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皆さまおこんばんは~。2014年も残すところあとわずか。ので、ちょいと1年の総括をば。ブログを始めて3年とちょい。1年の総括も恒例になってきた気がするので、これまでどんな総括を書いてきたのかと過去の記事を読み返してみました。初めての年末は2011年。この年は震災があったので、そこらへんが中心だった。まだブログを始めて2ヶ月たらずで、そんなにブログ中心の生活というほどでもなかったしね。2012年は東西条からで、鏡山城を終えて翌日には新高山城を控えてた時だったので、戦国ムードに盛り上がっててロクな総括をしておらんかった。去年、2013年がやっと総括らしくなってきた時で「どんつく」言ってた頃だった。まあ、我ながらどれも大したことは書いてなかったけど、その年のトピックスなどはそれなりに盛り込んでいるので今から振り返ると懐かしい出来事もあった。んで今年ですが、まず松葉杖生活がありましたね~。骨折自体は何度か経験あったけど、松葉杖というのは初めてだったので、感受性豊かなわたくしは随分色々なことを感じました。骨折から半年経った今ではもう遠い昔のようで、秋頃までは痛みも頻繁に出てはいましたが、近頃ではだいぶそれもおさまってきました。少し前に骨折日記である「松葉日記」シリーズを読み返してみましたが、完治した今読んでみると確かによくこれだけ書いたな~と自分でも思う。でも実際はもっとたくさんのことを考えてました。街中ではたまに松葉杖の人を見かけることがありますが、男の人なんかは結構ひょいひょいと歩いていて、そんなに大変そうに見えない。やっぱ、腕の力とかが違うんだろうな。松葉杖が外れて間もない頃、職場の廊下を歩いていたら知らないおじさんから「もう大丈夫なんですか?」と声をかけられた。それ以来、どこの誰だか知らないそのおじさんと顔を合わせると挨拶するようになったけど、つい最近よその部署の一番偉い人だったことを知って驚いた。職場内では多くの人から珍獣さながらの好奇の目で見られたし、同じ部署のこれまた沢山の人からはかなり心配されて親切にもしてもらったけど、たぶん腕に力のないわたくしが松葉杖で歩く姿は相当ヨタヨタしてかつ哀れに見えたのだろうと、松葉杖でちゃっちゃか歩く男の人を見ては思う。で、松葉杖は結局労災は下りませんでした。わざわざ労基署へ行って申請をしてから1ヶ月後くらいに職場に電話が入り、まず口頭でその旨が告げられた。電話をかけてきた人は若そうな男の人だったけど、同じ治療をしても自腹を切る人と全額負担される人がいるという不公平にわたくしの不満は爆発し、労基署のお兄さんに赤裸々にその怒りをぶつけた。「それはごもっともです。正式な書類はのちほど送らせていただきますが、私にぶつけることで少しでもお怒りをやわらげていただければ・・・」腹が立つだけだから書類はいらないと言ったが、そういう訳にもいかないという。仕事中に自席で電話していたのでヒステリックに怒鳴ることこそしなかったけど、かなりストレートに怒りを表現してもお兄さんは静かに聞いていた。こういうクレームには慣れてたんだろうな。脳血管が切れそうなくらい怒ったけど、従順に話を聞いていたお兄さんに敬意を表してお礼を言ってから電話を切った。労基署からはその後、1ヶ月以上しても何の通知も来なかった。忘れた頃になって通知が届いたので、怒りが再燃した。「なんだよ、今頃送ってきやがって!もうすっかり忘れてたのに!民間じゃこんな遅すぎる対応許されんぞ!も~、お役所仕事ってのはコレだから・・・!!」ともかく、労災で松葉杖を使う場合は負担金が変わってくる場合があるので、皆さまがもしそういう状況になったらよく調べて病院を選んだ方がいいようです。さて、年末が近くなると1年を表す漢字が発表されますが、今年は「税」という身もフタもない漢字が選ばれて世間の不評を買ったことは記憶に新しいところです。あれを見て、やっぱり日本人は縁起をかつぐのが好きとゆーか、将来に希望を抱かせるような漢字を選んでほしかったと思う人が多かったと思うので、今でも日本にはコトダマが生きているんだな~と実感しました。わたくしも確か1年前ぐらいに寛永寺の「寛」という字を選んだ記憶があるので、てっきり去年の漢字かと思っていたら、今年の年初だった(「休暇のはじまり」参照)まあ、その頃はちょうど天海や輪王寺宮の話を書き始めた時期で、寛永寺を彩る歴史にどっぷり浸かってた頃だったからな。え~、今年のブログの成果は・・・・寛永寺シリーズ(上野第二編~第三編)・春の寛永寺・建仁寺の企画展感想・本所Wデビュー編・松葉日記・お盆の墓参り後の巣鴨と寛永寺報告ちょっと・高野山の企画展報告と赤坂・六本木の史跡ちょっと・叡山攻め(中断中)・日光写真館再開合間合間に短編を挟んでいるのでシリーズの数だけは去年よりは多い。寛永寺もかなり入れ込んだものの、短編では奈良時代や江戸時代の話などで雑多な内容となっている。「戦国ジジイ」らしい戦国の記事はほとんどない。元々の方向性からかなりズレ始めてきたことに後悔はない。どころか、今年は実に大きな収穫があった。何が収穫かというと、「春の寛永寺」や「叡山攻め」で初期の日本仏教に触れたこと、それから仏教史を学んだことです。歴史というのは色んなところでつながっているし、仏教は日本文化の根底に一貫して流れる重要なファクターですのでね。仏教をかじり始めたのには特に何の理由がある訳でもないし、「叡山攻め」でお釈迦様の仏教からの仏教史を書いたのは単なる勢いです「叡山攻め」ではまだ歴バナしか書いてないし、写真のない記事をあれだけ書き続けたのは「叡山攻め」が初めてですが、終わったあとに得たものは実に大きかった。それを実感したのは、高野山の企画展とその前に行った企画展の時。見方がね、それまでとは全然違うんです。考えることも全く違うし、色んなことがよく見えるようになりました。それもこれも仏教史をやったこととお経の暗記、それからテーラワーダへシフトしたことが大いに役に立っている。もちろん、色々わかるようになったとはいえ、知識が膨大に増えた訳じゃありません。知識というのは努力しなければ身につかないものなので、ちょっとかじったぐらいで何もかもわかった気になってる訳じゃないです。けど、仏教を知ることでこれだけ幅が広がるのかとホントに驚きました。こういう実体験に基づいて、歴史ファンの皆様にわたくしが言いたいのは「歴史をやるなら、絶対に仏教も押さえておいた方がいい」ということ。中には戦いの過程が好きだとか、城を見てるだけでいいという方もいるかもしれませんが、たいていの人はメインとなる時代の他にも「結構好き」という時代があるでしょうし、史跡めぐりをすれば「誰々のゆかりの寺」などにも行くでしょうし、企画展などにも行くでしょう。そういう時、仏教の知識があるとないとでは面白さが全然違います。わたくしの体験を通して言うならば、日本に定着している各宗派の大乗仏教を一旦離れて、小乗仏教の側から見る方が大乗の良さや発展の必要性がよりよく見えてきます。日本で出版されている仏教入門の類はおそらく大乗を中心にした解説だと思うので、大乗の真っただ中にいてそれを勉強しても、学生の受験勉強のようにただ覚えるだけに終わってしまうケースが多いんじゃないかという気がします。だから、外から見る必要性があります。感覚的に仏教がわかってくると、歴史が数倍面白くなります。やり方は人それぞれでしょうが、わたくしは小乗仏教を理解した上で大乗の仏教史をやることをお勧めしますね。仏教に興味を持ったら、お経も実際に読んでみることをお勧めします。面白いですよ~、お経って。わたくしのお経暗記は金光明最勝王経の「大辨在天女品」を継続中で、あと数行覚えたら最初の陀羅尼部分が出てきます。ま、この部分は陀羅尼というよりも単にサンスクリットの音写なだけですが、32もの香薬を撞いて香薬風呂に入れっていうもので、香薬のうちには菖蒲(ショウブ)・午黄(ゴオウ)・麝香(ジャコウ)・芥子(ケシ)などという日本人にもよく知られている名前も出てきますが、菖蒲を「菖蒲」と言うのではなく、お経の中では上の4つは順番に跛者(ハシャ)・瞿盧折那(グロシャダ)・莫迦婆伽(マカバギャ)・薩利殺跛(サリサッハ)となってます。こういうのが32コえんえんと続くんです 漢語に直してくれたらまだ覚えやすかったものを、32の香薬すべて音写になってます。その後で、「この呪(しゅ)を108回唱えてから身体を洗え」ってことで本物の陀羅尼が出てくるんですが、それももちろん音写。漢訳しなかった意図については「叡山攻め(19)」で紹介してますが、法華経にも音写は出てくるものの、金光明経ほどじゃない。訳経の歴史などは「叡山攻め(17)」以降の数話で紹介してますが、インドで生まれたサンスクリットのお経が中国で漢訳され、漢訳のまま日本に入ってそれがそのまま使われた。とは言っても中国語で読んだ訳でもなく、読み方は日本語。つまり中国語でもなく日本語でもなく、さらに合間にサンスクリットも入る。実にヘンテコなものです。日本のお経というのは意訳しなかった理由のひとつに「霊験が感じられなくなる」というのがあったけど、毎日暗記のためにぶつぶつお経を唱えていると、結局日本の歌謡曲で日本語の歌詞の中に突然「I Need You」なんて英語が出てくるのと同じで中国の訳経の現場でも「なんか~、ここ梵語のがカッコよくね?」「あっ、それいい!そーしよ」ってノリで音写にしたんじゃないかって思える時がある・・・お経というのは本来楽しむものじゃないですが、大乗の外に身を置き、かつ現実的・歴史的視点から見ることの多いわたくしから言わせるとお経はホント面白いです。て、もう文字数も残り少なくなっちゃいましたが、今年はブログへのアクセス数がべらぼ~に伸び、多くの方にお読みいただいたようで誠にありがとうございました。自分のブログのアクセス数が10万を突破する日が来るなんて、ブログを始めた頃は思いもしませんでした。今年は結果的に「寛」じゃなく「仏」の年になりましたが、今後も学んでいくうちに新しいことへの興味も生まれると思いますので、そうしたこともブログに書き留めて様々な楽しいことを皆様と共有できたらいいと思っています。1年間、お付き合いいただいてありがとうございました。どなた様も、良いお年をお迎えくださいませねにほんブログ村
2014年12月31日

は~、やっと仕事納めじゃ・・・少し前から風邪ぎみで体調が悪かったのですが、今日はかなり気分が悪くて帰りに寄ったスーパーでヤマザキの2コ入り300円のショートケーキを見て「今日は頑張ったから、ごほーびにコレ買って帰ろうかな・・・」と手に取ってから「ちょっと待て!ワタシの1年間のごほーびがコレか!?」とチープな自分に苦笑いしました。いや別に最初からケーキを食べたかった訳じゃないし、このまま寝込んだら買い物にも行かれないかもしれないから買っていこうかと思っただけで、1年間ケーキを我慢して最後の最後に2コ300円のケーキにたどり着いた訳でもないしさ・・・と自分に言い訳してみるわたくし・・・おとといからは貞子がうちに来てます。しばらくは三姉妹でにぎやかですが、我が家の中では貞子はわたくしをモーレツに愛しているので、仕事から帰ると愛情モロ出しの大歓迎でデカい身体で迫ってくるのでキズだらけですさて、前回は「叡山攻め」で学んだ仏教史をベースに日光の歴史をざっとおさらいしましたが、歴バナついでにもうひとつ。少し前にわたくしにとっては衝撃的な一文を読みまして、どこでそれを読んだのか忘れたので先週の土日は手持ちの資料からその箇所を一生懸命探しておりました。結局お目当ては見つからなかったんだけど、別の食いつきどころを見つけました。それは天海が「鎌倉以降途絶えていた皇族山主を復活させた」というもの。こういう表現自体は世の中にゴロゴロあふれてるし、特別目新しいものではありません。寛永寺シリーズでは寛永寺の創建と輪王寺宮のスタートについてあれこれ考えてきましたが、その頃のわたくしはこの平凡な文章を見ても何とも思いませんでした。しかし、物事にはやはり段階があるのか、寛永寺から日光を見ていた時は気がつかなかったものが日光から寛永寺を見ている今、このありふれた表現がチクッとわたくしの心に刺さりました。天海や歴代輪王寺宮が複数の寺の山主を兼帯していたことについての疑問や当時考えたことは「上野第二編(56)」にまとめてますが、今この記事を読み返すといいところまで行っていたのになんで気付かなかったんだろ~!って我ながら歯がゆくなります。まあ、しょうがないよな。そういうことを積み重ねて今があるのだ。寛永寺の呪縛を離れて日光をメインに考えてみる方が案外素直にもろもろの事象が納得いくように思えてきたのですよ。まずは輪王寺宮の誕生。天海が日光の復興に着手した時、天海の拠点は喜多院だった。衰微していた日光を復興させたことで、日光では天海を尊崇している。で、当の天海は日光の伝統を尊重する形で復興させていき、イエアス(の骨)を日光に遷座させた際も日光の慣習に倣うスタイルを取った。これは、天海が実際に日光入りして山内の気骨やら歴史やら霊地の雰囲気を肌で感じ取った結果だったんじゃないだろうか。喜多院に拠点を置きながらも、天海は日光をかなり気に入ったんじゃないかと思った。そして、そういう日光を昔の姿で再び繁栄させたかった・・・輪王寺宮の誕生は、「平凡な文章」そのままに「鎌倉期の皇族山主の復活」だったのかもしれない。考えに考えた結果が実に平凡なものだったというのは過去の記事でも何度か経験済のわたくしですので、別にへっちゃらです。ただちょっとばかり拍子抜けではありますが前に考えてたことと大して違わないじゃん?て思うかもしれませんが、全然違うんですよ~!前に考えていたのは、宮を迎える目的は他のところにあって山主兼帯が鎌倉の皇族座主の例にならった、というもの。今は鎌倉期の皇族座主を復活させることが目的そのもの、という考え。目的と手段が完全に入れ替わっちゃうんです。輪王寺宮は特殊な方で、単に「坊さんが2つの寺を兼務していた」ってレベルじゃない。まあ、実際には「三山管領宮」だから3つの寺のトップでもあるんだけど、やっぱり宮にとって重要なのは日光輪王寺と寛永寺。宮についての記述は、寛永寺側からは「日光を兼帯した」という表現であり、日光輪王寺側からは「寛永寺を兼帯した」という表現になる。まあこれはある意味当然だよな。どこの国だって、世界地図は自分の国が地図の中心にあるものなのだ。宮についてはわたくしは寛永寺サイドから入っているので、「寛永寺山主の『上野の宮様』が日光を兼帯していた」という感覚だったんだけど、宮の誕生が「日光における皇族座主の復活」だったのであれば、さて寛永寺と日光のどちらが宮の本拠というべきなのか・・・滞在期間でいうなら、寛永寺で過ごす方が圧倒的に長い。将軍の日光社参のスケジュールを見ると、江戸城を出て4日目には日光に到着しているので、宮の行程もこのぐらいの日数だろう。日光へは年3回出張し、「日光御鏡頂戴」のスケジュールから考えると、往復の日数を含めて1回に約1ヶ月の出張。年間では約3ヶ月といったところかな。けれど、「上野第二編(56)」で紹介した櫛田良道氏の寛永寺と日光輪王寺はその機能が分かれていたという説は妥当だと思うので、僧侶としての宮の仕事は年3ヶ月の日光滞在期間に集約される。一方の寛永寺では「輪王寺宮家」の当主としての側面におもな存在価値があった。そう考えると、「輪王寺宮」としては日光がメインだったとも言える。ただ、寛永寺にも将軍の霊廟があったし、将軍の葬儀の導師を務めるという重要なお役目もあったから、江戸では僧侶としての活動がなかった訳ではないけどね。もちろん。でも江戸と日光の「輪王寺」は菩提寺と祈祷寺という2つの側面を持っていたんだし、歴代将軍の中で神になったのはイエアスだけ。霊廟の管理だけだったら増上寺と同じレベルになっちゃうけど、輪王寺宮には東照大権現に国家鎮護を祈るという特殊な任務があった。ので、3ヶ月という短い期間であろうとも、やはり日光輪王寺での活動が宮が宮たる存在のあかしだったと言えるかもしれない。日光をメインに見ることでするりと重荷が取れたように感じた面は他にもあります。それは、寛永寺の造りや周辺。寛永寺が叡山のコピーだったというのもこれまた「平凡な文章」ですが、これまでずっとわたくしはそれについて疑問を持ってきました。けど、これも日光に「先例」があったんだよね~。てか、日光にそういう例があったから寛永寺が叡山のコピーってのはいかがなもんかと思っていたのですが。それについては「上野第二編(52)」でも軽く触れてますが、「にない堂」がその先例です。三山のにない堂を古い順に並べてみましょう。 最初が叡山。次が日光輪王寺で最後が寛永寺。輪王寺のは全体が写ってませんが、左側の渡り廊下が2つのお堂をつないでます。まあ、日光のは渡り廊下部分が地面に付いてるので「になって」はいないんだけど、スタイルは同じ。日光のにない堂は三仏堂とともに円仁さんによる建立だとされます。常行堂と法華堂という同じサイズ・造りのお堂を2つ並べて廊下でつなぐのはウィキペディアには「天台宗特有」とあるけど、輪王寺のホームページでは「この形式は大変珍しい」とあり、わたくしが知っているのは三山にあるだけ。尾張義直寄進による寛永寺の立派なにない堂は残念ながら焼失してしまったので、現存しているのは叡山と日光だけ。日光のにない堂は輪王寺サイドでは叡山の模倣だとしている。つまり、叡山のコピーの前例が寛永寺以前にすでに日光にあった訳です。日光の常行堂は江戸期の再建で、天海が日光の復興に着手した時点で当初のにない堂が残っていたのかはわからないけど、たぶんあったんじゃないのかな。天海が日光に入った時にはすでに叡山の復興にも着手していたので、日光に円仁さんの先例があるのを見て「これ、いいかも」ってよりスケールのデカいコピーに走っただけかもしれない、という風にも考えました。寛永寺シリーズを書いている時に初めて日光との関わりを知って「寛永寺を知るには寛永寺だけを学んでもダメなんだ」と実感したものの、相変わらず記事を書きながら考えてるので、自分の立ち位置を変えるにはやっぱり実際に記事を書いていかないと別の視点は得られないようです。ので、「叡山攻め」に戻ったらまた新たな考えが生まれるかもしれません。寛永寺シリーズを読んでない方は「なんで日光の記事で関係ない寺の話をするんだ」と思うかもしれませんが、天海がスケールのデカいことをやってくれちゃったもんで、これはもうしょうがありませぬ。でも日光を知るにも寛永寺と叡山の知識はどうしたって必要なので、日光を知りたいと思う方は「上野第二編」あたりもご覧になって下さいね。叡山の記事はこれから書きますにほんブログ村
2014年12月30日

※「輪王寺16」の続きです。「史跡探勝路7」までは「日光写真館」の目次からお入りください。さて、輪王寺を出て史跡探勝路へ復帰。ヤバいなあ、このくらいの時間には最終目的地あたりまで行ってなきゃならなかったんだけど・・・うちのあたりでは16時くらいから薄暗くなり始めるけど、ここはいちおう山の中だしこの先は人も格段に少なくなるだろうから、早めに切り上げる必要がある。とりあえず、四本龍寺を先にこなしておいてよかったな史跡探勝路へ復帰する道を東に進んでいくと、木の陰にお堂が見えた↓。あれだな。 ↑この道は駐車場へ向かう車は結構通るものの、歩く観光客はいない。わたくしもここのすぐ裏手にある「明治の館」というレストランで一度食事をしたことがあるきりで、こちら側をまともに歩くのは初めて。車に注意しながらお堂の前まで来ると、フェンスがあって中には入れなかった。え~、フェンス越しに見るだけえ~?(場所はこちら) 【小玉堂(こだまどう:重要文化財) 弘仁11年(820)弘法大師(空海)が、滝尾において修行をしたおり、池の中から 大小二つの白玉が浮かび出た。空海は、小の玉を虚空蔵菩薩の本尊として、堂を建てて 祀ったという。これが小玉堂である。また、大の玉は妙見大菩薩の本尊として、中禅寺に 妙見堂を建てて祀ったが、その堂は明治時代の天災で失われた。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)「お前が落としたのは金の斧か、銀の斧か?それともこの鉄の斧か?」というイソップ童話と、「おじいさん、みやげには大きいつづらと小さいつづらのどちらがいいですか?」という「舌切りすずめ」をドッキングさせたような話だと思いましたが、空海たんは結局両方つかみとったんだな空海たんが取ったのは玉だから、最初は「お前の玉は金の玉か、銀の玉か?」とか「お前の玉は大きい玉か、小さい玉か?」という水神様のセリフを考えましたが、それだとちょっとアブない話みたいになっちゃうしな・・・じゃなくて、空海さんは水戸の黄門様ばりに全国を行脚したという驚異的な数の伝承をお持ちの方。ちょっとネットで空海たんの伝承を調べてみましたが、やっぱり多いのが水に関連するもの。空海たんが持っていたミラクルな杖を地面に突くとあ~ら不思議!水がなくて困っていた土地に綺麗な清水が湧き出たというお話です。わたくしの記憶にあるところでは、磐梯山の山頂直下にも「弘法清水」があったな。あと、旅の途中で空海たんがみすぼらしいナリで食べ物を恵んでくれとせがんで断られると、家の柿が渋柿に変わったとか米が食べられなくなったとか、結構復讐系のエピソードも多い。まあそれだけ験力があると信じられていたんだろうな。で、日光にも上の解説の通り、空海たんが修行したという伝承があります。日光はわたくしにとって特別な場所だから、「それはないね」とバッサリ切ってしまいたくはないのですが、これはさすがに伝承の域を出ないでしょう。なぜこういう伝承が生まれたのか、逆に興味はあるけどね。「日光」の地名の起源には諸説ある。そのうちのひとつが「輪王寺1」で紹介したような、男体山登頂を果たした勝道さんによるもの。ほかに、空海たんによる命名だという説もある。大まかなところは勝道さんとあまり変わらないのだけど、日光を訪れた空海たんが「二荒」(にこう)の字がよくないと言って字ヅラのいい「日光」の文字を当てたというもの。個人的には空海さんは日光へは来ていないだろうと思うのだけど、日光の清龍寺所蔵の「二荒山一切経」には「二荒山」と「日光山」という表記があり、すでに平安後期にこの2つの呼び方があったことを示す最古の史料なんだそうな。して、このお堂、 虚空蔵菩薩を祀る仏的施設であるにもかかわらず、お堂の前に鳥居が建っている。もちろんこれも、神仏習合の名残り。今現在、この世に生存している人は当然神仏分離後に生まれた方々ばかりのはずだから、皆さま物心ついた時には神と仏は別々だった。けど、仏教史とか神仏分離について知識がある人以外、日本人でお堂の前に鳥居があっても別に違和感を感じる人はあまりいないんじゃないだろうか。日本人は宗教に寛容だとも節操がないとも言われるけど、こと神仏習合に関してはそれが長い日本の歴史であり文化であり、もはやDNAに刻み込まれているぐらいのレベルだから、わたくしに言わせればお堂と鳥居のコンビに違和感を感じないのはある意味当然のことでもある。特に、日光は古くからの霊場であり、習合の歴史も長く深い。「習合」なんて言葉が意味を持たないくらい深い。一般に日光の開山は勝道さんだとされるけど、それ以前に日光連山に分け入って修行していた先達がいたであろうことは時代を考えれば想像に難くないし、順を追って考えれば霊地たる日光のスタートは男体山・女峰山・太郎山の日光三山を崇める山岳信仰だった。山での修行については学んだことを「叡山攻め(48)」で少し紹介してますが、人を寄せ付けない霊峰に半僧半俗の修行者が少しずつ入り込み、そこへ勝道さんが弟子たちを引き連れて入山して奥地を開拓し、仏教カラーを強めていった。日光三山はそれぞれ権現(山の神)とされ、ついで本地垂迹に基づいて ・男体山=千手観音 ・女峰山=阿弥陀如来 ・太郎山=馬頭観音と進化を遂げていき、この「日光三社権現」が現在でもそのまま輪王寺の本尊として祀られている。勝道さんは鑑真来日後に設けられた三戒壇のひとつ、下野薬師寺において受戒したというけど、彼がどの宗派に属していたのかはわからない。が、円仁が来晃して山内の整備をしたあたりから日光山は天台宗になったとされる。そうは言っても山岳修行者がいなくなった訳ではなく、時代が下るにつれ山岳信仰と仏教のコラボによって日本独自の修験道も発展を遂げていく。『宝ものがたり』にこんな記述がある。 【(源)頼朝公の従兄弟・観纏僧都は日光山の座主に就任(第19世住職・1183) します。しかし、その拝賀をうけるおりに御簾をあげずに応対して住僧らの反感を かい、数日で日光山を去らされたと伝えます。幕府の権威のみでは従わない気骨の 表れといえましょう。】 (漢数字は戦国ジジイが変換、カッコもわたくしが追加)僧というより、わたくしには修験者の野太さを汲んでいるようにも思える。鎌倉期の座主・弁覚は奈良・大峯山の行場に不動尊像を奉納しており、室町期の永正6年(1509)には日光の行者・即伝が九州・彦山の修験道教義の整備にあたっていたという。世界遺産「日光の社寺」は東照宮を中心とする近世の豪華な建築物がメインで観光客のほとんどは「日光といえば東照宮」という意識だろうけど、その実、輪王寺三仏堂では神仏習合を思いっきり引きずっている日光三社権現を拝み、誤解を恐れず言えば東照大権現も摩多羅神・日吉山王権現とのセットの「東照三社権現」の一尊にすぎない。後北条氏が滅んだ後、そのあおりをくらって日光山も存亡の危機に瀕したものの、徳川の世になって天海が山内を復興させ、粘りに粘って東照大権現を日光に遷座させ、家光の大造替によって日光は華麗なる変身を遂げた。江戸期には東照大権現信仰の中心的存在とはなったが、四本龍寺も本宮・新宮の二荒山神社も山内から消滅しなかった。江戸期の日光一山は「二十院八十坊」といわれる。「院」は子院など僧侶の施設で「衆徒」ともいわれ、「坊」は修験者の施設で衆徒の下に組織されたそうな。山伏が僧侶の下に置かれたのは日光に限らない話で、多少低い位置に置かれはしたものの、江戸期でも山内には多くの僧侶と修験者が勤務していた。彼らを統轄するのが、言わずと知れた輪王寺宮。つまりは江戸期には東照宮に象徴される徳川将軍家の霊廟、輪王寺宮に象徴される天台宗の仏教の2つが並立しており、そのどちらにも古くからの日光における山岳信仰がしみこんでいる。ので、三重の信仰が宮の下に「日光一山」としてまとめられていたといえる。こういうものを、「神仏分離」という机上の理論で切り分けるのは非常に難しい。現に神仏分離による大ピンチで立ちあがった有志は、あなたたちの言うことをそのまま実行すれば東照宮は消滅しますよ、という主旨の熱弁をふるって保存に奔走したという話もある。明治5年には修験禁止令が出される。江戸期にも修験者の整理はあったようだけど、そんなの禁止の比じゃない。山伏たちは強制的に還俗させられたり大変な時期だった。現在の日光では日光修験が復活し、輪王寺での各種イベントにも参加しているらしい。たとえば、山伏による餅つき。これは全国的にも珍しいんだそうな。それから、逍遥園に隣接する紫雲閣では毎年12月12日に山仕事をする人たちの「山神供」というお祭りがあり、山伏が修法を行って邪気を祓うという。また、年越しの夜にはかつて輪王寺の御本坊があった三仏堂前の空間に特設の護摩壇が設けられ、山伏によるあおぞら護摩・・・いへ、「野天採燈大護摩供」という勇壮なイベントが行われるそうな。『宝ものがたり』にはその写真も載っていて、餅つきと山神供には山伏と共に輪王寺の僧も写っている。野天採燈大護摩供の方には見当たらないようだけど、年越しには本堂に一山僧侶が出仕して法会を行うとあるから、まあここに僧侶がいないのは仕方ないのか。厳密に言えばいちおう今は天台宗・輪王寺と日光修験とは分けられているとは思うけど、仏教史を知れば知るほどそれぞれの信仰が歴史の中では不可分だったことがよく理解できるので、山伏と僧侶が一緒にイベントやってる写真を見ると歴史の一端を垣間見るようでほっと安堵のため息すら出てくる。にほんブログ村
2014年12月28日

お茶屋御殿の先を少し進むとすぐ池の南側に着く。ここからルートに沿って池の東端まで行って池を一周する。 少し土が盛られて築山のようになっている・・・が、木が元気に繁茂しているので、あんまり庭の造りそのものはよくわからない。確かこの写真付近の奥の方には小さな滝もあったな。滝の写真は撮らなかったけど、滝の周辺の石組はわずかに宮の時代の名残をとどめているものらしい。ここから北側を観た光景↓。 奥に写ってる白い高い建物が工事中の三仏堂。右の木に隠れてわずかに見えているのが宝物殿で、左側の建物は紫雲閣。紫雲閣の名は勝道さん開山の伝承から来ていると思われますが、明治に入ってからの建物。近代に入ってから、日光には著名人も多く訪れている。明治9年には明治天皇が行幸。神仏分離令によって全国で廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたことは有名ですが、日光も大きな危機を迎えた。山内の関係者はもとより、民間からも有志が立ちあがって貴重な文化財を数多く有する日光山内の保存に努めた結果が現在の世界遺産という名誉な立場につながっている訳ですが、明治の始め頃は日光も混乱のさなかにあり、とりあえず独立した東照宮と二荒山神社から仏的なものはおおむね排除され、日光山全域の管理者であった僧たちはトップである輪王寺宮も失い、「満願寺」の旧称へ改称させられた本坊へ寄り集まって生活していたらしいのが、明治4年に本坊が焼失するという不運に見舞われる。もうスポンサーはいないわ、寺領は大幅に取り上げられるわで収入の道を断たれた「満願寺」にはすぐさま本坊を再建するだけの余裕はない。おそらく、明治始め頃の日光山内は想像以上に荒れていたのだろう。そういう時期に桂小五郎(木戸孝允)らを引き連れて明治天皇が日光に立ち寄り、「旧観を失うなかれ」というお言葉を遺したというエピソードがある。その3年後には、グラント将軍も日光を訪れたそうな。ああ、あの世界一周旅行の時だな。グラント将軍の日本での詳しいスケジュールはわからないけど、上野で植樹したあとに北上したのかな。ウィキペディアによると、グラント将軍は米国大統領経験者のうちで初めて来日した人なんだそうな。そしてウィキのグラントさんのページにはこんな記述もある。 【また日光東照宮を訪問した際には、天皇しか渡ることを許されなかった橋を特別に 渡ることを許されたものの、これを恐れ多いと固辞したことで高い評価を受けることと なった。】橋?神橋のことか?いやでも、あれも特別な橋ではあるけど勅使とかは渡ってたんだし、違うか。なら東照宮内の渡り廊下かなにかかとも思ったけど、そもそも日光東照宮を訪れた天皇は明治天皇が最初のはずだし、「将軍専用の橋」の間違いじゃないのかなあ。仮に将軍専用の橋があったにしても、輪王寺宮だけは渡れたんじゃないかとも思うけど。ウィキの記述が正しいものだとすれば、少なくとも明治以降の近代ルールだとは言えるだろう。ま、そういう方々も鑑賞なさった名園だということです。 う~ん、ただ池に突き出てるだけのようにも見えるんだけど、これが中島か?他に島っぽいのは見当たらないんだよなあ・・・わたくしが池の中の石、あるいは中島を探していた理由は『宝ものがたり』の中の記述にあります。 【この池の中に「験較べ石」があるといわれています。験較べとは山伏たちが 法力を競いあう行事で、羽黒山では今も正月行事に行われています。兎の縫いぐるみを かぶった者を中にして左右の山伏が替わるがわるに祈りを込めると兎がいろいろな 仕草をするというものです。大峯山でも似たような行事があり、こちらは蛙が出てきます。 日光山の伝承はもっと厳しいもので石が用いられています。「日光の故実と伝説」に よると、修行から戻った山伏たちが心を合わせて必死で拝めばこの石がモクモクと 持ち上がります。ただし一人でも真剣に修行しなかった者がいたら石は動かないのだそう です。もとは本堂の庭前にあったものを、逍遥園の中島に移したといいます。】 これは厳しい。石が相手ならまやかしは効かないもんね。羽黒山の「うさぎのぬいぐるみ」がちょっと気になった。ムサい顔したオッサンが着ぐるみ着こむのか?どんなうさぴょんの着ぐるみなんだろう・・・興味本位でネットで調べてみたところ、確かにうさぴょんだけどさいわい中の人の顔は隠れている(笑)。動画でちょっとだけ公開されていたのがあったので見てみたところ、現在のは型が決まった「儀式」と化している模様。まあ、これはしょうがないよな。逍遥園の中の「験較べ石」は何の表示や解説がある訳でなし、ここを訪れる観光客のほとんどには知られていない存在だけど、長く日光に修験道が息づいてきたひそかな証でもある。池の東端まで行くと、こんなのがあった↓。 へえ、修行道場だって。輪王寺は観光の面では有名だけど、寺としての本質的な活動や生活というのは表に出てくることはないので、もっと輪王寺のことを色々知りたいと思った。 ↑これが池の東端で、ここから池の北側に回る。前回の江戸期の山内図では省略しましたが、家慶訪問の頃にはこの池からさらに東に水が引かれ、その先にある建物の出っ張り部分の坪庭のような場所で小さな池を作っていたらしい。 この橋のすぐ先には かつての橋か? ↑変わった形の灯篭だな・・・ちょっと広島ふう。夜になったらこの灯篭は3本の足で園内を歩き回ってるんじゃないだろうか(笑)。以上で逍遥園は終わり。寛永寺のことを書いてから、日光輪王寺の歴史そのものにも興味を持つようになって、「叡山攻め」で興味の対象が広がってからはさらに輪王寺が面白くなった。何も知らなくても見どころを沢山抱える山内は充分楽しめるけど、輪王寺やその周辺に関する歴史を知ればもっと現地での散策が味わい深いものになる。以前が何も知らなかっただけに、そのギャップがいと楽し。時計を見ると、もう14:30になろうとするところ。や~ば~い~。予定の行程をすべてこなそうとすると、結構かかりそうなんだよな。日の短い時期だから、残り1時間くらいにとどめておきたいんだけど・・・と言っても、この次来るのがいつになるかはわからないのでせめて行けるところまでは行っておきたい。仕方ないので、とりあえず三仏堂の脇にある綺麗なトイレで用を済ませてから輪王寺のメインエリアを後にする。日光といえば、東照宮。が、わたくしは東照宮にはほとんど立ち寄ることはないけど、家光の大猷院へは必ずと言っていいほど行く。長年通う中で、時には年に2~3回来ることもあるので、山内だけでも2~30回は来ているだろう。だいぶ前には車で山の上に上がったあと山内に立ち寄って大猷院だけ行ったこともある。つまりは2~30回の訪問の中で大猷院に行かなかったのはホントの数えるほどの回数しかない。5本の指には納まるだろう。今回はお護摩を受けた分、行動できる時間も制限されてその上この後の行程に時間がかかりそうなので大猷院は予定から外した。ので、大猷院大好きのわたくしにしては異色の日光詣ででもある。それもこれも、勝道さんという大きなテーマがあったればこそ・・・※「史跡探勝路8」へ続きます。↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2014年12月27日

昨日、東武線の某駅にこんなものが貼り出されました↓。 「400年分の夢」か・・・「日光山」は室町頃には所領は18万石を数え、僧坊は500にも及んだという。往時に比べたら規模は縮小されたとはいえ、幕末から明治の激動の時代を経ていまだあれだけのものが遺されているのは、世界の歴史からいえば奇跡に近い。家康の死から400年という大きな節目の年を前にして、日光ではイベントムードが高まりつつあるようですな。来年は山内のあちこちで特別のイベントが盛りだくさんだろうし、今のわたくしのペースで行くと「日光写真館」は確実に10年じゃ終わらないので(笑)、来年は集中して日光を攻めるのもいいかもしれないとこのポスターに触発された戦国ジジイでございます。さて、ここで少し山内の変遷を紹介しましょう。と言っても、手持ちの史料は限られているので簡単なものですが。まずはこちらが、現在の位置関係↓。 「二つ堂」は常行堂と法華堂のことで、「上野第二編(35)」で寛永寺の「にない堂」を紹介してますが、寛永寺では常行堂と法華堂をつなぐ渡り廊下が高く宙に浮いてたのが、渡り廊下が地面に付いている日光バージョンのにない堂です。「慈眼堂」はその名の通り天海の墓がある場所で、ぴったり寄り添うように家光の大猷院があるのがいかにも家光らしいとゆーか・・・じゃなくて、今度は江戸期の図↓。 三仏堂は東照宮の西隣の小高いいい場所にあったのが、明治の神仏分離で山内が切り分けられることになったので相輪塔とともに現在の場所へ引っ越したようです。相輪塔は法華経が納められている、仏的建造物だからね。で、現在の輪王寺の観光のメインエリアにはかつて御本坊がでーんと広がってました。本坊の図は江戸博の企画展図録「日光東照宮と将軍社参」にあった「家慶公天保十四年卯年四月日光御参詣之節御旅館絵図」から大ざっぱに写したものです。この図には間取りも細かく描かれているのですが、立派な御殿サイズ。もちろん、一品(いっぽん)法親王である輪王寺宮の日光での滞在場所ということもあるでしょう。が、それだけじゃありません。徳川歴代将軍の日光社参は確実なところでは15回(秀忠の大御所時代も含む)にもおよび、絵図のタイトルからもおわかりでしょうが、御本坊が将軍のステイ先ともなっています。家光の頃には山内に専用の御殿があったらしいのですが、貞享元年(1684)の大火で焼失してしまい、そのあと御殿は再建されず御本坊が宿泊先にあてられることになったんだそうな。貞享元年の火災は、本宮神社なども被害に遭った大火のことですね。現在の輪王寺観光エリアは、三仏堂と宝物館の間はぽっかりとした広い空間。が、黒門を入ってすぐの場所から現在ぽっかりと空いた空間のほとんどを本坊の御殿が占めていたようです。やあ、まさかあの場所に宮の御殿が広がっていたとはね。15回の将軍の社参のうち、半分以上が家康大好き、天海大好きの3代・家光によるもの。が、将軍の社参ともなれば文字通り「御動座」にあたる訳で、重臣たちも将軍に付き従い、道中での警護もハンパない。実際に行われた社参以外にも、「日光行くよ~」と予告はされていたものの費用やその他の諸事情により中止された幻の社参もあるそうな。しかし、将軍はおいそれと行かれなくっても、将軍の霊廟を2つ抱える日光では年回忌などの大きな法要もちょいちょいある。将軍が行かない場合は、名代を遣わしたらしい。貞享の大火のあと、御本坊が将軍の宿泊先となってから日光社参を決行した将軍は8代・吉宗、10代・家治、12代・家慶がそれぞれ1回ずつの計3回のみ。さすがに将軍ともなれば日光でも御目見とか饗応も行われたりするので、この3人が社参に来る前にはそういう特殊イベントもできるようにわざわざ御本坊にも改築の手が入ったらしい。将軍の日光社参についてはおいおい紹介していきますが、ここでは現地へ戻りましょう。輪王寺の宝物殿からは、南側に広がる庭園に出られる。ようかんの綿半さんとともに、今回わたくしが外せなかったお目当てでもある。庭園の名は、「逍遥園」(しょうようえん)という。 【この庭園は、逍遥園といい、江戸初期の造園。小堀遠州の作と伝える回遊式庭園である。 池を中心に、鶴亀に擬した中島と岬とが配されており、四季折々の風情に富み、花木が 織りなす美しさは格別である。かつての当輪王寺法親王宮の本坊の庭として、今に 伝えられている。江戸後期の儒者佐藤一斎(いっさい)は、庭園の勝処八景をあげて 「逍遥園」と名づけた。】 (現地解説板より)このお庭はかなり昔に一度だけ歩いた記憶がありますが、庭園に興味がある訳でもないし日本史に興味もなかった頃なので、それ以来入ることはなかった。そんなわたくしに転機が訪れたのが寛永寺シリーズ。あのシリーズでは寛永寺創建やら輪王寺宮誕生やらについて色々考えてそのまま書き散らしてきましたが、その頃の「上野第二編(52)」で宝物殿に隣接する庭園が宮のための庭だったと知ってホントに驚きました。佐藤一斎の『逍遥園記』からの引用文が日光輪王寺のホームページに載っていたので、転載します。 【園内には琵琶湖の近江八景を模した大池があり水清くたたえ、その水面に空の雲と 囲りの木立が映し出される様、ならびに夕月が東から上って池の嶋の付近の樹木を 照し出して、水面にうつし出される様は格別。嶋にかかる石の小橋を渡りつつ 観賞されるあたりのたたずまいは、別天地に参ったような感慨を深める。】近江八景を模したお庭を宮が逍遥する姿から「逍遥園」としたようですが、小堀遠州の作庭というのはどんなもんか・・・もしこれが初めから宮のために作られた庭だったとしたら、年代的に少々無理がある。というのも、小堀遠州が亡くなった年に初代輪王寺宮である守澄法親王はやっと関東に下向した段階なのだ。(輪王寺宮が誕生するまでの流れは「上野第二編(19)」を参照)とはいっても、宮をお迎えする契約はもっと早い年に決まっていたんだし、まだ見ぬ法親王宮のために名高い小堀遠州を迎えて早々と日光に宮のための庭を作っていたという可能性もないとは言えないし、宮のために作られた庭でなかったとしても、東照大権現を安置した日光山内に華を添える庭園の作庭を遠州に依頼したという可能性もある。もし宮のための庭でなかったとしたら、寛永寺周辺が叡山のコピーだと一般に言われるように、日光のも叡山のコピーである可能性はある。輪王寺のホームページによると、逍遥園は時代を下るごとに改作が加えられたらしいので日光にお勤め中の宮がなごんだお庭そのものではないにせよ、その雰囲気を味わうことはできる。では、写真で現地の様子を紹介しましょう。宝物殿の奥にある扉を抜けて庭園への道を歩き出すと、頭上にはネットが張られていた↓。 ナニコレ・・・なにか引っかかってるな。カリンかな?足元を見ると こぶしぐらいの大きさはある。アハハ、こんなのが頭に直撃したら痛いもんな。 この池は東西に長い。少し雪が積もっていてくれた方が風情があって良かったかもな・・・ ところで、宮萌え~もさることながら、この時は池の中にあると思われる石を探しておりました。中島がどーのとも言うから、中島にある石かもしれないんだけど、どれが中島じゃい・・・こっち側じゃないのかな。 池の東端には小さな亭がある↓。 茶室かと思ったけど、炉がきってないなあ。『宝ものがたり』には【江戸期の棟札に「お茶屋御殿」とあったという】とある。江戸期なら、宮もお勤めの合間にここから池を鑑賞したかもしれないな。↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2014年12月26日

三仏堂を出たら、もう13:30だった。お護摩は12時頃には終わってたハズ。やべえ、そんなにまったりしなかったハズなのに・・・今度は三仏堂の向かいにある輪王寺の宝物殿へ。ここもこれまではあまり、とゆーかほとんど行かなかったけど、去年あたりからはお気に入り。宝物館の入口には今後の特別展示についてのポスターがあった。 へえ、イエアスの位牌、初公開だって。しかも、大猷院(家光の墓所)でやるの?よく東照宮がレンタルしたな~と思ったけど、位牌だから寺である輪王寺の方で管理してるのかもしれないな。会期は2015年4月22日~2016年11月30日まで。たぶん、お焼香の場所から1~2m離れたところに置かれると思うけどね。皆様、お見逃しなく。普段はどこに安置されてるのかはわからないけど、家光も大好きなじい様のお位牌を自分とこにお迎えすることになって草葉の陰で狂喜しておるだろうて。それからこれ↓。 これもイエアスの位牌公開と同じスケジュール。来年は東照宮の方でもなにかやるかもしれないな。てか、さっき三仏堂にコレいた気がするんだけど・・・違う風神・雷神像だったのかなその隣にこれが↓。 事足れば 足るに任せて 事足らず 足らで 事たる 身こそ安けれ人間の欲ってのはキリがないから、満ち足りた生活に慣れてしまうとかえって不満などが出てしまう。ちょっと足りないくらいが案外満足できるもんじゃよ~。腹6~7分目くらいを心がけなされ。フォッフォッフォッ・・・みたいな?さて宝物殿。 看板は特別何も書いてなかったけど、今年行った時は第155回企画展「山岳信仰の遺宝展2」をやってました。山岳信仰って、思いっきしタイムリーじゃん!!この後はしばらく歩く予定なので、できれば早くそちらに行きたかったけど、これぞまさしく勝道さんのお導き。行かねばなるまい・・・内部は写真撮影禁止なので、写真はありません。宝物殿の展示室は一室。企画展といってもテーマに沿った展示物に完全に入れ替えになる訳でもなく、企画展用にあつらえた図録などもないようだった。輪王寺には長年お世話になっているので、営業協力はしたいものの、タダで入れるところはあくまでタダで入る堂宇で入場料以上の寸志は納めてるしさ~。てことで、ここもタダ券を使って入る。ここには去年めっけたお気に入りがあってさ~。去年はメモ帳にスケッチしましたが、とてもお見せできるものではないので今年メモってきた解説だけご紹介しましょう。 【獅子大香炉 慶安4年(1651)青銅製 初代関宿藩主となった板倉重宗が洛陽(京都)三条釜座の鋳物師名越三知に造らせた 大型の香炉です。銘文には慶安4年11月20日とあり、徳川家光公の死後7か月の 忌日に大猷院に納めた旨が記されています。】 (宝物殿解説より)板倉重宗は徳川和子の入内の「上野第二編(61)」あたりで出てきましたね~。京都所司代で家康を支えた重鎮・板倉勝重の子です。そうか、重宗は関宿藩主になったのか・・・香炉といってもかなり大きなもので、小さめの火鉢ぐらいのサイズ。この獅子の顔がかわいくて、三次元プリンターで造ったレプリカでいいから、手元に置きたいと思って去年はかなり長いこと眺めてました。今年も置いてあってよかった入口にある香炉の周辺は去年も見たようなものが変わらず並べられていた。が、その向かいからは早速勝道モードのわたくしを喜ばせるものが出品されていた。 ・伝勝道上人所用 鉄錫杖(奈良時代:重要文化財) ・伝勝道上人所用 刀子(奈良時代)おお~、勝道さんの所用の伝承を持つグッズなんかあるんだ~!!錫杖の方の解説だけメモってきました。 【これは上人が用いたと伝わる錫杖です。装飾が少なく、正倉院宝物の鉄錫杖に似て いるので、奈良時代の作と考えられます。】「2014日光詣で」で輪王寺境内の入口に雄々しく立つ勝道さんの写真を再掲してますが、ちょうどあんなカンジの杖。てか、たぶん輪王寺に伝わるこの鉄錫杖をモデルにあの像に錫杖を持たせたのだろう。ホントにシンプルな造りで、傍目から見ていてもずっしりとした重量感がある。鉄だってよ、オイ・・・これをお供に困難な男体山への登頂を幾度もチャレンジしたのだろうか。相当重いと思うんだけど刀子(とうす)の方は、これもシンプルな造りでかなり実用品の雰囲気がある。束の部分は水牛の角でできているんだそうな。どちらもさびた色のずっしりとした、それでいていかにもたくましい修験者が使った感アリアリの、勝道さん所用の伝承のあるアイテム。これだけで一挙にテンションが上がったことは言うまでもありませぬ。今回の企画展には重文・重要美術品・栃木県指定文化財の貴重な品が数点出ていて、どれも良かったですが今回のわたくしの食いつきどころは決まっている。もうひとつ、勝道さん関連で食いついたのがありました。 ・沙門勝道歴山水螢玄珠碑「さんすいをへて げんじゅをみがくひ じょをあわせたり」。「じょ」は「序を合わせたり」かな?まず解説文から紹介しましょう。 【弘仁5年(814)弘法大師空海が撰した文章を、江戸時代の輪王寺門跡公弁法親王が 揮毫し、銅板に刻みました。勝道上人の事跡と、日光開山についての、最も信頼のおける 史料です。もとは中宮祠の男体山登拝口に立てられていました。宝永2年(1705)。】すげえ!勝道さんと空海たんと宮のコラボだよ~!!・・・もう、鼻血が出そうになりました(笑)。見どころが腐るほどある山内では、宝物館の類にまで寄る人は少ないです。去年はここにはぱらぱら人もいたけど、今年は運よく誰も来なかったので完全に独り占めしゃがんでメモを取ったり、碑文を双眼鏡で読んだりと思う存分堪能いたしました。公弁法親王は「上野第二編(23)」などで顔を出した輪王寺宮で、5代・綱吉と親密な関係を築いた方。公弁法親王は能書家でもあってね。去年は公弁法親王のお手になるお経も展示されてました。ところで、なにゆえ突然空海たんなのか・・・勝道さんの没年は、弘仁8年(817)。男体山登頂成功は天応2年(782)、47歳のとき。中央政界では氷上川継の乱が起こった年です。(「叡山攻め(40)」参照)この碑文を空海が撰した弘仁5年は勝道さん79歳の時で、死の3年前。勝道さんは自分の経歴やら日光に関する文章の起草を空海たんに依頼したらしい。なぜ空海を選んだのかはわからないけど、ウィキペディアの空海のページには 【空海の著作の一つ『文鏡秘府論』は詩作法・作文法の解説書で、その序文によれば、 当時、多くの若者が詩作・作文の教授を乞うため空海のもとを訪れていたらしい。 また、 空海の詩文を弟子の真済が集成した『性霊集』の序文によれば、空海は詩、上表文、 碑銘文、願文などあらゆる種類の文を、草稿なしですぐに書き上げるのが常であった という。】とあるので、能書家・文書家として空海が在世中から高い評価を受けていたことがうかがわれる。さすがに現地では碑文までは写せませんでした。文字が細かいし沢山あるのでが、「高野山の名宝」展で空海から最澄への返書について「密教21フォーラム」様のサイトをご紹介しましたが、こちらのサイトは実に層が厚くて、この碑文の口語訳も載っていました。サイトの管理者様にリンクの可否についておうかがいしたところ、快くリンクの承諾をいただいたので碑文の解説のページのリンクを貼らせていただきます。(エンサイクロメディア空海『勝道上人「日光登山記」と空海』へのリンクはこちら)ちなみに、理趣経についても記事を修正してリンクを貼ってありますので、「高野山の名宝」展の記事で「自分で検索するの、めんどくせえ~」と思って読まなかった方は上記「高野山の名宝」展のリンクからお入りください(笑)。まあ、こちらの訳文を読んでみると、一般に知られている勝道さんの日光における流れがこの碑文に負うところが大きいということがよくわかる。勝道さんと空海たんは同時代を生きた人であり、「最も信頼のおける史料」とされるのもうなずける。勝道さんと空海はおそらく会ったことはないんだろうけど、口語訳とはいえ、碑文の内容は生き生きと臨場感があり、美文。これは空海たん自身も山で修行した経験が生かされてはいるんだろうけど、それにしてもすごい人だね、空海さんという人は。人気があるのもわかるわ。公弁法親王も、一文字一文字を噛みしめるように丁寧に揮毫していったのかもしれないな。去年は天海所用と伝わる行事壇も展示されてました。企画展の有無に関わらず、展示品には入れ替えがありますが、輪王寺の所有する主だった名宝は、宝物殿で売っている図録『日光山徳川四〇〇年の文化』に沢山収録されていますので、輪王寺へお立ち寄りの際はぜひこちらもお求めください。にほんブログ村
2014年12月24日

去年、売店コーナーの先には修理工事の様子を覗ける「天空回廊」への入口があった。「天空回廊」エリアへ入るには、三仏堂の拝観券(400円)がいる。去年は回廊への入口に係の人がいて、三仏堂へタダで入れるわたくしは拝観券を持っていなかったため、回廊への入口でキャッシュで入場料を払って上へと向かった。今年、同じ場所には修理の様子を書いた看板などがあるだけで、係の人はいない。去年回廊へと上がった入口は変わらずあるけど、ここが入口だと大っぴらに書いてもいない。あれ、場所変わったのかな・・・お金をどこで払えばいいんだ。通路の奥の方を見ても、それらしきものはない。きょろきょろしてから売店のおじさんに聞こうと思っていたら、男性1人と若い女性2人がヘルメットをかぶって私の脇を通り過ぎていった。女の子2人は普通のカッコをしてるので、回廊の観覧客かな。去年、メットなんかかぶったっけ?売店コーナーに戻ると、おじさんは今度は別の観光客と話をしていた。が、この後の予定もあるしわたくしもこれ以上待てないので、割って入ってお目当てを買いにいった。え~と、まずは良源さんのお守り。これで74人目の良源さんゲット~ 【鬼守 除災招福 日光山所蔵秘仏 降魔大師】とある。「日光山所蔵秘仏」?なら、三仏堂の御厨子の画像ってことかな。これは他の天台の寺で手に入れた鬼大師とは少々ビジュアルが違っているけど、『宝ものがたり』に載っている鬼大師の画像とよく似ているので、たしかに鬼大師が秘仏として日光にはあるってことだよな。ただ、輪王寺には良源さんの御厨子は2つある。鬼大師はもはや人間の姿をとどめてはいないけど、寛永寺の画像とよく似ている方の画像はちゃんとした人間で描かれているので、人間と鬼のスタイルの2つの画像のうちどちらかが三仏堂にいて、もう一方が大護摩堂の正面の御厨子におわすのだろう。三仏堂の方が鬼大師って気がするな。「新しいお守り、始めたんですね」とおじさんに話しかけたら、「皆さんそう言われるんですけどね~。去年からなんですよ。大護摩堂の鬼門除け札にもお大師さんの絵があるんですけど、持ち歩けるものはないのか?って声がありまして、始めたんですよ~」ということだった。えっ、去年、見落としたのか・・・確かに小さいお守りだから、何かしらの宣伝でもしてくれなければ気がつかないかもな。あと、持ってなかった「波之利大黒天」のおふだを買った。変わった名前ですが、「波之利」で「はしり」と読みます。おふだには説明が付いていて、ちょっと長いので詳しくは別のところで紹介しようと思いますが、勝道さんの男体山の登頂を助けたとされる大黒様です。 【この大黒天はよく諸人の苦厄を救わせ給い、特に事業成就、道中安全、開運の尊天とし、 別しては安産、足止め、盗難除の守護天として全国的に尊崇を受けております。 お願いごとのときには 一、盗難除け、盗難に遭ったとき、若しくは失せ物のときに、お姿の両足に縫針をさし、 他人に知れない様に逆さにして、おまつりし日数を限ってお願いする。 一、足止め、走り人、家出人、尋ね人のときにはその人が男なら左、女なら右の足に 縫針をさし、前と同様にしてお祈りをする。 一、安産、お産のときには茶碗に清水を汲みこのお姿を水鏡に写してその水を産婦に 呑ませた後お姿を腹帯の中に抱かせて置き、朝夕福子安産を祈る。】 (添付の説明書より)うおお、なんかすげえな・・・うちの親がボケて徘徊するようになったら、針をさして足止めするかな・・・波之利様のお姿は素朴なもので、おふだと言っても小さいので持ち運びもできる。最近、旅先では妙に緊張感がなくなって自分がどこに来ているのか失念することもある461歳のわたくしですので、旅先から帰れなくなることもあるんじゃないかと危惧するときもあり、旅先に持っていって自分の足止めをするのもいいかもしれない、なんて思った。天空回廊への入口について聞いたら、やはり去年と入口は同じらしい。じゃあ、三仏堂の入口で料金のことを聞いてみるかな。おじさんは三仏の修理スケジュールも教えてくれた。前の説明では皆様京都の修理工場でお色直しするのかと思っていたけど、日光にお戻りになって修理を続ける大仏様もあるらしい。ついでに、入口に書いてあった寄付の件についても聞いてみた。そしたら、特に「寄付」という形では受け付けてないんだとのこと。お気持ちで結構です、とのことだったので、三仏の台座の前にある賽銭箱に寸志を納めようと思ってルートを戻っていったところ、ちょうど観光客が来ていたので手近な護摩壇の賽銭箱に少々納めてきた。三仏堂の入口まで戻ると、正面にお坊さんがまっつぐ立っていたので声をかけたところ、「すいません、あちらの係に聞いてください」と言ってまたまっつぐ立って威儀を直した。輪王寺のお坊さんや職員さんは親切な人が多いんだけど、このお坊さんは不親切だな・・・と思いながら入口の係のところまで行ったら、さっきのお坊さんがものものしく団体客に説明を始めた。ああ、団体さんを待ってたワケねならしょうがないよな。係のお姉さんにお金を払って、天空回廊への入口へ向かう。よかった、メットかぶらなくて良さそうだなさっきの人達は工事関係者にも見えなかったけど、何だったんだろう・・・天空回廊のあるのは7Fだったかな。工事用特設階段を上がっていくので、足の悪い方にはちょっとキビしいです。去年は途中の5Fにも寄れるようになっていた。ここで の公開があったんです。鎮将夜叉様については「叡山攻め(76)」などで紹介してますが、この強力なパワーを秘めた秘仏が御開帳となるのは、9年に1度。それは「五黄中宮」の年なんだそうな。以前に輪王寺から送られてきたご案内のチラシによると、 【この年は一度凶事が発生すると天災・人災を問わず大きな被害・損害をもたらすと 言われております。過去には大正12年の関東大震災、昭和16年に勃発した太平洋 戦争、さらに記憶に新しいところでは阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件といずれも 国家存亡の危機に直面する様な出来事が、この年を中心に起こっております。】だそうで、それで五黄中宮の年に特別御開帳をするんだそうな。日光の鬼門除け札のシステムはなかなか親切で、不定期に特典もある。この御開帳の時には、特別にあつらえたブレスレット型のお守りの特別頒布があって買うつもりでいたのですが、何かと出費が多かったので断念しました。たかが3,000円をケチったことを今では後悔しております。次の機会があったら、ぜひとも買っておこう前にも書いたように、日光の鎮将夜叉像は天海と輪王寺宮にゆかりの深い像。どきどきしながら5Fに足を踏み入れると、小さな展示室でしかも係のおじさんは無愛想だった。輪王寺にもこーゆー人いるんだ・・・まあ、階段のすぐ脇で暖房はなくて寒いし人も来ないしでこの時のおじさんは気が立っていたのかもしれない。室内にはロープで拝観用の通路が作られていたんだけど、私が入った時には誰もいなかった。室内に入るとすぐ後から観光客のカップルがやって来たので、彼らに道を譲ってわたくしは壁に貼ってある説明などを見ていた。一部メモってきたので以下にご紹介します。 【山科の毘沙門堂門跡にも鎮将夜叉像が伝えられている。小さいのは、その信奉者の 髪の中に安んじると伝えられるため、小さな像でなければならなかった。】輪王寺の宝物館で買った『日光山徳川四〇〇年の文化』という図録には、鎮将夜叉法は天海が日光に伝えたとある。鎮将夜叉像の方も天海のゆかりという伝承があり、どちらも天海を起源とするので、これはもう毘沙門堂との関わりとしか考えられない。ただ、寛永寺の名作仏像コレクションを考えれば、よくオリジナルの鎮将夜叉像を毘沙門堂に残したよな、って気もするんだけど、毘沙門堂サイドで頑強に抵抗したか、さすがに最澄がらみということで遠慮したか。いずれにせよ、天海と歴代輪王寺宮が祈った歴史ある像です。でその鎮将夜叉様ですが、ホントに小さかった。しかも素木で、上のポスターの絵の像とは全然違う。輪王寺宝物館の図録には鎮将夜叉様がおさまる三重の厨子の写真だけが載っていて、【尊容(おすがた)は、七福神の毘沙門天に相似する】と解説があるんだけど、まあそんなカンジ。さいわい先ほどのカップル以外は誰も来なかったのでわたくしも粘って鑑賞はしましたが、背中に突き刺さるおじさんの視線が痛い・・・のでそこそこで退散しましたが、思っていたよりも地味で素朴な像でした。「信奉者の髪の中に安んじる」という伝承は葛原親王の伝承から来ているものと思われます。さて、天空回廊。ポスターにはこんな写真も載っていますが↓ 去年の時点ですでに屋根はなく、かなり見下ろす感じ。写真が撮れないのでイマイチ比較はできませんが、今年もあまり進んだ様子はなかった。各階には脇に解体した部材が沢山積まれている。吟味した上で、使えるものはまた再利用するのだろう。工事に関わっていると思われる東京文化財研究所様からは三仏堂の状況についての報告がネットでも公開されている。本格修理に先だって部分修理を実施した際、オオナガシバンムシという虫による被害が発見されたそうで、この虫害は通常の打音検査では見つからないというタチの悪いものなんだそうな。元々10年の工事予定だったけど、三仏堂の入口にもあったように場合によってはもっと期間が延長されるかもしれないな。今年はかなり下の方で職人さんが作業してるのが見えたけど、なんだか地道な作業をしておられる。貴重な文化財で世界遺産だから神経も遣うだろうし、大変だね。回廊にはガラス窓が付けられているけど、窓が空いてるのは数か所しかないのであんまりじっくり見られるという訳でもない。と、私の窓の下をメットをかぶった3人組が歩いていった。あ、あれはさっき見た3人だ。部材の前で男の人が女の子2人に何やら説明をしているので、建築を勉強している学生さんなのかもしれない。ゆるりと回廊をめぐって、三仏堂を後にする。にほんブログ村
2014年12月23日

話、進まないなあ(←いつものこと)。こりゃ、予定を変更せにゃならんかもしれんて・・・進まないついでに過去の記事をここで補足しておきます。まず、ジンジャ君の深沙王堂。手持ちの企画展の図録に載っている絵図を見たところ、どれも神橋の前に小さくお宮が描かれている。地元・日光で出版されたうち最も古いと言われる「日光山之御絵図」(東京都立中央図書館蔵)にも同じようにお宮が描かれているので、どうやら深沙王堂は古くから今と同じような場所にあったらしい。ちなみに、『宝ものがたり』によると深沙王堂では現在、3月1日に輪王寺の僧侶がジンジャ君の徳を称える法楽を行っているそうな。それから、四本龍寺。これも『宝ものがたり』からの情報ですが、 【現在この四本龍寺では観音さまの縁日にあたる毎年5月18日に御門跡を導師として 一山僧侶が総出仕して、金光明経を読誦しております。】 (漢数字は戦国ジジイが変換)ええ~、ここでも金光明経!?三仏堂で護国経典をやるのはまだわかる。前代の歴史があるからね。しかし、四本龍寺でもやってるって・・・乏しいわたくしの知識で考えられることは2つぐらいしかない。ひとつは、源家とのゆかり。今ある三重塔は建て替えられたものだけど、もともとは鎌倉3代将軍・実朝の供養のために建てられたという伝承がある。そういう鎌倉将軍家とのゆかりから、護国経典である金光明経を誦経するということが考えられる。もうひとつは、勝道さんとの関連。なんで勝道さんかって、彼の生きた時代を思い返してみてくださいよ~!勝道さんは、天平7年(735)の生まれ。得度受戒したとされる天平宝字6年(762)は淡路廃帝(淳仁天皇)の時代で、聖武天皇の娘の称徳(孝謙)女帝が色々頑張っている時代でもあった。(「叡山攻め」の最初の方を見てね)金光明経がバリバリに出張って活躍していたのは何と言っても聖武の時代だけど、聖武の死後もすたれた訳じゃない。だって、聖武が始めた国分寺の正式名称は「金光明四天王護国之寺」で、引き続き金光明最勝王経に国家安泰を願っていたのだから。日光山の開創とされる勝道さんがそういう時代に生きた人だったから、それとの関連で金光明経を引き継いでるのかな~なんて思ってみたんだけどね。ヨシ、これも今度輪王寺で聞けたら聞いてみようっとさて、それじゃ三仏堂内に戻りましょう。三仏堂の護摩壇に惹かれていたのは、意識しないながらもこれが良源さんの護摩壇だったからじゃないかなんてことも考えましたが、まあそれは置いといて。護摩壇を回り込むと、中ぐらいの仏像が8体ずらりと並ぶ。これも元の場所から移動してはいるけど、三仏や護摩壇との位置関係は元のまま。この八体仏は、それぞれ生まれ年ごとに守護して下さるという説明が付いているもので、仏像鑑賞をしていると後ろから家族らしき観光客の小グループがやってきて、「私はどれ」とか「あの子はどれ」とかわやわや始めた。うるさい中に埋没すると落ち着かないので、彼らに道を譲って仏像の前から離れて後ろにある護摩壇を見たりしていた。たいがいの人は、自分の守護像を見つけてそれぞれの像の前に置いてある賽銭箱に小銭を入れたり、手を合わせたりしていくんだけどね。グループのうちの1人のバアちゃんは、すべての仏像の前の賽銭箱に順々に丁寧にお賽銭を入れて進んでいった。バアちゃんはすべてに手を合わせていた訳じゃないんだけどね。でもきっと、何もせずに仏像の前を素通りできなかったんでしょう。わたくしはこのバアちゃんに、神だの仏だのと分け隔てることなく接してきた日本人の心の原風景を見た思いがしました。一神教を敬うガイジンから見れば節操がない民族だと思われるでしょうけど、日本人はこうやって大らかに他を受け入れながら、独自の仏教文化を築いてきたのだ。たとえそれがお釈迦様の本来の教えから大きく外れたものであろうとも、仏教を身近な生活に取り入れながら生きてきたのだ。そしてそれは、今も日本人の中に息づいている。そうでなければ、いくら世界遺産であろうとカップルがわざわざデートの場所に寺社なんか選ぶかよ若者のグループが旅先で寺社に遊びに来るかよ。本人達が意識してない時点で、もはやDNAに刻み込まれているのは確定としていいんじゃないかとわたくしは思いますけどね。仏像の先は売店コーナー。道を譲ったおかげで、さっきのグループがここでもわやわややっている。なかなか彼らがどかないので、売店をスルーして先を観に行った。以前の記事で東照宮の宝物館を「アットホームな展示」と書きましたが、今から思い返すと三仏堂も同じように地味でアットホームな展示で、以前は入ってすぐの通路と出口付近の通路にいくつかの展示物があった。今は工事中につき、それらが売店の先にまとめて展示されている。これらも何度となく見てきたものだけど、今は以前とは視点が違っているのでなかなか興味深かった。とくに、最澄の木像座像。最澄たんの画像や木像はあちこちの寺にある。延暦の星君と花形君ともいうべき最澄たんと空海たんは、対象的な面が多いこともあって何かと比較されるけど、比較するテーマの中には「性」もあるんじゃないかと個人的には思う。いや、もちろん現実的には両者とも男性ですよ。けど、わたくしの中では最澄たんは女性的もしくは中性、空海たんは思いっきし男性的な雰囲気のイメージがある。その理由は、現在に伝わる彼らの姿にあると思う。最澄の画像や木像は、ほっかむりをして柔和な顔で目を閉じており、着物もぴっちり着こんで肌を露出しないのが圧倒的に多いのに対し、空海はこれまたほとんどが立派なツルッパゲの頭部を惜しげもなく日の下にさらし、僧衣の前はゆるやかに合わせて、はだけた部分からがっしりした肉体が顔をのぞかせている。僧侶の座像ってのは案外と前合わせがゆるやかなものが多くてね。良弁さんなんかもそうだし。だからそこについ目が行って・・・あ、いかん空海のスタイルは僧侶の像としてはノーマルなタイプ。どちらかというと異質なのは最澄の方で、頭にかけた布の先っぽを着物の襟にたくし込んでいたり、ロシアのおばさんのようにあごの下で布の先を結んでいたりするのがほとんど。胸元は見せたりはしない。『仏教用語の基礎知識』(山折哲雄編著/角川選書)に面白い記述がある。 【いっぽう、その僧衣・法衣に映しだされる優艶、典雅な雰囲気は、宮廷女官たちが 身にまとう十二単の美麗とエロティシズムを思いおこさせずにはおかなかった。 聖職者の衣裳のかげにただよう両性具有的感触である。それはカトリック世界に おいて、法王をはじめとする高位聖職者がまとう華麗な僧衣から発せられる色気と 通じあうものである。聖職者たちは身にまとう僧衣を着ることで性の境界を越える、 一種の服飾倒錯の世界に生きる専門家たちであった。】服飾倒錯とはこれまた斬新な発想だな~しかし、これはまさにわたくしが最澄像に感じ取る印象を表わしている。ただ、今に伝わる最澄像は後世のもので、最澄自身が女性的コスプレにハマっていたとか、オカマちゃんだったということではもちろんない。だけどなぜか、後世の信奉者たちは最澄の肌の露出を抑え、中性、もしくは両性具有的な姿を多く描き、像を作った。空海と対比させるなら女性的と言ってもいいんじゃないかと思うけどね。わたくしがこれまで知っていた中で最澄がハゲをさらけ出しているのは「上野第二編(28)」でさかのぼって近江の旅を紹介した記事に貼ったこれ↓ぐらいかな。 京阪坂本駅近くに立つ「若き日の最澄」像です。でもこの場合のハゲは若々しい清楚さをより引き立ててるよな(笑)。ところがですね、三仏堂にもハゲの最澄たんがいたんです。工事中の配置図を見ると、このハゲ・・・いへ、「伝教大師像」は元は護摩壇の後ろっかわにいたようなんですが、全く記憶にありません。ぶっちゃけ、興味なかったしね~(←また暴言)。去年も移動した伝教大師像を見て、ほお、こんなのあったんだ~とは思ったけど、今年は「叡山攻め」を書いて最澄がぐっと近くなったので、関心の度合いも去年とはまったく違います。最澄像を「女性的」と感じるようになったのはごく最近のことなので、ここにハゲがいたのはわたくし的には結構衝撃でしたね。ちなみに、最澄たんがかぶっているような頭巾は「帽子」(もうす)といいます。色んな形があるようですが、現在のお坊さんもかぶっているとんがり帽子で後ろに長く布を垂らしているようなのもみんな帽子。これの由来は寒い日に天皇が自分の衣の袖をちぎって与えたというものらしいですが、もらった人は最澄だともいうし空海だともいうし、正確なところはわかりません。ただ、天台宗では正装のアイテムのひとつであるようで、「已講」(いこう)という段階では耳を出してかぶり、昇進して「探題」になると耳を覆ってかぶれるようになるなんてルールもあるようです。僧衣の襟に白い羽二重をかけているお坊さんの姿を目にしたこともあるでしょうが、ヒラだと寒空でも自分の体温で我慢しなけりゃならないのが、昇進するにつれてマフラー⇒耳出しほっかむり⇒耳隠し完全防寒スタイルに変化していくってカンジでしょうかね上杉謙信像もほっかむりスタイルが多いですが、「謙信女性説」なんてのも帽子効果が一役買ってるのかな、なんて思ったりしました。もっとも、謙信の一番有名な肖像画は口の周辺のヒゲそりあとがくっきり青々と描かれているので、「体毛濃かったのか!?」なんて個人的には思うのですがにほんブログ村
2014年12月22日

三仏の台座の先には、護摩壇がある。これも元来は別の場所にあって、工事期間中につきここへ移動してきたもの。ただ、場所は変わっても三仏との位置関係は変わらないので、工事前の配置を知っている人間にとって違和感はない。この護摩壇と良源さんの御厨子については「上野第二編(11)」で先行して紹介してますが、今年もやはり護摩壇で「ご~ん」はできませんでした。私、この護摩壇に愛着があるから早く元のようにして欲しいんだけどな・・・未練がましく護摩壇を見ていると、行事壇の前に並べられたいくつもの小さな器に塩や穀物のようなものが器ごとに入っているのに気がついた。大護摩堂の護摩壇はここまで近くで見下ろすことはできないし、お護摩の最中は導師様の手元まではあまり見えないから知らなかったけど、こういうものを火に投げ入れて修法を行うんだな。三仏堂でお護摩をやってるところはわたくしは見たことがない。ので、どういう時に使われるのかはわからない。ただ、『宝ものがたり』に毎朝、金光明経などの護国経典を本堂で読んでいるとあったので、朝のおつとめはここで護摩を焚きながら国家の安泰を祈願しているのかもしれないと思った。ところで、お護摩といえば現在では大護摩堂がメインですが、山内には結構護摩壇があることを最近になって知りました。まず現役組は大護摩堂と三仏堂。この2つは前から知ってた。「推定今は護摩はやってないだろうけど護摩壇」てのが最近になって知った方で、まず大護摩堂の隣にある護法天堂。それから四本龍寺の石の護摩壇。その他、驚くような場所にもありました。いや、あったことを知りました。「日光写真館」を始めて3年目だとゆーのに、人ゴミ嫌いなわたくしは2年続けて東照宮へ足を踏み入れてませんが、神となったイエアスを祀る御本社のうち、現在は庶民も拝殿までは入れます。拝殿へ入るには入口で靴を脱ぎますが、その靴脱ぎ場の近くにあるのが現在「祈祷殿」と呼ばれている建物(重文)。2011年6月に行った際は祈祷殿でブライダルやってました↓。 「祈祷殿」は「上社務所」ともいい、その前の名は「護摩堂」でした。大護摩堂の売店コーナーで買った『日光大観』(日光山輪王寺発行)から護摩堂についての解説を紹介します。 【江戸時代においては、五大尊、十二天(現在輪王寺大護摩堂に奉安)を本尊として 祀り、法親王宮が毎年正月、五月、九月に天下泰平、国土安穏の護摩修法をせられた 道場であるが、明治以降現在の上社務所の名で呼ばれた。】・・・・・・・・・東照大権現様に最も近い場所で、宮がじきじきにお護摩をやってた訳ね。なら、「日光御鏡頂戴」の鏡餅も、そこで修法をこらしたものかもしれないよな。てか、大護摩堂の五大尊と十二天は宮の護摩堂にいたものだったの!?私が「のっぺり」って言っちゃった、アレェ~!?歴史ファンの書いた祈祷殿の訪問記を見ると、皆様五大尊は中禅寺に移されたと書いている。確かに、解説の書き方はビミョ~で、十二天は大護摩堂に移されたんだろうけど、カッコが五大尊にかかるかまでははっきりしない。輪王寺のサイトの中禅寺のページを見ても、そこまで書かれていないので護摩堂の五大尊がどこに行ったのかはよくわからない。『宝ものがたり』には、もと護摩堂の十二天の写真が載っている。ぱっと見、「これは見たことないな」と思ったんだけど、あらためて写真をよく見てみると、確かに先日「ちょっと物足りないな」と思いながら眺めていた仏像たちのような気もしてくる。うっわ~、宮があの仏像たちの前でお護摩をやっていたとゆーのに、わたくしったら何たる暴言を・・・知らないということは、実に恐ろしいものです。確実に存在した護摩壇でわたくしが知っているのはここまでですが、歴史的経緯を考えて護摩壇があったんじゃないかと思われる場所がもうひとつある。ここで、良源さんの御厨子に戻ります。上記リンク先「上野第二編(11)」もあわせてご覧ください。御厨子の背面の文章によると、三仏堂にある御厨子に納められている「影大師」は4代将軍・家綱の誕生祈願に使われたものの写しだった。天海はこの重要なお役目に当たって、尊敬する良源さんを祀る「天狗堂」を新設し、自らの統轄する寛永寺と日光輪王寺、それから日光山で修行に励む修験者たちも集めて天台の総力を結集して事に挑んだ。そうすると、一大イベントの主役はこの世の人では天海、あの世の人では良源さんということになる。わざわざこのために天狗堂を建てたのだから、「影大師」もそこにおわしたと見るのが当然だし、天狗堂が修法のメイン会場と考えるのが自然だろう。これまで、天狗堂の具体的な場所はわからなかった。が、買ったはいいけどなかなか目を通す時間のない資料や本の類は沢山あって、『日光東照宮と将軍社参』という企画展の図録に天狗堂の場所を示す記述を今日ようやく見つけた。ホントに今日、知ったんです。知りたてホヤホヤです。勉強不足だからこーゆーことになりますえっと、この企画展は江戸東京博物館でやったものらしいから、たぶん春に「大江戸と洛中」展を観に行った時に過去の図録を買ったんだろうな。でっ、 【四代家綱が寛永18年(1641)8月に誕生するさいには、家康の神霊の眠る 東照社奥院(奥宮)に西接する元三大師堂(天狗堂)で世嗣誕生の祈祷が行われた。】 (江戸東京博物館企画展図録『日光東照宮と将軍社参』より)だってさ~!!この図録や、以前に輪王寺の宝物館で買った別の図録には、江戸期の山内の絵図も多少載ってる。中には奥宮まで描き込まれている絵図もあるので虫眼鏡で見たけど、あいにく絵図でははっきり天狗堂と確認できるものはなかった。でも、図録で奥宮の隣にあったと断言してるんだから、確かにそこにあったのだろう。そう言われて考えてみれば、子孫繁栄のための修法に東照大権現様が力を貸してくれないハズがない。そして、輪王寺には天海の所用と伝えられる行事壇が残っている。ので、天海も密教の修法をマスターしていたと思われる。だから、天狗堂にも護摩壇があったんじゃないかと思った。天狗堂は今はない。そのはっきりした理由はわからない。あるいは「用が済んだ」から解体されたのかもしれないけど、「影大師」の写しは残して御厨子をわざわざ作ったんだし、良源さんを尊敬する天海が、「用が済んだ」からといって以後は山内のどこにも良源さんを祀らなかったというのも考えにくい。「護摩堂」が「祈祷殿」となった理由ははっきりしている。明治の神仏分離によるもので、「神社」である東照宮から仏的なものを排除する必要に迫られたからだ。本来であれば護摩堂は解体すべきものだったけど、おいそれと破壊できるレベルの建築物じゃなかったためか、「上社務所」に使用目的を変更することで、あやうく難を逃れた。神と仏が一体だった江戸期、東照宮内には護摩堂の他にも仏的施設があった。境内入口にある五重塔もそうだし、東照大権現の本地である薬師仏を祀る薬師堂もそう。この2つも残っている。日光と同じく徳川にゆかりの深い寛永寺のことを思い出して下さい。上野の東照宮が神社として独立した際、本地堂(薬師堂)は解体されてご本尊様はパゴダへ引っ越した。五重塔は幸い神社の敷地からギリ外れていたため破壊を免れ、現在は動物たちと仲良く暮らしている。だけど、日光の仏的施設は思いっきし東照宮の境内にある。本当なら、日光のも上野の本地堂と同じ運命をたどってしかるべきだった。それを回避したのは、もちろん現地の関係者の努力もさることながら、家光の功績が大きいんじゃないかとわたくしは思う。「金をかけただけのことはあった」って感じでしょうかね。まあ、上野の本地堂もチンケな建物だったはずはないんだけどね。ただ、上野じゃちょっと新政府に近すぎるし、寛永寺は徳川の権威の象徴的存在でもある。徳川幕府が倒れた際、どこの東照宮でも危機はあった。ただ、「上野第二編(57)」あたりでも紹介したように、全国に勧請された東照宮の数は多かったけど、勧請元の身分は様々だった。明治維新の際には多くの東照宮が統廃合されたというけど、おそらくそのほとんどは民間の勧請によるもので、自主的な行動だろう。官軍は、幕府直営の東照宮には直接手は下さなかった。危ない場面もあったけど、結果的には彼らはタッチしなかった。直営の東照宮の中で解体されたのは江戸城内の紅葉山だけだけど、官軍は手を付けず、徳川の子孫をその作業に当たらせた。ホントはてってーてきにやりたかったんじゃないかと思うんだけどね。でもやらなかった。神社といっても霊廟だから、後のことを考えて差し控えたのかもしれない。その代わりに標的となったのが寛永寺じゃないのかと最近思うようになった。「見せしめ」とか「スケープゴート」と言った方がいいかもしれません。ま、それはともかく、元三大師堂(天狗堂)も江戸の終わりまで残ってたんじゃないかって気がする。だとすれば、これもやはり神社専任となった東照宮から「追い出された」ものかもしれない。僧侶である輪王寺宮は、かつて日光一山を統轄していた。往時の規模をある程度残す寺で、神仏分離を経て寺と神社に分かれて現役なところは日本広しといえどそう多くはない。その中で、寺と神社に分かれてそれぞれの持ち場を分けてもなお山内にこれだけ管轄の堂宇が混在しているのは、つまりかつての神仏習合の面影を色濃く残すのは、日光がトップクラスなんじゃないだろうか。本質的には現在の方が「あるべき姿」なのかもしれないけど、日本では仏教が入ってきたかなり早い段階から神と仏は一緒だった。今のようにセコセコと持ち分を分けている状況を見ると、宮の時代を偲ぶ人間にとってはとても切なく思えてくる。にほんブログ村
2014年12月21日

今年、三仏堂を入ってすぐのところに貼り紙があって、工事のために解体してみたら思っていたよりも虫害がひどかったので工期が延びそうだということと、当初の予定よりも大がかりな工事になるので自力でなんとかしたいものの、参詣の皆様のご協力もお願いした~い・・・というような内容だった。虫害については去年も内部に写真などが貼り出されていたから、この貼り紙は去年もあったのかもしれない。貼り紙の前の机には「ご芳名」を書く紙とペンは置いてあるものの、募金箱はないし一口いくらとかの説明もないし、寄付を受け付ける係の人もいない。どうしたらいいんだ、これ・・・まあいいや、後で誰かに聞こう。堂内ではお坊さんによる不定期のツアーをやっている。もちろん、わたくしは今年も遠慮した。今年はわたくしの前方でツアーが始まっており、なるべく間合いを取りながら自分の好きに見ていたんだけど、聞くともなしに説明を盗み聞きしていると、良源さんの話を始めた。生まれ年ごとに色が違っており、「一白水星の方は何色・・・」と言っている。うん?輪王寺でも良源さんグッズの取り扱いを始めたのかな?ま、「上野第二編(9)」でも紹介した通り、日光輪王寺の鬼門除けの札は裏に良源さんの角大師の絵を描いた紙がはめ込まれているので、これまでも良源さんグッズはあるにはあった。けど、それはおふだを買った人しか知らないし、それ以外のものはなく、他でやっているような良源さんのお守りの類はこれまでの輪王寺にはなかった。ツアーが先へ進んだので私も前に進んだところ、三仏の台座がある通路の向かいには何色かの布にプリントされた大きな良源さんがいた。ただし、これは角大師ではなく鬼大師のほう。鬼大師の写真はそのうち載せますので、気長にお待ちください(笑)。そうか、こんなの始めたのか~。あとで買って帰ろうかな。あと、この頃のツアーの説明で、日光輪王寺では霊園経営などはしていないと話しているのが聞こえた。そういえば、輪王寺の霊園て聞いたことないもんな。「三山」の残り2つはどちらも霊園にも手を出しているけど、日光ではやっていないのか・・・四本龍寺の隣にあった幼稚園は経営してるけど、それ以外の収入はやはり観光に負うところが大きいのかもしれない。だとすると経営も大変だろうから、やっぱり三仏堂の修理についても私達参詣者が積極的に協力しないとイカンよな。江戸期は徳川幕府という大スポンサーがいたけど、今はいないもんな。ところで、『宝ものがたり』(東京美術)に面白い記述を見つけました。両国編で富突について少し紹介してますが、日光でも富突と関係があったようです。 【富突きの定書(とみつきの さだめがき) 江戸では年に百数十ヵ所の富くじが行われたそうで、中でも有名なのが三富といわれた 湯島の喜見院・目黒の竜泉寺・谷中の感応寺。じつはこの三富の収益金は文化9年 (1812)からの20年間、ほとんどが輪王寺の費用に充てられていた。輪王寺・ 東照宮の修理や運営費用は幕府が負担したもので、富突きによって幕府の負担が 軽減された。江戸庶民の娯楽と輪王寺がこんなところでつながっていた。日光山独自 でも富突きが行われていたようで、写真のような定書が残っていた。】 (『日光山輪王寺 宝ものがたり』より)でその定書の写真が『宝ものがたり』に載っている訳ですが、タイトルには大きく【御免日光山大富くじ寶金定】とある。(「くじ」の字は門がまえに「亀」)「御免」は幕府公認てことだな。もともと勧進のための富突きは直接助成できない多くの寺社のために幕府が自分の懐を痛めずに間接助成できるという性質のものだったけど、幕府直営ともいうべき日光山の資金まで庶民の懐に頼るようになってたとはね。まあ、今残っている堂宇だけでも大変なものだけど、往時はもっと色々あって金もかかっただろうからな~。幕府も資金繰りにはかなり頭を痛めたようですね。ちなみに、湯島の喜見院(きけんいん)は湯島天神の前にある現在の湯島聖天・心城院ですよ。(「上野第三編(17)」参照)喜見院は湯島天神の別当で、かつ寛永寺グループの一員。寛永寺トップの輪王寺宮が兼帯する日光輪王寺のために湯島でも資金集めが行われてたなんて、なかなか興味深いエピソードだな。さて、この三仏堂は輪王寺のホームページには 【輪王寺の本堂は日光山随一、東日本では最も大きな木造の建物で、平安時代に 創建された、全国でも数少ない天台密教形式のお堂です。】という説明がある。「天台密教形式」というのがどういう特色を持つのかはわからないし、寛永の大造替でリニューアルされてるから円仁創建の伝承を持つ当初の姿そのままとは言えないものの、それ以前のお堂の形式を踏襲している可能性は充分にある。大造替後の東照宮の新社殿への遷宮の祭祀は天海が仕切ってるんだから、他の堂宇に関しても天海が口出し・・・あやや、アドバイスおよび監修もしただろうからね。東照宮ももちろん大事だけど、輪王寺の本堂も大事。だから、密教形式であるなら前代のお堂と基本的な構造は天海は変えなかったんじゃないかと思うのだ。で、三仏堂はシロート目に見ても変わった造りをしている。本来の三仏堂の断面図を図にしてみました。 黄色のデカいのが三仏。通常はグレーの部分の石段を上がって入口へ向かい、お堂に入って奥にある階段を降りて三仏の足元まで行って下から間近に大仏を見上げるという造りになってます。ちょっとお堂の入口の高さは正確じゃないかもしれませんが、黄緑の部分は仕切りがあって石段の上から三仏の顔を直接拝むことはできません。が、去年石段を上がりきって入口に到着した時、正面の高いところに3つの鰐口(わにぐち)が掛かっていることに気がついた。そうか、お堂の入口にはそれぞれの大仏にひとつずつ鰐口が用意されてるんだな、と思ったものです。でもね、フツー大仏殿って、大仏の高さに見合った建物を作って、地表と同じ高さからそのまま大仏殿に入って大仏様を拝まないか?全国に大仏は意外にあるものだけど、私が見た大仏様で記憶にあるのはまず宇治の平等院、それから鎌倉(露座:神奈川県)、鎌ヶ谷大仏(露座:千葉県)、牛久大仏(露座:茨城県)、上野大仏(顔だけ:東京都)・・・と関東人らしいローカルな顔ぶれですがこの中で現在建物内に鎮座しているのは平等院だけ。のでロクな比較になりませんが、わざわざ高いところへ登ってまた下に降りていくというのはとても変わっているように思える。これにはどういう意味があるんだろうか?まあ、あるいは大仏の足元まで行かれるようになったのは近代に入ってからで、それまでは一般公開されていたのは入口までで顔だけ拝むようになってたのかもしれないけどね。去年は主役の皆様は京都の修理工房へお出かけになっていらして、三仏堂にはどなたもおられなかった。今年はおひとり戻ってきていた・・・が、どなただったか忘れました去年のおふだの受け替えのご案内には工事の進捗状況と今後の大仏修理のスケジュールが書かれてたんだけど、見当たらないから捨ててしまったらしい。それで、お戻りになっていたおひとりはいつものように足元から見上げる格好ではなく、台座がなかったせいかそんなに見上げるというほどではなかった。こういう高さから三仏堂の大仏を見るのは初めてで、下から見上げてる時は別に何も感じなかったんだけど、同じくらいの高さから見ると意外に肩が細かった。へ~、下から見るのとでは随分違うもんだな。先日、現代に生きるお坊さんたちがTVに出演して何やかやって番組があって、親が録画していたので一緒に少し見たのですが、思っていたのとは全然違って、面白くなかった。じゃなくて、その中で「仏像というのは下から見上げることを想定して造られているので、お寺などで仏像を見る際は同じ高さからではなく、座って下から見上げてください」てな話をしていた。三仏堂の大仏も肩が細くてちょっとバランスが悪かったので、これも下から見上げた時にバランスいいように造られているのかもしれないと思った。そして、大仏の脇には何やら紙の詰まった棚が置いてある・・・ん~、あの紙、なんか見覚えあるぞ・・・上の「上野第二編(9)」のリンク先でも日光輪王寺の鬼門除け札のシステムを紹介してますが、おふだに入っているハガキを投函すると【日光山御本尊様の御宝前に献じて皆様の無病息災をご祈願いたします】(札の説明書より)という流れになっている。だから、大護摩堂の売店コーナーでおふだの受け替えする時はいつも「中のハガキはなるべく早く投函してくださいね」と言われる。そのハガキが詰まってる棚だったんです。これは今まで見たことないぞ~!そうか、こんな風になってたのかあ~。あの中にはわたくしのハガキも入っているに違いない。工事期間中のオプションは、新しい発見やら実に楽しいことが多うございますにほんブログ村
2014年12月20日

三仏堂の前あたりまで来ると、これがあります↓。 お線香立てて、バアちゃんたちが煙を頭とかにはたき込むやつ。あれ?この写真ではお釜のフタ、閉じてるなあ。ここで煙焚かなかったっけか・・・後ろに写ってるベンチは、記念撮影用のものです。有名な観光地ですからね。わたくしも小学校の修学旅行は日光でした。震災の直後は観光客も激減したと以前に大護摩堂のおじさんが語っていたので、修学旅行なども一時はかなり減ったのだろう。輪王寺の紋の入ったこのお釜を支えるのは、3人の邪鬼。 お茶目な表情がかわいらしい。邪鬼はどこでもふんどし姿なんだよね。「高野山の名宝」展でも、四天王に踏まれた邪鬼はそれぞれふんどしまでしっかり作り込まれていて、もちろんわたくしはきっちりふんどしも鑑賞してきました この邪鬼たちは、日光輪王寺のホームページで各堂宇の紹介のページも支えていますよ立派なものだから結構古いのかと思ったら、「昭和六十一年四月吉日」の銘がある。それから、この灯篭も確か三仏堂の前あたりにあったやつだと思う↓。 銘は読めません。三仏堂前には、小さなお堂もある↓。由来などはわかりませんが。 さて、それでは本堂へ向かいます。 これまでのわたくしは石段を上がってそのままお堂の中へ直行してましたが、去年は入口付近にも目を向けてみました。 【天然記念物 金剛桜 黄芽、白花大輪の山桜で花香が強く、樹齢は約500年。地際より数本の支幹に分かれ、 得意の樹形をなし、その基部の周囲は約5.7mに及ぶ。繖房状に3~4花を着け、 花茎は円形で長さ約1.7cm。巾は約1.6cmで、花弁の縁は重なりあっている。 明治年間、当寺門跡シン厚大僧正の諡号、金剛心院に因んで命名されたもの。昭和11年 5月10日三好理学博士の調査により山桜の勝れた天然変種として国の天然記念物に 指定された。(指定日 昭和11年12月16日)】 (現地解説板より)金剛桜の近くには、手水鉢↓。 ここから内部に入ります。三仏堂は工事期間中でも撮影禁止のため、内部の写真はありません。去年は色々と内部のことについてメモっていて、久々にメモ帳を読み返してみたのですが、字はきったないわ走り書きだわで自分でも何を書いたかわからないものがあるでも、探してたものをようやく見つけた。前回の最後に豊道先生の碑が出てきましたが、「輪王寺5」の現在の御本坊の門にあった書と黒門の脇にあった「日光山輪王寺」の碑、あれは豊道先生のお手になる書だったようです。あ~、これですっきりした工事前までは入口を右に入って細い通路を奥へ進んだところでターンして階段を降りていくとそこに三仏がおわす、という構造だったのですが、工事期間中は色んなものが色んな場所へ移動していた。前は入るとすぐ薄暗かったのが、今は入口から煌々と明るいしな。去年はちょうど入ったばかりのところでお坊さんによる堂内の説明が始まっていて、「ご一緒にどうぞ」と強制参加させられた。耳よりなお話も聞けるかもしれないけど、基本的な説明ってのはあまり変わらないし、それよりも自分で自由に見たかったので、説明が始まってすぐに後ろの天海像のところへ行ってツアーからフェードアウトした。で、入ってすぐに道なりに左に折れると、そこが今の三仏のおわすところ。去年は確かどなたもおられず、台座だけがありました。今年はおひとりお戻りになってたな・・・どなただったっけ?ここでは3体のデカい仏像を祀り、三仏が本尊。ゆえに三仏堂という。現在の三仏エリアにはまず懸仏(かけぼとけ)があった。これって確か、前はすごい高いところに懸けられていたもののような・・・懸仏とは、その名の通り額のように壁に懸けられるタイプの仏像のようなものです。懸仏について三仏堂の解説には、 ・薬師如来=東照大権現 ・阿弥陀如来=摩多羅神(日光山の守護神) ・釈迦如来=叡山の守護神とあり、この3つをまとめて「東照三所権現」。 【元和3年(1617)に東照大権現が日光山にお祀りされる際、古来日光山の 信仰形態であった日光三所権現の在り様を踏襲して、天海大僧正により特別に 祀られたものです。】 (堂内解説より)う~ん、イエアスの神号問題から始まり、日光への遷座、東照宮縁起の起草のほか、日光の慣習との融合まで図ってたとはね。恐ろしい82歳だ(笑)。(家康の死から日光遷座までは「上野第二編(44)」以降をご覧ください)関係ないですが、今、「摩多羅神」(またらしん)と書いてて「ん?摩羅が多い神!?」と一瞬食いつきました(←やっぱりスケベジジイ)。が、後世にはわたくしのような考え方をする人もいたらしいのですが、日本において「まら」という言葉そのものはかなり古くから使われていたらしく、摩多羅神と摩羅が関係あるというのは後世の俗説らしいです。ちなみに、自分の記事で「摩羅」を検索したら「鳩摩羅什」も引っかかったアハハ、確かにクマさんにも「摩羅」が含まれてるわ~!!けどあれは「クマーラジーバ」の音写だから、これまた摩羅とは何の関係もありません。(何の話だ)東照三所権現の他にも「三仏」が祀られていて、一般的に有名なのはこちらの方。左から順に馬頭観音・阿弥陀如来・千手観音で「日光三社権現本地仏」という。先日、神職や巫女さんによる神橋のすす払いがニュースになってましたが、デカい方の三仏も毎年この時期はニュースでおなじみ。なが~い笹みたいのを使ってすす払いする様子がTVに移りますが、今は2体がご不在なので、あのおなじみの光景が見られるのは三仏が皆様お帰りになってからとなるでしょう。ということで、ダブルの三仏が祀られているお堂であります。三仏堂の創建は平安時代。円仁さんによって建てられたとの伝承があります。徳川家光による寛永の大造替の際には、本堂もリニューアルの対象となっている。もとは現在の場所にはなく、東照宮の西にある二荒山神社のあたりにあったようです。今の場所に本堂が移ったのは、明治12年。これも神仏分離による「住み分け」で、移動の可能な部分について「輪王寺」を一か所にまとめたようです。移動のできなかったものには、家光の墓所である大猷院や天海の墓所である慈眼堂などが含まれます。他にも色々あるけどね。ので、実際には現在でも「輪王寺」部分が山内に散らばってる訳で、神仏分離以前の時代に思いを馳せる歴史ファンにとってはなかなか都合がいいとも言えますね。↓ぽちりとよろしく~。にほんブログ村
2014年12月19日

さて、ここからはちょっこし去年の分の写真も交えながら少し日光輪王寺境内の紹介をしましょう。「叡山攻め」に戻ると、当面日光写真館を再開しようという気はなくなると思いますのでね。境内の位置関係は「輪王寺1」をご参照ください。まずは、黒門↓。光線が強すぎてほとんどシルエットですが(笑)。 【重要文化財 黒門 日光輪王寺の表門。通称、黒門。皇族を門主と仰ぐ門跡寺の格式を示す門。 江戸時代のはじめ、家康公を日光にまつった天海大僧正が創建。やがて後水尾天皇皇子の 守澄法親王宮が入山ののち、本坊の表御門となる。明治4年、本坊が焼失したとき、 唯一焼け残った建物である。】 (現地解説板より)当時の御本坊は今の三仏堂のあたりにあったらしいんだけどね。本坊が焼失した頃は神仏分離によって二社一寺に分離された時期でもあり、「輪王寺」の称号も没収されていた頃でもあったから、往時の華やかさに比べたら苦難の時代だよな。お勤めのために日光入りした歴代輪王寺宮はこの御門を通っていったのだろう。輪王寺宮の格式については「上野第二編(21)」なぞでも紹介してますが、大名による東照宮参詣、または代参の時にも、おそらく宮が日光にいてもいなくても御本坊には寄ってご挨拶をしただろうから、多くの著名人がくぐった門ともいえるでしょう。 そして、門前にはこれがあります↓。 これ、見覚えありませんか?寛永寺にもよく似たものがあったでしょお~。(「上野第二編(8)」参照)寛永寺の立て札の由来については「上野第二編(12)」で書きました。後から知ったんだけど、あの立て札は金で塗られていたことから「金札」と呼ばれていたそうで、日光のも金が残っているから同じく金札と呼ばれていたかもしれません。ここでは仮に日光のも「金札」としておきます。寛永寺には「両大師堂」はあるけど、日光にはない。天狗堂の正式名称は「慈恵大師堂」だったそうだけど、天海が死んで日光に葬られた際には、家光は天海専用の「慈眼堂」を建てたので、寛永寺のように良源さんと天海をそろって祀るお堂は日光にはなかったんじゃないかと思う。だから、堂宇としての「両大師」を示す看板ではないだろう。前々回の記事で紹介したように、現在の大護摩堂には2人はそろって正面に祀られてはいるけどね。それよりも、江戸期の寛永寺と日光輪王寺の関係の深さを考えれば、日光の金札も寛永寺と同じ役割を果たしたと考えるのが自然だろうと思う。良源さんも天海も、ともに江戸初期から日光で祀られていたんだからね。誰か歴史ファンで日光の金札について書いてくれてる人いないかな~・・・と思ってちょっとネットで調べてみましたが、そもそも金札の歴史を知らなければぶっちゃけ金字で書かれているだけが取り柄の、何てことない立て札ので、あいにく日光の金札の詳しいことはわかりませんでしたが、寛永寺と同じと見てほぼ間違いないだろうと個人的には思います。ただ、天海の命日の「宮のお練り」は日光ではなかったハズだけどね。その時宮は江戸でお練りをしてたからね。ほとんど注目されることのない金札ですが、寛永寺と日光輪王寺のふか~いつながりを静かに物語る歴史の証人であります。それでは、黒門の写真をどんどこ紹介しましょう。 今はだいぶ塗りもハゲてますが、この意匠を見るにお色直しすれば寛永寺の黒門とよく似た感じになるかもしれないな。 隅々まで見たがる物好きもいるんだから、重文にスコップなんか立て掛けないで・・・ 寛永寺の黒門と比べるといくぶんデコラティブだけど、大きさや重厚感、風格は寛永寺に匹敵する立派なもの。さすがは宮の御本坊を飾る表門といったところでしょう。黒門以外の建物が焼失してしまったのが実に惜しまれます。黒門を入った右脇には、こんなものが↓。 手水舎の代わり?まさかね黒門を内側から見たところ↓。 黒門を入った左手にはこの建物↓。 今はこれは使われていません。昔、拝観券でもここで扱ってたかな。まあ近代に入ってからの建物だろうとは思うのですが、細部の造りがちょっとビミョ~なんだよな・・・あるいはそこそこ古い建物で、それを現代風にリフォームしたものかもしれない。東照宮の方でも、観光客が見向きもしないような地味な建物が実は古い歴史ある建物なんてのもありますのでね。日光は油断できませんこの建物の奥には石段があります↓。 ご覧の通り、今は通れません。石段の上にあるのが、 鐘楼です。以前はこの上のエリアへは入れました。鐘楼の奥に小さいトイレがあって、お護摩の時はいつもそこで用事を済ませていた、わたくしの愛用の場所でした。大護摩堂から三仏堂の表に回る近道でもあり、トイレの後は三仏堂の脇の道を通り抜けていたので鐘楼前の石段は使った記憶がありませんが、石段も以前は使えてたんじゃないかなあ・・・いや、やっぱり通れなかったような気もしてきた。ここのエリアが通行禁止になったのは、三仏堂の本格修理が始まってから。このトイレが使えないと、三仏堂の反対側のトイレまで行かなきゃならないので結構大変です。工事が終わったら、また以前のようにトイレ使用と通り抜けが可能になることを切に願います。工事終了まではまだあと何年もかかりますが。とりあえず、懸魚だけ望遠で撮っておきました↓。 石段の脇にあるのがこちら↓。 【豊道先生顕彰碑 先生、法名は慶中、天台宗の大僧正、東京牛込の行先寺住職に補任せらる。書道に精通し 春海と号す。日本芸術院会員に推されその間、瑞雲書道会や日本書道連盟を設立、又、 日中友好に貢献して郭沫若氏と親交あり文化功労者として顕彰さる。昭和45年僊化 書禅院大僧正春海慶中大和尚を諡る。享年93才】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)大変大きな石碑で、文字も大きいのですが達筆すぎて読めませんですにほんブログ村
2014年12月18日

お護摩を受けるにあたり、寛永寺モードだった去年は寛永寺関連の質問を持参していきましたが、今年もやはり今年のモードに見合った質問を持参していた。で、出る支度を済ませて導師様を見ると、私の前に座っていた人達は参列してない多くの人の分のお札があったらしく、そちらの世話をしていた。まあ、いっか。こーゆー時もあるさ護摩壇の前の仏像たちの他にも、大護摩堂には前面に小さな仏像が沢山並んでいる。大護摩堂そのものにはいつでもタダで入れるけど、お護摩の参列者席と一般拝観用のエリアは柵で囲われていて、いわばお護摩用スペースが内陣のような形になっていて、一般拝観だと内陣におわす仏像には近寄れない。ゆえに今回は仏像に近寄れる1年に1度のチャンス。しばらく護摩壇の前におわす仏像たちを見ていると、わたくしの顔を覚えていた例の若いお坊さんがいたので、少し仏像を見てっていいか声をかけた。ついでに、持参した質問をぶつけてみた。わたくしの質問はいくつかあったけど、ひとつは鎮将夜叉様について。「叡山攻め(76)」を書いている時に浮かんだ疑問だった。すなわち、日光輪王寺には鎮将夜叉様の像だけではなく、修法も伝わっているのか?ということ。これは、やっぱり伝わっているんだそうな。単に伝わっているだけじゃなく、去年(2013年)のような9年に1度の秘仏御開帳の年には、鎮将夜叉様の修法が行われているという。へえ~、輪王寺でも現役だったんだ!毘沙門堂のことを持ち出して話をしていたら、詳しくはわからないけど毘沙門堂のゆかりの像と聞いています、てなことをおっしゃった。やっぱりそうか。「じゃあ、こちらのは毘沙門堂から株分けされたようなものなんですね?」と聞き返したら、まあそんな感じかもしれません、ということだった。そこまで話をしたところで、退場しようとする導師様が通りかかったので、ここで導師様をつかまえて質問をすることもできたけど、何だかお忙しそうなので今日のお礼を言うだけにとどめた。わたくしと話をしていたお坊さんは導師様と何やら話を始めてこちらも忙しそうなので、護摩壇の両脇に居並ぶ小さい仏像を観に行った。脇の小さな仏像たちは、おもに十二天。が、左右の脇のはじにはそれぞれ等身大の木像がある。向かって右側の一番はしには、第3代天台座主の慈覚大師・円仁座像。円仁様はこれまた幅広い活動をしたという多くの伝承をお持ちの方で、一般的には嘉祥元年(848)に日光入りして、三仏堂・常行堂・法華堂を創建したとされる。日光以外にももっと北へ足を延ばしたという伝承もあり、行動範囲が広すぎるのですべてをそのままうのみにはできないと個人的には思うものの、最澄が晩年、関東に来た際にはお供をしたともいうので、関東に来るには来たのだろう。つか、もともと下野の出身の人でもあるし。そういう、日光の発展に尽くしたという伝承もここにいる理由のひとつかもしれないけど、最澄の代ではまだ未完だった密教を、ちゃんとした形で伝えたのが円仁。仏教史関連の本を読んでいると、大寺の奥では高度な仏教哲学が発達しても、民衆レベルではやっぱり呪術的なものに人気が集まったように思う。これはインドでも中国でも、そして日本でも同じ。もし円仁が密教を学んで来なかったなら、叡山は真言密教に押されて早い時代に先細りしていたかもしれない。叡山は歴史が長いし著名人も多いので、「中興の祖」と称される人は数人いるけど、そのうちの1人が円仁さんであることには疑いの余地がない。そういう経緯から、「密教の祖」ともいえる円仁さんを大護摩堂で祀っているのかもしれない、と思った。これは静かにリアル感のある木像でね。日光輪王寺にお越しの際は、右はじにおわす円仁さんも見てってください。円仁像から左へ向かってずっと小さい天部の仏像を見ていく。彩色がかなり色あせているので、そこそこ古いものではあるだろうし、綺麗は綺麗だった。が、ちょっとのっぺりした感じ・・・いや、高野山の企画展の後だったので仏像の見方も以前とは変わっているかもしれないと自分では思っていたんだけど、ちょっとこれはタイミングがマズかったな。「高野山の名宝」展で確かに自分の目は変わりました。ただ、その変わり方というのは、高野山の誇る高レベルの仏像たちによって「感銘を受けるライン」が一気に引き上げられてしまったもののようです。これはちょっとマズいな・・・あんなもの、世間にそうゴロゴロしてる訳じゃないぞ。あれが感動のスタンダードになってしまうと、今後見る仏像たちの多くが色あせてしまうカモ・・・ま、それだけ「高野山の名宝」展に出品されてるものは素晴らしいものが多かったってことですが。関西にお住まいの方は、この機会にぜひ来年観に行ってね。そんなで順々に見ていって、護摩壇を越えて左側へ移動。この時、良源さんの厨子の紋を目をこらして見てみたところ、細かくてよく見えなかったけど天台宗の転法輪のように見えました。左のはじまで行きつくと、そこにいるのは天海の木像座像。「上野第二編(27)」で会津美里町様の観光パンフレット掲載の天海座像の写真を載せてますが、あれが大護摩堂にいたんです。アレ?三仏堂にいたのがここに来てる・・・工事期間中だからここに移動させたのかとも思ったんだけど・・・実はこの後、三仏堂へ寄りました。工事期間中なので普段は見にくいものなどが明るく見やすい位置に移動していて、去年寄った時は天海座像は入ってすぐの明るいところにいた。今年も同じ位置に天海はいたんだけど、そこの天海はカラフルなお姿だった。あれれ?三仏堂にいた天海ってこっちのカラフルな方だったっけ?去年どっちの天海が三仏堂入口にいたのかは覚えてないのですが、それまでは三仏のおわす下の階の隅っちょの薄暗いところで闇に埋没してた記憶があるので、カラフルな方だったハズはないんだけど・・・長年見慣れていたはずの天海像がどっちだったかわからなくなっているという末期的な症状に愕然としましたが、やっぱり地味なカラーの方がおなじみさんだと思います。一般拝観だと近くには行かれませんが、この像は重文なので、双眼鏡をお持ちでしたらこちらもぜひ見てってください。この頃には、職員さんたちがさきほどのお護摩で使ったグッズなどの片づけを始めていた。軽口をたたきながらにぎやかに作業をしていて、例の若い坊様もなんだか忙しそう。なので、残りの質問は諦めました。もはやわたくしの趣味と化したお経暗記は、やっと法華経の如来寿量品をコンプリートしました。「卒業」の判断をするには、意識がフェードアウトしても読経が続けられるか、そして「さすがにもう飽きた~」って自分で思ったところがひとつのお経のコンプリートになる訳ですが、そこまで行くのに何百回同じお経を唱えたかわかりませんさて、次は何を覚えようかな・・・法華経もいいお経だけど、やっぱり金光明最勝王経をやってみたいよな。人それぞれでしょうが、お経ってのは読み下し文(訓読)がわかりやすいですが、お経そのものの世界を感じるにはわたくしには音読の方がいいようです。で、金光明経の解説の本は手に入れたのですが、音読の経本となるとなかなか手に入らない。まあ、金光明経なんつったら護国経典の典型だし、今どき一般人でこれをお経として読み上げたいなんて人間、そういないよな~・・・とりあえず、ネットで弁才天女が出てくる章の経本を扱ってるところがあったので取り寄せてみたところ、すげ~長いしかも、陀羅尼の部分が異様に多い。そもそもわたくしは金光明経の中でもアシュランのいる興福寺西金堂内部のモチーフとなった可能性のある、「夢見金鼓懺悔品」をやりたかったのだ。やっぱり引き続き法華経を進めようかと思ったものの、始めてみると意外に金光明経は覚えやすい。ので、金光明経にトライすることにしました。ただ、如来寿量品の何倍もある長さなので、コンプリートには1年くらいかかるかもしれませんネットで金光明経の経本を探している時、奈良の薬師寺では「最勝会」なる法会で金光明最勝王経の読経をしていると偶然知りました。へえ~、今でもやってるところあるんだ・・・まあ、薬師寺ならそれもアリだよな、と思ったのですが、今回の日光詣でにあたり『宝ものがたり』を読み返していたところ、 【金光明経は「法華経」「仁王経」などとともに鎮護国家の三部経の一つとして 奈良時代より貴ばれ読まれてきました。現在でも輪王寺本堂において毎朝これらの お経が読誦されています。】とあったので、うっそ!輪王寺で金光明経!?マジでえええ~~~・・・とホントに驚きました。でも日光輪王寺は江戸期は国家鎮護の要の寺ともいえる立場にあったんだから、その流れから考えればある意味当然とも言える訳だよな。本堂って三仏堂のことだよな。でもあそこ、狭いけどそこらへんをもそっと詳しく現職の方にお聞きしたいと思ってたのですが、上のような事情で今回は我慢しました。ついでに金光明経の経本も輪王寺で頒布してないか聞いてみたかったけど、とりあえず弁才天女の方に当面かかりっきりになるしな。ま、来年でも余裕で間に合うだろ(笑)。ところで、「春の寛永寺」でばんばん出てきた金光明最勝王経ですが、大まかな流れは知っていたものの、お経として読んでみると実に陀羅尼の部分が多く、思っていたのとはかなり雰囲気が違ってました。え?これって密教なの!?てカンジ。そしたら、『仏教用語の基礎知識』(山折哲雄編著/角川選書)にこんな記述があった。 【金光明経は「空」や「捨身」の思想を説くいっぽう、四天王をはじめとする守護神が マンダラ的宇宙に活動する密教的色彩が強い。】やっぱ、そうなのか。法華経とはかなりカラーが違うもんな。何事も、自分でやってみなければわからないもんだな~と改めて思いました。そういうお経の楽しさを教えてくれたのも、輪王寺。ここで数年前に買った「絵説 般若心経」を最近になって引っ張り出して覚え始めたのがきっかけだったからな。買った時は単に営業協力のつもりだったのが趣味にまで発展したんだから、人生ってのは何がどう転ぶかわからないものです(笑)。にほんブログ村
2014年12月17日

綿半を出て、山内へ戻る道を進む。綿半のおじさんは、私のようかんを丁寧に包装してくれながら「時間が経つとようかんて外側にシャリシャリしたものがつくでしょう。中には、あれが好きな方もいましてね~。先日も、『去年のようかんないですか?』って聞かれたんですよ~」というお話をしてくれた。シャリシャリが好き?世の中には変わりモンもおるんだなあ~。ピーナッツの出べその小さい堅い部分が好きって人もいるしな。わたくしはシャリシャリを美味しいと思って食べたことはないけど、今度シャリシャリが付いたら味わって食べてみよう。来た道を戻らず、そのまま西へ歩いていくと綿半のすぐ先にはおそばのお店があり、 見た目はフツーの喫茶店てカンジだけど、外の看板には高松宮様だか、とにかく宮様が当店でお召し上がりになりました!と宣伝をしていた。この道の先には田母沢(たもざわ)の旧御用邸があり、戦後すぐ後からは御用邸としては使われなくなったようだけど、そういう縁で皇族の方々も日光へ行かれることがあるのかもしれないな。上の写真を撮ったあたりの場所には、地名の由来を述べた碑がある。 【安川町 「本妙道印」「釈迦堂」の門前に甍を並べていた約40戸の「原町」住民は、明治30年頃 「田母沢御用邸」の建設に伴い、現在地である徳川家管理の「善如寺谷・西谷」に移住 した。当時の管理者であった「勝海舟」は、この原町住民の移住によってできた街を、 その雅号の一字「安」をとり、「安川町」と命名し、今日に至っている。】 へええ~、勝先生が日光にも関わりがあったなんて。勝先生の雅号は「海舟」じゃないの?本名の「安芳」から一字を取ったんじゃないのかな?この碑のある場所を右に折れれば、山内方面。が、この場所は小さな空き地で公園というほどではないけど、ベンチがあったのでもう1コ残っていたコンビニのおにぎりをここで食べてく。決してまったりはしなかったんだけど、だいぶお護摩の時間が迫ってきた。ので、急いで西参道をまたいで御本坊沿いに輪王寺へ戻る。やべえ、また時間ギリギリだな。でもトイレにも寄っていきたいんだけど・・・トイレに行って小走りで大護摩堂へ向かうと、今度は若い坊様ではなく職員の人が表でわたくしを待ってくれていた。すみませ~ん、今年(こそ)はちゃんと時間前に入って護摩壇をよく観察したかったんですけどお~・・・急いで中に入ると、5分前くらいだった。いつもならその頃には導師様のプチ法話が始まってるハズなんだけど、今回はまだ導師様は来ていない。やれやれ、どうにか導師様のご挨拶には間に合ったぞ・・・今回お護摩を受ける人は少なかったので、護摩壇に近い椅子に座ると職員の人が膝かけを持ってきてくれた。このフリースの膝かけは、数年前から始まったサービス。じっと座ってると冬は足元が寒いから、これはとてもありがたい。導師様の入場は、常よりも明らかに遅かった。どうしたんだろう、今までこんなことなかったのに。ま、それでも開始の11時にはいらしたんだけど、壇に上がって仏前に礼を始めたので、今回はお話はないのかと思ったら、まず御本尊様にご挨拶をしただけらしい。その後でこちらに向き直ってお話を始めたんだけど、その内容がまた・・・「ばたばたしておりまして、お恥ずかしゅうございます。長年こちらでお勤めをさせて頂いておりますが、時には『なんで自分ばっかりこんな目に遭うんだ』などと思うこともありまして・・・」日光輪王寺の護摩祈祷の概略については「輪王寺2」に書いてますが、いつもの導師様は祈祷をしている時は厳しい顔をして迫力あるけど、私達参詣者にはいつも温かい笑顔を向けてくださる。去年の申し込みの際には、受付のおじさんは「祈祷などはあの方が一番だそうですよ」と教えてくれたので、そっち方面では上の立場にある方なのだろう。そうして僧侶として長い年月を過ごしていても、私達と同じようなマイナスの感情を抱くことがあるらしい。どうしたんだろう、なんで今回はこんな話をするのだろう・・・と心の中で首をかしげながら聞いていましたが、生身の人間にはお釈迦様が説いたような感情のブレをなくすことはやっぱりハードルが高すぎるんだよな・・・とも思った。少しのお話を終えて、いよいよ祈祷に入る。わたくしは祈祷の最中に居眠りをこいたことはなく、結構真面目に見ている方ですが今年はブログを書く中で勉強してきた内容が大変有意義なものだったので、今までとは全く視点が違う。・・・ええ、まあ、平たくいうと「興味津津」だった訳ですが勉強の成果はのっけから現れた。導師様の座る場所とその周囲にある作業台は「行事壇」という。まず行事壇に座る前に、立って「ナントカナントカゴニョゴニョゴニョ~」と言いながら膝を折って頭を床に付けて数回礼拝をする。そのゴニョゴニョ~の最後で「ジゲン・・・に拝したてまつる~」みたいな言葉が聞こえた。今、確かに「ジゲン」て言ったよな?天海(慈眼大師)のことか。なら、「慈恵」(じえ:良源さんのこと)とも言ってるハズだ。この唱和は数回繰り返すので、注意深く聞いてみたところ、どうやら「ナントカ・・・毘沙門天、五大明王、七福神、慈恵慈眼大師に拝したてまつる~」てな感じのことを言っているらしい。(ただし、セリフは正確ではありません)ああ、なるほど、そういうことか・・・ここでようやく、この最初の儀式の意味するところがわかった。護摩壇の前には仏像が何列かに分かれて置かれている。ちょっと正確じゃないかもしれませんが、護摩壇に近い方からお不動様を含む五大明王の像、その奥に七福神。真ん中の高い奥にはたしかあれ、毘沙門天だよな。そして最奥部には真ん中と左右にそれぞれひとつずつ、閉じた厨子がある。左右の厨子には紋が入っており、向かって右には丸に二引、向かって左ははっきりとは見えなかったけどたぶん転法輪印。もう、おわかりですね。左右の厨子には良源さんと天海がおわすのだ。そして真ん中の厨子、あれはたぶん鎮将夜叉様の三重の厨子だろう。つまり、導師様は行事壇に入る前にまず前に居並ぶ方々にご挨拶をしていたらしい。そして、この方々がまとめてお護摩のご本尊、あるいは守り神ということになる。外野席から見てると、手前の正面に建つ炎を背負ったお不動様に目が行くので、「お不動様のご加護」と思っていたんだけど、輪王寺の護摩は良源さんや天海も含めた沢山のほとけ達に守られていたものだったんだ~!つるっと教えられちゃうと「へえ~、そうなんだ~」で終わっちゃうけど、自分でなにかを見つけた時の喜びというのは実に大きい。何を、何のためにしているかということが理解できれば、他のことにも自然と興味が湧いてくる。その後で導師様は行事壇について修法を始める。時には「あれ?やり方が違う」って思う時もあるけど、大まかな流れは大体いつも一緒のような気がする。しかし、今回はなんかいつもとは違った。細かい手順のひとつひとつを覚えている訳じゃないけど、何てゆーのか・・・悪い言い方をすれば「段取りが悪い」みたいなカンジ。どうしたんだろう、今までこんなことなかったのに。最初のお話で言っていたようなことが尾を引いてるんだろうか・・・いやいや、そこはきっちり気持ちを切り替えて護摩に臨んでるハズだ。しかしその後もそんな雰囲気は続き、霊感はないものの「なんか場が重くて、やりにくそうだな」と思いながら修法を見ていた。護摩壇に火が入ってある程度すると、祈願者の名前を読み上げておふだを1枚ずつ火にかざして念を入れる。この時、わたくしの名前が2回呼ばれた。アレ?同姓同名の人がこの中にいるのかな?と思ったけど、この回の参列者は私を含めて10人ぐらい。この数で同姓同名がいるなんて考えられない。フツー、祈願者は祈祷のおふだを1枚だけ預ける。が、私は祈祷のおふだに加えて方位除けのおふだも預けているので、たぶん2枚のおふだが並べる時にバラバラになってしまったのだろう。お護摩が終わると、導師様がおふだを渡しつつ、それぞれに身体加持をしてくれる。私が導師様の前に行った時、案の定導師様が手にしていたおふだは1枚だけだった。やっぱしね(笑)。お護摩が終わって解散した後で、わたくしの顔を覚えていたお坊さんじゃないもう1人の若いお坊さんが導師様に謝っていたので、その方がおふだを並べるのを担当したらしい。別にそんなことで怒っている訳じゃないし、今回のお護摩に不満があった訳じゃないですよ。ただ、何てゆーのか・・・お坊さんといえどもやっぱり人間だし、目に見えない世界もなんか色々ありそうだな~なんてことを考えたりもしました。今回のお護摩は、仏教史の面から色々考えていたこともあったし、これだけスムーズじゃないお護摩も珍しいので(笑)、色んな意味で記憶に残るお護摩だったかもしれません。理趣経の件をきっかけに道が分かれてしまった最澄と空海ですが、天台宗が現在に引き継がれる密教の道を整えたあたりについては「叡山攻め」の方で簡単に紹介しましょうかね。にほんブログ村
2014年12月16日

※「史跡探勝路7」の続きです。「輪王寺1」~「4」は「日光写真館目次」からお入りください。お護摩の受付を済ませた後で、輪王寺のメインエリアから出る。三仏堂や大護摩堂のあるメイン部分から表参道を挟んだ向かいにはこれがある↓。 こちらが、現在のご門跡がおられる本坊です(場所はこちら)。これを書いたのはどなた、ってのをどこかで読んだ気がするのですが、見つからない・・・こちらは観光エリアにはなっていないので、門の外には とある。んでも、門の外からちょっと覗き見↓。 地図で見ると結構広いし、木がジャマで奥が見えない。入口にある石垣は、かなり古い↓。 さて、この本坊の石垣に沿って表参道を南へ少し下り、小道を西に入ります。 おおう、上から矢を射かけられたらたまらんな・・・て、ここ寺だってば実はこの右側の石垣の上は、すまほの地図で見ると「四本竜寺」とあるのです。うん?「新・四本龍寺」ってことかな?そんなの全然知らなかったぞ・・・現地でしっかり確認してこようと思っていたので、ちょうど次のお目当てに行く道沿いでもあり、「四本竜寺」を探しながらこの道を西に進んでいきました。矢で狙われたら困る小道を抜けると、車道に出る。ここにも「四本竜寺」を上に戴く石垣が続く↓。 この道をずっと道なりに進んで回り込むと、車道は「四本竜寺」の石垣から離れる。そこはこんなんなってた↓。 写真だとわかりづらいですが、手前の右の2本の木の奥には門があって、ぴっちり閉まってます。ううん、これは入れそうにないな・・・ただ、この場所は他の地図だと「輪王寺本坊」とある。つまりはすまほのマップだけが「四本竜寺」という古称を用いてる訳で、私が寄ってきた四本龍寺には何も名称が書かれていない。なんだ、つまりは御本坊のことを指してた訳か。紛らわしいじゃないか車道をさらに進むと西参道。ここには駐車場やバス停、それから土産物のお店が並ぶのでこちらから山内に入る観光客も多い。で、わたくしは一旦山内を出て国道を渡り、さらに南下してこの道に出ました↓。 う~ん、この道を歩くのは初めてかもな。道沿いには大きな旅館や大きくない旅館が立ち並ぶ。小学校の修学旅行の時はどこに泊まったのかまでは覚えてないけど、あるいはこの辺の旅館に泊まったのかもしれない。この道を進んで、これがわたくしのお目当てのお店です↓(場所はこの辺)。 ようかんのお店、綿半(わたはん)。日光は水がいいので、ようかんのお店や湯葉を扱うお店が多いですが、私は今まで東武日光駅から山内へ向かう参道沿いのお店のようかんしか買ったことがない。そちらにも有名なお店があるしね。綿半さんのことを知ったのは、去年。寛永寺シリーズを書いている最中でした。去年の日光詣での際にはぜひ寄りたいと思っていたものの、寒くて体力切れになったので次回へ持ち越しとしたんだよな。今回、時間が足りなくなったので常行堂に行くのは諦めたけど、綿半さんは諦める訳にはいかなかった。その理由は、綿半の歴史にあります。ようかんに入っていた説明書きからこちらのお店の歴史を紹介しましょう。 【幣店の庭先に古来冷泉を湧出し、極めて清浄にして大宇と雖も枯渇する事無く 淋雨と雖も混濁する事無し。甘味家業を始めて数世の後、今より5世前半兵衛の 考案に拠りて此の泉水を汲み、練羊羹を製造し試験すること再三なるに酷夏を経るも 佳良の風味を失わず且つ変味腐敗等無之に付、天明7年4月3日を以て本業を開始す。 当時 日光宮輪王寺法親王殿下に献せしに、殿下深く其の風味の佳良にして永く貯蔵し置くも 変味腐敗等の憂い無きを御嘉賞あらせられ、其の山印を給い御用と称せしむ。ここに 於いて専ら此の業に従事し年年歳歳精製を加ふること最もつとめたり。 元来法親王殿下は1ヵ年3回の御登晃を常例となし、その都度御進物用として 幣店練羊羹を諸侯方に贈与せられたるより、諸候の代参又は登山の公家武家に至る迄 該品を当山進物の随一と称せらるる名誉を得たるに拠り嘉永2年4月11日、二代半兵衛に 至り嵯峨御所の御令旨を奉して、下野大掾に任ぜられたり。之れ奇特の神水と精製の 功とによって此処の栄誉を得たるものなり。 これに依りて諸侯諸家へ納むる羊羹の箱書きは総て嵯峨御所の御令旨に拠り下野大掾 藤原保利の名を用ひ綿屋半兵衛 常称綿半と号す。(幣店古文書より)】と、ゆー訳で輪王寺宮へようかんを献上していたお店だったのです。宮が1年に3回、お勤めのために日光入りしていたことは寛永寺シリーズの宮バナを読んで下さった方は先刻ご承知ですね。(忘れた方は「上野第二編(21)」をどぞ)「御登晃」は日光入りしたって意味ね。ま、ようかんの本格的製造を始めたのが天明7年(1787)ってあるから、江戸も後期にさしかかる頃だけど、それ以降の宮様はこちらのようかんを口にされ、また公家や大名家にも配ったってことだな。上記リンク先ではお勤めを果たした宮の日光みやげを紹介してますが、綿半の練りようかんもみやげに持ち帰った時もあったかもしれないよな。ふふふ、宮のようかん・・・わたくしがこれを知って行かないハズはないでしょうお店に入ってみると、誰もいない。綿半で買い物をした人は「のんびりしているのか、なかなか店の人は出てこない」てな事を書いていましたが、しばらくケースを見て選んでいてもだ~れも出てこなかった。大体のところを決めて声をかけると、奥から品のいいおじさんが出てきた。料理人がよく着てるような白い上っぱりを着ていたので、このおじさんが製造も担当しているのかもしれない。商品はほぼようかん。ちょっとお手頃価格の練りようかんが数種類と、高いようかん。あと、一口ようかん。宮へ献上したのと同じようかんはもう作っていないようなんだけど、高い方が雰囲気出るので(笑)高いの1本と一口ようかん6コ入りを買った。おじさんは奥から品物を出してきたり、丁寧に包装したりと忙しい。包装しなくてもいいですよと言ってみたけど、全部綺麗に包んでくれた。実は、ようかんの他に綿半でのお目当ては2つあった。そのうちの1つを店内に見つけたので、一生懸命包装してくれてるおじさんの背中に声をかけて、写真を撮らせてもらった↓。 宮印・かすがい山。 【右鎹山印ハ當寺法親王宮御時代ニ於テ前記ノ者ヘ御用菓子ニ用ヰルコトヲ許可 セラレタルヲ證明ス】途中の文字は「於テ」じゃないような気もしますが、まあ文脈的にはそんなとこでしょう(←大ざっぱ)。この証明書の発行は大正5年6月10日、時の日光輪王寺門跡によるもの。これを見るに、宮から御進物用として注文が入れば、その献上菓子に宮印を使ったってことらしいな。綿半さんを訪れた先人のブログには、献上の際に使ったお櫃だか駕籠だかの写真が載っていたので、ここは本店だからそれも置いてあるかと期待したんだけど、店先には置いてなかった。ちぇっ、残念。で、肝心のようかんがこちら↓。 宮印の下に「御用」とあり、その上に二荒山神社の神紋と天皇家の菊と徳川家の三つ葉葵が並ぶ。すげえコラボだな翌日、早速ようかんを食べてみましたが、変なクセがなくておいしい。竹の皮に直接包まれているので、竹の香りがようかんに移っていた。一口ようかんの方は塩ようかんで、6コしかないので職場の近しい人に配ってわたくしは食べてませんが、配ったうちの1人は色々と物知りの違いのわかるオジサマで、わたくしの趣味を知ってる方なので宮への献上ようかんのお店ですと言って渡してきたところ、後から仕事中に「さすがに献上のお店。虎屋のようかんよりおいしかった」てなメールが来ました。わたくしは違いのわからないジジイですが、そうか、やっぱりおいしかったのか・・・喜んでもらえたようで、よかった皆様も、大事な人への日光みやげは綿半でどうぞにほんブログ村
2014年12月15日

「史跡探勝路1」で小杉放菴(ほうあん)記念日光美術館様のマスコットキャラクター「ジンジャくん」の紹介をしましたが、ゆんべジンジャくんがツイッターでわたくしの日光編の記事をリツイートしてくださったのでお礼を申し上げたところ、かわいい画像つきでお返事が来た。「うおっ、マジかわええ~!!」と思わず声が出まして(笑)、1人で楽しむのはもったいないので画像をブログに貼っていいかおうかがいをたてたところ、快く承諾していただいたので紹介させていただきます。 世はゆるキャラ全盛で、市町村の公認キャラの場合住民票などの公的書類にゆるキャラがプリントされていることもありますが、悪いけど正直言って中には「誰がこんなの選んだのか?」って書類を見て顔をしかめる時がある。ま、好みの問題もあるとは思いますが、それにしてもこのジンジャくんの可愛さよ・・・けど、可愛いだけじゃなくてちゃんと仏像のセオリーは踏んでるんだよな。さすが、美術館のマスコットとなると違うなあ~としばらくすまほの画像を眺めてました。日光へお越しの際はぜひ、神橋からすぐ東の場所にある小杉放菴記念日光美術館へお立ち寄りください。メモ帳とかクリアファイルなんかの文具系のジンジャくんグッズがあったら欲しいな。仕事に使いたいでは、前回の続きです。四本龍寺を出て日光幼稚園の敷地沿いに道を進む。積み方はだいぶ荒いけど、まあ石垣は石垣だ(笑)。 して、東参道から脇に入る石段の上の分岐で右に延びてた道と合流。ここも側溝の下を勢いよく水が流れ下っていた。 ここから右に折れて、引き続き日光幼稚園の敷地沿いを北へ進む。両脇には石垣が続く道↓。 この石垣の上が日光幼稚園↓。なんともゼイタクな幼稚園だこと・・・ 南照院↓。 途中にあった小さいふた↓。ここも「二社一寺」の商標入りだ 日光幼稚園の入口から敷地越しに五重塔と観音堂を見たところ↓。 写真に写ってる観音堂の2面のうち、右側の壁がボール柄がプリントされてた方です。幼稚園児がパスボールしてたまたまお堂に当たったくらいじゃ、あそこまで網目がくっきり残ることはないと思うんだよなあ・・・あれは結構な力を入れて投げてるものだと思うから、小学生以上の人間が初めから当てるつもりでフェンス越しにボールを投げたような気がするんだけど壊してくれるなよ、観音堂。ここから一旦史跡探勝路を離れて輪王寺方面への小道を入る↓。ここでは便宜上、史跡探勝路に含めた記事として載せていきますのでご了承ください。 山内のメインのエリアを外れて僧坊の並ぶ道を歩いたのは初めてだけど、どこまでも石垣が続いてるんだなあ・・・この辺には観光客は来ないし、ここからたいして離れてない場所には今頃観光客が集まりだしてるだろうに、そんなこと感じさせない静けさ。あるいはこの辺にある家は僧坊だけじゃないのかもしれないけど、あまり失礼にならない程度に周囲を見回しながら先へ進む。 細く長い道を通って出た場所は、駐車場の近く。あと1ブロック越えれば輪王寺だ。そう思って進もうとしたら、こんな掲示板があった↓。 あっ、こんなとこにも選挙の波が・・・山内自治会?そういえば、考えたことないけどお坊さんにも選挙権があるのか。法衣のまま投票所に行くのかな。けど、二社一寺の経営は今は観光事業に負うところが大きいだろうからな・・・各堂宇で表に出て観光事業に携わる役のお坊さんは日曜に投票になんか行かれないよな。とすると、期日前投票で済ませるのだろうか・・・思いがけず出てきた生活臭い看板に、現代に生きるお坊さんたちの生活に興味が尽きない。して、輪王寺へ向かう小道へ入る。ここにも石垣が・・・↓。 ここを回り込んでいくと輪王寺。本堂である三仏堂には相変わらず工事中のシートがかかっている↓。 この工事中の光景もすっかり見慣れちゃったなあ。入ってすぐの公衆トイレでご用を済ませてから歩き出すと、トイレのすぐ近くにある石垣に目が行った↓。 「埋門(うずみもん)だ・・・」と思ったわたくしはバカです。はい、バカです。時計を見ると10時10分。この後は常行堂に久々に上がって、それともうひとつ寄りたいところがあったんだけど、ちょっと常行堂はキビシイな。仕方ない、今回は常行堂は諦めよう。三仏堂の脇に付けられた工事期間中の特設ルートを通って大護摩堂へ向かう。まずは右側にある受付でお護摩の申し込み。ここはご朱印も受け付けているらしく、申込用紙を書き終わってもまだ人がいたので、先に左側の売店コーナーへ行って方位除けのお札を受け替える。それでもまだ人がいたので待っていたら、近くに若いお坊さんがいた。え~と、去年のお護摩のあまり詳しい報告はしてませんでしたが、去年も同じように少し早い時間に申し込みを済ませて他を観に行ったり東照宮入口のあずまやで腹ごしらえなぞをしてるうち、時間がギリギリになってしまった。「やばいやばい~!!」と焦りながら走って護摩堂へ向かったところ、雪の舞う寒い中をこのお坊さんが表に出てもう護摩が始まるのになかなかやって来ない私を待ってくれていた。「優しい方だな」と思ったし、「上野第二編(25)」で書いた、『宝ものがたり』や身体加持のことを教えてくれた人でもあったので、すすす~と近寄って「今日、11時の回に団体さん入ってます?」と聞いてみた。そしたら、その回には入ってないという。ああ、よかった~。団体さんが入るとかなり時間がかかっちゃうので、いつも気になるんだよね。安心したわたくしの顔を見て、今度はこの坊様の方から「長く来ていらっしゃいますよね?」と聞かれた。えええ~、日光でお護摩を受ける人なんて年間万単位のハズで、私は個人で行ってるから特別何のつながりがある訳でもないのに、私の顔、覚えてるの!?明らかに「何で!?」って顔をしてる私を見て、坊様は「何度かお見かけした記憶があります」とおっしゃった。まあ、去年の申し込みをした時にも団体さんの有無について受付のおじさんに聞いて、そんなこと聞く人間はフツーいないだろうし、その他にもこの坊様には少し質問をしたり、お護摩に遅刻しそうになったりもしたので強く印象に残っていたのかもしれない。でもそれだって1年前のことだし、驚異的な記憶力。それとも、わたくしのビジュアルがそんなに強烈だったとか?ううむ、その辺はあまりつっこまずにおこう・・・まあな、私も毎年通っていて、大護摩堂で表に出てくる数人のお坊さんの顔や受付のおじさんの顔は覚えてるから、何度もやって来ては導師様を捕まえて質問したりおじさんとおしゃべりしたりしてるうちにこの地味な顔がインプットされたのかもしれない。それにしても、地元民でもないのに、輪王寺のお坊さんに顔を覚えてもらえるなんてちょっと嬉しいよないい気分になってお護摩の受付を済ませてから、次のお目当てへ向かう。↓ぽちっとよろしく~。にほんブログ村
2014年12月14日

【四本龍寺観音堂(県指定文化財) 天平神護2年(766)大谷川を渡った勝道上人一行は、この地に草庵を結び 四本龍寺を建てた。その後、大同2年(807)下野国司、橘利遠が千手観音を祀る 堂を建立。四間四方(約8メートル)。二社一寺の建造物で唯一の素木造り。 明治7年に、金剛童子を合祀したので「金剛堂」とも呼ばれる。下野三十三観音巡りの 第3番札所。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)確かに山内で素木の堂宇は見たことないよな。ここだけなんだ・・・派手な装飾はありませんが、わたくし好みのお堂であります。 床下の真ん中へんが相変わらず気になるので、正面からふたたび縁の下へもぐり込む。 ふん、こーやって床を支えてるのか。床下のぞきが趣味とはいえ、ここまで綺麗に見せてくれるところってなかなかないからな・・・つか、床が高い堂宇はそれなりにあるもんだけど、その中で覗けるところというとかなり数は減り、さらに覗けるうちでわたくしの記憶にあるのは亀腹の場合が多い。あるいは写真に残ってないから記憶にないだけかもしれないけど、綺麗に覗けた中でこうやって貫(地面と水平に渡した部材)を通している床下を見たのは、前回の記事の旅の思い出でおともだちの織部さんを召喚しようとした時だけ。亀腹も白いふっくらとしたまんじゅうスタイルがいいけど、私はこっちの貫を通すタイプのが好きだな。え~、最近は建築の勉強をサボってましてなかなか理解が進んでませんが、これだけ綺麗なものを見るとちゃんと覚えようって気にもなるもの。日本建築ってのは細かい部材にまできちんと名称が付いてるからね。手持ちの建築関係の本ではなかなか床下の詳しい構造まで解説してるのはないし、ネットで調べてもイマイチでしたが、だいたいこんなとこだろうと思います↓。 建築には軸組工法と貫工法があるらしく、シロートにはその違いがよくわからんのですが、ここの床下は貫を通してるから貫工法というんじゃないかな(←単純)。 床を垂直に支える部材には、太い丸い柱の他に細い角材のようなものも見えるから、この観音堂の場合はあるいは丸い柱を「柱」と呼んで、細い角材の方を「床束」(ゆかづか)と呼ぶのかもしれません。それで、さっきから気になってたのがこちら↓。 ボケてるし、貫がジャマで写りがよくありませんが、真ん中の手前に写ってる床束の奥に石組みのようなものがあるのが見えますか?あれがわたくしが気になってた部分です。位置的には、あれはちょうどお堂の中央あたり。現地では、たとえばあの場所に塔でいう心柱のようなものがあってそれを石組みで囲ってるのかとも思いましたが、後から写真を見てみると、すぐ近くに床束もあるし、心柱にしては位置のバランスが悪いよな。それに、柱を石組みで覆う必要なんかあるか?なので、あの石組みの中には柱ではなく、お経とか、あるいは仏像とか、そういう類のものが置かれているのかもしれないと後から思うようになりました。いろは坂を上がった中禅寺湖畔のエリアにある輪王寺の別院・中禅寺も勝道さんが建てたとされる寺ですが、そこのご本尊様の千手観音は勝道さんが桂の一木から彫り出したとされるデカい仏像で、床下まで足が続いてるという話があります。ので、ここ観音堂もご本尊様の足が床下に出ていて、それを石組みで覆っている可能性もあるよな。伝統的な日本建築ってのは木組みがメインで釘などは使われないものですが、ここには一部そういった類のものが見える。綺麗な床下に満足して縁の下を出ようとして縁を見上げたら、そこにも留め具が使われていた↓。 向かって左側の側面↓。 ここには外側に張り出す組物が使われていないので、すっきりとして見える。と、壁に何か模様のようなものがあるのに気がついた↓。 なんだ、あれ?紋でも散らしてるのかな、と思って近寄ってみると アハハハハ、そーゆーことか!!即座に大津の篠津神社とか、ミワラの専福寺前の公衆トイレに「この近くでボール投げはやめましょう」って書いてあったことを思い出した。 破損もさることながら、こんな風にボール跡がプリントされちゃうんだね。しかし、ボールの網目までずいぶんくっきりとちょっと当たったぐらいでここまでなるかな?メインはこれでだいたい見た。あとは観音堂の奥の方に石碑などがいくつかある↓。 お~っ、天平神護!「叡山攻め」でたどってきたばかりの時代だから、実に親しみがある。ちなみにこの年766年は最澄が生まれた年であり(生年には別説あり)、中央政界では道鏡さんが法王になった年でもあります。(「叡山攻め(31)」参照)この石碑から振り返ったところ↓。 ここの場所の雰囲気自体もわたくしは気に入ったので、勝道さんはいい場所に草庵を作ったな~としみじみ思う。それから、大きな石碑が2つ並ぶ↓。 向かって右のは完全にアウトですが、左のはかろうじて一部文字が読める。日付らしきものの2文字めには「應」という字があって、その下に「二」がくるんだけど、最初の文字がどうにも読めない。「慶應」(1865-68)かとも思ったけど、干支がどうも「癸巳」のように見えるから、慶應2年の干支の「丙寅」とは合わない。慶應の他に「應」の字を使う元号ってあったっけ・・・と思ったら、「承應」(1652-55)があって、これなら干支も合致するから、承應2年(1653)かもしれない。このブログの読者様には「明暦の大火の4年前」って言った方が時代感覚がつかみやすいかもしれませんね。あと、古い水盤があった↓。 写真だとかろうじて文字っぽいのがあるのはわかるけど、判読は困難。紋はぱっと見、蓮華紋のようでもあるけど、複雑な造りになってるから転法輪(てんぽうりん)かもしれない。時計を見るとそろそろ10時。この後はいったん輪王寺で護摩の申し込みをしてから山内の西側に行こうと思ってるので、ちょうどいい時間だな。でもここが気に入ったのでもう少しいたいし、ついでに軽く腹ごしらえもしていこう。で、持参したコンビニののり巻を食べながら三重塔の奥の空いてるエリアに行ってすぐ近くにある小杉放菴(ほうあん)記念日光美術館の辺りなどを眺める。立ち食いすんなって?お護摩の開始は11時で終わるのが12時ころだから、何も食べないで行ったらお腹すいちゃうんだもんそしたら、三重塔の脇のはじっこに2本木が立ってるのが見えた↓。 後ろの風景と同化して見づらいですが、何かに使うために立てられた木なんだろう。何するためのものなんだろう・・・さて、最後に三重塔を見てと。 風鐸(ふうたく)ってあまり近くで見たことないけど、中にぶら下がってるのって結構大きいんだ・・・あとでYouTubeで風鐸の鳴る音を聞いてみましたが、風の強い日だとガランガランと結構大きい音するのね(笑)。興味を持って物事を見てみると、何でも面白く見えます。のり巻も食べ終わったので、そろそろ移動しようかな。名残惜しいものの、出口へ向かう。 ※「輪王寺12」にも四本龍寺について追記あり。にほんブログ村
2014年12月13日

四本龍寺三重塔の十二支の蟇股を(推定)順序と逆に引き続きご紹介~。推定なのは、検証しきれなかったからです。その理由は写真を見ていただければわかります。 ここまでは順序よく(逆に)来ているから、↑これはウシだろうな。しっぽがウシっぽい。ウシからは三重塔の背面になりますが・・・ 完全に埋没しちゃって何がなんだかまったくわかりませんなんでこーなるかってーと、背面のすぐうしろは 輪王寺の幼稚園があって、蟇股を充分に撮れるだけの距離が取れないからです。このフェンスの台の石に乗れば見えると思うけど、それはさすがにマナーが悪いので、見えないものは仕方ないと諦めました。が、順番からいって上の主役が埋没した2枚はネズミとイノシシと思われます。 ↑現地ではネズミかとも思いましたが、順番通りにきてるならこれはイヌでしょう。 山内や同じ系列である寛永寺(現在の上野東照宮)にはそれこそごまんと鳥の彫刻があるのに、よりによってなぜここの鳥がコレ?ま、面白いっちゃ面白いけどさ・・・ で、来年の干支のヒツジでラストです↓。目がコワイんだけど・・・ 塔の四面にそれぞれ3枚の蟇股。しかし、干支の始まりのネズミは塔の背面の真ん中に来ている。裏からスタートしてるのには何か理由があるのだろうか・・・それとも、江戸期にはネズミがスターターじゃなかったとか?いや、そんなハズないよな・・・十二支を撮り終わって振り向くと、そこには前回の三重塔の解説の最後にあった石の護摩壇がある↓。 手前から見ていきましょう。 わたくしが毎年お世話になる輪王寺大護摩堂の護摩壇には、導師様が座る場所のすぐ前にホッチキスの芯を立てたような形の囲いが確かにある。が、ここのは明らかに鳥居だよな。これも神仏習合の名残りなんだろうか。 うん、確かに護摩壇だ。今はたぶんここで護摩はやらないんだろうけど、四隅に立つこけしのような形の棒にロープを張って結界を作ったんだろうな。修験道ムード満点護摩壇の前には、本尊であるこの方たちがおわす↓。 ↑印を結んでる・・・この場合も両脇の方たちは脇侍というんだろうけど、古くからずっとこの場におわすっぽいな。メインのご本尊様の足元にはこんなのがあった↓。 現地ではこれも火を焚く道具かと思ったけど、写真をよく見ると手前に切れ込みのようなものがあるな・・・なんだろう、水でも張ってたかな?それとも護摩で使ったもので、灰を掻きだすための切れ込みなんだろうか。で、ご本尊様がこちら↓。 少し前までは、背中に炎をしょってなければお不動様だとはわからなかった。でも「高野山の名宝」展で目が慣れた今なら、炎がなくてもこれがお不動様だとわかる。仏像の特徴はある程度は決まっていてそれが見分けるポイントになりますが、像によって持物(じもつ)が違っていたりすることもあるのでそれだけに頼ることもできない。これがお不動様だと見分けたポイントはいくつかありますが、そのうちのひとつが持物。右手に剣、左手に羂索(けんさく)ってのがおおかたのパターンだからな。でまず左手は アハハハ!羂索!羂索!!これ、けんさくうぅぅぅ~~~!!大爆笑したくなるのはかろうじてこらえましたが、でもこみ上げる笑いは押さえきれず。このチェーンは新しいものだから、明らかに後補です(笑)。で右手は だいたいお不動様って右手には長い降魔の剣を立てて持ってるものだけど、ここのは小さい斧みたいなものを持っている。まあ、武器の一種とは言えるかもな。 こんなパンクなお不動様ですが、この場所はわたくしと相性もいいらしく、大変気に入りました。ま、もともと羂索も狩りのための武器だしな。チェーンもアリだよな。ただし、ここ四本龍寺のお不動様に救われる方は、救いのために放ったチェーン・・・もとい、慈悲の羂索が当たって少々痛い思いをするかもしれませんあ~、面白い。誰がお不動様の手にこんなのを通したのかはわからないけど、自由な発想がいいよな。イタズラにしても、ちゃ~んと理にかなったものを持たせてるしね。もう1人の脇侍がこちら↓。 お不動様の背中と三重塔↓。 さて、今度は護摩壇の向って左に建つ観音堂↓。 が、護摩壇の奥まで進んでそのまま観音堂に移動したので、お堂の造りよりまず先に これまた恒例の床下のぞき~ここはこんな風に床が高いので ちょっと狭いですが、縁の下にもぐり込んで中を覗くことができます。じっくり見たいのはヤマヤマだけど、いつ人が来るかわからない・・・古いお堂の縁の下にもぐりこむジジイなんて、不審者以外の何者でもないからな。けど、護摩壇側の面の縁の下には板が外れてぽっかりと空いた箇所があって↓ 「おじいさ~ん、覗いてかな~い?」と完全にわたくしを誘っている・・・で結局誘惑に負けてもぞもぞともぐり込むと お~っ、さっきよりよく見えるわ。いいなあ、これ。床下も立派だなあ。ただ、お堂の真ん中らへんには気になる箇所があったんだけど、ちょっとこの角度からはよく見えない。未公開の廿日市編でも思いっきり床下を堪能した場所がありまして、すごい光景が広がっていたのでおともだちの織部さんへ写真付きで「織部さんを魔法で呼び出した~い!今すぐ~!!」てなツイートを送ったのですが、すぐには返事は来なかった。きっと、忙しいんだな。でも魔法が使えたとしたら、相手の事情なんかお構いなしに召喚するんだから、もし今織部さんがお風呂に入ってたとしたらすっぽんぽんの織部さんがここに登場することになるんだろーか・・・となると、魔法が使えるのも問題だよな。とかバカなことを考えてました結局、織部さんからの返信があったのは2日後。いや、根に持ってる訳じゃないですよ、織部さん。あれも楽しい旅の思い出です。 にほんブログ村
2014年12月12日

前回の本宮神社本殿の意匠の続きです。 本殿は流造(ながれづくり)。塗装や彩色が結構ハゲかかってるものの、かなりいいカンジ。今は神仏分離によって世界遺産「日光の社寺」は二社一寺に分かれているけど、もとは同じ釜のメシを食う仲間で「日光一山」だったからね。現代に伝わるこの社殿も東照宮や輪王寺と同じ流れを汲む造りになってるのは当然のことといえる。本殿の脇には、奥へと続く参道がある↓。 脇の参道から本殿の裏手を見たところ↓。 真ん中に黒い扉がありますね。本宮神社のご祭神は前回の解説版の通り味耜高彦根命(あじすぎたかひこねのみこと)でこの神様はオオクニヌシの子供さんらしいですが、二荒山神社の御神体は背後にある日光三山。で、本殿の裏の扉からはその御神体を拝めるようになってるんだそうな。こーゆー造りは珍しいっていうんだけど、拝殿の裏には本殿へとつながる扉があるのは当然だけど、本殿の裏にも扉があるのは確かに見たことないかもな。 さて、参道を奥まで進むとそこはもう本宮神社とは呼びません。今回、わたくしはここへ来るのを非常に楽しみにしておりました。上の写真には三重塔が写ってますが、そこへ行く手前にまず見所があります。 【四本龍寺紫雲石(しほんりゅうじ しうんせき) ここから西南に少し離れた唯心院境内の礼拝石で、勝道上人が、ある日、礼拝を捧げた 折、この石の辺りから紫の雲が立ちのぼり、男体山の方へたなびくのを見たということ から、紫雲石と呼ばれる。そしてこの地を四神守護の霊地として、四本龍寺を建てた という。現在は、観音堂、三重塔のみだが、日光発祥の地であり、奈良、平安時代の 日光の中心地であった。】 (現地解説板より)紫の雲の件については、「輪王寺1」でも軽く紹介してますね。唯心院は東参道の途中の近くにある子院で、解説の通りここからちょっと西南に行った場所にある。ぶっちゃけ山菅の蛇橋も紫雲石も伝承の域を出ないけど、それでも勝道さんが最初に拠点を置いたのが神橋から山内に入った辺りのエリアであることに変わりはない。勝道さんが亡くなった後も、ここを中心として次第に奥地への開拓を進めていったということだろう。ただ、一般的に日光を開いたのは勝道さんだとされるものの、ウィキペディアにはこんな風に書いてある。 【なお、社伝などでは上記のように勝道上人が開祖と説明されるが、実際には太郎山神社 周辺で古代の祭祀の痕跡を示す遺跡が見つかっており、相当古くから聖地として信仰対象で あったことがわかっている。】「叡山攻め」で大同元年までの歴史を追ってきた今なら、勝道さんが到着した頃の日光はただの野生動物のすみかではなく、すでに山内での先人の修行者がいただろうということはよく理解できる。ちょうど最澄が山こもりを始めた時にすでに叡山には先人がいたというのと同じ。だからと言って勝道さんの事績の価値が下がるという訳でもないけど。んで、ここには大きめの岩がゴロゴロしてるのでどれが紫雲石じゃい?ときょろきょろしちゃったけど、たぶんこれがそうだと思う↓。 紫雲石の前におわすのがこちらの方々↓。 ハア、なんかなごむな~、ここ。で、目前にそびえるのがこちら↓。 【四本龍寺三重塔(重要文化財) 日光山24世座主弁覚が、将軍源実朝の供養のために仁治2年(1241)に東照宮境内 付近に建立。その後この地に移された。貞享元年(1684)の大火で焼失、翌年再建 されたのが現在の塔である。三間四方(約6メートル)。最下層の蛙股に十二支の彫刻が ある。隣接の不動明王と石の護摩壇は日光修験の峰修行の遺跡である。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)んもう、こんなとこに三重塔があったなんてマジで知らなかったんだけど~日光と源家の関わりは、保元元年(1156)に頼朝の父・義朝が下野守に任じられたあたりから始まるのかな。その後、義朝の子供たちは日光に社領や神馬を奉納したりしている。勝道さんの後は、その弟子でありいとこでもある教旻(きょうびん)が初代座主となり、教旻の後は勝道さんの弟子たちが座主となり、時代が下ると優秀な僧の中から座主となる者が生まれた。そうして代を重ねること24代、これが弁覚さんでこの方は日光の復興に努めたほか、鎌倉幕府内のゴタゴタである和田合戦にも参戦したというバラエティに富んだ経歴の持ち主。ま、和田合戦の少し前の源平の合戦の時には、園城寺からの助っ人の僧たちが縦横無尽の活躍をしてるからな。(「大津編(26)」 「(28)」参照)別に驚くにはあたらない。え~、本ブログももう900話間近で色んな話が色んなところで絡んでくるのでわたくし自身もだいぶ把握しきれなくなってきてますが、弁覚さんは過去の記事で何度か名前が出てきているのですよ。弁覚さんはこの三重塔のほか、二荒山神社新宮なども造り、そして光明院も建立した。それまでは勝道さんの開いた四本龍寺をメインとしていたのが、光明院ができてからはそこが中心となったんだそうな。古地図を持ってないので当時の光明院の正確な場所は不明ですが、「輪王寺4」で光明院の稲荷社を紹介してますね。日光に東照宮ができる前は東照宮・輪王寺付近に古い寺社があってそれを立ち退かせていい場所に東照宮を建てたというので、稲荷社だけ昔のままの場所ってこともないのかもしれないけど、たぶん現在の輪王寺付近にあったんじゃないかと思われる。三重塔も東照宮境内付近にあったって解説に書いてあるもんね。なら、三重塔も東照宮建立による立ち退きメンバーに入ってたのかもしれないな。で、過去の光明院の記事は「上野第二編(56)」にもあります。光明院に住む山主が源家ゆかりの勝長寿院を兼ね、さらにその山主は鎌倉に住んでいたというエピソードです。輪王寺宮のルーツはこの鎌倉期の山主兼帯にあるとにらんでいるわたくしにとっては、弁覚さんのゆかりというだけでも色んな歴史が頭の中を駆け巡って萌え~に価する場所でもあります。勝道さんが遠い昔この場所にいて、鎌倉3代将軍・実朝のために弁覚さんが建てた三重塔・・・日光発祥の地でもあるし、歴代輪王寺宮が日光にお勤めに入山した際には紫雲石とかを観に来たかもしれないよな。あ~、相輪(そうりん)がきれいだ↓。 三重塔の内部は非公開。「上がるな」と書いてある石段の前にはなにかの跡がある↓。灯篭でもここに建ってたかな? さてと、それじゃ解説にあった蟇股の十二支を観て回ろうかな。弁覚さんの建立そのままじゃないのは残念ですが、それゆえに東照宮と同じ系譜の江戸期の蟇股を拝むことができる。正面から時計と反対回りに順々に写真を載せていきま~す。 うし?いや、ドット柄になってるから馬かな。 これはヘビだよな。どうやらここは「ね~うしとらう~たつみ~」の順番じゃないらしい。 たつ・・・「たつみ~うま」だから、私のまわり方が逆なのか?まあいいや、ワシャこのまま進みたいんじゃ (↑単にめんどくさいだけ) にほんブログ村
2014年12月11日

鳥居の近くにはこんなのが立っていた↓。 「史跡探勝路」なるものの存在を知ったのはこの時。「日光写真館」では堂宇ごとにタイトルを付けて記事を分けてますが、今回史跡探勝路に沿う部分については通常の旅日記のように一括して書いていきますのでご了承ください。鳥居の近くにあったふた↓。デザインは地味ですが、「日光社寺」と真ん中にあるのが気に入りました。 この場所はいわゆる「日光山内」の東端にあたるので、鳥居をくぐると左に折れる作りになっている↓。 社殿の方へ進む前に、まずは入口周辺を観察。南側は国道から続く道がすぐ下に走っている↓。 下の道がなかったら、対岸から望むと絶壁のように見えただろうな。本宮神社はいちおう今も現役だろうけど、こういうものもあるので↓「跡」と呼んだ方がふさわしい気もする。 境内はそこそこ広いものの、手前側はぽっかりとしててものさびしい雰囲気。で、参道に沿って社殿の方へ向かう↓。 社殿の手前にはこんな石がある↓。 【笈掛石(おいかけいし) 勝道上人が笈を立て掛けて休息したと伝えられる。】 (現地解説板より)この石自体はそんなに大きくない。後ろにある木の株の方が大きいくらい(笑)↓。 でもこの石、横から見るとカエルみたいだな↓。 社殿のあるエリアへの入口にある石垣はぴっちり切り込みハギ。この石垣は昔のままのようだな↓。 社殿前の石段も綺麗な敷石。これもそのまんまだろうな↓。 さて、こちらが拝殿です↓。 【本宮神社(重要文化財) 古くは、新宮(現在の二荒山神社)滝尾と共に、日光三社と呼ばれた。創建は大同3年 (808)、祭神は味耜高彦根命(あじすぎたかひこねのみこと)。現在は二荒山神社の 別宮。4月17日二荒山神社の弥生祭のとき、三社の神輿がここに渡御する。貞享元年 (1684)の大火で焼失、翌年に再建された。境内には修験者が背にしていた笈を かけて参拝するところから「笈掛石」と名付けられた石がある。】 (現地解説板より)ふん?4月17日?家康の命日じゃん。なら東照宮の春の例大祭と一緒にやるのかと思ったら、例大祭の方は5月らしい。二荒山神社のホームページによると、弥生祭は古くは3月に行われたそうで、ゆえに弥生祭というんだそうな。また、万事にわたって格式を重んじ、きっちりと作法にのっとってイベントが進められるものらしい。笈掛石については石のところにあった解説とは違っているけど、おそらく修験者が立て掛けたから、ってのが実のところだろうな。勝道さんが笈を立て掛けたってのは、日光山の祖であり日光修験のパイオニアである勝道さんに敬意を表したところから生まれた伝説かもしれない。拝殿の前にある灯篭↓。 向かって左の側面から見た拝殿↓。 拝殿の上にある紋↓。 こばやか・・・いへ、三つ巴紋です。尾の部分が重なり合っていて、普通の巴紋とは少し違うように見える。これが神紋かな。あっ、じゃあ、近くにあった灯篭の傘に付いてる紋↓ コケに覆われててはっきり見えないけど、ここは日光だからぱっと見葵紋かと思っちゃう。でもきっとこれは三つ巴なんだろうな。もうひとつある灯篭は傘が一部欠損しておいたわしいことになってます↓。 なんか、火袋の台座の下にあるギザギザが恐竜の背中みたい。あんまりこーゆーギザギザは見たことないような・・・と思ってかがんでみると ああ、花弁だったのか。なるほどね。 向かって右の側面から見た社殿↓。 妻飾りは豕扠首(いのこさす)。大きなお蔀(しとみ)の黒がきいてて全体的にシックな感じで悪くはないんだけど、寺院建築に比べると神社の社殿てのはどうも味気なくてイカン。で、奥にあるのが本殿です↓。 本殿前にある灯篭と水盤↓。 ↑奥の大きい方の灯篭には【奉献 三社大権現】とあり、幾人かの名前が刻んである。 【別●播磨守源●● 安部主計●●● 奥山●兵衛平●●】 う~ん、かなりキビしいなあ名前の上には奉納した日付があるようだけど、【九月吉日】はかろうじて読めるものの、何年かがわからない。でも2つめの文字が「享」のように読めるから、再建時の貞享かな。それとも延享(1744-1747)かな。本殿エリアにはもちろん入れませんが、中にも灯篭があったので玉垣の隙間からちょっと覗き見↓。 【日光山 本宮大●● 慶安三年四月十七日】へえ、慶安3年(1650)!? 家光が死ぬ前年だ。東照宮では寛永の大造替は終わってるな。ここも4月17日ってのが気になるなあ・・・これには名前らしきものも彫ってあったのですが、こちらは草がジャマだわ摩耗してるわで相当キビしい。が、【若狭国主従四位上】とあるようなので、若狭小浜藩主の酒井忠直がクサい気がするけど、ちょっと官位が合わないような気もするし。本殿エリアのもうひとつの灯篭↓。 ちょっと面白い形してるけど、なかなか立派なもの。が、あいにく銘の方は本殿に向かっていてこちらからは読めなかったので結局どなたの奉納かはわからずさて、ここまで地味な写真が続いてきましたが、玉垣越しに本殿の意匠を少し撮ってきましたので文字数ギリギリまでご紹介しましょう。ただし望遠はブレやすいので、イマイチな写真もありますが。 にほんブログ村
2014年12月10日

深沙王堂を取り囲む石垣↓。 ほほお~、綺麗な布積みになっとるぞ。ここは古い石垣が残ってるみたいだな。お堂の前にある向かって左側の灯篭↓。 灯篭は地味な存在だけど、よく見ると歴史を物語る証人だからな。この灯篭の前面には「常夜灯」とあるようだけど、今回出会った灯篭たちは寛永寺のとは違って表面の劣化がひどく、あいにく満足に読めるものは少なかった。わたくしの灯篭観察の出発点は御存じの通り寛永寺。あれは大名による奉納だから材質が良かったのか、それとも日光の方が気象条件が厳しいからろくに銘が読めなくなっているのか。お堂の前の水盤↓。 石垣の造りといい、この水盤といい、深沙王堂は古くからこの場所にあったものかもしれないな。ジンジャ君を祀るには神橋のど真ん前のこの場所がベストだもんね。お堂前の向かって右側の灯篭↓。 左の灯篭とは少しデザインが違う。でも火袋の部分は同じだな。ハートのように見えるけど、これってもしかして猪目のつもり?国道からお堂へ上がる短い石段の脇にも灯篭が密集しております。 あ、これは見慣れた形に近い灯篭だな。しかし、史跡探勝路にある灯篭の中ではこちらの方がレアなタイプ。後ろの立派なずん胴さんが太郎杉ね。背面の銘はかろうじて「大正八年八月」と読める。 これはまた、面白い形してるな~。裏は「田口」のような字が見えるけど、これも比較的新しいものかもな。お堂の脇には山腹に付けられた階段がある↓。 このルートは東参道へ出られるハズだ。 てことで、ジンジャ君に別れを告げて先へ進む。(「輪王寺12」にも深沙王堂について追記あり)ルートを少し行ったところからは神橋が見下ろせる↓。 今は国道になってる下の道は、おそらく勝道さんの入山よりだいぶ後になってからならされた道だろうな。勝道さんがここにたどり着いた頃は大谷川を渡るとすぐに山の斜面が始まってたんじゃないかって気がする。だとすると、勝道さんが渡る前は山の斜面が落ち込んでそのまま川になってたかもしれないから、想像以上に険しいビジュアルだろうと思うんだけど、よくこんなとこを渡ろうと思ったもんだよな~。ただ、伝承の通りにここを渡るのはそれこそジンジャ君が橋を渡してくれないと相当困難だったと思う。ここよりちょっと西に行った田母沢(たもざわ:旧御用邸のあったところ)あたりなら山が少し奥へ引っ込むし川幅も少し狭くなるし、そこらへんから渡ったと見るのが妥当かな~って気もするよな。あっ、また現実主義者の面が・・・そんな事を考えて大谷川を見ながら階段を上って下りると、東参道に出る↓。 いつもは国道を渡ってこの道から山内に入ると、このまままっつぐ輪王寺へ向かいます。が、お護摩の時間まではまだ余裕があるので今回は石段の途中から右へ曲がって少し回り道をします。 ここら辺の写真は「山内入口1」でも載せてますが、奥の小高いところに立つ灯篭ね。 ジンジャ君に捧げられた灯篭だったようです。この灯篭も「山内入口1」で銘が読める写真を載せてるのに、記事の中で触れていないから、これがどういう意味を持つのか理解していなかったようです。その前の記事では山菅の蛇橋の話も紹介してるのにね。「私、頭おかしいんちゃうか!?」と我ながら呆れますが、まだあの記事を書いた時は寛永寺に行く前だったから、灯篭そのものに興味がなかったのかもしれません。人はこうやって成長していくんだといういい例ですねさて、ジンジャ君の灯篭の先にある脇の石段を上がります↓。 上がると、まっつぐ行く道と左に折れる道がある。相当昔に1度だけこの石段の上に立った記憶があります。が、よくわからないから元の道に復帰したのか、あるいは左の道を進んだか・・・覚えてないので、たぶん元のルートに戻ったんでしょう。ので、ここから先は未知のエリアです。ジンジャ君の灯篭の先の石段を上がっている時、上の方からシャーシャーいう音が聞こえてきた。竹ぼうきで地面を掃いてる音のように聞こえたのでどなたかがお掃除してるのかと思ったら、上には誰もいなかった。あれ?おっかしいな・・・確かに音が聞こえたんだけど。しかし、その音はお掃除の音じゃなくてここから聞こえていたものだった↓。 この下をね、勢いよく水が流れてたんです。結構な勢いで、見てると時々どっぷん!!と言いながら水があふれ出してくる。 (ふたの右はじから少し水が出ている場面)ああそうか、東参道のところにナントカの滝があるってあったな。たぶんこの水が下へ流れ落ちてるんだろう。しばし水音を楽しんだ後で石段の上の分岐へ。これが左への道↓。 石垣が連なるこの細い道沿いには子院やら僧坊が並ぶ。でも今回わたくしが行くのは正面の道↓。 道らしい道でもないし、先がどうなってるのか見えないから何も知らなければこの先へ進もうとは思わないよな。少し進むと先が見通せるようになって、奥に鳥居が見えた↓。 へ~え、こんな風になってたんだ・・・左に写っている現代風の建物はちょっと荒れてたので今は使われてないのかもしれませんが、途中にはこんなのもあったので 古くから僧坊か何かの建物があったものと思われる。で、鳥居の手前までやって来ました↓。 手水舎の前の灯篭↓。 これは彫りが深いのか銘の保存状態が良くて、 【願主 東都三十間堀住 和泉屋七右衛門】東都って江戸のことだよな・・・三十間堀なんてあったっけ?と現地では首をひねってましたが、帰ってから調べてみると中央通りと昭和通りを流れていた堀で、今でいうと銀座の松屋とか三越とかがある並びを流れていたようですが、戦後になって埋められてしまったんだそうな。背面には「永代常夜燈」とあり、側面にも何か彫られているけどちょと読めない。手水舎の水盤にも銘らしきものは見えるけど、こちらはキビしい【在日光奉● 阿州諸臣敬白】のような気もするけど、「諸臣」じゃないかもしれない。が、「阿州」が正しければ阿波の国の人による奉納ってとこだろうか。手水舎の先には左へ入る小道がある↓。 う~ん、古い石垣がお素敵が、石垣の誘惑を振り切ってここはまっつぐ進みます。 ほう、いい感じ・・・ここが本宮(ほんぐう)神社です。鳥居の銘を探したら、裏面に大きく彫ってはあるんだけど、ちょっと読みづらい・・・【寛政十二年庚申五月】かな?干支が合ってるからたぶんこれで正しいと思う。江戸後期・1800年の建立のようです。にほんブログ村
2014年12月09日

※「2014日光詣で」の続きです。それではさっそく報告に入りま~す。予報では最初晴れマークが付いてたのが、直前になって前日は雪とみぞれ、当日は日中は曇りで夜に雪のマークがついてた。このところの日光詣ででは雪が続いてるからな・・・なんか今回も雪になりそうな気がする12月に入っても関東では暖かい日が続いていたので、寒さ対策は軽めで済むかなと思っていたけど、やっぱり寒くなりそうだな。てことで、いつもの日光用冬バージョンで出発。東武日光線の快速に揺られている途中では、車窓から富士山が見えた↓。 ガラス越しなので鮮明じゃありませんが、真ん中にぼんやり映ってるのが富士山。よく晴れてるんだけどな・・・前日の雪とか残ってるんだろうか。東武日光駅に着いたら、雪は残ってなかったし天気も悪くなかった。今回は駅のトイレで時間がかかってバスにぎりぎりで間に合って駅前からの写真は撮ってませんが、去年の写真を載せます↓。 ちょっと建物がジャマでろくに山が見えませんが、これがかつての参道でこの道を進んでいくと次第に山が近くなってきます。以前はこの道を地道に歩いていったのですが、最近は時間節約のためにバスを使っちゃうからロクな写真はないな・・・こちらは去年、バスの中から撮った写真↓。 え~と、方角的にこれは霧降の方になるのかな。この向かって左にずっと2000mクラスの日光連山が続きます。途中の参道から見上げる日光連山の眺めはそれは雄大で、8世紀頃なんつったらそれこそ奥地で深山幽谷という言葉がぴったりだろうと思いますが、勝道さんもよくこんな山に登ろうと思ったよな~・・・となかば呆れながら(笑)、1年ぶりの日光連山をバスの中から眺めてました。で、神橋前でバスを降ります。 神橋(しんきょう)は以前にも紹介してますが、なんたって今回は勝道さんをテーマに来ているので、大谷(だいや)川と神橋を見て思うことは以前とは全然違う。大谷川はこれよりもう少し西に上がると、川幅が狭くなる場所もある。ただ、現在では上流の方にダムがあって水量の調節をしているけど、8世紀には当然そんなものはないから、水量は今よりも多かっただろう。華厳の滝をどーんと流れ落ちた水がここまで下りてくるので、川幅の広いところは流れも速そうに見えないものの、川幅が狭い場所では流れは速い。いちおう伝説では勝道さんはこの付近を渡ったことになってるので、そうだとしたら日光山内とこちら側を隔てる大谷川を前にして、文字通り途方に暮れたかもしれない。まさに大谷川は霊峰と俗界を分ける結界。まあ、勝道さんのバイタリティーってば尋常じゃないから、この結界を前にしてよりムラムラと闘争心が湧きあがったかもしれないけどここから東西どちらに行ってもここよりは少しは落差はなくなるから、もう少し渡り易いところを選んで渡ったかもしれないな。ただ、その場合でも今より水量は多くて流れは早かっただろうから、いずれにしても大谷川の渡渉が危険な第1ダンジョンであることに変わりはない。本当は神橋を渡るのが正しい史跡探勝路なんだけど、まだ時間前なのでそのすぐ東にかかる日光橋を渡って第1ダンジョンをクリアします↓。 普段はこのまま日光橋の前にある東参道入口から山内へ入りますが、今回は国道120号線(日本ロマンチック街道)を渡って少し西へ向かいます。で、国道沿いにあるのがこちら↓。 【深沙(じんじゃ)王堂(蛇王権現堂) 伝説「山菅の蛇橋」にあるように、勝道上人一行が大谷川を渡れないでいる時に、 二匹の蛇を放って一行を助けた「深沙大王」を蛇王権現として祀っている。深沙大王は 「毘沙門天」の化身であり、その昔仏教経典を求めてインドに向かう玄奘三蔵を危機から 救ったといわれる。橋渡しの神という信仰から「縁結び」、また、蛇信仰から「商売繁昌」 の信仰もある。現社殿は、昭和53年の再建。】 (現地解説板より)ええもう、史跡めぐりを始めても日光については史跡めぐりなぞする気にはならなくて、「日光写真館」を始めてから少しその気になって、寛永寺シリーズに至ってようやくその気になったぐらいなのであいにく日光の古い地図は持ち合わせておらず、ゆえに元からお堂がこの場所にあったのかは不明ですが、深沙王堂から振り返るとこうなってます↓。 神橋のど真ん前。「山菅の蛇橋」は神橋の上記リンク先で紹介してますが、その伝説に基づいてこの場所にジンジャ君を祀るお堂を建てたようですね。ゆえに、勝道なりきりRPGをするなら神橋を渡って深沙王堂へ向かうのがベストです。ところで、ここからすぐ東には小杉放菴(ほうあん)記念日光美術館があり、深沙大王はそこのマスコットキャラクターにもなってます。その名も「ジンジャくん」。実はジンジャくんにはツイッターでフォローしていただいてまして、最近ロクなついーともしないわたくしはフォロー返しもしないままになってますが、初めてジンジャくんを見た時は眉毛はないけど可愛いな、と思った。それ以来、深沙大王のことを「ジンジャ君」と呼んでおります。「高野山が出稼ぎに来てます(10)」で快慶作の執金剛神像のことを紹介しましたが、あの像はジンジャ君の像とペアになってたらしい。あいにく、ジンジャ君は企画展には来ていなかったけどね。そういうこともあって、ジンジャ君もわたくしの中では旬なお人。縁とは実に不思議なもので、あるいは勝道さんとジンジャ君が「ワシらはここにもおるぞよ~。今度の参拝ではワシらにも会いに来いよ~」と呼んでいたのかもしれません。日光の杉並木は有名ですが、深沙王堂のところにも古木があります↓。 【太郎杉 神橋近くの老杉群の中で、この樹が最も大きく優れた姿であることから「太郎杉」と 呼ばれている。 樹齢 約550年 樹高 43メートル 目通り周囲 5.75メートル 昭和30年代、道路拡張計画のため、伐る伐らぬの裁判で注目を集めた。】 (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)この解説版には日付がないのでいつ立てられたのかはわからないけど、まあ大体室町時代頃ってことだよな。そっか、正綱しゃんが植えたものじゃないんだ・・・裁判の経緯までは調べてませんが、国道っぱたの現状はこうなってます↓。 太郎君が勝訴したのはめでたいですが、道路を見てください。いちおう路側帯のラインは引いてありますが、有名無実とはまさにこのこと。まだ9時になったばかりで車が少ないから今回は小走りで国道沿いにここまで来ましたが、ちょっと時間が経つと交通量は多くなりますので、あぶなくてとても歩けたもんじゃありません。さて、それじゃ深沙王堂の紹介をば。こちらがお堂↓。 小さくて簡素なお堂ですが、勝道さんが入山した伝承に関わるお堂なので、立派すぎるお堂よりはこの方が雰囲気があっていい。まずは鈴を鳴らして来訪を告げ、ジンジャ君にごあいさつ。この頃には完全に勝道RPGモードに入っていましたが、別名「夢見る現実主義者」のわたくしですので、なんで山菅の蛇橋なんて伝承が生まれたんだろうかとリアルに考えてみる。勝道さん一行は確かに、霊峰を前にして行く手を阻む大谷川の向こう側で難儀したのだろう。だからといって、山の神が現われてしかもヘビの橋を渡してくれたなんて現実主義者には受け入れられない。渡渉地点を探すうち、ヘビが流れの緩やかな場所を選んで渡っていくのを見て「ここだ、ここ!おい、ここから渡れそうだぞ!!」ってことになったかもしれないよな。ヘビのおかげで無事渡れたので、ヘビに感謝し、「これは神仏が遣わしてくださったヘビなのだ」と進化してジンジャ君への感謝につながったのかもしれない。ジンジャ君の神像は高野山の企画展の図録に金剛峯寺と京都・金剛院所蔵の像の2枚写真が載ってますが、対になってる執金剛神はまだ人間っぽいナリをしてるものの、ジンジャ君はなんかすごい顔になっている。「龍王」って呼んだ方がいいようなカンジ。金剛峯寺のジンジャ君は左手に蛇を巻き付け、金剛院のジンジャ君は持物はないけど、図録には【蛇を左手で掴む像容】とある。像によって持物は一定していないようでもあるけど、いずれにしてもジンジャ君はヘビとはゆかりが深いらしい。それと、「水」ね。玄奘のインド旅行の際は砂漠の砂の中からジンジャ君が現われて玄奘を守護したという話になってるようだけど、わたくしが知っているジンジャ君を祀るところといえば、東京の深大寺(じんだいじ)。あそこも水がよくてソバで有名なところだよな。水とヘビ、このゆかりから勝道さんはジンジャ君のお導きだとして感謝の祈りを捧げたのかもしれない。て、リアルな視点で書くとなんかロマンもへったくれもないという・・・にほんブログ村
2014年12月08日

歴バナを書くことは、遠い過去に生きた歴史上の人物を三次元プリンターで復元していくようなものだと最近思うようになった。もちろん、色々な本や史料を読んで経歴を知ることはできる。カンのいい方はそれでも充分かもしれないけど、わたくしの場合はそれだけじゃダメらしい。叡山に行く前には行くスポットを選定するのにそれなりの下調べはしたし、事前にも現地でも叡山の歴史を語る本の類はいくつか手に入れていて叡山シリーズを書き出す前までには最澄の大まかな経歴も、叡山全体の流れも頭には入っていた。が、最澄の歴バナに入る前の仏バナを書いている時に偶然『若き日の最澄とその時代』といういい本に巡り合ったこともあって、あまり長く歴バナを書くのはやめようと思っていた当初の予定を変更して『若き日の最澄とその時代』を基にもう少し詳しく書いてみようという気になった。最澄の歴バナ全体ではおおむね『若き日の最澄とその時代』の流れに沿っていて、ここは著者の佐伯氏の言葉をそのまま載せた方がいいなと思う部分に関しては引用をしたものの、流れを追っていくうちに自分の中でも色々な疑問とかが湧いてくるので、そういう部分については自分で調べたり想像しなければならない。ただ本を読んでるだけだとなかなかそこまでの作業はできないし、書くからにはきちんと内容を把握して自分の言葉でわかりやすく表現する必要も出てくる。それがたとえ的外れな作業であっても、そういうことを積み重ねて初めて自分の中で最澄像に肉付けがされて、しばらく最澄と密接に付き合う日を重ねることで彼自身への愛着も生まれていく。そこまで行った段階でようやく、「ただ知ってる」だけの歴史上の人物であり日本仏教の母胎とも言われる比叡山延暦寺の祖という遠い存在の最澄がリアルに生きた人間・最澄として自分の中で実体を持つ。「ただ知ってる」だけでは教科書とか本の中の二次元のぺらぺらの存在でしかないのが、書く作業を通じて肉付けされていくことでリアル三次元の実体を持った「人間」へと昇格する。そんな風に感じた。むか~し昔、まだ日本史を好きになる前に家にあった司馬遼太郎の『空海の風景』を読んだことがある。たぶん当時は満足に理解できなかっただろうけど、最澄の歴バナを書くにあたって読み返したいと思って探したものの、見つからなかった。それでも、最澄の歴バナを書くおまけに空海も付いてきて、わずかながらも自分の中では少し空海に肉付けがされてきている。だいたい、7~8世紀に生きた人なんて大昔すぎてそれでなくても最澄も空海もよくわかってない部分もあるのに、それをちょっと本を読んだくらいで「生きた人間」として感じようなんてどう考えても無理があるよなま、それが19世紀の近い時代の人なら「生きた人間」として感じられるのか、と言ったらそういう訳でもなく、やっぱり歴史上の人物に実体を持たせるにはわたくしの場合、何らかの作業が必要なようです。さて、前置きはこのぐらいにして、「高野山の名宝」展のあとはその前に行った企画展と周辺の史跡めぐりの報告をするつもりでした。しかし、昨日日光に行ってきまして、タイムリーな内容になったので、久々に日光写真館を再開します。去年の分の写真はまだ全然公開してないので、今回の内容とからむ写真についてもあわせて公開していきます。その後で当初予定の企画展の報告を書きますので、叡山編の再開は確実に年明けとなります。叡山編がそこそこの期間で終わるんだったらそちらから上げてしまうんだけど、話数だけはいってるもののまだ現地紹介をひとつもしていないというま、元から長期戦は覚悟してたからな。え~、わたくしと日光の関わりは過去の記事でも再三書いてきておりますが、今回も恒例のお護摩を受けに行って参りました。「アンタ、テーラワーダ宣言してなかった!?」ってツッコミは受け付けませんわたくしにだって迷いはあったんです。でも、お護摩を受けるようになったのは日光通いを始めたあと。大人になってから自分の意思で日光に初めて行ったのは15年前ぐらいかな。当時、わたくしにも色々とありまして、そういう事とか15年分の思い出とかが日光にはた~くさんあります。それを、今さらやめることなんてできませんテーラワーダ(小乗仏教)もいちおう「仏教」という宗教分類がされるのでわたくしも「仏教徒」ということにはなるんでしょうが、お釈迦様が本来提示していたものは現在私達が「宗教」と聞いてイメージするのとはだいぶ毛色が違う。なので、テーラワーダ仏教徒とはいってもわたくしの場合は現在のテーラワーダ仏教徒がこなすようなものは行わず、その中からお釈迦様の説いたエッセンスだけを抜き取って生活の指針としている。(堂々とそんなこと言うもんじゃありませんが)日本の仏教を知る上で、テーラワーダへシフトしたことはかなり意味があったと自分では思っている。どんなことでも、外から見た方がよくわかるもんでしょ。「高野山の名宝」展のシリーズでもそこらへんを少し書きたいと思ってたものの、キリがいいところで文字数が埋まってしまったのでそこまで書けず。色々な本の導きを受けながら自分なりにかいつまんで仏教史を追ったこと、お経の暗記を続けていること、そういう様々な経験を通して色んなことがよく見えるようになってきました。そんなことは当初目的としていなかっただけに、自分でも本当に驚きです。日光に長年漫然と通ってきて、去年から今年にかけて寛永寺シリーズを書いたことで日光にまたあらたな愛着が生まれた。そして今はシリーズをまたいで密教にたどり着いた。そういう今だからこそ、お護摩を受ける意義は大きいんじゃないかな~と思って、これまで通りお護摩を受け、おふだを頂くことにしたんです。てまた前置きのようになっちゃってますが、だらだらこういう事を書く以上に頭の中では色んなことを考えてるんだとご理解ください。「ジジイが色々考えてるのはわかった。なら今回は密教がテーマな訳ね?」と思うかもしれませんが、それがそうでもないんです。密教的な要素もあるにはありますが、今回思いを馳せたのは東照宮ができる前の日光。人物でいうなら、今回はこの方が主役です↓。 この方の写真と経歴は以前「輪王寺1」でも載せてますが、日光を開いたとされる勝道(しょうどう)上人様です。去年の参拝は寛永寺モードで行きましたが、今年は修験道モードです。歴史が長い日光だからこそ、またずっと通い続けたからこそ新しいことを知るたびに日光の魅力が増してきます。ま、裏を返せばそれまで何にも知らずにただ通ってたってことですがいや、でも勝道さんのことを書いたのが去年の初めだから、それ以降は彼の具体的なことは知ってはいたんだよな。ただ、それもまだ「ただ知ってる」だけのレベルだった。「日光はもはや関東ではない」とわたくしは常々言っていますが、一般的にはいちおう関東ではある。同じ関東なので広島・山口よりは近いものの、移動にはそれなりの時間がかかるしお護摩がメインとなると山内で行動できる時間はかなり限られてくる。冬場はホントに寒いので、お護摩の後で少し山内をめぐった後は体力切れで早々に切り上げてくるしね。で結局、だいたいいつも同じようなところを回るだけなのですが、今回は気が変わってあまり行かないところや行ったことがないところを回ってみようかという気になった。それでちょっとネットで調べてみたところ、意外にも勝道さん関連の史跡があることを知ってね。なんで勝道さんがタイムリーかって、「叡山攻め(48)」に出てきたでしょお~。最澄や空海が唐から帰ってきた頃、まだ勝道さんはバリバリ生きてます。正史で延暦年間までを追っているうちにその時代を生きて歴バナに登場した方たちはわたくしの中でかなりリアル化されましたが、単独で勝道さんのことを書いてた時はまだ勝道さんはペラペラの存在だったのが、同じ延暦年間を生きた人だと「叡山攻め」を書いてる中で判明してから急に実体を持ち始めたんです。きっと、相当わたくしは頭が悪いんだと自分でも思いますが、何らかの形で「実感」を持つことが非常に意義があるようです。どれだけ知識があっても、それが実感を伴わなければ自分の中に入ってはこないし、わたくしにとっては意味をなさないんでしょう。「日光写真館」はそもそも、日光の社寺が所有する数多くの彫刻などの美術工芸品をできるだけ細かく紹介したいと思って始めたカテゴリーで、東照宮が鎮座するまでの流れは寛永寺シリーズで書きましたし、「日光写真館」では極力ドライに写真を貼っていくつもりでした。基本的にそのスタンスは変わらないと思いますが、たぶん今後も新しいことを知るたびに日光の見方も変わると思うので、多少記事のカラーが変わってくるかもしれません。だけど、漫然とにせよ長年通っていたからわたくしだからこそ感じることも多くあると思うし、運命論者ではないものの、「ここにたどり着いたか~」って感慨もひとしおだし、大猷院(家光の墓所)が以前に比べてだいぶ拝観制限が増えてきてちょっと意気消沈してたところへ勝道さんが新たな楽しみ方を提示してくださったので、やっぱりわたくしは日光から離れるべきではないのだと強く感じました。で、気がつけばもう限度文字数が近い・・・いやもう、サックサクと現地紹介に入る予定だったのにとにかく今年は学んだ色々なことが調子いいパズルのように次々とかみ合ってきたので、満足とゆーか感慨深いとゆーか・・・昨日は珍しく薄暗くなるまで頑張っちゃったので今日は”筋に苦痛”がきていてしばらくはよたよたと歩くと思いますが、次回からはちゃんと現地紹介に入ります。わたくしの愛する日光のもうひとつの顔も知っていただければ幸いです。にほんブログ村
2014年12月07日

今回出品されていた理趣経は紺紙金字の立派なものだし、「平安時代 12世紀」とあるので、最澄が借りうけようとしたものではないにせよ、最澄と空海がそれぞれの道を歩むことになったきっかけのひとつではあるので、ちょっと感慨深かったです。もちろんここでは理趣経の全文は展示されておらず冒頭の一部だけだったんだけど、問題の箇所はここに広がってるかな?とちょっとニヤニヤしながら理趣経を読み始めました。(←やっぱり低レベル)仏バナで理趣経のことを書いた時、訳文は少し読みましたが、原文を読むのははじめて。が、結構読めたんです。いや、字体の問題じゃなくて、「お経」として読めたんです。これは自分でもちょっとびっくりでしたね。もちろんそれは、お経の暗記に努めている経験がものを言ってます。難しくて読めない漢字もあるにはあるのですが、結構お経って言い廻しが似たりよったりな面があるので、お経に接していれば初めてでもそれなりに読めるようです。それで、見える限りの部分をガラスケースにへばりついて読んでたのですが、監視員からは相当アヤシイ客だと思われただろうな。まっ、それは展示室に入った最初からだったかもしれませんが。理趣経のあたりからは仏像が増えてくる。狛犬や灯篭があれば、見られる時は後ろに回り込んでお尻まで撮影するわたくしですので想像もつくでしょうが、企画展でも見られる限りは背面まで見ます。わたくしがそういう見方をしてると、面白いことに同じように後ろに回り込んで見る人が増えてくるのですよ。言い方は悪いけど、まさにサルまね(笑)。で、そんな風に前から脇から色んな角度で高野山の誇る仏像たちを鑑賞したのですが、さすがに素晴らしいものが多いです。仏像の知識がない人でも、これは素直に楽しめると思います。わたくしも、気に入った像がいくつもありました。それに、仏像の持つアイテムというのは長い歴史の中では結構失われてしまうもんで、メジャーなところではアシュラン(興福寺阿修羅像)なんかがいい例ですが、今回出品されていた像たちの多くはしっかり持物(じもつ)まである。中には後世の補足もあるかもしれないけど、保存状態がいいようだな、と思った。高野山には数多くの名宝があり、「山の正倉院」とも言われるらしいけど、これだけ素晴らしいものが残ってるのなら火事が少なかったのかと思ったらそうでもないらしい。企画展の図録によると、大小あわせて70回ほどの火事があったそうで、その大半が雷によるものだそうな。明治の神仏分離令では高野山も大打撃を免れず、その後の明治21年には大火災が起こって数多くの文化財が燃えたり散逸したらしい。企画展の目玉のひとつが、『執金剛神立像』(しゅこんごうりゅうぞう:重文)。これは近年になって像の内部にあった納入品と銘が見つかり、快慶作ということが認められるようになったんだそうな。執金剛神はアシュランのところで出てきましたが、東大寺の執金剛神像と今回の展示品とはだいぶ趣が違う。まあ、あちらは奈良時代でこちらは鎌倉時代と400年近い開きがあるからな。東大寺の執金剛神像はもとどりを結っているヒモが解けかかっていて、そのヒモの先が蜂となって平将門を刺したという伝説があるんだけど、どれどれ高野山の神像は・・・と思って頭を見たら、ザンバラ髪が風になびいて立ち上がっているだけで、そもそも髪型からして違う。将門平定の伝説は東大寺限定のようです。あと、お不動様が数体出てましたね。回向院でお不動様が羂索(けんさく)を持っていることを学んだので、ここでも羂索チェックをしたのですが、回向院のとは違ってなんかヒモっぽい・・・近寄って素材を確認してみたら、やっぱりヒモっぽい。工事現場なんかでよく、黒と黄色のツートンカラーの細ヒモが張られてるでしょ。あれとよく似てるの。今回出ていたお不動様は鎌倉期や平安期のものだから、当時のままの持物かはちょっと疑問があるけど、金属で作られた羂索よりはよっぽどリアル感がある。仏像は基壇付きで展示されてるのも結構あって、脇に回って背面を見てみると、基壇の張り出し方が前と後ろで違っているものもあった。ふむ、なるほど。初めから置く場所を考えて作られたのかもしれないな。仏像そのものも良かったですが、それ以外に作った当時の状況とか作った人の思いや考えなどを想像させる展示品だったので、フツーの人は多分そんなことは考えずに素直に楽しむんでしょうが、わたくしには楽しみどころが沢山あって一粒で何度もおいしい企画展でした。さて、目玉の大物は後半に出てきます。まずはこちら↓。 重文・四天王立像。快慶作。これが4体ずらっと並ぶ様はまさに壮観です。前回もおことわりしましたが、展示品の写真はすべてチラシからのものです。この像は東大寺の四天王像と関わりがあるという説もあるようで、図録ではそのあたりも論じていますが、ここではカットします。現地では相当気に入ったので前から脇からじろじろと眺めてましたが、プロに言わせると4体の中でも出来のいいものとそうでないものがあるらしい。まあ、そんなことシロート目にはさっぱりわかりません2体が「動」、2体が「静」なスタイルになってますが、持物までばっちり揃ってます。左から2番目の増長天なんかは持物がなければコワい顔してアヤしいダンスを踊るヘンな人になっちゃいますが、ちゃんと刀を持っているので威厳は保ててます(笑)。図録の解説によると、この像は結構後補が多いようなんだけど、どれも細部までしっかりきっちり作られていて、わたくしなんかはホント見あきないですね~。ミワラの佛通寺では天邪鬼を手掛かりに四天王探しをしましたが、高野山の四天王たちも容赦なく天邪鬼を踏みしだいてます。当然わたくしは天邪鬼まで観察しましたが、これがまたそれぞれ独特で、じ~つ~に面白い。一番天邪鬼のポーズがわかりにくかったのが増長天に踏まれてる子なんだけど、腹ばいの姿勢から首を180°回転させて頭を持ち上げていて、その頭を無理に踏むから腰をくねらせてアヤしいダンスみたいなカッコをしてるというで、4体のうちでわたくしが一番気に入ったのが右から2番目の広目天↓。 静かな中にも迫力があって、後から図録に「出色の出来」と絶賛されてるのを読んでほお、そうなのか~とちょっと嬉しくなりましたが、わたくしが気に入った一番の理由が持物。左右の手にそれぞれ筆と巻物を持ってるんですが、筆を覗きこんだところ、筆に日付が書いてあったんですよ~昔えんぴつを使っていた頃、お尻の方の一面を少し削って名前を書いたような記憶がありますが、ちょうどあんな感じ。筆の真ん中へんが削られていて、そこに日付が書かれてたんです。え~と、確か六月何日とか七月何日とか書いてあったような・・・どのみち手に隠れてすべては読めなかったし、きっと図録には書いてあるだろうとタカをくくってメモしなかったのですが、図録には書かれてなかったでも、「快作」とあるのははっきり読めました。快慶の「快」だな。これから行かれる方がいたら、ぜひ観てみてください。広目天の筆。面白かったなあ。いやあ、四天王だけでも充分満足だったけど、まだ目玉中の目玉が出てきていない。きっと最後の展示なんだろうな。名残惜しいものの順路に従って先へ進むと階段があり、その下にはこれがあった↓。 重文・孔雀明王坐像。快慶作。仏像本体は等身大サイズですが、デカい孔雀に乗っているので見上げる高さです。すごいキンキラだけど、宝冠などのアクセサリー類は美しいし、よくこれを出品したよな~と思いながら後ろへ回ってみたところ。明王様の後ろにある光背はクジャクの羽の模様になってますね。前から見てる時には別に何とも思わなかったんだけど、バックを見てびっくり。ぬわんと、クジャクが長い尾っぽを垂直に持ち上げて、それがそのまま光背になってたんですもう、誰もいなかったら大爆笑してましたよ。なんつーアイデア!非凡なセンス!!クジャクの胸の部分もかがみ込んで覗いてみましたが、見えない部分までちゃんと手ヌキせず作られてました。これも相当お気に入り。で、最後がチラシにもなっている今回の大目玉↓。 国宝・八大童子像。運慶作。これは出口で買ったハガキからの紹介です。これが8体揃って見られる機会はあまりないってことなんだけど、でもどれも金剛峯寺の所蔵ではあるんだよな。通常は一部のみの公開ってことなのかな。このブースには童子たちとともに祀られていたという本尊の不動明王様(重文)もいらっしゃるんだけど、国宝と重文という評価の差か(笑)、みなさん八大童子をじっくり鑑賞してました。これは元は立体的に配置してあったものらしく、それを想像するとコーフンしますが、正直言ってわたくしは四天王の方が気に入ったな。展示は八大童子でラストなので、もう一度四天王のブースまで戻ってそこからまた八大童子まで再度鑑賞。いや、実に見ごたえのある企画展でした。ただ、イマイチだったのが売店。あんまり種類がなかったんだよな。とりあえず図録と八大童子の絵葉書、それからこんなものを買いました↓。 「こうやくん」のメモ帳、3冊入り。これは仕事に使うんだ サントリー美術館での会期は12月7日(日)まで。すみません、会期終了直前です(笑)。が、大阪でも同じものをやるそうです。「あべのハルカス美術館」で平成27年1月23日(金)~3月8日(日)まで。関東の方にはギリギリすぎてお役に立てなかったかもしれませんが、関西の方はぜひご覧になってはいかがでしょうか。企画展の後はまっつぐ帰りました。この日の歩数は11,186歩。行動時間が短かった割には結構歩いたよな。にほんブログ村
2014年12月04日

さてと、それでは『高野山の名宝』展でわたくしの目を引いたものやお気に入り、それから歴史に思いをはせてニヤついたものをいくつかご紹介しましょう。展示室に入るとまず空海さんの木像がお出迎えしてくれますが、その次に出るのが『聾瞽指帰』(ろうこしいき)。空海さんの真筆です。国宝です。おお、いっきなりすげえの出すな~と思って少し読んでみたのですが、書体の評価なんかはできないものの、戦国期のくずし字なんかよりはよっぽど読めるというその先はしばし小物が続くので、ガラスケースの前には少々人だかりができていた。ここで展示されていたのが、密教の法具。わたくしもこれには日光で長年お世話になってますので、一般人の中でも普通の人よりは密教法具を見慣れてる方じゃないかと思いますが、日光輪王寺で見るものとはだいぶ雰囲気が違う。ま、見慣れてると言ってもいつもは少し離れたところからぼんやり見てるだけなので細かい比較ができる訳じゃないんですが、洗練された後代の法具よりももっとずっしり感がある。なんつーの、輪王寺で見てるものを女性的とするならば、展示品はもっとずんぐりしてしごく男性的とゆーか。こういう法具を武器として使ってるマンガを読んだことがあるけど、展示品はずんぐりしてる割に先っぽがものすごく鋭利だったりして、確かにこれは武器だなと思った。企画展の図録によると、やっぱりこのテの法具の起源は武器らしい。表面はピカピカのキラキラじゃないしこのスタイルだし、これは相当古いものじゃないだろうか・・・もしかして空海が唐から持ち帰ったものカモ!?と思って帰ってから図録の解説を読んだら、「中国・唐または平安時代 8~9世紀」とあって、空海が唐から請来したものとの伝承もあるらしい。いくつかある法具の中で最も気に入ったものが独鈷杵(とっこしょ)で、これは【日本における独鈷杵の現存最古例として貴重】なんだそうな。重文。図録を眺めていたら、空海が高雄山寺において弘仁3年(812)に潅頂を授けた人の名簿のようなものがあった。その筆頭にある名が「僧最澄」・・・えええ~、こんなの見てないよお~!!どうやらこれは入れ替え対象だったらしい・・・これから行く方はこれが見られますそうそう、法具のあたりにはこれもあったな↓。図録の写真は載せられませんが、自分の記事で紹介したいと思ってたものが結構チラシに載ってたので、チラシなら誰でもタダで手に入れられるからまあいいかな、ってことで、チラシの方から写真をいくつか載せます。 国宝「諸尊仏龕」(しょそんぶつがん)。これね、実物はすごく小さいの。江戸の時代劇で頭をちょこんと乗せるだけの高い枕を見かけますが、あれと同じくらいの大きさと思ってください。枕を観音開きにするとこの形になります。うおお、すげえな。こんなの見たことない・・・と持参した双眼鏡で細部を鑑賞しようとしたものの、小さすぎてろくに見えず図録の方は超デカい写真が載ってますが、こっちの方がよく見えるわ。トーハクの東洋館で仏像の顔にも民族性があることを学んだので、あの中の顔に当てはめると大和民族というよりは中国っぽい顔してるよな、と思った。で図録を見ると、空海が恵果から後継者の証として授けられたものの中に「刻白檀佛菩薩金剛等像一龕」なるものがあるので、この展示品がそれではないかと議論もされたらしい。その議論に決着がついたのかはわからないけど、「中国・唐時代 8世紀」とあるので、恵果からもらったものではないにせよ、留学の収穫物とはいえるのだろう。ちなみにこの龕、通称は「枕本尊」だそうな。留蓋を「かがみもち」と呼んだりと普段からわたくしのレベルの低さに苦笑している読者様も多いかもしれませんが、龕を見た時に「閉じたら枕だよな」って思った今回の直感は世間の支持を得られたようですその次の展示は密教的なものへと移っていく。大きな曼荼羅とか、いかにも密教~ってものが色々ありましたが、ここで目を引いたのが紺紙に金字で書かれた『般若理趣経』。理趣経(りしゅきょう)・・・この名前、覚えてますか?「叡山攻め(27)」で紹介した、ハレンチなあのお経ですよ(笑)。いやいや、ハレンチなんつったら怒られるな。わたくしがここで理趣経が出ていたのを喜んだのは、もちろん不届きな理由からではありません。このお経は一般に最澄たんと空海たんの仲に亀裂が入った理由とされておるのです。空海が持ち帰った密教がホンモノだと認めた最澄は、空海に弟子入りする。その後は幾度となく空海に密教経典のレンタルを申し入れ、空海もそれに快く応じて2人の親密な関係はしばらく続いた。ところが弘仁4年(813)11月、最澄が「理趣釈経を来月まで貸してください」と申し入れたところ、空海はそれを断った。理趣経は仏バナで簡単に紹介した通り、字ヅラだけ読んだらとんでもないことが書いてあるし、そもそも密教は言葉ですべてを伝える性質のものではないので、密教の知識の浅い最澄がそれを読んだだけでとても理解できるシロモノではない。そこで、最澄のために渾身の長文をしたためて説得するんだけど、とにかくこの手紙はかなり長いです。くどいのが身上(?)の毛利元就もまっつぁおの長さです。ありがたいことに、「密教21フォーラム」様のサイトには全文のわかりやすい訳文が載せられているので、ぜひそちらもご覧になってください。(「最澄宛、空海の返書-理趣の答案-」へのリンクはこちら)ま~、とにかく長いし、本質的な部分はやはり難しいのですが、訳文を書いた北尾克三郎氏の最後の言葉が印象的です。 【空海のつぶやきが聞こえる。 「真理をさとっていれば、すでに文章は不要である。それなのにどうして 最澄和上は次々と経典の借覧をお求めになるのですか」と。】 (エンサイクロメディア空海「最澄宛、空海の返書-理趣の答案-」より)これを読んだ最澄がどう思ったかはわからないけど、以後2人は別々の道を歩む。空海から本をレンタルした時は最澄みずから出向いたのではなく、弟子をお使いにやらせた。別に空海を軽んじていた訳じゃない。最澄だって比叡山寺を大きくしたり弟子を育てたり、やることは山ほどあって忙しかったのだ。ただ、お使いに行った泰範(たいはん)という弟子が空海の元に行ったきり帰ってこないことがあった。そうしたこともあって2人は決別した、と一般によく言われる。そういうエピソードだけ読んでると、「ちょっと、空海たん!泰範返してよ~!!」「泰範はウチのがいいってさ。諦めなよ、最澄たん。ふふん。」で2人は絶交した、みたいな下世話なイメージが浮かんでくるけど、それは直接的な理由じゃないんじゃないかな~と思う。というのも、 【空海から潅頂を受ける以前に最澄は病にかかり、比叡山の事務総監督の総別当に 泰範を任命したが、泰範に何らかの過失があり、周囲に非難が出て、泰範は山を下り、 高雄山寺の潅頂以降最澄の勧めで空海の下に行ったのである。】 (『国の宝を育てる』木内堯央/鈴木出版より)という出来事があったらしい。まあそれでも、ウィキペディアによると最澄は泰範に叡山に戻るよう再三手紙を出し、最後の最後まで最澄は泰範が自分の元に戻ってくることを諦めなかったといわれる、という話もあるようだけど、自分の代理として全事務を任せるぐらいだから優秀な人ではあったんだろうし、最澄の信頼も篤かったんだろうからそういう人に帰ってきてほしいと思うのは当然のことではあるだろう。ただ、人によっては「空海が泰範を返さなかった」という表現を使ってる場合があるけど、そういう弟子の奪い合いみたいなネチネチしたものではなかっただろうとは思う。それよりも、やはり空海の返書の中にヒントがあるような気がするんだよな。空海の返書を読むと、まず初めに最澄と空海はともに唐で密教を学んだ仲間でお互いがお互いを尊敬し、2人で密教を日本に広めて衆生の救済にあたろう、と高潔で固い約束を交わしたことがうかがわれる。その後で本題に入り、恵果から聞いた言葉を引いて、言葉というのは結局ツールでしかないし、言葉ですべてを語れるものではない。まして、真理を習得した後の言葉というのはもはやカスのようなものでしかないから、それをいくら求めたところで何にもならない。だから、本当に自分に密教のことを学びたいと思うのであれば、完全に自分の弟子となって直接に接する中から学んでいくべきだ・・・簡単にいうとそういう主旨のことを空海は説いている。真言宗では現在でも「理趣経は在家には教えるな」みたいな面があるらしいけど、理趣経はあくまできっかけでしかない。最澄が空海から借りた本はかなりの数になるそうで、おそらく回を重ねるごとに密教の正統な後継者である空海の中に「このままじゃいけない・・・」という思いも増していったのだろう。その思いを手紙にしたためた訳だけど、結構ズバズバ言ってる面もあるものの、全体としては懇切丁寧に自分の言いたいことを述べている。空海の言っていることは正しい。が、最澄にとってはあくまでメインは天台の教え。密教もかじったものの、日本で予想外にそれがウケて年分度者の1人は密教を学ぶ僧と決められてしまった。そこで空海のサポートも受けたいと思って色々努力したものの、結局「そのやり方じゃダメなんだよ、最澄たん」と空海に説教されてしまったので、最澄の立場に立てばちょっと気の毒でもある。前掲書では 【世にはこの二件をもって最澄と空海は仲たがいをしたようにいうが、最澄没後、 最澄の弟子たちが再び空海に教えを請うて許されているところをみると、それほど 深刻な対立になったのではなく、最澄はやがて菩薩戒をもって得度受戒する制度を 主張し、空海は高野山の整備を始めるなどで、自然に交際が希薄になったとみるのが 妥当であろう。】としておられる。だいたいそんなところじゃないかな、とわたくしも思う。ただ、最澄には密教を摂取する必要性はあったのだから、単に忙しいだけで疎遠になったというよりは、空海の言わんとするところを汲んで自分が本当に目指すべきは何なのか、決意をあらたにしたんじゃないか、そんな風に思った。にほんブログ村
2014年12月03日

空海と恵果が出会った年の年末に恵果が死んでいるので、下賤な言い方をすると空海は「ギリ間に合った~」ってことになるけど、その「ギリ」がもたらしたものは非常に大きかった。恵果の享年は60歳だからまだヨイヨイというほどではなかったかもしれないけど、千人もの弟子がいたなら優秀な弟子も多かっただろうに、恵果が選んだ後継者はイナカの小島からやってきた(しかもガイジンの)出会ったばかりの空海だった。空海が恵果のもとに来た時、すでに般若から空海の話を聞いていたようで、「いつワシのところに来るかとずっと待ってたんだよ~」と喜んで迎えたというので、般若からかなりの有望株であると伝えられていたのだろう。言葉に頼らないのが密教なら、個人差はあるにせよその真髄を体得するのにはそれなりの時間が必要なのかな、ってシロートのわたくしは思うのですが、空海の場合はすでに般若のもとでみっちりサンスクリットを学んでおり、その上に空海自身の資質があったので、たいして時間は必要なかったらしい。真言密教には「真言八祖」という偉大な阿闍梨たちがおるそうで、恵果は第7祖。その恵果から伝法阿闍梨位の潅頂を授けられた空海が第8祖。そう、空海さんは主流の正統な後継者となったのです。もともと空海は次の遣唐使船が来るまでの約20年間を唐で留学生として過ごすはずだった。それに加えて恵果の後継者となったのだから、物事がスムーズに運んでいればあるいはそのまま唐で真言密教第8祖として一山を率いていたかもしれない。しかし、恵果が勧めたのは早く帰国して日本に真言密教を広めよ、というものだった。そして、空海のために経典の書写やら曼荼羅・法具の作製やらが急ピッチで進められ、恵果が先代から授かったものや恵果自身の所持品を空海に与えた。恵果の真意はわからない。が、空海と出会ってからほどなくして空海を後継者とすることに腹を決めたようで、段階を踏んで潅頂や修法を授けて空海がひとつひとつそれをこなしていったようなので、空海と出会った頃にはすでに恵果の体調は思わしくなかったのかもしれない。それに、大勢の弟子で賑わう山内で「ぽっと出の新人」がいきなりトップになったとくれば、フツーに考えて面白くない弟子だっていただろう。最澄も会う人会う人にかなり良くしてもらったけど、行満や順暁がイナカのガイジンを優遇するのを見てねたましく思う弟子もいたんじゃないかな~って最澄の在唐の記事を書きながら思った。僧侶だってニンゲンだもの。頭で考えることと感情が簡単にマッチするぐらいなら、この世にはブッダがごまんと存在している。それぐらい、お釈迦様の提示した感情のコントロールというのは実にハードルが高い。これはわたくしの実体験も元になってるから説得力あるでしょだから、そういうトラブルを見越した恵果の考えもあった可能性はある。ま、言葉通りに新天地でこのありがたい真言密教をガンガン広めていけよ~って思いもあったかもしれないけどね。しかし、20年の留学期間をわずか2年で切り上げて帰国することは、国の規定に反する。恵果の強い勧めがあったとはいえ、さすがの空海も迷ったかもしれないけど、最終的に空海は帰国を決断した。結果的にこれは「アタリ」だった。延暦の遣唐使船の後は承和5年(838)。空海の没年は 承和2年(835)。もしこの時彼が決断しなかったなら、空海は遠い異国の地で死を迎えていたかもしれない。空海が留学生に選ばれる直前の話を「叡山攻め(70)」で書いてますが、その中で論文を紹介した東野治之氏が、空海は冷静な分析と判断を持ち合わせていたと評しておられるように、ここでも適切な判断を下したといえる。さらに、彼の幸運はこれだけにはとどまらなかった。帰国を決断したところで、足がなければどうしようもない。現代のように「じゃあ、JALの○○便で」って訳にはいかないのだ。しかし、この頃の唐には遅れて着いた第4船の高階遠成がいた。遣唐大使・藤原葛野麻呂は延暦23年の年末に皇帝に謁見してとっくにお役目を果たしてるんだから、遠成はわざわざ長安へ出向かなくってもいいんじゃないかと思っちゃうんだけど、位階と官職を受けてるからちゃんと行ったんだねま、遠成の船にも通交のためのブツは積んであっただろうしな。で、鴻臚館に滞在していた遠成の元に出向いて帰国の意思を伝える。遠成のもとには、不便な留学生活に疲れ果てた橘逸勢からも帰国の懇願が寄せられていた。「も~っ、どいつもこいつも・・・ボクは君達を迎えるために苦労してここまで来た訳じゃないんだからね!!」と遠成が絶叫したかは不明ですが、逸勢の場合はリタイアと言っても差し支えないんじゃないかと思うけど、空海は違う。遠成も判断に苦慮しただろうけど、2人を連れ帰ることにした。空海は遠成が長安に来ていることを知っていた。あるいは恵果も知っていて、それなら愛弟子を祖国に送り返すのがベストだと総合的に判断したのかもしれない。そうして12月15日、恵果は息を引き取った。空海と出会う前でもなく、空海へ秘法を伝授している最中でもなく、きっちり空海にバトンタッチした後で死んでいった。最後の最後に空海に出会えたことで恵果も満足しただろう。翌延暦25年(806)1月16日に恵果は埋葬され、空海は正当な後継者として全弟子を代表して恵果を顕彰する碑文を起草。3月頃には長安を出発し、帰るまでにも何やかやの勉強をしながら8月に橘逸勢とともに遣唐使船第4船に乗って帰国の途に着く。帰路は順調だった最澄たちとは違って、空海の乗った船は帰りも暴風雨に遭ったらしいが、無事帰国。が、国禁を犯しているのでその弁明と許しを請う書状を朝廷に送り、裁可を待つ。そのためすぐには上京せず、3年近くを九州で過ごすことになる。一方の京では、空海が帰国した年の大同元年(=延暦25年)5月18日に安殿親王が即位して平城(へいぜい)天皇となったが、病気がちだったためわずか3年で退位している。この方については別のところで書こうと思いますのでここではカットしますが、皇太子時代・天皇時代・太政天皇時代を通してあんまりいい話題は残していない天皇様です。パパがあれだけ怨霊に苦労してきて、自分の病も早良親王の祟りだったという診断も下りているのに懲りずにあらたな怨霊を生み出したりしてるしね。平城天皇には男子もいたが、皇太子に立ったのは弟の神野親王だった。これが嵯峨天皇で、桓武の後押しがあったといわれる。「叡山攻め(77)」で桓武の死後、安殿親王の即位までの合間の5月1日に安殿親王の弟が臣籍降下を願い出て却下されてますが、これも安殿親王の精神的不安定さを物語るエピソードなんじゃないかと書いてる時に思ったんだよね。藤原一族内の勢力争いもあったしね。まま、それはともかく、パパの代以前にくらべてだいぶ治世は落ち着いていたし、奥さんは美人だし(笑)、世間では嵯峨天皇の評判は結構いいんじゃなかろうか。『日本霊異記』によると、称徳天皇の時代、石鎚山に寂仙という名僧がいた。寂仙が亡くなる際、「今から28年後に自分は皇子となって生まれ変わり、神野という名になるから、それをもって我だと知れ」という言葉を遺した。はたして28年後に皇子が生まれ、神野と名付けられた。『是を以て定めて知る。此は聖君なることを。』(『日本霊異記』より)そうして世間では嵯峨天皇を称えたと景戒は書いているので、当時から評判は良かったのかもしれない。てか、嵯峨天皇がいいというよりも平城天皇が相当イマイチだったからじゃないかって気もするけど高僧が皇子に生まれ変わったという話はほかにもありますが、それも別のところで書きましょう。で、大同4年(809)4月1日に嵯峨天皇が即位。同じ年の夏頃、空海が入京して和気氏の高雄山寺に入った。これには和気氏のほか、最澄の尽力もあったとされている。最澄が帰国した際、持ち帰ったものの目録を朝廷に提出したように、空海もまた自分のゲットしたものの目録を提出している。空海の処断を決めるのには、当然僧綱たちの意見を求めただろうし、最澄も吟味するメンバーに入っていたかもしれない。もし最澄が京で空海の目録を見たとしたら、現時点で日本国内で本場の密教を見知っているのは最澄と義真だけなんだから、かなりの衝撃を受けたことだろう。傍系の、しかもわずかな期間かじっただけの最澄と主流の正統な後継者である空海とでは、密教の点に限っていえばそれこそ雲泥の差がある。帰国して予想外に密教がもてはやされたことで、世俗の求めているものが何なのか痛感した最澄だからこそ、空海の持ち帰ったものの質の高さを理解できたんじゃないだろうか。そうして、ここがなんとも最澄らしいというか、空海に弟子の礼を取って密教を学ぶことにした。かつて自分が帰国した時に、自分よりも上の立場にある勤操・修円らの高僧たちが辞を低くして最澄から潅頂を受けたように、最澄もまた自分よりもずっと下の立場にいる空海に弟子入りした。勤操や修円は桓武の命令だからという側面が大きかっただろうけど、最澄はみずから弟子入りの道を選んだ。「最も澄む男」らしい話じゃあ~りませんか~。すでに最澄が国内に密教の種をまいていたところへ正統の密教を持ち帰ってきた空海が現われたことで、空海は一躍時の人となる。また、「三筆」の1人である嵯峨天皇は唐の文化への関心も高く、そういう面でも空海と話が合ったようで、空海に大きな信頼を寄せていたらしい。して、弘仁7年(816)6月に修禅の道場として高野山の下賜を請い、翌月には高野山を下賜するという勅許が下りる。その翌年には高野山の開拓が始まり、弘仁9年(818)には空海自ら高野山に入った、とな。空海さんの活躍はまだ続きますが、ひとまず高野山のなれそめまで。にほんブログ村
2014年12月01日
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