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最初のカゴメトマト栽培地竹で編んだ、連続文様の籠目の一部を切り取った「籠目紋」がある。籠目や丸に籠目などの家紋がある。籠目紋は九字紋といわれて、道士が切る九字に似ているところから籠目文様には魔除けの効果があると信じられている。大日本帝国陸軍の軍帽には、五芒星が刺繍されていた。創始者蟹江一太郎が1899年に名古屋の農業試験場からトマトの種子を譲り受けて現在の東海市荒尾町の自宅の脇に、トマトをはじめさまざまな西洋野菜の種を蒔いたのがカゴメケチャップの始まりだという。わが国で使用されるケチャップのシェアは、65%をカゴメが占めている。「カゴメ」の商標に「五芒星」を用いようとしたが、五芒星は大日本帝国陸軍の軍帽に刺繍され使用されていたため許可にならなかった。そこで一太郎は五芒星に丸を付けて、五芒星でなく籠目だと主張して商標使用の許可を得たとされこれがカゴメの名称の由来となった。一太郎は西洋野菜の販売を始めたが、トマトは独特の臭いと赤い色が敬遠され全く売れなかった。売れ残ったトマトの処理に困っていたところヨーロッパではトマトを加工品があると聞き、失敗を重ねながら外国産トマトソースを見本にしてトマトピューレの開発に乗り出した。1903年にトマトピューレの製造に成功し、その3年後自宅裏の工場で製造を開始した。その6年後には、トマトケチャップとウスターソースの製造を開始している。プラスチック容器入り製品を世界で最も早く開発したのはカゴメケチャップで、1966年のこととされる。トマトが日本に伝来したのは17世紀半ばで、寛文8年(1668)に狩野探幽が「唐茄子」の名前で描いたスケッチが残されている。また貝原益軒は「大和本草」(1709年)に、「唐柿」の名前で収録している。トマトは伝来してから暫くの間は、食用ではなく観賞用植物であった。またナス科オオカミナスビ・オオハシリドコロ・セイヨウハシリドコロに類似していることもあって、食べると食中毒で死に至ると信じている人も多かった。ヨーロッパでトマトが食べられるようになったのは、ヨーロッパに移入された200年も後の18世紀になってからといわれている。日本人が食べるようになったのは明治(1872年)以降、人参・キャベツ・玉葱・アスパラガスなどの西洋野菜などとともに食用野菜としてヨーロッパやアメリカから再導入されてからであった。さらに一般に食べられるようになったのは、日本人の味覚に合うよう品種改良された昭和になってからである。現在は購入量では生鮮野菜類中5位になり、年間を通じて栽培出荷され150種以上が品種登録されている。ベラクルス地方のアステカ人がホウズキやトマトを、「トマトゥル」(膨らむ果実の意)と呼んでいたのが名前の由来とされている。秋の一日東海市に居住する旧来の友人Sさんご夫妻に大城の野菜畑・一太郎記念館・カゴメ工場などを案内していただき、市とカゴメ株式会社の深い関わりを窺い知ることができた。恐らくわが国で唯一であろうと思われる、トマト条例がカゴメ発祥の地である東海市にある。2014年に「東海市トマトで健康づくり条例」を公布・施行している。条例では毎月10日をトマトの日と定め健康的な食生活に向けた意識の高揚を図るため、トマトジュースでの乾杯を推奨している。さらに市内の保育園・小・中学校で、毎月10日にトマトを使った「トマト給食」が始まったという。
2015年11月30日

青空のキャンパスを白い直線で切って浮かぶ飛行機雲は、秋から初冬の空に良く映える。飛行機の航跡に生成される細長い線状の雲は、ジェット機のエンジンが出す排ガス中の水分と翼の低圧部が原因となって発生する。航空ショーで人為的に描く煙とは異なり、雲と同じもので別名を航跡雲と言う。気温は100m高度が上がる毎に約0.6℃下がるので、通常のジェット機が飛行する高度1万mでは地上の平均気温20℃より約60℃も低いことになる。このような状態で300~600℃のガスを排出すると、その中の水分が急冷されて凍りこれが雲となる。またエンジンの排気ガスと関係なく飛行機の翼上面では気圧が低くなり、大気は断熱膨張によって温度が下がっているため大気中の水蒸気が凝縮して水滴となり飛行機雲として観察される。飛行機雲のでき方には、この二つがある。しかし飛行機雲の発生には飛行高度や上空の温度・湿度・気流などの条件が揃うことが必要となるので、飛行中の飛行機が常に飛行機雲を発生させるわけでは無い。飛行機の巡航速度は時速約900kmで、秒速では約200mで移動していることになる。さらに排ガス中の水分が凍って雲になるまでには、少し時間がかかるので地上から飛行機雲が見られる場合でも、機上の人は普通飛行機雲を見ることはできない。排気ガスにより生じた雲は大気中の水蒸気量そのものが増加するため、翼による気圧・温度変化によって生じる雲より長く安定して残る傾向にある。航空機の燃料としてレシプロエンジンの場合はガソリン、ジェットエンジンにはケロシンが使われている。これらの主成分は炭化水素であり、燃焼すると二酸化炭素と水になり放出される。これが大気中の水分と合わさり、高々度の低温の下で氷結して飛行機雲となる。このため中緯度地域では、5,000m~13,000mの高度で生じることが多い。広い範囲で大きな高気圧が有る場合、飛行機雲は出来難くなる傾向になる。逆に飛行機雲が多く現れ、長時間消えない時は低気圧が近づいており天候が悪くなる兆しと言える。自然現象や生物の行動の様子などから、天気の変化を予測することを観天望気という。広義にはその天候変化の元となる条件と結論を述べた言い伝えのような民間伝承をも含み、一般にはこの意味で使用される。飛行機雲が長く跡を引き、長時間消えない場合は天候が悪化するといわれる。飛行機雲がすぐに消えると晴れ、飛行機雲が広がると悪天の前兆と言われる観天望気は空中湿度との関係から科学的根拠がありかなり信頼できる。1964年10月10日第18回東京オリンピックの開会式で、航空自衛隊のブルーインパルスが空中に五色の五輪マークを描いたのを真下の赤坂プリンスホテルの芝生の庭で見た。飛行機雲とスモークは一見類似しているが、航空ショーなどで航跡を描くのは油を焚いて作られた煙りであって飛行機雲ではない。
2015年11月27日

モズは漢字では、百舌・百舌鳥・鵙と書き表される。秋から11月頃にかけて縄張り宣言のため、高音で「キィーキィーキィーキチキチキチ」と激しい鳴き声を発する。これがモズの高鳴きと、言われるものである。縄張りを確保した個体は、縄張りで単独で越冬する。サトーハチローが昭和10年に「百舌よ泣くな」の題名でで発表し、後に「もずが枯木で」の題でリニューアルされ流行した歌がある。♪「もずが枯木で鳴いている おいらは藁をたたいてる 綿びき車はおばあさん コットン水車も廻ってる」日本では留鳥として、基亜種が見られる。東北以北や高山地では秋季になると、南下したり標高の低い場所へ移動して越冬する。他種の鳥の鳴き声を真似し、複雑な囀りを行うことが和名「百…」の由来となった。食性は動物食で、小型の動物の他鳥類・哺乳類なども食べる。嘴は肉食猛禽類に似ているのに、巣をカッコウに乗っ取られて托卵されることがある。高所から地表の獲物を探して襲いかかり、再び樹上に戻り捕えた獲物を食べる。その点も、猛禽類に似ている。モズには、「モズのはやにえ」を作る習性がある。「鵙の早贄」・「百舌の早贄」と書き、捕らえられた虫・蛙などが木に刺されて干からびているのを目にすることがある。秋に最も頻繁に行われるが、何のための行動であるかはよく分かっていない。贄とは神に供える食べ物のことで、多くは鳥や魚などを指すが新しく採れた穀物である場合もある。モズが秋に初めて捕えた獲物を生け贄として奉げているたのだとする言い伝えから、「モズの早贄」といわれた。小鳥ではカケスが、ドングリを地面の中に埋め蓄える習性がある。しかしそれらは殆ど後から食べられることは無く忘れられてしまうことが多い。この例と同じようにモズが早贄を作るのは餌のない時期に食べるための行動との説があるが、モズは生き餌を好むので干物になった早贄を食べることは殆どない。またモズは足の力が弱いため、獲物を掴んで食べる事ができない。そのため小枝や棘で獲物を固定した上で引きちぎって食べるのだが、何らかの理由で獲物をそのままにしてしまったものが早贄であるという説もある(NHK2005年6月6日放送及び岐阜大学教育学部理科教育講座教本)。しかしモズは、必ずしも木の小枝等に獲物を突き挿してから千切って食べることをしない。またモズが採餌のために止まるには、低すぎる場所に早贄を作ることがある。したがってこの説では、早贄を作る理由の説明としては不十分である。結局早贄を作る明確な理由は、現在のところ解明されていない。早贄の位置によって、積雪の多可を占うことができるという俗説もある。冬の食糧とするためモズは積雪量を感知して、早贄が雪に隠れない位置に作るのだという。位置が低い場所であれば、その冬は積雪量が少ないのだとされる。山荘のハナズオウの小枝やボケの棘に、イナゴやアマガエルの早贄を良く見かける。ハナズオウには目の高さより高い地上2mほどの枝にコオロギが、ボケでは屈み込まないと見えない地上20cmの高さにカエルが日干しにされている。去年2月の積雪量は観測史上初の1.5mを越える大雪となったが、言い伝えが正しければ今冬の積雪量はどの程度になると判断したらよいのだろうか。何れにしても、大雪だけは勘弁して欲しいものだ。
2015年11月26日

伏見稲荷の名前で親しまれている伏見稲荷大社は、昭和21年(1946)近代社格制度の廃止に伴い宗教法人となった。もとは稲荷神社と呼ばれていたのだが、名称も「伏見稲荷大社」と改称した。伏見稲荷神社には、次のような伝説が伝わっている。深草(京都伏見区)の長者秦伊呂具は、富みと繁栄を得たための驕りがあり弓を射るのにお供え餅を的にした。矢を受けた餅は白鳥となって、伊奈利(稲荷)三ヶ峰の方角に飛び去った。この出来事があってから秦氏の衰退が始まったため、驕りを悔い改めた伊呂具が和銅4年(711年)に伊奈利三ヶ峰に神を祀ったのが稲荷神社の興りだという。稲荷には稲生(いねなり)または飯をならせる飯成(いいなり)から、あるいは稲荷(いねに)から稲荷になったなど幾つかの由来説がある。その昔人口が増加するに伴ってより多くの食料が必要となったので、天照大御神は米の増産のため全国に稲穂を配る役目を豊受明神に命じた。豊受明神は実際に全国への配達役を、狐に命じたという。農民は稲を配られたことに感謝しさらに一層の豊作を願うところから、狐を祀って稲荷大明神と崇めたという。稲荷神には、五穀豊穰・商売繁盛・交通安全といったご利益があるとされる。この故事から、狐が稲を咬えた狐の御札が作られたのだと伝わる。伏見稲荷は参詣拝観料が要らず24時間開園していて、しかも夜間ライトアップされることもあって外国人観光客にも人気があり日本の観光名所では1位となっている。(外国人に人気の日本の観光スポット調査)平日は、外国人観光客の方が日本人よりも多くなっているという。駅から大鳥居を潜った先の右側参道脇に御茶屋がひっそりと佇んでいるが、殆どの人はその存在に気づいていないようである。この御茶屋は公家茶道の大成者・後水尾天皇が、16世紀末~17世紀初頭に仙洞御所(退位した天皇の住まいの美称)に建てたものと伝わっている。院の非蔵人として殿上の雑用を勤めた稲荷神社の羽倉延次が「御所の古御殿の一部」を賜わり(御茶屋修理報告書)、寛永18年(1641)に延次邸へ移設した。御所は焼失したのでこの御茶屋しか残っていない。お茶屋に付属して建つ松の下屋は伏見稲荷大社秦姓祠官松本家の居宅の跡で、建物は大正年間のものという。松の下屋の回遊式庭園は、稲荷山三ヶ峰を借景として作られている。庭園左斜面の奥に非公開の茶室「瑞芳軒」がある。社務所庭園は非公開だが、右側の庭は有料で抹茶のサービスを受けられ座敷に坐ってゆっくり眺めることができる。本殿参拝の後、茶を一服しながら回遊式庭園を静かに眺めるのも心が落ち着く。一服の後は、この庭を散策することが可能で右上に待合左下に腰掛け待合があり、踏み石伝いに行くと非公開の茶室がある。
2015年11月22日

太田久行は特攻隊に入隊したが戦後東京都に奉職し、主として広報・企画部門の部局長などの要職を歴任した。在職中から多忙の中、童門冬二のペンネームで歴史小説を発表していた。12年間にわたり、美濃部亮吉都知事の秘書として支えた。行政職のトップとなってその去就が注目されたが、1979年知事の退任と同時に退職し作家活動に入った。職員の間からは知事に殉じたのではないかとの声も囁かれた。職員研修の講師としての講話を聴く機会が何回かあったが、在職中は時間内には絶対に執筆のためのペンは取らなかったことが自慢できるといつも話していた。在職中の1960年には、第43回芥川賞候補にノミネートされた。童門冬二は昭和49年(1974)開館した、「細井平洲記念館」の名誉館長に平成17年7月就任した。童門は上杉鷹山を題材にした小説を多数発表しており、その師の平洲についても単行本が出ておりそれが縁になったものと思われる。上杉鷹山の師として大いに影響を与えた平洲については、正直なところ名鉄聚楽園駅の外へ出るまでその名前さえ知らなかった。以前は駅の敷地内にあったという徳富蘇峰の書による、「細井平洲先生誕生之地」の碑がバスターミナルの一角に建っている。平洲は現在の東海市の農家に生まれ、幼い頃から学問に励み16歳で中西淡淵に師事した。宝暦元年(1751)24歳で江戸へ出て私塾嚶鳴館を開き、武士・町民・農民にも分かりやすく教えて学問を広めた。その後宝暦13年(1763)に、請われて上杉治憲(鷹山)の師となった。「何をやるにしてもまず勇気が必要である」と言う意味の、「勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや」の言葉を上杉鷹山に送ったとされる。出身地の東海市で平洲は郷土の偉人として敬愛されており、平洲の名を冠したキャラクター・保育園・小中学校・橋・菓子・酒・バスなどの他記念館などがある。名鉄太田川駅西地区の再開発ビルの名称、「ユウナル東海」も平洲の言葉から取ってつけられたのだという。平洲記念館は道路を奥まった斜面にへばりついていて、アクセスは良くない。バスも無く、車か徒歩以外にアクセス方法が無いという。今回は記念館入り口前の駐車場までS氏ご夫妻の車で連れて行って貰ったので、特段不便は感じなかった。立派な建物なのだが職員は外で作業する女性と事務室の館長との二人しか見えなく、展示室には私たち以外に訪れる人も無く閑散としていた。
2015年11月20日

銀杏の葉が黄色を濃くしてきた秋の一日、50年来友人としてお付き合いしているSさんの案内で熱田神宮を参拝した。七五三の時期とあって、両親や祖父母と参拝する着飾った女の子の姿が多かった。熱田神宮は113年の創建とされ、それから数えて1900年になる平成25年(2013)5月に「創祀千九百年大祭」が行われた歴史ある神社である。三種の神器の八咫鏡・八尺瓊勾玉・草薙剣のうち草薙剣が熱田神宮に置かれているとされ、伊勢神宮に次いで権威ある神社とされる。以前は熱田神社と呼ばれており神宮を名乗るようになったのは比較的新しく、明治元年(1868)6月の神宮号宣下からである。巨大な木の鳥居をくぐって間もなく、参道の両脇に鄙びた築地塀がある。由緒ある塀だが、囲いも無く触れることも可能である。永禄3年桶狭間において織田軍3000が今川義元と対峙したが、今川25000の大軍の前に劣勢であった。信長は桶狭間へ軍を進める途中熱田神社に寄り、戦勝を祈願した。桶狭間の戦いにおいては、信長の智略と果敢さで勝利をおさめることができた。これが有名な、桶狭間の戦いである。戦に勝利したお礼として、熱田神社に築地塀を築造し奉納した。信長が寄進したので、「信長塀」の名前で呼ばれている。泥土をつき固めて作った塀を築地塀または築地(ついじ)というが、瓦と土を幾重にも重ねることで銃撃や防火に優れ耐久力もあるため信長が好んで採用した構造様式だといわれている。神道には穢れという概念があり、血や死を連想させるものを敷地内に持ち込んではいけないしきたりとなっている。当時は寺が主格であったため、神社では穢れを排除する環境整備までは行き届かなかった。そんな神社の状況を見て、塀を寄進したものであろう。だれが格付けしたか不明だが、信長塀と秀吉が寄進した三十三間堂の太閤塀・秀頼が造った西宮神社の大練り塀を日本三大塀として有名である。信長塀は土と石灰を油で練ったもので瓦を積み重ねて固め、その上部を桟瓦で葺いたもので重厚さがある。当時は塀の全長が400mあったといわれているが、現在残っているのは1/3強の120m程だという。歴史のある塀だがよほど興味を持って見ないと、本殿・社殿の荘厳で煌びやかな建築物に目が行ってしまいつい見過ごしてしまいそうな建造物である。
2015年11月19日

大きな仏像を称して、一般的に大仏と呼んでいる。奈良時代に聖武天皇が国家の安寧と民の幸福を祈願して、東大寺に大仏を造立したのが大仏建立の最初である。それ以来より大きな功徳を求めた願主によって、日本各地に大きな仏像が造られてきた。広辞苑では大仏を丈六以上の大きな仏像としているが、それより小さくても「大仏」と称しているものも多い。名古屋鉄道名鉄常滑線聚楽園駅から至近の場所に、鉄骨・鉄筋コンクリート造りの阿弥陀如来の坐像がある。鎌倉の大仏より大きく、台座から18.788mの巨大な大仏である。聚楽園の近くに住むSさんご夫妻に、聚楽園と聚楽園大仏を案内していただいた。山田才吉は豪奢な洋館や遊園地を次々と建てたことでも知られ、愛知県会議員にもなった人物である。細長いダイコンを使った守口漬を考案した実業家山田才吉は、巨万の富を得て事業を拡大していった。山田才吉はこの地に神宮外宮前の旅館「雲丹館」を移築して、料理旅館「聚楽園」を開園するに当たり、実態は観光人寄せが主目的であったが名目を「大正天皇御大典記念事業」として世間一般から大仏建立資金の寄附を募った。しかし寄付が集まらなかったため目的を「昭和天皇御成婚記念」に変更した上、私費1億3千万円を投じて建設に踏み切った。大正13年から建立が始まり、昭和2年5月21日に完成開眼供業が行われた。この大仏は宗教とは関係なく事業家個人が建立したので、どこの寺院にも属していなかった。高さ12.4mの鎌倉の大仏を模したと言われるだけあって、何処となく顔貌が似ており当時は国内最大級の仏像として話題となり客を集めた。聚楽園は才吉が没した翌年の1938年(昭和13年)に売却され、所有者は愛産商事に移った。昭和58年(1983)に所有者から市へ寄贈されることになって、受け入れのため宗教法人大仏寺が設立された。法人登記の場所は、「しあわせ村」の一角である。しかし、「大仏寺」という寺院の実態は無い。昭和59年秋から翌年にかけて、市民や企業から寄付金約3千万円で修復工事がおこなわれた。その際赤銅色に塗装されたので、遠目には銅製の大仏に見える像の後ろに廻ると真後ろの台座に扉がついているが、現在は厳重に封鎖されていて入ることはできない。管理が宗教法人に移った際、「仏の尻の穴から入るようで、罰あたりだ」という理由で扉を閉じて出入りできなくしたのだという。西方浄土に向かって建つ座像が折りからの強い斜光を正面に受けて金色に輝く姿は、建立趣旨が宗教とは関係なかったとはいえ何とも言えず神々しく見えた。
2015年11月18日

江戸いろはかるたの「と」は、としよりのひやみずである。江戸には「冷や水売り」という、商売があった。天保9年(1838)に刊行された「東都歳時記」の5月(旧暦)の項に、「この月より冷や水、心太、白玉餅売りあるく」とある。また江戸時代の百科事典「守貞漫稿」には、「夏月、清冷の泉を汲み、白糖と寒晒粉の団(団子)とを加へ、一椀4文に売る。求めに応じて8文・12文にも売るは、糖を多く加ふなり。売り詞、“ひやっこい ひやっこい”と云ふ」と出ている。現在の25円程度が1文に相当するとすれば、冷や水一椀が100円ほどに相当するのだろうか。甘味を多くしたりしてグレードアップしたものは、2倍か3倍の値段であったと思われる。現在のように衛生に関しての知識が無い時代、「冷や水」の製造はかなり粗雑であったと思われる。そんな状態で作られた冷や水によって、しばしば食中毒や感染症などの胃腸障害を起こしたであろうことは想像に難くない。特に体力が衰えた年寄りは細菌に対する抵抗力も弱まっているので生水は飲まない方が良いということから転じて、年寄りが分不相応な危険なことやおせっかいな言動をすることを「年寄りの冷や水」と言う様になった。出典は「冷水を飲む」から出たのではなく、年寄りが強がって「冷たい水を浴びる」ことから出た言葉だとする異説もある。体力の弱くなった年寄りが、粋がって冷水をかぶると風邪を引いたり肺炎を起こすことから、自分の年も考えず無茶をすることは健康に良くないということから転じて出た言葉だとする。年寄りの冷や水の類語として、「老いの木登り・年寄りの力自慢・年寄りの夜歩き」などがある。これらの類語の中に、「ずくなしの冷や水」が加えられているものが見える。ここに使われている「ずく」は、特に信州で使われる方言である。この言葉は、長野県と隣接する新潟・岐阜でも使われている。新潟県で使われる「ずく」は、意気地とか根性を意味している。根性があることを「ずくがある」といい、「ずくがねえ」といえば意気地がないことを指し、「ずくなし」と使えば「意気地のない人」の意味になる。岐阜県では「ずくたれた」をだらしがない、「ずくでなし」をろくでなしの意味で使う。ずくの方言の本場長野県を北・中部・南と分けた場合、その使い方に若干の相違がある。伊那谷では「ずくがある」とは、(コツコツとの意味を持たせた)根気・やる気・一生懸命に取り組む人の様子をいう。ずくが…(いい・ある・無い)のように、使う。長野県でも他の地域では、こずくが…(ある・いい)のように使われる場合がある。この場合の「こ」は、小だと思われる。「ずくなしの冷や水」の場合の「ずく…」は、恐らく長野・新潟・岐阜等で使われる意味とは異なった内容なのではないかと考えられるが、ずく使用の本場で育った人間にもこの場合の「ずく」の意味がもう一つ理解できない。今年は、自動車の運転免許更新の年である。先日県の公安委員会から、免許更新と高齢者運転講習会の通知が届いた。年寄りの木上りは危険だからと家族は剪定作業を業者に依頼するように言うのだが、今年も10m以上の木によじ登って庭樹や垣根の剪定を少しづつやっている。「ずくがいい」のか「ずくがある」のか「年寄りの冷や水」と笑われないように注意して、動けるうちは素人剪定を続けるつもりでいる。
2015年11月13日
「石が流れて木の葉が沈む」とは物事が道理とは逆になっていることの意味で、類語には「西から日が出る」などがある。漢の陸賈が著した2巻12編からなる漢籍「新語-弁惑」に、「夫衆口之毀誉、浮石沈木」と出てくる。陸賈は前漢時代に、高皇帝高祖劉邦の全国統一や南越の服属に貢献した政治家・学者である。その功績により従四位上の太中大夫となり、呂氏の乱には劉邦を助けて漢室を護持した。詩書を説稱した際劉邦は、詩書は役に立たない詩書は必要ないと言った。これに対して陸賈は、「陸生曰く、馬上に居りて之を得るも、寧んぞ馬上を以て之を治むベけんや(武力で天下を取ることはできる。しかし武力による政治では天下は治まらない)と言ったとされる。陸賈の著書「新語」は劉邦の求めに応じ儒家の立場から書かれた漢籍とされ、秦に取って代わって漢が興った理由を説明し漢王朝成立の理論付けがなされた。※漢籍(かんせき)とは和書に対応する用語で、漢文で書かれた中国の書籍を指す言葉であるただし通常仏典の類は含まれず、儒教関連の書物に限定して用いられる。本来は中国人の著作について用いられる言葉であるが、日本人が漢文で書いたもので訓点を施されていないものも漢籍と呼称される場合がある「石が流れて木が沈む」とは、本来軽い木の葉が流れ重い石は沈む筈なのにそれが逆になっていることを世の中の理不尽・不条理の譬えとして使われる。「夫れ衆口の毀誉は、石を浮かべて木を沈ます(多くの人が言う悪口や褒め言葉は、真実とは正反対であるの意)」とあるのに基づく。同じような意味を持つものとして、「西から日が上る」・「枯れ木に花」・「炒り豆が生える」・「烏白馬角」がある。陸賈の場合劉邦からその功績を正当に評価されたものと思われるが、その裏では評価されなかった人も多かったに違いない。劉邦には、次のような逸話がある。あるとき、山東省から呂公が仇討ちを避けて沛へと逃れて来た。沛では有名人の呂公を歓迎する宴が開かれ、進物の金銭を持参した多くの沛の人が集まった。劉邦もそこへやって来て、「銭一万銭」を進物として持参したと呂公に伝えた。あまりの金額の大きさに驚いた呂公は、劉邦を丁重に迎えて上座の宴席に着かせた。このとき蕭何は劉邦が金銭など持っていないのを知っていたので、「大風呂敷と評判の劉邦は言うだけで、実際に何かを成し遂げたことは少ない人物だ」と呂公に進言した。しかし人品骨柄を見込んだ呂公は、劉邦に自分の娘を娶わせたという。現役時代には、多くの人を評価する立場になったことがある。組織の中で地位が上がるに連れ下位の人との接触が薄れ、周りの人の評判でその人を評価することが多くなる。自分自身も時に正当に評価されていないのではないかと、疑念を持ったことも多かった。評判や噂を鵜呑みすると往々にして評価が真逆のこともあり、特に人事評価はその人の将来にも関わることから自分の目でしっかりと確認し慎重に行う必要がある。
2015年11月12日

沖縄の焼き物と言えば壺屋(チブヤ)焼だが、壺屋焼は1682年尚貞王の時代に三か所の窯を壺屋に統合して新しい窯場を誕生させたことに始まる。そこから壺屋焼は琉球一の窯場となり、その製品は国内消費や交易に利用された。沖縄本島南部の黒土や赤土に細かい砂を混ぜた用土で作られた赤物(アカムン)は、約800度と低い温度で焼かれ赤い色をしている。赤物は現在は作られていないが、ヤカン・七輪・炭火をつくる道具・植木鉢などが作られていた。現在壺屋焼といわれるものには、荒焼(アラヤチ)と上焼(ジョウヤチ)の二種類がある。荒焼は釉薬を掛けず焼きしめるかあるいは、マンガンをかけて焼成温度約1120℃で焼いた焼き物で水・甕・酒などの甕が多い。もう一つの上焼(ジョウヤチ)は、表面に上薬をかけて荒焼より高温の約1200℃で焼かれる。腕・鉢・皿・急須・抱瓶・カラカラ・花瓶などが、作られている。※カラカラは泡盛を注ぐための土瓶に似た器の中に、取り出せない陶器の玉が入っていて空の器を振ると「カラカラ」と音が鳴るところから付いた名前とされる。形は、薩摩焼の持ち手の無い千代香(ヂョカ、チョカ)に似ている。民話では、酒好きな坊主が丸餅をヒントに絶対に倒れない徳利を作ったところ評判になって「貸せ貸せ(沖縄方言でカラカラ)」と皆から言われたのでその名が付いたと伝わる。(宜野湾地方の民話)琉球語と言われる沖縄方言では、日本語のオ段の母音がuに、エ段母音がiに対応しているため、殆どの行で日本語のオ段とウ段はu、エ段とイ段はiに統合している。ただ一部地域を除き、カ行イ段のキはチciに変化している。沖縄の陶芸家で沖縄県初の重要無形文化財で人間国宝にも指定された金城次郎は様々な茶器や酒器・花瓶等を製作している。これらの作品には、魚や海老の独特な絵付けがされていて有名である。これらの製品の中に陶器製で肩から吊り下げる紐を着けるための耳があり、腰にフィットするように三日月形に湾曲した独特な形をした携帯用の「ダチビン」と呼ばれる酒器がある。ダチビンは抱瓶と書き、日本語ではダキビンだが沖縄では音変化してダチビンとなる。同じように、陶磁器全般を指す沖縄の焼き物はヤチムンと呼ばれる。抱瓶の肩にある左右の耳に紐を通し、肩から吊るして持ち運んだ。このような形の酒器は、沖縄に独特の形である。沖縄出身の学友も例外では無く極めて酒に強いが、18世紀の琉球王国時代の人々も酒好きであったに違いない。この抱瓶は、地方の豪農たちが外出時に泡盛を入れて携帯したものとされる。今から20年も前、家の近くで全国陶器市が開かれた。これを見学に訪れた際、金城次郎の抱瓶が奥の棚にあるのを見付けた。手持ちの小銭で買うには高かったので交渉したが、僅かしか値引きしない代わりに双魚紋のぐい飲みをおまけに付けるというので自宅に金を取りに戻ってまでして購入した。以来、押入れの奥に仕舞われたままになっていた。金城次郎が他界した十数年後に、那覇空港で同じ物を見付けた。値段は、購入時より少し高めに設定されていた。今後は金城次郎の新しい作品は出てくることは無いので、価値が下がることは無いのだとの説明であった。長男が沖縄から土産に購入してきた泡盛は、抱瓶に似せて作った器に泡盛を詰めたものである。中身の泡盛を飲んだ後は、花を挿す花瓶として再利用できる。
2015年11月11日
秋が深まると何処からともなく庭先に飛来して、ヒッヒッと鳴いて縄張りを宣言する鳥が現れる。良く聞くと、このヒッヒッの後にカッカッという鳴き声が混ざる。ヒタキ科のジョウビタキのこの鳴き声を聞くと、もうすぐ冬がやってくると言う実感が湧いてくる。チベットからバイカル湖周辺が繁殖地とされ、冬期は日本やインドシナ半島北部へ渡って越冬する。日本では冬の渡り鳥として知られて来たが、近年北海道や本州での繁殖行動が確認されるようになった。やがてはヒヨドリと同じ様に、一部は日本の留鳥として定着するのかも知れない。ヒタキ科の鳥は317種もあり、姿や声の美しい鳥が多い。普通日本で目にするのは、ヒタキ亜科の何種類かの鳥である。ジョウビタキは、漢字では尉鶲と表記する。尉には上から押さえて正しくする・ひのしをかけてしわを伸ばす・元気づける・佐に次ぐ兵隊の階級を表すなどの意味がある。日本でのみ通用する意味に、老人・翁、炭火の白い灰となった状態の意味でも尉の文字が使われる。ジョウビタキは、銀色の冠毛が特徴である。この冠毛を老人の白髪に見立てて、尉の字がついたとされる。ジョウの下の「ヒタキ」は「火焚」で、カッカッと火打石をたた時出る音に似た鳴き声を出すところからジョウビタキになったとする説がある。しかし亜科317種の鳥の中、カッカッと鳴くのは恐らくはジョウビタキだけであるに違いない。ジョウビタキの鳴き声が、4亜科と不明亜科317種の亜科の名前の元になったとはとても思えない。翼にある白い斑点が着物の紋に見えることから、モンツキドリと呼ぶ地方もある。冬には人里や都市の公園などでも、見普通に見ることができる。単独で縄張りを作り、同種他の個体や鏡に映った自分の姿にさえも攻撃を加える。車のミラーに映った自分の姿に向かって、ホバーリングしながらしつこく突きかかる様子を時々みかける。人間に対しては見切りの術を知っており、5mくらいまでは近付くことが可能だがそれより中に入ろうとすると間髪をいれず距離を取って離れる。そのため比較的人の間近に居ても、注意を払わないと姿を確認することができないことが多い。
2015年11月10日

東軒筆録(宋代)に、「様に依りて葫蘆を画く」の言葉がある。宋の時代には、瓢を葫蘆とも言った。様は様式の「よう」と読み、手本通りに瓢箪を描くだけだとの意味で、そこから新たな創意工夫のないことの喩えとして使われるようになった。 花や葉に 恥しいほど 長瓢 千代女実を加工して作る容器も同じ名前で「ひょうたん」と呼ばれ、こちらは別名を瓢(ひさご・ふすべ)と言われる。日本書紀(720年)の中に、「仁徳天皇11年(323年)、茨田堤を築く際、水神へ人身御供として捧げられそうになった茨田連衫子という男が、瓢を使った頓智で難を逃れた」という下りが出てくる。日本の文献に瓢が出てくるのは、これが初出とされる。瓢箪はもともとは瓢で、箪は箪笥の箪と同じ意味の竹でできた弁当箱のようなもののことである。瓢は古くから容器として加工されて使用されて来たことから、植物自体も瓢箪の名前で呼ばれるようになったものと思われる。瓢箪は古くから昔話や絵画にも登場しており、人との関わりが深い植物である。昔の東北地方では、子沢山の貧乏な家では子供の間引きが行われていたと伝わっている。生活苦から子を絞め殺して埋めたところ翌年の春、子供を埋めたところから1本の見たこともない草が生えてきた。草が生長すると、なかほどが首を締めたかのようにくびれた不思議な形をした実がたくさんなったと岩手の民話で語られている。仙人の図には、杖に結び付けた瓢箪を持っている姿が描かれている。この瓢には、酒や水ではなく入っているのは薬だとされる。「西遊記」には、瓢を持つ妖怪がこの中に敵を吸い込ませる場面が書かれている。京都妙心寺が所蔵する足利義持が画僧如拙に描かせた室町時代の禅画に、鯰を瓢箪で押さえようとする国宝の瓢鯰図がある。この図が表す瓢箪鯰は糠に釘あるいは豆腐にかすがいと同じ掴みどころがないという意味で、捉えどころが無い人等を指して使われる。長男がヒョウタンの種子を買ってきて投げ出してあったのを、ポットに播いて庭でグリーンカーテンとして育てた。最初株元に太陽光が射さなくて、伸び悩んだが8月中旬を過ぎて2階のベランダまで伸び漸く雌花が開花するようになった。沢山雌花が着き受粉してピンポン玉位になると茶色に変色して落果してしまい、結局収穫できたのは4個しか無かった。しかし収穫したその内の1個は未熟であり、加工する段階で腐って、崩れてしまった。しっかりした1個から沢山の種子が採取できたので、来年は山荘の畑に作って見たいと考えている。 花言葉 幸福 平和 繁栄
2015年11月09日

電気炬燵・電気毛布・電気アンカ等の手軽な電気暖房器具が全盛を迎えるまでは、冬の就寝時の暖房に何処の家庭でも湯たんぽを使っていた。次第に電気製品が湯たんぽに取って替わり、一時はその存在すら知らない世代が増えた。2007年(平成19年)からの原油価格の高騰もあって、省エネルギー性の観点から再び湯たんぽの商品数・売上が増加した。2007年(平成19年)になると、原油価格の高騰もあって再び湯たんぽの省エネが見直され商品数・売上が増加した。さらに福島第一原発の事故や全ての原電停止による電力不足が、停電の際の暖房器具として一層注目されるようになった。寒さに向かう今の時期、ホームセンターには様々な湯たんぽが並ぶ。湯たんぽは古くから用いられている暖房器具で、容器は金属や陶器・樹脂などの材質で作られる。元は暖房器具だが発想を転換して、夏は氷を入れて涼を取る道具として使える注ぎ口の広いものも販売されるようになっている。湯たんぽは日本では「湯湯婆」と表記するが、中国で「湯婆」と呼んでいたものが鎌倉時代に日本へ伝来したとされる。その後「湯婆」では意味が通じないとして、湯を入れて用いるところから「湯湯婆」と書いて湯たんぽと読ませるようになったという。中国で湯婆は唐音で、tangpoと発音された。「婆」は母親を言う言葉で、湯婆を抱いて寝ると母親に抱かれて眠るような穏やかな暖かさであるところから付けられた名前だと言う。室町時代中期の臨済宗の学僧の日記「蔗軒日録」の1486年10月9日の項に、「湯婆」の記載がある。日光の輪王寺に、徳川綱吉(1646~1709)が使用した湯たんぽが存在しているという。金属製の湯たんぽが主流になったのは大正以降で、それまでは陶器が主であった。さらに戦前~戦後しばらくは金属が不足して、再び陶器製のものが使われるようになった。現代は、プラスチック製や樹脂製の材質が主流となっている。陶器製は金属やプラスチック製と異なり、保温性が良く遠赤効果があるとされている。金属や樹脂製のものでは表面積を広くして暖房効果と強度を増すため、表面が波型に加工されたものが一般的である。高齢者や乳幼児・病人に使う際には厚手の袋やバスタオルなどで包み、低温火傷から守る工夫が必要である。低温火傷は、40℃~50℃の比較的低い温度に長時間触れていることで起こる。皮膚の深部組織に侵襲が及ぶことから注意が必要である。湯たんぽ一個は6~10畳の部屋の温度を1~2度上げる効果があり、電気暖房器具の設定温度を下げることが可能との実験結果がある。関東地方は10月末に、一時最高気温が10℃を下回るような寒い日があった。慌てて大型家具調炬燵を出して設置した。ふと数年前、孫たちのために購入した湯たんぽが全く使用しないままであることを思い出した。早速取りだして炬燵の中へ入れて見ると、一寸炬燵を離れる際にも電源スイッチを切る必要が無くさらに適度な暖かさで誠に具合が良い。外気が15℃程度なら、朝沸騰した湯を入れれば10時間以上は暖かい。家内は「湯たんぽが一人一個あれば、電気は必要ないわね」と言っている。
2015年11月07日

ピラカンサはバラ科トキワサンザシ(常磐山査子)属の種類の総称で、日本ではトキワサンザシ、タチバナモドキ、カザンデマリの3種類が多く栽培されており、これらをピラカンサと呼んでいる。バラ科に属するが中国原産の落葉低木で、日本には比較的新しく観賞用として明治時代になってから導入されたとされる。サンザシ(山査子)はピラカンサと同じバラ科に属するが中国原産の落葉低木で、日本には古い時代に導入されたとされる。熟すると赤くなる果実は生薬・果実酒・ドライフルーツなどに利用される。ピラカンサの和名をトキワサンザシと言うのは、松や杉などのように常緑樹であるところから落葉しないサンザシの意味から常磐山査子の名前が付けられた。「ときわ」は、常磐・常磐・常葉とも書かれる。 常磐木の 落葉踏みうき 別かな 虚子ビラカンサはサンザシとは異なり常緑性の低木で、秋に艶のある赤い小さな果実を付ける。赤実種と黄色種が期本種である。ピラカンサを、ピラカンサスと呼ぶ多くの人がいる。Pyracanthaはトキワサンザシやタチバナモドキなどを含む属の総称で、これらを総称して呼ぶ場合複数形でSが付いてPyracanthasになったとする説がある。この場合は、ピラカンサズであるべきだと思う。恐らく、誤って伝わってしまったと考える方が妥当ではないだろうか。サンザシの果実は生薬にされるが、ピラカンサの実は堅く渋い上苦くて食用にはならない。果実にはバラ科植物が持つ青酸配糖体のアミダグリンを含有するので、小鳥は食べないのだとする最もらしい報告が複数あるがこれは全くの誤りである。冬場になって木の実など小鳥の餌が無くなる頃、丁度ピラカンサの実が熟す。例年12月の10日前後になると我が家のピラカンサには、ヒヨドリ・ムクドリ・ツグミ・メジロなどが連日大挙して実を啄ばみに集まり1週間ほどで一粒の実も残さず食べ尽くしてしまう。小鳥の好物なのか或いは美味いかどうかはともかく、小鳥が餌にすることは確かである。1月中旬に渡り途中のレンジャクが,長野県で60羽ほどが落ち死亡するという事件があった。回収した51羽の食道・胃から摘出したピラカンサの実及び胃内容物と近隣地区のピラカンサの実から、シアンが検出された。レンジャクから摘出したピラカンサの実を擂り潰してマウスに投与したところ、マウスが嗜眠状態に落ち入った。(長野県衛生公害研究所所長 藤島)30年も前東京小金井公園の桜の実を啄ばんだ、ムクドリの雛数十羽が落ちて死んだとする事件があった。その時も、サクランボに含まれる青酸配糖体アミダグリン犯人説が出された。不思議なことにピラカンサやサクラは毎年実を着け、小鳥も餌にしているのにその後纏まって死んで落ちたとする報告は無い。恐らくバラ科の果実に含有される程度のアミダグリンでは、人の致死量にはならないと思われる。花言葉 慈悲 防衛 燃ゆる想い 快活 愛嬌 美しさはあなたの魅力
2015年11月06日

居間の窓から2mも離れていない山椒の茂みに、コガタスズメバチが営巣した。ひこじいさんのブログ(2015.5.21 突然スズメバチに遭遇・2015.8.25 大きくなったコガタスズメバチの巣)5月21日に発見した時には、コガタスズメバチの巣特有の徳利を逆さにした形の未だ紋の無い巣だったが、11月になってスズメバチの特有の模様のある巣がかなり大きくなった。家族などからは「危険だから早く駆除して」と言われ続けたが、害虫を捕食する益虫だからと宥めてそのままそっと見守ってきた。10月20日の昼前から午後3時頃にかけてそれまで見たことが無いほどの大群が巣から這い出て、巣の10mほど上空二か所で固まって半日群舞していた。多分世代交代のために新女王が誕生し、交尾のために巣を出たものと思われる。社会生活を営むハチ類では産卵を担う女王蜂は勿論、働き蜂も全てメスである。メスの成虫には産卵管が発達するが、この産卵管を毒針に変化させた種類がよく知られている。ハチは雌が中心になって、社会生活を営む昆虫である。女王蜂は最初雌だけを産み続け一定数に達すると雄を産み始めるが、雄は女王蜂と交尾することのためにのみ生まれ存在する。前年の秋に交尾して越冬した女王蜂は、最初単独で巣を作りながら産卵して子育てを行う。女王蜂は腹部に精子を貯える特殊な袋を持ち、一度交尾すると長期間産卵し続けることが可能である。老化などで産卵機能を失った女王蜂は、働き蜂によって巣の外に捨てられる。女王蜂には採餌能力がないため、数日で飢死することになる。そのようにして女王蜂を失った巣では、すぐに新しい女王蜂が誕生する。女王バチを中心とした社会生活をするスズメバチ類とアシナガバチ類は、巣や自分の防御のため毒針で攻撃する。ハチ毒には酵素類やヒスタミンの他多くの物質を含有し、これらの成分の相互作用により痛み・血圧降下・体組織の破壊・アレルギーなどの諸症状を引き起こす。ハチの毒針は、雌の産卵管が変化したものである。したがって産卵を目的とする女王バチと雄バチは、毒針を有しないため刺すことはない。社会的集団生活を営むアシナガバチ・スズメバチ・ミツバチでは、一匹が刺すと攻撃フェロモンがでるため他のハチも集団で襲いかかる。毒針を刺すことによって毒腺で作られ毒嚢に蓄えられていた毒液が、毒針の中にある細い溝を通って流れ込む構造になっている。コガタスズメバチは好んで、庭木の茂み中や屋根の軒下など開放的な場所に巣を作るため目に付きやすい。名前は小形だが、オオスズメバチよりは若干小さいが攻撃性の強いキイロスズメバチよりも大きく黄色と黒の縞模様をしている。スズメバチの中では攻撃性が弱く、巣に近付いても攻撃されることはほとんどない。コガタスズメバチは全国的にも幅広く生息し、近年都会でも営巣するようになったため習性を知らない人は攻撃性のスズメバチと混同して大きな社会問題にまでなっている。様々な昆虫を獲物としていることや、ちょっとした空間があれば営巣可能なことが都会地への進出の理由だとされている。スズメバチの食性はその種類で決まっていて、オオスズメバチは、カマキリ・コオロギ・バッタ類・他のスズメバチ・ミツバチなど。モンスズメバチは、セミ・小型の甲虫類・バッタ類・クモなど。キイロスズメバチは、小型の昆虫・ハチ・アブ・ハエ・青虫・クモなど。コガタスズメバチは、様々な害虫を含む昆虫・自分よりも小さなハチ類・クモを幼虫の餌として捕食する。全てのスズメバチ科のハチは、昆虫食の傾向が特に強い。これはとりもなおさず、農業上の益虫とされる証拠でもある。我が家では6月にすべき庭樹の剪定が、コガタスズメバチの巣のためにそのまま放置されている。その上、夏の間に伸びた垣根の刈り込みが必要な時期になって来た。山椒の茂みで大きくなったコガタスズメバチの巣だが、11月になってハチの飛翔が疎らに成って来た。念のため昨日木を揺すったら、数十匹のハチがワラワラと巣穴から這い出してきた。今の状態では、未だ庭樹の剪定作業は難しい。余り寒くなる前に、できるだけ早く巣を引き払って欲しいものだ。
2015年11月05日

物事の吉凶の前兆、あるいは兆しのことを縁起という。同じ意味で、験と言う言葉がある。辞書で「縁起を担ぐまたは験を担ぐ」を引くと、「以前に良い結果が出た行為と同じことをして前途の吉兆を推しはかること」と出ている。験を担ぐは、縁起をかつぐから出た言葉で、「縁起」が反転し「きえん」となりそれがさらに「ゲン」に音韻変化したとする説がある。昔から「金は貸しても借りん」の縁起を担いで、家の表に「カリン」、裏に「カシノキ」が植えられる。カリンは中国原産の落葉性高木で古く平安時代頃に日本に伝来し、栽培は江戸時代になって盛んになったとされる。もともとは果実を薬用にするために導入されたというが、実際には花・実の鑑賞用にされ園芸種も多く作出されている。3月ソメイヨシノより早く、ピンク色の大きな花を咲かせる。葉が落ちた後、枝に下がる黄金色の大きな果実は見応えがある。長女の高校卒業記念樹として植えたカリンに、今年も大きな実が着いた。木瓜と書けば、日本ではボケのことである。「もっか」が音便変化して、ボケになったのだという。カリンの果実は、生薬名は和木瓜といわれる。また局方外生薬規格ではカリンの果実を木瓜として規定していることから、市場で木瓜として流通しているのはボケでなくカリンのことである。中国語で木瓜には、カリン・ボケ・パパイヤなどの意味がある。牧野新日本植物図鑑には、「和名は木目がフタバガキ科の花櫚(かりん)に似ていることにちなむ。」とある。毎年樹皮が剥がれて樹肌に花櫚と同じような、動物のキリン様模様ができることが花梨の名前の由来となったものであろうか。良く似た果実に、マルメロがある。カリンには果実や葉に細毛が無いが、マルメロは白い産毛状の微細な毛におおわれている。どちらも花・果実香りなど殆ど同じで、同様に利用される。カリンの果実は古くから民間療法で、咽喉の炎症・咳止め・利尿などに利用されている。リンゴ・ナシ・モモ・ウメなどのバラ科植物の種子には、アミダグリンが含有されている。この、アミダグリンは癌細胞を攻撃するビタミンの一種B17であり、アミグダリンが欠乏すると癌や生活習慣病の原因となるという科学的根拠のない説を流して薬効をうたった健康食品の発売が後を絶たない。アミグダリンは加水分解されて青酸を生じることから、健康障害を起こす有害物質であることが知られている。アミグダリンを多量摂取した場合、健康障害を起こした例が多数報告されている。特別な効果を期待して過剰に摂取することは、期待した効果が得られないばかりか思わぬ健康障害を招く危険性がある。しかし通常食べられているような果実に含有される量ではアミグダリンを恐れる必要はなく、食品として常識的な量を摂取する場合には健康被害の危険性は殆どない。生薬和木瓜は鎮咳・鎮痛・利水薬として、浮腫・嘔吐・下痢・下肢の筋無力・腰膝の運動麻痺・関節痛などに用いられる。生の果実は焼酎漬けカリン酒として、疲労回復や咳止めに利用されている。カリンの実はいかにも美味しそうに見えるが、堅い上に酸味と渋味が強く生食はできない。薄切りにして砂糖煮や、ジャムなどにして利用する。カリンの果肉には咳止めの効果があって、乾果を煎じたものやハチミツ漬、カリン酒は、咳止め薬としての利用が知られている。喉の痛い時や咳のでるときカリン酒・ジャム・砂糖煮等を試しても、実際にはどれほどの効果があったのか実感したことは無い。 花言葉 豊麗 優雅
2015年11月04日
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