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こちらが正面の参道から見た拝殿↓。 再建なのが残念だけど、なかなか立派な建物です。あまりカメラを上に向けると雨がかかるので、晴れの日よりは若干写真は少なめですが、それでも普通の人よりか多いのはいつものことで(笑)、ここからばんばん写真を載せますね~。兎毛通(うのけどおし)!↓金の部分には天神様の梅鉢、木の部分はひょうたんでもウンコでもなく、猪目(いのめ)。 正面の蟇股↓。ここも天神様らしく、ウシ。 牛の蟇股の周りの彫刻↓。派手だなあ。 少しブレてますけどね。ただ、雨の中沢山の写真を撮るのに相当時間と体力を使いましたから、もうどうしようもないもの以外はここに載せていきます。奥の蟇股↓。 おお、再建つってもいいじゃないか~。わたくしのカメラ小僧魂にがぜん火が付いたのは、もうおわかりでしょう。拝殿の正面↓。 あちこちに梅鉢がいっぱい。拝殿の中には随身さんがおわすのが見えて写真も撮ったけど、ひどいブレで・・・(笑)。拝殿にはテーブルがセッティングされている↓。元からあんなんだったかな?それとも、何かイベントでもあるのかな? 拝殿前面の柱↓。あれ?何かいる・・・ ほお!随分凝った造りだな~。平成の再建でこれじゃ、相当カネかかったろうに・・・て、また金の話(笑)。反対側の柱も撮りたかったけど、何しろ雨だしパンパンする人の迷惑かえりみず正面で粘るのも限界がありしょうがねえ、他撮ろ、他・・・ うん・・・平成の再建っつっても、この辺りを見るにすべてが新築じゃないな。木鼻や蟇股などの意匠はおそらく一部は前の社殿のものを使ってるんだろうな。 この再建社殿を見るのは、たぶん私は初めて。前の社殿のことは大昔で覚えてないし、もちろん建築になんて興味もない頃だし、夜中の初詣客に混ざって慌ただしく参拝をして帰っただけだから何がどうという訳でもないんだけど・・・ただ、どうも私の中では湯島天神て神社のイメージがない。それより「寺」なんだよな~。典型的な日本人であるわたくしは、史跡めぐりを始めるまでは神社と寺の違いってパンパンするかしないかぐらいの差で、それぞれの違いを意識することはなかった。ただ、どちらかと言うと寺より神社のが好きだったかも。今は違いますよ~。だって、寺の方が建築意匠にバリエーションがあって面白いもん。神社によっても違いはあるから一概には言えないけど、総じて神社の方がシンプルな造りだよな。まあ、そういう事に気づくようになったのはもちろん建築を好きになってからの話だけど、湯島天神を「寺」に近い感覚でとらえていたのは、もしかしたらこの社殿の造りにあるのかもしれないと思った。 一生懸命写真を撮ってたら、「プオ~~~」って笙の音が響いて行列が進んできた↓。 おお、結婚式かあ~!中のテーブルセッティングはこのためだったんだな。新郎新婦はもちろん一般の方なので、あえて遠目に撮るだけにとどめましたが、実は新郎はガイジン。後ろから付いてくる親族もガイジン揃いだから、息子の結婚式にわざわざ来日したんだな(←勝手な妄想)。奥さんは日本人だから、奥さんの希望を入れてやったんでしょうけど、それにしてもクリスチャン(←これも妄想)がよく神前結婚式なんてOKしたよな。新郎の家族が神前結婚式でどういう行動をするのか見ていたかったけど私には時間がないので、また撮影に戻った。 あじさいなんて変わってる・・・この辺はやっぱり再建ならではだな。 手挟も派手で良かったんですが、ブレまくり。結構な数の蟇股の写真を今回載せますが、それでもブレて泣く泣く掲載を諦めた写真も多いので、そのうちリベンジするかもしれません。で、ここからは社殿の脇に移ります。 ↑あれが授与所。手前に絵馬の山が写ってますが、ここは言わずと知れた受験の神様ですからね。わたくしも学生の頃はこちらにお世話になりました。社務所の向かい側には、こんなものが↓。 【御神饌米(ごしんせんまい)「イセヒカリ」 この初穂は、茨城県かすみがうら市にある当天満宮の御神田(ごしんでん)にて 五月の御田植祭より奉戴し、九月の抜穂祭にて収穫した、御神饌米「イセヒカリ」です。 イセヒカリは平成元年の秋、伊勢地方を台風が襲い、伊勢神宮御神田のコシヒカリが ほぼ倒伏した中に、びくともせず直立している稲株が発見され、その稲株を五年間に 亙り固定化の実践栽培、研究を続け風雨病気に強い新しい種類の「お米」であると 認定されました。 そして、平成八年伊勢の皇大神宮御鎮座二千年を記念し、「イセヒカリ」と名付けられ 伊勢神宮を始め各地の神社の御神田で収穫されております。収穫した御神饌米は 伊勢神宮の神嘗祭へ奉献をし、当宮においても新嘗祭を始めとする祭典にて御神前に お供えを致します。】へえ、茨城に御神田なんてあるんだ~。現代の荘園だな。御厨(みくりや)って言った方がいいのかな?解説はもひとつ。 【新嘗祭(にいなめさい) 御奉納のご案内 当宮では、左記の日程にて新嘗祭を斎行致します。つきましては、御参拝の皆様より 御神前にお供えする御奉納品の受付を承ります。 一、新嘗祭 十一月二十五日 午前十一時 一、御奉納受付 社務所 新嘗祭は、天地自然の恵みにより収穫されたお米・野菜・果物等を始め、酒・餅・ 菓子など皆様の心の込もったお品を御神前にお供えし、五穀豊穣を感謝すると共に、 産業の発展を祈念するお祭りです。】 (現地解説より)へえ、湯島天神でこんなのやってたんだ~。一般からも誰でも受け付けてくれるなんて、いいよな。上の写真には、干した稲の真ん中に小さく青いものが写ってますが、カラスよけのディスクこれは去年の11月2日の撮影だから、月末の奉納に向けて干してるせっかくの御神饌米をカラスに食わせてなるまじ!ってカンジ?じゃ、蟇股の続き。 にほんブログ村
2014年06月30日

お稲荷様の前にも、古そうな石仏が並ぶ↓。 こちらの自慢は円仁作といわれる御本尊様だと思うけど、非公開。ただ、一般向けの目玉商品もある。それがこちら↓。 【江戸名水 美髪・厄除 柳の井 江戸時代の文献『江戸砂子』『紫の一本(ひともと)』などの「柳の井 男坂下」 の項に、「この井は名水にして、女の髪を洗えば如何ように結ばれた髪も、はらはら ほぐれ垢落ちる。気晴れて、風新柳の髪をけずると云う心にて、柳の井と名付けたり」 と記されている。 柳の井は古来より水枯れもなく、数滴髪に撫でれば水が垢を落とすが如く、髪も心も 清浄になり、降りかかる厄難を佛ってくれると伝えられている。関東大震災の時には、 湯島天神境内に避難した多数の罹災者の生命を守った唯一の水として、当時の東京市長 から感謝状を受けた。】湯島聖天の表にある解説版によると、この柳の井戸があることから柳井堂と呼ばれたそうな。柳の井の近くには、使い方が図解されていた↓。 私はくせ毛で、髪には昔からコンプレックスがあるので、ここの水盤に頭ごと突っ込みたいぐらいですがほっといても雨で濡れているので、この霊水を撫でつける気にはなれませんでした。さて、これで湯島聖天はおわり。ロクな写真を撮ってなくてすみません出て右に向かうとすぐ、湯島天神の坂がある↓。 これは男坂。この上で女坂と合流する。ここは東側の入口で、南側には2つ入口がある。うちでは千代田線の湯島駅からまっすぐの場所にあるこの坂から入るのが恒例。ただ、ここへ初詣に来てたのは娘たちが学生の頃で、成人してからは家の近くにある氏神様へ初詣するようになったので、わたくしがここへ来たのはかなり久しぶり。当時は日付が変わる頃にここに並んで、初詣を済ませた後で正月特別運行の電車に乗って帰るだけ。学生の頃は日本史や寺社に興味はなかったし、そもそも大昔のことなので湯島天神以外のことはほとんど記憶にない。ので、湯島聖天の前を通りかかった時も「こんなんあったっけ~」って思ったし、男坂の脇にこんなのがあったのも覚えてない↓。 あっ、お堂の全景の写真がない湯島ではロクな写真を撮っておらんな。っつっても、この後は撮影の嵐なのですが(笑)。 【復興地蔵尊由来 佐久間達夫氏遺稿より 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災は東都に未曾有の惨禍をもたらした。 (死者・行方不明者約10万人超) 当時の町会長を中心として、有志は罹災者の安寧と早期の復興を願い、元禄7年より 約300年来火伏寺としての伝統を持つ心城院の協力を得て「災害復興地蔵尊」 (向って右側)を当地に建立し、震災で亡くなった方々の冥福と地元の平和発展を 祈った。 その後、1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲では、隣接町会がほとんど 焼土と化したなかで、当町会は一軒の損失もなくその難を免れた。これは「お地蔵さん」 の御加護によるものと往時の人々の心に深く刻まれた。 左に奉安の尊像は、戦後復興の兆しがみえてきた頃のある朝、突如出現された。 由緒こそ定かではないが、お心安らかなそのお顔はいつしか「幸せ」を呼ぶ地蔵尊として 親しまれている。 この二体の地蔵尊は、地元天ニ町会をはじめ近隣地域の大切な守護尊としてその繁栄を 見守っています。毎年9月1日には宝前で供養会が営まれます。 天二町会 天二町会リサイクル推進委員一同】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)ほお!?なかなか興味深いことが書いてあるな、この解説板・・・まず心城寺(湯島聖天)が出てくるけど、「元禄7年より約300年来火伏寺としての伝統を持つ」だって。あるいはそれは、神宮寺であったであろう湯島天神別当の喜見院が「火伏せの寺」という伝統を持っていたんじゃないかって気もするけど、廃絶してしまった喜見院の伝統を受け継ぐ心城寺が現在では火伏せの寺と見なされてるってことだな。それから、心城寺の縁起には確かに東京大空襲で被害を受けなかったとあったけど、ここも「当町会は一軒の損失もなくその難を免れた」とある。そうなのか、この辺は大丈夫だったのか・・・今年も夏が近づいてきたので、また隣国からの抗議といういつもの話題が繰り返されるのだろうと思うとうんざりしますが、東京への空襲は3月10日以降も繰り返され、市街地の50%を焼失。米軍では日本家屋や町の構成なども徹底的に研究した上で、木造家屋の密集する下町を中心に狙ったというから、民間人への無差別攻撃・大量虐殺と言っていいと思う。もちろん、本土への空襲は皆様も御存知の通り、各地でも行われていますが。原爆と並び立派な戦争犯罪だろうと私は思うのだけど、サンフランシスコ平和条約があるから、日本は今さら賠償を求めたりはしない。去年も安倍内閣が東京大空襲についての答弁書を出したらしいけど、(おそらく晋三君個人としては追及したい気持ちアリアリだろうに)かなりぼかした言い方をしている。国交正常化って、そういうものでしょう。だからと言って、それによってすべてがチャラになる訳ではないけどね。ただ、先の大戦当時と今とでは世界情勢が全く違う。植民地バリバリの時代のことを、今の価値感でどうこう言うのはおかしいんじゃなかろうか。特に、隣国の方々には政治のカードに使うのはやめていただきたい・・・いつもそう思ってTVを見ています。話がそれましたね。この事に関しては、言いたいことは山ほどありますが(笑)、今は湯島の紹介をしているので現地に戻りましょう。 【天神石坂(天神男坂) 38段の石段坂である。別名は天神男坂。すぐわきにある、ゆるやかな坂・女坂に 対して男坂という。江戸時代の書物”御府内備考”によると、湯島神社(天神) 参拝のための坂であったが、その後、本郷から上野広小路に抜ける通り道に なったという。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)湯島天神の境内はあまり広くないし、他にも入口があるので初詣の時には入場制限がかかり、ここの男坂で待たされた覚えがあります。ここを上がると、石鳥居↓。 鳥居の脇にはこんな石碑がある↓。 【講談高座発祥の地 江戸時代中期までの講談は、町の辻々に立っての辻講談や、粗末な小屋で 聴衆と同じ高さで演じられていた。文化4年(1807)湯島天満宮の境内に住み そこを席場としていた講談師伊藤燕晋が、家康公の偉業を読むにあたり庶民と同じ 高さでは恐れ多いことを理由に、高さ三尺、一間四面の高座常設を北町奉行小田切 土佐守に願い出て許された。これが高座の始まりであり、当宮の境内こそ我が国 伝統話芸、講談高座発祥の地である。】 (碑文より。漢数字は戦国ジジイが変換)へえ、「高座」にそんないわれがあったなんて・・・振り向いて男坂を見降ろしたとこ↓。 こちらが鳥居の向かって右側にある女坂↓。踊り場がある分、ゆるやか。 ではこれより境内に入りま~す。普段の時に来たのはたぶん初めてだと思うけど、屋台が結構立ってるなあ。ちょっと写真撮りづらいなあ。男坂からだと、脇から入る形になる。表参道に合流する前には、狛犬↓。 天神様らしく、台座も小洒落ている↓。 【湯島神社は湯島天満宮、湯島天神として全国津々浦々まで知られている。 雄略天皇の勅命により、御宇2年(458)1月創建と伝えられ、天之手力雄命を 奉納したのがはじまりで降って正平10年(1355)2月郷民が菅公の御偉徳を 慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請した。 文明10年(1478)10月太田道灌これを再建し、天正18年(1590) 徳川家康公が江戸城に入るにおよび特に当社を崇敬すること篤く、翌19年11月 豊島郡湯島郷の内5石の朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き 文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。 その後林道春、松永尺五、堀杏庵、僧堯恵、新井白石など学者文人の参拝たえること なく続いた。徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよびこの地を久しく文教の 中心として、当天満宮を崇敬したのである。明治18年に改築された社殿も老朽化が 進み、平成7年12月後世に残る総檜木造りで造営された。】 (現地解説板より)湯島天神のホームページには、【明治維新以前は上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院がその職に当った。】とある。うん、やっぱ喜見院は寛永寺グループの一員だったんだな。なら、円仁作とされる仏像が心城寺にあるのも納得できる。将軍家と輪王寺宮のご威光で巻き上げ・・・ムニャムニャ。長い歴史の中では、やはり湯島天神も火災の被害にあったらしく、元禄16年(1703)には社殿が全焼したとホームページにある。にほんブログ村
2014年06月29日

松葉杖生活まる3週間経過。3つ前の記事で途中経過を報告してますが、前回の松葉杖日記以降をまとめて書きますと、金曜日・・経過順調とのイケメン先生の診断。日曜日・・夜からくるぶし付近に激痛が出る。月曜日・・痛いので安静のため仕事を休む。火曜日・・出社したものの、痛いので早退して病院へ。金曜日・・ウソのようにくるぶしの痛みが消える。てな感じ。最後の金曜日が昨日で、3度目の定期レントゲンに行ってきました。火曜日の時にはどこが痛いのかよくわかってなかったけど、患部を先生が押しても痛くなかったので、どうもくるぶし・・・ここには骨と骨をつなぐ靭帯があるので、靭帯に負担がかかってるのかもしれないと思い、家では保冷剤で患部をアイシングした後はくるぶしの下も冷やすようにしてました。内出血をしていた頃は、うっ血している足先を押すと痛かったりしたので、溜まった水分の圧迫によって、くるぶしの痛みが出てるかもしれないと考え、仕事中はゴミ箱の上に置いて机の下で伸ばしてた足を少し下ろすようにしたり、自分なりの工夫もしてみました。火曜日に出された薬は最初と同じもので、痛み止めと腫れ止めなのでそれも効いたのかもしれません。とにかく、昨日の時点ではあの痛みは何だったんだ?ってくらい痛みが引いていて、まあ仮に靭帯が痛んでたとしても普通に考えれば急激な力が加わった訳でもないのに、ギプスに覆われてる靭帯に損傷が起こるハズもなく、かと言って最初から靭帯がやられていた訳ではないのは明らかなので、安心しましたで、昨日もイケメン先生の診察かと思いきや、院長先生の再診だった。レントゲンを撮る際にくるぶしの痛みをお兄ちゃんに説明して、いつもの撮影の角度で靭帯が写るのか聞いてみたんだけど、写らない場合もあるし、詳しいことは先生に話してみるように言われた。ので、院長先生に「どうもくるぶし付近が痛かったようなんですけど・・」と言ったら、慣れてきたので油断した歩き方でギプスが当たって痛みが出たかもしれないとおっしゃった。くるぶしそのものが痛かったのならそういう事もあるかもしれないけど、私の場合はくるぶしの下と後ろ側だったからな・・・まあ、とりあえず痛みは引いたし、あの痛みさえ出なければほとんど問題はないのはわかっていたので、歩き方にも気をつけようと思った。それで、骨もだいぶくっついてきたので、今日から理学療法を始めるとのこと。うまくすれば、1本杖でもいいと言われた。おお、ここは1本杖に移行するんだな。ネットを見ると、私と同じ骨を骨折した人でもギプスをしない場合もあるらしいので、病院によって色々違いがあるんだな。ともかく、杖なしではまだキツイので良かった。ギプスなしで診察室から移動する時は、相変わらず患部が痛かった。当初の予定では、あと2~3週間でギプスが外れるハズだけど・・・包帯を巻き直してもらった後でリハビリ室へ移動。待ってる間、リハビリのお姉さんから色々と説明を受けた。なんでも、理学療法は予約制で、キャンセルの場合は連絡なしで構わないけど、次回の予約を取るには電話では受け付けてもらえず、来院せねばならないとのこと。うちの職場でも自分や家族がここの病院にかかってる人が多くて、キャンセルすると大変って言ってたんだけど、このことだったんだな。今の状態で予約だけしに病院に行くのは重労働なので、こうなったら意地でも予約通りに通わねばならんな。それから、1本杖の使い方の練習をしました。1本杖って言っても杖が変わる訳ではなく、あゆみちゃんが1本になるだけ。最初の日にお金が足りなくてコンビニへ行く前に教わったのは、確か患部と同じ右側で杖をつくって聞いたと思うのに、昨日は反対側の左でつくように言われた。「あ、あれ?最初は右でつくように言われたんですけど・・・」ってもちろん言ってみたけど、左が正解らしい。昨日の理学療法のお兄ちゃんは初日の人とは別だったけど、「ドラマなんかでもよく、痛む足と同じ側で杖をついてますけど、あれは間違いなんですよ~」とも言っていた。ハハハ、さすがプロは目の付けどころが違う。きっと、このお兄ちゃんはツッコミを入れながらドラマを観ているのだろうさて、今回変更になったのは杖だけではなく、体重のかけ方も。これまでは体重の半分までの荷重が許されていたのが、3分の2まで引き上げることになった。で、また体重計を置いて測ったんだけど、これまでも調子のいい時で家で数歩歩くだけの時なんかは片側だけで歩いたりもしていて慣れていたので、感覚はばっちりとのことだった。裏を返せば、これまで片側で歩いてた時は負荷がかかりすぎてた訳で、しかも右でつくという誤った使い方をしていたことになるけど、とりあえず何事もなかったし、結果オーライです(笑)。くるぶしの痛みがひどい時にちょっと不安になってネットで調べたら、骨ってのは安静ばかりでは弱くなるだけで、良くなってきたらしっかり体重をかけて歩くことによって代謝が促進されるんだそうな。ただ、もちろん自己判断は禁物です。医師の判断にはきちんと従いましょう。てことで、正式に1本杖の許可も下りたものの、くるぶしの痛みが引いたばかりのわたくしには不安もある。あの痛みさえなければ1本でも充分歩けるけど、もしまたあの痛みが出たらとても1本杖では歩けたもんじゃない。そこらへんをお兄ちゃんに相談したらば、「まあ、1本で歩かなきゃいけないって段階でもないから」てことで、あゆみちゃんを2本連れて帰ってきました。さて・・・良くなってきたのは嬉しいことだけど、悩むのが通勤。実は今使ってる車はうちのじゃなく、姉のとこのを借りているのだ。もうしばらく貸してもらえるとは思うけど、それもいつまでかわからないし、毎日の送り迎えも大変。私としても、送り迎えの途中に何かあったらという心配はいつも持っている。先日の雨の朝には、タオルを頭に載せて前を走っていた高校生が車が追い越そうとした直前に後ろも見ずに道路を渡ろうとして、危うく事故になりそうな時もあった。幸い、その時はこっちがよけたから事故にはならずに済んだけど、クルマってのは自分が注意さえしてれば大丈夫ってもんでもないので、早く自分の足で歩けるようにならなきゃ、と思ってはいたのだ。とは言っても、今の段階ではまだ歩いて通勤するのは荷が重い・・・ひとまず、本来歩くべき距離のすべてはまだ歩けないので、雨が降ってない日は最寄りの駅までだけ送ってもらうことにしました。雨の日は、あゆみちゃん2本だと傘がさせないからね。電車を下りてからは10分程度の道のりだけど、今は通常の半分以下のスピードしか出せないので、30分近くかかるだろうな・・・でも、本来なら当初から歩かなきゃいけないもんだったからな。ので、来週からは一部歩きになります。今日はなるべく1本で歩いてみたけど、2本で歩くよりは上肢の負担が少ない。だから通勤も1本で歩く方が総合的にラクな気がするけど、くるぶしに痛みが出たら帰れなくなる。昨日、病院から帰った夜にはまた痛みが出たので、まだこの先も同じように痛む時があるかもしれないでもな~、2本で歩くのって疲れるんだよな~。松葉杖によってプルプルした二の腕が引き締まるんならいいけど、使うのは肘から下。昨日も病院から帰るのに歩いてて、腕が悲鳴を上げてました。が、とりあえず自力で頑張ってみます。ここ数年、足の人工関節の手術をしたり、開腹手術なんかもしている母親は「甘いわよ」と言った。去年は姉も手術をしているんだけど、結構病院てスパルタでね。お腹を開こうがなんだろうが、手術後2~3日くらいから自分の足で歩かされるのだ。入院慣れしている母親は、「骨折してる人でも、みんな早く家に帰りたいから頑張ってリハビリ室まで自分で歩くのよ」とふんぞり返って言った。まあ、そりゃ大変なのはわかるけど、私だって3週間のうち休んだのは1日だけだしさ。平日の日中はちゃんと仕事してるんだしさ。とは言っても、周囲の職場の人は親切な人が多くて、書類を置きに行ったりするのは代わりにやってくれたりするので、大変助かってるのも事実です。1日に何十回「ありがとう」を言ってるかわかりません。あゆみちゃんを卒業して、ある程度自分の足で歩けるようになったら美味しいお菓子でも買ってチームのみんなに配ろうと思ってます。それぐらい、周囲の親切に支えられてる毎日です。たかが足の甲の細い骨1本なのにこれだから、先日は「ああ、これが戦国時代だったら大変だな~」としみじみ思いました。(←相変わらず仕事中の雑念多し)もし私が足軽の身分で一家の大黒柱だったら、家計にダイレクトに響きそうだもんな~。しかも、医療技術は未熟で、モノによっては動物の糞尿が治療に使われるような時代。有給休暇も労災ももちろんないしね。小早川繁平がもし本当に失明してたとしたら、厳しい時代に新当主を望む声が家中から上がったとしても無理ないよな~なんてつくづく考えもしましたが、ま、私は相変わらず失明説は信じてませんしね。「オマエもいいかげん、しつこいな~」って?だって隆景の相続イベントは、納得行く答えが出せるまで私の永遠のテーマですから。にほんブログ村
2014年06月28日

寛永寺の記事は前回で終わりですが、第三編はまだ続きます。雨の中、もうしばらく粘ったのだ。黒門小学校から少し北へ戻って、西へ向きを変える。 この道のつきあたりが、次のお目当て。この辺はもう湯島です。湯島っつったら、天神様ですね。湯島天神へ来るのはだいぶ久しぶりだけど、そのすぐ手前に「湯島聖天」なるお寺があった。「江戸三十三観音札所」の第7番目だそうな。入口にあった解説版は長いですが、一部をご紹介しましょう。 【湯島聖天(しょうてん) 天台宗 心城院 当山はもと宝珠院弁財天堂と称し、湯島天満宮の境内にありました。湯島天満宮は 菅原道真公を祭神としていますが、道真公はとくに聖天(大聖歓喜天)の信仰が篤く、 ために「天満大自在天」ともいわれました。 ときに元禄7年、湯島天神の別当職にあった天台宗喜見院三世の宥海上人が、 道真公と因縁浅からざる大聖歓喜天を湯島天神境内に奉安し開かれたのが当山の はじめで、この本尊は比叡山から勧請した慈覚大師作と伝えられています。 以来当山は湯島の聖天さまとして熱心な信者の参詣があり、紀伊国屋文左衛門も 当山に帰依された一人でありました。 享保のころ幕府の財政事情で、幕府が扶助してきた神社仏閣への支出を削減しようと 富くじを発行しました。江戸では谷中感応寺、目黒龍泉寺とならび、湯島喜見院で 富くじが行われ、江戸の「三富」といわれ、後に江戸各所で行われるようになりました。 当時の喜見院は相当の境域があった様ですが、明治維新の神仏分離、排仏の嵐で 応時の様相は一変し、寺名も心城院と改められ、今日に至っています。 当山は開基以来幾度となく発生した江戸の大火・大正大震災や空襲の戦災にも 遭うことなくきましたが、堂宇は近年に改修されました。 】まずはここまで。本尊はここも円仁の作と言われているものらしい。「円仁作」の伝承を持つ仏像は各地にごろごろしてるけど、ここのは叡山からの勧請と言ってるからな・・・いくら江戸期は寛永寺が天台のトップだと言っても、腐っても叡山だし(←腐ってません)、叡山側としては渋ったんじゃないかと思うけど、あるいは輪王寺宮のお口添えでもあったかもしれんな。富突については「本所Wデビュー(22)」でも少し紹介してますが、湯島では初期の頃に幕府から公認されてたってことだな。喜見院はもともと湯島天神の別当だったのが、神仏分離により廃された。心城寺はどうも喜見院に所属するイチ堂宇だったのが、湯島天神から独立することで存続できたらしい。位置としては湯島天神のすぐ門前だから、別の寺ってのもなんか変な感じだけどね。薩長が神仏分離なんておかしなことをしたもんだから、しょうがないよな。で、雨だったせいか、全景の写真がありませんが、中へ入ります。入るとすぐ右手には小さな池がある。池の写真もなぜかブレまくりでしたが、コイに混じって亀の子も泳いでいた。 【弁財天 放生池 江戸時代の文献『江戸志』の「宝珠弁財天 男坂下」の項に、「江戸砂子に いう、此所の池は長井実盛(後の斉藤別当実盛になる)庭前の池と云う。昔は 余程の池なりしを近世其の形のみ少しばかり残りたり」と記され、かつての 池は太鼓橋が架かる程の規模だった。 また元禄の昔から病気平癒などの祈願で縁起の良い亀を放し、「亀の子寺」 として親しまれていた。作家の久保田万太郎(明治22年~昭和38年)は、 この池の亀を眺めて一句、「きさらぎや 亀の子寺の 畳替」と詠んだ。 元の池は亀の冬眠に適した泥地であったが、周囲の都市化により池の水が抜け、 亀の放生が困難となった。かねてより亀池復活を望む声が多く寄せられ、 平成23年11月、篤信者や縁者の寄進により、心城院の「心」の字形を 模した「心字池」が完成し、再び亀が放された。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)亀って冬眠するの!?知らなんだ・・・池ははっきり言ってかなり小さい。つか、境内自体が広くないです。池の周りには木もあって、ぶっちゃけ言われなければ心字池とはわからないくらいですが、この小さな池には橋がかかっている↓。 ええっと、この亀は確か本物だったよな。とゆーのも、 亀の子寺らしく、中にはフェイクも混じっているのだ池の先、本堂の手前にはたらいが置いてあったので覗いてみると 亀の子~!ちびっこ~!カワイイ~~亀好きなわたくしですので、もうヨダレを垂らさんばかりに近寄ると、気配を察してちびっ子達がわたくしから逃れようとたらいの中をカサカサと移動して、 時には折り重なりながら不審者からできるだけ遠ざかろうとうごめく。私が動くたびに亀山も移動するので、その様子がまた大変にかわいらしく、雨の中しばらくたらいの前でたたずんでました。動画、撮っとけばよかったな。池の向いには水琴窟。 【水琴窟について 茶人であり作庭家としても有名な、小堀遠州(1579~1647)が 初めて造ったと云われています。手水からしたたり落ちる水が、地中に埋めた 甕の中で反響し、あたかも琴を奏でたような音が私たちを楽しませてくれます。 都心の由緒正しい古寺で心穏やかなひと時を感じていただきたく、放生池 改修工事を記念し奉納いたします。】 (現地解説板より)え~、水琴窟って小堀遠州と関係があったの?それは知らなかったな・・・ウィキペディアには【明治時代には盛んに用いられたが次第に廃れていった】とあるけど、最近では結構あちこちにあるよね。清州城にもあったよな。この時は雨が結構降っていたので雑音が多く、そばにあった「聴き竹」で ほのかな澄んだ音色を楽しみました。水琴窟の先には、古そうなお地蔵様↓。 本堂は確か戸を開けて中に入れるようになってたんだけど、撮影禁止とあったのか、あるいは中が暗かったせいか内部の写真はありません。本堂の外には して、こんな説明も。 【浴油祈祷のおすすめ 当山では、ご本尊・大聖歓喜天(聖天さま)の最高の供養法である、秘法 「浴油祈祷」を修しております。お申し込みの方は、要項を参照の上、受付にて お申し出ください。 浴油祈祷申込要項 ・祈祷日・・毎月1日・16日(聖天さまのご縁日)厳修。但し、非公開につき 入堂は不可。それぞれ1週間、聖天さまにご心願の成就を祈念 いたします。 ・授与方法・・それぞれの祈祷日より1週間以降に祈祷札を授与いたします。 (郵送可) ・申込方法・・申込用紙にご記入のうえ、9時から4時までに受付にてお申し込み ください。 ・お願いごと(お札一体につき一願まで) 厄除・家内安全・商売繁盛・心願成就・縁結・子宝・安産・身体健全・ 交通安全・当病平癒・受験合格・学業成就・就職・出世開運・方位除・ 災難除 など ・志納金・・お札一体につき、3,000円以上】う~ん、変わってるなあ。だいたい、修法は非公開ってね。なら、本尊も秘仏だけに拝むチャンスはないってことなのかな。「浴油」なら油を使うのか?油かけ大黒天みたいなもんかな(笑)。 本堂の向かって右側には小さなお宮がある↓。 ここの懸魚がなかなかよかったんだけど、何度撮ってもブレてしまうので、断念しました。ので、それ以外をご紹介。 お宮が何とは書いてないけど、お稲荷様なのかな。これもブレてますけど↓ お賽銭はこちらへどうぞ↓。屋根が青海波(せいがいは)で変わった造りになっている。ひっそりと地味なお寺だけど、なかなか面白いものがあるな、ここ。 にほんブログ村
2014年06月27日

天海毛髪塔の裏手には、大きな石碑がある↓。 【博士王仁碑 「古事記」などによると、王仁(わに)博士は古墳時代前半に百済国から渡来し、 「論語」・「千字文」を伝えた学者であり、後に帰化したとされる。また、その 子孫は文筆をもって朝廷に仕えたといわれる。 この「博士王仁碑」二基は、王仁博士顕彰会により、昭和15年(1940)及び 昭和16年(1941)に建立された。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)このすごく立派な石碑のすぐ脇にも何やら立て札があって何かと思ったら 【菅公詠梅 東風吹かばにおいおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ】とあるだけで、この梅の木を大宰府から移したとかそういう説明はさっぱりなので、ここにある意味が皆目わかりませぬ。さて、第三編ではこの後出口の方へ向かいましたが、「ケージョー」と「春の寛永寺」で補足の写真を撮ったので少しご紹介。まずはパゴダの入口付近↓。 ベンチ代わりに置いたにしては何かヘンだし、もしかして寛永寺時代の遺物なのか?随分大きな石だしな・・・ここから参道に出た光景↓。 これがかつての寛永寺の参道で、山門である吉祥閣付近から写したもの。写真に写ってる洋服の現代人を、着物を着た江戸時代人に置き換えてご覧ください(笑)。それで、写真の左手に向かうと小山があります。上には何があるという訳でもないし、正月の時にはカップルが座ってたので登ったところの写真はありませんが、小山を下りた反対側を春に撮りました↓。 【摺鉢(すりばち)山古墳 摺鉢山は、その形状が摺鉢を伏せた姿に似ているところから名付けられた。 ここから弥生式土器、埴輪の破片などが出土し、約1500年前の前方後円 形式の古墳と考えられている。現存長70m、後円部径43m、前方部幅は 最大部で23m。後円部の道路との比高は5mである。 丘上は、かつての五條天神、清水観音堂鎮座の地であった。五條天神の創立年代は 不明であるが、堯恵法師は「北国紀行」のなかで、文明19年(1487)に 忍岡に鎮座する五條天神を訪れた際、 契りきてたれかは春の初草に 忍びの岡の露の下萌 と、うたっている。現在、上の公園忍坂脇に鎮座。 清水観音堂は、寛永8年(1631)寛永寺の開祖天海僧正により建立されたが、 元禄年間(1688~1703)初めごろ寛永寺根本中堂建立のため現在地に 移転した。現在、丘上は休憩所となっているが、昔のまま、摺鉢の形を保っている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)はい、解説にある通り、ここがかつての五條天神社があった場所であり、その後、清水観音堂が最初に建てられた場所でもあります。(場所はこちら) にしても、上野に古墳があったなんて初めて知ったぞ。上は休憩所とあるけど、ベンチが1つ2つあるくらいで現在はどうということもない小さな丘だけど、少し前まではこの辺て木立で薄暗くて、心中事件が続いたとかなんとかって何かの本で読んだなあ。では、第三編に戻りまして、西郷どんの先にある階段で山王台を下ります。その辺の広いところがかつて寛永寺の黒門があった場所で、上野戦争では激戦があった場所とされる。・・・が、現在では至ってのどかです。 ↑振り返って山内方面を見たところ。右にあるのが山王台へ上がる石段だけど、確か旧寛永寺時代にはこの階段はなかったんだよな。で、そのさらに右手にかつて「新黒門」があった。写真の左手奥に見えてるあたりは、かつて黒門があった場所と思われる。江戸城を出て寛永寺へ参詣に来た将軍が使ったのもここの門。ただし、黒門の脇に将軍専用の御成門があってそれを使っていた。そしてこの噴水、水の供給源は 清水観音堂でぱらぱらと降り出した小雨は、なかなか止まない。が、もともと雨の予報じゃなかったんだし、なんとかなるだろうと山内を出る。上野公園を出た光景↓。 この辺は京成の駅があるせいもあってかすごく変な地形だな~といつも思ってたんだけど、歴史を知れば何てことないッス。この先は、明暦の大火後に火除け地として作られた、「広小路」なんです。(「本所Wデビュー(28)」参照)付近にあった解説版の地図を拝借してこの辺を説明しますと、こうなってます↓。 上野の広小路は現在では地名として残ってはいないけど、JRや京成でこの辺に出る出口は「広小路口」なので、由来とか意味はわかってなくても、この辺が広小路だという認識は現代人も持ってます。この頃にはちょっと本降りの様相を呈してきた。ううっ、ここまで来たら、あともうちょっと回りたい・・・で、この先のコンビニでとりあえずビニール傘を買おうと思って急いでたので写真はありませんが、上の写真のすぐ先にはかつて不忍池からの唯一の流水路である忍川が流れており、そこに3つの橋が架かっていた。3つの橋なので、「三橋」(みはし)と呼ばれる。3つの橋のうち、真ん中が将軍専用の橋。パンピーは脇の橋を渡ることになっていたそうな。京成の駅入口の裏側あたりには三橋跡の碑でもあるかもしれないな。実際の「上野広小路」は三橋の先にある広い通りなので、上の写真に写ってるあたりはまだ寛永寺の敷地になるんじゃないかと思うけど、上野のお山の南の先っぽにあたるこの場所は「寛永寺デルタ地帯」とでも呼ぶのがふさわしいような細長い三角形の地形になっている。三橋から黒門まではそこそこ距離があるので、広小路に連続するこの寛永寺デルタ地帯も、火除け地の意味もあったかもしれない。忍川は現在ではもうありませんが、見えない忍川を渡ったあたりにコンビニがあったので、ビニール傘を調達。で、不忍池に沿って少し歩くと、上の図で「忍川」と書いたあたりに解説版があった。 【旧 上野元黒門町 本町の町名ははじめ、上野黒門町と呼ばれていたが寛永3年(1626)に 新・元の二町になったことによって起立した。町名の由来は、寛永2年 (1625)に創建した東叡山寛永寺の門が黒いことからこう呼ばれていた。 元禄10年(1697)、幕府は広小路を造るため町内東側の地を長さ85 メートルにわたり、御用地として召上げた。このため町域は狭くなったが、 その後形成されていった仁王門町や仁王門前上野家来屋敷等を明治2年(1869) に合併して、町としての形態を整えた。昭和39年(1964)、住居表示の 実施で全域、上野二丁目に編入された。 上野黒門町は上野山内の出入口、不忍池に面して町があった。不忍池が四季の 風光に富んでいたせいか、江戸、明治を通じて著名な料理屋が多かった。現在も 料理屋は多い。また、不忍池畔には下町風俗資料館があり、下町の文化や風俗を 資料として保存、展示している。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)あ~か~りまったた~く~黒門町にぃ~ご~よ~お御用のこ~えが~す~る~「ヨヨヨイ、ヨヨヨイ、ヨヨヨイヨイ!めでてえな!!」でお馴染み、「伝七捕物帳」のオープニングテーマですが、黒門町がどこかなんて考えたこともなかったけど、これって寛永寺に由来する町名だったの~!?地図を見ていてこの辺がかつての黒門町だと知ったので、ちょっと寄る気になっただけなんだけど、「黒門」に由来する町名なのはわかるものの、なんの「黒門」なんだろうと思ってたんだよね。そっか、伝七はこの辺にいたのか(←架空の人物です)。この先はかつての「池之端仲町」なので、錦袋円の店もこの辺にあったと思われます。解説の通り、「黒門町」の町名はもうありませんが、近くにはわずかに名残りをとどめるものもあります。それがこちら↓。 いいねえ、こーゆーの。て、これだけを見にこの小学校に寄ったわたくし・・・にほんブログ村
2014年06月26日

おこんばんは~。「無愛想」から一転、「イケメン先生」に経過は順調のお墨付きをもらったにも関わらず、日曜の夜からかつてないほど足が痛み始め、昨日は安静のため休み、今日は痛みに耐えかねて早退して病院に行った戦国ジジイでございます。今日はレントゲンは撮らなかったけど、患部は目立った異常はなく、院長先生に「天候によって痛むこともあるからね~」と言われ、「薬出しとくからしばらく飲みなさい」と少々あきれ顔で言われてしまいました。どうも「大げさな奴だ」と思われたっぽいけど、ホントに痛かったんだもん・・・ウソじゃないもん・・・ぶっちゃけ、ギプスをしてるとどこが痛いのかわからないので(笑)、どうも別の場所が痛んでる気もするんだけど、また金曜日にレントゲンを撮りに行くから、様子を見てからイケメン先生に相談しよう・・・さて、長すぎた寛永寺シリーズもいよいよ大詰めですよ~。場所が今ひとつわからなかったので先に彰義隊の墓と西郷どんの像へ行きましたが、少し戻って次のお目当てを探しました。(たぶんこの辺) 【天海僧正毛髪塔 天海僧正は、江戸初期の天台宗の高僧で諡号を慈眼大師という。 天文5年(1536)に奥州会津郡高田郷(福島県)で生まれた。11歳で出家、 14歳で比叡山に登り実全に師事して天台教観を学び、さらに三井寺や奈良で 諸教学を学んだといわれる。のちに江戸崎不動院(茨城県江戸崎町)、川越喜多院 (埼玉県川越市)などに住し、徳川家康の知遇を受けた。 元和2年(1616)家康が没すると、その神格化にあたり権現号の勅許を計り、 合わせて日光廟の基本的構想をたて造営を指導した。その後も将軍秀忠・家光の 帰依を受け、江戸城鎮護のため上野忍岡に寺院の建立を進言し、寛永2年 (1625)に寛永寺を創建した。 寛永20年(1643)に子院の本覚院にて108歳で示寂。遺命により日光山に 葬られ、この地(旧本覚院跡)には供養塔が建てられた。後に本覚院伝来の毛髪を 納めた塔も建てられ、毛髪塔と呼ばれるようになった。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)うむ・・・別名を「どちて坊や」とした方がいいんじゃないかと思うくらい、あちこちで素朴な疑問(←ツッコミ)が湧いてくるわたくしは、もちろんここでもあれこれ妄想しました。そもそも天海は坊さんなのに、なんで毛髪塔?いや、あくまで頭は剃ってるからハゲな訳で、毛根が死んでない限りはほっとけばちょぼちょぼ毛は生えてくるんだろうから、頭のお手入れをした時に大事に数ミリの頭髪を取っておいたのか?それにしたって、せいぜい寛永寺創建以後ぐらいの話だろうから、寛永寺ができた年ですでに90歳近いってのに、そんなに元気よく生えてくるもんだろうか?それとも体毛とかも~う、色々考えました。ま、それでも世の中には私と同じ疑問を抱く方もいらして、その方がまた別の方から教えてもらった話によると、古い寺院などでは高貴な方の遺髪を持っているケースがあり、それが誰の毛なのか寺院サイドではオープンにしないものの、高貴な遺髪の塔を建てることが寺社のステータスにつながる、ということらしい。なるへそ。あらためて解説文を見ると、まず最初に天海の本体は日光へ行っちゃったけど、現在毛髪塔のある、かつての本覚院には天海の供養塔が建てられた。そのあとで「本覚院伝来の毛髪を納めた塔も建てられ」たって流れなのか。寛永寺教化部発行の『東叡山 寛永寺』ではこんな解説になっている。 【天海大僧正は、寛永20年(1643)10月2日に108歳で示寂 されました。墓所は日光山輪王寺慈眼堂御廟にありますが、当山には 山内子院の本覚院第一世の晃海が供養塔を建立し、後に同院に伝来 されていた毛髪を納めた宝塔も建立されました。】ふむ。ここも「毛髪」の主が書かれてないし、そもそも「天海僧正毛髪塔」って名称だからつい「天海の毛髪塔」って思いこんじゃうけど、正しくは「天海供養塔+どなたかの毛髪塔」ってことなのね。なんだ、天海の毛が納められてると思って寄ったのに・・・ところで、『東叡山 寛永寺』の方の解説文ですが、「本覚院第一世の晃海が供養塔を建立し」とありますね。晃海・・・この名前、覚えてますか?穴稲荷を再興したと言われてるのが、晃海さんです。穴稲荷の記事を書いた時、無知なわたくしは同じ「こうかい」だから寛永寺第二世の毘沙門堂公海のことかと思って堂々とそう書いた。ところが、公海とは別に、天海の弟子に晃海さんもいたそうなんですよ~。なんてこと・・・公海もジミーだけど、晃海はもっとマイナー。が、一体どんな人だったのか調べてみたところ、どうも公海と同じく京の公家の出らしい。父は本姓・中原の平田職忠(もとただ)。このパパは地下官人(昇殿が許されない廷臣)だったが、【息子晃海が師の天海とともに徳川家康に仕えたことから江戸幕府の評価も高く、慶長年間以後蔵人方地下官人を統率する催官人の地位に挙げられた】(ウィキペディアより)というので、たぶん本覚院晃海のパパで間違いないと思う。「天台宗 東京教区」様のホームページによると、 【本覚院は、江戸城内紅葉山山王社移転に伴い、東叡山寛永寺子院・山王社別当 として寛永14年(1637)に創建されました。 それまで江戸城内の鎮守として城内に祭られていた紅葉山山王社に代えて、 東照宮をもって江戸城の鎮守とするという三代将軍家光公の命によって、 旧山王社は寛永寺内に移転されることになりました。 その際、寛永寺開基・天海僧正ご自坊を以ってその地に当て、天海僧正の 弟子であり、又、紅葉山山王社別当寺・城琳寺住職であった晃海僧正 (初代寛永寺執当)を住職とし、肥後細川家が檀越となり、山王社別当として 本覚院が創建されました。】だそうな。もみじやま・・・江戸城内の寺社の変遷はごちゃごちゃしてはっきり言ってよくわからない。江戸城鎮守の山王社は、また別にあるんですよ。何年か前に初詣に行きましたけどね。けど、この解説を見るに寛永寺山王台にあった山王社は紅葉山のを移してきたってことになるのかな。それで、紅葉山の別当だった晃海がセットで付いてきて本覚院ができたという流れになるらしい・・・ただし、後代の絵図には山王社に並んで本覚院が描かれているのに、延宝期(1673~1688)の絵図には山王社の近くには本覚院が描かれてないので、一時的に名称変更でもあったのか、あるいは別当がほかの子院へ移った時期でもあったのか。ちょっと手持ちの資料では詳しいことはわかりませぬ。毛髪塔の入口には、ガイジンの観光客も多い上野らしく英語で標識が建っている。 【HAIR PAGODA FOR PRIEST TENKAI】そうか、英語にするとパゴダになるのかニヤニヤしながら、中へ。 前に建つ灯篭も、いかにも古っちい↓。 【厳有院殿 尊前 延宝九年五月八日 従五位下摂津守源姓太田】・・・ダメ、摩耗してもう読めない厳有院は4代・家綱。ウィキペディアにある死没年月日は延宝8年5月8日だから、ちょうど1周忌の日付か。この年代で太田摂津守だと、灯篭の奉納者は第2代浜松藩主・太田資次と思われる。父・資宗は家光の6人衆。祖父・重正はお梶と兄妹とのウワサのある方。まあ、家綱への灯篭がここにあるのはいいですよ。かつて霊廟にあった灯篭があちこちに移動してるのはこれまでも色々見てきたしね。しかし、この灯篭の裏面には 【慈眼大師毛髪塔寶前】と大きく刻まれているのだ。これは一体・・・フツーに考えれば、旧寛永寺時代にこんなことするとは思えない。ので、明治以降にここに持って来られた時に追刻されたと思われるけど、それにしても大胆な・・・いずれにせよ、これは間違いなく天海の供養塔へ奉納されたものじゃない。さて、正面からの全景を撮った写真ではど真ん中に高い石柱が建ってますが、 【帰命東叡開山慈眼大師 贈大僧正法印大和尚位 当寺開基 晃海】とある。「贈大僧正」の後は「法卯」のようにも見えるけど、それじゃ意味がわからないので「法印」と思われます。「当寺開基」は本覚院のことを言ってるんだろうな。ぱっと見、この高い石柱が「天海毛髪塔」のようですが、実は後ろにメインが隠れてます↓。 石造りの宝塔スタイル。正面に何やら刻まれてるけど、ちょっと読めないなあ。側面には梵字のようなものが刻まれている。宝塔の台座にも「弟子ナントカ」とか刻まれてるんだけど、これも読めないなあ。とにかく写真がブレまくりで(笑)。ここも今後の宿題だな。(宿題ありすぎ・・・)にほんブログ村
2014年06月24日

彰義隊の墓のすぐ南、山王台の先っぽは人気のスポット。 ガイジンも日本人も、みんなここで写真を撮ってます。もうおわかりですね。 散歩中のむさしま・・・じゃねえ、西郷(せご)どんの銅像です。ここには「旧 上野恩賜公園」についての解説版がありますが、寛永寺時代から公園化までの大まかな歴史はこれまでの記事で書いてますので、恩賜公園についてだけ紹介します。 【恩賜公園のいわれは、大正13年に帝室御料地だったものを東京市へ 下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより施設など 我が国有数の都市型公園として整備された。面積62万平方メートル余り。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) 西郷どんの載る台座には、略歴が書かれている。少し長いですが、全文紹介します。 【西郷隆盛は文政10年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島加冶屋町に 生まれた。通称吉之助、南州はその号である。若くして、藩主島津斉彬に重用され、 幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流される こと2回。元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて 一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応3年 (1867年)12月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として、 大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。 その間、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、 江戸を戦禍から救ったことは余りにも有名である。その後は故郷に退隠したが、 明治4年(1871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、 参議に就任し、廃藩置県その他近代国家建設のための主動的役割を果した。 然るに、明治6年6月いわゆる征韓論が閣議に上がるや断乎反対して、大使派遣に よる平和的修好を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、 内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。 私学校を興して後進青年の育成に努めた。 明治10年2月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、 転戦7カ月余、ついに敗れて城山に自刃した。9月24日、享年51才。 そのため一時逆賊とされたが、明治22年2月、明治天皇の特旨により賊名を 除かれ、正三位を追贈された。 この銅像はこれに感激した隆盛の旧友、吉井友実が、同志と共に追慕の情を 表わすべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志2万5千人の醵金を 得て、明治26年起工、同30年竣工、我が国彫刻界の巨匠高村高雲の作である。 西郷隆盛の偉大な功業は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の 所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここに 在るのである。】 (漢数字は戦国ジジイが変換)西郷どんの写真といえば、ぎょろりと大きな目にでっぷりした身体が特徴的だけど、そもそも西郷どんというお人は写真が大ッキライだったそうで、あの有名な写真も実は近親者のパーツを合成したものだとかいうし、この銅像の除幕式で妻のイトさんが「あたいのダーリンはこげな顔じゃねわ!」って絶叫したとかいうし、彰義隊士の霊魂を封じるためにこの山王台に置かれたとか呪術的でウソくさい話まで、とにかくこの像にはいろんなエピソードがございますが、ひとまずここでは浦井氏の『上野寛永寺 将軍家の葬儀』からあまり知られていないんじゃないかというお話をご紹介しましょう。この銅像のスケジュールは明治26年(1893)、 3月15日 立案・届出 3月22日 東京都知事の決裁が下り、宮内大臣・土方久元へ提出 4月11日 大臣・次官以下の決裁が下り、建立が許可されるという、届出からひと月経たないうちに許可されるという異例のスピード。が、浦井氏が入手した「上野公園内関係記録写」によると、その前段階があったらしい。それによると、 明治23年8月8日 建立の出願。建設予定地は上野ではなく、「宮城正門外」。 つまり、皇居前だったそうな。 同24年9月14日 建立の許可が正式に下りる。 同25年12月8日 突然、却下。通達には「右は詮議の次第これあり取消候 出願人に相達すべし。但し上野公園地内に建設の望み これあり候えば博物館長に協議の上場所撰定更に出願 致さすべし」という流れで、突然の却下にもめげず「上野ならいいよ」という但し書きを踏まえて再出願したのが明治26年なんだそうな。一旦許可が下りてるものだから、スムーズに話が進んだってことかな。して、明治26年の許可書には 右取り調べ候処、故西郷隆盛儀はかつて中興の元勲、国家の柱石として 内外の許す所にこれあり、不幸末路大筋を誤り、一旦賊名を負い候とも、 天恩隆渥、いくばくもなく朝廷その罪を赦し、ついてまた贈位の御沙汰も ありなされ云々 (通達部分はいずれも『上野寛永寺 将軍家の葬儀』より。 少し読みやすくしてます)とあるそうで、西南の役で朝敵となったことがネックだったらしい。それに、このラフな姿ね。現代の私達にはどう見てもくつろいだ散歩姿にしか見えないけど、犬の散歩じゃなく、ウサギ狩りの姿らしいです。が、明治の元勲の銅像にしてはどうも・・・ウィキペディアによると、 【この姿は大山巌がガリバルディのシャツだけの銅像から思いつき、 西郷の真面目は一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをした飾りの無い 本来の姿にこそあるとして発案した。】という深い考えが基にあるらしいけど、 【上記大山巌の言い分も、まだ西郷への反感を持つ政治家が多かった時代、 明治政府の官位による正装をさせるわけにはいかなかった事情が背景に あったと考えられる。】というもっともな推測も書かれている。イトのセリフは、顔が似てないというよりも、こんな普段着で人様の前に出るような礼儀知らずな夫じゃない、という解釈もあるそうな。西郷どんを盟主に押し立てて士族が反乱を起こした西南の役は明治10年(1877)。当初は軍服姿の騎馬像にするという計画もあったらしいが、まだ西南の役が記憶に新しい時期では、ちょっとインパクトがありすぎるだろう。ウィキペディアには、西郷どんが連れてる愛犬「ツン」は本当は女の子だったのに、オスの実在の犬をモデルにして作ったとか西郷どんの像に紙玉を投げつけるという不届きな行為が流行り、鼻に当たると出世するといわれたとか笑えるエピソードも色々書かれてるけど、この風貌でこの姿だからこそ「上野の西郷さん」として今も庶民に親しまれ、愛されていることは疑いのない事実だろう。西郷どんの像の近くの植え込みにも石碑がある↓。 この石碑の正面にはベンチが置かれていて、あいにくカップルが座っていたのでやむなく脇から撮るにとどめました。ちょっと、ベンチの場所、考えてほしいんだけど・・・ウラ↓。 【大正12年9月15日 摂政殿下大震災の惨状御視察に際し、畏くも此地より 御展望遊され被害の情況を聞召さる。越えて7歳昭和5年3月24日天皇陛下 此に臨御あらせられ親しく街●の復興を曫はせ給ふ。乃て石を此處に樹て以て 聖恩を不朽に傳へんとす】 (漢数字は戦国ジジイが変換)「摂政殿下」は昭和天皇のことで、まだ即位前ですね。関東大震災当時の摂政宮の動向は、昭和天皇記念館と宮内庁の公文書館の共催による「摂政宮と関東大震災」の図録に詳しい。それによると、震災当時、宮は皇居におられたが、皇居内でも火事があったのかすみやかに滞在していた赤坂離宮へ避難されたそうな。その直後から、摂政として情報の収集や対策を伝達するなど、忙しくしておられたらしい。この石碑にある9月15日からは各地を視察。市ヶ谷、九段、水道橋、日本橋、半蔵門、四谷など皇居周辺を回られた。 【摂政・皇太子の立場にある方が、発災直後に直接現地を視察されることは 明治以来初めてのことであった。】 (「摂政宮と関東大震災」より)午前6時に少数の供を連れて、赤坂を出て上野に着いた宮は馬から降りて被害状況の報告を受けたという。 【上野公園の高台からは市街地が一面焼け野原であった様子を眺望された。 また、上野公園への避難者は、最大で3、40万人にも及んだと言われており、 罹災者のバラックが所狭しとひしめいていた。安定した環境が確保されて いるとは到底言えぬなかでの行啓であった。】 (「摂政宮と関東大震災」より)うん、やっぱ寛永寺からの江戸の眺めはよかったんだな~・・・じゃなくて、混乱の中で皇太子の立場にある、というかおそらく皇族初の罹災地の現地視察になるんじゃないのかな。この宮の姿勢が、災害が発生すると皇族が現地へお見舞いに向かうという現在の状況にも引き継がれているのだから、西郷どんの近くにあるこの碑はそのスタート記念とも言える。ちなみに、宮の御婚儀はこの年11月下旬と決まっていたんだそうな。上野を視察した翌日は下町などを視察。婚儀を延期するか否かで意見が割れていたため、16日の視察から帰った宮に意向を聞いたところ、「いや、ちょっとこれじゃ・・・延期しようと思うんだよね」というお言葉だったので、翌年の1月に持ち越され、さらに質素なものに抑えたんだそうな。その他にも、御下賜金を振る舞ったり、御料地を開放したり、御料林の木材の伐採の許可、炊き出し・・・など宮内省を含め様々な対策が打たれたらしい。その間の儀式はどうしてたのかなど、「摂政宮と関東大震災」には興味深い内容が多く書かれているので、興味のある方はぜひそちらをご覧ください(ネットで見られます)。で、昭和5年3月24日、各地で復興記念のイベントが開かれ、上野にも行幸されたことを記念してこの石碑ができたようです。終戦直後の全国への行幸も大変なものだったと思うけど、未曾有の大災害直後の、しかも初の試みだったんだから、もう少し詳しい解説版でも置いていいんじゃないかと思うけどね。にほんブログ村
2014年06月23日

清水観音堂のすぐ東には、彰義隊の墓がある。入ってから振り返ったところ↓。 真ん中の植え込みの奥にちらりと見えてる赤いのが、観音堂。で、ベンチの脇に、アスファルトの地べたにシートを敷いて彰義隊の墓への入口にも関わらず他人の迷惑かえりみず弁当食ってるカップルがいますが、なにもあんなとこで食べんでも・・・山内は広いので、動物園でなくても色んな人間がいます。て、いっか~ん、まだ毒舌自粛中のハズだった(笑)。 【彰義隊の墓(台東区有形文化財) 江戸幕府15代将軍徳川慶喜は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて 江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、 慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応4年(1868)2月に 同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを 目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。 慶応4年5月15日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は 同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置 されたが、南千住円通寺の住職仏磨らによって当地で荼毘に付された。 正面の小墓石は、明治2年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が 密かに付近の地中に埋納したものだが、後に掘り出された。大墓石は、明治14年 (1881)12月に元彰義隊小川興郷(椙太)らによって造立。彰義隊は 明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、 旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻む。 平成2年に台東区有形文化財として区民文化財台帳に登載された。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)解説版はもうひとつある。 【15代将軍徳川慶喜の一橋藩主時代の側近家来であった小川興郷らは、慶応4年 (1868)、大政奉還をして上野寛永寺に蟄居した慶喜の助命嘆願のために 同志をつのった。そこには徳川政権を支持する各藩士をはじめ、新政府への 不満武士、変革期に世に出ようとする人々が集まり、「彰義隊」と名乗り、 やがて上野の山を拠点として新政府軍と対峙した。旧暦5月15日の上野戦争は、 武力に勝る新政府軍が半日で彰義隊を壊滅させた。 生き残った小川ら隊士は、明治7年(1874)年にようやく新政府の許可を得て、 激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。 なお、遺骨の一部は南千住円通寺に合葬されている。以後、120年余りに渡り、 小川一族によって墓所が守られてきた。現在、歴史的記念碑としてその管理は 東京都に移されている。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) ↑こちらが2つめの解説版にある「彰義隊奮戦之図」で、【小川興郷が画家に指示して描かせたもので、他に存在する錦絵と違って、史実に忠実な絵と伝えられている】との解説がある。んで、こちらが墓石のアップ↓。 江戸には山岡鉄舟の書の石碑が多いなあ。大きな墓石の「お前立て」のようになっちゃってるのが、1つめの解説で「寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したもの」とあるものと思われ、「彰義隊戦死之墓」と刻まれている。解説によると、まさにこの場所で戦死者の火葬が行われたようだけど、それをしたのは寛永寺の僧ではなく、円通寺住職の仏磨(ぶつま)さんと三河屋幸三郎さんだそうな。なんで寛永寺がノータッチなのか、「上野第一編(13)」なぞを思い出してほしいんですが、上野戦争の時点では寛永寺関係者はすべて山内から退去させられており、明治2年2月26日まで戻ることができなかったからです。浦井正明氏の本にはさすがにこの点について詳しいので、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』(吉川弘文館)を参考に少し経緯を補足します。上野のお山でも南にシッポのように突き出たこのあたりは、山王台と呼ばれる。かつてはこの場所に山王社があり、そこからの名称と思われる。長州人・大村益次郎の立てた作戦にのっとって薩長軍は3方からの攻撃を開始。寛永寺の正門ともいうべき南の黒門は西郷(せご)どんが指揮を取り、彰義隊側は山王台から砲撃して応戦した。この黒門から山王台付近が上野戦争での最大の激戦地と一般に言われるが、浦井氏はこの説については懐疑的だという。それはともかく、ひとまず荼毘に付されて供養はされたものの、墓石のようなものは当初はなかったらしい。で、寛永寺関係者の帰山が許されると、寒松院の住職・多田孝泉と護国院の住職・清水谷慶順の両氏がさっそく供養に乗り出したらしいが、その当時はまだ朝敵であった彰義隊士の弔いは禁止されていたので、ごく小さな石に建立者の名前として寒松院・護国院からそれぞれ一字を取って「沙門松国」(しゃもんしょうこく)という匿名を刻んでこの火葬の地に埋めた。これが初代の墓石にあたるという。明治7年になると、2つめの解説にあるように小川興郷らの発案によって墓所建立のための募金活動が行われた。上野戦争後、明治政府は彰義隊および彼らに加担した人までも朝敵として、それらに関する報道を厳しく規制した。とは言っても、江戸っ子に彰義隊の人気は高く、元禄赤穂事件が「忠臣蔵」というフィクションに置き換えられて演劇や浮世絵となって世の人気を博したように、上野戦争も本能寺の変や本願寺の石山合戦などに設定を置き替えて、作者も版元も匿名で錦絵として出版されていたそうな。その報道規制が解かれた時期というのははっきりしていないらしいが、浦井氏は墓所建立の許可が下りた明治7年だろうと推測しておられる。というのも、同じ明治7年には、政府の検閲の跡が見られながらも、正面から彰義隊を扱った出版物が出ているんだそうな。さらに、彰義隊士の親族や友人・知人による祭祀が初めて許可された年でもあるという。そして、めでたく青銅製・宝塔型の大きく立派な2代目の墓が建立された。ところが、どうも集まった資金に見合ったものを作ったのではなく、先に立派なものを建ててしまったようで、せっかくの立派な墓はその後借金のカタとして没収、さらに解体されてしまったそうな。『上野寛永寺 将軍家の葬儀』には三代・歌川広重が描いた2代目の墓の絵が載っている。小高い場所に基壇を高く造り、その上に大きな宝塔が載っている。浦井氏は 【おそらく、当時の人びとは明治政府をはばかって、積極的な援助を しなかったのであろう。】 (『上野寛永寺 将軍家の葬儀』より)と語る。 して、明治14年、3代目の墓が建立され、地中に埋められていた初代の墓石も掘り返され3代目の前に置かれた。これが、現在見ることのできる墓です。明治7年以降、政府は彰義隊周辺に関する報道規制を少しずつゆるめていったらしいが、 【ただ、そうはいっても、旧幕府側の気兼ねがこの段階で一掃されたわけ ではない。明治十四年に建てられた三代墓の表面の山岡鉄舟になる文字が、 ただ「戦死之墓」とのみ書かれ、そこに「彰義隊」の文字がまったく 見られないことは、なによりもこのことをよく物語っているといえよう。】 (『上野寛永寺 将軍家の葬儀』より)なるほどね。そういうことであれば、2代目の墓石に十分な資金が集まらなかったのも無理はないよな。ここにはこんな水盤らしきものがあったんだけど↓ 正面に彫られているのは紋かと思ったら、彰義隊の「義」の字にも見えるなあ。とすると、水盤自体は結構古そうにも見えるけど、3代目の墓石が建立された後、しばらく経ってからのものかもしれないな。表面は一部剥離してるようだけど、銘が見られるか清水観音堂へのお礼参りの後にでも確認してこよう。↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2014年06月22日

松葉杖生活に入ってまる2週間が経過しました。1週間ごとにレントゲンを撮って経過を見るからきっちり来るように言われていたので、ちょうど2週間めの昨日、また病院に行ってきました。先週と同じ時間帯だったので、またあの愛想のない先生だったらやだな・・・と思っていて、結局また同じ先生だったんだけど、昨日は機嫌が良かったのかフツーだった。レントゲンの後で診察室に入ると、先生はすぐ「いいですね」と言った。うっそ、マジ!?いやったあ・・・じっとしてると時々うずくような痛みはあるけど、もう痛み止めも飲んでないし、気をつけて大事にするようにしていたので、両方の杖を使って歩く分にはほとんど問題はないくらいになっていて、経過はいいんじゃないかと思ってはいたものの、写真で確認して先生にそう言われるとやっぱりある種の達成感がある。ギプスは外さないように言われているので、患部を見るのは病院の診察室でだけ。近頃はだいぶ見える部分での内出血も引いてきていたようだったけど、昨日1週間ぶりに患部を見たら腫れも内出血もかなり治まっていて経過が順調な様子がわかった。そして昨日は、先生の応対がフツーで良かった。先週は写真と私の足しか見てなかったので、先生の横顔か脳天しか見れなかったけど、昨日正面から先生の顔を初めて見たら、童顔でかなり可愛い顔をしている。しかも、ほのかな笑顔付き。なあんだ~、こんなイケメンなら、普段から愛想よくしてれば好感度高いのに~。「また顔の話か・・・医者に必要なのは顔じゃなく、的確な診察と治療だろ?」って思う方もいるでしょうが、それは理屈上の話です。病院に行く患者さんてのは、どこかしら具合が悪くて、それが基で気分的にもマイナスな場合がほとんどなんだからね。感じのいい優しい先生だったら少しは気分も慰められるけど、ムカつく応対をされればこちらだって人間なんだから、よりダークな気分になって最悪です。いるんですよ、世の中にはそういう心ない応対をする医者が。何人かそういう先生に出くわしたことがあります。たいがい、そういう病院には2度と行きませんけどね。仕事で医師と話をする機会もたまにあるけど、自分が書類を間違えたくせに何か勘違いしてるタカビーな医師もいれば、こちらが恐縮するぐらい腰の低い先生もいます。ま、結局は個人の人間性なんでしょうが。とりあえず、昨日の先生はフツーな人だとわかったので(しかもイケメン)、これは収穫でした(何の話だ)。もと上司で、数年前に松葉杖をついてる人がいるので、両杖から片杖になったんでしたっけ?って聞いてみたところ、片杖にはならなかったとのこと。え~、段階的に両杖の後は片杖になるのかと思ってたのに、いくらいい感じとは言っても、これで来週から杖なしで歩けって言われてもとても無理・・・この後、どうなるんだろう?と内心びくびくしていたら、もう1週間4本足で経過観察とのこと。レントゲンでギプスを外したまま、一旦待合室で待ってその後診察室へ移動したんだけど、ギプスをしてれば杖なしでも数歩歩けるくらいなのに、ギプスがないと松葉杖をついていても明らかに患部が痛む。つまりはまだ治りかけ真っ最中ってことで、4本足生活は大変ではあるけど、あと1週間患部に負担をかけずにいられるとわかって、正直ほっとした。近頃は職場のみんなにも、「松葉杖、うまくなったね」と言われるぐらい上達しましたし当初、どのくらい松葉杖でいるのかの話はなかったけど、しばらくの間は一緒にいるのだろうと思い、名前を付けることにしました。可憐なお姫様を支える役目なのだから、イケメンっぽい名前がいいよなあ~と思ったものの、浮かんでくるのは外国の女性の名前ばかり・・・こうなったら開き直って、昔懐かしい怪力女、バイオニック・ジェミーから「ジェミー」と名づけようかとも思いました。が、歩く補助なんだからと、最終的に「あゆみちゃん」と呼ぶことにしました。(結局、女の名前・・・)あんまり普段の生活で「あゆみちゃん」と呼ぶ余裕もありませんが(笑)。てことで、もう1週間、あゆみちゃんとの文字通り二人三脚の生活です。昨日病院に行くまでの短い距離でも腕が悲鳴を上げていたので、来週の通勤はどうしようかとも思いましたが、ここまで来たら一気に治しちゃえ!ってことで、父親が送迎を続行してくれることになりました。経過が順調なのも、通勤で歩かず足に負担をかけなくて済んでいるからなのは明らかなので、自分が楽というだけでなく、これは本当に助かってます。感謝してるぜ、オヤジ。あ、あと労災ね。やっと会社のハンコを押した書類が人事から届いたので、病院で受付を済ませた後、すぐ隣にある調剤薬局へ書類を持っていきました。「椅子にかけてお待ちください」「えっと、どのくらいかかります?」「すぐです(ニコッ)」「す、すぐ!?」これはあくまで労働基準監督署へ提出する申請書類なので、これを出して労基署から正式に認可が下りたあとで自分が払ったお金が戻ってくるのかと思っていたら、ホントにすぐお金が返ってきた。状況にもよるんでしょうけど、私の場合は通勤災害が明らかなので、会社が証明のハンコを押した時点でほぼ確定ってパターンのようだな。病院でも受付の際に書類を出しておいたので、診察後の会計で2回分の診察料全額が戻ってきた。次回からは、タダになる。ただし、あゆみちゃんはまだ私と一緒にいるので、あゆみちゃんの預かり金の1万円だけはまだ人質として預けたまま。あゆみちゃんを卒業する時に、その1万円が返ってくるのだろう。初めて経験することだらけで、なんだか面白い。さて、昨日の報告はここまでで、残りはあゆみちゃんについて。 1と2は固いゴムでできていて、私の身長に合わせて調整した後、理学療法のお兄ちゃんが包帯を巻いてくれました。松葉杖を使ったことがない人にとっては、1の部分に体重をかけて支えるようなイメージがあると思います。私もそう思っていたので、最初にあゆみちゃんが自分の前に連れてこられた時、「うわ~、これから暑くなるのに、わきの下の汗のニオイが付いたらどうするんじゃ・・・」って1の部分のニオイの心配をしました(笑)。なにしろ、汗っかきなもので。ところが、1の部分てのは実際にはわきの下には付かないんです。付かない高さに調整して、歩く時も1にはぶら下がりません。じゃあどうするのかと言うと、2の部分を持つ手で体重を支えるんです。ので、肘から下の部分に力がかかります。昨日、外を歩いていて悲鳴を上げたのはこの肘下の部分です。まあ、言ってみれば半分手で歩いてるようなもんだからね~。疲れるし、慣れても動きは異様に遅いです。自分の趣味で忙しいのでオリンピックはほとんど観ませんし、パラリンピックなんてさらに観ることはありませんが、普通の生活だけならともかく、車イスで競技をする人なんてのは気の遠くなるほどの練習をしないとできないものなんだと自分の身体で初めて実感できたので、パラリンピック競技者の偉大さを知りました。で、最初の1週間が経過する頃には1の部分は洋服と擦れるので包帯に毛玉ができるわ、2の部分は手アカで汚れるわ、だいぶきちゃなくなっていました。が、2度目の診察の時にあゆみちゃんの包帯を替えてくれるかと思ってたらそのまま・・・1も2も、実に綺麗に包帯が巻いてあって、洗濯しても同じように巻き直せる自信がない。1の毛玉はもうどうしようもないから諦めるとして、2は薄汚れてどうにも不衛生なので、持ち手の部分だけ上から手持ちの包帯を巻いてしのぎました。で、昨日もあゆみちゃんのお召し替えはなかったので、また2に包帯を巻いて清潔な持ち手を自作せねばなりません。経験してみなければわからないことは他にも沢山あります。一時的にせよ、今はまだあゆみちゃんがいなければほとんど歩くこともできない状態なので、プチ身障者の部類に入るし、外を歩く時は特に身障者の視点で周囲を観察するようになりました。「松葉日記(1W)」で、一見綺麗な歩道が、実はデコボコして松葉杖には大変歩きにくく、身障者に優しくないことを書きましたが、毎日送り迎えしてもらってるのでスーパーやコンビニで買い物もできず、先週、病院の近くにあるコンビニに久々に買い物に入りました。普段なら何ということもない買い物も、あゆみちゃんと一緒だと大変。まず、コンビニ狭すぎ陳列棚の方はまだいいんだけど、コンビニってただでさえ狭いレジ前にわざわざ台を置いてキャンペーン商品だの、まんじゅうだの置いたりするでしょ。あれがチョ~迷惑。車イスでのコンビニの買い物は確実に無理です。そうか、コンビニって健常者のための店だったのかと生まれて初めて知りました。店にもよるけど、スーパーなら大抵はそこそこの広さがあるから、スーパーなら比較的買い物もしやすいかと思うけどね。カートもあるし。ただ、車イスだったら高い所の商品は取れないから、補助がいるよな。移動の便を図るものとしては、エレベーターやエスカレーターがある。最近では駅で両方を完備するようになってきたところも多いので、高齢化社会でもあるし、これはとてもいいこと。ただし、実際それを必要とする状況になってみると、ないよりは断然マシだけど、場所によってはイマイチって場合もある。私が病院に行く場合、車を下ろしてもらった場所からエレベーターまではそう遠くない。ただし、それは普通の場合で、あゆみちゃんであそこまで歩くのか~と目で見た距離を歩くのがイヤになり、先週はつい手前にある階段を使ってしまった。ところが、思っていたより段数があったので、それだけで疲れた昨日はその教訓を生かして、エレベーターまでふうふう歩きました。別に、使ったエレベーターの場所に特別問題があったという訳ではないのですが、あちこちに旅なんかしてると、時には不便そうな場所にエレベーターがあるのを見かけたこともあるような気がするので、ただ作ればいいってもんでもないんだな、と実感しました。普通に歩けない状態だと、ホントにささいなことがネックになったりするものなんですよ。バリアフリーとか、ユニバーサルデザインとかの福祉政策への関心は高いとは言えないわたくしでしたが、実際の利用者の意見を取り入れながらの弱者へ優しい街づくりというのは大切なことなんだな~と感じました。にほんブログ村
2014年06月21日

清水観音堂にあるおみくじはこれだった↓。 おお、こんなとこにこのタイプがあったのか~。やってみたいのはヤマヤマだけど、小雨が降ってるし、獅子がくわえて「ぺっ!」て吐き出してくれるまで結構時間かかるんだよね~。それに、200えん・・・とりあえず、この時は指をくわえて見てるだけで終わりました。「春の寛永寺」でここに寄った時はお堂の中に木の棒をひくタイプの100円のおみくじがあるのを見つけてもちろんひきました。その結果は「春の寛永寺(1)」の通り・・・良源さんのシビアなアドバイスはかなりこたえましたが、その頃の私ってば精神的に相当すさんでたので、あのまま過ごしてたら本当にヤバイことになっていたかもしれません。たまたまその少し前から般若心経の暗唱にチャレンジしてたので、ヒマさえあれば般若心経を唱え返して暗記に努め、今では意識がフェードアウトしてもお経は最後まで唱えられるようになりました。途中までは覚えるのも大変だったけど、完全にモノにしてしまうと般若心経だけじゃ物足りない・・・そこで、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈」という少し長いお経の暗唱に挑み始めました。そちらの方も、毎日少しずつ覚えた甲斐あってこれを書いてる数日前にひとまず仕上がったところですが、意識が飛んでもお経が続けられるぐらいモノにできたら、また次のお経の暗記を始めるんじゃないかと思います。般若心経を覚えようと思ったのは特に意図があった訳じゃないですが、良源さんのアドバイスのおかげで少し生活態度を改める気になったので、お経は大変役に立ちました。内容がどうのって言うより、ぶつぶつ唱えてることで余計な感情がわいてくるスキがあまりなかったんだよね。で、大殺界も残り1ヵ月を切ったところで松葉杖生活の始まり・・・日本人なもので因果応報的に「精進が足りなかったからケガしたか」と考えることもできますが、実際の松葉杖生活というのは実に不便なことが多く、いつも以上に自分のことだけで手いっぱいな状態なので、これまた余計なことを考える余裕もなく、大殺界も残り半月を切りました。一時的にはヤバい心持ちの時もありましたが、ここまで生きて過ごせたのはひとえに慈恵大師・良源さんのおかげだと思っております。あちこちで買い集めた良源さんグッズのうち2人の良源さんは職場に置いてあるし、良源さんのお札も机の中に入ってます。良源さんのことをまともに知ったのは両大師の記事を書いた時ですが、わずか半年ほどの間に良源らぶ度は急上昇しました。それは同時に、良源さんが現代でもなお特殊な信仰を集めている理由が感覚的にわかった期間でもありました。だから、大殺界が明けて7月に入ったらすぐに清水観音堂にお礼参りに行こうと思ってたんだけどな。本来であれば、良源さんを祀る両大師にお礼参りするのがスジかもしれませんが、おみくじをひいたのは観音堂だし、良源さんは観音様の化身とも言われているのでここは観音堂へ行くのが正しいかな、と思ってます。ただし、ギプスが外れて自分の足である程度歩けるようになるまで、お礼参りはお預けですが本堂の向かって左側には、渡り廊下でつながれた建物がある↓。あちらに書院があったのかもな。 同じ場所から下を見ると、ここにも古そうな灯篭がある↓。 こちら側からは銘は見えない。脇にある階段の方からは見えるかもしれないので、今度行ったら忘れずにチェックしてきます。さて、今度は「春の寛永寺」で補足に撮った写真から。こちらが舞台の反対側、本堂の東面↓。 前を歩くおじさんの向かう先が、渡り廊下をくぐっていく道。再訪の時はこちら側から進んでみました。そしたら、渡り廊下の手前にも古い灯篭があった↓。 笠や火袋には葵の紋が↓。 おっと、これも霊廟への奉納品かな。 【奉献 石燈籠両基 東叡山 浚明院殿 尊前 天明六年丙午九月八日 松平恒吉源真周】「松平恒吉」で検索してもわずかな記事しかヒットしないんだけど、甲府徳川綱重の二男・松平清武を祖とする越智松平家の方じゃないかと思われます。一番最後の文字がイマイチはっきりしないけど、もしかしたら「真周」じゃないかもしれない。甲府綱重の子・綱豊は家宣と改名して6代将軍になったので、6代家宣の弟の家系ってことになるのかな。林光院の記事で家宣の出生から将軍になるまでの経緯を簡単に書きましたが、ウィキペディアによると、綱重の母が綱重を身ごもった時、製造主の家光が厄年だったため、家光は姉の千姫を綱重の養母としたんだそうな。なるへそ~、だから成長した綱重が養母の女中のそのまた女中・保良に手を付けたって流れになるのかもな。綱重は正室を京の公家から迎えた。正室は後水尾天皇の甥の娘にあたる方らしいが、その方から綱重の跡を継ぐ男子は生まれなかった。一方、保良が生んだ2人の男子はそれぞれ家臣に預けられた。家宣は新見正信に、清武は保良とともに越智清重に。清武は越智家の家督を継いだが、兄が6代将軍となったのち、44歳の時に館林藩主として大名となり、あわせて松平姓を許された。ゆえに「越智松平」なんだそうな。林光院の記事を書いた時は保良と綱重・家宣親子の事しか調べなかった。が、あらためて清武のページを見てみると、家宣の子で7代将軍となった家継が幼くして危篤に陥ると、家宣正室・天英院ははじめ清武を8代将軍として推したという。が、清武が越智の家督を継いで大名となったのが44歳と遅かったこと、次期将軍レースにノミネートされた時はすでに53歳であったこと、さらに清武自身にその気がなかったことなどもあり、天英院は紀州藩主・吉宗をバックアップすることにしたとある。へ~、じゃあ、もしかしたら灯篭奉納者の恒吉さんもあるいは将軍になっていたかもしれないのか・・・と思ったら、清武の嫡男は早世したため、尾張家の系統の松平氏から養子を迎えてその子が越智松平を継いだらしい。さらにその越智松平の2代目も子がなかったためよそから養子を迎えており、恒吉さんは清武の血をひいている訳ではないみたい。その上、ウィキペディアの越智松平の系図を見ると、恒吉さんは越智松平当主ではないようなんだな・・・なんでその恒吉さんが家治の霊廟へ灯篭を寄進したのかはナゾですが、あるいはその当時は当主代行のような立場ででもあったのかもしれないな。これまで見てきた灯篭は、徳川一門でも外様でも必ずと言っていいほど官位とかも併記されていたのに、そういうのが一切ないもんね。ちょっとレアなケースと言えるんじゃないかな。それから、灯篭の日付ね。前々回の島津忠持奉納の灯篭と同じ日付になっている。前々回の記事では、なんでこんな中途半端な日付なんだろうと思ったけど、どうも9月8日というのは「発喪」・・・つまり、公式な死亡発表の日らしい。浦井正明氏は、後代の将軍は原則的に実際の死亡日からほぼ1ヶ月後に死亡が発表されているとしておられる。前々回の記事の中では綱吉への奉納の灯篭の日付、1月10日は命日じゃん!と書きましたが、これもどうやら「発喪」の日付らしく、浦井氏はその1ヶ月前の12月10日が本当の命日だろうと推測しておられる。家治(浚明院)の場合はウィキペディアに死亡日8月25日とあるので、灯篭の日付の9月8日との関連がわからなかった。サイドの略歴の欄しか見てなかったからそういう事になったんだけど、本文の方にははっきり「8月25日に死亡」とした上で 【高貴な人の死は1ヶ月ほど秘されるのが通例(発葬されたのは9月8日・ 新暦9月29日)だが、その間に反田沼派の策謀により田沼意次が失脚。 また、意次が薦めた医師(日向陶庵・若林敬順)の薬を飲んだ後に家治が 危篤に陥ったため、田沼が毒を盛ったのではないかという噂が流れた。】とあるものの、8月25日から9月8日の間は明らかに1ヶ月ないという矛盾には触れていない。なんかもう、何が正しいのかわからなくなりそうだけど、ともかく天明6年9月8日が家治の発喪の日であるなら、綱吉あたりの代からは公式発表の死亡日を灯篭の日付とするルールが出来上がっていった可能性がある、とは言えるだろう。ところで、家治の命日などで検索をしているうち、偶然、御殿場にある「遊季庭 かわ嶋」様のホームページに行きあたった。「かわ嶋」さんは約3,000坪という広大な庭園をお持ちのお蕎麦やさんらしいんだけど、庭園には50基もの石燈籠があるらしい。そして、 【その中でも上野寛永寺より最後に放出された寛永寺灯籠が2基ございます。】というオドロキの文章がある。寛永寺から、最後に放出!?一体いつの話かはわからないけど、つまりはドナドナか・・・かわ~いそう~な灯篭~売られてゆ~く~よ~かな~しそうなひ~と~み~で見~てい~る~よ~ドナドナド~ナ~、どおなあ~~~・・・そうか、売られたのか・・・確かに、寺域が大幅に縮小された寛永寺では置き場にも困るぐらいの数の灯篭があったでしょうけどね。一体どれくらいが放出されて、各地に分散してしまったんだろうか。織部さんちの近くにあるという常憲院(綱吉)の灯篭も、その一環で日立へ運ばれていったのかもしれないな。寛永寺では、散逸状況を把握しているんだろうか。してないだろうな、きっと・・・売られていった子牛は、肉の塊となって食べられてしまうのだ。放出された後で転売されたり譲渡されたケースもあるかもしれない。そのうちのいくつかは、あるいはすでに現存してないかもしれないよな。思いがけず知った灯篭哀話に、かなりテンション下がりました。にほんブログ村
2014年06月20日

石段を上がりきったところにあるのが、清水観音堂(場所はこちら) ぺかぺかの真新しい手水舎↓。 新しくてもちゃんと葵の紋入り↓。 お堂の前に上がったところ↓。 この頃、ぱらぱらと小雨が降り出しました。ので、あまりカメラを上に向けての撮影はできません。ちなみに、「春の寛永寺」でここに来た時は風がとても強く、蔀(しとみ)戸を下ろして風対策してました↓。 ここ清水(きよみず)観音堂は、寛永寺で現存している堂宇の中で最も古いもの。創建は寛永寺の発足後間もない寛永8年(1631)。まだ天海はバリバリ生きてる頃で(笑)、観音堂は天海によって建てられたとされる。ただし、当初は現在地ではなく、ここからすぐ北の場所にある摺鉢(すりばち)山に建てられた。五條天神社の解説に、寛永寺の拡張に伴って摺鉢山から瀬川屋敷に移ったとあったけど、おそらく観音堂を建てるにあたって先住民の五條天神社を引っ越しさせたのだろう。摺鉢山に建てられた観音堂が桜ヶ岡と呼ばれる現在の場所へ移動したのは、元禄に入って現在の噴水広場に根本中堂が建てられることになったからだそうな。上野山内に広がる寛永寺の子院は幾度も変遷があり位置も色々変わっていることを以前書きましたが、観音堂の付近も長い歴史の中で入れ替わりがある。そもそも、桜ヶ岡には林羅山が家光から拝領した屋敷地があった。羅山が土地1353坪と金200両をもらって私塾と書庫を建てたのは寛永7年(1630)。山内に寛永寺はすでに発足している時期で、外れとはいえ上野のお山に土地を与えたというのは興味深い。しかも、与えたのは天海っ子の家光なんだからね。ということは、寛永寺は開山当初から半官寺的な位置づけではあったものの、家光の中にも山内全域を寛永寺の寺域とするビジョンはなかったということになるよな。寛永9年(1632)には尾張義直の援助により、林家の屋敷地に孔子廟が完成。「先聖殿」と呼ばれたこのお堂には尾張義直自らの書による「先聖殿」の扁額がかかっていたそうな。延宝期(1673-81)の絵図にも「孔子堂」が描かれている。寛永10年に家光が寛永寺に参詣した折には林家にも寄って老中酒井忠勝・土井利勝と共に羅山の講義を受けたそうな。元禄3年(1690)になると、林家は湯島に移転。『寛永寺』には「寺地内であるところから」移転したとあるが、元禄から宝永にかけては浦井正明氏が語る寛永寺の5つの大きな変遷の第5期にあたり、最後の大拡張が行われた時期。第5期をもって寛永寺の寺域がほぼ確定したようなので、寛永寺の拡張に伴って林家の敷地は収公されたと言えるかもしれない。ただ、綱吉は林家の移転先には桜ヶ岡の孔子堂に代わる新しい孔子廟・大成殿を建ててやった。義直の先例にならったのか、綱吉の書による「大成殿」の額のかかったこれが、現在も残る湯島聖堂。私塾の方はのちに林家の手を離れ幕府の所管となり、昌平坂学問所となった。で、清水観音堂の話に戻りますが、ここまで長々と寛永寺シリーズを読んできて下さった方はこの名称だけでおわかりでしょう。はい、京都の人気スポット、清水寺を模したとされるものです。「東の叡山」寛永寺には、叡山付近の名所・堂宇と酷似、あるいは関連があるものが多いことから叡山の模倣と広く一般に言われますが、叡山の諸堂宇や竹生島の弁天を勧請したのはまだいい・・・しかし、なして清水寺?浦井氏はこの点について、 【至近の地に彼の有名な浅草寺の観音堂があり、宗旨の同じ天台宗であるのに、 あえて清水寺から迎えるという挙に出ているわけである。これら(不忍弁天堂と 清水観音堂のこと:ジジイ註)はもともと比叡山が山城と近江に跨がっている ことから、その双方の地の代表として勧請したものなのである。いわばそこには、 このプランにかけた天海の執念ともいうべきものが読みとれるのである。】 (『上野寛永寺 将軍家の葬儀』より)と語る。不忍弁天堂も、関東に江ノ島・鎌倉・布施(千葉県)・井の頭(東京都)など著名な弁天様がいくつもあるのに、わざわざ遠い竹生島から勧請するあたり、そこには特別な意図があると浦井氏は言っておられる訳です。天海の意図は相変わらずよくわかりませぬが、寛永寺清水観音堂の御本尊様は清水寺からお迎えした千手観音像。これは叡山の名僧・恵心僧都の作との伝承がある。まあ、これも瑠璃殿の名作仏像コレクションと同じ流れだと思うけどね~。寛永寺が仏像を各地から集めた年代はそれぞれ異なるかもしれないけど、これまで紹介してきたのをまとめると、 ・宗祖・最澄 ・慈覚大師・円仁 ・智証大師・円珍 ・恵心僧都源信の叡山のスター達の造ったとされる仏像が寛永寺に揃っていたことになる。両大師には良源さんの画像もあるしね。がめついな・・・清水寺といえば、何と言っても舞台造りが有名。上の写真では全然わかりませんが(笑)、寛永寺の清水観音堂も小規模ながら舞台造りになってます。『寛永寺』によると、 【元禄8,9年頃に現在の桜ヶ岡に移築されたが、住吉具慶の慈眼大師縁起絵巻を みると、当初の形式を継承していることがわかる。】だそうなので、天海による創建当初からこのスタイルであったようです。で、まずは「月の松」を見に舞台の先っぽへ進みました。 満月から覗くと 不忍の参道の正面にあるので、弁天堂が見えます。江戸の粋を今に伝える、新たな観光名所です。本場の清水の舞台にはかないませんが、前方には不忍池が広がり、見晴らしはまずまず。『上野寛永寺 将軍家の葬儀』によると、元禄11年(1698)から観音堂付近での花見が庶民にも許されるようになったそうで、眺望の良さも手伝って【上野の花見はますます盛んになっていった】そうな。月の松を見た後で堂内へ参拝。お堂の中には古い絵馬とか色々あるようですが、薄暗かったしよくわからなかった。「春の寛永寺」の時にはおしとみが閉じられていたのでもっと暗くてさらにわからなかった(笑)。ちなみに、堂内は撮影禁止なので写真はありません。お堂の入口にかかる鰐口はこれですが↓、 非公開ながらも、観音堂にはもうひとつ鰐口が保管されている。元和3年(1617)作と伝えられるその鰐口は、かつて観音堂に懸けられていたもので、『寛永寺』には次のような解説がある。 【現在この鰐口には表に5ヶ所、裏に2ヶ所の弾痕がある。これは彰義隊の戦いの 直後に官軍によってなされたもので、銑撃した人物には二説がある。一つは 桐野利秋こと中村半次郎という説、もう一つは伊集院兼覚と村田新八という説である。】旧鰐口の現物は見られなくても、『寛永寺』には白黒だけど写真が載ってます。大きめの穴が4コ、ごく小さいのが1コ。この写真を見て考察されている方のサイトを見つけたけど、その方は至近距離からの狙い撃ちであり、ドンパチやってる時には難しいだろうから、戦が終わったあとに腕自慢、または銃の性能を試すために撃ったのだろうと推測しておられるようだった。『寛永寺』の解説にも、「彰義隊の戦いの直後に」とあるので、その見かたが正しいのかもしれないな。 『寛永寺』は両大師と観音堂で手に入りますので、写真を見たい方は是非お買い求めください寛永寺シリーズもそろそろ終わりに近づいてきたので少し気がゆるんで、ついでに将軍の寛永寺への御成(おなり)についても書いちゃおうかと思いましたが、ちょっと大変なのでひとまずその話は別の機会に譲ります。が、将軍が本坊におられる輪王寺宮を訪問する際、お出迎えのために役職者を除く寛永寺一山の住職たち全員がこの観音堂の書院で待機しており、将軍が山内への入口として使う黒門に第一報が入ると、観音堂の書院を出て黒門を入った中の表参道の両側にずらりと並んで将軍を迎えたそうな。さすがに格が違うよね~。江戸城を出た将軍が寛永寺に向かうルートは決まっていたようで、大手町から上野までの道を将軍になって御成RPGするのもいいよなあ~とひそかに考えてます。いつかそれは実行するかもしれませんが、歩くのには少々時間もかかるだろうし、そんな距離をRPGできるかよ!って方は、寛永寺の僧侶役になって観音堂から黒門付近まで行って道のはじっこでたたずんでればプチ御成RPGが楽しめますよただし、脇役だけど(笑)。ちなみに、宮はもちろんこんなとこへお出ましにはなりません。宮は本坊で待っていて、将軍が黒門に到着したという第二報を受けてはじめて本坊の式台へ向かい、そこで将軍をお出迎えするのです。宮の役で御成RPGすると、トーハクの本館あたりでひたすら待ってるだけなので、これはつまらんな・・・ただ、第二報は誰がどうやって届けたんだろう?ってちょっと気になるので、第二報を届ける使僧役になって、黒門からトーハクまでを小走りで向かうってテもあるよな。・・・て、寛永寺で御成RPGしようなんて妄想する物好きは、歴史ファン多しと言えどもわたくしぐらいかもしれませぬな・・・にほんブログ村
2014年06月18日

弁天島最後はこれ↓。 本堂の斜め前にある、大黒天堂です。なかなかに立派な建物なんだけどね、 天井が汚らしい千社札のせいで台無し。1枚残らずはがしてえ ここには確か解説版らしきものはなかったと思うけど、お堂の前には 【豊太閤護持 大黒天堂】という、気になる立て札が建っている。「豊太閤」は言わずもがなの豊臣秀吉です。秀吉が護持していた大黒天を祀っているといったところだろうけど、その詳しい歴史や由来については手持ちの資料やネットを見てもどこにも載っていない。ただ、『東叡山 寛永寺』の小冊子だけが【右手の大黒堂では、縁日に豊太閤護持の大黒天尊前にて護摩供養を執り行い、人々の信仰を集めています】とある。えっと、縁日なら毎月公開されるってことかな?覚えておこう。にしても、なんで秀吉の護持仏がこんなとこに・・・かつての不忍は寛永寺ではなかったとは言っても、寛永寺グループの一員と言える立場だったのに、秀吉の護持仏なんか将軍家の聖地であった上野で祀るかなあ。あるいは近代に入ってから、ひょんなことで手に入れたって可能性もあるけど、どうして由来を公開しないんだろう。ナゾです。で、この時はお堂のガラス戸は閉められていたので、確かガラス越しに中を覗いたくらいだったんだよな。不忍は御水舎を除いて大震災や戦災に遭ったっていうけど、このお堂はそこそこ古い建物のように見受けられる。どこかから移築してきたものか、あるいはこれも生き残ったのか。お堂の前は四半敷↓。 お約束の床下↓。 お堂の脇にはなぜか古い石材が積み上がっていた↓。 古い玉垣の部材とかかな。なんで処分せんのじゃろ?あと、こんなものも↓。 確か遠目に撮っただけだったから、何やら銘が彫ってあるのはわかるんだけど、少し摩耗してて文字までは読めない。まあ、江戸期に建立されたものだろうな。 おし、これで弁天島は済んだと聖天島をすっ飛ばして池の奥まで進みました。 現在の不忍池は3分割されていて、西側のエリアがボート乗り場になってます。手漕ぎボートのほか、白やピンクの白鳥が池に浮かんでます。手前側を漕いでいる手漕ぎが、ジイちゃんと子供が片側に寄っていて明らかにボートが傾いてるので危ないな~と思っていたら、管理のお兄ちゃんが「危ないので両脇に座ってくださ~い!!」と声がけしてた。そりゃそうだ、こんな池だって転覆して運が悪けりゃ死ぬもんな。不忍はこれで終わり。そろそろ13:30。今回はまずまず順調です。本堂を背中にして参道を出口に向かうとこんな光景↓。 今度は正面の石段を上って、ふたたび山内に戻ります。通りを渡って見上げたところ↓。 このお堂が次のお目当てです。ズームすると、お堂の前にはこんなものがあります↓。 「歌川広重 名所江戸百景 月の松」ぐるりと巻いた松の枝を満月に見立てたもので、江戸期の浮世絵にも描かれているもの。しかし、現在あるこの木は江戸期のものではない。初代は明治の初めに台風でダメになってしまったんだそうな。それを、去年(2013年)に寛永寺が復活させたのが写真の木。月の松のお目見えは150年ぶりらしい。お披露目の時だったかは忘れたけど、去年これがTVに映ってるのを見て見てみたいな~と思ってたんだよね。初代の月の松も自然の造形とは思えないけど、2代目のこの月の松は足立区の造園職人によって3年がかりで満月を作ることに成功したんだそうな。2013年1月19日付けの「上野新聞」によると、 【この造形を生み出すことは難しく、都内でもわずかな職人しかできない】らしい。同記事には、新たな観光名所を作って上野を盛り上げたかったという寛永寺担当者のコメントも載っている。ここまでの上野編でもあれこれ書いてきたように、寛永寺は寺格も非常に高く、徳川将軍家および幕府にとってそれは重要な寺だったのに、幕末から明治初年にかけての不遇な時代を経て現在ではとても地味な存在になってしまっている(と思う)。だから、こうやってPR活動に乗り出すのはとってもいいことだと思う。ガンバレ、寛永寺それじゃあ、石段を上がってお堂の方へ向かいま~す。石段の途中には、華灯路があった↓。 華灯路の絵柄は歌川広重の「名所江戸百景 上野山内月のまつ」↓。 もうひとつの華灯路は同じく広重・江戸名所百景の「深川洲崎十万坪」↓。構図がカッコ良すぎ。 第三編ではそのまますらっと上まで上がっちゃいましたが、「春の寛永寺」の時に石段の途中にある灯篭を撮ったので、先にそちらを紹介します。 【奉献 石灯篭 東叡山 常憲院殿 尊前 寶永六年巳丑年正月十日 大洲城主 従五位下遠江守藤原朝臣加藤氏泰恒】銘は見える範囲だけです。たぶん、「石灯篭」のあとには「両基」あたりの語句が続くと思われます。常憲院はこれまでにも何度も出てきたので覚えた方も多いかと思いますが、5代将軍・綱吉のことです。宝永6年(1709)1月10日って、まんま綱吉の命日なんだけどこれまで見てきた灯篭の日付は、霊廟に奉納されたものの場合、どんなに早くても数カ月後の月命日だったんだけどな。霊廟が簡素化されるのは8代・吉宗以降だから、綱吉の霊廟が完成したのは数カ月はかかってるハズだけど。なんでこんな日付なんだろ?まあ、ともかくこれは現在の寛永寺霊園にあった綱吉の霊廟へ奉納されたものであることに違いはない。で、この加藤さんは七本槍の加藤さんのどちらかの分家あたりかと思ったら、ご先祖は美濃の斎藤龍興(道三の子)に仕えていたらしい。灯篭はもう1本ある。 【奉献 石燈籠壹基 武州 東叡山 浚明院殿 尊前 天明六丙午年九月八日 日州佐土原城主 従五位下淡路守源姓嶋津氏忠持】「浚明院」は10代将軍・家治(1737-86)。8代吉宗の孫。奉納者の島津忠持さんは、日向佐土原(さどわら)藩主。もとは島津四兄弟の父・貴久の弟の家系が佐土原藩を継いでいたが、のち薩摩の島津本家からは陪臣の分家の立場と見なされるようになったらしい。そうは言っても一大名ではあるので、単純に薩摩藩の支藩という訳でもなさそうで、ウィキペディアを軽く読んだくらいじゃよくわからないにしても、「石燈籠」の後は「壹基」のように読めるんだけど・・・「両基」じゃないことは確か。ここまで山内で見てきた灯篭の中では、はっきりシングルとわかる灯篭はなかった。もしかしたら、吉宗以降霊廟の簡素化に伴い、灯篭の置き場も限られちゃったから寄進の灯篭は1基のみに変えられたのかもしれないな。それと、加藤泰恒の灯篭と同じくこちらも不思議な日付になっている。家治の命日は天明6年(1786)8月25日。灯篭の日付は天明6年9月8日。もはや、月命日ですらない。どうも後代の将軍への奉納品は初期のそれとはルールが違ってきているらしいな。今後、他の灯篭とも比較して観察する必要があるけど、家治への灯篭なんか、現在の寛永寺にどれほど残っているのだろうか。霊廟は一般公開してないしな・・・ にほんブログ村
2014年06月16日

今度は本堂の向って右手側へ回ります。 渡り廊下をくぐったところにある八角のお堂↓。昭和33年の再建で、池の四方からお参りできるようにこの形なんだという。 こちら側にもいろんな石碑がある。まずは上州利根郡月夜野町による「幕末之剣豪櫛淵虚冲軒之碑」・・・なんだけど、裏側の写真しかないわ(笑)。 表にも裏にもなにやら碑文が彫ってあるけど、表面が剥離してたりしてまともに読めません。その奥↓。 なしてここにも弁財天?よくわかりませぬ・・・鳥塚↓。 【鳥塚の由来 この鳥塚は東京都内に店舗を有する食鳥肉の販売業者が組織している東京食鳥鶏卵 商業協同組合及び東京都食鳥肉販売業環境衛生同業組合の組合員有志が、生活の糧 であり子孫の繁栄に寄与する諸鳥類の霊魂を永久に慰めるため淨財を集め合つて 昭和三37年3月24日この聖域に建立したものである。 建立の議が起こつたのは昭和35年4月5日の両組合の役員総会の時であって、 満場一致建立することに決定したが、その場所については永くこの塚を後代の同業者が 守つて行く為には、この際都内の中心部であり有名地に建立することを一同が希望した。 その後談合の結果、東叡山寛永時不忍池辧天堂境内に内諾を得たので、正式に両組合の 役員会総会にこの経過を報告し、満場一致で決定。73人の鳥塚建立実行委員が選ばれ その委員会によって実行運動が続けられた結果、寄進組合員総数395名の淨財の 喜捨を得たので、昭和37年1月より石材彫刻を依頼し、同年3月24日にこの地に 塚を立て前記吉日を選んで盛大なる開眼法要を執行したのである。】 (現地碑文より) ↑これはどうも歌碑らしいけど、下部は剥離してて読めません。上豊調理師会による包丁塚↓。 これ↓は剥離どころじゃないぐらいでさっぱりしかし、「高久藹崖筆塚」だと書いてる先人がおられる。 ↑なぜかどかんと「芭蕉翁」芭蕉おじさんがなんだって?あっ、そういえば、おじさんは時の鐘の句も詠んでたっけな。 【貞享四年丁卯七月四日 贈大僧正慈海起立】貞享4年は1687年。元禄の前の元号です。慈海僧正って、現在の根本中堂に墓のあったあの方だな。根本中堂の解説には元禄6年に亡くなったとあるから、亡くなる6年前のことか。初めからこれが不忍にあったのかはわからないけど、笠の上の相輪の部分がぐにゃりと変な形になってるから、火災に巻き込まれたか、あるいは上野戦争の時にでも被害にあったのかもしれない。で、この塔の後ろが少し写ってるけど、あずまやなどがあって、少し出っ張った場所になっている。私が不忍弁天堂に来たのはたぶん初めてなので、構造がよくわからず今回は聖天島は見てないんだけど、正月に根本中堂へ行った時、根本中堂の近くに「江戸大江図」なる古図の看板があるのを見つけた↓。 不忍付近のみをトリミングした図ですが、真ん中の不忍池に弁天島があり、ぽっかり突き出た頭の部分が聖天島。了翁さんの築いた経堂島は描かれてないので、すでにこの時点ではなくなってたようだけど、経堂島は聖天島と反対側にあったんだから、ちょうどこのあずまやのある出っ張りの位置が相当する。小島をつぶしてなくすよりは、地続きにしてつないだために経堂島が消滅したと考える方が自然な気がするので、あるいはあずまやの付近がかつては島で了翁さんの経堂が建っていたのかもしれない。了翁さんといえば、今朝ご飯を食べていた時に新聞の広告欄を見ていて、「ぢ」の薬で有名なあのお店の広告があったので読むとはなしに読んでいたら、こんなことが書いてありました。 【不思議膏は、重い痔に苦しむ我が子を救いたいという強い親の愛から 生まれました。(中略)以来、403年にわたり多くのお苦しみの方を お救いしてまいりました。】 (ヒサヤ大黒堂広告より)そんなに古いの?このお店・・・えっと、2014-403で1611年?大坂の陣(1614~15)より前じゃん!!え~っと、錦袋円は1630年生まれの了翁さんが古傷に苦しんでいた35歳の頃編み出したという伝承があるから、1665年頃か。てことは、錦袋円より古い時代にできた民間薬が現在まで生き残ってるってこと?ちょっと待ってよ、錦袋円って今売ってないよな!?と思ってあわてて調べ直しましたが、やはり現在では錦袋円は「幻の薬」らしい。詳しい成分や材料などもわかってないらしいが、「キハダ(黄柏)を中心に調合されたと推測されている」ということを書いてる方がいた。カレーを食べながら、思いがけずヒサヤ大黒堂の偉大さに驚いた朝でした。現地に戻りまして、全国カレンダー出版協同組合連合会などによる暦塚↓。「暦塚」の文字は中曽根康弘氏の書らしい。 いかにもこのレバーをいじってくださいって感じだったので持って動かそうとしたところ、びくともしなかった。なんだ、文字盤の方が動くのか「真友の碑」↓。 碑は英文なので訳す気なんかさらさらありませんが、日本人のSEKIZO UYEDAさんとアメリカ人のMILES W. VAUGHNさんの友情を記念したものらしい。「東京自動車三十年回記念碑」↓。 ハア、もう、境内の一部を提供して営業してるとしか思えん・・・なんでこんなわけのわからない碑が山ほどあるのか、ここへ来た人はみんな不思議がってます。さて、それじゃ本堂の向って右側に戻ります。 ほお、4本ライン・・・なかなかじゃね~か。この手前にも、こんな碑があります↓。 【建立趣旨 四方海に囲まれた我が国では、古来から魚介類が海の幸として、また国民の 蛋白補給源として食生活の上に重要な役割りを果たしている。因に東京都における 魚市場の歴史は、徳川家康が幕府を開いた慶長8年に始まり、いわゆる魚河岸と 称され、当時魚屋の心意気を表徴した一心太助の人情噺は魚河岸の発展とともに 江戸の華としてその活躍が人々に云い伝えられた。 私共水産小売業者は、年々全国各地で水揚げされる水産資源に感謝すると共に 当組合一同が謹んで魚の霊を悼み、組合創立50周年を機会に供養のため、 この塚を建立して慰霊の念を新たにする。 昭和51年9月吉日建立】 (台座碑文より。漢数字は戦国ジジイが変換)で、この「魚塚」の書は「東叡山輪王寺門跡大僧正」によるものだそうな。寛永寺のトップまでもが協力してる碑とはな・・・(笑)。にほんブログ村
2014年06月15日

ちと雑談どす。先週の金曜日、6/6に骨折したことは軽く近況報告してますが、その話をば。わたくしの失敗談をお好きな方もちらほらおられますし、どうぞお楽しみ・・・いへ、参考になさってください。家を出て最寄りの駅まで歩く途中、足をひねりました。最近あまり歩いてないし、私は昔から足首のジョイントが弱く、ひさびさの「おひねり」でしたが、瞬間的な痛みはすぐひいたようなのでそのまま歩いたものの、少し歩くとすぐ痛み始めました。駅までの約300mはどうにか歩けました。つか、歩きました。その日は最小単位でのチームの他のメンバーがみんな休みだったし、席替えもある日だったので、休む訳にはいかなかったのだ。駅から職場までは、サカサカ歩いて10分ぐらい?しかし、その距離はとてもじゃないけど歩けなかったのでまずタクシー。職場の診療所でシップでももらって、痛むようだったら仕事帰りに病院に寄ろうかと考えてました。けど、始業の頃にはろくに歩けない状態になっていたので、経験上、これはちょっとヤバイかもしれんと判断し、少し遠いし混みそうだけどちゃんとした整形外科を選んで仕事の途中で病院に行かせてもらいました。レントゲンの結果、骨折の診断が下り、ギプスは1ヶ月~1ヶ月半、ギプスが外れてからリハビリとのこと。ヤバそうとは思っていたものの、ましゃか骨折とは。しかも、人生初の松葉杖松葉杖には色々ルールがあるらしく、ギプスを作ったあとで理学療法のお兄ちゃんに松葉杖の訓練を受けました。痛めたのは右足。歩く時は、杖と右足を一緒に出す。階段を上る時は左足から。下りる時は右足から。杖にぶら下がるんじゃなく、手で支える。脇はしめる。・・・うおお、わかんね~「・・・大丈夫ですか?」「が、頑張ります」「大丈夫ですよ、一緒に頑張りましょう」こんな会話を何回繰り返したろう。私の場合、体重の半分までは右足に力をかけていいらしい。お兄ちゃんには最初、身長と体重を聞かれた。仮にわたくしの体重が100キロだとしましょう。説明の際、100キロの半分の50キロの単語が数回出てきたけど、「50キロ」と言うたびにお兄ちゃんは明らかに声をひそめた。おお~、大事な個人情報を守ろうとしてくれてる訳だな50キロの感覚をつかむために、体重計を置いて荷重をかけたりもした。「この感覚、覚えておいてくださいね」と言われたけど、足は痛いし松葉杖は難しいしとてもそれどころじゃ・・・松葉杖の訓練が終わったところで、お会計。初めての病院だったので、問診票を書いた時、受傷の状況を書く欄には「いつ」それが起こったのか選ぶようになっていた。私は通勤の途中だったので「通勤」に○をしてお姉さんに出したところ、「労災になると思うので、今日は健康保険証は使いません。労災が下りるまでは全額負担になります。場合によっては結構かかると思いますが、大丈夫ですか?」と聞かれた。まあ、当面10割負担なのはわかっていたけど、財布には2万円ぐらい入っていたので足りるだろうと思い、「はい、大丈夫です」と堂々と答えた。ところが、明細を見ると診療代で約3万、松葉杖はレンタルなので預かり金として1万のしめて4まんえん・・・うっそお、そんなにかかるの!?もちろん全然足りません。カードも扱ってないというので、近くのコンビニでおろしてこようと思って外に出たら、どしゃ降りの雨杖を両方ついてたら傘をさせないので、一旦受付に戻って「すいません、傘させないので杖片方預かってください」「え・・・片方でもいいって言われましたか?」「でも、傘させないですよね」(←半分逆ギレ)「ちょ、ちょっと待っててください」と奥に引っ込んだと思ったら、理学療法のお兄ちゃんが出てきて片側での杖のつき方を教えてくれた。しかし、片杖だと荷重がかかりすぎて痛くてとても歩けたもんじゃない。「痛い・・・」とお兄ちゃんに訴えたら、少し待つように言われた。待つことしばし。どうやら先生に掛け合ってくれたらしく、預かり金で今回はOKだという。やったあ、本来はダメなんだけど、色じかけが効いたか(笑)。いやいや、冗談言ってる場合じゃありまへん。代わりに健康保険証を人質に取られたので、次回にはきっちり納めねば。しかし、まさかこんなにかかるとはね。最初に確認された時点で、お金おろしておけばよかったな。それに、松葉杖は1日100円のレンタル料がかかるという。ま、松葉杖って有料なんだ・・・薬をもらってタクシーで職場に戻った頃にはもうお昼を過ぎてた。私は当然そのまま仕事するつもりだったんだけど、今日は帰っていいと上司が言ってくれたので親に迎えに来てもらった。ひねって骨折というのが納得いかなかったらしく、父親は開口一番、「骨がスカスカなんだろ」と言った。口には出してないけど、タバコなんか吸ってるからだといいたげなのがよくわかる。フッ、甘いな、オヤジ。「毎年骨密度を測ってるけど、むしろ平均より高いくらいなんだよ~」予想外の反撃に内心驚いたらしく、少しおとなしくなってついでに同情モードにメーターが傾いた。家に着いたら母親が「(タバコなんか吸ってるから)骨粗鬆症なんじゃないの?」と言った。で、オヤジと同様に骨密度の測定結果を話したら、「ええ~?(タバコ吸ってるのに)なんでよ~~!?」と逆ギレされた。知るかよ・・・日ごろの行いじゃないですか?(←それも違います)それにしても、土日を挟んだのはよかった。職場のみんなには本当に申し訳ないことをしたと思ってるけど、好きで骨折した訳じゃないし、特別不注意なことをしてた訳でもありません。そして月曜日。もう注目の的私の部署は大所帯で、ちょっとした会話を交わす程度の人でもゆうに100人はいます。その人達から、会うたび質問攻め・・・ほとんどの人が親身になってくれてるのもわかるんだけど、とにかく沢山の人に色々説明したりして、半日でヘトヘトでした。「本日の説明は終了致しました」のプラカードでも首から下げておきたいと思ったぐらい(笑)。でもね、まだそれはいいんです。私の職場は自社ビルで、1000人以上の人が勤務してるので、知らない人の方が圧倒的に多い。ので、廊下を歩いていたり、食堂に行った時などはやたらジロジロ見られました。1000人もいれば、時にはケガして松葉杖ついてる人だっているのに、とにかく珍しいものでも見たような、不躾な視線が遠慮なく注がれる・・・「ワシャ、珍獣か!イリオモテヤマネコか!ガラパゴスゾウガメか!松葉杖見たことないのか!!」ってわめきちらしたくなりましたね。そんなに珍しいかよ、松葉杖・・・人生に疲れを覚えた、月曜日でした。それから、労災ね。今回のはまぎれもなく通勤災害なので、申告書を人事へ出して、水曜日に申請書類が届いた。労災は初めてなので知らなかったんだけど、労働基準監督署へ出すのね。人事の担当者は私が書く項目に鉛筆で○しておいてくれたんだけど、とにかく書く項目が多くて驚いた。しかも、飲み薬ももらっていて、調剤薬局のおじちゃんからは病院と薬局の分の2枚書類をもらうように言われていたので、2枚も書かなきゃならない。まあ、これさえ下りればタダにはなるんだけど、あまりにめんどくさくて途中で挫折しそうになりました。てことで、労災は大変なので、使わないに越したことはないです。それから、経験者の話によると、最初に健保を使って途中から労災に切り替えとなるともっとめんどくさいことになるらしいので、労災の可能性が高い場合は初めからそのつもりで受診した方が良いようです。で、水曜日に労災の申請書を送ったものの、次の受診日には間に合いませんでした。会社の証明のハンコをもらって病院に出すと、あとは病院側で手続きしてくれるらしいんだけどね。う~ん、いちおう10万円おろしておいたけど、前回の残金が3万円、次の受診は7万あれば足りるよな・・・足りるかなそして昨日、2度目の受診に行って参りました。駅の反対側で下ろしてもらって、跨線橋を越えて、駅からは約2分の距離。「約2分」は病院側のサイトの記述で、普通に歩ける時ならおそらくその程度の時間で着けるんだろうけど、昨日の私には気の遠くなりそうな距離でした。そもそも、毎日の送り迎えを車でしてもらっていたので、1回に歩く距離というのは長くても職場でトイレに行くとか食堂に行くとかそんなもん。わずかな距離とはいえ、松葉杖でまともに外を歩いたのは初めてのことです。まず、跨線橋を越えるだけで疲れた。しかも、昨日はひさびさの晴れで暑かった。病院までの直線ロードでは、松葉杖ならではの新発見があった。歩道はそこそこの広さがあるし、一見整った道のようだけど、ところどころ斜めになっていたりして、わずかな段差にも影響がある松葉杖では相当歩きにくい道。車イスなんかじゃ無理だね。で、レントゲンを撮ったらまだ骨の線が見える・・・初診は院長先生だったけど、再診の昨日は某順天堂(笑)の勤務医で、とにかく愛想のない若い先生で、特に何を言うでもなく、引き続きギプス+松葉2本で経過観察となった。まあしかし、自分の足のホネの写真てのも結構綺麗なもので、「この写真ください」と言いたくなりました。感じ悪い先生だったので我慢したけど(笑)。そして心配のお会計。昨日の分は10割負担で3,420円。あれ?ずいぶん先週と違うな・・・あらためて前回の明細を見てみたら、手術料が14,400円になってる。手術と言ってもメスなどを使うものではなく、骨の位置を元に戻すのにぐぐっと押しただけなんだけどね。「徒手整復」といわれるこの手術は結構痛かったんだけど、以前足を骨折した同僚は、受傷後数日経ってから病院で徒手整復を受けたところ、飛び上がりそうに痛かったと言っていたので、受傷後に腫れてきたり痛みが強いなどの骨折の疑いがある場合は、早めに病院に行った方がいいようですよ。てことで、引き続き4本足生活です。痛みもだいぶ落ち着いていたので、順調じゃないかと思ったんだけどな・・・やはり最初の安静が大事なので、もう少し気を付けて養生しようと思ってます。にほんブログ村
2014年06月14日

長谷川利行(1891~1969)の碑↓。 「放浪の画家・日本のゴッホ」として利行の略年表の看板は建ってるけど、なんでこれをここに作ったのかの説明はなかった。年表の方は長いので割愛します。御水舎↓。 手水舎でよくあるのは、龍がかーーーっと水を吐き出してるタイプだけど、ここのはよくわからないものから水が出ていた↓。 ↑ここの紋はコレみたいだな。しかし、戦国ジジイには後北条氏の紋にしか見えなくて・・・(笑) 上屋の龍の彫り物はなかなか立派。実はこの御水舎、天井には谷文晁による水墨の龍があるそうなんだけど、この時はすっかり忘れて見てません。ただ、今はガラスで保護されていて暗くて見えにくいと聞いたけど。こちらが南の方角↓。どこもかしこもハスがびっしりで、境内は多くの人で賑わしくても池の方は静かなもので、とても都内とは思えません。 その先にあるのがこれ↓。 ああ、これは・・・ フグだま、下関の亀山八幡宮のよりは小さいけどね。あちらはなんたって、「世界一のふくの像」だから(笑)。フグの像の隣には、由来を記したっぽい碑文もあったけど、字は一部摩耗して読みにくいし、そもそも玉垣の中で入れないので撮ってません。が、フグの台座のこの文字↓。 「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介氏のお手によるもののようです。この辺から、石碑がぼんぼん続きます。 これのすぐ脇にある碑↓。「初代 六翁 歌碑」とある。 脇の碑文以外は解説らしいものはないけど、長唄三味線方の十二世杵屋六三郎を讃える碑のようです。他の碑もほとんど解説などはなかったので、ひたすら写真を紹介しますね。八橋検校顕彰碑↓。顕彰碑の前には、琴のオブジェも横たわってます。 八橋検校の立派すぎる石碑の前には、ちょこんと小さな石碑がある↓。 「六殿塚」とあるようだけど、これが何なのかはさっぱりわかりませぬ。この辺の碑を撮ってる時、後ろから男の人に声をかけられた。私は自分のことで忙しいので、日本人に撮影を頼まれたら断る気マンマンでいたけど、振り向いたらアラブ系の男性群だった。しょうがねえ、ガイジンじゃ断れねーな・・・と作り笑顔なんか見せて国際親善に一役買いました。一日一善。(←単に写真を撮っただけ) 扇塚↓。 スッポン感謝之塔↓。 いと塚↓。 この辺はもう社殿の脇あたり。灯篭の胴にはなにやらびっしり彫られてるけど、よく読めません。寛永寺に奉納されたものじゃないことだけは確かだけど↓。 灯篭の隣にあるのが、琵琶↓。後ろのお堂に祀られているのが弁天様だからなのでしょうか・・・とにかくここには、わけわから・・・いへ、よくわからないものが沢山あるです 琵琶のとなり↓。 こちらが弁天堂↓。 ↑屋根の上がすげえ変わってるな~と思ったら、これは本堂の奥のお堂の屋根だったらしい。 御水舎の紋とは少し違うけど、周りの波っぽいのなんかどうでもいいです。とにかく真ん中のウロコ紋が後北条氏の紋にしか見えなくて、ここにある紋はすべて北条鱗だと笑いながら写真を撮ってました。ホラ、いちおう(まだ)戦国ジジイだから 本堂入口↓。鰐口はシンプル。 本堂の中には入れるんだけど、撮影禁止とあったので、内部の写真はありません。ただ、ここには少し変わったお守りがあった。 【融通守銭 融通銭を護持されるとお金に不自由しなくなると言い伝えられています。 一体 100円】100円でお金に困らなくなるなんて、安上がりだなあ~と思ったものの、上の貼り紙の最後には「毎月のお取り替えをお勧め致します」とある。毎月の受け替えかよ・・・結構ハードル高いなしかし、とりあえず2~3コお土産に買いました。すぐ出てきちゃったので内部はあまり記憶にないけど、こちらの御本尊様は八臂の弁天様で、慈覚大師円仁の作という伝承があるそうな。本堂を出たところからの風景↓。 正面に木がこんもりしてるのが上野のお山・・・つまり、かつての寛永寺。今度は本堂の向って右側に移ります。 【江戸時代には己巳(つちのとみ)の日は、前夜から参詣人が押し寄せたと いわれているが、現在でも9月の巳成金の日には早朝より沢山の参詣がある。】 (『寛永寺』より)まあ、多少境内の雰囲気は変わっても、今も昔も多くの善男善女で賑わってたってことだな。両大師で寛永寺の縁日デビューを果たしてから、ひそかに寛永寺の縁日制覇を夢見ているわたくしですが、ここの大祭は1年に1日か・・・しかも、みんな大好きなカネに絡む縁日とくれば、相当な人出だろうな。毎月の縁日は初巳の日にあるらしいから、その縁日だけにしておくかなにほんブログ村
2014年06月13日

祝・100話1回の旅で100話越えはもう当たり前になってきたけど、1つの寺だけで100話越えってのもな・・・まあ、かつては大きな寺だったんだし、数回に分けて行ってるからこれくらいは当然でしょう。なかなか寛永寺が終わらずに、読んでる皆様も食傷ぎみかもしれませんが、今月中くらいには終わると思うので、もうしばらくお付き合いください。で、前回は水谷勝隆が不忍池に中之島を築いたところまで紹介しまして、だいたい不忍池の歴史はそういう風に紹介されるんですが、ウィキペディアの堀直寄のページにはこんなことが書かれている。 【直寄が村上に入部のさい、家康より百万石の禄を与えるという御墨付きを所有していた。 これを示して老中に百万石の請求をした所、老中は困り果てたが、百万石の「石」の字に 虫食いがあるのを見つけ、「之は百万石に非ずして百万両なり、依って佐渡金山を向う 三ヶ年取らすべし」と下命して早々に立ち去った。怒った直寄はこの金で村上城を増改築し、 士分の増員を行い、江戸の上屋敷に凌雲院を建て、不忍池を作った。】ううう~ん・・・おそらく、大きな流れとしては、一般的な説の通り天海と水谷勝隆のタッグでベースが整えられたんじゃないかと思う。ただ、大仏以降書いてるように、上野のお山の南側は寛永寺以前は堀家の屋敷があったと思われ、寛永寺ができた後も堀家とのゆかりの深いエリアなので、「不忍池を作った」訳ではないけど、周辺を整備したぐらいのことはあったかもしれない。不忍池にある弁天堂は天海が勧請し、現在は寛永寺の所属。上野のお山のすぐ南にあるので、誰も不思議とは思ってないでしょう。ところが、浦井正明氏によると実際はもう少し複雑であったらしい。 【江戸時代の不忍池6万坪(含弁天堂、観音堂、護摩堂、聖天)は寛永寺の放生池 ではあったが、正確にいえば、寛永寺の境内地ではなかったのである。もちろん、 住職の任命その他一切については当然寛永寺がその全権を握ってはいたが、 寺としては天竜山妙音寺生池院と称するまったく別の寺だったのである。 一部の書に、寛永寺の境内を36万坪余りとしているのは、誤ってこの不忍池 6万坪を加算しているからである。不忍の弁財天が寛永寺のなかに組み入れられたのは 実は明治維新後のことだったのである。】 (『上野寛永寺 将軍家の葬儀』より)なんや、ようわからんけど、とりあえず江戸期は別モノだったらしいッス。『寛永寺』によると、もとは下谷にあった寺を不忍に移したという。水谷勝隆が基礎工事をして、天海が勧請した弁天の祠は不忍のメインスポットだった。しかし、それ以前から聖天島という小島が池に浮かんでおり、この2つを橋で結んでいたという。寛文年間(1661~73)に入ると、中之島と岸の両側から埋め立てて延ばした土手の真ん中に小さな橋が架けられ、のち中之島には弁天堂が建てられた。中之島をはさんで聖天島の反対側には、初代輪王寺宮・守澄法親王のお許しを得て寛文10年(1670)に了翁道覚(りょうおうどうかく)が経堂島と呼ばれる小島を作った。了翁さん・・・この名前、覚えてますか?忘れちゃった方は、「上野第一編(11)」でおさらい下さいね。いさぎよくホトトギスをちょんぎった甲斐あって秘薬を編み出し、大儲けしたあの了翁さんですよ~。不忍は了翁さんとも縁が深い。そもそも、錦袋円を売り出す店を構えたのは不忍池の南、現在では野外ステージのあるあたり。儲けの中から大蔵経を購入し、経堂島を造り、そこに2階建ての経堂を建てて内外の書籍やら大蔵経を納めたという。了翁さんが買った大蔵経は、天海版らしいけどね。岡本綺堂(1872~1939)の『風俗江戸物語』にはこんな伝承が載っているそうな。 かつて、池之端に錦袋円という有名な薬屋があった。そこの娘は弁天様の申し子と 言われていたそうだが、18歳の時、不忍池に入って大蛇となり、 池の主となったそうな。 その大蛇は明治の初め頃まで不忍池に棲んでいたが、のち印旛沼へ移ってしまったと 言われている。 (ウィキペディアより)印旛(いんば)沼は千葉県にある、結構デカい沼です。錦袋円の娘が印旛沼に引っ越したという伝承はマイナーな伝承っぽいけど、印旛沼には 【内容としては主に印旛沼一帯の旱魃に見かねた竜が老人となって印旛沼周辺を見回り、 人々の助けの声を聞いて竜王に逆らって雨を降らせたところ、竜の胴体は3つに 分断され地上に落ちたという。】 (ウィキペディアより)という龍の伝説があるそうです。ただ、了翁さんの造った経堂島は今は存在しないらしい。上野のお山は花見、月見、雪見など自然を満喫できる人気のスポットだったが、その麓にある不忍池には沢山の蓮も咲き、蓮見でも人気が高かったらしい。 ↑これは参道入口から北西の本郷方面を見たところ。もうシーズンじゃないので、枯れかかったハスの葉っぱが池を埋め尽くしてるだけの光景になってますレンコン・・・つーかハスは2000年以上前に中国を経て日本へ入ってきたらしく、その歴史は古い。あの大賀ハスが2000年前のものだったからね。8世紀の常陸風土記にはすでにレンコンを食べたという記述もあるらしく、古くから親しまれてきた食材ではあるようだけど、先日見かけたTVでは少し違うことを言っていた。TVで先生が語るには、ハスは仏教と縁の深い花なので、奈良時代頃には食用ではなくあくまで観賞用だったといい、広く食材として親しまれるようになったのは江戸時代に入ってからだという。まあ、どちらが正しいのかはわからないけど、奈良時代ならまだ仏教は上流社会にのみ許されていたものだったから(「春の寛永寺」参照)、食べることを避けていたのは貴族社会だけだったんじゃないだろうか、と思った。レンコンの歴史はともかく、不忍池にハスが広がる光景は現在のわたくしには萌え~スポットです。なんでかって?「上野第二編(22)」で、将軍と輪王寺宮の親密な関係を少し紹介してますが、宮から将軍へは上野の桜を届けたりしたほか、不忍池でできたレンコンを贈ったらしい。それも、宮がじきじきに試食した上でレンコンを届けさせたというのだ。てことで、不忍池に到着して一面にハスが広がる光景を見てまずわたくしの脳内では「ここのレンコンを宮がお食べになられたのか~」と、要するに宮萌え~してた訳です。ハイ。さて、それじゃ境内に入りましょうか。参道入口には、銅製と思われるなかなか立派な灯篭がある↓。 一見、上野東照宮や根本中堂にあった銅灯篭の仲間のようだけど、葵の紋がついてる訳でもないし、銘の部分も霊廟関係へ奉納された銅灯篭とはスタイルが違っている。とはいっても、ご覧の通り屋台の後ろで灯篭には近づけないので、隙間からかろうじて撮っただけですが。屋台、ジャマだな・・・参道は一部、橋になってる箇所もある↓。構造自体は昔のままなのかもな。 ここ不忍池弁天堂の境内には変わった碑のたぐいが沢山ある。見ようによっては面白いんだけど、現実に浸ると歴史に思いを馳せることが難しくなるので(そのぐらい沢山ある)、ひとまず大雑把な歴史部分を先にご紹介しました。で、ここからはその碑たちをガンガン紹介していきます。まず最初に出るのがこれ↓。 【めがね之碑 眼鏡がはるかに海を越え我が日本に渡来したのは420余年のことであります。 文化の発達につれてめがねの需要も増大し、文化・政治・経済に貢献した 役割は誠に大なるものがあります。その間、業界先覚者の研鑽努力により 今日の発展をみるに至ったことを回想。明治百年を記念してその功績を顕彰し 慈眼大師ゆかりの地上野不忍池畔にこの碑を建立し、感謝の念を新たに するものであります。】 (現地解説板より)天海が慈眼大師だから、「眼」にかけてここの碑を作ったと言いたいのか?どうせ眼鏡を讃えるのであれば、日本最初の眼鏡はザビエルが大内義隆に献上したものと言われている、ぐらいのこと載せてもいいのにただ、義隆の眼鏡は残っていないけど、同じ時期に足利12代将軍・義晴も眼鏡を持っていたとされ、そちらの方は足利8代将軍・義政から受け継がれたという伝承があり、その伝承が事実であれば義隆は日本初のメガネっ子ではなくなる。義晴の眼鏡は大徳寺に残っており、それが現存する国内最古の眼鏡だそうな。で、碑にあるこのメガネ↓。 「徳川家康所持の眼鏡」と書かれている。ははっ、こんなまん丸メガネをかけてたのか にほんブログ村
2014年06月11日

それにしても、上野に少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀る神社があったとはな・・・少彦名命は「福山編(18)」でちょっと出てきましたが、あの時書くのを我慢した爆笑エピソードをお持ちの神様です。いずれその話を書きたいと思ってたんだけど、当面書く機会はなさそうなので、御存知の方も多いでしょうが簡単にご紹介しましょうね。 ある時、大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命の間で 重い粘土を担いで遠くまで歩くのと、大便を我慢して遠くまで歩くのと どちらがつらいかという話になった。 大:いんや~、俺は力自慢だけど、粘土を背負って歩くのはやっぱな~。 少:いんや!ウンコなんか我慢しようと思ってできるもんじゃないじゃん! しかも、歩くんだよ?ムリムリ!ウンコだね、ウンコ!! 大:・・・ふん、なら、やってみようじゃねーか。 俺はウンコを我慢する。お前は粘土を背負って行けよ。 少:お~し、受けて立とうじゃねーか!! どうせウンコもらすに決まってんだから・・・ 大:ふん、言うじゃねーか。後で吠えヅラかくなよ! 少:フンフンて、オヤジギャグかましてんじゃねーよ!! こうして大己貴命はウンコを我慢して歩き、体の小さい少彦名命は粘土を背負って どちらの言い分が正しいか勝負することになった。 それぞれが我慢しながら歩くこと数日。 大:・・・あ、ああっ、もうダメ!! と大己貴命が先に座り込んで、その場で大便をした。 少彦名命もすぐさま 少:ふぃ~、もうダメだ・・・ と粘土を放り出した。・・・という、神様のバカっぽいお話。セリフは脚本家・戦国ジジイが脚色入れてますが。さて、わたくしもバカ話を書いてスッキリしたところで、境内に戻りましょう。 ↑これが五條天神社の社殿。花園稲荷神社のよりは大きくて立派。しかし、よく見ると2つの神社の社殿は回廊でつながってる。そうか、花園稲荷神社の小部屋で着替えてた若くない兄ちゃんはこっちから来たから、現在では2つの神社を兼務してるのかもな。社殿前の狛犬↓。 ここは社殿前の石段に柵がしてあって社殿には近寄れないので、おしりの写真はありませぬ。 紋はガマの穂らしい。ここには「虎徹の井戸」があるって話だったんだけど、見当たらなかった。どうやら社殿の脇の方にあるらしく、お願いしなければ見られないものらしい。それから、神社のホームページを見るとここにも赤穂浪士の遺品やら遺墨やらあるらしく、(12月14日)とあるので、討入りの日のみ公開されるのかもしれない。社殿の脇にある舞殿↓。 舞殿の脇にある鳥居↓。ここから不忍(しのばず)の方に降りられるみたいだな。 社務所の方はえらい現代的↓。 社務所の脇を上がったところにも鳥居↓。こちらが本来の入口らしい。 鳥居の手前にはこんな建物がある↓。 【この七福社は江戸時代上野の繁栄を願い山内各門に祀られた祠の中の 一つと云われます。】 (貼り紙より)あれ、寛永寺って8つの門があったんじゃ・・・(「上野第二編(7)」参照)。初期の頃の話かな。いずれにせよ、寛永寺の各門にそれぞれ七福社が祀られていたとは興味深い。境内の隅っこには古そうな灯篭だとかそれなりにあるんだけど、どうも全体的に綺麗すぎてイマイチ気が乗らないので、そろそろここは終わりにしよう・・・ 正規の入口におわす狛犬↓。 以上で五条天神社は終わり~。出たところから南へ少し坂を下ると、不忍池に出ます。不忍はほとんど来たことがないよな・・・ボートにも乗ったことないし(笑)。第二編では、一気にここまで来る予定でした。実際あちこち回ってみると、とても私にはこなせるスケジュールじゃなかったんだけど、もしあの時来られてたらちょうど蓮が咲いてた時期だったろうに・・・山内にある神社や史跡よりは当然人も多かろうと思ってはいたものの、入口まで来てみると うおっ、なんじゃあこりゃあ~!すげえ屋台、すげえ人・・・しょうがないよな、どうせここはいつ来てもこんなんだろうと諦めて奥へ。 が、賑わしい境内の紹介に入る前に、少し歴バナをば。現在でも不忍池は結構な広さがあるけど、大昔は古石神井川が武蔵野台地の東側を海へと流れ込んでおり、寛永19年(1642)頃の古い絵図には上野のお山と本郷台地の間に古石神井川が作り上げた谷が描かれている。その頃は不忍池の北側は水田として利用されていたようで、古石神井川谷の先っぽ、現在の不忍池付近に水が溜まっている様子がわかる。明暦3年(1657)頃になってくると、だいぶ現在の池の雰囲気に近くなってはいるが、池の場所には「志のわ津池」という名称が書かれている。『江戸東京地形の謎』(芳賀ひらく/二見書房)には 【小竹が多く生えていたから篠輪津池だとか、はては男女が忍んで遭った場所だから、 などとも言われますが、確かなのは江戸期以前から、周辺に「忍岡」という 地名があって、そこから案出された池名であるらしいということです。】とある。芳賀氏は古石神井川の先っぽに溜まった水場・・・つまり不忍池のことを井伏鱒二の小説とかけて「山椒魚」と呼んでおり、 【この山椒魚の頭は、旧石神井川の河口が砂州の堆積で塞がれてできた沼沢地を 起源としていたことは別に触れます。いずれにしてもこれは台地を水流が 浸食してできた河谷の、「出られなくなった」姿ではあったのです。】 (前掲書より)と解説する。ふ~む、かつてこの辺が沼沢地だったとはな・・・縄文時代頃には、このあたりは海だったそうな。さて、江戸期に入り寛永寺ができると、天海は不忍池に弁天を勧請することにした。寛永寺の堂宇やその周辺は、叡山を模したものが多いという一般論はこれまでにも紹介してきたけど、不忍池を叡山の東にある琵琶湖に見立てたというのだ。私は今も、寛永寺とその周辺が叡山を徹底的に模倣したという話には懐疑的なんだけど、『寛永寺』では次のように説明がある。 【天海僧正が常陸(茨城)下館の城主水谷伊勢守勝隆の協力を得て、不忍池に中之嶋を 築き、そこにはるばる琵琶湖の竹生嶋から弁財天を勧請してお祀りしたのは、 比叡山の山麓の一方が琵琶湖だったからにほかならないのである。いわば、不忍池は 江戸に於ける琵琶湖なのであり、中之嶋は竹生嶋ということになる。 従って、関東に江之嶋や鎌倉(鶴ヶ岡)のように如何に著名な弁財天が存在しようとも、 勧請するのは竹生嶋からでなければならない訳である。】・・・うん、まあ、確かにわざわざ竹生(ちくぶ)島からってのも不自然ではあるけどね。で、当時はほぼ池だったのを、水谷(みずのや)勝隆が小島を作ったとされる。この小島が上の写真に写っている人気スポットのベース。ただし、当初はホントの「島」で、舟で池を渡って参拝するようになっていた。その頃は池の中に鳥居が立っており、舟で鳥居をくぐっていったんだそうな。水谷勝隆は備中松山城の城主にもなっていて、ウィキペディアを見てもどうも土木関係に強い人であったらしい。それを見込んで天海が協力を要請した可能性もあるけど、天海が大躍進を遂げる前、下野久下田にいた頃に勝隆と面識ができたんじゃないかという気もする。天海と勝隆は仲が良かったと何か(←忘れた)でも読んだしな。にほんブログ村
2014年06月10日

前回の伊藤博文の扁額の掛かる建物の隣に、小さな鳥居がある↓。 入口の狛キツネ↓。 うちの娘さん(小)はキツネに似てまして、「おきつねさん」と呼んでるんですが、ここのは迫力ある顔してるなあ。朱の鳥居の先には、建物の脇に小道が付けられている↓。 【穴稲荷 正しくは忍岡稲荷と云い花園稲荷の旧跡である。左奥のお社は、寛永の始め天海が 寛永寺を草創の際に忍ヶ岡の狐の住み處(か)を失った事をあわれみ一洞を作り その上に祠を建てて祀ったのと云われている。】 (現地解説板より)てんかい!?入口の看板では、公海が夢に見て再建したことになってたけどそれに、天海の創建当時はまだそんなに寺域は広くはなかったし、寛永寺以前にはおそらく堀家がこのエリアを所有していたと思われるし、そもそも江戸期以前からこの辺は多少開けていたんじゃないかと思われるので、なんにしても寛永寺ができたことによってキツネが追い出されたってのはイマイチ納得いかない。ただ、花園稲荷神社のある場所は少し地形も複雑になっており、上野戦争の折には彰義隊の隊士がここに隠れたともいわれる。で、上の写真の先を曲がったところ↓。 おおお、すげえ~。完全に別世界になっとるぞ。こんな場所が上野にあったなんて・・・ここの石組みには、一部「はつった」ような石もある↓。 昔からある石組みなのか、角度を変えて色々のぞいてみたけど、ほとんどが貼られているだけの石っぽかった。で、穴↓。 この場所はひんやりとした空気で、穴の上には明かり取りの窓もあるんだけど、奥の方はほとんどローソクの明かりだけで、かなりの迫力があります。一種のパワースポットと言えるかもしれない。狭いので、人が来たらそれはそれでイヤだけど、かといって1人でいるのもちょっと怖いぐらいでした。穴の前におわすおキツネ様↓。 ああ、お顔半分が崩れてコワいことになっちゃってますう~!!しかし、この足元におるのは また、子ギツネちゃん反対側は ああ、こちらも片側お耳がなくなっちゃってますう~!!結構古いものなのかな・・・「穴」のすぐ上や脇の石には、うっすら文字が刻まれていた↓。摩耗がひどくて、とても読めたもんじゃありませんでしたが、たぶんこれが前々回の入口の解説にあった公海再建の碑文なんだろうな。 「穴」の先には、お社がある↓。 なんか、御嶽山の分社みたいな感じだな。神社の縁起によると、これは古書に「弥左衛門狐」とあるのを祀ったお社なんだそうな。穴稲荷を出て、社殿の斜め前にある階段を下りる。階段の石垣はちょっと変わっていた。 ま、明らかに近代に入ってから組まれたもののようだけど、1つ1つの石には奉納者の名前などが刻まれている。他にも、紋つきの石なんかもあった↓。 石段を降りる途中の正面には、こんな方がいらっしゃるのが見える↓。 降りて正面側から見たところ↓。 どうも手水舎らしい。が・・・ 2枚目の写真は、上からぶら下がってる照明。キレイでオサレなんだけど、ずいぶん穴稲荷と雰囲気違うなあ・・・して、手水舎の向かいに建つのがこれ↓。 【五條天神社縁起 御祭神 主神 大己貴命 少彦名命(医・薬祖神) 相殿 菅原道真命(寛永18年に合祀・約350年前 御由緒 第12代景行天皇の御代、日本武尊が御東征の際、上野の忍岡で薬祖神二柱の 大神が奇瑞を現し給い難を救われたので、ここに両神をお祀りしたと伝えられ、 平成22年5月御鎮座1900年大祭が行われる、東都屈指の古社であります。 江戸初期、社地は神職の瀬川屋敷(上野公園下・旧五條町)に遷り、御創祀に近い 現地には昭和3年9月に御遷座になりました。 御祭日 例大祭 5月25日 医薬祭 毎月10日 病気平癒祈願・無病健康祈願 月次祭 毎月25日 特殊神事 宝船の神事1月1日と2日、うそ替えの神事1月25日 うけらの神事2月節分の日の午後3時 教養部 弓道・茶道・花道】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)境内の外にも沿革が書いてあったので、先にそちらを紹介します。 【景行天皇の御宇、日本武尊東夷征伐のため武尊忍岡を御通行の●大己貴命 (大国主命)、少彦命二柱の大神の奇瑞を現し給うことあるに依って 同所に両神を勧請せられたのが当社の創祀であると伝えられる。 相殿に菅原道真公を祭祀したのは、社名が天神と呼ばれたるにより菅神の 尊像なくてはとて寛永18年道真公の尊像を造し、天海大僧正並びに 毘沙門堂公海が開眼供養を修したのであると伝う。 寛永寺境内拡張のことなどに依り、当時の社地天神山、今の(擂鉢山)より 暫く当社別当にして連歌師たる瀬川屋敷内(今の五條町)に遷座されていたが 昭和3年9月22日に統治に御遷座し奉った。当社は古より●薬が祖神として 尊崇されている。】また、外の解説版には花園稲荷神社の簡単な解説もあった。 【創祀不詳 承応3年天海の弟子晃海霊夢に感じ稲荷社廃祀に当社を再興し 東叡山擁護の霊社となす。】・・・ふむ、こちらの解説では、花園稲荷は寛永寺の守護神だったと言ってる訳だな。で、五條天神社の方ですが、1つ目の解説に「東都屈指の古社」とあるように、尭恵(ぎょうえ:1430~?)の「北国紀行」にも登場しており、浦井正明氏も『魔都江戸の都市計画』(内藤正敏著)の対談の中で 【寛永寺ができる前に、すでに間違いなく”摺鉢山”の上に五条天神があった。 (中略)慶長期(1596~1615)にこの地を、徳川幕府が藤堂と堀と 津軽の大名三家の下屋敷地に割り当てたときも、五条天神は動いていません。】と語っておられるので、神話の伝承部分はともかくとして、確かに古い神社ではあるようです。古い神社らしく、神事なんかも変わったものがあるしな・・・「うそ替えの神事」ってのは、1年間につきまくった嘘を「鷽(うそ)鳥」の人形に託して、新しい「鷽鳥」に受け替えることで罪を滅ぼす・・・要するに「水に流しちゃう」という意味合いの神事らしい。何とも日本人らしい神事とゆーか・・・鷽の人形は、宮司さんによるヒノキの一刀彫らしい。こけしの鳥バージョンみたいな姿をご想像ください(笑)。で、「鷽」は天神様とゆかりが深い鳥なので、初天神の日に古い「鷽鳥」の人形を神前に納めるという、天神様に由来する厄払いなんだそうな。それから、古い神社では「大祓」をやってるところが多いけど、五條天神社でも大祓を行っており、その時期には「茅の輪くぐり」ができるらしい。にほんブログ村
2014年06月09日

花園稲荷神社入口の狛犬↓。 こちらが相棒↓。 もお、江戸の狛犬はバリエーションがありすぎて、面白すぎらあ狛犬っつーか、だいぶオリエント風だけど。大きな石鳥居をくぐると、とたんに稲荷っぽくなる↓。 第一段の鳥居群の先は階段を下りるようになっており、途中に解説があった。 【稲荷坂 花園稲荷神社は「穴稲荷」「忍岡(しのぶがおか)稲荷」とも呼ばれ、創建年代は 諸説あるが、江戸時代初期には創建されていた。これにより江戸時代から「稲荷坂」の 名がある。享保17年(1732)の『江戸砂子』にその名がみえ、明治29年 (1896)の『新撰東京名所図会』には「稲荷坂 忍ヶ岡の西方に在りて、 穴稲荷社へ出る坂路をいふ」とある。】第二段の鳥居群↓。まだ下りていくらしい。結構急だな・・・ 写真の通り左側はフェンスで囲われてるけど、途中のフェンスの向こうには石碑なんかもあった↓。 フェンス越しに脇から覗くしかないし、くずし字で何を書いてるのかはわからないんだけど、本文のおしりには 【従二位前田利●書】とある。名前の下の字が見たことない字で読めないんだけど、従二位で前田で「利」の字を使うならまずあの前田さんちだろうと思うので、この方は越中富山藩主の前田利聲(としかた)さんの書と思われます。それで、この題字↓。 【正二位侯爵蜂須賀茂韶卿題額】とある。ほお、前田と蜂須賀の夢の競演か~蜂須賀茂韶(もちあき)は、阿波徳島藩主。父は徳川11代将軍・家斉(いえなり)の22男らしいので、家斉の孫にあたるってことだな。家斉さんてのも、子だくさんで有名な方でね(笑)。そんなゼイタクな碑が、フェンスの向こうでちんまりしてますこの先も階段↓。 上野の標高自体が丘程度のものだから数字的には大したことないんだけど、初めて来た場所だし、結構下りてきたのでなんだか別空間。心なしか空気もひやっとじめっとした感じで、古い神を祀る雰囲気は充分あった。石段を下りきって参道のすぐ右手にあるのが、花園稲荷神社の社殿↓。 まずは狛・・・ええと、狛キツネ↓。 あっ、これ子持ちだ! 子ギツネだ~柏の神社でも子持ちの狛キツネを見たことあるけど、あんまりないよな。よくよく見れば子持ちの狛犬ってのもそこそこいるもんだけど、狛犬全体で見れば数が多いとはいえないし。で、相方↓。 こちらは手毬・・・いや、宝珠か?この台座には 三遊亭円・・・なんだろ?ちょっとどなたかわからないんだけど、落語の三遊亭には違いないよな。やっぱりここは芸能関係者の信仰が篤いらしい。 そんなに大きくはないけど、社殿はなかなか良い雰囲気。ここを見ている時、ガイジンの兄ちゃんまでやって来た。脇の社務所は無人だったけど、確か前回の解説にあった「白羽の矢」だとか何やらあって、ついでに「売り物なので写真は撮らないでください」みたいな貼り紙まであった(笑)。社務所を覗いてる時、若くないお兄ちゃんが脇の回廊からやって来て、社殿脇の小部屋で着替えを始めた。なんか思いっきし見えてるんですケド・・・ま、着替えったって別にオールヌードになった訳じゃないですよ。(そんなん見たかないし)上っぱりを替えてたぐらいのもんです。で、こちらが参道を挟んだ社殿の向いにある手水舎↓。 足にもつい目が行ったら、ここのはこんなだった↓。 奥まってる方はこんな角度からしか撮れませんでしたが。邪鬼もあちこちで水盤を抱えて大変だなあ~ しかし、摩耗の感じからして結構古そう。最初の写真の子だけは後から補充されたもののような気もするけど、それ以外の子は寛永寺時代から水盤を担いでるんじゃないだろうか。この近くにあった灯篭↓。 銘は見えなかったけど、材質からして割と新しいものの気がするな。手水舎の隣にあるのがこちら↓。 ここの扁額は伊藤博文の書らしい↓。 懸魚の裏っかわには ぎょえ~~、スズメバチの巣だしかも、ビニールまでかけてあって永久保存する気らしい(笑)。にしても、白市の養国寺にも懸魚の裏にデカい巣があったし、自然界に生きる者たちの方が日本建築の良さを理解しているのかもしれない・・・それから、屋根。ここの留蓋は う~ん、下の鏡餅と上の飾りが一体化してるから、作りとしては新しいものっぽいな。しかし、あの形は松戸の香取稲荷神社の仲間だよな。あの形の留蓋はいつ頃から使われてるものなんだろう?で、鬼板↓。 第二編での歴バナがかなり長かったので、このテの写真を載せるのも久々ですが、また上野に「ぽっかりさん」がありましたよ。絶対不自然だと思うんだけどな~、これ・・・にほんブログ村
2014年06月08日

「松葉りり」2日目。不便なことは多々ありますが、今回は足の甲の細い骨が1本折れただけでふっとい骨が折れたとか大がかりなものじゃないので、総じて尾てい骨の骨折よりは楽かもしれません。昨日はギプスを作った後で松葉杖の使い方の訓練を受けて、最初は細かい決まりにウンザリしましたが、さすがにだいぶ慣れてきました。養生の経過だとか感じたことについては、最近全然使ってないツイッターでこまごまとついーとしようかとも考えましたが、なんかそれもめんどくさくなってきた(笑)。ので、そのうちまとめてブログネタにするかもしれません。学生の頃はそこそこ純文学の類も読みまして、作家たちのけっこーかなり赤裸々ないわゆる私小説などを読んではよく恥ずかしげもなくこんなことネタにするよな~と思いましたが、わたくしもブログを始めるようになってからは何でもブログネタにしてるので、自分でもちょっと笑っちゃいます。「松葉りり」を卒業できたら、ついでにそのまま「大内りり」に改名するのもいいかな・・・なんて考えてもいます(←相変わらずの大内バカ)。以上、近況終わり。上野動物園内の木は少し色づいていた。 左がサル系のケージだったかな。それは歩きながら見ただけだけど、カピバラのお尻は撮った(笑)。あれ、これホントにカピバラ?確かそう書いてあったんだけど・・・ よし、ひとまず動物園のお目当ては済んだぞこの日は弁当持参で来てたので、サル山の前の休憩所でランチ。て、都内にまで弁当を持ってくるようになってしまったワタシ・・・今回で上野山内は制覇できるだろうから、少し先まで足を延ばす予定なのでしっかり食べておかなきゃな。この後は東照宮と時の鐘に寄って補足の写真を撮りました(写真は第二編で公開済)。パゴダ付近にあった華灯路↓。 この付近にはこんなポスターがあった↓。 ほお、根本中堂と霊廟のセットだなんて、なんて豪華メニュー。詳細は書いてないけど、どうせシングルじゃ受け付けてくれないんだろうな で、パゴダ入口下から見る光景↓。 春には桜が咲き乱れ、左手に見える広い通りは一大野外宴会場と化すこの場所付近にはじめ寛永4年(1627)には仁王門が、のち元禄11年(1698)には大きな山門が建てられました。そう、ここは南の広小路から入って根本中堂に至る広い参道だったんです。元禄の山門には、松平肥後守が会津から移した文殊菩薩像がおわしたという。ゆえに「文殊楼」と呼ばれ、さらに能筆家の輪王寺宮・公弁法親王のお手になる「吉祥閣」の額が掲げられていたといい、ここからまたの名を「吉祥閣」ともいう。 【文殊楼の二階の廻廊には正月の16日と7月16日、その他は特別の日のみ、 庶民が登ることを許され、その日は早朝から群参したことで有名である。】 (『寛永寺』より。漢数字は戦国ジジイが変換)今回のわたくしは、この参道は通らず、西側に付けられた小道を進みます。出たのがこちら↓。(場所はここ) 上野公園は昔からなじみがあるとはいえ、そのほとんどは博物館・美術館エリアに限られ、花見の頃にたまにこの脇の大きな参道を通るぐらいで、その他はまったくと言っていいほど知らない。ので、寛永寺に目を付けるまでは、参道からちょっと入ったこんな場所にこんな神社があるのは知らなかった。わたくしにとって寛永寺シリーズは「ディスカバー・ウエノ」でもあります。で、この神社、通りに面してはこんな看板がある↓。 2つの神社が一緒になってるのか?事前の下調べはもちろんしてるけど、何だかよくわからん。ひとまず、看板の右にある朱の鳥居はもちろん稲荷だろうな。てことで、まずはそちらから。 【花園稲荷神社の御縁起 御祭神 倉稲魂命(うがのみたまのみこと) (又の御名は豊受姫命・伊勢外宮の大神) 大祭 4月11日 講祭 11月11日 祭日 毎月11・午の日 御由緒(いわれ) 鎮座の年月、由緒は不明ですが往古より此地にあり「穴の稲荷」又は忍岡稲荷と 云われました。 承応3年(330年位前)、天海大僧正の高弟晃海僧正が霊夢に感じ廃絶のお社を 再建して、上野の山の守護神としました。 この附近より北西一帯が寛永寺のお花畑であったので、明治6年花園稲荷と改名し、 昭和3年現社殿にお遷ししました。旧社殿の跡は俗称「お穴様」と呼ばれ、晃海僧正 再建の記が刻まれた岩穴が現存します。安産の神とも云い、特に縁談、金談の願かけに いたゞく「白羽の矢」は古来から有名です。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)「晃海僧正」は天海の跡を継いで寛永寺の第2代山主となった公海のことだろうな。公海個人については手持ちの資料ではあまり詳しいことはわからなかったんだけど、つい最近何かを読んでいたはずみで良い血筋のお人だと知った。公海のパパは公家の花山院忠長。この方はあの猪熊事件にも参加しており、処分を受けて松前に配流になったそうな。(のち、寛永13年:1636に勅免)他にも、へえ~ってことを知ったんだけど、何だったっけか・・・そもそも、何を読んだのかもう忘れているという次回シリーズまでに探しておかなくっちゃな。かつての寛永寺の各種絵図には、堂宇などは色々描き込まれているものの、さすがにお花畑までは描かれていない。「上野第二編(35)」で、天海が吉野の桜を取り寄せて植えた話を紹介してますが、たしか浦井氏は天海の自腹で取り寄せたと書いておられたような・・・そうして天海が始めた桜の植樹がおそらく後代にも引き継がれ、江戸期から現在に至るまでの桜の名所・上野が出来上がったものと思われる。両国編で大川ばたを歩いた時つい出てきた東京音頭、ハアアア~、花はうーえーのーよチョイト柳はぎーんーざー(ヨイヨイ!)あの時、両国の昔に思いをはせながらも、そうか、「花は上野」はつまり寛永寺の桜のことを歌ってるワケだな・・・なんて思ったものです。もちろん、東京音頭は江戸期に作られた歌じゃありませんが、400年近く経った今も、私達は知らず知らずのうちに天海の遺産を楽しんでることになるんだよな、って改めて思いました。それで、現在の山内には至るところに桜がありますが、花園稲荷神社のすぐ近くの大きな参道は桜並木になっていて、春には多くの花見客で賑わいます。なので、上野戦争後に並木が整備された可能性もあるけど、おそらくこの辺りにはそれ以前から桜が植えられていただろうし、そのあたりをもって「お花畑」と呼んでいた可能性は十分にあるだろうな~と想像しました。ホントは、「春の寛永寺」シリーズの翌週にここの参道の桜を撮りに来ようと思ってたんだけど、体調が悪かったのでまた来年にでもチャレンジします。それから、古くは「忍岡稲荷」と呼ばれていたと解説にありますが、「忍岡」は上野の古名(「上野第二編(65)」参照)。他にも家康の入府以前からあったとされる神社もすぐ近くにあり、上野のお山の南西エリアは古くから土地活用がなされていたようです。それじゃ、現地の紹介に入ります。 鳥居脇のライトスタンドは味気ない現代風なので、そのままスルーしようとしたら 【奉納 表千家 藤川宗久】とある。お?なら、反対側は裏千家だったりして・・・と思ったら、 【奉納 表千家 手塚宗成】どっちもオモテだった(笑)。お稲荷様って言えば商売繁盛とかのイメージが強いけど、ここのは芸事にも強いいわれでもあるのかな?にほんブログ村
2014年06月07日

突然ですが、わたくし本日バージョンアップしました。セーラームーンがバージョンアップしてスーパーになったように、461歳にしてわたくしもついに進化を遂げたのです。なにがどう変わったのかって、四つ足になりました↓。 ・・・要するに、骨折です。生まれて初めての松葉杖です。「またケガ!?」って言われるのも慣れてます。ふん・・・しかし、今年の夏休みはお出かけしようと思ってたんだけどな。どうしようかな。以上、近況でした。じゃ、前回の続き、五重塔。 近くからだとろくに屋根は見えないし、そもそも屋根の色も少々くたびれてるからぱっと見はわからないけど、言われてみれば最上重だけ色が違ってるな・・・最上重の屋根だけが銅瓦葺な理由はわかりません。あるいは日光東照宮の五重塔の垂木が最上重だけ違ってるのと同じ理由かもしれない。けど、あそこのもあくまで推測だしな。それじゃ、前回に引き続き工事現場の解説版から。 【修復工事の内容 今回の主な工事は、塔の一部である初層外部の漆と彩色の塗り替えです。前回の塗り替え から40年経過しており、塗膜が劣化しています。破損がひどいところは木部を補修して、 弁柄漆塗(赤色)と黒漆塗を行います。強い下地を作り仕上げを美しくするために、 塗っては研ぎ塗っては研ぎを繰り返して、約30工程を経て仕上げます。 軒下にある龍の彫刻と十二支を彫刻した蟇股も全て塗り替えます。これらは顔料を 膠(にかわ)で溶いて彩色する伝統技法で行います。今回の修復工事は古建築修復の 経験豊富な大工棟梁、日光の漆工と絵師を中心に行っています。】 各部材もだいぶくたびれているらしい↓。 五重塔の周囲には、なぜか堀のようなものが巡らされている↓。 石組みは明らかに近代以降のもの。五重塔の景観整備のために庭園風に造られたってとこだろうな。堀の向こう、五重塔の前には一基の灯篭↓。 ああ、あれも古そうだから寛永寺に奉納されたものだろうに、近くに寄って見たい~。ここからではあちらに渡る手段がないので、とりあえず望遠で撮っておいて帰ってから拡大してようやくわかった。【武州東叡山 常憲院殿 尊前】常憲院殿は5代将軍・綱吉のことです。日付は宝永6年の5月か3月の10日と読める。綱吉の命日が宝永6年1月10日なので、月命日だし、これは寛永寺の綱吉霊廟に奉納されたものらしい。奉納者は「従五位下」とは読めるんだけど、その下は読めない。にしても、かつての寛永寺が健在な頃ならこれは当然霊廟にあっただろうし、明治になって五重塔が寛永寺の手を離れた後に霊廟の灯篭をこんなところに持ってくるはずもないし、なんでこれがここにあるんだろう・・・灯篭の前には鳥のエサ箱があり、スズメちゃん達がかわるがわる入ってエサを食べているのが大変に可愛らしく、わざわざ入園料を払ってるとゆーのにタダで見られるスズメちゃんをしばらく眺めておりました。可愛かったのでつい動画まで撮りました(笑)。 画面が揺れてるのは望遠だから仕方ないです(←開き直り)。橋を渡ると、こんな風になっていた↓。 左が動物展示用スペースで、このあまりにも不利な立地のブースに住んでいるのが エゾシカのQちゃん(♂)。 【北海道弟子屈町生まれ。900草原というところで保護されました。 釧路の動物園で飼育係に育てられたので、とても人なつこいよ。】だそうな。ここにはもう1頭、ニホンカモシカのナギちゃん(♂)がおるらしく、ナギちゃんは広島県安佐動物公園生まれとあるので、おお、安芸人!(カモシカです)と思って探したけど、この時は見当たらなかった。で、五重塔に沿った方にはゲートがある↓。 うん?なんだこれ?立ち入り禁止か? ただ、ゲートにはこんな貼り紙があった↓。 いいって言うので、入ってみた。が、そのすぐ先は行き止まりになっていて通れない。こっちからは今は入れないのか・・・別の入口を探す前に、付近の写真だけ撮った。 この灯篭は摩耗しててちょっと文字は判読できない。が、これも古そうだし、台座は元々のじゃない気がするので、本来はここにあったものではないんじゃないかな。あと、なんだかわからないけどこんなのもあった↓。 こちらのエサ箱にはこんな方たちがたむろしておりましたが そのうちこの方がやってきて あとでもう一度ここに寄った時は完全にエサ箱を奪われてました↓。キレイなのは外見だけか(笑)。 この場所から見上げた五重塔↓。 二軒(ふたのき)の平行垂木。上の三層はみな同じだから、垂木の組み方を一層だけ変えてるということはなさそうだな。上層は装飾らしい装飾はほとんど見受けられないので、日光東照宮の五重塔に比べたらシンプル。ただ、垂木の木口は金色に見えるので、金箔でも貼ってるのかもしれない。この後、一旦元の道に戻って五重塔の入口を探しに行きました。五重塔を回り込むイメージで道をずんずん進んでみると、 む?あれって東照宮じゃ・・・ ああ、やっぱり。東照宮だ。しまった、来すぎちゃったか。んでも、まだこの時は東照宮の社殿エリアには入ってなかったのでいじましく木の陰から撮影↓。 ここは上野東照宮本殿の真裏にあたるらしく、フェンス越しに苔むした灯篭が押し込められるように林立してるのが見えた↓。 写真じゃほとんどわからないと思いますが、結構な本数があります。これを書いてるのは正月に東照宮の有料エリアへ入った後だから今ならわかるんだけど、ここに窮屈そうに林立してる灯篭たちは有料エリアの参道からは見えない場所にある。なので、上野東照宮にはフツーに見られる以外にも、もっと沢山の灯篭があるようです。できれば近寄ってどなたの奉納品か確認したかったけど、ちょっと植え込みの中に分け入るのはな・・・ここは動物園内だから、こんな裏手に目を留める人なんていやしないし、まして植え込みに潜り込んで写真なんか撮ってたら明らかに不審者扱いされるだろうので、さっきの場所へ足早に戻ってゲートの奥にある扉まで行ってみたけど、それは明らかに工事関係者用の入口だったし、扉には鍵がかかっていた。・・・つまり、工事が終わるまでは間近に見られないってことね。初重はほとんどが木に隠れて見えなかったけど、隙間から見えるこれだけ撮った↓。 しょうがねえ、工事が終わったころ、また1人で入場料払って見にくるか・・・にほんブログ村
2014年06月06日

※「上野第二編(83)」の続きです。2013/11/2(土) 晴れ第二編から3か月ぐらい開いちゃったけど、試験やら何やらあったのでしょうがないよな。で、苦痛の試験の翌日、ようやくリベンジが叶いました。当日のお出かけ報告「お受験終わり。そして東京から江戸へ」を読み返すと、なんか写真が800枚以上あるって言ってるんだけどま、一部の写真は第二編の方で公開済だし、歴バナらしいのはもうないし、正月の第四編以降はすでに割り込みの短編で書き終えてるので、第三編さえ終わればひとまず寛永寺シリーズは終了です。ガンバロ第三編ではまず上野駅で降りた後、駅のデッキから南側の地形を見に行きました↓。ここのデッキは「パンダ橋」というんだそうな。 右側が上野のお山。古い絵図でもこちらの先の斜面は北側と比べてゆるい傾斜になってるので、おおむねこんな地形だったと思われます。斜面の中腹に歩道が付けられて人が歩いてるけど、なにげにこの坂は結構息が切れる。全体的に南へ向けて標高が下がってます。ビル群の手前が、明暦の大火あとに設けられた広小路のあった場所。今は高いデッキから見てもビルに遮られてろくに南の方は見通せないけど、昔はあんな高い建物はなかったから、上野のお山から江戸城が見えたんじゃないだろうか。して、上野駅の動物園口へ回ってここから上野公園内に入ります↓。 写真に写ってる一帯も、かつての寛永寺の敷地です。公園に入ったところ↓。まだ11月の初めだから、ほんのり色づき始めたばかりで紅葉どころじゃありまへん。が、見ごろを迎えると木が多いだけにそれは見事です。 第三編の最初は、第二編のリベンジから。動物園に向かう途中には、こんなのがあった↓。 おお?なんじゃ、こりゃ。夏にはこんなのなかったよな・・・チラシがささってたので、1枚もらってきた。 【うえの華灯路(はなとうろ)浮世絵行灯 日本で初めての公園である上野公園は、江戸時代から景勝豊かな自然に人々が集い、 明治時代には博覧会など近代化の拠点としても華やかでした。往時の賑わいは、 江戸や明治の浮世絵師に数多く描かれています。 平成19年より開始した「うえの華灯路 浮世絵行灯」は、江戸東京博物館、東京 芸術大学にご協力いただき、歌川広重の名作「名所江戸百景」の行灯や高さ1メートル を超える大型行灯を設置するなど、充実を図ってまいりました。今年もより多くの方々に 上野公園へ足をお運びいただき、江戸の風情を堪能していただければ幸いです。】へえ、毎年やってるんだ。この時は平成25年10月4日~平成26年2月27日の開催とあった。チラシの写真を見ると、夜は行灯に灯りがともるらしい。毎年続ければ、上野の冬の風物詩になれるかもしれんな。あと、確か公園入口の案内所だったと思うけど、【芭蕉・一茶・子規ゆかりの地 うえの谷中 秋の吟行】というチラシもあった。上野駅から日暮里駅までの、上野のお山一帯に俳句ポストが設けられているらしい。正月は上野東照宮のぼたん苑で俳句選があったし、春の宮のお庭公開でも俳句ポストがあったし、何かっつーと上野は俳句のイベントがあるらしい いちばん最初に見つけた行灯は、大型の。でもほとんどは小型の行灯だった↓。 ま、全部撮ってたらキリがないのでね。で、動物園へ向かいました。ええ、第二編で思いっきり忘れてたアレを拾いに行ったんですよ。外の自販機で入場券を買って入口へ。第二編ではヘンな顔をされなかったので、「さすがプロだな」と思ったものの、第三編ではお姉さんにキップを渡したら「・・・え?1人!?」って顔をされたしょうがないじゃん、私だって来たくて来てる訳じゃないんだよ・・・でも、史跡めぐりをする人の中には私のようにやむなく1人で入る人だっているハズだけどな・・・で、前回の忘れ物がこれです↓。 上の東照宮ぼたん苑のリンク先で五重塔が見えてる写真を載せてますが、あれがこれです。東照宮参道のすぐ近くにあるのに、現在は上野動物園の敷地になってしまったので、わざわざ動物園の入場料を払わないと間近で見られないとゆー、大変めんどくさいことになってます。さてと、どっからあそこに近づけばいいんだ・・・ここは動物園東園の南端にあたり、敷地ぎわに沿って五重塔へ至る道を探してこの橋に出た↓。 この橋の真ん前にお目当てはあった。が・・・ アラ、工事中?んでもシートがかかってるのは初重だけだしな・・・それに、この辺まで来るとなにやら五重塔の説明テープがどこかから聞こえてくるので、それなりに見られるんだろうと思った。工事についての説明版とかあったので、まずはそちらから。 【旧寛永寺五重塔とは この塔は東叡山寛永寺の五重塔として、寛永16年(1639)に建てられました。 建立から230年後の慶応4年(1868)、上野戦争の戦場となったためほとんどの 建物が焼失しましたが、五重塔はかろうじて残りました。その後、東京都へ寄付され 現在に至っています。 大工は日光東照宮の寛永造替の大棟梁、甲良豊後守宗広とその子宗久です。塔の高さは 約32mで、屋根は本瓦葺(五層のみ銅瓦葺)、外部は弁柄(べんがら)という顔料で 赤く塗られています。内部には地面から相輪の頂上まで心柱が建っています。この塔は 江戸初期を代表する優れた建築の一つであり、明治44年に国の重要文化財に指定されて います。】工事用の看板のせいか、いささか説明が浅いのでちと補足。まず、説明の中では寛永16年の建立とされてるけど、半分間違ってる。というのも、最初に五重塔が建てられたのは寛永8年(1631)なのだ。堀直寄が大仏を寄進したのと同じ年ね。この年は、他にも堂宇などが立て続けに建てられている。五重塔の寄進者は、土井利勝。それが、寛永16年3月の火災で焼失してしまったんだそうな。『寛永寺』には【寛永16年3月薬師堂の出火で類焼】とあるから、薬師堂と仲良く燃えてしまったってことだな。そんな火事がありながら、よくも東照宮の本殿が残ったものよ・・・して、同年11月には早くも五重塔が再建された。これが現在残る五重塔。大仏のリンク先で、かつて東照宮にあった薬師堂も紹介してますが、東照宮の参道をはさんで薬師堂と向かい合うような位置に五重塔はある。で、薬師堂の本尊を造った康猶(こうゆう)は薬師・弥勒・阿弥陀・釈迦の4体の仏像も造ったとされ、それがこの五重塔の初重に収められていた。ウィキペディアによると、その4仏は現在ではトーハクに寄託されてるそうな。まあ、あそこは寛永寺の旧本坊だからな。動物臭のする五重塔よりは、仏様がおわすのにふさわしい場所かもしれない。ああ、上野動物園の名誉のために申し上げておきますと、たとえケージの中にウンコがボロボロ落ちてようとも、園内がクサいということはありませんよ。夏でクサくなかったんだから、管理はきちんとされてると思います。ただ・・・動物園へ入って五重塔へ向う途中はちょっとクサかったんだ。最初は動物園だからしょうがないよな、と思ったけど、イチョウが色づき始めてる時期でもあったので、あるいはその臭いだったのかもしれない。薬師堂の方は、その後正保年間(1645-48)にも火災にあったが、五重塔は無事だったらしい。上野戦争後、薬師堂・五重塔のそれぞれは残ったのに、薬師堂は上野東照宮の敷地内にあったため、神仏分離令で取り壊されて御本尊様は引っ越しを余儀なくされた。一方、五重塔はすぐ目の前にありながら東照宮の敷地から外されていたため、周囲が動物園となっても建物は残された。もし五重塔も東照宮の敷地に入ってたら、壊されてた可能性が高い。五重塔は仏塔だからね。どちらも上野戦争を生き抜いた貴重な建物でありながら、わずかの差で全く別の運命をたどることになるとは、皮肉なものよ・・・ウィキペディアによると、上野動物園の管理者は農商務省から宮内省へと移り、その後東京市、さらに東京都建設局になり、現在は「公益財団法人東京動物園協会」だそうな。へえ、宮内省の所管になっても五重塔は解体されなかったんだ。ちょっと意外。ただ、五重塔の現在の所有者は東京都だそうで、ゆえに現状の五重塔の説明には、上の解説文のように必ず寛永寺に「旧」がつく。もちろんわたくしはかつての寛永寺を主眼に置いてますので、いちいち「旧」なんてわずらわしいものは付けませんが↓本シリーズも「ぽち」をよろしくね~。にほんブログ村
2014年06月05日

ゾウ舎の表側に回る。こちらには数頭のゾウがいた。 写真だとただ顔を突き合わせてるだけに見えるし、現地でまったりゾウを眺めてる人は何とも思わなかったかもしれないけど、長年犬と暮らしてきたわたくしは、ちょっと張りつめた空気を感じた。なんか今にも「パオオオオ~~ン!!」「ギャオーーース!!」ってケンカでも始まるんじゃないかと思ってハラハラしながらしばらく見つめてましたが、幸いケンカは始まらず・・・それにしても、お腹すいた・・・もうダメだ、何か食べていこう。と園内のベンチで軽食。食べながら周りの様子なども観察しましたが、やっぱり1人ってのはほとんどいませんでしたね動物園はもちろん動物を見るための施設ですが、ここにいたニンゲンという名の動物もかなり面白かった。トイレでは下半身丸出しの子供が歩き回ってたり、トイレの外でみんなが待ってるよ~と母親が誘ってるのに、1人でトイレで待ってると泣き出す子がいたり。あと、帰る前にトイレを済ましておこうと男の子を連れてきた母親は「いいから、ホラちょっと出してみて!便器は触らないで、汚いから!オチンチンは持ってもいいのよ!ホラ、早くして!だ~か~ら、便器触らないで!!」と1人でまくしたてていて、爆笑をこらえるのに必死でした。それと、カップルね。ビミョ~な距離感のがいたり、彼氏が盛り上げようと頑張ってるのにイマイチだったり、園内の3分の1はニンゲン鑑賞してました(笑)。てね、余計なものばかり見てるから、大事なものを忘れるんです。はい、第二編で帰った当日のお出かけ報告「リベンジ報告」をご覧になった方は先刻ご承知でしょうが、3つめのお目当てを見るのをすっかり忘れてました。しかも、家に帰るまでそれに気付かなかったとゆー・・・ひとまずこの時は、お腹が満足した後で最後にパンダ舎へ向かいました。もう夕方近いから、少しはすいてるかと思ってさ・・・ へえ~っ、宝くじ関係だったんだ、これ。外には行列はできてなかったけど、中にはそこそこ人がいた。が、混雑してるというほどでもないのに、係のお姉さんは「立ち止まらないで」を連呼してた。で、肝心のレンタルパンダちゃんはガラスケースの向こう側。 ギャラリーにケツを向けたままほとんど動かないので、お隣の部屋を見てみた↓。 シンシンも中国からのレンタルだよな・・・しかし、おらんぞ。さらに隣の部屋を見ると、奥で寝てた↓。 ・・・まあ、こんなもんだろう。パンダだって1日中笹を食べたりタイヤ遊びをしてる訳じゃない。この後ショップでパンダグッズなどを買い込んで、満足して出口へ。 へえ、こんなの始めたんだ~。通年ではないらしいけど。動物園を出て少し歩いたところ↓。 この辺が、かつてにない堂のあったところ。ここを右に寄ります。 【グラント将軍植樹碑 明治10年(1877)から同13年にかけて、グラント将軍は家族同伴で、 世界を周遊した。その際、来日。同12年8月25日、ここ上野公園で開催の 大歓迎会に臨み、将軍はロウソン檜、夫人は泰山木を記念に植えた。植樹の由来が 忘れられるのを憂い、昭和4年8月、この碑を建設。碑は正面に将軍の胸像を刻み、 向って右側に和文、左側に英文で、将軍の略歴・日本滞在中の歓迎の模様、植樹の 由来を記している。胸部下部には、英語で、将軍の言葉「平和を我等に」の 文字を刻む。 グラント将軍のフルネームはユリシーズ・シンプソン・グラントという。北軍の 義勇軍大佐として、南北戦争に従軍。戦功を重ね、のち総司令官となり、北軍を 勝利に導いた。明治2年、アメリカ合衆国大統領に選ばれ、同10年まで二期 在任した。いま、将軍植樹の木は大木に成長している。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)後日、職場にカメラを持ってってゾウ好きの同僚に写真を見せたら、彼女は次から次へと画面を進めてグラント将軍の写真までたどり着いた。「誰?」っていうので、「グラント将軍だってさ」と答えたら、「ああ!グラント将軍なの~!!」と言ったのでこちらの方が驚いた。あまり歴史に興味のない人だと思っていたので、「知ってるの!?」って聞き返したら、「『風と共に去りぬ』が好きだったのよ~」と来た。なるほど、その時代の人なのか・・・「風と共に去りぬ」は子供の頃に見たけど、ただ気が強いだけのスカーレットがなんでモテるのか子供には皆目理解できず、以来見ていない。この近くの植え込みには、平成17年3月付けの看板があった。 【上野恩賜公園衰退樹保護調査のお知らせ グラントヒノキ(ローソンヒノキ)、グラント玉欄(タイサンボク)は 植えてから126年になります。この数年樹勢の衰えが著しいので、樹木の 健康診断と治療を行います。】で、これがその将軍のヒノキらしい↓。 ほとんど枯れかかってるような・・・ヒノキのお隣にあるのがこちら↓。 台座はとってもクラシカル↓。時代を反映してるよな。 正面がこちら↓。 確か解説版もあったのに、写真がないなあ・・・ちょうどこの時、おじさんが見てたから後で撮ろうと思って忘れたのかも(笑)。この方は小松宮彰仁(あきひと)親王です。最初は仁和寺の門跡となられたそうですが、還俗して仁和寺宮と称したんだそうな。のち、小松宮と改称。今回の上野編では上野戦争については書かないようにしてるので紹介してませんが、最後の輪王寺宮・公現法親王は彰仁親王の弟宮にあたります。現地の解説版を紹介してる人の写真を見ると、解説版にはここに彰仁親王の像があるのは公現法親王との縁によるものじゃないかとの推察が書かれているそうな。さて、騎馬像とくれば、死因との関連の検証装置が自動的に働きます。去年の「夏休み日記(7日目)」以来ですな。足が1本浮いてるのは、俗説では戦での負傷などがもとでの後日の死亡。が、彰仁親王は特にそういった死因ではないようなので、バツ。マル2、バツ8になりました。ハズレばっかじゃん・・・どっから出てきた話なんだ。で、彰仁親王のおられるこの場所は、かつて鐘楼があった場所でした。上のにない堂のリンク先で左甚五郎の水飲み龍の伝承を紹介してますが、その鐘楼ね。上野戦争までは鐘楼も残っていたんだそうな。よし、今回はこれで終わりだな。鐘楼跡から少し進んで本坊跡方面を見たところ↓。 大道芸人も数人出ていて、人だかりがあちこちにある。鐘楼跡前でもお姉さんが芸を披露していた↓。 アコーディオン弾きながら踊ってるの。器用なことするなあ・・・ この日はパンダグッズも買ったし、第一編で買えなかったパンダ焼きも買ったし、本来の目的とはちとズレたところで大変満足して帰りました。大事な忘れ物があったなんて思いもせずに。※これで第二編は終了ですが、すぐ第三編に突入します。今度こそ、一気に上野編を書き上げますにほんブログ村
2014年06月04日

漫然と順番に動物園を歩いてるとあまり気にならないかもしれないけど、お目当てだけをちゃっちゃと消化しようと思うと、結構園内の道はフクザツ。数回ゴリさんのところに戻ってきては、足早に次へ向かう道を探す・・・しばらく歩きまわったあとで、ようやくゴリさんの森を抜けることができた。今度は鳥さんのブース。まずはヘビクイワシ↓。 この子が面白くてねえ~。カメラを構えてるうちは、左右に行ったり来たりを繰り返してるのに、カメラを下げると 「アレ?」って顔してこっちを見る。絶対カメラを意識してるよな~オグロヅル↓。 ハシボソガラス↓。 ソリハシセイタカシギ↓。 少し暑くなってきたせいか、うずくまってる子が多かった↓。 ホオカザリヅル↓。 その先がホッキョクグマのブース・・・あれ、いない・・・ あんまし人ごみには近寄りたくないけど、ホッキョクグマは見たい・・・仕方ねえと人の集まってるところへ。 ガラス越しなんで、多少ボケてるのはご容赦ください。しかも、以外にちょこまか動くんでねえ。ちょうどこの時も飛び込む寸前だったし↓。 ざっぱーーーん!!と水しぶきを上げて巨体が水に入ると、ギャラリーから歓声が上がる。時々こうやって、ガラスの前にエサを投げ入れてファンサービスに努めているらしい。へえ、上野も変わったなあ・・・泳ぎ去るおしり(笑)↓。 今度は「クマたちの丘」へ。 もうすぐ15時・・・しかし、あと1時間も待てないな。ここのクマの晩メシは ・生イモ ・煮ニンジン ・小松菜 ・リンゴ ・キウイ ・カキ ・クマ用ソーセージ ・落花生 ・鶏頭 ・クマ用ペレットなど(季節によって変わります)とある。なんでニンジンは煮るのに、イモは生なんだろ?それに落花生って・・・(笑)。あのデカい口でポリポリ食べるの?まあ、野生のクマは木に登って木の実とか食べるからな。ここのクマは「ポン」(オス)。 【2006年1月生まれ(推定) 北海道足寄町で母親が駆除されたため保護されました。 臆病で神経質な所がありますが、木を壊すのが好きで、食いしん坊です。】この先の小窓には誰もいなかったので覗いてみると、 いたいた。ちょうどここでカメラの電池が切れたので、交換したり何やかやしてるうち ・・・やべえ、また目が合っちったすると、またのっそりと・・・ 手前には小さなプールがあるんだけど、そこに勢いよく滑り込んできた。トラの時はまだ距離があったけど、ここはかなり近い。しかも、ヒグマってツキノワよりもずっとデカいし、山をやってた頃に万一遭遇した時のためにクマの生態も勉強したけど、ヒグマはツキノワよりもずっと獰猛だと知っていたので、「ヒイイィィィ・・・・!!」と内心叫びました。あ、この時は声に出すのをまだ我慢できたんですよ。1人の時はたいてい我慢します。我慢するしかないもんね。だから、正月の小伝馬町の大安楽寺の絶叫はどんだけ驚いたのか、わかってもらえるでしょう?心臓が止まりそうなほど驚いたんだよ、あの時・・・ま、この時は左の岩の上からエサが落ちてきたので、それを食べに来ただけだったんだけど↓。しばらくポンちゃんはわたくしには目もくれず、一心におやつを食べておりました。 しかし、オリを抜け出そうとするクマもいますから、油断は禁物です↓。 歩きながら別の小窓から覗いてみると、放置されたニンジンがあった↓。 クマの先は、「ゾウのすむ森」。ちょうど1頭のゾウが入ってきたところだった↓。 結構、小ぶりだな・・・耳のところがリボン付いてるみたいでカワイイ。会社の同僚はやたらゾウが好きなので、彼女のために数枚撮影。先へ進むと、数頭のゾウがいた。どうやらこちらが表側らしい。 ここで大きな道に出たので、次は何を見ようかな?と思ってふと脇を見ると あっ、そうだ!史跡めぐりに来たんだっけ、私。(←完全に忘れてた) これは動物の慰霊碑です。が、もちろん慰霊碑を見に来た訳ではなく、その向こうに見えてるもの。 あれが、藤堂家の墓所です。与右衛門(高虎)の墓もあそこにあるものと思われます。非公開とは聞いてたけどね、どう非公開なのかは見てみなきゃわからん、と思って来てみたんだけど、なるほど、あーゆー風になってるのか・・・藤堂家の、とは言っても、山内に屋敷を構えてたのは短い期間。でもあれを見ると結構数があるようだから、寒松院にあった墓所、ってことだろうな。墓所の区画は、明治17年の地図にも描かれてます。ので、江戸期からずっと変わらずあの場所にあるものと思われます。今は完全に動物園の敷地の中になってるけど、誰が管理してるんだろう?寒松院かな?寛永寺かな?それとも、藤堂家に返還されてるんだろうか。慰霊碑ごしじゃさすがに遠いので、裏っかわからもうちょっと覗けないもんだろうか、と墓所の塀を見ながら来た道を少し戻ると、小道があった↓。 しかし、ロープが張ってあってこちらも塀には近寄れない。しかも、塀が高い 塀ギリギリまで近寄って背伸びをすれば中の様子は撮れるかもしれないけど、非公開って言ってるものを無理して見ようとは思わないので、ロープの外から背伸びして撮るだけにとどめた↓。 う~ん?宝篋印塔だけじゃないみたいだな。歴代住職の墓なんかもあるのかな・・・いや、坊様ならフツー無縫塔か。遠くから手を合わせて、第二のお目当てゲット。にほんブログ村
2014年06月03日

【閑々亭(かんかんてい) 寛永3年(1626)伊勢国安濃津藩主(三重県津市)藤堂和泉守高虎は、上野の 私邸内に東照宮を建て、前後してそのとなりに寒松院という寺を建て、客をもてなす ため立派な家をつくりました。 翌4年、東照宮の移しかえの祭りのおり、徳川秀忠、家光があいついで東照宮を 参拝し、その帰りに寒松院にたちよっていろいろもてなしをうけました。閑々亭の名は そのとき将軍家光が「武士も風流をたしなむほど世の中が閑(ひま)になったので、 閑々亭と名づけるとよかろう」といったことによるといわれています。 寒松院は明治元年(1868)彰義隊の戦いで焼けましたが、明治11年(1878) 5月寒松院の庭になっていたこの場所に閑々亭だけが復旧され、その後度々補修されて 今日に至っています。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) 上野動物園のすぐ西側には、上野東照宮があります。上野東照宮の始まりについては「上野第二編(66)」あたりで書きましたが、こういう位置関係なので、上野東照宮の始まりが与右衛門(高虎)が建てたものだというのはおそらく史実かと思われます。はい、もうおわかりですね。現在の上野動物園はかつての藤堂家の敷地であり、与右衛門が寄進した子院の寒松院があった場所でもあります。「上野第二編(65)」などで紹介したように、寛永寺ができる以前に山内に屋敷を持っていた津軽・堀・藤堂の3家は、寛永寺ができた後もそれぞれ優遇されたフシがあります。津軽信枚の津梁院は4代家綱の表別当に、堀直寄の凌雲院は学頭を排出した。そして与右衛門の寒松院は東照宮の表別当。津梁院と凌雲院は引っ越しなどがあったけど、東照宮を守る寒松院だけは江戸期を通して東照宮の横にあったものと思われます。寛永4年は家光23歳、与右衛門70歳。「世の中もヒマになっていいことだ~。ここは閑々亭って名づけようよ」「(か・・・カンカン!?うっわ~、上様、センスわるっ・・・)ははっ、ありがたきシアワセ・・・!!」と頭の中でロープレをしながらしばし萌え~・・・ もとの閑々亭は上野戦争で焼かれたと解説にありますが、彰義隊はここ寒松院に本営を置いたそうです。寒松院は容赦なく焼かれたものの、すぐ隣にある上野東照宮は残った。これについて、浦井氏は『魔都江戸の都市計画』の対談でこんな風に語っておられる。 【(前略)昔から不思議に思っているのは、たとえば官軍は静岡の久能山のそばを 通ってくるわけですが、官軍は久能山にはまったく手をつけない。江戸へ来て、 江戸城のなかの東照宮は壊しますが、寛永寺の東照宮とか徳川毛の御霊廟にも 一切手をつけてない。そして日光にも手をつけません。 もし徳川が憎いのなら、寛永寺のお堂を焼くよりも、徳川家の御霊廟とか東照宮を 破壊すべきなのに、それをなぜやらなかったのかという問題は考えてみないといけない。】 「江戸城のなかの東照宮」とは、紅葉山のことです。ただ、皆様ご存知のように江戸総攻撃は回避されているので、紅葉山は戦いの中で破壊されたのではなく、上野戦争後の明治元年(1868)12月に破却命令が出され、翌年の4月から6月の間に破壊されたという。実際に手を下したのは新政府ではなく、ケイキさんの後を継いだ徳川家当主の徳川家達(いえさと)。子孫がやるならタタリもないだろうと思ったのか、徳川家に紅葉山解体をやらせたんだそうな。これはやっぱり、江戸城が皇居になるからなんだろうな。その他の幕府直轄の東照宮は、相変わらず手つかずだからね。全国に数多く勧請された大名家や民間の東照宮も名称を変更したり激減したと思うけど、そちらの方は自主的な判断によるものと思われます。で、紅葉山の御神体は久能山の方へ移したんだそうな。閑々亭の脇には、なかば埋もれた灯篭がある↓。 これは陶製らしい。中には入れないので遠目に見るしかないんだけど、変わった造りだな・・・脇から見たところ↓。 ふう、第一のお目当ては済んだ。同じ道を戻るのもなんだから、気になる動物さんたちを見ながら次へ向かおうかな。閑々亭の向いには、こんな像がある↓。 園内にはこんな動物の像が沢山あるんだそうな。上野動物園の開園は、ウィキペディアによると 【1882年3月20日-農商務省博物局付属の動物園として開園。 当初は1ヘクタールの広さであった。】1882年は明治15年。明治期に入ってからの旧寛永寺の境内の流れについては「上野第二編(35)」で簡単に書いてますが、浦井氏によると各省庁などの奪い合いはかなりドロドロしたものだったそうな。なんで寒松院跡が動物園になったのかはわからないけど、農商務省がここをゲットしたってことなんだろうな。今では動物園は東園と西園に分かれ、さらに不忍池にも進出してかなり広いけど、図書館でコピーした明治17年の地図を見ると、動物園は現在の東園のさらに西側に描かれており、寒松院跡はぽっかりと空き地のような感じ。ただ、これから向う第二のお目当てらしきものは描き込まれていて、他に余計なものはないので割に寒松院の敷地を同定しやすい。奥へ進むとまず現れるのがライオンさ~ん。 この辺は「ゴリラ・トラの住む森」となってるけど、それにしても人が多いなあ・・・ 展示室を覗くと あれ、誰もいない・・・向こう側に人がいっぱいいるから、あっちにおるのかな。ここはトラのブース。こんな説明もあった。 【トラが上野動物園に初めて来たのは・・・ 1887年2月4日 明治19年(1886)に来日したイタリアのチャリネサーカスが、神田・秋葉原で 興行中、トラが3頭の子供を産んだ。 このうち2頭を上野動物園が入手、翌明治20年2月より公開すると、「神田っ子虎」 として一躍有名になり、年間入園者が24万人を超え、開園以来の新記録となった。】解説は写真つき↓。 誰とは書いてないけど、これが神田っ子虎なのかな。 覗き窓を変えたら、遠くの方に生身のトラがいるのが見えた。が、見てたらふと目があった↓。 するとのっそりと・・・ やばっ!美味しそうなウサギちゃんと思われちゃったかな~・・・安全だとわかっていても、目が合って自分の方に歩いてくるのはやっぱりコワイ。 しばらく見た後で歩き出すと、草むらの陰にも↓ 【トラはそっとしのび寄って獲物を襲います。その時、体の色や模様は草むらに まぎれて、カムフラージュの役割をします。茶色がかった黄色の地に、背中から 両脇にかけて、黒いしま模様のある派手な毛皮をまとっています。このしま模様は 個体によってさまざまです。 トラの毛皮の色は、緯度や風土の違いが大きく影響しています。熱帯地方のトラは、 太陽の強烈な光線と影が作り出す、強いコントラストに対応して、毛皮の色や 模様は濃くはっきりしています。一方、太陽光線の弱いシベリア地方のトラは、 地色が薄く、又しま模様も少なくなっています。】 (現地解説板より)へえ、あの虎ジマってカムフラージュなんだ。確かに、解説版にある木の陰に寄り添ってる写真を見ると、周りと一体化して違和感ない。ふ~ん、それは知らなかったな・・・ その奥がゴリラのブース。ゴリさんはいいや・・・どうせ外にもいたし↓。 にほんブログ村
2014年06月02日

え~っと、明治維新後の寛永寺の苦難の時代についてどっかで少し書いた気もするんだけど、長すぎてもう思い出せないので、『魔都江戸の都市計画』(内藤正敏著)を参考にあらためて簡単に書きますと、上野戦争後は寛永寺の寺域・・・つまり、上野のお山が全部没収となった。下男に至るまで、全員が追い出されちゃった訳です。復活は意外に早く、明治2年(1869)2月27日。なんでこんな早いのかがわからないんだけど、それまでの間、パンピーは山内に出入りできても寛永寺の関係者は一切シャットアウトだったそうな。寺域が没収された時、上野戦争で焼け残った建物もあった。江戸期には多くの大名が寛永寺の宿檀だったと思われ、官軍が山内を攻めた際、島津とか毛利の官軍族ゆかりの子院は攻撃されなかった。明治2年の帰山許可が出たあと、現在の根本中堂の敷地などがぽつぽつと返還されるようになった。が、その時点で残っていた子院については、寛永寺へ返還された訳じゃなく、それぞれの子院を建てた大名家へ戻されたそうな。しかし、寺を返されたところでもと大名たちだって困る。ので、子院に住職が残っていた場合はそのまま寺を譲ったそうな。元のまま寛永寺に返してやりゃいいのに、薩長もずいぶんとイジワルなことするよな~。時の鐘も、残っていた。長くこの鐘に親しんできた市民からは、早く時の鐘を復活させてくれという要望が多かったという。下男ですら、明治2年2月27日までは山内に出入りできなかったから、鐘を撞く人がいなかったってことだろうな。で、出入りが解禁になった当日、ようやく上野に再び時の鐘が鳴り響いたそうな。上野大仏の4度のお首落ちの歴史は前回と前々回で紹介しましたが、実はもうひとつ、ピンチがあった。それも、実現していれば致命的になりかねないものが。大仏を寄進した堀家の子院は、凌雲院。根本中堂ができる以前の、比較的古い延宝年間(1673-81)の絵図では本坊に近い場所に凌雲院が描かれており、後の時代では別の場所に移っている。つまり、大仏は凌雲院の付属物だった訳じゃない。ので、明治の返還でもおそらく大仏は堀家ではなく寛永寺に返還されたんじゃないかと思うんだけど、明治の中頃になってちょっとビンボーだった堀家が「これさ~、もともとウチが寄進したものだし~、鋳つぶして売っちゃおうかと思うんだよね」と言い出した。「ハア!?何言っちゃってんの?大仏様はウチのもんだから、そんなことさせるかよ!!」と寛永寺側では猛反対。結局、裁判になった。判決は、「堀さん、確かに大仏はアナタのお家が寄進したものだけど、今は寛永寺がお山に復帰して、大仏をお守りしてる訳だからね。残念ですが、アナタの権利は認められませんね~」ってことになり、危うく難を逃れたと『魔都江戸の都市計画』の中の対談で浦井氏は語る。あんまり、この辺のことは知られてないようだけどね。さてと、第二編では大仏山のあと、上野動物園に向かいました。・・・別に、童心に戻りに行った訳じゃありまへん。ちゃんとお目当てがあります。ここへ入ったのは、相当久しぶり・・・何しろ、園内は昔ながらのコンクリ製のブースだった頃の記憶しかない。上野みやげを同僚にあげた時、「ずいぶんナチュラルな展示に変わったんだね」と言ったら、「どんだけ久しぶりなの?」と呆れられたくらいなので。しょうがないじゃん、私はデートに動物園を選ぶようなタマじゃなかったしさしかし、いくら史跡めぐりに恥じらいは禁物とはいえ、まさか動物園に1人で入ることになるとは思いもしなかったぞ。まず入口でヘンな人に見られないか、緊張した。が、さすがに入場者が多いと中にはこんな変わり者もおるのか、入口の姉ちゃんは別に変な顔もしなかった。園内でのお目当ては3か所。まずは東の外郭に沿って奥へ。トイレに入ってから園内を歩き始めると、まずこんなのがあった↓。 ナニコレ・・・いつからあったんだろう?園内図には、「サーラータイ」とある。どんな動物かと思ってたら、これがそうだったらしい 【このサーラータイ(タイ風東屋)は2007年9月26日に日タイ修好120周年を 迎える両国の親密な関係の象徴として、タイ政府から贈呈されたものである。】 (現地解説板より)へえ、なるほど・・・タイの建物なのか。日本建築とはやっぱり違うな、ってことで軽く見学。 しかし、あんまりまったりしてる訳にもいきません。お腹もすいてるし。で、歩き出して早々にこんなものが↓。 アハハ、コーンまでパンダ風モノトーンだ。テントの中を覗くと あ~、あれと一緒に撮ってくれるワケね。私が1人であそこに並んだら、変人扱いされるだろうなあ。もちろん、並んでませんよわたくしのお目当ては他にあります。とは言っても、最初のお目当てに向かう途中のオリはフクロウやワシ・タカとあって猛禽類がおるらしい。どうせ通るついでだし、ワシさんなんて普段お目にかかることはないからデート中のカップルや親子連れの間に割り込みながらちょっと鑑賞。ここからはしばらく、動物さんたちの写真が続きま~す。ごゆるりとご覧ください。ダルマワシ↓。 最初にこの子を撮った時、うっかりフラッシュをたいてしまった。もちろん、園内の動物撮影にはフラッシュは禁物です。慣れてないフラッシュに驚いたのか、目をしぱしぱさせてたのが可愛かった。ごめんごめん・・・ ↑これはフクロウか?しかし、実はわたくしはオリの下にも興味津々↓。 つい、アニマルトラッキングのくせでね・・・しかし、いかにも肉食系のウンコって感じだな。あれだけを山の中で見たら、肉食か雑食の中型の動物の落し物と思っちゃうかも。オジロワシ↓。 コシジロハゲワシ↓。 長い首はとってもやわらかいらしい↓。 コンドル↓。 同じオリの、別の子↓。 普段のようにオリにレンズを突っ込んで撮影する訳にもいかないので、どうにもオリにピントが合っちゃって肝心の動物が多少ボケ気味ですが、この子赤目だわ・・・ このオリには ふん、身体が大きい割に繊細なウンコだな。しかし、やはり肉食らしく油っぽいカンジ。ノスリ↓。 ヤーン、この子チョ~かわいい~こんなに可愛いのに、タカ目タカ科なんだそうな。どれどれ、このかわい子ちゃんの落し物は・・・ ・・・やっぱ、肉食系だ。しかし、同じオリにはモモアカノスリというノスリの仲間もいたので↓、かわい子ちゃんの体内から排出されたものじゃないのかもしれない。ま、どのみち似たようなもんだとは思うけど。 第一弾はこれにて終了。サブタイトルと内容のミスマッチに首をかしげた方もおられるかもしれませんが、この先が第一のお目当てです。にほんブログ村
2014年06月01日
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