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京阪・枚方市駅の西、関西医科大学附属病院や、淀川資料館の裏手の堤防沿いを歩くと、ちょっと面白いものがあります。三十石船のモニュメント三十石船のモニュメントが堤防の上に置かれています。原寸通りかどうかは判りませんが、調べてみると、実際の大きさは長さ56尺(17メートル)、胴敷幅8尺3寸(2.5メートル)。江戸時代の淀川を行き来する代表的な旅客船で、船頭4人、乗客定員28人でした。同上大坂(京阪・天満橋駅近くの八軒家)から京都(伏見)の間を、下りは半日、上りは1日かけて運行していました。上りに倍の時間がかかるのは、川の流れに逆らって進むためです。また途中、船頭が岸に上がって船を綱で引くところが9か所あったそうです(もちろん、そのための人足も大勢いました)。歌川広重(安藤広重)の浮世絵「淀川」にも、三十石船が描かれています。そこには、三十石船に寄り添う小さな舟がいます。「くらわんか舟」です。モニュメント上の写真はくらわんか舟のモニュメントです。淀川資料館の裏手にあります。くらわんか舟の説明板添えられていた説明板によると、このモニュメントは実物大だそうで、長さ4メートル、幅90センチメートルだそうです。三十石船が近づくと寄ってきて、「餅くらわんか、酒くらわんか」と声をかけて船客相手に商売をしたといいます。くらわんか舟は枚方名物ではありますが、実は下流の対岸、高槻市の柱本がもともとの本拠地だったそうです。大坂の陣のときに兵糧米を2万石運んだり、家光の上洛や朝鮮使節来日のときに御用を勤めるなどの功績を認められて、船客への飲食物販売の独占権が与えられていたといいます。その後、枚方にも営業が認められるようになると、地の利を活かして柱本の本家をしのぎ、「枚方のくらわんか舟」になっていったということです。「くらう」とは「食う」のこと。「これでも食らえ」「くそっくらえ」といえば罵り言葉ですね。当時でもかなり「きたない言葉」だったのでしょう。船客相手に口ぎたなくののしることも「天下御免の特権」だったそうです。レンガ製の遺構同上同じく淀川資料館の裏手の堤防上に置かれているのは、レンガ造りの遺構です。これは上流の対岸、大山崎町で出土した「煉瓦造悪水桶」、つまりレンガ製の排水路の一部です。明治33年(1900年)に造られたものですが、堤防工事のために土中に埋められていました。平成12年(1999年)、ほぼ70年ぶりに発見されたことになります。木津川の巨石同上説明板と比べても、石の大きさが想像できると思います。これは上流の木津川流域で土砂に埋もれていた石で、昭和50年(1975年)の護岸工事の際に発見されたものです。徳川2代将軍秀忠の時代、元和6年(1620年)から始まった大坂城の再建工事で使われるために切り出された石のひとつです。普請の一部を請け負った藤堂高虎が、領内の加茂・笠置付近から切り出した石材を淀川経由で運んだといいます。そのときに残った石が木津川流域に残されているそうです。
2009年10月29日
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京阪・枚方市駅の西、府道13号線 三矢交差点の近くに、淀川資料館があります。淀川資料館同上国土交通省の淀川河川事務所構内にあり、淀川の治水や生物、人々の暮らしなど、淀川についての歴史や文化などの知識が得られます。無料で入れますので、散歩の途中に立ち寄ってもいいかもしれませんね。同上案内板この日はすでに夕刻で、すでに閉まっていました。休館日は火曜日です。見学前には、ネットなどで確認してからお越しください。現在は「淀川改良工事から100周年 ~沖野忠雄を中心として~ 」と題した特別展が2010年3月1日までの予定で開催されています。この工事は、中津や十三の付近を掘削して現在の淀川本流とするもので、この工事の中心となって活躍したのが土木技術者・沖野忠雄です。ちなみに、その改良計画はオランダの土木技師、デ・レーケが作った案を手直ししたものです。デ・レーケは内務省の雇われ技師ではありましたが、淀川の河川改良、など、数多くの実績を残しました。とくに「砂防」という考え方を日本に広めたことから「砂防の父」とも言われているそうです。堤防側の入口裏手は淀川堤防枚方は、淀川とは切っても切れない関係にあります。河川敷を散歩するついでに、ちょっと淀川資料館に立ち寄ってみてはいかがでしょう?
2009年10月27日
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関西医科大学附属枚方病院の裏手には淀川の河川敷があり、河川公園枚方地区として整備されています。河川公園の案内図同上天野川河口の西側に位置し、人工の池などが整備されていて、ちょっとした親水公園のような感じです。公園内の小路淀川の流れ(上流側)同上(下流側)下流に目をやると、枚方大橋が見えました。通行止めの表示地図にあった「人工池」です。木製の橋を渡して歩けるようにしていたのですが、木が朽ちてきて通行止めに。こういうことは想定していなかったんでしょうか、無駄な施設になっています。駐車場と広場広場では家族連れが数組。小さな子どもとお父さんがボール遊びをしている光景があちらこちらで見られました。楽器の練習をしている学生さんがいたり、ダンスの振り付けをしているグループがいたり。河川公園でのんびり過ごすのもまた楽しいものです。
2009年10月26日
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枚方市や交野市の周辺には、天の川伝説(牽牛と織女、つまり「織り姫」と「彦星」)を連想させるような地名があります。京阪・枚方市駅の北、府道13号線にある「かささぎ橋」もそのひとつです。「かささぎ橋」交差点かささぎ橋府道13号線(左)正式には「鵲橋」「鵲橋」と書きますが、難読漢字ですね。天の川に集まって橋となり、織り姫と彦星の橋渡しをしたとされる鳥が「カササギ」です。カササギのモニュメント同上天を飛ぶカササギをモチーフに描いています。天の川を渡るカササギですね。竣功は平成8年3月まだ完成して13年半です。架け替え前の橋の一部江戸時代までは京街道と呼ばれていました道は、明治時代に「国道」とされました。昭和7年(1932年)、国道1号線が現在の場所に新設されるのに伴って、鋼鉄製の新しい橋が架けられたということです。天野川(上流側)天野川の上流側には京阪本線の橋があります。枚方市駅で折り返す列車が使う待避線は橋の上にあります。天野川(下流側)いまでこそ護岸工事がなされていますが、はるか昔、在原業平をはじめ平安貴族にとってはあこがれの地だったと言われています。白い川砂とゆるやかな流れを銀河とみなして歌が詠まれました。年に1度の逢瀬という、織女と牽牛の願いを叶えるカササギたち。いつのころからか、鵲橋と呼ばれるようになったこの橋には、恋の橋渡しのご利益がある、かな?
2009年10月25日
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関西医科大学付属枚方病院の前の交差点には、「ラポール枚方南」という名前が付いています。その北東側、京阪・枚方市駅北口につながる交差点も「ラポール枚方前」となっています。これらの交差点は、かつては「倉紡前」、「倉紡北」と呼ばれていました。倉敷紡績がすでに存在しないにもかかわらず、ずっとその名称が使われているということで、名称変更されました(平成13年5月付の某枚方市議のHPに報告されていました)。交差点の標識この交差点の名前に使われている「ラポールひらかた」は、枚方市の市民福祉の拠点として、平成10年(1998年)に竣工しました。ラポールひらかた1階は事務所のほか福祉用具の展示コーナーなど、2階には温水プールがあります。3、4階は研修室や福祉図書コーナーなどが置かれています。同上同上同上施設は枚方市のもので、指定管理業者が運営しています。枚方市の社会福祉協議会やボランティアセンターがここを拠点としています。デイサービスも行われています。少し派手なデザインの建物ですけど、しっかり役に立ってもらわないと困ります。西側の通路空港行きバスのりば ラポールひらかたの裏手には、関西空港行きリムジンバスの乗り場があります。バス停標バスのりばラポールひらかたの北には、メセナひらかたという建物があります。こちらも枚方市立の施設です。メセナひらかた名前のとおり、文化・芸術活動に対する支援をする施設ということで、会議室や研修室、和室や多目的ホール、トレーニングルームまであります。同上「箱モノ行政」という言葉がありますが、こちらも役に立ってもらわないと困りますよ。どんどん活用したいものです。
2009年10月21日
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京阪・枚方市駅の北側に、関西医科大学付属枚方病院があります。府道13号線上の写真、手前から奥に走っているのが府道13号線(旧・国道1号線)です。中央の交差点を左に曲がるとビオルネ前を通って市役所へと向かう道です。右に曲がると関西医科大学枚方病院です。関西医大病院かつて、この場所には繊維工場がありました。大正9年(1920年)、日本メリヤス枚方工場がこの地で操業を始めました。同じ大正9年、伊加賀(光善寺駅の北、枚方公園駅の西付近)で操業を始めた潮谷商会(その後、蝶矢シャツ製造所、現・CHOYA)とともに、枚方に誕生した最初の近代的工場といわれています。しかし、折からの不況のため、日本メリヤスは大正11年に操業を中止。枚方工場は大正13年に倉敷紡績(クラボウ)に売却されました。長く枚方で操業していた倉敷紡績枚方工場は1996年、枚方市から移転することになりました。ようやく跡地利用が決まり、2006年に現在の病院が開業しました。一方のCHOYA枚方工場も2004年に枚方市から移転したということです。同上同上同上病院とは思えない、近代的な建物です。同上上の写真は、淀川の堤防から撮ったものです。西日を浴びて黄色くなっていますが、同じ建物です。防災ヘリポート病院の北側、淀川の堤防沿いに、防災ヘリポートが設置されています。救急搬送のために使うのでしょう。同上いざというときの備えが目で見えると安心ですね。もちろん、使わないに越したことはないのですけど。
2009年10月20日
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京阪・枚方市駅の南口ロータリーから、今度は北側に視線を移してみましょう。北口ロータリーの一画に、飲食店や薬局、百円ショップなどが入っているビルが建っています。北口の飲食店ビル上の写真で、右端に写っているのが枚方市駅の駅舎です。中央右手の黄色いビルが「テイク・ツー」、左側が「テイク・スリー」という名のビルです。かつてここには、スーパーマーケット「長崎屋枚方店」がありました。右側のビルには衣料品など、左側のビルでは食料品を扱っていたように記憶しています。内外装を変えたものの、ビルは当時のまま、現在では多くの飲食店が入っており、賑わっております。「ビオルネ」駅の北西部は、旧京街道に沿って発展してきた地域で、古くから街道に沿って商店街が形成されていました。しかし、道路が狭く防災上の問題もあって、再開発事業が行われました。昭和48年(1973年)に再開発のための協議会が発足し、昭和56年(1981年)に都市計画が決定、平成2年(1990年)に竣工しました。再開発区域は商店街を含む1.5ヘクタールで、南北2棟の再開発ビルは「ビオルネ」と名付けられました。高層階はマンション部分になっています。同上もともと、再開発事業の前からスーパーマーケットの「ニチイ」や家電量販店の「ニノミヤ」が商店街の一画にありました。ビオルネができたとき、北館にマイカル(旧ニチイ)が経営する「枚方ビブレ」が入りましたが、マイカルの経営破たんなどもあり(現在はイオンの完全子会社)、2008年より「枚方サティ」として再オープンしています。一方のニノミヤは南館で営業を始めましたが、現在ではすでに撤退し、会社自体、存続していません。枚方市駅の駅舎が完成し、京阪百貨店や京阪ザ・ストアなどが開業して、現在でも厳しい経営が続いているように見えます。岡本町公園同上ビオルネの横にある岡本町(おかほんまち)公園です。なぜ「ナスカの地上絵」があるのかはよくわかりませんが、、、かつてはビオルネの場所から西の方に向けて商店街が続いており、狭い道に多くの人が歩いていました。そのころから営業している老舗の2店を紹介します。呼人堂北村味噌醸造場上の2枚の写真、どちらも休業日(火曜日)だったので、扉が閉まっていて残念です。上の写真は呼人堂さん。枚方銘菓「あかつき」で有名です。あかつきは、ちょっと上品などら焼きと言えばいいでしょうか。昔は日持ちがしないという理由で地方発送できなかったのですが、いまは取り扱っています。下は北村味噌店さん(北村味噌醸造場)。菊人形味噌で有名です。いまではひらかたパークの菊人形展はなくなってしまいましたが、こちらの菊人形は健在のようです。
2009年10月19日
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京阪・枚方市駅南口は、かつては木造家屋が密集し、道路も狭く、枚方市の表玄関、ターミナルとしての機能は果たせていなかったようです。再開発のための調査が、昭和40年(1965年)に開始され、昭和46年(1971年)にようやく都市計画が決定し、同年より大事業がスタートしました。用地買収はせず、土地・建物の権利関係を調整して、新たに建設するビル床の権利に置き換えるという方式をとったため、権利者の理解を得るのに苦労したということです。1.6ヘクタールの区域で事務所や商店を撤去して、その跡地に駅前ビル3棟と5000平方メートルの駅前広場、4700平方メートルの都市公園を建設するというものでした。5年の歳月と113億円を投じて、昭和50年(1975年)に完成。3つのビルは「ひらかたサンプラザ」と名付けられました。1号館駅舎の正面にあるのが、ひらかたサンプラザ1号館です。1階にはりそな銀行のロビーがあるほか、各階に医院やオフィスなどが入っています。2号館ひらかたサンプラザ2号館には現在、近鉄百貨店枚方店が入っています。オープンしたときには、「丸物(まるぶつ)枚方店」だったそうです。しかし丸物が経営不振となって近鉄グループ入りし、「株式会社丸物」は「株式会社京都近鉄百貨店」になりました。枚方の丸物は「株式会社枚方近鉄百貨店」となりました。その後、平成10年(1998年)に「枚方近鉄百貨店」は近鉄百貨店に吸収合併され、「近鉄百貨店枚方店」となっています。余談になりますが、平成13年(2001年)には、「株式会社京都近鉄百貨店」が「株式会社近鉄百貨店」を吸収合併したうえで商号を「株式会社近鉄百貨店」に商号変更しました。事実上は、「近鉄百貨店」への統合なのですが、旧「近鉄百貨店」が株式非上場だったため、形式上、上場会社の「京都近鉄百貨店」を存続会社としたということです。さらに余談ですが、丸物が関東に進出したときの「東京丸物」は、現在は「パルコ」になっているそうです。歩行者用デッキ上の写真は、1号館と2号館の間の歩行者用デッキです。背中側が駅舎で、写真奥へと歩いて行くと、枚方市民会館や枚方市役所があります。3号館ひらかたサンプラザ3号館は、枚方市駅東改札口に隣接しています。主に飲食店が入っています。1階にはパチンコ店があります。「さんぷら座」というのは愛称でしょうね。歩行者用デッキは3号館ともつながっています。また2号館(近鉄百貨店)と3号館の間には屋根付き通路があり(上の写真、右寄り)、3階部分が結ばれております。たしか、地下部分にも通路があったと思います(が、最近は通ったことがないので、確認していない)。枚方近畿ビルロータリー西寄りにあるビルです。近畿大阪銀行(かつては近畿銀行)のロビーがあります。オフィスなどのほか、飲食店や英会話、旅行会社などが入っています。その奥のビルは「枚方三和ビル」で、三菱東京UFJ銀行(かつては三和銀行)のロビーがあります。さらにその奥のビルは、かつて「三越」が入っていました。1980年ごろ、三越枚方店は、一番手前の枚方近畿ビルの上層階までフロアをひとつにして、店舗の拡大を図っていたようです。しかししだいに規模を縮小し、1階にマクドナルドが入ったり、地下フロアを食品スーパー「ラッキー」に貸したりしていましたが、2005年に撤退しました。現在は、「ラッキー」が営業を続けているほか、1~2階にはTUTAYAの物販店、3~5階にABCクラフトが入っています。ちなみに、TUTAYAの前身は「蔦屋書店 枚方店」です。ひらかたサンプラザ3号館の東側でレコードレンタルをしていた時代を知っています。これがTUTAYAの1号店です。規模を拡大しつつ何度か場所を移転して、一時は三越跡でレンタル店を営業していました(いまは物販のみ)。現在、レンタル店は駅北側に移っています。
2009年10月18日
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京阪・枚方市駅の南口ロータリーは、いつもタクシーでいっぱいです。南口ロータリー同上同上上の写真、バスのいる位置は、時間調整をするための停車場所です。その右側がタクシー乗り場です。右下がタクシープールに並んでいるタクシーです。タクシー乗り場を出るとすぐに信号機があります。信号待ちの車が何台かいると、お客を乗せたタクシーは発車できないし、タクシープールにいるタクシーも出られない。タクシーはたくさんいるのに、なかなかタクシーに乗れないという、これはレイアウト設計のミスだと思いますよ。バス乗り場南口のバス乗り場です。駅舎の向かい側に乗り場があります。市役所方向を見るロータリーから市役所方向を見たところです。京阪・宮之阪駅方面や、香里団地方面へのバスが出て行きます。駅舎(中央口付近)同上自由通路2階の中央改札口の真下、1階は自由通路になっていて、南北に通り抜けることができます。ときどき自転車も乗ったまま走っていますので、歩行者は気を使います。中央改札口への階段中央改札口への階段はいくつかあります。上の写真はタクシー乗り場の近く。右側はキディーランドです。2階の歩行者デッキロータリーの周辺のビルとは、歩行者用のデッキでつながっています。駅舎の正面から入って左に曲がると中央改札口、左に曲がると東改札口です。上の写真、後ろのほうへ歩いて行くと、市役所までまっすぐに行くことができます。東改札口への階段同上まだほかにも改札口に向かう階段やエスカレータなどがあります。駅舎と一体となって京阪百貨店、京阪ザ・ストアなどが入っています。40万人が暮らす枚方市の中心駅として発展してきましたが、周囲の道路は慢性的に渋滞しています。次回は駅周辺の施設をご紹介します。
2009年10月18日
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京阪・枚方市駅の北口には、広いとはいえませんがバスの発着するロータリーがあります。北口ロータリーバスがひっきりなしに出入りしていました。一般車の送迎のためのスペースもなく、バスの降り場、乗り場ばかりが目立ちます。同上同上同上バスの乗り場標記北口からは、淀川右岸の高槻や茨木方面のバスが出ています。そのほか、枚方市民病院や牧野駅方面に向けた便があります。「中央口」駅舎の正面です。1階は自由通路になっています。バス降り場高架化され、南から北へと通り抜ける道路が新たにできました。それまでは、枚方市民病院の方向からのバスは、かささぎ橋から府道13号(旧・国道1号線)に出て枚方市駅北口に到着していました。この道路ができてからは、禁野口から駅の南側へ進入し、駅舎の下に新たに設けられた降り場に到着します。かささぎ橋での慢性的な道路渋滞の影響をあまり受けなくなったので、高架化の効果があったのではないかと思います。「東口」バス降り場の向かい側に、東改札口へ続く階段があります。献血ルーム階段の横は、「京阪枚方市駅献血ルーム」があります。ここができるまでは、駅前(南口)に献血車がときどき来ていました。駅舎の中に入りましたけど、ちょっと目立ちにくいかな。府道13号線府道13号線から北口ロータリーへの進入路です。右側は、高槻方面から戻っていたバスです。(南口ロータリーへと続く)
2009年10月17日
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京阪・枚方市駅の東改札口です。東改札口(外側)コンコース東改札口も駅舎の2階にあります。中央改札口ほどではないですが、まずまずの広さのあるコンコースです。駅の北口と南口、どちらにでも出られます。FMひらかた改札口の正面には、枚方市に本社があるコミュニティFM局「FMひらかた」のサテライトスタジオ「ミルキーウェイ・スタジオ」、略してミルスタがあります。ときどき生番組を放送しています。ちょうどいま、生放送中なんですけど、立ち止まって聞いている人がいませんねえ。ミルキーウェイとは、天の川のこと。近くを流れる天野川だけでなく、枚方市から交野市にかけては、おり姫やひこ星にちなんだ地名や伝説(?)があります。北河内周辺に住んだ渡来人との関係も指摘されています。サービスセンターミルスタの左隣には、枚方市役所の「市民課サービスセンター」があります。ここは土日も開いていて、住民票の写しとか印鑑証明などを発行してくれます。市民ふれあいセンターミルスタの右隣は、「市民ふれあいセンター」です(というか、ミルスタが間に割り込んでいるだけで、中でサービスセンターとふれあいセンターはつながっているんですけどね)。ここは枚方文化観光協会が管理運営しており、中ではオリジナルグッズや観光マップなどの販売もしています。枚方といえば「くらわんか」。淀川を行き来する三十石船に小さな船(くらわんか船)で近付いて、乗っている旅人に「餅くらわんか、酒くらわんか」と呼びかけたところから、「くらわんか」=枚方の代名詞のようになっています。このふれあいセンターのHPを見ていたら、「くらわんこ」という犬のゆるキャラが載っていました。うーん、知らないなあ。ふれあいセンターの右には、京阪ザ・ストアの2階入口があります。吉野家コンコースの北寄りに、吉野家があります。高架化されて現在の駅舎が出来た当初は、ここには立ち食いそばの店、「比叡」があったと記憶しています。東改札口(ラチ内)上の写真は、改札内から外側を見たところです。アンスリー改札内には、こちらにも「アンスリー」があります。店の規模は小さめです。
2009年10月15日
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京阪・枚方市駅の改札口は2ヶ所にあります。コンコース上の写真は中央改札口前のコンコースです。駅舎の2階にあります。ゆったりとしたスペースですが、ラッシュ時間帯には大勢の利用客で混雑します。京阪百貨店改札口の向かい側は、京阪百貨店枚方店の2階部分への入口です。中央改札口(外側)同上上の2枚の写真、どちらも中央改札口なのですが、下の方は今年の1月に撮ったものです。右隅に写っているのは「ジューサーバー」です。改札のラチ内とラチ外の両方にまたがって設置されていましたが、現在では、ラチ内だけに縮小されています。ラチ外のほうは敷地が統合されてユニクロに変わりました。中央改札口(ラチ内)上の写真は9月末に撮ったものです。ジューサーバーとユニクロが並んでいます。同上インフォステーション改札機に並んで、「けいはんインフォステーション」と書かれた場所があり、ここに係員がいます。最近、こういう形式の駅が増えてきたように思えます。「アンスリー」最近は駅ナカでも「売店」ではなくてコンビニが増えましたね。アンスリーは当初、京阪、南海、阪神の3社が共同で展開していたコンビニの名前です。Keihan、Nankai、Hanshinの3つの「an」をとって、「an3」(アンスリー)となったそうです。現在は、阪神が阪急と統合されたため、運営会社は京阪と南海の2社です。でも、アンツーとはならないようです(笑)。「神戸屋」アンスリーの隣にあるのは、フレッシュベーカリー「神戸屋」の店舗です。パンの神戸屋の直営店です。美味しそうなパンが並んでいます。神戸屋は神戸の会社と思いきや、阪急京都線の上新庄駅近くに本社があります。寝屋川市の摂南大学の西側にも工場があります。(すみません、ずいぶん話がそれてしまいました)
2009年10月14日
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駅名標(交野線)枚方市駅は、交野線(枚方市駅~私市駅間、6.9キロメートル) の起点でもあります。交野線は昭和4年(1929年)7月10日、信貴生駒電鉄の枚方線として開業しました。その後、昭和14年(1939年)には交野電気鉄道に譲渡され、同社の交野線となりました。戦時中の大合併で一時、京阪神急行電鉄の路線になりましたが、昭和24年(1949年)に京阪電気鉄道として独立したときに、京阪の交野線となりました。交野線京阪本線のホームから見た交野線の列車です。交野線ホーム(5・6番線)10000系交野線は一部を除いてワンマン運転が実施されています。10000系はワンマン運転に対応した車両で、4両編成で運用されています。10000系が登場したとき、それまでの配色とはまるで異なる鮮やかな青にショックを受けた覚えがあります。(色の名前は「ターコイズグリーン」だそうですが、青のほうに近い感じがします)しかし、この配色が見られるのはしばらくの間だけで、本線系(宇治線、交野線を含む)の車両はすべて、2012年度中に新塗装に塗り替えられるとか。8000系30番台と10000系はこのまま残しておいてほしいなあ、ちょっと残念。6番線終端部分6番線は行きどまりの構造になっています。5番線のほうは本線との直通運転ができるよう、渡り線が設置されています。
2009年10月13日
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枚方宿の跡を探して歩いているうちに、枚方市駅を通り越してしまいました。これから枚方市駅に戻って、鉄分の補給をしたいと思います。駅名標(枚方本線)枚方市駅は、明治43年(1910年)4月15日、京阪本線の開業と同時に営業を始めました。当初は枚方東口駅という名前でした。開業当時は、現在の枚方公園駅が「枚方駅」と名乗っていました。枚方宿の中心が三矢村だったことを考えれば、妥当な名前だったのでしょう。その後、戦後の昭和24年(1949年)10月1日、「枚方駅」が「枚方公園駅」に、「枚方東口駅」が「枚方市駅」に改称され、現在に至っています。枚方市駅ホーム枚方市駅周辺の連続立体交差事業が認可を受けたのが昭和51年(1976年)で、このころにはすでに1日の乗降客が9万人を超えていたようです。京阪本線・枚方元町~磯島茶屋町間1.8キロメートルと、交野線・枚方市駅~川原町間0.6キロメートルを高架化する工事が昭和53年(1978年)12月に着工されました。 昭和63年 5月 京阪本線上り線(京都方向)高架線に切り替え 平成 2年 3月 京阪本線下り線(大阪方向)高架線に切り替え 平成 3年 6月 交野線が単線で高架線に切り替え 平成 4年11月 交野線が複線で高架化 平成 5年 3月 付帯工事完了ホーム(京阪本線)枚方市駅のホームは島式3面6線の構造で、1・2番線が京阪本線上り、3・4番線が同下り、5・6番線は交野線に割り当てられています。5番線の大阪寄りは京阪本線との渡り線があります。上の写真では、手前左側が3番線、向こう側が2番線です。2・3番線が待避線で、外側の1・4番線が本線の扱いになっています。同上上の写真は、京都方向に向いて撮ったものです。京都方向を臨むホームから京都方向を見ると、折り返し用の引き上げ線が1本見えます。天野川の上で停車することになります。特急(右)引き上げ線から出てきた特急(右)が3番線で出発待ちをしています。快速急行4番線に入ってきたのは快速急行です。枚方市駅で接続し、3番線の特急が先に出発します。快速急行の停車パターンは、出町柳~枚方市駅間は特急と同じです。ここで「特急」のスジをバトンタッチしているという見方もできます。上の写真で、右隅に交野線(5・6番線)が写っています。案内標このあと、5・6番線のホームにも行ってみましょう。(続く)
2009年10月12日
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東海道56番目の宿、枚方宿。旧宿場町の「宗左の辻」から「枚方橋」を越え、淀宿へと向かう街道筋(京街道)が続きます。枚方市駅付近同上上の写真、正面は京阪・枚方市駅の北口です。駅前からの道と交差するのが旧街道です。枚方市新町付近旧街道はさらに東へと続いています。東目附天野川の土手で、道は突き当たっていました。ここに「東見附」の案内板があります。昔はここに、天野川を渡る橋があったようです。同上同上説明板によると、「道の両側に柵で囲われた松が植えられて」いたそうです。「『河内名所図会』(享和元年-1801)には、淀・伏見方向に向かう大名行列が天野川の橋に差しかかり、見送りに出た宿役人が東見附で待ち受ける光景が描かれて」いるということで、その絵が左端に載っています。拡大したのが下の写真です。右上の文字は「川之天」と読めます。天之川=天野川(あまのかわ)ですね。中央が天野川に架かる「かささぎ橋」です。大名行列は奥から手前に向かっているようですから、説明から考えると、奥が枚方宿、手前が伏見・淀宿方向でしょう。街道をはさんで建っている家々も、川の向う側のほうが密集しているように見えますね。絵の中央付近、橋の向こう側が東見附のようです。ここに4人ほどいるのが宿役人なのでしょう、少し腰をかがめて待ち受けているように見えます。現在のかささぎ橋現在のかささぎ橋は50メートルほど下流、府道13号線のところに架かっています。こちらに迂回して、川向うへと移動しました。枚方市磯島茶屋町付近京街道に沿ってさらに京都方向へ進むと、途中で道が少し狭くなってきました。右手には京阪本線の線路が見えています。同上さらに進むと、やがて府道13号と合流する地点に着きました。磯島交差点同上上の写真は、磯島交差点から振り返ったところです。左手の狭い道が京街道です。
2009年10月11日
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「くらわんかギャラリー」 から東へ。やがて道の左手に石灯篭が見えてきました。常夜燈これは石でできた常夜燈。文字通り、街道筋の暗がりを照らしていたのでしょう。暗くなってしまったら、月明かりが頼り。ろうそくに提灯なんてぜいたくの部類だったのかもしれません。暗い街道を照らす常夜燈は、安心感を与えていたのでしょう。いまでは24時間コンビニが開いている時代。昼のように明るい部屋で夜中遅くまで起きていたりしますが、そろそろ考え直す時代なのかもしれません。同上同上「妙見宮」と書かれています。これはお隣の市、交野市にある星田妙見宮のことなのかな?その下には「他力」と書かれています。これは仏(菩薩)の力という意味です。他力本願といえば自分では何もしない他人任せな人のことを指したりしますが、本来は、仏の力で浄土往生することを意味するそうです。常夜燈横の標石ここは三矢村と岡村の村境だったようです。本陣のある三矢村は枚方宿の主要な場所ですから、ここから次第に宿場の外の方へと向かっていくことになるのでしょう。さらに東へと向かいました。宗左の辻「ビブレ」の横を抜け、信号機のある横断歩道を渡って、京阪・枚方市駅のすぐ近くまで来ました。その十字路の角には「宗左の辻」と書かれた標石があります。江戸時代に製油業を営んでいた宗左という人物がここに住んでいたことから、「宗左の辻」と呼ばれるようになりました。遊女達が客を見送る場所として唄にも歌われたということです。道標「宗左の辻」の標石の向かい側には、大きな道標が建てられています。ここは京街道と磐船街道との分岐点です。上の写真では「右 大坂みち」と書かれた面が写っています。いま来た道を引っ返すと大坂、ということです。道標別の面には、「右 くらじたき 是ヨリ四十三丁、左 京六リ や王た二リ 道」と書かれています。最後の「道」はそれぞれに掛っているのでしょう。ここでくらじたき(倉治滝)とは、天野川の支流である免除川上流の倉治公園(交野市)の上にある源氏の滝のことです。43丁ですから、おおよそ4キロ半ほどです。京へ6里、やわたへ2里と書いてあります。「王」は、「やわた」の「わ」なんですね。最初は読めませんでした。JR学研都市線沿いにある「王仁公園」は「わにこうえん」と読みますし、元プロ野球監督の王貞治さんの「王」は「ワン」とも発音するので、「王」=「わ」で無理やり納得です。同上「瀧 文政九丙戌年十一月建之」(1826年)です。同上「願主 大阪 和泉屋次右衛門 近江屋又兵衛 綿屋伊兵衛 小豆嶋屋勘右衛門」と書かれています。何を願ったのでしょうか、よく判りません。枚方橋の欄干宗左の辻から北へ向きを変えて少し進むと、「枚方橋」という低い欄干が見えてきます。同上ここには安居川という川が流れていて、そこに架かっていた橋が枚方橋です。いまでは欄干だけが残されています。街道はまた右へと曲がっていきます。上の写真は枚方橋跡を過ぎてから振り返って撮ったものです。ここからではもう、枚方宿の賑わいはあまり見えないかもしれません。宗左の辻を過ぎ、枚方橋を渡ったこの辺りで、旅人は枚方宿に分かれを告げ、次の宿場町・淀宿を目指して歩を速めたことでしょう。
2009年10月10日
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浄念寺をあとにして、さらに東へと歩いて行くと、枚方宿の本陣跡と書かれた標石と、説明板が設置されていました。枚方宿本陣跡三矢公園入口説明板この説明板によると、「間口約20間、奥行約24間の敷地」ということです。20間×24間=480坪=1584平方メートル、ということになります。(1間=6尺=1.8182メートルとして。江戸間と京間で異なるそうですが) そこに建て坪215坪の立派な建物が建っていたということです。慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いで官軍が勝ったあと、3月には明治天皇の大坂行幸が実行されました。(このブログで紹介した記事はこちら) そのとき、枚方宿の本陣が休息所に充てられたそうです。三矢公園前本陣跡から東へ行くと、ほどなく、「くらわんかギャラリー」と名付けられた町家があります。くらわんかギャラリーここは、享保年間(1716年~1735年)から続いている「塩熊商店」を「くらわんかギャラリー」として一般公開しています。喫茶コーナーでは座敷に上がって庭園を眺めながらお茶が味わえます。またカルチャーセンターもやっているようです。同上軒下にも風情があります。同上同上ほとんど消えかかっている看板ですが、よく見ると「小野商店」と書かれています。創業当初は塩の販売を主としていたので、屋号を塩屋と称していたそうです。徳川時代後期には、金物、荒物、陶器などを販売し、屋号を小野商店に改称しました。戦後になって、現在の「塩熊商店」となったということです。
2009年10月09日
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「枚方宿鍵屋資料館」から旧街道沿いに東へと歩きました。この辺りは東行きの一方通行になっています。街道筋に残る町家「田葉粉屋」上の写真の中央に見える町家は明治時代に建てられたと推定されており、「表屋造り」と呼ばれる伝統的な構造だそうです。4棟の土蔵のある大規模な町家です。この場所は、江戸時代初期から庄屋と問屋役人を兼ねていた「木南家」があったところで、かなりの実権を持っていたようです。屋号を「田葉粉屋」といい、「くらわんか船」の茶船鑑札(つまり営業許可証)を持ち、幕末期には金融業も営んでいたそうです。左手の白壁の左手を奥に進むと、船番所跡があります。船番所跡跡といっても、説明板が置かれているだけのようです。この辺りには「伏見船船番所」があったようです。また右手奥には「過書船船番所」もあったそうです。「過書」とは通行手形のことで、これがないと船の行き来ができません。その見張りをするのが「船番所」というところです。説明板によると、「享保初年(1716年)には、乗客を主とした三十石船671艘(そう)、貨物運送を主とした二十石船507艘が、大坂と京・伏見の間を航行して」いたそうです。過書船の独占営業だった運航に対し、「元禄11年(1698年)に伏見船の営業が認められたため、両者は激しく競合」したということです。船番所近く船番所の説明板の後ろを見ると、これまた立派な屋敷が建っています。旧街道に戻って、さらに東に向かって歩くと、正面に「浄念寺」が見えてきます。浄念寺浄念寺は浄土真宗本願寺派のお寺で、蓮如上人の弟子、浄念によって開基されたと言われています。万年寺山にあった万年寺が廃されたとき、本尊や鐘楼などがこの浄念寺に移されました。街道はここで右に曲がり、そしてすぐに左に曲がっています。わざと道を曲げることで攻め入る側にとっては死角となり、守りやすくしています。武家屋敷などでも見られる構造です。
2009年10月08日
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京阪本線の枚方公園駅から枚方市駅にかけて、ほぼ本線に並行するように京街道の道筋が通っています。京街道は京都と大坂を結ぶ主要街道で、豊臣秀吉の文禄年間に整備され、交通が盛んになりました。また江戸時代には「東海道53次」(江戸・日本橋~京都・三条大橋)からさらに大坂までを「東海道57次」と定めたとする記録があるそうです。この場合、53番目の大津宿から先、伏見宿(54)-淀宿(55)-枚方宿(56)-守口宿(57)と続き、終点は大坂の京橋(のちには高麗橋)までが整備されたということです。枚方公園駅から枚方市駅にかけては、かつて枚方宿があって賑わったといいます。枚方公園駅西口には、宿場町の様子を示す説明板が掲げられています。枚方公園駅西口再び枚方公園駅を起点にして、枚方宿の史跡を探しながら歩いてみたいと思います。西口を出て左手、細い道を抜けると、そこは西見附です。西見附付近の道標同上西見附の案内見附(または見付)とは、まさしく見付けること、つまり見張りを置いた場所のことです。転じて、西見附とは宿場の西の入口のことです。ここから東見附まで約1.5キロの街道沿いに宿場町が形成されたということです。京街道(東海道)「鍵屋」同上同上暖簾にも「うだつ」にも、鍵のトレードマークが描かれています。同上「鍵屋」は伏見~大坂を行き来する客船「三十石船」の船宿で、天正年間(1573~1592年)の創業と伝えられています。船便を待つ間の休憩場所だけでなく、社交場的な意味合いもあり、三味線や太鼓の音で賑やかだったとか。枚方宿鍵屋資料館 最近まで料亭として営業していましたが、1997年に廃業。枚方市の指定文化財に指定され、2001年に資料館として公開されています。同上
2009年10月07日
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枚方公園駅と枚方市駅の中間付近、京阪本線沿いの南側に位置する万年寺山には、意賀美神社があります。南側から登ってくる階段が表の参道のようです。北の坂道を登ってきましたが、とりあえずいったん階段下まで下りてみました。意賀美神社の鳥居道標道路の名標万年寺山を巡る道に付けられた愛称です。枚方市内にはところどころ、このような道路名が書かれた標識が設置されています。意賀美神社の石標「式内意賀美神社」と書かれています。鳥居 同上一の鳥居からいきなり階段です。その奥に見えるのが二の鳥居です。長松山萬年寺の石塔は、二の鳥居の近くにあります。階段の頂上付近二の鳥居からさらに階段を上がると、境内が見えてきます。境内大きな絵馬が掲げられております。牛の絵ですが、天満宮とは関係なく、今年(平成21年)が丑年だから牛ということです。拝殿の正面にお百度石が置かれています。拝殿式内意賀美神社がどのように創建されたかよくわかっていないようです。Wikipediaを見ると「開化天皇の云々」という記述があります。開化天皇というと古事記や日本書紀に記されている紀元前の天皇です(実在したかどうかはっきりしていないようですが)。もともと、「伊加賀村宮山」にあったと書かれています。現在の地より100メートルほど南になります。淀川の鎮守として、水運の安全や洪水が起こらないことを願う人々の信仰を集めていたようです。明治42年(1909年)、日吉神社、須賀神社を合祀し、手狭になったため現在の地に遷座したといいます。現在の地にもともとあったのは須賀神社だそうです。須賀神社は、長松山万年寺の開祖・聖宝(しょうぼう)が牛頭天王(ごずてんのう)を勧請して創建されたと言われています。牛頭天王は「祇園社」とも呼ばれ、インドの釈迦の生誕地と関わりのある祇園精舎の守護神ともされています。。。。と、ここまで調べてみましたが、どこまでが神道でどこからが仏教なのか、よく判らなくなりました。一方の日吉神社は、応仁の乱(1467年~1477年)で焼失しましたが、慶長5年(1600年)に枚方城主の本多政康が再興し、氏神としたようです。本多家は豊臣秀吉の家臣ですから、「日吉」の名前には特別の意味があったのかもしれません。1600年といえば関ヶ原の戦いの年。枚方城主・本多政康の心中はどのようなものだったのでしょうね。ちなみに、本多政康は大坂夏の陣(1615年)で徳川方に攻められ、枚方城は落城、政康は戦死し、本多氏は没落しました。本多政康の墓が一乗寺(意賀美神社から200メートルほど東、枚方市駅近く)にあるそうです。
2009年10月06日
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京阪本線の枚方公園駅と枚方市駅のほぼ中間にある万年寺山は、ふもとより30メートルほど高い丘陵地になっています。「萬年寺」の銘のある石塔意賀美(おがみ)梅林を出てすぐのところに、上の写真のような石塔があります。「萬年寺」の名前が入っています。その上の文字は梵字でしょうか? 密教の雰囲気がただよっています。もともとは十三重の塔だったそうですが、上は崩れてしまったそうです。いまは九重に見えます。後ろは意賀美神社へと続く階段です。(意賀美神社については明日、改めて)「長松山萬年寺」の石碑石塔の横には、「長松山(ちょうしょうざん)萬年寺」の石碑があります。萬年寺は、醍醐寺(京都市伏見区)の末寺で真言宗の密教系寺院でありました。しかし明治3年(1870年)の「廃仏毀釈」によって廃絶し、本尊の「十一面観世音」や藥師堂、行者堂、鐘楼などは近くの浄念寺に移されました。意賀美梅林のある場所は万年寺の伽藍跡だと推測されています。鷹塚山のところで紹介した「惟喬(これたか)親皇の鷹」が巣を作った老松にちなんで「長松山」と名付けられたとか、この地で「万年通宝」を鋳造したので万年寺と呼ばれるようになったとか言われています。ちなみに「万年通宝」は、日本で初めての流通貨幣と言われる「和同開珎」の次の貨幣で、天平宝字(てんぴょうほうじ)4年(760年)に淳仁天皇の命により造られたものです。この地で万年通宝を製造したのは「田中家」。奈良時代から昭和30年代まで鋳物業を営んできました。鋳物工場跡がここから南に150メートルほどのところにあります。また、田中家が造ったとされる梵鐘が各地にあるそうです。この萬年寺の鐘も田中家が鋳造したものだったようです。
2009年10月05日
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御茶屋御殿跡展望広場を半周したところに、何やら区切られた一画がありました。 そこには「万年寺山遺跡」と書かれていました。万年寺山遺跡添えられている説明板によると、ここで展望広場の工事をしていた平成17年(2005年)に、石棺が出土したということです。男性とみられる人骨が入っていたそうです。説明板ほかに出土したものがないため時代推定が難しいようですが、古墳時代前期(4世紀ごろ)ではないかと考えられているようです。石棺の内部には礫(れき=小石)が敷き詰められていたといいます。もともとこの辺りには「万年寺山古墳」と呼ばれる古墳がありました。明治37年(1904年)にこの近くで発見されたということです。内部からは青銅鏡8面、鉄刀等が出土したということです。意賀美梅林展望広場の東隣に、「意賀美(おがみ)梅林」があります。およそ100本の梅の木が植えられています。梅林内の石碑梅林の奥、木々がなければ淀川が見通せそうな場所に、「閑院宮載仁親王演習御観戦所」と書かれた石碑がありました。石碑の裏側を見ると昭和11年3月建立となっています。横面には「大正七年十二月陸軍将官演習並ニ昭和四年三月陸軍参謀本部将官現地戦術演習二アタリ御観戦アラセ給フ」と書かれています。「閑院宮載仁(かんいんのみやことひと)親王」は名の通り皇族で、大正元年には陸軍大将になった人です。「演習御観戦所」ということは、この地で軍事演習が行われたということですよね。枚方大橋が完成したのが1930年(昭和5年)ですから、まだ橋もできていない状態です。たしかに山あり川ありで、軍事演習に適した場所だったかもしれません。万年寺山は全体を見渡すのに最適の場所だったのでしょう。
2009年10月04日
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京阪の枚方公園駅から電車に乗って枚方市駅に向かうと、右手は小高い丘になっています。その一帯は万年寺山(まんねんじやま)と呼ばれています。京街道沿いの道標同上(裏側)万年寺山には意賀美(おがみ)神社があります。京阪本線道標に従って進むとすぐに、京阪の高架下をくぐります。枚方公園駅と枚方市駅の中間辺りです。上の写真、奥が枚方市駅の方向、右手が万年寺山です。万年寺山への階段道標同上上の写真、右手が東海道(京街道)の枚方宿本陣跡です。階段を上がると「御茶屋御殿跡展望広場」や「意賀美神社」があります。意賀美神社の石標坂の上からの景色坂道を登って行くと、淀川が見えてきます。眼下には京阪電車が見えています。8000系30番台(先代の3000系)が通っていきました。御茶屋御殿跡展望広場「御茶屋御殿」というのは、豊臣秀吉が家臣の本多政康の娘・乙御前(おとごぜん)を愛妾として住まわせるために建てられたと言われています。ここは大阪平野、摂津、京都方面を見渡せる場所で、景勝地であるとともに、軍事的な意味でも重要な場所だったようです。 本多政康は当時、この地の南、現在の枚方小学校の付近にあったといわれる「枚方城」の城主でした。ちょうど京都と大坂を結ぶ京街道が整備され、文禄堤がつくられた時期です。同上枚方城は慶長20年(1615年)の大坂城落城とともに廃されました。御茶屋御殿は延宝7年(1679年)の枚方宿の大火のときに類焼して消滅したそうです。三矢村の記録によると、この御茶屋御殿には、徳川の2代将軍秀忠や3代将軍家光も訪れたことがあるそうです。同上同上いちばん見晴らしのよい場所に、あずまやが建てられています。同上眼下を通る京阪本線です。新3000系が通過していきました。同上上の写真は淀川上流方向の景色です。同上こちらは下流方向。中央の橋は枚方大橋です。
2009年10月03日
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京阪の枚方公園駅の近く、ひらかたパークの東側に「高塚町」という住所があります。この辺りはやや小高い丘状になっています。鷹塚山配水池地名は「高塚」ですが、「鷹塚」とも呼ばれています。平安時代、惟喬(これたか)親王の鷹(たか)を埋めた塚だとも言われています。枚方市の水道局が鷹塚山に配水池を建設するとき、発掘調査が行われました。その結果、弥生時代後期の集落の遺跡(竪穴住居)が見つかり、いろいろな物が出土したといいます。鷹塚山古墳ともよばれていましたが、古墳であることを示すものは見つからなかったようです。同上鷹塚山配水池の中を覗くと、「鷹塚~」と書かれた石碑が見えます。下の方は草が茂って見えませんが、何と書かれているのでしょうね。確認できませんでした。残念。
2009年10月02日
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京阪の枚方公園駅から南へ徒歩15分ほど、国道1号線を越えた先に、「パナソニック アリーナ」があります。かつては「松下電器体育館」と呼ばれていました。パナソニック アリーナパナソニックのバレーボールチーム「パンサーズ」やバスケットボールチーム「トライアンズ」の試合なども行われています。同上ここから先は会社の敷地内のため、無断では入れません。 アリーナのさらに奥の方には研修施設もあるようです。「人材開発カンパニー」の名前が見えます。「カンパニー」というのは、パナソニックの社内組織です。事業本部みたいなものかな?「奥の池」 パナソニックの敷地の北東角に、けっこう広い池があります。枚方の市街地図には「奥の池」と書かれています。ただし、yahoo や google の地図には名称は載っていません。この池は、地図には描かれているのですが、そばに寄っても中があまりよく見えません。同上冬になったらもう少し見えてくると思いますが、ここは「野鳥の楽園」のようなところです。大きな白い水鳥やカモなどが動いているのが見えていますが、残念ながらうまくカメラに捉えることはできませんでした。
2009年10月01日
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