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大野隆之

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テーマ: 教材作成(27)
カテゴリ: カテゴリ未分類
*合宿も無事終了したので、作業再開である。今日はどうしても関富士子氏が閲覧した集英社文庫版を見たくなって、途中西原図書館にいったりした。こういうことはよくあるのであり、実際に資料が十分かどうかは、書き始めるまではわからない。
*ちなみにコンテクストというのは「文脈」という意味である。

4、コンテクストとしての「祈らなくていいのか」

 ある一篇の詩を単独の作品として鑑賞するのか、詩集の中の一篇として理解するのか、という問題は常にあるが、「朝のリレー」においてその問題は特に顕著である。例えば昭和62(1987)年度版の光村図書の教科書の場合、「朝のリレー」のリレーの次に配置されている教材は長田弘の「おおきな木」であり、その冒頭は以下の通りである。

おおきな木をみると、立ちどまりたくなる。
 芽吹きのころのおおきな木の下がきみは好きだ。
 目を見上げると、日の光が淡い葉の
 一枚一枚にとびちってひろがって
 やがて雫のようにしたたってくるようにおもえる。


 一方「祈らなくていいのか」はオリンピック三篇のあと、太陽に照らされた庭石を描いた短詩「石と光」がおかれ、その次に「朝のリレー」が配置されている。問題となるのはその後の「月からの風景」である。以下に引用するのは全八連のうちの第三連と第四連である。

地球はかなたにかかつている
午前十時の午後五時の
暁とうしみつどきの
今日と明日との
まわりつづけるあやうい独楽

かなたに地球はかかつている
ナパームの閃光はみえず
黒も白も黄いもみえず
セザンヌのりんごもみえず
どんな廃墟もみえず


 第四連にはいると「朝のリレー」という作品が、何を避けているのかがはっきりとわかる。このうち「ナパームの閃光」は、特にあからさまに同時代性を表現しているといえるだろう。
 ナパーム弾は既に第二次大戦中に開発されており、東京大空襲で使用された「焼夷弾」も本質的には同じものである。しかし「ナパーム」という語が日本人に一般的に知られるようになったのはベトナム戦争であろう。1966年に放映された「ウルトラマン」でも使用されており、怪獣を倒せる強力な兵器として子供たちにも認知されていた(注11)。
 「黒も白も黄いも」はそれ自体は中立的な表現であるが、「ナパーム」の直後に配置されているため、オリンピックにおいて描かれた他者同士の連帯より、むしろ差別という負のイメージを喚起するだろう。
 「セザンヌのりんご」は人類の芸術的営為を象徴しており、「廃墟」は実体としては「朝のリレー」におけるローマの「柱頭」と同じものなのであるが、この作品においてはむしろ地球全体の中では人類の歴史など矮小なものに過ぎない、という『二十億光年の孤独』の時期の感覚に近いものである。
 この双子のような出自を持つ二つの作品は、その後全く離れ離れとなった。例えば先に取り上げた関富士子氏の批評には「詩集「祈らなくていいのか」所収(谷川俊太郎詩集「これが私の優しさです」集英社文庫より)」とその出典を明記しているが、『これが私の優しさです』(注12)に収められているのは「祈らなくていいのか」二八篇中、わずか八篇であり、「朝のリレー」の次に置かれているのはファースト・キスを暗示する「あげます」である。社会への違和と反発を描いた「乞食」こそ所収されているが、他は概ね明るい作品であり、オリンピックのような時代を反映する作品は一切排除されている。仮に関氏が初出形態で「朝のリレー」を読んでいれば、おそらく全く別の批評となったであろう。

 「月からの風景」をふまえた上で、「朝のリレー」を読み直すなら、表層の明るさとは異なった読みの可能性が生じる。例えば冒頭、中学生その他の読者を惹きつけてきた「カムチャツカ」は、また別の一面を持っている。アメリカ合衆国のアラスカと隣接しているカムチャツカ半島は、冷戦期においては重要な軍事拠点であり、一九九〇年までは外国人の入域は禁じられていた。「カムチャツカの若者」の職業を想像する授業実践が有り、漁業か林業に従事しているというのがその答えであるようだが(注13)、実際には「軍人」の可能も高いのである。もちろん谷川がそれらを意図して冒頭においたと主張することはできないが、逆に冷戦期に世界の四箇所を無作為に選んだところ、偶然に米ソの都市、地域が含まれていた、というのも若干無理のある読み方ではないだろうか。
 また歴史をひもとけば一七世紀末にロシア帝国に征服されるまでは、カムチャツカはアイヌ人達の土地であった。これはカムチャツカに限らず、「朝のリレー」四つの地域のうち、ローマをのぞく三箇所は、一六世紀から一八世紀にかけて白人の帝国によって、先住民から奪い取られたものである。
 もちろん以上のような内容を、中一の授業で展開する必要は全くないと考えるが、むしろこのような事実をふまえた方が、次世代へのよびかけ、という「朝のリレー」の切実さがはっきりするように思われる。



(11) 第八話「怪獣無法地帯」 1966年9月4日放映。なおこの作品のシナリオは金城哲夫と上原正三の共作である。

1519年にスペイン人のエルナン・コルテス (Hernán Cortés) のメキシコ征服
1664年、イギリス人がニューヨークと名付ける。





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Last updated  Aug 22, 2012 09:23:09 PM
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