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一時満開の桜で日本列島が華やかになったが、今や周りの緑と同化して何処に桜の木があるのかも遠目には判別しにくい季節となった。学制改革が行われる前に就学した児童は、「あいうえお」ではなく先ず「いろはにほへと…」と学んだと記憶している。いろは歌はすべての仮名を重複させずに使って作られた誦文で、七五調の日本人に受け入れられやすい今様の形式となっている。今は華やかに香り高く咲き競っている花であってもやがては散ってしまうものだと、人の世を花に譬えて「涅槃経」の諸行無常を47文字に詠み込んだものと解釈されている。いろは歌は、10世紀末から11世紀半ばに成立したとする研究がある。以来手習いの手本として受け入れられて、近代にいたるまで広く用いられた。仮名の配列は「いろは順」として、現在も法規の号の下にイ・ロ・ハとして使われている。ここから「いろは」は物事の初歩、仮名を重複させないものの代名詞としての意味でも使われる。今では安易に使っているが、重複させず47文字を使って「涅槃経」を詠み込むなど作者はかなり学徳の高い人であったと考えられる。いろは歌は真言宗学僧のあいだで学問的用途に使われていたものが世間に流布したとされることから、日本語学者小松英雄は真言宗系の学僧が作者であろうと推定している。いろはにほへとちりぬるを わかよたれそつねならむ うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみしゑひもせす(色はにほへど散りぬるを 我が世たれぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず)だが最後に「京」の字を加えて四十八字としたものも多く、現代では京ではなく「ん」を加えることがある。日本国語大辞典第二版に「・・・また、末尾に「京」がつけ加えられて用いられたのは鎌倉時代から、「ん」がつけ加えられたのはかなり時代が下がると思われる。・・・」とある。京の字が加えられた理由については、拗音のゃ・ゅ・ょを代表させる意味で「きょう」と読む字を入れたという説もある。今では子供の遊びはデジタル機器を使ったゲームが主になってしまったが、昭和30年頃までは正月の遊びといえば男子の凧揚げ・ベーゴマ、女子では羽根突き・毬突きなどで、室内ではカルタやトランプ遊びに興じたものである。いろはカルタは、いろは歌の一字を頭に付けた俚諺から出来ている。最初の札は江戸では「犬も歩けば棒にあたる」だが京都では一寸先は闇、大阪・尾張は一を聞いて十を知るである。また最後の京は江戸では「京の夢大阪の夢」、京都は「京に田舎あり」で尾張には無い。いろはかるたは江戸中期に京都で作られたものが、大阪から尾張・江戸に広がったといわれる。いろはかるたの別名は「犬も…」で始まるので「犬棒かるた」とも言われるが、「一寸先はカルタ」とか「一を聞いてカルタ」とは言わない。明治36年(1903)にいろはに「ん」を含んだ48文字という条件で、新しいいろは歌が新聞社によって募集された。坂本百次郎の「鳥啼歌」が選ばれ「とりな順」として、戦前は「いろは順」とともに使用されていた。今では、使う人も知る人もいない。とりなくこゑすゆめさませ みよあけわたるひんかしを そらいろはえておきつへに ほふねむれゐぬもやのうち(鳥啼く声す夢覚ませ 見よ明け渡る東を 空色映えて沖つ辺に 帆船群れゐぬ靄の中)孫が小学校に上がった年に、ネット通販で購入した「犬棒かるた」では最後の京について次のように解説している。『「ん」で始まる言葉は無いので、ここでは「運」の意味から採っている。「京にのぼる」と言うように京都、大阪は、江戸の人々にとっては立身出世であり運が必要だった。』とある。牽強付会のようにも、思われる。プロ棋士がコンピューターに負ける時代、10世紀も前に作られた「いろは歌」以上の歌をコンピューターが作り出すことができる時代がやって来るのだろうか。
2015年04月30日

蕗の語源には多くのものがあるが最もそれらしいのは、風に揺れるところからついたとされる古名のフフキを由来とする説である。しかし実際にはかなりの風が吹かないと、ゆらゆらと揺れるようなことは無い。蕗の薹が顔を出すと、春が近い徴である。そのため古来より春告げ草とされ、毎年冬から春への季節には必ず話題に上る。早春雪の下から顔を出すのが待ち遠しく、蕗の薹料理は多くの子供には一寸苦手だが大人にとってはそのほろ苦さが格別でまた何とも言えない野趣を感じさせる。フキノトウはそんなにもて囃されるのに、遅れて出てきた葉柄は余りニュースになったりしない。我が家の庭の柿の木の下に50年も前に、家内の実家や信州から移植した山蕗が密生している。道路から見えるので通りがかりの人から時々、食べなければ貰いたいと声が掛かる。勇を奮って声を掛けて来た人には申し訳ないのだが、ご飯のおともにも酒のつまみにも誠に良く合い私の好物なので折角だがやんわりとお断りしている。フキには秋田蕗や螺湾蕗のほか栽培種で2mにもなるものがあるが、それらは葉柄が太く真ん中に大きな穴が通っている。山蕗の葉柄は細くて穴も無く、高さも精々50cmほどにしかならないため採取から皮剥きなどに手間が掛かるが、こちらの方が野趣に富んでいて味も濃く好きである。ヤマブキに最も良く合う料理は、キャラブキである。キャラブキのキャラは、伽羅と書く。香道で最高の名香として珍重される伽羅は、ベトナムやタイなど東南アジアが原産の沈香木の一種である。沈香木の伽羅の濃い茶色を伽羅色といい、フキを砂糖と醤油で煮た色が濃い茶色であるところからキャラブキと言われるようになったものである。フキノトウの時期が終わると、柄の長い大きな丸い葉が生えてくる。フキの葉柄は春から秋まであるが、柔らかくて香りと苦味が程良く美味しく食べられるのは4月下旬から6月くらいまでである。7月を過ぎると固くなり、苦味も増して食用に適さなくなる。採取したフキの葉を切り落とし、水洗いする。鍋に入る長さにカットしたフキを、水から鍋に入れて火にかけ沸騰した後5分ほど茹でる。茹でないで皮をむくと、アクで指先が真っ黒に着色するし、皮がむきにくい。また肝毒性が証明されているアルカロイドのフキトキシンを除去することができる。茹であがったら、冷水に取って晒し苦みを抜く。水の状態から茹でることでフキトキシンの殆どは溶出するから晒し時間には気を使わなくても良いのだが、真水の晒しによって苦味の程度を加減することができる。皮を剥かないで煮る方法もあるが、皮が口に当たるので丁寧にしっかり皮を剥いた方が食べやすい。皮剥きを終えたフキを3cmほどの長さにカットして、鍋にだし汁2カップ+醤油100ml+味醂100ml+日本酒100mlを入れさらに水をヒタヒタより気持ち少なめに加え汁気が無くなるまで中火から小火で煮詰める。醤油と味醂は最初に全部を加えないで、途中で味を見ながら加えて自分好みの味に仕上げるのが良い。家内はキャラブキ作りには全く手を出さないのだが、「早くフキを採らないとまた欲しいと言われるよ。」と口は出す。両手で持ちきれないほどのフキの量だったのに、皮を剥いてキャラブキにすると2つのタッパーに収まってしまった。毎回思うのだが今回のキャラブキが今までで最も旨いと、自画自賛しながら一杯やっているところである。 ひとり煮て 伽羅蕗辛き 五月かな 波郷
2015年04月29日

武田信勝は武田勝頼を父、遠山直廉の娘で織田信長の養女である遠山夫人を母として永禄10年(1567)11月1日に伊那高遠城で生まれた。勝頼は信玄が妾とした諏訪氏の娘を母として生まれ、高遠城主となっていた。信勝生母の遠山夫人は信長の養女として永禄8年(1565)に武田家へ嫁いで、信勝出産の際に死去したという。16年後に祖父信長により打ち取られることになるとは、夢にも思い描くことはできなかったであろう。勝頼が結婚したのは信玄と嫡子義信が対立した年で、奇しくも信勝誕生の年には義信が切腹させられ8年後に家督は信玄の4番目の子である庶子の勝頼に引き継がれることになる。現代版家具店骨肉の争いにも似た、構図であったのだろうか。天正元年(1573)4月12日信玄は遠征の途次南信州駒場で死の床に臨み、信勝が16歳になったら甲斐武田氏を相続させること、それまでの間は勝頼が後見人となるように遺言したのである。譜代家臣の多くは庶子の勝頼を武田氏の正当な相続人と認めず、この遺言が結果的に甲斐武田氏を弱体化させ滅亡への道を歩ませることになった。天正10年(1582)2月織田・徳川の甲州征伐が開始されると、有力家臣の雪崩打つ離反により武田氏の崩壊が起き、勝頼は3月3日に新府城を放棄して岩殿城の小山田信茂を頼った。しかし信茂の裏切りにより3月11日には天目山の麓の田野で、勝頼や家臣の跡部勝資・土屋昌恒らと共に自害したと伝わる。信勝は、数えで16歳の若さであった。愈々自決を決断する最後の時が迫り勝頼は、父信玄の遺言に基づいて信勝に武田氏家伝の「楯無の鎧」を着用させ家督を譲る元服の儀式を行ったという。家康の命によって建立された景徳院境内に、「旗竪松」と名前がついた赤松がある。「勝頼公、事すでに急迫なるを見て武田家累代の重宝旗を大松の根元に立て、盾無鎧を世子信勝公に着用させ擐甲の令を行いし処」の説明がある。擐甲とは、鎧を着用する儀式のことである。アカマツの古木とされているものの多くは樹齢が400年前後と言われるが、森林総合研究所小松沢靖はアカマツの寿命は700年程度と発表している。大松の根元にとあるから、1582年には既に樹齢は数百年にも達していたものであろうと推定できる。勝頼一族と家臣が自害してから今年で433年になり、それから考えるとこの松が当時のまま残っているとすると既に樹齢は5~6百年になっているはずである。太さや枝ぶりを見たところ、とてもそのように長い歴史を感じさせる木では無い。
2015年04月28日

新暦の4月27日は、旧暦では3月9日にあたる。新旧の暦では1か月以上も季節が異なることを考慮して歴史を振り返らないと、時として不思議の想いに囚われてしまうことがある。武田信玄の死亡後を継いだ勝頼は、織田・徳川の連合軍の鉄砲と物量の前に敗退した。この構図は、第二次大戦の日本とアメリカの軍事力の差を彷彿とさせる。戦況愈々不利の様相が見えてきた天正10年(1582)3月3日、大月の岩殿城主小山田信茂の誘いに乗って岩殿城で立て直しを図るべく、入城して僅か2か月の韮崎の新府城に火をかけて700名が岩殿城へ向けて出発した。勝頼の乳母であった松の葉の兄信元は、永禄3年(1560年)上杉謙信の関東侵攻の際武田氏に謀反を企てたとして信玄によって誅殺された。松の葉は雨宮景尚に嫁していたが雨宮家に累が及ぶことを懸念して離縁した後、勝沼の大善寺で尼となり理慶尼と称し暮らしていた。新府城から落ちて来た勝頼隊は、戦勝祈願のため元乳母の住まう大善寺に立寄った。勝頼は兄の仇の子ではあるが、寺の薬師堂に勝頼・北条夫人・信勝を快く迎えて最後の寝所を供にした。勝頼は既にこの夜この戦には勝ち目が無いことを悟っており、落ち伸びたいと思う者には暇を与えたという。翌日11日には信頼していた小山田信茂に岩殿城への行く手を阻まれたため、行く先を天目山に変えたが田野地区に至って遂に敵に四囲を囲まれ孤立無援となった。出発時700名を数えた一行は勝頼以下僅か数十人となり、この地で自決の道を選んだ。新羅三郎義光以来、五百年続いた甲斐源氏はここに滅亡することになった。事の一部始終を目撃し記した理慶尼記(武田滅亡記)は、大善寺に保管されている。同年6月に本能寺の変により信長が横死した後、家康が甲斐の国を領することになった。家康は天正10年7月に早くも勝頼と家臣らの菩提を弔うため、田野郷一円を寺領として寄進して「景徳院」を創建したとされる。一説には無主となり緊張状態にあった、甲斐国領民の懐柔策ではなかったのかと指摘されている。景徳院を訪れた4月26日は、奇しくも勝頼公まつりが行われる日であった。早朝8時前から、関係者が続々集まっていた。住職は勝頼・北条夫人・信勝の墓碑に供物を供え焼香の準備に、また大黒さんやお手伝いの人たちは本堂で供養の準備が慌ただしく行われていた。住職の手の空いた暇を見て自決したとされる3月11日で無く、何故4月26日に供養が行われるのかと質問して見たのだが明確な答えは返ってこなかった。多分新暦では4月29日頃に当たるのでその日に近い、日曜日を選んで設定したものであろう。本堂の供養の席に並ぶ人は、90名とのことであった。山の斜面に建立された寺院であるため平坦な場所は狭く、山門と本堂の間には車道が通っている。従来勝頼公まつりは寺院の境内で行われてきたのだが、狭いため大和中学の校庭で行われるのだと言う。218号線から景徳院まで上下二か所のアクセス道があり、どちらの道を選んでも車のすれ違いは不可能に思われるが上道の方が極端なカーブは少ない。法要の時間まではまだかなりの間があったが、家内が代表してお賽銭を3人分入れ勝頼の霊に頭を下げてきた。
2015年04月27日

白秋は童謡とまとで♪「麦わら帽子にとまとをいれて 抱えて歩けば暑いよおでこ ラララッタンラッタンタン ラララッタンラッタンタン」の詞を書いた。貝原益軒の「大和本草」にトマトについての記述があることから、江戸時代の1660年代頃には日本へ伝わっていたものと考えられている。当時のトマトは青臭くまた真っ赤な色が敬遠され、専ら観賞用とされ「唐柿」の名前で呼ばれていた。日本で食用にされるようになったのは明治以降で、さらに日本人好みの味の品種育成が盛んになったのは昭和に入ってからという。白秋が冒頭の詩を書いた頃、漸く日本でもトマト栽培が盛んになり生食され始めた頃であったのだろう。トマトはペルーやエクアドルを原産とする、ナス科の植物である。本来は多年生植物だが、日本では一年生作物として栽培される。秋季から初夏までの低温期間を加温により適切に管理すれば、長年にわたって延々と開花と結実をさせること可能である。1本仕立てにして1年間栽培すると、8m~10mにも達するという。唐柿(とうし)、赤茄子(あかなす)、蕃茄(ばんか)、小金瓜(こがねうり)、珊瑚樹茄子(さんごじゅなす)などの異称がある。通常の栽培品種では発芽後、本葉8葉から9葉目に第一花房が付き、その後は3葉おきに花房を付ける性質をもつ。各節から側枝が発生するが、栽培管理上除去される事が多い。株がストレスを受けると正常な位置に花が付かない現象が発生することで、株の管理が適切かどうかの判断ができる。適温は昼温20~25℃、夜温10~20℃とされる。気温が30℃を超えた環境では着果障害や不良果が増加し、最低気温が10℃を下回ると低温障害を受ける。極端な乾燥では生育が劣り、過湿に偏ると病気が発生しやすくなる。潅水量が多すぎると果実割れ現象が発生するので、潅水には細かい制御が必要である。「種子から育てる場合発芽には床温30℃が必要とされ、発芽の兆候が見えたら25℃程度にする。鉢上げ後の育苗日数は、低温期で60日ほど必要である。トマトはあまり若苗で定植すると、株ばかり育って初期の着果がし難くなる。定植は他の果菜類と同じように、晴天無風の夕方が最も適している。」とマニュアル本にはある。昨年は一本220円もする「桃太郎」の苗20本を購入して栽培したのだが、炭疽病に感染してしまって思ったほどの収量を上げることができなかった。こんなことは、20何年間トマトを栽培して初めてであった。今年は比較的病害に強い赤色系のポンテローザの種子を年明け早々に取り寄せて、種を蒔いて自分で育てることにした。加温装置を持たないので外気温が上がる春分の日に種播きをして、ビニールで覆いをした。トマトの場合発芽は遅れるが、30℃の発芽適正温度に達しなくても十分に発芽する。自家育苗のトマト苗が1か月で15cmほどに育ってきたので、標高630mもある山荘の菜園でも晩霜の心配が無くなる連休明けには定植可能と思われる。色による分類では、ピンク系と赤系と緑系に大別される。世界では多くの品種が赤系トマトであるが、日本ではピンク系が生食用として広く人気を博し赤系トマトはもっぱら加工用とされてきた。しかし近年になってポンテローザなど赤系トマトには、抗酸化作用を持つ成分リコピンが多量に含まれていることから利用が見直され日本でも、これらの品種を栽培する人が増えているという。日本では120種以上のトマトが、品種登録されている。品種数としては野菜類の中でも、目立って多い。しかし一代雑種(F1)品種は登録されないことが多いので、桃太郎は品種として登録されていない。フルーツトマトの名前で出回っているものは、栽培方法により高糖度化を図ったトマトで品種名ではない。高知市で出荷されている徳谷トマトは、一宮の徳谷地区の塩分を含む土壌で成長を抑えて栽培し糖度を高めたものである。熊本県八代の干拓地など塩分の多い土壌で育成されたトマトの内、特別に糖度が高くなったものを塩トマトの名前で出荷されている。果実の大きさで大玉トマトは200g以上、ミニトマトは20~30g・と便宜的に分類している。しかし大玉品種でも水を与えず高糖度化をはかると、果実は中玉程度に小さくなる。美味しいトマトの見分け方としてヘタがキレイで色の良いものを薦めているが、当っていないことが多い。トマトは品種や産地・栽培方法などにより、味にかなりの差が出るからである。
2015年04月24日

国民学校最後の入学生であったから入学式には多分、校長が「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト…」の書き出しで始まる教育勅語を語ったのを聞いたものと思う。教育勅語は入学年の秋、10月9日に文部省令第31号によって廃止された。ここに最初に出てくる朕とは、天子に盤(舟型の器)を奉げる様子の象形文字で意味は「上にあげる」である。これから転じて、天子の一人称となった。そこから藤の字は朕に草冠と水が足されて、上に昇る目出度い植物とされた。フジがクズやニセアカシヤ等と同じマメ科の植物であることは、その花を見れば一目瞭然である。日本固有種のフジには、ノダフジとヤマフジの2種類が本州・四国・九州に分布している。ノダフジの名称は藤の名所が大阪市福島区野田にあったことから、牧野富太郎が地名をとって命名したものと伝わっている。ノダフジとヤマフジでは蔓の巻き方が反対で、ノダフジは時計巻きであることから識別が可能である。ノダフジの花序は長くしだれて、20cmから80cmに達する。花はうすい紫色で、藤色の由来となった。藤には日本固有種の他に中国にシナフジ、欧米ではアメリカフジなどが栽培されている。今年は桜の開花が早かったが、藤の花の開花も例年より早い気がする。我が家には一歳フジとノダフジの二鉢があるが、どちらも既に大きく花序を伸ばし基部の方から平安の昔に清少納言も褒め称えた藤色の愛らしい花が開き始めた。山林に自生するフジは、樹木に絡みついて上部を覆い光合成を妨げ、幹を変形させ木材の商品価値を無くすのでフジの蔓は刈り取られる。放置されている山林では全山が紫色に煙るように、見えることがある。山荘の近隣の山林でフジの花を多く見るようになったのは、山林の管理放棄を要因として挙げることができる。藤根は、飢饉などの際には堀取って食べたともいう。民間薬では、蔓に出来た藤瘤が胃癌薬にされるという。若芽は茹でて和え物や炒め物に、花はゆがいて三杯酢や天婦羅で塩漬けにして花茶にする。インゲン豆の様な莢をつける種子を食べたことは無いが、江戸時代には貴重な糖質とされ珍味だという。清少納言は枕草子35段で木の花は、濃きも薄きも紅梅。桜は、花びら大きに、葉の色濃きが、枝細くて咲きたる。藤の花は、しなひ長く、色濃く咲きたる、いとめでたし。第42段では、あてなるものうす色にしらかさねの汗衫。かりのこ。削り氷にあまづら入れて、あたらしき金鋺に入れたる。水晶の数珠。藤の花…。と藤の花を褒め讃えている。家内の祖先は江戸以前から東京の下町に住む生粋の江戸っ子で、常々藤や葡萄のようにぶら下がる植物を庭に植えると「成り下がる」と毛嫌いしていた。その影響を受けて妻は今でも、このような植物を庭に植えることをあまり好まない。異名にまつみぐさ・ふたきぐさ・まつなぐさなどがある。 草臥れて 宿かるころや 藤の花 芭蕉 花言葉 歓迎 恋に酔う 陶酔
2015年04月23日

シラカバが1977年に大ヒットした北国の春では、♪「白樺・青空・南風 こぶし咲くあの丘 北国のああ 北国の春…」と歌われている。シラカバの芽吹きは綺麗な黄緑の若芽と白い幹の対比が美しいが、この歌に出てくる情景ではコブシが咲く頃だからまだシラカバは芽吹いていない。日本の高原を代表する木のシラカバは、福井県と静岡県を結ぶ線から北海道までの落葉広葉樹林帯に分布している。近縁種には亜高山地帯に生育し、幹の色が赤みを帯びているダケカンバがある。一般的に白樺はシラカバと呼ばれ、「白い樹皮のカバの木」から名前が付いたものである。別に、シラカンバとも呼ばれる。若木の樹皮は初め黒灰色をしているが、生長につれて横方向に剥がれて白くなる。日本に産する樹木の中では最も幹が白くなり高原などでは白さが際だって美しいが、暖かい地方では鮮明な白さにならない。先駆植物の一つで山火事などにより空地になると最初に生え、明るい場所を好み生長が早い。やがてブナなどの樹木にとって代わられて、大抵は一代限りで消えていく。カミキリムシの幼虫のテッポウムシが好んで棲み、貫入部には虫糞を大量に出す。場合によっては樹液を吸いとられて、枯死することもある。雌雄同株で一般的には10cmほどの長さと言われているが、山荘のシラカバは30cm以上もの長さの雄花を長枝の先から尾状に垂れ下げる。雌花は短枝に、雄花より短い花穂をつける。風媒花のため花粉症の原因になり、シラカバが多く自生する北海道を中心に患者数が多い。シラカバ花粉症のある人はリンゴやモモ・サクランボなどを食べると、舌や咽喉に痒みなどにアレルギー症状を起こすことが知られている。成長が早い分材質は柔らかくて脆く風雨に当たると直ぐ腐るが、木目が美しいので家具材や家屋の内装に使われる。樹皮は濡れていても容易に燃えるのでアウトドアで火を焚く際、天然の着火剤として点け木替わりに利用される。芽吹く前に白樺の幹に穴を開けると、そこから大量の樹液が分泌される。シラカバ樹液の主な成分はブドウ糖や果糖などの糖分・アミノ酸・たんぱく質・カルシウム・カリウム・マグネシウム・マンガン・鉄・亜鉛・銅などのミネラルが多く含まれていて利尿作用があり、高血圧・痛風・胃炎・腎臓病などに効果があるとされる。またこの樹液の甘味を天然甘味料キシリトールの原料とする他、皮膚を保湿するための化粧品として利用されている。動物実験では、ストレスによる潰瘍等の予防と治療に効果があるという。(理学博士 美濃羊輔)園芸店などでシラカバとして販売されているのは、シラカバの近縁種であるジャクモンティーであることが多い。ジャクモンティーはシラカバに比べて暑さに強く、若いうちから幹が白くて鑑賞価値が高いなど人気が高い。土地柄なのかカミキリムシの好みによるのかは不明だが、都会地に植えられるジャクモンティーには山地のシラカバほどにはテッポウムシが入らない。山荘が完成した時記念樹として敷地の入り口の脇に植えた、15年になる白樺が大きく育っている。この入り口は駐車場も兼ねていて車を駐車するのだが、春には花から放出される大量の花粉により車が一晩で真っ黄色に染まり、秋には細かな種子が車の屋根に飛び散って洗車が必要になる。ちょっと持て余しているのだが、山荘の目印でもあり今のところ伐採の予定は無い。
2015年04月22日

年末にセイロンベンケイの葉を3枚貰ってきて、室内に取り込んだストレリチアの鉢土の上に置いた。以前5年ほど育てたことがあり、その扱い方は良く知っている。セイロンベンケイは花が美しいカランコエと同じ、ベンケイソウ科リュウキュウベンケイ属の植物である。和名は灯籠草と呼ばれ、葉から直接芽をだすことから別名「葉から芽」とも呼ばれる。多肉質の多年生草本で茎は直立し、葉を対生につける。葉は短い柄があって、葉身は大判形で三出-単羽状複葉である。霜には弱いが、室内で5℃以上あれば越冬する。原産地は南アフリカとされるが、現在は熱帯地方各地に帰化している。沖縄や小笠原父島では至る所に繁殖しており、侵略的外来種として問題となっている。植物は、葉や根・茎の節間などから普通は芽を出さない。しかし葉や根・茎の節間などから芽を出す植物がありここから生ずる芽を不定芽というが、ベンケイソウ科の植物は葉の縁に不定芽を生ずるものが多い。セイロンベンケイソウは手に入り易く面白いので、中学生の理科教材として良く使われる。三出葉の一枚を採って土に埋めたり水を張った器に浸けて置けば、葉から芽を出す不思議な植物である。葉脈が葉の縁のギザギザの窪んだ部位に届いており、そこから不定芽を生ずる。葉を切り離すことによって植物ホルモンの移動が妨げられ、細胞分化が起こり不定芽を生ずると説明されている。不定芽の成長は気温が低いと遅くなり、一定の温度が続かないと不定芽の発生は無い。酷く乾燥させない限り一定の温度があれば、ピンで壁に留めておいても不定芽が出てくる。不定芽の発生は初めに白い細根が出、次いで葉や茎が出る。不定芽の茎が3cmを超えたら葉の一部を付けて切り離し、植木鉢に植え水切れしないように管理する。冬は外気が10℃以下になったら、鉢を屋内に入れて乾かし気味に管理する。寒い間は、殆ど成長しない。このように管理して2~3年すると高さ70cm程になり、長さ30cmもある花序を伸ばして緑白色の釣鐘状の花を多数着ける。この花姿が、和名の「灯籠草」の由来となった。セイロンベンケイソウが属するカランコエの仲間は、葉の鋸歯部分に生長点を持っているのが大きな特徴である。葉が脱落すると、ここから発芽し新しい個体を形成する。園芸店で売られるコダカラベンケイや不死鳥錦などは、葉が親株についているうちから盛んに新芽を出す。この仲間は全て1日の暗期の長さが一定時間以上になると花芽ができる短日植物なので、夜間いつまでも電灯の明かりが当たるところでは花芽ができない。有性生殖とは、2個体が新個体(子)をつくる生殖法である。一方無性生殖は、1個体だけで新個体(子)をつくる。高等植物でも無性生殖の例は多くイチゴは匍匐枝の先に新個体を生じ、竹は根から筍を生じる。セイロンベンケイソウが葉に不定芽をつくって殖えるのも、無性生殖の一つである。植物の花は生殖器官と言われ葉・茎・根を栄養器官というが、花以外の葉・茎・根器による生殖を栄養生殖という。有性生殖では、2個体の親から遺伝子構成の違う子ができる。無性生殖は親と全く同じ遺伝子構成のクローンである。同じセイロンベンケイソウの株から不定芽によって生じた株は、親の遺伝子と全く同じクローンである。英語でGood-luck leafと呼ばれるのも、葉から芽を出すことが由来である。この植物の全草に消炎作用や、止血・解毒作用のあることが知られている。沖縄では、葉を止血・腫れもの・虫さされになどに使う。一方ではオーストラリアでこの植物を大量に食べた牛2頭が、急性中毒で死亡した例があり、この植物には強力な細胞毒性のあることが研究解明されている。12月末から乾かし気味の鉢土の上で全く何の変化も無かったのが、気温が上がって来た4月になって細く白い根を多数伸ばし始め今では伸び始めた芽が1cmを超え3枚の葉が出てきた。孫に教えても植物に余り興味が無いのか、全然関心を示さない。 花言葉 静穏 信じて従う
2015年04月21日

山荘の目の前に中山という、標高887mの独立峰がある。この小さな山に鹿・猪の群れ等が棲み付いていて、狩猟期には猟友会のメンバーが何回も山に入り時々銃声が聞こえてくる。3月末の日曜日にたまたま山から下りてきた猟師に遭遇して、暫く話を聞いた。山荘の周辺には日夜イノシシ・シカ・サルなどの有害鳥獣が出没していて、駆除に出動しているのだと言う。しかし、この日は山の向こう側でシカ2頭の猟があっただけで、イノシシは空振りであったという。イノシシは非常に神経質で警戒心が強い動物なので犬に追われても銃を持って構えている場所は決して通らず、銃で捉えるのは極めて難しく最も有効なのは括り罠だという。3月末までの猟期の間はあまり出てこなかったのだが、4月に入って猟期が終わった途端きれいに耕起された農地はまるで野生動物の夜間大運動場の様相である。人間は一時間目いっぱいの速さで走って、最も早い人で20km行くのが精いっぱいだ。イノシシは、人よりずっと早く、短距離であれば45km/hで走ることが可能である。成獣では1m、生後6か月の幼獣は65cmくらいの高さの柵は、助走せずに飛び越える事が可能である。俊足で高い跳躍力を持つなど身体能力に優れ、泳ぐことも出来る。嗅覚に優れ、鼻の力が強いので60kg程度の物は鼻で動かしてしまう。野生のイノシシには稀に10年ほどの個体もいるが、平均寿命は1~2才とされている。イネ・クズの根・ヤマイモの根・ドングリ・昆虫・ミミズ・サツマイモ・果物など何でも食べる雑食動物のため民家付近にも出没し、農作物や生ゴミ等を食い散らすことで問題となっている。生息地域は拡大傾向にありオスは生後一年ほどで群れを離れ単独行動に移行し、雌は親子で群れを形成する。本来は昼行性の動物だが、人との遭遇を避けるために夜間に行動する習性を身につけた。しかし、人を恐れなくなった場合には、昼間も里に現れる。実際に春の時期の朝7時頃、山荘の裏道を駆け足で歩くイノシシ一頭を目撃したことがある。イノシシは一度、餌場と認識した場所にはあらゆる手段で侵入しようとするので、被害を受ける前に防御をしないと進入を防ぐことが困難になる。柵は二重にして立体感を出し柵の上部を外側に傾けて立て、柵の下部をトタン板・波板等で囲うとより防御効果が得られる。柵を巡らせるには経費がかかるが、家庭菜園程度であれば比較的安価で有効な手段として電気柵がお奨めである。我が家の菜園に電気柵を設置して3年を経過したが、以来イノシシの訪問はない。クマ・シカ・イノシシは古くから食用され、狩猟の対象となってきた動物である。イノシシもシカも仕留めてから処理までの時間が経過するごとに、獣臭が強くなって食用としての価値が損なわれてしまう。以前岡山の学友から丹波のイノシシの肉が送られてきたが、余りに臭いが強くて焼いても味噌煮にしても食べ難かった。現在はむしろ有害鳥獣駆除が目的となって、その肉を利用することは二の次となっている。料理店でそれらの肉を使った料理をいつでも提供できる体制が取られ、解体時間の短縮ができればイノシシもシカも食材として有用であり駆除によって個体数も適正に保たれていくことに繋がると思うのだが。
2015年04月20日

ミツバツツジ(三葉躑躅)はツツジ科ツツジ属の落葉低木で、近縁のミツバツツジ類の総称でもある。樹高は3mほどになり、株立ちする。ミツバツツジ類は日本を中心としたアジア東部に、約30種が知られている。近畿~九州にかけてイワツツジの名前で呼ぶ地域があり、信州伊那谷でもそう呼んでいた。本家のイワツツジも同じツツジ科で、春に白っぽいピンク色をした壺型の愛らしい花を1~2個咲かせる。こちらは地下茎を持ち、宿根ベゴニアようにも見える落葉小低木である。ミツバツツジは関東地方から近畿地方東部の太平洋側に分布し、主にやせた尾根や岩場・里山の雑木林などに生育する。ミツバツツジ類は日本を中心としたアジア東部に、約30種が知られている。ヤマツツジの仲間と近縁種のため、実生苗では区別をつけ難い。多くの仲間の雄しべは10本なのに対し、ミツバツツジは5本であることが大きな特徴である。古くから庭木としても植えられるが、盗掘によって山野に自生する個体数は減少傾向にある。ヤマツツジやレンゲツツジより早く花を咲かせ、他の木々も葉を広げていないので特長のある花色が遠くからも目に入る。花は桜が咲くより少し早く山の樹木が芽吹く前に、葉より先に咲く。レンゲツツジと同じように一個の蕾から複数の赤紫の花を咲かせるので、ボリューム感もあって見応えがある。花が終わってから葉を出すミツバツツジは、枝先に三枚の葉がつくことが名前の由来となったものである。サツキやヒラドツツジなどは常緑だが、ミツバツツジは褐色がかった赤に紅葉し落葉する。葉の形はドウダンツツジに似ているが、こちらの葉は4枚である。近縁種に開花時期が遅く花がオレンジや濃いピンクで、葉が出てから花を咲かせるオンツツジ類がある。ミツバツツジ類は挿し木や接ぎ木ではほとんど殖やせない性質があり、殖やすには専ら種子から育てる方法しかないので、50cmほどの苗木でもかなりの値段がする。-25℃の耐寒性があり日当たり・半日陰でも育つので、庭に植えっぱなしでも育て易い。ただミツバツツジ類は根が浅いため夏場の乾燥による水切れには弱いので、来年の花芽を多く着けるには根元を乾燥させないように管理することが必要である。ミツバツツジは酸性土壌に住む菌との共生により、空気中の窒素を吸収している。石灰で土壌を中和すると、菌が住めなくなることにより枯れてしまうので注意が必要である。夏の終わり頃ミツバツツジのさく果に、マルフシタマバエの1種ツツジミマルフシタマバエの産卵により実に虫癭を作ることがある。秋に成熟した幼虫が虫瘤から出て、土の中で越冬する。子供の頃には親からレンゲツツジを植えると家が火事になり、ミツバツツジを植えると家が不幸になると言われて育った。俗信や迷信を信じなくなったせいもあるが山荘の周りには、植えてから15年になるミツバツツジが7株ある。2年続けて猛暑旱魃となり留守の間水遣りができなかったこともあって、夏の間に全て落葉してしまい今年の花は諦めていたところ疎らながら今年も花を咲かせた。それぞれ花色の濃さに違いがあったのだが、何故か今年はどの株の花も同じような濃い赤紫である。夏の落葉が影響しているのかも知れない。 3月23日・5月1日・22日・28日の誕生花 花言葉 節制 平和
2015年04月17日

毎週日曜日の夕方5時半からの笑点は、2000回以上も欠かさず見ている。現役時代はこのテレビ番組を見終わると、月曜からの5日間をまた頑張ろうと気持ちの入れ替えをする時間となった。現在笑点には出ていないが、林家こん平が大声で「チャラーン」と挨拶していたのは今でも懐かしい。意味は全く異なるが、チャランというセンリョウ科の植物がある。チャランは茶蘭と書き、茶の香り付けに使われたことから付いた名前だという。チャラン属には、日本に吉備一人静・一人静・二人静の3種がある。ヒトリシズカとフタリシズカは、葉の上に花を着ける様子が良く似ている。ヒトリシズカは沖縄を除く日本全国の山林の、比較的暗い場所に自生している。吉野山で歌舞をしたとする源義経の側女の静御前に擬えて、嘗ては「吉野静」といった。日本の類書(百科事典1712年成立)の「和漢三才図会」には、謡曲に静の幽霊が二人になって一緒に歌舞をしたとあり、このことから一茎に二本の花を咲かせるものを「二人静」の名前で呼んだ。この名前に対比させるため、一茎に一本の花を咲かせる近縁種の「吉野静」がヒトリシズカの名前で呼ばれるようになったものという。花言葉は静謐とされるが静を人の名前でなく、「静・動」の静Quietと取り違えたことによるのではとも思える。4枚の葉の間から、白い刷毛状の変わった花を1本立ち上げて咲かせる。別名のマユハキソウは、眉掃草と書き花穂の形状からつけられた名前である。花穂を白粉をつけた後に眉を払うブラシに見立てたもので、花姿からは寧ろこの名称がぴったりである。茎は直立し、高さ20~30cmになる。光沢のある葉4枚が輪状につき、4月頃茎頂から葉を突き破ったように長さは2cmほどの穂状花序を一本つける。白い糸状の部分は雄シベで、花弁や萼は無い。一人静の名前から受ける感じと異なり一株だけ単独で生えることは稀で、通常は群生してそれぞれに数多くの花をつける。秋になると地上部が枯れて、地下茎の状態で冬を越す。地植えでは零下15度の寒さにも耐えるが、鉢植えでは凍結し枯れることがあるので棚下などに異動する。株分けや種子を播いて殖やすことが可能である。植え替え時に3~5芽をつけて根茎を切り分けて植える。種子を播く場合は採り播きすれば、比較的発芽率は良い。山荘に咲き始めたヒトリシズカは15年前隣の山から移植したものだが、植えた場所から勝手に脱走して石段脇のポストの裏がすっかり気に入った様子で今では大株に育ち隣には小株まで作った。毎年5月の晩霜と夏の干天に痛めつけられながら、桜が満開になる頃には頑張って花を咲かせる。 花言葉 静謐
2015年04月16日

桜の花が散る頃になると、地上の草花も一斉に咲き出す。小さな花で余り人目につかないが、淫羊霍の名前で薬草にもされるイカリソウの可愛らしい花も咲きだした。此の株は4年前に愚酔庵主からいただいたもので、自分で山から採取した株とは花色が異なっている。霍という字には「俄か・早い・急に」の意味があり、霍乱とは夏の季節に激しい下痢や嘔吐を伴う病気の呼称である。現在は、日射病などの暑気中のことにも用いる。普段健康で元気な人が病気になることを指して、「鬼の霍乱」などと使う。霍の字を使った精力剤として古くから使われている生薬に、「淫羊霍」がある。生薬名の淫羊霍は中国産のホザキイカリソウの中国名だが、日本産のイカリソウも同じ様に淫羊霍または和淫羊霍の名前で呼ばれる。淫羊霍の名前は、「四川の北部に精力絶倫の雄羊がいて、一日に百回も交尾する。それは霍と言う草を食うからだ」とある。精力絶倫の雄羊を「淫羊」、薬草の「霍」からホザキノイカリソウを「淫羊霍」と名づけると李時珍の本草綱目(1578年)に記されている。中国には昔から、数値を誇大に形容する習わしがある。白髪三千丈・赤壁で100万の曹操軍戦死・水深千尺・一瀉千里・飛流直下三千尺・学道三千春・堂中客有三千士・食客三千人など数え上げればきりが無い。淫羊霍を食べたとしても羊が一日百回も交尾するというのは全く不可能なことで、実際にはその1/10以下であったのであろう。イカリソウ(碇草・錨草)は、別名三枝九葉草とも言われるメギ科イカリソウ属の落葉多年草である。東北地方以南の太平洋側、四国の半日陰の山野や林間に自生する。4枚の花弁が距を出した形が、船の錨のような形をしていることからつけられた名前である。「三枝九葉草」とは、3つに枝分かれした先に3枚ずつの葉をつけるところからの別名である。茎葉に配糖体エピミジンやフラボノイドのイカリイン、リグナン・イカレジノールなどを含む。エピメジンは性ホルモンの分泌を促し催淫作用があるほか、神経を刺激する作用がある。抗ウイルス・抗菌作用、鎮咳、去痰作用のほか生殖機能の低下、老化に伴う衰弱、関節の痛みなどに用いられる。一般用医薬品のため、処方箋が無くても粉末や未加工の状態で購入が可能であるが、淫羊霍には目眩・嘔気・口渇・鼻出血などの副作用があり安易な多量の服用には注意が必要である。「薬用養命酒」には、1日服用量の中には、114mgの淫羊霍が配合されている。イカリソウの有効成分であるフラボノイド配糖体のイカリンには、一酸化窒素(NO)レベルの上昇・ホスホジエステラーゼ(PDE)-5に対する弱い阻害作用があり、ED処方薬のバイアグラに共通した作用が認められている。地上部の茎葉を6月~7月に刈り採り、天日で乾燥し細切したものが生薬の淫羊霍である。日本の民間薬として古くから全草が用られていて、その効果は中国産と同じだとされている。強壮・強精の目的には、1日10gを煎じた煎液を3回に分けて食間に服用する。心臓や胃腸の弱い人には禁忌とされる。イカリソウの根は淫羊霍根といい帯下・月経不順、喘息・夜盲症などに効果がある。強壮強精の目的で利用するには、イカリソウを乾燥した茎葉を刻んだもの200gとグラニュー糖100gを35度の焼酎1.8lに漬ける。3か月後から、10mlを1日2回服用する。 花言葉 あなたを捕まえる 人生の出発 君を離さない 旅立ち
2015年04月15日

私の得意料理の一つに、韓国料理の蔘鶏湯がある。余り上品な料理では無いが、材料さえ手に入れば比較的簡単に作ることができ珍しさから概ね好評である。日本の鍋料理のように、複数人で同じな鍋を突つくことで話題も盛り上がる。本場の韓国料理を食べたくて、過去に何回かソールを訪問したことがある。いろいろな食事を食べて見たが、口に合って最も美味しいと感じたのはビビムバと蔘鶏湯であった。どちらもそれほど辛くなく、ニンニクが苦手の人でも食べることができる。それ以来見よう見真似で、本場の味に近いと思われる蔘鶏湯を良く作る。韓国では夏の間の3回の庚の日を三伏といって、この日に補身料理を食べる習慣がある。日本で、土用の丑の日にウナギを食べることに似ている。補身料理とはスタミナ料理のことで、この日にはサムゲタン・ユッケジャン・ポシンタンなどが食べられる。ユッケジャンは牛肉と色々な野菜、ワラビやモヤシなどナムルをゆっくりゆでた辛味のある料理である。犬肉を煮込んだものが補身湯(ポシンタン)で、1988年にソールでオリンピックが開催されたが、韓国に来る外国人の目に野蛮な国に写ることを避けるため80年代当初に犬の食用販売が禁じられた。店先の看板は外されたがオリンピック開催中も犬肉を販売していたし南大門市場では、店先のケースの中に皮を剥いで頭と手足の先を切り落とした犬肉が売られていた。現在は、禁止令の発令前の状態に戻りつつある。サムゲタン(蔘鶏湯)は、鶏肉と大棗・朝鮮人蔘・クコの実などの生薬ともち米・松の実・ニンニクなどを入れて煮込んだ料理である。薬膳料理や補身料理(滋養食)とされている。「水炊きした鶏」を塩などで食べる料理と、「もち米の粥」が一つになった鶏肉のスープが蔘鶏湯の原型とされる。当初は粉末の高麗人蔘を使っていたがやがて生のまま入れるようになったことから鷄蔘湯(ケサムタン)と言われたが、人参の効能を強調するために蔘鶏湯と呼ぶようになったのは比較的新しく1960年代になってからである。名前が示す様に鶏肉に高麗人参、もち米などを入れて煮込んだスープ料理である。高麗人参には副作用もあり、特に心臓病を悪化させることがあるので注意が必要である。棗(ナツメ)を乾燥したものは大棗といい、様々な薬効があり漢方に処方される。高麗人参は心臓機能を強化する働きがあり、ニンニクには強壮作用、クリとナツメは胃を保護し貧血を予防する働きがある。鶏肉はコレステロールの含有値が低く、コラーゲンも多い。さらに良質なたんぱく質や、必須アミノ酸も豊富に含んでいるので体に優しい食べ物である。作り方はいたって簡単であり、味付けをしないので味で失敗することは無い。若鶏の中抜き丸1羽・もち米1/2カップ・ニンニク4片・干し棗4個・枸杞の実・高麗人参1本・生姜1片・塩小さじ2・コショウ少々を準備する。餅米を洗って水に30分漬け、クリ・ナツメ、ニンニクを準備する。高麗人参は手に入り難いので、無ければ省いても良い。鶏は、内部を良く水洗いする。笊に上げ水を切った餅米・棗・松の実・枸杞の実・栗・ニンニク・塩を入れ尻側と首側を竹串で縫うように留める。鍋は鶏が水に浸るほどの深さの土鍋か石鍋がベストだが無ければ深鍋に鶏を入れる。鶏が水から出ない程度の水を入れ、薄切りにした生姜と塩を加えて、浮いたアクを取りながら強火にかける。煮立ってきたら弱火にして、さらに3時間煮込む。途中湯が減ってくるので、鶏が出ないように水を足す。熱いうちに食卓で取り分けた後好のみで、塩・コショウ・キムチなどで味を整えて食べる。山荘へ来客の予定があったため、一週間前に若鶏中抜きの丸を注文してあった。3日前になって主客から風邪で訪問不能との連絡が入ったので、注文済みの鶏は自宅で料理することになった。これまでに何十回も作っているので、お手の物の料理である。丁寧にアクを取って3時間半じっくりと煮込んだ蔘鶏湯は、素晴らしい味に仕上がった。食べ切れず残ったものは翌日塩で味を調えて、スープやラーメンのつゆにして食べて好評であった。韓国の家庭では主として暑いい時期の食べ物であるが、うなぎも同じで土用に限らずいつの季節に食べても美味いものである。
2015年04月14日

リキュウバイはバラ科ヤナギザクラ属の落葉低木で、英語ではCommon pearl bush.(ヤナギザクラ)と呼ばれる。中国の中北部が原産で、わが国へは明治末期に渡来した。樹高は4mにもなりサクラの花が終わる頃から、枝先に総状花序の純白の花を咲かせる。見方によっては此の花が、梅花に似ているのだという。シンボルツリー・鉢植え・記念樹・盆栽・花壇・寄せ植えなどとして、植樹観賞される。茶花として好まれる割には、案外栽培する人は少ない。余り派手で無く清楚な花姿が日本人好みで、茶花として好まれ利用されたことから千家流の始祖となり茶聖とも呼ばれる利休の名前を取って利休梅と名前が付けられた。「バイカシモツケ(梅花下野)」や、「ウメザキウツギ(梅咲き空木)」の別名もある。。比較的暑さには弱いが、日本の気候に順応して北海道南部から九州まで栽培が可能である。名前が示す様に昔から茶花に利用されてきた木で、比較的病虫害も少なく肥料や水やりなど手がかからず半日陰の場所に良く育つ。植え付け直後にしっかりと水をやったら、あとは降雨だけで十分である。鉢植えより、庭植えに向く植物である。植えてから3年を過ぎて、邪魔な枝が増えてきたら落葉期に剪定する。ヒコバエが出るので、不要なヒコバエは早いうちに切り取る。花芽は花が咲く直前に短い枝先に着くので、長く伸びた枝を何節が切り戻して短い枝を出させれば毎年花がよく咲く。利休梅の芽吹く力は強いのだが、ソメイヨシノと同じで主幹や太い枝を切るとそこから病菌が入って枯れてしまうことがある。リキュウバイは、花後に着ける果実の形が面白い。ウメ・リンゴ・モモなど一般にバラ科の果実は丸い形をしているものが多いが、リキュウバイは五角形の星型という変わった形をしていて、八角の名前で売られ香辛料にされるトウシキミ(唐樒)の実に似ている。移植の難しい木なので、植え付ける際は場所を十分に考慮してから植える。ヤマモモと同じで挿し木の活着率は極めて悪く、専ら種子か株分けによって殖やす。秋に黒くなって熟した種子を採り播きするか、播種前に乾燥させると極端に発芽率が落ちるので湿らせた砂と一緒に袋に入れて貯蔵しておき翌春の3月中旬頃に播けば良く発芽する。園芸店では、根巻き1mの苗が1700円ほどで販売されている。 花言葉 控えめな美しさ 気品
2015年04月11日

小野小町は、「花の色は うつりにけりないたづらに わが身世にふる ながめせしまに」とサクラと自分の容姿の衰えを嘆いた。吉田兼好は徒然草第137段で、「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行衛知らぬも、なほ、あはれに情深し。咲きぬべきほどの梢、散り萎れたる庭などこそ、見所多けれ。」と書いている。満開の桜や満月の月だけに価値があるのではなく、散って萎れた花びらが舞う庭だとかにも見所があるものだとの意である。年とった女を指していうのに、姥という言葉がある。昭和以前では60歳を過ぎれば老婆の域に入ったのであろうが、現代では後期高齢者とされる75歳を過ぎた頃からを老婆と言うのであろう。これに対して男の老人は、尉という。これらは、何歳からがという言葉では無い。長寿社会となった現代は80歳になっても、自分の歯を20本以上残そうと言う8020運動がある。衛生状態が良く無かった平安時代には、姥や尉と言われるような年齢になると最早歯は全て抜け落ちて歯抜けになっていたであろうと想像が付く。姥とサクラを組み合わせた「ウバザクラ」という言葉には、二つの意味がある。葉が先に展開するヤマザクラなどと異なり、開花時期に葉が開いていない種類のヒガンザクラやウバヒガンなどのサクラをウバザクラと呼ぶ。ウバザクラは「姥の歯」から出来た言葉で、花の時期に葉が出ていないサクラを「姥には歯が無いことから花の時期に葉が無い」とシャレた語葉である。他の一つの意味としてサクラは満開を過ぎてもなお美しく咲いていることから、「年を重ねてもなお色香があって若く美しい状態を保っている」として女性を褒める言葉の意味である。このように本来は褒め言葉のウバサクラなのだが、現在は多くの場合「盛りを過ぎて観賞価値が無くなってしまった」と逆の意味で使われることが多い。松山市南江戸大宝寺境内には、姥桜(乳母桜)の名前で呼ばれるエドヒガンサクラがある。枝や幹に直接花を咲かせることから、地元では「乳房咲き」と呼んでいる。このサクラは小泉八雲の「うばさくら」の、モデルとなっている。幹に咲いた花は乳色をしていて、咲く花の形を乳母の乳房に見立てたものである。2月中旬に出された関東のサクラの開花予想は、例年の3月下旬とされていた。今年の気候は気まぐれでその後暫く真冬の気温が続き、一旦は開花が当初予想より遅れると発表された。所が一転3月に入ると、4月中旬の気温が続いた。結局予想に反して彼岸頃になると各地から一斉に開花情報が伝えられ初め、東京も3月23日開花3月29日満開となってしまった。満開後数回の強風と降雨に満開の花ビラが叩き落とされ、4月8日には梢の先に多少の花を残すだけとなってしまった。桜花の下にあんなに多くの人が集まっていたのに、今や人の影を見ることも無い。小町の嘆きではないがあっという間に、今年のサクラは終わってしまったようである。700年前に兼好法師は花の散った庭に風情を感じると言ったが、豪華絢爛に咲き誇る花と比べて花の散り落ちた枝先は非常に淋しい。そんな桜並木を見ていると本来そのような使い方は無いと知りながら、「ウバザクラ」とでも言いたい気持ちになる。
2015年04月10日

ルナリアLunaria annuaはフランスから明治34年(1901)に、日本へ持ちこまれたヨーロッパ原産のアブラナ科植物である。濃い紫の花も良いが花後についた莢が面白いので、花が終わった後ドライフラワーとして利用されることが多い。Lunariaはラテン語の「Luna(月)」で、莢の形から名づけられたものである。種名のannuaは「一年生の」の意味である。多くの場合播種後2年目の春に開花するので越年草とされているが、2年草として分類している園芸書もある。この植物をフランスから日本に持ち帰った合田清の名前に因んで、ゴウダソウとも呼ばれる。そのほかオオバンソウ・ギンセンソウ・マネープラントなどの名前で呼ぶ人もある。日本全国どこでも、育てることが可能である。半日陰の場所でも育てることができるが、25℃以上になると成長が止まってしまうので風通しが良く西日や直射日光の当たらない場所を選ぶ。寒さには比較的強く-5℃程度までの耐寒性がある。直蒔きが簡単で苗を作った場合太いゴボウ根の根を傷めると活着しないので、10cm以上に育った株の植え替えは控えた方が無難である。ルナリアは一定の大きさに生長した後寒さに当たることで、花芽を形成する性質がある。春播きでは翌年、秋蒔きでは翌々年の春の開花とるため、こぼれ種から発芽した場合の開花は翌々年の春になる。香りがある赤紫色の花が基本だが、白花もある。花の後にできる莢は中にある10個ほどの種子が透けて見えるほどに薄く、団扇のような形をしている。莢には二枚の皮があって十分に乾かすと、種子と共に簡単に剥がれて銀色の中隔膜だけが残る。ルナリア・アンヌアのほか、多年草のルナリア・レディビバ(L. rediviva)がある。レディビバの莢はアンヌアと異なり、エンドウ豆のそれに似ている。英語ではperennial honestyと呼ばれ直訳すれば、「…多年草」である。何年か前から多くの人に種を分けたのだが、未だ誰からも咲いたとの報告は来ない。この花が2年草であるため、人が出入りする場所では雑草と間違えて抜き取ったり踏みつけてしまうこともあるのではないだろうか。至極丈夫な植物でドライフラワーにする際こぼれ落ちた種子が、玄関脇のコンクリートとブロックの間から芽を出し今朝は一輪開いた。我が家では昨年の夏窓の外へ蒔いた種から沢山の苗が順調に育って、ポチポチ咲きだしこれから暫くの間ルナリアの花が楽しめそうである。
2015年04月09日

十二単は平安時代から着用されるようになった、女性用の装束である。十二単という呼び方は俗称で、五衣唐衣裳(いつつぎぬからぎぬも)あるいは女房装束が正式呼び名である。五衣唐衣裳のことを、宮中では十二単とは呼ばない。昔は袿(うちき)の枚数を「単」で表し、2枚重ねると「二単」、5枚重ねると「五単」というような数え方があったという。元来の意味と異なって、五衣・唐衣・裳を十二単と呼ぶ俗称が一般的に使用されることになった。十二単は20kg程の重量があり、四季に対応した名称の「かさね」を用いた。肌着から順次着せ付けていき単衣、五衣、打衣、表衣を一本の紐でしめ、十枚以上を一つにすることから十二単衣と呼んだ。12枚襲着するから十二単と言うのではなく、十二という言葉には「多くのあるいは沢山の」と言う意味があった。十二単衣の名前が付いた、草花がある。学名のアジュガの名前で呼ばれることが多いキランソウ属(Ajuga)シソ科の植物で、花が幾重にも重なって咲く様子を五衣唐衣裳衣装に見立てたのが名前の由来である。漢字で金襴草と書くのは、草むらに咲きひろがる様子が織物の金襴に見えるところからついたのだという。アジュガはアジアに約40種類が分布しており、日本にはジュウニヒトエ(A.nipponensis)やキランソウなど8種の仲間が自生する。常緑の多年草で春に、淡い紫色の花を咲かせる。アジアに産するアジュガとは別に、西洋金瘡小草(セイヨウキランソウ)・西洋十二単の名前で呼ばれる同属のヨーロッパ原産の仲間がある。多く栽培されているのはヨーロッパ原産の、アジュガ・レプタンスである。今ではジュウニヒトエと言えば、花が濃い青紫で見栄えがするヨーロッパ外来の「セイヨウジュウニヒトエ」を指して使うことが多い。在来のジュウニヒトエに似るが花茎は高く立ち上がり穂状花は濃い青紫色で、葉の表面に照りがあることで在来種とは明確に区別できる。葉は寒さに当たると、赤紫色に色づく。イチゴの増殖と同じようにランナーを出し、その先端に新たな株をつくってどんどん広がっていく。外来のアジュガはその性質からグラウンドカバーとしても、広く利用されている。4月~5月には直立しウツボグサ(靫草)に似た20cmほどの花茎の周りに、シソ科特有の唇弁小花を群がって咲かせて見事である。鉢植えより地植えに向いた植物とされるが連作を嫌い4年ほどで全て枯死してしまうので、同じ場所では3年経ったら新しい場所に移植するかまたは土を入れ替えて植え直す必要がある。鉢植えの場合は3年したら土を全て取り換えればいいので、鉢植えの方が楽に栽培管理できる。キランソウには優れた薬効があるとされ、百毛夏枯草(ビャクモウカゴソウ・ハクモウカゴソウ)キンコツソウ(筋骨草)・ジゴクノカマノフタの別名がある。陳蔵器の本草拾遺(739)には、「主金疮止血,长肌,断鼻中衄血,取叶挼碎敷之;亦煮服断血瘀及卒下」と出ており、血外傷・腫れ物などに外用するほか発熱や腹痛などに煎服し、毒劇薬に指定されている巴豆(トウダイグサ科のハズ)・附子(トリカブト)あるいはその他の薬物中毒を解毒するのに用いるとの記載もある。弘法大師がこの草を風邪薬や高血圧の薬になると教えたことから弘法草、キランソウを用いれば死に瀕した人も甦ってしまうほどの薬効があるところから地獄の釜の蓋の名前がついたともいう。同じ仲間のセイヨウジュウニヒトエにも、血圧を下げる等の薬効があるといわれる。花言葉 あなたを待っています 追憶の日々 健康をあなたに
2015年04月08日

巨石が刃物で切り分けたように割れていたり、またはその石の割れ目に根付いた木が有名になったりする。山中湖の北東に位置する、標高1,413メートルの石割山の8合目に石割神社がある。石割神社は石の字の形に割れている10mを超える巨石を御神体としており、石割山の名前の由来となっている。石割山の麓、平野には温泉石割りの湯がある。八女市にはヤマザクラで有名な、石割岳がある。割れた石が多いことが、名前の由来という。割れたり皹の入った石に根を張る植物があり、なかでも桜・松・梅の木が全国に知られている。伊達市有珠善光寺の有珠山から噴出した火山岩の間に生えた、樹齢190年の石割桜と呼ばれエゾヤマザクラは胆振地方で最も有名な桜の大木だ。自然に生えたものでは無く「石を割るくらいの強靱な心をもってがんばろう」と、有珠山の噴石の割れ目に二代目住職が植えたと伝えられている。盛岡天満宮には樹齢百年ほどと言われる、割れた石の間に生えた石割梅がある。こちらも、100年ほど前に植えられたと伝わっている。蒲郡市西浦町・岩手県遠野・浅間山鬼押出し園・北杜市須玉町比志神社等には、石割りの松の名前を持つ松ある。それらの中で幹の太さは無いが須玉町の自然に生えたと思われる松が、最も石と同化している感じがする。石割桜で最も有名なのは樹齢凡そ360年といわれ、盛岡地方裁判所の構内にあって誰でもが自由に見学することができる。この場所は南部藩主の分家北監物の庭園であったといわれ、その庭にあった巨石に寛永年間に落雷があってできた割れ目にエドヒガンザクラの種子が入り込んで発芽し成長したという伝承がある。刃物で石を二つに切り裂いた様になっており、桜の根が太ることで2009年から2011年の2年間に石の割れ目が5cm近く広がったという。今年の花の見頃は、4月中旬から下旬と予想されている。山梨県大和市の栖雲寺庫裏裏手の急斜面の石庭にある60tはあろうかと思われる巨大な座禅石は、下から見上げると幹周り50cmほどの2本の桧の幹に支えられているようにも見える。巨石は下向きに傾いており大地震があったら転がり落ちて、庫裏や道路下の民家はひとたまりも無くつぶされてしまいそうである。その石の山側に回って見ると石の背に、見た目には全く隙間の無い2m近い筋が入っていてその筋の上に幹周20cmほどの桧の木が生えている。全く土が無いのにどのように根を張って水分や養分を補給しているのか、全く不思議な光景である。100年もすると石割り桧として、有名になるかも知れない。
2015年04月07日

遊び心からか環境省が平成13年(2001)に全国から香りの町を募集し、応募された600件の中から100件を選定し「かおり風景100選」なるものを制定した。その中に、萩市の夏みかんの花がある。萩藩では明治になって職を失った武士に夏みかんの栽培を奨励したことから、当時植えられた夏みかんの木が市内に多く残っている。夏みかんに限らず、柑橘類の植物はどれもが「柑橘系」といわれる上品な甘い香りの花を咲かせる。夏みかんは晩秋に色付くが、翌年の4月過ぎないと酸味が非常に強い。明治以降初夏の果物として広く栽培されるようになったが、子供の頃には砂糖や重曹で酸味を中和して食べたものである。昭和の初めに枝変りから甘夏みかんが発見され、昭和40年代になると全国に栽培が広がったことから夏みかんの栽培は少なくなったが、今でも民家の庭先や公園の植え込みに良く見かける。4月に収穫期になるこの酸っぱいみかんが、マーマレードorange marmalade.を作るのに適している。果実や野菜に砂糖や蜂蜜などを加えて煮詰め、材料に含まれるペクチンや酸の作用でゼリー化したものをジャムといい日本では、ジャム・マーマレード・ゼリーがジャム類と規定されている。ジャム類のうち柑橘類が原料で、その果皮も含んでいるものはマーマレードに分類されている。果汁だけを原料として作るものはジェリーでマーマレードとゼリーを除いたものが、ジャムに分類される。この内マーマレードは、柑橘類のオレンジ・夏みかん・ユズ・グレープフルーツなどでつくられる。マーマレードの語源は、スペイン語のマルメロの砂糖煮が由来とされている。その他にマーマレードを作っていたイギリスの商人が、息子を呼ぶ時に「Mair Ma lad」と呼んだからとか、ポルトガル語でマルメロの砂糖漬けをmarmaladeと言ったことわ由来とするものやスコットランドのメアリー女王が、船酔いや腹痛の時に食べたことに由来する等の説もある。原料処理時にナリンギンなどの苦味成分とオイルをコントロールし外皮を軟らかくするために、柑橘外皮をボイル処理することがマーマレードとジャムと大きく異なる。マーマレードには香があって果皮に厚みのあるものが適しており、販売されているものには夏みかんを主体に橙やネーブルが使用されているものが多い。柑橘外皮と果汁は、カロテノイド・ビタミンCやフラボノイド類などの成分を多く含んでおり栄養的にも優れた食品である。果実や果汁に含まれているペクチンに、糖類と酸が作用してゼリー状に固まる。アメリカ食品医薬品局が設けたジャムとゼリーの標準規格では、果実と砂糖をほぼ同量とするとされ45ポンドの果実に対して55ポンド以上の砂糖を使ってはならないとされている。丁度4月の今頃から、夏みかんの収穫期に入る。酸っぱくて生食が苦手の人でも、マーマレードに加工すれば抵抗なく食べることができる。夏みかんは皮にオイルと苦味成分のナリンギンを多く含み、皮の処理をきちんとしないと食べることができないほど苦くなってしまう。この苦味は砂糖を添加した後では、調整が不可能である。夏みかんを良く洗浄して汚れを落としたら、4分割にする。実と皮を分けて、皮は2cm×0.5cmほどの大きさに細切し2時間以上タップリの水に浸ける。果実と薄皮袋・種を分離し置く。水の中で軽く揉み洗いした皮をタップリの水を入れて火にかけ、沸騰してから15分ほど弱火で煮て流水に取り軽く揉み洗いをする。この作業を3回繰り返す。食べて見て、苦味が強かったらもう一度煮こぼして笊で水を切っておく。中袋と種子をヒタヒタの水で途中少なくなった水を補充しながら30分ほどじっくり煮込み、火から下ろしたら細かい目の笊で濾し煮出し汁を採っておく。処理した皮をホーローかステンレス製の鍋に入れ、煮出し汁と処理する前のみかん重量の80%ほどの砂糖を加え中火にかけ出てきた灰汁を丁寧に掬い取りながら煮詰める。杓文字で掬い上げて落とした時、糸を引く程度まで煮詰めたら完成である。パンに塗る場合は少し固めに、プレーンヨーグルトに添える場合は柔らかめにした方が使いやすい。
2015年04月06日

甲州市木賊に、臨済宗建長寺派の棲雲寺(栖雲寺)がある。山号は天目山といい、1348年の創建当時は護国禅寺と称していたという。今は無住寺で、檀家によって守られている。開基は業海本浄・開山は室町前期の甲斐国・安芸国守護大名であった13代武田信満とされる。武田家の菩提寺として繁栄したと伝わるが、完全舗装がされた現在でも徒歩でこの寺に行くにはかなり難儀である。20号線甲斐大和から日川渓谷沿いに、標高差370mほどの7kmの道を登らなくてはならない。車では、12分ほどで行くことができる。1416年の上杉禅秀の乱で、武田信満は上杉氏憲側についた。翌年将軍足利義持の命を受けた幕府軍が鎌倉に攻め込み、戦いに敗れた氏憲が自害したことで乱は鎮圧された。信満は上杉憲宗の追討を受けて敗走したが、遂に甲斐の国木賊村で自害して果てた。木賊山は後に栖雲寺の山号から、天目山の名前で呼ばれるようになった。木賊山で自害して果てた信満の墓所は栖雲寺にあり、平成29年2月には六百年遠諱(大法要のこと。おんき)を迎える。武田信満が自害した場所から4.6km下った田野地区は、岩殿城主小山田信茂の裏切りによって武田勝頼が自害した場所で曹洞宗寺院の景徳院があり勝頼の墓所となっている。奇しくも同じ天目山の木賊と田野において、13代の信満と20代勝頼が自害して果てることになった。天正10年(1582)勝頼の自害後織田方により栖雲寺本堂が焼かれたが、家康が寺領を寄付したことにより元の姿に再建されたという。武田家の滅亡によって栖雲寺は外護者(在家、俗人などが供養をもって僧尼の修行を扶助し、仏法の弘通を援護する者)を失ったが、江戸時代には鎌倉建長寺末山として特別の待遇を受けていたという。この寺で見るべきものは、庫裏東側の急斜面に広がる県指定名勝の石庭である。平地の寺の石庭とは全く異なり、多くの巨岩巨石が積み上がった自然の造形となっている。業海本浄が禅庭として作庭させたものと伝わり、巨岩巨石の間に坐禅石・三尊石・摩利支天堂・磨崖仏などがある。重機の無かった700年前に巨石を何処からどのようにして運んで、配置し組上げたのか不思議な思いがする。当時は多くの修行僧が石の上や樹の下で坐禅を組んで修業した、禅庭であったと伝わっている。業海が庭園上段にある今にも転がり落ちそうな「坐禅石」の上に坐って、弟子の修行の様子を検単(点検)したという。11月上~中旬には富士山を背景に庭園や見渡す限り一面の紅葉が見られ、もみじ狩りの名所ともなっている。入道後の武田信玄は常に水晶の大念珠を身につけていたと伝わっており、戦国絵巻には水晶の数珠と軍配を持った姿が描かれている。信玄の菩提寺では無いのに、何故か信玄所蔵との伝承がある水晶の大念珠が栖雲寺宝物殿に伝わっている。一宮賀茂神社(身延町下山)には信玄が奉納したと伝わる、菩提樹でソロバン玉の形に作り金銀で装飾した総丈1.05m、主珠丈37cmの数珠がある。中央自動車道上り車線双葉SAの売店に、肩から巨大な数珠を掛けた信玄像がある。信玄が入道となって以降戦さに赴く際にも常に数珠を身に着けていたという逸話からデフォルメされた数珠であろうが、これが実際の大きさだったとしたら身動きが取れずに戦うことは不可能であったに違いない。
2015年04月03日

岩壁や露岩あるいは巨石の表面を磨いて文字・画像などを陰刻または浮き彫りにしたものを磨崖といい、彫られたものが仏像であれば磨崖仏と呼ばれる。磨崖の磨の字は石と麻から成り立っており、麻から繊維を採るとき「こすってはがす」ことから「こする」の意味になったもので、摩も同意である。垂直に近い、険しい傾斜地形を崖という。アジアの仏教圏では自然の岩や石に仏像を刻むことが広く行われ、大規模な遺跡は石窟とか石窟寺院などと呼ばれる。これに対して比較的小規模なものは、「磨崖仏」と呼ばれているが区別は必ずしも明確ではない。切り出した石から像を彫り出して造った移動可能な仏像を「石仏」と呼ぶが、「臼杵の石仏」のように磨崖仏も「石仏」と呼ぶことがある。このように実際には、石仏と磨崖仏は厳密に区別されていない。日本で磨崖仏が作られ始めたのは平安時代初期と言われ、狛坂寺址の三尊磨崖仏(滋賀県栗東市)が最も初期のものとされている。時代が下がって平安中期から後期になると各地に多くの磨崖仏が造られるようになり、九州・近畿・関東から東北へと広がった。日本全国磨崖仏の6~7割は大分県にあり、観光バスに乗ったまま道路脇にも見ることができる。列島の中ほどに位置する長野県や山梨県には何故か磨崖仏は少なく、山梨県には天目山山中標高1,050mの棲雲寺(栖雲寺)に一か所あるだけである。(棲・栖は住と同じ意味で、現在寺号は棲でなく栖の字を使っているようである。)天目山は甲州市木賊と田野に位置し元は木賊山と呼ばれていたが、栖雲寺が創建されたことによりその山号を採って天目山と呼ばれるようになった。天目山は、甲斐武田氏の二度にわたる滅亡の地としても知られている。応永24年(1417)室町幕府に追われた第13代武田信満は木賊村で自害して果て、その遺骸はこの寺に運ばれ葬られたとされている。武田信満の自害により、甲斐武田氏は一時断絶する。武田氏は後に再興されたが165年後の天正10年(1582)、織田に追われた第20代武田勝頼が奇しくも同じ山麓の田野村で自害して甲斐武田氏は滅亡した。天目山は、武田氏にとっては悲劇の山でもある。栖雲寺の庫裏東側には、多くの巨石や巨岩で築造された石庭がある。一般に石庭は平坦な地に造られているが、栖雲寺の石庭は谷筋の急斜面に巨岩・巨石で造られている。夥しい巨石の中には、地震で転がり落ちるのではないかと思われるものもある。この庭園の中の巨大な石英閃緑岩に開山の祖、業海が彫ったとされる線刻の地蔵菩薩と文殊菩薩の二体の磨崖仏がある。文殊菩薩像は龕の中にあり、高さは90cmでやや左方に涼やかな面を向けていて美術的価値も高いと評価されている。その下部にある地蔵菩薩磨崖仏は総高70cmの正面向きで、貞和4年(1348)の刻銘がある。露出し風雨に晒されているため、表面の剥落が進んでいてかなり薄く見えにくい状態となっている。無住時ではあるが栖雲寺境内からは富士山を眺望することができる素晴らしい場所で、新緑と紅葉の時期には訪れる観光客も多いと思われる。しかし訪れた3月末は標高千mの山には春は未だ遠く、石庭拝観中人影に驚いて逃げるリス以外動物の気配も無く静寂に包まれていた。武田氏の墓所は当主毎に別々で初代武田信義は韮崎市願成寺、武田信満は栖雲寺、武田信玄は恵林寺、武田勝頼は景徳院に墓がある。
2015年04月02日

ニュージーランドの南島にあるテカポ湖には、有名な物が二つある。一つはサザンアルプスと湖を背景にした「善き羊飼いの教会The Church Of The Good Shepherd On Lake Tekapo.」で、もう一つは11月~12月の夏の季節に群生して咲く「ルピナス」の花である。ルピナスはマメ科の植物で、一つ一つの花と莢を見ればマメの親戚であることが納得できる形態をしている。土地から養分を吸い尽くす程の吸肥力が狼の貪欲さに譬えられ、ラテン語でLupinusと名付けられたとの説がある。これに対して微生物学者の中村浩は狼ではなく、ギリシア語の悲哀を意味するルーペが語源だとしている。ルピナスの豆は苦いため、噛んだ人が苦虫を噛み潰したような表情になることを根拠としているという。和名はハウチワマメ(葉団扇豆または羽団扇豆)といい、根出葉の掌状複葉が恰も伝説上の天狗が持つ羽団扇に似るところから付けられたものである。また藤の花を逆さにしたような花姿から、昇り藤・立ち藤とも呼ばれる。この植物は全草に有毒アルカロイドの、ルーピニン・ピペリジン・キノリジジン・スパルテインなどを含有している。中毒すれば歩様異常・痙攣・嘔吐・心臓麻痺・呼吸困難・昏睡の状態になり、死亡することもある。種子に含まれるルーピニンやスパルテインのような有毒物は、熱湯で10分間ほど処理することで無毒化されることから、大豆アレルギーの代用食品の原料としてきな粉・豆乳・豆腐・菜食主義者(ビーガン)の食品原料として使用される。ルピナスは花色が豊富で青・紫・オレンジ・黄色・ピンク・白などの種類があり、60cmも立ちあがった花茎に蝶形の花を群がって咲かせる。ニュージーランドを紹介する写真には必ず載っている花で、一見ニュージーランド原産の植物のような印象を受けるが、実は北アメリカから園芸用として持ち込まれた外来種であり逸出して野生化した個体が問題となっている。人の手によってニュージーランドに持ち込まれた植物は25,000種をこえると言われ、そのうち1/10は逸出して野生化しているとされルピナスもその内の一つである。ルピナスは蔓延って牧草地を奪い固有の植物を駆逐してしまうことから雑草とされ、牧場では除草剤を撒布して駆除している。国立公園の自然保護地域ではルピナスの個体ごとに除草剤を撒布し、根こそぎ引き抜いて駆除している。テカポ湖畔には見事な群落があって観光見どころの一つとされているが、近接のマウントクック国立公園内にはルピナスの花が見られない。以前は国立公園内にも、多くのルピナスが見られたのだが、1990年代から国立公園内での外来種の動植物駆除作業を続けた結果駆逐されたものである。子供の頃一回だけ、ノボリフジの名前で実家の花壇に植えられたことがある。以来その花姿が可憐で好きになった植物なので山荘の庭に15年前植えたのだが、毎年枯れそうになりながらもどうにか生き残っている。今年もルピナスの開花時期になり、園芸店に鉢植えの苗が並ぶようになった。ネットの通販では、二株一鉢が600円ほどで売られている。北海道の一部では庭に植えたルピナスの野生化を心配している地域もあるが、少なくとも関東以西では気象条件から夏越しが難しく、ニュージーランドの様な問題は起きないだろうと思われる。 花言葉 想像力 いつも幸せ 貪欲 あなたは私の安らぎ
2015年04月01日
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