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千林駅にやってきました。駅名標開業当時は現在より西に250mほどの場所にありました。森小路駅のところでもご紹介しましたが、千林駅が「森小路駅」を名乗っていました。1931年(昭和6年)10月14日に専用軌道となって、駅は現在地に移設されました。同年の12月28日、森小路駅から「森小路千林駅」に改称されました。1942年(昭和17年)4月1日に、今の「千林駅」に再び改称され現在に至っています。千林駅ホーム複々線の外側の線にホームがあるという、これまで見てきた野江駅や関目駅とよく似た構造です。普通列車の到着直前、枚方市駅行きの特急が追い抜いていきました。
2009年03月31日
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ふたたび、京阪の森小路駅についてです。狭いホームホームへの階段森小路駅にはエレベータもエスカレータもありません。階段で幅がいっぱいで、ホームを歩くにも気を使います。ところで、駅から新森公園へ続く「新森商店街」を歩いていると、ところどころ、店先に下のような張り紙が貼ってありました。改札廃止?数年先をめどに計画しているようです。どこまでオーソライズされた話なのかも分かりませんが、たしかに森小路駅はバリアフリー化が遅れていますので、検討は必要です。東口と西口を結ぶ自由通路は、人がすれ違うにも苦労するほど狭いので、現在の改札内の通路といっしょにして開放すれば、通路が広がり通行が楽になってメリットはありそうです。計画では、そのために東口(新森側)の改札を廃止することになるようです。張り紙を読むと、「階段上り口までの距離を比べると10倍以上遠回りになります」という表現があります。何を基準にするかで「10倍」は変わりますから、この表現には共感できません。しかしたしかに、西口改札から先、ホームまで長い通路ができそうですね。バリアフリーのためとはいいながら、足の不自由な人にとって遠回りになるとけっこうたいへんです。ほんとうにバリアフリーになっているのか、きちんと検証しながら進めてほしいものです。
2009年03月30日
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京阪の森小路駅の近くにある新森公園を訪れたときの話を続けます。あけやん2515さんからいただいたコメントにもありましたように、大阪市営バスには新森公園前というバス停があり、ここを始発・終点とする路線もあります。新森公園前バス停新森公園のバス停は公園の西北に隣接するロータリーにあります。31系統・天満橋行き1番のりばバス車庫すぐ近くにはバスの車庫があります。とはいっても、道路に面した駐車場といった感じで、囲いも何もありません。駅前のバス停ではないので、なんだかのんびりとした雰囲気のバスターミナルでした。
2009年03月29日
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「森小路」は江戸時代からある地名で、かつて付近一帯には樹木がうっそうと茂り、その中に小路が続いていたことから呼ばれるようになったそうです。新森中央公園 森小路駅から東へ400mほど行ったところには、新森中央公園があります。単に新森公園と呼ばれることもあります。この「新森」という地名は、いつからあるのでしょうか? ひょっとしたら、森小路駅の開業当時の「新森小路駅」に由来するのか、それとももっと以前から存在する地名なのか、よく分かりませんでした。森小路遺跡の碑 新森中央公園の中には、「森小路遺跡」と書かれた石碑がありました。碑の横に設置した説明板には「弥生時代の代表的な集落遺跡で、当時大阪平野に広がっていた河内潟(かわちがた)という内海の中の微高地に位置していた」とあります。地図によると森小路は河内潟の北岸にあり、ここから南側に内海が広がっていたようです。堆積によって大阪平野が次第に形成されていった時代なのでしょう。
2009年03月28日
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京阪の森小路駅には東口と西口の2つの改札があります。西口西口西口に隣接してスーパーマーケットがあります(写真の右手)。線路をくぐりぬけている車道は東行き一方通行です。東口東口改札と自由通路東口の改札口のすぐ横に狭い通路があります。人がすれ違うにも気を使いながらです。自転車は押してくださいという掲示がありますが、ほんとうに乗ったままでは通れないくらい狭いです。
2009年03月27日
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京阪の森小路駅にやってきました。駅名標 京阪本線の開業当時、「森小路」という名前の駅は存在していたのですが、それは現在の千林駅へとつながっています。現在の森小路駅は、1931年の専用軌道化によって、「新森小路駅」として開業しました。1931年10月に新線ができたときには、蒲生-野江(移転)-関目(新設)-新森小路(新設)-森小路(移転)-滝井(新設)-守口という並びでした。(土居駅は翌年の開業です)同年12月には、森小路駅の名称が「森小路千林駅」に変えられました。わずか2ヶ月での変更です。このころは簡単に駅名が変えられたのでしょうか? いまなら駅名を変えるだけでかなりの費用が生じますよね。1942年(昭和17年)4月になって、新森小路駅から「森小路駅」に名称が変更になりました。このとき同時に、森小路千林駅も「千林駅」になりました。現在の森小路駅は、島式2本4線のホームになっており、緩急接続もできそうなのですが、停車するのは普通だけです。かつて内側のA線(優等列車が走る線)のホームが使われたことがあったのかどうか、優等列車が停車していた時期があったのかどうか、調べてみても分かりませんでした。現在は内側の2線には柵が設けられて通過専用となっています。森小路駅ホーム内側(A線側)の柵ホーム柵内(B線側)京橋方向
2009年03月26日
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京阪が開業した当時の旧線をもう少し追いかけてみました。(ちなみに、開業当時は「関目駅」は存在していません。)京阪本線の開業当時は、現在の地下鉄谷町線・野江内代~関目高殿駅間とほぼ同じ経路を通っていたようです。道路との供用区間だったのでしょうか。交差点の案内板地下鉄の野江内代駅から関目高殿駅に向かう道路に設置された道路案内板です。関目5丁目という交差点です。関目5丁目交差点上の写真はさきほどの道路案内板の交差点「関目5丁目」です。左方向(バスが信号待ちで止まっている)が国道1号線京都方面、右方向が国道1号線梅田新道方面、右奥(茶色いマンションが建っているところ)が国道163号線・緑1丁目方面です。道路案内板には描かれていないのですが、写真で分かるように、中央やや左側にもう1本、道があります(正面中央の寿司屋の左側)。どうやらここを京阪の旧線が通っていたようです。いまではかなりの交通量がある大きな交差点ですが、当時はどうだったのでしょうね。関目高殿駅3番出入口撮影は地下鉄・関目高殿駅の3番出入口前で行いました。
2009年03月25日
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京阪本線の開業時は現在より西寄り、旧京街道に沿って通っていました。関目駅は、1931年10月、路線が現在の位置に移されたときに新たに開設されました。関目神社この辺りは大坂城の鬼門にあたるため、鬼門を守護するために豊臣秀吉が建てたと言われる神社がいくつかあります。そのひとつが関目神社で、京阪・関目駅から西北西に400mほどのところ、旧線沿いにあります。関目神社というのは通称だそうで、正式には「須佐之男尊(すさのおのみこと)神社」 というそうです(神社境内の説明に書いてありました)。秀吉が鬼門を護るために建てたと言われている神社はこのほかにもあって、大宮神社(大阪市旭区大宮3丁目)、二ノ宮神社(枚方市船橋本町)、片埜神社(枚方市牧野阪2丁目)などが挙げられます。関目発祥之地関目神社の境内には「関目発祥之地」と書かれた碑が置かれていました。右側にある説明によると、野江・関目を中心とした周辺一帯は近衛家の荘園だったところで、平安時代以降、「榎並(えなみ)荘」として知られていました。「関目」という地名は、この地に見張所(目で見る関所)があったことから起こったといわれています。明治時代、野江村・関目村・内代村の3つの村が合併して榎並村となり、大正時代には榎並町になったということです。3つの村の名前は住居表示にも駅名にも残っていますが、榎並は小学校の名前にその名を留めているだけのようです。
2009年03月24日
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西改札口京阪の関目駅には改札口が2ヶ所あります。西改札口のすぐ前が国道1号線です。地下鉄と隣接西改札口は、地下鉄今里筋線の関目成育駅(写真右の黄色いところが入口)と隣接しています。建物は別ですが、雨にぬれることなく乗り換えできます。東改札口上の写真が東改札口です。造りからいうと、規模は東側のほうが大きいようです。改札内の通路上の写真は、東改札口から内部を覗き込んだところです。西改札口まで見通せます。ホームへの階段が左側2ヶ所にあります。柵で仕切られた右側には自由通路があります。
2009年03月23日
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各駅停車で、京阪の駅をご紹介しています。今日は関目駅です。駅名標出口の案内京阪の関目駅は地下鉄今里筋線の関目成育(せきめせいいく)駅と隣接しています。今里筋線の開業は2006年12月24日で、この案内表示も新しいものです。もうひとつ、地下鉄の谷町線が近くを通っており、関目高殿駅という駅があります。京阪の関目駅とは300mくらい離れています。かつては谷町線の関目高殿駅も関目駅と呼ばれていました(ただし、乗り換え駅の扱いはされていません)。ホーム野江駅のところでもご紹介しましたように、この区間は複々線の直線が続くところです。ダイヤの密度も高いので、手早く撮影するには好都合です。
2009年03月22日
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現在では駅周辺はマンションや住宅が立ち並んでいますが、昔は川の氾濫などで水害も発生していたようです。野江という地名からも、水辺に近いことが分かります。現在の野江駅からは少し離れますが、地下鉄の野江内代駅の近く(榎並小学校の南側)には、野江水(のえすい)神社があります。野江水神社鳥居の上部水神社の碑 この神社には水を司る水波女大神(みずはのめのおおかみ)が祀られています。現在の神社は明治時代に建てられたようですが、1533年に三好政長がこの地に榎並城を築城のおりに水害にあい、水火除難の守護神として城内に社を立てたのが現在の社殿の位置だと言われています。1583年には豊臣秀吉も大阪城築城に際し、やはり水火除難の守護神として社殿を修復し、国家泰平を祈願したといいます。洪水の記録もあり、昔からこの地は治水に苦労していたことが想像されます。榎並城跡伝承地の碑野江水神社のすぐ近く、榎並小学校の脇に、「榎並猿楽発祥の地 榎並城跡伝承地」と書かれた碑が建っています。この碑の右側には、「この地は摂津猿楽の一流として中世に栄えた榎並猿楽発祥の地として知られ また 戦国時代 三好政長がこの辺りに榎並城を築き子息政勝と共に居城にしたと伝える」と記されています。野江水神社のことを調べていると、「この辺りに大和川にかかる橋があった」との記述を見つけました。え? 大和川? 大和川って、大阪市と堺市の境界辺りを西に流れて大阪湾に流れ込んでいるけど?そこでまたまた調べていくと、今から300年ほど前までは、大和川は南から北に流れて淀川に合流していたということだそうです。驚きました。江戸時代に大規模な川の付け替え普請が行われたんですね。新たに川になる土地の農民は大反対。失われた農地も多かったようです。しかし一方で、それまで川だったところは農地になっていきました。いわゆる「新田」です。学研都市線に「鴻池新田」という駅がありますが、この辺りも旧大和川の流域だったところで、大坂商人の鴻池の資本で開拓された大規模な新田だということです。野江からずいぶん話が広がってしまいました。
2009年03月21日
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京阪の野江駅は、京阪本線の開通と同時に営業を始めた駅です。当初は、現在の地下鉄谷町線・野江内代(のえうちんだい)駅の近くにあったようです(詳しくは分からないんですけど)。開業当時、蒲生駅(現在の京橋駅)から守口駅(現在の守口市駅)付近までは、現在よりも西寄りを通っていました。とくに野江駅から森小路駅の辺りまでは、「京街道」と呼ばれる昔の街道筋沿いに走っていたそうです。昔の街道は、ところどころわざと曲げて作られています。とくに顕著な箇所は「七曲がり(ななまがり)」と呼ばれることもあります。このような道の形状は宿場の出入口や武家屋敷などでよく見られ、敵の進攻を阻止するためだということです。この辺りは「野江の七曲がり」とも呼ばれていたようです。榎並小学校東側(北向き)上の写真は地下鉄谷町線・野江内代駅近くにある榎並(えなみ)小学校前、東側の道路を北向きに撮ったものです。京阪の旧線はこの辺りを走っていたのではないかと思っています(違っていたら教えてくださいね)。野江4丁目付近榎並小学校の東側の道を北に向かうと、大きな通りに出ます。その地点から、来た道を振り返ったところです。上の写真の右側が大通り、左側が今来た道、つまり旧線と思われる道です。京阪がどこまで忠実に京街道に沿って走っていたかよく分かりませんが、カーブが多くてスピードアップができなかったのは事実みたいです。1931年、蒲生駅~守口駅間が専用軌道化されて直線ルートになり、同時に野江駅は現在の場所に移りました。1933年には複々線化されました。このときの輸送力増強が、現在の京阪の礎(いしずえ)となっています。
2009年03月20日
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改札口(内側)京阪・野江駅の改札は1ヶ所だけです。改札口(外側)高架下をくぐりぬける自由通路に面して、改札口があります。駅舎(西側)改札口や売店は、西寄りにあります。駅舎(東側)東側にも入口がありますが、東側入口自由通路を通り抜けて西側まで回ることになります。ところで、まだ少し先になりますが、いずれJR西日本の「おおさか東線」が新大阪まで延伸されたときには、近くに駅ができるようです。場所は京阪・野江駅と地下鉄・野江内代駅の中間辺りでしょうか。ただ、野江駅には普通しか停車しないため、京都方面からの乗り換えはあまり便利ではないかもしれません。(優等列車で京橋まで行ってしまったほうが早いかも)
2009年03月19日
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駅名標野江駅ホーム野江駅は、複々線のうちB線と呼ばれる外側の2線にのみホームがあります。B線は緩急列車用で、京橋~守口市駅間でB線を走るのは通常は普通だけです(回送を除く)。京都方面野江駅の付近は複々線かつ直線が続き、通勤時間帯ともなると走行している4~5本の列車が見渡せることでけっこう有名な区間です。ホームから京都方面を見ると、隣の関目駅(野江駅から700m)、さらにその先に森小路駅(野江駅から1600m)が十分に見えています。さらにその先の電車まで写っていますね。でも、地図上ではまっすぐでも、上下に波打っているように見えますねえ。
2009年03月18日
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JR大阪環状線を越えると、急に繁華街らしくなります。(13)京橋東商店街 旧駅舎があった「グランシャトー」ビルを通り過ぎると、商店街の入口があります。京阪の旧線が商店街に変わったわけです。焼き肉や寿司などの飲食店、パチンコ店などの娯楽施設が並んでいます。(14)商店街の東側商店街を抜けると、ちょうど京阪本線の高架下に出ます。(15)交差する道路を渡ったところは、現在は駐車場になっています。この先で合流していたのでしょう。京阪が開業した当初の蒲生駅は、この辺りにあったようです。
2009年03月17日
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京阪の京橋駅がまだ地上駅だったころの旧線跡を追いかけています。ようやくJR大阪環状線が見えてきました。(11)JR環状線西側JRの電車が通過JR大阪環状線が国道1号線と交差する辺り(京橋西交差点)の南50mほどの地点で、旧線は大阪環状線と直行します。京阪は地上を走っていましたから、この場所で下をくぐっていたわけです。(12)環状線の交差地点いまは歩道があるので道路自体は狭い感じがしますが、歩道を含めれば、ちょうど複線が通れるくらいの幅だと思います。京阪はここを通っていたのですね。JRの線路の向こう側、道路の右側に建っているビルが、京橋の老舗レジャービル「グランシャトー」です。京阪・京橋駅の駅舎は、1969年までこのビルの位置にありました。
2009年03月16日
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京阪の旧線を追いかけて、コムズガーデンの西側までやってきました。まっすぐに進むとコムズガーデンに入っていくことになります。ここで道路は途切れています。(7)公園コムズガーデンの地表部分は公園になっていて、幸いなことに公園の中を通って旧線跡をさらに追いかけることができます。足元で右往左往するハトを踏みそうになりながら、公園の中へと入っていきました。(8)京橋コムズガーデンコムズガーデンは、地下1階と地下2階に飲食店などが入った商業施設で、天井のない吹き抜けの構造となっています。地下2階部分には、地下鉄京橋駅のコンコースがあります。(9)コムズガーデン東側コムズガーデンの地表部分を通り抜けると、公園東側の入口です。この先、また一方通行の道路が続きます。緩やかに右にカーブしており、この辺りでは東向きに進むことになります。(10)JR環状線方向へ客待ちのタクシーの列を見ながら進むと、前方にJRの高架が見えてきました。大阪環状線です。(続く)
2009年03月15日
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京阪の京橋駅が高架になる前の路線を西側からたどってみることにしました。各写真の撮影地点に番号を入れています。(1)桜宮幼稚園前 分岐は、片町交差点の東寄り、線路の北側にある幼稚園の前付近から始まります。右側の高架が京阪本線で、この先に京橋駅片町口があります。(2)旧線との分岐点同じ方向ですが、高架側の歩道から撮ってみました。この辺りから、旧線は現在の線よりやや北寄り、上の写真でいうと、左側の道の方へ向かっています。初めは歩道ですが、すぐに北東向き一方通行の車道になります。(3)地下鉄2番出入口道路の右側に、地下鉄の長堀鶴見緑地線・京橋駅の2番出入口が見えてきました。(4)地下鉄1番出入口さらに北東に進むと、今度は道の左手に1番出入口が見えてきました。この辺り、地下鉄・長堀鶴見緑地線が道路に沿って走っています。(5)(6)コムズガーデン西側右に少しカーブすると、すぐに公園に突き当たってT字路になっています。この公園はコムズガーデンの地表部分です。(続く)
2009年03月14日
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暖かくなってきたかと思えば急に寒くなったり、花粉が舞ったり、、、体調を維持するのが難しい季節ですね。京橋駅の話を続けます。1910年4月15日、天満橋~五条間で京阪が営業を始めたとき、「京橋」という名前の駅が天満橋駅のすぐ近くにありました。しかし両隣の天満橋駅(当時は今のOMMビルの位置)および野田橋駅(今のJR大坂城北詰駅の近く=片町駅に改称後1969年に廃止)に近すぎるということで、同じ年の12月には廃止されたということです。わずか8ヶ月の短命な駅だったんですね。位置関係が分かりにくいと思い、簡単な地図を作りました。天満橋駅の東に「京橋」という名前の橋があります。この辺りに初代・京橋駅があったようです。同じく開業時、「蒲生」(がもう)という駅がありました。1932年になって、蒲生駅はJR大阪環状線(当時は国鉄城東線と呼ばれていました)の東側に移転し、1949年になって、国鉄に合わせて駅名を「京橋」に変えました。この時点ではまだ高架化されていません。京橋駅が高架になる前、旧線は現在とは少し離れた場所を通っていたようです(上の地図の赤い破線部分)。文献を頼りに地図上で経路を追いかけているうちに、どうしても現地で確認してみたくなり、休みの日に旧線跡をたどってみることにしました。(続く)
2009年03月13日
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大阪の「キタ」や「ミナミ」と比べると知名度は落ちますが、京橋の周辺を「ヒガシ」と呼ぶことがあります。JRの大阪環状線・学研都市線、地下鉄の長堀鶴見緑地線との乗換駅である京阪の京橋駅は、一日平均20万人近くの人が利用します。京阪の駅の中でもダントツの1番です。駅ビルには「京阪モール」などの商業施設やホテルが入っており賑わっています。ダイエー京橋店 南側には「ダイエー」があります。OBPへの通路 1980年代になってOBP(大阪ビジネスパーク)が開発され、京阪の京橋駅片町口から川を越えてOBPまで、屋根付きの歩行者用通路が作られました(JR京橋西口、ダイエーともつながっています)。1990年になると、地下鉄長堀鶴見緑地線(開業当初は「鶴見緑地線」)の京橋駅開業に合わせて「コムズガーデン」という地下街(地下とはいっても中央部分が吹き抜けで屋根はない)ができました。昨年11月には、西側に「KiKi京橋」がオープンしました。ここには吉本興業直営の「京橋花月」が入っています。
2009年03月12日
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片町交差点の北 京阪開業時、片町交差点の北側には「野田橋」という駅がありました。その後、「片町」と駅名を変えました。1969年11月、この場所が高架になったときに、駅を設けるのが困難という理由で片町駅は廃止されたということです。片町口入口片町口改札口このとき同時に、大阪環状線の東側にあった京橋駅が現在の場所(大阪環状線の西側)に移転したとき、片町駅廃止の代わりとして、京橋駅に片町口という改札口が作られました。西口と言わずに片町口と呼ばれる理由がここにあるようです。いまでは地下鉄やOBP(大阪ビジネスパーク)との連絡口としてしっかり機能しています。
2009年03月11日
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中央口(改札内)中央口(改札外)京阪・京橋駅の改札はJR側(京都寄り)の中央口、西寄りの片町口があり、さらに駅ビルの商業施設「京阪モール」との連絡口とエレベータ専用の改札口には自動改札機が設けられています。上の写真はいずれも中央口です。JRとの乗換口として、毎日多くの人が利用しています。京阪京橋駅中央口京阪京橋駅の中央口とJR京橋駅の北口とは向かい合っており、京阪の高架下の通路を通って傘を差さずに乗り換えが可能になっています。1969年、それまでは環状線の東側にあった京阪の京橋駅が、高架化に伴って西側に移転した後もずっと、JR(当時は国鉄)京橋駅の北口は、東に向いて開いているだけでした。今の状態になったのは、1980年代になってからのようです。京阪から国鉄への乗り換えのためには、いったん環状線の下を通って東側に出る必要がありました。
2009年03月10日
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駅名標今日は京橋駅です。駅の手前(京都側) 京阪の京橋駅は、野江~天満橋間の高架化に伴い、1969年に現在の場所に移りました。現在の駅はビルの中にあります。ビルから出る電車ホームは4階部分になります。ホーム(2、3番線)2面4線のホームがあり、方向別複々線(↑↑↓↓と並ぶ)になっています。原則として内側(A線)を優等電車が、外側(B線)を緩急電車が使います。天満橋駅方向一方、天満橋駅では線路別複々線(京阪本線と中之島線が↑↓↑↓と並ぶ)になるため、京阪本線上り(淀屋橋発)の電車は天満橋駅を出たあと、中之島線の上をまたいで京橋駅に進入する形になっています。そのため、中之島線との乗り換えは分岐駅の天満橋駅ではなく、同じホームで乗り換えが可能な京橋駅で案内しています。
2009年03月09日
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天満橋交差点前京阪の天満橋駅には東西2つの改札口がありますが、地下鉄谷町線やOMMビルとつながっている東側のほうが人の出入りが多いようです。上の写真は東改札、天満橋交差点に面した入口です。東口北側上は、駅ビルを東側から写した写真です。ビルの北側(右側の面)は大阪市営バスのターミナルになっています。手前の道路が谷町筋で、すぐ北側(写真右手)には「天満橋」がかかっています。頭上に高架道路が見えていますが、これは天満橋が2階建てになっているからです。高架道路はそのまま南側(写真左手)の天満橋交差点で土佐堀通をまたいでいます。シティモール天満橋駅の上に立っているビルは、京阪シティモールという商業施設です。もともとは百貨店の松坂屋天満橋店がありましたが、2005年にシティモールに変わりました。天満橋駅東付近天満橋駅の東側に寝屋川(淀川の支流)を渡る鉄橋があります。京橋駅を出た電車はこの鉄橋を渡り、そのまま地下線へと入っていきます。地下入口の上に建っているビルがOMM(大阪マーチャンダイズマート)ビル。地上駅だったころの天満橋駅があった場所です。現在の天満橋駅(京阪シティモール)とは地下通路で結ばれています。
2009年03月08日
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前回触れました市営モンロー主義について考察しようと思います。読み飛ばしていただいてけっこうですよ(笑)。市営モンロー主義とは、一言でいえば「市内の交通に営利目的の企業は手を出すな」という政策です。とくに戦前の東京や大阪でその傾向が顕著です。◆東京の場合東京の場合、「山手線の内側は国と都が担う」という方針でした。そのため、山手線内の鉄道路線は、国鉄(=現在はJR東日本)の中央線、営団地下鉄(=現在は東京メトロ)、および都営地下鉄で占められています。地下鉄を除いた路線図を見れば、市営モンロー主義の結果は一目瞭然です。山手線の中を中央線が横切っているだけで、あとはほとんど空白です。山手線の内側に入り込んだ民鉄の駅は、京成上野駅、泉岳寺駅(京浜)、西武新宿駅くらいのものです。中心部への進出のために東京の民鉄がとった手段は、地下鉄への乗り入れでした。その結果、東京の中心を通って関東の各方面へ直接つながる鉄道ネットワークが形成されていきました。民鉄が個別に山手線内に路線を延ばすよりも利便性は高いかもしれません。ただし、同じ運営体なのに路線ごとに車両の仕様が異なる、遅延の影響が広範囲に及ぶ、3社にまたがる運賃の精算が複雑など、いろんな課題もあります。◆大阪の場合一方の大阪では、地下鉄線との乗り入れはほとんど進展しませんでした。大阪の場合、地下鉄が市域外に出て行くことにも消極的だったようです。大阪市営地下鉄で乗り入れが実現しているのは北大阪急行南北線(御堂筋線江坂駅以北)、近鉄けいはんな線(中央線長田駅以東)および阪急千里線(堺筋線天神橋筋六丁目駅以北)です。(旧・テクノポート線もかつては「乗り入れ」でしたが)このうち北大阪急行と近鉄けいはんな線は民鉄側が「第三軌道方式」に合わせることで乗り入れが実現しました。2006年にけいはんな線の生駒 - 学研奈良登美ヶ丘駅間(8.6km)が開通しても、両線の地下鉄車両は25km足らずの乗り入れ距離にしかなりません。生駒駅では近鉄奈良線と接しているにもかかわらず、地下鉄は伊勢や名古屋はおろか、奈良へも京都へも行けないのです。地下鉄側が一般的な架線方式を採用した堺筋線(阪急千里線・京都線に乗り入れ)が唯一、本格的な乗り入れだといっても過言ではないと思います。地下鉄が、コストの安い第三軌道方式を採用(のちには新交通システムやリニアモーターカー方式なども採用)したことで、民鉄との乗り入れは物理的に困難になりました。結果的に、大阪の民鉄はそれぞれ独自に中心部まで路線を延ばすしかなくなります。しかし、民鉄側の新路線計画に対して、地下鉄側も似たような新路線計画をぶつけたりして、かなり反対や妨害もしたようです。京阪の天満橋から淀屋橋への延伸(1963年)、近鉄の上本町から近鉄難波への延伸(1970年)、さらに最近ではJR東西線(1997年)、京阪中之島線(2008年)、阪神なんば線(2009年)と相次いで市内中心部への乗り入れ、通り抜けが実現しています。さらには南北方向に貫く「なにわ筋線」も計画されております。これらは大阪の市営モンロー主義の終焉を示すものと言えましょう。3月開業の阪神なんば線で結ばれる阪神や近鉄にすれば、おおげさに言えば、ベルリンの壁が崩壊したような、そんな思いなのかもしれません。
2009年03月07日
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「先覚の志ここに成る」1963年4月16日、天満橋~淀屋橋駅間が地下路線として開業したときに、天満橋駅は地下化されました。それを記念して書かれたのがこの文字です。OMMビル建設のため、ホーム上に移設されたそうです。それにしても、「先覚の志ここに成る」とはどういう意味なのか? この話をするには、戦前からの「市営モンロー主義」の話に触れなければなりません。「市営モンロー主義」を一言でいうならば、「市内交通に営利企業は手を出すな」という施策のことです。大阪の場合、大阪環状線の内側にかろうじて入ることはできても、地下鉄線の内側へ入り込むことはかなりの困難だったようです。京阪線の建設計画では、当初、高麗橋(こうらいばし=北浜の近く)を大阪側の起点としようとしたそうですが、大阪市の反対で天満橋に変更させられたといいます。天満橋駅周辺の地図を見ると、少し東寄り、いまは「大阪マーチャンダイズ・マート・ビル(OMMビル)」の駐車場の出入口になっていますが、そこに「京阪東口」という名前の交差点があります。当時はここに天満橋駅の東口があったようです。天満橋駅は地下鉄谷町線によってブロックされた形になっていました。「先覚の志ここに成る」の文字を見るにつけ、大阪中心部への延伸は「悲願」だったことが伺えます。京阪本線の天満橋駅が開業してから53年を経ての「悲願達成」だったわけです。月日は流れ、中之島駅に達するまでに98年、1世紀近くかかったことになります。
2009年03月06日
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駅名標天満橋駅は、1910年の京阪電気鉄道開業(天満橋~五条間)と同時に営業を始めました。路線は道路との併用区間も多かったといいます。天満橋駅も当時は地上駅でした。4番線の乗換案内それから98年を経て、天満橋駅から分岐して中之島駅までの3.0キロの路線が完成し、2008年10月19日に営業を始めました。3番線3番線から淀屋橋方面を見る3番線と4番線はもともとは行き止まりで、京都方面への始発電車用のホームでした。通勤時間帯以外は使われることがありませんでした。中之島線の工事に伴い、淀屋橋方面のホームとして使われるようになり、それまで淀屋橋とつながっていた1・2番線は、中之島線のホームになりました。2番線・中之島方面2番線東改札口
2009年03月05日
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駅名標京阪の北浜駅は、1963年4月16日、天満橋~淀屋橋駅間の開通と同時に設けられました。2番線ホームホームは1面2線で、ホーム中央に柱が立っていることもあって、手狭な感じがします。地下通路でつながっている隣の淀屋橋駅との距離は公称500m。しかし淀屋橋駅の1・2番線は北浜寄りにありますので、実際にはもっと近いかも。北浜駅を出た電車が淀屋橋駅の入線信号に引っかかって停車すると、最後尾はまだ北浜駅のホーム、という光景をときどき目にします。改札口北浜駅は、地下鉄堺筋線との乗換駅でもあります。堺筋線の開業は1969年12月6日。地下鉄のほうが京阪の下を走っています。地上入口難波橋から見る入口地上に出るとそこは難波橋(なにわばし)の南詰。ライオン像が鎮座しています。北浜といえば東京・兜町と並ぶ株取引の中心地。「のりば」と書かれた北浜駅入口のすぐ南側、丸みのある建物が大阪証券取引所です。周囲には証券会社がたくさん並んでいます。淀屋橋のところでも触れましたが、江戸時代の豪商「淀屋」が開いた「米市」が発展し、全国の米相場に影響を与えていたといいます。堂島(中之島の北にある地名)に設けられた「米会所(こめかいしょ)」では、米の先物取引が行われていました。これは世界初の本格的な先物取引と言われています。大坂が「天下の台所」と言われたのは物流の規模や消費量の大きさだけではなく、経済への影響力の大きさゆえですね。
2009年03月04日
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淀屋橋淀屋橋の名前にもある「淀屋(よどや)」は、江戸時代の豪商です。江戸時代の大坂は天下の台所と言われていましたが、その基礎となるのが米。全国の米相場がバラバラでは経済が安定しないので、淀屋は幕府に願い出て、全国の米相場の基準となる「米市」を設ける許可を得たそうです。淀屋はこの「米市」を中之島に設立します。そのために自費で架けた橋が淀屋橋だということです。中之島には諸藩や商人の蔵屋敷が多く集まり、その数は100を軽く超えていたとか。淀屋橋駅の南側には、江戸時代に蘭学者・医者として有名な緒方洪庵が開いた「適塾」があります。国の重要文化財に指定されています。適塾の流れは大阪大学医学部へと続いているということです。この周辺を散策すると、いろいろな大阪の歴史と出会えそうです。
2009年03月03日
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歩道にある説明日銀の前の歩道の傍らに、「淀屋橋・大江橋 欄干の復元」と書かれた説明板が設けられていました。昭和62年10月の日付があり、「御堂筋完成50周年記念事業」と書かれています。大江橋駅のところでもご紹介しましたが、淀屋橋と大江橋は、2008年に国の重要文化財に指定されました。コンクリート製の橋が指定されるのは珍しいそうです。少し歴史を紐解いてみました。1923年から11年以上にわたり大阪市長をつとめた関一(せき・はじめ)氏は、都市計画の専門家でもありました。その当時、大阪市の第1次都市計画が立てられ、御堂筋の拡幅工事、地下鉄御堂筋線の建設などが行われました。その一環として、2つの橋のデザインが全国から募集され、1等入選作をもとに設計、1930年に着工、1935年に完成したということです。御堂筋の一帯は、都市計画による制限で建物の高さが揃い、とくに淀屋橋から南に向けての通りは、都市建築の美しさを見ることができます。しかしその制限もだんだんとなくなってきており、高いビルも建つようになりました。そのような中で2つの橋が重要文化財に指定されたというのは、当時の第1次都市計画のすばらしさ・先見性が改めて評価されたといえるかもしれません。大阪市政への功績により、中之島公園に関一氏の銅像が建っているそうです。
2009年03月02日
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淀屋橋交差点淀屋橋駅を地上に出ると、そこは淀屋橋の交差点。幹線道路の御堂筋(みどうすじ=国道25号)が南北に走っています(正確に言えば、南行きの一方通行ですが)。上の写真は交差点の北東角から南西向きに撮ったものです。 淀屋橋駅の北側に架かっているのが「淀屋橋」。この道が御堂筋です。土佐堀川橋の下を流れるのが土佐堀川。水上バス「アクアライナー」の船着場(淀屋橋港)が見えています。大阪市役所(左)淀屋橋港の向かい側、淀屋橋を渡るとそこが中之島。写真左の建物は大阪市役所の庁舎です。
2009年03月01日
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