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家庭でもジャガイモはカレー・シチュー・肉ジャガ・コロッケ・グラタン・サラダなど、各種料理に使えて便利な野菜である。栄養的にも、ビタミンCと良質な食物繊維を多く含んでいる。殆どが澱粉だが、カロリーは白飯よりも低いので健康食材でもある。20℃前後の冷涼な気候を好み春作と秋作ができるので、年に二回作付け収穫できるところから二度芋の別名でも呼ばれる。植え付けてから100日ほどで収穫ができるので、100日芋の名前もある。サツマイモは苗を挿してから半年、里芋も植え付けてから7か月程を要するが、ジャガイモは3か月ほどの短期間で収穫できる。ナス科植物との連作を避け水はけの良い土質なら何処にでも植えられ、管理も簡単で育てやすい。淡紫色や白色の花が群れて咲くと、美しく花としての観賞価値もある。植え付けに際して昔から腐敗防止のためとして、切断面に木灰をまぶすことが行われている。分割面からの腐敗を防ぐには植えつけの4日前に、1片30~40gに切り分け風通しのよい場所で切り口を乾燥させれば、癒合組織ができて腐敗を防ぐことができるので木灰をまぶす必要は無い。ジャガイモは弱酸性の、pH5~6の土質での作付けに適している。土壌がアルカリ性に傾くと、細菌感染し易くなって「瘡痂病」などの病害が発生するので石灰の撒布は控える。pH5.0より酸性の強い場合はpHを調整するが、6以上の場合は苦土石灰を撒かないようにする。なおホウレンソウとの輪作は土壌がアルカリ過多になっている場合があるので避けた方が良い。家庭菜園の手引き書には作付け前の土壌pHの調整・化成肥料と有機肥料の撒布・畝立て・真中への植え溝切りなど様々なことが書かれているが、そんな手順を踏まなくても省力化で収量が上がる方法があればその方が優れている。先ず植え付けのために横幅60cm間隔で深さ15cmの溝を掘り、靴の足跡の長さで30cm間隔を30cmに調整しタネイモを置く。イモとイモの間にN15・P15・K15の化成肥料を一握り置き、さらに完熟牛糞堆肥と発酵鶏糞を移植ゴテに1杯置いた後、7cmの深さに覆土する。切り口を下にするか上にするかについては、どちらでも発芽するので大して考慮する必要はない。購入してきた種イモは2~3個の芽をつけて2~4個に分割する。丸のままや半分割程度で植え付けると萌芽が多くなって、芽かき作業が煩雑になる。2~3個の芽の場合、殆ど芽かき作業が不要である。生育適温は15℃~24℃で、涼しい気候が適している。25℃以上になると生理障害を起こし、30℃以上になると芋が肥大しない。茎の丈が10cmになったら、太くて発育良好な物を2本~3本だけ残して芽かきを行う。株元に追肥として化成肥料を施し、イモが地表に出ると緑化して有毒ソラニンを生成して食用にならなくなるため必ず土寄せを行う。主な害虫はニジュウヤホシテントウであり、うっかりしていると葉の全てが食い尽くされ収穫期には葉裏に真っ黄色な卵を産み付ける。早めに捕殺するか、スミチオンを散布して退治する。東京や千葉の暖地では2月に植え付けする場合もあるが、中間地での春作栽培は3月の彼岸の頃が植え付けの適期である。山荘は標高630mほどの所にあるため、しばしば晩霜の被害を受けやすい。例年3月末神代桜の開花に併せて、植え付け作業を行う。里芋と異なり譬え晩霜により黒くなって茎が枯死しても再び萌芽するので、余り霜害を恐れずに植え付けしている。
2015年03月31日

長野県に住んだことのある人は誰でもが知っている県歌「信濃の国」の3番の歌詞に、♪…五穀の実らぬ里やある…と出てくる。ここに出てくる五穀は時代や地域によって異なっていて、古代からその種類は一定していない。日本語をポルトガル語で解説した日葡辞書では、米・麦・粟・黍・稗を五穀として解説している。元禄10年(1697)刊行された日本最古の農書では、稲・畠稲・麦・小麦・蕎麦・粟・黍・蜀黍・稗・大豆・赤小豆・緑豆・蚕豆・豌豆・ささ豆・へん豆・刀豆・胡麻・よくい(ハトムギ)である。「五穀豊穣」のように種類を特定しないで、穀物全般の総称として用いられることも多い。「穀」の読みは「たなつもの」で、「いつつのたなつもの、いつくさのたなつもの」と読む。今では豆や麻などの穀物に含まれない作物が、五穀とされた例もあった。痩せた土地にも育つことから救慌作物とされてきた蕎麦は、何故か五穀の仲間とされてこなかった。蕎麦は、蕎麦粉を加工して作った麺である。単に「蕎麦」といった場合、多くは蕎麦切りを指していう。中華そばや沖縄そばと区別するために、あえて日本蕎麦と呼ぶこともある。ソバは寿司や天ぷらと並んで古くからの、代表的な日本料理である。古くは粒のまま粥にし、あるいは蕎麦掻きや蕎麦焼きの状態で食べていた。蕎麦粉を練って紐状にする調理法は、500年ほど前に考案されたものだと伝わる。一般的な食べ方であった蕎麦掻きなどと区別するため、蕎麦切りと呼ばれた。今では「切り」を省いて蕎麦と呼ばれるが、そのまま「蕎麦切り」という地域もある。この蕎麦切りの名前が木曽大桑村にある浄戒山定勝寺の天正2年(1574)の「寄進物一覧」の中に、「「定勝寺の修復工事で金永からそば切が振舞われた」と記載されている。蕎麦切り発祥地としては、塩尻市中山道本山宿との説がある。寛永20年(1643)に書かれた「料理物語」には饂飩、切麦などと並んで蕎麦切りの製法が載っている。江戸前期の俳書毛吹草には、正保2年(1645)「武蔵と信濃の名物が蕎麦であり信濃から始まる」とある。蕎麦切りという形が確立された江戸初期には、寺院などで「寺方蕎麦」として茶席などで提供された例が文献に見られる。時代がずっと下がって1704~1710の宝永年間に天野信景によって書かれた「塩尻」で、「棲雲寺の門前蕎麦が、うどんを参考にしたそば切の発祥だと信州の人が語った」と出てくる。宝永3年(1707)江戸時代中期の本朝文選には、そば切は信濃本山宿発祥で全国に広がったと出ている。17世紀中期以降になると江戸を中心に急速に普及し、日常的な食物として定着していった。「沖縄そば」「焼きそば」はどちらも100%小麦粉で、ラーメンと同じくアルカリ水溶液で練って作られる。棲雲寺は甲州市大和町にある天目山栖雲寺で今では大和町になっているが、険しい山に囲まれた場所にある。無住寺で人の影は全く無く、再建された本堂の前には「蕎麦切発祥の地」の大きな石碑が建てられている。寺の上の富士山の頂きを眺められる四阿から見下ろしても山また山で、この地に蕎麦を栽培できるような畑地は見ることができない。天野信景が伝承によって「信州の人が語った」と書いているだけでは、栖雲寺を蕎麦切り発祥の地とするには根拠が乏しい。定勝寺文書やその後の文献からも、甲斐の国と蕎麦とは結びつかない気がする。信州が蕎麦切り発祥地とする方が無難な様である。
2015年03月30日

ウルシ科の植物はウルシオールまたはラッコールを多く含んでおり、アレルギー性接触性皮膚炎を起こしやすい。特にウルシの木には多く含まれウルシに触れなくとも、近くを通っただけでかぶれを起こすといわれている。またウルシの木を燃やした煙を吸い込むと、気管支や肺内部がかぶれることによって呼吸困難になる場合がある。一方では、カシューナッツ・マンゴー・ウルシなどの有用植物も多い。秋の初めに山裾を赤く染める木として知られる物にウルシ・ハゼ・ヌルデなどがあり、これらはそれぞれ漆・木蝋・タンニンを採取するための有用な木である。ヌルデの葉には黒紫色をしたヌルデシロアブラムシが多数寄生して、大きな虫癭(虫瘤)を作る。この虫瘤はゴバイシまたはフシ(五倍子または付子)と言い、タンニンを多量に含んでいてお歯黒や白髪染めの原料として利用された。猛毒アコニチンを含有するトリカブトも同じ付子と書いてブシと読ませるが、全く別物であるので注意を要する。歯を黒く染める風習は有史以前からあったといわれ、平安時代の貴族は男女とも成人の標しとしてお歯黒を施した。後には武家でも既婚の女性が有夫の標しとして、お歯黒をつけるようになった。タンニンには強力なタンパク質凝固作用があり、お歯黒は虫歯と歯槽膿漏を防ぎ口臭を予防する効果もあった。明治になって既婚女性のお歯黒の風習は、人権蹂躙・人身拘束であるとされた。黒く染めた歯は、なかなか元のように白くならない。そのため再婚の障害にもなるとして明治になってお歯黒が禁止されると、女性の虫歯や歯槽膿漏が増加するなどの障害が多発しお歯黒の生産が再開された。しかしこの風習は元に戻ることは無く、次第に廃れていった。しかし昭和10年代の子供の頃、実家の祖母が歯を黒く染めていたのを見た記憶がある。実をフシの代用品にしたことから、キブシ(木五倍子・木付子)の名前が付けられた木がある。キブシは、山野に自生する落葉樹で細い幹が何本も株立ちする。勢力旺盛で3~4mの高さになり、褐色の樹皮は皮目が白い斑点模様になる。早春に葉より先に小さな釣鐘形の、黄緑色に近いクリーム色をした花を紐状に多数垂らす。最初は緑色をしていた果実が熟すと褐黄色を帯びた、堅い球形の果実になる。小豆粒ほどの果実はタンニンを採る原料とされ、干して粉にしたものが黒色染料として使われた。果実にはアントシアン系のシアニジンを含有しており、民間薬ではムクミの名前で浮腫や腎臓不調などの際の利尿に利用される。日本固有種で、沖縄を除く日本全土の明るい山地に良く生える。荒れ地などの荒廃地にも、先駆植物として出現する。キブシの受粉前の蕾はおひたしや天ぷらにして食べることができるとも言われるが、山菜として一般化されていないのであまり美味い物ではないのであろう。4月2日・4月6日の誕生花 花言葉 待ち合わせ 出会い 嘘
2015年03月27日

リュウキンカは、漢字で立金花または流金花と書く。キンポウゲ(金鳳花)科リュウキンカに属し、湿地を好む植物である。属名のCaltha palustrisはラテン語で、「強い匂いのある黄色い花」の意味である。夏に地上部が枯れる夏眠性の植物で、塊根が地下に数本ある。秋が深まるころから芽を出し始め、冬の間も少しずつ芽を伸ばして葉を開く。冬の終わりから早春にかけて株はロゼット状に広がり、中心に蕾を抱き始める。春から夏かけて次々と、鮮やかな黄色の花を咲かせる。花弁を持たない花で9枚ほどの花びらに見えるものは花弁では無く萼で、陽光を受けてキラキラ輝いて咲く様子は春の暖かさを感じさせる。花が終わると結実し晩春にはウマノアシガタやキツネノボタンのように、小さな金平糖形の種子をつけ葉は次第に黄変して休眠期に入る。黄色の一重咲きが基本だが白花・バイカラー・八重咲きなどの個体変異も多く、葉に形や斑入りなどの変化のある多くの品種が産出されている。丈夫な植物で花も美しいことから世界中の人に愛され親しまれているというが、日本では栽培する人もこの花の名前を知っている人も案外少ない。立金花と書くのは、黄金色の花が立ち上がっているように見えるところから、また流金花と書くのは流れに沿って水辺に群生する黄金色の花からつけられたという。日本では本州から九州に分布するが、熊本県球磨郡辺りが自生の南限と言われている。根出葉は長い葉柄が束になって小型のツワブキに似た、長さ幅とも10cmほどの縁に浅い鋸歯のある葉をつける。茎は直立し花茎の高さは15~50cmになり、キンポウゲ科植物の特徴で茎は中空である。花後、長さ1cmほどの袋果を着ける。花が食用やハーブにされることで知られる名前の感じが似た花に、南米原産一年草のキンレンカ(金蓮花)があるがこちらはノウゼンハレン科に属する全く異なった植物である。リュウキンカの若芽や若葉を茹でて晒してから、おひたし・酢味噌あえ・辛子ドレッシングなどで食べる地域があるというが、キンポウゲ科の植物の殆ど全てがそうであるようにリュウキンカも有毒である。リュウキンカは全草に有毒アルカロイドを含有しており、喫食によって下痢・腹痛・血尿などの中毒症状を起こすことがあるので無理をして食べない方が良い。 花言葉 必ず来る幸福
2015年03月26日

民間薬で虎耳草(こじそう)と呼ばれ、葉を天婦羅にして食べることができるユキノシタの仲間にヒマラヤユキノシタがある。同じ仲間で似た名前を持つが、両者は葉も花も増え方も全く異なり類似点はない。ユキノシタはイチゴのように匍匐枝で増えるが、ヒマラヤユキノシタは挿し木で増やす。日本ではヒマラヤユキノシタは、専ら園芸用として栽培されている。アフガニスタンから中国にかけてのヒマラヤが原産地であることから、ヒマラヤの名前が付けられ日本へは明治の初期に渡来した。ユキノシタは「雪の下」と書き、文字通り雪が積もった下でも緑の葉をつけていることが由来とされる。別の説では白い花を雪に見立て、その下に緑の葉があることからとするものもある。ヒマラヤユキノシタは常緑多年草で、長さ10~20cm×幅10cmほどの艶のある厚手の葉を茎に螺旋状につける。地面を横に這うように伸びた太い根茎から、団扇や杓文字のような形をした光沢のある大きな葉を出す。春になると花茎を長く伸ばして、その先に集散花序の美しいピンクや白の花を3月~5月にかけて多数咲かせる。早春に、多数集合して咲くので美しく見応えがある。半日陰でも育ち極めて耐寒性があるので育てやすく、地植えで環境が合えば特に手間をかけなくても毎年花を咲かせる。オオイワウチワ ・ウインターベゴニア・オオイワグンバイ(大岩軍配)、オオイワウチワ(大岩団扇)、サクラカガミ(桜鏡)など多くの別名を持っている。成長速度は遅いが、半日陰でもよく生育する。ヒマラヤユキノシタ属には10種ほどがあり、交雑種も含めてヒマラヤユキノシタの名で販売されている。花が枯れてきたら花茎を根元から切り落とし、枯れた葉をそのまま付けておくと株が蒸れてカビが生える原因になるので枯れてきたらこまめに取り除く。茎が伸びすぎ場合は茎の先端を切り戻すと、茎から簡単に萌芽するので仕立て直しも簡単である。切り落とした茎を土に挿せば、芽吹いて新しい株として殖やすことができる。動物の皮を利用する場合、そのままでは腐敗したり硬くなったりする。この欠点を取り除く方法として発展したのは、草や木の汁を使う「タンニン鞣し」と言われる方法である。タンニン鞣しは、草木の中に含まれているタンニン(渋)とコラーゲン(蛋白質)を結合させて鞣す方法である。ヒマラヤユキノシタの葉や茎はタンニンを多く含み、タンニン鞣しにも利用されたが現在はアカシア・ウルシ科植物・栗の木などからの抽出液が利用されている。 花言葉 深い愛情 情愛 秘めた感情 順応する 忍耐
2015年03月25日

ハクモクレン コブシ辛夷(コブシ)はその枝を折ると芳香がすることから、アイヌ語で「放屁する木」とも呼ばれるという。ハクモクレン・コブシ・モクレンは、同じモクレン科の仲間なので良く混同される。美空ひばりが昭和29年(1954)に歌った「君はマドロス海つばめ」(石本美由紀作詞)の歌詞に、♪「赤いランプがマストにともりゃ南京町に夜がくる お名殘り惜しいがおさらばさらば 散るよ散る散る木蓮の花 いとしい人のいとしい人の肩に散る」と散り始めたモクレンの花が出てくる。この年には「ひばりのマドロスさん・さよなら波止場」も出してヒットしたが、「君はマドロス海つばめ」はそれほど売れなかった。赤いランプが灯る頃というから、夕闇が迫る春宵の情景を歌ったものだろう。ここに木蓮の花と出てくるが、モクレンの紫の花では闇に映えないからモクレンでは無くハクモクレンの方が情景にぴったりのような気がする。モクレンは紫色の花を、ハクモクレンやコブシに遅れて開花する。両者を混同してハクモクレンを、モクレンと呼ぶ人も多い。モクレンとハクモクレンの花の形は殆ど似ているが、純白の花を咲かせるのはハクモクレンである。ひばりは「散るよ散る散る木蓮の花、いとしい人のいとしい人の肩に散る」と歌ったが、花がモクレンであってもハクモクレンであっても、どちらも開花晩期になると花弁の一部が茶褐色に変色する。厚手のこの花弁がボタリボタリと落ちる情景には、サクラの花びらなどと異なり「愛しい人の肩に散る」というような風情は無い。 同じ白色で、遠目には区別をつけ難い花にコブシがある。コブシは千昌夫の「北国の春」で多くの人がその存在を知ることとなったが、九州から北海道までの山野に自生しその開花を農作業の目安としている地域があり芋植え花などと呼ばれる。ハクモクレンは3月中旬にコブシより少し早めに開花し、8~10cmの全開しない花が斜め上を向いて開く。6枚の花弁と、同じ色の3枚の萼とで花を構成するので外観は9枚の花弁に見える。コブシはモクレンより一回り小型の4~5cmの6枚の花弁で構成された花を、横向きに全開して咲かせる。ハクモクレンの花の形はカップのように半開きだが、コブシは花が完全に開花していることで簡単に見分けがつく。花弁の厚さはハクモクレンのボッタリとした感じなのに対し、コブシの花びらは薄く見える。ハクモクレンは画像の蕾を見ても分かるように、太陽の光を受けると花弁は南側が膨み、花先は北側を指すので「磁石の木」と呼ばれることもあるという。コブシは漢方では生薬名シンイ(辛夷)といい、つぼみが頭痛・鼻炎・蓄膿症などに用いられる。コブシやモクレン類の樹皮は、未開人が矢毒に用いたクラーレに似たアルカロイドを含有している。家兎に抽出液数mgを静注すると、完全麻痺するという。コブシ類の木の枝をお茶にして呑む地域があるというが、控えた方が良い。 題目の 碑がある寺の 辛夷かな 子規
2015年03月24日

春(秋)分には、太陽が真東から上り真西に沈む。真西へ沈む太陽の先にあると考えた極楽浄土の先祖を偲ぶ仏事が、日本では彼岸に墓参りをして祖先を供養するという独特な行事となった。我が家でも一寸遠い多磨霊園まで、少なくても彼岸とお盆の年3回は掃除と墓参のために行くことが決まりとなっている。多磨霊園は都内の寺院墓地の移転や青山霊園を縮小することを目的として日本で初めての公園墓地として、大正12年(1923))4月に開設された。当初は都内からの改葬はなかなか進まなかったが、関東大震災が契機となって寺院墓の改葬が進んだ。そのため大正12年の開設にも関わらず特定の区画には、明治時代以前の江戸期の墓も多く見られる。40万坪で東京ドーム27個分という都立公園墓地の中で最も大きな面積を持ち、埋葬者は40万体に近いと言われる。正門左手から裏門に向けての区画通りには今も道路案内に、「名誉霊域通り」の名称が見える。この名誉霊域通りという名称由来は、霊園開設当時の東京市が「国家的功労者の埋葬」のための特別な区画として名付けたもので、西郷従道・東郷平八郎・山本五十六などの有名人の墓所がある。名誉霊域へは東郷平八郎が最初の埋葬者になったのだが、そもそも東郷家の実家の墓所は青山墓地にあって其処への埋葬が決まっていた。しかし約20平方mの広さしか無く狭すぎることで悩んでいるということを東京市が聞いて、牛塚虎太郎市長自ら名誉霊域の提供を申し入れこれを東郷家が受け入れたものである。二番目の埋葬者は山本五十六で、国葬が営まれ東郷と同じ大きさの墓が隣り合わせに建てられた。山本の戦死の後継者はパラオで殉職した古賀峯一で、同じこの名誉霊域に埋葬されている。当初底地は個人所有と同じ感覚であったのだが、土地の継承や売買などが勝手に行われ行政の管理も難しくなっていたことに加え、戦後のインフレもあって「永代掃除料」制度の維持が困難となった。それらを背景にして1948年7月にそれまでの制度は廃止され、昭和28年(1953)度からは「管理料制度」に切り替えた。結果、墓地購入時に永代分として都に支払った「掃除料」は無効となり、既に支払った掃除料に関係なく墓地の広さで管理料を納めることに改訂された。年間管理料の納入がなく遺族にも連絡がつかない場合、1年間墓地に告示しなお連絡が無い場合墓所は撤去される。我が家の墓所は、名誉霊域と同じ並びの30mほど先にある。勿論戦前に購入したものなので永代掃除料は支払っていたのだが、昭和28年(1953)度からは「管理料」を支払うことが必要となった。年1回の管理料支払いについては、銀行引き落としと振り込みの制度があるが面倒なので引き落としを利用している。永代掃除料制度が無くなって管理者が雑草の引き抜きや清掃をしなくなったことにより、毎年一区画で何か所もの墓地がススキ等の雑草に埋もれているのを目にする。核家族化・高齢化によって、墓の清掃ができなくなる場合が多いのだろう。我が家と背中合わせの立派な墓にも、立て札が立てられて間もなく1年になる。名誉霊域の中の白秋の墓の直ぐ隣の墓所も、墓石が見えないほどの枯れ草に埋まっている。何時行っても生き生きとした花が献花されている白秋の墓に比べて、何とも侘しい気持ちになる。テレビなどでも遺骨・遺灰の収め場所について、散骨・樹木葬などについて何回も特集が組まれている。それだけ、故人に対しての遺族の考え方も違ってきたのであろう。無理をして大金を叩いて立派な墓を作っても、次世代の者は喜ばないのかも知れない。
2015年03月23日

山荘から見える南アルプスの山塊は、右から甲斐駒ケ岳・アサヨ峰・鳳凰山と並んでいる。鳳凰山は鳳凰三山とも言われ、右から地蔵岳・観音岳・薬師岳と並び地蔵岳には屹立したオベリスクがあって麓からも良く見える。昔は韮崎や白州の山麓では鳳凰山は地蔵岳一山説であったものが、山岳信仰の広まりとともに現在では三山説が有力となった。甲府からは二峰を区別し難いことから二山説もあったが、現在は鳳凰山は鳳凰三山と同じ意味で使われている。三山の中で最も低い地蔵岳の山頂部に、地蔵仏と呼ばれる巨大な尖塔がある。地蔵岳のオベリスクは、麓の韮崎辺りからその姿をハッキリ見ることができる。そのオベリスクの形が鳥の嘴に見えることから鳳凰山の名前がついたとの説と、山頂の2個の巨石が突き上がっている様子を大日如来に擬えて法王山となりこれが鳳凰山になったとする説とがある。三山の中で、最も高い山は観音岳である。観音とは観世音菩薩のことで、一般的には略して観音菩薩といわれている。何故この山に観音の名前をつけたのか、由来の詳細は不明である。観世音菩薩は新訳で観自在菩薩と訳されていて、般若心経の最初に「観自在菩薩」と出てくる。阿弥陀如来の脇侍として、勢至菩薩と共に安置されることが多い。日本では飛鳥時代から観音像が造られ、現世利益と結びついて広く信仰されている。観音は、大乗仏教経典の一つ華厳経に「勇猛なる丈夫、観世音菩薩」と書かれており、本来男性であったとする説が強い。しかし中国には「慈母観音」という言葉もあり、女性だとする説も多い。さらに地蔵が男性の僧侶の形であるのに対し、観音は女性的な顔立ちが多いことからそのように見る場合が多い。妙法蓮華経觀世音菩薩普門品第二十五では、三十三応現身像と言われ相手に応じて様々な姿形となって現れるとされていることから次第に性別は無くなって行った。しかし時代と共に中国で女神信仰と結び付いた結果、現代では観音を女性と見る傾向が多くなった。高崎・大船・韮崎の観音様は、関東三大観音と言われる。この内韮崎の観音には、誇張された乳房があり眼裂が異常に長い顔立ちをしていて明らかに大陸系の女性像である。山荘の暖炉の薪材の横に立て掛けてある廃材の板片の朽ち具合が、言われて見ると観音様に見えてくる。長男と家内からは、この板を絶対に燃やさないようにと厳命されている。
2015年03月20日

シンガポールやマレーシアでは、毎年6月~10月頃まで、煙害と呼ばれる大気汚染が深刻になる。野焼きで発生した煙が、主な原因である。スマトラ島などで行なわれている野焼き等で発生した煙は、季節風に乗ってシンガポールやマレーシアへ流れて煙害を引き起こす。2012年6月大問題となった火災の約9割が、スマトラ島中部のリアウ州で起きていた。スマトラ島の野焼きはパーム油を採るためのアブラヤシ農園の拡大や、パルプ原料の植林地を確保するための開墾が目的で行われている。インドネシア政府は火による開墾を法律で禁じているが、野焼きは機材による開墾より安上がりなため違法な野焼きが横行している。その多くが泥炭地のため、地中深くまで火の点いた泥炭の消火は不可能であり深刻な煙害を引き起こす結果になる。日本では現在焼畑農業は一部地域を除いて殆ど行われなくなっているが、別の目的で春先のまだ新芽が萌出する前に野山の枯れ草を焼く事が多い。野焼き・山焼き・土手草焼き、とも言われる。酷寒地を除き自然の状態に放置すると、草原は次第に森林へと変化して行く。火入れをすることで自然がリセットされ、草原を維持することができる。また雑草の枯れ草類を燃やすことで、灰は新芽の肥料となり鼠属・昆虫の駆除にもなる。例年行われる箱根仙石原と湿生花園のススキの原22.7ヘクタールの40分間の野焼きが、3月18日に実施された。はるかに規模は小さいが地方の里山でも2月~3月にかけて、あちらこちらで野焼きが行われる。こちらは若草山・阿蘇・渡良瀬遊水地・大室山・秋吉台・仙石原の野焼きとは目的が少々異なる。国道沿いの一級河川敷の枯れた葦・ススキの雑草などは、火災の原因になる場合がある。また耕作地の間にパッチワークのように出来てしまって放置された休耕地とその土手の枯れ草は、害虫や鼠の巣となり雑草の種子が撒布される。予め枯れ草を燃やしておくことで、火災の発生を防止し害虫などを焼殺する目的で行われる。14日は冬型の気圧配置となって終日強い季節風が吹いたのだが、翌日はこの風がピタリと収まって殆ど無風の朝となった。朝8時頃から国道20号線の穴山橋から韮崎まで、釜無川下流に向かって左側の七里岩の崖下で大規模な土手草焼きが行われた。消防自動車が数台と消防団員が見守る中、女性や老人も混じった50人以上が自分の持ち場に火を点けていた。バチバチとススキや葦が弾ける音を伴いながら、濛々とした白煙を上げ山で囲まれた狭い空一面が煙で覆われた。シンガポールやマレーシアの煙害の比ではないが、年に一度の行事とはいえ無風で立ちこめる煙は点在する民家にとっては余りありがたくない贈りものであったに違いない。
2015年03月19日

銀板写真が発明されたのは、1839年のことである。日本へカメラが伝来したのは江戸時代の1848年とされている。西郷隆盛の生きた時代(1828年~1877年)には、既に日本にもその技術が伝わっていた。しかし、隆盛は大の写真嫌いであったと伝えられ、現存する隆盛の写真は確認されていない。上野公園の西郷像は高村光雲の作だが写真がなかったため、明治時代に来日したイタリアの版画家で画家のエドアルド・キヨッソーネのコンテ画を元に作成されたという。信玄の生きた(1521年~1573年)戦国時代には写真が発明されていなかったので、姿形を記録する手段としては絵画しか無かった。江戸時代になって武田氏の戦略・戦術を記した軍学書の「甲陽軍鑑」が広まると、狩野探信や柳沢吉里により描かれた肖像画や武田二十四将図、歌舞伎や浄瑠璃の演目を描いた役者絵や武者絵などにおいて、軍配を持ち赤法衣と諏訪法性の兜を着けた法師武者姿をした信玄のイメージが出来上がり定着した。明治期もこの流れを引き継いでいるが、顔貌の描き方は統一されていなかった。武田信玄の肖像としては、長谷川信春(等伯)によって1572年に描かれた肖像画が高野山成慶院(和歌山県)にある。明治40年頃に東京帝国大学が発行した教育用掛図の中に採用されたことで普及し、現在も信玄の一般的なイメージとして知られている。甲府駅前や塩山駅前に建てられている銅像なども、そのイメージは成慶院本がモデルとされている。太った貫禄ある体形で入道頭に豊かな髭の顔が教科書にも載り、銅像のモデルとなった信春(等伯)が描いた絵は実は「別人ではないか」との疑問が出されている。信玄の肖像画のほとんどは、江戸期以降に想像で描かれたものだ。希少な生前の肖像とされながら別人との疑いが出ているのは、武田家ゆかりの寺、高野山成慶院(和歌山県)が所蔵する長谷川信春(等伯)筆の「武田信玄像」だ。別人説の主張根拠は、成慶院所蔵の肖像は39歳で出家した信玄の晩年の姿とされるのに髷がある。太刀と腰刀に描かれている家紋が、花菱紋ではない。等伯はこの絵を制作した時期には能登を中心に活動していて、武田氏との接点がないなどを挙げている。この絵のモデルは等伯の地元・能登の武将で畠山氏の有力者ではないかと推定している。一方で、成慶院が出羽武田家に宛てた預かり品の目録状には、「信玄公御寿像 一幅 逍遙軒筆」と記されている。逍遙軒とは信玄の弟信廉のことで、等伯筆の絵と別の肖像が当時成慶院にあったことの証としている。世田谷区の大井町線九品仏駅前にある九品仏浄真寺が所有する伝吉良頼康像とされているが、実はこれが信玄の肖像画像で現存する最も古いものではないかという。明治より前の人は写真も残せなかった人が殆どであったのだろうが、今やフィルムカメラも少数派になってデジタル写真が主流となっている。さらに1980年ころから3D技術の開発が進み、PCとプリンターを繋いで立体形まで作れるようになった。2000年代半ばまでは数百万円と高価であったが基本特許が切れたことから数万円のものが発売されるようになり、個人や家庭でも導入することが可能になった。理論的には銅像も金型を3Dプリンターで作れば、実物そのままに仕上がるので後世真贋論争が興ることは無いと思われる。パソコンや家庭用印刷機の普及と同じように、やがて3Dプリンターも家庭の中に入ってくるのだろう。このプリンターの使い道は無限であり、有効利用で多くの快適な生活のために寄与すると思われるが、新たな技術が進むと思ってもみなかった様な新たな問題も派生する。銃の部品の図面をダウンロードし、3Dプリンターにより部品を作成することで、殺傷能力のある銃が作成された。また、自分の性器を3Dデーター化し配布した事件があった。
2015年03月18日

3月も中旬になると夜明けが早くなり、日没が随分遅くなったことが実感できる。山荘のある山梨県では元旦の日の出が6時55分で、日没は16時43分であった。これが3月15日になると日の出は6時、日没17時50分となっている。2か月半の間に日の出が55分、日没が1時間7分と昼の長さが2時間以上も長くなっている。標高630mの山里では最低気温が零下になる日があり未だ梅の花も咲かず水道の水抜きをしなければならないような寒さは残るが、日中は15℃を超える日もあって流石に春の間近なことが肌に感じられる。-10℃を超えるような寒さの厳寒には、日の出前の最も寒い時間に外へ散歩に出るのは一寸億劫だが、今の季節は最低気温0℃程度と随分暖かになっておりそれほど苦にならない。例年この時期には冬型気圧配置が強まり、八ヶ岳を吹き下ろす通称「甲州の空風」と言われる烈風が吹き荒ぶ日が続くのだが、昼間吹いた西風が収まった14日の夜は風も無く穏やかな夜だった。そのため15日の朝は放射冷却効果で、車のフロントガラスには霜の大きな結晶が一面に張り付いた。5時30分前に外へ出ると空は低い雲で覆われていたが、瑞牆山から右手に掛けての山の端の稜線の上には帯状に雲の切れ目があって朱色に燃え始めていた。朝焼けは、天気が下り坂になる前兆と言われる。英語では「A red sky [glow] at sunrise is said to be a sign of rain.」である。英国には「Red sky at night, shepherd's delight,red sky in the morning,shepherd's warning.直訳では「夜は羊飼いの喜びの赤い空、朝は羊飼いの警告の赤い空。」で、意味は「夕焼けの翌日は天気がよく、朝焼けの日は天気が悪い」という慣用句である。可視光線で最も波長が長いのは赤色で、最も短いのは紫である。大気の中には塵埃や水蒸気などが含まれていて光を反射しているが、赤色は反射され難い。波長が長いほど大気中の透過力が強いので、地球を覆う大気を通過して来る光は殆どが赤色光線となる。日の出・日の入りの時の太陽は低い位置にあるため、観察者から見ると太陽光線は昼間より遠い距離を通過して目に届く。朝夕はより長い距離を通過する間に短い波長は乱反射して、波長の長い赤系統の色が多く直進して来るため空の色が赤く見える。15日の朝の雲は黒くて焼けなかったのだが、山の稜線の上に開いた雲の切れ目の空は目を見張るような朱色に染まった。暫く見とれているうちに春特有の霞みの中を、文字通り金色に輝く太陽が朱色の空を突き破って上昇してきた。しかしレンズを望遠に替えている間に、狂気を想わせるような強烈な色彩はあっけなく色彩を失ってしまった。諺通りなのか15日は午後から雲が無くなって太陽が顔を出し、16日も薄日が射す天気だったが午後3時すぎから本降りの雨になった。素人が空を見て翌日の天気を当てる確率は1/2だから丁半博打と同じだそうだが、統計上は朝焼けの次の日降雨になる割合は60%程度なのだという。凍て付いた畑の土が融けると菜園に作物の植え付けや、種蒔きをしなければならない。綺麗な朝焼けを見たい気持ちはするが、折角作業をやる気満々で山荘まで来ても降雨では仕事にならない。「あちら立てればこちら…」ではなく、綺麗な朝焼けと晴天の空が両立すれば言うこと無しなのだが。
2015年03月17日

パプアニューギニアやオーストラリアには極楽鳥という、誠に目出度い名前の付いた鳥がいる。スズメの仲間でフウチョウ(風鳥)と総称されゴクラクチョウ(極楽鳥)の別名でも知られるが、正式な和名としては採用されていない。剥製と写真でしか見たことはないが、その美しさと大きさからはとてもスズメの親戚とは思えない。パプアニューギニアには多数の固有種が生息しており、特にニューギニア島には38種が確認されているという。特長として雄の成鳥が美しい飾り羽を持ち、繁殖期に多彩な求愛ダンスを踊ることで知られる。雄に比べて雌は、全く地味な外見をしている。フウチョウとか極楽鳥の名前由来については、次のような言い伝えがある。500年前の16世紀に、初めてヨーロッパに剥製のフウチョウが紹介された。全ての個体は足を切り落とされ巧妙に細工されていたため、一生枝にとまらないで常に風にのって飛んでいると考えられたことから「天国の鳥bird of paradise」と呼ばれた。さらに餌として風を食べているとされたので、フウチョウ(風鳥)の名前がついたという。極楽鳥の名前がついた、花がある。きれいなオレンジ色の、特長ある花を咲かせる。南アフリカが原産の極楽鳥花はショウガあるいはバショウの親戚とされ、花姿から極楽鳥が飛ぶ姿に見立てて日本で付けられた名前である。明治初めに、日本へ渡来した。最も普及しているストレリチア レギネは、同属の中では小型で草丈1m~2mである。茎はなく地際から葉の軸を長く伸ばし、その先端に50cmほどの長楕円形で表面に光沢のある葉をつける。初秋に円柱状の花茎を伸ばしはじめ、葉より上に出たその先端に20cmほどのボート型の苞を付ける。苞は初め垂直だが開花が近くなると、徐々に花茎に対して直角に近く先端を曲げる。苞を曲げると間もなく苞の上部が割れてオレンジ色の3枚の萼と上下に3枚の青紫色の花弁をもった、極彩色の美しい花を咲かせる。萼と花弁は5つほどが苞の中から次々と立ちあがってきて、一つの蕾は2週間以上も咲き続ける。上の花弁に比べて、下の弁は極端に小さい。この花姿が極楽鳥に似ているとして、「極楽鳥花」と命名されたという。驚くほど多くの蜜を分泌するので、室内で観賞する場合は下に蜜を受けるための敷物を敷かないと床が蜜でベタベタになってしまう。ストレリチアはレギネ・オーガスタ・アルバ・ジャンセア・ユンケア・交雑種のノンリーフなどが販売されている。一般に極楽鳥花と呼ばれているのは、この内のレギネの事である。高級切り花として利用され、花の無い時期は観葉植物としても利用される。日当たりを好むので、年間を通して日当たりのよい場所で育てる。秋の最低気温が15度を下回ってきたら、日当たりのよい室内の窓辺に取り込む。霜に当てなければ0℃度でも冬越することができ、真鶴半島辺りでは路地で育つ。根は君子蘭に似て太く強い根をしており、植え替えずに数年放置すると根が詰まって鉢を割ってしまうので毎年か2年に一度は植え替えが必要である。時期は5月~6月に行う。南信州飯田市で育てられていたストレリチアが、我が家に来て4年になった。その間に3鉢に株分けし一鉢は親戚に上げ、現在二鉢の5本の花茎が1.5mにも伸び一茎が開花を始めた。花が終わったら早速、替えてから2年目になる鉢の植え替え作業が待っている。花言葉 寛容 恋の伊達者 気取った恋 輝かしい未来
2015年03月16日

生物に名前をつける際「ニセ」は接頭語、「モドキ」は接尾語として使われる。どちらも対象とされる種に似ているが、全く異なっている意味で用いられる。もどきの漢字は「擬き・牴牾き」と書き似せて作ることあるいは似せて作ったもの、まがいものなどを意味する。批判や非難などを意味する動詞、「もどく」の名詞形である。モドキと言う言葉は動物や植物の他に、芸能の世界や食べ物にも使われている。芸能では主役や前に演じた物を真似したり揶揄したりするひょっとこ・おかめなどの滑稽芸を言うのに使われる。天明2年(1782)に醒狂道人何必醇が著し刊行された「豆腐百珍」には、ガンモドキについての記述がある。名前の由来で最も知られているのは、雁の肉に味を似せたとされることからついた名前だという説である。ここでは、ニセモノとしての意味が強い。かなり多くの植物に、「…もどき」の名称が付けられている。ざっと探しただけでも、80種に近い植物がある。アカギモドキ・アクシバモドキ・アゼガヤモドキ・イヌノヒゲモドキ・イノデモドキ・イヌウメモドキ・イワヘゴモドキ・ウスバシダモドキ・ウメモドキ・ウンヌケモドキ・エゾクロウメモドキ・エリカモドキ・オオイノデモドキ・オオツルウメモドキ・オウバイモドキ・オオバツルウメモドキ・オクノフウリンウメモドキ・オニツルウメモドキ・オオツメクサモドキ・オオヒゲナガカリヤスモドキ・オオヒメワラビモドキ・カタイノデモドキ・カリヤスモドキ・キクイモモドキ・キミズモドキ・キミツルウメモドキ・キビノクロウメモドキ・ギョリュウモドキ・ギンリョウソウモドキ・クニガミクロウメモドキ・クロウメモドキ・グミモドキ・クロイヌノヒゲモドキ・クロガネシダモドキ・クロボウモドキ・コブシモドキ・クワモドキ・コバノクロウメモドキ・サガミランモドキ・サクラソウモドキ・サフランモドキ・サルオガセモドキ・シナクスモドキ・シナノカリヤスモドキ・シャクナゲモドキ・スズメノトウガラシモドキ・セトガヤモドキ・セリモドキ・センウズモドキ・タチバナモドキ・タニヘゴモドキ・チチコグサモドキ・チャンチンモドキ・テリハツルウメモドキ・ツゲモドキ・ツルウメモドキ・トウツルモドキ・トゲアオイモドキ・ドクゼリモドキ・トサノミゾシダモドキ・トックリヤシモドキ・ナガサキシダモドキ・ナガバツルウメモドキ・ナンキンナナカマドモドキ・ニクキビモドキ・ヌカイタチシダモドキ・ノダケモドキ・フウリンウメモドキ・ブタクサモドキ・ヒシモドキ・ヒトツボクロモドキ・ヒハツモドキ・ヒメホラゴケモドキ・ヒルギモドキ・マルバヌカイタチシダモドキ・ミゾシダモドキ・ミヤマウメモドキ・ミヤマハンモドキ・モンゴリナラモド・ヤブマオモドキ・ヤブレガサモドキ・ヤマアワモドキ・リュウキュウクロウメモドキ・リュウビンタイモドキ・ルリマツリモドキこれらはニセモノの意味ではなく、ある種に似ているが実は全く異なるとの意味で使われているものである。今からが花の盛りになるオウバイモドキは、真冬の間からポツポツと咲いてはいたのだが本来の花期は春の日差しが強くなるこの時期からでオウバイに遅れて一斉に咲きだした。オウモドキはモクセイ科ソケイ属の常緑低木で、別に雲南黄梅や雲南ソケイの名を持つ。枝は四角形をした蔓性で大きく枝垂れ、黄色の高杯形の花を咲かせる。中国西南部が原産で日本へは明治時代になってから移入された。高さは2mを超えるほどになり、本家のオウバイより大きな黄色い花を咲かせる。オウバイの花に酷似しているが、オウバイは落葉樹であり花期には葉がない。ヒマラヤが原産で日本へは江戸時代に伝来したという。オウバイは蔓性で樹高はオウバイモドキより低く、多くは石垣などからの懸崖作りにされることが多い。オウバイより劣るわけでもニセモノだからでもなく、中国で「迎春花」(インチュンホヮ)と呼ばれていたものが先に伝来して黄梅の名前がつけられていたので、後世になって渡来したオウバイに良く似た雲南ソケイをオウバイモドキと呼んだものである。オウバイは花筒の基部に蜜を持っているので、子供の頃は花の時期によく花を抜いて吸って遊んだことがある。植物に詳しくない人では二つを良く混同していることがあり、オウバイモドキをオウバイの名前で画像の投稿をしている人が多い。ソケイ属の植物の属名はジャスミンだが、オウバイもオウバイモドキにも香りはない。垂れた枝が接地していると、何処からでも根を出す。うっかりすると株が増えてしまうので狭い庭では注意が必要だが、植木販売店では5号ポット苗が千円程もする。 花言葉 明朗
2015年03月13日

花粉症のアレルゲンとなるスギ花粉が最も多く飛散するのは2月~4月で、2,500万人とも言われる日本人の花粉症患者がこの時期に急増する。スギ花粉症を起こす動物としてはヒト以外に、自然発症のニホンザル・イヌ・ネコが発見されている。子供の頃はスギ林の中を駆け廻り、スギの雄花を採ってスギ鉄砲の弾として散々遊んでいて何でもなかったのに、60歳を超えた頃からスギ花粉症になってしまった。寝ていても突然粘性のない鼻水がツーと流れ出し、クシャミ・鼻詰まりが起きる。瞼は、薄い糊が付いた様なネバ付いた感触がする。最初は漸くサル並になったと笑っていたのだが、今では薬を貰いに病院通いで笑いごとでは済まなくなってしまった。スギは日本固有種で、北海道と沖縄を除いて日本全土に自生している。北海道にも、造林されたスギ林がある。スギが分布していない地域では、スギ花粉症は問題とならない。北海道の大半や沖縄県ではスギ花粉の飛散がほとんど無いため、患者数も非常に少ない。昭和30年代までは、日本で花粉症は問題になっていなかった。1961年に荒木英斉(東京大学医学部物療内科)が、ブタクサによる花粉症アレルギーについて報告したのが最初とされている。その後齋藤洋三(東京医歯大の助教授)が1964年に、スギ花粉症についての論文を発表した。戦後拡大造林の国策として、各地にスギやヒノキなどの大規模な植林を行った。スギ人工林の面積は平成24年3月31日現在、448万haで森林面積の18%を占めている。戦後植栽されたスギが花粉の生産を始める31年生以上のスギ林の面積は、平成24年度(2012)は397万haで、平成2年(1990)の約2.2倍に増加している。大量のスギ花粉に曝露することで、多くの人がスギ花粉症を発症することにつながったとされる。スギ花粉症増大の原因としてこの他に、大気汚染物質の長期間暴露が関連しているとの指摘もある。スギ花粉の飛距離は、300kmにも及ぶことが確認されている。一日の平均温度が10℃になると飛散が始まりピークの2月下旬~3月に大量の花粉が飛ぶと、山一面に黄色の霞み掛かった状態になる。花粉症は、くしゃみ・鼻水・鼻詰まりおよび目の症状・咳や肌の痒みなどの症状が発生する。稀に喘息や気管支炎、頭痛・発熱を伴うこともある。現在は根治療法がないため、治療は専ら対症療法に頼らざるを得ない。一般アレルギーの治療に試みられる減感作療法が、皮下注射と舌下点滴で行われ有効率80%との報告がある。治療用アレルゲンエキスの舌下液は、花粉の飛散が始まる3か月以上前から開始して2年以上にわたって治療する必要がある。2014年から保険が適用となったが対応可能な医療機関が限られており、全国に33機関しかないのが難点である。「花粉症に効く」と称した民間療法や食餌療法も多く存在するが、これらに関しては殆ど科学的根拠がなく、効果の無いものも多く場合によっては重篤なアナフィラキシーショックを引き起こすことがある。インターネット・ドラックストアーや自然食品の店舗で花粉症に卓効があるとして、スギの葉やスギから抽出したとされる物体が売られているが利用には十分な注意が必要である。抗アレルギー薬の第2世代抗ヒスタミン薬は、アレルギー性鼻炎・蕁麻疹・皮膚の痒みなど症状を緩和することから花粉症治療にも処方される。今はこんなに苦しんでいるのに、5月になるとすっかり忘れてしまう。そして又翌年も同じ時期になると、辛い思いをすることになる。早く抜本的な治療法を、発見・発明して欲しいものだ。
2015年03月12日

4年前の平成23年3月11日に、マグニチュード8.4の規模の大地震とそれに伴って発生した津波により引き起こされた大規模地震災害が発生した。震源地から遠く離れた地域でも、液状化による土砂の噴出・屋根瓦の落下・墓石や灯籠が倒壊するなど多くの被害が出た。この地震による津波の影響を受けて、福島第一原子力発電所事故が起こった。この地震による死者・行方不明者合わせて21、669人(2015年3月現在)と発表されている。直接の地震による被害より、地震に伴って発生した津波と原発事故により被害が拡大した。放射能による被害は将に近代社会の被害で、1000年前には考慮する必要のない災害であった。災害地の完全復興には、次世代にも及ぶ長い年月と経費を要すると思われる。古語では地震のことは、「なゐ」とか「なゐふる」といわれた。日本書紀に「允恭五年秋七月丙子朔己丑、地震」と「地震」の記述がある。同じく「推古七年夏四月乙未朔辛酉、地動舎屋悉破。則令四方、俾祭地震神。」と「地動・地震」の記述が登場する。「地動」の読みは「なゐフリテ」で、地震は「なゐ」と読ませている。元暦2年7月9日に発生した元暦大地震は、琵琶湖西岸付近を震源としたマグチュード7.4の規模であったと推定されているこの地震については、方丈記・山槐記・玉葉・平家物語にも記載がある。方丈記では、「元暦二年(西暦1185)のころ、おほなゐふること侍りき。そのさまよのつねならず。山くづれて川を埋み、海かたぶきて陸をひたせり。土さけて水わきあがり、いはほわれて谷にまろび入り、なぎさこぐふねは浪にたゞよひ、道ゆく駒は足のたちどをまどはせり。いはむや都のほとりには、在々所々堂舍廟塔、一つとして全からず。」とあり、前段の「おほなゐふる」は「大地震」のことである。この地震については長い間京都盆地北東部が震源とされてきたが、近年の研究で琵琶湖西岸付近が震源であるとの新たな説が出されている。平家物語巻十二「渚漕ぐ舟はなみにゆられ、陸行く駒は足のたてどを失へり。大地裂けて水わき出で、盤石割れて谷へまろぶ。…」と記載され、随所に方丈記の文章と同じ文面が出てくる。方丈記は1212年成立したとされ、平家物語はその約30年後に成立したと考えられていることから元暦大地震の場面を書くのに方丈記を引用して参考にしたと考えられる。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮と千葉県香取市の香取神宮には要石(かなめいし)と称される石が祀られており、この石は地震を鎮めているとされる。地中で暴れて地震を起こす大鯰を、押さえ付けているのだという。鹿島神宮の要石は大鯰の頭、香取神宮の要石は尾を押さえているとの言い伝えがある。どうかなゐの元を、要石でしっかり押さえ付けて欲しいものだ。因みに公益社団法人日本地震学会広報紙の名称は、「なゐふる」である。4年前に亡くなられた多くの方のご冥福を祈り、被災地の一日も早い復興を心から願います。
2015年03月11日

標準原色図鑑全集 ナキオカヤドカリ方丈記「閑居の気味」の段に、「ほど狭しといへども、夜臥す床あり、昼ゐる座あり。一身を宿すに不足なし。寄居蟲は小さき貝を好む。これ事知れるによりてなり。註;。寄居蟲=【 ヤドカリ】みさごは荒磯にゐる。すなはち人わおそるるがゆゑなり。われまたかくのごとし。事を知り、世を知れれば、願はず、わしらず、ただ静かなるを望みとし、憂へ無きを楽しみとす。(ただこの山中の仮の庵だけが、のどかで、恐れることがない。手狭ではあるが、夜臥す床があり、昼座る座がある。わが身一つ暮らすのに、不足は無い。やどかりは小さい貝を好む。これは人生で何が大事か、わきまえているからである。ミサゴは荒磯にいる。それは人を恐れるが故である。私もまた、それと同じだ。人生の大事を知り、世を知っているから、願はず、あたふたせず、ただ静かであることを望みとし、憂いないことを楽しみとする。)」がある。ここに出てくる「寄居蟲」は「ごうな」と読み、注釈にあるようにヤドカリのことである。ヤドカリは宿借から来た言葉で分類上は4科に分類され、それら甲殻類を総称してヤドカリといっている。一対の大きな鋏と脚をもち頭胸部は硬い甲におおわれているが腹部は軟かいので、多くは巻貝などの殻に入って身を守っている。貝殻等に体を収めるために、体型が変形している。一対の大きな鋏と脚をもち多くの場合左右不対称で、大きい方の鋏は体を殻に引っ込めた時に入り口に蓋をするのに使われる。腹部は長く柔らかい袋状で、巻き貝の殻に合わせて螺旋状となる。古語では「かみな」だが転じて、かむな・かんな・かうな・がうな・ごうなの名前で呼ばれたという。寄居蟲や宿借の文字から何となくヤドカリの感じはするが、何故「かみな」と言ったのかについては不明である。普段は貝殻から頭胸部だけを出して歩き回るが、危険を感じると素早く殻の中に引っ込み、発達した鋏で殻の口に蓋をする。雑食性で藻類、生物死骸等を食べる。空になった巻き貝の殻の中から大きさの合うものを選んで利用し、成長して手狭になると体型に合った殻に引越しをする。海岸の目につく場所で動いている貝には、ほとんどヤドカリが入っている。採ってきたバテイラ貝(シッタカ)を茹でると、たまに真っ赤に茹であがったヤドカリが入っていたりする。ヤドカリの個体数の増減は餌ではなく、棲みかとして使える殻が豊富にあるかどうかが大きな要因となっているとの研究がある。ヤドカリが生息する一定区画に微小な巻貝の空殻を大量に撒くと、稚ヤドカリの生残率が著しく上昇して個体密度が高くなることが知られている。水がぬるんで磯遊びをするようになると目にすることが多くなることもあって、春の季語とされる。沖縄の海岸砂浜を早朝に散歩すると、波打ち際からアダンやグンバイヒルガオの茂みに向かってマウンテンバイクのタイヤ跡にも似た模様が無数に見られる。オカヤドカリが海から海岸へ向かって、移動したときにつけた跡である。ある時握り拳程の貝を背負って、グンバイヒルガオの根元を這っていたヤドカリを波打ち際まで運んで放した事がある。ヤドカリは海には向かわず再び海岸を目指して歩き始めたが、小さな親切と思ってしたことがヤドカリにとっては大きな迷惑であったに違いない。 やどかりや 覚束なくも かくれ顔 虚子
2015年03月10日

左ウグイス・右メジロ 古人は、カラスは「カララ カララ」、カケスは「カケ カケ」、ホトトギスは「ホト ホト」、ウグイスは「ウウウウ ウグピィ」とその鳴き声を聞いたと言う。これらの鳥は何れも鳴き声に鳥類を指す接尾語「ス」が付いて、名前になったとする鳴き声由来説がある。ウグイスは万葉集では、「宇具比須」や「鶯」と標記されている。ウグイスはスズメと同じくらいの大きさで、体色は茶色っぽい色をしていて鳴き声から想像されるような派手さは無くむしろ地味な鳥である。冬に雪が降るような場所では冬季は暖かい場所に移動し、主に公園や河原のような場所で生活する。春になると、元の場所に移動して繁殖を始める。春告げ鳥と呼ばれるように早春、繁殖地へ移動する途中人家の庭先や公園で囀る。ウグイスには「ホーホケキョ」と高く、「ホーホホホケェコ」と低く鳴く二種類の囀りと、「ケキョ ケキョ ケキョ」と鳴いて谷渡りといわれる激しい鳴き声とがある。繁殖期が終わると鳴き声は笹鳴きと言われる、「チャッチャッ」という小さな声に変る。笹鳴き・谷渡りとも警戒音といわれ谷渡りは繁殖期の雄だけが、笹鳴きは雌雄・若鳥も鳴く。清少納言は枕草子第38段鳥はで、「鶯は、詩などにもめでたきものに作り、声よりはじめて、様かたちも、さばかり貴に美しきほどよりは、九重の内に鳴かぬぞ、いとわろき。…夏、秋の末まで老い声に鳴きて、虫食ひなど、良うもあらぬ者は名をつけかへて言ふぞ、口惜しくくすしき心地する。」(鶯は、詩などにも素晴らしい鳥として歌われており、鳴き声をはじめとして、姿形はあんなに高貴・上品で美しいのに、宮中の中に来ても鳴いてくれないのは、とても残念で悪い。…春のうちだけ鳴くのであれば、鶯はどんなに素敵な鳥だろう。…夏・秋の終わり頃まで、年寄り臭い声で鳴いていて、虫食いなどと違う名前で言われているのは、とても悔しくて残念な気持ちがする。)と書き著している。早春の鶯の声は古今の誰でもが、美しいと評価するに違いない。だから清少納言が「鳴き声が高貴で、しかも上品で美しい」と褒め称えるのは理解ができる。ウグイスの鳴き声は日本人であれば誰でもが間違いなく聞き分けることができると思われるが、ウグイス自体は低い藪の中や灌木の茂みを殆ど音も立てずに移動する。そのため気づかれ難く、その姿を目にした人はそんなに多くないと思われる。運よく鶯の実物を見たとしても、それらの人の多くがその姿を「高貴で、しかも上品で美しい。」と評価するかは疑問である。ウグイスの羽の色は鶯色#918D40で、背の色は鶯茶#6D5826で表さられる。一般に思われているほど明るい羽の色をしていなくてむしろ目立たない地味な鳥なので、見ても記憶に残る人は少ないのではないかと思われる。ウグイスと異なってウメやツバキ・桜などの花の時期に蜜を吸いに枝を訪れるメジロは、明るい黄緑色をした華やかな鳥である。清少納言がメジロと見誤ったかどうか定かではないが、多くの人が勘違いしていることは確かである。実際には明るい梅の枝にウグイスが止まることは少ないが、昔から「梅に鶯」と慣用句になっていることもあって正岡子規もウグイスとウメを結び付けて、「梅が枝に あれ鶯が 鶯が」など8句を詠んでいる。春告げ鳥・花見鳥・経読み鳥・人来鳥などの、別名も多い。
2015年03月09日

方丈記は、建歴2年(1212)3月31日に完成したとされている。この中で作者の鴨長明が物心ついてからの40年間ほどの間に経験した天変地異や大きな出来事が、「世の不思議」として語られている。2年にわたって続いた養和の大飢饉の話の中に、次のような一文が出てくる。「あやしきしづ、山がつも、力つき、薪さへともしくなりゆけば、頼むかたなき人は、みづから家をこぼちて市に出でて賣る。一人が持ち出でたる価、猶一日が命だに及ばずとぞ。あやしき事は、かゝる薪の中に、あかき丹つき、箔など所々に見ゆる木のわれ、あひまじれり。これを尋ぬればすべき方なき者、古寺に至りて、佛をぬすみ、堂の物の具を破り取りて、割りくだけるなりけり。」鎌倉時代には暖房と調理のための熱源として、竹木・枯葉や小枝が燃料に使用された。売るための薪が無くなったため、家や佛像まで毀して薪にして売ったのだという。江戸期以降に成立した昔話に、燃料にする柴のことが出てくる。柴を採取することを、「柴を刈る」と言う。刈り取ったものは「粗朶(そだ)」である。柴はカチカチ山や桃太郎では重要な小道具として使われ、また二宮金次郎が背負うのは燃料にするための粗朶である。人間は火を利用することで、文明を発展させたと言われている。人類が最初に燃料としたのは、植物であったに違いない。最初は焚き火であったものが囲炉裏に変化して、調理と暖房の両方の目的に用いられた。その後調理の目的に竈が、暖房の目的にストーブが発明された。燃料は形態から、固体燃料・液体燃料・気体燃料に分類できる。固体燃料は取り扱いが簡単で手に入りやすいため、最初に使われた。これに対して液体燃料や気体燃料は保管や持ち運び・燃焼装置に技術が必要であることから、後の時代になってから使われるようになった。燃料の由来から植物性・動物性・鉱物性に分類され、形態から固体燃料(石炭・薪・蠟)、液体燃料(油・アルコール)、気体燃料(ガス)に分けることができる。多彩な燃料が開発されると、それに応じた器具や装置が開発されることになった。日本は温帯のうちの温暖湿潤気候(北海道や東北地方は亜寒帯)に属していて、四季の気候変化が著しい。関東地方では10月末から4月頃までは、暖房が必要である。暖房様式には様々あるが、最も手軽なものはストーブである。ストーブに使用される燃料は、多種多様である。家庭用としては白灯油を使う開放型ストーブが一般的であるが、着火・消火時に多少とも石油燃焼臭がする。サッシなどで密閉された空間で長時間使用すると一酸化炭素が発生・充満する恐れがありこまめに換気が必要である。ガスは扱いが簡単で、汚れる心配も無い。古くは赤熱式であったが、現在は炎の露出の無いファンヒーターが主流となっている。石油ストーブと同じように、換気が必要である。電力を利用するストーブには、赤熱式・ファン式・オイル式がある。日本ではエアコンが普及・発達したことにより、利用は少なくなった。薪を燃料とするストーブは、燃料となる薪が豊富な地域では需要がある。都会地では排煙の問題に加えて、薪の入手や扱いに難が有り現在都会で使用されることは殆どない。10年前からヨーロッパの排ガス規制に適合するクリーンバーン方式(煙や微粒子に熱風を吹きかけて二次燃焼させる仕組み)の高機能薪ストーブが輸入されはじめ、国内メーカーでもクリーンバーン方式の製品を製造・販売するようになった。薪が手に入りやすく保管スペースのある山間部や北海道などで、クリーンバーン方式の設置が増えてきている。14年前に完成した我が家の山荘には、スウェーデンから輸入した薪ストーブが設置されている。燃焼効率が極めて良く、薪をどんどん補充すると耐火煉瓦が張られていない面が赤熱するほどである。4時間も燃やすと室温は28℃を超え、二階の部屋は息苦しいほどになってしまい窓を開放して零下8℃の外気を取り入れるほどである。建築当時に運んで貰った杉の倒木を薪にしているが、残り少なくなってきたので近いうちには薪の手当てもしないといけないと考えている。方丈記では家を壊したり仏像を毀したものを薪にして一回運んでも、一日の食糧にもならないと嘆いている。山荘の近隣では楢の木を割って束ねた一把を、450円で売っている。一人が背負って行ける量は、精々5把程度だから、現在だったら2千円と少しになるのだろうか。鎌倉時代の薪の値段は、今の半分ほどの儲けにしかならなかったのであろう。
2015年03月06日

古文への入門は殆どの場合、徒然草や枕草子を学ぶことから始める。簡潔で読みやすく、理解もしやすいので中学生からの古文入門書として使用されるのである。したがって書き出しの「徒然なるままに…」や、「春は曙…」の段を暗唱している人は多い。枕草子は平安時代中期に、清少納言により執筆されたとされる随筆で、元は助詞の「の」を入れずに「まくらそうし」と呼ばれていたと伝わっている。簡潔な文で書かれていて一段の長さも短く、現代の人にも読みやすく内容の理解もし易い。枕草紙・枕冊子・枕双紙と表記したものもあり、鎌倉時代に書写されたと見られる写本の箱には「清少納言枕草子」と記載されていると言う。古くは「清少納言記」あるいは「清少納言抄」とも呼ばれていたと言うが、現代では一般に「枕草子」の名前で呼ばれている。したがって題名に何故枕が付けられたのかについては、あまり深く追求して考えることは無い。実際のところこの随筆の題名とされた「枕」の意味については、様々に研究された今でも良く分かっていない。枕草子研究で知られる国文学者(文学博士)の田中重太郎は、枕の意味について幾つかの説を紹介しており主なもに次のような説がある。ア.備忘録として、枕元に置くべき草子という意味だとする説イ.枕詞や歌枕などの、「枕」と同じとする説ウ.枕と同じで人には見せない、秘蔵の草子とする説ほかにも漢詩が出典とするものとか、「言の葉の枕」を書く草子であるとしたなどの異説も多い。書かれた内容の一部には現代では賛同できない部分も見えるが、大方は肯定的な意見が多い。有名な書き出しは、次のように始まる。春は曙。やうやう白くなりゆく山際すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。(春は曙が良い。次第に白くなっていく山際が少し明るくなって紫掛かった雲が細く棚引いているその景色が良いのだ。)良く晴れた早春の山里の夜明け前の空は、多くの場合雲が薄く紫色に見えるような色彩の少ないのんびりした景色では無い。夜明け前のまだ暗いうちから東の空が茜に染まり始め、その色が頂点に達する頃茜色の真ん中を突き破って黄金色の太陽が昇り始める。3月半ばを過ぎても未だ零下を記録するような峻烈な空気の中に染まる空は、都の宮中の庭で眺めた空とは少し違うのかも知れない。清少納言は和歌にも長けていて、詠んだ歌が百人一首の62番に入っている。夜をこめて 鳥の空音ははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ(孟嘗君は鶏の鳴き声をまねて函谷関の番人をだまし、関所を開けさせたという故事があるけれども、逢坂の関の守りは堅いのでだまされて開けることはありませんよ。)
2015年03月05日

新顔でまだそれほど一般に知られていないが、この10年位の間に非常に人気の出た庭園樹に常緑ヤマボウシがある。日本の山野にも自生する落葉のヤマボウシと同じミズキ科ミズキ属の樹で、常盤ヤマボウシまたはホンコンエンシスの名前でも呼ばれる。最近生まれた種類なのでまだ流通量が少ないが、種類としては、ホンコンエンシス・月光・メラトリカ・ヒマラヤヤマボウシがある。香港で見いだされたホンコンエンシスからの実生選抜種の月光は、驚くほど花着きが良く満開になると葉が見えなくなるほどになり最も人気が高い。常緑ヤマボウシはこれといった手の掛からない樹で、自然に樹形が整うので剪定は特に必要としない。ただしあまり茂ると風通しが悪くなって病害虫が発生しやすくなることもあるので、その場合は1月~3月の間に必要最小限に行う。初夏にヤマボウシに遅れて花を咲かせ、雌雄同株なので一本でも秋にはヤマボウシとそっくりな赤い実を付ける。実にも鑑賞価値があり、食べることができる。秋になって寒さに当たると赤く紅葉するが関東以西では落葉しないで越冬し、樹形・花・果実・紅葉が見られるのでシンボルツリーとしても人気が出ている。ヤマボウシは寒さに強いが常盤ヤマボウシは-5℃以上は必要とされ、比較的寒さに弱い上に成長が遅い。寒さに順応して耐寒性を獲得するまでの定植後2年~3年は、寒さ対策としての養生が必要である。ヤマボウシは落葉高木で花期は5月末~6月、花は花弁に見える4枚の総苞片と、中央に頭状に集まった両性花をつける。総苞片は互いに重なるか、あまり隙間がない。球形の漿果を着け、赤く熟すと食べることができる。擬宝珠に似た花芽と尖った葉芽の混芽をつけ、2枚の芽麟(葉または花になる芽を覆って保護するうろこ状の小片)に包まれる。一方トキワヤマボウシ(常緑山法師)の花はヤマボウシに遅れて開花し、葉は常緑で濃く光沢のある緑色をしている。寒さに当たると、赤褐色に紅葉する。花蕾は剥き出しで芽鱗を持たなく、下に極く小さな総苞片がついている。総苞の間には、隙間がある。球形の漿果を着けるのはヤマボウシと殆ど同じで、単独ではどちらとも見分けがつかないが二つを比較するとトキワヤマボウシの方が少し滑らかな感じがする。常緑ヤマボウシは近年生産が開始された新樹種のため、生産当初は品種の区別なく生産されていた。そのため現在2.5m程度以上のものでは、殆どが品種を特定することは不可能に近い。ヤマボウシの様に株立ちになり難いため周囲1mもあれば植栽可能であり、玄関脇のスペースにシンボルツリーとして植えても面白い。ネット販売では1.8mほどの月光が、7千円ほどで販売されている。 花言葉 友情
2015年03月04日

保険を掛けると言う言葉がある。万一に備えて保険を契約することなのだが、ここから派生してうまくいかなかった時に備えて別の手段を用意することの意味でも使われる。本来の意味は偶発事故によって生じる財産上の損失に備えて多数者が保険料を拠出し、事故が発生した者に対して保険料を資金として保険金を給付する制度が保険(insurance)である。保険対象には交通事故・海難事故・火災・地震・死亡など、様々な事故がある。日本には古くから社倉あるいは義倉(飢饉などの際の窮民救済のために設けられた米や麦などの貯蔵庫)や鎌倉時代に登場したといわれる頼母子講(無尽)があった。これらは、庶民の相互扶助として始まったものとされる。江戸時代になって身分や地域を問わず大衆的な金融手段として確立し、大規模化し講(信仰・経済・職業上の目的を達成するために結ばれた集団)として存在するようになった。現在でも各地の農村や漁村には複数の個人や法人がグループを組織して一定額の金銭を払い込み、定期的に1人ずつ順番に金銭の給付を受け取る金融の一形態としての無尽や頼母子、沖縄県や鹿児島県奄美群島に見られる模合(もあい)と呼ばれる会や組織が存在する。メンバーが毎月金を出し合って積み立てた金で宴会や旅行を催したり、籤を引いて当たれば金を総取りする形態のものもある。多くの場合は、職場や友人・地域社会を単位として行われている。甲府中央商店街の裏春日には、「無尽会承ります」の看板が立っていることが知られている。現在の保険は明治維新後欧米の保険制度を導入して始まったもので、社会保険と産業保険は公営保険と言われ、民間保険会社が販売・運営する生命保険や損害保険等は私営保険といわれる。生命保険は人の死に関して、損害保険は偶然の事故によって生じた損害を填補する保険である。特定の人について保険事故が発生するかどうかや、いつ保険事故が発生するかなどは予測することができない。しかし可能な限り多くの事例について統計処理をし、過去の経験や資料なども加味することで一定期間に保険事故が発生する確率は予測することができる。この確率をもとに、収支に見合う保険料を保険契約者から徴収することで保険事業は成り立つことになる。これが、「大数の法則」といわれるものである。損害保険には火災保険・住宅火災保険・住宅総合保険・普通火災保険・店舗総合保険・団地保険などがある。火災保険の保険金額は、対象となる建物の評価額が上限である。経年劣化により建物の評価額は逓減するが、殆どの場合更新の際に保険金額を見直すことなく評価額に対して過大な保険金と掛け金のままになっている状態になることがある。注意しないと保険金支払いは建物の時価額が基準となるため、全損の場合でも保険金額が満額支払われず減額される場合がある。我が家は建築後35年ほど経過しているが、外回りの塗装は7~8年毎に実施し瓦葺き替え、トイレ・キッチン・玄関・床・壁・サッシの交換などのリフォームも完了している。これら要した経費として、殆ど最初の建築費に近い金額が支払われている。外回りで補修されていないのは雨樋のみで、降雪の度に雪に押された上経年劣化も加わって雨水がうまく回らず溢れ出すようになっていた。前回外壁塗装を行った際足場のあるうちに雨樋も交換したらと言われたのだが、何とか自分で補修を加えて騙々し使かってきた。今年1月中ごろ近くの住宅の雨樋を修理に来た業者が、大分傷んでおり火災保険で修理可能なので保険会社に連絡して見たらと教えてくれた。保険証を確認すると風災・ひょう災・雪災は、損害の額が20万円以上の場合に保証されますとなっていた。早速業者から見積を取ると、樋の取り替え・軒天塗装・足場組み立て及び撤去でなんと227万円の高額見積もりが出されてきた。損保会社の対応は早く保険請求の書類を送って5日後には査定員二人がきて査定の結果、殆ど見積もりに近い額が提示され一週間後には口座に振り込まれた。万が一の火災事故のためと気休めで掛け捨て火災保険を35年掛けてきたのだが、今回戻ってきた額は保険金として支払った額より多かった。火災保険で雨樋が修理できることには想いが及ばず、毎年集金に来る代理店からも説明が無かった。保険を掛けておいて良かったと思うと共に、工事費が想像を遥かに超える高額であったことに驚いている。
2015年03月03日

子供の頃実家の土蔵の二階には、父と叔父・叔母が読んだと思われる大量の雑誌の類が積まれていた。「子供之友」や「新少女」などの雑誌も、あったように記憶している。それらに描かれていたのは、夢二が描いた少し首の長い女の絵であった記憶がある。夢二は27歳の夏に前年離婚した岸他万喜と2歳の長男虹之助を連れて、犬吠崎の海鹿島に滞在した。ここで秋田出身の、長谷川賢に出会う。彼女に心を惹かれた夢二は、呼び出しては束の間の逢瀬を重ねる。やがて夢二は帰京し、賢も夏休みが終わると成田の姉の所へ戻ってしまう。噂を聞いた父親は娘の身を案じ、結婚をさせた。翌年この地を訪れた夢二は、彼女が嫁いだことを知ることになる。実らぬ恋の気持を、宵まで待って花を咲かせるマツヨイグサに擬えて「さみせんぐさ」の筆名で、「宵待草」の詩として発表したのだという。原詩は「遣る瀬ない釣り鐘草の夕の歌が あれあれ風に吹かれて来る 待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草の心もとなき 想ふまいとは思へども 我としもなきため涙 今宵は月も出ぬさうな」である。竹久夢二の関連美術館は、本館・別館を含めて6施設もある。夢二生誕100年を記念して1984年3月開館した、夢二郷土美術館が岡山市にある。建物は大正時代の風情を伝える、白壁になまこ壁・赤レンガ造で三角の屋根の上に風見鶏が載っている。夢二の作品2000点が収蔵されているとされ、その内約100点が常設展示されている。瀬戸内市には別館がある。訪れたのは閉館30分前であったが、受付の女性が30分あれば十分見られますよと言うので、2割引の560円のシルバー料金で入館した。展示内容から見て成人一人700円の入館料では、少し割高な感じも否めない。館内は閉館間近のせいか、東北弁を話すやはりシルバーの5人の来館者しかいなかった。夢二は晩年榛名湖のほとりにアトリエを建て美術研究所建設を計画したが、完成に至らなかった。16000点という膨大な作品を収蔵しその想いを形にしたのが、竹久夢二伊香保記念館である。金沢湯涌夢二館は竹久夢二を顕彰するため金沢市によって設立され、平成12年4月16日に開館した。この地が妻岸たまきの故郷であったことに加えて最も愛した笠井彦乃と過ごし、次男の病が癒えた地であったことを記念して建てたという。山形県には孫娘(長男の子)の竹久みなみが名誉館長を務める、酒田竹久夢二美術館がある。また東京文京区には平成2年(1990)に開館した、竹久夢二美術館がある。短い一生を終えた夢二の女性関係は、至極派手であった。結婚し二児を産んだ経歴のある岸他万喜を見染めて彼女の店に日参し、2か月後には結婚して25歳で長男を設けたがその年には離婚し翌年には他万喜と再び同棲した。夏に他万喜と児を伴って行った犬吠埼で、たまたまこの地を訪れていた19歳の長谷川賢を見染め恋に落ちるが賢の結婚により破局を迎える。27歳で次男が誕生したが他万喜とは再び別居生活に入り、31歳で正式に離別する。その後夢二32歳の2月には、他万喜に三男の草一が生まれる。翌年には京都高台寺近くに移って、笠井ヒコノと同棲を始める。夢二36歳の時、ヒコノは結核で病没。夢二の絵のモデル佐々木カヨ子(お葉)と、37歳のとき渋谷で同棲生活に入った。4年後作家の山田順子と関係を持ったことでお葉は去り、後順子とも別れることになる。多くの作品を残したがドイツから帰国した翌年発症した結核により、1934年(昭和9年)50歳で没した。女性遍歴を繰り返した夢二だが、結局戸籍に妻として残った女性の名前は他万喜一人であつた。少し憂いを含んで見える夢二の絵には、ヒコノとカヨコの面影が残っているのであろうか。
2015年03月02日
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