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テーマ: 戦争反対(1197)
カテゴリ: カテゴリ未分類
今日わかったこと。

(1)現在沖縄の図書館等に所蔵されている当時の「沖縄新報」は同じバージョンであり、県内でこれ以上探すのは困難だと思われる。

 まあ2,3日の調査で見つかるぐらいなら、とっくに誰かが見つけているわけであり、案の定ではあるが、これほどまで希少だとは思わなかった。『那覇市史』の「新聞集成」なども全く同じバージョンである。

 実際沖縄戦の被害はそれほど甚大であり、紙の資料はほとんど燃えてしまっている。現在存在する資料の大半は、国会図書館等、本土の図書館所蔵のものを用いて復刻したり、また他府県にいた県出身者が所蔵していたものなどを、岡本恵徳氏や仲程昌徳氏その他先人たちが丹念に回復させたものである。これに倣い私は3月下旬に東京に行って探すつもりであるが、「沖縄新報」については、それ以前の資料よりもはるかに困難が想像される。

 というのは昨日の比嘉のメモに見るとおり、無事に本土まで運ばれなかったケースが想像される。その場合、発見は困難というとか、絶望的になってくる。

(2)「沖縄新報」の再開そのものは予想よりも早く、10月14日か15日には復刊にこぎつけたと考えらる。

 これは今日気づいたのだが、「沖縄新報」にも他の新聞同様「通巻」すなわち通し番号がある。私の計算ミスがないとすれば、11月14日発行の分は何も無かった場合1398号になるはずである。しかし現存する11月14日号は1395号である。ということは発行できなかったのはわずか三日分ということだ。

 仮にこれが正しいとすれば、現存する資料が11月14日から始まっている理由も説明できる。
(仮説)現存する資料より前の便で、10月14日から11月13日までの一箇月分は発送された。しかし何らかの理由で(貨物船撃沈など)、比嘉のもとには届かなかった。その事実は送り主にも受け取り主にも把握されず、翌月分11月14日から12月13日分が発送され、これは届いた。



(3)これは上記二つのの推測よりははるかに精度が落ちるのだが、一応記録ししておく。「考察」である。

 梅沢氏の証言の三つの要素を満たす事実があったとは考えにくい。

 三つの要素とは「19年11月3日であること」「知事が参加したこと」「警察消防を含む大規模なものであったこと」である。

 まず時期についてであるが、十・十空襲の被害は甚大なものであったが、官僚機構は壊滅したわけではなかった。『那覇市史』など見るとこの時期の記録は相当詳細に残っている。仮にそれほど大きな公式行事があれば「沖縄新報」のみならず記録に残っていると思われる。だが今のところそれを示す資料はない。

 次に「知事」である。これは現在まだ調査中で諸説があるのだが、当時の知事だった泉守紀がこのような大会を招集したとは現時点では思えない。泉知事は就任当初から一刻も早く沖縄を出ることを画策していた人物であり、軍部とも対立していた。実際には昭和二十年一月にまんまと香川県知事に就任し、1984年無事86才老衰で大往生している。十・十空襲以後は特に精力的に運動しており、こんな集会を招集するとは思えないのである。
 次の島田知事ならありうる。島田知事はそもそも死ぬことを前提に来沖しており、実際20年6月に大量の県民を失った責任から文民でありながら自決している。現在も夏の野球県大会を制すると島田杯が授与される。興南高校は島田杯を手に甲子園を制したのである。

 警察・消防等については、11月上旬にこのような大規模な集会を余力はなかったと思われる。那覇市役所が仮事務所をようやく作るのは11月中旬である。

 そもそも梅沢証言のこの部分は戦後かなりたった伝聞である。19年ではなく18年であったとか、明治節ではなく紀元節であったとか、多様な可能性を想定しつつ調査を進めるべきだと思われる。(この項、ひとまず終わり)





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Last updated  Jan 30, 2012 12:11:59 AM
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