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「心頭を滅却すれば火もまた涼し」という言葉がある。大辞林には「心の持ち方ひとつで、いかなる苦痛も苦痛とは感じられなくなること。どんな苦痛であっても、心の持ち方次第でしのげるという教え。無念無想の境地に至れば、火さえも涼しく感じられるということから。」と出ている。甲州市塩山にある武田信玄の菩提寺で信玄の墓もある恵林寺の三門には、快川和尚の遺偈が掲げられ門の右端にはこの言葉を刻んだ石碑が建っている。快川紹喜((1502年~1582年)は臨済宗の僧で、永禄7年(1564)に武田信玄の招聘を受けて恵林寺に入寺し武田氏と美濃齊藤氏との外交僧も務めた。天正4年(1576年)4月には、快川を大導師として信玄の葬儀が行われた。古くは火炙りや釜茹で等の、残酷な処刑方法があったという。有名な事件は安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を働き、捕縛されて京で釜茹での刑に処せられた石川五右衛門の話が事実として伝わっている。この出来事が事実である証しとして当時日本に滞在していた宣教師のペドロ・モレホンが五右衛門の処刑について、「この事件は1594年の夏である。油で煮られたのは五右衛門とその家族9人ないしは10人であった。彼らは兵士のようななりをしていて10人か20人の者が磔になった」と注釈している。五右衛門は処刑される前に、「石川や 浜の真砂は尽くるとも 世に盗人の種は尽くまじ」と辞世の句を詠んだという。しかしこの言葉は石川五右衛門の独創ではなく、古今和歌集にある「わが恋はよむとも尽きじ、荒磯海の浜の真砂はよみ尽くすとも」が本歌とされる。天正10年(1582)織田信長の甲州征伐によって、敗れた勝頼は自害して果て武田氏は滅亡した。武田氏敗北後織田勢の残党狩りから逃れて来た甲斐の武将らを、快川国師は恵林寺に匿った。中世(平安末期~安土桃山時代)の寺院は聖域とされており、如何に織田勢であっても寺院内に踏み込むことは叶わなかった。織田方から匿った者の身柄引渡し要求を受けたが、快川国師はこれを拒否したため恵林寺の周囲に積み上げられた木の枝に火を掛けられ恵林寺の僧とともに焼死することになった。時に、天正10年4月3日(1582年4月25)のことである。猛火を前にして「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火も亦た涼し」の辞世の言葉を残したとされ、この言葉は多くの人が快川紹喜の言葉としている。しかし中国の唐時代終期の詩人杜荀鶴の詩、「夏日悟空上人の院に題す」にこの言葉が出てくる。「三伏門を閉ざして一衲を披る 兼ねて松竹の房廊を蔭にする無し 安禅必ずしも山水を須いず 心頭を滅却すれば火も亦涼し」(炎暑三伏の候に寺門を閉じ、きちんと僧衣をまとって座禅する。この寺院には松も竹もなく、従って、部屋や廊下を暑い日ざしからさえぎる何物もない。安らかに座禅するには、必ずしも山水の地に出かける必要はない。心頭を滅却すれば火も亦涼し)無念無想の境地に入れば火中にあっても涼しさを感ずると教えるのは、禅の思想に通じるものがある。昔の人は盗賊であってさえも死を従容として受け入れ、辞世の句や辞世の言葉を残して行ったものであろう。
2015年09月30日

湖は大辞林第三版によると、「水海の意。周囲を陸地で囲まれたくぼ地で水をたたえた所。池や沼よりも大きく、沿岸植物が生育できない深い湖盆(5メートル以上)をもつもの。」とあり、特に天然・人造の区別はしていない。人造湖は文字通り人為的に造られた湖のことで人工湖ともいわれ、天然湖に対してこの言葉が用いられる。これらは貯水池・貯水湖などともいわれ、人が建設したダムによって河川が堰き止められて出来たダム湖もこれらに含まれる。相模湖は相模川を相模ダムによって堰止めて作られた人造湖で、戦前から工事に着工し多くの犠牲者を出しながら戦後になって漸く完成した。有効貯水量48,200千t・湛水面積326haといい、山梨県にも跨っているが神奈川県が管理している。このダムの水は横浜市・川崎市・相模原市などへの上水道、京浜工業地帯への工業用水・水力発電・洪水調節・農業用水としての他、湖面はレジャーに利用されている。昭和22年に完成した相模ダム建設に係わる水没家屋は、136世帯であり、日連村(現・藤野町)勝瀬地区の115世帯と島田村(現・上野原町)の21世帯である。昭和18年3月末日までに勝瀬集落の84世帯が、現在の海老名市、日野市、八王子市等に移転したとされる。相模ダムは堤高58.4m・堤頂長196m・総貯水容量6,320万tで、1947年に戦後では初めて「湖」の名称がつけられた。時代が進んで相模川流域の開発が進んだことで、生活排水が大量に流入するようになり湖水の富栄養化が進み、夏季には大量の藻が発生するなどで水質は悪化している。現在はエアレーションによる水質浄化装置が、8基が設置されている。1941年に着工し、6年の歳月を要して47年に完成した相模湖の総貯水量は6300万tとされる。ダムの建設には朝鮮・中国から600人ほどの人が連行され、強制労働に従事させられた。建設に従事した人のうち、日本人も含めて83名もの犠牲者が出たとされる。今年は今のところ関東地方には、直接台風の上陸はなかったものの8月中旬から度々日本列島を伺う台風の余波で集中豪雨と長雨が続いた。相模湖ダム堤の前にはゴミ除けのオイルフェンスが張られているのだが、増水した水に流されて来たゴミが湖面一面に溜まり、ゴミの上には雑草が茂って腐臭が漂っている。我が家に給水されている水道水源は相模川であるから、相模湖・城山ダム(津久井湖)を経た相模川の水が浄水場を通って給水されている。上水道としての水の利用は浄化・殺菌で問題無くなるとしても、溜ったゴミの山は景観上極めて不快である。早急に、取り除いて欲しい所である。
2015年09月29日

日本人の味覚と嗅覚・食感に訴える秋の食べ物に、松茸がある。縄文時代中期の遺跡からキノコ形土製品が多数発見されていることから、前2000年には既に食べられていたことが推定されている。今和歌集には、まつたけを詠んだ歌が残されている。あし曳の山した水にぬれにけり その火まつたけ衣あぶらんいとへどもつらきかたみを見る時は まつたけからぬねこそなかるれ(拾遺和歌集 七物名 すけみ)ほどもなく取いだせとや思ふべき 松と竹とは久しき物を(散木葉謌集 九雑)松だけのおゆるをかくすよし田殿 わたくし物と人やいふらん(昨日は今日の物語 上)日本人の殆どが蛇蠍のごとしとヘビを嫌うが、松茸は多くの人が食べたいと思う。これらは生まれながらにして、日本人のDNAに刻み込まれた記憶から来るものではないのだろうか。安土桃山時代には武士もマツタケ狩りに興じ、江戸時代には庶民もマツタケを口にするようになっていたことが人見必大によって元禄10年(1697年)刊行された「本草書朝食鑑」に記録されている。本草書朝食鑑は日本の食物全般について、その性質・能毒・滋味・食法その他を詳しく説明していてもっとも優れた辞典であるされる。マツタケはキシメジ科のキノコの一種で秋にアカマツ林やアカマツと広葉落葉樹との混合林に生える。発生の最適温度は22~25℃で酸性土壌を好みpHは4.5~5.5とされ、菌糸の成長速度は遅い。その子実体はマツタケオールと呼ばれる独特の強い香りを持ち、日本ではキノコの最高級品である。冷涼な地域での発生は8月末頃から始まり本州南の比較的温暖な地域では、11月末頃まで発生する。梅雨頃にも生えるが、サマツ(早松)と呼び香りも食感も秋のものには劣る。根に外菌根が共利共生しており、アカマツの樹齢が20年から30年になるとマツタケの発生が始まり30年から40年が最も活発で、樹齢が80年を過ぎると次第に発生が少なくなる。マツタケの子実体は直径数メートルの、「シロ」と呼ぶコロニーをつくって発生する。語源は「白」「城」「代」とも言われる。したがって、赤松の根元に発生するとは限らない。シロの地下にはマツタケ本体の菌糸体と菌根が発達し、土壌が白くなっている。マツタケの基形成前後の降水量とマツタケ発生本数には正の相関があリ、8月の降雨が発生本数に大きな影響を与えている。マツタケを採るのは、素人には難しい。通常のキノコのように地表に顔を出して傘が開ききってしまえば、香りも味も落ち2~3級品になってしまう。このため地表から顔を出すか出さないか僅かに頭を出した頃に、探し出して採取する。シロの場所を知らなければ、発生林に入っても探し出すことは殆ど不可能である。さらに落ち葉の多い林地では、頭が落ち葉に隠れて見えないこともある。松の葉や枝を燃料等として利用しなくなったことからマツ林が富栄養化し、さらにマツクイムシによる松枯れが多発したなどもあって国産マツタケの収穫量は激減した。最盛期の昭和16年(1941)には12000tの記録が残っているが、平成22年(2010)には140tしか採れていない。現在ではまさしく山のダイヤであり最も高価な食材で、国産のものは一度も口にしていない人も多くなっている。長野県では松本・諏訪・伊那市に並んで、伊那谷の3村が産地として名高い。実家の持山はこの3村の中の一つにあり、特に良質な松茸の産地として知られている。金木犀が香る頃になると例年松茸が発生して、現地から「今日は何本採ったよ」という電話が入る。子供の頃には茸採りは10月の風物であったのだが、近年少し季節が早く廻っているように感じる。今年は8月の降雨と低温傾向で、早くも9月初めには松茸採取のニュースがあった。今年は稀に見る松茸の豊作で、途中の販売店では松茸が山になって選び方自由の量り売りで売られていたが、豊作の今年でも矢張り庶民には高値の華でなかなか手の出ない値段設定であった。いつも弟の軽トラで山奥にある実家の持ち山まで、連れて行って貰う。26日に連絡してから行ったのだが、前日弟夫婦が山に入って50本を超える松茸を採ってきたばかりであった。今回は無駄足かと思いながら1時間弱の探索で、それでも大きなものを12本ゲットできた。昨日午前中に自宅に戻り、早速昼には松茸ご飯と吸い物にして賞味した。残りは今晩のすき焼きで食べる予定にしている。家中に松茸の独特な香りが漂って、深まりゆく秋をしみじみと噛みしめたところである。
2015年09月28日

鶯張りと言う粋な名前がついた、板張りの廊下がある。英語で、nightingale floorあるいはsinging floor といわれる。その上を歩く人の荷重によって、キュッキュッと鳴るように造られた廊下の仕組みのことをいう。防犯カメラやセンサーブザーの無かった時代に、外部侵入者を探知する方策として設けられた装置だとされている。電子機器の発達によって現代建築では意図して鴬張りの施工はしないしその必要もないが、28年前に大和市の料亭で「うぐいす張り」の施工がされたというが、現在はその料亭が確認できない。七不思議で知られる知恩院・国宝で世界文化遺産の二条城二の丸御殿・三十三間堂の隣にある養源院には左甚五郎が造ったものと伝わる鴬張り廊下が有名である。丁寧な板張りの場合釘の頭を見せないようにするため根太に床板を取り付けるとき床板下面に設けた窪みに、目鎹の一端を打ち込み他端を根太に釘で留める方法をとる。鶯張りでは床板の幅が広いために両側が多少上方に反り、目かすがいの釘穴はその反りを吸収できるよう上下に余裕を持たせてあり床板の上から荷重がかかることで、目鎹が上下し釘と擦れ合い合って音を発する構造となっている。多くの人はこの廊下が発する音を鴬の鳴き声だというのだが、実際には「ホーホケキョ」とも「ケキョケキョ」とも聞こえずキュッキュッあるいはキチキチとしか聞き取れない。中学の修学旅行で初めて知恩院の廊下を歩いたが、そんなに高い音はしなかった記憶がある。山梨県塩山市に武田信玄の菩提寺で信玄の墓所があり、夢窓国師が築庭したという見事な池泉回遊式庭園を持つ恵林寺がある。方丈に沿って外廊下を信玄の墓所に向かい、太鼓橋を進むと鴬張りの廊下に続く。恵林寺の鴬張り廊下は知恩院や二条城のそれより、はるかに大きな音がするのに驚かされる。子供が歩いても、キュッキュッと鳴る。この寺院は1330年に夢窓国師が開山したと伝わるが、1582年勝頼滅亡の際武田家の縁者を匿ったことから信長によって全山焼き尽くされたのだが、1606年に家康によって再建されたという。恵林寺の鴬張り廊下の場合侵入者探知のための装置としてより、むしろ雅の遊び心から古の装置を再現したものではないのだろうか。築後40年近くなる我が家の場合意図して作った装置ではないが、歩くとギシギシとあちらこちらで音が出る。こちらは鎹と釘のすれる音ではなく、板が撓んだり永年劣化によって釘の効きが悪くなったことで発する不快な音である。
2015年09月25日

ギンモクセイは原産地の中国から、約400年前の寛永年間に渡来したとされる。耐寒性のある常緑低木だが、栽培適地とされるのは関東以南である。9月下旬~10月中旬に、金木犀よりやや薄い似たような芳香を四囲に撒き散らす。普通は樹高6m程度だが稀に10mを越える大木になり、地域の名木に指定されているものがある。キンモクセイの花色は黄色で目立つが、ギンモクセイは名前に違わず白色で離れた所からは目立たない。幹は淡灰褐色で、樹皮は縦に裂け目ができる。樹肌が犀の皮膚に似ているからとして、「木の犀」の名前がついた。ギンモクセイはキンモクセイより葉幅が広く、楕円形で先端は急に尖って縁には鋸歯のあるものと全縁のものがある。雌雄異株で花は葉腋に束生し同じような芳香があるが、キンモクセイほどは強くない。モクセイは中国名で、桂花と呼ばれる。品種としてはギンモクセイ・キンモクセイ・ウスギモクセイなどがある。キンモクセイはそのままの名前で呼ばれ、単にモクセイと言う場合はギンモクセイを呼ぶ場合が多い。キンモクセイは、ギンモクセイの変種とされている。花色が鮮やかでしかも香り強いキンモクセイが庭木としてよく利用されるようになったため、ギンモクセイは滅多に目にしなくなった。ギンモクセイに雌木は無く、雄木しかないので結実はしない。そのため繁殖は、挿し木や伏せ木で行う。広島県三原市には樹高が約12メートルもあり、国内有数の大木とされる有名なギンモクセイがある。その大きさには及ばないが、樹高が優に10mを越える大株のギンモクセイが武田信玄の墓所のある甲州市の恵林寺にある。参詣の日は西寄りの風が吹いていたため感じなかったのだが、開山堂を出て出口に向かうところで向かい風の境内一面に微かに漂っている木犀の香りに気がついた。注意して四囲の木々を確認しながら歩みを進めたが、金木犀の派手な黄色の花を確認することはできなかった。ふと遠目に池の反対側に聳える常緑樹を見て、これが香りの基のキンモクセイに違いないと確信した。参詣者のための食堂や土産物店が並ぶ前に、その樹は聳えていた。近づいて見て、キンモクセイと思ったのは間違いで、実際にはギンモクセイであった。見学者がかなり多かったのだが、この香りに気がついて話題にした人も池を廻ってこの樹を確認に訪れた人も全くいなかった。暫く香りの中に一人佇みながら、何の説明も付いていない樹だが隠れた名木の一本だと感じた。 11月1日の誕生花 花言葉 初恋 高潔
2015年09月24日

諏訪湖畔諏訪大社下社春宮の裏手砥川の左手の田圃の中に、頭部が普段見慣れた仏像の頭・顔とは著しく異なる異形の石仏がある。石仏の名を取った「下諏訪町東山田字石仏」という地名が残っていて、地元では古くから石仏の所在は知られていた。由緒書きによれば諏訪大社下社春宮の石の鳥居を造る際、この石を使おうしてノミを打ち込んだところ血が流れ出したという。その夜石工の夢枕に立った阿弥陀如来から、上原山(現茅野市)に良い石があることを告げられた。翌日探しに行って、良い石を見付け出して鳥居を完成させた。石工は砥川の畔にあったこの石に阿弥陀如来像を刻んで祀り、大鳥居完成の記念にしたと伝わっている。石仏の胴部の左側に、「万治3年11月1日 願主明誉浄光・心誉廣春」の文字が刻まれている。そこに彫られた年号から、石仏の名前を「万治の石仏」と言うようになったものである。ただ詳細に見ると願主明誉浄光・心誉廣春と、石仏開眼或いは築年の年月日とでは書体が異なるようにも見える。普通は万治三の後に干支の「庚子」を彫るべきなのにそれがないことから、万治3年より後世になって付け加えられたものではないかとの説がある。春宮を訪れた人でも殆どこの石仏に注目する人はいなかったのだが、岡本太郎が昭和49年(1974)に初めて訪れた下諏訪で万治の石仏を見つけ新聞などで絶賛したことで多くの人に知られ有名になった。頭部が平成3年(1991年8月)落下したため、胴体部の頂上に穴を穿ちコケシの頭部のように石に突き刺して固定し修複された。その後石仏の首が伸びている事が経年写真で証明され、テレビでも紹介されたこともあって観光客が増えた。実測すると正面では4cm、左右で7cmも伸びていることが確認された。下諏訪観光協会は「安全確保」のためとして、2008年3月4日に再び修復作業を行った。頭部を抜くと、穴から水や泥、賽銭が出て来た。首が伸びた原因は、穴に溜まった水が冬季に氷って頭部を押し上げた結果とされる。6月30日には多くの神社で夏越の大祓として、「茅の輪くぐり」が行われる。茅の輪くぐりには、神社共通の参拝の仕方がある。これを真似たわけでもないのだろうが、商工会議所がアドバイザーから提案を受けて「万治の石仏の参拝方法」を次のように定めたのだという。一、正面で一礼し、手を合わせて「よろずおさまりますように」と心で念じる。二、石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する。 三、正面に戻り「よろずおさめました」と唱えてから一礼する。この石仏を訪れていた多くの人が、商工会議所の定めた様式に合わせて石仏の周りを廻っていたが果たしてご利益はあったのだろうか。
2015年09月18日

シュウメイギク白 シュウメイギク赤 コスモス白花15年も前に知人から分けて貰ったシュゥメイギクの株が増えて、山荘のあちらこちらに根を下ろし花を咲かせるようになった。シュウメイギク(秋明菊)はキク科植物とは全く縁の無いキンポウゲ科の植物で、キブネギク(貴船菊)の別名もある。キクの仲間とは全く関係なく、アネモネの仲間である。多年草で秋高く伸びた細くて長い花茎の上に、コスモスほどの大きさの花を着ける。花に見えるのは花弁状をした萼片で、本物の花弁はない。葉は根元に集中していて花の周りは比較的小さな葉だけなので、草姿がすっきりしている。萼片が散った後球状の花芯が残り、熟して割れると真っ白な綿毛が現れる。綿毛に胡麻のような小さな種子が多数あり、風で飛散し散布される。室町時代中期の文安元年(1444)に成立した「下学集(かがくしゅう)」にはこの花の名前が初出しており、鎌倉時代~室町時代初期に修行僧が中国から持ち帰って寺院に植えたと伝わっている。日本では初めて見る菊花に似た花だったことから「瞑界で秋に咲く菊」に譬えて、秋冥菊と名前を付けたが後に瞑の文字が暗すぎるとして「明」にしたのだという。別名の貴船菊の名前は京都貴船神社の周辺に逸出したものが、多数野生化して花を咲かせていたことからつけられたものである。マイナス10℃を越えても耐えるほどの耐寒性があって育てやすく、年々株が大きくなるので庭に植栽すると秋の風情として楽しむことができる。花色は白が基本だが園芸種には赤やピンクなどがあり、茶花としても人気がある。江戸時代の園芸家水野元勝が1681年刊した日本最初の園芸書で、花の咲く植物200余種についてその形状や栽培法を記述した「花壇綱目」がある。その中にも、「秋明菊」の名前で記載されている。また「本草綱目啓蒙」や、貝原益軒による「大和本草」などにもその名が出てくる。中国では根を解毒・解熱に用いると言われるがキンポウゲ科の植物の殆どは毒草であり、シュウメイギクもその例外では無く全草に毒を有している。摘み取った際に出る粘液に触れると皮膚炎を起しことがあり、摂食すれば胃腸障害を起すので子供が誤って口に入れないように注意が必要である。遠くから見ると菊科のコスモスの白花に良く似ていて、コスモスの群生地ではシュウメイギクの白花が映えない。 9月14日の誕生花 花言葉 忍耐
2015年09月17日

家紋は源氏・平氏・藤原氏・橘氏の時代に「家」の独自性を示すための目印として生まれたもので、その数は一万にも及ぶとされる。家に「家紋」があるように、神社にも神紋または社紋と言われるものがある。神紋・社紋にはその神社の祭神に由来するものもあるが、多くは神社の社家や庇護者である領主の家紋が用いられている。信州諏訪湖周辺には上社に本宮と前宮が、下社には秋宮と春宮の四社がある。これを総称して、諏訪大社といっている。戦国時代の戦乱で中断した諏訪大社祭祀は、武田信玄により復興され現在に及んでいる。平成28年には7年毎に行われる、諏訪大社の「式年造営御柱大祭」が行われる。諏訪大社の御神紋は諏訪梶と言われ上社が四本足、下社は五本足の梶紋である。カジは、クワの仲間の植物で布や紙の原料とされ、皮は古代より白和幣(しらにぎて)を作って祭神の幣帛(へいはく)として神に奉献された。吾妻鏡によるとすでに平安時代末には、梶の葉を図案化したものが諏訪明神の神紋とされていたとされる。この紋は戦国時代に信濃や甲斐地方に普及して、諏訪氏・下条氏・山辺氏などの家紋とされた。「太平記には榊の枝に白和幣、青和幣を取り懸けて」(太平記) 「下枝(しづえ)には青和幣、白和幣をとりしでて」(神代紀) とある。梶紋は棄だけのものと葉と幹、根からなるものがある。下社春宮神社駐車場から境内に向かう右側建物脇に、梶の木が植えられている。離れて見ると葉は桑に良く似ていて、クワの仲間であることが分かる。クワは蚕と関わっていることから多くの人に知られ、戦後は製紙原料の不足から蚕に葉を与えた後の桑の枝の皮を剥いで乾燥したものを出荷していた。桑は中国では太陽の出る地の巨木を意味し、扶桑国と言う言葉は日本を指した言葉である。晋代の「捜神記」に、桑下に雷を獲えたとする伝説が残る。日本には大宰府に流されて憤死した菅原道真は雷神と化したが、故郷にあった「桑原」には雷を落とさなかったとされ、「クワバラ クワバラ」という雷除けの呪文はここから生まれたとされる。こんなに知られたクワだが家紋・神紋に限って言えば、桑紋の名称が「日本紋章学」に残るだけで実態のない幻の紋とされ形も使用家についても詳らかでない。一方梶は古代から神に捧げる神木として尊ばれ神社の境内に多く植えられており、神事に用い供え物の敷物に使われてきた。中国の画仙紙の製紙には、主にカジノキを用いる。また、昔は七夕飾りの短冊の代わりとしても使われた。良く知られたクワより余り一般的では無いカジノキの方が、梶紋として残り現代に伝わっているのも面白い。
2015年09月16日

8月下旬から続いた長雨が終わって涼風が吹くようになった山荘の菜園に、大群の赤トンボが飛翔するようになった。何故かトンボは草の葉や枯れ枝・棒の先に止まって、羽を休める。江戸時代中期の旗本で学者でもあった新井白石の物名語源事典「東雅」(二十・蟲豸)には、「蜻蛉。古にはアキツといひ後にはカゲロウといふ。即今俗にトンボウといひて東国の方言には今もヱンバといひ、また赤卒をばイナゲンザともいふ也」と出てくる。ここに出てくる「赤卒」(せきそつ)について調べると、広辞苑にはアキアカネのことと出ている。それ以外に詳細な説明は無く、語源由来については他の辞書にも出てこない。通常はアカネ属のトンボを総称して赤トンボと呼ぶが、狭義には秋に群で飛ぶアキアカネを指していう。しかしアカネ属は日本では21種類が確認されていて、専門知識なしにアキアカネと他のトンボと区別するのは難しい。アキアカネは暑さに弱く30℃が生存限界とされ、適温地を求めて大移動するので体温調節昆虫と呼ばれることがある。他のトンボは翅を水平のままか垂直に閉じるが、アキアカネは翅を体の下に徐々に下げて止まることが特徴とされる。三木露風が幼年期の思い出を作詞し大正10年に発表した童謡に、「赤とんぼ」がある。赤とんぼの題だが桑の実が熟する頃は5月末から6月だから、2番と3番は秋にもトンボにも関係無い詩である。♪夕焼け小焼けの赤とんぼ おわれてみたのはいつの日か 山の畑の桑の実を 小かごに摘んだはまぼろしか 十五で姐やは嫁にいき お里の便りも絶えはてた 夕焼け小焼けの赤とんぼ とまっているよ竿の先露風の両親が離婚したことで、祖父に引き取られた。幼児の面倒を見て貰うために雇われた子守りの姐やと、5歳当時の露風の想い出を詩にしたものである。ただ12~13歳程の姐やが、5歳にもなる子供を毎日負んぶして子守していたのか疑いのあるところではある。アキアカネは標高2000mの高地でも羽化の記録があるが、普通は低山地の水田や池沼などで繁殖する。5月末から6月下旬にかけて羽化した成虫は水辺を離れ近辺の樹林などに集合して群れとなり、4~5日間は小昆虫を捕食し長距離飛翔に必要なエネルギーを蓄える。アキアカネは暑さに弱く気温が30℃以上では生存が難しい体質であることから、体力をつけた個体は群れを成して標高3000mほどの山岳地帯へ避暑のため移動する。暑い年にはより高地まで行くが、冷夏の年には比較的低い土地までしか移動しないことが観察されている。十分成熟した雄は体色が鮮やかな赤に変化し、通常秋雨前線の通過を契機に大群を成して山を降り平地や丘陵地低山地へと移動する。このようにアキアカネは季節によって長距離移動をするので、夏に一旦低地から姿を消し秋になると濃い赤色となったトンボが再び大挙して出現する。 赤とんぼ 筑波に雲も なかりけり 正岡子規
2015年09月15日

台風崩れの低気圧と根室沖を東進する台風17号から吹き込む湿った空気は、関東から東北にかけて関東各地に大雨を降らせ甚大な被害が発生している。神奈川県は昨夕から雨が上がり今朝5時には西の空には筋雲が、東の空には羊雲が湧いた。宮澤賢治は「うろこ雲」の書き出しで、「そらいちめんに青白いうろこ雲が浮かび月はその一切れに入って鈍い虹を掲げる。」と書いている。また漱石は三四郎の中で「青い空の静まり返った、上皮に白い薄雲が刷毛先でかき払ったあとのように、筋かいに長く浮いている。「あれを知ってますか」と言う。三四郎は仰いで半透明の雲を見た。「あれは、みんな雪の粉ですよ。こうやって下から見ると、ちっとも動いていない。しかしあれで地上に起こる腿風以上の速力で動いているんですよ。――…」と書いている。漱石が描写している絹雲は高度5~15kmの高空に浮かび、雲を構成する粒は氷の結晶からできている。10種に分類される基本雲形の一つの巻積雲は、白色で陰影のない非常に小さな雲片が多数の群れをなし、集まって魚鱗やさざ波のような形状をした雲で漢字では絹積雲とも書く。鱗雲やひつじ雲と呼ばれる雲は、巻積雲か高積雲である。これらは比較的高い空に現れる雲で形や大きさの揃った小さな雲が等間隔で広がり、まるで魚の鱗のように見えたり、羊の群れのように見えたりすることからそのような名前で呼ばれる。鯖の模様のように見えるものは「サバ雲」、鰯の群れのようにも見えるものは「イワシ雲」とも呼ばれる。これらの雲の呼び名の定義は特になく、見た感じでどの名前で呼んでも間違いではない。高度による分類では5~15kmの高さに現れる雲を巻層雲、2kmから7kmの雲を高層雲、それらより低い雲は低層雲に分類している。巻積雲と高積雲の雲形はよく似ているので明確な区別がつけにくいが巻積雲の方が高い所にでき、一つ一つの雲の大きさは小さくて薄く太陽の光が透けるので影ができない。日本では台風や移動性低気圧が多く近づく頃巻積雲が特に多く見られるので、秋の象徴的な雲とされ秋の季語にもなっている。「うろこ雲は雨の兆し」とか、「ひつじ雲の翌日は雨」といわれる。夕焼けの翌日は晴れ、の諺と同じ位の確立で諺通りになると言われる。今日は、9月になってから本当に久しぶりの晴天となった。ひつじ雲の出現が雨の兆しにならないで、暫く晴天が続いて欲しいものだ。 鰯雲 人に告ぐべき ことならず 加藤楸邨
2015年09月11日

熱帯擾乱で日本列島の直ぐ近くに発生した台風18号は、小型ながらも大量の雨を伴って北上し知多半島に上陸した後東海から北陸地方を縦断して日本海に抜けた。昨夜の9時には、石川県輪島市沖で温帯低気圧となった。気象情報では昨日から台風18号崩れの温帯低気圧と日本の東を北上する台風17号の影響で、関東から北日本に暖かな湿った空気と冷たい湿った空気とが流れ込み大気の状態が非常に不安定となったとしている。熱帯低気圧は日本海の遥か彼方に去ったのに、その影響を大きく受けて関東から北日本の広い範囲で激しい雨が降り、今朝現在も栃木県・茨城県には猛烈な雨による土砂災害など最大級の警戒が必要だとして避難勧告や避難指示が相次いで出されている。相模原市では12万2,408世帯の27万6,691人に対して、土砂災害や崖崩れの恐れが高まったとして午後1時半に避難勧告が出された。その時間帯には家の中にいてもテレビの音が聞こえ難くいほどの、文字通り沛然たる豪雨であった。玄関のドアを開けると道路に埋設された下水管に流れ込む雨水が、管内の空気を押し出して今まで経験したことのないゴボゴボという大音を響かせていた。自宅のある地域は下水道が完備していて、地形は緩やかに南西に向けて傾斜している。高所を走る道路や河川・山や崖も無い、どちらかと言えば平坦な地域であるため下水道が譬え雨水を飲み込めきれなくても住宅への浸水は考えられない。台風なら兎も角降雨のみで何故避難勧告が出されたのか、不思議でもある。この地に住んで50年を超えるが、今まで避難勧告が出されたことは無い。2013年に起きた伊豆大島の豪雨に伴う土石流災害や、2014年8月20日に広島市北部の住宅地を襲った大規模な土砂災害で行政の対応が批判された。今回の地形を考慮したとは思えない大げさとも思える対応が、後手に回った時の批判を行政が回避するための手段であってはならない。行政は避難勧告の対象になった数十万人の人が、はたしてどれ位何処に避難したのかについて検証し公表する義務がある。さらに避難場所の受け入れ態勢はどうであったのかについても、知りたいところである。大騒動をしたが結果的に午後3時過ぎには雲の切れ間から穏やかな日が射し、勧告は解除された。テレビで八王子に発生した、虹の画像を放映していた。外へ出て東の空を眺めて見たのだが、黒い雲以外に何も見えなかった。しかし午後6時を過ぎた頃、西の空の雲が見事に焼けた。「夕焼けの翌日は晴れ」または、「夕方の虹は鎌を研げ」という諺がある。実際に夕焼けの翌日に晴れとなる確率は、統計的に60%以上だとされている。夕焼けを見て夜の間に一週間以上も溜った洗濯をしておいたのだが、夕焼けの諺は見事に裏切られて夜明け頃から小雨が降り出した。
2015年09月10日

TV朝日の世論調査では安部内閣支持率が8月23日現在では42.4%で、不支持率は37.4%になっている。そんな中で昨日、任期満了になる自民党総裁選の立候補が締め切られた。対立候補が無いまま、安倍晋三首相が下馬評通り無投票再選となった。勇ましく立候補を模索していた前総務会長は、推薦人が規定の20人に満たなくて立候補を断念せざるを得なかった。日本国民の事なかれ主義の気質から、組織人は大樹の陰に集まり長いものに巻かれるのであろう。国民は国会議論から置き去りにされ、個々には歯がゆく思っても4年以内或いは3年に一度の選挙で態度を示す以外に方法が無い。時・場所・対象でデモと呼ばれる実力行使が活発化しているが、これらの行動を評すれば所詮「ごまめのはぎしり」でしかない。田作と書いて、ごまめとはなかなか読めない。これが「…の歯軋り」と続けば、多くの人が諺通りに読むことができる。田作または田作り(たづくり、たつくり)は、4~5cmに成長したカタクチイワシの幼魚を真水で洗って干したものおよびそれを調理した料理のことである。別名、ごまめと言い鱓・五万米・五真米・古女と書き表される。ごまめの語源は「こまむれ(細群)」とされ、古くは「こまめ」と呼ばれていたという説がある。またカタクチイワシを干して作った「ほしか」は、稲作に欠かすことのできない肥料として用いられた。そこから「田作り」という言葉が生まれ、米が沢山穫れる意味の「五万米(ごまめ)」と呼ぶようになったのだという。力の無い者が優秀な人の間に不相応に交じっていることを「ごまめの魚(トト)交じり」、力のない者がやたらにいきり立つさまを「ごまめの歯ぎしり」という。鱓に当てられた「五万米」は米の豊作を、また元気根気がある意味の「マメ」にも通じるところから、末永く健康で働けるようにとの願いが込められ縁起物として必ず正月の御節料理に入れられるようになった。乾燥させたごまめを煎って冷ましてから、醤油・みりん・砂糖の調味液にトウガラシ少々を入れた調味液で煮詰めて作る。ごまめは縁起物として御節料理に欠かすことができない魚だが兎角大群で群れた雑魚として軽視されることが多いことから、有象無象の実力がない者の譬えとして使われることが多い。「歯ぎしり」と結びけた「田作の歯軋り」は、歯ぎしりをして悔しがっても実力がないためにどうしようもない不甲斐ない状態を指す諺になった。類義語に、雁が飛べば石亀の地団駄がある。雁が飛ぶのを見た石亀が自分も空を飛ぼうとして見ても、所詮石亀には飛ぶことは叶わず精々地団駄を踏むぐらいしかできない。優れた能力を持つ他人の真似をしようとしても、力のない者にはできることでは無い。ごまめは数が多いことから「器量の小さな男たち」を意味する、小殿原(ことのばら)というしゃれた隠語で呼ばれる。寺田寅彦は「新年雑俎」で、「…・・・雑煮の膳には榧実、勝栗、小殿原を盛合わせた土器の皿をつけるという旧い習慣を近年まで守って来た。」と使っている。10月には、内閣改造が予定されている。政治の結果は後世になって必ず歴史で証明されるが、「ごまめの歯ぎしり」と切り捨てないで57.6%の国民の声にも耳を傾けて未来のある日本を創っていって欲しいものだ。
2015年09月09日

太陽暦のもとになったローマ歴では、1年の始まりが1月ではなく3月だった。したがって、3月から8番目の月はOctoberであった。英語では7月はJulyで、8月をAugusutという。カエザルと初代ローマ皇帝アウグストゥスが、それぞれ自分の名前を月の名前にしたことによる。英語で9月はSeptemberと言うが、本来Septemberは7番目の月の意である。同じように10月はOctoberで、8を意味する接頭辞(octo‐)がついた8月を意味している。八本足の蛸は、英語でOctopusであり、音楽用語のオクターブは8度音階である。ハイオクガソリンとは、分子式C8H18で表される炭素素原子が8個ついているオクタン価の高いガソリンのことである。初級英語入門で最も早く習うのは、月日や曜日である。10月は機械的に何の疑問も持たないでOctoberと丸暗記するので、本来8の筈だがと不審を感じるのはずっと後になってからである。このようにして見ると11月のNovemberは「9番目の月」、12月のDecemberは「10番目の月」の意であり、8月から12月のまでの月の名前は、本来の意味とは2か月ずつずれている。理由は単純で、ローマ歴の最初の月が現在の3月とされていたことにある。3月から数えて5番目はQuīntīlisであったがカエザルのJulyに、そして6番目のSextīlisを初代ローマ皇帝のAugusutの名前に変えたのである。紀元前753年または745年に、古代ローマ最初の暦が採用された。この暦は、ローマを建国した王ロムルスの名前から、ロムルス暦と呼ばれている。1年は304日とされ12月30日~3月1日の間は、暦に載らない空白の日が61日間あった。つまり1年の暦は3月から始まり、12月で終わっていた。ロムルス暦は農耕暦だったため、農作業のない季節の日付を必要としなかったためとされている。各月はMartius(マルティウス)、Aprīlis(アプリーリス)、Māius(マーイウス)、Jūnius(ユーニウス)、Quīntīlis(クィーンティーリス5番目の月)、Sextīlis(セクスティーリス6番目の月)、September(セプテンベル7の月)、Octōber(オクトーベル8の月)、November(9の月)。December(デケンベル10の月)で表された。しかし、時代が下って紀元前8世紀の終わりに採用されたヌマ暦では11月(Januarius)と12月(Febrarius)が年末に追加されたことにより1年が355日になった。そして紀元前46年にシーザーがJanuariusを年初の月として正式に定めてから、1月1日が新年の初日となった。英語のOctoberは本来8月であったものが、暦の変遷に伴い2か月ずり下がったために10月の呼称となってしまったというわけである。
2015年09月08日

天気図にまたまた、17号と18号二つの台風が現れた。今年は双子台風が、多いように感じられる。今年の台風15号と16号は、同じ日時に発生した。台風が2つ同時に発生するのは、2007年以来8年振りのことである。9月2日にマリアナ諸島の東で「熱帯擾乱」が形成され、5日に気象庁が格上げした熱帯低気圧が7日3時には台風18号となり週末にかけて列島上陸を狙っているようだ。大気は常に流動しているので、常にある程度の乱れを起こしている。偏西風や偏西風波動などの常に起きている大きな大気の流れの中で、高気圧や低気圧・台風などが発生したり消滅したりを年中繰り返す運動が見られる。このような、大気の流れの内の大きな流れの現象に対して、時間とともに刻々と変化する小さな大気の乱れを気象用語で擾乱(じょうらん)といっている。擾乱とは大気中に主に気圧や温度の乱れが生じたときに、その不安定な状態を解消しようとして起きる運動のことである。この擾乱の内、波動性の擾乱が大気擾乱と呼ばれる波動擾乱である。「熱帯擾乱」の多くは波動擾乱で気圧の弱い谷として認められ、これが不安定化し渦状となって台風に発達する。今年は台風の発生が稀な3月に、早くも4個もの台風が発生した。その後、4月上旬に台風5号が、5月に6・7号と過去最も速いペースで発生した。7月初旬には2002年以来13年振りに、台風が3つ(9・10・11号)同時に存在する状態になった。また、7月に発生したハリケーンは日付け変更線を越境して台風12号となり、一旦熱帯低気圧になって消滅したのだが再び勢力を盛り返して台風となった。史上初の越境・復活・日本上陸などの記録を残した、特筆すべき台風であった。さらに8月には8年ぶりに14号・15号、2つの台風が同時に発生した。台風14号の影響で関東地方では10日に台風周辺の湿った空気が流れ込んだことで、大気の状態が不安定になり局地的な雷雨になった。14号は14日9時には、日本のはるか東で温帯低気圧に変わった。この台風通過で流れ込んだ東からの冷たい高気圧により、関東地方は7月末から連続していた猛暑から一転、お盆過ぎから急激に気温が下がり最高気温が10月中旬とされる日もあった。8月下旬の日照は平年より極端に少なく、20時間程度と観測されている。この日照不足と降雨が、今日現在も続いている。こんな不順な天候が続く中、9月5日の午前中には束の間の青空が顔を出した。天候不順にも関わらず、植物は秋への準備を進めている。半月振りに青空の中に顔を覗かせた甲斐駒ケ岳と微風に揺れる芒の穂を見ると、深まりつつある秋を実感させられる。叶うならば、台風18号の列島直撃だけは願い下げにしたいところだ。
2015年09月07日

覆い尽くされた花木従来この時期河川沿いや山間部の道を運転していて、目に付いたのは葛の群落であった。しかし現在良く観察すると、多くは若干クズとは異なっている植物が林縁を覆い尽くしているのが分かる。クズは冬に葉を落とすが、蔓はそのまま残り翌年葉茎を伸ばす蔓性多年草である。クズに代わって繁茂し始めているのは、北米原産のアレチウリである。数年前から山荘の裏に流れる30m幅の川の土手に、葛に代ってアレチウリが猛繁殖し始めた。その煽りからか、2年前から山荘との境界になっている農業用水路の土手にもアレチウリが飛び火してきた。最初に生えたのは一株で、知らない内にキウイの棚を占領していた。これは8月下旬に刈り取ったのだが、昨年も同じ場所に生え今年は場所も拡大して3株に増えた。5月の双葉の頃は、キュウリやトウガン・ヒョウタン等の若芽と全く見分けがつかない。ウリ科のこの植物は北アメリカ原産の一年草で、生育速度が非常に速い植物である。茎の長さは、十数メートルにも達し遠目にクズと見分けがつかない大きな葉を茂らせる。雌雄同株で8~10月に開花し1株に500個以上もの種子をつけることから、一旦侵入すると群生し退治するのが困難となる。風・雨水・動物・人により伝播され種子には生育条件が整うまで休眠する性質があるため、土中で休眠している種子が土砂の運搬によっても新たな場所へ侵入する可能性がある。日当たりの良い場所であれば、林縁・荒地・河岸・河川敷・路傍・原野・畑地・樹園地・造林地などあらゆる場所に適応し生育する。英語名のburr cucumberが示す様に、果実には栗のいがのように鋭い棘が密生している。果実は長さ1cmほどで長くて鋭い棘が密生し、何個か固まって結実する。触ると痛く、棘は細くて硬くしなやかなので衣服を貫いて刺さったりする。この形から見てもとても食べて見たいと思える代物ではないが、食べた人は異口同音に不味くて人の食べ物には成り得ないと言っている。1952年に静岡県清水港で輸入大豆に混入している種子が確認されたのが、最初とされる。これら混入種子がその大豆を扱う豆腐屋から拡大したといわれ、現在では全国に広がっている。他物に巻きつきながら這い上り、高木も覆い尽くしてやがて枯死させてしまう。ススキやアシなどの固有在来種や低木などが根こそぎ駆逐されてしまう恐れがあるとして、2006年2月に駆除すべき「特定外来生物」に指定された。境界だけを駆除しても川のアレチウリを駆除をしない限り、山荘への侵入を阻止することはできないだろう。
2015年09月04日

今年は桜の咲くのも例年より10日も早かったが、全体的に季節が早く巡っているように感じられる。例年だと彼岸の頃に採れるミョウガも、今年は既に頭を出している。緑の葉と線香花火のように垂れ下がって咲くピンクの花の対比が美しいので、40年も前に玄関わきのツバキの下に植えた秋海棠も今年は7月の終わりには花を咲かせた。シュウカイドウは、ベゴニア属の多年生草本球根植物で中国名「秋海棠」の音読みが和名となった。別に、瓔珞草や断腸花の名前でも呼ばれる。瓔珞草の名前は、菩薩以下の仏像の首飾り・胸飾りとして用いられる仏像の装飾具で飾り玉の瓔珞に由来している。またシュウカイドウが美女の恨みと悲しみの涙から生えたとされることから、断腸花の名前が付けられたのだと言う。「あるところに類まれな美女がいて、その女には好いた男がいた。毎日の逢瀬を楽しみにしいたのだが、男の都合で訪れなくなってしまった。美女は、今日は明日こそはと泣きの涙で毎日男を待っていたが、想いが叶うことはなかった。その断腸の涙が滴って落ちた所から、名も知らぬ草が生えてきた。その草の花の紅色が緑の葉に映えてまことに美しく優しく、この女に似ていたことから誰いうとなく断腸花と呼ぶようになった。」という。夏から初秋の長期間草高70cmに生長し、ハート型でシュウ酸を含んだ左右の大きさが異なる葉を互生させる。大きな方は、長さ20cmにもなる。8~10月の花期には茎の頂点から花序を伸ばし、2~3cmの淡紅色の花を咲かせる。雌雄同株で雄花は小さな花弁が2枚と、大きな花弁のように見える萼2枚で構成される。雌花に花弁はなく、大きな萼2枚がわずかに開く。花の後濃茶色で、羽を3枚持った楕円形の実を付ける。適地では繁殖力が強く種子で殖えるほか、開花後に葉腋につくムカゴでも殖える。秋が深まる頃地上部は枯れ、地中にできた球根で越冬する。中国原産の植物が江戸時代初期に園芸用として伝来して以来、観賞用に植栽される他九州以北では野生化もしている。宝永7年(1709)に刊行された貝原益軒の生物学書である大和本草に、「寛永年中、中華より初て長崎に来る。……花の色海棠に似たり。故に名付く」と記されている。ベゴニア属の中では極めて耐寒性があり丈夫で、繁殖も容易である。明るく直射日光が当たらなく、湿気の多い場所が適地である。 「秋海棠 西瓜の色に 咲きにけり」 松尾芭蕉 うなだれし 秋海棠にふる雨は いたくはふらず只白くあれな(秋海棠の画に) 白埴の瓶こそよけれ 霧ながら 朝はつめたき水くみにけり 長塚節 花言葉 自然を愛す 恋の悩み 片思い 未熟 ※片思いは、ハート形の葉が左右非対称で大小異なるところからの発想であろう。
2015年09月03日

強烈な臭いを放つ果物では、ドリアンが知られている。以前、マレーシアのプランテーションで初めて食べた。同行の友人はその臭いに逃げ出したのだが、トロリとして甘い実は食べて食べられないほどの臭いには感じなかった。野菜にも、強烈な臭気を持つ種類がある。強い臭気を持つ野菜の筆頭は、ニンニクだと言われる。ニンニクは世界各国で香料、薬味、民間薬、強精剤として良く使われる。しかし、食べると翌朝まで息にニンニク臭が残る。本人はそれほど自覚しないのだが、満員電車で隣り合わせると思わず顔をそむけたくなる臭いである。韓国はニンニクを良く食べる国として知られているが、成田の韓国行き航空機の出発待合所では既にかなりの臭いがする。大韓航空やアシアナ航空の機内には、ニンニクの臭いが染み付いている。ニンニクは蒜・大蒜・葫・忍辱とも書くネギ属の多年草で、鱗茎が香辛料として様々な料理に利用されている。ニンニクやノビルなどのように鱗茎を食用とする臭いの強いネギ属の植物を総称して、蒜と呼んでいた。オオビルの名前はノビルと区別するために付けられたもので、南信州ではニンニクよりオオビルの方が一般的な呼び名であった。蒜・大蒜は漢語に由来し、忍辱がニンニクの語源となったとされる。ニンニクの語源となった忍辱とは、困難を耐え忍ぶという意味の仏教用語である。5月頃に花茎が出るが、鱗茎を太らせるために花芽は摘み取る。摘み取った茎も、ニンニクの芽として食用になる。原産地は中央アジアで文献によれば、紀元前3200年頃にはエジプトなどで栽培・利用されていたとされる。最古の医学書「エーベルス・パピルス」には、薬としての記載がある。紀元前140年頃中国に伝わり、8世紀頃に中国から日本に伝わったものと推定されている。禅宗の寺院の山門には「不許葷酒入山門」とあるように、修行僧は煩悩の基となる強壮・強精作用があるとされることから食が禁じられた。貝原益軒が編纂した本草書(生物学書)の「大和本草」では、悪臭甚だしくとも効能が多いので人家に欠くべからざるものと評価されている。ビタミンB1の効果を高めるアリシンを含み、in vivo(生体)では確認されていないものの、in vitro(試験管内実験)では各種の薬理作用等が報告されている。人に対しての有効性には、信頼できるデータが十分でない。ニンニクを生で他食すると赤血球が破壊される事にから、血尿・血便・急性貧血の原因になる。アメリカ国立癌研究所によると、ニンニクが結腸癌・直腸癌発症のリスクを低下させることがほぼ確実だと報告している。ニンニクはその臭いが口臭となる他、体内に取り込まれて体臭の原因となるのが難点である。エジプト産ニンニクを品種改良して、臭いを軽減したものが無臭ニンニクの名前で流通している。しかし全く異なる別種のリーキ(ポロネギ)の球根に、「無臭ニンニク」の名前を冠したものの場合も多い。今年は初めて、無臭ニンニクの種を購入してみた。作り方はニンニクと同じだが、実物を見てもリーキの麟茎であるか判断がつかない。南信州阿智村の昼神の地に温泉が湧出して、昼神温泉の名前がつけられた。日本書紀に「大和武が神坂峠を越える際、白鹿に化けた山の神によって行く手を阻まれた。蒜で打ち倒したところ霧が立ちこめ道を見失ったが、白い犬が出てきて導いてくれたので無事峠越えができた。旅人が神坂峠で神気に当たり病になることがあったが、その後は蒜を嚼んで体に塗ると神気に当たらなくなったと記されている。」ここに出てくる蒜は、野蒜であったとする説もある。古来より西欧と同じように、ニンニクに魔除けの力があると信じられているのが面白い。地名の昼神は、蒜嚼みが由来とされている。
2015年09月02日

山上憶良が歌に読んだ種類が、秋の七草として定着し今に続いている。秋の野に 咲きたる花を指折りかき数ふれば 七種の花「萩の花 尾花葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌の花」ここで言う朝貌は朝顔ではなく、「桔梗」であると言われ現在に至っている。七草の頭文字を並べて「大きな袴穿く」とか「お好きな服は」等の覚え方もあるようだが、既に暗記している自分には不要である。オミナエシは、漢字で女郎花と書く。万葉集では巻10-2115に、「手に取れば 袖さへにほふをみなへし この白露に散らまく惜しも」と出ている。(手に取ると袖までもが色に染まる女郎花が、この白露に散ってしまうことが惜しいなあ。)女郎花は濃い黄色が美しい花だが、切り花には向かない。切り花にして室内に活けたり、または花期が終わりに近づくと別名で「敗醤」と言われる独特の臭気を放つ。この臭気のために嫌いな人も多いが、花が美しいので山荘の庭一面に咲かせている。詠み人知らずのこの歌で「袖さへにほふ」と言っているのは、臭うではなく匂うで色に染まると言う意味である。同じ匂うという言葉を使った有名な歌に、百人一首61番「古の 奈良の都の八重桜 きょう九重ににおいぬるかな」(伊勢大輔)がある。サクラの花の匂いが都中に充満すると言うのではなく、「桜色に染まっているよ。」の意で使われている。七草の中にオミナエシと同じように、独特な臭いで好かれない花ではクズがある。クズは藤に良く似た豆科の蔓性植物で太い根に多量の澱粉を含んでいて、これから採った澱粉はクズ粉と呼ばれ菓子原料や薬用に用いられる。葉の裏側が白っぽいことから、別名を「裏見草」ともいう。裏見は恨みに通じるところから平安時代には、「裏見」を「恨み」に掛けた和歌が多く詠まれた。「秋風は すごく吹けども葛の葉の うらみがほには 見えじとぞ思ふ」 和泉式部 新古今和歌集(たとえ秋風が冷たく吹いても、葛の葉は裏を見られまいと思っておりましょう。私も夫の仕打ちがつらくても、恨んでいるよう見られまいと心掛けているのです。) 葛の葉の 恨み顔なる 細雨(こさめ)哉 」 蕪村赤紫の藤に似た上向きの花穂に蝶形花が多数着いて、下から咲き上がる。人によっては吐き気を催すとも言う独特の臭いがあって、部屋の中には飾れない。この花はニセアカシアと同じように、天婦羅にして食べることができる。芒は畑や庭に侵入して厄介な雑草だが、ススキの穂がなびく様子を目にすると深まりゆく秋を実感できる。臭気は全く無く、若穂であれば散ることも無いので、ドライフラワーとして部屋に飾ることが可能である。桔梗や余り目立たない花の藤袴には微かな香りがあるが、生け花として飾って特に問題はない。河原撫子は他の花と一緒に活けると、花が小さいことから見劣りしてしまう。単独で一輪を活ければ、目を引いて印象に残る。ピンクの小さな蝶形の花を枝一杯に咲かせる豆科の萩は、春の芽をそのまま伸ばすと長大化して枝先が倒れる。7月初めに一旦刈り取ることで、短いしっかりした枝になる。結実と発芽力に優れているので、うっかりすると庭のあちこちに根付くことになる。花が直ぐ散るところから室内での生け花には、若干難がある。例年9月には、山荘に飾るドライフラワーの模様替えを行う。秋の七草でドライフラワーになるのは芒しか無いが、代替として庭に生える吾亦紅・鬼灯・合田草を飾っている。
2015年09月01日
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