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大内氏の話が終わって、早くも燃え尽き感が・・・(笑)。てるといえば、今日の仕事中に思い出したことがありました。企画展示室へ行く前、荷物をロッカーに預けて膀胱の準備をしに行った時のこと。 「てる」じゃなくて「かがやき」です。これね~、古紙を出すともらえるトイレ紙なんですよ。前はもちょっと違うデザインだったんだけど、「輝」とばーんと書いてあるのは前のバージョンと同じ。江戸博がうちと同じトイレ紙を使ってるとはねさて、萌え~な話題が終わってしまったので、ここからは軽く・・・いやいや、ここからが本来のメインなんです。一切経を過ぎると、江戸城や将軍近辺などの展示に移っていきますが、ここで目を引いたのが「旧江戸城写真ガラス原板」(重文)。これは明治4年に江戸城のあちこちを写したもののようで、写真ではなくホントのガラス原板。場所によっては草ボーボーの、「廃墟」とか「惨状」とかいう言葉がぴったりの光景がガラス原板に写し出されてます。こんなものがあったなんて知らなかったな・・・なかなか目にする機会のない、貴重な品です。これはオススメ。今回の特別展でスポットが当てられた将軍は2代・秀忠。秀忠の書状、秀忠の具足入れ、秀忠がかぶったという兜、それから秀忠の書による和歌、秀忠が描いた絵などなど・・・後代の将軍では、プロ顔負けの絵を描いた方などもいるけど、今回展示されてた秀忠の絵も、地味だけどなかなか味のある絵でした。今回秀忠の展示ばかりだったのは、おそらく江戸幕府の基礎固めをしたからという位置付けなんじゃないかと思うけど、秀忠の治世で重要なものである「武家諸法度」があった。ただし、展示されていたのは寛永12年(1635)の家光の改訂によるもの。それから、「浄土宗諸法度」もあった。与右衛門の歴バナで紫衣事件について書いた後なので、私もガラスケースにへばりついて現物を少し読んでみましたが、ま~細かい細かい。長い長い(笑)。これは元和2年(1616)に出されたもので、紫衣事件の発端となった大徳寺と妙心寺あての法度が出された翌年だから、一連の寺院統制の中のひとつだな。これも、恐らく崇伝が関わっているのだろう・・・そんな事を考えながら読むことしばし。その先は「廟所」というタイトルのコーナーに移る。へっへっ、もうおわかりでしょう。この辺りからが今回のわたくしのお目当てです。まず驚いたのが、増上寺にあった秀忠霊廟の詳細な配置図。かなりデカい。なんかびっしり文字が書き込んであると思ったら、灯籠の配置と寄進者の名前だった。まあ、デカい絵図だと言っても文字はかなり小さいので、双眼鏡ごしに睨んで秀忠の廟のすぐ前に真田信之と毛利秀元の名前があることぐらいしか確認できなかったしかし、この位置は重要だぞ・・・真田の兄ちゃんの灯籠がこんな場所にあったなんてな。絵図で見ると、霊廟の敷地はかなり広い。すぐ近くにはお江の霊廟もあり、五重塔なんかもある。解説によると、秀忠の霊廟は増上寺埋葬組の中でもとりわけ広く敷地が取られており、豪華絢爛だったそうな。が、残念なことに先の大戦で大半が焼失し、現在では一部が残るのみ。かつてのきらびやかな霊廟建築は残ってないけど、どういう装飾が施されていたかを偲ばせるものが残っている。まあ、今でいう絵コンテみたいな?蟇股の図案なんかもあって、写真を撮れないのが残念で仕方ありませんでしたこれもオススメ。廟所といえばもちろん寛永寺にもありますので、寛永寺の配置図と廟所の見取り図があって、将軍の霊廟参拝のルールなど思い出しながら見るとホント飽きないです。ま、フツーの人はこの辺はさらっと通過しますけどね。我ながら変人だな~と思いながら、一般の見学者と全く違うところで思いっきり時間を使うわたくし・・・廟所の先が、「東照宮」のコーナー。今回、わたくしが最もテンションの上がった場所。江戸博のサイトでは展示品一覧が見られたと思うけど、今回はホントにチラシで知ったただ2つだけをお目当てにしてたので、全展示品は事前には調べていなかった。で、東照宮のコーナーに足を踏み入れてまず驚いたのが、紅葉山関係の出品が結構あったこと。紅葉山東照宮のものと推測される「東照大権現」の扁額、紅葉山の稲荷堂にあったという額、紅葉山の配置図などなど・・・私の手持ちの古地図に紅葉山が描き込まれてるのもあるにはあるんだけど、木に覆われた中にちょろっと堂宇が描かれている程度のもの。しかし、今回展示されてた絵図は詳細に配置が描かれており、こんなのあったのか~!!と感動しました。その先あたりにあるのが、1対の銅灯籠・・・わたくしの第一のお目当てです。写真がないのが残念でなりませんが、寛永9年(1632)に増上寺の秀忠廟に蒲生忠知が奉納したもの。ま、銅灯籠ですからチョ~大ざっぱに言って上野東照宮で紹介した諸大名の銅灯籠と似たようなものなんですが(笑)、全体的に上野のとは色合いが違う。よく見ると、文字とか一部の装飾には金が残ってる。まさか、かつてはこれ全面金ピカだったのか?キンキラの灯籠なんて見たことがないけど、上野東照宮の銅灯籠が青緑っぽくなってるのに対し、これは黒ずんでいるので可能性はあるよな・・・あ~、増上寺が燃えなかったらなあ!!このすぐ近くには椅子があったので、座って銅灯籠を眺めてしばし浸る。その先がもうひとつのお目当て。江戸博サイドでも、これは目玉商品だと思うんだけどね。ただ、紅葉山がどういう存在だったのか知らない人や霊廟などに関心を持たない人にはあまり目を引かないものだったらしく、しばらくこの前で私が陣取っててもここに立ち止まる人はいなかった。まあ、そんなに人も多くなかったしな・・・しかし、これはホントに貴重品です。現物はもちろん撮れませんでしたが、これを使ったグッズが売られていたのでそちらの写真をご紹介しましょう。 これ、クリアファイルなの(笑)。もっちろん「買い」ですよ~!!当然でしょじゃなくて、紅葉山東照宮内の尊前に掛けられていた御簾なんですと。こんなものが残ってたなんて、びっくりどころじゃないんだけど。それも、所蔵は津山郷土博物館・・・津山って岡山のでしょ?なんでまた、そんなところに?しかも郷土博物館て、言っちゃ悪いけど本来であればこんなもの持つような場所じゃないでしょうに・・・建仁寺展でもらったチラシでこれの存在を知って、帰ってからすぐさま調べました。そしたら、去年の10月10日付けの山陽新聞の記事がヒットした。それによると、津山郷土博物館では約5年前にこれの寄贈を受けて、江戸博に鑑定を依頼した結果、紅葉山のものだと判明したらしい。津山さんの方でもびっくりもので、「これほど貴重な品が市内に残っていたことは驚き。津山での展示も検討したい」との館長さんのコメントが山陽新聞に載っていた。判明したばっかりだから、まだ津山では展示はされてないってことだな・・・てことは、『大江戸と洛中』展が初のお披露目じゃん!!今後、津山でも展示されるのかもしれないけど、岡山なんて気軽に行けるもんでもないし、これは是が非でも観ておかなきゃ・・・そう思って今回の特別展に足を運んだという訳です。まあこれね~、現物はそう大きなものでもないんだけど、間近でしげしげと御簾を眺めると、一部傷んでる箇所もあるものの、かなり細工は精巧。細部まで実に見事な作りなので、わたくしなんかはホント見飽きないですね。御簾の上部には、瑞獣のアップリケが施されている↓。これがクリアファイルの裏面。 津山で展示されるのもいつになるかわからないし、まして次に東京に来るのがいつかはもっとわからないので、近郊の方は是非この機会に貴重なお品を観にいらしてください。マジでオススメ。後はもう、ほどほどに観ておしまい(笑)。きらびやかな甲冑も何点か展示されてて、そこには結構人が集まってたのでやっぱり一般の方の目を引くのはそういう類なんだな~とちょっと寂しく思ったりして・・・展示室を出ると、特別展用の売店コーナー。ここ、ヤバイっす。出品物関係のみやげ品もさることながら、和小物は可愛いものが多いわ、それに古地図!!トーハクにも少し江戸の古地図の複製はあったけど、こちらはやはり専門なので各年代の複製古地図が結構あった。ので、地図買いまくり・・・江戸は各種ガイドブックも多く出版されてたし、絵図も沢山出ていたので、おそらく神保町あたりを歩けば(お値段はともかく)古地図は簡単に手に入るんじゃないかと思うけど、私にとっては古地図はやはり実用品なので、貴重な現物をびくびくしながら見るより、複製図を遠慮なく使いたい。ので、当面は復刻版の絵図を年代ごとにそろえたいと思っております。ただ、複製っていってもモノによっては結構高いからね~。買いたいと思ったものは沢山あったんだけど、古地図をカゴに入れ始めてからは自粛しました。紅葉山の御簾上部のアップリケをあしらったバッグや小物なんかもいくつかあって欲しいと思ったんだけど、キリがないので泣く泣く諦めました。さてと、ひとまず特別展の紹介はここまでですが、これ以外にも貴重な品や興味深い品は沢山あります。『大江戸と洛中~アジアのなかの都市景観~』展は5月11日まで。東照宮や霊廟に関心のある方はぜひおいでませ。もちろん、大内氏の一切経も見てってねにほんブログ村
2014年04月30日

前回は朝鮮半島における一切経の扱いについて紹介しましたが、前回引用させていただいた押川氏の解説の、国家による一切経の所蔵状況の把握はおそらくは高麗末期以前のことで、朝鮮王朝による仏教の弾圧が始まった頃に日本からの一切経の請求が活発になっていることを考えると、朝鮮で寺院を廃止させる中で散逸した仏典もあるだろうし、日本の要請に応えようと朝鮮国内の一切経をかき集めた結果、朝鮮でチャンポンになってしまったものや大内盛見のように国内で欠本を補おうとして日本でチャンポンになったものなど、色々な過程を経て現在残るミックス本になった可能性が考えられる。ただ、国内にある一切経のすべてがミックスという訳でもなさそうで、修善寺のは一部しか残ってないけどおそらくは元版の完本だったんじゃないかと個人的に推測するし、浅草寺が所有する元版一切経は国指定文化財等データベースによると「元時代の作品」という解説が付いているので、これがどこから手に入れたものかはわからないけど、元版の完本に近いもののように思われる。大内氏を仲介として朝鮮との直接交易に室町幕府が乗り出したのは義満の時代。が、実際に一切経が入ってきたのはその後の義持の時代だという。それ以前に一切経を手にしていた大内義弘が一部しかもらえなかったということは、すでに仏典の散逸が始まっていたと見て差し支えないんじゃないかな。それ以前に国内に持ち込まれた一切経は、もちろん高麗版もあるだろうけど中には中国との直接交易で手に入れたものもあると思われ、そちらは中国版の完本だった可能性が高いと言えるかもしれない。さて、今回は国内に残る大内氏の一切経について。サブタイトルで、「大内氏の後釜は毛利氏だから、毛利輝元?」と思った方もおられるかもしれませんが、てるじゃないッスよ~。てるは単に、流しただけ。世が世ならそんなことできる身分じゃなかったくせに、自分で苦労して手に入れたものでもないから一切経には特段の未練もなかったかもしれないし、しかも旧大内王国で一切経を所蔵していたのはどれも旧主にゆかりの深い寺院ばかり。朝鮮のように、別に一切経がいらなかった訳でもないでしょうけど、それほど固執する理由もなかったと思われるので、貴重な大内氏の遺産を徳川質店に流してしまった。よそへ流れた一切経のすべてをてるが流した訳でもないかもしれないけど、それ以前の当主では考えにくいし、てる以後の当主が流したとしてもせいぜい1~2割ぐらいだろう。何と言っても、一切経の需要側と供給側の利害が一致するのはてるの時代なのだから。・・・あんまりてるの悪口を書くと、トロロヅキさんとセキュリティよしお(←てるのファン)が怒るかもしれないので園城寺以外で私が知っているものの紹介に入りましょう。え~とまずは、前回も紹介した大谷大学所蔵のもの。これは厳島は厳島でも、厳島神社の旧蔵みたいだな。『北野社一切経の底本とその伝来についての考察』の中で馬場久幸氏は【大内氏との関係が考えられるが、それ以前の伝来経緯については不明である】としておられる。厳島神社は、少なくとも義弘の時代から大内氏との関わりがあったので十分考えられるけど、平氏との関連はないのかな?ともちょっと思う。ま、史料を何も持ってないのでこれ以上は何も言えませんが。ただ、厳島には少なくとも神社と大願寺に2つの一切経があったってことだな。2つめが増上寺。今回、『大江戸と洛中』展で展示されてる元版のやつね。これは応永27年(1420)に補完がされているので、盛見が興隆寺に納めた応永16年(1409)とは少し開きがあるけど、かと言ってその時代に興隆寺が2つの一切経を持っていたとは考えにくい。少なくとも応永27年以前には、ベースとなる一切経が興隆寺にはあった。となると、やはり盛見が応永16年に納めた一切経の可能性は十分にある。考えられることとしては、応永16年当時はまだ完全じゃなかった。2度にわたって手に入れたものではあるけど、朝鮮に頼んでも完全に揃わなかったんじゃもう仕方がない。てことでとりあえず奉納はしたものの、国内の一切経を探したんじゃなかろうか。盛見は当時の守護の例にならって長く在京しており、禅にも関心が高かったので在京中に京都五山の僧とも親しく交わったという。そのツテで普廣禅院に一切経があることを知り、欠本を補うためにコピーをさせてもらった、って推測はアリだと思う。3つめが相国寺。はい、京都のあの相国寺ですよ。も~、これはびっくりしたね。 【(前略)一部の巻末に「花谷妙栄大姉之寄進也」と書かれていることから、 花谷妙栄大姉が寄進したことがわかる。花谷妙栄大姉とは、陶弘房(?~ 1468)の妻である。陶氏は大内家と関係が深いことから、この頃には 大内領国内に大蔵経があったことは明らかである。しかし、この大蔵経の 日本伝来については不明である。】 (『北野社一切経の底本とその伝来についての考察』より)これだけじゃちょっとな~・・・巻末の全文を知りたいところですが、まあしょうがない。妙栄が直接相国寺に寄進したのかだけでも知りたいところだけど。大内家重臣・陶弘房は応仁の乱の最中、相国寺の戦いで討ち死にをしている。(「山口編(8)」もご覧ください)だから相国寺とは関わりがあるっちゃあるんだけど、大内一族が相国寺に塔頭を作ったって話も聞いたことがないし、夫がそこで死んだからって、足利将軍家菩提寺の相国寺に寄進とかするだろうか?そもそも、一切経は貴重品なんだし。わたくし的には、これは妙栄が弘房の菩提を弔うために仁保に建てた安養寺に納めたものじゃないかと思うんだけどね。一切経はどこから手に入れたかって、弘房の功績を讃えて大内政弘が妙栄に下賜したものなんじゃないのか。あるいは明応元年(1492)に安養寺を瑠璃光寺に改めた時にリニューアル記念で下賜されたことも考えられるけど、それなら瑠璃光寺を建てた弘房の次男の名前になっていてもよさそうな気がする。ただ、瑠璃光寺の伽藍は明応8年(1499)に焼失したというので、それ以前にすでに相国寺、あるいはよそへ流れていた可能性も考えられなくはない。これ以上は情報が少なすぎてなんとも・・・ただ、相国寺に大内氏ゆかりの一切経が現存するという情報だけでも収穫でした。して、4つ目。これが一番びっくりであり、かつこれこそ「遺産を継ぐ者」です。それは仙波喜多院・・・そう、天海の喜多院ですよ~!! 【江戸時代初期に毛利輝元が徳川家康に献上し、さらに慶長19年(1614)に 天海のために喜多院に寄進したものである。】 (『北野社一切経の底本とその伝来についての考察』より)「本所Wデビュー(3)」で伊藤幸司氏の解説文を引用してますが、慶長19年時点でもまだ国内に一切経の版木はなかった。ので、寺院のステイタス向上につながる一切経は国内の既存のものを手に入れるしかない。徳川家の菩提寺・祈祷寺となった増上寺・浅草寺にも完備させる必要があり、関東天台の本山とした喜多院にも入れる必要があった。まあ、喜多院のは天海がおねだりしたかもしれないけど(笑)。浅草寺のはどこから仕入れたかわからないけど、今回『大江戸と洛中』展で元版一切経の隣に展示されていた宋版の一切経は滋賀の菅山寺にあったものを巻き上げ・・・いへ、召し上げたものだという。けど、所蔵する寺院側としては当然取られたくなんかない。一切経の収集に苦労したかは不明だけど、こうした状況を見て「あ、うち、一切経ありますよ~。よかったらどうぞ~」ってゴマスリにてるが大内氏の一切経を使った疑いが限りなく強い。(↑結局悪口)前回紹介したように、朝鮮半島からの一切経の輸入は大内義隆の代をもって終わった。ゆえに、大内家を滅ぼした後の毛利氏が朝鮮半島から一切経を輸入した可能性はないと言えるし、滅ぼす前に毛利氏が自力で一切経を輸入した可能性はさらに低いと言えるだろう。ので、てるが家康に献上した一切経は大内氏のものである可能性が非常に高い。本のコレクターだった天海はさぞ喜んだだろうし、自慢の天海蔵に納める際には天海印のハンコを押したかもしれない。ところが、てるのゴマスリ(←決めつけ)は思わぬ新たな遺産を生み出した。天海蔵のリンク先をご覧ください。『寛永寺』が紹介した天海の12の功績のうち、10番めに天海版大蔵経の開版がありますね。「国指定文化財等データベース」によると、この天海版の一切経は 【底本は川越喜多院所蔵の南宋思渓版(なんそうしけいばん)で、現存する 一切経の刊記によれば、刊行は寛永14年(1637)から順次行われ、 全巻の完成は天海没後の慶安元年(1648)であった。】南宋思渓版・・・あるんです、家康経由で喜多院に寄進された一切経の中に。てことは、大内氏の一切経をもとに天海が国内初の一切経の版木を起こした・・・そういうことになるでしょう?なんてこった!!大内氏と天海がつながりがあるなんて!!!ええ、もうこんなとこ、大内バカしか食いつきませんよしかし、何という運命の巡り合わせなのか・・・歴史って面白すぎ。それにしても、江戸で大内氏の一切経に出会うとは予想もしていなかった。これは自粛を解除してとっとと山口へ来いって大内の殿様が呼んでいるのか、はたまた西国行き自粛中なわたくしを哀れんで盛見がサプライズを用意してくれたのか・・・なんにしても、思いがけない出会いに感謝しきりでした。にほんブログ村
2014年04月29日

てる(毛利輝元)が園城寺に寄進した国清寺の一切経は高麗の貴族が元に印刷を発注したもので、一部高麗版も混ざっている。増上寺の元版一切経も、南宋・元・高麗のミックス。盛見が興隆寺に寄進した一切経がミックスな理由は前回紹介した流れの通りだけど、そもそもなんで義弘は一部しかもらえなかったのか?他の現存する輸入版一切経も、ミックスが多い。どうしてそうなるのか?そもそも、日本国内では貴重品としてありがたがられた一切経が、なぜ朝鮮からぽいぽいもらえたのか?シリーズのタイトルからは相当脱線する感もありますが(いつもか)、勉強した時にきちんと書いておくと後がラクなので、今回は朝鮮側の事情などを紹介したいと思います。 【朝鮮王朝の王室では、王妃・大妃が中心となって、仏教が篤く信仰されていた。 王室にとって、大蔵経は自らの安寧のよりどころであり、これを日本の諸勢力に 回賜することは、自らの王権の威信を内外に示すことを意味した。そこで、 王朝政府は、国内に散在する仏教経典の所蔵状況をあらかじめ調査して、 経典およびそれを所蔵する寺院に関する情報を把握し、日本の諸勢力から 求請があれば、自ら経典の供出を寺院に求め、収集した経典を大蔵経として 回賜する体制を構築したのである。】 (『十六世紀の日朝通交における大蔵経求請交渉の推移』/押川信久より)中国と地続きの朝鮮半島は、当然日本よりも中国の文化を受け入れるのが早かった。仏教が半島へ伝来したのは4世紀。高句麗・百済と続いて新羅でも6世紀前半には公認されたという。日本でも仏教はしばらくの間は上流階級に独占され、僧侶は国家が管理し庶民への布教が禁じられていたのは天平の歴バナで少し触れた通りだけど、朝鮮半島においてはより国家の理念、護国のものとしての性格が強かったらしい。6世紀後半の統一新羅時代には半島から中国へと渡る僧が続き、統一新羅後半には禅が伝えられた。9世紀ラストあたりからは後三国時代。新羅は滅亡し、10世紀前半に高麗が半島を統一する。この頃には天台が伝えられ上流階級の支持を受け、禅は庶民へ広く浸透するなど仏教が盛んで、11世紀初頭には高麗で最初の一切経の版木が起こされ、元の襲来によってそれが焼失すると13世紀初めに再び版木が作られた。この辺りまでが仏教の時代らしい。高麗の末期頃は天台が堕落するなど支持層からも批判を浴びるようになる。1368年、中国に明が興るとその2年後には朝鮮は明へ朝貢するも、国内では親元派と親明派の対立が起こり、李成桂がクーデターにより政権を掌握。1392年には国王の座に着き、高麗滅亡。李氏朝鮮の時代に入る。義弘が最初に朝鮮交易の使者を送ったのがこの3年後。国家による一切経の管理が崩れてきた頃なんじゃないだろうか。李氏朝鮮では仏教は弾圧され、儒教が国教となる。それでも初期の頃はまだ幾分保護を受けていたようだけど、次第に弾圧は強められ、ウィキペディアによると全国で1万以上あった寺は国家の保護の対象となるものが242寺と定められ、15世紀初めには7宗88寺院となり、のち7宗が2宗派となり、88寺院は36寺院にまで絞られたというから徹底している。一方の日本では、さかんに一切経を求める使者を半島へ送り出した。要するに、もういらないものだから気前よくもらえたんじゃないのかね(笑)。日本からの一切経請求の終わり頃の交渉の内容が記録として残っているようなので、『十六世紀の日朝通交における大蔵経求請交渉の推移』から紹介しましょう。1517年に日本国使臣が朝鮮に向けて一切経を下さいってお願いした時、朝鮮側は「全巻揃ってないんだけど、話は聞いてるよ~」としている。驚いたことに、日本側では一切経を納める経蔵を建てたいので、援助してってお願いまでしているらしい。この時はこれについて様々な議論が行われたらしく、それによると経蔵建立援助のお願いはこれに始まったことではないようで、その都度なにがしかを下賜して援助してやっていたらしい。図々しいにもほどがあるってゆーか・・・そういえば、大内義興さんも亀山八幡宮の修築にカンパを依頼してたっけ。義興さんたらお金持ちのくせに・・・いやいや、金持ちほどセコいって話は現代でもよく聞くしなじゃなくて、初めは時の国王である中宗(在位:1506-44)も援助する気だったらしいのが、家臣から異議を唱える者が出た。その家臣の言い分が興味深い。「なんか~、アイツらとウチとじゃ儒教と仏教に対する考え方に随分差がないッスか?もしアイツらに援助してやればウチが仏教を信奉してるように思われちゃうでしょ~。だから、援助するにしても、名目は変えた方がいいんじゃないッスか?」「だよね~。ウチが儒教を尊んでることは正しいんだし、そういうウチらに仏典を求めるってのは失礼でしょ。そこらへんをアイツらにわからせる必要があるし、これまで援助してきたからって今回も同じにしなきゃならない理由はないんじゃないッスか?」この反対意見を聞いて、中宗の心は揺らいだ。「え~、どうしよっかな・・・ちょっと他にも聞いてみるか」と別の重臣へ下問した。「一切経は過去にも下賜している前例がありますし、我が国では仏教を崇拝していないのだから、一切経を賜給することは構わないでしょう。援助の件については、援助のためではなく請求が丁寧だから、という理由にして与えてやるとよいでしょう。」ところが、中宗は前の家臣の言葉が残っていたのか、一切経の下賜はOK、援助は却下という決定を下した。その20年後、1537年には義興さんの使いが一切経を求めに半島へ渡った。この時の使者は博多聖福寺の僧の可能性が高いという。中宗は、「アイツらが一切経を求めるのは一度や二度じゃないんだし、ウチが仏教を好まないことをわからせてやれば、下賜してもいいけど」とした。これを受けた家臣は、「とにかく今は一切経の所蔵の状況がわからないので、まずは嶺南にあるかないか聞いてみましょう」「そうですな。嶺南の巨刹には必ずあるでしょうから、まず状況を把握してそれから議論しましょうよ」となったが、翌月には「アイツらに一切経を与えてしまうとウチが仏教を信奉してると海外に示すことになっちゃって、これはチョ~恥ずかしいことですよ!!」との反対意見が出た。で、再び下問。「アイツらに一切経を与えてやることはウチが仏教を信奉してるかしてないかには関係ないし、過去からの前例もあるので交流という点から言っても差し支えはないでしょう」「まあ、アイツらが欲しがる一切経は、ウチらの古寺には棄てるべきものがた~くさんありますけどな。どうでしょう、アイツらにはウチは仏教を信仰してないんだから仏典はもうないよって答えた上で、代わりに儒教の経典を与えてやるってのは?」「なるほどね。まあ、ウチはどうせいらないんだからあげちゃってもいいんだけど、一切経はやらずに儒教の経典だけをあげてもアイツらを失望させることはないかもね」と中宗もこれに賛同し、結局「我が国は仏教を信奉していないので、仏典は散逸して完全なものがない。しかし、残っているものを収集して希望に沿うようにしよう。ところで、我が国が重んじているものはこの儒教経典であるから、これを差し上げよう」とすることに話がまとまった。前までは一切経の下賜と経蔵建立の援助の是非が争点だったのが、一切経の下賜の是非に加え、儒教の経典を与えようという方向へスライドしてきている。して、今度は1539年に大内義隆が一切経のおねだりの使者を遣わした。この時は厳島の大願寺の僧が正使だったのが、対馬で船頭とトラブルを起こして職務放棄。代わって副使(これも大願寺の僧)が正使として海を渡ったそうな。元々、大願寺には一切経はあったものの、虫食いや湿気で補修が困難なほどボロボロになっていたようで、だから是非一切経を下さいと切々と訴えたらしい。しかし、その願いもむなしく「近頃我が国ではもっぱら儒教が盛んで仏教を崇拝しなくなったので、仏典は散逸してもはや集められない」とあっさり却下されている。そして、この時をもって日本から朝鮮への一切経の請求は幕を下ろした、という研究結果があるそうな。ふ~む、1539年は天文8年で、頭崎攻めに義隆自ら乗り出す前年だな。(「頭崎城(5)」あたりをご覧ください)義隆が出張ってからはちょいちょい厳島神官・棚守房顕なんかと会ってるからそこでタナモリが懇願したのかとも思ったけど、ちょっと違うみたいだな。ただ、この時の一切経請求についてはタナモリは書き遺してくれてない。前々回、厳島所蔵の一切経を現在では大谷大学が所蔵していることを紹介したけど、この時に大願寺が綺麗な一切経をもらえなかったんなら、大谷大学が所蔵している一切経は虫食いでボロボロのものなんだろうか一切経はもらえなくなってしまったけど、多方面に関心を持った義隆は今度は朝鮮へ儒教の経典などを求めている。これは朝鮮側を喜ばせたようで、驚かれながらもその勉強熱心さを褒められてもいる。その褒められかたが、 【慕学の篤きこと、不覚にも敬嘆せり】 (前掲論文より)だそうで、不覚って・・・↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2014年04月28日

今回はもう少し、大内氏と一切経について詳しく見ていきましょう。どちらもマイナーな話題ですが、興味のない方も理解と関心を深めて頂けると幸いです。前回紹介した解説から、増上寺所蔵の元版の一切経は応永27年(1420)には大内氏の氏寺・興隆寺(山口市)にあったことがわかる。この当時、国内には一切経の版木は存在せず、しかも元版てわかってるんだから、応永27年以前に輸入されたこともわかる。この一切経がどういう経緯を辿ったものなのか少しでも理解したくて、まずは大陸との交易のセンから攻めてみました。仏教は御存じの通り、インド生まれ。それが中国にわたると2世紀後半から漢訳が始まって、11世紀の末まで続いたそうな。漢訳に伴い、経典の真偽判定や収集・分類が進められ、ウィキペディアによると 【これらの衆経ないし三蔵を、北朝の北魏(386~534)で「一切経」と呼び、 南朝の梁(502~557)で「大蔵経」と呼んだといい、隋・唐初に及んで 両者の名称が確立し、写経の書式も1行17字前後と定着した。】 (カッコ内は戦国ジジイが追加)だそうで、日本には天平7年(735)には持ち込まれていたことがわかっている。アシュランが興福寺西金堂に納まった翌年ですね。最初の一切経の刊本は北宋時代。971年~977年にかけて版木が彫られたそうで、これが北宋版と呼ばれる。その後の王朝でも新たな版木が作られたりして、元の時代にも補刻が行われたという。元は、1271年~1368年。鎌倉時代は1185年頃~1333年。鎌倉期にも元との交易はあり、経典の輸入はあったらしい。その後の室町幕府も交易のために元に向けて天竜寺船を出したりしている。この天竜寺船に乗っていたのが、ミワラの佛通寺を開いた愚中周及。天竜寺船には周及も含め約60名もの禅僧が乗り込んでいたものの、結局上陸できたのは11人だけらしい。おそらく、その11人は周及のように(推定)違法な手口を使ったりの大変な努力をしたんだろうし、中には一切経を持ち帰った人もいたかもしれない。ともかく、元が存続している間に元版の一切経が輸入された可能性はある。ただし、元王朝の時代のほとんどを大内氏は地方公務員として過ごしており、鎌倉幕府が滅んでも最初は南朝方だった。ので、元時代に大内氏が自力で元版の一切経を輸入した可能性は低く、ひろよん(大内弘世)が守護デビューを果たしてからそれ以前に輸入された一切経を国内のどこかから手に入れた可能性はあるものの、貴重品である一切経をそう簡単に入手できるとも考えにくい。とすると、元が滅んで以降に手に入れたものか?大内氏が中国との直接貿易をするのは、義興さん(1477~1529)の代になってから。けど、増上寺の一切経は1420年に興隆寺にあったんだから、どうやら直接中国から仕入れたものではないらしい。輸入先が中国でないなら、どこから仕入れたのか?そこで大内氏と古くから関係の深い朝鮮が浮かぶ。永和2年(1376)、大内義弘が石見守護になる。永和3年(1377)、盛見が生まれる。そうか、義弘と盛見って結構年が離れてたんだな・・・じゃなくて、この頃が倭寇による高麗侵入のピークで、はじめ高麗側は室町幕府へ倭寇鎮圧を要請しようとしたのが、役に立たないことがわかったので交渉相手を九州探題である今川了俊に変更した。義弘もこれに協力して兵を出し、倭寇を討伐。翌年には高麗から義弘へ再び鎮圧の要請があり、186人を出したものの大敗して50人ほどしか帰国できなかったという。その後、今川了俊が探題を解任されると、義弘が対高麗の交渉のトップに躍り出て、高麗が朝鮮に変わっても引き続き良好な関係を築いて応永2年(1395)には独自で朝鮮への交易船を出した。これ以前の大内氏の対外貿易は私は知らない。ウィキペディアには義弘は明とも独自に交易したとあるけど、それは私は知らないのでひとまずここでは置いておきます。まあ、地理的な関係で私的な交易はあったのかもしれないけど、それでもせいぜいのところ、ひろよんが防長の守護になって以降の話だと思うし、私的な交易で一切経が手に入れられたのかは疑問がある。色んな意味で、ひろよんの代にはまだそこまでの余裕はなかったんじゃないかとも思うんだけど。義弘の代での朝鮮交易は都合5回。うち、応永3年(1396)には一切経の一部を手に入れている。 【こうした大内氏の立場は、朝鮮王国との間に正式な国交を樹立できないままで いた室町幕府にも利用された。室町幕府第三代将軍足利義光は、大内義弘を 仲介に立てる事で、正式に朝鮮との国交を築く事に初めて成功した。 大内義弘は、いわば朝鮮王国と室町幕府とのパイプ役を果たしたといえる。(中略) 大内氏は、外国に向けられた日本の顔、或いは正面玄関としての役割を担っていたと いえる。このような関係から、朝鮮王国では大内氏の使節(これを朝鮮側では 大内殿使と呼称した)は非常に高いランクで接待された。】 (『大内氏の国際展開』より)こういう立場だったからこそ、個別に一切経を手に入れることができたんじゃないかと思うんだけどね。ともかく、これを機に室町幕府も朝鮮交易に乗り出し、多くの一切経を輸入するに至る。応永6年(1399)に義弘が滅ぼされた後、家督争いを制した盛見は応永10年(1403)から朝鮮交易を再開させる。応永14年(1407)、盛見が朝鮮に一切経を求め応永15年(1408)、一切経の一部を手に入れる。応永16年(1409)、興隆寺に輪蔵を建てて一切経を納める。これ以降もしばらくは毎年のように朝鮮交易を行っていて、大内氏とゆかりの深い寺にはいくつか一切経を所蔵しているところもあるから盛見が数回一切経を輸入した可能性があるけど、問題の応永27年(1420)以前にはっきりと一切経を輸入したことがわかっているのは応永14年の申し入れのみで、しかもそれを興隆寺へ寄進している。大内氏が一切経をいの一番に寄進するのは、やっぱり興隆寺だと思うんだよね。ただ、応永14年までの間、義弘のゲットした一切経はどこにあったんだ?って疑問もあるけど、それはひとまず置いといて、義弘が輸入したのは高麗版の一切経らしい。なんでそれがわかるかってーと、盛見が応永14年に朝鮮に送った文書の控えにあるからです。それによると、先年義弘が賜った高麗の本の不足を補って付け合わせもしてより完全な本にしたいから、中国系の本が欲しいってお願いをしてるっぽい。高麗でも1010年に版木が起こされ、それが焼失した後の1236年に再び版木が造られたそうで、これが高麗版。ということで、盛見が応永16年に興隆寺に納めた一切経は高麗版と中国版とのミックスだった可能性が高い。ただし、数種類ある中国版のうちのどれをもらったのかは不明。ちなみに、増上寺の元版一切経というのも元版の完本ではないらしく、国指定文化財等データベースによると、南宋・元・高麗のミックスらしい。なぜそれを元版というのか・・・食品の成分表示が割合の多い順に表記していくのと同じように、元版部分の割合が多いってことなのかな?応永24年(1417)頃には興隆寺の一切経の供養会が行われたらしい。どういう趣旨で供養会が行われたのかは手持ちの資料からはわからないけど、大内氏の領国内にまだそんなに一切経がゴロゴロあった訳でもないだろうから、この時に2つ目の一切経を興隆寺に寄進したとは考えにくい。う~ん・・・興隆寺のはこれ以上詳しいことはわからんなあ・・・現在も興隆寺に一切経が残っているのかがまずわからないので、思い切って興隆寺の住職様に電話で突撃インタビューを試みようかと思ってたけど、今日は具合が悪くて昼寝してるうちに夕方になってしまったので、それは断念しました。興隆寺の住職様はお優しい方なので、電話でも答えて頂けるかなと思ったんだよね。(興隆寺の訪問記は「山口編(23)」以降をご覧ください)けど、恐らく今の興隆寺では盛見の一切経は所蔵してないと思う。だってもしあれば重文クラスだけど、山口県の指定文化財一覧を見ても載ってないんだもん。であれば、増上寺の元版一切経は義弘の高麗版に盛見が中国版を追加したものだって可能性は十分あるよな。大内氏の領国内の寺社で他に一切経を所蔵していたのは、『大内氏の国際展開』によると永興寺(岩国)、松崎天神(現在の防府天満宮)、それから国清寺(山口市)。ここまでは盛見による寄進だという。永興寺はひろよんのパパ・弘幸の菩提寺。松崎天神は大内家歴代当主も篤く保護し、ひろよんが本堂を再建したり盛見が三重塔を寄進したりと大内家との縁も深い。国清寺は盛見が応永11年(1404)に創建した寺で、盛見の菩提寺となった寺といずれも大内家にゆかりの深い寺社。ただ、史料は残っていないんだろうけど、これ以外にも盛見は一切経をゆかりの寺社へ寄進しているだろうと私は思う。まずは乗福寺。ここは大内家の祖とされる琳聖太子の墓があり、ひろよんとそのじい様の重弘の墓もある。乗福寺の住職は京・南禅寺から迎え、勅願寺となるなど寺格の高い寺だったので一切経を奉納してしかるべきと思われる。けど、1520年に火災で伽藍がことごとく焼失したというので、その時に一切経も燃えちゃったかもしれない。後から義隆が補充したかもしれないけど、大内氏滅亡後は毛利家が乗福寺を解体してしまったので、補充があったとしてもこれまたよそへ流された可能性がある。それから、香積寺(現在の瑠璃光寺)。盛見が非業の死を遂げた兄・義弘のために建てた五重塔内部には一切経が納められていた・・・というか、こちらは現在も2,500冊を所蔵している。が、その瑠璃光寺一切経は江戸期の天和元年(1681)に国内で開版された鉄眼版というもので、瑠璃光寺第23世和尚の発願により納められたものだという。一見、大内氏とは何の関係もなさそうだけど、毛利家が萩に本拠を移して以降、打ち捨てられた都のようだった山口の、しかも大内一族とゆかりの深い寺がいきなり一切経を手に入れたいと思うもんだろうか?それより、元々五重塔には盛見、あるいはその後の持世か教弘が納めた一切経があり、毛利家が香積寺のほとんどを萩に移す際、一切経も持ち去ってしまい、からっぽになった経箱入れを悼んでのちの住職が再び一切経を納めようとしたと考える方が自然なんじゃないのか。ただし、瑠璃光寺の前の一切経の寄進者にはもうひとつの可能性がある。乗福寺と香積寺は何の根拠もない個人的推測ですが、この2つはあってしかるべき寺なので、あながち間違っているとも思いません。で、これらの大内氏領国内の一切経のうち、行き先が明確にわかっているのは国清寺だけ。それでも、大内氏との関連が推測されている一切経はいくつか現存します。次回はその辺を見ていきましょう。そう、まだ続くのよ↓ぽちりとよろしくね~。にほんブログ村
2014年04月27日

思いがけず屋外展示を楽しんだ後で、本日のメインへと向かう。江戸博はちょっと変わった造りをしている。事前にホームページで見たところでは、企画展示室は1Fにあり、レストランやショップも同じく1Fにある。3Fには珍しく無料の休憩所があり、ショップやこの休憩所には入場料ナシで行かれる。上の階が常設展示で、常設展と企画展は別料金とある。だからフツーに1Fから入ってそのまま企画展示室へ行けばいいのかと思ったら、屋外展示のあるこの場所が3Fらしい。少し奥まで行って、チケットを買う。結局今回は特別展だけにしたので、常設展との共通チケットは買わず。どうやって入るのかと思ったら、上と下に行くエスカレーターがあって警備のおじさんが立っていた。私がこれから行く1Fにはショップやレストランもあるのでそのままエスカーに乗れたけど、たぶん常設展行きの上のエスカーに乗るにはチケットを見せるんだろうな。なるほど、こうやって料金を分けてるのか。下へ降りると、開場時間直後の割にぽちぽち人がいた。まずは上着と荷物をロッカーに預けてと。今回はカメラも持ち込む。撮影禁止のようだけど、特別展に行った人で「特別に許可を頂いて写真を撮った」とブログで写真を公開している人がいたので、お願いすれば撮らせてもらえるのか?と淡い期待を抱いていたのだ。で、入口でお姉さんに撮影の件について聞いてみたら「それはどこかの取材じゃないんですか?」と言うので、個人のブログで見たと言ってみたら、あるいは事前に広報に申し込みをしておけば許可が下りるかもしれないということだった。そうか、やっぱりダメか・・・まあ、撮らせてもらった人のブログを見さえしなければ、私だって撮りたいなんて考えはしなかったしね。てことで、企画展示室内部の写真はありません。今回の特別展、『大江戸と洛中』展へは事前のチラシで知ったただ2点の出品物を見るためだけに来たので、どういう趣旨の企画展なのかは全然知らなかった(つか、知ろうとしなかった)で、「ごあいさつ」によると、江戸博は平成25年で開設20年を迎え、去年からその記念として特別展を開いてきたらしいんだけど、今回がその最後の企画になるらしい。サブタイトルは「アジアのなかの都市景観」とあり、アジア全体の中で江戸を見るという一風変わったテーマになっている。日本語では『大江戸と洛中』というタイトルは、英語表記だと「Edo and Kyo」・・・うわあ~、味気ねえ!!日本語っていいなあ・・・と率直に思いましたまず最初は、東海道やら日本の全体図やら世界地図やら、デカい絵図が並ぶ。続いて「アジアの都市は中国の都市づくりの影響を受けている」(図録より)として、中国から京都へつながる系譜というテーマで中国の絵図や北京の都市図など、これまた地図系の展示が並ぶ。中国都市部だとか都城の絵図なんかはなかなか目にする機会もないし、これはこれで貴重なものだとは思うけど、すべてをじっくり丁寧に見るほどの時間と体力は今日のわたくしにはない。ので、地図系は見つつもゆっくりスルー。次が洛中の絵図。京よりも今は江戸が見たいのでこれもゆっくりスルーしたけど、結構詳細な絵図も各種残ってるんだな~と思った。その先が江戸のブース。ここからがわたくしの本番。江戸市中の古い絵図などの他に、江戸城天守の図面もあった。ただし、解説によるとこの図面が実際の天守の姿を伝えているのかは検討を要するとある。これらを見た後、展示室はコの字のように折れ曲がる。そのコの字のつきあたりのガラスケースの中に、大蔵経が2点展示されていた。あ~、一切経ね。もう一切経といえばわたくしの中では大内氏が輸入の第一人者だから、必然的に意識が大内氏に飛んでいく・・・(実際は室町幕府がトップです)まず手前に重要文化財の「宋版大蔵経 付収納箱」。宋版?ならこれも輸入品か。 【古代国家以来、大蔵経は国家権威の源泉と考えられており、大蔵経を関係する 寺院に収蔵することは権力者の責務と意識されていた。】 (解説より)国家権威の源泉?大内氏がはたしてそういう意識を持っていたのかはわからないけど、天平の歴バナの中では金光明最勝王経が大活躍してたしな~。(「春の寛永寺」シリーズをご覧ください)為政者からすれば、確かにそういう視点もあったのかもな~。江戸ブースにいながら、大内氏と天平の頃を思い描いてぼんやりと大蔵経を見つめる。宋版のお隣が「元版大蔵経 付収納箱」。こちらも重要文化財。ぼんやりした目で解説文を読むと、目を見張る文章がそこにあった。 【元時代に制作された木版の大蔵経。折本の体裁をとる。 5418帖のうちに、奥書に応永27年(1420)の年紀と普廣禅院の 所蔵本を書写して氷上寺の欠本を補った旨の記載がある写本が含まれている。 両寺とも周防国守護大内氏ゆかりの寺院であり、本経典が大内氏との関係で 周防国に旧在していたことが推測されている。】ハア!?なんですとぉぉぉぉ~~~~・・・「普廣禅院」はどっかで聞いたことあるような気もするけど、ちょっと思い出せない。後から調べても、結局よくわからなかった。けど、大内ファンが「氷上」と聞けば即座に大内氏の氏寺・興隆寺を考える。「氷上」の名を持つ寺は他にも存在するのかもしれないけど、当時の一切経が超貴重品だったことを考えれば、まんずこの「氷上寺」は興隆寺と考えてほぼ間違いないだろうと思われる。しかも応永27年て盛見の時代じゃん!!来歴がはっきりしてないようだから、かなり控えめな解説になってるけど、盛見の代の元版大蔵経なら、盛見が輸入したものって可能性だってあるんじゃ・・・と思って、帰ってからその辺のことを少し調べてみました。「大江戸と洛中」展の全訪問者数でこの一切経に食いつくのはまず1割にも満たないでしょう。実際、上の解説文を手書きでメモってる間、このケースの前で足を止めたのは真面目な人が軽く解説を読んでちらっと一切経を見た程度で、それでもほんの数人。専門家か仏教に関心のある人か大内バカ(←わたくし)ぐらいしかこれに目を止める人はいないと思われます。が、わずかにでもこれの来歴を推測できないもんかと調べてるうち、結構オドロキの事実も知ることができたので、しばし大内氏と一切経の話におつきあい下さいえ~とまず、中国の「元」は「元寇」でわかるように、日本では鎌倉時代。ので、盛見(1377-1431)とは時代が違います。「大江戸と洛中」展に出品されてた元版の一切経は増上寺の所蔵らしいんだけど、伊豆修善寺にあったものを家康が巻き上げ・・・あやや、入手して増上寺に寄進したと紹介している人がいた。修善寺?大内家の領国から流れ流れて修善寺に辿りついたという可能性もなくはないけど、大内氏と修善寺とは直接の関係は(たぶん)ないので、何かヘンだな・・・と思って修善寺の方を調べてみたら、修善寺のは北条政子が寄進したもので、残念ながらその多くが焼失しているものの、8巻は修善寺に現存しているという。年代的に修善寺の一切経は確かに元版の可能性もある。が、一部が現存してるなら、修善寺説がどこから仕入れたものかは知らないけどわたくしは却下します。 【当時(室町時代)の国内には、大蔵経を完備する寺社が稀であったため、 大蔵経の所蔵は寺社のステイタスの向上に直結した。有力な寺社であれば、 まとまった大蔵経の獲得は悲願であったといっても過言ではない。しかし、 当時の日本には大蔵経を印刷できる版木が存在せず、大蔵経は容易に入手できる 代物ではなかった。】 (『大内氏の国際展開-十四世紀後半~十六世紀前半の山口地域と東アジア世界-』 /伊藤幸司より。カッコ内は戦国ジジイが追加)増上寺の歴史は古い。が、天正年間以前の詳しいことはわかっていないらしく、増上寺が歴史の表舞台に登場するのは家康の入府を待たなければならない。この一切経が元から増上寺の所蔵だった可能性もなくはないけど、一切経が上の論文にあるような貴重品だったことを考えると、徳川家の菩提寺となってその体裁を整えるために家康が寄進したというのが妥当なところだろう。実際、増上寺のホームページでは増上寺が所蔵する宋版・元版・高麗版の3つの一切経は家康が寄進したものだとしている。じゃあ、修善寺でないなら家康はどこから元版を手に入れたのか?解説には【奥書に応永27年(1420)の年紀と普廣禅院の所蔵本を書写して氷上寺の欠本を補った旨の記載がある写本が含まれている】とある。大元の一切経は大内氏の興隆寺にあった。ただ、欠本があったので、普廣禅院が持っていた経をコピーして補った、そういうことだよな。それがなぜ家康へ渡ったのか・・・これはもう、アレしかないでしょう。別にそういう例がありますからね。はい、園城寺(三井寺)の一切経蔵ですよ。(「大津編(17)」~「大津編(19)」を参照)園城寺の一切経とそれを納める輪蔵、そして建物はセットで毛利輝元が寄進した。当時の状況から、政治的な事情での寄進だとわたくしは考える。端的に言ってゴマスリ、良く言っても少しでも状況を有利に進めるためのプレゼント大作戦。増上寺の一切経も、同じくゴマスリで家康にプレゼントされたと見るのが自然だろうと思う。毛利氏は、旧領主であった大内氏の遺産を一部保護はしている。けど、保護よりも利用や破壊している面の方が多いんじゃないだろうか。関ヶ原後、収入は減ったけど、領国に潜在する大内氏の遺産は多くあり、それらをてるは遠慮なく使った。今回偶然知ったんだけど、浅草寺も元版の一切経を所蔵しているらしい。こちらも国の重文。ネットで調べたぐらいじゃ浅草寺の一切経の由来はわからなかったけど、古くから信仰を集めていた寺とはいえ、寺格の点から考えるとこれも徳川家から寄進された可能性が高いと思われる。まさか浅草寺のも大内氏がらみってことはないよな・・・ただ、室町期は一切経の輸入がさかんだったとはいえ、国内にある輸入版は限られてるからね。いくら家康が天下人になったからって、そう簡単にあちこちの寺社から一切経を巻き上げられるもんでもないでしょうし、大内氏の領国内の寺社には数点一切経があったことは確認されてるから、江戸期には大内氏がらみの一切経が最も流しやすかったんじゃないかという気がする。ちなみに、大谷大学にも高麗版の一切経があるらしいが、こちらは元は厳島神社の所蔵だったらしい。厳島から流れた理由はわかっているようなんだけど、あいにくネットではその論文は手に入らなかった・・・が、大谷大学のも厳島という場所柄、大内氏との関連がうかがわれるそうな。にほんブログ村
2014年04月26日

寝て起きたら、尖閣諸島のことが日米共同文書に盛り込まれる見込みという驚きのニュースをやっていて、「ゆんべの寿司はどんだけ美味かったんだ!!」と笑えました。さすが、世界無形文化遺産・・・ところで、握り寿司はここ両国が発祥らしいですよ。今回はすぐ近くを通りながらもその石碑のある場所へは行きませんでしたが、それまでは寿司といえばおもに上方風の押し寿司を指してたようなのが、もっと手早く出せるものをということで、華屋与兵衞さんという人が「握り」を開発したんだそうな。そうか、ファミレスの「華屋与兵衞」はそこから来ていたのか。(けど、直接の関係はないらしい)ただし、現在のような食材をそのまま生で使う握りではなく、「づけ」にしたネタを載せたもの。両国にはこの与兵衞寿司を食べられるお店もある。 ゆんべの歓迎料理が寿司でなかったら、あるいは尖閣のことは盛り込まれなかったカモ・・・まあもちろん、(安倍)晋三君の熱意のたまものだとは思うけど、美味しい寿司がゆんべの晩餐を盛り上げた可能性は大いにあるだろう。帰ってから共同の記者会見を見たら、晋三君が「バラク、君は昨日の寿司が人生で一番美味しいと言ってくれましたね」てなことを言っていたので、「やっぱスシ効果か~!!」と爆笑しました与兵衞寿司の開発から200年経って日米親善に貢献するとは、与兵衞も思ってもみなかっただろう。タイムリーな話題なので、ついでに寿司の話をもう少し。華屋与兵衞は1799年生まれ。つまり19世紀初めに活躍した人で、意外に「握り」の歴史は長くない。色々と職を転々とした与兵衞は、東京湾で獲れる新鮮で豊富な魚介類・・・いわゆる「江戸前」のネタとシャリを握った与兵衞寿司を考案し、これがせっかちな江戸っ子にウケて、与兵衞寿司の完成した文政年間(1818~19)以降、またたく間に江戸に広まった。本所横網(前回の図参照)に生まれた与兵衞は初め岡持ちで売り歩くところからスタートして、屋台を構えるようになり、ついで食のメッカ・本所元町に店を構えるまでになった。その店の最初の屋号が「華屋」なんだそうな。現在ではマグロが人気だけど、当時はマグロの扱いはそもそも低く、生のマグロなんかはさらにネタとしては低いランク付けだったんだと。大トロを有り難がってほおばる現代の私たちを見たら、江戸っ子は顔をしかめるかもしれないな。 【与兵衞が創作した寿司ネタとして、芝海老の「そぼろ」が名高いが、 当時食べる者がおらず、ただも同然だったという芝海老を煮てすり身にし、 砂糖で味付けして寿司にしたところ、好評を博し、おかげで芝海老にも 値がついたという。】 (墨田区観光協会発行『両国物語』より)『両国物語』には再現された江戸期のにぎり寿司の写真が載ってるんだけど、どれも煮しめてあったり醤油の味付けの濃そうなものばかり。まあ、ネタを保存する技術が今とは違うからね。実はわたくし、江戸前の甘じょっぱい味付けが苦手なんです。本所付近の名物といえば真っ先に佃煮が思い浮かぶけど、あれも苦手。どうも私の苦手なすき焼きも、江戸風の味付けということのようですね。だから、再現された与兵衞寿司の写真を見るだけでもう胸がいっぱい・・・ゲフでもちょっと食べてみたくはあるよな。与兵衞は両国出身だから『両国物語』では与兵衞を江戸前寿司の創始者としてるけど、江戸期の江戸には「江戸三鮨」と呼ばれる有名な3つの寿司があり、うち与兵衞寿司と「松がすし」が握りを扱う寿司のようで、ウィキペディアでは「松がすし」を考案した堺屋松五郎と与兵衞が握り寿司の創設者だと紹介している。ちなみに、「松がすし」はかなりの贅沢品だったようでもあり、与兵衞の寿司も当時の倹約令に触れるものだとされて、与兵衞と松五郎はそろって投獄されたこともあるんだそうな。やっぱり入居先は、小伝馬町の牢屋ですかねえ(笑)。さて、江戸博に戻ります。入口はどこじゃ?と歩き始めると、こんな屋外展示があった↓。 あ~、はいはい、汐留(しおどめ)ね。「江戸八百八町に骨が舞う」で巨大遺構があるってちょっと勉強したもんね。どんなものが展示されてるのかと思って覗いてみると、 これは近代の遺構のようだな。 【溶鉱炉 溶鉱炉はレンガを積み上げ、燃焼部の周囲は耐火レンガで組んでいる。燃焼部の 下部は灰落とし部に繋がり、窓が付き、手前には灰を掻き出す一段低い作業場が 設けられていた。5基並ぶ炉は、一番東側が増設されたもので、これらの炉の 底部には燃料を載せるために鉄棒が渡されていた。 鋳物場と溶鉱炉 日本で最初に造られた西洋式溶鉱炉の一部を切り取り、保存した。長方形のレンガ造り 鋳物場の一画に、鋳物を製造する溶鉱炉が設置された。新橋駅構内には鉄道施設を 維持・管理するための技術を、日本人に指導する外国人技師が居住していた。】 (現地解説板より)へえ、新橋にガイジンがねえ・・・他の出土品の展示もある↓。 【溶鉱炉の中や近くから出土した金属製品類 坩堝(るつぼ)は燃焼部中に設置された形で発掘された。溶鉱炉や鋳物場跡からは、 鉄道に関連する金属製品を作る原材料の銅、鉄、インゴット、銅管などが出土 している。】 (現地解説板より)うん?汐留なら江戸期のものを期待したのに、近代がメイン?と思ったら、金属製品類の奥にこんなのがあった↓。 あああ~、これ!!では三択問題です。上の3つのうち、わたくしが食いついたのはどれでしょう?一番手前のはレールみたいだね。で、答えは 【水道管-木樋から鉄管へ- 都市江戸には自然流水を利用した上水道が敷設され、汐留地域には 玉川上水が引き込まれていた。上水は地中に木製の水道管(木樋:もくひ)を つなぎ、上水井戸から水を汲み上げて利用した。明治に入っても玉川上水は 利用され続けたが、木樋は腐蝕しやすいため、ベルギー製鉄管が上水井戸に 接続された。こうした上水は、20世紀に入るまで、改良されつつ利用されていた。】 (現地解説板より) なんで水道管かって、巣鴨の史跡めぐりをした時に千川上水のことを少し勉強したからですよ~。あの時はまだ、墓参りのついでに周辺の史跡を回っただけで江戸に目覚めてはいない頃でしたが、それでも上水の歴史は面白いと思った。都の水道局だかに木樋が保存展示されてるとかいうことを知って、見に行っちゃおうかと思ったくらいだから。結局、その木樋は見に行かないままだったけど、こんなとこで木樋の現物にお目にかかれるなんてラッキー!!江戸博に展示されてる木樋の先端部分はこんな風になっていた↓。 うん、こーゆーのをつなぎ合わせて分水したりするんだな。水道管ゲーム木樋バージョンなんてあったら、歴史ファンは喜ぶんじゃないだろうか(私だけ?)ここには御親切に、発掘現場の写真も展示されている↓。 おおお~、すごい!!感動的な光景に、思わず食い入るように写真を見た。すげえな、汐留・・・こんなのが地下にわんさと埋もれてんのか。これって今はどうなってるんだろう?一部をよそへ移して、あとは破壊されちゃってるのかな・・・ま、とにかくこの写真に写ってる木樋を通った水を伊達か脇坂か保科のどなたかのお大名が飲んだかもしれないってことだな。明暦の大火以降は、汐留へ上屋敷を移したらしいからね。他にも、こんなのがありました↓。 【仙台藩船着場(大名屋敷の船着場 仙台藩地区検出) 浅瀬を埋め立てて作られた藩邸は、石垣の堀に囲まれ、領国からの船が 直接乗り入れられる船着場も作られた。石垣を積み上げる技術は戦国時代末から 発達し、江戸市中の掘割も、石垣で構築されていた。江戸時代前半には大規模 だった船着場は、領国からの物資運搬船の需要が減少したためか、次第に その範囲を縮小し、幕末にはとても小規模になった。】 (現地解説板より)側面から石垣を覗くと、そこそこ奥行も取られており裏側の方はくさびのような形をしている。しかもここの石垣は裏込め付き。 こちらの現場写真も感動モノ。こんなのを壊しちゃうなんて、勿体ないな にほんブログ村
2014年04月24日

「やっと上野編再開したと思ったら、また中断!?ジジイ、え~かげんにせ~よ!!」」 ・・・へえ、お叱りはごもっともどす。早く上野編を終わらせたいと言いながら、4本目の短編挿入・・・でもね、どの短編もみんな寛永寺が絡んでるんですよ。正月の「ケージョー」では根本中堂と上野東照宮に行き、「春の寛永寺」では特別公開の宮のお庭を見に行き、建仁寺の出稼ぎ展も(終わりかけてたけど)両大師の宮の桜を見て・・・ね?ちょっと天平の歴バナは長引きましたが、ひたすら寛永寺を書き続けてるんです。もう半年越えそうです(笑)。で、今回は寛永寺ではありませんが、上野編の歴バナで書いたことが関係してきます。きっかけは先々週のトーハクの建仁寺展を見終えて何気に手に取った1枚のチラシ↓。 これにびっくりするようなものが出品されてることを知ったので、これはもう行くしかない!!と先週の土曜日(4/19)に行って参りました。会期が来月上旬まであるので、この記事が近郊の方のご参考にでもなれば、と思ってあえてここで先週のお出かけ報告をさせていただきます。なるべく早く上野編に戻りたいとは思っているものの、今回は軽い歴バナも入りそうなので、更新頻度にもよりますが、今月いっぱいじゃ終わらないかもしれないな。毎度のことですが、気長にお付き合いいただけると嬉しいです今回のタイトルの「Wデビュー」のうちの1つは、「大江戸と洛中」展の開催される江戸東京博物館、通称江戸博。江戸博ができた時、日本史に興味のない頃だったので正直言ってあまり長く続かないんじゃないかと思ったんだよねしかし、戦国ジジイになって以降は何度か行きたいと思わせた企画展もあったものの、忙しかったりで行けずじまい。それが去年、江戸に目覚めてからは「おお、さすがにいいものやるな~」と思うようになったんだから、人間変わるもんです(笑)。それでも、体調の関係などでなかなか行かれなかったのが、今回ようやく江戸博デビューを果たすことができました。近場で手早く切り上げる(予定)とはいえ、2週続けてのお出かけはキツイ・・・GWも迫ってるけど、そんな時期は人も多そうだし、GWは他に行きたいと思ってたところがあるので、なるべく連休は空けておきたかったんだよね。江戸博は常設展ももちろん江戸関係で興味深いものがあるけど、企画展の後に常設展を見るのは体力的にキビシイしかし、デジタルライブラリーなるものもあってこちらもそそられる内容のものが色々あったので、企画展の後で少しそれらを見てから帰ろうと考えたあとで、この辺て何か史跡があるのかな?と思って正月にトーハクで買った資料を見たら、あるわあるわ・・・この辺、ヤバイつか、江戸ってのはその気になりさえすればすぐに行けちゃうので、ホントにヤバイてな訳で、デジタルライブラリーは今後のお楽しみとして、周辺の史跡めぐりに変更しました。いちおう、早く帰る予定でね。江戸博は両国にあるので実質的には両国デビューなんですが、あえてタイトルは「本所」(ほんじょ)としました。本所って、時代劇とか色んなもので耳にはするけど、どの辺とかこれまで考えたことはなかった。駅名では「本所吾妻橋」とかあるから、だいたい隅田川周辺の水っぽい地域かな~と漠然と思っていたら、ウィキペディアによると本所地域はおおむねこの辺りを言うそうです↓。 位置などは大ざっぱですが、地名は現在の町名、赤のアンダーラインを引いたところが本所地域のようです。距離的には千葉に近いエリアにも関わらず、柏からだと乗り換えが多かったりするので、あんまり好きじゃない・・・とゆーか、かなり馴染みのないエリア。特に、都営新宿線なんかは使いづらくって苦手意識があるので、位置関係なんかは全然把握してなくて、そうか錦糸町ってこんな場所にあったのかと今回始めて知りました(←バカ)。うちから車で西の方に行く場合は、国道6号をさかのぼって首都高に入り、隅田川沿いを走る向島線が国技館のすぐそばを通るので、国技館のあの屋根が見えて「ああ、両国か~」って通過する、ただそれっぽっちの縁でした。が、今回地図を見てるうち、なんだか懐かしいような気がしてきた。おっかしいな~、行ったことないのに、何でこんな気持ちになるんだろう・・・両国には明暦の大火ゆかりの寺もあるので、ああ、私ってば明暦の大火で死んだのかもしれないな~と相変わらず前世に結び付けて妄想してたら、実は母方のおばあちゃんは本所の出身だったらしい。そっか、じゃあおばあちゃんの血が騒いでるのかもしれないな~と1人で納得・・・(笑)。現在では本所という地名はごく限られたエリアですが、それ以外の旧本所地域でも何気に「本所」の名称が冠せられていたりするし、江戸にタイムスリップしてこの辺を紹介するにあたっては本所の方が何か雰囲気あるよな~と思った次第です。ちなみに、上の図で江東橋の下に「毛利」という地名がありますね。こんなとこに毛利の地名があることは初めて知ったので、毛利なんてそんなにある名前じゃないし、これはかつて毛利屋敷があったところに違いない!!と思って手持ちの地図を見てもどこにも毛利家の屋敷があったなんて書いてない・・・後から知ったんですが、この地には確かに「毛利さん」がいたようではあるけど、どうも商人ぽい・・・あるいは安芸の毛利さんの血も入ってるのかもしれないけど、詳しいことはわからない。とにかく事前の調べでは安芸の毛利さん絡みの地名ではなさそうだったので、今回は両国に絞って歩くことにしました。もちろん、これが毛利家の屋敷跡とかってんだったら当然そちらへ足を延ばしたんだけどね。さて、「両国」という地名ですが、ここはいちおう江戸市中です。家康の入府以来、江戸城を中心としてじわじわと江戸の範囲も拡大していきましたが、大川(現在の隅田川)を挟んで東にある本所は、新興住宅地だったようですね。江戸の町は7割が武家の土地で、武家町と町人町は厳格に区切りがあったことを「新春はケージョーから(3)」でちろりと紹介してますが、江戸城の近くは当然のことながら広い範囲で武家と町人がぱっきり分けられている。が、本所は後から広がっていった町のせいなのか、割に武家と町人が混在している。これはちょっと意外だった。ただ、江戸市中とは言いながら、大川の東側は古くは下総国だったそうな。江戸は武蔵国。のちには本所も武蔵国に組み込まれたらしいんだけど、大川に接する両国は国境にあたるので、そこから「両国」の地名が生まれたようですね。とは言っても、本所に住宅地が開拓された当時から両国の地名があった訳でもないようで、これも明暦の大火と関係があるようです。あれこれ前置きが長くなりましたが、ここから旅日記に入ります。こんな調子じゃやっぱり今月中には終わらんな、このシリーズ両国へ行くにはいくつかのルートがあるけど、秋葉原で総武線に乗り換えるのはキライなので、初めて大江戸線に乗って両国へ向かいました。今日からはるばる太平洋を越えてオバマさんがいらしてますが、すでにお出かけの前日の4月18日から都内は厳重警戒態勢に入っており、上野にもおまわりさんが立ってたし、乗り換えの時にも警備の人を見た。要人警護も大変だな~。江戸博は大江戸線の両国駅を降りてすぐの場所にあります。地下鉄から地上に上がると、スカイツリーが見えます↓。 両国なら近いからもっとデカくスカイツリーが見えるかと思ってた・・・江戸はその昔は世界最大級の都市。「江戸」と言われて思い浮かべるイメージは人それぞれだと思うけど、町人で賑わった下町の本所界隈は、ある意味最もお江戸らしいエリア。なにも江戸情緒を残す本所にスカイツリーなんか建てんでも・・・と思うのはわたくしだけじゃないだろう。せめて駅名は「業平橋」のままにして欲しかったよな。まあ、観光客には「スカイツリー駅」の方がわかりやすいだろうけど。さて、こちらが江戸博への入口↓。 この階段を上がると、こんな広々とした空間が広がる↓。 うわあ~、すごっ!!かなりデカい建物だと聞いてはいたけど、相当な床面積があるな。上の撮影地点からちょっと進むと、正面に大相撲でお馴染み、両国国技館の屋根が見えます↓。 今は東から西を見てますが、北側には学校が2つあり、その奥には横網町公園がある。そこまでの一帯には、かつて幕府の御竹蔵がありました。文字通り竹材を保管する場所だったようで、のちに米蔵になったようですが、今見ている範囲だけでもかなりのものだから、相当大きかったことがわかります。でね、土地の利用には時代によって変遷があるものの、驚いたことに現在も御竹蔵時代の地割を残してるんですよ。だから、現在の御竹蔵の住人は公園と学校と江戸博、そして国技館ということになります。にほんブログ村
2014年04月23日

諫鼓鶏の反対側、もう1枚の彫刻がこちら↓。 これの内側の写真、撮ってませんたぶん質問するおじさんが邪魔で撮れなかったんだな。でも鳥らしきものが見えるので、諫鼓鶏の遊び相手かもしれない。 ↑この花も前回と同じく遠目には白蝶貝っぽく見えるけど、さすがにこれだけデカいと拡大してようやく白蝶貝ではないらしいことがわかる。唐門の外側にあった昇り龍は内側にもあります↓。 反対側にももう一対あったんだけど、これもおじさんが邪魔で(笑)。また今度ね。 じゃっ、透塀に戻ります。 ↑これはカメのようだけど、耳があるし長い尾があるから、玄武かな。 社殿の向かって左側は奥の透塀まで見られたけど、右側は途中までしか行かれないようになっているので、今回はここまで。チラシにある透塀の解説も載せておきますか。 【1651年建築。国指定重要文化財。格子の向こうが見えることからこの名が あります。上下にある彫刻は上欄には野山の動物・植物、下欄には川や海の 動物・植物が生き生きと表現されています。想像上の動物や貝などの珍しい 彫刻もあり、ゆっくりご覧になっても飽きることがないでしょう。】飽きるどころか、半泣きです(笑)。東照宮や徳川家にゆかりの深い寺の撮影は、体力と気力が勝負です。まあ、全国に東照宮は結構あるけど、規模の小さなものがほとんどだしこれだけの彫刻を具えたところは限られてくるので、大変ではあるけど頑張らざるを得ません。ただ、日光写真館を始めてなかったら、ここまで撮ろうとは思わなかったかもしれないけどね。ところで、上野東照宮の透塀にはかつて300枚ほどの彫刻があったそうな。それが、今は250枚ほど・・・残り50枚はどこへ行ったのか?これね、先の大戦後に進駐軍が来た際、アメリカ様がみやげに持ち帰っちゃったらしいんですよ。それは後から知ったので、彫刻のない部分には気がつかなかったんだけど、持ち去られた彫刻は今はどうなっているんでしょう。遠い異国の地であっても、1枚でも多くの貴重な彫刻が現存していることを願うばかりです。さて、お帰りはこちらどす↓。 この門をくぐると、第二編でいじましく門の外から眺めていた松平信綱の灯籠の場所に出る↓。 間近でもう一度銘を確認しましたが、2基とも智恵伊豆の灯籠に間違いありませんでした。灯籠の後ろにある透塀の彫刻を2、3撮ってから有料エリアともお別れです。 え~と、こんな図を作ったことをすっかり忘れてましたが(笑)、5と9の灯籠が有料エリアにある灯籠群です。 現在の上野東照宮は、往時に比べるとかなり規模が縮小されている。御神域は今では唐門とそれにつながる透塀に囲まれたエリアに相当すると思われるが、かつてはもう少し広く、現在狛犬がおわす手前あたりに勅額門があり、その先が聖域だった。そして、阿部重次さんの水盤舎も聖域の中にあった。エリア7からは、フェンス越しに五重塔が見える↓。 現在、この五重塔は上野東照宮の敷地にはない。が、もちろんかつては上野東照宮の境内にあったもので、ちょうど参道をはさんだ真向かいのエリア2、今はぼたん苑になってる場所に東照大権現の本地仏である薬師如来を祀る薬師堂があった。参道も今とは少し違っており、正面の参道の他にこの薬師堂へ通じる迂回ルートのような参道もあったらしい。大鳥居をくぐって外に出て右手に進むと、草むらの中にこれがある↓。 【佐久間大膳亮勝之が東照宮に寄進した石造の燈籠で、 奉寄進佐久間大膳亮平朝臣勝之 東照大権現御宝前石燈籠 寛永八年辛未孟冬十七日 と刻字し、寄進者・寄進年月を知ることができる。寛永8年(1631)当時、 東照宮は創建して間もなく、社頭には、現存の大鳥居・銅燈籠・石燈龍などは、 まだわずかしか奉納されていなかった。勝之は他にさきがけて、この燈籠を 寄進したのである。 勝之は、織田信長の武将佐久間盛次の四男。母は猛将柴田勝家の姉という。 信長・北条氏政・豊臣秀吉、のち徳川家康に仕え、信濃国川中島ほかで1万8千石を 領した。燈龍の大きさは、高さ6.06メートル、笠石の周囲3.63メートルと 巨大で、その大きさゆえに「お化け燈籠」と呼ぶ。京都南禅寺・名古屋熱田神宮の 大燈籠とともに、日本三大燈龍に数えられる。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)上野東照宮の始まりについては「上野第二編(66)」で書いてますが、スタートの時期ははっきりしていない。が、佐久間勝之の灯籠の日付が寛永8年なので、慶安4年(1651)の家光によるリニューアル以前から上野東照宮が公的な性格を帯びていたことがうかがえる。この灯籠、「お化け」というだけあってデカいです。柵の中にあって近寄れないようになってるんだけど、離れた場所からでも相当デカいのがわかります。で、上野東照宮へ奉納された灯籠にも関わらずこれだけがぽつんと辺鄙な草むらの中にある。あまりにデカすぎて邪魔だからこんな場所にどかされたのかとも思ったけど、これについて考察されている方がいて、それによるとどうやらこの場所はかつて存在した薬師堂への迂回ルートの近くのようなのだ。もし、元からこの場所にあったんだとすれば、この辺鄙さが逆にかつての境内をしのぶよすがとなるのかもしれない。にほんブログ村
2014年04月21日

お食事ちう~。てか、何食べてんの、これ?↓ これは相当お気に入りです↓。なんて可愛いバンビちゃんなんざましょ!! ↑おお、カメだよ、カメ!!(←カメ好き)この後ろ足見てよ、ちゃんと波の間を泳いでるよ ↑こちらはだいぶ後ろの葉っぱと色が一体化しちゃってるけど、カマキリだと思われます。こっちにも↓。 いやあ、噂には聞いてたけど、色々いるなあ。 ↑これは花が綺麗だなと思って。白蝶貝を使ってるのかとも思ってよく覗きこんでみたけど、ちょっとわからなかった。上野東照宮の透塀の彫刻は、カラフルではあるけど全体的にトーンが落ち着いてて、特に水色の使い方が絶妙だなと思った。彫刻自体は大きくはなくても、これだけの量の白蝶貝を使うのは相当大変だろうから、この花も彩色の勝利なのかもしれない。 おっ、うさぴょん!アナタもいたんですか この辺でようやく社殿の正面側まで来ました。 【1651年建築。国指定重要文化財。参道側から、拝殿、幣殿(石の間)、 本殿の三つの部屋からなる、いわゆる権現造りです。金箔がふんだんに使用 されていることから、金色殿とも言われます。 拝殿の正面中央にある「東照宮」額は後水尾天皇の真筆で純金。壁画は狩野探幽の 作で、桃山期の画風の華麗なものです。幣殿は、江戸時代には将軍家しか入れなかった 部屋で、松に鷹、鳳凰に牡丹の彫刻や狩野派の壁画がございます。本殿は非公開。 家康公、吉宗公、慶喜公、寒松院(藤堂高虎)、天海僧正の御神体が安置されて おります。】 (チラシより)黒と金でシックな感じ。東照宮とはいっても、家光の大猷院を彷彿とさせる造りだな。以前は昇殿までできたようなんですが、ご覧の通り閉められているので今回は外観を見るだけみたい。後水尾天皇の勅額も中にあるようで見られなかったし。いずれ、昇殿も再開してくれるといいな。 おお、鳳凰だ、ほーおー!あ~、ネット邪魔~ ↑扉には輪法紋がびっちり。拝殿の正面上部↓。華やかだなあ~。 ↑歯が綺麗でうらやましいね。 正面の蟇股。なんてアヤしい目つき・・・↓ で、このまま振り返るとそこが唐門の内側です。が、監視のお姉さんにおじさんおばさんが色々質問して門の前にいたので、門の全景は撮ってません。けど、ここもすごいッス。 あれ、こんな写真、以前も載せたなあ・・・(「上野第二編(67)」参照)おかしいな、内部に入ったのは第四編が初めてなんだけど、今度行ったら唐門の外側をもう一度よく見てこよう。上記リンク先に載せた上野東照宮の解説には総金箔の門だとあるのに、金は一部にしか使われてない・・・透塀の方も、当初はどうも金箔が使われてたらしいんだけど、予算の関係で下地漆塗りだとかなんとか・・・維持管理も大変だよね。唐門と内側にある控柱の間には大きな彫刻がありまして、これがまたすごい↓。 真ん中にある三つ巴は、陣太鼓かな?日光東照宮の数々の意匠は平和な時代の訪れを象徴するものだという解説がよく見られますが、個人的にはあまりそういう解説は好きじゃない・・・というか、どうもしっくり来ない部分がある。けど、陣太鼓なんてこの場に似つかわしくないアイテムをわざわざ入れた上で松などのゴテゴテした装飾に埋もれるように造っているのは、何らかの意図がありそう・・・単純に考えるなら、戦を象徴する陣太鼓を木花に埋もれさせることで戦国の世の終わりを表現している、ってところだろうか。それに、陣太鼓の後ろにあるヒラヒラ・・・これってたぶん、アレだよな~と思って裏側へ廻ってみるとこうなってました↓。 やっぱ、鳥か。ただ、私は鳳凰じゃないかと思ったんだけどね。ニワトリ?こういう尾っぽの長いやつって何て言うんだっけ・・・まあでも、意味としては平和の象徴ってことだろうな。帰ってから少し調べてみると、おそらくこれは陣太鼓じゃなく諫鼓(かんこ)だと思われた。 【諫鼓とは、中国の伝説で、人民が天子に諫言をするときに打ち鳴らしたとされる 太鼓のことである。諫鼓鶏とは、その諫鼓の上に鶏が止まっている、すなわち 諫鼓を打つ必要がないような善政が行われていることの寓意である。】 (ウィキペディアの桂離宮の項より)桂離宮には、崇伝の扁額があるらしい・・・じゃなくて、上の解説を補足すると、古代中国での伝説の聖王とされる堯・舜・禹が目安箱よろしく「政治に不満があったらこれを鳴らしてね~」と朝廷の門の外に置いたのが諫鼓らしく、ただ三王は善政を敷いたので諫鼓は一度も鳴らされることはなく、そのうちに諫鼓は苔むして鳥の遊び場になったんだそうな。つまりは善政の象徴であり、天下泰平をあらわすということらしい。なるほど~、現地には解説は何もないけど、この故事をもとに造られてると思って間違いないだろうな。陣太鼓でも鳳凰でもなかったけど、私の素朴な推測はまずまずのセンを行っていたらしいそれで、諫鼓の上で遊ぶのが諫鼓鶏。え、「閑古鳥」の語源てコレなの!?と思ったら、いちおう閑古鳥はカッコウのことだし、使い方も御存じの通り「閑古鳥が鳴く」で人が集まらずにさびしい様子だとか、客の入らない店などを指すことに限定されているようではある。けど、平和な時代が長く続けば武人にとっては商売上がったりだし、諫鼓鶏が転じて閑古鳥になったって可能性もありそうな気もするけどな。にほんブログ村
2014年04月20日

透塀の続き。 部分拡大↓。 これも部分拡大↓。 通路側の彫刻はとりあえずこれで打ち止め。ここから中に入る↓。 入ると真ん前に金ピカの社殿がばーんと・・・ まだ工事は完全に終わったんじゃないみたいだな。このまま社殿の撮影に移りたいのはヤマヤマだけど、透塀の内側を見ると、嬉しい悲鳴どころじゃないくらい、社殿側にもた~くさんの彫刻が・・・今日は全部写すのは無理だな。全体でいうとやっぱり鳥さんの彫刻が多いから、ここからは鳥以外の彫刻を中心に写すことにした。 貝だ・・・ホタテ?(笑) それぞれに個性と表情が豊かで、実に可愛らしい。さすがに寛永寺上野東照宮本殿の透塀だけあって、日光の御仮殿とは格が違うな。御仮殿も、あれはあれで良かったんだけどね。透塀は花ばっかりでちょっと地味だったけど、社殿なんかは良かったよ。ただ、仮は仮だからね。それに、上野の方は場所柄、江戸詰めの大名たちも参詣に来ただろうし、さすがの造りというカンジ。 おっ、ねずっち!指先まで、実にリアルに造られている。黒の方はちゃんと歯が見えてるし。 ↑黒ねず君と白ねず君の間にあるのは、瓜かな?よく色んなデザインを考えるもんだよな。 ↑これは貝です。手ヌキしてちょっとかがんだだけで撮ったので映りがイマイチどす。ここは上と下とに彫刻があるんです。 鳥は抜かそうと思いながらも、こんな迫力あるのはやはりカメラを向けたくなります↓。 まるでおしゃべりに花を咲かせているようなこのメジロ三兄弟はあまりに可愛らしいので何枚も撮ったものの、どうもボケてしまって結局これが精一杯でした↓。 ↑おお、ナマズじゃねえの!こんなのまであるんだ・・・ ↑え~と、何だろこれ・・・サザエ?ちょっと違う?一旦透塀から離脱して、後ろの社殿をば・・・ 上の方はネットがかけてあるので鮮明に撮れないのが残念です。 ネットがかけてなければもちろん蟇股とその周りを撮るところですが、この時はこれ以上は断念して、一度入口付近まで戻りました。 して、大好きな床下~。こんなところにまで斗栱と蟇股があるぞ↓。 キンキンキラキラ、キラキラポールキラキラポールは主婦の友~・・・ってCMが昔あったよなあ。手前の用水桶の水面も金色に輝いておる。ふたたび透塀に戻ります。 にほんブログ村
2014年04月19日

阿部忠秋さんの灯籠の後ろにはデカい木がある↓。 【大楠(旧天然記念物) 周囲約8メートル、高さ約25メートル、樹令5・600年で上野公園の 祖木である。根本はコンクリートで固めてある。】 (現地解説板より)上野東照宮のチラシによると、上野公園一のデカさらしい。まだ灯籠は続きます。 【奉献 石灯籠二基 東照宮 御寶前 慶安四年辛卯暦四月十七日 大聖寺侍従兼飛騨守菅原朝臣利治】「菅原利治」で検索すると、誰だかわからない・・・が、どうやらこれは前田利常の三男の前田利治のことらしい。前田利家の孫にあたる方ね。加賀大聖寺藩の初代藩主。菅原家に養子に行ったとかいう経歴でもなさそうなのになんで菅原なのかと思ったら、前田氏の本姓って菅原なのね。初めて知ったあ~。てか、ここって別に幕臣エリアじゃないのか。利治さんは鉱山開発に力を入れたらしく、領内に金山や銀山を発見したんだと。 【この鉱山開発の途上で見つかった良質の陶土と、利治が茶人であったことが、 後の九谷焼の生産に結びついた。】 (ウィキペディアより)へ~、久谷焼・・・ 【東照宮 寶前 慶安四年辛卯四月十七日 四品毛利和泉守大江光廣】お?毛利さんがこんなとこにも・・・毛利元就の4男・穂井田元清さんの子が秀元様。その秀元様の子が光廣さん。ので、元就のひ孫。長門長府藩2代藩主。この方は慶安3年(1650)に父の跡を継いだが、その3年後には亡くなったらしい。藩主在任期間が短いので影は薄いのかもしれないけど、ちょうど家光が上野東照宮を建てた時期だったためにこんなところに光廣さんの生きた証が残っている。ところで、光廣さんの灯籠の後ろにも灯籠が写ってますが、全部撮りたいのはヤマヤマだけど、ちょっと今日は無理だあ~。まだ他にも撮らなきゃいけないのが山ほどある。ので、次回入れる機会があればまた撮ってきます。 【東叡山 東照宮 寶前 慶安三年辛寅戴十一月十七日 従四位下源朝臣石川主殿頭忠総】 アレ?なにこの日付?ここまで見てきた灯籠の日付はほとんどが上野東照宮落慶の慶安4年4月17日。「上野第二編(39)」で境内の解説版の文章を載せてますが、多少日付にバラつきはあるものの、みんな慶安4年以降だってあるのになあ・・・ああ、でもこれ、銅灯籠限定か。17日なら間違いなく東照宮への奉納品だし(家康の命日だから)、東叡山東照宮ってあるから、確かに上野東照宮へ奉納されたものってことだよな。落慶より5ヵ月も早い。まだ上野東照宮はリニューアル工事中だったと思うのに、なんでこんな日付にしたろう?で、石川忠総。この方はあの大久保忠隣(ただちか)の子らしい。戦国武将・石川数正の叔父にあたる石川家成の養子となって美濃大垣藩主を継ぎ、最後には膳所藩主を務めたと。慶安3年12月24日に亡くなったというから、亡くなる直前にこの灯籠を業者に発注したってことかな。てか、石灯籠の納期ってどのくらいかかるんだろう・・・まあ、1基や2基の話だったらそう時間はかからないのかもしれないけど、東照宮を始めとする霊廟への奉納品の場合は、諸大名から同時に大量の注文が入ったでしょうから、「御予約はお早目に」だったのかもしれないな。銅灯籠の場合はもっと時間がかかるでしょうね。ここまでが通路に面した灯籠群。その奥には小さなお宮がある↓。 【栄誉権現 四国八百八狸の総帥。奉献された大奥で暴れ追放後、大名、旗本諸家を潰し、 大正年間本宮に奉献された悪業狸。他を抜く(たぬき)強運開祖として 信仰が厚い。縁起日は五の日。】 (現地解説板より)東照宮のチラシの方にはこんな風に書かれている。 【「お狸さま」と親しまれております。江戸時代、大奥など安置される各所で 災いをもたらし、大正年間に東照宮に寄贈されました。それから災いがなくなったと いわれております。現在は、他を抜く、狸という縁起から受験の神様として 人気があります。】上野東照宮には、このお狸さまの絵馬がある。「他抜き」祈願をしたい方は、この珍しい狸の絵馬に願掛けしてみてはいかがでしょう。しかし、一体どんな悪さをしたんだか知りたいもんだな。 これが栄誉権現の社殿。小さいけどなかなか風格がある。パンパンした後でふと周りを見渡すと、左手のフェンスの外側にはなかば埋もれたような灯籠がいくつかあった↓。 いちばん手前の灯籠だけ、銘をズームしてみたけど、【北條出羽守平】までしか読めない。なんでこんなさびしいところに置いておくんだろう・・・以上で通路の左側はひとまず終わり。しかし、ここからがわたくしの本番です。なぜって、通路の右側には長い透塀が続いてるからですよ。日光写真館をご覧になった方は、わたくしの透塀紹介が大量の写真を伴うものであることを御存じでしょう入る前に心のふんどしをきゅきゅっときつく締め直したのは、そのためです。それにここの透塀には、変わった彫刻も色々あるってことを先人の訪問記で知っていたのでね。できれば全部撮りたいんだけど、時間が足りるかどうか・・・では、入口に近い方から順に。 奥へ進むまでに灯籠も撮りながらだったので、一部抜けてるものもあります。この辺は栄誉権現に近いあたりです↓。 あ、いたいたチョウチョさん。日光の御仮殿では全体を写したけど、こうやって彫刻の主役をアップにするのもいいよな。 ひとつひとつの彫刻はそう大きくはないんだけど、実に細かい。 ↓ぽちりと応援よろしくね。にほんブログ村
2014年04月18日

さて、それじゃ写真をバンバンガンガン行きますかね~。松平信綱の灯籠の後ろにある、透塀の彫刻↓。 遠目からでも、実に見事・・・あ~、近くで見たかったなあ(←しつこい)。向かって右側のエリアを終えて、唐門前へ戻ろうとしたら敷石に目が行った↓。 なんだコレ・・・かつてここに小さな建物でもあったのかな?だいぶ前の記事で、参道の石の敷き方が綺麗じゃないと書いたけど、どうやらやっぱり参道にも手が入れられてて、一部参道の付け替えなんかもあったようなんだよね。まあでも、手入れした後にわざわざこんなの造るハズはないから、ここだけはかつての面影を残しているのかもしれない。 今度は唐門の向かって左側。ここには右側エリアで紹介した御三家の銅灯籠の片割れが並べられている。 上から順に紀伊頼宣・水戸頼房・尾張光義。水戸頼房の灯籠なんかは、笠に付いてる龍が一体しか残っていない・・・どんな苦難の歴史があったんだろうか。 第二編ではこれで東照宮は終わりにしました。第三編は補足の写真を撮りに来たけど、やっぱり内部の拝観はできませんでした。そして正月の第四編。 この時はぼたん苑を観に来たので、パンパンして社務所を覗いてみるとなんとこれまで無情に閉められていた拝観入口の戸が開いてるじゃありませんか~!! うお、マジラッキー。根本中堂の素晴らしい仏像群にチョ~満足したからぼたん苑行かなくてもいいかな・・・とも思ったんだけど、 来てよかったあ~しかし、もう15:30・・・冬は早く閉めるかもしれないから、あと1時間ぐらいしかない。フツーの人なら、そう大きな社殿でもないし1時間もいないでしょうが、わたくしには1時間じゃ明らかにキツイ。しかし、今後はいつでも拝観可なのか、はたまた正月だから特別なのかもわからないので、入れる時に頑張って撮っておかないとな。心のふんどしをきつく締め直して、入口でお金を払っていざ有料エリアへ。よお~っし、頑張るぞお~ 入るとすぐの場所に何やら貼り紙があった↓。 いいっすいいっす、トイレ我慢するのは慣れてます(笑)。さらにこんなのも↓。 酩酊状態の方か・・・アハハ、面白いな。入口を入るとすぐ右に折れる。透塀沿いに奥まで進んでいけってことらしい。 ここにもこんなに灯籠が・・・あ~、チョ~幸せ!しかし、浸ってばかりもいられません。てことで、まずはここの灯籠群からご紹介しましょう。 【奉献 石灯籠両基 武州東叡山 東照宮寶前 慶安四年四月十七日 従四位下行侍従兼河内守源姓酒井氏忠清】上野厩橋藩第4代藩主。もとは家光付きだったが、家光の死後も生きた松平信綱や阿部忠秋(前回参照)、それから後見の保科正之らとともに、4代将軍・家綱を支えた。のち大老に就任し、彼らが先に世を去ると権力は忠清に集中したのであまり良く書かれないらしい。そういえば、家綱の霊廟勅額門の解説にも家綱後半の治世での有名人として忠清の名前が挙げられてたな。ウィキペディアによると、すげえ早口の人だったらしい 【東照宮 尊前 慶安四年辛卯猛夏十七日 従四位下侍従兼堀田加賀守紀朝臣正盛】武蔵川越⇒信濃松本⇒下総佐倉藩主。智恵伊豆、阿部忠秋、阿部重次らとともに家光の六人衆。お福(春日局)のダンナ、稲葉正成は前妻との間に子があった。そのうちの女子が堀田さんちに嫁いで生まれたのが正盛。お福が家光の乳母を務めた関係か、家光の近習に取り立てられてスピード出世をした。ウィキペディアには 【正盛の出世は継祖母が春日局であったことを考慮に入れても異常な早さで、 家光と正盛は男色関係にあったと見るのが有力である。殉死は、主君と男色関係に あって異例の立身をした者の義務であるからだと言い伝えられている。】とある。真偽はわからないけど、家光は女より男の方が好きだったとかいう話もあるしね。家光に殉死し、同じく殉死した阿部重次とともに寛永寺現龍院に墓がある。ただ、ウィキペディアには正盛の墓所は品川だってあるけどね。第二編での現龍院のお目当てはこの殉死組2人の墓参りだったけど、現龍院を開創した稲葉正成の墓もそこにあるらしい。 【武州東叡山 東照宮寶前 慶安四年四月十七日 従四位下行豊後守阿部朝臣忠秋】今度は阿部忠秋さんですよ~!も~、彼らがいかなる人かを知ると、実に豪華キャスト。ここは奉納された「両基」が並んで置かれてるなあ。外の大名たちの灯籠は神経衰弱のようにバラバラになってたけどね。もちろん、往時は大名の奉納による灯籠もきちんと置かれてたんでしょうけど。今私がいるのは、拝殿の向かって左側の通路。向かって右側の拝殿脇には松平信綱の灯籠がぽつんと置かれてたし、今は拝殿に近い場所には上野東照宮建立時にトップだった幕臣たちの灯籠が置かれているみたいだな。当時はどういう風に置かれてたかはわからないけど、この辺の灯籠は大名よりは拝殿に近い場所に置かれていたんじゃないかという気がする。まあ、この灯籠を発注した時点での六人衆は、家光が上野東照宮の落慶を見られないことになるとは思ってもみなかったかもしれないけどね。ちなみに、家光の初代六人衆とはこんな顔ぶれです。・松平信綱・堀田正盛・三浦正次(土井利勝の甥)・阿部忠秋・太田資宗(太田道灌の子孫との説あり)・阿部重次カッコを付けてない方達はこれまでの上野編でちょいちょい名前を出してるので割愛します。で、太田資宗さんですが、太田道灌さんの子孫というのはかなり疑わしい説らしいけど、もひとつ疑わしい親戚に、家康側室のお梶がいます。お梶と資宗の父が兄妹だったっていうんだけどね。ちょっと話がズレるけど、お梶で思い出した。松平信綱の父・正綱のところで書こうと思ってたのに、思いっきり忘れてたよ~!(短編なんか間に挟むからです)時期がどうもはっきりしないようだけど、お梶は一度、正綱にお下げ渡しになってるんですよ。それが何で家康のところに戻ったのか・・・よく言われるのが、正綱に嫁いだ後に家康の子を身ごもっているのがわかったからというもの。その他、お梶が正綱を嫌って家康のもとに逃げ出したという人もいる。なんかこれじゃ正綱が可哀想だけど、いずれにせよお梶と正綱の結婚生活は長くは続かなかったらしい。ただ、いくら家康が側室を沢山抱えていたからといって、誰もが側室を譲ってもらえた訳でもないだろう。その点から言っても、正綱は家康から相当目をかけられていたのだろうと思う。↓ぽちっと応援よろしくね~。にほんブログ村
2014年04月17日

これも仁和寺の法師・・・じゃねえ、三十郎が10歳頃の話。酒井忠世・土井利勝ら錚々たる老中連がいるところで、お召しだと告げられた三十郎は持っていた箸を投げ捨てて自分の膳を飛び越えて走って御前に向かった。それを見ていた正綱は、帰ってから三十郎を呼んで「お前な~、今日のあの振舞いはなんだ?よりにもよって老中のお歴々がいる中であんな無作法。失礼にもほどがあるだろう。ワシはもう恥ずかしいやら情けないやら・・・」と言って泣いた。三十郎は謝るどころか「あんなの、別に今日だけのことじゃありません。お召しと言うからにはとにかく一刻も早く御前に出たいと、ただそれだけを考えてるんです。周りに誰がいようと、無礼に見られようと関係ありません」と説明したので、上を大事に思う気持ちを正綱は大変喜んでうれし泣きをしたという。「ナントカとナントカは紙一重」という言葉を思い浮かべるのはわたくしだけでしょうか・・・(笑)。また10歳ころ。稲葉正勝(春日局の子)らと「よしきり」という鳥を捕まえようと城外に出たところ、夕方になり道を見失ってしまった。「お、おい、どうする?このままじゃお城に帰れないよ~」「どうするったって、どうする?だいぶ暗くなってきちゃったし・・・」すると三十郎が「日が落ちるのは西で、お城の方角じゃん。日の入る方へ行けばお城へ戻れるよ」と言ったので、一同は無事に城に戻ることができた、とな。慶長16年(1611)には元服。この頃、胃を病んだらしく、しばらく休養したのち全快して復帰した。復帰した頃の出来事にこんなのがある。家光が鉄砲場で鉄砲を撃っていたら、火が消えてしまった。「弾薬の込め方が悪いんじゃないかな・・・ちぇっ」と銃を脇に置いたまま、そのことを忘れてうっかり銃口へ身体を向けてしまった。遠くに控えていた信綱がそれを見て、走り寄って銃を蹴り飛ばすとその瞬間、弾が発射された。間一髪のところで家光を救ったことに、居合わせた人々は感嘆の声を上げ、青山忠俊は信綱を呼んで「今の行いは、言葉に尽くせない忠節だぞ。御家人が数万人いようとも、かなわないだろう」と泣いて褒めたという。慶長の終わり頃、家光が疱瘡にかかった。病状は重かったので、信綱は寝食も忘れて家光の看護にあたり、着替えもせず月代も伸びていた。家光がトイレに立とうとした時、身体を支えた信綱の頭に手をやり、疱瘡で膿を持っていた掌に信綱の月代の毛が刺さった。「いった!!痛いよバカ!なんで毛なんか生やしてるんだよ~!!」「申し訳ございません。ちょっとお待ちを・・・」と謝って頭巾を取り出してかぶったので、毛が刺さらなくなり家光は喜んだという。真偽のほどはともかく、信綱の忠義心を表すエピソードは色々あります。では今度は、頭の良さを物語る話を。頭がいいといっても色々あるけど、頭脳というのとはちょっと違う面の話ですが。信綱が老中の頃のおはなし。寺社奉行の安藤右京進がある朝、小姓を呼んで同役の松平出雲守へ手紙を持たせ、「ちょっとウチで御相談したいことがあるので、あとで登城の途中にウチに寄ってください」と伝えさせた。しばらくしてその使いは戻ってきたが、口頭で「わかりました。あとで伺います」という返事をもらってきたのみで手紙での返事はなかった。しばらくすると、安藤家へ松平伊豆守信綱が突然やって来て「右京さんはまだいるかな?」と言って書院へ上がってしまった。突然のことに安藤家家臣たちはあたふたしたが、右京も驚き慌ててかみしもを着けて「ようこそおいでなされました。ま、またずいぶんと急なお越しで・・・」と応対に出ると、信綱は「いや~、ちょっと家を出る時間を間違えちゃって。テヘッついては、お宅で時間調整をさせてもらおうと思って」ということなので、やれお茶だ、菓子だと応接にワタワタしているうちに信綱は小姓を呼び、「お宅の家老達に会いたいんだけどね」と言ったので、加茂下内記という家老が信綱の前に出た。信綱が言うには、「いや、ちょっと頼みたいことがあってね。今朝、右京殿から登城の途中で寄って下さいという手紙をもらってさ。手紙の上書きは松平伊豆守となってたんだけど、はは~ん、これはきっと松平出雲守殿と書き間違えたんじゃないかと思って、了解の返事をしたんだ~。もちろん、そんな小細工をしてもお城で右京殿と出雲守殿が会えばすぐバレちゃうからさ、そしたら右京殿は手紙を書いた者などを後で叱るでしょ?人間だもの、「伊豆」と「出雲」の間違いなんてよくあることだよね。だからさ、間違えた関係者を叱らないでやって欲しいんだよね。それだけを言いたかったからここへ来たんだけどさ、それでもなお右京殿のお叱りがあるようだったら、君たちへは私からあらためて言いたいことがあるよ。」信綱の言葉を内記は謹んで承り、「御意、承りました。早速関係者にはそのように伝えますが、もったいない事でございます」と信綱へ礼を言った。そばで聞いていた安藤右京も「さてさて、かたじけない事です」とお礼を言っているうちに登城の時間になったので、信綱と右京は2人でそろって出勤した。人んちの家臣まで心配する気配りの人、松平信綱・・・こんな説教談もある。「知ってる?皆の家には貧乏神や福の神がいるんだよ~。それはつまり、その家の女主人のことさ。貧乏神ってのはね、朝は遅くまで寝てるくせに、起きても不機嫌な顔をしている。大飯ぐらいでものぐさ、気が回らない。夫婦で協力して所帯を持つなんて知りもせず、わがまま放題。こんな女のことを言うのさ。たとえ有力者の娘であっても、こんな女はすぐに叩き出した方がいいね。じゃ、福の神は?朝早いうちに起き出して座敷を清め、髪を結って家事をきっちりこなし、油断なく日々を送る。夕方には翌日の準備をしておき、夫より遅く寝る。1日中暇なく働く女のことを言うんだよ。だから、よそに貧乏神や福の神がいると思ったら大間違いってことだよ。ふふっ。」朝から晩まで休みなく働けってさ。女性のみなさん。説教談の中には、生活の知恵も混ざってる。「みんな、夜に月代を剃る時は前後左右にローソクを置くけど、私は前に1本置くだけだよ。ちょっとしたことだけど、節約になるじゃん?夜に寝る時にはみんな髪を解いて寝るけど、私は髪を結って寝るよ。だって、夜中にお城から火急の知らせが入ってもこれなら鬢をちょっと撫でつけるだけですぐ出かけられるからね。御用の知らせが入ってから髪を結うんじゃ時間もかかるし、出るのが遅くなるのは不忠じゃないかと思ってる。だから、寝る前に髪を結っておくんだよ」え~っと、本多忠勝だったっけ、寝る時には具足を着けて寝ろとか他人にアドバイスした戦国武将がいたなあ。立派なお心がけだけど、ケイキさんみたいに寝相が悪かったら寝グセを直すのが大変なんじゃ・・・(笑)。名君や名将といわれる人は色んな伝承をお持ちだけど、数多くある信綱のエピソードのすべてが事実でなかったとしても、ウィキペディアには「政治の天才」と書かれてるし、酒井忠勝は「あいつはバケモンだから、智恵比べしちゃダメだぞ」と阿部忠秋にアドバイスしたなんて話もある。まあそれでも、家光の側近である六人衆(のちの若年寄)の同僚に信綱がやり込められたなんてエピソードもあるようだけどね。つまりは家光の六人衆は信綱と張り合えるぐらい才覚にあふれた方々だった訳で、そういう人たちが単に権力争いという側面でのライバルではなく、政治と忠誠のいい意味で競いあっていたと考えると家光は幸せ者だと思う(家光自身も果報者だと言っている)。こういう有能な人たちがそろっていれば、たとえ家光が無能でも政治はうまく回っていくよな、って推測もアリだけど、信綱の養父・正綱などの先代からの重鎮をあらたな子飼いの側近に入れ替えたのは家光なので、家光は無能だとは思わないし、少なくとも人を見る目はあったと思う。さて、家光が死んだ時、初代六人衆からは2名の殉死者が出た。堀田正盛と阿部重次がそれで、彼らの墓が寛永寺現龍院にあるのは「上野第二編(6)」に書いた通り(行かれなかったけど)。六人衆のうちの1人、阿部重次のいとこの忠秋は殉死せず、4代将軍の家綱に仕えてその後の幕府を支えた。忠秋は遺言として「遺骸は家光公の御霊屋の近くに捨てるように」と言い置いたが、側近の梶定良とともに現在に至るまで家光の墓の前後で主君を守っている。(上記リンク先参照)信綱も忠秋と同じように生きて家綱を支えたのに、ウィキペディアによると信綱が殉死しなかったことを江戸っ子は非難したらしい。 「伊豆まめは、豆腐にしてはよけれども、役に立たぬは切らずなりけり」 「仕置きだて、せずとも御代はまつ平、ここに伊豆とも死出の供せよ」相当辛辣だとは思うけど、信綱はあまり人望がなかったとも言われるのでその辺も関係してるのかもしれない。なんでも、茶の湯や歌の会、碁などの娯楽系での付き合いが悪かったらしく、酒が飲めなかったともいわれ、好きなことは気の許せる者とたまに政治談議をすることだったとか・・・要するに、カタブツ?ただ、「殉死して当然」と江戸っ子に思われるほど、信綱が家光に重く用いられた証じゃないかとも私は思うけど。にほんブログ村
2014年04月16日

今回から久々に上野編を再開します。いや、まさかこんなに再開が長引くとはね~少し前の記事で、般若心経暗唱のチャレンジを始めたことをカミングアウトしましたが、上野編が終わるまでに、を目標にしてたのに、天平のイタコになってる間に仕上がっちゃいました(笑)。通勤の時などにぶつぶつお経を唱えてますが、何だか無になれていいですよ。般若心経ならメジャーだから、全文もネットで見られるし、YouTubeでは動画も公開されてるしね。マイナスの感情を引きずりがちな人にはオススメかも。ただし、わたくしの場合は無になりすぎるのか、気がつくと途中で読経がフェードアウトして、頭の中がTV画面の「砂の嵐」みたいになっちゃってる時も往々にしてありますがじゃっ、本文に入りますか。え~と、前回は上野東照宮拝殿前の御三家の灯籠の隣にある松平頼重の灯籠と家康側室のお梶を紹介したとこまでですね。(「上野第二編(70)」参照)松平頼重の灯籠は2本並んで建っている。これで唐門向かって右側の灯籠群はラスト↓。 で「立入禁止」の立て札がありますが、この先は庫裏・・・じゃない、社務所兼住居のような建物がある。入るなって書いてあるのに無理に入るつもりはもちろんありませんが、進行方向の左手、灯籠のすぐ裏には小道があって、小さな門がぴっちり閉められていた。内部拝観ができない無念さで、ちょっとそちらの方を覗いてみたらば門の中にも灯籠があった↓。 ああ、これ拝殿の脇なんだな。有料エリアだから今は入れないようになってるのか。あ~、中見たかったなあ。少し距離はあるけど、どなたの奉納か銘が見えるかな・・・と思ってカメラをズームしてみると 【慶安四年四月十七日 従四位下侍従兼伊豆守源姓松平信】・・・うん?一番下の文字がよく読めないけど、あれってまさか・・・!!くそっ、こうなったら意地でも見てやるとカメラ越しに灯籠を睨みつけると、どうやらやはり 【従四位下侍従兼伊豆守源姓松平信綱】で間違いないらしい。伊豆だよ伊豆!智恵伊豆~~~!!わ~お、あんなとこにあんなものがあるなんて、さすがに東照宮だなあ。先人の訪問記を見ても、歴史ファンで灯籠まで見てる人なんて皆無に近いけど、徳川家にゆかりの深い寺社では絶対見るべき!顔ぶれがホント豪華だから、見逃しちゃうなんてもったいない。で、ほとんど恒例となってきた人物紹介ですが、信綱さんの話に入る前にまずはそのお父上から。お梶といい、江戸に特別興味もなかった頃からなにげに色んな人の話を過去の記事で出してますが、信綱の父・松平正綱さんも過去登場しておられます。日光写真館の「山内入口1」がそれです。はい、日光の杉並木を寄進した方が正綱しゃんなんですよ。大体の略歴は上記リンク先で書いてますので重複することはここでは書きませんが、この方はもとは三河武士の大河内氏の出身で、松平氏の庶流・長沢松平家の養子に入り、家康の天下取りを支えた1人。この大河内氏ね・・・源頼政の子孫らしいんですよ。頼政は俵藤太(藤原秀郷)とともに、「ウチの御先祖様」とあちこちの武家の祖として担ぎ上げられるのに人気が高い。ので、頼政の子孫を称しているからといって素直に受け取れない面もあるんだけど、宇治平等院における頼政の最後の戦いで、頼政の自害の時間をかせぐために敵に立ちふさがったのが頼政の養子・兼綱。兼綱は敵に討ち取られてしまうが、兼綱の子(2歳)は母に抱かれ尾張から三河へ逃れてそこで土着したという。ただ、兼綱は養子といっても頼政の弟の子らしく、つまりは実の甥。なので、この伝承が正しければ、大河内氏は確かに頼政の血縁といえる。大河内氏は三河で諸流に分かれ広がっていったらしいが、正綱が生まれたのはこのうち臥蝶(がちょう)大河内氏。正綱には兄・久綱がおり、久綱が臥蝶大河内氏を継いだ。久綱は家康に仕え、弟・正綱とともに地方奉行(じかたぶぎょう:のちの勘定奉行)として主に租税の管轄にあたったという。正綱が6歳の時、家の前で遊ぶ姿を鷹狩で通りかかった家康が目にしてそのすばしっこい様子を気に入り、成長したら召し出すと言ったそうな。11歳の時、家康の命により正綱が長沢松平家を継ぐ。慶長元年(24歳)の時に正綱が具足をあつらえたことを聞いた家康は、安月給じゃ支度も満足にできないだろうと兜を下賜してやり、関ヶ原にはこの拝領の兜で戦陣に臨んだというから家康から目をかけられていたのだろう。慶長15年(1610)に駿府城が火事になった際、正綱は納戸から晒(さらし)布を持ってきて布を結びあわせ、石垣の数か所に垂らして城中の人間の避難を助けたという。家康が駿府で大御所として江戸の秀忠と二元体制を敷いていた頃は駿府方の勘定頭を務めた。家康が久能山に葬られる際は棺のそばにいたという。その1年後に日光に改葬される時には行列に従い、徳川和子(松姫)の入内の際は松姫の輿に従っている。寛永2年(1625)には大名になり、相模の甘縄(たまなわ)に居を構える。玉縄城には前々から行きたいと思ってたんだけど、正綱は戦国山城の玉縄城に入った訳ではないらしい。ちぇっ。寛永10年(1633)になると、家光から出仕を止められる。これは天海がとりなしをしたようだけど、以後は勘定目録から正綱の名前が消える。正綱は日光とのかかわりも深い。秀忠や家光の日光社参にもお供し、寛永18年(1641)には廟塔再建奉行、2年後には相輪塔の普請奉行を務める。同年、天海の葬送を監督。日光山内の石垣の普請も正綱が関わっているらしい。晩年は家光に疎まれたりもしたけど、家康から家光の3代にわたって多方面で活躍したのが正綱。そんな正綱の子が上の灯籠を奉納した信綱。官職が「伊豆守」だったので、「いず」をかけて「智恵(知恵)伊豆(出ず)」と呼ばれる。まあ、頭がいい人だったらしい。が、信綱は正綱の実子ではなく、養子。信綱の父は正綱の兄・久綱だった。つまり、正綱の甥。ある時、正綱が1人でいるところへ三十郎(のちの信綱)がやって来て、「おじ上!一生のお願い!私をおじ上の養子にしてくださ~い!!」「・・・ハハハお前な~、まだそんな子供のくせして、なんで大河内の姓を捨ててワシの養子になりたがるのか?わけを言ってみろ、あ~ん?」「ウチは代官じゃないですか!大河内のままでは、御上のお側近くお仕えするのは遠い夢。ですが、松平の名を賜れば願いが叶うかもしれません。ですからなにとぞ、三十郎、三十郎をよろしく!どうかこの三十郎を・・・」「うっさいまあ、お前の言うことはもっともだ。けどな、まずは父母に話してオッケーが出たら養子にしてやろう」で、久綱との交渉が成立。三十郎は「今日からは松平三十郎ナリ!!エッヘン」と喜んだという。信綱の生家は、臥蝶大河内の宗家だと思うんだけどね。それも嫡男。長沢松平家は松平氏の庶流。家康が若い頃にはいとこが長沢松平宗家の当主だったが、いとこの子に後継ぎがいなかったので、家康の7男が養子に入り、それも夭折すると家康6男の忠輝が入って宗家を継いだ。正綱の松平家はその長沢松平の分家。とはいっても、やはり臥蝶大河内と長沢松平では家格が違うってことか。にしても、実父の久綱がよく嫡男の養子縁組を許したと思うけど、今に残る信綱の数々のエピソードのすべてが史実じゃないにしても、幼い頃から異様なほどの才覚と忠誠心があったようだから、きっと久綱も三十郎の熱意に負けたのだろう三十郎が正綱の正式な養子になったのは5歳のとき。ので、上の話は5歳以前の出来事ということになりますが、ホントに自分から養子にしてくれとせがんだのであれば、かなりませたガキ・・・(笑)。さて、智恵伊豆といえば有名な人ですから、この先紹介する機会は色々あると思います。ので、まずここでは政治向きの話じゃなくて、沢山あるエピソードの中からいくつか面白いものをご紹介しましょう。慶長8年(1603)、三十郎は秀忠に拝謁し、翌年に家光が生まれると8日後に家光付きの小姓となった。この時、8歳。10歳くらいの時、秀忠が三十郎に剣を持たせて大奥へ入った。草木も眠る丑三つ時、秀忠が表向へ戻ろうとすると、長廊下の暗いところで三十郎が剣を持ったまま居眠りこいていた。起こしちゃ可哀想だと思ったのか、秀忠がそっと剣をひいて持ち帰ろうとすると三十郎は寝ぼけ眼のままがばっと秀忠に取り付いて「これはやらんぞ!!」と相手が秀忠だとも知らずに頑張った。秀忠は怒るどころか、「ほう、これは見込みのある・・・その心、一生離すなよ」とほめてやったという。にほんブログ村
2014年04月15日

「春の寛永寺(13)」でNHKの「ほとけの履歴書」を紹介しましたが、さっきご飯を食べながら第2回目の録画を観ました。やっぱりわかりやすいし、仏像初心者にはオススメです。して次回、今週の水曜日はいよいよアシュランの登場。予告を観てると、アスラが太陽神だった頃の紹介とか、アフラ・マズダとかそっち系の話も出るらしい。どういう紹介になるのか、楽しみですね~。さて、今回はついでに雑談です。前回から半年、だいぶ溜まってきちゃったんでてか、時間が経ちすぎて出所が思い出せないものもある・・・お値段なんかはとうに忘れました。ただ、金銭感覚がマヒしたままなのは相変わらずで・・・えっと、まずは頂きもの系からいこうかな。 ↑(たまに)わたくしのブログを読んでくれる同僚から。前回の記事を見て、「カリー探偵団、応援してます」というラブレター付きでそっと渡してくれました。・・・確か、仕事中に(笑)。私は無印には行かないんですが、いくつかあるらしくこれは彼女が好きなものなんだと。チャチャさん、ありがとう無印のカレーは以前TVで紹介したらしく、売り切れの時期もあったとか聞いたような・・・で、同じ無印のを姉がくれました↓。 以下も姉からもらったもの↓。 これはどうも、キーコーヒーから出てるみたいなんだけど・・・「業務用」って裏に書いてあるけど、どこで手に入れたんだ? ↑これは東北のカレーを集めたものが立派な箱に入ってて、4種類あった。 どれもそそられるパッケージだけど・・・前沢牛のカレーなんて高いんじゃないの?高いといえば、こちらも↓。 「牛超」は御存じの方もおられるかもしれませんが、「幻の大田原牛」を扱う、肉専門店で出してるカレーなのだ。このカレーの前に、すき焼き用の大田原牛をもらってね。私はすき焼きってあまり好きじゃないんだけど、その肉は美味しかったですね~。美味しいハズです。ネットで調べたら、ここのお肉はものすごく高いんです。肉はちょっとためらう値段だけど、カレーを出してるらしいので買おうかどうしようか迷っていたら(だって1,500円もするんだもん)、姉がこれを取り寄せてくれたので嬉々として食べたわたくし・・・これは私が買おうと思ってたのとは別のカレーだったけど、まあ、美味しかったッス。けど、ちょっと濃厚すぎたかな(笑)。今度はセキュリティよしおがわざわざ送ってくれたもの。が、この辺になると相当記憶が怪しいです。間違ってたらごめん、よしおさん 手羽元のは確かホントにごろんと手羽が入ってて、美味しかったような記憶があるな。「いも煮カレー」は薄味の和風だったかな。なにもいも煮をカレーにせんでも・・・ 今度は近所のスーパーなどで自分で買ったもの。最近、どこまで食べたのかわからなくなってきました。それくらい、種類が多い。レトルトカレー市場の奥深さにはホントに驚かされます。 【当商品は明治41年の海軍割烹術参考書の「カレイライス」レシピを素に、 食べやすく復元したものです。 現在でも、海上自衛隊では、毎週金曜日に「カレーの日」を設け、栄養の バランスを考え、カレーに牛乳、サラダを付けて食べています。】 (箱裏面より)これ、確か350円くらいしたんだよな~。いかにもそそるパッケージなんだけど、味は平凡だった(笑)。 ↑こちらはセブンブランド。あんまり種類はないけど。 ↑これが前回ウワサした、千疋屋のカレー。500円台の高級品です。ビーフカレーとなってるけど千疋屋なので、結局はフルーツカレー。のでパンチに欠けるのは致し方なく、500円分の満足が得られたかというと・・・ゴニョゴニョ。そして、こちら↓。 これは買うか結構悩みましたが、東武ストアのカレーはだいぶ制覇に近づいてきたので、思い切って買ってみました。お値段で迷ったんじゃありまへん。わたくし、東南アジア特有の香草のたぐいが苦手なんです。けど、まあココナッツミルクが入ってるならいくらかマイルドかな~と思って買ったはいいのですが・・・しばらく食べる気になれず、先週あたりにこれで朝カレーしました。・・・苦手なエリアの、本場の味を追求したものは買うべきじゃないと学習しました。 キーマはあまりハズレがないよな。私はナンで食べるのが好きですね。 今度は少し価格帯が下がります↓。 「高いものはやはり美味しい」という認識を持ってからは、しばらくこうした廉価品に手を出す気にはなれませんでした。が、今年に入ってからあまり胃腸の調子が良くなく、「朝にカレー」って考えるだけで胃のあたりがもぞもぞしてまして、ゆえに最近はあまり朝カレーをしてなかったのですが、そんな時に大活躍したのがこれらのお手頃カレーさんたち。ま、お手頃ったってボンカレーでも「ネオ」になれば200円台なんだけどね。お値段が控えめな分、マイルドで胃に負担の少ないカレーだということに気がつきまして、今年はこのテのカレーにお世話になりました。あ、ボンカレーといえばあとこれ↓。 ほとんどカレーじゃなくなってますが、これは美味しかった。期間限定なのが惜しまれます。最後に、先週買った最新カレー。 5段階の辛さレベルのうち、4つ星がついてる。けど、あまりこういう辛さ評価ってアテにならないし、何より「焦がし玉ねぎ」に魅かれたので、先日の「栄西と建仁寺」展に行く前にこれを食べました。・・・相当スパイシー。焦がし玉ねぎより黒コショウがバリバリ効いてる。辛いのが苦手なわたくしは、ハアハア言いながら食べましたが、これプラス栄養ドリンクのダブルドーピングで「建仁寺が江戸に出稼ぎに来てます」シリーズの充実した1日を過ごすことができました。今回は結構変わりダネのアイデアカレーが含まれてますが、率直に言って、「商品として成立するだけの美味しいカレーを作るってのは大変なんだな」って感じですね。どれがどうだとはあえて書きませんが。にほんブログ村
2014年04月14日

今度は東洋館へ。 ついでにアシュランをもう1回観ちゃおうかとも思ったけど、時間的にキビシイからな。入口の向かって左側には階段があって、テラスに行かれるらしい。眺めがいいのかな?と思って、上がってみた。 誰もいない・・・東洋館自体、他の館にくらべて人が少ないからな。ここからは、かつての根本中堂と旧本坊との位置と距離がよくわかったので、今回もまた短い動画を撮ってきました。スタート地点が根本中堂跡、トーハクの大きな本館の位置に寛永寺の旧本坊、動画のラストが庭園入口方面です。 さて、東洋館はその名の通りアジアンな展示の館です。アシュランを観るまで私はここに入ったことはなかったんだけど、色々仏像なんかも置いてあることを初めて知りまして・・・へっへっ、そうです。エレファンタに行かれないわたくしは、代わりに手近なトーハクでエレファンタに匹敵するようなイケメンがいないかと、男あさり・・・いへ、美仏観賞に来た訳です。てなことで、わたくしが独断と偏見で選んだ東洋館のイケメンを御紹介しましょう。 ↑如来頭部(アフガニスタン・ハッダ)。確かにあっちの人っぽい顔はしてるけど、ほとんど西洋人みたいだな。 ↑菩薩頭部(パキスタン)。パキスタンなら人種的にエレファンタに近い顔をしててもよさそうなのに、なんか古代アッシリアの壁画に描かれる王みたいな顔してる・・・かもめ眉毛になってるとことか ↑菩薩立像(パキスタン・ガンダーラ)。おおお~、これはいいぞお~。ちょっとお腹出てるし、ヒゲなんか生やしちゃってるけどダンディなオジサマって感じえっと、これは弥勒菩薩の可能性が高いと解説にある。にしても、仏像にこんなにお色気があっていいんだろうか? ↑如来坐像(ガンダーラ)。光背に仏像が刻まれてるのは、日本にはきっとあまりないよな。向かって右がインドラ(帝釈天)、左がブラフマー(梵天)だとある。アスラは?(笑) ↑菩薩交脚像(パキスタン・マルダン地区:2~3世紀)。 ほう、これもまた、口のうまい女たらしみたいな風情をしている・・・(仏像だっつの) ↑如来立像(パキスタン・ペシャワール周辺)。 【ガンダーラの仏像は、ギリシア彫刻の影響を受けた、写実的な表現に特徴が あります。彫りの深い顔、波型の頭髪、両肩をおおう衣の流れるような襞(ひだ)に その特色があらわれています。腹部のふくらみ、左膝を軽く曲げた様子が 衣を通してうかがえる点も巧みです。】 (解説より)う~んっ・・・お腹はどうしても膨らまさなきゃダメなんですかねえ・・・ここまでが西域のフロア。確かに西洋の影響も受けてはいるんでしょうけど、あちらの人自体が彫りの深い顔立ちしてるからねえ。いかにも中央アジアって感じの顔の像が多かったかな。インドのも確かあるにはあったんだけど、ヒンドゥーの神じゃなく仏像だったせいか、エレファンタ系のお色気イケメン石像はインドの中からは探せませんでした。さて、もうこうなったらインドじゃなくてもいいから、もっとイケメンいないかと下へ降りていった。そこは中国のフロア。 ↑重要文化財・十一面観音龕(西安・宝慶寺)。これは全体的には美しいと思ったんだけど、顔はどうも・・・てかね、東洋館で最初に観た仏像はシアターの近くにある東南アジアのものだったんだけど、仏像や神像といえど、やっぱりその造られた地域の人の顔してるな~って思ったんだよね。上のフロアは彫りの深い顔立ちだったけど、中国エリアの仏像はこんな風に目が細くて少し上がってる顔が多かった。あ~、確かに中国人、みたいな(笑)。ので、中国はこれだけしか撮ってませんの。ホホホ。今度は地下の東南アジアへ。シアターの前を通ったら、アシュランの上映を4月20日まで延長したと書いてあった。好評なんだろうな。 ↑釈迦如来坐像(タイ)。これはつるんとして綺麗だと思ったけど、もともと装飾性の薄い釈迦像の上に、さらに着衣はシンプル。いかにも「蒸し暑い国に住んでます」ってカンジだなと思った。 ↑ブッダ三尊像(カンボジア・アンコール)。ま、これは顔が好みっていうより、いかにもな顔立ちだな~と思って比較のために撮ったんだけどね。各国の仏像を比べてみるなんてのは初めてだったけど、こうしてあれこれ観てみると、かなり仏像にも民族性が現れてるもんなんだな~と思って面白かった。てことは、日本の仏像があんな地味な顔立ちなのは、あれが伝統的な日本の顔のスタンダードな訳だよな。今日観た仏像の種類でいえば、やっぱり中国が一番近い顔してるしね。最後に本館のショップへ向かう。史上最高の動員数を誇ったという、『国宝 阿修羅展』の図録がないかな~と思って。トーハクのショップには、過去の企画展の図録だけじゃなく、全国の他の博物館の図録なんかも結構ある。ので、それらをまんべんなく見たけど、お目当ては見つからなかった。やっぱりアシュランは人気あるから、図録も売り切れなんだろうな・・・図録だけを買いに来たんだけど、ちょっと未練があったので書架を見て、これだけ買った↓。 ハハハ・・・まあそのうち行くんだろうからさ。トーハクを出て、両大師へ向かう。もうおわかりでしょうが、アレですアレ。 守澄法親王の「御車返しの桜」。あ~、前回からもう2週間経っちゃったからな。ホントは先週来たかったんだけど、体調がよくなかったのでね。でも、幸い少し残ってる花があった。 んまあ、長いピンクのまつ毛が可愛らしい。満開の頃にはさぞ見事だろうと思われます。宮の墓所へ御挨拶してから本堂へ入る。おみくは「半吉」だけど内容は悪くなかった。よしよし、あと2ヵ月半これで行けばいいんだな。売店コーナーで72人目の良源さんを買う。前回は全部買い尽くした訳じゃなかったからね。ついでに売り子のおじさんに質問をしたんだけど、その情報は別のところで書こうかな。まだ新しい『寛永寺だより』は出てなかった。けど、こんなチラシがあった↓。 えええ~、ナニコレ!叡山で潅頂が受けられるの!?すごいじゃん、行っちゃおうかなと思って裏を見ると、2泊3日で9まんえん・・・高っっ!!!なんでこんなに高いんだ・・・潅頂代が結構かかるのかな?と思ったら、それ自体は15,000円らしい。残りの75,000円はなんじゃい、とスケジュールを見ると、初日に潅頂を受けてそのまま山内に泊まり、翌朝のお勤めをした後で嵐山観光。午後には天橋立へ行って遊覧船に乗ってそこでお泊り。最終日に小浜・若狭へ行って観光の後、東京へ戻る・・・観光いらないから、半額にしてくださいしかし、悩む必要はなかった。平日の3日間なんてムリだし。もひとつ、こんなのもあった↓。 寛永寺住職であり輪王寺門跡の神田大僧正が浅草で法要をするらしい。しかも、天台聲明(しょうみょう)をやるようなことが書いてある。おお、これはいいな。行っちゃおうかな。・・・しかし、これも平日。こっちもダメかこれで今回のお出かけはおしまい。早く帰ってきたものの、疲れました。まさにこんなカンジ↓。 にほんブログ村
2014年04月13日

今週はブログの更新時間と寝るのが日に日に遅くなり、しかもお仕事が忙しい・・・短編がやっと終わったのですぐ上野編を再開する予定でしたが、今日はちょっとお出かけをしてきたので先にその報告です。はい、ゆんべのブログ更新のお知らせツイートで「明日起きられるかな~」と危ぶんでいたのは、出かける予定があったからなんです。起きられなかったら来週に持ち越すつもりでしたが、どうにか頑張れましたただ、今日は夕方から貞子 を預かってわたくしが1人で面倒を見ることになっていたので、早く帰ってきたし、このシリーズはすぐ終わります(マジで)。で、今日行ったのはまたもや寛永寺旧本坊・・・現在ではトーハク(東京国立博物館)と呼ばれますが、 これを観に行きました↓。 この企画は去年の年末頃から知っていたので、楽しみにしてたんだ~。ただ、大きな企画展となるとさすがに人出は多いし、建仁寺は京都でも人気の観光スポットだから混むだろうな~・・・てんで、朝イチで乗り込んでいったわたくし・・・上野山内の桜の見ごろは先週いっぱいくらいだろうと思ってたけど、まだいくらか残ってる桜もあった。これは国立科学博物館前↓。 普段なら根本中堂跡にある噴水広場を通ってトーハクへ向かいますが、今日は朝からうるさい中国人がたむろしていたので、1本手前の道から入ったのだ。桜の右にある妙な物体は、クジラです。寛永寺にはクジラもいるんです。で、トーハクの入口へと向かう。正門脇は少し前から何やら工事をしてるんだけど、だいぶ出来上がってきたようだった。何ができるんだろう、これ・・・ ほいで、その奥の正門に目をやると、まだ開館前なのにもう行列ができてる↓。 正門には2つのチケット売り場があって、今回の特別展は左側の売り場だと案内のお兄さんが言っているので並んで待った。まだものすごい行列ってほどじゃなかったけど、思ってたより並んでいる。本を読みながら待っていてふと目を上げると、門の前には前売りを買っていた人の結構な列ができていた。うわ~っ、やっぱりすごい混みそうだな・・・覚悟はしてたけど、もうこのまま帰っちゃおうかと思った帰りたい誘惑をこらえながら待つこと15分。やっとチケット売り場があいた。今回の企画展、1,600円もするんだよ~。企画展てこんなに高かったっけ?チケットを買って、企画展のある平成館へ向かう。なんか、あそこにも行列があるんだけど・・・ 平成館の入り口でも少し待たされた。開館と同時に行って入れないってどゆこと・・・どうやら、人数調整をしながら少しずつ入れているらしい。まあ、そのまま入れちゃうと入口で詰まっちゃうからしょうがないか。して、やっと中へ。他の館では写真撮影OKなのでカメラを首からぶら下げていたら、入場する時に撮影禁止だからカメラをしまうように言われた。てことで、企画展の写真はありません。なので、簡単な紹介と感想だけ。今回の特別展は、来年が建仁寺の開山である栄西の800年遠忌にあたるためのもの。来年にかけては、各地で色々なイベントも用意されてることでしょう。入った時の感じからしても、結構な人出があったと思われるものの、今回出品されてるのは屏風とか木像とか大きなモノが多いので、思ってたほど展示物の前はぎゅうぎゅうにはなりませんでした。それに、今日は客層がよかったよな。数年前の『細川家の至宝』の時なんか、小物も結構あったからも~すごい混雑して、ジジババ(特にババア)は他人のことなんかお構いなしにぶつかるわ押してくるわ・・・いかん、毒舌自粛中だったなま、タイトルが『栄西と建仁寺』でちとシブめだから、多少客層が絞られるかもね。出品物も、書状や絵画など、ちとシブめ。ただ、さすがにいい物が多かったし、レイアウトも良かったです。今年は個人的に仏教イヤーなので、わたくしにしては頑張ってじっくり観た方ですね。好みは色々あると思いますが、わたくしが興味を持って観たのが建仁寺ゆかりの僧の肖像画と木像。特に木像の方はほぼ等身大で、それぞれ個性もあってかなりリアルな造り。数も結構出ていたので、なかなか他では観られないかもしれません。栄西さんはいろいろ書いてもいるので、著書の写しだとか自筆の書状なんかも出てました。栄西自筆とくれば、何が書いてあるのか読みたいと思って頑張ったけど、古文書の勉強がなかなか進んでいないので、あまり読めず栄西さんは茶を広めた人としても有名なので、茶関係の品もあったな。それより私が時節柄驚いたのが、彼が東大寺の復興に尽力したという話。なんと言ってもタイムリーな話題ですのでね(笑)。あとは絵画ね~。狩野山楽とか、海北友松とか出てます。水墨画は全然わからないしあまり興味もないんだけど、禅寺にあるものということで、そういう視点でじっくり観るとなかなか面白かったッス。あ~、あと、亀姫様(家康の長女)の肖像画が出てたんですよ。えっ、なんで!?と思ったら、夫君の奥平信昌様は建仁寺に塔頭・久昌院を創建したんだそうな。ほお、それは知らなかったな~。それから、織田有楽斎(長益)の木像が出てた。有楽が建仁寺の正伝院を再興したのは有名な話ですからね。正伝院に建てた茶室を移築したのが、現在犬山にある国宝「如庵」。今回の目玉のうちの1つは、海北友松の「雲龍図」。これは阿吽(あうん)の龍を描いたものだそうで、今日は「うん」の方だけの展示だった。会期が長いので、途中入れ替えがあるんだよね。雲龍図は建仁寺の客間にあたる部屋にある襖絵で、龍といえば私は京都・相国寺の法堂の天井にいるバカでかい龍に圧倒されたのでついそれとの比較になっちゃうんだけど、建仁寺の龍は相国寺に比べると小さい。けど、間近で観ると雲の合間に見え隠れする胴体とか、さすがの表現力だと思った。今回は大きな絵が多かったので、ケースに近寄って細部を観ては離れて全体を観て、を繰り返してたんだけど、この絵の前でも私と同じようにケースの前と部屋の中央とを往復してる人が結構いました。みんな同じことを考えるんだな~(笑)。もう1つの目玉が、尾形光琳の国宝・「風神雷神図屏風」。上の写真にあるやつね。これが上野に来るのは5年ぶりだそうで、個人的には特別関心もなかったんだけど、やっぱり実物はとても美しく、また近寄っては離れ、を繰り返して観入っちゃいました。当然人気も高いので、ここには多くの人が長く足を止めてましたね。てな感じで、何度か座って休憩を挟みながら2時間ちょい。寝不足だし、電車では最初座れなくて貧血を起こしそうになったんだけど、よく自分でも頑張ったと思います。疲れて腰も痛くなったけど、見ごたえあるし満足しました。『栄西と建仁寺』展は5月18日まで。お近くの方はぜひお越しやす。最後は平成館の中のショップで図録をお買い上げ。2,600円と高い・・・しかも、チョ~分厚いしかし、怠け心で図録を買わずにいると、大抵あとで後悔するからな。さてと、疲れたし何か食べたいな。もう昼時なのでレストランは混んでるだろうし、宮のお庭の特設カフェででも何か食べようかな・・・春の庭園公開も明日までなので、見納めがてら庭園へ行ってみることにした。平成館と本館の間には、前回入ったのと別の庭園入口がある。入口の手前には、まだ桜が残っていた。 中に入ると、そこにも桜↓。 濃いピンクの八重で、ちょうど満開。中の桜も少しは残ってるかな・・・ 応挙館前にも咲いてる木があったので、遠くから撮影↓。 で、池の前の特設カフェへと向かう。あいにくベンチはいっぱいだったので、断念。 池の向こう側には、遠目でもピンクっぽくなってる木が結構あって、散り終えた桜だとわかる。先週の見ごろの時期だったら綺麗だったろうな。でも、全体の見ごろは終わっても、沢山白い花を付けてる木もあって 天気もいいし、よい雰囲気。そのままもう1つの入口の方へ向かうと、途中に前回写真を撮らなかった鉄灯籠があった↓。 にほんブログ村
2014年04月12日

トーハクを出て、お隣の両大師へ向かう。ここもちらほらと桜が咲き始めていた。 ああ、そうそう、阿弥陀堂の本来の脇侍を探すんだったっけ。お参りしてから例のデカい虚空蔵菩薩様の後ろを覗いてみると いたいた。顔の雰囲気が奥の阿弥陀様やお地蔵様と同じだから、これが本来の脇のヌシなんだ。手水舎でお清めをして、宮の墓所の門の前で御挨拶もしてから本堂へ。中へ入ると、やっぱり入口から売店コーナーのあたりは土足で入れた。なるほど、縁日の日はここにも畳を敷き詰めてスペースを広げてたってことか。正面の厨子は今日はもちろん閉まってる。あの中に天海のカラフル像があるんだな。良源さん(の画像)は、普段の日はどこにおわすんだろう・・・おみくじも中にあった。通常ならここでおみくじを引いていくところだけど、この日は清水観音堂でのキツいアドバイスが結構こたえていたので、やめた。今回、本堂の中に入ったのは内部の様子をもう一度確かめたいと思ったのと、手持ちの良源さんを増やしたかったから。この時点で私は36人分の良源さんを持ってはいたんだけど、まだ欲しい。はい、ちょっと今、良源さん集めに凝ってるんですよ。ここは両大師だから、良源さんのお姿のグッズも何かしらあるハズ・・・で、売店をのぞいたら、やっぱりおられました。てことで、またあらたに35人分の良源さんをゲット~できれば目に触れたものはすべて手に入れたいところだけど、ある場所では角大師の大きな掛け軸なんかもあってね。さすがに掛け軸まではね(笑)。これで71人分の良源さんが私と一緒にいてくれることになった。はい、良源さんも、おみくじの記事を書いた後から好きになっちゃったんでね~。あっ、ちなみに、両大師で35個の良源グッズを買った訳じゃないですよ。豆大師の護符が、ここにもあったんです。よしよし、これで満足だここでのお目当てはもうひとつある。 宮の桜、「御車返しの桜」です。今年はできればこの桜が咲いたところを見たいと思ってたので、開花状況を確かめに来たのだ。だけど うむ、もうちょっとかかりそうかな・・・池波正太郎によると、この桜はちょっと遅咲きのようだからな。ついでに輪王殿の方も覗いてみた。そしたら、少し咲いてるのもあった↓。 この日はめちゃくちゃ風が強くてねえ~。花をアップで撮ろうとすると風に揺られちゃってなかなか撮れなかった。この桜の近くにある脇門から出て、ちょいと線路をまたぎに行く。 なんで両大師橋に来たかとゆーと、この光景を見たかったからです↓。 上野のお山のガケです。ただ、当時のままの地形ではなく、昔はもう少しなだらかだったのを線路を造る際に変えたらしいんだけどね。そりゃね、いくら屏風坂なんていかにも急そうな名前の坂がこの辺にあったからって、このまんまの斜度じゃ階段でも造らない限り、歩けないしねそれから、この線路ね↓。 みちのくの玄関口・上野駅へはJRだけでいくつもの路線が乗り入れてますが、わたくしは鉄子ではないので、この広い線路を見に来た訳でも、山手線の電車を撮りに来た訳でもありまへん。今は線路になってるこの場所は、かつて寛永寺後期には子院が並んでたようなんですよ。上の写真は、両大師橋からは北東にあたる上野のお山に沿うライン。この辺から ↑これが南西の方角で、正面に上野駅が見えている。この辺の線路一帯にびっしり寛永寺の子院が建ち並んでいた。ま、この線路を見てかつての寛永寺に想いを馳せる人間はそういないでしょうが。橋の上から頭の中で子院が並ぶ様子を描いていても、傍目から見れば、シャッターチャンスを狙う鉄子にしか見えないかもしれない(笑)。両大師橋を越えて浅草方面に行く途中の道には「仏壇通り」なるものがあるそうで、ちょっと数珠が欲しかった私は少しその辺のお店も覗いていこうかと思ってたんだけど、清水観音堂で腕輪念珠をゲットしたし、早く帰りたい気持ちもあったので今日はこれでおしまい。上野の駅ナカの「マミーズ アン スリール」で念願のチョコバナナパイを買ってから帰路につく。他にチェリーパイも買ったけど、やっぱり美味かったッス。パイ専門店なら、ミートパイも置いてくれると嬉しいんだけどな・・・さて、本シリーズは以上で終わりです。やれやれ、これでやっと天平ジジイから戦国ジジイに戻れ・・・ないや、まだ上野編が終わってなかったわ文字数が少し余ったので、ちょっと書き忘れたことをひとつ。天平の歴バナについては、基本的に井沢史観にのっとってます。まあ、東大寺の大仏が除霊グッズだったかはイマイチ賛同しかねるものの、聖武天皇の仏教熱はちょっと異常なので、純粋な信仰心のなせるわざ、という説明ではどうにもまとまらないという面では井沢氏と同じ考えになります。ただね、たとえ怨霊の影におびえて造寺・造仏に走ったんだとしても、はたまた延々と続く災厄に聖武天皇の精神が破綻をきたしたんだとしても、東大寺や国分寺、それから興福寺の価値を下げるものじゃないですよ。宗教関係の話は微妙な面もあるし、話をわかりやすくするためにあえて軽いノリで書いてる部分もありますが、書いてる本人としてはあくまで真面目です(少々遊ぶこともありますが)。どうしてこういう結果になったんだろう?ってことを自分なりに納得できるように、背景の流れを観察したり分析することはあっても、過去の歴史について評価を下すつもりは私にはありません。東大寺や興福寺は今でも続いてるし、あるいは関係者の方がこのシリーズを読んで気を悪くされることもあるかもしれないけど、分析と評価は違うってことをご理解ください。これはね、しばらく仏教関係の話が続くので折にふれお断りを入れておかないと誤解を招く面もあるかもしれないな~って書きながら思ってたんだよね。皆が皆、継続して私のブログを読んで下さってる訳でもないからね。それにしても、『アシュラブック』に載ってる東大寺戒壇堂の四天王像は実に素晴らしい・・・なんだか懐かしいような、妙な感覚が湧いてきてたんだけど、正月に寛永寺根本中堂で観た仏像群と共通するものがあるってことに数日前気がついた。寛永寺の仏像群は1回しか観てないから、今イチ記憶も定かじゃないし、あの名作仏像コレクションの製作年代は結構幅があると思われるけど、北進一氏の言われる「美仏のDNA」を感じた。立石寺からスカウトした十二神将の製作年代がわかればいいんだけど、とにかく東大寺戒壇堂の四天王と共通する美と存在感を寛永寺の仏像群に感じた。そうか、だから仏像の知識がないにも関わらず、正月の根本中堂であれだけ感動したんだな。いいものはやっぱり鈍感な人間の心も打つものらしい。しかし、そうであればなおさら、寛永寺の仏像群の拝観のチャンスがごくごく限られていることが惜しまれる。常設展示してくれたら嬉しいんだけど、それはさすがに無理としてももう少し観られる日数を増やしてもらえないもんかな~。そしたら参拝者ももそっと増えるんじゃないかね。てなことを考えました。今回のシリーズがきっかけで、そのうち奈良へ行くかもしれません。実物をこの目で見たい。良弁さんの坐像が拝めたら言うことないなああでも、奈良も行きたいけど、それより広島行きてえ~!最後の広島訪問、去年の廿日市からまだ1年しか経ってないのにもう禁断症状が・・・にほんブログ村
2014年04月11日

昨日はNHKのニュースで、京都・毘沙門堂の見事なしだれ桜が映って朝からシアワセな気分でした中継のお姉さんが「ここはかつて限られた人しか入れませんでした」って言ってたけど、そりゃそうです。あそこはただの寺じゃなく、輪王寺宮にゆかりの深い寺なんですから。今でこそ規模も縮小されて、庶民ちっくな雰囲気も醸してはいるけど、宮の名残りをいくつか残してはいるんですよ。毘沙門堂の桜の見ごろは今週いっぱいとのこと。う~ん、京都日帰り・・・(笑)。いやいや、ここはガマンだ。宮の桜なら江戸にもあるなんで私、こんなに宮に入れ込むんだろう?とその後チャリを漕ぎながら考えてて、自分の中に江戸っ子の血が流れてるのを思い出しました。そうだ、火事に食いつくのと同じように、私の中の江戸っ子の血がそうさせるんだ・・・きっとそうだ。そんな江戸っ子な戦国ジジイがなぜか書いてしまった天平の歴バナは前回で終わり。気がつけばもう18話・・・うっわ~、アシュラン関係の話は3~4話くらいにまとめるハズだったのに新春スペシャルの「ケージョー」が11話で終わったのは、歴バナを完全に排除したからだったんだな。もういっそのこと、史跡めぐりはやめて歴バナ専門に転向した方がいいんじゃないかとも考えましたが、やっぱりそれはムリ。なんたって私が記事を書く原動力は、現地で何かしらを実感したりした「萌え~」にかかってるんだから。史料を読む面白さもあるにはあるけど、たぶん私の場合は机上で本を読んで考えるだけじゃ続かない。効率の点からいえば、現地の紹介か歴バナかどっちかに絞った方が明らかにペースは早いんだけどね。けど、歴バナ抜きじゃ現地の魅力は伝わらないと私は思う。当初、アシュランの話はVR作品と『アシュラブック』と『逆説の日本史2』からそれぞれかいつまんで紹介するつもりだったのが、ここまであれこれ書いてしまったのは『アシュラブック』で学んだことが多かったから。東大寺の大仏はホントにおまけ的な感じで、自分なりの推測を立てようとまでは思ってなかったので、かなり中途半端な内容になってしまって申し訳ありませんが、この辺りの歴史は今後のシリーズにも関わってくることなので、後半部は結構大変でしたが、ひとまず頑張って書いておいてよかったと思ってます。それに、『アシュラブック』はカラーの写真が多くて、今までよりもっと仏像を理解できるようになった気がします。中でも私が惚れたのが、インドのエレファンタ遺跡の石像。これはヒンドゥー教の遺跡らしいんですけどね、インド人って彫りが深いから、それが石像になるともう美しいなんてもんじゃ・・・エレファンタ行きてえ~!!ってしばらく悶えてましたが、私はインドへは行かないことに決めているのだ。ありがたいことに、現地に行かれた方が綺麗な写真を沢山公開して下さっているので、エレファンタのイケメン石像は画像だけでガマンですま、『アシュラブック』のおかげでアスラだけはどんなスタイルになっても見分けられるようになったし、不空羂索観音像と良弁さんのことも知ったし、買ってよかったです。あ、良弁さんはね、惚れちゃったんですよ壮年の頃を模した彼の像があって、なんつーか、その・・・要するにタイプ(笑)。崇伝といい、最近好きになるのは坊さん系が多いですが、まあ好きな人が増えれば歴史の勉強も楽しくなるしね。数日前、ふと『アシュラブック』の裏表紙を見たら、2,300円もしてた。値段をろくに見ずに買っていたので、うっわ、こんなに高かったの~!?って今さらながら驚きましたが、わたくしには2,300円の価値は充分ありました。沢山のことを教えてくれた北氏には感謝です。さて、すでにあとがきモードに入ってますが、歴バナさえ終われば本シリーズもあともうちょっとです。アシュランの上映が終わって外に出ると、正門前にも桜が咲き始めていた↓。 歴バナを長々と書いてるうちに、現実(4/10)ではもう桜の見ごろは終わってしまったのでこんな写真を載せるのもなんかマヌケですが、しょうがありません(笑)。寛永寺旧本坊でのお目当てはこれで済んだけど、体力と気持ちに余裕があればもうひとつ寄ろうかと思っていた。ので、池田家表門の前を通過して法隆寺宝物館へ。 ↑これが外観。かなり現代的な建物だけど、ここへ来るのは相当久しぶり。図録を持ってるから、リニューアルした時には行ったと思うんだけど、それ以来かもしれない。中に入ると、文化財保護のためにかなり照明を落としていて、人もまばらだったし落ち着いて観られた。今回は法隆寺宝物館をまんべんなく観るのではなく、仏具と仏像がお目当て。図録を見てたら、ここの仏像は結構変わってるとゆーか、ぶっちゃけいびつなスタイルだったり表情だったり、時代によってこんなにも違うのか~と思って、実物を見たくなったんだよね。ま、実物は小さいせいもあって、写真で見るよりは妙なインパクトはなかった。今回は仏像の写真は撮りませんでしたが、いくつか(顔が)気に入ったものもあったので、いずれ撮ってきましょう。ここの収蔵品はさすがに見ごたえがあって、お目当てをじっくり観た後で奥の部屋に行くと、ちょっとオドロキのものがあった。で、仏像は撮らなかったのにこんなものを撮ってきました↓。 なんとお~、足利義政(室町8代将軍)の御教書ですよ~!!長禄なら、大内家は教弘の時代だな。教弘が沼田小早川家の田万里を占領した頃だ(「高山城(19)」参照)。大内家が健在の頃の出来事なら、大内家を基準に時代判定をするクセは相変わらずですじゃなくて、義政は日野富子のダンナで銀閣寺を造った人でもありますが、どうもこの御教書では、法隆寺が播磨に持つ荘園には守護の介入を禁じてるみたいだな。おそらくそれまでもずっとそういう特権を認められてきたんだろうけど、秀吉の播磨平定によって荘園は消滅したらしい。その隣にも長文の書状がある↓。 これも義政の代のかな?と思って書状のお尻の日付を探したら「永正十五年七月」・・・えっ?永正ってことは!!と思って名前を見ると、「権大納言源朝臣義植」・・・やっぱり!!ここでの表記は「義植」となってますが、一般には「義稙」(よしたね)。わたくしのブログでは、「義尹」(よしただ)として登場する方が多いかもしれません。誰か、「義尹なんて知らねーよ」って言った?大内義興さんが将軍職に復帰させてやった流れ公方・義尹のことですよ!!(「山口編(17)」なぞ参照ください)え~と、永正15年7月にこの判物ができて、8月6日に飯尾貞連が書いたような雰囲気だな。飯尾貞連はたしか小早川文書あたりで何度か見かけたような気もするなあ。この直後、暴れん坊・尼子経久の中国席巻を受けて義興さんが帰国。(「鏡山城(9)」あたり参照ください)義興さんの抜けた京でも、大内家の領国でも混乱は加速していく。書状はもう1通あった↓。 こちらも同時期に出されたもので、義政と同じく法隆寺への御教書。いやあ、まさかトーハクで義興さんを偲ばせるものに出会うとはね(って、義興さんは書状のどこにも出てきませんが)トクした気分だなあ。寄ってよかったなあ。満足して法隆寺宝物館を出たあと、本館へ寄る。ミュージアムシアターの上映が始まる前のオススメとしてMCのお姉さんが教えてくれたものが気になったので、まずは急ぎ足で展示室を通過しながらこれを探した↓。 重要文化財・伝源頼朝坐像。鎌倉の鶴岡八幡宮に伝来したものだそうで、鎌倉時代の作。へえ、こんなのあったんだ~(←常設展示をまともに観たことがない)。頼朝坐像だけ観てから、ミュージアムショップで『アシュラブック』など数冊の本や地図を買う。この日は全体での大きな企画展はなかったから人も少なめだったけど、翌週からは建仁寺がトーハクに出稼ぎにやって来るから、会期中は人もかなり増えるだろう。ふっふっ、企画展、楽しみだなあさて、旧本坊はこれでおしまい。あ~、満足したあ。↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2014年04月10日

●天平21年・天平感宝元年・天平勝宝元年(749)1月14日、聖武天皇と光明子は行基様を戒師として菩薩戒を受け出家する。私度僧であった行基様はこれより数年前に大僧正になってます。が、2月2日には81歳で亡くなってるので、聖武&光明子夫妻に戒を授けたというのはホントかよ?ってちょっと疑りたくもなりますが(笑)。ところでこの年は改元につぐ改元ですね。古代の改元はめでたい事にちなむものが多いようだけど、天平21年4月14日には「陸奥国から黄金を献上された祥瑞」により天平感宝に改元とあるんだけど、これは大仏がらみらしい。『扶桑略記』によると、大仏のメッキに使う金は、最初は遣唐使をやって唐から買うつもりでいたようなんだな。それが、宇佐の八幡様から託宣があって「ちょっと待ってよ~!国内に金あるからさ~」ということなので、金峰山に良弁さんを遣わして「金、ください」とお願いしたところ、「え~、ウチの金は弥勒菩薩がこの世に現れた時に使うものだからなあ・・・じゃあ、近江の瀬田江付近に1人のジイさんが座ってる石があるから、その石の上に観音様を祀って祈ってみてよ。」というお告げがあったので、言われた通りにして良弁が祈ったところ、ほどなくして陸奥から金が献上されたってお話。「瀬田江」なら瀬田の唐橋の近くかと思ったら、なんと石山寺のことだというじゃあ~りませんか!しかも、石山寺の開基は良弁さんだってんだから、オドロキ・・・以前の大津の旅では石山寺にもできれば行きたかったんだけど、結局行かれなかったからなあ・・・しかし、良弁がいかなる人だか知らない時に行くのと知ってから行くのとでは萌え~度は全然違う。なんでも、良弁さんは聖徳太子の念持仏である如意輪観音像を安置して草庵を建てて祈ったそうなんだけど、お得意の修法でめでたく金をゲットできたものの、如意輪観音様がそこから動かなくなってしまったので、その場所にお堂を建てたのが石山寺の創建の伝承らしい。ま、ここからも大仏建立の中心に良弁がいたことがうかがわれるというもの。ただ、実際金が献上されたのは瀬田で祈願を始めてから2年後だっていうから、2年の間は良弁も気が気じゃなかったろう。ちなみに、献上された金の中からまず120両を取って宇佐の八幡様にお礼参りをしたそうな。7月2日、阿倍内親王が即位して孝謙天皇となる。●天平勝宝4年(752)2月16日、大仏の蓮華座を鋳始める。3月14日、大仏像に鍍金を開始する。閏3月頃、大仏の光背を造り始める。4月9日、孝謙天皇・聖武太上天皇・光明子の親子がそろって東大寺へ行幸、大仏の開眼供養を行う。天平17年(745)に平城京に戻って大仏建立の再スタートをきってから7年。全12年の工程の中でやっと半分が過ぎたとこ。本体はおおむね出来ていたらしいが、まだ光背を背負ってない。なんでろくにできてもいないような状況で開眼式なんかしたのか、ウィキペディアには聖武天皇が病気だったからとする説のほか、この年は仏教伝来からちょうど200年の節目にあたり、灌仏会(お釈迦様のバースデー)に合わせたという説を紹介しており、200年記念説が有力視されているらしい。ま、灌仏会は4月8日なんだけどね、なぜか1日遅れて式典が挙行されたらしい。あ、今日は4月9日だから、今からちょうど1262年前のことですね。(ただし、新暦と旧暦の違いはありますが)で、ちょっとこちらの系図をご覧ください↓。 光明子の母・三千代は、藤原不比等に嫁ぐ前、皇族の美努王(みぬおう)と結婚しており、3人の子を儲けてました。藤原四兄弟が全滅した後、あらたに組まれた朝廷人事により、橘諸兄(もろえ)が中心メンバーとなります。「上野第二編(43)」で、生前に正一位に昇った人は6人しかいないと紹介しましたが、そのうちの1人が諸兄です。が、天平勝宝7年(755)、酒の席で諸兄が朝廷を批判したという讒言があり、翌年引退します。その子・奈良麻呂(ならまろ)はそれ以前から謀反を何度も画策していたとされ、天平勝宝8年5月に聖武が薨去した翌月、奈良麻呂の陰謀が発覚します。ここではその詳細は省きますが、逮捕された奈良麻呂いわく、「東大寺なんか造って、人民が疲弊しているじゃないか!だから俺が立ちあがったんだ!!」だそうですが、謀反の名目に利用されただけにせよ、貴族や寺院のセレブ層が富む一方で、平民の負担は激増し、平城京では餓死者やホームレスが続出したともいい、 【反乱の口実に「東大寺建立」が利用され、反乱に加担した者たちもその名目を 了解していたという事実が、東大寺造営の実情──すなわち天皇の理想を実現させる ためだけに、実際の労働状況や財政事情等の問題点を度外視した無謀なプロジェクトで あったことをも、白日の下にさらしたのである。】 (ウィキペディアより)という現実があったようです。ここまで色々カネの話ばっかりしてきたからおわかりでしょうが、まだまだ生産性だって低いし、経済水準は小国の後進国にふさわしいものなのに、あれだけ金のかかることばっかり、それもいくつも並行してやるんじゃね。そうならない方がおかしいってもんだよね。それでも、当時は仏教や呪術が一種の科学だから、神仏にカネをかけるのはある面しょうがないですよ。それに、聖武自身に篤い信仰心があったことを非難する訳でもありません。・・・が、あまりに「やりすぎ」だし「無謀」。なんでここまでしたんだろうか?善意の見方をすれば、「篤い信仰心をして仏法の保護・発展をした」・・・うん。「あまりな自然災害の多さに、国家鎮護を熱心に仏に祈った」・・・うん。だめだ、2つしか浮かばねえそれより、私には遷都ラッシュは現実逃避だろ?って見えるし、国家予算ムシの造寺・造仏はもはや「異常」といえるレベル。井沢氏は、東大寺の大仏は長屋王の鎮魂のために造られたとしておられる。『逆説の日本史2』だけを読んでると、なるほど~と思う。ただ、少し自分で調べて自分で考えてみようとなってくると、よくこの流れで井沢氏は大仏が怨霊鎮魂のためのグッズだという推測を立てたよな~って思っちゃった。藤原四兄弟が死滅してから大仏建立プランを立てるまで、ちょっと期間が空きすぎてるんだよね。つまりは、ここまで書いてきてあらためて考えてみると、大仏を長屋王の鎮魂・除霊アイテムとするのはちょっと苦しいかな、と思った。けど、『日本霊異記』にはこんな感じの話が載っている。 聖武天皇は変で死んだ長屋親王一族の死骸を平城京の外に運び出し、焼き砕いて 川や海に投げ散らしてしまったが、長屋親王の骨だけは土佐に移して葬らせた。 ところが、その後土佐では多くの民が死んだ。恐れた人々は 「親王の祟りによって多くの民が死にました。このままでは皆死んでしまいます」 と役所に訴えた。そこで天皇は、土佐ではあまりに遠くて哀れなので、もう少し 都に近い紀伊の沖の島へお移しになった。『日本霊異記』は9世紀に入って成立したものなので、事実をそのまま記載したか疑わしい面もあるものの、わざわざこういう記事を入れているってことは、これに近い、つまり当時の人が長屋王のタタリと考えたらしいことがうかがわれる。だから、長屋王怨霊説を否定する訳ではないんだけど、井沢氏の語る怨霊信仰の教義の変更・・・すなわち、藤原四兄弟の死亡からはかなり時間も経っているし、長く続く地震や旱魃・飢饉に怨霊の存在を感じたかもしれないけど、その原因を長屋王1人に求めるのは個人的にはどうも納得いかない。国分寺・大仏建立は妻の光明子の薦めがあったといわれる。今回の天平歴バナの核となってるのは興福寺西金堂であり、東大寺法華堂(羂索堂)なので大仏について突っ込んで考えるつもりはない・・・といいつつここまで色々書いてきたのは、聖武の異常性を見たかったのと、羂索堂と大仏にも関連性がありそうなニオイを感じたからです。東大寺の開基は、良弁。大仏(盧舎那仏)はサンスクリットでヴァイローチャナ、これは「大いなる光明」を意味するという・・・盧舎那仏を選んだ理由については、『続日本記』によると天平12年(740)2月に河内の智識寺で盧舎那仏に感動したことがきっかけ、とある。まあ、確かに「いいな、これ~。朕も造りたいな~」って思ったかもしれないけど、だったらその後9月に藤原広嗣の乱が起こった時、観世音菩薩を造らせるんじゃなくてそこで盧舎那仏を造ればよかったじゃん?だから、造りたいという思いはあっても直接のきっかけは別のところにあるんじゃないかと思うんだよね。それにしても、金光明最勝王経と「光明」、それと良弁があちこちに出まくり。どうにも気になるんだけどなあ・・・ところで、光明子の自筆の書が残ってるようですが、サインは「藤三娘」。「藤原氏の三女」の意味です。これを書いた時、光明子は43歳のオバサン。どこまでも藤原一族の出身というプライドが高い方だったようです。上の系図にある橘諸兄と奈良麻呂の親子は、阿倍内親王(系図では孝謙)の立太子に反対の立場を取っていたらしい。そりゃ~、藤原氏以外は先のない女性皇太子なんかに賛成する訳ないよな。藤原仲麻呂は安積親王殺害犯ともいわれるけど、光明子の引き立てを受けて出世していった人物。奈良麻呂の乱は、仲麻呂排除の目的が強かった。で、そういう中に前回書いたような元正太上天皇が絡んでくると、藤原氏にとって状況はかなりシビアになってくる。それに危機感を抱いたのはおそらく聖武より光明子の方で、仲麻呂と組んでまずは危険な存在である安積親王を殺し、のちに父の違う兄とその子を死に追いやったんじゃなかろうか。殺しては自然災害におびえ、造寺・造仏に走り、夫は遷都を繰り返しては挫折し、無謀すぎる造仏プランがさらに社会の混乱を招き・・・の、どこまでも続く負のスパイラル。こんな時代を「天平」と名付けたのはあまりにもできすぎって冷やかに笑っちゃうのはわたくしだけじゃないんじゃないでしょうか。にほんブログ村
2014年04月09日

天平16年(744)の話題をもうひとつ。聖武天皇&光明子夫妻の間に生まれた基皇子が亡くなったその年に生まれた安積親王の名を「春の寛永寺(7)」で出してますが、聖武に唯一残された男子だったにも関わらず、安積親王は皇太子にはなれず、光明子の産んだ阿倍内親王が最初で最後の女性皇太子となりました。その安積親王がこの年の閏1月13日、急死しました。享年16歳。ウィキペディアによる、安積親王の死の経緯は 【天平16年(744)閏1月11日、難波宮に行幸の際、その途中に桜井頓宮で 脚気になり恭仁京に引き返すが、2日後の閏1月13日に17歳で死去した。 藤原仲麻呂に毒殺されたという説もある。】「17歳」は数えだからね。『逆説の日本史2』に引用されている『日本の歴史4 天平の時代』にはこういう風に書かれている。 【聖武は紫香楽に心ひかれていた。この地に浄土をつくりだそうとする聖武の 傾倒ぶりは、よそからみると、あつい仏教信者である光明皇后とそれに連なる 藤原氏に、聖武が取り込まれてしまったようにみえる。これに危機感を抱いたのは、 元正太上天皇であった。(中略) 彼女は、安積親王の擁立を考えていたと思われる。(中略)そこで彼女は、強力に 聖武に働きかけて、難波遷都を実現し、彼を光明や藤原氏から切り離そうと したのであろう。聖武の難波行幸は、このような意味をもっていた。 したがって、その途中で安積親王が急死したのは偶然ではない。難波遷都が 元正太上天皇の意思表示であったとすると、安積の死は、藤原氏の回答であったと いえよう。太上天皇である元正が、公然と行動しはじめたことは、皇位継承問題に つながりかねないだけに、藤原氏に大きな脅威を与えた。安積は、藤原氏によって 暗殺されたとする考えがあるが、以上の脈絡からすると、その可能性は高いと 考えられる。】井沢氏はこの引用文の後で、学者という人は史料に書かれてあることが大事で推理を嫌う傾向にあるが、それでもこういう記述になるのだから、【いかに安積親王の死が藤原氏にとって極めて都合のいい時期に起こったか、改めて言うまでもないだろう】とする。光明子の母・三千代は「橘三千代」で通して表記してきたけど、県犬養(あがたのいぬかい)氏の出身。それが、橘姓を与えられて橘を名乗った。橘氏の実質的な祖とされる。安積親王の母は広刀自(ひろとじ)といい、県犬養氏出身の女性。つまり、三千代とは同族。広刀自が聖武に嫁いだのは三千代の推挙があったともされる。安積親王殺害犯とも言われる藤原仲麻呂は、藤原四兄弟の長男・武智麻呂の子。四兄弟の母は、三千代ではない。祖父(不比等)の妻(三千代)が大きな影響力を持った人であり、その人の一族の娘から生まれた皇子であろうと、容赦なく殺した。藤原氏の血を引いてないから。四兄弟は疫病で全滅したけど、藤原氏が滅亡した訳ではなく、四兄弟はそれぞれ北家・南家・式家・京家の祖であり、平安時代の藤原氏大発展の基礎を築いた。こういう冷酷でえげつない手を使いながら。安積親王は唯一の皇子となりながら皇太子にはなれず、あまつさえ若い命を絶たれた。聖武の中では一本芯が通った行動をしたつもりだろうけど、はたから見て地に足が付いてないようなフラフラした行動を取らなければ、安積親王は殺されることはなかったかもしれない。まあ、聖武と藤原氏出身の妃の間に男子が生まれなければやっぱり藤原氏には危険視されて、いずれは殺されてしまったかもしれないけど。古代にはこういう血なまぐさい話が多いです。●天平17年(745)恭仁宮から難波宮へ遷都しながらも着々と紫香楽宮の造営を進め、前年の終わりには金銅仏の造立にも着手した聖武天皇はこの年1月、ついに紫香楽を都と定めた。紫香楽宮はこの頃には甲賀宮と呼ばれていたようだけど、ここでは紫香楽宮で通します。まあ、聖武としては紫香楽が本命だったんだろうな。しかし、紫香楽造営中はあんまりいい事がなかった。天平16年4月には宮の西北で山火事があり、この時は千人もの民衆が木を伐って火止めをしてくれたので、どうにかおさまった。5月には肥後で地震・雷雨があり、民家や田んぼが多く水没し、人的被害も大きかった。また280箇所で山崩れがあり、40人ほどが犠牲になった。天平17年4月に入ると、まず1日に市の西の山で火事。ついで3日に寺の東の山で火事。8日に伊賀の眞木山で火事。3~4日続く。11日、宮殿の東の山で火事。この時は聖武も避難し、13日の雨でようやく鎮火。27日、大赦を行う。しかしせっかくの善行もむなしく、同日、美濃で大地震が起こる。これは3日3晩続き、館や正倉、堂塔や民家が倒壊する。5月は地震の記事ばっかり。どこで、とは書いてないから、畿内あたりだろうとは思うけど、1日から11日までは毎日地震。あまりに地震が続くので、2日・8日・10日にはあちこちで最勝王経などを読経させている。3日には家臣を恭仁宮にやって掃除をさせて、5日には聖武が恭仁宮へ向かい、6日に到着。沿道の庶民からは万歳の声が挙がった。7日、平城京を掃除させる。9日、紫香楽宮付近で山火事。10日、恭仁京にいた民衆が争って平城京へ移る。11日、各地の陵へ幣帛を捧げる。もぬけのカラとなった紫香楽には盗賊が出て、火事もまだ消えなかった。そしてこの日、聖武が平城京に戻り、役人たちは元の司へ帰り、都が平城京に戻されることになった。5月の地震は異常だと『続日本記』に記されており、水が出たというから、地割れなんかがあったのかもしれない。聖武が平城京に戻った後もしばらく地震は続いたが、5月ほど頻発はしなかったらしい。相次ぐ地震と火事。口には出さなくても、民衆は「やっぱり帝の行いが・・・」って思っていたのかもしれない。安積親王のタタリだって思った人もいるかもね。5月5日に紫香楽を出る前日には、四大寺の僧を薬師寺に集め、都の場所についての諮問を行っている。その結果が5日の引っ越しなんだろうから、紫香楽京は天からも僧侶からも民衆からも不信任案を突き付けられたような形となり、ついに断念せざるを得なくなった。古代は結構天変地異が多くて、特に天平に入ってからは各地で地震があり、山崩れが起きたり霧島が噴火したり、果ては「京に飯が降った」なんて訳わかんない記事もあって、現代人からすれば自然災厄はたまたま聖武の時に多かっただけで、そういう点ではお気の毒でもあるけど、本人がハチャメチャな行動をしてるもんだから、偶然にしても出来すぎっつーか・・・ま、結果論で言えば恭仁宮・難波宮、そして紫香楽宮への遷都はムダ遣いに終わっちゃいました。しかし、「ふりだしに戻る」のコマに当たったとはいえ、まだ彼の熱は冷めず、紫香楽で始めた盧舎那仏の造営は大和で続けられることになります。これがいわゆる「奈良の大仏」です。ま~、この工事って相当大変だったみたいね。『逆説の日本史2』によると、【創建当時は世界最大の金銅仏】だったそうな。あまりにデカいので、一度に鋳造することはできず、下から順に造っていっては周りに土を盛って・・・みたいな感じで、大仏殿は実際、山の尾根を削って造成されたものであることが調査によって判明してるそうな。ウィキペディアによると、工事に関わった人間は260万人、大仏および大仏殿の造営にかかった費用は現在の金額に換算して約4657億円。使われた銅は約500t、金は58.5Kg。銅は西海から集めたとあり、銅のほとんどは山口県の長登銅山やその近隣の銅山で産出された銅でまかなわれたことが推察される、とある。『日本の歴史4 天平の時代』では本体の鋳造に2年、整形・補鋳に5年、メッキに5年の計12年かかったとある。また、作業中の事故や、鍍金の溶剤として用いられた水銀の中毒で多くの人命が失われたとも言われているんだと。●天平18年(746)国分寺に与える金字の金光明最勝王経の写経がこの頃までかかる。まともな予算のプランを組んでないだろ?って言いたくなるぐらい、あちこちで浪費するからお金もなかっただろうし、遷都につぐ遷都で写経も思うように進まなかったのかもね(笑)。デカいイベントをあちこちでやりすぎるからだよ・・・●天平19年(747)文献に「東大寺」の名が登場する。「金鍾山房」からスタートして、のちに福寿寺をあわせ「金光明寺」と名を変えた寺は、このあたりから「東大寺」となりました。この年になってやっと大仏の鋳造が始まったようで、聖武は宇佐の八幡様へ使いをやって大仏の造営を祈願したそうな。「もう神頼みに入ったか」と笑いたくなりますが、八幡様の回答は 【神(八幡大神である私)は、八百万の神を誘い案内して、大仏建立を 必ず成し遂げましょう。大仏建立にあたり、たとえ銅湯(銅を湯に溶かしたもの) が足りなくとも、私が水となって草木や土に溶け込んで、建立に支障が ないようにしましょう。】 (『逆説の日本史2』より)という親切なもので、大仏の開眼供養会が行われた天平勝宝元年(749)には八幡様が輿に乗って宇佐を出て、平城京に迎えられた。これが手向山八幡宮だそうな。↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2014年04月07日

え~、前回は天平13年(741)まで進んだにも関わらず、ほとんどが天平9年の大災害の記述になっちゃいましたが(笑)、翌天平10年~13年の間は比較的落ち着いているような・・・天平11年なんかは米も順調だったようだしね。ただ、天平11年には光明子の寝食が思わしくなかったらしく、それから地震と日食もこの期間にまた起きている。このあたりでの大きな事件といえば、天平12年の藤原広嗣の乱だけど、乱の兆しが起こる前に大赦と法華経の書写と七重塔の建立が命じられている・・・てことは、広嗣問題以前になにか神仏にすがりたくなるような状況があったってことかな。して、法華経の書写と七重塔建立の命を出した直後、広嗣の乱勃発。聖武の祈り、またしても届かず・・・この後、ひいじいちゃんの史跡めぐりに出る訳だけど、家出宣言を聞いた将軍は驚き怪しんだというから、周囲にとってはびっくりニュースで、計画的な行幸というよりは出奔に近い印象があったんじゃないのかな。ただ、聖武本人の中では、なんとなく不穏で落ち着かない日々を過ごす中で次第に遷都の夢が膨らんでいったのかもしれないけど。そして、年末近くになってようやく恭仁宮に入った聖武天皇はまだ宮殿の塀もろくにできていないような新宮で天平13年の正月を迎える。1月11日には伊勢神宮と七道の諸社に対し、遷都の報告をする。で、2月に国分寺建立に関する詔が発表される・・・●天平14年(742)7月に前回の最後で紹介した「金光明寺」が誕生する。恭仁宮を造営中にも関わらず、この頃には近江の紫香楽(しがらき)に離宮を造営してしばしば行幸するようになる。これが紫香楽宮。●天平15年(743)この頃から聖武の仏教カラーがより強くなる。1月13日、金光明寺の49人の高僧を集め、自分の皇位継承は仏縁によるもので、このありがたい仏の教えを世間に広めたいと言いだしていくつかの指示を出す。・翌日から49日間、すべての出家者に金光明最勝王経を転読させること・同じく49日間、国民は殺生をせず精進料理で過ごすこと・金光明寺の法会を国の模範とすること・国の宝である僧たちには、慈悲に始まり微妙の力に終わる仏法の興隆を図ることこれによって国土人民は安泰となり、「まさに今日が仏法の中興の時なのだ」と高らかに宣言する。おそらくこの辺が、「聖武天皇は熱心な仏教徒である」と言われるゆえんなんだろう。熱心は別に否定するつもりはありませんけどね・・・どう熱心なのか、先を続けましょう。10月15日、紫香楽宮で盧舎那仏を造営することを発願した。以下、井沢氏の現代語訳によるプレス発表。 【朕(聖武)は徳薄い身でありながら天皇になり、国民のすべてを幸福にしなければ と常に志してきた。そして今、ようやく人々を朕の仁政でうるおすことができたが、 まだ全国民を仏教の恩恵に浴させてはいない。そこで、なんとかして、仏の威光と 霊力により天下が安泰になり、万代(よろずよ)の幸福を願うことによって、 この世のすべての生命が皆栄えることを望むものである。 ここに天平15年、10月15日菩薩の大願を発して、盧舎那仏一体を造ることに する。国の銅を使い尽くして像を造り、大きな山を削って仏堂を構え、広く仏法を 世界に広めようと思う。そして、ついには朕も一般民衆も共に仏の功徳に浴して 悟りに至ろうではないか。 天下の富も、天下の権勢も朕が持っている。 この富と権勢を使って、この大仏を造る。】 (『逆説の日本史2』より)実に高潔なお志です。・・・文章だけ読んでれば。少しツッコミを入れてみましょうか。まず、「全国民が仏教の恩恵に浴」してないのは当然です。少し前の記事で書きましたが、当時、仏教は国家が管理しており、通常は各宗派ごと、年ごとに出家できる人数が制限されてたそうです。なんでかってーと、出家者には労働・納税・兵役が免除される特権があり、国家の財政にも関わることなので簡単に出家できないようなシステムがあったんですね。ま、「超狭き門の国家公務員」みたいな~。しかし、中にはホントに真摯に仏法を求める人がいて、公的な出家の認可を受けず僧となる人もいました。有名どころでは、空海さんもその類だったようで、こういう人を「私度僧」(しどそう)と呼びます。天平の有名な私度僧にはあの行基様がいます。天平の頃は仏教が盛んに興った優雅な時代、みたいな印象を持っている人もおられるかもしれないけど、舶来の総合文化である仏教は国家に管理されたおもに上流社会のためのものであり、まだ庶民に開かれたものではなかったようです。そういう時代にあって、行基様は下層階級への布教を精力的に行って庶民の人気を得たものの、私度僧は「僧尼令」で禁止されており、また民衆を煽動してるんじゃないかと朝廷から危険視されて弾圧を受けます。のちに、危険な人物ではないこと、行基を支持する民衆の力が大きかったことなどで朝廷は逆に取り込んで利用しようとして、大仏の建立にも協力するようになったようです。だからね、全国民に仏教が浸透してないのは当たり前の話で、「なに言っちゃってんの」ってカンジですが、ひとまずそこはガマンしても、「国の銅を使い果たし」・・・「ボケが!!」って悪態つきたくなるのはわたくしだけじゃないでしょ?天平9年の大災厄から6年。少しずつ回復はしたかもしれないけど、働き手を多く失った農村の被害がそう簡単に回復するとも思えず、広嗣の乱の最中に旅行はするわ、恭仁京に遷都するわ(しかもまだ工事中)、自分のために相当金のかかることをしている。もちろん、乱の平定にも金がかかっている。「また金の話か~」って?だってこれが一番わかりやすいんだもんちなみに、国分寺建立の詔勅が出されてから2年経ってますが、こちらも国ごとに立派な寺を2つ建てろってんだから、この時点では財政難で工事は進んでません。この翌年になって国分寺建立の助けとなるあらたな経済プランが打ち出されるくらいだから。それから、国分寺に納めるというお経の中には金泥で書いた金光明最勝王経が含まれてまして、これは朝廷側からもらえることになってますが、2年経ってまだ写経が終わってません(笑)。つまり、端的に言うと恭仁京は造営中、国分寺も現在進行形、その上に国の銅を使い果たすほどの仏像の建立を始めようとした訳です。この年。さらに年末には恭仁京の造営を中止して、紫香楽宮の工事が進められることになりました。現代であればあっとゆー間に支持率が下がって内閣総辞職に追い込まれるところでしょうが、政治のシステムが違うので如何ともしがたい。ホントに言葉通りに仏法を広めたいんであれば、豪華な堂宇にこもってる僧侶を連れ出して青空説法でもさせればいいじゃん。ま~ま~、彼と私じゃ生まれ育った環境も立場も考え方も何もかもまるで違うから、いちがいに非難できないのはわかってますよ。これは彼なりに真剣に考えた結果の行動なんでしょう。しかし、この一連の行動があらたな悲劇を生み出したとしたら?●天平16年(744)2月、難波京に遷都。なんかもうこの辺、ごちゃごちゃしてよくわからないんだけど、大阪城の南にある難波宮大極殿の跡は行ってるから写真を載せようと思ったら、史跡めぐりの最初の頃でもあり、「ついでに見た」程度のものだったから写真を撮らなかったらしい結構記憶には残ってるんだけどね。難波宮は聖武天皇の新設ではなく、古くは孝徳天皇、天武天皇などが都と定めた歴史を持つらしい。聖武天皇の代では、まず神亀3年(726)に藤原宇合をして難波京の造営に着手させ、副都としていたそうな。ウィキペディアだと難波京への遷都は天平15年とも16年ともある。それでも聖武の中には紫香楽宮への熱い思いがあったらしく、11月には紫香楽の甲賀寺に盧舎那仏像の体骨柱が建てられ、いよいよ工事が始まった。一方の国分寺は、あらたな費用プランを捻出するが、それでも資金不足で工事はなかなか進まない。え~、この年10月2日には道慈さんが亡くなってますね。なかなか厳格な人だったようで、唐と違って戒律が守られてない日本の現状を憂い、唐から戒師を迎えることを提案。これを受けてはるばる海を越え、幾多の苦難を乗り越えてやって来るのがあの鑑真さんです。ここまで何度も活用されてきた金光明最勝王経を持ち帰った道慈さんは、本場仕込みゆえに最勝王経の第一人者であったと思われますが、世紀の大イベントの金銅仏に盧舎那仏が選ばれたことがちょっと引っかかる。道慈の享年も死因もわからないけど、あるいは最後はしばらく病床に伏していて、代わって良弁がより頭角を現してきたのかな・・・なんて想像もしました。当時、紫香楽はかなり辺鄙な場所であり、聖武が紫香楽を選んだのは良弁のアドバイスによるものだったという説もあるらしい。良弁で引っかかるのが、盧舎那仏。盧舎那仏(毘盧舎那仏)は『華厳経』に詳しく書かれている仏だそうで、密教では「大日如来」と呼ばれ、サンスクリットでは「ヴァイローチャナ」・・・はい、「春の寛永寺(5)」でアスラの過去を紹介してますが、アスラ族のトップの神がヴァイローチャナなんですよ。良弁は金鍾山房が金光明寺となっても引き続き金光明寺に住持していたらしく、天平17年には律師となり、聖武天皇の発願した仏像建立にも深く関わっている。『アシュラブック』の著者・北氏は興福寺西金堂のアシュランと金鍾山房羂索堂の不空羂索観音像をつなぐのは、良弁の本尊・執金堂神像だと推測した。視点こそ異なるものの、私も北氏の推測には同意する。そして、国を挙げての金銅仏建立にも良弁が関係しており、しかもそれは元・アスラ族の神だった・・・ここは急いで自分なりの結論は求めませんが、どうも羂索堂&興福寺西金堂と金銅仏には連続性がある気がしてならない。推測のお好きな方は、ご自分でもちょっと考えてみてくださいね。私は、ここは今後の課題としますにほんブログ村
2014年04月06日

●天平13年(741)恭仁京の造営が進められる。2月、「国分寺・国分尼寺の建立の詔」が発せられる。日本では古くから肉食の習慣があったそうで、ほとんどは鹿やイノシシだったらしいが、他の陸上哺乳動物も対象になっており、オットセイ、アザラシなんかも食べられていたらしい。時代が下ると食べ方の変化もあり、古墳時代には薬として鹿やイノシシの肉が食されたが、仏教が入ってくると次第に禁忌とされるようになったそうな。天武天皇の代にはワナを使った狩猟や、農耕期間における牛・馬・犬・猿・鶏の食肉が禁止された。それでも鹿やイノシシは禁止されなかったり、朝廷での儀式には獣肉の代わりに鶏肉が使われるなど、完全に肉食がなくなった訳ではなかったらしく、持統天皇の代になって雨続きで不作が懸念された時には「これは政治に過ちがあるせいじゃないかしら。公卿や役人は酒と肉を絶って、悔い改めなさ~い!」という命令を出している。で、この天平13年には聖武天皇の名で再び狩猟のためのワナの設置の禁止、および牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食べることを禁止する勅が出された。違反した者には「杖一百」・・・百たたきか?内容が天武天皇の勅と似通っているので、前年のひいじいちゃん史跡めぐりの余韻が覚めてなかったのかもしれないけど、同じ月に国分寺に関する令が出されているので、単なるひいじいちゃんの真似っこというよりは、国分寺建設と一連のものであると見るべきなんだろう。『逆説の日本史2』では『日本の歴史4 天平の時代』という本を引用している箇所があって、それによると、国分寺建設には前段階があるという。そのスタートが、天平9年(737)に全国に出された釈迦像の造立と「大般若経」の書写を命じた勅。(「春の寛永寺(10)」参照)天平9年は第2次疫病フィーバー(エピデミック=国内流行)の吹き荒れた年で、上記リンク先では(話を長引かせたくなかったので)簡単に書きましたが、『続日本記』を見ると、そこに書かれているだけでもかなり大変だったことがわかる。話がさかのぼって恐縮ですが、あらためて見ていきますと、天平7年(735)から日本と新羅の関係が悪化しており、天平8年(736)に日本から使節が新羅へ行った際にはまともな礼遇を受けられなかったようで、天平9年の2月には新羅へ向けて討伐の兵を発するかどうかの下問がなされ、あわせて伊勢神宮・筑紫の住吉大社・八幡社・香椎宮へ新羅調伏のための奉幣がなされている。また、同じ2月には東北支配の強化を狙って藤原四兄弟の4男・麻呂を総大将に陸奥・出羽にまたがるエリアに遠征軍を出している。これは関東から動員した1,000の騎兵を含む数千人による、かなり大規模な作戦だったらしい。と、年初はまだいくらか元気があったっぽい。造仏と大般若経の書写が命じられたのが天平9年の3月。釈迦像の脇侍には菩薩2体を造れということだった。4月には道慈が、「私の大安寺では伽藍への災害を免れるために毎年大般若経600巻の転読をしてきましたが、おかげさまで今までなんともありませんでした。ので、国家安泰のためにこれを恒例としたい」と上奏し、許された。順序は逆転してるけど、3月の造仏・書写の命令も道慈ら仏教界の進言を受けた可能性はあるよな。4月頃から疫病の流行が本格化。病人の多い地域へは湯薬が与えられた。大宰府では百姓が多く死に、部内の神社への奉幣がなされる。5月1日、日食が起こる。今じゃ日食は天体ショーだけど、当時はもちろん不吉なことで、宮中において僧600人が大般若経の読経を行った。19日、「4月から疫病と旱魃が続いて、どうにかしようと祭祀などを行ってきたけど、皆の苦しみはまだやまない。この上は、酒と殺生を慎もうと思うんだ・・・都で病気のために動けない者がいれば、援助してあげてよ」という勅を出した。加えて大赦を行うが、政府要人に死者が相次いで6月には「廃朝」・・・つまり、政治機能がストップする事態にまで発展する。要人の訃報は大宰府からも届いた。疫病の大流行とともに、伊豆・若狭・駿河・長門などでは飢饉が起こり、追加の大赦が行われる。6月26日、太政官符で諸国に防疫対策の指示を出す。・この病気は赤斑瘡といって、発症時は熱病に似ている。 発熱してから3~4日、あるいは5~6日で発疹が出て、 できものは3~4日続く。熱がある間は冷水を飲みたがるが、飲ませてはいけない。 できものと熱がおさまる頃に下痢が起こり、早く治療しないと血便になる。 症状は嘔吐・吐血・鼻血・咳だが、下痢の治療が最優先だ。・身体を冷やしてはいけない。広い布と綿を腹と腰に巻いて温めなさい。 地面に寝かせるのはダメ。粗末であろうと、床に敷物を敷いて寝かせること。・粥、おもゆ、煎り飯、粟汁は冷えていても食べさせてよい。鮮魚・肉・生野菜・ 水・氷はだめ。 下痢をしたらニンニクやネギを煮たものを沢山食べさせること。 下血したら細かく砕いたもち米と米を粉にしたものを煮て、2~3回食べさせること。 乾燥したもち米やうるちを粥にしたものもいい。・食欲は落ちるだろうが、無理にでも食べさせること。発病後は、焼いた海藻や ついた塩を、口や舌が荒れても口に含ませること。・回復しても20日の間は鮮魚・肉・生野菜・生水の摂取、および水浴・房事・ 風雨の中を無理に歩いたりすることは控えるように。これを守らないと下痢が再発し、 そうなるとどんな名医でもどうしようもない。 20日経ってから肉や魚が食べたくなれば、よくあぶること。 干しアワビや干し肉、乳製品・蜜などはよいが、鯖や鯵は干物であっても 食べてはいけない。年魚は焼いたものを食べなさい。・丸薬・散薬は飲んではいけない。熱がひかないようであれば、人参湯を飲んでもよい。・・・ま、治療法が合ってるかどうかはともかく、ここまで事細かな指示が出されるほど疫病が蔓延していたのだろう。それでも疫病は収まらず、8月には畿内七道諸国の僧・尼僧に対し沐浴して清浄を保つようにと同月内に2回の令が出され、最勝王経を読ませ、殺生を禁じる命を出した。にも関わらず、四兄弟の最後の1人、宇合は死んだ。役人に死者が多ければ民間人も当然多くが犠牲になった訳で、聖武天皇は「朕の不徳の致すところ」として免税を発表している。そして「天下太平国土安寧」を祈願して、宮中の15箇所において僧700人に大般若経を、僧400人に最勝王経を読ませ、畿内七道諸国には578人に同じようにさせた。それでも天智天皇の娘である内親王が死んだ。9月には諸国の備蓄米が放出されたのか、農民が農作業に従事しなくなり村を離れ一家離散するという噂が朝廷に届き、これを禁じて百姓に家に戻って家業に従事するように命じている。同じ9月には、筑紫の防人(さきもり)を壱岐・対馬に配している。当時は東国の人間を筑紫に配備していたようで、疫病などによる民間の疲弊を受けてか彼らを自国に戻し、代わって筑紫の人間を壱岐・対馬に回したらしい。10月には地震が起きており、3年前の畿内七道地震の余震がまだ頻発していたのかもしれない。11月頃には疫病は下火になったらしいが、ここまでで「数え切れないほど死んだ」とある。天平9年とは、こういう年でした。先年、インフルエンザが流行した際にはマスクが店頭から消えるという軽いパニック状態が起こりましたが、医学の進んだ現代でさえいまだにそういう事が起こるのだし、天平9年は疫病以外にも外交問題や日食・地震・飢饉など社会問題とも言うべき数々の災厄があり、疫病に対して有効な治療法のない当時はそれこそ神仏にすがる以外に手はなく、「こんなことは今までなかった」と『続日本記』にあるくらいだから、まさに恐怖のどん底にあったと表現するのがふさわしかろうと思われます。で、やっと冒頭の天平13年に戻りますが(笑)、国分寺建設の要点は・去年、神社を増飾して釈迦像を造らせて大般若経を写させたら 今年は春から秋まで順調なんだよね~。・金光明最勝王経を広める王は四天王が守ってくれるって経典にあるから、 うちも諸国に七重塔を造らせて、塔ごとに金光明最勝王経を置かせようと思うんだ。・塔と寺は国の華だから、いい場所を選んでね。国司は寺と塔をしっかり飾って 清浄を保つようにしてね。とし、国分寺は「金光明四天王護国之寺」と称して僧20名を置き、国分尼寺は「法華滅罪之寺」と称して尼僧10名を置く。僧・尼僧とも教戒を受け、欠員が出れば補充する。毎月8日に最勝王経を転読し、月なかばには戒羯暦を読む。毎月六斎日(8日・14日・15日・23日・29日・30日)には殺生を禁じる、といった内容。ただし、天平13年の発布というには内容に矛盾があるので、諸説あるらしいが、大まかにいって天平9年以降の詔勅をベースにして、新たな条例を加えて天平13年2月に最終形態として発布されたのがこの国分寺に関する勅らしい。え~、もうすっかりおなじみですね、金光明最勝王経(笑)。一般的には、国分寺の創建は仏教を篤く信奉していた聖武天皇が鎮護国家のために下した命、という風に簡単に書かれることが多いんじゃないかと思うけど、経典の内容と時代背景を御理解いただいた皆様には、さらっと書けるような軽いきっかけじゃなかったってことがおわかり頂けるんじゃないでしょうか。長屋王の変、うち続く旱魃と飢饉、藤原広嗣の乱、そして多数の死者を出した疫病の猛威。前年のひいじいちゃんの史跡めぐりは軍事パレードか?国分寺建立は熱烈で純粋な信仰のたまものか?もちろんバカにしてる訳じゃないし、単品で見ればそういう解釈もアリだと思うけど、現実を見ていくとどうもそぐわない気がするんだよね。教科書では(やむを得ないとはいえ)大きな出来事だけをぽんぽんと羅列するだけですべてをつなげる背景の解説がないから、頭にも入りにくいし「歴史ってつまんない」って思っちゃう子が出てくるんじゃないかね。ま~ま~、それはともかく、ほとんどレギュラー化している金鍾山房(金鐘寺ともいう)がまた登場です。金鍾山房と前回紹介した阿倍内親王のための福寿寺、これを合体させて「金光明寺」としてリニューアルし、大和の国分寺としました。だけでなく、日本の総国分寺という位置付けでもあったそうな。時期がはっきりしないのでここでついでに書いておきますが、金光明寺はのちに「東大寺」と呼ばれます。ペアになる大和の国分尼寺、こちらには藤原不比等の邸宅を光明子が尼寺に変えた「法華寺」が当てられたらしい。国分尼寺の方は、まんま法華「滅罪」之寺だからねえ。なんの「滅罪」でしょうかねえ・・・にほんブログ村
2014年04月05日

火曜と水曜は具合が悪くて休んでたのですが、すまほの速報でチリの大地震のニュースが入ったので起きてTVを付けたら、ちょうどNHKで「ほとけの履歴書」なる番組が始まった。しかも、シリーズ第1回目だった。初回は京都・三十三間堂の二十八部衆がテーマだったので、「なんてタイムリー」と思いながら嬉々として見始めたんだけど、講師であり彫刻家の籔内佐斗司(やぶうち・さとし)氏の解説はわかりやすかった。次回は毘沙門天で、3回目はアシュランが登場。そしてシリーズの後半では、なんと東大寺の不空羂索観音像が登場する予定らしい。これは見逃せませんね~。ただし、籔内氏はもちろん美術・仏教的方面からの解説で長屋王の怨霊うんぬんという話はまず間違いなく出ては来ないでしょうがさて、ちょっとピッチ上げるぞお~(笑)。●天平10年(738)阿倍内親王立太子。光明子は阿倍内親王の立太子を祝して「福寿寺」(写経所)を建てる。秋、大伴子虫が宮処東人を斬る。え~、話が長すぎて年表の最後をお忘れの方も多いかもしれませんが藤原四兄弟が世を去った次の年です。阿倍内親王は聖武天皇&光明子の間に生まれた子。基皇子には姉にあたるようです。結局、光明子をはじめとする藤原系の妃には後継ぎとなる男子が生まれなかったので、聖武&光明子は史上初となる手を生み出しました。それが阿倍内親王の立太子。「女帝なんて他にもいるじゃん」て?これまでの女帝たちはあくまで中継ぎという立場がほとんどだったのが、阿倍内親王は女性で初めて皇太子になった方なんだそうですよ。しかしだね、当座はこれでしのげても、皇后から天皇になった訳でもなく、皇太子から天皇になる予定の阿倍内親王に夫を迎える訳にはいかない。天皇以外はみんな家臣なんだから、家臣の夫を迎えて子を産んでその子が後を継いだら臣下の子が帝位につくことになってしまう。源氏物語の中では、冷泉帝(源氏と藤壺の宮の子)の例があるけどね。あれはフィクションだからね。紫式部はずいぶんとスキャンダラスな物語を作ったもんだよな~。じゃなくて、このままでは見るからに先がないので、手づまりになる前にどうにかしようと夫妻は子作りに励んだんじゃないか(笑)。私の感覚でいうと立太子のお祝いに写経所ってのも変な話で、阿倍内親王の御世をことほぐとともに、なんとか次の男子が生まれるようにという願いも込めての造寺だったんじゃないのかな。あるいは、長屋王の怨霊にはなんとか鎮まっていただいて、阿倍内親王の御世が落ち着くようにという祈願だったって可能性も考えられる。長屋王の怨霊が発動したという認識は、この年にはあったものと思われる。それが、大伴子虫が宮処東人を斬ったという話題。この話は先行して「春の寛永寺(8)」で紹介してますが、四兄弟が死亡した翌年に正史に書かれている訳ですよ。じ~つ~にタイムリー。もちろん、実際にこの年に東人惨殺事件が起こった可能性だってある。だとしても、「長屋王は実は無実だった」なんて藤原氏に都合の悪い記述をわざわざ載せる必要はないんじゃない?『逆説の日本史2』で井沢氏は、これは長屋王の鎮魂のために挿入された記事だと語る。確かに、公式に鎮魂を始めたと見ていいと私も思う。ただ、井沢氏は四兄弟がそろって死ぬという劇的な展開を受けて怨霊信仰の教義が「祀る子孫のない人」から「無実の罪で殺された人」に変わったとしておられるんだけど、それまで無実の罪で殺された人が祟るという概念がないのに、いきなり長屋王の怨霊の存在を認めるってのもちょっとどうかって気がする。なので、私は前回・前々回のまとめで書いたように、罪の意識が当初からあり、ひそかに鎮魂を始めていたんじゃないかと思った。真意を隠しつつも豪華な堂宇を2つも建てたのに、地震は起こるわ天然痘の波が押し寄せるわで、2度目の疫病フィーバーの時には政府高官がバタバタと死んだ。「ヒィィィ、もうダメだあ~!ごめんなさい、許してください!!」と、ここで初めて「私」の鎮魂から「公」の鎮魂へ切り替えたんじゃなかろうか。ちなみに、この年の春には「国家隆平」を願って京畿内7か国に金光明最勝王経の転読が命じられている。政府の要人がバタバタ死んで、体制を建てなおさなきゃいけない時に、「国家隆平」ってちとズレてませんか?これをきちんと表現するなら、「怨霊を鎮め諸々の災厄を取り除き、国家の安泰を金光明最勝王経に祈った」の方が時期的に妥当じゃないかと思うんだけどねえ・・・●天平12年(740)9月3日、藤原広嗣の乱勃発。9月15日、国別に観世音菩薩像一躯高7尺の造立と「観世音経」十巻の写経を命じる。藤原広嗣は藤原四兄弟の三男・宇合(うまかい)の子。第2次疫病フィーバーで多くの要人が死んだので、あらたな主要メンバーが立てられ、藤原氏の勢力は後退、広嗣は大宰府に転勤になった。これに不満を持った広嗣が挙兵。藤原氏と親密な関係を築いてきた聖武天皇は「きゃあぁぁぁ・・・・」と気が遠くなっただろう。広嗣挙兵の報が届いた直後の15日、「願依聖祐欲安百姓」のために出された勅の内容が観世音菩薩像の造立と写経。どう考えてもおかしいでしょ、これ正しくは「広嗣を退治して民百姓を安泰にしたいんですう」でしょ?こんなタテマエばっかの記述を鵜呑みにしちゃいけませんぜ。結局、乱は年内に平定され、広嗣は11月1日に斬罪になった。 【乱の鎮圧の報告がまだ平城京に届かないうちに、聖武天皇は突如関東に下ると 言い出し都を出てしまった。聖武天皇は伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を巡り 恭仁京(山城国)に移った。その後も難波京へ移り、また平城京へ還って、と 遷都を繰り返すようになる。遠い九州で起きた広嗣の乱を聖武天皇が極度に 恐れたためであったとされる。】 (ウィキペディアより)このうち、近江での滞在地が「膳所城(2)」で紹介した禾津頓宮(あわずとんぐう)。久々に自分の記事を読み返して、ついでに現説公開サイトの記事も読んでみたけど、形式としては掘立柱の建物だけど、規模は宮殿クラスだそうな。この建物はまんず行幸という名の放浪の旅の際に建てられたと思って間違いないようだけど、ここでの滞在は3日だそうで、せっかく作った建物を手際よく解体し、次の流浪先へ運ぶ・・・いちおう天皇の行幸だから、これぐらいのことは当たり前なのかもしれないけど、現実を考えてみれば行く先々に用材を運び頓宮を建て、ってものすごく大変なことだよね。その行動には、なんとも異様なものを感じるのは私だけじゃないだろう。聖武天皇が「極度に恐れた」のは広嗣の乱であり、その背後に怨霊の影響を感じ取ってもいたからじゃないんだろうか。次々起こる災厄に疲れ果て、精神が限界に来た聖武天皇が「ちょっと関東へ行くよ・・・」と言って家出を始めたのが10月の末。移動は車駕(しゃが)という天子専用のクルマだったらしい。29日、山辺郡竹谿村の堀越頓宮着。翌30日、伊勢の名張へ到着。11月1日、伊賀の安保頓宮に泊まる。この日は大雨で人馬ともにクタクタ。2日、伊勢国壱志郡の河口頓宮着。翌日から10日ほど伊勢神宮に参拝したらしいが、その期間中に広嗣の乱に決着が着いた報告を受ける。無事解決したんだから、さっさと帰れよ・・・でもまだ帰らないんだ。12日、壱志郡に泊まる。14日、鈴鹿の赤坂頓宮着。20日、赤坂から朝明郡へ。25日、桑名の石占頓宮へ。26日、美濃の当伎郡へ。12月1日、不破郡不破頓宮へ。関ヶ原じゃん。6日、坂田郡横川頓宮へ。7日、犬上頓宮へ。9日、犬上から蒲生へ。この時代から蒲生の地名はあったのか・・・10日、野洲頓宮へ。11日、志賀郡の禾津頓宮へ。14日、山背国相楽郡玉井頓宮へ。15日、恭仁宮へ。ここがゴール。あとになって元正太政天皇と光明子がやって来たらしい。え~と、すべての正確な場所は調べてませんが(←めんどくさい)、大ざっぱに言って奈良から東へ向かって進み、忍者の里・名張を越えて伊勢に行き、そこから伊勢湾沿いに北上して鈴鹿サーキットを通過し、桑名で焼きはまぐりを食べてぐぐっと真北に向かって関ヶ原到着。そこからは東海道本線沿いに西に向かい、彦根城や安土城の近くを通って瀬田の唐橋を越えてから南下・・・時代考証ムシで有名スポットから足取りを説明すると大体こんなとこになります。焼きはまぐりはもちろん冗談ですけどねこのルートは、伊勢に寄った以外は壬申の乱における天武天皇の足跡と重なるらしい。 ついでに不破関の写真↑。ここには奈良時代の鍛冶工房があったことが確実視されている。今はのどかな畑になってるけど。 ↑かすかに残る関の土塁の跡。これは関ヶ原めぐりの際、小早川金吾の陣取った松尾山に行く途中で撮ったもの。ここから少し南東に下ったところに井上神社があり↓ この神社では天武天皇を祀っている。後から妻である持統天皇も併せて祀ったそうな。川向かいの神社には弘文天皇が祀られているらしいけど、そちらは行かなかった。関係ないけど、ここに落ちてた松ぼっくりはすげえデカかったんだ~(笑)。この放浪の旅では、400名もの騎兵を連れてったそうな。そういう一行であったから、これは世間で言われるように逃げ回ったんじゃなく軍事パレードだったんじゃないかとする方がおられる。確かに、関東に行くと言っておきながら実際の東限は関ヶ原止まりだから、この旅の最終目的地は不破の関で、壬申の乱で皇位をもぎ取った天武天皇にあやかろうとした可能性は高い。けど、現実を見ればパレードどころじゃないだろうって気がするんだけどね。苦しい時期だからこそ、強かったひいじいちゃんの足跡を辿ることで王者としての自分の存在をアッピールしたかった可能性もなくはないけど・・・にほんブログ村
2014年04月04日

前回の最後はアシュランのまとめに入っちゃって金光明最勝王経の紹介が途中になってしまったので、その続きです。『時宗・一遍 仏の世界』様のサイトによると、金光明最勝王経はちょっと独特らしく、【四天王など天部の怪神が仏の手足となって護法のためにその怪力・異彩を発揮する面白さがある】という。ある難しい説法が終わった時、観客である虚空蔵菩薩や四天王がスタンディングオーベーションでやんやと喝采を浴びせ、金光明最勝王経を講義すれば、その国は4つの利益を得られるだろうと言った。1、国王の軍は強くなり、無敵になる。疫病はなくなり、寿命は延びて皆ハッピーになり、 正しい法によって国は栄える。2、王の妃たち、王子たち、諸臣の中は睦まじくなり、そこには奸佞はなく、 王から深く愛される。3、僧侶・国民は正しい法により病はなく非業の死を遂げる者もない。 田は豊穣になり、皆が幸せに暮らせる。4、常に天の加護を受け、慈悲の心が広がり争いは消え、皆が仏法に帰依して 正しい法の道を進むようになる。経典の中では、釈迦とそれを取り巻く「天」たちとの質疑応答などが続く。帝釈天は、過去の罪業をどうしたらチャラにできるのかと質問し、釈迦は結論として金光明最勝王経を読むこと、と説明するらしい。帝釈天・梵天・四天王らは、この経典を守護し広めることを誓い、経典のある国土において飢饉や怨念などの悩みがあるなら、自分たちがその国民を災厄から守ろうと宣言する。釈迦はその心意気を褒める。 吉祥天女は他人にこの経典を解説する者があれば、その僧を敬い、衣食などで困らないようにしてあげる、と宣言する。釈迦はその心意気を褒める。 ある場面では、釈迦が阿難陀(アーナンダ:弟子の1人)に「如意宝珠」という「すべてを擁護し、安楽を得させる」お経を授ける。続いて観自在菩薩が「望みがすべて叶う」という呪文を教え、執金剛秘密主菩薩は「すべての恐怖を除く」お経を、索訶世界梵天王は「憂いや悩みがなくなる」お経を、帝釈天主は「すべての恐怖と厄難を除く」お経をそれぞれ授ける。・・・ふん、出てきましたね~。執金剛神。とりあえず、先へ進めましょう。とにかくこのお経を自分の国で広めればいいことずくめってカンジだけど、広めるだけじゃダメらしいのだ。香水を地にそそぎ、多くの華を飾り、多くの珍宝を捧げ、堂宇を美々しく飾り立て、高価な香をたき、さまざまな音楽を奏でよ・・・庶民には無理です。「国が富み栄える」のもパンピーにはあまり関心のないところだけど、これだけの贅を尽くして経典を護り広めよ、ってのはまさに王者のための経典ってカンジですね。それどころか、財宝などを寄付すればするほど御利益がある風な露骨な記述もあるらしい。また、経典の中では王は尊く諸天に護られているから「天子」というとある。支配者にとってはいいことだらけなようでいて、王が正法を行わない場合は、「天」が怒って国を滅ぼしてしまうという、厳しい側面もある。このあたりが、このお経の国家鎮護的性格の中心部分にあたるらしい。最後は釈迦がこの経典をよく流布し、正しい法を世間に広めるようにと自分の死後を託し、山ほどの菩薩と諸天らがそれを護る事を誓う、という記述になっている。 で、前回からここまで金光明最勝王経をざっと見てきましたが、たしかに「護国」的記述の割合がもっとも多い。経典の加護を受けるには、持てる限りの贅を尽くして豪華な儀礼をせよ、ってのも興味深いですね。そして、「護国」に次いで大きな目玉が「罪業滅消」。これはなかなか・・・ま、ここまで読んできて下さった方はわたくしが何を言いたいかもうおわかりでしょうが、『アシュラブック』から学んだもう1つのナゾ、不空羂索観音像についてちょっと考えてみましょう。東大寺の初期スタイルと見られている金鍾山房は、基皇子の死を受けて神亀5年(728)に創建されたと言われる。近年の修理の際の調査から、法華堂建立および不空羂索観音像造立年が733年である可能性が高まったという・・・が、私は法華堂(羂索堂)が金鍾山房の中心だったんじゃないかと思うものの、光明子が金堂を造ったという記述もあるようだし、金鍾山房そのものは733年以前から存在していた可能性はある。で、何度も書いてますが、長屋王が殺された同じ年の729年、羂索堂の基壇に使われた用材が伐採されている。前回は途中になっちゃいましたが、少なくとも羂索堂は長屋王との関連があるんじゃないかと思いつつも、どうもうまい推測ができなかった。して、金光明最勝王経の概要から考えてみると、まず本尊の不空羂索観音像はこの経典には出てこないっぽい。かつて二重基壇の下段にいた7体は、帝釈天・梵天・四天王、プラス執金剛神。『アシュラブック』の中で北氏は、光明子が不空羂索観音を選んだ理由として・不空羂索の呪文を唱えると鬼神が巣くう阿修羅門窟の門が開いて すべての鬼神が従い、あらゆる願いがかなうと不空羂索関連の経典にあること・夫・聖武天皇のことを混乱した社会を改革する帝王と見なし、豪華な宝冠を かぶった不空羂索観音像に王者である夫の姿を重ねたを挙げておられる。この推測を否定するつもりも、その材料もないんだけど、歴史ファンのはしくれであるわたくしの視点はちょっと違う。基壇の下段にあって本尊を守るのは、いずれも金光明最勝王経の中で経典を賛美し「ワシらが経典を広め、信者を護りま~す!」と宣言した神たち。この辺の構成が、金光明最勝王経に基づくものだと言われるゆえんなのかな。これまではどうにも執金剛神像と僧・良弁の存在が気にかかっていた。『アシュラブック』では、お堂の背面の扉や入口(=後戸:うしろど)に強力な護法神(=後戸の神)を配し、そこで芸能などを催したという説明がある。執金剛神像は1年に1日、御開帳があるそうで、その日は良弁の命日なんだそうな。そして、その日をはさんで法華会の修行が平安中期から行われているので、【執金剛神が後戸の神として祀られていた可能性を示唆します】とある。なるほど・・・執金剛神が後戸の神にふさわしいとは思うものの、基皇子の菩提を弔うための寺で、岩屋を砕く馬鹿力の神と激しい修法を行う僧の組み合わせはどうにもそぐわない気がしていた。しかし、経典の概要を知ったことで、かすかに何か見えた気がした。執金剛神は経典の中で、「すべての恐怖を除く」ことを約束しているのだ。ついでに言うと、帝釈天は過去の罪を清算する方法を質問し、「すべての恐怖と厄難を除く」ことを約束している。妙幢菩薩は夢の中で婆羅門の鳴らす金鼓に導かれて懺悔しまくった。梵天は「憂いや悩みがなくなる」のを約束し、四天王は「非業の死を遂げる者はいなくなる」と約束した。自分に都合のいい部分だけピックアップしてる、と言われたらそれまでだけど、じゃあ罪業消滅じゃなく、メインである鎮護国家の方を前面に出すと、贅沢に飾り立てて経典を広めれば国王にとってウハウハの御利益をあげちゃうよってなるけど、それも基皇子の菩提を弔う寺にしては変じゃない?(笑)どちらを採用するにせよ、基皇子にはそぐわないのだ。だから私は、やっぱり羂索堂も長屋王のことがきっかけで造られたんじゃないかと思う。鎮魂、とまではいかなくても、スポンサーには罪の意識が当初からあり、そこから逃れるために不空羂索観音と護法善神におすがりした。北氏は不空羂索観音像のことを【イケメン成人男子の力強い面相】としておられるけど、私の印象では生来病弱で気弱だったとも言われる聖武天皇は不空羂索観音像のおもざしとはとてもじゃないけど重ならない。2万個以上の宝石を付けた豪華な宝冠は、王者の象徴というより「ゼイタクに美々しく飾れ」という金光明最勝王経の教えに則ったものじゃないだろうか。ちゃんとルールを守ってるんだから、あとは約束通り下段にいる護法善神たちが守ってくれる・・・(はず)。良弁がいつ、なんのための修法をしたのかはわからないけど、怨霊が力を発揮する前だったら不安を取り除いてくれるようお願いしたかもしれないし、発動した後だったらはっきり怨霊への恐怖を除いてくれるようお願いしたかもしれない。ただね、羂索堂が長屋王への贖罪のためだったとしたら、興福寺西金堂でアシュランに懺悔させる必要はない。それでも相当の金をかけてあんな構成にしたのは、当時怨霊信仰の教義が変わる前だったとしても、その予兆をうすうす感じてたからじゃなかろうか。慈円が『愚管抄』の中で言っていたように、祟られる当人にはわかっていた。光明子にも、心当たりはアリアリだった。ちゃんと教えに従って豪華な羂索堂を建てたのに、旱魃や飢饉は続くし、次の男子もできない。時期ははっきりしないけど、藤原四兄弟は光明子に子ができないのでさらに自分たちの娘を2人、聖武天皇に嫁がせている。それでも、その娘たちにも子はできなかった。その上に、母の死。それでも三千代の享年は70歳近かったようだから、ここで怨霊うんぬんとは考えなかったかもしれないけど、宮廷でも重きをなしていた母の死は、不安な中だけにショックも大きかっただろう。羂索堂だけじゃ足りない・・・そう思って、西金堂にあらためて贖罪の場を設けたのかもしれない。あるいは、アシュランを懺悔の代弁者としたのは前回書いた理由の他に、羂索堂で執金剛神が岩屋から引きずり出したアスラを西金堂に連れてきて光明子の贖罪も兼ねて懺悔をさせた、みたいなビジョンもあったかもね。ただ、当時の仏教は本場・インドから先進国・唐を経て日本にもたらされる最新の文化。純粋な宗教部分の他、美術や建築なども含めた総合文化であり、金光明最勝王経のような現世利益的側面が多いものは科学のジャンルに含めてもいいものだろう。そして、当時の仏教は国家が管理しており、まだ庶民に馴染みの深いものではなかった。そういう特権階級がおおむね一人占めしていたような時代に、最新のお経である金光明最勝王経が持ち込まれてたまたまファーストレディーである光明子の息子と母の仏事が続いたので、最新の経典に飛びついてたまたま金光明最勝王経式の堂宇が2つできた可能性だってもちろんある。上流階級出身の光明子はそれなりの学もあったようだけど、金光明最勝王経には仏教本来のかなり難しい内容も結構あるようで、道慈は経典のエッセンスをわかりやすく説明しただろうし、受け手はこの経典の持つ特色に感じるところがあったのだろうと思う。なぜって、金光明最勝王経はまだこの後も活用されるのだ。なんにせよ、羂策堂と興福寺西金堂には連続性があるような気がしてならない。そして、そのつながりはまた別のところにつながっていくんじゃないかというかすかな推測を持っている。にほんブログ村
2014年04月03日

疫病で藤原四兄弟が全滅したのが天平9年(737)。金鍾山房の羂索堂ができたのと、興福寺西金堂の工事が始まったのが天平5年(733)。長屋王が怨霊に昇格(?)する条件が四兄弟の死であったのなら、西金堂と羂索堂は怨霊信仰のたまものとは言えない。が、時期的に、またその構成からこの2つの堂宇が長屋王と無関係だとは私には思えない。色々考えたんだけど、2つの堂宇を建立した時期はまだ怨霊うんぬんという発想はなくても、光明子の中にはそれなりの罪悪感はあったんじゃないだろうか。特に、西金堂。あれはいちおう母の菩提を弔うためとなっているものの、内部の構成は前回書いた通りで、しかも八部衆は異色の童顔揃い。井沢氏は、光明子は自分を皇后にするために兄弟が長屋王親子を謀殺したことは知っていただろう、仮に知らなかったとしても後で気づくだろう、とした上で、長屋王の幼い子供まで自分のために殺されたというのに、光明子が世間一般で語られるような信仰深い聖女であるなら、彼らを弔わないのはおかしいじゃないか、とくる。井沢氏の目はそこから別の寺に向いて、興福寺には触れてない。が、私は西金堂は長屋王の子供たちの弔いも兼ねてたんじゃないかと想像した。八部衆のうち、童顔は5体。長屋王とともに殺された男子は4人。数合わせで遊ぶつもりはないんだけど、アシュラン(興福寺阿修羅像)を除く童顔4体は長屋王の子供たちだって想像をしてみたんだよね。なぜアシュランを除くのか?アシュランには別の意図があったんじゃないかと思うからですよ。先日、たまたま臨済禅・黄檗禅の公式サイト『臨黄ネット』の中の「WEB版 謎解き涅槃図」にある「阿修羅像」の解説ページを見て、最後にある文章に思わず声を上げました。 【奈良・興福寺や京都・三十三間堂の阿修羅像は、憂いのある華奢で可憐な 少年の風貌で表現されているが、これは、のちに仏法に帰依し、帝釈天との 大戦争があまりに凄惨を極めたことを懺悔している姿であると言われる。】 (『臨黄ネット』より)アシュランの解釈には色々あって、どれも似ているようで微妙にニュアンスが違っているんだけど、大筋においては一致してるんじゃないかと思う。アスラが戦いの神であることは『アシュラブック』で勉強して知っていたのに、その段階でいくつかのアシュランの解釈を読んでもどこかピンと来なくて「ふ~ん」てぐらいのものだった。しかし、現実の歴史の流れを順に整理していった後であらためて上の文章を読んだ時、「あまりに凄惨を極めた」のはまさに光明子を取り巻く環境そのものじゃないかという考えに至った。ウィキペディアの「長屋王」の項の「長屋王の変」には興味深い注釈が付けられている。 【「兵防令」差兵条では20名以上の兵士を動員する際には、天皇の契勅が 必要とされており、長屋王邸を包囲するための兵力を動員するためには、 事前に聖武天皇の許可を得て行ったことになる。】てことは、藤原四兄弟の陰謀であっても四兄弟による独断専行ではなく、兵を起こすことを聖武天皇は事前に知っていたことになる。ただ、その時点では聖武は段階を踏んで事実を追及しようぐらいに思っていたかもしれないけど。妻の光明子はそれを知っていたのか?知らなかった可能性もなくはないけど、この後の造寺・造仏ラッシュは光明子の勧めによるものだったという説もあり、そうであれば政治に全く無関係で後宮で呑気な日々を過ごしていた訳でもなさそうだし、井沢氏の言われるように、知らなかったとする方が無理があるように思える。そして結果は、内親王や幼い子供まで死ぬという事態になった。私は、光明子はそこそこの罪悪感は持っていたんじゃないかと思うんだよね。長屋王の変の結末が聖武&光明子夫妻の想定を大幅に超えるものだったのなら、その罪悪感はさらに増幅されただろう。ゆえに、北氏はアシュランのモデルは基皇子じゃないかとされたけど、私は顔はともかく、アシュランは権力闘争の真っただ中にいた光明子自身を投影したものじゃないかと思った。ただ、興福寺西金堂はあくまで母・三千代の菩提を弔うための建立、ってのが一般的な説だから、そこらへんとの折り合いがうまく付けられないんだけど、そもそも母のためというのが真実かどうかもわからないんだし、母のためというのはタテマエだった可能性だってある。別に、自分の推測を有利な方向に持ってくために勝手にタテマエに仕立て上げようとしてる訳じゃないですよ。鎮魂のため、と堂々と言えない理由があったのだと井沢氏は語る。それは、長屋王親子が殺されたのは自分のためであり、しかもそれを実行したのは自分の兄弟だった。この非を公式に認めると、兄弟たちの努力が無駄になるし、自分の立后の正当性にも傷が付く、というもの。これはもっともな見解だと思う。ま、井沢氏は長屋王の子供まで殺されたのは光明子の意思が大きく関わっていただろうとしておられるんだけど、ともかく長屋王の怨霊が大きな力を発揮する前に、鎮魂は始められていたんじゃないかと私は考えた。けどね、興福寺西金堂の建立が言い伝え通り天平5年(733)に始まったのなら、鎮魂にしてはちょっと時期が中途半端なんだよね。時期で見るなら、金鍾山房の方がしっくり来る。長屋王の変が起こったのが、神亀6年(729)の2月。金鍾山房内の基壇の用材の伐採年が同じ年。工事が1月から始められた可能性もなくはないけど、確率的には長屋王の変の後に始められた可能性の方が高いだろう。だから、長屋王のために死の直後から金鍾山房の造営が始められたんじゃないかと思ったんだけど、最初はなんかそれもおかしい気がした。金鍾山房の不空羂索観音像はその手に持つ羂索(元は狩猟に使う投げ縄)で衆生をもれなく救済してくれるという仏。金鍾山房も興福寺西金堂と同じく、金光明最勝王経に基づく構成ということまではわかったんだけど、金光明最勝王経は一般的に「護国鎮護」のお経だと言われる・・・時期的に長屋王関係のような気がしたんだけどな、やっぱり違うのかな。せいぜいのところ、邪魔者がいなくなってあとは自分が男子を産めば万々歳なんだから、旱魃・飢饉などの社会的不安もあるし、子宝祈願も含めた国家鎮護を目的に造られたと見るのが妥当なのかな・・・諦めかけた頃、しつこく考えるわたくしを神仏が哀れと思し召したのか『時宗・一遍 仏の世界』様のサイトに出会いました。これまでのシリーズでも、記事を書く直前になってヒントを与えられることが往々にしてありまして、執念深いのもあながち悪いことではないのかもしれません(笑)。で、『時宗・一遍 仏の世界』様ではありがたいことに金光明最勝王経について詳しく紹介されていて、それによるとこのお経には結構色んな事が書いてあるらしいのだ。わたくしの目をひいたものをいくつか要約して紹介しますと、天武天皇の時代にはすでにこのお経は来日していたらしい。いくつかの版があり、道慈が持ち帰ったのはこのうち義浄訳の十巻本。日本ではこれが「法華経」「仁王般若経」とともに護国三部経として人気を集め、日本に来たのは義浄の漢訳からわずか15年後のことだという。前々回、西金堂内部が「夢見金鼓懺悔品」をジオラマ化したものでその大意を『アシュラブック』から紹介してますが、どうもここでは妙幢(みょうどう)菩薩による長い懺悔が行われたらしい。 私は父母の恩・諸仏・善を知らず、罪を犯しました。 うぬぼれて腹黒く、悪口雑言を吐き、行いは愚かで悪友に振り回され、 他人を裏切り、心貧しく怒ってばかりで種々の煩悩に悶え苦しみ 自分の財産に満足せず腹をたて、愛欲と怒りに支配され・・・と事細かに懺悔が続き、「不敬の念の一切を告白します。」としてこれまた不敬の内容が延々とつづられる。そして、現世で諸仏を供養して衆生を一切の苦から救い出すため、一切の業を滅するこの「金光明最勝」という名の甚深の懺悔を説きましょう。業障を速やかに滅除する、この清浄の「金光明最勝」という懺悔を説きましょう・・・と続く。つまりは、どんだけ罪深くても、懺悔してこのお経にすがればすべてチャラにしてくれる、という大変ありがたいお経らしい。八部衆ってのは、元は古い神で中にはワルもいる。それが仏法に帰依して、護法善神にとらば~ゆした。しかし、ただの善神になった訳じゃなく、昔取った杵柄で力を以て仏敵を追い払うという役割。つまりは元・ヤンキーがヤンキーっぽいまま警察官になったような・・・マル暴(警察における組織犯罪対策部。おもに暴力団対策)のオジサマなんか、外見だけ見てると893さんにしか見えない人もいるしねそういう役割ゆえに、通常、阿修羅像は忿怒(ふんぬ)の形相だし、八部衆だって童顔にはならない。興福寺八部衆像が童顔揃いなのは、仏法に帰依して幼子のように心が浄化された様子を表す、とも言われる。『アシュラブック』での興福寺八部衆の解説は、婆羅門の鳴らす金鼓の妙なる音をある者はうっとりと、またある者は注意深く聞き入っている表情のようでもある、とある。 しかしアシュラン=光明子だと見る私に言わせると、アシュランの姿を借りて光明子が全ての懺悔をすることで、罪なくして殺された幼い長屋王の子達の魂が浄化されていく、って感じの説明になる。だから、興福寺西金堂におけるアシュランは仏のガードマンというよりは光明子の山ほどある懺悔の代弁者的役割であり、ゆえに憤怒よりは繊細で複雑な懺悔の表情をさせられたんじゃないか。それにしても、8人の中でなぜアシュランを代弁者に選んだのか。果てしなく続く闘争の世界に身を置く姿を自分とダブらせた他に、元々アスラは高貴な最高神だったから、そういう意味でも自分の身代わりとするにふさわしいと光明子は思ったかもね。ただ、西金堂には28体もの仏像がある。たまたま現代ではアシュランが人気を集めてるけど、実際は本尊を取り巻く「その他大勢」に過ぎない。ホントにアシュランがそんな役目を負わされたのか・・・北氏は「美仏のDNA」という独特の観点から、不空羂策観音像と興福寺阿修羅像には関連があるとし、光明子はアシュランを重要視していたとする。私はやはり歴史面からのアプローチになるので、北氏とは視点が異なるものの、光明子がアシュランに特別な思い入れがあっただろうという点は賛同する。その思い入れが、おそらくあのビジュアルなのだ。興福寺のホームページを見たら、アシュランのファンクラブなんてものがあった。部外者からはちょっと異様な世界だけど(←オマエが言うな)、そんなものができるくらい、アシュランには人を惹き付けるものがある。数年前のトーハクの企画展「国宝阿修羅展」は過去最多の動員数を記録したそうな。アシュランの解釈は人それぞれだろうけど、あの少年のような姿に込められた切なる「何か」があるから、人は異様なほどアシュランに魅せられるんじゃないだろうか。 光明子が込めた真剣な「何か」はいくつか考えられる。が、とにかく懺悔しまくる「夢見金鼓懺悔品」の場面にあの姿が置かれているなら、その「何か」はやはり長屋王関連と見るのが自然な気がした。にほんブログ村
2014年04月02日
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