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やべえ、もう10話・・・しかしこの辺りの話は今後にもつながるので、区切りのいい所まで書いちゃいますね。●天平6年(734)興福寺西金堂完成。この年、畿内七道地震という大地震が起こる。これは畿内を中心とした地域で起こったらしく、推定でM7。 【『続日本紀』天平6年4月7日の条項に、大地大いに震い天下の民衆の家が倒壊し 圧死者が多数出、山崩れ、川の閉塞、地割れが数えきれないほど発生したとある。】 4月12日、畿内七道諸国に遣いを出して神社の被災状況を調べさせる。4月17日、天皇陵8か所と功のあった王の墓の被害状況を調査させた。 また政事に欠くることなきよう注意する勅が出される。4月21日、天皇の徳と政治の欠失を省みる詔が出される。7月12日、天変地異による大赦の詔が発せられたが、「天頻見異、地数震動」とあり、 余震活動が続いたらしい。このように天変地異の発生の責任を天皇が自ら負い、大赦などの詔が発せられた例は奈良時代から平安時代までいくつか見られる。(ウィキペディアより)古くは天変地異は天子の行いの結果によるものだとされたからね。このほか、天平の頃は毎年のように旱魃や飢饉が続いたという。●天平7年(735) 天然痘が流行る。記録では8月に大宰府管内で流行し始めたらしい。8月23日には、病人が多いので今年の税は勘弁して~との上奏が大宰府から入り、聖武天皇はこれを許したそうな。当時はもちろん、疫病伝染のメカニズムはわからない。疫病は次第に山陽道・山陰道を登ってくる気配を見せた。これに対し、聖武天皇は長門国から東の諸国に道饗(みちあえ)を行わせた。道饗は「大津編(1)」でも簡単に書いてますが、疫病(悪鬼)の侵入をふせぐための街道で行われた祭祀のこと。一旦は流行は小康のきざしを見たが、都では天武天皇の皇子である親王から2人犠牲者が出ている。●天平9年(737)再び、天然痘が大流行。3月、凶作や疫病の流行がやむ事を願って各国に高さ一丈六尺の釈迦像を造り、「大般若経」の書写を命じる勅が出される。その後も国々に造仏や七重塔の造営が命じられたそうな。都でも多数の犠牲者が出て、その中には藤原不比等の息子たちもいた。まずは4月17日に次男・房前(ふささき)が死亡。7月13日、四男・麻呂(まろ)死亡。7月25日、長男・武智麻呂(むちまろ)死亡。8月5日、三男・宇合(うまかい)死亡。藤原四兄弟、全滅。チ~~~ン・・・・・ウィキペディアには【四兄弟が短期間に相次いで死亡していることから、相互に見舞いのために訪問し合った際に感染したものと考えられる】とある。トップバッターの房前だけは日付が離れてるけど、残りの3人は天然痘の潜伏期間といわれる8日~14日にちょうど合致するし、ウィキにあるようにお見舞いがアダになったのが事実だろう。ここが『逆説の日本史2』の第4章でのひとつのハイライトとも言うべき場面で、 【聖武天皇の治世である天平時代は「凶作・飢饉・地震・疫病」とあらゆる 災害が頻発した大変な時代だった。しかも疫病(天然痘)の猛威は、 政治の最高権力者である藤原四兄弟を全滅させたのである。四兄弟は 言うまでもなく、光明皇后(藤原光明子)の兄たちである。 こうした災厄を、古代の日本人は何の仕業と考えたか。あらためて言うまでも ないだろう。それは「怨霊のタタリ」である。】 【たとえば、この現代の日本が、かつての中国の四人組のような悪徳政治家に よって牛耳られていたとしよう。その四人組が、ある清廉潔白な政治家を 無実の罪で「処刑」したとする。ところがその後、四人とも次々に伝染病に かかって死んでしまったとしたら、人はこれを何と言うか? 「天罰」と言わないか。ワセダの大槻教授なら「科学的根拠がない」と言う かもしれないが、おそらく九割以上の日本人はそれを心の底では「天罰」と 呼ぶはずである。】と展開される。現代でさえそう考えるのだから、古代ならなおさら。つまりは、長屋王が怨霊となって憎い仇に天罰を与えたというのだ。もちろん、井沢氏は長屋王が怨霊になったことの論証をしてる訳じゃないですよ。四兄弟がバタバタと倒れたというあまりにドラマティックな展開に、「当時の人は長屋王の怨霊の仕業と考えただろう」と言ってるんです。今はどうか知らないけど、『逆説2』が書かれた頃、研究者の間では長屋王が怨霊になったと書かれている史料は存在しないし、怨霊となった長屋王に対する鎮魂の例も存在しないというのが大方の見方だったらしく、それを覆すべく井沢氏は著書の中で色々な例を引きながら結構なページを割いて自説を展開しておられる。長屋王の件については、私はこの『逆説2』から入っているので長屋王怨霊説がもう前提のようになっちゃってるんだけど、井沢氏はこの四兄弟の死亡を受けてその後に大慌てで長屋王の霊を慰めるための処置が取られたという風に話を進める。『逆説の日本史』による怨霊の定義は、まず初めは死後の祭祀を行う子孫がいなくなった・・・というか、祀る子孫を滅ぼされた場合、って言った方がいいのかな。これは中国から入ってきた思想だという。それが、ある時期を境に「無実の罪で殺された政治家」に変わった。日本史に燦然と輝く(?)名だたる大怨霊たちは、すべてこの後に世に出てくる方たちです。井沢氏はそのターニングポイントが長屋王だとする。 【無実の罪で殺された長屋王が、その犯人である藤原四兄弟を見事に 「皆殺し」にした。そういう「奇蹟」が起こったからこそ、怨霊信仰の 教義が大きく変わったのである。】 (『逆説の日本史2』より)まあ、現実に天然痘で死んだのは四兄弟だけでなく、政府高官は他にもボロボロ死んでるんだけどね。それに、長屋王の死(729年)から8年も経ってる。一歩引いた立場で見てみると、すぐ長屋王に直結するかな~って気もするんだけど、聖武&光明子夫妻の異常な行動は続くので、庶民の意識がどうかはわからないけど、少なくとも聖武&光明子の夫妻は「何か」におびえていただろうとは思う。『逆説2』によると、史料での怨霊の初見は桓武天皇(737-806)の時代。だから、聖武天皇の時代にはまだ「無実の罪で殺された政治家」が怨霊になるという概念はなかった、というのが歴史学会の通説らしいんだけど、井沢氏は「それは怨霊鎮魂がおおっぴらになったというだけのことで、ひそかに怨霊を祀るというような前段階があって初めて次の大々的に祀る段階へ移行したのだろう」と反論する。この時期から500年近く後に成立した『愚管抄』の中で、歌人としても名高い慈円が興味深いことを書いている。慈円は人間の目に見えないものを4つの種類に分けた。1つが神(天照大神と藤原氏の祖神・春日大明神)。2つめが「化身・権化の人」で、歴史上重要な役割を果たした実在の4人を挙げ、彼らは観音の化身だとする。3つめが怨霊。4つめが天狗・狐・狸などの邪悪な魔物。 【怨霊というものは、一度怨霊になってしまうとも早並みの人間の力では、 それを防ぎ調伏することは不可能となるのである。怨霊の調伏には仏法の験力に よらねばならず、(中略)すぐれた人には必ず「マメヤカニ底ヨリタウトキ僧」 がついていて、さまざまな怨霊どもを調伏して、事なきを得たと記されるのである。 しかし、調伏にはすぐれた験者のさまざまな手続きを要するし、怨霊が突如として 襲いかかれば災厄は防ぎきれないわけであるから、特定の怨念が限界まで 沈殿して凝り固まることにないように、あらかじめ配慮を加えることが立派な世の 治め方であるということになる。 こうした慈円の怨霊に対する記述を見て行くと、怨霊というものは、限られた上層の 貴族社会の運営の失敗から生ずるものといってもよいように思われる。(中略) 怨霊というものは閉鎖的で狭い上層貴族社会の中では、人々にとってほぼ了解ずみの 人間の霊がなると考えられており、したがって仇としてとりつかれる方の人間も おおよそ見当がつくものなのであった。】 (『愚管抄を読む』/大隅和雄より)もちろんこれは時代も全然違うし、一見みやびな長い平安時代の中でわんさと生み出された怨霊たちによって怨霊信仰が確立された後の話ではあるんだけど、史料に現れる前段階の新しい教義の怨霊信仰があるだろうという井沢説はもっともだと思うし、新・怨霊信仰の根底を流れる核ともいうべきものは教義が変わった時点から慈円の時代に至るまで変わってないんじゃないかと私は思った。桓武天皇は聖武天皇のちょっと後の時代。桓武の時代に新しい教義がほぼ出来上がっていたなら、その少し前に起こった長屋王の変とそれに続く災厄が新しい怨霊信仰のスタイルを作り上げたという井沢説は妥当なものと思える。で、井沢説はこの後の流れに話を進めるのですが、わたくしは過去にさかのぼります。はい、何度も出してきた興福寺西金堂と金鍾山房の件ですよ。・・・あ、ちょっと文字数足りなさそう(笑)。この続きは次回へ持ち越します。にほんブログ村
2014年03月31日

前回増税のことなんか書いたせいで、思いっきりページがまたがっちゃいましてすみません東大寺の初期のスタイルであるとされる金鍾山房(こんしゅさんぼう)の創建は、『東大寺要録』が伝える天平5年(733)ではないかと私は思っている。『アシュラブック』を書いた北氏は、皇后になったことを契機に金鍾山房の子院として羂索(けんさく)堂(法華堂の前身)の建立を光明子が思いついたんじゃないかと見ておられる。北氏は不空羂索(ふくうけんさく)観音像を聖武天皇だと見ており、光明子が王者である夫の姿を不空羂索観音像に反映させ、それを愛する息子の眠る金鍾山房に造ったとする。『アシュラブック』には「ナニナニの像は誰々の写し身」という記述が多く、個人的には違和感を覚えるのだけど、過去に誰かの姿を投影した仏像が製作されたことなどもあるようだから、可能性がないとは言えない。が、不空羂索観音像を祀る羂索堂が子院として建てられたというのは、『続日本記』にある「基皇子のために建てられた寺」というのが前提となる。だけど、私は羂索堂こそが金鍾山房の中心だったんじゃないかという気がしてきた。なんでかって、不空羂索観音像の背後を守る執金堂神像とそれを本尊とする良弁の存在がどーにも引っかかるんですよ。このあたりを善意で解釈する見方は世間にあふれてますのでここでは一切ヌキにして、前回お断りした通り「井沢史観ふう」に考えていきます。●天平2年(730)光明子施薬院設置。光明子、興福寺に五重塔建立。施薬院は貧しい病人に無料で薬を与えるところで、『続日本記』に記述がある。『扶桑略記』では養老7年(723)に興福寺に施薬院と悲田院(貧しい人や孤児を救う施設)を設置したとなっており、年代に相違はあるものの、光明子が造ったという点は一致している。施薬院に関しては有名なエピソードがあって、これが光明子が熱心な仏教徒であり聖女だという見方の元になっているらしいが、井沢氏はゴダイバ夫人の例をひいて寺院に多額の寄付をすれば聖女伝説をお寺さんの方で広めてくれていいことあるよ、とした上で、本当に光明子が聖女のような慈悲深い人であれば大いなる矛盾があると語る。●天平5年(733)1月11日、光明子の母・三千代死去。1月21日から興福寺西金堂への安置仏の造立が始められる。光明子の父・藤原不比等といえば絶大な権力をふるった人ではあるけど、初めから順風満帆な政治家人生ではなかったらしい。というのも、不比等の父・藤原(中臣)鎌足は天智天皇の忠実な家臣。天武天皇が壬申の乱で弘文天皇(大友皇子)を倒して天武政権を樹立して以降、しばらくは藤原氏は政権の中枢からは遠ざけられていたらしい。前回の系図にあるように、持統天皇以後はやたら女帝が立つわ、子から母へ皇統が継がれるなどかなり変則的で無理な譲位が行われており、ここに食い込んで不比等が頭角を現していったとされる。が、それ以外に妻・三千代の存在も大きいらしい。不比等と三千代の婚姻の時期は定かではないらしいが、その当時、不比等はまだパッとしない地位にあり、その後の不比等の栄達は元明天皇に仕えていた三千代の影響があると考えられている。不比等の死の翌年には宮人としての最高位である正三位に叙せられるなど、宮中における三千代の存在は大きなものであったと思われる。そういう偉大な母の死にあたって、光明子が母のための堂宇を建てようと思いついたという話自体には無理はない。無理はないんだけど・・・光明子が三千代のために興福寺内に造ったのは西金堂(さいこんどう)。興福寺にはまず中金堂が建てられ、次いで東金堂が建てられた。つまり、西金堂で興福寺内に3つめの金堂が造られることになる。もともと興福寺は藤原氏の私寺だったが、前々回の簡単な年表に書いたように、不比等が死んだ養老4年(720)からは国家により造営が進められるようになる。スケジュール的には、西金堂完成を三千代の一周忌に間に合わせようとしたようで、死の10日後から始まった工事は一周忌の2日前までかかった。納められたのは仏像系28体、獅子2体、アイテム系2コ、他1体の計33。仏像系のうち、本尊などは焼失したらしいが、現存している像から推測するに、仏像のほとんどが脱活乾漆像だったと思われる。つまりは大量なんてレベルじゃないぐらいの漆が消費された訳で、これだけで相当な費用がかかる。そして、これらの高価な仏像たちを納める西金堂も新築する訳だし、新規の堂宇を造るとなれば新しい荘厳具も用意し、お経だって納める。これだけのものを1年以内に仕上げた。『アシュラブック』によると、この工事に動員された人数はのべ55,107人で、1日平均148人の計算になるそうな。『アシュラブック』には、【西金堂建立には、皇后直属の小野牛養(うしかい)を中心に官営寺院なみの造営工房が組織されたわけです】とある。当時の給与体系がどうだったかは知らないけど、さすがに職人がタダ働きってこともないでしょうから、人件費だってかかる。てことは、実際どれだけの費用がかかったかはわからないけど、100円ショップで売ってる程度の電卓じゃケタが収まらないくらいの金はかかってるだろう。なんか、庶民の貧乏くさい発想だな~と我ながら思うけど世知辛いことを書いたのには理由がある。同じ年、金鍾山房の羂索堂が造られてるんですよ。羂索堂二重基壇の下段にいた7体の仏像は、木材で造った芯に粘土をぺたぺた貼った塑像。本尊である不空羂索観音像は脱活乾漆像で、像高約3.6m、本体には金箔が貼られ、本体だけでも相当な金がかかってるだろうに、極めつけが不空羂索観音のかぶる宝冠。翡翠、琥珀、真珠などの宝石が、なんと2万数千個付いてるんだそうな。長屋王親子を殺して、「やれやれ、これでひと安心」と胸をなでおろしたのは藤原一族だけで、主要な政治家であり皇族である長屋王が殺されたことで、官民ともに不安な状況にあったんじゃないだろうか。そんな中で、興福寺と金鍾山房が同時進行でこれだけの人員を動員して超豪華な寺や仏像を造ったというのはどうにも奇妙な行動に思える。まあでもね、興福寺西金堂は母の菩提を弔うためとなってるから、すでに729年から取りかかっていた羂索堂造営とたまたまバッティングしちゃっただけって可能性はありますよ。人の死は予測できないからね。じゃ、ちょっと西金堂の内部構成を見てみましょうか。西金堂の内部は、道慈が持ち帰った金光明最勝王経の巻2「夢見金鼓懺悔品」をジオラマ化した構成だった可能性が高いと北氏は語る。 【「夢見金鼓懺悔品」の大意は、 昔、妙幢菩薩が釈迦の高徳な教えを聞いて感動し、その夜夢を見る。その中に 大きな金鼓が現れ、光明を発し、そこから仏たちが生まれ、あふれ出てくる。 さまざまな仏たちがそこで法を説いている。すると、夢中に1人の婆羅門が 現れて、撥を持って金鼓を打つと、大音響が発生した。 その響きは、心地よく我々を悟りに導き。そのすばらしさは我々の心に 懺悔を説く教えのように聞こえる。翌朝、妙幢菩薩は鷲峰山(霊鷲山)にいる 釈迦の元に行き、この体験を伝えた。】 (『アシュラブック』より)というものだそうで、西金堂に納められた「アイテム系2コ」のうちの1つが金鼓で現在「興福寺 華原馨(かげんけい)」として現存するもの、「他1体」が婆羅門の像にあたる。華原馨は【道慈が唐から招来したものを、鎌倉時代に補修した可能性が指摘されている】(『アシュラブック』より)だそうで、そうであれば道慈は金光明最勝王教に基づく西金堂製作の監修だけでなく、もう少し深く西金堂建立に関わったともいえる。で、 【本尊の釈迦像は、妙幢菩薩が訪れた鷲峰山での釈迦説法の場面を現したものと 考えられます。中国の敦煌莫高窟などでは、唐以降霊鷲山説法の場面を描いた壁画が 少なからず見られ、釈迦説法の周りに十大弟子や八部衆などが表されている場面が あります。興福寺西金堂に十大弟子像や八部衆像が造立された蓋然性が うなずけるのです。】 (『アシュラブック』より)なるほどね。西金堂がどういう場面を現してるのかはわかったけど、でもなんでその場面を選んだんだ?トーハクのVR作品の中では、金光明最勝王経は珍しく女性の成仏を説くお経だという説明があって、お経の知識がない私は「なるほど~」と思った。女性は子を産み育てるという役割上、いつの時代もたくましくあったと思うけど、長い歴史の中では穢れた存在として蔑視される方が長かった。出陣前には女性との交わりはもちろんのこと、甲冑も触らせなかったとかいう話もあるし、伝統芸能の中には現代でも神聖な職場には立ち入らせない所もある。仏教においては、インドでも日本でも初期には女性蔑視はされていなかったらしい。しかし、 【涅槃経のなかでは「アラユル三千界ノ男子ノモロモロノ煩悩ヲ併セアツメテ、 一人ノ女人ノ罪障トスナリ」と述べられており(後略)】 (『女人成仏への開眼』/後藤宏行)なんてお経もあるそうで、たとえば電車の女性専用車で「お前たち1人の中に、俺たち3,000人分の男の煩悩が詰まってるんだぜ~!だから、お前たちは穢れた存在なんだ!わかったか!!」なんてのたまおうものなら、肉食系女子の多い車両だったら半殺しの目に遭うだろうけど、一般に女性の成仏は難しいとされてきたらしい。そうはいっても、女性の成仏の道が完全に断たれた訳でもなく、前掲書によると、『大無量寿経』では大乗経典の中で初めて女性の救済と成仏が約束されたそうな。・・・ただし、条件付き。生前に阿弥陀如来の名前を聞いて菩提心を起こし、死後に男子に生まれ変わるなら、ということらしい。ウィキペディアによると、天台宗の祖・最澄は女性の成仏を否定しなかったらしいが、叡山は女性は立入禁止だった。三千代の死は最澄の生まれる前のことだけど、そういう時代にあって道慈の持ちかえった金光明最勝王経は直輸入の最新のお経であり、しかも女性の成仏を説いているとくれば、女傑を弔うのにはいかにもふさわしい。けどね、『アシュラブック』によると、女性の成仏を説くのは巻2ではなく巻5「滅業障品」らしいんですよ。ここでは「福宝光明」という女性が悟りを開いて釈迦如来になると書かれ、さらに【このお経を唱えれば国家と人民に繁栄がもたらされると説かれています】・・・三千代の菩提を弔うなら、こっちの方がよくない?なんで巻2の釈迦説法の場面にしたんでしょうかねえ・・・にほんブログ村
2014年03月30日

増税も間近。先日のNHKでは増税前に前倒しで記念撮影を行ったりだとかの色んな例を紹介してましたが、うちの母親は「増税前に!」を合言葉に、今月頭に生まれて初めての大腸カメラ検査にチャレンジしてついでにポリープまで取ってきましたよ皆様も買いだめはお済みでしょうか。かくいうわたくしも、先ほどネットで3件ばかりお買い物を済ませました。配送が4月1日を過ぎる商品については改定後の税率が適用されるらしいので、ショップの方が頑張ってくれるのを祈るばかりです。で、今日は満開であろう上野の桜を見に行くつもりでしたが、今週は体調が悪かったので断念しました。ので、ブログも通常営業です。前回は長屋王が登場するところまで書きましたが、とんとんと書くつもりだったのがゆんべは思考の迷路に迷い込み、先へ進むことができませんでした。が、別に正解を追うつもりもないし、そもそも手持ちの材料が少ないくせにシロートが簡単に仮説を立てられるくらいなら研究者だって苦労しませんとゆー事で、ひとまず現時点で書けることだけを書きます。去年あたりのシリーズからはわたくしの稚拙な推測も臆面なく書いてますが、決して自分が正しいと思ってる訳じゃありません。とくに、興福寺や東大寺は一般にもメジャーだし、わたくしの記事などもひとつの材料として、皆様がそれぞれに自由な発想を展開していってくれればいいってぐらいに思ってます。ただ、ツッコミどころは多くても記事に直接反論のコメントをいただいても私もちょっと困っちゃうし、それに反論するつもりもないので、ご自身の見解はご自身のツールで展開していただけると助かります(←軟弱者)。まあ、そうは言ってもこのブログの読者様はオトナな方が多いようで、これまでどんな勝手な推測や毒を吐こうとも、抗議のコメントなどを寄せられた経験もないので、いつも感謝しております。毎度ありがとうございますそれでは、前回の続き。長屋王についてもうちょっと説明しておこうかな。 当時は近親婚が当たり前でまともに書くとかなり入り組んでるし、長幼の順は無視した系図なのでご了承ください。数字は即位した順番、ピンクは女性です。つまり長屋王は天武天皇の孫であり、天智天皇の外孫でもある。藤原氏の血をひいてないだけで、血統としてはかなりいい。天武天皇の孫なので、本来であれば「王」が正しいんだけど、昭和61年から行われた発掘調査で平常宮の東南角に隣接する場所で大量の木簡が発見され、長屋王の邸宅跡と判明した。木簡には「長屋親王」と記載されており、生前から長屋王が「親王」と称されていたことがわかった。また、本来は三世王である長屋王の子たちが二世王の待遇を受けていることから、長屋王も「親王」の特別待遇を受けていた可能性があるという。霊亀3年(717)に先の左大臣が死去すると、長屋王はその翌年大納言になり、朝廷では藤原不比等に次ぐ立場となる。非藤原系の皇族の中では代表格といったところかな。ただ、図にあるように長屋王は不比等の娘を娶っており、不比等の存命中は藤原氏との関係は悪くなかったと見る向きもあるらしい。が、不比等が死去すると、長屋王の存在感も当然アップした。その後も順調に昇進を重ね、元正天皇も妹である吉備内親王を嫁に持つ長屋王に信頼を寄せていたといわれる。ウィキペディアによると、養老3年(719)には新羅からの使者を自邸に迎えて盛大な宴会などが催されたそうで、かなりの権勢を持っていたことがうかがわれる。発掘調査で出土した木簡からは、長屋王が自邸に氷室を所有しており、夏にそれを食べていたことが判明したそうな。冷凍庫のない時代、夏にかき氷を食べられるなんてセレブ中のセレブにしか許されない贅沢だと思うけど、奈良文化財研究所による長屋王の推定年収は約4億だそうな。神亀元年(724)に聖武天皇が即位すると、聖武は自分の母である藤原宮子を「大夫人」(だいぶにん)と称する勅令を発した。しかし、長屋王をはじめとする議政官から律令には「大夫人」なんて称号は存在しないこと、ゆえにそれを使い続けるなら法令違反になるというツッコミを入れられ、翌月には先の勅令を撤回するという事態になる(辛巳事件)。このあたりから、藤原四兄弟との関係が怪しくなってきたと言われる。そして、前回の最後に書いた光明子の立后問題が起こる。四兄弟からすれば、目の上のたんこぶもいいとこだったろう。しかも、たんこぶ・長屋王は皇族の中でも嫡流に近い存在。系図には聖武の息子である基皇子と安積親王は省いてますが、基皇子は1歳を待たずして亡くなったし、安積親王は生まれたばかり。聖武天皇も生来病弱だったといわれ、もし聖武と安積親王になにかあれば持統女帝の血を引く直系の男子は途絶え、持統女帝の孫・吉備内親王と長屋王との間に生まれた4人の王の存在が高まる。天武の孫にあたる男子は他にもいたけど、この時点では長屋王の地位とは比較にならなかったし、血統の点からいえば吉備内親王を嫁にしていたことはかなりポイント高い。長屋王とはそういう存在の人だった。●神亀6年/天平元年(729)2月、「長屋王の変」が起こる。これは長屋王が謀反を企んでいるという密告を受けて、四兄弟の3男・宇合(うまかい)らの率いる軍に屋敷が包囲され、長屋王、吉備内親王、そして2人の間に生まれた男子が自害したというもの。ウィキペディアには 【「獄令」決大辟条には、皇親及び貴族には死罪の代替として自尽が認められる (ただし、悪逆以上の大罪にはこれを認めない)という規定がある。従って、 長屋王の自殺が自らの決断したものなのか、死罪の代替として宇合らに 強要されたものなのかは不明である。】と注釈があるものの、自分で命を絶ったにせよ、それが屋敷を軍勢に包囲された中でのことであれば、大抵の人は「殺された」と表現するだろう。ウィキペディアには【讒言であったとする説が強い】とあり、実際これが一般の見方。おそらく、謀反を企てたという有力な記述が見当たらないのだろう。それどころか、正史である『続日本記』に長屋王は無実だったという記載がある。 【738年(天平10)の秋、宮廷の下級官大伴子虫が宮処東人と碁を囲んでいた。 その時、たまたま話が9年前の長屋王の事件に及び、子虫は突然怒って抜刀し 東人を斬り殺した。子虫はかつて長屋王の恩雇を受けた者であり、東人は 長屋王を「誣告」した者である--このように記されているのだ。】 (『逆説の日本史2』より)父とともに殺された長屋王の子たちは生年がわかっていないが、井沢氏によるといずれも少年か幼児といった年齢だったらしい。こうした事件を経て、同年8月、光明子が立后する。長屋王親子の死によって得をした藤原氏を世間が疑うのは当然のことで、長屋王の変は藤原四兄弟による陰謀だというのが今日での定説。そしてこの年は、東大寺法華堂(金鍾山房羂索院)の八角二重基壇の用材が伐採された年でもある。はい、前々回『アシュラブック』から紹介した、金ピカの不空羂索観音像が乗っている基壇のことですよ。東大寺法華堂修理の際、二重基壇の下段に7体の像があったことが判明した他、基壇に使われていたヒノキの年輪年代測定から、基壇のヒノキの伐採年がこの729年だったことがわかったそうなのだ。年輪年代調査は他の部材でも行われた。それによると、須弥壇上にある斗栱は731年、後ろにある肘木は730年か731年だったことが判明。これまで、東大寺の初期の寺である金鍾山房は基皇子の菩提を弔うために神亀5年(728)に創建されたものといわれ、ウィキペディアだと現在もこの説が強いような書かれ方をされている。(ただし、ウィキの修正がされてないだけかもしれない)この金鍾山房の創建話は、『続日本記』に書かれているもの。一方、東大寺では天平5年(733)に良弁によって建立されたものと伝える。これは不空羂索観音像の製作が740年代だと見られていたこともあり、また恐らくは寺伝『東大寺要録』の編纂が室町時代ということもあって、あまり見向きもされなかったらしいが、『アシュラブック』では 【伐採年が判明したことは、『東大寺要録』が記す”羂索院”すなわち法華堂の 創建年、天平5(733)に近く、法華堂の創建と本尊不空羂索観音像の 造立が733年である可能性が高まったのです。】とする。科学の力ってすごいね。仮に伐採年代が判明しなかったところで、いわゆる「正史」なんてものを額面通りに受け取るのはどうかという気がする。しかも、古代の王朝では結構エグいことが繰り返されていた。『続日本記』が完成したのは、延暦16年(797)。733年からはだいぶ経ってるけど、井沢氏は【編纂の対象となった原史料は、奈良時代に作られていたはずである】とし、その可能性は十分にあると思う。であれば、渦中の人である光明子が関わった金鍾山房の成立についても何らかの操作が加えられている可能性はゼロではないと言えるんじゃないか。にほんブログ村
2014年03月29日

この春の職場の異動で若手男子が2名うちの部署にやって来ました。うち1人は広島からやって来た人で、どこの出身かと聞いてみたら、広島人じゃなく大阪産なんだと。ちぇっ、広島弁教えてもらおうかと思ってたのに(笑)。もう1人はぽっちゃり君で、近くで見るとどことなく懐かしいようななんかムラムラとこみ上げるものがある。おっかしいな~、基本的に私は細身の人が好みのハズなんだけど・・・(先日の良源さんのアドバイスに従って現在毒舌自粛中なので、あえて「デブが嫌い」とは書きません)。しかし、ついさっきその理由がわかった。阿部正弘さんにどことなく似てるんだ~!!これからは彼を「正弘ジュニア」と呼ぼう。で、わたくしのブシは明日退職します春は出会いと別れの季節です。さて、前回までVR作品「興福寺 国宝阿修羅像」と『アシュラブック』から興福寺阿修羅像の解釈をご紹介しましたが、藤原光明子(と聖武天皇)の造った仏像が光明子を取り巻く人たちをモデルにしたものだという北氏の解説を全面的に支持している訳ではありません。というのも、紙面の都合なのかあるいは「簡潔にわかりやすく」というコンセプトのためなのか、なぜアシュランの顔が息子・基皇子であり、不空羂索観音像が夫・聖武天皇なのか、『アシュラブック』の中では突っ込んで書かれていないからです。もちろん、北氏の中では綿密な思考の上で結論だけを簡単に書いてるんだと思うけど、『アシュラブック』だけを読んでると、ちょっとイキナリ感があるのは否めません。そもそも、アシュランの3つの顔の表情はどれもビミョ~で、何とも言えない顔をしている・・・「こういう表情です」と言われればそう見えなくもないけど、どうもどの説明もしっくり来ない。これは興福寺八部衆のそれぞれに言えることかもしれませんが、特にアシュランの顔は、それを拝んだ人の数だけ解釈があるんじゃないかと思います。で、解釈の一例としてVR作品と『アシュラブック』を紹介した訳ですが、少しネットでアシュランについて書かれているものも読んだものの、そのほとんどは光明子は熱心な仏教徒であり、光明子が造らせた仏像の綺麗な面だけを取り上げている方が多いように思われる。いや、それはそれで構わないんですよ。・・・構わないんですが、別の見方もあると思うんです。ので、ここからはもそっとダークな現実の歴史面から少し見ていきたいと思います。早く上野編の本編に戻りたいのはヤマヤマですが、これも縁だし、その都度勉強して考えて自分なりの見方もまとめておかないと知識も広がりませんのでね。神辺城シリーズで論文を参考にさせていただいた木下和司様から先日、「いつ中世史を再開すんの~?」と大変ありがたいコメントをいただきましたが、今年は仏教関係の記事がほとんどになる可能性が濃厚になってきまして、去年までとはだいぶ趣が異なると思いますのでご了承ください。で、サブタイトルを見て「おっ?」と思った方もおられると思いますが、「井沢史観」は『逆説の日本史』の著者・井沢元彦氏の提唱する観点のことです。私はこれが昔好きだったんですよ。『逆説の日本史』シリーズを読んでない方のためにシリーズをつらぬく骨子を一言で説明すると、「日本は怨霊信仰の支配する国だった」ってとこでしょうか。ただし、途中までしか読んでないので、正確じゃないかもしれません(笑)。聖武天皇&光明子の時代について私が読んだある程度詳しい本といえば、後にも先にも『逆説の日本史』のみ。しかも、それが書かれている第2巻「古代怨霊編」はそれこそ夢中になって読んでた時期なので、かなり記憶に残っている。とはいえ、細部は忘れているので『アシュラブック』を一通り読んだあとで第2巻ではどういう風に書かれていたのか、久々に読み返してみました。そしたらまあ、井沢説には多くの反論があるのは知ってたけど、すでに第2巻の時点で相当風当たりが強かったらしく、本文の中で反論する人たちへ対しても色々と書かれているので、物書き・・・特に新説を提唱するってのは大変なんだな~と思いました。じゃなくて、今は昔ほど手放しで井沢氏の説を支持する訳でもないですが、やっぱり光明子周辺に関しては怨霊ルールを適用する方が説明が付けやすいよな、って感じました。ので、前回の年表にはあえて含めなかった政治向きの出来事を羅列しつつ見ていきます。関連性を見るために、一部前回の年表と重複する部分もあります。ただ、『逆説』の中では政治的背景と東大寺大仏建立にテーマを絞っているためか、同じ東大寺の不空羂索観音像や興福寺のことについては触れていません。ので、『アシュラブック』で学んだことを交えつつ、井沢説をベースに自分なりの考えを付け加えていくスタンスなので、井沢氏の論考をきちんと知りたい方は『逆説の日本史2』をご覧ください。●和銅3年(710)平城京遷都。鎌足の子・藤原不比等が奈良(平城京)へ厩坂寺を移し、実質的な興福寺の創建となる。遷都後まもなく中金堂が建立されたとみられる。●養老2年(718)道慈が「金光明最勝王経」をみやげに唐から帰国。●養老4年(720)不比等死去。「造興福寺仏殿司」が設けられ、藤原氏の私寺・興福寺は国家により造営が進められることになる。●養老5年(721)元明太上天皇と元正天皇の命により、不比等の一周忌に興福寺内へ北円堂を建立。不比等の妻の三千代は中金堂内西側に弥勒浄土変を製作し、50体に及ぶ群像を祀る。●神亀3年(726)興福寺東金堂建立。●神亀4年(727)閏9月29日、聖武&光明子夫妻に長男・基皇子生まれる。基皇子が立太子したのは、なんと生後32日め。仏像中心に見る方々の説明だと、待望の長男が生まれたので異色のスピード立太子は親の愛ゆえだという雰囲気が漂う。ところが、当時は天皇に即位するにも皇太子になるにも成人であることが前提だったんだそうな。ので、基皇子の立太子がどんだけイレギュラーだったのかわかる。その背景には、 【持統王朝初期の頃は、何が何でも持統系の男子に皇位を継がせるという 原則があった。これを決めたのは、前にも述べた通り持統女帝と藤原不比等 である。しかし、不比等は自分の一族の繁栄を考えて、持統系の男子と 藤原系の女子の間に生まれる子のみが皇位を継ぐことができる、という 原則に変えた。】 (『逆説の日本史2』より)という流れがあった。井沢説の賛否は色々あるでしょうが、藤原氏が権力を握るのに強引な手段も辞さなかったというのは多くの人が認めるところでしょう。●神亀5年(728)9月13日、1歳の誕生日を待たずして基皇子が死亡。聖武天皇、基皇子の菩提を弔うため、平城京東の山に「金鍾山房」という山寺を建立。東大寺のスタートについてははっきりした事はわかっていないらしいが、複数の前身寺院を統合して最終的に東大寺になったと見られているそうな。で、「金鍾山房」(こんしゅさんぼう)はその前身寺院のひとつ。聖武天皇はこの山寺に9人の僧を住まわせた。『アシュラブック』によると、考古学調査では金堂・回廊の跡や礎石などが見つかり、すでに大規模な山岳寺院であったことがわかっている、とある。また、東大寺の文献には光明子が金堂を造ったという記録もあり、聖武&光明子夫妻による寺院造営だったことがうかがわれる。前回、不空羂索観音像の背後を守る執金剛神像を紹介しましたが、『日本霊異記』に執金剛神像造立に関連するエピソードがあるそうな。 【聖武天皇の御代、平城京(奈良)の東の山に金鷲寺<こんしゅじ>と号す、 東大寺の前身寺院があった。その山寺に金鷲行者という優婆塞<うばそく> がいて、塑像の執金剛神のふくらはぎに縄を結び、これを引いて昼夜修法を 行っていたが、そこから発せられた光が宮殿に届き、行者は天皇に招かれ、 日頃の行いを称賛され、得度(正式な出家)が許された。】 (『アシュラブック』より)『アシュラブック』によると、現存する東大寺の執金剛神像の右のふくらはぎには表面が欠落した箇所が2つあり、「その下方の孔の奥に木心に打ち込んだ鉄釘が見える」んだそうな。ま、この伝説と執金剛神像の足の釘との関連はわかりませんが、「金鷲行者」とイコールと見られているのが、実在の僧・良弁さん。『日本霊異記』では在家で激しい修行をして頑張っていた良弁さんの噂が聖武天皇の耳に届き正式な出家を認められたとあるけど、北氏は金鍾山房に入った9人の僧の中に良弁も含まれており、激しい修行を行って9人の中で次第に頭角を現したのだろうとしている。そして、良弁は自らの本尊を執金剛神像としたそうな。・・・夭折した皇子のために建てた鎮魂の寺で、阿修羅の岩屋を打ち砕くような荒ぶる神を本尊とする行者が、これまた激しい修法を行った?なんか変じゃね?この年は他にも色々あった。聖武天皇に男子(安積親王)が生まれたのだ。消える命あれば、あらたな命あり・・・しかし、せっかくの男子の誕生もそうそうめでたいことじゃなかった。なんでか?安積親王は光明子から生まれた子じゃなかったからですよ。別腹の子だったのだ。しかも、母親は藤原氏ではない。基皇子が死んだあとは、当然第2皇子の安積親王が皇位継承の有力候補となるハズ・・・ところが、聖武天皇は安積親王を皇太子に指名しなかった。基皇子の死後、しばらく皇太子は空位だったらしい。光明子やその実家の藤原氏は、藤原氏の血をひく男子の誕生を心待ちにしていただろうが、あいにく男子は生まれなかった。良弁が激しい修法をしたという中には、藤原系の男子誕生祈願も含まれていたんじゃないかという気もする。ただし、執金剛神は子授けの神じゃありませんが基皇子の立太子は異例中の異例だけど、基皇子の死後、すぐに安積親王を皇太子に立てなかったのはまだ幼いことをタテマエに立太子を逃れた可能性もある。しかし、この時点で皇位を継ぐに不足のない成人男子がいた。それが長屋王。長屋王は天武天皇の孫であり、聖武天皇には伯父にあたる。しかも、左大臣。ただし、長屋王も藤原氏の血を引いていない。光明子に子が生まれるのを期待するしかないとはいえ、ただ手をこまねいている藤原氏ではない。すでに父の不比等は死んでいるので、光明子の兄弟である藤原四兄弟が藤原氏を仕切っていたが、四兄弟は光明子を皇后に格上げする策を考えついた。光明子が皇后になって男子を産めば、その子が皇位を継ぐのが望ましいし、男子が生まれるまでの間、少し時間かせぎができる。で、四兄弟は光明子を立后する運動を始めるが、これに立ちふさがったのが長屋王だった。長屋王が光明子の立后に反対したのは、ウィキペディアによると、この頃は夫である天皇の死後、子が成人するまでの間の中継ぎとして皇后が即位するケースもあったので、皇族出身でない光明子の立后に反対したという。にほんブログ村
2014年03月27日

奈良国立博物館には、昭和50年代に復元されたアシュランの像があるらしい。『アシュラブック』にはその写真が載っているけど、全身真っ赤。スカートまで真っ赤。現在もアシュランには若干の色が残ってるけど、そのほとんどは中世になっての補彩らしい・・・が、当初から全身真っ赤だったのだろうと北氏は語る。 【赤は火炎の色で、阿修羅の鬼神たる由縁を表しているのです。火炎が象徴 するものは、不動明王のように怒りと戦いです。】 (『アシュラブック』より)現代の私たちが「阿修羅」と聞けば、極道とかとにかく戦いの世界を連想する。「修羅場」という言葉は、アスラがインドラと戦う場を指し、転じて激しい戦いの場面や泥沼の痴情のもつれ、さらには忙しくてパニくってる状況などを表すものとして使われる。それから、六道。「修羅道」は天道、人間道に続く上から3番目の世界。ウィキペディアによると、 【修羅道は阿修羅の住まう世界である。修羅は終始戦い、争うとされる。 苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに 帰結するところが大きい世界である。】(「六道」の項より) 【また一説では、阿修羅は正義ではあるが、舎脂(アスラの娘)が帝釈天の 正式な夫人となっていたのに、戦いを挑むうちに赦す心を失ってしまった。 つまり、たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い 妄執の悪となる。このことから仏教では天界を追われ人間界と餓鬼界の間に 修羅界が加えられたともいわれる。】 (「阿修羅」の項より。カッコ内は戦国ジジイが追加)完全な悪ではないけど、善の行いがあっても一方で戦う心を失わず悪の行為を働いていると修羅道に落ちるんだそうな。あっ、じゃあ私は修羅道に落ちるのか・・・(て、いつ善行を積んだんだ)まあ、これもすべてアスラの神話から来てる訳だな。仏教が東へ伝播し、インドラや四天王などと一緒に仏を守るガーディアンの一員になっても、アスラの基本的な性格付けは変わらない。ゆえに怒りの形相をした阿修羅像が造られるようになった。そんな中、興福寺のアシュランだけがあのビミョ~な表情を浮かべている。ものすごく異色。で、『アシュラブック』ではアシュランが造られた背景から、顔の謎に迫る。興福寺にはいくつかの変遷があった。天智天皇8年(669)鏡女王が夫・藤原鎌足の病気平癒を祈願して京に山階寺を建てる。鎌足は釈迦三尊像を造立し納める。天武天皇元年(672)壬申の乱起こる。山階寺を飛鳥(藤原京)に移して厩坂寺とする。和銅3年(710)平城京遷都。鎌足の子・藤原不比等が奈良(平城京)へ厩坂寺を移す。ここが実質的な興福寺の創建。遷都後まもなく中金堂が建立されたとみられる。養老2年(718)道慈が「金光明最勝王経」をみやげに唐から帰国。養老4年(720)不比等死去。「造興福寺仏殿司」が設けられ、藤原氏の私寺・興福寺は国家により造営が進められることになる。養老5年(721)元明太上天皇と元正天皇の命により、不比等の一周忌に興福寺内へ八角円堂の北円堂を建立(本尊は弥勒仏)。不比等の妻の三千代は中金堂内西側に弥勒浄土変を製作し、50体に及ぶ群像を祀る。神亀3年(726)興福寺東金堂建立。東金堂の本尊は、聖武天皇が元正太上天皇の病気平癒を願って造立した薬師三尊像。神亀4年(727)閏9月29日、聖武&光明子夫妻に待望の長男・基皇子生まれる。32日後の11月2日、基皇子が立太子。神亀5年(728)9月13日、基皇子死亡。聖武天皇が基皇子の菩提を弔うため、平城京東の山に「金鍾山房」という山寺を建立。天平5年(733)1月11日、光明子の母・三千代死去。1月21日から興福寺への安置仏の造立が始められる。天平6年(734)興福寺西金堂完成。仏像は29体、ほか動物などのアイテムを合わせて計33体が納められた。その中にアシュランもいた。この大まかな流れ、押さえておいてくださいね。養老2年に唐から帰国した僧・道慈(どうじ)は興福寺の僧として活動し、光明子ともかなり親密だったらしい。光明子の周辺には、やたら道慈が持ち帰った金光明最勝王経が付きまとう。光明子の母の菩提を弔うために興福寺に建立した西金堂(さいこんどう)に納められた数々の像・・・現在は西金堂は存在しないが、かつての西金堂内部は金光明最勝王経の巻2「夢見金鼓懺悔品」をジオラマ化した構成だった可能性が高いという。ま、立体曼陀羅とはちょっと違うと思うけど、お経の中の釈迦の説法の場面を豪勢にも仏像群でリアル再現した感じかな。それから、名前。光明子は皇后になる前は「安宿媛」といった。「やすやど」じゃなくて「あすかべひめ」と読むそうです北氏は光明子の名前も金光明最勝王経に由来するのだろうとしておられる。他にもあるんだけど、それは今は置いといて、 【『金光明最勝王経』巻第5「滅業障品」には、「福宝光明」という 女性が登場し、女性の身を捨てて悟りを開き、釈迦如来になると記され、 続いてこのお経を唱えれば、国家と人民に平和や繁栄がもたらされると 説かれています。(中略) 母親の橘三千代が夫・藤原鎌足を支えて興福寺の造営を推進したことを 考え合わせると、橘夫人の一周忌の際に完成された西金堂の本尊釈迦如来像は、 まさしくこのお経が説く女性「福宝光明」の来世(浄土)での姿であり、 橘三千代の現し身だったのではないでしょうか?】 (『アシュラブック』より)と西金堂の本尊・釈迦如来像は光明子の母・三千代を投影したものだとし、アシュランのモデルは1歳を迎える前に亡くなった光明子の息子・基皇子じゃないかと北氏は推測する。母・三千代の一周忌は同時に基皇子の七回忌。アシュランの正面の顔は、生きていれば7歳になる基皇子をイメージしてるんじゃないかというのだ。 (画像はウィキペディアより)これは前回も載せた興福寺八部衆のうちの2体ですが、人間ぽい顔をしてるのはアシュランを含め6体。さらにその6体のうち、上の画像の左(畢婆迦羅:ひばから)はちょっとヒゲなんか生やしちゃってるしオッサンぽいけど、残る5体はふっくらと丸顔で童顔。童顔の最たるものが右の像(沙羯羅:さから)で、鎧が全然似合ってない(笑)。北氏に言わせると、【1歳で亡くなったときの基皇子にもっとも近い幼子といった面相です】となる。八部衆が勢ぞろいした写真を見ると、少年ぽい顔をした5体はみんな顔が似ている。まさか仏師が顔の造り分けができなかった訳でもあるまいに、私には同じような顔に見える。ので、北氏の説を拡大解釈して、この5体が基皇子をモデルにしたものだとしたら、これだけ似たような顔が並んでるのもうなずけるよな~と思った。さて、話は東大寺へと移る。煩雑な説明は省きますが、こちらが東大寺法華堂の本尊、「不空羂索観音像」(ふくうけんさくかんのんぞう)↓。 (画像はウィキペディアより)白黒なのが残念ですが、実物は金ピカです。『アシュラブック』には「光のイリュージョンに包まれた、天平美仏の真骨頂」という言葉が添えられている。不空羂索観音は「不空羂索呪経」などに登場するらしく、手に持つ慈悲の縄(=羂索)で人々をもれなく救済してくれるという観音様。これが造られた背景は、不穏な世情を反映しての国家鎮護が目的であり、像のモデルは光明子の夫・聖武天皇じゃないかと北氏は言う。近年になって東大寺法華堂の修理が行われた際、研究者をあっと言わせた新事実が発覚したそうな。これまで東大寺法華堂の建立年代はアシュラン誕生(734年)よりあとの740年代とみられていたのが、この発見により法華堂建立および不空羂索観音像造立年が733年である可能性が高まったという。そして、不空羂索観音像のおわす基壇は八角の二重になっており、下段には7体の仏像の痕跡が見つかったという。私はこの実物を見たことはないけど、『アシュラブック』にある図によると、現在では基壇の上段に不空羂索観音像と両脇に日光菩薩・月光菩薩がおり、基壇を囲むように四天王や金剛力士像が配置されているらしい。が、この基壇の痕跡の発見と推定建立年代がさかのぼったことにより、法華堂の仏像の入れ替えがあった可能性が高まったんだと。当初、基壇の下段で不空羂索観音像を囲んでいた7体の像のうち、本尊の真後ろにいたと見られているのが、執金剛神(しつこんごうしん)。これは本尊と背中合わせ・・・つまり、円形の外側を向いて不空羂索観音像の背後を守る形だったそうな。 バックを守るだけあって (画像はウィキペディアから)ご覧の通りの形相です。日本ではのちに門を守る仁王様に転じたともいう。 【唐の求法僧玄奘三蔵の旅行記『大唐西域記』巻10には、インドの高僧、 清弁(バーヴァヴィヴェ)論師が弥勒菩薩の出世を願って高山の阿修羅窟に 籠る話を載せています。その際、清弁は観音菩薩から執金剛神の呪文(陀羅尼)を 唱えるように告げられます。清弁はこれを実行すると、執金剛神が阿修羅窟の 石壁を開き、清弁は6人の弟子とともに石室の中に入って石壁を閉じたという お話です。】 (『アシュラブック』より)執金剛神が手に持つ金剛杵(こんごうしょ)で阿修羅の巣くう洞窟を破壊したという伝説で、北氏はこれをもって不空羂索観音像・執金剛神と阿修羅の密接な関連が見いだせるとし、不空羂索観音像とアシュランを造った仏師こそ異なるものの、近年の発見によって不空羂索観音像がアシュランよりも先に造られていた可能性も出てきたし、どちらも光明子の思い入れの深い仏像として不空羂索観音像を意識してアシュランが造られた可能性を否定できないとする。 【光明皇后の理想仏は、東大寺法華堂不空羂索観音像と興福寺阿修羅像の 2体の美仏に結実しているのです。】 (『アシュラブック』より)おそらくここが、北氏のもっとも言いたかった部分になると思います。にほんブログ村
2014年03月26日

ヨシ、これで庭園は終わりだな時間もちょうどいいので、ルートに従って入口の方へ戻る途中、灯籠があった↓。 このすぐ近くになんだかよくわからないものもあったんだけど、チラシによると鉄灯籠の名残りだったらしい(笑)。春の庭園開放は4月13日(日)まで。最近では結構このお庭も人気らしく、桜の咲く頃はツアーに組み込まれてたりもするらしい。うわ~、桜は見たいけど、団体さんはヤダ・・・庭園を出て、入口すぐのところにあるレストランに入る。まだ昼には少し早いので私が一番乗り。お兄ちゃんがカウンターの真ん中の眺めがいい席へ案内してくれた。元三の日もこのカウンターに座ったけど、今日は桜が咲いてる分前回よりもいい光景が広がる↓。 ここでお昼を済ませて、いよいよ今日第2のお目当て、ミュージアムシアターへ。 シアターは当日予約制。アシュランの上映が始まってからだいぶ経つので、あまり観客もいないかと思ってたけど、そこはさすがに人気者。思ってたよりは人がいた。前回の「よみがえる江戸城」の時はタダだったし人も多かったので、少し前に行ったらもう列ができていた。予約制だから座れないってことはないハズなんだけど、席が決まってる訳じゃないので、いい席を取りたかったら早く並ぶしかない。が、今回は皆様おっとりしているのか、誰も並んでない。1人だけ並ぶのもなんだしな・・・ロビーには10種類ほどの関連書籍が並べてあったので、物色しながら開場を待つ。その中で一冊、気に入った本がこれ↓。 ・・・うん、まあ、御想像の通り、帯の「なぜ美少年か?」に魅かれたんだけどね(笑)。でも立ち読みしてたら中もしっかりした本だったので、終わってから本館のショップで買っちゃってね~。え~と、まずはシアターの内容と感想からいきますかね。まあ、前回の「よみがえる江戸城」もそうだったけど、とにかく画像がキレイ!!アシュランの全体像はこうなってますが↓ (画像はウィキペディアより)オープニングではこの足元からゆっくり舐めまわ・・・いへ、至近距離からの撮影でどアップで顔までじ~っくり映す。演出の効果ってすごいもんだなと思いましたね。私はそれまでこの像を見たことがあるのかないのか覚えがないぐらい、興福寺阿修羅像に関心があった訳でもないし、美少年だと思ってた訳でもないんですが、こういう特別な撮影ならではの映像をじっくり見てると、最後には美少年にしか見えなくなってくるから不思議(笑)。とにかく映像がホントに綺麗だったので、これはおススメです。(会期は4月13日まで)これが何のために造られた作品かはMCのお姉さんは言ってなかったけど、少し前にトーハクで「国宝 阿修羅像」展をやったらしいから、それとのタイアップだったのかもしれないな。アシュランは「脱活乾漆」(だっかつかんしつ)という技法の像らしい。まず木で大まかな形を組んで、粘土で像の元を造る。次に、漆を塗った麻布を貼りつける。それを数回繰り返す。漆が乾いたら、背中の一部を切り取って中の粘土を掻きだす。空洞になった内部に再度木で造った芯を入れて固定させ、背中をふさぐ。あとは表面の仕上げ。大体こんな感じの製法らしいです。要するに漆で造った張子みたいな?漆を大量に使う技法のため、脱活乾漆像は奈良時代の終わり頃には廃れたんだそうな。興福寺に納められた沢山の仏像のうち、アシュランには7人の仲間がいた。計8人で「八部衆」と呼ばれる。ゲームや漫画では神話などをモチーフにしたものも多いから、ご存知の方もおられるでしょう。作品の中では色々説明もあったけど、大まかな流れとしては興福寺が造られた背景の話に移る。時は聖武天皇の時代。藤原不比等の娘である藤原光明子は、民間から初の皇后になった。いわゆる「光明皇后」です。光明子の母が亡くなった一周忌に、藤原氏の氏寺である興福寺へこれらの仏像と「金光明最勝王経」(こんこうみょうさいしょうおうきょう)を納めた。金光明最勝王経は、珍しく女性の成仏を説くお経なんだそうな。して、アシュランの3つの顔のナゾに迫る。仏像は右周りに見ていくそうで、最初の向かって左の顔は下くちびるをかみしめる怒りの表情、次の向かって右の顔は怒りが少しやわらいだ伏し目がちの顔、最後の正面は何かの決意を秘めたような表情、だったかな。アシュランは元は仏の敵だったのが、のちに仏教に帰依して仏敵から仏を守る立場へと変化したという。なんでも、娘を誰か(ウィキペディアだと帝釈天らしい)に奪われたことに怒り狂って戦いを挑んで、その恨みはずーっとずーっと続いたそうな。そういう怒れる鬼神であったアシュランが仏教に出会って改心していく様子が3つの顔の変遷だと作品の中では説明があり、阿修羅像には高度な精神表現が求められた、とお姉さんが語っていたような気がする。説明としては、大体こんな感じの内容だったかな。では、次は『アシュラブック』(北進一著/美術出版社)からアシュランについてもう少し詳しく。これには色んな事がかなり詳しく書いてある。日本ではおもに「阿修羅」という漢字が当てられるので「アシュラ」という音が耳になじんでいるけど、元はアーリア人の崇拝する太陽神・アスラ(ASURA)と考えられているらしい。太陽神だから、最高神です。アスラは個人名ではなく、「アスラ族」ということみたいです。のちに、アーリア人はイラン高原とインド亜大陸へと移動する。イラン系で「アスラ」にあたる語は「アフラ」。イランでゾロアスター教(拝火教)ができると、アフラは最高神となった。これがなんと「アフラ・マズダ」だそうな。アシュラがアフラ・マズダだとはね!私は今は日本史ばっかやってますが、世界史を好きな期間の方が長かったし、特に古代文明は好きな方だったので、これは食いつきましたね。さて、一方のインド。移住したのちにアスラ族は最高神の立場から降ろされ、かわって同じ太陽神であるデーヴァ族を最高神に押し立てた。のち、仏教が成立するとデーヴァは「天」あるいは「天部」と呼ばれる。デーヴァ族のボスがインドラ(帝釈天)。アスラ族にも個別の名を持つ神がおり、まずは日食と月食を司る天体の神・ラーフ(羅喉)。それから千の眼を持ち罪人を絶対逃さない万能の神・ヴァルナ(水天)。ヴァルナに並ぶ至上神で光明と契約を司るミトラ。これらの神を統括するのが「大いなる光明」を意味するヴァイローチャナ。ヴァイローチャナは華厳教では「毘盧遮那仏」、密教では「大日如来」と呼ばれるそうな。最高神が交代したことに関連してか、デーヴァとアスラが戦ったという神話がある。VR作品の中では、自分の娘を奪われたことで戦いを挑んだって説明だったけど、神話の中では不死の霊薬をめぐってのバトルだという話になっている。最初はアスラが優勢だったのが、インドラが登場して大逆転・・・不死の霊薬を奪い返し、敗者となったアスラを魔族におとしめたという。これは神話の中の話だけど、祀る側の人間からは勝手に格下げされたアスラがそれを恨んで人間に害をなす魔族と見られるようになり、最高神から鬼へと転落してしまった。そののち、シッダルータ王子が出て仏教が成立する。シッダルータはもちろんインドラが・・アスラが・・・なんて説法はしなかったはずだけど、勝手な人間たちはアスラがかつて最高神で戦闘能力が高いことを買って、仏を守る守護神として再び崇めるようになった。鬼から神へと返り咲いた訳です。ここで、アスラは人間に近いなりを取るようになるが、顔は1つ以上、手は4本以上という人間とは程遠い像も造られるようになった。これはアスラが鬼だった頃の姿を反映したものだという。アスラが東へ伝播されていくにつれ、その姿は3つの顔と6本の手を持つ像に定形化されるようになった、とな。で、上のアシュランの全身像を見て下さい。高く差し上げてる左右の手は別にエキゾチックダンスを踊ってる訳じゃなく、当初は日輪と月輪を持っていたと考えられているらしいです。これは日食と月食を司るラーフから来てるんだな。仏像の持物は長い歴史の中で失われてしまうこともあるけど、絵画に描かれてる中では日輪と月輪を持たないアスラはいないんだそうな。その下の肘を曲げてる左右の手は、北氏の推測によると左で弓を持ち、右に持った矢をつがえていたんじゃないかという。戦闘神のアスラらしいアイテムだよね。そして合掌してる手・・・これは、怒りがやわらいでいく過程だとする3つの顔の説明とともに、最後に合掌することで仏教に帰依したことを表す、という方がいる。が、右手の肘の先は欠損していたそうで、それを明治以降に現在の合掌スタイルへ修復したものなんだそうな。その欠損した右手の肘が左肘より少し下がっていることから、もとは合掌していなかった可能性があるという。うん、まあ本物にテキトーなアイテムを持たせる訳にはいかないけど、彩色なども再現したクローン・アシュランに弓矢や日輪・月輪を持たせてみたいと思うのは私だけではあるまい・・・ところで、興福寺の他の八部衆はこういうスタイルです↓。 (画像はウィキペディアから)アシュラン以外は、みな鎧をまとっている。アシュランだけが上半身裸で腰に薄布をまとい、胸や腕には瀟洒なアクセサリーを付けている。首飾りは胸飾(きょうしょく)といい、本来は菩薩が胸に飾るもの。菩薩のモデルは、ブッダが王子だった頃の姿。つまりは高貴な身分のシンボルで、【この像の胸飾は、阿修羅の本来的な身分の高さを表しているのでしょう】と北氏は語る。にしても、護法神のくせに裸でいいのか?とも思うけど、こんな顔して怒らせたらコワイのかもしれない・・・にほんブログ村
2014年03月25日

有馬家の墓を過ぎると、ようやく庭園ぽい光景が広がる↓。 おお、なんかデカい灯籠があるぞ。行ってみよう。 アハハハ、ひさびさの広島ふう灯籠だ~!!関東の史跡・寺社めぐりはロクにしていないので、こちらでこのタイプを見たのは初めてかもしれない。ついでに小道の先まで少し進んでみた↓。 池だ・・・結構大きい。正面に見えてる大きな建物がトーハクの本館。ですが、宮の御本坊を思い浮かべてご覧くださいこの池はあちら側から見る方がよさそうだな。ここで通路へ引き返して、有馬家の墓石の前に見えていた建物へと向かう。 【応挙館 名古屋市郊外の明眼院の書院として寛保2年(1742)に建てられ、後に 東京品川の益田孝氏邸内に移築され、昭和8年(1933)当館に寄贈された。 室内の障壁画が、天明4年(1784)に円山応挙が描いたものであることから、 「応挙館」と呼ばれている。】 (現地解説板より)チラシの方では、 【室内に描かれている墨画は、天明4年、円山応挙(1733~1795)が 明眼院に眼病で滞留していた際に揮毫したものであると伝えられています。 松竹梅を描いた床張付と襖絵がのこされています。 墨画は保存上の理由から収蔵庫で保管されていますが、2007年、応挙館には 最新のデジタル画像処理技術と印刷技術を駆使した複製の障壁画が設置され、 応挙揮毫当時の絵画空間が再現されました。】だそうな。縁側にはこんな箱が置かれていた↓。 アハハ、上野東照宮のぼたん俳句会を思い出すな~。さすが、文化ゾーン上野だ。私もここで一句詠んでいこうかと思ったけど、庭園を見てご飯を食べて12時のアシュランの上映に間に合わせるつもりで、時計とにらめっこしながらせかせか歩いてたもんだから、みやびなモードにはなれず、断念・・・せっかく最新の技術で内部を復元したとあるのに、戸がぴっちり閉ててあって外側を拝むしかできない。が、こんなんなってる戸板もあって 思わず城郭の窓を連想させる。内側の板をスライドさせて覗けるようになってるんだろうな。 瓦が普通の巴とちょっと違うな。こちらが応挙館の裏手↓。 この奥に、もうひとつ建物がある。建物系はこれでおしまい。 【九条館 もと京都御所内の九条邸にあったものを東京赤坂の九条邸に移し、昭和9年(1934) 九条家から寄贈され、当館に移築された。床張付、襖等には江戸時代前期狩野派の 手になる楼閣山水図が描かれている。】 (現地解説板より)これ、どーゆー九条さんか書かれてないけど、単純に九条家と言われて思い浮かべるのはやっぱり九条兼実とか慈円を出した五摂家の九条家だよな。それも、御所内にあったくらいだから、宗家の九条さんかな。明治天皇が京から東京へ移ってきた時、ほとんどの公家が一緒にこちらに移り住んだって話だけど、ウィキペディアの「九条家」の項には【母屋などの主要な建物は、明治初期の東京移住命令に伴い東京の九条邸に移築された】とある。え、あれって自由意思じゃなく、強制移住だったの?そりゃ、大変だったろうな~。わざわざ京から移築するなんて、家を新築するより移築の方が安上がりだったんだろうか(笑)。 それにしても、立派な建物だ・・・いつ頃の建築なんだろう。チラシには、当主の居室として使われていたとある。ここまでの建物は、内部はすべて覗けなかったけど、ここはガラス張りになってるおかげで中の様子がわかる。たとえば、ちょっと見にくいけど母屋(もや)を囲む廊下部分↓。 板戸になっている。風格あるな~。ガラス張りの戸はかつてはせいぜい障子ぐらいではあったろう。少し進むと、ガラス戸が開け放たれていた。おお、これはありがたい撮影禁止とも書いてないので、もう思う存分・・・ おっ、床の間に絵が見える。あれが解説にある狩野派のうんたらかな↓。 この建物は床がすごく高い。庭にあたる部分には、水ガメのようなものが・・・↓。これも寄贈品のひとつデスカ? 裏手へ回り込んだところ↓。元々の床が高い上に、ここは窓になっているので胸くらいまで高さがある。 ↑ここも板戸だよ・・・障子の方の戸も幅広だし、古風な造りだよな。この先は、最初に見た部屋を正面から見る形になる↓。 欄間はカリンの一枚板に藤花菱が透かし彫りされたものだとチラシにある。手前・奥の部屋とも炉が切られてるようだけど、現在ではこの建物を茶会などにレンタルしてるためか。廊下の奥にはポットとか置かれてるし(笑)↓。 床が高いので、床下好きのわたくしはもちろん覗きこみました。ただし、ご覧の通りなので中の様子は写真には撮れませんでしたが↓。 結構いいカンジの床下だったんだけどね。九条館の瓦はこれ↓。 応挙館の瓦の真ん中と同じやつだ。巴とは少し違うみたいだけど、なんていう紋なのかはわからなかった。ちなみに、九条家の紋ではないようです。満足して通路へ戻る。この先を回り込むと、最後の直線ロード。さっき見た池がよく見える↓。 この後ろに、特設カフェ・・・いや、移動販売カフェカーが出店していた。メニューを覗くと、食べ物はホットドックかパンケーキ。あ、ちょっとこれじゃ軽食すぎるな(笑)。何かパンでも持ってくればよかった。ので、予定通りレストランの方で食べることにしたんだけど、カフェカーの前には見事な桜の木があって もう花がほころぶ寸前。これが咲き揃えば、それは見事な眺めだろう。この池は宮のお庭だった頃の一部分しか名残りをとどめていないらしいけど、こちら側から見るととても都内とは思えない光景が広がる。で、動画を撮ってきたので短いですが雰囲気をお楽しみください↓。にほんブログ村
2014年03月24日

転合庵と一緒に寄贈されたという名物の茶入れは現在ではトーハクの所蔵になってるんだろうなと思ったら、トーハクのサイトに画像があったので、ご覧になりたい方はトーハクのサイトから「於大名」で検索してみて下さい。転合庵を出て、通路へ戻る。この辺りからは、フェンス越しに寛永寺霊園の5本ラインの塀が見える↓。 そっか、こういう構造だったのか。去年の夏(上野第一編)、霊廟勅額門目指して歩いてた時、ここのフェンスがやけにものものしく見えて、一体この中は何なんだろうと思ったもんだけど、その気になれば庭園が公開されてない時期でもこの辺から庭園の様子は覗ける訳だな(ただし、全景は見えません)。写真には写ってないけど、時折この外側の道をお塔婆をかついで歩く人がいた。ああ、お彼岸だもんな。私も今日、巣鴨に寄ろうかとも考えたんだけど、なるべく早く帰りたかったので申し訳ないけどやめたんだ。いとこのSちゃんは今頃家族でお墓参りしてるかもしれないな。霊園沿いの道を歩く人の中には、自転車の前カゴにお塔婆をつっ立てて霊園入口の方へチャリを走らせてる人もいて、笑えた。さて、この少し先が第3の茶室への入口↓。 庭園公開は10:00から。私は10時過ぎに入って、まだその頃は人はいなかったけど、この頃になると人がぱらぱらと増え出した。 【六窓庵(ろくそうあん) 慶安年間(17世紀中頃)奈良の興福寺慈眼院に建てられたもので、現在 奈良国立博物館にある八窓庵などとともに大和の三茶室といわれました。 明治8年(1875)に博物館が購入、解体輸送中に伊豆で船が難破しましたが、 幸い材は流失をまぬがれて明治10年に当館に移築されました。 その後、第二次大戦中再び解体され疎開しましたが、昭和22年(1947)9月 数寄屋の名工木村清兵衛により現在の位置に再建されたものです。入母屋造り、 茅葺きで席は三畳台目出炉、金森宗和(1584~1656)好み。水屋、寄付、 腰掛などは明治14年に古筆了仲によって設計、増築されたものです。 にじり口にある手水鉢は四方仏水盤といわれる形式のもので、延長3年(925) 関白藤原忠平が建立した山城国法性寺の石塔のひとつでした。その後、銀閣寺を経て 所有者がいく人か変わり、明治18年に博物館の所有になりました。】 (チラシより)庭の方へ進んでみると、なんか奥にも建物がある↓。 が、その前にこんなものが目に入った↓。 ナニコレ・・・すっごい古そう。あいにく銘は見えなかったけど、火袋のあたりの彫り物が目を引いた↓。 かなり摩耗してるけど、お坊さんみたいな・・・変わってる。奥の建物の方へ進んでみると先客のおじいちゃんがいたので、先に灯籠を撮影↓。 場所が場所なので、ついクセで銘を探したけど見つからなかった。背後が静かになったのでもう先客はいなくなったかと思って正面に回ってカメラを構えたら、おじいちゃんがそこに座っていた。で、あわててジイちゃんがどいてくれたのがこちら↓。 この奥にも建物はあるようだけど、ジイちゃんがまだいたのでここで通路に戻ることにした。戻る途中にあったもの↓。 井戸?かな?これは昔からここにあったものなんだろうか。それとも、茶室を移築してから造られたのかな?通路に戻ると、見事な大木があった↓。 寛永寺の御本坊の規模は江戸城西の丸に比せられると言われたらしい。この場所に土井利勝を奉行として天海の寛永寺本坊が建てられたのが寛永2年(1625)11月。一般に、これをもって寛永寺の創建とされる。同時に、元禄11年(1698)に根本中堂が落慶するまでの70余年間は御本坊が中堂を兼ねた寛永寺の中心的堂宇であり、輪王寺宮のお住まいでもあった。『寛永寺』によると、御本坊は 【元禄11年の勅額火事をはじめ、四度にわたり全部又は一部を火事で焼失したが、 その都度再建されたものの、上野戦争で焼失してしまった。】とある。実に残念なことだけど、この木はずいぶん立派だからあるいは宮の1人や2人知ってそうだけど・・・なんて妄想しつつ。この木の先、通路から少し奥まったところにはこれがある↓。 チラシの絵図には「十輪院校倉跡」とあるけど、現地には解説版などはない。十輪院なんていうから寛永寺関連の寺の遺物かと思いきや、チラシ裏面の解説によると、【重要文化財の旧十輪院宝蔵(校倉)が建てられていた跡です。現在は、法隆寺宝物館の脇に移され、一般に公開されています】とある。なんかおかしいな・・・と思って十輪院で検索したら、トーハクのサイトにこうあった。 【法隆寺宝物館脇の校倉(旧十輪院宝蔵)は、もとは奈良・元興寺の別院、 十輪院から明治15年(1882)5月に当館に移築されました。現在、 柵越しにご覧いただいていますが、期間を限って柵を開放し間近で ご覧いただく機会を設けました。】これは2005年の文章らしく、今でも開放される時期があるのかは不明。ズームして見てみると 確かに建物の跡っぽい感じはあるけど、あれってそのままの形なのかな~。あんな石の板に建物を乗っけてたってこと?まさかな・・・フェンスの外を見ながら通路を歩いていたら、お塔婆をかついだお墓参りの人に交じって、お坊さんもいた↓。 あっ、あれ、寛永寺のお坊さんだな。根本中堂の方へ向ってる・・・今日は忙しそうだな(笑)。 ここまでは霊園に沿っての西向きの道。これが見えたところで、道は南へと向きを変える↓。 向きを変えて左手にこれがある↓。 【有馬家の墓石 寛永寺の面影を今に伝える越前藩主有馬家の墓石。記録には明治15年(1882) から19年にかけて、公園として整備するために博物館敷地内の墓所が整理されたと あります。なぜこれらの墓石だけがここに遺されたのかはわかっていません。】 (チラシより)はい、庭園入口の築山に続く、第2の面影ですね。しっかし、なんで明治なんて近い時代のことすらわからないんだそれに、この形。灯籠の台座らしきパーツは残ってるけど、墓石の形がどうも・・・ホントに有馬家の墓なんだろうか?と思うものの、柵の中には入れないので、銘を確認することもできない。それに、有馬ったら九州の有馬氏か8代吉宗側近の氏倫(うじのり)ぐらいしか知らないけど、氏倫さんは摂津有馬氏の出なんだってね。肥前の戦国大名・有馬晴信の4代あとの藩主の時、領内で起こった一揆の責任を問われて元禄5年(1692)肥前延岡から越前糸魚川へ移封。さらに元禄8年(1695)、越前丸岡へ移封となったそうな。にしても、なんで本坊なんかに・・・有馬家が宿檀としてあった子院にあるんならわかるけどね。あるいは、元は宿檀である子院にあった墓がなんらかの事情で後世になってここに移されたって可能性もなくはないけど、さすがに本坊時代にそれは考えにくいし、明治以降に移されたんだとしてもその経緯がまったくわからないってのも何かヘン。ナゾです・・・にほんブログ村
2014年03月23日

こちらが庭園内の案内図↓。 コーヒーカップの描かれているのは特設カフェらしい。アシュラン(興福寺阿修羅像)の上映が始まる前に庭園を見終えて庭園入り口にあるレストランで昼メシを食べておこうと思ってたけど、食べ物系も置いてあればお外で宮のお庭を見ながらランチもいいなこの図によると入り口は2つあるらしいけど、私は時計と反対周りに大きく周ることにした。五重塔の正面側のお向かいに建つのがこれ↓。 【第二回内国勧業博覧会の碑 明治政府は勧業政策の一環として博覧会を開催、その第一回から第三回の 会場が上野公園だった。明治14年(1881)に開催された第二回博覧会では、 新築間もない博物館旧本館(コンドル設計)が美術館として使われた。】 (現地解説板より)入り口に置いてあったチラシにはもう少し詳しいことが書いてある。 【(前略)明治10年(1877)の第一回博覧会では、本館北側のバルコニーの あたりに、日本で初めて美術館という名の煉瓦造りの建物が建てられました。 この美術館の前面にジョサイア・コンドル(イギリス 1852~1920) 設計の博物館旧本館が建てられ、明治14年の第二回内国勧業博覧会で使用 されました。 第一回は会期102日、入場者数は45万人を超え、第二回は会期122日、 入場者数は82万人に上りました。博覧会は産業の振興におおいに役立った だけでなく、美術作品の出品も多く美術の振興にも寄与しました。 ちなみに、博覧会への出品物は特別購入予算が計上されて博物館に買い上げ られており、現在も明治の工芸作品の展示の重要な一部分になっています。 博物館に碑が残っているのは、この第二回のみです。】まあ、大盛況だったようで結構なことだけど、第一回の門には旧本坊の表門がリフォームされて使われてます。(「上野第二編(30)」参照)で、ここから通路に沿って大きく庭園を周っていく訳ですが・・・ なんか、イメージしてたのと違うなあ。かなり手が入れられてるような気がするんだけど、どの程度宮のお庭だった頃の面影を残しているんだろうか・・・寛永寺のホームページによると、小堀遠州がここの庭園を手掛けたって話なんだけど・・・庭園の概要については、チラシにこんなことが書かれていた。 【博物館の敷地は、もとは寛永寺の境内でした。現在本館が建っているところが 寛永寺本坊跡にあたり、この庭も寛永寺の庭であったと考えられます。ただし 庭は何度も改修を重ねており、今ある茶室などものちに移築されたもので、 当時の面影を残しているのは、東洋館北側のこんもりと高い築山、中央の池の ごく一部分、そして庭の一角の古い墓石のみです。】解説にある築山は前回桜が少し咲いていた小山のこと。元三の日に門の外から恨めしげに眺めていた時、奥の方はあの築山に遮られて見えなかったので、一体この奥にどんなお庭が広がってるんだろうと妄想してたものの、実際往時のものが残されているのはほんの一部らしい・・・残念だけど、まあしょうがないよな。舗装された通路に従って、歩きだす。この通路は割と庭園の外側付近に付けられているので、樹木の間からトーハクのフェンスが見える↓。 あ、あの外側に見えるの、与右衛門の寒松院だ。祝日(春分の日)だから国旗を掲げている。このあたりから、道は大きく西へと向きを変える。 そのすぐ先に、第一の茶室への入り口がある↓。 どうせ元からあったものじゃないんだし、茶室には特別の関心もないけど、それなりに歴史のあるものが移築されてるようだし、いつでも入れる訳じゃないので小道を入って茶室へと向かう。 【春草蘆(しゅんそうろ) 江戸時代、河村瑞賢が摂津淀川改修工事の際に建てた休憩所で、その後 大阪に移された。原三渓が横浜三渓園に建てるべく所持していたが、昭和12年に 松永安左エ門(耳庵:じあん)に贈られ、その別荘であった柳瀬荘(埼玉県所沢市) に建てられた。同23年柳瀬荘とともに松永安左エ門から当館に寄贈され、 同34年に現在の位置に移された。】 (現地解説板より)河村瑞賢・・・名前だけは聞いたことあるな。つか、名前しか知らないので(笑)、いつもの通りお手軽なウィキペディアでお勉強~。瑞賢さん(1617~1699)は伊勢の農民の出で、13歳の時に江戸に出てのち材木屋を営み、明暦の大火では木曽福島の材木を買い占め、莫大な利益を得たとある。ふんふん、明暦の大火でね。覚えておこう(←相変わらずの火事好き)。経歴を見ると、新たな航路を開発したり、上の解説にあるような治水工事に携わるなど水関連の活躍が多い。ウィキペディアには 【天和3年(1683)に若年寄稲葉正休が淀川の視察に訪れた際に 瑞賢が案内役を務めたことから徐々に幕府上層部に伝わることになり、 翌貞享元年(1684)には淀川河口の治水工事を任されることとなる。】とあるので、17世紀の終わり頃の建築ってことかな。休憩所っていっても小さな建物だし、自分用のものなのか、それともお偉いさんの接待用にでも使われたか。この手前にはこんなものがある↓。 【町田久成の碑 初代博物局長(館長)町田久成の顕彰碑。町田久成は天保9年(1838) 薩摩(現在の鹿児島県)に生まれ、慶応元年(1865)に渡英。大英博物館などを 訪れ、日本での博物館創設を志し、帰国後日本の博物館の基礎を築いた。】 (現地解説板より)ええ~、何も博物館長の碑なんかこんなとこに建てんでも・・・が、チラシによるとこういう方らしい。 【(前略)文化財調査や保護を提唱し、自らの財産を投げうって書・古美術品を 買い求め文化財の散逸を防ぐことにも尽力しました。明治15年に退職、 仏門に入り、明治30年9月15日上野で没しました。寛永寺津梁院に墓があります。】 なるほど、ご立派な方だったんだな。津梁院(しんりょういん)は津軽信枚の寄進の子院ね。で、こちらが茶室の裏手↓。 この「春草蘆」の扁額は、能書家の曼珠院良尚法親王(まんしゅいん・りょうしょうほっしんのう:1622~1693)によるもので、原三渓が耳庵に贈ったものだとチラシに書いてある。良尚法親王の生没年からすると、春草蘆建築当初頃からあったものだと思われる。ウィキペディアによると、河村瑞賢は新井白石から「天下に並ぶ者がない富商」と賞賛されるほど富裕な人だったらしいけど、それにしてもイチ商人が法親王から扁額を戴くなんてどんだけ・・・春草蘆を出て通路を先へ進むとすぐ、第2の茶室への入り口が現れる↓。 【転合庵 小堀遠州が八条宮から茶入(瀬戸茶入 銘於大名)を拝領した際に、 その披露の茶会のために京都伏見の六地蔵に建てた茶室。遠州の晩年には しばしば茶会を開いたと伝え、その後京都寂光寺さらに東京へと移され、 昭和38年10月塩原千代氏から「瀬戸茶入 銘於大名」とともに寄贈されて 現在の位置に移築された。】 (現地解説板より)おお、この八条宮って後陽成天皇の弟の八条宮智仁親王のことだよな!上野編で寛永寺に直接関係ないことまでしこしこ書いてきた甲斐あって、こういう文章まで理解できるようになるのは嬉しいな戦国武将にはマルチな人が多いけど、学芸の才能の高い人は文化面での公家との関わりも多い。上記リンク先では八条宮が細川藤孝から古今伝授を受けたことを書いたけど、八条宮が造った桂離宮内にある持仏堂には、かつて和歌の師である藤孝の肖像画が祀られていたそうな。『徳川和子の入内と藤堂高虎』(久保文武)には、 【遠州があれ程有力な幕府の官僚に成った背景には大大名藤堂高虎が あったからだろうと、森蘊氏は「小堀遠州」(吉川弘文館)で説かれているが、 反面、高虎が京の公家衆と特に昵懇な交流を有したのは、織部亡き後の 当代随一の茶道・造園等の文化人遠州の媒介があったからともいえるのでは なかろうか。】とある。桂離宮の作庭を手掛けたのは小堀遠州だとも言われ、確かにこの2人の名前を聞けば庭つながりか~とまず思っちゃうけど、遠州作庭説はどうも怪しいらしい。ただ、庭つながりじゃなかったとしても、転合庵についてのこういうエピソードがあるのであれば、茶を通しての付き合いも確かにあったんだろうな~と思った。にほんブログ村
2014年03月22日

上野編本編の途中ですが、まだ先は長いので、ちょっと今日のお出かけの報告を挟みます。タイトルを見ておわかりでしょうが、また寛永寺へ行ってきました。いや~、上野編を終わらせるまで寛永寺に行くのは控えようと思ってたんだけど、予定(とゆーか目標)よりだいぶ長引いちゃってるし、期間限定の見どころもあるので致し方ありません。今日のお目当ては本坊(現在のトーハク)に2つ。で、まずは本坊に行く前に少々写真を撮ろうと上野公園内を歩きました。上野駅の公園口を出ると駅前にでーんとある東京文化会館はかつて寛永寺最大の子院・凌雲院(堀直寄の寄進)のあったところ。その前をすぎて公園内に入るとすぐ、 おっ!お花見準備万端だな。20時終了って早くね!?以前はこーゆー規制なかったと思うけど・・・今年は20時を過ぎたら、平成の山同心たちが酔っぱらいを追い出しにかかるのだろーかまずは清水観音堂を目指す。これが東京文化会館の裏手↓。もちろん私はこんな現代的な建物は見ずに、頭の中で凌雲院を想像しながら歩いてますが(笑)。 少し進むと、浮かれた花見客用の看板があちこちに設置されていた。 さらには、花見客用の特設ゴミ箱まで↓。 まあ、あれだけの人が集まれば大量のゴミが出て後始末も大変だろうけどね。それにしても、知らない間にずいぶん厳しくなったもんだなあ・・・して、清水観音堂へ。今日は風がものすごく強くて一方の入り口は閉じられてちょっと中が暗かったので、前に来た時はあまりよく見てなかったから今日はよく見ようと思ってたものの、またもやよく見れませんでした。ここで少々お買いものをしてから、良源さんのおみくじをひく。結果は「吉」で、歌の部分もこれから運気が上向きになるような感じなのに、「待ち人」だとかの各項目の方はあまり・・・というか、かなり良くなかった。しかも、本文の最後には生死に関わることまで書かれている・・・たまに「凶」とか引くこともあるけど、生死について書かれてるのなんてこれまでお目にかかったことはない。そうか、このままの生活をしてたら私死ぬんだな。思いがけず良源さんにぶっとい釘を胸の真ん中に打ち込まれたような気分だけど、六星占術で天王星人(-)の私は、4~6月が大殺界。毎年この時期はロクなことがないので、良源さんが心持ちを改めろと言ってくださったのだろう。頭ではわかってるんだけどね、感情がついていかないんだよね。とはいえ、良源さんに「このままじゃ死ぬぞ」なんて言われたら、いくら忘れっぽい私でもさすがに忘れることはないだろう。気を付けて大殺界を乗り切ろう・・・あまりに現状にぴったりくるおみくじにちょっとテンション下がったけど、観音堂は小高いところにあって、下を見るともう桜が咲き始めている↓。(写真の真ん中らへん) このところ、暖かい日が続いてたからな・・・少しは咲いてるだろうと思ったけど、やっぱりか。で、本坊へ向かう前に少しだけお花見ロードを通ることにした。 今日で2~3分咲きってところかな。お花見提灯も完備されてるし、来週の週末頃がちょうど見ごろかもな。そろそろ時間なので、ほどほどのところでかつての参道でもあるお花見ロードを外れて本坊へ向かう。途中にはこんな掲示板があった↓。 ほお、入ったことないけど、東京芸大にも美術館があるんだ。長浜の仏像ならいいのがありそうだから、ちょっと見たいカモ・・・その先がかつての根本中堂のあった噴水広場↓。もう5カ月近く寛永寺の記事を書き続けてますのでね、ここを通る時の妄想は一通りのもんじゃありませんよ(笑)。 こんな風に春の1日を妄想全開で歩けるのも、寛永寺跡地が公園化されたおかげ。遠くに見えるボードワン博士に感謝を捧げつつ↓。 噴水脇も少し桜が咲いていた↓。 それから、本坊内へ。 この右側の建物がトーハクの東洋館で、ここの地下にミュージアムシアターがある。そう、今日第1のお目当ては元三の日にもらったタダ券を活用しての、「興福寺 国宝阿修羅像」なんですよ~。この作品の上映自体は4月13日までなんだけどね、タダ券の方が今月いっぱいだったんだよな。まずは受付で予約をしてから、上の写真の先へと進む。途中、上を見上げると これがトーハクの本館の軒下。エントランス・内部とも明治期の華麗な造りになってるんだけど、屋根は和風なんだな。しっかり垂木とかあるし、面白い造りしてるな。この道の奥が ここは通常門が閉められていて、入れません。前回来た時も入れませんでしたが(「上野第二編(32)」参照)、今日は門が開いてる・・・はい、庭園の春の特別公開が始まったんですよ~これが今日2つめのお目当て。うっふっふ、宮のお庭ようやく入れる。入り口付近も桜が咲き始めていた↓。 桜のある後ろはちょっと植え込みなどで見えにくいけど、庭園にしては高めの築山になっている。この小山を回り込むと おっ、あれだな、五重塔。しかし、通路沿いには現在修理中のため近寄っての観覧はできませんと書かれた看板があった。 【五重塔 高さ570cmの銅製の塔。最上部の相輪には龍が絡み付き、垂木、斗栱の 組み物の細部まで入念に作られている。基壇には五代将軍綱吉が法隆寺に 奉納した旨の銘文「大和国法隆寺元禄元年十二月日常憲院徳川綱吉」がある。】ほお、そんなに細かいもんならぜひ近くで見たいところだけど、仕方ないよな~。それにしても「常憲院徳川綱吉」っておかしくね?常憲院は死後の法名だからね。入り口に置いてあった散策マップにはこれについて 【綱吉の存命中(宝永6年・1709年没)に、院号と俗名を併記することは 一般的になく、没後奉納時の年号と施主の銘文が書き加えられたのでしょう。】とある。元禄元年は1688年。早い時期に書き加えられたとしても、奉納時からは結構年数経ってるけどね。少し進んで、正面側から望遠で撮影↓。 こちらが相輪部分↓。 おお、ホントだ、龍が絡み付いてる~!あんなの見たことないな。 にほんブログ村
2014年03月21日

水戸殿の隣が・・・もうおわかりですね。 【慶安四年辛卯四月十七日 尾張国主従二位兼右近衛権中将源光義】はい、御三家筆頭尾張家の当主・光義さんの奉納品です。ここまで紀伊頼宣、水戸頼房と来たのに、光義?誰ソレ?って思った方も多いかもしれませんが、尾張徳川家初代藩主・義直(家康の9男)はこの灯籠が奉納された前年に亡くなってるので、2代目に代替わりしてたようですね。ま~、光義の奉納だってのに光義のことを書かないのもなんですが(笑)、前回「殿と附家老」シリーズを2本お届けしたので、ついでだから第3段・尾張家バージョンをご紹介しましょう。 大坂にて5月7日落城の際、城方と見える4~500人が一か所に固まっているのを 権現様が茶臼山の上からご覧になり、これ幸いと尾張・紀伊殿に当たらせようと 仰せになりました。しかし御両殿ともすぐには来なかったので権現様は 「(成瀬)隼人の腰ぬけめに、とっとと義直を連れて消えろ!って言ってよ」 と御使役衆に伝言させたところ、権現様のお言葉そのまんまを、尾張衆の皆が 聞いているところで隼人に伝えたので、隼人はすぐさま 「この隼人はこれまで腰を抜かした覚えはありませんぞ! そうおっしゃる方こそ、武田信玄に出会われた時に腰を抜かしたでしょ!!」 と皆に聞こえるように大声で言いました。 戦後、隼人が名古屋から駿府へ参上して権現様の御前で申し上げるには、 「さる大坂落城の日の出来事ですが、私自身は若輩の頃より大御所様に親しく使って 頂いてますので、どんなに口汚く罵られようともへのかっぱです しかし、大御所様のお言葉の通りをそのまま、周りで皆が聞いていることなど 考えもせずに私に伝えるような、そんな思慮のない者にお使い番のような 大切な役目を仰せつけるべきではありません。 義直様はまだお若い身ですから、家中でも私の事を皆が頼りにしています。 そういう私に、隼人の腰ぬけめ、なんて言われた日にゃあ、皆の私を見る目も変わり 口もきかなくなってしまいますから、あのような畏れおおいお返事をしたのです。 あの返事はお耳に入ったでしょうが、申し訳ございません。」 これを権現様はお聞きになって、 「そりゃそうだよね。お前が正しいわ。」 と仰せになったとのことです。ハハハ・・・もう義直すら出てこないけど、まあ尾張家の紹介ってことで成瀬隼人正正成さんは尾張家の附家老。この3話は『駿河土産』に続けて収録されているもので、3つの話のシメとして、権現様の見立て通り、御三家に配された附家老はそれぞれ器量を持った人だった、という言葉が添えられている。尾張義直は家康が57歳の時の子で、関ヶ原の直後に生まれている。義直から紀伊頼宣・水戸頼房はそれぞれ母親は違うけど、ほぼ1年おきにぽんぽんぽんと生まれている。家康が死んだ時、末っ子の頼房は12歳。まだ幼さの残る末の3人が可愛かったのか、家康は秀忠への遺言の中で 【義直。頼宣。頼房がごとき年猶幼沖なれば。我いとおしみ尤もふかし。 よろしく愛憐したまへ】 (『神君家康の誕生』より)と託しておるそうな。あ~、元就おじさんにもこんなエピソードあったよなあ。やっぱ年くって出来た子ってのは可愛いんだろうなあ。それにしても、可愛い我が子のために家康が吟味して指名した附家老とはいえ、「アンタこそ武田信玄にビビったでしょ!!」って言い返しちゃうのもすごい。ま、どーせ言うなら「アンタこそ信玄が怖くてウンコもらしたでしょ!!」って言っちゃえばよかったのに、さすがにそこは成瀬殿。それを言っちゃあおしまいよとあえて言葉を選んだのかさて、尾張光義の隣はこちら↓。 【東照宮 寶前 慶安四年四月十七日 高松城主従四位下行侍従●右京大夫源頼重】この方は水戸頼房の長男さんです。ちょろっとだけど、「上野第二編(32)」で顔を出してるんだあ~。頼房の側室が懐妊した際、最初に堕胎を命じられた子が頼重。あの記事を書いた時、私は水戸頼房と三木さんのセンからばっかり攻めていて、なんで頼房が続けて堕胎を命じたのかがわからなかったんだけど、ウィキペディアの頼重のページにその理由が書いてあった。それによると、どうも側室が頼重を懐妊した際、まだ兄の尾張義直と紀伊頼宣には後継ぎができてなかったので、兄たちに遠慮したんだと。それにしても、三木之次(ゆきつぐ)も思い切ったことするよな~と思いきや、同じウィキペディアのページには 【頼房の准母英勝院に相談の上、三木之次は江戸麹町の邸宅で秘密裏に出産させ、 頼房に隠したまま江戸で育てられた。】とあって、ああ、そっか~!そういうことか~!!とパチンと(ほとんど鳴らないけど)指を鳴らしました。ええ、もうどんどん光義から離れていきますけどこの方はこの先も出てくるかもしれないので、少しご紹介します。何に合点がいったのかって、「頼房の准母英勝院」ですよ。この方は家康の側室で、もとは「お八」といい、次に「お梶」と名を改めた。お梶さんも実は過去の記事でちょっとだけ顔を出してます(「プチ巣鴨編(2)」参照)。私がお梶のことを覚えたのは、この巣鴨の勝林寺に行った時。その後色々本なぞ読んでると、結構あちこちにお梶が顔を出す。どこで何を読んだかなんてもう忘れちゃったけど、どこでもやっぱり聡明な女性として描かれてる感じだったかな~。お梶の出自については、はっきりしたことはわかっていない。世間で多く語られるのが、太田氏の出というもので、太田道灌のひ孫の子の娘とされる。その他、遠山氏の出だとする説や、江戸氏の出だとする説などがある。ひとまず、家康が入府した天正18年(1590)頃、江戸城へ上がったらしい。この時お梶12歳。ここで、びっくらこく説に47歳のイエアスが12歳のお梶を手籠めにしたとかなんとか・・・(笑)。さすがにそれはどうかと思うんだけど、のちには家康の側室になった。後年、お梶が名を「お勝」に改めたのは関ヶ原に連れてって勝ったからだとか、戦関連によるものだとされる。家康はお梶の聡明さを愛したらしい。お梶といえば、「山!」 「川!」「お梶!」 「塩!」ってぐらい塩のエピソードが有名。あまりに世間で語られすぎているのでここでは書きませんが(←手ヌキ)、御存じない方は「英勝院」などで検索するとボロボロヒットしますです。あと、昔の上流の人ってのは衣類なんかは使い捨てだったけど、お梶は小袖を洗わせては長く着ていた。ある時、女中が「も~、白い小袖を綺麗に洗うのって大変なんですよ。侍女たちの手が荒れちゃって・・・お方様は小袖なんか沢山持ってるんですから、新しいものを着ればいいじゃありませんか」これにキレたお梶は女中たちを集め、「確かに当家には財はあふれてる。小袖1枚ぐらいどってことないけどさ。でもこうやってケチケチ生活で貯めたお金で天下に施したり、子孫のために残して国を治めるのに不足のないよう心がけてるのよ!私は天道を一番に畏れてるけど、天道はゼイタクを憎むのよ。どーしてそれがわからないのようっ!!」・・・とまではヒステリックじゃなかったかもしれませんが、厳しく下にも諭したという。そんなお梶を家康は信頼し、金蔵の鍵まで預けたという話もある。その他、駿府城の奥向の大半は任されていたとされる。一時期は家臣に下げ渡されるが、1か月ほどで戻ったともいう。29歳の時、家康の子を産む。この子が3歳で夭折したため、不憫に思ったのか家康は子の頼房、次男・結城秀康の子、それから池田輝政の娘・振姫の養母とした。振姫は家康の娘・督姫の子なので、家康には外孫にあたる。他家で生まれた孫はいいけど、可愛い実子まで家康が預けるあたり、かなりお梶が信頼されていたことがうかがえる。ただ、養子をもらったのはお梶29歳の時という話もある。まあ、大体頼房が5歳前後あたりの時に養子になったと思われる。家康の死後、お梶は落飾して駿府から江戸へ移る。駿府で育てられていた頼房も同じ頃江戸へ移ったらしいから、お梶と共に引っ越したのかもしれないな。兄である尾張義直や紀伊頼宣と違って、頼房は江戸に滞在している期間の方が長かったらしい。で、頼房に子ができると、三木さんはお梶に相談してこっそり頼重を産ませ、ひそかに育てた・・・まあ、兄たちへの遠慮は美しいものだけど、せっかく儲けた子を流してしまうのも、御三家の立場からするといかがなもんか・・・お梶の入れ知恵・・・いへ、機転と配慮により頼重と光圀が生まれた。のちに光圀は水戸家を継ぐ。同じ母から生まれたのに、長男である頼重は日陰の身であり、やっと父に会えた時には光圀が後継ぎに決まっていた。ので、実質長男でありながら光圀に次ぐ次男の立場として扱われたそうだけど、要衝の讃岐を与えられ、頼重の子は光圀の養子に迎えられその子が水戸家を継ぐ。晩年、お梶は鎌倉にある太田道灌の屋敷跡を拝領し、英勝寺を創建する。英勝寺の初代門主には水戸頼房の娘を迎え、その後も代々水戸家の子女が跡を継ぎ、英勝寺は「水戸御殿」や「水戸の尼寺」とも呼ばれるなど水戸家と縁が深い。頼房はお梶を実母同様に遇し、また同じ養子である結城秀康の子・松平忠昌もお梶のために色々と尽くしたので、江戸では不自由ない生活を送ったらしい。松平忠昌はお梶の養子となった後、江戸で生活したらしいのでお梶の下で暮らした期間はそう長くないかもしれない。が、お梶が江戸に移った頃、忠昌と頼房が一緒にいる機会が結構あったらしい。お梶のそばで2人が会う時は頼房が忠昌を丁重に扱い、まるで実の兄弟のように仲睦まじかったという。頼房はいい育てられ方をしたんだろうな~と思うものの、なんでそんな方が前回のエピソードのようにカブいてしまったものか・・・にほんブログ村
2014年03月19日

内部に入れないならせめて見える部分だけでも・・・といじましく透塀越しに撮った拝殿の上部↓。 よく見えないけど、どうやら妻壁にも細かい彫刻が施してあるらしい↓。 拝殿の蟇股にもネットがかけてあるらしく、綺麗に撮れないのが残念↓。 大棟にぺたぺた張っついているのは、もちろん葵紋です↓。 さて、それじゃあ、銅灯籠を撮るかな~。現地では疲れてたからイヤイヤだったんだけど、拝殿前のいい場所に置いてあるだけあって、奉納者はゴーカな顔ぶれです。まあそれは知ってはいたんだけど、現実問題として灯籠を撮り続けるのってめんどくさいわ疲れるわ・・・ それでは、唐門の向かって右側から。 【慶安四年辛卯四月十七日 紀伊国主従二位行権大納言源頼宣】こちら、家康の10男・徳川頼宣さんの奉納によるものです。紀州徳川家の祖で8代将軍・吉宗には祖父にあたる。ところが、この方ってわずか2歳でまず水戸を与えられたんだってね。けど、結局水戸には入らずじまいで駿府の父の下で育てられたんだと。頼宣さんは末っ子じゃないけど、家康が58歳の時の子だから、まあオヤジとしたら相当可愛かったろうな。7歳の時、加藤清正の娘と婚約。家康と豊臣秀頼の二条城での会見の際は、人質として清正に預けられるなどなにげに色んな経験をお持ちの方。その後、15歳の時に清正の娘と結婚する。すでにこの時、家康・清正のオヤジ共はこの世の人ではなかったし、大坂の陣で豊臣家を滅ぼした後だったからよく婚約破棄しなかったな~とも思うんだけど、なんにせよそのおかげで紀州家に清正の槍なんてものが残ってる訳だな。ウィキペディアによる、オヤジとのエピソードは 【父である老家康が最後まで手元に置き、自ら薫陶を与えて育てた。 まだ幼いにも関わらず馬に乗せ、小川を飛び越えるように強要し、落馬して入水しても 家康は放置した、と伝わる。 大坂冬の陣の初陣の際、父である大御所家康自らが鎧初めを行う、特別な扱いを受けた。】だそうな。可愛い子には旅をさせろ・・・んにゃ違うな。少々Sっぽい愛情をかけられたらしい。『駿河土産』にはこの方に関するエピソードが載ってまして、サクサク進めたいのはヤマヤマだけど、せっかくだからご紹介しましょう。 尾張義直殿(頼宣の兄)が紀伊頼宣殿の江戸屋敷へ訪問された折のこと。 頼宣公は髪結いの途中で応対に出るのが遅れたが、尾張公が安藤帯刀へ言われるには、 「あ、別に用はないんだけど、近くまで来たからね。 お前の顔も見れたし、別に変わりがないならそれでいいんだ。 じゃ、帰るね。」 「ちょ、ちょ、ちょ~っと待ったあ! あのその、もちょっとだけお待ちを・・・!!」 帯刀は急いで奥の頼宣公のもとへ行き、 「今、御前様の親しいのは尾張様だけでしょ! トモダチ少ないんだから、大事な方をお待たせしちゃダメじゃないですか~!!」 「よし、わかった。すぐに出よう」 と頼宣公は早々に髪結いを終わらせて尾張公と面会された。 尾張殿が帰られたあと、頼宣公は先ほど髪を梳いていた者を呼び出して 「さっき尾張殿がいらして私が出るのが遅いと帯刀が叱った時、 私が涙を流したのが鏡に映っただろう。お前はそれを見たか?」 「み、見ました! いくら尾張様の事とはいえ、帯刀の言い方きつすぎるな~と思ってたんですよ。 ひどい奴ですよね!!」 「お前はそう言うと思ったよ~(笑)。 あんな小言を言ってくれる奴は、帯刀の他にはいない。 そういう奴を私に付けて下さった権現様のお気持ちがありがたくて、 思わず涙が出たのだ」安藤帯刀直次は、家康から頼宣に付けられた附家老。大河ドラマ『八代将軍吉宗』なんかでも、吉宗にあくまで対抗しようとする中井貴一(尾張宗春)に尾張家附家老の寺田農さん(成瀬隼人正)が色々口うるさく言ってたもんな~。出向先の主人にもガンガン言えるくらいじゃないと、附家老は務まらないのかもな~(笑)。頼宣自身には謀反の意思はなかったようだけど、とある件で謀反の疑いをかけられた事があった。その関係で、トモダチ少ない時期があったのかもね。紀伊殿の隣がこちら~↓。 【慶安四年四月十七日 正三位行権中納言源頼房】水戸徳川家初代藩主にして家康の11男・徳川頼房さんの奉納品です。家康が59歳の時の子。(そんな計算ばっかすんなって?)水戸家は黄門様とか幕末の斉昭など、いわゆる名君を排出してもいるけど、個人的にはアクの強い印象がある。たとえば斉昭。最後の将軍・ケイキさんは斉昭の実の子で、幼い頃は寝相が悪かったんだそうな。行儀にうるさい父・斉昭はこれを治させるため、幼いケイキさんの枕元にカミソリを立てて寝かせたとかなんとか・・・で、初代の頼房さんはどうかといえば、若い頃はちょっとやんちゃしていたらしい。また『駿河土産』から。 水戸頼房公は若い頃は大変男だてをされており、かいらぎ鮫の付いた長刀を 金張りにして衣服などにも紅の裏を付けたほか、行いも不良じみたところがあり 江戸では身分を問わず人々の噂になっておりました。 お付きの家老・中山備前守も素行を改めるよう色々と意見しましたが、 頼房公は聞き入れませんでした。 ある時、老中から備前守へ 「ちょっと用があるから、10時に登城してくれる?」 と書状で呼び出しがあったので、備前守はその通り登城しましたが、 呼んだはずの老中方は 「今日の用事は私たちは知らないんだよね~。 たぶん、公方様からの直接の御用でしょう。」 と言われました。 「そうですか・・・皆様方は御存じない・・・ なら、きっと水戸様のことでしょう。 御前でありのままを申し上げれば、私は主人の悪事を訴える事になります。 かと言って、そしらぬフリでうまくごまかしても上を欺くことになり、 後ろめたくてたまらないので、私は御前に出てもどうしようもありません。 お呼びだというので登城はしましたが、今日はこれで帰ります。 お上の命令に背くことになりますから、御機嫌を損ねてきついお仕置きを 申し渡されることも覚悟の上です。」 とそのまま帰りましたが、老中方も皆思い当たることがあるので、 あえて備前守を引き止めようとはしませんでした。 水戸家の上屋敷では、備前守だけが呼び出されたことに納得のいかない 頼房公が備前守の帰りを待っており、備前守が上屋敷に立ち寄ると さっそく呼び付けました。備前守は事の経緯を説明し、 「私は公方様からどんなおとがめを受けるかわかりませんが、まず切腹だろうと 覚悟は決めております。が、3つの事が残念でなりません。 まず第一に、私に才能がないばっかりにすでに公方様のお耳に入っているような 行いを改められるような意見ができなかったこと。 第二に、御前様はお若いものの、この備前守を付けておけば心配ないだろうという 権現様の御期待に添えなかったことが、今更ながら申し訳なくてたまりません。 第三に、早くから心配していなかった訳じゃありませんが、色々と方法を 考えているうちに手遅れになってしまい、悪い行いの仲間となっている 不届きな奴らを成敗せずにおいたもんですから、私が死んだあとは ますます御前様に悪い影響を与え続けるでしょう。 たとえ私は切腹して死んでも、魂はこの御殿から離れません。ですからどうか、 以後は行いを改めて御上の覚えもめでたくなるようになって下さい。 じゃ、私はこれが今生のお別れになりますから、ぜひ御盃をいただきたい。 あ~、誰か!酒と盃持ってきて!!」 と備前守が語るのを頼房公は黙って聞いておられましたが、小納戸衆を呼んで 日頃ご愛用の伊達拵えの刀・脇差・衣類などをすべて持ってくるように 指示されました。 何をするのかと備前守が見ていると、それらの品をすべて小姓衆へ分け与え、 脇差の張物を広げて小刀で切り取り、 「もうしないから、心配しなくていいよ」 と備前守へ言われました。 その後、備前守が登城した時に老中方へ詳しく報告しそのまま帰宅したという事が 公方様のお耳に入り、 「備前守のそのような料簡がなかったら水戸の行状は直らなかっただろう。 でかした!!」 とお褒めになられました。この備前守は中山信吉のことで、やはり水戸藩の附家老。ウィキペディアによると、頼房は家光から 【そなたのことはわけても心安く思い、何事も相談したいと思っている。兄弟はいても 役に立たないので、そなたのことを兄弟同様に思っている。そなたもそう心得て欲しい】という書状をもらっているそうな。家光からすれば御三家当主はみな叔父にあたる訳だけど、尾張・紀伊はともに謀反の嫌疑をかけられた過去もあるため、家光はわけても身内の中では頼房に信頼を置き、江戸へ住まわせた。これが水戸家が「副将軍」といわれるようになった基だという。まあ、それも備前の働きがあったればこそ・・・にほんブログ村
2014年03月18日

上野東照宮のリーフレットによると、ここの御祭神は家康・吉宗・慶喜のお三方。 【起源 徳川家康公(東照大権現)の遺言により、1627年(寛永4年)、 藤堂高虎と天海僧正によって、東叡山寛永寺境内に、家康公をお祀りする 神社として建立され、1646年(正保3年)には正式に東照宮の宮号を 授けられました。 1651年(慶安4年)に三代将軍・徳川家光が造営替えをしたものが、 現存する社殿でございます。その後、戊辰戦争でも焼失せず、関東大震災にも 倒れず、第二次世界大戦でも不発弾を被っただけで、社殿の崩壊は免れました。 江戸の面影を現在に残す、貴重な文化財でございます。】ふむ、神社サイドでは寛永4年説を採っているワケだな。解説にあるように、数々の苦難をも乗り越えてきたのだけど、結構きわどい場面もあったらしい。寛永寺が上野のお山から追い出され、明治に入って現在の公園に至るまでの過程は「上野第二編(35)」でかいつまんで紹介してますが、確か東照宮の木が数本伐られるところまで工事が進んでいて、あやういところでストップがかかったって何かで読んだなあ。先の大戦でも、爆弾が落とされたのにたまたま不発弾だったなんて、悪運が強いとゆーかなんとゆーか・・・ま、その強運のおかげで都内にあってプチ日光が楽しめるというもんです。東照宮は神社なので、現在では寛永寺から切り離されて別の宗教法人となる訳ですが、わたくしの記事はあくまで「かつての寛永寺すべて」というスタンスで書いておりますので、ここ上野東照宮も寛永寺の記事に含めております。それでは、まずはパンパンしましょう。賽銭箱には大きな葵の紋がついている↓。 賽銭箱の上にはこれが置いてあって↓ どうやらこれをシャラシャラと鳴らして、「ちわ~。参拝に来ましたよ~」と東照大権現様にお知らせするシステムらしい。それじゃあ、まずは唐門から行きますかね。もうこの辺りから「寛永寺写真館」ですからね。 ネットがすげえ邪魔~でもしょうがないよな。保存のためだ。 全体の規模でこそ日光に劣るものの、単品で見るとまったくひけを取りません。工事中の唐門だけでこれだから、小さくてもどれほど豪勢なものかおわかりいただけるのではないでしょうか。 こちらは第三編で金ピカになった扉の透かし部分↓。 唐門には透塀が続き、その前にはまたまた立派な銅灯籠が並んでいる↓。 日光写真館の方をご覧いただいた方には、もうおなじみの光景ですね。第二編では神社の入り口から灯籠をしこたま撮り続けてもう疲れたし、今回は銅灯籠の撮影はいいや・・・ひとまず、透塀だけ軽く撮っておこうかな~と撮り始めたのがこちら↓。 う~ん、実に見事じゃあ~ さてと、外側はこのくらいにして、そろそろ中へ・・・と思って、お守り授与所にある拝観入り口らしきところへ向かうと ええええ~、うっそお~!聞いてないよ、そんなの!これが楽しみで来たのにィィィ~~!!上野では日光と同じく、昇殿ができるんです。ただし、もちろん本殿は非公開だけど。でも、中にも色々面白いものがあるらしいとは先人の訪問記で読んでいたので、中に入るのをものすごく楽しみにしていたのだ。 なのに・・・・・!!しかもこの書き方、永遠に拝観を終了したのか、工事期間限定なのかわからない。実際、その3ヵ月後の第三編で来た時も、内部の拝観はできなかった。それでも未練たらしく、拝観ゲートの向こうにあるなんだか立派な彫り物をフェンス越しに撮ったわたくし・・・ 木陰で虎の母親が子に乳を含ませている。有名な眠り猫をはじめ、日光東照宮にある数々の彫刻には色々と意味があると解説されることが多い。それらの説に私はあまり同意はしかねるんだけど、ここの授乳シーンはまさに平和な時代の訪れを表現していると言ってもあながち的外れではないだろう。あ~、それにしても、内部を見たかったな~。第二編での落胆ぶりは、当時から半年以上経って細かいことは色々忘れた今でさえありありと思い出すことができます。それくらい、ガックリきましたで、内部を見れないから(仕方なく)透塀の続きと、銅灯籠の撮影に取り掛かりました。 にほんブログ村
2014年03月17日

「今治おもしろ百科」様のサイトでは、 【江戸忍ヶ岡に東叡山寛永寺を造営する際、天海と高虎の打ち合わせがありました。 もともと、上野は藤堂家の江戸屋敷があったところ。家康をまつった東照宮を建立して 鎮守とし、天海が開山となり、高虎が開闢人となれば、来世も一緒にいられるとの 考えだといいます。】とある。天海と与右衛門の親しさの程度はわからないけど、これまでの歴バナで色々書いてきたように、双方とも家康から信頼を受け、日光東照宮の奥宮には家康像の隣に天海と与右衛門の像が並んでいるという。奥宮は数えるほどしか行ったことないし、この像が見られるのかは不明だけど、今度行ったら探してみよう。この両者は久保文武氏が言われるように、権力争いから一歩引いた二番手に徹する立場でもあり(「上野第二編(64)」参照)、そういう中で紫衣事件に見られるような協調姿勢を取ることも多かったかもしれない。それに、初期の各地への東照社勧請にはほとんど天海が関わっているし、場所も寛永寺建設途中(もしくは創建後)の上野とくれば、上野東照宮の勧請に天海がタッチしなかった可能性は皆無といっていいだろう。であれば、やっぱり天海と与右衛門は結構親しい間柄にあり、ゆえに上野への勧請を天海が仲介したと言えるのかな。与右衛門が改宗した際(上記リンク参照)、天海から「寒松院」の法号を与えられた。これは「寒風に立ち向かう松の木」の意だという。与右衛門の遍歴と性格をよく現すいい法号だと私は思うけど、これも天海が与右衛門をよく理解していたことの表れじゃないだろうか。てな訳で、寛永年間の初期には江戸城の紅葉山、浅草寺、上野に東照社があった。このうち紅葉山は徳川家専用で、浅草寺については「上野第二編(58)」で少し書いてますが、紅葉山と同時期に勧請され、こちらは庶民の参詣の便を図る目的もあったかもしれない。寛永寺は江戸城の鬼門に建てられた、とはやたら言われることですが、実のところ寛永寺は少し北に寄っていて、鬼門というなら浅草寺の方がふさわしい。家康が入府した際、最初に浅草寺を祈祷寺に指定したのはあるいは鬼門という位置も考慮に入っていたかもしれない。そういう場所にあるので、紅葉山と同時期に浅草寺にも東照社が勧請されたのは、それこそ江戸城の鎮守という意味合いもあった可能性はある。ところが、浅草寺はその大事な東照宮を失火により失うという失態を演じる。これに対し、家光は浅草寺への東照宮の再建を許さなかった。実は寛永初期の江戸には第4の隠れ東照社があった。秀忠は紅葉山に東照社を勧請したものの、こちらは大名などにも参詣させる公的な性格が強かったためか、江戸城本丸に本殿だけの小さく簡素な東照社を勧請させたというのだ。『落穂集』では江戸城に勧請したのは秀忠ではなく家光ということになっていて、大御所となった秀忠が西の丸から本丸に来る時に目ざわりにならない場所に小さくお宮を造って、常に拝礼したと語られている。どちらが造ったにせよ、江戸城の本丸には将軍の私的な参拝のための小さな東照社があったことに変わりはない。寛永14年(1637)、秀忠の死後に家光は本丸の社殿を二の丸に移し、「内宮」としてあらたなものを建立した。このあたりの経緯が今ひとつよくわからないんだけど、この頃に紅葉山にも手入れがあったのか、浅草寺東照社の御神体が紅葉山に移されたという。寛永19年(1642)、浅草寺炎上。『落穂集』にはこんな話が載っている。 現在の紅葉山のお宮のお供所の前にある石の手水鉢に「浅野但馬守長晟」とあるのを みんなが不思議に思っているのですが、通常、紅葉山のお宮へは御三家様以外の献上は ないはずなのに、なぜ外様大名衆の中で浅野長晟殿お一人だけが手水鉢を献上 されたんですか? 浅野長晟殿の御内室は権現様の姫君で、初めは蒲生秀行へ嫁がれましたが、死別され、 浅野長晟殿へ再嫁され「紀州の御前様」と称された方です。浅草寺内へ東照宮が建立 される際、この姫君が御手水鉢を献上されたいと仰せになったということで、御手水鉢には 浅野長晟と銘があるものの、実は姫君様のご寄進なのです。 浅草寺のお宮が焼失して焼け残ったこの御手水鉢を、姫君様のご寄進だというので 紅葉山へ移したそうです。このため、元和四年と彫ってあるのだとうかがっています。家光は浅草寺に再建を許さなかったばかりか、焼け残った由緒ある品までごっそり引き揚げさせたということらしい。この姫君とは家康の三女・振姫のことです。で、慶安4年(1651)になると、家光が与右衛門の建てた上野の東照社を撤去し、あらたに壮麗な社殿を建立する。これが現在の上野東照宮。江戸城本丸と上野の東照社は、いわば私的なもの。それに対して紅葉山(将軍家用)と浅草寺(庶民用)は公的なもの。私的なものと公的なものの2種類が江戸にあったために、変遷も色々と複雑になってますが、つまるところ、浅草寺のが焼失して再建されなかったために庶民用の東照社がなくなってしまい、かわって藤堂家の私的なものだった上野にあらためて公的な庶民用の東照社を造ったって流れになるんだろうか。ま、ここも家光が与右衛門の造った質素なお宮が気に入らなかったとも言われるんだけど。もうひとつの私設東照社、江戸城内にあった方は、家光の死後の承応3年(1654)紅葉山東照宮改築の際に御神体が紅葉山に移され、社殿は仙波東照宮に移築されたという。その他、増上寺にも早くから東照宮の前身はあったようなんだけどね。ただ、芝のは神仏分離令以後に増上寺から切り離されて芝東照宮となったようなので、ほかの東照宮とはちょっと歴史が違う気がするんだよな。さてと、歴史関係は大体こんなところかな。久々に境内に戻りますか。写真はたくさんありますよ~(笑)。ちなみに、現在の社殿は家光が慶安3年(1650)に改築を命じて、翌年の4月17日に完成したものらしいけど、家光はその3日後に亡くなっているので、上野東照宮のリニューアルオープンは見ることがなかったと思われます。それでは、「上野第二編(43)」で社殿前の狛犬まで来ましたが、その続きになります。(つか、20話以上ぶっ通しで歴バナ書いてたのかってことに今気がついた)こちらが第二編(’13/7/20)での前面の様子↓。 【唐門(唐破風造り四脚門) 日本には一つしかない金箔の唐門である。扉には梅に亀甲の透彫、門柱には 左甚五郎作昇竜(右)降竜の高彫、門の側面左右上部の松竹梅に錦鶏鳥の 透彫など非常に精巧を極めたものである。 昭和25年国重要文化財指定。唐門・社殿・透塀・大石鳥居】 (現地解説板より)日本で唯一の金箔の唐門という話は事前に聞いていた。でもなんか変じゃね?社殿の周囲にも境内にも作業用具が色々置いてあるから、工事中なのかな・・・狙った訳ではありませんが、実はこの後の第三編・第四編と続けて上野東照宮へ行っておりまして、偶然にも工事の変遷が写真に映る結果となりました。で、こちらが第三編(’13/11/2)での唐門↓。 うん、だいぶそれっぽい感じになってきてます。まだ周りはシートに覆われているけど、それでもわずかに顔をのぞかせる金の扉におじさんおばさん食い入るように見ております(笑)。金の魔力ってすごいもんです。それで、第四編(’14/1/3)ではどうなったかってゆーと・・・すいません、全景の写真がないんですいや、上野東照宮ってその立地からそこそこ参拝客もいるもんだけど、この時は三が日でねえ~。パンパンするのにも結構並んだんですよ。で、この時は唐門の変遷に気がついてなかったので(←バカ)唐門の写真は前にも撮ったし、そもそも人が大勢並んでるからろくな写真撮れなかったのでもう撮らないでいいかなって思ってたんだよね。しかし、門全体の写真はないけど、こんなのがある↓。 時間と前後の写真からして、これも唐門の扉のような気がするんだけど、金箔じゃなくなってるな・・・周りもなんかヘンだし。まあ、特別な日でなければそれなりに写真は撮れるハズなので、今度行ったらちゃんと完成形を撮ってきます。それから、解説にある左甚五郎の竜は、第二編ではシートに覆われていたものの↓ 第四編ではもう外されてました↓。 この竜も、かつての根本中堂前の鐘楼の竜と同じく、夜になるとここから抜け出して不忍池に水を飲みに行ったという伝説を持ってます。上野東照宮のリーフレットによると、 【頭を垂れているほうが昇り龍と呼ばれているのは、偉大な人ほど頭を垂れる という諺に由来するといわれています。】とあるんだけど、現状ではロクな写真がありませんので、ここもまた撮り直しに行って参ります。あれだけ写真撮ってて、なんで撮り残しがあるんだろう。不思議だ・・・(笑)。にほんブログ村
2014年03月16日

与右衛門の歴バナを書き始めたあたりから、突然思い立って「般若心経」の暗唱のチャレンジを始めました。わたくし。特に何の意味がある訳でもないし、古戦場などで悪いモノが出た時に調伏しようと思ってる訳でもありまへん。そもそも般若心経って別に悪魔払いのお経じゃないし。だいぶ以前に、日光輪王寺で「絵説心経」なるものを買いましてね。これも別に何かの目的がある訳でもなかったんですが、文字が読めない人のために一字一字に絵が当てられていて、わたくしは文字はいちおう読めますが、眺めているだけでも楽しいと思ったので買ったものの、そのまま数年放置・・・しかし、ちょっと最近仏教に関わる記事なぞも多いので、この際だから覚えてみようかなって。寛永寺シリーズも100話越えがほぼ確実になってきたので、このシリーズが終わるまでの丸暗記目指して少しずつ覚えている毎日であります。さて、前回は南光坊ならぬ難解坊天海にウンザリしたとこで終わってますが、上野東照宮の続きです。『魔都江戸の都市計画』(内藤正敏著)の中の、内藤氏と浦井正明氏の対談で、浦井氏は最初に秀忠が上野の地を天海に与えた時はまだ上野の半分くらいだったとおっしゃってます。私も、はっきりしたことはわからないものの、上野にある藤堂家ゆかりの史跡の歴史と藤堂・津軽・堀の大名家と天海のつながりを考えると、あるいは天海が個別に各大名家と土地の交渉でもして、それぞれが屋敷地の一部を提供して(ただし、形としては幕府による収公)、寛永寺が発足してもまだ3大名は上野に土地を残していたんじゃないか、という気がしています。で、お2人の対談は民族学者の宮田登氏を交えての3者対談になってるんですが、上野東照宮あたりに関連してちょっと面白いやり取りがあるので敬省略で引用してご紹介します。 内藤:当時、上野の山から日光がよく見えたそうですね。 宮田:日光の山が見えるんですか? 浦田:見えたのは筑波山でしょう。 内藤:日光連山だと思うのですが。『浅草寺誌』や『台東区の名所と文化財』に 載る古文書に、寛永4年に家光によって正式な東照宮が上野に建てられる 以前に、すでに藤堂高虎が上野の下屋敷から日光山のよく見える場所に 東照社の拝殿を建てていたと書かれています。 高虎は毎年、日光に社参していたが、老衰で日光に行けなくなり、天海に 願って同社を建てた。その場所がいまの上野・東照宮が立つ所だと いうのです。昔は空気も澄んでいたし、高いビルもありませんから、 上野からも日光の山々がよく見えたのでしょうね。 (中略) 内藤:歴代の将軍は拝む側の人です。ちょうど神社でいえば、江戸城が里宮で、 日光が奥宮みたいなところがあったと思うのです。そして徳川将軍は 神主みたいな祭祀者。 宮田:寛永寺は、日光の遥拝所的な場所としてはっきり位置づけられるのでしょうか? 浦井:それはどうでしょうか。 (『魔都江戸の都市計画』より) 浦井氏は何度も書いてるように、寛永寺のお坊様です。内藤氏の本は、ちょっと風水・呪術系の説がどういうものか少し読んでみようと思って図書館で借りたものの、あまりに私の体質に合わなくて結局寛永寺に関連する部分しか読まなかったのですが、ご本人いわく、呪術的側面の説を提唱したのは内藤氏が最初なんだそうな。だから、内藤氏はバリバリの呪術系思考者なのかと思っていたらば、同対談の中で内藤氏はこんなことを言っておられる。 【最近、風水ブームで天海僧正が風水を極めた呪術者だ、などというインチキ臭いことを 書く人が横行していますが、私は非常に腹だたしく思っています。】内藤氏の考えを完全に理解した訳じゃないので、どう違うのか正直言って私にはわからなかったんだけど、そういう側面だけがさも真実かのように一人歩きしている現状を氏は苦々しく思っておられるらしい。微妙なニュアンスを表現するのって難しいんだな、って思いましたね。で、対談の内容ですが、私もさすがに上野から日光は見えんだろ~と思うんだけどね。私は柏育ちで、条件のいい日には小学校の上階からは筑波山も富士山も見えました。上野は柏よりも筑波山からは遠くなるけど、この辺りから北東にかけてはホントに遮るもののない、いかにも関東平野という地形だし、寛永寺からすぐ北西にある諏訪台からも筑波山が見えたっぽいから(「プチ日暮里編(12)」参照)、寛永寺からも筑波山は見えただろう。私が日光に行く時は、東武鉄道のタダ券を使って地道に鈍行や快速を乗り継いでいくんだけど、とにかく朝早く出ていくので、晴れてる日なら東武日光線の車内から富士山が見える時もある。記憶は定かじゃないけど、たしか板倉東洋大前(群馬県邑楽郡)あたりまでは見えてたような気がするな~。あるいは新大平下(栃木県栃木市)あたりでも見えた気もしないでもないけど、ちょっと正確な記憶じゃないかもしれない。とゆーことで、結構北上しても富士山は見えるもんですが、そこまでの間にはせいぜい丹沢山系が横たわるぐらいで遮るものもないし、なんたって富士山は日本一の山(3,776m)だからね。しかし、日光連山は高いところでも標高は2,000m前半だし、ちょっと寛永寺からは日光は見えないんじゃないかと思うんだけど・・・対談の中では、ヨボヨボになって日光に行かれなくなった与右衛門が天海のはからいにより上野の屋敷内に東照社を勧請したとなっているけど、与右衛門は晩年に失明したそうだから、それとの関連かと思ったら、「藤堂高虎公入府400年記念事業実行委員会」様の公式サイトによると、与右衛門が失明したのは寛永7年(1630)のことで、同じ年の10月に74歳で亡くなっている。上野東照宮の始まりは 【藤堂高虎は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする 宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている。 あるいは寛永4年(1627)、宮祠を造営したのが創建ともいう。】と境内解説板にあるように、時期がはっきりしていない。が、寛永4年には上野東照宮の前身があったのは確かと言ってもいいようだし、寛永4年以前だったとしても当然元和3年(1617:日光東照社のできた年)以降の話だけど、紅葉山に東照社を勧請した元和4年(1618)以前だとは考えにくい。それに、与右衛門は元和5年(1619)~6年は徳川和子の入内問題で奔走してるし、そのまま大坂城の工事に突入、その翌年には二条城の修築にも関わってるようだから、元和年間の勧請だとしても最後の最後か、寛永に入ったあたりがせいぜいのような気がする。その頃になれば、御三家の勧請も終わった頃だし、まだ東照社の初期で特別な扱いだったにせよ、勧請しやすい環境はある程度はできていたかもしれない。とすると、寛永4年(1627)以前に上野に東照社があったとしても、可能性としては元和8年(1622)以降と見るのが妥当だろうと思われるものの、元和8年っつったら、天海が秀忠から上野の地を与えられた年ですよ・・・これって変じゃない?せっかく上野の屋敷地内に与右衛門ジジイが東照社を造ったのに、その直後に秀忠に土地を巻き上げられて「そんなご無体な~!!」って泣いた可能性もなくはないけど、それだって一番早い想定建立年代での話だし、私はもう少し後の勧請、寛永年間(1624~)に入った頃じゃないかと思っている。しかし、寛永に入ってからの勧請だとするとますますおかしい。その頃には確実に寛永寺のために土地をあけているハズだから、上野の自邸内に東照社を勧請するということはどだい無理なんじゃないのか。だから、寛永寺のために提供した土地というのはあくまで一部で、寛永寺創建後もしばらくは3大名・・・少なくとも藤堂家は上野に土地を残してたんじゃないかと思うのだ。それに、勧請ね。御三家までは家康の子だし、別に不思議はない。けど、いくら家康の信頼が厚かったとはいえ、外様がそう簡単に東照社を勧請できたとは思えない。『〔考証〕江戸の面影(一)』(稲垣史生著)ではこんな書かれ方をされている。 【寛永3年(1626)には、家康を尊崇する家光が、江戸の守護神として 城内紅葉山に東照宮を造営した。そのおなじ頃、ゴマスリに懸命な藤堂高虎は、 またまた思いきった奉仕として、上野に東照宮を造ろうと思い立ったのである。 このことを天海僧正と相談、将軍に願い出て着工、おなじ寛永3年11月13日に 竣工した。紅葉山とは違い、ここなら一般市民も参拝することができる。 家康をあがめさせることで、これほど将軍家へのゴマスリ手段はなかった。 高虎は子院の寒松院を、東照宮の別当寺とすることで最高の奉仕をこころざした。】うむ、何が歴史の真実かなんてわかりっこないんだし、あるいはこれが正しいのかもしれないけど、それにしても悪意丸出し(笑)。あいにく、理路整然と反論するだけの材料は持ち合わせていませんが、それでも乏しい知識の中からちょっとツッコミを入れさせていただきますと、秀忠が元和4年に紅葉山に東照社を勧請した際、同時に祈祷寺である浅草寺へも勧請がされている。だから、パンピーは紅葉山に行かれなくても、浅草寺へ行けばいいのだ。それから、稲垣氏はずいぶん別当を軽く見ておられるようだけど、寛永寺の表別当の格はかなり高いものだった。(「上野第一編(5)」参照)しかも、家康を祀る東照宮の別当となれば、外様の大名のちっぽけなゴマスリでどうなるもんでもないと思うんだけどね。ということで、わたくしはもちろんゴマスリのために勧請したとは見ていないのですが、上野に東照社を勧請できたのは、やはり与右衛門ならではだったと思う。(すいません、文字数が足りなそうなので続きは次回に持ち越します。)にほんブログ村
2014年03月15日

ゆんべは珍しい所で大きめの地震があったようで驚きました。地震慣れしてない山口の人はさぞ怖い思いをしただろうと思いつつ、瑠璃光寺の五重塔は大丈夫だろうかと大内ファンのわたくしはすぐ考えました。まあ、震度5弱といっても最大震度で限られた地域だし、山口市を含むその他はせいぜいが震度4のようだから、盛見の塔がゆらぐ訳もないだろうとは思いますが。さて、だいぶ上野東照宮も近くなってきました(笑)。境内にあった解説はこちらをご覧ください。寛永寺創建の概略については「上野第一編(4)」で書いてますが、ざっと流れをおさらいすると、元和8年(1622)、現在の上野公園の地が選ばれて寛永寺創建が動き出す。当時、上野の地には藤堂高虎・津軽信枚・堀直寄の3人の大名の下屋敷があった。この3人から、徳川秀忠はそれぞれに替地を与えた上で上野の地を収公して天海に上野を与えた、というもの。大昔は現在の地形でいうとかなり内陸にまで海が入り込んでいて、家康が入府した頃も東京駅付近まで海で日比谷は入江だったという。江戸の標高は低いものの、この辺りは結構坂や崖が多く、比高は大したことなくても急な地形。江戸城のすぐ北にある神田はかつて神田山と呼ばれ、上野などの周辺の高台も大昔陸地だった名残なんだろうと思うけど、小田原攻めの後、家康が入府して江戸の大改造が行われる中で神田山は切り崩され、その土で日比谷入江を埋め立て、台地にならした神田には旗本達の屋敷が立ち並んだ。駿府から移ってきた家臣が入ったので、それでそこらへんは「駿河台」の地名になったという。だから、今でいう神田駿河台を含む一帯が神田山だったってことだと思うんだけどね。神田にそんな歴史があることはつい最近知ったので、そうか、「神田のお山」がなくなったのなら、上野の高台って結構重要なんじゃないか、そこに与右衛門が配置されたってことは意味ありげだよな・・・って思ったものの、上野の山内で最も高いところは15mくらいなのに対し、神田駿河台より少し南東の御茶の水付近は20mくらいのところもある。なんだ、切り崩してもなお上野より標高が高いのかまあそれでも、与右衛門たちが上野に入ったのはまだ江戸城の初期の頃で、江戸城にほど近い神田には譜代の家臣を配し、そのすぐ北東にある高台の上野には信頼の厚い外様を置いたという推測はアリだろう。寛永寺創建前に上野のお山に入っていた藤堂・津軽・堀の3家は、慶長年間(1596-1615)に屋敷地を与えられたという。堀家の立場が今ひとつつかめないんだけど、藤堂家はこれまで書いたように家康から相当信頼されており、津軽家は家康の養女であり実の姪でもある満天姫を娶っているので縁戚関係にある。堀直寄も家康にはずいぶん尽くしたようで、信頼を得ていたものと思われる。つまり、いずれも徳川家から信頼を置かれていた外様達ということになる。浦井正明氏の『上野寛永寺 将軍家の葬儀』によると、寛永寺にはこの頃の各家の配置を記した古図があるらしく、それにはこんな風に描かれている。 (A)がその古図で、『上野寛永寺 将軍家の葬儀』に掲載されているものを基に大ざっぱにわたくしが作成したものです。ただ、浦井氏によるとこれは後世の想像図らしく、この古図自体も明治後期の写しということなので、どうも信用がおけないとある。それよりは、史実に基づいて屋敷地を推定する方がより正確だろうとした上で、各家の建てた子院や寄進した伽藍などの位置から浦井氏の推定する配置を図にしたものが(B)。堀家についてはこの後で少し出てきますが、山内を歩くと不忍池に近い南の方が堀家関係のものが多いし、私も浦井氏の推測された配置にまったく賛成いたします。で、ここでは上野東照宮についてなので藤堂家の場所ですが、(B)で緑の藤堂エリアは上野東照宮のある場所。藤堂家菩提寺の寒松院は東照宮の表別当で、かつては東照宮のすぐ北側にあった。後でご紹介しますが、このエリアには今も藤堂家ゆかりの史跡が残ってます。なので、屋敷地がどの程度の範囲まで広がっていたかはわからないものの、確かに東照宮付近はかつて藤堂家の屋敷があった場所だと言っていいと思います。そもそも、東照宮自体が藤堂家の屋敷地の名残りの可能性もあるしね。境内にあった解説、【藤堂高虎は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている】がそれです。ただ、これもちょっとよくわからない部分があるんだけどね~。ところで、「上野第二編(2)」で「上野」の地名が藤堂家の屋敷があったことにちなむという説を紹介し、記事を書いた当時もどうもアヤしいと思っていたものの、やっぱりそれは違うのだという記述を『魔都江戸の都市計画』(内藤正敏著)の中に見つけました。この本の中に、なんと内藤氏と浦井氏の対談が収録されてまして、浦井氏はこんな風におっしゃってます。 【上野というのは、古くは「忍ヶ岡」という地名をもった丘陵地だった。 「上野」という名前はずっとあとにつけられるのです。昔は「忍ヶ岡」ないしは 「忍(しのび)の岡」といい、それに対して「不忍池」という名前が出てきた というのが通説になっています。 「上野」という地名が最初に出てくるのは、16世紀中ごろの後北条氏の小田原衆の 文書のなかなのです。そこに「上野の内法輪院分」とありますので、その当時から もうこの地にはお寺があったと思われます。】 (『魔都江戸の都市計画』より)だそうで、与右衛門の領地・伊賀上野から上野の地名が付いたという方が歴史ファンにとってはロマンがあるけど、史実には逆らえません(笑)。で、慶長年間に3大名が越してきた時には、もう法輪院はなかったそうな。北条氏にゆかりの深いお寺だったのかな。ただ、上野に入ったこの3大名と寛永寺創建の関係がどうも気になる。津軽信枚は天海との関わりも何かと多く、天海に弟子入りしたとも言われる。(「三原編(29)」参照)堀直寄は『寛永寺』によると天海に深く帰依していたそうで、恐らくそうした縁があったから紫衣事件で処罰された沢庵らが赦免された後、彼らと天海が会う手筈を整えたりもしたのだろう。(「上野第二編(63)」参照)与右衛門が天海とどこまで親しかったのかはわからないけど、いくつか紹介したエピソードには天海との関係が浅くないことをうかがわせるものもあった。そして、彼らは寛永寺に有力な子院を寄進している。津軽信枚は津梁院(厳有院:4代家綱の表別当)。堀直寄は凌雲院(学頭寺)。与右衛門は寒松院(東照宮の表別当)。なんかクサくない?いやでも、寛永寺の創建には秀忠が上野を天海に与えたっていうしな・・・天海はあちこちに顔が広いし、この3人が天海と親しかったというのはただの偶然かも・・・手持ちの材料ではこれを解決できなかったので、ひとまずそこは保留にしておこうと昨日までは思ってました。昨日までは。じゃ、今日1日で何が変わったのか?今日はね、帰りに図書館に寄ったんです。『魔都江戸の都市計画』を1ヵ月以上延滞してたので返しついでに浦井氏の著作『「上野」時空遊行』という本を予約してたので、借りてきました。浦井氏の著作は『上野寛永寺 将軍家の葬儀』の他に数冊あるのは知ってたけど、最初に寛永寺に行く前に数冊上野の本を借りて読んでいたので、『「上野」時空遊行』もその時借りてたもんと思ってたんだよね。で、もう1回読もうと思って借りた訳ですが、実物を見たらまだ読んだことない本だった(笑)。それで早速ご飯を食べながら少し読んだのですが、なんか意外なことが色々書いてある。ひとまずここでヒントになりそうな事だけ簡単に紹介すると、まず寛永寺の創建には秀忠から高輪御殿をもらってるのに、なぜ元和8年(1622)の決定から寛永2年(1625)まで寛永寺の最初の完成がずれ込んでいるのか、浦井氏はかねがね不思議に思っておられたそうな。平成4年からトーハク(東京国立博物館)で色々工事が始まって、あわせて調査も行われたそうで、その際、トーハク付近では土地の造成や地ならしが行われていたことが証明されたんだと。最大で3mほどの落差があるという。 【天海が徳川秀忠から与えられたころの上野の山は、かなり高低差のある自然の森に 近い状態だったのだろう。それを平らに均し、広小路のほうから本坊(いまの 東京国立博物館がある場所)まで道を通すには半年や一年では不可能だったと 思われる。 ただし、これも幕府の小普請方の人間を動員するなり、親交のある大名の 全面的な協力を仰げば、これほど時間がかかることはなかったろう。それを あえてせず、意地を張っているかのように自分の力でやり遂げようとしている 天海に、私はほほえましさを感じてしまう。】 (『「上野」時空遊行』より)ここは「上野第二編(17)」で紹介した、初期の寛永寺には天海の私寺的側面があったという話と関連があるんだけど、紫衣事件で処罰された臨済宗妙心寺の東源が書いた天海の伝記『東源記』には 【明らかに寛永寺の建立は天海の意向によるもので、秀忠がそれに応じたと されている。】 (『「上野」時空遊行』より)とあるそうで、だとすれば天海が候補地を探していた時に上野に目をつけ、秀忠に打診する前にあらかじめ自分で親しい3大名に根回し、あるいは交渉をしていた可能性もあるんじゃないのかな~なんて想像しました。まあ、自分で根回ししなくたって将軍からの下命となればあまり逆らう大名もいないでしょうけど、浦井氏の言われるように極力自分で手掛けたいという意思が天海にあったのだとすれば、土地の選定から段取りまでやろうとしたっておかしくない。それに、3大名の寄進した子院は上に書いたようにそれぞれ優遇されてるしね。あ~、もう、天海はやっぱ難解すぎる・・・以後は「怪僧」の一言で片づけてもいいデスカ?(←なげやり)にほんブログ村
2014年03月14日

昨日から我が家に「ひかり」が導入されました。今までのADSLでも別に不便は感じてなかったんだけど、確かに少し通信速度は速いような気がします。が、「ひかり」になったからといって、別にわたくしの遅筆と長話まで早まるワケでもなく・・・さて、朝廷との関係における与右衛門こと藤堂高虎の役割を入内問題と紫衣事件にからめてご紹介してきましたが、もう少し、彼の人となりを物語る小話をいくつか紹介しましょう。『徳川実記』はどうもあまり時系列になっていないような箇所もあり、いくつか拾い読みをした程度なんだけど、与右衛門が秀忠の伽、っつても色っぽい方のじゃなく、夜会みたいのに参加している話がいくつかあった。前回の最後で久保文武氏の言を引用させていただいてますが、秀忠の夜会の中で、数々の武功を立て修羅場を乗り越えてきた与右衛門の話に秀忠がよく耳を傾けたらしいことが『徳川実記』からもうかがえる。たとえばこんな話がある。 与右衛門:武士が武を磨くのは当然の事ですが、勇猛すぎてもかえって 臆病者に劣ることもあります。武田勝頼なんかがいい例で、 長篠の戦いでは勝頼の性格を利用して成功しました。 かと言って、ホントの臆病者だったら家臣の讒言までも信じてしまって、 これまたあっけなく滅んでゆくでしょう。 家康:だよね~。天下人たるもの、第一に慈悲の心がなくっちゃ。 けど、あまりに慈悲深いのも逆に冷酷に劣ることもあるよ。 たとえば、家臣が武芸を磨くことなく朝晩酒に溺れてるのを許してしまえば、 その悪弊は周囲にも伝染するし、家中の武勇も落ちていっちゃうよ。 だから、あるべき君主の姿とは、そういう奴はビシビシしごいて 周りの目を覚まさせることじゃないのかなあ。 与右衛門、そこらへん、どう思う? 与右衛門:大御所様の仰せ、ごもっともでございます。 家康:じゃあさ、秀忠に夜話する時にでも、この話聞かせてやってよ。 後日、江戸にて。 与右衛門:大御所様がこんな事をおっしゃってましたぞ。 秀忠:う~ん、う~ん、なるほど~。 武勇も慈悲も、ほどほどにってことか・・・ ん、これは子々孫々に至るまで語り伝えるべき教訓だね。 よし、メモっとこ。 ほらほら、どお、与右衛門!この出来栄え また後日、駿府にて。 与右衛門:将軍様は先日の話にいたく感心されまして、子孫に語り継ぐのだと おん自ら大御所様のお言葉を書き留めておられました。 家康:へえ~・・・ 秀忠はぶっちゃけ、ちょっとイマイチなところもあるんだけど、 孝心だけはすごいんだよね~。 親の言葉を反故にしないように、メモったんだろうな。 真面目な奴だよね~。 うん、孝行息子だあれこれ世間の波にもまれた与右衛門の処世術を書き遺したものは結構あるらしい。側近が書いた『高虎遺書録二百ヶ条』には、ふんどしの締め方から人に本を借りたら早く返せとか武具は柿色はダメで紺がいいとか旅支度はコンパクトにしろとか旅先では必ず忘れ物チェックをしろとか・・・ちょっとうぜ~!!って言いたくなるようなお笑いネタもあれば、 「自分の欲に溺れてはダメ。淫乱はやめ。勝手な態度もダメ。 自分のしたいことはやめて、嫌なことでもやりなさい。 主人の決まりを守り、下の者の規範となるよう心がけること。 人が伸びるように計らい、他人に災いが起きても意見をしてやりなさい。 主人が気に入らないヤツでも家臣が理非を正して、落ち度がない時には 自分が咎められるようになっても他人に傷がつかないようにしてやりなさい。」てなものもある。与右衛門は弘治2年(1556)生まれ。厳島の戦いの翌年に生まれたのか。若いな・・・(笑)。じゃなくて、とらば~ゆにつぐとらば~ゆであちこち出陣して子を作るヒマがなかったのか45歳にしてようやく待望の嫡男を授かった。その息子に対し、寛永2年(1625)、大名としての心構えなどを遺書としてしたためた。その中では「奉公の道を油断なく勤めよ」から始まって、仁義礼智信のどれ一つ欠けても上手くいかないんだよ、文武両道に励め、経験豊富な先輩から色々教えてもらえ、身分に関わらず良い人の真似をしろ、よき友人と語り意見をしてもらえ、人から招かれたら遅刻するな、親しい仲間の集まりでも長酒はするな・・・どうも、安芸にもこんな口うるさいビッグダディがいたよな~ってつい某有名戦国武将のことを思い浮かべてしまいますが(笑)、ウザいほどの説教の中にも、人を大切にしなさいという彼の精神が垣間見える。人を大切にするというポリシーは、ある有名なエピソードにも表れている。当時は大名が死ぬと家臣の中から殉死者が出た。与右衛門はこれがイヤだった。自分に殉じて死ぬより、生きてまだ年若い後継ぎを支えてほしい。そこでまず、国許で「ワシが死んだら殉死したいと考えている者は、名前を書いてこの箱の中に入れよ」と殉死者を募集したところ、40数人の名前があった。今度は屋敷のある駿府で同じように殉死者を募ったところ、30数人いた。これら70数人の名札を持って家康のところへ行き、「大御所様・・・どうしましょう。ワシに殉死したいという者がこんなにいるんですが。これらは皆、徳川の先鋒となって子孫の代まで将軍家のお役に立つ者たちです。ですから、大御所様の上意をもって、是が非でも殉死を止めていただけないでしょうか」「だよね~。じゃあ、殉死は許さんとワシが言っていたと説明してよ」「・・・という訳で、大御所様からの上意である。ゆえに、殉死は許さん。それより、死んだ気になって徳川家と藤堂家のために尽くせよ」と殉死志願者を前に演説したところ、皆はしぶしぶ納得したが、戦いで右腕を失った男が1人だけ反抗した。「どうせ私は生きていてもお役には立たない者です。ですから、私だけは切腹を許してくださいませんか」これを聞いた家康が重ねて「藤堂は我が徳川家の先鋒。ワシの命令に背いて1人でも殉死する者が出たら、藤堂の先鋒は取り消すからね!!」と殉死を禁止したので、家中はすべて従ったという。久保文武氏の『徳川和子の入内と藤堂高虎』にはこんな風に書かれている。 【天海・崇伝・高虎は家康の側近グループであった。往々、家康側近衆と秀忠側近派は 対立したが、この三人は別であった。決定的理由は権力掌握に直接関係がなく、 絶えず二番手としての相談役に徹していたからであろう。】確かに、幕府内の権力争いという面では、この3人はそれぞれ僧侶・外様という立場にあり、久保氏の言われる通りなのかもしれない。だからと言って、3人が栄達に無関心だったかというのはまた別の話。崇伝にその気がなければ紫衣事件はもう少しマイルドだったかもしれないし、天海にその気がなければあるいは寛永寺は存在しなかったかもしれない。それに、与右衛門には家中を養う責任がある。やはり、それぞれが野心や思惑を持っていただろうとは思うけど、それぞれのやり方で徳川家に忠誠を尽くしたのだとも思う。ここまで与右衛門について簡単に書いてきましたが、こんな事は書かなくても話は進められたんです。が、「藤堂高虎は家康・秀忠・家光の3代にわたってそれぞれの信頼を得た」とつるっと書いても、なぜあれだけ転職を繰り返してきた与右衛門が3人の将軍の信頼を得られたのかが見えてこないので、彼自身について少し書いておく必要があるなと思いました。で、少し時間軸を戻しまして家康さんが病気になった時のこと。そのあたりは「上野第一編(4)」にも少し書いてますが、病人のくせに結構色んな人を病床に連れ込んでます。ある時、与右衛門が呼ばれて「そなたとも長い付き合いじゃ。感謝しておるぞ。しかし、ワシとそなたとは宗派が違う。あの世で一緒になれないのが残念でならん・・・」「なにをおっしゃいます!あの世でもご奉公させてくださいまし~!!ちょ、ちょっと待っててくださいね」とすぐさま別室にいた天海の元へ行き、「寒松院」の法名を得て改宗の儀を受けた。その後家康の元へ戻って、「たった今、改宗してきましたこれであの世でも一緒ですからね」「よ、与右衛門~・・・・」と2人して涙を流しあったという。美しい主従愛と与右衛門の転職遍歴をドッキングさせたようなエピソードで結構多くの歴史ファンに語られているものの、ここには大いなる謎がある。よく言われるのが、改宗して天台宗になったということ。ただね、これまでにも書いてきたように、徳川家は代々浄土宗。個人的に天台に帰依していたかもしれないけど、たぶん改宗まではしてないと思うんだよね~。(「上野第二編(15)」参照)しかし、天海がホントに仲介したのであれば、浄土宗に改宗したというのもおかしい。それに、与右衛門の菩提寺となった上野の寒松院は寛永寺(天台宗)の子院。あと、元々は何宗だったのかも意見が分かれる。ウィキペディアでは日蓮宗→天台宗。藤堂家の伊賀の菩提寺は日蓮宗だしな。『戦国武将名言録』(楠戸義昭著)では法華宗→浄土宗。天台宗東京教区の公式サイトでは、元は何宗と書いてないけど、やっぱり天台に改宗したとある。ま、結局家康は神になったんだから、どこの浄土にも行かなかったんじゃ・・・てついツッコミの虫がただ、このエピソードがホントでなかったとしても、最終的には寒松院が寛永寺に組み込まれてるから天台宗に落ち着いたってことになるのかな。にほんブログ村
2014年03月12日

うう、もう歴バナやめたい・・・けど、エピソードをあともうひとつだけ(笑)。「上野第二編(60)」で幕府から朝廷に対する締め付け法令を紹介してますが、前回の最後にちらりと顔を出したいわゆる「紫衣事件」について少々書きたいと思います。ただ、この一連の問題って思ったより色んな要素がからんでいるようで、まともに書くと崇伝が主役の話になっちゃいそうなのでなるべく崇伝のことは抑え、与右衛門のことについて書きますのでご了承ください。まず慶長18年(1613)の「勅許紫衣法度」。ここでは大徳寺・妙心寺・知恩寺・知恩院・浄華院・泉涌寺・粟生光明寺・金戒寺に対し、勅許の前に幕府に知らせること、その上で幕府の選考に合格すれば紫衣の勅許を認めるという内容だった。その後の元和元年(1615)、「禁中并公家諸法度」では対象を限定せず、全宗派本山にまで拡大して紫衣の勅許に干渉している。 【紫衣は本来天皇が自由に決めることであり、紫衣が売官ゆえ天皇家にとっては 最大の収入源であった。】 (『崇伝の生涯』/圭室文雄より)圭室氏によると、各宗派本山への紫衣の発給は膨大な数に上っていたそうで、 【紫衣(宗内第一位の僧階)・黄衣(第二位の僧階)の僧達が巷にあふれ、 人々の嘲りもかっていたと記している。(中略)さらにそのほか京都の門跡寺院は 全国の寺院僧侶の資格のうち、僧正(大・正・権)、僧都(大・正・小・権)、 律師・法印・法眼等の僧階を出すことができるがこれはいずれも売官である。 これは本山のみでなく全国の寺院を対象とするのでその収入は莫大であり、また それを取り次ぐ伝奏家(公家)の収入も同様である。幕府側はこれらの特権を 細かく制限し、その収入の削減を図った。】 (『崇伝の生涯』より)だそうな。もちろん、経済的な問題だけじゃなく、朝廷の権威を削ぐことも目的のひとつに入っている。ところが、後水尾天皇はこれに従わなかった。ウィキペディアによる事件の経緯は、 【後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。 これを知った幕府(3代将軍・徳川家光)は、寛永4年(1627)、事前に勅許の 相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・ 板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた。 幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに 強く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、 朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出した。】沢庵宗彭(たくあん・そうほう)は大徳寺の僧。「たくあん漬け」はこの沢庵氏に由来するという説もあるけど、漬け物のようなべったらのんびりした方という訳でもなく(笑)、大寺の高僧らしくプライドも高くまたなかなか激しい一面を持った人であったらしい。「上野第二編(45)」で崇伝の履歴を簡単に紹介してますが、慶長17年(1612)からは板倉勝重とともに寺社を統括する役割を与えられている。崇伝は絶大な権力をふるったと言われるが、大徳寺とはいくつかの因縁もあり、大徳寺と妙心寺についてはちょっと簡単に手が出せない状況でもあったらしい。「禁中并公家諸法度」を発布した同じ月、大徳寺と妙心寺に対して同じ内容の法度が出された。それは5つの内容に分けられ、そのうちの1つ、出世の条件として30年の修行+1,700の公案透過を課すというのは特に厳しいものだった。出世、はコトバンクによると現在使う意味などのほかに【禅寺の住持となること。特に、紫衣を賜り、師号を受け、あるいは勅宣を蒙って官寺の住持となること】とある。公案は一口で言うと、禅におけるなぞなぞみたいなもの?つまり長く修行して沢山勉強しないと昇進できないぞ、みたいな感じかな。ただ、この法度は真面目に守られなかったようで、寛永3年(1626)、幕府は大徳寺と妙心寺に対し厳重注意の上出世の儀を禁止し、秀忠の口から伝えられた。ところがその翌年4月、沢庵はおもむろに但馬から京へ出てきて大徳寺の僧を出世させた。いい根性してるじゃん。当然これは問題になり、7月、幕府は元和の法度以降に出世した者は無効などとする通達を出した。今度はこれに大徳寺と妙心寺が反発した。といっても、山内でも意見は恭順と抵抗の2つに分かれたらしいが、沢庵は強硬派で、大徳寺の僧連名で沢庵が意見書を書いた。この内容がまたキョーレツで、特に30年修行と1,700公案の件については「それは家康様のお考えですかね?それとも、法度の作成者が寺院の事情を知らなかったんですかね?だいたい、1,700もこなしたなんて自称する奴がいたら、そいつは嘘つきでしょ~よ!」てな感じらしい。ま、「直江状」みたいなもんかな「禁中并公家諸法度」は崇伝が起草したともされる。その後の7月の通達を出した際にも崇伝は会議に参加しており、要するにこの件については崇伝が深く関わっている。なもんだから、沢庵の痛烈な抗弁書に崇伝が怒るのは無理もない。京都所司代・板倉重宗経由で江戸へ渡った抗弁書を見せられた崇伝は、その日の日記をぷりぷり怒って書いている。大徳寺と妙心寺の穏健派はその後も詫び状を提出するなどしたが、大徳寺強硬派は相変わらずとんがったままだった。寛永6年(1629)2月、沢庵は江戸へ召喚される。秀忠は当初、沢庵らを島流しにするつもりだったとも言われる。江戸に入るとまず沢庵は小堀遠州らを通じて与右衛門の居所を尋ねたそうな。して、幕府は天海、崇伝、そして与右衛門を集めて対応を協議した。 崇伝:ご法度に背いたことを自ら白状してるんだから、 こりゃもう全員きつ~くお仕置きすべきでしょう! 天海:ま、その必要はないでしょう。 例の書付の件については沢庵殿が自分1人の責任だと 言ってるんじゃし、玉室・東源はおとがめなしとして、 沢庵殿はお好きなように処分したらよいじゃろう。 大体、経緯を話すことを白状と言うもんじゃが、 初めっから話しとるのは白状とは言わんでしょ。 寺のためを思って己を捨てて書付を出すなんざ、 近頃奇特なお人というもんじゃ。 ワシの寺には今はそんな者おらんしの~。フォッフォッフォッ。 しかしまあ、ご法度に触れるような事をしでかしたのはいかん。 この責任を沢庵殿1人に押し付けたんじゃ~罪も重くなるから、 ここは3人に罪を分け与えて、1人あたりの罪は 軽くしとくってことでどうでしょうな~。 ・・・と何やら経文などを引いて天海が申し上げたところ、 与右衛門:そうですな。 ワシも天海殿と同意見です。 いかがでしょう、大御所様?(←秀忠)て~な感じで、ここも天海と崇伝のバトルがあったように言われますが、崇伝はあくまで幕府方の代弁者なんだよね。ま、多少は寺院勢力の何たらとかゆー話も絡んではくるようだけど、別に天海が善人で崇伝が悪人て訳じゃない。今回の記事の大まかな流れは『紫衣勅許事件』(船岡誠)を参考にしてますが、同文によると 【今回の天海の弁護にはほかにも理由があった。この時期、柳生宗矩(家光の兵法師範) や堀直寄(越後村上藩藩主)らが、沢庵たちのために奔走し、天海や老中たちに 取り成しをはかっていたからである。】だそうだけど、一般的に柳生宗矩の尽力が有名らしいものの、『寛永寺』では 【実は当初からこの処罪に強く反対していた大師(天海)は、両寺の僧の釈放を 訴えて地味な運動を続けていた。】という。まあ、誰が一番頑張ったかってのはここでは問題ではないんだけど、とにかく色んな人が水面下で沢庵らのために動いてたってことらしい。結局、沢庵・玉室(大徳寺)、単伝・東源(妙心寺)はそれぞれ大名の預かりとなり、大徳寺の江月は処罰を免れた。のち、家光の代になって全員が釈放される。江月は茶の弟子・堀直寄を通じて、沢庵・玉室と共に天海に礼を言いに行っている。東源はこの縁がきっかけで天海の死後、『東叡開山慈眼大師伝記』を書いた。(「上野第二編(14)」参照)でちっとこの一連の事件の中では与右衛門の影は薄いんだけど、『江戸時代初期の朝幕周旋について』では 【さて朝幕関係は幕府と後水尾院との対立において、まさにその頂点に達したが、 高虎天海の斡旋によってあやうく事をおさめ、かれらが東西折衝の緩和の役割を はたしたことは今迄あげた史料で多少なりとも証明できたと思う。】としている。紫衣事件においてなぜ与右衛門が天海に賛同したのか、その真意はわからない。細川忠興は「崇伝と与右衛門って仲悪いんだぜ~」って言ってるけど、どうもコイツの言うことは信用ならん。一方で、一色氏出身の崇伝と一色氏の娘を娶っている与右衛門は親類のよしみで仲は良かったとする人もいるし。けど、これはまだ後水尾天皇が譲位する前のことで、松姫の入内問題でもさんざんモメたし、朝幕の間に立って奔走してきた与右衛門としてはこの件でこれ以上朝廷との間に波風を立てるのは得策ではないと判断したのではないだろうか。ただ、結局紫衣勅許の件は寺院だけの問題ではなく、朝廷の経済と権威にも関わることだったから、与右衛門の配慮もむなしく、沢庵らの処分が決まった数か月後に後水尾天皇は譲位する。久保文武氏は『徳川和子の入内と藤堂高虎』の中で、対朝廷との折衝で与右衛門が外様でありながらもこのような役を果たしたことについて、 【秀忠の高虎に対する信頼度は茶事に托して、父家康以上のものがあったように 思われる。これが秀忠夫妻が娘和子入内の紛糾の処置を高虎に托した第一の 理由であろう。 第二には、高虎が京都公家衆、ことに近衛家とかなり親近な交流を有していた ことも大きい理由になろう。】としておられる。にほんブログ村
2014年03月10日

与右衛門と前京都所司代の板倉勝重がその行方を見守っていた、元和6年(1620)2月26日の朝廷の話し合いはどんなものだったか。まずは食事の後でまろ軍団がそれぞれ意見を言い合い、夕方になって国母と近衛信尋が除服宣旨を受けて参内、議論の末に「近頃目出度事也」という結論に至り、夜が明けてから参加者は退出したという。長い時間をかけて徹夜で議論が行われ、ようやく解決を見たようだけど、実は国母(近衛前子)と近衛信尋が途中参戦したことは大きい。この数日前の2月18日、とある女性が亡くなった。その名は勧修寺晴子(かじゅうじ・はるこ)。この方は誠仁(さねひと)親王の女房だったが、ウィキペディアによると【実質においては妃に近い存在であった】という。誠仁親王は帝位に就く前に亡くなったが、晴子は親王の子を9人産み、その中の1人、後陽成天皇が即位したためのちに「新上東門院」と呼ばれる。つまり、後陽成天皇の妃である近衛前子からすればお姑さんであり、前子の子である近衛信尋からすると実のバアちゃんにあたる。ので、前子と信尋は晴子の喪に服していたそうなのだ。だから、本来であれば当分この2人は喪でおこもりしてなくちゃならないのが、「除服宣旨」・・・すなわち、忌明けで喪服を脱いで参内したようなんだな。晴子の死からまだ一週間。それを、強制的に除服して参内しなければならないと思わせたほど、後水尾天皇に近いこの2人は危機感を持っていたと言えるだろう。しかし、晴子バアちゃんにはお気の毒だけど、この選択は適切だった。与右衛門が2月28日に幕府に送った報告書からすると、やはり処分を受けた公家衆の赦免が帝にとっての争点だったらしい。ホントは入内前に赦免を行って欲しいというのが譲れない条件だったようなのが、母と弟が説得に加わったことで2月27日夜には「此上は何様共 公方様御意次第と被仰出」というところまでこぎ着けて、「いかにも御機色よく相済」、6月中に入内の方向で話がまとまった。公家衆の赦免の件については、入内後に全員に適用させるよう与右衛門から申し添えられている。そして、すべて済んだので自分はこれから大坂へ向かい、大坂城工事に加わる、と報告している。以上の経緯を見るに、与右衛門と板倉勝重はギリギリの段階まで穏便に、しかも朝廷方の意向を極力尊重しつつ事の調整に当たっているように見受けられる。これのどこが「恫喝」なんじゃい!?と思ったら、久保氏の解説にはこんな風に書かれていた。 【最後に高虎の恫喝と慰撫には天皇側も折れざるをえなかったようである。 恫喝とは多分天皇の左遷、島流しまでも考えているという言辞であろう、 慰撫とは朝廷と公家衆への経済的な面倒見などであろう。 朝尾教授は京大所蔵の「藤堂家記」を引き、その史料性に、ことに表現に いかがわしい点をみとめられながらも、その内容の真実に近いことを 認められたのは諸般の事情から考察されてのことであろう。 恐らく前後の事情から考えて、天子は左遷、高虎は責任上腹を切るということを におわせたことは、ことこの段階に至っては充分にありうることである。 国母と信尋が新上東門院の服喪中にもかかわらず「為別勅除服宣旨下」を得て 参内し、天皇の姿勢を極力なだめ、秀忠の申出を承服した背景には「藤堂家記」 の内容に似たやりとりがあったのではあるまいかという朝尾説は説得力がある。】 (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)え~、私は「藤堂家記」は読んでませんが、これを見るに、つまり通説にあるような恫喝野郎・与右衛門のイメージは「藤堂家記」、あるいはその周辺史料に書かれているところから来ているらしいな。確かに、最後は意地とプライドのぶつかりあいみたいなもんだから、これに折り合いをつけさせるためには色々な駆け引きもあっただろう。与右衛門と板倉勝重の最終目標は、「とにかく入内を成功させること」。ここは動かない。これを成し遂げるには、朝廷側には少し折れてもらわなきゃならないし、幕府側には朝廷に対する心証をこれ以上悪くしないためにとりなしをしなきゃならない。そうなると、久保氏の解説する朝尾説のような経緯もやはりあっただろうし、やんわりと匂わせただけにせよ、一種の恫喝と言うことはできる。ただ、実際の中身はこれまで見てきたようにあちこちと連携を取りながら大坂城工事の始まるホントに直前まで最善を尽くしたものだったと思われる。それを、「恫喝」というチョ~大雑把な言葉で、しかもよりによってなぜ藤堂家サイドの記述としたのか理解に苦しむところではあるけど、まあ武家だから、与右衛門の功績を武家風に男らしくカッコ良く表現したつもりだったのかもしれないな。が、結果的にはこの言葉だけが一人歩きをして、後世では転職回数の多い変節漢というイメージにさらに悪印象を植え付ける結果になってしまったように私は思う。スケジュールが詰まっている中、ようやく直前になって万事良いように解決を見た与右衛門は、武家伝奏役の広橋兼勝に「これで老後の面目も果たせましたわい」と書状を送り、2月28日には苦労を共にした板倉勝重へあてて「ゆんべはゆっくり眠れましたわい」と書き送っている。 【先ず自分がゆっくりと眠れたことを述べ、次に勝重の御心中を察せしめ候と、 高虎としては思わず本音が出たのであろう。万事に配慮深い高虎のこと故、 幕府の重臣、然も年長者の勝重を先にして次に自己の情を述べるのが、 高虎の有り様であるが、この書信には、心身共に安堵した真実が如実に 語られている。】 (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)ハハハ・・・「いんやご老体!お疲れさんでござんした~!!」とねぎらってやりたいところだけど、この翌日には伏見経由で大坂に入り、3月1日から大坂城の工事に取り掛かっている。与右衛門が整えた通り、6月には松姫が入内。ここでも、松姫の姑にあたる近衛前子があれこれ気を配ったという。後水尾天皇はしばらくは女性関係を控えていたのか、在位中は松姫だけが子を産んだ。ただ、広く知られているように、ここにも黒い噂がある。 【御局衆之はらに宮様いか程も出来申候を、おしころし、又は流し申候事、 事之外むごく御無念に被思召候、いくたり出来申候共、武家の御孫より外ハ、 御位に付被申間敷に、余りあらけなき儀とふかく被思召候由に候】これは細川忠興の書状にあるもので、のちに後水尾天皇が突然退位した理由について世間でのウワサを書いたものだけど、要するに徳川家の子孫以外は帝位につかせないという幕府の意向により、松姫以外にもボロボロ子はできたものの、すべて殺されたり流されたりしたんだってよ~、と忠興は伝えている。これについては検証する材料もその気も持ち合わせてはいませんが、別に幕府を擁護するつもりもないものの、これが事実なのかは相当疑わしいと思ってます。ただ、細川忠興は崇伝とも親しかったようで宮廷の事情にも詳しかったみたいだから、多少の事実を反映してる可能性もあるかとは思うけど、現時点ではこれは単にウワサを書き留めたものにすぎないのではないかと思っております。崇伝と細川家とは何かの血縁関係があったとどこかで読んだような気もするんだけど、崇伝の叔父と細川藤孝(幽斎)はともに足利義昭の救出に貢献してるから、その縁で親しかったのかもしれないな。そう、崇伝は武家の(もと)名門・一色氏の出なんですよ。いや、崇伝はさておき、松姫は7人の子を産んだ。このうち2人は皇子だったが、どちらも夭折したらしい。入内の件はローレン組の奔走で落着したものの、その後も朝幕の関係はアヤしいままだった。寛永4年(1627)には紫衣事件が起こる。寛永6年10月にはお福(春日局)が無位無官のくせして帝に内謁を申し出て「希代之儀」「帝道民ノ塗炭ニ落候事候」と日記類に記される出来事もあり、その翌月の11月8日、突然松姫との間に生まれた皇女(興子内親王)に譲位する。ホントにこれはいきなりの事だったようで、安藤氏は 【これは帝が幕府の不敬に対し、あえて女帝を史上にとどめることによって 幕府への痛烈な抗議の意思を表明されたものといえよう。】 (『江戸時代初期の朝幕周旋について』より)としておられる。それだけでなく、譲位の後まで幕府に対する憤りがあるということを聞いた秀忠は「旧例の如く隠岐国に遷し参らせんかというを家光堅く諫めて止めたり」と渋川春海の『新蘆面命』に伝えられるほど不快に思ったという。ま、この言い伝えの信憑性についてはどうかと思う面もあるものの、幕府の定めに従わず勝手な振る舞いもあったようで、後水尾院と幕府とのしこりはその後も長く続いた。細川忠興のように朝廷に同情的な見方もあれば、当然その反対の意見もあった。後年、家光の死後に後水尾院が突然出家したそうで、『羅山別集』によると 【私(羅山)がおもうに、後水尾院は先年位を興子内親王に譲られた時もこんな風に唐突で、 だれにもお計りにならなかった。これからも自儘なおこないを増していかれたならば 末恐ろしいことであると記し、道春曰く、「嗚呼驕子の父に順はざるを如何とも することなし」、とあって、後水尾天皇を驕子にたとえ、武家においては朝廷に対し 愛惜の念をもっているがこのようなことを院がせられては武家においても辛抱できぬ、 之に由って考えるに、承久とか或は元弘の場合も必ずしも北条氏のみの罪を論ずる わけにもいくまいと述べた。】 (『江戸時代初期の朝幕周旋について』より)と朝幕間はかなり緊迫した状況が続いたらしい。その一方で、後水尾氏の宸翰は寛永寺や日光など、各地の徳川家ゆかりの場所にあちこちあった。他にも、私が知るだけでも家康の13回忌と33回忌には追善の和歌を宸筆で送っている。特に、33回忌の方はめちゃくちゃ凝った造りになっていて、和歌に造詣の深かった後水尾院ならではだという。和歌の方は企画展などでしか見られないかもしれないけど、日光にある扁額は今でも普通に目にすることができる(大猷院にもある)。それらを見るたび、一体院はどんな気持ちでこれを書いたのだろうかといつも考えてしまうのです。それにしても、よくこんな状況で宮(守澄法親王)をもらえたもんだよな・・・にほんブログ村
2014年03月09日

「およつ御寮人事件」に関するウィキペディアの記述は、まず与右衛門の項では 【元和6年(1620)に秀忠の5女・和子が入内する際には自ら志願して 露払い役を務め、宮中の和子入内反対派公家の前で「和子姫が入内できなかった場合は 責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切ったという。】とあり、およつ御寮人事件の項には 【事件の前年、娘和子の入内を進めていた2代将軍徳川秀忠と御台所江与は、 典侍四辻与津子(お与津御寮人)が親王(賀茂宮)を生んだことを知って激怒、 更に与津子が懐妊したと知った秀忠は元和5年9月18日、与津子の振る舞いを 宮中における不行跡であるとして和子入内を推進していた武家伝奏広橋兼勝と共に これを追及した。 (中略)これに憤慨した天皇は退位しようとするが、江戸幕府の使者である藤堂高虎が 天皇を恫喝、与津子の追放・出家と和子の入内を強要した。元和6年(1620) 6月18日に和子の入内が実現すると、これに満足した秀忠は、今度は処罰した6名の 赦免・復職を命じる大赦を天皇に強要した。】とある。これがほぼ世間一般での入内問題に関する通説になると思いますので、まずここを押さえてくださいね。久保文武氏の『徳川和子の入内と藤堂高虎』にはこのあたりの経緯が比較的詳しく解説されているので、そちらから実際の流れを見てみましょう。秀忠の詳しい在京期間は私は知らない。が、前回元和5年4月の終わりに膳所まで来たことを書いているので、5月~9月あたりだろうと思う。その間、大坂や伏見あたりに行きながら、前回紹介した4つの目的を果たすべく色々行動していたのだろう。6月20日、与津子に第2子(女子)が生まれる。秀忠が京付近にいる間にまた子が生まれたもんだから、さすがの秀忠も内心相当怒っただろうが、すぐには大事にならなかった。ただし、おそらく第2子の誕生の後に、とりあえず元和5年中の入内は延期するという幕府の方針が後水尾天皇の耳にも入ったらしく、9月5日付けで帝から弟・近衛信尋へ書状が送られている。「このたびは藤堂高虎にも色々手を尽くしてもらって感謝しているけれども、今年の入内は先送りされたと聞きました。我らの不行跡がさぞかし秀忠公のお心にそぐわないのでしょう。このまま入内が進まないことは双方の面目にも関わるので、私にも弟が大勢いるしどれでもお好きな者を選んで即位させ、私は落髪してひきこもれば済むことです。入内を今年は引き延ばすというのであれば、藤堂高虎が譲位の件を整えてくれればその恩は生涯忘れないと伝えてください。」と、信尋を介して譲位の意図を伝え、与右衛門を頼りにしていると持ち上げている。 【後水尾天皇は当時、23・4の血気盛り、然も気骨のある天皇であるので 事の成り行きは致し方ない事であろうし、こうなることは敢えて承知の上での 行為であろう。 しかし、後水尾天皇に譲位されては、幕府は家康以来の宿望は無に帰してしまう。 何の為の今日までの入内の画策・準備であったのか。(中略)後水尾天皇としては 宮廷内に種々昵懇の多い高虎とはいえ、所詮は幕府方であり、その高虎に叶わぬまでも 強い望みを托していることは、幕府に対する抵抗の表明であるといえよう。(中略) しかし、高虎はあくまで幕府方の人間であるので、譲位の件は何としても思いとどまらしめ、 入内実現の線で奔走したこと勿論であろう。】 (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)9月7日、秀忠は大坂城を見た後伏見へ廻り、直ちに江戸へ帰る準備を始める。この9月には京都所司代が板倉勝重から子の重宗へと代替わりしており、重宗も秀忠と共に江戸に帰ったらしい。そして9月18日、秀忠が離京。同時に公卿衆への処罰を行った。その内容は、帝の側近の不行跡を責めて6人を流罪・出仕停止としたもので、出仕停止になったうちの2名は与津子の兄弟だった。 【これは秀忠の滞京中に四ツ局に皇女梅宮の誕生もあり、皇子・皇女の誕生に対する 秀忠の明らかな報復ともいえる。(中略)後水尾天皇の側近衆への裁断は秀忠の在洛中は ほとんど問題にされず、秀忠の帰還と同時に実行に移された(後略)】 (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)これは当然まろ軍団の反発を呼び、武家伝奏役の広橋兼勝は「300年以来の奸佞の賊臣」であり、蘇我入鹿・物部守屋の倍も悪い奴だとボロクソ言われている。もちろん、帝も怒った。して、10月18日には再び信尋へあてて書状を送った。「将軍に対して何ら含むところはないものの、私には器量がないから、とにかく譲位をしたいとよろしく将軍に伝えてほしい。今日、貴方と板倉勝重・藤堂高虎が参内したそうですね。今度の公家衆法度はもっともなことであり、これも我らの不器用によるものだから、将軍もさぞ見限られたのだろうと恥じ入るばかりです。この上は、我らの兄弟のどれでも即位させれば王法は正しくなるでしょう。私の即位は家康公のお力添えによるもので、はや在位も8年になりますが、もう譲位して隠居暮らしをしたいので、板倉勝重と藤堂高虎から将軍へ頼んでくれるよう、貴方の口から2人へ伝えてください。」自分が悪いんだろうと女好きの帝様に言いたいところだけど、自分が譲位すれば幕府方だって困ることはわかっている。前回、幕府から朝廷方への一連の法令を紹介しましたが、じわじわと幕府からの締め付けが厳しくなる事にもいいかげん頭を痛めていただろうし、その上将軍の娘が嫁いでくるとなれば、今以上に幕府の干渉も増えることは目に見えていたから、与津子のことは確かにささやかな反抗(ただし、結果は重大)だったのかもな。与右衛門、この時62歳。前京都所司代の板倉勝重は74歳。後水尾天皇がやけにこの2人を頼りにしてるあたり、それ以前に幕府方にありながらも朝廷を尊重する姿勢を見せていたのだろう。 【高虎等がどんな奔走したか、宮中武家両方の事情にもくわしい「本光国師日記」 にも全く知る史料がない。ただ、勝重・高虎の老練派の事故何とか天皇側の 面目も立てて譲位を思い止まらせようとしたことは想像できる。】 (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)「本光国師」は崇伝のことです。私はまだ『慈眼大師全集』に収められてる部分の、さらに一部分しか『本光国師日記』は読んでないんだけど、崇伝は板倉勝重とも色々やり取りがあるようだし、色んなことが書いてあるのに、それでも崇伝はこの件に関しては詳しい推移を知らなかったのかもしれない。てことで、史料がないので詳しいことはわからないものの、ローレン組・・・おそらくは与右衛門が主導して双方に良い解決案を模索した努力が続けられたものと思われる。11月12日、16日、まろ軍団で話し合いが持たれる。11月20日、与右衛門が近衛信尋へ、「近く板倉重宗が上洛するからそれまでになんとか解決を見たい」という書状を送る。ただし、残念ながらこの書状は残っていないらしい。11月29日、与右衛門の20日付け書状に対する信尋の返信がある。この書きぶりから、 【重宗の上洛は尋常一様の上洛でないようで、その点については信尋側でも充分 考慮しておいてほしいというような内容のものであったと想像される。(中略) 高虎の妥協案とも考えられる高虎案は一応天皇を満足させたものと思われる。】 (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)12月、朝廷側の意向を持って与右衛門は江戸へ帰った。信尋からは「来春には必ず上洛してね。絶対ね」という内容の書状が送られている。江戸へ向かった与右衛門と入れ替わるように、板倉重宗が12月に上洛する。 【案の定、重宗のもたらした江戸の回答は高虎の危惧した強硬意向で、天皇の譲位は 勿論みとめず、入内も既定方針通り、処罰の公家衆への赦免は早期にはないという 方針であったと考えられる。高虎の天子へ示した案の内容は不明であるが、(中略) その想像がゆるされるならば「譲位は思い止まる、入内も予定通り、ただし入内前に 勅勘の公家衆の赦免の実現を期す」という内容のものではなかったかと思考する。】 (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)明けて元和6年1月8日のある公家の日記によると、この日まろ軍団でも相談会が行われたらしいが、その内容は「密議之故」書いてないとある。久保氏は【重宗の提案が書記するもいまいましい内容であったからではなかろうか】と推察しておられる。1月20日、27日、28日、まろ軍団に国母(後水尾天皇の母)も加わって相談会。江戸では1月18日、大坂城工事についての諸大名への割り当てが発表された。与右衛門の縄張りはかなり秀忠を満足させたそうで、いよいよ工事開始も間近に迫り、1日でも早くなんとか入内の件を片づけなくちゃならない。2月24日、与右衛門再上洛。それを待ち構えていたかのように、近衛信尋から「先刻うかがったことを国母へも申し上げました。色々ありがとね。今日はもう遅いし、あなたもお疲れでしょうからこれだけにしとくね」て書状が届く。まろ軍団では、与右衛門の上洛を首を長くして待ってたんだろうなただ、「先刻うかがった」と言ってもこの日に会った訳でもなさそうなので、京と江戸の間でも密な書状などのやり取りがあった可能性がある。電話がない時代は大変だよね~。上洛した翌日の2月25日、与右衛門から板倉勝重へ「書状を詳しく拝見しました。明日、お会いして色々お話しましょう。大坂では我らの到着を待っているというのに、この件がのびのびになっていて困ったもんです。とにかく、明日ね」てな感じの書状が送られる。文面の文言から、それまでに与右衛門と勝重のローレン組はかなり連絡を取りあっていたのだろうと久保氏は語る。して、2人が会った2月26日、与右衛門から勝重の子・重宗へ「明日、江戸へ飛脚を送るということですが、ちょっと待って。今日の朝廷のお返事を聞いてからにしましょうよ。貴方のお父上とも相談されてはどうですか?飛脚を送る時には、ワシにお知らせ頂けませんかの~」てな書状が送られる。朝尾直弘氏はこの点、 【新所司代としての気負いのみえる若年の重宗を、高虎・勝重の老功組が制し、 成算をもってじっくりと事の成行きを見定めようとしている様子がよみとれる。】 (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)と解説されておられるそうな。3月1日の大坂城鍬始めまで、あとわずか。いよいよ交渉も大詰めです。にほんブログ村
2014年03月08日

江戸期に関しては、たとえば戦国でも目下わたくしのターゲットになっている天文年間なぞよりは簡単に多くの書物や論文が手に入るので、本シリーズではわたくしが読んだ中から先人の研究結果を多く参考・引用させて頂いております。で、前回からは安藤良平氏の『江戸時代初期の朝幕周旋について』を中心に話を進めておりますが、実はこの論文は少し前の記事でも参考にさせて頂きました。この論文のサブタイトルは「藤堂高虎と南光坊天海」。朝幕間の交渉にはもちろん色んな人が関わってはいるのだけど、安藤氏がこの両者を取り上げたのは、2人が周旋役として適任であったこと、また幕府方にありながらも【できるだけ穏便にことの処理にあたり、公武の円満な関係樹立に誠心つとめた様子がみえるから】だとしておられる。で、天海の活躍については「上野第二編(52)」で後陽成天皇から後水尾天皇に代替わりするところまで紹介しました。今回はその続き、後水尾天皇と与右衛門の話になります。与右衛門と朝廷の関係と言えば、ほとんどの方が秀忠の娘・松姫(徳川和子)の入内の話を思い浮かべるでしょう。松姫は秀忠とお江の間に生まれた、7番目の子。いやあ、ホントお江は産みまくったよな~・・・じゃなくて(笑)。松姫の入内に関して世間で広く言われる話は、ひと悶着あって入内はなかなか進まず、与右衛門が後水尾天皇を恫喝して話を進め、輿入れの際には内裏の所定の場所で輿を止めて新参者が古株の女官に挨拶をするしきたりになっていたものを、行列の先頭にいた与右衛門が刀に手をかけて慣例を無視してそのままスルー。与右衛門の機転のおかげで徳川のメンツは保たれ、後から話を聞いたお江も喜んだとかなんとか・・・要するに、この中ではゴリゴリの幕府方として強引に話を進めた強面野郎として描かれる。もちろん、過酷な戦国時代を己の才覚ひとつでのし上がっていたんだから、そういう面も確かに持ち合わせていたでしょう。けど、家康が江戸に幕府を開いてから朝廷との関係はギクシャクしていったし、ただ力押しで松姫を送り込んで成功したからって、それで終わりじゃない。松姫はその後はそこで暮らしていかなきゃならないんだし、後水尾天皇の子を産んで徳川家を天皇家の外戚にする使命もある。そのくらいの事は与右衛門も当然わかっていたはずだし、強引に押してくだけじゃ調略上手の名折れじゃないか?ホントに通説のような事があったんだろうか?てことで、若干の補足を加えながら、朝廷の状況と安藤氏の語る与右衛門像を見ていきましょう。慶長16年(1611)、後水尾天皇が即位。即位の経緯については上記リンク先で紹介してますが、家康の介入がなかったらこの方は天皇になるはずじゃなかった。家康のおかげで天皇になれたんだから幕府に感謝するかとゆーと、そういう訳でもなかったらしい。家康の方では天皇家の外戚目指して、孫の松姫の入内を申し入れ、慶長19年(1614)に入内宣旨が下りる。松姫、この時6歳。後水尾天皇は18歳。慶長19年(1614)~慶長20年(1615)、大坂の陣。元和2年(1616)、家康死去。元和3年(1617)、後陽成院崩御。余談ですが、ウィキペディアによると 【後水尾天皇は、不和であった父・後陽成天皇に、乱行があるとして退位に追い込まれた 陽成天皇の「陽成」の加後号を贈り、自らは陽成天皇の父であった清和天皇の異称 「水尾」の加後号を名乗るという意志を持っていたことになる。 このような父子逆転の加後号は他に例がない。】だそうで、後水尾天皇はオヤジほどかんしゃく持ちではなかったかもしれないけど、やっぱ血のつながった親子だな~と思ったりしたそしてこの性格が、オヤジに引き続き幕府との関係に影を落とすことにもなる。で、入内は決まったものの、大きな戦や葬式続きで嫁入りはのびのびになり、正式決定ではないものの、元和4~5年頃の漠然とした予定になっていたらしい。その一方で、幕府による朝廷への介入も徐々に進んでいった。まずは慶長14年(1609)の猪熊事件。これは朝廷からの要請を受けて幕府が乗り出したものだけど、この事件を背景に慶長18年(1613)には「公家衆法度」が発布される。風紀の乱れを正す目的もあり、その内容は一言で言うと「公家たる者、清く正しく美しく生きよ」みたいな~(笑)。ついでに、朝臣を処断する権限は朝廷から幕府へとスライドした。それと同時に「勅許紫衣法度」が出される。紫衣は高徳の僧に許される紫の袈裟で、僧侶のステータスシンボル。紫衣の勅許は天皇の裁量で好きにできたものが、これ以降は幕府に申請して選考に合格した者が紫衣を許されることになった。そしてトドメの元和元年(1615)、「禁中并公家諸法度」。この10日前には「武家諸法度」が公布されており、世間にはそちらの方が有名で禁中并公家諸法度は陰に隠れちゃってるけど、ここでは公家のみならず天皇の行い・心得にまで踏み込んでいる。公家方の心中、推して知るべし。さて元和4年4月、小堀遠州らが造営奉行となり女御御殿の造営が開始される。同じ4月の17日には紅葉山に東照社が勧請され、【京都より皇弟近衛信尋はじめ重だった公家衆が多数下向し、この時点では朝幕の間はかなり和気に満ちた雰囲気であった】(『徳川和子の入内と藤堂高虎』/久保文武)。ところがその後、事件は起こった。後水尾天皇の典侍が天皇の子を産んだのだ。典侍の名は四辻与津子(よつつじ・よつこ)・・・よつよつ。鷹司孝子のたかたかといい、何でこんな名前付けるんだろう(笑)。じゃなくて、与津子(お与津御寮人)の名から「お与津御寮人事件」、または「万里小路事件」とも呼ばれる。与津子が最初の子(男子)を産んだ時期ははっきりしていないらしいが、久保氏は次子(女子)の誕生時期から元和4年の6月頃と推定しておられる。これを知った秀忠&お江の夫妻は激怒したと一般に言われる。その理由は秀忠はとにかく真面目一本槍だし、お江は嫉妬深い女だからというもの。お江の嫉妬深さについては私は懐疑的だけど(「上野第二編(41)」参照)、その後の流れを見ると秀忠が気分を害したことは確からしい。まあ、当時は大名も程度の差はあってもそれなりに側室は抱えていたし、天皇が女御たちに沢山子を産ませるのは別に当たり前の事だろうとも思うんだけど、さすがにこの時はタイミングがまずかった。後水尾天皇は生涯で36人もの子を作る。そういう人がまだ若いムンムンの時期に与津子に手を出すのも無理のない話だとは思うけど、前々から徳川家との婚儀の話は整っていた。しかも、時期が確定していないとはいえ、もう入内も間近だろって時になぜ他の女に手を出すかな~。武家からの入内は、なんと平清盛の娘(徳子)以来だという。徳川家からすれば、面目丸つぶれ・・・そして、ここから問題は深刻化する。『徳川和子の入内と藤堂高虎』によると、この年9月には元和5年の入内は延期されるという噂が流れたそうな。ただ、幕府はすぐに事を荒立てるようなことはしなかった。幕府からの使者は近衛信尋の元に送られていたそうだけど、11月3日には与右衛門が上洛した。まずは信尋に会って、その夜饗応。翌日は舟遊び、唐網打、酒、謡、茶会などして数日滞在した後、贈り物などをしておしまい。その後は奈良にいたらしく、そこでも公卿衆と会ってはいるけど茶会、能などなど。入内に関する何かの交渉をした雰囲気はなさそうなんだけど、実は入内が難航した件については『徳川実紀』などには記されていないらしく、また与右衛門も自分の手柄を得々と語るような人物ではなかったので、交渉(特に大詰めの段階)がどういう経緯を辿ったのか詳しいことはわかっていないらしい。ま、とりあえず順を追って見ていきますね。久保氏によると、この頃の与右衛門は 【これらの若き公家衆の経済的・政治的パトロンであったのであろう。 同時に信尋サロン・グループと交流を深めると共に、公家側の動向情報を 詳細にいちはやく入手していたものと考えられる。】 (前掲論文より)だそうな。信尋のサロン・グループにはあの烏丸光広も入っている。11月26日には平戸在住のイギリス商人・コックスが江戸に向かう内裏の女性陣に会ったという記述があることから、 【京都より儀礼的に女官衆が迎えの礼をつくし、且つ、入内の準備のための 京都風の典礼・諸道具の調進などを具申するための下向であろうと、推測されるから、 この段階では入内延期が紛糾の表面には出ていなかったものと私考する。】 (『徳川和子の入内と藤堂高虎』より)としておられる。年が明けた元和5年(1619)春、秀忠の上洛が決まる。与右衛門は先に江戸を出て、4月26日、近江の膳所で秀忠を迎える。てことは、膳所城に入ったのかな。そういえばあの城も、与右衛門が関わってるんだったっけ。この上洛は入内の件について秀忠が鼻息も荒く乗り込んでいったみたいによく言われるので、私もそうなのかと素直に受け止めていたら、久保氏によると4つの大きな目的があったそうなのだ。 1、福島正則の改易 2、紀伊徳川家の設置と諸大名の配置替え 3、大坂城の大改修 4、松姫の入内1の説明は割愛されてるのでよくわからないんだけど、2と3は幕府の権力基盤の確立や畿内(朝廷含む)・西国に対する圧力がおもな目的になるらしい。9月7日には秀忠と与右衛門は大坂城に入り、新しい徳川の大坂城を築くための相談を始める。もちろん、2人っきりという訳でもなく、土井利勝や酒井忠世らの重臣たちも一緒にはいたが、いくつか残る史料から与右衛門が新・大坂城の普請に深く関わったことは確実だという。そして、翌元和6年(1620)3月3日に与右衛門が普請奉行らに送った報告書から「京都之儀」を片づけて2月晦日に大坂入りし、3月1日に「御ふしん鍬始」を始めたことがわかっている。ちなみにこの時の普請惣奉行は戸田氏鉄、普請奉行は花房正成。戸田さんはしじみで膳所おこしをした一西さん(上記膳所城のリンク先参照)の子。花房君は過去のシリーズで結構あちこちに顔を出してますね~。このコンビ、福山城にも関わってなかったっけ?と思ったら、戸田さんの方はちょっと系統が違うらしい。が、花房君は間違いなく福山城建設(元和5年~8年)に携わってる。あちこち忙しいお方じゃのお~(笑)。じゃ、次回は「京都之儀」についてもう少し見ていきます。にほんブログ村
2014年03月07日

お~し、歴バナも(たぶん)もうちょっとだぞ。がんばろ柏の通り魔事件は世間をお騒がせしまして、皆様にもご心配いただきましたが、もう逮捕も間近でしょう。えらいぞ、県警。頑張ったね、市警。亡くなった方には心からお悔やみ申し上げます。さて、ここまで東照宮全般の流れについて見ていきましたが、ここからようやく(笑)上野東照宮関連の話になります。まずは境内の解説から。 【藤堂高虎(1556-1630)は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、 家康を祭神とする宮祠を造った。これが上野東照宮の創建といわれている。 あるいは寛永4年(1627)、宮祠を造営したのが創建ともいう。 もとは東照社と称していたが、正保2年(1645)に宮号宣下があり、それ以後 家康を祀る神社を東照宮と呼ぶようになった。 現在の社殿は、慶安4年(1651)、三代将軍家光が大規模に造り替えたもので、 数度の修理を経ているが、ほぼ当初の姿を今に伝える。社殿の構造は、手前より拝殿、 幣殿、本殿からなり、その様式を権現造りという。 社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造りで、華麗荘厳を極めている。 唐門、 透塀は社殿とともに構造、様式が優れており貴重であることから、参道入口の 石造明神鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠48基と合わせて国の重要文化財に 指定されている。】ふゎい、出てきましたね、藤堂高虎。寒松院のところでは与右衛門(高虎)について書くのを先送りにしましたが、ここ上野東照宮でまとめて書こうと思ったんです。ので、上野東照宮の話に入る前に、少し与右衛門のことを書きたいと思います。近江に生まれた与右衛門はのちに築城の名手として名を上げますが、ごく若い頃についてはあまり詳しくわかってないみたいね。まあ、当初は身分も低かったでしょうしね。築城の名手の他に彼が有名なのが、主君をとっかえひっかえしたこと。ゆえに「節操のない奴」みたいに言われることも多いけど、それは後世の朱子学的観点に基づく偏見であって、与右衛門がバリバリに活躍した時代は別に恥ずかしいことでも何でもなかった。それに、多くが死別だし。現に、秀吉の弟の秀長様と死別するとその養子・秀保に仕え、それもまた死に別れると出家して高野山におこもりしている。身長約190センチと当時にしては目を見張るほどの大男で、ウィキペディアには 【高虎の身体は弾傷や槍傷で隙間なく、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も 短く爪は無かった。左足の親指も爪が無く、満身創痍の身体であり、75歳で 高虎が死去した際に若い近習が遺骸を清めて驚いたと言われている。】とある。主君運はイマイチだったと言わざるを得ないけど、与右衛門自身はその時々で一生懸命身体を張って主君に仕え、文字通り身一つでのし上がった典型的な戦国武将とも言えるだろう。かんべ~を主役にするよりは、よっぽど与右衛門を大河の主役にする方がドキドキワクワクのドラマが出来上がるような気がするんだけどね、私は。どうも、特にその前半生においては世間ウケがイマイチなんだよなあ・・・かわいそうに世間にもまれ苦労も多かった彼の人柄を示すエピソードとしてウィキペディアにはこんな話が載っている。 「と、殿・・・ そ、その・・・それがし、お暇を頂きたく・・・」 「うん、そうか。 じゃ、明日の朝茶を振舞ってやるから来なさい」 翌朝。 「ホレ、ワシの刀も持っていくがいい。 とらば~ゆがうまくいかなかったら、 いつでも戻ってきていいんだぞ」 「と、殿ぉ・・・(涙)」 後日。 「殿、お久しゅうございます。 そ、その・・・ 実は新しい勤め先でうまくいかず・・・」 「そうか、お前も苦労したな。 元の領地に戻してやるから、安心するがいい」 「ちょっと、殿! 甘すぎやしませんか? なんでそんな・・・」 「給料を与えるだけじゃ、それが当然と思ってるから 家臣は心服しない。 人には情けをかけてやらなきゃ。 そうして初めて意気に感じて、命を捨ててまでも恩に報いようと するものなんだよ。 情けがなくて金だけを与えてるうちは、 金を無駄に捨てているようなもんさ。フッ」とな。秀吉の死が間近に迫った頃、与右衛門は家康に急接近したといわれる。この辺りの変わり身の早さも世間にあまり好かれない一因だと思うけど、それ以前から家康との親交があったらしい。『江戸時代初期の朝幕周旋について』(安藤良平)によると、 【高虎が家康と親しくなった事情は、伝えによると家康が秀吉に臣下の礼を とった天正14年、高虎は主命によって聚楽第の一隅に家康の居館造営に あたり、その間高虎の人柄、その働きが家康に気に入られたという】だそうな。これ以降、2人の間では書簡のやり取りなどがあり、与右衛門が海外遠征した折には家康から慰問の手紙が届けられ、与右衛門は海外みやげに「崑崙奴2人、机、さすか(剃刀)、はいとり」を家康に送ったとある。思い切りよく徳川家中に身を投じてからは、彼なりの忠誠を尽くし、関ヶ原では武功もさることながら調略にもその才能を発揮し、東軍の勝利に貢献。これ以降、徳川の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂とされる。浅井長政の足軽からスタートした身代は、今治20万石を与えられるまでになった。慶長9年(1604)、伏見城石垣普請。慶長10年(1605)、夫人と子を江戸に出す。慶長11年~12年は江戸城修築に関わり、慶長13年(1608)、22万石の伊勢安濃津城主に昇進。ウィキペディアによると、転職回数のずば抜けて多い与右衛門は徳川家中にもあまりウケがよくなかったらしいが、地道な奉公が認められて次第に深い信頼を寄せられるようになった。その一例を、『江戸時代初期の朝幕周旋について』からご紹介しましょう。2代目将軍・秀忠といえば、関ヶ原での遅参をはじめ大きな合戦てゆーと大軍を任されたがゆえに行軍で色々苦労し、「影が薄い上に頼りない2代目」という目で見られがち大坂の陣でも冬・夏ともにちょっと鼻で笑っちゃうようなエピソードをお持ちの楽しい将軍様ですが、ここでは冬の陣の話になります。慶長19年(1614)7月26日、家康は方広寺大仏殿棟札および梵鐘の銘文の内容に問題があるとして開眼供養と大仏殿上棟・供養の延期を命じた。10月2日、豊臣方が戦闘準備に入る。10月11日、家康が駿府を出立。10月23日、家康が伏見城に入る。同日、秀忠も江戸を出立。この戦いでは秀忠が総大将として臨みたいと言ったのに、家康はそれをシカトしてさっさと伏見城に入った。スケジュールだけを見ると、オヤジが伏見城に入った日に江戸を出立するなんて遅いもいいとこだと言いたいところだけど、6万もの大軍を率いるとなれば致し方のない面もあるだろう。ようやく準備が整って出発しても、大軍ゆえに素早く伏見城に駆けつけることも難しかった。「おっそ!!秀忠、遅いよ~!!もうワシだけで攻撃始めちゃうよ~!」気の短い年寄りからの催促の書状がどんどこ秀忠の元に届き、焦りまくりの秀忠が10月28日に与右衛門に出した書状がある。「とにかくお願い!ワシも(本多)正信も急いでそっちに向かってるから、ワシらが到着するまでお願いだから待っててくれるように、大御所様に頼んで!もうアンタだけが頼りなんだよ~!!今日は掛川で書状を見て、すぐにでも飛んで行きたいのはヤマヤマなんだけど、何しろこの大軍でしょ~。なっかなか進まないからワシもホントに迷惑なんだけど、とにかく急いではいるから。あと2、3日でそっちに着くと思うから、それまで城攻めは待ってくれるように、とにかく大御所様にお願いしてよ!頼りにしてるよ、与右衛門!とにかく、絶対待っててよ!頼んだよ!!」・・・大筋だけを拾って、ニュアンス優先で現代語訳するとこんな感じになります。ほとんど半泣きで書いたんじゃないか、コレ?って感じの悲痛さが漂う書状です 【その効果は明らかではないが、11月10日秀忠は伏見に着到し、15日には 父子共に、大阪に出陣した。また高虎あての、この書状は次のようなことを 物語っている。 一つは高虎がもはや普通の外様大名として、将軍からあつかわれていないこと、 二つにかれが家康に説得して作戦日時を変更できる参謀の地位にいること、 三つには大御所家康と将軍秀忠という最高指揮官の面目をつぶさずに斡旋する 能力を認められていること、などであり、かれの力量は平時における朝幕の 周旋、戦時の関ヶ原合戦などのすぐれた調略などでよく知られ、これが 秀忠をして高虎に書状を認めた理由であろう。】 (『江戸時代初期の朝幕周旋について』より)安藤氏のこの分析を読んだ時、「う~ん、なるほど~」と思わずうなったね。関ヶ原で赤座直保やら朽木元綱やらを調略したこと、その後は朝廷との交渉にも一役買ったことあたりは戦国ファンにもそこそこ知られていると思うけど、家康と秀忠の双方から深い信頼を寄せられてたことまでは一般にはあまり知られていないんじゃないだろうか。秀忠の書状を読み返してみてください。多少オーバーに書いてはいるものの、原文にも「其方を頼入候」、「是非とも其方を頼入候也」と繰り返しあるし、それこそ恥も外聞もなく与右衛門に頼み込んでいる。秀忠が「たかが外様」と思っていたらここまでしないだろうし、役に立たない奴にどれだけお願いしたって何の意味もない。大坂の陣の時点で、与右衛門はこれだけの立場をゲットしていた。他の武将の話なども読んでると、やっぱり名将と言われ歴史に名を残す方々はそろって人を見る目があるな、と思う。どんなに世渡りが上手でゴマスリが得意でも、そういう鋭い眼を持つ人のことはごまかせない。与右衛門自身に才覚があり、かつ忠勤に励んだからこそあの家康の信頼をモノにすることができたというのは疑いのないところだと私は思う。彼の話はもう少し続きます。↓ぽちっとよろしくね。にほんブログ村
2014年03月05日

ハア、このところ更新が遅れがちで申し訳ござりませぬ。今月の末には建仁寺が上野に出稼ぎにやって来るから、それまでには上野編を仕上げたいと思ってたんだけど、ちょっとキビシクなってきたな・・・土曜日に出かけて、帰ってきてから寒気が止まらなくて途中でインフルでももらってきたんじゃないかと心配になって、熱が上がったらすぐ病院に行こうと様子を見てましたが、幸いインフルではなかったようで・・・ただし、ダルくて何もしたくなかったので日・月ととにかく寝てました。ま、それでも転んでもタダでは起きないとゆーのがわたくしらしいとゆーか、うつらうつら寝てる合間にあれこれ読んでいた時、「上野第二編(55)」で思い出せなかったエピソードの元ネタが書いてある場所を見つけました(笑)。順序がごちゃごちゃで恐縮ですが、忘れないうちにご紹介します。え~と、これは『駿河土産』にあったもので、大体こんなとこかな。 権現様が駿府でご病気になられ、板倉殿へ死後の事を指示されて仰るには 「ワシの廟所は、始祖の廟だから立派なものを造るように秀忠は言うだろうが、 そんな必要はない。子孫の代になればワシより立派なものは造らないように するだろうと考えてのことでもあるので、そう心得て簡素なものにするように」 との事でしたので、権現様が他界された後に板倉殿が将軍様へそうお伝えしたところ、 「そ、それは大御所様らしい仰せでもっともな事でもあるけれど、 あんまり簡素なのもどうなんだろう・・・ じゃあ、ほどほどに立派に見えるように普請方とも相談してくれる?」 と仰ったので、そのように最初の御宮が建立されました。 その後、寛永3年になり秀忠様・家光様がそろって上洛なされた留守中に 御台様(お江)が病気になられ、京都に報告して忠長様(家光の弟)が 江戸へ向かわれましたが、9月16日に亡くなられました。 増上寺での法要などを忠長公が仕切っておられる間に御父子もお戻りに なりましたが、御台様の廟所や御霊屋などの普請は忠長公が担当されたので、 忠長公の望む結構な御普請となりました。 寛永9年正月24日に秀忠様が御他界になった時、その御霊屋などの普請に ついては御台様の御霊屋よりは立派に見えるように造れとの上意があり、 今あるような御仏殿ができました。 しかし、秀忠様の御仏殿と比べると日光の社殿はあまりにも簡素に見えるので、 御宮の立て直しではなく修復という形で秋元泰朝殿が奉行に任命されましたが、 修復に必要な費用は特に制限しないので、秀忠様の御霊屋よりは立派なものに するようにとの指示がございました。 その結果、かかった費用は70万両とのことでした。 このような次第ですから、代々の御霊屋が結構なものになったのも元はと言えば 忠長殿の勝手より起こった事のようです。もちろん、これもどこまでホントの話かわからないけどね~。ただ、「家光はオヤジを嫌ってたから東照宮をそっくり立て替えた」とは当たり前のように言われても、こちらのエピソードを取り上げる歴史ファンってほとんどいないようなので、こういう話もあるよって紹介したかったんです。話の流れとしては無理がないと思うんだけど、結果的にあれほどの豪勢な社殿になったのは、そりゃもちろん家光の権現様信仰と天海のプッシュがあったからじゃないかと私は考えております。さてと、それでは前回に引き続き東照宮の広がりについてもう少し。徳川家と幕府の祖神であった東照宮は、民間でも勧請されるようになり、次第に民間へも信仰が広がり、時には町人たちが自分の正当性を主張する際に東照宮を担ぎ出すような現象も現れるようになった。 【八代将軍となった徳川吉宗(1684~1751)は、財政再建のため 大名たちの江戸参府を半減させるなど、「御恥辱を顧み」ない政策を余儀なく された。傷ついた武威の回復と、分家から宗家を相続した自己の正当性を確立 するため、吉宗の選択したのが東照宮信仰の強調であった。65年ぶりの日光社参 復活は、その端的な表れとされる。】 (『神君家康の誕生』より)へ~、『八代将軍吉宗』(西田敏行主演)ではそんなことやってなかったよな~。吉宗は客観的に見て、とても将軍になれるような立場ではなかった。それが、相次ぐ兄達の死などによって将軍にまで昇りつめた。ここらへんの黒い噂は有名だけどね。家康のひ孫とは言っても、段々血も遠くなってきた。財政も厳しい。あちこち締め直す中で、自己の正当性を示し幕府の精神面を引き締めるのに東照宮を持ち出したのはなかなかいいテだと思う。で、日光社参の他どんなことをやったのかというと、享保20年(1735)、全国の諸大名に勧請された東照宮の所在と神領の調査を命じたらしい。 【吉宗自身に、どこまで東照宮の諸国勧請を拡大する意図があったかは 不明である。しかしながら、政策担当者である寺社奉行は、諸大名の 東照宮祭祀状況の調査を寛永寺に依頼した。寛永寺はその立場を利用し、 各藩に圧力をかけた。正式に別当寺を建て東照宮を勧請している大名は 多くなかったからである。 禅宗寺院に家康の位牌のみを置いていた長州藩は、これを機に領内 天台宗寺院に東照宮を勧請するに至っている。大名たちの横並び意識が、 寛永寺の教線拡大を招いたともいえる。】 (『神君家康の誕生』より)てことで、天海による東照宮創建からずっと後に至るまで、東照宮と寛永寺は切っても切れない関係にある訳で、ゆえに東照宮全般の流れについて、日光ではなく寛永寺シリーズで書こうと思ったのです。ただ、長州なんかは寛永寺の圧力に屈して東照宮を勧請しても、【小規模にして経費を節約し、尊崇の姿勢さえ示せればといった程度を目指して】いたそうで、なんかいかにも~って感じで笑っちゃいましたね。まあ、毛利家の徳川ギライについてはどこまでホントかわからない部分もあるけどね。秋田藩でも長州と同じ頃に外圧を受けて勧請することが決定したらしいんだけど、財政難によりなかなか造営には至らず、まだできてもいない秋田東照宮の別当に着任するために秋田入りした寛永寺の僧が心労のためか死去してしまうというお気の毒な出来事もあったらしい。 【さらにその後も、幕府は各地東照宮の所在を把握しようと試みていることが 確認されている。だが幕府は、最後まで自主的な勧請を制限する方針を出さなかった ため、天台宗以外の寺院や民間で勧請された場合、調査には限界が生じたようである。】 (『神君家康の誕生』より)結局のところ、江戸期においてもその実数は把握できなかったようだけど、当初は武家の領主階級をいかに支配するかに重点が置かれていた幕府の政策は、時代が下るにつれ、庶民までもその支配層に組み込まれ、そうした広い階級を支配するのに東照宮信仰を広める有効性が認識されてきた、と曽根原氏は語る。え~、ちょっと文字数が余ったのでついでに浅草寺の東照宮について。『落穂集』にこんな話があります。 権現様が生前板倉殿へ後事を託された中に、こんな内容がありました。 「日光は江戸から遠い。江戸の庶民も参詣できるように、江戸へも宮を建てるように。 ただし、新たに開山する必要はない。幸い、浅草寺観音堂があるのでそのかたわらに 簡単なものを造るように。」 仰せに従い、日光の普請が始まると同時に浅草寺のお宮普請が始まりました。 日光遷座の際、浅草寺のお宮でも御遷座の儀式があり、諸大名・旗本衆などが参詣 されたようです。 質問者:え?でも今は上野にお宮があるよね?なんで?? それまでの観音堂は北条氏による建立であり、お宮ができた頃には諸堂の多くが破損して 新築でピカピカのお宮に比べると見苦しくてたまらんという噂が幕府にも聞こえ、 将軍家が千住の御鷹野に行かれる際、浅草寺の大破の様子をご覧になり、 観音堂再建のご指示がございました。 諸堂の再建が成った後、近隣から出火し折からの強風にあおられ山門から火が広がり、 本堂を始めお宮まで残らず類焼してしまいました。 その火元は浅草寺と関わりのある家だったので、別当から再度の建立をお願いをする 訳にもいかず、内々に簡素でいいからせめて本堂だけは再建して下さいと申し上げても シカトされるばかり。その後お城へ呼ばれて阿部豊後守殿が言われるには 「元々浅草寺は幕府より建立地とした訳でもないけれど、上意により再建したのだ。 それを自火にも等しい門前からの出火により山内すべて焼失してしまい、 その上お宮まで類焼するとは不調法極まりない。 よって再興はあり得ないが、観音堂は建立してやろう」 という事で、一山僧侶ありがたき仕合せと承ったそうです。 東照宮のご神体は先だって紅葉山へ移されており、そちらにはすでにご拝殿まであるので 当分は建立を引き延ばすという事も伝えられたそうです。 それが今ある観音堂で、私が12歳の時と聞いていますので、もう76~7年前の ことになります。 浅草寺は寛永年間に2回大きな火災があったみたいね。で、逆算すると上の話は2回目の寛永19年の火災のことを言ってるみたい。以前書いたように、浅草寺は家康入府時に定められた祈願寺。家康が江戸庶民の参詣の便を図るために浅草寺にお宮を造れと指示したとはちょっと考えにくいので、まあこれは天海の考えによるものだろう。のちに浅草寺東照宮の御神体は紅葉山に移され、その別当には浅草寺の僧が着いた。その後寛永寺ができて、浅草寺が担っていた祈祷寺の役割は次第に寛永寺にシフトされていく。上の話にあるように、大火の後は東照宮の再建は許されず、綱吉の代になってささいな事をきっかけに浅草寺は寛永寺の支配下に入り、紅葉山別当の地位も奪われてついには元の地位すべてが寛永寺に乗っ取られた形になる。にほんブログ村
2014年03月04日

今日から3月ですね。抜歯手術からちょうど1年経つんだなあ。今日はちょっと出かけてきましたが、関東だから電車も1時間に2本ぐらいはあるだろうと思っていたら、なんと昼間は1時間に1本しかない路線だった。前の電車が行ったばかりだったので、イナカの駅で50分くらい待たされましたよ。 今日はせっかく早目に行動を切り上げたのにさてと、今回は東照宮の広がりについて『神君家康の誕生』(曽根原理著)と『東照宮信仰の広がり』(高藤晴俊著)あたりを参考にざっとご紹介します。が、今回の本題に入る前にちょっと前回の補足をば。『東照宮信仰の広がり』を読み返していて、こんなことが書いてあるのにたった今気がつきました(笑)。 【慶長19年(1614)3月、家康の命によって京都五山の僧侶18名が、 駿府に呼び出され、「論語」為政編冒頭の「政を為すに徳を以てするは、 譬へば北辰の其の所に居て、衆星の之に共(むか)ふが如し」との一説を 題材に作文を命ぜられている。(中略)その内容は基本的には、「天体は 北極星を中心に周回するように、現在の政治は家康を中心に動いている」 として、家康を北極星に見立て、治政の王として讃える論調である。】この前年には天海が日光に入っている。前回の私の推測、日光を早くから国家鎮護の祈祷場としての霊場に据えるつもりだったろうという見方は変わらない。その上で、こうした出来事があったのであれば、さらに家康が日光に鎮座することについて論理に無理があるのかないのか、当代の磧学に意見を聞きたかったんじゃないだろうか、って思った。高藤氏は続けて、日光が江戸の北にあること、空海が「二荒」を「日光」に改めた際に北極星が出現したという伝承、頼朝が日光を信仰していたこと、など家康の求める「北方」には日光がふさわしいと天海が家康に説明しただろうとしておられる。その事自体には私も異論はないのだけど、北極星だの鬼門だのって理屈はあくまで後付けのものだと思うんだよね。さて、それじゃ今回の本題に入ります。元和3年(1617)、日光に東照社が完成。久能山の方も同時進行で 工事が進められた。元和4年(1618)、秀忠が「日光、遠くて不便」と言い出し、 江戸城西の丸東北の紅葉山に東照社を勧請。元和5年(1619)、尾張家の義直(家康の9男)が名古屋城三の丸に勧請。元和7年(1621)、水戸家の頼房(家康の11男)が水戸に勧請。 紀伊家の頼宣(家康の10男)が紀州に勧請。ここまでが将軍家および御三家による勧請の先駆け。「兄ちゃん、ずるい~!」と言いたげに、弟たちが競うように勧請しまくる。導師はすべて天海が務め、水戸家の時には縄張にも参加している。それぞれの東照社は若干の違いもあるものの、日光に準じた規模で、紅葉山の正遷宮の際は将軍・勅使・公卿・在府の諸大名が束帯の正装で参列。水戸家の儀式の時には、尾張家に「ねえねえ兄ちゃん、いくらかけたの?」って法会の費用の明細を送ってもらっているそうで、横並びに格調高く法要が行われたらしい紅葉山には、秀忠以降歴代将軍の御霊屋も造られた。寛永13年(1636)には紅葉山へ参詣する際の服装を定めた命が出され、家康の祥月命日の4月17日、それから正月17日の時には直垂大紋、5・9・12月の17日には長袴のやや略式スタイルが大名達の服装とされた。そして、これをもって江戸詰めの際の大名達には年5回の紅葉山への参詣が義務付けられた。これらの東照社の別当には、天海の法統を継ぐ天台僧が任じられた。寛永2年(1625)、寛永寺創建。寛永4年(1627)、上野に勧請。寛永9年(1632)、八日市場(千葉県匝瑳市)に勧請。寛永10年(1633)、天海が仙波喜多院の隣に勧請。寛永11年(1634)、天海が叡山に勧請。寛永13年(1636)、日光で「寛永の大造替」始まる。寛永21年(1644)、日光の大造替で撤去された社殿や多宝塔を移築して 上州世良田に勧請。ここまでが、天海の発案による勧請。いきなり八日市場なんて関係なさそうな地名が出てくるけど、これは家康が鷹狩りに出かけた際、家康の鷹が行方不明になってしまい、真言宗医王寺の僧が祈祷をしたところ、鷹が降りてきて境内の松に止まったという伝承があり、調伏させられた鷹が止まった松を「御鷹松」と呼んだ。それを聞きつけた天海が松の根元に少祠を建てて東照社を勧請したといわれているもので、医王寺は勧請した時に天台に改宗したという。最後の世良田は自称・新田氏の子孫の徳川氏発祥の地とされていたもので、長楽寺の境内に勧請された。長楽寺はもとは臨済だったが、天海が寛永16年(1639)に天台に改宗させたという。天台への改宗は家康の下命があったとも言うけど、家康の死から20年以上経ってるからな(笑)。まあこれは、世良田が徳川氏発祥の地とされたことから「家康公の御遺命」と天海が大ボラ吹いて改宗させたような気もするけど、他の理由もある。寛永21年ったら天海はもう死んでるけど、あくまでそれは正遷宮の年で、寛永19年には社殿などの移築が始まっていたと思われる。だから天海の発案としても別に不思議じゃない。「上野第二編(13)」で天海の前半生を紹介しましたが、会津で稲荷堂の別当になった後、長楽寺で「葉上流灌頂」の伝法を受けたそうな。そういう、徳川氏と天海のダブルのゆかりがあったので世良田の長楽寺が選ばれたんじゃないかと思う。ここまでのうち、日光・上野・久能山・紅葉山は幕府の直轄。今度は大名達の国許への勧請。元和3年(1617)、弘前藩(津軽氏)が勧請。寛永17年(1640)、加賀藩(前田氏)が勧請。寛永寺から御神体を迎える。正保2年(1645)、岡山藩(池田氏)が勧請。光政君は天海の生前に勧請を 依頼していたらしいが、天海の没後に将軍家から特別の 許可をもらって勧請したそうな。開眼供養は公海が務めた。正保3年(1646)、広島藩(浅野氏)が勧請。慶安元年(1648)、鳥取藩(池田氏)が勧請。 宇都宮藩(奥平氏)が勧請。承応元年(1652)、福岡藩(黒田氏)が勧請。承応3年(1654)、仙台藩(伊達氏)が勧請。津軽氏、はええなあ~(笑)。津軽さんちの信枚(のぶひら)さんは、家康の養女・満天姫を妻にしてるからな。ちなみに、津軽さんちにはこんな伝承があるそうな。 【「天海は津軽信枚に、城内に東照宮を勧請しておけば、もし南部が津軽に 敵対したとき、これは徳川に弓を引いたことになるからと、東照宮の勧請を 幕府に願い出るよう勧める一方、将軍秀忠には、津軽は家康の養女満天姫が 嫁いでおり、また南部や佐竹を抑える北方の要であるからと、願い出を許可するよう 助言。さらに、南部はけしからんから、仮に東照宮勧請を願い出ても、これは 認めるべきではない」と進言したという。】 (『東照宮信仰の広がり』より)相当うさんくさい話だと思うけど、高藤氏によると今日までの調査では南部家による勧請は確認されていないという。ここまでは比較的初期の、それも結構な規模の社殿を有する勧請例。それぞれ、各地域の他の寺の石高を越える東照宮領、もしくは祭祀料が寄進された。トータルで見ると、天台以外の寺でも東照宮の勧請があるらしいが、やっぱり重要なところは寛永寺や天台僧が別当になっている。勧請した大名各家によっても色々違いはあるらしい。たとえば黒田氏。日光にもデカい石鳥居を吉兵衛長政が奉納してるけど、吉兵衛が国許に戻った際には香椎宮や大宰府などの古刹よりも先にまず東照宮に参詣してるんだと。弘前藩を除く上の大名家では、東照宮の祭礼を城下町の重要な行事として位置づけ、祭礼には藩主が観覧したり、町人の練物行列が華やかに行われたりしたらしいが、岡山・鳥取の池田家組は藩主の威光を示すことに重きが置かれ、仙台藩では町人との交流の方が大きかったんだと。高藤氏の調査・研究によると、神社境内の末社となったものまで含めると、全国の東照宮の数は600にも上るという。ある程度の地域の偏りはあるものの、北は択捉島から南は沖縄まで、全国津々浦々に東照宮があったらしい。私がこれまで旅先で見た東照宮は、名古屋が2つと忍領だったかな。忍は結構譜代があれこれ入っているから当然だよな~と思ってたんだけど、『神君家康の誕生』によると、意外なことに大名家による勧請は全体の2割ぐらいだそうで、【とくに譜代大名は臣下の分際を配慮し勧請を遠慮した】だそうな。まあ、忍領には多く譜代が入ってるとはいえ、元々は奥平松平氏の勧請だから、一門によるものってことになるのかな。家光の腹違いの弟・保科正之については「上野第二編(41)」で少し紹介してますが、忠義者だけあって東照宮も熱烈に信仰していた。東照宮ファンでかつ熱心な朱子学信者だった正之の考えは、原則東照宮を祀ることができるのは将軍や領主から認められた場合で、藩が城下で祀るべきというものだったらしい。たとえば、会津領内の日光輪王寺の末寺が、「権現様から家光公までのお位牌を安置してましたが、寺が破損しちゃったので臨時に薬師堂を修復して仮置き場にしてるんです。ちょっと修復費が足りないので、お金ください」って願い出たところ、「権現様と縁もゆかりもないイナカにお位牌を置くのはかえって権現様を汚すようなものだ!」として却下。また、別の浄土宗の寺から「うちは増上寺の存応上人から権現様のお位牌を賜ってるんです。由緒がある寺なんで、『殺生禁断』の高札を揚げてもいいですか?」と上申したところ、正之は「由緒~?ハッ別にお前んとこは将軍家やワシから認められたものでもないし、単に僧侶内での由緒じゃないか。だいたい、田舎の小庵なんかに権現様のお位牌を置くなんざ、かえって権現様に無礼じゃないか!」としてこれまた却下。なんか、わかりやすい人だよねそうは言っても、会津でも民間で祀られた例もあったようで、他の地域、特に家康にゆかりの深い東海・関東などでは民間の東照宮も多かったそうな。にほんブログ村
2014年03月01日
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