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別名のゴクラクチョウカ(極楽鳥花)の呼び名の方が一般的だが、バショウ科ストレリチアが本名である。アフリカ原産の常緑多年草で葉は芭蕉のつき方に似ていなくもないが、芭蕉の葉よりずっと硬質で濃い緑色で艶がある。若しもう少し葉の幅が広ければそのまま、芭蕉団扇のように使うことができそうである。寒さにやや弱いが乾燥気味に管理すれば、零度程度までは持ちこたえ冬越しが可能である。ストレリチアには同じような花を咲かせるが異なる品種が数種類あり、一般的にはストレリチア・レギネが育てやすく広く流通している。花はかなり変わっていて姿が派手な極楽鳥(フウチョウ)のようだとして、極楽鳥花の別名がついた。実際にはストレリチアの花のような、極楽鳥はいない。一般的な開花時期は早春だが、環境によっては秋から冬にかけて開花することがある。花には特徴があり初め直立していた蕾が、開花時期が近付くと次第に首が倒れて水平になり蕾の上面が割れて突然花が飛び出す。10日後位に、最初咲いた花の後ろに次の花が飛び出してくる。このようにして5個ほどの花が次々と開花するので、開花期間は1カ月の長期間にも及ぶことがある。全く別種の春蘭や君子蘭の根のように、白くて太い根を有し乾燥に耐えることができる。案外柔らかくて脆い根だがその力は強力で、3年以上植え替えをしないで放置すると素焼きの鉢を簡単に割ってしまう。例年夏の直射を3割ほど避けるため鉢を西日の当らない場所に移動していたのだが、今年の夏は天候不順で強烈な日差しが無かったため庭の土の上に直接置いたままにしていた。関東甲信地方は11月24日に時ならぬ積雪があり、我が家の辺りでも車の屋根には5cmもの積雪となった。しかも翌日は真冬並みの寒波がやってきて、柿の葉を一斉に落とした。例年12月の初めに耐寒性の弱いハイビスカスやストレリチアの鉢を室内に取り込むのだが、今冬は予期しない時期に寒波が襲来したため未だそのまま外で管理していた。25日に慌てて室内へ取り込んだのだが、驚いたことにストレリチアは鉢底から地中へ20cm以上も深く張った根のために簡単に鉢を動かすことができなかった。この場所に鉢を移動したのは夏になる前の6月末であったから、5か月ほどの間に根を伸ばしたものである。鉢底の穴は2~3mmしかないのに、鉢を突き抜けた先は小指ほどもある太く白い根が地中に広がっていた。来年からは鉢植えの藤を管理するように、間を置かないで鉢を回したり鉢の下にブロックなどを置くことにし直接土の上に置かない工夫が必要だと感じた。
2016年11月30日

芥川龍之介の芋粥は今昔物語の、「五位と芋粥」巻廿六第17話「利仁将軍若時従敦賀将行五位語」が原題であることは周知の事実である。ここに出てくる芋粥とは薄く切った山芋を甘葛(アマチャヅルの煎じ汁)で軽く煮て粥状にしたもので、食事の最後に出されたデザートのようなものであったという。中学生の頃芥川の芋粥を読んでトロロ汁を思い浮かべたが、実際は全く異なった料理であることが分かったのはかなり後になってからである。仕事柄多くの料理屋で食事を食べたり見たりしてきたが、今までアマチャヅルで煮た芋粥なるものを提供しているのを見聞したことは無い。平安末期(1120年代)に成立した今昔物語の「五位と芋粥」に出てくる芋は、日本原産の山の芋(ヤマノイモ)であったことは間違いない。ヤマノイモは日本原産で、自然薯・自然生・ヤマイモとも呼ばれ日本原産である。形も似ていて同じような食べ方をするナガイモは山の芋とは別種で、原産地の中国から17世紀に伝来したとされるので今昔物語が成立した頃には日本には無かった。現在流通しているもののほとんどはナガイモで、自然薯は栽培も少なく高価で流通は極僅かである。ジャガイモは、通常生食はしない。しかし同じように多量に澱粉を含むナガイモは、澱粉分解酵素のアミラーゼを多く含んでいることから生食しても消化がよい。長芋は、11月下旬からが旬である。すでに9月頃には芋が大きく育っているが、寒さで葉が枯れる頃まで地中で熟成しないと芋を切ったり摺り下ろしたりした際変色することがある。変色の原因はナガイモが含有するアクに含まれる酵素のポリフェノールオキシダーゼの働きによって、ポリフェノールが酸化されることによると言われている。ポリフェノール類には数千種もあると言われ、ほとんどの植物に含まれる色素や苦味成分である。尻より頭頂部分などの、細胞分裂が盛んな部位に多く含まれる。未成熟なうちに収穫されたナガイモに、変色が多く見られるのはそのためである。変色を防ぐ方法として皮を剥いてから酢水に漬け、摺り下ろしたトロロには食酢を2~3滴入れればよいなど幾つかの方法が言われている。しかし、皮を剥いている中に既に赤紫色に変色する芋は、酢水に漬けても変色を止めることはできない。しかも、変色する芋は味が極めて悪い。健康上の害はないとしても変色の可能性があったらその部分は、むしろ諦めて廃棄した方が全体を無駄にしないで済む。我が家では冬季の常備野菜で、展ばすための出汁作りから摺り下ろしてさらに摺り鉢で摺るところまでいつも自分一人で行う。トロロ汁は熱いご飯に掛けたりトロロ蕎麦で食べるが、子供や孫の何人かはこれが苦手らしくそのままツルツルと飲んでいる。南信州伊那谷で昔ながらの栽培法で栽培した、見事なナガイモを貰った。これを掘るには大変な労力を要したことだろうと想像しながら、今秋初めての新ナガイモをトロロ汁で味わった。
2016年11月29日

白州の爺やさん画像 26日午後50年以上前には、関東でも水道管が凍結して朝水の出ないことがあった。しかし温暖化がすすんだせいなのか、ここ30数年間は水道管が凍結したことは無い。水道管は零下4℃以下になると凍結するとされ、特に冬場に長期間留守にする場合や、屋外の北側で日が当たらない場所、風当たりの強いところ、むき出しになっている水道管などはそれより高い温度でも凍結する場合があるので注意が必要になる。特に別荘では冬季無人になることが多く、一層念入りに凍結防止をしなければならない。24日に関東甲信には、時ならぬ大雪が降った。東京では、54年振りの11月の降雪だと言う。偏西風の蛇行によってストックホルムやカザフスタン・モンゴルに記録的な寒波と大雪を降らせた超一級の大陸寒気団が、関東甲信まで南下し日本列島沿いに前線が張りだしたことが原因だと言う。東京郊外の自宅周辺では道路に積雪はなかったものの、樹木や家・車の屋根には5cmもの積雪となった。甲斐駒の麓にある標高630mの山荘の辺りは、24日は最低-1℃で最高気温2℃となり積雪にはピッタリの条件となった。気温が低いため降った雪は解けないで積り、積雪は15~20cmにもなったという。積雪が10cmにもなると、最早スタットレスタイヤを履いていても車の走行は不能になる。ましてノーマルタイヤでは、僅かな積雪でも坂道の多い道路では動きが取れなくなる。ちょうどこの日に山荘にいた悠歩さんは、暫くの籠城を覚悟したとブログに書いている。前回私は21日に山荘を後にしたのだが、20日は10月中旬の小春日和と言っていいほど穏やかで温かな日であった。山荘の所在する一帯の地域は過去に冬季零下15℃を記録したこともあって、冬季は水道管の凍結防止対策が必須である。毎年12月中旬には水抜きをして凍結を防止するのだが、未だ落葉せずに木に残った葉がある一か月も早い11月に-7℃を経験したことは16年間一度も無かった。つい油断をし次回に水抜き作業をすればよいと判断して、そのままにして帰って来てしまった。前の車の時代には冬季の対策にスタットレスを履いていたのだが、年間数回しか必要無かったことから今の車にはスタットレスを準備していない。雪の日に特に車を乗り出す緊急の必要性は無く、要は降雪があったら車を乗り出さなければ良いだけの話である。しかし今回は降雪の翌日、大寒波が襲来した。寒波の襲来で、俄かに水道管が心配になった。以前ボイラーの水抜き不完全でボイラーがパンクし、外の水道の立ち上がり部分に残った水が凍結して破裂したことがあった。25日の夜に在荘中の「白州の爺やさん」に、電話で道路状況を確認した。我が家の山荘までは道路の雪は除雪され、融雪剤が撒かれたのでノーマルタイヤで走行可能とのことであった。予定にはなかったが、26日の昼前に急遽山荘行きを決めた。日陰を除いて道路は乾燥しており、1時過ぎに無事山荘まで着くことができた。山荘の屋根の上や草原・畑には残雪があるものの、冬季と異なり、2日程で思いの外融雪が進んでいた。幸い心配していた水道管は何とか持ちこたえて、無事であった。ほっとすると同時に、来年からは11月中から水道管の凍結防止に気を付けなければと肝に銘じたところである。日本気象協会では(www.tenki.jp/indexes/freezing_water/)、水道管凍結指数を発表しているので対策を行う参考になる。
2016年11月28日

わが国で古くから多く食べられてきた果物に、リンゴ・モモ・ナシ・ブドウ・柿等の他ミカンがある。普通にミカンと言えば、多くの人は温州ミカンを思い浮かべる。ミカン類の原産地は、約3000年のインド・タイ・ミャンマー辺りの東南アジアとされている。紀元前2200年頃中国で栽培が始まったとされ、日本でも日本書記や魏志倭人伝に橘の名前で記載されているほど歴史のある果物である。温州みかんは15世紀の初め僧侶が中国の温州から柑橘を持ち帰り、鹿児島県に伝わったとされる。出水市長島町でその木から偶然生じた変異種に、親の故郷の地名を付けたものだと言われ日本が原産のミカンである。その後300年余り九州だけで栽培されていたが、明治以降他の地方に伝えられたことによりいろいろな優良系統が作られ量産されるようになってきたものである。温州ミカンは日本でミカンと呼ばれるものの代表で、タネが無いかまたは少なく皮がむきやすいのが特徴である。もともと暖かい地域の植物であるため、寒さが厳しい地域では冬を越すことはできない。冬季の平均気温が5℃以上必要とされ、現在の露地栽培北限は佐渡の南部・茨城・比較的温暖な庄内地方とされている。昭和30年頃までは東京都区部であっても、温州ミカンを植えている家庭を見ることは無かったのだが現在は都区部と比べて3℃近くも気温差のある郊外でもたわわに実ったミカンの木を普通に見ることができる。園芸店やホームセンターの店頭には、何種類もの柑橘類の苗が売られている。温暖化の進展なのか耐寒種が生まれたためなのかはっきりしないが、我が家の庭に植えた木になった実も11月下旬になって少しづつ色着いてきた。4年前3千円程度で苗を購入する際品種を確認したのだが、「蜜柑」の表示と果実の写真しか添付してなかった。大きさが優に温州ミカンの3倍ほどあり、マーコットの形に似ていて明らかに温州ミカンでは無い。家内は熟すのを心待ちにしているが、はたしてどんな味がするのだろうか。
2016年11月25日

綺麗な花には刺がある、という言葉がある。綺麗な花というのは、薔薇の花を指しているであろうことが想像できる。もとは「外見が美しい女性でも、その内面は外見に似ず往々にして人を毒することがある。」ということを薔薇の花に譬えて言ったものであろう。薔薇以外に美しい花を咲かせ刺を持つ植物として、薊や木瓜が思い浮かぶ。またサボテン科に属する植物には約140属2000種以上が確認されているが、表面に葉や茎が変形したと考えられるトゲやアレオーレという綿毛を持つものが多い。サボテン類は煌めくような美しい花を咲かせることから、多くの愛好家がいる。一日花で多くは夕方から夜間に開花して、翌朝には凋んでしまう種類もある。その花色は豊富で、橙色・黄色・白色・赤・ピンクとさまざまである。月下美人・カニサボテン・クジャクサボテンのように、サボテン類は「綺麗な花」という形容のとおりの花を咲かせるものが多い。サボテンの種によってはその植物体や花を観賞する以外に、食料としても利用されるものがある。15世紀頃にはすでにウチワサボテンが食料とされていたとされ、特に南米ではトゲが生える前の若い偽茎を収穫して茹でてピクルスやサラダにし、あるいは焼いて食べる。メキシコ料理の店では、塩で漬けた漬け物がある。ウチワサボテンはサボテン科の亜科の一つとして、5種15属に分類されている植物の総称である。平たい楕円形をした茎節が団扇のように見えるので、この名が付けられたものである。茎節から若い芽を次々と出し、草丈は2mほどにも生長する。踏み潰しても、残っている茎から再生するほど強健な植物である。世界の侵略的外来種ワースト100に指定されるほど繁殖力が強く、アフリカやオーストラリアでは野生化して厄介な雑草となっている。茎の表面は細かいトゲが密生しており、うっかり触るとすぐに抜けて刺さる。乾燥・耐寒性もあって強健であることから、植えっ放しでも多くは生き残る。そのため野生化しているものもあり、本州でも時に群落を目にすることがある。果実が食料として利用される、サボテンもある。亜熱帯地方でドラゴンフルーツの名前で売られている果実は、サンカクサボテンの実である。沖縄では3mにもなるサンカクサボテンを、実を採るためにハウスで栽培している。ドラゴンフルーツはコールラビーに似た果実を着けるが、ウチワサボテンは逆円錐形の実を付ける。ウチワサボテンは茎節から若い芽を次々と出し、草丈は2mほどにも生長する。メキシコで食用とされるウチワサボテンを総称してノパルと言い、50種ほどが栽培されている。このうち実を食べる品種としては10種ほどが栽培されており、果実は黄や赤、黄緑色をした6~8cmの大きさである。自宅の近くに2mを超えるほどに大きくになった、ウチワサボテンがある。5~6月に懸けて次々と黄色の小花を咲かせたが11月も末の晩秋に、親指大に結実した実が黒赤色に色づいた。果実の中はドラゴンフルーツの皮目の色に酷似していて、アントシアニン色素の塊のように見える。その味だが梨やスイカに似た仄かに甘い味がするというが、大根を生で齧ったような味でどちらかと言えば人が好んで食べるような果実とは到底思えない。 花言葉 燃える心 暖かい心 偉大 枯れない愛
2016年11月24日

山荘に着いた19日も朝からかなり強い雨が降っており、月初めに収穫したキウイの棚から雨に打たれた葉の殆どが散って棚の下に厚く積もっていた。この時期晴れれば積雪の甲斐駒と紅葉真っ盛りの黒戸尾根が、美しいコントラストを見せるはずなのだが山は雲に隠れて全く見えなず外気温5℃とかなり寒い。今年は夏から秋にかけて天候不順で、驚くほど日照時間も少なく野菜が高騰している。甲斐から信濃路を走って、道路沿いの畑に作られている大根が例年になく細いのが目につく。この時期沿道の野菜売り場は都市部からの観光客でどこも活況を呈するのだが、今年は売られている大根が15cm足らずほどの太さの物しか無い。山荘の庭や土手に植えられたヤマボウシ・槲・橡・梅などは、一年で1m以上も伸長し伐採・剪定が必要となる。今の時期から2月までが剪定の適期なのだが、降雨の中での作業は躊躇われる。天気予報では午後には雨が止む予報になっており、それまではテレビでも見ながら暖炉の火の番をする以外にすることは無い。11時頃に家の中にいても、山荘の脇の612号線が騒々しいのに気がついた。外へ出てみると強雨の中、沢山の自転車の一団が通過中であった。調べてみると「白州・韮崎ステージ」の名前で行われた、自転車の走りであった。出発地点は南巨摩郡富士川町青柳町で、道の駅富士川を出発して富士川の左岸を走り韮崎で右岸に渡り七里岩を「新府城」方面へ北上し20号線に出て、新穴山橋で再び釜無川を渡る。20号線武川の牧原交差点を横手方面へ左折し、大武川の橋を渡って上り坂に掛る前に山荘がある。山荘はほぼコースの中間地点だが、帰途のコースは下りが多く往路よりアップダウンは少ないと思われるが、それでもかなりの坂を上下しなければならない。結局午後1時過ぎには雨が止んだのだが、最初の集団が通過して2時間以上を経過してなお数人ずつの集団が走って行った。三好屋の四差路で農免道路を左折して折り返し、釜無川・富士川の西をゴールまで走るのだが、途中昼飯とあるから神代桜のある實相寺の辺りが昼飯地点になったのだろうと想像している。全行程の走行距離81.6km上り標高差446mこのイベントは中級~上級者向けで、設定タイムは5時間26分となっている。28年前から実施され今年も11月13日に開催されたかなり有名な「ツール・ド・おきなわ」とは異なりタイムトライアルレースでは無いが、時間制限があって完走前でも打ち切りになるという。スタートは9:00で、タイムリミットは16:00に設定されている。定員は350名で、参加費用は7000円だという。山岳を攻める人たちの間で使われる、「獲得標高」という言葉がある。ルート上の最高地点からスタートした場所の標高を引いた標高のことである。この走りの獲得標高は約1,100mと算定されているから、かなり上り坂のあるコースである。名護市のレースを応援したことがあるが、白州のイベントは和やかで集団で話をしながら走行していた。午後2時頃になってもポツポツと走って行った自転車グループは、時間制限に依って恐らくゴールまで走れなかったと思われる。驚いたことに翌日は「ツール・ド・富士川ステージ(107km)」の名前で走りが2日間続けて実施され、前日に引き続いて参加する人も多いのだという。80kmを自転車で走ることさえ難しいのに、続けて翌日も100km超を走るという人の体力には吃驚するばかりである。ただ20日は天気が回復し気温も17℃まで上って10月初旬の暖かさとなったこともあって、前日の防寒・防雨より暑さ対策が必要であったのではと思われた。
2016年11月23日

初代カメハメハ大王の名前から、ハワイが王国であったことはよく知られている。また明治26年(1893年)までの26回の送り出しで2万9132人が、翌年の日清戦争開戦の年(明治27年)には約4万人もの人がハワイへ移民しており日本とハワイとは関係が深い。ハワイ諸島はカメハメハ大王(1758~1819年)が、はじめて統一王朝を建てた。アメリカは太平洋戦略の重要な拠点と位置づけて、1898年にマッキンリー大統領によってアメリカに併合されたことでハワイ人による国家は終焉を迎えた。併合後1959年に至って、ハワイはアメリカの50番目の州になった。アメリカのDe Long駐日公使が、ハワイ公使を兼ねることになって就任したのは1871年である。それから三代目のRobert Walker IRWIN(1881.7.16任命)総領事は、日本人を妻として終生を日本で送った。アルウィンは政府高官井上馨の紹介で東京芝の高級料亭「紅葉館」の伊香保出張所を、明治24(1891)年に買い取って別荘とした。100年前の東京の夏も今と同じくらいに蒸し暑く、涼しい避暑地が欲しかったのであろう。この別邸として使われていた当時の建物が「旧ハワイ公使別邸」として、現在も伊香保温泉の石段街に続く入り口の右側の小高い丘の上にある。初めてこの建物を見た人はRobert Walkerが建てたものと誤解し、洋風で無く純日本建築であることに奇異の念を抱く。しかしこの建物はもともと料亭が出張所として使っていたものであることからすれば、純日本建築であることは至極当たり前で当然のことなのである。1985年に保存のため移築されていたのだが、石段街延伸に伴う改修工事が終わり周辺整備の一環として元の場所に移して26年5月3日から無料で公開されている。この建物は昭和60年にハワイ移民100周年を記念して、旧ハワイ王国公使の居住建物の名前で保存されることとなった。さらに建物は、渋川市指定史跡に指定された。しかし実際はハワイ王国の公使が日本家屋を購入して使用していた、建物と言った方が正確である。一階は全面フローリングだが、二階は畳敷きとなっている。硝子戸に嵌められたガラスが歪んでいるのを見ても、明治が偲ばれる。渋川市とハワイ州ハワイ郡は姉妹都市として、様々な交流が行われているという。また、毎年夏に伊香保で「ハワイアンフェスティバル」が開催されるのは、アルウィンとの繋がりによるものとされる。湯の町伊香保は、全体にモミジの木が多い。訪れたのは11月初旬だったが、高台から何処を向いても今を盛りに燃えるような赤が続いている。京都東福時のモミジも有名だが、仕組まれない自然の紅葉はまた格別であった。
2016年11月18日

今年の7月16日トルコで開催された世界委員会で、上野の国立西洋美術館が新しく世界文化遺産として登録されることが決定した。これにより、日本の世界文化遺産登録数は16となった。世界文化遺産の一つ富岡製糸場は、2年前の2014年6月に世界文化遺産登録され12月には国宝に指定されている。実際は製糸場が単体で文化遺産に登録されたわけでは無く、蚕養技術を開発した「田島弥平旧宅」・高山長五郎が養蚕業の研究・教育機関として設立した「高山社」・蚕種を貯蔵した「荒船風穴」を含めた計4件が、「富岡製糸場と絹産業遺産群」の名で構成遺産として登録されたものである。江戸時代末期の開国によって外国との貿易が始まったが、当時の最大の輸出品は生糸であった。しかし我が国には、生糸生産の規格基準が無く製法も一貫していなかったことから粗悪製品が多く、輸出先の諸外国からは品質改善を要求されるようになった。これらの要求に応えるために、品質・生産力向上を目的とした官営模範工場の建設が計画された。こうして建設された富岡製糸場には、フランスから輸入した繰糸機や蒸気機関などが設置され、さらに製糸技術の先進国から指導者を招聘しその指導によって西洋式の製糸技術が導入された。ここで働く女工は、器械製糸の指導者となるために西洋式の製糸技術を学んだ。技術を習得した後は出身地に戻って、指導者となった。謂わば、実習学校の生徒のような立場であったとされる。全国各地から集められた旧藩士や華族の良家の子女が選抜され、指導者養成のために女工として使われた。したがって細井和喜蔵著のルポルタージュ「女工哀史」に見るような、劣悪半強制労働では無かった。長さ140.4m・幅12.3m・高さ12.1mの巨大な繰糸場は、世界最大規模のものであった。木の枠組みにレンガを組んだ工法で建てられた日本と西洋の建築技術が融合した珍しい建築技法による建物が、世界遺産に登録されることになった一つの要因として挙げられる。官製工場として設立されたが初期目的を達成したとして、明治26年(1893)に三井家に払い下げられたがその後もさまざまな人の手に渡った。富岡製糸場は明治5年(1872)10月に操業を開始し隆盛を誇ったが、生糸産業の衰退に依って昭和62年(1987)に操業停止し115年に及ぶ富岡製糸場の歴史に幕が下ろされた。最終的に所有していたのは、片倉工業であった。操業停止後施設の跡利用について会社は、「貸さない・売らない・壊さない」という方針で、一般公開もされていなかった。2004年に至って施設が富岡市に寄贈されたことから、市によって一般公開されることになった。片倉工業は当時の建築技術での修復を重要視してきたため、竣工から130年以上経過した現在も施設は良好な状態で保存されている。平成19年から24年まではほぼ20万人台の入場者数であったが、H26年は世界文化遺産登録効果があって1,337,720人と60倍にも増えた。2年後になると世界文化遺産登録当初の物珍しさが無くなり、28年では全ての月で4~5万人の減となっている。がらんとした施設以外に見どころは無くよほど建物と機械設備に興味が無いと、「世界文化遺産」の看板だけでは入場者数がじり貧となるのは目に見えている。
2016年11月17日

月が地球に最も近づいたときに満月もしくは新月の形になった月の姿、またはその現象をスーパームーンと呼んでいるがこの呼び名はもともと占星術から出た言葉で比較的新しく気象用語には無い。天文学的の呼称は、惑星直列と呼ばれる「近点満月」である。占星術のひとつの分野に、その人の出生のときの星の配置をもとにした「ネイタル占星術(Natal astrology)」と呼ばれるものがある。この言葉が使われたのは、「スーパームーンの時には大規模な自然災害や社会的な暴動など不吉なことが起こる。」とアメリカの占星術師リチャード・ノールが1979年に言ったのが嚆矢という。月は地球の周りを27日かけて回っておりその軌道が楕円形であるため、地球から近くなったり遠くなったりする。地球との近接点と最も離れた点では、約5万kmの差が生じる。その時に太陽―地球―月または太陽―月―地球と一直線に並んだ場合が、満月あるいは新月になりスーパームーンと呼ばれる天体現象が起きる。逆に最も遠接点の時の満月はマイクロムーンと呼ばれ、スーパームーンと比較して明るさで約30%大きさでは約14%の差があるとされる。11月14日(月)の20時20分ごろに月が地球に約35.7万kmまで最接近し、その約2時間半後の22時50分ごろに満月になると気象庁から発表されていた。今回のスーパームーンは近接時間と満月になる時間が2時間以上開いていたが、これが1時間以内であれば「満月と最接近の時間が合致した月」の意味で特にエクストラスーパームーンと呼ばれる。今回最接近した月はエクストラスーパームーンでは無かったが、68年振りと言われるスーパームーンとなった。満月はスーパームーンでなくても、山や建物など地上に比較する対象物があると一層大きく感じられる。これがスーパームーンの場合は一層大きく明るく感じられる。満月の大きさと明るさを最も実感として鑑賞するためには、地上の対象物が月と同居する月の出の10数分とされる。画像に残すためには、前景に高い搭や高層ビルがあると比較しやすい。数日前からテレビなどで盛んに68年振りとなるスーパームーンを宣伝していたが、今回は残念ながら日本列島はすっぽり雨雲に覆われ、僅かに沖縄の離島でしか見ることができなかった。15日は昨日の雨も上がって、月を見るには上々の空模様となった。実際には14日は月齢14.4で15日は15.4だったので、「近点満月」を気にしないで晩秋の夜空に浮かぶ綺麗な満月として楽しむことができた。ただし我が家からは周囲の建物が邪魔をして、月の昇る瞬間を見ることはできなかった。6時過ぎに東の空に通常の満月とは幽かに異なる、スーパームーン独特の色合いを残した月を見ることができた。人類は古来より、祈りの対象として満月や星に願いを掛けて来た。特に霊力があるとされるスーパームーンには、通常の満月とは異なった運気上昇を祈る特別なマジナイがあるのだという。金運は空財布を月に向かって振って、金を呼び込むように祈る。恋愛運は好きな人とうまく行くように祈って、2週間の間好物絶ちをする。その他運気全般については、コップに入れた水に月を映しながら飲むのだという。しかし一方で占星術ではスーパームーンを諸願成就の象徴であるとし、願いの叶った物を始末し月に感謝するのだという。前回最接近したのは2011年3月19日で月との距離は356、577kmであったが、今回はそれより66kmほど近くまで接近した。次に満月がスーパームーンとなるのは、再来年の2018年1月2日だという。さらにエクストラスーパームーン現象は、2034年にならないと見られないのだという。
2016年11月16日

戦前に高峰三枝子が唄って大ヒットした、「湖畔の宿」という歌謡曲がある。高峰三枝子と言えば、1982年に国鉄のコマーシャルで上原健との入浴シーンで亡くなる8年前の74歳だというのに豊満な肉体を披露して話題となったので覚えている人も多い。「湖畔の宿」は日・独・伊三国軍事同盟が締結され、日本が大戦に向けて突っ走り始めた昭和15年(1940)に発表された。高峰三枝子が唄うこの歌は「感傷的で淋しい詩とメロディが、戦意高揚を損なう。」としてレコードの発売が禁止になったのだが一度聞いた人々から爆発的に広がっていった。平成になってからも多くの歌手がカバーしていて案外若い人でも聞いたことがある人がいるが、今の若い人はこのような感傷に浸る人も少なくなってあまり流行らない。往時戦地慰問に行ってこの歌を唄うと若い特攻隊員たちが直立不動で聞き、そのまま出撃していったと高峰は語っている。作詞者佐藤惣之助は、この歌のモデルとなった湖について語ることなく昭和17年腦溢血のため死去した。惣之助没後「湖畔の宿」のモデルとなった、「淋しい湖」がどこなのかということが話題になり湖探しが行われた。高峰も聞かされていなかったことから、好きな芦ノ湖を思い浮かべて歌っていたのだという。惣之助は諏訪湖・浜名湖・山中湖などを巡ったことがあり、それぞれの地域でそれぞれがモデルの地だとして主張してきた。山の淋しい湖のイメージは山に囲まれた比較的小さな湖であり、昭和15年であっても諏訪湖や浜名湖では歌詞にそぐわない。佐藤惣之助が昭和17年に榛名湖畔の旅館「湖畔亭」の贔屓にしていた仲居に送った手紙が、偶然昭和63年(1988)2月に発見された。この手紙からモデルとなった湖は榛名湖であることが判明し、湖論争に終止符が打たれることになった。その手紙には「湖畔の宿」は榛名湖のことではあるが、あの中のことは全く夢だよ。ああいう人もあるだろうとおもったので書いたもの。宿は湖畔亭にしておこう」と記されていたという。「湖畔の宿」のモデルが榛名湖に確定したことから群馬県は、「歌碑公園やモニュメント・ 野外音楽ステージなどの施設をつくり観光にも役立てる」目的で平成元年1月に「榛名湖畔の宿記念公園とモニュメント」を完成させた。伊香保から県道33号線で榛名湖に出て、榛名神社方面に左折しないでそのまま湖に沿って約5分進むと左側にある。完成除幕式には、曲を付けた服部良一と高峰三枝子が招待された。斜面の中腹に湖を左手に見る半円階段状の観客50人規模の観客席を備えたステージが設けられ、その右上のテラスには「湖畔の宿」とは何の関係も無さそうな分部順冶のそれぞれ「髪・妖」の名前が付けられた等身大の2体の裸婦像が設置されている。記念公園には歌詞が刻まれたプレートをはめ込んだ碑や、付いているレバーを押して左から順次に打つとメロディーを奏でる柵、近付くとセンサーによりメロディーが流れる碑などが設置されている。しかし30年近く経った現在、ステージには枯れ草が生え、柵の音程は狂いセンサーはもぎ取られて荒れ果てている。意気込んで作った祈念公園だがその後のメンテナンスもされず、設立当初の趣旨が十分に生かされていないのは寂しい限りである。月曜日の8時過ぎのせいか紅葉シーズン真っ盛りというのに訪れる人は無く、76年前に作られた湖畔の宿の歌詞と同じ淋しい湖の姿があった。湖畔亭は記念公園方面へ三差路から2分ほどの右側、湖のほとりにある。
2016年11月15日

K氏撮影 Sホテルの部屋からご来光とも言われる日の出は、何処で見ても荘厳な気持ちにさせられる。特に高山などでは、太陽が姿を表す瞬間をしばしば拍手で迎えることがあるし、両手を合わせて祈りの姿勢をとる人もある。これが日没の場合それを見るために、多くの人が一か所に集まって拍手で送る場面を見たことはない。日の出は「地上で見て、太陽の上縁が東の地平線に接すること。」と定義されている。天体観測で直接観測される太陽の位置は地球大気の屈折によって、真の位置よりもわずかに高度が高くなっている。この差の角度を大気差といい大気差は天頂において0、高度が低くなるほど大きくなって地平線では最大の34.4′となる。大気差のため太陽の位置は角度で約35′となり実際より上に見えるため,東京では実際の日の出より4~5分早いことになる。出るの反対は入るだから日の出の反対語は日の入りと思いたくなるが、気象用語としては同じ意味の日没を使うのが正しい。現代は24時間で物事を考えるが、明治以前は日の出・日没などを基準とした時間を表す言葉があった。日の出前の明るくなった時間は「明け六つ」、日没後のうす暗くなった時間を「暮れ六つ」のように不定時法で表わしていた。明け六つに限って言えば日の出前後のまだ薄暗いころは暁といい、東の空が少し明るむのが東雲、夜がほのぼの明け始めるのが曙、空がほのかに明るくなった頃を朝朗(あさぼらけ)という言葉で表わした。これを時間的に見ると日の出30分前ころが暁で、その5分後が東雲。東雲から10分後が曙。日の出5分前が、朝朗である。奈良時代までは「あかとき」といい、平安時代以降になると「あかつき」と呼ばれるようになったとされる。昔は夜を宵・夜中・暁に3分していたので、夜中過ぎから夜明け近くが暁であった。「朝ぼらけ」は「朝おぼろあけ」から転じた言葉で、朧(うっすら・ぼんやり)に明けて行く朝を表している。前橋市の11月6日の日の出は6時12分だがほぼ一日1分の割合で遅くなり、2017年1月3日から9日が6時56分となり一年で最も遅い日の出となる。1月10日からは、逆に一日1分の割で早くなっていき、6月9日から17日が最も早く4時25分が日の出となる。11月5日に、前橋市の11階建てのSホテルに泊まった。ホテルの11階の部屋からは前方に山や高い建物など眺望を遮るものが無く、まるで地平線の彼方まで見通せるような感じである。6日は、この秋一番とされるほど冷え込んだ。いつもの習慣で5時前から起きて所在なさに窓から外を眺めていると、冷気の感じられる朝5時55分頃から東の空が白み始めてきた。やがて6時5分頃から茜色に染まった空は、日の出とともに濃い赤色に燃え6分ほどで急速に色褪せて青色が増していった。海や山の日の出は何回も見たことがあるが、都会のほぼ地平線の彼方に昇る日のでは初めての経験であった。ホテルの11階の窓から見下ろす晩秋の日の出は、空を真っ赤に染めて誠に美しかった。南アルプスの麓の山荘から見る太陽は、標高2200mを超える瑞牆山や甲武信ケ岳の上から昇る。二階建ての自宅からは近隣のビルやマンションが邪魔をして、赤い太陽を見ることはできない。一緒に泊まった学友はいつも沖縄今帰仁の乙羽岳中腹にある山荘から海の日の出を見ているが、関東平野に昇る真っ赤な太陽は荘厳で神々しいと語っていた。
2016年11月14日

四国には八十八、関東地方には札所が三十三ある。関東の札所は坂東三十三札所と言われる。この「坂東」とは足柄峠と碓氷峠の坂から東の地方を意味し、これらの坂の東の地域即ち現在の関東一都六県を指す古称である。坂東三十三札所を都県別にみると、東京1・神奈川9・埼玉4・千葉7・群馬2・栃木4・茨城6が存在している。沙門亮盛の「坂東観音霊場記」(江戸期)に、「花山法皇が大和長谷寺で祈念していた際、老僧があらわれ「我れ坂東八州に於て身を三十三所に現ず。其の能く霊場を知るは河州石河寺の仏眼上人なり。彼と倶に坂東巡礼を始行してあまねく道俗男女を導くべし」とのお告げを受けた」と書かれていて、花山法皇が巡ったのが嚆矢とされ江戸時代までそのように信じられていた。実際には花山法皇が関東に下向されたとの史実は無く、西国札所と同じように札所の権威づけのための作話であるとされ坂東札所の成り立ちは、西国札所を模倣したものであるとするのが通説となっている。本尊を十一面千手観音とする坂東第16番札所は、群馬県渋川市にある天台宗の五徳山水沢寺である。水沢寺には観音堂と地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間界・天人界の地蔵尊を祀る六角堂・鐘楼・仁王門などがある。高光中将の后の伊香保姫は継母により姉二人は謀殺されたが、伊香保姫は信仰していた千手観音の化身によって助け出されたことから姫の持仏の千手観音を本尊とした水澤寺を上野国司高光中将が推古天皇の時代(592~628年)に自らの菩提所として創建したと伝えられている。その後戦火や附け火など、幾たびかの大火に逢い焼失した。現在渋川市指定重要文化財に指定されている建物は、天明7年(1787)に再建されたものである。駐車場から本堂へ向かう右側にある釈迦堂は特別無料拝観中で、右側の部屋には円空仏他さまざまな仏像が安置されている。また左の部屋は坂東三十三観音霊場のレプリカの観音像が据えられていて、一回で三十三札所を巡ったと同じご利益があるというという「お砂踏み」ができる。本堂の左横に、飯縄大権現を祀った社へ続く急な一段の踏み幅30cmほどしかない狭い石段がある。石段の下に40mと書いた看板があるがそんな距離では無いように思われ、この距離は高低差のことであったのかも知れない。石段を上った社の左は水沢山への登山口となっており、ここから40mほど先の左側に万葉の碑がある。 伊香保ろのやさかの堰塞(いで)に立つ虹の顕(あらは)ろまでもさ寝をさ寝てば (万葉集東歌上野国歌14巻3414)厳秀(榛名山)の八坂の堰塞(いで)にあざやかな朝虹が立つ。その虹のようにはっきりと2人の仲が知れてしまってもかまわない。それまでも共寝をしたならばどんなによかろう。さあ寝よう。寝ましょう。 ※「やさかのゐで」は、滝沢川に設けた堰堤である。榛名山麓から湧き出る水が、水澤地名の由来とされており水澤観音と万葉歌とは何の関わりもなさそうである。この碑が何故、この水澤山への登山口に建立されたのかについての詳しい経緯は分からない。本堂の後背を彩る水沢山は例年より若干遅目という紅葉が真っ盛りで、上州名物の強風にも関わらず紅葉狩を兼ねた多くの参拝客で賑わっていた。
2016年11月09日

残った一株 一粒も実が無くなった日本人は古来より、何処の国の人よりも語呂合わせの好きな民族ではないかとつくづく思う。例えば金にまつわる縁起の良いものとして赤い実のなる植物に、「万両・千両・百両・十両・一両」の名前を付けこれらをめでたい植物だとする。縁起を担いで特に千両と万両・一両の三種を組み合わせ、これらを植えておくと「いつでも金が有る」ようになると言われ「千両万両有り通し」と洒落た。別名クササンゴとも呼ばれる千両の元の名前は仙蓼で、樹高は1mを超える。万両と並んで正月飾りに欠かせない縁起木のひとつで、緑の葉と冬に色づく赤や黄色の実が美しい。語呂合わせだが葉がタチバナに似ているところから付けられた唐橘(カラタチバナ)が中国で百両金と呼ばれていたことが元になって、万両・千両・百両・十両それぞれの名前の基準になったとされている。実を2~3個しかつけないヤブコウジは百両より劣るので「十両」とされ、刺があって蟻も突き刺す意味から付いたアリドウシは十両より更に少ない実しか着けないので一両とし、5~10個と実の数が多いセンリョウ(仙蓼)に、「千両」の名前を付けたとされる。またマンリョウは横に伸ばした果柄の先に垂れ下がって着いた沢山の実の色が、深紅色で輝きがあって千両より勝るとして「万両」の名が当てられた。万両・百両・十両はヤブコウジ科、千両はセンリョウ科、一両はアカネ科である。千両は6月終わりから7月初めに、全く目立たない地味な花を咲かせる。花が終わって5か月もすると冬枯れた庭の隅に赤い小粒な実が自己主張をし始め、振り向きもしなかった人の目にも入るようになりやがて小鳥までもが狙う様になる。センリョウは地際からたくさんの枝をだして株立ちになり、ほとんど枝分かれせずまっすぐ伸びていく。殖やすには5~6月ころに挿し木すれば、簡単に根が出る。また熟した実の果肉を除いて採り播きあるいは、乾燥しないようにミズゴケで包んでおいてソメイヨシノの咲く頃に播けば殆ど発芽する。どちらも、3年ほどで実を付けるようになる。刺を持つアリドウシの他は庭木の下に植えられており、センリョウヤマンリョウは鳥が落とした糞とともに庭中に広がり隣近所の庭にまで勢力を伸ばしている。例年12月下旬になるとヒヨドリやメジロが集まってきて、食べ始めるが食欲旺盛な小鳥によって数日で緑の葉一色になってしまう。ところが今年は初めて千両の赤く色付く前の実を食べに、連日10数羽のメジロが周回して来ていた。径2mにも広がったセンリョウの大きな株が5か所あるのだが、10月下旬には一か所を除いて実が全くなくなってしまった。こんなことは50年もの間、かつて一度も無かった。毎年正月飾りの花として庭のセンリョウを利用してきたのだが、今年は実が残っているか少し心配である。残った一株の漸く赤くなり始めた実を、はたして後一か月の間メジロは食べないで我慢して残してくれるだろうか。花言葉 可憐 富貴
2016年11月04日

花の形が面白いダイモンジソウは、関東以西・四国・九州に分布し毎年花を咲かせる多年草である。清楚な花姿が人気で園芸種としてさまざまな草姿や花の色・形の異なる品種が作出されているが、それらも含めて山野草として扱われている。自然界では湿り気のある環境を好み、渓谷の岩の割れ目や窪みなどに自生している。花は5弁花で上の3弁は小さく、下の2弁は左右に大きい。この5枚の花びらの長さと並びが、漢字の「大」の字に見えるのでダイモンジソウの名前がついたとされる。同じように5弁の白い花を咲かせる同属のユキノシタは、5月に開花する。花はダイモンジソウと酷似するのだがこちらは「雪のような白い花を被ぶったその下に緑の葉が広がるからとか、雪のように白い舌状の花の形の「雪の舌」が転じて「雪の下」になったとの説がある。しかしこのどちらも後付けのこじつけに思え、ダイモンジソウの名前の由来のようにすっきりとはしない。しかも漢名は「虎耳草」といかめしい。こちらの方は、疎で毛のある丸い葉が名前の由来となったものという。ダイモンジソウは渓流沿いなど何処にでも見られる野草だが、都会で栽培するには案外気難ずかしいところがある植物である。自然界の標高の低い場所では薄日の射す渓谷の岩場などに自生し、標高の高い場所ではむしろ陽のよく当たる岩の割れ目などに自生する。栽培には夏の直射を5割ほど遮光したうえ乾かしすぎないように工夫し、しかも冷涼で水はけのよい環境を作ってやることが必要である。エキノシタと同じように民間薬として利尿・頻尿・むくみ・便秘などに、乾燥したダイモンジソウを煎じて用いられる。ユキノシタの天ぷらは春の山菜として昔から食べられてきたが、ダイモンジソウの葉も同じように利用することができる。今年は異常に雨の日と曇天が続いて、直射を嫌うダイモンジソウにとってさえも日射量不足になってしまった。さらに過湿も重なったことが原因で8月頃までは順調に生育していたのに、10月に入って急に勢いを失い1/3ほども溶けてなくなってしまった。10月下旬になって少し日射が戻ったことで、漸く息を吹き返し開花を始めた。ダイモンジソウは花後極めて良く結実し種子の発芽率も良いので、採り播きして順調に育てば翌年の開花が期待できる。花言葉 自由 情熱 好意
2016年11月03日

かちかち山・花咲じじい・桃太郎・舌切雀・さるかに合戦が、日本5大昔話と言われ日本人ならだれでもがその荒筋を知っている。それらの話はどれもが、因果応報や勧善懲悪を題材としている。中でもずる賢い猿が蟹を騙して殺害し殺された蟹の子供達に仕返しされるという「さるかに合戦」は、殺された蟹の子が物や異種の動物と徒党を組んで親の仇を取る話で、まるで元禄15年12月14日に起きた赤穂浪士の仇討と同工異曲の内容である。この物語は、「さるとかに」や「かにむかし」などの別名で呼ばれる事もある。子蟹の仇打ちに加担するものは栗・臼・蜂・牛糞であるが、囲炉裏の炭火に炙られて爆発する栗に代わって卵とされたり足を滑らす牛糞が昆布であったりと登場するものが異なる話もある。動物の蟹と蜂は意思を持って挟んだり刺したりできるが、生命を持たない栗・臼・牛糞が登場して仇討に加担する設定が良く分からない。この話の仇討成就後の続きを芥川龍之介は、短編「猿蟹合戦」の名で大正12年に発表している。龍之介は昭和2年に35歳で自死したが、その4年前の作品である。昔は社会で認められた勧善懲悪だが、大正デモクラシーの時代に入るとこの考え方が社会規範に受け入れられないことをテーマにして書かれたものである。仇討を主謀した子蟹は死刑に、共謀した臼・蜂・卵・栗・牛の糞は無期懲役に処せられるという内容になっている。さらにその後に続いて子供の蟹のうち「…三男の蟹は愚物だったから、蟹よりほかのものになれなかった。それが横這に歩いていると、握り飯が一つ落ちていた。握り飯は彼の好物だった。彼は大きい鋏の先にこの獲物を拾い上げた。すると高い柿の木の梢に虱を取っていた猿が一匹、――その先は話す必要はあるまい。」とにかく猿と戦ったが最後、蟹は必ず天下のために殺されることだけは事実である。語を天下の読者に寄す。君たちもたいてい蟹なんですよ。」で結んでいる。猿は雑食で主に果実や木の実・木の芽や花・キノコなどの植物質のものを食べるが、昆虫や鳥の卵・カエルやトカゲ・魚・樹皮や海藻・貝類も食べることが知られている。さるかに合戦の昔話はさておき、猿が柿を好物であることに変わりは無い。秋が深くなると徐々に葉を落とした柿の枝に、赤く色づいた柿の実が一際目を引くようになる。ちょうど今頃になると猿が、それまで見向きもしなかった渋柿を狙うようになる。熟したり渋抜きをしない限り渋くて人には絶対に食べることができない渋柿なのだが、猿は全く動じる風も無く堅いままの渋柿を収奪する。10月も終わりの早朝7時前、山荘一帯が騒々しくなった。外へ出てみると、我が家の菜園を横切る数匹の猿の姿があった。早朝から、猿の一族郎党50匹程のモーニングである。道路を隔てたソフィア農園では、隅に植えられている十本ほどの「甲州百匁柿」の木に猿が鈴なりになって狂喜乱舞しながら食事中であった。食い散らかして投げ捨てても誰からも復讐を受けることは無く、まさしく猿の天国である。猿の略奪に気づいてから追い払うまでのわずか十数分の間に、かなりの実を食べ落として行った。石を投げて追い払うと未練気に後を振り返りながらのしぶしぶ退散だったので、収穫を急がない限り早晩全て猿に食べ尽くされることになるのだろう。スーパーや道の駅では、甲州百匁柿が一個百円程度と結構な値段で売られている。猿の餌に提供したのでは、何とも勿体無い話だと思うのだが。
2016年11月02日
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