だった。仏教が広まるのは 容易ではなかった。】 (『日本仏教史入門-基礎史料で読む』山折哲雄・大角修著/角川選書より)だそうな。1世紀というと、後漢の時代で漢民族の王朝だけど、この後は五胡十六国の長い分裂時代に入って、中華の人の言う胡族による支配もばんばん出てくるので、 【その五胡諸国の王たちは、同じく外来の仏教に宥和的で、中華文明圏での 国家仏教への道を開いた。】 (『日本仏教史入門-基礎史料で読む』より)中国が仏教を受け入れたとなると、地続きの朝鮮半島でも追従する動きが見られ、高句麗が372年、百済が384年、新羅は少し遅れて528年に国家による仏教の公認がなされた。して、『日本書紀』に書かれる仏教伝来が552年。関係する部分だけ、いつもの超現代語訳でご紹介します。 欽明天皇13年10月、百済の聖明王(あるいは聖王)が使者を遣わして 金銅の釈迦仏像1体といくつかの荘厳具、経論数巻を献上した。 使者が称えて言うに、 「これは多くの法の中でも最も優れたものですよっ! こんなの簡単に出会えるもんじゃありません。 なんせアナタ、かの周の賢王も、孔子も知ることができなかったんですからね。 この法は実に広大無辺で無上の安息が得られます。妙法に祈り願えば、 何でも思いのままです。ゆえに、天竺から百済・新羅・高句麗の三韓に至るまで、 この教えに帰依してない国はないんです。 ですから、帝(天皇)の臣下であるわたくし(聖明王)は家臣を遣わし、 帝の国に仏法をお伝えしてその教えを広め、『我が法は東に伝わる』と 仏が予言されたことを果たしま~す!」しかし、中国でもすぐには受け入れられなかったし、キリスト教も国教に昇進するまでは長い迫害の時期があった。それと同じように、どんなに言葉を尽くしてその素晴らしさを称えようと、日本でもすぐに受け入れられた訳じゃない。使者の口上を聞いたあと、欽明天皇は「ほ~、そんな素晴らしい教えを私は今まで聞いたことがない。でも、自分では決めないでおくよ」と話を列席の臣下たちに振った。「どう?この仏の美しさ。今までこんなの見たことないよ。で、どうする?これ拝む?」自分で決めないあたり、やっぱりまだこの頃の天皇は豪族の集合体の頭に乗っかってるだけで、豪族の力が強かったことが窺える。天皇の権威と権力が増すのは、大化の改新あたりを待たないとダメだな。で、ここから有名な崇仏論争が始まります。とりあえず、日本書紀の続きを紹介しちゃいますかね。 蘇我稲目は言った。 「百済より西の国ではみ~んな仏に帰依してるんですよっ! ウチだけ帰依しないってことはないでしょ」 物部尾輿と中臣鎌子は言った。 「我が国の天下を治める天皇は、天地におわす180もの神々を年中祀って ずっと拝んできたんですよっ!ここで外国の神なんか拝んだら、我が国の 神々の怒りを招くでしょう。あ~コワッ!!」 天皇はこれを受けて、 「じゃあ、稲目は乗り気だから、稲目に仏像を授けて拝ませてみよっか」 稲目はうやうやしく仏像を賜り、小墾田(おはりだ)の自邸に安置した。 のち、向原(むくはら)に仏像を移し、家を清めて寺とした。 しばらくすると、国中に疫病が流行り、多くの者がばたばたと死んだ。 疫病は長く続き、死者は増える一方だった。 物部尾輿と中臣鎌子は 「ホレ見なさい!だからワシらが言ったでしょーが!! 今からでも遅くはありません。一刻も早く仏像を投げ捨てて、元のように 神々をねんごろに祀りましょうよ。 そうすれば、必ずいい方に向かいますってば!」 と言ったので、天皇は 「そうだね、そうしよう」 と仰せになった。 尾輿と鎌子らはすぐ仏像を大阪湾の湿地の水路へと投げ捨てた。 ついで稲目の向原の寺に放火して全焼させた。 すると、空に雷雲も出てないのに皇居に火災が起こった。 単純に蘇我氏=崇仏、物部&中臣=神道信奉者で廃仏、みたいな図式になってるけど、なにせ古い時代のことなので、現代の私達がイメージする神道とは違うようで、『日本仏教史入門』では 【そのころは氏族がそれぞれ氏神や山川の神をまつり、大王(天皇)の神= 『古事記』『日本書紀』の天孫神話のもとに統合されていく過程にあった。】と解説し、教科書では 【仏教などの外来文化を受容し、その影響を受けながらも神祇信仰は、日本人の 伝統的な民族宗教として、その後の社会や思想に大きな影響をおよぼした。】とする。てことは、見方によっては外来の宗教である仏教が入ってきたことによって、祖先と自然物を祀る神道の「かたち」が整えられていったとも言えそうだよな。にほんブログ村
2014年07月16日

ケガをしてまる5週間が経ちました。台風8号で風雨が集中した地域は大変なことになりましたが、予想に反してうちの方では台風の影響は大したこともなく、今日の定期通院は無理じゃないかとも思ってたのに行かれちゃいましたよ~。先週、チョ~不機嫌で予約を入れた火曜日の理学療法は、体調不良で仕事を休んだので結局パスしました。でも、家では結構あゆみちゃんナシで歩いてたし、仕事中は机の下で足首や指先を曲げ伸ばししたりして自分でもリハビリに努めてたので、別に理学療法に通わなくてもいいんじゃん?なんて思ってました。して、レントゲンの後でイケメン先生の診察。今週はずっとギプスなしのあゆみちゃん1本で過ごしてたので、ギプスをしていた時にはなかった患部の痛みが結構出ました。けど、歩いてる時には案外平気なので、あゆみちゃんはただ連れてるだけ、ぐらいに自分の足で軽く歩いてしまう時もあって、「しまった、ちょっと軽く歩きすぎちゃったな」と思うと案の定じっとしている時に患部がチリチリ痛み・・・を繰り返し。患部が痛むと言っても、我慢できないほどの痛みはもう出ないし、少しずつ痛む頻度も減ってきている気がしたので、今回の診察あたりであゆみちゃんからの卒業を言われるかもな~と思ってました。痛みがまだ出るということがネックになったのか、イケメン先生は私のホネの写真を見たまま悶々と悩んでいる風情。それでも先生が患部を押しても痛くないし、写真を見る限りでは順調な経過を辿っているので、先生はついに全荷重の決断を下した。全荷重はすなわち、あゆみちゃんとのお別れを指します。ついに補助なしで歩けるところまで来ました今日はあゆみちゃんは1本しか連れてきていなかったので、来週の診察で2本そろえてあゆみちゃんを返却です。人質の1万円も返ってくるだろうな。全荷重後の経過観察も必要なので、まだ来週もレントゲンを撮るらしいです。今日は理学療法の予約は入れてなかったんだけど、せっかく来たので電気だけ当てて次の理学療法の予約を入れる。本来であれば全荷重の許可が下りたところでまた歩き方の練習をするものらしいんだけど、それは次回の予約日まで持ち越し。歩き方の練習の方が後回しになることに不安はないか、リハビリのお姉さんに聞かれたけど、「家では少しなら杖なしで歩いてますから~」とも言えず(←小心者)、「まあ大丈夫だと思います」と言うにとどめたおし、補助アイテムが全部外れたから、世話になった人や親切にしてもらった人達へのお礼の品を急いで用意せねばな来週からは、雨の日以外は自転車併用の完全自力通勤になります。家に帰ってから、杖なしで歩く距離のことを考えてみた。杖が外れたのは嬉しいけど、補助なしで外を歩くとなると、当然のことながらあゆみちゃん1本の時よりも足に負担がかかる。これまで(勝手に)杖なしで歩いていたとはいえ、家の中を数十歩ちまちま歩くのと外の長い距離を歩くのとでは全く違う。ので、この土日で少し足を馴らしておこうと思って、患部に負担がかからないようにしつつもなるべく普通の感じで歩いてみました。杖なしで普通に歩いたのは家に帰ってからが初めて・・・ところが、思っていたより上手に歩けない。何て言うのかな、まず足首の関節がすごく固く感じる。それから、足の筋肉が落ちてるのがよくわかった。筋肉ってとっても大事でね。昔、登山を始めてまだ間もない頃、磐梯山へ登りました。まだ太ももの筋肉もろくについてない頃で、頂上のかなり手前から膝に痛みが出て、結局下山までそのまま。痛みは次第に強くなっていったので、標準コースタイムを大幅にオーバーして相棒にも迷惑をかけるという大失敗をやらかしたことがあります。そう、筋肉が鍛えられてないと、衝撃を吸収することができずに関節にダイレクトに負荷がかかることになっちゃうんですよ。そうすると、関節に物理的なダメージがない場合でも負荷が溜まることで関節にかなりの痛みが出る場合もあります。しかも、今の私は筋肉もないわ、関節は固いわのダブルリスク。そうか、関節の可動域を増やしていく理学療法ってのはやっぱり必要なんだな、と身体で感じました。まっ、それでも経過観察のためのレントゲンは来週あたりが最後だろうし、あとは無理のない程度で自分で慣らしていくしかないので、診察の必要がなくなればあまり通院はしなくなるかもな(←懲りない)。という訳で、色々な方からも御心配をいただきましたが、お陰様を持ちまして7~8割治ったところまで来ました。今週に入ってからギプスの外れた足を職場で色んな人に見せびらかしたら、「やっぱり若いから、早いね~」と感心されましたが、「でしょお?」と若さを肯定するほどの図々しさは持ち合わせていませんで(笑)。でも、ここまでの期間をほとんど車で送り迎えしてもらってたし、職場では周囲の人が代わりに動いてくれたりして、大した苦労もせず実に恵まれた環境にあったとつくづく思います。都内の墓地では、今週の土日がお盆で墓参の人が多いでしょうし、いとこのSちゃんもまた家族で巣鴨にお参りするんでしょうが、補助を卒業できたと言ってもさすがに来週あたりまではお出かけは無理だろうな・・・ただ、今月末ぐらいには何とかなりそうです。できれば7月中に墓参りと寛永寺へのお礼参りには行きたいと思ってたので、それまでにはそこそこ歩けるように頑張りたいと思います。とは言っても、夏休みの旅行は諦めましたけどね。毎年、夏休みは8月の終わり頃に取ってますが、9月までずらせばかなり余裕は出る・・・けど、せっかくの祝日とダブって取るのも勿体ない。順調なら8月終わりでも行くには行かれるでしょうけど、私の旅はどうしたって歩き回るので、足に負担がかかりすぎて現地で痛みのために動けなくなったりしたらめんどくさいことになる・・・現地ではつい無理をしがちなので、そうなる可能性が大だということは自分でもさすがに理解している。ので、潔く諦めました。心の中では多少の未練もありますが、たぶん行かないのが正解だと思います。夏の旅行もフリープランを利用するつもりで、そろそろ予約を入れに行こうと思っていた矢先にケガをしたので、予約を入れる前で良かったよな、と自分を慰めています。で、あゆみちゃんともお別れだし、これ以上この件で新しい経験はしそうにないので松葉日記も今回で終了にしようと思ってますが、文字数も少し余ったので感想や収穫などをいくつか。あゆみちゃんとの生活が始まってから、特に最初の頃は世間の注目をあびて閉口したことを「松葉日記(1)」で書きましたが、なにしろ目立つし、一目でなにがしかの異常を抱えていることがわかるので、あゆみちゃんの「強さ」を知りました。何が強いかって、どんな人も道を開けてくれるんですよ整形外科でさえ、椅子を譲ってくれる人もいます。職場の廊下でも、外を歩く時でも邪魔にならないようにそれこそゴキブリのようにはじっこばかり歩いてましたが、正面から歩いてくる人がいても、みんなはじっこを譲ってくれます。仮に相手がなかなか譲らなくても、私の方はわずかにルートを変えるだけでも結構労力がいるので、悪いけど譲る気はさらさらない。ごく一握りの気のきかない人はそれでも私の脇のはじっこを通りましたが、そんな輩はほとんどいない。たいがいは早い段階で道を譲ってくれるので、「あゆみちゃんはジョーカーだ」と心の中で笑いながらはじっこを歩かせてもらいました。ジョーカーっつっても、「ババ抜き」のババじゃないですよ。「7並べ」とか「大富豪」での無敵のジョーカーです。来週からはそのジョーカーがなくなってしまうので、きっと「うっぜ~なコイツ。さっさと歩けよ!」って世間様からうとまれるんでしょうが、開き直ってマイペースで歩きます。今日の診察でイケメン先生は「全荷重って言っても、まだ走ったりはしないようにね」とお茶目な注意をしたけど、小学生じゃあるまいし、誰が走るんじゃい・・・そもそも、物理的に無理です(笑)。それと、どうでもいい発見をひとつご紹介。毎晩ブログを書きながら晩酌をしてますが、酒に強い訳じゃなく、甘くて薄いものばっかり。今年は缶チューハイの甘いのを多く飲んでます。少し前からは日本酒の飲みやすい物にも手を出してまして、ケガをした時は「フルーティ」と銘打ったにごり酒の小瓶が1本ありました。ずっと車で送迎してもらってたので、買い物は全くできず、買いだめしておいた缶チューハイも底をつき、にごり酒だけが残りました。度数の低い飲みやすいにごり酒を炭酸で割って、さらに氷で薄めるという、酒好きの人が聞いたら「そんなんしてまで飲むな!」って怒りそうな飲み方をしていたものの、割り材の炭酸の手持ちがない。う~ん、困ったな・・・ま、とりあえず炭酸だしこれでいっか~と会社での飲み残しの炭酸飲料、ウィルキンソンのグレープフルーツ味でにごり酒を割ってみたところ、カルピスみたいな味になって美味しかった炭酸オレンジジュースのオランジーナで試してみても、これもイケた。病院の帰りにコンビニで普通の日本酒の小瓶を買って同じようにジュースで割ってみたところ、これはにごり酒ほど美味しくなかった。てことで、買い物ができなかったがために新しい日本酒の飲み方を発見しました。最近では「澪」などの飲みやすいスパークリング日本酒も出てますが、どうもそのタイプって味が浅いのか、すぐ飽きちゃう。でもジュース割にごり酒は濃さも調節できるし今のところ飽きが来ないので、この夏はこれで過ごすやもしれませぬ。にほんブログ村
2014年07月11日

さて、現地の紹介に入る前にちょっと歴バナ入れま~す。叡山の歴史でもなく、延暦寺を開いた最澄の話でもありません。時代は少しさかのぼりまして、奈良時代のラストです。実はそんな話、書かなくても旅日記は進められます。私だってその辺のことは井沢元彦氏の『逆説の日本史』ぐらいしか読んでないので、書かない方がラクなんです。ここで書かなくても他に書くチャンスもいくつかありそうですが、ここで書きたいんです。なんとなく。ということで唐突に奈良時代に飛びますが、「奈良」と『逆説の日本史』で少し前の記事を思い出した方も多いでしょう。そうです、アシュラン(興福寺阿修羅像)に端を発して書いた、天平の歴バナのその後について、『逆説の日本史』から再び紹介したいと思います。ただ、今回はかいつまんで流れを紹介するにとどめます。ちゃんとした井沢理論を知りたい方は、『逆説の日本史3』をご覧になってください。聖武天皇&藤原光明子夫妻を中心とする天平の歴バナをおさらいしたい方は「春の寛永寺(7)」~「春の寛永寺(17)」をご覧ください。井沢氏は藤原氏のことを「寄生虫」だと表現した。 【寄生虫(藤原氏)が本来宿主(日本国)に行くべき養分を途中で吸い取ってしまう。 そのことによって宿主は痩せ衰え死にかけるのだが、寄生虫は宿主がどうなろうと 知ったことではない。あくまで自分のことだけを考え養分を吸いつくす。】 (『逆説の日本史3』/小学館より)これは公地公民制を骨ヌキにした脱税の一手、墾田永年私財法について述べたものだけど、なかなかうまい例えだと思う。ただ、寄生虫がどんなに肥え太ろうとも、寄生虫が宿主に取って代わることはない。あくまで、あ~く~ま~で藤原氏は天皇家および日本国に取りついた寄生虫なのだという。そもそも「藤原氏」という名前も絶妙らしい。藤原氏のシンボルは藤の花、その氏神である春日大社の神紋も「下がり藤」。 【藤原氏のシンボルが「藤」であることに注意しなければならない、と述べたのは 梅原猛氏だった。これは卓見である。(中略)他物にからんで成長するのが、 藤なのである。つまり、「からみつくための他物」が無いと藤は生きられないのだ。 あくまで「他物」を主とし、自らは「従」となる。これが藤原氏の行動原理である。 その行動原理を、まさに「藤」というシンボルは見事に体現しているのだ。】 (『逆説の日本史3』より)では、これを踏まえて先へ進めます。今回は聖武&光明子の娘で父の跡を継いで女帝となった阿倍内親王、およびその周辺にうごめく寄生虫たちが主役です。藤原氏の血をひく阿倍内親王は、父・聖武天皇が譲位したことにより天平勝宝元年(749)に31歳で即位し、孝謙天皇となった。もちろん独身です。本人の意思に関係なく、周囲の事情で勝手に結婚できなくされた彼女はストレスの塊となり、愛人をそばに置いた、と世間では多く語られるらしい。愛人説こそ否定するものの、井沢氏でさえ嫁に行けなくなったことが孝謙天皇の心にストレスとなってのしかかっただろうという見方をしている。のちの彼女の頑張りを見るに、それも男性の立場ならではの偏見じゃないかとも思うんだけど、それはともかく、井沢氏によると世間一般の解釈は 【称徳天皇(孝謙天皇のこと:ジジイ註)は多情な「惚れっぽい」女だった。 初めは藤原仲麻呂と愛人関係にあり、「恵美押勝」(恵美は「見るたびに 微笑ましい」という意味=『水鏡』)という名前まで与えて太師(太政大臣) に任じ重用した。しかし、そのうちに道鏡と急接近し、仲麻呂は俗にいう 「振られた」形となり、反乱を起こし殺された。 そして、そのことに不満を抱いた淳仁天皇も廃位された上に抹殺された。 そして女帝は「愛人」の道鏡に皇位を譲ろうとしたが果たせず、失意のうちに 死去した。】 (『逆説の日本史3』より)だそうな。井沢氏はこの通説に疑問を持ち、2人の「愛人」を検証している。まずは藤原仲麻呂。 「春の寛永寺」で使った系図ですが、藤原四兄弟の長男・武智麻呂の子が仲麻呂。光明子には甥に当たり、孝謙天皇から見れば母方のいとこに当たります。実は仲麻呂さんは「春の寛永寺(16)」にも登場してます。安積親王の殺害犯と言われる人です。安積親王の殺害にはどう見たって光明子の思惑が絡んでいる。その意を受けて仲麻呂が実行に及んだとしたなら、仲麻呂と光明子は親密な間柄だろうと見るのが自然。孝謙天皇が即位した時、母である光明子が後見に付いたらしい。仲麻呂愛人説のもっとも大きな理由としては、彼が異例の出世を遂げたことだそうだけど、井沢氏によるとこれは孝謙天皇の引き立てではなく、光明子によるものだという。まずは紫微中台(しびちゅうだい)という新たに設置された役所の長官となった。これは元々あった皇后を補佐する直属の役職を改めたものらしいが、単に名称を変えただけではなく、【皇太后となった光明子が新たに即位した孝謙天皇を補佐して大政を行うための機関】(『人物叢書 藤原仲麻呂』)だそうで、娘の補佐と言いながら、その実権は光明子が握っており、仲麻呂はその役所のトップに就いた。 【この紫微中台という役所は、律令の規定にない令下官(りょうげのかん)である。 (中略)つまり、紫微中台とは「天皇になれなかった皇后」光明子が、正式な 政府である太政官から権力を奪うために設けた機関であるということだ。】 (『逆説の日本史3』より)こうして出世街道を走り始めた仲麻呂は、実の兄である右大臣を追い落とす。こういう状況に危機感を抱いた橘奈良麻呂は天平宝字元年(757)に乱を計画するものの、あっさりバレた。乱に加担したと見なされた者は過酷な処分を受け、皇族でさえも容赦せず幾人も獄死したという。獄死したとされる人の中には道祖王(ふなどおう)がいた。この人は聖武天皇の遺言により皇太子となったが、奈良麻呂の乱の4ヶ月前に素行不良を理由に廃太子された。道祖王に代わってあらたな皇太子に立てられたのは、仲麻呂の息のかかった大炊王(おおいおう)。大炊王の立太子によって、仲麻呂の権力も当然増大する。奈良麻呂の乱ののち、孝謙天皇は譲位して大炊王が淳仁天皇となった。井沢氏はこの時期は光明子&仲麻呂と孝謙天皇&太政官の二極構造になっており、ゆえに仲麻呂は孝謙天皇の愛人どころかライバルだったとする。もし本当に仲麻呂が愛人だったのなら、太政官の権力を削ぐような令外官なんか設けずとも、右大臣やら左大臣に引き上げていただろうというのだ。して、邪魔者の孝謙天皇が退位したあと仲麻呂の権力はピークに達し、貨幣鋳造権と税徴収権という大権を淳仁天皇から与えられた。そして、朝廷の役職をすべて中国風の名称に改めた。井沢氏によると、仲麻呂は重度の「中国かぶれ」だったらしくてね。淳仁天皇の即位の2年後には、平民出身で初の太政大臣に就任した。同じ頃、仲麻呂が壮大な野心を抱く出来事が大陸で起こっていた。海を挟んだ当時の中国は、唐。どこから聖女伝説なんて生まれてきたんだって笑えるぐらい、ギラギラした光明子を中心に日本が血なまぐさいバトルをしてた時期、お隣の大国では有名なラブロマンスが進行中だった。唐のロマンスといえば、玄宗皇帝と楊貴妃ですよ。世界の中心(=中華)で愛を叫んだ結果、安禄山などが反乱を起こして大混乱となった。天平宝字2年(758)にこの報告を受けた仲麻呂は、大宰府に防備を固めさせた。と同時に、唐の影響力の低下した新羅への征討を計画する。なぜ新羅を討伐するのか?当時の超大国、「中華」であった唐へは周辺諸国が朝貢していた。唐と地続きで、海を隔てた日本よりも唐の影響が強い新羅も当然朝貢しており、唐に対して臣下の礼を取っていた。が、柔軟な政策を取っていた当時の新羅は、日本にも朝貢をしていたらしい。しかし、元々日本に心服してそうなった訳でなし、唐の勢力が強くなるに従って日本への朝貢をサボるようになっていったそうな。「春の寛永寺(14)」で、天平の頃にも新羅との関係が悪化したと少し書いてますが、こういう事情が関係してるんだろうな。朝貢してるくせに生意気な新羅をこらしめちゃお~・・・と他人様の不幸につけ込んで「征討」に胸膨らむ仲麻呂は、天平宝字6年(762)を来たるべきXイヤーと定め、500艘の船を作らせるなどの準備に取り掛かった。 【この時代からほんの百年前、天智天皇は白村江で唐・新羅連合軍と戦って 大敗北を喫し、亡国の危機すら招いた。そしてそのことが天智王朝の「滅亡」の 原因となったのである。 「また同じ過ちを繰り返すのか」と、当時の人々は考えたに違いない。仮に新羅を 服属させられたとしても、唐が安禄山を倒して立ち直れば、その後は唐との 全面戦争になる。当時の朝廷の関係者はこのまま仲麻呂政権を続けさせてはならない、 と思ったはずだ。】 (『逆説の日本史3』より)しかし出兵前の天平宝字4年(760)、光明子が死去。仲麻呂には大きすぎる痛手。出兵予定の年の天平宝字6年(762)、上皇となっていた孝謙天皇はそれまで住んでいた近江の宮を出て平城京に戻り、淳仁天皇から実権を奪い返した。 【昔の歴史では、この一連の動きを、「女帝は初め愛人の仲麻呂を愛していたが、 そのうち道鏡が出現したので仲麻呂を捨てた。それに怒った仲麻呂が反乱を 起こしたのだ」と説明していた。(中略)だが、これは単なる「色恋沙汰」に 基づく政変ではない。日本の基本的な外交方針をどうするかという、「国策」の 問題だったのだ。】 (『逆説の日本史3』より)孝謙天皇のクーデターにより、海外遠征は中止。その2年後の天平宝字8年(764)、巻き返しを図る仲麻呂は乱を起こし、敗死。乱の翌月には淳仁天皇をリコールして孝謙天皇が重祚し、称徳天皇となった。淳仁天皇は淡路に流されたが、淳仁の復帰を目論む輩が通うなどの不審な動きもあり、翌年に逃亡して捕らえられ、その翌日に死去。 【公式には病死と伝えられているが、実際には殺害されたと推定され、葬礼が 行われたことを示す記録も存在していない。】 (ウィキペディアより)仲麻呂と組んで国のピンチを招いた淳仁に対する称徳天皇の目は厳しく、廃位された後は「上皇」とは呼ばれなかったし、それどころか諡(おくりな)すら与えられなかった。「淳仁」という諡号は、なんと明治に入ってから明治政府が贈ったものだという。にほんブログ村
2014年07月10日

ひさびさの新シリーズですいや、まあ、上野編の間にもぽちぽち短編ははさんでおりましたが、どれも寛永寺関連だったので、一連のシリーズという感じであまり別モノという感じはしなくって。ですが、ようやく上野編も終わったので今度はホンマもんの新シリーズです。これは今年の1月にもらった休暇での旅行で、タイトルでおわかりの通り、京の旅です。現地からの雑談は「休暇のはじまり」「旅のお決まり」をご覧ください。ひとつのシリーズが終わりに近づくと、平行して次のシリーズの準備を始めますが、今回は前代未聞と言えるくらい何の準備もできてない・・・何をしてたのかって?実は今頃になって去年の廿日市の写真の整理を始めてたんです。「まだやってなかったの!?」って冷たいツッコミ入れないで・・・上野編では歴バナが多かったので、本編の方にかかりっきりでそんな余裕なかったんです。写真を整理し始めたからといって、廿日市編を始めるつもりだった訳じゃありません。まだ記憶に新しい京の旅を先に上げるつもりではおりました。じゃあ、その廿日市編はいつ始めるのか・・・まだ未定だし、ただでさえ大物なのに時間が開いてしまうとますます書きにくいのは確かもう7月に入ったから、本シリーズで今年は終わるでしょう(笑)。これが終わる頃には寒くなっているだろうから、また次の旅に出てそちらを先に書くかもしれない。ただ、先日TVを見ていたら、脳ミソにしまい込まれた記憶を引き出す作業を続けることで、年寄りになっても脳は活性化されるとお医者さんが言っていたので、過去の旅のことを思い出しながら書く私のブログは脳の老化防止に役立っているのかもしれないと少し希望を持ちました。ので、当面は廿日市編は先送りですが、格好のボケ防止剤としていずれ書くかもしれません。写真の整理の他には、ちょっと本編の合間にまとめておこうと思っていたのがあって、ここ最近はそちらの勉強ばかりしていました。結局それも先送りすることにしたので、気が付けば新シリーズの準備がゼロのわたくしがいたという・・・まあ、ぼちぼち頑張りますよ。どうせ書きながら勉強するのはいつものことだし、無理してでも書いていかないと先へ進まないもんね。え~、それで本シリーズ。叡山の他も行ってはいますが、メインは叡山。建築を好きになり始めた頃、叡山の堂宇の素敵な意匠の写真を見て、「うおお、叡山行きてえ~~!!」とボルテージ急上昇で一旦は旅の予定を立てたものの、ちょっと忙しくなりすぎるのでやはり諦めた経緯があります。2~3年くらい前のことだったかな。自称・戦国ジジイのわたくしがなぜ今頃叡山行きを計画したのか・・・現地からの雑談にも書いてますが、これまた寛永寺がきっかけでした。すなわち、叡山の復興に尽くした天海と、「三山管領宮」の輪王寺宮の追っかけがしたかったんです。ゆえにタイトルを「叡山攻め」としているものの、織田軍によるいわゆる「元亀の法難」を辿る旅ではありません。ただ、叡山そのものの歴史に登場するビッグスター達の中では、天海は影の薄い存在。それから、輪王寺宮は江戸期の叡山の統括者と言っても、私が宮の追っかけとして主眼に置いていたのは、別の寺。ので、天海と宮はあくまで旅のきっかけであって、本シリーズの中ではあまり出てはきません。宮はある寺で出てくると思いますが。当初の目的から外れて4泊5日何をしてたかって?建築鑑賞・・・じゃないんですよ。旅が終わって振り返ってみると、なんと叡山の堂宇はろくろく観てませんでしたでもとっても楽しかったし満足しまして、しかも大変わたくしらしい旅になりました。ま、わたくしの記事を一般的観光案内と思って読んでる方はまずいないでしょうから、本シリーズも気楽にわがままに進めさせて頂きます。さて、前置きが長くて恐縮ですが、ひとつお断りしておくことがあります。今年に入ってからどこかの記事で書いたと思うけど(←思い出せない)、去年の11月から先日まで寛永寺を中心に書き続け、この後はまず間違いなく年末頃まで本シリーズが続きます。つまりは寺の記事がずっと続く訳で、ゆえに2014年は仏教イヤーです。ただ、寺と言っても寛永寺の方は徳川家との関係の深さから宗教性は低く、政治的な色彩の濃い内容が多かった。が、比叡山延暦寺は御存知の通り古くからの天台の総本山であり、そこからいわゆる「新仏教」が次々と生み出されたことにより「日本仏教の母胎」とも言われる歴史ある寺です。ので、本シリーズでは寛永寺よりも宗教色がいくぶん強めかと思います。もちろん、いくら私が天台宗徒を目指してるとはいえ、まったくのどシロートなので仏教の本質などには立ち入れませんが。ただ、建物の外観などを見学していただけよりも、仏教についてあれこれ考える場面もたびたびありました。とある寺では、人生初の朝の「おつとめ」も体験したしね。色々考えたことは思い出せる限りその都度記事の中で書いていきますが、こう見えても私は原理主義的な一面も持ってましてね。本職のお坊さんや信仰の篤い在家の信者さんが読んだら、気分を害される考えや感想が随所に出てくるかもしれません。時には相当不適切な表現もあるかもしれません。が、私は決してそれらをバカにしているのではなく、シロートが素直に考えたことだとご理解ください。わたくしのブログの長らくの読者様はそうした場面でもおそらくさらっと読み流して下さるんでしょうが、そうでない方からはあるいはクレームが寄せられるかもしれません。でも私は個々の考えに反論する気もありませんので、こちらもあわせてご了承ください。のっけから予防線を張って弱腰に見えるかもしれませんが、宗教ってのは個人の心の問題で難しいので、初めにお断りしておく必要があると思ったまでです。<1日目>2014年1月25日(土) 晴れここしばらく、ヒコーキでの西国への遠征が続いていたので、新幹線は久しぶり。オフシーズンの普通の土曜日で、しかもグリーンにしたので車内の乗客は少なく、快適・・・が、数列前のオヤジが口も押さえずにゴホゴホやっている。「咳エチケット」って言葉を知らんのか、このオヤジ・・・ちょうどインフルエンザも流行していた時期だったので、ヘンなものうつしてくれるなよ~と機嫌が悪くなる。ふん、しかし今回は新アイテムを装着しているのだ。首からかけておくだけで悪い菌から守ってくれるエアーマスク。こーゆーこともあろうかと、この旅のために用意しました。説明書を読むと、悪い菌をシャットアウトするだけでなく、なんと装着者の加齢臭もチャラにしてくれるというスグレモノいやいや、便利なものが出たもんです。新しく投入したアイテムはもうひとつある。それがこちら↓。 スープジャー。旅に出る少し前に誕生日を迎えたので、相棒がプレゼントしてくれました。本来は温かい汁物を弁当として持っていけるという保温のための魔法瓶なんだけど、その性能を応用した本も一緒に付けてくれて、それを読んでみると簡単な調理ができたりご飯も炊けるらしい。まあ、できるものとできないものはあるんだけど、せっかくもらったんだし、寒い京の旅に何とか使えないかと工夫して家で練習してみた結果、どうにかなりそうだという結論を得て旅に持参することにしました。考えようによっては重いしかさばって荷物にもなるんだけど、寒い山の中で温かい食べ物を食べられるというのは贅沢なことだし、宿では半自炊生活をする私にとっては、朝晩の食事にも応用できるのでいいんじゃないかと思ったんだよね。去年の元日は新高山城で過ごして、ホントはコンロで隆景ちゃまのためにお雑煮なんか作りたかった~・・・と書きましたが(「新高山城(13)」参照)、新幹線には荷物チェックなぞはありませんので、登山用コンロを持ち込むことはできる・・・が、叡山で山火事なんか起こす気はありませんし、ハナから温かい食べ物は諦めてました。しかし旅の直前になってスープジャーをもらったので、何とタイミングがいいのだろうと相棒に感謝しました。で、写真は行きの新幹線の中で家から持ってきた味噌汁を飲み終えたとこ。おいしい味噌汁を飲むたび、「日本人で良かった~」と幸せになるわたくしでございます。新幹線が富士山や清州城を過ぎて関ヶ原まで来ると、戦国ファンは車窓の風景を見るのに俄然忙しくなりますが、今回も安土城(←遠くから推定の山だけ)、彦根城(これも遠くてほぼ見えない)、線路のすぐ近くにそびえる佐和山城(近すぎて逆にあまり見えない)など、現存の有無に関わらず知名度の高い城を過ぎて瀬田の唐橋まで来ると京都駅はもう目前。私は通常、ひとつの旅で宿を替えることはしないのだけど、フリープランを使うと安く上がるので、最初の2日はプラン指定の宿に泊まり、中日で別の宿に移動するという異例の旅となりました。なんで2つの宿にしたのかって?へっへっ、それは後のお楽しみ・・・ホントは叡山の中に泊まりたかったんです。でも延暦寺の宿坊は厳冬期は宿泊できず、山内にある高級ホテルも1月の半ば以降は休業に入ってしまうので、泊まれなかったのだ。日程を少し繰り上げれば山中に泊まることもできたんだけど、そうすると別のお楽しみとの予定が合わなくなってしまうので、山中に泊まるのは泣く泣く諦めました。もし叡山に宿が取れてたら、きっと5日間の日程のうちほとんどを叡山で過ごしてたと思うんだけど。という訳で、京都駅で降りて琵琶湖線に乗り換え、着いたのは山科駅。最初の宿は駅から近いところにあるので、まずは荷物を宿に預けていよいよ今回の旅の始まりです。にほんブログ村
2014年07月08日

皆様こんばんは。戦国ジジイでございます。更新が遅れまして、大変申し訳ございませんでした。わたくしの骨折日記は土曜が恒例になってましたが、先週思いがけずあっさり上野編が終わってしまったので、金曜日は4回目の経過報告にしようと思って、帰ってからいつものように記事を書いておりました。ところが、記事が半分くらいまで来たところで大事件が勃発しまして、金曜の夜中から土日いっぱいずっとその対処にかかりっきりでした。もうフラフラのヘトヘトです。ので、この土日は次のシリーズの準備を急いでするハズが、それも全くできず・・・泣きたいどころじゃありまへん今日の夜になってようやくメドがつきましたが、まだ作業は残ってますし、それを夜にやりつつ準備のまだできていない記事をぼちぼち書くので、しばらくは更新が大幅に遅れるかもしれませんが、ご了承ください。さて、先週の金曜で受傷からまる4週間。仕事の後で定例のレントゲンに行って参りました。前回の松葉日記で、次の週からは一部通勤を自分の足で歩く予定と書きましたが、実際は月・火はまだ送ってもらってました。私は歩くつもりでいたのに、いつの間にか先週までは送るという話になっていて、そんなら・・・と思って送ってもらったらば、オヤジはやたらと「来週からは歩いてね~」を連呼する。たぶん悪気はないんでしょうけど、元々自分で歩くつもりだったのにそんな言われ方をされると、私が無理に送迎を続行してもらったみたいでいい気はしない。ので、水曜と木曜は一切送迎なしで通勤しました。本来歩くのは、家から駅までと、駅から職場まで。けどすべてを歩くのはキツイので、駅までは自転車。ケガをして以来、電車も自転車も初めてでちょっと緊張します。しかも、ギプスはまだ取れてないし、力を入れてチャリをこぐ訳にはいかない。でも駅まで片足でチャリをこいで流すだけでも、時間と体力の節約にはなる。心配なのはチャリで足を着いた時に無理な力が加わって治りかけの患部をまた痛めてしまうこと。そうならないように、ゆっくりこぐ。どのみち早くこぐなんてことはできないんだけど。あゆみちゃんはどうするのかって?もちろん連れていきましたよ。まだ自力じゃ歩けなかったのだ。で、自転車の前カゴにあゆみちゃんを逆さにして立てて、いよいよ出発。持ち手から下の部分がカゴから出るので、なかなかインパクトがある。ゆえに、行きかう中学生はみんな注目してましたホントはダメなんですよ、自転車。これでまた痛めたら何にもならないしね。けど、職場でこれまで足を骨折してた人達がどうしてたのか、いちおう上司にあたる人と前日たまたま話してて、衝撃を受けまして。私の通う職場は従業員が多いので、車通勤は許可されてません。原付もダメ。ところが、足を骨折して駅から歩くのは実際キツイので、なんとギプスをした足で車を運転して通勤してたというのだ。ある人はこっそり近くに駐車場を借りて、またある人は特別に許可をもらって。それどころか、私が話してた人も数年前に病気して右半身がしばらくマヒしてたらしいんだけど、なんと自分で車を運転して、しかも左足でペダルを踏んでたというじゃ~あ~りませんか~。うわ~、皆ムチャしよる・・・ちなみに、ギプスをした足で車を運転してはいけません。左足でのペダル操作も危ないです。良い子は決してマネをしないようにね。ま、そーゆームチャな輩に刺激を受けた訳じゃありませんが、いつまでも送ってもらってる訳にもいかないし、そろそろ私も自力で頑張ってもいい頃だよな。そう思って、自力通勤にチャレンジしてみたのです。歩く部分は時間がかかるのはわかっていたけど、初めてあゆみちゃん1本で歩いてみると、通常10分くらいのところが25分くらいかかった。世間様のジャマにならないように道のはじっこを歩きながらも頑張って歩いたのですが、それでも倍以上の時間がかかった。着く頃にはもうヘトヘトでした。特に、腕がね。ちょっと無理しちゃったかな・・・帰りはもう少し大事にして歩こう。帰りは時間に制約がないものの、あまりちんたら歩くのもなんだし、結局少々無理をするハメになりました。ただ、屋内をゆっくり歩くのと外を頑張って歩くのとは全然違う。わずか2日間、駅と職場の往復を歩いただけでもだいぶ歩く感覚が戻ってきた。外の歩きにくい道よりも、職場の廊下を歩く方が断然ラクなのであゆみちゃんで廊下をちょこちょこ歩いてたら、「随分歩くのが早くなったね~」と木曜と金曜で数人に驚かれました。無理のない程度に歩く分には、外を少しでも歩く方がリハビリになるようです。先週に入ってからは、くるぶしの妙な痛みも出なかったので、1週間あゆみちゃんは1本で過ごしました。片手がフリーになった分、ドアも普通に開けて自然に通れるようになったし、自分で通勤するようになってからは帰りに駅前のスーパーにも寄れる。自分でできることが少しずつ増えてきたので、QOL(クオリティ・オブ・ライフ:生活の質)が上がってきたのが実感できる1週間でした。さて、それで先日の診察。レントゲンの後で診察室に入ったらその日はイケメン先生で、「骨も上がってきてるし、いいですね。じゃあ、今日から理学療法ですね」てことで、予定通りリハビリ室で理学療法に入った。登山をしてた頃、足首を骨折したことがあるんだけど、その時は電気を当てたりするだけで理学療法なんてものはなかった。ので、一体どんなことをするんだろうと思っていたら、ずっとギプスをはめたままで足首の動かせる範囲も狭くなっているので、少しずつ力をかけて足首や指の可動域を広げるものらしい。ギプスをしてたせいもあるけど、患部に負担がかからないように自分でも意識して足首から先を動かさないようにしていたので、結構関節は固くなっていた。押したり曲げたりした後で、理学療法士のお姉さんは「ギプスが外れたので、おうちでもなるべく足首や指を動かすようにしてくださいね~」と言った。へ?今、なんつった?ギプスはず・・・?「あ、あの・・・ギプスってもうしないんですか?」「しないですよ~。ギプスが外れたから、理学療法に入ったんです」ぎゃああ~、そーゆーことなの~!?どうしよう、これまで病院でギプスを外して歩いたらいつも痛かったんだけど・・・ホントにギプスなしで歩けるのかな・・・不安がよぎる。「せせ、先生は何も言ってなかったんですけど・・・」わたくしのみみっちい抵抗も空しく、次は電気を当てるという。その前に、次回の理学療法の予約について聞かれた。「来週も金曜にレントゲン撮るんですよね?なら、その後に・・・」と言いかけたら、「大体皆さん、1週間に2回くらいは来られるので、金曜の前に1回入れられませんか?」と言われた。えええ~、忙しいから困るんだけど・・・昔足を骨折した時は、バカみたいに毎日電気あてに通院してたけど、あの頃と違って今は夜のお仕事(←ブログ)があるからな。お姉さんは若くて可愛い人だったんだけど、「週に2回」のスタンスを崩す気配はない。ので、仕方なく火曜に予約を入れた。実は理学療法の時、研修に来ているという学生さんも見学してたんだけど、お姉さんが予約を入れに行っている間、私はずっと不機嫌で私と一緒にお姉さんの帰りを待っている彼に声をかけてやる気力もなかった。お姉さんが戻ってきて言うには、希望の時間は空いてないらしく、30分遅い時間の予約となった。予約制とは言っても完全なものではなく、待たされることもあると前回のリハビリの説明の時に聞いている。くそっ、これじゃ通院する日は夜の時間は使えないな・・・わたくしの機嫌がますます悪くなったのは言うまでもありません。機嫌の悪いまま電気を当てて、やっと終了まあ、長い待ち時間や電気あててる時に本を読めるから、勉強する時間ができたと思えばいいんだよな・・・けど、ブログ更新の頻度もなるべく落としたくないので、なかなかプラス思考にもなれず。病院から出て、初めてギプスなしで歩く。あゆみちゃんは1本しか連れてきていなかったので、痛むんじゃないかとビクビクしてたけど、案外と平気だった。もちろん、ギプス装着の時よりもゆっくり丁寧に歩いたんだけど、それにしてもこないだまで同じ状態で痛かったものが、痛みもなく歩けるようになったので、これだけ良くなってきたのかとちょっと嬉しくなりました。もともとギプスは1ヶ月~1ヶ月半と言われていたけど、受診日の2日後でちょうど1ヶ月だから、まずまず順調なペースだろう。やるじゃん、私のホネ。しかし、ギプスより先に松葉杖が外れるんじゃないかと思っていたので、オドロキだったな。帰ってから、風呂で1ヶ月ぶりに足を洗う。足の裏の皮がボロボロ落ちたけど、ついでに垢も相当落ちたやれやれ、もう少しの辛抱だぞ。まだ引き続き体重の3分の2までの荷重しか許されていないのであゆみちゃんと一緒の生活なんだけど、ギプスが外れた喜びもつかの間、最初に書いた大事件により、この土日はあゆみちゃんナシで歩いてました。あゆみちゃんをついてられる状況じゃなかったんです。ので、先行して全荷重で歩いてた訳なんですが、これもそこそこ歩けました。痛みはまだありますが。あゆみちゃんナシで1人でこの2日間歩いてたので、もう充分リハビリになったよな(笑)。この上予約通りに通院して時間を奪われるのも困るし、火曜の予約はパスしちゃおうかな・・・と目論みちう。にほんブログ村
2014年07月06日

少し歩くと大きな鳥居が見えてきた↓。 写真を撮った場所の右手にはもうひとつ入口があった↓。 現在ではこの唐門が車の出入口になってるみたいだな。門の手前には、古い朽ちた木の株↓。昔からあった木なのかな。 で、この門の写真をいくつか。 木の扉には ウメ・ウメ・ウシ・ウメ・ウシ・・・なかなかてってーしてます。 唐門をくぐったついでに再び中へ。右手には庭園。小さな滝もあります。 左手にはまた菊。が、ここの菊はそれまでとは違い 菊人形です。どっかで見たような顔だな・・・と思ったら、 なるほど、大河関連か。綾瀬はるかの菊人形ってことね。こちらは八重のダンナ、ジョー↓。 こちらが八重の最初のダンナ、川崎尚之助↓。 もう1体、姉ちゃんがいると思ったら こっちも綾瀬だった(笑)。この菊人形の前には、カメラを持ってリクルートスーツのようなものを着た若い姉ちゃんがモソモソしていた。菊人形を撮ってるような撮ってないような、不審な動きをしている。写真を撮らないんだったら、ジャマだから早くどいてくれ。撮るならとっとと撮ってどいてくれ。そう思いながら脇から写真を撮ってたら、声をかけてきた。ああ~?私だって忙しいんだから、日本人なら撮影お断りだよ~・・・と思ったら、話し方が少し変なのでガイジンだったらしい。たぶん、中国人だな。しょうがない、ガイジンなら断るのも可哀想だから撮ってやるか・・・一日一善。んにゃ、違うな。不忍でアラブ人に一善したから、これで二善めだ(←キャパ狭すぎ)カメラを受け取ると、姉ちゃんは慌てて周りを見回して、はじっこに走っていったと思ったらおもむろに地べたにカバンを放り出した。突然のことに私があっけに取られていると、彼女は走って菊人形の前でポーズを取った・・・わたくしが即座に、福山城で地べたにカバンを放り出して、その上地べたに座り込んでモデル気分で撮影をしていたチャイナガール3人組を思い浮かべたのは言うまでもありません。やっぱ、中国人だしかも、カメラ越しに見る彼女はぱりっとスーツを着てモデル立ちで思いっきりカッコ付けている。舞台裏では、雨で濡れている地べたにカバンが放り出されているというのに。不親切なこのわたくしが思わず「カバン、持ってましょうか?」と言いかけたくらいだから、その衝撃度はなかなかのものでした。ま、本人がいいと思って置いてるんだからいっか・・・(←やっぱり不親切)たぶん、国に帰った時に家族や友人に自慢げに見せるんだろうな。この辺の見栄っ張りはやはり中華の国の人だと思いながらも、彼女の名誉のために綺麗に撮ってやろうと思いました。その場で確認できるのがデジカメのいいとこなので、本人に出来を確認してもらったら、まずまず満足したらしい。菊人形との記念撮影を終えて去っていく彼女の背中を見送ってから残りを撮影。こちらが八重の兄・山本覚馬↓。 よし、今回はこれで終わりにしよう。境内を突っ切って女坂下付近から見たガケ↓。 このまま湯島の駅から電車に乗ればラクなんだけど、この時間だと座れなさそうだから上野まで戻ることにした。途中にはこんなものも↓。 初詣に来る時は男坂~神社間を往復するだけだから天神付近をまともに歩いたことはなかったと思うけど、ひょっとしたらこの辺は多少江戸の名残をとどめてるかもしれないな。上野駅近くまで戻ったところ↓。山王台のガケ下あたりかな。 写真に映ってる一帯はすべてかつての寛永寺の寺域。左側は急なガケになってますが、かつてはここまで急ではなかったようで、「春の寛永寺(19)」で両大師近くの屏風坂が往時と地形が変わってると書いたように、この辺ももう少しなだらかだったと思われます。少し歩いた先が、上野駅不忍口の駅前↓。 ここも寛永寺の子院が並んでた場所。右手のガード下を入っていったところがアメ横ですが、その辺りの瀬川屋敷に五條天神社が一時引っ越してました。もしかしたらその石碑もあるかもしれないので、そのうち探しに行きます。さて、2013年7月から翌年の春まで5回に分けて訪問した寛永寺を中心に上野編および姉妹編を書き続けてきましたが、8ヵ月にわたった上野シリーズも今回で終了です。途中の姉妹編では天平の歴バナを挟んだり、両国の歴史なども交えましたが、それにしても長かった(笑)。寛永寺を訪問したことで本格的に江戸に目覚めたわたくしですが、感覚的には本所などの下町の方がなじみやすかった。理屈じゃないんです。わたくしの中に一部流れる江戸っ子の血がそうさせるのかもしれないけど、上野編を書き始めた当初は町人文化に手を出す気はなかったので、不思議なものです。そのうち、深川などの下町も攻めると思いますが、そのエリアは昔バイトで少々通ったことがある程度で満足に知りもしないのに、行く前から懐かしささえ感じてます。とは言っても、寛永寺はわたくしの江戸の原点とも言える寺。同じ徳川の菩提寺でも、先に増上寺へ行っていたら、あるいはまだ江戸に目覚めていなかったかもしれません。大寺院だったにも関わらず、寛永寺はわかっていないことも多い。それでも、江戸の歴史において寛永寺は欠かせない存在。この先も、江戸めぐりにおいてちょいちょい寛永寺が顔を出すと思われます。上野編の途中で短編を挟むことについては迷いもありましたが、今はやはり書いておいてよかったと思ってます。特に両国編ね。「上野第二編(19」で 【江戸に幕府を開き、日本一の巨大な城を築いてあらたな都となったが、 京に比べ当然歴史は浅い。そういう町に住む江戸っ子にとっては、 将軍様と上野の宮様・・・政治と宗教のトップがともに江戸に住んでいるということが、 何よりも誇りだったらしい。】と紹介しましたが、江戸の町の3割という限られたエリアに全国各地から集まってきた町人がひしめいていた。「本所Wデビュー」を書いて下町の雰囲気を感覚的につかむ中で、将軍と輪王寺宮を自慢に思う江戸っ子の気持ちが急にリアルに理解できるようになったんです。これも理屈じゃありません。何なんだかは自分でもわかりませんが、上野編を書き始めてから今日までの期間がわたくしの江戸の出発点になったとだけは言えるでしょう。さらに、江戸だけじゃなく新しい世界も広がりました。次のシリーズは時代も場所も飛びますが、これも寛永寺が基になった旅です。次回シリーズの準備はまだ全然できてません・・・が、次も頑張りますので、気楽に気長にお付き合いくだされにほんブログ村
2014年07月03日

裏には沢山の菊。 雨の中、わたくしと同じように粘って撮影してる人もいましたが、菊もぼちぼち撮ったものの、引き続きわたくしのカメラは上ばかり向いておりまして・・・ 釣り灯篭の底まで梅鉢↓。こだわってるな~。 ↑どうもこのペイントが安っぽくて気に入らないんだけど、周りの彫刻は一部ハゲてる箇所もあるので、これも旧社殿からの転用なのかな。社殿の脇の蟇股は花などの植物系ばかりだったけど、こちらは動物系が多い。だいぶ洋風な感じもするので、昔からこれらの蟇股があったのかはわかりませんが、どれもよくできてるし、見ごたえありますよ~。 これがここでの一番のお気に入りかな↓。ここら辺にはタクシーが止まってて、かなりジャマだったんだけどなんとか綺麗に撮りたいと頑張りました。 ・・・が、これが限界。傘さしつつ、雨がカメラにかからないようにしつつ、かつ薄暗い中でフラッシュなしでブレないように撮るのは結構大変です。フラッシュたくと、絵柄が綺麗に撮れないからね。 んで、これ↓。 梅とウシで天神様のダブルアイテム蟇股ですが、 どうも周りにあるのが梅じゃなく、闘牛で槍を沢山打ち込まれたウシのように見えて仕方がなかったわたくし・・・オ~レ!! ↑これはわたくしの腕が悪いんじゃなく、 元々の状態があまり良くないんです。どうもウサギのようだな。ウサギの周りの植物なんかは、上野東照宮の透塀なんかと共通するものがあるな。 ↓これもだいぶ彩色がハゲてますが、トラかな。これも古いものっぽい。 今回撮った蟇股はここまでです。こんなにいいものがあったのか~、湯島。知らなかったけど、その分トクした気分だな。 ここまで、社殿の向って右側から時計と反対回りに来ましたが、こちらが本殿の向って左側にあたります↓。 菊がジャマだな・・・本殿を撮るのはまた今度にしようその先には渡り廊下↓。 ここにも菊が並べられていて、イベントがなければここまでの写真のようにあちこちに梅が散りばめられていて梅づくしですが、今日は菊に主役を奪われてます。これ以上の社殿の撮影は今回は諦めて、表参道の方へ向かうと、いました。お約束が。 ここのは「撫で牛」なんだそうな。たしかウシの台座の下だったと思うけど、綺麗な白い玉石が敷き詰められていた↓。 手水舎の前では、だらだらとお清めをする客がなかなか立ち去らず、ひとまず懸魚だけ↓。 手水舎の隣の建物の木鼻↓。 狭い参道に屋台や菊がひしめき合って、なんの建物だかよくわからない。境内に屋台置くの、やめてほしいんだけど・・・いやいや、これも江戸期の寺社の雰囲気を残してると思えばいと楽し。つか、写真撮るのにジャマなんだよね(笑)。 参道を挟んだ向かい側には こちらが宝物殿。こんなのがあったなんて知らなかったけど、今回はもう時間もないし、疲れたしで中も蟇股もパス。境内には他にも見どころがあるらしいけど、外へ出ます。 ↑これが湯島天神の表側。道路に引かれた白いラインがカーブを描いてますね。現代の感覚からするとここは変な地形ですが、周囲はおおむね江戸期の地割を残しているようです。現地の地図のリンクはこちらですが、地図の中心点が写真の鳥居のある場所。南にまっつぐ参道が延びてるのがわかります。中心点の右下に赤い老人ホームがありますね。この老人ホームの西隣とその南側は、明暦の絵図には「茶や」と描かれており、門前町だったようです。して、老人ホームの北と東に隣接するブロックにはいくつか建物が描かれてますが、ここの28番地のブロックと老人ホームを含むエリアが、かつての湯島天神別当の喜見院のあった場所。心城寺の解説には「当時の喜見院は相当の境域があった様ですが」とあったけど、明暦の絵図を見る限り、「相当」とまではいかなくても、結構広い敷地。その東側には「寺」とあるので、あるいは心城寺などの子院はここにあったのかもしれない。ちなみに、「喜見院」は「きみいん」かと思ってたら、明暦の絵図には「別当キケン院」とあるので、「きけんいん」が正解だったようです湯島天神のホームページによると、表にあるこの銅鳥居は寛文7年(1667)と同8年の銘があり、都内に現存する鋳造の鳥居の中では古いものだそうで、東京都指定有形文化財とのこと。鳥居の下部はこんなんなっていて、変わっている↓。 ここからは、神社に沿った道をしばし西へ向かいます。途中には菊花展ののぼりが立っていた↓。 「関東一」が湯島天神にかかるのか、菊花展にかかるのかは不明です。言葉って難しいね(笑)。この辺にあったふた↓。 ↓ぽちりとクリックよろしく~。にほんブログ村
2014年07月02日

7月に入りましたね~。生きて大殺界を越えられましたよ。良源さんのおかげですよ~。「南無元三慈恵大師常住金剛」(良源さんに帰依します)ですよ~。ただ、6月はわたくしの愛する方々の命日が多く、毎年ひっそりとそれぞれの命日を迎えているのが、今年は6月はじめにケガをしたもんで、心静かに冥福を祈るなんて悠長なことはできませんでしたがまあそれでも、今週はあゆみちゃんを1本にして出勤してもくるぶしの痛みも出ず、まずまず歩けているので良かったです。TVのニュースなどではトーハクの大型企画展が話題ですが、わたくしは白菜には興味ないので、行きたくてたまらない企画展じゃなくてこれまた良かったです。今日は三井記念美術館の特別招待会のチラシを見ていて、秋に「足利将軍家の至宝」なんて企画展をやることを知りましたが、この頃には完治してるハズだからこれはぜひ観に行こうと野望に燃えてますさて、こちらが湯島天神の本殿↓。下の屋根がジャマですが、この時は菊花展をやっていたのでしょうがないッス。 ちょっとこの辺はいただけないけど、再建だからな↓。 ここからは、菊花展に出品されている見事な菊なども交えてご紹介します。 ううん、綺麗だ~。やっぱ菊は大玉だよな。この先には、石碑のような不思議なものが↓。 「努力」・・・学問の神様にぴったりのアイテムだな。 この辺りは社殿の裏手になります↓。建物自体は再建の味気ないものですが、ここにも色々あってまだまだわたくしの奮闘は続きます。 この写真の手前には ああ、ここにも出入り口があったのか。これは「夫婦坂」というらしい。比高は大したことないけど、ここら辺も結構地形が急なんだよな。古絵図なんかだと、男坂のある東側などはガケの表示になってるし。この石段を下っていった辺りは「切り通し」という気になる名称になってるので、当初は下りてその様子を確認したいと思ってたんだけど、今はちょっと忙しいし、雨だし暗くなってきたし、今回は無理だな・・・して、先へ進みます。 戸隠神社?なんでまた、こんなとこに・・・この手前の蟇股もすごい↓。 この蟇股の真ん中に付いてる紋、これはどうやら戸隠神社の紋らしいです。てことは、いつ造られた蟇股かはわからないけど、戸隠神社専用に造られた蟇股ってことだな。戸隠神社っつったら、歴史も古く、修験道などで有名な神社。ここに勧請されてる理由はわからないけど、戸隠神社のホームページを見たら 【江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、 東叡山寛永寺の末寺となり】とあった。なるほど・・・湯島天神の別当は寛永寺の所属だったから、戸隠神社の勧請もその辺りと関係がありそうだな。『寛永寺』(寛永寺教化部発行)による天海の12の事績を「上野第二編(15)」で紹介してますが、このうちの7番目、「教学の振興と学僧の要請」というのは、 【(天海)大師がきわめて熱心に取り組まれた事の一つに天台寺院の復興と 旧天台寺院の帰宗運動がある。(中略)また、信州の善光寺が浄土宗系に傾いて いたものを現在のように天台、浄土の両宗もちに改めたのも大師であった。 このように、当時他宗になっていた旧天台寺院を天台宗に復帰させようという 運動は、時としては軋轢を生むこともあったが、大師は確固たる信念にもとづいて この運動を進めたため、善光寺のようにその主張が通ったのである。】 (『寛永寺』より。カッコ内は戦国ジジイが追加)ということらしい。戸隠神社も信濃。天海が美濃あたりまで手を伸ばしてたという話も聞いたことがあるから、寛永寺が宗教界を席巻する勢いだったのは天海の存命当時からだとわかる。つか、寛永寺をそうやって大きくしていったのは天海だから、天海の生きてた寛永年間頃が一番イケイケだったかもしれないな(笑)。戸隠神社の懸魚↓。 雨でだいぶ薄暗くなってきたので、ちょうどこの頃明かりがともった↓。 戸隠神社の隣には、お稲荷様↓。 ここの手前の蟇股は、戸隠神社と同じように お狐様になっていて、これも稲荷専用蟇股らしい。 「笹塚稲荷神社」とある。古絵図を見ると別当の喜見院はそこそこ広いので、神宮寺までも含めると境内域は結構な広さになると思うけど、天神自体の敷地というのは往時とあまり変わってないように思われる。まあ、同じ広さでも建物の配置などによって随分と変わるもんだけど、今は本殿の裏に駐車可能なスペースを取ってるせいか、あまり広い感じはしない。それでも、かつての笹塚稲荷神社は稲荷らしく数本の朱の鳥居を備えてたかもしれないけど、今はご覧の通りのスタイルなので、代わりに朱の鳥居のミニチュアが拝殿の前やら脇やらに沢山置かれている。湯島天神のホームページには【境内とその界隈は江戸有数の盛り場で、宮芝居や植木市、各地の出開帳があり、江戸町人の憩いの場として繁盛した】とあり、さらに【文政7年(1824)正月境内で大相撲本場所も行われた。】とある。まま、出開帳はいいとして、大相撲?この狭いとこで!?あんまり狭い狭い連呼すると「そんなでもないだろ!!」って神社サイドからクレームが付くかもしれませんが(笑)、今は狭いと感じる土地利用をしてるからしょうがないじゃん・・・また、拝殿前は狭い参道にさらに屋台が立つから余計狭く感じるんだよね。このスペースだから、回向院の勧進相撲ほどの規模じゃないだろうな。つか、「大相撲」とはあるけど、「勧進相撲」とは書いてない・・・当時の相撲興行のスタイルからして、勧進相撲のたぐいだろうとは思うものの、湯島は寛永寺の縁があるから勧進相撲を打つ必要がなかったんじゃないかとも思うんだけどね。それでも、毎月10日と25日の縁日には賑わったらしいから、江戸期の他の寺社と同様、厳粛な空間というよりは複合遊興施設的な人気があったのだろう。にほんブログ村
2014年07月01日
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