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京阪の枚方公園駅の西にある淀川。河川公園は、何度来ても気持ち良いところです。河川公園(枚方地区)同上上の写真の橋は「枚方大橋」です。夕方が近づいている時間帯だったので、逆光気味になっています。このような広々とした場所に居ると、太陽の動きと時間の経過を感じることができます。会社の中で昼間から蛍光灯の下で仕事をしていると、一日の経過が判らなくなりますね。同上中央の塔は、「枚方水位観測所」だそうです。この日は休日で、駐車場はほぼ一杯でした。家族連れで賑わっていました。枚方大橋駐車場の上には枚方大橋。枚方市と高槻市を結ぶ橋です。現在の橋は2代目だそうですが、1930年に完成した初代の橋は、京阪電気鉄道の宇治川・木津川に架かっていた橋を架け替えるときのお下がりを使ったということだそうです。同上上の写真、京阪バスがやってきました。阪急・JRの高槻駅・茨木駅と京阪の枚方市駅を結ぶ路線バスです。同上振り返るとひらかたパークです。ここに「枚方市」の標識があります。枚方市と高槻市の市境は、川の真ん中にあると思っていたのですが、改めて地図を見たら、なんと左岸(枚方側)の河川公園の真ん中にありました。まさしく、この標識は市境に設置されています。同上上の写真にある「枚方水位観測所」の塔が立っている場所も、高槻市ということになります。なんだか違和感を感じますが。枚方大橋の中央部上流を見渡したところです。さすがに中央部に来ると、水量の多さが判ります。
2009年09月30日
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京阪の枚方公園駅の西口から淀川の方へと歩いて行くと、淀川の堤防上を走る府道13号線(旧・国道1号線)に出ます。桜町の交差点この交差点でひらかたパーク方向に向くと、交差点近くに何やら石碑が見えます。交差点近くの石碑同上同上そこには、自然石に「郵便屋の渡し跡」と書かれた碑があります。「郵便屋さん 走りんか もうかれこれ 十二時や・・」 郵便屋さん、走りなさいよ、もうかれこれ、12時ですよ。同上明治10年(1877年)、対岸(つまり淀川右岸=高槻市側)に鉄道が開通したとあります。東海道線のことですね。あれ? Wikipediaによれば高槻駅は明治9年(1876年)開業となっていますが??淀川左岸では、片町線の四条畷~長尾駅間が開業したのが明治31年(1898年)、京阪電鉄の開業は明治43年(1910年)です。というわけで、この一帯の郵便物は渡し船で対岸まで渡り、高槻駅まで運んでいたということです。淀川にはいくつか渡しがありましたが、枚方の渡し(対岸は「大塚の渡し」)の利用が多かったようです。「この渡し場は、これより上流約五七〇米のところにありました。」と書かれています。ということは、「三矢」の交差点の近くになりそうです。じゃあ、なんでここに石碑が? と突っ込みたくなるんですけどねえ。。。
2009年09月29日
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京阪の枚方公園駅の東口を出て右手、商店が並んでいる写真をもう一度。「恩地食品」という会社の看板が出ています。スーパーの店頭でときどき見かける「おんちのうどん」の食品メーカーです。アルミの容器に入った鍋焼きうどん、そのままコンロに掛けて調理ができるので、手軽でいいですよね。関西ローカルのテレビCMだと思いますが、浜村淳さんの「あ~、おんちかった」のフレーズをご存じの方もいらっしゃるかもしれませんね。恩地食品の本社ひらかたパークの正面入口から西へ、踏切を渡った少し先に、恩地食品の本社工場があります。逆光で見にくくてすみません。恩地食品の看板まだ少し汗ばむ日もありますが、まもなく10月。しだいに温かいものが美味しい季節になろうとしています。鍋焼きうどん、いかがですか。(笑)
2009年09月28日
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京阪の枚方公園駅は、言うまでもなく「ひらかたパーク(ひらパー)」の最寄駅です。関西の遊園地が苦戦するなか、けっこう頑張っているみたいでなによりです。うちの子どもが小さいときは、家族で遊びにいったりしていました。夏にプールに行ったこともあります。独身時代にはスケートリンクで転んでました(けっして滑っていたとは言わない)。駅前の商店同上枚方公園駅の東口を出て右側、さらに交差点を右手に曲がった先まではアーケードがあり、商店が並んでいます。食堂に土産物屋、写真屋などがあります。土産物屋は日曜日以外は閉まっていることも多いようです。このアーケードの先まで来ると、ひらパーが右手に見えてきます。ひらパーへの道同上同上同上同上ひらパー前の道路ひらパー正面を横切る道は、比較的最近できました。この道ができて、駅周辺の道路事情はかなり改善されました。ひらパー入口この日はもう夕方で、ゲートでは係員がお客を見送っていました。南側駐車場ひらパーには、南側(正面ゲートとは反対側)に大きな直営駐車場があります。正面ゲート近くにも小さいのがあるのですが、すぐにいっぱいになります。また、周辺には民間の駐車場もありまして、車で前を通りかかると手招きされますので、ご注意を(笑)。さて、長くなりましたが、あと1枚、写真をご紹介します。枚方大橋からの景色国道170号線(外環状線)で高槻方面から枚方にやってくると、淀川にかかる枚方大橋の上から、ひらパーの全貌がよく見えます。とくに大観覧車はどこからでもそれと分かる大きなものです。夜になるとイルミネーションが光りますので、さらに目立ってますよ。
2009年09月27日
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京阪の枚方公園駅の改札は、ロータリーのある東口のほかに、西口にもあります。西口西口は、上り・出町柳方面のホームに直結しています。改札を入ったらすぐにホームです。改札の内側、左手に階段があり、地下道を通って下りホームとつながっています。西口のスロープかつては、西口を利用するにはこのスロープを上るしかありませんでした。西口正面の階段同上現在は、階段ができています。駅前広場同上平成16年(2004年)5月から平成17年(2005年)3月にかけて、西口の駅前整備が行われました。枚方宿の説明板枚方公園駅のすぐ西を京街道が通っており、ここから枚方市駅付近にかけては枚方宿として栄えた地域です。東海道57次の56番目の宿でもあります。西口の公園内には、その概要を説明する案内板が設置されています。(枚方宿については、後日、ご案内いたします)鍵屋資料館の案内板ちなみに、こんな数字があります。・枚方公園駅乗降客数 23,427人(平成16年11月) 30,490人(平成17年11月)・鍵屋資料館入場者数 9,194人(平成16年4月~12月) 11,419人(平成17年4月~12月)乗降客のほうは1日当たりでしょう。鍵屋資料館のほうは期間中の合計なんでしょうね、たぶん。すべてがこの整備事業の効果と言えるのかどうか知りませんが、増えているのはたしかです。広場ができて、駅前は明るくなった気がします。このスペースは無駄という人もいるそうですが。
2009年09月26日
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京阪の枚方公園駅は、1910年(明治43年)に天満橋~五条間が開業したと同時に営業を始めました。当時は「枚方」駅という名前でした。駅名標ホーム相対式ホームで2面2線の構造です。それぞれのホームに改札口があり、両方のホームは改札内の地下道で結ばれています。この周辺も朝のラッシュ時間帯は開かずの踏切になります。駅を利用する人は地下道を利用できますが、それ以外の人は踏切が開くのを待つしかありません。今年(2009年)2月中旬から1ヶ月間、無料のICカードを配って駅構内の通り抜けの効果を検証する実験(朝7時~9時)をしていましたが、あくまでも実験だけだったようです。ひらかたパークのキャラクタ外側の柵にもひらかたパークの最寄駅ということで、妖精のキャラクタが駅までお出迎えといったところです。東口ひらかたパークのある東口は、行楽シーズンの休日には家族連れなどで賑わいます。また平日朝は、バスから降りた通勤客が改札に向かって駆けて行きます。改札口から電車のドアまで15メートルほどかな。でも、駆け込み乗車はしないでくださいね。同上駅前ロータリー駅の出口の目の前がバスの乗り場です。香里団地を経由して枚方市駅に向かう路線が設定されています。同上
2009年09月25日
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京阪・光善寺駅の名前の由来となった出口御坊・淵埋山光善寺は、浄土真宗の蓮如上人が61歳のときから3年間住まわれたところです。ここから近畿一円に伝道にでかけたといいます。光善寺(正面)光善寺の正面の門の左側に、何やら石碑が立っています。「蓮如上人御腰掛石霊跡」の案内左を指さす絵があり、「是ヨリ二丁」と書かれています。ここから南へ2丁(200メートルほど)先に「御腰掛石」なるものがあるということですね、行ってみましょう。京街道沿い道なりに南へ行くと、T字路がありました。この左手に何かあるようです。なんとなく趣きがある道ですね。この道は旧・京街道だそうです。とはいっても、京街道が整備されたのは豊臣秀吉の時代。蓮如上人が生きたのはその100年前です。「御田地」の石碑「親鸞聖人 蓮如上人 御田地」と書かれた石碑。御田地って、なんでしょう? ここに出口御坊の田があったのか? これについての説明はなし。「蓮如上人御腰掛石之碑」明治四十二年己酉四月、つまり1909年に建てられた記念碑です。これによると、「蓮如上人は越前の国吉崎よりこの地へ移られた。9軒あった在家のうち箕屋の空念(つまり石見入道光善)に道を説いて聞かせるために石に腰かけた、これはその霊跡である」ということだそうです。荒れてしまっていたので同志を誘ってこの土地を買って整備し、上人の遺徳を千載に伝えたい、と書かれています。「腰掛石」蓮如上人が腰掛けたと伝わる石です。「蓮如上人御遺跡」の碑石碑は新しいように見えますが、「文明七年乙未歳八月下旬」、つまり1475年と刻まれています。蓮如上人が加賀の国吉崎を出て出口に着いたそのときを指しています。左側の面には「河内国茨田郡中振郷之内山下庄出口村九軒在家之内 箕屋某」と書かれています。枚方・出口の地に住んだのはわずか3年ですが、解りやすく仏の道を説き、人々を引きつけた蓮如上人。この石の上でどんな説法をしていたのでしょうね。
2009年09月24日
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京阪・光善寺駅の西側の商店街を抜けて、国道1号線の中振交差点を渡り、北西の方角を目指して歩くと、光善寺にたどり着きます。あらかじめ地図で確認していたのですが、目標となるものが少ないので、少し迷いそうになりました。光善寺(正面)「出口御坊 光善寺」「淵埋山 光善寺」当時、この地には大きな池があり、それを埋め立てて建立されたので、山号を淵埋山(えんまいさん)と名付けられたそうです。正面右手境内に入るには、右手に回る必要があります。右手の入口本堂同上本堂は天文3年(1534年)に火災に遭い、慶長年間に再建されました。現在の本堂は寛永14年(1637年)の建築だそうです。蓮如上人像ここは浄土真宗の中興の祖として知られている、本願寺八世・蓮如上人が開基したお寺です。上人の教えに帰依していた石見入道光善の請いにより、光善寺が建立されました。光善寺の名はこの「光善」に由来します。蓮如上人像の「謹録」蓮如上人像の台の部分に「謹録」と題して由来が書かれています。引用すると「河内國中振郷出口村箕屋祖空念(石見光善)ナル者今日ヨリ約五百五拾年前ニ此ノ地ニ居住ス蓮如上人ニ請イ光善寺ヲ創建ス蓮如上人ヨリ空念ノ法号ヲ賜ル」とあります。さらに、箕屋の別家が空念の跡目を継ぎ、眞田左衛門尉幸村(真田幸村)に従い戦功を上げ、宝刀と吉田姓を賜ったとあります。昭和38年、吉田家の子孫が寄進したのがこの像です。文明7年(1475年)8月、蓮如上人は、一向一揆が起きた北陸を離れてこの地に移られました。争いを嫌い、諌めるためだったといいます。文明10年(1478年)までの3年間、ここを拠点に近畿一円で伝道を続けたといいます。蓮如上人が来たころの出口村はわずか9軒の小さな村だったそうですが、やがて枚方・招提・出口は寺内町として賑わいました。長男の順如を光善寺の初代住職とし、自らは山科本願寺再建のため、京都・山科に移りました。屋根の上には、、、本堂の屋根の上に、なにやら怪しげな動物の像が?? 鬼瓦の一種でしょうか。ちょっと気になったので写真に収めましたが、よく判りません。
2009年09月23日
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京阪・光善寺駅の南にある蹉だ神社です。絵馬堂からさらに階段を上がりました。本殿へ続く階段灯篭の並ぶ境内境内に石灯篭が並んでいます。いずれも立派で、境内が狭く見えます。拝殿拝殿の上り口には「土足厳禁」と書かれています。靴を脱いでお参りします。狛犬の前掛け、紅白ですね。その下には「中振村 若中」と書かれています。若中(=若仲)とは、今でいえば青年団でしょうかね。「中振村 若中」の文字枚方市が発行している「郷土枚方の歴史」には、次のような記述があります。「男子が一定の年齢に達すると、元服祝・名替えをして村の若仲(わかなか) に加入した。若仲は、祭の主役として神輿(みこし)を担ぎ、山車(だんじり)を曳き、獅子舞を奉納した。若仲は祭礼だけでなく、相撲の興行、村内の警備・消防にもあたり、婚礼にも関与する村の重要な組織であった。」「中振村の若仲は文化11年(1814)には武将の絵馬、同13年には石灯籠・狛犬を蹉だ神社に奉納し、その経済力が窺える。若仲の活発な行動に対して、一般には寛大な態度が示されていたが、往々にして若さから村の秩序を乱すこともあり、しばしば取締りが図られた。」絵馬堂にあった武者は、この記述にある絵馬と同じなんでしょうか? それにしても、若い人たちのエネルギーが伝わってくるような話です。境内左側の摂社境内の左側には、摂社が並んでいます。上の写真、右から順に、皇大神宮社、金比羅神社、春彦神社、稲荷神社です。神楽堂右手には「神楽堂」があります。結ばれたおみくじこれから秋になっていくと、受験の神様も忙しくなりそうですね。おみくじの間にきれいな色が見えていますが、これは千羽鶴です。願い事が叶いますように。御神牛神の御使い、御神牛のいる祠です。同上なんだか可愛いですね。癒されます。
2009年09月22日
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京阪・光善寺駅の南にある蹉だ神社(蹉だ天満宮)の境内に入ってみました。鳥居から先は階段になっています。蹉だ神社 絵馬堂絵馬堂(繪馬堂)が、階段の途中にあります。掲げられている絵絵馬堂の中にはいろんな絵が掲げられていました。上の絵は、服装からすると明治維新前後の官軍でしょうか? それとも日清・日露戦争? とくに説明がないので、素人には分かりません。絵馬堂の展示物上の写真、上部右側は牛車みたいですね。ここは天満宮ですから牛は神の使いです。左側の武者はだれかな? 弓を持っているようです。消火ポンプ手前は「腕用ポンプ」と呼ばれる消火ポンプです。実物のようです。壁には、昭和57年(1982年)に書かれた説明が掛っています。この年の「消防100年祭」と「枚方市制35周年」を記念してのものだそうです。これによると「このポンプは旧蹉だ村消防組で使用されていたもの」で、昭和15年ごろまで現役だったようです。当時の関係者から「当地区内は勿論 遠く寝屋川枚方の火災現場まで高張提灯を先頭に手引で行き 火災が鎮火するまで何時間でもワッショイワッショイと頑張って消火された」と聞いたと書かれています。半鐘この半鐘(はんしょう)もかつて現役だったということです。約100年もの間、地元に火事の発生や風水害の避難警報を知らせてきたということです。
2009年09月21日
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京阪・光善寺駅の東口を出て、京阪の線路沿いに600メートルほど南に歩くと「蹉だ(さだ)神社」への参道が見えてきます。蹉だ神社は「蹉だ天満宮」とも呼ばれているようです。(「蹉だ」の「だ」は、「足」へんに「它」)蹉だ神社参道蹉だ神社の鳥居「蹉だ参道」の名標振り返ると、、、同上一の鳥居を通ってから来た方を振り返ると、京阪電車の踏切があります。警報機が鳴り始めましたので、タイミングを見計らって「パチリ」。うまく8000系の顔が収まってくれました。さだ神社同上この地で「蹉だして悲嘆」した苅屋姫のことを伝え聞いた菅原道真は、不憫(ふびん)に思って自身の木像を作って送り与えたということです。その後、天暦(てんりゃく)5年(951年)、村人がこの地に社殿を造営してその木像を納めたといわれています。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で兵火により社殿は焼失しましたが、ご神体は無事であったため再建され、現在に至っています(現在の社殿は明治22年(1889年)の改築)。「蹉だ天満宮」鳥居には「蹉だ天満宮」と書かれています。ここから先、階段が続いています。
2009年09月20日
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これから「蹉だ神社」の話をしたいと思いますが、その前に「蹉だ」(さだ)という地名について調べてみました。「蹉だ」の「だ」は、「足」へんに「它」と書きます。あいにく漢字コードにない(PC依存性があるので使えない)ため、やむを得ず「蹉だ」と書くことにします。ちなみに「蹉だ」と「足摺り」は同じ意味だそうです。四国・高知県の有名な足摺岬は、別名「蹉だ岬」ともいうそうです。先日、菅相塚のところで、菅原道真とその娘・苅屋姫の物語をご紹介しましたが、苅屋姫はこのとき「足摺り(あしずり)して歎き悲しんだ」と言われています。私は、悲嘆して足がもつれてつまずき、前にのめって倒れそうになっている様を思い浮かべました。「足摺り」を辞書で調べると「じだんだを踏むこと」って書いてありますけど、このとおりだと駄々っ子みたいですよね。蹉だ神社「由緒略記」「蹉だ神社」の境内に掲げられた説明板によると、菅原道真が大宰府に赴く際に「遥に京の都を望み深く名残りを惜みて西へ旅立たれり 此の休息ありし山を菅相塚と称ふ」となっています。そして苅屋姫は「御別れを惜まれ御跡を慕ひて此地にならせられしが遂に及ばずして遥に西天を望み蹉だして悲嘆せらる 其旧跡を蹉だ山と名づく」ということです。この説明どおりですと、苅屋姫が「蹉だして悲嘆」したのは「菅相塚」ではなく「蹉だ山」だということになります。菅相塚は蹉だ神社から南東1キロメートルほどのところにあります。蹉だ神社のほうが淀川に近く、見渡すには都合の良い場所にあるように思えます。しかし菅相塚のほうが高台にあり、実際、建物の間から淀川も見えるそうです。地図を見ると菅相塚の北側には「蹉だ山公園」「淀見公園」「淀見通り」などの地名が見受けられます。刈屋姫が「蹉だした」正確な場所は分かりませんが、いずれにしても、この周辺は淀川を見渡すのに適した場所だったのでしょう。
2009年09月19日
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京阪の光善寺駅の南側の踏切にやってきました。 駅南側の踏切商店街のある北側の踏切との間に挟まれて、8両編成に対応したホームがなんとか収まっているようです。苦労してホームを延ばしたのでしょうね、ほんとうに狭いホームです。旧出口出町柳方面の上りホームの南寄りには、上の写真のように改札口があります(ありました?)。京阪のホームページで光善寺駅の構内図を確認したのですが、上の出口は記載されていません。私の記憶では、ここは朝だけの臨時改札(出口だけ?)で、学生専用だったかな??(うーん、思い出せない)ここから路地を通って南へ少し行くと、線路を跨ぐ歩道橋があります。歩道橋を渡った東側に「大阪市立高等学校」があります。大阪方面からの学生が遅刻しないようにとの配慮で、朝だけの出口があったのだと思います。それにしても、枚方市内に大阪市立の高校があるのは、なんだか不思議な気もしますけど、気にすることもないんでしょうね。大阪市立の高等学校は他にもあるのですが、「大阪市立〇〇高等学校」ではなく、「〇〇」が無いのが正式な名称だそうです。同上現在は門扉で閉鎖されているようです。橋上駅になったときにその役目を終えたようです。
2009年09月18日
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京阪・光善寺駅の周辺の踏切は、朝のラッシュ時間帯には開かずの踏切になります。このような踏切が香里園駅付近から枚方公園駅付近まで20ヶ所あるそうです。その間、線路と立体交差しているのは国道1号線のみです。光善寺駅が橋上駅化される前は上り・下りのホーム別に改札口があったため、反対側のホームに行きたくても、踏切に遮られて何本も列車をやり過ごさなければなりませんでした。それが原因で遅刻したりしそうですね。橋上駅化されて、少なくとも踏切のせいで乗り遅れることはなくなりましたが、車の渋滞は相変わらずです。改札口(外側)改札口を出て右手に曲がると、通路があります。これは線路に沿って走っている府道を跨ぐためのものです。府道を跨ぐ通路奥に、エレベーターがあります。東口府道を跨いだところに東口があります。ここに東口を造るにあたって、地権者と少しもめていたみたいです。東口駅裏の路地にある道標東口の裏手の道の端に小さな道標がありました。何度か読み返しましたが、「右のさ記至」と読めそうです。「右、野崎へ至る」ということだと思います。光善寺駅からだと、野崎観音は南の方角になります。
2009年09月17日
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京阪の光善寺駅です。改札口は橋上にあります。改札口(外側)改札口は1ヶ所だけです。西出口改札を出て左寄り正面が、西出口です。エレベーターが左手にあります。右側のエスカレーターは上り専用です。西口上の写真は西口です。かつては京都方面行き専用の改札口でした。左側は踏切です。駅舎と西出口階段(右側)上は、西口に続く踏切を渡ったところから撮った写真です。上部が橋上駅舎で、右側に見えるのが西口の階段とエスカレーターです。左手に大阪方面のホームが見えていますが、ここに大阪方面専用の改札口がありました。同上西口のすぐ右手に設けられたローマ字の駅名標です。いままで気付かなかったんですけど、さりげなく設置されていました。西口駅前の商店街光善寺駅前の商店街です。狭くて放置自転車が多いですが、ここの踏切には車止めがあって、車が入ってくることはありません。
2009年09月16日
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京阪が明治43年(1910年)4月15日に天満橋~五条間で営業を開始してから遅れること8ヶ月、光善寺駅が開業したのは同年12月15日のことです。駅名標京都寄りホーム光善寺駅は対面式の2面2線の地上ホームを持つ橋上駅です。橋上駅になる前は、ホーム別に2つの改札口がありました。上の写真ではホームの端(正面)は柵になっていますが、ここがかつての改札口でした。下り2番線ホームホームは線路の曲線部分にあり、しかも通過列車のためにカントがついている(つまり、曲線の内側に線路を傾けている)ため、下り(淀屋橋方面)ホームの列車は上部がホーム側に傾いた状態になります。下りホーム淀屋橋寄り曲線上のホーム上りホームの列車同上下りホームの通過列車ホームの線路際を歩くのは本当に危険です。下りホームに到着の列車上の写真、カメラが傾いているようにも見えますが、立っている人はほぼ真っ直ぐですよね? 平衡感覚が無くなりそうです。ドアが開いたとたん、傾いた車両から吐き出されるように人が下りてきます。
2009年09月15日
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京阪の香里園駅から1キロほど東、寝屋川市に菅相塚という地名があります。枚方市と隣接しており、さらにその東には香里団地があります。漢字の読みは「かんしょうづか」ですが、町名のほうは「かんそうづか」となっています。菅相塚の「菅相」とは、菅の宰相(さいしょう=右大臣)、つまり菅原道真のことです。平安時代の延喜元年(901年)、醍醐天皇は、左大臣・藤原時平の讒言(ざんげん)を信じ、道真を大宰府の権帥(ごんのそち)に任命、つまり左遷してしまいました。斎世親王(ときよしんのう)の妃として入内していた(つまり宮中の人になっていた)娘の苅屋姫(かりやひめ)は、父(道真)の左遷を伝え聞き後を追い、菅相塚の地までたどり着きました。しかし高台から見渡せる淀川には、父の乗っていると思われる船がはるかかなたに見えたものの、時すでに遅く、悔しさと悲しさで、泣き叫ぶほかはなかったといいます。これとは別に、左遷された道真がこの地に立ち寄り、はるか都の方角を眺めて憂い悲しんだことから、いつしか菅相塚と呼ばれるようになったという伝説もあります。実際に菅相塚に行ってみました。たしかにこの辺り一帯は、香里園駅と香里団地の間にあって高台になっています。しかし宅地化が進んだからでしょうか、淀川を見ることはできませんでした。菅相塚町の一画何か目印になるようなものはないか探しながら歩いていると、上の写真のような階段を見つけました。「憩いの広場」下から見ても分かりませんが、階段の上は広場になっていました。広場の中想像とは違い、見晴らしもなにもありません。同上簡単な遊具とベンチ、あずまやが設けられています。菅相塚の由来を語る「鉢かづき姫」像菅相塚という地名から、古墳か何かがあるかもしれないと言われ、調査もされましたが、いまのところ出土品も歴史資料もなにも無いということです。
2009年09月14日
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京阪の香里園駅の周辺を巡っています。「成田山不動尊前」から道沿いに、第五小学校前の「壁画」を見ながら進んでいくと、「同志社高校前」という交差点が見えてきます。「同志社高校前」交差点交差点の角地交差点に隣接したスペースはオープンになっています。校名標「良心ノ全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ」という言葉が添えられています。この言葉は、校祖・新島襄が学生に与えた書簡の一部に書かれていたと言われており、同志社教育の基礎と考えられています。この言葉が書かれた「良心の碑」が、京都の今出川・京田辺の大学キャンパス正面にあるそうです。年に何回か京田辺キャンパスに行く機会があるのですが、まだ見た記憶がございません(懺悔)。「良心の碑」はここの敷地内にもあるらしいです。バス停京阪バスの「同志社香里」バス停です。ベンチには屋根があり、「同志社香里中学校・高等学校」と書かれています。同校の所有か寄贈されたものなのでしょう。灰皿?中学や高校の学生が使うバス停ですが、良く見るとベンチの間に灰皿が置かれているようですが。。。そりゃ一般の人や職員も使うバス停ですけど、ここは禁煙にして欲しいところです。正門入口付近交差点から先、なだらかな坂を上がって行くと、守衛室があります(上の写真、左端)。ここから先は入れません。校庭きれいに整備されたグラウンドです。ラグビーのゴールポストが見えていますね。同志社香里高校のラグビー部は府内でも上位の強豪です。
2009年09月13日
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京阪・香里園駅の南東、成田山不動尊の南側正面の山門から境内に入りました。本堂前参道を進むと本堂の前です。ここではお線香の煙を浴びます。正月など、人出が多いときには勢いよく煙が出てケムいです。身体の悪い部位に煙を浴びると治るとかいうので、私は必ず頭を突っ込むのですが、、、、ケムくてすぐに諦めます。本堂立派な本堂です。階段を上がったところで賽銭を投げ入れます。ただし、ここは神社ではありませんので、柏手は不要です。手を合わせて静かに祈ります。霊場巡りここは霊場巡りのようです。各地の霊場がここに集められているようです。うっかりしていて確認できていないのですが、四国八十八ケ所だったかな(違っていたらごめんなさい)。ここだけで霊場を巡ることができるということです。奥之院への参道同上本堂から奥(北)の方へ階段を下りていくと、お滝行場や奥之院があります。奥之院夕方に行くと、残念ながら扉が閉じていました(午後3時までと書かれていました)。中に入ったことがありますが、行きどまりのトンネルになっていて、生まれ年の十二支に応じた8つの守り本尊(十二支によって重複あり)が祀られています。通路の両側に祀られており、ろうそくが灯されお祈りしている人がいて、狭い通路をすれ違うのにも気を使います。正月ならひっきりなしに人が出入りしますが、参拝者が少ない時期は、中が暗いだけに神秘的な空間かも(閉所恐怖症の人は要注意)。護摩木の煙夕方、そろそろ暮れようかという時間に、なにやら境内があやしげな煙に包まれました。どうやら護摩木(ごまぎ)を燃やしているようです。
2009年09月12日
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京阪・香里園駅の南東でうろうろとしています。第5小学校の壁画を見ながら道なりに北に進むと、「成田山不動尊前」という交差点があります。「成田山不動尊前」交差点この交差点の中に「成田山不動尊前」という京阪バスのバス停があります。狭い道ですので、バスを抜くのは容易ではありません。この交差点の西側(上の写真の左手)が成田山不動尊です。成田山不動尊(正面)「聖母女学院」の正門から歩くと、成田山不動尊の北西角へ出て、塀伝いに正面に回れます。(下の写真)聖母女学院側からの道北山門北側にも山門があります。トレーニングによさそうな(笑)階段が続きます。この寺院は、正しくは「成田山大阪別院明王院」。真言宗智山派に属しているということです。地元では「成田山」とか「成田山不動尊」と呼ばれています。近畿36不動尊霊場の第28番となっていますが、昭和9年(1934年)に創建された新しい寺院です。この地は大阪の「鬼門」に当たるため、宅地開発があまり進まなかったとか。そこで京阪電気鉄道が、千葉県成田市にある総本山「成田山新勝寺」に大阪別院の建立を要請したそうです。成田山は交通安全祈願で有名です。成田山のお守りを付けている自動車をときどき見かけます。京阪の車内には、成田山不動尊のお守りが掲げられています。祈願といえば普通は人間がするものですが、ここでは人間と自動車がともに参拝して交通安全祈願を行います。正月など、車の列が御堂の前にずらりと並び、なかなか壮観です。また、節分の行事も有名で、関西の有名どころが招かれ、大々的に豆まきを行います。鬼門を守る成田山の境内には鬼はいないということを強調するため、豆まきでは「福は内」しか言わないそうです。 (続きます)
2009年09月11日
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京阪・香里園駅の南東、聖母女学院のさらに南側に、第五小学校があります。第五小学校の壁面第五小学校は校舎(上の写真の左手)とグラウンド(右手)が道で隔てられています。双方をつなぐために専用の橋が架けられています。道路に面して、壁面がありますが、そこにはきれいな色のイラストが掲げられています。鉢かづき姫のイラスト同上背景や着物の色が違う、同じ構図の壁画(って言えばいいんでしょうか)です。鮮やかな色なので、いやでも目立っています。寝屋川市内のいたるところで見かけた鉢かづき姫の案内像。いろいろと寝屋川市について勉強もさせていただきました。「はちかづきちゃん」というかわいいキャラクターもあって、寝屋川市のHPを見ると、キャラクターグッズの販売や着ぐるみの貸し出しもやっているみたいです。
2009年09月10日
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京阪の香里園駅の南東、友呂岐神社の南側に「聖母女学院」があります。聖母女学院聖母女学院は、大正12年(1923年)に、大阪市玉造で開校したそうです。その後、昭和7年(1932年)、寝屋川の地に校舎が建てられました。現在、姉妹校を含めて幼稚園から短期大学までが設置され、このうち寝屋川市には、小学校から高等学校までがあります。中学校と高等学校は女子のみですが、小学校(大阪聖母学院小学校)は男女共学です(校名にも「女」は入っていません)。また、京都市伏見区にある「聖母学院」は姉妹校です。正面玄関の校舎校門を入って正面のこの校舎は移転した当初に建設されたものだということです。著名な建築家アントニン・レーモンド氏による設計だということです。
2009年09月09日
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京阪・香里園駅の南東に、友呂岐(ともろぎ)神社があります。友呂岐神社香里園駅の西にある鞆呂岐(ともろぎ)神社と同じ「ともろぎ」ですが、漢字が少し違います。しかし、この地に古代からあった皇室の荘園は、「友呂岐」とも「鞆呂岐」とも書くようです。鞆呂岐神社のほうは平地にありますが、友呂岐神社の周辺は小高い丘になっています。古い鳥居の跡階段を上がる途中に、かつてあった鳥居のことが記されていました。倒壊の恐れがあったので再建したとあります。かつての鳥居には「寛保三年九月吉日 三井氏子中建立」の文字が刻まれていたようです。寛保三年は1743年、世は八代将軍徳川吉宗の時代。「三井(みい)」は地元の地名です。御所水御所水の由来はよく分かりませんが、この地はかつては御所山と呼ばれ、皇室の別荘が置かれていたということですので、この水もそれに関係しているのでしょうか。右側は布袋様でしょうかねえ。以前は無かったような気がします。友呂岐神社の境内階段のてっぺんには鳥居があって、広いとはいえないものの、手入れが行き届いた境内があります。拝殿裏の鳥居裏側の鳥居です。こちらかた入ってくる参拝者も多いようです。御祭神境内に大きな石が置かれ、神社の御祭神の説明が書かれていました。それによると、「応神天皇」「菅原道真公」と並んで「茨田連袗子」と書かれています。友呂岐神社は、「誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)」を祭神とし、もとは「八幡神社」と称して、この地の氏神とされていたそうです。菅原道真公は、周囲の神社を合祀するときに加わったようです。それでは、「茨田連袗子(まむたのむらじころもこ(あるいは、ころものこ)」とは?「絶間橋」のところで「工事を成功させるために人柱を立てることになったと日本書紀に書かれている」と御紹介をしましたが、その人柱の一人が「茨田連袗子」です。ただし日本書紀に描かれている「茨田連袗子」は、トンチを利かせて死なずにすんだことになっています。太間神社(現在の太間天満宮)が友呂岐神社に合祀されていたとき、「茨田連袗子」が祭神になったようです。現在でも太間天満宮には「茨田連袗子」にまつわる話が伝わっているらしいということです。それにしても、もう1ヶ所で人柱となった「武蔵の強頸(こわくび)」は泣く泣く水に入っていったといいますから、なんだか割り切れない気持ちが残ります。
2009年09月08日
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京阪の香里園駅の西にある鞆呂岐(ともろぎ)神社の境内です。若宮八幡入口の鳥居鞆呂岐神社の本殿の右奥に「若宮八幡」があります。「奥宮」とも呼ばれているそうです。鉢かづき姫の説明文は、この鳥居について語っています。鳥居に刻まれた文字鳥居には「播州赤穂城主 浅野長矩家中四十七人之内 村松喜兵衛秀直四代之孫 村松喜兵衛源尚次」と刻まれています。浅野長矩(あさのながのり)とは、浅野内匠頭(たくみのかみ)です。「忠臣蔵」で有名な四十七士のひとり、村松喜兵衛秀直の4代目の孫が寄進したようです。説明板によると「秀直の子、政右衛門は伊豆大島に配流されますが、四代将軍家綱の法要を機に赦免されましたので、その後、木屋村に移り住んだ」らしいということです。若宮八幡奥宮とも呼ばれる「若宮八幡」の本殿です。狛犬に刻まれた文字こちらの狛犬はかなり古そうに見えました。刻まれた文字は「安政二卯年十一月吉日」と読めます。1855年です。「茨田蛇の池跡」の碑「若宮八幡」の本殿の左に、「史跡 茨田蛇の池跡」という石碑があります。昔はこの奥に大きな池があったそうです。池の主は大きな蛇で、奥宮のご神体だと言われているということです。伝説ではこの蛇はかなり暴れていたようです。鞆呂岐神社の本殿 そういえば、鞆呂岐神社の本殿の上部に描かれているのは蛇かもしれません。手水鉢ここにも蛇? それとも竜でしょうか?
2009年09月07日
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水生生物センターから、京阪の香里園駅に戻る途中に、鞆呂岐(ともろぎ)神社があります。ちょうど、国道1号線「木屋西」交差点と、国道170号線「木屋」交差点の中間付近です。 鞆呂岐神社両方の交差点を結ぶ府道148号線(上の写真の手前、左右に走る道)は、車がすれ違うにも気を使う、やや狭い道です。ちょうど中間に信号機があり、交差点北側の道に鳥居があります。鞆呂岐神社の鳥居鳥居の左側には「河◆茨田郡木屋村」、右側には「享保八癸卯年九月六日」と書かれています。◆はほんとうは刀を3つ、上に1つ、下に2つ並べた漢字です。これは「河内」のことでしょうねえ、「茨田郡」は「まむた(まんだ)のこおり」あるいは「まったぐん」です。このブログで何度も出てきました。「木屋村」は「こやむら」で、この周辺の地名でもあります。「木屋」は交差点の名前でもあり、渋滞情報で聞いたことがある方もいらっしゃるかもしれませんね。「享保八癸卯年」は1723年、いまから286年前の9月6日の日付が刻まれています。あ、この日付、今日ですね。この写真を見て気付きました。とはいっても、当時は旧暦ですけどね。境内入口すごくきれいに手入れされた境内でした。鳥居も狛犬も囲いも、まっさらな感じでした。本殿本殿は桃山時代の様式を今に伝えるものといわれています。とは言っても、たいていの神社がそうであるように、普段見えるのは覆屋(おおいや)なので、その中にある本殿の実物を見る機会はあまりありません。神社に伝わる話では、貞観3年(861年)に勧請されたとされています。明治に入り多くの神社が合併する中、木屋村単独で鞆呂岐神社を維持してきたということです。大切に守られてきたのでしょうね。灯篭境内の灯篭に「六社大明神」と書かれていました。祭神は入れ替わっているようですが、当初から六柱の神を祀ってきたことから、このように呼ばれているそうです。大黒天「福徳 福寿 なで大黒」と書かれた大黒天が、本殿の左側に据えられています。狛犬より前まで出迎えてくれているようです。稲荷神社本殿に向かって左側には稲荷神社があります。若宮神社の鳥居向かって右側の奥には「若宮八幡」があります。その入口には、鉢かづき姫がいますね(続く)。
2009年09月06日
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京阪の香里園駅の西、「オンキヨー」本社の東側に「寝屋川市立北小学校」があります。寝屋川市立北小学校北側に正門がありますが、上の写真は、西側の校門です。鉢かづき姫の説明板ここに何やら、説明が書かれています。「友呂岐村役場跡」上の写真は、友呂岐(ともろぎ)村役場がこの地にあったことを説明しています。地図は、明治22年から昭和18年の寝屋川市の様子を示したもので、「友呂岐村」「水本村」「豊野村」「九個荘村(のちに九個荘町)」「寝屋川村」の5つの村があったことが分かります。友呂岐村は現在の香里園駅の周辺にありました。「友呂岐」という地名は「鞆呂岐」とも書きます。鎌倉時代の文献にも皇室領庄園として「鞆呂岐荘」という名前が出てくるそうです。明治22年(1889年)に町村制が施行されたとき、「木屋(こや)」「郡(こおり)」「太間(たいま)」「田井(たい)」「石津」「平池」「三井(みい)」の7村が合併して「茨田(まった)郡友呂岐村」ができました(明治29年(1896年)には周辺の郡が合併し「北河内郡」になります)。第二次大戦中の昭和18年(1943年)、水本村を除く4つの町村が合併し寝屋川町が誕生。昭和26年(1951年)市制に移行。昭和36年(1961年)に水本村を編入して現在の寝屋川市の姿になりました。
2009年09月05日
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国道1号線(寝屋川バイパス)の「国道太間」という交差点に隣接して、摂南大学があります。摂南大学同上バス停大学の向かい側にある京阪バスのバス停(寝屋川市駅方面)です。このバス停を通る路線はすべて、寝屋川市駅からになります。距離的には香里園駅からでも同じくらいなのですが。待合スペース 屋根付き・照明付きの気の利いたバス停になっています。バス停の掲示物学生が帰りに使うバス停ですから大学が設置したんだろうと思ったのですが、さにあらず。日本ペイントの寝屋川事業所の敷地なんですね。社員の通勤手段でもあるわけですね。
2009年09月04日
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京阪の香里園駅の西、淀川の堤防付近を巡っています。国道1号線の「木屋西(こやにし)」交差点に、大阪府環境農林水産総合研究所「水生生物センター」があります。水生生物センター同上同上水生生物センターは、川やため池、用水路などに住む淡水魚などの生き物を守り、生息環境を保全・改善するための調査研究を行っている施設です。昭和30年(1955年)に大阪府水産試験場寝屋川養魚場としてこの場所に設置されて以来、淡水魚に関する試験研究業務を行っています。かつては「淡水魚試験場」と呼ばれていました。同上同上本館保存観察園コイ池開館時間は平日の9時~17時半(12月~3月は屋外施設は16時まで)。土日祝日と12月28日~1月3日はお休みです。個人や少人数なら予約なしで見学できます(無料です)。 (2009年8月現在)
2009年09月03日
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淀川の堤防沿いで「絶間橋」を探しているときです。寝屋川導水路上の写真は、すでにご紹介した寝屋川導水路と太間排水機場(右奥)です。この写真の左側で、水が勢いよく流れ出している場所を見つけました(下の写真)。湧き出す水?寝屋川導水路のほうが水位が低いので、導水路の水がそのまま注ぎ出しているわけではなさそうです。ポンプを使っているのかもしれません。幹線用水路淀川から灌漑用の水を引くために作られたこの水路は「幹線用水路」と呼ばれています。寝屋川導水路を越えて、枚方から守口まで続いているようです。太間の近辺、寝屋川市の木屋元町から仁和寺本町までの約4キロメートルには、桜並木があります。「東太間橋」遊歩道いちじくの実訪れたのは8月中旬。いちじくの実がこれから熟そうとしているところでした。いまごろはもう鳥が食べてしまったかもしれませんね。「大阪みどりの百選」の碑1989年(平成元年)、「大阪みどりの百選」に「幹線用水路の桜」が選ばれました。「大阪みどりの百選」は、1990年に大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」を記念して選定されたものだそうです。
2009年09月02日
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京阪の香里園駅の西、淀川河川公園の近くを散策していると、堤防の外側の茂みに、何やら大きな石碑があるのを見つけました。記念碑同上隣の工場の建物と比べても、かなり大きい石碑です。足元が見えませんが、4~5メートルはありそうです。石碑の一番上に横書きで「記念碑」と書かれているのだけは読み取れました。実際には右から左へ「碑念記」と書かれています。近づいてみようと思ったのですが、足元がぜんぜん見えない深い茂みなので、やめました。帰ってから調べてみると、北河内の20の村の用水路だった「二十箇用水路」跡に建てられた記念碑だということです。寝屋川市駅の周辺でご紹介した「友呂岐(ともろぎ)水路」は、もともと並行して流れていた「二十箇用水路」と「友呂岐悪水路」をまとめたものでした。二十箇用水路の水はこの付近で取水し、灌漑用として使っていたということですね。
2009年09月01日
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