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最近になって、冬に真っ赤な実と花をつけたイチゴノキを目にするようになった。大きな物では高さ10mを超えるほどにもなって、冬季にアセビやドウダンツツジの花に酷似した壺形で花冠にピンクや緑色の縁取りのある白く可愛らしい両性花を咲かせる。果実が熟すには長い時間が必要で、開花結実したものは1年後の花が咲く頃にならないと赤く熟さない。熟した赤く丸い果実には酸味があり、決して美味いものではないが生食されることもある。ツツジ科イチゴノキ属の常緑低木で学名をArbutus unedoといい、英名ではStrawberry treeといわれる。ヨーロッパの南東部からトルコのアジア側の半島、アイルランドの南西部に自生するという。秋に10~30花ほどが集合して円錐花序をつくり、雌雄同花の花を咲かせる。その後果実表面が小突起で覆われた赤くて直径2cmほどの漿果が着く。日本産のツツジ科の植物で有毒なのはツツジ属ではレンゲツツジのみで、その他の属ではホツツジ属ホツツジ・イソツツジ属イソツツジ・アセビ属アセビ・イワナンテン属ハナヒリノキが知られているが、イチゴノキ属の果実は毒を持はない。イチゴノキ属の植物は14種が知られていて、主に地中海地方と西ヨーロッパおよび北アメリカに分布している。日本では殆ど知られていない樹木であったが、近年小型の園芸品種が園芸店にも出回るようになったことで庭に植栽されるようになってきた。多くのツツジ科樹木は酸性土壌を好むが、イチゴノキはアルカリ性の石灰質土壌でよく育つ。イチゴノキは冬の寒さや夏の多湿でも成長するが、本来は夏乾燥している地域に適した樹木である。温室によく植えられている樹木だが、耐寒性もあって庭木として地植えが可能である。種名のunedoは、一回食べるということから付けられたものだという。果実は綺麗で美味しそうに見えるのだが一回食べればもう沢山で、二度と食べたいと思わないと言う意味なのだという。採取されずに残された果実は鳥の餌となるが、この果実は加工されてジャムやリキュールにされる。ポルトガルのメドロンホは強いブランデーとして知られるが、イチゴノキの果実から作られたものである。果実の表面は小突起で覆われておりその様子が、イチゴを連想させることからStrawberry treeと名前が付けられたというが、イチゴよりむしろヤマモモの果実と色・形共に良く似ている。ヤマモモは直接枝に付くが、イチゴノキの果実はサクランボのように長い果梗の先に実を付ける。園芸店では、ストロベリーツリーの名前で販売されていることが多い。挿し木でも殖やすことが可能で冬期にアセビが咲く頃に花を咲かせ、花と同時期に熟す赤い果実が美しいこと、樹高80cmほどの矮性園芸種も出てきたことで今後愛好者が増えてくると思われる。ネットでは50cm程度のものが、1500円ほどで販売されている。 花言葉 後が楽しみ
2015年02月27日

岡山駅前に石雛飾り「桃の節句」の起源は平安時代より前とされており、京の貴族階級の子女が御所を模した御殿や飾り付けで遊んで健康と厄除を願った「上巳の節句」が始まりとされている。和暦の3月3日は新暦では4月頃に当たるが、明治6年(1873)の改暦以後は一般に新暦の3月3日に行なわれる。一部地域では引き続き旧暦3月3日や、月遅れの4月3日に行われることも多い。旧暦の3月3日頃は桃の花が咲く季節と重なることから、「桃の節句」と言われるようになった。この日には雛人形と桃の花を飾り、雛あられや菱餅を供え、白酒やちらし寿司などを飲食して楽しむ。段飾りとは別に鳥取市用瀬町が発祥とされる流し雛の風習があり、これが雛人形の原型になったとの説がある。昭和50年に尺八師範免状を貰った際に、流し雛をモチーフに尺八の曲・詞を創った。その曲を持って用瀬を訪問し、教育長から流し雛について説明を伺ったことがある。流し雛が江戸時代末期に用瀬で始まった風習だとすると、雛人形の起源を流し雛に求める説には無理がある。雛まつりの人形や飾り付け・時期は、地域によって様々である。兵庫県たつの市では、「八朔のひな祭り」と言って旧暦8月1日に行われる。江戸時代には9月9日の重陽の節句に雛人形を再度飾る、「後(のち)の節供」という習慣があったことから秋にも雛人形を飾る地域がある。江戸時代になって子女の「人形遊び」と「節句の儀式」とが結びついて全国に広まり、雛人形が飾られるようになった。「雛あそび」が節句行事としての「雛祭り」へと変わったのは、天正年間以降と推測されている。昭和天皇即位の際の並びに倣って男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」といっており、関東では現代式だが畿内や西日本では現在でも古式で飾り男雛を向かって右に置く家庭がある。昭和初期に作られた俗説に、祭りの日が終わった後いつまでも雛人形を片付けないでいると婚期を逸するとの言い伝えがある。旧暦の場合は梅雨が近いことから、出し放しにすると虫が喰ったりカビが生えたりすることへの警鐘から出たものだといわれる。おせち料理は専ら正月の料理の代名詞になってしまったが、もともとは節日(節句)に作られる料理を指している。ひな祭りに食べられる料理には菱餅・雛あられ・鯛や蛤の吸い物・ちらし寿司があり、飲み物では白酒などがある。伝統行事であるため、日本各地に特色のあるひな祭りがある。大量の人形飾り・つるし雛など特色ある飾り・生身の男女が雛人形に扮して並ぶ等がある。岡山県新見市では27日~3月3日の期間、「にいみ雛(ひな)まつり2015」が開催される。ひな飾り100点以上、新見藩主・関家縁の内裏雛など江戸期以降のひな飾り・つるし雛の他、こぶし大の石にアクリル絵の具で内裏雛や三人官女などの絵付けしをした手作りの石雛が飾られる。手造りのつるし雛や石に描かれたお雛さまには豪華さはないが、造り手の暖かさが伝わってくる。
2015年02月26日

岡山県と言えば、桃太郎・桃・マスカット・デニムに加えて備前焼が有名である。岡山在住の学友の案内で、備前焼著名作家の窯を訪れる機会があった。事前に窯元の場所を地図で確認していったのだが、曲がる場所が分からず1時間ほども時間をロスしてしまった。ガソリンスタンドで訊くと客が居なかったこともあるのだろうが、親切にも地図をコピーしてきて30分ほども説明してくれた。窯元の家は急峻で無舗装の、車一台が漸く通れるほどの細い坂道を凡そ500mも上った付き当たりにあった。途中住人に逢って窯の名前を言って尋ねたのだが、全く要領を得なかった。周囲を孟宗の竹藪に囲まれた場所に、民家が一軒ひっそり建っていた。確かに外観からの様子からは、ここが備前焼きの窯元と判断するのは難しい。父親が築いた窯を相続したというのだが芸術家に在りがちな、世俗とは没交渉な日々なのであろう。年に2回登り窯に火を入れると言うのだが、民家からこんなに離れた場所でも8日間連続で松の薪千束を焚くと煙が出ると言って苦情が来ると言う。陶器は何処の焼き物であっても一口に瀬戸物といわれるが、本来瀬戸焼は瀬戸市周辺で焼かれる陶器のことである。瀬戸焼に加えて常滑焼・越前焼・信楽焼・丹波立杭焼・備前焼を、日本六古窯と呼んでいる。これらの窯は全て須恵器・土師器・瓷器のいずれかが源流となっている。須恵器は5世紀の中頃に朝鮮から、1100℃~1200℃で還元焼成による無釉硬質土器の技術がもたらされたことによって、日常生活用品や祭祀用具など様々な種類のものが作られた。土師器は弥生式土器の一種で4世紀から造られるようになった素焼きの土器で、祭祀用と日常雑器を焼成温度600℃~800℃の低い温度で焼いた。瓷器(しき)は奈良平安時代に緑色・三彩鉛釉を施し、800℃前後で焼かれた。瀬戸・丹波・越前が、その流れを汲んでいる。備前焼は信楽と同じ須恵器の流れを汲んでおり、十二世紀末から備前市近郊で摺鉢、壷、甕を主とした日曜雑器が造られた。鎌倉時代初期には還元焼成で焼かれ、鎌倉時代後期になると酸化焼成による現在の茶褐色の陶器が焼かれるようになった。この当時の作品は「古備前」と呼ばれて人気があり、高値で取引され珍重される。室町から桃山時代にかけて茶道の発展とともに茶器としての人気が出たが、江戸時代になって茶道の衰退と安価で大量生産が可能な磁器が登場したことで衰退した。昭和に入り人間国宝になった金重陶陽(明治29年1月3日~42年11月6日)の努力によって、備前焼が再興された。陶陽の弟の金重素山、長男の金重道明は共に人間国宝、三男の金重晃介も陶芸家として活躍している。釉薬を使わず土の性質や窯に詰めた位置、窯の温度の変化・焼成時の灰や炭などによって生み出される備前焼の景色には、どれ一つとして同じ色・同じ模様がないのが特徴である。現在は茶器・酒器・皿など多くの種類が生産されており、使い込むほどに味が出るといわれて人気が高い。用土は田の底2~4m厚さ約10~90Cmの粘土層を、冬期に掘り出した干寄(ヒヨセ)と呼ばれる土と山土・黒土を混ぜ合わせた鉄分を含む土が使われる。人間国宝の陶陽は10年以上も寝かせた土を使っていたといい、備前の土は信楽土より数倍も高価だという。備前焼には様々な窯変があるが、特に薪の灰が融けて生地に付く事によりできる胡麻や藁を播きつけることで緋色に浮き上がる緋襷と言われる模様は好まれる。陶陽の流れを汲むこの作家の作品は、ぐい飲みで5万・抹茶茶碗15万円・花器になると50万円だという。座敷に毛氈を敷いて、その上に30点の作品が並べられていた。とても手が出ない値段であったが、酒を飲まないのに義兄はぐい飲みを一つ購入した。素人目には私が土産物店で購入した1/10の値段の物と素人目には判別がつかない。
2015年02月25日

岡山後楽園で昭和40年からおこなわれている春の芝焼きが、今年も2月4日に行われた。茶色に枯れた芝生が、瞬く間に黒い絨毯に替わる。管理された庭園では、火が高く上がることもなく野焼きの様な危険を伴わないので、観光客も燃える火からホンの1m足らずの場所で見物する。またケージで飼育管理された国の特別天然記念物の丹頂を、園内に放鳥することでも知られる公園である。千代やへん 空とぶ鶴のうちむれて 庭におりいる宿の行末 池田綱政江戸時代には岡山には野生の丹頂が飛来したと言い、延養亭の前庭に降り立った丹頂をみて藩主綱政が良いことの兆しと喜んで詠んだ歌だという。今も後楽園正面ゲートを入って左に回った場所にケージがあって、8羽のタンチョウが飼育されていて常時見ることができる。正月にはこれらを園内に放鳥して、その様子が一般に公開される。後楽園は兼六園・偕楽園と並んで、日本三大名園と呼ばれている。江戸初期に藩主池田綱政によって造営された後楽園は、元禄文化の影響を強く受けた庭園で東京ドームの約3倍(133,000平方m)の面積を有している。貞享4年(1687)から14年という長い歳月をかけ、1700年に至って漸く完成した。岡山城からは旭川の、対岸に位置した中州に位置する。池泉回遊式の庭園で、岡山城や周囲の山が借景となっている。築園当初園内には田園や茶畑を設けていたこともあり、「菜園場」と呼ばれ綱政自らは「御茶屋」と称し城の背後にあたることから「後園」とも呼んでいた。明治4年(1871)に園内が一般開放されることになったが、この時から「御後園」の名称を「後楽園」と改めた。東京文京区小石川には水戸藩の初代藩主頼房が築き、2代目光圀が改修した回遊式泉水庭の「後楽園」がある。光圀は江戸初期に来日した儒学者朱舜水を深く敬愛したことで知られているが、舜水は水戸学に対しても思想的影響を与えたといわれる。後楽園の名称は、光圀が舜水に選ばせたものである。出典は「岳陽楼記」の「先天下之憂而憂 後天下之楽而楽」から取ってつけられた。水戸昭武は版籍を奉還すると、自ら進んで藩邸を新政府に差し出したといい、水戸藩江戸上屋敷の庭園が現在の小石川後楽園である。明治2年(1869)の版籍奉還により、御後園は岡山城とともに一時的に明治新政府の管理下に置かれることになったのだが、翌年11月には岡山藩の元へ戻された。藩知事に就任していた池田章政が、明治4年から庭園を一般に開放した。この一般公開に先立って御後園の名称を、「後楽園」に改めたと説明されている。名称は、小石川後楽園と同じ「先憂後楽」が由来と説明されている。したがって小石川後楽園が、名前の本家である。岡山後楽園の半分強の70,847.17平方mの広さを持ち、岡山と区別するために小石川後楽園と呼ばれるが、本来は小石川の方が先にその名称を用いていたものである。岡山県に後楽園の建造物と樹石を有償で土地は無償で譲渡したいとの打診があり、明治16年の県会で一旦は否決されるが、観光資源としての価値があるとして結局1万2500円で県が買い取った。現在管理運営は、県の外郭団体に業務委託されている。
2015年02月24日

神奈川県の面積は沖縄県に次いで全国43位と狭く東京に隣接しているにもかかわらず、後背地に丹沢や箱根を擁していることから自然に恵まれた地域である。ここに生息する野生鳥類は約400種類、ほ乳類では約70種類が確認され本州に生息する大型動物、ツキノワグマ・ニホンカモシカ・ニホンジカ・イノシシ・ニホンザルすべてが確認されている。都市化の進展などにより野生鳥獣の生息地が奪われたことにより、急速に分布や個体数が減少している種や元々個体数が少なく絶滅のおそれがあると言われている種は、鳥類(繁殖期)で80種以上、ほ乳類では20種以上とされている。一方ではシカのように従来禁猟保護が行われてきた結果、個体数の増えすぎによって森林や農作物への被害が深刻な問題となって新たな対策が必要となった種もある。丹沢のニホンジカは1977年に950頭とされたが、2010年は3000~5500頭が生息していると推定されている。禁猟保護の結果自然環境や農作物に甚大な被害を及ぼすようになってしまったことから、神奈川県は2003年に「神奈川県ニホンジカ保護管理計画」を策定し、年間450頭を目標にニホンジカの管理捕獲を実施するようになった。管理捕獲は県猟友会に事業委託して実施されるが、昭和24年度には会員数2319名であったものが高齢化と新規加入者が無いことで毎年6.5%の割合で会員が減っているという。単純計算では後15年もすれば、ほとんど会員はいなくなってしまう計算である。猟友会は年間を通して、カラス・カワウ・サル・シカ・イノシシ・市街地に出没する熊など有害鳥獣の捕獲協力活動も行っているという。県猟友会では新規会員を大募集しているというが、銃砲所持許可を得るまでにはそれなりの時間と費用がかかる。神奈川県では平成13年に初めて管理捕獲に参加した男性会員が、発砲したシカの状態を確認するために仲間と沢を下りて行き、戻る途中で滑落して死亡した事故が発生している。漸く銃砲所持許可を得ても、素人の実践への参加は足手間といになるとして実際には狩猟への参加を断られるのだという話も聞く。山荘で70坪ほどの菜園を耕しているが、シカ・イノシシ・サルやハクビシンによる被害には毎年悩まされている。ネットや電気柵でシカ・イノシシ・ハクビシンは防御可能なのだが狩猟鳥獣にも指定されていないサルだけは防ぎようがない。地域の猟友会が、空砲による追い払いをしているようだが効果は限定されている。相模原市南区の日蓮宗寺院の境内に、県猟友会相模原南支部が建てた真新しい鳥獣供養塔がある。イノシシだけでも、平成17年度に全国で約210,000頭が捕獲されたとする統計がある。狩猟鳥の場合は特に届け出も必要とされないことからその実数は不明だが、毎年多くの鳥獣が狩猟対象となったであろうことは想像できる。供養塔が建つ地域は市街地化しており、狩猟可能な地域では無い。県の管理捕獲に従事したり、個別で他の地域に出かけて仕留めた鳥獣の霊を供養するために建てられた碑であろう。
2015年02月23日

後楽園から 漆塗り金箔張りの鯱鉾岡山城は、標高僅かに十数mで地名を岡山と呼ばれた小高い丘にある。この地に、戦国武将の宇喜多秀家が、本拠構えたのが始まりとされる。宇喜多秀家は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、西軍として戦ったことから八丈島へ流刑され宇喜多家は改易となった。代わって小早川秀秋が入城したが嫡子がいなかったことから、死後断絶した小早川に代わって姫路城主池田輝政の次男忠継が継承した。城の黒い外観から別名烏城あるいは、金の鯱が掲げられていることから金烏城とも呼ばれる。別名で烏城と書かれるのは岡山城の他に松本城があるが、岡山城は「う…」で松本城は「からす…」と読まれる。岡山城があることから江戸時代には岡山藩と呼ばれ、明治になって岡山県になりさらに県庁所在地の岡山市になった。本丸の北から東には郭の無い、無防備な縄張である。そのため旭川本流を城郭の北から東側に沿うように極端に寄り添わせる形に流れを改変し、天然の堀として東側の備えに利用したのだという。この付け替えにより不自然な流路となったことが洪水を多発させる原因となり、治水のために放水路として百間川が整備された。明治6年1月14日(1873)に発せられた、「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」により多くの城が解体された。(単に「廃城令」、「城郭取壊令」または「存城廃城令」と略されて使用されている場合が多い。)これを受けて岡山城の御殿・櫓・門の大半が取り壊され、堀も内堀の一部を除いてほとんど埋められたが城下町としての街路は江戸時代の位置がほぼ踏襲されているという。昭和20年(1945)6月29日の岡山空襲によって、天守・石山門を焼失してしまった。現在は2つの櫓・本丸付近の石垣・内堀が残り、昭和39年~昭和41年(1964~1966)には天守を鉄筋コンクリートで再建した。後楽園側から見る岡山城は、生憎の曇り空にも関わらず金色に輝く数多の鯱鉾ばかりが目に入る。入場料は300円だが、岡山市内在住の65歳以上でシルバーカード持参していれば2割引きとなる。ただ余りチェックは厳しく無く、市民でなくても割り引いてくれる。城内はミュージアムになっていて、遺物・遺品や刀剣・甲冑、書き付けの類が各層毎に展示されている。昭和62年(1987)に岡山城跡として、史跡指定された。
2015年02月20日

日本人の誰でもが知っている桃太郎・かちかち山・猿蟹合戦・舌切雀・花咲爺などの昔話は、室町末期から江戸初期にかけて成立したとされる。これらの物語を、日本五大昔話ということもある。桃太郎発祥の地とされる地域は日本全国に20~30か所もあり、それぞれ物語の設定は微妙に異なる。桃から生まれたり、または桃を食べて若返った夫婦が子どもを授かる筋であったり、家来になったのが石臼や馬糞・蜂・百足の場合もある。究極の目的が 鬼退治ではなく、嫁探しという内容になっていたりもする。桃太郎が働き者で立派に育った、または力持ちで大きな体に育つが怠け者で寝てばかりいるとする内容だったりもする。やがて成長した桃太郎が自発的に鬼退治に行こうと決める場合と、村人や殿様から言われたために行く場合などがある。これらの中で最も知られているのは、勧善懲悪譚の桃太郎であろう。お爺さんお婆さんから黍団子を餞別に貰い、旅の途中出会ったイヌ・サル・キジにその黍団子を分け与えて家来にする。鬼ヶ島で鬼を成敗し、鬼が奪って集めた財宝を持って郷里に戻ってお爺さんお婆さんと幸せに暮らしたというものである。児童文学者巖谷小波が明治27年(1894)に日本昔話としてまとめたものが、その後の語り伝えに大きく影響している。昭和になって発行された、岡山市出身で名誉市民でもある児童文学作家坪田譲二の「日本むかしばなし」もこれとほぼ同じ内容を踏襲している。全国に数多く存在する桃太郎縁の地の中でも、黍団子が吉備団子と結びついて吉備の国(備前・備中・美作・備後)が有名になった。吉備国にはもともと江戸時代末期に考案されたとされる、吉備団子という土産物の餅菓子があった。現在のきびだんごは求肥を、小さくて平らな円形に成形したものである。黍の粉を混ぜているが、使わないものもある。黍が主原料ではないが、従来から「きびだんご」の名称で売られている。安政3年(1856年)に岡山市の廣榮堂により考案されたのが元祖とされ、現在売られている廣榮堂のきびだんごの原材料欄には、砂糖・還元水飴・もち粉・麦芽糖・きび粉・上用粉・トレハロースの記載がある。実際にはこの菓子舗で団子を考案したのは、明治になってからだという。その後この団子に桃太郎の名を冠して、「桃太郎きびだんご」として販売に利用した。昭和になってから、桃太郎が吉備津神社の祭神吉備津彦に由来するとの説が出され、戦後は岡山と桃太郎との関連を官民一体となってアピールしている。桃太郎サミットや日本桃太郎会連合会に参加する自治体は、岡山市・総社市・高松市・犬山市・磯城郡田原本町がある。この中でも岡山県が桃太郎発祥の有力地とする説が多いのだが、岡山県で桃の栽培が始まったのは明治時代以降であることから、室町時代に桃太郎の桃が川に流れてきたとは考えられない。
2015年02月19日

岡山市中区に備前国第一の禅寺と称され山号を護国山、寺号を曹源寺という禅寺がJR岡山駅より、7km少しの距離の所にある。山を背景として広い寺地に建てられた壮大な伽藍は、禅宗建築の代表的なものとされる。平成十年四月に近世大名墓の典型的な墓所として、国の史跡に指定された。岡山藩主池田家の菩提寺であり、本尊は十一面観世音菩薩という。岡山藩第2代藩主池田綱政が元禄11年(1698年)に、四代前の恒興と父光政の菩提を弔うために創建したとされ320年の歴史がある。山号の「護国山」は池田恒興の院号護国院から、寺名「曹源寺」は中国で禅を大成させた慧能に因んだものという。達磨から禅の神髄を伝承した6代目の慧能は、曹渓に住んでいたことから地名を取って「曹渓」とも呼ばれた。禅法は慧能によって大成したことから、曹源のことを「源泉の一滴」に譬えて「禅法の源泉」という。曹源寺は両脇に松を配した参道から、総門・三門・仏殿が一直線上に配されている。仏殿に向かって右に鐘楼左には鼓楼があり、鼓楼の奥に経蔵その背後に開山塔がある。国の史跡に指定された池田家墓所は仏殿の奥にあり、墓所に向かって左奥の丘陵に三重塔が建っている。かつては伽藍の両脇に真言宗・天台宗・日蓮宗・浄土宗の塔頭を末寺として配置していたというが、現在は伽藍向かって左に大光院(日蓮宗)、右には天台寺(天台宗)が残っているのみである。現在も修行僧を受け入れているが、全て外国人だという。海外から修行者が参集して修行に励み帰国して禅道場を開く様子が海外に紹介されたことで触発された外国人が、常時20名ほど修行に訪れているという。岡山の市街地で時折見かける托鉢僧は、全て曹源寺の修行僧だという。山号の「護国山」は高祖父恒興の院号護国院から、寺名「曹源」は中国で禅を大成させた慧能に因んだものという。曹源寺には、「儀山禅師の大喝」という逸話が伝わっている。天竜寺の初代管長滴水宜牧禅師が儀山禅師の下で修行中風呂が熱いので水を汲んで来るように言われ、手桶に残っていた水を捨て新たに井戸から水を汲んで来ると、「そんなことで修行ができるか」と儀山和尚から大喝された。残り水でも植木の根にかけてやれば植木も活きるし、水も活きる。ものを活かし切ってこそ、己も活きるのだと大声で叱りつけられたのだという。松と杉・桧が濃く影を落とす境内には、京都の寺社のように見学に訪れる人の影も無い。人の息遣いさえ聞こえそうな世俗を超越した静寂な中にあって、幽玄の世界に引き込まれそうな緊張感を覚える。作務衣を纏った男女10名程の外国人修行僧が、言葉も無く黙々と広大な境内一面の落ち葉を掃き清め整然とした箒目をつけていた。昼の勤行であろうか午前11時30分になると、鐘の音と共に突如として経文を唱える朗々とした声が本堂から響いてきた。
2015年02月18日

平成4年「第9回全国都市緑化かながわフェアの会場として開場され、その後県立相模原公園として生まれ変わった。ランス風庭園に整備された噴水池を囲むように、推定樹齢30年と思われるメタセコイア並木が整然と並んで植栽されている。関東では恐らく昭和記念公園と県立相模原公園のメタセコイアが、並木としての観賞価値の上では双璧と思われる。1939年に常緑種のセコイアに似た化石が、京大教授三木茂によって関西地方の第三紀層で発見された。発見者はこの化石の植物に、「高次な」・「超」・「間の」・「を含んだ」・「の後ろの」等の意味のギリシア語の接頭語メタ(meta-)を付けて「メタ セコイア」と命名した。化石の発見当初は絶滅して地球上には最早現存しない植物と思われていたが、1946年中国四川省で発見されたことから「生きた化石」として有名になった。日本への伝来はハーバード大学で種子から育苗していた苗木が、1949年に皇室に贈られたものが最初である。さらに翌年には、100本の苗木がアメリカから贈られた。針葉樹に特有な樹形が公園等の景色に良く似合ったこともあって、昭和30年代にはメタセコイアがブームとなって各地に植栽されるようになった。現在各地に見られるメタセコイアはアメリカから贈られた木から作られた挿し木苗が、日本各地に広がったものなので巨木に見えても精々樹齢は50年ほどでしかない。針葉樹の仲間に見られるように、三角形の端正な樹形で美しい。樹形が美しいこともあって、公園樹や街路樹として好んで植栽されている。しかし、成長速度が速いため材質は疎で、材としては利用されない。メタセコイアは1属1種で、和名のアケボノスギ(曙杉)はDawn Redwoodを直訳したものである。しかし曙杉の和名は一般的に広まらず、現在もメタセコイアの方が通り名となっている。葉はモミに似て細長く、羽状に対生するのが特徴である。秋に赤茶色に美しく紅葉して、落葉する。樹高は30mにも成長し雌雄同株で3月頃、葉の展開に先立って花を多数咲かせる。セコイアの名前がついた木には主としてアジアで見られる落葉樹のメタセコイア、常緑樹のアメリカ西海岸沿岸のコーストレッドウッド(セコイアメスギ)及びアメリカのシェラネバダ山脈西側斜面に自生するジャイアントセコイア(セコイアオスギ)の3種がある。メタセコイアと、コーストレッドウッドの葉の形状はよく似ている。ジャイアントセコイアの葉は、細く先端部分が剣になっている。カリフォルニア州ヨセミテ公園には、セコイアの巨樹の森がある。カルフォルニア州「セコイア国立公園」にある「シャーマン将軍の木」は、1500立方mと推定される体積を持ち地球上で最大の巨樹とされ、樹齢2200年のジャイアントセコイアであることで有名である。
2015年02月17日

小田急線相模大野駅あるいは次の相模原駅からバスで20分ほどの距離に、日蓮宗源悟山顕正寺がある。開拓入植者たちの心の拠り所として昭和24年(1949)、現在地に建立された比較的新しい寺院である。今ではすっかり住宅が立ち並んで都市化してしまったが近くには開拓の碑などがあり、かつては相模が原と呼ばれた原野であったことがうかがわれる。この寺院の他にも宗派が異なるのに、顕正寺と名乗る寺院は全国に多くある。法華山顕正寺(埼玉県川口市)・法華山顕正寺(京都府京都市)・東耀山顕正寺(神奈川県横須賀市)などの日蓮宗の他に、椎木山顕正寺(三重県亀山市)・顕正寺(鹿児島県屋久島町)は真宗、藤井山九品院顕正寺(香川県丸亀市)は真言宗の寺院である。源悟山顕正寺は豊臣家臣の子孫として岐阜県に生まれ大工になった、野々村顕吾が開祖とされる。37歳の時作業中、墨壺の墨が眼に入ったことで両目を失明した。代々伝わる観音に手を合わせ病気平癒を祈って経文を唱えていると、「身延に行けば日朝上人が直してくれる」とのお告げがあった。そこで身延山日朝堂に参籠して勤行と罪障消滅を祈ると、不思議なことにお告げのとおり両目が開いた。故郷へ帰ろうとした時再び観音が夢枕に立ち、「東方千ヵ寺にお礼参り」をするようにと告げられたので、佐渡から関東・東北の寺を回ってやがて相模国に至るとここで多数の法華信奉者を得て、この地に明治二十四年に祖師堂祈祷所を建立したと伝えられている。明治になって神仏分離が行われたが、本堂の左手には「金龍弁才天」を祀ったという「敬信殿」の扁額のあるお堂と朱塗りの鳥居が建っている。鳥居は一般的には神社を象徴するものとして捉えられているので、法華経寺院と鳥居の組み合わせには違和感を覚える。実は神仏混淆により仏教寺院にも鳥居が見られることがあり、一方で鳥居を持たず楼門をもつ神社も存在する。六甲山麓やその周辺には、特に弁財天を鎮守神とする寺院が多いという。経典の漢字表記では「弁才天」だが、日本では後に才が財の音に通じることから財宝神としての性格が付与され、弁財天と表記する場合が多い。弁才天は古代インドで、水の女神として生まれた。経典には弁才天を信じる者には弁舌・才智を与え寿命を永らえて諸々の財宝を与えるとある。弁天とも言われ弁才天(弁財天)を本尊とする堂宇は、弁天堂・弁天社などと称される。金龍弁才天の「金龍」だが龍神には多くのものがあり、天龍・地龍・山龍・海龍・水龍・金龍・銀龍・火龍・赤龍・蛟龍・黄龍・青龍・白龍・黒龍・木龍等多くがあって最高の龍神は天龍だという。また観世音菩薩の守護神が、金龍だとされる。弁天信仰の広がりと共に各地に弁才天を祀る社が建てられたが神道色の強かった弁天社は、明治元年に発せられた神仏判然令により多くは神社となった。近世以降の弁才天信仰は仏教・神道・民間信仰が混交して、複雑な様相を示している。
2015年02月13日

馬酔木咲く 金堂の扉に わが触れぬ 秋桜子花はその最盛期に群れて咲くのも見事でいいのだが、未だ開花の時期ではないのに数輪開花した季節外れの花を見つけるとその日一日楽しい気分になる。夏の終わりに花芽分化し冬を越した、アセビの花穂に花が咲き始めた。アセビはツツジ科の常緑低木で、本州では東北より南と四国・九州に自生している。沖縄にも変種のリュウキュウアセビがあったが、乱獲により自生種は絶滅したと言われる。常緑性の小高木だが山地に自生している老樹には、稀に6mにも達するものも見られる。庭植え・生垣・盆栽・鉢植えにされ万葉集にも10首が詠まれているほど、古くから親しまれている花木である。そのためか時代や地域により、あしび・あせぼ・あしみ・あせみ・どくしば・足癈(あしじひ)など多くの別名で呼ばれることがある。馬酔木の名前の由来として馬が葉を食べれば毒に中り、恰も人の酩酊歩行の様な状態になることから付けられた名前というのが由来説として信じられている。しかし草食哺乳類はこの樹の葉を自らは食べないので、中毒してふらつく状態を見た人はいないとされることからこの説は信憑性に欠ける。樹高は4mほどになり、早春になると枝先に複総状の花序を垂らし鈴蘭に似た壺型の花を多数つける。全草に有毒成分のグラヤノトキシンI(アセボトキシン)や、アセボプルプリンなどのアルカロイドを含有している。草食哺乳動物は習性で、アセビの葉を食べることを避ける。その結果牧草地や草原ではアセビだけが残されるので、この木が目立って多くなる。誤って食べたときの中毒症状は、嘔吐・下痢・腸からの出血などであると言われている。かつては葉を煮出して、アセボトキシンを牛馬の外部寄生虫や農用の害虫駆除に利用していた。民間療法で痛風・リューマチの薬として、ハクサンシャクナゲの葉を煎じて用いることがある。シャクナゲの葉には、アセボトキシンと同じグラヤノトキシンIを含有している。平成20年5月道央で、シャクナゲの葉を煎じて飲みショック症状を呈した患者1名が発生した。グラヤノトキシンは初め迷走神経を刺激し、ついで全身麻痺となるが回復は早く致命率は低いと言われる。アセビと同じツツジ科のネジキ・ハナヒリノキ・シャクナゲ・レンゲツツジには、グラヤノトキシンIを含有していることが知られている。アセビは白が基本種だが赤花やピンク花などの園芸種がありまた、葉に白覆輪のあるものや矮性種がある。花期は3月初めから約1か月半と、比較的長く花には微香がある。磯の上に 生ふるあしびを手折らめど 見すべき君が ありといはなくに 万葉集 大来皇女 花言葉 犠牲 献身
2015年02月12日

今朝の日本列島にはこの冬一番の寒気団が流れ込んで、関東もスッポリと-4℃の空気に包まれた。この寒さで、庭の隅のハナユが沢山の実を付けたまま葉をだらりと下げた。しかし空気は冷たくても次第に春の陽光が輝くようになると、路傍の雑草が咲き出る時期を忘れずに花を咲かせる。路傍の陽だまりにはすでに、他に魁て開花するホトケノザの花が見られる。少し遅れて茶色に枯れた芝生の中にポツポツと咲く、オオイヌノフグリの薄い空色の小さな花を確認することができる。これらの雑草に咲き始めた花を見つけると、春の近いことを実感する。オオイヌノフグリは、オオバコ科の越年草である。この種より小型で古い時代から本州以南に在来していたイヌノフグリは、かつては路傍や畑の畦道などで普通に見られた雑草である。イヌノフグリという何とも変った和名の由来は、果実の形状が犬の「フグリ」に似ているとして牧野富太郎が命名したものである。陰嚢のことを「ふぐり」というが、この言葉が「宇治拾遺物語」巻第五(74)陪従家綱行綱互ひに謀りたる事の中に、「庭火白く燃きたるに 袴高く引き上げて 細脛を出だしてよりによりに 夜の更けてさりにさりに 寒きとふりちうふぐりをありちうあぶらん」と出てくるところから、この用語は13世紀の始めの頃には成立していたであろうと考えられている。卑猥な響きを持たないこの「ふぐり」という言葉は、「ふくろ」が語源との説がある。明治になってイヌノフグリより大型のオオイヌノフグリが渡来したことによって、生育地を奪われるとともに開発によっても減少したため、先住者のイヌノフグリを目にする機会は少なくなった。春先になって路傍で良く目にするのはオオイヌノフグリで、3月~5月にかけて花弁に紅紫色のスジが入った4mmほどの大きさの淡いブルーの花を咲かせる。花は上向きに咲くのに、果実は下を向いて着く。オオイヌという犬が実在するわけでは無く、単にイヌノフグリより大型の花を咲かせることから付けられた名前である。2本の雄しべと1本の雌しべを持ち、4枚萼と花弁が根元で繋がって1つの合生花冠となっている。全く一般的では無く殆ど誰もが知らないが、オオイヌノフグリではかわいそうと思った人が付けたと思われる瑠璃唐草・天人唐草・星の瞳などの優雅な別名がある。 花言葉 信頼 神聖 清らか 忠実
2015年02月10日

枝が枝垂れやすく種子に毛があって風に飛ばされる様子がカワヤナギに似ているところから、ギョリュウ(檉柳)の名前がついたのだとの説がある。平安時代に編集された「倭名類聚抄」には、檉は「無呂」と出ている。「ムロ」は、ヒノキ科のビャクシンに属するネズ(ネズミサシ)のことである。この樹は中国やヨーロッパでは古くから薬用に供されていて、享保または寛保年間に麻疹の薬として日本に伝来したという。檉柳は広葉落葉樹だが、針葉常緑でこの樹に似て葉が小さくウメの様な花を咲かせることから「檉柳」と「梅」から取って「檉柳梅」と名前がついた植物がある。ギョリュウバイ(檉柳梅)はフトモモ科の常緑低木で、桃色の花が美しいため庭や公園に植栽される。ニュージーランドと、オーストラリア南東部が原産である。この植物はギョリュウ科のギョリュウともバラ科のウメとも何の関係もないフトモモ科の低木で、花が美しいため栽培される。針葉樹のネズ(ネズミサシ)に似ていることから、ネズモドキの別名で呼ばれることもある。ギョリュウバイはマオリ語でマヌカといい別名はNewZealand teatreで、古くから葉は茶や煎じ薬として利用されてきたといわれる。キャプテンクックはマオリ族がマヌカを薬として利用していることを知って、マヌカの葉でお茶を作って壊血病の予防・治療薬として利用したとの記録がある。ギョリュウバイの春咲きは矮性種で、秋咲きは高性種である。鉢植えで販売されているものの多くは矮性種で、日本には戦後になって導入された。オーストラリアとニュージーランドを中心に約40種が分布するが、日本では特にスコパリウムと言う種の代名詞としてギョリュウバイと言われている。スコパリウムとは「ほうき状の」という意味で、小枝を茂らした姿に由来している。立春の頃から梅に似た白やピンク、赤紫の花を枝いっぱいに咲かせ微かに仄かな香りがする。-5℃以上あれば越冬可能なので、関東以南では庭植えされることが多い。花は一重・八重、白から薄いピンクまで、多彩な花を咲かせる。開花後は小さな褐色の果実を付け、熟すと裂けて中から細長い種子が沢山放出される。ニュージーランドでは蜜源として重要な植物で、蜂蜜はマヌカハニーと呼ばれる。マヌカハニーはピロリ菌に対して殺菌作用があるとされ、民間療法では胃炎の他整腸目的で利用され、美肌効果があるとしてエッセンシャルオイルや石鹸・ローションなどの化粧品にも添加加工されている。蜂が花から集蜜した蜜がハチミツに濃縮される過程で産生する過酸化水素には、殺菌作用があり蜂蜜が腐敗しない原因と言われる。過酸化水素はヒトの体内に取り込まれると消化酵素のカタラーゼにより分解されるので、殺菌作用は失われてしまう。しかしマヌカハニーにはこのカタラーゼの影響を受けない、「マヌカハニーファクター(UMF)」と呼ぶ特有の要因」が含有されているとの研究がある。オーストラリアやニュージーランドではマヌカハニーを医薬品として利用しているが、日本では医薬品としては認められていない。他のハチミツと比べて高価で、特にUMF数値が(10+以上)と記載されたものは貴重であるため生産量が限られていて250gで5000円ほどと高価である。ニュージーランドの殆どの土産物店には、マヌカハニーの瓶詰めが置かれていて感冒やインフルエンザにも効果があると説明がされている。毎年季節の変わり目毎に風邪を引いて苦しい思いをするので、ニュージーランド旅行の際に10数本も購入してきたことがある。常日頃口にするレンゲやクローバー・菜の花・ニセアカシアなど、何れの花の蜜とも異なった少し黒っぽくて特有の香りのマヌカ蜂蜜を、風邪を引く度に飲んで見たが果たして薬効があったのか定かでは無い。
2015年02月09日
二つが正反対であることや、二つの物事の相違が甚だしいことを比喩する言葉に天と地の差・雲泥の差・天地の差・月とスッポン・大人と子供・圧倒的な差・大差・大違い・雲泥万里・鯨と鰯・雪と墨・天地霄壌の差などの言葉がある。板に付けて焼いたものと下駄では、形は似ているが実際は大変違うということから一見形は似ていても内容が全く違うものの譬えとして「下駄と焼味噌」が使われる。これに似た言葉に、烏と鷺・月と鼈・提灯に釣鐘がある。差を表すのに良く使われる言葉に天と地があるが、空と大地では相違が甚だしいことから出た言葉である。天地と全く同じ意味を表す、「雲泥万里」と言う四字熟語がある。意味は隔たりがあって大きく違っていること、天と地のように大きな差異があることを指して言う言葉である。ここで言う「雲泥」は空の雲と地上の泥のことで、天地と同じ意味である。日本で最初に使ったのは菅原道真と言われ、「菅家文草」に「雲泥、地の高く卑きことを許さず」という句が出てくる。明治39年に夏目漱石が発表した小説「坊ちゃん」で、「初めて教場へはいって高い所へ乗った時は、何だか変だった。講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。生徒はやかましい。時々図抜けた大きな声で先生と云う。先生には応えた。今まで物理学校で毎日先生先生と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥の差だ。」と使っている。また「万里」とは非常に長い距離を譬えて、「万里の長城」の様に使われる。雲泥万里の出典は後漢書白居易の「矯心伝」傷友で、「…昔年洛陽社,貧賤相提攜。今日長安道,對面隔雲泥…」(昔の洛陽では、貧賎は互いに手を取りあい助けあった。今日長安の道義とは、大きな差がある。)であるとされる。太平記39には、「古賢の世を治めん為に二君に仕へしと、今の人の欲を先として降人に成るとは、雲泥万里の隔其の中に有り。」と使われている。冬季に関東の南岸をかすめて通る所謂「南岸低気圧」は、関東地方に雪をもたらす。冬型気圧配置が強いと、日本海を渡ってきた湿った雪雲は新潟を中心とした地域に雪を降らせ、関東平野では北風が強く乾燥した晴天となる。この南岸低気圧が5日の木曜日から6日にかけて、関東南岸を通るとして積雪の予報が出された。昨年も同時期の2月8日と15日に、100年に一度とも言われる大雪があって至る所で交通麻痺・孤立・車庫の屋根や農業用ハウス倒壊の被害が発生した。雪に弱い関東地方向けにメディアは連日降雪への対応の注意を喚起していたのだが、実際には箱根など山間部の一部で最大10cm程度の降雪しか無く、平野部では雪混じりの雨となって積雪することは無かった。昨年の教訓から人々はタイヤ交換・チェーンの準備、雪掻き用スコップや履物の購入、食料品の買いだめをして積雪に備えた。タクシー会社では前日に、既に予約で満杯とのニュースもあった。しかし実際には、低気圧が予想より陸地を離れて通ったことに加えて、大陸からの寒気の南下押し出しがそれほどでもなかったため全く積雪は無かった。折角積雪対策をしたのに全く意味が無かったと、気象庁の予報の当たらなかったことを怒っている人も多い。しかし例え積雪への備えが役立たなかったとしても、積雪があるのと無いのでは「天国と地獄」で生活の全般にわたって言葉通り「雲泥万里」の違いがあるのだ。積雪が無かったことは喜ぶべきで、そんな度量を持ちたいものだ。
2015年02月06日

大主ガジュマル 岩手県には座敷や蔵に座敷童子と呼ぶ精霊が住み家人に悪戯をするが、その姿を見た者には幸運が訪れ家に富をもたらすという伝承がある。沖縄にもキジムナーと言う、似たような妖怪が樹に住んでいると言う。作者もハッキリしない沖縄民謡で、♪ 月ぬ夜や 呼びぃが来うくとぅ (月夜にキジムナーちゃんが呼びにきたら)まじゅん行かやー カマデー(一緒に行こうね カマデー)大漁や汝むん 目玉や我むん(大漁だ 目ん玉は私のものだよ)ちょん ちょん ちょん ちょんちょん ちょん ちょん ちょんキジムナーが ちょーん ちょんと9番までウチナーグチで調子良く歌われる。その意味と内容は、キジムナーの伝説を詠み込んだものである。「漁師のカマデーはある日キジムナーと知り合いになる。すると魚がたくさん採れだす。採った魚の左目を寄こせば、他はやるという。片目の魚を売って、カマデーは大きな家を買う。しかし、毎夜毎夜怪しいキジムナーと出かける夫を見て心配したカマデーの妻は、キジムナーが嫌いな鶏と蛸を門口に置いてキジムナーを怖がらせて来させないようにする。すると、家が焼けてカマデーの財産はなくなってしまう。」民謡もあることからキジムナーが一般に知られた名前となっているが、島によって呼び名と噺の内容が異なる。同じ本島でも国頭村ではブナガヤーであり、東村ではキジムナーと呼ばれる。大宜味村の喜如嘉が伝承発祥の地と言われ、その地名が「キジムナー」の名前となったのだとされている。こんな伝承もあって、大木になったガジュマルの伐採は嫌われる。ガジュマルは樹高20mを超えるクワ科の常緑樹で、鳥やコウモリが餌とした実の種子は消化されずに糞と共に播かれて低木や岩などの上で発芽する。枝から、気根を地面に向けて垂らし次第に幹に複雑にからみつき特長のある姿になっていく。成長した気根は、岩の割れ目やアスファルト・コンクリートなどを突き破ってやがて深く根を張る。初めの気根はごく細いが、次第に幹と同じように樹皮が発達し、地面に到達すると幹と区別が付かなくなる。ガジュマルの名は沖縄の地方名で、その名前の由来としては「絡まる」や「風守る」が転訛したものだとする説がある。気根を出す植物にはイチジク属の他、タコノキやマングローブを形成するヒルギ類・トウモロコシなどが知られる。タコノキ科の植物ではトウモロコシと同じように、気根が支柱のように幹を取り巻く。これらの中には他の木に巻きついてやがて枯らしてしまうことがあるので、「絞め殺しの木」といわれることもある。ガジュマルは日本では主に南西諸島などに分布し、観葉植物として鉢植えの物を本州でも見ることができる。イチジク属は熱帯域に800種以上もがあり、日本では南西諸島を中心として16種ほどが確認されている。樹木は防風・防潮・街路樹・生垣に、材は細工物としても利用される。近年は、観葉植物として人気がある。耐陰性だが、光量不足では徒長しやすく降霜には耐えられない。挿し木で簡単に増やす事ができるが基部に膨らみが無く、観賞用価値の低いものしかできない。園芸店で見られる基部に膨らみがあるものは、実生株や膨らんだ根に接ぎ木されたものである。根が太くなった鉢物が、3000円ほどでネット販売されている。ガジュマルの大木として知られるものには、金武町の伊芸のガジマル・沖永良部の日本一のガジュマル・名護市のヒンプンガジュマル(屏風)などがある。南城市玉城にある天然の鍾乳洞が崩れ落ちてできたガンガラーの谷の「大主(ウフシュ)ガジュマル」は、崖から20m以上も垂れ下がって成長した巨大な根が見ものである。県内のガジュマルの中でもここまで根の高さがあるガジュマルは他にないとされ、推定樹齢は150年とされている。谷間の静謐な空間に立つ樹には、キジムナーが住んでいても不思議ではないと思える雰囲気が漂っている。
2015年02月05日

イノシシ(猪・豬)は十二支の「亥」とされ、犬と同程度の敏感な嗅覚を持つが本来神経質な動物である。大和言葉では「イ(ウィ)」と呼んだので、「イ(猪)のシシ(肉)」が語源となった。ブタは、イノシシを家畜化したものである。近年人里に出没するニホンイノシシの数は増加傾向にあり、農産物の食害・畑地の踏みつけ・地面の掘り起こしが問題となっている。突然遭遇すれば、死亡事故や噛み付きなどの人的被害も発生する。これらの被害を完全に防ぐには電気柵や強固な鉄柵を廻らすしかないが、広い地域を囲うには莫大な経費がかかることが問題である。ニホンイノシシの個体数の増加傾向は、中山間地の過疎化による休耕地や耕作放棄地の広がりがイノシシに格好の餌場や棲みかとなり人里近くまでイノシシが出没するようになったことが原因とされる。一方では、個体数は実際にはあまり変化がないのではとの見方もある。古くからの狩猟動物であるが、イノシシは非常に神経質で警戒心の強い動物である。普段より見慣れないものなどを見かけると、それをできるだけ避けようとする習性がある。銃による人家近くでの発砲は原則禁止とされているため捕獲範囲が限定されており、ハンターの高齢化と減少により駆除数も減少傾向にある。ワナによる捕獲には狩猟免許と自治体への届出が必要で、実際の駆除開始まで時間や手間がかかることも多い。わなによる猟は、主に箱罠と括り罠が用いられる。どちらの場合も罠に掛かったイノシシの処理には、銃器を用いることが必要となり銃の無い場合は非常に大きな危険が伴う。成獣では70kg程もの体重があり時速45kmで走る能力がある。全力の突撃を受けると大人でも跳ね飛ばされて大怪我を負う危険がある。120cm程度の柵は、飛び越えることが可能である。鼻の力が強く、60kgの石でも簡単に動かす。ブタと異なりオスには牙が生えるため、牙を武器とした攻撃を行う。オスの牙は非常に鋭く、訓練された猟犬であっても縫合が必要な大きな裂傷や深い刺傷を負う場合がある。ダニ等の外部寄生虫を落とし体温調節の目的でよく泥浴びや水浴を行い、泥浴・水浴後には体を木に擦りつける行動が見られる。泥浴びを行う場所はヌタバと呼ばれ、泥にまみれて横転しながら全身に泥を塗る。その様子が、苦しんで転げまわっているように見えることから「ぬたうちまわる(=のたうちまわる)」という言葉が生まれたとの説がある。食性は植物の地下茎・果実・タケノコなど草食9割の他は、昆虫類・ミミズ・サワガニ・ヘビなどの動物も食べる。基本的には昼行性で日中に採餌のため徘徊するが、人の活動を避けて二次的な習性として夜間に活動することが多い。野生での寿命は10年以下で、一年半で性成熟に達する。生後4か月頃までの幼獣には縞模様の体毛が体に沿って縦に生えているところから、ウリ坊の名前で呼ばれる。積極的に前進することや向こう見ずに進むことを、「猪突猛進」という。この言葉の語源由来は、イノシシが直進しかできないところからきていると言われている。しかし実際には前進していて目前に危険が迫った時や危険物を発見した時は、急停止するなどして方向転換できる能力を備えている。オオカミが絶滅した現在では天敵として野犬やカラス・キツネや大型の猛禽類等が幼獣を捕食する程度で、成獣では人間以外には存在しない。日本には、イノシシの亜種であるニホンイノシシとリュウキュウイノシシの2亜種が分布している。縄文時代には既にシカとともに主要な狩猟対象獣で有ったことが、遺跡からの出土品からも分かる。山梨県北杜市大泉町の金生遺跡からは、縄文時代の焼けたイノシシの下顎骨が138個体分確認されている。イノシシは多産であることから、豊穣の象徴として縄文時代から重視されていたことが推測できる。食肉用としての商品価値は高く、人気があるが、捕獲後の処理の巧稚によって、肉質が大きく変わる。かつて丹波篠山からイノシシ肉が送られてきたことがあるが、焼いても煮ても獣臭くて家族は誰も手を付けなかった。捕獲後の処理が上手くできたものでは、白い脂肪に縁どられた赤色の肉を、薄く切って皿に盛った状態が牡丹の花のようであることから「ボタン」の名前で呼ばれる。一方で野生獣畜の食肉に起因するE型肝炎などの発生もみられることから、調理には十分な加熱処理を行う必要がある。落語「池田の猪買い」ではイノシシが鉄砲の音に驚いて気絶する場面が有るが、ハリネズミやタヌキ寝入りの狸とは異なり実際にはそんなことは無さそうである。「しし食った報い」の格言がある。禁を犯して一時的にいい思いをしても、後で必ずそれ相応の報いを受けるという意味で使われる。鹿肉も「しし」と言われ、いのししにかぎらず獣肉を食べると障りがあるという意味だとも言われている。猪武者とは、進むことだけを考え退くことを知らない人物を指す。浅慮の意味を含んでいて、あまり良い意味では用いられない。
2015年02月04日

守礼門の脇でツワブキ(石蕗・艶蕗)はキク科の多年草で、イシブキ・ツワともいわれる。名前の由来は、艶葉蕗「艶のある葉のフキ」から転じたとの説が一般的である。ツワブキは漢字で「石蕗」と書き表すが、オカバス・イシブキ・イワブキ・ツワ・オバコ等方言も多い。沖縄方言では、「チーパッパ」と呼ばれる。太平洋側は福島県、日本海側では石川県の西から沖縄県にかけて、陰地や海岸に多く自生する。多年草で地下に短い茎があり、地上には大きく切れ込んだ葉の中心に長い葉柄の付いた葉だけを出す。その形態は、フキやオタカラコウによく似ている。葉は緑色が濃く厚くて、表面に艶がある。散房花序をつけ、直径5cm程度の黄色い花を数輪咲かせる。フキの葉は冬季に枯れるのに対して、ツワブキは常緑性である。変異種に縁が波うち基部がくさび形の葉をした、リュウキュウツワブキがある。琉球の固有変種で、奄美大島・沖縄・西表島に分布する。また九州から四国の海岸に自生し、葉の幅45cm・長さ35cm・花茎1mにもなるオオツワブキがある。葉柄は、漬け物などに加工され食用にされる。秋から冬(寒冷地では春)に地際から長く花茎を伸ばして、キクに似た一重の黄色い花を咲かせる。今の時期沖縄では、自生のツワブキが至る所で黄色の花を咲かせている。年間を通じて10℃以下になることが殆どない温暖な土地柄からか、本州のツワブキよりかなり大型である。本州のツワブキは葉茎が30cm以下だが沖縄では50cm以上にもなり、花茎は大人の腰丈より高い大型の株となる。葉や花の大きさから九州に産するオオツワブキとは明らかに異なり、本土と同じツワブキが大型化したものと思われる。ムラサキ科・キク科・マメ科に属する6,000 種以上の植物に、有毒物質のピロリジジンアルカロイドを含有していることが知られている。この物質を含むとして良く知られた植物にはムラサキ科のコンフリー(ヒレハリソウ)があるが、キク科のフキやツワブキにも含まれている。ツワブキが含有するピロリジジンアルカロイドには肝毒性があるが、アク抜きで無害となる。春先に萌出した若葉を摘んでアク抜きをし、キンピラ・煮物・キャラブキに加工して食べることができる。園芸や食用以外での利用では、根茎を乾燥したものは「たく吾葉」といわれ、この粉末と莪蒁(がじゅつ=紫ウコン)の粉末を混合したものが胃腸薬として用いられる。葉には強力な抗菌作用のある、ヘキセナールを含んでいる。火に炙って直接、打撲・腫れもの・切り傷・湿疹に外用するほか、良く揉んだ生の葉を打撲・腫れもの・切り傷・湿疹に直接張り付ける。ドクダミと、同じ効果がある。ツワブキの葉は草木染めに用いられ、媒染にアルミやスズを用いると黄茶色に・クロムでは芥子色・銅でオリーブ色に発色する。 石蕗の 日陰は寒し 猫の鼻 酒井抱一 12月28日の誕生花(石蕗) 花言葉 困難に傷つけられない
2015年02月03日

利根川支流の吾妻川に、神奈川県を除く関東1都5県の9番目の水がめとして八ッ場ダムの建設が進められている。2015年度の完成予定だったが自民党から民主党への政変があって、一旦は廃止になり再び建設することになるなど紆余曲折を経て2020年の完成を目指して工事が再開された。このダム工事では昭和54年現在の調査で、340世帯が水没移転の対象となっている。このダムの名前を、すらりと読める人は少ない。吾妻渓谷の左岸の「字名」をとったもので急峻な谷の「谷場」・猟の「矢場」が転じたものあるいはアイヌ語由来など諸説がある。ダムの主な方式には、アーチ式・重力式・前二者の複合型など様々なものがある。そのうち主材料にコンクリートを使用し、コンクリートの質量を利用してダムの自重で水圧に耐えるように作られたダムを重量式コンクリートダムと言っている。重量式ダムで最も堤高が高いのは、奥只見ダムの157mである。相模川の支流中津川に156mの堤高で総貯水容量約2億トンという首都圏最大の重力式ダムが、計画発表から29年後の2000年12月に完成した。このダムは洪水調節・農業用水補給・河川維持放流を目的とした不特定利水・神奈川県全体の2/3の地域の人口の90%への上水道供給・水力発電などに利用されている。相模川水系には、この他に相模ダム(相模湖)・城山ダム(津久井湖)・道志ダム(奥相模湖)がある。当初は「中津川ダム」として計画されていた宮ヶ瀬ダムは、1969年(昭和44年)よりダム建設のための予備調査が開始され、2年後の1971年(昭和46年)より特定多目的ダム事業としてスタートしたものである。堤高156.0mの重力式コンクリートダムで貯水容量約2億トンという首都圏最大のダムは、計画発表から29年後の2000年(平成12年)12月に完成した。関東地方では奈良俣ダム(楢俣川・158.0m)に次ぐ高さで、総貯水容量は奥多摩湖(小河内ダム)や奥利根湖(矢木沢ダム)に次ぐ関東屈指の大規模ダムである。ダム完成により清川村はダムによる固定資産税収入によって村財政が回復、地方交付税交付金の交付対象外自治体となった。しかしその陰ではダム建設によって300戸が水没し、清川村・津久井町(当時)・愛川町の3町村で移転せざるを得なくなった住民は1,136名にも上り、多くの住民の生活が犠牲になった。ダムの完成後は、地域の観光としての整備が進められている。毎週水曜日と第二日曜日には高さ100m付近にある常用洪水吐きの2門のゲートから、午前11時と午後2時からの2回4分間観光のための放流が行われる。宮ヶ瀬湖では夏の花火大会を始め、12月にはクリスマスツリーが湖畔に自生する樹齢100年・高さ30mもある樅の木が1万個LEDで彩られる。首都圏から50km圏の近距離のためピクニックを兼ねて、週末や祝日になると訪れる観光客も多い。しかし湖畔に10軒ほど並ぶ飲食店には、行楽地に有りがちな一般的メニューしかない。しかも周囲に競争店が無いためか、郊外レストランと比較しても値段や味に努力が足りないように思われる。観光地として活性化させるためには、もう一度来て食べたいと思えるようなメニューの開発努力が今後の課題である。ダムへのアクセスにはバスか車を使わないとならないのだが、駐車場は30分までしか止められず超過すると500円必要になる。30分では散策して食事を摂ることは絶対に不可能で、この駐車料金を妥当な額と感じるかどうかは微妙な所である。
2015年02月02日
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