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やれやれ、これでやっと本日のメインに臨めるぞ。して、急いで六本木通りを戻って着いたのが東京ミッドタウン。そーなんです、毛利さんち(萩)から毛利さんち(長府)へ寄って、また毛利さんち(萩)に戻ってきたんです小さな吉川邸から始まり、完全にモーリな1日でした。萩藩の毛利家下屋敷地は近代に入ってからは軍一色で、まず明治期には帝国陸軍の駐屯地となり、戦後は米軍の駐屯地に。サンフランシスコ平和条約後に返還されてからは陸自の駐屯地と防衛庁の本部が置かれた。平成12年に防衛庁の本部は市ヶ谷に移転。へ~、だいぶ前に市ヶ谷の本部の見学ツアーで内部に入ったことあるけど、元から市ヶ谷に本部があるもんかと思ってた・・・その跡地にできたのが、大型複合施設の東京ミッドタウン。だから、15年前に史跡めぐりで萩毛利家下屋敷を訪れても、敷地内に入って往時をしのぶことはできなかった訳だな。よかったよかったただ、こーゆー大型の施設ってのは慣れないとホントにわかりづらくてわたくしはキライなんですが、今回はそんな事も言ってられません。で、こちらがミッドタウン↓。 ここはミッドタウンの名をかぶせたタワー・イースト・ウェストの3つの建物とガーデンサイドという建物、あとマンションなどの大きな建物が立ち並ぶ複合施設。古絵図と『江戸麻布御屋敷土地割差図』を見比べてみると、ミッドタウンのある場所がおおむね萩藩麻布下屋敷の居住スペースに該当する。上の写真はミッドタウン・ウェスト前からイーストを撮ったものだけど、ミッドタウン内で最も高いタワーが左端に少し写っている。この大きな建物を純和風の御殿に置き換えていただければ、それがそのまま麻布下屋敷の青写真になります。下屋敷の敷地の半分が居住スペース、さらにその真ん中の広い部分を御殿が占めていたようです。居住区にこんな建物ができちゃったなら、遺構は完全に破壊されてるな。軍時代にとうに破壊されてたかもしれないけど、発掘調査とかしたんだろうか・・・それで、写真の真ん中を人が歩いてますが、道路とは別にミッドタウンの敷地にも広い通路があり、だいたいその通路あたりに勤番侍たちの住む長屋があったようです。わたくしの持っている差図はごく小さなものなので門の位置がはっきりしませんが、位置的に写真を撮った付近に下屋敷の正門があったものと思われます。差図を見るに、麻布下屋敷でも勤番たちの長屋がそのまま塀の役割を果たしていたようで、私が立ってた場所では300年前には勤番が春画を眺めていたかもしれないし、長屋の窓からは洗いたてのふんどしがヒラヒラはためいていたかもしれませんさて、モーリな妄想はこのぐらいにして、今回わたくしが体調の悪さをおして観に来た企画展はこれです↓。 これは3週間前に観に行った企画展の会場に置かれていたチラシ。1本映画を観ると、予告編についつられて次から次へと映画を観に行っちゃったりしますが、美術館・博物館系も同じ危険を持っており、よその館のチラシの誘惑はまことに強烈なものがあります。そうは言ってもわたくしも普段からモーレツに忙しいし、体力モリモリという訳でもないので、よほどのことがなければ結局諦めるハメになるのですが、これはちょっと見逃せない。もちろん、ちょうど最澄の歴バナを書いてる真っ最中だったこともあります。が、最澄関連で色んな本を見ている時に高野山の写真が多く載ってる本を見ましてね。緑が多くて自然がいっぱいのいい所なのはわかりますが、正直言って「ダメだ、私にはここ、行かれない・・・」と思いました。なんか、恐かったんです。だいたい、修験道が盛んだった山というのは現代でもそれなりの雰囲気を遺しているもので、むか~し登山をやってた頃、関東のとある霊山に登ったことがありますが、その時とても恐い思いをしました。もしかしたら何かが「いた」のかもしれないけど、とにかくとてもイヤな感じがしました。霊感がないと言っても、何かしら感じることもあるんですよ。そういう経験を思い出させる写真だったので、高野山といえば戦国武将の墓のデパートとしても有名で以前は行きたいと思っていましたが、たぶんわたくしは現地に行くことはないと思います。そういうこともあったので、わざわざあちらから出向いてくれるのならこれはぜひとも観に行かなきゃならんな・・・と思って、頑張って来たんです。ミッドタウンに着いたのは10時を少し回ったところ。が、ミッドタウン内のお店は11時開店なので企画展のあるサントリー美術館へは通常の入口からは入れず、11時以前に入場する場合は「ガレリア」の入口を使って入ってくれと美術館のサイトにあった。え~、入口、わかるかな~と思っていたけど、幸い表側から見える場所にガレリアの入口があってほっとした↓。 ガレリアはショッピングロードの名称で、建物としてはガーデンテラス内にあたると思うんだけど、萩藩下屋敷の差図を見るとガーデンテラスのあたりは細い区画に木が描かれていて、その隣には何か描かれてはいるんだけど、これが何なのかはわからない。ただ、ガーデンテラスの外側あたりにはやっぱり長屋が描かれてます。で、ここからは内部の写真はありません。オサレなお店が立ち並ぶガレリア内にはまだ歩く人は少ない。サントリー美術館へはずっと奥の方へ進んでいくんだけど、奥へ進むにつれだんだん人が多くなってきた。しかも、顔ぶれの年齢層は高い。これは、皆様お仲間だな・・・そう思いながらエレベーターに乗って美術館のある3Fで下りると、すでに結構人がいた。まずは荷物を預けて、急いで毛利家をハシゴしてきて汗をかいたのでトイレで身支度してから、いざ企画展へ。これまでわたくしは、企画展で音声ガイドというものを使ったことがない。が、3週間前の企画展で使ってみてなかなか良かったので、今回も使ってみることにした。サントリー美術館のサイトには割引クーポンがあるので、入口ですまほのクーポンを提示してお姉さんに100円(笑)引いてもらう。音声ガイドは会場の入り口にあるという。サントリー美術館は面白い造りになっていて、まず専用エレベーターで上に上がってそこから順々に観ていくようになっている。会場入り口で音声ガイドを受け取って展示室に入ってみると、思っていたよりも人がいた。やっぱり高野山は人気だなあ~。最澄の名は知らなくても、空海は知ってるという人は多かろう。来年、平成27年で空海が高野山を開いてから1200年を迎えるので、それに合わせた企画らしい。先に全体の感想から書きますと、企画展全体での出品数は多くない。しかも、会期途中で展示品の入れ替えがあるので、1回で観られる品はさらに少なくなる。それでも、像などの大きな展示が多く、観ていて「よくこれを山外に出したよな~」って思うものは多々あって、数こそ少ないものの、内容はかなりいいです。ですので、会期が終わる前に紹介しておきたいと思ったんです。さてと、展示品の話に入る前に、「叡山攻め(77)」の続きを少々・・・大同元年(806)のタイムテーブルまで載せてるのに、歴バナの最後はあっさり終わっちゃって何かヘンだな、と思った方がおられるかもしれませんが、ここで簡単な続きを書くつもりだったので歴バナをあそこで打ち切ったんです本シリーズに入ってからしばらく江戸の話で雰囲気が変わってましたが、ここからまた1200年戻りますよ~。上記リンク先のタイムテーブルを見ながらお読みくだされ。もちろん、ここでの主役は最澄たんではなく空海たんです。延暦の遣唐使船4隻のうち、第1・第2船は約1ヶ月かかって唐に到着。第3船の乗組員はおおむね助かったものの、船は流され行方不明。で、第4船の遣唐判官・高階遠成が延暦25年(806)の1月に唐で位階と官職を授けられているので、延暦24年の末頃には第4船は唐に到着しただろうという。その頃には大使たちはとっくのとうに帰国してるんだから、第4船も苦労したね。しかし、この到着のズレがあらたな歴史を生み出すんだから、「いや~、歴史ってほんっと面白いですねぇ。それではサヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」・・・って、まだ終わりません。だいたい、このセリフをわかる読者様が一体何人いるのだろうかいやいや、冗談こいてる場合じゃありまへん。でもね、最澄・空海ともその人生は実にドラマティック。特に入唐の前後が2人ともひとつのハイライトと言えますね。で、唐での空海については「叡山攻め(74)」でほんの数行紹介してますが、恵果(けいか)に師事してからはその資質を見込まれて恵果に大層気に入られ、がっちりと仕込まれてわずか2~3ヶ月で密教の僧の最高位である伝法阿闍梨位(でんぽうあじゃりい)の潅頂を受け、遍照金剛(へんじょうこんごう)という灌頂名ももらった。日本各地に空海の像はあって、過去の記事でも数枚写真を紹介していますが、台座に「南無遍照金剛」とだけ彫ってるものもあったな。この遍照金剛の潅頂名だけも覚えておくと便利です。ちなみに遍照金剛の意味は「この世の一切を遍く照らす最上の者」で、すなわち大日如来を現す名だそうです。最澄も天台山と台州で密教を学び、ことに台州での研修は帰国してから大いに役立ったけど、順暁は当時の中国密教界では傍系だった。しかし、空海の師事した恵果は主流で人気もあり、恵果には千人もの弟子がいたという。空海の経歴を語る話の中では恵果は必ずと言っていいほど顔を出す。長く恵果に付いて修行したのかと思いきや、空海と恵果の接した時期は約半年と意外に短い。でも、それは仕方がない。恵果は日本の元号で言うと延暦25年12月15日に亡くなっているのだ。だから、2人が出会ったのは恵果の最晩年ということになる。もし空海が恵果の元に行くのがあと少し遅れていたら、空海の人生は現在私達が知っているものとは大きく違っていたかもしれない。空海の人生が変われば最澄の人生も変わり、はては叡山の歴史そのものも変わっていく。恵果の存在というのは、それぐらい大きい。にほんブログ村
2014年11月30日

長府藩は萩藩の支藩。ビッグダディ・毛利元就の四男の穂井田(ほいだ)元清様は吉備路編に少し顔を出してますが、その元清様の子が秀元。秀元様の簡単な紹介は山口の長山城の記事にも書いてまして、長府藩の祖とされる方です。様々な苦労を重ねた戦国武将でも長生きしてる方は結構いるものですが、秀元様もそのひとりで家光の代まで生きていた。で、ここの日ヶ窪上屋敷は江戸期のほとんどを通じて長府藩のものだったらしいから、秀元様もここに住んでおられたかもしれない。六本木ヒルズの公式サイトには、秀元様がここに上屋敷を置いたとある。手持ちの古地図にはこの付近は載ってないんだけど、『江戸東京地形の謎』(芳賀ひらく/二見書房)に載っている寛永19年(1642)頃の絵図には確かに同じ場所に「毛利甲斐守」の屋敷が描かれている。ただ、「下屋敷」って描いてあるので、当初は下屋敷だったのが本家の萩藩毛利家が大火によって上屋敷の機能を麻布下屋敷へ移したように、長府家の方でも何らかの理由で下屋敷を上屋敷へチェンジしたのかもしれないな。で、ここは毛利ファン以外にも歴史ファンが別の目的で訪れる場所でもあります。それは、いわゆる「忠臣蔵」関連。ギシの史跡めぐりなんかしたい訳じゃないのに、江戸には彼らの足跡が多く、ゆえになにげにギシ関連の史跡を結構回るハメになる人生の皮肉・・・ま、それはともかく、吉良義央を討ち果たしたあとの浪士たちは処断が決まるまで4つの大名家に預かりの身となった。その後、被害者の吉良家が改易となり本所の吉良邸が没収された同じ日に浪士たちは全員切腹。その舞台となった4大名のうちのひとつが長府毛利家で、浪士たちはここで切腹したと言われます。ま~、すぐ近くに毛利本家の屋敷もあるので、私もつい「あれ?赤坂と六本木のどっちの屋敷だっけ?」ってわからなくなる時がありますが、ここは毛利甲斐守の屋敷。ですので、寛永寺シリーズの宮バナで紹介した落首、 細川の水の(水野)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れるを思い出していただければ迷うこともありません(笑)。ここに預けられた浪士は10人。リーダーの大石良雄は細川家に預けられていたが、『忠臣蔵外伝 その日の吉良邸』(墨田区観光協会発行)にはその最期についてこんな風に紹介されている。 【元禄16(1703)年2月4日、まず、大石内蔵助が切腹の場についた。 小脇差を腹に当てると、介錯人が刀を一閃、首はみごとに討ち落された。細川家では 17人の切腹をわずか1~2時間の内に終えている。遺体の処理から畳の取り換えまで 含めての時間なので、かなり慌ただしい進行だったと推測できる。他の三家でも同様に 行われ、その日の夜中には全員の遺体が泉岳寺に届き、法要が営まれている。】 (漢数字は戦国ジジイが変換)こんな風にごく淡々と事が進められたようですが、本人たちも当然覚悟の上だし、本来の目的は果たしていたんだからある意味満足はしていただろう。その一週間後、吉良義周はわびしく諏訪へ向けて旅立ってくんだから、忠臣蔵ファンからは冷たいヤツだと思われるでしょうが、わたくしはここでの切腹に同情なんかしませんよ。ただ、主君に恵まれなかったという点では浅野家家臣たちに激しく同情しますが。あと、ここは乃木将軍が生まれた地でもあったようです。ええ、なんで~?と思ったら、彼の家は長州の出なんだそうですね。なるほど、そういうことか・・・ここを訪れた方の訪問記を見ると、現地には歴史を語る解説版もあったようですが、下品なハートのオブジェにがっくりきたわたくしはそのまま池を回ってさっさと出てきたので、解説版にはお目にかかってません。ただ、こんな看板はあったけど。 【宇宙メダカ 2003年7月25日、宇宙飛行士の毛利衛さんと全国から集まった約800名の 里親の皆さん、そして宇宙メダカ研究会会員により、およそ1万匹の宇宙メダカが この毛利池に放流されました。宇宙メダカは、1994年にスペースシャトル 「コロンビア」内で向井千秋さんらが行った実験において、脊椎動物として初めて 宇宙で生殖行動・産卵・孵化したメダカの子孫であり、東京大学の井尻憲一博士が 代表研究者として研究しているものです。 日本古来種の緋メダカである宇宙メダカが、江戸時代の毛利邸の池に由来する毛利池に 泳ぐ姿は、六本木ヒルズの「古いものと新しいものの融合」や「未知の分野への挑戦」 の象徴となっています。この六本木ヒルズの新たな住人となったメダカ達を、大切に 見守ってください。】 (現地解説板より)ハハハ・・・モーリつながりねヒルズのサイトによると、毛利池には春になるとカルガモの親子もやって来るらしい。さて、それじゃさっくりと現地の写真を紹介しましょう。 檜町公園に比べると狭いけど、こうして池の正面に回ってみると悪くはないんだけどな・・・ただ、左に写っているハートがどうにも我慢ならん 後ろの高いのが六本木ヒルズ。つまりここは、ヒルズとテレ朝に囲まれています。こーゆー場所に歴史を思わせる庭園が再現されただけでもヨシとすべきかもしれないけど、あのハートがどうしても・・・(←しつこい)庭園を出て外を歩き始めてから、そういえばここにはわずかに毛利屋敷の遺構があるって書いてる方がいたな、って思い出して通り沿いを気にしてみたけど、ご覧の通りの↓フツーの道路でさっぱりわからなかったし探す時間もその気もなかったのでそのまま来た道を戻る。 下品なハートにかなりイラついていたので、坂の途中で後ろを振り返ってお口直しならぬお目直し↓。 バイバイ、東京タワー。増上寺に行った時についでに東京タワーにも登ってこようかな。ところで、前回の記事でも東京タワーの写真を載せてますが、色々建物は写ってるものの、なんとなく前方が平坦な土地だってのはわかるでしょ?写真を撮ったのは坂を下りきったあたりですが、右に写ってる木が毛利庭園。六本木通りから坂を下りてきた場所に毛利家日ヶ窪屋敷跡があります。ヒルズはもう少し高い場所にあるから、ここも本家の麻布下屋敷と同じく敷地の中でそこそこの高低差があったようです。だいたい、地名からして「窪」だもんね。その名の通りここはくぼ地だったんだろうと『江戸東京地形の謎』を見たところ、やはり写真を撮った道は古くは谷町だったようです。毛利甲斐守屋敷のすぐ南東には柳生但馬守の屋敷があり、そこから東京湾方面は一部に小高い土地も描かれているものの、広く水田が描かれている。小高い場所には「浅布百姓地」や「百姓地」と描かれており、現在では高級なイメージのある麻布も、江戸初期にはド田舎だったことがわかります同書によるとこの辺はかつて「古川」が流れており、その谷底が水田となったようだけど、見るからに低い土地ではあるので、もっともっと大昔には前回の写真の先には海が広がっていたのかもしれない。現地を歩いて古地図をよくよく見てみると、都内といえども地形そのものは案外残されてるもんだし、本所のような歩きやすい土地も良かったけど、起伏の多い土地も色々楽しみどころがあって面白いもんだな~と思った。そして再び六本木通りを戻る。この頃にはだいぶ人出も増えていて、カメラを首からぶら下げたままのわたくしは完全におのぼりさんスタイルで恥ずかしいったらないけど、こんなオサレな街でも途中で何に出くわすかわからないので、カメラをしまうことはできない。案の定、六本木通りの街灯にはこんなのがあった↓。 六本木の地名の由来にはいくつかの説がある。江戸期、この辺に青木氏、一柳氏、上杉氏、片桐氏、朽木氏、高木氏の「木」に関係する大名家があったからという説。モーリはどこ行ったんだ?毛利はあと、6本の松の木があったからという説。それから、江戸六方の男伊達がこの辺に住んでいてもとは「六方気」だったのが変化したという説、などなど。その他、平家にからむ伝承もある。6人の平家の落ち武者がここまで逃げてきたが、その当時、ここには5本の檜があった。6人のうち5人はそれぞれ檜を墓標として、その前で切腹して果てた。残りの1人はあきらめきれずに付近をさまよったが、ついに力尽きてしまった。村人たちが彼を哀れんで1本の松の木を植え、5本のヒノキに1本の松で6本の木になった、というお話だそうな。で、肝心の「材木町」の地名の由来は手持ちの資料ではわからなかったんだけど、現在は「六本木7丁目」となっていて材木町の地名は残っていない。付近に幕府の材木蔵なんかも見当たらないけど、おそらくこれも「本所松坂町公園」のように歴史を物語る名称を地元が残そうとしている現れなんだろうなと思ってちょっと嬉しかった。にほんブログ村
2014年11月29日

さて、あまりのんびり書いてると肝心の企画展の会期が終わってしまうので毛利家下屋敷に戻りましょう。明暦の大火では麹町から起こった第3陣の火はこの辺を通って増上寺のある芝へ抜けていったんだよな~と自分の記事を読み返していたら、第3陣で焼かれた大名屋敷の中に萩毛利家の屋敷もあったと書いてあった(←忘れてた)。うん、てことは、手持ちの古地図では確認はできないけど、おそらく明暦の大火以前からこの辺に萩藩の屋敷があったってことだな。が、毛利屋敷が火事の被害を受けたのは明暦の大火だけではないらしい。江戸の三大大火のひとつにも数えられる明和9年(1772)の火事でも燃えてしまったんだそうな。この時には桜田の上屋敷と芝の中屋敷が被害を受けたが、麻布の下屋敷・・・この檜町公園を含む場所にある屋敷だけは無事だったので、時の藩主・毛利重就(しげなり、のち、しげたか)は急きょここの下屋敷に屋敷や長屋を増築して、翌年にかけて整備に務め、以後はこの麻布下屋敷が上屋敷の機能をもあわせ持つ中心的な存在となったそうな。檜町公園は結構広いので、もしかしたら史跡解説の看板でもあったかもしれないけど、あまり時間もないので軽く園内を見た程度で次へ向かうことにした。もう9:30回ってる・・・企画展の開始は10時からで、当初の予定では次に江戸城方面へ少し行ってわたくしの中では「赤坂といえば、ココ!」って場所へ行くつもりだったのに、ちょっと時間的にキビシイな。てんで、そこはカットして史跡めぐり最後のお目当てに向かうことにした。もちろん開館と同時に入場しなくてもいいんだけど、この頃はマジで連日体調が最悪だったので、少しでも早く帰りたかったのだ。池を見てから公園を出ようとしたら、奥の方に何かあるので行ってみた。 「ネレイス-海の精-」エミリオ・グレコ作。せっかく大名庭園風に造ってるんだから、こんなもの置かなくてもいいのに・・・出口を探して出た場所は、前々回の記事の最後から2枚目の写真で左に写っていた坂の上部だった。ここの坂は結構急。坂の上には坂名を示す標識が立っていた。 「檜坂」。これは毛利家下屋敷に檜が多く植えられていたことに由来する名らしい。檜町公園の名称もそこから来てるのかもしれないな。檜町公園に沿ってぐるりと回りこんでいって、公園のおしまいから見たとこ↓。 撮影地点から左に進むとすぐ東京ミッドタウンの敷地。檜町公園に入った場所では入口の両側に延びる道は坂になっていて、公園は坂の中腹にあるような感じだったけど、この場所はもう少し高い。「江戸麻布御屋敷土地割差図」を見ると、下屋敷の土地はおおまかに言ってタテに2つに分かれており、絵図の左側・・・現在はミッドタウンが建つ場所が屋敷地。右側・・・こちらが檜町公園を含む場所がぽっかりと空いていて大きな庭園になっている。庭園の中央には大きな池が描かれているけど、現在公園内にある池とは少し場所がズレているかな。たぶん地形はおおむね昔のままだろうから、そうすると坂を上がりきった高さの高台が居住スペース、坂の中腹にあたる一段低い場所が庭園だったと思われる。下屋敷の正門は私が公園に入った場所と反対側の場所にあり、正門に近い方から表・奥・御裏(おうら)と続く。表・奥・御裏はそれぞれ表向・中奥・奥向に該当すると思ってください。正門から奥へ進むほど庭園が近くなるので、「奥」や「御裏」からは庭園が眺められたという。土地の起伏を活かした造りになってたんだな。麻布下屋敷の庭園は「清水園」と呼ばれ、天下の名園として広く知られたそうな。あいにく現在の公園は往時の庭園そのままではないけど、場所といい雰囲気といい、かつての姿を偲ぶにもなかなかいい造りになっている。都内の喧騒を忘れさせる庭園跡を離れると、とたんに現実に戻る。ここからしばし南へ向けて歩く。この辺をまともに歩いたのは初めてだけど、小さなアップダウンが多くてかなり起伏の激しい土地だなと思った。 桜~吹雪にぃぃ、ハラハ~ラす~がりぃぃ、貴方なし~では生きてゆけぬ~ううう~(by アン・ルイス)少し前に昭和の歌謡曲を集めたオムニバスを数枚買ったので、この辺を歩いてる時には「六本木心中」とクリスタルキングの「大都会」を交互に頭の中で歌ってました。ミッドタウンと檜町公園のある場所は住居表示でいうと赤坂。そこからちょっと歩いたあたりはもう六本木です。乃木坂というのは正式な地名にはないと今回初めて知ったんだけど、この周辺一体をまとめて乃木坂とも呼ぶ。首都高渋谷線が上に走るこの道は六本木通り。ここまで来ると人も多く、道沿いにはキャバクラも多い。で、「朝キャバ」なるものの存在を初めて知りました。ええ~、朝から女遊び~?いったい誰のための営業時間なの~!?初めて知る世界にあぜんとしましたが、朝キャバの店は数軒見かけたのでそれなりに需要はあるらしい。まだ10時前だとゆーのに、通りには客引きらしい兄ちゃんも立ってたしな。六本木通りには麻布署もあった。ちょうど私が前を通りかかった時はおまわりさん達が打ち合わせをしていて、その後すぐに街へ巡回に出かけていく姿を見たので、こーゆー街だとケンカとか多いんだろうな。キャバ嬢がキイキイ言いながら取っ組み合いのケンカしてるとこへ仲裁に入ったりもするのだろうか・・・なんて想像しながら歩いてました 写真で見ると六本木通り自体はそこそこ平坦な道だけど、たとえば上の写真を左に入っていく道はまた坂だったりして起伏の多さはまだ続いている。古絵図では六本木通りと重なる大きな道はないので、近代に入って新しく通された道らしい。写真のあたりは古絵図では武家地と町人地と寺地が混在して描かれている。少し歩くと次のお目当て、六本木ヒルズが現われる↓。 もちろん、ヒルズへ遊びに来た訳じゃありません。あ~、こーゆー大型施設って道がいり組んでるからやなんだけど・・・あと10分くらいで10時になってしまうので、焦りながら無難な道を進んでお目当てに行こうと思うものの、案の定道がわからない。しかし、ウロウロ歩きまわる時間はないので、地図を見ながらアタリを付けてヒルズの間を走る道路を進んでみた。写真はないけどこの道も下り坂。坂を下りきる手前からは東京タワーが見えた。 うん、やっぱ昭和の人間にはスカイツリーより東京タワーだよな。このまま芝まで行ってしまいたいけど、今後のお楽しみとしよう。坂を下りきったあたりには木がこんもり繁っている。ビンゴだなさて、企画展の開場と同時に入場したかったわたくしが、開場を数分後に控えながらもふうふう言って足を延ばしたこの場所は、またもや毛利家の屋敷跡です。ここは長府藩毛利家の麻布日ヶ窪上屋敷。ヒルズもおおむね上屋敷跡地に含まれてます。結局この日の史跡めぐりは毛利一族の屋敷訪問に終始してしまった訳ですいやでもね、ここには「毛利庭園」なるものがあるというので、せっかく赤坂まで来たんだし、せめて毛利庭園ぐらいは見たいと思って頑張ったんだけどさ・・・で木の繁ったところが庭園だった訳ですが、時間もないしなんか狭々しい感じだったのでそのままずんずん奥まで進んでみたら、こんなものに出くわした↓。 なんじゃあ、こりゃあ~!!!檜町公園と毛利庭園の訪問ブログは1つか2つは見ましたが、写真と現物では当然違うし、とりあえず場所と概要だけわかればいいやと思ってロクに見ていなかった。ただ、「公園」と「庭園」という名称の違いから、(何の根拠もなく)檜町公園は大したことなくて毛利庭園の方が見る価値ありそう・・・ぐらいに思っていた。しかし、木のうっそうと繁る薄暗い小道のすぐ先にこんなものがあったので、もうがっかりどころじゃないッス。しかも、いい雰囲気の檜町公園を見た直後だったから、ガッカリ感は倍増。なんだよ、この下品なオブジェはきっとこれはコイツ↓のせいだな。 庭園に隣接する、テレビ朝日。も~、信じらんないこのセンス。仮にも「庭園」と銘打つものにこんなものおっ立てちゃって。どのみち時間もなかったし、テンションはどん底まで落ちたのでここはさっさと通過することにした。にほんブログ村
2014年11月28日

皆様こんばんは。お風呂掃除が最近のマイブームの戦国ジジイでございます。前回の続きをもう少し。月4回と決められたお出かけの日以外にも、勤番侍たちが外で羽を伸ばす機会はあった。前回お風呂のことを紹介しましたが、これも多少なりとも外の空気を吸える貴重な機会。その他に、医者通いがある。藩ごとに指定の医者はあったようだけど、医者は藩邸の中には住んでいなかった。じゃあ近隣にいたのかというとそうでもないらしい。医者の側としては、郊外などにいる方が庶民の診察もできるので、案外離れたところに住んでいたらしいのだ。それで、神田祭や日枝神社などの人気のある祭の日には藩邸では病人が急増したらしい。なんでその日に増えるのかは書かなくてもわかりますね(笑)。現代でも都市部と地方の格差が問題視されてますが、当時の格差は現代の比じゃない。大都会・江戸での生活は多くの制限があろうと勤番者にとってかなり魅力かつ刺激のある日々だったんじゃないかと思う。それゆえに、田舎者の勤番たちが都会に染まらないようにとの配慮がなされたんだろうと思うけど、初めて江戸へ出てきたばかりの勤番者のイナカぶりを物語るエピソードもある。なにしろ土地勘がないので、観光に出かける時は1人では行かず必ず仲間と一緒に歩いたとか、屋敷の近くまで戻ってきているのにまだ距離があるものと思って駕籠に乗ってしまったとか。屋敷の近くで駕籠に乗った場合、駕籠屋にも「コイツ、田舎モンだな」と読まれて屋敷の周りを3周したあとで高い金を払って駕籠を降りたなんて話もあったらしい。あと、「盛りそば」というものを知らず、そば屋に入って盛りそばに汁をかけて食べる田舎武士は多かったんだそうな。江戸っ子からはさぞかし「田舎者」と鼻で笑われたことだろう・・・さてさて、わたくしが歴史の中の生活臭い話が大好きだということは皆様よくご存じのことと思いますが、ここで「臭い」話をば。この世の生きとし生けるものはドラえもん以外はすべて排泄行為をしますね。あ、ドラえもんはロボットだったな。しかもフィクションいや、ドラえもんの話じゃなくて排泄です。こえ。ふん。「汚物」と「生活臭い」というわたくしの大好きな話がダブルで来れば、もうここは食いつくのは当然でしょう。武士といえど、ウンコはします。殿様だって奥方様だってします。毎日コンスタントに溜まっていく藩邸の汚物の処理はどうしていたのか?これはね、現代と同じく汲み取り業者がいたらしいんですよ。言われてみればまあ当然だろうとは思うものの、普段汚物処理が話題になることなんてないし、時代劇では汲み取りのシーンなんて絶対出てきません。業者といっても、幕府が社会福祉の一環として手配をしていたものではなく、各藩が民間の業者に委託していたんだそうな。江戸期の身分別人口割合は時期によっても変わるものかもしれないけど、大名には参勤交代が義務付けられており、多くの家臣たちが江戸へやって来た。江戸での滞在費は少しでも押さえたいところではあるけど、さりとて生活物資をすべて国元から持ってくるのも効率が悪いし、結局のところ節約してもかなりの生活必需品を江戸でまかなうことになる。『大名屋敷の謎』によると、なんと各大名の年間の経費の半分以上が江戸で消費されていたとも言われているらしい。拝領屋敷はタダでもらえたけど、そのツケはちゃんと江戸市民へフィードバックされてたってカンジかな。そういう大消費都市・江戸では大名向けの各種サービスも充実しており、その中のひとつが「汲み取り」だった。ただ、サービスと言っても別にボランティアという訳ではなく、れっきとしたビジネスだった。「くさや」はわたくしは食べられませんが、好きな人はやたら好きだよね。汲み取りビジネスも、臭いけどおいしい「くさや」のようなものだったらしい。具体的にコエビ・・・肥(こえ)ビジネスの中身を見てみましょう。コエビは大名相手の商売のひとつで、何かしらの手段をもって大名家に入り込むことで次の商売につながったり大名ブランドに名を借りてハクを付けられるなど様々なメリットがあったが、コエビ単体でも立派なメリットはあった。フンを集めることで何のメリットがあるのか?フンは立派な肥料になるでしょお~。昔は当然化学肥料なんかないもんね。結構人糞って「効く」んですよ。我が家では昔、茨城に持っている土地を畑として使っていて、車で1時間ほどかけて通って家庭菜園してました。畑には桃の木があってね。あまりいい実は着けない木だったんだけど、わたくしが相当小さい頃、畑でもよおしたことがありまして、大きい方を畑で数回したことがあります。たぶんわたくしの「モノ」の他にも家族の「モノ」も排出されたんじゃないかとは思うけど、排出物を桃の木の下に埋めた年は甘くていい実がなりました「きったね~な~、それ、食ったのかよ!?」って思う方もいるかもしれませんが、木だからまだいいでしょ。甘くておいしかったですよ、わたくしの桃これが葉モノとかだと寄生虫の問題とかあるけど、日本だってちょっと前まではそういう肥料が当たり前だったんです。ので、江戸の農民にとってはいかにいい肥料を集めるかに関心が高かったようです。ただ、面白いのはフンにもランクがあること。江戸期はバリバリの身分社会だから、大名家でいくら倹約生活をしようと農民なんかに比べたら格段にいい物を食べている。栄養価が高いものを食べてる訳だから、排出される「モノ」も農民の「モノ」に比べたら肥料としての価値は高かったらしいのだ。農民にとっては、どれだけいい肥料を集めるかで野菜の出来も変わるし。、そうなると自分達の収入も変わってくる。そういう訳で大名家の肥桶を狙って熾烈な争いが繰り広げられたらしいのです。広い下屋敷を持ってる家では藩邸の内部に菜園を作るケースもあったようだけど、大名家にしたって排出したフンなんて肥料以外に使いようがないんだから、自分とこの菜園に使うフン以外は農民に好きに汲ませてやりゃいいものを、そこはやはり江戸時代。汲み取りという行為を「利権」に仕立て、より条件のいい業者にそれを与えた。現代の感覚だと、きちゃないモノを持っていってくれるんだから大名家側でお金を払って処理を委託したのかと考えると思うけど、全くその逆で、ぬわんと業者から金を取っていたんだそうな。だから、コエビは大名家が業者に汲み取ってもらうものではなく、農民が大名家から肥料を買うという性質のものだったということになる。驚いたことに、コエビの対象となるのは人糞だけじゃなく、藩邸で飼う馬のフンまでも取引されたという。業者は一名。が、その一名がたった一人で汲み出し作業をする訳じゃない。業者は江戸の郊外に住む裕福な農民、いわゆる豪農で、その豪農が近隣の農民から希望者を募って、それぞれが自分で汲み取りに出かけたそうな。野菜の肥料になるのはフンだけじゃないけど、それでも江戸の中期頃まではフンは無料か、もしくは謝礼として収穫した野菜を少し置いておけばいいぐらいだったのが、江戸の食生活の向上に伴って大都市向けの野菜の生産が盛んになってフンの需要が高まった。『大名屋敷の謎』にはコエビで農民が相手に支払った代価の表が載っており、それによると年間契約で「代金7両」とかいう金銭で支払ったケースもあれば、「干大根500本、茄子500」という物納のケースもある。同書には【江戸中期以降は価格が高騰して、売手市場となる】とあるけど、ウンチして干大根がもらえるんだよ~!涼しい顔して教科書に載ってる江戸期の政治家たちも、みんな自分のウンチと引き換えにした野菜を食べてたかもしれないんだよ~!!いやいや、大名相手のコエビの話に戻りましょう。大名家と契約した豪農は、代価を大名家に支払う。実際に金を出しているのは希望して豪農の元に集まった農民たちで、豪農がそれを取り立てる。そのマージンを豪農が懐に入れるというシステムになっており、豪農は仲介業者といったところだろうか。豪農によっても差はあるだろうけど、前掲書で紹介している戸塚村(新宿区高田馬場付近)の豪農・中村甚右衛門の場合はかなり高額の収入になったらしい。コエビなどのビジネスで大名家に参入する豪農のことを「御用聞」(ごようきき)というらしい。御用聞はおいしいビジネスではあったけど、楽ばっかりしていた訳でもない。まず、高収入のビジネスを狙って競争率が激しいので、御用聞の座を獲得するまでにかなりの労力を必要とする。御三家の雄・尾張家の御用聞を勤めた甚右衛門はまず馬の飼葉を納入する事業からスタートして、次第に色んな仕事を請け負うようになる。甚右衛門が尾張家に参入するようになった頃、コエビは他の業者が請け負っていたが、ある時その業者がコエビの代金を期日までに納められなかったことなどもあり、いくつもある下屋敷の汲み取りの権利を甚右衛門が次々に獲得していく。現在自衛隊の統合幕僚監部のある市ヶ谷にも尾張家の下屋敷があったそうで、甚右衛門が市ヶ谷の屋敷のコエビの権利を獲得した際、そのお礼として屋敷内のゴミを回収する清掃業をタダで行うことにしたそうな。そういうサービスの他にもワイロなどは当然あっただろう。ここら辺は、公共事業にむらがる現代の業者を彷彿とさせますね。ただ、御用聞たちはただ大名家の顔色をうかがって何でもかんでも言う通りにしていたのではなく、かなりしたたかだった。たとえば、屋敷に住む家臣たちの数が減ると当然フンも減り、収入は落ちる。その上、甚右衛門がサービスで始めた清掃業では1年に800人もの人足を使ったという。これでは割に合わないので、汲み取り料の引き下げを尾張家と交渉したりと、農民とはいっても商人顔負けのたくましさを持っていた。幕末の動乱期に入ると御用聞たちも時代の変化に合わせて変わることを余儀なくされる。しかし、変わらないのは彼らの商売魂。江戸城開城の際、市ヶ谷の尾張家下屋敷には「官軍」の土佐藩兵などが駐屯したが、その頃の市ヶ谷の尾張家のフンはかなり減っていたので、官軍が駐屯することを甚右衛門は喜んだという。もちろん、人が増えればフンが増えるからに他ならない。フンの出自は問わないというたくましさが笑えるではありませんか。明治という新しい時代に入っても、コエビは健在だった。甚右衛門は時代の波に乗って新政府の御用聞へと華麗なる転身を遂げるが、新政府は軍事力の強化の一環として西洋馬の輸入を始める。当然、それら輸入馬のフンも汲み取りの対象となったが、実は日本馬のフンに比べて西洋馬のフンは肥料としての効率は悪かったんだそうなやっぱ、地産地消が一番なんだね。歴史を陰で支えたフンビジネス・コエビ。皆様にもお気に召していただければ幸いです。いちおうお断りしておきますが、「コエビ」は戦国ジジイの造語で、フン事情に詳しい歴史ファンに「コエビ」と言ったところでさっぱり意味は通じませんのでご注意くださいねにほんブログ村
2014年11月27日

公園の中に入ってみると、意外に広い。写真も撮りましたが広い場所は動画に限るので、入ってすぐの場所からぐるりと回転して動画に収めました。現在はジョギングルートもある庶民が憩う場所なので、妙な遊具などが置かれてるのは致し方ありません。動画の中頃で奥の方に小高くなってる場所がありますが、思わず「土塁・・・」とこみ上げる笑いをこらえながら360°回りました。それじゃ、奥へ進みましょう。 かつてここがどういう使われ方をしていたのかはわかりませんが、庭園の雰囲気を遺すいい造り。少し進むとこんなのもあります↓。 アラアラ、なかなかいいじゃないの~!正直言ってここはそんなに期待してなかったんだ。けど、繁華街がすぐ近くにあるとは思えない別空間。結構気に入ったので、小滝の付近でもう1本動画を撮りました。昔のままじゃなく、再現されたものだとは思いますが、往時の大名庭園の雰囲気を味わってみてください。ここにはこんな妙な形の灯篭もあります↓。 紋っぽいものが見えたので、(つい)いつものクセで銘を覗きましたが、摩耗してて読めなかった。そこそこ古そうではあるけど、形がヘンだよな さて、滝の先の小道を進みます。 寝てる人がいたので、建物の方は撮ってません。園内はベンチが多くてゆったり休憩できるようになってますが、ここの建物は池に向いているので、座って池を鑑賞できる造りになってます。でまあ、これまたクセで池を覗きこんだのですが、水深数センチの幼児が入ってもくるぶしぐらいにしかならないだろうというぐらいの人工の池でした。まあ、仕方ないよな。それでも、大名庭園をしのばせるよい公園です。 ミッドタウン、邪魔 さてね、江戸に本格的に目覚めたのは寛永寺の時ですので、それまでも江戸の史跡は少し紹介してきたものの、大名屋敷(跡)を歩くのは今回が初めてかな。江戸についても少しずつ勉強していかねばなりませんので、今回はまず『大名屋敷の謎』を参考に「おのぼりさん」達の実生活を少し紹介したいと思います。江戸の町は男が多かったことは有名な話ですが、『よみがえる日本の城2 江戸城』(歴史群像シリーズ/学研)によると、江戸中期の人口は武家が50万、町方が50万で、約7割が男だそうな。 20万石の土佐山内家の場合、5代将軍綱吉の時代の上中下の江戸藩邸に住む家臣の数は3,195人。そのうち女性の数は146人というからすごい。ただ、この146人はあくまで奥に勤める女中の数。家臣の中には江戸住まい(定府)の者と参勤交代で殿様と一緒にやって来る一時住まい(勤番)の者がおり、定府の者は家族とともに江戸に住んでいて、身分の高い家臣になると藩邸内の自分の家に家族と共に住んでいたそうな。こういう奥様連と藩主夫人は146人の中にはカウントされていないので、藩邸内の女性の比率も少し高くはなるんだろうけど、どっちにしても男が圧倒的に多いことに変わりはない。勤番の侍は単身赴任。そして、江戸の大名家勤めの武士の多くは勤番だったろうという。よく時代劇で岡っ引きがアヤシイ現場に遭遇しても、相手が大名に仕える侍だったりすると「町方は手出し無用」とかって言われて悔しさに歯がみしながらすごすご引き下がるシーンがあるけど、藩邸の内部は治外法権。閉鎖的な藩邸の内部で実際下級武士たちがどういう暮らしをしていたのかなどの詳しいことはあまりわかっていないらしい。それでも現在に残るわずかな史料からその生活ぶりを垣間見ることはできるそうで、まず藩士は藩邸に住んでいた。ここはいいよね。国元では藩主の住む城があり、城下の自分の家に藩士たちは住んでいる。藩邸というのはその「かたち」をそっくりそのまま限られたスペースへ持ちこんだようなもので、藩邸にはまず御殿がある。御殿は当然殿様専用のスペースで、ゆったりとした造りで藩邸のかなりの部分を占める。一部の上級家臣は藩邸内に独立した自分の家を持てたけど、それ以外の下っぱはあまったスペースに住む。万延元年(1860)に来日したプロイセン公使のオイレンブルグは川越藩下屋敷の内部の様子をスケッチしており、それを見ると藩邸内に細かく仕切られた長屋がびっしりと建っている。時代劇によく映る、町人の住む長屋を思い浮かべてください。あんなのが藩邸内にずらっと並んでるんです。いやあ~、大名家の塀の中にまさか長屋があったとはね上屋敷ぐらいになるとさすがに長屋率は落ちるだろうけど、上屋敷にも御殿の余ったスペースに住む家臣はいた。敷地の多くを御殿が占めてしまうので、下っぱたちは残ったわずかなスペースにきゅうきゅうとして暮らしていた。「藩邸」という同じ敷地に住んではいても、殿様と家臣たちの生活はぱっきりと隔絶されており、藩邸の中にプチ城下があったようなカンジ?前回、内藤鳴雪の談を紹介してますが、鳴雪は『勤番者は大概一つ小屋に一緒に居た』と語っているので、勤番侍は単身赴任で長屋暮らし、しかも場合によっては1人1部屋ではなく数人が同居していたということらしい。長屋とはいえ江戸での住まいは藩から提供されてはいたが、食事は自炊、または外食。長屋用の共同の風呂場はあったが、外の銭湯に行くこともあった。どういう身分であろうと、全国から人が集まってくる江戸では藩士はみな「○○藩」という企業の看板を背負っている。当然、藩の名に傷を付けぬようにいろいろな規則が決められていた。『大名屋敷の謎』では鳥取の池田さんちの藩法集を例に挙げており、まず高い声を出すのはダメ、歌ったり三味線などの鳴り物もダメ。ま、この辺はいいよね。高い塀に遮られてはいても、通りを歩いてて塀の中からギャースカ聞こえてきたら品位も何もあったもんじゃないしね。勤番侍たちなどの住む長屋はそれ自体が壁のような役割を果たしていたようで、塀の中に長屋があるというよりも長屋がそのまま塀の場合もあったらしい。ということは勤番侍たちの生活の場が通りに面してたってことで、長屋の窓から外の行商人たちを呼び止めて買い物をしたり、水を外に捨てたり、窓から洗濯物を干す者がおったらしく、こういう行為もすべて禁止されている。アハハ、大名屋敷からふんどしがぶら下がってたとか考えるだけで大笑いなんだけど~!江戸の勤番たちにはわりあいヒマな時もあったらしい。しかし、ヒマだからといって酒を飲んでドンチャンする訳にもいかず、長屋での暇つぶしは囲碁や将棋、それから読書。なんと藩邸には貸本屋が出入りしており、結構ジャンルは広かったらしい。八犬伝や水滸伝などの小説やら人情本、洒落本、それから春画などもあった。御家騒動については版本は禁じられていたので、手書きの本が出回っていたらしい。ふん、「忠臣蔵」なんかも読んでたんだろうな。当時の本は買うと高いけど、貸本だとそば一杯分、新刊だともうちょっと高いくらいの値段だったので、人気が高かったそうな。ただ、勤番侍は狭い長屋でただじっとしていた訳でもない。外の自由な空気に触れるお楽しみの時間もあった。また内藤鳴雪の自叙伝から紹介しましょう。 【常府の者の家族の外出は比較的自由であったが、勤番者は、田舎侍が都会の悪風に 染まぬよう、また少い手当であるから無闇に使わせぬようとの意もあって、毎月 四回より上は邸外へ出ることは許されなかった。その中二回は朝から暮六時まで、 二回は昼八時から六時までであった。勤番者はこれを楽しみにした。彼らはその 日になると目付役より鑑札を貰って出で、帰るとそれを返付した。】4回の外出日のうち2回は朝から夕方6時まで。他の2回は午後2時から午後6時まで。みんな江戸に来ると一度は芝居と吉原へ見物に出かけたそうだけど、大の男にこの門限は厳しいよな。ま、それでも限られた時間を最大限有効に使おうとしてみんなギリギリまで粘ってここぞとばかりに遊んでくる。ゆえに、暮れ六ツ(午後6時)の拍子木が鳴る時分にはどこの大名家の屋敷の門前でも、門限に遅れてなるまじと血相変えて爆走する勤番者の姿が見られたらしい。なんでも、【刀の大小を肩に担ぎ、袴の腿立ちを腰に挟んで、裸足で駆け付ける姿】(『大名屋敷の謎』より)だったというから、どんだけ・・・そうか、脇差を腰に差したままだと走りにくいんだな。時代劇で侍が追いかけっこしてるシーンではたいてい刀を手で押さえて上品に走ってるけど、あれは必死こいてる姿じゃないんだな。藩邸では、時間の管理は厳しかった。万一門限に遅れた場合は国元に強制送還されて長く謹慎させられたそうな。ただ、実際そこまでいくケースはそうそうなかったようだけど。遊びに行った仲間の帰りを待つ居残り組も、ギリギリまで遊んでいたい仲間の気持ちはよくわかる。そこで、「遅刻」を生じさせないための涙ぐましい努力も行われた。時刻を知らせる拍子木を打つ当番も、同じ藩士。お出かけ組がまだ帰ってこない時には、当番の侍は拍子木をゆっくりと打ってその後で門番に知らせた。他の仲間も心配して、拍子木が聞こえてもまだ帰る姿が見えない時には拍子木当番へ少し金を握らせてもっと遅く回るようにと頼んだ。それでもまだ帰ってこないで拍子木が門へ近づいていく段になると、今度は拍子木当番を抱きとめて門を閉めるのを遅らせたというこんな話を読むと、何百年たとうがどんな身分・時代であろうが、みんな私達と変わりない同じニンゲンなんだな~っていとおしく思えますね。にほんブログ村
2014年11月25日

お風呂やトイレのような場所は体の大事なところが緩むせいか「気づき」を得られることも多いのですが、さっきお風呂に入っていて急に「あれ、ハチって確か剥製にされたんじゃなかったっけ?」って思い出しました。でも青山霊園に葬られたとはあるんだよな・・・ハチは人間さながらの盛大な葬儀が行われたようですが、埋葬した後で剥製プランが持ち上がったのかな?では、前回の写真の坂を下って江戸城方面へ向けて進みま~す。嘉永2年(1849)の江戸切絵図によると、ちょうど乃木神社のあたりは「鉄砲場」だったようで、時代によっては鉄砲場ではなく青山大膳と描かれてる絵図もあるので、多少の変遷があったらしい。現在では乃木神社の入り口の先は乃木會館になっていて、神社で結婚式を挙げた後こちらでそのまま披露宴までできるようですが、會館の前を過ぎると フツーのマンションですし、聖パウロ女子修道会に用がある訳でもありません。ここはね、『東京時代MAP』には手前から「吉川監物」「毛利淡路守」と並んで描かれてるんです。おお、吉川と毛利が江戸でお隣さんしてるう~!!とわたくしが喜んだのは言うまでもありません。そういえば少し前に職場内を歩いてたら上司に呼び止められて、「最近、広島広島って言わないけどもう行くのやめたの?」とおもむろに聞かれました。やめた訳じゃありません。遠出を自粛してるだけです。それに、私は広島よりはホントは山口人間なんです。まあ、一時期立て続けに広島に行ってたからな・・・周囲にはわたくしといえば広島のイメージが強いようです。まま、それはともかく、吉川はあの吉川で間違いないだろうけど、「淡路」ってダレ?ちょっと時期がはっきりしないのでイマイチだけど、幕末ではあるからおそらく徳山藩の毛利家だな。てる(毛利輝元)の次男・就隆(なりたか)の家系だ。しかし、毛利さんちも吉川さんちも悲しいぐらい小さいぞ。下屋敷かな。上・中・下の屋敷の用途をご存じの方も多いでしょうが、久松松平家の家臣で内藤鳴雪という人が江戸屋敷についてこんなことを語っておるそうな。 【お屋敷には通例、上屋敷、中屋敷、下屋敷の三つがある。上屋敷、中屋敷の二つは 幕府から賜るもので、お城の周囲に接近してあったもので、中屋敷より上屋敷の方が 更にお城に接している。上屋敷、中屋敷は共に一つずつであるが、下屋敷は大名に よってはたくさん持っていて、相対で売買などもして、大名自身の所有であった。 下屋敷は火災などがあった時分に立退いたり、季節に従って遊びなどする所で、 たいがい郊外か、市中でも場末にあったのである。上屋敷は大名の当主の住居で、 中屋敷には世子すなわち若殿が住んでいて、且つそれに属する家族も別かれて 住まっていた。そうして、それに附属している家来は都合によって上、中の両屋敷に 打ちまじって住んでいるので、日々上より中、中より上へ通うて勤めていた。】 (「勤番者」/『幕末の武家』より)これは『大名屋敷の謎』(安藤優一郎/集英社新書)に載っている話で、安藤氏は上の話に補足して下屋敷は避難所でもあり江戸での生活物資を保管する倉庫でもあり、別荘としても用いられ、その立地から巨大な庭園が造成されている場合が多く、よその大名を招いて接待したりもしたと解説している。 【下屋敷の場合は、複数拝領するのが普通だった。大名どうしで事実上売買まで しており、幕府も相対替えということでこれを黙認していた。だが、諸大名にとっては これだけでは足りなかったようだ。さらなる拝領(拝領屋敷)を幕府に願っている。 ただで土地が貰えるのだから、当然競争は厳しい。なかなか拝領できなかったのが 実情で、結局金銭で購入することになる。これは、抱屋敷と呼ばれた。】 (『大名屋敷の謎』より)なんだとお~!上中下すべてタダでもらえんのかよ~!?やっぱ武士は江戸期にはお荷物以外の何者でもないよな~と貧しい庶民になり代わり怒ってみるわたくし・・・拝領屋敷の場合は非課税。が、抱屋敷の場合は元々町人などの土地を買い上げたものなので課税対象となる。大名屋敷であっても、税金面での土地区分は変わってないので抱屋敷の場合は元の所有者に代わって税金を納めるシステムだったらしい。拝領屋敷、おいしすぎるよな。まあ、そうは言っても世の中に美味しいだけの話があるハズもなく、タダでもらってるからには何か粗相があれば簡単に没収されるかもしれないし、幕府による土地利用の変更でもあれば移転を余儀なくされるかもしれない。ただ、そろそろ今年もシーズンが近づいてきた、例のどっかの誰かさんのような頭のおかしなことでもしなければ通常はそうそう上・中屋敷クラスが簡単に入れ替わるってことはないだろうと思うけど、売買自由な抱屋敷あたりは比較的頻繁に入れ替えがあったかもしれない。しかし、乃木坂の吉川邸は結構古い絵図にも同じ場所に描かれてるんですよ。使い勝手が良かったのか、それとも別の理由か・・・でも、明暦の大火ではこの辺も第3陣で火にまかれてるだろうし、大火後には大幅に都市再編成が行われてるので、明暦以前から吉川さんちが乃木坂に屋敷を持っていたのかは不明ですが。明暦と寛永の古絵図でこの辺が範囲外になっているのが惜しまれます。ともかくこれで、本日第一のお目当てゲット。この向かいは現在工事中で、 ここに前回紹介した幽霊坂の由来となった妙福寺があり、その向こうに松江藩松平氏・・・これは結城秀康(家康次男)の三男の家系のようですね、の中屋敷があって、三角形のなかなか広い土地。が、わたくしの次のお目当てはそのさらに奥らへんにある。 ほお?あの奥は結構な斜面になっとるぞ。高台で見晴らしのいい場所にあったみたいだな。このすぐ先に歩道橋があったので、登ってみる。歩道橋の上からは工事現場の中がよく見えた。 ふ~ん・・・本所は真っ平らだったし、巣鴨周辺なんかも比較的地形は緩やかな方だけど、ここは結構起伏が激しくていかにも江戸っぽい地形だな。比高は大したことないけど、斜面は急だ。工事現場の反対側↓。 こちらが江戸城方面。歩道橋の上は工事現場奥の補強された斜面の上と同じぐらいの高さだから、距離もまずまずだし、あの斜面の上にある屋敷地からは江戸城も見えただろう。歩道橋を渡って工事現場の覆いのかかる場所を過ぎると、赤坂中学校の入口がある↓。(今ここ) オサレなゴミステーションを撮った訳でも、コンクリ壁面の妙な彫り物を撮った訳でもありまへん。ちょうどこの辺からが、「毛利大膳太夫」・・・毛利本家の長州藩の下屋敷の敷地になります。毛利本家は「長州藩」とか「萩藩」「毛利藩」とか色んな呼び方をされてわたくしはあまり萩藩という呼び方は好きじゃないので長州藩としてるんですが、長州と長府を並べて使ったら確かにわかりにくいよな。ので、今回は間違われないように「萩藩」と表記します。で、3つ上の写真で斜面の奥に高い建物が写ってますが、あれが東京ミッドタウン。やあ、あんなものできてたなんてついぞ知りませんでしたよ~(←物知らず)。じゃなくて、上の「今ここ」のリンクでMapfanに飛んでいただくと、地図の中心点の矢印が今わたくしがいる場所で、その下に赤坂中。中学校の下にミッドタウンがあって、右側には檜町公園がありますね。萩藩下屋敷はこの3つをすっぽり含んでます。戦国期の偉大な御先祖様たちの時代に比べたらおちぶれたとはいえ(笑)、さすがに広大な敷地です。上屋敷はもっと江戸城に近い場所にありますが、そちらは今後紹介する機会もあるでしょう。という訳で、毛利本家の下屋敷からの眺めなどを想像して歩いていたのですが、上の写真に戻りますと、かなり急なのがわかります。都内は場所によっては再開発やら何やらでいくぶん地形の変わってる場所もあるでしょうが、こんな使い方をしてるぐらいだからここはあまり往時と地形は変わってないと見ていいんじゃないかと思います。膝折坂(乃木坂)を挟んで毛利本家と分家・吉川の屋敷があることになるので、本家とのつなぎのためにお向かいにわざわざ小さい屋敷を置いたかな、って想像も湧いてきます。もし小早川が江戸期まで存続してたら、あるいは膝折坂には毛利・吉川・小早川が並ぶ楽しい光景が広がってたかもしれませんねではここから、毛利さんちの敷地に沿ってぐるりと回り込んでいきます。 あれが檜町公園の入口。奥にそびえてるミッドタウンの建物を日本建築に置き換えてご覧ください。入口へ近づいてみましょう。 ほ~・・・左側は切れてますが、上り坂になってます。右側の道は こちらも上り坂。歩道橋の上から見た時は単純に高台にあるのかと思ったけど、ずいぶんと複雑な地形だな。にほんブログ村
2014年11月24日

さて、それじゃ少し気分を変えまして・・・いや、あんまり変わんないカモ涼しくなってから2つの企画展を観に行ってきました。ホントは時系列で紹介したかったのですが、最初に行った方の企画展はぬわんと本日が最終日・・・もちょっと早く最澄の歴バナを終わらせられるかと思ってたんだけどな~。最初の方の企画展も実に素晴らしかったので、お近くの方の参考になればと是非にも会期中に紹介したかったのですが、もうこうなった以上は仕方ありません(←開き直り)。が、後に行った方はまだ終了まで少し間がありますので、後から行った方を先にご紹介します。2014/11/8(土)くもり時々小雨本日のメインはあくまで企画展。ついでに周辺の史跡めぐりなぞもしたいと思ったものの、企画展の後に史跡めぐりをすると帰りが遅くなる・・・体調不良がずっと続いておるので早く帰りたいわたくしは、通常はメインを真っ先にこなすものの今回は先に周辺を見ることにした。だいたい都内、特に江戸城周辺の江戸市中なんてのは腐るほど見るところがあって、時間制限でも設けておかないとホントにキリがない。ただし、気がかりなのはメインを観る頃に体力がなくなってしまうことだけど、まあ1~2時間周辺を歩いたぐらいなら何とかなるだろ無理してでも行ける時に行っておかないと、後がきつくなるしな。とはいえ、当初はもっと色々観ようと思って計画を立てていたのが、メインに近い場所にもいいものがあるのを見つけたし体力的な問題もあったので、ホントに手近なところだけに絞って軽めのプランに変更した。で、千代田線に揺られて下りたのは乃木坂駅。この辺は青山だとか赤坂だとか六本木の、好きな人は好きなエリアなんでしょうがわたくしには全く用も縁もないエリア。用事があって過去に1度か2度来たぐらいかな。こんな場所よりもわたくしはよっぽど霞が関とかの官庁街の方が馴染みがあるのですが、こんなことでもなければ史跡めぐりにすら来ないかもしれないしな・・・さて、地下鉄から地上に上がるとすぐに乃木神社があります↓(場所はこちら)。 ここはスルーする予定だったけど、ちょっとここの狛犬・・・ 江戸の狛犬のバリエーションの多さは過去の記事でも紹介してきた通りだけど、新しめのものだと割とムキムキのボディビルダー系が多いよな。ご存じの方も多いでしょうが、ここは明治天皇に殉死した乃木希典将軍をお祀りする神社です。祭神は乃木将軍および彼に殉じた奥様の静子夫人のお二方。え~っと、大正12年11月1日と昭和20年5月25日に戦災で焼失したと表の看板にある。戦後に復興されて完成したのが昭和37年9月13日で、復興の日はお二方の命日にあたるようです。ふ~ん、そうなんだ~と看板を見てたら、「摂社 正松神社」とある。摂社のご祭神は 玉木文之進正韞命 乃木希典命の青年時代の恩師 吉田矩方松陰命 玉木文之進正韞命の甥にして其の教育を授く 有名松下村塾を玉木先生が創立し松陰先生が之を継承せられた ものである (現地解説板より。原文のまま)アラアラ、こんなとこに松陰先生を祀る神社があったんだ~道路からだと境内の様子は見えない。が、地図で見ても敷地はそう広くなさそうだし、名前は世間的に有名な神社だけど、都内で地代が高いから広いと言ってもたかが知れてるだろう・・・のんびりしてる時間はないけど、せっかくだから松陰先生にはご挨拶していきたいと思って足早に境内に入ってみた。が・・・この時は9時すぎ。参拝はできる時間のハズだけど、境内では職員らしい袴を着けた多くの人がわさわさ掃除をしている。こういう場に無理して踏み込むとお互いにイヤな思いをするだけだしな・・・と東西条の福成寺のことなんか思い出して、それ以上進むのはやめた。つか、もう9時過ぎてんだけど~!今頃掃除かよ。乃木神社、朝遅くね~!?ちょっとムッとして踵を返すと、そこにはこんな門がある↓。 境内の案内図によると、この門の中に乃木家の旧邸があり、乃木家の祖霊を祀る霊舎もあるようです。が、申し訳ないけどこれを観に来た訳じゃないので、小走りで出口へ向かう。あ、足は小走りできるぐらいには良くなったんですよ。いまだに結構痛みはあるんですけどね。神社を出て進行方向を見たところ↓。 これが乃木坂です。写真だと坂とはわからないぐらいですが、この反対側はもっと坂っぽいです。え~、江戸の史跡めぐりは準備も後始末(←ブログ)もお手軽にしたいなと思って、事前の準備はロクにせず、地図は新創社の『東京時代MAP』を見るぐらいです。(完全な手ヌキ)『時代MAP』シリーズは京都や奈良のも出てますので、ご存じの方も多いでしょう。手軽でとってもいいんですが、せっかく古地図も時代ごとにいくつか揃えたので、結局今は床に大きな地図が何枚も広がっているというただ、明暦以前の地図では今回歩いたエリアは描かれていないのであまり古い時代の様子はわからないのですが、手持ちの資料でわかる範囲でかつてどなたが住んでいたのかもあわせてご紹介していきます。で、江戸城から見て西側にあたるこの付近はほぼ武家地です。どのみち江戸の7割は武家地なんですが、四谷~信濃町あたりは御城に近くても意外と町人地が混在してるものですが、それに比べたら混在度は低いです。乃木坂付近は大きな屋敷地も多いからな。んで、上の写真の撮影地点は坂の中腹あたりなのですが、進行方向と反対側を向けばそこが坂の上部で、徳川の譜代で美濃郡上藩・青山大膳亮の下屋敷があったところ。青山さんちはすげ~広いです。どのぐらい広いかって、青山霊園がすっぽり入ってなお余りある広さ。青山霊園には幕末の後藤象二郎も眠っておるらしいのでついでに象二郎の墓参りでもしていこうかと一時は考えたものの、ちょっとムリ・・・青山霊園には他にも一蔵どん(大久保利通)やら著名人が多く眠っているらしいが、渋谷の「ハチ」もご主人の上野英三郎氏とともに青山に眠るという。乃木坂の話に戻ります。江戸期には大名屋敷などが多く建ち並んだこのエリアは、明治以降になると軍の施設や関係者の住居が多くなり、その居住者の中の1人だった乃木将軍の殉死をいたんで乃木の地名が冠せられたという。つまり、江戸期には「乃木坂」という名はなかった。寛永寺シリーズだったか、江戸には坂や崖が多く、それをテーマにした本が多いと書いたことがありますが、以前たまたまネットで手に入れた『江戸の坂 東京の坂』(横関英一著/有峰書店)はそういう「坂本」(さかぼん)の嚆矢だそうで、それによるとこんな話が載っている。 【昔は、将軍などが、その寵臣に土地を与える場合、広い原野を老馬で乗り回させて、 馬が倒れるまで走りつづけ、馬が膝を折って倒れて死ぬ、そこで、その走った周囲が 一里とか、十町四方とかの広さの土地を、その場で賜わるという話が、よくあった ものである。】 (『江戸の坂 東京の坂』より)なんともゼイタクな話で足が折れることがあらかじめ決められている馬にとっては相当迷惑でもあるけど、ひとくちに「将軍」と言ってもかなり限られてるし、3つの幕府のうちこの方式が可能なのは徳川将軍ぐらいだろうから、要するにイエアスが入府した頃の江戸は相当なド田舎だったってことね。先に挙げた青山氏にもこういう話があるそうで、 【天正18年8月19日、徳川家康が青山常陸介忠成に、江戸の邸地を与えたときの ことが、『御府内備考巻之七十』に出ている。それによると、「往古此辺に、 御成之節、青山家に命ぜられ、老馬を以一円に乗廻すべし、其地を給はるべきの よし、命に依て青山家、即老馬に乗て一円に乗廻されしを給はるところの地なり、 其馬此ところにて倒れ死する故、塚に築、上に八幡の宮を勧請有て、青山家より 是を駒留八幡と称し、世俗破れ八幡といふは是なり」とある。ここで老馬が 倒れたのは、膝を折ったからで、それでこのところの坂を膝折坂(ひざおりざか) と言ったのである。】 (前掲書より。漢数字は戦国ジジイが変換)と、これが乃木坂のかつての呼び名だったようです。この坂には他にも名がある。嘉永7年(1854)の江戸切絵図には「行合坂」(ゆきあいざか)とあり、坂の下に妙福寺という寺と墓地があった頃は「幽霊坂」とも呼ばれたそうな。「出た」のか!?と思っちゃうけど、同書によると江戸には他にも7つの幽霊坂があったそうな。にほんブログ村
2014年11月23日

●延暦25年(806)/大同元年1月1日、天皇が病気のため、新年の朝賀はとりやめ。1月3日、最澄が年分度者の新しい枠組みについて提案する上表書を提出する。1月26日、人に福をもたらし善に導くには仏教が最も優れている。経典や論疏でそれぞれ説く内容は違っても悟りを目指す点では同じであり、どの宗派も廃れることがあってはならない。そこで、華厳宗に2人、天台宗に2人、律宗に2人、三論宗に3人、法相宗に3人を年分度者とし、あわせて講師の任用、得度者の学ぶべき内容なども定める勅を出す。1月28日、遣唐使船第4船の遣唐判官・高階遠成が唐で位階・官職を賜る。2月23日、五百井女王が天皇の病気平癒を祈願して薬師仏像を造り『法華経』の書写を行っていたが、この日それが完成し、僧21人を招いて前殿で法会を催す。3月15日、天皇が重態となり、五百枝王を宮中へ召す。3月17日、大伴家持などの藤原種継暗殺事件に連座して位階を剥奪された者たちに対し、その生死を問わず復位させることにする。また、早良親王のために2月と8月の7日には諸国の国分寺僧に『金剛般若経』を読ませることを決める。その後、天皇が死去。皇太子の宮の正殿に血が流れた。3月18日、天皇の遺骸を棺に納め、葬儀や埋葬に関わる人事を取り決める。山陵の工事には畿内などから5千人の人夫が動員された。3月19日、山陵の場所を決定する。皇太子が喪服を身に着ける。京都盆地の西と北の山で火災が発生する。3月21日、月食。3月22日、太陽が赤くなり日差しは薄く、夜には兵庫が鳴動して月食が起こった。皇太子・安殿親王はひどい病となり、多くの奇異が起こっているのは自分のせいであるとし、自分も努力はするが諸臣にも自分の足りないところを補ってよく支えてほしいと語る。また、天皇の死後武装し特別警戒にあたっている者たちの武装を解かせるよう命じる。3月23日、天皇の初七日の法要を京内と周辺の寺で行う。この日、太陽は赤く日差しは薄く、京の西などでは火災が起こってその煙で京内が薄暗くなるほどだった。天皇の山陵地を筮竹で占った時は吉と出たのでそこに決定したが、亀卜で占ってみると山陵予定地が賀茂神社に近いので神が祟りを起こしているとの結果が出た。皇太子はこれを謹んで受け止め、みずから除災を祈願したところ、たちまち火災は消滅した。4月7日、天皇を山城国の柏原山陵へ埋葬する。4月8日、天皇の三七日(みなのか)の法要を柏原山陵で行う。4月15日、天皇の四七日(しなのか)の法要を佐比・鳥戸・祟福寺で行う。4月22日、天皇の五七日(いつなのか)の法要を大安寺・秋篠寺で行う。故・井上内親王の請願により大和国の高天彦神社に四時の幣帛を捧げることとする。4月29日、天皇の六七日(むなのか)の法要を祟福寺で行う。5月1日、皇太子の弟・大伴親王が臣籍降下を願い出るが却下される。5月6日、天皇の七七日の仏事を内裏の正殿で行う。5月18日、安殿親王が即位(平城天皇)。「大同」に改元する。5月19日、弟の神野親王を皇太子に立てる。7月13日、公卿らから先帝の一周忌が過ぎると新宮へ遷ることが慣例となっているので、そろそろ工事に取り掛かりたいという上奏があったが、新宮を造営することなくこのまま旧宮に住むことにするという勅を出す。8月、長雨が続き洪水が発生。10月11日、桓武天皇の陵を改葬。12月13日、帰国した遣唐判官・高階遠成に従五位下を授ける。12月15日、桓武天皇のために僧150人・尼50人を得度させる。この年は大きな節目の年です。まず最澄が正月早々に提案書を出してますが、延暦22年(803)に三論・法相にそれぞれ5人の年分度者を割り当てて2宗で計10人の枠となっていたものに対し、変更のプランを上奏しました。何度も出てきた三論と法相への調停では、どの学派も滅ぶべきではないと繰り返し言ってましたが、最澄も同じように1つや2つの学派で大衆を救えるはずもない、ということを訴えております。三論と法相の2宗に絞って言えば、三論が法相に押しまくられてなんか可哀想ってカンジでしたが、最澄の上表文によると南都6宗の他の4宗、華厳・律・俱舎・成実はもはや所属する僧も少なく、中身がないような状態だったという。そこで、三論・法相に加えて華厳と律にも枠を与え、ついでにウチにも!ってのが最澄の提案。あれ、俱舎(くしゃ)と成実(じょうじつ)は?ってカンジだけど、俱舎は法相の、成実は三論の基礎的段階の研究をする学派なので、三論と法相に付随する学派のようなもんだ、って捉えれば、枠がもらえなくってもあまり問題はないのかもしれません。 【最澄の諸宗への公平な年分度者の割りあては、積年の三論・法相二宗の対立を解消 させ、また最澄の言う一、二の宗だけでは、すべてにわたってひろく仏の教えを 汲みとることができないとする、まことに妥当な意見に同感するところがあった からであろう。仏教界の安定は、ひいては天皇自身の安泰にもつながることであった。】 (『若き日の最澄とその時代』より)というように桓武の共感を得て、翌4日には桓武から最澄の提案について僧綱へ下問。5日には僧綱からも大いに賛同されて、最澄の提案がそのまま1月26日の公式発表へつながる。ここにおいて新興勢力の最澄が正式に南都の既存の宗派と肩を並べることになった。これをもって日本天台宗の開創とされる。ただ、めでたいことばかりでもない。新しく決められた数の年分度者が読むお経もそれぞれ決められており、最澄はこれまで天台ひとすじで天台宗を広めることを目的としていたのに、与えられた2人分の枠のうち1人には天台の教学を学ばせ、もう1人には密教を学ばせるよう決められた。これは最澄にとって誤算だったろうと語る人は多い。いい感じで出国して天台を学びに命がけで唐へ渡ってようやく帰ってきたのに、フタを開けてみれば驚くほど密教がウケた。密教のおかげで次々と桓武の肝煎りの大きな法要をこなし、当代の碩学たちにまで潅頂を授けるという栄誉にもあずかった。そしてついには日本天台宗の公認という偉業を成し遂げた。密教がなくても公認は得られたかもしれないけど、そこに至るまでにはあるいは相当険しい道のりになっていたかもしれない。密教サマサマ、鄭審則サマサマと言ってもいいだろう。しかし、何といっても密教は越州での1ヶ月足らずの経験しかない。その上、やっとゲットした年分度者の半分を密教に割かなければならなくなってしまった。このことが、最澄にあらたな道を開く。最澄この年40歳。さて、最澄の歴バナでのもう1人の主役、桓武天皇がこの年亡くなりました。享年69歳。亡くなる直前の3月15日と17日の記事を見てください。五百枝(いおえ)王は桓武の姉・能登内親王の子で、藤原種継暗殺事件に連座して伊予に流されていたのが、延暦21年に伊予国府周辺に住んでもよいとされ、ついで延暦24年3月に帰京を許されたという経歴の持ち主。ちなみに2月に法華経の書写をした五百井(いおい)女王も能登内親王の子で、つまりは桓武にとって2人とも実の甥と姪な訳で、近しい親族だから後事を託した、って見方もできるけど、佐伯有清氏はここもやっぱり 【危篤の桓武天皇が病床に五百枝王を召したのは、深い謝罪の意を示したのであろう。 それは、祟道天皇(早良親王)への謝罪をも意味していたはずである。】 (前掲書より)とする。五百枝王が帰京した時には種継暗殺事件や氷上川継の乱で処罰された者が許されて、川継本人もその直後に許されている。そしてこの年3月17日には生死に関わらず種継事件で処罰された者たちを復位させてすべての清算に努めている。それからラスボス(笑)の早良親王のために年2回『金剛般若経』を読ませることを決めてしばらくしてから内裏の正殿で息を引き取った。死ぬ間際まで早良親王のことが頭から離れず、まさに取り憑かれたように早良親王のためにあれこれと対策を講じてきたのだ。公式には安殿親王の病気の原因がわかった延暦11年(792)からの14年が桓武の怨霊人生となると思うけど、早良親王の死(延暦4年)の翌年からすでに妙な空気が漂い始めていたので、延暦4年からカウントすると21年。ただ、実際にはその前から井上内親王母子の怨霊に悩まされてもいたので、井上内親王の死(宝亀6年:775)からカウントすると実に31年さらに言うと、桓武は噛んでいないと思われるものの、皇太子時代に淳仁天皇の怨霊に対してもパパが手を打っているので、人生の半分近くは怨霊と付き合ってきたことになる。見方によっては実にお気の毒な方だとも思うけど、桓武が付き合ってきた怨霊たちは最澄にとってはこの上ない後押しをしてくれた。一般的な説明では、平安遷都した際に最澄と桓武の付き合いが始まったといわれる時もあるけど、とりあえずそこそこ信頼できる史料からは2人が直接の接点を持った期間というのは実に短い。が、ここまでの最澄の経歴は桓武の人生とは切っても切れない関係にある。それを、実際の流れを追って書いてみたいと思ったのです。平安時代は一般的に平安遷都(794)から始まるとされてるけど、桓武は奈良を濃厚に引きずっており、あまり平安時代という感じはしない。が、行動の是非はともかく、桓武はこの後長く続く平安京を造り、蝦夷との戦いもある程度の成果を挙げた。わたくしは桓武の死によってようやく奈良時代が終わったという気がします。さて、本編を書き出した当初は軽く歴史を見ていくだけのハズだったのが、日本仏教史から仏教史全般に話が飛び、最澄の歴バナでは彼が生まれる以前から書き始め、気が付けば足かけ45年分の歴史を追い、すでに77話・・・気が遠くなるような作業でしたが、最澄の歴バナは一旦ここで終了です。タームが長い話だったので相当読みにくい内容だったろうと思いますが、しぶとく・・・いへ、頑張って読んでいただいた皆様、ありがとうございました前にも書きましたが、次回からは少々短編を入れさせていただきます。が、歴史というのは意外なところでつながってるし、ここまでの記事はこの後もあちこちで顔を出すことになると思います。話が長すぎて書いてる本人も相当消耗したので、自分でさえ当分読み返したくないぐらいですが(笑)、よそにもつながるエピソードが多いので、ここまでの流れをしっかり押さえておいていただけると嬉しゅうございます。にほんブログ村
2014年11月22日

桓武は延暦24年9月に入って最澄に三部三昧耶、五仏頂法の潅頂を行わせたあと、9月17日には宮中に呼んで今度は毘盧舎那法による病気平癒の祈祷を行わせた。毘盧舎那法は越州の順暁から伝授されたものだろうと佐伯氏は言う。ここまでで、越州でほとんどにわか漬けのような形で身に付けてきたことが大いに役に立っている。のちの円珍は、桓武の病気平癒のために法を修したことが日本天台宗の発展につながったとしている。ただ、もしあの時鄭審則が順暁のもとで潅頂を受けたらどうかと勧めなかったら、桓武の密教熱はここまでヒートアップはしなかっただろう。桓武の密教熱に最澄は驚かされた、とはよく言われるところで、最澄も内心呆れていたかもしれないけどともかく今はこうして実績を積んでいくことが次につながると考えていたかもしれない。叡山に入った時の願文では、一定のレベルに達するまでは世俗に関係したり法会に参加することはしないとしているものの、最澄は権力は否定していない。叡山にこもった理由としてよく言われるのが、「道鏡のように権力に積極的に関わろうとする腐敗・世俗化した南都仏教界に嫌気がさして、ひとり山に分け入った・・・」てな感じのこと。が、山籠りした時点でなにか壮大なことをやらかしてやろう、というほどの願望はなかったにせよ、誤解を恐れずに言えば結局最澄も権力を利用することになる。でも、当時の社会の枠組みを考えればこれは仕方のないこと。権力を無視して新しい風を起こそうなんてあの当時にできるワケがない。まあ、中には行基様のような方もいるにはいたけどね。最澄は現実をよく理解していた。そしてここでも桓武の病気という良いタイミング(笑)に恵まれて、既存の勢力に食い込んでいこうと活動を始める。権力=悪という単純かつ安直な思考に乗っかっているだけじゃ、最澄ですら権力に取り入った悪僧ということになってしまう。さて、前々回のタイムテーブルの10月3日に最澄が葛原(かずらはら)親王に鎮将夜叉法の修法を伝授したという記事があります。葛原親王は桓武の第3皇子。伝承によると、葛原親王と最澄は師弟のちぎりが深く、葛原親王の要請によって最澄が一寸の毘沙門天の座像を作って鎮将(ちんじょう)夜叉法を授けた。ところが効果が現われなかったので再度親王に秘密の念誦を授けたところ、今度はウソのように効果が現われたという。佐伯氏は伝承の真偽は不明なるも、そういう可能性はあるだろうとする。佐伯氏が着目したのは、毘沙門天とその眷属の夜叉が北方の守護神であること。延暦24年のラストには蝦夷征討にようやく終止符が打たれるものの、平定し終えたから引き上げたのではなく、あくまで朝廷側の事情によるもの。 【こうした状況のなかで、時の政府は、いつ蝦夷の反撃が展開されるか予測のつかない、 あやうい状態に直面していた。その状況は翌年(延暦24年:ジジイ註)になっても つづき、葛原親王が北方の守護神である毘沙門天の眷属夜叉に祈る秘法の伝授を 最澄に要請したのは必然の成り行きであったといえるであろう。】 (『若き日の最澄とその時代』より)「鎮将夜叉」様の名はあまり聞き慣れないかもしれませんが、わたくしはこの夜叉様にゆかりのある寺を2つ知っています。ひとつはわたくしの魂のふるさと、日光輪王寺。去年の日光詣での際はこの夜叉像が9年ぶりに公開されていたので、拝んできましたよ~。(「2013日光詣で」参照)うん、そういえば、今年は日光写真館がストップしてるな・・・寛永寺シリーズもようやく終わって叡山シリーズに入ったので、これで日光写真館の記事を上げれば今年は「三山管領」ブログになるなとバカなことを考えた時もありましたが(笑)、ちょっと歴バナに続く歴バナでそれどころじゃ・・・それに去年はロクな写真を撮ってないし、なによりこれまで大猷院の境内は大らかに公開してたものが、去年からみみっちく制限されちゃったからな。どうにも興ざめしたので、あまり書く気が起こらないのだ。いやいや、日光のグチを書く場じゃありまへん。もうひとつが、京都市の毘沙門堂。毘沙門堂はその名の通り毘沙門天を本尊とする寺で、毘沙門堂のホームページによるとそのご本尊様は最澄の自刻によるものだという。ホームページの略年表によると、延暦14年(795)に最澄が桓武へ献上したといういわれを持つご本尊様らしいが、いやあ、この伝承、ちょっとキビしいでしょ~!あっ、別にバカにしてるんじゃないですよ。で、【伝教大師が唐より将来された鎮将夜叉法という行法は、天台五箇大法のひとつとして当門跡だけに伝わる秘法である】(毘沙門堂ホームページより)という。毘沙門堂は寛永寺シリーズでも少し紹介してますが、あらためてウィキペディアから歴史を見てみると、まず最初は文武天皇の勅願によって大宝3年(703)に行基様が出雲寺を開いたところから始まる。平安末期頃には出雲寺は衰退していたらしいが、鎌倉に入って平親範が平等寺・尊重寺・護法寺という平家ゆかりの寺を合併して出雲寺の名を継ぐ形で再興。その後、出雲寺はまた衰退するが、それを天海および公海が現在地に移転させた上で再興、という流れだそうな。なんで平家?ってカンジだけど、葛原親王は桓武平氏の祖とされている方でね。そして平等寺は葛原親王の創建になるものだという。ここで葛原親王と毘沙門堂がつながる。「天台五箇大法」とは、普賢延命法・熾盛光法・七仏薬師法・鎮将夜叉法・安鎮家国法の5つの修法を指す。このうち、安鎮家国法を除いた4つが「四箇法」と呼ばれて現在の延暦寺では「御修法」(みしほ)として4つの修法が毎年ひとつずつ順番に行われ、天皇の御衣に加持祈祷するということもあってか、延暦寺の年中行事の中では「最高の大法要」(延暦寺発行『比叡山』より)だそうな。安鎮家国法だけは特別な時にしか行われないらしいが、その他の四箇法はそれぞれ普賢延命菩薩・熾盛光(しじょうこう)曼荼羅・七仏薬師・鎮将夜叉を本尊として行う修法だという。アレ?でも、叡山でも鎮将夜叉法をやるなら、毘沙門堂が【当門跡だけに伝わる秘法である】とするのはおかしくない?それに、鎮将夜叉像は毘沙門堂と日光輪王寺にしかないって何かで読んだんだけど?叡山にも像があるのかな?それとも、毘沙門堂のをレンタル・・・はしないか。いやでも、毘沙門堂も天台宗だからわからんな。わたくしが鎮将夜叉像に食いつくのはワケがあります。最澄からもらった一尺の鎮将夜叉像を葛原親王はとても大事にしてもとどりの中におさめ、生涯片時も離さなかったという伝承があるのです。一尺って、現在の尺度でいうと約3センチ・・・輪王寺のもすごく小さかったんだけど、確か約5センチだったよな。なら、毘沙門堂のを輪王寺に移したってわけじゃないのか。いやでも、ひとケタ世紀の「一尺」だしな・・・2センチのズレなら、最澄が葛原親王に与えたものが輪王寺に行ったって可能性もあるんじゃないのか?・・・てなことをつらつら考えたりもしたのですが、毘沙門堂にも像があるのであれば、いちおう輪王寺のとは別モノってことになるよな。ただね、天海は毘沙門堂と輪王寺のどちらにも関わっている。で、輪王寺の鎮将夜叉像の詳しい由来はわからないものの、輪王寺のホームページでは「天海ゆかりの像で天海が奉納した」とし、鎮将夜叉像公開のチラシでは「家光が輪王寺に託した」として説明にズレがある。ズレは置いておくとしても、叡山と同じもの、あるいは似たようなものが寛永寺と輪王寺に色々とあるのは寛永寺シリーズでも書いてきた通りで、鎮将夜叉像に関して言えば、天海が毘沙門堂再建に関わった際に鎮将夜叉像のことを知り、そのコピーを輪王寺に安置したんじゃないだろうかという想像が頭をよぎった。あるいは、天海の遺品の中に夜叉像を見つけた家光が日光へ送ったのかもしれない。鎮将夜叉の修法までも輪王寺に持っていったかはわからないけど、輪王寺のホームページでは夜叉像は【普段は輪王寺大護摩堂の秘仏として、輪王寺宮様の他には何人たりとも拝むことが許されないままお祀りされてきました】とある。輪王寺宮第3代・公弁法親王あたりからは、毘沙門堂は次代の輪王寺宮が修行する格式の高い寺だった。(「上野第二編(23)」参照)鎮将夜叉像が日光にあったのなら、当然宮は日光で鎮将夜叉様にお目にかかっていたということになる。が、「上野第二編(56)」で櫛田良道氏の論文にあったように、宮が兼帯する寛永寺と日光輪王寺はその機能が分かれており、日光は宗教的国家鎮護の役割をになう重要な祈祷寺だった。そういう輪王寺で、宮が1人で夜叉像をただ鑑賞していたハズもなく、小さいながらも強力なパワーを発揮する鎮将夜叉像に国家の安泰を祈願していたと考える方が自然だろう。もしかしたら、毘沙門堂での輪王寺宮となるためのカリキュラムの中には鎮将夜叉法をマスターすることも含まれていたかもしれないよな。え~と、ここで久々に輪王寺の鎮将夜叉像公開のチラシを引っ張り出してきました(笑)。星回りが変わる時期になると、毎年わたくしの元にはお護摩のご案内が届きます。その中に夜叉像の公開と特別授与品のお知らせのチラシが入ってまして、輪王寺に関わりのない一般の方でこれを目にした方はほとんどいないと思われますが、ホームページよりは少し詳しい説明があるのでご紹介しましょう。 【鎮将夜叉像は我が国の仏像の中でも特に災いを祓う力が強く、一度このお像を拝すれば 天・地・人のあらゆる力が授かり、如何なる災厄をも寄せつけぬと言われております。 それゆえにこのお像は悪用されぬよう、国を護る立場の天皇や将軍にのみ伝えられた 秘仏の中の秘仏であります。(中略)五体の夜叉の上に鎮座する武将の姿をした 身の丈わずか5cmの小さな御像ながら、その霊力の強さを物語る様に三重になった 厨子の奥に大切に納められております。(後略)】という、ものすごい力を秘めた像のようです。寛永寺にせよ輪王寺にせよ、相変わらず風水説は好きじゃないわたくしですが、夜叉像を日光へ持っていったのは、輪王寺が国家鎮護の祈祷寺だということももちろんあるでしょうが、上で紹介した佐伯氏の解説を読んで、「北方の守護」という意味合いもあったかもしれないな、と思った。「北方」はこの場合、「鬼門」と表現するほうが適切かもしれませんね。なんにせよ、輪王寺の鎮将夜叉像は毘沙門堂の弟分のような存在の可能性はある。であれば、最澄の鎮将夜叉像および修法は千年近い時を越えて徳川幕府と国を守ったという考え方もアリだよな。にほんブログ村
2014年11月21日

帰国した最澄は藤原葛野麻呂らと一緒に上京したものと思われ、7月15日には智ギの禅鎮なども物惜しみせず献上している。この時は最澄自身は参内しなかったようで、「叡山攻め(61)」の延暦16年(797)の一切経書写事業の際、お金がないからカンパを求めに七大寺へお使いに出された弟子が献上品の搬送にあたったそうな。献上された品々には最澄の上表文が添えられており、まず桓武が自身の徳により皇位に就いたことを称え、ついで蝦夷征討の成功などに対して祝いを述べたあとで、仏教の完全な教えを伝えるものは天台であり、その天台を掲げて広めるのは桓武だとした。して、桓武は和気弘世に命じて天台の教えを広めるため、最澄が持ち帰った天台の法文を宮中で使われる上質の紙を使って7通分書写させた。この7通はそれぞれ七大寺へ配られ、よく勉強するようにとの意図があり、ついで法相・三論などの6人の僧に常住寺において天台を学ばせる命令も出した。ここまではいい。最澄自身も本場で学んで自信を付けていただろうし、そういう自分の姿を見てさぞ桓武は喜んでくれて天台を広めてくれるだろう・・・最澄の中にはそういう未来予想図が描かれていたんじゃないかと思われる。実際、桓武は喜んでくれた。が、桓武の重病という、最澄の出国前と帰国後で異なった事情があり、桓武の喜びは最澄の期待とはズレた方向へと進んでいった。8月9日、最澄は宮中に招かれて唐みやげの仏像を献上し、悔過読経を行う。これは【桓武天皇が仏前に懺悔し、罪報を免れることを求める法会の読経】(『若き日の最澄とその時代』より)だそうで、それは天台に基づくものではなく密教に基づくスタイルで行われた。ここから桓武の密教ブームが始まる。ところで、天台は一般的に最澄が唐から持ち帰ったものといわれるけど、これまでの記事のように実際には最澄以前から国内にあった。密教の一般的な説は【日本で密教が公の場において初めて紹介されたのは、唐から帰国した伝教大師最澄によるものであった】(ウィキより)とされ、ついで帰国した空海によって完全なものがもたらされた、といわれる。けど、最澄帰国以前にはホントに国内には密教はゼロの状態だったのだろうか?広く知られていないながらも天台が国内に持ち込まれていたように、渡来僧によっていくばくかの密教らしきものも存在してたんじゃないのか?と思っていたら、やっぱりゼロではなかったらしい。井沢元彦氏は、著書の中で「天台の教えを学びに行った最澄が、禅や密教も持ち帰ったというのはいかにも宗教に寛容な日本人らしい話ではないか」という意味のことを言っている。昔はなるほど、と思ったし、確かにそういう一面もあるのかもしれないけど、渡来僧を見ると皆さま複数の教えを学んでいる。(「叡山攻め(37)」の表参照)リンク先の表で鑑真は「律」のみにしているけど、実際は天台の流れも汲んでいたことは以前紹介してますね。で、リンク先では「菩提僊那が導師を務め、道センが呪願師を務めた」と紹介してますが、唐僧・道センと一緒に来日したインド僧・菩提僊那(ぼだいせんな:ボーディセーナ)はその弟子が残した伝記によると華厳経の諷誦(ふじゅ)に優れそれを教えの真髄とし、「もっとも呪術を善くす」とあり、どうやらこの「呪術」がインド密教のことを指すらしい。ウィキペディアには【インド呪術は、僊那から日本僧の弟子へ伝授された】とあるものの、その特殊性のゆえなのか、あるいは最澄のように菩提僊那自身が完全な密教を身につけてなかったのか、あるいはあまり密教色は出さなかったのか・・・ともかく、日本に根付くという段階には至らなかったらしい。最澄の話に戻りますが、それまで桓武は目新しい天台に飛びついて最澄の出国前は天台を広めるにはどうしたらいいかと下問し、最澄の留学中は東大寺の賢高から天台の教えを受け、帰国後はまず天台の七大寺への浸透を図っている。ここまではまさに天台一色で、密教の「み」の字も出てこない。それが、8月9日以降一変。またまた和気弘世を呼んで、 【真言の密教が、まだこの国には伝わっていないが、最澄が幸いにも、これを唐で 得てきたので、諸寺の智行兼備の者を選んで、潅頂三昧耶を受けしめるように(後略)】 (『若き日の最澄とその時代』より)との勅を出した。佐伯氏によると、この勅はおそらく8月9日の悔過読経の直後のことだろうという。ということは、初めて見た密教風の神秘的な法会に「なんやようわからんけど、えらい効きそうやな~。朕の病気を治し、早良の怨霊から国を守るのはこの教えかもしれんて。これからは密教の時代やな!!」と桓武はえらい魅了されたのかもしれない。桓武の命を受けた和気弘世はさっそく氏寺の高雄山寺をイベント会場と決め、法壇を築いた。この潅頂に関する桓武の力の入れようは相当なもので、まず勅使が派遣されて会場の設営全般を担当。それから腕の良い画工が20人ほど集められて曼荼羅やら仏像やらを描かせ、幡50ほどが縫い造られて会場を飾るグッズたちが新調されたほか、内裏からは会場を飾る調度品もレンタルされた。これだけの手配をした上でなお、法会に必要で足りないものがあれば最澄の指示に従ってすべて調達するようにとの勅が出された。天皇お声がかりの一大イベントに参加した・・・いや、させられた僧たちはといえば、七大寺などから選ばれた当代きっての碩学たち。彼らの中には、「ええ~、勘弁してよ~!!」ってボヤいた僧もいたかもしれない。8月27日、イベントの件についてさらに「内侍宣」が出される。そこには、菩提僊那の死(760年)のあと久しく密教が絶えてしまったが、まさに今、最澄が海の向こうから持ち帰ってきたのでこれを伝えてほしい、とあった。そして、興福寺の修円(しゅえん)と大安寺の勤操(ごんぞう)に対して自分の代わりに潅頂を受けて欲しいと頼んだ。2人にはさらに、尊い身分であるという自分のプライドを捨てて身を犠牲にし、弟子たちを引き連れて参加せよ、という言葉まで付け加えられた。勤操(三論宗)は何度か出てきてますね。高雄講会の記事では、法華十講の参加者以外の新しいメンツについては煩雑さを避けるために法相宗からの2名の参加者の名前は出しませんでしたが、修円はこの2名のうちの1人です。佐伯氏はこの4名の新規参加者を「逸材」としているので、勤操・修円ともに高い地位にあったのでしょう。その2人に対して、まだどういうものかもよくわからない密教を、しかも自分より下の地位にある若造に辞を低くして教えを請えと厳命したのだから、桓武もムチャ言ったもんです。桓武の命令にはまだ続きがあります。 【これにつづいて「内侍宣」は、「世間の誹謗を憚る可からず」と述べている。つまり これは、世間で非難されても恐れてはならないという、きわめて注目すべき言及である。 たしかに、このようなことに、わざわざ言いおよんでいるのは、当時、仏教界からの 反発が予測される状況が存在していたからである。】 (前掲書より)そして諸宗の僧に対しては、受けたいと希望する者には受けさせ、辞退する者には無理じいはしないから、参加・不参加を決めたらその結果を書状にして提出せよ、とした。 【これは勤操・修円以外の僧に対して受法するか、しないかを自由意思によって決めさせた ごとくにみえる。しかし、参加・不参加の者の名前をつらね、印署を加えた文書を提出 させたのでは、最澄からの受法を辞退するわけにはいかなかったのではなかろうか。】 (前掲書より)・・・要するに、相当ゴリ押ししたようです結局、9月7日に高雄山寺で潅頂を受けたのは8人。ここでは越州で順暁から受けた三部三昧耶が役に立った。しかし、桓武はこれにあきたらず、9月上旬には野寺(京都市北区)の西郊に三部三昧耶の潅頂の会場と同じく新しい壇場を造らせて五仏頂法の潅頂を行わせた。これには勤操・修円のほか9人ほどの高僧が参加したという。五仏頂法は唐での最後の最後にばたばたと3人の僧からあれこれ伝授してもらったうちの1つで、 【五仏頂法の五仏頂とは、一字仏頂輪王、白傘蓋仏頂、高仏頂、勝仏頂、光聚仏頂の五仏の ことであって、五仏頂法は、これらの諸尊を本尊として除災や怨魂の押除を祈る修法で あった。最澄が五仏頂法を修したのは、その修法の性格からして、まさしく祟道天皇の 怨魂を慰め、怨霊を鎮めるための修法であって、この修法によって桓武天皇の病気の快癒を 祈ったのである。】 (前掲書より。祟道天皇は早良親王のこと)『奈良仏教と古代社会』(冨樫進/東北大学出版会)によると、井上光貞氏は律令的国家仏教の性質を3点にまとめているそうな。すなわち、1、国家の寺院・僧尼に対する統制2、その統制の範囲内における国家の仏教に対する保護育成3、(哲理・思想の普及ではなく)呪力による国家繁栄の期待井沢元彦氏は奈良時代の仏教のことを「宗教というよりは学問」とし、最澄も唐入りの指名があった際に「三論と法相は論によっており、ただ天台だけが経によっている」と言っているので、確かに仏教界の上辺では学問的性格が強かったのだろう。その一方で、世俗ではオカルトちっくなものに人気が集まる傾向にあった。過去の記事では、「みだりに愚かな民衆を惑わすな」と何度も勅を出しているものの、そういう権力者も怨霊対策や病気平癒に仏教をフル活用している。桓武は長いこと井上内親王や早良親王の怨霊に頭を悩ませており、最澄が帰国した時点では自分も重い病気にかかって一時は死を覚悟するところまでいった。この病気も単なる病気ではなく、おそらく怨霊によるものと桓武は考えただろうし、天皇の病がなかなか治らないのは国家にとっては危機的状況でもある。つまりは桓武の病気と怨霊をなんとかすることが「国家繁栄」につながることになり、はじめは知ったばかりの天台に期待を寄せたが、密教に触れるに至ってそのとりことなり、無我夢中で密教にかぶりついた、ってとこだろう。ここからも、桓武にとっての仏教は「手段」だったことがうかがえる。聖武天皇&藤原光明子夫妻にとっても同じく手段だったと思うけど、聖武夫妻はどうにか後世に体裁を取り繕うことができた。「叡山攻め(60)」で桓武は【本来陰陽道自身には存在しない精霊への恐怖にとりつかれ、陰陽道に救いを求めた】という村尾次郎氏の文を紹介しましたが、精霊(怨霊)が存在しないのは仏教も同じ。それに気付かず、桓武は蜜を求めて花から花へと飛び回るちょーちょのように新しい「手段」を求め続けるのです。にほんブログ村
2014年11月19日

船と人が揃っても、昔のことでもありすぐに出航することはできない。みんなが揃ってはじめて出航準備に取り掛かったものらしく、まだ1ヶ月ちょっとの「空き」がある。佐伯有清氏によると、最澄は出航のスケジュールを藤原葛野麻呂に確認した上で次なる行動に出ただろうという。天台山や台州で多くの経疏をゲットしたものの、欲しい書はまだ170巻ほどあったらしい。それが越州の龍興寺と法華寺にあるので、コピーしに行きたいと申請をしたところ、明州刺史の鄭審則(ていしんそく)はついでに龍興寺の順暁(じゅんぎょう)のもとで潅頂を受けたらどうかと最澄に勧めたらしい。4月5日、天台山で具足戒を受けていた義真のために、鄭審則に義真の「公験」(くげん:証明書)にサインしてくれるよう申請。これには鄭審則のほか、遣唐大使・藤原葛野麻呂らの署名もあるので、こうした人達に署名をもらうことで初めて証明書としての意義を持つものらしい。色々大変だなあ~。4月6日、越州への通行証が発給されてその日のうちに明州を出立したようで、4月11日、越州の龍興寺に着く。が、順暁は峰山の道場へ出かけていて不在だった。そこで順暁を追っかけて峰山へ行き、4月18日、順暁から三部三昧耶(さんまや)の潅頂を受けている。この儀式のために、おそらく最初に龍興寺に立ち寄った際に寂照(じゃくしょう)という僧に潅頂に必要な用具をそろえてもらうよう依頼をしていったらしい。その法具は白銅製の6つの宝器で、越州では珍しい道具のため簡単には手に入らず、最澄の従者を金細工の職人の元に行かせて所持していた鉛7両を売らせたが、「いや、30貫はかかるだろうし~、そんな急に言われても無理だし~」と職人が渋るので、「そこをなんとか!お願い!!」と丁重に頼み込んではみたものの、足元を見られたのか存外に高価な取引になってしまうかもしれないから、ぜひ貴方のご意見をうかがいたい・・・と寂照から峰山の最澄へ手紙が届けられている。結局、4月18日の潅頂には間に合わなかったらしいから、最澄は儀式に自前の法具で臨めなかったということになる。寂照は最澄の希望に添えなかったことを手紙で詫び、順暁が法具の1つをくれたらしい。ただ、最澄が帰国するまでには何とか話がまとまったものとみえ、順暁からもらった法具とともにあちらで誂えた法具を日本に持ち帰っているそうな。5月5日には3人の僧からそれぞれ書をもらったり法を伝授されたとされるものの、 【最澄が大素・江秘・霊光から同じ月日の五月五日に同時に、それぞれの作法を伝授された というのに疑問がかけられ、「思うにそれは、最澄がそれらの人々に会って、直接に 作法を伝授されたと見るべきではなく、それらの儀軌や壇様に書かれていた識語を、 そのまま血脈譜の中に書き写したと解すべきではなかろうか」とする説が妥当かも しれない。】 (『若き日の最澄とその時代』より。「」内の出典は割愛)で、5月5日にそれらの伝授を受けたのではなく、3人のうち1人からは明州で5月5日に確かに伝授を受け、他の2人からはそれ以前に伝授を受けていた上で5月5日に明州でその2人に会って、もらった経典などに寄せ書きをもらったのではないかという。つまり、最澄は4月終わり頃には明州に戻ってきていたということらしい。越州での日々はひとくちで言って密教の研修期間だった。「密教」に対するのが「顕教」。顕教は経典などの文字ですべてが明らかに説かれているが、密教は言葉によらず【極めて神秘主義的・象徴主義的な教義を教団内部の師資相承によって伝持する】(ウィキより)という特色のあるもので、真言密教では大日如来が教主とされる。空海の分類によると道教・儒教の上に仏教がきて、仏教のトップを密教だと位置づけたらしい。ただ、仏バナで仏教の発展段階を見てきたように、それ以前の小乗・大乗と全く別モノという訳でもないらしく、小乗・大乗の2つをふまえた上で密教の戒を授かるという段取りらしい。最澄は小乗・大乗については問題なかっただろうけど、言葉に頼らない分、密教をマスターするには一般的にはそれなりの時間がかかる。この点、最澄には時間がなさすぎた。しかも、順暁は当時の唐の密教の主流ではなく傍系に属していたようで、天台山と越州で密教はかじったものの、それは完全なものではなかった。ともあれ忙しいスケジュールをこなして4月末頃に明州に戻ってきた最澄は『台州録』の越州バージョン『越州録』を作成して鄭審則へ提出した。寄せ書き集めがクセになったのか鄭審則へも『越州録』への添え書きを頼んでおり、「最澄たん、頑張りました日本に帰っても頑張ってね」 てなお言葉をもらっている。(原文はもっとマジメな美文です)『越州録』の最後には最澄自身の書き付けもある。「義真とボクは、鄭さんの親切によって去年は台州で2人とも大小の戒を受けて数百巻の書写をしました。今年は越州で2人とも五部潅頂壇に入って念誦や法門を写してきました。全部で230部、460巻。ボクらのノルマはすべてこなして、今、日本へ帰ろうとしています・・・」鄭審則からの寄せ書きをもらったのは、5月15日。5月18日には第1船・第2船とも明州から出航した。来た時は副使の乗る第2船だったが、帰りは藤原葛野麻呂のはからいで第1船に乗っての帰国となった。帰りの船の中で西風にひるがえる帆を見上げる最澄の様子を書いたものが残っており、おそらくタイトなスケジュールの中でもやるべきことはすべてやったという充実感にあふれた気持ちで、風にはためく帆を見ていただろう。行きとは違って帰りは順風に恵まれ、対馬へ着いたのが6月5日。17日の航海を終えて最澄は日本へ帰ってきた。空海の方は、この年2月には長安に入っている。ここでしばらくインド僧の「般若三蔵」のもとでサンスクリットを学んだっていうんだけど、これってたぶん訳経のところで出てきた般若のことじゃないかなあ・・・して、帰国組が出航する頃には真言密教の主系とされる恵果(けいか)和尚に師事し、本格的な修行を始める。最澄39歳、空海31歳。●延暦24年(805)6月、伊賀で飢饉。6月17日、遣唐使船第2船が肥前に到着。7月1日、遣唐大使・藤原葛野麻呂が節刀を返還。7月14日、唐からの答信物が内裏に献上される。7月15日、最澄が金字の経典10巻と台州で得た智ギの禅鎮などの品を献上する。7月17日、地震。7月25日、聞くところによると疫病が起こると病人には近づかず、食事も与えないという。親族でさえこれだから、他人であればなおさらだろう。きちんと病人の治療や介護にあたれば死者が増えることはないのだから、役所に指示して病人の救済にあたるようにせよ、との勅を出す。7月26日、雨乞いのため、畿内の明神に幣帛を捧げる。7月27日、遣唐使が持ち帰った唐みやげを天智天皇・光仁天皇・早良親王の陵に奉納する。8月9日、地震。最澄を宮中に招き、悔過と読経を行う。最澄は唐の仏像を献上する。この頃、天皇から和気弘世へ、諸宗の僧へ潅頂三昧耶を受けさせるよう内示が下される。8月27日、金星と土星が東に現れた。潅頂三昧耶の件について、かさねて「内侍宣」が出される。9月7日、最澄が高雄山寺で三部三昧耶の潅頂を行う。9月上旬、最澄が平安京の西郊にて五仏頂法の潅頂を行う。9月17日、宮中で最澄に毘盧舎那法の修法を行わせる。10月2日、野鳥が宮中へ飛び込む。10月3日、最澄が葛原親王に鎮将夜叉法の修法を伝授する。10月9日、天皇は宴と音楽で1日を過ごす。10月25日、早良親王のために一切経の書写をする。書写にあたった書生には出来高に応じて叙位および得度を許した。10月28日、前殿で3日間読経を行う。12月5日、地震。12月7日、新京造営工事により人民が疲弊しているので実態を調査せよとの先年の勅により調査を進めて検討した結果、諸国から京へ送られてきている人夫1281人をすべて停止するべきと公卿から上奏がある。また、藤原緒嗣と菅野真道に天下の人民に恩徳を施す方法について下問したところ、緒嗣は「人民を苦しめているのは軍事(蝦夷征討)と造作(平安京造営)なので、この2つをやめるべき」としたが、真道はこれに賛同しなかった。天皇は緒嗣の意見を是とし、2つの大事業を中止することにした。みなは天皇の判断を聞いて感嘆した。12月25日、諸国の講師の任期を5年とし、講師には45歳以上のふさわしい者を選ぶようにせよとの勅を出す。うん、ようやく歴バナの終わりが見えてきたぞ延暦24年の後半です。第1船の一行は長門をへて帰京した。葛野麻呂が献上した唐みやげはさっそくみんなへ振る舞われたりしている。その一方で、唐の貴重な品々を偉大なる御先祖様とパパ、そして早良親王へ献上。その後は早良親王のために一切経の書写も行われており、早良親王に対して桓武が最大限の心遣いをしていることがわかる。それから、12月7日の記事では長く続いた蝦夷征伐と都の造営にようやく終止符が打たれることになった。平安京の遷都プランは延暦12年(793)からだから、足かけ12年。この段階で諸国から動員されていた人数が1281人って、細かくてリアルだなあ(笑)。9月には桓武は1日宴会と音楽に浸ってたぐらいだから、だいぶ体調も持ち直してたものと思われます。待ちに待った最澄たんの帰国で、少し元気が出たのかもな。その最澄たんの帰国後の活躍は、また次回にほんブログ村
2014年11月18日

前回の延暦24年の続きを並べる前に、先に海の向こうのできごとをまとめておこうかな。前回、延暦24年2月25日に東大寺の賢高を天台経疏とともに内裏に召す「内裏宣」が出されたという記事がありますが、賢高(けんこう)は東大寺の寺主。賢高が天台の『法華玄記』10巻と『法華文句』10巻を持っていることを聞きつけた桓武が、賢高に教疏を持って来いと命じたようです。天台経疏だけなら誰が持っていってもいいハズだけど、わざわざ賢高も呼んでるあたり、どうやら天台の講説をさせたようです。賢高が持っていたという経疏は、おそらく渡来僧のどなたかの写本だろうな。ここからも、最澄が天台に目覚める以前から複数の寺に天台の経疏があり、日本に根付きつつあったということがうかがえます。1月のなかばには桓武が安殿親王を呼んで何事かを話しているので、その時点で死を覚悟するくらい桓武の病は相当重かったと思われますが、2月後半頃には少し持ち直してたのかな?それとも、桓武自身は講説を聞かなかったのかな?この動きは最澄の高雄講会の影響もあるかもしれないけど、佐伯氏は 【しかしながら、さらに考えをめぐらせば、当時、内裏が直面していた危機的状況の 打開のために、そのころ高雄講会によって注目されはじめていた目新しい天台仏教を、 最澄の帰国を待たずに摂取し、早良親王の怨霊鎮祀に役立たせようとしたあらわれでは なかったか。】 (『若き日の最澄とその時代』より)とする。この本にはどんだけお世話になったかわかりませんが、本の背表紙には【平安建都の時代における伝教大師最澄の前半生を描いた 古代史研究者の手に成るユニークな最澄伝】という紹介がある。井沢元彦氏の『逆説の日本史』を読んでると、学界のセンセイ方は(正史に書いてあるから)早良親王の怨霊を桓武が気にしていたことは認めるものの、あまり怨霊カラーを前面に押し出したくはないのかな、という印象があったけど、佐伯氏は桓武にとって怨霊の影響は計り知れないとばかりのスタンスで、上の推測のように怨霊にからむ記述がばんばん出てくる。この辺りの時代のことはわたくしは井沢史観から入っているので、佐伯氏の推測にはかなり賛同できる部分が多くてやりやすかったんだけど、背表紙に【ユニークな最澄伝】とあるあたり、異色なのかもしれないでも、自分で細かく流れを追ってみるとこんな状況で賢高を呼んで天台の講義をさせるというのはあまりにも不自然なので、佐伯氏の語る通りだったんじゃないだろうかと思う。であれば、罪の意識と病に苦しむ中で最澄の姿を思い出しては「うう・・・早良・・・苦しい・・・最澄たん、早く帰ってきてえ~・・・」って一日千秋の思いで最澄の帰りを待ちわびていたかもしれない。桓武が病に苦しんでいた頃、唐では徳宗が崩御するという事態が起こる。藤原葛野麻呂の到着がもう少し遅れてれば、国喪の中で大変なことになってたね。まだこの頃、使節一行は長安にいたらしく、徳宗の崩御を受けて使院で3日間喪に服す。2月10日には監使が答信の物を届けにきて、国喪だから早々に帰国するようにと言われる。その数日後には長安を出発したものと思われ、一行が越州に着いたのが3月29日。使節一行の長安での滞在期間は1ヶ月ちょっと。8月に着岸して翌年の5月に出航するので、約9ヶ月のほとんどを移動に費やしたことになる。遣唐使ってホント大変・・・その点、最澄は着岸した明州から近い場所に天台山があったから、ラッキーだよな。でその最澄さんですが、11月中旬~下旬頃に台州に着いて翌3月下旬に明州に戻るまでの約4ヶ月を道邃の元で過ごしたものと思われる。台州滞在期間は天台山での滞在期間の1ヶ月よりはるかに長いので、当たり前の話だけど人が文化を伝えるものだというのがよくわかる。ともかくここで、高僧の道邃に付いて天台の真髄をみっちり学んだのだろう。前回、2月29日には最澄から道邃へ10コの質問を浴びせている。これは日本で温め続けた疑問の数々を道邃にぶつけてその教えを請うたものらしく、「天台宗未決」として現在も残っている。10の質問についてはここでは省きますが、道邃の生没年は不詳とされるも、最澄へ贈ったお別れの文章では自分はもう年老いて死もそう遠くないだろう、てなことを語っているので、それなりの年齢であったと思われる。そうした時期に、海の向こうから危難を冒して天台の教えを学びに来たまだ若く勉強熱心な最澄に会って道邃はさぞ嬉しかっただろうし、10の質問への回答をはじめ心を砕いて最澄を導いたことだろう。3月2日、最澄と義真は唐の沙弥7人とともに道邃から菩薩戒を受ける。これをもって道邃の元での勉強と受戒が終わったことになるんだそうな。ところで、叡山で買った『伝教大師ご一代記』には不思議な文章がある。 【中国における天台宗の祖山、天台山(浙江省台州)に登り、道邃・行満の二高僧より 天台の法門を残らず伝えられた。そのとき、天台山の開かずの経蔵が、大師の所持する 八舌鍵(はちぜつのかぎ)で開くことができたので、天台山の僧徒はいずれも驚嘆し、 秘蔵の典籍や法具まで、ことごとく大師に授けたという。この八舌鍵は、かつて 比叡山の土中より拾われたものであり、いらい、由緒ある重宝として今に秘蔵されて いる。】これまでの記事でも、『ご一代記』からいくつかかなりマユツバなエピソードを紹介してきましたが、香炉から偶然見つけた仏舎利の話とともに、この八舌鍵の話はマユツバの双璧と申せましょういや、別にバカにしてる訳じゃないんですが、現代人でこれを読んでフツーにそのまま信じる人っていないでしょ(笑)。叡山は掘れば何でも出てくる宝の山か?「なんなんだ、これは・・・」それが第一印象でしたが、道邃が最澄に与えた「付法文」にもそれ関連のことが書いてあるらしいので、なんとなくこの伝承が見えてきた気がした。仏舎利の上記リンク先で智ギの予言について紹介してますが、その際、「もし感じ応じるところがあれば、まず不思議なことがあらわれるであろう」(『若き日の最澄とその時代』より)と言って智ギは「法鑰」(ほうやく:法のかぎ)を空高く投げ上げた。居合わせた僧たちはみんな空を仰いで鍵の行方を追ったが、ついにその行先はわからなかった・・・と続いているんだそうな。だから、これを額面通りに受け取れば智ギは室伏もまっつぁおの怪力で海を越えて叡山まで鍵を投げ飛ばしたって愉快な話になってしまう訳ですが、短期間ながらもまるで開かずの扉をするりと開けるように天台の正統をブイブイ吸収していった最澄の事蹟を寓話にしたエピソードなのかもな、と思った。あ、それは単なる個人的想像ですが。ともかく、最澄は持ち前の粘りと熱心さでメインの目的を果たし、わずかな期間で帰国してしまう最澄との別れを惜しんで道邃のみならず多くの官人や僧侶たちから温かい励ましとお別れの言葉を贈られた。佐伯氏は、贈られた言葉の数々は決して外交辞令ではなかっただろうと語る。道邃から菩薩戒を受ける少し前、最澄はそれまでにゲットした書や品々の目録を作成している。これは検閲を受ける目的もあったかもしれないけど、巻末には台州に来て最初にお世話になった陸淳の「印記」が書かれており、どうも最澄が寄せ書きを頼んだものらしく、陸淳からも美文を寄せられている。愚中周及にもよい出会いがあったけど、遠い異郷での人の情けというのは身にしみるものだったんじゃなかろうか。もちろん、本人の努力があってこそだけど。最澄の門弟である円仁が延暦の次の遣唐使船で入唐した時、五台山でひとりの天台の名僧に会った。その僧は最澄のことを知っていると円仁に語ったそうな。円仁が唐入りしたのは、最澄が唐にいた時より30年以上もあと。それでも最澄のことを覚えてる人がいたんだから、その熱心さや聡明さは一部で語り草のようになっていたのかもしれない。陸淳が寄せ書きを書いてくれた『台州録』には、その名の通り台州でゲットした品々が記載されている。わたくしは『台州録』の全文を見た訳ではありませんが、まずは最澄が書写した天台経疏の数々。これは102部240巻と120部345巻という2つの記載があるらしい。ま、100部以上の膨大な書写をしたってことだろう(←大ざっぱ)。経典類の他には道邃からもらったという3つの品が書かれており、このうち「禅鎮」(ぜんちん)は智ギの所蔵品だったと言われる。え~と、座禅を組んで瞑想している僧の肖像画で、頭にちょこんと何かを乗せてるのを見たことありませんか?あれが禅鎮で、居眠り防止の用具なんだそうな。実物を見たことがないからどういう構造かわからないんだけど、居眠り防止グッズなら底の部分に突起でも付いてて頭のツボを刺激したりするのかな?それとも、底は真っ平らでわずかでもカクッとなろうものならつつーっと頭から滑り落ちてゴトッ!!ってすごい音がして周囲に居眠りがバレてしまうんだろうか最澄がもらった禅鎮は獅子の像の形をしていたらしいが、智ギの所持品なら大層なお宝をもらったことになる。それから、天台山では行満から書も沢山もらっているし、天台沙門の恒巽(ごうそん)という人からは「智者大師真影」ももらっている。こういう品々も細かく書かれてたんだろうな。こうして、充実した成果を納めて3月25日には明州の館に帰ってきたとされる。その数日後の4月1日、空海や藤原葛野麻呂の乗ってきた第1船が福州から明州の港へ到着。4月3日には長安から大使一行が明州へ戻って来て、帰国組が明州に揃う。にほんブログ村
2014年11月16日

天台山における最澄のスケジュールを『若き日の最澄とその時代』からダイジェストに追ってみましょう。10月6日、仏隴寺(ぶつろうじ)に到着。10月13日、山上の道場に登り、牛頭禅を受ける。10月14日、行満から法を付せられ、行満所持の教迹(きょうじゃく)80巻余りを譲り受ける。10月25日、行満と一緒に仏隴寺に戻り天台の宗旨を受け、智ギの説いた五時八教を悟る。10月26日、行満から湛然の袈裟・真筆の手書など湛然ゆかりの品々と『仏隴道場記』を贈られる。11月5日、行満とともに天台山を下り、台州へ向けて出発する。天台山にいたのは、約1ヶ月。最澄としてはもっといたかっただろうけど、それでも行満は最澄にかなりの好意を示したようで、おそらく多くの時間を行満とともに過ごし、密度の濃い1ヶ月ではあったろう。また、この1ヶ月の間に天台山国清寺の僧・惟象(ゆいしょう)から「大仏頂大契曼荼羅」の行事を伝授され、その「付法文」を授けられている。つまり、ここまでで最澄の本来の目的である天台の法統を受け継いだほか、禅と密教もゲットしたことになる。のちの史料に、最澄が自分の後に続いて天台山にやって来る日本僧のために天台山に院舎を作ったという記述があるそうな。「伝法院」と呼ばれたこの院舎は、最澄が去ったのちの廃仏運動によって破壊されたとその史料にあるものの、伝法院の竣工は最澄が仏隴寺滞在期間中ではないだろうと佐伯氏は語る。まあ、そりゃそうだよな。天台山滞在がわずか1ヶ月というのは、短期留学生であるため日程に余裕がないからかと思ったら、そのほかに碩学である道邃(どうずい)が天台山にいなかったからだという。道邃は前回出てきましたね。結局、振り出しに戻るような形にはなってしまったものの、もし道邃がもっと内地の方に出向いてたら最澄のスケジュールはかなり厳しいものになったし、場合によっては道邃の教えを戴くことは断念せざるを得なかったかもしれない。これも、ラッキーといえばラッキーだよな。来た時の日程から推測すると、11月下旬には台州に着いて道邃に会っていたと思われる。同じ頃、第2船の使節一行は長安の都へ到着していた。無念の死を遂げた副使の石川道益に代わって副使代行を務めたのは、判官の菅原清公(きよとも)。清公たちは長安城の外宅で、大使の到着を待っていた。いやあ~、今だったら電話で「あ、もしもし、葛野麻呂さん?今どこ!?こっちは今、長安に着いたところだよ。いやもう、道益さんは急死しちゃうしさ、ホントどうなることかと・・・ともかく無事に着いたならよかった。道中気を付けて、1日も早く長安に来てくださいね」で済むところが、来るかどうか以前に生きてるのかもわからない状態で仲間と現地集合するってのもすごい話だよな~と驚嘆しますねまあ、第1船は8月には到着しててもう11月だから、早馬で「日本大使、到着!」の報ぐらいは長安に届いていたでしょうけどね。だから藤原葛野麻呂の到着を外宅で待つことになったのかもね。ところで最澄の通訳として一緒に唐入りした義真(ぎしん)、この人もツイていた。義真は遣唐使が最初に発遣された延暦22年に得度した沙弥で、22歳の若者。幼い頃から漢音を学んで、ほぼ唐語は話せたという。最澄が通訳の随行を申請した書状によると、義真はまだ若いながらも聡明で、経疏にもよく通じていたという。義真は最澄の自腹で渡航したのではなく、その他の研修生と同じく国費での渡航。通訳が国費で渡航した例は、義真が最初なんだそうな。通訳とはいっても、義真も得度を済ませ経疏もかなり身に付いている。通訳として、またイチ沙弥として最澄とともにあって行満らの教えを学んだ義真は、12月7日、天台山国清寺にて具足戒を受ける。「叡山攻め(10)」で鑑真が本場の戒を持ち込み、それまで日本にあった「梵網戒」は「菩薩戒」として在家・入門僧用の戒に格下げされ、具足戒には「三師七証」が必要とされるようになったことを紹介してますが、義真の受戒にも同じく三師七証が揃えられ、その10人はすべて中国僧。10人の中には国清寺以外の寺からの参加者もいますが、おそらくすべてが天台僧でしょう。最澄は11月5日に天台山を離れてるから、義真は受戒のために残ったものか、あるいは一旦最澄とともに台州へ行ったあとでまた天台山へ向かったものか。スケジュール的には、一旦台州へ行って戻ったとしても12月7日には間に合うと思われる。最澄は、本場の天台僧による厳かな受戒の儀式を受けられる義真をちょっとねたましく思ったんじゃなかろうかとゲスの勘ぐりをしてみるわたくし・・・さて、遣唐大使・葛野麻呂は11月3日に福州を出て昼夜兼行で急いで長安を目指して12月21日に長安の長楽駅に到着。唐側でもさすがに大使に対してはそれなりの礼も尽くしたものとみえ、12月23日に内使が良い馬23頭を率いて葛野麻呂の出迎えに赴き、酒と肴で歓待を受けてから菅原清公の待つ外宅へ案内された。幾多の苦難を乗り越えて長安で再開した葛野麻呂と清公は、手に手を取って涙を流して互いの無事を喜んだことだろう。しかし、遣唐使の本番はここから。翌12月24日、信書や献上品を監使に託して皇帝へ献上した。皇帝・徳宗は献上された品が精巧であることを喜び、寒い時期でもあるので健康に留意するようとのねぎらいの勅を出す。その翌日、大使らは参内するも最初皇帝は臨席しなかった。が、場所を変えて皇帝に拝謁が叶い、引き続き内裏と使院で宴が催され、そのまま夜を明かした。葛野麻呂らにとっては、この上もなく美味い酒だったことだろう。いや、教科書で「延暦23年、遣唐使を派遣して最澄と空海は入唐した」と読んでも感慨も何も湧かないけど、実際の流れを追ってみると実に壮大かつ危険で、9世紀初頭にこんな大冒険をした人達がいたのか~とドラマティックな歴史にコーフンしますね。●延暦24年(805)1月1日、天皇が病気のため朝賀は取りやめ。1月2日、皇帝・徳宗が病となる。1月14日、天皇が病床に皇太子を呼んでしばらく言葉を告げる。ついで大法師・勝虞を呼んで鷹犬を放たせる。早良親王のために淡路に寺を建てさせる。この前年の勅などで法に違反する僧侶を追放してきたが、それらはみずから反省し、今では修行するようになっていると聞くので、彼らが本寺に所属することを許す。1月22日、午後2時頃、大きな流星が落下する。1月23日、徳宗、崩御。1月25日、地震。2月、備後で飢饉。2月6日、宮中などで150人の僧侶に『大般若経』を読ませる。井上内親王と他戸親王の霊を慰めるために建立されていた霊安寺に一棟の小倉を作り、稲30束を納める。また、別に井上内親王と他戸親王の霊を慰めるため、綿を納める。2月10日、石上神社から運び出していた武器を石上神社に返還する。2月15日、道邃が最澄に「付法文」を与える。2月19日、天皇の病気が治らないため、諸国の国分寺へ薬師悔過をさせる。最澄、『台州録』を作成。2月20日、陸淳が最澄の『台州録』に印記を記す。2月25日、東大寺の賢高を天台経疏とともに内裏に召すという「内裏宣」が出される。2月29日、最澄が道邃に10ヶ条の質問を出す。3月2日、最澄と義真が道邃から円教の菩薩戒を受ける。3月3日、台州の官人や天台僧が最澄へ送別の詩を贈る。3月20日、藤原種継暗殺事件・氷上川継の乱などに連座して配流されていた者数名を赦免し、帰京させる。3月21日、道邃が最澄との別れを惜しむ文章を贈る。3月23日、伊豆に配流されていた氷上川継を許す。天皇の病気平癒のため、伯耆から玄賓(げんぴん)法師を招く。3月25日、最澄が明州の館に戻る。3月27日、天皇の病気平癒のため、天皇に潅頂法を行う。また、恩赦を行う。4月1日、遣唐使船第1船が福州から明州に到着する。4月3日、遣唐大使一行が明州に到着。4月4日、調を京へ運ぶ脚夫のために、路次の国では脚夫の救済や医療にあたるよう勅を出す。4月5日、諸国に命じて早良親王のために小倉を建て、正税40束を納め、あわせて天皇に準じて国忌の扱いとして奉幣を行うことにする。4月6日、天皇が皇太子以下参議以上の者を呼んで死後のことを託す。4月10日、宮中の武器庫の鍵を安殿親王に預けさせる。使者を遣わして賀茂神社へ幣帛を奉納する。4月11日、早良親王の墓を淡路から大和国へ改葬する臨時の官司を任命する。最澄が越州の龍光寺に到着。4月18日、最澄、三部三昧耶の潅頂を受ける。5月、甲斐・越中・石見で飢饉。5月5日、最澄が五仏頂法などを伝授される。5月11日、天皇の病気平癒のため、修行法師位・聴福を紀伊へ遣わして三重塔を建立する。5月13日、最澄、『越州録』を作成。5月18日、遣唐使船第1船と第2船が明州から出航する。6月8日、遣唐使船第1船が対馬へ停泊。いやもう、思いっきり途中で申し訳ありませんが、少しでも先へ進めておきたいしね。この年は桓武の総決算とも言うべき年で、こうして書き出してみるとものすごいことになってます。トップニュースはやはり怨霊の鎮魂で、井上内親王と他戸親王も久々に顔を出してますが、それより何より、ついに早良親王が畿内へ戻ってくることになりました。2月10日の石上神社の記事は、遷都で武器のある石上神社から遠くなってしまったため京に近い場所へ武器を移したものの、それが石上神の怒りに触れ、天下の諸神をも巻き込んで天帝に桓武の悪行を訴え、報復してやる~!という託宣までもらっちゃってます。人生の集大成がコレですよ天変地異は現代でもどうしようもないから、色々な天災に遭った桓武天皇はお気の毒っちゃお気の毒なんだけど、まあ心当たりもありすぎるほどあったから、自業自得とも言えるよな。一連の流れを見るに、氷上川継の赦免は桓武の病気による恩赦だったことがわかりますが、ここに書いてない以外にも得度枠を与えたという記述がこの年は滅茶苦茶多い。これまでは公卿などに枠を与えていたものが、この年の特色は僧侶個人へ与えたこと。大安寺の勤操などもその中に入ってます。そうして懸命に徳を積もうとしているものの、桓武の病はなかなか治らず・・・にほんブログ村
2014年11月15日

さて、最澄たんと副使の石川道益の乗った遣唐使船第2船。『叡山大師伝』によると、海に漕ぎ出して西を目指したところ、にわかに黒雲が沸き起こってただならぬ状況に陥った。第2船に乗っている人はみな生きた心地もせず悲嘆にくれた。ここで大師が種々の願を発して大悲の心で持っていた仏舎利を海に投げ入れ海龍王に捧げたところ、すぐに大風はやんでようやく順風が吹くようになり、ほどなくして台州の近境にある明州のボウ県へ着岸した、という。波に翻弄される海上にあって、祈祷の力で波をおさめ無事航海を乗り切ったというのは海を渡った高僧にありがちな話ですね。過去の記事では、愚中周及も行きも帰りも似たようなエピソードがあったしね。ただ、佐伯氏は最澄が仏舎利を海龍王に施して航海の安全を祈願したのはありえないことではない、とする。ふむ。考えようによっては、留学僧は地位の有無に関わらず才能のある人が選ばれてるハズ。遣唐使船は旅客船じゃないから、乗っている留学生たちはお客様じゃない。しかも、航海には危険が伴うということは初めからわかってる。あるものは有効に活用しようというコンセプトで、こーゆー時のために僧侶は各船に分散させておいた可能性もあるかもな、と思った。それでなくても当時の航海は風まかせ波まかせだったから、ひとたび嵐に遭遇すればもうひたすら祈るしかない。明るい未来を夢見て大国・唐を目指す僧侶たちは、誰に頼まれなくても必死で持てる力をふり絞って祈祷を続けただろう。きっと、暗い海の中で揺れまくる船からは風雨や波の音に負けないくらいの読経の声が鳴り響いていたんだろうな(笑)。もし「遣唐使ゲーム」なるものがあったら、荒れ狂う海の中に敵役の海龍王が海坊主よろしく姿を現し、「仏舎利、置いてけ~置いてけ~」とせがまれたところで選択肢が現われ、 どうしますか? 素直に海に投げ入れる 絶対イヤ。自力で渡ってみせると大見栄切る できれば渡したくないので、まず海龍王に説教してみるてなイベント発生ってカンジかな。2番を選んだら船が転覆してゲームオーバーだ いやいや、ゲームの構想練ってる場合じゃありまへん。最澄が仏舎利を持っていたというのは本当か?『叡山大師伝』には、まだ最澄が小僧の頃、叡山のふもとの神宮禅院で懺悔の行を行っていた時に香炉の中に仏舎利があるのを見つけたというかなりマユツバなエピソードがある。あるいは、安殿親王あたりからもらったものかもしれないよな。最澄の所持品の中には高さ1尺の水天菩薩像があり、これは航海の安全を祈願してお守り代わりに持っていったのだろうという推測があるらしいが、佐伯氏は水天は当時、西を守護する神として認識されており、天台山への奉納品として持っていってるのだから、天台山の安泰と加護を祈る意味で水天を選んだのだろうとしている。第2船が大陸に着いた正確な日付はわかっていない。が、明州よりももっと南へ流された第1船が8月10日に到着しているし、第2船の使節一行が長安へ出発しているのが9月1日だから、入京の手続きにかかる期間を考慮すると7月下旬から8月上旬の間頃だろうという。この「使節一行」に副使の石川道益の姿はない。道益は到着した直後に死去したらしい。道益、この年42歳。あ~、男の厄年だな他の船よりは比較的スムーズな航海だったと思うものの、荒れ狂う海の中で体力と精神力をすり減らしたのかもしれない。最澄も無事に大陸の地を踏めたものの、ちょっと体調を崩していたらしいから道中の過酷さがうかがえるエピソードと申せましょう。9月1日に出発する一行を見送って、最澄が動き出すのは9月12日。少し休養を取っていたのかもしれません。ただ、のんびり静養している時間はない。9月12日、最澄が天台山への巡礼の許可を求める書状を明州の官吏へ提出。これは許可され、途中の県では船と荷物の運搬人を手配してもらえることになった。して、9月15日に天台山目指して明州を出発。同じ頃の日本では行方不明の第3船と第4船の捜索を新羅へ依頼している。そんな本国の大騒ぎはつゆ知らず、9月26日、最澄および義真と従者は天台山のある台州へと到着した。『若き日の最澄とその時代』によると、最澄は台州刺史の陸淳(りくじゅん)へ ・金15両 ・筑紫の斐紙200張 ・筑紫の筆2管 ・筑紫の墨4挺 ・刀子1 ・加斑のくみひも2 ・火鉄 ・火石8 ・蘭木9 ・水精珠1を献上したそうな。袖の下・・・いやいや、物事を円滑に進めるためには御進物は必要です。なかなかソツのない御仁でございます。日本での最澄はここまで直接・間接に多くの人の温かい支援を受けてきましたが、海の向こうでも良い出会いと縁に恵まれた。トップバッターが陸淳で、彼は9つの品は受け取ったが金は受け取らなかった。そこで、返してもらったその金で最澄は紙を買い、智ギの『摩訶止観』を書写したいと陸淳に申し入れた。『叡山大師伝』には、最澄の志を喜んだ陸淳は道邃(どうずい)に命じてチームを作り、『摩訶止観』の書写をさせたとある。道邃は中国天台宗の第6祖・湛然(たんねん)の門弟で、のち第7祖とあおがれる名僧。この時道邃はちょうど台州に来ていて、しかも『摩訶止観』の講説をしているところだったというから、ナイスタイミング。道邃も、はるばる海の向こうの小島から天台を学びに来た最澄の話を聞いてさぞ喜んだことだろう。10月6日、最澄一行は天台山へ到着して仏隴(ぶつろう)寺の行満(ぎょうまん)に会う。行満は道邃と同じく湛然に学んだ僧侶。最澄に会った行満は、「その昔、智者大師は弟子たちに、自分の死後200年ほどして初めて東国で自分の仏法が興隆するだろうと語ったというが、大師の言葉は失われず、今、この人に会うことができた」と言って喜び、自分が読み終えた多くの書を与え、そのうちの1冊に自ら「手書」を書き付けたそうな。その内容は、自分のこれまでの経歴を振り返り、師の湛然の死後、その墓を守り20年あまりをここで過ごしてきたが、多くの事はいまだ成し遂げていない、というもの。この出会いの際に最澄は熱っぽく己の決意を語ったとみえ、身を忘れて朝も晩も勉強に励みます、と最澄が言ったという内容も「手書」に記されている。それから、最澄は持参した品を天台大師・智ギの霊前に捧げただろうと佐伯氏はいう。まずは安殿親王から託された金字の『法華経』を含む大乗経典の入った箱。水晶の念珠10貫。高さ1尺の水天菩薩像1躯。さらに、『屈十大徳疏』(十大徳を屈するの疏)10巻、『本国大徳諍論』(本国大徳の諍論)2巻。『屈十大徳疏』は七大寺バージョン法華十講の記録で、『本国大徳諍論』の方は 【高雄山寺で天台の教義が開講された折、三論宗、またとくに法相宗から提起された 諸大徳の異論をまとめた記録であろう。最澄が、この両書を天台山へ携えていったのは、 天台山の諸僧からの批評を受け、自己の天台の教えについての理解の程度を確認する ためであったと思われる。】 (『若き日の最澄とその時代』より)ということで、高雄講会の記録をわざわざ持っていったようです。これについて佐伯氏は【最澄は、まことに用意周到な人物であった】とする。自分の理解の程度を推し量る目的もあったかもしれないけど、のちのバトルを見越して南都六宗からの攻勢に対して本場の意見を聞くことで理論武装に磨きをかけたって見方もできるよな、と思った。ところで、安殿親王が最澄を特別に遇し、経典を持たせたのはなぜか?これは鑑真さんの周辺で8世紀後半から語られていた伝承に関係するもののようで、佐伯氏はその論考に多くのページを割いていますが、伝承をごく大ざっぱに紹介すると、「天台大師・智ギの師であり中国天台宗の第2祖と崇められた慧思(えし)は日本で生まれ変わって聖徳太子となった。太子が遣隋使を送った際、小野妹子に我の所持品である法華経・錫杖・鉢を取ってくるように伝え、妹子は教えに従って天台山へ行き、太子指定の品を持ち帰ってきた。」という内容。これはもちろん日本で起こった伝承だけど、それが中国に逆輸入されたらしく、慧思が所持していた経典の中には金字の『法華経』などもあったので、伝承がさらに伝承を生んで、聖徳太子が取ってこさせたのは金字の『法華経』だという話が唐僧によって書かれてもいるそうな。話題を呼んだ高雄講会の模様は善議の謝表によって桓武へ届いたが、同じく講会に参加し、その内容に感銘を受けたと思われる内記の山辺全成(またなり)という人が発言した、天台の法脈を受け伝えなければならないと言葉が安殿親王の元にも届いた。安殿親王はさっそく使者を善議らに遣わして講会の盛況を喜び、天台の教えを尊重していくという意欲を伝えた。これに感激した善議がまた感謝のお手紙を送り、その中には「それ聖徳皇子は持経を大唐に取りて、妙旨を本朝に疏したまう」という言葉も入っていた。同じような内容は桓武への謝表にも含まれていたが、かの聖徳太子が仏教の興隆に力を尽くしたことをアピールすることで桓武父子に「アンタ達も見習いなさいよ」って言いたかったのかもしれない。要するに、安殿親王は聖徳太子を意識して最澄へ金字の経典や金を下賜したのだろう、ってことらしいです。おそらく、桓武にも同じような思惑はあったのでしょう。最澄が入唐したのは、もちろん純粋な信仰と熱意によるものだった。しかし、その世話をした桓武父子の意図はまた別のところにあった。 【この両者が最澄に期待したのは、おそらく天台宗という新しい学派とその経論が 最澄の手によって唐からじかに日本にもたらされ、同時に天台大師智ギの霊位に 最澄をして礼拝せしめ、早良親王の怨霊を鎮めたいということであったろう。】 (前掲書より)これはすごい推測だな。怨霊対策がついに海を越えてしまいましたでも、あり得ない話じゃないよな。外護者との意識のギャップがあることは最澄もうすうす気づいてはいただろうけど、最澄も聖徳太子の慧思後身伝説を強く意識していたらしく、また念願の天台山での修行が始まってワクワクしていただろうし、智ギの霊前では早良親王のことなんかちいとも思い出さなかったかもしれない(笑)。にほんブログ村
2014年11月14日

前回の延暦23年の続き・・・と行きたいところですが、ここで一旦、遣唐使が御破算になった前々回の延暦22年に戻ります。最澄と中央政界の流れをずっと見てきましたが、その過程で延暦寺の創建と一般的にいわれる延暦7年(788)の年、佐伯真魚が平城京に出てきたことも紹介しました。(「叡山攻め(50)」参照)真魚はしばらく平城京で勉強したあと、最澄が内供奉十禅師になった頃に大学に入ったようですが、その後は四国の山林で修行したとされ、19歳の時に和泉で大安寺の勤操から沙弥戒を受けて「教海」へ変身した。桓武が早良親王へ2度めの謝罪をした延暦16年(797)、教海は23歳で『聾瞽指帰』(ろうこしいき)という著述をあらわす。ここからしばらくの間、教海の詳しい足取りはわかっていないらしい。が、遣唐使が延暦22年(803)に一旦中止になったちょうどその頃、「出家」したという史料があるそうな。延暦25年の太政官符がそれで、そこには ●学僧空海<俗名讃岐国多度郡方田郷戸主正六位上佐伯直道長戸口同姓真魚> 右去延暦廿二年四月七日出家入●● とある。して、この「出家」の2日後、東大寺の戒壇院で具足戒を受けたとされる。ここのタイミングで名を変えたのかはわからないけど、ともかく延暦22年4月9日には正式な僧・空海がこの世に存在していた。空海が最澄と留学同期生だったことは有名な話ですが、実は当初は空海さんは遣唐使のメンバーに入っていなかったらしい。延暦22年は実年齢で空海29歳。14歳の頃から本格的な勉強を始め、23歳で書いた『聾瞽指帰』は 【儒・仏・道の三教を対比して優劣を論ずるこの著作は、空海が若くして深い思想を 身につけ、あわせて並外れた文才を持っていたことを示している。】 (『空海の入唐資格と末期の遣唐使』東野治之/奈良大学リポジトリより)というもので才能あふれる人だったのに、29歳まで具足戒を受けていなかった。東野氏は【おそらく優婆塞か私度僧の形で仏道の修行に努めたらしい】とする。それが、このタイミングで急きょ正式な僧となったことがひっかかる。ちょっと延暦22年の遣唐使の記事だけ拾ってみましょうか。2月4日、遣唐大使以下、渡海するメンバーに身分に応じて手当を支給する。3月18日、遣唐使らが朝堂院で天皇に挨拶。3月29日、遣唐大使・副使のためにはなむけの宴を開く。4月2日、遣唐大使・副使が暇乞いに参内し、天皇から節刀を授けられる。4月7日、空海「出家」。4月9日、空海、受戒。4月14日、遣唐使一行が難波津で乗船。4月16日、遣唐使一行が出航。途中、大雨と強風に襲われ船が大破し、多くの死者を出す。4月23日、遣唐使船遭難の報が宮中に届く。4月28日、使者を遣わし、遣唐使船と破損した物の調査をさせる。5月22日、遣唐使船が破損して渡海できなくなったため、遣唐使が節刀を返還する。・・・ふむ、ということは空海の受戒はまだ遣唐使一行が出発する前だから、リベンジ船に乗ろうと画策してあわてて戒を受けたという訳でもなさそうだな。しかし、あまりにもタイミングが良すぎるよな。上の「叡山攻め(50)」のリンク先で奈良に上った真魚が入った寺は佐伯今毛人(いまえみし)が建てた寺と紹介してますが、今毛人は造東大寺長官・造西大寺長官・造長岡宮使など華々しい経歴の持ち主。『水鏡』では早良親王が失脚した事件の発端は今毛人の昇進ってことにもなってます。つまりは今毛人は佐伯一族の中で輝かしい星であり、宝亀8年(777)の遣唐大使にも選ばれてます。ただし、今毛人は途中で病気になったため渡海はしてませんが。今毛人が遣唐大使になった年は真魚は3歳の幼児だったものの、この偉大な一族のおじさんの影響で、あるいは空海も海の向こうへ憧れを抱いていたかもしれない。東野氏の前掲論文では、面白い考察がなされている。かいつまんで紹介しますと、天台僧・安然(あんねん:841?~915?)が記した『真言宗教時義』に、興味深い記述があるそうな。それは、最澄とともに空海は入唐したが、空海は「元、薬生」だったというもの。「薬生」の解釈が問題となるようだけど、【遣唐使の随員中には、実技を学ぶ一種の留学生として、某生と称する者がある】そうで、たとえば「音声生」「鋳生」「細工生」などがいた。ゆえに、「薬生」もこうした研修生の一種ではなかったかとする。空海に医薬の知識はあったのか?帰国後の空海の著述の中には医薬に関する豊富な知識をうかがわせるものがあるが、『聾瞽指帰』の中にも薬に関する内容があり、 【空海が若年時に道教に関心を持ち、その学習に努めたことは、『聾瞽指帰』そのものが 証明するところであるが、道教は本来、医術や薬学の学に縁が深い。それに関連して 空海は、医薬についての専門的な知識を獲得するに至ったのであろう。 『聾瞽指帰』執筆の段階で、空海はすでに医薬に関して、相当な造詣を有していたと 考えられる。即ち空海が、たとえ方便とはいえ、薬生に採用される条件は十分に 存在したと言ってよかろう。】遣唐使の選考基準の詳しいことはわかってないみたいだけど、大使や一行の重要メンバーには厳しい審査基準が設けられていたようで、ここから留学生や研修生にも派遣するにふさわしい者を選ぶためのそれなりの審査があっただろうとする。 【三十歳を目前にしながら正式な地位を持たない空海にとって、何らかの後ろ盾は あったにせよ、その選考や競争に正面から挑むには、かなりの困難があったのでは あるまいか。空海にとって薬生になることは、自己の知識を生かした苦肉の策で あったと考えられる。】ということで、「元、薬生」の記述を採用するならば「何であれ、メンバーに入っちまえばこっちのもんさ」とばかりに、空海さんが薬学の研修生として入唐資格を得ようとしたんじゃないか、というのが東野氏の推測。ただ、薬生になりすましたところで結局延暦22年のメンバーには入れなかったってことになるよな。「補欠にはなったけど、落選しました」みたいな?なんでそうまでして、海を渡りたかったのか・・・東野氏は、当時の遣唐使の派遣状況の冷静な分析と判断が影響したのだろうと見る。少し前の記事で書いたけど、日本は海を隔てて遠いので「二十年一来」・・・朝貢は20年にいっぺんでいいよってことになっていた。が、だんだんと派遣の間隔も開く傾向にあった。29歳で特段の地位も築いていない無名の僧・空海にとっては、このチャンスを逃せば次は50歳前後くらいになってしまうので、ヘタしたら入唐そのものを断念せざるを得なくなるかもしれない。延暦の遣唐使派遣前の空海の状況を見れば、彼がそうした懸念を抱いたとしてもおかしくないので、なんとか入唐のチャンスを得ようと手を尽くしたのではないかと東野氏は語る。結局、延暦22年の派遣にはもれてしまったものの、この時に派遣が中止されたことで再びチャンスがめぐってきた。しかも、延暦22年に受戒していたことが効を奏して、本人の希望通り「僧」として入唐する資格をめでたくゲットできた。僧ではあっても、無名ということには変わりないので、なぜ空海がメンバーに入れたのかは色々な説があるようだけど、これだという定説はないらしい。が、ひとつの要因として 【当時、遣唐使船が難破すると、「縁起が悪い」ということから留学生は入れ替えられる 習わしがあり、入唐を希望する空海にチャンスがめぐってきたのだ。】 (『あなたの知らない最澄と天台宗』山折哲雄監修/洋泉社より)ということがある。延暦23年(804)の派遣の後は承和5年(838)で、すでに空海はこの世の人ではない。ということは、延暦22年の派遣に成功してれば空海は入唐はできず、彼の運命はもとより日本仏教史も変わっていたかもしれない。帰国の際も空海は思い切ったことをしており、彼はシビアに現状を分析し、適切な判断を下しかつ行動力もあったということがうかがえる。延暦22年の派遣の中止を空海が内心喜んだかはわかりませんが、ともあれめでたく留学僧となり、翌年のリベンジでは遣唐大使の乗る第1船に乗船。最澄は副使の乗る第2船に乗っての出航です。で、ここから前回のタイムテーブルに戻りますよ~。遣唐使はまず住吉大社に詣でて航海の安全を祈願することになっていたので、この時も同じようにしたと思われるものの、またもや出航直後に嵐に見舞われる。え~、延暦23年7月6日はグレゴリオ暦に換算して8月18日・・・前年の出航よりもさらに条件が悪いじゃん当時の船団は互いに火を焚いて交信してたようなんだけど、出航の翌日にはバラバラになったとみえ、第3船と第4船の交信が途絶えてしまった。ウィキペディアによると、【羅針盤などがないこの時代の航海技術において、中国大陸の特定の港に到着することはまず不可能】だそうで、つまりただひたすら風まかせ?で、7月16日には大宰府から第3船の消息についての報告が発せられてますが、それによると第3船は4日に平戸から出航したものの、岩に船が挟まってしまい船が浸水したため、乗っていた遣唐判官らは取るものもとりあえず脱出して岸にたどり着くことができた。助かった人がいてよかったと思いきや、報告に対する朝廷からの返信は無情だった。遣唐判官たちは逃げるのに手一杯で、通交のための積み荷を下ろすことができなかった。「通交の信書と物資を届けて国と国の間を結ぶのがアンタ達の仕事なのに、自分の命を優先して積み荷を放り出して船をカラッポにするとは何事か!も~、アンタ達には遣唐使の資格ナシ!よって、厳罰に処す!!」遣唐判官たちが脱出した後の船には射手数人が残っていたらしいが、ともづなが切れて船が流され、行方がわからなくなってしまったという。第3船、踏んだり蹴ったり・・・第4船の詳しいことはわからないものの、第4船の遣唐判官と見られる人物が翌々年に唐で位階・官職をもらっているらしいので、海上を漂った末、延暦24年の年末頃になってようやく唐へ着くことができたらしい。空海と大使の乗った第1船もまさに風と波に翻弄される木の葉のようだった。なんでも、舵が折れて操船ができなくなり、『浪に随って昇沈し、風に任せて南北す』という状況で海上を漂って水も尽きてみんなが疲れ果てた頃、やっと岸にたどり着いた。出航してから34日めの8月10日のことだった。第1船は台湾のあたりまで流されたらしく、10月3日に州都に到着し、藤原葛野麻呂は11月3日に長安へ向けて出発し、1ヶ月半かかってようやく長安の都へ到着。空海は葛野麻呂とは別行動でひたすら己の道を邁進する。にほんブログ村
2014年11月12日

●延暦23年(804)1月7日、仏教にはさまざまな説があるとはいえ、元は同じであるのに、三論と法相は顔を合わせれば論争ばかりしている。聞くところによると三論よりも法相を学ぶ者が多く、人気のある宗派の方へ安易に流れる学生たちによって教界が汚され、肝心の真理の追究がおろそかになっているという。先年、得度の定員を決めたが、その年に学業を満たしている者が揃わない場合はその年は欠員のままとし、他宗の者で補充することは認めない。また、経典と論疏の双方に通じた者でなければ得度させないとする勅を出す。1月11日、近頃、諸国の僧は戒律を守らない者が多く、そうした者は追放処分としているが、特別に寛大な処置を取ることにする。老いて学徳が優れ、過ちを認める者は本寺に住むことを許し、智行が立派な者を選んで講師とし、僧侶を指導させることにする。講師でありながら偽って引き続き妻を持つ者がいるが、仏法に背く輩は追放とし、適任の講師を選ばない僧綱は実情に応じて処分せよとの勅を出す。1月19日、蝦夷征討のため、坂東諸国の干し飯を陸奥に運ばせる。1月22日、鑑真が創建した唐招提寺で戒律を教えるようになって50年が経とうとしているが、律は伝わっていても講読が行われていないので賜田の収益を律の講究費用にあて、永く経と律を講読させたいと律師・如宝から奏上がありこれを認める。1月28日、征夷大将軍に坂上田村麻呂を任じ、副将軍以下もあわせて任命する。2月、日照り。摂津で飢饉。3月、長雨。3月5日、遣唐使が参内する。3月25日、遣唐大使・藤原葛野麻呂と副使の石川道益を招いて宮中ではなむけの宴を開く。天皇は遣唐使をそばへ呼び、真心のこもった言葉をかけ、特別に酒一杯と立派な琴一面を下賜。また、遣唐大使に節刀を授け、身分に応じて物を下賜した。5月10日、陸奥の斯波城と胆沢城の間に一駅を置くこととする。5月17日、正月の御斎会(ごさいえ)の時に得度する者は前年のうちに試験を終えて新年に得度させるべきであるのに、僧綱と治部省・玄蕃寮の怠慢により得度者の決定すら遅れ、直前になって変更を求めて無理な頼み込みをさせるなどの弊害が生じているので、以後は12月中旬までに試験を終えて得度者を決定し、決定後の変更は認めないとする。5月20日、左右京の高齢者に物を施す。5月23日、摂津では年来の不作の上に今年の春と夏に水害が起こり、資産も食料も尽きたという報告が入る。6月13日、常陸の鹿嶋神社、越前の気比神社、能登の気多神社、豊前の八幡神社では代々宮司を出している家の出身と称して宮司への就任を競っている。今後は神祇官が有資格者の中から適任者を選ぶことにする。6月21日、壱岐の防人には西海道から徴発した20人を置いていたが、大宰府からの言上によりこれを廃止し、壱岐の兵300人を番編成して配置することにする。7月6日、肥前国田浦から遣唐使船4艘が出航。その直後、暴風雨に襲われる。7月7日、遣唐使船の第3船と第4船からの交信が途絶える。7月下旬~8月上旬頃、遣唐使船の第2船が唐の明州へ到着。その直後、第2船に乗っていた副使の石川道益が死去。7月16日、遣唐使船の第3船が孤島に漂着して船が岩に挟まれたという報告を大宰府が都へ向けて発する。8月10日、急な雨と大風により中和院の建物が倒れ、牛が巻き添えになって死んだ。神泉苑の左右の閣や京中の建物が倒壊し、諸国でも大きな被害が出た。丑年生まれの天皇は「朕によくないことが起こるのだろうか」と嘆いた。遣唐使船の第1船が唐の福州に到着。8月11日、地震。9月1日、遣唐使船第2船の一行27人が明州から長安へ向けて出発する。9月12日、明州の官吏から最澄へ、天台山への通行を許可する「明州符」が発給される。9月15日、最澄、明州を出発して天台山へ向かう。9月18日、7月に遣唐使を派遣したが4艘のうち2艘は風で遭難して行方がわからない。風の向きから新羅へ漂着していると思われるので、もし漂着していれば帰国できるよう便宜を図ってもらいたい。漂着していなければ、日本から派遣した使者を唐へ向かわせて遭難船の行方を調査し、詳しく報告できるよう協力をお願いしたいとする旨の太政官牒を新羅へ送る。9月26日、最澄一行が台州へ到着。台州刑吏の陸淳へ天台の『摩訶止観』を書写したい旨を申し入れると、工人を集めて書写させ、翌月に終わったという。9月27日、地震。10月6日、最澄一行、天台山へ到着。10月27日、越前・能登で桑や麻が被害を受けたため、調の7割を免除する。11月5日、最澄、天台山を下りて台州へ向けて出発する。11月7日、陸奥にあらたに三駅を置くことにする。11月15日、第2船の使節一行が長安城に入る。11月22日、秋田城を廃止し、河辺府に防御の拠点を移すことにする。12月7日、義真が天台山国清寺にて具足戒を受ける。12月21日、牛は国家にとって重要であり、荷物の運搬など実に有用であるのに、無法者たちは子牛を殺してその皮で競って鞍などの材料にしているという。これは大変な弊害であり禁止すべきものなので、今後は牛を殺して皮をはいだり、鞍などに子牛の皮を用いることはすべて禁ずる。違反者には違勅罪を科し、容認する監督官司がいれば同罪とする勅を出す。第1船の藤原葛野麻呂が長安に到着。12月25日、天皇が病気となる。七大寺へ使者を遣わして綿を与えて誦経をさせ、京内で飢えている僧侶と在家信者に物を施す。遣唐大使が宣化殿で礼見。これには皇帝は出なかったが、麟徳殿で皇帝への拝謁を果たす。その夜は終日酒盛り。12月26日、「思うところがあり」恩赦を行う。海のあちらとこちらで2本立ての流れとなってますので長いです。またページがまたいでしまいますが、御容赦ください。正史には中央の政治に関わることしか書いてありませんので、海の向こうの流れについては『若き日の最澄とその時代』を参考にしてます。緑の字は遣唐使関連、茶色がいつもの最澄関連、青字がその他の『日本後紀』からの流れです。まずは簡単に政治向きの話から見ますが、また三論と法相の争いの調停があります。これも三論宗の善議などの突き上げによるものじゃないかと思いますが、「顔を見ればお互いにケンカばかりしている」と勅に盛り込まれるあたり、両宗のいさかいは相当のものがあったようです。前年1月に得度の定員枠を決めたばかりだというのに、今度は満足な候補者が揃わなければ欠員のままにせよと言っている・・・また、学生が宗派の中身で選ぶのではなく、勢いのある宗派を品定めしている現状もあり、得度の定員枠をめぐってなお両宗で泥沼の争いが繰り広げられ、周囲にもかなりの混乱をきたしていた様子がうかがえます。それから、蝦夷討伐の話題が復活してますが、38年戦争第3期はおおむね前年には終了していたようなのに、総仕上げのつもりでしょうか・・・この年も桓武はあちこちに狩猟に出かけたり、行幸したりと元気です。今回の歴バナでは丸ごとカットしてますが、実は精力的なお出かけの陰でひそかに徳を積もうと努力している動きが見られます。それが、「誰々に何人分の得度の枠を与えた」という記述。これは数年前から見られるもので、寺ではなく個人に得度枠を与えているもののようです。そうして桓武なりの努力はしてきたものの、8月には京が水びたしになってしまいます。神泉苑は現在も人気の観光スポットですが、桓武親子もお気に入りだったらしく、何度も神泉苑に行幸したり宴を開いたり、ちょこちょこお出かけしてます。この前年だったかな、安殿親王が神泉苑で舞ってヤンヤの喝采を浴びたとかいう記事もあったな。それが、大雨で台無し・・・時期的に台風だろうとは思うけど、神泉苑のほか京内でも被害が出たばかりでなく、牛まで死んでしまったこれは桓武にはかなりショッキングな出来事だったようで、年末には子牛を殺すことを禁じるところまで行っちゃいますが、もうほとんど「犬公方」ならぬ「ウシ帝」(笑)。いやいや、人様の不幸を笑っちゃいけません。イヤ~な予感は的中し、クリスマスには桓武が病に倒れます。「やっぱりあのウシは・・・うっ、さ、早良、もう朕を許してくれえ~・・・ゲホッ、ゴボッ!!」と桓武天皇様が思ったかはわかりませんが、まあたぶん思ったでしょう。病の床にあって、怨霊にさいなまれ続けた桓武は期待の新星・最澄が唐から帰るのを首を長くして待っていたかもしれません。なんで最澄の帰りを待つのかは、もうわかるでしょ?↓ぽちっとね。にほんブログ村
2014年11月10日

●延暦22年(803)1月26日、三論と法相の2宗が並び立つようにとの勅は出しているが、得度に関して決めていなかったので、今後は三論・法相とも毎年5人得度させよとの勅を出す。2月4日、遣唐大使以下、渡海するメンバーに身分に応じて手当を支給する。3月6日、天平勝宝4年(752)時の遣唐大使で、唐で死亡した藤原清河に正二位を追贈する。3月8日、大僧都・行賀が死亡。3月14日、遣唐使に身分に応じて彩帛を下賜。3月18日、遣唐使らが朝堂院で天皇に挨拶。唐の情報を得るため、使者を新羅へ派遣することとする。3月29日、遣唐大使・副使のためにはなむけの宴を開く。4月2日、遣唐大使・副使が暇乞いに参内し、天皇から節刀を授けられる。4月14日、遣唐使一行が難波津で乗船。4月16日、遣唐使一行が出航。途中、大雨と強風に襲われ船が大破し、多くの死者を出す。4月23日、遣唐使船遭難の報が宮中に届く。4月28日、使者を遣わし、遣唐使船と破損した物の調査をさせる。5月8日、相模の足柄峠越えの旧路を復活させる。5月22日、遣唐使船が破損して渡海できなくなったため、遣唐使が節刀を返還する。6月21日、長雨のため丹生神社に幣帛を捧げる。10月25日、桓武の第11子・大徳親王が6歳で死去。閏10月23日、遣唐使の成功を祈念して最澄が大宰府の竃門山寺で薬師仏4体を造る。12月2日、夜、宮中で野生のキツネが鳴く。かなり内容を絞ってますので、ほとんどが遣唐使関連のニュースですが、まずは1月の記述から。これもまた三論と法相の争いを反映したもので、依然形勢不利な三論の保護のために得度の定員枠が設定されたもののようです。で、遣唐使を送る準備が進められていきますが、そうした中で過去の遣唐使のことをふと思い出したのか(笑)、とっくの昔の宝亀9年(778)に唐で亡くなっていた遣唐大使・藤原清河に位を追贈してます。あらためて過去の遣唐使とそれに随行したメンバーを見てみると、便乗組では玄奘にかわいがられた道昭、金光明最勝王経を持ち帰った道慈、そのほか有名どころでは 山上憶良・阿倍仲麻呂・吉備真備などゴーカな顔ぶれ。時には留学生を除いて全員が無事に帰国できたというラッキーな回もあったようですが、船が難破して死亡した人も多くいたし、日本に帰れずに異郷で死を迎えた人もいた。また、逆に唐から日本入りして帰国できず、そのまま帰化した唐人もいた。阿倍仲麻呂って何した人か知らないのに、何で名前を知ってるんだろ?と思ったら、小倉百人一首第7番、 天の原ふりさけみれば春日なる 三笠の山にいでし月かも 「(広々とした)大空をはるか遠く(望み)見ると(美しい月が見える、ああ、あの月は、以前)春日にある三笠山に出た月だなあ」(『新訂 詳解古語』佐藤定義編/明治書院より)・・・って、コレ、長安で詠んだ歌らしいじゃないですかあ~!!いやあ、知らないってホント罪・・・じゃなくて、阿倍仲麻呂はなんとあちらで科挙を受け合格し、任官。仲麻呂の遣唐留学生同期には吉備真備や僧・玄ボウがいる。(玄ボウの「ボウ」は日へんに「方」の字) 真備と玄ボウは次の遣唐使船で帰国したが、4艘のうち3艘は難破し、第1船だけが日本に着いたんだそうな。仲麻呂は一緒には帰らず、引き続き唐で出世の道を歩むが、唐に流れ着いた第2船の帰国に奔走し、第2船は1年遅れで帰国、チャンパ国に漂着した第3船は5年遅れでようやっと帰国している。そのあと天平18年(746)に派遣が計画されるも中止。その次が天平勝宝4年(752)の第12次で、大使は藤原清河、副使が吉備真備と大伴古麻呂。すでに在唐35年を数えていた仲麻呂は唐で真備と再会し、清河の船に乗って帰国の途に着くが、暴風雨にあいベトナムに漂着。当初は仲麻呂死亡のニュースが飛び交ったそうで、あの李白が仲麻呂を悼む歌を詠んでいるそうな。第12次の帰国船には鑑真さんも乗っていた。鑑真はこれまで5回の来日を試みるが、いずれも失敗。6度めの正直も玄宗皇帝が許可しなかったため、清河は鑑真の同行を諦めるが副使が独断で鑑真を乗せ、念願叶ってやっと日本の地を踏むことができた。ちなみに吉備真備は2度目の渡航も無事に帰って、その後道鏡とともに称徳天皇を支えるんだから、なんという強運の持ち主一方、ベトナムに流れ着いた清河と仲麻呂は唐へ戻るが、運悪く安禄山の乱とバッティングしたため、日本から迎えの船が着くも帰国はかなわず、仲麻呂・清河ともに現地で任官した。仲麻呂は宝亀元年(770)に現地で死亡、宝亀8年 (777)に次の遣唐使が来るが、清河も翌年現地で死亡。唐で生まれた清河の娘が遣唐使船に乗って来日した。3月8日の記事の大僧都・行賀(ぎょうが)もまた、清河の第12次船に乗って渡航した1人だった。行賀は留学僧で、帰国した後に東大寺の僧から腕試しに難しい質問を浴びせられたが、まごまごして答えることができなかったという。「ちょっとちょっとお~!日本と唐に面倒を見てもらっていながらこれってどうよ?31年間もあっちで何してたワケえ~!?」ってバカにされ、行賀は恥じ入ってただ泣くばかりだった・・・ただこれにはオチがあり、在唐期間が長すぎたために日本語を忘れてしまったんだそうなでもバカにされたことはわかったのか・・・ってちょっとツッコミを入れてみる。その後行賀は努力して大僧都にまで出世するんだけど、前々回の延暦21年2月3日の記事で元興寺・薬師寺・弘福寺・東大寺の43人の僧への褒賞は、 【当時の僧綱は、行賀、善謝、勝虞ら法相宗の僧侶によって牛耳られていたようで あって、三論宗よりも強く法相宗に対抗する意識をいだいていた最澄の講会を 牽制する意図が、僧への特別褒賞にかくされていたとも思われるのである。】 (『若き日の最澄とその時代』より)と佐伯氏は推測する。最澄の留学同期生には三筆の1人・橘逸勢(はやなり)がいる。逸勢は留学生だったようだけど、中国語が苦手だったそうで、しかも唐側からの援助資金が少ないので学校で思うように勉強が進まないと嘆いたとされ、「言葉の壁」の少ない書と琴を学ぶことになる。結局、逸勢は留学を2年で切り上げて帰国するが、その後は書での第一人者となるんだから、何が幸いするかわからない(笑)。まあ、遣唐留学生は時代をしょって立つ秀才たちがそろっており、彼等はみな文章としての「漢文」は読めたはずだと思うけど、言葉を自在に操るのと読むのとは別。逸勢の例を見るに「言葉の壁」というのは想像以上に厚かったようだから、最澄があらかじめ通訳を用意しておいたのは大正解だったといえるだろう。こんな風に遣唐使はまさに命がけで苦労も多かったので、3月29日に開いた送別の宴は海を渡る大使と副使のためにすべて唐風にセッティングされ、宴たけなわになって桓武は大使の藤原葛野麻呂を呼んで酒を与え、 この酒は大(おお)にはあらず平良(たいら)かに 帰り来ませと斎(いわ)いたる酒「この酒はただの酒ではない。無事帰国できるよう祈りを込めた酒である」(『日本後紀』森田悌氏の訳によるもの)という和歌を贈った。葛野麻呂は雨のような涙を流し、参列している群臣たちもみな涙を流したという。帰ってこいよ~帰ってこいよ~帰ってこ~い~よ~(by 松村和子)と歌ってはいるものの、もうほとんど水さかずき状態・・・この宴で2人は前回紹介したお金をもらっているので、安殿親王から別口で金銀をもらった最澄は特別扱いだったことがわかる。さて、4月に入って遣唐使一行は難波津から出航した。が、その直後に不運に見舞われる。海に投げ出されて行方不明になった人の中には、大学教授の豊村家長もいた。4月16日はグレゴリオ暦で5月14日にあたる。まだ台風の頻発する時期ではないけど、遣唐使は朝貢という性格上、入国にも帰国にも好きな時期を選べないという問題があり、必然的に往復とも天候の不安定な時期に船を出さざるを得なかったそうな。また、当時の船団は4艘仕立て。5~600人の大所帯ともなれば、1艘に100人以上が乗る計算になる。こうした事情から、ひとたび問題が起これば被害が大きくなりがちなのは致し方のないところだろう。結局、この年の派遣は中止となった。んで、閏10月23日に最澄の記事があるのに色を変えてませんが、実はこれ、『日本後紀』にある記述なんです。最澄が正史に顔を出すのはこれが初めて。いや、出世したもんです。つか、遣唐使は重要な外交使節で、その成功を祈願したものだったから登場したものだとは思いますが。遣唐使が中止になった直後の最澄の詳しい動向はわからない。可能性としては、最澄の乗った第2船だけはどうにか九州へ辿り着いたので、そこでみんなを待ったものか、あるいは別の船を用意して先に九州入りしたものか。いずれにせよ、薬師仏を奉納すると同時に大乗経典の講説を数回行い、願文を作ったという。この願文はかなりの長文のようなんだけど、あいにく現存はしていないらしい。入唐前の九州でのエピソードが『叡山大師伝』にある。豊前の賀春(かわら)山の麓で一夜を過ごした際、夢に梵僧が現われた。その体は、左半身は人に似ていたが、右半身は石のようだった。梵僧は最澄に言った。「ボク、賀春。和尚を見込んでお願いがあるんだ。ボクの業道の苦患からボクを救ってくれたら、和尚の求法を助けて昼も夜も守護してあげるよ」朝、目を覚ました最澄が賀春山を見ると、山体の右側が崩れ木がなくなっており、あたかも夢に見た梵僧の体のようになっていた。そこで最澄は夢に見た梵僧が賀春山の神だったと知り、法華院を建てて法華経を唱えてやった。これが『叡山大師伝』が書かれた当時「賀春神宮院」と呼ばれた寺のなれそめで、神宮院は今も福岡県田川郡香春町にあるようです。山崩れを起こした賀春山はしばらくして木が生え、年々生い茂るようにまでなり、地元のジジババで驚かない者はいなかったという・・・佐伯氏によると、最澄が賀春山のふもとに寺を建て読経したことは事実らしい。『叡山大師伝』での上のエピソードには続きがある。託宣にいわく、「もし海での危難があれば、ボクが必ず助けるからね。ボクに助けて欲しいと念じれば、光になって助けてあげる」して、渡海の際には実際に光が現われて難を逃れたので、託宣はウソではなかったと知った・・・この次に「乃大師本願」とあるので、水難の霊験のある賀春山の神に何としても海を渡って本場の天台をじかに学びた~い!!という願かけをしたのかもしれない。にほんブログ村
2014年11月09日

今日はちとお出かけしてきました~。体調は相変わらず良くないんだけど、すでに年の瀬モードに入っているので無理してでもスケジュールをこなさなければなりません。少し前のお出かけと合わせて、最澄の歴バナが終わったら一気にご報告します。さて、三論の名匠・善議が高雄講会のメインである天台の教えを絶賛したのにはいかなる理由があったのか?前回の延暦21年の流れとあわせてご覧ください。佐伯有清氏の解説を要約すると、まず三論宗と天台宗では考え方に大きな差があるそうな。今さら言うまでもないことですが、仏教のナントカ宗ってのは大ざっぱに言ってお釈迦様に発する膨大かつ一連の「仏教」という大きな枠の中で、どれをメインに持ってくるか、どの教えを重視するかという違いで、ぜ~んぶ仏教です。ので、宗派は違っても使うお経そのものは同じです。これはつまるところ、時代の変化に合わせようとしてお経を作りすぎちゃったから解釈の違いだとか色んな混乱が生まれたんじゃないかと思うけど(唐代のお経の数はこちら)まあ、大正期には3,527まで増えたっていうからそれに比べたらまだ唐代はマシな方だけど、それだって1,000部を越えてたらもう何がなんだかわからないよね~。その膨大なお経を天台大師・智ギ(538~597)は分類・整理し、体系づけた。なんでも、お釈迦様が生涯に説いた順番に整理したのが 1、華厳時 2、鹿苑時 3、方等時 4、般若時 5、法華涅槃時だそうで、そうすると智ギはお経のすべてを金口(唐代のお経の数のリンク先を参照)と考えていたのか?って素朴な疑問も浮かびますが、まあ当時の中国人で自発的に「大乗経典はお釈迦様の教えじゃない!」なんて言う人いるハズないしな。まま、それはともかく、フツーに考えれば後の時期になればなるほどウィスキーのようにその教えはじっくりと熟成され、芳醇な香りを醸し出すべきなので、智ギは第5段階を最上ランクと位置付け、『法華経』を根本経典とした。三論宗の根本経典は『般若経』。これは智ギの分類では第4期にあたり、高い位置づけといえる。最澄は華厳宗の分類にも影響を受けていたそうで、華厳宗の中では1:小乗教、2:大乗始教、3:大乗終教、4:頓教、5:円教という順番で2番目の大乗始教はさらに三論・法相に分けられ、三論の方が法相よりも評価が高かったんだそうな。そして善議・勤操の属する大安寺は最澄の師・行表の本寺でもあり、最澄ともゆかりが深い。こうしたことから、最澄個人としては法相よりも三論が上位だと考え、また大安寺の三論学派に好意を示していたという説があるようです。ここ数年の勅から、三論と法相の争いは主上の頭痛のタネであり、イケイケの法相に押されて三論が苦しい立場にあったことがうかがえますが、そういう中で最澄の天台法会は行われました。 【三論・法相両宗の争いという状況の中に高雄講会の意義をおいてみると、最澄による 天台法華宗の宣揚は、三論宗側にとって、その立場を異にするといっても、百万の 味方を得たようなものであった。善議らがその謝表のなかで、口をきわめて天台の 教えを称賛している文面から善議らの高ぶった悦びに鼓動が伝わってくるのである。】 (『若き日の最澄とその時代』より)少し前の記事で展開した、最澄ナスの延暦アグリ劇場を蒸し返せば、県大会を勝ち抜いて全国大会に出品されることになった最澄ナスは善議という名の良い世話人に出会い、善議が最澄ナスをピカピカに磨き上げて見栄え良くセッティングしてくれたことによって、審査委員長の眼に止まるようになった、てな感じ?審査委員長はもちろん桓武・・・あれ、これじゃ農夫と2役になっちゃうな。どうでもいいか、そんなこと(笑)。9月6日、高雄講会においてあらたに『法華文句』の講義が始められた。その翌日の9月7日、善議の喜びの報告を受けて天台の教えに期待を持った桓武は、天台を興隆させるにはどうしたらいいか、和気弘世に下問した。この報を受け取った弘世はすぐにそれを最澄に知らせ、2人でその対応策について終日協議したという。折しも前々回の延暦20年には遣唐大使と副使が任命され、久々の遣唐使を送る準備に入っていた時期。最澄と和気弘世はこの機に留学(るがく)僧と還学僧(げんがく)僧をそれぞれ1人ずつ派遣して、唐から最新の教学を直輸入することの提案を決め、すぐに上表文を作成した。その内容は、今の我が国に伝わっている法相と三論はともに「論」によっているもので「経」によるものではない。論は経の末ともいうべきもので、ただ天台だけが経による教えであるとし、 【これは、最澄が高雄講会を通じて得た自信に裏うちされた天台法華宗の「特立宣言」 ともいえるものであった。】 (『若き日の最澄とその時代』より)結局、この提案は半分受け入れられ、円基と妙澄という2人の最澄の弟子が留学僧として派遣されることとなった。遣唐使の日本側の目的は、先進国である唐からの技術やら経典やらの吸収。これが外国側の記述になると、「朝貢」のためということになる。延暦以前で近い時代の遣唐使の人数は5~600人だったというから、今回の延暦の遣唐使も600人前後だったのだろうという。それだけの大人数だから乗り込む人の職種は実にさまざまで、正式な外交使節はもちろんのこと、絵師・仏僧のほか陰陽師もおり、「射手」なんてのもいたらしい。中国側の事情によっても違うと思うけど、あちらとしては基本的には長期滞在を求めていたらしい。が、日本側としては早期の帰国を望んでいた。渡航費用は朝廷もち、あちらでの滞在費用はあちらが出してくれたそうな。超大国・中国の認識では朝貢は年に1度が基本ルールだったが、日本の場合は海に隔てられており遠いことを哀れんで20年に1度の割合でいいよ、って寛大な措置が取られたらしい。のちの明の時代になると、10年に1度という割合に縮まったようだけど、「10年に1度でいいよ」っていうよりは「10年以内に来んじゃねえ!」って意味合いが強いようにも思うで、留学生(るがくしょう)という留学僧は約20年の留学期間・・・これはつまり、次の遣唐使のお船に乗って帰るって意味だろうな。それに対して還学僧は短期留学。だから、来た船に乗って帰るということだろう。本場でしっかり最新の仏教を学びつくして日本に持ち帰るという本来の留学の視点からいえば、留学僧を派遣した方がいいように思うけど、最澄は還学僧1人と留学僧1人を要請した。まだ最澄だって30代なかばなんだけど、20年も待てないと思ったのかもしれない。しかし、桓武の回答は留学僧2名を派遣するというもの。これに対して最澄がどう思ったかはわからないけど、和気弘世への下問からわずか5日後、桓武は「考えたんだけどさ~、本場の天台を持ち帰るのにこれまで長らく修行してきた最澄たん以外に適任者はいないと思うんだよね~。だから、最澄たんを還学僧として送り出そうと思うんだ」とあっさり前言を撤回して還学僧・最澄と留学僧・円基を派遣することになった。その翌日の9月13日、最澄は「わたくしは長く比叡山にこもっていたので、身の振り方もわからず愚かな者でもございますが、釈尊が悟りを求めるのに身をなげうった例にならって、わたくしも命を賭して陛下の意に応えたいと思います」と派遣の下命を受諾。突然のドタキャンで留学できなくなってしまった妙澄(みょうちょう)さんはさぞ腐ってしまっただろうと思いきや、のちのちまで最澄につき従い、重要なお役目を果たしたりしている。一方の円基さんは予定通り唐には渡ったらしいんだけど、その後仮病を使ってすぐ日本に帰国して政治家だか官僚だかに転身。最澄の元を離れただけではなく天台宗徒を恥辱までしたというから、人の人生ってわからないもんです。ここまでの最澄の人生を振り返ると、根底に最澄自身の努力と資質があったことはもちろんだけど、実に多くのタイミングに恵まれている。前に空海のことを根菜類かタケノコだろうとしましたが、空海の場合はその類いまれな資質と強烈な個性によって、いつどんな時代に生まれたとしてもカリスマとしての地位を確立したんじゃないだろうかという印象があるからです。では、ナスの方はどうか?もちろん最澄にも非凡な能力はあるけど、もっと遅い時代に生まれて仏道に入っていたらば、高僧としての名声は得たかもしれないけど、あるいはもう少し知名度は落ちていたかもしれない。最澄さんをおとしめようなんて気はさらっさらないので、誤解しないでね。ただ、そう思いたくなるぐらい、最澄の前半生は順風に後押しされたものだったと具体的な流れを見る中で感じただけです。ま、それぐらいの強運の持ち主でないと新しい時代は切り開けないわな。それに、多くの人の直接・間接の支援を受けた前半生をしっかり押さえた上で帰国後の後半生を見ると、実際当時はどういう状況だったのか逆にわかるような気もします。最澄この年36歳。めでたく唐入りが決まったものの、現時点で中国語は話せないし、現地で覚えるにも短期留学のためその時間はない。そこで、ほぼ唐語を話せる弟子の義真(ぎしん)を通訳として連れていくことを申請。これも認められたので、厚遇されていたんじゃなかろうか。通訳のほか、2人の従者を従え、朝廷から既定の給料をもらって渡航の準備に入った。高雄講会の終了がいつかはわからないけど、その前年の延暦20年に七大寺から講師を招いて行った法華十講のように、高雄講会の模様も記録していたに違いないと佐伯氏は推測する。最澄の派遣を決めたのは桓武だけど、皇太子・安殿親王は『法華経』をはじめ3種類の大乗経典を書道の達人に2部ずつ書写させ、最澄に渡した。1部は唐へ持っていかせるためで、もう1部は最澄が比叡山寺の一切経蔵に収めた。唐へ持っていった3種類のうち、『法華経』は金字で書かれたものだったという。この3つをひとつの箱に収め、最澄が唐の天台山に着くまでは開封を厳禁とした。さらに安殿親王は援助資金として金銀数百両を与えたそうな。これは遣唐大使(金200両)・副使(金150両)よりも多かったというから、安殿親王にも格別の思い入れがあったものと思われる。にほんブログ村
2014年11月08日

汝(な)が受くる 苦しみこそは 汝がなせし 悪事の報い これこそは 自業自得の 報いにて 逃るひとなし・・・ (『往生要集』より)●延暦21年(802)1月1日、雪のため新年の朝賀中止。1月8日、駿河と相模から富士山が1日中赤々と焼け、アラレのような砂つぶてが降ってくるとの報告があったので占わせたところ、日照りと疫病の前兆だという。そのため、両国に神の怒りをなだめて読経を行い、災いを祓うようにせよとの勅を出す。1月9日、坂上田村麻呂を遣わして陸奥に胆沢城を築かせることにする。1月11日、官軍の出撃により支配地域が広がったので、坂東および周辺諸国の浪人4千人を胆沢城に入れることにする。1月13日、出羽の雄勝城の兵糧として越後の米と佐渡の塩を毎年運ばせることにする。三論・法相の両宗は互いに争い、それぞれが一宗のみを学んでいると聞くが、他宗を排除するようなことがあれば仏教は衰退するので、今後は正月と10月の朝廷の法会には六宗から僧侶を呼び、それぞれの学業を広めるようにせよとの勅を出す。1月19日、最澄、高雄山寺で講会を開く。2月3日、寺に住み修行に励む43人を褒章してやって欲しいと僧綱から奏上があり、元興寺・薬師寺・弘福寺・東大寺の僧へ布などを下賜した。4月15日、坂上田村麻呂らから、蝦夷のアテルイ・モレらが500人の仲間を率いて降服したとの報が入る。5月19日、富士山の噴火により足柄路が遮断されたため、箱根路を開削する。6月12日、左京で失火により民家42戸が焼失。6月22日、伊予へ配流されている五百枝(いおえ)王が伊予国府周辺に住むことを許す。7月1日、大和国で頭が2つ、足が6本ある子牛が生まれた。7月10日、アテルイとモレを連れて坂上田村麻呂が帰京。7月12日、朱雀大路を走ったオオカミが人に殺される。7月13日、白鷺が朝堂院に集まった。7月25日、百官が蝦夷の平定を祝う上表を提出。8月3日、損田の害をこうむった10ヶ国の百姓の税負担を免除。8月13日、アテルイとモレを処刑。8月29日、桓武天皇が高雄講会のウワサを聞きつけ、講会を喜ぶ口宣を使者に託す。9月3日、損田の害をこうむった31ヶ国の百姓の租税を免除。9月7日、天台を興隆するための方法について桓武が和気弘世に諮問。9月12日、桓武が最澄を唐に派遣することを決定。9月13日、入唐の件について最澄が受諾する。9月28日、河内の今年の田租を免除。11月1日、日食。最澄の歴バナもフィナーレが近づいてきました。それに伴い、この年は各方面で大きな転機を迎えますが、まずは世間の動きから。ついに蝦夷のアテルイとモレが仲間とともに降服しました。アテルイについては実のところ、あまり詳しいことはわかっていないみたいだけど、軍事の主導的立場にいたことは間違いないようです。『日本後紀』によると、田村麻呂は2人を京へ連れてはきたものの、「彼らの希望をいれて今回は郷里へ戻し、いまだ帰服していない蝦夷の抱き込みをさせようと思います」と上奏しているので、助命を条件に連れてきたのかもしれない。が、公卿らがこれに猛反発。「ヤツらは野蛮だから、約束を守るハズないじゃないか!たまたま捕らえた賊の長をこのまま帰せば、虎を生かして後に災いを残すようなもんだ!!」と頑強に抵抗し、田村麻呂の嘆願は叶わず河内の植山(枚方市が推定地)で2人を斬ってしまった・・・なんともお気の毒な話だけど、あれだけ怨霊の影におびえてワタワタ対処する中でしつこく征討を繰り返し、あまつさえ降服してきた2人を斬ってしまった行動は不可解。こうなってくると、井沢氏が主張するように当時の蝦夷が鬼門にいたから、鬼門に巣食う悪者は是が非でも排除せにゃならんって桓武が考えたってのも無理のない推測だという気もしてくる。少なくともアテルイとモレは陸奥へ戻りたいって意思を表明してた訳だし、助命よりも帰郷の話が出てるあたり、助命はすでに前提条件だった可能性は充分にある。それなのに、あっさり2人は殺された。ここは井沢氏の言うように、人種差別が根底にあったろうとわたくしも思う。ちなみに、幼少の頃から仏道に邁進し崇高な理念を持っておられた最澄氏はこの数年後、「東夷北首し、帰徳を先年に知れり」なんて上表文を提出しておるらしいので、それがリップサービスも混ざっていたにしても、大和民族、特に中央に近い人達はやはり一様に蝦夷に対して差別意識を持っていたことがうかがえる。別に、それがどうこうと言ってる訳じゃないですよ。ただ、 解脱の味独り飲まず、安楽の果独り証せず、法界の衆生と同じく妙覚に登り、 法界の衆生と同じく妙味を服せん。と願文で高らかに衆生の救済を謳い上げた最澄も、時代の観念は抜け出せなかったんだな~としみじみ思うだけです。これは仕方のないことです。井沢氏の語る、人が怨霊になる条件とは、まず無念の死を遂げること。それから、偉大で高貴な人物であること。が、アテルイとモレの死によってもうひとつ条件があることがわかったと氏は言う。それが、「大和民族であること」。 【桓武は、古代世界の常識によって、蝦夷たちは「人間以外」であると考えていた。 そして、無惨に殺せばタタリをなすのは「日本人」であって「異民族」ではない。 だからこそ、平気で蝦夷は「征伐」できたのである。】 (『逆説の日本史3』より)近頃では清水寺にアテルイとモレの顕彰碑が建立されたり、ゆかりの地で慰霊祭が行われたりと色々な顕彰の動きがあるらしい。ともあれ、無惨に殺されたお2人に合掌。富士山の噴火はまだ続いてるようですが、足柄路が遮断されたためあらたに箱根越えの道を開いたって記述になってるものの、前々回の「小山真人研究室 」様のサイトでは相模への主街道が遮断された時のために一時的におそらく以前からあったであろう支道の箱根路を使用したのだろうと推測しておられる。年後半には「損田の害をこうむった」多くの国が税を免除されている。具体的に何があったのかはわからないけど、何かがあったのでしょう。あと、7月の奇形の子牛が生まれたというニュースを耳にした桓武はさぞイヤな顔をしたでしょうねさてお次は仏教界ザンス。まず1月13日の勅ですが、これも三論と法相の争いに起因するものらしく、佐伯氏の推測によると法相に押されまくりの三論の反撃があって南都六宗が公平に法会で論議を行うようにとの指令につながったらしい。こういう背景も最澄と関わってくるから、もう少し我慢してねで、前年から準備を始めていた、法均のための法要に端を発する高雄講会が高雄山寺においていよいよ始まります。高雄山寺は和気清麻呂が創建したとされる神願寺とのちに合併し、今の神護寺へとつながる寺。清麻呂の墓もここにあり、和気氏の菩提寺、あるいは私寺という存在なのかな。平安京風水説では神護寺も重要な役割を果たすという風に言われるようですが、そういう話は苦手なのですっ飛ばして・・・前回紹介したように、この会は錚々たるメンツを迎えて盛大に行われたようですが、1月こっきりで終わったのではなく、断続的にしばらく続けられたらしい。ここで重要なのが、これまで何度か出てきた「仏法大将」大安寺の善議(ぜんぎ)。道慈(どうじ)は義浄訳の金光明最勝王経を日本に持ち帰ってきたといわれてる方で、天平の歴バナでは結構名前を出してますが、その弟子が善議。善議の弟子が勤操(ごんぞう)で、勤操から三論の教えを受けたのが空海。空海は勤操から虚空蔵求聞持法も伝授されたと言われてます。いやあ、みんなあの究極の暗記上達法をやってたんだねえ~じゃなくて、空海は師の師である善議のことを「三論の名匠」と評し、勤操はのち宮中での論議で法相よりも三論の優位性を強調した論陣を張って勇名をとどろかせた方だそうな。つまりは善議・勤操とも三論のトップを突っ走る方々で、お2人とも高雄講会に参加しました。七大寺バージョン法華十講に参加した10名のほか、高雄講会にあらたに参加した4人の僧侶は三論の善議・勤操と法相宗から2人の高名な学僧という顔ぶれ。この高雄講会は桓武の命によって行われたとかって後の時代の記述にあるようですが、基本の流れは前回のようなもので、桓武が初めからここに絡んだという話はどうもハク付けのフィクションのようです。して、1月から始まった講会はかなり盛り上がって世間の耳目を集めたと思われ、8月には桓武の知るところとなります。それに対して喜びを表明したのが8月29日の口宣で、まだ講会は続いてる最中。桓武の喜びに対して善議が返書を送っており、そこには智ギと天台宗を絶賛する言葉が書き連ねてあったそうな。すなわち、 【天台大師智ギの経疏のなかで説かれているところは、はなはだ深遠であり、その理論は すぐれて奥深く巧みであって、七大寺の六宗の学生は、かつて聞いたことも見たことも なく、これによって、「三論、法相、久年の諍いも、渙焉(かんえん)として氷釈し、 照然として既に明らかなり」】 (『若き日の最澄とその時代』より)というもので、コワモテの仏法大将に一体何があったんだ!?というホメちぎりぶり。ちょっと文字数が残り少ないので、善議の思いについては次回へ持ち越しますが、御年73歳の善議の熱をおびたこの上表が、最澄の躍進をさらに後押しするのです。にほんブログ村
2014年11月06日

ふっ、あと少しのところまで来てはいるんだけど、歴バナは70話を少し越えそうだな・・・もうこのシリーズ、200話越えは必至だな●延暦20年(801)1月20日、大宰府の大野山寺で四天王法を行うことを停止する。閏1月14日、征夷大将軍・坂上田村麻呂に節刀を下賜する。4月8日、越前で牛を殺して神を祀ることを禁止する。4月15日、延暦17年に年分の得度者を35歳以上としたが、今後は20歳以上とし、漢音を習得した僧侶にふさわしい者を選び、試験の日には三論と法相の違いについて答えさせるように改める。5月1日、日食。5月17日、雨乞いのため、丹生神社に幣帛を捧げる。7月16日、最澄、翌年の高雄講会へ向けて準備を始める。8月10日、藤原葛野麻呂を遣唐大使に、石川道益を副使に任じる。9月27日、坂上田村麻呂から平定の報が届く。10月28日、坂上田村麻呂が節刀を返上する。11月7日、坂上田村麻呂らを遣わし蝦夷を征伐すると宣言。11月14日、最澄が10日間の法華十講を催す。12月26日、使者を遣わして佐保山にある聖武天皇陵を鎮め祀り、僧侶と尼各千人を得度させる。1月の「大野山寺」は大宰府の大野山に建立された四天王寺のことで、宝亀5年(774)に新羅からの宗教的な呪詛に対抗するため、四天王と金光明最勝王経による国家守護を祈念して建てられた大宰府直属の寺だそうな。なんでも、四天王像の前で4名の僧が昼には金光明最勝王経を、夜は神呪を唱えるということを命じられてたそうなんだけど、それをこの年やめている。「もう大丈夫」ってことらしく、これまでお国を護ってきた四天王像や堂宇などは筑前の国分寺へ遷されたという。(「大宰府と寺社」松川博一/「都城制研究(8)古代都城と寺社」奈良女子大学古代学学術研究センターより)そういえば、一時期無礼だのなんだの言ってたけど、しばらく新羅との悶着ないもんな。で、延暦10年などに続き4月にまた牛を殺して祀ることを禁止してますが、佐伯氏によると桓武は丑年生まれで、ゆえに牛が死んだり殺されたりするのをめちゃくちゃイヤがったらしい。アハハハ、なるほど、そういうことか~!(本人は真剣だから笑っちゃいけません)で、ちょいと久々の蝦夷征伐のニュースですが、今回も詳しい現地とのやり取りは『日本後紀』には書かれてないものの、1年のうちに遠征は終わり、征夷大将軍となった坂上田村麻呂が平定の報告をしています。その後の11月の宣言は、どうも総仕上げって意味らしいですね。正史を見る限りではこの年はそれほど目立った怪奇ニュースはないのに、最後の記事はなんなんでしょう・・・早良親王を廃太子にした際も、天智と光仁に混ざって聖武陵へ報告をしてるし、桓武が聖武に対してどういう思いを抱いてたのかはわかりませんが、僧と尼の計2千人の大量得度イベントまで付けるなんてちょっと普通じゃないので、なにかしらの「思うところ」があったものと思われます。さて仏教界のニュースですが、まず4月の年分度者についての勅は、年齢制限を変更した理由として「飲み込みの早い遅いは個人差がある」とあるけど、例の三論と法相の対立に起因するものらしい。佐伯氏によると、仏法大将・善議らが中心となって変更を建言したのだろうという。 【なぜならば、三論宗の学僧が、「幼童」のうちから門弟を修学させ、三論の学徒として、 骨をおって育てても、年分度者となる資格年齢が35歳以上では、この年齢に達するまでに 法相宗側に奪われ、三論の業をやめ、法相の学徒になってしまい、三論宗は衰退の一途を たどることになるからである。】 (『若き日の最澄とその時代』より。漢数字は戦国ジジイが変換)こういう奪い合いは結構先まで続きます。ちょいちょいこれ関係の記事も出てくるので覚えておいてね。最澄にはこの年2つの動きが見られますが、まず7月。これは佐伯氏の推測による日付で、色々論争もあるようですが、佐伯説に無理はないのでここに載せました。前回の最後の方で一瞬出てきた「高雄講会」、これ自体はこの翌年行われるものですが、その前年から準備に入っていたようです。最澄が出世したのは一説には和気清麻呂の仲介によるものとも言われ、清麻呂の子の弘世と真綱(まつな)はこの年以前から最澄を尊敬し、親しく接してきたようです。それで、この翌年は伯母である法均の3年の忌明けに当たるので、そのイベントをどうやったらいいか甥2人はあれこれ考えたらしい。てことは、やっぱり法均は延暦18年に亡くなったということで、それなら父の清麻呂の忌明けでもあるじゃないかとも思うのですが、死後の指図をしたのが法均だからなのか、ここでは「清麻呂の法会」とはなぜか言われないんですよね~。あ、これは今でいう「三回忌」じゃなく「3年の忌明け」なので混同しないようにね。なにしろ法均の言い付けといえば、「坊さん2~3人呼んで内輪でちょちょいとやればよろしい。ついでにアンタ達も私達を見習いなさいよ」てなもんだったので、甥っ子としては世間通りそこそこ派手なフツーの法要をやりたかったところだろうけど、故人の遺志に背くのもなんだしな・・・ってことで、どうやるべきか最澄に相談した上で細々とした指示を仰ぎたいとして最澄に丁重な招請の文を送っている。それに応えて、最澄も動き出したようです。して、11月には延暦17年(798)の初回と同じスケジュールで法華十講を催してます。初回の成功に気を良くしたのか(笑)、今後は毎年七大寺から著名な学僧を呼んで法華三部経について七大寺六宗(三論・法相・成実・倶舎・華厳・律)の論議を聞きたいという願望を持ったらしいです。で、早速七大寺へお招きのお手紙を送るのですが、短いながらもとても丁寧で、書状の最後は 【仏法を教え保とうとする心を押えがたく、お招きすることを申しあげる次第であります。】 (訳は『若き日の最澄とその時代』より)という熱心さがうかがえるもの。これに応じて10人の学僧がこの年のイベントに参加した。佐伯氏によると、参加した10人のうち経歴がわかっているのは5人だそうで、うち3人が東大寺から、2人が元興寺からの参加だという。いちおう、この時には七大寺から10人集まったと伝えられているそうなので、だとすれば残る5人はそれぞれ違う寺から1人ずつ参加した計算になる。で、わかっている人は結構地位のあった人のようで、1人が1巻ずつ講義をし、最澄がそれに解釈を加えていったものらしく、 【<『叡山大師伝』>の評言からも、南都七大寺の学僧を招いての『法華経』の講義が、 きわめて活発になされたことがうかがえる。(中略)ここに最澄は、天台の教えにもとづく 『法華経』の講論を、はじめて山外に宣示したのである。時に最澄は、36歳であった。 天台大師智ギの『法華経』研究は、他派を圧する力を持ち、中国における「法華部」 (『法華経』を中心とする十数経を整理分類したもの)の独立の理由の一つとして数え あげられているが、智ギのすぐれた『法華経』研究に、集中的に眼をそそぎ、その研鑽に つとめた最澄の慧眼は流石であった。】 (前掲書より。漢数字は戦国ジジイが変換、文中の出典は割愛、<>はジジイが挿入)というように、名実ともに大成功だったようです。よかったね、最澄たんこの会の様子は記録に遺したようです。それに、この会かあるいは初回かはわからないけど、和気ブラザーズも講会を聴講していたようです。そういうこともあってか、伯母さんのために一般的な法要を行えない甥っ子たちは「こーゆーのもいいよね」って伯母さんの法会についてプランを練り、ちょうどお招きを受けた時、最澄は法華十講の前でもあったので、 【あるいは最澄と和気弘世らの相談のなかで、高雄講会の予行として比叡山における 法華十講会に、勝猷(しょうゆう)ら十名の学僧を招いて『法華経』の講論を行うことに なったのかもしれない。】 (前掲書より)と佐伯氏は推測する。翌年の高雄講会には、大寺から14名の学僧が招待される。そのうち10人はこの年の法華十講に参加した僧だったという。そして、高雄講会にあらたに参加した4名の僧侶は、前の10人よりもさらに当時の仏教界をしょって立つようなスゴイ方達が揃ったらしい。スゴイ方たちが来てくれれば場も盛り上がるし、成功すればまたまた天台の名が上がる。けど、当代随一の論客たちに言い負かされちゃったら・・・どうなる、最澄たん!?ベン、ベベン↓ぽちっとよろしくねにほんブログ村
2014年11月04日

●延暦19年(800)3月14日~4月18日まで富士山頂で噴火。4月9日、再三にわたり山林などの未開地の独占禁止を言い渡してきたが、伊賀では相変わらず権勢家による独占が続いているので、これを改めるように。ただし、東寺と西寺が堂宇建設のために大木を伐り出すのはヨシとする勅を出す。4月12日、前年に漂着した自称インド人がもたらした綿の種子を諸国へ下賜し、栽培させる。4月23日、和泉で大きな桃やスモモほどのアラレがふった。6月1日、日食。7月23日、「思うところがあり」早良親王を「祟道(すどう)天皇」と称し、井上内親王を「皇后」の称号に戻し、2人の墓を「山陵」と改称することとする。春宮亮・大伴是成に陰陽師と僧侶を引率させ、淡路の早良親王の山陵を鎮め謝罪させる。7月26日、淡路国津名郡の2戸に早良親王の陵を、大和国宇智郡の1戸に井上内親王の陵を守らせることとする。7月28日、早良親王・井上内親王の陵に使者を遣わし、それぞれ天皇号の追贈と皇后位の復位の件を報告させる。8月14日、雨がやまないので丹生神社へ白馬を奉納。8月15日、薬師寺の僧・景国が前年の勅を受けて還俗したい旨奏上する。10月4日、畿内周辺の民1万人を動員して葛野川の堤防を修繕させる。10月14日、大安寺の僧・孝聖が老母の世話のため還俗を申し入れる。10月15日、宝亀6年の遣唐使・伊予部家守が死去。10月28日、征夷副将軍を任命。11月2日、今年は不作なので、不作を言上してきた国の田租は免除とする。11月6日、征夷大将軍・坂上田村麻呂を派遣して諸国へ移住している蝦夷の監督をさせる。桓武ちゃんがついに公的に大敗北を認めました(←うれしい)。そりゃ、富士山まで大噴火を起こしちゃえばね~。これ以上はもう持ち堪えられなくなったようですところでこの噴火、山麓にまで降灰はあったようなんですが、『日本後紀』の記述はごくあっさりとしたもので、一体どの程度の規模だったのだろうかとネットで検索してみたところ、「静岡大学防災総合センター静岡大学教育学部総合科学教室」の「小山真人研究室 」様のサイトがあったので見てみました。それによると、今回の噴火と貞観6年(864)、宝永4年(1707)の噴火をあわせて富士山の3大噴火と従来言われていたそうな。宝永の噴火は有名ですね。貞観の噴火も富士五湖のうち本栖湖・精進湖・西湖を現在の姿に変えたとされる大量の溶岩の流出があり、この2つは文句なく大噴火だったようですが、延暦の噴火については正史以外の史料は信憑性に問題もあり、実際どの程度の規模だったのかはよくわかってなかったらしい。そこを小山氏が上記サイトで考察されている訳ですが、大ざっぱに言って山頂での噴火ではなく、北側2か所からの割れ目噴火で甲斐への交通などが打撃を受けたらしい。まあ、甲斐へは東山道を代用することで往来はしのげたようなんだけど。南側の東海道でも街道の付け替えがあったという記述があり、当時の東海道がどこを通っていたのかの考察を加えた上で、南の御殿場あたりでは土石流の発生による被害も考えられ、一時的に支道への付け替えなどが行われたのではないかという。どうも客観的に見て貞観・宝永の大噴火に匹敵するほどの威力はなかったようだけど、当時の人にとって自然災害は単なる自然現象じゃないし、時期が時期ですので、報を受けた桓武はそれこそ噴火ばりに「どっかーーーーーん!!」という衝撃を受けたことでありましょう(笑)。んで7月の続けざまの対策につながる訳ですが、お2人が配流の際、皇籍剥奪にまで至ったとは確か書かれていなかったものの、早良親王には本来なるべきだった天皇位の号を贈り、井上内親王は「廃后」からもとの「皇后」という称号へ戻してます。(本ブログではこのまま「早良親王」で通します)「山陵」というのは天皇や皇后の墓のことをいうので、お2人の墓をそう呼ぶのは当然のことですね。8月と10月には大寺の僧が還俗を申し入れてますが、ともに「修行についていけない」という理由によるもの。締め付けがだいぶ厳しくなったので、やりにくくなったのかもしれません。お気の毒に・・・本来の修行という点では、僧侶が妻子を持ったり経済活動をするのは確かにいただけない事だけど、わたくしはそういう人達に対してあまり批判的な気持ちにはなれません。というのも、人には色んな事情とレベルがあるからです。僧尼が勝手に本寺を離れて山でうろんな事をするんじゃねえ!とか、愚かな民を言葉巧みにアヤシゲな方向に扇動するんじゃねえ!とか色んな禁制が出されてますが、それは権力者の勝手な言い分で「衆生の救済」という大乗の精神から見たらどうでしょう。それでなくても身分・貧富の差は激しく、何かと言っては動員されたり戦争に連れて行かれたり、プラス桓武の失策による(笑)災害の頻発。救いを求める民衆は多くいたはずです。この時代の僧・景戒による『日本霊異記』には執筆の動機も書かれており、その段では因果応報について紹介した上で、自分はすぐれた学識や呪術力もないけども心は仏法から離れることはなく、また切望する人たちのために不思議な話を書き留めた、としている。中田祝夫氏はこの段について、 【(前略)この因果応報の理を広く世の人びとに自覚してもらうことが、当時の国家社会の 悪弊と衰退とを救済するうえに有益に機能すると景戒は熱心に考えていたらしい。(中略) 『日本霊異記』の編集者、景戒は南都薬師寺に在住してはいるが、いわゆる聖僧、学僧では なく、在俗の世俗的な生活者の過去と経験をもっていた。『霊異記』は、そのかつての、 または現在の世俗的な生活経験から産み出されている。 これは聖僧や学僧のための読み物ではない。そうではなくて、もっとも低い社会の底辺の 人びとのためのものであり、そうした人びとに対する講話の資料集であったと思われる。】 (『日本霊異記』(下)/講談社学術文庫より)と解説する。ま、因果応報が柱の説話集なので、「ええ、これはアリなの!?」みたいな話もあるにはあるんだけど、中身の是非は置いといて、大寺の奥深くでひたすらお経に向かってる高僧よりも、景戒のような俗っぽい僧の方が案外民衆を多く救ったかもしれないよな~なんて想像も浮かぶワケです。景戒のような人のことを思うと、やっぱり最澄はホワイトカラーの人間だよな、とも思いますが、それぞれのやり方があるのを別に批判するつもりもありません。ところで、平安末期の浄土信仰フィーバーの頃、さかんに「末法」という言葉が使われますが、景戒によるとお釈迦様の死後500年が正法(しょうぼう)の時代、その次の千年が像法(ぞうほう)の時代、最後の1万年が「末法」で、末法は延暦6年(787)から始まるんだそうな。つまり、この記事はすでに末法の時代に入ってるということですね。で、『霊異記』を記した動機の段(巻下序)は末法スタートの延暦6年に書かれたようだけど、その中で 【この愚かな僧景戒、学んでいるとはいえまだ天台の智者ひじり、智ギのような法を 問う術を心得ていない。】と言っている。また、延暦19年頃に書かれたと思われる最後の方の段(巻下第38)では 【また、まだ天台山の智者大師の深甚な解義も理解することもできないでいる。】 (訳文はいずれも前掲書より)と言っている。今回の記事の年、延暦19年は最澄が世に出始めた時期だし、その2年前には最澄が法華十講を催したりしてるので、景戒が天台大師・智ギのことを持ち出してるのは最澄の影響が皆無とは言い切れないものの、延暦6年ったらまだ最澄が山籠りを始めて3年目。ヘタしたら、まだ最澄は天台経疏を手に入れてなかったかもしれない時期。ので、延暦6年に景戒が智ギのことを書いているのは、明らかに最澄の影響じゃない。これについて佐伯有清氏は 【しかし、最澄とは別に、鑑真の門流である思託や法進によって説かれていた天台大師智ギの 教説が、延暦期に入って学僧のあいだで注目されるようになっていた風潮が、景戒の記述に 反映しているといえるであろう。 そのような風潮のなかで、とくに最澄が天台の教学に着目し、智ギの教説を自分のもの とし、そして高雄講会において、それまでの研鑽の成果を宣揚するにいたったのである。 最澄は、仏教教理の新しい時代的傾向を先取りした傑出した人物なのであった。】 (『若き日の最澄とその時代』より)と解説する。「叡山攻め(31)」で渡来僧の簡単な紹介をしてますが、こうした方達が地道に種をまき、法進などが鷹揚に天台経疏の書写を認めたりする中でようやくそれが実を結び始めた時期が延暦年間といえるでしょう。そして、その中で最も早く、最も大きな花を咲かせたのが最澄だった。最澄を簡単に語る時、「叡山にこもって勉強するうち、天台の教えが最も優れていると感じ・・」というような説明が多いように思われますが、何もないところから最澄はいきなり天台に目覚めたのではなく、充分な土壌の上に最澄が立ち上がったことがここからもわかります。さらに、桓武の事情が日本天台宗の躍進を後押ししました。ま、桓武の事情は最澄とは関係ないので、最澄がもう少し遅く生まれていたらすでに熟しつつあった天台の土壌の中から誰か他の先輩が日本天台宗を開いていたかもしれませんね。「歴史にif(もしも)は禁物」とはよく言われるところですが、それは歴史を自分の頭で考えたことのない人が言うセリフで、歴史から空想(妄想?)を除いたら面白くも何ともないじゃないか~・・・とわたくしは思いますね。景戒つながりで記事の内容が少し先走ってしまいましたが、「高雄講会」についてはこの後の記事で紹介します。↓ぽちっとよろしく~。にほんブログ村
2014年11月03日

●延暦18年(799)7月、インド人が三河へ漂着する。7月11日、常陸の4郡で早朝から晩までの間に15回の津波が押し寄せる。(報告は8月5日に届けられる)8月8日、天皇が埴川で禊を行う。9月、布勢内親王(桓武天皇第5皇女)が斎王として伊勢神宮へ入るため、京畿内の百姓が北極星に灯を捧げて祀ることを禁止する。9月7日、暴風で京中の多くの建物が倒壊する。11月、淡路で洪水。11月4日、地震。11月8日、淡路で風水害による甚大な被害があったため、淡路の百姓の今年の調庸を免除。12月4日、山城国を流れる葛野川の渡渉地点である楓(かつら)と佐井に渡し守を置く。12月8日、平安京工事のため、伊賀・伊勢・尾張・近江・美濃・若狭・丹波・播磨・備前・紀伊などから人夫を徴発する。12月21日、僧・等定が辞任届を出す。すみません、前回の続きです。最初のインド人の記事は何の関係もありませんのであしからず(笑)。え~、なんでも小舟で流れ着いた彼はふんどしを着け背中に布を巻き、左肩から袈裟のような紺の布を下げているといったいでたちで、現在の尺度で計算すると身長166センチで耳の大きさが10センチほど、20歳ぐらいの若者だったそうな。言葉が通じないので唐人に見せたところ、マレーシア人じゃないかと言い合ったが、日本語を覚えた後に本人が言うには、インド人だと言って琴を弾き、哀愁を帯びた声で歌ったという。彼の持ち物の中に草の実があったのでこれは何かと聞いたところ、綿の種子だと答えた。本人の願いによって川原寺に住まわせたが、自分の持ち物を売って寺の築土の外に小屋を建て、困窮していた人を休ませたりした。その後、彼を近江国分寺に移して住まわせたという・・・ははっ、インド人ってホントかよ?って感じだけど、南方からの漂流者がこんな時代にいたなんて面白いな。しかし、唐人なら誰でも異国人の顔を見分けられたわけでもないだろうし、唐生まれ日本育ちじゃ意味がないので、唐生まれ唐育ちの人が人種判別をしたんだろうな。その中には渡来僧もいたかもしれない。前回、2月には早良親王へ謝罪したのにまだ災害は続き、早良親王の眠る淡路では洪水による甚大な被害があったようです。ふふふ、どうする桓武ちゃん?12月にはまた大規模に人夫が徴発されて、遷都から5年経ってもまだ大きな工事が続けられていたようですね。で、前回延暦18年の初め頃の記述に戻りますが、1月20日に法均が、2月21日にその弟・和気清麻呂が死んでますね。『続日本紀』『日本後紀』などの正史では、重要人物の死去の記事に伴ってその人の事蹟が記される場合があります。こういうのを「薨伝」(こうでん)というそうです。1月20日の法均の記事には簡単な彼女の履歴が書かれているだけですが、2月21日の清麻呂の薨伝には姉・法均とセットで相当長い文章がつづられています。ところが、2月21日の薨伝では法均は前年の延暦17年1月19日に死んだことになっていて、清麻呂と同じ年に死んだのか、はたまたその前年が正しいのかわかりません。ま、それはともかく、和気氏は最澄とも関わりがあるので少し和気姉弟の紹介をしましょうか。和気の姉と弟が歴史に名を遺すのは、何といっても宇佐八幡神託事件。当然、清麻呂の薨伝にもそのあたりの経緯が詳しく語られています。まずは姉から。孝謙天皇(のちの称徳天皇)が出家したのは、彼女が上皇時代の天平宝字6年(762)頃だと思われますが、当時は俗人で上皇のそば近く仕えていた広虫も一緒に出家し、名を法均とあらため、上皇の腹心として諸事にあたったそうな。藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱の際、仲麻呂に連座して斬刑と定められた者が375人もいたが、法均が刑の執行を強くいさめたため、上皇はそれを入れて流刑・懲役刑に減刑したという。仲麻呂の乱ののち、戦の影響か飢餓や疫病に苦しむ百姓が草むらに子供を置き去りにするという事例が多くあったようで、法均はそれら83人の孤児たちを収容して養育し、「葛城首(おびと)」という姓を天皇から賜って孤児たちの姓としたというエピソードもつづられており、慈愛の深い女性として描かれている。で、弟。称徳天皇の夢に八幡神の使いだという人が現われて、天皇への奏上があるので使いをよこして欲しいと言ったというのが神託事件のスタートですが、八幡様に指名されたのは法均だったという話はここで語られます。ただ、法均は長旅に耐えられないので代わりにその弟を遣わしましょう、と清麻呂を指名したのは称徳天皇。この話を聞きつけた悪僧・道鏡が清麻呂にこそっと「ワシに良いような報告をすれば、アンタを大臣にしてやるよ。うっふっふ」と耳打ちしたという腹黒エピソードもここで出てきます。もちろんわたくしは以前に書いた通り、道鏡個人がちっぽけな野心を持っていたとは思ってませんが、このエピソードの後に興味深い話が挿入されてます。すなわち、神託事件の前に道鏡の師が清麻呂に、「道鏡が皇帝となるようなことがあれば天皇に対して面目ないし、そしたら野に下って道鏡に仕えずにいようと思う」と語った時に清麻呂もそれはもっともだと思ったとあるのです。事件の一連のエピソードについては、どこからどこまでがホントの話かわからないし、ここで藤原百川や永手が絡んで清麻呂にウソの神託をさせたという推測も世間にはあるようですが、フジワラムシが絡まなくっても清麻呂の意思が託宣の結果を導いたという考え方もできますね。で、結局道鏡の当選ならず、【天皇は意に反する思いがしたが、清麻呂を処刑する気にはなれず】(『続日本紀』)、 ・和気清麻呂⇒別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)として大隅へ配流 ・法均⇒還俗⇒別部狭虫(わけべのさむし)として備後へ配流という処分にとどめます。野望を踏みにじられた道鏡は怒り、追手を遣わして護送途中の清麻呂を殺そうと画策するが、急に雷雨であたりが暗くなり、清麻呂が殺される前に天皇の勅使がやって来たので清麻呂は九死に一生を得たとある。法均が流された備後は、和気姉弟ともゆかりの深い地です。のち政界に復帰した清麻呂も備後について奏上したりしてるし、ミワラには法均が勧請したという八幡宮が現存します。以前ミワラへ行った時、その法均ゆかりの神社・御調(みつき)八幡宮も訪問先の候補に挙がりましたが、結局断念しました。社伝によると、配流中の法均が八幡様を勧請したってことらしいんだけど、清麻呂が託宣を聞きに宇佐に行った際、八幡様が「我が必ず助けるから、汝は道鏡を恐れず真実を伝えよ」と言ったとされるので、八幡様のご加護を祈ったのかもしれない。興味深いのは、御調八幡宮には藤原百川の像といわれる木造の男神坐像があること。百川は清麻呂の忠義の思いに感銘し、備後にある自分の所領20戸分の収益を配流先に届けさせたというエピソードがあるのだ。どころか、三原市の観光情報サイトによると、百川が自腹を切って宝亀8年(777)に御調八幡宮の社殿を造営したとある。 百川が活躍した時代はちょうど皇統が入れ替わった時期にあたり、いとこの永手とともに希代の策略家としてのイメージが一般には強い。備後における百川の肩入れをもって託宣事件は百川と清麻呂が仕組んだという見方もされるんじゃないかと思うけど、いずれにせよ百川と和気姉弟とはそれなりの結び付きがあったとは言えるだろう。さて、称徳天皇がナゾのある死を遂げると、そのわずか1ヶ月後に和気ズは早々と呼び戻される。これまでの年表ではほとんど載せてきませんでしたが、その後は姉・弟とも順調に位階を上げて天皇の信任も受け、延暦4年(785)と延暦7年(788)には清麻呂の進言によって運河の大工事も行われるまでになる。延暦4年の工事は成功して物流路の確保に至ったらしいんだけど、延暦7年に23万人を動員した摂津の大工事では費用がかさみすぎて失敗。これが成功していたら延暦11年(792)の長岡の洪水は起こらず、平安遷都はなかったか、あるいは少し先へ延びていたかもしれない。ところで、工事に関連してウィキペディアにはこんな文章がある。 【堀越神社前の谷町筋がくぼんでいるところと、大阪市天王寺区の茶臼山にある河底池は その名残りとされ、「和気橋」という名の橋がある。】 (和気清麻呂のページより)へえっ、茶臼山!?そういえば、公園の正面口から入って茶臼山に向かう手前に池があったような・・・なにしろ、あの頃ってまだホントにかけ出しで茶臼山の記憶は脳裏に焼き付いているものの、写真はこんなのとか↓ こんなのしかない(通りすがりの動物専門学校)。↓ まあ、地図を見ると茶臼山と河底池のすぐ裏が堀越神社だから、あの辺を工事してたってことだな。なら、工事が成功してれば大坂の陣では別の場所に本陣が置かれたかもしれないってことか。ほおほお、なるほどね~。後年、清麻呂は足が不自由になり自分の足で歩けないのに宇佐の八幡様へお参りに行こうと輿に乗って出立した。途中、野生のイノシシが300頭ほど現れて静かに列を作り、10里ほどゆっくりと先導してそっと山へ消えていった。清麻呂が八幡様にお参りをすると、その日のうちに歩けるようになったという。して、八幡様の神封から綿8万屯を与えるという神託が降りたので、豊前の国中の百姓に分け与えたという。こんないい話満載の和気姉弟の薨伝ですが、法均は死ぬ前、弟と約束をしたという。当時は初七日から7日ごとに49日まで法要を営む慣習があったようだけど、その7日ごとの法要や年忌にいちいち追善の供養をする必要はない。2~3人の僧侶を呼んで遺族が静かに仏事をするだけで十分である。後世の子孫たちは私達2人を手本とすることになるだろう、とな。これがのちの最澄の事蹟と関わってきます。にほんブログ村
2014年11月02日

連休初日の本日。今日は出かける予定を立てていて、それだけを楽しみにストレスの溜まる1週間をどうにか過ごしてきたのですが、体調が悪かったのと雨の予報で気が重くなったので延期としました。そういや、ちょうど1年前のこの連休は試験が終わった翌日でうっぷん晴らしに寛永寺から湯島まで歩いたんだっけか。(「上野第三編(1)」以降参照)あれから1年か・・・ブログで歴バナを書く副作用として「時差ボケ」がひどいと2012年の総括の記事に書いたことがありますが、まだあの頃は戦国期を中心に書いていたので、4~500年程度の時差だった。ところが今年は天平の歴バナと本シリーズで1200~1300年ほど飛んでおりますので、時差ボケひどいどころの話じゃない。4~500年の時間旅行なんて可愛いもんだと思ってしまうんだから、慣れってのは恐ろしいもんですさて、前回延暦17年(798)の続きですが、桓武のお小言以外にも当時の仏教界の状況が見える記述が9月16日にあります。法相(ほっそう)宗は玄奘にもかわいがられたというあの道昭さんが持ち帰ったもので、世親の説を戴く宗派。もう一方の三論宗は龍樹の説を戴く宗派で、日本には3つの系統があるようです。(世親と龍樹は「叡山攻め(16)」を参照)法相と三論が車の両輪のように並び立ってこそ仏の功徳があまねく世間に及ぶものなのに、この頃は法相の勢いに押され、三論は風前のともしびのような状況にあったようです。ただ、この9月の「三論のススメ」は桓武の自発的な意思によるものではなく、三論宗の「法将」と呼ばれていた大安寺の僧・善議(ぜんぎ)のプッシュによるもののようです。「法将」とは「仏法の大将」という意味らしい。延暦17年の時、善議は70歳だったらしいんだけど、仏法大将ってすげえな・・・(笑)。三論と法相の争いについては少し記憶に留めておいてください。で、11月には最澄が法華十講(ほっけじっこう)の法会を初めて主宰してます。これは「法華経」など3つのお経の10巻について講義をしたもので、法華経8巻のほかには「無量義経」1巻、「観普賢菩薩経」1巻で計10巻。法華経は天台宗の根本経典。無量義経は法華経の開経、観普賢菩薩経は法華経の結経と天台大師・智ギが定めたものでこの3つをもって「法華三部経」といわれるものです。ちなみに、観普賢菩薩経はどうも法華経の中の「普賢菩薩勧発品」をベースにして書かれたもののようで、無量義経とあわせて中国での撰述と見られているようです。つまり偽経。だからどうだという訳じゃないんですが、法華経の成立時期には諸説あるものの、大乗経典だからどのみちお釈迦様の死から相当の年数が立って成立したものではあるし、仏教と訳経の歴史を知った上で日本仏教の歴史を見ると、色々な感情や感慨が浮かんできますね~。ところで、わたくしのお経暗記はまだ新しいステップへ踏み出せません。もう完全に覚えてはいるのですが、「覚えた」レベルじゃダメで、これが糖分やコレステロールなどと一緒に血液に乗って体内を流れるくらいにまで覚え込まないと、次のお経を覚えても古いお経を忘れてしまいます。ので、今は通勤の際にこれまで覚えたお経をまとめて唱えて消化に務めていて、わたくしの通勤は完全に「お勤め」の時間となってますが最新のお経「如来寿量品」は法華経の中でもメジャーなお経であり、おそらく法華経の中核をなす一節ではないかと思います。で、大体の意味は押さえているものの、毎日ぶつぶつと頭の中で唱えていると不思議と琴線に触れる時もあるもので、お釈迦様の「死」というのは仮の姿(=方便)で、実はいつも私たちのそばにおられるし、個々の人間がどういう行いをしてるかもぜ~んぶ知ってるし、どうやったら全員を成仏(成就仏身)させてあげられるのか、お釈迦様はいつも考えておられるんだよ~・・・という如来寿量品で説かれるお釈迦様の限りない慈愛をお経の中に感覚として読み取る時、「確かにこれはいいお経だわ~」とも思うし、「これこそ大乗の真髄だよな~」とも思ったりもします。宗派によって若干の読み方の相違はあるものの、日本で使われているお経は漢訳のものそのままなので、最澄や空海がわたくしと同じものを読んだのはもちろんのこと、多くの中国人も救ってきたのかと思うと何とも言えない気持ちになりますね。如来寿量品のあとは金光明最勝王経にチャレンジしようかとも思いましたが、このお経がなかなか良かったので、このまま法華経コンプリートを目指そうかとも思ってます。激しく話がそれましたが、最澄の法華十講は智ギの定めた法華三部経の講義であり、その日程は11月14日~23日の10日間。そしてその翌日、11月24日は智ギの命日で智ギの供養を兼ねた法要が行われたそうな。つまり、天台一色の法会だったようです。これまでにも書いてきましたが、法華経や天台自体は最澄以前から日本に入ってきてました。聖武天皇の命によって始められた国分尼寺の正式名称は「法華滅罪之寺」だったし、渡来僧の多くが天台の流れを汲んでいることも紹介してますね。が、天台カラーを前面に押し出して初めて大々的に法会を行ったのが最澄。現代でも11月24日には霜月会(しもつきえ)と呼ばれる智ギへの法会がほとんどの天台寺院で行われているが、延暦寺の場合は年ごとの法会に加え、5年に1度、霜月会と最澄への法要「六月会」、そして「広学竪義」という法儀の3つをあわせて一山あげての「法華大会」という大法儀が行われている。この法華大会は康保3年(966)から毎年行われてきた歴史ある勅会だったが、現在の5年に1ぺんスタイルに変えたのが天海で、今でも法華大会には必ず天皇のお使いが参加するそうな(延暦寺発行『比叡山』より)。法華大会を含む霜月会の始まりが延暦17年の法華十講。初めての華々しく大々的な天台法会だったから、日本天台宗の中では重要視されているようです。それから、月日まではわかりませんが、この年は道忠のもとで出家した円澄(えんちょう)が叡山に入って最澄の弟子となったようです。円澄の弟子入りについては前回ウィキと佐伯氏の推測の2つを紹介してますが、道忠が畿内周辺にいたならともかく、関東からわざわざ叡山に行ってるあたり、道忠と最澄のキューピッドとなったのが円澄なのではなく、大安寺から起こった風に押されて道忠が円澄を送り出したという佐伯氏の推測の方が妥当な気がしますね。円澄はのち、第2代の天台座主となります。初代座主は最澄と思われがちですが、最澄は天台座主にはなりませんでした。青・壮年期に華々しい活躍をした歴史上の人物で晩年陰りが見える方は多いですが、最澄も後半生は色々苦労してます。本シリーズでそこまで書くかはまだ未定ですが。●延暦18年(799)1月20日、法均(和気広虫)が死去。享年69歳。2月、美濃・備中・大和で飢饉。2月15日、春宮亮・大伴是成と大法師位・泰信らを淡路へ遣わし、早良親王の霊に幣帛を捧げ謝罪する。2月21日、和気清麻呂が死去。享年66歳。3月、近江・紀伊・伯耆・阿波・讃岐で飢饉。3月1日、民部省の米倉が震動する。3月8日、出羽の山夷(狩猟を糧とする蝦夷)への禄を停止し、田夷(農耕を主とする蝦夷)と山夷とを問わず功績のある夷人へ禄を支給することにする。4月、河内で飢饉。4月9日、何日も洪水が続いて稲の苗がダメになってしまったので、山城・河内・摂津等の国に実態を調査させ、貧乏人へ国衙の蓄穀を支給させる。4月15日、左右京の貧民に物を施す。5月、淡路・讃岐で飢饉。5月19日、諸国の国司と講師に国分寺の僧侶を監督させることにする。5月28日、使者を使わして伊勢神宮の正殿の改築をさせることとする。6月、越中・丹後で飢饉。6月4日、法華寺の尼をゴーカンした罪で雀部広道を捕らえ杖一百の刑に処した。6月5日、王者が国を治めるにあたっては徳政を先とし、皇帝が人民を養うには良い穀物を根本に据えるものである。朕は朝から晩まで民のために頑張っているが、自然の運行は順調ではないし、去年は穀物が実らず農業が被害を受けた。昨年の不作は朕への咎めの兆しだろうから、人民に豊かな恩恵を施しこれに対処しようと思う、として被害の大きかった11国の昨年の田租を免除する。6月12日、僧侶の中には勝手に本寺を離れて山林に隠れ住み、人の依頼を受けて怪しげな行為をする者が少なくない。そこで国司に命じて管轄内の山林の道場とそこに住む僧と在家の信者を調査し、漏れのないよう報告せよとする勅を出す。6月15日、神を祀るにあたっては恩徳と敬虔の気持ちがなければならないのに、大和国司はこれを怠り、雑任を遣わして祭祀に奉祀させている。祭礼を行っても応報がないのはこのためで、今後は守ないし介を遣わすよう命じる。6月20日、昨年の不作により民が食料不足なので、私出挙を再度禁止する。6月23日、京中の巡行の際見かけた囚人が働く姿を見て哀れに思ったので、現在刑役に着いている者と未決囚のすべてを赦免する。ただし、殺人犯や貨幣偽造犯などは赦免の対象から除く。6月27日、僧300人と沙弥50人を宮中に呼んで「大般若経」を読経させる。この年は面白い記事が多くて困ります。ので一旦ここでストップして見てみますが、6月4日のニュースはつい・・・(笑)。レイプ犯に百叩きは甘かろう。しばらく戦争の影は見えませんが、帰服した蝦夷への慰撫はまだ続けられてます。前年の不作が響き、朕の不徳の致すところとして囚人の解放や田祖の免除など懸命に徳を積もうとしてますが、その一方で祭祀の成果が上がらないのは国司のせいだなんて言っちゃってます。伊勢神宮の改築なども行って神様のご機嫌を取ろうとしてますが、やはり大もとに働きかけなきゃダメだと思ったようで、地位のある僧侶を遣わして再々早良親王へ陳謝してますね。大体、犯罪人が死んだのなら謝罪なんてことはしないハズだし、早良親王への陳謝はこれで何度目でしょう。完全に「負け」を認めて、6月5日の勅でも「昨年の不作は朕への咎めの兆し」と大っぴらにしてますね。それでもまだ桓武の苦悩と恐怖は続くのです。にほんブログ村
2014年11月01日
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